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奈良学ナイトレッスン 第6期 いま、記紀・万葉の奈良を巡る ~第三夜 咲く

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奈良学ナイトレッスン 第6期 いま、記紀・万葉の奈良を巡る ~第三夜 咲く
奈良学ナイトレッスン 第6期 いま、記紀・万葉の奈良を巡る
~第三夜 咲く花のにほふが如く―平城京の四季~
日時:平成 24 年 12 月 19 日(水) 19:00~20:30
会場:奈良まほろば館 2 階
講師:村田右富実(大阪府立大学教授)
内容:
1.万葉の四季の歌
2.正月の宴席歌
3.春の訪れと柳
4.「あをによし」の平城京
5.彷徨(さまよ)える聖武天皇
6.夏の訪れと卯の花
7.逢えた恋、逢えない恋
8.秋から冬へ
9.冬の歌
1.万葉の四季の歌
今回は「平城京の四季」ということで入江泰吉さんの写真と共にお話させていただきます。
(別添:「四季分類」資料参照)
『万葉集』は、全部で二十巻、およそ四千五百首ありますが、そ
のうちの巻八と巻十の歌を四季分類しています。さらにそれぞれの歌を「雑歌」と「相聞」に分け
ています。
「相聞」というのは恋の歌、
「雑歌」というのは、宮廷の宴席などで歌われた歌です。巻
八は作者や作歌事情が記されているのですが、巻十は作者不明の歌です。それぞれ、春・夏・秋・
冬に四季分類されており、圧倒的に秋が多い。夏や冬が少ないのは、なんとなくわかります。夏は
暑いですし、冬は寒いですから、歌といってもピンとこないのはわかるのですが、それでも巻八と
巻十の合計を見ても、春は全体の中で 20%しかありません。秋は 56%。実に半分以上が秋の歌と
いうことになります。
なぜこれほど秋の歌が多いのかということも、今回お話できればと思います。
2.正月の宴席歌
©入江泰吉記念奈良市写真美術館
1
『万葉集』の場合、梅がお正月の花としてよく出てきます。梅は冬の花として出てくるのです。
もちろん『万葉集』の時代は旧暦ですから、およそ今の2月くらいにあたります。まずはこの梅の
花の歌から、お話を始めたいと思います。753年2月15日、梅が咲き始める頃に、石上朝臣宅
嗣(いそのかみあそみやかつぐ)という人の家で宴会が催された、その時の歌をご紹介します。1
首目の歌です。
言(こと)繁(しげ)み 相(あひ)問はなくに 梅の花 雪にしをれて うつろはむかも(19・
四二八二)
「言繁み」は、
「噂が多いので」ということです。「言」とは「噂」です。「人言(ひとごと)
」と
いうと「人の噂」です。人の噂がとても激しいので、「相問はなくに」お互いに言葉も交わすこと
なく、「梅の花
雪にしをれて
うつろはむかも」梅の花は雪にしおれて移ろってしまうのか、と
いう歌です。実はこの歌は恋歌仕立てになっています。もちろん宴席の歌ですから、完全に恋の歌
ではないのですが、恋の情緒を漂わせる歌になっています。「人の噂がとても激しいので、お互い
に言葉も交わすことがないうちに」
、梅の花が女性ですね、
「女性である梅の花は雪にしおれて移ろ
ってしまった、つまり、年老いてしまった」という意味が、裏に隠されています。一方、表向きの
意味としては、「噂が激しいので、まだお互いに話もしていないのにこの梅の花は雪にしおれて散
ってしまいそうだ」という歌になり、2通りの読み方があります。その裏の意味の謎解きのような
ことを、宴の参加者に要求したのではないかと考えられています。
これを受けて中務大輔茨田王(なかつかさのだいぶまむたのおほきみ)は、こんなふうに答えま
した。
梅の花 咲けるが中に 含(ふふ)めるは
恋ひや隠(こも)れる
雪を待つとか(19・四
二八三)
梅の花が咲いているなか、その中にこもっているのは恋でしょうか、それとも梅は雪を待ってい
るのでしょうか。最初の歌で、
「雪にしをれて
うつろはむかも」と、梅と雪を敵として表現して
いるのに対して、この歌では「恋がこもっているのかな。それとも、梅は雪を待ってこれから咲こ
うとしているのではないの」と切り返すわけですね。
宴席ですから、これらは即興で作られたわけです。おそらくこういったことが、当時の人々の間
では非常に上手に行われていたのだろうと思います。最初の宅嗣の歌も意地悪ですよね。宴席が始
まる時に、最初に恋の歌らしいものを見せておいて、するとそれに茨田王が非常に上手に答えてい
くというわけです。
3首目は、大膳大夫道祖王(だいぜんのだいぶふなどのおほきみ)の歌です。
新(あらた)しき 年の初めに 思ふどち
い群れて居(を)れば
2
嬉しくもあるか(19・
四二八四)
『万葉集』の時代は、「おニュー」の意味は、「あらたし」といいます。「あたらし」は「もった
いない」という意味になってしまいます。これは最近の学生には通じないのですが、現代語でも、
「あたら若い命を」などと言うときの、「あたら」というのが「もったいない」という意味になり
ます。
「あらたし」というのは、我々ではぴんとこない時もありますが、例えば、あらたに事業を興す
とか、年があらたまる、という時の「あらた」。現代語でいうところの「新しい」の意味で、上代
では「あらたしき」と言います。これがいつの間にかひっくり返って「あたらしい」になってしま
いました。
旧暦だと正月4日、お正月の歌なので、
「新しき
年の初めに」と歌うわけです。
「思ふどち」もなかなか難しい言葉です。「どち」は現代語で言うところの友達の「だち」です。
「思ふどち」というと、
「さあ、みんなで」というくらいの意味だと考えていただけるとわかりや
すいかと思います。さあみんなで、気の合った仲間でもって、こんなふうに大勢でここにいれば、
嬉しい限りじゃありませんか。さあさあ、やりましょう、という歌です。
最初の一首目と二首目が恋のやりとり。おそらく、最初に主人が謎かけのようにして出した恋の
歌を上手に答えたお客さんがいて、そして、まあまあ、いっぱいやりましょう、というのがこの三
首ということになるのでしょう。お正月の宴会の様子がよくわかると思います。
3.春の訪れと柳
©入江泰吉記念奈良市写真美術館
次の写真は、猿沢の池のところから興福寺を撮ったものです。今でも、柳はここにあるのですが、
こんなに大きなものではありません。植え替えられて小さい柳になってしまっています。
3
うちなびく 春立ちぬらし
我が門(かど)の 柳の末(うれ)に
うぐひす鳴きつ(10・
一八一九)
「うちなびく」は「春」にかかる枕詞です。梅に鶯と言いますが、『万葉集』のころは春の柳と
鶯の組み合わせがよく見られます。
「柳の末に」の「うれ」という言葉はもうなくなってしまいま
したが、
「先端」を「うれ」と言います。
「春」は「立ちぬ」といいます。学生の頃、完了という言
い方に抵抗があった方がいらっしゃるのではないでしょうか。
「ぬ」や「つ」は完了だ、
「き」や「け
り」は過去だ。いったい過去と完了とはどう違うのだと思われた方も多いと思います。現代語では、
例えば「日が昇った」といいます。これは過去形で表すのですが、日が昇ってどこかに行ってしま
ったわけではなく、昇って今そこにある状態が完了なのです。
「日が昇った」という意味がこの「立
ちぬ」という言い方で表される言葉です。つまり、
「春立ちぬらし」というのは、
「春が立って、い
ま春なのだ」です。
それに対して「うぐひす鳴きつ」の「つ」は、同じく完了なのですが、それが本当に終わってし
まったという言い方です。「春が立ったらしい、それでいま春になった。そして、鶯がぱっと鳴い
た」。今鳴いているかどうかは関係ありません。先ほど鳴いた、が「鳴きつ」です。
「ああ春だ、今
は春だ」ということを感じた時に、瞬間的に鶯がぽっと鳴いた、という歌だと思っていただければ
よいかと思います。
次も柳の歌です。
青(あを)柳(やぎ)の 糸の細(くは)しさ 春風に 乱れぬい間(ま)に
見せむ児もが
も(10・一八五一)
私は昨年から入江泰吉記念奈良市写真美術館と一緒にお仕事をするようになって、たいへん楽し
い苦労をしました。入江先生の写真というのは、特に『万葉集』を意識して撮っている写真ばかり
ではありません。全部で8万枚ある写真の中から、
「この写真にはこの歌だ」とか、
「この歌にはこ
んな写真がないかな」と万葉集の歌と合わせるものを、随分悩みました。この写真を見た時に、
「あ、
これは『青柳の 糸の細しさ』だ!」と思った記憶があります。入江先生は意図していなかったの
かも知れませんが、この歌とこの写真はぴったりだなと思っています。
「細し」という言葉ですが、現代の我々は「精密だ」という意味しか持っていません。全体的な
美しさを表すのではなくて、一つ一つ細かな部分部分まで美しいというのが「細し」という言葉で
す。女性に対しても「くはし女(め)」というと、全体的にぱっと美しいというよりも、女性の一
つ一つの細かな部分が全て美しい。それが「細し」という言い方です。「細し」という言葉から、
美しいという部分だけをとってしまったのが、今の「詳しい」という言い方ですね。「くわしい」
という現代語が“美しさ”を失ってしまったのは、ちょっと残念です。
「春風に 乱れぬい間に 見せむ児もがも」の「春風」ですが、我々が春風というと柔らかいそ
よ風のようなものを想像しますが、
『万葉集』の時代は違います。
4
「春風」というのは、この歌以外にはもう一首、七九〇番の歌「春風の 音にし出なば ありさ
りて 今ならずとも 君がまにまに」という歌があるのですが、この「春風の」は「音」にかかる
言葉です。我々の感覚の春風の優しさはありません。おそらく春一番のような風のことを「春風」
といったようです。
「春風に
乱れぬい間に」というと、静かな柳の枝の細かな美しさが強い春風
に乱れてしまわないうちに、という意味です。「見せむ児もがも」なので、この青柳の一本一本美
しさをもっているこの細しさが、風に吹かれない間に、この美しさを共有できる、この柳の枝の美
しさを見せる彼女がいればいいなあ、という歌です。
この男性、「柳の細しさ」は非常によく理解できたのかも知れませんが、もっと大事なことは理
解できなかったのかなと思います。柳の美しさはよくわかったけれども、そういう女性がほしい、
というわけですから、女性の気持ちをこの人はわからなかった、ということになります。男の人が
女の人の気持ちを理解するのが難しいことは、私も身を以て知っているつもりですけれども。
4.「あをによし」の平城京
次は、非常に有名なこの歌です。もしかすると『万葉集』の中で一番有名かも知れません。
大宰(だざいの)少弐(せうに)小野(をのの)老(おゆの)朝臣(あそみ)の歌一首
あをによし 奈良の都は 咲く花の
薫(にほ)ふがごとく
今盛りなり(3・三二八)
この歌には、もうこの写真しかないと思います。
©入江泰吉記念奈良市写真美術館
桜花に囲まれているのは東大寺大仏殿で、その向こうに見えているのは興福寺の五重塔です。(た
だし、写真の桜はソメイヨシノですが、当時ソメイヨシノはまだありません。ソメイヨシノが作ら
れるのは江戸時代です。
)
作った人は、「大宰少弐」
、大宰府の次官の第二席です。トップが「帥(そち)」で、次が「大弐
(だいに)
」、次が「少弐」になります。
5
「あをによし」は、
「奈良」にかかる枕詞です。私はこの歌に限らず、
「あをによし」という言葉
が出てくるたびに、皆さんに言うようにしていることがあります。「あをによし」の語源として、
平城京の建物は青や赤がとても美しいので「青丹よし」というのだ、と言われますが、これは間違
いです。なぜならば、「うまさけ
三輪の山
あをによし
奈良の山の〜」と続くこの歌は、額田
王が作った歌です。額田王は少なくとも、平城遷都まで生きていませんでした。おそらく生まれた
のは630年前後と考えられますから、平城遷都まで生きているとすると、80歳になってしまい
ます。ちなみに、この歌は近江に都が移るときの歌ですから、660年代の歌です。その時から「あ
をによし 奈良の山」という言い方をしていたのです。
その頃、平城遷都がされる前の平城京の場所は、おそらく何もなかったでしょう。もちろん、人
は住んでいたでしょうから建物はあったかも知れませんが、とても青や赤の建物があったとは思え
ません。では、どうして奈良にかかるのか。「に」というのは、「土」のことを指し、「あをに」な
ので、
「青い土がとれたところ」という意味なのかも知れません。しかし、実際にそういった土が、
どの程度とれるのかもわかりません。それ以上のことは今のところ、わかっていません。ただ、平
城京が出来てから「あをによし」という枕詞がついたというのは間違いである、ということだけ覚
えていただきたいと思います。
歌に戻ります。
「咲く花の」というのは、何の花かはよくわかりません。藤の花だという説があ
ります。そうであればこの桜の写真は何だということになりますね(笑)。ただ、その先の「薫ふ
がごとく
今盛りなり」の「薫ふ」という言葉は、「丹+穂+ふ」です。「丹」は、「赤い」という
意味です。「穂」は、一番いい状態のことを表します。稲を植えて、一番いい状態の部分が稲穂で
す。それから、火の一番いいところが「ほのほ」と書いて「炎」ですね。「大和は国のまほろば」
という時の「まほろば」の「ほ」も、その国の一番いいところ。「ま」も、真人間の「ま」で、い
い状態を表すので、
「まほ」というと、一番いい所の中でも一番いい所なのです。
「薫ふ」という言
葉ですが、つまり赤が一番きれいな状況が「薫ふ」です。もともと「薫ふ」という言葉は、視覚、
赤が照り映えるている状況のことです。今は嗅覚表現を掌る表現に変わってしまっています。では、
この歌はどちらの意味なのでしょう。
小野老の時代は、視覚表現から嗅覚表現へと変わっていった時代だと考えられています。ですか
ら「薫ふがごとく 今盛りなり」は、その花の香り、花の色の美しさ、その両方を併せ持った形で
「今盛りなり」といっていることになります。
そうすると「あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり」というのは、歌
世界の中に構築される理想の景、一番素晴らしい景色、それが薫りとともに我々の目の前にあると
いうことになります。
我々は、この歌を読む時に、この写真を思い浮かべるかどうかは別にしても、自分の頭の中に構
成されるのは、平城京のとても美しい景色であることは間違いありません。この歌を読むとその景
色の美しさを自分の頭の中にぱーっと思い浮かべられる、それがこの歌のいい所なのだろうと思い
ます。
「今盛りなり」の「なり」は、断定です。
「今、まさに盛りだ」という強い断定からもそのこ
とがよくわかります。
6
しかし、この歌が作られたのは大宰府です。大宰府で、遠く平城京のことを思って作った歌です。
しかも「今盛りなり」と断定で歌われるわけです。私はよく言うのですが、歌というのは嘘の固ま
りで、でもその嘘の固まりの中に真実が見えるから心惹かれるのだと思います。平城京にいない人
間が「今盛りなり」と歌う。
「今盛りなるらむ」つまり「今盛りなんだろうな」と歌うのではなく、
「今盛りなり」と歌うのです。
「なり」と言われた時に、あたかも自分が平城京にいて、その景色
を見ているような感覚を抱いてしまう。それが歌の力だと思います。
歌というのは、我々をその時の気持ちにさせてくれるから素晴らしい。その歌がどういう状況で
作られたか、その歌がいつ作られたか、作者が誰か、というのではなくて、この歌も、あたかも今、
平城京にいるかのような気持ちにさせてくれるところが面白いのです。
この歌は、大宰府にいる大伴旅人や山上憶良と一緒に、自分たちも都に帰りたいね、などと言い
ながら歌っているということになるわけです。ちなみに、小野老は神亀5年に大宰府に赴任しまし
た。その時大伴旅人が大宰帥(だざいのそち)として先に赴任していて、小野老は、旅人が帰京後
も大宰府に残ります。そして、大宰大弐として天平9(737)年に亡くなります。
この歌を歌ったあと、小野老が実際に「今盛りなり」という平城京を見ることができたかどうか
はわかりません。もしかしたら、歌の上だけで見ていたのかも知れません。そう考えるとちょっと
悲しくもありますね。
5.彷徨(さまよ)える聖武天皇
今度は、聖武天皇のお話です。
天平12(740)年9月3日に、藤原宇合(うまかひ)の子ども、藤原広嗣(ひろつぐ)が大
宰府で挙兵します。
事実上大宰府に流された広嗣は大宰府で挙兵し、こんなことを言います。そもそも悪いのは玄昉
(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)だ。挙兵は決して天皇に刃向かったわけではなく、もち
ろん、橘諸兄(たちばなのもろえ)政権への反乱でもない。そう言って挙兵するのですが、聖武天
皇はたいへん怒り、九州に大討伐軍を派遣して殺してしまいます。
この広嗣の乱のことは、『続日本紀』に書かれており、その時の手紙が多数用いられていて、面
白いので是非読んでみてください。当時は今のように電子メールがあるわけではありませんから、
手紙が九州から都に届くまで時間差があります。九州から広嗣が挙兵したという報が届きます。す
ると聖武天皇は大変だと慌てて、「すぐに捕まえろ!」と命じます。そして、広嗣の乱の収束がま
だ見えていない10月26日に聖武天皇は東国行幸に出発してしまう。その時に聖武はわざわざ、
自分は東国に行くけれど悪く思わないで、というような詔勅を出して、東国に行ってしまうのです。
事実上、東国に逃げたような形です。そこに九州から「広嗣が捕まった」という手紙が届きます。
聖武天皇は即座に「殺せ」と命令を出します。しかしその時には広嗣はもう死んでいます。手紙の
内容と歴史的な事実とのずれが面白いので、興味のある方はぜひ読んでみてください。『新日本古
典文学大系』(岩波書店)の『続日本紀』がお薦めです。
さて、聖武は東国(鈴鹿関より東)に行幸して伊勢の方まで行ってしまう。そして、なんと平城
7
京には帰ってこず、恭仁京(くにきょう)という所にとどまってしまいました。
恭仁京は平城京から北に一山越えた今の木津川市にあります。その北東にしばらく行くと、信楽
焼きの狸で有名な紫香楽宮(しがらきのみや)があります。大仏を最初に作り始めたのは、この紫
香楽宮です。そして、難波宮が今の大阪にありますが、これに平城京を加えた合計4ヶ所の宮を聖
武は足かけ6年間、あっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返します。そして、恭仁京を造って
いるときに、平城京の建物を移築します。大極殿も壊して、それを恭仁京まで持って行きます。ほ
とんど暴挙に近いことを行うわけです。天皇が紫香楽宮と恭仁京、平城京、そして、難波宮をあっ
ちにいったりこっちにいったりしている間に、平城京はどんどん寂れていってしまいます。
なぜそんなことになったのでしょうか。恭仁京は、例えるなら橘氏の持ち物です。橘諸兄の荘園
がすぐそばにあります。当時は橘氏と藤原氏がお互いに天皇の袖を引っぱっています。藤原氏は、
橘氏が作った恭仁京が嫌なので、紫香楽宮に引っぱろうとするわけです。その結果天皇も、あっち
こっちに行ったり来たりを繰り返してしまうのです。
ちなみにですが、
『万葉集』に非常に深く関わっていた大伴家持は橘派です。ですから、『万葉集』
には恭仁京の歌がありますが、紫香楽宮は一首も出てきません。一首もないどころか、紫香楽とい
う言葉すら出てきません。数年前に紫香楽宮から出土した木簡の裏表に、「さくやこのはな」の歌
と「あさかやま」の歌が書かれていて話題になりました。また、紫香楽宮から出てきた土器の破片
に「歌一首」と書かれたものもありました。つまり、紫香楽宮でも歌が歌われていたことが分かっ
たのですが、『万葉集』には紫香楽宮の歌は一首もないのです。
©入江泰吉記念奈良市写真美術館
次の歌は「奈良の京の荒墟を傷み惜しみて作る歌三首」です。奈良の京はこれまでとは違って、
まったく人もいなくなってしまったし、寂れていってしまった。それを悲しむ歌ということです。
作者不審、つまり作者はよくわかりません。三首ともに第四句目に「奈良の都」という言葉が出て
きます。この「なら」の部分は、一首目が「寧樂」二首目が「平城」三首目が「奈良」と、わざと
8
書き換えられています。このことからも、この三首は明らかにワンセットで考えられたと思われま
す。
広嗣の乱の翌年(741年)3月15日には、五位以上の者が平城京に住むことを禁じられます。
五位以上の者が禁じられるということは、当然それ以下の者も一緒に動かないとならないため、平
城京はもぬけの殻になってしまいます。
「奈良の京(みやこ)の荒墟」です。
平城京には東と西に市が立っていたのですが、8月28日には、その市も恭仁京へと移されるこ
とになります。先ほども言いましたが、恭仁京への遷都は移築による遷都です。ですから、昨日ま
であった建物が壊されて、部材ごと恭仁京に運ばれていくわけです。
歌に戻りましょう。一首目は、
紅(くれなゐ)に 深く染みにし 心かも 奈良の都に 年の経(へ)ぬべき(6・一〇四四)
「紅」というのは、
「呉(くれ)の藍(あゐ)
」の略です。呉は呉(ご)の国、藍は藍色。呉から
やってきた藍色ということで、いわゆるベニバナからとる染料のことです。紅のように深く平城京
を愛する気持ちが心に深くしみこんでいるので、この寂れてしまった平城京で年月を過ごすことな
どできるか、という歌です。
二首目です。
世の中を 常(つね)なきものと 今そ知る 奈良の都の うつろふ見れば(6・一〇四五)
「世の中」という言葉は、もともと「世間」という仏教語の翻訳語です。仏教思想が日本に入っ
てきた時、世間といってもなかなか意味がわからないので、それを大和言葉にやわらげたものが翻
訳語です。当時の人々は「世間」という言葉を「世の中」と翻訳したわけですね。
「常なき」とは、もちろん「無常」です。つなげると「世間無常」になるわけです。世間は無常
なものだ、と今わかったというわけです。我々はややもすると、概念を把握することと実感するこ
とを混同してしまいます。私は北海道の小樽の出身です。皆さん、北海道は寒い寒いと聞きます。
ああ、寒いのだろうなあと思っています。それが概念の把握です。実感は、行ってみればわかる寒
さです。
この歌の場合、
「世の中を常なきものと」、つまり仏教の言葉としての世間無常という概念把握は
できていました。しかし、昨日まであった奈良の都が今日は廃墟になっていく。移築を伴う引っ越
しですから、実際に建物がなくなってしまいます。それを目の当たりにすることが「常なきものと
今そ知る」という言葉なのだろうと思います。「奈良の都の
てしまう平城京を見ると、ということです。
9
うつろふ見れば」は混沌へと向かっ
©入江泰吉記念奈良市写真美術館
三首目です。
石(いは)つなの またをちかへり
あをによし 奈良の都を またも見むかも(6・一〇四
六)
この歌は、とても悲しい歌です。
「石つな」は、蔓(つる)性の植物のことと言われています。「つな」は、我々にはロープの意
味ですね。植物は「つた」です。
「つた」と「つな」は元々同じであろうと考えられています。
石つなが広がっていって、再び元に戻って帰ってくるところから「をちかへる」の枕詞になった
と考えられています。「をちかへる」の「をつ」とは、元に戻る、若くなることをいいます。これ
は、現代語にはもうありません。
「をちかへる」というと、若返るということです。つまり、
「石つ
なのようにまた若返り、奈良の都をもう一度見ることがあるのかな、できれば見たい」というわけ
です。
この歌は、私が若返れば奈良の都も元通りになる、そういう考えに基づいています。「私がもし
石つなのように若返ったならば、今すっかり荒れ果ててしまった奈良の都も元通りになって、その
奈良の都を見ることがあるのかなあ、できれば見てみたいな」という歌です。もちろん、私が若返
ったからといって、奈良の都まで元に戻るわけではないのですが、この感覚はよくわかっていただ
けるのではないかなと思います。
この歌が歌われたとき、もう一度奈良に都が戻ってくるなどということは、おそらく思わなかっ
たのでしょう。しかし5年後、奈良に都は戻ってきます。
先年、平城京の大極殿が復元されました。その大極殿から見ると真正面に朱雀門が見えます。そ
の大極殿の左には第二次大極殿の跡があります。平城京跡は大極殿跡を2つ持っています。おそら
く、この5年の彷徨を経た後に、第二次大極殿に移ったのであろうと考えられています。
復元された大極殿はたしかに綺麗なのですが、「あをによし
10
奈良の都を
またも見むかも」と
いった歌の感覚を味わうためには、第二次大極殿跡のほうに立ったほうがとても寂しい感じがして
よくわかっていただけるのではないかと思います。是非、両方行ってみて下さい。
6.夏の訪れと卯の花
さて、そろそろ季節は夏です。
大(おほ)伴(ともの)家(やか)持(もち)が霍公鳥(ほととぎす)の歌一首
卯の花も いまだ咲かねば
ほととぎす 佐保の山辺に 来鳴きとよもす(8・一四七七)
©入江泰吉記念奈良市写真美術館
写真の花が卯の花です。その卯の花とホトトギスを取り合わせた作品です。
大伴家持は『万葉集』を代表する歌人であり、
『万葉集』の編纂者の一人でもあります。
「とよも
す」というのは、
「とよむ」に対しての言葉で、
「とよむ」は「響く」という意味合いです。つまり
「とよもす」というと、
「響かせる」という意味になります。
ホトトギスは夏を告げる鳥です。
『万葉集』の中ではたくさん歌われる鳥のひとつで、今のホト
トギスと多分、同じであろうと考えられています。一時期、カッコウなのではないか、といわれた
こともあるのですが、多分、ホトトギスはホトトギスでいいのだろうと思います。
「咲かねば」というのは逆接です。
「咲かないのに」です。「卯の花もまだ咲いてもいないのに」。
「佐保」は現在の奈良市の北部、平城京の北側を広く指します。家持が住んでいたのが佐保のあた
りです。その「佐保の山辺に
来鳴きとよもす」
、これで夏がやってくる、というわけです。
次は少し趣を変えて恋の話をしたいと思います。
7.逢えた恋、逢えない恋
11
©入江泰吉記念奈良市写真美術館
大池越しの薬師寺です。これはたいへん有名な写真で、今も満月の夜になるとここにアマチュア
のカメラマンが列を成すそうです。残念ながら、この薬師寺の奥のほうの奈良時代の東塔は平成3
0年まで改修中です。よく見るとわかるのですが、手前の新しい西塔の屋根の角度が奥の東塔より
平たくて少し広くなっています。やがて瓦の重みで屋根が沈むからだそうです。
この写真は、もしかすると入江さんの写真の中で一番有名な写真かも知れません。この写真に合
う歌を探すのがとても楽しかったのを覚えています。また、とても緊張しました。変な歌と合わせ
て後から怒られたらどうしよう、などといろいろなことを考えました。それで、この歌にしました。
春日(かすが)山 おして照らせる この月は 妹(いも)が庭にも さやけかりけり(7・一
〇七四)
春日山はもちろん、奥に見えている山です。「春日山 おして照らせる」の「おす」というのは、
元々上から下に力をかけることです。ですから「おして照らせる」というと、月が春日山を押すか
のように照らしている、そういう月です。「この月は」の「この」は、現場指示と呼ばれる言い方
ですが、「まさにいま、ここにこの月がある」ことを表しています。
さてその月は、
「妹が庭にも
さやけかりけり」妹の庭にもすがすがしいことだ、ということで
す。ポイントになるのは、
「妹が庭にも」の「にも」です。
「にも」ということは、他にも月は「さ
やけき」状況にあったということになるはずです。この歌はなかなか理解が難しい歌です。まず前
提になるのが、当時は通い婚だったということです。妻問い婚ですね。男は夜になると女の元に出
かけて行き、夜が明ける前に女の家から帰って行きます。そのため、夜に男は女の家に向かってい
るわけです。
当時の夜は真っ暗だったはずです。しかし月のある夜は、月明かりのおかげで周りがよく見える。
そういった巨大照明として機能していた月。妹の家になんとかして早く着くためには、月を頼りに
一所懸命に向かったのでしょうね。
12
「妹が庭にも
さやけかりけり」
。自分が家を出る時に、はっと気づいて「ああ、今日は明るい
お月さんだなあ」と思い、そしてずっとその月は照明としての役割を果たし、やっと妹の家にたど
り着いた時に、もう一度気づくのですね。
「ああ、こんなにきれいだったんだ」
。それは、月がただ
の巨大な照明ではなく、美しいお月様へと変わる気づきの瞬間でしょう。
「さやけかりけり」の「け
り」という言い方は、
「気づき」の「けり」といいます。はっと気づいたのが「けり」です。
美しさというのは、人間に感得、理解されなければ美しさとして成立しません。どんなに美しい
月であっても、それを人間が美しいと感じなければ巨大照明です。自分が妹のところまでたどり着
いた時に、「あ、このお月さんはこんなにきれいなんだ」ということに気づいたのがこの歌なのだ
ろうと思います。
この写真とも合っているのではないかと私は思います。入江さんはもう20年前に亡くなられて
いますので「この歌を合わせていいですか」と聞くわけにもいかないのですが、いいのではないか
なと思っています。
この歌は、会える恋、やっと会えた恋ですね。妹の家までやってきて、そのお月様の美しさに気
づき、このあと、妹と語らいの時間を過ごすことができたのでしょう。
でも、普通の恋は会える恋ではありません。会える恋、会った恋を歌う歌は、とても少ないので
す。当たり前です。会ったら歌なんて歌っていられません。歌うよりも、しなければいけないこと
がたくさんあります。
歌で歌われる恋は、たいがいが会えない恋です。会いたい、会いたい、なんとかして会いたいと
恋が歌われるのが普通です。次の歌は会えない恋の歌です。
©入江泰吉記念奈良市写真美術館
我(わぎ)妹(も)子(こ)に 恋ひすべながり 胸を熱(あつ)み 朝(あさ)戸(と)開
(あ)くれば 見ゆる霧かも(12・三〇三四)
「我妹子に
恋ひすべながり」というのは、少し難しい言い方です。「すべ」は「方法」。「なが
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り」というのは難しいですね、現代語で言うと、「あの子は甘えたがりだから」という言い方があ
ります。
「〜したがる」の「がる」の部分がこれです。だからこれは、
「恋する方法がないがってい
る」。変な言い方ですけれど。つまり「恋する方法がないので」という意味になります。
「胸を熱み」は、これは「胸が熱い」です。私はそういう経験もすっかりなくなってしまいまし
たが、皆さんは今も、あるいはかつて、「胸の熱さ」を必ず一度や二度、あるいはもっとたくさん
経験したことはおありかと思います。
これは男の歌ですね。
「我妹子になんとかして恋をしようと思っても、その恋をする方法すらな
い。そして胸が熱くなってくるので、朝、ドアを開けてみたら霧が見えた」という歌です。
ここで、「霧」が問題になります。霧と似た言葉に霞(かすみ)があります。平安時代以降、霧
と霞は明らかに区別が成立していきます。春霞と秋霧です。春は霞が立ち、秋になると霧が立つ、
というのが平安時代以降の典型的な歌い方です。しかし上代は、秋にも平気で霞が立ち、春でも霧
が立ちます。
霧と霞はどう違うのでしょう。一般的によく言われるのが、霞という言葉は、元々「かすむ」と
いう言葉からできているので、遠くにあって、向こうがかすんで見えないのが霞。それに対して霧
の方はというと、自分がその中にいるのが霧です。自分の周りが見えないのが霧だと言われていま
す。
そう考えるとこの歌の「朝戸開くれば 見ゆる霧かも」というのは、「朝、ドアを開けてみたら、
自分の家の周りは全部霧だった」ということになるわけです。
「見ゆ」という言葉は、「見る」とは違います。何かを見るとき意識的にそちらを「見る」のに
対して、「見ゆ」というのは勝手に目に入ってくる状態です。
すると今の歌の場合は、「朝戸開くれば
見ゆる霧かも」、「霧が勝手に目に飛び込んできた」と
いう歌になります。
私は残念ながらすぐに寝入ってしまう方なので、そういうことはなかったのですが、夜中じゅう、
自分の好きな人のことを想って、一睡もせずに夜を明かしたという経験をお持ちの方もいるかも知
れません。そして、やがて朝がやってきます。朝が訪れるということは、日常生活の始まりです。
つらい恋を忘れられる時間がやってくるということです。この男の場合も、「我妹子に
恋ひすべ
ながり」、眠れなかったのでしょうね。胸が熱いので、朝、ドアを開けてみたら、つらい恋も忘れ
られるなと思ったのに霧のまっただ中だった。何の救いもなかった。相変わらずあの子のことが恋
しくて仕方がない、そういう歌です。
「朝戸開くれば 見ゆる霧かも」というのは、自分がその霧の中に紛れ込んでいってしまいどう
しようもない状態を表すのでしょう。つらい恋だなあと思います。
8.秋から冬へ
最初にお話ししたように、秋の歌はとても多いです。なぜ秋の歌が多いのかということのヒント
になるのが、これからお話する歌なのではないかと思っています。一首目の歌はこんな歌です。
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©入江泰吉記念奈良市写真美術館
衛(ゐ)門(もんの)大(だい)尉(じょう)大伴宿(すく)袮(ね)稲(いな)公(ぎみ)
の歌一首
しぐれの雨 間(ま)なくし降れば 三笠山 木(こ)末(ぬれ)あまねく 色付きにけり(8・
一五五三)
稲公は家持の叔父にあたる人です。
「しぐれの雨」、しぐれは今と一緒です。秋から冬にかけて降
ったり止んだりする雨、それがしぐれです。
本来であれば、しぐれの雨というのは降ったり止んだりを繰り返すはずなのですが、今回のしぐ
れの雨は違いました。
「間なくし降れば」なので、ずっと降っています。そして三笠山は、
「木末あ
まねく」、
「木末」は「木+の+うれ」という言葉です。
「うれ」は先端です。
「木末」というと、木
の先端部まで「あまねく」
、全て「色付きにけり」
、もみじになりました。しぐれの雨が降ることに
よって山のもみじはどんどん色付いて、全山もみじになった、という歌です。
さて、この歌に対して大伴家持はなんと答えたのでしょうか。
大伴家持が和(こた)ふる歌
大君の 三笠の山の 秋(あき)黄葉(もみち) 今日(けふ)のしぐれに
散りか過ぎなむ
(8・一五五四)
『万葉集』の原文には「大伴家持和歌一首」と書いてあります。
我々は和歌の「和」は、
「大和(やまと)」の意味だと考えますが、『万葉集』の時代は、
「和歌」
というと、
「答える歌」という意味です。
「和歌」に「やまとうた」の意味はありません。我々が和
歌といって日本の歌を示すということは、和歌以外の歌もあるからです。平安時代には「からうた」
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つまり漢詩がありました。漢詩と対応させるための和歌です。ところが上代の場合は、漢詩はもち
ろんあるのですが、和歌を示して和歌とはいいません。日本の歌のことは「歌」といいました。そ
のため、『万葉集』で「和歌」と言うと、全て前の歌に答える歌を指します。和は、和え物の和え
るという字ですね。つまり、前の歌を引き受けて、その歌に寄り添うように、仲良くする歌が「和
歌」です。
さて、「大君の」は「三笠の山」にかかる枕詞です。当時の笠というのは、高松塚古墳にもある
ように、偉い人に横からかける、長柄のついた笠です。「もみち」は清音です。元々は「もみつ」
という動詞でした。
「もみつ」というのは、木が色付いて黄色くなったり赤くなったりすることを
表す動詞です。そこから「もみち」という言葉ができました。そして平安時代以降、「もみぢ」と
なって、現代語の「もみじ」になっています。
「もみち」を黄色い葉と書いています。
『万葉集』の
歌の「もみち」は「黄葉」という表記が一般的で、「紅葉」という表記はなぜか一例しかありませ
ん。その秋のもみちは「今日のしぐれに
散りか過ぎなむ」、今日のしぐれに散ってしまうのだろ
うか、と歌います。先の歌はしぐれによってもみじとなったわけですね。その歌に対して今度は、
「今日のしぐれに散ってしまうのかなあ」と、歌うわけです。
しぐれはもみじの色づきを促進するとともに、もみじを散らす雨でもあるわけです。ここにちょ
っとヒントがあるのではないかなという気がします。つまりしぐれには、山の緑の葉を赤や黄色に
するという力と、その赤や黄色になった葉を落としてしまう、という二面性があるのです。
夏の暑い時期を過ぎると、まだもみじにならないかな、そろそろかな、と山を見るようになりま
す。そしてもみじが散ってしまうと、木枯らしが吹いて寒い季節がやって来ます。つまり、もみじ
にも「早くもみじになるといい」というのと「もみじが終わってしまったらもう寒い冬だ」という
二面性を持っていることがわかっていただけるのではないかと思います。
それはおそらく、秋の二面性です。もみじの美しさの裏側には、冬の寂しさが張り付いています。
桜は散っても、その後暖かくなります。新緑ですから。桜は散っても、そのあとはゴールデンウ
ィークがくるわけですから(笑)
、それほど悲しくはない。
けれども、もみじが散ってしまったら、もみじの葉の裏側に見えかくれしているあの寂しい冬が
やってきてしまうわけです。その二面性というのは、おそらく春にはない二面性です。ということ
は、春には喜びの歌しか歌えなくても、秋は、喜びの歌と悲しみの歌をうたえるので、秋の歌の方
が多くなるのではないか、と私は考えています。
9.冬の歌
こうして秋も終わり、冬がやってきます。今度は長屋王(ながやのおほきみ)の歌です。
佐保過ぎて 奈良のたむけに
置く幣(ぬさ)は 妹を目離(か)れず 相(あひ)見しめと
そ(3・三〇〇)
岩が根の こごしき山を 越えかねて 音(ね)には泣くとも 色に出(い)でめやも(3・
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三〇一)
この歌の題詞には、
「長屋王、馬を奈良山に駐(と)めて作る歌二首」とあります。
奈良山というのは、平城京の北側にある山です。その奈良山を越えると、山城の国になります。
つまり奈良山というのは境界です。
「たむけ」、今でもこの言葉はありますが、この「たむけ」は、
その境界で、境界の神様にお祈りをすることです。
「たむけ」という言葉の音が変化していって、
「と
うげ」になったと考えられています。
「たむけ」る場所が「とうげ」です。つまり「佐保過ぎて 奈
良のたむけに 置く幣は」というのは、境界の神様にお供え物をして旅の安全を祈る、ということ
です。これは後々、お地蔵さんになっていきます。よく村はずれにお地蔵さんがありますね。そこ
から先は村とは違う所ですよという印のためにお地蔵さんがあるのです。元々は道祖神であったの
が、仏教と習合してお地蔵さんになったと考えられます。このように、自分の住んでいる所とそう
ではない所の境で「たむけ」をするわけです。奈良時代の頃ですと、一番有名なのは足柄峠で、そ
こでは「たむけ」がよく行われたと考えられています。
この歌の場合も、
「佐保過ぎて
奈良のたむけに
置く幣」ですから、本来であれば、自分の旅
の安全を祈るところなのですが、長屋王は「妹を目離れず
相見しめとそ」、つまり「妹と目を離
すことなくひとときも離れることなく一緒にいさせてね」と歌っています。これは神様が怒るかも
知れません。旅の安全を祈る所で何を歌っているのだ、と。それくらい妹に会いたいということに
なるのでしょう。
もう一首のほうです。
「岩が根の」
、当時の岩には根があったようですね。それぐらい大きな岩と
いうことです。「こごしき山を」の「こごし」というのは、ごつごつしている様子です。ごつごつ
した山を越えかねて、
「音には泣くとも 色に出でめやも」たとえ泣きたくなって泣いたとしても、
自分の恋心を外に出すものか。人に知られると恋が終わってしまうという考え方がありますので、
たとえつらいことがあっても、妹の名前は絶対口に出さないぞ、という歌です。
©入江泰吉記念奈良市写真美術館
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この写真は歌姫街道といって、ちょうどその峠のてっぺんの所の写真です。この向こう側には何
もありません。残念ながら今はこの木もないそうですが。
さて、最後の歌になりました。
藤(とう)皇(くわう)后(ごう)
、
我が背子と 二人見ませば
天皇(すめらみこと)に奉(たてまつ)る御歌一首
いくばくか この降る雪の 嬉しからまし(8・一六五八)
「藤皇后」の次にスペースが空いています。わざと空けたものです。欠字といい、ひとつ空いた
下の人に対する敬意を表します。
藤皇后は光明皇后、つまり聖武天皇の妃、不比等の娘のことです。その藤皇后が天皇に奉った歌。
「我が背子と 二人見ませば」あなたと二人で見たならば、「いくばくか」どれほど、「この降る
雪の
嬉しからまし」この降る雪が嬉しいことでしょうか。
北海道生まれの私にとって、雪は決していいものではありません。雪が降ると、朝30分早く起
きて雪かきをしなければいけません。苦痛以外の何ものでもないのですが、東京や大阪に来て思う
のは、みんな雪が大好きだなということです。
©入江泰吉記念奈良市写真美術館
雪が降るとあたりが白くなって、ちょうどこの写真のような感じですね。これは猿沢の池のあた
りです。興福寺の五重塔が見えます。雪は瑞兆、とてもいいこととして扱われています。それは奈
良時代もそうですし、おそらく今も同じような感覚を皆さん、持っていらっしゃるのではないかな
と思います。その降る雪を二人で見たなら、どれほど嬉しいことでしょう、と歌うのですね。
おそらく、天皇は忙しくてなかなか奥さんに会えないのでしょう。その時に自分の奥さんから歌
が贈られてきた。この雪を二人で見たらどれほど嬉しいことでしょう、という歌です。
男はこの手の歌に極めて弱いと私は思っています。これが「せっかくの雪なのに、あなたと一緒
に見ることができなくて残念だ」といわれたら、「仕方がないだろう、忙しいのだから」と言いた
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くなります。でも、
「あなたと見られたらどんなに嬉しいことでしょうね」と言われたら、
「うーん、
それじゃちょっと仕事休んで家に帰ろうか」という気持ちになるのではないでしょうか。
つまり、会えないつらさではなく、会えた時のうれしさを歌っているのがこの歌の面白いところ、
いいところだと私は思います。
「あなたと見たらどれほど嬉しいことでしょう」という歌は、本当
に言いたいのは、
「私は寂しくてたまりません」ということです。でもそう歌わずに、
「あなたと一
緒にこの降る雪を見たら嬉しいことでしょうね」と歌います。
これまでの様々な歌で、平城京の春夏秋冬を見て参りました。こうして年は変わり、また、次の
年がやって来ます。今日のお話しで、平城京の一年の様子を多少なりとも思い描けて頂けたなら幸
いです。本日はありがとうございました。
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