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マムルーク朝時代のウラマー:知識人の比較史にむけて
2014/07/26 @京都大学文学部 関西中世史研究会 マムルーク朝時代のウラマー:知識人の比較史にむけて 甲南大学文学部 中町 信孝 0.はじめに:「政教分離」をめぐる議論 「ウラマーʻulamāʼ」を定義づけることの困難さ、様々な訳語:「(イスラーム)知識人」「聖職者」「法学者」 ……階層として未成熟/教会・大学等組織の未発達/俗語文化の未成長/聖俗両域の未分離 小杉 2006:政教一元論=そもそも宗教と統治(司法)が区別されておらず、政教一致・分離という区分自体が 当てはまらない ≠ ローマ帝国とキリスト教会の「結婚」 池内 2001:政治と宗教の不可分性の議論はあくまで理念的範疇、実際には政治権力者と「ウラマー」とで管 轄領域が分化(10 世紀以降)。 →中世ウラマーによる政治思想の展開を分析 佐藤 2004:実証的研究から国家・王権像を構築、「ムスリム知識人(ウラマー)が唱えてきたイマーム論や統 治論とはかなり異質なものとなるはずである」 →知識人像については後進に残された課題 1.中世イスラーム世界の「知」のあり方 ファーラービー(d. 950)、フワーリズミー(d. 997)、ガザーリー(d. 1111)、イブン・ハルドゥーン(d. 1406)らの学芸 論 =アラブ/非アラブ、伝統(伝承)/哲学(理性)の区分 → 法学や歴史の位置は? ※ 書籍商イブン・ナディーム(d. 990 頃)の目録:「アラブの学問といにしえの学問」 ※ ソールズベリのジョン(d. 1180) ウラマーがどのような知を身につけ、どのように行使していたか? 2.アイニー家系史へのアプローチ Maḥmūd b. Aḥmad b. Mūsá b. Aḥmad b. Ḥusayn b. Yūsuf b. Maḥmūd al-ʽAyntābī (1361-1451)を頂点とする一族 史料: ナサブ(人名中の系譜情報)から分かる家系図 マフムードの執筆した諸著作(年代記『真珠の首飾り』『満月の歴史』) 〜マフムードの自筆本に見られる自伝的情報+弟アフマド筆写本に見られる奥付・欄外書込 同時代、後代の歴史家による年代記、人名辞典 関連施設のワクフ文書 アイニー家成員の居住地と役職:マフムードの 6 世代前からムスリム名を持つ祖先 ① ムーサー:アンカラ→アレッポ→アインターブ。カーディー代理(1310-30 頃)、河川管理人。 ② アフマド:アレッポ→アインターブ。カーディー代理、アインターブのカーディー。 ③ マフムード:アインターブ→遍歴→1399 カイロ。市場監督官(8 期)、ワクフ監督官(2 期)、ハナフィ ー派大カーディー(2 期)。マフムーディーヤ学院法学教授、ムアイヤディーヤ学院ハディース学教授。 ④ アフマド:アインターブ→ダマスカス→カイロ。無官。〜書写本の欄外に多くの個人情報載せる。 ⑤ アブドゥッラヒーム:カイロ没。ワクフ監督官。 ⑥ カースィム:カイロ没。無官。 ⑦ アフマド(イブン・アイニー):カイロ生、メディナで没。千人隊長として政治の中枢にあるが失脚。 3.アイニー家の知の獲得と行使 ①ムーサー、②アフマド:「契約と文書の作成で能力を有し、書を能くした」「実定法と法源に対応できる法 学者(faqīh)であり、法的文書作成や行政文書の諸事に熟達していた」 ③マフムード:32 名の師につく(表1参照)。法学・ハディース学等、伝統的学問への偏重。 シャイフ 【『真珠』中の長老サルマーリー伝記】 [クルアーンの]解釈に通じた法学者で、称号をシャラフッディー ンといった。ハナフィー派導師たちの頭にして、ハナフィー派法学の柱であった。……アミールや法官、 様々な事柄の監督官から、禄をはむことは決してなかったし、軍役にも就かなかった。……私は何年もの 間彼に付き添い、数多くの知識を得て、彼のもとでたくさんの本を読んだが、それについては近々説明す イ ン ・ シ ャ ー ア ・ ッ ラ ー フ イジャーザ るとしよう、もし神が望むならば。そうして彼は私に、法的見解と教授、説教、についての 免 許 を与え てくれ、めでたき御手でもって私に[免状を]書いてくださった。 【『真珠』中の長老ブルキーニー伝記】彼には多くの著書があり、……私は多くの会合に[出席し]彼の もとでそれらの大半を聴講した。それについて彼は、私に免状を与えてくれた。彼は、私が理解し知識を 得た師匠たちのうちの1人であった。 [彼の著書の]中には、ティルミズィーの[ハディース]解説書や、 ザマフシャリーの[クルアーン解釈]探求の書があったが、未完であった。またそれら以外にはシャーフ ィイー法学派の注釈書や、ハディース、法源学、アラビア語学の書もあった。 【サハーウィーのアイニー伝記】アシュラフ(・バルスバーイ)が王位に就くと、彼を友とし寵愛し、自 らのもとで彼の地位を上げてやった。その間[アイニーは]彼の夜とぎをするようになり、アラビア語で 編纂した歴史書を彼のために読み上げ、それから2言語で提供するために彼のためにトルコ語で解説し、 信仰の所持を彼に教えるようになった。ついにはアシュラフ王が『もし彼がいなければ我らのイスラーム に何があったであろうか』と言うまでになったと言われた。 【イブン・タグリービルディーの年代記】アイニーは彼(バルスバーイ)にとって、もっとも偉大な側近、 もっとも近しい人物であったが、王国の諸事に彼を介入させることは決してなかった。それどころか、歴 史や人々の戦い、およびそれに類することの講話以外には、彼を会議の場に座らせることはなかった。そ してそのときから私は、歴史を愛し、歴史に傾倒し、歴史に従事するようになったのである。 ④アフマド:兄同様の学問修行→遅れ。官職求めるもかなわず。兄の年代記を書写 →説教とワクフ 「私の邸宅を道場として、高貴な知識を聞かせるために友人や同郷人を集め、彼らに歴史や征服譚や預言 者伝を語った。……その晩、私は彼らへ施しとして、自分の財産から、胡椒飯と甘い飯、ザクロの粒、そ して最後はスイカを振る舞った。彼らは心ゆくまで食し、中には料理や飯を家に持ち帰る者までいた。私 は彼らのために 3 ヶ月間説教をし、その後夏が来たが、彼らは夜になると眠くて座っていられなくなり、 私が読んでいるのに彼らは眠ってろくに聞いていなかったので、私は放っておいた。」 ⑥カースィム:。〜夭逝した息子のため④アフマドが多くの情報書き残す。 「アラビア語とトルコ語」 「会計学 と工学」「文字の学」「天文学」「暦と時間の学」「錬金術と文字魔術の学」「医学」に通じるほか、マフムード のもとで法学とアラビア語学 ⑦イブン・アイニー:スルタン・フシュカダムの乳兄弟として成長、厩舎長官として財務を握る。スルタンの代 替わりで失脚。 〜官僚的実務に長けていたと思われるが、知的社会での経歴は不明。 4.おわりに マフムード③の実践から:習得、行使の両面において「伝統的学問」の重視。「理性的学問」および書記術等 実務の軽視。ただし市場監督官等の官僚職から大きな利益。 アフマド④:兄と相似形の知的実践、伝統的学問への偏重も。 ≠ それ以外の成員:実践的(官僚的)学問への志向(カースィム⑥に代表) 一見すると聖俗の職域は分離/しかしすべてが伝統的学問の枠内であり、政教一元的 参考文献 Saleh Lamei Mostafa 1982: Madrasa, Ḫānqāh und Mausoleum des Barqūq in Kairo: mit einem Überblick über Bauten aus der Epoche der Familie Barqūq, Glückstadt: Verlag J. J. Augustin GMBH, 1982 ʻAbd al-ʻAlīm Fahmī: Al-ʻImāra al-Islāmiyya fī ʻAṣr al-Mamālīk al-Jarākisa (ʻAṣr al-Sulṭān al-Muʼayyad Shaykh), Cairo: Wizārat al-Thaqāfa, al-Majlis al-Aʻlá li’l-Āthār 『真珠の首飾り』: Maḥmūd al-ʽAynī, ʽIqd al-Jumān fī Taʼrīkh Ahl al-Zamān, MS Ahmet III (Topkapı Sarayı Müzesi Kütüphanesi) 2911, a17-a19; MS Veliyyüddin Effendi (Bayazit Devlet Kütüphanesi) 2394; ʽAbd al-Rāziq al-Ṭanṭāwī al-Qarmūṭ ed., 2 vols., Cairo, 1985-1989. 『満月の歴史』: Maḥmūd al-ʽAynī, Taʼrīkh al-Badr fī Awṣāf Ahl al-ʽAṣr, MS Süleymaniye 830; MS Arabe (Bibliothèque Nationale de France) 1544. 『流星の歴史』: Ahmad al-ʿAynī, Al-Taʾrīkh al-Shihābī wa-l-Qamar al-Munīr fī Awṣāf Ahl al-ʿAṣr wa-l-Zamān, Topkapı Sarayı Müzesi Kütüphanesi, MS Ahmet III 2952/2. Badāiʻ: Ibn Iyās, Badāʼiʻ al-Zuhūr fī Waqāʼiʻ al-Duhūr, 6 vols., Cairo, 1982. Ḍawʼ: Al-Sakhāwī, Al-Ḍawʼ al-Lāmʽ li-Ahl Qarn al-Tāsiʽ, 12 vols., Beirut, n.d. Inbāʼ: Ibn Ḥajar al-ʽAsqalānī, Inbāʼ al-Ghumr bi-Anbāʼ al-ʽUmr, 9 vols., Hayderabad, 1967-76. Manhal: Ibn Taghrībirdī, Al-Manhal al-Ṣāfī wa-l-Mustawfī baʽda al-Wāfī, 12 vols., Cairo, 1985-2007. Nujūm: Ibn Taghrībirdī, Al-Nujūm al-Zāhira fī Mulūk Miṣr wa-l-Qāhira, 16 vols., Cairo, n.d. Rafʽ: Ibn Ḥajar al-ʽAsqalānī, Rafʽ al-Iṣr ʽan Quḍāt Miṣr, Cairo, 1998. Sulūk: Al-Maqrīzī, Kitāb al-Sulūk li-Maʽrifat Duwal al-Mulūk, Cairo, 1939-72. Tibr: Al-Sakhāwī, Kitāb al-Tibr al-Masbūk fī Dhayl al-Sulūk, vols. 1-3, Cairo, 2002-2005. 青柳かおり 2014『ガザーリー:古典スンナ派思想の完成者』(世界史リブレット人 025)山川出版社 阿久津正幸 2014「ファーラービー『諸学通覧』:知識のネットワーク化とムスリム社会」柳橋博之編『イスラ ーム:知の遺産』東京大学出版会 五十嵐大介 2011『中世イスラーム国家の財政と寄進:後期マムルーク朝の研究』刀水書房 池内恵 2001「イスラーム世界における政–教関係の二つの次元」『民族主義とイスラーム:宗教とナショナリ ズムの相克と調和』(酒井啓子編、アジア経済研究所) 鎌田繁 2003「イスラームの伝統的知の体系とその変容」『アジア学の将来像』東京大学出版会 私市正年 1986「法の担い手たち」『イスラム・社会のシステム』(佐藤次高編, 筑摩書房) 小杉泰 2006『現代イスラーム世界論』名古屋大学出版会 近藤信彰 2005「イスラーム知識人の肖像:シーア派ウラマーとイジャーザ」小谷汪之編『歴史における知の 伝統と継承』山川出版社 佐藤次高 2004『イスラームの国家と王権』岩波書店 甚野尚志 2009『12 世紀ルネサンスの精神:ソールズベリのジョンの思想構造』知泉書房 田中峰雄 1995「ヨアンネス・サレスベリエンシスの学芸論」『知の運動:12 世紀ルネサンスから大学へ』ミネ ルヴァ書房 谷口淳一 2011『聖なる学問、俗なる人生:中世のイスラーム学者』山川出版社 長谷部史彦編 2006『アラブの都市と知識人』(アジア遊学)勉誠出版 羽田正 2005『イスラーム世界の創造』東京大学出版会 三浦徹 1999「ウラマーの自画像:知の探求と現世利益」『アジア遊学』7 中町信孝 2009「バドルッディーン・アイニーの学問的キャリア:マムルーク朝ウラマーの一事例」 『甲南大学 紀要』文学編 159. 中町信孝 2012「マムルーク朝期の非著名知識人のライフコース:アフマド・アイニーに関する事例研究」 『東 洋史研究』70:4. 中町信孝 2014「バドルッディーン・アイニーの職業的キャリア:マムルーク朝ウラマーの一事例(2)」『甲南大 学紀要』文学編 164. 松尾有里子 1995「オスマン朝中期におけるウレマー:専門的職業ヒエラルヒーの形成とその担い手たち」 『お 茶の水史学』39. 湯川武 2009『イスラーム社会の知の伝達』(世界史リブレット 102)山川出版社 J・ヴェルジェ 1997/2004『ヨーロッパ中世末期の学識者』創文社 J・バーキー2003/2013『イスラームの形成:宗教的アイデンティティーと権威の変遷』慶応大学出版会 Amīn, Muḥammad Muḥammad 1980: Al-Awqāf wal-Ḥayāh al-Ijtimāʿī fī Miṣr 648-923H/1250-1518M: Dirāsa Taʾrīkhiyya Wathāʾiqiyya, Cairo: Dār al-Nahḍa al-ʿArabiyya bil-Qāhira. Berkey, Jonathan 1992: The transmission of knowledge in Medieval Cairo: a social history of Islamic education, Princeton University Press. Broadbridge, Anne F. 1999: “Academic Rivalry and the Patronage System in Fifteenth- Century Egypt: al-ʽAynī, al-Maqrīzī, and Ibn Ḥajar al-ʽAsqalānī,” Mamluk Studeis Review 3. Chamberlain, Michael 1994: Knowledge and social practice in medieval Damascus, 1190-1350, Cambridge University Press. Petry, Carl 1981: The civilian elite of Cairo in the later Middle Ages, Princeton University Press. Sayyid, Ayman Fuʾād 1997: Al-Kitāb al-ʿArabī al-Makhṭūṭ wa-ʿIlm al-Makhṭūṭāt, 2 vols., Cairo: al-Dār al-Miṣriyya al-Lubnāniyya. アフマド④が書物に付したワクフ文書 『流星の歴史』第一葉 Ⅰ この巻のすべてを停止し固定し道に供し永遠とする(waqafa wa-ḥabbasa wa-sabbala wa-abbada)。これは『流 星の歴史と輝く月云々(al-Taʾrīkh al-Shihābī wal-Qamar al-Munīr wa-mā baʿd-hu)』の第2[巻]であり、 それは7巻をもって完成する。その著者にして書き手は、神を求めるしもべであるシハーブッディー ン・アフマド(略)である。 Ⅱ 4法学派すべてからの、高貴なる知識を求める学生にして、学習(mutālaʿa)の美点を備えた者が、読誦(qirāʾa) と学習と書写(naskh)においてそれを活用すること。 Ⅲ 護られたるカイロのアズハル・モスクにおいて、毎晩の日没の礼拝後と、朝の礼拝後に、モスクの中庭に て椅子に腰掛けてそれを読誦すること。金曜礼拝の後にもである。 Ⅳ また我が兄であり著名なる知識あるイマーム、大法官のバドルッディーン・アブー・ムハンマド・マフム ード[・アイニー]の学院においては、金曜(laylat al-jumʿa)と月曜(laylat al-ithnayn)における、朝の礼拝 後と日没の礼拝後あるいは宵の最後の礼拝後に読誦すること。 Ⅴ そして[この]歴史書の読誦が終わった後には、 [神の]書の開示章を読誦し、その著者にして書き手であ る前述したシハーブッディーン・アフマドへのドゥアーをし、書物による報いを捧げること。 Ⅵ その設置場所(maqarr)は、私の存命中は私の元とし、私の[没]後には前述したアズハル・モスクの書庫の 中とし、それについての監督(al-nāẓir)は我が妻である al-sitt al-muṣawwana al-Ḥājja Ḥalīm bint al-Ḥājj Sulaymān とし、彼女の後は前述したアズハル・モスクの監督に委ねるものとする。 Ⅶ 読誦あるいは書写のためにそれを求める者には、その学生が信仰ある人々のうちの善良な人物であるか、 よく知られている場合には、それを禁じてはならないが、1巻だけを与えて、その巻を返してきた時 に他の巻を取らせること。返してきた物はすべて、先述したアズハル・モスクの書庫に置き、シャイ フの Sharaf al-Dīn ʿĪsā(中略)の読誦に送り、彼の後は他の法学者(al-fuqahāʾ)でそれに精通した者の[読 誦に送ること]。 Ⅷ「遺言を聞いた後で変更する者があれば、罪はこれを変更する者にある。まことに神はよく聞き、よく知り たもうお方である。」(クルアーン 2:181) Ⅸ この著者である先述したシハーブッディーン・アフマドに対する証言は、預言者のヒジュラ暦 834 年 3 月 中日(1430 年 12 月 1 日)にカイロにて行われた。 彼の大カーディー就任は2回, いずれもバルスバー マムルーク朝では, スンナ派の4法学派からそれぞ くウラマーを代表する存在でもあった。 アイニーは, 彼の属するハナフィー派のエジプト大カーディーとなっ 4 ザーヒル・ジャクマク (1438" 1453) 4 4 4 スルターンと在位年 ザーヒル・バルクーク (1382" 1399) ナースィル・ファラジュ (1399" 1412) ムアイヤド・シャイフ (1412" 1421) 4 4 4 アシュラフ・バルスバーイ (1422" 1438) ? 4 15 al-Wālī al-Bahasnī 4 4 4 14 Haydar b. Muh. b. Ibrāhīm al-Rūmī 13 Yūsuf b. Mūsá b. Muh. al-Malatī 4 12 al-Husām al-Ruhāwī 4 11 Muh. b. al-Rā ī b. Ibrāhīm al-Marāghī 4 10 Jibrīl b. Sālih b. Isrā īl al-Baghdādī 4 9 Khalīl b. Ahmad b.Muh. al-Mashriqī 4 4 Isá b. Khāss b. Mahmūd al-Sarmārī 4 7 Mahmūd b. Muh. b. Abd Allāh al-Rūmī 4 6 Mīkā īl b. Husayn b. Isrā īl al- Ayntābī 4 5 Ahmad b. Khalīl b. Yūsuf al- Ayntābī 4 4 Husayn b. Muh. b. Isrā īl al- Ayntābī 8 ワクフでの役職 マフムーディーヤ学院 法学教授 ? (バドリーヤ学院完成) 1411.12.16 ムアイヤディーヤ学院 ハディース学教授 1419.6.11 4 4 19 Ahmad b. Muh. al-Sayrāmī 4 4 21 Umar b. Raslān al-Bulqīnī 4 間の確執についてはよく知られているが29), ここでは 1440.8.6 1441.7.21 1443.2.27 1443.6.10 4 1416.3.14 1416.5.11 4 ムたちの利益が失われると [言って] 働きかけた。 彼らはこのような偽りごとしか, この著者を罷免 させる手段を見いださなかったのである。 [‘Iqd / アイニーとイブン・ハジャルという2人の歴史家の Q : 2 / 372] とイブン・ハジャル) のカーディーは争いを続け 4 4 4 ており協力することがなく, 両者の間ではムスリ ムフタスィブ 1399.8.3∼9.2 1399.12.13∼12.15 1400.12.1∼1401.1.22 4 1422.8.9 1426.1.5 1429.12.20 1432.3.3 読 ハ Hf (バルスバーイ) のもとで, この2人 (アイニー 4 Sh Hf Hf Sh 4 4 4 アフバース監督 4 4 4 4 4 C D D ? R イラク D, C Abtina? イラク? ? ○ S: 3/759; I: 3/96; Du: 3/352. アイニーの同職就任にはバルスバーイとの個人的な結 自著中の記述 829年4月26, 27日/1426年3月6日 ‘Iqd / Q : 2 / 297, 309 ○ I: 5/256; Da: 5/200; M: 8/30. 就任日と解任日 (ヒジュラ暦/西暦) : 186a. : S: 3/885; I: 3/339; Du: 1/107; M: 1/241. S: 3/756; I: 3/87. ○ S: 4/475; I: 7/341. ○ : 50b. ○ I: 4/318; Da: 6/294. : 76a. ○ Da: 3/31; M: 4/56. ○ I: 8/56. : 87b; ○ I: 6/34. : 81b. : 81a. ○ S: 4/48; I: 6/45. : 68b. ○ S: 3/1128; I: 5/170. びつきが大きな要因となっていることは明らかであろ 133b. S: 3/1108; I: 5/107; Da: 6/85; M: 8/285. ○ I: 6/17; Da: 1/292. : 63a. ○ ○ S: 3/588; I: 2/302; Du: 3/588. : 87b. S: 3/529; I: 2/192; Da: 1/64; M: 1/171. : 146a. ○ ○ ○ ○ Du: 2/82. 中町 信孝:バドルッディーン・アイニーの職業的キャリア ‘Iqd / Q : 2 / 372 ‘Iqd / Q : 2 / 418, 425, 479 ‘Iqd / Q : 2 / 510 ブン・ハジャルも同日に解任されているが, それにつ いてはアイニー自著中に以下のような記述がある。 イ期においてである。 後期マムルーク朝の大カーディー 引用の冒頭にある 「敵対者」 について注目したい。 こ 就任者の経歴を分析した伊藤隆朗が指摘するとおり, の 「敵対者」 とは, この時アイニーに代わって大カー 19 イブン・タグリービルディーは、アイニーがその父の没後、つまり784年7月/1382 年10月以降にアレッポに旅立ったと記すが、サハーウィーは、783/1381,82年に旅立っ たのち一度故郷に戻り、父の没後再度旅立ったと記す。ここではサハーウィーの記述 に従う。 4 法 C C ? P ○ K: 2/10. : 54b; ○ ○ S: 3/1073; Da: 10/335. : 49a. !表4】ハナフィー派大カーディー在任期間 ※1:サハーウィーによる伝記記事中に言及あり ※2:イブン・タグリービルディーによる伝記記事中に言及あり 法学派:Hf=ハナフィー派、Sh=シャーフィイー派 地 名:A=アインターブ、B=バハスナー、C=カイロ、D=ダマスクス、J=イェルサレム、M=マラティヤ、P=アレッポ、R=ルーム地方 分 野:法=法学、書=書道、読=クルアーン読誦、源=法源学、法=法学、語=アラビア語学、解=クルアーン解釈学、修=修辞学、ハ=ハデ ィース学、ス=スーフィズム 史 料:I= , Da= , Du= , K= , (in Gustav Flugel ed., , 7 vols., London, 1935-58) , M= , S= . Hf ハ ス ハ? C C シャーフィイー派の大カーディーであった歴史家のイ Mahrān : 201a. 842年1月14日/1438年7月6日 4 ハ ハ C C う28)。 また, アイニーの1回目の罷免の際には, 当時 アスカロン? ○ : 189b. ○ ○ : 138b. 835年6月26日/1432年2月28日 32 Jalāl b. Ahmad b. Yūsuf al-Tabbānī ハ 敵対者たち (al-! / ) $ ! 0 ) のある者がアシュラフ王 ハ C C C ○ : 64b. ○ I: 5/125; Da: 10/146 : 216a. 833年2月26日/1429年11月23日 31 Muh. b. Muh. b. Abd al-Latīf Ibn al-Kuwayk Sh 4 Hf Muh . b. Ah mad b. Ismā īl Nās ir al-Dīn Aghā 4 30 Ahmad b. Ismā īl b. Muh. al-Kushk 29 28 Alī b. Abī Bakr al-Haythamī 27 Taghrībirmish III 26 Alī b. Abd al-Karīm al-Fūwī 4 25 Abd al-Karīm b. Muh. b. Hāfiz al-Halabī 4 24 Muh. b. Muh. b. Muh. al-Dajawī 4 C ? : 187b. 2 4 ハ・解 ヘラート他 : 197a : 64a. : 205b. 1 Abd al-Rahmān b. Husayn b. Abī Bakr alSh Irāqī 4 22 Muh. b. Ahmad b. Muh. al- Asqalānī Sh 法・ハ ? P C P ? B? R? J, C M カフター ハ? Hf 解・法・語 Hf P B M エデッサ? A P マラーガ? A D, C R A A カフカス A たが, 著者はそれを断った。 [‘Iqd / Q : 2 / 95 ; Badr / ○ ○ I: 2/107; M: 2/231. フ (! "# $ ! %al-! & '( $ ! % ) の監督職への就任を提案し : 128a. スルターンはこの著者を呼び, エジプトのアウカー 20 Ahmad b. Khāss al-Turkī Hf 法・相 法・源 解・法 語 修・法 R 東方 A? A? 年9月23日には, 次のような記述がある。 4 Hf Hf Hf Hf A, P A A A R 監督官就任への打診である。 上述のとおり, アフバー A P に就いているため, ここで述べられるのはアウカーフ カズウィーン ところで, バルスバーイ期の826年10月23日/1423 アイニー ※ ※ 自著中の その他の死亡録中の伝記記事 伝記記事 1 2 この時点ではアイニーは, アフバース監督官の地位 A A 出身地 任命から34年目, 853/1449, 50年のことである。 18 Ibrāhīm b. Muh. b. Umar Ibn al- Adīm 17 al-Badr al-Kashshāfī 法 読・源 読 書・読 書 ス庁とアウカーフ庁とが当時明確に区別されていたこ 語・解・相 Hf Hf とが, このような記述からも裏付けられる。 法 教授地 61 の職に留まり続け, 最終的にこの職を罷免されたのは 23 Hf Muh. b. Alī b. Ubayd Allāh Ibn Zayn alHf? Arab 4 大カーディー 3 4 2 Mahmūd b. Ahmad b. Ibrāhīm al-Qazwīnī 分野 BN : 158b] II 16 Alā al-Dīn I たが, その在任期間は【表4】のとおりである。 4 それぞれの法学派の司法組織における頂点であり, 広 人 名 る体制が確立した。 エジプトにおける大カーディーは, 1 Ahmad b. Mūsá b. Ahmad al- Ayntābī 時 番 期 号 法 学 派 バドルッディーン・アイニーの学問的キャリア マムルーク朝ウラマーの一事例 れ1人ずつ大カーディー (# $ ! ) $ *! + , # -) $ ! . ) が任命され ! ! 【表1】アイニーの師匠一覧 Konan University Konan University 241 !表5】アイニーの就いた役職・官職年譜 ザーヒリーヤ学院 ハーディム頭 1386∼1388 大カーディー 1401.11.20 1402.6.24 1416.5.24 ザーヒル・タタル (1421) 1426.3.6 1429.11.23 1432.2.28 1438.7.6 1449, 50 NII-Electronic Library Service マフムード ユースフ フサイン アフマド ムーサー アフマド (1322?-1380) マフムード (1361-1451) アブドゥッラ ヒーム (-1460) アフマド イブン・アイニ ー (1466-1492) ムハンマド アブドゥッラ フマーン (-1419) アブドゥルア ズィーズ (-1415) アリー (-1430) ファーティマ (-1430) アフマド (1363-??) イブラーヒー ム (-1430) アフマド (-1430) ザイナブ (-1430) カースィム (1394-1411)