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歩いて学ぶ会
平成 25 年(2013)10 月2日
第 53 号
友 の 会
会 報 53
川崎市市民ミュージアム
KAWASAKI CITY MUSEUM
第24回
歩いて学ぶ会
川崎駅とその界隈の変遷
1.明治期・川崎停車場の誕生
東海道線は、旧東海道に沿ってほぼ平行に敷設さ
れ、川崎駅と川崎宿とは近い距離にある。駅が設置
された当時このあたりは低地で、降雨の際には頻繁
に水没していたと言われている。
新井 正人
平成25年(2013)3月16日
土曜日
右図
川崎停車場東海道沿い
の田園に立地
明治 14 年(1881)測図
下図
六郷蒸気車鉄道之図 昇斉一景
明治 4 年(1871)
大田区立郷土博物館蔵
先日、「歩いて学ぶ会」の「東海道川崎宿めぐ
り」に参加した。私の歩数では、現在の川崎駅の改
札口から旧東海道沿いの「砂子の里資料館」あたり
までは668歩、そこからさらに旧東海道沿いに
「宗三寺」、「田中本陣跡」、「万年跡」を経て国
道15号線(第一京浜)の高架下を抜け、「六郷の
渡し・明治天皇の碑」のあたりまでは1013歩だ
った。これは明治期の川崎停車場誕生の時と変わら
ない。ここでの「川崎駅とその界隈」は、駅から歩
いて繋がるヒューマンな広がりの中にある。
明治4年、六郷橋が架けられた。大変困難な工事
だった。昇斉一景による「六郷蒸気鉄道之図」には、
六郷橋を中心に蒸気車と六郷の渡しを利用する人々
の様子が描かれている。私は、この六郷橋の風景は
川崎発展の原風景と捉えている。多摩川の砂利輸送
から南武鉄道は発想された。また、多摩川沿いの水
運を起点に初期の工場は立地し、この体験が臨海工
業に繋がっている。多摩川は、今日の川崎発展の原
点となっている。
明治5年6月5日、横浜、品川両停車場間初列車
(明治5年5月7日)から約1ヶ月後、川崎停車場
は、隣の神奈川停車場と同時に開場された。初代の
駅舎は、和洋折衷の木造平屋建て2棟だった。駅前
通りには茶店が立地し、川崎大師の縁日(毎月21
日)には、大変な賑わいを見せ、臨時列車が用意さ
れたと当時の案内書に記されている。
2.大正期・工都川崎の門前町として商業、娯
楽の集積
大正に入ると川崎は、大工業都市へ大きく歩みを
始めた。大工場の建設が進んだ「工業に栄ゆる川崎
町」として、「川崎を賑わす十一大工場」、「煙突
の煙から生まれる町の賑わい」、「職工の激増から
家屋の不足」等が連載されている。(横浜貿易新
報:大正7年頃)
当時、家屋の不足も深刻で、家賃は二割から四割
高、柱一本立てればもう借り手が押し合うという始
末で、蒲田、大森あたりから通勤する職工も沢山い
たようだ。
工場が増えるごとに、煙
突が一本増えるごとに、町
は賑わいを増した。当時の
賑わいぶりは、「電燈の光
に照り栄えて眠る暇のない
町」、「職工成金がかっ歩
する町」、「女工さん達が
足早に劇場に向かう町」、
劇場内の風景1)
「明けの明晩には弁天小僧
大正 10 年(1921)頃
1
平成 25 年(2013)10 月2日
第 53 号
を見に行く」、「歓楽街は連日連夜満員札の盛況を
呈している」等、新聞で報道されている。今日の川
崎駅界隈の持つ娯楽性の強い商業の集まりは、この
時代から育っていった。
3.昭和期(戦前)・工都川崎の通勤拠点(正
門)として発展
大正の終り頃、川崎駅は大拡張された。駅前広場
での新築落成式では、「和田駅長の工事報告及び式
辞に続いて、来賓石井市長等による祝辞があった」
ことが、横浜貿易新報(大正15年4月26日付)
で報じられている。昭和初め頃から工場の臨海部や
市内の広域立地が進行し、これに伴い川崎駅をター
ミナルとする通勤者の輸送ネットワークも発展した。
鉄道に加えて自動車(乗合バス)による人員輸送も
始まった。鉄道は、大師電気鉄道(明治32年)、
南武鉄道(昭和2年)、鶴見臨港鉄道(昭和5年)
による輸送網が拡大した。自動車による輸送は、駅
前につるや自動車(大正8年)、川崎乗合自動車
(昭和2年)、鶴見川崎臨港バス(昭和12年)が
誕生、人力車に変わる市民の足として大歓迎された。
また駅界隈には、労働者の憩いの場として多数のカ
フェーが誕生した。当時鶴見川沿いのビール会社
(日英醸造会社・大正 8 年)で製造された「高級ビ
ールカスケード」も出回っていたようだ。
川崎駅の乗降客(日平均)は、昭和の初め頃から
年々急増した。駅の混雑ぶりは、乗降客が昭和13
年約 77,960 人、昭和16年約 135,360 人でこの間
激増した。通勤時間帯に駅を利用する工員の約7割
が集中した。駅構内、狭いホームは、けが人は出る、
流血騒ぎは起こる等筆舌に表せない程であったと報
告されている 3) 。昭和19年、臨海工業地へ通勤
する労働者は、約14万人に膨れあがった。このよ
うな状況下で急遽川崎市電が建設され開業されたが、
翌20年4月15日夜の川崎大空襲で市内主要部は
ほとんど壊滅した。川崎市の人口は、39万人(昭
和18年)から18万人(昭和20年)に激減した
4)
。
4.昭和期(戦後)・復興の牽引、高度成長の
支えとして複合商業機能の形成
昭和21年8月1日、戦後初の早朝の通勤二列車
(上り)の川崎停車が実現した。当日の駅の様子は、
神奈川新聞(昭和21年8月2日付)で、「雨のな
か川崎駅初停車の上り列車“カワサキー”と叫ぶ声、
工都の玄関が本格化したことを思わせた」と復興の
期待を込めて報じられている。
2
大拡張された川崎駅2)
昭和初め(1926~)頃
駅前から稲毛神社へ通ずる町並み 2)
カフェー、運送店、郵便局等がある
昭和初め(1926~)頃
娯楽映画の復興は早かった。昭和23年、「川崎
新星座」、「川崎映画劇場」等計6館による「川崎
映画街」が形成され、翌年正月興行が行われた。大
変な混みようだった。また、競輪競馬(昭和24年
開設)で一喜一憂の娯楽を楽しむ人々の姿も見られ
た。日々商店の数も増え、ビル街はネオンの光が氾
濫する等、庶民と共に賑わった。
昭和25年頃には戦後のバラック駅舎が新しくな
り、周辺の区画整備が行われた。噴水のある睡蓮池、
蘇鉄等のある駅前の緑の広場は、開放感が溢れ、市
民の憩いの場として青春の新妻か彼女かを連れた連
中が訪れた。
昭和28年、当時の金刺川崎市長(在任:昭和2
1年~昭和46年)は、工業都市としての川崎の復
興の姿を、「軍需工都の威容も空しくその市街地
工場地帯の大半は灰燼に帰し、前途は暗澹たるもの
があったが、旺盛なる市民の熱意と努力は各関係方
面の絶大なる努力と相俟って驚異的な実績をあげ、
その復興は戦前のそれと面目を一新した」と述べて
平成 25 年(2013)10 月2日
5)
いる
第 53 号
。
昭和33年12月、商業施設と一体となる民衆駅
(駅ビル:94店舗)が営業開始され復興を大きく
前進させた。当日の様子は、「駅へどっと向かう十
万人の流れ」が生まれたと報じられている。(昭和
33年12月2日付神奈川新聞)
その後日本は、高度成長期を迎えた。「重工業地
帯は面積が二倍になる(昭和34年:金刺川崎市
長 )」、「 所得倍 増計画 (昭和3 5年: 池田内
閣)」等、分かりやすく、ホットな目標が掲げられ、
この実現に向けて市民一丸で邁進した。昭和61年、
戦後のバラック駅舎と広場が整備された川崎駅6)
昭和 30 年(1955~)頃
駅前広場の地下を利用し、「川崎アゼリア(154
店舗)」がオープンした。昭和62年、「チネチッ
タ」を中心に映画街の形成等も進み、娯楽性を持つ
大規模商業施設の集積が進んだ。
昭和63年、民衆駅は大幅に拡張された。地下1
階、地上8階の複合の商業ビル(川崎BE:317
店舗)に生まれ変わり、更に周辺でも多くの商業開
発が行われた。市民の長い間の願望だった東西自由
通路、橋上駅も完成した。「川崎BE」は、これま
での民衆駅の建物の基礎と主要な柱が再使用されて
駅ビルが完成した川崎駅 1階が駅施設7)
昭和 34 年(1959~)頃
いる。その後平成24年3月、「川崎BE」は、
「アトレ川崎」へと発展した。
5.平成期・首都圏の広域拠点としての都市集
積の一層の進展
駅を東西に連絡する橋上の東西自由通路は、駅
の持つ宿命である、線路を挟んで分断される駅周辺
の都市機能を一体化する画期的なものである。これ
により東口と西口の一体性と回遊性が強まり、西口
の大きな成長の可能性を持つ工場跡地の開発に弾み
がついた。東口には、「川崎駅前タワー・リバーク
( 平成6年 )」、 「ラチ ッダデッ ラ(平 成14
年)」、「川崎DICE(平成15年)」等、西口
には、「ミューザ川崎(平成15年)」、「ラゾー
ナ川崎プラザ(平成18年)」等の大規模商業施設
が誕生した。また、駅東口広場の再編整備(平成2
3年3月完成)で町と駅が平面的に接続され、利便
性と回遊性の一層の向上が図られた。
ふりかえると、川崎駅とその界隈は、いずれの時
代も駅を利用する人々のニーズが町を変えていくエ
ネルギーとなっている。これからもこの伝統を受け
継ぎ、この界隈は大きく変貌していくだろう。今後
大都市川崎の中心拠点としての機能は一層強まり、
さらに首都圏の主要拠点として、業務、文化の要素
も強めていくだろう。
現在の川崎駅 駅前東口広場が再編整備された8)
平成 23 年(2011)
引用参考文献
1) 森比呂志「川崎物語 漫画家の明治大正昭和」
昭和 59 年(1984)2 月 東京彩流社
2)「20 世紀のかわさき」
平成 13 年(2001)3 月 川崎市
3)「川崎駅 100 年駅史」
昭和 47 年(1972)川崎駅編(駅長:吉村太郎)
4)「川崎市勢要覧」
昭和 5 年(1930)・15 年(1940)・27 年(1952)川崎市
5)金刺不二太郎「工業都市としての川崎の姿」
「新都市」昭和 28 年(1953)10 月 東京都市計画協会
6)「目で見る川崎市の 100 年」
平成 5 年(1993)11 月 郷土出版社
7)「川崎市のあゆみ」
昭和 48 年(1973)3 月 川崎市
8)川崎市ホームページ「川崎駅東口駅前広場再編整備について」
平成 23 年(2011)3 月 まちづくり局市街地開発部
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