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「栄光」を求めるイエスの祈り
「栄光」を求めるイエスの祈り ヨハネによる福音 60 「栄光」を求めるイエスの祈り 17:1-5 「永遠の命とは……」という 3 節の言葉は、私には懐かしい響きを持って います。民放ラジオの毎日放送の初期、日曜朝の 30 分番組で、7 分間の説教 を前後二部に分けて、電波に乗せていました。私の修行時代―25 歳の若者 が器用とは言え、先輩方もよくやらせたと思います。スピーチが 3 分半進ん だ所で大阪女学院の合唱が一曲、その後で残りの 3 分半、結論まで話を続け ました。その番組のテーマがこの言葉だったのです。「これは命なり。永遠 の命とは……」これが冒頭のアナウンスでした。 録音は旧阪急ビルの屋上の仮設スタジオでしました。この「永遠の命とは 神とキリストを知ることに尽きる」という言葉が。今でも強い印象に残って います。普通なら知識だけの信仰は無意味で、大切なのはどれだけ真剣に生 きたか、実行できたかだという筈の所を、「イエス・キリストを知ることだ」 とはっきり言い切っているからです。 この言葉は、17 章の長い祈りの中に出てきます。これはイエスご自身の祈 り―それも逮捕と処刑を前にしての祈りです。その祈りに悲愴感のような ものは少しも感じられず、これから起ころうとする、人の目にはただ醜く悲 惨……としか思えないものを、天の父の栄光、人の子の栄光と言い切ってお られます。これはすぐ前の、弟子たちへのお言葉の結びで、「私はすでに世 に勝っている」と言われたその響きが、祈りの中で鳴り続けていると言える でしょう。 1.イエスはこれらの事を話してから、天を仰いで言われた。 -1- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 「栄光」を求めるイエスの祈り この切り出しのあと、1 頁半にわたって主の祈りが続きます。これが本当 の「主の祈り」です。「天にいます我らの父よ」は、むしろ「弟子の祈り」 です。ドヴォルザーク式に言えば、「主の教え給いし祈り」と言うべきです か。ヨハネ 17 章の方は、本当に主が祈られた「主の祈り」です。「天を見上 げて」祈られたのは、ユダヤ式には目を閉じずに、天の一角を凝視して祈っ たからです。この時、両手は広げて上に挙げるのが普通でした。普通のユダ ヤの祈りの姿勢で祈られたのです。もちろん眼を閉じて頭を垂れる西洋式の 作法も、それなりの意味はあります。 この祈りの初めの部分を大きく三つに分けると…… 1.イエスの栄光は、父の栄光である。 2.イエスの栄光は、人に来世への命を与えて輝く。 3.イエスの栄光は、実は永遠の初めからあった。 ―こういう内容になります。 1.イエスの栄光が現れることは、即 父の栄光が輝くこと。 :1. 「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるため に、子に栄光を与えてください。 「栄光をあらわす」は、その偉大な力を知らす、本質を示す意味での「輝 かせる」glorify ですが、今目の前に迫った死を、神の子の輝き、力の顕れと 見ておられるのです。言い換えれば、父よ、あなたの子である私の美しさ、 輝かしさを今こそこの人たちに見せてやって下さい。私が輝く時に、父よ、 あなたの御業、偉大さも輝きます。そんな内容です。 死刑台の上での二目と見られない死の姿を、この方は「栄光・輝き」と言 -2- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 「栄光」を求めるイエスの祈り われたのですが、ペテロやヨハネでさえ、その日現場で栄光を見たかどうか は確かではありません。しかし、見る目が与えられた人にはそれは、子の輝 きであると同時に、子を死なせた父の輝きにもなる……と。 祈りの冒頭で「父よ」と呼びかけるのが、イエス独特です。“弟子の祈り” の方では「われらの父」と祈るように、また、「天にまします」の一句を付 け加えよと言われました。これはユダヤ的伝統を踏んでいます。「アヴィー ヌー・シェヴァッシャマーイム」( ~yIm;V'b;v, Wnybia' )という表現は、ユダヤ 伝承による形式―「天にいます我らの父よ」です。 ところがここでは、イエスはご自分の本質を祈りの冒頭に現わして、父の ひとり子、言いかえれば、他の誰も言えない意味での「子」であるお方とし て、いきなり、「父よ」と神に呼びかけました。多分、「アッバ」( aB'a ) と言われたのでしょう。ヨハネは訳して、「パーテル」としています。 これは天の父への信頼の極致で、私たちも次元は違うでしょうが、やはり「ア ッバ」と呼べるようになる保証と重なります。聖霊がそうさせると教えたの は、ローマ書 8 章 15 節、タルソのパウロです。 その父への全信頼をこめて、「この私を刑場で輝かし、墓場で輝かし、そ の後もさらに、見る目を持つ人には、その輝きを見せてください」とまず祈 られたのです。「あなたからゆだねられた人すべて」は、そんな人たちを指 して言われたのだと思います。 2.イエスの栄光は人に永遠のいのちを与えるために輝く。 :2,3. この祈りはよく、「大祭司キリストの祈り」と呼ばれます。大祭司が民の ために捧げた祈りに共通点を見るからです。次の段落で弟子たちのために祈 られる前に、この 12 行は、ご自身を聖別する、イエス自身のための祈りの形 を取ることは、注解書にも指摘されますけれど、単にご自分の栄光を願われ -3- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 「栄光」を求めるイエスの祈り る祈りではなく、その栄光が死者に命を注ぐ結果になることを考えて、「そ のために栄光を輝かせて下さい」という、生かされる人たちのための祈りな のです。 子に栄光を与えてください。2.あなたは子にすべての人を支配する権能を お与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、 永遠の命を与えることができるのです。 3.永遠の命とは、唯一のまことの神 であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知るこ とです。 神を知り、キリストを知ることの中に、死を突き抜けて来世まで―次の エオンまで生かす源泉がある。神とキリストを知ること、即、死人が生きる 道だという視点からの祈りです。普通は「永遠の命」と訳される「エオーニ オス・ゾイー」は、「次のエオン=来世へ貫いて生かす生命エ ネルギー」です。肉の死の先の本当の時間(エオン)で神に繋がって生きさ せる命です。この命は、自分が「死んでいる」現実を見た人にだけ、意味を 持ち始めます。罪の中に死んでいる人を生かして天に繋ぐと言われる方が、 この祈りを父に捧げました。 その命の源と原動力はどこにあるか……。それは真の神、人を生かす命で 溢れる神を知ることにある。そして、そのために神が遣わしたイエス・キリ ストが自分にとって何であるか―それを知ることの中にある。だからこそ、 今この栄光がそんな形で輝き出ることが、どうしても必要です……という確 信が祈りの中から溢れています。毎日放送のアナウンサーが冒頭に読んだの は、文語訳聖書から短縮した次の言葉でした。 「永遠のいのちは、唯一のまことの神と、神の遣わし給いしイエス・キリ ストとを知るにあり。」 -4- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 「栄光」を求めるイエスの祈り これを知ることは一生仕事です。ヨハネが書きとめた「知る」という言葉 (<)は、昨日まで知らなかった人が急に悟って今日 は知っている―という言い方ではなく、「知るようになって行く」こと、 「知るプロセスの中へ引き込まれて行く」意味を表わす言葉です。キリスト を通して神を知ることは、 「遂に知った!」と分かってしまうのではなくて、 全人生をかけて経験し、「少しずつ知るようになって行く」プロセスだとい うことを、イエスは言おうとされたし、ヨハネはそれを受け止めて、この言 葉で伝えたのです。 3.イエスの栄光は今初めて輝くのでなく天地創造前から輝いていた。:4.5 4.わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地 上であなたの栄光を現しました。 5.父よ、今、御前でわたしに栄光を与えて ください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。 最初の文で、「父から受けた任務と使命を私は果し、そのことによって神 様の偉大さと愛を輝かせました」と言われたイエスは、本当は「今」からい よいよその「本番」に入られます。決定的な仕事はイエスの死で始まるので す。それを前にしての祈りです。最終的に、イエスの口から「遂に完了した」 という言葉が発されるのは 5 頁あとです。 この 4 節の言葉と同じ表現が 13 章にもあったのを御記憶でしょうか。「今 や人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」(13: 31)。―ユダが晩餐の部屋から出て行った時に、すでに栄光は始まった… …いや完了したも同じと見て、そう言われたのでした。ここでもイエスは、 まるでタイム・マシーンで十字架の向こう側に行かれたかのように、その事 業はすでに成った。栄光は輝いたし、永遠の命も受けようと思えばそこにあ る、と未来を過去にして表現されたと見てよろしいでしょう。預言者の言葉 によくある文体です。 -5- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 「栄光」を求めるイエスの祈り 後半の 2 行の趣旨については、二つの違った読み方があります。一つは十 字架の死の後の時点にご自分を置いて、今こそ、私の元の天の栄光を、つま り地に下った時以前の本来の栄光を回復して下さいという祈り……と解釈で きます。フィリピ書 2 章のパウロのような見方です。十字架の死で最低の所 まで下ったイエスを天の父が引き上げて、本来の神の子の栄光、永遠のロゴ スの輝きを回復させる―つまり、天に上げられて父の右に坐して冠を受け る。これは言わば古典的な理解です。古代ギリシャ教会の聖書学者たち以来、 この意味に読む人が多いと思います。 しかし、この祈りは初めから、「時が来ました。子の栄光を今こそ輝かせ て下さい」で、死刑囚としての死を栄光の極みとして見ている祈りですから、 フィリピ書のパウロの発想とは違っています。パウロはイエスが神と等しい 栄光の姿を惜しげもなく脱ぎ捨てて、奴隷の形をお取りになったという面を 強調し、自分を卑しい姿に落として死に至るまで父の意志に服した。だから、 神は彼をそこから引き上げたと宣言しました。 ここはパウロの論点からでなく、ヨハネの視点から一貫して見て行かねば 意味を取り違えます。ヨハネが聞いたイエスご自身の表現と発想はこれから 始まる死と恥辱は、最低のどん底ではなく、栄光の輝きなのです。それ自体 が天の父の栄光なのです。だから、今こそ神の子が処刑の木に吊るされたそ の姿で、最高の輝きを現わしてください! とすると、5 節の言葉は再び 1 節の視点から、同じ祈りを改めて反復され たと見る方が、論理が一貫するでしょう。研究家の中では、レオン・モーリ ス Leon Morris の解釈がこの見方を取ります。言い換えるとこうです。「父 よ、人間の目には凡そ“栄光”には見えないあの十字架の上で、私をその姿 で輝かせて下さい。そしてこの輝きこそ、天地創造に先立つ時点から父の懐 で私が持っていた、本来の栄光の極致です!」 -6- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 「栄光」を求めるイエスの祈り 先ほどパウロの発想がヨハネとは違うと申しましたが、本当はパウロもあ る場合には、ヨハネと同じ角度から見ていて、エフェソ書の中では「神は天 地の造られる前から、私たちをキリストで選んだ」(1:4)と言い、すぐそ の後で「キリストでというのは、彼の血によるあがない」だと言います。つ まり主が言われた「世が造られる前に、私がみそばで持っていた栄光」とい うのは元々、神の子の死、血による贖いという結末を初めから含んでいたと、 パウロも告白していることになります。 こうして、「その栄光で今輝かせて下さい」と祈って、ナザレのイエスは 死の道へ足を踏み出すのですが、祈りはなお続きます。 《 ま と め 》 最後にもう一度、3 節のお言葉に戻って来ました。永遠の命はどこにある か―死の壁を突きぬけて、死の向こう側まで人を生かす生命力の源は何か ……。永遠の命とは、唯一の神、本物の神を知ることと、その本物の神が送 って下さったイエス・キリストを知ることにある。それを生涯かけて体験し て知るようになる。命はそのことの中にあると……と。 ラジオの聖書番組「これは命なり」に関わったのは、34 年前のことで、一 年足らずの期間でした。25 歳の器用な青年が 3 分半のスピーチを二つ繋いだ 未熟な仕事を、それなりに、一所懸命させて頂きました。その時毎日放送を 聞いて下さった方が、今でも伊丹の教会にひとり、西宮の教会にひとりおら れます。私の大事な友人になっています。そういう方たちには、本当に申し 訳ないのですけれども、語っていた者自身が「永遠の命」を本当に知ってい たかと言うと、「真の神を知る」ことも、神の全意志が込められた「イエス・ キリストを知る」ことも、今から考えると、かなり怪しいものでした。冒頭 のアナウンス、「永遠の命とは……イエス・キリストを知るにあり」に相応 しい内容を私自身が持っていたかどうか、お恥ずかしい次第です。「看板に -7- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 「栄光」を求めるイエスの祈り 偽りあり」と言わないまでも、中身は番組の表題より薄かったと思います。 でも、あの時から止めないで聖書を続けて来たお蔭で、その永遠の命が本 当に「イエスを知ることの中にある」のが、理屈ではなく分かってきました。 その放送で企画者の事務を担当された方も一人、ここにおられて、多分共感 して下さるでしょう。大阪女学院の合唱の方たちのことも思います。「イエ スを知って」学び続けておられる方たちがいて下さると嬉しいですが……。 お名前も覚えていませんが、もし同窓会名簿に載っていれば、50 歳位になら れましょう。一緒に 3 分間の素人ドラマをやってくれた若い仲間たち―私 が書いたお粗末な台本……台詞も聖書にあるものは、なるべくそのまま…… 朗読の代りにドラマをやったのです。イエス様の声を入れたのは鹿屋の吉井 秀夫さん。はまり役でした。その彼が立派に続けて、九州の指導者でいてく れるのも嬉しいことです。 私が申し上げたいのは、永遠の命(来世に貫く命)は、人が真の神を知る ことの中にあること。具体的にはその神を、ご自身で現わしたイエス・キリ ストを知ること、それも長い時間をかけて、生活ごとこの方に食いついて、 ヨハネが言うとおり徐々に、 「知るようになって行く」ことの中にあります。 時には少しも前進しないで、自分だけ堂々めぐりしている不安に落ちること もあります。そんな時でもそれを通して自分の罪を知り、死に束縛される悲 惨を直視して「来世の命」を望み見るとき、イエス・キリストの自分にとっ ての意味と重みが、増しているのです。 キリストは、「今、あなたの子である私を輝かして下さい」と祈られまし たが、私たちが十字架の主を知るようになって行くとき、彼の栄光はその分 また輝いて、それを通して天の父の栄光も輝くのです。 (1987/08/23) -8- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. 「栄光」を求めるイエスの祈り 《研究者のための注》 1.2 節の「あなたからゆだねられた人すべて」は、むしろ all that に近い中性単数の ~を使ってとなっているので、イエスを信じる人たち を全体として三語で代表し、「信じる」という共通の応答のし方を強調している表現 と理解しました。「あなたからゆだねられた」者たちと「それ以外の」者たち」とを 区別するのであれば、と書いたでしょう。 2.同じく 2 節の「すべての人」と訳している語句、は every flesh に相当 する「肉なる者すべて例外なく」です。パウロの文章ではローマ 3:20、ガラテヤ 2: 16、ルカの文章ではルカ 3:6、使徒 2:17 に使われます。DVD 版録音全集「ルカに よる福音」第 10 回「すべて肉なる者の救い」の第 3 区分を参照。 3.栄光について、ヨハネの視点とパウロの視点の相違を指摘して引用したフィリピ書は 2:6~9、その後に両者の共通点を例証したエフェソ書は 1:4 と 7 です。 -9- Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved.