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Page 1 Page 2 れてゐる所である。 この名の起った所以は、 『未曽有経
﹃比較社会文化﹄第四巻︵一九九八︶一∼二〇頁
豊ミ職ミミ。ミ鳴O§§貸繕曾ぎミミしり。賦ミ§織
く。一誌︵おゆ○。︶︸O℃・N∼ミ
9§ミN⑦ミミ舞さ器ぎ﹂§篤ミお軌骨
﹁カチ カ チ 山 ﹂
太宰治私注
装もまっしく、容貌も愚なるに似てみるが、しかし、元
キーワード 太宰治 ﹁カチカチ山﹂ 評釈
︹解題︺ ﹁カチカチ山﹂は、書き下ろし創作集﹃お伽草紙﹄
とに奇異なる術を体得してみる男なのだ。/ムカシ ム
︵筑摩書房、昭20・10・25︶に、﹁瘤取り﹂﹁浦島さん﹂﹁カチ
来ただものでないのである。物語を創作するといふまこ
カチ山﹂﹁舌切雀﹂の順に発表収載された。太宰 治 の 昭 和
N12月29日付山下良三宛書簡に、﹁﹃お伽草紙﹄は初版は カシノオ話ヨ/などと、問の抜けたやうな妙な声で絵本
花田俊典
甲府市街空襲によって、 家族ともども津軽の金木の生家
ゐます﹂とあるように、単行本の初版と再版︵昭 2 1 ・ 2 ・
装釘も組方もまつく、いま再版を全く新しく組み直して
宰治全集 附録﹂5、八雲書店、昭24・1︶や、津島美知子﹁後
執筆時期については、小山清﹁﹃お伽草紙﹄の頃﹂︵﹁太
別個の物語が 醸せられてみるのである﹂とある。
を読んでやりながらも、その胸中には、またおのつから
仇討ちの正義の実行者にふさわしい男︵オス︶として造型
山﹂の﹁兎﹂は一般に、絵本類の挿し絵を見るかぎり、
回カチカチ山の物語に於ける兎は少女 昔話﹁カチカチ
に疎開した。
25︶とでは装丁・組み方ともに異なっており、また本文に
単行本の巻頭の﹁前書き﹂︵ただし初版では無題︶には、
録された。
平2・6︶は、﹁﹃お伽草紙﹄は﹃竹青﹄脱稿後の三月六、
証言から、山内祥史﹁解題﹂︵﹃太宰治全集﹄7、筑摩書房、
この﹁兎が、アルテミス型の少女だつたと規定すると、
このあと語り手は、﹁兎の仕打﹂が﹁執拗すぎる﹂のは、
したところに、この作品の語り手の卓抜な着想がある。
?、鳴った。﹄/と言って、父はペンを置いて立ち上る。
七日頃に起稿、﹃前書き﹄﹃瘤取り﹄の順に書き継がれて
23・8・5︶﹃お伽草紙﹄︵南北書園、昭23・9・5︶などに記
収﹂︵近代文庫版﹃太宰治全集﹄11、厭倦社、昭28・12︶などの されていることが多い。それを、あえて﹁少女﹂と設定
も若干の異同がある。没後、﹃雌に就いて﹄︵杜陵書院、昭
20
の手段は絵本だ。桃太郎、カチカチ山、羅切雀、 瘤 取 り 、
から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一
情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕
子を背負って壕の奥にうずくまってみる。/︵略 ︶ 母 の 苦
を抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の
仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾をかぶせ、これ
警報くらみでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り 出 す と 、
明の東京三鷹一帯の空襲で罹災し、ひと足はやく甲府に
美知子夫人の実家である。太宰治はこの年の四月二日未
簡の発信住所は﹁甲府市水門町二九 石原方﹂、すなわち
カチカチ山を書いてみる﹂と見えるからである。この書
6月5日付堤重久宛書簡のなかに﹁お伽草紙、ただいま
末頃か六月初め頃﹂︵山内祥史﹁解題﹂︶。太宰治の昭和20年
いった﹂と推定している。﹁カチカチ山﹂の起稿は、﹁五月
名類聚抄﹄に月は大会之精也とあり、月の異名を玉兎と
を陰精としたことは支那陰陽説より来たものである。﹃倭
友社、大15・6︶は、﹁カチく山﹂を話題にしながら、﹁兎
がないわけではない。中田千畝﹃日本童話の新研究﹄︵文
昔話﹁カチカチ山﹂においても兎を女性と想定する見方
だし、兎は古来、一般に女性としてイメージされていて、
︵略︶溜息と共に首肯せられ﹂るからだと語っている。た
いふ事は﹃撮画集﹄﹃鞘管雅﹄その他の古文書に多く記さ
疎開していた家族を追って移転。さらに七月六日深夜の
﹁カチカチ山﹂一太宰治私注︵花田俊典︶
*日本社会文化専攻・文化構造講座
浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。/こ の 父 は 服
「『
エ
﹁カチカチ山﹂1太宰治私注︵花田俊典︶
湖中唯一の島で誠に絶景である。鶴鶴島は往古先住民族
う の
れは嘘。田中君こそはあの団々とした愛嬌者の真の原型
回さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女
肯かれる事である﹂と述べている。
めに、老娼の殺されたる仇を報ずるといふ事はいかにも
が女である事は言ふ迄もないから、陰精の兎が老爺のた
湖の五つの堰止湖を総称していう。﹁河口湖﹂は、﹁富士正
の北緯に位置する山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖
甲斐国、いまの山梨県にあたる。﹁富士五湖﹂は、富士山
回これは甲州、富士五湖の一つの河田湖畔 ﹁甲州﹂は、
間違ひありません﹂とある。
回いまの船津の裏山あたりで行はれた事件であるといふ
岡県観光協会、昭12・6第二版︶
れから模したといはれている﹂︵柘植清書﹃富士登山案内﹄静
い数珠の松が眺められる。煙草﹃敷島﹄の包装図案はこ
2
れてるる所である。この名の起つた所以は、﹃未曽有経﹄
の安住地で、現今遺物や鹿の角等が出土してみる。船津
を恋してみる醜男 この﹁狸﹂は、﹁ことし三十七﹂にな
北麓に位し、湖面海抜八三〇米、南北二・五粁、東西五
落で、現在の河口湖町大字船津。その﹁裏山﹂とは、湖
から船で鶴鶴島と勝山の間を過ぎると左側に枝振り面白
う の
です。これは私が直接太宰さんから伺ったのですから、
る、色黒で、食い意地の張った、無邪気な愛すべき凡庸
粁余である。湖岸は屈曲に富み延長一七・五粁を算して、
畔に近くの小高い天上山あたりになるか。天上山の山頂
﹃法花雲霞﹄等の記述によったものである。︵略︶人間の陰
のナルシストとして造型されている。﹁舌切雀﹂には、﹁こ
五湖中の第一位を占めている。湖面の広さは五・七方粁
︵金龍堂書店、昭18・6︶には、﹁河口湖畔囎山公園﹂が紹介
ウエイが通っている。また、武藤秋月﹃郷土史蹟と伝説﹄
﹁船津﹂は、富士山の北麓、河口湖の東南岸に位置する集
の私の﹃お伽草紙﹄に出て来る者は、日本一でも二でも
は富士見台として景観もよく、現在は湖畔からロープ
う の
にして山中湖に亜ぐ。湖中に鶴鶴島と称する一島あり五
三でも無いし、また、所謂﹃代表的人物﹂でも無い。こ
れはただ、太宰といふ作家がその愚かな経験と貧弱な空
うそぶきやま た
されている。﹁国立公園血荒入口と木標の立て﹀ある、
想を以て創造した極めて凡庸の人物たちばかりである﹂
と語られている。いわゆる仇討ち諌としての昔話﹁カチ
船津町の理髪店の横をまがると、幅二間ばかり落差一尺
ぐらいつ﹀の、そまつな石段がある。十数段のぼると、
がたき天下の絶景である。五誉めぐりの旅客たちは、三
ぜっけい
の美を味はひ、これは湖畔の幽遂をうつす、優劣さだめ
あぢ いうずい いうれつ
の絶佳なことは、精進のパノラマにくらべて、彼は山容
ぜっか せうじ さんよう
三つしか設備がなく、誠に荒涼たるものだが、その眺望
こうれう
た。/囎山公園には、忠魂碑と東屋と小波の句碑との、
うそぶきやま あづまや く ひ
気では仕方があるまいと、断念して下山することにし
だんねん
と云ふので、いまにも雨が降ってきさうな、今日のお天
け ふ
大な眺望であると聞いてはみるが、まだ十五六町もある
てうぼう
青木ケ原にわたって、富士裾野を一眸の中に収める、雄
ぼう おさ
分、河口湖を脚下に見おろし、遠くは籠坂峠から近くは
きやくか かごさか
があると云ふ。里山は標高一千一百米突、登るに約四十
うそぶきやま メヨトル
へのぼれば、何かあるかと聞くと、頂上には小御嶽神社
こ みだけ
で、木の枝をあつめてみた村の子供たちに、これから上
えだ うへ
て約二十間で、石鳥居の前へ出る。︵略︶付近のやぶの中
とりる ふきん
見える。道は屈折して左へ長く半町ゆき、また右へ折れ
くっせつ お
ざつさう がけ とりる
なるが、語り手である﹁作者の私﹂は、ここでは﹁狸﹂
雑草のしげった崖へつきあたる、崖の上には石の鳥居が
ふ話です。狸のモデルは私だといふ説がありますが、こ
とした姿が頻りに心頭を去来して感興を豊富にしたとい
した。﹃カチカチ山﹄を書きながらは、田中英光君の大々
河上徹太郎氏のことが念頭に浮かんだと云っておられま
る次第ですが、太宰さんは、﹃浦島さん﹄を書きながら、
は、読者のなにかの参考にでもなればと思ひ、つけ加へ
なお、小山清﹁﹃お伽草紙﹄の頃﹂には、﹁それからこれ
り手は、あらかじめきちんと掌握していると見てよい。
こういつた﹁兎﹂と﹁狸﹂との﹁対比﹂関係を、この語
侠者の誠心とが語られてみるのである﹂と述べている。
対比で、それに寄せて勧懲の寓意と智力の勝利とそして
組は、白と黒、善良と醜悪、可隣と狡猜、敏捷と遅鈍の
19・10︶は、昔話﹁カチカチ山﹂について﹁此の二獣の取
る。なお、島津魚田﹃日本国民童話十二講﹄︵山一書房、昭
を展開する。この作品がパロディたるゆえんの一つであ
の側に寄り添って、あくまで﹁狸﹂を主人公として物語
いしだん
ふなつ はナ らくさ
カチ山﹂は、その仇討ちの実行者の﹁兎﹂がヒーローと
河ロ湖(『富士山麓と御嶽』)
さ ごはん
十分の時間を割いて、嚇山へのぼって見たまへ、湖畔を
嶽百景﹂の﹁茶店﹂の﹁娘さん﹂や、﹁新樹の言葉﹂の﹁郵
情﹂はさほど﹁荒っぽい﹂わけでなく、しいていえば﹁富
ふ様な事は、童話の中に加ふべき事ではない。人を殺す
ぎる。人を殺すといふ事、獣のために人の殺されるとい
葵にしたといふ事は、童話として如何にも惨忍であり過
いて、中田千畝﹃日本童話の新研究﹄も、﹁狸が嬢の肉を
て、これと同様の指摘と論義とは、はやくからなされて
される、興味を感ずるであらう﹂。太宰治は三ツ峠山と黒
便屋﹂の青年に、いささか﹁荒っぽい﹂素朴な善意のふ
事の悪行をいましめんとした意図はあったにしても余り
いて﹄竹村書房、昭14・5︶においてだが、しかし彼らの﹁入
岳の間の御坂峠の天下茶屋に滞在し、また河口湖周辺を
るまいを認めることができるか。﹁人間失格﹂︵﹁展望﹂昭22・
感心した事とはいへない﹂と論じ、また島津久基﹃日本
一周すると同じ情趣を得られ、それ以上の大自然に抱擁
ぜ う しゆ しぜん ほ う え う
も訪れたことがあったから、彼にかつて馴染みの土地と
﹁男まさりの甲州女﹂と語られている。また、津島美知子
618︶に、﹁甲州の生れで二十八歳﹂のシヅ子のことが
けうみ
カチ山﹂は、﹁昔むかし、あるところ﹂の話であって、﹁い
景観をここで物語の舞台に採用したものだ。昔話﹁カチ
んのお友達のお宅へも伺ったりして、その晩は太宰さん
いてゐられる方です。熊王さんの歓迎をうけて、熊王さ
訪ねしました。熊王さんは床屋さんをしながら小説を書
いふところへ、﹃いろは歌留多﹄の作者熊王徳平さんをお
して一週間ほど遊んで来ました。一日甲府市外の青柳と
こととして、﹁太宰さんが甲府へゆかれたとき、 私 も お 下
小山清﹁﹃お伽草紙﹄の頃﹂には、太宰治の甲府 疎 開 時 の
雀﹂の五つは、はやくから五大昔話︵お伽噺︶と称されて
郎﹂。﹁桃太郎﹂﹁猿蟹合戦﹂﹁花咲爺﹂﹁カチカチ山﹂﹁舌早
とは、﹁瘤取り﹂﹁浦島さん﹂﹁舌切雀﹂の三篇と﹁桃太
太宰治が﹁お伽草紙﹂で取り上げている﹁他のお伽噺﹂
團櫨のお伽噺に較べて、いくぶん荒つぼく出来てみる
と語られている。
葉をしきりに使って、あれこれ言われるのには閉口した﹂
が甲州人らしい率直さで太宰のことを﹃更正﹄という言
﹁悪戯﹂とは一般的に称しにくいが、喜劇の語り手は、し
さん﹂を殺したと設定されている以上、その殺人行為は
回狸も、つまらない悪戯をしたものである ﹁狸﹂が﹁婆
のである﹂と述べている。
悪い狸奴と、善良雪質な兎の心と一つになって忘我する
はないと思ふ。子供はそんなところに関心をもつよりも、
刺戟的に詳述しさへせねば、大人が心配する程の悪影響
もよいし、進んで強調すべきでないこと勿論であるが、
りで、決してい﹀話材ではない。避けられるなら避けて
的で惨酷に過ぎるとの非難は、首肯出来る。正にその通
国民童話十二講﹄は、﹁此の件だけが本童話中墨に非教育
の言葉通りに云ふと﹃熊王泊り﹄といふことになりまし
れらが﹁五大国民童話﹂として取り上げられている。な
きたもので、島津久基﹃日本国民童話十二講﹄にも、こ
﹃回想の太宰治﹄︵講談社文庫、昭58・6︶には、﹁斎藤夫人
た﹂云々とある。熊王徳平の小説﹁いろは歌留多﹂︵﹁中部
まの船津の裏山あたりで行はれた事件﹂などでは な い 。
文学﹂昭15・4︶は、第一一回︵昭和一五年上半期︶芥川賞の
徳平あたりから聞かされていたとすれぼ、﹁カチカチ山﹂
椰楡的によぶ狐と狸の応酬の話を、もしも太宰治が熊王
33︶がある。伝統的な甲州商人の狡猪であざやかな手練を
した小説﹃狐と狸﹄︵東邦出版社、昭49・3、ただし初刊は昭
て知られる熊王徳平には後年、﹁甲州商人行状記﹂と副題
買ってみる﹂と言及している。山梨県在住の小説家とし
準候補作品。選評で宇野浩二が﹁私はこの作者を幾らか
れさうもない﹂と述べている。ただ、太宰治の語る﹁舌
である。国民学校の教科書なぞにも、そのま﹀では採ら
それではあんまり惨酷すぎるといふ非難も自然出るわけ
って、舌までチヨン切らなくてもよささうなものだし、
講﹄は、﹁併し、いくら糊をなめたのが憎らしいからとい
ば﹁重切雀﹂に関しても、島津久基﹃日本国民童話十二
て、いくぶん荒つぼく出来てみる﹂わけでなく、たとえ
お、この﹁カチカチ山﹂の話だけが﹁他のお伽噺に較べ
問いを立てて、当時ひろく流布していたのは巌谷小波
昭62・6︶は、﹁太宰はどんなお伽噺の本を見たのか﹂との
と 角田旅人﹁﹃お伽草紙﹄一孤独への遁走曲﹂︵﹁解釈と鑑賞﹂
國縁の下に婆さんの骨が散らばってみたなんて段に到る
むのである。
あるので、殺人行為をも﹁悪戯﹂の範躊に強引に組み込
執拗で残忍な復讐行為の理不尽を浮き彫りにすることに
ぼしぼこのように通常の視点を転覆させてブラック・
の﹁狸﹂から﹁甲州﹂が連想されてきておかしく は な い 。
らほどの舌をきゆつとむしり取った﹂とだけあって、こ
切身﹂は、﹁掌中の雀の階をこじあけて、小さい菜の花び
坙{児童文庫!0>日本お伽噺集﹄︵アルス、昭2・7︶だと
ユーモアと化してみせる。この語り手の狙いは、﹁兎﹂の
らが強く、短気で、人ざわりがよくない。荒っぽい方言
回甲弼の人情は、荒っぽい 甲州人の気質は、鼻っぱし
百景﹂︵﹁文体﹂昭14・213︶や﹁新樹の言葉﹂︵﹃愛と美につ
れる。太宰治の小説に甲州人が登場してくるのは﹁富嶽
の武将の武田信玄の豪胆な遺風とが代表的にイメージさ
でまくしたてて巧みに商品を売り捌く甲州商人と、戦国
加斗汁なんてのは、ひどい 昔話﹁カチカチ山﹂につい
ておく必要がある。
太宰治の﹁お伽草紙﹂全体に絡む構成上の計算と承知し
とさらにその﹁惨酷﹂さが話題にされているのではない。
本と見ることはできない﹂と指摘し、また山内祥史﹁解
など、細部で太宰のものと異なる部分があり、直接の粉
に戻ること、︿ながしの下の骨を見ろ﹀となっていること
して、しかし﹁この児童文庫版は、浦島太郎が七百年昔
﹁カチカチ山し一太宰治私注︵花田俊典︶
3
『〈
﹁カチカチ山﹂1太宰治私注︵花田俊典︶
シタ タヌキチガ/オモチヲツクヨナ カオヲシテ/イ
崎大子・絵、萩原宏文堂、昭18・6︶には、﹁バアサンダマ
庫−o>日本お伽始筆﹄などの本文では、いずれも狸は婆さ
チカチ山﹄︵譲文館書店、昭6・5︶、巌谷小波﹃︿日本児童文
談社の絵本﹀かちかち山﹄、奥野庄太郎編﹃︿学習室文庫﹀カ
の作法ではない﹂︵﹃雌について﹄︶。﹁武士道の作法﹂が﹁正
回これは日本の武士道の作法ではない ←﹁これは正義
カチカチ山は仇討ち物語である﹂と述べている。
の小春をよろこばず、カチカチ山の小面を愛してみる。
分がお婆さんに化け、山から帰ったお爺さんに、狸汁を
願ひたいと思ひます。/それは狸がお婆さんを殺して、自
を変へたところがありますから、その点、おふくみ置き
で片づくだけで、全体は兎の善謀による企画が着々実効
討﹂について、コ騎打の果合的勝負はほんの結末の刹那
い 島津久基﹃日本国民童話十二講﹄は、この﹁兎の敵
回一撃のもとに倒すといふやうな颯爽たる仇討ちではな
山﹄︶
いる。太宰治のエッセイ﹁大恩は語らず﹂︵昭15執筆︶に
あと、﹁仇討ちは須く正々堂々たるべきである﹂と語って
ではない﹂︵﹃雌に就いて﹄︶。﹁カチカチ山﹂の語り手はこの
る計略︶は、武士道の徳目に反する。﹁これは正義の作法
徳目と美学とが、さかんに喧伝された。﹁誰計﹂︵他人を謀
配慮してのもの。戦時下にあっては日本古来の武士道の
4
智恵に計られて、散々に翻弄されながら識らずして狸は
自らを窮地の陥穽に導く役廻りを勤めさせられ、あまり
題﹂︵﹃太宰治全集﹄7、筑摩書房、平2・6︶も、これら以外
の漣山人編﹃︿日本昔噺第九編﹀かちく山﹄︵博文館、明28・
力を労せずして兎の敵討は成功するのである﹂と述べて
いる。島津久基﹃日本国民童話十二講﹄はまた、﹁本童話
に於ける兎は、お爺さんに代ってお婆さんの仇を討って
やるわけなのではあるが、その心持にも行動にも、自分
が老夫婦の養子かなんぞのやうな義憤と熱意に燃えて、
殆ど己れを忘れて目的の遂行に専心する純情が見られる
ところに、却って敵討精神の真義と実質が旦ハ現せられて
いる感があり、その境地にあってはもはや他人の為とか、
他人への同情の域を越えてしまってみるのが非常に嬉し
い﹂と述べていて、この﹁童話﹂︵お伽噺︶がどこか﹁仇討
ち﹂謳の通例をはみ出してしまう要素をそなえているこ
とを指摘している。太宰治は﹁古典竜頭蛇尾﹂︵﹁文芸懇話
会﹂昭11・5︶で、里見弾や中里介山らが﹁ともに教訓的
なる点に於いて、純日本作家と呼ぶべきである﹂としな
がら、日本文学の伝統は﹁文章を無為に享楽する法を知
らぬ。やたらに深刻をよろこぶ。ナンセンスの美しさを
キナリ キネデ バアサンヲ/グワント タタイテ/
んを殺して逃げる内容となっている。﹁ハタケカラ カ
義の作法﹂と改変されたのは、封建性や国粋性を温存す
知らぬ。こ理くつが多くて、たのしくない。お月様の中
イッサンニ ウシロノ/ヤマヘ ニゲマシタ。﹂とある。
ヘッタオヂイサンバ オバアサンガ シンデヰルノヲミ
飲ますところがありますが、あれはわざと避けました。/’
を挙げて、回一回と狸は痛苦惨敗を喫せしめられて行っ
ることを禁止するGHQ検閲課の検閲︵プレス・コード︶を
その他は昔のま﹀ですが、詩では説明が充分でないかも
テ 大ソウカナシガリマシタ﹂︵﹃︿講談社の絵本﹀かちかち
タイ
わかりませんので、くわしいお話は、お母さまから、き
た最後に身の破滅といふことになるので、要するに兎の
は、﹁婦人公論のNさん﹂の語ってくれた﹁気持のいい言
かせて下さい﹂と記されている。なお、これ以前の﹃︿講
本五大お伽ぱなしの一つですが、これまでの話と少し趣
なお後者の巻末には、﹁お母様方へ﹂と題して、﹁これは日
サセマシタ﹂とあり、また﹁カチカチ山﹂︵松村又一・文岩
キハ/オバアサンニ、キネヲ/ナゲツケテ、オホケガヲ/
チ山﹂︵安泰画、冨士屋書店、昭16・5︶の本文には、﹁タヌ
回現今発行せられてるるカチカチ山の絵本は ﹁カチカ
に言及したくだりはない。
︵上︶﹄︵文芸春秋社、昭3・9︶の本文には﹁婆さんの骨﹂
るのを発見した﹂とある。﹃︿小学生全集第七巻﹀日本童話集
いた爺が橡の下を見ると、老婆が惨らしくも殺されてみ
年の頃に聞いた話﹂として採録されている本文にも、﹁驚
ん。﹂とあり、また中田千畝﹃日本童話の新研究﹄に﹁幼
れ。/外で狸の聞。 婆を食ったお爺さん。橡の下を御ら
そと たぬき こゑ ばンあ く ぢい えん した こ
は、﹁爺。 婆さん。兎にも狸汁をよそってやっておく
ぢユ ばあ うさぎ たぬきじる
戯曲﹃カチカチ山と花咲爺﹄︵阿蘭陀書房、大6・10︶に
というだけなら、絵本ではないが、武者小路実篤の翻案
ている。﹁婆さんの骨﹂が﹁縁の下に﹂﹁散らばってみた﹂
雄・文、大日本雄弁会講談社、昭13・3︶などの本文を検証し
5︶や﹃︿講談社の絵本﹀かちかち山﹄︵尾竹国観・絵松村武
「カチカチ山』(萩原宏文堂)の表紙(左側)と裏表紙(右側)
かりの無防備の家に、夜盗のやうに忍び込んで、爺さん
葉﹂として、﹁復讐なんて、私はきらひですね。婦女子ば
としての本童話に関して、主題が復讐といふ過去の思潮
十二講﹄は﹁猿蟹合戦﹂について、﹁往年小学読本の教材
から論議されてきたところで、島津久基﹃日本国民童話
︵冨士屋書店︶、﹃カチカチ山﹄︵萩原宏文堂︶などはいずれも
カチカチ山﹄、﹃︿講談社の絵本﹀かちかち山﹄、﹃カチカチ山﹄
りかたが、汚いぢやないですか。曽我兄弟だつて、小さ
ですよ。復讐なんて考へてないと嘘をついたりして。や
故を以て、種々論議されたことがあったやうに記憶する﹂
種、出さぬと鋏でちょん切るぞ﹄が非教育的であるとの
及び道徳行為なるが故を以て、及び﹃早く芽を出せ柿の
ハントテ老婦二云ヒツケ、老夫ハ山へ行キシガ﹂とあり、
﹁昔々老夫ト老婦アリ。或寸義ヲ庭二縛リキ、汁ニシテ喰
前者の系統を引いているが、後者の﹁文選春菊木﹂には
ひとりを大勢かかつて殺してしまふのですからね。卑怯
い時から、かたきの何とかいふ人を殺すことばかり考へ
と記している。﹁発売禁止のおそれ﹂については、もとよ
黷ウん狸をしばりつけひきつって登場︶/爺。 婆さ
ぢい たぬき とうちやう ちい ばあ
また武者小路実篤﹃カチカチ山と花咲爺﹄の本文には、
てるたわけでせう? それをまた、母親が懸命にそその
かす。陰惨ぢやないですか。十八年間も、うらみを忘れ
うが、太宰治自身の体験からいえば、たとえば﹁文芸﹂
り戦時下の言論統制事情が背後につよく意識されていよ
睡してみる処をつかまへたのだよ。狸じるでもつくって
くそんなものがとれましたね。/爺。あ﹀、こいつが午
ぢき これ ひと ぽか
すか、それはよう御座いましたね。しかし殺すのは可哀
ござ ころ かあい
命じられたことについて、昭和17年10月17日付高梨一男やらうと思って持って帰って来たのだよ。/婆。 さうで
おも も かへ き ばあ
ねところ たぬき
ぢン ひる
ん。帰って来たよ。/︵略︶婆。 お﹀、立派な狸だね。よ
ずにみるなんて、気味の悪い兄弟ですよ。私は、そんな
昭和一七年一〇月号に発表の小説﹁花火﹂が全文削除を
かへ き ばあ りっぱ たぬき
人とは、とても附き合ひ切れない。武士道といふ の も 、
へんなものですねえ﹂とある。
宛書簡に、﹁﹃花火﹄は、戦時下に不良の事を書いたものを
﹁カチカチ山﹂の語り手は、﹁狸﹂の﹁正当防衛﹂に言及す
るい狸だから、殺す方がい﹀のだよ﹂とある。太宰治の
とあり、また﹁十五年間﹂︵﹁文化展望﹂昭21・4︶にも、﹁私
るために、あえて少数の後者系の本文をふまえているよ
回童心に与へる影響ならびに発売禁止のおそれを顧慮し
さうですね。/爺。 なに、之は人をだまして計りみるわ
たぬき ころ ほう
の締る四十枚の小説は発表直後、はじめから終りまで全
うだ。
です。︵略︶まあ、私も悠然と仕事をつづけて行きます﹂
関スル指示要綱﹂を通達。﹁指導方針としては、 一 、 国 体
文削除を命じられた。また或る二百枚以上の新作の小説
回狸汁にされるといふ絶望的な運命に醐達し ﹁狸が食
発表するのはどうか、といふので削除になったのださう
の本義に則り敬神、忠孝の精神昂揚に努める、二、奉仕
は出版不許可になった事もあった。しかし、私は小説を
用に用いられた歴史は古い。室町時代の料理献立のなか
て 内務省は昭和一三年一〇月二六、七日、少年少女雑
勇気親切質素謙譲愛情の美風を強調、三、指導を子供の
書く事は、やめなかった﹂と見えている。
にも狸は登場してみる。江戸時代になると、諸国料理の
誌と幼年雑誌三〇余社の代表を集めて﹁児童読物改善二
実際生活に即して行ふ、四、歎難困苦に堪へる美風を酒
圃やがてぶていさい極まる溺死とを与へられるのは 現
なかに散見できる。狸料理は数多くはない。おおむね狸
■養、五、新東亜建設のため日満支提携融合を特 に 強 調 す
る等で、他に編輯に関し二十数件に亘り指示を与 へ た ﹂
在の絵本﹁カチカチ山﹂の多くは、この最後の場面は、
童文化関係者の全国的総合団体として日本少国民文化協
−o︶。大東亜戦争勃発後の昭和一七年二月一一日には、児
回もともとこの狸は、何の罪とがも無く、曲でのんびり
の語り手の義憤の声が、あるいは届いたのかも知れない。
る、というかたちになっている。太宰治の﹁カチカチ山﹂
﹁狸﹂が反省してあやまったので、﹁兎﹂が許して助けてや
狸独特のにおいが少ないのである。/江戸最古の料理書
ういうわけかというと、冬には狸が悪食をしないから、
ある。これは十一月から二月までを宣しとしてある。ど
汁の一つに集約されると見てよい。この狸汁には季節が
︵文芸家協会編﹃文芸年鑑 一九三九年版﹄第一書房、昭14・
会に所属した児童文学者たちは昭和︼八年五月、独自に
と見るべき寛永二〇年頃の﹃料理物語﹄の中に﹃狸汁の
会が発会し、機関誌﹁少国民文化﹂を発行。その文学部
遊んでみたのを 昔話﹁カチカチ山﹂には、狸が畠を荒
口伝、身を作り慌て、松の葉、にんにく、柚を入れ古酒
﹁少国民文学﹂を発刊したが三号で﹁少国民文化 ﹂ に 統 合
らすなどの悪事をはたらいたので捕縛したとする内容の
にていりあげ、その後水にてあらひ、上さかしほかけ候
と少国民文化功労賞を設定するなどの活動を積極的に展
演会﹂を開催し、また昭和一八年八月には少国民文化賞
協会は発会の翌月に全国二五箇所で﹁少国民文化宣揚講
本児童文庫−o>日本お伽噺集﹄、奥野庄太郎編﹃︿学習室文庫﹀
武者小路実篤のそれなどは後者に属する。巌谷小波﹃︿日
巌谷小波のお伽噺は前者の系統に属し、﹁雛廼宇計木﹂や
とするものがある。滝沢馬琴﹁燕石篠志﹂所載の本文や
事は ﹁狸﹂が﹁婆さんを引掻いて怪我させた﹂としてい
回逃げるついでに婆さんを引掻いて怪我させたくらみの
書いてある﹂︵多田鉄之助﹃味の博物誌﹄普通社、昭37・11︶。
て汁に入よし。獺もかくの如くつかまつり候よし﹄と、
した︵福田清人﹁近代児童文学史﹂、日本児童文学学会編﹃日本
の童話作家﹄1、ほるぷ総連合、昭49・9︶。日本少国民文化 ものと、そもそも狸は人をだます悪い動物なので捕えた
開した。もっとも、﹁童心に与へる影響﹂に関し て は 以 前
﹁カチカチ山﹂ ⋮一太宰治私注︵花田俊典︶
5
「(
﹁カチカチ山﹂ 1太宰治私注︵花田俊典︶
だろう。
要素を周到に増幅しようとする語り手の企図による改変
とだけ語るのは、﹁兎﹂の﹁仕打﹂の﹁いささか不当﹂な
原宏文堂版︶たのでもなくして、ただ﹁減しが﹁引掻いた﹂
サセ﹂︵冨士屋書店版︶たのでも、﹁グワント タタイ﹂︵萩
れて押入れにもぐり込みましたが、ガチャンと、ものの
落し、防空壕に飛び込むひまも無く、家族は二組にわか
先日、にはかに敵機が降下して来て、すぐ近くに爆弾を
ひ、私は上の女の子を抱いて、防空壕に飛び込みます。
出来ません。敵機来襲の時には、妻が下の男の子を背負
下は男の子で、これは昨年の八月に生れ、まだ何の芸も
が二人あります。上が女の子で、ことし五歳になります。
昭20・4のため執筆されたが未発表︶のなかに、﹁もう、子供
8・5︶には、﹁私の住居は東京の、井の頭公園の裏にあ
11︶。太宰治のエッセイ﹁毛箒鍋﹂︵﹁京都帝国大学新聞﹂昭15・
蔵野の池﹂、松村英一監修﹃武蔵野随筆﹄文林堂双魚房、昭17・
途﹄の検討は必ずや緊要の事なのであらう﹂︵添田知道﹁武
途に充てられてみるといふのかも知れないが、その﹃用
てやりたい。日曜日の公園として、井の頭は新たなる用
を連れ出すからは、ありのま﹀なる自然の幽致に浸らせ
るかも知れないが、私たちの気もちとすれぼ、折角子供
動物園が、何か時代的役割を果たさうとしてるるのであ
んな印象を与へてるるのであらう。コンクリートの橋や
回謂はば正当防衛のために無我夢中であがいて 旧刑法
こはれる音がして、上の女の子が、やあ、ガラスがこは
て、あの辺を歩き廻ってみる。井の頭の池のところがら、
るのだが、日曜毎に、沢山のハイキングの客が、興奮し
設定されていると知れる。太宰治のエッセイ﹁春﹂︵﹁+云苑﹂
利ヲ防衛スル為メ巳ムコトヲ得サルニ出テタル行為ハ之
れたと、恐怖も何も感じない様子で、無心に騒ぎ、敵機
る﹁このごろの絵本﹂が何であるかは未詳。﹁オホケガヲ/
ヲ罰セス﹂、﹁防衛ノ程度ヲ超エタル行為ハ情状 二 因 り 其
が去ってから、もの音のした方へ行って見ると、やっぱ
親子四人で疎開する際のこととして、﹁妻のはだけ た 胸 に
年、七月の末に﹂甲府を離れて上野を経て金木の生家へ
の昭和二〇年は数えどし五歳半なっている。太宰治の小
和一六年六月七日生まれだから、﹁カチカチ山﹂執 筆 当 時
團私の家の五歳の娘は 太宰治の長女園子がモデル。昭
團近所の井の頭動物園に行った時 井の頭動物園は、東
みるんだよ。﹄と云はれました﹂と伝えている。
子はね、防空壕ってのは、ものを食ふところだと思って
からするめを取り出して、園子さんにあげたりして﹃園
で太宰治が﹁壕の中へ持ち込んだ小さいリユツクサック
小山清﹁﹃お伽草紙﹄の頃﹂には、この﹁防空壕﹂のなか
り、三畳間の窓ガラスが一枚こはれてゐました﹂とある。
きる。﹁詩人で歌ひ手であるにはとりは、南方へ応召した
て、当時の動物園の光景の一班をうかがい知ることがで
刺小説に岩倉政治﹁井の頭動物園﹂︵﹁改造﹂昭!8・−︶があっ
群を眺め 井の頭動物園の動物たちを題材にした戯画颯
黒影の中を絶えずチョコチョコ歩きまはってみる狸の一
てみる﹂とある。
それでもハイキングの服装凛々しい男女の客は、興奮し
坂を半丁ほど登ると御殿山である。普通の草原であるが、
石の段々を、二十いくつ登って、それから、だらだらの
﹁第三十六條急迫不正ノ侵害二対シ自己又ハ他人ノ権
社、昭16・3改訂第=一望︶。
刑ヲ減軽又ハ免除スルコトヲ得﹂︵﹃平凡社六法全書﹄平凡
抱き込まれてみる二歳の男の子は、ひいひい泣き通しで
京市の西方の三鷹、武蔵野の両村にまたがる井の頭公園
軍用鳩から久々の便りが来た嬉しさで、その日早朝から
焔の雨の下を逃げまはり、焼け残った病院を捜して手当
時はまったく眼が見えなくなって、私はそれを背負って
たが、甲府で罹災する少し前から結膜炎を患ひ、空襲当
園と植物園とを含む自然文化園︵昭和一七年開園︶などの施
の中島に弁天堂、また舟遊場、水泳場、動物園と水生物
診。井の頭池の清泉と御殿山の自然林を特色として、池
として開園。正式名称は井の頭恩賜公園、面積は約二四
ここに登場する動物たちには、園の一番手前の鑑に住む
ン君﹂が散策して互いに語らうといった趣向のもので、
園内の擬人化された動物たちのあいだを鶏の﹁レグホー
園をも兼ねふくめてみる﹂と書き出されるこの小説は、
ある。尤も実際の名称は﹃自然文化園﹄といふので植物
一二月に東京市へ下賜。同六年五月に郊外地の自然公園
ヘ ヘ へ
した。この下の子は、母体の栄養不良のために生れた時
内にある動物園。賢慮線吉祥寺駅のすぐ南方に位置する
説﹁たつねびと﹂︵﹁東北文学﹂昭21・11︶には、﹁昭和二十
から弱く小さく、また母乳不足のためにその後の発育も
井の頭公園は、もと帝室御料林であったものを大正二年
を受け、三週間ほど甲府でまごまごして、やっとこの子
設があった。﹁井の頭の池は、轟々たるあの杉林に生命が
じで、また上の五歳の女の子は、からだは割合丈夫でし
の眼があいたので、私たちもこの子を連れて甲府を出発
あるのではないかと思ふ。小暗く太い直々の問から見る
の﹁狸の家﹂には﹁むくむくと鞠のやうに肥えふとった狸たちが
歩きまわってみた。こ﹀は東京郊外井の頭の動物園内で
思はしくなくてただもう生きて動いてみるだけといふ感
する事が出来たといふわけなのでした﹂とある。
水の色。これに尽きるやうだ。しかし、コンクリートの
何十匹となく群れてみる﹂︶、それから﹁小柄でおとなしいい
一匹の銀狐、その﹁となりに大家族を擁してみる狸﹂︵こ
悪筆が防空壕の中で、このカチカチ曲の絵本を読んでや
橋が渡ったり、池畔にケチな動物園が出来たりしてみる
はば全く都会的な悪を知らずに育つた山家のわらんべの
ったら この場面の場所は、このあとに﹁近所の井の頭
のはどうかと思ふのである。今の子供たちには、一体ど
動物園﹂とあることから、太宰治の三鷹の自宅あたりに
6
羊、寒羊、日本鹿、緬羊、七面鳥、駝鳥、猪、禿鷲、キ
の仲良し一家﹄﹂の台湾猿、ほかに熊、豚、孔雀、鳶、山
る﹂蒙古犬、﹁こ﹀の動物園の名物になってみる﹃犬猫猿
を楽しんでみる﹂、さらに﹁いつも無口で仏頂面をしてみ
て、﹁裏隣には、支那馬や無手たちがそれぞれに﹃家族﹄
やうな臆馬﹂、その﹁筋向ひには贅沢三昧のキリン﹂がい
いることに注目し、﹁こうした﹃父﹄の視点は、戦後の短
して、もう一方の﹁お伽草紙﹂は﹁﹃父﹄の視点に立って﹂
﹁新釈諸国噺﹂が﹁﹃私﹄の視点﹂から語られているのに対
男﹃太宰治論﹄︵講談社、昭51・12︶は、太宰治の同時期の
てまで、﹁カチカチ山﹂の﹁狸﹂に酷似している。饗庭孝
して自身の内部に別個の﹁物語﹂を醸成することにおい
自牧宮、朕載自毫﹂とある。天より下す桑戸、天罰。
回天諌! と一声叫んで ﹁孟子﹂萬章上篇に﹁天諌造攻
16・7︶にも、﹁神は正義に味方します﹂とある。
回神は正義に味方する ﹁新ハムレット﹂︵文芸春秋社、昭
た成語が、頻繁に巷間に流布されていた。
支暦懲﹂とか、英米の亜細亜支配に対する﹁麿懲﹂といっ
して懲らしめる意。支那事変の勃発以来、さかんに﹁暴
治維新前夜に暗躍した撰夷倒幕論者の藤本鉄石・吉村寅
また天命を奉じて、天に代わって誌罰を加えること。明
レ レ
だが﹃間の抜けたやうな妙な声で絵本を読んで﹄やって
いる。昭和戦前から戦時下に至る時期は、いわゆる昭和
太郎らの天諜組︵天幸組︶の存在はひろく一般に知られて
一つである。﹃父﹄は絵本を子供に読んでやりながら﹃別
いる﹃父﹄と﹃義﹄のために遊ぶ﹃父﹄は表裏の関係で
遊びとを比較すると、まことに興味ぶかいものがある。
篇﹃父﹄における﹃子別れ﹄と﹃義﹄のための﹃父﹄の
ョスがいる。
團思想の根拠が、薄弱である 太宰治は戦後、﹁ 苦 悩 の 年
⋮鑑﹂︵﹁新文芸﹂昭21・6︶に、﹁私は﹃思葉心﹄といふ言葉に
さへ反擬を感じる。まして﹃思想の発展﹄などといふ事
になると、さらにいらいらする。猿芝居みたいな気がし
回その時には臥薪嘗胆 ﹁臥薪嘗胆﹂は、仇を討つべく︵ま
た将来の成功を期して︶長期間にわたって苦心や苦労をか
維新論が世上に唱導されていた。
回国民学校にかよってみるほどの子供ならば 昭和一六
さねること。中国春秋時代の故事にもとつく。日本史上
生きている﹂と論じている。
年三月一日公布の国民学校令により従来の初等教育シス
には、日清戦争後の遼東半島の領有権をめぐる独仏露の
個の物語﹄のために、換言すればおのれの文学のために
テムを改組し、国民学校と改称して同年四月一日より二
三国干渉の受諾に際して臥薪嘗胆が国民の合い言葉とさ
て来るのである。/いっそかう言ってやりたい。/﹃私に
に編みかえることはいちどもしなかった。といういいか
二年三月三一日まで存続した。ナチスの初等教育制度を
れたことが有名。大東亜戦争下の戦時標語﹁欲しがりま
は思想なんてものはありませんよ。すき、ひらひだけで
たに語弊があれば、かれは思想を思想によってで は な く 、
模しての改革ともいわれるが、皇国民としての自覚の周
せん勝つまでは﹂も、これと同様の精神にもとつく。
すよ。﹄﹂と書きつけている。三好行雄﹁太宰治について﹂
自己の肉体によって支えた作家だといいかえても よ い ﹂
知徹底を図ろうとしたもので、その国民学校令第↓条に
してみる男なのだ﹂と語られている。この﹁愚か な 父 ﹂
ある。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得
愚なるに似てみるが、しかし、元来ただものでないので
紙﹂の﹁前書き﹂に、﹁この父は服装もまっしく 、 容 貌 も
回愚かな父は眉をひそめたといふわけである ﹁お伽草
が連想されてくる。
ら詮索するなら、例の芥川賞をめぐる川端康成との応酬
思潮をふまえている。ちなみに太宰治の個人的な体験か
ぬか 戦時下にあって正義の理念が鼓吹されていた時代
回この兎の懲濁は所謂﹁やりかたが汚い﹂と思はれはせ
のプレス・コードに配慮した改訂である。
回武士道とか ←﹁騎士道とか﹂︵薩に就いて﹄︶。GHQ
回彼に麿懲の一太刀を加へなかったか ﹁麿懲﹂は、征伐
視された。
た知識偏重の弊を排して言行一致・心身一体の理念が重
同時代思潮を反映して授業科目の総合化が目ざされ、ま
能科﹂の四教科︵さらに高等科のみ﹁実業科﹂︶に統合した。
武道は﹁体錬科﹂、音楽・習字・図画・工作・裁縫は﹁芸
国史・地理は﹁国民科﹂、算数・理科は﹁理数科﹂、体操・
と定めた。履修科目の改編もなされ、従来の修身・国語・
年間︶を設けて、初等科と高等科の計八年を義務教育年限
学科︵二年間︶を高等科︵同︶に改組し、さらに特修科︵一
は従来の尋常小学科︵六年間︶を初等科︵同︶に、高等小
ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス﹂とある。国民学校
﹁国民学校ハ皇国ノ道二則リテ初等普通教育ヲ施シ国民
て、﹁維新の志士。鞍馬天狗。私は、自分を、それだと思
た、﹁富嶽百景﹂に、月夜の御坂峠で﹁富士に、化かされ﹂
るなどして、ひろく大衆の支持をあつめた。太宰治もま
軍作品︶され、その後もまた嵐寛寿郎の主演で映画化され
年九月には映画化︵高橋寿康監督、尾上松之助主演、日活大将
天狗﹂の連作を開始したのは大正一三年のこと。翌一四
記﹂の牛若丸伝説でも知られる。大仏次郎が小説﹁鞍馬
謡曲﹁鞍馬天狗﹂に登場する大天狗や、﹁平治物語﹂﹁義経
薬師不動尊霊験の地で、古来山岳修業者の霊地であった。
寺奥の院不動堂から貴船に到る山中の漢谷の僧上谷は、
延暦一五年︵七九六︶創建の鞍馬寺が南中腹にあり、鞍馬
鞍馬山は平安京の北方、老樹の繁る標高五七〇米の山。
回鞍馬山にでもはひって一心に剣術の修業をする事だ
装カ学﹂昭姐・11︶は、﹁太宰はかれの誠実な道を︿思想﹀
と論じる。
は、ただその﹁容貌﹂のみならず、眼前の現実から剥離
﹁カチカチ山﹂1太宰治私注︵花田俊典︶
7
(「
ほどの舌をきゆつとむしり取る﹂。
いには﹁掌中の雀の嗜をこじあけて、小さい菜の花びら
ちよ
神。ローマ神話ではディアナ︵ダイアナ︶。﹁アルテミス女
てるるやうだ ギリシア神話の月の女神、また狩猟の女
回アルテミスといふ処女神が最も魅力ある女神とせられ
﹁カチカ チ 山 し − 太 宰 治 私 注 ︵ 花 田 俊 典 ︶
團昔から証本の偉い入たちは、たいていそれをやってみ
回ギリシャ神話には美しい女神がたくさん出て来るが
と双子である。アルテミスは生動、健全、優美、迅速等
ふたこ せいどう じんそく
たいやう たいいん
っしゃる、ダイヤナね﹂とあることなどによっても知れ
月の光は其矢である。此女神は夜の静かさのセレーネと
おな れんあい けい
べつ えいきふ ちかひ
てさせ、若し其誓を破った者には厳罰たちどころに降る
げんばつ
たちみ じゅふ か
り いでたち をとめたち
のである。姿の優美と挙止の自由とを以て、此女神は狩
森に野原にかけあるき云ふ。素より狩猟の女神であるが、
平然と言い放ち、また龍宮の乙姫について﹁或ひは、貴
﹁兄さんには冒険心が無いから、駄目ね。﹂﹁ケチだわ。﹂と
述べる﹂。﹁浦島さん﹂の﹁ことし十六のお転婆の妹﹂は、
のかしら。蛸の勇みたいね。﹂と﹁無遠慮に率直な感想を
て、﹁お母さん、お父さんの瘤は、どうしてそんなに赤い
の美少女であるが、性質はいくらか生意気の傾向があ﹂っ
いる。﹁瘤取り﹂の﹁十二、三の娘﹂は、﹁これはなかなか
大されて﹁お伽草紙﹂の他の作品にも共通して語られて
女性である この語り手の認識は、女性一般の特徴に拡
そる力が籠ってゐました。ヴィーナスの寵愛の鳥は白鳥
と呼ぶ刺繍の帯を持ってるました。その帯には恋愛をそ
ことになりました。ヴィーナスはまたセスタスO①ω葺ω
女神の中での一番美しい女神が、一番醜い神の妻となる
あげた礼として、彼にヴィーナスを与へました。それ故
た。ヂュピターは息子のヴァルカンが立派に雷電を鍛へ
の美しさに魅せられた神々は皆んな彼女を妻に望みまし
まってみる天上の大広間へ連れ行きました。ヴィーナス
季﹄の女神たちが迎へて、美しく飾り立てて、神々の集
のまに/\サイプラス○張芝ωの島へ漂ひ行くと、﹃四
追う猟師を険しい道でも夜導いてくれる守護神として、
に居て、猪や足の早い鹿を追ふを楽しんでみた。獲物を
ントス︵国q巳。。簿9ω︶やタイゲトス︵↓契αqΦ8ω︶の山や森
ンと双生児であった。オデュセイアによると、エルユマ
スとレト︵uΦ8︶との問にデロス島θΦ蕊︶に生れアポロ
神話﹄教文社、大15・n︶。﹁アルテミス︵︾簿Φヨ一ω︶はヅェウ
も其侍従の仙女等も好んで斯やうな水にゆ忌みする。
せんちよ あ
︵略︶女神は素より温良、優美で害悪の救済者であるとは
きふさいしや
云へ、女神の愛し玉ふ獣類や女神自身に対して無礼を加
りゆうるい ぶれい
ふる者がある時は神罰踵を反さぬ﹂︵木村鷹太郎﹃希騒羅馬
とき しんばつくびす かへ
8
つた﹂と書きつけている。
る←︹削除︺︵﹃雌に就いて﹄︶
神はアポローンの妹、デーロス島で生れて、アポローン
しん いもうと うま
重いやしくも正義にあこがれてみる土倉ならば この語
太宰治がギリシア神話に親聾していたことは、たとえぼ
の女神で、弓矢の神たる其兄アポローンと殆ど同一の神
そのあに しん
ナスについての記事、あるいは﹁誰も知らぬ﹂︵﹁若草﹂昭
﹁癩惰の歌留多﹂︵﹁文芸﹂昭14・4︶の﹁い﹂の項目のヴィ
うに周到に仕向けながら、それを結果的には脱構築化す
性であり、唯其女性的発現をしたのである。アポローン
り手は、戦時下の同時代人の﹁正義﹂への関心を煽るよ
ることを狙っている。
っしゃる、いつもあなたは、あたしを冷く軽蔑していら
15・4︶に、﹁あなたは意地悪ね、胸に短剣を秘めていら
せい たズそのちよせいてきはつげん
圖この兎は十六歳の処女だ 太宰治の作品に登場する少
が太陽の神とせられる如く、アルテミスは太陰の神であ
みかづき かげしつ
る。かの三日月の形はアルテミスの弓であって影静かな
る。太宰治のイメージするギリシア神話の女神たちは、
同一視されるは、アポローンが昼の光のヘリオスと同一
女は、およそ一六、七歳であることが多い。﹁めくら草紙﹂
みな気位が高くて怜捌である。
視されると同じである。アルテミスは恋愛なるものを軽
ひる
潮﹂昭15・5︶ の 書 函 ス の 妹 、 ﹁ 女 賊 ﹂ ︵ ﹁ 月 刊 東 北 ﹂ 昭 ! 9 ・ 1 1 ︶
回ヴイナスを除いては ヴィナス︵ウェヌス︶はローマ神
蔑し、此女神に事へる者には、永久に処女で通す誓を立
どういつし の妹のお夏、﹁人魚の海﹂︵﹁新潮﹂昭19・!0︶の金内の娘、
話における呼称で、ギリシア神話ではアプロディテ。ゼ
V潮﹂昭11・−︶の隣の娘のマツ子、﹁走れメロス﹂︵﹁新
﹁浦島さん﹂の浦島太郎の妹などは、いずれも一六歳。﹁花
神アテナとのあいだで最も美しい女神の誉れを競って、
ティ﹀℃ξ○舞⑦︶は愛と美の女神で、ヂュピ遂事とダイオニ
又野獣の保護者で、森や沼や、野山を支配し、女神の閃
のはら もと か り
猟の扮装をして、美しい処女達に囲まれ、谷に小山に、
菊、﹁火の鳥﹂︵﹃愛と美について﹄竹村書房、昭14・5︶のさ
Uδ欝Φの間に生れた娘でありました。一説には海の泡か
めく矢は海を打ち又陸をも打つのである。泉の源や樹木
またやじゅう ぬま きら
ちよは一七歳。
う みなもと
人といふものは、しばしぼ、むごい嘲弄を平気でするも
と鳩で、薔薇と奨金嬢は彼女の花として捧げられてゐま
アルテミスは導く里言ΦαqΦ露8⑦と呼ばれる。狩をする
ら生れたとも云はれてるます。彼女が西風に導かれて波
のであるから、乙姫もまったく無邪気の悪戯のつ も り で 、
した﹂︵トマス・バルフィンチ﹃希騒羅馬神謡︵伝説の時代︶﹄野
人々はアルテミスの意志を守ることを誓ひ、仔獣は神の
の繁って居る小川などは此女神の最も愛する所で、女神
こんなひとのわるい冗談をやらかしたのか﹂と語 ら れ る 。
上弥生子訳、岩波文庫、昭2・10︶。
をがは あい
﹁舌切雀﹂の﹁今年三十三の厄年﹂の﹁お婆さん﹂は、つ
回入間のうちで最も残酷なのは、えてして、このたちの
ぜフワユ
か一八歳。﹁ダス・ゲマイネ﹂︵﹁文芸春秋し昭10・10︶の 勝利をおさめた。﹁ヴィーナス<①謹ω︵希騰名、アフロダィ
歳。﹁美少女﹂︵﹁月刊文章﹂昭14・10︶の少女は一六、七歳
吹雪﹂︵﹁文芸﹂昭17・10Vの映画に登場する娘は一六、七 ウスの姉で妻の女王神ヘラと、ゼウスの娘で知恵の処女
(「
と首とを高くあげて居り、その美しさは、ニンプへの聞に
テミスと共に嬉戯したが、アルテミスはその神々しい顔
り、矢の如く迅速な神であった。野に住むニンプへはアル
アポロンと同じく簾と弓と矢とを持ち、弓を射る神であ
狩猟を助けると共にその獲物を絶滅から救ふ神で あ っ た 。
宝となし、神聖なものとして敢て殺さなかったと い ふ 。
その期へさしかかったのでありました。アクタイオンが
こいらを一人でぶらぶらしながら、運命の手に導かれて
持たせました。︵略︶アクタイオンは友だちと別れて、そ
は外抱を持たせ、三人目のニンペには靴を脱いでそれを
ペには彼女の投箭と簸と弓を持たせ、今一人のニンペに
はお供のニンべたちと一緒にその難へ行き、一人のニン
身体を洗ふ事になってゐました。/その日も、アルテミス
ルテミスは猟に疲れると其処へ行って、輝く水で清浄な
テミス﹂1﹁月の女神﹂一﹁月﹂⋮﹁兎﹂という連想を
ス﹂と﹁兎﹂とを結びつけるが、その背後でまた、﹁アル
語り手は、﹁残酷﹂性が共通することをもって﹁アルテミ
回兎が、このアルテミス型の少女だつたと規定すると
において重複関係にあったようだ。
とアルテミスとはその裸身を覗かれて蓋恥するイメージ
とが語られている。どうやら太宰治にとって、ヴィナス
も、裸身を見られて肉親に身をよじるヴィナスの像のこ
けΦ︶と呼ばれるが、此の地方では熊が多く棲息してみたの
ルカディアでは﹃最も美しいもの﹄としてカリステ︵魏農げ
ルテミスの様に美しい﹄と形容される程美しかった。ア
が高かったから、頭だけぬきんでてゐました。︵略︶女神
テミスを隠しました。けれども女神ははたの者より脊丈
な叫び声を立てて女神の方へ駈け寄り、身を以ってアル
洞穴の入口を覗くと、ニンべたちは思はぬ男の姿にみん
の野暮天であったといふに於いては この﹁狸﹂は、そ
回狸仲間でも風采あがらず、ただ団々として、愚鈍大食
ひろく世界的に分布している。
日本以外にも、中国、中央アフリカ、古代アメリカなど、
ひそかに楽しんでいる。ウサギを月と結びつける発想は、
︵類①一Φゆ鋤︶やペネロペイア︵℃2⑦δ℃Φ芭の如き美人は﹃ア
まじってみてもすぐにそれと知られたといふ。ヘレナ
でアルテミスは仔熊として崇められた。それがアルテミ
はこんな言葉を云ひながら閣入者の顔に水を反ねかれま
盛食禁な食欲のなかに生きているとされる。ただし、こ
スーカリステとして祭られるのである﹂︵原随園﹃︿教養文庫
の﹁狸﹂をもゆるやかに含めて、﹁お伽草紙﹂の主人公た
の外見からしても野暮であって、ただ丸々として肥え太
ついた一対の牡鹿の角がアクタイオンの頭に生えました。
ちは、それなりにどこか、まどかに孤独に充ち足りた自
31>男喰神話﹄弘文堂、昭14・12︶。なお、東郷克美﹁﹃お伽 した。﹃さあ、話せるなら行ってアルテミスの裸かになっ
さうしてその頚はずっと長くなって、耳は尖って来まし
身の世界のなかに生きている。﹁瘤取り﹂の﹁お爺さん﹂
り、おのれを知るのにおよそ聡明ではなく、ひたすら旺
れる母性的なるものなのだ﹂と論じる。
た。手は足先となり、腕は長い足となり、身体は斑毛の
草紙﹄の桃源境﹂︵﹁日本近代文学﹂21、昭49・10︶は、﹁この てる所を見たと話すがよい。﹄かう云ふと、たちまち枝の
思量分の水浴してみるところを覗き署した男に、騒つと
獣皮に蔽はれてしまひましたし︵バルフィンチ﹃ギリシア・
てひと休みしようではないか。﹄/其処にサイプレス︵締
れる。さあ、日の神が地を供ってみる問に猟道具を捨て
た。/﹃友よ。我我の網と武器は獲物の血で濡れてみる。
に山山で牡鹿を狩ってみた若者達にかう話しかけまし
その時カドモス王の息子の年若いアクタイオンは、一緒
で、太陽はいつれの目標からも同距離に立ってる ま し た 。
所有させている。また、﹁﹃晩年﹄に就いて﹂︵﹁文芸雑誌﹂
いて、ヴィナスにアルテミス︵ダイアナ︶のエピソードを
でものぞいた者があったら、鹿にしてやる!﹂と見えて
な横顔とを持ってるる。けれども、私の肉体を、ちらと
ナスだ。メヂチのヴイナス像のやうな豊満な肉体と端正
には、コ、ヴイナスを追ふことを暫時やめろ。僕はヴイ
の平安﹂に至ろうとする。彼らの生き方は、それぞれに
爺さん﹂は、世俗に対して﹁無慾﹂﹁無関心﹂に生きて﹁心
取ってみずからの孤独を慰め、さらに﹁舌切雀﹂の﹁お
きて行けない﹂世間から遁れて、﹁正統の風流の士﹂を気
でいる。﹁浦島さん﹂は、﹁お互い批評し合はなければ、生
分の孤独を慰めてくれる唯一の相手として﹂いつくしん
出来た厄介な瘤をも﹁自分の可愛い孫のやうに思ひ、自
6︶。ちなみに太宰治の昭和10年8月31日付今官一宛書簡 ﹁実に楽しさうな顔をして﹂腰の瓢の酒を飲み、右の頬に
ローマ神話︵伝説の時代︶﹄野上弥生子訳、岩波文庫、昭和17・
愛嬌のある綻びを露呈しているが、それなりに彼らは心
﹃十六歳の処女﹄の兎に欠けているのは﹃乳房﹄に象徴さ
水をぶつけて鹿にしてしまった事さへある ﹁丁度真昼
杉︶と松に厚く囲まれた難があって、狩猟の女神 ア ル テ ミ
の。メヂチのヴイナス像。いまの世のまことの美の実談
昭11・−︶には、﹁われは、いまの世のことなき美しきも
安らかに自身の︿愚﹀を守っている。﹁カチカチ山﹂の﹁狸﹂
は、およそ風采のあがらぬ、罪のない無類の酒好きで、
スを祀ってありました。難の端にある一つの洞穴は、人
を、この世にのこさむための出版也。/見よ! ヴイナス
で畳んでありました。洞穴の片側からは泉が溢れ 出 て 、
て、屋根の迫持は、丁度人の手で捲へたやうに美しく石
じめ﹂とあり、さらに﹁斜陽﹂︵﹁新潮し昭22・7110︶に を充ち足りて生き抜いているといってよい。これと対踪
像の色に出つるほどの蓋恥のさま。これ、わが不幸のは
もまた、そのような意味でみずからの﹁孤独﹂なく生﹀
一日の猟としては十分だ。明日はまた明日で新らしくや
工の飾りこそはなかったけれども、造化の巧みを凝らし
その広い水盤は草深い縁で取りかこまれてゐました。ア
﹁カチカチ山﹂1⋮太宰治私注︵花田俊典︶
9
動作は重々しく、思慮分別も十分の如く見え﹂、﹁服装だつ
く無﹂く、﹁体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭﹂く、﹁言語
芳しい。すなわち﹁このお爺さんの人品骨柄は、いやし
ん﹂で、彼はいかにも風采よろしく、また世間の評判も
的な存在が、たとえぼ﹁瘤取り﹂のもう一人の﹁お爺さ
回それから、ああ可笑しい、ウンコも食べたんだってね
て﹁狸﹂は物語の結末の受難に至ることになる。
かなわない。この二つの強大な本能の属性ゆえに、やが
ところ彼自身の生来の禽禁な生命力︵﹁色慾﹂と﹁食慾し︶に
また評判を高めたいと念願する﹁狸﹂の夢想は、つまる
ひ意地﹂︵﹁食慾﹂︶とに尽きている。﹁兎﹂の歓心を買い、
品な笑い声を発して、ぐっとあたりの酔客を見廻しまし
い声でもある。﹁博士ほどのお方が、えへへと、それは下
従の笑い声であると同時に、したたかな抗弁の不敵な笑
う笑い声は、太宰治の作品一般においていわぼ卑屈な追
回﹁えへへ、﹂と狸は急にいやらしく笑ひ ﹁えへへ﹂とい
ことになる。
﹁カチカチ山﹂ 1⋮太宰治私注︵花田俊典︶
て、どうしてなかなか立派で﹂、﹁学問﹂も﹁財産﹂もあっ
を計画したためではない。﹁爺さん婆さん﹂の厄 難 を 契 機
友達﹂である﹁爺さん婆さん﹂に代わって正義の仇討ち
いてみる ﹁兎﹂が﹁或る種の復讐﹂を企てるのは、﹁お
回狸に対して或る種の復讐を加へてやらうといふ心が動
手の主要な関心事である。
になる。いわゆる想念と現実との乖離は、太宰治の語り
ひついたらし﹂い瞬問に、急転直下の運命をたどること
の直後に﹁兎﹂が﹁ふいと別の何か素晴らしい事でも思
回おれは運の強い男さ ﹁狸﹂の強気な自信も、しかしこ
と無邪気に信じ切っている。
びは、自分が好意を寄せている相手のよろこびで も あ る 、
は、まことに気のいい自己中心家なので、自分のよろこ
團よろこんでくれ! おれは命拾ひをしたそ こ の ﹁ 狸 ﹂
る。
けっして彼はまどかに人生を生きることが出来ないでい
のように世間体に配慮を示す生き方を選んだがゆ え に 、
ら﹁兎﹂の歓心をえたいがために、自分を殺して狸汁を
の﹁狸しは、いつも目前の欲求に惑溺するので、ひたす
んの家へとどけてあげる ﹁十貫目﹂は約三七・五㎏。こ
回一心不乱に働いて十貫目の柴を刈って、さうして爺さ
という﹁狸﹂の内省は、ここに由来する。
掌握しえないことを思い知らされている。﹁まさかねえ。﹂
ただ理知だけによっては彼自身の存在の全体性がついに
握していない。というより、彼は、その体験の集積から、
装われている。しかも彼の理知は、彼の存在の全体を掌
こへと向けて彼の具体的な言動のことごとくは無意識に
慾﹂という本能の欲求を充たすことだけにあるので、そ
みな演技者である。﹁狸﹂の関心は、ただ﹁食慾﹂と﹁色
国﹁まさか。﹂と狸は力弱く苦笑した ﹁狸﹂は、無類の巧
るのである。
の﹁糞の山﹂を﹁兎﹂は﹁狸﹂の貯蔵食糧と見たててい
築かれます﹂︵黒川義太郎﹃動物談叢﹄改造社、昭9・3︶。こ
放って置いて掃除しない場所、野原にあっては糞の山が
個所に、幾日間でも続けて大便を仕溜めるのですから、
といふ事がわかってみても、れいの自分の﹃必死の奉仕﹄
息するくらみにおそろしくて、後で自分に不利益になる
た事はほとんど無く、ただ雰囲気の興覚めた一変が、窒
分は自分に利益をもたらさうとしてその飾りつけを行っ
と呼んで卑しめてみる性格に似てみながら、しかし、自
自分の哀しい性癖の一つで、それは世間の人が﹃嘘つき﹄
のが、おそろしくて、必ず何かしら飾りをつけるのが、
だが、たとえば﹁人間失格﹂︵﹁展望﹂昭23・6⋮8︶には、
べきだろう。︿嘘Vは太宰治の作品に多様に頻出する概念
狡智にたけた﹁嘘﹂つきは、むしろ﹁兎﹂の側に認める
あって、まったく根拠のない虚偽の演技なのではない。
は自己の心情を表明する際のいささか過剰な修飾なので
の円滑なコミュニケーションが苦手な彼にとって、それ
くってもらう場面でも﹁嘘泣き﹂をしてみせる。他人と
團嘘泣きをした ﹁狸﹂は、このあと﹁兎﹂に泥の舟をつ
から、いやさ﹂︵﹁浦島さん﹂︶。
ひ、﹃せっかく助けてやったは恐れいる。紳士は、これだ
したやうです﹂︵﹁風の便り﹂︶。﹁﹃えへへ、﹄と亀は不敵に笑
たが﹂︵﹁愛と美について﹂︶。﹁私は、てんてこ舞ひをしてゐ
にして、﹁醜悪な魯鈍なものし対する彼女の嫌悪感が、こ
つくろうとした﹁爺さんの家﹂であっても﹁十貫目の柴﹂
それはたとひゆがめられ微弱で、馬鹿らしいものであら
﹁狸の溜め糞も亦有名なものです。野に在っても室内に在
こで﹁辛辣﹂な﹁怒り﹂へと変容して、眼前の﹁狸﹂に
を﹁とどけてあげ﹂ようと考えもする︵ただし、じっさいに
うと、その奉仕の気持から、つい一言の飾りつけをして
て﹁近所の人たちも皆このお爺さんに一目置いて、﹃旦那﹄
向けられたためである。この瞬間に、﹁兎﹂の復讐心は﹁も
山で柴を刈って爺さんの家に運ぶ段になると、﹁どうもあの爺さ
しかし、この習性もまた、世間の所謂,﹃正直者﹄たちか
しまふといふ場合が多かったやうな気もするのですが、
ました。さうして、えへへ、と実に卑しいお追従笑ひを
はや他人の為とか、他人への同情の域を越えてしまって
んだけは﹂と尻込みする︶。つねに現前の欲動に忠実な﹁狸﹂
っても同じことで一頭でも二頭でも、又幾頭でも必ず一
みる﹂︵島津久基﹃日本国民童話十二講隔︶。
にあっては、怨恨とか正義といった観念はおよそ稀薄で
あるひは﹃先生﹄などといふ尊称を奉﹂っている 。 が 、 そ
回魯鈍なもの ←﹁愚鈍なもの﹂︵﹃雌に就いて﹄︶
あるがゆえに、﹁兎﹂の深謀遠慮の好業にも無防備である
ら、大いに乗ぜられるところとなりました﹂とある。
﹁どうせ、ぼれるにきまってみるのに、そのとほりに言ふ
しない。﹂ ﹁狸﹂の属性は、この﹁助平﹂︵﹁色慾﹂︶と﹁食
回﹁助平の上に、また、底ひ意地がきたないった ら あ り ゃ
一ZO
すがしい夏山の朝に始まり、夕陽に輝く美しい湖面に終
團夏の朝は、すがすがしい ﹁兎﹂の﹁復讐﹂劇は、すが
自分も一緒に、あはははと笑ひ≒﹃遊びに来ましたよ。う
て﹂﹁あははは。そいつばかりは、ごめんだぜ﹂﹁とにかく
げ﹂﹁蜘蛛﹂﹁蛇﹂﹁小雛﹂﹁鮒﹂。タヌキの食嗜好に関し
食べたもの、また食べるとされるものは﹁木の実﹂﹁とか
太宰治の﹁カチカチ山﹂のなかで、じっさいに﹁狸﹂が
兎に見てもらひた﹂いためである。﹁狸﹂は、﹁柴を刈﹂る
もう自分がこのやうに苦心惨憺してみるといふところを
コ心不乱どころか、ほとんど半狂乱に近い﹂のは、﹁ただ
半狂乱に近いあさましい有様である ﹁狸の働き振りしが
回狸の働き振りを見るに、一心不乱どころか、ほとんど
える。
がすがしく思はれた。初夏の朝は、殊によかった﹂と見
となると他のことはいつさい耳目に入らない。﹁食通とい
團それこそ一心不乱に食べてみる ﹁狸﹂は、こと﹁食慾﹂
仕掛けになっている。
別個の物語を心中ひそかに醸成させていることが際立つ
てまった﹂などと見える。﹁狸﹂と﹁兎﹂とが、それぞれ
技巧的な微笑を口辺に漂はせて﹂﹁思はず、くすくす笑っ
場合には、﹁笑ひを噛み殺してみるやうな顔つきで﹂﹁ただ
してにやにや笑ひながら﹂とあり、もう一方の﹁兎﹂の
いけない。あのやうな大斯きでは、女房以外の女なら必
は、小さい時から大偉きをかく子であった事を忘れては
スの子だ。父と同様に、女に惚れられる柄でない。お前
あの、自惚れだけは警戒しなさい。お前は、ボローニヤ
て ﹁つぎには、女。これもまた、やむを得ない。ただ、
回おれの、この、男らしさには、まみらぬ女もあるまい
みる﹂。
には﹁馳の糞でまぶした蛆螺のマカロニなんかが入って
﹁狸﹂が﹁泥の舟﹂で湖水に沈む際の﹁お弁当箱﹂の中身
て、この語り手はよく知っている。﹁兎﹂にとって﹁狸﹂
作業に﹁一心不乱﹂なのではなく、﹁兎に見てもらひた﹂
ふのは、大食ひの事をいふのだと聞いてみる。私は、い
ず閉口します。女の誘惑に逢った時、お前は、きっとあ
つい兄の口真似をしちゃった﹂﹁﹃さうかい。﹄と狸はほく
ふふ。﹄と、てれて、いやらしく笑ふ﹂﹁いや、はははは、
︵錦城出版社、昭17・6︶に、﹁けさは七時に起きた。こんな
い自分の行為︵演技︶に対して=心不乱﹂なのである。
まはさうでも無いけれども、かつて、非常な大食ひであ
の大鋤きを思ひ出す事にしなさい。いいか? フランス
の﹁お弁当箱﹂の中身の﹁すごいもの﹂とは、﹁兎しの食
﹁狸﹂はこのあと、﹁お弁当﹂を食べるのにもコ心不乱﹂
った。その時期には、私は自分を非常な食通だとばかり
できらはれても、デンマークには、お前でなけれぼいけ
ほくして﹂﹁ああ世の中なんて甘いもんだとほくそ笑む﹂
わる。朝のすがすがしい感触については、﹁正義と微笑﹂
すがすがしい朝は、何年振りだらう﹂とあり、また﹁津
になるが、このときには﹁兎﹂の視線を忘れてしまって
思ってみた。友人の檀一雄などに、食通といふのは、大
ないといふ綺麗な娘もみるんだから、そこはお父さんに
嗜好にない両棲類や爬虫類あたりだったか。このあと
いる。﹁狸﹂の﹁食慾﹂は、いつも﹁色慾﹂にまさる。の
食ひの事をいふのだと真面目な顔をして教へて、おでん
まかせて、向ふでは、あまり自惚れないはうがよい。若
﹁調子がいいそ、とにやにやしてみる≒狸は鼻の下を長く
ちに﹁狸﹂は、﹁おれは、食慾が、ああ、そのために、お
や等で、豆腐、がんもどき、大根、また豆腐といふやうな
い時の女遊びは、女を買ふのではなく、自分の男を見せ
軽﹂︵小山書店、昭19・11︶にも、﹁私には、この裏路が、す
れはどんなきまりの悪い思ひをして来たか﹂と独 白 す る 。
順序で際限も無く食べて見せると、厳君は眼を丸くして、
びらかしに行くんだから、自惚れこそは最大の敵と思っ
﹁狸﹂の﹁食慾しの欲動はいかにも旺盛きわま り な く 、 彼
君は余程の食通だねえ、と言って感服したものであった。
自身の理知の統御も不可能なほどに﹁狸﹂の言動の原理
に、そんなわけではないが、あははは、﹄とてれ隠しに無
め、﹃何か憂欝な事でもあるのですか?﹄/﹃いや、べつ
カエルやイモリなどの両棲類、ヘビやトカゲなどの爬虫
ひってみたやうである タヌキは雑食性の動物だから、
團何だか知れぬが、そのお弁当箱には、すごいものがは
ち食通の奥義である﹂︵﹁食通﹂、﹁博浪沙﹂昭17・!︶。
れに越した事はないぢやないか。当り前の話だ。すなわ
粉をまぜて油揚とし、別に焼豆腐と黄蕩と軽薄とを入れ
の一。甘藷の皮を剥きておろし、水気を去り、聴許の葛
回狸汁にするわけちやあるまいな ﹁狸汁﹂は、﹁汁料理
きなどを用いたという。
の異性に恋慕の情を生じさせる薬。古来、イモリの黒焼
画惚れ薬ってのは、あれは駄目だぜ ﹁惚れ薬﹂は、相手
てみなさい﹂︵﹁新ハムレット﹂︶。
理に笑ひ、それから、ほっと小さな溜息をつき、ちらと
類、ネズミ・昆虫・小鳥・カニ・魚・タニシなどの動物
て味喀汁にするものなり。又時として豚肉をフライとせ
︵略︶/安くておいしいものを、たくさん食べられたら、こ
乙姫のうしろ姿を眺める﹂と見えている。なお、﹁カチカ
質のものと、それに植物質のビワ・ナシ・カキ・リンゴ・
るものを入﹀ることあり﹂︵﹃日本百科大辞典﹄6、三省堂、
を支配している。
チ山﹂では﹁狸﹂も﹁兎﹂も、ともによく笑いを口元に
ドングリや地下茎などを食べる。一方、ウサギは草食性
大1・8︶。
﹁浦島さん﹂にも、﹁﹃憂ひ?﹄と亀はさっそく聞きとが
浮かべている。﹁狸﹂に関するここ以外の用例には、﹁力弱
の動物であるから、両者の食嗜好は大きく異なっている。
圖てれ隠しみたいに妙に笑って ﹁てれ隠し﹂の笑いは、
く苦笑した≒急にいやらしく笑ひ﹂﹁ただもうほくほくし
﹁カチ カ チ 山 ﹂ l l 太 宰 治 私 注 ︵ 花 田 俊 典 ︶
刀
﹁カチカチ山﹂一太宰治私注︵花田俊典︶
口湖から見て富士山の右側の尾根の裾野に並んで見える
不審を抱きながらも、この﹁狸﹂は自身の内省をも懐疑
のだ。三十何年間、さうか、お前がねえ﹂、とさまざまに
に出来てる。はて、不思議だ﹂、﹁しかし、似た兎もあるも
に﹂、﹁カチカチ山だの、ボウボウ山だの、名前からして妙
お前は、ついさっき、ここはカチカチ山だつて言った癖
さに過ぎないが、海抜は一四七五米あるので、独立の火
て極めて顕著である。其の麓からは三百四、五十米の高
も最も著るしく見へ、其酉肩下りの切頭円錐は目標とし
麓に於ては船津附近からでも、亦西麓の三里ケ原からで
山は富士側聞山中の王で、最大なものである。二って北
口一合目天神峠の西にある大室山︵標高一四四七米︶。﹁大室
一国痢輝
ク
まみ・
子…へ
一Z2
事の能はざる様子﹂の内省も、自分自身に対する懐疑の
しているため、てもなく﹁兎﹂の巧言にまるめ込まれて
山なら可なり高いものである。山の底部は直径二粁で、
のが、精進登山口にある長尾山︵標高一四二七米︶と、精進
しまう。
界﹄山梨県、大14・6︶。﹁大室山の東千百米を距て﹀、登山
頂上の噴火口壁は西の方に下がって居る﹂︵﹃富士山の自然
一つの形態だといえる。これ以後も﹁狸﹂は、﹁嘘つけ。
だし 河口湖から眺めて南方の正面に位置するのが富士
回あれが富士山だし、あれが長尾山だし、あれが大室山
大月
山
道に沿ひたる所に立派な円錐形を呈する寄生火山がある、
絢殿場
石割
精到奮
山︵標高一二七七六米︶。河口湖から南西の方向、すなわち河
・の.一・{
回何だか、カチ、カチ、と音がする ﹁兎が他の方法を用
.1材谷
ひずに、何故に火を用ひて狸に火傷を負はせたかといふ
吉
剛
点は因る処があるやうに思はれる。/一つは支那の天文
、
田
曹B士山儲鹿雄∵月略図
ロ
説による七曜星より来た影響と、他の一つは印度の仏典
塩尻 甲府
I
l’
より来た影響とである。支那天文説の七曜星は日月火水
’ \ 、 σ
生金土である。月と兎との関係は﹃未曽有経﹄﹃法月日林﹄
、
蹄鱒
. 進言≧
箔鉾
富士山麓電鉄パンフレット「春の富士五湖」
節.難⋮・鵡講
莇婁
等の記述する仏説よりの影響ばかりでなしに、支那の古.
鵡莇辮
△
文書にはかなり種々なる記述がある。﹃潜門類書﹄に月中
,_/’艇.
の兎が薬をつくりとあるなどはその顕著な例である。/
’ 、 8
§ あ・、 穴・、
職・”.﹄欝媒三門
鳴黍穴
、
燃織墾
/’∵”義塾\
・驚
舞磁長言
付根伊
ロλ山子根伊
魁ノ
劣・藩
σ1・
揮足M孟1
、=岳l
ノ
御小
火は七曜中月についでみる。月に密接の関係ある兎を出
、
へ の
、
奥 した後に、月につぐ火を出した事は、極めて自然の行き
下部泊案
山頃日樋勢.
血ま
\・ .海
グ ピ も
鵡:根
一十㌧屹瞭都
U長影
一.
疹1鮮善
、
1 ! 1 ・
11・暑アルゴ謡言㌦ 方である。この説話の全体を通じて見るとなほそれが明
下部
身
軸ド
鎌燃身莚
名洛欝
1う1 \中 田
へ かになる。即ち、火で苦しめたる後に水に到り、木船と
土船とを出して、日、及び金を出してみない動けである。
︵略︶他の一つの影響、即ち印度仏典によるものは、既に
引談した所の﹃未曽有経﹄﹃法二項林﹄等の記述する兎が
我が身を火の中に捨ててもなほ人を救はんとしたといふ
事からの影響である﹂︵中田千畝﹃日本童話の新研究﹄︶。
画嘘ぢやないか? 昔話﹁カチカチ山﹂の場合とは違っ
て、この﹁狸﹂は、いかにも無邪気で愚鈍ながら、みず
からを﹁疑ふ﹂ことを知っている。さきの﹁ウンコも食
べたんだってね﹂と決めつけられた際の﹁強く否定する
麟進籍
三 本
宿新
川品 鯨
’淵 帳囎擁欝
白1r
建ノ
獣
㌔
原や里謡
奎 甦
延
『〈小学生全集第七巻〉日本童話集(上)』
みのあまりの哀れな講参﹄﹃苦しい法螺﹄﹃歯の浮くやうな
独白をのぞけぼすべて﹃しどろもどろのごまかし ﹄ ﹃ 苦 し
は﹃だまし合ひ﹄のためのものである。狸の言葉は内的
も﹃平和﹄もなくて﹃言葉﹄だけがある。ここでの言葉
﹁龍宮や雀の里とは逆に、この﹃カチカチ山﹄には﹃愛﹄
わからなくなり 東郷克美﹁﹃お伽草紙﹄の桃源境﹂は、
國﹁さう、さう、﹂と狸は、自分でも何を言ってみるのか、
かぬ顔になる﹂︵﹁瘤取り﹂︶。
い。ここを、お掃除しますから。﹄と言ふ。/お爺さんは浮
と興の無いやうな返事をして、﹃ちよつと、どいて下さ
が咲いた。﹄とお爺さんがはしゃいでも、/﹃さうですか。﹄
回﹁さうですか。﹂と兎は冷静に ﹁﹃もう、春だねえ。桜
まれていることになる。
には、太宰治自身の同時代に対する辛辣な批評が織り込
託する時代であったことからすれぽ、この﹁狸﹂の造型
身体︵生活︶性から乖離して肥大化した観念︵理 念 ︶ の 蹟
験則に即して生きている。戦時下の社会全般が、いわば
一﹂ ﹁狸﹂は、あくまで自身の本能と、自身の 生 活 の 経
回この山で生れて、三十何年かになるけれども、 こ ん な 、
のみは草原である﹂︵同︶。
噴火口がある、口内と山の北側とは密林に覆はれ、南側
いのに、座積講は其の半ばに過ぎない。頂上には円形の
之を長尾山といふ、其高さ議瓶は格別大室山とは変らな
安定ナ箇所が存在シナケレバ地震ハ誘発サレナイ。然ル
シテモ、ソコニ曲尺モ地震ヲ起サウトスル歪ヲウケタ不
天候ノ変化ハ地震ノ誘因トナル。勿論如何二天候が変化
起りサゥナ日ダ︾トイフ。コレハ単ナル感ジデハナク、
んぢやねえだらうか ﹁昔カラ︽イヤニ蒸暑イカラ地震が
豪いや、これは、ばかに暖くなって来た。地震でも起る
地質と水理﹄博進館、昭4・8︶。
同一の隆起物なるべしと思はしむ﹂︵神原信一郎﹃富士山の
矢張り小御岳又は高鉢山に類似して三角形をなし其等と
も岩津山の如し。然れども之を平面的に盗むれば其の形
山砂礫を蒙り一木一草をも見ず。側面遙かに眺むれぼ恰
称し又其の南尾根を大絶頂、北尾根を小絶頂といふ。全
われている。﹁籠坂峠の上に当りて一隆起あり。小富士と
腹に位置するのが小富士︵標高一九〇六米︶。全山砂礫に蔽
の側火山︵寄生火山﹀がある。富士山火口の東側斜面の中
は大室山・長尾山・片蓋山・出座山など、およそ四四個
回富士詣の中腹にも小富士といふ曲があるし 富士山に
話と文学﹄創元社、昭13・12︶。
とは、有りさうにも無いことだからである﹂︵柳田國男﹃昔
と少し変である。山がカチカチとかボウボウとかいふこ
愚鈍な狸でもそれで納得したといふことが、考へて見る
も、かちかち山の趣向は余りに突充として居て、なんぼ
て言った癖に。﹂ ﹁子供は今でも面白がつて聴くけれど
團何を隠さう、おれあことし三十七さ、へへん、わるい
配慮︵曵くばせ︶にほかならない。
とを知らされている読者に対しての、語り手のたくみな
て語っている。やがて﹁狸﹂が殺害される運命にあるこ
あ。どんな目に遭っても死にやしない﹂などとくり返し
みねえのかも知れない﹂、﹁しかし、おれは運のいい男だな
いのだ﹂、﹁おれには、ひょっとしたら神さまも何もついて
これ以後も、﹁おれには神さまがついてみるんだ。運がい
して﹁狸﹂は、ここで﹁運のつきだ﹂と口走るものの、
来た際には、﹁おれは運の強い男さ﹂と認識していた。そ
回運のつきだ ﹁狸﹂は、さきに﹁狸汁﹂を逃れて帰って
い﹂︵﹁不審庵﹂、﹁文芸世紀﹂昭18・10︶。
って、具合ひが悪く、へまな失敗ぽかり演ずるお方も少
なもののやうであるが、黄村先生のやうに何事も志と違
る。﹁所謂理想主義者は、その実行に当ってとかく不器用
実主義のお婆さん﹂︵﹁舌乱戦﹂︶などが周到に配置されてい
人公たちの対角には、﹁現実主義の弟﹂︵﹁浦島さん﹂︶や﹁現
いる。そして、それぞれの理想︵夢想︶をひとり生きる主
理想の生き方を体現しているという夢想のなかを生きて
るらしく ﹁お伽草紙﹂の主人公たちは、いずれも自身の
團それだのに、女はおれを高漣な理想主義者と思ってみ
たものなどがある。
し﹂、さらには﹁狸が著き騒ぐときは地震になる﹂といっ
いからである﹂と論じる。
に通じない。彼の﹃言葉﹄が単に自意識の空転に過ぎな
えて来たもの﹄なのである。狸の求愛の﹃言葉﹄はつい
り、それはまさに狸の﹃生きてみる事の不安から、芽ば
の里を支配している充足した沈黙と対照されるべきであ
6︶。地震予知についての狸言には、この他に﹁井戸水が
スル早言デアル﹂︵﹃国民百科大辞典﹄6、冨山房、昭10・
ヲ道破シタモノデ、我国ノ如キ地震国二於テ始メテ成立
テヰル。天気ノ変り目二地震が多イトイフノハコノ関係
故二特二大キナ天候ノ変化ハ必ズ地震誘発ノ原因トナツ
チー沼二十数回平均ノ地震が常二何処カニ起ツテヰル。
六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十
に見える﹂︵﹁八十八夜﹂、﹁新潮﹂昭14・8︶。﹁﹃正岡子規三十
薄く、歯も欠けて、どうしても四十歳以上のひとのやう
﹁笠井さんは、ことし三十五歳である。けれども髪の毛も
この当時の自分の年齢にある特別の感慨を抱いている。
非難していたことと辻褄があうことになる。太宰治は、
しても二十も年をかくしてみるとは思はなかったわ﹂と
と明かされる。これによって、さきに﹁兎﹂が﹁それに
か ﹁狸﹂の年齢が、ここではっきりと﹁三十七﹂である
御詰には自信がない 動物のタヌキは、聴覚と嗅覚とに
急に減ると地震が来る≒維の夜露きは地震の兆し﹂﹁鯨が
ニ我国デ隠事年間二5千回内外ノ地震ヲ感ジテヰル。即
すぐれ、視覚に劣っている。
多くとれたり、鰭が騒ぐと地震が来る﹂﹁鱗雲は地震の兆
見え透いたお世辞﹄なのだ。この空しい饒舌は龍宮や雀
回﹁嘘つけ。お前は、ついさっき、ここはカチカチ撫だつ
﹁カチ カ チ 山 ﹂ 一 太 宰 治 私 注 ︵ 花 田 俊 典 ︶
エ3
た。私自身にも、三十七まで生きて来たのが、うそのや
まあ、君は、生きて来たなあ、としみじみ言ってゐまし
う、三十七歳になります。こなひだ、祭る先輩が、よく、
事で、﹄/﹃さうして、苦しい時なの?﹄﹂︵﹁津軽﹂︶。﹁も
だ。作家にとって、これくらみの年齢の時が、一ばん大
しさ。ばたばた死んでみる。おれもそろそろ、そのとし
七。﹄/﹃それは、何の事なの?﹄/﹃あいつらの死んだと
八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村磯多三十
は味噌の効用なのかも知れない。大平敏彦﹃香辛料の化
ところに兎の好計があったが、それでも狸が治癒するの
んで用いられていて、これに唐辛子をこっそり添加した
自体は、古くから火傷の民間治療薬として醤油や油と並
田楽や風呂吹大根のタレ味噌として用いる。ただ、味噌
味噌は、味噌に唐辛子を混ぜてトロ火で練り上げたもの。
であって、﹁唐辛子味噌︵蕃椒味噌︶﹂と称される。唐辛子
兎が狸に塗るのは味噌に唐辛子︵蕃椒︶をすりまぜた膏薬
辛子﹂を添加したものなのか。昔話﹁カチカチ山﹂では、
って置く。大いのになると、豆腐を布袋でしぼって水を
小さい火傷なら胡麻油をぬってその上に飯粒をねって貼
間療法の主なるもの﹂を列挙している。すなわちコ、
事﹂などを指摘して、﹁その他現に各地に行はれて傷の民
他にも﹁猿蟹合戦に猿が先づ味噌桶へかけつけたとある
擦薬でもある。中田千畝﹃日本童話の新研究﹄は、この
また水腫・凍傷︵霜焼け︶・腹痛・腰痛・痛風などに効く塗
しても用いられ、健胃剤・興奮剤・消化剤などの内服薬、
ただ、唐辛子は昔から、香辛料や観賞用のほかに薬用と
﹁カチカチ山﹂1太宰治私注︵花田俊曲ハ︶
うに思はれる事があります﹂︵﹁春﹂︶。
学﹄︵産業図書㈱、昭27・11︶によれば、香辛料として用い
って置く︵栃木具安蘇地方︶/一、ジャガイモをすって外用
14
がらし
回その時、表で行商の呼売りの声がする ﹁行商﹂は、一
られる唐辛子は、苛烈焼くが如き辛味を持っていて、粘
する︵茨城県下館地方︶/一、蛙の卵又は、オタマジャクシ
てつける︵群馬県碓氷地方︶/、柳の皮をはいでこれを煎じ
る︵静岡県島田地方︶/一、椿油、ごま油、卵の白味をねっ
を瓶にとって置くとそれがとけて清水となる。それを塗
去り、およそ一割の小麦粉をまぜて五分位のあつさに貼
定の地に座舗を構えて商行為をする座商に対して、商品
膜や傷口に接触しただけでも堪え難い程の痛みを感じる。
讐甚羅爵
を持参して家々を小売りして廻る行為やその人をさす。
ただし、一般には旅売りのこと、すなわち﹁近距離を小
規模で売り歩く呼売・振売・棒手振などと区別して、そ
の範囲が広く遠くにわたるものをいう﹂︵日本風俗史学会編
て火傷を洗ふ︵埼玉県大里地方︶/一、アタモの根の白い部
分をとり、これを黒焼にして粉としてつける︵長野県更級
﹃日本風俗史事典﹄弘文堂、昭54・2︶ので、﹁行商の呼売りの
声﹂というこの語り手の言い方はなじまない。遠隔地へ
摩叢書版︶が﹁岩手郡雫石地方の話﹂として採録している
ある。佐々木喜善﹃聴耳草紙﹄︵昭6、ただし以下の引用は筑
と、それから素面のままで別人だとシラを切るものとが
るものと、笠をふかく被って見知らぬ薬売りを装うもの
カチ山﹂のこの場面は、病気見舞いと称して兎が訪問す
犯人が﹁兎﹂であることに気づいていない。昔話﹁カチ
の﹁兎﹂をみとめたからではない。﹁狸﹂は背中の火事の
狼狽したのであって、背中の柴に火をつけた犯人として
手が、かねてより思慕する﹁兎﹂だったのでこのように
回﹁や! お前は、兎。﹂ ﹁狸﹂は﹁色黒﹂の話をした相
り上げて塗る︵千葉県山武郡地方︶﹂。
をとってつける︵栃木県石橋地方︶/飯粒と経紀とをよくね
どに入れておくと次第に水の様にとけてしまふが、それ
︵山形県西村山地方︶/一、白百合の花びらを広い口の瓶な
地方︶/一、ヒバの皮をとって摺鉢ですりその汁をつける
料集成﹄には、﹁奇応丸﹂や﹁熊胆丸﹂などと並んで﹁疵
とうがらし
気の薬﹂﹁疵玉薬﹂といった薬名が見える。﹁れいの唐辛子
とゑがらし
をねったもの﹂というこの贋の膏薬は、ただ﹁唐辛子﹂
とンつ
だけを﹁ねったもの﹂なのか、それとも何かのなかに﹁唐
気﹂は大小腸など下腹部が痛む病名。﹃富山県薬業史 資
も﹁痂気膏﹂も、この語り手の創作になるものだが、﹁病
辛子をねったもの﹂で、﹁どろりとした黒い薬﹂。﹁仙金膏﹂
がらし
疵三斜とか﹂と語られる。﹁やけど、切傷、色黒﹂に効く
とンつ
コ骨薬﹂というふれこみだが、その﹁正体﹂は﹁れいの唐
重詰金轡はいかが このあとにも﹁あの、現金膏とか、
県薬業史 資料集成﹄︶。
期には約一万人に達した︵富山県厚生部薬業振興課編﹃富山
幕末期に約四五〇〇人、明治期に約七千人、大正昭和初
は江戸中期頃に成立し、全国各地を廻る行商人の数は、
の行商は、近江商人や山の売薬商人が有名。山の売薬業
譲
「カチカチ山』(富士屋書店)
昔話大成﹄1︵角川書店、昭54・5︶にも採録されている。 高ぶった処女の残忍性には限りが無﹄く、﹃殊にも醜悪な
デ山の兎で俺が何知るベサと答えた﹂。同様の話は、﹃日本
という顔をして、藤山の兎は藤山の兎、タデ山の兎はタ
ている。どうしてくれるなと言うと、兎は何も知らない
だまされて死ぬ思いをした。これこんなに体に傷がつい
タデミソを作っておった。兎どな兎どな、先程は其方に
﹁熊がウンウン瞭りながら山を越して行くと、兎が日向で
に向かってウサギは自分は別のウサギだととぼけ て い る 。
ものは、タヌキがクマにかわっているものの、そのクマ
伽草紙﹄の桃源境﹂︶。
魯鈍なものに対しては容赦が無い﹄のだし︵東郷克美﹁﹃お
限に許﹄した乙姫とはまったく対照的に、この﹃美しく
る男たちは、気をつけるがよい﹂と語られる。コ切を﹃無
に対して、ああ青春は純真だ、なんて言って垂誕してみ
がままな処女の、へどが出るやうな気障ったらしい姿態
ことに無邪気と悪魔とは紙一重である。苦労を知らぬわ
が﹁鶴野島の夕景をうっとり望見﹂するくだりでも、﹁ま
い。ほとんどそれは、悪魔に似ている このあと﹁兎﹂
回けれども、美しく高ぶった処女の残忍性には限りが無
半、兎が登場してきて狸に火傷をおわせる部分と狸が泥
捕えられる部分と狸が婆さんを騙して逃げる部分とで前
内容からは二つに区分される。すなわち、狸が爺さんに
は一般に、全体が四つの行為︵物語︶から成立し、そして
回しかし、狸の不幸は、まだ終らぬ 昔話﹁カチカチ山﹂
おそらく﹃防空壕﹄の中の作者がそうであったように﹂
一種の異邦であり、その中で彼らはつねに﹃孤独﹄だ。
た存在であるこの作品の主人公たちにとってこの現実は
独﹂なのである。﹁聖なる空間への癒しがたい渇望を秘め
る﹁色黒﹂を身命を賭して克服する決意を固める 。
は、この機会を﹁縁﹂と見定めて、年来の﹁悩み﹂であ
國﹁縁かも知れねえ。﹂と狸は低く柔くやうに言ひ ﹁狸﹂
るのは、彼のこの﹁色黒﹂の﹁悩み﹂と対応して い る 。
を口走る。﹁色白﹂の﹁兎﹂に対して﹁狸﹂が思 慕 を 向 け
ら死んだつてかまはんのだ﹂と興奮して、﹁悲壮 な ﹂ 決 意
﹁狸﹂は、﹁おれは死んだつてかまはん。色白にさへなった
の﹁悩み﹂は、自身の﹁死﹂にもまさっている。のちに
は、彼自身の理知の所轄する世間的な見栄や体裁をくい
きまりの悪い思ひをして来たか ﹁狸﹂の旺盛な﹁食慾﹂
團おれは、食慾が、ああ、そのために、おれはどんなに
る。だから、彼はいつも饒舌な道化を演じるしかない。
て、彼の周囲の現実は﹁理解に苦しむしことばかりであ
お前にどんな悪い事をしたのだ﹂と抗議する。﹁狸﹂にとっ
は﹁死ぬるいまはの際﹂に﹁兎﹂に向かって、﹁おれは、
んに捕へられ﹂と語られていた。そして、このあと﹁狸﹂
何の罪とがも無く、山でのんびり遊んでみたのを、爺さ
回おれに、とがは耀えのだ さきに﹁もともとこの狸は、
この箇所で、この語り手︵﹁作者の私﹂︶がひと息ついてい
﹁動物相皇霊の葛藤﹂の劇を自在に増幅してみせている。
合を見れば、あえて﹁人間と動物﹂謳の要素を抑制して
るが、このことをふまえて太宰治の﹁カチカチ山﹂の場
きくいえぼ二つの︶伝承が複合されて成立したものと知れ
ている。各地の伝承から推測するかぎり、いくつかの︵大
﹁人間と動物﹂潭、後半は﹁動物相互間の葛藤を主題とし﹂
も指摘するように、﹁この昔話の構成は不自然で﹂、前半は
ちかち山の構造﹂︵﹃昔話と笑話﹄岩崎書店、昭35・− 第二版︶
の舟で沈められる部分とが後半に相当する。関敬吾﹁か
︵東郷克美﹁﹃お伽草紙﹄の桃源境﹂︶。
の、容貌の一﹂ このときの﹁狸﹂にとって、﹁ 容 貌 ﹂
回﹁いや、おれはいっそ死にてえ。︵略︶おれは、いま、そ
回おれはこの色黒のため生れて三十何年問、どのやうに
二つの行為をもって太宰治の﹁カチカチ山﹂が構成され
るのも、昔話﹁カチカチ山﹂の四つの行為のうち後半の
ているからである。
破って、彼の日常の挙動の折々に蠕動してやまない。そ
﹁色慾﹂が満たされないのは﹁色黒のため﹂と自認してい
れは彼自身にとって、どうにも抗しがたい性癖なので
園それこそ全く幽明の境をさまよひ ﹁幽明の境﹂は、幽
味気ない思ひをして来たかわからない ﹁狸﹂は自身の
る。﹁食慾﹂と﹁色慾﹂とに生きる﹁狸﹂にとって、その
あって、そのために彼はひそかに﹁きまりの悪い思ひを
界︵冥土︶と顕界︵現世︶の境界域。生死の問。
一方が充足されない状態は、まことに﹁味気な い 思 ひ ﹂
して来﹂ている。太宰治の﹁カチカチ山﹂においては、
ると期待するのは、彼の他愛のない夢想に過ぎない。け
それが克服されると女のほうから﹁恋わずらひ﹂してく
いる。自分が女にもてないのは﹁色黒﹂のせいだ か ら 、
知らないそ ﹁狸﹂は、いわゆる現実認識の能力 に 欠 け て
回うふふ、おれはもう、あいつが、恋わづらひしたって
あらゆる他者との相互理解の回路を断たれているばかり
骨おれは孤独だ 無類の演技者︵道化︶である﹁狸﹂は、
とになる。
自身の過剰な﹁食慾﹂のゆえに死の窮地に立たされるこ
されるといふ絶望的な運命に到達し﹂、それからさらに彼
﹁狸﹂は﹁爺さん﹂と﹁婆さん﹂の食慾によって﹁狸汁に
などとある。狸の火傷の程度もほぼ不明だが、たとえば
て狸は火傷の同然も癒つたと見えて﹂︵巌谷小波﹁勝々山﹂︶
﹁狸ハ暫時悩ミシガ﹂︵﹃雛廼宇擬木﹄所載﹁艶々山﹂︶、﹁やが
て、狸の火傷癒えたり﹂︵﹃燕石操重﹄所載﹁兎の大手柄﹂︶、
した時日は謹話に異同があって、﹁さて二十日あまりを経
親署圏も経たぬうちに全快し 狸の傷が治癒するのに要
と自覚される。
れども、その現実認識の甘さによって、ひととき ﹁ 狸 ﹂
か、彼自身の内部の真実からも遮蔽されているため、﹁孤
武者小路実篤﹃カチカチ山と花咲爺﹄には﹁やけどして
ヘ ヘ へ
は幸福な夢に生きることが出来る。
﹁カチカチ山﹂ 1太宰治私注︵花田俊典︶
エ5
﹁カチカチ山﹂1太宰治私注︵花田俊典︶
部が破壊された軽度のものと、基底層までとどいている
水泡のできる第二度火傷、この第二度火傷は皮膚の上層
は一般に、海水浴場での日焼け程度の軽い第一度火傷、
背中中あかむけになった﹂と語られている。火傷の症状
やしない ﹁狸﹂の自認する幸運の連続は、その背後で
回おれは運のいい男だなあ。どんな目に遭っても、死に
ない。
は、ついに﹁本心といふもの﹂が自身のなかにも見当ら
ないのだ。﹁食慾﹂と﹁色慾﹂に翻弄されている﹁狸﹂に
願う場合のまじないにも用いられたりする。
とされたからで、ここから箒はまた、長居の客の辞去を
どに箒が使用されるのは、箒が霊界と現世とを媒介する
信じられてきた。安産のまじない、葬式の際の魔除けな
来、神霊を招来したり払ったりする呪具の機能があると
回襖の陰に箒など立てられてみるものである 箒には古
わけだ。
療とがある。﹁狸﹂は結果的に、この開放治療に成功した
と、皮膚の表面にフタをつくって自然治癒をまつ開放治
火傷の治療法には大きく分けて、薬を塗布する軟膏治療
の﹁カチカチ山﹂における﹁兎﹂は、さきに﹁狸﹂の﹁色
海にただ遊びに出かけようと誘うものとがある。太宰治
兎が狸に向かって海に漁をしに行こうと誘い出すものと、
うよしてみる事をご存じ?﹂ 昔話﹁カチカチ山﹂には、
回﹁ね、あなたはこの河ロ湖に、そりやおいしい鮒がうよ
花咲爺﹄では狸殺害の現場にわざわざ爺を招待する。
成就を爺さんに報告し、武者小路実篤の﹃カチカチ山と
てしまっている。巌谷小波の﹁勝々山﹂では兎が仇討の
悪があるばかりで、もはや﹁復讐﹂の意図からは離脱し
とき﹁兎﹂には、ただ﹁醜悪な魯鈍なもの﹂に対する嫌
え第二の新たな着想ということになるが、ただし、この
画していたと見える。この﹁悪魔的の一計﹂は、それゆ
林は官営煙草敷島の包みの模様のモデルとなったもので、
握り出されるのも面白い。島の西南にあたる向ひ岸の松
てこ﹀に来往せしにや弥生式の土器や石器が叢の中から
依然として残る。彼の石器時代の原始人類も風景に憧れ
雲秋風に飛ぶ様を衡せられた、其の時の御座所のあとは
覧の栄を賜はられたときは折あしく雨天で、殿下には白
間に立てるが如くなるに、大正十一年十月摂政宮殿下台
へ上りて富士山を松間に眺めるときは美人笑を帯びて雲
かくやと疑はれ、河口湖の風致に景趣を染める、更に島
天社が祀られている。﹁鶴鶴島は遠く望めば 海の莱蓬も
囲は約一・二粁。赤松などの木々に覆われ、昼下には弁
一Z6
せなかちゆう
重度のものとに分割される場合もあるが、さらに第三度
ほどに、彼の最期の悲運が際立つ効果をもたらす。
着々と死の﹁悲運﹂を準備している。﹁狸﹂が幸運に酔う
回またもや悪魔的の一計を案出する さきに﹁兎﹂は﹁狸
火傷になると焼け焦げて組織が壊死を起こす。﹁カチカチ
ら、これは人間の場合にいう第二度の重度の火傷。その
に対して断る種の復讐を加へてやらうといふ心﹂のもと
山﹂の狸の場合、もし背中の傷口が赤く燗れていたのな
火傷箇所の面積によって治癒に要する時日も違ってくる
に﹁何か素晴らしい事﹂を﹁思ひつい﹂た。昔話﹁カチ
を計画し、しかるのち第二の計画として唐辛子味噌を案
カチ山﹂では兎は最初、狸の背中の柴に火をつけること
が、第二度の重度の場合、傷口が化膿しないならおよそ
一箇月ほどで治癒することもある。太宰治の﹁カチカチ
山﹂の﹁狸﹂は、﹁れいの唐辛子をねったもの﹂を塗られ
出したとするものもあるが、太宰治の﹁カチカチ山﹂の
とうがらし
てもなお﹁十日も経たぬうちに全快し﹂たというのだか
回おれには神さまがついてみるんだ。運がいいのだ
にも効く﹁仙金貸﹂を塗りつけることに成功したが、今
慾﹂につけ込んで山へ柴刈りに誘い出し、また﹁色黒﹂
敷島の松と呼ばれる、惜むらくは明治四十三年の洪雨に
﹁兎﹂はこの二つの仕打ちを一連の﹁復讐﹂行為として計
難に、心を痛めてみるのに違ひ無いと解し﹂たから、こ
湖水汎濫して大半枯死したことである。併し此の辺の松
ら、たしかに強靱な生命力の持ち主ということになる。
浴びせられると一転して、﹁おれには、ひょっとしたら神
う口にするのであって、このあとすぐ﹁兎﹂から非難を
につけ込もうとする。
度の﹁悪魔的の一計﹂の実行に際しては、﹁狸﹂の﹁食慾﹂
は梢が丸くなりて翠緑滴る﹀が如く、人々が言ひ合した
ウボウ山の災難﹂の幸運と悲運とが同時に認識されてし
﹁狸﹂は、ここで﹁兎﹂が﹁自分の先日のボウボウ山の災
さまも何もついてみねえのかも知れない﹂と考える。﹁ボ
回あの黒蝿島の岸に ﹁鶴鵬島﹂は、﹁鵜の島﹂﹁大原の島﹂
様に敷島の包みと見較べるのも亦河口湖上の一興であ
まうからこそ、この﹁狸﹂は他愛のない饒舌に漂うしか
うが うがしま
ともいう。河口湖のほぼ中央にある無人の島で、その周
鵬鵡島(『富士山麓と御嶽』)
魚属多く鯉魚最も賞せらる﹂︵神原信︸郎﹃富士山の地質と水
回このごろとても大きい鮒が集ってみるのよ ﹁湖中に
る﹂︵教育学術研究会編﹃霊峰富士﹄同文館、昭2・7︶。
と称ふ。聞けば国営の巻煙草敷島の包の図案となったも
雪を凌ぐ幾百年風致至って宜しく誰謂ふとなく敷島の松
道路に登るにはこ︾で上陸するのである、岸辺の松は風
の西南に小海といふ部落がある、湖上から足和田の山顛
かいのに、好男子みたいに色が白く、いやらしい。なぜ、
り思ひ出して﹂と語られる。﹁今井田さんは、もう四十ち
あ、あの松か、と芸者遊びの記憶なんかと一緒にぼんや
銭。﹁敷島﹂のほうが高価であって、それゆえこのあと﹁あ
理﹄︶。
種の波動で、金魚に水を盛って両側を動かしたとき盟の
た定常波は河口湖にも見らる﹀、気象の変化で生ずる一
る。/フオーレル氏が瑞西のジエネワ湖で始めて発見し
而て其の交代の時期は気圧が平衡となる際で、凪とな
時頃からは反対に吹き下ろして翌朝の午前三時頃 に 及 ぶ 。
富士の山頂に向ひて吹く、即ち谷風がある。而て夜の九
る地方風である。/昼間は午前十一時頃から夕方過まで
部と此の谷間との間に昼と夜と気圧を異にするに起因す
る顕著で天気晴朗の折は別して規則正しい。富士山の上
て来た頃 ﹁河口湖畔に於ては谷風、山風の気界 現 象 が 頗
回タ風が微かに吹き起って湖面一ぱいに摩さい波が立っ
因んだ﹃山桜﹄が明治四十一年に製造発売され間もなく
し、而かも心身緩和な中級品である。同じく宣長の歌に
種類の銘葉を配合して日本葉固有の香嚢味を相当に表わ
あり、﹃朝日﹄は前者同様薩摩、水府、秦野、達磨等の各
我国の在来銘葉固有の香喫味を十分に表わした上級品で
及び栃木県産達磨葉等の優良葉を緩和料として配合し、
摩及び水府両紅葉を主体とし、これに神奈川県産秦野葉
らわすように特別の工夫がこらされた。︵略︶﹃敷島﹄は薩
その包かの意匠もこの古歌の雄健にして優雅な精神をあ
という本居宣長の有名な和歌に因んで命名されたもので、
はいずれも﹃敷島の大和心を人間わば朝日に匂う山桜花﹄
の三種の口付紙巻たばこを製造発売した。これらの製品
専売の実施とともに、政府は︵略︶﹃敷島﹄﹃大和﹄﹃朝日﹄
2︶。
だけにある感情ですから﹂︵﹁貨幣﹂、﹁仁人朝日﹂昭21・
さい。人間ならば恥ぢて下さい。恥ぢるといふのは人間
つかないなんてのは、さらに恐るべき事です。恥ぢて下
刊東北し昭19・11︶。﹁無意識でなさって、ご自身それに気が
無邪気と悪魔とは紙一重である﹂︵﹁新釈諸国噺⋮女賊﹂、﹁月
の。あたしは、あの熊の毛皮を頭からかぶって行かう。﹄
でおどかしたら、きっと成功するわよ。面白いぢやない
女のひとり旅か、にやけた商人か、そんな人たちを選ん
る。でも、おさむらひはこはいな。ちいさんばあさんか、
呼びとめると、どんな旅人だつて震へ上るにきまってみ
やいこら、とこんな工合ひに男のひとみたいな太い声で
虫。男の身なりをして刀を持って行けばなんでもない。
回まことに無邪気と悪魔とは紙一重である ﹁﹃弱虫、弱
敷島なぞを吸ふのだらう。両切の煙草でないと、なんだ
中の水が動く様に動くので其の動かぬ部分は線を な す 、
輸出用となったがこれは早くも翌四十二年に姿を消し
回ああ青春は純真だ、なんて言って垂誕してみる男たち
のであるといふ。此の松の下から鶴鵡島を見れば蓬莱島
二食は、ああ世の中なんて甘いもんだとほくそ笑む
之を節といふ﹂︵﹃富士山の自然界﹄︶。
た﹂︵﹃たばこ専売五十年小史﹄日本専売公社、昭28・5︶。口付
は ﹁﹃純真﹄なんて概念は、ひょっとしたら、アメリカ
か、不潔な感じがする。煙草は両切に限る。敷島なぞを
團狸は鼻の下を長くしてにやにや笑ひながら、もはや夢
煙草は明治末から大正初期に全盛時代を築いたが、大正
生活あたりにそのお手本があったのかも知れない。たと
とも想はる﹀。先史時代の人類も風景に憧れて住みたり
路をたどってみる ﹁狸﹂は、これ以前に﹁柴刈 り ﹂ に 出
末頃から人気がおとろえ、﹁朝日﹂は大正一二年度かぎり
﹁狸﹂の現実認識を欠いた自己満足的な想念と、 彼 を 囲 恕
かけた折にも、﹁全く気をゆるしてわがままいっ ぱ い に 振
で製造中止、﹁敷島﹂も昭和一八年度かぎりで廃止され
供の純真性は尊い﹄などと甚だあいまい模糊たる事を憂
吸ってみると、そのひとの人格までが、疑はしくなるの
舞ひ、ぐうぐう大蔚を掻いて寝てしまつ﹂ている 。 ﹁ 迂 愚
た。﹁敷島﹂は一箱︵二〇本詰︶で発売当初は六銭、以後順
しにや島の其所此所から石器其他の遺物が出る﹂︵﹃富士山
の狸﹂は、現実認識には甘いが、それだけに自分に好都
ひ顔で言って歎息して、それを女史のお弟子の婦人がそ
する﹁悲運﹂の現実とは、ここに至ってその乖離の頂点
合に他人を信頼する天才である。
次値上げされて、たとえば昭和一一年に二〇銭、一六年
のまま信奉して自分の亭主に訴へる。亭主はあまく、い
だ﹂︵﹁女生徒﹂︵﹁文学界﹂昭14・4︶︶。
回この島の松林を写生して図案化したのが、煙草の﹁敷
に三五銭、一八年一月に六五銭、廃止直前の同一二月に
いとしをして口髭なんかを生やしてみながら﹃うむ、子
の自然界﹄︶。﹁敷島﹂は、口付紙巻煙草。﹁明治三七年製造
島﹂の箱に描かれてある、あれだといふ話だ ﹁ 河 口 湖 に
は一円となった。ちなみに明治三九年発売開始の両切紙
供の純真性は大事だ﹄などと騒ぐ。親馬鹿といふものに
に達する。
は鶴鵜島といふ小撰が湖の中央に浮び、湖盆を両分し風
巻煙草の﹁ゴールデンバット﹂︵昭和一五年一一月に﹁金鶏し
酷似してみる。/日本には﹃誠﹄といふ倫理はあっても、
へば、何々学院の何々女史とでもいったやうな者が﹃子
致に光彩を添へる。大正十年の秋摂政宮殿下は鶴駕をこ
と改名︶は、昭和=年に八銭、昭和一八年一月に一五
ウ ノシマ
の島に縮め玉ひ富岳に白雲の飛ぶをめでさせられた。島
﹁カチカチ山し i太宰治私注︵花田俊典︶
17
生れた赤子の頭をコツンと殴ったりしてみる。こん な ﹃ 純
ば、阿呆である。家の娘は四歳であるが、ことし八月に
るるものの姿を見ると、たいてい演技だ。演技でなけれ
﹃純真﹄なんて概念は無かった。人が﹃純真﹄と銘打って
高まった。たとえば谷崎潤一郎シナリオの映画﹁アマチ
登場などによって、アメリカ映画に対する関心は一気に
また新作のアメリカ映画を積極的に輸入した大正活映の
年、アメリカのユニヴァーサル社が日本支社を開設し、
リスの映画がもっぱら日本にも輸入されていた。大正四
に、その顧客を見出し、アメリカニズムの鼓吹に力を尽
支那全土に、フィリッピンに、泰国に、マレーに、蘭印
儘なる跳躍に任されてみた。日本市場を搾取した彼らは、
い。昨日までわれわれの映画界は、アメリカ映画の思ふ
われは、大東亜映画の構想を目標に進まなければならな
してきたトーマス栗原喜三郎監督の作品で、ちなみに、
してアメリカ式の演出法やカッティング技術などを習得
らないのである。だが、日本の映画は、それに応へるや
亜共栄圏の盟主たるにふさはしい行動を持たなけれぼな
た。今、われわれの映画は、われわれの映画意志は、東
狭い国内に押し込められ、一歩も外地へ進出出来なかっ
すぎると、けろりとしてみる。恥じるがいい。それが純
憎悪も、愛撫も、みんな刹那だ。その場限りだ。一時期
ない。よろこびも、信仰も、感謝も、苦悩も、狂 乱 も 、
痴だ。いやいや、女は、みんなあんなものなのかも知れ
んでもできると思ってみる。︵賂︶悪魔、でなけ れ ば 、 白
人のモダンガールを中心にする他愛もない恋の駈引や滑
喜劇であった。鎌倉の海、青年たちの合宿を翻心に、一
谷崎潤一郎のオリジナル・シナリオになるアメリカ風の
胆な撮し方に驚くのである。︵略︶﹃アマチュア倶楽部﹄は
映る。彼は煙草を吸ひ、鼻から煙を出す。人は余りの大
名の次に、スクリ⋮ン一ぱいに原作者谷崎潤一郎の顔が
熟達せるオーストリア参謀少佐テオドル、レルヒ
高田第十三師団にこれが研究を命ぜると同時に、斯道に
虎一より同国軍用スキー二種を陸軍省に寄贈し、該省は
明治四十三年十二月スウェーデン駐在特命全権公使杉村
日本に移入されたのは明治四三年末のこと。﹁我国にては
團スキイでランラン、とかいふたぐみである スキーが
回アメリカ ←﹁ジャズ映画﹂︵﹃お伽草紙﹄再版︶
團ひところ世界中に流行したアメリカ映画 ←﹁ひとこ
界﹂昭14・11︶ 。
たうに救ってくれるのかも知れませぬ﹂︵﹁皮膚と心﹂、﹁文学
るのです。高い、深いりアリズムだけが、私たちをほん
ず、見ないふりをして、それだから、いろんな悲劇が起
ます。︵略︶女のこの底知れぬ﹃悪魔﹄には、誰も触ら
も、無い。一刻一刻の、美しさの完成だけを願って居り
日が全部ですもの。男とちがふ。死後も考へない。思索
について﹄竹村書房、昭14・5︶。﹁だって、女には、 一日一
画支社は国外退去、両国製作の映画の輸入も上映も禁じ
行、大東亜戦争の開始と同時にアメリカ・イギリスの映
画の輸入制限を通告、昭和一四年一〇月には映画法が施
事変の開始直後、外国為替管理法を適用してアメリカ映
の上質高度の技術はひろく喝采された。日本政府は支那
し、さらにトーキー時代の到来となってもアメリカ映画
大正豊頃から昭和初期にかけてアメリカ映画は活況を呈
フォックスやワーナーなどの他社もこれにつづいたため、
アーチスト社やパラマウント社が日本に支社を開設し、
しなかった﹂と語っている。大正一一年、ユナイテッド・
画では、海水着一枚でとび廻るやうな女性は決して出現
全日本学生スキー競技連盟創立。昭和三年二月にサンモ
催。同一四年二月に全日本スキー連盟創立。同一五年に
大日本体育協会主催の第一回全日本スキー選手権大会開
百年﹄唐津新聞社、昭49・−︶によれぽ、大正一二年二月に
う小川勝次﹁スキーの歴史﹂︵日本体育協会編百本スポーツ
キー指導を小学校に通学がてら見物したことのあるとい
新潟県高田の第=二師団歩兵第五八連隊営庭での初回ス
産婆等必要の具﹂︵同︶となった。このレルヒ少佐による
係・用水管理人・町村吏・警察官・軍隊・学生・医師・
後、﹁スキーは一般交通上郵便電信集配人・鉄道電信保線
に伝播するに至れり﹂︵﹃日本百科大辞典﹄5 萌44・12︶。以
しくオーストリア軍隊スキー術を教授したるを以て一般
エ8
﹁カチカチ山﹂ 一太宰治私注︵花田俊典︶
真﹄のどこが尊いのか。感覚だけの妻問は、悪鬼に似て
京新聞﹂昭19・10・16︶。
これについて筈見恒夫﹃映画五十年史﹄︵鱈書房、昭17・7︶
した。そして、日本映画はその特殊な文化形式の故に、
回皮膚感覚が倫理を覆ってみる状態、これを低能あるひ
は、﹁私は﹃アマチュア倶楽部﹄封切の日に、有楽座へ行
ュア倶楽部﹂︵大正画革作品、大9・11封切︶は、さきに渡米
は悪魔といふ ﹁僕は、あんな女は好まない。僕は、あん
みる。どうしても倫理の訓練は必要である﹂︵﹁純墓、﹁東
な女を好かない。あいつは、所詮ナルシツサスだ。あの
った。最初の字幕が映ると同時に、度胆を抜かれた。題
粋な人間性だ、と僕も、かつては思ってみた。僕は科学
稽ごとの繰返しであるが、そこには従来の日本映画に見
うな力強い足取を持ち得るだらうか﹂と述べている。
女は、謙虚を知らない。自分さへその気になったら、な
者だ。人間の官能を知悉してみる。けれども僕は、断じ
られなかった青春の楽しさが匂ってみた。従来の日本映
ろ大いに流行したジャズ映画﹂︵﹃お伽草紙﹄再版︶。アメリ
られることとなった。筈見恒夫﹃映画五十年史﹄は、﹁大
リッツ冬季オリンピックに画名の選手を派遣とつづき、
目ΦO瓢○同じ噂.<Oφぴ①同Oげ︶同師団隊附勤務をなし、将校に親
て肉体万能論者ではない。バザロフなんて、甘い も の さ 。
カ映画が世界的に流行するのは第一次大戦後のこと。そ
東亜戦争の完遂、大東亜共栄圏の建設に呼応して、われ
精神が、信仰が、人間の万事を決する﹂︵﹁火の鳥﹂、﹃愛と美
れ以前はイタリア映画を筆頭にドイツ、フランス、イギ
(一
してメリケン粉一杯を杓子で撹き廻しながらよくいため
はマカロニチースで先ず御存知の通りバター一杯を溶か
の﹁色の白い都の学生﹂もまた、﹁それきりまたぐっと水
回ぐっと沈んでそれっきり ﹁魚服記﹂︵﹁海豹﹂昭8・3︶
だ﹂。
まこぞんぢとほと
て牛乳一合計り注して堅胡椒を加へて白いソースを作り
底へ引きずりこまれ﹂る。東郷克美﹁﹃お伽草紙﹄の桃源
昭和三年大晦日に大倉喜七郎男爵の招聰によりノルウェ
ます、別に鍋の中へ焦付かない様に竹の皮を敷いて湯を
が少なくない﹂として、その︿水﹀のコ切を無化ある
境﹂は、﹁太宰治の作品には﹃水﹄のモチーフを含むもの
を巡回指導。同五年三月には玉川学園長小原国芳の招聰
おおさち はいばか わさびおろ おろ くは およ
しろ なか い なが ぼんふ
すんばか き じかんほどゆ で
べつ なべ なか こげつ やう たけ かは し ゆ
ぎうにう がうばか さ しほこしやう くは しろ つく
こ ぱい しゃもし か まわ
でオーストリアからハンネス・シュナイダーが来日。﹁大
入れて一寸許りに切ったマカロニを一時間程湯煮て今の
イのスキー連盟副会長ヘルセット中尉らが来日して各地
正十一年に公開された﹃スキーの驚異﹄なる映画は当時
白いソースの中へ入れて長いマカロニ六本振りならチー
この映画の主役をやったのがこのシュナイダーである。
スを大匙二杯計り山葵卸しで卸しながら加へて凡そ三四
ィ伽草紙﹄全体に﹃水﹄のイメージがある。︵略︶﹃カチ
いは浄化し、そしてさらに再生させる﹂効能に着目し、
のスキー人に随喜の涙を流させた貴重な映画であったが、
十分間位弱い火にして煮込みます、それが煮えたらべ
ぶんかんぐらみよわ ひ に ご に
﹃スキーの驚異﹄に現われて来るシュナイダーは神技とも
シン皿でも或は外の深い皿へでも最初にマカロニを一側
さら あるひ ほか ふか さら さいしょ かは
並べて別にチースを大匙一杯卸して入れて復たマカロニ
にみえて、実は﹃水﹄による﹃死﹄が最終的にこの狸を
﹃水﹄中に没して﹃死﹄ぬ。この話は残酷な復讐諌のよう
カチ山﹄の狸も美しい﹃処女﹄との合体を夢みながら、
キー界に多大の教訓と示唆を与えてくれたのであった。
を入れてチースを加へて三段にも四段にも斯うして一番
﹃愚鈍﹄の悲劇から解放しているといえないだろうか﹂と
いうべき鮮やかなテクニックで滑り廻り、黎明期のス
従って彼の名は日本のスキー界にはスキーの神様として
上ヘチースを卸しかけてテンピの中で二十分間焼きます、
なら べつ おおさち ばいおろ い ま
存 在 し た ﹂ ︵ 小 川勝次﹁スキーの歴史﹂︶。
是れは大層美味しいもので初めて食べる人でも決して
こ たいそうお い はロ た ひと けつ
うへ おろ なか ぶんかんや
い くは だん だん か ばん
回ここに於いて一挙に頗る興味索然たるつまらぬものに
り望見して﹂いる﹁兎﹂の言動に関して、みずから﹁こ
回夫婦は二世、切っても切れねえ縁の櫨綱 夫婦の縁は、
﹃増補註釈 食道楽﹄報知社出版部、明治42・1第五〇版︶。
チースを嫌ひません、一度試して御覧なさい﹂︵村井弦斎
きら どため ごらん
れは如何にも奇怪である﹂と問うて、そこから持論らし
現世ばかりでなく来世までもつづいており、その結びつ
なってしまった この語り手は、﹁鶴鵜島の夕景をうっと
﹁敷島﹂の包装図案についての﹁知識﹂の披歴の場合と同
い﹁純真﹂論議を﹁こじつけ﹂気味に開陳してみせる。
回それぢやあ仕様が無いねえ ←﹁それぢあ仕方が無い
は、これに反する。
化︵類型化︶しないことにある。﹁識つたかぶり﹂の言辞
は、この物語の展開と結末を﹁評論家的な結論﹂に概念
果に終る﹂しかない。﹁カチカチ山﹂の語り手の目論見
なぜ﹁兎﹂がそのような殺意を抱いたかの理由までが掌
側に自分を﹁殺す気﹂の謀略があることだけであって、
とされる。が、このとき彼に﹁わかった﹂のは﹁兎﹂の
ここに至って﹁狸﹂は、﹁はじめて兎の悪計を見抜いた﹂
回よし、さうか、わかった! お前はおれを殺す気だな
の契り﹂という。
のようだ、との意。﹁親子は一世、師は三世、夫婦は二世
きのさまは、船の後部につけられている丈夫な艦綱︵縄︶
ねえ﹂︵﹃雌に就いて﹄︶。
握できたのではなかった。それゆえ﹁狸﹂はこのあと、
「〈講談社の絵本〉かちかち山」
様に、﹁とかく識つたかぶりは、このやうな馬鹿らしい結
回馳の糞でまぶした藤織のマカロニなんか入ってみるの
ふん
﹁おれは、お前にどんな悪い事をしたのだ﹂と問うことに
なる。﹁兎﹂が﹁おれを殺す気﹂でいることは﹁眼前の真
だ さきに﹁兎﹂は﹁狸﹂に向かって、﹁それから、あ
といってこんな﹁ひどい﹂仕打ちを受けなければならな
実﹂として﹁わかつ﹂ても、﹁どんな悪い事をした﹂から
のだろうが、﹁狸﹂はここで、﹁馳の糞﹂なら食べると知れ
いのか、それは彼にとっては依然として﹁わからん。理
あ、可笑しい、ウンコも食べたんだってね。﹂と椰楡して
る。﹁蛆矧﹂は、民間の薬用として、声を美しくしたり、
解に苦しむ。筋道が立たぬ。それは御無理といふもの
いた。この﹁ウンコ﹂は﹁狸﹂自身のそれをさしている
ふん
腫物、発熱に効くとされた。﹁チースの料理で美味しいの
ら れうり お い
﹁カチカチ山﹂i太宰治私注︵花田俊典︶
エ9
「『
悲劇﹂として語りつむいでいるのではない。この語り手
ゆえの﹁悲運﹂は力説してみせても、それを﹁﹃愚鈍﹄の
論じる。が、﹁カチカチ山﹂の語り手は、﹁狸﹂の﹁愚鈍﹂
回曰く、惚れたが悪いかチェホフの短篇小説﹁熊﹂の
し奉るべきである﹂︵同﹁礼法の要旨﹂︶。
を保持し、以て国体の精華を発揮し、無窮の皇運を扶翼
法を実践して国民生活を厳粛安泰たらしめ、上下の秩序
﹁カチカ チ 山 ﹂ 一 太 宰 治 私 注 ︵ 花 田 俊 典 ︶
は、いわゆる悲劇の語り口を採用していない。語り手の
年以来徳川義親侯を委員長とする作法教授要項委員会を
は新時代に副つた国民の礼法を定めるために、昭和十三
部省制定 礼法要項﹄︵福村書店、昭16・5︶は、﹁文部省で
べき礼法の国民的規模の教育が徹底された。福村保編﹃文
下にあっては、昭和の新時代の皇国民として身につける
回礼儀作法の教科書でもあらうか 支那事変からの戦時
劇の語り口にほかならない。
とっき放されるのは、語りの視座を自在に変換させる喜
たまだおこってゐますか。⋮⋮わたしだってやはり大変
る、やがて思ひ切り悪く傍に寄って来る︺どうです。⋮⋮あな
げて出て行く、扉口の所で立止る。暫く黙りのまま女を眺めてみ
い。/客 ︹黙りのままピストルを卓の上に置き、帽子をとり上
なことが言へたものです。︹留口を指す︺出て行らつしゃ
に惚れた。失礼な、わたしに惚れたなんて、よくもそん
あなたに惚れました。/未亡人 ︹意地の悪い微笑︺わたし
です。/客 なぜ⋮⋮なぜ⋮⋮なぜと言って、わたくしは
﹁未亡人 あなたは嘘吐きです。なぜ決闘をなさらないの
たくしの罪でせうか﹂という類似の一文が見えている。
末尾にも、﹁さあまったく、あなたに惚れたのは、全体わ
つくり、男女中等学校を始めその他諸学校のための﹃礼
一転してまるでモノのように﹁ぐっと沈んでそれっきり﹂
親身な思い入れのもとに語られてきた﹁狸﹂が、ここで
法要項﹄を作成中であったが、今回完成文部省から昭和
だらう。抑もかういふことといふものは⋮⋮かやうな出
ふことを理解して下さい。⋮⋮さあなんと言ったらいい
して、﹁姿勢﹂﹁最敬礼﹂﹁拝礼﹂﹁敬礼・挨拶﹂﹁言葉遣ひ﹂
来事といふものは⋮⋮本来その⋮⋮︹叫ぶ︺さあまった
憤慨してみるのです。けれどもまあ正当にわたくしの言
など以下、﹁国家に関する礼法﹂﹁家庭生活に関する礼法﹂
く、あなたに惚れたのは、全体わたくしの罪でせうか。
の国民新礼法の基準として制定発表せられた﹂︵﹁績 亘︶と
﹁社会生活に関する礼法﹂に関する逐一の項目について、
の精神の中に存するところ、これを正すは、方に国体の
奉り、下、億兆の相和する心より起る。これが我が肇国
は⋮⋮わたくしはすっかり迷ってしまひました﹂︵チェホ
くしはあなたに惚れました。分かりましたか。わたくし
生、なんといふ脆い道具を使ってゐられるのです。わた
︹椅子の背を掴む。椅子はめきめきといって二つにわれる︺玄田
本義を明らかにし、社会の秩序を維持する所以で あ る 。
フ﹁熊﹂楠山正雄訳、﹃チエホフ全集3 桜の園 外三篇﹄新潮
きわめて具体的に指示している。﹁礼は、上、皇室を敬ひ
君臣の義、父子の親、長幼の序、上下の分、みな礼によ
社、大9・6︶。
力を得ることができた。ここに心からお礼を申し上げます。
︹付記︺絵本﹃カチカチ山﹄の収集に関しては山内祥史氏のご助
り自ら斉ふ。即ち礼は徳の大宗、人倫の常経にして、国
民の必ず覆むべき要道である。/礼は元来恭敬を本とし、
親和を旨とする、これを形に表すのは即ち礼法で あ る 。
礼法は実に道徳の実現に覆修されるものであり、古今を
通じ我が国民生活の規範として、すべての教養の基礎と
なり、小にしては身を修め、家を斉へ、大にしては国民
の団結を強固にし、国家の平和を保つ道である宜しく礼
即
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