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ケニア・ケータイ普及の歴史

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ケニア・ケータイ普及の歴史
ケニア・ケータイ普及の歴史
羽渕一代
はぶち いちよ / 弘前大学、AA 研共同研究員
世界中を席巻するモバイルメディア。2000年代は、
は、約3万から6万シルであった。小学校教
アフリカや内陸アジアでの普及が顕著だったと言われている。
員の初任給が1万3000シルであったことを
ケニアでも2000年代がモバイルメディア草創期だった。
考えるととてつもなく高価な道具だったと
ケータイの普及について、そのプロセスを確認してみたい。
いえる。
ケータイが利用可能な地域は、ナイロ
ビを起 点に、インド 洋 岸のモン バ サ、そ
してビクトリア湖畔のキスム、内陸部のナ
クルなど、主要都市とそれらの都市同士
ネットワークの拡大
電話番号情報を識別する電子カード、つま
をつなぐ幹線道路を中心に拡大していっ
1997年、ケニアで最初の携帯電話会社
りSIM(Subscriber Identity Module)カー
た。発売初期には、特別の電話番号が割り
サファリコムが、テルコム・ケニアから独
ドが必要である。当初ナイロビで発売され
当 て ら れ て お り、0722510000番 台 は、
立し、設立された。日本でも同様であるが、
たSIMカードは、10万8000シル(日本円
ナイロビにおいて発売された番号であり、
ケータイを利用するためには、電話機器と
にして15万円くらい)であった。また機器
0722410000番台はモンバサで発売され
たものである。当初、SIMカードが高価だっ
たため、これらの番号のSIMカードをもつ
携帯電話をみせ
てくれ るトゥル
カナの若者たち
(2007)
。都市を
離れて周縁地域
に 行くと、電 話
機器はどこか壊
れている。
人間は「お金持ち」ということになる。
その後SIMカードの価格も下がり、2000
年にサファリコムは、英国のボーダフォン・
グループの傘下となり、利用者は約2万人へ
と増加した。2014年現在では、普及率は7
割を超えている。もちろん、スマートフォ
ネットワークがつながったばかりのトゥルカナ湖畔・カラコル(2010)
。
ケニア
トゥルカナの
調査フィールド
トゥルカナ湖
エルドレット
キスム
マサイマラ
ナクル
ナイロビ
モンバサ
トゥルカナの田舎で国勢
調査をうけるお父さん
(2009)
。調査項目に電
話の有無はなかった。
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FIELDPLUS 2015 01 no.13
ンの利用も珍しいものではない。
うものだった。
ランでマネージャーをしているジョンが
セルテル・ケニア(現エアテル)は、サ
現在では、サファリコム、エアテル、オ
ケータイを初めて購入したのは、マサイ
ファリコムがサービスを開始した1年後に
レンジ、Yuなどの複数の会社がしのぎをけ
マラの高級ロッジでバーテンダーをしてい
商業都市モンバサからサービスをはじめて
ずっている。ケニアのケータイ利用者は、
た時のことだった。ジョンは、高級ロッジ
いる。サファリコムがすでにナイロビから
1人でいくつもの番号を保持している場合
に宿泊していたオーストラリア人と仲良く
サービスをはじめていたことがその理由だ
が少なからずある。異なる電話会社のSIM
なった。そのオーストラリア人は中古車を
と思われる。セルテル広報宣伝の担当者
カードを入れ替えて、状況に応じて番号を
ジョンに買ってくれたうえに、ナクルでケー
は、モンバサがケニアでも有数の商業都
柔軟に使い分け、それぞれ利用者が使いや
タイも買ってくれたという。1998年のこと
市であることも理由だと説明している。セ
すいようにしているのである。
戦略が少し異なっていた。セルテルは、当
だった。シーメンス製の3500シルの機器
であり、サファリコムのSIMカードは当時
ルテルでは、サファリコムとは利用者拡大
周縁地域におけるネットワーク
2500シルだったそうだ。10万シル以上し
初、SIMカードと機器をセットで格安販売
1990年代後半から2000年代初期にかけ
ていたSIMカードが1年ほどで暴落し、がん
し、バックマージンを利用料金に含めると
て、インフラの整備が進み、主要都市にお
ばれば手に入れられる程度の価格になった
いう方法でケータイを販売していた。つま
いてケータイの利用は可能となった。その
のだ。
り、使用された電話料金のなかから機器代
後、徐々に周縁地域にもサービスエリアは
2004年までジョンが働いていたマサイ
金を徴収するという方法である。2000年
拡大していった。たとえば、エチオピア国
マラの高級ロッジでは、2006年頃までネッ
までSIMカードと機器のセットで8000シル
境やスーダン国境の付近に位置するトゥル
トワークが開通しておらず、ケータイの利
という価格であり、その頃の通話料金が1
カナ・カクマの難民キャンプ周辺において、
用はマサイマラから約80キロメートル離れ
分40シル程度だったという。この頃のセル
2002年にサファリコムに緊急用のサービ
たナロックという街やナクル、ナイバシャ
テルのセールスポイントは次のようなもの
スポイントを作るよう働きかけたと、カク
といった都市に遊びにでかけたときのみで
であった。アフリカの15の国々が1つのネッ
マのIT技術者であるマラキは語ってくれた。
あった。日常的にケータイが利用できるわ
トワークでつながっており、ケニア、ウガ
その後、2003年にサファリコムの電波塔が
けではないのに、彼は「新しい技術だし、
ンダ、タンザニア、コンゴ(キンシャサ)
、
完成し、続いて2004年にセルテルの電波
新しいものを使ってみたかった」と誇らし
コンゴ(ブラザビル)
、そしてガボンの6つ
塔が完成したという。
げに語っている。
の国の間では、国外にでても国内にいるの
また、観光地のマサイマラにおいて、次
ケニア最北西端にある牧畜社会トゥルカ
と同様に電源さえ入れれば使用できるとい
のような事例もあった。ナイロビのレスト
ナにおけるケータイ利用サービスの開始に
食事の準備(2011)
。
食事前に電話する
(2011)
。
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ついて、
「サファリコムにプレッシャーを
あちらこちらに
みられるケータ
イの宣伝。
かけた」という表現でいきさつをマラキは
語っていた。都心部のお金持ちが使える道
具としてのケータイをケニアの人々は、経
済階層に分断されることなく、さらに周縁
地域においても使えるよう望み、そして
その望みは少しずつ実現していったといえ
よう。現在でもネットワーク拡大の計画は
着々と進んでいる。
ケニアのケータイ普及は2000年代の初
期から現在にかけて急速に設備が整って、
実現していったと考えられる。これは、固
定電話の普及率が低率であり、通信に対す
る潜在的ニーズが高かったということ、固
定電話と比較してインフラの整備が容易で
あること、それゆえに安いコストで利用で
きるといった事情が関連している。
通話シェアサービス(air-time sharing
service)も普及に拍車をかけた要因のひ
とつである。これは、SIMカードに課金登
録されている利用料金の一部もしくはす
べての料金を他のSIMカードに移し替える
サービスである。ケニアで調査をしている
とき、アシスタントや知人にケータイの利
用料金を分けて欲しいと頼まれることがあ
る。もし筆者が利用しているケータイ番号
に携帯利用料金が前払いされていたならば、
簡単に自身のケータイから他のケータイへ
と利用料金を分けることができるのだ。た
とえば、500シ ル 分 の 前 払い 料 金 が 筆 者
のケータイに登録されていたとする。携帯
電話会社にケータイメールで「300シルを
0722******番へ」という指示をだすことに
トゥルカナ・カクマのまちの食堂で電話(2010)
。
よって、筆者のケータイには200シル分の
利用料金が残り、相手先では300シルの利
容を経験している。これまで、途上国にお
いく様態を分析していかなくてはならない
用が可能となるのである。このサービスを
けるケータイの普及については、経済に関
だろう。
利用することによって、現金の持ちあわせ
するサクセスストーリーが感動をもって伝
とくに、周縁地域に生きる人々は、電子
がなくともケータイを利用するための助け
えられることが多かった。もっとも有名な
メディア空間をどのように利用しているの
合いがおこなわれるならば、メールや通話
ものでは、バングラデシュのグラミンフォ
だろうか。ケニアのメディア普及は、ケー
ンに関するレポートだろう(N. サリバン
タイからはじまった。これを契機として、
『グラミンフォンという奇跡:
「つながり」
さらに、深化していくことは明白である。
ま た2007年 に サ ー ビ ス を 開 始 し た
から始まるグローバル経済の大転換』東方
この初期段階において、人々のケータイ利
M-PESAでは、ケータイによる送金も可能
雅美・渡部典子訳、英治出版、2007年)
。
用について記述しておくことは、メディア
が可能となる。通話シェアサービスが貧困
層のケータイ利用を容易にした。
となった。ケータイ間でのお金の送受も可
途上国ではない日本でもケータイ普及に関
環境の変容と人々の生活や社会意識などと
能であるが、送金者がケータイを使用して
しては、経済成長の救世主として、ひいて
どのように連関するのかという点を議論し
いれば、ケータイをもたない人に対しても
はテクノナショナリズム(技術を日本の国
たり、モバイルメディアによるグローバル
送金可能であるという点が画期的であった。
家的アイデンティティとする思想)へと通
な情報環境の動態を議論したりするうえで
ケータイショップを送金先に指定し、受取
じる物語が人口に膾炙した。しかし、メディ
重要なことだと思われる。そうしたことに
者が名前、IDカードとそして合言葉をショッ
ア研究においてより重要なことは、メディ
ついては、これまでヨーロッパとアフリカ、
プに伝えれば、お金を受け取ることができ
アが社会のなかに埋め込まれ、日常的に利
北米と南米といったように、地理的にくく
るのだ。
用される、その行動を詳細に捉えることで
られて説明され、格差が論じられてきた。
このように、急速なケータイのサービス
ある。そして、その新たな行動スタイルが
現在では、情報化が進み、情報空間におけ
の発展とともに利用者が増加していった。
定着することによって、人々の社会的態度
る格差や問題を捉え、新たな意味での周縁
そして、ケニアはドラスティックな社会変
や意識に影響を与え、社会関係を再編して
を意識した調査研究が求められている。
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