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マムルーク朝時代のウラマー:知識人の比較史にむけて

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マムルーク朝時代のウラマー:知識人の比較史にむけて
2014/07/26
@京都大学文学部
関西中世史研究会
マムルーク朝時代のウラマー:知識人の比較史にむけて
甲南大学文学部 中町 信孝
0.はじめに:「政教分離」をめぐる議論
「ウラマーʻulamāʼ」を定義づけることの困難さ、様々な訳語:「(イスラーム)知識人」「聖職者」「法学者」
……階層として未成熟/教会・大学等組織の未発達/俗語文化の未成長/聖俗両域の未分離
小杉 2006:政教一元論=そもそも宗教と統治(司法)が区別されておらず、政教一致・分離という区分自体が
当てはまらない ≠ ローマ帝国とキリスト教会の「結婚」
池内 2001:政治と宗教の不可分性の議論はあくまで理念的範疇、実際には政治権力者と「ウラマー」とで管
轄領域が分化(10 世紀以降)。 →中世ウラマーによる政治思想の展開を分析
佐藤 2004:実証的研究から国家・王権像を構築、「ムスリム知識人(ウラマー)が唱えてきたイマーム論や統
治論とはかなり異質なものとなるはずである」 →知識人像については後進に残された課題
1.中世イスラーム世界の「知」のあり方
ファーラービー(d. 950)、フワーリズミー(d. 997)、ガザーリー(d. 1111)、イブン・ハルドゥーン(d. 1406)らの学芸
論 =アラブ/非アラブ、伝統(伝承)/哲学(理性)の区分 → 法学や歴史の位置は?
※ 書籍商イブン・ナディーム(d. 990 頃)の目録:「アラブの学問といにしえの学問」
※ ソールズベリのジョン(d. 1180)
ウラマーがどのような知を身につけ、どのように行使していたか?
2.アイニー家系史へのアプローチ
Maḥmūd b. Aḥmad b. Mūsá b. Aḥmad b. Ḥusayn b. Yūsuf b. Maḥmūd al-ʽAyntābī (1361-1451)を頂点とする一族
史料:
ナサブ(人名中の系譜情報)から分かる家系図
マフムードの執筆した諸著作(年代記『真珠の首飾り』『満月の歴史』)
〜マフムードの自筆本に見られる自伝的情報+弟アフマド筆写本に見られる奥付・欄外書込
同時代、後代の歴史家による年代記、人名辞典
関連施設のワクフ文書
アイニー家成員の居住地と役職:マフムードの 6 世代前からムスリム名を持つ祖先
①
ムーサー:アンカラ→アレッポ→アインターブ。カーディー代理(1310-30 頃)、河川管理人。
②
アフマド:アレッポ→アインターブ。カーディー代理、アインターブのカーディー。
③
マフムード:アインターブ→遍歴→1399 カイロ。市場監督官(8 期)、ワクフ監督官(2 期)、ハナフィ
ー派大カーディー(2 期)。マフムーディーヤ学院法学教授、ムアイヤディーヤ学院ハディース学教授。
④
アフマド:アインターブ→ダマスカス→カイロ。無官。〜書写本の欄外に多くの個人情報載せる。
⑤
アブドゥッラヒーム:カイロ没。ワクフ監督官。
⑥
カースィム:カイロ没。無官。
⑦
アフマド(イブン・アイニー):カイロ生、メディナで没。千人隊長として政治の中枢にあるが失脚。
3.アイニー家の知の獲得と行使
①ムーサー、②アフマド:「契約と文書の作成で能力を有し、書を能くした」「実定法と法源に対応できる法
学者(faqīh)であり、法的文書作成や行政文書の諸事に熟達していた」
③マフムード:32 名の師につく(表1参照)。法学・ハディース学等、伝統的学問への偏重。
シャイフ
【『真珠』中の長老サルマーリー伝記】
[クルアーンの]解釈に通じた法学者で、称号をシャラフッディー
ンといった。ハナフィー派導師たちの頭にして、ハナフィー派法学の柱であった。……アミールや法官、
様々な事柄の監督官から、禄をはむことは決してなかったし、軍役にも就かなかった。……私は何年もの
間彼に付き添い、数多くの知識を得て、彼のもとでたくさんの本を読んだが、それについては近々説明す
イ ン ・ シ ャ ー ア ・ ッ ラ ー フ
イジャーザ
るとしよう、もし神が望むならば。そうして彼は私に、法的見解と教授、説教、についての 免 許 を与え
てくれ、めでたき御手でもって私に[免状を]書いてくださった。
【『真珠』中の長老ブルキーニー伝記】彼には多くの著書があり、……私は多くの会合に[出席し]彼の
もとでそれらの大半を聴講した。それについて彼は、私に免状を与えてくれた。彼は、私が理解し知識を
得た師匠たちのうちの1人であった。
[彼の著書の]中には、ティルミズィーの[ハディース]解説書や、
ザマフシャリーの[クルアーン解釈]探求の書があったが、未完であった。またそれら以外にはシャーフ
ィイー法学派の注釈書や、ハディース、法源学、アラビア語学の書もあった。
【サハーウィーのアイニー伝記】アシュラフ(・バルスバーイ)が王位に就くと、彼を友とし寵愛し、自
らのもとで彼の地位を上げてやった。その間[アイニーは]彼の夜とぎをするようになり、アラビア語で
編纂した歴史書を彼のために読み上げ、それから2言語で提供するために彼のためにトルコ語で解説し、
信仰の所持を彼に教えるようになった。ついにはアシュラフ王が『もし彼がいなければ我らのイスラーム
に何があったであろうか』と言うまでになったと言われた。
【イブン・タグリービルディーの年代記】アイニーは彼(バルスバーイ)にとって、もっとも偉大な側近、
もっとも近しい人物であったが、王国の諸事に彼を介入させることは決してなかった。それどころか、歴
史や人々の戦い、およびそれに類することの講話以外には、彼を会議の場に座らせることはなかった。そ
してそのときから私は、歴史を愛し、歴史に傾倒し、歴史に従事するようになったのである。
④アフマド:兄同様の学問修行→遅れ。官職求めるもかなわず。兄の年代記を書写 →説教とワクフ
「私の邸宅を道場として、高貴な知識を聞かせるために友人や同郷人を集め、彼らに歴史や征服譚や預言
者伝を語った。……その晩、私は彼らへ施しとして、自分の財産から、胡椒飯と甘い飯、ザクロの粒、そ
して最後はスイカを振る舞った。彼らは心ゆくまで食し、中には料理や飯を家に持ち帰る者までいた。私
は彼らのために 3 ヶ月間説教をし、その後夏が来たが、彼らは夜になると眠くて座っていられなくなり、
私が読んでいるのに彼らは眠ってろくに聞いていなかったので、私は放っておいた。」
⑥カースィム:。〜夭逝した息子のため④アフマドが多くの情報書き残す。
「アラビア語とトルコ語」
「会計学
と工学」「文字の学」「天文学」「暦と時間の学」「錬金術と文字魔術の学」「医学」に通じるほか、マフムード
のもとで法学とアラビア語学
⑦イブン・アイニー:スルタン・フシュカダムの乳兄弟として成長、厩舎長官として財務を握る。スルタンの代
替わりで失脚。 〜官僚的実務に長けていたと思われるが、知的社会での経歴は不明。
4.おわりに
マフムード③の実践から:習得、行使の両面において「伝統的学問」の重視。「理性的学問」および書記術等
実務の軽視。ただし市場監督官等の官僚職から大きな利益。
アフマド④:兄と相似形の知的実践、伝統的学問への偏重も。
≠ それ以外の成員:実践的(官僚的)学問への志向(カースィム⑥に代表)
一見すると聖俗の職域は分離/しかしすべてが伝統的学問の枠内であり、政教一元的
参考文献
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aus der Epoche der Familie Barqūq, Glückstadt: Verlag J. J. Augustin GMBH, 1982
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Cairo: Wizārat al-Thaqāfa, al-Majlis al-Aʻlá li’l-Āthār
『真珠の首飾り』: Maḥmūd al-ʽAynī, ʽIqd al-Jumān fī Taʼrīkh Ahl al-Zamān, MS Ahmet III (Topkapı Sarayı Müzesi
Kütüphanesi) 2911, a17-a19; MS Veliyyüddin Effendi (Bayazit Devlet Kütüphanesi) 2394; ʽAbd al-Rāziq
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『流星の歴史』: Ahmad al-ʿAynī, Al-Taʾrīkh al-Shihābī wa-l-Qamar al-Munīr fī Awṣāf Ahl al-ʿAṣr wa-l-Zamān,
Topkapı Sarayı Müzesi Kütüphanesi, MS Ahmet III 2952/2.
Badāiʻ: Ibn Iyās, Badāʼiʻ al-Zuhūr fī Waqāʼiʻ al-Duhūr, 6 vols., Cairo, 1982.
Ḍawʼ: Al-Sakhāwī, Al-Ḍawʼ al-Lāmʽ li-Ahl Qarn al-Tāsiʽ, 12 vols., Beirut, n.d.
Inbāʼ: Ibn Ḥajar al-ʽAsqalānī, Inbāʼ al-Ghumr bi-Anbāʼ al-ʽUmr, 9 vols., Hayderabad, 1967-76.
Manhal: Ibn Taghrībirdī, Al-Manhal al-Ṣāfī wa-l-Mustawfī baʽda al-Wāfī, 12 vols., Cairo, 1985-2007.
Nujūm: Ibn Taghrībirdī, Al-Nujūm al-Zāhira fī Mulūk Miṣr wa-l-Qāhira, 16 vols., Cairo, n.d.
Rafʽ: Ibn Ḥajar al-ʽAsqalānī, Rafʽ al-Iṣr ʽan Quḍāt Miṣr, Cairo, 1998.
Sulūk: Al-Maqrīzī, Kitāb al-Sulūk li-Maʽrifat Duwal al-Mulūk, Cairo, 1939-72.
Tibr: Al-Sakhāwī, Kitāb al-Tibr al-Masbūk fī Dhayl al-Sulūk, vols. 1-3, Cairo, 2002-2005.
青柳かおり 2014『ガザーリー:古典スンナ派思想の完成者』(世界史リブレット人 025)山川出版社
阿久津正幸 2014「ファーラービー『諸学通覧』:知識のネットワーク化とムスリム社会」柳橋博之編『イスラ
ーム:知の遺産』東京大学出版会
五十嵐大介 2011『中世イスラーム国家の財政と寄進:後期マムルーク朝の研究』刀水書房
池内恵 2001「イスラーム世界における政–教関係の二つの次元」『民族主義とイスラーム:宗教とナショナリ
ズムの相克と調和』(酒井啓子編、アジア経済研究所)
鎌田繁 2003「イスラームの伝統的知の体系とその変容」『アジア学の将来像』東京大学出版会
私市正年 1986「法の担い手たち」『イスラム・社会のシステム』(佐藤次高編, 筑摩書房)
小杉泰 2006『現代イスラーム世界論』名古屋大学出版会
近藤信彰 2005「イスラーム知識人の肖像:シーア派ウラマーとイジャーザ」小谷汪之編『歴史における知の
伝統と継承』山川出版社
佐藤次高 2004『イスラームの国家と王権』岩波書店
甚野尚志 2009『12 世紀ルネサンスの精神:ソールズベリのジョンの思想構造』知泉書房
田中峰雄 1995「ヨアンネス・サレスベリエンシスの学芸論」『知の運動:12 世紀ルネサンスから大学へ』ミネ
ルヴァ書房
谷口淳一 2011『聖なる学問、俗なる人生:中世のイスラーム学者』山川出版社
長谷部史彦編 2006『アラブの都市と知識人』(アジア遊学)勉誠出版
羽田正 2005『イスラーム世界の創造』東京大学出版会
三浦徹 1999「ウラマーの自画像:知の探求と現世利益」『アジア遊学』7
中町信孝 2009「バドルッディーン・アイニーの学問的キャリア:マムルーク朝ウラマーの一事例」
『甲南大学
紀要』文学編 159.
中町信孝 2012「マムルーク朝期の非著名知識人のライフコース:アフマド・アイニーに関する事例研究」
『東
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中町信孝 2014「バドルッディーン・アイニーの職業的キャリア:マムルーク朝ウラマーの一事例(2)」『甲南大
学紀要』文学編 164.
松尾有里子 1995「オスマン朝中期におけるウレマー:専門的職業ヒエラルヒーの形成とその担い手たち」
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茶の水史学』39.
湯川武 2009『イスラーム社会の知の伝達』(世界史リブレット 102)山川出版社
J・ヴェルジェ 1997/2004『ヨーロッパ中世末期の学識者』創文社
J・バーキー2003/2013『イスラームの形成:宗教的アイデンティティーと権威の変遷』慶応大学出版会
Amīn, Muḥammad Muḥammad 1980: Al-Awqāf wal-Ḥayāh al-Ijtimāʿī fī Miṣr 648-923H/1250-1518M: Dirāsa
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アフマド④が書物に付したワクフ文書
『流星の歴史』第一葉
Ⅰ この巻のすべてを停止し固定し道に供し永遠とする(waqafa wa-ḥabbasa wa-sabbala wa-abbada)。これは『流
星の歴史と輝く月云々(al-Taʾrīkh al-Shihābī wal-Qamar al-Munīr wa-mā baʿd-hu)』の第2[巻]であり、
それは7巻をもって完成する。その著者にして書き手は、神を求めるしもべであるシハーブッディー
ン・アフマド(略)である。
Ⅱ 4法学派すべてからの、高貴なる知識を求める学生にして、学習(mutālaʿa)の美点を備えた者が、読誦(qirāʾa)
と学習と書写(naskh)においてそれを活用すること。
Ⅲ 護られたるカイロのアズハル・モスクにおいて、毎晩の日没の礼拝後と、朝の礼拝後に、モスクの中庭に
て椅子に腰掛けてそれを読誦すること。金曜礼拝の後にもである。
Ⅳ また我が兄であり著名なる知識あるイマーム、大法官のバドルッディーン・アブー・ムハンマド・マフム
ード[・アイニー]の学院においては、金曜(laylat al-jumʿa)と月曜(laylat al-ithnayn)における、朝の礼拝
後と日没の礼拝後あるいは宵の最後の礼拝後に読誦すること。
Ⅴ そして[この]歴史書の読誦が終わった後には、
[神の]書の開示章を読誦し、その著者にして書き手であ
る前述したシハーブッディーン・アフマドへのドゥアーをし、書物による報いを捧げること。
Ⅵ その設置場所(maqarr)は、私の存命中は私の元とし、私の[没]後には前述したアズハル・モスクの書庫の
中とし、それについての監督(al-nāẓir)は我が妻である al-sitt al-muṣawwana al-Ḥājja Ḥalīm bint al-Ḥājj
Sulaymān とし、彼女の後は前述したアズハル・モスクの監督に委ねるものとする。
Ⅶ 読誦あるいは書写のためにそれを求める者には、その学生が信仰ある人々のうちの善良な人物であるか、
よく知られている場合には、それを禁じてはならないが、1巻だけを与えて、その巻を返してきた時
に他の巻を取らせること。返してきた物はすべて、先述したアズハル・モスクの書庫に置き、シャイ
フの Sharaf al-Dīn ʿĪsā(中略)の読誦に送り、彼の後は他の法学者(al-fuqahāʾ)でそれに精通した者の[読
誦に送ること]。
Ⅷ「遺言を聞いた後で変更する者があれば、罪はこれを変更する者にある。まことに神はよく聞き、よく知り
たもうお方である。」(クルアーン 2:181)
Ⅸ この著者である先述したシハーブッディーン・アフマドに対する証言は、預言者のヒジュラ暦 834 年 3 月
中日(1430 年 12 月 1 日)にカイロにて行われた。
彼の大カーディー就任は2回, いずれもバルスバー
マムルーク朝では, スンナ派の4法学派からそれぞ
くウラマーを代表する存在でもあった。 アイニーは,
彼の属するハナフィー派のエジプト大カーディーとなっ
4
ザーヒル・ジャクマク
(1438"
1453)
4
4
4
スルターンと在位年
ザーヒル・バルクーク
(1382"
1399)
ナースィル・ファラジュ
(1399"
1412)
ムアイヤド・シャイフ
(1412"
1421)
4
4
4
アシュラフ・バルスバーイ
(1422"
1438)
?
4
15 al-Wālī al-Bahasnī
4
4
4
14 Haydar b. Muh. b. Ibrāhīm al-Rūmī
13 Yūsuf b. Mūsá b. Muh. al-Malatī
4
12 al-Husām al-Ruhāwī
4
11 Muh. b. al-Rā ī b. Ibrāhīm al-Marāghī
4
10 Jibrīl b. Sālih b. Isrā īl al-Baghdādī
4
9 Khalīl b. Ahmad b.Muh. al-Mashriqī
4 4
Isá b. Khāss b. Mahmūd al-Sarmārī
4
7 Mahmūd b. Muh. b. Abd Allāh al-Rūmī
4
6 Mīkā īl b. Husayn b. Isrā īl al- Ayntābī
4
5 Ahmad b. Khalīl b. Yūsuf al- Ayntābī
4
4 Husayn b. Muh. b. Isrā īl al- Ayntābī
8
ワクフでの役職
マフムーディーヤ学院
法学教授
?
(バドリーヤ学院完成)
1411.12.16
ムアイヤディーヤ学院
ハディース学教授
1419.6.11
4
4
19 Ahmad b. Muh. al-Sayrāmī
4 4
21 Umar b. Raslān al-Bulqīnī
4
間の確執についてはよく知られているが29), ここでは
1440.8.6
1441.7.21
1443.2.27
1443.6.10
4
1416.3.14
1416.5.11
4
ムたちの利益が失われると [言って] 働きかけた。
彼らはこのような偽りごとしか, この著者を罷免
させる手段を見いださなかったのである。 [‘Iqd /
アイニーとイブン・ハジャルという2人の歴史家の
Q : 2 / 372]
とイブン・ハジャル) のカーディーは争いを続け
4
4
4
ており協力することがなく, 両者の間ではムスリ
ムフタスィブ
1399.8.3∼9.2
1399.12.13∼12.15
1400.12.1∼1401.1.22
4
1422.8.9
1426.1.5
1429.12.20
1432.3.3
読
ハ
Hf
(バルスバーイ) のもとで, この2人 (アイニー
4
Sh
Hf
Hf
Sh
4
4
4
アフバース監督
4
4
4
4
4
C
D
D
?
R
イラク
D, C
Abtina?
イラク?
?
○ S: 3/759; I: 3/96; Du: 3/352.
アイニーの同職就任にはバルスバーイとの個人的な結
自著中の記述
829年4月26, 27日/1426年3月6日
‘Iqd / Q : 2 / 297, 309
○ I: 5/256; Da: 5/200; M: 8/30.
就任日と解任日 (ヒジュラ暦/西暦)
: 186a.
:
S: 3/885; I: 3/339; Du: 1/107;
M: 1/241.
S: 3/756; I: 3/87.
○ S: 4/475; I: 7/341.
○ : 50b. ○ I: 4/318; Da: 6/294.
: 76a.
○ Da: 3/31; M: 4/56.
○ I: 8/56.
: 87b;
○ I: 6/34.
: 81b.
: 81a. ○ S: 4/48; I: 6/45.
: 68b. ○ S: 3/1128; I: 5/170.
びつきが大きな要因となっていることは明らかであろ
133b.
S: 3/1108; I: 5/107; Da: 6/85;
M: 8/285.
○ I: 6/17; Da: 1/292.
: 63a. ○ ○ S: 3/588; I: 2/302; Du: 3/588.
: 87b.
S: 3/529; I: 2/192; Da: 1/64; M:
1/171.
: 146a.
○ ○ ○ ○ Du: 2/82.
中町 信孝:バドルッディーン・アイニーの職業的キャリア
‘Iqd / Q : 2 / 372
‘Iqd / Q : 2 / 418, 425, 479
‘Iqd / Q : 2 / 510
ブン・ハジャルも同日に解任されているが, それにつ
いてはアイニー自著中に以下のような記述がある。
イ期においてである。 後期マムルーク朝の大カーディー
引用の冒頭にある 「敵対者」 について注目したい。 こ
就任者の経歴を分析した伊藤隆朗が指摘するとおり,
の 「敵対者」 とは, この時アイニーに代わって大カー
19 イブン・タグリービルディーは、アイニーがその父の没後、つまり784年7月/1382
年10月以降にアレッポに旅立ったと記すが、サハーウィーは、783/1381,82年に旅立っ
たのち一度故郷に戻り、父の没後再度旅立ったと記す。ここではサハーウィーの記述
に従う。
4
法
C
C
?
P
○ K: 2/10.
: 54b;
○ ○ S: 3/1073; Da: 10/335.
: 49a.
!表4】ハナフィー派大カーディー在任期間
※1:サハーウィーによる伝記記事中に言及あり
※2:イブン・タグリービルディーによる伝記記事中に言及あり
法学派:Hf=ハナフィー派、Sh=シャーフィイー派
地 名:A=アインターブ、B=バハスナー、C=カイロ、D=ダマスクス、J=イェルサレム、M=マラティヤ、P=アレッポ、R=ルーム地方
分 野:法=法学、書=書道、読=クルアーン読誦、源=法源学、法=法学、語=アラビア語学、解=クルアーン解釈学、修=修辞学、ハ=ハデ
ィース学、ス=スーフィズム
史 料:I=
, Da=
, Du=
, K=
,
(in Gustav Flugel ed.,
,
7 vols., London, 1935-58) , M=
, S=
.
Hf
ハ
ス
ハ?
C
C
シャーフィイー派の大カーディーであった歴史家のイ
Mahrān
: 201a.
842年1月14日/1438年7月6日
4
ハ
ハ
C
C
う28)。 また, アイニーの1回目の罷免の際には, 当時
アスカロン? ○ : 189b.
○ ○ : 138b.
835年6月26日/1432年2月28日
32 Jalāl b. Ahmad b. Yūsuf al-Tabbānī
ハ
敵対者たち (al-!
/
)
$
!
0
) のある者がアシュラフ王
ハ
C
C
C
○ : 64b. ○ I: 5/125; Da: 10/146
: 216a.
833年2月26日/1429年11月23日
31 Muh. b. Muh. b. Abd al-Latīf Ibn al-Kuwayk Sh
4
Hf
Muh . b. Ah mad b. Ismā īl Nās ir al-Dīn
Aghā
4
30 Ahmad b. Ismā īl b. Muh. al-Kushk
29
28 Alī b. Abī Bakr al-Haythamī
27 Taghrībirmish
III 26 Alī b. Abd al-Karīm al-Fūwī
4
25 Abd al-Karīm b. Muh. b. Hāfiz al-Halabī
4
24 Muh. b. Muh. b. Muh. al-Dajawī
4
C
?
: 187b.
2
4
ハ・解
ヘラート他
: 197a
: 64a. : 205b.
1
Abd al-Rahmān b. Husayn b. Abī Bakr alSh
Irāqī
4
22 Muh. b. Ahmad b. Muh. al- Asqalānī
Sh
法・ハ
?
P
C
P
?
B?
R?
J, C
M
カフター
ハ?
Hf 解・法・語
Hf
P
B
M
エデッサ? A
P
マラーガ? A
D, C
R
A
A
カフカス
A
たが, 著者はそれを断った。 [‘Iqd / Q : 2 / 95 ; Badr /
○ ○ I: 2/107; M: 2/231.
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) の監督職への就任を提案し
: 128a.
スルターンはこの著者を呼び, エジプトのアウカー
20 Ahmad b. Khāss al-Turkī
Hf
法・相
法・源
解・法
語
修・法
R
東方
A?
A?
年9月23日には, 次のような記述がある。
4
Hf
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A, P
A
A
A
R
監督官就任への打診である。 上述のとおり, アフバー
A
P
に就いているため, ここで述べられるのはアウカーフ
カズウィーン
ところで, バルスバーイ期の826年10月23日/1423
アイニー ※ ※
自著中の
その他の死亡録中の伝記記事
伝記記事 1 2
この時点ではアイニーは, アフバース監督官の地位
A
A
出身地
任命から34年目, 853/1449, 50年のことである。
18 Ibrāhīm b. Muh. b. Umar Ibn al- Adīm
17 al-Badr al-Kashshāfī
法
読・源
読
書・読
書
ス庁とアウカーフ庁とが当時明確に区別されていたこ
語・解・相
Hf
Hf
とが, このような記述からも裏付けられる。
法
教授地
61
の職に留まり続け, 最終的にこの職を罷免されたのは
23
Hf
Muh. b. Alī b. Ubayd Allāh Ibn Zayn alHf?
Arab
4
大カーディー
3
4
2 Mahmūd b. Ahmad b. Ibrāhīm al-Qazwīnī
分野
BN : 158b]
II 16 Alā al-Dīn
I
たが, その在任期間は【表4】のとおりである。
4
それぞれの法学派の司法組織における頂点であり, 広
人 名
る体制が確立した。 エジプトにおける大カーディーは,
1 Ahmad b. Mūsá b. Ahmad al- Ayntābī
時 番
期 号
法
学
派
バドルッディーン・アイニーの学問的キャリア マムルーク朝ウラマーの一事例
れ1人ずつ大カーディー (#
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+
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) が任命され
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【表1】アイニーの師匠一覧
Konan University
Konan University
241
!表5】アイニーの就いた役職・官職年譜
ザーヒリーヤ学院
ハーディム頭
1386∼1388
大カーディー
1401.11.20
1402.6.24
1416.5.24
ザーヒル・タタル
(1421)
1426.3.6
1429.11.23
1432.2.28
1438.7.6
1449, 50
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マフムード ユースフ フサイン アフマド ムーサー アフマド (1322?-1380) マフムード
(1361-1451) アブドゥッラ
ヒーム (-1460) アフマド イブン・アイニ
ー (1466-1492)
ムハンマド アブドゥッラ
フマーン
(-1419) アブドゥルア
ズィーズ
(-1415) アリー
(-1430) ファーティマ (-1430) アフマド
(1363-??) イブラーヒー
ム
(-1430) アフマド
(-1430) ザイナブ (-1430) カースィム
(1394-1411) 
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