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南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷
南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 戸 崎 哲 彦 はじめに 柳宗元(773-819)の文集は宋代に至りしばしば刊刻されるようになり、そ の多くが今日に伝存するが、その中で南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本が 劉禹錫(772-842)三〇巻本の原編を伝えるものであることはすでに定説となっ ている。しかし今日までその完本は伝わらず、わずかに北京図書館所蔵の『外 集』残巻と「後序」 、また我が国に伝わり静嘉堂文庫に蔵する巻29「状」残葉 と巻32『非國語』巻下残葉と『外集』等、おそよ三巻の残巻葉が知られるの みであり、しかも『非國語』 『外集』等は三〇巻の外にあるから正集としては 巻29残葉のみであった。そのような中、最近に至って多くの残巻残葉が現存し ていることがわかった。今年三月に開催の “ABAJ創立50周年記念国際稀覯本 フェア2015” で山本書店(店主山本實)より出品された1、嘉定元年永州刊『唐 柳先生文集』の零本、巻14から巻18までの五巻、巻29から巻32までと『外集』 の五巻および「後序」等がそれである。 かつて北図蔵本の発見は斯界を驚喜させた。それは『紅楼夢』の作者とし て著名な曹雪芹の祖父曹寅(号は棟亭、1658-1712)の旧蔵であったが、同治 十二年(1873)に『郘亭知見傳本書目』で知られる莫友芝(号は郘亭、18111871)の次子莫縄孫に購入され、三〇巻本を最古とすることが考証されるや、 光緒四年(1878)に蒯光典が、五年に李濱が、十三年には宝章閣が影刻、続い て天津の北洋官報局が石印本を出し、民国初には呉慈培や袁克文が傅増湘から 借りて影抄本を作製するという珍重ぶりであった。傅増湘(1872-1949)自身 も、清末の進士にして後に故宮博物院図書館館長を務めた書志学の泰斗である が、民国二年にこれを入手した当初、詳細な「跋」を書き、さらに「題宋永州 1 価格は税込19440万円、約二億円。拙稿「過去最高額二億円!南宋永州補刊『唐柳先生文 集』三十三巻本とは」 (『東方』417号、東方書店2015年11月)を参照されたし。本稿中の写 真 4 葉も山本書店より掲載を許可された。ここに記して感謝申し上げる。 〔1〕 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 2 本唐柳先生外集」2なる詩を八首も連作して歓喜の情を露にした。後にこの残本 1 巻44葉は『古逸叢書』三編(中華書局1987年)の一つに入れられ、原寸大の 影印本が出たことはすでに諸賢周知の通りである。 今回出品されたものは実に巻数その十倍にも及ぶ。柳宗元研究史上一大椿事 といえよう。ここに南宋刊永州本は静嘉堂蔵本と合わせて約200葉、三三巻本 中の10巻および「後序」等、全体の三分の一近くがそろった。その全てが公開 されれば柳宗元研究に多大なる新資料を提供するのみならず、必ずや新しい 局面を拓くであろう。本稿では山本實氏の御厚意によって閲覧し得た所に基 づき、先ずそれらに見える所収作品とその分類と編次を中心として南宋永州刊 『唐柳先生文集』三三巻本の特徴を考え、劉禹錫原編三〇巻本の実像に少しく 迫ってみたい。 Ⅰ 劉禹錫原編本と宋代の著録 柳宗元、字は子厚は、元和十四年冬、柳州(今の広西壮族自治区)で病死す る。劉禹錫の「柳君集紀(序)3」に回顧して次のようにいう。 柳子厚……不得召歸。病且革4,留書抵其友中山劉某(禹錫)曰:“我不幸, 卒以謫死,以遺草累故人。” 某(禹錫)執書以泣,遂編次為三十通,行於 世。……凡子厚名氏與仕與年暨行己之大方,有退之(韓愈)之「誌」若「祭 文」在,今附於第一通之末。 劉禹錫は『柳集』の巻首「目録」5の末に韓愈の「柳子厚墓誌」 ・「祭柳子厚文」 を編入した。その「墓誌」に「以十五年七月十日歸葬萬年先人墓側」、「祭文」 に「維元和十五年歳次庚子五月壬寅朔五日景午」というから、元和十五年柳州 から北上する途次、袁州に在った韓愈に「墓誌」等を求めたのであろう6。劉禹 傅増湘『藏園群書題記』巻12「宋永州本唐柳先生外集跋」、「附録」 1 「題宋永州本唐柳先 生外集」八首。上海古籍出版社1986年、p614、p1037。 3 この「紀」は「序」の意味。父の名「緒」と同音のために避諱した。 4『禮記』檀弓上「夫子之病革矣」 、鄭玄注に「革、急也」、急変、危篤。 5 劉禹錫原編本が三〇巻の前に「目録」一巻を備えていたことについては拙稿「劉禹錫原編 三〇卷本復原事始」 (2015年柳宗元国際学術研討会、 『文學遺産』 (2016年)に掲載予定)に 詳しい。 6 詁訓本韓醇註に「元和十五年九月二十二日始自袁州召還,此「誌」作於袁州」 。『京兆金石 録』 (『寶刻叢編』巻 8 「萬年縣」所引) 「唐柳州刺史柳宗元墓誌」下の註に「唐韓愈撰,沈 傳師正書,元和十五年」。 2 戸 崎 哲 彦 3 錫は十四年夏秋の頃に母が左遷地連州で病死し7、柩を帰葬する途次、衡陽で柳 州からの使者による訃報に接した。元和十五年正月五日の「祭柳員外文」はそ の直後に書いたものである。訃報はさらに劉禹錫を中継して韓愈等旧友に伝え られた8。また歿後「行已八月」に「重祭柳員外文」を書いて「旅魂克歸,崔生 實主。……安平(韓泰)來賵,禮成而歸」というのは恐らく元和十五年七月十 日「歸葬萬年先人墓側」時のことであろう。当時、劉禹錫は洛陽で服喪中で あったが、穆脩「後序」や百家註本・音辯本等に収める「集紀」では撰者「劉 禹錫」に「夔州刺史」の官銜が冠せられている。劉禹錫は長慶二年(822)正 月五日に夔州刺史に着任するから9、おそらく長慶元年(821)季秋に拝命して おり、万年県に帰葬された後、劉禹錫は「墓誌」等を受け取り、夔州赴任の直 前に遺稿の編集を了えたのではなかろうか。 かくして劉禹錫によって『柳集』が編集されたが、その巻数について歴代 の著録は一様でない。今日知られる最も早い記載は『舊唐書』 (後晋開運二年 945)巻164「柳宗元傳」であり、 「文集四十卷」に作る。それよりも半世紀前 の龍紀元年(889)頃10、つまり柳宗元歿三〇余年後、唐末の詩人司空図(837908)が『柳柳州集』後に題しており11、 『柳柳州集』が原名であったとも思われ るが、何巻本であったのか不明であり、またそれに「今於華下(華陰縣) ,方 得柳詩……因題『柳集』之末」というから、詩集であった可能性さえある。お そくとも南宋には『柳宗元詩』一巻が通行していた12。ただし柳詩の評価は蘇 陶敏等『劉禹錫全集編年校注』(岳麓書社2003年)「劉禹錫簡譜」は元和十四年「秋,母盧 氏卒」(p1524)とする。翌年正月に衡州に到着しているから、連州・衡州の間の所要時間 を考えれば適当であるが、帰葬の申請と許可を得ての出発であること、また劉「祭文」に 「未離所部,三使來弔」、連州を離れる前に柳宗元が柳州から三回も弔慰の書簡を送ってい ること、さらに後述する夔州刺史着任が長慶二年正月五日であるから服喪二年七箇月後の 拝命が長慶元年(821)晩秋初冬であることなどを考えれば元和十四年夏に近い。少なくと も劉禹錫「賀平淄青表」は連州にて「元和十四年三月二十四日」の作であるから、その後 である。 8 劉禹錫「祭柳員外文」に「鄂渚(鄂州)差近,表臣(李程)分深,想其聞訃,必勇於義。 已命所使,持書徑行。友道尚終,當必加厚。退之(韓愈)承命,改牧宜陽(袁州),亦馳一 函,侯於便道。勒石垂後(墓誌),屬于伊人。安平(韓泰)、宣英(韓曄),會有還使,悉已 如禮,形於具書」。また後の劉禹錫「為鄂州李大夫(程)祭柳員外文」に「聞君旅櫬,既及 岳陽」。 9 劉禹錫「夔州上表謝」 。 10 陶禮天『司空圖年譜匯考』 、華文出版社2002年p105。 11 四部叢刊本『司空表聖文集』巻 2 「題柳柳州集後」 。 12『直齋書録解題』巻19に「 『柳宗元詩』一卷:唐柳宗元撰。子厚詩……頗有陶、謝風氣。古 7 4 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 軾に始まるとするのが北宋末の理解である13。 宋代に至ると幾つかの刊本が存在した。 『文苑英華』 (太平興國七三年982) が編纂された当初について次のようにいう14。 太宗皇帝丁時太平……既得諸國圖籍,聚名士於朝,詔脩三大書。……是時 印本絕少,雖韓柳元白之文尚未甚博,其他陳子昂、張說、九齡、李翱等諸 名士文集,世尤罕見。脩書官於宗元、居易、權德輿、李商隱、顧雲、羅隱 輩,或全卷收入。 『柳集』の刊本が存在していたとしても、それによって全作品を収録したこ とは疑わしい。ちなみに今本『英華』に柳詩は 1 首しか収められていない。そ の約半世紀後、天聖九年(1031)に穆脩(979-1032)が「四十有五」巻を編刊 する15。 『舊唐書』の著録よりも五巻多く、 『崇文總目』(慶暦元年1041)巻 5 の 「柳子厚集三十卷」、 『新唐書』 (嘉祐五年1060)巻60「藝文志」の「柳宗元集 三十卷」より十五巻も多い。 『新唐書』は『舊唐書』を訂正するものでもある から、「四十」は単なる「三十」の誤り、つまり「四」は「三」の誤字であっ たと考えられないこともない。穆脩本は「夔州前序其首,以卷別者凡四十有 五」であったというから、巻首の劉「序」でも「四十五」に作っていたはずで ある。後に沈晦(1084-1124)は穆脩四五巻本を劉禹錫原編本と見なし、政和 四年(1114) 、校正の上、 『外集』を加えて刊行する。沈晦「後記」にいう16。 凡 四 本: 大 字 四 十 五 卷 所 傳 最 遠, 初 出 穆 脩 家, 云 “劉 夢 得 本”; 小 字 三十三卷,元符間(1098-1100)京師開行,顛倒章什,補易句讀,訛正相 半;曰“曾丞相家本”,篇數不多於二本,……;曰 “晏元獻家本”,次序多 與諸家不同,無『非國語』 。四本中,晏本最為精密。柳文出自穆家,又是 劉連州舊物。今以四十五卷本為正,而以諸本所餘作『外集』。參考互證, 用私意補其闕,如……吳武陵初貶永州, 「貞符」中宜如『唐書』去 “量移” 律、絶句,總一百四十五篇,在全集中不便於觀覽,因鈔出別行」。徐小蠻點校、上海古籍 出版社1987年、p564。 13 晁説之(1059-1129) 『嵩山文集』巻 6 「通叟年兄視以柳侯廟詩三首,輒亦有作,所謂增來 章之美也」の「詩價重東坡」句下の自註に「公之詩,前無賞者,自東坡始之」。 14 周必大「纂修文苑英華事始」 (嘉泰四年1204)。中華書局1966年影印本『文苑英華』第 1 册、p 8 下。 15 穆脩「後序」に「常病柳不全見於世,出人間者,殘落纔百餘篇」 、 「不圖晚節,遂見其書, 聯為八九大編,夔州(劉禹錫)前序其首,以卷別者四十有五」。詁訓本、百家註本、五百家 註本、音辯本等の集末に収める。 16 詁訓本、五百家註本、音辯本の集末に収める。 戸 崎 哲 彦 5 字,……以『唐書・孝友傳』校「復讎議」 ,……其見於『唐書』者,悉改 從宋景文,凡漫乙是正二千處而贏。……揔六百七十四篇。 『新唐書』に拠って校勘しているが、 『新唐書』のそれは「藝文志」にいう 三〇巻本であったはずである。この系統の正統性が知られる。ただし沈晦が排 除した三三巻本は校勘を経ていない杜撰なものであった。以後、南宋に至ると 盛んに刊行されるようになり、今日でもその多くが現存するが、韓醇『詁訓 唐柳先生文集』 (以下、詁訓本と略称) 、蜀中眉山刊『增廣百家詳補註唐柳先生 文』 (百家註本) 、魏仲舉『五百家註音辯唐柳先生文集』 (五百家註本)、鄭定『重 校添註音辯唐柳先生集』 (鄭定本) 、劉怡堂『增廣註釋音辯唐柳先生集』 (音辯 本)、世綵堂廖瑩中『河東先生集』 (世綵堂本)等、これら南宋輯註本はいずれ も沈晦本を底本とし、所収の劉「序」でも「四十五卷」に作る。南宋中期、沈 晦本が最も流布したことは、当時の著録によっても知られる。陳振孫『直齋書 録解題』 (嘉熙二年1238)巻16は「 『柳柳州集』四十五卷、 『外集』二卷」の条 に次のようにいう17。 劉禹錫作「序」,言 “編次其文為三十二通,退之之「誌」若「祭文」 ,附第 一通之末”。今世所行本皆四十五卷,又不附「誌」「文」,非當時本也,或 云:沈元用(晦)所傳穆伯長(脩)本。 劉「序」では「三十二通」に作るが、当時の通行本はいずれも四五巻本であ ると矛盾をつく。ただし劉「序」が何に収めるものなのか不明。 「今世所行」 の四五巻本を指すと考えるべきであろうが、現存諸本はいずれも「四十五通」 に作る。やや後、趙希弁『郡齋讀書附志』 (淳祐九年1249)も「『柳先生文集』 四十五卷、 『外集』二卷、 『附録』二卷」を著録し、晁公武『郡齋讀書志』を引 いて次のようにいう18。 『讀書志』云:“ 『柳宗元集』三十卷、 『集外文』一卷。” 希弁所藏卷帙與劉 禹錫 “四十五通” 之說同。 19 いっぽう現存する劉禹錫の文集、 『劉賓客文集』(紹興八年1138厳州刻本) 徐小蠻等點校本(上海古籍出版社1987年)p476。 孫猛『郡齋讀書志校證』(上海古籍出版社2011年)下冊『讀書附志』巻下「別集類一」 p1171。 19『景印宋本劉賓客文集』台湾・国立故宮博物院印行1973年; 『宋版影印劉賓客文集』、日本· 大安影印出版1967年。四庫全書文淵閣本『劉賓客文集』 (江蘇巡撫採進本)もこれと同じ。 『總目提要』巻150に「今揚州所進鈔本,乃毛晉汲古閣所藏,紙墨精好,猶從宋刻影寫」。 『欽定四庫全書總目(整理本)』、中華書局1997年、p2010左。 17 18 6 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 巻19の「唐故尚書禮部員外郎柳君集紀」 、 『劉夢得文集』 (南宋中期蜀中刊本)20 巻23の「唐故柳州刺史柳君集〔紀〕 」では「三十通」に作る。現存本はいずれ も南宋刻本であるが、北宋本で「四十五」に作っていたものが「三十」に改め られたとは考えにくい。 『文苑英華』巻705では「禮部員外郎柳宗元文集序」と して収め、 「編次為三十二通,……有退之之誌若祭文在,今附于第一通之末云」 に作り、「三十二」下に「 『文粹』作四十五21, 『集』作三十」と註する。『唐文 粹』は大中祥符四年(1011)姚鉉編纂であり、今本の諸版では劉禹錫「唐尚書 禮部員外郎柳宗元集序」を巻92に収め、確かにいずれも「四十五通」22に作る。 宝元二年(1039)の初刊本は現存せず23、いかに作っていたのか不明であるが、 『文苑英華』の註文が南宋のものであること、また劉「序」の題名には「唐故 尚書禮部員外郎柳君集紀」 ・ 「唐故柳州刺史柳君集紀」・「唐柳先生文集序」等い くつかあるが、 『唐文粹』のそれが『文苑英華』と同じであることから考えて、 紹興九年(1139)重刊の『唐文粹』ではすでに流布していた沈晦本に従って劉 「序」との整合を図って追改されたものと推測される。 劉「序」以外でも「三十卷」に作るものは多い。鄭樵『通志・藝文略』 (紹興三一年1161)24の「柳宗元集三十卷」 、辛文房『唐才子傳』 (元・大德八年 1304)巻 5 「柳宗元」の「詩賦雜文等三十卷」 、 『宋史』(至正五年1345)巻208 「藝文志」の「柳宗元集三十卷」がそうである。 また、 『外集』一巻に及ぶものがある。晁公武『郡齋讀書志』 (紹興二一年 25 1151) 巻17に「 『柳宗元集』三十卷26、 『集外文』一卷」 、王應麟『玉海』(宝祐 四部叢刊本影印日本藏本(天理図書館現蔵)。傅増湘『藏園訂補郘亭知見傳本書目』 (中華 書局年2009年、p1030)巻12下によれば南宋中期蜀中刊本。 21 郭勉愈「從宋紹興本看『唐文粹』的文本系統」に「彭氏所使用的『唐文粹』可能是寶元 本,也可能是紹興本」。『清華大學學報』第18巻(2003年第 1 期)p56左。恐らく紹興本であ ろう。 22 光緒十六年(1890)許氏楡園校刊本(台湾・世界書局1962年) 、四部叢刊本(嘉靖三年徐 焴刻本『重校正唐文粹』、附民國林志炫撰之校刊記)、文淵閣四庫全書本(清内府蔵本)。 23 郭勉愈「從宋紹興本看『唐文粹』的文本系統」 (前掲)。 24 王樹民點校『通志二十略』 (中華書局1995年、p 4 )「前言」に「紹興二十九年,……實際 上到三十一年就全書告成了」。 25 孫猛『郡齋讀書志校證』 (上海古籍出版社2011年)「前言」 (p 1 )に「初成於宋高宗紹興 二十一年,終成於宋孝宗淳熙七年至十四年」。 26 孫猛『郡齋讀書志校證』 (p880)に「卧雲本作 『柳宗元集』四十五卷、 “ 『集外文』二卷”, 『經籍考』卷五十九卷數同卧雲本,唯『柳宗元集』作『柳柳州文集』。按……其所引禹錫序 或已經簒改,……諸家書目著録多作二卷,卧雲本、 『經籍考』亦然,疑 “二” 乃 “一” 之訛」。 20 戸 崎 哲 彦 7 四年1256)巻55の「唐柳宗元集: 『 (唐書)志』三十卷。『〔中興館閣〕書目』 (淳 熙四年1177)同。 『外集』一卷」27がそうである。陸游はかつて『集外文』一巻 を入手しており、それは宋祁の拾遺した手稿本であったというが28、宋祁こそ は『新唐書』本伝の作者であった。三〇巻本の拾遺は宋祁の『集外文』に始ま り、後に『外集』と呼ばれるようになるが、沈晦や韓醇による四五巻本の『外 集』とは異なる。後文で考察する編次に関わる問題としてここに指摘しておく。 さらに、前掲の『文苑英華』所収や『直齋書録解題』所引の劉「序」のよう に「三十二通」に作るものもある。張敦頤『柳先生歴官紀』(乾道五年1169) の「編次其文為三十二通」29もそうである。これは三〇巻本に、単行であった 『非國語』上下二巻を加えたものである。先の沈晦「柳文後記」によれば晏元 獻(殊)家本には『非國語』がなかった。 そこで三三巻本も誕生することとなる。沈晦「後記」に「小字三十三卷,元 符間京師開行」というから「外集」はすでに北宋に編入されていた。陸之淵「柳 文音義序」 (乾道三年1167)にも「惟柳州内外集,凡三十三通」30という。三三 巻本は「内外集」つまり三〇巻と『非國語』二巻にさらに「集外文」一巻が加 わったものであろうことは、この系統の残本が現存していることによって知ら れる。それが後で詳考する南宋永州刊三三巻本である。 今日に伝存の『柳集』には正集二〇巻本、二二巻本、三〇巻本、三二巻本、 四三巻本、四五巻本等があり、また上掲のようにすでに五代・宋の間に多くの 異なる著録が伝わっていたが、清末に永州刊三三巻本の残巻が発見されてから 三〇巻本が最古にして劉禹錫原編本であると考えられるようになり31、ほとん 武秀成等『玉海藝文校證』(鳳凰出版社2013年、p1019)。 陸游「跋柳柳州集」(淳熙十二年1185)に「此一卷『集外文』,其中多後人妄取他人之文 冒柳州之名者,聊且裒類于此。子京:右三十一字,宋景文公手書,藏其從孫晸家。然所謂 『集外文』者,今往往分入卷中矣。淳熙乙巳五月十七日,務觀校畢」。四部叢刊本『渭南文 集』巻27。 29 五百家註本に附錄の紹興二十六年(1156)張敦頤「柳文[韓柳]音辯序」 。ただし「四明 (沈晦)所刊四十五卷」を用いて『柳文音辯』一巻を撰したという。 30 音辯本の巻首。これは陸之淵が潘緯『柳文音義』の寄せた「序」であるが、楊守敬『日本 訪書志』(光緒二三年1877)巻14(10B)の音辯本二十卷本の條に「據陸「序」,似潘緯所 據本亦三十二通」というのは誤り。潘「序」に「又見建寧本近少訛舛,迺依其卷次」。音辯 本は潘緯の註を主にして輯註したものであり、沈晦拾遺「外集」二巻および穆脩「後序」 中にも潘註が見えるから、四五巻本を用いたことは明らか。潘緯所拠本は三二巻本ではな く、「建寧本」であって、それは四五巻本である。 31 莫縄孫「宋乾道永州本柳柳州外集跋」 (同治十二年1873)に「要以三十卷者為最古」、劉寿 27 28 8 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 ど今日の定説になっている32。日本にも鎌倉時代にはすでに永州本が伝来して おり、その極一部が今日に伝わっていることは広く知られていたが、最近に 至ってすでに烏有に帰していると思われていたものが現存していることが分 かった。それによって原編本の全容により迫ることができる。そもそも柳宗元 の作品は穆脩編の四五巻、さらにそれを補遺した沈晦の『外集』二巻や韓醇の 『新編外集』一巻等によってほぼその全容が知られるが、固よりそれは遺稿を 託された劉禹錫の手による編集ではない。この意味は重大である。永州本が異 文校勘や佚文補遺に資するのは確かであり、研究の重要な部分ではあるが、柳 宗元の遺稿には作者自身の取捨があり、彼の意思が反映されている。その三〇 巻本は明らかに多くの遺漏があり、白居易『文集』のように自ら偽作の混入を 防止すべく全作品を漏らさず伝えることを企図する編集ではない。いったい柳 自身は何を厳選して後世に伝えんとしたのか。また、それを託された劉禹錫は 如何に分類編次したのか。分類編次にも宗元の意向が、あるいは禹錫の文学観 と柳文に対する評価が反映されているはずである。このような点はもはや四五 巻本では知ることができない。 Ⅱ 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本四種 今日、南宋永州刊三三巻本は二種が伝存しており、また永州では三刻された と考えられているが33、少なくとも四刻四種があった。 一:高宗紹興(1131-1162)初期永州刊本。早佚。 34 永州知州葉桯「重刊柳文後敘」 に次のように見える。 曽「宋乾道永州本柳柳州外集跋」 (光緒五年1879)に「柳集以三十卷為最古是也」。『古逸叢 書』三篇之三十一『唐柳先生外集』 (中華書局影印1987年)に収録。また、呉文治点校『柳 宗元集( 4 )』(1979年)「附録」(p1463-1465)にも収めるが、やや異なる。莫「跋」は傅 増湘『藏園羣書題記』(上海古籍出版社1986年、p614)の転載が善い。 32 傅増湘『藏園群書題記』巻12「宋永州本唐柳先生外集跋」 (p612)、呉文治『柳宗元詩文 十九種善本異文匯録』 (黄山書社2004年) 「代序」 (p 1 )、呉文治等『柳宗元大辭典』 (黄山書 社2004年、p507)、尹占華・韓文奇『柳宗元集校注( 1 )』(中華書局2013年)「整理説明」 (p 1 )。 33 傅増湘『藏園群書題記』巻12「宋永州本唐柳先生外集跋」 、万曼『唐集敘録』(中華書局 1980年、p191)「河東先生集」。 34 『唐柳先生外集』 (中華書局影印1987年)。呉瑪霞主編『柳宗元著作版本圖考』(広西人民 出版社2012年)は便利であるが、注意が必要。附錄「永州南宋前道本『唐柳先生集』考」 (p 3 )に録する葉桯「後敘」 (繁体字で翻字)には誤字脱字が多い。たとえば「旨」を「皆」 に作り、「殽」下に「亂」を脱す。また、異体字を用いて「蒐」を改めて「捜」に、「剩」 戸 崎 哲 彦 9 按『子厚年譜』 ,永貞初……凡居永者十年。今考本集所載,見於遊觀紀詠 在永為多,蒐訪遺蹟僅獲一二,佗皆不可攷。郡庠舊有文集,歲久頗剝落, 因裒集善本,會同僚參校。凡編次之殽亂、字畫之譌誤,悉釐正之。獨詞旨 有互見旁出者,兩存之,以竢覽者去取。命工鋟木,歲餘其書始就。……乾 道改元季冬丙子吳興葉桯書。 「郡庠舊有文集」とは乾道元年(1165)以前に永州州学に『柳集』が存在し ていたことを告げる。それは「歳久頗剥落」のために葉桯が「重刊」したとい うから刊本であって鈔本の類ではなかろう。また「裒集善本」というから、当 時、永州には完本ではないが、その旧刊本や伝鈔本が存在していた。その「編 次之殽亂、字畫之譌誤」という特徴は沈晦「後記」に「小字三十三卷,元符間 京師開行,顛倒章什,補易句讀,訛正相半」という所に似ているが、沈晦は穆 脩四五巻本を「劉連州舊物」とする立場であり、四五巻本と三三巻本の編次は 固より異なっていた。また、後に趙善愖「柳文後跋」 (紹熙二年1191)は「推 原其故,豈非以子厚嘗居是邦,姑刻是集,傳疑承誤,初弗精校歟。抑永之士 子,當時傳寫藏去,久而廢散,不復可考歟」と懐疑するが、少なくとも「郡庠 舊有文集」は唐本ではなく、南宋初、おそらく紹興十四年(1144)以前の成立 であろう。その理由は、 (一)乾道初におて「頗剥落」であった、つまり完全 に剥落していたわけではないから、恐らく百年以上を経たものではなく、数十 年の範囲で考えてよかろう。広く捉えれば、南宋初、紹興(1131-1162)前期 にあると推定される。 (二)紹興十四年に汪藻(1079-1154)は永州に左遷され るが、その撰「永州柳先生祠堂記」35に次のようにいう。 紹興十四年,予來零陵。……先生之文載『集』中,凡瓌奇絕特者,皆居零 陵時所作。則予所謂幸不幸者豈不然哉。零陵之[人]祠先生于學、于愚溪 之上。更郡守不知其幾,而莫之敢廢,顧未有求其遺跡而紀之者。余于是採 先生之『集』 ,與劉夢得之詩可見者,書而置之祠中,附『零陵圖志』之末, 庶幾來者有攷焉。 永州には『柳集』が存在しており、それに拠って永州八記等詩文を抄録し て『圖志』の末に附して柳祠に納めた。当時、永州の柳祠は二箇所、一つは城 内の州学に、一つは城外の愚渓の畔にあった。王象之『輿地紀勝』 (嘉定十四 35 を「賸」に、「竢」を「俟」に作る。 四部叢刊本『浮溪集』巻19、五百家註本「附錄」巻 3 、音辯本「附錄」に収めるが、文字 に異同あり。 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 10 年1221)巻56「永州」に「柳先生祠堂:在愚亭内,内翰汪公藻有記」36と記す。 「愚亭」内にあったというのは、汪藻より約三〇年後、乾道九年(1173)に、 范成大(1126-1193)が桂州への途次で永州を訪れて記録した「溪上愚亭,以 祠子厚」37に拠るものであろう。陳与義(1090-1138)は汪藻よりもやや早い建 炎四年(1130)に訪れており38、その「愚溪」詩に「小閣當喬木,清溪抱竹林。 ……行李妨幽事,欄干試獨臨」39と詠む。この愚渓の「小閣」が汪藻のいう「祠 先生于愚溪之上」であり、范成大のいう「愚亭」であろう。このような小規模 の亭閣の類は、管理人が常住しているものではなかろうから、 『圖經』等の書 籍はここに置かれていたとは思われない。おそらく州学の柳祠に納められたの であり、汪藻が依拠した『柳集』も州学にあった。「郡庠舊有文集」という所 以である。紹興十四年に依拠しているからそれが可能の状態にあったわけであ るが、乾道元年はさらに二一年後であり、すでに「歳久頗剥落」であった。そ こで「郡庠舊有文集」の初刊を紹興初期、南渡以後に求めてよかろう。 二:孝宗乾道元年(1165)永州知州葉桯校刊『唐柳先生文集』三十二卷、 『外 集』一卷。今存残卷。 現在、北京図書館所蔵、#5238。 『外集』一巻全35葉( 1 B-35B) 、45篇;『後 序』一巻全 8 葉( 1 A- 8 B) 、韓愈「柳子厚墓誌銘」 、 「祭柳子厚文」 、 「柳州羅 池廟碑」 、 「柳子厚先生傳」 ( 『新唐書』本伝の節録)等 4 篇;「跋」1 葉( 9 AB) に葉桯「重刊柳文後敘」 1 篇。一九八七年に中華書局が原寸大で影印、 『古逸 叢書』三編に所収。本残本についてはそれに附す薛殿璽「影印宋本『唐柳先生 外集』説明」 ( 7 p)に詳しい。 葉桯「後敘」に「今考本集所載……蒐訪遺蹟僅獲一二,佗皆不可攷」とある から、汪藻はかつて「求其遺跡而紀」 「其謂之鈷鉧、西小丘、小石潭者,循愚 溪而出也,其謂之南澗、朝陽岩、袁家渴、蕪江、百家瀨者,泝瀟江而上也,皆 在愚溪數里之間。……求先生遺跡,如愚溪、鈷鉧潭、南澗、朝陽岩之類皆在」 としてガイドブックともいうべき節録本を柳祠に置いたが、すでにそれも散佚 していた。 本書は白文無註本であるが、偶に校語が見られる。たとえば「謗譽」末 36 37 38 39 李勇先校點『輿地紀勝』(四川大学出版社2005年、p2131)巻56「永州」。 范成大『驂鸞録』。孔凡礼点校『范成大筆記六種』(中華書局2002年、p59)所収。 白敦仁『陳與義年譜』(中華書局1983年、p135)。 白敦仁『陳與義集校箋』(上海古籍出版社1990年)下冊(p749)。 戸 崎 哲 彦 ▲乾道本 ▼嘉定本 11 12 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 ( 7 B)の「吾」下に小字「一作要」 、 「善」下に「一作信」がそれであり、こ れが葉「敘」にいう「獨詞旨有互見旁出者,兩存之」の方針である。また、 「舜 禹之事」末( 5 B)に小字「此文與下二首( 「謗譽」 、 「咸宜」 ) ,晏元獻公云: 恐是博士韋籌作」とある。北宋の晏殊(991-1055)家本はこの作を収めてお り40、永州本がそれに拠って『外集』に入れたかのようであるが、そうではな かろう。沈晦四五巻本系統はこれを收載しており、 「外集」ではないが、正集 の巻20に収め、詁訓本の題下註に「古今集中雖皆載此文,晏元獻公謂此文連下 「謗譽」、「咸宜」二首,恐是博士韋籌作」といい、百家註本・五百家註本・鄭 定本や音辯本にも「晏元獻曰:此文與下「謗譽」 、 「咸宜」等篇,恐是博士韋籌 所作」という。永州本は沈晦本によって拾遺したのではなく、三三巻本の『外 集』は宋祁(998-1061) 『集外文』に出るものであって、宋祁は晏本に拠った のではなかろうか。 葉「敘」に「按『子厚年譜』 」という『年譜』は紹興五年(1135)柳州知州 文安礼撰『柳先生年譜』を指す41。張敦頤撰『柳先生歷官紀』 (乾道五年1169) や彭叔夏『文苑英華辨證』 (嘉泰四年1204)が引く所も文『譜』である。紹興 四年に権発遣柳州李禠が『河東先生集』を刊刻しており42、文『譜』はこれに 拠って作られた。ならば、葉桯「裒集善本」の一つに柳州本があってよい。柳 州本も早くに佚して伝わらないが、周必大・彭叔夏等が『文苑英華』を校正 (嘉泰四年)した柳文の註に見える「柳州本」計 7 条がこれである。『譜』の「貞 元五年」下に「為文武百官請復尊號表三首」を、 「貞元六年」下に「為文武百 官請復尊號表三首」・ 「大會議表二首」を繋年し、註に「并見『外集』 」という から、柳州本には『外集』があり、かつこの八首は沈晦補遺の『外集』巻下に 見えるが、永州本『外集』には収めない。後述するが、彭叔夏は「 『柳文』收 此「表」,或入正集,或入外集」と註していずれも貞元五年崔元翰所作である ことを考証する43。李禠「後序」は五百家註本・音辯本に附録されており、そ 晏殊は「恐是」といって懐疑するが、その拠る所を知らない。『文苑英華』には未収。沈本 巻 2 「眎民詩」は永州本では『外集』に入れるが、韋籌の作に似る。柳宗元よりやや後、 宣宗時の博士で、崔郾・杜牧・溫庭筠と交遊。著に「原仁論」「文之章解」等がある。 41 現存刊本では音辯本の南宋刊四五巻本(北京大学蔵)に附す。 42 五百家註本「附録」 。中華書局點校本(呉氏本p1446、尹氏本p3568)では「褫」 (「衣」偏) に作るが誤り。百家註本「諸儒名氏」・五百家註本「諸儒名氏」・音辯本「附錄」が「禠」 (「示」偏)に作るのが善い。 43『文苑英華辨證』巻 5 「名二」 (中華書局影印本『文苑英華』、p5279下)。 40 戸 崎 哲 彦 13 れに「出舊所藏及旁搜善本,手自校正」とあるから、沈晦本系統も「旁搜善本」 の一つであった。詁訓本の韓醇『新編外集』 (淳熙四年1177)所収五篇中の四 篇は柳州本『外集』所収と同じであるから、これに拠って再輯したのではなか ろうか。柳州本は南宋初の成立であり、晏家本との関係も考えられる44。 三:光宗紹熙二年(1191)永州知州趙善愖校刊本。早佚。 五百家註本(慶元六年1200) 「附録」巻 3 に収める銭重「柳文後跋」に次の ようにいう。 (錢)重讀『柳文』至「吏商」篇,……重冒昧分教此邦,意為『柳文』必 有佳本,及取觀之(乾道刊本) ,脫繆訛誤特甚,而又墨板歲久漫滅太半。 今士君趙公(善愖) ,天族英傑,平生酷好古文,所謂落筆妙天下者也。一 日,命(錢)重為之是正,且盡易其板之朽弊者。然重吳興人也,來永幾 五十程, 『柳文』善本在鄉中士夫家頗多,而永反難得。所可校勘者,止得 三兩本,他無從得之。其所是正,豈無遺恨。尚賴後之君子博求而精校之。 ……紹熙辛亥(二年)仲秋一日,迪功郎永州州學教授錢重謹書。 呉興、即ち湖州の読書人の家に蔵するという『柳集』が如何なる刊本かは未 詳。また、銭重「後跋」の後に載せる知州趙善愖「後跋」 (紹熙二年)に次の ようにいう。 前輩謂子厚在中朝時所為文,……意其故家遺俗,得之親授,本必精良, 與它所殊。及到官,首取閱之(乾道刊本) ,乃大不然,訛脫特甚。推原其 故,豈非以子厚嘗居是邦,姑刻是集,傳疑承誤,初弗精校歟。抑永之士 子,當時傳寫藏去,久而廢散,不復可考歟。因委廣文錢君(重)多求善本 訂正,且併易其漫滅者,視舊善矣。……紹熙二年八月旦,零陵郡守郇國趙 善愖跋。 乾道元年(1165)刊本の二六年後にして「墨板歳久漫滅太半」であったが、 「盡易其板之朽弊者」であるから、いくらか未朽の版木があり、それを用いて 補刻し重印したようである。同時に校正も加えられている。 五百家註本が銭重・趙善愖の「跋」を附録しているのはこの紹熙二年刊本を 参校にしたからではなかろうか。嘉定元年刊本は五百家註本のやや後に在るか ら、これが用いられることはない。 44 晁説之(1059-1129) 『嵩山文集』巻 6 「通叟年兄視以柳侯廟詩三首,輒亦有作,所謂增來 章之美也」の「文編興舊學」句下の自註に「子厚文集,因晏公迺大備」。 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 14 四:寧宗嘉定元年(1208)永州知州汪檝校刊『唐柳先生文集』三十二卷、 『外 集』一卷。今存殘卷。 今日、残巻が日本の二箇所、静嘉堂文庫と山本書店に分散して現存する。鎌 倉時代(1185-1333)、南宋末・元初に日本に伝来し、金沢文庫に入架した輸入 書籍の一つである45。その後、如何なる経緯で流出・散逸したのか不明である が、江戸時代(1603-1868)後期にはすでに三分の一しか残存していなかった。 なお、永州刊本としては万暦二十年(1592)永州知府葉萬景刊『柳文』二二 巻があるが46、これは「文」のみの集であって詩を含まず、また文においても 南宋永州本の系統にはない。沈晦『外集』所収を含み、韓醇「外集補遺」所収 を含まず、現存沈本系統では音辯本に最も近い。 Ⅲ 日本残存永州刊『唐柳先生文集』二種の関係 山本書店蔵の嘉定元年永州刊『唐柳先生文集』残本は如何なる内容なのか、 また既に周知の静嘉堂文庫蔵残本とは如何なる関係にあるのか。 静嘉堂文庫蔵残本 静嘉堂蔵本は、巻29「状」の前 2 葉、巻32『非國語』巻下の後半 8 葉、 『外集』 の大半、29葉、汪檝「跋」後半葉である。汪「跋」の末に「嘉定改元十月□□ 日,郡守鄱陽汪檝跋」とあること、および北京図書館蔵道乾本の残巻との部分 的一致から道乾本の重修本であることは容易に推測される。本零本については 早くから研究があり、また中国でもその存在は知られている。以下、それを補 足・訂正したい。 『靜嘉堂文庫漢籍分類目録』47は「竹」つまり竹添進一郎、号は井井(18421917)の旧蔵とするが、正確ではない。たしかに竹添の旧蔵であったが、徳富 蘇峰(1863-1957)の斡旋で、米国から帰朝したばかりの松方正義(1835-1924) に売却した。蘇峰の記憶によれば「餘儀無き事情のために、その書を売却する 拙稿「日本舊校鈔『增廣註釋音辯唐柳先生集』四十五卷本及南宋刻『音註唐柳先生集』略 攷」(中華書局『文史』総106輯、2014-1)に詳しい。 46 日本・南山大学図書館、台湾・国立師範大学図書館等に収蔵。賴貴三教授に「焦循手批明 萬曆刊本『柳文』鈔釋」 (中國古代文論研究的回顧與前瞻國際學術研討會、2000年、復旦大 學)、「焦循手批『柳宗元』新論」(清代揚州學派學術研討會、2001年、台北・中研院文哲 所)等、緻密な研究が多くある。国立師範大学王基倫教授より資料の提供を忝くした。こ こに記して感謝する。 47 『靜嘉堂秘籍志』 (大正七年1918)には見えず、『靜嘉堂文庫漢籍分類目録』(昭和五年 1930)・『靜嘉堂宋本書影』(昭和八年)に見える。 45 戸 崎 哲 彦 15 48 49 こととなった」 のは「五千九百九十六冊」 、 「明治三六年(1903)の暮」 のこ とで「五千圓以内」であった。竹添は何等かの資金を工面すべく50、蔵書の一 部を手放したらしい。竹添と蘇峰とは同郷(熊本県) 、また蘇峰は松方正義が 父の旧友であった縁もあって松方内閣のブレインとして活躍していた。松方の 蔵書は明治四〇年に親族の岩崎家に譲渡されて静嘉堂文庫に入蔵51、今日に至 る。その一つに本残巻がある。 蔵書印はその由来を告げる。巻29葉 1 に「金澤文庫」・「松方/文庫」・「靜嘉 堂珍藏」 、巻32末に「金澤文庫」 ・ 「島田翰/讀書記」、汪檝「跋」後に「金澤文 庫」が捺されている。その中で島田翰(1879-1915)の印は除外してよい。岩 崎家は同年に竹添の弟子島田翰の父重礼の旧蔵書を、また翰の協力を得て陸心 源の蔵書を購収しているが、本書が翰の所蔵となったことはない。翰には幼稚 性の盗癖があったらしい。称名寺から借出した金沢文庫旧蔵の古写本『文選集 註』を中国に売却して逮捕され、獄中で自殺。 竹添井井の入手時期と相手先は不明であり、静嘉堂文庫蔵『元氏長慶集』 (金 52 沢文庫旧蔵)零本の巻40扉裏に「明治廿年季夏、井々手装」 という手識から 明治二〇年(1887)頃かとも思われるが、この僚巻(つれ)については江戸時 代後期に多くの記録がある。以下、年代の晩い順に掲げて遡源する方法をとる。 徳富蘇峰『蘇峰自傳』(中央公論社、昭和一三年)p605。 徳富蘇峰『第二蘇峰随筆』 (民友社、大正一四年)p159。高野静子『続 蘇峰とその時代』 (徳富蘇峰記念館、1998年)は松方に周旋した「時期が何時であったかは、『蘇峰自伝』に 書かれておらず、それを知りたいと思っていた。「雲煙過眼録」に次のようにあるので、 翰が蘇峰に書籍を売った明治三十六年十二月以前であることがわかった。「該書の代価以 て井々居士の松方伯に申し込みたる代価にひし」翰のつけた値段が大旨安かったことをあ げているからである」 (p318)。「三十六年十二月以前」といっても三五年ではない。具体的 な時期は『第二蘇峰随筆』の方に明記されている。 50 初印本明治講学会本『左氏會箋』の扉裏に「明治卅有六秊/井井書屋印行」 、自序は「六 月」作。なお、 『國立國會圖書館藏書印譜』 (国立国会図書館編、青裳堂書店1995年) 「竹添 井井」の項に「旧蔵書については、蔵書目録がみあたらず、全容は分からない。明治三四 年小田原の居宅が津波に遭った際、どれほどの蔵書を流出したのかも、いまは知るすべが ない」(p192)というが、小田原大海嘯は明治三五年九月二八日。竹添井井『獨抱樓詩文 稿』(吉川弘文館、大正元年)の「明治壬寅」(三五年)にも「九月廿八日,小田原別業為 激浪所捲去,書箱家具悉沈沒,而左氏會箋稿本獨得免厄」(詩四十六)とある。 51 大正十三年静嘉堂文庫員撰「靜嘉堂文庫略史」 (『靜嘉堂文庫漢籍分類目録』昭和五年、 p 2 )。次男正作の妻繁子は岩崎弥太郎の弟弥之助の長女。 52 関靖・熊原政男『金澤文庫之研究』 (青裳堂書店1981年、p460上)、『靜嘉堂文庫宋元版圖 録·解題篇』(汲古書院1992年、p61下)。 48 49 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 16 江戸時代後期の著録とその関係 (一)浅野長祚(1816-1880) 『漱芳閣書畫記』 (元治二年1865) 「宋元板部」53: 原文は漢文の白文であり、試みに句読点・括弧等を施し、かつ明らかに誤 字・脱字と思われるものを[ ]で示す54。 宋版『柳文』 :高八寸七分、橫六寸七分五厘,隻面九行,毎行十八字;金 澤文庫本。 第十四卷迄十八卷半, (計 5 巻)合為一冊;第二十九卷半迄三十二卷半, 末存擑[檝]「跋文」半段及『外集』一卷, ( 4 + 1 = 5 巻)合為一冊:全 二冊。末附韓愈「柳子厚墓誌銘」 、同「祭柳子厚文」、 「柳州羅池廟碑」、 「柳 子厚傳」 。 「跋」云55: “前輩謂子厚在中朝時所為文,……(中略)……紹熙二年(1191)八月 且[旦] ,零陵郡守郇國趙善愖跋。” “重讀『柳文』至「吏商」篇, ……(中略)……紹熙辛亥(二年)仲秋一日, 迪功郎永州州學教授錢重謹書。” “永州今重雕『唐柳先生文集』一部,計三十二卷并『外集』一卷, (改行) 乾道元年十二月十五日畢工。” “同挍正司書張摶、同校正□正陳寔、挍正左□□郎永州司法參軍王汝 可、挍正左從政即[郎]永州錄事參軍張士僅、校正左迪功郎永州州學教授 崔惟孝、左承議郎通判永州軍州主管□□□管內勸農營田事趙不息、右朝請 大夫權發遣永州軍州主管典□□管內勸農營田事葉程[桯] ” 等七人銜尾。 又「重刊柳文後敘」 :“按『子厚年譜』 ,……(中略)……乾道改元季冬 丙子,吳興葉程[桯]書。 ” 永州板『柳文』 , 『四庫提要』及收藏家諸書並不載,豈以其刊一方故,流 傳者少耶。卷端有 “金澤文庫” 印,其來吾邦舊矣。今廑(僅)存數卷,吉 光片羽,寔希世之寶也。其字體,顏法而瘦勁。「墓誌」文中一葉異字體, 或趙善愖等補填者歟。 これによれば、巻14~巻18半が一冊、巻29半~巻32半および末の汪檝「跋 つとに新海一(1931-2001)博士「柳河東集の源流」(『柳文研究序説』汲古書院1987年、 p158)に紹介されている。 54 壷井義正編『関西大学東西学術研究資料集刊』第 8 冊(1973年、p432-438)所収影印本に 拠る。 55 別に節録本『漱芳閣書畫記(宋元版之部) 』が慶應義塾大学(橫尾勇之助写本) ・早稻田大 学に収蔵されているが、共に「跋云」から「永州板『柳文』」までの原文引用の段を缺く。 53 戸 崎 哲 彦 17 文」半葉と『外集』一巻が一冊となった計二冊であり、また末に韓愈「柳子厚 墓誌銘」・「祭柳子厚文」 ・ 「柳州羅池廟碑」と「柳子厚傳」 、さらに趙善愖・錢 重の「跋」二篇と刊刻年・校正者等を示した刊記、葉桯「重刊柳文後敘」が附 されていた56。 浅野長祚、字は梅堂。明治に入ると徳川幕府解体によって家禄を失った梅堂 は口に糊すべく収蔵を切売りした57。その中に本零本があったと思われるが、 時期・行先は未詳。本来は新見正路(1791-1848)賜蘆文庫の収蔵であって歿 後に家督を継いだ養子正興(1822-1869)から梅堂に譲渡された58。次の著録は この賜蘆文庫蔵本に拠ったものであるという。 (二)森立之(1807-1885) ・渋江全善(1805-1858) 『經籍訪古志』 (安政三年 1856)巻 6 「集部」59: 本書はつとに中国でも紹介されており60、この条は傅増湘等も全文を引用す る61。 『唐柳先生文集』殘本九卷、 『外集』一卷:宋槧本;賜蘆文庫藏。 不題編集名氏。原三十二卷、 『外集』一卷。現存第十四至十八( 5 巻) 、第二十九至三十二( 4 巻) ,并『外集』一卷,合十卷( 5 + 4 + 1 ) 。 毎卷首題 “唐柳先生文集卷第幾”,次行列書文目。毎半板九行,行十七八 九字。界長七寸一分、幅四寸八分,板心上方記字數,下記刻手名氏。卷末 阿部隆一博士「宋元版所在目録」 (『阿部隆一遺稿集( 1 )宋元版篇』汲古書院1993年)の 「唐柳先生文集三二巻外集一巻」条の「宋乾道元年零陵郡庠刊」「存外集一巻」下に「光緒 四年蒯礼卿影刊漱芳閣書画記(金沢文庫本)」 (p167下)とあるが、 『漱芳閣書画記』を「影 刊」したのではなかろう。蒯礼卿、名は光典。光緒四年(1878)に乾道永州本『外集』を 影刊。『柳宗元著作版本圖考』 (広西人民出版社2013年) 「光緒四年(1878)西法曬照影宋刻 本」(p235-236)に詳しい。 57 浅野梅堂『寒檠璅綴』巻 6 ( 『続日本随筆大成 3 』吉川弘文堂1979年、p296)。 58 浅野梅堂『寒檠璅綴』巻 1 に「新見伊賀守正路、蔵書ハ瞻最古刻ヲ裒ラレタリ。歿後其嗣 豊前守、宋槧ノ左傳・玉堂類藁・王荊公集・楊誠齋ヲバ官ニ献ゼリ。予モ其蔵書ノウチ、 宋槧晉書・唐文萃・柳文零本[金澤文庫ノ押印アリ]……宋鋟等ヲ得タリ」(p154)。正路 が歿(1848)して家督を継承した養子正興の代において蔵書が処分された。ちなみに新見 正興は安政六年(1859)に外国奉行に任ぜられて渡航した、かの万延元年(1860)遣米使 節の正使である。漢籍収蔵にはあまり興味がなかったのではと臆察する。 59『日藏中國古籍書志・經籍訪古志』 (上海古籍出版社2014年、p213)。 60 光緒十一年(1885)徐承祖序、排印。 61 傅増湘『藏園羣書題記』 (上海古籍出版社1986年、p613)、万曼『唐集敘録』 (中華書局1980 年)「河東先生集」(p191)、呉瑪霞主編『柳宗元著作版本圖考』(広西人民出版社2012年、 p 7 )。 56 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 18 記:“永州今重雕『唐柳先生文集』一部,計三十二卷并『外集』一卷,乾 道元年十二月十五日畢工。 ” 又有紹熙辛亥永州州學教授錢重「跋」,云:“為 之是正,且俾盡易其板之朽弊者” 云云。又有嘉定改元十月郡守鄱陽汪楫 [檝]「跋」 。 これによれば、巻14~巻18(計 5 巻) 、巻29~巻32(計 4 巻)、 『外集』一巻、 合計10巻であり、末に刊記や銭重・汪檝の「跋」が附されていた。『漱芳』に いう「金澤文庫本」と同一本であること疑いない。この著録は「賜蘆文庫藏」 本に拠るというが、賜蘆文庫蔵本の記録には複数が伝わっており、微妙に異な る。 (三)新見正路『賜蘆書院儲藏志』 (弘化元年1844)巻 7 「集部」62: 『唐柳先生文集』殘本十一卷二冊:南宋刊本。 殘闕ナリト雖モ「跋」ニ 『唐柳先生文集』一部計三十二卷并『外集』一 “ 卷” ト記セルヲ以テ全部ノ卷數ヲ知レリ:卷第十四、十五、十六、十七、 十八、廿九、三十、三十一、全卷現存;三十二「目録」以下八葉存, 『外集』一卷,處々闕アリ。此本白文ニシテ惣邊縱八寸八分、橫五寸八 分;内郭縱七寸三分、橫五寸。毎葉半頁九行、行十八字。紙質堅精,字 畫顏法ヲ學ヒ,間缺筆ノ文字アリ。板心ニ槧鍥ノ人ノ名一字ヲ記セリ: “一百九十三字,文”;“三百二十四字,仁”;“二百九十八字,傑”;“三百七 字,申”。此ノ如シ。已下畧ス。“椿、詮、正、林、俊、寅、召、義、山” 等ノ文字アリ。第十四卷端、 『外集』卷端ニ「金澤文庫」ノ墨印ヲ鈐ス。 本粘葉裝ニシテ宋時ノ舊ヲ存セリ。 『外集』卷尾ニ開版ノ歳月及ビ挍正ノ 人ノ職名ヲ載ス: 永州 今重雕『唐柳先生文集』一部計三十二卷并『外集』一卷 □□如前 乾道元年十二月十五日畢工 同挍正司書張摶 同挍正□正陳建 挍正左從□郎永州同[司]法參軍王□ 62『大東急記念文庫善本叢刊・近世篇12・書目集 2 』(汲古書院1977年、p46)。今、原文には 句読点・括弧を加え、また仮名遣いの濁音には濁点を加えて読者の便宜を図った。以下同 じ。 戸 崎 哲 彦 19 挍正左從政郎永州錄事參軍張蘓 挍正左迪功郎充永州學教授崔惟孝 左參議郎通判永州軍州王管墨大夫管內勸農營田事趙不恩 右朝請大夫權發遣永州軍州王管墨大夫管內勸農營田事葉程[桯] 又別ニ葉程[桯]ノ「後敘」アリ,云: 按『子厚年譜』 ,……(中略)……乾道改元季冬丙子吳興葉桯書。 按ニ「乾道元年」(1165)ハ宋ノ高[孝]宗ノ時ノ年號ニシテ本邦二條 帝王永萬元年ニ當レリ。弘化改元(1844)ノ今ヲ去事,凡六百八十年ニ及 ビテ粘葉ノ接縫脱セザルコト奇ト云べシ。…… (中略)……又此三十二巻、 『外集』一巻ト云ル『柳文』 ,明清諸書目,著録セザル所ナリ。 63 (四)新見正路『賜蘆文庫古筆目録』 (天保五年1834)「金澤文庫遺書類」 : 『唐柳先生文集』殘編 南宋板。 卷第十四「説」廿葉全, 「目録」 。有「金澤文庫」墨印。 卷第十五「贊 箴戒」九葉全。 卷第十六「序上」十五葉全。 卷第十七「序中」二十葉全。 卷第十八「序下」三葉存。 卷第廿九「状」十七葉,始三[二? ]葉闕。 卷第三十「啓」廿一葉全。 卷第三十一「非國語上」十八葉,十五、十六二葉闕。 卷第三十二「非國語下」八葉存,以下闕。 「外集」七葉存, 「目録」半葉。有「金澤文庫」墨印。 「後序」八葉全。 「跋」三葉存,已下闕。 右金澤稱名寺ヨリ贈所ナリ。紙刻淳古,字樣嚴正,頗ル顏(真卿)ヲ摸 ス。其匡郭竪七寸、橫四寸八分;雙邊九行、十八字。 「後序」楮末書云: 永州 今重雕『唐柳先生文集』一部計三十二卷 并『外集』一卷 □□如前 63 静嘉堂文庫蔵。『靜嘉堂文庫國書分類目録』(昭和四年1929、p12)。 20 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 乾道元年十二月十五日畢工 同挍正司書張摶 同挍正□正陳建 挍正左從□郎永州司法參軍王□ 挍正左從政郎永州錄事參軍張蘓 挍正左迪功郎充永州學教授崔惟孝 左參議郎通判永州軍州王管墨大夫管內勸農營田事趙不息 右朝請大夫權發遣永州軍州王管墨大夫管內勸農營田事葉住[桯] 右ノ如ク校訂ニ預リシ人々ノ位署ヲ具載ス。乾道ハ宋ノ孝宗ノ時ノ年號ナ リ。字體、闕畫等,前ニ記ス所ノ『元氏長慶集』ノ例ト同ジ64。其装,粘 葉ヲ以シテ數百年ノ今ニ至ル迄,粘紙脱落セズ。……(中略)……今此零 本モ亦接縫如線ニシテ脫落セズ。宋代ノ物タル證トスべシ。 以上四書の著録には詳略不同にして相補う所があるが、微妙に異なる点も見 られる。下表を参照。 巻14~巻18の計 5 巻が一冊、巻29~巻32の計 4 巻と『外集』一巻で計 5 巻 が、『訪古』にいう「十巻」 、 『漱芳』にいう10巻「二冊」であるが、さらに末 に附すという韓愈「柳子厚墓誌銘」 ・ 「祭柳子厚文」 ・「柳州羅池廟碑」・「柳子厚 傳」と趙善愖「跋」 ・錢重「跋」 ・葉桯「重刊柳文後敘」や「開版ノ歳月及ヒ挍 正ノ人ノ職名ヲ載ス」刊記等の附録を一巻と考えれば、 『賜蘆』にいう「十一 卷( 5 + 4 + 1 + 1 )二冊」に合致する。言及がないもの、たとえば韓「墓誌」 や趙「跋」等は『訪古』 ・ 『賜蘆』に見えないが、それら附録の部分が断片的に 出現し、『漱芳』に蒐集されたとは考えにくく、また『賜蘆』が全「十一卷」 という最後の 1 巻は刊記と葉「後叙」 1 葉(道乾本にあり)の二篇のみで編 成されていたとも考えにくい。 『漱芳』は前人の記録を踏まえて網羅的である が、『訪古』が刊記・銭「跋」 ・汪「跋」の三篇のみを挙げているのは乾道・紹 熙・嘉定における三次の重刊を経ていることを簡潔に示しており、 『賜蘆』が 刊記と葉「叙」のみを挙げるのは初刊に注目したものと考えることもできる。 いずれにせよ、記録がないことは不在の証明にならない。いわゆる悪魔の証明 である。また、『賜蘆』がいう「三十二「目録」以下八葉存」も『漱芳』にい う「三十二卷半」に符合する。そこで『賜蘆』と『漱芳』の間には踏襲関係が 64「 『元氏長慶集』殘葉:北宋板」に「其字痩テ歐ヲ學フ。……宋ノ諸帝ノ諱 敬、玄、慎、懲、弘、殷” 等ノ字ヲ闕畫ス」。 “完、讓、徴、 戸 崎 哲 彦 21 あったように推測される。 しかし『賜蘆』には明らかな不一致がある。 『賜蘆文庫』がいう「卷第十八 「序下」三葉存。卷第廿九「狀」十七葉,始三[二]葉闕」は『賜蘆書院』が いう「卷第十四、十五、十六、十七、十八、廿九、三十、三十一、全卷現存」 と矛盾する。前者の方が記録は仔細克明であってまた『漱芳』の「十八卷半」 「第二十九卷半」に近い。三書の時間的関係をみれば、『賜蘆文庫』での欠落部 分が『賜蘆書院』の段階で出現したが、また『漱芳』で欠落したとは考えにく く、 『漱芳』の「半」が衍文であるとも考えにくい。汪「跋」については更に 不可解である。『賜蘆書院』には「跋」の言及がなく、 『賜蘆文庫』の「 「跋」 三葉存,已下闕」は趙「跋」 ・錢「跋」各一葉の他に汪「跋」一葉があったよ うに解せられ、賜蘆文庫蔵本に拠るとする『訪古』に「又有嘉定改元十月郡守 鄱陽汪檝「跋」 」というが、網羅的な記録をする『漱芳』には「末存檝「跋文」 半段」という。『漱芳』は跋文を引かず、しかも「檝」とする。跋文は省略し ても、姓「汪」を言わないのは不自然である。 これらの記録は一見すれば静嘉堂蔵本に合致しているようにも思われ、つと にそのような説もあるが65、 『賜蘆』 『漱芳』の記載に近いのはむしろ山本書店 蔵本の方であった66。 山本書店蔵残本と静嘉堂蔵残本との関係 山本書店蔵残本(以下、山本蔵本と呼ぶ)は、保存状態が極めて良好であ り、紙魚の食害も経年の割には驚くほど少ない。また、南宋本の原形、蝴蝶装 の形態を留めている。正路が「凡六百八十年ニ及ビテ、粘葉ノ接縫脱セザルコ ト奇ト云ベシ」として粘着の耐久性に驚き、文献を引いて考証する所以であ る。ただし剥離して一葉が左右に分かれたことによって半葉が失われてしまう ことが多い。静嘉堂蔵本『外集』の 1 A・21B・22A・29Bや汪檝「跋」Aの缺 葉がそうであり、当然、山本蔵本にも見られる。粘葉装ともいうこの装丁本 関靖『金澤文庫本圖録(上)』 (幽学社、昭和十年) 「五七 唐柳先生集」の「來歴」に「早 く文庫を出て、賜葦文庫に入り、轉々して竹添光鴻を經、松方文庫より靜嘉堂文庫の有に 帰したたるものなり。『經籍訪古志』に賜蘆文庫所藏として巻十四……外集十巻の殘本を 載す。此本その一部なるが如し」。 66 新海一『柳文研究序説』 (汲古書院1987年)に「『經籍訪古志』と『漱芳閣書畫記』と記述、 あまりにも類似している」(p159)とされるのは慎重な態度であり、『金澤文庫本圖録』の 記載を引いた上で「轉々するうちに、巻十四より十八に至るまでの一冊分と、存巻の後一 冊中、浅野梅堂の丹念な筆録部分とが散佚してしまっている」 (p161)とは賜蘆―竹添―松 方―静嘉堂と次第する関氏説とは異なる経路の存在を指摘する卓見である。 65 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 22 は、版心部分を谷折して糊付けされているが、先の北図蔵本や静嘉堂蔵本がそ うであるように、後人によって逆の山折にして冊毎に端を糸で綴じる線装本に 仕立てなおされることが多い。包背装を経て線装本が流行するのは明代中葉か らである。北図蔵本には缺葉が少ないが、これは後人によって線装に仕立てら れたのが比較的に早かったためであろう。 山本蔵本は各巻の表紙上方に「~之部」の形式で順序を墨書して「十一之 部」までの計二冊十一巻に分かつ。具体的には以下の表の通り。静嘉堂蔵残本 を〔 〕で示す。 部 巻 1 14 2 3 4 5 15 16 17 18 6 29 7 30 8 31 9 32 10 33 後 序 11 跋 山 本 蔵 本 〔静嘉堂蔵本〕 標 題 葉数 印 葉次 冊 金澤文庫 「説」 20 1 A-20B 「賛」「箴戒」 9 1 A- 9 B ₁ 「序」上 15 1 A-15B 「序」中 20 1 A-20B 「序」下 3 1 A- 3 B 〔金澤文庫〕 「状」 17 〔 1 A- 2 B〕 3 A-17B 「啓」 21 1 A-21B 1 A-18B 「非國語」上 18 (15、16缺) 1 A- 8 B 「非國語」下 18 〔 9 A-18A〕 〔金澤文庫〕 金澤文庫 『外集』 35 1 A〔 1 B-29A〕 29B-35B 韓「墓誌」等 8 1 A- 8 B 刊 記 1 □AB ₁ 葉桯「後敘」 1 3( 5 ⁇ )AB 趙善愖「跋」 1 1 AB 銭 重「跋」 1 2 AB 3 A〔B〕 〔金澤文庫〕 148〔41〕 汪 檝「跋」 計 11部(11巻) 1 189 賜 蘆 訪古 漱芳 文庫古筆 書院 金澤文庫 全 ○ 全 20葉全 9 葉全 全 ○ 全 15葉全 全 ○ 全 20葉全 全 ○ 全 3 葉存 全 ○ 半 17葉 前 2 葉缺 21葉全 18葉 15、16缺 8 葉存 以下缺 金澤文庫 目錄半葉 7 葉存 8 葉全 ○ △ ○ 2 全 ○ 半 全 ○ 全 全 ○ 全 ○ 半 ○ ○ ○ ○ ○ △ △ ○ 全 ○ ○ △ ○ ○ 前8葉 處々缺 ○ △ △ ○ ○ △ ○ 半 以下缺 ○=言及あり ; △=推定 前一冊計 5 巻は、 『漱芳』にいう「第十四卷迄十八卷半,合為一冊」に合致 する。「後序」には韓愈「柳子厚墓誌銘」 ・「祭柳子厚文」 ・ 「柳州羅池廟碑」と 「柳子厚傳」 、汪檝「跋」前半葉・趙善愖「跋」 ・銭重「跋」、刊記・葉桯「重刊 柳文後敘」を含む。これに拠って静嘉堂本の巻29「状」前 2 葉・巻32『非國語』 戸 崎 哲 彦 23 巻下の後半 8 葉・ 『外集』29葉と汪檝「跋」後半葉がいずれも山本蔵本を補完 するものであって僚巻であることが判明する。しかるに『漱芳』の「第十四卷 迄十八卷半,合為一冊;第二十九卷半迄三十二卷半,末存檝「跋文」半段及 『外集』一卷,合為一冊:全二冊。末附韓愈「柳子厚墓誌銘」 、同「祭柳子厚 文」、 「柳州羅池廟碑」 、 「柳子厚傳」に合致するのは静嘉堂本ではなく、山本蔵 本である。これは太田亨氏が発見された宮内庁書陵部蔵の「賜蘆文庫」の蔵書 印を有する五百家註本『柳集』の校註に見える「宋本作~」 「~宋本」が金澤 文庫旧蔵の南宋永州本に拠るものであるのと関係がある67。その校註はわずか に五百家註本の巻16「説」 ・巻19「弔賛箴戒」 ・巻20「銘雜題」 ・巻21「題序」 と巻44・巻45「非國語」に見え、いずれも永州本の静嘉堂本ではなく、山本蔵 本に含まれる。ちなみに「非國語」下で「鉏麑」の条に「宋本以下脱」として 校註が止むのは正に山本蔵本が前 8 葉のみであるのに合致する。しかし先に指 摘したように、 『賜蘆』二種の記録は必ずしも一致せず、また『訪古』 ・『漱芳』 とも矛盾する所がある。 まず巻18では、葉 4 以後は行方不明であるが、前 3 葉は山本蔵本中に現存す るから『賜蘆文庫』の「三葉存」に符合し、 『漱芳』の「十八卷半」はこれを 指すと考えてよい。巻29について『賜蘆文庫』に「卷第廿九「状」十七葉,始 三葉闕」という「三」は「二」の誤字であろう。静嘉堂本には前 2 葉が、山本 蔵本には葉 3 以下が現存して両残葉で一巻全を成す。つまり『賜蘆書院』がい う「卷第十四、十五、十六、十七、十八、廿九、三十、三十一、全卷現存」に は誤りがある。また、 『賜蘆文庫』に「卷第三十二「非國語下」八葉存,以下 闕」、 『賜蘆書院』に巻「三十二「目録」以下八葉存」という具体的な葉次は山 本蔵本の前 8 葉に合致し、 『漱芳』にいう「三十二卷半」とはこれを指す。いっ ぽう葉 9 以下は静嘉堂本に存しており、やはり一巻を成す。これを要するに、 『賜蘆書院』を信じれば巻18・巻29は『賜蘆書院』著録以後、『漱芳』著録以前 の間に分散したということになるが、すでに『賜蘆文庫』と『賜蘆書院』との 不一致と『賜蘆文庫』と『漱芳』および山本蔵本と静嘉堂本との一致によって 67「靜嘉堂文庫所藏宋版『唐柳先生文集』殘卷について」 (『東方學』122輯、2011年)。「賜蘆 文庫に存在していた時期、少なくとも弘化元年には既に『靜嘉堂本』と『弘化年間賜蘆文 庫本』に分かれていた」(p 5 上)・「賜蘆文庫内で『訪古志賜蘆文庫本』から『靜嘉堂本〕 と『弘化年間賜蘆文庫本』に分かれる」 (p 5 下)が結論の一つであるが、 「賜蘆文庫に存在 していた時期」「賜蘆文庫内」は分かりにくい。 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 24 『賜蘆書院』の記載に誤りがあることは明白であり、同時に『賜蘆文庫』に缺 をいう巻つまり巻18・巻29・巻32が賜蘆文庫入蔵以前に分散していたことが証 明できる。 この事情は蔵書印からも窺える。山本蔵本には「金澤文庫」(巻14葉A)の 他に浅野梅堂(名は長祚、字は胤卿)の「漱芳/閣/清賞」(巻14葉 1 A) ・「楳 堂蔵書」(巻16葉 1 A) ・ 「漱芳閣」 (巻18葉 3 B) ・ 「錢長祚/珍賞印」68(巻29葉 3 A) ・ 「楳堂/經眼」 (外集末) ・ 「錢胤卿/賞識」 (外集末) ・「長祚」 (葉「後叙」 末)、屋代弘賢の「不忍文庫」 (巻29葉 3 A)が見える。静嘉堂本には「金澤文 庫」の他に「松方文庫」 ・ 「靜嘉堂珍藏」 ・ 「島田翰/讀書記」しかない。この相 異は両者の伝来経路の明らかな相異を示しているのみならず、また山本蔵本が 梅堂・新見より前に屋代の旧蔵であったことを告げている。 「金澤文庫」に次 いで最も古いのは屋代弘賢(1758-1841) 「不忍文庫」であり、その間の蔵書印 は見えない。山本蔵本に「賜蘆文庫」の蔵書印は皆無であるが、 『經籍訪古志』 に「賜蘆文庫藏」とあり、また『賜蘆文庫古筆目録』には「唐柳先生文集殘篇」 に「金澤稱名寺ヨリ贈所ナリ」といい、さらにこれを含む十九種を列挙した上 で「金澤文庫遺書類」の末葉にそれらの来歴について次のようにいう。 右所記ノ古書十九種ハ,共ニ金澤称名寺庫中ヨリ出テ,金澤文庫ノ印及奥 書等アリ。是則上杉越州刺史顕時朝臣ノ蔵書タリシコト疑フベカラズ。朝 臣ノ蔵,皆趙宋以往ノ物タリ。然ドモ散逸殆盡テ,方今遺書アルコトヲ聞 ザリシガ,不計ニ殘編斷簡トハイヘドモ,十九種ノ遺書,今賜蘆書庫ニ収 ル事,不堪幸甚,聊顛末ヲ誌焉。 天保甲午正月改正。 「金澤文庫遺書類」と題する所以である。天保五年(1834)初に改稿してい るから、金沢文庫から称名寺に移管されていた永州本等が賜蘆文庫に帰したの はそれ以前であり、十九種の一つ「 『南華眞經注疏』殘篇」下に「右『南華眞 經注疏』殘ハ天保第三秊穐,相州鎌倉称名寺々中大寶院ヨリ贈レリ」 、それに 続く「『元氏長慶集』殘葉」下にも「右鎌倉称名寺ニオヰテ是ヲ得タリ」とい うから、称名寺から寄贈(?)されたのは天保三年秋前後か。次に注目したい のはこれら蔵書印の位置である。 68「錢」は浅野の用いた中国風の姓。 「錢」は中国人の姓に多く、 「淺」とは音通。ただし声調 は異なる。 戸 崎 哲 彦 25 先に静嘉堂本と山本蔵本とで分有する巻29について記録の不一致を指摘した が、静嘉堂本ではその葉 1 Aつまり首に「金澤文庫」と「松方文庫」・「靜嘉堂 珍蔵」の印があり、いっぽう「不忍文庫」 ・ 「錢長祚珍賞印」が捺されているの は山本蔵本の葉 3 Aである。これは両者がそれぞれそこで始まっていたからで ある。つまり巻29は葉 3 前で分断して伝わっていた。ならば分散はすでに不忍 文庫収蔵以前に始まっていたのであり、 『賜蘆』にいう巻「廿九……全卷現存」 の記載はやはり誤りである。既にそうならば、先に仮説した巻32・ 『外集』に おける『賜蘆』以前の分散もさらに不忍文庫収蔵以前に遡って求められよう。 これと同様のことは金沢文庫旧蔵『元氏長慶集』(南宋刊本、蝴蝶装)にお いても発生している。後に青洲文庫を経て東京大学所蔵となったその巻43至46 と巻48には「不忍文庫」 「賜蘆文庫」 「楳堂經眼」の印があるから屋代から新見 を経て69、梅堂に帰しており、いっぽう巻40至42は静嘉堂が収蔵するが、それ には「島田翰讀書記」 「松方文庫」 「靜嘉堂珍藏」の印があり、明治二〇年に竹 添の入手後、永州本『柳集』残巻等と共に松方を経て入庫したものである。『元 氏長慶集』残巻もやはり同様の経路を辿っていた。そこで静嘉堂と山本書店の 69 『賜蘆文庫古筆目録』の「 『元氏長慶集』殘葉」に「巻第四十三制誥五葉全、卷第四十四 制誥四葉全、卷四十五制誥四葉全、卷第四十六制誥四葉存、卷第四十八制誥七葉存」、 『賜蘆書院儲藏志』巻 7 「元氏長慶集殘本五卷一冊」(p48)に「卷第四十三,四十四, 四十五,四十六,全卷ヲ存シ,卷四十八,七葉ヲ存シ,已下缺ク」。 26 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 二箇所に伝わって現存する零本は賜蘆収蔵よりも更に前、不忍文庫収蔵以前に 分かれたと考えねばならない。新見は屋代の門下であった70。ただ永州本に「不 忍文庫」の蔵書印はあるが新見の蔵書印がない。天保三年(1833)前後に屋代 弘賢はまだ存命であったが、このことと関係がないだろうか。 この限りでは、山本蔵本は賜蘆文庫・不忍文庫の旧蔵本であり、不忍文庫入 蔵以前に静嘉堂蔵本と分かれたといえるが、一筋縄でいかないのが汪檝「跋」 の記録である。 汪「跋」 1 葉は版心が左右に分離して山本蔵本の前半葉と静嘉堂本の後半葉 とになって伝わっている。 『漱芳』は「末存檝「跋文」半段」といって名「檝」 のみを示し、「汪檝」としないのは「檝」が前半葉中に見えることから前半葉 を指すと考えることが可能である。そこで賜蘆蔵本も前半葉のみであったなら ば先の仮説に合うのだが、 『訪古』にいう「嘉定改元十月郡守鄱陽汪檝跋」の 一文は後半葉の末にのみ記されおり、 「賜蘆文庫藏」本に拠るとしていた。つ まり『訪古』は汪「跋」を知っていた、少なくとも後半葉を知っており、それ は「賜蘆文庫藏」本に在ったからと考えねばならない。山本蔵本は前半葉を、 静嘉堂蔵本は後半葉を有するから、汪「跋」 1 葉のみは先の例とは異なって賜 蘆文庫から『漱芳』梅堂に渡る間に左右二つに分かれた、しかも先の例とは逆 に賜蘆文庫蔵本が静嘉堂に入ったということになる。わずか 1 葉のみの伝達経 路がこのように時期を異にして他の巻と交叉することはあり得なくはないが、 極めて稀であろう。じつは『賜蘆文庫』の記述もそのように読むべきではなか ろうか。山本蔵本によれば趙「跋」 ・錢「跋」と汪「跋」はそれぞれ一葉を成 しており、 『賜蘆文庫』の「 「跋」三葉存」はその 3 篇を指すに違いないが、そ れを受けて「已下闕」とある。これは本来有るべきものを缺いているとの理解 を示すものであり、そこで汪「跋」は半葉存でなかったかと懐疑される。ま た、 『賜蘆文庫』は蔵書印「金澤文庫」の所在を記録しているが、これとも合 わない。山本蔵本の巻14首と巻33「外集」首の存在がそれであり、これは『賜 蘆文庫』の記録に合致するが、静嘉堂本で巻29首と巻32尾・汪「跋」末尾にも 「金澤文庫」が捺されているように、本書も金沢文庫蔵本の例に漏れず毎冊に 首尾両印を備えていた71。 『賜蘆文庫』が汪「跋」の後を「已下闕」とする点、 汪「跋」末尾にある蔵書印「金澤文庫」を記さない点から考えて、賜蘆蔵本に 70『森銑三著作集( 71 7 )』(中央公論社1971年)「屋代弘賢」(p151、p177)。 関靖『金澤文庫の研究』(講談社1951年)「金澤文庫印」p557。 戸 崎 哲 彦 27 汪「跋」は有ったが前半葉のみではなかろうか。逆に後半葉を備えていたなら ば、汪「跋」は署名で終わり、その葉の末(枠外)には「金澤文庫」印がある ことから冊尾であることは明白であるから、 「已下闕」とは判断しなかったは ずである。汪「跋」は賜蘆文庫入蔵以前に前後各半葉に分かれていた。先の例 と同じである。しかし、だとすれば、 『訪古志』の「又有嘉定改元十月郡守鄱 陽汪檝跋」の記録はどう説明すべきか、課題を残す。 以上を要するに、静嘉堂蔵本と山本蔵本とは 2 冊11部(巻)を成すから、天 保三年(1832)頃に称名寺から流出する以前、つまりかなり早い時点に亡佚し て、この 2 冊しか残存していなかったのであるが、さらにそれも分散し、その 大半は屋代不忍文庫・新見賜蘆文庫・浅野漱芳閣を経て、後に山本書店に渡 り、またそのごく一部が竹添・松方を経て静嘉堂に帰した。竹添は称名寺に僅 かに残存していたものを入手したとも考えられるが、屋代・新見よりも後の人 であり、別に収蔵者が介在したのではなかろうか。これも待考とするしかない。 Ⅳ 南宋永州刊『唐柳先生文集』の特徴 山本蔵本は「後序」 ・ 「跋」等を備えており、それによって刻書の経緯を知る ことができる。その内、趙善愖「跋」 ・銭重「跋」は五百家註本に附録されて おり、葉桯「重刊柳文後敘」は北図蔵本にも見える。ただし若干文字に異同が ある。これまで知られていなかったのは刊記 1 葉と汪檝「跋」前半葉であり、 以下にその全文を掲げて紹介する。 永州公使庫刻本 ここに刊記と呼ぶものは牒の一種であり、 『賜蘆文庫』が「校訂ニ預リシ人々 ノ位署ヲ具載ス」 、 『賜蘆書院』が「開版ノ歳月及ヒ挍正ノ人ノ職名ヲ載ス」と いって録し、また『漱芳』も録文するように重要な一葉であるが、翻字あるい は転写にはかなりの異同があり、実見によっても判然としない箇所が多い。 永州 今重雕『唐柳先生文集』一部,計三十二卷 并『外集』一卷 右具如前 乾道元年十二月十五日畢工 同校正司書張摶 28 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 同校正學正陳建[寔?] 校正左從事郎永州司法參軍王汝可(?) (版心) 【□□ 【□ 一百五十 林 校正左從政郎永州錄事參軍張士謹(?) 校正左迪功郎充永州州學教授崔惟孝 左承議郎通判永州軍州主管學事兼管內勸農營田事趙不息 右朝請大夫權發遣永州軍州主管典兵兼管內勸農營田事葉桯 この一葉は乾道刊本の版木を使ったのであろうか、墨の滲みがひどく、かつ 一行に収めんとしたために字間がかなり詰まっており、判読は困難であるが、 ほぼ以上のように読める。 正集32・外集 1 巻から成る、乾道元年十二月十五日、知州による重刊であ る。葉桯には「重刊柳文後敘」があり、それにいう「郡庠舊有文集,歳久頗 剥落,因裒集善本,會同僚參校。凡編次之殽亂、字畫之譌誤,悉釐正之。…… 乾道改元季冬丙子(十二月四日72) 」に合う。北図蔵本は乾道刊本であるが、 72 洪金富『遼宋夏金元五朝日曆』(中央研究所歴史語言研究所2004年、p267)。 戸 崎 哲 彦 29 この葉を缺く。莫縄孫「跋」(同治一二年1873)に「是册為曹棟亭氏(寅)舊 藏,檢『千山曹氏藏書目』 ,此種注云 “三十二卷” 本,乃合此『外集』曁『附 録』計之,益足證永州本『正集』為三十卷無疑」というのは明らかな誤りであ る73。 「附録」なるものの存在は逆に「三十二卷」という注記から推測したに過 ぎない。 「三十二卷」とは「三十卷」に「非國語」二巻を含む正集を謂う。 この刊記には知州をはじめ、多くの官員が列記されている。次に掲げる汪檝 「跋」が挙げる校正者は一人であり、それが全てであったかどうか疑問がある が、乾道本は永州の主要な官員を総動員して校正に当たっている74。 汪檝「跋」は静嘉堂蔵本によって後半葉( 「舊集」以下)が知られていたが、 今、全容が明らかになった。 柳河東之文,雄深雅健,昌黎韓公/固嘗評之矣。由唐迄今,數百載,傳/ 習既久,不一訛舛。自河南穆伯長、/隴西李之才,以古學倡天下,參讀/ 訂正,遂得其眞。柳侯來零陵最久,/凡山水奇秀,居處清絕,必於其文/ 發之,故其文之奇古精緻,載於集/中者,多零陵所作也。檝到官之初,/ 謁愚溪祠,退而訪其遺文,得公庫/舊集,日累月益,墨版蠹食,字體漫/ 滅。至讀者有以 “悴” 為 “倅”,以 “邁” 為 “遇” /者,因委新舂陵理掾朱 君敏,集諸/家善本,校讎之,更易朽腐五百餘/版,釐革訛舛幾數百字。 半朞而工/役成,庶可以傳遠。或尚有缺漏,博/古君子能嗣而正之,抑斯 文之幸/也。嘉定改元十月□□日,郡守鄱/陽汪檝跋。 汪「跋」の末、框外に「金澤文庫」が捺されている。 「金澤文庫」は巻の首 と尾に捺されるから、本来この汪「跋」が巻末にあった。汪「跋」の版心は一 字ならば「跋」か。葉第は一字であるが不鮮明。葉桯「重刊柳文後敘」は版心 「後序」 、葉第は「五」 「三」のように見えるが、乾道本では「後序」、葉「九」。 「愚溪祠」とは汪藻が「零陵之[人]祠先生于學、于愚溪之上」という愚渓 の柳祠であるが、「退而訪其遺文,得公庫舊集」ということから、愚渓祠では 早くは傅増湘『藏園訂補郘亭知見傳本書目』(中華書局年2009年、p1023)が嘉定刊三十三 本に拠って「莫繩孫……誤言」を「糾正」するが、すでに『經籍訪古志』に録する「卷末 記」によって明らかである。 74 類似の記載内容は北京図書館蔵淳熙三年(1176)舒州公使庫刻曾穜輯『大易粹言』 (『天禄 琳琅書目後編』巻 2 「宋版經部」)に附す二牒の前牒に見える。張守衛「兩宋安徽官方刻書 考」(『圖書情報工作網刊』2012年第 1 期(総第50期)に「這也是迄今發現的,我國刻印書 籍録有各種費用、售價以及公使庫刻書機構及機構負責人結銜的最早記錄資料,具有重要的 研究價値」(p53)というが、経費・価格は後牒、刻書機関および責任者等の氏名と官銜を 列記は前牒であり、永州本は『大易粹言』より十年以上も早い。 73 30 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 なく、州学に置かれていたこと、 「郡庠舊有文集」が州公使庫で重刊されたこ とがわかる75。今日の伝本で、詁訓本・百家註本・五百家註本・音辯本・世綵 堂本等、南宋刊本はいずれも四五巻本の系統であるのみならず、坊刻本・私宅 家塾刻本の類であって、永州本は官刻本である点においても貴重である。しか も現存四五巻本系統で最も早い詁訓本が淳熙四年(1177)であるが、永州本は それより早い乾道元年(1165)本とその補刊嘉定元年(1208)本が存在する。 「郡守汪檝」は永州知州76、開禧末から嘉定二年の間に在任77。紹熙二年(1191) から嘉定元年(1208)まではわずか十七年しか経ていないが、すでに500枚以 上の版木が腐蝕していたというのは紹熙本が乾道元年の版木も使用して重印 していたからであろう。試算によれば、永州本は約600葉あったと思われる から78、ほとんどが重刻されたことになる。旧版重印の部分は極めて少なかっ た。先の刊記の 1 葉はその一つではなかろうか。版式は乾道本と同じで半葉 9 行・行18字であるが、版心中の大小字数の位置が異なる。二本とも版心は雙魚 尾で、乾道版の字数は下方の魚尾下に統一されているようであるが、嘉定本は 上方の魚尾下と下方の魚尾下とにある。嘉定本の刻工名は次のものが知られる。 文、正、仁、傑、申、石、召、椿、春、山、寅、午、詮、義、林、俊、 公使庫は官人の接待・宿泊等の費用に充当されるが、余剰は運用営利することが許され た。葉徳輝『書林清話』巻 3「公使庫本」、李致忠『古代版印通論』 (紫禁城出版社2000年、 p102)「公使庫刻書」。 76 明清『永州府志』には無載。 『全宋文(302)』巻6911「汪檝」(p414)小伝に「嘉定元年 守道州」。『藏園群書經眼録』巻12によって汪「跋」を収載し、それに「委新舂陵理掾朱君 敏」とあるのに拠ったものと思われる。舂陵は道州寧遠県北にあり、永州に舂陵県が新置 されたことを知らない。永州刊本であること疑いない。また「理掾」は州佐を謂うから、 新任の永州司理参軍事のことであろうが、明らかに「舂」字である。永州の郡名は零陵で あるから、 「舂」は「零」の訛字と考えられないこともないが、当地の刻工がこれを誤ると も考えにくい。ただし後述するように嘉定本には誤刻が多い。淳熙三年(1176)舒州公使 庫刻『大易粹言』も舒州だけでなく、池州青陽県学諭・新無為軍無為県主簿・安慶軍節度 掌書記等、周辺州県の官吏も校勘に動員されている。 77『 〔弘治〕撫州府志』巻 8 「守牧題名」に「汪檝:朝奉郎,慶元元年(1195)」、 『〔景定〕建 康志』 (『宋元方志叢刊( 2 )』、中華書局1990年、p1716上)巻24「官守志」に「汪檝:朝奉 郎,嘉泰元年(1201)三月初四日到任」。『〔景定〕建康志』によれば嘉泰三年三月に何洪到 任。李之亮『宋兩江郡守易替考』(巴蜀書社2001年、p423)によれば、嘉定三年汪檝知吉 州。『宋史』巻204「藝文志」に「汪檝『郷飲規約』一卷」。 78 沈晦本(四五巻、外集二卷)正文(不含註文)は計23万字であり、永州本の所収は沈本 に及ばない。仮に永州本版木(18行×18字=324字/ 1 葉)600枚とすれば19万字(324× 600=194,400)。700枚(226,800)を越えることはない。 75 戸 崎 哲 彦 31 十、此(?)79 いずれも一字である。ちなみに乾道本には李林(林)、趙世昌(世昌)、陸公 正(公正)、陸公才、如松(松) 、伍盛、宏80、材、輝、成などが見え、多く姓 名を記す。刻工二〇名くらいによって「半朞而工役成」 、夏四月に開始して半 年後の十月に完成した。 宋諱缺筆あり。官刻本では避諱は比較的厳格である。 「慎」字(孝宗眘11621189)は末一筆を缺いて避けるが、つづく「敦」 (光宗惇1189-1194)、 「廓」(寧 宗拡1194-1224)は避けていない。嘉定元年(1208)の刊であるから、不厳謹 ということになるが、おそらく乾道本(孝宗朝)に拠ったに過ぎないであろ う。しばしば版本は避諱に拠って年代判定されるが、ここでもそれが根拠にな らないことが確認される。すでに嘉定本がそうであるならば、光宗紹熙重刊本 も同様である。 これをまとめれば、南宋永州『唐柳先生文集』三三巻本は永州公使庫による 官刻本であり、紹興初(?)刊本の後、孝宗乾道元年(1165) 、光宗紹熙二年 (1191)、寧宗嘉定元年(1208)に逓修重刊されていく。後三者は乾道本と同一 版式にして部分的に旧版木を用て補刻するなど、極めて近い関係にある。 逓修本の功罪 永州官刻本は穆脩以来の四五巻本と全く系統を異にしており、したがって 異文も多く、校勘に用いることは必要である。一例を挙げれば山本蔵本巻30 「啓」の「上大理崔少卿啓」の「少」字がそうである。四五巻本系統では巻36 「啓」に収めて「上大理崔大卿應制擧不敏啓」あるいは「上大理崔大卿啓」に、 つまりいずれも「崔大卿」に作り、異文をいう註もない。わずか一字の差であ るが、制挙不第をいうこの書簡は博学宏詞試受験と及第・授官の年代を考える 直接の根拠として重要である。じつは文安礼『年譜』(紹興五年1135)も「貞 元十二年」条に引いて「與大理崔少卿啓」に作っており、所拠の柳州本(紹興 四年)も「少」に作っていたはずである。また今本詁訓本は「崔大卿」に作る が、韓醇の題下註に「新史年表:崔同嘗為大理少卿,崔鋭嘗為大理〔少〕81卿, 然皆不見於傳。 ……時貞元十二三年間也」というから韓醇所拠の四五巻本も「少 下線の11名は静嘉堂本にも見える。『靜嘉堂文庫宋元版圖録・解題篇』 (汲古書院1992年、 p61下)。 80 傅増湘『藏園羣書題記』 ・傅増湘『藏園群書經眼録』は「唐昌」・「唐宏」とする。 81『新唐書』巻72下「宰相世系表」二下(中華書局排印本p2749) 。 79 32 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 卿」に作っていた。いっぽう清の陳景雲『柳集點勘』をはじめ今日では「崔大 卿」は十二年中に大理大卿から尚書右丞に遷った崔儆であるから十一年の作と し、そこで十二年に及第、十四年に授集賢殿正字とする82。しかし「崔少卿」 ならばこの説は成立しない。沈晦は京師三三巻本を「訛正相半」と貶すが、こ の例などは異文の正しい例である。 今、残念ながら山本蔵本に拠って異文の全容を知ることは叶わぬが、かなり の部分を窺うことはできる。その手掛かりを与えるのが日本蓬左文庫蔵・金沢 文庫旧蔵の鈔本『增廣註釋音辯唐柳先生集』正集四五巻本の校註である83。本 書は日本正和元年(1312)破衲聰達(1280- ?)の写本であるが、“イ” を記し て異本による校註を示している。この例は200字近く、当然ながら尽く音辯本 と異なるが、その中の約三分の一は詁訓本・百家註本・五百家註本・鄭定本・ 世綵堂本と同じであり、全て同一のものがない。この校語は同じく当時金沢文 庫に蔵されていた嘉定元年永州刊本に拠るものである。永州本『外集』残巻中 の作品で “イ” 校註は17箇所、全て永州本と同じである。これは単なる偶然で はなく、 「イ」本は金沢文庫蔵の嘉定本であると考えて間違いない。この「イ」 本=永州本による校異は貴重である。詳しくは旧稿に譲り、ここでは異文の正 しさが明白な一例を追加しておけば、四五巻本巻29「柳州山水近治可游者記」 で諸本は「仙奕之山……多秭歸。石魚之山……其形如立魚,在多秭歸」に作 り、 「在」では通じないが、諸本に異文がなければ、それをいう宋人の註もな い。ただ清に至って何焯が「“在” 疑作 “尤”」84というのは流石であり、これで も文意は通じるが、じつは「イ」本では「亦」に作っている。日本鈔本音辯本 の校語には先の「少」字が漏れているから校勘は徹底したものではないが、こ のような例は少なくない。永州本による校勘の必要を痛感する。相当な部分を 復元するのに有益であり、今後不可欠の作業となること必定である。 永州本は官刻本にしてしかも紹興(?)本が「編次之殽亂、字畫之譌誤」の あるのを乾道本は「悉釐正之」し、紹熙本は乾道本が「脱繆訛誤特甚」である 尹占華『柳宗元集校注』 (中華書局2013年) 「上大理崔大卿應制擧不敏啓」 (p2276-2278)、 「年表」(p3490-3491)。 83 淳祐九年(1249)劉欽序、劉怡堂刊。詳しくは拙稿「日本舊校鈔『增廣註釋音辯唐柳先生 集』四十五卷本及南宋刻『音註唐柳先生集』略攷」 (『文史』総106輯、2014-1)、 「南宋淳祐 九年劉欽序劉怡堂輯註『增廣註釋音辯唐柳先生集』四十五卷12行本考」(『島大言語文化』 33、2012年)。 84 崔高維点校『義門讀書記』 (中華書局1987年)巻36「河東集」(中冊p648)。 82 戸 崎 哲 彦 33 のに因って「校勘」し、嘉定本も乾道本にいう「獨詞旨有互見旁出者,兩存之」 を踏襲しながら、乾道本・紹熙本が「字體漫滅」にして魚魯焉馬の誤が多かっ たために、 「校讎」 「釐革訛舛幾數百字」したものである。つまり逓修して校正 を重ねていったわけであるから道理からいえば嘉定本が最善であるということ になる。 しかし実際には逓修の過程で別に新たな訛誤も生じており、しかもそれが全 体を覆うものであれば無視はできない。今、新旧二本で重複する一部分を比較 しても、 『外集』の「他:佗」 (乾道本;嘉定本) 、 「又;义」、「恇;惟」、「闡; 開」、 「湯;漢」 、 「雷;雲」 、 「退;迹」 、 「責;貴」 、 「達;逵」、 「昇;升」、葉「叙」 の「凡;乞」等々、誤字は少なくない。これらは訂正を自負して挙げる「以 “悴” 為 “倅”,以 “邁” 為 “遇”」の例と大差はなく、五十歩が百歩を笑うのに 似ている。たとえば「恇」字は太祖(匡胤)による避諱であって乾道本では末 一筆を缺いていたのであるが、嘉定本では乾道本に拠りながら誤って「惟」字 に判読してしまった。また二本は字様もやや異っており、嘉定本の作る「乞居 永者十年」に至っては滑稽でさえある。柳宗元「乞居永者十年」の「乞」が事 実に合わないことは自明であり、いやしくも永州に在る者が知らぬはずはない が、乾道本が「凡」を異体字「凢」に作るのを誤って「乞」字に改めてしまっ た。このような例は明代嘉靖間から福建建陽の書坊で盛んになる雕法の縦横分 業による明朝体に多く見られるようになる類であるが85、この南宋永州の例は いずれも単に字形を機械的に真似た結果犯した、単純で幼稚な誤字である。そ れは朱敏の「校讎」段階に発生したのではなく、雕版過程での、つまり刻工に よるものに違いない。官本であるとはいえ、南宋永州の雕版のレベルの低さが 知られる。これが当時の永州のレベルであるならば、この手の誤刻は嘉定本中 の一部に限られるのではなく、満遍なく覆っているはずである。嘉定本の方が 善本だとの一説を信じて、また永州本が官刻であるからといって、無批判に使 用することは禁物である。 永州本と劉禹錫原編本 永州本が校勘や作品の拾遺に資するものであることは疑いない。しかし沈晦 が「以四十五卷本為正,而以諸本所餘作『外集』 」 、すでに北宋の「元符間京師 開行」三三巻本等を使って校正・拾遺している。また音辯本「目録」の「代裴 85 拙稿「『增廣註釋音辯唐柳先生集』 『朱文公校昌黎先生集』合刊初考(上)―明代建陽にお ける韓柳二集合刊本の種類とその刊行年代」(『島大言語文化』38、2015年)。 34 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 中丞賀破東平状」下に「依京本附此處」という「京本」や鄭定本の巻13「亡妻 弘農楊氏誌」にいう「重校:元符京本 “雖” 下空一字」というのも「元符間京 師開行」本である。ならば、基本的には三三巻本は四五巻本の中、沈晦のい う「揔六百七十四篇」中にあるといえる。ただし、乾道本に収める「上宰相 啓」・ 「上裴桂州状」 ・ 「送元暠師詩」が四五巻本にないことはすでに同治一二年 (1873)莫縄孫「柳柳州外集跋」に指摘されているが、いずれも永州本では「外 集」に収めるものであって、正集にはなかった点、また沈晦が京本等によって 拾遺した「外集」や韓醇の「新編外集」に入っていない点において柳宗元の作 であるかどうかは検討の余地がある。 二系統が決定的に異にするのは巻数であり、それは同時に収録作品数の相異 でもあり、また所収の相異は編次の相異である。むろん三三巻本は四五巻本の 中にあるから、所収数はより少ないが、三〇巻本こそが劉禹錫原編本であって 南宋永州本はその直系に当たると考えられる。ただしこれは正集の巻数の同一 のみから容易に推測されることであって証明されたわけではない。現に厳密に いえば、南宋永州本は沈晦「外集」によれば京本に未収の作品があったことや 重なる校正が加えられているものの依然として訛誤を含むことの他にも、三〇 巻本にはなかった「外集」を備え、しかも韓愈「墓誌」等を「後序」に移し、 またその中に韓愈「柳州羅池廟碑」を加え、さらに『新唐書』本伝から節録し た「柳子厚先生傳」も附しているから、同一でないことは明らかである。そこ で以下では永州刊本の現存残巻に拠って、先ず収載作品と分類・編次について 四五巻本との比較から、劉禹錫編三〇巻本の原形を最も忠実に伝えるものであ ることを立証する。 Ⅴ 永州刊三三卷本残巻の所収と分類・編次 南宋永州刊本の現存部分は、北図蔵本が「外集」のみ、静嘉堂本が「外集」 の他に巻29「状」残葉と巻32「非國語」下のみであったが、山本蔵本は巻14~ 巻18と巻30および巻31・32「非国語」に及び、これによって収載作品と分類・ 編次を知ることができる。永州本は全体を通して類目を立てて分巻し、各巻 の葉 ₁ 第 2 行にそれを示す。四五巻本も基本的に同じであるが、時に小目も立 て、さらに詁訓本は類目の下に所収篇数を示す。 永州本巻14「説」 永州本巻14は「説」類であり、計15篇を収める。四五巻本では巻16が「説」 戸 崎 哲 彦 35 であるが、他の巻に跨る。所収作品の対応は表の通り。表中、作品の制作年代 については代表的なもの、文安礼『柳先生年譜』 (紹興五年1135)、施子愉『柳 宗元年譜』 (1958年)86、尹占華「柳宗元年表」 (2013年)87の説を掲げる。詳しく は巻18「序下」の条で説明。 永州本卷14「說」 01 天說 02 車說 贈楊誨之 03 鶻說 04 羆說 05 捕蛇者說 06 說 07 朝日說 08 乘桴說 09 復吳子松說 10 謫龍說 11 讀韓愈毛穎傳 12 吏商 13 鞭賈 14 觀八駿圖 15 東海若 尹 京 810 永 永 永 803 804 永 永 永 810 京 京 京 永 施 永 809 永 永 永 803 803 永 永 永 809 永 永 永 永 文 810 卷16 803 803 「說 一十一首」 810 卷20 「銘雜題 一十二首」 卷21「題序」 四五卷本 01 天說 02 鶻說 03 祀朝日說 04 捕蛇者說 05 說 06 乘桴說 07 說車 贈楊誨之 08 謫龍說 09 復吳子松說 10 羆說 11 觀八駿圖說 10 鞭賈 11 吏商 12 東海若 01 讀韓愈所著毛穎傳後題 永州本は「説」下に小字で「如 “説” 者附之」と註す。編者のみ能く記す所 である。永州本ではなく、それよりも前の三〇巻本系統の編者、おそらく劉 禹錫の語であろう。前10篇「~説」が「説」類の作、後 5 篇が「如 “説” 者」 である。四五巻本巻16「説」類には11篇を収め、篇名のやや異なるものもある が、「如 “説〟 者」の多くは巻20「銘雜題」類に見える。しかも「銘雜題」と は所収12篇の「銘」前 6 篇と「雜題」後 6 篇を合併した謂いであり、さらにそ の内「雜題」は「舜禹之事」 「謗譽」 「咸宜」前 3 篇と「鞭賈」 「吏商」 「東海若」 後 3 篇に分かたれる。 「舜禹之事」等前 3 篇は永州本では全て『外集』にあり、 すでに北宋時に晏殊はこの 3 篇を博士韋籌所作とする88。つまり四五巻本は「雜 題」なる類を新たに設定し、 「~説」にあらざる「如 “説” 者」および韋籌所 作をそこに入れてしまったのである。 また、11「讀韓愈毛穎傳」に至っては、四五巻本では「讀韓愈所著毛穎傳後 題」に作っており、巻21「題序」類の首に入れているが、 「題序」は「題」と 「序」の合併であって「題」類はこの 1 篇のみ。しかも前巻20「銘雜題」の末 86 87 88 湖北人民出版社、後に存萃学社編『柳宗元研究論集』(崇文書店1973年)に収録。 尹占華等『柳宗元集校注(10)』(中華書局2013年)「附録」。 四五巻本巻20「舜禹之事」題下註。 36 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 は「東海若」であって「銘」と「雜題」の内の「雜題」類であるから、巻20末 と巻21首は「題」類で連結している。つまり四五巻本は三〇巻本の「説」類中 の「如 “説” 者」を巻21「銘雜題」末と巻22「題序」首に分入して類目を改編 した痕跡が認められる。このような改編の結果、三〇巻本が「銘」と「序」と 分けた簡明な類目は四五巻本では「銘・雜題」と「題・序」という雑駁なもの となってしまった。これは穆脩の編輯に始まり、韋籌作を柳宗元作と誤って搜 輯したことに起因する。 以上の点からみて永州本巻14「説」が劉禹錫の分類と編次を踏襲している可 能性は否定できない。 永州本巻15「賛」 「箴戒」 永州本巻15は「賛」と「箴戒」とに分かち、計12篇( 5 ⧻ 7 )を収める。 四五巻本とは先の「説」類とはちがい、比較的整然とした対応関係になる。 永州本「賛」5 篇と「箴戒」8 篇はすべて四五巻本「弔賛箴戒」中の「賛箴戒」 に在り、しかも01「龍馬圖贊并序」と12「敵戒」の 2 篇を除いて、編次も一致 する。不一致の 2 篇は巻の最初と最後に位置することと関係があろう。四五巻 本「弔賛箴戒」は「弔」と「賛」 「箴戒」を併合したものであり、「弔贊箴戒」 戸 崎 哲 彦 永州本巻 15「賛」 尹 施 01 龍馬圖贊并序 02 伊尹五就桀贊并序 03 梁丘據贊 04 霹靂琴贊并序 05 尊勝幢贊并序 「箴戒」 06 懼箴 07 憂箴 08 師友箴 09 三戒 臨江之麋 10 黔之驢 11 永某氏之鼠 12 敵戒 永 永 永 永 810 永 永 808 永 永 813 永 永 永 813 永 柳 永 文 37 四五巻本卷 19「弔贊箴戒十五首」 01 弔萇弘文 02 弔屈原文 03 弔樂毅文 04 伊尹五就桀贊并序 05 梁丘據贊 06 霹靂琴贊引 07 尊勝幢贊并序 08 龍馬圖贊并序 09 誡懼箴 10 憂箴 11 師友箴并序 12 敵戒 13 三戒并序 臨江之麋 14 黔之驢 15 永某氏之鼠 中の前 3 篇が「弔」類であるから、先の巻14で考察した類目との対応から考え て永州本には別に「弔」類があって篇数が少ないために併合されたのではない かと推測される。ならば「賛」の近くに「弔」類があったかも知れない。そこ で推測を逞しくすれば、四五巻本では前巻18は「騷一十首」であり、 『文苑英 華』の「騒」が「弔屈原文」 (巻356)を柳宗元の「騒」六篇(巻357)と共に 収載しているように、形式・内容の両面からも近いものがあるから、合わせて 分類されてよい。 「賛」の前は巻14「説」 、後は巻16「序」であるから、永州本 の巻13が「騒」 「弔」ではなかったろうか。 06「懼箴」を四五巻本はいずれも「誡懼箴」に作るが、 『英華』も「懼箴」 に作っており、本文の内容から見ても「誡」は不自然である。この作は次の07 「憂箴」と対を成すものであり、また「箴戒」の類目名は前 3 篇の「箴」と後 4 篇の「戒」とで成るから、 「誡」は衍字に違いない。永州本では直前に「箴戒」 があり、末の「戒」が「誡」に誤って上に加わったものであろう。 永州本巻16「序上」 89 楊守敬『留真譜二編』 (光緒二七年1901序) 巻10「唐柳先生文集卷第十六」 は森立之等が日本蔵嘉定永州本によって抄影した首葉を載せており、それが目 録を含むために、当巻の所収は大半が知られる。ただし後 3 編は「送□□□ 序」という、題の首尾二字のみで示す形式のために明らかではなかった。 89 民国六年石印本『留真譜』下冊(『珍稀古籍書影叢刊』 5 、北京図書館出版社2004年p959960)。 38 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 両本の収載作品の対応は表の通り。 永州本卷16「序上」 尹 施 809 永 02 西漢文類序 永 永 03 濮陽吳君文集序 808 永 04 愚溪詩序 810 810 05 同吳秀才武陵贈李睦州詩序 808 808 06 楊評事文集後序 京 京 07 王氏唱和詩序 795 795 08 陪永州崔使君宴南池序 810 808 文 四五巻本 01 讀韓愈所著毛穎傳後題 01 崇豐二陵集禮後序 09 婁二十四秀才花下詩序 808 永 10 法華寺西亭夜飲賦詩序 809 809 11 送元十八山人序 810 永 12 送豆盧膺秀才序 京 永 13 送趙大秀才往江陵序 808 808 卷21 「題序 六首」 02 裴墐崇豐二陵集禮後序 03 柳宗直西漢文類序 04 楊評事文集後序 05 濮陽吳君文集序 06 王氏伯仲唱和詩序 808 卷22「序 十三首」 12 送豆盧膺秀才南遊詩序 13 送趙大秀才往江陵謁趙尚書序 卷23「序別」 01 同吳武陵贈李睦州詩序 卷24 「序 十一首」 807 06 陪崔使君遊宴南池序 07 愚溪詩序 08 婁二十四秀才花下對酒唱和詩序 09 法華寺西亭夜飲賦詩序 卷25「序…」 07 送元十八山人南遊序 「序」類の永州本と四五巻本の編次は先の巻15「賛」「箴戒」と比べてかなり 複雑な対応関係になる。その原因は作数が多いことによる「序」類内の下位分 類にある。四五巻本系統では多くが「題序」 「序」「序別」 「序隱遁道儒釋」に 分類されているが90、 「題序」は「題」と「序」であり、 「序」下の「別」 ・「隱遁 90 表記に三通りあり。巻23・巻25では、音辯本は共に「序」に作るが、詁訓本は「序十二 首」「序十七首」、他の百家註本等は「序別」「序隱遁道儒釋」。 戸 崎 哲 彦 39 道儒釋」は共に下位分類を示し、さらに「序」のみの二巻にも区別があって、 巻22は官吏・秀才への送詩の序、巻24「序」は親族への送序詩序や自己の序等 となっている。その中にあって巻21「題序」は「讀韓愈所著毛穎傳後題」を収 めたために「題」類としたのであり、永州本では「後題」二字がなくて「説」 類に在ったが、巻21「題序」では「讀韓愈所著毛穎傳後題」以外は集序の類が 集められている。つまり四五巻本には、巻21「題序」が集序、巻22「序」が送 詩序、巻23「序別」が送別序、巻24「序」が親族等送序詩序、巻25「序隱遁道 儒釋」という内容と対象による分類と分巻が明らかになされている。いっぽう 永州本は四五巻本との対応が多くが激しく交叉しており、判然としない。前 半の数篇が集序・詩序である点は四五巻本の巻21に近いが、以下に見る「上」 「中」 「下」を通して「序」類全体が四五巻本に比して雑然としている。沈晦が 京師三三巻本を「顛倒章什」というのもこのような点がすでにあったからであ ろう。しかし一般的にいって、劉禹錫の「編次」が何の基準も分類もなく為さ れたとは考えにくい。また、たとえ永州本が禹錫本とは別に新たに編次された としても、ただ「~序」の題名の作をランダムに並べる作業によるもの、単 なる寄せ集めではなく、何等かの基準を立てたであろうし、そうでなければ、 多少なりとも原編を反映しているのではなかろうか。ちなみに永州本巻16「序 上」の前半の編次は45巻本「題序」に近い。両本に共通の01「崇豐二陵集禮後 序」、02「西漢文類序」 、03「濮陽呉君文集序」 、06「楊評事文集後序」、07「王 氏〔伯仲〕唱和詩序」は詩文集の序であるが、永州本ではそれらの間にあり、 四五巻本では巻22「序」 ・巻23「序別」 ・巻24「序」の三巻に跨る04「愚溪詩序」、 05「同呉秀才武陵贈李睦州詩序」 、08「陪永州崔使君宴南池序」、09「婁二十四 秀才花下〔對酒唱和〕詩序」 、10「法華寺西亭夜飲賦詩序」も、「詩序」であっ て同じく作品の序文である。10「法華寺西亭夜飲賦詩序」には「是夜,會茲亭 者凡八人,……咸命為詩,而授余序」とあるから八名の詩を集めたものの序で あることは明らかであり、09「婁二十四秀才花下詩序」は四五巻本が作るよう に「唱和」した詩集の序であり、04「愚溪詩序」も「作八愚詩」八首の序であ る。ただ08「陪永州崔使君宴南池序」のみ「詩序」に作るものがないが91、文 中に「徴賢合姻……羽觴飛翔,匏竹激越……不知日之將暮……席之賢者,率皆 91 詁訓本等は「陪永州崔使君遊宴南池序」に、音辯本はさらに「宴」を「讌」に、『文苑英 華』は「陪崔使君遊宴南池」に、詁訓本巻27「永州〔韋使君〕新堂記」の韓醇の題下註で は引いて「南池讌集序」に作る。 40 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 左官蒙澤」という宴集での序であり、宴集の常として詩が詠まれ、あるいは詩 の応答があるから、宴席上の所作を集めたものに寄せた序であるに違いない。 そこで永州本の「序」類 3 巻は前後 2 類に大別することができる。前半10「法 華寺西亭夜飲賦詩序」までは全て詩文集の類に寄せた序であり、以下40余篇 は、ただ巻16の16「凌助教蓬屋題詩序」と「序下」の末尾つまり「序」類の末 に附して晏殊がこの二篇を収めていない「古本」92があったという24「序棋」 ・ 25「序飲」の 3 篇を除けば、すべて「送序」の類である。四五巻本は三〇巻本 の巻16「序上」の前半が内容による分類であったことによって全体が然るべき であるとの判断から以下の40余篇にも内容上の分類を加えた。その結果、本来 の編次が見えなくなってしまったのではないのか。 では永州本「上」 「中」 「下」三巻、40余篇にも及ぶ「序」類内における編次 に基準はあるのか、それは何なのか。 永州本巻17「序中」 永州本「序中」計20篇と四五巻本は表のような対応関係になる。 永州本卷17「序中」 01 送從弟謀序 02 送澥序 03 送徐從事北遊序 04 送桂州杜留後序 05 送李判官往桂州序 06 送寧國范明府序 07 送薛存義序 08 送薛判官量移序 09 送易師楊君序 10 送巽上人赴中丞叔父召序 11 送僧浩初序 12 送琛上人南遊序 13 送元暠師序 14 送内弟盧遵遊桂州序 15 送從兄偁序 16 送楊凝郎中使還汴宋後序 17 送蔡秀才序 18 送廖有方序 19 送嚴秀才序 20 送濬上人歸淮南序 尹 810 819 ? 808 810 804 永 815 814 811 810 永 811 809 801 799 京 814 京 799 施 810 永 永 永 永 京 永 809 京 811 永 永 永 809 京 799 京 永 京 京 文 810 809 四五卷本 01 送楊凝郎中使還汴宋詩後序 卷22 04 同吳武陵送前桂州杜留後詩序 「序 十三首」 05 送寧國范明府詩序 07 送李判官往桂州序 03 送薛存義序 卷23 04 送薛判官量移序 「序別 十二首」 06 送嚴秀才公貺下第歸興元覲省詩序 10 送蔡秀才下第歸覲序 01 送從兄偁罷選歸江淮詩序 卷24 02 送從弟謀歸江陵序 「序 十一首」 03 送澥序 04 送内弟盧遵遊桂州序 04 送易師楊君序 05 送徐從事北遊序 卷25 06 送廖有方序 「序 11 送巽上人赴中丞叔父召序 隱遁道 12 送僧浩初序 儒釋 十七首」 13 送元暠師序 14 送琛上人南遊序 16 送濬上人歸淮南覲省序 両本の間にはもはや整然とした対応関係は認められない。四五巻本の「題 序」 「序」 「序別」 「序」 「序隱遁道儒釋」の四巻に跨って交叉しており、先の「序 詁訓本等に「晏元獻公本題云:「序飲」「序棊」二篇,古本或有或無云」、音辯本の註に 「「序飲」「序棊」,晏元獻本題云:此二篇,古本或有或無」。 92 戸 崎 哲 彦 41 上」と次の「序下」を合わせた「序」類三巻全体の対応関係を一覧にするなら ばさらに錯綜した様相を呈する。 永州本巻18「序下」 永州本巻18「序下」計25篇、四五巻本とは表のような対応関係になる。 永州本卷18「序下」 01 送婁圖南遊淮南序 02 送呂讓序 03 送崔九策序 04 送韋七秀才序 05 送南涪州量移澧州序 06 送崔羣序 07 送韓豐後序 08 送蕭錬序 09 送元秀才序 10 送幸南容歸使聯句序 11 送苑論序 12 送辛殆庶序 13 送班孝廉序 14 送獨孤申叔序 15 送獨孤書記序 16 凌助教蓬屋題詩序 17 送文暢上人序 18 送賈山人序 19 送辛生序略 20 送李渭序 21 送文郁師序 22 送方及師序 23 送玄舉師歸幽泉寺序 24 序棋 25 序飲 尹 810 810 813 813 809 794 804 796 802 795 793 797 京 800 797 京 801 816 800 819 ? 815 ? 永 809 施 永 永 812 京 809 京 京 796 京 京 793 797 801 京 京 京 京 815 京 816 永 柳 永 809 永 文 808 812 809 793 803 四五卷本 02 送崔羣序 03 送邠寧獨孤書記赴辟命序 06 送幸南容歸使聯句詩序 卷22 08 送苑論登第後歸覲詩序 「序十三首」 09 送蕭錬登第後南歸序 10 送班孝廉擢第歸東川覲省序 11 送獨孤申叔侍親往河東序 02 送南涪州量移澧州序 05 送李渭赴京師序 07 送元秀才下第東歸序 卷23 「序別十二 08 送辛殆庶下第遊南鄭序 首」 09 送崔九策子符罷舉詩序 11 送韋七秀才序 12 送辛生下第序略 05 送表弟呂讓將仕進序 卷24 10 序飲 「序十一首」 11 序棊 01 凌助教蓬屋題詩序 02 送韓豐羣公詩後序 03 送婁圖南秀才遊淮南序 卷25 08 送賈山人南遊序 「序隱遁道 儒釋十七首」09 送方及師序 10 送文暢上人登五臺遂遊河朔序 15 送文郁師序 17 送玄舉師歸幽泉寺序 永州本「序」上中下の三巻、所収計58篇(13+20+25)は、四五巻本の巻21「題 序」・巻22「序」 ・巻23「序別」 ・巻24「序」 ・巻25「序隱遁道儒釋」の五巻であ り、 「讀韓愈所著毛穎傳後題」 1 篇を除く、計58篇( 5 +13+12+11+17)に全て 対応しており、漏れはない。四五巻本中に網羅されている。しかし編次は尽く 異なる。 先に指摘した「序上」の前10篇の詩文集序と「序下」の末 2 篇「序~」を除 いてその間にある「送~序」40余篇は、四五巻本のとる内容別の下位分類に対 応が認められない。しかし「序中」 「序下」まで通覧すれば別の特徴が見えて くる。先に制作年代を示したのは用意があってのことであり、じつは柳州時代 での作は「序下」の後半に多く、また貞元年間=長安時代での作は「序中」の 後半と「序下」の中間に集中しており、ランダムに見えた配列には作為を感ぜ 42 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 しめるものがある。表中では長安時代「京」 「805」 (ゴチック)、永州時代「永」 「815」、柳州時代「柳」 「819」 (網かけ) 、未詳「?」の表記で区別した。参考 として掲げた三譜の年代判定には若干出入りがあり、中には恐らく誤りもあろ うが、全体的な傾向を知る目安にはなる。たしかに長安・永州・柳州の順で整 然とはしていないが、明らかに部分的に認められる集中現象は決してランダ ムなものではない。そもそも文集を「編次」するという以上、それはランダム になされる単純作業ではなかろう。不自然な年代上の集中が認められることに よって、永州本「序」三巻で詩文集序以下の「送序」約50篇には制作年代によ る編次が下層にあったのではないかと推測される。 永州本巻29「状」 永州本巻29の類目は「状」 、四五巻本では「奏状」二字に作る巻39がこれに 当たる。四五巻本には他に「状」があるわけではなく、 「奏状」と「状」を区 別しているのではない。 「状」一字が本来の形であろう。四五巻本が巻 8 に「段 太尉逸事状」等を集めて「行状」とする類目と区別したものか。永州本「状」 計21篇と四五巻本との対応関係は次の表のようになる。 永州本卷29「狀」 01 進農書狀 02 讓監察御史狀 03 爲崔中丞上宰相狀 04 代人進磁器狀 05 爲南承嗣請從軍狀 06 爲京畿父老上宰相狀 07 爲京畿父老上府尹狀 08 爲京兆府訴旱損狀 09 上戸部狀 10 柳州上本府狀 11 12 上中書門下狀 三首 尹 施 789 803 815 803 815 812 809 802 802 805 815 815 809 803 803 805 永 柳 819 819 文 803 809 802 802 四五卷本卷39「奏狀」二十一首 01 爲廣南鄭相公奏百姓産三男狀 02 爲薛中丞浙東奏五色雲狀 03 爲裴中丞奏邕管黄家賊事宜狀 04 讓監察御史狀 05 爲京兆府昭應等九縣訴夏苗旱損狀 06 爲南承嗣請從軍狀 07 進農書狀 08 代人進瓷器狀 09 柳州舉監察御史柳漢自代狀 10 上戸部狀 11 柳州上本府狀 12 爲裴中丞伐黄賊轉牒 13 賀中書門下誅淄青逆賊李師道狀 13 14 上裴相狀 819 15 爲廣南鄭相公奏百姓産三男狀 16 為薛中丞浙東奏五色雲狀 17 柳州舉自代狀 18 爲南承嗣乞兩河効用狀 19 柳州上中書門下狀 20 爲裴中丞伐黄賊轉牒 21 爲裴中丞奏邕管黄家賊事宜狀 812 815 809 815 819 819 819 永 815 809 815 819 819 818 815 815 819 14 賀中書門下平淄青後肆赦狀 15 賀中書門下分淄青…三道節度狀 16 爲裴中丞上裴相賀破東平狀 17 爲裴中丞上裴相乞討黄賊狀 18 爲桂州崔中丞上中書門下乞朝覲狀 19 爲南承嗣上中書門下乞兩河效用狀 20 柳州上中書門下舉柳漢自代狀 21 爲長安縣耆壽詣相府乞奏復尊號狀 22 爲京畿父老上府尹乞奏復尊號狀 永州本14「上裴相状」は四五巻本の16・17の二篇に当たる。百家註本等は17 「為裴中丞乞討黄賊状」に作り、詁訓本には「上裴相」三字がある。音辯本は 戸 崎 哲 彦 43 註に「一本“丞”下有“上裴相”字」 、また巻首「目録」の16「代裴中丞上裴相賀破 東平状」下に註して「依『京本』附此處」というから、穆脩本には第17篇があっ て第16篇を缺いていたが、鄭定本は第17篇に註して「重校:韓本標曰:趙本與 「上裴相状」合為一篇」93というから、沈晦は「小字三十三卷,元符間京師開行」 によって編入し、合せて一篇とした。この他、永州本「外集」の末には14「上 裴相状」と異なる内容の45「上裴相状」を収めるが、四五巻本の沈晦「外集」・ 韓醇「外集補遺」にも拾遺されていないから京本には未収であった。 永州本「状」一巻と四五巻本「奏状」一巻は全所収が対応するが、他人の作 が混入している可能性が高い。15「爲廣南鄭相公奏百姓産三男状」は、韓醇 は元和六七年(812)作とし、尹氏「年表」はこれに従ったと思われるが、施 氏『譜』はこれを採らない。岑仲勉が考証して「斷非柳作」94とするのがよい。 16「爲薛中丞浙東奏五色雲状」は、韓醇は元和十二年としながら懐疑し、施 氏『譜』は「在永所作而確年無考」に繋年、つまり元和九年以前とする。しか しこの二篇は文氏『譜』に見えないから、柳州本は収載していなかったであろ う。内容は共に瑞祥に及び、永貞元年(805)に起稿の「貞符」に矛盾する。 後の「外集」の項で触れるが、柳宗元の善く作る所ではない。かりに柳作で あったとしても遺稿から除外したはずである。 01「進農書状」は、韓醇は「公時蓋未第」として懐疑し、陳景雲『柳文點勘』 は「亦非柳子作」と結論する。文『譜』には見えない。早い時点で三〇巻本に 混入したものであろう。 ただ04「代人進磁器状」を永州の作とするのには疑問がのこるが95、この巻 にも前半が長安時代の作、後半が柳州時代の作という集中が認められる。 永州本巻30「啓」 永州本「啓」計21篇、四五巻本との対応関係は次の表のようになる。 93 「韓本」は韓醇の詁訓本(淳熙四年1177)の略称に似るが、今本にそのような註文は見え ない。また鄭定本は鄭定が嘉興知府であった嘉定十三年(1220)頃の刊であるから、「趙 本」としては永州本、紹熙二年(1191)永州知州趙善愖刊本が候補として考えられる。他 に「趙曰」が二条ある。 94 岑仲勉『唐人行第録(他三種) 』 (中華書局1963年)所収『唐集質疑』の「柳柳州外集」条 (p421)。 95 韓醇註「公集有元饒州二書,在元和八年,饒州當進瓷器,此必為元作也」に拠ったものと 思われるが、二書に「進瓷器」のことは見えない。 44 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 永州本卷30「啟」 01 上揚州李相公啟 02 謝李相公示手札啟 03 寄趙江陵啟 尹 809 810 809 施 810 810 04 二首 05 上湖南李中丞啟 06 上李中丞所著文啟 07 謝李中丞啟 08 上嚴東川啟 09 寄桂州李中丞薦盧遵啟 10 上大理崔少卿啟 11 與邕州李中丞啟 12 上裴晉公獻唐雅詩啟 13 上襄陽李僕射啟 14 上廣州趙尚書啟 15 上西川武相公啟 16 襄陽李尚書啟 17 上江陵嚴司空啟 18 上河陽烏尚書啟 19 賀裴桂州啟 20 上裴行立中丞撰訾家洲記啟 809 811 811 811 806 809 795 818 818 818 806 811 811 812 814 819 818 810 811 811 811 810 809 796 818 818 818 806 811 811 811 814 818 818 21 與衛淮南石琴薦啟 817 817 22 答鄭員外賀啟 23 答諸州賀啟 25 上嶺南鄭相公啟 819 819 812 819 819 812 文 810 卷35 「啟」 四五卷本 01 上趙宗儒尚書啟 02 上西川武元衡相公謝撫問啟 03 謝襄陽李夷簡尚書委曲撫問啟 04 賀趙江陵宗儒辟符載啟 05 與邕州李域中丞論陸卓啟 06 謝李中丞安撫崔簡戚屬啟 07 上湖南李中丞干廪食啟 08 上桂州李中丞薦盧遵啟 01 上權德輿補闕啟 02 上大理崔大卿應制舉啟 03 上裴晉公獻唐雅詩啟 04 上襄陽李愬僕射啟 05 上揚州李吉甫相公啟 06 謝李吉甫相公示手札啟 07 上江陵趙相公寄所著文啟 08 上嚴東川寄劍門銘啟 卷36「啟」09 上江陵嚴司空獻所著文啟 十三首 10 上嶺南鄭相公獻所著文啟 11 上李中丞獻所著文啟 12 上裴行立中丞撰訾家洲亭記啟 八首 810 809 796 818 818 818 811 814 13 上河陽烏尚書啟 15 賀裴桂州啟 16 與衛淮南石琴薦啟 「表啟」 17 答鄭員外賀啟 十八首 18 答諸州賀啟 外集卷下 「啓」類は、四五巻本では巻35・36の「啓」二巻に収めるが、「上權德輿補闕 啓」 (巻36-01) 1 篇を除いて全て永州本中にあり、しかも永州本の19「賀裴桂 州啓」 ・21「與衛淮南石琴薦啓」 ・22「答鄭員外賀啓」・23「答諸州賀啓」の 4 篇は四五巻本に見えないが、四五巻本では「外集」巻下「表啓」の末に、し かもこの順序で収める。沈晦が「元符間京師開行」本によって拾遺したもので あろう。ただし永州本「外集」にはさらに44「上宰相啓」を収めるが、四五巻 本では「外集」にも拾遺されていないから、上掲の45「上裴相状」と共に京本 にはなく、後の永州本のみにあった。なお、同様の理由で永州本「外集」の08 「送元暠師詩」も京本にはなく永州本が拾遺したものであろう。永州本が何に 拠って拾遺したか不明であるが、柳作ではない可能性もある。 編次の基準について考えれば、二系統は明らかに異なる。四五巻本の「啓」 類二巻は内容によった分類であり、巻35は謝・賀・推薦等が集中し、巻36は所 作の献上が主になっている、つまり内容による編次であるが、いっぽう永州本 には制作年代上の集中が明らかに認められる。やはり下層には年代編次の意識 があったのではないか。 戸 崎 哲 彦 45 「上權德輿補闕啓」と「與權補闕書」 「賀裴桂州啓」等 4 篇とは逆に四五巻本の全てが収める「上權德輿補闕〔温 卷決進退〕啓」は文中冒頭に「宗元聞之」とあるにもかかわらず、永州本で は「外集」にも収められていない。この一篇は科挙受験時の文学とその年代や 権徳輿との交流等に関わる資料を提供するものであり、その有無は先に挙げ た「崔少卿」が制挙に関わったのと同様に柳宗元研究にとって重要な問題であ る。以下、これについて附考しておく。 柳宗元は貞元六年度から八年度まで科挙に及第しなかった。その裏には宰相 竇参の意がはたらいていた。子厚が父柳鎮のために書いた墓碑「先侍御史府君 神道碑」 (巻12)に、その年の及第者について徳宗皇帝から担当者に審問があっ たことを記録して次のようにいう。 貞元九年,宗元得進士第。上問有司曰: “得無以朝士子冒進者乎。” 有司 以聞。上曰: “是故抗姦臣竇參者耶。吾知其不爲子求舉矣。 ” 韓愈「柳子厚墓誌」でもこの逸話を取り上げているが、 「以能媚權貴,失御 史。權貴人死,乃復拜侍御史」といい、単に「權貴」としてその名を隠して挙 げず、父を貶めた竇参の名を皇帝に語らせる形をとっている。これより先、貞 元四年に父柳鎮は殿中侍御史となるが、宰相竇参の不正を糾弾して屈しなかっ たために憎まれて夔州司馬に左遷された96。そのために息子の及第を絶望視し ていたかも知れない。しかし子厚自身はただ坐して待っていただけではなかっ た。当時は有力な官僚・貴顕の推挙が必要であったのみならず、陸贄に収賄の 嫌疑がかけられたように贈収賄が横行し、また自己の習作を披露すべく作品 集を制作して献上する事前運動が行なわれていた。いわゆる “行巻” であり、 再度行なう “温巻” である。子厚も自己の文才への評価を得るべく、文名高か く、かつ清官に赴任したばかりの権徳輿に自作を重ねて献上し、推挽を仰い だ。「上權德輿補闕温卷決進退啓」の作はそれを示す証拠となる。 しかし永州本は10「上大理崔少卿〔應制舉〕啓」を収めているが、 「上權德 輿補闕温卷啓」も同じく科挙受験に当たっての自薦作であり、また権徳輿は 当時最も文名高かったから、この作を文集から除外したとは考えにくい。「上 權德輿補闕啓」は駢文の餘習濃い作であって古文の作家としては後世に伝える ことを憚ったとも推察されようが、駢文風である点は「上大理崔少卿啓」も変 96 四五巻本巻12「先侍御史府君神道碑」。 46 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 わりない。かりに真作であって遺稿から除外したとしても、永州本は、少なく とも嘉定本は、汪「跋」に「自河南穆伯長、隴西李之才,以古學倡天下,參讀 訂正,遂得其眞」というから四五巻本の存在を当然知っていたであろうし、李 之才と共に編集・校勘に当たったことは穆脩「後序」のみに見えるものである から97、これを載せる四五巻本も参閲していたであろうが、 「外集」にも収めな い。文集から除外すべき理由はなく、またそれがかの権徳輿に宛てた書簡であ るならば除外すべきではなかろう。永州本に未収であれば、早くから柳宗元の 作と見做されたもので、穆脩によって四五巻本に編入された他人の作との疑い を濃くする。 しかし文安礼『年譜』 ・張敦頤「歴官紀」は「與權補闕書」を引くからそれ らにも収載されていたのである。文『譜』は柳州本に拠るもので何巻本であっ たか未詳であるが、張敦頤は『柳文音釋』 (紹興二六年1156)では沈晦刊四五 巻本を底本としながら98、後の「歴官紀」 (乾道五年1169)では劉「序」を引い て「編次其文為三十二通」に作るから三〇巻本系統に拠っているかも知れな い。ならば永州本も収めていてよい。じつは文『譜』 ・張「紀」の所引と四五 巻本とにはわずか一字ではあるが、相違点がある。題名「與權補闕書」には省 略があるとしても共に「書」に作っている。そこで考えられることは、この作 は「啓」類ではなく、 「書」類に入っていた可能性があり、四五巻本は「上大 理崔大卿應制舉啓」の例に倣って「啓」に校勘して「啓」類に入れたのではな かろうか、ということである。この作が四五巻本では巻の首に置かれているこ とも後に編入されたとの推測を高める。 永州本巻31「非國語」上・巻32「非國語」下 四五巻本の巻44「非國語」上・巻45「非國語」下に当たる。三〇巻本には本 来無かったが、永州本は三三巻本であってこの両巻を正集に加え、さらに「外 集」 1 巻を含む。 永州本と顕著に異なるのは『國語』の引用部分である。「非國語」は先ず『國 語』の原文を掲げて改行し、 「非曰」以下でそれに対する批判を始める書式を とるが、『國語』の引用を「云云」として省略することが多く、そこで韓醇は 穆「序」に「與隴西李之才參讀累月,詳而後止」。詁訓本等四五巻本はいずれもこの「序」 を収める。 98 張敦頤「韓柳音釋序」に「今四明所刊四十五卷者是也。惟音釋未有傳焉。余再分教延平, 用此本篇次撰集,凡二千五百餘字」。 97 戸 崎 哲 彦 47 省略部分を附益し99、百家註本等はこの「新附」を踏襲する。ただ音辯本には この附益がなく、永州本は最も簡略であって音辯本に近い。 永州本『外集』 永州本『外集』はつとに清水茂先生(1925-2008)が紹介され、静嘉堂蔵本 と四五巻本の篇目を丹念に対校しておられるので、対照表を省略する。その 対校を通して、慶賀祥瑞や自己の思想と矛盾する文章は留めようとしなかった が、後人が拾遺して『外集』に入れ、さらに四五巻本を編集した者が『外集』 から正集に入れてしまった100、と結論された。至当の説である。慶賀祥瑞等の 作は後人が正集に編入しただけでなく、それらには他人の所作が多く混入して いる。早くは北宋時に宋祁が「此一卷『集外文』 ,其中多後人妄取他人之文冒 柳州之名者」と指摘し、それを受けて陸游が南宋時に「所謂『集外文』者,今 101 往往分入卷中矣」(淳煕一二年1185) という。また、後人が正集に入れたのな らば、逆の操作を行う、つまり四五巻本の「表」中から永州本の『外集』所収 を除外すれば、永州本正集の「表」が復元できるはずである。以下、この方法 を試みる。 永州本巻 5 (?) 「表」 「表」類は四五巻本では『外集』巻下「表啓十八首」の他に、巻37「表慶賀 三十〔四?〕首」 ・巻38「表二十六首」の二巻に60篇近い、大量の作が収めら れており、柳文の特徴を示しているともいえる。今日に残存する永州本には 「表」の巻は残念ながら含まれていないが、 「表」類が正集にあったことは想像 に難くない。それは現存永州本の巻14~18、巻29~30の外にあった。四五巻 本では「啓」 ・ 「表」 ・ 「奏狀」の順で編成されており、これとの対応から考えれ ば永州本では巻29「状」 、巻30「啓」であるから巻28が「表」であったとも思 われるが、南宋の集本に巻 5 を「表」とする一本があり、それが永州本ではな かったか。鄭定本の巻 1 「獻「平淮夷雅」表」題下註に次のようにいう。 重校:一本此「表」在第五卷;蜀本此「表」重出在三十八卷;邵武本在 詁訓本に題下注に「其間載『國語』斷截不詳者,輒附益之,庶乎其理易見焉」。 清水茂「日本留下來的兩種柳宗元集版本」(『馮平山圖書館金禧紀念論文集』、香港大學 1982年、p60)に「因為柳宗元自己,或者編輯文集的劉禹錫不希望這些慶賀祥瑞、跟他自己 的思想有矛盾的文章留在人間、所以不敢把它收在正集裏;後來有人從別的資料來搜出,纔 入外集。再後,編集四十五卷本的人,更從外集來 ʻ陞ʼ 到正集去的」。 101 陸游「跋柳柳州集」 (淳熙十二年1185)に「此一卷『集外文』,其中多後人妄取他人之文冒 柳州之名者,聊且裒類于此。子京:右三十一字,宋景文公手書,藏其從孫晸家。然所謂 『集外文』者,今往往分入卷中矣。淳熙乙巳五月十七日,務觀校畢」。四部叢刊本『渭南 文集』巻27。 99 100 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 48 三十八卷,卻作「進平淮夷雅表」 。 南宋時、集本には凡そ二系統があった。一つが四五巻本、一つが三〇巻本の 系統であるから、巻38を有する諸本はすでに三三巻本ではない。四五巻本系統 では巻 1 に「獻平淮夷雅表」一首を「平淮夷雅二篇并序」と共に収めるが、さ らに「獻平淮夷雅表」を巻38に入れる蜀本等と巻 5 に入れる一本があったこと が、鄭定重校によって知られる。現存本では詁訓本が巻 1 に「獻平淮夷雅表」 を、巻38「表」にも「進平淮夷雅表」に作って題下註に「已見第一卷首」とい う。存目無文。詁訓本は臨邛県韓醇の手になり、珍州知州王咨の序をもつ、蜀 本に属す四五巻本である102。巻 5 に「表」が在ったという一本、これは三〇巻 本系統ではなかろうか。 四五巻本の巻37「表慶賀」 ・巻38「表」には永州本の『外集』に入っている ものが多く、これらを差し引いた中に永州本の「表」はあったはずである。以 下に、四五巻本の巻37・巻38・ 「外集」と永州本『外集』中の「表」類の対照 および宋人が考証している真偽を表にして示す。 四五卷本卷37「表慶賀」三十〔四〕首 01 禮部為百官上尊號表 02 第二表 03 禮部賀册尊號表 04 為京兆府請復尊號表三首 05 第二表 06 第三表 07 為耆老等請復尊號表 08 禮部為文武百寮請聽政表 09 第二表 10 又 11 12 13 14 15 16 17 18 19 102 第三表 賀踐祚表 禮部賀改永貞元年表 禮部太上皇誥宜令皇帝即位賀表 禮部賀立皇太子表 禮部賀皇太子册禮畢德音表 為王京兆皇帝即位禮畢賀表 代韋中丞賀元和大赦表 禮部賀册太上皇后賀表 宋代諸氏辨偽 永本 詁訓本:古今集中皆題云“禮部賀册尊號表”,非也。…… 可見在柳州作,非“禮部表”也,當題云「柳州賀册尊號表」 。 百家註本:一本云:此「第二表」闕。此「表」乃下「為 耆老等請復尊號第三表」也。 百家註本:一本題云“二首”。即以前「為京兆府請復尊號 第二表」為次篇。 詁訓本:晏元獻本據『文苑英華』 ,此「表」乃是林逢「請 聽政第三表」。別有子厚「第二表」 ,今載於後。 沈晦「後序」:增入;(詁訓本)此『文苑英華』所載子厚 「表」也。 彭叔夏『辨證』5:此二「表」 , 『柳集』誤收。 外13 蜀本について拙稿「簡州石刻柳宗元「永州八記」再考―その底本と宋代蜀本「柳集」の系 統」 (『島大言語文化』29、2010年)。また、詁訓本と沈晦本については拙稿「韓醇《詁訓 唐柳先生文集》南宋刊本初攷」 (『孫昌武教授八十華誕記念文集』 (2016年)に掲載予定) を参照されたい。 戸 崎 哲 彦 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 禮部賀太上皇后册畢賀表 賀皇太子牋 御史臺賀嘉禾表 禮部賀嘉禾及芝草表 京兆府賀嘉瓜白兔連理棠樹等表 禮部賀甘露表 禮部賀白龍并……蓮子黃瓜等表 禮部賀白鵲表 禮部賀嘉瓜表 為王京兆賀嘉蓮表 為王京兆賀雨表一 王京兆賀雨表二 王京兆賀雨表三 王京兆賀雨表四 賀親自祈雨有應表 四五卷本卷38「表」二十六首 為裴中丞賀克東平赦表 柳州賀破東平表 代裴中丞賀分淄青為三道節度表 為韋侍郎賀布衣竇羣除右拾遺表 為樊左丞讓官表 為王户部薦李諒表 為王户部陳情表 代裴中丞謝討黄少卿賊表 為裴中丞舉人自代伐黄賊表 為崔中丞請朝覲表 代柳公綽謝上任表 代李愬襄州謝上任表 代節使謝遷鎮表 為劉同州謝上表 代裴行立謝移鎮表 代韋永州謝上表 謝除柳州刺史表 18 柳州謝上表 19 代廣南節度使舉裴中丞自代表 20 21 22 23 24 25 01 02 03 04 05 06 07 奏薦從事表 代廣南節度使謝出鎮表 為楊湖南謝設表 為武中丞謝賜櫻桃表 謝賜時服表 謝賜端午綾帛衣服表 四五卷本『外集』下「表啟」十八首 為文武百官請復尊號表六首 第二表 第三表 第四表 第五表 第六表 及大會議户部尚書班宏又請改所上尊號 加奉道字故其文如後表 詁訓本:或注云「京兆」,恐非是。 49 外32 外31 外24 外23 外26 外22 外25 外27 外28 外29 外30 外10 外21 外20 外33 詁訓本:或以為崔能,非是。 詁訓本:疑非公之文。 百家註本:「表」蓋他人之文,誤編在此。 詁訓本:後「表」非公之作。 鄭定本:此「表」恐偽。彭叔夏『辨證』5:按『新史·(李) 吉甫傳』 ,改郴移饒。舊史乃以郴作柳,是致『柳集』誤收。 百家註本:當是長慶後廣南節度使舉桂中丞仲武自代,非 裴中丞也。亦他人作,誤錄于此。 百家註本:此「表」代人作。 百家註本:亦代他人作。 彭叔夏『辨證』9:貞元五年六月百官請復舊,即此「六 表」也。是年,崔元翰為禮部員外郎…… 「類表」云 (崔) “ 元翰作” 是矣。……又柳文收此表,或入正集,或入外 集。按宗元年譜,貞元五年方十七歲,八年始貢京師,其 誤可知。 韓醇:與下「韓洄請歷數近日徴應祥瑞表」次前「表」皆 在貞元五年作。……「表」在六年作。 及大會議國子祭酒韓洄請歷數近日徵應 孫(汝聽):此是改(崔元翰) 「第三表」 。 08 祥瑞故又改其文如後表 外34 外35 外36 外37 外38 外12 外39 外40 外41 外43 外15 外16 外18 外11 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 50 09 為崔中丞賀平李懷光表 為裴令公舉裴冕表 10 (「記後」作「代令公舉裴冕狀」) 11 12 13 14 計 為武中丞謝賜新茶表 為裴中丞賀破東平表 賀赦表 〔皇帝册尊號〕賀皇太子牋 59(34+25)+14=73 韓醇:公時年十三,不應有此文。 韓醇:柳生於大曆八年,是時方五歲……此決非公之文也 明矣。 『英華』608:邵說「代郭令公請雪裴僕射表」 外09 『英華』558:李吉甫 沈晦「後序」:增入 6( 「外集」と重複= 3 )+11( 3 )=17 外14 外42 35 外17 外19 鄭定本は多くの善本を求めて重校添註しており、その中には「元符京本」103 があり、また『外集』巻下「賀裴桂州啓」以下 4 篇に「重校:一本在『前集』」 という一本がある。「賀裴桂州啓」等の四「啓」が四五巻本系統では『外集』 中にあったが、重校が「前集」にあったとする一本は先に指摘したように三〇 巻本系統の特徴である。 「前集」とは「後集」に対する言いであり、現存『柳 集』に『外集』あるいは『別集』の称はあるが、 『前集』『後集』の称はない。 また陸之淵「柳文音義序」 (乾道三年1167)には「惟柳州内外集,凡三十三通」 ともいう。「前集」とは正集を指すと考えてよかろう。ただ『外集』巻下「為 文武百官請復尊號表六首」は崔元翰の作であるが、鄭定本は第六表に「重校: 一本以上六表在『前集』 」といい、この「前集」も三〇巻本の正集であるなら ば、早くから混入していたのである。 四五巻本の「表」類 2 巻および沈晦拾遺『外集』中の「表」は所収計73篇 (59+14)にも達するが、永州本『外集』所収計35篇(30+ 5 )を除けば38篇に 半減し、これが永州本巻 5 「表」の内実に近い。特に長安時期の代作や巻37 の後半に集中する慶賀祥瑞の作が遺稿から排除されていた。本稿で永州本『外 集』中の「表」の全てについて真偽を再検討する余裕はないが、他人の作が含 まれていることはすでに宋人が考証している所に拠っても明らかであり104、ま た除外後の38篇中に他人の作が混入していることも明白であって、それらを除 けば柳の自作はさらに少なくなる。かくして20余篇が残留するが、それは一巻 に収まる量である。また、除外後の諸作はほぼ巻37の長安時代から巻38の永柳 時代という制作年代順に列ぶことになり、やはりこの巻も年代による編次が基 底にあるとの推測を強くする。 103 104 巻13「亡妻弘農楊氏誌」の「雖間在他國」下に「重校:元符京本 “雖” 下空一字,一無 “間” 字」。ただし「元符京本」をいうことは多くなく、おそらくこの一条のみ。 四五巻本『外集』下・永州本『外集』の「賀赦表」は、『英華』巻558・『辦證』巻 5 は李 吉甫の作とするが、尹氏『柳宗元校注(10)』(p3366)は柳宗元の作とする。 戸 崎 哲 彦 51 永州本巻 2 (?) 「賦」 四五巻本巻 2 「古賦」には「佩韋賦」等九篇を収めるが、旧稿で指摘したよ うに105、聰達鈔本の音辯本はさらにその後に「披沙揀金賦」 「迎長日賦」 「記里 鼓賦」三篇を加えており、それは末行にいう「 『音註唐柳先生文集』卷第二」 に拠るものであった。その後には小字註があり、 「 『增廣注釋音辨』本無「披沙 揀金」「迎春[長]日」 「記里鼓」之三賦,今以『音註』本而寫加之。『音註・ 目録』云:“今體賦三首”」という。南宋刊本には『音註唐柳先生文集』なるも のがあり、その巻 2 には「今體賦三首」を収めていた。 これら今体の三賦は四五巻本の『外集』巻上「賦文誌八首」の最初に収める 「賦」類の全てであり、また順序も同じである。いっぽう永州本の『外集』に この三賦は見えない。この三賦は『文苑英華』に収められているから沈晦がこ れに拠って拾遺したことも考えられるが、 『音註』本の文字は『英華』本とか なり相異しており、むしろ四五巻本の方に近い。したがって『音註』本が『英 華』から採ったとは考えにくい。当時の『柳集』は四五巻本と三〇巻本の二系 統であったから、『音註』本は四五巻本でなければ、三〇巻本系統に属するも のであり、恐らくその系統である京本巻 2 には「今體賦三首」があって、沈晦 はそれから拾遺したのではなかろうか。 また、四五巻本では巻 2 の類目を「古賦」に作るが、巻首の総目ではただ 「賦」に作る。すでに「古賦」といえば古今に分類しているわけであるから、 「今 體賦」があってもよい。そこで永州本にも巻 2 に「賦」があり、 「古賦」と「今 體賦」に分かれていたとの可能性も排除し難い。 おわりに 現存する永州本の特徴およびその所収と四五巻本との対応を見て来た。まず 現存巻ごとに確認した所を一覧表にして示す。 劉禹錫は柳宗元から託された遺稿を三〇巻に編次した。三三巻本はこれに 「外集」と『非國語』二巻が加わったものである。南宋永州公使庫刊三三巻本 はその系統であり、この永州本と北宋穆脩四五巻本はともに類目を立てて分巻 しており、類目名と篇目は極めて近く、また永州本の所収も四五巻本に網羅さ れているが、編次は大きく異なる。 105 拙稿「日本舊校鈔『增廣註釋音辯唐柳先生集』四十五卷本及南宋刻『音註唐柳先生集』略 攷」(中華書局『文史』総106輯、2014-1)。 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 52 永州公使庫刊三三卷本 00 序 目錄 01 古賦 02 賦(?) 今體賦 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 表(?) 騷弔(?) 14 説 如説者附之 15 賛 箴戒 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 上 中 下 序 狀 啟 非國語 外 集 後 序 跋 上 下 穆脩四五卷本 + 沈晦外集 + 韓醇補遺 00 序 目錄 01 唐雅唐詩貞符 02 古賦 03 論 04 議辯 05 古聖賢碑 06 碑 釋教碑 07 碑銘 釋教碑銘 08 行狀 09 表銘碣誄 10 誌 11 誌碣誄 12 表誌 13 誌 14 對 15 問答 16 説 17 傳 18 騷 19 弔贊箴戒 20 銘雜題 21 題序 22 23 別 序 24 25 隱遁道儒釋 26 官署 27 亭池 記 28 祠廟 29 山水 30 明謗責躬 31 32 書 論政論服餌 33 34 35 啓 36 37 慶賀 表 38 奏狀 39 40 祭文哭辭 41 祭文 42 古今詩 43 44 上 非國語 45 下 46 上 賦文誌 外 集 47 下 表啓 48 外集補遺 後 序 戸 崎 哲 彦 53 まず、四五巻本と三三巻本とのこのような近似は四五巻本が三〇巻本を網羅 し、類目・篇目を基本的に踏襲しているからであり、これによって三三巻本が 三〇巻本を踏襲していることが証明される。 では四五巻本は三〇巻本を踏襲するが編次が多く対応していないのはなぜ か。それには主に二つの要因が考えられる。沈晦が酷評した「顛倒章什」は元 符間京師三三巻本に始まるものではなかろう。それ以前において遺漏誤伝や錯 簡缺葉が少なからず存在したことは想像に難くない。劉禹錫原編本から北宋初 期の穆脩までは二世紀以上を経ており、しかも伝承方式からいえばそれは書写 の時代であった。また、四五巻本は所作を遺漏なく広く収集されて膨張してい た。多くの偽作や永州本「外集」の多くが正集に編入しているのはそのためで ある。それはおそくとも穆脩の段階に始まっている。このような編次の錯乱と 所収の膨張とに因って、再編成して各巻の類目を内容によって下位分類する必 要が生じた。いっぽう永州本の編次にも錯乱はあるが、しかし仔細に観察すれ ば、その中にも部分的に一定の集中が認められる。それは長安・永州・柳州の 時代に大別した場合に観られる所収の集中であり、それが現れるのは一類目内 だけではない。この傾向が最も顕著に観察されるのが四五巻本の「古今詩」二 巻である。 # 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 805-814永 途次 815-819柳 卷四十二 古今詩七十六[?]首 同劉二十八院長述舊言懷感時書事……贈二君子 弘農公以碩德偉材屈於誣枉左官三歲……由獻詩五十韻以畢微志 酬韶州裴曹長使君寄道州呂八大使因以見示二十韻一首并序 酬婁秀才將之淮南見贈之作 酬婁秀才寓居開元寺早秋月夜病中見寄 初秋夜坐贈吳武陵 晨詣超師院讀禪經 贈江華長老 巽上人以竹間自採新茶見贈酬之以詩 零陵贈李卿元侍御簡吳武陵 界圍巖水簾 古東門行 寄韋珩 奉和楊尚書郴州追和故李中書夏日登北樓十韻之作依本詩韻次用 楊尚書寄郴筆知是小生本樣令更商搉使盡其功輒獻長句 南省轉牒欲具注國圖令盡通風俗故事 與浩初上人同看山寄京華親故 再至界圍巖水簾宿巖下 詔追赴都回寄零陵親故 過衡山見新花開却寄弟 汨羅遇風 -805京 尹占華 812 812 809 810 809 809 永 永 807 809 施子愉 文安禮 永 812 815 815 815 816 816 柳 817 815 815 815 815 809 永 永 永 永 永 811? 永 808 808 815 815 柳 816 816 柳 柳 815 815 815 815 814 816 814 814 814 54 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 49 50 51 52 53 54 55 56 58 59 60 61 63 64 65 66 67 68 69 01 02 03 04 05 06 07 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 朗州竇常員外寄劉二十八詩見促行驛走筆酬贈 離觴不醉至驛却寄相送諸公 北還登漢陽北原題臨川驛 善謔驛和劉夢得酹[酧]淳于先生 詔追赴都二月至灞亭上 李西川薦琴石 同劉二十八哭呂衡州兼寄江陵李元二侍御 奉酬楊侍郎丈因送八叔拾遺戲贈詔追南來諸賓二首(其一) 六言(其二?) 商山臨路有孤松往來斫以為明好事者憐之編竹成援遂其生植感而賦詩 衡陽與夢得分路贈别 重別夢得 答 夢得 三贈 答 夢得 再上湘江 清水驛叢竹天水趙云余手種一十二莖 別本附次「善謔驛」詩後。 長沙驛前南樓感舊 桂州北望秦驛手開竹逕至釣磯留待徐容州 登柳州城樓寄漳汀封連四州 柳州寄丈人周韶州 登柳州峨山 一作 “岷山”。 得盧衡州書因以詩寄 答劉連州邦字 嶺南江行 柳州峒氓 詶徐二中丞普寧郡内池館即事見寄 詶賈鵬山人郡内新栽松寓興見贈 二首 種柳戲題 柳州二月榕葉落盡偶題 浩初上人見貽絕句欲登仙人山因以酬之 雨中贈仙人山賈山人 别舍弟宗一 奉和周二十二丈酬郴州侍郎衡江夜泊……率然成篇代意之作 殷賢戲批書後寄劉連州并示孟崙二童 訓家雞之贈 劉禹錫 重贈二首 疊前 疊後 銅魚使赴都寄親友 韓漳州書報徹上人亡因寄二絕 柳州城西北隅種甘樹 聞徹上人亡寄侍郎楊丈 段九秀才處見亡友呂衡州書迹 柳州寄京中親故 種木槲花 摘櫻桃贈元居士時在望仙亭南樓與朱道士同處 詶曹侍御過象縣見寄 卷四十三 古今詩七十五首 法華寺石門精舍三十韻 遊朝陽巖遂登西亭二十韻 湘口館瀟湘二水所會 登蒲洲石磯望横江口潭島深逈斜對香零山 南磵中題 遊石角過小嶺至長烏村 與崔策登西山 815 815 815 815 815 815 811 815 815 815 815 815 815 815 815 815 815 815 816 816 816 815 815 柳 816 815 柳 816 817 815 816 816 816 816 816 816 815 816 817 816 812 京 815 815 815 815 815 813 811 814 818 柳 819 806 809 809 809 812 812 812 809 809 永 永 812 永 812 815 819 815 815 815 815 815 815 815 815 815 816 柳 柳 815 815 柳 柳 柳 柳 柳 柳 柳 816 816 815 815 815 815 柳 816 柳 816 柳 柳 柳 柳 815 814 815 811 814 815 815 815 815 816 816 816 戸 崎 哲 彦 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 51 52 53 56 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 構法華寺西亭 夏夜苦熱登西樓 覺衰 遊南亭夜還叙志七十韻 韋道安 哭連州凌員外司馬 旦攜謝山人至愚池 獨覺 首春逢耕者 溪居 夏初雨後尋愚溪 入黄溪聞猿 韋使君黄溪祈雨見召從行至祠下口號 郊居歲暮 秋曉行南谷經荒村 雨後曉行獨至愚溪北池 中夜起望西園值月上 零陵春望 從崔中丞過盧少府郊居 夏晝偶作 雨晴至江渡 江雪 冉溪 法華寺西亭夜飲 戲題石門長老東軒 茆[茅]簷下始栽竹 種仙靈毗 種朮 種白蘘荷 新植海石榴 戲題階前芍藥 始見白髮題所植海石榴 植靈壽木 自衡陽移桂十餘本植零陵所住精舍 湘岸移木芙蓉植龍興精舍 早梅 南中榮橘柚 紅蕉 巽公院五詠 淨土堂 曲講堂 禪室 芙蓉亭 苦竹橋 梅雨 零陵早春 田家三首 行路難三首 聞籍田有感 跂烏詞 籠鷹詞 放鷓鴣詞 龜背戲 聞黃鸝 渾鴻臚宅聞歌効白紵 楊白花 漁翁 飲酒 55 807 永 809 808 800 806 811 永 永 810 810 813 813 永 永 永 永 永 814 永 永 永 809 809 809 810 永 永 永 永 永 永 永 808 808 永 永 永 807 永 永 永 永 810 永 永 永 京 永 京 京 永 永 809 永 永 808 800 806 810 永 永 永 永 813 813 永 永 810 永 永 808 806 永 810 永 810 809 809 永 永 永 永 永 永 永 永 永 永 永 永 永 811? 永 永 永 810 永 永 永 永 永 永 永 永 永 810 56 69 70 72 73 74 75 76 77 外 南宋永州刊『唐柳先生文集』三三巻本初攷 讀書 感遇二首 詠史 詠三良 詠荆軻 掩役夫張進骸 省試觀慶雲圖 晏元獻家本有此詩,今附於此。 沈晦「後序」:“增入” 春懷故園 送元暠師詩 809 809 809 809 809 永 796 永 811 永 永 永 永 永 永 790 永 巻43約80首もの所作中、若干首を例外として、全てが永州の作であり、巻42 約70首もやはり数首を除いて前半が永州での作と長安・柳州への途次での作、 後半が柳州での作である106。このような明らかな集中は単なる偶然ではあり得 ず、所作を年代によって編次したことの痕跡に他ならない。永州本に認められ る所作時期の集中も、 「古今詩」二巻ほど整然とはしていないが、同一集内の こととしてこれと同じ編集方針が基底に貫かれているはずであり、乱丁落丁や 補遺・再編によって寸断され錯乱して不明な状態となったものと解せられる。 永州本や四五巻本の以前にあってこのような編次は後人の能くする所ではな い。劉禹錫原編三〇巻本は所作時期による編次なのであり、三百年後にありな がら永州本はより多くその原形を留めている。 このことよって臆測するに、時間編次は劉禹錫自身によるものではなく、子 厚が渡した遺稿そのものがすでに、日記の如く書き貯める形で、基本的には 時間順になっていたのではなかろうか。 「與友人論為文書」 に「間聞足下欲觀 僕文章,退發囊笥,編其蕪穢」 、 「上李中丞獻所著文啓」 に「時時舉首,長吟哀 歌,舒泄幽鬱,因取筆以書,紉韋而編,略成數卷。……敢飾近文(永州所作) 及在京師官命所草者,凡三卷,合四十三篇,不敢繁故也。儻或以為有可采者, 當繕録其餘,以增几席之汚」という。原本は革紐で綴じ、行李等に入れて保管 されていた。仮に状表・書簡類・詩歌類という大別の上で保管されていたとし ても、その類内では時間を追って綴じられていったのではなかろうか。白居易 の文集が内容と形式による分類の下位に年代順の配列があることはつとに知ら れている。たとえば日記の如く詠まれた大量の詩歌を有する『白氏文集』の中 で、友人元稹の編である『長慶集』においても、 「諷諭」 「閒適」 「感傷」 「律詩」 巻42の若干首は詁訓本・音辯本と百家註本・五百家註本・鄭定本・世綵堂本とで編次が 異なるが、後者の方が年代により合う。 107 四五巻本巻31。鄭定本は註に「一作 “答友人求文章書”」といい、 『文粹』は「答人求文 章書」に作る。 108 永州本巻30、四五巻本巻36。 106 戸 崎 哲 彦 57 等に分類分巻されているが、 「巻内の配列も年次によつたものと考え得る」109の であり、「諷諭」類には「古調詩」 「新樂府」 、 「感傷」類には「古調詩」 「歌行 曲引」の下位分類があるが、それがなく且つ大量である「律詩」においてその 特徴は最も顕著に窺える。また、門人李漢の編次による韓愈の文集、宋本『昌 黎集』の、やはり量の多いことによってより顕著に傾向が観察される詩歌類を 見るに、『白氏文集』ほど鮮明ではないが、年代による集中と配列が認められ る。これも本来の編次の痕跡ではなかろうか。宋本では、先に指摘した『柳 集』永州本と同様、数百年の間における伝写と拾遺と改編によって原形を失っ てしまったのである。そこでさらに臆測を重ねれば、この傾向は基本的には 唐集全体にいえることではなかろうか。作者は所作を日記の如く貯め重ねてお り、恐らくそのまま箱・袋等に納め、あるいは一定量に達せば束ねたり綴じた に違いない。そうでもなければ時間配列は困難であり、しかも他人が大量の作 をそのような編次にすることは不可能に近い。仮にすでに遺稿段階でそのよう に編次されたものであったとすれば、それを「編次」することの意義はどこに あるのか。それは作品の分類と類目の立て方およびその各類の順序を措いて他 にあり得ない。そこにこそ編者個人の文学観・評価が表現され得る。だとすれ ば、そのような遺稿を受け取った劉禹錫は如何に「編次」したのか。稿を改め て考察する110。 2015.9.16 *本稿は平成27年(2015)科学研究費補助金(課題番号26370409)による研究成果 の一部である。 109 花房英樹『白氏文集の批判的研究』(彙文堂書店1960年)「文集再構成」(p418)。 110「劉禹錫編《唐柳先生文集》三○卷本復原事始──據南宋永州刊三三卷本窺探劉禹錫分 類編次之用意」、第 7 回柳宗元国際学術討論会(2015年10月、中国運城市開催)提出論 文。『文學遺産』(2016年)に掲載予定。