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物語:イナゴは食べたがバッタは食べない
第5話 タニシは食べたがカワニナは食べない
瀬田康司
1.
母が農家の出身だったということもあるだろうし、戦中戦後の食糧難を自力で乗り越え
る必要もあったのだろう、
「鰻の寝床」西側近鉄線沿いに、まさしく猫の額ほどの空き地利
用で、ネギ(青ネギ)
、ナス、キャベツ、トマト、キュウリ、イチゴなどの野菜類を作付け
していた。いつの頃からか、収穫を手伝い、やがて作付け作業にも参加する-参加させら
れる?-ようになっていた。少なくとも小学校 3 年生の時に鍬や鎌を使うようになってい
た。その他に、雲出川(くもづがわ)河原の数枚の畑で-それは、戦時中の食糧増産政策
によって「学徒動員」で開墾されたもので、我が家では「河原の畑」と呼んでいた-、先
に挙げた野菜類はもとより、陸稲(オカボ:もち米)、小麦、とうもろこし(ナンバ、トウ
キビ)
、大豆、小豆、インゲン豆、南京豆、胡麻、サトウキビ、里芋、さつまいも(甘藷)
、
ジャガイモ、大根、ゴボウ(コンボ)、ニンジン、トウガラシ(トンガラシ)、スイカ、キ
ンウリ(現在はキンショーメロンの名で店頭に並んでいる)などを作付けしていた。
-農作業中楽しんだこと:胡麻の花を摘み取り、花密をすする。蜂の攻撃、舌を刺すほど
に酸いアリの反撃に遭うこともあったが。刈り取ったサトウキビ一節、歯で皮を剥ぎ取り、
しがしがと噛み、ぺっぺっと吐き出す。やはりアリとの遭遇がある。存分に糖分の補給が
出来た。しっかりと熟したスイカやキンウリを河原の石でたたき割りかぶりつく。手や口
の周りは果汁でべたべたになる。川の水で洗って、ハイ、おしまい。実った穂から何粒か
の小麦を取り、籾を剥き、口に放り込む。チューインガムを噛んでいるような気分を味わ
う。キューリやトマトはもぎ取りかぶりつく。なま暖かく、ジューシーである。イチゴ摘
みもおやつになる。
それらの作付けに参加するようになったのは小学校4年の時。まず家の近くで農機具の
使用に慣れることから始まった。ついで、「河原の畑」まで農機具や肥料など作付け作業等
に必要な一式を乗せたリヤカーの運転(リヤカーをヒク、と言っていた)に慣れ、作付け
作業に慣れていった(たとえば「ええな、種籾は中がすかすかのんは蒔いたらあかんで」
「土
をしっかりかいて畝を高うあげてな」等々)
。我が家から「河原の畑」までは1時間ほどの
道のりであった。我が町は高台にある。高台の下一面に拡がる畑を通り抜け、雲出川の堤
防を越え、河原に降り立つ。
「行き」はいわば「下り」である。元気いっぱい明るい声で家
物語:イナゴは食べたがバッタは食べない
族の先頭に立って農作業に赴く学年一二を争うほどに背丈の小さな、やせ細った小学中学
年生-なんだか戦前の修身の教科書に出てくるような光景だな-。リヤカーは引かなくて
も一人で進んでくれるという感覚、ハンドル操作に集中すればよい。しかし、「帰り」はそ
うはいかない。農作業で疲れた身体であることもあるが、何せ「上り」である。急坂に加
え収穫物をいっぱいに乗せてのことだから、引けども引けどもリヤカーは動かない、ぼく
の身体が跳ね上げられることさえある。そういう時には荷台のものを二度分けにして坂上
に運ぶ。坂道の途中リヤカーが荷台の重みのためパンクした時には、親子 3 人して途方に
暮れたものであった。
-幾たびもの台風などによる増水で土砂が堆積して出来た河原であるので、土地柄とし
ては肥沃である。難点はつねに水害に晒されること。我が家が「河原の畑」での農作業
を断念したのはかの伊勢湾台風(1959 年)で畑が土砂の 2 メートル下になってしまったこ
とからなのだが、それまでも秋の台風が通り過ぎた後は畑の土砂を取り除く作業が例年
行事であった。-
2.
6 月下旬頃の農作業には農具の他に網籠や団扇を持って行くことが多かった。作業終了時
はすでに月明かり。月光が薄い時には満天の星。そして、雲出川縁の一面に拡がる笹藪で
ぼーぼーと群れた光が点滅する。
「蛍、おったで!」
「毛虫で蛍みたいに光るのがおるで、気ぃつけなあかんで」
笹の葉陰でうすく点滅する白い光、それが毛虫だ、しかもジージーと鳴くと母は言う。
しかし、ぼくも姉も、葉陰の毛虫が発する光や鳴き音と蛍のそれとを見分けることは難し
かった。毛虫に刺されるのはいや、しかし蛍狩りはしたい。とどのつまり、ぼくと姉とが
取った戦略は、曲線を描きながら飛翔する光のみを追いかけることであった。時には両手
で光をつかみ取り、時には団扇で打ち落とす。そして母の「訓話」が始まる。
記憶に残っているのは「昔な、中国でな、貧乏な学生がおってな、電気代も払えんかっ
たんや。んでな、蛍をぎょうさん捕ってその光で勉強したんやに。・・・」。もう少し長じ
て聞かされた時-何度目の話の時のことだったろうか。蛍狩りの季節になるとその話を聞
かされていたが、蛍狩りは数年間しただけだから、それほどの回数ではなかったとは思う
のだが-、
「そん頃、電気はあらへんやんか!」と反論し、母がそれをへりくつだと嘆いた
ものであった。ぼくが反抗期に入った証のエピソードでもある。
物語:イナゴは食べたがバッタは食べない
蛍狩りの季節の農作業中の姉と母との会話も記憶に残る。その内容はおぼろげであり、
その後知り得た知識によって補充再現してみる。
「オカアチャン、蛍は昆虫なん?」
「そやでぇ。
」
「んなら、卵、幼虫、サナギ、成虫、というふうに変態するん?」
姉は学校で習いたての理科の知識を披露したのだろう。
「そやでぇ。蛍の命は短いでぇ。10 日ぐらいしか生きとらんのや。」
「セミと一緒や!」
(ぼくの合いの手)
これはセミ捕りのなかで仕入れた知識の披露である。
「蛍は何食べとんの?」
「蛍はなぁ、草の葉についた水だけやなぁ。
」
「んなんで生きられへんやんか。
」
「せやからすぐ死ぬんやんか。
」
(勝ち誇ったようなぼくの口調)
「でもなぁ、幼虫は長生きするんやで。
」
「蛍の幼虫ってどんなん?ウジみたいなん?」
「ウジとはちょっとちゃうで。あんまり流れが急やない川の浅いところで、底の平らな石
の下につぶれんように隠れとってな、色は、黒っぽいな。」
会話の成り行きで、蛍の産卵場所、幼虫の育つ場所に、母はぼくたちを連れて行く。そ
こは、ぼくが手を洗ったり時には放尿をしたりする(!)岸辺付近の草むらであったり(産
卵箇所)
、そこから少し川の中に入った藻草の生い茂ったところであったりした(幼虫の育
つ箇所)
。
「オカアチャンの生まれた桂にも蛍おるん?」
「それはもう、蛍の季節になったら、すごいで。夢の中にいるみたいや。
」
「ふーん。うちらのとこより、すごいんやなぁ。
」
「オカアチャン、蛍の幼虫は、何、食べとんの?」
「カワニナや。
」
「カワニナって?」
「川の巻き貝。
・・・ほれ、これや」母が浅瀬の川石の間から細長く黒っぽい 3 ㎝ほどの大
きさの巻き貝を拾い上げた。
「これの子どもを食べるんやに。ゴマツブの倍の大きさぐらい
やな。
」
物語:イナゴは食べたがバッタは食べない
「タニシと似とるけど。タニシみたいに、カワニナも、食べられるん?」
「カワニナは食べたらあかんで。虫が湧くで。んで、カワニナはなぁ、きれい好きなんや
けど、タツボ(母はタニシのことをタツボと呼んでいた)はなぁ、泥でも藻でも何でも食
べる卑しんぼやな。
」(注:あまり一般的ではないが、カワニナを食用とする地域がないで
はない。
)
3.
近鉄線の線路を隔てて「鰻の寝床」の反対側には水田や蓮田が広がっていた。一面のレ
ンゲ畑の土起こしが済んでから梅雨時前後の田の風物詩は美しい。
涸れ田に水が引き込まれ、カエルが賑やかな合唱をはじめ、シオカラトンボがスイスイ
と眼前を横切って飛び、気の早いのは田の水にシッポをちょんちょんと浸ける。蓮のつぼ
みが水面に顔を出す。
・・・
主にイネが根付き株を増やしはじめる頃がぼくたち子どもの活躍時だ。
ヤゴ捕りは子どもにとっては「ええトンボに育てるんや!」との希望に満ちた遊びであ
ったし、
「おじさん」たちにも「ヤゴは稲の茎を食い荒らすでなぁ。」と喜ばれる。溜め池
から引き込まれる水に乗って、田には、鯉、鮒などが入り込む時がある。鯉や鮒などを手
づかみで捕まえることが出来るのは、子どもといっても、中学生前後、とうていぼくのよ
うな「チビ」には出来ない。しかし、「チビ」は「チビ」なりに、腰にぶら下げた竹籠に次
から次へと放り込む獲物を捕まえる遊びに精を出す。ヤゴ、ドジョウ、シジミ、タニシな
ど、水田の主たちが竹籠の底でごったになってざわめく。
水田の泥に足を取られてにっちもさっちもいかなくなることがある。イネを荒らしては
大変だから用心に用心を重ねるのだけれども、ズブブブと膝ほどまでも潜り込んでしまっ
た時などは、
「おじさん」たちのように田下駄が欲しいものだと思ったものだ。片足をやっ
との思いで抜いてその足を降ろす位置をねらい定める、そして沈んだもう片足をそろそろ
と、時には、エイヤッと抜く。尻餅をついたり、前倒れになり泥まみれの顔を大気にさら
したりする。
「さあ、家、帰りな。
」と命じられて田から出ると、向こうズネにヒルが吸い付き、血を
吸ってパンパンにふくれあがっている。
「おじさん」たちのようにぼくも脚絆を巻きたいも
のだと思った。しかし、脚絆を巻くということは、もう一人前の百姓である証。
「チビ」は
半ズボンで青っぱなを垂らしながら手足を泥まみれにしヒルに食いつかれるのが、
「子ども
としての一人前」の姿なのであった。
物語:イナゴは食べたがバッタは食べない
遊びながら「おじさん」たちに少しずつ仕事を分けても貰う。「コウちゃん、ちょっとだ
け、苗植えてみるか?」
「コウちゃん、そこらへんの草抜いといて」等々。こうした大人に
見守られながらの遊び=労働は、水田から水が抜かれ、土にひび割れが入り、カラカラに
干上がると終わりだった。稲穂に花が付き、稲の穂が実る大切な季節なのだ。
田から水を抜く時には、
「チビ」にも、獲物は大量に分け前に与ることが出来た。たとえ
ば、正月料理の「鮒の甘露煮」の素材はこうして手に入れたものだった。さらに、水を抜
いた後から田にひび割れが入り始める頃には、土の上に大量に転がっているタニシの収穫
となる。毎日のように田でタニシ捕りをしたのだから、次から次へと土の上に姿を出すタ
ニシの繁殖力はものすごいものであるのだろう。
タニシは水洗いをし、殻を石で叩いて破り身を取り出した。自家製の味噌、自家生産の
青ネギ、そして採集し煮たタニシ。すべてオリジナルなぬたあえ料理-酢や砂糖は自家生
産が出来なかったけれど-が、貧しい食卓に、毎日毎日、上った。タニシの身は固くまる
でゴムを噛むような歯ごたえであったが、ぼくの好物であり続けた。
ぬたあえ料理は、タニシの他に、アサリなどの貝類や、里芋の茎(ズイキ)でも母は提し
てくれた。
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