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《民族老化》の系譜 - ドイツ現代史研究会

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《民族老化》の系譜 - ドイツ現代史研究会
《民族老化》の系譜
― ヴァイマル期の人口言説と高齢者問―
題
村上宏昭 中で最もよく捉えられる」、言い換えれば、人口に関する問題が多種多
この有識者の生成過程で人口統計学者が一つの中心となりえたのは、
「人口政策」という包括的な概念によって、「健康・家族・社会政策など
二〇世紀に入ってまもなく、ヨーロッパでは多産多死から少産少死へ
( (
という未曾有の人口転換現象が顕在化し、それ以降この人口動態は幾度
様な社会・福祉政策を貫通するものとして構成されたからであった。そ
1 はじめに
となく、社会の存立基盤を揺るがしかねない脅威として人々の意識に上
れ だ け に、 人 口 統 計 か ら 演 繹 さ れ る 特 定 の 認 識 形 態 や そ れ に 基 づ く 不
(
せられてきた。とりわけ一九世紀末に空前の人口成長を経験したドイツ
安・恐怖は、有識者の間ではひときわ強い規定力を持つようになり、こ
(
では、早くも二〇世紀初頭にはこの転換から帰結する人口減少社会の到
の集団が行使する「名づけの権力」(社会集団の理論的定義づけとそれ
―
し」
相互に異なった個別領域でなされる政府の対策や企てが、全体の連関の
来 と い う 未 来 像 が 市 民 層 の 間 で 語 ら れ 始 め、 さ ら に は「 統 計 的 ま な ざ
に対応した実践領野の開拓)も、多かれ少なかれ人口をめぐる知の布置
( (
人間の集合を罹患したり年老いたりする一個の有機体としてイ
状況によって方向づけられていた。さらには、このヴァイマル期に人口
(
の普及とも相まって、こうした危機感が公衆の間でも
(
(
( (
を越えて人間の「選別」と「淘汰」に主眼を置く、質的な人口(人種)
(
メージさせる
言説が優生学(人種衛生学)と融合することで、人口問題は数量的次元
( (
徐々に浸透していった。この過少人口恐怖が猛威を振るうにつれて、ド
政策をも喚起するに至ったのである。
(
るいは人種や遺伝性疾患に即した「生きるに値しない存在」の理論的・
―
会国家に特徴的なものとして通常引き合いに出
従って、二〇世紀の社
エキスパート
専門家集団に体現される知と権力の絡み合い、あ
される問題の多く
(
―
イツではやがて「人口政策」
(
)なる理念が人口言説
Bevölkerungspolitik
( (
の中で中軸を占めるようになり、
「危機の告知者」としての人口統計学
)と呼ばれる新
に深く関与する、いわゆる「有識者」
( Sachverständigen
( (
たな知識人類型を形成していくことになる。
19 《民族老化》の系譜
(
者は、ヴァイマル時代には専門知に基づいて政策立案・決定のプロセス
(
(
(
い た と 言 っ て よ い。 だ か ら こ そ、 社 会 国 家 研 究 で は 川 越 修 を は じ め と
制度的画定など
「量」と「質」の二分法は両者の相補性という観点から補完される必要
れ ) を め ぐ る 問 題 系 が 途 絶 え る こ と な く 持 続 し て き た だ けに、 や は り
国家体制が整えられてからも、人間の量(人口爆発であれ人口減少であ
(
して人口政策・言説がしばしば中心的なテーマとして設定されてきたの
がある。
(
であり、とりわけ人口問題の「量」から「質」への転換というトピック
Überalterung des
す こ と に も つ な が る だ ろ う。 だ が そ の 際 あ ら か じ め 注 意 し て お く べ き
口成長で生じたモメンタムのおかげで、出生低下傾向の中でも人口全体
)は、同時にまたこうした高齢化現象に対する危機意識を最
( 1890-1967
( (
も執拗に煽り立てた一人でもあった。その主張によれば、過去の長い人
ァ イ マ ル 期 の 代 表 的 な 人 口 統 計 学 者 フ リ ー ド リ ヒ・ ブ ル ク デ ル フ ァ ー
は、本稿ではこうした分析を試みるにあたって、右に触れた量(出生低
の規模自体は今後当分縮小には転じない。だがその内実は、出生率の低
「量的/質的」人口問題という二分法は極力
る質の重視がイタリアに対するナチス人口政策の特徴だという議論に典
合いなほど増えることになり、五〇年後には今日の三倍近くにまで上昇
下で若年層が減少していく反面、六五才以上の老年層が「将来的に不釣
((
避けられる、ということである。言うまでもなく人間の数をめぐる問題
よりもさらに重い死のリスクを抱え込むことになるだろう」。それだけ
する」。それゆえ未来のドイツ民族は、「人口全体の数が同じでも、今日
(
は、人口言説が優生学と結合して「選別テロルへの急転」を果たしたこ
にこの高齢化傾向は、ブルクデルファーの目には「ドイツ民族が生物学
((
(
とで突如として立ち消えたわけではなく、むしろ実際は人間の質に関す
的に深淵へと追い立てられている」徴候と映っていたのである。
(
る議論とともに、引き続き人口政策の両輪として相補的に展開されてい
((
(
った。つまり川越やエーマーが既に指摘しているように、「価値ある者」
この種の「民族老化」に関する議論は、人口言説を扱った研究ではこ
れまで少子化論議と比べてほとんど等閑に付されてきた、あるいは少な
(
と「価値なき者」の質的な選別は、二〇世紀では前者の増殖の希求と後
くとも考察の中心には置かれてこなかったきらいがある。だが少子化傾
(
者の増殖の恐怖という形で、数量的な問題とも不可分に絡み合ってきた
向を憂慮していたヴァイマル期の統計学者は、程度の差はあれこのよう
( (
のである。そもそも、二〇世紀前半の人口言説が直面した人口転換とい
((
な人口高齢化への恐怖にも取り憑かれており、それゆえ当時の人口言説
型的に見られるような
( (
―
下)から質(人種・遺伝性疾患等)への転換論、あるいは
―
量に対す
そ れ ゆ え、 当 時 の 人 口 問 題 に 関 す る 議 論 を 分 析 す る こ と は、 一 面 で
は生成期にあった社会国家の発展方向を決定づけた、その起点を探り出
((
((
は、その基底に人口政策という共通言語を潜ませて
は、ナチス期の人口・人種政策にそのまま直結するものとして好んで取
と こ ろ で、 こ の ヴ ァ イ マ ル 期 に 人 口 動 態 の 推 計 か ら 導 き 出 さ れ た 問
題 の う ち、 当 時 最 も 公 衆 の 耳 目 を 集 め て い た も の の 一 つ と し て、 長 期
―
り上げられてきた。このようにヴァイマル期の人口言説は、社会国家体
的 な 少 子 化 傾 向 か ら 予 測 さ れ る「 民 族 体 の 高 齢 化 」(
( (
制が確立していく中で、少子化問題から人種・医療(さらには結婚や住
( (
宅)の問題に至るまで、雑多な諸領域を束ねる蝶番として独特の機能を
) と い う 事 態 が 挙 げ ら れ る。 と り わ け、 国 立 統 計 局 で 実 務
Volkskörpers
家 と し て 活 動 し、 一 九 二 五 年 以 降 は 国 勢 調 査 を 実 質 的 に 指 導 し た、 ヴ
担っていたのである。
( (
((
(
う社会変動が、まずは統計上の数字を根拠に知覚・構成され、また社会
((
((
ゲシヒテ第3号 20
の青年神話のあり方を規制したものでもある)の解明は、世代論の文脈
ざるもの」に関する言説が構成されてきた社会的条件(それはまた当時
それ以外の年齢集団を等閑視してきたことを鑑みれば、この「青年なら
だが実は、この民族老化論はまた世代論の観点から見ても興味深い現
象である。特にドイツ世代論が伝統的に著しく青年偏重の傾向を示し、
上の空隙は、何らかの形で補填されねばならない。
危機意識にも目を向けることは避けられないはずである。こうした研究
の特徴を洗い出そうとすれば、この高齢化(少子化ではない)に対する
とになった。
する人種衛生学者という両極の立場も、相互に歩み寄る姿勢を見せるこ
を前にして、人口の「量」を確保しようとする小児科医と「質」を重視
く。それに加えて、川越が言うようにまさにこの戦争という圧倒的現実
によって担われるべき原理・義務として広く認められるようになってい
者の妻から事実上国民全体へと広げられていった。このように、大戦の
も、その出産手当の対象が
ている。また、戦時中に政府が実施していたいわゆる戦時多産奨励政策
(
(
(
(
戦争の長期化とともに
中で制度化と拡張の動きが加速度的に進展することで、人口政策は国家
疾病保険加入
ではそのまま青年中心主義からの脱却にもつながることになるだろう。
―
その限りで、このヴァイマル期の民族老化論とは、今日では世代論と社
ところで、このように少子化という新しい人口動態を問題視した論者
を当時最も苛んでいたのは、出生力の低下による後続世代の欠如、つま
―
会国家論という二つの研究潮流にまたがる射程を持ちうるテーマであ
り「民族の緩慢な死滅」への不安である。「民族の力にとって決定的な
し出生力の回復を求めて悲痛な叫びを発することになる。たとえば次の
(
り、さらにここで結論を先取りして言えば、当時にあっては上述のよう
のは子供の数」だと見る彼らにとって、「一民族の出生数とはその最も
重要な生の要素の一つであり、出生数の低下はフランスでかなり以前か
(
人口転換に関する言説=認識は二〇世紀が一〇年ほど経過した頃か
ら、当時主流だった新マルサス主義流の過剰人口恐怖に対抗する形で紡
ように。「我らは常に子供が何を意味するか意識しておこう。つまりそ
(
な「量的/質的」人口問題という二分法から明確に逸脱する主題ともな
っていたのである。
ら起こっているように、この偉大な文化民族の緩慢な死を意味するもの
に他ならない」。たしかにドイツの場合、まだフランスほど深刻な状況
(
に陥っているわけではないものの、それでも「見たところこの深淵にゆ
がれ始めていた。だがそれが明確に人口政策とリンクするのは、第一次
れは国家の最も貴重な所有物であるということ、それを維持するために
っくりと近づきつつある」。他ならぬこうした不安から、彼らは繰り返
世界大戦が勃発して生産年齢人口の男性たちが兵士として大量に徴集さ
。
はどんな労苦も大きすぎず、どんな犠牲も重すぎないということを」
( (
れるようになってからである。たとえば一九一四年に在野で「ドイツ人
(
口政策学会」が設立されたのを皮切りに、その翌年にはプロイセン内務
だがそもそも、なぜこのような少子化という前代未聞の人口変動がこ
れほど大規模な形で生起したのか。その回答として当時一致して提出さ
(
省で出生低下対策を目的とする専門家委員会が、続けて帝国議会でも出
((
2 少子化への警鐘
((
れていたのは、大衆レベルでの意識的な「家族計画」=産児制限の実践
21 《民族老化》の系譜
((
((
生力回復へ向けた立法措置を審議する「人口政策諮問会議」が設置され
((
((
放」が進み、これが「出生低下へ加速度的に影響を及ぼしてきたし、今
全体の物質的側面への移行、理想の喪失、宗教的・道徳的原理からの解
で「生活向上、地位改善への衝動」が支配的になったことで、「生活観
いう意志が民族の魂に入り込んだ」ことにある。具体的には、大衆の中
婦の間で「子供に対する意志がない」こと、「子供の数を制限しようと
まり生理的・自然的現象などではない。その決定的な契機はむしろ、夫
的な変化、
〔生殖質の〕疲弊・退化という事象とは何の関係もない」。つ
た外的要因ではおよそ説明がつかないし、ましてや「遺伝素質の生物学
である。現在の少子化は、たとえば性病やアルコール中毒の蔓延といっ
いう「奇妙な現象」が、同時代人の目を最も引くものであった。「出生
児)死亡率の低下という現象、そしてその結果として生じた出生超過と
け 落 ち て い た こ と で あ る。 そ こ で は も っ ぱ ら、 出 生 低 下 と と も に( 乳
した危機感が、少子化から帰結する「民族消滅」への不安から完全に抜
だがそれよりもここで注目すべきなのは、この大戦当時の人口言説に
おいては冒頭で触れたような「民族老化」
(人口高齢化)に対する切迫
女性運動は、ほぼ例外なく敵視されることになる。
への道を開けさせ、多くの婦人を結婚への決定から遠ざけてしまった」
担となっているか」を教え諭す社会主義や、「女性のために新たな職業
子化を危険視する識者の間では、「子供の多さがいかに自分の生活の負
(
日なお及ぼし続けている」
。それゆえ少子化の原因は経済的・社会的・
の低下がほぼ同じ程度の死亡低下と平行して進んでいたために、相変わ
てこなければならない」のである。
たとしても、おそらくこの一〇年のことだろう」。他ならぬこうした人
に は ま っ た く な く な っ て し ま う 」 か ら だ。
「出生と死亡が平衡して人口
(
生物学的な環境ではなく、まずは「心理的領域」において探究・分析さ
らず毎年八〇万人の余剰が残っていた」。だがこの余剰は、少子化傾向
(
れねばならない。言い換えれば少子化とは、人為的所業の帰結である以
が続く限り早晩底を尽く。なぜなら「人間は死すべき運命にあるのだか
(
裏を返せばこうした少子化への警鐘は、家族計画を通じて社会的上昇
を図ろうとする労働者の階級戦略に対して、階級間の境界を維持しよう
口の停滞と減少、つまりは「民族消滅」こそがこの時点で人口転換から
(
とするブルジョアの反動でもあった。
「子供の多さというのはかつて、
演繹される唯一の未来予想図であって、決して「民族老化」という事態
(
(
)保つことになるかを見ていなかったのだ」。それゆえ少
standesgemäß
((
(
((
才以上の男女が既に一〇・〇%に達していたように、一九世紀初頭まで
(
の停滞が起こるのは、たとえ死亡率が一五〇から一四〇に押し下げられ
下 層 民 や 中 層 民 の 間 で は 名 誉 だ っ た。 だ が 近 年 見 ら れ る こ の 階 層 の 上
ではなかったのである。
(
に、 彼 ら は 子 供 の 大 群 を 養 育 す る こ と で、 い か に 家 や 子 孫 を 分 相 応 に
昇志向には、それは一つの障害となり、それゆえ躓きの石となった」。
((
((
本 来「 固 定 給 を も ら っ て い る 者 は 収 入 に 応 じ た 暮 ら し を 営 む べ き な の
(
上、
「経済上の問題とともに公的モラルの問題」でもあり、従ってそれ
ら、死亡率は一四〇か一三〇‰あたりで一度最小限に達し、それからそ
(
に対する「国家のあらゆる措置」も、
「結局のところ単に子供への意志
の曲線は停止する」のに対して、「出生率の低減に限界はない」がゆえ
(
の外面上の障害を取り除く」にすぎない。何より、現今の少子化傾向を
に、「出生率がさらに後退し続ければ、余剰はますます小さくなり、遂
( (
覆すという「より良きものへの真の転換は、まずは内面から湧き上がっ
( (
((
((
たしかに長期的に見れば、この時期の人口全体における高齢者の比率
は決して高いとは言えない。たとえばケルンの場合、一八一二年に六〇
((
((
ゲシヒテ第3号 22
ることで、一九〇〇年には五・三%にまで落ち込むことになる。それに
でいた。その後、この集団は一九世紀を通じてその割合を低下させ続け
のヨーロッパ社会は二〇世紀初頭に比べて大きな高齢者集団を抱え込ん
縮小と他民族による征服のみを見ていたのである。
化の果てに「国民規模での自殺」、すなわち出生低下による民族の規模
クデルファーもまたその例に漏れず、この大戦当時には、もっぱら少子
年 ) に 対 し、 ウ ィ ー ン は 五・七 %( 一 九 〇 〇 年 )、 ジ ュ ネ ー ヴ は 九・四
は突出して多いわけでもなく、たとえばベルリンの五・九%(一九〇〇
族が配慮するのはただ、おのが種族の新参者に基盤を与えるため
わく
「未来の明るい民族にあっては
加 え、 国 際 的 に 見 て も 世 紀 転 換 頃 の ド イ ツ に お け る 六 〇 才 以 上 の 人 口
%(一九〇〇年)
、ルツェルンは一〇・六%(一九〇〇年)、ボルドーは
に地上で場所を確保するということにすぎない。……生きられな
( (
出 生 数 の 人 工 的 な 制 限 な ど ま っ た く 見 ら れ な い。 そ の 民
ア ル ト ゥ ー ア・ デ ィ ッ ク ス い
一二・七%(一九一一年)と、むしろ他のヨーロッパ諸都市に比べてそ
いという恐怖から、出生制限によって国民規模での自殺を犯すよ
―
の割合は小さいものであった。従ってドイツのこうした人口構成上の特
うな国民は、生きる喜びに満ちて青年のように力強い、他の諸民
―
質、特に長期の人口動態から、一見するとヴァイマル以前の人口言説に
。
族に場所を明け渡す以外の運命にはないのだ」
( (
おける「民族老化」問題の欠如を説明することも可能に見えるかもしれ
後の一八九六―一九〇〇年では、同じく六〇才に到達したと推定される
四七・五%が六〇才に達した(女性は六一%)のに対して、その二〇年
顕 在 化 し つ つ あ っ た。 ま た、 一 八 七 六 ― 八 〇 年 で 二 〇 才 だ っ た 男 性 の
で回復しているように、早くも二〇世紀初頭には高齢人口の増加傾向が
一九一九年では六・五%(一九世紀後半における最高水準と同値)にま
三 % で 底 を 打 っ た ケ ル ン の 高 齢 層 は、 一 九 一 六 年 に 六・三 %、 さ ら に
と は い え、 既 に ヴ ァ イ マ ル 以 前 か ら ド イ ツ で 人 口 の 高 齢 化 を 示 す 予
兆 が 現 れ 始 め て い た こ と も 否 定 で き な い。 た と え ば 一 九 〇 〇 年 に 五・
児制限を唱導する新マルサス主義の運動は、「国民的な利害を後回しに
族 〕 が 居 座 る こ と に な る 」 か ら だ。 従 っ て、 生 活 水 準 向 上 の た め に 産
な 」 く、 逆 に そ の 場 所 に は「 文 化 の 程 度 が 低 い 他 者 の 群 れ〔 ス ラ ヴ 民
従っても、生まれなかった者たちの場所が空白のままとどまるわけでは
差し出している」。というのは、
「たとえ労働者階級がこれらの伝道者に
多くのパンを提供できると信じているが、実のところ民衆自身の墓石を
レタリアートの『出生ストライキ』の狂信的な伝道者は、民衆にもっと
むろんこのブルクデルファーにあっても、このような少子化に対する
警告の裏には、ブルジョア特有の階級意識が深く浸透していた。「プロ
ない。
二〇才男性が五四・四%(女性は六八・九%)へと上昇しているように、
して私的で経済的な利害を一面的に強調すること、つまり過度の個人主
( (
既に一九世紀後半から高齢化の一指標となる期待寿命の伸長も目に見え
4 4 4 4
義」を吹聴する点で「危険」である。民族全体の存続を図るためには、
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
決して各人の生活向上ではなく、「何よりもまず量的な未来、家族の繁
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
て進展していたのである。
殖と維持とが目指されなければならない」
。さもなくば、ドイツ民族は
23 《民族老化》の系譜
((
((
それにもかかわらず、ヴァイマル以前の人口言説は人口動態上で将来
の高齢化を示唆するこれらの兆候に対して盲目であり続けた。若きブル
((
観念が四方八方で消滅するという事態が先立っているのだ」。
ころでは、民族の死の前には常に、真の家族に見られるような再生産の
いつしかこの地上から消滅してしまうだろう。「歴史と現代の教えると
とで、一八八〇年代には鉄道・郵便・電信事業に携わる労働者のための
たとえば、既に一八世紀の絶対主義国家の下でも、「高齢者の構築に
決定的に寄与した」と言われる軍人・官吏のための退職金が制度化され
ともあった。
(
このように、少子化傾向から予測される「民族消滅」への不安は、同
時に階級間の境界線が流動化することに対する市民層の恐怖心を表現し
特別な恩給機関も設立されるに至っている。また、この一九世紀後半に
(
たものに他ならなかった。もっともこうした恐怖心は、右で論じたよう
は「社会問題」という概念の下に老年期に差しかかった労働者の問題が
始めていたし、その後もこの制度が様々な社会集団に拡張され続けるこ
人口動態では既にその兆し
―
意識され始め、世紀転換頃には資本主義体制下で利用しにくい人生段階
として社会政策学会の目にも留まるようになっていた。さらに二〇世紀
高齢化に関する言説を引き合いに出すま
に、ヴァイマル以前のこの時期ではなお
―
でに至っていない。
「民族老化」に対する強烈な危機意識は、ドイツの
( (
初頭には、この老年期の問題が医学的まなざしに捉えられ始め、いわゆ
)という新たな試みも登場している。
る「老人医学」( Geriatrie
それゆえ、ヴァイマル時代に叫ばれた「民族老化」問題を真に理解す
るためには、単に当時の人口構成を示す統計数字を眺めるだけでは足り
が我らの支援のおもな対象であることが十分明らかになっている」と結
り、それだけに当時の救貧局員も、こうした統計数字から「無力な老人
(
ず、それとは異なる諸要因にも目を向けなければならない。ここでまず
論せざるをえないほどであった。しかしその一方で、ある意味ではまさ
ゴリーがその輪郭を整え始めたからであった。
他の諸々の被支援者集団とともに伝統的な救貧事業に包摂されたままだ
対照的に)社会・福祉政策で独自のカテゴリーを与えられることなく、
(早くから救貧とは別個のものとして構成された青少年保護の領域とは
(
とはいえもちろん、ヴァイマル以前に実際の高齢者たちが社会福祉の
対象から除外されていたわけではないし、ましてや彼らが一般にまった
ったのである。
(
く意識されていなかったと言うわけでは決してない。むしろ社会政策の
たし、特に高齢の男性労働者はしばしば救済対象の範疇に包摂されるこ
分野でも、老化に伴う様々な問題は伝統的に議論の俎上に載せられてき
((
た し か に 一 八 八 〇 年 代 以 来、 救 貧 行 政 の 中 で も 被 支 援 対 象 を さ ら に
細 か く 分 類 す る こ と を 目 指 し て、 労 働 不 能 者 と し て 一 括 さ れ た 貧 民 集
(
結論を言うなら、他ならぬこのヴァイマル期に人口の高齢化が意識され
にこの老いと貧困との固い結びつきのために、老人扶助の営みは長い間
る長期的な支援受給者の七割近くが六〇才以上の高齢者で占められてお
あ る。 た と え ば 既 に 一 八 三 〇 年 代 で も、 ベ ル リ ン で は 救 貧 事 業 に お け
このように老人が早くから様々な社会政策の中で意識されてきたの
は、「貧困」と「老い」の結びつきが伝統的に広く知られていたからで
((
たのは、社会・福祉政策における救済対象として「高齢者」というカテ
3 「高齢者」の誕生
を確立していったのである。
人口言説ではヴァイマル期になって突如として現れ、瞬く間にその優位
が見え始めていたとはいえ
((
((
ゲシヒテ第3号 24
団の中から性別や戸籍身分とともに高齢者を分離させるための指標を
同じく老齢はあくまで廃疾の一特殊ケースと見られており、それゆえこ
一八八九年の「廃疾・老齢年金法」(施行は一八九一年)でも、以上と
名目上も実質上も
もっぱら廃疾保険として機能し
見出そうとする動きが表面化してはいた。とりわけケルンでは、「一時
(
―
の年金制度は
(
的 / 長 期 的 」 年 金 給 付 と い う 区 分 が 設 け ら れ、 後 者 で は も っ ぱ ら 高 齢
ていたと言える。また他方では、民間企業の恩給制度でも実際の給付基
―
の 人 間 に 給 付( 大 抵 は 一 年 間 ) が あ て が わ れ て い た し、 ま た「 老 衰 」
(
(
準については「年齢」という画一的なものより、身体的な労働不適性を
このように、老年期の問題は近代の社会政策の分野では「貧困」ない
し「労働者問題」などの古典的な問題群の中に溶け込んでおり、ヴァイ
個別に確定する方法が好んで用いられていたのである。
は「疾病」とともに支援給付のための重要なメルクマールになっていた
マル以前の時代ではそれらから分離した独自の問題領域として構成され
( (
と言える。
マル期のドイツ社会で一躍脚光を浴び始めたのは、ちょうどこの時期に
って、逆にこれらの医療ないし養護施設へ収容する際にも、決して「年
の廃疾の一つとして治療行為から排除されるべき対象となっていた。従
て 一 九 ― 二 〇 世 紀 初 頭 に 行 わ れ た 長 期 の 論 争 で も、 高 齢 の 人 間 は 不 治
ており、それゆえ治療を「回復可能な」病人のみに限るか否かをめぐっ
施設への収容過程ではほぼ一貫して「廃疾」と同義のものとして扱われ
幼児や青少年に向けられるばかりであった。また、老化現象はこの医療
なざしもまずは精神病者や身体障害者へと注がれるか、そうでなければ
初に貧困の混合体から解離したのが「狂人」であったように、医学的ま
に動員された(一九一七年ではその動員率が五〇%に上った)ことで、
ほぼ労働者階級と同等にまで下落していた。また手工業者も大半が戦争
な高騰に直面したために実質上の収入低下に見舞われ、その物質水準は
合、戦時中はたしかに名目賃金の上昇が見られるものの、生活費の急激
の大部分が社会的に没落したためであった。たとえばサラリーマンの場
者・知識人・自営業者等)が戦争の中で経済的に大きな打撃を被り、そ
まで貧困とは関わりのなかった中間層(サラリーマン・公務員・手工業
張されたことである。このように国家の介入範囲が拡張したのは、これ
その要因の一つとしてまず言及しておくべきは、第一次世界大戦での
総力戦を通じて、国家の介入機能が社会のあらゆる領域・集団にまで拡
雑多な諸要因が積み重なって社会国家体制の存立基盤が脅かされたから
齢」が一義的な基準とされることはなく、どこまでもすべての年齢集団
(
お よ そ 三 割 の 店 舗 が 閉 店 に 追 い 込 ま れ た と 言 わ れ る。 こ の よ う に、 伝
(
を含む「廃疾」というカテゴリーが問題にされ続けていたのである。
統的な貧民集団とはかけ離れた層が没落して公的扶助に頼らざるをえな
で施設収容の対象として分類されることもなかった。このプロセスで最
ることは遂になかった。こうした事情が一変し、老年期の問題がヴァイ
だがこうした高齢者の独立という動きは、大戦以前の救貧事業では十
分な発展を遂げることはなかった。たとえば、一九世紀半ば以降に進展
であった。
( Altersschwäche
)というやや恣意的な部類を作り出すことで、六五才以
上の人間ないし医師にそう診断された者を一括してこの部類に取り込ん
((
し て き た い わ ゆ る「 施 設 化 」
( Ver-anstaltung
) の プ ロ セ ス で も、 高 齢 者
に特化した施設の建設は長い間実現されず、高齢の人間集団がそれ自体
だりもした。そのため既に大戦以前から、救貧事業においても「老衰」
((
さ ら に 言 え ば、 国 際 的 に は い ち 早 く 強 制 保 険 原 理 の 導 入 に 成 功 し た
25 《民族老化》の系譜
((
((
くなるという、
「貧困の階層転換」が戦争によって惹き起こされたこと
で、公共の扶助事業は量的にも質的にも変化を余儀なくされることにな
る。具体的には、生存に必要な最低限の給付を旨としていた救貧事業と
4 「民族老化」の果てに
(
(
実際、他ならぬこのヴァイマル期に、社会・福祉政策の領域で高齢者
のための特別介護の必要性がにわかに叫ばれ始めている。たとえば、ド
イツ・ソーシャルワークの中心組織「ドイツ官民養護連盟」( Deutscher
は違い、戦時扶助では社会的立場を維持しうる程度の支援が目指され、
またその対象も伝統的な「貧民」カテゴリーの枠組みを突き破って、広
( (
く人口全体へと拡大されていったのである。
)で議長を務めていたヴィルヘ
Verein für öffentliche und private Fürsorge
ルム・ポリヒカイトなどは、元々戦前の青少年保護運動で頭角を現し、
青 少 年 福 祉 法( 一 九 二 二 年 ) の 成 立 に も 尽 力 し た 人 物 だが、 一 九 二 八
(
それに加え、高齢人口の増加傾向による年金支出の漸増と大戦後のイ
ンフレが重なって、ドイツ社会国家体制がそのひずみを一挙に噴出させ
年には一転して高齢者介護の体系的な制度設計を要求する建白書を執
は六・九%と戦前の半分にも満たない水準にとどまっていた。
ており、その後相対的安定期を経てやや回復するものの、一九三一年で
影響で、一四・五%(一九一三年)から二・九%(一九二五年)と激減し
の混乱や生活費の高騰で高齢者大衆の自立的な生存基盤が取り去られる
らが老年層に対しても計画的な介護を行う義務を持つことは、民族の意
青少年を保護し強化しようとする」と断言する。だがそれだけに、「我
長年青少年保護運動に携わってきた経験からか、ポリヒカイトは「お
のが未来の安全を確保するために奮闘する民族は、まず全力を尽くして
(
たことも、
「高齢者問題」の分離独立に大きく寄与したと言える。具体
筆 し て い る の で あ る。 そ し て そ の 動 機 は ま さ に、「 我 ら は 民 族 高 齢 化
( (
的には、全国民所得のうちに占める年金・恩給支出の割合は、一九一三
層の失業対策として高齢の就
それにもかかわらず、当時の政府は若年
( (
業者を労働市場から締め出そうとしており、その手段として老齢年金や
か弱められ、突如として老年期の困窮が新たな大衆の問題として眼前に
で跳ね上がっている。それに対し、原資の収入分は大戦後のインフレの
恩給制度を積極的に活用していた。一九二九年に老齢年金の受給開始年
立ち現れてきた」。とはいえ田舎ではいまだに、「独自の施設を必要とす
(
齢が六五才から六〇才へと引き下げられたのも、より多くの労働不能人
るはずの老人たちが、他の貧民集団と一緒くたに救貧院に収容されてい
(
口を養うためというより、若年層に労働市場を開放するために高齢の労
る」のである。しかし老人を他の貧民と同列に扱うべきではない。「人
余る」存在として新たに意識されつつあった。
(
(
4 4 4
(
(
会では、高齢者問題を解決するには伝統的な救貧の枠を越えた独自の対
策が求められるのである。
((
((
((
識の中で浸透させるのがさらに困難である」と言う。たしかに、
「通貨
働人口を市場から排除しようという思惑があったためである。伝統的な
((
口における高齢化、つまり高齢者の割合の空前の上昇」が見込まれる社
((
貧困混合体が解体した今、高齢人口はヴァイマル社会国家の中で「手に
っており、さらに一九三一年には一七・六%と、戦前のおよそ六倍にま
年の三%から一九二五年に九・二%と、八年間で三倍以上にも膨れ上が
((
)の時代を迎えつつある」という危機感で
( Ueberalterung unseres Volkes
あった。
((
((
ゲシヒテ第3号 26
( (
)』だという感情をかろうじて耐え忍んでいるのだ」。
altes Eisen
高に主張した一人である。その動機はポリヒカイトと同じく、「慢性疾
早く「老年期障害者」の問題に着目し、彼らに特化した施設の建設を声
た。ベルリン中央保健所の医師フランツ・ゴルトマンも、大戦後にいち
して人口転換そのものの認識と同時に芽生えたものではない。むしろ、
ような高齢者の誕生と時期を同じくして人口言説を捉えたのであり、決
し始めていた。冒頭で見たような「民族老化」への恐怖は、まさにこの
このように、「高齢者」という社会集団はヴァイマル期になってよう
やく、社会・福祉政策による救済対象として独立したカテゴリーを構成
(
患や老年期障害のために施設に送り込まれる人間たち」が、「矯正施設
この種の高齢者福祉が論じられる際に、その正当性の根拠として高齢人
いずれにせよ、こうした老年期の生活保障に関する問題意識は、当時
の医療施設の改革論でも共有され、意識的に煽り立てられることになっ
や労役所、ホームレス用の避難所や監獄、狂人施設や救貧院の間を行き
口の増加という事態がことあるごとに引き合いに出されていたように、
( (
来しながら、都市や田舎でやっかい者として生きている」ような人間と
(
ある意味で高齢者福祉論と人口高齢化に対する恐怖心は、表裏一体とな
(
を与えてくれた」ものでもある。そもそも「老人ホームと、限定的にし
施設の拡張や、民間の療養所と救貧院との間にある溝を埋めるきっかけ
れてしまった」
。だがそれは反面、彼にとって「老人保護のための介護
よって、彼らは自分の衛生状態をみずからの手で維持する可能性を奪わ
形で反映されている」
。
「人口のこの年齢層に生じた社会構造上の転換に
「老人たちの困窮には、ドイツにおける近年の経済状況が最も心を打つ
生活を保障しうる制度的支柱の一つである。ゴルトマンいわく、今日の
過されるべきではない。たとえば老人ホームは、こうした人々の老後の
値に達する」と予測される、
「老人膨張」のプロセスである。
と急激に膨れ上がっていき、一九八〇年前後に九五〇万人で「その最高
(一九三八年)、六〇〇万人(一九四六年)
、七〇〇万人(一九六〇年)
ら れ る こ と に な っ た。 つ ま り、 六 五 才 以 上 の 高 齢 人 口 が、 五 〇 〇 万 人
る …… ド イ ツ 民 族 体 の 異 常 に 強 度 な 高 齢 化 」 と い う 事 態 も 中 心 に 据 え
とどまらず、今やその脅威に絡みついた、「数学的な確実さで予見しう
口言説が描く未来像では、もはや大戦中とは違って単に「民族消滅」に
実際、ブルクデルファーの主著『青年なき民族』(一九三二年)にお
いて最もセンセーショナルな形で表現されたように、ヴァイマル期の人
「就労不能だが老年期疾患の現象がま
だがこの老年期障害者の他に、
だ表立っていない老人たち」の問題も、人口高齢化の時代にあっては看
か就労できない者のための仕事場とを結びつけようという発想が、今ま
こうした高齢人口の増加からいかなる事態が帰結するか。ブルクデル
ファーの回答は明快である。いわく、「我らは老齢恩給生活者、老齢年
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
4 4 4 4 4
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
でこれほどわずかしか普及しなかったのは驚くべきこと」であろう。労
金生活者の民族になるであろう」。そうなれば、まずは現行の年金保険
―
たいという望みを持っているわけでは絶対になく、むしろ
拠出すべき被保険者層が著しく縮小していく一方、「同時に年金受給者
無理やり有用な労働を休まされている」に
も与えられないのだから
―
( (
働力が減退したとはいえ健康な老人たちは、「無為に日々をやり過ごし
制度が破綻に行き着かざるをえない。というのは、出生低下で保険料を
((
何の機会
って顕在化してきたと言ってよい。
の同居を強いられている、という現状認識からであった。
((
の数は、戦前のベビーブーマーが年金受給年齢(六五才以上)へ到達す
((
すぎない。
「経済的困窮に加えて心の困窮が生じる。彼らは『役立たず
27 《民族老化》の系譜
((
ることによって空前の規模で増加する」ために、将来的には数十億マル
た め に、 老 人 の び く び く し た 慎 重 さ で 青 年 ら し い 大 胆 さ や 行 動
その数の優位のおかげで
一民族の中であまりに強く顕現すると、また老人の人生観が
体の重要な、かつ不可欠な財産ではある。だがこの賜物・美徳が
(
違いない」
。
構成の変化はドイツ民族の疾病グラフの顕著な悪化という結果を導くに
は、数の上では相対的にその意義を低下させるだろう」。従って、「人口
響で
ルクデルファーに言わせれば、数量的に計測しえないこの種の脅威もま
は、「我らの公的生活、我らの経済や政治全体にわたる発展の意味深い
測 り え な い 」 と 認 め て は い た も の の、 そ れ で も 彼 に と っ て そ の 可 能 性
る「若さ」の圧殺という脅威に関して、
「これらの作用は数字の上では
今や高齢人口は、それ自体で民族全体の存亡に関わる喫緊の問題とな
った。たしかにブルクデルファー自身も、こうした高齢人口の膨張によ
4 4 4 4 4
族の生活全体にも影響を及ぼさずにはいないだろう」。
(
け で な く、 精 神 的・ 政 治的・ 文 化 的 領 域 に も、 つ ま り は ド イ ツ 民
すますひどくなる重み、これらは疑いなく経済的・社会的領域だ
力、青年らしい弾力性、青年らしい跳躍力が消えてしまうか、麻
決定的となり、若き後継者がいない
―
クに上る恒常的な支出超過は避けられないからだ。「出生の消滅と民族
痺させられるか、または影が薄くなってしまうと、その民族から
他の事情が同じならば
〔人間の数と〕同
―
体の慢性的な高齢化とは、ここでは致命的な形で影響を及ぼすことにな
は容易に健全な向上心が奪われてしまう。それなしには何の進歩
( (
それだけではない。ブルクデルファーにとって、「疾患と老齢とは互
いに緊密な関係にある」がゆえに、今まさに「進展しつつある民族体の
る」
。
人口全体、とりわけ医療保険
もないというのに。この危険は公的生活のあらゆる領域にある。
―
一方では民族体の高齢化と若き後継者の欠如、他方では老人のま
―
に加入する就業人口の中で入院件数が増加することも考慮せねばならな
高齢化では
高
―
もっと急速に上昇する」はずである。しか
い」
。つまり、
「人口がなお増加する限り、医療負担も絶対数では
―
齢化の進展の結果として
これまた民族体の高齢化のせいで
―
しだからと言って、
「今世紀末に予想される人口収縮の際に、絶対的な
―
医療負担が
人口構成の変化の影
じ程度に後退するわけではない」
。そのため「典型的な老年期疾患(動
―
しかしブルクデルファーにとって、この高齢化の脅威は以上のような
制度的・財政的側面にのみとどまるものではなかった。このプロセスの
た、「数学的な確実さ」で予測できる高齢者の増加の影で、
「シュペング
脈 硬 化・ リ ュ ー マ チ・ 癌 な ど ) は、 将 来 的 に
果てに到来するはずの超高齢社会の中にブルクデルファーが見出した真
ラー流の『西洋の没落』という展望に難なく組み込める」ような破滅を
( (
数の上でまったく顕著な意義を持つだろう。反対に幼年期疾患
の脅威とはむしろ、若年層の収縮と高齢層の膨張に伴って社会のあらゆ
もたらすものだったである。
(
(
それゆえここでは、人口高齢化という問題は既に単なる数量的な次元
を越えたものとして知覚されている。本来「価値あるもの」に分類され
((
((
「老人の成熟した人生経験、冷静さ、慎重さはたしかに民族共同
ファクターとして、何かしら考慮されねばならない」ものであった。ブ
る領域に蔓延する「若さ」の圧殺であった。
―
((
((
ゲシヒテ第3号 28
心」を窒息させかねない、危険な「価値なきもの」へと質的に選別し直
うるはずの老人の「成熟」も、その数が過度に増加すれば「健全な向上
与することになった。特に、福祉国家が社会空間で引いた数多くの境界
も人口統計学者はその中核に位置し、国家の政策決定プロセスに深く関
可能にする共通言語となっており、そのため有識者集団が形成される際
(
される。その意味でこのブルクデルファーの人口高齢化論は、「量」と
線に理論的な定義を施し、ひいてはこの定義に沿って制度化された支援
(
能の一つであった。それだけに、社会福祉の領域で高齢者問題が構成さ
(
や未成年、年金生活者など)を作り出すのが、これら有識者の主要な機
受給資格をおのれの存在条件とする社会集団(たとえば生活保護受給者
(
「質」という人口に対する二つのまなざしが互いに交差し反響し合う、
特有の座標点に位置していたのである。
((
れるのと軌を一にして統計学者が人口高齢化の危機をにわかに叫び出し
づけが施される根拠として利用されていった。従って、大戦以前の人口
ものを(量的かつ質的に)新しい脅威として認知し、ネガティヴな意味
粋に数量上の問題にとどまらず、むしろ当時の人口言説では高齢者その
る中で芽生えたものであった。それだけに、人口高齢化という傾向は純
家の危機的状況から、新たに「高齢者」というカテゴリーが生成し始め
ヴァイマル期にかけての社会構造の転換、そしてそれに起因する社会国
以上のように、二〇世紀ドイツの人口言説における「民族老化」への
危機意識は、人口転換という全般的な変動を背景としつつも、大戦から
で「前線世代」(一八九〇~一九〇〇年生まれ)という表象が普及し、
たことにある。このヴァイマル期は、ちょうど大戦を経て教養市民の間
とはいえ、高齢者があれほどまでにネガティヴな形で語られた根本的
な理由は、その背景にドイツに特徴的な青年神話の伝統が横たわってい
う欲求が、多かれ少なかれ働いていたからだと仮定することができる。
の中で、社会空間に新たに引かれつつあった境界線を定義づけようとい
う存在の本質的属性にまで足を踏み入れたのは、やはり当時の人口言説
可能な範囲を越えて、(貧困や廃疾とは完全に区別された)高齢者とい
たのも、おそらく偶然ではない。ブルクデルファーの議論が数字で計測
転換に関する認識(少子化不安)と、ヴァイマル期の高齢化に関する恐
年長世代との和解可能性を排除する方向で青年神話が急進化を遂げた時
―
期でもあった。この急進化の過程で青年の敵として設定された形象も、
しばしば混同されてきたが
なければならない。ブルクデルファーが描いた超高齢社会の到来という
高齢者カテゴリーが分離独立するに伴って、父や教師に体現される「抑
(
として激しい攻撃の標的となっていったのである。
(
終末論的な未来像は、人口転換から演繹される「苦々しい真理」という
したものに他ならなかったのである。
前線での戦闘体験を核とするこの前線世代にとって、「年を取ってい
る」とはすなわち、「古い形式が乗り越えられねばならないということ
(
圧者」から「硬直した老人」へと変貌し、ドイツの刷新・再建の妨害者
こうした危機の言説を紡ぎ出していたのがまさに人口統計学者であっ
たということも、ここでは再度強調しておきたい。先にも述べたように
を理解しない」、つまり「歴史を諦める」ことと同義であり、「革命的」
(
仮装の下で、新たな存在者に直面したヴァイマル社会の危機意識を表現
怖の言説とは
―
はっきり区別して考え
5 おわりに
((
生成期の社会国家にあっては、人口問題はある意味で多様な領域を通約
29 《民族老化》の系譜
((
((
だ と 自 負 す る 青 年 た ち は、 ド イ ツ 再 建 の た め に ま ず は こ う し た「 老 齢
「民族老化」論には、他ならぬ彼自身が一八九〇年生まれ、つまり典型
も、ひとえにこうした前線世代を軸とする青年神話の急進化という社会
(
(
(
(
(
一八〇〇~一九一四年』ミネル
Deutungsmusters, Frankfurt/New York, 2005, S. 211.
Rüdiger Graf (Hg.), Die „Krise“ der Weimarer Republik. Zur Kritik eines
und statistische Expertise in der Weimarer Republik“, Moritz Föllmer,
) Christiane Reinecke, „Krisenkalkulationen. Demographische Krisenszenarien
)
。
vor 1933, Opladen, 2002, S. 297-314
1933“, Rainer Mackensen (Hg.), Bevölkerungslehre und Bevölkerungspolitik
Bevölkerungskonzepte in der Gesundheitsaufklärung in Deutschland vor
Sybilla Nikolow, „Die graphisch-statistische Darstellung der Bevölkerung.
る 技 術( = 統 計 的 ま な ざ し ) と し て、 広 く 公 衆 に 普 及 し て い っ た
始 め た 二 〇 世 紀 初 頭 以 降 に、 人 口 全 体 や そ の 健 康 状 態 を 可 視 化 す
)人
口・ 医 学 統 計 は、 社 会 衛 生 の た め の 啓 蒙 活 動 が 組 織 的 に 行 わ れ
人口学研究の傾向と基本問題』昭和堂、二〇〇八年、一〇―一一頁)
。
ー ゼ フ・ エ ー マ ー( 若 尾 祐 司・ 魚 住 明 代 訳 )
『近代ドイツ人口史
―
一九〇〇―一九一〇年で は 一・五% を超える成 長率を 示している(ヨ
)ド
イ ツ の 人 口 は、 一 八 九 〇 ― 一 九 〇 〇 年 で は 年 平 均 一・四 %、
ヴァ書房、二〇〇一年、七九―一三一頁。
井健吾『近代ドイツの人口と経済
―
)ド
イツにおけるこの人口転換についての詳しい分析は、たとえば、桜
注
的風潮が背景にあったからこそである。その限りでブルクデルファーの
による硬直」
( Alterserstarrung
)こそ打破せねばならないとされた。従っ
て、彼ら前線世代にとっても(というより彼らにとってはとりわけ)、
的な前線世代に属していたという事実が、大きな影を落としていたよう
(
老人の膨張は「憂慮」の種や「負担」であるばかりか、民族の没落すら
にも思われる。
(
招きかねない高度に危険なプロセスと映っていたのである。「自惚れた
医師の介護が、病弱で劣等な生〔高齢者〕を人工的に維持して優等な生
をなおざりにすれば」
、それは「民族の確実な没落を意味することにな
( (
。
るだろう」
こ う し た 老 人 攻 撃 の 雰 囲 気 や レ ト リ ッ ク は、 当 時 の 高 齢 者 福 祉 論 に
も深く浸透していた。たとえばゴルトマンなどは、「老年期障害者」を
4 4 4 4 4 4 4 4
「非社会的分子」に分類し、彼らを「老齢で現れる精神的崩壊の徴候」
を帯びる者、
「特に重度の性格変化、混乱、妄想、火の元やガスに対す
る不注意、自殺企図、そしてとりわけ不潔さ」を特徴とする存在として
描いていたし、ポリヒカイトも(新旧世代の激しい社会的対立を念頭に
置いてか)親子二世帯の同居について、
「世代間の違いということで自
然に説明できる、生活観や生活習慣の違いでしばしば困難になる」もの
だと躊躇する素振りを見せていた。加えてこのポリヒカイトは、そもそ
も老人を「変化した環境へ容易に適応するという能力をもはや持ち合わ
せていない」存在、従って「余計者であり、自分にとっても他人にとっ
ても負担となっているという感情を発達させる」存在としか見なしてい
( (
のびくびくした慎重さ」を「青年らしい大胆さや行動力」に対置させ、
その「精神的・政治的・文化的」危険性なるものを語ることができたの
1
2
((
ブルクデルファーによる高齢化への警告は、まさにこのような時代の
雰 囲 気 の 中 で 発 せ ら れ た も の で あ っ た。 先 に 見 た よ う に、 彼 が「 老 人
なかったのである。
((
3
4
((
ゲシヒテ第3号 30
( ) Lutz Raphael, „Experten im Sozialstaat“, Hans Günther Hockerts (Hg.), Drei
Wege deutscher Sozialstaatlichkeit. NS-Diktatur, Bundesrepublik und DDR im
Vergleich, München, 1998, S. 231-258, insbes. S. 234-236.
( ) Lutz Raphael, „Radikales Ordnungsdenken und die Organisation totalitärer
Herrschaft: Weltanschauungseliten und Humanwissenschaftler im NSRegime“, Geschichte und Gesellschaft, 27. Jg., 2001, S. 5-40, hier S. 9.
( ) Raphael, 1998, S. 244.
( )こ
の問題に関する研究を整理したものとして、 Josef Ehmer, „‚Nationalsozialistische Bevölkerungspolitik‘ in der neueren historischen Forschung“,
Rainer Mackensen (Hg.), Bevölkerungslehre und Bevölkerungspolitik im
二 〇 世 紀 社 会 と ナ チ ズ ム 』 岩 波 書 店、
„Dritten Reich“, Opladen, 2004, S. 21-44.
―
( )川
越 修『 社 会 国 家 の 生 成
二〇〇四年。
Gisela Bock, „Gleichheit und Differenz in der nationalsozialisiti-
schen Rassenpolitik“, Geschichte und Gesellschaft, 19. Jg., 1993, S. 277-310;
( )た
とえば、
Maria Sophia Quine, Population politics in twentieth-century Europe: fascist
dictatorship and liberal democracies, London, 1996, pp. 92-96.
) Victoria de Grazia, „Die Radikalisierung der Bevölkerungspolitik im
本的動因となった(川越、二〇〇四年、七九―一一三頁)
。
宅・ 性 病 撲 滅 な ど の 諸 政 策 、 ひ い て は 社 会 国 家 の 制 度 化 に あ た っ て 根
人口問題への強い関心が、大戦後における乳幼児保護・母性保護・住
をリードする考えにならねばなりません」と明言している。こうした
策こそ、我々の国政全般、経済政策、税制、さらに公共生活そのもの
( )た
「人口政
と え ば 一 九 一 九 年 に 新 設 さ れ た 国 民福祉省の初代大臣も、
(
faschistischen Italien: Mussolinis Rassenstaat“, Geschichte und Gesellschaft,
(
(
(
(
(
(
26. Jg., 2000, S. 219-254, insbes. S. 234.
)川
越、二〇〇四年、一七三頁。
)川
越によれば、人口の「量」の問題を重視していたグロートヤーンに
おいてすら、
「社会衛生的な方策による人口の量の確保と生殖衛生策
による人口の質の改善」という組み合わせが、人口問題の解決にとっ
て 決 定 的 な 鍵 で あ っ た( 前 掲 書、 五 〇 頁 )
。つまり量の確保を優先さ
)
。
Ehmer, 2004, S. 33-37
せる社会衛生学でも質の問題は避けて通れず、逆に質を重視する人種
衛生学でも量の確保は不可避の問題であった(
)二
〇世紀全体にわたってヨーロッパで展開された人口言説・政策を概
西欧文明 衰退への不安』多
観 し た も の と し て、 M・ S・ タ イ テ ル ボ ー ム、 J・ M・ ウ イ ン タ ー
―
(黒田俊夫・河野稠果訳)『人口減少
賀出版、一九八九年。
)ブ
ル ク デ ル フ ァ ー に つ い て は 川 越、 二 〇 〇 四 年、 一 二 一 ― 一 八 〇 頁
が 詳 し い。 そ の 略 歴 に つ い て は、 Jutta Wietog, Volkszählungen unter
dem Nationalsozialismus. Eine Dokumentation zur Bevölkerungsstatistik im
も参照。なお、最近になってブル
Dritten Reich, Berlin, 2001, S. 197-207
ク デ ル フ ァ ー の 伝 記 研 究 も 刊 行 さ れ て い る( Thomas Bryant, Friedrich
Burgdörfer (1890-1967) Eine diskursbiographische Studie zur deutschen
)。
Demographie im 20. Jahrhundert, Stuttgart, 2010
) Friedrich Burgdörfer, Volk ohne Jugend. Geburtenschwund und Überalterung
des deutschen Volkskörpers, Berlin-Grunewald, 1932, S. 125, 143.
Ursula Ferdinand, „Geburtenrückgangstheorien und >Geburten-
)た
と え ば 世 紀 転 換 期 の 過 剰・ 過 少 人 口 恐 怖 や そ の 人 口 政 策 と の 関 係
を 論 じ た、
rückgangs-Gespenster< 1900-1930“, Josef Ehmer, Ursula Ferdinand, Jürgen
Reulecke (Hg.), Herausforderung Bevölkerung. Zu Entwicklungen des
31 《民族老化》の系譜
14 13
15
16
17
18
5
6
7
8
9
10
11
12
危 機 意 識 の 分 析 が 欠 け て い る た め、 こ の 問 題 に 視 点 を 特 化 し た 考 察 で
ほ と ん ど 見 ら れ な い。 川 越、 二 〇 〇 四 年 で も こ の 人 口 高 齢 化 に 対 す る
で も、 当 時 の 高 齢 化 に 関 す る 議 論 は
Reich“, Wiesbaden, 2007, S. 77-98
modernen Denkens über die Bevölkerung vor, im und nach dem „Dritten
西 ド イ ツ で は 一 九 七 三 年、 東 ド イ ツ は 一 九 七 八 年 ま で 待 た ね ば な ら
の人口学研究所は、フランスでは一九四五年に設立されたのに対し、
制度化は他国に比べてかなり立ち遅れることになった。たとえば国立
越、二〇〇四年、五六―七頁。それにもかかわらず、ドイツ人口学の
(
in unserer Zeit, Jena, 1912; Jean Bornträger, Der Geburtenrückgang in
) Julius Wolf, Der Geburtenrückgang. Die Rationalisierung des Sexuallebens
(
(
(
Rassen- und Gesellschaftsbiologie, Bd. 11, 1914/15, S. 555-557; Fridolf
(
(
) Ebd., 43f., 24.
) Bumm, 1917, S. 17.
) Behm, 1917, S. 41.
Ehrenberg, Behm, 1917, S. 43.
) D. Dr. Heinrich Behm, „Geburtenrückgang und Volkssittlichkeit“, Brüning,
) Ebd., 31.
) Bumm, 1917, S. 17f.
) Brüning, 1917, S. 12; Bumm, 1917, S. 13.
Aula am 15. Oktober 1916, Berlin, 1917, S. 13.
Rektorates der Kgl. Friedrich-Wilhelm-Universität in Berlin, gehalten in der
) Ernst Bumm, Ueber das deutsche Bevölkerungsproblem. Rede zum Antritt des
) Prof. Dr. H. Brüning, „Geburtenrückgang und Volksgesundheit“, ebd., S. 20.
Realgymnasiums zu Rostock, Leipzig, 1917, S. 22f.
und Volkskraft. Drei öffentliche Vorträge, gehalten in der Aula des
Dr. H. Brüning, Dr. Ehrenberg, D. Dr. Heinrich Behm, Geburtenrückgang
) Geh. Hofrat Prof. Dr. Ehrenberg, „Geburtenrückgang und Volkswirtschaft“,
)川
越、二〇〇四年、五七―六一頁。
)
。
15-21
in Deutschland. Mit einer systematischen Bibliographie, Opladen, 1998, S.
Möglichkeiten und Probleme einer Geschichte der Bevölkerungswissenschaft
な か っ た( Bernhard vom Brocke, Bevölkerungswissenschaft – Quo vadis?
遺族保
補完される必要があると思われる。なお、帝政期の高齢者問題を扱っ
―
て い る も の と し て は、 原 葉 子「 誰 が 年 金 を も ら う べ き か
(
二〇世紀ドイツにおける国
険(一九一一年)導入時の議論にみるジェンダー・世代・階層」川越
―
家・ 共 同 性・ 個 人 』 法 政 大 学 出 版 局、 二 〇 〇 八 年、 一 〇 三 ― 一 三 六
(
修・ 辻 英 史 編 著 『 社 会 国 家 を 生 き る
頁。この論文では、当時の年金制度が寡婦を「救貧」の地位に留め置
くものであったこと、とりわけ中高年の寡婦たちは「母性」規範にす
ら組み込まれず、周辺化されていったことが明らかにされており、本
ったような被支援者の実態に関する問題はひとまず括弧に括られ、制
(
稿の執筆にあたって大いに参考になった。とはいえ、本稿では原が扱
度設計・改正の前提となる言説生成のレベルに分析の照準が絞られる。
Deutschland. Seine Bewertung und seine Bekämpfung, Würzburg, 1912;
(
二〇〇九年、 四 四 ― 五 九 頁 。
『 西 洋 史 学 』 第 二 三 二 号、
( )拙
稿「 ド イ ツ 世 代 論 の 展 開 と 歴 史 研 究 」
(
Reinhold Seeberg, Der Geburtenrückgang in Deutschland, Leipzig, 1913.
Kudlien, “The German response to the birth-rate problem during the Third
(
( ) Fritz Lenz, „Deutsche Gesellschaft für Bevölkerungspolitik“, Archiv für
川
Reich”, Continuity and Change, vol. 5, 1990, p. 226; Ehmer, 2004, S. 29;
23 22
25 24
29 28 27 26
32 31 30
19
20
21
ゲシヒテ第3号 32
(
) Christoph Conrad, Vom Greis zum Rentner. Der Strukturwandel des Alters in
Deutschland zwischen 1830 und 1930, Göttingen, 1994, S. 62f. [Tabelle 2], S.
(一九一六年に六五才まで引き下げられる)
、被保険者はその給付を
受 け る 以 前 に 廃 疾 年 金 の 方 を 受 給 す る 場 合 が 多 か っ た。 そ の 結 果、
一九一四年までに廃疾年金受給者の数は老齢年金受給者を一一倍以上
も 上 回 る こ と に な る( G・ A・ リ ッ タ ー( 木 谷 勤・ 北 住 炯 一・ 後 藤
64f. [Tabelle 3]
房、一九九三年、八四―五、
九一頁)
。
)
。
Conrad, 1994, S. 329f.
あ り 続 け た「 家 族 保 護 」 思 想 に つ い て は、 中 野 智 世「『 家 族 の 強 化 』
)二
〇 世 紀 前 半 に お け る ド イ ツ・ ソ ー シ ャ ル ワ ー ク の 展 開 と そ の 基 盤 で
) Ehmer, 1990, S. 117.
。
Weimar Germany, Oxford, 1993, pp. 104-112, 306 [Table )
5]
Sydney, 1987, pp. 172-193; Elizabeth Harvey, Youth and the Welfare State in
of Mass Unemployment from Weimar Republic to the Third Reich, London &
Dick Geary (eds.), The German Unemployed. Experiences and Consequences
Youth Unemployment at the End of Weimar Republic”, Richard J. Evans and
性労働者とは対照的であった( cf. Detlev Peukert, “The Lost Generation:
の年齢層よりも高い失業率に悩まされていた一四―二五才の若い男
い た( ebd., S. 113 [Tabelle )
9]。 こ の 点 で、 ヴ ァ イ マ ル 期 を 通 じ て 他
七 七・四 %、 六 五 ― 六 九 才 で は 五 二・一 % が 何 ら か の 労 働 に 従 事 し て
に 高 く、 一 九 二 五 年 に は 六 〇 ― 六 九 才 の 高 齢 人 口( 男 性 ) の う ち
)一
九世紀以来このヴァイマル期に至るまで高齢者の就業率は相対的
) Conrad, 1994, S. 263.
) Sachße, Tennstedt, 1988, S. 46-56.
五一・五才であった(
員 が 恩 給 の 受 給 を 開 始 し た 平 均 年 齢 は 五 四 才、 労 働 者 の 場 合 で は
)そ
の 結 果、 た と え ば ジ ー メ ン ス の 場 合、 一 八 七 二 ― 九 七 年 の 間 に 職
その成立と発展』晃洋書
俊 明・ 竹 中 亨・ 若 尾 祐 司 訳 )『 社 会 国 家
(
(
(
(
―
( ) Ebd., S. 63 [Tabelle 2], 73.
Familienstatistik und Familienpolitik, mit besonderer Berücksichtigung der
deutschen Reformpläne und der französischen Leistungen, München, 1917, S.
4f.
( ) Ebd., S. 7, 10, 22, Hervorhebung im Original.
( ) Josef Ehmer, Sozialgeschichte des Alters, Frankfurt a. M., 1990, S. 39-48, 6477, hier zitiert nach: S. 39.
(
( ) Fritz Burgdörfer, Das Bevölkerungsproblem, seine Erfassung durch
(
43
46 45 44
48 47
( ) Conrad, 1994, S. 152.
( )世
紀 転 換 期 の 青 少 年 保 護 事 業 に つ い て は、 Christoph Sachße, Florian
Tennstedt, Geschichte der Armenfürsorge in Deutschland, Bd. 2, Fürsorge
und Wohlfahrtspflege 1871-1929, W. Kohlhammer GmbH, 1988, S. 32-36.
( ) Conrad, 1994, S. 157.
( ) Ebd., S. 169-175;
一八八八年では、収容対象となる集団の基準が「不治
か つ 要 看 護 の 病 者、 高 度 に 病 弱 の た め か 高 齢 の た め に 自 活 不 能 な 者 」
と規定されている。また被収容者の年齢幅は、一八七〇年では男性の
場合一八―八六才、女性の場合一四―一〇〇才である。それゆえ、た
とえ一八八八年の時点で被収容者の七割以上が六〇才以上の高齢者で
あったとしても、収容基準はあくまでほぼすべての年齢層を含む「廃
)。
疾者」であった( S. 174f.
原、 二 〇 〇 八 年、 一 〇 六 ― 一 一 一 頁。 こ の う
( ) Ehmer, 1990, S. 92-94;
ち老齢年金の受給開始年齢は七〇才と高齢に規定されていたため
33 《民族老化》の系譜
33
35 34
37 36
39 38
41 40
42
(
疾患から動脈硬化等の循環器系の疾患に移行した、いわゆる疫学的転
マリー・バウムの『家族保護』構想から」川
とソーシャルワーク
換と呼ばれる長期的なプロセスは、ドイツでは世紀転換以降に人々に
―
越・辻編著、二〇〇八年、二〇七―二三九頁。
意識され始めたと言える。この点をホメオパシー系の啓蒙雑誌と、帝
国衛生局発行の一般向け啓蒙書や週刊誌の記事とを統計的に比較して
二〇世紀社会の医療戦略』法政大学出版局、
ホメオパシー健康雑誌の記事を中心に」川越修・鈴木晃仁編
論じたものとして、服部伸「世紀転換期ドイツにおける病気治療の多
―
元性
―
著『分別される生命
(
(
(
(
(
Lutz Raphael, „Die
―
その変
Kreise um Moeller van den Bruck, 3. Aufl., Freiburg im Breisgau, 1933, S. 34,
) Max Hildebert Boehm (1891-1968), Ruf der Jungen. Eine Stimme aus dem
を参照。
貌の軌跡」
『 パ ブ リ ッ ク・ ヒ ス ト リ ー』 第 七 号、 二 〇 一 〇 年( 近 刊 )
)詳
しくは、拙稿「ドイツ青年神話と《青年ならざるもの》
)
。
und Gesellschaft, 22. Jg., 1996, S. 192f.
Herausforderung für eine Sozialgeschichte des 20. Jahrhunderts“, Geschichte
Verwissenschaftlichung des Sozialen als methodische und konzeptionelle
現実味を帯びた集合体を構成する力を持っていた(
上 の ア イ デ ン テ ィ テ ィ・ パ タ ー ン 」 は、 一 九 世 紀 の 階 級 理 念 以 上 に
)行
政 と 結 び つ い て 有 識 者 た ち が 作 り 出 し て い く こ う し た「 社 会 福 祉
越、二〇〇四年、一七二頁)
。
住を目的とする「マダガスカル計画」の策定に深く関わっていた(川
)た
と え ば ブ ル ク デ ル フ ァ ー も、 ナ チ 政 権 下 に お い て ユ ダ ヤ 人 の 強 制 移
) Ebd., S. XV.
) Ebd., S. 220, 427.
) Burgdörfer, 1932, S. 219f.
二〇〇八年、一六三―二〇二頁。
Altersgebrechlichen. Beitrag zur Planwirtschaft in der Gesundheitsfürsorge“,
Zeitschrift für Gesundheitsfürsorge und Schulgesundheitspflege, 37. Jg., Nr. 4,
1924, S. 112.
( ) Franz Goldmann, „Siechenhäuser und Altersheime“, Handbuch der Sozialen
Hygiene und Gesundheitsfürsorge, Bd. 6, 1927, S. 180f., 191, Hervorhebung
im Original.
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
( )特
に ゴ ル ト マ ン は、「 次 の 数 十 年 で は 限 定 的 に し か 就 労 で き な い、
さ ら に は ま っ た く 就 労 で き な い 者 の 割 合 が 異 常 に 高 く な る こ と で、
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
生 産 力 が 減 退 し た 社 会 に 予 測 で き な い 負 担 を 強 い る 」 と、 人 口 構 成
か ら 予 測 さ れ る 陰 鬱 な 未 来 像 を 繰 り 返 し 強 調 し て い る( ebd., S. 97,
)。
Hervorhebung im Original
( ) Burgdörfer, 1932, S. 144, 218.
( ) Ebd., S. 219, 225;
ブルクデルファーの試算によれば、今後の廃疾保険
における支出超過は、一九三八年には五億マルク、一九五〇年前後に
は一〇億マルク、一九七五年までには二〇億マルク以上に達する。こ
)
。
れは累積ではなく「年度ごと」の赤字である( S. 234f.
な お、 主 要 な 死 因 が 伝 染 病 に よ る 呼 吸 器 官 系 の
( ) Ebd., S. 245, 259-261.
62
63
64
(
( ) Ebd., S. 5f., 19, 8, Hervorhebung im Original.
(
61 60 59 58
( ) Franz Goldmann, „Sozialhygienische Untersuchungen bei Siechen und
fürsorge, Frankfurt a. M., 1928, S. 3.
( ) Wilhelm Polligkeit, Forderungen für den systematischen Ausbau der Alters-
Sachße, Tennstedt, 1988, S. 102f.
)青
少 年 福 祉 法 の 制 定 過 程 に お け る ポ リ ヒ カ イ ト の 関 与 に つ い て は、
49
50
52 51
53
54
56 55
57
ゲシヒテ第3号 34
48, 54.
( ) Edgar J. Jung (1894-1934), Die Herrschaft der Minderwertigen. Ihr Zerfall
und ihre Ablösung, Berlin, 1927, S. 267f.
( ) Goldmann, 1927, S. 107, 115, Hervorhebung im Original; Polligkeit, 1928, S.
16, 6.
(むらかみ ひろあき・関西大学非常勤講師)
35 《民族老化》の系譜
65
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