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目 次 - 狭山ヶ丘高等学校

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目 次 - 狭山ヶ丘高等学校
藤 棚
狭山ヶ丘学園 学校通信
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/js/
目
次
第 151 号
偉大なる先輩に続け!(H16.3.24 発行)
第 150 号
卒業式辞(要旨)(H16.3.3 発行)
第 149 号
四色ボールペン学習法(H16.2.3 発行)
第 148 号
平成 16 年、年頭に思う(H16.1.8 発行)
第 147 号
平成 15 年に残された課題(H15.12.20 発行)
第 146 号
イラク情勢について(H15.12.1 発行)
第 145 号
携帯電話考(H15.11.1 発行)
第 143 号
短期間に実力はつく、青春の「時のしずく」を(H15.9.1 発行)
第 142 号
細心の注意で自らの安全を守れ!(H15.7.19 発行)
第 141 号
豊かな教養を身につけましょう(H15.7.1 発行)
第 140 号
気品(H15.6.1 発行)
第 139 号
変転する国際情報について(H15.5.1 発行)
第 138 号
入学式辞(要旨)(H15.4.10 発行)
平成16年
藤 棚
3月24日
第151号
狭 山 ケ 丘 高 等 学 校
学 校 通 信
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/
偉大なる先輩に続け!
教頭
山崎
修
まだ肌寒い3月3日、卒業証書授与式が来賓、保護者多数のご臨席のもと、盛大に行われました。
式典に臨む3年生の姿は史上最高と思われる程、立派なものでした。動作も美しく、私語もなく、校
歌等の斉唱の声も凛としており、これ以上を望むことはできないと思わせる程でした。
この3年生は大学受験において、京都大学に現役で合格した橋爪研人君を筆頭に大変な成果を挙げ
ました。東京外国語大学にも初めての合格者が出ましたし、早稲田大学には2年連続現役合格者が1
0名を越えるという輝かしい結果が出ています(浪人は1名)。慶應義塾大学には過去最高の5名が
合格。そして、山形大学1、宇都宮大学1、埼玉大学1、お茶の水女子大学1、電気通信大学1、東
京学芸大学1、横浜国立大学1、静岡大学2、山口大学2、九州大学1、と国立大学にも合格者が出
ています。
私立大学においても明治大学16、青山学院大学6、立教大学11、中央大学22、法政大学24、
上智大学2、学習院大学6、津田塾大学2、東京理科大学18、東京薬科大学2
等、実に輝かしい
成果でした。
今年の大学受験における特徴は部活動に励みながら、勉学にも全力を傾注した先輩が素晴らしい結
果を手にしたということです。京都大学に合格した橋爪研人君はアメリカンフットボール部に所属し
ていましたし、東京学芸大学に合格した西澤徳泰君は卓球部、早稲田大学のAO入試を突破した坂本
綾子さんは吹奏楽部、静岡大学に合格した金林智文君は陸上部、明治大学に合格した梅澤弥来君はサ
ッカー部の主要メンバーでした。慶應義塾大学やお茶の水女子大学、東京女子大学等に合格した田中
亜可子さんはなぎなたの国体県代表選手で、3年生の10月末に行われた国体で見事8位に入賞しま
した。こうして勉学と部活動を両立させた先輩は枚挙にいとまがないくらいです。
もう一つ特徴を挙げならば、学校の授業を中心に、ゼミや自習室を有効に活用した人が大きく花を
開かせたということでした。授業で学んだことをベースに、ゼミや自習室を利用して実力を養成した
人が勝利の栄冠に輝いたのです。ここに成功の秘訣があるのです。今、自習室を覗いてみると、春休
みに入っているにも関わらず、早くも2年生の勇姿を見ることができます。実に頼もしい後輩が育っ
てきているのです。
修学旅行で2年生と生活を共にしました。卒業した先輩に負けず劣らぬ優秀な人達だと実感させら
れました。事前のガイダンスにおける整然とした姿や、現地での落ち着いた生活状況、ホテルでのマ
ナーなど感動的でした。当初、タイを訪問する予定でしたが、鳥インフルエンザの影響で、急遽行き
先を変更せざるを得ませんでした。全く考えてもいなかったカナダ・アメリカの修学旅行です。その
ため準備不足で右往左往することも十分考えられましたが、実に見事に行動してくれました。これな
ら、偉大なる先輩の後を継ぐのみならず、凌駕するのも間違いないと確信させられた修学旅行でした。
どんな場面でも将来に希望を抱いている人達は立派なのだと、心から感心されられました。
勉学面で実力を養うため、春休みを有効に使うことが大切です。最低限やらなくてはならないのは、
この1年間で学んだことの総復習です。文系・理系を問わず英語は必ず実行して下さい。その際、大
切なことは、何回も繰り返し読むということです。声を出して朗々と読んだり、意味を取りながら精
読したり、とにかく繰り返し読み込むことです。
先日ある社会人の方と話すことがありました。その方は、学生時代、英語があまり得意ではなかっ
たそうです。大学卒業後、何十年も英語を勉強しなかった。そして、仕事上、どうしても英語を話さ
ざるを得ない場面があった時、中学校で、何度も繰り返し音読した単語や英文が期せずして出てきた
というのです。そして、何とか仕事をこなすことができたと述懐していました。人間は繰り返し音読
することにより、何十年経っても忘れることのできない記憶を得ることができるのです。
2年生は1・2年で学んだ教科書の英文全てを暗記するくらい音読や精読を繰り返すことです。20
回くらい繰り返し読み込むことによりほぼ完全に自分のものにすることができます。20 回と聞くと、
とてつもなく時間がかかると思うでしょうが、実はそうではないのです。初回は少々時間がかかるか
も知れませんが、2回目、3回目は初回と比べるとおよそ半分位の時間しか必要としません。10 回
目を越える位になると、次ぎに何が書いてあるか殆ど分かるようになってきます。そして 20 回目く
らいになると教科書を見る必要が無いくらいになってきます。大切なことは覚えようと思わないで、
ただ読み込むことです。覚えようと思うと辛く感じます。覚えようと思わないで、騙されたと思って
ただ 20 回読み込むことです。英文が自然のうちに頭に残ってくることは間違いありません。この勉
強法は楽で、辛くないので、結構長時間取り組むことができます。
希望する大学の入試問題を早期に解いてみることも非常に重要です。4~5年分くらいざっと解く
のです。出題分野別に採点もします。出題の難易度や、分野別での出題傾向、そして、自分の得点力
が現在どのくらいなのか、把握することです。そうすることにより志望校に対する適切な対策を立て
ることが出来ます。例えば英語の場合、発音やアクセントに20点、空欄補充や並び替えに30点、
長文読解に50点配分してあるとすると、それぞれの分野における現在の得点力とボーダーラインと
を比較し、どの分野をどのくらい強化すべきかを考え、学習計画を立案することです。敵を知れば百
戦危うからずです。
偉大なる先輩を追い越してこそ、狭山ヶ丘の伝統を真に継承することになります。1・2年生諸君
の健闘を祈ります。
平成16年
藤 棚
3月3日
第150号
狭 山 ケ 丘 高 等 学 校
学 校 通 信
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/
卒業式辞 (要旨)
校長
小川義男
ただ今 409 名の諸君に卒業証書を授与した。辛いとき、苦しいとき、迷いのあった時、様々なこと
があったであろうが、それらすべてを乗り越えた諸君の、三年間の精励刻苦に深い敬意を表する。
諸君の中には、部活動でも輝かしい実績を残しつつ、学問においても見事な足跡を残した方がおら
れる。その自らに厳しい姿勢は、後輩のみではなく、校長自身をも励ますものである。「あの人にで
きて、私にできないことがあろうか」、そのような思いを私に抱かせた。ここに深く畏敬の念を表明
するものである。
めでたい卒業に当たって、まことに痛恨に耐えないのは、梅津宗弘君が、卒業、進学を目前にして
病に倒れたことである。彼を助けられなかったことに関しては、私も責任を痛感している。
このことに関して諸君に告げたい。ひとつは、「ある場合には、いい加減さも能力だ」ということ
である。今ひとつは、悪条件のすべてを、自分一人で乗り越えようとしてはならないということであ
る。努力することも、頑張り抜くことも良いが、時には大人や年長者の助けを求めることも大切であ
る。このことを忘れず、これからの人生を生き抜いて行ってもらいたい。
人生には失敗もあれば成功もある。挫折を恐れて臆病になってはならない。私は、挫折とは新しい
可能性の出現だと考えている。転んだときには、泣き崩れるのではなく、次の可能性の出現に夢を馳
せ、不敵に微笑んで立ち上がるくらいの気力が大切である。
人生には、引き潮の時と満ち潮の時がある。引き潮の時は何をやってもうまく行かず、満ち潮の時
は、やること為すことうまく行くものである。だが、満ち潮だけの人生がないように、引き潮ばかり
の人生もない。必ず潮の満ちてくる時があるものだ。これは、私のように永く人生を生きてきて、初
めてつかみ取ることのできる実感である。
引き潮の時は、浅瀬でばちゃばちゃやるような愚かな抵抗を試みてはならない。そのようなときは、
じっくりと自らの内面蓄積に力を注ぎ、将来に備えるのである。やがて必ず潮が満ちてくる。運命の
女神の黒髪は、これをむんずと掴んで絶対に放してはならないという。だが、その黒髪は、それを握
り続けるだけの膂力があって初めて、しっかり握り続けることができるのである。
世の中に足りないものは、ポストではなく人である。あるポストを掌握するに足る底力さえ身につ
けていれば、それに相応しいポストは必ず与えられる。これも永い人生を生き抜いてきた私の実感で
ある。
しばらく不遇の時代が続こうとも、それを呪ってはならぬ。志を果たし得ないのは、世の中が悪い
のでもなく、時代が悪いのでもない。すべては自らの内部蓄積が不十分なのだと思え。論語に言う、
「人知らずして恨みず、また君子ならずや」とは、この消息を語った先哲の思想なのである。
諸君にひとつ提案がある。それは、「愚直に生きよ」という提案である。目から入って鼻から抜け
るような利口者では、人生を生き抜くことができない。愚直に生きたからと言って大成するとは限ら
ないが、愚直でなければ絶対に大成することはできない。秀才諸君であるだけに、このことを強く腹
に納めて頂きたいと思うのである。
諸君は若く美しいが、その諸君にも、年老い衰える日が確実にやって来る。人は必ず死ぬるもので
ある。死は諸君にとり、遙か地平線の彼方に、遠望できるかどうかという程度の存在でしかないが、
老境にある私にとって、死は隣人である。自らの滅びを身近に実感するようになったとき、人が強く
感じるのは、個人的利益ではなく、自らが滅び去った後にも、この国土に生きていく、若く幼い人々
の幸せである。乳母車に乗り、また年若い母に手を引かれて、よちよち歩きする幼子の、末永い幸せ
を願わぬ者があろうか。
人間をエゴイストであるととらえる思想が最近専らであるが、決してそうではない。人間は、自ら
の幸せだけではなく、他人の幸せをも強く願う生き物である。崇高な目的のために自らを捧げたい、
そのような内的衝動が、諸君の心の、底深いところにインプットされている。諸君は、今は若く、逞
しく、自らが独り立ちする準備に急であるから、そのことには気づかない。しかし、いつの日か、諸
君は、自らの心の中に、それまで気づかなかった気高い理念が脈動していることに気づくであろう。
人は、自らの幸せのみを追い求めたのでは、遂に幸せになることができない生き物なのである。
諸君の進路は、様々に異なるであろうが、いかなる職業に就くにせよ、他人に尽くすという心を失
わずに生きていってもらいたい。そうすれば諸君は、自らの仕事に成功するだけではなく、真に豊か
な幸せを獲得することができるであろう。
諸君は、その人生に処する姿勢において、本校開校以来最高の生徒であった。それを深く自覚する
私としては、誠に別れを告げるに忍びない。だが徒に別れを悲しむのではなく、諸君のような若者た
ちと、一期一会の縁を共にできたことを、天に感謝したいと思う。
本日は、入間市長木下博氏をはじめ、ご来賓多数の皆様のご来駕を忝のうしている。諸君と共に深
く感謝申し上げたい。
ご列席の保護者の皆様に申し上げる。三年前にお預かりして以来、お子様は、かくのごとく見事に
成長された。ここに謹んでお返し申し上げる。校長の不徳の故に、至らざるは多々あったと思うが、
本日のめでたさに免じ、ご寛恕賜りたい。また、教職員は、常勤、非常勤、教職、事務職、そのいず
れとを問わず、全力を尽くして三年間、生徒諸君の育成に当たってくれた。ここにその労にも、深く
敬意を表する次第である。
最後に一言、諸君、親を大切にして頂きたい。親は、今は元気であっても、やがて年老い、衰え、
諸君より先に世を去っていくものである。そのことを忘れず、親に対する限りは、諸君の自我もある
程度抑制し、その老後に、全き幸せをもたらしてやって頂きたい。
名残は尽きぬが、万感の思いをこめて、ここに別れを告げる。諸君、さよなら。
平成16年
藤 棚
2月3日
第149号
狭 山 ケ 丘 高 等 学 校
学 校 通 信
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四色ボールペン学習法
校長
小川義男
「濡れたインクで乾いて書ける」
この小見出しを見て、諸君には何の事だか分かるまい。実はこれは、ボールペンが我が国に初めて
お目見えした頃のキャッチコピーなのである。昭和二十年の暮れ頃であったろうか。何しろ万年筆の
ように、インクが次から次に出てくるのだが、そのインクが濡れていない。書いた初めから乾いてい
るというのだから、当時の日本人にとっては驚きであった。しかもペン先には玉がついている。その
玉が、書き進むにつれてくるくる回るというのだから、中学一年生だった私にとっては、まるで魔法
のような話であった。「嘘だあ」と思った少年少女も多かったのではないだろうか。ともあれ、ボー
ルペンはそのようにして我が国の文房具界に仲間入りした。だか、その頃のボールペンは質も悪かっ
たし、数十年の後、それが万年筆を駆逐するほどの勢いになるなどとは誰も考えなかった。
「丹念に
赤鉛筆を削り終え
新しき歴史の参考書開く」
昭和二十五年の「蛍雪時代」だったろうか、読者の作品として、上記の短歌が掲載されていた。高
校三年生だった私も、短歌に熱中していた頃だが、すぐれた作品だと思った。
当時、下線・傍線を引く主流は赤鉛筆だった。勉強に疲れた頃には、上が赤で下が青の色鉛筆の芯
が大分太くなっている。片刃の安全カミソリの刃で、それを丹念に削るのだが、削りつつ、何かほっ
とするような思いがあった。新しい参考書を手に入れ、その第一ページに下線を引く時には、どきど
きするような喜びを感じた。ボールペンは、未だ色鉛筆に太刀打ちできるほどの質ではなかったので
ある。
ボールペンと万年筆の長短
次第にボールペンはその質を高め、万年筆に負けないどころか、これを駆逐するほど、勢いを伸ば
し始めた。
但し、万年筆にも捨てがたい所がある。それは、ボールペンに比べ万年筆は、筆圧をかけずにメモ
を取ることができるという点である。大学に進んで、長時間、大量のノートを取らねばならぬような
ケースに直面したときに、諸君も思い当たるだろう。
だが万年筆には致命的な欠陥がある。それは、いちいちキャップをしなければペン先が乾いてしま
うという問題である。だが「パイロット」は、万年筆のこのような短所を見事に克服した。ノック式
万年筆を発明したのである。上部でノックすればペン先が出てくるが、もう一度ノックすると引っ込
んでしまう。いちいちキャップを着脱する必要はない。これは大発明だと私は思う。私の学生時代に
も同様な物があったのだが、機能に問題があったのか姿を消してしまった。今度の製品は、そのよう
な欠陥を完全に克服しているようである。私も使ってみたが、あまりに使い勝手がよいので、自分用
のほかに 3 本買ってきて、何人かの先生にプレゼントした。
ついでに言うが、パイロットにしてもセーラーにしても、日本の万年筆は世界一である。モンブラ
ンやシェーファーなど足下にも及ばない。私は万年筆道楽で、若干のコレクションを持っているが、
使い勝手でパイロットに勝るものは世界にない。日本人の資質の優秀性を物語る一面であろう。
四色ボールペンの素晴らしさ
ボールペンの質が高まるのにつれて、市場には四色ボールペンが登場するようになった。この四色
ボールペンは、学問研究に欠かす事のできない物である。諸君もその有効性を理解して、是非活用し
て欲しい。もう赤鉛筆を削らなくても、マーカーペンで薄く汚く文献を汚したりしなくても、研究・
学習に励む事ができる時代が来たのである。私の経験をご紹介しよう。
私は文献を読むときに、大切なところ、争いのない「通説」などは、赤で傍線あるいは下線を引く。
定義や概念規定は青で、争いのあるところ、後でもう一度研究すべき所、参考文献、などは緑で線を
引く。書き込みは黒またはシャープペンシルで。これが私の研究の基本スタイルである。この方法は、
諸君が文学や評論を読むときばかりでなく、受験勉強にも活用できるのではないだろうか。
透明定規の特注
本に線を引くときには、必ず定規を用いるのがよい。ぐにゃぐにゃと手で線を引くと、読み返すと
き自己嫌悪に陥ってしまう。だが、市販されている定規には、目盛りその他余計な物が刻まれていて、
どうも目障りである。目盛りも何もない、完全に透明な定規はないものかと、世界中を探し回ったが、
旅行したどの国にもない。
そこで私は、これをメーカーに特注する事にした。本校は毎年度卒業生にお祝いとして記念品を贈
っている。今年は定規を記念品に選びたい。この特注定規には、小さな狭山ヶ丘高等学校というネー
ム以外には何も刻まれていない。これを 5、6 本袋に入れて卒業生に贈りたいと思うのである。ボー
ルペンや印鑑などに比べ、ずっと永く活用して頂けるのではないだろうか。
在校生のためにも、これを数千本用意しておき、何らかの方法で諸君に提供したい。私自身も、小
川義男とネームを入れた定規を、個人的に 1,000 本ほど購入しておきたいと考えている。なおサイズ
は 15 センチと 20 センチの二種類である。
四色ボールペンの活用がどれほど大きな成果をもたらすか、私は諸君自身に体験して頂きたいと願
うのである。
平成16年1月8日
藤 棚
狭 山 ヶ 丘 学 園
第148号
学 校 通 信
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/js/
平成 16 年、年頭に思う
校長
小川義男
昭和 64 年が平成元年である。本校に在籍する生徒諸君は、この年に前後してこの世に生まれ
た。諸君の見事な身体、頭脳、意志力に接すると、平成に入ってからの歳月が、どれほど大きな
ものであったかを痛感させられる。
新年おめでとう。かけがえもなく尊い青春の一年間だ。この一年に悔いを残さぬよう、しっか
り生き抜いていってもらいたい。
我々教師は、平素の授業に全力を傾ける。私が担当する朝ゼミを始め、各種の補習にも力を尽
くしていく。だが、学問とは究極において自学自習に依存するものなのではないだろうか。一斉
指導としての授業には、どうしても無駄が避けられない。授業に臨んでは、事前に予習を深め、
教師の話を確認と記憶定着に活用することが大切である。そうすれば、平素の授業を、プラスに
活用することができる。
私が本格的に勉強し始めたのは 30 歳を過ぎてからである。明治大学法学部二部三年に学士編
入した頃だ。例えば刑法の授業で私は、予想される範囲を徹底的に勉強し、その内容はすべて記
憶した上で講義に臨んだ。学説の争いのある部分に関しても、自分なりの結論を持って教授の話
に耳を傾けるようにした。教科書とノートは用意してはいたが、それを開くことはなかった。教
授から絶対に視線をそらさず、自分の知識が正しいかどうか、学説の争点に関して教授はいかな
る立場をお取りになるか、そのあたりを考えて授業に臨んだ。だから、眠くなることも飽きるこ
ともなかった。90 分が、矢のように過ぎ去るのを感じたものである。授業を生かすために、予
習がいかに大切であるかを理解して頂きたいのである。
「学問とは結局自学自習である。」どうか諸君、自分が自分の先生になり、いかにすれば効率
よく実力を身につけられるかということを考えて、積極的学習の姿勢を確立して頂きたい。
国際情勢に目を転じよう。見落としてならないのは、テロリズムに対して厳しい姿勢、非妥協
的な姿勢を貫くことの重要性である。逃げ隠れるフセインを英雄的に報道する動きが世界各国に
見られたが、穴蔵のフセインは、厖大な現金を抱いて、どぶ鼠のように震えおののく存在に過ぎ
なかった。少数民族を毒ガスで大量に殺害し、国民どころか、身内にまでテロを働くような男の
末路は、所詮この程度のものでしかない。フセインが捕まった後、リビアのカダフィ氏は、核兵
器を放棄することで生き残りの道を模索した。これがカダフィ氏の良心のしからしめる所だと考
える人はあるまい。すべてアメリカの、強大な軍事力に対する怯えに発するものなのである。
アメリカは、北朝鮮に対して、三月までに核兵器を全面的に放棄する旨宣言することを要求し
ている。我が国には、北朝鮮の暴発を恐れる向きが少なくないが、それとは逆に、北朝鮮は、こ
のところ融和的、妥協的なのである。彼らは、平壌を拉致被害者全員が訪れて、北朝鮮の面子を
立てる限りにおいて、彼の地に残っている彼らの家族を帰すとまで妥協した。これは断じて、彼
らの良心の発露などではない。三月以降の、アメリカの軍事力行使への恐怖、日本国民の一致し
た怒りの存在が生み出したものである。特に日本の経済制裁、万景峰号の入港禁止措置への恐れ
は大きい。
テロを過大に評価する動きがある。イラクが泥沼化し、結局アメリカは敗退するであろうとす
る見方もある。あるいはこれは「見方」というよりは、「期待」と言った方が正しいのかも知れ
ない。
だが、アフガニスタン、イラクに対する全面的軍事行動が行われて以来、世界各地に、大規模
なテロ活動は姿を潜めてしまった。ビンラディン本人と称する声が、その後しきりにテロによる
反撃を叫んでいるが、彼らはアメリカ、イギリス等の大国に対し、大規模なテロ攻撃を行えずに
いる。テロは正規軍には絶対に勝てないのである。
但し、日本のように警戒態勢ゼロの国家の場合は、被害の可能性がないとは言えない。国際社
会が危険な場所であるという事実を正しく認識し、我が国もまた、適正な防衛体制を確立しなけ
ればならないであろう。
私は、北朝鮮の事情は、おそらくこの一年の間に劇的に変化するだろうと予想している。隣国
の民衆の幸福のため、個人独裁の体制が崩壊することを切望するのである。
国内では、少子化、高齢化がもっとも深刻な問題である。少子化については、前回述べたので、
ここには触れない。
高齢化、老人介護は、解決を急がれる問題である。医療、年金問題も予断を許さない。
介護
が家族の問題としてでなく、国家や社会の問題として論じられている傾向を、私は深く憂慮する。
社会福祉のための各種法人や、株式会社による老人ホームが数多く設立され、世はまさに「社会
福祉時代」の感が深い。だがその実態には、社会福祉を名として、老人の乏しい金を収奪し、介
護保険を食い物にするような傾向も見受けられる。家庭が老人の安住できる場所ではなくなり、
すべてが社会福祉施設に委ねられるとすれば、これは新しい形の姨捨山ではないのか。
親の老後の面倒を見る第一の責任は、その子供にある。諸君が生まれたときには涙して喜び、
諸君が病に倒れたときには、身を以て代わりたいと願うほどの思いで看病してくれた親である。
その大切な親を、
「国家による介護」などに丸投げして良いものか。できるだけの手を尽くして、
老いたる親の面倒を見、弓折れ矢尽き、家族全体が身も心も疲れ切ったとき、初めて施設に頼る、
これが家族と国家による介護との、あるべき本当の姿ではないだろうか。それは、やがて諸君自
身が老齢の時代を迎えたとき、晩年を心豊かに生きることにも直結する。
ともあれ、この一年が日本にとっても、諸君のご家族にとっても、幸せ多い一年となりますよ
うに。
平成15年12月20日
藤 棚
狭 山 ヶ 丘 学 園
第147号
学 校 通 信
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/
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平成十五年に残された課題
校長
小川義男
今年も暮れた。今日が終業式だから、明日から生徒諸君は冬休みに入る。それぞれのご家庭で
も、年の瀬を控えて、何かと慌ただしい日々を過ごしておられる事であろう。
一年を振り返ると、イラクへのアメリカの侵攻が、今年最大の事件だったのではないだろうか。
かってキリスト教は、200 年近くにわたってキリスト教十字軍を発し、イスラム諸国の人々に、
暴行、殺戮の限りを尽くした。その被害者のほとんどはイスラム教徒である。近世以降、キリス
ト教国家は、アジア、アフリカ、中南米のほとんどを植民地と化し、そこに住む人々に言語に絶
する苦しみを与えた。このような歴史に照らすとき、イスラム圏の人々が、キリスト教国家に、
疑念と反感を抱く事は十分に理解できる。
だがそれだからと言って、フセインのテロ支援やクウェート侵略、自国民に対する暴虐等が免
責されるわけではない。世界における日本の立場を深く考えれば、日米同盟に立つ以外に、我が
国の生きる道はない。我々は確乎としてアメリカを支持しつつも、イスラムやパレスチナの人々
の衷情を理解し、今後百年を見通した国家の進路を模索して行かなければならない。
今年は衆議院選挙の年でもあった。政界のあまりの不甲斐なさに、私自身国政に進出しようか
と大まじめに考えたが、学校の将来を考え、辛うじて立候補を踏みとどまった。
それにしても、小選挙区制の弊害には目に余るものがある。私は、来年早い時期に、「小選挙
区制は国を滅ぼす」と題する論文を発表する予定であるが、政治家が、何でこのようにばかげた
選挙制度を選択したのか、理解に苦しむ。
自民党は、私の選挙区においても、「小選挙区は自民党に、比例区は公明党に」と訴える有様
であった。一つの選挙区から一人の当選者を出すためには、過半数の支持を得なくてはならない。
当然公約は、最大公約数的なものとなり、それぞれの政党の独自性は失われてしまう。市長選挙
ならそれでも良かろう。だが、微細な点で、政策の違いを問題にしなければならない国政選挙は
そうではない。結局政党は、その独自性を捨て去らなければ当選できない事になってしまうので
ある。
憲法改正反対、少年法改正反対、教育基本法改正反対の公明党と、これとは正反対の理念を持
つ自民党が連携して、何ができるというのか。そんなざまで、どうしてそれぞれの政党の独自性
を発揮できるというのか。
選挙で政策主張に独自性を失った場合、その政党は衰微する。自民党と公明党の政策協定は、
結果的に自民党の政治基盤を弱化させた。これを生み出したものは小選挙区制である。それかあ
らぬか、小選挙区制実施以来、国民の棄権者の数が激増している。政党のもたれ合いの結果、選
挙戦そのものが面白くなくなってしまったのである。
小沢一郎をはじめとする小選挙区制推進論者、政治学者諸君は、今日になっても、この古くさ
い小選挙区制思想を離陸することができない。この愚かなシステムを脱却すること、それが来年
に課せられた課題であろう。
年金制度崩壊の危険が叫ばれる。まじめに共済組合費を払い、病気も全くせず、病院のお世話
になったこともない私など、ここで年金制度に崩壊されたのでは、たまったものではない。
これには解決策がある。老人を七十歳まで働かせればよいのである。労働力の不足などと政治
家は言うが、冗談ではない、おかしな定年制度などを設けるから、そんなことになったのである。
我が国に、労働力は有り余っている。心身強健な高齢労働力がそれである。
但し、体力や気力
のない者は、無条件に退職させられる制度が作られなくてはならない。勤労意欲のない者を罷免
する事ができないから、六十歳で一律に退職させるという、画一的定年制が生み出され、結果的
に労働力の不足を生んだのである。寿命が延びたのなら、その伸びた分だけ働かせれば良いでは
ないか。これも来年に残される課題である。
人口減少が問題になっている。国家の政策的貧困が生み出したものである。私は、ここで、年
功序列的賃金体系を廃絶すべきだと考える。若いときから七十になるまで、給料は一律 25 万円
と確定してしまうのである。同一労働同一賃金を、文字通りに実現するのだ。子供がひとり生ま
れたら、育児手当を 10 万円支給する。これは、子供が 22 歳になるまで続ける。3 人の子供が生
まれたら、総収入は 55 万円になる。5 人生まれたら 75 万円だ。少子化問題などふっとんでしま
う。
年功序列撤廃の波及効果は大きい。労働力の流動性が保障されるからである。私の学校でも、
同じ給料なら、新卒よりも五十代の教員を採用したい。離婚などで働かなければならなくなった
女性にも、パートなどではない職場が確保されるようになるであろう。
ゼロ歳保育を小泉内閣は増進しようとしているが、馬鹿げたことである。幼子を他人に委ねて、
すぐれた人間形成のできるわけがない。これは、乳幼児を抱えた女性の職場復帰が確保されてい
ないために起こる社会病理現象である。育児のための休職を 10 年程度与え、その後の職場復帰
を保障すれば、ゼロ歳保育など吹っ飛んでしまうであろう。
老人介護を含め、子育てと老後の面倒を家族が見ることのできない政治制度にこそ問題がある。
来年は、この事も深く考え、政策の中に実現させて行きたいものである。
ところで、「あらすじで読む日本の名著」は、目下 40 万部に迫る勢いである。本校の生徒募集
に及ぼす影響も大きい。今年は、本校の飛躍的発展の年であった。だが油断はならぬ。生徒、保
護者、教職員、一丸となり、狭山ヶ丘高等学校のさらなる発展を目指して進まなければならない
と思うのである。
平成15年12月1日
藤 棚
狭 山 ヶ 丘 学 園
第146号
学 校 通 信
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イラク情勢について
校長
小川義男
ゲリラをどう考えるか
世界各国でゲリラが暴れ回っている。少数者の暴力であっても、情け無用のテロを繰り返す限
り、世界全体でも支配できそうな彼らの勢いである。だがそうではない。ゲリラは絶対に正規軍
には勝てない。また、自爆テロごときで、世界どころか、一国ですら支配できるものではない。
それなのに、彼らは何故これほど強力に見えるのか。それは、彼らが攻撃している対象が、民
主主義を国是とする体制だからである。人権を尊重する民主主義の下においては、拷問が行われ
ない。イラクの「捕虜」たちを、フセインがやったような、あるいは社会主義諸国すべてが行っ
ていたような残忍な拷問にかけたとすれば、「捕虜」たちは、その有するすべての情報を告白し
たであろう。黙秘権まで告知する民主的取り調べでは、彼らの情報のひとかけらも引き出す事は
できない。フセインを捕縛できない本当の理由は、民主主義体制の、このような「弱さ」にあっ
たと私は考える。
東京にも、アルカイダの手先が侵入しているとの情報がある。彼らが隠れ蓑としているのは、
世界最高とまで言われる、我が国の「人権」である。何しろ我が国の「人権保障」は徹底的であ
る。ゲリラはこれを拠り所にして、文明をその背後から攻撃するのである。
だが、このように卑劣な攻撃を続行する事によって、民主主義や国の体制を揺るがせる事がで
きるものではない。もし彼らの攻撃が、国家そのものを揺るがすようになったときには、国家は
「人権」をかなぐり捨て、彼らに対する全面的反撃に出るであろう。そのときには拷問も行われ
よう。「疑わしきは殺す」というような厳しい反撃も行われよう。自爆攻撃に対しては、連座制
さえ採用するようになるであろう。犯人の一身眷属ことごとくが処刑されるというような事態に
直面すれば、自爆攻撃など行えるはずがないのである。
そんな事をやれと言っているのではない。少数者が卑劣なテロを続行して、他国や文明を支配
しようとすれば、文明の側でも、これに対処する十分な措置を取る事ができるのだと私は言いた
いのである。
イラク派兵と同盟関係の意義
アメリカのイラク出兵が正義であったか否かは難しい問題である。ただここで私は、その正邪
とは別に、同盟関係の重要な意義を指摘しておきたい。イギリスは、世界に多数の植民地を築き、
アジア、アフリカの人々を徹底的に痛めつけた。キリスト教国のほとんどが、我々有色人種に対
して、言語に絶する迫害を続けた事も世界史の教えるところである。
だが、そのイギリスとの同盟、すなわち日英同盟によって、我が国は三十年間にわたり独立と
繁栄を維持する事ができた。日露戦争に負ければ、我が国はロシアの植民地にされるはずであっ
たが、この戦争に勝ち残れたのは、ひとえに日英同盟のおかげだったと私は考えている。
国際同盟の持つ意義を軽視し、浅はかにも国際連盟を脱退したのは、外務大臣松岡洋右であっ
た。その後の日本がどのような運命をたどったかは、諸君もよく知るところである。大東亜戦争
以後、我が国とアメリカは六十年近くにわたって緊密な同盟関係を結んで来た。尖閣諸島を脅か
す中国、竹島をすでに占領している韓国、北方領土の不法占領を続けているロシア、このように
危険な国際環境の中で、我が国が平和と繁栄を謳歌して来れたのは、この日米関係のおかげであ
る。日米同盟を離れて、我が国が、その独立と繁栄を維持継続できるものではない。
我が国は、EU の名の下に、事実上「ヨーロッパ合衆国」を形成している、ドイツやフランス
とは、全く異なる国際条件の下に置かれているのである。
イラクは「ベトナム」のように泥沼化するか
一部にそれを期待する勢力も存在するが、イラクがベトナムのように泥沼化する事は絶対にな
い。「ベトナム解放国民戦線」というようなものは、実際には存在しなかった。それは、彼らが
主張したような、南ベトナムに土着した民族独立運動ではなく、共産主義北ベトナムの正規軍だ
ったのである。彼らは、攻撃される事のない北ベトナムを根拠地として、アメリカ軍を攻撃した。
これに対する北爆は効果的ではあったが、全世界のベトナム支援組織が、アメリカの世論を動か
し、その継続を許さなかった。アメリカはベトナム戦争に負けたのではなく、アメリカの世論に
負けたのである。
イラクのゲリラには、北ベトナムのような支援国家は存在しない。アメリカは、必ずイラクに、
健全な政府を樹立する事に成功するであろう。
自衛隊派遣は行うべきか
難しい問題であるが、派遣せずに日米同盟を維持する事はできまい。
派遣の是非を回って、自衛隊員に危険が及ぶかどうかという事が争点とされている。だがこれ
は恥ずべき論争である。水もなく、食料も乏しく、満足に医療を受ける事もできないという人々
が存在する以上、ゲリラがいかなる妨害をしようとも、我々は彼らを助けねばならぬ。火災で逃
げ遅れた人がいるとき、消防士は身の危険を忘れて猛火の中に突っ込んで行くではないか。安全
なら助けに行くが、危険なら行かないなどというのは、国の恥を世界にさらすようなものである。
但し、派遣の前に、アメリカと世界に要求すべき事がある。それは、国連憲章から敵国条項を
撤廃する事、日本を国連の常任理事国に加える事の二つである。アメリカがこれに同意しないな
らば、我々は金も人も出す必要はない。20%の国連分担金も払わない事にしようではないか。こ
の程度の要求を突きつける事もできずに、金も出し、人も出すというのでは、小泉氏は、総理と
しての資質を決定的に欠いている事になるのである。
平成15年11月1日
藤 棚
狭 山 ヶ 丘 学 園
第145号
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携帯電話考
校長
小川義男
携帯電話は便利な物ではあるが道具である。いかに便利であっても、それは所詮道具に過ぎな
い。携帯電話に使われたり、支配されたりしてはならぬ。
最近では、これが犯罪に使われるという傾向が出て来ている。メールを通じて女生徒を脅迫す
るというような犯罪も出現しているようである。学校内でこのような事が行われた場合、自主退
学は許されない。当然退学処分となるから、諸君も心に隙を作らぬよう、自戒して日々の生活を
送ってもらいたい。
勤務中、携帯電話のカメラで、女性の下着を写していた警官もいたと言うから、開いた口がふ
さがらない。この国全体が狂ってしまっているのであろうか。
様々な問題を抱えている携帯電話であるが、実はその最大の問題点は、携帯電話が犯罪に利用
されるというような問題ではない。問題は、それが若者をごくごく狭い人間関係の中に閉じこめ、
孤独に耐えられない人間を育ててしまっていることにあると私は思うのである。
すぐれた友人と話し合うことは、常にすばらしい成果を生む。天啓のごとき閃きに接すること
もある。だがそれが思想として熟成し、人を動かすほどの大きな思想に発展するのは、ひとり深
沈たる思考と内省に身を委ねた後なのである。孤独なしに偉大なる思想が生まれたりはしない。
友人も大切ではあるが、孤独による内部的熟成を経ずに自己完成を達成できるものではない。
「友
人と孤独とどちらが大切か」そう問われたら私は、躊躇う(タメラウ)ことなく孤独だと答えるであろ
う。
孤独は、しばしば趣味になるほど素晴らしいものではあるが、人間は本来社会的動物である。
人間に三つの欲望があると言われる。食欲と性欲と、社会欲である。前二者はおくとして、人間
は常に集団の中で一定の評価を獲得することを求める。実は、老人問題の最大の困難はこの点に
あると私は思うのである。常に周囲からの愛や信頼、尊敬を貪婪(ドンラン)に求める人間は、絶対
の孤独の中で生きることはできない。私自身、数日書斎に閉じこもり読書三昧の生活を過ごした
場合、必ずといって良いほど、心に満ちあふれる満足感、幸福感を覚える。思想的、人間的に確
かに大きく前進したと思う。だがその瞬間、私は集団の中に出かけていって、それを誰かに語り
かけずにはいられないという衝動を覚えるのである。いかに孤独を愛するとは言っても、人間は
遂に、孤独のままにその生涯を全うすることはできないのである。
だが、いつもいつも集団の中に浸りきっていて、衆と共に流れたのでは、人間性を磨き自己完
成の道をたどることはできない。
「自己完成などどうでもよい。僕は楽しくさえあればよいのだ。」
と主張する人もいるかも知れない。だがそれは間違いだ。人間は絶えず向上しようと努力し、実
際に向上できたと自覚できるのでなければ幸せになれない生き物なのである。それを金儲けに転
嫁している人間もあるが、それとても、社会的評価を求める人間の本質が屈折した形で表出して
いるに過ぎないのである。
だから、友人たちと楽しく過ごしている間にも、人はそっと抜け出して孤独になる一瞬を確保
しなくてはならない。孤独と交流、その適度のバランスの中からのみ、人間は向上と幸福感とを
獲得する事ができるのである。
私は 18 歳で中学校の英語教師になったが、その頃の作品に次のようなものがある。夜、職場
の仲間との宴会から抜け出し、下駄の素足に夜露を感じながら詠んだ歌である。
同僚の
愚かしさより
月照る庭を
逃がれんと
ただひとり行く
孤独になると人は寂しい。誰か話し相手が出現してくれないかと思う。だが誰かが出現し、話
し合いが深まっていくと、今度は相手が煩わしくなり、たったひとりの時間に戻りたいと思う。
それが人間である。人間の悲しい性(サガ)と言って良いかも知れない。
携帯電話は、その意味で絶妙に素晴らしい道具である。寂しくなればボタンを押して親しい友
と話し始めればよいのだし、孤独になりたくなれば、ボタンを押して早々に話を切り上げればよ
い。まことに重宝な道具である。
だが、携帯の長話はどうであろうか。私はそれが、人間から孤独を奪い去りがちであるだけで
なく、その人間関係を、ごくごく狭いものに限定しがちであることを深く憂慮するのである。
人間、特に若者は、その人間関係を常に幅広いものに保っておく必要がある。好きな人とも、
嫌いな人とも、一見全く無関係と思われる人とも人間関係を保っておくべきなのである。
携帯電話は、たやすく交流を確保すると共に、若者から孤独を愛する心を奪う。果ては携帯を
媒介として、ごく親しい人間と話合っていなければ生きていけない、貧しい人間関係を形作って
しまいがちなのである。
携帯が普及して、公衆電話を維持することすら難しくなってきた。しかし、常に「公衆電話」
がポケットの中にあるのだから、こんな便利なことはない。しかし、あくまでもそれは道具であ
る。所詮道具に過ぎない。道具に振り回され、自らの主体性を喪失するようなことで知性を磨き
上げていくことはできない。
たまに一週間くらい、携帯を家に置いて来て、「孤独の日々」を過ごしてみるのも一興なので
はないだろうか。
平成15年11月1日
藤 棚
狭 山 ヶ 丘 学 園
第145号
学 校 通 信
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短期間に実力はつく
青春の「時のしずく」を浪費するな
校長
小川義男
素敵な方だが、最近マスメディアで見かける事が少なくなったから、諸君はその名を知らない
かもしれない。江田五月(エダサツキ)という政治家である。学生運動に明け暮れて東大法学部を卒
業し、裁判官になった。その後、江田三郎氏の死去に伴い、父の衣鉢(イハツ)を継いで国会議員
になった。
彼は、司法試験を 10 ヶ月の勉強で突破したということでも有名である。確か雑誌「法学セミ
ナー」で読んだのだと思うが、記者が、「江田さんは司法試験を 10 ヶ月の勉強で突破されたとい
う話を聞きましたが、それは本当ですか。」と尋ねた。彼は次のように応えている。「ええ、本
当です。でも、あのような勉強は 10 ヶ月以上は無理なのではないでしょうか。」彼の勉強がどれ
ほど凄まじい(スサマジイ)ものであったか、分かろうというものである。しかし、猛烈に勉強すれ
ば、司法試験でさえ 10 ヶ月の勉強で突破できるという事なのであろう。まさに、「激しく攻める
者は天国をも奪う」のである。
三年生の諸君は、夏休みをどのように過ごされただろうか。この期間、三年生に限らず正規の
授業はないというのに、驚くほど沢山の諸君が補習授業に参加していた。自習室や各教室に散ら
ばって、日がな一日自習に専念していた人の数も多い。
しかし、心ならずもついつい怠け心に誘われ、さしたる勉強もせずに秋風を迎えた人も少なく
なかろうと思う。そのような場合、人はどうしても目標を切り下げ、対象を安易な水準に据え、
それを正当化することによって局面を切り抜けようとしがちなものである。
だが、それは断じて間違いだ。青年はいかなる時にも易きについてはならず、その目標を切り
下げてはならない。受験までに、まだ 6 ヶ月を残している今日においては特にそうである。
江田氏の経験からも考えさせられるのだが、真剣に勉強するならば、6 ヶ月以上の勉強は無理
ではないかとさえ私は思う。だから、たとえ秋風が吹き始めるこの頃からであろうとも、大学入
試に遅すぎるなどということは決してないのである。
但し、これからは絶対に安易な勉強に終始してはならぬ。諸君には文字通り死にものぐるいの
努力が求められるのだ。
私はしばしば、「神懸かり的に」「超能力的に」なるまで自らを追いつめよと諸君に語ってき
た。人間の頭脳は、その半ば以上が眠り込んでおり、なかなかフル回転というわけには行かない。
私自身の経験では、一週間ほど猛烈な勢いで勉強すると、頭脳は異常と思えるほどの力を発揮す
るようになる。素人考えだが、頭脳を酷使すると、これまで活動していなかった領域に血流が流
れ込み、常人では考えられぬような思考力、判断力を人に与えるのではないかと思うのである。
このあたり、まだ確信が持てない人は、遠慮なく校長室を訪ねてほしい。私の体験も語り諸君
の参考に供したい。
但し、効果的な学習方法を確立する事は何よりも大切である。勉強には疲れるばかりで何にも
ならないやりかたもあるし、それほど疲れず、長続きして、しかも確実に力がつくという勉強方
法もある。私は、その方法を工夫する事によって、あらゆる入学試験を突破して今日に至った。
繰り返す。三年生諸君、まだ決して遅いなどということはない。勝負はこれからだ。本当の勝
負はこれからの半年をいかにして完全燃焼するかということにかかっているのだ。
一、二年の諸君は、最後の勝負に向け底力を養っておいてもらいたい。その場合もっとも大切
なのは、基礎基本をしっかり身につけるという事である。
忘れてならないのは読書だ。今度、本校の先生方が書いた「あらすじで読む日本の名著」は、
ベストセラーにランクされるほどの売れ行きで、TBS テレビの「王様のブランチ」でも取り上
げられた。これこそ、文学に親しむきっかけを作る上で最高の入門書であろう。これをよく読む
中で、さらに幾つかの古典に向け精進を続けてもらいたい。同書は、あまりの好評ぶりから、重
版を重ねる中で「続編」が計画されるまでになっている。
文学、思想に深く触れる事は、大学入試突破に向けての底力を身につけさせるばかりでなく、
人としての生き方、明日の指導者として生きる諸君の人生観形成に大きな影響を及ぼすものだと
確信する。
青春の時は「陽のしずく」「時のしずく」にも似て、例えようもなく尊い。振り返って私自身
は、燃えるような青春を生きぬいて来たが、それにしても、その青春に「憾み」がないわけでは
ない。それは、青春の日々に、もっと多くの本を読みたかったという思いである。
豊かな教養、人生に対する透徹した思い、そのような深さを身につけて大学に進み、自己完成
の歩を進める事こそ、若人最大の課題であろう。
まだまだ時間があるからと油断してはならぬ。時が迫っているからと安易な選択肢を選んでは
ならぬ。常に自己内面の弱さに立ち向かい戦い続ける者こそ若者にほかならない。
折から涼風の秋。背筋を伸ばして「明窓浄机」(メイソウジョウキ)に向かえ。深呼吸して、書を開こ
うではないか。
平成15年7月19日
藤 棚
狭 山 ヶ 丘 学 園
第142号
学 校 通 信
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細心の注意で自らの安全を守れ!
校長
小川義男
沖縄での中学生に対するリンチ殺人、中学生による駐車場ビルからの幼児の投げ落とし殺人、
一昨日はまた、小学校女児四人の監禁被害ならびに犯人の自殺が報じられている。世の中は全く
どうなっているのであろうか。
高校生にも、危険は迫っている。
男子生徒は、今人生で最も体力に恵まれている時期ではあるが、その彼らとて、決して安全で
はない。聞くところによると、最近の暴走族は、その多くが暴力団に系列化されているそうであ
る。系列化されれば「上納金」を納めなければならない。高校生が簡単に金を儲けることはでき
ないから、結局、窃盗
ひったくり
恐喝等の犯罪に走ることになる。ぬけ出したくても簡単で
はない。悪くすると殺されるかもしれないのである。
少年による殺人事件に対する処罰は呆れるほど軽い。家裁、地裁の裁判官の審判、裁判は、話
にならないくらい甘い。今や殺人少年たちは、自分たちは、何人をどのように残虐な方法で殺そ
うとも、決して死刑にはならない。悪くて一、二年も少年院に行けばそれで済む。名前も顔も絶
対に公表されることはないと確信しているのである。だから「脱落者」に対しては極めて過酷で
あり、軽い気持ちで殺してしまったりもするのである。
昔のやくざには、建前だけにせよ、「任侠」という精神があった。今のやくざは北朝鮮と組ん
で麻薬を密輸入し、同胞の若者を毒するというようなことを平気で行う。多発する中国人犯罪も、
暴力団と連携して為されている場合が少なくない。政治、警察の無力がこれを加速しているが、
その根が国民精神の衰弱にあるだけに、簡単に「弱腰の政府や警察」を非難することもできない
のである。
「事故」は夏に起きやすい。友達を選んで、少なくとも身に迫る危険にだけは近づかないよう
に心がけて頂きたい。
女生徒には、男子に数倍する危険が迫っている。二年前に比べ、「出会い系サイト」に伴う恐
喝、売春強要等の犯罪は、検挙されたものだけでも 17 倍に達しているそうである。最初は信頼
できる相手と思って関わりを持つのであろうが、あらぬ場面をビデオに写され、それで売春その
他の行為を強要される場合も少なくない。麻薬に汚染させた後に「解放する」というようなこと
も考えられるのである。
性犯罪は、既遂に達してしまえば、それが表面化することは少ない。事件の一々が報道されな
いだけに、必要な警戒心が失われがちなのであるが、最近の女子中学生、高校生の中には相当数
の性犯罪被害者が隠れているのではないかと思われる。現に 4 人の小学生の性被害者まで出現し
ているのである。
この種の性犯罪の恐ろしいところは、加害者に生涯つきまとわれる危険を伴うということであ
る。ビデオ、写真、奪った学生証等をゆすりの材料に使い、中には結婚した後までつきまとわれ
たというケースもある。
部活動も、女生徒を安全な時間帯に下校させなければならない。8 時過ぎに女生徒を下校させ
ているようなケースも稀にあるようであるが、とんでもないことだ。自分の実の娘だったら夜の 9
時過ぎに、人気ない夜道を帰宅させるなどということができるであろうか。本校は夜 7 時を下校
時刻としているが、今日の情勢では、これも一考を要するのではないかと考えている。
夜道で女生徒が被害に遭ったというケースは、驚くほど多い。学校に届けられる「被害届」が
すべて未遂事件であるのも気になる。その陰に、相当数の既遂事件が隠れてはいないであろうか。
今日、性犯罪の多くは、暗がりに引きずり込むなどという古典的な方法ではなく、車に引きずり
込むという形で為される。すべてが未遂に終わっているはずがないのである。
治安の良かった時代から、良家の子女は日没以後は他出しないというのが慣習であった。それ
が崩れたのには、学習塾の存在が大きく関わっていると思われる。
女生徒のアルバイトが少なくないようであるが、アルバイトに関わる性被害が少なくないこと
も注意して頂きたい。
アルバイトとは言え、「職場」である以上、そこには絶対的な指示、命令の関係がある。たと
え暗い倉庫の中であろうとも、ついて来なさいと言われたらついて行かなければならない。暴力
的事犯ではなくても、手慣れた悪質な上司に弄ばれたというケースは決して少なくないのである。
学校とは質的に異なる「権力関係」の中に、世間知らずの娘を送り出すことの危険性を、親はも
っとしっかり弁えなくてはならない。ご両親は、これまで育ってきたご自分の環境の素晴らしさ
から考え、安心なさっておられるのかもしれないが、今は時代が違うのである。
高校生は、小銭を稼いでアクセサリーを買うなどという貧相な夢に時間を浪費してはならない。
早稲田の大学院で私が驚いているのは、院生諸君の貧しさである。彼らは金がないという理由で
コンパに参加せぬことさえ多い。院生だから、条件の良いアルバイトの口は幾らもあるのであろ
うが、彼らは寸暇を惜しんで学び、金があれば本を買ってしまう。だから、良家の出であるにも
かかわらず、彼らは常に貧しいのである。その貧しさに私は例えようのない畏敬の念を抱く。
夏が来る。燃える青春の夏だが、夏には危険も一杯である。親と諸君自身、特に親の警戒心を
私は切望するのである。
平成15年7月19日
藤 棚
狭 山 ヶ 丘 学 園
第142号
学 校 通 信
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豊かな教養を身につけましょう
校長
小川義男
先日ある会合で、世界で最も学問思想が成熟した時期がふたつあるという話を聞きました。ひ
とつは後漢の時代。この時期の学問的熟成があったから、その後の時代を描いた三国志が面白い
のだそうです。今ひとつは江戸時代の二百年です。外国との交渉が限定された中で、文化、芸術
が日本独自の発達を遂げたのでしょう。
私は、ヨーロッパ文明は、漢学の持つ思想的豊かさに到底太刀打ちできないように思います。
実に漢学は、人がその生涯を捧げても汲み尽くすことの出来ない思想的大山脈です。
私は学問上の必要もあって、今漢文の勉強を始めているのですが、まさに「日暮れて道通し」
の感があります。吉田松陰は、物心つく頃から論語の素読を学び、少年時代に主君に漢学を講ず
る程になっていたとのことです。私がこれからどれほど精励した所で、所詮漢学の入り口辺りを
徘徊する程度に留まるでしょう。年少の頃に、なぜひたすら勉学に熱中しなかったかが悔やまれ
てなりません。二度とない人生であるだけに、悔恨の思い深いものがあるのです。
諸君もすでに高校生ですから、その記憶力も少年時代に比べれば相当程度減退してきているは
ずです。しかしそれでも 18 歳前後の記憶力は、まだまだ相当の力を持っています。どうか漢文
の勉強に力を入れて下さい。
学校での授業だけでなく、漢文の参考書を買ってきて、独自に学習を始められてはどうでしょ
うか。書店に行けば、最近は大変優れた入門書が発売されています。
古文は我が民族が世界に誇るに足る文学です。万葉集にとどまらず、源氏物語その他、世界的
な水準の作品が少なくありません。先ず徒然草
枕草子あたりから始めて、趣味として古文を読
めるインテリゲンチャーに育って頂きたいものです。
諸君の努力に期待します。
女性は身を守る術(スベ)を心得ましょう
早稲田 学習院 日大等の学生による継続的な婦女暴行事件が報道されています。アルコール含
有度 95 パーセントを超える酒を飲ませ、意識を失わせた後、集団で暴行に及んだというのです
から、その犯罪性はまことに以て許し難いものです。この種の性犯罪は闇に埋もれる事が少なく
なく、発覚した場合も比較的軽く処断されがちです。
イスラムの場合、殺人と強姦は打ち首と決まっているそうですが、そのくらいにやってもらい
たいものです。せめて、仮釈放なしの終身刑くらいに罰則を強化できないものでしょうか。
この悪質犯罪者どもに対する怒りと憎しみには格別のものがありますが、同時に私は、被害に
あった女子学生諸君の無軌道、非常識にも批判の目を向けたいと思います。
真夜中過ぎまで乱痴気騒ぎを繰り返し、二次会、三次会で正体がなくなるほど酔いしれている
というのは不用心が過ぎるのではないでしょうか。
私などは酒が体質に合わないようです。昨夜も上質のワインを買ってきたので、ワイングラス
に二杯ほど飲んだのですが、具合が悪くなって「死ぬかと」思いました。しかし酒が体に合う人
は飲酒の癖がつきやすく、飲めば飲むほど楽しくなるものであるようです。
男性の深酒も見やすいものではありませんが、飲み過ぎて意識を失った所で、男は財布を引き
抜かれる程度が関の山です。失うものなどありません。酔って意識を失っている男を襲う馬鹿者
もおりません。しかし女性はそうではありません。治安の乱れているこの頃は特にそうです。
もっとも、女子大生が朝まで飲み騒いでいるというのですから、乱れているのは治安ばかりで
なく、女性の生活姿勢そのものであるのかも知れません。
私の少年時代には、良家の子女は日没以後は他出しないのが普通でした。それがこれほど乱れ
るようになったのは、小、中学生の塾通いに端を発しているように思います。あの頃から、女生
徒が夜の九時過ぎに外を歩いているのが普通になってきたのです。当時の治安の良さもこの傾向
を助長したかも知れません。
今は治安が大変乱れ始めてきている時代です。性犯罪の現場をビデオに撮り、それを泣き寝入
りさせる手段に使っているケースも少なくありません。出会い系サイトには暴力団の影がちらつ
いているのですが、彼らの手に落ちて売春、麻薬を強要されたというようなケースも決して少な
くはないのです。
女生徒は、出来るだけ早い時間に自宅に帰るべきです。用事もないのに夜間外出するなど、良
識ある行動とは申せません。女子に限らず高校生の飲酒などもってのほかです。
最近は妙に「子供の自主性」が強調される中で、親も確信を持って口うるさく注意するのを避
けるようになってきています。しかし、子供の本当の幸せを願うなら、親にそのような責任逃れ
は許されないはずです。たとえ子供に恨まれようとも、娘の幸せを守り抜く絶対の責任が親には
あります。諸君もこのことを弁え、親の指導に素直に従う姿勢を保って頂きたいものです。
諸君の自重に期待します。
平成15年6月1日
藤 棚
狭 山 ヶ 丘 学 園
第140号
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気品
校長
小川義男
十日ばかり前の事である。午後一時頃であったろうか。私は稲荷山公園駅近くを通りかかった。
狭山市の方から学校に向かい踏切を渡ろうとしたが、折しも電車が通過し遮断機が下りていた。
数台の車の後ろで停車していると、電車を降りた客が駅からあふれ出てきた。その時、老人を追
い越そうとした女子高校生の腕が、どうも微かに老人の身体に触ったらしいのである。触れるか
触れないかという程度なのだから、彼女が恐縮そうに陳謝するまで私は気づかなかった。しかし
彼女は、まことに申し訳なさそうに老人に「すみません」とか何とか言ったらしい。窓を閉めて
いるので私には聴き取れない。だがその表情の知的な気品には、人を圧倒するものがあった。今
時の女子高校生が、あれくらいのことで詫びたりすることがあるのかと私は驚いたが、彼女の挙
措、声を掛ける様子、その場を立ち去っていく後ろ姿には、ため息が出る程の気品があった。
「東
京の、どこか有名な女子高校の生徒であろう」と思う私の目に、彼女のセーラー服の腕が映った。
そこに赤い、本校のロゴマークがついている。赤だから三年生だ。彼女は狭山ヶ丘の生徒だった
のである。
最近の高校女生徒の中には、髪は茶髪
スカートは股が見えるところまで短く、耳にはピアス。
顔も眉は剃り、売春婦まがいに化粧を濃くし、もうこれ以上はいじれないほどに顔をいじりまく
っているというような生徒が多い。それが、「割れ鍋に綴じ蓋」ぴったりの男子生徒と、自転車
に二人乗りしていたりするのに接すると、本当にもう嫌になってしまう。
茶髪も、何度も染め続けているものだから、すっかり傷んでしまい、艶が全くなくなってしま
っている。昔、棕櫚(シュロ)の葉でできた炉箒(ロボウキ)があった。石炭ストーブの載せられたス
トーブ台の上を掃く小さな箒(ホウキ)である。その炉箒のように艶がない。
どうして「緑黒髪」(ミドリクロカミ)と言われる美しい髪を、あれほど醜く染めてしまうのかと驚
くが、「黒では少し重たい感じがする」のだそうである。確かに茶髪は「軽い感じ」なのは間違
いない。「軽い人間」の軽さを、あれほど典型的に対象化したものは、ほかにないのだから。
しかし、「重い感じ」「軽い感じ」共に、すべて美容院、もしくは化粧品産業が作り出した営
業政策上の陰謀にほかならない。あの嫌らしいバレンタインデーのチョコレートと同じである。
聖バレンタインが、あんなくだらないことを望んだはずがない。ヨーロッパにも、あれほど阿呆
な慣習は存在しない。すべては「土曜の丑(ウシ)の日」と同じで、売り上げを伸ばすために、チ
ョコレート産業が案出した小猿の知恵にほかならないのである。
男性はすべて、女性に「持てるか持てないか」ということに、大きな期待と不安を抱いている。
自らに対する自己評価が確立していない青年時代には、特にそうである。私は特に著しく「持て
ない男」でもなかったが、マスクは十分ではなく、足の短さでは人後に落ちない。しかし、私は
私なりに自信を持って人生を歩いてきたし、「色男」でなかったことを特に口惜しいとも思って
いない。「持てるか持てないか」など、人生で、ハナクソほどの価値もないのである。
しかしバレンタインデーに、一人で沢山のチョコレートをもらう仲間を見れば、「ひとつもも
らえない彼」は、内心穏やかではあるまい。このように露骨な、意味のない、あからさまな「差
別」は、文明人の採るべき態度ではない。渡すなら、誰もいないところでこっそり渡せ、もらっ
たやつは、そんなこと首がちぎれても人に洩らすな、私はこのように諸君に厳命したい。それに
しても、チョコレート産業に振り回されて、かかる低級な「慣習」に引きずり回されるとは、何
と下劣下等な話であろうか。
テレビタレントを見ていると、そのほとんどが髪を染めている。電車に乗っていても、漆黒の
髪はもはや少数派である。だが、茶髪が若者の全員ではない。隣席に、つやつやとした黒髪、爪
は短く切り、化粧もしているかどうかという程度の、若く美しい女性が座ることがある。そのよ
うな女性の顔には、例外なく知性が溢れている。心豊かな家庭に育ち、誇りに満ちて幸せな青春
を生きているのであろう。
日本の大学の校歌で一番美しいのは明治大学の歌だと私は思う。「白雲なびく駿河台」、あの
歌である。文句も歌詞も、文句なしに素晴らしい。その中で私がたまらなく好きなのは、「白雲
なびく駿河台
眉秀でたる(ヒイデタル)若人が
撞くや時代の
明けの鐘」という一節である。
「眉
秀でたる若人」、若者を語って、これほどに美しい言葉がまたとあろうか。
漆黒の髪に知性
眉秀でたる若人
これぞ気品
品位というものではないだろうか。
稲荷山公園駅で見かけた女生徒、まことに美しい生徒であったが、私はその顔を覚えていない。
しかし本人は気づくであろう。だが、あれほどの女生徒が、それは私ですと名乗って出てくるは
ずもない。私の心をかすめた美しいイメージは、永く心に残るではあろうが、その生徒に再び回
り会うことはあるまい。しかし、人の品位とは、これほどまでに他人の心を豊かにするものであ
ることを、私は諸君に理解してほしいのである。
平成15年5月1日
藤 棚
狭 山 ヶ 丘 学 園
第139号
学 校 通 信
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/
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変転する国際情勢について
校長
小川義男
最近では、大学入試に論文を出題するところが増えてきている。また、高校生は、数年後には
成年に達し参政権を獲得する。その意味で、今日は、変転する最近の国際情勢について考えてみ
たい。
このところ、中国の経済成長が著しい。この国の将来について問題なのは、経済は資本主義、
政治は一党独裁の「共産主義」という点であろう。資本主義的経済を許容する共産主義などあり
得ないのだから、これは、独裁に基づく資本主義と言い換えることができよう。
独裁政権の下では、政党結成の自由がなく、新聞、出版、放送等の自由もない。「政権を批判
することが許されない資本主義」の下では、大規模の腐敗、汚職が避けられない。政治も経済も、
恐るべき汚職の腐臭の中で活力を失っていく。現職の総理さえ逮捕される我が国とは、全く国情
が違うのである。
独裁を極限まで濃縮したものが北朝鮮である。この国にとり、政治、経済を民主化することは
極めて難しい。しかし、これを解決できなければ、北朝鮮は自壊のプロセスをたどらざるを得な
いであろう。
武器が異常に発達する中で、これを手にする少数者の暴圧により、民主主義が、息の根を止め
られる可能性が出てきた。携帯可能な核兵器、消毒不能な生物兵器、毒性の極めて強い化学兵器、
これらが、一部少数のテロリストの手に渡るとき、民主主義など消し飛んでしまう。
「国連中心主義」という言葉が、特に日本で強調されるが、国連は、我々が期待するほど、そ
の重大な役目を果たせる組織ではない。我が国は、歯舞、色丹、国後、択捉等の北方領土をロシ
ヤに不法占領されている。これは、第二次世界大戦が完全に終了した後で、ロシヤ、当時のソ連
が不法に占領したものである。これほど明白な国際的不法事件も珍しい。しかし、この問題の解
決に、国連は少しでも役に立ってくれたであろうか。尖閣諸島は、今も中国海軍によって脅かさ
れつつある。これが不法占領を免れているのは、ここに我が国の海上自衛隊が常駐し、この島に
おける領土主権を守り抜いているからである。ここでも、国連を当てにすることはできない。
北朝鮮による大韓航空機爆破事件、北陸を中心とする大量の日本人拉致事件、これらの解決に
も、国連は何の役にも立っていない。
国連と言えば聞こえはよいが、United Nations とは、もともと、第二次世界大戦当時の「連合
国」を、そのまま用いた名称なのである。第二次世界大戦は、日独伊と米英仏中ソ等との間で戦
われた。日独伊が枢軸国と呼ばれたのに対し、米英仏中ソ等は、「連合国」と呼ばれた。その連
合国
United
Nations が、そのまま「国連」になったのである。国連憲章には、悪名高い「敵国
条項」があり、55 年を経た今日においても削除されていない。だから、国連の加盟費の 20%も
支払っておりながら、我が国は、今日なお「敵国」として位置づけられているのである。安全保
障理事会常任理事国になるなど、そもそも論外の話なのである。
しかも、加盟国中、米英仏中ソ(現在のロシヤ)の五カ国だけは、「大国拒否権」を有してい
る。安全保障に関し、国連総会がいかなる決定を下そうとも、これら五大国中の一国が拒否権を
発動すれば、その決議はこれを実行に移すことができない。こんな「民主主義」が、今も国際社
会では、まかり通っているのである。
現在の国連は、大国が、それぞれの国家エゴイズムを主張する葛藤の場と化している。「国連
軍」というものも、「国連政府」も存在していないのだから、国際紛争がある度に、改めて議論
を始め、制裁の軍を起こすことになる。だがここに、「大国拒否権」が介在してくる。
コソボ紛争に関しても、国連は意見をまとめることができず、問題は、NATO 軍によって解決
された。今度のイラク紛争に関しても、仏、独、露は、フセイン政権に有していた利権の関係も
あり、アメリカの行動にことごとく反対した。イラクで行われていた言語に絶する人権侵害、フ
セイン一族のためのみのテロ支配、大量破壊兵器保持の可能性等は、大国相互の利害の前に、す
っかり忘れ去られようとしていたのである。
これら全体をふり返るとき、社会主義と自由主義の対立、いわゆる冷戦終了後の新しい世界体
制が、未だ確立していないことを痛感させられる。冷戦時代にあっては、すべてが社会主義と自
由主義の対立に収斂(シュウレン)していった。日米間にあっても、多少の摩擦は、「敵の敵は味方」
という古典的発想の中で解決されていったのである。
だが今や東西の対立はない。世界の多くの国々が社会主義のくびきから解放され、自由への道
を歩みつつある。今や、社会主義の国家は、地上からその姿を消し去ったと言っても過言ではな
い。しかしそれだけに、国家相互間に、国家エゴイズム、民族エゴイズムがはびこり、世界の新
しい秩序を求めて鳴動していると思われるのである。
テロは、このような世界的矛盾、国家相互間の対立を巧みに利用しつつ、魔手を世界に伸ばす。
それは、いかに宗教的、政治的美名に粉飾をこらそうとも、少数者が、世界を支配しようとする
野心を対象化したものにほかならない。
彼らは、自由主義諸国に確立した「人権」を、その隠れ蓑として活動する。盗聴されない権利、
令状なしに捜索、検挙されない権利等々、自由主義が確立したこのような人権こそ、都市ゲリラ
の潜むジャングルと化しているのである。
文明に隠れ、文明を背後から攻撃する。このようなゲリラの目指すものは、暴力的少数者によ
る世界支配である。その、どす黒い血に妥協してはならない。人民が、人民自身による自治を実
現する制度、すなわち民主主義を守り抜くために、明日の日本を担う生徒諸君には、政治に対す
る深い叡智が求められているのである。
平成15年4月1日
藤 棚
狭 山 ヶ 丘 学 園
第138号
学 校 通 信
http://www.sayamagaoka-h.ed.jp/
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入学式辞(要旨)
校長
小川義男
ただ今 460 名の諸君の入学を許可致しました。本年度の本校入試は峻険を極めましたが、試練
に耐え、本校生徒たるの地位を確保されたことに、心から敬意を表します。
諸君はイラク紛争のまっただ中で、高校一年のスタートを切りました。おそらく諸君は、生涯
このことを忘れないでありましょう。
民主主義とは、どんなことだと諸君は思いますか。それは憲法学では、治者と被治者との同一
性、つまり、治める者と治められる者とが同じであるということを意味します。民主主義は、あ
まり能率的ではない制度ですが、しかしこれこそは、人類がかって経験した諸制度の中で、最高
の統治形態であると私は思います。しかしながら、人類の歴史を振り返っても、今日の世界情勢
を見渡しても、民主主義は必ずしも普遍的、一般的な統治形態ではないのであります。アジアに
本当の民主主義国家がどれだけ存在するか、そのことを考えただけでも、民主主義を確立するこ
との難しさが理解できるのであります。
隣国では、世襲された統治者を「将軍様」と崇め、餓死者が出るほどの経済的困難の中で、一
切の表現の自由が禁止されております。イラクでは、フセインの悪口を言った人間は、実際に舌
を切られるそうであります。捕虜になった、リンチさんという 19 歳の美人兵士をイラク兵は、
ベッドに縛りつけた上で殴り続け、翌日は両足を切断するという相談をしていたそうであります。
そのことを知ったイラク人弁護士の通報により、彼女は奇跡的に救出されたのですが、独裁がど
れほど残虐な統治形態であるかが、この一事からもうかがい知ることができるのであります。
ところが近来、民主主義は大きな危機に直面致しました。武器が異常といえるほどに発達し、
毒ガス、細菌兵器、さらには携帯可能な核兵器までが出現するに至ったからであります。これが
横暴な少数者の手に入り、全国民の生命を脅かすようになるとき、民主主義は死に絶え、時とし
て少数の権力者が、全世界を支配する危険さえ生じ兼ねないのであります。
ヒトラーは、千万を超える人々、就中(ナカンヅク)数百万のユダヤ人を殺害した上で戦争に敗れ、
ベルリンの地下壕で自殺致しましたが、あの時、彼の手に核爆弾があったならば、人類は滅亡の
危険にさらされたでありましょう。
テロリズムは、民主主義社会に確立している人権を隠れ蓑(ミノ)として、文明を、その背後か
ら攻撃致します。テロリズムとの戦いに勝利できるかどうかは、実に以て、文明そのもの、デモ
クラシーそのものの存亡を賭けた戦いにほかならないのであります。
イラク紛争をめぐっては、これを戦争か平和かなどと矮小化(ワイショウカ)する傾向があります。
アメリカに多少の性急さが認められるにしても、ここに、テロと文明との戦いという本質が隠さ
れていることを見落としてはならないと思うのであります。
将来国民の指導者として、重責を担っていかなければならない諸君には、世界で起きつつある
これらの事象に、常に深い関心を抱き、諸君ひとりひとりの主体性を確立して行って頂きたいの
であります。
サンデー毎日の最新号は、全国 800 の有名高校のひとつとして、本校を紹介致しました。埼玉
県内私学では、本校を含む上位 12 校が登載されております。近隣の県立高校では、川越高校と
川越女子高校が、そのグループに入っております。しかし私は、諸君が卒業するときには、これ
を全県のトップに持っていきたいと考えております。そしてそれは、絶対に可能であるとの確信
に燃えております。
近年、学歴社会に対する批判が専ら(モッパラ)であります。18 歳の時の、ただ一回の入学試験
が、人の生涯を支配するというようなことほど馬鹿げた話はありません。学歴社会は、諸君と私
とが、手を取り合って、絶対に爆砕しなければならないアンシャンレジムであります。しかしそ
のためには、何よりも諸君が有力な存在にならなければなりません。普通科高校の生徒である諸
君にとり、大学入試は、日本改革のために、絶対に乗り越えなければならないハードルなのであ
ります。そのために我々教職員は、文字通り全力を尽くすでありましょう。諸君も、自らに対す
る厳しさを堅持し、目当てを見失うことのない三年間を送って下さい。
部活動に参加しない高校生活は、まともな高校生活ではないと喝破した、本校教師がおります。
全く以て同感であります。是非全員が部活動に参加して下さい。同時に私は、部員ならびに顧問
の先生方が、勉強と両立させられる部活動を作り出して下さるようお願いしたいと思います。学
問と両立できないような部活動もまた、まともな部活動ではないと思うからあります。
諸君はこれから、前途に希望を持ち、遠い道のりを辿るわけでありますが、まさに「我、人生
の朝ぼらけ」というのが、諸君の心境でありましょう。しかし、その幸せに充ちたスタートのす
べては、諸君をこれまで育ててくれた親によって与えられたものであります。諸君は、見事に伸
びたそのしなやかな四肢まで、すべて親に頂いたのではありませんか。
高校生にとって何より
も尊いこと、それは親を大切にすることであります。今は元気であろうとも、やがて年老い衰え
ていく親を大切にできない人間が、どうして他人を大切にすることができましょうか。他人を大
切にできない人間が、どうして国民の指導者としてその職責を全うしていくことができるであり
ましょうか。
「私は親を大切にできているか」これこそは諸君が、生涯を通して、日々噛みしめ、
味わっていかなければならない理念なのであります。
本日は、入間市長木下博様をはじめ、多数のご来賓の皆様がおいで下さっております。ご多忙
の中、新入生の前途に祝福を賜りましたことに、衷心より深く感謝申し上げます。
保護者の皆
様、お子様は確かにお預かり致しました。私ども教職員一同、心をひとつにして日々の教育に挺
身し、三年後に、見事に成長した姿でお返しすることをお約束致します。どうぞ、安心してお任
せ下さい。
新入生諸君、いよいよ今日からスタートです。嬉しいときも悲しいときも、友を信じて、友を
頼らず、友情を求めつつも孤独を恐れず、信念の中にも、年長者の言葉に耳を傾けるゆとりを失
わず、明日からの日々を生きて参りましょう。諸君の高校生活に幸多かれと心から念じ、式辞と
致します。
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