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アンナ・コムネナ『アレクシオス 1世伝』の成立背景

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アンナ・コムネナ『アレクシオス 1世伝』の成立背景
都市文化研究 St
udi
e
si
nUr
banCul
t
ur
e
s
Vol
.1
8
,3
1 45
頁,2016
◇論
文◇
アンナ・コムネナ『アレクシオス 1世伝』の成立背景
12世紀コンスタンティノープルにおける女性の文学活動を事例に
1)
佐伯(片倉) 綾那
◆要
旨
本稿では,ビザンツ皇女アンナ・コムネナが『アレクシオス 1世伝』を書いた背景を,彼女の文学サーク
ル活動から検討する。
コムネノス朝(108
1118
5年)時代,皇族女性の政治的・文化的な役割が活発であった。女性の政治活動
は,アレクシオス 1世(在位年:10
8
11
118)の即位前後からヨハネス 2世(在位年:11
18
114
3)の治世初
期に集中していた。アンナ・コムネナが実弟ヨハネス 2世との帝位争いに失敗した 11
19年以後,政治活動
に従事する女性は少なくなった。しかし文化活動は継続され,女性は知識人を集めて文学サークルを主宰し
た。他の女性と異なりアンナ・コムネナは,サークルの主人であるだけでなく著述家でもあった。彼女を執
筆に向かわせたのは,実弟ヨハネス 2世その人に対する批判であり,皇帝の子供を意味する「ポルフュロゲ
ネトス」であり皇帝の長子であることへの誇りであった。
これまでアンナ・コムネナの生涯のうち,111
9年に帝位争いに敗れてケカリトメネ修道院に入ってから
執筆に至るまでの約 30年間について軽視されてきた。そこで本論では彼女の修道院の文学サークルに着目
する。研究者はゲオルギオス・トルニケスの『アンナ・コムネナへの追悼文』から,彼女のサークルの存在
を読み取ってきた。ブラウニングとダルゼスはアリストテレス哲学研究がなされた場として注目する。カジュ
ダンはヨハネス 2世の息子マヌエル 1世(在位年:11
43
11
80)に反発する集団の中心と指摘する。本論で
は,アンナ・コムネナの文学サークルにおける知的活動が,『アレクシオス 1世伝』の成立に影響を与えた
ことを論証する。アンナ・コムネナがコムネノス朝の女性による文化活動を背景に他の皇族女性と異なり彼
女が著述家でありサークルの主人であったことを浮き彫りにする。
キーワード:コンスタンティノープル,アンナ・コムネナ,『アレクシオス 1世伝』,文学サークル,修道院
(2
0
1
5年 9月 4日論文受付,2
01
5年 1
1月 6日採録決定 『都市文化研究』編集委員会)
はじめに
位後の 1
119年に,ヨハネス 2世の姉アンナ・コムネナ
11
53/5
4, 系図 1
1
8)
(AnnaKomne
ne
,生没年:1083-
コムネノス朝期(Komne
ni
anDynas
t
y:10811
185年)
がヨハネス 2世との帝位をめぐる争いに失敗した後,政
のビザンツ帝国においては,皇族女性による政治活動と
治の場面で活動する女性は少なくなった。しかし女性た
文化活動が活発であった 。女性の政治活動はアレクシ
ちの活動は文化面で継続された。女性たちの主な活動は
オス 1世コムネノス(Al
e
xi
osIKomne
nos
,在位年:
知識人を集めて文学サークルを主宰したことであった 3)。
1
08
111
18,系図 12,以下アレクシオス 1世と記す)即
政治面及び文化面で行動した女性は,①アンナ・ダラセ
位前後からその息子ヨハネス 2世コムネノス(I
oanne
s
ナ,②アラニアのマリア,③ブルガリアのマリア,④エ
I
IKomne
nos
,在位年:11181143,系図 135,以下ヨ
イレーネー・ドゥーカイナ,⑤ハンガリーのプリスカ=
ハネス 2世と記す)の治世初期に集中している。しかし
エイレーネー,⑥ズルツバッハのベルタ=エイレーネー,
アレクシオス 1世死亡直前の 1118年とヨハネス 2世即
⑦セバストクラトリッサのエイレーネー,そして⑧アン
2)
3
1
都市文化研究 1
8号 2
0
1
6年
在した多数の文学サークルのうちの一つであるとみな
ナ・コムネナである。
しかしアンナ・コムネナには他の女性たちと異なる面
し,アリストテレス哲学研究がなされた場として評価
があった。彼女は文学サークルの主人であっただけでな
r
ouz
s
)は,
する8)。『追悼文』の編者ダルゼス(J.Dar
く,元政治家でもあり自ら歴史作品を残した著述家でも
アンナ・コムネナはビザンツで主流であったプラトン哲
あった。彼女は父アレクシオス 1世の事績を『アレクシ
学ではなくアリストテレス哲学に従事していることに
オス 1世伝』(Al
e
xi
as
,全 15巻) に描き,ビザンツ帝
hdan)は,ヨ
注目する 9)。そしてカジュダン(A.Kaz
国史で唯一の女性歴史家として注目されてきた。彼女を
ハネス 2世の息子マヌエル 1世コムネノス(Manue
lI
執筆活動にかりたてた条件が 2つあった。ひとつは帝位
Komne
nos
,在位年:1
143
1
180,系図 1
3
7,以下マヌ
をめぐり争った弟ヨハネス 2世に対する批判であった。
エル 1世と記す)に反発する集団の中心であったと指摘
彼女は弟への批判をアレクシオス 1世の事績に紛れ込ま
する10)。
4)
せた 5)。そしてもうひとつは,宮殿にあった緋色の産室
それに対し本論では,アンナ・コムネナの文学サーク
(ポルフュラ)で生まれた皇帝の子どもを意味する「ポル
ルにおける知的活動が,『アレクシオス 1世伝』の成立
フュロゲネトス」
(por
phyr
oge
nne
t
os
)であり,かつ皇
に影響を与えたことを論証する。これが論証できた場合,
帝の長子であるという,彼女の生まれへの自負であった。
アンナ・コムネナと『アレクシオス 1世伝』ひいては彼
アンナ・コムネナの晩年について,「11
19年に帝位争
女のサークルについても再評価できるであろう。アンナ・
いに敗れた後,修道院に移り住みそこで 1
148年頃から
コムネナがコムネノス朝期の女性による文学活動を背景
『アレクシオス 1世伝』を書いた」と語られてきた 。
として,彼女だけがもつ特殊な条件が重なって生まれた
彼女が『アレクシオス 1世伝』を書き始めた時期につい
存在であったこと,すなわち文人でもあり知識人の擁護
ては異論あり後述するが,彼女の晩年のこの流れについ
者でもあったことを示す。
6)
て疑問を呈するつもりはない。しかし,これまで言われ
てきた彼女が修道院に引退した 1119年から執筆を始め
たとされる 11
4
8年までの約 30年間について軽視されて
きた。そこで本論では,アンナ・コムネナが修道院内
第 1章
皇族女性による政治活動
で主宰していた文学サークルに着目する。彼女のサー
12世紀半ばのビザンツ帝国の首都コンスタンティノー
クルについては,ゲオルギオス・トルニケスによる『ア
プルにおいては,109
4年の第一回十字軍運動を契機に,
ンナ・コムネナへの追悼文』(以下『追悼文』と記す)7)
ヨーロッパとイスラム世界の人とモノの流れがそれまで
からその存在が読み取みとられてきた。例えばブラウ
より活発になり,世界中から人とモノが集まる中心地と
ニング (R.Br
owni
ng) は, 12世紀のビザンツに存
1世紀半ば
なっていた 11)。しかし遡ること 1世紀前,1
家系図 1
:A.
P.
Kaz
hdan
(e
di
t
ori
nc
hi
e
f
)
,Oxf
or
dDi
c
t
i
onar
yofByz
ant
i
um,Ne
w Yor
k,19
91
,p.114
5をもとに作成。
3
2
アンナ・コムネナ『アレクシオス 1世伝』の成立背景(佐伯(片倉)
)
のビザンツ帝国は,めまぐるしい皇帝交代とノルマン人
帝位を奪うよう促すも失敗する。さらに 111
9年にアン
やトルコ人による海外領土略奪によって内憂外患の状態
ナ・コムネナはヨハネス 2世の退位を企てるも失敗した。
にあった。そのような帝国を立て直したのがコムネノス
彼女たちによる政治への介入はいずれも失敗におわる。
朝の創始者アレクシオス 1世であった 12)。
父から息子へと皇帝位が継承される中で男性による支配
1
0
8
1年にアレクシオス 1世が即位したとき,親族女
性の支援があった。 彼の母アンナ・ダラセナ (Anna
体制が確立していき,女性が政治に介入できる余地が少
なくなっていったのであろう。
Dal
as
s
e
ne
,生没年:1025頃1100/1102頃,系図 11,
1
11
9年にアンナ・コムネナによるヨハネス 2世に対
以下ダラセナと記す),アレクシオス 1世の後継者コン
する陰謀が未遂に終わって以降,年代記や歴史史料から
スタンティノス・ドゥーカス(Cons
t
ant
ni
nosDoukas
,
女性に関する記述が減る。女性に関する大部分の記述は
生没年:1
0
74頃1
094頃,系図 111
,以下コンスタンティ
『アレクシオス 1世伝』によっているからであろう。そ
ノスと記す)の母アラニアのマリア(Mar
i
aofAl
ani
a,
の代わりに女性たちに関する記述は,当時の知識人によ
1103以後,系図 18,以下マリアと記
生没年:1
05
0頃-
る書簡,献呈文,称賛文や追悼文の中にみられるように
す)と,アレクシオス 1世の妻エイレーネーの母ブルガ
なる。それら知識人たちは,女性たちから金銭的援助と
リアのマリア(Mar
i
aofBul
gar
i
a,系図 13
)であった。
仕事の斡旋を受けていた。女性たちが実際に活動してい
彼女たちは,アレクシオス 1世即位後も彼の政治体制を
た舞台が,政治から文化へと変わっただけでなく,史料
支援することで政治に介入した。政治の場面で活動する
上の舞台でも政治から文化の中に変わったといえよう。
女性を目立たせることができたのは,コムネノス朝の支
配体制が関係していた。貴族はアレクシオス 1世即位前
から婚姻によって家族を拡大していき派閥を形成していっ
た。王朝創設後は,皇帝アレクシオス 1世を頂点とする
第 2章
皇族女性による文化活動
家父長的な体制が形成された 13)。家族で動くようにな
ここでは,アンナ・コムネナの文学サークルをコムネ
り男性も女性も家族のために行動を起こした。女性たち
ノス朝の女性による文化活動の中に位置づけるために,
の行動はいずれも自身の子どものためであった 14)。例
「はじめに」で挙げた女性たちの文化活動を検討する。
えばダラセナは,息子アレクシオス 1世の即位を助け,
マレット(M.Mul
l
e
t
t
)は,コムネノス朝期におけ
また即位後のアレクシオス 1世が遠征で不在時には,行
る女性による知識人擁護の始まりと擁護の方法の基準を
政を預かった 15)。マリアは,息子コンスタンティノス
マリアに置いている21)。しかし女性と知識人との交流は,
(アンナ・コムネナの婚約者)の継承権を守るために,
アレクシオス 1世の宮殿においてもみられた。ダラセナ
アレクシオス 1世の即位を助けた。ブルガリアのマリア
はアレクシオス 1世によって行政を委託された際,宮廷
は娘エイレーネー・ドゥーカイナ(Ei
r
e
neDoukai
na,
で修道士や聖職者を厚遇し食卓にも招いていた 22)。ブ
生没年:1
06
6頃1
133頃,系図 14,以下エイレーネー
ルガリアのマリアは,アレクシオス 1世即位後も娘エイ
と記す)のためにその夫アレクシオス 1世の即位を支援
レーネーのそばで暮らし,宮廷でエウティミオス・ジガ
した
。エイレーネーは,病気がちとなった夫の遠征
16)
に同行し 17),その治世晩年に政治にかかわり娘アンナ・
コムネナ夫婦を後継者にするよう夫に訴えた 18)。
ベノス(Eut
ymi
osZygabe
nos
)など知識人との交流を
持った 23)。
1
2世紀,ビザンツ宮廷に宮廷修辞家が存在した。彼
アレクシオス 1世が帝国の均衡をはかる中で,支援者
らは雇い主を賛美する詩を作成し披露した。それはライ
であった親族は次第に厄介な存在になっていった 19)。
ブ・パフォーマンスの一種であり,古来ローマの雄弁術
彼らは陰謀や後継者をめぐる争いを起こし,それに女性
と似ていた。皇帝や貴族は口頭で詩を作成し発表するこ
もかかわっていた。マリアは,10
94年から 1095年のニ
のような人々を擁護した。口頭で発表された場はテアト
ケフォロス・ディオゲネス(Ni
ke
phor
osDi
oge
ne
s
,系
ロン(t
he
at
r
on)と呼ばれ,聴衆にテキストを発表す
図 11
6,以下ディオゲネスと記す)による陰謀 20)に関
2世紀のテアトロンは,
る事例として定義された 24)。1
与した疑いがあったことで修道院への引退に追いやられ
聴衆を前にした主宰者の喜びのために行なわれた。聴衆
た。エイレーネーは晩年病気がちとなったアレクシオス
には有力者やその随行者も含まれていた。テアトロンで
1世から行政を委託され,娘アンナ・コムネナの夫ニケ
なされたパフォーマンスの出資者と受取人は,主に皇帝,
フォロス・ブリュエンニオス(Ni
ke
phor
osBr
ye
nni
os
,
皇妃,総主教や貴族であった 25)。その場所は皇帝の公
生没年:1
0
6
4もしくは 10
80頃11
36/37,系図 11
9,以
式謁見室や邸宅のレセプションホールでありも行なわれ,
下ニケフォロスと記す)を頼った。そしてアレクシオス
上演者は聴衆の反応を心に留め,聴衆のために上演し
1世に帝位継承者を息子ヨハネスから娘夫婦に変えるよ
た 26)。
う訴え,11
1
8年にニケフォロスにヨハネスを退けて,
テアトロンは修道院にもあった。修道院は,男性も女
3
3
都市文化研究 1
8号 2
0
1
6年
性も配偶者に先立たれた,政争に敗れて宮廷を追われた,
与した疑いがあったこと,そして 1094年頃にコンスタ
もしくは老齢を迎えた者たちが生活する場所であった。
ンティノスが死亡したためであった。マリアはマンガナ
その隠遁生活は必ずしも暗いものではなく,知識人の知
宮殿を退いた後もテオフュラクトスと交流があったよう
的活動を保護し彼らと交流し学問に従事できる場でもあっ
で,彼からの手紙を受け取っている35)。
た。修道院で主宰された文学サークルは知識人の拠点の
ひとつでもあり知的エリートが集う排他的な世界とみな
された 27)。ここでは,古典文学への愛好と関心がもた
れ,ヘレニズム的風潮がはぐくまれた。ここで言うヘレ
ニズムは,カルデリス(A.Kal
de
l
l
i
s
)の定義を借りる
なら,「ナショナル」なヘレニズムではなく高度な文化
のことであり,ビザンツにおける古典研究が緩やかに発
展した際の一つのステップであった
家系図 2:A.P.Kaz
hdan
(e
di
t
ori
nc
hi
e
f
),Oxf
o
r
d
Di
c
t
i
onar
yo
fByz
ant
i
um,Ne
w Yor
k,
。
2
8)
19
91,p.114
5をもとに作成。
①アラニアのマリア
マリアはグルジア王家出身で, 1065年頃ミカエル
7世ドゥーカス(Mi
c
hae
lVI
IDoukas
,在位年:107
1-
②エイレーネー・ドゥーカイナ
エイレーネーは 107
8年頃,即位する前のアレクシオ
1
0
7
8,系図 1
12,以下ミカエル 7世と記す)と結婚し,
ス 1世と結婚した。彼女はアレクシオス 1世との間に
1
0
7
4年頃にコンスタンティノスを出産した。107
8年に
4人の息子(ヨハネス,アンドロニコス,イサキオスと
ミカエル 7世は,貴族ニケフォロス・ボタネイアテスの
マヌエル)と 5人の娘(アンナ・コムネナ,マリア,エ
反乱によって帝位を追われた。そのすぐ後にマリアはニ
ウドキア,テオドラとゾエ)を出産したが,彼らのうち
ケフォロス 3世との結婚を余儀なくされた
。1
0
81年
2
9)
ゾエとマヌエルは生まれてすぐに亡くなったようだ 36)。
の反乱時マリアは息子の帝位継承権を守るためにコムネ
アレクシオス 1世の治世初期の宮廷は,当時 10代であっ
ノス家を支援した。
たエイレーネーに比べてダラセナやマリアの存在が際立っ
マリアは,エイレーネーが皇妃として戴冠すると,息
ていた。しかし 10
9
0年代に入り彼女たちが宮廷を去る
子コンスタンティノスと共にアレクシオス 1世が住む大
あるいは亡くなった後,エイレーネーが表立って行動す
宮殿を出てマンガナ宮殿へと移った。彼女は移住先のマ
る姿がみられた。夫の死後は,自身で創設したケカリト
ンガナ宮殿内に,それまで大宮殿に持っていた宮廷の代
メネ修道院で晩年を過ごした。
わりとなる自身の宮廷と,それ以外に広大な地所も有し
ケカリトメネ修道院(Ke
c
har
i
t
ome
neNunne
r
y)は
ていた 30)。彼女はその宮廷に知識人を集めて文学サーク
首都コンスタンティノープルの北側に,アレクシオス
ルを主宰し,元皇妃としての地位と経済力でもって彼ら
1世存命中の 1116年頃に設立された 37)。この修道院は
を支援していた 31)。彼らの中にはオフリドのテオフュラ
2つの施設をもつ女子修道院であり,隣接して男子修道
クトス(The
ophyl
ac
t
osofOhr
i
d,以下テオフュラクト
院も設立された。そこで暮らす修道女は厳格な生活を送
スと記す)やニカイアのエウストラティオス(Eus
t
r
at
i
os
り,限られた男性しか修道院に入ることを許されていな
ofNi
c
ae
a,以下エウストラティオスと記す)もいた。
かった。皇族女性は,修道院の施設に隣接して立てられ
テオフュラクトスは,コンスタンティノスの師父であっ
た皇族女性専用の邸宅で暮らした。修道院の建物は現存
た。さらに彼は 11世紀の歴史家ミカエル・プセルロス
しておらず,どこにあったかもはっきりと分からない。
(Mi
c
hae
lPs
e
l
l
os
,以下プセルロスと記す)の弟子であ
ヨハネス 2世夫妻が創建したパントクラトール修道院か
り,そのプセルロスはコンスタンティノスの父ミカエル
らはそれほど遠くない位置にあったようだ 38)。ブラウ
7世の師父であった。彼はコンスタンティノスのために
ニングは,ケカリトメネ修道院にあったアンナ・コムネ
1
0
85
/6年の演説『コンスタンティノス・ドゥーカスへ
ナの部屋が金角湾の穏やかな水を見渡せる場所にあった
。エウストラティオスは哲学者
と考えている39)。この修道院は金角湾が見える位置にあっ
で神学者でもあり,テオフュラクトス同様にマリアから
たと推定できるであろう 40)。エイレーネーは皇族女性
作品執筆の依頼を受けた 33)。彼女はその文学サークル
用の邸宅で,アンナ・コムネナ,離婚して修道女になっ
の中で息子コンスタンティノスの婚約者アンナ・コムネ
ていた三女エウドキア,またアンナ・コムネナの娘で同
の言葉』を作成した
3
2)
ナの教育も担っていた
。
3
4)
名の孫娘エイレーネーと共に生活していた。彼女はケカ
マリアの立場は 1092年以降に一変する。109
2年にア
リトメネ修道院規約を記したティピコン(t
ypi
kon)を
レクシオス 1世が息子ヨハネスを後継者として定めたこ
残している41)。彼女はティピコンに,自身の死後エウド
と,1
0
94年から 1095年のディオゲネスによる陰謀に関
キアに,もし彼女が亡くなった後にはアンナ・コムネナ,
3
4
アンナ・コムネナ『アレクシオス 1世伝』の成立背景(佐伯(片倉)
)
彼女のすぐ下の妹マリア,そしてアンナ・コムネナの娘
ベルタ=エイレーネー(Be
r
t
a=Ei
r
e
neofSul
z
bac
h,
エイレーネーの順に修道院を相続させるという取り決め
生没年:?~1
1
59/60,系図 136,以下ベルタと記す)に
を記している 。
ついて述べる。彼女たちはいずれも外国君侯の娘であり,
42
)
エイレーネーの文学サークル活動は,修道院の施設が
プリスカはハンガリー王ラディスラフの娘であり,ベル
男子禁制であったために修道院に隣接する皇族女性用の
タはドイツ王コンラート 3世の義妹であった。アレクシ
屋敷で行なわれていた。エイレーネーのサークルの存在
オス 1世含め彼の子どもたちの結婚相手は有力貴族の子
についてイタリコスが彼女にあてた演説から,そして
弟であったが,後継者ヨハネス 2世だけは当時の国際情
11
3
0年から 11
3
5年にアンナ・コムネナの夫ニケフォロ
勢に鑑みてハンガリー王女と結婚した。それ以降,歴代
スにあてたとされる手紙にあらわれている 。
皇帝は外国とりわけ西欧君主の娘や縁者を妃に迎える。
4
3)
また,ビザンツ帝国の皇女も西欧君侯と結婚するように
このもっとも学識ある劇場の面前で即興の口演から
なった。プリスカもベルタも,アレクシオス 1世時代の
あなたに言葉を朗唱することを,あなたは命じまし
女性たちのような政治への介入は見られない 48)。この
た・・・44)
ような婚姻関係を通じて 1
2世紀の西欧で発展したロマ
ンス文学がビザンツ帝国で受容された。それと並行して
というのも論理的なテアトロンに手紙が届けられて
同時期のビザンツ帝国において口語文学や風刺小説も流
広げて読まれて,あなたは声と歌を届けました,おぉ
行した 49)。外国から嫁いできた皇族女性,中でもセバ
ロゴスよ,ムーサよ,洗練された弁論よ,それ(手
ストクラトリッサのエイレーネーはビザンツにおける世
紙)が歌ったように,それが楽しませたように,そ
俗文学発展に貢献した 50)。
れが悦びによって霊感を与えられるよう成し遂げた
のと同じように,私はできませんでした。 ((
4
5)
)
内筆者補足)
プリスカはヨハネス 2世と共にパントクラトール修道
院の設立にかかわり,自身の財産を修道院に寄進した 51)。
ベルタは,ヨハネス・ツェツェス(I
oanne
sTz
e
t
z
e
s
,以
下ツェツェスと記す)にホメロス作品の注釈書を書くよ
彼女と交流があった知識人の中には,テオドロス・プ
う依頼した。しかし彼女は,ツェツェスに依頼した作品
ロドロモス(The
odor
osPr
odor
omos
,以下プロドロモ
の報酬を払うことが困難であったようだ 52)。彼への依頼
スと記す)も含まれていた。彼女はアンナ・コムネナと
は,西欧出身の彼女がビザンツ帝国の母語ギリシア語を
その弟アンドロニコスと共に彼と個人的に親しかった。
学習し,ホメロスの作品を理解するためのものであった 53)。
彼は後にヨハネス 2世の宮廷修辞家となった 46)。
エイレーネーは 1
133年頃に亡くなったようだ。ケカ
リトメネ修道院は彼女にとって夫である皇帝死後,自身
④セバストクラトリッサのエイレーネー
セバストクラトリッサのエイレーネー(Se
bas
t
okr
at
or
i
s
s
a
と娘たちにとって安寧の場所であり,先だった家族を追
Ei
r
e
ne
,生没年:1110
11
5
5頃,系図 14
3,以下セバス
悼する場でもあったのである 。
トクラトリッサと述べる)は,ビザンツに帰化した西欧
4
7)
40年代の主
出身の一族の娘といわれている54)。彼女は 11
要な著述家にとって擁護者であったと評価されている55)。
知識人の擁護者としての彼女の活動年代は,アンナ・コ
ムネナによる文学活動の時期と重なっている。
セバストクラトリッサはヨハネス 2世の次男アンドロ
ニコス(系図 142)の妻であった。しかし 1
14
3年にア
ンドロニコスは亡くなった。ヨハネス 2世は末息子で四
男であったマヌエルを後継者として指名し,それにより
マヌエルが即位することになった。しかし彼には 1
1
5
2
家系図 3:A.P.Kaz
hdan
(e
di
t
ori
nc
hi
e
f
),Oxf
o
r
d
年に長女マリアが誕生するまで子どもがいなかったため,
Di
c
t
i
onar
yofByz
ant
i
um,Ne
w Yor
k,
潜在的な継承者であるセバストクラトリッサの息子をは
19
9
1
,p.1145をもとに作成。
じめ兄弟姉妹やその子どもの存在を恐れていた。そのた
めセバストクラトリッサはマヌエル 1世即位後すぐの
③プリスカとベルタ
ここでは,ヨハネス 2世の妃プリスカ=エイレーネー
(Pr
i
s
ka=Ei
r
e
neofHungar
y,生没年:?~1134,系図
13
4,以下プリスカと記す)とマヌエル 1世の最初の妃
11
4
3年に大宮殿に閉じ込められ,その後プリンキポ諸
島に追放された。1
147年に自身の子どもと共に幽閉さ
れていた。
彼女は立場上不遇な時期があっても,修道院や宮廷に
3
5
都市文化研究 1
8号 2
0
1
6年
おける役職と収入を求める知識人たちを支援した。ツェ
第 1節
ツェスもそのような知識人の一人で,彼女よりも前に交流
のあったベルタと比べて個人的に親しい関係にあった 56)。
アンナ・コムネナによる政治活動とそ
の挫折
アンナ・コムネナは『アレクシオス 1世伝』でアレク
ツェツェスは彼女の支援で経済上の困窮から抜け出し,
シオス 1世の事績を伝えているだけではなく,そこに登
彼女のために神学論を書いた 57)。コンスタンティノス・
場する人物の身体描写や心的描写,アンナ自身の心情や
マナセス (Cons
t
ant
i
nosManas
s
e
s) は年代記を, セ
家族への思いを生き生きと描いている。しかし彼女はヨ
バストクラトリッサに献呈した 58)。
ハネス 2世についてほとんど語っておらず,語っていた
としても好意的な内容とは言い難い 59)。ヨハネス 2世
との確執が生じたきっかけは,ヨハネス 2世との帝位を
めぐる争いにあった。というのもヨハネス 2世が後継者
と定められたことで,アンナ・コムネナと婚約者コンス
タンティノスが後継者ではなくなったからである。
アンナ・コムネナは 108
3年 1
2月 2日,アレクシオス
1世とエイレーネーの長子としてポルフュラで誕生した。
彼女は誕生後すぐ,アレクシオス 1世によって彼の後継
家系図 4:A.P.Kaz
hdan
(e
di
t
ori
nc
hi
e
f
),Oxf
o
r
d
Di
c
t
i
onar
yofByz
ant
i
um,Ne
w Yor
k,
19
9
1
,p.1145をもとに作成。
者コンスタンティノスと婚約させられ,彼と共に将来の
帝位継承者とみなされた。しかし 1
087年にヨハネスが
誕生し,10
92年に彼が後継者に指名されたことで,コ
ンスタンティノスとアンナ・コムネナの帝位継承権は無
ここまでコムネノス一族の女性たちによる文化活動を
効になる。1
09
4年のコンスタンティノス死後,1
0
9
7年
みてきた。ダラセナとマリアは修道院に引退前から,知
にアンナ・コムネナは有力貴族ブリュエンニオス家のニ
識人の支援をしていた。皇族女性たちは,知識人をテア
ケフォロスと結婚させられた。1
10
2年から 11
0
8年の間
トロンに集めてサークルを形成した。12世紀コンスタ
に 4人の子ども(アレクシオス,ヨハネス,エイレーネー
ンティノープルで,古典文学への愛好と関心がもたれた
と名前不詳の女子)を出産した 60)。アレクシオス 1世
一方で外国出身の皇妃を媒介として西欧の文学が導入さ
死亡前の 11
18年とヨハネス 2世即位後の 1
11
9年に彼女
れ受容された。女性が知識人を擁護することを可能とし
は夫ニケフォロスを皇帝にしようと二度企てるが,双方
たのは,教養と経済力であった。中でもベルタは,古典
とも事件は未遂に終わる61)。アンナ・コムネナは陰謀発
やギリシア語の教養は高くなかったが,それらへの関心
覚後,ヨハネス 2世によって財産を没収されるも,すぐ
から知識人に教本の作成を依頼した。マリア,エイレー
後に恩赦によって財産は返還される。彼女は宮廷を出て,
ネーやセバストクラトリッサは,自身の地所や修道院を
115
3年もしくは 115
4年頃に亡くなるまでケカリトメネ
もっており経済的に豊かであった。知識人はいずれも決
修道院で過ごし,そこで文化活動に専念した。
して裕福ではなく金銭的支援と修道院や宮廷における役
アンナ・コムネナの生涯は,宮廷での政治活動とそれ
職を求めていた。女性たちも知識人も学問への関心があ
に挫折した前半生と,次節でみていく文学活動に専念し
り,その共通の関心を通じて出資者と受取人の関係が成
た修道院における後半生に分けて考えることができるで
り立っていたのである。
あろう。
第 2節
第 3章 『アレクシオス 1世伝』の執筆
本章では,『アレクシオス 1世伝』の成立背景を検討
する。第 1節で,アンナ・コムネナを『アレクシオス
アンナ・コムネナの文化活動
アンナ・コムネナが幼少時代より宮廷で培った教養が,
『アレクシオス 1世伝』を書くことを可能にした要因の
一つであった。そのため修道院における文化活動をみて
いく前に,彼女が受けた教育について述べたい。
1世伝』の執筆に向かわせた動機を見るという観点から,
彼女の生涯を述べる。そして第 2節で,『アレクシオス
1)アンナ・コムネナが受けた教育
1世伝』の執筆を可能にした教養を手に入れることがで
アンナ・コムネナは自身の教養の高さと学問への関心
きた環境をみる。そして『アレクシオス 1世伝』の執筆
について,たびたび『アレクシオス 1世伝』でも触れて
背景,そして執筆が行われたケカリトメネ修道院におけ
いる。
る知的環境を見ていく。
ところで,それを判断するところの私アンナこと,
3
6
アンナ・コムネナ『アレクシオス 1世伝』の成立背景(佐伯(片倉)
)
バシレウス(皇帝)たちすなわちアレクシオスとエ
レーネーが食事の時間も忘れ読書を続けていたこと,多
イレーネーの娘,ポルフュラで生まれ養育された者
くの時間をハウスホールドの義務に捧げていたことを描
は,文学と無関係でなく,ギリシア語を話すことを
いている66)。そして彼女はエイレーネーの判断の下で宦
も何よりも熱心に取り組んでおりました。さらに私
官を家庭教師として,古典の教育を受けた。
は訓練することで弁論術を築き,またアリストテレ
スの諸作品を,またプラトンの対話も熟読して,そ
・・・一方で彼女はそのことを両親に気付かれない
して四科(幾何学,数学,天文学と音楽)によって
よう,他方で控えめにこういったものをすなわち無
知性を身につけました。 ((
学でない召使いの宦官たちによる教えをこっそりと,
6
2)
)内は筆者補足)
彼女は手に入れて。67)
アンナ・コムネナが文化活動に従事していた 12世紀
のビザンツは,西欧諸国との交流と衝突が 11世紀末の
・・・文法に関することも,それ(文法)の技術に
第一回十字軍以降,それまでと比べて見られた。コンス
乏しいことはない宦官たちのうちの一人に,デスポ
タンティノープルには西欧諸国から人々がやって来て,
イナ(女主人)である母君の判断に従って,彼女は
宮廷に仕える者も存在した。ビザンツ人は西欧人と共存
教えてもらっていた。68)((
)内は筆者補足)
しつつも,粗野で野蛮な人々ともみなした。ビザンツ人
とりわけ知識人は,自分達を彼らとは異なる存在として
彼女は 1
4歳でニケフォロスと結婚した後も学問を続
ヘレネスであるとみなすようになった。ツェツェスやゲ
け,幼少時代に習った家庭教師とは別の者から文法を学
オルギオス・トルニケス(Ge
or
gi
osTor
ni
ke
s
,以下ト
び,哲学者から哲学を学んだ 69)。
ルニケスと記す)など知識人はギリシア古典文学に関心
アンナ・コムネナは,知識人と交流し学問に関心を持
。アンナ・コムネナの『アレクシオス
つ女性たちをそばで見ていたことで,学問への関心をつ
を抱いていた
63)
1世伝』はそのような文学傾向の中で作成された。彼女
ちかっていったのであろう。
は『アレクシオス 1世伝』に聖書だけでなく,古代ギリ
シア哲学,文学作品や神話を多く引用している。エイレー
2)ケカリトメネ修道院における活動
ネーやコンスタンティノスの容姿を褒めるとき,アンナ・
アンナ・コムネナは 111
9年にヨハネス 2世に対する
コムネナはギリシア神話の登場人物に例えて彼らの容姿
陰謀に失敗した後,母エイレーネーが創設したケカリト
をたたえている。彼女は,ギリシア古典の文学作品の中
メネ修道院へ移り住んだ。その一方で彼女が修道院に引
でも『イリアス』や『オデュッセイア』などホメロス作
退した時期は,113
7年頃に夫ニケフォロスが亡くなっ
品を多く引用している。『アレクシオス 1世伝』はギリ
た後であったともいわれている70)。
シア語のタイトルで『アレクシアス』であるが,『イリ
アス』からとっている 。
これについて筆者は,アンナ・コムネナが修道院に移
り住んだのは 1
11
9年の陰謀に失敗した後であると考え
6
4)
アンナ・コムネナはそのような教養を,婚約者コンス
ている。
『アレクシオス 1世伝』第 14巻第 7章第 6節に,
タンティノスの母マリア,実母エイレーネー,そして家
「この 30年間,いとも至福なるアウトクラトール達(ア
庭教師となった宦官から手に入れた。彼女は 1
090年頃
レクシオス,エイレーネー,ニケフォロス)の魂にかけ
から 10
9
4年頃まで,マリアのもとで養育されていた
。
65
)
て,私は父の部下を見なかったし,会わなかったし,話
婚約者の母のもとで養育されることは,当時の慣習であっ
をすることもなかったからなのです」71) という記事の
たようだ。アンナ・
コムネナが誕生した 1083年当時,マ
「30年間」に筆者は着目した。アンナ・コムネナが調査
リアはアレクシオス 1世の住まう宮廷を出て,彼女にあ
40年代から 3
0
活動を始めたマヌエル 1世時代 72)の 11
てがわれた宮廷で暮らしていた。マリアの居住地には,
年を引くと 11
10年代になる。そのことからアンナ・コ
知識人がよく集まっていた。アンナ・コムネナは,マリ
ムネナの引退時期をニケフォロスが亡くなった 1
1
3
7年
アの下に集う知識人との交流があり,彼らから何らかの
よりむしろ 1
11
9年であると考えた。彼女は宮廷を出た
教育を受けていた可能性がある。彼女に古典教育を施し
直後の 11
20年頃,遺言状を書いていたようだ 73)。遺言
た知識人がいたのかもしれない。
状の本文は失われているが,その序文にあたるもの(以
アンナ・コムネナは,コンスタンティノスが亡くなり,
下,『序文』と記す)が同時代の知識人ミカエル・イタ
マリアが修道院に入ったことで,彼女のもとを離れて,
リコス(Mi
c
hae
lI
t
al
i
kos
,以下イタリコスと呼ぶ)の
両親の住む宮廷に戻った。10
97年にニケフォロスと結
主に書簡を集めたテキストに残されている 74)。『序文』
婚後も,アンナ・コムネナは変わらず宮廷で暮らしてい
は,11
33年から 1
13
8年にあったであろうエイレーネー
たようだ。次に彼女は学問に関心をもつエイレーネーの
の死と 1
1
36年から 1
138年にあったであろうニケフォロ
影響を受ける。彼女は『アレクシオス 1世伝』に,エイ
スの死との間にイタリコスによって書かれた 75),もし
3
7
都市文化研究 1
8号 2
0
1
6年
くは彼女の見解を表しているとはいえ彼女自身の手によ
ているのは,ゲオルギオス・トルニケス,ミカエル・イ
という指
タリコス,テオドロス・プロドロモス,ニカイアのエウ
るものではなく別の人間によって書かれた
7
6)
摘がある。『序文』 の内容について, 父アレクシオス
ストラティオスとエフェソスのミカエル(Mi
c
hae
lof
1世と母エイレーネーの良き娘でありポルフュロゲネト
Ephe
s
us
,以下ミカエルと記す)である。
スであること,学問に励んだこと,本来結婚は望んでい
トルニケスは,アンナ・コムネナと彼女の家族にとっ
なかったが夫になったニケフォロスの知性や性質のすば
て親しい友人でもあり 81),彼女から経済的な援助を受
らしさと自身の子どもについて語っている。宮廷を出て
けていた 82)。彼はテオフュラクトスと親戚関係にあり,
修道院に入った直後のアンナ・コムネナは意気消沈して
彼はトルニケスの母のおじであった 83)。またテオフュ
いたのであろう。彼女は自らの手で『序文』を書いたの
ラクトスはマリアが主宰する文学サークルの一員でもあっ
ではなくとも,その時の心情を文学サークルに出入りし
た。アンナ・コムネナはマリアの下で育てられていた頃
ていた知識人たちの前で披露したのかもしれない。当時
に彼と接触があったであろう。そのため彼女とトルニケ
アンナ・コムネナができたことは,彼女自身がヨハネス
スは共通の話題があったかもしれない。彼は,アンナ・
2世よりも優れた性質を持っていたと周囲の人々に語る
コムネナが亡くなってすぐ後に,彼女に対する『追悼文』
ことのみであったのだろう。
を記している。その『追悼文』はアンナ・コムネナの生
さらにアンナ・コムネナは宮廷を出てからの生活につ
涯や彼女の容貌だけでなく,彼女の学問への関心の高さ
いて『アレクシオス 1世伝』で,次のように語っている。
を伝えており,そのため彼女の修道院での文化活動を明
らかにする手がかりとなっている。プロドロモスは 1
1
2
0
・・・私は多くをひっそりと暮らし,私は書物にも
年代に結婚したアンナ・コムネナの 2人の息子アレク
神にも身を捧げました。より無名の人々さえも私た
シオスとヨハネスそれぞれの結婚を祝福する詩を作成し
ちの所へ訪れることを許されていません,私たちは
た 84)。
まさに彼ら無名の人々から聞き知ることをできませ
イタリコスは著述家でもあり医者でもあった 85)。マ
んでした,たまたま他の者達から聞いた人々がいま
グダリーノ (P.Magdal
i
no) は, 彼がアレクシオス
したように,私たちは父の最も親しい者達からさえ
1世についた医者の一人であったと推測している86)。彼
はプロドロモスをはじめヨハネス 2世やマヌエル 1世の宮
も聞き知ることができませんでした。77)
廷に出入りする知識人とも書簡のやり取りがあった 87)。
彼女は以上のように孤独な生活に追いやられた境遇を
エウストラティオスはアンナ・コムネナによって『ア
語っている。しかし彼女の生活は実際には,彼女が語る
レクシオス 1世伝』でその学識の高さを称賛されてい
。彼女がケカリトメネ修道
る88)。彼は自身の執筆したアリストテレスの『ニコマコ
院に隣接する皇族女性用の邸宅に移ったとき,一足先に
ス倫理学』に関する注釈書をアンナ・コムネナに献呈し
離婚して修道女になった妹エウドキア,そしてアレクシ
た 89)。
ほどに孤独ではなかった
7
8)
オス 1世に先立たれた母エイレーネーが暮らしていた。
ミカエルは 1
1世紀から 12世紀のコンスタンティノー
後にアンナ・コムネナの娘エイレーネーも一緒に暮らす
プルにおけるアリストテレス哲学復興を助けた 90)。彼
ようになった。修道院で厳格な生活を暮らす修道女とは
はアンナ・コムネナの庇護の下で,アリストテレスによ
対照的に,彼女たち皇族女性用の邸宅には身の回りの世
る諸作品の注釈を行った 91)。ビザンツ哲学においてプ
話をする人物もいて快適であったようだ 79)。
ラトン主義が支配的であったにもかかわらず,アンナ・
アンナ・コムネナは当初,エイレーネーが主宰する文
コムネナはアリストテレス哲学の研究に熱心であり,彼
学サークルの一員であり,母のサークルに出入りする知
女のサークルに集まった知識人たちはアリストテレスに
識人と交流を持った。彼女はエイレーネーの死後に修道
よる著作の注釈書を作成した 92)。ミカエルは,アンナ・
院と邸宅を相続し,文学サークルも引き継いで新たな主
コムネナの指示でアリストテレス作品の注釈を徹夜で眠
人となった。エイレーネーの死亡時期は曖昧であり,
ることなく行なったために,目が見えなくなったという。
1
1
23年頃,11
3
3年頃もしくは 1138年頃と諸説ある 。
80)
筆者は彼女の死亡時期について 1
133年から 1138年頃と
ところで私(トルニケス)は,両目の失明の原因を
考えている。というのもエイレーネーが修道院で主宰し
この女性に投げかけたエフェソス出身の学識ある者
ていた文学サークルにアンナ・コムネナは参加している
に聞いた,というのも同女性が命令したとき,彼は
と考えており,1
123年頃になくなったと想定すると早
夜通しの不眠によってアリストテレス作品の注釈に
すぎるのではないかと考えるからだ。
没頭したから。93)((
)内は筆者補足)
エイレーネーとアンナ・コムネナが主宰する文学サー
クルに出入りしていた知識人たちのうちで名前が分かっ
3
8
史料では「エフェソスの学識ある者」と書かれており,
アンナ・コムネナ『アレクシオス 1世伝』の成立背景(佐伯(片倉)
)
ミカエルであるとは言われていない。ダルゼスはエフェ
修道院での文学活動によってアンナ・コムネナの教養
ソスのミカエルであると考える 。アリストテレスの注
はさらにみがきをかけられ,現皇帝やアレクシオス 1世
釈をしたエフェソス出身の者はミカエルであったことか
時代に失脚した人物を取り込んでいた環境を背景とし
ら,筆者もミカエルであると考える。トルニケスはこの
て,
『アレクシオス 1世伝』執筆の土壌がつくられていっ
話をミカエルから聞いたと『追悼文』で語っており,知
た。
9
4)
識人同士のサークルにおける交流をうかがわせる。
アンナ・コムネナの周りには,知識人が集まり討論の
3)
『アレクシオス 1世伝』着手までの過程
『アレクシオス 1世伝』の著者は最初アンナ・コムネ
場が持たれた。
ナではなく,彼女の夫ニケフォロスであった。エイレー
ところで彼女は論理的な学問の全ての指導者たちを
ネーは夫アレクシオス 1世生前に,アレクシオス 1世の
引き寄せて
事績を記すよう知識人たちに依頼していた 103)。そして
ところでこれらの人々はたくさん
最終的にアレクシオス 1世の事績を書くことになったの
いて尊敬すべき人々であった。
9
5)
はニケフォロスであった 104)。
彼女はライブ・パフォーマンスを主宰するだけでなく,
ニケフォロスは妻アンナ・コムネナが宮廷を出て修道
自身がひらいた対談や討論の場で饒舌な語りを表現して
院に移ってからも宮廷に残り,ヨハネス 2世に仕え続け
いた 96)。
ていた。彼は 112
0年頃から執筆を始め 105),遠征に同行
するなど皇帝に仕える合間に執筆を続けた。そして時に
・・・彼女はしばしば集まりの中で,自身の発言の
はエイレーネーが主宰するサークルで,書いた内容を披
強さも示し,そして彼女はより名誉を重んじて学識
露していたのであろう。
ある者たちの言い回しに心を向けていた。しかし彼
女はあらゆる人々とつき合っていた一方で,その他
・・・彼(ニケフォロス)は書くことに我が身を委
方彼女は,全ての人々があらゆる集まりに入ること
ね,さらに私のデスポイナ(女主人)でありお母様
を許したのではなく,あらゆる発言を委ねていた自
であり私がエイレーネーと呼ぶバシリス(皇妃)の
分のそばにいる人々と彼女が文書で言葉を伝えてい
命令で彼は,語ることと読むことに値する書いたも
たその場にいない人々が(集まりに入ることを許し
のを語ったのです。そして彼は,私のお父様が帝国
(
た)
。 (
の手綱を握る以前の事績の歴史を作ったのです。106)
97
)
)内は筆者補足)
((
)内は筆者補足)
・・・ところで彼女は哲学者たち,発言によって哲
学の気質と老年が際立っていた者たち,とも交際し
しかし彼はヨハネス 2世によるシリア遠征に同行した
際に病気になり,アレクシオス 1世即位前までを書いた
ていた。
98
)
状態で未完のまま 11
37年ころにコンスタンティノープ
またトルニケスは彼女の発言を「哲学者のような言葉」,
「饒舌な語り」と伝えている 。
ルで亡くなった 107)。
『アレクシオス 1世伝』はアレクシオス 1世が即位す
9
9)
以上に挙げたアンナ・コムネナの文学サークルに参加
る1
0年前の 14才から始まっており,アレクシオス 1世
していた知識人たちの中に,アレクシオス 1世時代に失
即位前までを描いたニケフォロスによる著作 108)の続編
脚した知識人の弟子でありマリアが主宰した文学サーク
であるとみなされている 109)。ネヴィルは,アンナの夫
ルに出入りしていた者もいた。それはエウストラティオ
ニケフォロスが著作『歴史の素材』の中で,ニケフォロ
スである。彼はヨハネス・イタロス(I
oanne
sI
t
al
os
,
スと同名の祖父ニケフォロス・ブリュエンニオスを称え
であった。イタロスは
ており,その中に『歴史の素材』に隠されたアレクシオ
哲学者であり,マリアと交流のあったテオフュラクトス
ス 1世批判を読み取る。ニケフォロスによる隠された批
。アレクシオス
判という手法を,アンナ・コムネナは『アレクシオス
1世時代初期の 1
082年に,異端宣告されて失脚した。
1世伝』の中でマヌエル 1世に対して行なっていると論
イタロスと同じくエウストラティオスも,アレクシオス
じている。ネヴィルは,彼女によるアレクシオス 1世の
1世時代末の 1
11
7年に,異端の嫌疑をかけられ教会会
描き方は,夫ニケフォロスの描くアレクシオス像に逆らっ
議で有罪を宣告された。しかしその事件について彼女は
て描いたものであり,彼女の著作は夫の著作への反駁で
以下イタロスと記す)の弟子
1
00)
と同じくプセルロスの弟子であった
1
01)
『アレクシオス 1世伝』で触れていない
。アンナ・コ
1
02)
ムネナは幼少時代を過ごしたマリアのサークルでエウス
トラティオスとも面識があったであろう。
あるととらえている110)。
アンナ・コムネナがいつから『アレクシオス 1世伝』
を書き始めたかについては諸説ある。一般的にマヌエル
3
9
都市文化研究 1
8号 2
0
1
6年
1世の治世初期の 1148年以後に執筆を始めたと言われ
ている
。パパイオアヌ(S.Papai
oannou)は,アン
11
1)
ナ・コムネナが 1130年代半ばに書き始めて少なくとも
1
14
8年まで続いたと言う
スがある一族から出て来たかを知りたいと望む人を,
この私のカイサル(ニケフォロス)の史書に私たち
は委ねます。120)((
)内は筆者補足)
。筆者もパパイオアヌと同
1
12)
じく 11
3
0年代半ば,ニケフォロスは 1137年頃に亡くなっ
さらに,宮廷で過ごしていた時に父や親族から聞いた
たので,彼女がアレクシオス 1世の事績を書くことを決
話や,修道院での生活の中で行った聞き取り調査から得
めて着手したのは 1137年以後であったろうと考える。
た情報も盛り込んでいた。『アレクシオス 1世伝』は,
そして 11
5
3年もしくは 1154年に亡くなる直前までアン
その内容の大部分がアレクシオス 1世による軍事遠征に
ナ・コムネナは執筆を続けていたと考える。
関するものである。アンナ・コムネナは戦いに関する描
アンナ・コムネナが『アレクシオス 1世伝』を書いた
写や戦略について古典作品や過去の歴史家の作品を引用
理由について,ニケフォロスのときのようにエイレーネー
するだけでなく 121),父アレクシオス 1世,父方と母方
によって依頼されたという証言はみられない。彼女は
のおじから聞いた話を取り入れた 122)。この当時,戦い
『アレクシオス 1世伝』の序章の冒頭に「時の流れの中
に関する報告はコンスタンティノープルの広場でなされ
で忘れられないようにするため」と書いているが,この
た 123)。彼女がその内容を直接広場で見聞きしていたわ
文言は歴史を書く際の決まり文句でありトポスである
。
113
)
けでなくても,人づてに聞くことはあったかもしれない。
スティーブンソン(P.St
e
phe
ns
on)は,アンナ・コム
修道院での隠居生活を余儀なくされたとはいえ,皇女
ネナの「あらゆる人々が今の支配者にお世辞を言うが,
としての特権ある地位,事件の関係者との縁戚関係,ま
しかし故人を称えるものはいなかった」という『アレク
た彼女自身の好奇心や学識の高さから事件を見聞きする
シオス 1世伝』の記事から,甥マヌエル 1世の時代に,
ことが可能であり,アンナ・コムネナは多くの時間とエ
マヌエル 1世に対するお世辞の中で自身の父アレクシオ
ネルギーを情報収集にささげた 124)。しかし少なくとも
ス 1世が軽んじられていたことをアンナ・コムネナは示
修道院に送られた直後,彼女は口を閉ざしていたもしく
r
r
i
n)もスティー
唆している,と述べる114)。ヘリン(J.He
は厳しい監視の中で沈黙せざるをえなかったと思われる。
ブンソンと同様の見解を示し,アンナ・コムネナの描く
そのことは,彼女が時の皇帝たちの判断によって 3
0年
『アレクシオス 1世伝』が,12世紀半ばの宮廷修辞家た
間,人と会うことや話すことを許されていなかった,と
ちがマヌエル 1世の皇帝としての姿や軍人としての武勇
を称えて創り上げた政治的なプロパガンダに対抗するも
のとして描かれたと述べる
。
いう彼女の記事からもうかがえる125)。
アンナ・コムネナは甥のマヌエル 1世の時代,1
1
1
9
年に宮廷を出てから約 30年後の 1
14
8年以降に,聞き取
1
15
)
アンナ・コムネナは『アレクシオス 1世伝』を書くに
り調査を始めた。
あたり,ビザンツにおける歴史を書く手法に倣って,先
の時代,11世紀の歴史家ミカエル・プセルロス,ミカ
少なくとも私のお父様の後 3番目の時代に皇帝が最
エル・アッタレイアテス(Mi
c
hae
lAt
t
al
e
i
at
e
s)やヨ
もすぐれた杖を司る時に,全てのお世辞とうそが彼
ハネス・スキュリツェス(I
oanne
sSkyl
i
t
z
e
s
)による
の祖父と共に消え去った時に,私としては,これら
著作を要約もしくはそのまま引用していた 116)。とりわ
の中から多くの事もまた拾い集めました。126)
けアンナ・コムネナはプセルロスに敬意を抱いており,
『アレクシオス 1世伝』に彼への尊敬が書かれている117)。
彼女は,アレクシオス 1世による対外遠征に同行した兵
彼女は夫ニケフォロスの作品を聞き知っていた。彼女は,
士でその後修道士になった者たちから話を聞いた 127)。
ニケフォロスの歴史を参照するように促しており,彼の
『アレクシオス 1世伝』には,公文書が要約もしくはそ
のまま引用されており,それらはアレクシオス 1世が母
歴史を読んでいたことを表す。
ダラセナに行政委託するために発行した金印文書,ディ
・・・カイサル(ニケフォロス)も彼による歴史の
アボリス条約の条文,ヴェネツィアに商業特権を認めた
第二巻で幅広く明らかにしている一方で・・・
金印文書,そしてアレクシオス 1世からドイツ王ハイン
(
(
118)
)内は筆者補足)
1
4
8年
リヒ 4世にあてた書簡といったものである128)。1
から 1
1
53年もしくは 1
1
54年の死亡時まで,アンナ・コ
・・・というのも歴史の正確なことを知りたいと望
ムネナはヨハネス 2世が死亡していたことで行動範囲が
む人を私たちはカイサル(ニケフォロス)に委ねる
広がり,自らの足で調査活動を開始しつつ執筆を行なっ
からです。 ((
ていたのであろう。ヨハネス 2世によって行動を限定さ
11
9)
)内は筆者補足)
れつつも,『アレクシオス 1世伝』を後世に残そうとい
いかにしてアウトクラトール(皇帝)・アレクシオ
4
0
うアンナ・コムネナの意図が読み取れるように思われる。
アンナ・コムネナ『アレクシオス 1世伝』の成立背景(佐伯(片倉)
)
彼女は幼少時代に聞いたことと調査活動の成果を合わせ
年のアンナ・コムネナによる事件以降は少なくなり,文
て『アレクシオス 1世伝』を書いていった。
化活動でその姿が見られた。女性たちは,知識人たちを
自身の屋敷や修道院施設に集めて文学サークルを主宰し,
ここまで,『アレクシオス 1世伝』成立の背後にあっ
たアンナ・コムネナによる文学サークルでの活動をみて
彼らに作品の執筆を依頼した。彼らはその見返りとして
女性たちから経済的な支援を得た。
きた。彼女は陰謀に失敗した 11
19年から亡くなるまで
アンナ・コムネナは,ビザンツ帝国に昔からあったポ
の 11
5
3年ないし 11
54年までの約 3
5年間,修道院に隣
ルフュロゲネトスの伝統に則って,12世紀のコンスタ
接する邸宅で隠遁生活を送った。彼女が修道院で暮らし
ンティノープルの文化傾向で育まれた古典作品への愛好
た期間は,ヨハネス 2世の 1
119年から 11
43年までの治
をもって『アレクシオス 1世伝』を執筆した。そして彼
世とほぼ重なっていた。そのため彼女は彼の治世全体を
女だけがもつ特別な条件に,カリスマと必要性を求めた
見ることができた。また彼女が暮らしたケカリトメネ修
であろう知識人が存在した。彼女は移り住んだ先の修道
道院はコンスタンティノープルにあり,宮殿からもそれ
院内の屋敷で執筆に必要な情報を集めてアレクシオス
ほど遠く離れていなかった。修道院での文学サークルは
1世の事績を描いていた。そして『アレクシオス 1世伝』
知識人が集まる場所でもあった。そのため彼女は彼らか
の内容を,知識人を集めて披露していたのかもしれない。
らヨハネス 2世の治世に関する情報を得ることも可能で
それらの内容は,アレクシオス 1世時代を知る人々と共
あったであろうし,修道院で生活する修道士からも情報
有できたであろう。さらに彼らの中には,アレクシオス
を得られたであろう。彼女はサークルに集まった知識人
1世時代に失脚した者も存在した。彼女がアレクシオス
たちを前に,饒舌な語りを披露した。語った内容は,文
1世の事績に紛れ込ませたヨハネス 2世とマヌエル 1世
学や哲学についてだけではなく,自身の生い立ち,自身
に対する批判を共有していたかもしれない。
に起こった出来事も含まれていたと思われる。そして彼
他の皇族女性たちと同じくアンナ・コムネナもまた,
女は夫ニケフォロスの死後,思い出や聞き取り調査で得
教養と経済力を備えており,知識人に作品を依頼し彼ら
た情報をまとめ,『アレクシオス 1世伝』を執筆した。
の生活を支援することができた。しかし彼女だけが「ポ
彼女にサークルでの文学活動や執筆活動を可能にしたの
ルフュロゲネトス」であり皇帝の長子であった。そして
は,彼女にとって好ましくないヨハネス 2世時代のビザ
彼女は自身の生まれに誇りを持っており,教養力と経済
ンツ帝国の情勢が安定していたこと,彼女の母エイレー
力だけでなくその生まれへの誇りもまた『アレクシオス
ネーが知識人の擁護者の一人であり修道院という生活場
1世伝』を書くことを可能にしていたのである。
所が確保されていたことであった。
アンナ・コムネナは,その生涯の前半生で政治的に果
たせなかった弟ヨハネス 2世の地位を上回ることを,
後半生に執筆という形で彼を批判することを試みた。
彼女にとって『アレクシオス 1世伝』が,ヨハネス 2世
を批判し, 長子でありポルフュロゲネトスであるとい
う自らの立場を主張することができる唯一の場所であっ
た。
おわりに
本論では,アンナ・コムネナの文学サークルに着目し,
そのサークルにおける知的活動の影響下で,彼女は『ア
レクシオス 1世伝』を書いたことを論証してきた。その
際,彼女の文学活動の実態を浮き彫りにし,彼女の活動
をコムネノス朝期の皇族女性による文学活動の枠に位置
づけるために,コムネノス家の他の皇族女性たちの文学
活動を考察してきた。
本論で挙げた女性たちは,アンナ・コムネナを除いて
いずれも皇帝の母,皇妃,そして皇族の配偶者であった。
女性たちはコムネノス朝初期の政治に介入したが,1
11
9
[出典]ジュディス・ヘリン著,井上浩一監訳,足立広
明,中谷功治,根津由喜夫,高田良太訳『ビザ
ンツ
驚くべき中世帝国』,白水社,2
0
1
0年,
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um:The
44
3頁 , 地 図 1( J.He
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on,2
0
08,p.3
63
)より。
4
1
都市文化研究 18 号 2016 年
15 . Alexias, III.6.4-8, pp. 101-103, X.4.5, pp. 292-293; F. W. P.
注
1 . 本研究の一部は,平成 26 年公益財団法人日本科学協会,笹川
科学研究助成より研究費の支援を受けた。
2 . B. Hill, “Alexios I Komnenos and the imperial women”, in
M. E. Mullet and D. C. Smythe(eds.), AlexiosⅠKomnenos,
Belfast, 1996, pp. 37-54; B. Hill, Imperial Women in Byzantium
1025-1204: Power, Patronage and Ideology, Edinburgh Gate
and New York, 1999; L. Garland, Byzantine Empresses: Women
and Power in Byzantium, AD527-1204, London and New
York, 1999, pp. 180-198; 片倉綾那「ビザンツ皇女アンナ・コム
ネナの帝位への挑戦
アレクシオス 1 世コムネノスの後継者
争い(1118-1119 年)をめぐって」,『ジェンダー史学』第 4 号,
2008 年,45-55 頁。
3 . M. Mullett, “Aristocracy and Patronage in the Literary
Circles of Comnenian Constantinople”, in M. Angold(ed.),
The Byzantine Aristocracy, IX to XIII Centuries, Oxford,
1984, pp. 173-201, reprint, M. Mullett, Letters, Literacy and
Literature in Byzantium, Hampshire, 2007; Hill, Imperial
Women in Byzantium 1999, pp. 153-180.
4 . Anna Komnene,(recensuerunt: D. R. Reinsch et A. Kambylis)
,
Annae Comnenae Alexias, Corps Fontium Historiae Byzantinae
40, Berolini, 2001. 以下,史料引用時「Alexias, 巻,章,節,頁」
と記す。
5 . 佐伯(片倉)綾那「ビザンツ皇女アンナ・コムネナによるヨ
ハネス 2 世コムネノス批判」
,
『女性史学』第 24 号,2014 年,1227 頁。
6 . A. P. Kazhdan ( editor in chief ), Oxford Dictionary of
Byzantium, New York, 1991, p. 1142.
7 . Georges et D m trios Tornik s(tradiction et notes par J.
Darrouz s), “14.
loge d’Anne Comn ne”, in Lettres et dis-
D lger(bearb.), Regesten der Kaiserurkunden des Ostr mischen
Reiches von 565-1453, 2 Teil: Regesten von 1025-1204, M nchen,
1995, p. 89.
16 . Alexias, II.6.2, p. 69.
17 . Ibid., XIII.1.6, p. 385, XIII.4.1, p. 394, XIV.4.1, pp. 438-439,
XIV.5.1, p. 443.
18 . Niketas Choniates ( recensuit: I.A. van Dieten ), Nicetae
Choniatae Historia, Corps Fontium Historiae Byzantinae 11,
Berolini, 1975, p. 5.
19 . Kazhdan and Epstein, op. cit., p. 101; A. Kaldellis, Hellenism
in Byzantium: The Transformations of Greek Identity and
the Reception of the Classical Tradition, New York, 2007, p.
234.
20 . ロマノス 4 世ディオゲネス(Romanos IV Diogenes,在位年:
1068-1071,系図 1-15)の息子。マリアの夫ミカエル 7 世の異父
兄弟。遠征の途上でアレクシオス 1 世に陰謀を企むも失敗し,
ディオゲネスは盲目にされ追放された:Ioannes Zonaras(edidit
T. B ttner-Wobst), Ioannis Zonarae Epitomae Historiarum
vol.3, Bonnae Impensis Ed. Weberi, 1897, III, pp. 741-742, 744,
以下「Zonaras, 巻,頁」と記す; Alexias, IX.5.2- IX.10.3, pp.
268-280.
21 . M. Mullett, “The ‘Disgrace’ of the Ex-Basilissa Maria”,
Byzantinoslavica 45, 1984, p. 202; L. Garland, ““The Eye of
the Beholder”: Byzantine Imperial Women and Their Public
Image from Zoe Pophyrogenita to Euphrosyne Kamaterissa
Doukaina(1028- 1203)”, Byzantion 64, 1994, p. 264.
22 . Alexias, III.8.3, p. 105.
23 . Ibid., VI.8.2, p. 184, XV.9.1, p. 489.
24 . Mullett, “Aristocracy and Patronage”, in Angold( ed. ),
cours, Paris, 1970, pp. 220-323,見開きで左頁がフランス語訳,
The Byzantine Aristocracy, p. 180, reprint, Mullett, Letters,
右頁がギリシア語の対訳になっている。 以下引用時 「“ loge
Literacy and Literature in Byzantium; P. Magdalino, The
d’Anne Comn ne”,フランス語訳頁,ギリシア語頁」と記す。
Empire of Manuel I Komnenos, 1143-1180, Cambridge, 1993,
8 . R. Browning, “An Unpublished Funeral Oration on Anna
Comnena”, Proceedings of the Cambridge Philological Society
The Material for History of Nikephoros Bryennios, Cambridge-
188, n.s. 8, 1962, pp. 1-12.
9 . J. Darrouz s, “Introduction”, in Georges et D m trios
Tornik s(tradiction et notes par J. Darrouz s), Lettres et
discours, p. 24.
10 . A. Kazhdan and A. Epstein, Change in Byzantine Culture
in the Eleventh and Twelfth Centuries, Berkeley and Los
New York, 2012, p. 30.
26 . Ibid., p. 30.
27 . Kaldellis, op. cit., p. 235; Magdalino, op. cit., p. 345.
28 . Kaldellis, op. cit., p. 226.
29 . 反乱者が自身の地位を正当化するために先帝の皇妃と結婚す
ることは,何度も行なわれてきた:井上「コムネノス朝の成立」,
Angeles, 1985, p. 101.
11 . 根津由喜夫「第 6 章
p. 336; Kaldellis, op. cit., pp. 29-30.
25 . L. Neville, Heroes and Romans in Twelfth-Century Byzantium:
十二世紀ビザンツ宮廷の政治文化
ラテン文化とヘレニズム趣味
」
,藤縄謙三編『ギリシア文化
95 頁。
30 . Alexias, IX.5.5, p. 270; Zonaras, III, p. 733.
31 . Mullett, “Aristocracy and Patronage”, in Angold(ed.)
, The
の遺産』,南窓社,1993, 165-166 頁。
十一世紀ビザンツ帝国の
Byzantine Aristocracy, pp. 173-201, reprint, Mullett, Letters,
政治体制」,『史林』,第 57 巻第 2 号,1974 年,70-101 頁。根津
Literacy and Literature in Byzantium; Mullett, “The ‘Dis-
12 . 井上浩一「コムネノス朝の成立
由喜夫「ビザンツ貴族と皇帝政権
コムネノス朝安定化への
過程」,
『史林』第 71 巻第 3 号,1988 年,1-40 頁。
grace’ of the Ex-Basilissa Maria”, pp. 202-211.
32 . Th ophylacte d’Achrida(Introduction, texte, traduction et
幻影の世界帝国』,講談社,1999 年,
notes par P. Gautier), Discours, trait s, poesies, Corps Fontium
14 . L. Garland, “Social and Family Life at Court in the Eleventh
33 . Oxford Dictionary of Byzantium, p. 755; ジュディス・ヘリ
and Twelfth Centuries: Imperial Women and Their Priorities”,
ン著,井上浩一監訳,足立広明,中谷功治,根津由喜夫,高田
Acts XVIIth International Congress of Byzantine Studies,
良太訳,
『ビザンツ
13 . 根津由喜夫『ビザンツ
18 頁。
Moscow: Selected Papers: Main and Communications 1991,
pp. 210-213; B. Hill, “Imperial Women and the Ideology of
Womanhood in the Eleventh and Twelfth Century”, in L.
James(ed.), Women, Men and Eunuchs: Gender in Byzantium,
London and New York, 1997, pp. 84-86.
42
Historiae Byzantinae 16/1, Thessalonique, 1980, pp. 214-243.
驚くべき中世帝国』,白水社,2010 年,311
頁(J. Herrin, Byzantium: The Surprising Life of a Medieval
Empire, Princeton, 2008, p. 233)。
34 . Alexias, III.1.4, pp. 88-89.
35 . Th ophylacte d’Achrida(Introduction, texte, traduction et
notes par P. Gautier ), Lettres, Corps Fontium Historiae
アンナ・コムネナ『アレクシオス 1 世伝』の成立背景(佐伯(片倉))
Byzantinae 16/2, Thessalonique, 1986, pp. 136-141, 524-525,
見開きで左頁がフランス語訳,右頁がギリシア語の対訳になって
いる; M. Mullett, Theophylact of Ochrid: Reading the Letters
Byzantine Aristocracy: Some Suggestions”, in Angold(ed.),
The Byzantine Aristocracy, p. 206.
55 . E. M. Jeffreys, “The Sevastokratorissa Eirene as Literary
Patroness: The Monk Iakovos”, Jahrbuch der
of a Byzantine Archbishop, Ashgate, 1997, p. 364.
36 . L. Garland, Byzantine Empresses: Women and Power in
Byzantium, AD527-1204, London and New York, 1999, p. 193.
37 . Oxford Dictionary of Byzantium, p. 1118.
sterreichischen
Byzantinistik 32/3, 1982, p. 63.
56 . Hill, Imperial Women in Byzantium, p. 172.
57 . F. Chalandon, Jean II Comn ne( 1118-1143)et Manuel I
38 . Irene Doukaina(trans. R. Jordan), “Kecharitomene: Typikon
of Empress Irene Doukaina Komnene for the Convent of the
Comn ne(1143-1180), Paris, 1912, p. 213
58 . Jeffreys, “Comnenian Backgraound”, pp. 476-477, reprint,
Mother of God Kecharitomene in Constantinople”, in J.
E. and M. Jeffreys, Popular Literature; M. and E. Jeffreys,
Thomas and A.C. Hero(eds.), Byzantine Monastic Founda-
“Who was Eirene the Sevastokratorissa?”, Byzantion 64,
tion Documents, vol.2, Washington D.C., 2000, p. 649, ケカリ
1994, pp. 40-68; E. Jeffreys, “The sebastokratorissa Irene as
トメネ修道院のティピコンの英訳である。
Patron”, in L. Theis, M. Mullett and M. Gr nbart with G.
Fingarova and M. Savage(eds.), Female founders in Byzantium
39 . Browning, op. cit., p. 8
40 . ヘリンは地図 1(本論 41 頁で引用)でケカリトメネ修道院の
and Beyond, Wien-K ln-Weimar, 2014, pp. 177-194.
位置をパントクラトール修道院の近くであると推測している:
59 . 佐伯(片倉)前掲論文,12-27 頁。
ヘリン前掲書,443 頁(Herrin, op. cit., p. 363)
。
60 . Reinsch et Kambylis, “Zu Person und Werk”, in Annae
41 . P. Gautier, “Le typikon de la Th otokos K charit m n ”,
Revue des
tudes Byzantines 43, 1985, pp. 5-165, 見開き で
Comnenae Alexias, S. 4.
61 . 事件については次の文献を参照。井上浩一「十一~十二世紀
左頁がフランス語訳,右頁がギリシア語の対訳になっている;
のビザンツ貴族
“Kecharitomene”, pp. 649-724. 以下引用時 「“Kecharitomene”
村井康彦編『武家と公家
(Gautier 版フランス語訳の頁,ギリシア語の頁, Jordan 版の
「文官貴族」
「軍事貴族」概念を中心に
」
,
その比較文明史的考察』
,思文閣出版,
1995 年, 307-329 頁; B. Hill, “A Vindication of the Rights
of Women to Power by Anna Komnene”, Byzantininische
頁)
」と記す。
42 . “Kecharitomene”(Gautier 版フランス語訳 pp. 142, 144, ギ
リシア語 pp. 143, 145; Jordan 訳, p.709).
Forschungen 23, 1996, pp. 45-53; B. Hill, “Actions Speak
Louder than Words: Anna Komnene’s Attempted Usurpa-
43 . Michael Italikos(edites par P. Gautier), “15 Du meme Italikos
tion”, in T. Gouma- Peterson(ed.), Anna Komnene and Her
Discours Improvis a la Basilissa Kyra Ir ne Doukaina, quand
Times, New York and London, 2000, pp. 45-62; 片倉前掲論文,
elle le pria d’Improviser”, in Lettres et discours, Paris, 1972,
45-55 頁。
p. 146, n. 1, 2, p. 154, n. 7; Mullett, “Aristocracy and
62 . Alexias, Pro.1.1, p. 5.
Patronage”, in Angold(ed.), The Byzantine Aristocracy, p.
63 . 根津「12 世紀ビザンツ宮廷の政治文化」,176-179 頁。
175, reprint, Mullett, Letters, Literacy and Literature in
64 . ヘリン前掲書,313 頁(Herrin, op. cit., pp. 234-235)
。
Byzantium; Garland, “The Eye of Beholder”, p. 267.
65 . Alexias, III.1.4, pp. 88-89; アンナ・コムネナがマリアの下で
44 . Italikos, “15 Du meme Italikos Discours Improvis
a la
Basilissa Kyra Ir ne Doukaina, quand elle le pria d’Improviser”, フランス語訳 p. 145,ギリシア語 p. 146.
養育された時期について Oxford Dictionary of Byzantium, p.
1298 を参照。
66 . Alexias, V.9.2-3, p. 165-166, XII.3.2, pp. 364-365.
45 . Italikos, “17 Au C sar Nic phore Bryennios”, フランス語訳
p. 153,ギリシア語 p. 154.
67 . “ loge d’Anne Comn ne”, フランス語訳 p. 244, ギリシア語 p.
245.
46 . A. Kazhdan in collaboration with S. Franklin, Studies on
68 . Ibid., フランス語訳 p. 262, ギリシア語 p. 263.
Byzantine Literature of the Eleventh and Twelfth Centuries,
69 . Browning, op. cit., p. 5.
Cambridge-New York-Paris, 1984, p. 96.
70 . Neville, op. cit., p. 24.
47 . 井上浩一『ビザンツ皇妃列伝』,筑摩書房,1996 年,182-186
頁(白水社 U ブックス 2009 年,210-214 頁)
。
72 . Ibid., XIV.7.5, pp. 451-452.
48 . Garland, Byzantine Empresses, 1999, p. 199.
49 . 根津由喜夫「第 6 章
12 世紀ビザンツ宮廷の政治文化
テン文化とヘレニズム趣味
71 . Alexias, XIV.7.6, p. 452.
73 . S. Papaioannou, “Anna Komnene’s Will”, in D. Sullivan et
ラ
」,藤縄謙三編『ギリシア文化の
遺産』,南窓社,1993 年,170 頁。
50 . E. M. Jeffreys, “Comnenian Backgraound to the romans
al.(eds.), Byzantine Religious Culture: Studies in Honor of
Alice-Mary Talbot, Leiden, 2012, pp. 99-121.
74 . Italikos, “8. Prologue au Testament d’Anne Comn ne”, in
Lettres et discours, pp. 105-109.
d’antiquit ”, in Byzantion 50, 1980, pp. 455-486, reprint, E.M.
75 . Gautier, “Ses Relations” in Lettres et discours, p. 30.
and M. J. Jeffreys, Popular Literature in Late Byzantium,
76 . E. Kurtz, “Unedierte Texte aus der Zeit des Kaisers
Variorum Reprints, London, 1983.
51 . Hill, Imperial Women in Byzantium, p. 170; Garland, “The
Johannes Komnenos”, Bezantinishe Zeitshrift 16, 1907, p. 96,
98; Papaioannou, op. cit., n. 32, p. 108.
Eye of Beholder”, p. 199; Garland, Byzantine Empresses, p.
77 . Alexias, XIV.7.6, p. 452.
199.
78 . Neville, op. cit., p. 24, n. 43; 井上『ビザンツ皇妃列伝』,183
52 . Hill, Imperial Women in Byzantium, p. 171; Garland,
Byzantine Empresses, p. 200, n. 11.
53 . 根津 「12 世紀ビザンツ宮廷の政治文化」, 179 頁;Hill, Im-
頁(白水 U ブックス,2009 年,211 頁)
。
79 . Oxford Dictionary of Byzantium, p. 1118.
80 . Papaioannou, op. cit., p. 105, n. 19. 1123 年 説 を と る の が
perial Women in Byzantium, p. 171; Garland, Byzantine Em-
Papaioannou, 2012, p. 105; Kurtz, op. cit., p. 94; D. I. Polemis,
presses, p. 200.
The Doukai
54 . E. Jeffreys, “Chapter 11 Western Infiltration of the
A Contribution to Byzantine Prosopography,
London, 1968, pp. 71-72; Theodore Prodromos(ed. W. H rander)
,
43
都市文化研究 18 号 2016 年
Theodros Prodromos. Historische Gedichte, Wien, 1974, p. 188
104. Ibid, Pro.3.2, p. 7; Reinsch et Kambylis, “Zu Person und
and n. 23 である。1133 年説は,B. Skoulatos, Les Personages
Werk”, pp. 7-8; B. Leib, “Introduction G n rale”, in Anna
Byzantins de L’Alexiade, Louvain, 1980, pp. 119-124 であり,
Comn ne(texte tabli et traduit par B. Leib, index par P.
1133/1138 年説は , P. Gautier, “L’ obituaire du typikon du
Gautier ), Alexiade: r gne de l'empereur Alexis I Comn ne,
Pantokrator”, Revues des
tudes byzantines 27, 1969, pp. 245-
247 である。
81 . Browning, op. cit., p. 2;アンナ・コムネナの娘エイレーネー
に宛てた書簡が残されている:Georges et D m trios Tornik s
“21 Lettre
1081-1118, 4vols, Paris, 1937- 1945(2006)
, pp. XLI-XLII.
105. Kaldellis, op. cit., p. 242.
Irene fille d’Anne Comn ne”, in Lettres et dis-
cours, pp. 156-158.
106. Alexias, VII.2.6, pp. 206-207.
107. Ibid., Pro.4.2, p. 9; Anna Comnena( trans. by E. R. A.
Sewter), The Alexiad of Anna Comnena, Harmondsworth,
1969, n. 11, p. 21,
『アレクシオス 1 世伝』の英訳。
82 . Papaioannou, op. cit., p. 113.
108. Nikephoros Bryennios( introduction, texte, tradiction et
83 . Browning, op. cit., p. 2.
notes par P. Gautier), Nicephori Bryennii Histriarum Libri
84 . Kazhdan in collaboration with Franklin, op. cit., p. 96.
Quattuor, Corps Fontium Historiae Byzantinae 9, Bruxelles,
85 . Oxford Dictionary of Byzantium, pp. 1368-1369.
86 . Magdalino, op. cit., p. 361, n. 156.
1975.
109. Kaldellis, op. cit., p. 242.
87 . Oxford Dictionary of Byzantium, p. 1369.
110. Neville, op. cit., pp. 183-184.
88 . Alexias, XIV.8.10, p. 457.
111. Oxford Dictionary of Byzantium, p. 1142.
89 . Browning, op. cit., p. 7; Darrouz s, “Introduction”, p. 23;
M. Angold, The Byzantine Empire 1025-1204: A Political
112. Papaioannou, op. cit., p. 101.
113. Alexias, Pro. 1.1, p. 5; P. Magdalino, “The Pen of the Aunt:
History, London and New York, Second Edition 1997(1984 1)
,
Echoes of the Mid-Twelfth Century in the Alexiad”, in
p. 183; M. Angold, Church and Society in Byzantium under
Gouma- Peterson,(ed.), op. cit., p. 17;大黒俊二『声と文字』,
the Comneni, 1081-1261, Cambridge, 1995, p. 75; 根津由喜夫
『ビザンツ貴族と皇帝政権
コムネノス朝支配体制の成立過
程』
,世界思想社,2012 年,354 頁。
90 . Oxford Dictionary of Byzantium, p. 1369.
91 . Browning, op. cit., pp. 6-7; Darrouz s, “Introduction”, p.
23.
岩波書店,2010 年,151-152 頁。
114. Alexias, XIV.7.5, p. 452; P. Stephenson, “Anna Comnena’s
Alexiad as a source for the Second Crusade?”, Journal of
Medieval History 29, 2003, pp. 45, 53.
115. ヘリン前掲書,320 頁(Herrin, op. cit., p. 240)
。
116. Leib, “Introduction G n rale”, pp. XL-XLVII.
92 . Ibid., p. 24.
117. Kaldellis, op. cit., pp. 225-229.
93 . “ loge d’Anne Comn ne”, フランス語訳 p. 282, ギリシア語 p.
118. Alexias, I.2.3, p. 13.
283.
94 . Ibid., n. 70, pp. 282-283.
119. Ibid., I.4.2, p. 18.
120. Ibid., II.1.1, p. 55.
95 . Ibid., フランス語訳 p. 280, ギリシア語 p. 281.
121. Neville, op. cit., pp. 183-184.
96 . Darrouz s, “Introduction”, p. 23.
122. Alexias, XIV.7.5, p. 451, XIV.7.7, p. 453; Leib, “Introduction
97 . “ loge d’Anne Comn ne”, フランス語訳 p. 300, ギリシア語 p.
301.
98 . Ibid., フランス語訳 p. 262, ギリシア語 p. 263.
G n rale”, pp. XL-XLVII. アンナ・コムネナは,母エイレーネー
の妹アンナの夫ゲオルギオス・パライオロゴスの名前を挙げて
いる。
99 . Ibid., フランス語訳 p. 311, ギリシア語 p. 312.
123. ヘリン前掲書,319-320 頁(Herrin, op. cit., p. 239)。
100. Browning, op. cit., p. 7.
124. P. Frankopan, “Introduction”, in Anna Komnene( trans.
101. Oxford Dictionary of Byzantium, p. 1059.
102. Angold, The Byzantine Empire, p. 183; Angold, Church and
Society, pp. 73-75; 根津『ビザンツ貴族と皇帝政権』,354 頁。
103. Alexias, XV.11.1, p. 494
by E. R. A. Sewter, Revised with Introduction, and Notes by
P. Frankopan), The Alexiad, London, 2009, p. xviii.
125. Alexias, XIV.7.6, p. 452.
126. Ibid., XIV.7.5, pp. 451-452.
127. Ibid., XIV.7.7, p. 452.
128. Leib, “Introduction G n rale”, pp. XL-XLVII.
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アンナ・コムネナ『アレクシオス 1 世伝』の成立背景(佐伯(片倉))
Anna Komnene’s Alexias: The Case of Female Literary
Activities in Constantinople of the Twelfth Century
Ayana SAEKI-KATAKURA
This paper argues that historical significance of her own literary circle influenced the composition of
Alexias by Anna Komnene(1083-1153/54), a historian and a daughter of Alexios I Komnenos(reign:
1081-1118)
. The previous studies paid little attention to Anna Komnene’s career from 1119 to 1153/54. She
was an author and a patroness unlike other imperial women under the context of female cultural activities in the Komenian era(1081-1185)
.
Imperial women of Komnenian Dynasty committed political activities and cultural activities. They
concentrated on their political activities from before and after the accession of Alexios I to the early reign
of Ioannes II Komnenos(reign: 1118-1143). After Anna Komnene failed fight for the imperial succession
against her younger brother Ioannes II in 1118 and 1119, she presided at her literary circle in her residence of Kecharitomene Nunnery and patronized intellectuals on the cultural stage. However Anna
Komnene was not only a patroness but also an ex-politician and an author. She wished to write Alexias
for two reasons:(1)she criticized her brother Ioannes II,(2)her pride as “Porphyrogennetos(born to
the purple)
” and the first born child of emperor pushed her into the composition of Alexias.
This paper will focus on Anna Komnene’s literary circle in retired convent, Kecharitomene Nunnery.
Investigating Eulogy for Anna Komnene by Georgios Tornikes, R. Browning(1962)and J. Darrouzes
(1972)paid attention her circle as Aristotelian philosophy of circle. And A. Kazhdan(1985)emphasized
it as the political/literary center against Ioannes II’s son Manuel I Komnenos(reign: 1143-1180)
.
This paper demonstrates that Anna Komnene’s circle influenced the circle influenced her composition
of Alexias. Her retired life(1119-1153/54)covered with the reign of Ioannes II, where she could get information about his policy through hearing from intellectuals who participated in her circle.
Keywords:Constantinople, Anna Komnene, Alexias, literary circle, nunnery
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