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陶淵明の残したもの

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陶淵明の残したもの
-六三年の略歴l詩人にして農夫
まで敵国の劉宋の民となります。
四歳で火事で家焼失。五六歳で自国の東晋滅亡。以後死ぬ
評者からは田園詩人とか、隠逸詩人とか、矛盾詩人とか、
このような、思えば不幸な経歴を持つ陶淵明は、後世の
六三年の略歴を紹介します。
いろいろ言われています。
八歳ころ父が、ゴ一歳で妹の母が、三O歳ころ妻が、三七
という題で、それらの詩をいくつか取り上げ、陶淵明の生き
それが今に伝わっています。今日は﹁陶淵明の残したもの﹂
陶淵明は農夫ですが、詩人ですから、多くの詩を作り、
歳ころ母が、四一歳で妹が亡くなりました。およそ三O年の
方・考え方を紹介しよう、と思います。
これまたすぐに辞任。以後、郷里の農村に帰り、世俗と絶っ
ますが、すぐに辞任。同じ年に四度目の就職をしますが、
歳で再就職し、二年後に辞任。四一歳で三度目の就職をし
﹁さあ帰ろう﹂と訳しています。どこからどこへ﹁さあ帰ろう﹂
があります。﹁帰去来令﹂は古くから﹁かへりなんいざ﹂と読み、
四一歳で四度目の職を辞した時の作に、﹁帰去来令の辞﹂
-﹁さあ帰ろう﹂ l本来の心を取りもどしたい
また、二九歳で初めて就職しますが、すぐに辞任。三五
聞に、五人の身内を亡くしたのです。
県の南)の南側の柴桑は、その一説です。
生地はいくつか説がありますが、盛山(今の江西省九江
中国東晋時代の詩人であり、農夫です。
陶淵明(一一エハ五1四二七)は、今からおよそ一六OO年前の、
陶淵明の残したもの
長谷川
成
また、妻を亡くした年に再婚。子は息子ばかり五人。四
滋
て農夫となります。
-79-
講
演
と宣言したのか、と言いますと、職場(官職・役人)から
われます。
の﹁心﹂が荒れようとしている、ことを言っているように思
の本来の心をとりもどすためなのです。
田畑を荒れないようにするためなのですが、抽象的には自分
つまり、一回目の﹁きあ帰ろう﹂は、具体的には荒れた
田園(田畑・農村)へ帰ろう、と宣言したのです。職場は
世俗にあり、困層は俗外にあります。つまり、世俗の生活
を辞めて、俗外の生活をする、と宣言したのです。
陶淵明はこの作品で、﹁きあ帰ろう﹂を二回使います。一
心を肉体に隷属させたのは自分がしたこと
田畑が荒れようとしているなぜ帰らぬ
きあ帰ろう
再び(役人となって)車に乗り何も求めはせぬ
世俗は私を、私は世俗を遺ててしまい
(世俗との)交流をやめることにしたい
きあ帰ろう
二回目は次のように使います。
なのになぜ一人うらみ悲しんでいるのか
身内の心あるよい話がうれしく
回目は次のように使います。
過去のことはどうにもならぬと悟り
琴や本を楽しんで憂いを消したい
のです。
﹁きあ帰ろう﹂に通じ、自分の本来の心をとりもどすためな
二回目のこの﹁さあ帰ろう﹂も、考えてみれば、一回目の
内の心あるよい話﹂﹁琴や本﹂なのです。
外の生活を楽しみたい、と言うのです。俗外の生活は﹁身
たい﹂からだ、と言うのです。世俗の生活を断ちきって、俗
この﹁さあ帰ろう﹂とする理由は、﹁世俗との交流をやめ
未来のことは追い得ることが分かった
実に道に迷いはしたがまだ遠くまで行っていない
今が正しく昨日までがまちがっていたと気づいた
﹁さあ帰ろう﹂とする理由は、﹁田畑が荒れようとしている﹂
からだ、と言うのです。荒れた田畑を荒れないようにする、
そのために帰るのだ、と言うのです。
この言い分は、﹁心を肉体に隷属させた﹂と言う三句目以
下からしますと、﹁田畑が荒れようとしている﹂とは、自分
-80一
陶淵明の残したもの
要するに、﹁帰去来令の辞﹂で二回﹁きあ帰ろう﹂と宣
言したのは、世俗の生活は自分の本来の心が求めているもの
ではなく、俗外の生活こそ自分の本来の心が求めているもの
だ、と主張したのです。
-四一歳のUタ1ン農夫l農業は自然任せ
﹁帰去来令の辞﹂と同じ四一歳ころの作に、﹁園田の居に
帰る﹂と言う詩が五首あります。その一首目は、
自分は若いころから世俗と波長が合わず
生まれながらに郎や山(の自然)を好んだ
ではじまり、自分の本来の心をとりもどすために、
と結んでいます。
陶淵明は世俗と波長が合わない自分を﹁世渡りの下手さ﹂
と言い、それを嫌わず捨てないで﹁守る﹂と言うのです。原
文で言いますと﹁守拙﹂です。この二字は陶淵明の生き方・
考え方をよくよく表しています。
世渡りの下手さを守って、田園に帰った陶淵明は、荒れ
た田畑を荒れないように、日々農夫として働きます。
先の﹁園田の居に帰る﹂詩の三首自には、
豆を南の山のふもとに植えたが
草ばかり茂って豆の苗はまばら
朝早く起きて荒れ地を耕し
道幅は狭く草や木は伸び
夜は月を背に鋤を担いで帰る
荒れ地を南側の野原辺りに聞こうと思い
夜露で野良着が濡れる
と言い、二首目の最後は次のように言います。
わが願いだけは適えてくれ
野良着が濡れるのは構わぬが
世渡りの下手さを守って田園へ帰って来た
と続け、最後は、
長い間鳥篇の中(世俗の職場)にいたが
また自然(本来の心)に帰ることができた
-81-
桑や麻は日に日に大きくなり
わが田畑も日に日に広がる
行き詰まるのはもともと覚悟していたこと
中を﹁貧土を詠む﹂題で七首の詩を作ります。二首日以下
'1n
旬由主
え 家
か忌
離乏
ら貧
な
習
を
L逗
巴い
飢えで取り乱すのは志すところではなく
れ雲﹂に例え、自分は世の人間とは違う、と言うのです。
は貧乏な陶淵明のことです。陶淵明は貧乏な自分を﹁ちぎ
﹁この世の物﹂とは世のすべての人間であり、﹁ちぎれ雲﹂
空に浮かぶちぎれ雲だけは寄りかかる所がない
この世の物は何だって寄りかかる所があるのに
しますが、序に相当する一首目は、次のように歌いだします。
で昔の貧乏な連中を讃えて、わが身を慰め、わが身を励ま
間淵明は自分と同じ貧乏な連中を昔に見いだし、その連
詩の題に﹁会ること﹂とありますが、何を会ったかと言
(:)と
えば、自分と同じように貧乏な連中が、昔にはたくさんた
ぞ誕.
と歌い、次のように結びます。
はり
、
.
申 な
しは楽にならずHl自然任せの農業は簡単ではなかったので
るう
す。現金収入がないのですから、田畑の収穫がなければ、貧
連も
くさんいる、ということです。
すよ
いつも心配するのは霜や震に
やられて草むら同然になること
農夫としての岡淵明の腕前は分かりませんが、四一歳にし
とし
面u
乏を強いられます。
てUタ1 ン。朝から晩まで働く;働けど働けど、わが暮ら
っ
が主
-年老いてなお貧乏1恥ずべきことではない
段~
とわ
-82-
昔腹
をが
見減
るる
との
わは
何歳のころの作かはっきりしませんが、詩の二句目からし
てろ
ますと、老年の作かと恩われる﹁会ること有りて作る﹂詩は、
年若
と歌いだし、続けて衣食住にこと欠いていることを歌った後、
老¥,,:)
陶淵明の残したもの
陶漏明はこの詩でまた、世のすべての人間と自分とを烏
に例えます。
日の出のころ昨夜来の霧が晴れると
烏たちは連れだってねぐらを飛び出る
しないで、﹁貧土を詠む﹂としました。﹁貧者﹂は単なる貧
乏人ですが、﹁貧士﹂は学問や人格を持った貧乏人です。つ
まり貧乏は﹁士﹂には付き物で、恥ずべきことではなく、
むしろ誇りにさえ思っていたようです。
-生きている者は必ず死ぬl 死を直視し揺れ動く
ところで、陶淵明は死に敏感で、これを直視し、多くの
感で、これを直視するのは、初めに指摘しましたように、
﹂の烏は世のすべての人間であり、次の鳥は陶淵明です。
この烏より遅くねぐらを出た鳥は
およそ三O年の聞に、五人の身内を亡くしたことと、無関
つに
かい
心る
-83-
詩で取り上げ、自分の死を思い悩みます。陶淵明が死に敏
日暮れより前にねぐらへ帰って来る
係ではあるまい、と思います。
例えば﹁己酉の年の九月九日﹂の詩には、
たき
のま
でつ
はて
陶淵明は世のすべての人間とは外れた、自分流の生活し
まぬ
かできないのです。詩は次の言葉で終わります。
昔から人間はみな死ぬにきまっている
この事実を思うと心の内が煮えくり返る
命必
がず
縮死
は者
運は
自分の力を量って本来の心を守り通せば
ぬい
のる
寒さと飢えにからまれるのは当然のこと
くき
と言い、﹁挽歌詩三首﹂其の一には、
死て
﹁本来の心を守り通す﹂は﹁故轍を守る﹂が原文で、こ
れは先の﹁世渡りの下手さを守る﹂﹁守拙﹂と同じで、陶
淵明の生き方・考え方をよくよく表しています。
陶淵明は貧乏を詠んだ七首の詩の題を﹁貧者を詠む﹂と
早生
と言い、﹁挽歌詩三首﹂其の三には、
と言います。
めつ
わつ
ぎ宝
定委
E
日
ぬ
X
も
この一二句は句ごとの字数が乱れ、さらに疑問形や反語形
を多用するのは、死に向き合う陶淵明の思いが、乱れてい
る現れではないでしょうか。最後の二句は悟りきり、割りきっ
ているように見えますが、内心は揺れに揺れ動いていたので
はないでしょうか。
-生まれつき酒を暗むl貧乏でいつもは飲めない
どうしょうもない
淵明を慰めてくれるもの、それは本であり琴であり、近所
ど貧しく、死を直視し揺れ動くl こうした生活を続ける陶
四一歳でUターンして、本来の心を守り通し、働けど働け
肉体をこの世に寄けるのはどれほどの時聞か
の人であり酒だったのです。
とりわけ酒は、最高の慰み物でした。自叙伝の﹁五柳先
清く澄んだ流れを前にして詩を作る
東の岡に登って心のびやかに歌い
杖を地にぎして土かけや草ひきをする
気持ちのいい日に心ひかれて一人で出かけ
きは、去るか留まるか、決して未練を残したことはない。
空にし、必ず酔っ払うのがわが決意。酔っ払って退くと
用意し招いてくれることもある。出かけて飲めばいつも
ではない。身内や古なじみは私の事情を知って、酒を
生まれつき酒を噌むが、家が貧しくていつも飲めるわけ
生伝﹂には、酒について次のように言います。
ともあれ自然の変化にまかせて死んでゆき
仙人の居所も期待するところではない
財産や地位は私の願うところではない
どうしてうろうろしどこへ行くつもりなのか
どうして心を運命のままに任せぬ
自分の思いを一二句にわたって歌います。
冒頭に挙げた﹁帰去来令の辞﹂の最後は、死に向き合う
れて
達も
人朝
でが
あや
例の天命を楽しむことにし疑うことは何もない
-84-
賢千
人年
で経
陶淵明の残したもの
貧しくていつも飲むことができない酒ですが、陶淵明はそ
れでも何とかして飲みました。例えば、近所の人たちと飲
む酒として、﹁園田の居に帰る五首﹂其の五。
自家製の漉したばかりの酒と
鶏一羽の料理で近所の人と一緒に
あり
客単
和え
p
て
仔
i
る....
る
hぶ
と
m
ワ
例えば、人間はみな死ぬ慰みとして飲む酒として、﹁己酉
りが
ま恩
の歳の九月九日﹂。
酒わ
でが
的に思いますが、どうも飲み足りなかったようです。﹁挽歌
詩三首﹂其の一の最後は次の二句です。
ただ恨めしいのはこの世に生きていた時
酒を飲むことが十分でなかったことだ
陶淵明の日ごろの生活は、田畑を耕すことがその中心で
したが、﹁雑詩十二首﹂其の四には自分の願いを七つ挙げて
います。
世の男たちは天下に志を馳せるが
わが願いは年を取らないこと
親戚が一つ所で暮らすこと
子や孫が健康であること
朝から酒と琴が自由であること
酒の入った樽が乾かないこと
帯を緩めて楽しみを尽くすこと
陶淵明の酒は楽しい酒もありますが、おおむねは苦い酒で
淵明の願いは、極めて庶民的で、陶淵明の生き方をよくよ
七つの願いの中には当然酒もありますが、それを含めた陶
遅く起きて早く寝ること
はなかったか、と恩われます。陶淵明と言えば酒、と反射
酒の中にこそ深い味わいがある
名利を求めるとうろうろするが
酒二十首﹂其の十四。
例えば、世俗の名利から離れるために飲む酒として、﹁飲
濁何
鉱山
く現しているのではないでしょうか。
-実在する桃源郷│地位や名誉を求める者は住めない
桃は古くから不思議な力があるとされ、ここでは世俗か
ら俗外へ導いてくれる力がある、とされています。終点に着
桃源境は架空ではなく、陶淵明の所から西方に実在する、
今いる所ではなく、桃源境がそこだと思っていたようです。
り口は非常に狭く、一人やっと通れるほとだったが、数
い明かりが見える。漁師は船を捨て、穴に入ると、入
見ると山があり、山には小さな穴があり、穴からは薄
いた漁師は、次の行動に移ります。
武陵郡の桃源だと思っていたのです。陶淵明の傑作の一つ﹁桃
十歩行くと、からりと開けた。
こうした七つの願いを適えてくれる所ーその所は陶淵明が
花源の記﹂がそれです。記とは事実をそのまま書く文体です。
晋の太元中、武陵郡の人で魚を捕る漁師がいました。
太元は実在の年号で三七六 三九六。陶淵明の年齢で言
辛くて苦しい世界、穴を抜けた後の俗外は、楽しくて喜ば
穴が世俗と俗外の分岐点となり、穴に入るまでの世俗は、
s
えば、三一歳から三二歳。武陵は今の湖南省洞庭湖の南に
しい世界なのです。楽しくて喜ばしい世界は、次のように語
平らで広々した土地。立派に整った家屋。肥えた田畑。
当たり、今ここに桃源県があります。冒頭に年号と地名を
漁師は船に乗って谷を湖り、遠く遠くやって来たとこ
美しい池。桑や竹。四方に通じた道。鶏や犬の鳴き声。
られます。
ろで、桃の花咲く林に出逢った。桃の林ばかり両岸に
往き来し耕作する人々。見たことのない男女の着物。
出し、この記録が事実であることを宣言します。
数百歩も続き、桃の花びらが乱れ散っていた。漁師は
うれしげな老人と子供。
この世界の衣食住や、老若男女の状態は、見たことのない
H けど働けど、わが暮らしは楽にならず の陶淵明には、
働
d
この世の物とは思われず、桃の花に誘われ、桃の林の
終点を見極めようと、どんどん行ったところ、谷の源
流の所が終点であった。
-86-
陶淵明の残したもの
来て以来、ここを出たことがなく、世俗とは没交渉な
秦の乱を避けて、妻子・村人を引き連れ、この俗外に
を連れて帰り、酒や鶏でご馳走した。村人が﹁先祖が
と聞くので、漁師が二答えたところ、どの家でも漁師
村人は漁師を見てひどく驚き、﹁何処から来たのか﹂
はないのでは、ないでしょうか。言い換えると、郡の長官の
りも、実在の村ではあるが、誰もが住むことのできる村で
ことができなかったと言うのは、この村は架空の村というよ
子膿﹂を使いながら、結果としてその村に二度と再び行く
書き出し、終わりも実在の地名の﹁南陽﹂、実在の人物の﹁劉
実在の年号の﹁太元中﹂、実在の地名の﹁武陵﹂を使って
たさぬうちに病気で死んでしまった。以後、その村を
のだ﹂と言い、今が何時代かを聞いても知らず、漢の
ような、地位や名誉、権力や欲望を有する俗人は、住むこ
物ばかりで、こんな世界があるのか、と驚きであったに違い
世も貌・晋の世も知らない。そこで漁師が世俗の話を
とができないのでは、ないでしょうか。地位や名誉、権力や
訪ねようとする者は一人もいなかった。
すると、村人は聞き入っていた。何日か経って帰ろう
欲望を持たぬ隠者の劉子践は、病気にならなかったら、住
ありません。漁師を見た村人もまた驚いた、と言います。
とすると、村人は﹁ここの事は人さまに言わぬように﹂
むことができたのでは、ないでしょうか。
﹁桃花源の記﹂にある村は、衣食住の生活に不自由しない、
と念を押した。
老若男女が助け合い、戦争のない、平和で安穏な村です。
も聞いたこともない、村だったのです。こうした村に住みた
念を押された漁師は村を出て、帰路に着きます。
かった。その思いが陶淵明に﹁桃花源の記﹂を書かせたので
こうした村は、六三年生きて来た陶淵明ですが、見たこと
漁師は村を出て船に乗り、先に来た道に目印をつけな
A
て話した要旨である︾
︽本稿は平成同年昭月9日、尾道大学日本文学学会で最終講義とし
っ
,
,
。
トご
Tレ
がら、武陵郡まで帰り、郡の長官に村の話をした。長
官は部下と漁師を目印に沿って行かせたが、目印が分
からず、行くことはできなかった。隠者の南陽の劉子
膿はこの話を聞き、探して行こうとしたが、目的を果
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