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謙虚、堅実をモットーに生きております!

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謙虚、堅実をモットーに生きております!
謙虚、堅実をモットーに生きております!
ひよこのケーキ
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
謙虚、堅実をモットーに生きております!
︻Nコード︼
N4029BS
︻作者名︼
ひよこのケーキ
︻あらすじ︼
小学校お受験を控えたある日の事。私はここが前世に愛読してい
た少女マンガ﹃君は僕のdolce﹄の世界で、私はその中の登場
人物になっている事に気が付いた。
私に割り当てられた役は、庶民である主人公をいじめ倒し、主人公
と恋に落ちる通称皇帝と呼ばれる御曹司との仲を引き裂く、典型的
な悪役お嬢様、吉祥院麗華だった。
物語の最後で、麗華は皇帝から報復され家ごと破滅させられる。悪
1
役は消え、主人公達は苦難を乗り越えて結ばれる。めでたしめでた
し。
ってそんなの困るー! マンガはそれで終われるけど、私には没落
後の人生があるんだから!
主人公達は恋だ、愛だとどうぞお好きに騒いでいてくれてて結構。
私は皇帝の怒りを買わないように、存在消してます。
えっ?悪役がいないから物語が上手く進まない? でも私は没落後
を見据え、貯金と勉強に忙しいんです。少しでも破滅を回避する為
に、皇帝には関わりたくないんです。運命のカップルなら、障害が
なくても自力で盛り上がって下さいよ。
前世はド庶民。現世はお金持ちの家の悪役お嬢様。ジャンクフード
の味が忘れられず、こっそり家を抜け出して、ポテチ買いに行って
ます。
2
1
私には前世の記憶がある││││。
⋮はい、電波ではありません。絶対誰にも恥ずかしくて言えない
けど、本当なんです。
きっしょういんれいか
気が付いたのは小学校のお受験前の頃。
自分の名前、﹁吉祥院麗華﹂という字面に、なんかどっかで見た
ことあるんだよな∼と、ずっともやもやしてたんだけど、ある日お
母様に﹁麗華ちゃんも来年はこの学院に通うのよ﹂と、煉瓦造りの
ずいらん
塀に囲まれた建物の前に連れてこられた時。
その大きな門の横に掲げられていた﹁瑞鸞学院 初等科﹂の﹁瑞
鸞学院﹂の文字に、脳が弾けた。
﹁瑞鸞学院﹂﹁吉祥院麗華﹂、これって﹃君は僕のdolce﹄
に出てくる学校と登場人物の名前だー!!
あの、長年のもやもや︵と言っても生まれてまだ数年ですが︶が
解消された時の快感ときたら、なかったね。
そっかそっか、君ドルねー。いやぁ、すっきりしたよ。なるほど
ねー。なんて浮かれてた次の瞬間、自分の現在置かれてる状況に顔
面蒼白になった。
3
﹃君は僕のdolce﹄。
これは前世で大人気だった少女マンガだ。完結した後は人気アイ
ドル使ってドラマ化もされていた。
内容は良家の子女が通う私立瑞鸞学院高等科に、庶民で特待生の
主人公が入学するところから始まる。
何もかもが桁外れにお金持ちの生徒達に、庶民の主人公はなじめ
ない。それでもなんとか数少ない庶民の子達と友達になり、趣味の
お菓子作りに精を出す毎日。
そんなある日、学院の通称皇帝と出会い、恋に落ちる。しかし取
り巻き達は庶民の主人公が皇帝に近づく事が許せず、主人公への執
拗な嫌がらせが行われる。
まぁ、その嫌がらせの主犯格が吉祥院麗華、つまり私なんだよね
ぇ。
結局最後は数々の苦難を乗り越えて、二人は結ばれてめでたし、
めでたし。なんだけど、最後の最後まで二人を妨害し、主人公を苛
め抜き苦しめた吉祥院麗華は、親の力を使って皇帝との婚約まで漕
ぎ着けて、さぁいざ婚約披露パーティーだって時に、完膚なきまで
に叩きのめされるのだ。
皇帝に大勢の招待客の前で、主人公との婚約を電撃発表され、大
恥をかかされたあげく、今までの報復とこれから先邪魔させない為
に、吉祥院の会社の株を買い占めて乗っ取られ、麗華の父親の不正
を暴かれて、家ごと潰されるのだ。
選民意識が高く、庶民を見下して生きてきた麗華が、上流階級か
ら追放され、庶民に墜ちる。
自慢の巻き髪を振り乱し、狂ったように叫ぶ麗華に、これまでの
悪逆非道っぷりを思い返し、読者は﹁ざまーみろ!﹂とすっきりし
た。前世の私も、﹁よっしゃーっ!﹂と叫んだ。
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しかし、これが今世の自分の末路となったら、話は違う。絶対嫌
だ、あんなの嫌だ。
なんでよりによって、私が王道悪役キャラ、吉祥院麗華になって
るんだよー!!
お願い、夢なら今すぐ覚めてくれ。
││││残念ながら、夢は覚めなかった。
齢5歳の体にはショックが大きすぎて、そのままぶっ倒れ、知恵
熱を出して寝込んだ。
破滅が約束されてる将来に、熱にうなされながら恐怖で泣いた。
そもそも前世の私はド庶民だった。
小学校から高校までずっと公立で、高校時代は携帯代稼ぐ為にバ
イトもしてた。
ごく普通のサラリーマン家庭に生まれた、中肉中背、平凡顔の本
当にどこにでもいる女の子だった。
覚えているのは短大卒業して就職したあたりまで。それ以降の記
憶が思い出せない。結婚して子供産んで、老後迎えてっていう記憶
が一切がない。
もしかして20歳そこそこで死んじゃったのかなぁ。記憶がない
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ってそういう事だよね。
それとも事故か何かで植物状態になってて、元気だった頃に好き
だったマンガの夢をずっと見続けているとか。
マンガの中に転生説より、植物状態で見てる夢説のほうがありえ
そうだけど。
ただ熱を出せば苦しいし、転べば痛いし、食べ物はおいしいし。
感覚があまりにリアルだ。
このリアルな感覚を知る限り、﹁どうせ夢なんだからへっちゃら
∼﹂と割り切る事はとてもじゃないけど出来ない。
転生でも夢でもいいけど、憑依するなら誰でもいいから麗華以外
でお願いしたかった。切実に思うよ。
知恵熱から復活した私がまず最初に考えた事は、お受験失敗して
瑞鸞学院に入学しなければいいんじゃないか? って事。
瑞鸞学院はお金持ち学校の最高峰。あの学院に通っているのが何
よりのステータスになる。
わが吉祥院家は元華族の血を引き、関連会社をいくつも経営して
いる名家。両親は、この親にしてこの子ありと納得する、選民意識
の塊。
なので0歳から幼児教室に通い、瑞鸞学院お受験対策を叩き込ま
れてきた。幼稚園も瑞鸞合格率の高い、名門ブランド幼稚園だった
しね。
このままいけば、血筋、家柄、財力を持つ私は瑞鸞に受かると思
う。でも学院に通えば、待っているのは悲惨な末路だ。
主人公達に関わらず、別の人生を歩めば、もしかしたら破滅を回
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避できるかもしれない。
瑞鸞だけがお金持ち学校じゃないさ。名門お嬢様学校はいくらで
もあるじゃないか。
そうだ、そうしよう!
という決意も、両親の顔を見た瞬間に揺らぎました。
選民意識の塊の両親は、﹁瑞鸞学院に落ちた﹂娘を、吉祥院家の
落ちこぼれとみなして、見限るのではないかと。
一応前世︵?︶の大人の記憶があるとはいえ、まだ5歳の子供が
これから先、親から冷たい目で見られ続けるというのは、きつい。 あれ
があるから、初等科から入学してこそ
それに瑞鸞の初等科受験に失敗しても、中等科受験って手がある
からなぁ。
まぁあの学院には
の瑞鸞で、中等科から入学しても多分両親は手放しで納得はしない
だろうけど。
お母様はすでに受かったも同然とばかりの態度だし︵合格前に初
等科の前で、﹁麗華ちゃんの通う学院﹂って言っちゃってるしね︶、
血縁者はほぼ全員瑞鸞在学生、卒業生だ。
そんな中で、瑞鸞受験失敗を故意にする勇気は、元ド庶民の記憶
を思い出してしまった小心者の私には、とてもじゃないけど出来そ
うになかった。
しょうがない、腹括って瑞鸞には行こう。
でもマンガの筋書き通りに悪役キャラになるのは全力で回避した
い。嫌われ者になるのってつらいしね。
そしてもし回避できなかったとしても、破滅させられた後にも自
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分の力で生きていけるように、今から出来る限りの対策を取ってお
きたい。
1.和を以って尊しとなす。無駄に敵を作らない。
2.散財しない。もらったお小遣いはコツコツ貯金。没落後の学
費に充てる。
3.皇帝に関わらない。もちろん高等科から入学してくる主人公
にも関わらない。
4.二人の恋路には興味ありませんよ、若しくは微笑ましく見て
ますよアピールを
うっすらする。﹁うっすら﹂が重要。ここで存在感を出しては
いけない。
5.仮に没落しても自分の力で稼げるように、一生食いっぱぐれ
ない職に就く。
目指すは公務員。
よし。とりあえずはこんなところだろう。
不本意ながらも悪役ポジション吉祥院麗華、平穏無事な一生を送
る為にも精一杯頑張ります!
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2
入学しましたよ、瑞鸞学院初等科。
そこは前世︵?︶の私が通ってた公立小学校とはまるで違った。
伝統ある学院にふさわしい、ヨーロッパの大聖堂のような外観。
正面玄関には美しいステンドグラスが輝いている。
だけど中は最新設備。エアコンはもちろん標準装備だけど、各ク
ラスに加湿器もウォーターサーバーも付いてる。冬は床暖房。
温水プールもテニスコートもサッカー場も野球場もコンサートホ
ールもある。ミニシアターだってある。プラネタリウムまである。
ついでにドーム型温室に茶室もある。
ほかにもまだまだ、私の常識ではありえない設備がたくさんあっ
た。
小、中、高と共同で使う施設もいくつかあるけど、とにかく私の
今までの﹁小学校﹂という概念を覆すものばかりだった。
都心なのに広大な敷地面積を持ち、緑溢れるこの学院は通称、瑞
鸞の森とも呼ばれていた。
制服は有名デザイナーが手掛けた、ブレザータイプ。中、高等科
はラインの入った白いブレザーに、女子はリボンで男子はネクタイ。
リボンとネクタイが中等科はボルドーで高等科は深いブルー。
初等科だけは汚れが目立たないようにか、ブレザーが紺。リボン
とネクタイは水色。どれもとっても可愛い。
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さすがです、有名デザイナー。この制服が着られるだけでも、こ
の学院に入学して良かったと思えるよ。
瑞鸞の制服は﹁着てみたい制服ランキング﹂で常に1位を独占し
ている、女の子の憧れの制服なのだ。
確か主人公も瑞鸞を志望した理由のひとつが、この可愛い制服に
憧れていたからだった。
うん、うん、わかるよ、その気持ち。
ただ主人公は、その制服を何度も嫌がらせで汚されるんだけどね
⋮⋮。
中等科と高等科ではお弁当か学食かを選べるが、初等科には給食
があった。
しかし作っているのは給食のおばさんではなく、シェフ。
給食当番なんてものはない。だって食堂に専任の給仕さんがいる
から。
そして、これを果たして給食と呼んでいいのかと思うような豪華
なメニュー。
ヴィシソワーズとか子牛のテリーヌとかが普通に出てくる。テー
ブルマナーを学ぶ一貫だそうだ。 飲み物は紅茶。お好みでレモンかミルクをどうぞ。間違っても、
牛乳がぶ飲みして白ヒゲ作るような子供はいない。
デザートは冷凍ミカンではなく、クレープシュゼットだ。
あぁ、なんかもういろいろとありえない。まさにカルチャーショ
ック。
こんな気持ちを、主人公は高等科に入学した時に味わうんだろう
なぁ。
この学院、一体学費はいくらかかってるんだろう。怖くてなるべ
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く考えないようにしてるけど。
ピヴォワーヌ
そして瑞鸞学院の最大の特徴は、﹁牡丹の会﹂という組織だ。
ピヴォワーヌは、初等科から瑞鸞に在学している内部生の中でも、
血筋、家柄、財力などの厳しい条件をクリアした、特権階級の瑞鸞
生たちの集団だ。
中、高等科生で組織されており、学院からも様々な特別待遇を受
けている。
初等科には、プティピヴォワーヌがある。この子達が中等科に上
がって、そのままピヴォワーヌのメンバーになるのだ。
純血瑞鸞生のみで構成される為、どんなに血筋、家柄、財力が優
れていようとも、中、高等科からの途中入学生は入る事ができない。
選ばれし者にしか入る事が許されない、まさに全瑞鸞生憧れの組
織なのだ。
そして私、吉祥院麗華ももちろんプティピヴォワーヌのメンバー
だ。
﹃君は僕のdolce﹄の中でも、麗華はピヴォワーヌの権力を笠
に着て、やりたい放題だったもんな。
ピヴォワーヌというだけで、たいていの事は許される。
でも生徒を正しい道に教え導く機関であるはずの学校として、ど
うなのよ、それ。
ピヴォワーヌのメンバーは、制服の校章の下に会の紋章である牡
丹を象った小さなバッチを付けている。
本物の宝石を使って作られているから、キラキラと輝いてとって
もきれい。
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そしてこれが学院内免責特権のパスになる。
⋮そう考えるときれいだけどちょっと怖いね。
ちなみになんで﹁牡丹の会﹂なのかと言うと、牡丹の花言葉が﹁
王者の風格﹂だから、らしい。
⋮なんかもう、そういう発想がいろいろ怖いね。
ピヴォワーヌメンバーというだけで、ほかの生徒達からは憧憬半
分、畏怖半分。
それはそうだ。ピヴォワーヌとトラブルを起こせば、この学院に
在籍し続ける事は難しい。
そしてその家族も、メンバーの持つ背景に追い込まれ、被害を受
ける場合もあるのだから。
賢明な人間なら、ピヴォワーヌとは当たらず障らず、だ。
私だってそうしたい。
いや、無理なんですけどね。メンバーだし。がっつり食い込んじ
ゃってますよ。
あぁ、怖い。そして彼らの金銭感覚が私には更に怖い。
だって私にはまだ、高校時代のひと月のお小遣い五千円の感覚が
染み付いちゃっているからね。
小学生に一体いくらのお小遣い渡しているんだ。それはもはや、
お小遣いではなく経費だ。
うん、もちろん私を含めてね。
そんなこんなで、実家の権力、財力のおかげで、私は学院でもそ
こそこ快適に過ごしている。
いや、そこそこなんて言ったら贅沢か。とても快適に過ごしてい
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る。
小学1年生で、すでに取り巻きも出来ちゃってるしね。
この子達、﹃君は僕のdolce﹄の中でも、麗華の取り巻き役
だったなぁ。
こんな昔からそばで太鼓叩いていたのか。
6年しか生きていなくても、処世術っていうのは身に着けちゃう
ものなんだよなぁ。
あぁなんだか世知辛い。子供の世界も大変だ。
でも贅沢を言わせてもらえば、取り巻きより友達が欲しい。
あれ?﹃君は僕のdolce﹄の中でも、﹁吉祥院麗華のお友達﹂
っていうキャラは登場しなかったけど、もしかして私ってばこの先
友達ゼロ?
あっ、いけない。涙が⋮。
マンガは主人公が高等科に入学するところから始まるから、麗華
がそれまでどんな学院生活を送ってきたのかはわからない。
でも多分、自分より格下を見下し、通称﹁麗華ポーズ﹂の、左手
を腰に当て右手を口元で逆手にして高笑いをしながら、我が儘放題
にしていたんだろう。
皇帝に付き纏いつつ。
でも今の私には、そんな事は絶対出来ない。破滅の足音が聞こえ
てきちゃうからね。
それに﹁オーッホッホッホ﹂なんて、受け狙い以外でやる神経は、
持ち合わせちゃいないので。
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私だって、恥って言葉くらい知っているのだ。
まぁ瑞鸞なら、他に麗華ポーズをする生徒も普通にいる気もする
けど⋮。
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3
さて、ピヴォワーヌには学院内に専用のサロンがある。
もうすでに、学校のいち教室という域を完全に逸脱した、どこぞ
の一流ホテルのロイヤルスイートのリビングのような豪華さな部屋
だ。
更にサロン専属のコンシェルジュまでいる。
プティピヴォワーヌのサロンは初等科内にあるが、私も一応メン
バーなので、顔を出しておかないといけない。
名誉あるピヴォワーヌに選ばれておきながら、全く寄り付きもし
ないじゃ、余計な反発を生んで敵を作ることになりかねない。
人間関係において、お付き合い、コミュニケーションは大事です。
本当は、サロンに行くのは嫌いじゃない。おいしいお菓子もある
し、上級生から学院の情報も頂けるし。
あの方
がいるんですよ。
それだけだったら、もっと楽しい気分で行けていたかもしれない。
あの方
ただ、あそこには
かぶらぎまさや
そう、後に皇帝と呼ばれる鏑木雅哉様が。
そもそも鏑木家というのは、グループ企業が世界中にある、日本
屈指の素封家一族だ。
そしてやはり、吉祥院家と同じく元華族の血も引いている。
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爵位は鏑木家のほうが上だったみたいだけどね。
ご先祖様には、やんごとないお血筋の方もいらっしゃったらしい。
なんか、もうステージが違う⋮。
どこを取っても瑕疵ひとつない、完璧な一族。それが鏑木家。
その鏑木家直系の御曹司が、鏑木雅哉だ。
本人もその鏑木家を継ぐにふさわしい器の片鱗を、すでに見せて
いる。
まだたった小学1年生だというのに、他者を従わせるオーラを放
ち、青い焔のような美貌で民草を睥睨するかの態度は、まさに皇帝。
今もサロンの特等席に当然のように堂々と座っている。
どうやら彼には上級生に席を譲るという発想はないらしい。さす
が皇帝。
花に群がるミツバチのように、鏑木雅哉の周りには人が集まる。
それにもほとんど関心を示さず、時折窓の外をつまらなそうに見
ている。
どんな育て方をしたら、こんな、6歳で人生に退屈してるような
子供が出来上がるんだ。
帝王教育か。帝王教育を受けると、こんな子供になっちゃうのか?
そんなにつまらなければ、校庭でドッジボールや鬼ごっこでもし
て遊んでくればいいのに。
まぁ、瑞鸞の校庭では、残念ながらそんな事をして遊んでる子供
なんてそもそもいないんだけどね。
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この子って、子供らしい遊びって普段してるのかな。
一輪車を乗り回してきゃっきゃ、きゃっきゃとはしゃいで遊ぶ、
鏑木雅哉。
うぷぷ、想像したら面白い。
と、離れた場所からこっそり観察していたら、ばっちり目があっ
てしまった。
げっ、眉間にシワ寄せた。もしかして、心を読まれた?!
ひええぇぇっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ!
私は、﹁あら、ワタクシ教室に用事があったのを思い出しました
わ。戻らないと﹂という体を装い、さりげなく、さりげなーく鏑木
雅哉から目を逸らして、何事もなかったようにサロンを後にした。
こ、怖い。後ろを振り向けなかった。
﹁麗華様、プティピヴォワーヌのサロンに行ってたんですか?﹂
教室に戻ると、クラスメートの女の子が話しかけてきた。
﹁えぇ、お茶を頂いてきました﹂
他の女の子もそばにきて、
﹁あの、鏑木様もいらしたのですか?﹂
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と頬を染めて聞いてきた。
﹁えぇ、いらしたようですね﹂
﹁まぁっ﹂
女の子たちがきゃあきゃあとさざめき始めた。
この子達はピヴォワーヌのメンバーではないし、鏑木雅哉と私達
ではクラスも違うから、なかなかそばに近づくチャンスがないのだ。
﹁麗華様は鏑木様とはお親しいのですか? サロンではどんなお話
を?﹂
親しくもないし、今後も親しくなるつもりはない。
﹁鏑木様は寡黙な方で、私はほとんどお話した事はないんですのよ。
私も上級生のお姉さまとお話ししてる事が多いですし﹂
﹁まぁ、そうですの⋮﹂
女の子達のテンションが一気に下がってしまった。
う∼ん、ごめんよ。出来れば私も、素敵なネタを提供してあげた
いんだけど、こっちも将来かかってるし。
﹁ごめんなさいね、ご期待に添えなくて。あっ、でも、チョコレー
トを召し上がってたわ。甘いものはお好きなのかもしれませんわ﹂
がっかりした女の子達の為に、なんとか観察の成果を披露してみ
る。
たいした情報じゃないけど、どうでしょう?
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﹁わぁっ、チョコレートを食べる鏑木様、見てみた∼い﹂
﹁私もチョコレート大好き。鏑木様と一緒だわ!﹂
﹁チョコがお好きなら、バレンタインには最高の物を用意しなくっ
ちゃ!﹂
おぉっ、予想外に受けてくれた。
とりあえず、喜んでもらえたので良かった。
しかし、今からバレンタインの事を考えるとは、ずいぶん早すぎ
やしないか?
﹁麗華様から鏑木様のお話を聞こうとするなんて﹂
﹁そうよ、失礼だわ﹂
お、吉祥院麗華の取り巻きその1、その2・
風見芹香ちゃんと、今村菊乃ちゃんだ。
君ドルの中でも、麗華と共に皇帝に夢中になって、その姿を追っ
かけまわしてたけど、小学生ですでにファンだったようだ。
私の為に怒っているようにみせてるけど、本当は憧れの鏑木雅哉
の話を、他の子にも平等に流すのが気に食わないだけだ。
取り巻きやってるんだから、自分達に優先的に素敵情報をくれっ
て事なんだよね。
﹁私が軽々しく、鏑木様の噂をしてしまったのがいけなかったわ。
芹香さん、菊乃さんもごめんなさいね﹂
﹁あっ、そんな﹂
﹁麗華様が謝る事なんて﹂
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二人が慌てたので、笑顔でフォロー。
ファン同士、みんな仲良く楽しくアイドル︵鏑木雅哉︶の話で盛
り上がればいいじゃない。
二人には後で、鏑木雅哉の食べていたチョコレートのブランドを
教えてあげるからさ。
20
4
﹁麗華お嬢様、お帰りなさいませ﹂
学院には吉祥院家の運転手さんが送り迎えしてくれる。
誘拐等の防犯対策と、車に勉強道具やお稽古道具を載せて、いっ
たん帰らずにそのまま習い事へ通う為だ。
お嬢様の生活というのは忙しい。
放課後はほとんど習い事でびっしり埋まっている。
近所の公立小学校に通っている子供達と違って、生徒達の家はみ
んなバラバラだから、ランドセルを置いてそのまま集まって遊ぶよ
うな事は出来ないんだけど、それでもほとんどの子達が習い事で忙
しいから、放課後はそのまま﹁ごきげんよう﹂。
さて、今日のお稽古は華道とピアノだ。
﹁ただいま戻りました﹂
あー、疲れた。やっぱり習い事の掛け持ちは大変。
ピアノはそれなりに楽しいんだけど、華道がなぁ⋮。
あれはセンスが問われるから。
今日も、どうにもとっちらかった、パッとしない出来栄えの物に
なってしまった。
21
先生はこれが完成形だとは思わなかったらしく、この先どう生け
るのか聞かれたけど、もう私の貧しい芸術センスからは、何も出ま
せんよ?
結局、先生が私の生けたあしらいを﹁こちらのほうがよろしいん
じゃないかしら?﹂と、ザクザク抜いて生け直し、最後はほぼ私の
味がゼロの作品が出来上がって、終了。
出来の悪い生徒ですみません、先生。
制服を着替えてリビングに行ったら、ちょうどお兄様が帰宅した
ところだった。
﹁お帰りなさいませ、お兄様!﹂
﹁ただいま、麗華﹂
そう。知らなかったけど、吉祥院麗華には兄がいたのですよ。
元々、吉祥院麗華というのは悪役として登場するだけだから、主
人公や皇帝のようにその家庭環境や内面を深く掘り下げるような描
写はなかった。
婚約関連でちょこっと両親が登場したくらいだ。
読者だって麗華の事なんて知りたくもなかったしね。
あっ、涙が⋮。
﹁お兄様、今日は部活動でしたの?﹂
﹁うん、そうだよ﹂
きっしょういんたかてる
兄の吉祥院貴輝は7歳年上の13歳。現在、瑞鸞学院の中等科の
22
2年生だ。
弓道部に在籍していて、週に何回か活動している。
・・
この貴輝お兄様という人が、あの麗華の兄妹とは信じられないほ
ど、穏やかで真っ当な人なのだ。
﹁今日は夕食の後、家庭教師の先生がお見えになるんでしょう? だったら夕食までの間の時間は、私のお話相手をしてくださる?﹂
私はお兄様が大好きだ。
前世︵?もう確定でもいいか。面倒だから︶では妹しかいなかっ
たので、甘えられる兄という存在が嬉しくってしょうがない。
﹁いいよ。何を話そうか。麗華は今日はどんな事があった?﹂
そう言いながら、トントンと自分の座っているソファの横を叩い
たので、ご主人様に飛びつくワンコの如く、素早くお兄様のお隣に
座りましたよ。
﹁今日はピアノとお華のお稽古があってね﹂
私は楽しかったピアノとちょっと失敗してしまった華道の話を嬉
々として話した。
お兄様は部活動の弓道で、少し調子が悪かったという話をしたの
で、
﹁この扇を射落としてごらんなさ∼い﹂
と、テーブルにあった雑誌を扇に見立ててひらひらと振ったら、
23
﹁那須与一? 麗華は小さいのに、難しい事を知っているんだなぁ﹂
と少し驚かれてしまった。
あれ? 小学1年生の知識の常識がわからない。
家族で夕食を頂いた後、お兄様は家庭教師の先生と一緒に、自室
に戻って勉強を始めてしまったので、私は両親とリビングに移動し
て団欒した。
﹁学校はどうだい、麗華﹂
﹁はい、楽しいです﹂
﹁麗華さん、ピヴォワーヌはどう?﹂
﹁皆様、素敵な方々ばかりで、とても参考になりますわ﹂
小学生になってから、お母様の私の呼び方が﹁ちゃん﹂から﹁さ
ん﹂に変わった。
別に実の娘なんだから、呼び捨てでいいと思うんだけど、上流階
級とはそういうものらしい。
お母様は京都の出で瑞鸞には通っていないので、瑞鸞、特にピヴ
ォワーヌには並々ならぬ思いがあるようだ。
自分の娘が瑞鸞生で、しかもピヴォワーヌメンバーという事が自
慢でしかたがないらしい。
ピヴォワーヌの話をすると、今みたいにそれはもう嬉しそうな顔
をする。
24
﹁ピヴォワーヌといえば、鏑木家の雅哉君とは親しくなったかね?﹂
﹁えっ﹂
お父様は期待した目でこちらを見てくる。
﹁いえ、特には。あの方は特定のご友人としか親しくなさいません
から﹂
そう言うと、お父様はあからさまにがっかりした。
お父様、麗華を使って鏑木家と懇意になりたいと画策してるな。
君ドルの中で、麗華が何度冷たく拒絶されても諦めずに皇帝を追
いかけていたのは、子供の頃から父親に影響されてたのかもしれな
いな。
持って生まれた麗華の資質も、もちろんあっただろうけど。
しかし、父よ! 過ぎたる野心は身を滅ぼすのだぞ!!
いや、本当に滅ぼされるから。
お父様、とりあえず不正な経営はやめてくれ。
25
5
瑞鸞学院初等科では、定期的な試験の結果が発表される事がない。
中等科以降になると、総合と教科別で上位20名までが貼り出さ
れて、本人にも学年順位が通知されるらしいけど、初等科では本人
告知もない。
一応通知表はあるけど、絶対評価なのであまり信用できない。
と言う事で、他の子達の学力がどれ程なのか、いまひとつわから
ないのだ。
そして自分がこの学校で、どれくらいのレベルなのかも。
大体、瑞鸞に初等科から通うような女子は、大学卒業と同時に政
略結婚をしたり、親のコネで就職して、その間に結婚相手を探すよ
うな子達がほとんどなので、ガツガツ勉強して学力あげようなんて
子は、あまりいないのだ。
しかし私は違う! 今のところ皇帝の怒りは買っていないが、主人公が入学してきて
万が一私と衝突したら、皇帝の逆鱗に触れて、家ごと制裁される可
能性は捨てきれないのだ。
それにお父様が仕事で不正発覚↓退陣要求↓財産没収↓一家没落
パターンが根強く残っているし。
あぁお父様、心を入れ替えて下さい。︵そもそも不正しているの
か知らないけど。冤罪であれ!︶
家が没落すれば結婚相手もいないだろうし、自力で稼いで食べて
いかないといけない。
その為には勉強だ。
私立の学費を払えなくなった時を考え、国公立大学に入れるだけ
26
の学力が欲しい。
将来は、出来れば自分だけじゃなく親も最低限養えるくらいのお
給料を稼ぎたい。
そこで私は、塾に通いたいと両親に頼んだ。
﹁女の子なのだから、勉強はそれほど頑張る必要はないのではなく
て?﹂
案の定、お母様は否定的。
それよりフルートかバイオリンはどうかしら、なんて薦めてくる。
ちなみにお父様は子供達の教育はお母様に丸投げだ。こういう時
にはなんの役にも立たない。
﹁でもお母様、私、勉強にとっても興味があるんです﹂
う∼ん、説得の材料としては弱いか。
では、
﹁中等科に上がれば外部から優秀な方々が入ってきますわ。その時
に落ちこぼれたくないんですの﹂
ダメ押しで﹁ピヴォワーヌメンバーとして恥ずかしくないように
⋮﹂と言えば、お母様の眉がピクリと上がった。
お母様にはピヴォワーヌの呪文がよく効く。
﹁そうねぇ。だったら家庭教師をつけましょうか﹂
それは困る! 私は家庭教師ではなくて、塾に通いたいのだ。
学力向上のほかに、もうひとつの野望を果たすために。
﹁塾に行きたいの。よその学校の方々の様子も知りたいですし﹂
身を乗り出してお願いする。
27
お受験前にあれだけ幼児教室通わせたんだから、学習塾に行かせ
てくれてもいいじゃないか!
﹁でも吉祥院家の娘が一般の子供と仲良くする必要なんてないでし
ょう。それにああいうところは、公立の小学校に通ってるような子
供もいるのよ。可愛い麗華さんが怪我でもしたら大変﹂
でたよ、選民意識。
﹁付き合う相手は選ばないとね﹂なんて言ってる。
付き合う相手を選んだ結果、君ドルの吉祥院麗華はあんなどうし
ようもないろくでなし令嬢になっちゃったんじゃないか。
﹁大丈夫よ、お母様。勉強をしに行くだけなのだから。お母様の教
えはちゃんと守るわ﹂
元公立小学校出身としては、ちょっとイラッとしたけど我慢、我
慢。
﹁ね、お願い、お母様﹂
胸の前で指を組んでお祈りポーズ。
どうだ、届くか、可愛い娘のおねだりビーム!
﹁いいんじゃないかな﹂
おぉっ! いきなり後方から援軍が!
私とお母様のやりとりを聞いていたお兄様が、味方についてくれ
た。
﹁せっかく麗華が勉強したいって言ってるんだし。僕が初等科の時
に通っていた塾に行ったら? あそこは授業も丁寧でわかりやすい
よ﹂
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お兄様が通っていた塾! それは信用できそうですね!
どうです、お母様。お兄様も推薦しています。さぁ、さぁ、色よ
い返事を!
お母様は私達ふたりの顔を見て、ふぅと小さくため息をつくと、
﹁わかったわ。明日入塾手続きをさせましょう﹂
ひゃっほぉぉぉっ!!
やった! やったよ! 塾に通える!
﹁ありがとう、お母様!﹂
私はこみあげてくる笑顔を抑えきれなかった。
これで私の野望が叶う⋮。
﹁お兄様、さっきはありがとう﹂
リビングを出て部屋に戻る時、廊下でお兄様を追いかけてお礼を
言った。
さすが私の優しいお兄様よね∼。
うふふ。
﹁別にあれくらいいいよ。それよりやけに塾にこだわっていたけど、
何か別の目的でもあるのかな﹂
ギクッ。そんなにわかりやすかったか?
﹁う∼ん。家だとつい甘えて勉強する気がなくなっちゃうし∼。瑞
鸞以外の子達とも仲良くなりたいし∼﹂
目を斜め上にさ迷わせながら、なんとか絞り出す。
﹁ふ∼ん﹂
お兄様はしばらく私をジッと見つめていたが、私がつい口をむー
29
っと突き出したら、
﹁わかったわかった。じゃあそういう事にしておこうか﹂
ポンポンと私の頭を叩いて、お兄様が笑った。
わかってくれましたか、お兄様。
﹁でもねぇ、麗華﹂
お兄様が耳元に顔を近づけて
﹁人は嘘をつくときには、目線が右上にいくんだよ﹂
そのまま笑いながら﹁じゃあね、おやすみ﹂と言葉を残してお兄
様は自分の部屋に入っていった。
えっ、なに今の。
やだ、怖いあの13歳。なんでそんな事知ってるの?
優しく穏やかなお兄様は、実は腹黒?
嘘を見抜く術を知っているのは、自分が嘘をつく時に利用するた
めだったりして。
お兄様にはどうか、私の心のオアシスのままでいてほしい。
そんでもって、今度から嘘つくときには気をつけよ⋮。
30
6
結局、塾には夏休み明けの9月から通う事になった。
キリがいいのと、他の習い事のスケージュル調整との兼ね合いも
あったからだ。
9月まではあと2か月もあるけど、そこは贅沢は言うまい。
ここで今すぐにと我を通せば、さすがに変だと思われるし。
楽しみだなぁ。
その前に夏休みだ!
セレブ小学校では朝顔の観察日記なんていう、しょぼい宿題は出
ないらしい。
私、朝顔やへちま育てるの結構好きだったんだけどな。ちぇっ。
﹁麗華様は夏休みはどこへ行くのですか?﹂
あと数週間で夏休みと言う事で、学院全体が浮かれた雰囲気にな
っている。
取り巻きその1芹香ちゃんと、その2菊乃ちゃんも同じく夏休み
が待ち遠しいようだ。
もちろん私もね! ﹁私は家族でタヒチに行きますのよ﹂
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﹁まぁ素敵!﹂
やっぱり夏は海だよね! 新しい水着も買ってもらったし、日本の河童魂を見せるぞ!
﹁私は夏休みが始まったらすぐに別荘に行くんです。その後はハワ
イ﹂
芹香ちゃんが言うと、それを聞いて菊乃ちゃんが
﹁私のうちもハワイよ! もしかしたら向こうで会えるかしら!﹂
﹁えぇっ、本当?!﹂
思わぬ偶然に二人は目を輝かせて、お互いの旅行日程や宿泊先を
確認し始めた。
教室を見渡すと、他のクラスメート達も旅行の予定などで楽しそ
うに盛り上がっている。
旅行っていうのは、行くまでが一番楽しいっていうけど、本当に
そうだよね。
待ち遠しくってしょうがない。
しかし、聞こえてくる旅行先はほとんど海外。千葉や神奈川の海
に行くような子は、この学院にはいないらしい⋮。
前世の私の家の定番海スポットだったんだけどね。
あぁ房総の海で食べた焼きトウモロコシが懐かしい。じゅるっ。
﹁そういえば聞きました? 鏑木様は地中海ですって﹂
芹香ちゃんが笑顔で、とっておきの話をするように声をひそめた。
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ほー、地中海。
﹁鏑木グループのホテルにずっと泊まって、夏休みはほとんど日本
にいないんでしょ。1か月もお顔が見られないなんて、堪えられな
ーい﹂
皇帝の話題に嬉しそうに、でも会えなくなるのが悲しそうに、菊
乃ちゃんがそれに答えた。
えんじょう
﹁円城様も一緒に行くんでしょ。あぁ私もお二人と一緒に地中海行
きたいなぁ﹂
クラスが違うのに、二人はしっかり鏑木情報を掴んでいる。さす
がファンネットワーク。
﹁二人ともくわしいのねぇ﹂と感心したら、これくらい知ってて当
然ですと言われてしまった。
そうですか。
しゅうすけ
しかし、円城秀介も皇帝と一緒に長期旅行に行くのか。
あの二人は昔から本当に仲が良かったんだな。
円城秀介は﹃君は僕のdolce﹄の中で、皇帝の幼馴染で親友
として登場し、主人公と皇帝の仲を応援するキャラクターだ。
皇帝と対等に話せる数少ない人間で、皇帝と主人公がすれ違って
しまった時は、皇帝を諌める事もあった。
冷たい威圧感漂う皇帝に対し、柔らかな笑みで皇帝と他者の間を
上手く取り持つ円城は、癒し系として読者の人気の高い一人だった。
そして腐の人達からは皇帝の嫁扱いされていた⋮。
ただし、親友である皇帝の害になると判断した相手には、結構厳
33
しい。皇帝以上に容赦ない時もあったなぁ。
もちろん吉祥院麗華も敵認定されて、何度かバッサリ切られてい
た。
今も、プティピヴォワーヌや廊下で時々見かけた時は常に一緒で、
すでにマンガの中のふたりそのものの関係性だ。
確か幼稚園も一緒だったはず。
私は顔だけだったら、円城派だったなぁ。
カラーイラストだと、蜂蜜色の髪で王子さまみたいだったんだ。
初等科に入学して初めて円城秀介を見た時、その髪色が黒だった
ので、あれはカラーリングか! 人工物だったのか!って驚いた。
そりゃそうか。ハーフ設定でもないのに、あんな髪の色のわけが
ない。
いつの時点であの髪に染めてくるのか、いきなり黒から蜂蜜にモ
デルチェンジするのか、周囲はどう反応するのか、心の中でちょっ
とニヤニヤしながら、今から楽しみしている。
そういえば、この学院の校則ってカラーリングOKなの?
ピヴォワーヌでは、夏休みに恒例のサマーパーティーが開かれる。
あくまでメインは本体なので、私達プティはおまけだ。
しかしこちらにも招待状は来ているので、サロンでは最近、パー
ティーの話題で持ちきりだ。
女の子達はドレスの相談をし合ったりしている。
そして私もこのサマーパーティーには、わくわくしている。
だって凄く楽しそうじゃない!
煌びやかな会場で、美しいドレスを着たお姉さま方とそれをエス
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コートするお兄様方。
ホールの真ん中ではクルクルとワルツを踊る人々。
見てるだけでも楽しそう!
マンガの中でもサマーパーティーは華やかに描かれていた。
そこで主人公は吉祥院麗華とその取り巻き達に嫌がらせされるん
だけどね⋮。
ヤな事思い出しちゃったよ。
まぁ、いい。気を取り直して楽しい事を考えよう。
今年は鏑木雅哉は日本にいないって聞いたし、この隙にピヴォワ
ーヌを楽しむぞ!
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7
旅行は楽しかった。
ホテルの目の前が碧い海で、テンション上がりまくり。
部屋はもちろんスイートルームで、私はお兄様と一緒にリビング
を隔ててベッドルームがふたつある部屋に泊まった。
両親はビーチで日光浴やエステに行っていて、ほとんど海に入ら
ない。
ありえない。海に来たのに泳がないなんて、一体なにしに来たん
だ!
こんな時、年上の兄妹がいるといいよね。
保護者兼、海の遊び相手として引っ張りまわす事ができる。
私も朝からお兄様を誘って海三昧。お兄様の肩につかまって子亀
状態で泳いでもらったり、シュノーケリングしたり。
本当はお兄様ももう中学二年生なんだから、小さい妹の相手なん
て退屈なんだろうけどね。
鏑木雅哉のように仲の良い友達を誘いたかったかもしれないけど、
そうすると私がひとりになっちゃうので、ここは我慢してもらいま
しょう。
調子に乗って得意げに泳いでいたら、河童の川流れになり、お兄
様に慌てて救助してもらったのは、良い思い出だ。
一応日焼け止めを塗っていたにもかかわらず、真っ黒になってし
まった私を見て、お母様がムンクになっていた。
旅行から帰ってきてその楽しかった余韻に浸りつつも、秋にはピ
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アノの発表会があるのでレッスン日を増やされて集中練習をさせら
れたり、他の習い事にも通ったり、親戚の集まりに参加したりと、
毎日なんだかんだと予定が入っていて、忙しく過ごしていたら、あ
っという間に夏休みもあとわずかになり、サマーパーティーの日は
目前になっていた。
﹁麗華、用意は出来た?﹂
先に支度を終えたお兄様が、部屋に私を迎えにきた。
﹁はーい﹂
今日は初めてのサマーパーティーと言う事で、中等科でピヴォワ
ーヌメンバーであるお兄様がエスコートしてくれるのだ。
心強いね。
﹁ドレス可愛いよ。よく似合ってる。その髪に挿してある花は本物
?﹂
えへへ。
お兄様ったら褒め上手。
このシャーベットグリーンのフレアドレスは私もお店で見て、一
目で気に入ってしまったのだ。
夏らしくて、とっても可愛い。
このドレスを買った時は旅行前だったので、白い肌に合わせて﹁
なんだか儚げな雰囲気?むふふ﹂なんて思ってたのに、予想外に日
焼けしてしまったので、当初のイメージとは少しばかりかけ離れて
しまったが、子供らしい元気さがあっていいじゃないか。
ドレスを一緒に買いに行ったお母様がこの姿を見て、少しがっか
りしてたのは見なかった事にする。
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髪はヘアサロンでセットしてもらって、ヘアアクセサリーの代わ
りに白い生花が挿してある。
あぁ、気分はお姫様。
おしゃれは女の子の気持ちを盛り上げるね。
もうニマニマが止まりませんよ。
お気に入りのドレスを着て、向かうはサマーパーティー!
でもこんな笑い方はお嬢様らしくないから、気を付けないと。
しかし頬筋が言う事をきいてくれない。ニマニマ。
﹁じゃあそろそろ行こうか﹂
﹁はいっ﹂
会場であるホテルまでは吉祥院家の車で送ってくれるので、ヒー
ルのある華奢なサンダルでも平気。
あぁ、わくわくするなー。
﹁ね、ね、お兄様。サマーパーティーのお話を教えて?﹂
﹁また? この前も話したじゃないか。それにもうすぐ着くんだか
ら、自分で確かめられるよ﹂
お兄様は苦笑しているけど、だって聞きたいんだもん。
何度も同じ話をさせられるお兄様にはお気の毒だけど。
会場は都心にあるホテルの1階のホールで、プライベートガーデ
ンに面しているので、そこからテラスに出て過ごしてもいいらしい。
そのお庭には薔薇のアーチがあって、とてもきれいだそうだ。
お兄様曰く、﹁麗華が好きそうな庭だよ﹂との事。
開始時刻は夕方からだけど、夏は日が落ちるのが遅いので、自然
光と夜のライトアップと両方楽しめるらしい。
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﹁絶対お庭に行きましょうね!﹂
﹁はいはい﹂
料理はビュッフェスタイルの立食だけど、テーブルも椅子もある
のできちんと食事をしたい人はそちらに座って食べる。
でもほとんどの人が社交目的なので、そんながっつり食べる人は
いないんだって。
最高級ホテルのお料理なのに、もったいないな∼。
前世ではビュッフェに行く時は朝から食事制限して、心置きなく
めいいっぱい食べたのに。
私の中で、ビュッフェ=死ぬ気で食べる!だったから。
そういえば、友達とデザートビュッフェにもよく行ったなぁ。毎
回、全種類制覇を目標に掲げて行ったけど、一度も 貫徹できた事
なかったなぁ。
⋮⋮みんな、元気かなぁ。
﹁麗華?﹂
はっ! いかん、いかん。自分の世界に入り込んでしまった。
余計なことは考えないようにしないと。
﹁楽しみね、お兄様﹂
私は今、吉祥院麗華なんだから。
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40
8
サマーパーティーの会場には、すでに人がかなり集まっていた。
﹁ふわぁ∼﹂
感動で思わず間抜けな声をもらしてしまった。
お姉様方の色とりどりのドレスが会場中に溢れ、ふわふわと揺れ
て、それが、あちこちに飾られている鮮やかな大輪の花々と相まっ
て、まるで花の海にいるよう。
フォーマルを着たお兄様方も、もちろんお姉様方には及ばないけ
ど華やかで素敵です。
はー、これが憧れのピヴォワーヌのサマーパーティー。
すべてがキラキラと輝いて見えます!
そもそもゲストのほとんどが瑞鸞在学生だから、空気が若々しい
のだ。
今まで、吉祥院家の娘として時々パーティーには出たことがある
けど、あれはメインが上流階級のおじ様、おば様のパーティーだか
ら、気疲ればかりしてまるで楽しくなかった。
私はまだ子供だという事で、なるべく辞退するようにしている。
両親は連れて行きたいようだけど。
﹁麗華?大丈夫?﹂
あら、やだ。口が開いてましたか。
剥がれそうになっていた化けの皮を慌てて装着し直す。
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﹁大丈夫です、お兄様。でもちゃんとそばにいて下さいね﹂
本当は相手の腕に軽く乗せるだけの手に、がっしり力を込める。
ジャケットの袖がシワになったらごめんね。
でも油断したら、目移りしてる間に迷子になる自信があるの。
﹁見てください、お兄様。すべてがキラキラとして眩しいです﹂
﹁ただのシャンデリアの反射じゃない?計算されたライティングの
おかげ﹂
乙女の夢に水を差さないでください。
パーティーが始まり、皆様が飲み物のグラスを片手にそれぞれ談
笑し始めたので、私は早速お兄様に薔薇のアーチを見に行こうと誘
った。
﹁ぜひ、日が落ちる前に見たいんです!お兄様のお薦めでしょ?﹂
﹁はいはい﹂
お兄様にエスコートされてテラスを出ると、小さな白い噴水やテ
ーブルセットのある洋風庭園の奥に、ありました、薔薇のアーチ!
思った以上に可愛い!
赤い薔薇で作られたアーチには、白いシフォンのリボンが結ばれ、
それが風に揺られてウエディングベールみたい。
そしててっぺんにはベルが!
鳴らしたい!
﹁お兄様!もしやこのベルには、鳴らすと幸せになるというジンク
スが?!﹂
﹁さぁ、聞いたことないけど。││鳴らしたいの?﹂
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﹁うっ﹂
こんな可愛いベルがあったら、誰だって鳴らしたくなるでしょう!
ダメかな。周りに人多いし。
おのぼりさんみたい?
﹁おいで﹂
お兄様が私の手を引いてアーチの前まで連れて行ってくれた。
﹁すみません。妹が鐘を鳴らしたいそうなのですが、いいですか?﹂
お兄様がアーチの一番近くにいた先輩に話しかけた。
先輩は快く場所を譲ってくれ、お兄様は私に﹁さぁどうぞ﹂とい
うように促した。が、この注目されてる状況で、鳴らすのって勇気
いるーっ!
お兄様、度胸あるなー。
でもせっかくの機会なんだし、皆様のご好意に甘えて鳴らしちゃ
おうかな。
一人じゃ恥ずかしいのでお兄様もご一緒に。
お兄様は微妙な顔をしていたけど、気にしない。
二人でカランカランとベルを鳴らしたら、﹁あら、結婚式の新郎
新婦みたい﹂なんて言われて、お兄様が更に微妙な顔をした。気に
しない。
私が浮かれてベルを鳴らしているのを、初等科の女の子達が見て
いたようで、自分達も鳴らしたいと集まってきた。
そうでしょう、そうでしょう。
本当はみんな、鳴らしたかったに違いない。私が先陣切って恥を
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かいたおかげだね。
いい仕事したわ。
薔薇のアーチを堪能し、室内に戻ると、そこでは中央でワルツを
踊る人々が!
パーティー! ワルツ!
﹁お兄様﹂
何かを察したお兄様は、私から顔を逸らしてビュッフェコーナー
に行こうとしている。
しかしお兄様の腕をつかんでいる私は動かない。
﹁お兄様、ワルツですよ﹂
﹁嫌だよ﹂
即答ですか。
私は上流階級のたしなみとして、社交ダンスも習わされている。
お兄様も今は通っていないようだけど、もちろん過去に習ってい
た。
せっかく習っているんだから、活用する機会が欲しいじゃない。
でなきゃ何のために習っているのさ。
薔薇のアーチのベルを鳴らして、私は妙にハイになっているよう
だ。
普段なら、恥ずかしくて自分から踊りにいこうなんて思わないは
ずなのに。
﹁お兄様、1曲だけです。ね、ね﹂
可愛い妹の思い出づくりの為に、うんと言ってください。
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﹁はぁ⋮﹂
お兄様は大きなため息をつくと、がっくりと頭を落とした。
﹁1曲だけだよ﹂
やったー!
ホールには楽団の奏でるワルツが流れる。 いち、に、さん、いち、に、さん。
背筋を伸ばしてー、腕を下げなーい、はい!いち、に、さん、い
ち、に、さん。
先生のレッスンを思い出しながら、くるん、くるんと回る。
天井のシャンデリアがキラキラと輝く。
お気に入りのドレスの裾が広がる。
あぁ、夢のように楽しい。
45
9
約束の1曲が終わり、はぁ楽しかったと周囲を見渡せば、こちら
を見ている人物とバチッと目が合った。
その瞬間、私は石になった。
衝撃に足がもつれて倒れそうになるのを、お兄様が咄嗟に支えて
くれたけど、そんな事よりも、
なんで鏑木雅哉がここにいるーーーー!!
夏休みの間は地中海で過ごし、日本にはいないはずの鏑木雅哉と
円城秀介がそこにいた││。
いつからいた、どこから見てた。
あんた達は地中海にいるんじゃなかったのか。
日本にはいないと思っていたから、パーティーには不参加だって
安心してから、年上の方々に交じって小さな子供が踊るなんていう、
悪目立ちする行為も平気で出来たのに!
来てるって知ってたら、絶対こんな目立つことしなかった!
﹁麗華?﹂
平常心、平常心。
いるはずのない人間がいた事の理由は一先ず置いて、今はこの状
況からいかに自然に離脱するかだ。
まずはあの魔眼から目を逸らし、石化の呪いを解くんだ。
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自然に、自然に⋮。
ぎゃっ! 目だけを逸らすはずが、首が勝手にグリンッて回った
ー!
これじゃまるで高飛車に、ふんって顔を背けたみたいじゃないか。
喧嘩売ったと思われる?!
しょうがない。やってしまった事はしょうがない。このまま自然
にこの場を去るんだ。
ぎゃっ! 膝が曲がらない! 私、軍隊みたいになってるー!
魔眼に脳が攻撃されたのか、不随意運動が止まらない。
あぁ、もう本当にどうしよう。
﹁麗華、ちょっと聞いてる?麗華︱﹂
とにかく人に紛れて雲隠れしないと。一番人が多い、ドリンクコ
ーナーへ直行だ。
別ニワタクシ、貴女方ノ事ナンテ気ニシテマセンノヨ。踊ッテノ
ドガ渇イタカラ、飲ミ物ガ欲シクナッタダケデスノ。
エエ、ソレダケデスノ。
ソコノ貴方、甘イジュースヲ頂ケル?
﹁麗華!﹂
パンッと背中を叩かれて、混乱の呪いが解けた。
あぁ完全に今、私おかしくなってた。
お兄様、正気に戻してくれてありがとう。
石化と混乱の呪いの両方を一度にかけてくるとは、さすがラスボ
ス。
﹁どうした。なんか変だよ﹂
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うん、それは誰よりも自覚しています。
﹁お兄様、私ちょっとお手洗いに行って参ります﹂
一度ひとりになってリセットしたい。
トイレに籠って落ち着きたい。
いろいろ反省するのはそれからだ。
﹁大丈夫か?具合悪くなった?誰かに一緒に行ってもらおうか﹂
﹁ううん、平気です﹂
﹁でもなぁ⋮﹂
相当私は挙動不審だったのか、お兄様が心配そうにしている。
ごめんよ、心配かけて。
﹁よっ、貴輝﹂
﹁伊万里﹂
ちょうどお兄様のお友達らしき人が声をかけてきたので、今のう
ちに行っちゃおう。
﹁初めまして、妹の麗華です。お兄様、ひとりで大丈夫ですから、
ちょっと行ってきますね﹂
お友達さんにペコリと挨拶して、そのまま早歩きで会場の外へG
O!
﹁妹ちゃん、どうしたんだ。ずいぶん急いで﹂
﹁あぁ、トイレ﹂
言うな!
48
ドレッシングルームに駆け込み、個室に入るとぐったりと座り込
んだ。
はぁーーっ。
一気にドッと疲れた。
さっきまでのハイテンションが嘘みたいだ。
⋮びっくりした。
なんでいるの、あの人たち。
夏休みはずっと地中海に行ってるという話はガセだったのか?
プティピヴォワーヌの噂でも、ふたりはサマーパーティーには不
参加って聞いていたのに。
しかし、あの顔。
怖かったなー。
浮かれてワルツを踊っていた私を、なんだこいつっていう目で見
ていた。
勘違い女って絶対思ってた!
来てるって知ってたら、調子に乗ってワルツなんて踊らなかった
のに!
﹁ねぇ雅哉様がいらしてたわね。確か今回は不参加だったはずじゃ
ない?﹂
そうしてどよ∼んと深く落ち込んでいたら、ドアの向こうから、
私よりはだいぶ年上っぽい声の人達のおしゃべりが聞こえてきた。
中等科か、高等科のメンバーだろうか。
ゆりえ
﹁そうなのよ。本当は休み中はずっと海外で過ごすはずだったみた
いなんだけど、優理絵さんの誕生日があるから、それに合わせて戻
49
ってきたらしいのよ﹂
﹁あら、そうだったの。私の妹が雅哉様がいらしてるって大騒ぎし
てたわ。でも優理絵さんが相手じゃ勝ち目はないかしら﹂
﹁ふふっ。まだわからないじゃない?ご自分の妹なんだから、応援
してあげないと。ライバルは多いみたいだけど?﹂
﹁そうねぇ。まぁっ、マイカ様、ごきげんよう﹂
﹁ごきげんよう﹂
別のお知り合いが入ってきたようで話は中断してしまったが、こ
れで謎が解けた。
優理絵様の誕生日だったか!
すずしの
私達より4つ年上の涼野優理絵様は、皇帝と円城の幼馴染であり、
なんと皇帝の初恋の君なのだ。
﹃君は僕のdolce﹄の中の優理絵様は、凛とした輝くばかり
の美人で、学院生憧れの女性だった。
吉祥院麗華も憧れていた。
麗華も、あの曲がった事が嫌いな優理絵様に憧れていたなら、少
しはそこから学べば良かったのにと思うけど、悪役キャラなんだか
らしょうがないか。麗華、不憫⋮。
その優理絵様の事は、皇帝は高等科に上がる頃まで好きだったの
だが、優理絵様は昔から年下の彼を弟のようにしか見ていない。
結局その恋は玉砕し、主人公に八つ当たりするシーンなどもある
んだけど、そのうち主人公への興味が恋に変わり、初恋を完全に吹
っ切る事が出来るのだ。
しかしそれでも幼馴染で姉のような優理絵様は特別な存在で、自
立心あふれる優理絵様が、大学卒業後に親の反対を押し切って、勝
手に外資系企業に就職し渡米する事にした時、涼野家の両親を説得
するのに力を貸すのだ。
50
優理絵様が渡米する時には、﹁何かあったらすぐに連絡しろ。ど
こにいたって俺が絶対優理絵を助けに行くから﹂なんて言って、い
つまでも特別な人だっていう事を印象づけている。
それを見て主人公が、﹁本当はまだ優理絵さんが好きなんじゃな
いか﹂って不安になったりもするんだけど。
そんな優理絵様の誕生日があったら、そりゃあ何があっても戻っ
てくるよね。納得。
プティピヴォワーヌのサロンでも、優理絵様と話してる時は顔が
ほころんでるもんね。
優理絵、優理絵って関心引こうと頑張ってるもんなぁ。
初恋かぁ、甘酸っぱいなぁ。でもその恋は実らないんだよねー、
あぁ切ない。
ふたりのそんなやりとりを、ばれないようにこっそりと観察して、
人様の恋路をニヤニヤきゅんきゅんして楽しんでいる私って、相当
性格悪いと思う。
しかしまぁ、いるはずのない鏑木円城コンビがパーティーにいた
理由はこれでわかった。
覆水は盆に返らない。
ワルツを踊ってた姿を見られた過去は戻らない。
⋮⋮忘れよう。
この事は、黒歴史として心の沼に沈めよう。そうしよう。
﹁どっこいしょ﹂
さて、お兄様も心配しているだろうから戻ろう。
トイレに長居しすぎたな。乙女にとって不名誉な濡れ衣を着せら
51
れてたらどうしよう。
お腹の調子は万全だというアピールをしたほうがいいだろうか?
52
10
夏休みが終わり二学期に入り、私は念願の学習塾に通い始めた。
お兄様が通っていただけあって、私立、国立の進学校の小学生が
集まる、かなりレベルの高そうな塾だ。
私が前世で通っていた、プリントをやるだけの塾とは全然違う⋮。
今のところは国語と算数だけで授業内容に関しては全く問題ない。
むしろ万能感が凄い。
まぁ所詮小学1年生だし。わからなかったらそれこそ問題だ。
それに私が塾に行きたかったのは、将来の事を考えてっていう事
ももちろんあるけど、もうひとつ、重大な目的があったのだ。
それは買い食い。
いくつか習い事をやっているけど、それはすべて吉祥院家の運転
手さんが送り迎えをしてくれている。
お稽古開始前にお教室まで送ってくれて、終わった頃にまたお教
室の前に迎えにきてくれてるのだ。
そう! 自由な時間がない!
私がひとりで外を歩く事は、まずない。必ず誰かそばにいる。
でもそれじゃ困るのだ。
なぜなら買い食いができないから。
食い意地が張っていると笑いたければ笑うがいいさ。
だがしかーし! 毎日毎日、与えられるお菓子は高級菓子店の物
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のみ、食事だってどこぞの一流レストランで出てくるようなメニュ
ーのみ。
ありがたいですよ? とってもおいしいですよ?
でも前世の私の安舌が、ジャンクなスナック菓子を食べたいと求
めてる。白米に漬物乗せただけの質素な食事が食べたいと求めてる。
惣菜パンが食べたいと求めてる!
そして私は考えた。
お付の人がいない時間帯のある習い事をすればいいのではないか
と。
学習塾は国・算の2コマ制で、その間には休み時間があるのだ。
その時に抜け出して、こっそり買いに行けばいいのではないかと。
出来れば塾のなるべく近くにコンビニがあるといい。
あまり頻繁に抜け出すと、塾の先生に見咎められて家に報告され
るかもしれないので、そこも気を付けないといけない。
買う物は塾の教材を入れるカバンに入るくらいの小さな物のみ。
間違ってもポテトチップス系の大物を狙ってはいけない。あれは小
袋タイプでも中に空気が入っているからかさばる。
最初はチロリアンチョコのような小さな物を買ってみよう。でき
ればタケノコの村が食べたい。本当はラッキーターンも食べたいん
だけど、あれはハードルが高すぎる。
そしていつかは、おにぎりを買うのだ。
そんな事を妄想していたら止まらなくなった。
だから何が何でも塾に行きたかったのだ。
お兄様が通っていた塾のそばには、歩いて2、3分のところにコ
ンビニがあった。
素晴らしい。
54
通い始めて最初の頃は、新入りでしかもあの瑞鸞の生徒という事
で、周りから注目されていたので、抜け出すことは出来なかった。
週に1度の塾通いで、なんとかコンビニに行ける事ができるよう
になったのは、通い始めてから2か月も経った頃だった││。
初めて買ったお菓子はチロリアンチョコ2個とキャラメルだった。
カバンを持って外にでるわけに行かなかったので、ポケットに入
る大きさの物に限定されてたのだ。
休み時間は15分しかないので、急いで戻った。
二時間目の授業は、全く頭に入ってこなかった。
家に帰り、自分の部屋でこっそり食べたチロリアンチョコは、懐
かしい味がして感動で泣けた。
残りのチョコと、8個入りのキャラメルも大事に食べた。
チープ、万歳。
秋は運動会や瑞鸞発表会などがあり、忙しい。私事ではピアノの
発表会まである。めまぐるしすぎる。
運動会は、同学年では鏑木、円城のツートップが当然の大活躍だ
った。上級生すら圧倒していた。おかげで上級生含め、ファンが更
に増えた。
残念ながら、私のクラスにはヒーローはいなかった。ほかの分野
でがんばれ。
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瑞鸞発表会は文化祭みたいなもので、生徒達の作った作品などを
飾るほか、合唱コンクールやバザーなどもある。
運動会よりもこちらの方が準備が大変で、疲れた体に滋養供給の
為に、合間にプティピヴォワーヌのサロンで、お菓子を食べたりし
ている。
校内でお菓子が食べられるって、やっぱり特権だと思う。
最近、サロンでは発表会の合唱の曲目や、クラスごとに作る作品
の話などで盛り上がっている。
クラス作品は、学年が上がるごとに難易度があがるから大変だ。
高学年はジオラマを作ったりするらしい。
﹁麗華さん、今日はピエールエヴァンのマカロンがあるのよ。召し
上がる?﹂
﹁嬉しい。ぜひ頂きますわ﹂
みなづきあいら
この方は5年生のお姉さまで、水無月愛羅様。
瑞鸞にはわりと珍しい、ショートカットのちょっとボーイッシュ
な外見の女の子で、将来はどこぞの歌劇団の男役トップのようにな
りそうな人だ。
愛羅様は先日のサマーパーティーで、私とお兄様のワルツを見て
以来、仲良くしてくださっている。
楽しそうに一生懸命踊っている姿が可愛かったそうだ。ありがた
い。
﹁優しいお兄様で羨ましいな﹂などと言ってもらい、どこからか、
私とお兄様が薔薇のアーチのベルを鳴らしている写真を入手して、
プレゼントしてくれた。
愛羅様のお知り合いの方が、あの場にいて写真を撮っていたらし
い。
56
﹁可愛らしいカップルだったから、写真を撮って後で渡してあげた
かった﹂そうだ。
カップル決定ですよ、お兄様。
鏑木雅哉と円城秀介の前で、いらぬ大恥をかいてしまったと思っ
たけれど、捨てる神あれば拾う神ありだ。
││しかしこの愛羅様には、ひとつだけ重大な問題がある。それ
は⋮⋮
﹁優理絵。この限定のマカロンおいしいわよ﹂
そう、愛羅様はあの、優理絵様の親友なのだ。
﹁そうねぇ。じゃあもうひとつだけ食べちゃおうかな。雅哉と秀介
はどうする?﹂
﹁食べる﹂
﹁うーん、僕はいいや﹂
優理絵様のそばには大体いつも、優理絵LOVEな鏑木がいる。
そして優理絵様と愛羅様は親友で仲良し。そして、そんな愛羅様が
最近可愛がっている後輩が私。
なかなか危険な立ち位置だ。
皇帝サマは自分の興味がある人間以外には、基本ほぼ無関心だか
ら、私の事は今のところ眼中にない。
ただ一度、円城秀介が﹁君、あのサマーパーティーで、ワルツを
ど真ん中で踊ってた子かぁ﹂と言った時、﹁あぁ⋮あれか﹂と思い
出したようにこちらを見た事があったけど。
57
円城秀介、余計な事を!
﹁雅哉はちゃんとクラス発表手伝ってるの?﹂
﹁⋮まぁ適当に﹂
﹁ダメじゃない、そんな事じゃ。ちゃんとやるのよ﹂
﹁あー⋮、うん﹂
﹁何よ、その返事。教室まで私、見に行くわよ。わかったわね?﹂
﹁わかったよ。ホント優理絵は口うるさいなー﹂
﹁なんですって!﹂
﹁嘘、ごめんてば。優理絵はすぐ怒るから﹂
マカロンをもぐもぐと食べつつ、こっそりチラ見。
憎まれ口叩くわりには、嬉しそうな顔してるなぁ。そうかい、そ
うかい、そんなに好きかい。
皇帝は優理絵様としゃべっている時は、いつもと顔が全然違う。
退屈そうな無表情が別人のように豊かになる。
あーあー、ほっぺがちょっと赤くなってるじゃん。溢れる恋心が
抑えきれてないぞ。
そんな、あまりない面白皇帝の姿を観察していたら、円城と目が
合った。
すみません、もう見ません。でもいちゃらぶの盗み聞きはしちゃ
います。
まぁそんな事もありつつも、忙しくも平穏無事に秋を乗り切った。
58
11 吉祥院貴輝
僕には7歳年下の妹がいる。
この妹の様子が、最近おかしい。
妹は甘い両親に育てられたおかげで、我が儘で生意気な子どもだ
った。
思考や好みはいつも一緒にいる母の影響で、すっかり母のミニチ
ュア版のようになり、これは将来、僕の通う学院にもよくいる、上
流階級指向の、気位の高い令嬢になるんだろうなと、少し冷めた目
で見ていた。
両親の事は尊敬もしているし、家族として大切にも思っている。
しかし両親の、自分達より下の者を見下す考え方は僕にはどうし
てもなじめない。吉祥院の会社を支えているのは、むしろそういう
人たちなのに。
僕は長男なので、いずれこの家と会社を継ぐことになるだろう。
その時僕は、父のやり方と対立するのかもしれないな。
妹の話だ。
母のミニチュア版だと思っていた妹が、初等科に入った頃から変
わった。
なんというか、いい意味でバカになった。
無邪気と言ったほうがいいのかな?
そして、何かこそこそとやっている。
59
成績は悪くないらしい。前は我が儘を言って、時々行くのを嫌が
ったりもしていた習い事にも、真面目に通っている。
6歳のくせに道理をわきまえた態度をとるし、たまに子供には難
しい事を言ったりもする。
そこだけ見ると、とても優秀な子に思える。
でもやっぱり、時々おかしな行動をとって、それが僕にはちょっ
と面白い。
最近の僕のマイブームは、そんな妹の観察だ。
妹は、前から僕に懐いてはいたけど、最近はその懐きっぷりが激
しくなった。
僕を見ると嬉しそうな顔で駆けてくる。なんか子犬みたい。
見えない尻尾をブンブン振っている。
まぁこれだけ素直に好意を示されれば、実の妹だし、やっぱり可
愛い。
そこで優しくしたら、更に懐いてきた。
ソファでは、僕の隣が定番席になったようだ。
妹が、ある日突然、塾に通いたいと言い出した。
家庭教師ではなく塾がいいのだと力説する。その理由は、胡散臭
いものだった。
しかしその情熱だけは伝わったので、ほんの少し口添えしたら、
満面の笑みで感謝された。
少し意地悪をするつもりで理由をつついたら、案の定目が泳いで
いた。
やっぱり違う目的があるようだ。まぁ別にいいんだけどね。
目線の位置で嘘がばれるよ、と言ったらわかりやすいくらい固ま
60
った。
妹、反応が面白すぎ。
口を開けたまま固まった妹は、ちょっと間抜けな埴輪像みたいで、
思わず笑ってしまった。
今度埴輪に変身したら、あの口に飴でも放り込んでみようかな。
目が右上を向いていたのは本当だけど、それ以外に実は妹には、
本人も知らない癖がある。
妹は何かを笑ってごまかそうとする時、えくぼがピクピク動くの
だ。
これは最近、懐いてくる妹と過ごす時間が増えたため、気が付い
た癖だ。
その癖を、妹は全く気付いていないんだろうなぁ。
でも教えてあげるつもりはない。
だってその方が面白いから。
夏の旅行では、今までは母の影響で日焼けをしたくないとかで、
あまり海に入りたがらなかった妹が、我先に海に走って行った。
スイミングスクールに通っている成果を見せたいのか、張り切っ
て泳ぎだしたが、すぐに溺れた。
なぜあんなに自信満々だったのか不思議なくらいの、絵に描いた
ような溺れっぷりだった。
何をやっているんだ、妹。
その後は心配だったので、常に見張っていたら、僕の背中に乗っ
かって楽に泳ぐという技を見つけた。
61
あっちに行って、こっちに行ってと僕の背中で偉そうに指示を出
すので、時々わざと波がかぶるように体を沈めてみたりした。
波をかぶってガボガボいってる妹が、間抜けで面白かった。
ごめんね気づかなかったと謝ったら、お兄様のせいじゃない、波
が悪いと言われた。
バカな子ほど可愛いって本当だな⋮。
去年まではほとんど海に入らなかった妹なのに、今年は海に行き
っぱなしなので、どんどん焼けてくる。
あとで母に怒られそうだから、日焼け止めをマメに塗りなおすよ
うに言ったのに、うん、うん、と適当な返事でまた海に入っていく。
案の定、真っ黒に日焼けした妹を見て、母はショックを受けてい
て、妹はオロオロしていたけど。
だから言ったのに。ホント、バカだなぁ。
ある日、家に帰ったら両親は不在で、ピアノ室に行ったら妹が何
がそんなに面白いのか、やたら楽しそうに、猫ふんじゃったを弾い
ていた。
ブンチャッチャ∼と変な歌詞までつけて、体を揺らしてノリノリ
で歌っていた。
でも夕食の時間、母に今日は何をしていたか聞かれて、﹁ピアノ
の練習をしていました。発表会の課題曲です﹂としれっと嘘をつい
た。
嘘つけ!お前の弾いてたのは猫ふんじゃったじゃないか!
いつからピアノの発表曲が変わったんだ!
妹はひとりの時、一体なにをやっているのか、凄く怪しい。
62
バレンタインデーには、僕がもらってきたチョコレートのチェッ
クに余念がなかった。
集合写真を見せろと言われたが、絶対嫌だ。
僕を見てニヤニヤしていた。ちょっと気持ち悪い。
妹からも、手作りだというチョコをもらったが、学年末試験を控
えているので、食べるのをためらった。
お手伝いさんに手伝ってもらったから大丈夫だと言い張るので、
覚悟を決めて食べてみたけど、
⋮⋮味がしなかった。
味のないチョコってなんだろう。
妹は自信満々の笑顔で感想を待っていた。とりあえず、おいしい
よ、ありがとうと言っておいた。
来年も手作りなのかな⋮。
来年は内部受験もあるので、どうにか上手く回避できるよう、策
を練りたい。
極め付けが、これだ。
ある夜、目が覚めて水を取りに行った時。
妹の部屋のドアが少しだけ開いていて、中から妙な声が聞こえて
きた。
何事かと思い、そっと隙間から中をのぞいたら、ベッドライトだ
けが点いた部屋で、ベッドとクローゼットの間の床に座り、こちら
に背を向けている妹が、不気味な笑い声をたてていた。
⋮⋮⋮⋮妖怪かと思った。
僕に気づかないで妹は、ブツブツと何かをつぶやきながら笑って
いる。
63
怖かったので、そのままそっとドアを閉めて、僕は自分の部屋に
戻った。
妹は、なにか変な物に取り憑かれているのだろうか。
しばらく様子を見守ることにする。
そして夜中に妹の部屋に近づくのは絶対やめようと決めた。
他にもいろいろとあるけれど、妹のおかしな行動を見ているのは、
やっぱり面白い。
64
12
3年生になった。
瑞鸞初等科では3年と5年生の時にクラス替えがある。
春休み中、毎日ひたすら祈ったかいあって、皇帝とは無事違うク
ラスになった。
私は4分の1の確率に勝った。
お兄様は中等科を卒業して高等科に入学した。
高校生になって、さらに忙しくなったみたいで、前よりも家にい
る時間が少ない。
つまんないの。
優理絵様と愛羅様も初等科を卒業して中等科生になった。
中等科の制服を着たお二人は、なんだか一気に大人っぽくなって
しまって、小学生と中学生の大きさ差を感じてしまった。
たかが春休みをはさんで1か月しか経っていないのに、なんでだ
ろう?
これが制服マジックか?
う∼ん、中等科の制服可愛いもんな。
皇帝は優理絵様と校舎もサロンも離れて、相当機嫌が悪い。
さわらぬ神に祟りなしとばかりに、周囲は様子を窺っている。
そんな暗黒オーラをまき散らしている皇帝に、平気で話しかけら
れるのは円城くらいだ。
さすがだ。私には絶対できない。
益々美しく成長していく優理絵様に、年の差を感じてあせる気持
65
ちはわかる。
大人になった時の4歳差はそれほど気にならないけど、子供の時
の4歳差はあまりに大きい。
中学1年生と小学3年生じゃ、恋愛対象に考えてもらうことすら、
ないだろう。
本人もそれは充分わかっているのか、優理絵様のそばに男が近寄
ろうものなら、殺気を漲らせて無言の威嚇をする。
優理絵様からしたら、可愛い弟の嫉妬くらいにしか感じていない
のが、これまた切ない。
時々、放課後に中等科まで迎えに行ったりもしているようだ。け
なげすぎるぞ、皇帝。
そして1年生の時から通っている塾には、瑞鸞の生徒が何人か入
ってきた。
瑞鸞はエスカレーター式で、よっぽどの事がない限り上に上がれ
るから、勉強に関しての危機感があまりない。
それにほとんどは塾よりも家庭教師だ。
そんな中でも一部の男子生徒は、塾に通い始める。
恐れていた事がついにやってきた感じだ。
﹁吉祥院さんもこの塾に来てたんだね﹂
小3コースで同じクラスになった瑞鸞の子に話しかけられた。
﹁えぇ、まぁ﹂
﹁あの、隣座ってもいいかな﹂
﹁⋮どうぞ﹂
わかるよ、知り合いが誰もいない初めての場所に行って、不安な
66
気持ちになっている時に、見知った人間を見つけたら、思わず近づ
きたくなる気持ちは。
心強いよね、安心するよね。
しかし私には、とってもまずい展開。
﹁他にも今年から通い始めた奴もいるんだけど、曜日が違うんだ。
僕ひとりだと思ってたけど、まさか吉祥院さんがいるとは思わなか
ったなぁ。あ、吉祥院さんも今年から?﹂
﹁いえ、私は1年の時からです﹂
﹁えーっ、そうなの?!意外。吉祥院さんってそんな勉強するタイ
プには⋮いや、えっと﹂
うん、別に気にしなくていいから。
瑞鸞の中でも特にお嬢様然としたグループのリーダー各の私が、
1年生の時から塾に通うほど、勉強熱心には全く見えないんでしょ。
﹁お兄様の影響で、私も通ってみたくなりましたの﹂
まぁこのへんが無難な答えだろう。
いつの間にか私には、ブラコンのレッテルが貼られているようだ
から。
﹁へぇ、そうなんだ。ところでここの塾ってどう?学院の授業より
難しい?﹂
﹁そうですねわぇ。進学校からきてる生徒が多いですから、それな
りに難しいとは思いますわ﹂
﹁そっかぁ﹂
その後もいろいろと話しかけられたけど、当たり前に私の事を知
っていたこの子に対して、どんどん今更聞けなくなってきた。
67
君の名前はなに?と。
困ったなぁ。
こんなに親しげに話しかけてくれてるのに、名前知らないなんて
言ったら傷つけちゃうよね?
何かヒントになるものはないか⋮。あ、そうだ。
﹁そろそろ教科書と問題集を出しておいたほうがよろしくてよ。教
科書の内容は少し確認しました?﹂
﹁あ、そうだね﹂
ゴソゴソとカバンから国語の教材を出して机の上に出す。
秋澤匠
君。
なになに、問題集の名前欄に書いてあるのは││
よし、覚えた。
サワかザワかが微妙だけど。
﹁アキサワ君はクラス替えで何組になりましたの?﹂
さりげなく、私は最初から貴方の名前を知っていましたよアピー
ル。
﹁あ、吉祥院さん、僕の名前知ってたの?吉祥院さんのグループに
は僕なんて知られてないと思ってた。えっと僕は4組だよ。それと
僕の名字、アキサワじゃなくてアキザワだけどね﹂
⋮名前を知らないと思っていたなら、まず名乗れ。
こっちは同級生なのに名前も知らないなんて傷つけるんじゃない
68
かと、いろいろ考えちゃったんだぞ。
この子、ちょっとうっかりさん?
そのうち授業が始まったので、おしゃべりはおしまい。
小学3年生の授業内容にしては少しレベルが高かったけど、今の
ところはまだ余裕。
隣のアキサワ君改め秋澤君も緊張していたようだけど、一生懸命
授業を聞いて、問題集を解いていた。
そして休み時間。
﹁あぁ、緊張した!うちの学校より授業が進んでるねぇ﹂
秋澤君は伸びをしながら、当たり前に話しかけてきた。
⋮ですよね∼。
私が恐れていたのは、これだ。
瑞鸞の生徒が入ってくれば、必ず同じ学院の私に注目する。そし
てその行動につい目が行く。
もしくは秋澤君のように話しかけてくる子もいるかもしれない。
ここまで初対面からフレンドリーな子がくるとは、思っていなか
ったけど。
でもそうなると、私の本来の目的、コンビニ通いが出来なくなっ
てしまうのだ!
あぁ∼っ、やっぱりこうなるか⋮。
﹁そうですわね。そのかわり学院の授業は楽になりますわよ﹂
﹁そっかー。吉祥院さんって成績良かったんだね。全然そんな風に
見えなかったから﹂
この子、やっぱりうっかりさんだ。口が滑りすぎ。
69
﹁私、そんなに不真面目に見えますかしら?﹂
チクリと刺すぞ。
﹁そういう意味じゃなくて!なんていうか、ガツガツ勉強する奴ら
とは住む世界が違うというか。吉祥院さんの周りの子達もそんな感
じだし。それに、あのピヴォワーヌだし﹂
まぁ、確かにね。
私は同学年の中でも実家が強い部類に入るし、伝統を重んじる学
院では元華族という家柄はかなりの影響力があるので、私の周りに
もそういう女の子達が集まって、自然と女子の中でも一番威圧感の
あるグループが出来上がってしまった。
みんな友達というより取り巻きって感じなのがちょっぴり切ない
んだけど。
﹁麗華様﹂じゃなくて﹁麗華ちゃん﹂って呼んでほしいのにな∼。
私ってあの学院で友達いるのかな⋮。
﹁なんか意外だった!吉祥院さんって近寄りがたいし、僕なんて相
手にもしないと思ってたけど、まさかこんなに気さくだなんてさ﹂
嬉しそうに秋澤君が笑う。
うん、やっぱり私って近寄りがたいんだ。
﹁来週もさ、隣の席に座ってもいいかな﹂
こうなったら、どっちにしろもうコンビニには当分行けないだろ
うしな。
それにこんな風に壁を作らず話しかけてくれる子ってあまりいな
いし。
70
﹁えぇ、もちろん﹂
秋澤君は、私の友達になってくれるかな?
71
13
﹁むふ∼ん﹂
私は目の前の箱を開けて、にんまりと笑う。
誰もいない自分の部屋で夜、私は時々クローゼットの奥にしまっ
てある、この鍵付きの箱を引っ張り出して、中身を確かめる。
﹁なかなか順調に貯まってきてるね﹂
箱の中には札束。
私、今タンス貯金しています。
吉祥院家では、私の常識では考えられない額のお小遣いをくれる。
毎月、決まった金額ではないけれど、その額だいたい1度に数万
円。
小学生に渡すお小遣いの金額ではないよね。
子供のうちからこんなに大金渡してると、将来ろくな人間になら
ないと思う。
友達との交際や、何か入用になった時の為にって事でくれるみた
いだけど、放課後は習い事で学校の子と遊びに行く事なんて皆無だ
し、使う場がない。
学校に必要な物は家が買ってくれるし、外で欲しいものがあった
時にはお付きの運転手兼お世話係の人が出してくれる。
72
おかげさまで貯まる一方だ。
このお金は将来、万が一にも没落した時の備えにとっておくんだ。
学費の足しにしたい。
ただ私にもこっそり買いたいものがあったりするので︵主に駄菓
子︶、自分で毎月のお小遣いの金額を決めた。月500円だ。
小学生のお小遣いとしては、これくらいが妥当だと思う。
そして残りのお金は、この鍵付きの大きめの宝石箱に。
子供が金庫を欲しがるのは怪しすぎるので、鍵が掛けられる代わ
りの物がないかなぁと探していた時、ジュエリーショップで見つけ
たのだ。
大きさも子供が両腕に抱えられるサイズで、お札を入れるのにぴ
ったり。
早速、一緒にいたお母様にねだったね。
周りは、いかにも女の子が好きな、キラキラとしたきれいな宝石
箱のデザインに魅かれたと思っていたようだけど、実用性のみで選
んでます。
せっかくだからと、この宝石箱に入れるピンクサファイアのネッ
クレスまで買ってくれたのは誤算だったが。
その日の夜にはもう、宝石箱の中にある、柔らかいビロードでで
きた指輪差しや仕切りをためらいもなくベリベリと引っぺがし、た
だの四角い箱に戻した。
そして、今まで辞書の間に挟んで隠していたお金を、元宝石箱、
現金庫に移し替えた。
想像通り、お札が余裕を持って収納でき、充分金庫の役割を果た
してくれそうだ。
73
良いものを見つけたな。
鍵だけはなくさないように、机の引き出しの裏にテープで貼って
いる。
そして現在、私は時々夜になると、床下に隠してある小判の入っ
た壺を確認してほくそ笑む悪代官のような状態になっている。
﹁1枚、2枚⋮﹂
うっふっふっふっふ⋮笑いが止まらない。
学院では学年が上がるごとに、院内カーストが大ざっぱだが、は
っきりと表れ始めてきていた。
上位に属するのは、もちろんプティピヴォワーヌメンバー。一学
年に男女合わせて10人前後しかいないので、揺るぎない。
瑞鸞初等科に入学できている時点で、ある程度の上流の子供達で
はあるので、家の力よりも本人の資質で中位と下位に微妙に分けら
れる。
中位でも上のほうの子達は、上位の取り巻きになり幅を利かせる。
下位のおとなしい子達は、静かに暮らしている。
そして私は、女子の中では最大勢力のトップメンバーだ。
おかげでいじめられるような事はないけど、おとなしい子達に恐
れられているのが悲しい。どちらかというと、私はああいう子達と
のんびりおしゃべりしたいんだけどな。
私の属するグループは、子供なのにすでに気位が高い。
74
コンビニの駄菓子なんて、間違っても食べた事のなさそうな子達
ばかり。
プティピヴォワーヌメンバーが何人かいるので、グループは伝統
と格式を重んじる。本人よりも取り巻きがそれをひけらかすので、
結構疲れる。
いつ、ニセお嬢様の化けの皮がはがれるか、ヒヤヒヤものだ。
吉祥院家の体面を潰すわけにはいかないので、周りの話に笑って
合わせている。
小学生なのに、すでに人間関係で大変だ。
そんな子達といつもの様に連れだって廊下を歩いていた時、向こ
うから秋澤君がやってきた。
秋澤君は、私に気づいて一瞬笑って手を振ろうとしたが、周りの
女子達の迫力に気圧されたのか、ちょっと怯えたように目を逸らし
て通り過ぎて行った。
⋮うっ、やっぱり。
女子の集団って怖いよね。しかも私達のグループは特に。
ごめんねごめんね、秋澤君。
最近は塾でもずっと隣同士で結構仲良くなれて、せっかく初の男
友達ゲット?!って思ってたのに、これで怖がられて塾でも避けら
れたら哀しいなぁ。
今日、塾に行ったら謝ろう。
﹁いや別に気にしてないよ。僕こそ無視しちゃったし、おあいこじ
ゃない?﹂
塾に着いたら早速﹁話しかけづらい雰囲気でごめんね。無視しち
75
ゃってごめんね﹂と謝ったら、秋澤君は笑って許してくれた。いい
子だ。
﹁女子が集団でいるところに話しかけるのって、勇気がいりますよ
ね﹂
﹁確かに。それに特に吉祥院さんのグループはなぁ﹂
そうだろうな。
秋澤君は院内カーストでいえば男子の中位グループで、上位の取
り巻きをするでもなく、下位のようにおとなしいわけでもない、ま
さに中の中といった子だ。
私としては、そのあたりの位置が一番自由で楽そうなので、羨ま
しい。
﹁僕が吉祥院さんと同じ塾に通っていること、周りの友達は知って
るの?﹂
﹁いえ。そもそも私が塾に通っている事自体、話してませんわ﹂
﹁あ、そうなんだ。もしかして言わない方がいい?僕、友達の何人
かにはしゃべっちゃったけど﹂
﹁特に隠していたわけではないんですけど⋮。まぁあえて話す事も
なかったというか﹂
嘘です。思いっ切り隠してます。
だってバレたら一緒に通おうとする子が出てくるかもしれないし。
そしたら本来の目的、コンビニで駄菓子買いが出来なくなってし
まうから。
﹁ふぅん。だったら学院では吉祥院さんに話しかけない方がいいの
かな。なんで知ってるのか理由言わないといけなくなるし﹂
76
﹁そんな、別に気を遣わなくても大丈夫よ﹂
それじゃあ、なんだか日陰の身にさせてるようで申し訳ない。
それに塾にはすでに秋澤君がいて、コンビニ通いは諦めているの
で、今はもう塾がバレてもそんなに問題ないし。
﹁うん、でもまぁやっぱりこのままでいいよ。吉祥院さんも学院と
塾とではなんか違うしね﹂
﹁そう?違う?﹂
﹁うん。元々僕から話しかけたんだけどさ。吉祥院さんがこんなに
話しやすい人だと思わなかった。もっとこう、お前ごときが話しか
けるな的な態度取られると思ってた﹂
﹁えーーっ!﹂
﹁あはは﹂
私って、そんなイメージなんだ⋮。
いえ、薄々気づいてはいたけどね。
でもやっぱりショック。
﹁私って、そんなに嫌な感じに見えます?﹂
﹁えっ、ごめん傷ついた?えっとその、悪い意味じゃなくて。なん
ていうかさ、ピヴォワーヌの人って僕らとは世界が違うっていうか。
吉祥院さんも友達から麗華様なんて呼ばれてるし﹂
﹁あー⋮﹂
様呼びは﹁ごきげんよう﹂と同じく、瑞鸞の古くからの伝統の名
残なんだと思う。
ピヴォワーヌメンバーは特に様呼びされやすいし。
﹁あ、僕も吉祥院様か麗華様って呼んだ方がいい?﹂
77
﹁絶対やめて﹂
人の気も知らないで、秋澤君はあははと笑っていた。
78
14
夏休みには、面倒な親族の集まりがある。
子どもは基本、子供達だけでいる事が多いが、そこには私の天敵
がいる。
﹁貴兄様∼。会いたかった!﹂
・・
ことうりりな
私のお兄様に抱きついてきたのは、父の妹の娘であり私の1歳年
下の古東璃々奈。
つまりは私達の従妹だ。
﹁リリ、ずっと貴兄様に会いたかったのにぃ。貴兄様、どうしてリ
リに会いに来てくれなかったの?﹂
﹁学校が忙しかったからね﹂
﹁え∼っ、だってリリが会いたかったのに!そのかわり、今日はず
っとリリと一緒にいてね!﹂
⋮⋮。
﹁そうだね。麗華も一緒にね﹂
完全無視を決め込んでいた璃々奈が、やっとこちらを向いた。
﹁あぁ麗華さん、いたの﹂
79
﹁ごきげんよう、璃々奈さん﹂
いたよ。お兄様の隣にさ、しっかりと!
あんた、お兄様に抱きつく時に、わざと私を突き飛ばしたろう。
くっそ∼、こいつ、可愛くないっ!
・・
璃々奈はひとりっ子でお兄様が欲しかったそうで、昔から私のお
兄様にべったりだ。
ちなみにお姉様︵私︶はいらないらしい。
ふんっ。
﹁ねぇ、貴兄様ぁ。あっちでおしゃべりしましょうよ。リリ、貴兄
様に話したい事いっぱいあるのよ﹂
・・
そう言って、私のお兄様をぐいぐい引っ張っていく。
引き離された私は、ぽつんとひとりぼっち。
我慢、我慢。私は大人。私は大人。
年下の我がままなんかに、怒ったりするなんて大人げない。
どうせ今日一日の事なんだから、構わない。貸してあげるわよ。
わ・た・し・のお兄様をね!
﹁麗華もおいで﹂
お兄様が振り返って私を呼んだ。
うわ∼ん、お兄様ぁ!
敵は巧みに二人掛けソファーを選び、しっかりお兄様の隣を確保
した。
80
話題は璃々奈の自慢話一色だ。
どこどこに行っただの、何々を買ってもらっただの、発表会で褒
められただの。
優しいお兄様は、笑顔でそれを聞いてあげている。
﹁あーぁ、リリもお兄様と同じ学校に行きたかったな。そしたらい
つも一緒にいられたのに﹂
瑞鸞初等科は、受験資格に通学時間1時間以内という制限がある
ので、璃々奈は受けられなかったのだ。
正直、私はほっとしている。同じ学校なんて絶対ごめんだ。
その後も璃々奈の自慢話は続く。
私の存在をまるっと無視して。
最初に璃々奈に会った頃は、私も年下の従妹ということで仲良く
しようとしたのだ。
しかし奴は一目見た時から私を邪魔者と認識し、敵視してきたの
で、そのうち私も仲良くする事は諦めたのだ。
いやぁ散々、無視や嫌味や意地悪されたもんなぁ。
せめて売られたケンカは買わないようにしているけど、無言の目
だけの火花の飛ばしあいは止められない。
涼しげで温和な顔立ちで、性格も優しく人当りもいいお兄様は、
璃々奈以外の親戚の子供達にも、もちろん人気だ。
徐々にお兄様の周りに子供達が集まってくると、璃々奈の機嫌が
急降下した。
全方位に睨みをきかす。
その中でも、遠縁の中学、高校生の女の子達は璃々奈の最大のラ
イバルだ。
81
純粋にお兄様に憧れている子もいるが、この子達の中には、親に
けしかけられているのか、吉祥院家の跡取りの結婚相手の座を狙っ
ているように見える子もいる。
﹁貴輝様、お久しぶりです。私の事、覚えていてくれてますか?﹂
﹁もちろん覚えているよ。カスミさん﹂
﹁私もお会いするのを楽しみにしてたのよ、貴輝様﹂
﹁そうですか。ありがとうございます。マヤさん。お元気そうです
ね﹂
﹁ちょっと!私が貴兄様と話してるのよ!割り込んでこないでよ!﹂
璃々奈が、お兄様の腕にしがみつきながら吠えた。
﹁璃々奈さん、相変わらずねぇ。貴輝様をあまり困らせるものでは
ないわ﹂
﹁何言ってるのよ!貴兄様が困るわけないでしょ!貴兄様はリリの
事が大好きなんだから!勝手なこと言わないで!もうあっち行って
!﹂
璃々奈が癇癪を起した。
所詮小さな子どもの戯言と、聞き流してあげればいいのだけれど、
日頃から璃々奈の我がままに、みんな大なり小なり迷惑を蒙ってい
て苦々しく思っているのと、貴重な、お兄様と親しくなるチャンス
をモノにしたいという理由から、引かない年上女子組と璃々奈はよ
く対立している。
﹁貴輝様、夏休みの宿題でわからないところがあるの。数学を教え
てくれませんか?﹂
﹁はぁ?塾か家庭教師に聞きなさいよ!﹂
﹁貴女に言ってないわよ。貴輝様、駄目ですか?﹂
82
﹁う∼んそうだね。じゃあ少しならいいよ。ほかにも宿題を持って
きている子は一緒にやろうか﹂
﹁貴兄様!﹂
﹁璃々奈さんは宿題持ってきていないの?だったらあちらで絵本で
も読んでたら?﹂
﹁なんですって!絵本なんて読む歳じゃないわよ!﹂
小さな子ども組が璃々奈たちの争いに怯えていたので、呼び寄せ
て用意しておいたおもちゃで遊んであげる。
女の争いは怖いので、私は早々に戦線離脱。お兄様、頑張れ。
さて、わかりやすく遊べるトランプでもしましょうかね。
﹁璃々奈、落ち着いて。璃々奈も隣にいていいから。ただしおとな
しくね﹂
﹁だって!貴兄様はリリの貴兄様なのに!どうしてこの人達が一緒
なの!﹂
璃々奈はお兄様を独占できないのが、どうしても我慢できないら
しい。
﹁リリの貴兄様って。貴輝様には麗華様というれっきとした妹さん
がいるでしょう。貴輝様は麗華様のお兄様﹂
あ、それは禁句。
一番言われたくない事を言われて、璃々奈は悔しさにぶるぶる震
えて、ギンッとなぜか私を睨みつけてきた。
いやいや、言ったの私じゃないし。
﹁あんた達、絶対許さない!お母様に言いつけてやる!﹂
83
顔を真っ赤にして涙ぐみながら叫ぶと、璃々奈は部屋を飛び出し
た。
﹁僕が璃々奈と話してくるから、みんなは先に宿題をしていて﹂
お兄様が璃々奈の後を追うと、残された子達が一斉に文句を言い
だした。
﹁なんなの、あれ。我がままもいいかげんにして欲しいわ﹂
﹁貴輝様が優しいと思ってつけあがってるのよ﹂
﹁気に入らないことがあると、すぐに親に言いつければいいと思っ
てるんだから!﹂
せっかくのお兄様と仲良くなるチャンスを奪われて、不満大爆発
だ。
﹁麗華様だって、あの子に目の敵にされていいかげん頭にきてるん
でしょ?﹂
﹁そうそう。さっきもあからさまに無視してたわよねぇ﹂
おっと、こっちにとばっちりがきた。
﹁まぁ毎日会うわけでもありませんし。私は気にしませんわ。璃々
奈さんはひとりっ子で寂しいのでしょう﹂
無難に答えておく。
ここで悪口に乗ったら、後々面倒なことになりそうだから。
私が乗ってこなかったので彼女達は不満そうにしつつも、私抜き
で璃々奈の悪口大会だ。
84
怖い。
本当は璃々奈は年下だし、陰口をやめさせるようにフォローしな
いといけないんだろうけど、いくら考えても璃々奈の良いところが
思い浮かばなかったので、聞かなかった事にした。
これだから親族の集まりは疲れる。
85
15
秋は相変わらず、運動会に学習発表会と忙しかったが、運動会で
は選抜リレーでアンカーの皇帝が、最下位だったクラス順位から、
まさかのごぼう抜きで1位に躍り出るという偉業を成し遂げたので、
女の子達の黄色い悲鳴で大変な騒ぎになった。
﹁リレーは残念でしたわねぇ。秋澤君のクラスは﹂
秋澤君のクラスは皇帝に抜かされるまでは1位だったのだ。
しかも秋澤君はアンカーだった。
﹁相手が鏑木君じゃしょうがないよ。円城君が出てたら違ってたか
もしれないけどね﹂
実は秋澤君は円城と同じクラスだ。
今回、円城は運動会前に足を怪我したとかで、リレーやその他の
主だった競技に参加できなかった。
﹁でもアンカーだし、秋澤君って足早いのね。確か去年もリレーに
出てましたよね﹂
﹁アンカーは怪我した円城君の代わりに、直前に回ってきたんだけ
どね。走るのは嫌いじゃないよ。中等科に上がったら陸上部に入り
たいんだ﹂
﹁へぇ﹂
中等科に上がった時の事まで考えた事なかった。
そもそも私、特にやりたい事もないんだよな。強いて言えば駄菓
子の買い食い?
86
う⋮我ながらひどい。
﹁吉祥院さんは玉入れに出てたね﹂
﹁えぇ、1位でした﹂
玉入れには、足を怪我していても出来るという事で円城が出場し
ていたが、円城と同じクラスの女子達が玉入れより円城のそばに寄
ろうと、違う競争をしていたので、秋澤君のクラスの順位は悪かっ
た。
私は他のクラスのそんな騒ぎを尻目に、せっせと玉を拾っては投
げを繰り返し、玉入れマシーンと化していた。
運動神経がさほど良くない私は、他の競技ではほとんどクラスに
貢献できなかったので、せめて玉入れぐらいは頑張りたかったのだ。
1位が獲れて満足、満足。
﹁運動会が終わってしばらくは、鏑木君の教室に女子達が押しかけ
て、凄い騒ぎになってたね。結局最後は鏑木君が怒っちゃったみた
いだけど﹂
﹁そうでしたわね﹂
でもあの騒ぎは毎年の事だから。
普段から鏑木雅哉の周りでは女の子達が騒いでいるけど、運動会
などのイベントの後はその規模が大きくなる。
毎年ブチ切れられているんだから、いいかげん学習すればいいの
にと思うんだけど。乙女達の恋心は止められないらしい。
﹁バレンタインも毎年大変な事になってますものね﹂
﹁確かにあれは凄かった!廊下にチョコ持った女子の列が出来てた
し、机の上にはチョコが山盛りになってたよ。凄いよな∼。僕なん
てお母さんとお姉ちゃんと幼馴染だけだったよ﹂
87
﹁私も渡したのはお父様とお兄様だけです﹂
私は2年前から毎年、バレンタインデーにはお父様とお兄様に手
作りのチョコをあげている。
今年はお兄様が遠慮して、﹁手作りは大変だから市販品でいいよ﹂
なんて言ってくれたけど、私が大好きなお兄様への手間暇を惜しむ
ものですか!
特に今年は大事な高等科の内部受験もあったから、合格祈願も兼
ねて愛情たっぷりの手作りチョコをプレゼントしましたよ。
お兄様もおいしそうに食べてくれたから、大満足だ。
あんなに喜んでくれたんだから、来年もぜひ頑張りたい。
﹁あれ?吉祥院さんは鏑木君にチョコ渡さなかったの?﹂
﹁えっ、なんで私が?﹂
なんだその、不穏な発想は。
﹁いや、てっきり吉祥院さんも鏑木君の事が好きなのかと思って﹂
﹁それはないです﹂
思わずきっぱり否定。
冗談じゃない。誰がそんな恐ろしい事。
﹁そうなんだ。あ、もしかして円城君?﹂
﹁それも、ない﹂
だからなぜ、その二択しかないのか。
大体、あんなモテる人達はイヤだ。
客観的に見て確かにかっこいいと思うけど、あれだけモテる人は
ライバルが多すぎて怖いもん。
88
う∼ん。しかし好きな人か⋮。
そういえば今の世界では、好きな人って出来た事ないな。初恋も
まだなのか、私。
前世では、初恋は従兄のお兄ちゃんだったなぁ。
げっ!これって璃々奈と同じじゃん。
しかし私はあんなにはた迷惑な子ではなかったはず⋮。
確かお正月に凧揚げしたりして遊んでくれたから、優しくて好き
になっちゃったんだよなぁ。
同級生の男子達みたいに乱暴じゃなかったっていうのがポイント
高かったんだ。
前世の私の小学校の同級生の男子達は、掃除の時間にホウキでホ
ッケーやって、とばっちりで女子にボールをぶつけてきたり、何が
面白いのか牛乳一気飲み競争したり、遠足に持って行った私のお菓
子を横取りしたあげく、﹁こんなモンばっか食ってるからデブなん
だよー!﹂などという捨て台詞まで吐くような大馬鹿者ばかりだっ
た。
なにが﹁デブ﹂だ、物知らずめ! あの頃の私サイズはデブでは
なく、ぽっちゃりだ。
ぽちゃかわさんだ。
あの愚か者には雪の日にギュウギュウに固めた雪玉をぶつけてや
った。速攻隠れた。犯人がわからなくてめちゃくちゃ怒ってた。ざ
まーみろ。
おかげさまで瑞鸞には、あんな大馬鹿者どものような男子はいな
いけど、同学年には鏑木、円城という輝かしくも突出した男子2名
がいるので、残念な事にほかの男子生徒の影がいまひとつ薄い。
89
もう少し年齢が上がれば、それぞれ個性が出てきてあのふたり以
外にも、それなりにモテる子が出てくるとは思うんだけどね。
それまで耐え忍べ、不遇男子。
しかし、優しい男の子か。
私の周りの優しい男の子というと、お兄様と⋮
隣の秋澤君をジッと見る。
﹁えっ、なに?﹂
秋澤君も優しい子だよね。
塾では気軽に話しかけてくれるし、今では学院でいつも一緒にい
る女の子達よりも、秋澤君としゃべっている時のほうが、素の自分
が出てる気がする。
この前は帰りにドアを開けてくれた。紳士だ。
顔も茶色いリスのようで可愛い。
﹁あの吉祥院さん、僕なにかした?﹂
﹁いえ、別に﹂
にっこり微笑んでごまかす。
秋澤君は、優しくてとってもいい子なんだけど、なぜか﹁いいお
友達﹂にしか思えない。
﹁いい人止まり﹂って、秋澤君の将来のポジションが見えた気がし
た││。
私がそんなろくでもない事を考えているとは露知らず、秋澤君は
ニコニコと塾の教材を机の上に出していた。
90
⋮ごめんよ、秋澤君。
91
16
4年生になり、そろそろ暑くなってくる季節になった頃、事件は
起こった。
他校の男子生徒が優理絵様に告白したというのだ。
ちょうどその情報が入ったのは放課後、鏑木雅哉がプティピヴォ
ワーヌのサロンにいた時。私も習い事までの時間を潰すためにサロ
ンにいたのだけど、人間が魔王に変身する瞬間を目撃した。
猛ダッシュでサロンを飛び出した鏑木を円城が追いかけ、残され
た私達はこの話題をしていいのかどうか、互いの目を見交わして様
子をうかがっていた。
結局その他校の男子生徒は、駆け付けた皇帝に瞬殺で仕留められ、
優理絵様はそのまま皇帝の車に乗せられて、その場には倒れた男子
生徒だけが残されていたらしい。
その日以来皇帝は、優理絵様に近づく男をすべて駆逐すべく、登
下校は必ず鏑木家の車で一緒にし、離れている間は、中等科にいる
鏑木家に縁のある生徒に見張らせ、優理絵様の習い事にも時間が許
す限り迎えに行っていたらしい。
女子生徒達の憧れの皇帝陛下は、立派なストーカー予備軍になっ
ていた。
そんな毎日が続けば、さすがの優理絵様だって息が詰まる。いく
ら可愛い弟の執着だって、我慢の限度がある。
92
そして当然の事ながら、優理絵様に怒られ、反省させる意味も込
めてしばらくの間、接近禁止令まで出されてしまった。
そりゃそうだ。中学2年生ともなれば、たまにはお友達と放課後
遊びに行ったりもするだろうし、ひとりになりたい時もある。
四六時中見張られ、べったりくっつかれて、あまつさえ少しでも
優理絵様に近づく男がいたら、猛犬のように唸る。
むしろ、しばらくはその状態を許していた、優理絵様の心の広さ
に脱帽だ。
そして今、優理絵様を怒らせ接近禁止令まで出された皇帝は、地
の底まで落ち込んでいた。
その姿はまさに、どよ∼ん。
俺様ではないけれど、常に実力に裏打ちされた自信に満ち溢れ、
この世を我が世と言っても許されるオーラを放っていた王者の姿は、
今はもうそこにはない。
背中を丸め死んだ目をした彼からは、負のオーラが漂っている。
この抜け殻を立ち直らせる術は、さすがの円城も持っていないら
しく、隣で困ったように見守るしかないようだった。
サロンには、悪い気に当てられたくないためか、ここ最近参加す
る人数も前より少なくなっている。
確かに賢明な人間なら、そうするだろう。
しかし粗忽者の私は何も考えず、今日のお菓子を求めてうっかり
サロンの扉を開いてしまった。
先見の明がないにも程がある⋮。
93
私以外にもそんなうっかり仲間がいたので、その方々と静かにお
茶を飲む。
今日の紅茶はイギリス王室御用達の品だ。
添えられた同じブランドのジンジャーのクッキーが甘くて、あぁ
おいしい。
しかし最近、スイミングスクールを辞めたせいか、心なしか太っ
た気がする⋮。
脂肪細胞は思春期に増えると聞いたことがある。
そして一度増えた脂肪細胞は一生減らないらしい。恐ろしい事だ。
気を付けねば⋮。
このおいしいジンジャーのクッキーは、もう1枚食べて終わりに
しよう。
﹁俺は、もう駄目だ⋮﹂
なにやら聞いてはいけないセリフが聞こえてきたような。
﹁優理絵が電話にも出てくれない⋮﹂
この期に及んでまだ、しつこく電話なんてしてたのか。
そんな事したら、余計に怒らせるだけなのに。
﹁優理絵︱⋮﹂
頭を抱えるその姿は、奥さんに逃げられたダメ亭主のようだ。
もう見ちゃいらんない。
94
そんな私は、優理絵様の本心を知っている。
実は4月から通い始めた英語教室で、同じ教室に通っている愛羅
様と時々顔を合わせる機会があるのだ。
私が授業が終わって帰る時間と、愛羅様が来る時間がかぶる為な
のだけど、この前、その愛羅様から親友、優理絵様のお話を聞かせ
てもらった。
可愛い弟、雅哉
の為にも良くないと思い、突き放す事
愛羅様曰く、優理絵様は皇帝のあまりに行き過ぎた束縛に、この
ままでは
で反省を促し、子供の我がままを抑えられるように成長して欲しい
と願っているそうだ。
﹁ちょっとお灸を据えないと﹂だそうだ。
あまりに効きすぎているお灸だと思うけど。
誰が見ても、皇帝は優理絵様を姉などと思ってはおらず、恋する
少年そのものなのに、本当に優理絵様は気づいていないのだろうか。
そのへんのところを愛羅様に聞いてみたのだが、愛羅様もわから
ないらしい。
﹁たぶん雅哉の気持ちはわかっているんだろうけど、それをはっき
りさせて今の関係を壊すのが嫌なのかもね∼。優理絵自体は雅哉を
弟としか見ていないし﹂
中学2年生のお姉様からしたら、小学4年生の子どもに現実突き
つけてきっぱり振るなんて、残酷なことできないものね。
つらいなぁ、皇帝。
そういえば、マンガでも優理絵様に失恋して、ボロボロになって
た事があったな。
この頃からの筋金入りだったんだな。
95
ボーッとそんな事を考えていたのを、野生の勘でキャッチしたの
か、皇帝がギロッとこちらを睨みつけた。
げっ、まずい。
﹁おい、お前﹂
﹁は、はいっ﹂
あわわ、大変。
手負いの虎の尾を踏んでしまった!
﹁何か言いたい事があるなら言ってみろ﹂
﹁い、言いたい事?﹂
言いたい事、言いたい事⋮。なんだ、私の言いたい事って。
あぁ、恐怖で頭の中がパニック状態だ。
﹁え、えっと、ゆ、優理絵様はちょっとお灸を据えるつもりだそう
です!﹂
﹁あ゛ぁ?﹂
うひょー! 口が滑ったー!!
﹁なんでお前がそんな事を知ってる﹂
﹁あ、愛羅様から聞きましたー!﹂
96
愛羅様、ごめんなさい!
﹁愛羅?お前、愛羅と仲がいいのか﹂
﹁英語教室が一緒です!﹂
﹁英語教室⋮。そうか﹂
皇帝はブツブツとなにやら考え始めたが、ふいに顔をあげると私
をしっかりと見据えた。
そしてその目には、先ほどまでの抜け殻状態が嘘のように、力が
宿っていた。
﹁よし、お前。愛羅からスパイしてこい﹂
えーーーーーっ!!
97
17
ワタクシ吉祥院麗華、皇帝陛下からスパイという名のパシリを拝
命しました⋮。
あの後、皇帝はサロンにいた方々を部屋から追い出し、私、皇帝、
円城の3人だけになると、作戦会議を始めた。
﹁まず、お前は愛羅から何を聞いた﹂
ううっ、目力が怖いです⋮。
逃げ出したい。
﹁で、ですからお灸を据えるつもりという話を⋮﹂
﹁なんでお前が愛羅からそんな事聞いてんだよ﹂
﹁英語教室で偶然お会いした時に、愛羅様から、か、鏑木さ、まの
ご様子を聞かれて、お元気がなさそうですとお答えしたら、優理絵
様のお気持ちを教えて頂いて﹂
怖い、怖すぎる。睨まないで∼。
ついでに本人に対して、初めて名前呼んじゃったよ。
緊張のあまりつっかえちゃった。
もう誰か助けて∼。
﹁なに勝手に人の事、噂してんの?﹂
98
仰せごもっとも。
誰だって、自分の知らないところで自分の噂されてたら、いい気
持ちしないよね。
私、主人公が入学してくる前に、終わるかもしれない⋮。
﹁まぁまぁ、そんなに脅かすなよ。怯えちゃってるじゃん﹂
ね、と私に笑顔を向けてくれる円城秀介。
その笑顔、信じていいんですか?
﹁うるせぇよ、秀介﹂
﹁大体、今の雅哉の状態は、学院中が噂しててもおかしくないんじ
ゃない?ねぇ、吉祥院さん?﹂
そんな話、振らないで。
思ってても、絶対同意できませんから。
たとえそれが真実であろうとも。
﹁秀介、てめぇ⋮﹂
﹁雅哉も優理絵の情報が欲しいんでしょ?だったら脅かすんじゃな
くて、ちゃんとお願いしなくちゃ。まぁ、愛羅だったら僕が聞いて
もいいんだけどね﹂
ぜひぜひ、そうしてください。
そして一刻も早く、私をここから解放して。
﹁ダメだ。秀介じゃきっと愛羅はしゃべらない。この女を使う﹂
99
﹁あぁそうかもね。じゃあ吉祥院さん、お願いできる?具体的には、
優理絵がどれくらい怒っているのかと、いつごろ許すつもりでいる
か。雅哉、あとは何を聞く?﹂
﹁⋮⋮優理絵は許す気あるのか﹂
﹁う∼ん、お灸を据えるつもりって本人が言ってるんだから、絶交
って事じゃないと思うよ。雅哉がこれだけ反省してますって事が伝
われば、優理絵も許してくれるかも﹂
﹁そうか!﹂
いきなり元気になった。
案外この人、単純?
ぎゃっ、生意気なこと考えてごめんなさい!ごめんなさい!
睨まないで∼。
やっぱり皇帝は人の心を読めるのかも。
﹁よし!お前、英語教室はいつだ?﹂
﹁明後日です﹂
﹁なんだ、まだ先じゃないか。いっそ今から中等科行って愛羅に聞
いてこいよ﹂
無茶言わないで。
﹁また強引な事してるのがバレたら、優理絵がもっと怒るよ。ここ
はおとなしく明後日まで待った方がいい﹂
100
﹁はっ、そうだな。これ以上怒らせるのはまずい﹂
優理絵様の名前が出ると、素直に聞くんだな。
やっぱり単純。
﹁じゃあそういう事で。吉祥院さん、頼むね﹂
にーっこり。
私の意志は無視ですか。そうですか。
﹁お前!名前なんだっけ﹂
﹁吉祥院麗華です⋮﹂
今更ですか。別にいいけど。
﹁よし!吉祥院!立派にスパイの使命を果たせよ!﹂
﹁はぁ﹂
なにがスパイだ。ただのパシリじゃないか。
すっかり元気になった皇帝は、おなかがすいたのかお菓子を取り
に行った。
﹁俺様ではないけれど﹂なんて誰が言った。私が言った。
見る目ないわ∼、私。
これを俺様と言わずして、なんというか。
なぜ、ほとんど話したこともない、名前すらあやふやな人間を、
101
ここまで当たり前にこき使える。
いっそ愛羅様を通じて、優理絵様にチクッてやろうか。
いたいけな女子生徒を脅かしてパシリに使おうとしてるんですよ、
と。
⋮⋮いやいやいや、ヤケになってはいけない。
そんな事をしたら、100%確実に殺される。えぇ確実に。
﹁がんばってね、吉祥院さん。成功したら憧れの雅哉に感謝される
よ﹂
﹁別に憧れてないし⋮﹂
あまりに理不尽な扱いに、思わず小声で本音がもれてしまった。
皇帝に憧れていた過去なんて、きれいさっぱり前世に捨ててきま
したよ。
二次元に憧れる、ちょっぴり痛い女子でしたがなにか?
今の私にとっては皇帝は破滅の代名詞であって、憧れた事なんて
一度もない。
﹁あれ、そうなの?だってよく雅哉のこと見てるでしょ。だから吉
祥院さんも雅哉が好きなんだと思ってた。ほら、吉祥院さんの友達
って、僕らの周りをうろちょろしてるし﹂
なんて言い草だ。しかも私がこっそり観察してるのばれてるし。
﹁お二人は目立つので、つい目がいってしまうのですわ。ご迷惑だ
ったらごめんなさい。これからは気を付けますわ﹂
とりあえず気持ちを立て直さなければ。
皇帝の目力さえなければ、私の飼っている巨大な猫は復活する。
102
円城だけなら負けるもんか。
﹁ではお話がこれだけならば、私は帰りますね。ごきげんよう﹂
一刻も早く、この魔窟から立ち去りたい。
尻尾丸めて、全力疾走で逃げ去りたい。
﹁うん、さよなら。気を付けてね﹂
円城が優しく手を振った。
私が帰るのを、クッキーをかじりながら歩いてきた皇帝が見つけ
ると、
﹁おぉ!パシリ、しっかり働けよ!﹂
パシリって言っちゃってるし⋮。
スパイじゃないのかよ。スパイじゃ。
口は災いの元。
なんかもう、いろいろ泣きそうだ。
古今東西、任務に失敗したスパイは、組織によって始末されると
いう。
私の明日はどっちだ。
103
18
塾に行くと、邪気のない秋澤君の笑顔が出迎えてくれた。
あの黒いふたりと比べて、秋澤君のこの笑顔の裏表のなさよ。
あぁ癒し系⋮。
﹁どうしたの?吉祥院さん、なにか疲れてる?﹂
﹁えぇまぁ、いろいろありまして﹂
そう、いろいろあった。
出来るだけ皇帝とは当たり障りなく過ごすはずが、まさかのパシ
リ任命。
なにやってんだ、私。
﹁そっか。大丈夫?﹂
いいえ、全然大丈夫じゃありません。
でもこの汚れのない秋澤君を、巻き込むことはできない。
﹁私が任務に失敗したら、骨は拾ってくださいね⋮﹂
﹁は?﹂
そもそも、私が愛羅様に皇帝からの指令内容を聞いたとして、そ
れに本当に答えてくれるのか。
愛羅様には親しくさせて頂いてるけど、そこまで教えてくれるか
なぁ。
104
でも教えてもらえなかったら、私ってばどうなるんだろう。
役立たずのパシリと罵られる?
まぁそれぐらいだったら別にいいけど。
あの鏑木雅哉に嫌われた女として、学院での立場が悪くなるのは
困る。
っていうか、サロンにいた他のメンバーの前でスパイ命令された
から、私が奴のパシリになったって事をあの子達には知られちゃっ
てるんだよね?
⋮⋮学院カーストで、私が下位に転落する日も近いのかもしれな
い。
あぁ悪い想像だけが、どんどん膨らんでいく。
﹁あのさ、吉祥院さん。これ食べる?﹂
﹁えっ﹂
秋澤君がカバンから取り出したのは、個別包装されたフィナンシ
ェ。
﹁お母さんがおなかすいたら食べなさいって持たせたんだ。甘いも
の食べたら元気もでるかもよ﹂
秋澤君は、そう言って笑った。
あ、秋澤くーーーーん!!
なんていい子だ。君は天使だ!
あのふたりとは雲泥の差だ!
私は君と友達になれて良かったよ!
﹁ありがとう、秋澤君!﹂
105
秋澤君からもらったフィナンシェは、食べたら本当にちょっと元
気が出た。
秋澤君になら、私の秘蔵のチロリアンチョコきなこもち味を分け
てあげてもいいとすら思った。
そしてとうとう、英語教室の日が来てしまった。
あの日以来、サロンには顔を出さなかった私だけど、放課後教室
を出ると、廊下にいた皇帝が︵お前、わかってんだろうな︶という
目でこちらを見てきたので、スパイな私は︵もちろんです!︶と同
じく目で返事をして、早歩きで玄関ホールに逃げた。
もう、ここまで来たらおとなしくパシられるしかない。
英語教室の授業が終わった後、私は今か今かと愛羅様が来るのを
待っていた。
吉祥院家のお迎えには、あらかじめ少し遅くなると言ってあるの
で平気だけど、問題は愛羅様がいつ来るかだ。
授業ギリギリに来られたら、話をする時間もない。
さすがに愛羅様の授業が終わるまで待っているわけにはいかない
し。
お願いします、愛羅様。どうか早く来て。
天は私に味方したのか、愛羅様はわりとすぐに現れた。
﹁愛羅様!﹂
﹁あら、麗華さん。ごきげんよう﹂
106
あぁ愛羅様、良かったよ∼。
﹁あの、実は私、愛羅様にお聞きしたい事があるのです!﹂
﹁聞きたい事?私に?﹂
他の人には聞かれたくないので、階段の踊り場の端で話すことに
した。
﹁実は優理絵様のことで﹂
﹁優理絵?﹂
愛羅様が訝しげな顔をした。
﹁は、はい。あの、優理絵様は鏑木様のことをどれくらい怒ってい
るのでしょう。それといつ頃許すおつもりなのでしょう﹂
時間がないので単刀直入に聞いてしまったが、愛羅様はますます
怪訝な顔をした。
﹁優理絵と雅哉の事を、なんで麗華さんがそんなに知りたがるの?
わざわざ私が来るのを待ってるくらいに﹂
そりゃあ怪しいですよね。
鏑木と全く親しくもない私が、ふたりの事に踏み込んで聞いてく
るんだから、当然の反応だ。
これじゃあ私、ただの野次馬根性だと思われてるかなぁ。
﹁どういうつもりか知らないけど、この件に関しては面白半分で詮
索してると、雅哉を激怒させるわよ﹂
107
もうすでに怒らせました。
そして、その鏑木雅哉の指示なんです。
いっそ本当のことを言うべきか。
でもそうしたら、ストーカー鏑木の手先として、情報なんて絶対
もらえないし。
う∼ん⋮。
うだうだ私が悩んでいるのを見て、愛羅様が目を眇めた。
﹁もしかして、麗華さん、雅哉に何か言われた?﹂
なんと!
なぜわかったのですか!
愛羅様も皇帝と同じ、心眼の持ち主ですか!
﹁あの、えっと⋮﹂
でもここで素直に認めていいのか?それとも足掻くべきか。
﹁あー、うん。わかった。どうせ雅哉に私から優理絵の事を聞き出
してこいとか言われてきたんでしょ﹂
まさにその通り!
本当に凄い、愛羅様。なんですべてお見通しなの?!
﹁あいつ全然反省していないわね。優理絵が怒った理由、わかって
ないんじゃないかしら。雅哉の言う事なんて放っておけばいいわよ、
と言いたいところだけど、麗華さんとしてはそういうわけにもいか
ないのよね?﹂
﹁はい、そうなんです﹂
108
ブンブンと首を縦に振る。
﹁いいわ。私から優理絵に聞いてあげる。どれくらい怒ってるかに
関しては、こうやって嫌がる人間を脅かして、自分の思い通りにこ
き使うような事をしてたら、余計怒らせるって言っておいて﹂
﹁それは∼﹂
小心者の私には、とても言えないセリフです。
﹁ふふっ。でも私もこれから授業だし、優理絵に聞くにも帰ってか
らだから⋮。もちろん来週の英語教室の時じゃ遅いのよね?﹂
すら待てそうになかった皇帝が、1週間も待
﹁わかりませんけど、多分⋮﹂
明後日の英語教室
てるとは到底思えない。
﹁わかったわ。そうしたら麗華さん、携帯持ってる?﹂
﹁はい﹂
あまり使う機会もないけど、GPSが付いてるので防犯目的で持
たされている。
なので塾の休み時間にコンビニに行くときは、アリバイ工作の為
に、もちろん教室に置いて行く。
﹁じゃあアドレス交換しましょうか。それで優理絵と話したらメー
ルを送るわ﹂
﹁いいんですか?!﹂
おぉっ、まさかの愛羅様のアドレスゲット!
109
実は愛羅様は、そのショートカットで中性的な容姿から、そのへ
んの男子よりもよっぽど人気のある方なのだ。
愛羅様にまるで恋心のような憧れを抱いている子も多く、美しい
姫君の優理絵様と、その姫君を守る凛々しい騎士様の愛羅様という、
妖しげな妄想を一部でされていたりもする。
⋮そして私も、そんな愛羅様に密かに憧れているひとりなのだ!
そう!今の私が憧れているのは皇帝なんかじゃない。牡丹の騎士、
愛羅様だ!
自惚れるんじゃなくってよ! あの横暴コンビ!
なんて、所詮は本人達に文句ひとつ言えない小心者の私の、負け
犬の遠吠えなんだけどさ⋮。
でもまぁ、いいや。
とりあえず、指令は果たせそうだし。
愛羅様には私の置かれている状況をわかってもらえて、味方にな
ってもらえそうだし。
しかも愛羅様のアドレスという、思わぬご褒美まで手に入れて、
なんだか気持ちがほくほくしてきた。
さて、帰りましょうかね。
今日はお兄様は予備校で遅くなる日だったなぁ、ちぇ∼、つまん
ないの。
明日はお相手してくれるかしら?
ららん、らん。
心配事が解消されて、浮かれた気分で英語教室を出た私が見たの
は、
黒塗りの車の前で、腕を組んで立つ鏑木雅哉の姿だった。
110
19
そのまま鏑木家の車に拉致されると、早速スパイ活動の成果を聞
かれた。
﹁どうだった。愛羅からちゃんと聞けたんだろうな?愛羅が入って
いくのも見たんだからな﹂
なんという事だ。
この人、本物のストーカー気質だ。危険だ。
そしてもしかして暇人?
﹁愛羅様には、後で優理絵様に聞いてくださると約束して頂きまし
たわ。近々連絡をしてくださるそうです﹂
アドレス交換した事は絶対言わない。
そんな事言ったらこの皇帝改めストーカー予備軍は、絶対自分も
私のアドレスを要求し、昼夜問わず催促のメールをガンガン送りつ
けてくるに決まっているからだ。
ストーカーとはそういうものだ。
﹁そうか。ほかには何か言っていたか?﹂
う∼ん、あれはさすがに言っちゃまずいよね。
﹁なんだよ、答えろ﹂
うっ、睨まないで、怖いから。
111
﹁えっと、愛羅様がおっしゃるには、こうやって嫌がる人間を脅し
てこき使うような事をすると、余計に優理絵様が怒る、そうですわ﹂
わー言っちゃった。
でもこれは愛羅様が言ってたんだからね?私じゃないからね?
鏑木はきょとんとした。
﹁嫌がる人間って誰の事だ?﹂
えっ、この子バカなの?
ストーカーのうえにバカなの?
俺様でストーカーでバカっていう、残念な子なの?
﹁おい、お前。なんか今失礼な事を考えてただろう﹂
﹁いいえ、まさか﹂
だから人の心を読むな!
鏑木はしばらく私の顔をジーッと見ていたが、やがてふんっと鼻
を鳴らした。
﹁まぁいい。愛羅からの連絡はいつ来るんだ?﹂
﹁さぁ。週明けくらいでしょうか?﹂
﹁どうやって連絡してくるんだ?お前が中等科に聞きに行くのか?﹂
﹁え⋮っとそれはどうなんでしょう?﹂
痛いところを突いてきたー!
112
﹁なんだよ。しっかり確認しとけよ。どうする、愛羅の英語が終わ
るまで待つか?﹂
冗談じゃない。
どうして私がそこまでしないといけないんだ。
﹁いえ。それでしたら月曜日にでも私が愛羅様に聞きに行きますわ﹂
とりあえずこれでごまかしておこう。
﹁ふーん。よし、わかった。月曜日だな。忘れるなよ﹂
﹁えぇ、わかりましたわ﹂
ではこれで帰ってもいいですね?
﹁あ、そうだ。お前、携帯持ってるか?﹂
﹁いいえ﹂
嘘をつくときは絶対に右上を見ない。
お兄様の教えです。
﹁本当か?﹂
﹁両親の教育方針ですの﹂
鏑木が疑わしげに見つめてくる。
そうだ、こいつは人の心が読めるんだ。平常心、平常心。
﹁そろそろ私、帰ってもよろしいですか?私の迎えの者が心配して
いますから﹂
113
これ以上ボロが出ないうちに撤退したい。
﹁え、あぁいいぞ。じゃあ月曜日にな﹂
﹁はい﹂
私が鏑木家の車を降りようとした時、鏑木が思い出したように聞
いてきた。
﹁ところで、さっきの嫌がる人間って誰の事だ?﹂
円城のあの黒い笑顔を真似て、にっこり笑ってみた。
﹁それはもちろん私の事ですわね。では、ごきげんよう、鏑木様﹂
ぽかんとする鏑木を放って、私は吉祥院家の車へと歩いて行った。
言ってやった、言ってやったぞ、私!
⋮⋮でも報復されたら、どうしよう。
爆弾を落とされたのは、帰りの遅いお兄様を除いた親子三人での
夕食の時だった。
お父様がニコニコとご機嫌な様子で聞いてきた。
﹁今日、相模から聞いたんだが、麗華に会いに鏑木家の雅哉君が英
語教室まで来たんだって?﹂
114
げーーーーーーっ!
先程からやたら機嫌がいいなと思ってたけど、理由はこれか!
相模さんというのは私を迎えに来てくれた運転手さんだ。
迎えに来た私が、よその車に拉致されたのに助けに来なかったの
は、相手が誰だか知ってたからなんだな。
そしてそれを報告しちゃったんだな。
﹁いつの間に仲良くなっていたんだ?お父様は知らなかったよ﹂
﹁いいえ、お父様。鏑木様とはほとんど話したこともありませんわ﹂
駄目だ。ここは断固否定しておかないと、後で取り返しのつかな
い事になる。
﹁何を言っているんだ。あの雅哉君がわざわざ麗華に会いに来たん
だろう?もしかして雅哉君は麗華の事を気に入ったのか?﹂
うわぁっ、とんでもない誤解している!
完全に夢見ちゃってるよ、お父様。
﹁ありえませんわ。鏑木様のご迷惑になりますから、絶対にそんな
事は言わないでください!﹂
このままでは、婚約なんて野心を抱いてしまうかもしれない。
元々、マンガではそういう人だし。
あぁ、どうしよう。
こんな時、お兄様がいてくれたら!
﹁何をそんなにムキになっているんだ、麗華﹂
115
﹁だってお父様がおかしな誤解をしているから!﹂
まずい、破滅の足音が聞こえてきそうだ。
婚約披露パーティーで、大恥かかされる役回りなんて絶対に嫌だ!
﹁まぁまぁ、貴方。麗華はまだ、恥ずかしいお年頃なのだから、そ
っとしておいてあげましょうよ﹂
お母様がやんわりとお父様を止めてくれた。
しかしお母様も、こちらを期待した目で見ている。
もう勘弁して∼!
こうなったのは、何もかもあいつのせいだ。ストーカー鏑木!
このモヤモヤした気持ちを誰かに聞いてもらいたくて、私は予備
校から帰ってきたお兄様の部屋に突撃した。
﹁というわけで、お父様とお母様がとんでもない誤解をしてますの。
どうしたらいいのでしょう、お兄様﹂
帰ってきたばかりで疲れているであろうお兄様には申し訳ないが、
愚痴を吐き出させてもらう。
﹁誤解なら放っておけばそのうち二人も落ち着くさ。僕も軽率に煽
らないように言っておくから。それよりも、その雅哉君との約束っ
ていうのは大丈夫なの?﹂
お兄様には一応、鏑木が愛羅様から聞き出したい内容というのは
116
伏せてある。
あとは脅されたっていう事も。心配かけたくないから。
優理絵様の事を話さなかったのは、相手はストーカーだけど、や
っぱり人の恋をぺらぺらしゃべっちゃうのはどうかと思うので。
﹁多分それは大丈夫だと思いますわ﹂
﹁だったらいいけど﹂
お兄様がポンポンと頭を撫でてくれる。
はぁ∼、やっぱりお兄様とお話しすると安心するな∼。
﹁ねぇお兄様﹂
﹁なに?﹂
﹁お兄様は将来、吉祥院の会社を継ぐのでしょう?﹂
﹁まぁそうだろうね﹂
﹁真っ当な経営をしてくださいませね﹂
﹁なんだい、それ﹂
野心家のお父様を止められるのは、この誠実なお兄様しかいない!
どうかお兄様、私の平穏無事な未来を守ってね。
117
20
愛羅様からは土曜日の夜にメールがきた。
何度かやり取りした内容をまとめて、箇条書きにしたのがこれだ。
・優理絵様は自分の行動を逐一見張り、中等科の生徒を使ってまで、
優理絵様に話しかける男子生徒を妨害する、行き過ぎた行動に怒っ
ている。
・優理絵様に告白してきた他校の生徒に対しても、いきなり飛び蹴
りするような乱暴な行動にも怒っている。
・なぜ優理絵様が怒っているのかきちんと理解し、反省したら許す
つもりであること。
・その場合、優理絵様の考えを尊重し、行き過ぎた監視や妨害行為
はしないと誓う事。
そして、ここが大事なポイント。
・優理絵様の為に周りの人間を巻き込まない事。
これは当然、私の事も含まれていますね。
実際、愛羅様が優理絵様に、鏑木が私にスパイさせた事を話した
ら、私に申し訳ないと言っていたそうなので。
それと愛羅様は、私が鏑木に携帯を持っていないと嘘をついた事
に対して、だったらこの話は、月曜日の早朝に会って話した事にし
ましょうと提案してくれた。
さすが愛羅様。
118
このスパイの報告書を持って、私は意気揚々と登校した。
報告は、昼休みか放課後にサロンに行って渡せばいいやと軽い気
持ちでいた私は、ヤツの我慢のきかない性格を忘れていた。
私が登校してしばらくすると、鏑木が私の教室まで乗り込んでき
たのだ。
クラスメートは騒然として、特に女子生徒達は嫉妬と羨望で大変
な事になっていた。
なにしろあの、女子にはほとんど無関心で相手にしない鏑木雅哉
が、自ら女子生徒︵私の事︶に会いに、よその教室までやってきた
のだから。
なんて事してくれてんだ⋮。
﹁おい、どうだった?﹂
朝の挨拶もなしに、いきなりそれかい。
﹁おはようございます、鏑木様。ここではなんですから、昼休みに
でもお話しますわ﹂
周囲に動揺を悟られないように、あくまでも余裕ある態度で接す
る。
お願いだから、この場で余計な事は言わないでよ。
このストーカーはバカだから、何言いだすかわからなくて危なっ
かしすぎる。
あぁ、クラス中に私がパシリにされてることがばれたらどうしよ
う。
119
そうしたら今の私の立場から転がり落ちる!
﹁いや、今話せ。待てない﹂
待∼て∼よ∼。
その我慢しない性格が、優理絵様を怒らせたんだって、いいかげ
ん気づきなよ。
それじゃいつまで経っても、許してもらえる日はこないよ?
﹁わかりましたわ。ここでは話せないので、別の場所に行きましょ
うか﹂
とにかく人の耳のない場所に行かなくては。ここで﹁パシリ﹂と
鏑木が発言したら、私は終わりだ。
それに、周囲の視線が怖すぎる。
﹁よし、じゃあついてこい﹂
相変わらず偉そうだなー。
私達が連れ立って教室を出ると、後ろから女子達の﹁一体どうい
うことー!﹂という叫び声が聞こえてきた。
私の平和な日常は終わったらしい。
あぁ頭痛い⋮。
﹁さぁ、結果を話せ﹂
サロンまで行く時間はなかったので、廊下のすみっこ。
もちろん皇帝の睨み一発で、慌ただしい登校時間帯だっていうの
120
に、この廊下のすみっこ一帯からは人がいなくなってしまった。
離れたところから大注目されてるのは、痛いほど感じるけどね。
﹁わかりましたわ﹂
私はポケットから畳んだ報告書を取り出した。
大体さー、﹁話は月曜日に聞いてくる﹂って言って、朝イチで結
果報告を聞けるって普通考える?
本当に何も考えていないおバカさんなのか、それとも、誰もが自
分のオーダーは最優先で叶えるものと思っているのか。
後者だったら、さらに嫌だな∼。
ストーカー鏑木は渡した報告書を食い入るように読んでいる。
⋮⋮一途っていえば一途なんだろうねー。
初恋の女の子が大好きで一喜一憂する小学生の男の子っていう姿
は、関わりないところから見てた時は、甘酸っぱいわ∼切ないわ∼
なんて微笑ましく思ってたけど、巻き込まれた今となっては迷惑な
ストーカーとしか思えないわ。
﹁⋮俺がここに書かれている事を反省して、これから先、優理絵を
見張る様な事をしないと誓えば、優理絵は許してくれるんだな?﹂
﹁そのようですわね﹂
鏑木はジッと考え込んでいる。
﹁それはいつだ?﹂
﹁は?﹂
何言ってんだ、こいつ。
﹁ですから反省したら⋮﹂
121
﹁反省はした。凄くした。それと優理絵の行動を尊重すると誓う。
ほら、優理絵の要求通りだ。今日か?明日か?それとも今すぐか?﹂
うへー⋮。
なんて面倒くさいヤツ。
皇帝の子供時代って、こんな面倒くさいヤツだったんだ?
いつも冷たい顔で退屈そうにしてる姿から、クールで素敵!なん
て騒がれているし、私も小学生なのに冷めてるなぁ子供らしくない
なぁなんて思ってたけど、どこがクールだ。ただのバカだ。
すっかり騙されてた。
﹁雅哉﹂
そこへ円城秀介がやってきた。
﹁こんなところで何やってんの。吉祥院さんまで﹂
あー、面倒くさいのが増えた。
﹁おぉ秀介!見てくれ、スパイがいい仕事をしてきた!﹂
﹁えっ。吉祥院さん、愛羅にもう聞いてきたの?仕事早いねー﹂
円城が鏑木の持っていた報告書を、横から覗き込んだ。
﹁ふーん、なるほどね。まぁ想像通りの内容じゃない?﹂
﹁今もこいつに話してたんだけど、俺は反省したし、優理絵の出し
た条件も飲む。だったらもう優理絵はすぐにも俺を許すよな?﹂
単純バカだな∼。
122
﹁バカだな∼、雅哉は﹂
うわっ、一瞬自分の心の声が外に漏れ出たかと思った。
﹁秀介てめぇ、ケンカ売ってんのか﹂
﹁ほら、反省反省。そういう短気なところも優理絵は怒ってるんだ
よ?﹂
﹁そんなこと書いてねぇだろ!﹂
﹁行間を読めって国語の授業でも言われてるだろ?ほらここ、他校
の中学生に飛び蹴りしたこと。短気が起こした行動を、優理絵は怒
ってるんだ。わかった?﹂
ググッと悔しそうに、鏑木が黙った。
﹁とにかく、反省したなんて口先だけで言っても信じてもらえない
よ。態度で示さなきゃね﹂
﹁じゃあどうしたらいいんだよ﹂
﹁そうだね∼。吉祥院さん、なにかいい案ある?﹂
﹁えっ?﹂
なんで私?
私は指示通りに優理絵様の気持ちを探ってきたんだから、もうお
役御免でしょ?
頼りになる親友も来たんだから、私にはもう用はないはず。
っていうか、もう関わりなくないから。
ちょうどその時、始業のチャイムが鳴った。
﹁あら。私、教室に戻らなくちゃ。じゃあ﹂
123
そそくさ、そそくさ。
﹁待て、スパイ﹂
鏑木が私を呼び止めた。
﹁お前も何か案を出せ。昼休みまでの宿題だ﹂
はあーーーーー???
なんで私がそんな事?!
それに策謀はスパイの仕事じゃないんじゃないの?
もう勘弁してよ⋮。
円城は苦笑いしていた。
いや、話を振ったあんたのせいでしょ。
もう本当に最悪だ⋮。
教室に戻るとすぐに担任の先生が入ってきたので、クラスメート
達の追求はとりあえず回避できた。
1時間目の授業が終わるまでの、つかの間の猶予だけどね。
鏑木との関係⋮。なんてごまかせばいいかな。
素直にパシリにされてますなんて、口が裂けても言えないし。
普通に﹁頼まれごとをしてたので﹂でいいかなぁ。内容を聞かれ
ると困るけど。
あぁ、なんかもう週の初めからツイてない。
124
21
案の定、1時間目が終わった途端に、私の周りには人がワッと集
まった。
﹁さっきのはどういう事ですか?麗華様!﹂
口火を切ったのは、1年の時から同じクラスの取り巻きその1、
芹香ちゃん。
﹁鏑木様と親しかったなんて、私達聞いてませんでしたよ?﹂
これまた1年の時から同じクラスの取り巻きその2、菊乃ちゃん。
このふたりは、取り巻きの中でも私に一番近い人間として認識さ
れているので、こういう時は一番初めに発言する。
﹁落ち着いて、皆様。私と鏑木様は特に親しいわけではありません
わ﹂
﹁でも、鏑木様がわざわざ女子に会いにくるなんて﹂
﹁実は、ある頼まれごとをされたので、そのお話をしていただけで
すのよ?﹂
﹁頼まれごとですか?それはなんですの?﹂
﹁それは私の口からは⋮﹂
その時、教室のドア付近から黄色い声があがった。
﹁吉祥院さん、いるかな﹂
﹁円城様︱!﹂
私を囲んでいた子達が、円城の登場にきゃあきゃあ騒ぎ出した。
125
こいつ、一体何しに⋮。
﹁あ、吉祥院さん、そこにいたんだ。さっきの雅哉との話だけど、
給食が終わったらピヴォワーヌのサロンに来てね﹂
そのセリフに騒ぎがさらに大きくなった。
あぁ私の平和な日常が⋮。
﹁あ、あの円城様?麗華様が鏑木様に頼まれごとしたって本当です
か?﹂
﹁あぁうん。そうだよ﹂
また悲鳴と歓声。
﹁頼まれごとってなんですの?﹂
﹁悪いけど、それは言えないな。君達もあまり詮索しすぎると、雅
哉を怒らせちゃうよ?それは困るでしょ?吉祥院さんも黙っててね﹂
﹁えぇ﹂
じゃあねと円城は笑顔を振りまいて教室を去って行った。
突然の円城訪問に、女子達の興奮はまだ冷めないようだったが、
余計なことを探ると鏑木雅哉が怒るという円城の言葉に、私から根
掘り葉掘り聞き出そうとしていた子達も、これ以上切り込むことが
出来なくなった。
あいつ、給食終わったらサロンに来いなんて、たったそれだけを
言うために、わざわざ短い休み時間に私を訪ねてきたの?
うーん。もしかして私が鏑木との仲を追求されるのがわかってて、
それをフォローしにきてくれたんだったりして。
126
いや、そこまで親切かなぁ?
でもマンガの中では、主人公をさりげなくフォローしてたよね。
そういう事のできる下地は持ってるって事か。
うーん⋮。
ま、どっちでもいっか。
これなら、あの日サロンで﹁スパイしてこい﹂発言を聞いていた
子達も、余計な事はしゃべらないかもしれないし。
そもそも元凶はあいつらなんだから、これくらいのフォローしと
けってんだ!
昼休み、行きたくなかったけどすっぽかしたら後が恐ろしいので、
心の底から嫌々ながらサロンに行った。
皇帝はいつもの特等席にふんぞり返っていた。
先週に比べて、ずいぶんと元気になっちゃったじゃないか。
いっそあのまま、ふらふらの抜け殻でいたらよかったのに⋮。
﹁遅いぞ!﹂
もうなにも言うまい⋮。
﹁吉祥院さん、とりあえず座って?﹂
﹁円城様、さきほどはフォローしに来てくださって、ありがとうご
ざいました﹂
そう言うと、円城はニコッと笑った。
127
ふーん、あれってやっぱりそういう事だったんだ。
別に感謝はしてないけどね。
﹁おい、なんの話だ?﹂
﹁なんでもないよ。それより、今後の事を話し合うんだろ?﹂
﹁そうだった!優理絵に俺が反省してる事をわかってもらうには、
どうすればいい?﹂
他力本願かよ。
﹁まずは雅哉の意見は?﹂
﹁俺は、優理絵に俺の気持ちをわかってもらう為に、毎日会いに行
って謝ろうと思う!﹂
このストーカーの発想が!!
こいつ、全然反省してないんじゃないの?
﹁雅哉、それって逆効果だと思うけど﹂
﹁なんでだよ?!﹂
いっそ清々しいほどのバカだ。
﹁じゃあ秀介はどうすればいいと思ってるんだよ!﹂
﹁ほとぼりがさめるまで連絡を一切しないで、静かに許されるのを
待つ﹂
﹁却下!﹂
まぁ確かにそれは、ストーカー君には耐えられないだろうな。
﹁よしスパイ!お前の意見は?﹂
128
もういい加減、その呼び方やめて欲しい。
﹁鏑木様、私の名前は吉祥院麗華といいます。スパイはやめてくだ
さい﹂
人前でスパイなんて呼ばれたら最悪だ。
﹁そうだよ、雅哉。相談に乗ってもらってるんだから、名前くらい
ちゃんと呼ばないと﹂
﹁ふんっ﹂
態度悪いな∼。
ま、そういうヤツだとわかってますけどね。
﹁で?何かいい案を考えてきたのかよ﹂
顎で発言を促された。
チッ⋮。
﹁私は毎日手紙を書くことを提案しますわ﹂
﹁手紙?﹂
そうだ、手紙だ。
本当は円城の言うように、しばらくおとなしくしてるのが一番い
いのだろうけど、この一途という名のストーカーには、耐えられま
い。
﹁どれだけ自分が反省しているか、今の状況をどう思っているのか。
129
まぁいわゆる反省文ですわね。メールでは無機質でいまひとつ心が
伝わりにくいと思うのです。そこで直筆の手紙です。優理絵様への
想いを手紙に綴るのです。日本では古来より、恋愛は恋文から始ま
ると決まっているのです﹂
﹁そうなのか!?﹂
さぁどうだろう?
﹁1通1通丁寧に、心を込めて書いてください。便箋と封筒は優理
絵様が好きそうな物を選ぶのです。それが、優理絵様の気持ちを尊
重してるよ、自分の気持ちを押し付けてないよというアピールにも
なるのです。時には小さな花束を添えてもいいでしょう。間違って
も大きな花束にしないように﹂
﹁なんでだ?どうせなら俺の気持ちをアピールするために出来るだ
け大きな花束のほうがいいだろう?﹂
﹁それが押し付けがましいのです。小さな花束のほうが、年下の一
途な初恋の想いを表現できるのです。優理絵様の情に訴えかけるの
ですわ﹂
﹁は、初恋ってお前!﹂
﹁今更です。学院中が知っています。それよりも鏑木様は今日授業
初恋
の言葉に、しばらく顔を赤くして口をパクパクさ
が終わったら、すぐにレターセットを買いに行くべきですわ﹂
鏑木は
せていたが、やがて立ち直ると、
﹁よし!その意見、採用だ!放課後、レターセットを買いに行くぞ
!二人とも、わかったな!﹂
え、何言ってるの?
130
﹁私は行きませんわよ﹂
﹁は?なんでだ?﹂
それはこっちのセリフだ。なんで私が一緒に行かなきゃいけない。
﹁私は放課後、習い事がありますもの。それに、鏑木様?さっきの
周りの人間を巻き込
。私を巻き込んではまた、優理絵様がお怒りになります
優理絵様の報告書に書いてありましたよね。
まない事
わ﹂
鏑木はしばらく黙りこんでいたが、
﹁⋮わかった。ご苦労だったな﹂
﹁えぇ。では私はこれで。ごきげんよう﹂
私は笑顔でサロンを後にした。
その後、手紙作戦は功を奏し、絆された優理絵様が鏑木を許した
そうだ
任務は無事成功した。
私はこの仕事を最後にスパイを引退し、普通の女の子に戻ります。
探さないでください。
131
22
無事スパイを引退してからは、あのふたりとはほぼ関わる事もな
く、私は実に平和な毎日を過ごしていた。
私がパシリにされていたという事も周りにバレる事もなく、恐れ
それどころか、
などというあらぬ誤解をされ、妙な羨望まで受
あの鏑木様に個人的に頼まれごとをされるくら
ていた学院内での地位転落は免れた。
い、親しい麗華様
ける始末だった。
いやいや、親しくないから。
あれ以来、ほとんどしゃべってないから。期待した目で見ないで
ください。
愛羅様とは、あれからも時々メールのやり取りをさせてもらって
いる。なんて贅沢なメル友!
勉強のアドバイスや、中等科の話のほか、鏑木と優理絵様のその
後の話なども教えてもらっている。
手紙作戦成功の情報も、愛羅様から教えてもらった。
優理絵様は毎日届けられる、鏑木からの一生懸命書かれた手紙と
可愛い花束に、わりとすぐに陥落した。
愛羅様はその手紙を直接読ませてはもらっていないそうだけど、
見せてもらった封筒と便箋はすべて違う種類で、可愛い花や動物が
描かれている物だったそうだ。
私のアドバイスを忠実に守ったらしい。
そんな可愛い便箋に毎日、謝罪と共に優理絵様に会いたい、寂し
い、ひとりはつらいなどと書いてあれば、元々鏑木を可愛い弟と思
132
っていた優理絵様は、母性本能と罪悪感にぐらぐら揺れてしまった
らしい。
泣き落としか。きっと円城の入れ知恵だな。
あげくの果てにはちゃっかり、今年のサマーパーティーでは一緒
に踊ってほしいなどと書いて、その約束を取り付けた。
さすが。転んでもただでは起きない。
実際サマーパーティーでは、照れ隠しなのか不機嫌な表情をしつ
つも頬を赤くして、しっかり優理絵様と踊っていた。
もしかしてあいつ、私とお兄様のワルツに憧れてた?
いつか自分も、なんて思ってた?
今も若干優理絵様より鏑木のほうが背は低いけど、あの頃よりは
身長差はなくなっているし、満を持してといったところだったのか
な。
ワルツはさすがは腐っても鏑木で、小学生のくせに流れるような
リードだった。
お嬢様方はうっとりとしていた。
私は、ケッという気分でローストビーフを齧っていた。
鏑木の行き過ぎたストーカー行為も、本当に反省したらしく落ち
着いたそうだ。
年上の優理絵様にふさわしくなるべく、日々精進中らしい。
学院では相変わらず冷たいポーカーフェイスで、女子達にきゃあ
きゃあ騒がれているけど、その正体を知っている私としては、暴露
したくてしょうがない。
しかしそんな事をすれば、破滅街道まっしぐらなので、自室の枕
に顔を埋めて、﹁本当はバカなんだぞーっ﹂﹁バカの上にストーカ
ーなんだぞーっ﹂﹁騙されるなーっ﹂と叫んで、ストレス解消をし
133
ている。
そんな、私が勝手に心の中でメル友呼ばわりしている愛羅様から、
創立記念日に一緒に出掛けないかというお誘いを受けた。
騎士様とデート!!
行きますとも!何があろうと行きますとも!
あぁ、なんということでしょう!!
いつもはお姫様役は親友優理絵様だけど、この日ばかりは私が騎
士様の守るお姫様役か?!
私の髪型は、お母様の趣味で毎日お手伝いさんが巻いてくれてい
る。
頭の後ろにはリボンまで付けられていて、まるでいんちきロココ
の女王だ。
でもこのいんちきロココの女王ヘアなら、前世で愛読していたフ
ランス革命のマンガのように、男装の麗人騎士とその騎士に守られ
る悲劇の王妃みたいになれるんじゃない?
うきゃーーーっ!
早速お兄様に愛羅様とお出かけをする自慢をしたら、女の子ふた
りだけでは危ないから、お兄様とその友達の伊万里様も一緒に行く
と言い出した。
あぁ、なんということでしょう!!
愛羅様だけではなく、お兄様と伊万里様まで!
右手に愛羅様、左手に伊万里様、背中にお兄様だなんて、はっ!
これはもしかしてあの少女マンガで大人気のシチュエーション、逆
134
ハーレムというやつなのでは?!
あぁ我が世の春⋮。
ももぞのいまり
桃園伊万里様は、お兄様の初等科からのお友達で、私も何度もお
会いしたことがある素敵な方だ。
実はこの伊万里様が、私に小さい花束のアイデアを間接的にくれ
た方なのだ。
伊万里様はお兄様に会いに我が家へ遊びに来るとき、いつも友達
の妹である私に、可愛い小さな花束やちょっとしたお菓子などを持
ってきてくれるのだ。
このお菓子も、きれいな瓶に入った蜂蜜だったり、お花の形のチ
ョコレートの詰め合わせだったり、実に女の子が好きそうな物を選
んでくる。
姉妹はいないはずなのに、高校2年生にしてすでに女の子の扱い
に長けている、なかなかに危険な匂いのする方だ。
いつもいろいろ贈り物もらっておいてなんだけどね。
もちろん優しくも危険な匂いのする伊万里様のことは好きですよ
?女は、優しいだけの安全パイよりも危険な男が好きなものだ。だ
から将来、伊万里様が女の敵になるんじゃないかと、楽し⋮心配し
ているのだ。
そんな伊万里様は、お兄様とは違ったタイプのイケメンさんだ。
鏑木、円城コンビもそうだけど、イケメンにはイケメンの友達が
できるものなのか?
そういえば、秋澤君の仲のいい友達って誰だったかなぁ。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮自分の事を棚に上げて、ろくでもないことを考えるのはやめ
よう。
秋澤君だってくりくりお目々のリスみたいに可愛い顔してるじゃ
ないか。
135
親しみやすい顔で、私は好きだぞ秋澤君!
愛羅様にふたりも一緒でいいか聞いたところ、快諾してくれた。
遊びに行く場所は、日本一人気のある遊園地。
みんな、私と一緒に動物の耳のカチューシャとか付けてくれるか
な?
お兄様、絶対嫌がりそう。
平日だけど、きっと混んでるだろうなぁ。来たるべき日に備えて、
しっかり食べてしっかり寝て体調管理しておかないと。
魅惑の逆ハーレムデーまであと少しだ!
ちなみに愛羅様情報によると、鏑木は創立記念日に優理絵様との
デート︵って本人は思っているだろうな︶を見事勝ち取ったらしい。
場所は博物館だそうだ。
さすが。
136
23
創立記念日は雲一つない青空で、絶好の遊園地日和だった。
三者三様のキラキラさん達に囲まれて、私の気分も絶好調だ。
なるべくたくさんのアトラクションに乗りたいので、私たちは開
園直前にやってきた。
一番最初に乗るのは、やっぱり人気のあるジェットコースター系。
まだお客さんが少ない時に乗っておかないとね。
お金持ちの家の子には並び屋を雇って代わりに並ばせ、順番がき
たら代わって乗るというような事をしてる子達もいるみたいだけど、
私達は自分達でちゃんと並ぶ。
そういうのって、なんかズルしてるような感じがして他のお客さ
んに悪い気がするんだよね。
ずっと立っているのは疲れるけど、おしゃべりしていれば楽しい
しね!
中等科と高等科のピヴォワーヌは合同なので、愛羅様とお兄様達
はそれほど親しいわけではないそうだけど、何度か話をした事はあ
るらしい。
愛羅様は伊万里様から、高等科の話を楽しそうに聞いている。
良かった。愛羅様があまり親しくもないお兄様達と一緒でつまら
ないって思ったら、どうしようかと思ってたんだ。
楽しんでもらえてるなら、私も嬉しい。
並んでいるほかのお客さん達が、こちらをチラチラと見ている。
あぁなるほど。キラキラさん達が気になるのですね。わかります。
見られている本人達はあまりいい気分じゃないだろうけど、つま
137
らない順番待ちの間の娯楽を提供してあげていると思って、許して
あげておくれ。
周りを見回すと、ほとんどが友達同士で来ているけど、ちらほら
カップルもいる。
客観的に見て、私達ってばダブルデートっぽい?
伊万里様と愛羅様はふたりで並んでいると美男美女カップルに見
える。うんうん。
そしたらお兄様は?
ダブルデートに誘える女の子もいないから、妹連れてきちゃった
可哀想な人?
やだ!私のお兄様が残念な人に見られてる!?
うちのお兄様だってモテるんだからね!バレンタインのチョコだ
っていっぱいもらってくるんだから!
妹しか誘う女の子がいない可哀想な人なんかじゃないんだからね!
﹁麗華、またおかしなこと考えてるだろう﹂
お兄様が胡散臭げに私を見てくる。
なんのことでしょう?
アトラクションは愛羅様と一緒に乗る。
だってロココの女王をエスコートするのは、騎士様と相場が決ま
っていますからね!
伊万里様が男同士で乗るの?って微妙な顔をしていたけど、当然
です。
それに愛羅様を伊万里様の魅力から守らなくては!
うん?私、お邪魔虫?
一通りジェットコースター系に乗り、そろそろ和み系に行こうと
歩いていたら、なんと伊万里様が私達にチュロスを買ってくれた!
138
食べ歩き!
夢にまで見た食べ歩き!
嬉しい!おいしい!
歩きながら食べるなんて、吉祥院家の令嬢として普段だったら絶
対に許されない。
でも今日はいいんだ!凄い、来てよかった!
買ってくれた伊万里様、ありがとう。
さすが女の子の気持ちがわかる憎い男!思わず恋をしてしまいそ
うです。
あぁ幸せ、とニコニコもぐもぐ歩いていたら、お兄様と伊万里様
が女子の集団に声をかけられた。
どうやら瑞鸞の高等科生らしい。創立記念日だから私達と同じく
遊びに来ていたのだろう。
﹁まさか桃園様と吉祥院様に会えるなんて!﹂
﹁伊万里様ったら、私達が誘った時はお断りになったのに﹂
﹁あの吉祥院様、この間の弓道の試合、私見に行きましたのよ。と
っても素敵でした﹂
﹁あら私だって﹂
凄い。アイドル見つけたファンの子達みたいだな。
おおはしゃぎだ。
私と愛羅様はそっと少し離れて、おとなしくチュロスを食べなが
ら、成り行きを見守っていた。
もしかして、この中にもお兄様にバレンタインのチョコレートを
渡した人達がいるのかしら?
毎年義理を含めて2、30個くらいはもらって帰ってくるよね。
あ、お兄様にうっとりしている女の子達もいる。
139
よし。小姑レーダースイッチON!
﹁桃園様、吉祥院様、今日はおふたりで?﹂
﹁いやいや、まさか。貴輝の妹ちゃんとその先輩と一緒だよ﹂
﹁妹、様?﹂
今頃気づきましたか。
﹁ごきげんよう、吉祥院貴輝の妹、麗華です﹂
﹁中等科2年の水無月愛羅と申します。よろしくお願いいたします
先輩方﹂
食べかけのチュロス片手じゃ様にならないが、にっこり笑って挨
拶をする。
﹁まぁっ!吉祥院様の妹様?!初めまして!﹂
それぞれが自己紹介してくださった。
しかし、お兄様の妹でしかも小学生の私には普通に笑いかけてく
るが、愛羅様を見る目が微妙にきつい。
ライバル認定ですか。
でも愛羅様の敵は、私の敵だ!
私の小姑レーダーはピコピコ反応してますよ。
大体、妹の先輩だって紹介されているのに、その値踏みするよう
な視線は失礼じゃないか。まぁ美人で凛とした佇まいの愛羅様の姿
に、少しひるんでるみたいだけど。
何事にも動じない愛羅様、素敵です。
あれ?そんな愛羅様を見て頬を染めているお姉さまもいる。これ
は私のライバル?!
140
﹁ねぇ桃園様、私達も一緒に回ってもよろしいでしょ?﹂
﹁そうね、せっかくですもの。ね、桃園様、吉祥院様﹂
﹁吉祥院様はお休みの日に妹様と一緒にお出かけなんて、本当にお
優しいのね﹂
﹁吉祥院様、もうお食事はなさった?よかったらぜひ一緒に﹂
﹁伊万里様﹂
﹁悪いけど﹂
お兄様が優しく微笑んだ。
﹁今日は妹とそのお友達の愛羅さんと、一緒に遊ぶ約束をしている
んだ。申し訳ないけど、またの機会にしてくれるかな﹂
﹁え、でも⋮﹂
﹁妹をないがしろにして嫌われたくないんだ。ごめんね﹂
お兄様は困ったように微笑んで言った。
彼女達はその顔を見て、それ以上強く押す事が出来なくなったよ
うだ。
﹁俺も妹ちゃんに嫌われたくな∼い。ごめんね。また明日学校でね﹂
﹁⋮わかりました。残念ですけど﹂
伊万里様もお兄様に便乗した。お兄様の私への愛は疑っていませ
んが、伊万里様は完全に私をダシに使いましたね?
まぁチュロスをおごってくれたので許しますけど。
女の子達は、断っても後ろからこっそりつけてくるかなと思った
けど、きちんと礼儀は守ってくれたようだ。
私達は再び、楽しい遊園地を満喫しはじめた。
141
夜は小学生の私と中学生の愛羅様がいるので、早めに帰る事にな
った。
それぞれ家の車が迎えに来たので、現地解散。
私もお兄様と一緒に吉祥院家の車に乗り込んだ。
﹁麗華、せっかくだから外で食事して帰ろうか﹂
﹁えぇっ!﹂
お兄様とふたりで外食!
ぜひ行きたい!
﹁行きたいです!﹂
﹁うん。じゃあ麗華は何が食べたい?﹂
私が食べたいもの?
う∼ん。どうせなら庶民的なシンプルな物が食べたい。私は庶民
の味に飢えているのだ。
お兄様だったら許してくれるかも。
カレーライス、豚の生姜焼き、焼き魚定食、ラーメン⋮。
﹁オムライス!﹂
町の定食屋さんのオムライス、あれはおいしいんだ。
何度かお昼に吉祥院家の料理人さんが作ってくれたこともあるけ
ど、お店のオムライスは別格だよね。
﹁オムライスね、わかった﹂
142
そして連れて行かれたのは丸の内にある、定食屋さんとはほど遠
い夜景の見える高級レストランだった。
テーブルには天井からピンスポットが当たっていて、やたらムー
ディー。
あれ?私が思い描いていた感じと違う。
メニューに書いてあったオムライスの値段は、元庶民の私からは
考えられない金額だった。
た、高い⋮。庶民の食べ物のはずなのに。
運ばれてきたオムライスは、ピンスポットで黄金色の卵とデミグ
ラスソースが光輝いていた。思わずオムライス様と呼びたくなった。
味は全く庶民的ではなかったけど、ほっぺが落ちそうなくらいお
いしかったので、これもまた良し。
﹁そういえば、今日はお兄様と伊万里様はモテモテでしたわねぇ﹂
そう言うと、お兄様はちょっと嫌な顔をした。
﹁お兄様はともかく、伊万里様は子供の私達と遊ぶより、あの方た
ちと遊んだほうが楽しかったのではないかしら?﹂
﹁⋮⋮伊万里は彼女いるから﹂
﹁ええっ!﹂
初耳だ!
﹁聞いてませんわ!﹂
﹁そりゃ言ってないからね﹂
﹁だったらなおさら、せっかくのお休みに私達と出かけてて良かっ
たんですの?﹂
﹁学校が違うからね﹂
143
なんと!
伊万里様に彼女がいたとは!そりゃあれだけかっこ良くて優しけ
れば、いても不思議じゃないけど。
愛羅様は遊園地で伊万里様と仲良く話していたけど、よもや好き
になったりしてないよね?
帰りの車の中で、早速愛羅様に今日のお礼のメールを送った。
そこに﹁さっきお兄様から伊万里様には彼女がいると聞いてびっ
くりしてしまいました!どんな方なのでしょうね?あ、これは私と
愛羅様だけの秘密にしておいてくださいね﹂と先手を打っておいた。
たぶんないだろうとは思うけど、万が一愛羅様が伊万里様を好き
になってしまって、﹁実は伊万里様が好きなの﹂なんてカミングア
ウトされたら困るので。
大好きな愛羅様と気まずくなる展開だけは避けたい。
その後きた愛羅様からのメールには、﹁彼女がいる話、私も今日
伊万里様から聞いたわよ。なれそめも聞いたけど知りたい?﹂とい
う、完全に私の取り越し苦労だった内容が書かれていた。
なにやってんだ、私。
144
24
お嬢様にはお嬢様のお付き合いというものがある。
私を含め、お嬢様たちはたくさんの習い事をしている。その習い
事には発表会が伴うものも多いのだ。
はっきり言って、子供の演奏や踊りなんて身内以外興味のある人
なんていないだろう。しかし身内だけでは客席が埋まらず、格好も
つかないので、子供のいる上流階級の家では社交も兼ね、お互い持
ちつ持たれつで観に行き合うのだ。
今日は、そんな関係のひとりが出るバイオリンの発表会だった。
一緒に観に来たお母様は、いまだに私にバイオリンを習わせる夢
を諦めきれないらしく、これを機に始めてみたら?などと言ってい
る。
お断りします。
お母様の強い薦めで一度体験教室にも行ったけど、バイオリンの
弦を押さえる指の腹が痛かった。摩擦で指紋が消えそうだ。軟弱な
私は、これはちょっと無理かなって思ってしまったのだ。
同じくお母様の薦めたフルートも、前世の小学校でクラスごとの
リコーダーの合奏発表会があった時、最後の最後で私は﹁プピーッ﹂
というとんでもない音を出してしまい、合奏を台無しにしてしまっ
たという悪夢の記憶があり、管楽器は軽くトラウマなのだ。
全員で教室に戻ったあと、﹁あの音出したヤツ一体誰だよ!﹂と
犯人捜しが始まった時は、本当に恐ろしかった。
私も、え∼知らな∼いという顔をしておいたが、内心、心臓がバ
クバクだった。気づいていたであろう隣の子達の口が堅くて本当に
命拾いした。
145
なので音楽系はピアノだけで勘弁して欲しい。
発表会も終わり、私達は花束を渡す為にロビーに出た。
待っている間に、なんとなく辺りを見回していると、意外な人物
がいた。
﹁秋澤君?﹂
秋澤君が私と同じように花束を持って、少し離れたところに立っ
ていた。
お母様に友達がいたからと断って、私は秋澤君の元へ行った。
﹁秋澤君?こんなところでどうなさったの?﹂
﹁えっ、吉祥院さん?!﹂
振り向いた秋澤君は私の姿を見てびっくりしていた。
﹁吉祥院さんがなんでここに?えっと僕は幼馴染が今日の発表会に
出演してるから観に来たんだけど、吉祥院さんは?﹂
﹁私も似たようなものですわ。お友達が出てましたの﹂
私達が話していると、秋澤君のお母様らしき方と、私のお母様が
やってきた。
﹁麗華さん、お友達の方?﹂
﹁あ、お母様。秋澤君です。瑞鸞の同級生で、塾も同じですのよ﹂
﹁初めまして、秋澤匠です﹂
お母様は相手が瑞鸞の生徒とわかって、にっこり笑った。
146
私も秋澤君のお母様にご挨拶した。
お互いの母親が挨拶をしている間に、私達はさきほどの話の続き
をした。
﹁幼馴染って、確かバレンタインにチョコをくれるっていう﹂
﹁あ、そうだよ。よく覚えてたねぇ。家が近所で小さい頃から家族
で仲がいいんだ。同い年だけど妹みたいなんだ﹂
﹁妹ですか﹂
﹁うん、昔っから僕の後をくっついてきて、幼稚園も一緒だったん
だ。別々の小学校に通う事になった時は泣いちゃって大変だったよ。
今日も絶対見に来てって言われちゃってさー﹂
秋澤君、それって⋮。
するとその時、発表会に出演していた子達とその家族が、ロビー
にぞろぞろと出てきた。
﹁匠!﹂
長い黒髪の和風美少女が、秋澤君の名前を呼びながらこちらに小
走りにやってきた。
﹁あぁ桜子、お疲れ様!演奏上手だったよ﹂
秋澤君はその女の子を笑顔で迎えた。
女の子は秋澤君に褒められて、嬉しそうに頬を赤らめて笑ったが、
隣に立つ私を見て戸惑った顔をした。
﹁匠、この人誰?﹂
﹁あぁ、こちらは吉祥院さん。瑞鸞の同級生で、塾で同じクラスな
147
んだ。学校のクラスは違うんだけどね﹂
ね、と私に無邪気に笑いかける秋澤君。
それを見て、ムッとした顔をする幼馴染ちゃん。
ふきおかさくらこ
﹁それでこっちが今話してた幼馴染の蕗丘桜子﹂
﹁吉祥院麗華です。初めまして﹂
﹁⋮蕗丘桜子です﹂
あきらかに私に良い感情を抱いていなさそうな表情だ。
あぁ、これは確定だな。
﹁匠、まさか一緒に来たの?﹂
﹁ううん違うよ。吉祥院さんのお友達も今日の発表会に出てたんだ
って。さっき偶然会ったんだよ。ね、吉祥院さん﹂
また秋澤君が私に笑いかけると、幼馴染の蕗丘さんの表情が益々
険しくなる。
あ、睨まれた。
﹁匠に女の子の友達がいるなんて、聞いてなかった。いつも話に出
てくるのは男の子の名前ばかりだったのに﹂
﹁そうだっけ?まぁ基本的に、塾でしか話さないから﹂
﹁仲、いいの?﹂
﹁え∼、どうだろう?仲、悪くはないよね?﹂
﹁え?えぇ、そうですわね﹂
蕗丘さんは、悲しそうに秋澤君を見つめた。
なんという事だ。
148
という、と
秋澤君をあなどっていた。私と同じく、恋愛には縁のない普通の
幼馴染とのじれじれな恋
小学生だと思っていたのに。
まさか、恋愛物の王道、
んでもない隠し玉を持っていたなんて!!
私と同じ浮いた話が全くない仲間だと思っていた秋澤君は、そも
そも私とは立っている土俵が違ったらしい。
幼馴染から毎年バレンタインにチョコをもらっていると言われた
時点で、気づくべきだった。義理チョコでも友チョコでもない、大
本命チョコだった。
そんな強力な恋愛カードを何一つ持っていない私と一緒にして考
えてたなんて、秋澤君にはスライディング土下座で謝罪したい。
秋澤君は蕗丘さんの機嫌が悪い理由がわからないらしく、暢気に
鈍感な幼馴染
だ。
﹁どうしたの?﹂なんて言っている。
王道だ。王道の
秋澤君、君が遠い人に思えるよ⋮。
蕗丘さんからしたら今の私は、小さい頃から好きだった幼馴染の
そばにいきなり出てきた、悪役ライバルキャラだ。
﹃君は僕のdolce﹄の主人公すらまだ登場していないのに、な
ぜ全く関係ないところで当て馬にならないといけない。
小学生にしてドロドロはごめんだ。
私を招待してくれたお嬢様仲間がロビーに現れたので、これ幸い
と撤退することにする。
﹁お母様、エミリ様がいらしたわ。お花を渡さないと﹂
﹁あら、そうね。では秋澤様、またお会いできる日を楽しみにして
いますわ。私たちはこれで。お先に失礼いたします﹂
﹁失礼いたします。ごきげんよう、秋澤君、蕗丘さん﹂
149
﹁こちらこそ、お会いできて光栄でしたわ。ごきげんよう﹂
﹁吉祥院さん、また塾でね﹂
﹁⋮ごきげんよう﹂
背中に刺さる、蕗丘さんの視線が痛い。
外に出ると雪が降っていた。
道理で寒いわけだ。
150
25
次の週の塾で、秋澤君にあの後の蕗丘さんの様子を聞いてみた。
﹁う∼ん、なんだかやけに吉祥院さんの事を気にしてたかな﹂
﹁そうでしょうね﹂
私だって逆の立場だったら、根掘り葉掘り追求するよ。
﹁変な誤解もしてるみたいだし﹂
﹁変な誤解。具体的には?﹂
﹁僕が吉祥院さんを好きなんじゃないか、逆に吉祥院さんが僕の事
を好きなんじゃないかって。あっ!もちろん否定しておいたよ!吉
祥院さんが僕の事を好きなんて、僕はそんな事考えてないから!嫌
な気分にさせたらごめんね﹂
﹁別に、大丈夫ですよ﹂
怒ったりなんかしない。だってありがちな流れだし。
﹁蕗丘さんは秋澤君が好きなんですね﹂
ズバリ、確信をついてみる。
﹁うえぇっ!なに、いきなり!え、え﹂
﹁まぁまぁ落ち着いてくださいな。で、どうなんですの?秋澤君は
蕗丘さんの気持ちには気づいていますの?﹂
﹁き、気持ちって。だって僕たちは兄妹みたいな関係で⋮﹂
﹁なに、ぬるい事言ってるんですか。蕗丘さんが秋澤君に恋してい
151
るのは、誰が見てもあきらかでしょう。で、どうなんですか?本当
に気づいていないのですか?﹂
秋澤君は黙り込んでしまった。
﹁黙り込んでも逃がしませんよ﹂
﹁う⋮。なんか吉祥院さんいつもと違うよ? あー、桜子が僕の事
を好きっていうのは、よくわからない。好かれてるのはわかるけど、
幼馴染としてかもしれないし。あ、でも幼稚園の時に、僕の⋮えっ
とお嫁さんになるって言ってた、かな﹂
王道だ。
﹁それで毎年バレンタインにチョコをもらって。どうせ、頻繁に互
いの家を行き来したりもしているのでしょう﹂
﹁えっ、なんでわかるの﹂
﹁わかりますとも﹂
すべてお見通しですとも。
﹁たぶん、家族ぐるみで小さい頃から仲良しという事は、お互いの
ご両親が、将来ふたりが結婚してくれたらいいわね∼とか、桜子ち
ゃんうちにお嫁さんにきてくれないかしら、あらどうぞどうぞ、な
んて会話もあるでしょう﹂
﹁どうして知ってるの!その通りだけど﹂
そうであろう、そうであろう。
﹁私には、秋澤君の将来が見えました﹂
﹁え⋮なにそれ﹂
152
﹁秋澤君が将来、蕗丘さん以外の女の子と結婚した場合、秋澤君の
お母様とお嫁さんの仲は微妙なものになるでしょう﹂
﹁なんで?﹂
﹁秋澤君のお母様は、小さい頃から可愛がっていた蕗丘さんと息子
である秋澤君が結婚したらいいなと思っています。そして蕗丘さん
自身もそれを望んでいます。なのに秋澤君が別の女性を連れて来た
ら、そりゃあ気に食わないでしょう。蕗丘さんが陰で泣いていたり
しようものなら大変です。お嫁さん憎しです﹂
﹁お母さんがそんな事を⋮﹂
前世で見た木曜日のドラマでは、お姑さんの気に入らないお嫁さ
んと結婚した時の確執は恐ろしいものでした。
﹁ですから秋澤君は覚悟を決めないといけません﹂
﹁覚悟?﹂
秋澤君は心なしか青ざめています。
﹁蕗丘さんの気持ちを受け入れる場合は、結婚までする覚悟です。
なんといっても家族ぐるみのお付き合いですからね。途中で別れで
もしたら、大変気まずい思いをします。もし蕗丘さんの気持ちを受
け入れられない場合は、早めに言ったほうがよいでしょう。ずるず
るこのまま引っ張ると、将来は⋮﹂
﹁将来は?﹂
﹁修羅場です﹂
講師の先生が教室に入ってきたので、授業開始です。
秋澤君は青ざめて勉強が手につかない様子でしたが、私は言いた
い事が言えてすっきりしました。
153
決して、王道ヒーローポジションだった秋澤君に嫉妬して、ちょ
っといじめてやろうなどと考えたわけではない。
それ以来、秋澤君はなにかと蕗丘さんとの事を相談してくるよう
になった。
秋澤君の幼馴染の蕗丘桜子さんは、私が幼稚園時代に瑞鸞初等科
のお受験にわざと失敗して、通おうとしてたカソリック系のお嬢様
学校に通っているらしい。
家が近所で生まれた時から仲が良く、幼稚園も一緒だったそうで、
ゆりのみや
本人は秋澤君と同じように瑞鸞に行きたかったそうだが、蕗丘さん
のお母様の出身校が百合宮女子学園で、どうしても娘を同じ学校に
通わせたいという希望があったので、泣く泣く瑞鸞を諦めたそうだ。
しかしその蕗丘さんが最近また、瑞鸞に行きたいと言い出したら
しい。
十中八九、私の存在のせいだろう。
この前会った時は楚々とした和風美少女だと思ったけど、恋愛に
関してなかなか猪突猛進型のようだ。
女子版ミニ鏑木といったところか?
﹁どうしたらいいかなぁ﹂
﹁そうですわねぇ﹂
正直言って、私の恋愛の知識なんて、ほぼ前世で読んだ少女マン
ガからのみだ。
人様の恋愛相談に乗れるような人間ではないのだ。
さて、どうしよう。
154
﹁とりあえず、蕗丘さんが一番心配しているのは、私という存在で
しょう?だったらいっそ蕗丘さんもこの塾に通ったらいかが?学院
では私と秋澤君はほとんど接点がありませんし﹂
本当は、さらに面倒な事になりそうだから、同じ塾に通うのなん
て嫌なんだけど。
でも秋澤君の為だ。しょうがない。
まぁ、私はライバルじゃないよ∼私にとって秋澤君はただの友達
だよ∼っていうのを直接見てわかってもらえればいいかなって。
早速、秋澤君はこの話を蕗丘さんにしたところ、5年生に進級し
た春から通ってくることになったらしい。
そして今年のバレンタインのチョコはいつも以上に物凄く気合の
入った品で、自分の気持ちがまだ決まっていない秋澤君は、ちょっ
と怖かったらしい。
私また、自分で自分の首しめちゃったのかなぁ。
155
26
春になり、私は5年生になった。
今年はクラス替えの年だ。
私の必死の祈りが通じたのか、今回も鏑木、円城コンビとは見事
違うクラスになった。
自分の強運が怖い。
どちらか一人とは3回ある初等科のクラス分けで、1回くらいは
同じクラスになってしまうかもと、心のどこかで思っていたのだ。
4クラスしかないし。
それなのに、私のこの引きの強さときたら!
あぁ、これで初等科卒業までは静かに暮らせる。
5年生にもなると、下級生がどんどん増えて、鏑木、円城コンビ
に憧れるファンもどんどん増えていっている。
同級生の、ふたりの取り巻きの女子達は、﹁下級生のくせに私達
の鏑木様、円城様に馴れ馴れしく近づかないで欲しいわ!﹂と睨み
を利かせている。
特に彼らと同じクラスの女子達のガードは堅い。教室の外まで彼
らを見に来た勇敢な下級生を絶対に寄せ付けない。まさに鉄壁のデ
ィフェンスだ。
そんな女子達の攻防を見ていると、奴らの外見に騙されるな!と
言ってあげたくなる。
塾には蕗丘さんが入ってきた。
156
さんざん秋澤君が説明したはずなんだけど、やっぱり私に対して
の疑惑は払拭しきれていないみたい。
本人は女子校だし、共学に行った秋澤君の事は心配でしょうがな
いんだろうな。せめて男子校だったらね。
﹁桜子。吉祥院さんが塾に来ればいいってアドバイスくれたんだか
らね。仲良くしなよ﹂
﹁⋮こんにちは。あの、誘ってくれてありがとう﹂
ちょこんと秋澤君の洋服の裾をつかんで、ご挨拶。
う∼ん。和風美少女、これが守ってあげたくなる可愛さというや
つか。
﹁こちらこそ。大好きな秋澤君と一緒に過ごせる時間が増えて良か
ったですわね﹂
﹁えっ﹂
﹁ちょ、吉祥院さん﹂
私の言葉にポッと赤くなる蕗丘さんと、あたふたと焦る秋澤君。
諦めたまえ、秋澤君。優しい君ではもうこの幼馴染から逃れるこ
とは出来まい。
可愛い幼馴染ちゃんが目の前でぽろぽろ泣いたら、秋澤君には突
き放すことなんて出来なさそうだもんなぁ。
だいたい、男の子が守ってあげたくなるタイプって思う女の子っ
て、同性からみたら普通の子よりもよっぽど根性据わってるしたた
かな子が多いんだよね。
ほとんどの男の子はそれに気づかないんだけどね。
前世の私だって、何度利用され踏み台にされ、煮え湯を飲まされ
たか⋮。
いや、別に蕗丘さんがそのタイプって言ってるわけじゃないよ?
157
その初日のご挨拶以来、秋澤君が蕗丘さんと隣り合って勉強する
ようになったので、今の私は塾でひとりだ。
優しい秋澤君は一緒に座ろうと言ってくれたけど、蕗丘さんが嫌
がりそうなので遠慮した。人の恋路を邪魔する趣味はありませんよ。
そんなわけで、私は久々にコンビニに行ってみた。
新作のお菓子があったので試しに購入。ついでに庶民の食べ物、
納豆巻きも購入。
なかなかの収穫だ。
塾に戻って時間があったので、トイレに行っておこうかなと向か
ったら、中から女の子達の噂話が聞こえてきた。
﹁あの縦ロール、新入りに彼氏取られてたね﹂
﹁そうそう。振られてぼっちになってた﹂
﹁かわいそ∼。振った男とその新しい彼女と一緒の塾って、きつく
ない?﹂
﹁ねー﹂
﹁縦ロール、プライド高そうだし﹂
﹁瑞鸞だもんねー。しかも縦ロールだし﹂
││なんという事だ!
って呼ばれてるんだ⋮。
私はどうやら、周りから彼氏を取られて振られた女の子として見
られているらしい。
縦ロール
とんだ濡れ衣だ。
しかも私、陰で
縦ロールって⋮。せめてロココとかアントワネットとかにして欲
しかった。
158
縦ロールじゃ何かのパンの名前みたいじゃないか。
うわぁ、落ち込むなぁ。
私、プライド高くないよ?髪型は縦ロールだけどさ。
マンガの吉祥院麗華だったら、そんな事を言われているのを絶対
許さないだろうけど、私には乗り込んで行って文句を言う勇気なん
て全くないので、そのままトイレを素通りして教室に戻った。
家に帰ってやけ食いした。
塾に関してはもうひとつ。
私は今まで塾では国語と算数のクラスのみに通っていた。
しかしいよいよ理科と社会科があぶなくなってきたので、今年度
から理・社クラスにも通う事にした。
理科と社会に関しては、実は数年前から怪しかった。
私が小学生の時って理科と社会でこんな事やってた?っていうよ
うな授業内容だったのだ。もちろんやっていたのだろう。私がすっ
かり忘れただけだ。
私が覚えている小学校の理科は、磁石で砂鉄取ったな∼くらいだ。
星座の名前だって、覚えているのはオリオン座くらいだった。
使えない⋮。
社会科に関しては、市町村合併が激しくて、気が付けば知らない
地名ばかりだし、都道府県の特産物もたいして知らない。それどこ
ろか山陰地方あたりは県の位置も怪しい。
川の名前わかんな∼い。平野の名前覚えてな∼い。
完全にほかの子供たちとスタートは一緒だ。
すでに前世の学力の恩恵は皆無だった⋮。
159
使えない⋮。前世の私、全然使えない!
毎日のんびりお菓子食べながら、ごろごろ少女マンガ読んでへら
へら笑っているような惚けた生活送ってたからだ、バカ!
どうでもいいことはいっぱい覚えているのに、勉強はすっかり忘
れているなんて!
家光将軍はホ〇だった、なんて腐ったことしか覚えていない脳み
そなら、いっそ潔くすべてを忘れてしまえ!
それでもこれまでは、自力で予習復習と、お兄様に家庭教師をし
てもらって凌いでいたけど、授業内容は難しくなっていくし、お兄
様も受験勉強があるのであまり邪魔も出来ないしで、塾に通う事に
したのだ。
通い始めた理科、社会クラスには、瑞鸞の男子生徒も何人かいた。
でも秋澤君のように私に話しかけてくる子はいなかった。
なんかやたらこちらをチラチラ見てはくるけど。
ふんっ、縦ロールにびびっているな。
こうしてみると、秋澤君という子は貴重だったんだなぁ。
失ってみてわかる、秋澤君のありがたみだ。
あの人懐っこいリスな笑顔が懐かしい。
ちょっとセンチメンタル気取りの今日この頃。
160
27
﹁よいっしょぉぉっ﹂
最近、心なしか若干太った気がするので、毎日夜、運動をする事
にした。
腕立て伏せ、腹筋、スクワットだ。
そして現在は、スクワット50回に挑戦中だ。
﹁よいっしょぉぉっ﹂
これが中々きつい。
両手を頭の後ろで組んで、体育の教科書通りに実践したら、あっ
という間に足がブルブルしてきた。
しかし、気合だ。
あともう少し。
﹁よいっしょぉぉっ﹂
美は一日にして成らず。
毎日の積み重ねが大事なのだから。
さぁ、あと3回!
﹁よいっしょぉぉっ﹂
ふうっ、汗をかいてしまったな。
161
お風呂にはさっき入ったけど、もう一度シャワーだけ浴びてこよ
う。
部屋を出ると、ちょうど廊下にいたお兄様に行きあった。
﹁あら、お兄様どうしたのですか?﹂
なにかお兄様が困惑した顔をしている。
﹁いや。なんか妙な物音が聞こえた気がしてね﹂
﹁物音ですか?﹂
私には何も聞こえなかったけどな。
はっ、もしかして泥棒?まさか幽霊?
﹁この家、幽霊がいるんですか?﹂
やだ怖い。私、怪談苦手なのに!
﹁どうしましょう、お兄様。私これからシャワーを浴びようと思っ
ていましたのに。幽霊は水場に出ると聞いています﹂
ホラー映画でも、殺人鬼に襲われるのは大抵シャワールームだ。
困った。今夜はシャワーを我慢すべきか。
﹁それはない。この家に幽霊が出るなんて聞いたことないから。安
心してお風呂入っておいで﹂
﹁でも∼﹂
﹁妙な物音が聞こえたのは、僕の気のせいだと思う。ごめんね、驚
かして﹂
﹁そうですか?お兄様がそういうなら信じますけど﹂
162
﹁うん﹂
お兄様が安心させるように微笑んだので、とりあえず信じること
にした。
しかしお兄様、受験勉強で疲れてるのかもしれないな。
どことなく顔色も悪かったし。
可愛い妹としては、お夜食を作って持って行ってあげたほうがい
いのかしら?
調理実習以外で料理した事ないけど。
まぁこういう物は気持ちの問題だから。きっとお兄様も喜んでく
れると思う。
夜食の定番と言えば、おにぎりとかラーメン?
いやいや、この家には似合わなすぎる。
でも夜にこってりしたものもね∼。
雑炊でも挑戦してみようかな。
早速明日、お手伝いさんに相談してみよう。
その夜はやっぱり怖いので、一応明かりを点けて眠った。
妙な物音はしなかった。
5月には毎年遠足がある。今年は牧場だ。
お母様からは出かける前に日焼け止めをしっかり塗られ、こまめ
に塗り直すようにとそれを渡された。
牧場では牛の乳搾りや乗馬や渓流下りなどを体験することになっ
ている。
163
着いた牧場は、自然がいっぱいで空気がおいしい!
思わず大きく深呼吸。
時々、糞の臭いもしたけどね。
乳搾りでは箱入りのお嬢様方は牛の大きさに怯えていたが、私は
わくわくしながら率先してやった。
うお∼、生暖かい!
終わると﹁麗華様は勇敢ですわ﹂と称賛されてしまった。だって
楽しいよ?
牧場にはほかにも山羊や羊やうさぎなどもいて、とってものどか。
片っ端からふれあってみる。
う、うさぎ可愛い。飼いたい!
うさぎのつぶらなお目々が私を誘惑するので、本気で連れて帰り
たくなってしまった。
私がのんびり山羊に餌をやっていたら、遠くで歓声があがった。
何事かと思って見に行くと、そこには颯爽と馬を乗りこなす鏑木
と円城の姿があった。
乗馬経験があるのか、ふたりとも堂々としたものだ。
その姿はまさに白馬の王子様。︵白馬じゃなかったけど︶
女子達は大騒ぎだ。
ほかにも何人か乗馬経験のある生徒もいるみたいだけど、残念な
ことにすっかり霞んでしまっている。
﹁鏑木様、素敵⋮﹂
﹁まるで本物の王子様みたい﹂
164
﹁きゃあ!円城様がこちらを見たわ!﹂
彼らに手まで振る子もいる。
もちろん振り返してはもらえなかったけど。
それでもいつもと違う姿が見られて、ファンの女の子達のテンシ
ョンは上がりまくりだ。
普段ポーカーフェイスの鏑木が、時々笑顔で馬に話しかけていた
りする。
不覚にも、私もそれを見て一瞬キュンとしてしまった。
いかんいかん、恐るべし動物マジック。
午前中にさんざん家畜と戯れて、昼食にお肉が出てきた時には全
員微妙な顔になった。
冷たい搾りたて牛乳はおいしかったけど。
そのまま午後の渓流下りとハイキングをして、一日体を動かした
おかげで、帰りのバスの中では全員疲れて爆睡してしまった。
川の水しぶきがかかったせいで、私のトレードマークの巻き髪も
少しくったりだ。
もう、起きられない⋮。
よだれを垂らしていないことだけを、切に願う。
しかし、あの鏑木と円城の乗馬はかっこ良かったな。
私も引き馬で体験したけど、あんな風にひとりで乗れたらもっと
楽しいだろうな。
聞けばお兄様も、昔たしなみとして乗馬を習った事があるそうだ。
弓道部なので流鏑馬をした事もあるそう。
165
何それ!知らなかった!
お兄様が流鏑馬する姿なんて、絶対見たかったのに!
私も習ってみたいなと思い、お母様に頼んでみたけど、女の子が
怪我をしたら大変という理由で反対されてしまった。
う∼ん、残念。
乗馬はダイエットにもいいらしいのにね。
166
28
私は最近、塾の理・社クラスで、とっても気になる子を見つけて
しまった。
その女の子はちんまりとしたおとなしそうな子で、たまたま隣の
席に座ったのだけど、私はその子のカバンに付いていた、ある持ち
物に釘づけになってしまったのだ。
とは、その名の通りとろろ芋のゆるキャラ
のぬいぐるみキーホルダー!
とろろん芋タロウ
とろろん芋タロウ
だ。
とろろ芋を生産しているある町が作ったのだが、いくらゆるキャ
ラといってもゆるすぎるだろうという、クオリティだ。
長芋に目、鼻、口をつけただけという代物。しかも顔が情けない。
眉が垂れ下がっちゃってるし。
そんなちょっと微妙な外見で、人気も知名度もいまひとつなのは、
本人︵中の人?︶も十分自覚があるのか、ゆるキャラ祭りのような
イベントでは、スターゆるキャラ達のお邪魔にならないように、端
で小さくなっている。
みそっかす状態だ。
そして私は、そんな微妙なゆるキャラ、とろろん芋タロウが大好
きなのだ!
もうちょっとどうにかならなかったのかという、あの手抜き感。
祭りで、スターキャラ達の人気に圧倒され、こそこそしている気
の弱さ。
167
でも晴れの舞台にはせめてものおしゃれと、蝶ネクタイなんか付
けてきて、さらに微妙な空気になってしまった物悲しさ。
初めて見た時には、これは人気でないだろうなぁ、地味すぎだし、
顔が可愛くない、なんて思ってたのに、何度か見ているうちになん
だか可哀想になってきちゃって、その内あの適当な顔も味があって
可愛いじゃないかと思うようになったのだ。
町おこしの為に作られたキャラクターなのに、全然自己主張でき
てないし。
でもその小心者ぶりが、わかるよその気持ち、とろろんには私が
いるよ!私が応援しなくてどうするよ!なんて母性本能がガンガン
刺激されてしまったのだ。
そのとろろん芋タロウのグッズをぶら下げている子が隣にいる。
お友達になりたい!
こんな地味で目立たないゆるキャラを好きな子なんて、なかなか
いない。
心ゆくまでとろろんについて語り合いたい。
っていうか、グッズ出してるって知らなかったし!
しかしお友達になる上手い方法が見つからない。
いきなり﹁お友達になってください﹂は怪しすぎる。
友達になるきっかけってどうやるんだっけ?
学院ではいつも周りが先に話しかけてきてくれてたから、自分か
ら動いたことがないのだ。
うわ∼、なんという役立たず。
とにかく、さりげなく話しかけるのだ。
そうだ、秋澤君の人懐っこさを思い出すんだ。まずはご挨拶⋮。
168
思い切って話しかけたくても、ちんまりさんはこちらを全く向く
気配がない。
何か空気の壁を感じる。
いや、ここは勇気だ!
﹁あの、そのカバンの⋮﹂
﹁えっ﹂
こちらを向いた女の子は、私を見て顔を強張らせた。
﹁あっ、邪魔でしたね。すみません、すぐどかします!﹂
﹁いや、あの⋮﹂
﹁ごめんなさい!﹂
とろろん芋タロウのキーホルダーがぶら下がったカバンを、慌て
て反対側に置き、その際に体も若干離された。
なんか私、怯えられてない?
もしかして私って、怖いの?
今度こそ完全に分厚い拒絶の壁を作られてしまったので、これ以
上話しかける勇気は出なかった。
え∼っ!なんでー!
しかし私は諦めなかった。
毎回、隣、もしくは近くの席に座り、私本当は全然怖くないんだ
よ∼オーラを必死で出し、目が合えば、笑顔を心掛けた。
私がジーッと見ているのを気づいているのか、彼女が私の方を見
ることはほとんどないけれど。
今の私って、ストーカー鏑木と同類?
169
﹁う∼ん⋮﹂
ジッと鏡の中の自分を見る。
﹁う∼ん⋮﹂
﹁麗華、鏡見ながら何をうんうん唸ってるの?﹂
リビングでひとり考え事をしていたら、お兄様がやってきた。
ちょうど良かった。お兄様に聞いてみる。
﹁お兄様、私の顔って怖いですか?﹂
﹁は?﹂
そこまで言うほど意地悪顔ってわけじゃないよね?
確かに親しみやすいって感じではないと思う。
まぁ、隙はないかなって思うけど。
お母様の趣味で髪はいつだってきれいに巻かれているし、服もす
べてブランド物だ。
子供服なんて成長してすぐ着られなくなるのに、こんな高い服ば
かりもったいないって思うけど、まぁ吉祥院家の令嬢がファストフ
ァッションというわけにはいかないしね。
その服もたくさんあるから、塾には同じ格好で行った事はほとん
どないかもしれない。
やっぱりそこかなぁ。
その隙のなさが怖がられる原因かも。
なんていうか、迫力がある?
顔が意地悪そうっていう理由でないといいな⋮。
170
目、つりあがってないよね?
﹁麗華の顔が怖いって、誰かに言われたの?﹂
﹁いえ、そういうわけではないのですけどね﹂
お兄様の顔を見る。
お兄様の顔は内面が滲み出ているのか、甘ったるくはないけど優
しげな感じがする。
私と話している時のお兄様は、いつも口角が少し上がっていて、
そこが親しみやすさに繋がってる気もする。
﹁目だけじゃなく、口角も大事か﹂
鏡を見て、ニッと口角を上げる。
うん、怪しい。
﹁僕は麗華の顔は別に怖くないと思うよ。今やってる百面相は確か
に怖いけど。で、突然そんな事を気にするようになったのはなぜ?﹂
﹁⋮仲良くなりたい子がいるのですが、なんだか怯えられている気
がするのです﹂
﹁ふーん。それは学院の子?﹂
﹁いえ、塾の子です。なるべくフレンドリーを心掛けて近づいてる
のですが、動けば動くほど、怯えてしまいます。なぜでしょう?や
っぱり私の外見が怖い?﹂
﹁その子は、どういうタイプの子なの?それによって対応の仕方が
変わってくるんじゃない?﹂
どういうタイプか。
﹁おとなしくて、こう小っちゃい感じの子です。でも小動物みたい
171
で可愛いですわ﹂
﹁普段、麗華が一緒にいるような子達とは違うタイプだね。そした
らあまり積極的に押すと、確かに怖がられてしまうかもね。自分が
もしその子の立場だったらって考えてみたら?﹂
私があの子だったら?
あの子は地味ってわけじゃないけどおとなしそうで、クラスの中
心グループではなさそう。
昔の自分だったら、たぶん簡単に仲良くなれた気がする。
私はおとなしくはなかったけど、周りにはあの子みたいなタイプ
の友達もいたし。
だったら、昔の私が吉祥院麗華みたいな子と仲良くなったかとい
うと⋮
⋮ないな。
だって話が合わなさそうだし、麗華みたいな隙のないお嬢様は怒
らせたら面倒くさそうだし。
あー、確かに自分は仲良くする気がないのに、麗華にグイグイ来
られたら怖いかも
スパイ騒動のときのストーカー鏑木の積極的すぎる行動にびびっ
た私と同じか。
でも私は待ち伏せなんてしてないけどなー。
﹁髪を切って、服ももっとラフにしたら警戒されなくなるかしら﹂
﹁それはきっと許してもらえないと思うけどね﹂
だろうな∼。
お母様は私に良家のお嬢様然とした姿を求めている。
きっとお母様には自分の娘はこうあるべきっていう理想像がある
のだろう。
でもお母様の趣味って、巻き髪といい、結構クラシカルだよね。
172
もしかして本当に、私をロココの女王みたいにしたいのか?
﹁じゃあ、どうしたらいいのですか?﹂
﹁そうだなぁ。地道に麗華をわかってもらうしかないんじゃないか
?本当の麗華は素直でいい子だからね﹂
お兄様!!
﹁わかりましたわ!私頑張ります!﹂
﹁うん。本当に麗華は素直だね﹂
久しぶりにお兄様に頭を撫でてもらってしまった。
気分も上昇。
とろろん芋タロウの話が出来るあの子と、早く仲良くなりたいと
焦っていたけど、お兄様の言う通り、 徐々に近づいて行ったほう
がいいかもしれない。
鏑木を反面教師にして、頑張るぞ!
173
29 吉祥院貴輝 / 桃園伊万里
妹は最近、ダイエットを始めたらしい。
部屋でストレッチをしているそうだ。
特に太っているようには見えないけどな。むしろ痩せていないか?
あまり無理をしないように言うと、嬉しそうに笑っていた。
いつもながら単純だ。
そして、妹の部屋から聞こえてくる、妙な掛け声の正体もわかっ
た。
なんと言っているのかまでは聞こえてこなかったけど、また妹の
部屋からおかしな声が聞こえてきたと、心配していたのだ。
﹁部屋の外まで気合の入った声が聞こえてきたよ﹂
とさりげなく言うと、﹁えっ、聞こえてました?やだ、気を付け
ないと﹂と驚いていた。
うん、聞こえていたよ。掛け声だけじゃなく、唸り声も聞こえて
きて怖かったよ。
また妹の奇行による問題がひとつ解決した。
僕は一応受験生なので、この1年はおとなしくしておいてくれる
と、ありがたい。
ある日、妹が夜食と称して雑炊を作って持ってきた。
夕食を摂ってそれほど時間も経っていないし、正直言っておなか
は全く空いていない。
別に徹夜で勉強するつもりもないし、1時くらいには寝る予定だ。
だから今から食べると、むしろ体には悪い気がする⋮。
しかし妹は早く食べて欲しいと、期待した顔でこちらを見ている。
174
困った⋮。
この土鍋、2人前くらいは入ってる大きさだよな。
妹の瞳はキラキラと輝いている。
仕方がない⋮。
覚悟を決めて蓋を開けると、ネギが散らされた卵雑炊が湯気をた
てて現れた。
茶碗によそい、レンゲで掬って一口食べる。
⋮⋮⋮しょっぱい。
塩を入れすぎだ、妹!
舌がビリビリする。今すぐ水が欲しい。
しまった、水がない。
熱い緑茶しかない。熱い食べ物に、熱い飲み物。⋮⋮妹。
部屋にある小型冷蔵庫から、慌てて水を取り出し、ごくごくと飲
む。
良かった、部屋に冷蔵庫取り付けておいて。
夜中に飲み物を取りに行って、うっかり妹の奇行に遭遇しないよ
う、昔買ったのだ。
﹁どうですか?お兄様﹂
しょっぱいよ。塩入れすぎだよ。これ、味見しなかったの?
﹁⋮⋮おいしいよ﹂
あんなつぶらな瞳で見られたら、とても本当の事は言えない。
しかし困った。味のないチョコよりも、しょっぱい雑炊のほうが
175
ハードルが高い。
茶碗によそった量すら、完食できる自信がない。
でも⋮。
妹は僕の言葉を素直に信じ、ニコニコと笑っている。
仕方がない⋮。
せめて、この茶碗の分だけでもなんとか頑張るしかないか。
表情には出さず、必死な思いで食べた。500mlの水はあっと
いう間になくなった。
すぐにもう1本開けた。
さすがに土鍋に残った分までは食べられなかったので、夜はそれ
ほど食欲がないから、ごめんねと謝った。
妹は﹁私も少し食べてみようかなぁ﹂などと言って、レンゲで一
口食べた。
﹁あれ?ちょっとしょっぱいかな﹂
気づいたか、妹!
しかしこれは﹁ちょっと﹂のレベルではないよ。
それでも妹は平気な顔で食べ続けている。
妹の味覚は大雑把すぎる。
そして、ダイエットはどうした。寝る前の炭水化物ほど恐ろしい
物はないぞ。
結局残りは妹が完食した。
このままでは、また地獄の夜食攻撃がくるかもしれない。どうし
よう。
﹁麗華、今日は夜食を作ってくれてありがとう。でも食べると眠く
176
なるし、これからは気を使わなくていいよ。僕も遅くまで起きて勉
強するつもりもないしね﹂
﹁そうなのですか?﹂
﹁うん。気持ちだけありがたく受け取っておくよ。それに夜寝る前
に食べると太っちゃうしね﹂
﹁あ、そうでした!﹂
ダイエットが気になる妹には、この言葉はよく効いたらしい。
良かった⋮。
土鍋を持って戻る妹を送り出した後、僕は水の飲みすぎでたぷた
ぷ状態になった胃を抱え、ぐったりした。
水の飲みすぎで気持ち悪い⋮。
いっそ吐いた方が楽になるかもしれない。
でも妹が一生懸命作った物を、簡単に吐いてしまうのは可哀想な
気がして、その夜はこみあげてくるものと戦って、なんとか消化し
た。
毎年恒例のバレンタインの味のしないチョコに関しては、去年一
緒に遊園地に行った水無月さんに相談した。
﹁妹の作る手作りチョコの味が薄いんだけど、どうしてなのかな。
一生懸命作ってくれた本人に言うのは可哀想なので、申し訳ないん
だけど水無月さん、それとなく妹に作り方を教えてあげてくれない
かな﹂
そうお願いすると、﹁チョコの味が薄い?﹂と不思議そうな顔を
しながらも快く引き受けてくれ、後日我が家で一緒にチョコ作りを
していた。
数日後、妹からもらったバレンタインチョコはちゃんと甘い味が
した。
177
一体、水無月さんはどんな魔法を使ったのだろう。あの子の作る
チョコが甘いなんて。
その事を水無月さんに聞くと、
﹁はっきりとした原因はわかりませんが、湯せんしすぎで分離して
たり、まぁいろいろな事がありましたわ。でも大丈夫です。麗華さ
んも今までの作り方と違う事をわかってくれたようなので、来年か
らはきちんとおいしいチョコを作ってくれますわ﹂
と言ってくれた。
ほっとした。
今回も水無月さんにお願いしてみようか。
でも妹は彼女にとても憧れている。憧れの先輩の前で失敗する姿
ばかりを見せたら、妹は落ち込むかもしれない。
あの子の将来のためにも、さりげなく料理教室を薦めるべきだろ
うか。
妹は外では上手に猫をかぶっている。
まさに吉祥院家の令嬢の名にふさわしい姿だ。両親もその中身が
残念なことには気づいていない。
その妹が、僕の前ではどんどん猫が取れて素のバカっぷりを晒す
ようになってきた。
それだけ僕に気を許しているんだろうけど、あまりにおかしな行
動をしすぎて、こちらを驚かせるのはやめて欲しい。
妹、クローゼットにぶらさがって懸垂の練習をしようとするな。
怖い。
178
♦♢♦♢♦
俺の親友、吉祥院貴輝はよく出来た男だ。
まず滅多に怒らない。
感情的になっているところはほとんど見た事がないし、基本的に
誰に対しても丁寧な対応をする。
弓道部でも部長を務め、後輩からも頼られている。
成績は常に上位だけど、それをひけらかす事もしない。
まるで非の打ちどころのない人間に思えるが、実際はなかなかの
腹黒で、優しげな笑顔で相手を思い通りに動かす。
一見誰にでも優しくて受け入れているように見えるが、本当に心
を許している人間は実は少ない。
でも根は真っ直ぐなヤツだ。なんだかんだで面倒見もいい。懐に
入れた人間は絶対に裏切らない。俺はあいつのそんなところを気に
入っている。
その貴輝には、妹がひとりいる。
妹ちゃんはよく出来た西洋人形のような外見の可愛い女の子だ。
黙っているとお人形さんみたいだけど、笑うとえくぼが可愛い。
俺が妹ちゃんにお土産を持っていくと、本心から嬉しそうな顔を
してくれる。
兄貴と違って裏がない。
たまに3人で話す時があるけど、妹ちゃんは俺の持ってきたお菓
子をおいしそうに食べている。お菓子が好きなんだな。
前に一緒に遊園地に行った時、妹ちゃんの目があちこちのワゴン
にいっているので、食べやすそうなお菓子を買ってあげたら、こち
179
らが驚くほど感謝されてしまった。
たかが数百円の食べ物に目を潤ませて﹁ありがとうございます、
伊万里様!﹂と言われたら、よしよしお兄ちゃんがなんでも買って
あげるよと言ってやりたくなった。
ヒナに餌付けしている気分だ。
への想いがヒシヒシと伝わっ
妹ちゃんは俺の話す貴輝の話をいつも楽しそうに聞く。妹ちゃん
大好きなお兄様
は貴輝が大好きだ。
妹ちゃんからは
てくる。
そして貴輝はこの妹ちゃんを、とても可愛がっている。
貴輝は距離感なくべったりしてくる人間を嫌う。
しかし実の妹となると別らしい。
妹ちゃんは可愛い。貴輝を本当に優しくて素敵なお兄様だと思っ
ている。
時々貴輝が妹ちゃんの反応で遊んでいることにも気づいていない。
手のひらで転がされ放題だ。
貴輝は自分をシスコンではないと思っているようだけど、俺から
したら充分シスコンだ。
リビングのソファに座る時は必ず自分の隣に座らせる。絶対に俺
の横には座らせない。
妹ちゃんの話を、普段のアルカイックスマイルではない、心から
の笑顔で聞いている。
妹ちゃんはそんな貴輝に頭を撫でられると、嬉しそうに笑う。
本当にこの兄妹は仲がいい。
俺には生意気な弟しかいないので、こんなに自分に懐いてくれる
可愛い妹がいたらと、貴輝が羨ましくなる時がある。
180
ある時、ピヴォワーヌのサロンで貴輝が愛羅ちゃんに﹁手作りチ
ョコが⋮﹂と何か相談している声が聞こえた。
貴輝にそれを聞くと、﹁妹にバレンタインのチョコの作り方を教
えてあげて欲しいと頼んだんだ﹂と言う。
バレンタインか。
貴輝は毎年、妹ちゃんから手作りチョコをもらっているらしい。
﹁今年は俺も妹ちゃんからもらえるかな∼﹂と言ったら、きょとん
とした顔で﹁なんで妹がお前にバレンタインのチョコをあげないと
いけないんだ?﹂と不思議そうに聞き返された。
シスコンめ⋮。
一度シスコンの貴輝をからかおうと、
﹁俺と妹ちゃんが結婚したら、貴輝は俺のお義兄ちゃんになるんだ
なー。どうする?もし本当にそうなったら﹂
と笑って言ったら、無言でみぞおちに重い拳を一発食らった。
⋮⋮悪かった、二度と言わない。
あの兄妹は面白い。
いや、妹ちゃんが絡むと貴輝が途端に面白くなる。
俺は今日も甘いお菓子を持って、吉祥院家を訪れる。
181
30
芹香ちゃんと菊乃ちゃんの仲がおかしくなっている。
原因は菊乃ちゃんが鏑木と同じクラスになったことだ。
クラス分けの発表で同じクラスになったのがわかった時、菊乃ち
ゃんは狂喜乱舞した。
それからは毎日、鏑木の話だ。
﹁国語の授業で朗読する姿が素敵だった﹂だの﹁鏑木様が使った後
のチョークを使ってしまった﹂だの。
私からしたら他愛もない内容に思えるが、芹香ちゃんにとっては
そうではなかったらしい。
﹁麗華様、菊乃さんたら最近調子に乗っていると思いません?鏑木
様と同じクラスになったからといって、毎日自慢話ばかり。なんな
のよ、あれ!﹂
ありゃりゃ∼。
芹香ちゃんと菊乃ちゃんはコンビのような関係だったのに、片方
が出し抜くような形になって亀裂が入っているらしい。
﹁麗華様だって悔しくないんですか?菊乃さんったら、まるで自分
の方が鏑木様に近いとでも言うような態度で!偉そうに!﹂
全然悔しくないけど?
だって私は別に好きじゃないし。
ただ、これだけ学院中にファンがいるふたりの事を、私は特に好
きでもないなんて言って、ヘタに波風立てる必要もないので、とり
182
あえず周りに合わせて﹁素敵ねー﹂などと適当に相槌を打っている。
﹁円城様もたまに教室に遊びに来るとか!あの子それを狙って、最
近休み時間も麗華様のところに来ないじゃないですか!私達への裏
切りよ!﹂
うわ∼、ヒートアップしてきたなぁ。
どうしようかな。
﹁菊乃さんは、芹香さんが喜ぶと思っていろいろ話してくるんじゃ
ないかしら。悪気はないと思うわよ?﹂
﹁⋮⋮そうは思えませんけど﹂
あきらかに納得してない顔だな。まぁ私もあれはただの浮かれす
ぎての自慢話だと思ってるけど。
﹁だって菊乃さんは芹香さんの事が大好きみたいですし。前に菊乃
さんの具合が悪くなった時にも、芹香さんが親身になって保健室ま
で付き添って行ってくれた事を凄く感謝していましたし。いざとい
う時、頼りになるのは芹香さんって、私にも言ってましたわよ﹂
﹁えっ⋮﹂
これは半分本当、半分嘘。
保健室に付き添ってくれたのを感謝してたのは本当。
頼りなるうんぬんは、私が﹁芹香さんは頼りになる人ね﹂と言っ
たら菊乃ちゃんが﹁そうですね﹂と返事をしただけだ。
﹁菊乃さんが⋮﹂
﹁菊乃さん、今は憧れの鏑木様と同じクラスになって、舞い上がっ
ちゃってるだけだと思いますわ。もう少ししたら落ち着くでしょう。
183
元々鏑木様は女子にほぼ無関心ですし。所詮は遠くの鏑木様より、
近くの芹香さんのほうが菊乃さんにとって、価値ある存在なのです
から﹂
﹁そうですわね﹂
お、乗った。
そうしたら⋮
﹁芹香さん、これ﹂
﹁えっ、マカロン?﹂
芹香ちゃんに渡したのはピンク色のマカロン。
﹁季節限定のさくらんぼのマカロンですの。鏑木様の好物ですわ﹂
﹁えっ!鏑木様の?!﹂
﹁えぇ、さっきピヴォワーヌのサロンに行った時に、鏑木様が召し
上がっていましたわ。私も1個頂いたのですが、食べずにもらって
きたのです。芹香さんに差し上げますわ。これ、菊乃さんには内緒
ね﹂
﹁まぁ⋮﹂
芹香ちゃんが嬉しそうにマカロンを両手に包む。
﹁鏑木様がお菓子を食べる姿なんて、なかなか見られないですわよ
ね﹂
﹁あら、そんなことないんじゃないかしら。あの方、結構甘党よ﹂
サロンではよくスイーツを食べているし、君ドルの中でも甘党描
写があった。
一時期、京都の老舗茶屋が出している、抹茶の生チョコレートに
184
はまっていたし。
隠しているわけではなさそうだけど、そもそも校則でお菓子の持
ち込みは原則禁止だからサロン以外で見る機会はないか。
﹁鏑木様とおそろいなんて、もったいなくて食べられないわ﹂
芹香ちゃんの機嫌が直ったので、とりあえずこっちは良し。
﹁あの⋮麗華様。さっき私が言ったことは⋮﹂
﹁もちろん、聞かなかった事にしますわ。だってあれは芹香さんの
本心ではないでしょう?﹂
﹁はいそうなんです。ありがとうございます麗華様﹂
いえいえ、どういたしまして。
﹁麗華様、芹香さんの最近の態度どう思います?私が鏑木様と同じ
クラスになったから嫉妬しているんだわ!﹂
今度は菊乃ちゃんが芹香ちゃんのいない隙をみて、私の元へやっ
てきた。
﹁羨ましかったら素直に羨ましいって言えばいいのに。せっかく私
が鏑木様の話をしてあげてるのに、睨んできたりして。性格悪いと
思いません?﹂
おりょりょ∼。
上から目線ですねー。
どっちもどっちだと思います。
185
﹁芹香さんは、菊乃さんが鏑木様の話ばかりで拗ねているのですわ﹂
﹁拗ねている?﹂
﹁これ、私が言ったって内緒にしてくださいね。芹香さん、菊乃さ
んが芹香さんより鏑木様のほうが大事なんじゃないかって私にこぼ
してきましたの。自分の方が菊乃さんと仲良しだったのにって。な
んだか寂しそうでしたわ﹂
﹁え⋮﹂
﹁芹香さんは菊乃さんが大好きだから。それなのに最近、菊乃さん
は鏑木様の話ばかり。自分がないがしろにされてる気分なのでしょ
う。芹香さんが嫉妬しているのは、菊乃さんではなくて鏑木様に対
してなのではなくて?﹂
こっちは全部嘘。
﹁でもこれ、芹香さんに確かめたりなさらないでね。芹香さん意地
っ張りだから本心を知られたら、ますます拗ねて大変なことになり
そうですもの﹂
﹁芹香さんがそんなことを⋮﹂
﹁ここは菊乃さんが大人になって、芹香さんに歩み寄ってあげたら
?そしたら菊乃さんが大好きな芹香さんの機嫌はすぐに良くなりま
すわよ。だって、ふたりは親友なのですから﹂
﹁親友⋮、そうですわね。私達は親友でしたわ﹂
親友って特別っぽくて憧れるよね。
菊乃さんの怒りも収まったらしい。
﹁麗華様、さっき私が話したことは⋮﹂
﹁もちろん、聞かなかった事にしますわ。だってあれは菊乃さんの
本心ではないでしょう?﹂
186
﹁はいそうなんです。ありがとうございます麗華様﹂
いえいえ、君たちは似た者同士だよ。
その後すぐにふたりは仲直りした。
私のついた嘘はばれていないらしい。ふたりは、らぶらぶベタベ
タだ。
小心者の私としては、ゴタゴタに巻き込まれるのはごめんだ。だ
って怖いんだもん。
いつとばっちりがくるかわからないし。
平和が一番だよ。
そういえば﹃君は僕のdolce﹄中で、吉祥院麗華は主人公の
嘘を皇帝に吹き込んで、仲違いさせるシーンがあったな⋮。
187
31
よりのあおい
もう夏だというのに、私と塾のあの子には全く進展がない。
しかし名前はわかった。頼野葵ちゃん。
例によって、教材に書いてある名前を盗み見た。
葵ちゃん、ぴったりな名前だ。
私のストーカー指数はどんどん上がっていってる気がする。
もう鏑木を笑えない⋮。
しかしチャンスは突然やってきた。
いつものように、私は葵ちゃんの隣の席を確保し、様子を窺って
いた。
すると、授業の用意をしていた葵ちゃんがペンを落としたのだ!
私は光の速さでそれを拾った!
﹁あ⋮﹂
ペンを奪われた葵ちゃんは、私を見て狼狽した。
チャンス!一世一代のチャンス!
﹁あの⋮﹂
﹁わ、私、吉祥院麗華と申しますの!ごきげんよう!﹂
葵ちゃんの手は、私がしっかり握っているペンに向かって宙を泳
いでいるけど、これは大事な人質。そう簡単には返せない。
﹁あの⋮﹂
188
あぁ怯えてる。
なぜ?私の目が獲物を狙ってギラギラしてるから?縦ロールだか
ら?
やだーっ、私怖くないよ?!
突破口、突破口⋮
﹁私も、とろろん芋タロウが好きなんですわ!﹂
﹁えっ﹂
私は直球勝負に出る事にした。
そもそも、私が葵ちゃんと仲良くなりたいと思ったのは、カバン
に付けられてた人気のないゆるキャラを見たからなんだ。
﹁貴女のその、とろろんのキーホルダーを見た時から、お話しした
いと思ってましたの﹂
あぁなんだか告白してる気分だ。
緊張して手が震えてきた。心臓がバクバクする。
﹁だから、あの、私とお友達になってくれません?﹂
﹁⋮⋮﹂
うわぁ、緊張で涙が出そうだよ。
お兄様、地道に近づくつもりが、一気に間合いを詰めてしまいま
した!
どうしよう、助けにきてーーー!
﹁⋮⋮⋮あの、ペン、返してください﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
189
あー⋮終わった。
葵ちゃんはカバンのとろろんと同じように、眉が下がっていた。
やっぱり私みたいな子とは、仲良くしたくないんだ。
そりゃそうだよね。いんちきロココの女王なんて、葵ちゃんみた
いな子が一番苦手なタイプだもんね。
どうせ私は縦ロールだし。
そっか、そっか。
ごめんよ。もう付き纏わないよ。縦ロールは静かに撤退するよ⋮。
私はペンを葵ちゃんに差し出した。
絶対、泣くもんか。
お兄様、私、振られてしまいました。
がっくし⋮⋮。
﹁⋮⋮こちらこそ、よろしくお願いします﹂
私が返したペンを握りしめながらしばらく考え込んでいた葵ちゃ
んが、顔を上げて私を見ると、こう言った。
なにが?
﹁私、頼野葵です﹂
知ってます。ストーカー予備軍ですから。
﹁お友達になってください﹂
葵ちゃんはそう言って、笑った。
190
えーーーーーっ!!
﹁本当に?﹂
﹁うん﹂
えっ、なんで?!あんなに怖がってたのに。どうして?!
﹁でも、私の事、避けてましたわよね?﹂
葵ちゃんがちょっと気まずい顔をした。
余計なことを聞いてしまった。
﹁これ、好きだって言ってくれたから﹂
そう言って、カバンのとろろんを指差した。
﹁とろろん、好きだって言ってくれた人、今までいなかったの﹂
﹁私も!﹂
直接周りに聞いたことはないけど、とろろん芋タロウを好きだと
いう子どころか、話題にすらならなかった。たぶん存在を知らない
のだろう。
﹁私も、とろろんの事、おしゃべりしたいな﹂
﹁うん!﹂
やった!やったよ!
お兄様!私、頑張りました!
葵ちゃんと、お友達になれたようです!
191
授業が始まったので話は一時中断したが、終わるとすぐに葵ちゃ
んとのおしゃべりを再開した。
葵ちゃんのお祖父ちゃんの住む田舎が、とろろん芋タロウ発祥の
地だということ。
キーホルダーは去年、そのお祖父ちゃんの家に遊びに行った時に
買ったということ。
とろろんグッズは地元でしか売っていない事。
﹁なるほど∼。私もネットで探してみたんですけど、とろろんグッ
ズはどこにも売ってなくて、一体頼野さんはそのぬいぐるみキーホ
ルダーをどこで手に入れたんだろうって思ってましたのよ。もしや
手作り?と思ったり﹂
﹁あはは。たぶん知名度がないからネット販売もしないんだと思う。
種類も少ないし、あんまり売れてないみたい﹂
﹁そうなんですの?﹂
﹁うん。地元で売ってるとろろ芋の袋には、とろろんの絵がプリン
トされていたり、お店にパネルが置いてあったりもするんだけど、
私が行った時にはとろろんグッズを買っている人が私以外いなかっ
た﹂
﹁あら∼﹂
やっぱりとろろんは不憫な子なんだ⋮。
葵ちゃんがとろろんを好きになったのも私と同じく、あまりに冴
えない姿にだんだん可哀想になったからだという。
同情票からしか、とろろんはファンを獲得できないのか。
﹁よく見ると、味のある顔してるんですけどねー。パッと見は地味
ですものねー﹂
192
﹁うん⋮﹂
ベースの色が薄茶色っていうのも、地味なんだと思う。
その後も2時間目が始まるまでずっととろろん話で盛り上がった。
とっても楽しかった。
葵ちゃんとは来週も隣に座ろうと約束した。嬉しいな。
帰って早速お兄様に報告した。
﹁やりましたわ、お兄様。葵ちゃんとお友達になりましたの!﹂
﹁葵ちゃん?前に話してた、塾で仲良くなりたい女の子?﹂
﹁そうですわ。今日はとろろんの話で盛り上がりましたの﹂
﹁あぁ、あの麗華が好きだという、微妙なゆるキャラ⋮﹂
前にお兄様にネットでとろろん芋タロウを見せたことがあるのだ。
お兄様、その時も﹁微妙⋮﹂って言ってたな。
﹁お兄様にはとろろんの魅力がまだ伝わりませんか∼﹂
﹁そうみたいだね。たぶん伝わる事はないと思うよ﹂
﹁えーっ﹂
お兄様には、どうしてこの可愛さがわからないかなー。
でも葵ちゃんとの事でアドバイスしてくれたもんね。
今度お礼に、またお夜食を作ってみようかな。
お兄様、楽しみにしていてね!
あー、今日はとってもいい日だった!
193
32
秋になり、また運動会の季節がやってきた。
高学年になると、運動会の実行委員という役目が回ってくる。
そしてなぜか私のクラスからは、女子の実行委員に私が選ばれて
しまった。
特別運動神経がいいわけでもなく、企画力や行動力があるわけで
もない私がなぜ?と最初は思ったけど、どうやら先生の、下級生を
ある程度従わせる事ができるだけの権力を持っている生徒のほうが、
スムーズに事が運ぶだろうという思惑があったようだ。
正直言って、面倒くさい⋮。
小学生なので、実行委員といってもそれほど大した仕事はない。
クラスごとに提出する各競技の参加生徒が書かれた紙をまとめる
とか、先生の雑用係とか、まぁ細々とした事ばかりだ。
そして当日も実行委員のテントで、進行を担当するらしい。
本格的な運動会準備が始まる前に、5年6年で構成される実行委
員が集められ、初の顔合わせがあった。
その中には、円城秀介の姿もあった。
女子生徒達は色めきたった。まさかあの円城が実行委員なんてや
るとは思わなかったらしい。私も同感だ。
他の委員達の顔ぶれも見たけど、たぶん円城も私と同じ理由で抜
擢されたんだと思う。
プティピヴォワーヌのメンバーなんて、私と円城くらいだ。
でも円城なら私と違ってはっきり断れそうなのにな。
意外と協調性のある人間なのか。
194
そういえば、君ドルの中では皇帝と周囲の調整役だったっけ。
実行委員の自己紹介が行われ、実行委員会の仕事の概要の説明が
あった後、いざ仕事を始めようとした時に、問題が起こった。
女子達が円城をわらわらと取り囲み、まるで仕事をしないのだ。
円城本人は、プリントを印刷したり部数ごとにまとめたりと、真
面目に働いているのだが、彼を取り巻いている女子達は円城に話し
かけるだけで、全く手が動いていない。
ほかの男子委員達から注意されても、﹁円城様を手伝っている!﹂
と言い張り、それどころか﹁自分達がモテないから嫉妬∼?﹂とバ
カにされ、男子達はそれ以上何も言えなくなってしまった。
円城にも注意されて、一応は働くようになったが、そばから離れ
るような仕事は一切拒否だった。
これ、完全に人選ミスでしょう⋮。
そんな中、私は騒ぎから離れた席で、黙々とプログラムを折って
いた。
円城大奥のせいで人手が足りないので、大変だ。
プログラムは外注で届くのだが、なぜかふたつに折るのは実行委
員に回ってきた。
どうせ外注するなら、最後までやってもらえばいいのに。よくわ
からん。
紙は手の水分を奪っていって、上手く1枚ずつ取る事が出来なく
なった。
困った⋮。指サックがあればいいんだけど。
キョロキョロと周りを見渡すと、指サックはなかったが、輪ゴム
があった。
指先に輪ゴムを巻く。
紙を取る。
おぉっ!取りやすい!
195
はかどる、はかどる。
取っては折り、取っては折りをマシンのように繰り返す。内職マ
マさんが取り憑いたかのように、一心不乱に作業する。
通りすがりの男子が﹁えっ、輪ゴム?!﹂と呟いていたが、気に
しちゃいられない。所帯じみていようが効率重視だ。
大奥の女どもの楽しげな笑い声が響く。働け。
それからも実行委員の女子達は円城主体に動いていて、ほとんど
役に立たない。
ほかの男子委員達はとっくに諦めたらしい。
そのぶんこっちにどんどん雑用が回ってくる。
次の日からは、ラメ仕様の指サックも用意した。肩こり用の無臭
液体塗り薬も完備だ。
すっかり事務作業が板についた。
コピー機の扱いもお手の物。縮小、拡大、両面コピーなんでもご
ざれだ。
6年生の男子委員長は﹁さすが吉祥院さんだね﹂とおだてて、雑
用を押し付けてくる。
そんな見え透いたお世辞に騙されるもんか。
でも断れないので、コピーしたプリントを束ねてホッチキスで打
つべし、打つべし、打つべし。
あれ?おかしい。
私は特権階級のピヴォワーヌメンバーで、女子の中でも上位カー
ストに位置しているはずなのに、気が付けば一番パシられている。
あまりにも有能な、内職麗華に成長しすぎたか。
大奥の女どものするべき仕事を丸ごと被っている気がする。
くっそー!あいつら働け!
196
ある時、下級生のクラスで、競技の参加選手に重複があったので
直接クラスに注意しに行く事になった。
こういう時はピヴォワーヌの威光を背負う私と円城が行くべきな
のだが、円城が動けば大奥も動いて、御鈴廊下状態になりそうなの
で、私ひとりで行く。
問題の3年生のクラスは休み時間で、特に男子がなかなか言う事
を聞いてくれない。
ここ最近の実行委員のストレスで、すっかり私の心はやさぐれて
いた。
あんた達、この私を誰だと思ってるの!吉祥院麗華様よ!!天下
の!!
と心の中で叫ぶ。
口に出して叫ぶ勇気は全くない。
くっそー!どいつもこいつも!
女子生徒は私の言う事をよく聞いてくれ、協力してくれようとし
ているのだけど、一部の男子が言う事を聞かない。
っていうか、あんたが重複選手だろうが!話聞け!
﹁ですから、この競技は両方出ることは出来ないのですわ。どちら
か一つを選んで、残りは他の生徒に出てもらってください﹂
﹁えーーっ、それじゃ勝てないじゃん!﹂
知るか、ボケ。
﹁とにかくこの二つの競技に両方出る事は出来ないのです。こちら
の競技が終わった後、すぐに始まってしまうので、間に合わないの
ですわ﹂
197
﹁じゃあ走っていく﹂
﹁そういう問題ではありませんわ﹂
なんだこのバカ、本当に瑞鸞の生徒か?
前世の公立小学校の男子達を思い出すなー。
﹁ちょっと麗華様の言う事聞きなさいよ!﹂
﹁は?知らないし﹂
なんだと、こら。
梅干しの刑をお見舞いすっぞ!
そのうち、私を放って女子対男子の言い争いになってきた。
あぁもう収拾つかない。
﹁はい、そこまで﹂
円城がパンパンと手を叩きながら教室に入ってきた。
﹁桂木、あまり吉祥院さんを困らせないでくれるかな。いいからさ
っさと重複競技を訂正しろ﹂
悪童は円城の知り合いらしく、途端におとなしく従った。
騒がしかったクラスもすっかりおとなしくなり、女子は円城のそ
の統率力にうっとりだ。
くっそー、これが本物のカリスマ性とハリボテの差か!
円城が来たことで、あっという間に問題も解決し、私達はそのま
ま実行委員の教室に戻る事になった。
198
﹁吉祥院さん、行くなら声かけてくれれば良かったのに﹂
﹁円城様の周りは賑やかで、忙しそうでしたので﹂
チクリと嫌味。
﹁あー、あれね。僕も困ってるんだけど。吉祥院さん、随分仕事ま
かされてるよね。僕も手伝うよ﹂
余計なのがくっついてくるから、いらん。
﹁大丈夫ですわ。円城様はご自分の仕事をなさって﹂
﹁そう?﹂
教室に戻ると、大奥の女どもが上様に群がる。
﹁円城様、私達も一緒に行きましたのに﹂
﹁これ、円城様に頼まれた仕訳、終わりましたわ!﹂
私は先輩に訂正してもらった事を報告して、残りの書類をまとめ
て職員室に持って行った。
あぁ、癒しが足りない⋮。
199
33
運動会当日、私は来賓の方々へ先生方とともにご挨拶に回ったり、
朝から忙しかった。
瑞鸞の誇るピヴォワーヌメンバーと吉祥院家の肩書を、先生方に
フルに利用されている気がする。
そしてそれは隣の円城も同じだ。
その後はすぐに、実行委員のテントに戻って放送案内係だ。
こういうのは放送委員がやるものだと思っていたのだけど、放送
委員は運動会で流す音楽などを担当して、マイクは握らないらしい。
放送係は、競技に出ていない委員が順番に担当していく。表の仕
事が苦手な人は裏方に回る。
もちろん私も裏方志望だ。あがり症なので、案内放送なんて確実
に声が震える。
プログラムと原稿の内容に不備がないか確かめてから、放送係に
渡す。
そのほかにも、リレーのコース取りの為に、ポイントで旗を持っ
てひたすら立っているような地味な仕事をこなす。
お母様に塗りたくられた日焼け止めが役に立ちそうだ。
先生から頼まれた雑用をこなして、テントに戻るとやっと一息つ
けた。
冷たいお茶を飲んでボーッと障害物リレーを見物する。
やっぱりパン食い競争とかはないのねー。それがあんぱんだった
ら絶対出たのに。
200
﹁吉祥院さんは本当によく働いてくれるね﹂
先生のひとりに声をかけられた。
﹁そうですか?ありがとうございます﹂
﹁午前中は動きっぱなしだったろう?午後はほかの人にまかせて、
少し休むといいよ。吉祥院さんはなんの競技に出るの?﹂
﹁借り物競争です﹂
運動神経よりも運に左右される、わりと無難な競技かなと思った
のだ。
あとはダンスとか徒競走とか大玉送りとか。
徒競走は嫌だな∼。なんとか3位までには入りたい。
借り物競争の順番が来たので、クラスに戻る事にする。
借り物競争、変なお題が出ないといいなー。メガネとかそういう
のがいい。
一応、客席を見回して、どこにどんなアイテムがあるか確認して
おく。
取り乱してみっともない姿だけは晒さないようにしないと。
一緒に出るクラスメートと﹁頑張りましょうね﹂などと励まし合
う。
うー、ドキドキしてきた。
借り物競争が始まり、お題を引いた生徒達がアイテムや人を求め
て右往左往している。
頼む、簡単なお題!
201
私の番が来て、引いたお題は﹁足の速い友達﹂
誰だ、それ。
私は頭で考えるより、体が先に動いてしまった。
私が知っている足の速い友達はただひとり。
﹁秋澤君!一緒に来て!﹂
驚く秋澤君の腕を引っ張り、ゴールを目指す。
秋澤君は何がなんだかわからないながらも、一緒に走ってくれる。
秋澤君と一緒にいた男子達がわあわあ騒いでいる。誤解すんな。
ゴールして係員にお題の紙を渡すと、それをマイクで読み上げら
れた。
確かに秋澤君はリレーの選抜メンバーだ。
私はなんとかクラスに貢献できる成績を出せた。
﹁足の速い友達かぁ。いきなりびっくりしたよ﹂
﹁うん、ごめんなさい﹂
秋澤君しか思い浮かばなかったんだよ。﹁足の速い友達﹂じゃな
く﹁足の速い人﹂だったらほかの人も思い浮かべる事ができたかも
しれないけど。
﹁違うクラスに協力して、僕みんなに怒られるかも﹂
そう言いながら、秋澤君は笑っていた。
もしかしたら面倒事に巻き込んじゃったかもしれない。反省。
202
﹁もし誰かにからかわれたり何か言われたら、私に言ってね。対処
するから﹂
﹁大丈夫、大丈夫﹂
すると今度はゴールにいた私に、借り物の依頼が来た。
ほかのクラスの男子に引っ張られ、走らされた。私のお題はなん
だ?
一度お題の場所まで戻り、ゴールまで走る。
ゴールで読み上げられたのは﹁頭にリボンをつけている子﹂
良かった。﹁頭を縦ロールにしている子﹂じゃなくて。
今回の借り物競争のお題は人が絡むものが多かった為、特に秋澤
君と妙な噂になることもなかった。
迷惑かけたらどうしようかと思ってたので、ほっとした。
ちなみに﹁好きな人﹂というお題が出て、無謀にも鏑木に声をか
けた女子は見事玉砕した。
無茶すんな。
午後もテントでお仕事だ。
要領がわかって、午前よりも楽になった。
今もパイプ椅子に座って、競技を見物している。
選抜リレーと共に、運動会の目玉は5、6年男子合同の騎馬戦だ。
クラスから二騎選出し、ハチマキを取り合う。
私達のクラスからも男子達が騎馬を作って出場するけど、今年は
大本命と言われる騎馬がいる。
鏑木が出るのだ。
もちろん騎手で。
ヤツが馬などやるはずがない。
203
鏑木と同じクラスの菊乃ちゃんが興奮して教えてくれた。﹁これ
で騎馬戦は私達のクラスが優勝だわ!﹂と。
そんなこと言って、いきなり始まってすぐに落馬したら笑えるの
に。
なんて思っていた私が愚かでした。
スタートの合図とともに、鏑木の騎馬は縦横無尽に駆け回り、次
々にハチマキを奪い去っていく。
果敢に鏑木と対決する騎馬もいたけど、体当たりされ、鏑木に腕
をひねりあげられ、あっという間にハチマキを奪われ落馬した。
もう実力差がありすぎた。
あんた達、これ相当練習しただろうってくらい、一糸乱れぬ動き
だった。
馬役の子達にしてみれば、万が一鏑木を落としでもしたら、多く
の人間を敵に回すことになるので、必死だろう。
怯えて逃げる騎馬がいようものなら、その後を追いかけ背中を刺
す。
肉食動物の狩りみたいだ。
ほかの騎馬達はさぞや恐ろしかろう。
私のクラスの騎馬達もいつの間にか終わっていた。いやいや、君
達もよく健闘したよ。
﹁あ∼あ、雅哉も容赦がないなぁ﹂
後ろに座っていた円城が苦笑いしていた。
うん、本当に容赦がない。
結局最後は鏑木率いる騎馬だけが残り、完全勝利を収めた。
204
後日、騎馬戦での鏑木の勇姿を誰かが英雄ナポレオンに例えて、
やがてそれが皇帝に変わった。
これが鏑木が、後々まで皇帝と呼ばれることになるきっかけだっ
た。
205
34
皇帝と呼ばれるようになってから、鏑木の人気が更に上がった。
騎馬戦での活躍で、男子生徒の信者も相当増えたようだ。特に下
級生から。
皇帝の騎馬を務めた男子達がどさくさにまぎれて、我こそは皇帝
の馬だと自慢しているらしい。
よくわからない自慢だけど、本人達が幸せならそれも良し。
皇帝の名前は初等科だけに留まらず、中等科にまで届いているよ
うで、愛羅様から﹁雅哉が皇帝って呼ばれてるらしいわね﹂とメー
ルがきた。
浮かれた生徒が、鏑木本人に﹁皇帝﹂と呼びかけ、氷の視線を浴
びせられてからは、皇帝呼びはあくまでも非公認、本人の前では使
わない事という、暗黙の了解が出来た。
鏑木は賢明な判断をしたと思う。乗せられて自分で﹁俺、皇帝!﹂
なんて得意げに言ったら、将来思い出すたびに頭を抱えたくなるよ
うな黒歴史になる事うけあいだ。
愛羅様には﹁本人は皇帝と呼ばれるのを認可していないようなの
で、気を付けてください﹂とメールしておいた。
しかし、皇帝ってあだ名が、ナポレオンからきてたとはな∼。
いんちきロココの女王の私とは、相性が悪いはずだ。
﹃君は僕のdolce﹄では、最初から当たり前のように皇帝と呼
ばれていたし、なんでそんな風に呼ばれているか、あまり気にした
事なかったな。きっと学院に王者の如く君臨しているからなんだろ
うなって思ってた。
それが、小学生の頃からのなかなか年季の入ったあだ名だったと
は。
206
しかも、その由来が運動会の騎馬戦って⋮。大人になって説明す
る時、ちょっと間抜けじゃない?うぷぷ。
ちなみに私の縦ロールっていうのも、本人完全非公認だから。あ
れ、あだ名っていうよりただの悪口だし。
そんな私の心の声とは裏腹に、私の周りの子達は﹁皇帝﹂という
呼び方に夢中だ。
﹁鏑木様にふさわしいあだ名よね﹂
﹁騎馬戦の活躍は、私達のクラスにとってまさに英雄だったわ∼﹂
﹁あの時の皇帝は本当にかっこ良かったー﹂
﹁はぁ∼、皇帝、素敵﹂
窓から入ってくる風も涼しくて、私は秋が一番過ごしやすくて好
きだな∼。
おいしい給食も食べておなかも満たされると、なんだか眠たくな
っちゃうね。
﹁麗華様もそう思いません?﹂
﹁えっ﹂
なにが?ほとんど聞いてなかったけど。
﹁麗華様も皇帝のことかっこいいと思いますよね?﹂
﹁え、えぇ、そうですわね﹂
長いものには巻かれる。
﹁ですよねー﹂
207
その場にいる全員が、納得したように頷き合う。
女の子はみんな一緒が好きだもんね。
﹁私、麗華様だったら皇帝とお似合いだと思うわ﹂
は?
﹁そうね。悔しいけど、麗華様だったら許せるわ﹂
﹁普通の子が皇帝とくっついたら、絶対に許せないけど、麗華様な
ら家柄も教養も皇帝にふさわしいもの﹂
﹁でも、まだ鏑木様には誰のものにもなって欲しくないわ∼﹂
﹁私、麗華様だったら応援しますわよ﹂
﹁そうね。麗華様、頑張って!﹂
⋮⋮ちょっと待て。なんでいきなりそんな展開になってる。
第一、鏑木には優理絵様がいるだろう。鏑木の完全な片思いだけ
ど⋮。
﹁皆様、なにか誤解なさってません?﹂
﹁あら何がですか?﹂
﹁私は別に鏑木様とお付き合いしたいとか、そんな大それた事は考
えていませんわ。あくまでも素敵だなって憧れているだけですもの。
私なんてとてもとても﹂
絶対やめてよ、その誤解!
こっちの人生がかかってるんだからね!
﹁でも、皇帝がお好きなのでしょう?﹂
﹁憧れですわ、憧れ。好きという気持ちとはまた別です﹂
208
女の子達は首をかしげた。
﹁では円城様?運動会では一緒に実行委員をしてましたよね?﹂
﹁ま、麗華様は円城様派なのね。やだぁ私のライバルだわ。でも優
しくて素敵ですものねー。私、前にぶつかってしまった時、大丈夫
?って微笑みかけられたの!﹂
﹁ちょっとそれ、わざとぶつかったんじゃないの?﹂
﹁違うわよー﹂
楽しく盛り上がっているところ悪いけど、それも誤解だから!
﹁私は円城様のことも特別な感情は抱いてませんわ。もちろん皆様
と同じく憧れはしますけど﹂
﹁あら、そうなんですか?﹂
﹁そうですわ﹂
ここはきっちり訂正しておかないと。
﹁じゃあ麗華様はいったい誰が好きなんですか?﹂
﹁え⋮、別に特には﹂
﹁麗華様、好きな人いないんですの?﹂
﹁えぇ、まぁ﹂
﹁誰も?﹂
﹁いませんわね﹂
﹁今までは?﹂
﹁今までも特にいませんでしたわね﹂
うん、初恋もまだだしね。
みんなの顔が、なんだかちょっと可哀想な子を見る目になった。
209
﹁麗華様は、まだお子様でいらっしゃるのね⋮﹂
がーーーん!
子供に子供って言われた!
なんか地味にダメージ食らったよ⋮。
だって、私のハートを撃ち抜く王子が現れないんだからしょうが
ないじゃないか!
私の理想は、優しくて私のわがままも笑って許してくれて、笑顔
が素敵な穏やかな人。
君ドルの皇帝みたいな強引なタイプは、マンガを読んでるぶんに
は﹁きゃ∼っ、皇帝素敵すぎる∼っ﹂なんてキュンキュンしたけど、
リアルじゃいろいろ面倒くさいよね。
好きな子の家まで押し掛けるとか、ありえないし。家族やご近所
の目が気になって大迷惑だぞ、あれ。
人通りの多い街中で告白されるとかね。いやー、ムリムリ。
顔が良ければなんでも許されるのは、マンガの中だけだ。少なく
とも私にとっては。
そういう意味でも、常識的で優しい人が一番だね。
そんな私の理想の人、どっかにいないかな∼。
あれ?
理想が我が家で受験勉強しているじゃないか。
どうしよう。もしかして私って、本当にブラコンなのかな⋮。
初恋もまだのお子様麗華は、放課後職員室に呼び出された。
﹁吉祥院さん、学習発表会の実行委員やってくれないかな﹂
﹁お断りします﹂
210
運動会より大変な学習発表会の実行委員なんて誰がやるもんか。
内職の達人は引退したのです。
おだてようがなだめようが絶対にお断りです。
おじさんの嘘泣きなんかに心は全く動かされません。
私は運動会の経験から、断るという勇気を覚えました。
211
35
冬になり、お兄様の受験勉強もラストスパートに入った。
お兄様の行きたい学部は内部推薦枠が小さく厳しいので、大変そ
うです。
でも余裕のない姿は見せません。さすがお兄様。
お兄様のために私になにか出来る事はないか考えて、やっぱり夜
食を作ろうかと思ったけれど、お手伝いさん達に受験勉強のリズム
を崩すのは良くないと止められ、心で祈ってあげるのが一番だと諭
された。
心で祈るかぁ。う∼ん、お百度でも踏んでみるべきか。
いつものように塾の国・算クラスに行くと、隣に座っているはず
の秋澤君の姿がなく、蕗丘さんだけが一人ぽつんと座っていた。
あれ?どうしたんだろう。
すると、私に気がついた蕗丘さんが小さくお辞儀をしたので、私
もお辞儀をし返しながら、蕗丘さんの元に行ってみた。
﹁ごきげんよう蕗丘さん。今日は秋澤君は一緒ではありませんの?﹂
﹁ごきげんよう。匠は今日は風邪でお休みなんです。熱も出てしま
って寝込んでいるので。学校もお休みしているはずですけど、知り
ませんでしたか?﹂
﹁秋澤君とはクラスが違うので休んでいることは知りませんでした
わ。でも風邪ですか。いつからですの?﹂
﹁ひきはじめは一昨日から。それからどんどん悪化したみたいで。
インフルエンザではないらしいのですけど。あ、良かったら座って
212
ください﹂
そう言って蕗丘さんが隣の席を勧めてくれたので、座らせてもら
った。
今日はこのまま隣の席で勉強させてもらってもいいのかな?
﹁秋澤君ももうすぐ冬休みだというのに、大変ですわね。私のクラ
スでも風邪とインフルエンザで何人か休んでいますわ﹂
﹁私のクラスも﹂
その後、お互いのクラスの事をポツポツと話していると、蕗丘さ
んがしばらく黙りこみ、
﹁⋮⋮あの、ごめんね﹂
﹁えっ﹂
なにが?
﹁えっと、なんのことかしら?﹂
﹁⋮⋮匠を取られたくないから、意地悪しちゃったこと。塾でも、
今まで匠と隣同士で座ってたのに、私が取っちゃって、吉祥院さん、
ひとりで離れた席にずっと座ってたでしょ。匠が一緒に座ろうって
言ってたのに、私がヤな顔したから⋮﹂
あぁ、そのことか。
﹁別に気にしてませんわよ﹂
これは本当。
最初は少し寂しいと思ったけど、コンビニにこっそりお菓子を買
213
いに行ったりしてたし、すぐに慣れた。
基本的に私は、前世の頃から食べ物に関すること以外で怒りが持
続することはあまりない。
逆に言えば食べ物の恨みは恐ろしいのです。
元々蕗丘さんに関しては最初から怒ってないし。ちょっと怖い子
とは思ったけどね。
﹁匠には吉祥院さんとは塾での友達だって説明されたけど、私の知
らない学校での匠を知っていると思うと⋮⋮。ごめんね。今日、匠
がいなくてひとりでいたら、凄く心細くなっちゃって。吉祥院さん
も、きっとずっとこんな気持ちだったんだなって思ったの﹂
いや、私は特に心細い思いはしてなかったけど⋮。
﹁本当に気になさらないで。私、普段からひとりでも割と平気なの﹂
﹁強いのねー、吉祥院さんは﹂
蕗丘さんが尊敬の眼差しで見つめてきた。
和風美少女にそんな目で見られると照れます。
﹁私ね、匠がいつか吉祥院さんのことを好きになっちゃうんじゃな
いかって不安だったの。ううん、本当は今も少し心配。だって吉祥
院さん、可愛いし﹂
えっ、私可愛い?!
いや∼、そんなことないと思うけど。えへへ。
﹁秋澤君が私を好きになるなんて、ないと思いますけど﹂
﹁⋮そうかしら?﹂
﹁と、思いますわよ。私も秋澤君を友達以上に思ったことは一度も
214
ありませんし﹂
秋澤君は、とってもいい人だけどね。優しいし。
でも胸がキュンとした事はないんだよなぁ。
考えてみれば私の理想にかなり近いはずなのにどうしてだろう。
理想と現実は違うってことなんだね、きっと。
﹁本当に、好きにならない?﹂
﹁えぇ﹂
蕗丘さんはほっとした顔で笑った。
心配性だなぁ。世間じゃ、女房の妬くほど亭主もてもせずって言
うぞ。
いや、秋澤君がモテないって言ってるわけじゃないよ?
秋澤君はリスみたいで可愛い顔してるし。うん。
﹁学校では、ほかに匠と仲の良い女の子っています?﹂
﹁さぁ?私は同じクラスになったことないから。たまに廊下で見か
ける時には、男子の友達とばかりいますけどね。秋澤君と噂になっ
たり、好きだって言う子の話も聞いたことはないですわね∼﹂
﹁そうなんだ⋮﹂
安心したかね。良かった良かった。
﹁そもそも私達の学年には、飛び抜けてモテる二人組がいますから。
あまりほかの男子に目が向かないのですわ﹂
﹁あっ、その話は匠から聞いたことがあるわ。それに私の学校でも
その噂を聞いたことがあるもの。凄くかっこいいんですってね﹂
﹁⋮そうですわねぇ﹂
215
他校にも噂が出回っているのか。凄いな。
蕗丘さんの通う百合宮女子学園は、カソリック系だから瑞鸞とは
ごきげんよう
仲間だし。
少し違うけど、お嬢様学校として有名だから、上流階級の子女ネッ
トワークで繋がってたりするのかも。
﹁もしかして、吉祥院さんもそのふたりのどちらかが好きなの?﹂
蕗丘さんがワクワクした顔で聞いてきた。
恋する乙女は、他人の恋バナにも興味津々のようだ。
﹁特にそういう気持ちはありませんわ。私、好きな人いませんし﹂
蕗丘さんはちょっとつまらなそうな顔をした。
ご期待に添えず申し訳ない。
しかし、誰もが皆、自分と同じく好きな人がいるのが当然と思っ
ちゃいけないよ。
﹁せっかく共学に通っているのに⋮﹂
﹁う∼ん﹂
共学に通ってても、縁遠い子は縁遠いと思うけど。
前世の私のように。
あっ、涙が⋮。
﹁ふふっ、なんだか吉祥院さんて最初の印象と違うわ﹂
﹁そう?﹂
﹁うん。発表会の会場で見た時は、もっとこう近寄りがたい雰囲気
があったわ。これぞ瑞鸞のお嬢様って感じで、私、絶対匠取られち
ゃう!って焦ったもの﹂
﹁近寄りがたい⋮。やっぱりこの髪型のせいかしら﹂
216
﹁髪型っていうより、全体の雰囲気かな。百合宮にも吉祥院さんみ
たいな子がいるから。でも話してみると、全然違うのね。匠が友達
になれたのもわかった気がする。⋮あのね、私とも友達になってく
れますか?﹂
えっ!まさかの友達ゲット?!
いやしかし、君の場合は半分以上が私を情報源に使おうと考えて
るでしょ。
スパイは引退したんだけどなー。
﹁えっと⋮、私、秋澤君とは本当にクラスも違うから学院の様子と
か全然わかりませんわよ?﹂
﹁あ、私が吉祥院さんを利用しようとしてると思ってる?そういう
んじゃないですよ。吉祥院さんともう少しお話ししてみたいなって
思っただけです。そりゃあ教えてくれたら嬉しいけど。ふふっ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁えぇ﹂
だったら、友達になってもいいかな。
私も敵視されてるより、仲良くできた方が楽しいし。
﹁じゃあ、友達になりましょう﹂
﹁本当?良かった!﹂
胸の前で手を叩いて笑う蕗丘さんは、さすが守ってあげたい和風
美少女。可愛い。見習いたい。
その後は、お互いの学校の話や秋澤君の話をした。
秋澤君とは家が近所で親同士も仲が良く、記憶のない赤ちゃんの
217
時代から一緒にいたそう。いつも秋澤君が手を引いて遊びに連れ出
してくれて、初恋に目覚めたのは幼稚園の時。
でも秋澤君は蕗丘さんの気持ちに全然気づいてくれなかったらし
い。﹁匠は鈍感なのよ﹂だって。それは私も思った。
でもその鈍感さが、幼馴染モノの王道なんだよねー。
大好きな秋澤君と学校が離れるのが嫌で、蕗丘さんも瑞鸞に行き
たかったけど、お母様の出身校である百合宮に行かなきゃいけなく
て、秋澤君の前で大泣きしたんだって。
それに百合宮はカソリック系なのに、蕗丘さんの家は代々仏教徒
で、気分は逆隠れキリシタンだとか。
入学した当初は、バレたら魔女裁判にかけられるんじゃないかっ
てドキドキしてたらしい。
葵ちゃんとは全然違うタイプだけど、新たな友達ができました。
218
36
お兄様は無事、希望する学部への進学が決まった。
なのでここは、どーんっとお祝いをするために、私は金庫の蓋を
開けようと思う!
﹁お兄様!私が大学の合格祝いにプレゼントをします!何が欲しい
ですか?﹂
最初はサプライズでいろいろ考えたんだけど、なかなか良い案が
浮かばなかったのだ。
時計とかがいいのかな?なんて思ったけど、吉祥院家の御曹司が
身に着ける時計は、さすがの私のへそくりでも、手が届きそうにな
かったのであえなく断念。
いや、本当は全額はたけば出せるかもしれないんだけど⋮。
あーでもないこーでもないと考えても、素敵なプレゼント案が何
も出てこなかったので、結局これはもう本人に直接聞くしかないと
結論を出したのだ。
さぁ、お兄様!お年玉も使わず貯めてあるので、私結構持ってま
すよ!ご遠慮なく!
将来のためのタンス貯金だけど、ほかならぬお兄様のお祝いなら
使いますとも!
﹁お年玉を貯めてあるのです。だから欲しいものを言ってください
!﹂
﹁えっ!麗華のお金を使うの?!﹂
219
これまでのクリスマスプレゼントや誕生日プレセントはお母様と
一緒に買いに行ってるから、吉祥院家のカードで買って自腹は切っ
ていないのだ。
そしてお兄様は私がお年玉をコツコツ貯めていることを知らなか
ったらしい。
金額を聞いて驚いていた。実際はもっとあるんだけど。
﹁そうだなぁ。その気持ちだけで充分だけど⋮﹂
﹁そうはいきません。私はどうしてもお祝いしたいのです﹂
お兄様が頑張っているのに、何もしてあげられなかったからね。
遠慮するお兄様を説き伏せ、選んでもらった品は白星でおなじみ
の高級筆記具メーカーのボールペン。
想像していた予算より少なく済んで肩すかし。
でも、確かここの万年筆やボールペンをすでに何本か持っている
はずだけど。
﹁ここのペンは書きやすくて好きなんだ。せっかくだから、大学で
は麗華からプレゼントされたペンを使おうと思って﹂
おぉ!それはいいですね!
プレゼントした物をお兄様に毎日愛用してもらえれば、私も凄く
嬉しいです。
そうと決まれば、早速買いに行きましょう!
お兄様とふたりでお店に行き、いろいろ試し書きをして気に入っ
た物を購入。
お兄様はとっても喜んでくれた。喜んでもらえて、私もとっても
嬉しい。
220
そしてその後はお兄様とイタリアンでランチ!
お兄様はずっと受験勉強で忙しそうだったし、その後は車の免許
を取ったりお友達と出かけたりと、最近あまり相手をしてもらえな
かったので、今日はうきうきだ。
﹁麗華は何にする?﹂
﹁そうですわね∼﹂
メニューを見ながらあれこれ悩む。お、ラビオリ。おいしいんだ
よね∼。
オーダーも決まり、お兄様と楽しくお話ししていると、
﹁失礼。もしかして吉祥院様のご兄妹ではありませんか?﹂
女性に声を掛けられた。
﹁│││!!﹂
﹁これは鏑木様。ご無沙汰しております。この子は妹の麗華です﹂
お兄様が立ち上がって挨拶をしたので、私も慌てて立ち上がって
ご挨拶をした。
か、鏑木のお母さんだーーー!!
鏑木のお母さんはキリリとした美人で、1,2回パーティーでお
会いしたことがあった。
その時も、ちょこっとご挨拶しただけだったけど。
﹁えぇ、もちろん覚えておりますよ。麗華さん、お久しぶりね。前
にお会いした時より背が高くなられたわね?﹂
221
私を見て微笑んでくれる鏑木母に、緊張して引きつった愛想笑い
しかできない。
私のことなんて覚えていなくていいですから。むしろ一生忘れて
いて欲しい。
お兄様と鏑木母がいくつか会話をした後、鏑木母がそういえばと、
私を見た。
﹁麗華さんは、私の息子の雅哉と瑞鸞で同級生なのよね?雅哉とは
仲良くしているのかしら?﹂
げーーっ!
﹁いえ。残念ながら雅哉様とはクラスも別ですし、あまり親しくす
る機会がありませんの﹂
親しくする気もありませんの。
﹁あらそうなの?だったら今度うちにぜひ遊びにいらして。雅哉っ
たら家に呼ぶのは円城家の秀介君くらいなのよ。女の子が来てくれ
たら華やかでいいわ﹂
ぜぇったいに嫌だーーー!
それに女の子は優理絵様がいるでしょう!優理絵様が小さい頃か
ら遊びにきてるはずだ!
断固拒否!断固拒否だ!
鏑木母は私の内心の大パニックをよそに、それではと美しい笑み
を残して去って行った。
222
なんてこった⋮。
さっきまでの楽しい気分は吹っ飛び、呆然としながら着席する私
をお兄様が不思議そうな顔で見ていた。
﹁どうしたの?様子がおかしいけど﹂
﹁⋮いえ、突然鏑木様が現れたので驚いてしまって﹂
鏑木母に名前を覚えられてしまった。存在を覚えられてしまった。
別に大したことではないけど、小心者の私にとっては、鏑木に関
するすべてのことが怖いのだ。
あのお母さん、何度かマンガに登場してるし⋮。
あっ、そうだ!
﹁お兄様、今日ここで鏑木様の奥様とお会いした事、お父様とお母
様にお話しするわよね?﹂
﹁そうだね﹂
﹁その時、鏑木様が私におうちに遊びにおいでって言った事は、お
父様達には言わないで。だってあれは社交辞令だし!お父様達が本
気にしたら困るし!﹂
﹁⋮麗華は鏑木家に行きたくないの?﹂
もちろん絶対に行きたくない!
﹁まぁそれくらいなら伏せておいてもいいと思うから、言わないけ
ど。麗華は雅哉君が嫌いなの?何かされたとか﹂
﹁いえ、そういう事では!ただお父様とお母様は私が鏑木様と親し
くなるのを期待していますし、前にも変な誤解をされた事もありま
すし。そういうのは私はまだちょっと⋮﹂
﹁そうだね。麗華にはまだ早いよね﹂
223
お兄様ぁ。お兄様だけが私の頼みの綱だよ。
その後運ばれてきたお料理は、大好きなイタリアンだったにも関
わらず、ショックで味もよくわからなかった。
家に帰り、自室のベッドにだらしなく寝そべると、私は﹃君は僕
のdolce﹄に出てきた鏑木母を思い出した。
確か鏑木父の仕事のサポートなどもしている、優秀な人だったは
ず。
鏑木が小さい頃は、いたずらをしたりすると、容赦ない鉄拳制裁
を与えるパワフルなお母さんエピソードもあった。
華やかな美貌で、目力があるところは鏑木にそっくり。鏑木はお
母さん似なんだな。
ってそんなことはどうでもいい。
跡取りでもあり可愛い一人息子でもある皇帝が、庶民の主人公と
付き合うのに難色を示して、何度が皇帝を窘める事もあった。
吉祥院麗華とその両親の嘘と口車に押され、息子と麗華の婚約披
露パーティーを開くものの、そこで息子の覚悟と主人公の一途な思
いに心を打たれて、ふたりを祝福するんだ。
一家まとめてボコボコに再起不能にされた麗華を尻目に⋮。
うわぁ⋮、絶対関わりたくない。
224
37
お兄様も高等科を卒業し大学生になり、私は6年生になった。
お兄様の制服姿もこれで最後かと思うと寂しくて、何枚も一緒に
写真を撮ってもらった。
やっぱり瑞鸞の高等科の制服はかっこいい!
これからも家の中で制服を着せて見せて欲しいと頼んだけど、断
られてしまった⋮。
別に家の中だけだったらいいと思うんだけどなー。
優理絵様と愛羅様も高等科に進学し、皇帝鏑木は小学生の自分と
更に差が開いてしまって落ち込んでいた。
高校生が小学生を恋愛対象に見るなんて、無理がありすぎるもん
ねー。
いい加減諦めればいいのにと思うけど、この初恋は鏑木が高校生
になるまで続くんだから、今の時点で諦めるはずはないか。
愛羅様情報によると、鏑木は優理絵様のストーカーはしていない
けど、あまりに会えないと直筆の手紙で情に訴えてくるらしい。前
回成功したから、味をしめたようだ。
私も6年生になり、来年はエスカレーター式で名ばかりといえど
おうさかかりん
内部受験が控えているので、家庭教師を付けてもらう事になった。
家庭教師の先生は、国立大学に通う逢坂花梨先生。
週二回教えてもらう。
塾での模試では中の上から上の下。進学校に通う子供達ばかりの
中では健闘していると思うけど、小学生の中に交じってトップが取
225
れないっていうのはいかがなものか。
中学に上がれば、算数が数学という化け物に変わる。今のうちか
ら頑張っておかねば。
花梨先生の教え方はわかりやすくて、勉強がはかどる。やっぱり
塾もいいけど1対1だとわからないところをすぐに教えてもらえる
からいいね。
前から時々、お兄様にも教えてもらっていたけど、緊張感が違う
し。どうしても身内は甘えちゃうからね。
﹁麗華さんは飲み込みが早いわね。もうここまで出来たの、さすが
だわ﹂
などと、花梨先生はよく褒めてくれる。
花梨先生は褒めて伸ばすタイプらしい。
そして私は褒められて、おだてられて喜んで木に登っちゃうタイ
プなので、花梨先生とは相性がいいと思う。
塾の国・算クラスでは、あの冬の日以来秋澤君と蕗丘さんと3人
で並んで座っている。
蕗丘さんを真ん中に、私と秋澤君が挟む形。秋澤君を真ん中にす
るのは、蕗丘さんが許さなかったので。
蕗丘さんとはメアドを交換したりして、ずいぶん仲良くなった。
和風美少女の蕗丘さんは、顔に似合わず結構毒舌だ。
今年のバレンタインデーに、私は手作りチョコを葵ちゃんと蕗丘
さんにあげた。
瑞鸞では、バレンタインチョコは市販品で更に高級店の物が望ま
226
しいという慣習があるから、手作りチョコを家族以外にあげるのは
初めてだ。
去年は愛羅様に作り方を教えてもらって、お父様にも﹁今までで
一番おいしい﹂と褒められたんだけど、今年は愛羅様も内部受験で
忙しそうだったので、去年教えてもらったレシピを使ってひとりで
同じ物を作ってみたのだ。
お兄様も﹁去年と同じでおいしいよ﹂と言ってくれた。
だから自信を持ってふたりにあげた。
葵ちゃんは﹁おいしかった﹂と言ってくれたけど、蕗丘さんは﹁
いまひとつね﹂だった⋮。
﹁まずくはないけど、なんだかパッとしない味なのよ。安物のチョ
コ使った?﹂だって。失礼な!ベルギー産だ!
そう文句を言ったら、﹁ベルギーに謝れ﹂と言われてしまった⋮。
蕗丘さん、あんた外見と中身のギャップが大きすぎるよ⋮⋮。
ちなみに秋澤君にはあげていない。友チョコだろうと義理チョコ
だろうと、蕗丘さんが怒りそうなので。
私の中で蕗丘さんは、なんとなく敵にまわしちゃいけない人に認
定されている。
蕗丘さんは将来、秋澤君の素敵なお嫁さんになるために、料理を
習っているそうだ。
凄いな、蕗丘さん。私より人生設計しっかりしてる。しっかりし
すぎてて、ちょっと怖い。
そして秋澤君、君はもう本当に逃げられないよ。私も蕗丘さんが
怖いから助けてあげることはできない。不甲斐ない友を許せ!
そんな蕗丘さんには、﹁吉祥院さんも習ってみたら?﹂と誘われ
たけど、今年は受験勉強もあるし忙しいから無理そうだと断った。
家に帰ってお兄様に、﹁味がパッとしなかったと言われた﹂と話
227
したら﹁こういうのは味より気持ちの問題だから﹂と、微妙なフォ
ローをされた。
中等科にあがったら、本当に習いに行こうかな⋮⋮。
葵ちゃんは目下のところ、私の癒し友達だ。
おとなしくて引っ込み思案に見えるけど、仲良くなるとよく笑っ
てくれる。
葵ちゃんは間違っても﹁パッとしない﹂なんて言わない子だ。な
んていい子。
そして葵ちゃんからは、お正月にお祖父ちゃんの家に遊びに行っ
たお土産としてなんと!とろろん芋タロウのぬいぐるみキーホルダ
ーをもらったのだ!これは嬉しい!
私はさっそく、自宅の鍵に付けた。うちには常にお手伝いさんが
いるし、送り迎えをしてくれる人もいるので、私が自分で鍵を使う
事は、まずない。でも一応、万が一のために持っているのだ。
そんな鍵にとろろんが揺れている。情けない顔がとても可愛い。
葵ちゃんのお土産センスは凄い。私の欲しいものを的確にくれる。
春の連休のお土産には、なんと!ご当地限定ポテトチップスをく
れたのだ!
夢にまで見たポテトチップス!かさばるから買えなかったポテト
チップス!
葵ちゃんは﹁吉祥院さんは、こういうの食べないかもしれないけ
ど⋮﹂なんて恥ずかしそうに言ってたけど、食べるよ!むしろ大好
物だよ!6年間ずっと食べたかったよ!
お土産袋に入ったそれを、お母様達に見つからないように部屋に
持ち帰り、夜中にこっそり食べた。
懐かしい、チープな味に体が震えた。
一度に食べたらもったいないから、少しずつ食べようと大事にし
228
まっておいたら、次の日湿気ってて泣けた。
ちなみに心の中では葵ちゃん葵ちゃんと呼んでいるけど、本人の
前では﹁頼野さん﹂。
勇気がなくて名前で呼べない。えっ、いきなりどうしたの?って
思われたらヤだし。
こういうのはきっかけが難しいね。
担任の先生からは学級委員長をやって欲しいと頼まれた。面倒だ
し仕切るのとか苦手なので断ったら、だったら副委員長でいいと畳
みかけられて、結局副委員長なら⋮と引き受ける羽目になってしま
った。
たぶん最初から副委員長を押し付ける気だったのだろう。委員長
には何度か学級委員長をやっている男子がなっていたから。
先に大きな要求をして断られたら、次に小さい要求をして承諾さ
せるっていう、詐欺の手口を聞いたことがある。
まんまとやられた。結局はまた、雑用係だ。
確かに私のペンケースには、まだラメの指サックが眠っているけ
ども。
でも今回のはクラス内のことだけなので、天敵がいないぶん何事
もスムーズだ。
提出物を集めるのも、私の後ろにいる女子軍団が怖いのか、みん
な協力的だ。
委員長にも﹁さすが吉祥院さん﹂などと言われた。褒められてい
る気がしない。
まるで取り立て屋の隣でプレッシャーをかける用心棒みたいな扱
いだ。
229
おかしい。こんなはずじゃなかった。最近私から優雅さが消えて
いる気がする。
230
38
6月は修学旅行だ。
瑞鸞のような超お金持ち小学校なら、行先は絶対海外だと思って
いたら、まさかの京都、奈良。
フツーだ⋮。
まぁ、泊まる宿や食事は普通の小学校の修学旅行とはレベルが違
ったけど。
京野菜をふんだんに使った京料理や、湯豆腐懐石を食べて、高級
老舗旅館でくつろぐ。
小学生相手に渋すぎる。
しかしこんな高級旅館、羽目を外して枕投げなんて始めて障子に
穴でも開けられたら大変だ。
しっかり目を光らせておく。
よりによって修学旅行がある年に、学級委員なんて引き受けるん
じゃなかった。
集合時間に遅れる生徒を探して呼びに行ったり、添乗員さんの説
明中にしゃべっている生徒を注意したり、いろいろと面倒くさい。
でも私のクラスはまだいい。鏑木や円城のようなやっかいな生徒
がいないから、それでもおとなしいものだ。
女子は最初から私に協力的で、点呼をサポートしてくれたり、消
灯時間を守ってくれたりと、ほかのクラスの委員より全然楽をさせ
てもらっている。
委員長も男子をなんとか纏めて頑張っているし。時々はしゃぎす
吉祥院麗華と、そのお友達の
で囲み、笑顔の圧力で黙らせる。
ぎて委員長に止められない男子は、
みなさん
私のクラスは概ね平和だ。
231
きっと先生はこれを見越して私を副委員長にしたんだろうなぁ。
私より真面目で学級委員経験もある女子がほかにいるのに、指名し
てきたんだから。
まぁ、それで修学旅行がトラブルなく楽しく進むなら、利用され
てもいいか。
ほかのクラスの学級委員達は大変そうだもんね。
鏑木、円城にまとわりついて騒ぐ女子達を、学級委員達は注意し
きれないみたいだ。
円城はまだ自分で騒がないように注意したりしてるけど、鏑木は
ノーリアクションなので無法地帯だ。
食事も勝手に席を移動したり、あんた達本当に良家のお嬢様か?
と言いたくなるような子達もいる。
学級委員じゃ止められないので、担任が注意して渋々元の席に戻
ったり。
なんかギスギスしてるな∼。
小さい頃はまだ、ふたりにきゃあきゃあ騒ぐ女の子達も可愛く思
えたけど、だんだん大きくなっていくにつれ、面倒なタイプも出て
きたりして、なかなか要注意だ。
もう少し大きくなったら、派手な成金お嬢様になりそうだなって
子達は、私達のグループとは微妙に反目し始めてるし。
あぁ、別のクラスで良かったな∼、なんて他人事のように思って
いたら、鏑木のクラスの学級委員達から、助けてください!という
視線をヒシヒシと感じた。
気づかなかったことにした。
いや、だってほかのクラスにまでしゃしゃり出てくるって、どん
だけ仕切りたがりだよって普通思うよ?
私は、私のクラスのことで精いっぱ⋮
232
﹁吉祥院さん。あの、3組の学級委員がSOS出してるみたいだけ
ど⋮﹂
そんな余計な報告はいりませんよ、委員長。
﹁気のせいではありません?﹂
﹁いや∼、あの目は切実っぽいけど。もうすぐ消灯時間なのに、部
屋に戻らず騒いでいるし﹂
﹁でもほかのクラスのことですから﹂
﹁そうだけど。旅館の人達も困ってそうだよ﹂
それは、申し訳ないと思ってる。
だいたい、侘び寂びなんて理解できない小学生の修学旅行に、こ
んな風情のある老舗旅館を使うほうがおかしい。
﹁では委員長が行ったらいかが?﹂
﹁⋮⋮それは無理って、わかって言ってるよね?﹂
まぁね。
女子の集団は怖いもんね。でも私だって怖いよ。
あれ、鏑木と別のクラスの女子も混じってるじゃん。そっちの学
級委員も止められないのか。
怖いよなー。でもなー、同じ学級委員として、苦労もわかるし。
しょうがない。
私は鏑木と同じクラスでも、普段から比較的節度を持って騒いで
いる菊乃ちゃんの元に行った。
﹁菊乃さん﹂
﹁あ、麗華様﹂
233
﹁ずいぶんと騒がしいのね。もうすぐ消灯時間なのに﹂
﹁そうなんですよね。あの子達、鏑木様の迷惑も考えずに⋮﹂
菊乃ちゃんが仏頂面で答える。
﹁そうね。ここのお宿は鏑木様のお母様のお気に入りで、京都に行
かれた時は常宿にしているのに、あんなに騒いで宿の方に迷惑をか
けたと知ったら、鏑木様のお母様もどうお思いになるかしら?﹂
これは愛羅様情報。
﹁えっ、鏑木様のお母様の常宿?!﹂
私と菊乃ちゃんの会話が聞こえていた子達がちらっとこちらを見
た。
﹁菊乃さんはしっかりしているから大丈夫だけど、ご自分のお気に
入りの宿に迷惑をかけた生徒として、鏑木様のお母様に嫌われない
ように、菊乃さん達は気をつけてね。鏑木様のお母様は躾に厳しい
方とうかがっているわ﹂
私達の会話を盗み聞いていた子達が、少しずつ静かになった。
﹁あぁもう消灯時間ね。みなさんおやすみなさい﹂
﹁おやすみなさい、麗華様﹂
﹁おやすみなさい、麗華様﹂
とりあえず、このくらいでいいだろう。
直接注意するのは、あまりに角が立ちすぎる。敵は作りたくない。
やりすぎると、いい子ぶりっ子と嫌われてしまう。
234
っていうか、鏑木が自分で注意しなよ!自分のお母さんのお気に
入りの宿なんだよ?
ま、縁がなくても騒いじゃダメなんだけどさ。
いつものように我関せずの状態で遠くを見てるけど、どうせ頭の
中は優理絵様へのお土産は何にしようかとか、そんなことしか考え
ていないに違いない。
これはもう、愛羅様経由で優理絵様にチクッて、ガツンと言って
もらうしかないな。
昼間は神社仏閣巡りとお土産選び。
女子達は縁結びの神社が一番のお目当て。なんといっても恋する
相手がすぐ近くにいるんだから、神様へのお願いも真剣になるとい
うものだ。
鏑木と同じクラスの菊乃ちゃんは、祈る時に﹁今あの柳の下に立
っているのが鏑木雅哉様です!どうかお願いします!﹂ときっちり
縁を結びたい相手を神様に紹介したらしい。
それ以外に恋みくじや縁結びのお守りを買ったりと、少ない滞在
時間でみんな大忙しだ。
縁結び神社なんて女の子だけが楽しい場所だと思っていたら、結
構男子も真剣に恋みくじを引いたりしていて、ちょっと驚いた。
委員長まで真剣に引いていた。相手は誰だ。
私もみんなと一緒に恋みくじを引いた。末吉だった。ビミョー⋮。
235
39
奈良でもやっぱりメインは神社仏閣巡り。
正直言って、少し飽きてきちゃったな∼なんて思っていたら、万
葉集を諳んじる子がいた。
まわりの子達は尊敬の眼差しだ。
小学生が万葉集を口ずさむ。これが教養か!教養なのか!
ぜひ見習わせていただきたい!
私が覚えている万葉集の歌は、前世で覚えた額田王のあかねさす
∼、だ。
友達と額田王ごっこと称して、よく手をブンブン振り合って遊ん
だ。﹁そんなに振ったら野守に見つかってしまいますよ∼﹂
いきなり私がここで、関係のない額田王の歌を言い出してもおか
しいし、対抗意識を燃やしたと思われても困るので、教養披露は様
子を見ることにする。
似たような事を考える子は大勢いたようで、法隆寺ではあちこち
から柿食えば∼と聞こえてきた。教養どころか、むしろバカっぽか
った。
もちろん私はやっていない。
ただ夢殿の前に行った時に、なんとなく﹁日出処の天子⋮﹂とつ
ぶやいたら、それを聞いた添乗員さんが素晴らしいと褒めてくれ、
周りの子達にも﹁さすがは麗華様﹂と言われてしまった。
私は、少女マンガのタイトルを言っただけだったんだけどね⋮。
だがあえて、誤解は正すまい。
236
奈良公園では事件が起きた。
鹿せんべいを持って優雅に公園を散策していたら、鹿の群れに囲
まれたのだ。
一緒にいた子達はサッと逃げたが、私だけ逃げ遅れた!
でかい!鹿、でかい!
怖い!角、怖い!
痛い!背中どつかれた!ぎゃあ!鹿せんべい取られた!
﹁麗華様、逃げて!﹂
﹁きゃあ麗華様が鹿に!﹂
﹁麗華様、鹿せんべいを遠くに投げて!﹂
鹿せんべいを遠くに投げようとしたら、ひらひら舞って足元に落
ちた。
ぎゃあ!
鹿にゴスゴス蹴られ、ドカンドカン体当たりされ、鹿せんべいが
私の手にもうないとわかると、やっと鹿は次のターゲットを求め、
去って行った。
﹁麗華様、大丈夫ですか!﹂
﹁あぁっ!麗華様がこんな姿に!﹂
﹁⋮⋮大丈夫よ、みなさん。ありがとう﹂
あれはなんだ。ギャングか。鹿ギャングか。鹿マフィアか。
狂暴すぎるだろう⋮。
前世の修学旅行で来た時には、もっとほのぼのとした思い出だっ
たはずなのに、なにがあった、鹿。
周りの子達が、私の制服の袋叩きの名残の汚れを落としてくれ、
237
なんとか身形を整えることが出来、やっと落ち着いた時、こちらを
見て口元を歪めている鏑木と目が合った。
あいつ、笑ってやがる⋮。
悔しい!あいつの周りに鹿せんべいをばらまいてやりたい!
でも今の私にはもっと切実な問題がある。
みんなは気づいていない。
私が鹿の糞を踏んでしまったことを。
﹁そろそろ戻りましょう。麗華様、本当に大変でしたね﹂
﹁ねぇ。鹿ってあんなに怖いのね。私があげた鹿は可愛かったのに﹂
﹁どこか痛いところとかないですか?もうっ!男子ってば誰も助け
られないんだから!情けない!﹂
みんなと仲良く歩きながら、私は絶対に気づかれないように摺り
足でローファーの底の糞をこそげ落とした。
この歩き方は、鹿に蹴られて足を負傷してしまったから、引き摺
っているだけだと己に暗示をかけて。
その後行った春日大社では、しっかりと神様に鹿の躾をお願いし
てきた。
可愛い鹿おみくじもあって、昨日までの私だったら飛びついただ
ろうけど、先程受けた鹿襲撃の心の傷が癒されていないので、可愛
い木彫りの鹿ですら剣呑な目で見てしまう。
しかしみんなが可愛いとはしゃいで買っているので、私も一緒に
買ってみる。
引いたおみくじは吉。またビミョー⋮。
238
鹿襲撃事件で唯一良かったことは、なんとなく周りの子達との距
離が縮まった気がすること。
徐々に取り巻きじゃなく、友達になれたらいいな。
まずはさりげなく、友達アピールをしてみた。
﹁さっきは本当にありがとう。やっぱり持つべきものは友達ね﹂
みんなは嬉しそうに笑った。
もしかしたら、もうとっくに友達だったのかな?
だが、鹿襲撃事件以来、鏑木とすれ違うたびに、ヤツの肩が震え
ている。
きぃーーーっ!!
これはもう、優理絵様へのチクり決定だ。
今のうちにせいぜい笑っているがいい。
東京に帰った時、泣くのは貴様だ。
葵ちゃんと蕗丘さんにはお土産に、京都の老舗旅館が出している
石鹸と、可愛い金平糖を買ってきた。
安易に八つ橋やあぶら取り紙を選ばないところに、私のおしゃれ
センスがきらりと光るね。
蕗丘さんは秋澤君に、縁結びの神社でおそろいの恋愛成就のお守
りをあらかじめ頼んで買ってきてもらったそうだ。
秋澤君には、おそろいの恋愛成就のお守りをあげる相手がいるん
だと、瑞鸞の女子生徒を牽制する意味もあったらしい。
さすがです、蕗丘さん。
239
お兄様には交通安全のお守りを買ってきたのに、車のミラーにぶ
ら下げてくれなくて少し不満。
﹁さすがにそれはちょっと⋮﹂って、どうして?
鏑木は優理絵様に迷惑をかけないように、もっと周りの子達に注
意しろと怒られたらしい。
ざまーみろ。うきゃきゃきゃきゃ。
すると後日、優理絵様⇒愛羅様経由で1枚の写真が渡された。
それは私が鹿の群れに襲われてボコボコにされている写真だった。
愛羅様には﹁大変だったわね。これを見て優理絵も驚いていたわ﹂
と同情されてしまった。
うきぃーーーーーっ!!
許すまじ!!
240
40
秋も深まり、卒業アルバム作成のための写真選びが始まった。
私は卒業アルバム委員ではないけれど、なるべく積極的に委員の
子に協力した。
大丈夫だろうとは思うけど、万が一あの鹿襲撃事件の醜態の写真
が入っていたら、一生の恥になるからだ。
今のところ、私に関しておかしな写真はないけど、油断は出来な
い。
卒業アルバムに載せる写真は、学院専属カメラマンが撮った行事
の写真と、アルバム委員が撮ったり生徒達から載せて欲しい写真を
募ったりした中から選ばれる。
まぁわかりきってたことだけど、写っている生徒に偏りがあるなぁ
生徒達から提出された写真は、ほとんど鏑木、円城メインで、提
出者がそこに一緒に写りこんでいる写真ばかりだ。記念にしたいら
しい。
これを全部載せたら、ただのふたりの写真集になってしまうので、
ほとんど不採用に回す。
目立つような生徒達の写真はたくさんあるけど、おとなしくて地
味な生徒は写っている写真を見落としがちなので、しっかりチェッ
クする。
いざ卒業アルバムが出来て中身を見た時、﹁僕︵私︶の写真が1
枚もない⋮﹂なんてことになったら、傷ついちゃうからね。楽しみ
にしていた保護者の方々も哀しむだろうし。
なので、生徒名簿と写真を念入りに照らし合わせる。
﹁麗華様が手伝ってくれるので、とても助かってます﹂
241
ほんだみはる
そう言って笑ってくれたのは、同じクラスの本田美波留ちゃん。
同じグループではないけど、真面目な子で去年は学級委員の副委
員長をやっていた。
﹁集合写真以外で、生徒全員が載っているか確認するのって、結構
大変なんですよね﹂
﹁そうね。つい見落としちゃったりしますものね﹂
おとなしい子は自分から写っている写真を提出したりもしないの
で、本当に1枚もない場合もある。
そういう時は、アルバム委員が給食風景などを撮ってあげる。出
来ればひとりではなく、友達と楽しく過ごしている写真で。
卒業アルバム制作担当の先生も一緒にチェックしているので、た
ぶん大丈夫だと思うけど。
ついでに、私が写っている写真は、なるべく可愛く撮れている物
を選んでおく。
手伝っているんだから、これくらいいいよね。
﹁これ、プティピヴォワーヌの写真ですね﹂
見せられたのは、先日カメラマンがサロンに来て撮っていった写
真。
毎年、ピヴォワーヌは卒業アルバムに別枠で集合写真を載せられ
る。一応、学院の顔なので。
写真はソファの中央に座る皇帝とその隣の円城を中心に、ほかの
メンバーが取り囲む構図だ。両サイドには会の名である赤い牡丹の
花が飾られている。
しかし問題は、私が皇帝の隣に座っていること。
皇帝の隣に座りたい子なんて、ほかにもいるだろうに、なんで私
242
が。
でも周りが﹁麗華様、どうぞ﹂と有無を言わさず勧めてくるので、
拒否しきれなかったのだ。
露骨に嫌がれば、皇帝の不興を買いそうだし。
せめて円城の隣のほうが⋮と思ったら、その円城に笑顔で拒否さ
れた。⋮⋮酷い。
おかげで何度もカメラマンに笑顔が固いと注意され、隣からは舌
打ちされ、散々な目にあった。
これはそんな因縁の写真なのだ。
﹁これがピヴォワーヌのサロン。素敵。憧れます⋮﹂
王者の風格
牡丹様が華やか
そう言ってうっとりと写真を見つめるアルバム委員達。
うん、無駄に豪華な部屋だしね。
さに拍車をかけてるし。
セレブ感たっぷりの瑞鸞校舎でも、ピヴォワーヌは別格だから。
一般の生徒は入室できないしね。
内実は、お菓子食べてお茶飲んでだらだらしてるだけなんだけど。
うん?それは私だけ?
﹁それより、ほかの写真も早く決めましょう﹂
脱線しそうなアルバム委員達に声をかけて作業再開。
お、リレーの時の秋澤君の写真だ。蕗丘さん、この写真持ってる
のかな。話したらもらってきてとか言いそう。
騎馬戦の鏑木の写真はもちろん絶対載せる。むしろ載せなかった
ら相当なブーイングを受けるに違いない。
今年の運動会でも、騎馬戦は皇帝陛下とその馬の独擅場だった。
陰で相当練習してたらしい。クールな顔して実はかなりの負けず嫌
いだ。
243
2年連続で桁外れの強さを見せた皇帝は、伝説となった。うぷぷ。
大量の写真選びは大変だけど、あまり接点のない子の意外な姿を
知ったりして、なかなか面白い。
1年生の時からの写真だから、顔が今と全然違っている子もいる
し。6年間というのは、子供を驚くほど成長させるのだなぁ。
私は1年生の頃からいんちきロココだ。いい加減、イメチェンし
たい⋮。
しばらく前からよく、委員長と目が合う。
こちらを見ては目が合うとパッと目を逸らす。
何回か用事があるのか聞こうと思ったんだけど、赤い顔で誤魔化
された。
さっきも給食のときに目が合った。
いったいなんだろう。
﹁麗華様、どうかしました?﹂
一緒に写真を見ていた本田さんに声をかけられた。
﹁いえ、なんでもありませんわ﹂
笑顔で返事をする。
まぁ、気のせいかな。
﹁⋮私、麗華様とこんな風に仲良く話せる日が来るとは思ってなか
ったので、なんだか嬉しいです﹂
そう言って本田さんがはにかんで笑った。
244
わぁ、可愛い!
本田さんは学級委員をやるような真面目な子で、私のグループと
はちょっと違うので、連絡事項以外であまり話したことはなかった
のだ。
でもこの子、葵ちゃんに通じる可愛さだ。
きっといい子だ。友達になりたい。
﹁私も、美波留さんとお友達になれて嬉しいわ﹂
修学旅行以来、私は友達の押し売り作戦に味を占めている。言っ
たもん勝ちだ。
陰で﹁こっちは友達だなんて思ってないのに、押し付けがましい﹂
とか言われてたらどうしよう⋮と、ちょっとドキドキしているんだ
けど。
﹁えっ友達?!あ、私も嬉しいです﹂
うふふ、友達またひとりゲット。
卒業が近づくと、恒例のサイン帳なるものが出回る。
そういえばあったなー、サイン帳。懐かしい。
前世でズボラだった私は、最初は張り切って書いてたけど、途中
から面倒くさくなって適当に書いて渡してたな。
一言メッセージって案外書くことなくて困るんだよね。バリエー
ションが年賀状並みにあまりない。
ほかの子とは違う、個性的でおしゃれなことを書こうと張り切る
と、大人になってとんでもない黒歴史になることがあるので、とて
も危険だ。
私にも、思い出すだけで壁にガンガン頭を打ちつけたくなるよう
245
な、恥ずかしいメッセージをいくつか書いてしまった覚えがある。
変なポエムとかね⋮。
あぁっ!私に思念であのサイン帳を燃やす超能力があれば!
そんなサイン帳の記入の依頼が私にも来る。
瑞鸞はほぼ全員がそのまま中等科に進むのに、サイン帳なんてい
るのかねーなんて思いつつも、面倒だけど誰にも頼まれないのはも
っと切ないので、笑顔で引き受ける。
きれいなシールと色ペンを使ってごまかす。
﹁麗華様、サイン帳書いてもらえますか?﹂
本田美波留ちゃんからも頼まれた。友達なのでもちろん引き受け、
私のサイン帳も書いてもらう。
ちなみに私のサイン帳はお母様が用意した、ヨーロッパの王室御
用達文具メーカーのものだ。キャラ物で充分だよ⋮。
例のふたりにはサイン帳の依頼で長蛇の列が出来ているみたい。
私の周りの子達もぜひ書いてもらいたいと意気込んでいる。
鏑木も優理絵様に怒られて以来、前よりはきちんと対応するよう
になったようで、サイン帳も面倒くさがりながらも、一応書いてく
れるらしい。でも名前だけ。まさにサイン帳。
中には﹁○○へ、って名前書いてください!﹂というお願いもあ
るそうだ。芸能人か。
鏑木雅哉
と書いてあるだけだった。
書いてもらった子のサイン帳を見せてもらったけど、本当にノー
トの真ん中に
卒業おめでとう
が付いてくる。
ちなみにその子もしっかり名前を入れてもらっていた。字はさす
がに上手かった。
円城のは名前のほかに
まぁ、どっちもどっちだ。
246
メッセージを考えるのに苦労している私としては、その潔さがち
ょっと羨ましい。
そんな事をつらつらと考えながら、放課後ピヴォワーヌのサロン
に行くために、ひとり廊下を歩いていると、緊張した顔の委員長に
声をかけられた。
247
41
﹁あの、吉祥院さん。少し話があるんだけどいいかな﹂
委員長の顔つきから、大事な話のようなので人気のなさそうな校
舎裏に行く。
﹁話ってなにかしら?﹂
ずいぶん前から何か言いたそうだったもんね。
でも委員長はもじもじして、なかなか話しださない。
言いにくいことのようなので、黙って待ってあげる。
﹁あの、もしかしたら頭のいい吉祥院さんなら気づいているかもし
れないけど﹂
﹁あら、頭がいいなんて、そんなことありませんわよ?﹂
委員長の中では私は頭のいいイメージなのかぁ。
それにしても話っていったいなんだろう。
心当たりないなぁ。
あ、委員長の顔が赤くなった。
本当にどうしちゃったのかなぁ。
﹁実は、僕、本田さんが好きなんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮⋮すみません、自惚れていました。
248
委員長、もしかして私のこと好きなんじゃない?って思っていま
した。
話ってなんだろう、心当たりないなぁって、絶対告白だと思って
いました。
いーーーやーーーっ!!私って恥ずかしいっ!!
なに自惚れちゃってんだよ!
とうとう私にもモテ期到来か?!とか考えちゃったよ!
困ったなぁ、私は委員長のことそんな風に考えたことないんだけ
どなぁ、なんて上から目線で妄想してたよ!
ごめんなさい!身の程知らずでごめんなさい!
委員長には赤ベコのように何度も頭を下げてお詫びしたい!
だってモテたことないんだもん。
浮かれちゃったんだもん。
とうとう私にも、少女マンガ的展開が?!って思っちゃったんだ
もん。
﹁あの、吉祥院さん?どうかしたの?﹂
﹁⋮いえ、なんでもありませんわ﹂
私は気を取り直して委員長に向き合った。
幸い、委員長は私の自惚れ勘違いには気が付いていないようだ。
このまま何事もなかったように話を進めよう。
﹁それで?本田さんが好きだって、なぜ私にそんな話を?﹂
そうなんだよ。そもそもなんで私にこんな話してくるの?
だいたいさぁ、委員長も紛らわしいんだよねー。
249
美波留ちゃんが好きなら、本人に直接言えばよくない?なんで私
をチラチラ見たり、こんなところに呼び出したりするわけ?
私、関係ないよねぇ?
と逆ギレ気味で開き直ることにする。
﹁吉祥院さんは女子のリーダーみたいな人だし。協力してもらえた
らなぁって﹂
﹁協力って、告白のお手伝いをしろってことですの?﹂
﹁告白なんて?!ただ、本田さんのこと教えてもらえたらなって。
あとこれ、出来れば使って欲しいんだ﹂
もじもじしながら手渡されたのは、委員長と本田さんが一緒に学
級活動をしている写真。
卒業アルバムに載せて欲しいってことか。
それから委員長は思いの丈を私に話し始めた。
去年一緒に学級委員をやって、好きになったとか。
委員長が指を切ったら本田さんがバンドエイドをくれて、女の子
らしいと感動したとか。
今年も一緒に学級委員を出来ると思っていたら、違ったので落ち
込んだとか。︵相方が私で悪かったね!︶
﹁それとこれも、書いて欲しくて⋮﹂
出してきたのはサイン帳。
サイン帳なんて女子しかやらないものだと思ってたけど、男子も
やるのか。
そういえば修学旅行の縁結び神社でも男子が恋みくじ引いてたっ
け。
案外、私の同級生の男子達には乙女が多いらしい。
250
﹁委員長、京都で恋みくじ引いてましたわね﹂
﹁大吉だったんだ﹂
ポッと顔を赤くする委員長。
そりゃ良かったね。私は末吉だったよ。
﹁写真はともかく、サイン帳は本人に言えばいいでしょう。私にな
ぜ言う必要が?﹂
﹁だって突然書いて欲しいなんて言いにくいよ。今は一緒に学級委
員もやってないから、ほとんどしゃべったことがないんだ﹂
﹁⋮私が副委員長になって悪かったですわねぇ﹂
浮かれ気味の委員長をグサリと刺してみる。
案の定、委員長は慌ててそんなことない!吉祥院さんのおかげで
助かっている!とフォローし始めた。
ふんっ。
﹁わかりました、いいでしょう。では委員長は私が本田さんと一緒
にいる時に、さりげなく私にサイン帳を書いて欲しいと頼みに来て
ください。一緒に学級委員をやった記念にと。その時に私が、そう
いえば本田さんとも去年一緒に委員をやっていましたよねと話を向
けますから、本田さんにもぜひ記念に書いて欲しいと頼んでくださ
い﹂
﹁えっ、僕にそんな演技出来るかな。あっ、でも頑張るけど﹂
そわそわとする委員長。
委員長ってこんな子だったんだ。真面目でいかにも委員長ってタ
イプの子だと思ってたんだけどなぁ。
251
後日、委員長がサイン帳を持ってなかなかの棒演技を披露した。
美波留ちゃんは委員長の気持ちに全く気付く様子もなく、快くサ
イン帳を引き受けていた。ついでに美波留ちゃんからもサイン帳を
頼まれ、委員長は顔を赤くしていた。
それから美波留ちゃんには今好きな人がいるのか聞いてみたら、
いないけど好きなタイプは円城様みたいな人だという情報をもらっ
たので、委員長にそのまま伝えてみたら、﹁円城君か⋮﹂と落ち込
んでいた。
別に円城が好きなわけじゃなく、円城みたいなタイプが好きだっ
て言ってたんだから、まだ委員長にも望みはあるよ?と慰めてみた
けど、あまり効果はなかったみたい。
ごめん、委員長。ちょっと意地悪したくなったんだ。
そして委員長以外にも、サイン帳を使って近づく男女がちらほら
いたようだ。
私には特になにもなかった。
大人な私としては、小学生が恋愛なんてまだ早いと思うんですけ
ど、どうなんですかねー?
別に僻んでるわけじゃありませんけど?
あぁ来年はもう、卒業だなぁ。
中等科に行ったら、今度こそ私にも春がやってくるかしら?
末吉だから望みは薄いけど。
252
42
初等科の卒業式がやってきた。
全員このままエスカレーターに乗って瑞鸞中等科に進むことが決
まっているし、校舎も離れているとはいえ、同じ敷地内なので、特
に寂しいとかいう気持ちはない。
みんな似たような思いなのか、号泣するような子もいなかった。
ただこの初等科の紺の制服を着られるのも今日が最後ということ
で、みんな写真撮影に余念がない。
もちろん私も友達と一緒に撮ったりしていた。
今日の私の巻き髪も、晴れの舞台に気合の入ったお母様の指示で、
いつも以上の巻きっぷりだ。
鏑木と円城も、朝から女子生徒に囲まれている。
騎馬戦の英雄は、わざわざ式に参加しにきた下級生の男子生徒達
からも写真撮影を頼まれていた。
卒業式には両親のほか、花束を抱いたお兄様も来てくれた!
お兄様が贈ってくれた花束は、ピンク色の薔薇やカーネーション、
ガーベラなどで作られた、とっても可愛いものだった。
ありがとうお兄様!安易に真っ赤な薔薇の花束にしないところが
さすがです!お兄様の中では、私はこんなピンクの可愛いイメージ
なのね!
と感動していたら、お兄様がその中の濃い色の薔薇を指差して、
﹁この薔薇の名前はうららって言うんだよ。麗華の花だね﹂
ズッキューーーンッ!!
253
お兄様!貴方いったい何者ですか?!
私の花!私の薔薇!
乙女心がキュンキュンしすぎて、心臓が持ちません!
私のモテ期は、今日もお兄様限定でフル稼働のようです!
笑顔が眩しいっ!
などと心の中で身悶えていたら、周りのお友達のみなさんも﹁麗
華様のお兄様、素敵⋮﹂とうっとり。
そうであろう、そうであろう。
私のお兄様、世界一!
未成年にして、この乙女心を確実に撃ち抜くスキルをどこで身に
着けたのか、お兄様のプライベートに若干の不安を覚えるけれど。
お兄様、変なバイトしていませんよね?
そんなお兄様を、さすが私の息子と満足げなお母様と、何も持っ
てこなくてちょっぴり肩身の狭そうなお父様。
いいんですよ、お父様。こういうのは物じゃなく気持ちの問題で
すからね。
むしろメタボ気味なお父様が、お兄様と同じことをしたら、私ち
ょっと引いちゃいます。
私の名前の薔薇の入った花束をもらって浮かれる私とその家族で、
パシャパシャと桜の木の下で写真を撮っていると、1組の親子がや
ってきた。
﹁本日はおめでとうございます。吉祥院様﹂
﹁おぉ!これは鏑木様!こちらこそ雅哉君の卒業、おめでとうござ
います!﹂
254
うひーっ!天国から地獄!
なぜ声をかけてくるか!
﹁麗華さん、卒業おめでとう。そのお花とってもきれいね。麗華さ
んにぴったりよ﹂
﹁あ、ありがとうございます﹂
今日の鏑木夫人は鮮やかな深い青のスーツで、前回レストランで
会った時よりもさらに美しかった。
白いエレガントなスーツを着た私のお母様とは対照的だ。
﹁麗華さん、ぜひ中等科でも雅哉と仲良くしてあげてね﹂
﹁まぁ、こちらこそ!ぜひ雅哉君には麗華と仲良くしていただきた
いですわ。ねぇ、麗華さん?﹂
否定も肯定もせず、ひたすら笑顔でごまかす。
嫌な展開だ。とても嫌な展開だ。
お願いだから、穏便に早くこの場を去ってくれ。
私の祈りもむなしく、両家の親達の談笑は終わらない。
ふと前を見ると、退屈そうな鏑木と目が合った。
フンと目を逸らされた。
うわ∼、思いっきり無関心。
私だってあんたとなんか、仲良くしたくないんだからね!
﹁麗華さん、この前のお話覚えてる?ぜひ今度我が家に遊びにいら
してね﹂
﹁は?﹂
鏑木が鼻にしわを寄せて自分の母親を見た。
255
﹁ありがとうございます﹂
とりあえず笑っておく。絶対行きませんから。
ほら、鏑木の嫌そうな顔。なんでお前がうちに来るんだよって顔
してる。わっ、睨まれた!
﹁まぁまぁ!麗華さん、ぜひ遊びに行かせていただきなさいな!﹂
﹁良かったなぁ、麗華。いやぁ、麗華は雅哉君に憧れておりまして﹂
憧れてないし!なに勝手に話作ってんのお父様!
お母様、目が輝いてる!
あぁどうしよう⋮。
なんで鏑木の不機嫌オーラに気が付かないの!
憧れてないから!家に行くつもりないから!だからその不信そう
な顔で睨んでくるのやめて!
隣のお兄様に縋るような目を向けても、お兄様も困った顔で成り
行きを見守るしかないみたい。
誰か助けてー!
﹁母さん、秀介達が来たから俺行くよ﹂
﹁あら、秀介君?﹂
校舎から円城とそのお母さんらしき人物が出てきた。
円城のお母さん、初めて見た。儚げな美人だな∼。
﹁おぉ、円城様の!ぜひご挨拶させていただきたいですね﹂
ぎゃあ!ますます話が大きくなってきてる!
﹁お父さん、お母さん。麗華はお友達と最後の初等科に名残を惜し
256
みたいようですよ。行かせてあげてもいいですか?せっかくの卒業
式ですから﹂
お兄様!
﹁いやしかし⋮﹂
﹁俺も、秀介と初等科を見て回りたいから﹂
鏑木も乗っかってきた。
﹁しかたのない子ねぇ。いいわ、いってらっしゃい。申し訳ありま
せん、吉祥院様。わがままな子で﹂
﹁いやいや、そんな。雅哉君の優秀な評判は耳にしておりますよ﹂
鏑木は私の家族に挨拶をすると、足早に円城の元に去っていった。
私もそれに続かねば!
﹁では私もお友達のところに行って参りますわ。鏑木様、失礼いた
します﹂
会釈をして、女子生徒の輪の中に急ぐ。
あとは頼んだ、お兄様!
親達からやっと逃げられたと思ったら、待ち構えていた芹香ちゃ
んと菊乃ちゃん達に鏑木親子との話を追求されまくった。もう勘弁
して∼。
せっかくの卒業式なんだから、もっと楽しく終わりたかったよ。
たかが数分の出来事に、ぐったりだ。
257
っていうか、入学式も同じパターンに陥ったらどうしよう⋮。
お兄様の花束をぎゅっと抱きしめた。
しかし、うららかぁ。そんな薔薇があったとは知らなかった。
ロココと薔薇。くっ、我ながら似合いすぎるぜ。
これぞ少女マンガ的展開じゃないか?私にそんなイベントを起こ
してくれるのが、血の繋がった兄しかいないっていうのが、少し切
ないけど。だがそれもまた良し。
これも末吉の呪いなのだから。
きっと中等科に上がれば、私にも素敵なラブな展開が待っている
に違いない。
家に帰ると、興奮した両親に鏑木家訪問をせっつかれたが、鏑木
は女嫌いだから行ったらむしろ迷惑になると、言い逃げた。
でもきっと、あの様子じゃ諦めてないだろうなー。
本当に、変な野心を抱くのはやめて欲しい。
258
43
瑞鸞学院中等科に入学した。
制服のジャケットが紺から白に変わって、かなり可愛い。ボルド
ーにストライプの入ったリボンが更にその可愛さを引き立たせてく
れる。制服が変わるだけで、たった1ヶ月しか経っていないのに、
なんだかずいぶんお姉さんに見えるのが不思議。
中等科に上がると、外部受験組が3割程度入ってくる。
そしてこの外部受験組は、厳しい入学試験に合格して瑞鸞に入っ
てきているので、頭がいい。
基本的に瑞鸞は、よっぽど問題がなければ全員エスカレーター式
に上にいけるので、内部組は外部組より頭が良くないというのが巷
説だ。
高等科になると更に優秀な外部組が入ってくる。ここにくると一
部を除き、初等科からの内部上がりが一番バカだと思われている。
でも本人達は特に困る事もないようなので、それはそれでいいの
だろう。世間一般のレベルには達しているのだから。
ただ学院側としては、伝統ある瑞鸞学院がバカの巣窟になるのは
困るので、外部から優秀な生徒を集めてくるのだ。
瑞鸞はそのブランド力と、素晴らしい設備と授業内容でかなり人
気があるので、優秀な生徒はすぐに集まる。
高等科では、特に優秀な成績の生徒には特待生として授業料が免
除される。その中で更に全国模試で一定の成績を出す事を条件に、
一部の生徒には返却不要の奨学金も出る。
これって要するに、学院の体面を保つ為に偏差値をお金で買って
いるってことだよね。
259
君ドルの主人公も、この特待生制度を使って瑞鸞に入学してくる。
家計の為に授業料無料で、しかも頑張れば奨学金までもらえると
いう事で瑞鸞に入学するが、あまりの金銭感覚の違いにカルチャー
ショックを受けるんだよね。
それはそうだ。今まで通っていた学校とは、あまりに規模が違う
んだから。
その気持ちは、私も初等科に入学したときに味わったからよくわ
かる。なんだここは。私の知っている小学校と全然違う!って開い
た口が塞がらなかった。
きっとそのうち慣れるから、3年後に高等科に入学してくる主人
公には頑張ってもらいたい。
初等科と中、高等科と一番違うところは、生徒会がある事だ。
生徒会は学院内の優秀な生徒達で構成される、実力主義の組織だ。
対して、ピヴォワーヌは本人の力よりも、ピヴォワーヌにふさわ
しい血筋、家柄、財力を持つ家の子女で、初等科からの純血瑞鸞生
のみという条件がある。
ピヴォワーヌは自分達こそが瑞鸞を体現する者達であり、生徒会
を外様が何を偉そうにと苦々しく思い、生徒会はピヴォワーヌを本
人の実力でもないくせに、特権を振りかざす学院の害悪のように思
っている。
伝統のピヴォワーヌと実力の生徒会は、表だって対立することは
ないが、長年に渡っての確執があった。
今の生徒会がどんな人達かは知らないけど、なるべく波風立てる
事なく過ごしたい。
260
中等科と高等科のピヴォワーヌは合同だ。初等科のプティはあく
までおまけで、こちらが本体。
サロンのドアを開けると、美しい曲線で有名な家具に、たくさん
の胡蝶蘭と季節の生花。窓際にはグランドピアノも置いてある。
私は壁際の、アールヌーヴォーの可愛いランプのある一人掛けソ
ファが気に入って、サロンにいる時は、そこにいつも座るようにな
った。
いいなぁ、このランプ。私の部屋にも欲しいなぁ。
サロンは中、高等科合同なので、もちろん優理絵様もいる。皇帝
は何年かぶりの優理絵様との学院生活に、とても幸せそうだ。
本人は隠そうとしているが、口角があがっちゃってるので、結構
わかりやすい。
最近はストーカーも鳴りを潜め、優理絵様の教育の賜物か、他人
への気遣いも出来るようになったらしい。人間とは成長するものな
のだなぁ。
皇帝は大好きな優理絵様さえいれば機嫌がいいのだから、あと2
年は平穏な生活が出来そうだ。良かった良かった。
﹁麗華さん、中等科には慣れた?﹂
愛羅様がお菓子を持って私の元に来てくれた。
今日のお菓子はザッハトルテ。光沢のあるチョコレートが光輝い
ている。ゴクッ。
﹁はい。給食の代わりに学食というのが新鮮です﹂
中等科からは学食かお弁当持参かを選べる。学食は、普通に高級
レストラン。ほとんどのメニューが二千円以上からという、庶民に
はなかなか厳しい価格帯となっている。おいしいけどね。
261
私は密かに全メニュー制覇という目標を掲げているので、今のと
ころは学食派だ。
そしてこの食堂にも、ピヴォワーヌ専用のリザーブシートがある。
窓際の、明るい一画だ。
そういえば、君ドルでは高等科の食堂で主人公が知らずにピヴォ
ワーヌ専用席に座ろうとして、顰蹙を買うエピソードがあったな。
うん、頑張れ主人公。﹁庶民のくせに、この身の程知らず!﹂と
一番怒りまくってたのは吉祥院麗華だけどね。
﹁外部生とは上手くやっている?﹂
﹁そうですねぇ。まだ内部生との壁はありますわね﹂
﹁まぁそれはそうでしょうね﹂
外部生は1クラスに10人前後だ。高等科から入ってくる特待生
と違って、中等科の外部生は瑞鸞の高額の学費と寄付金を払えるだ
けの家の子達なので、それほどの金銭感覚の差はない。
なのでしばらくすれば馴染んでくるのだろう。一応。
部活動に入るかはまだ考え中だ。特にどうしてもやりたいという
事もないし。
お兄様からは料理部に入れば?とアドバイスをもらったけど、習
い事の日と重なっているしなぁ。
それ以外に塾や花梨先生の家庭教師もある。もうすぐ中等科に入
学して最初のテストがやってくるから、今は結構大変なのだ。
なんだか最近、﹁さすが麗華さま﹂という評価をよく受けるので、
ボロを出さないよう必死に足掻いている。
数学だ。数学が私を苦しめる。
因数分解という言葉は覚えていたけど、中身はきれいさっぱり忘
れていた。xとかyが出てくることだけはかろうじて覚えていた。
どうなってんだ、私の記憶力。
262
前世で本当に習ったのかなぁ。習ったんだろうなぁ、義務教育だ
し。
かなりの危機感を覚えて、春休み中に花梨先生に教えてもらいな
がらどうにか頭に詰め込んだ。
前世の自分には、もう勉強面での期待はしないことにした。そん
なの初等科の時にわかってたはずなのに。でももしかしたらって淡
い期待をしてしまった。奇跡なんてないんだ。
ゼロからコツコツ頑張ろう⋮。
263
44
塾は、今までのところが小学生専門の進学塾だったので、中学か
らは別の進学塾に通うことになった。
ここもお兄様が昔通っていた塾。秋澤君と蕗丘さんとは離れてし
まったけど、葵ちゃんとはなんと一緒だった!
葵ちゃんは国立付属小学校に通っていて、同じ付属小学校といっ
ても私のようなエスカレーター式ではなく、基準に満たなければ容
赦なく篩い落とす内部入試だったそうで、新年明けてからは、目の
下にクマを作って頑張っていた。
無事、付属中学に進めた今は、前のように私ととろろん芋タロウ
の話で盛り上がってくれる。とろろんグッズは新商品、手ぬぐいが
出たそうだ。ハンドタオルでもハンカチでもなく、なんで手ぬぐい?
蕗丘さんとはメールや電話で連絡を取り合っている。いそうでい
ない、毒舌友達なので大事にしたい。
今度休みの日に外で会おうかという話も出ている。おぉっ友達っ
ぽい!でも秋澤君と過ごさなくていいのかな?と思ったら、秋澤君
が用事でいない日だって。ですよねー。
中学生になって、私はひとりで外を出歩けるようになった。ただ
し昼間のみ。
平日は習い事があるから、自由な時間なんてほとんどないけど、
休日に数時間でもひとりでふらふら出来るのは、かなり嬉しい。
コンビニでお菓子を買うのも、塾を隠れ蓑にする必要がなくなっ
たからだ。大き目のカバンを持って、その中にスナック菓子を入れ
て帰れば、お母様に見つかることもない。
お母様は美肌に命を懸けているので、安い油でギトギトのスナッ
264
ク菓子なんて絶対に許さないだろう。
しかも次なる私の野望はファーストフードだし。
食べたいなぁ。ザ・ジャンクフード。フライドポテトってなんで
あんなにおいしいんだろう。ケチャップはぜひ付けてもらいたい。
瑞鸞は私立で通ってくる生徒が広範囲だから、家から離れたお店
でも目撃されそうでまだ迂闊に入れないんだけど。
そしてお祭りの屋台も行きたい!こっちは夜なのでさらにハード
ルが高くて、当分は夢のまた夢っぽい。屋台の焼きそば、おいしい
よね∼。あ、たこ焼きも食べたい。いか焼きもいいよな∼。
夢はふくらむばかりだ。
中等科に進学して解放されたと思っていたのに、また副委員長に
指名された。
そして相方は、またもや同じクラスになってしまった委員長。な
んだかセットのようにされているけど、私は委員長と違って学級委
員キャラではないはずなんだけどなー。
委員長はもう、生まれながらの委員長って感じだ。みんな当たり
前のように委員長と呼ぶ。委員長、本名なんだっけ?
5月には恒例の遠足があって、しかも山登りだ。
げー、山登り。行きたくないなぁ。
山登りのような苦しい体験を一緒にすることで、内部と外部の距
離を縮めようというコンセプトらしいが、はぁはぁぜいぜいいって、
ろくに会話も出来ない山登りより、どこかのキャンプ場で飯盒炊爨
やバーベキューでもしたほうが、よっぽど仲良くなれそうだと思う
んだけどな。
残念ながら、私には山登りの魅力が全然わからないので。
265
委員長は結構山登りは好きなんだって。何が楽しいのか聞いてみ
たら、自然の景色やおいしい空気、登りきった達成感などがあるら
しいけど、ごめんねやっぱりわからない。
車移動ばかりでひ弱な足腰のお嬢様ばかりなのに、山登りなんて
過酷なことさせないで欲しい。
そういえば、初等科時代に一時期やっていたスクワットも、いつ
の間にかやめちゃってたなぁ。寝る前の柔軟体操はやってるけど。
なんだか最近、前より足が太くなってきた気がしないでもない。
いや、前世に比べれば全然細いんだけども。
前世では中学に入って身長が止まったら、途端に栄養が横に広が
るようになって恐ろしい思いをした。
口の悪い男子に﹁練馬﹂と呼ばれた。京都に行ったら﹁聖護院﹂
と言われた。あいつらには全員、身長が止まる呪いをかけてやった。
私より太ってた子はいっぱいいたのに!私は標準体重だったのに
!足は太いんじゃなく、むくみなのに!
なんで中学生くらいの男子ってあんなに無神経なんだろう。バカ
だからかな。きっとバカだからなんだ、うん。
あいつらにはモテない呪いもついでにかけてやった。こっちの呪
いの効果は絶大だった。けけけ。
足痩せダイエットもしてみたけど、まるで効かなかったな。ちっ、
どんどんヤなこと思い出してきた。
今度の休みに青竹踏みを買ってみようかと思う。
遠足の山登りでは、早々に私達のグループは遅れをとった。委員
長、あとはまかせた。私は自分のことだけで精いっぱいだ。肺から
変な音がします。
つらい。転ばないように足元しか見ていないので、景色なんて見
ちゃいない。これの一体何が楽しい。
266
後ろを振り返れば、私と同じように死にかけの顔の子達がちらほ
らいる。⋮良かった、ビリじゃない。
どうにかこうにか山頂にたどり着けば、とっくに登り切っていた
子達はお弁当を食べていた。
山登りを通じて団結力を深めるんじゃなかったのか、おい。
疲れすぎて、お弁当を食べる気力すらない。軟弱グループの私達
は背中を丸めてげっそりとしていた。
そんな中、向こうに座っている鏑木、円城に纏わりつく女子達の
はしゃぐ声が聞こえてきた。
私達はいまだお弁当箱を開けてもいないのに、彼らはすでに食べ
終わっているらしい。
中学生になって、なんだか妙にギャル化しつつある女子グループ
の子達は、なぜだかほとんど子が運動神経がいい。羨ましい。
しばらく休んでやっとお弁当を食べられるだけの体力が戻ってき
たところで、ふと周りをみたら、数人の外部生の男子と内部生の女
子が仲良くしゃべっていた。
なんと!私達がひーこら言ってる間に、一部の外部生と内部生の
距離が縮まっていた!山登り効果か?!
私にはそんな素敵なイベントは起こらなかった。巻き髪にジャー
ジという微妙な姿だからか。
あら?あそこにいるのは美波留ちゃんじゃないか?
美波留ちゃんは別のクラスの副委員長をしている。美波留ちゃん
も副委員長というイメージにぴったりの子だよなぁ。
そんな美波留ちゃんが外部の男子と話していた。あ、笑った。
委員長、あれみてやきもきしてるんじゃないかなぁ。ただでさえ、
美波留ちゃんが円城と同じクラスになって焦っていたのに。
これは近いうちに、また委員長が相談にくるな。
267
あー、帰りは吉祥院家のヘリが迎えに来てくれないかなぁ。
268
45
遠足後にはすぐ中間テストだ。
私は死ぬ気で勉強した。
葵ちゃんから、本当の進学校の生徒の勉強量は私の想像以上のも
のだったと学び、ひたすら勉強しまくった。
夜中にわからない問題が出てきたら、お兄様の部屋に突撃して聞
いた。
さすが麗華様
の評判を、今更落とせないんだよ∼!
あまりの必死さに、家族から心配された。
でも
詰め込むだけ詰め込んで臨んだ中間テスト。
2日間のテスト期間が終わった瞬間、脳みそから単語や数式がぼ
ろぼろと零れ落ちていく感覚があった。
もうムリ。燃え尽きた⋮⋮。
そして今日は、そのテスト結果が貼り出される日だった。
順位なんて全然気にしていませんわという体を装いながら、お友
達のみなさんと掲示板に向かう。
内心はドキドキだ。
神様、神様、どうか私の努力の成果を!お慈悲をー!
掲示板に張り出された順位表を必死に目で追う。
⋮⋮⋮⋮。
あ。あった。
269
18位 吉祥院麗華
﹁まあっ!麗華様、凄いわ!﹂
﹁18位ですわ!麗華様!﹂
﹁おめでとうございます、麗華様!﹂
18位。
周りの子達が手を叩いて祝福してくれる。
⋮⋮やった。
やったよ、私!
夢にうなされる程、頑張った甲斐があったよ!
﹁ありがとう﹂
思わず安堵の笑みがこぼれる。
でもここで死ぬほど勉強したということは絶対言わない。
さすが麗華様
の立ち位置はなんとか死守でき
ガリ勉のレッテルは遠慮したい。
はぁー、これで
たようだ。ホッとした。
約200人中18番なら、私にしては相当頑張ったよね。
あー、良かった。
みんながきゃあと歓声をあげた。
﹁見て!鏑木様と円城様!﹂
1位 鏑木雅哉
2位 円城秀介
﹁外部生を押さえての1位2位なんて、さすがだわ!﹂
270
﹁なんでもお出来になるのね∼﹂
⋮ホントにね∼。
女の子達はまたもやうっとりだ。
私と違って必死で勉強していたようには見えなかったのに。元々
の出来の差か。
普通は一番最初のテストは、受験戦争を勝ち抜いてきた外部生が
上位を独占するというのが常なのに。
いや、もうさすがです。
所詮ハリボテの私とは比ぶべくもない。
3位以下は知らない名前が多いので、外部生が大半を占めてるの
かな。
あ、知ってる名前発見。
ふーん⋮。
きょろきょろと該当人物を探すけど、黒髪の中からは見つけるこ
とが出来なかった。
そりゃあ、あいつも銀髪のわけないか。そんな髪色、面接で落と
されるわ。
⋮ま、いっか。
今日は蕗丘さんのおうちにお呼ばれした。
ちゃんとした友達の家に遊びに行くのって初めてかも。嬉しい!
蕗丘さんはお嬢様学校に通うお嬢様なので、お母様チェックも難
なくクリアした。
そういう上流意識で娘の友達の選別をするのは、良くないと思う
271
けどね⋮。
そんなお母様から手土産に持たされたのは、一見さんお断り、完
全紹介予約制の洋菓子店のクッキー。 吉祥院家の定番お土産アイ
テムだ。
蕗丘さんのお母さんにご挨拶した後は、蕗丘さんの部屋に案内さ
れた。
﹁そのソファに座ってくれる?﹂
﹁はぁい﹂
蕗丘さんの部屋は、女の子らしい可愛い部屋だった。
私は、指示された可愛い小花柄のソファに座らせてもらった。
﹁会うのは久しぶりね。元気でした?﹂
﹁元気よ。メールや電話で何度も話してるじゃない﹂
蕗丘さんはクスクスと笑った。
まだ数ヶ月しか経ってないけど、蕗丘さんも中学生になってなん
だか大人っぽくなった気がするなぁ。
﹁そういえば匠から聞いたわ。テストの成績、とっても良かったん
ですってね。おめでとう﹂
﹁ありがとう。でもまぐれなのよ?﹂
秋澤君はそんな話まで蕗丘さんにしているのか。
さっき窓から見せてもらったけど、秋澤君の家は蕗丘さんの斜め
向かいだった。本当にご近所さんだ。
今日は秋澤君は陸上部の練習でいないらしい。
﹁蕗丘さん、部活は入りました?﹂
272
﹁筝曲部か吹奏楽部に入ろうかと思ってたんだけど迷い中。吉祥院
さんは?﹂
﹁私も結局何も入ってないの。特にやりたいこともないし、放課後
は結構忙しかったりするし﹂
﹁そうなのよねぇ。私もバイオリンの練習があるから﹂
ふたりでうんうんと頷く。
﹁でも吉祥院さんは瑞鸞のなんとかって会のメンバーなんでしょ?
名前忘れちゃったけど﹂
﹁あぁ、ピヴォワーヌ﹂
﹁そう、それ。選ばれた人しか入れない特別な会なのよね。私の学
校でもよく話題になるわ﹂
﹁えっ、なんで?﹂
﹁だって瑞鸞でも特に大きな家の人達がメンバーでしょう。うちは
女子校だもの。よその優良男子生徒の話には敏感なのよ﹂
﹁へーぇ﹂
瑞鸞の上級生の男子生徒の何人かの名前をあげられたけど、知ら
ない方もいた。凄いな⋮。
﹁なかでもやっぱり私達の代では瑞鸞のツートップがダントツで人
気﹂
﹁あぁ⋮﹂
名前を聞かなくてもわかる。
﹁鏑木家の御曹司は皇帝って呼ばれてるんでしょ。百合宮でも皇帝
って呼んでる人達がいるわよ﹂
﹁ええっ!もしかしてその名前の由来は⋮﹂
273
﹁え、確か匠が運動会の後からそう呼ばれ始めたって言ってたけど﹂
うわぁ、大変。
騎馬戦皇帝の名前が他校にまで知れ渡ってるよ。本人、そのこと
知ってるのかな。
なんかちょっと同情してきた⋮。
﹁どうしたの?﹂
﹁いやぁ。騎馬戦で活躍したから皇帝って、由来としてはどうなの
かなって﹂
﹁あらそんなの。イケメンだったらなんでも許されるのよ。最初の
由来なんて関係ないわ﹂
﹁そういうもの?﹂
﹁そういうものよ。現に私の学校の子達は皇帝なんて素敵って嬉々
として呼んでるわよ﹂
﹁ほー﹂
そういうものか。
確かに私も君ドルを読んでる時、由来なんて考えもせずに﹁皇帝、
かっこいいー!﹂って言ってたもんな。
﹁ところで、私の呼び方なんですけど﹂
﹁はい?﹂
﹁蕗丘さんじゃなく、桜子でいいわよ﹂
そう言うと、蕗丘さんはぷいっと横を向いた。
おぉ!蕗丘さんがデレた!
﹁えーっと、じゃあ、桜ちゃんで﹂
274
﹁⋮わかったわ﹂
ちゃん
で返すべきなんじゃな
なんか唇が得意げだなぁ、ツンデレ桜ちゃん。
には
﹁でも、だったら私も麗華で!﹂
ちゃん
﹁そう。じゃあ麗華さん﹂
えーっ!そこは
いのぉ?!私だって友達には麗華ちゃんって年相応に呼ばれたいん
だよ。
飛び越えて呼び捨て?!
私が不満そうにしているのがわかったのか、桜ちゃんはひとつた
め息をつくと、
ちゃん
﹁わかったわよ、麗華﹂
えっ、いきなり
お宅訪問で、急速に桜ちゃんと仲良くなれました。
275
46
放課後、ピヴォワーヌのサロンに向かおうと歩いていたら、前方
に鏑木と円城、そしてその周りを囀る女子達が歩いていた。
昔ならそういう子達は完全無視だった鏑木が、一応返事をしてい
る。かなり適当だけど。
本当に成長したねぇ。
しかしマンガの中では、強引だけど俺様というより意志の強い人
って感じだったから、あと3年でどこまであのマンガの皇帝に近づ
けるのかなぁ。
ふたりはサロンの前まで来ると、そのまま部屋の中に入って行っ
た。
サロンはメンバー以外の生徒は基本立ち入り禁止なので、取り巻
き女子達が付いていけるのはドアの前までだ。
彼女達はしばらくドアの前で名残惜しそうにしていたけれど、諦
めて元来た廊下を戻ろうとして、後ろを歩いてきた私に気づいた。
私は彼女達とは親しくないので、そのまま横を通り過ぎてサロン
に入ろうとした。
あ、睨まれた。
ひとりの女子が、通りすがりに確実に私を睨んだ。
驚いた。
自分で言うのもなんだけど、ピヴォワーヌのメンバーである私を、
あんなにはっきり睨む女子がいたとは。
ピヴォワーヌは学院内で特権階級だから、なかなか表だってケン
カを売る人間は少ない。せいぜい生徒会の人間くらいだろう。
276
前からグループ同士であまり仲が良くなかったけど、とうとう宣
戦布告してくる気なのかな。
うーん。ああいう派手なタイプの子達と仲良くしたいとは全く思
わないけど、面倒事は嫌だなぁ。
サロンでお茶をいただきながら、ボーッとさっきの出来事を考え
ていたら、愛羅様と優理絵様が私に声をかけてくれた。
﹁この前のテストは、麗華さん素晴らしい成績だったわね。おめで
とう﹂
﹁麗華ちゃんは英語教室でも頑張っているみたいだものね﹂
うわぁ、お姫様と騎士様そろい踏み。眩しいっ!
﹁ありがとうございます。でもまぐれなんです﹂
愛羅様とはありがたくも仲良くさせていただいているけど、優理
絵様とは残念ながら愛羅様ほどは親しくはない。
それは偏にアイツが常にそばにいるからなんだけど⋮。
﹁優理絵﹂
げっ!出た。
案の定、鏑木がすぐに優理絵様の後を追ってやってきた。
そして円城も。
憧れの優理絵様とはぜひ親しくさせてもらいたいと思っているけ
ど、いつも鏑木が近くにいるせいで、近づけやしない。
今も、せっかく優理絵様とお話ししてたのに!
277
私が鏑木を苦手としていることを、なんとなく察している愛羅様
が私を見て心配そうな顔をした。
愛羅様に心配かけるなんて、申し訳ない。
ここは当たり障りのない対応を⋮
﹁そうだ、思い出したわ。麗華さん、修学旅行では鹿に襲われて大
変だったのよね。あの写真見てびっくりしちゃって。怖かったでし
ょう?﹂
⋮優理絵様、なぜ今頃その話を思い出しますか。
貴女の隣にいる万年片思い男が、笑うのを必死で我慢しています
が。
﹁⋮えぇ、まあ。でも怪我もありませんでしたし、平気ですわ﹂
こいつ、いつまで笑ってやがる。
悔しいっ。一矢報いたい!
﹁そういえば、この前お友達に聞いたんですけど、皇帝の名前は百
合宮でも有名なんですって﹂
鏑木がぎょっとした顔をした。
ケッケッケッ。
﹁あらぁ。もう火消は無理そうね、雅哉﹂
優理絵様がおかしそうに笑った。
﹁⋮別に、いい。もう諦めたから﹂
278
鏑木がため息をついた。
おや?
﹁俺が自分で言い出したことじゃないし。ナポレオンって呼ばれる
より、ごまかしきくからまだましだ⋮﹂
そう言いつつも、うんざりした顔をした。
﹁そうだよねぇ。街中で、あ、ナポレオンだ!なんて言われたらと
んだ生き恥だもんね。でも街中で、皇帝って呼びかけられるのもき
ついよね。そしたら僕、思わず雅哉から離れて他人のふりしちゃう
かも﹂
﹁秀介、てめぇ⋮﹂
鏑木に射殺すような目で睨まれても、円城は平気な顔であははと
笑った。
﹁雅哉はいつまで皇帝と呼ばれるかわからないけどさ。吉祥院さん
は鹿娘とか呼ばれてないんだから、まだましだよ﹂
全然慰めになってないよ。
っていうか慰める気ないでしょう。目が笑ってるし。
なんだよ鹿娘って。縦ロールよりつらいよ。そんなあだ名で呼ば
れたら、私泣いちゃうよ。
﹁いつかお前にも、変なあだ名つけてやる﹂
鏑木が悔し紛れに言った。
そんなセリフじゃ全然ダメージ与えられてないよ、鏑木。
円城、さらに笑ってるじゃんか。
279
あぁでも、私も円城の弱みを見つけたい。
見つけて塩すりこんでやりたい。
ひとりだけ余裕なんてずるい。
なにが鹿娘だ。
そんな思いを沸々と滾らせていると、鏑木と目が合った。
しばらく私をジッと見た後、鏑木は小さく首を横に振った。
ん?いまのはなに?
なんで残念な子を見るような目で私を見てるの?
言っとくけど、残念レベルでいえば、今のあんたと私はどっこい
どっこいだ!
おきしま
﹁そういえば、さっきまた沖島先輩と生徒会長が揉めていたわ﹂
﹁あら、今度はなに?﹂
﹁さあ。あのふたりの揉め事はいつものことだから﹂
話題が鹿から離れてくれたのでホッとしたが、それより
﹁ピヴォワーヌと生徒会はそんなに仲が悪いのですか?﹂
沖島先輩とは、現ピヴォワーヌ会長だ。
その方と生徒会長がよく揉めているとなると、かなり深刻なのか
しら。
﹁ううん、そんなことはないわよ。もちろん仲は良くはないけど。
あのふたりは特別。昔から個人的に仲が悪かったから。そんなふた
りがピヴォワーヌ会長と生徒会長になっちゃったから、今代はわり
と対立することが多いんだけどね。ピヴォワーヌと生徒会の関係は、
その時の生徒会が穏健派か強権派かにもよるわね﹂
280
ふぅん。
中等科の生徒会は今のところはピヴォワーヌと揉めたって話はな
いから、あまり気にしてなかった。
今年の高等科の生徒会は好戦的なのか。大変だな。
﹁でもね、今の生徒会長も学院のために尽力していて悪い方ではな
いのよ?普通に過ごしていれば別になにも言われることもないわ。
私もこの前音楽室で偶然お会いしたけど、ドアを開けて譲ってくだ
さったもの。会長同士が犬猿の仲だからって、私達まで揉めること
はないと思うわ﹂
それは美しい優理絵様だからではないでしょうか?
隣で万年片思い男の眉がピクリとしましたよ?
﹁今の、沖島先輩が聞いたら大変ね﹂
んんん?
もしや、沖島会長は優理絵様が?!
おぉ、万年片思い男の口が、完全にへの字になった。
しかし生徒会かぁ。どんな人達なのかな。
ちょっと気になってきた。
そして私、なに普通に鏑木と馴染んじゃってんだ⋮⋮。
281
47
私は中学生になって、ひとりで出歩けるようになったら、ずっと
行きたい場所があった。
前世で私が住んでいた家だ。
この世界は、前世で私が住んでいた日本とほぼ同じだ。ランドマ
ークや駅名や住所など。
でも部分的に違うところもある。それはもちろん瑞鸞学院を筆頭
に、君ドルに出てくる家や会社や人間などだ。
ただ、それ以外は本当に私が知っている日本の町とほとんど一緒
なのだ。だったら、もしかしたら、私が住んでいた家に、私の家族
がいるのかもしれない。
ずっと、ずっと考えてた。
もしかしたら、もう一度会えるんじゃないかって。
前世の私と家族が住んでいたのは、東京の少し外れの町だ。
そこで両親と私と妹の4人で、マンションに住んでいた。
お父さんは普通のサラリーマン。お風呂上りにステテコ姿でふら
ふらして、家族からブーイングを受ける、家ではちょっとダメダメ
お父さん。
お母さんは専業主婦で、料理上手。私が林間学校や修学旅行から
帰った日は、必ず私の好きな炊き込みご飯と肉じゃがとおでんを作
ってくれた。妹の時は、ケチャップのかかったハンバーグと茶碗蒸
しとお豆腐となめこのお味噌汁だった。
何日かぶりに帰ってきて、玄関を開けると私の好きなごはんの匂
いが漂ってくる。あぁ帰ってきたってほっとした。
282
お父さんが出張から帰った時はなんだったかな?あぁ、いつもの
発泡酒がビールになったんだ。﹁やっぱりビールは違うなぁ﹂って、
嬉しそうに飲んでた。
前世の私はいつも家でごろごろだらだらして、お母さんに怒られ
てた。
﹁勉強しなさい﹂﹁早く宿題やりなさい﹂先に言われちゃうと、や
りたくなくなるのはなんでだろう?
いない間に勝手に部屋を片付けられて、ケンカしたこともあった。
お母さんにはくだらないものでも、私にとっては大事なものだった
のに、なんて捨てちゃったの!って。
妹はちゃっかりした子だった。
私が怒られているのを見て、自分は上手く逃げるような知恵があ
った。
﹁お姉ちゃんなんだから我慢しなさい﹂﹁お姉ちゃんなんだから譲
ってあげなさい﹂って、大人に言われるたびに、なんでって悔しか
った。妹をちょっと嫌いになった。
でも、怖いテレビを見た夜は、一緒の布団で眠った。トイレに行
くときは手をつないで、ドアの外でかわりばんこに歌を歌った。
私の成人式の時、バイトしたお金で草履とバッグをプレゼントし
てくれた。﹁私の時にも貸してよね﹂って笑ってた。
お父さんは、いつもソファでぐーたらしてた。打ち上げられたト
ドみたいだった。お母さんは私に﹁あんたのぐーたら癖はお父さん
似﹂と言っていた。
でも休みの日には家族サービスで、近場だけどドライブに連れて
行ってくれた。海や山に行って遊んだ。お父さんの車のミラーには、
私が修学旅行で買ってきた交通安全のお守りがぶらさがっていた。
283
私の住んでいた町の駅に着いた。
駅前はだいたい私の記憶と一緒だった。大きなスーパーとか、と
ころどころ違ったものもあるけど、でも懐かしい風景だった。
私の家は、駅から歩いて10分程度。大通りから少し入った住宅
街に建つマンションの7階。
もう少し。もう少しで見えてくる。その道を曲がったら│││
そこには、私の住んでいたマンションはなかった。
レンガ壁のマンションの代わりに、古いベージュのビルが建って
いた。
私の住んでいた家も、私の家族も、どこにもいなかった。
帰りは吉祥院家の車に迎えに来てもらった。
久しぶりの電車は緊張した。車の送迎っていうのはやっぱり楽だ
な。
この生活に慣れちゃうと、もう庶民の生活には戻れないね。
だってもうずっと、この生活を続けてるんだもん。しょうがない
よ。
家に戻ると、珍しくお兄様がいた。
大学に入ってからは忙しそうで、最近は夕食時にもなかなか間に
合うことがなかった。
お兄様がリビングのソファでくつろいでいたので、隣に座ってべ
ったり張り付いてやった。
284
﹁ん?どうしたの麗華﹂
別に、ただくっつき虫になりたくなっただけですよ。
気にせず本の続きでも読んでてください。
私はお兄様の腕に頭をぐりぐり押し付けた。
お兄様は黙ってくっつき虫のやどり木になってくれた。
あの時│││
あぁ、やっぱりって思った。
ここはマンガの世界なんだから、いるわけないってわかってた。
でも、もしかしたらって思ってた。
もう一度、会えることが出来たならって。
大好きだったって、伝えたかった。
お母さんに料理を教えてもらえばよかった。もうお母さんのごは
んの味は一生食べられない。だって私がお母さんの手伝いを全然し
なかったから。バチが当たったんだ。
お父さんの野球観戦に付き合ってあげればよかった。興味ないっ
て自分の部屋でマンガ読んでた。私はトドの娘なんだから、一緒に
リビングに転がっていればよかった。
妹にももっと優しくしてあげればよかった。私のアクセサリーを
勝手に使って失くした時、本気で掴みかかってケンカした。私はお
姉ちゃんなんだから、折れてあげればよかった。
ごめんね。ごめんね。駄目な私で本当にごめんね。
会いたいよ。
もう一度だけ会いたいよ。
285
寂しいよ。
ずっとずっと、寂しかったんだよ。
お父さん、お母さん、ユカちゃん⋮。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
ソファに横たわる私に、ブランケットが掛けられていた。
掛けてくれたのは、お兄様かな?
今、リビングには誰もいない。
ここは吉祥院家。
私は吉祥院麗華。
今の私の家族は、あのお父様とお母様と、お兄様だ。
私は今度こそ家族を大切にする。
だから絶対に、守ってみせる。
そう決めたんだから。
﹁あれ、麗華起きたの?﹂
お兄様がリビングに戻ってきた。
﹁えへへ﹂
私はお兄様に飛びついた。
286
48
クラスで部活に入っている生徒の名前と所属部を名簿に記入して、
生徒会室に届ける仕事がきた。
クラスの該当者全員に書いてもらい、さて今から生徒会室に届け
に行ってくるかという時になって、委員長が﹁僕ひとりで行ってこ
ようか?﹂と言い出した。
﹁なぜですの?﹂
﹁え、だってほら、ピヴォワーヌと生徒会ってあまり仲良くないっ
て噂だし⋮。吉祥院さんも一応ピヴォワーヌでしょ﹂
なんだ一応って。失敬な。
﹁別に大丈夫ですわ。それにこれって、クラス委員の生徒会への顔
見世みたいな意味もありそうだし、私もちゃんと行きますわよ。渡
せばそれですぐに終わりでしょうし﹂
﹁吉祥院さんがそう言うなら、僕はいいけど﹂
﹁だったら早く行きましょ。これを出したら今日はもう帰れるんで
すから﹂
手に持った紙をひらひらさせて委員長を促すと、ふたりで生徒会
室に向かった。
生徒会室には初めて来た。
1年生には生徒会役員もいないので、ほとんど馴染みがないのだ。
ドアをノックしてクラス名と用件を告げて、入室の許可をもらう。
287
﹁失礼します﹂
生徒会室の中は、各自の事務机と本棚とロッカー、中央にソファ
とテーブルがある。ピヴォワーヌのサロンと比べるとかなりシンプ
ルな部屋だった。
まぁピヴォワーヌを基準に考えれば、なんだってシンプルで質素
に見えちゃうんだけど。
さすが実力主義の生徒会室って感じだ。それでも瑞鸞なので調度
品の質はいい。
委員長とふたり、自己紹介をしてもう一度用件を言う。
﹁部活名簿ね。そこの箱に入れて﹂
役員の先輩に指定された箱に名簿を入れて終了。
あっという間だ。
そのまま会釈して帰ろうとした時、突然、生徒会室のドアが勢い
よく開いた。
﹁おい!学食から食料仕入れてきたから食べようぜ!本当はピヴォ
ワーヌからパクってこようとしたんだけどさ!﹂
心臓がドクンと跳ねた。
﹁ちょっと会長!その子ピヴォワーヌ!﹂
﹁えっ﹂
その人の目が私を捕らえた。
強く射抜くような眼差し、挑戦的な笑顔、太陽のような存在感。
その人を見た瞬間、頭の中に壮大なオーケストラの音楽が鳴り響
288
いた。
あの力強くドキドキする曲、まるでオルフの
のような人!!
﹁なんでピヴォワーヌの子がここにいるの?﹂
どうしよう、目が離せない。
ドキドキする。どうしよう、ドキドキする!
﹁おーい﹂
大変!私、恋に落ちてしまった!
おお運命の女神よ
あの後、私はなんとか正気を取り戻して、その場を取り繕った。
幸い生徒会の先輩方は、私が生徒会長の﹁ピヴォワーヌから食べ
物をパクってくる﹂発言に驚いて動揺したと、都合よく解釈してく
れた。
生徒会長は参ったなぁと言いつつも、﹁今のこと、ピヴォワーヌ
の連中には内緒ね﹂と眩しい笑顔で口止めしてきた。
死んでもしゃべらないと心に誓った。
と共にドラマチックに現れた人は、中等科3
ともえせんじゅ
おお運命の女神よ
年生で生徒会長の友柄千寿先輩。
まだこれだけしか情報はない。
でもそれだけでも充分だ。
私の頭の中ではあれからずっと、先輩のイメージ曲をオーケスト
289
ラが盛大に演奏し続けている、もうエンドレスだ。
うっ、友柄先輩の顔を思い出すだけで胸が苦しいっ!
でも、あの笑顔、かっこ良かったな⋮。
﹁今のこと、ピヴォワーヌの連中には内緒ね﹂
うひゃ∼∼っ!!
私はベッドの上をごろんごろん転がった。
起き上がった時、ちょっと目眩でくらくらした。
しかし、これからどうしよう。
学年も違う。生徒会役員でもない私と先輩の接点はほとんどない。
しかも相手はピヴォワーヌと長年の因縁がある生徒会の会長。
到底お近づきになれるチャンスなんてない。
せめて、先輩が生徒会長じゃなかったら!
ん?
⋮⋮なんかこれって、ロミオとジュリエットみたいじゃない?
うきゃーーっ!友柄先輩がロミオなら、私、ジュリエット!!
どうかその名をお捨てになって!
⋮⋮落ち着こう。
私はピヴォワーヌだから生徒会に入る事はできない。そもそも私
が生徒会に入ったとしても、その頃には先輩は卒業だ。やる意味が
ない。
⋮⋮先輩が卒業。ロミオ先輩が卒業!ロミオ先輩が!!
⋮⋮落ち着け、私。
まずは名前と顔を覚えてもらうことからだ。
290
あ、今日、学食から食べ物を調達してたから、もしかしたら放課
後はおなかが空いてるのかもしれない。
手作りのクッキーの差し入れなんてどうだろうか。
﹁おいしいよ。さすがジュリエットは料理が上手だね﹂
﹁そんな、ロミオ先輩﹂
とかなんとか言われちゃったらどうする?!私!
よし、これは採用だ!
あとは⋮⋮
引き出しから、真新しい消しゴムを取り出す。
別にさぁ、こんなの信じてるわけじゃないんだけどさぁ。
なんか前世で中学生の頃、一時期流行ったんだよねー。
というおまじない。
新品の消しゴムに好きな人の名前を書いて、それを誰にも触られ
ずに使い切ったら両思いになれる
私は信じてないけどさー、でもせっかくだしさー、ちょっとやっ
てみようかな、なんて。
ケースを外して、赤いペンで小さく記入。
友柄千寿
ケースを元に戻して、消しゴムサマに念を送る。
どうか神様!私にチャンスを!
頭を使ったらおなかが空いた。もう夕食の時間だ。
最近、お兄様の帰りが早い。今日も夕食に間に合うように帰って
きてくれた。
やっぱりごはんは家族そろって食べたほうが更においしいよね。
291
あぁ、でも胸がいっぱいで食べられないかも⋮。
恋の病が私を苛む。
おや、赤ワインで煮込んだ牛ほほ肉は私の好物ですよ。
目が合うと優しく微笑むお兄様。
うーん。
なら、お
、優理絵様はシューベルト
かな。
おお運命の女神よ
ボレロ
ロミオ先輩のイメージがオルフの
兄様のイメージはラヴェルの
ラ・カンパネラ
。
で、伊万里様は⋮なんだろう
。
の伊万里様が遊びにいらしたの
禿山の一夜だ
ってとこかな。
グノシエンヌ
アヴェ・マリア
愛羅様はリストの
の
円城はサティの
ペルシャの市場にて
ペルシャの市場にて
そして鏑木は、ムソルグスキーの
数日後、
で、こっそり相談をしてみる。
﹁えっ!麗華ちゃん、好きなヤツできたの?!﹂
﹁お兄様には内緒ですよ﹂
﹁⋮あー、うん﹂
具体的に相手が誰かなどは伏せて、お近づきになる方法を聞いた。
残念ながら伊万里様からは良いアドバイスはもらえなかった。
ただ手作りのクッキーは、親しくもない相手からもらうと重いか
ら止めたほうがいいと言われたので、そのアドバイスには従ってお
く。
確かに瑞鸞は、バレンタインのチョコも手作りはあまり推奨され
292
ていないし、クッキーも同じかもしれない。
でもせっかく練習したのにな。ちぇっ。
あー、しかし、恋をすると毎日が楽しい!
293
49 吉祥院貴輝
妹の様子がおかしい。
この間、休みの日に出掛けたと思ったら、帰ってきた途端べった
りと甘えてきた。
妹が僕に甘えてくるのはいつものことだけど、今回は少し違った。
僕の腕にしがみついて顔を伏せているから表情は見えないけど、
なんだかとても落ち込んでいる。
しばらくすると服が冷たくなってきた。
妹が泣いていた。
いったい何があったのか聞き出したかったけど、妹は案外頑固な
ところがある。
気づかないふりをして、妹に腕を貸した。
最近、なにかと忙しくて帰る時間が遅かったため、妹との時間が
あまりなかった。
泣くほど哀しいことがあったのに、理由を言わない。
寂しい思いをさせていたのかもしれない。
もう少し、時間を作って早めに家に帰ってこようと思う。
腕にかかる重さが増したので、見ると妹が泣き疲れて眠っていた。
起こすのは可哀想なので、ブランケットを取ってきて掛けてやる
と、妹のおなかがぐるぐる鳴っていた。口をもごもごさせている。
⋮⋮おなかが空いているらしい。
起きた時にすぐ食べられるように、軽食も取りに行った。
その日から、妹はやたら父に説教じみたことを言い始めた。
294
﹁天網恢恢疎にして漏らさず﹂だとか﹁悪事千里を走る﹂だとか﹁
天知る、地知る、我知る、人知る﹂だとかを、父の耳元でぼそっと
言うのだ。
いや、実は昔から妹は父に対して、時々思い出したようにこのよ
うなことを言っていた。
しかしその頻度が高くなった。
﹁お父様、私はお父様を信じていますよ﹂と真剣な顔で言っていた
けど、それ全然信じてないだろう。
娘に全く信用されていない父は、地味に落ち込んでいた。
妹は僕にも、﹁お兄様だけが頼りです。どうかお父様を更生させ
てあげてください﹂と頼んできた。
妹よ、父が後ろで聞いている⋮。
どうやら妹の中で、父はとんでもない悪人にされているらしい。
﹁反抗期なのかな⋮﹂とつぶやく父の声が聞こえた。
⋮⋮不憫だ。
だが最近、奇行の方向性が変わってきた気がする。
やたらため息をついていたかと思うと、突然胸を押さえて苦しみ
だす。
病気か?!発作か?!と慌てて駆け寄れば、﹁これは乙女の病な
のです﹂と奇怪なことを言い出す。
本当に病気じゃないのか心配したが、食事はペロリと食べている
のでまぁ大丈夫だろう。
父は妹からの評価をあげるため頻繁に、手に入りにくい有名パテ
ィシエのケーキやフルーツなどを買ってきてはせっせと貢いでいる。
妹はそれもしっかり食べていた。
元気そうでなにより。
295
ある時は、一心不乱に花を毟っていた。毟ってはため息、毟って
はため息だ。
何本もの花を坊主にした後、最後に大きなため息をついて黄昏て
いた。
その後は、無言で散らばった花の残骸を掃除していた。
ストレスでも溜まっているのか。
一番最近では、妹が宿題をやっていた時、
答えが間違っていたので、そこを指摘した後で間違った答えを消
してあげようと、妹のペンケースに入っていた消しゴムを出すと、
﹁あああっ!﹂とこの世の終わりのような顔で叫ばれた。
妹は僕の手から慌てて消しゴムを奪い取ると、がっくりと肩を落
とした。
いったい消しゴムがどうしたというのだろう。
妹は﹁お兄様、酷いです⋮﹂と謎の言葉を残し、宿題一式を持っ
て僕の部屋を出て行った。
なにが?
それと妹、宿題間違ったままだけどいいの?
﹁それ、花占いじゃないの?﹂
友人の伊万里に妹の話をしてみた。
この前、伊万里がうちに来たとき、妹がなにやら熱心に相談をし
ていたのだ。
なにを相談していたのか聞いても、﹁なんでもないです﹂と教え
ない。
⋮面白くない。
296
﹁花占い?﹂
﹁知らない?よくあるだろ。ほら、好き、嫌いって花びらで占うっ
てやつ。子供の頃、女の子がやってなかった?﹂
﹁あぁ、なんか聞いたことはあるけど﹂
花占いねぇ。
鬼気迫る勢いで、ぶちぶち花びらを引っこ抜いていた妹の姿から
は、そんな乙女チックな発想は浮かばなかったな。
むしろ花になにか恨みでもあるのかと思った。
しかし花占い。
あれは恋の占いじゃなかったか?
恋?
﹁⋮⋮伊万里、お前うちの妹からなに相談されてた﹂
﹁えー、いやぁ、たいしたことではないよ﹂
﹁伊万里﹂
﹁え∼、だってさぁ俺、妹ちゃんと約束しちゃったし﹂
﹁伊万里﹂
﹁別に貴輝だって妹ちゃんの知らないところでいろいろあるわけだ
し、グォホッ!﹂
黙れ愚か者。
戒めの意味を込め、もう一発食らわせる。
伊万里はゴホゴホと咳き込みながらも口を割らない。
僕はふうとため息をついた。
297
﹁久米助教授の奥様。学会の夜﹂
﹁うげっ!なんでお前それっ?!﹂
﹁妹に、なに相談された?﹂
﹁⋮⋮⋮お察しの通りです﹂
ふん。
﹁相手は﹂
﹁それは知らない。なんとか聞き出そうとしたけど、教えてくれな
かった。あ、でもロミオとかなんとか言ってたな﹂
﹁ロミオ?﹂
それは生身の人間の話か?
もしかして妹の妄想の恋人か?あの妹ならありえる。
妹にしか見ることのできない、異国の彼氏が出来たのかもしれな
い。
﹁それと手作りクッキーをプレゼントするって言ってたから、それ
は止めておいたほうがいいよとは言った﹂
﹁クッキー?﹂
あっ!思い出した!
少し前に、妹が手作りクッキーを僕と父に食べさせたことがあっ
た。
母は美容のために夜に甘いものは食べない。
ところどころ焦げていて苦かったけど、それ以外は甘かったので、
妹の料理の腕前も少しずつ人並みに近づいていってるのかもしれな
い。
父の皿には、僕に出された物よりもはるかに焦げたクッキーが並
べてあった。
298
父は﹁おっ、チョコチップクッキーかい?﹂と言って、妹をムッ
とさせていた。
お父さん、そのクッキーは真っ黒ですがチョコなどかけらも入っ
ていない、プレーンなバタークッキーです。
父は無言でクッキーをお茶で流し込んでいた。
﹁あれかぁ﹂
﹁お、心当たりある?﹂
﹁まあね﹂
好きな相手にプレゼントするクッキーのために、僕を実験台にし
たか、妹。
焦げは体に悪いんだぞ。
父の嘆きを知れ。
﹁それで、どうするの?﹂
﹁どうもしないよ﹂
﹁あれ?妨害するのかと思ってた﹂
﹁まさか﹂
一応相手が変な奴じゃないかは調べるけど。
吉祥院家の令嬢を騙して悪い事をたくらんでいるような奴だと困
るので。
それ以外だったら別にいい。
﹁だって﹂
よく考えたら、あの頓珍漢な妹の恋が成就する姿が、まるで思い
浮かばないからね。
そもそも、本当に生きている人間かも怪しいし。
299
北海道の動物園に行きたいって言ってたなぁ。終わったら連れて
行ってあげよう。
でも妹、本当に恋をしているんだったら、父の貢物に手を出すの
は少し控えたほうがいいんじゃないか?
顔が少し丸くなってきてるぞ。
300
50
ロミオ先輩に恋をして私は、浮かれに浮かれた。
浮かれすぎて、なにも手につかなくなった。寝ても覚めても心は
ロミオ先輩一色だ。
先輩のクラスの時間割を調べ、どこかですれ違うチャンスを狙っ
たり、体育をしている姿を一目見ようと、窓の外を目を皿のように
して見たり。
家に帰っても、ふと気がつくとロミオ先輩を思い出して、つい花
占いなんてしてしまったりもする。
うららを使っての花占いの結果は芳しくなかった。私の名前の花
ならば、根性見せろ!
そんな毎日を送っていたら、期末テストの順位は急斜面を転がり
落ちるように下がっていた。
当然だ。ほとんど勉強も手につかなかったのだから。浮かれすぎ
ていて。
そして自分でも、ここまで落ちるとは思わなかった。
順位表に私の名前がないことを、周りの子達は﹁残念でしたわね
∼﹂などと言いつつも、それでも精々落ちて2、3位くらいだろう
と思っているふしがあった。
ところがどっこい、軽く30位は落ちている。
は今は昔だ。三日天下もいいところだ。
崖っぷちだ。崖の突端でY字バランスをしているくらい危機的状
況だ。
さすが麗華様
この成績は酷すぎる⋮。
301
と落ち込んでいたら、担任の先生に呼び出された。しかも生徒指
導室。
もう悪い予感しかしない。
何を言われるんだろうな∼と憂鬱な気分になりながら、生徒指導
室に行くと、担任の先生が徐に今回の期末テストの結果についての
私の感想を聞いてきた。
感想って言われても、あまりの順位の落ちようにショックを受け
たとしか言えないんだけど、さてなんて答えようか。
などとぼんやり考えていたら、先生は難しい顔をして私を見つめ
てきた。
﹁はっきり言って、吉祥院さんがここまで成績を落とすとは予想外
だったのよ。初等科での成績表も見たけど、素晴らしいものだった
わ。ほかの先生方に聞いても、吉祥院さんは授業態度も真面目でテ
ストの成績もいい、とても優秀な子だという評判だった。私もそう
思ってた。貴女に関してはほとんど何も心配をしていなかったの﹂
それなのに、と先生は眉をひそめた。
﹁この成績の下がりようはいったいどうしたの?なにかあったのな
ら話して欲しいの﹂
どうしたって言われても、恋に浮かれて勉強どころじゃありませ
んでしたなんて、本当のことは言えない。
﹁前回より努力が足りなかったからだと思います。申し訳ありませ
ん﹂
﹁あのね、今回のことは問題になっているの。テストの結果だけじ
ゃない、ここ最近の貴女の授業態度にもよ。ぼんやりして身が入っ
ていないって何人かの先生から言われたわ。それでこの結果でしょ
う。いったいなにが原因なのかしら﹂
302
え、そんな大事になってたの?たかが私の成績が下がったくらい
で?!
どころか、生徒指導室に呼ばれる問題児になって
っていうか私、なんだか問題児扱い?!
さすが麗華様
る!
﹁ねぇ、吉祥院さん。貴女もしかして悪い男の子に騙されているの
ではない?﹂
﹁は?﹂
なんだいきなり。
﹁女子の素行が悪くなるのは、男の子が絡んでいることが多いのよ。
今まで真面目で優等生だった吉祥院さんがここまで変わってしまう
なんて、妙な男の子と付き合っているんじゃないかしら?﹂
先生は身を乗り出して聞いてきた。
つまり私は、悪い男の子と付き合って、不良の道に落ちてしまっ
たと。
なんということだ。
私が恋に浮かれている間に、私に素行の悪い不良少女というレッ
テルが貼られそうになっていたとは!
﹁いえ、そういうことは全くありません﹂
悪い男の子どころか、相手は成績優秀で先生方の覚えもめでたい
生徒会長様だし。
付き合うどころかあれ以来、一度も親しく話すチャンスすらない
関係だし。
303
﹁ぐふふ、ロミオ先輩∼﹂と、部屋でごろんごろん転がっていただ
けだし。
ただ単に、私のダラけ癖が出てしまった結果だというのに、思い
のほか事態が深刻になっている!
﹁一度、保護者の方にご連絡したほうがいいのではという話にもな
っているの﹂
ええっ!そこまでの問題?!
そして私は職員会議の議題にまでなってるの?!
私より成績の悪い子はいっぱいいるのに!なぜか私は不良街道ま
っしぐらにされてる!
﹁あの、本当になにもないので。今回は少し気が緩んでいただけで
すわ。反省して次回から頑張りますから﹂
﹁⋮⋮吉祥院さんのことは学院もとても信頼していてね。今回のこ
とは私達も少なからずショックだったのよ。それでね、夏休みに補
習を受けてみないかしら﹂
﹁補習?﹂
中等科では夏休みに成績の悪い生徒を対象に補習授業が行われる。
さすが麗華様
が補習⋮。
それ以外にやる気のある生徒も受けているが、それは少数だ。
補習⋮。
でもこれって、夏休み中の素行を監視する意味もあるんだろうな
ぁ。
夏休み明けにとんでもない変化を遂げる子って時々いるもんね。
それこそ悪い友達ができて。
でも先生、私には悪い友達どころか、普通の友達も少ないんです。
プライベートで遊んでくれる友達なんてほとんどいません⋮。
ひとりで家にいる私がどうやって不良になるというのですか?
304
まあ仕方がない。身から出た錆だ。
こうなったら名誉回復をするしかない。
﹁わかりました。補習、受けます﹂
中等科で初めての夏休みは、随分としょっぱいものになりそうだ。
補習初日、私は学校に向かっていた。
家族に補習を受けることになったとカミングアウトしたら、ショ
ックを与えてしまった。
お母様は﹁このくらいの成績で、補習を受けないといけないの?﹂
と困惑していたけど、私の場合テストの順位より妙な疑惑がかかっ
ていることの方が大きいんだと思う。
﹁私、悪い男の子に騙されていると思われているんです﹂なんてバ
カ正直に言ったら大変なことになりそうなので、黙っておくけど。
お兄様は私の成績表を見ながら考え込んでいた。
不甲斐ない妹でごめんよ。
しかし今回のことで、私も大いに反省した。
たかが成績が下がったくらいで、こんな大事になってしまったの
は驚いたけど。
生活態度が怠惰になっていたのは認めよう。
いろんな人に迷惑と心配をかけてしまったのだから。
家庭教師の花梨先生には、自分の教え方が悪かったのではないか
と相当落ち込ませてしまったし。
305
そして怠惰な生活ゆえに、太ってきているというのが最大の問題
だ。
笑うとはっきりと出ていたエクボが、肉で薄くなってきている。
気のせいだと目を背けていたけど、豊満なおなかが﹁お前の現実
はこれだ!﹂と訴えかけてきている。
いけない。Aラインのワンピースは好きだけど、Aラインの体型
なんて絶対嫌だ。
こんなぽんぽこ子狸のおなかなんて絶対嫌だ!
私はこの夏休み、心を入れ替えて頑張ることを決意した。
補習は人数の関係でクラス単位ではなく、学年全員の補習受講者
がひとつの教室に集められる。
教室に入ると、先にきていた生徒達が私を見てギョッとした顔を
した。
ごきげんよう、みなさん。
親しみやすい笑顔を向けたはずなのに、全員に目を逸らされた。
なぜだ。
教室にいる生徒達は、ほとんど成績の悪い子達ばかりで、しかも
学院でも目立たない子ばかりだ。まぁ学院カーストでは下位グルー
プといったところの。
やる気があって受けに来ている一部の生徒も、典型的なガリ勉タ
イプ。
ここに私の所属する層の生徒はひとりもいない。
同じグループの中にも、私より成績の悪い子はたぶんいるのだけ
ど、そういう子は家庭教師や塾に通って、補習なんて受けに来ない。
そして反抗的な子達も来ない。
ここには人畜無害でおとなしく、学院内でひっそり暮らしている
306
生徒達だけが参加していた。
私が教室の後ろの席に座ると、その近くに座っていた生徒達がそ
ーっと席を移動した。
仲がいい子達で固まっていくつかの島ができていたが、私はぽつ
んと無人島生活だ。
窓の外を見ると、あら蜃気楼かしら?景色が揺れているわ。
⋮⋮断じて泣いてなんかいない。
恋に浮かれた代償は、かなり大きなものだった。
心抉られる孤独な補習は、今日始まったばかりだ。
307
51
補習に通い始めて数日経つが、私の無人島生活は変わらない。
前の席からプリントがまわってくる時も、妙に気を使った態度を
取られる。しかも目を合わせてくれない。
怖いか。みんなそんなに私が怖いか。
機嫌を損ねたら、酷い目に合わされると怯えているか。
塾ではひとりでも全く気にならなかった。今だって平気だ。
でも学校ではひとりぼっちがこんなに堪えるとは⋮。
普段の学院生活では、常に私の周りには友達や取り巻きがいて賑
やかだ。
なのに今は同じ学校にいるのにぽつんとひとり。
前に桜ちゃんが秋澤君が塾を休んだ時に、ひとりは寂しいと言っ
た気持ちがやっとわかった。
最初からひとりなら平気だけど、いつも誰かがそばにいるのに、
それが突然なくなると心細い。
う∼ん、このままでは心の中のお友達と会話を始めそうで我なが
ら怖い。
孤独
なのではなく、
孤高
なのだと
一応、寂しい人と思われたくないために、余裕のある顔で教科書
なんぞを見ている。私は
いう空気を必死で出している。
しかしこれのせいで、余計に周りに人が近づいてこなくなってい
るという、悪循環。
補習が終わる頃には、ひとりくらいは仲良くなれる子が出来るだ
ろうか。
私、ピヴォワーヌだし家は権力持ってるし、巻き髪で爪の手入れ
まで怠っていないようなお高い外見だけど、中身はわりといい子な
308
んだよ∼。いじめたりしないよ∼。怖くないよ∼。
最近ダイエットを始めて好きな物が食べられないので、心が弱っ
ているようだ。
子狸脱却作戦の手始めに、私はお父様にお土産禁止令を出した。
近頃やたらお父様がお菓子類を買って帰ってくる。突然どうした
んだろうと思いつつも、せっかく買ってきてくれたのだから、喜ん
で食べる。
私は根が貧乏性なので、出されたものは残せない。買ってきてく
れたお父様の気持ちももちろんだけど、それを作った職人さんや農
家の人が、自分達の作った物が食べられずに捨てられたと知ったら
傷つくだろうなと考えたら、とても残せない。ありがたくいただき
ますとも。
ゆえに肥えた。
私の拒否にお父様がショックを受けていたので、正直に太ったと
言ったら、﹁女の子は少しぽっちゃりしているほうが可愛い﹂など
とぬかした。
甘い!太ると服が似合わなくなるのだ。ぱつんぱつんになるし座
るとおなかが段々になって見苦しいことこの上ない。
そして女の子同士では、太ったら負けなのだ。男目線なんて関係
ない。
お母様は全面的に私の味方になった。そして﹁実は少し前から麗
華さんが太ってきている気がしていた﹂と、言った。⋮早く言って
くれ。
お母様にはエステに連行され、ウエストの贅肉を容赦なく揉まれ、
機械で刺激を与え赤外線で温められた。
結論。エステじゃ私の贅肉には勝てない。
今は初心にかえり、毎日コツコツ部屋でフラフープを回している。
最近はフラフープを回しながら歩くという技も身につけた。順調だ。
夏休み明けには吉祥院麗華・改を披露してみせる!
309
夏休みは補習のほかに塾の夏期講習も、花梨先生の家庭教師もあ
って、勉強三昧だ。
去年の内部受験の時期より勉強している気がする。宿題は7月中
に全部終わってしまった。なんという模範的な生活。
夏期講習は葵ちゃんに会えるので嬉しい。
補習でほかの生徒達に避けられまくっている私にとって、塾での
葵ちゃんは癒しだ。
そういえば、葵ちゃんも最初は私を怖がっていたよなぁ。
﹁私、今学院の補習に通っているんですけど、周りの子達に遠巻き
にされてるんですの。私ってそんなに親しみにくいかしら?意地悪
そうにみえる?﹂
﹁えぇっ﹂
葵ちゃんは目をキョロキョロ泳がせた。
﹁ええっと親しみにくいというか、吉祥院さんは華やかで気後れし
ちゃうんじゃないかな。意地悪そうとか、そういうことはないと思
うよ。うん﹂
﹁気後れ、ねぇ﹂
﹁うん。吉祥院さんはきれいでお嬢様で、普通の人は相手にしても
らえなさそうというか、話しかけても無視されそうとか、そんな感
じがしちゃうのかも。でも、本当の吉祥院さんを知ってもらえれば、
きっとみんな仲良くなれると思うよ﹂
ねっ、と葵ちゃんが笑った。
葵ちゃーーん!
310
﹁ありがとう、葵ちゃん!﹂
どさくさに紛れて名前で呼んでみる。
葵ちゃんはちょっと驚いた顔をしたけど、すぐに笑って
﹁頑張れ、麗華ちゃん﹂
と言ってくれた。
とりあえず葵ちゃんからは、妙に媚びる必要はないけど、挨拶か
ら始めてみてはどうかとアドバイスをもらった。
毎日私から挨拶されれば、だんだん親しみも持ってくれるんじゃ
ないかと。
﹁麗華ちゃんみたいな人から挨拶されたら、きっと嬉しいと思うよ﹂
なんて言われて、気分は急上昇。頑張るよ、私!
今日は両親が出かけているので、お兄様が塾に迎えにきてくれて
外食することになっている。
葵ちゃんにその話をしたら、﹁あの素敵なお兄さんね。いいなぁ﹂
と言われた。
何回かお兄様が車で迎えにきてくれたことがあって、葵ちゃんも
会ったことがあるのだ。
それ以来、﹁あんな素敵なお兄さんで羨ましい﹂とよく言ってく
れている。
確か葵ちゃんにもお兄さんが二人いたはずだと、以前、葵ちゃん
のお兄さん達はどんな人か聞いたら、﹁⋮筋肉と、オタク﹂とぼそ
りとつぶやいて目を逸らされた。
葵ちゃんからは、これ以上聞いてくれるなという空気を感じたの
で、それ以来葵ちゃんのお兄さん達の話は聞かないようにしている
んだけど、本当は知りたくてしかたがない。﹁筋肉とオタク﹂って
311
なに。
塾が終わり迎えにきてくれたお兄様と、予約したエスニックフレ
ンチのお店に行った。
過剰な食事制限は体に悪いので、主食はきちんと食べて甘いもの
だけを控えるようにしている。
でも甘いものを断つっていうのが、私にとってはかなりの苦行な
んだよねー。
メニューを見ても、ついついそちらに目がいってしまう。しかし
我慢我慢。
ここで食べたら、お前は一生子狸だ。
﹁補習、大変?﹂
お兄様が聞いてくれた。
﹁慣れればそれほどでもありません。夏休みの宿題以外に、補習で
出される毎日の課題もあるのでそれが少し大変ですけど﹂
﹁そっか。最近前より痩せてきたから、もしかしたら補習のせいか
と思って心配してたんだ﹂
﹁えっ、私痩せました?!﹂
ダイエットの効果が現れたか!怖くて体重計には乗ってないんだ
けど、鏡で見ると消えかけていたエクボも復活してきているし、こ
れは元に戻っているのでは?
だったら、デザートを注文してもいいかも⋮。
﹁無理しているんだったら、塾を休んでもいいんだよ﹂
﹁本当に大丈夫ですわ。これは甘いもの断ちと毎晩のストレッチの
おかげです。あとフラフープも。前にお兄様、私が部屋でフラフー
312
プを回しているのを見ましたよね﹂
﹁あぁ、あれね⋮﹂
先日、お兄様が私の部屋へ訪ねてきた時、ちょうど記録に挑戦し
ている真っ最中だったので、そのまま対応してしまったのだ。
﹁まぁフラフープは置いておいて。麗華、好きな人ができたんだっ
て?﹂
﹁ええっ!﹂
いきなり核心を突かれて息が止まりそうになった。
﹁なんでそれを。あ!もしかして伊万里様?!﹂
﹁そう﹂
﹁え∼っ、お兄様には内緒にしてくださいってお願いしたのにぃ﹂
﹁伊万里なんかに相談するからだよ﹂
だって伊万里様なら良いアドバイスをくれると思ったんだもん。
タイミング良く家に遊びにきてくれた時だったし。
﹁それで相手は誰なの?﹂
﹁え∼⋮﹂
﹁伊万里には相談できて僕には言えないんだ⋮﹂
お兄様が哀しそうな顔をした。
﹁そんなことありませんわ!相手は中等科の生徒会長です!﹂
ぺろっと白状した。
﹁生徒会長。ふぅん、どんな子なの?﹂
313
﹁オルフの
おお運命の女神よ
が似合う方ですわ。でもほとんど
話したこともないんです。遠くから見てるだけなので﹂
﹁あの曲が似合うって⋮、あぶない子じゃないの?﹂
﹁まさか。とっても行動力のあるかっこいい人です。生徒会長だか
らリーダーシップもあるんです﹂
﹁へぇ﹂
夏休みに入ってから、ロミオ先輩を見てないなぁ。寂しい。
﹁クッキーもその生徒会長にあげるために練習してたんだって?﹂
﹁そうなんですけど、伊万里様にやめたほうがいいと言われて、結
局渡しませんでした﹂
うん。考えてみれば、見知らぬ下級生に突然手作りクッキーを渡
されたら、先輩も驚いちゃったかもしれないもんね。
伊万里様のアドバイスに従って良かった。
﹁そうだ、お兄様。伊万里様は今度いつ遊びにいらっしゃいますの
?私この前、伊万里様から長崎のお土産に素敵なびーどろをいただ
いたでしょう?あのびーどろ、とっても可愛くて気に入っているの
で、もう一度お礼が言いたいんです﹂
長崎にいるご親戚に会いに行った時のお土産で、伊万里様がきれ
いな色ガラスのびーどろを買ってきてくれたのだ。
光に透かすとキラキラ光って、吹くとパッキンパッキンと音がし
てとても可愛い。ただ私にはぽっぺんとは聞こえないんだけど。
伊万里様は、本当に女の子の好きそうなものを熟知してるなぁ。
﹁伊万里は忙しいから、当分は来られないと思うよ﹂
314
お兄様がにっこりと笑った。
それは残念だなぁ。
315
52
結果として、補習に参加していた生徒達と仲良くなることは出来
なかった。
葵ちゃんのアドバイス通り、朝教室に入って行った時に、近くに
いる生徒達に順に﹁ごきげんよう﹂と笑顔で声をかけたけど、初日
は挙動不審になる子が何人かいた。
それでも毎日続けているうちに、徐々に普通に挨拶をし返してく
れるようにはなった。
でもそこから進展はしなかった。怯えなくなっただけマシかなと
思うことにした。
そして新学期、久しぶりに会ったグループの子達は私を見て、﹁
あら麗華様、痩せました?﹂と言った。あんた達、やっぱり私が太
ってきていたことに気づいていたな。
陰で子狸ロールとか言ってたら許さないぞ。
私が補習を受けていたことを知った友達のみなさんは、なぜか﹁
さすが麗華様。勉強熱心ですわ﹂と私に都合のいい勘違いをしてく
れた。誤解は解かないでおいた。
休み明けは体育祭の出場種目決めから始まった。
中等科になると生徒会もあるし、体育委員や部活の代表もいるの
で、初等科の実行委員のようなものはなくなった。
しかし、そのぶん学級委員がクラスの代表として体育委員と共に
いろいろ動く事になるらしい。
316
私は張り切った。
やっと生徒会と接点が持てる!
先輩のためなら、いくらでも手足となり働きましょう!さぁさぁ、
ちゃっちゃと種目を決めて私を生徒会室に送り出すのです!
中学生になってリレーの種類が増えた。走るのが嫌いな私には、
なるべく関わりたくない種目だ。
私は大縄跳びと玉入れのほかに、友達に誘われて二人三脚に出る
事にした。
一番揉めたのは、男子の騎馬戦だった。なかなか立候補者が出な
かったのだ。それはそうだろう。だって騎馬戦には絶対ヤツが出て
くるのだから。
前に騎馬戦に出た男子から聞いたのだが、すさまじい勢いで追い
かけてくる皇帝とその馬の迫力は、他の騎馬とは桁違いの恐ろしさ
だそうだ。
きっと今頃、皇帝は新しい馬選びに余念がないだろう。馬に選ば
れると放課後の秘密特訓に強制参加させられるらしい。そして皇帝
に鍛え上げられた馬は、本番で馬力の違いをみせつける。
そりゃあ出たくないよなぁ。私、男子じゃなくて良かった。
結局は、事情を知らない外部生の男子と、じゃんけんで負けた不
運な男子達が出る事になった。頑張っておくれ。
なんとか出場種目も決まったので、生徒会主催の体育祭会議に向
かう。ほら、委員長早く行きますよ。もたもたしない。
委員長は同じ会議に美波留ちゃんも出るというので、反射する窓
ガラスを使って髪型を整えたりしていた。乙女だ。
会議室にはすでに生徒会役員が揃っていた。その中心にはもちろ
ん会長のロミオ先輩も。
あぁっ、久しぶりに間近で見たよー!
317
夏休みに海に行ったのか、日焼けしていてさらにワイルドさに磨
きがかかっております!
思わず口角があがって満面の笑みになりそうなので、歯を食いし
ばって耐える。ひとりで笑っている変な子だと思われたくない。で
も口の筋肉が勝手に動く!
ロミオ先輩と目が合った!不思議そうな顔された!やっぱり私の
顔、変だった?!
会議では注意事項や係決めなどを話し合って、最後にクラスごと
の種目選手が記入されたプリントを提出して終了。
そこで提出されたプリントを見ていたロミオ先輩が、﹁そういえ
ば騎馬戦にとんでもなく強いのがいるんだって?﹂と言い出した。
﹁俺も騎馬戦出るんだよなぁ。勝てるかなぁ﹂
なぬっ?!
ロミオ先輩が騎馬戦に出るですと!それは絶対応援せねば!
私はプリントを手渡す時に、
﹁先輩、騎馬戦頑張ってください﹂
と、勇気を振り絞って言ってみた。
先輩はちょっと驚いた顔をしたけど、すぐに笑顔になって﹁あり
がとう﹂と言ってくれた。
やった!
体育祭の準備で先輩とお近づきになろうという私の計画は、ほと
んど叶わなかった。
学級委員はクラスの雑用ばかりで、体育祭全体の準備は生徒会と
運動部と体育委員が中心でやっていた。
それでも少しでも生徒会室に行く用事があれば、率先して私が行
318
った。
委員長から生暖かい目で見られたので、余計なことは言うなと無
言で威嚇しておいた。
一度だけピヴォワーヌのサロンで余っていたお菓子をごっそりも
らって、差し入れてみた。すると﹁おー、これおいしいんだよね。
ありがとう!﹂と眩しい笑顔で言われたので、その笑顔の為なら私、
いくらでもお菓子の横流しをします!と言いそうになった。
しかし先輩はあんなにお菓子をばくばく食べても、全然太らない。
そういえば鏑木もサロンでよくマカロンだのチョコレートだのを食
べてるけど、無駄な贅肉が一切ない。
なんかそれってずるくない?
そして当日、今年もお母様一押しの強力日焼け止めを塗って、私
は体育祭に参加した。
花形競技には出ないので、ひたすら応援。
大縄跳びは他のクラスがミスをしたので、わりと好成績で終わっ
た。大縄跳びがこんなに疲れるものだとは思ってもみなかった。
部活対抗仮装リレーでは、陸上部の秋澤君が白雪姫の女装をして
走っていたので、デジカメで連写した。あとで桜ちゃんにあげよう。
なかなかの美人さんだったよ、秋澤君。
リレーに参加した鏑木と円城は、レモンの蜂蜜漬けを持った女の
子達に囲まれていた。あんなに大量に渡されても、食べきれないだ
ろうに。
レモンの蜂蜜漬けって、よくマンガや小説で運動部の差し入れの
定番として聞くけど、実は私は食べたことないんだよね。おいしい
のかな?
それぞれの競技をこなし、午後はいよいよ騎馬戦の時間になった。
皇帝の騎馬が現れると、歓声がひときわ大きくなった。威風堂々
319
とした皇帝と、鼻息も荒い騎馬。相当練習してきたようだ。自信に
みなぎっている。
﹁鏑木様ー!﹂という声援のほかに﹁皇帝!﹂という声もあちこち
から聞こえる。うぷぷ。
そして、ロミオ先輩の騎馬も競技場に入ってきた。先輩頑張って!
本当は声に出して応援したいけど、人目を気にして心の中でしか
応援できない。うわ∼ん、もどかしい!
大声援の鏑木・皇帝コール以外に、﹁友柄くーん、頑張ってー﹂
という声援も混じっている。
まずい。先輩は思いのほかモテるようだ。ライバルが多い。なん
ということだ。
焦る私を尻目に、騎馬戦はスタートした。
鏑木は近くにいる騎馬から片っ端から潰していく。逃げ惑う騎馬
に襲いかかる皇帝騎馬。あ、あれ私のクラスの騎馬だ。引き摺り落
とされてる。あ、転んだ、潰れた。
うん、君達はよく頑張ったよ。同じくボコボコにされた他のクラ
スの騎馬達と、心の傷をなめあっているようだ。成仏してくれ。
ロミオ先輩も負けていない。的確な指示を与えながら敵を捕らえ
ていく。素敵です先輩!
そして狩りつくされた競技場に最後に残ったのは、皇帝騎馬とロ
ミオ先輩だった。
ロミオ先輩、ロミオ先輩頑張って!
私が必死で祈っていると、横にいた友達が﹁大丈夫ですわ。鏑木
様がきっと勝ちます﹂と言ってきた。違う!そっちじゃない!
皇帝とロミオ先輩の一騎打ちは、ほぼ互角の戦いをしていた。あ
の向かうところ敵なしの皇帝騎馬にここまで善戦した騎馬を見たこ
とがなかったので、私も周囲も驚いた。
もしかしたら勝てるかも?!と思ったところで、先輩の馬がよろ
けて、その隙を突かれて先輩はハチマキを奪われてしまった。
競技場は大歓声に包まれた。今日一番の盛り上がりだった。
320
負けてしまった先輩は、それでも楽しそうに笑っていた。ここま
で苦戦を強いられたのが初めてだった皇帝は、勝ったのに少し悔し
そうだった。
あれはきっと、来年もっと練習量増やしてくるな⋮。
総合ではロミオ先輩のクラスが優勝した。しかしMVPはリレー
と騎馬戦で勝った皇帝だった。
皇帝は片手に持ったトロフィーを高々と掲げた。あんた実は結構
ノリノリだね。
321
53
体育祭明けの中間テストは、補習も受けて頑張ったおかげでなん
とか16位まで復活できた。心底ホッとした。これで先生方からの
信頼も回復できただろう。
しかし、鏑木と円城は相変わらずの安定ツートップだ。今回は1
位が円城だったけど。
あれだな。鏑木の2位は騎馬戦の練習のしすぎだな。なにが彼を
そこまで駆り立てるんだか。
次の授業が移動教室だったので、同じクラスの友達と歩いている
と、女子がうつむいてひとり歩いてきた。
あれ?あの子確か補習で一緒だった子だ。名前はなんだったっけ。
するとその後ろから女子の集団が笑い声をあげながらやってきた。
彼女はその声が聞こえると早歩きで去って行った。
﹁今すれ違った子、お名前なんだったかしら?﹂
﹁さぁ。顔は見たことありますけど﹂
﹁あやめさんと同じクラスの子ですね。ほら、大縄跳びで失敗した
子﹂
﹁あぁあの子﹂
﹁大縄跳びで失敗?そういえばあやめさんのクラスは誰かがミスし
て早々と失格してましたっけ﹂
﹁かなり練習してたらしくて、あやめさんも悔しがっていましたよ
ねー﹂
そっかあの子が失敗したのか。
後ろから来た子達、同じクラスみたいだったけど、肩身が狭いの
322
かしら。
﹁望田さんですね。今あの子、クラスで孤立してますわ﹂
昼休み、学食で一緒に食事をしていた大宮あやめちゃんに、さっ
きの子のことを聞いてみた。
﹁孤立?なぜ?﹂
﹁みんなで練習した大縄跳びを、始まってすぐに失敗して終わらせ
たから反感買っちゃって。私達のクラス、大縄跳びにかなり自信が
あったので﹂
え∼、そんなことで?
﹁私も直後は望田さんに頭にきてましたけど、さすがに今は怒って
ませんよ。ただ望田さんはそれだけじゃなくて、二人三脚でも転ん
つる
で足を引っ張ったんですの。しかも組んでた相手も巻き込まれて怪
我させちゃって﹂
﹁怪我?﹂
はな
﹁怪我といっても膝をすりむいた程度なんですけど、相手があの蔓
花さんのグループの子で﹂
まき
蔓花真希、ギャルのリーダーか。あのグループの子に怪我をさせ
たとは、それはまた運の悪い。
私も二人三脚に出たけど、私が組んだ子は﹁麗華様大きな声で掛
け声ですわ!﹂と言って、ぐいぐい私を引っ張ってくれたので、最
後まで順調に走りきることができた。
確かにあの時、トップ争いをしていたクラスが転んで、一気に順
位を落としてたけど、あれは望田さんだったかー。
﹁あれから望田さん、蔓花さんのグループに睨まれちゃって﹂
323
﹁いじめられてますの?﹂
﹁そういうわけではないですけど。あの子のせいでとか、聞こえよ
がしに言われたりしてますね﹂
それっていじめじゃないの?
﹁たかが体育祭くらいで﹂
﹁そうですわねぇ。私達は鏑木様と円城様の活躍が見られればそれ
でいいですけど、蔓花さん達は運動神経がいいから、ああいった行
事は張り切るのでしょ﹂
あ∼、いるよね、そういう子達って。
みんなはそれから体育祭のツートップの活躍について熱く語り始
めた。
﹁リレーの時のデッドヒート!﹂
﹁短距離走での円城様、かっこ良かった!﹂
﹁でもやっぱり一番は騎馬戦の皇帝よ。強かったわねー﹂
﹁騎馬戦と言えば、生徒会長も素敵でしたわね﹂
なんだと?!
﹁あぁ確かに。私、中等科の生徒会長があんな素敵な人だと知りま
せんでしたわ。友柄先輩ですよね﹂
﹁そう、友柄千寿先輩。中等科からの外部生で、成績は常にトップ
3圏内に入ってるとっても優秀な方なんですって。バスケが得意な
のよ﹂
﹁黙ってると少し怖そうだったけど、笑うと可愛かったわ﹂
﹁わかるわ∼、その気持ち!﹂
324
なんということだ!
いつの間にかライバルが増えている!しかも私より先輩の情報に
詳しい子までいる!
私がやったことと言えば、体育祭の後始末で生徒会室に行った時、
またもやピヴォワーヌのサロンからもらってきたお菓子を貢いだく
らいだ。
お礼を言う先輩の笑顔に胸をときめかせ、また何かもってこよう
と決意した私は、将来変な男に騙されて身銭をすべて貢いでしまう
女になりそうで、不安だ。
体育祭での秋澤君女装写真を渡す為、久しぶりに桜ちゃんと会っ
た。
なんと今日はおしゃれなオープンカフェでお茶を飲みながらのお
しゃべりだ。カフェでお茶って、友達っぽくていい!
桜ちゃんとはメールや電話では頻繁に連絡を取っているけど、予
定が合わなくてなかなか会えない。
夏休みに一度、桜ちゃんの家にまたお邪魔させてもらったくらい
だ。
その時には秋澤君には内緒だと前置きして、先輩の話をしまくっ
た。
﹁あれからなんの進展もないの?駄目ねぇ。せっかく体育祭で近づ
けるチャンスがあったのに﹂
﹁だって⋮﹂
近づくって、実際はなかなか難しいものだよ?
恋愛に厳しい桜ちゃんの説教が続きそうなので、話題を変えた。
325
﹁聞こえるように悪口を言うって、よくあることね﹂
﹁うん﹂
私は望田さんの話をしてみた。
あれから気になって望田さんを観察してみたけど、確かに蔓花さ
ん達のグループから的にされていた。
あからさまないじめではないけど、すれ違いざまにボソッとなに
かを言われたり、クスクス笑われたり。地味にダメージがくるよう
なことをされていた。
﹁私の学校にもあるけど、ああいうのはほとぼりが冷めるのを待つ
しかないのよねー﹂
﹁そっかぁ﹂
前世の私も、ある日突然無視されたことがあったなぁ。理由を聞
いても教えてくれないし。でもしばらくすると、ターゲットが変わ
って何事もなかったように話しかけられた。
いつの時代も、どこの世界でもあるんだねぇ。
望田さんも可哀想だけど、クラスも違って全く仲良くもない私が
助けに入るのも難しいんだよね。
でも今はちょっとチクチクやられてるだけだから、大丈夫かな。
桜ちゃんは私が渡した白雪姫の秋澤君の写真に大受けしていた。
カフェを出た後は、桜ちゃんと雑貨屋さんで可愛い小物を見たり
した。
休日に雑貨屋さんめぐりって、友達っぽくていい!
するとその雑貨屋さんの近くに、縁結びの神社があって桜ちゃん
が行きたいと言い出した。
私はあまり乗り気ではなかったけど、桜ちゃんがどうしてもおみ
326
くじが引きたいと言うのでつきあうことにした。
桜ちゃんは中吉だった。私は充分いい結果だと思ったけど、本人
は﹁微妙ね。匠もいまひとつはっきりしないのよ﹂と渋い顔をした。
私は先輩の顔を思い浮かべて、おみくじを引いた。来い!末吉以
上!
﹁ひっ!﹂
引いたおみくじはまさかの凶だった。凶なんて初めて引いた。本
当にあるんだ⋮。
桜ちゃんは横から私のおみくじを覗き込んで、ザッと後ろに退い
た。やめて!えんがちょしないで!
待ち人来たらず。失せもの出ずべし。縁談遠い。望みほぼ叶わず。
﹁え∼っと、悪いおみくじって、左手のみで木に結ぶといいって聞
いたよ?﹂
﹁⋮⋮⋮本当?﹂
﹁う、うん﹂
私は恐ろしい凶みくじを細く折って、桜ちゃんの言う通り左手の
みで結ぼうとした。
しかしこれが思った以上に難しかった。
難しすぎて地面に落ちた。
お祓いをして帰るべきだろうか。
327
54
先生に、授業で使っているノートを集めて放課後に持ってくるよ
う頼まれた。
委員長とふたり、職員室に集めたノートを持っていくと、ちょう
ど先生が生徒会に渡す書類を作っていた。
これ幸いと私が届けに行くと立候補した。
委員長はまたもや生暖かい目で見てきた。うるさいうるさい。
生徒会室に行くと、ロミオ先輩が銀座の高級ラスクを食べていた。
先生から預かった書類を渡すと、眩しい笑顔を返された。うっ、
目力に射抜かれるっ!
﹁吉祥院さんて働き者だよね。来年、生徒会入る?俺、推薦しよう
か?﹂
﹁いえっ、私にはとても務まりませんからっ﹂
ロミオ先輩のいない生徒会になんの意味があるか。私がこんなに
働き者なのは、別の目的があるからだ。
﹁そんなことないと思うけど。でもピヴォワーヌだもんね。生徒会
に入るのは無理かぁ。俺としては、ピヴォワーヌの吉祥院さんが生
徒会との懸け橋になってくれればいいと思ったんだけど﹂
﹁それは⋮。でも私に出来ることがあれば、精一杯お手伝いさせて
いただきます﹂
﹁ほんと?じゃあ何かあったらよろしくね?﹂
﹁はいっ!﹂
328
素敵な先輩の笑顔に見送られ、私は生徒会室を出た。
相変わらず、かっこいいなぁ先輩は。
しかし⋮。
⋮⋮銀座の高級ラスクか。
私はそのままピヴォワーヌのサロンに向かった。
サロンには何人かのメンバーがいて、優雅にお茶を飲んで談笑し
ていた。
高等科のお姉さまがショパンを奏でている。
私は、テーブルの上の大皿に盛られたお菓子類を見た。
フィナンシェ、ダックワーズ、ヌガー、ガレット、ラスク⋮
銀座の高級ラスク。
間違いない。
ピヴォワーヌには私以外に先輩にお菓子を横流ししている人間が
いる。
初めて先輩と会った時のセリフを聞いて、あれ?と思った。
﹁ピヴォワーヌからパクってこようと思った﹂って、どうやって?
サロンはメンバー以外基本立ち入り禁止だから、勝手に入って盗っ
てきたら立派な犯罪だ。しかも相手はピヴォワーヌ、大問題になる。
でも誰かが侵入したなんて話、聞いたことがない。もちろん許可
を得て先輩がこの部屋に入ったって話も。
なのに先輩は時々、お菓子を食べている。瑞鸞は基本、お菓子の
持ち込みは禁止だ。バレンタインなどのイベント時は黙認されてい
329
るけど。
学院でお菓子を食べられる特権はピヴォワーヌのサロンのみ。一
般生徒の模範になるべき生徒会には許されていない。
だったら、あのお菓子はメンバーの誰かが差し入れているのだ。
誰だ。
私はスパイに復帰した。
次の日からピヴォワーヌのサロンを見張り、誰がお菓子を持って
帰るかをチェックした。
普通はお菓子を持って帰る様なことをするメンバーなどいない。
私だって周りの目が気になって、先輩への貢物は数回しか調達で
きなかった。
すると、ひとりの先輩がこっそり、コンシェルジュにいくつかの
お菓子を分けてもらっていた。
ふかくさかすみ
先輩がサロンを出たので、後をつける。
確かあの先輩は、中等科3年の深草香澄様。
ピヴォワーヌ主流派の優理絵様達のような華やかさはないけど、
清楚で穏やかな方だ。
深草先輩は校舎裏の小さな花壇までやってきた。
誰かを探すように深草先輩があたりをキョロキョロしていると、
﹁香澄﹂と呼びかける声がした。
ロミオ先輩だった。
深草先輩は嬉しそうに駆け寄った。そしてふたりは花壇のそばに
座って、楽しげに話し始めた。
小さな声だったので内容までは聞き取れなかったが、お菓子をお
いしそうに食べるロミオ先輩を見る深草先輩の幸せそうな笑顔とか、
ロミオ先輩が深草先輩の頭を撫でたりしているのを見て、まぁ察し
た。
私はその場を後にした。
330
しばらくすると、深草先輩が校舎裏から出てきた。そのまま帰る
ようだったので、駐車場の手前で声をかけた。
﹁深草先輩﹂
﹁きゃっ﹂
深草先輩は可愛らしい悲鳴をあげた。
﹁えっ、麗華様?どうなさったの?﹂
﹁先輩、単刀直入にお聞きしますわ。生徒会長とお付き合いされて
ますの?﹂
深草先輩の顔がサッと強張った。
﹁どうして?﹂
﹁さっき偶然ふたりをお見かけしてしまったものですから。それに
生徒会長は時々ピヴォワーヌのお菓子を食べていますし。誰か親し
い方がピヴォワーヌ内にいらっしゃるのだろうなぁ、と﹂
﹁⋮⋮﹂
その後、深草先輩から聞いた話は、
2年生の時同じクラスになって徐々に親しくなったこと。3年生
になってクラスが変わってからロミオ先輩に告白されたこと。
ロミオ先輩は生徒会長なので、ふたりのことは誰にも言えず秘密
にしていること。
食べ盛りのロミオ先輩の為に、時々ピヴォワーヌのお菓子を持っ
ていってあげてること。それがばれないために、ロミオ先輩が﹁パ
クってきた﹂とごまかしていること、等々。
331
﹁別にそこまで隠す必要はないのでは?﹂
﹁だってピヴォワーヌと生徒会は代々水面下で対立しているわ。特
に今のピヴォワーヌ会長の沖島先輩は生徒会嫌いよ。千寿も隠すこ
とない、堂々としていればいいって言うけど、私は怖いの。ピヴォ
ワーヌで白い目で見られるのが﹂
あ、なにげに千寿って呼んだ。
﹁香澄﹂と﹁千寿﹂。へー、ほー、ふーん。
﹁お願い、麗華様。このことは誰にも言わないで﹂
﹁言いませんわ。私ではなんの力にもなれないと思いますけど、お
ふたりのことは祝福いたします﹂
﹁本当に?!ありがとう!千寿がね、麗華様ならピヴォワーヌと生
徒会の垣根を越えられる存在になれるんじゃないかって言ってたの。
私もそう思うわ!﹂
﹁買い被りです。私は生徒会に入る気はありませんし﹂
ロミオ先輩の勧誘は、思いっきり私情が入っていましたか。
このぶんじゃ高等科に進学しても、周囲に公表することは出来な
さそうだもんな。
でもあんなに堂々とピヴォワーヌのお菓子を食べてたら、いつか
バレると思うな。
もしかしたらそれも、ロミオ先輩の計算か?
﹁麗華様は強いから。年下だけど私、麗華様に少し憧れているのよ
?あのね、私麗華様ともっと仲良くなりたいと思っていたの。ダメ
かしら﹂
﹁いえ光栄ですわ﹂
深草先輩は嬉しそうに笑った。頼りなげで可愛らしい、こういう
332
ところをロミオ先輩は好きになったのかもしれないな。私とは正反
対だ。
それから深草先輩のことは名前で呼ぶことになり、たまに恋の相
談にまで乗る約束をしてしまった。
私は迎えの車に乗って帰り、自室のベッドに突っ伏した。
友柄先輩はロミオだったけど、ジュリエットは香澄先輩だった。
私なんてその他大勢か、せいぜいジュリエットのばあやくらいの
役回りだった。
⋮⋮私だってきゃあきゃあ恋に浮かれたかったんだ。みんな楽し
そうに恋しているのに、私だけボーッと毎日を過ごしているだけな
んてつまらないもん。
なんだよ、もう少し夢を見させてくれてもいいじゃないか。
後をつけて確かめるようなことしなきゃよかった。余計な現実を
知ってしまったよ。
うおーん!私このまま、一生片思い人生だったらどうしよう。
なんだか私が誰かと両思いになるっていう未来が全然想像つかな
いんだけど。
だって凶だし!
前世も今世もモテない人生を宿命づけられているんだ、きっと。
うおーん!当て馬人生なんてヤだよぉ!うおーん!
うおーん!⋮⋮。
次の休みに、お兄様が北海道の動物園に連れてきてくれた。前か
333
らずっと来たかったから凄く嬉しい!
白クマ!アザラシ!ペンギン!
﹁お兄様、また連れてきてくださいね!﹂
﹁そうだねぇ。今度はいつになるんだろうねぇ﹂
??お兄様は忙しいからって意味かな?
でもいつかまた絶対連れてきてくれると約束してくれたので、良
しとした。
334
55
望田さんの状況は、そのうち元に戻るだろうと思っていたけど、
予想に反して長引いているようだった。
呼び出されたり、面と向かって文句を言われたり、物を隠された
りするような、はっきりとしたいじめではないけど、本人に聞こえ
るかどうかの声で﹁暗い﹂とか﹁陰気﹂とか言って嘲笑されている
らしい。
楽しまれちゃってるんだろうなぁ、と思う。
望田さん自体も、何も聞こえないフリをして普段通りに生活して
いればいいんだけど、どんどん下を向いて暗くなっていってるから、
余計に付け入る隙が出来ちゃってる。
人間、一度ネガティブな方向に考えが傾くと、結構底なしだから
なぁ。
私は補習で会った時の印象しか知らないけど、その時から地味な
感じの子だったし。元々標的にされやすそうなタイプではあるんだ
よね。
たとえば葵ちゃんは、おとなしそうな外見だけど勉強は出来るし、
実は運動神経もいいみたいで、アウトドアも好きという活動的な子
だったりするので、そういう子はあまり標的にはされない。
でも望田さんは、補習を受けさせられるくらいだから成績もあま
り良くなさそうだし、体育祭の結果を見ても運動神経悪そうだし、
外見も地味だ。これは隙だらけだ。
友達はいるみたいだから、完全孤立ではないみたいだけど、ほと
ぼりはいつ頃冷めるのかなぁ。
などと考えつつも、違うクラスだし全く親しくないし、あきらか
ないじめでもないので、傍観していたんだけど、ある時保健室に行
335
ったら偶然会ってしまった。
その時私は紙で指を切ってしまって、絆創膏をもらいに来たんだ
けど、望田さんはストレス性の神経性胃炎で薬をもらいに来ていた。
うわぁ⋮。
保健室に入ってきた私を見て、望田さんはビクッと体を震わせて
怯えた顔をした。
すみませんねぇ、威圧的な外見で。
望田さんは補習で会ってた頃よりも、顔色も悪くなって痩せてい
た。
どうやら私の想像以上にナイーブな性格だったようだ。
﹁ごきげんよう、望田さん。保健の先生はいらっしゃるかしら。私、
絆創膏をもらいにきたのだけど﹂
﹁⋮⋮あ、用事があるってさっき出て行ったばかりで⋮﹂
﹁あら、そうですの。じゃあ勝手にもらっちゃっていいかしら?﹂
指先を切ったくらいで大げさかもしれないけど、痛いので絆創膏
は欲しい。
友達のみなさんも﹁麗華様、早く手当を!﹂とか言ってたし。本
当は一緒に保健室に行くと言ってくれたけど、この程度のことでぞ
ろぞろ大勢で行くのもなんだしと思って、断ってひとりで来たのだ。
しかし断ってよかった。望田さんを余計に怯えさせるところだっ
た。
私はピンセットで消毒薬に浸された綿球を摘まんで、右手の指先
をチョンチョンと消毒した。
しかし利き手じゃないと、結構難しい。私はぶきっちょなのだ。
﹁ねぇ望田さん、悪いんだけど絆創膏を貼るのを手伝ってくれない
かしら。左手だと上手くできそうにないの﹂
336
﹁えっ﹂
おなかを押さえながら下を向いて座っていた望田さんが、驚いた
ように顔をあげた。
私は絆創膏を差し出した。
望田さんはおどおどしながらも、私の指に絆創膏を付けだした。
﹁望田さん、大丈夫?﹂
﹁えっ﹂
﹁ほら、具合悪そうだし﹂
﹁あ⋮はい。大丈夫です⋮﹂
﹁そっかぁ﹂
世の中ピンチの時に必ず助けてくれる正義の味方なんてなかなか
いない。結局最後は自分でなんとかしないといけないのだ。
でも心の支えは必要だと思う。
﹁ねぇ望田さん、私と友達になりましょうか﹂
﹁えっ!﹂
望田さんが私のグループに入るのはたぶん無理だ。毛色が違いす
ぎる。私が頼めば周りの子達も受け入れてはくれるだろうけど、本
人も話が合わなくてつらいだろう。
﹁朝会ったら挨拶し合ったり、メールを送り合ったり、そういう友
達。そうだ、望田さん携帯は持ってる?﹂
﹁は、はい﹂
﹁じゃあアドレスを交換しません?休み時間とか、好きな時にメー
ルを送ってきてくださってかまわないわ。すぐに返事は送れないか
もしれませんけど﹂
337
私が前世で少しの間無視されてた時、休み時間と昼休みが一番苦
痛だった。
誰とも話せないので、心の中のお友達と会話していた。
望田さんも誰かと繋がっていれば、少しは気が楽になるんじゃな
いかな。
そして私という人間と仲がいいと知られれば、周囲の目も変わる
はずだ。
﹁あのね、今の望田さんが置かれている状況はなんとなく知ってる
の。でも私が彼女達を正面切って批難するのは得策じゃないと思う
の。たぶん火に油を注ぐと思うし、望田さんもみんなの前でいじめ
られっこ認定されるのは嫌でしょ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だから、もう少し頑張って。望田さんは下を向かず、堂々として
いればいいんです。あとは前髪をもう少し短くしたほうがいいかな。
そうしたらもっと顔が明るく見えると思うの。愚痴なら私が聞きま
すからメールを送ってきて。ね。それでもどうしても望田さんがダ
メだと思ったら、その時は絶対助けてあげる﹂
望田さんはボロボロと泣き始めた。
私は黙って望田さんの痩せた背中をさすった。
次の日から、望田さんとすれ違った時は親しげに挨拶をした。
一緒にいた友達から驚かれたので、﹁保健室で絆創膏が貼れなく
て困っている時に助けてもらった﹂と説明した。お姉さんタイプの
みん
子が﹁麗華様がお世話になったみたいで。どうもありがとう﹂など
さっきも悪口を言われてしまいました
と私の保護者のような事を言ったので、みんなで笑った。
望田さんからは
338
なが私を笑っているようでつらい
といった弱音メールが届いた。
う∼ん。学校が世界のすべてだと考えるから余計につらいんだよ
なぁ。
望田さんの趣味を聞き出して、絵を描いたりするのが好きだと言
うので、ネットなど外に趣味友達を作ってみたらどうかと、アドバ
イスしてみた。
そんな日々が続いたある日、廊下でギャル系グループと出くわし
た。
蔓花さんが私を見てきたので、私も静かに見返した。
というメ
この先のことはわからないけど、現時点では学院内での権力は私
のほうが上だし、1年生女子の最大派閥は私達だ。
貴女、この私にケンカを売るつもりですの?
今なら、絶対に負けない。
目線に
ッセージを込めて見つめる。私と一緒にいた子達からも好戦的な空
気を感じる。
それからすこしの間の後、蔓花さんから先に目を逸らして、彼女
達はそのまま通り過ぎて行った。
⋮⋮勝った。
こ、怖かった。ああいう派手な子達は昔から苦手なんだ。あっち
が引いてくれてよかった。
周りの子達が﹁なんなの、あの態度!﹂と怒っていたけど、聞こ
えちゃうからやめてくれ。
私は小心者だから、ケンカは怖いんだよぉ。
しばらくすると望田さんも徐々に明るくなってきて、前からの友
達ともまた普通に話せるようになってきたようだ。
339
体重も元に戻ってきたように見える。私の太り方アドバイスが効
いたようだ。夜寝る前に食べるのがポイントだ。
蔓花さん達からの陰口も減ったらしい。
1ヶ月もした頃、望田さんからのメールは完全になくなった。
340
56
もうすぐお兄様の成人式です。
私はお兄様に、成人式のお祝いにカフスボタンをプレゼントする
のです。
本当は成人式で使ってもらえるネクタイをプレゼントしたかった
のだけど、お兄様は成人式のスーツ一式をイギリスのテーラーで仕
立ててしまったので、私の口出す余裕がなかったのだ。
そして私に、ネクタイ選びのセンスはあまりない⋮。
ネクタイってどういう柄がおしゃれといわれるものなのか、よく
わからないのだ。そしてついつい奇抜な柄に目がいってしまう。
素敵な仕立てのスーツを着ているのに、ネクタイだけが素っ頓狂
だったら、周りからお兄様が笑われてしまう。それはいけない!
お兄様の場合、成人式には吉祥院家の後継者として、各所に挨拶
回りをしたりお祝いの席に行ったりと、人目に触れる事が多いのに
!そのすべてで笑いものになったら大変だ!
ということで、多少おかしなセンスでもごまかせそうな、カフス
に決定。お兄様も了承してくれたしね。
そこで、お兄様と一緒にカフスボタンを選びにお店に行ったのだ
けど、面白デザインの物がいっぱいありすぎて、なにが良いのか全
然わからない!
普通の石が付いた無難なデザインの物から、乗り物や動物やモチ
ーフ、キャラクター物まである。
乗り物もいいのかもしれないけど、私が興味がない。あ、星や雪
の結晶は可愛いな。砕けたハートなんて縁起でもない!やっぱり動
物かなぁ。うわ、爬虫類はちょっと⋮。
結局、秋に連れて行ってもらった動物園の思い出として白クマと、
夏に使ってもらうイルカに決定。 あ、ペンギンも買っちゃお。
341
これは、お兄様にまた連れて行って欲しいというメッセージでも
あるのだ。
さすがに子供っぽいかなぁと思ったけど、お兄様もこれでいいと
言ってくれたし、カフスはそんなに目立つものでもないから、別に
いいよね。
そしてカフスはオーダーメイドも出来るというので、今度とろろ
ん芋タロウのカフスを作ってお兄様に着けてもらおうかな。⋮⋮絶
対使わなそう。
お兄様は成人式を終えたら、学業の傍ら吉祥院家の事業にも少し
ずつ関わることになる。お父様の秘書の方に付いて、いろいろ学ぶ
のだそうだ。
お兄様は真面目で優秀な人だ。もしお父様が不正なことをしてい
たら、きっと気づいてくれる。
子どもの私には、お父様が正しい道に進むようにコツコツ洗脳す
るくらいしか出来ない。お兄様だけが頼りだ。
﹁お兄様。お兄様は今度からお父様のお仕事を手伝うのでしょう?
もしお父様が悪いことをしていたら、絶対に正してくださいね。で
も公にお父様を糾弾するようなことはしないでね。あくまでも穏便
に。ね﹂
買い物帰りに入ったカフェで、私はお兄様にお願いした。
お兄様は少し困惑した顔で﹁は?﹂と言った。
﹁昔から、麗華はそんなことを時々言ってたよね。お父さんが悪い
ことをしていると確信している口ぶりなんだから。僕は少し同情す
るな。可愛い娘に全く信用されていないお父さんに﹂
﹁だって⋮﹂
342
マンガの中ではそうだったんだもん。
お父様は鏑木家への野心があったり困ったところもあるけど、基
本的には家族思いの人だと思う。お金持ちによくある愛人がいるっ
てこともないしね。
でも家族にとっていい父親、いい夫だからといって、善人である
とは限らないのだ。
家族のために不正を行う犯罪者だってたくさんいるのだし。
﹁そうだ株!お兄様、株を買い占められて会社を乗っ取られないよ
うにしないと!﹂
﹁⋮⋮麗華は今度はなんの影響を受けたの?﹂
﹁影響というか⋮⋮、予知能力?﹂
﹁そうなんだ。それは凄いね﹂
む、全然信じていないな。でも本当なんだってば!
もし仮に鏑木を敵に回すようなことになったとしても、お父様が
不正をしていなければとりあえず家は安泰なんだから。
﹁とにかくお兄様、お願いしますね!穏便に、内密に不正を処理し
てください﹂
﹁はぁ、わかったよ﹂
頼みましたよ、お兄様。私もお父様の洗脳を強化しないと。
3学期に入ってもうすぐ3年生は卒業だ。私の初恋の君、友柄先
輩も卒業してしまう。といっても高等科にそのまま上がるだけなん
だけどね。それでももう、同じ校舎で会えることはないんだなぁ。
などと考えていたら、桜ちゃんからバレンタインのチョコ作りを
343
習いに行こうと誘われた。
私はいつも通りお兄様とお父様にしかあげないから、特に習いた
いとも思わないんだけど。友柄先輩にチョコをあげるつもりはもう
ないし。
それでも桜ちゃんの強引な勧誘に負けて、有名パティシエの主催
するチョコレートブラウニー講座を受けに行くことになった。
﹁ちょっと!ちゃんとグラムを正確に量ってよ!﹂
﹁えっ、量ったよ?﹂
正確に軽量スプーンや量りで材料を量らないと、桜ちゃんからい
ちいち叱られる。ちょっとうるさい。
料理は上手な人は目分量っていうよ?私の前世のお母さんは料理
をする時に軽量スプーンなんて使っていなかったし。塩や砂糖もそ
のままパパッと入れていた。そんなに心配しなくても大丈夫、大丈
夫。
あ、ココアパウダー少しこぼれちゃった。ま、いっか。
﹁ちょっとぉっ!﹂
﹁ええっ、このくらい平気だよぉ﹂
桜ちゃん、目が吊り上がって怖い⋮。
出来あがったチョコレートブラウニーは、試食してみたけどとっ
てもおいしかった。さすがパティシエが教えてくれただけのことは
ある!今までで一番の出来だ。
でも桜ちゃんは不満みたい。
﹁麗華を誘った私がバカだった。まさかこれほどとは⋮﹂
344
﹁え、なにが?﹂
桜ちゃんは私たちの作った試食用のブラウニーと、先生が作った
見本を食べ比べてため息をついている。
そんなの、プロが作ったものに比べたら多少は味が落ちるのも当
然じゃん。桜ちゃんは理想が高すぎないかな?
﹁あのね、お菓子は計量が命なの。しっかり量らないといけないの。
もしかして今まで作ってきた手作りチョコとかいうのも、全部こん
な適当なやりかただったの?﹂
﹁適当ではないよ。ちゃんと量ったよ﹂
﹁でも小さじ一杯の指示も、きちんとすりきってないでしょ。掬っ
てそのまま入れてるでしょ﹂
﹁まぁそれはね﹂
でも大丈夫だよ。ちゃんと大体の量は合ってるから。
﹁麗華、悪いことは言わない。将来のためにも料理教室に行きなさ
い﹂
﹁えぇ∼﹂
帰ってお兄様とお父様に渡したチョコレートブラウニーは、かつ
てない程称賛された。
ほら、桜ちゃんが細かすぎるんだって。
でもこれだけ褒められたら、習いに行ってみようかなって気にも
なってきた。
後日、塾で渡した葵ちゃんにも﹁凄くおいしかったよ!びっくり
した!﹂って言われたし。
教室通いはお兄様もお父様も勧めてくるし、考えてみようかな。
345
桜ちゃんと一緒に通いたいけど、でも毎回あんなにガミガミ言わ
れるのはちょっとなぁ⋮。
桜ちゃんは、もう少しおおらかに生きたほうがいいと思うぞ。
346
57
2年生に進級した。
今年は私自身の進級よりも、私にとって重大な出来事があった。
従妹の璃々奈が瑞鸞学院中等科に入学してきたのだ。
あの子、中等科の外部入試に合格できるほど、頭良かったんだ⋮。
我がまま放題だから、勉強もしていないだろうと見くびっていた
のは秘密だ。
しかし、あの璃々奈が入学してきたとなると、平穏な生活も怪し
くなってきたな。
厄介ごとに巻き込まないでくれるといいんだけど。
あの性格で、まともに友達ができるのかな。 と思っていたけど、強気で強引な性格で手下を増やし、あっとい
う間に派閥を作り上げてしまったようだ。
入学して浅い外部生なのに、我が物顔で学院を闊歩する姿は、あ
る意味感心した。
凄いぞ、璃々奈。
そしてもうひとつ、強運を誇っていた私のクラス替え運にも陰り
が出たらしい。
円城と同じクラスになってしまったのだ。
クラス表を見て、がっくりと膝をつきそうになった。終わった⋮。
でもまだ鏑木じゃなかっただけマシじゃないか。円城は親友の敵
にさえならなければ、害はないはずなのだから。
そう、害はないはず。
│││大ありだった。
347
クラスがうるさい。同じクラスの女子だけではなく、ほかのクラ
スからも取り巻きがやってきて休み時間ごとに騒いでいる。まだ本
調子じゃない朝から、女子のキンキン声を聞かされるのって、地味
にダメージ受けるものなんだな。
今まで一度もふたりと同じクラスになったことがなくて、平和で
比較的のんびりしたクラスしか知らなかったので、これはなかなか
にきつい。
円城自体は騒ぐ女子達を適当にあしらい、男子の友達と一緒にい
るのがほとんどだけど、少しでもそばにいたい女子達は、彼らの周
りできゃあきゃあ言いながら様子を窺っている。
このうるささは、部外者の私にとっては迷惑でしかないけれど、
円城も特に女子に騒がれているのを喜んでいるようには見えないの
で、モテすぎるのも大変だねと少し同情した。
たまには静かに過ごしたい時もあるだろうに。あぁ、だからピヴ
ォワーヌのサロンに来るのか。
私よりも出席率高いもんな。
私も静かなサロンに逃げ出したい⋮。
先生からは今年も学級委員を打診されたけど、断った。
﹁委員長がダメなら副でいいから﹂と言われたけど、その手にはも
う乗らない。絶対ムリ。
今までの平和なクラスであれば引き受けたかもしれないけど、今
回のクラスは私の手には負えない。苦労するのが目に見えている。
円城と同じクラスだと、何かひとつ決めるのも大変だ。
席替えだけで大騒ぎ。くじ引きへの気合が違う。今までのクラス
では、後ろの席がいいとか仲の良い子の近くがいいとか、その程度
の騒ぎだったのに。
委員会や係決めもそうだ。女子は円城と同じものをやりたいので、
なかなか決まらない。
しかし残念。円城はなにもやらなかった。騒いでいた女子達はが
348
っかりだ。
そうなのだ。忘れていたけど特権階級のピヴォワーヌのメンバー
は、積極的に学級委員やその他の委員などをやる人は少ないのだ。
生徒達に尽くす側ではなく尽くされる側なのだから。
なのになぜ、私はいいように使われていたのか⋮。
でも円城は初等科の時に体育祭の実行委員をやってたな。先生も
頼み込めば学級委員も引き受けてもらえたんじゃないか?
むしろ騒ぎの中心の円城が学級委員をやったほうが、すべてがス
ムーズに運ぶ気がする。
私の代わりに学級委員になったふたりが、4月の時点ですでにぐ
ったりしている。
去年は美波留ちゃんが円城と同じクラスで副委員長をしてたけど、
あまりの苦労に円城熱も冷めたんじゃないか?今が狙い目、乙女委
員長頑張れ。
あぁ、前途多難な1年になりそうだなぁ⋮。
﹁秀介と同じクラスはそんなに大変なんだ﹂
愛羅様は私の話を聞きながら、楽しそうに笑った。
﹁まぁ直接的な被害はないんですけど、騒がしいのに慣れなくて⋮﹂
今日はサロンに例のふたりが来ていないので、こんな話も愛羅様
にできるのだ。
愛羅様達は3年生で今年は受験生なので、今までより勉強で忙し
くなる。きっとサロンに顔を出す時間も減るかと思うと、少し寂し
い。
それは鏑木も同じで、優理絵様とは校舎は違えどサロンでは一緒
349
に過ごせる貴重な最後の年だけど、優理絵様の受験勉強の邪魔もし
たくないというジレンマで身悶えているらしい。
昔よりは感情を上手く隠せるようになったのか、そこまで葛藤し
ている姿は表に見せないけど。
まぁそのかわり、いそいそと予備校まで送ったりしている。尽く
すなぁ。
そんな話をしていたら、円城がサロンにやってきた。鏑木がいな
いのに珍しい。
﹁秀介、今日はひとり?﹂
﹁そう。雅哉は優理絵を送っていったの、愛羅も知ってるだろ﹂
そう言って、円城が私達の元にやってきた。うげっ。
﹁秀介がひとりでサロンに来るなんて珍しいと思ってね。雅哉がい
ないならさっさと帰るかと思ってたわ﹂
﹁ちょっと今日はこの後用事があって。それまでの時間潰し。教室
にいるとなにかと煩わしくて﹂
﹁聞いたわよ。麗華ちゃんと同じクラスなんですってね﹂
うわ、変なことは言わないでくださいね、愛羅様。
円城は私を見てにっこり笑った。
﹁うん。でも吉祥院さんとは同じクラスだけど、ほとんど話すこと
はないよね﹂
﹁そうですわね﹂
話す用事もありませんから。
﹁秀介、麗華ちゃんにあまり迷惑をかけないでよ。貴方達の取り巻
350
きの女の子達は元気な子が多いみたいなんだから﹂
﹁注意してもなかなか聞いてくれないんだよね。だからよっぽど目
に余る時以外は放置。吉祥院さん、彼女達なんとかしてくれない?﹂
﹁は?なぜ私が?﹂
﹁だって女子を仕切ってるの吉祥院さんでしょ。吉祥院さんがガツ
ンと言えば彼女達もおとなしくなるんじゃない?﹂
ひとを大奥総取締のように言うな。
それに一番騒いでいるのは蔓花さんのグループだ。私達のグルー
プの子の騒ぎ方は節操がある。たぶん。
﹁私にはそんな力はありませんわ。円城様がはっきりおっしゃれば
いいじゃありませんか﹂
﹁言ってるんだけどね。雅哉みたいにあまりきつく言うと、泣き出
したりする子もいるから面倒なんだ﹂
円城は少しうんざりとした顔をした。
やっぱり喜んではいないんだな。
﹁そういえば、吉祥院さんの従妹だっけ?その子が最近雅哉の周り
に近づいて、2,3年の女子と揉めてるみたいだけど﹂
﹁ええっ!﹂
璃々奈!あの子はなにやってんだ!
私の足を引っ張る様な真似だけはしないでくれ!
胃がぎゅーっと痛んだ。
今年はいろいろ厄介らしい。
351
58
早速、鏑木と同じクラスの友達に、璃々奈のことを聞いてみた。
﹁確かにあの子は最近、皇帝に纏わりついていますね。あ、すみま
せん。麗華様の従妹なのに﹂
﹁いいのよ。こちらこそごめんなさい、迷惑かけて﹂
そうだったのか。私が知らなかったのは、みんなが私の親戚の子
の悪口を目の前で言わないように気を使っていたからなのか。
もう勘弁してよ、璃々奈∼。
﹁で、具体的になにをしているのかしら﹂
﹁鏑木様に声をかけたり、たまに教室にまで来たり。まだそれほど
目立った行動はしてませんけど﹂
充分だよ。入学して間もない1年生が上級生の男子生徒の周りを
うろつくなんて、先輩女子生徒達の一番反感買う行為だ。
前世の私の中学時代でも、女子の先輩後輩の縦社会は結構厳しい
ものだった。廊下で挨拶しないと﹁生意気﹂とか言われちゃったり。
ちょうど先輩風吹かしたくなる年頃なんだよね。
そういう時期に、後輩の女子が自分達の同級生の男子に媚を売る
様な態度を取って目立っていたら、即学年中の女子に名前が出回っ
て、敵認定されてしまうのだ。
怖いんだぞ、あれは。過激なのだと呼び出されて先輩方からお説
教されちゃうんだぞ。
瑞鸞でもそういうのがあるのかは知らないけど、女子中学生の心
理としては似たようなものだと思うので、璃々奈のこれからが心配
352
でならない。
いや、璃々奈本人を心配しているというより、従妹だというだけ
で私にまでとばっちりがくるのが心配なだけなんだけど。
﹁私からも従妹に注意はしてみますわ﹂
﹁そうですね。あの、私達は別に気にしていないんですけど、蔓花
さん達のグループが⋮﹂
うわ、あれに目を付けられたか。
胃がキリキリしてきた。
璃々奈とは、瑞鸞入学前に親子で挨拶に来た時に話したのが最後
だ。
あの子、昔から私のこと嫌ってるし。だがそれはお互い様だと思
っている。
でもその時もあの子は相変わらず﹁貴兄様﹂﹁貴兄様﹂だったの
に、いつの間に皇帝ファンになったんだよ。
よりによって鏑木にいくなんて。まだ円城のほうがマシだ。鏑木
の周りは地雷畑だ。迂闊に近づけば大変なことになる。
私がコツコツ積み上げてきた努力とか評判だとか、そういったも
のを璃々奈が一瞬で木端微塵にする未来が浮かぶ。
そうか、こういう問題もあったか。
私が頑張って皇帝の不興を買わないように立ち回り、お父様に不
正をやめさせるように動き、破滅の種を潰していっても、親戚がや
らかすパターンもあるのか。
げに恐ろしきは連座制。
璃々奈って確かに、我がままで高飛車で親に甘やかされ放題でっ
て、まるで君ドルの吉祥院麗華のミニチュア版みたいな子だもんな。
どうしよう、どうしよう。あの子を更生させるスキルが私にある
353
とはとても思えない!
でも一応、一言言っておくために電話をしてみた。
﹁璃々奈さん、鏑木様の周りをうろついているのですって?上級生
にあまり迷惑をかけるような行為は慎んだほうがよくてよ﹂
﹁あら、私がなにをしようと勝手でしょ。それに鏑木様は別に迷惑
だなんて言ってないもの﹂
言われた時が最期の時なんだよ。
﹁でもね﹂
﹁それより、麗華さん。私一度ピヴォワーヌのサロンに行ってみた
いわ。連れて行ってよ﹂
こいつ!
﹁ピヴォワーヌは部外者立ち入り禁止なの。それよりじゃなくて、
鏑木様のこと。上級生の女子から貴女、評判悪いわよ﹂
﹁ふん、なにそれ。別に怖くないわそんなの。麗華さんこそ私が鏑
木様と仲良くなることに嫉妬してるんじゃない?﹂
はぁっ?!
﹁璃々奈さん、瑞鸞には瑞鸞のルールがあるの。それを無視すれば
潰されるわよ﹂
﹁はいはい、わかりましたわ。おやすみなさい、麗華お姉さま﹂
電話はプッと一方的に切られた。
⋮⋮ムカつく。ムカつく、ムカつく、ムカつくーーーー!!!
354
なんだ、あの態度は!ひとが心配して電話してやってるのに!っ
ていうかこっちに迷惑かかるからやめろって言ってんだよ!
がーーーっ!腹立つ!
どこの家にも厄介な親戚というのはいるものなのだろうか。璃々
奈、要注意人物すぎる。
お兄様に頼めば璃々奈も少しはおとなしくなるかもしれないけど、
お兄様は今学業と家業の両立で、とても忙しいのだ。璃々奈なんて
面倒な物件まで背負わせたくない。
しかし私に璃々奈をとめることは出来るのか?!
うがーーー!ストレス溜まる!
私はクローゼットの奥に隠してある、やめられないとまらないお
菓子の袋をベリッと開けて、鷲掴みで食べた。
あいつのせいで太ったら、恨んでやる!
今年の遠足は山形の山寺だった。なんで遠足に寺?
新幹線とバスを乗り継いで行った先には、長い長い階段があった。
これを私に上れと?
今年は寺だと油断していた。去年のつらい山登りと同じじゃない
か。
最初は軽快に上って行った。なんだ案外楽勝じゃない?
しかしすぐにふくらはぎに異常が出た。体が前に傾く。誰か、誰
か杖をください。
またもやこのパターンかとぜいぜいいいながら上っていると、蔓
花さん達がふふんと鼻で私達を笑いながら、追い越して行った。ぐ
うの音も出ない。
ここは松尾芭蕉の有名な俳句の寺らしい。こんなつらい階段を芭
悪縁切りの寺
だそうな
蕉は上ったのか?松尾芭蕉忍者説というのは、本当なのかもしれん。
つらい。でも頑張る。なぜならここは
355
のだから。
悪縁切り。今の私には切りたい悪縁がたくさんある。璃々奈、鏑
木、円城、蔓花⋮⋮。
次々に名前が出てくる。おかげで心の中は真っ黒だ。こんな悪い
気を纏わせながら上って、果たしてご利益はあるのだろうか?
どうにかこうにか上ってみれば、すぐに下山させられた。なんで
!?どうやら私達待ちだったらしい。すみませんね、お待たせして
⋮。
その後は五色沼に連れて行かれ、自然の中を散策だ。もう歩きた
くないよ。
しかし沼に浮かぶボートを見て、俄然テンションがあがった。乗
りたい!そして漕ぎたい!
友達を誘って早速乗ってみる。
進まない。オールを一生懸命動かしているのに、なぜか進まない。
その場をぐるぐる回りだす。なんだ、これ?
見かねた友達が漕ぎ手を代わってくれた。ありがとう、あやめち
ゃん。
ボートはすいすい水面を滑って気持ちがいい。ふと周りを見たら、
ちらほらとカップルで乗っているボートが!いつの間に!
私の目の前には笑顔の女の子。いや、ありがとう漕いでくれて。
でも私だって男の子にボートを漕いでもらいたかった⋮。
だがしかし、よく見たら鏑木と円城がふたりでボートに乗ってい
た。男同士でボートって⋮うぷぷ。
仲間がいたので良しとする。
家に着いた頃からふくらはぎにじわじわと筋肉痛の兆しが出てき
た。あぁ、明日はつらそうだなぁ。
あ!玉こんにゃく食べるの忘れてた!!
356
59
璃々奈は私の忠告など完全無視で、相変わらず鏑木に近づこうと
しているらしい。ただ上級生の女子生徒達の壁に阻まれて、思うよ
うにいっていないようだけど。
おかげで荒れていると、璃々奈と同じ1年生のピヴォワーヌメン
バーの子に聞いた。
﹁璃々奈が迷惑かけてない?﹂と聞いたら﹁大丈夫です﹂と答えて
くれたけど、その顔からは困っている様子がわかったので、﹁ごめ
んなさいね。私からも言っておくから﹂と謝った。
その子は恐縮していたけど、璃々奈が問題行動を起こしたら、す
ぐ私に教えてくれるよう、お願いした。とにかく私の知らないとこ
ろでなにをやらかしているか、把握しておかないと。
ある時などはサロンに向かう私を待ち伏せして、一緒に連れてい
けと迫ってきた。
無理だと断っても、なかなか言う事を聞かない。そこへちょうど
やってきた愛羅様がやんわりと説くとやっと退いてくれた。
あとで﹁あの素敵な人は誰!﹂と電話があったけど。
結局璃々奈の言い分としては、自分の母親も元ピヴォワーヌメン
バーで、子供の頃からその話を聞かされてきた。家が近くて初等科
から通うことができていたら、絶対ピヴォワーヌに入会できていた
はずなのに!とのことだった。
そんなもしもの話をされても、現実には璃々奈は中等科からの外
部生で入会資格がないのだから、無理なものは無理なのだ。
本当は自分だってピヴォワーヌだったという勘違いが、あの子を
増長させる源のようだ。
なんて馬鹿なんだろう。
357
蔓花さんには﹁ずいぶん可愛い従妹をお持ちですね﹂と嫌味を言
われた。返す言葉もありません。
もうストレスがピークに達しそうだった。
ということで、やってきましたファーストフード。
これまでは誰かに見つかったらと、お店に入るのを躊躇していた
けど、もうそんなことは気にしていられない。
この溜まりまくったストレスは、食べなきゃやってられないよ!
今世では初めてのファーストフードにどきどきしながら注文する。
念願のチーズバーガーにポテトはL。飲み物はウーロン茶でお願い
します。
万が一誰かに見つからないように、はじっこの席に座る。ちょっ
とお店で浮いている気がするし。
チーズバーガーを一口齧る。うわぁ、懐かしい!これ!この味だ
よね!
ケチャップたっぷりの薄く平べったいハンバーグと、ピクルスに
オニオンにチーズ!なんというチープな味!
いつも良いものを食べているせいか、ここまで安っぽい味だった
か?と驚いたけど、それがファーストフードというものよ。
ポテトもおいしいなぁ。ケチャップって偉大だね。
おなかが満たされると、ストレスも解消されていく気がする。は
ー、来てよかった。
しかし璃々奈のことはどうしようかなぁ。
冷静に考えるとあの子って私と好きになる人が似ているのよね。
お兄様が大好きで、でも好きになった人は正反対のタイプの友柄
先輩や鏑木。そして愛羅様に憧れちゃう。うわぁ、あの子と似てる
って絶対ヤだ。
でも私も友柄先輩の周りをうろちょろしてたもんなぁ。
愛羅様にはあの後ひたすら謝った。﹁麗華ちゃんも大変ね。私に
358
出来ることがあったら言ってね﹂と優しく励ましてもらったけど、
余計に申し訳なかった。
鏑木に対しては、もう怖くて目が見られない。どれくらい怒って
いるか想像するだけで震える。でもやはり一度、勇気を振り絞って
きちんと謝っておくべきか、
あ∼ぁ、なんであの子瑞鸞に合格しちゃったかなぁ。
私は薄いウーロン茶をズズッと飲んだ。
愛羅様が注意してくれたおかげか、璃々奈がサロンにまで押し掛
けてくることはなくなった。
しかし鏑木に纏わりついているのは変わらないらしい。
さすがに私のグループの子達も眉をひそめはじめた。まずい⋮。
このままでは私の立場が危ない。
﹁ごめんなさいね﹂と謝ると、﹁麗華様のせいではありませんから﹂
と言ってくれるけど、これがいつまで続くかわからない。
最近、1時間目が始まってしばらく経った頃におなかが痛くなる
ことが多くなった。
胃薬が手放せない。もうつらすぎる。
いっそぶち切れてしまおうか。
ある日とうとう、璃々奈が鏑木を怒らせた。
鏑木が優理絵様を送って行こうとした時、ふたりに近づいて話し
かけたそうなのだ。
取り巻きのルールとして、鏑木が優理絵様と一緒にいる時は邪魔
しないで離れているというのがあるのだが、それを璃々奈が無視し
たのだ。
鏑木は基本的に周りで騒いでいる女子達には無関心だ。なにをし
ようと気にも留めない。しかしそれに優理絵様が絡んだら話は別だ。
359
優理絵様との貴重な時間を邪魔する人間に対しては、普段の無表
情の仮面を捨て感情を露にする。
それを知っているから、取り巻きは優理絵様といる時は絶対近づ
かない。
しかし璃々奈はそれを知らなかったのか。いつもいる邪魔者達が
いないので、チャンスとばかりに車に乗り込もうとした鏑木に駆け
寄り、話しかけまくったそうなのだ。
そして優理絵様の予備校の時間もあるのに、空気を読まず引き止
め続ける璃々奈に、鏑木が切れた。
鏑木は﹁いいかげんにしろ!二度と俺に近づくな!﹂と怒鳴り、
その場に璃々奈を置き去りにすると、宥める優理絵様と共に車で去
って行ったらしい。
璃々奈から電話でその話を聞かされて、私は目眩がした。なんて
ことをしてくれたんだ⋮。
どうにかしてくれと言われたけど、どうにもできるわけないだろ
う。
本人からも近づくなと言われたんだし、これに懲りたらもう諦め
ろと諭したけど、璃々奈はまだ諦めるつもりはないらしい。
もう誰か助けて。
璃々奈が鏑木を怒らせたという噂はあっという間に広がり、私ま
で肩身の狭い思いをした。
騒ぎすぎて鏑木を怒らせる女子は時々いるので、そこまで大事に
はなっていないのがまだ救いだけど。
蔓花さん達の視線が痛い。
ピヴォワーヌのサロンに行くと鏑木と円城がいたので、意を決し
て謝りに行く。
﹁昨日は私の従妹が大変な迷惑をかけたようで、本当に申し訳あり
360
ませんでした﹂
しっかり頭を下げる。
サロンにはほかのメンバーもいたけど、なりふり構っていられな
い。
鏑木はしばらく黙っていたけど、大きなため息をつくと
﹁もういいよ﹂と言ってくれた。本当?
﹁別にお前のせいじゃないから﹂
﹁でも従妹ですし﹂
﹁じゃあなんとかしろよ﹂
﹁なんとかしようと頑張ってはいるのですが、なかなか⋮﹂
﹁使えねぇ﹂
鏑木がくつくつと笑った。
本当にもう怒ってはいないようだった。良かった。
その様子にホッとして、お茶でも飲んで気分を入れかえようかと
思った矢先に、﹁従妹の方が面会にいらしてます﹂という爆弾が落
とされた。
慌てて廊下に出ると、璃々奈が直接謝りたいから仲介してくれと
言い出した。
どこまで馬鹿なんだ、この子は!
とにかくここから去れと言っても、ぐずぐず言って聞きやしない。
何度かそんなやり取りをしていたら、サロンのドアが開き、円城
が出てきた。
﹁ねぇ、いい加減にしておきなよ。これ以上雅哉を怒らせたらどう
なるかわからないの?君の従妹の吉祥院さんが、君のために散々い
ろんな人に頭下げてまわってるの知らないでしょう。知ってたらこ
んな恥知らずな真似できないもんね。君があれだけ先輩達を敵に回
して無事でいられているのは、吉祥院さんがひたすら謝っているか
361
らだよ。それを知ってるから雅哉も今まで黙ってたんだ。でもそれ
ももう限界だよ﹂
円城が冷たい視線で璃々奈を射抜いた。
普段優しい顔の人が静かに怒ると、本当に怖い。
そういえばマンガの中でも吉祥院麗華は円城のこの怒りを時々受
けていたな。
璃々奈は顔を真っ赤にすると、逃げるように走って行った。
会釈くらいしていけ。
﹁あの、申し訳ありませんでした。円城様にまでご迷惑かけて﹂
﹁あの子には僕達も困っていたからね。そろそろなんとかしないと
なって思ってたんだ﹂
﹁そうだったんですか﹂
璃々奈、あんた崖っぷちだったんだよ。
﹁でも吉祥院さん、これは貸しにしておくから﹂
﹁へ?﹂
﹁まさかただで助けてもらえると思ってた?甘いよね﹂
円城はにっこり笑って﹁いつか返してもらうから、忘れないでね﹂
と言ってサロンに戻って行った。
えーーーーーっ!
362
60
カップラーメンが無性に食べたくなった。
そもそもラーメン自体を食べていない。吉祥院家が行く高級中華
料理のお店では、精々お上品な五目そばくらいしか食べられない。
私はもやしとコーンがどっさり乗った味噌ラーメンが食べたい!
しかしこれは、ファーストフード以上にハードルが高いだろうな
ぁ。
中学生の女の子が、ひとりでラーメン屋さんに入るってかなり目
立ちそうだし。
なのでカップラーメンでもいいやと思ったのだけど、これも部屋
に臭いが充満してバレそうだし、食べ終わった後のゴミの始末にも
困る。本格的なタイプのものは湯切りが必要だったりするので、厨
房でごそごそやっていたら絶対見つかる。
でも食べたいなぁ⋮。
そんなことを考えていたら、素晴らしいアイデアが閃いた。
クローゼットの奥に隠してあるべびーらーめんにお湯をかければ、
インスタントラーメンになるんじゃないか?
早速、マグカップとお湯を持ってきた。
マグカップにべびーらーめん投入。お湯投入。フォークでぐるぐ
るかき混ぜる。いただきます。
⋮⋮⋮薄い。
え、なにこれ。全然おいしくない。汁はお湯にちょこっとお醤油
を垂らしたような薄い味だし、らーめんはふにゃふにゃだし。
こんなはずじゃなかった。貴重なお菓子をムダにしてしまった。
しかし残すのはもったいないし、証拠隠滅をしないといけないの
363
で、むりやり食べる。早くしないとふやけてどんどん嵩が増す。な
んと恐ろしい食べ物!
既製の食べ物を変なアイデアでアレンジすると、ろくなことにな
らないと学んだ夜だった。
璃々奈はあれから鏑木に纏わりつくこともなくなり、ピヴォワー
ヌに入れろと駄々を捏ねることもなくなった。円城に感謝だ。
ただ完全におとなしくなったかというと、そうでもないらしく、
1年生の中では相変わらず高飛車な振る舞いらしい。
まぁ突然別人のように低姿勢になったら、逆に心配になってしま
うので、これくらいならちょうどいいかと思っている。同級生の子
達には申し訳ないけどね。
一度こっそり1年の教室に様子を見に行ったら、璃々奈の手下の
子達がおとなしそうな子ばかりだったので、かなり胸が痛んだが。
でも璃々奈の暴走が解決して、一応の平和が戻ってきたので、私
の胃痛と暴食も治まった。良かった良かった。
貸し
だけなんだけど、なにも言ってこない。不
このまま夜中に食べ続けたら、また子狸になるところだったから
ね。
あとは円城の
気味だ。あれは冗談だったのかな?いや、それはない。
前世のお母さんからも、借金は絶対にするなと口を酸っぱくして
夏合宿のお知らせ
が配ら
言われていたので、返せるものならさっさと返したいんだけどなぁ。
そんな毎日を過ごしていたある日、
れた。
夏休みに瑞鸞が提携している保養所で、2泊3日の夏合宿が開か
364
れるのだ。
去年は補習もあったので私は不参加だった。しかし今年は補習も
ないので、できれば参加してみたい!
ただ夏合宿なんて面白そうなのに、参加者はそれほど多くはない
らしい。私の周りの子も興味があまりなさそう。
なんで?と聞いたら夏休みはそれぞれすでに予定が入っていたり、
早朝から起こされるのが嫌だとか、なにもない高原に行っても楽し
くなさそうという意見が多かった。
そうだよね、お坊ちゃん、お嬢ちゃんにはあまり魅力的ではない
かもね。
でも私は行ってみたい。
家に帰ってすぐに、両親に参加の意思を示した。
しかしお母様はあまり良い顔をしなかった。理由は、﹁吉祥院家
の娘がこんな庶民的なイベントに参加するなんて﹂﹁日焼けしてし
まうわ﹂﹁麗華さんにこんな不自由な生活耐えられない﹂などがあ
げられた。
不自由な生活と言っても、瑞鸞の夏合宿だから保養所もホテル並
みで、掃除や食事の支度もすべて従業員さんがやってくれて、ただ
の旅行と同じなのに。
でもお母様みたいな考え方が主流だから、参加者が少ないのかな
?そういえばお兄様が中等科時代に参加したという話は聞いたこと
ないな。
それでもどうしても行ってみたかったので、なんとか頼み込んで
参加させてもらえることになった。
先生に申込用紙を渡すと、まさか私が参加するとは思っていなか
ったようで、かなり驚かれた。そんなにマイナーなイベントなのか?
確かに私と同じグループの子は誰ひとり参加してないけどさぁ。
そしてそれを知って、ちょっと不安になったけどさぁ。去年の補習
みたいにひとりぼっちになったらどうしようって。
365
そんな私の考えを知ってか知らずか、最初驚いていた先生は、す
ぐに﹁だったら女子の合宿リーダーをやって欲しい﹂と言い出した。
え∼っ。
﹁私は夏合宿初参加ですし、リーダーなんて務まるかどうか⋮﹂
﹁大丈夫!吉祥院さんなら絶対やれる!﹂
結局押し切られ、またもや雑用係に任命されてしまった。あ∼ぁ。
そして男子のリーダーは乙女な委員長だった。
お久しぶり、委員長。
﹁吉祥院さんが夏合宿に参加するの?!﹂
﹁ええ。何事も経験ですから﹂
﹁そうなんだ。でもリーダーを一緒にやるのが吉祥院さんなら安心
かな。よろしく﹂
﹁こちらこそ﹂
庶民的なイベント
が体験できる!
日程表を見ると、バーベキューに花火と書いてある。これよ、こ
れ!
私が求めていた、お母様曰く
花火、ずっとやりたかったんだけど、一度もやる機会がなかった
んだよね。楽しみ、楽しみ。
こんな庶民的でマイナーなイベントには、もちろんあのふたりも
参加しないし、ギャル達もいない。
あぁ、伸び伸びできそうだー!
あまりに楽しみすぎて、予定はまだまだ先なのに、荷造りを始め
てしまった。
お母様がうるさいから日焼け止めは必須。虫除けスプレーに懐中
366
電灯に常備薬に非常食に、あと鈴と笛も必要かな⋮と詰め込んでい
たら、たった2泊なのにとんでもない量になってしまった。
2泊3日でスーツケースはないよねぇ。
でもなにを減らしたらいいのか、わからない。いっそ送っちゃお
うかな。
あー、楽しみ!
367
61
やってきました夏合宿。
かなり荷物は減らしたけど、それでも大きめのキャリーバッグに
ぎゅうぎゅうに押し込めてきた。我ながらいったい何を持ってきた
のだろう。
宿泊先は保養所というより完全にホテルで、部屋もツインルーム
ののせ
まほ
だった。これ、合宿というよりただの旅行だよね?
同室になったのは違うクラスの野々瀬真帆ちゃん。ほとんどしゃ
べったこともないけど、仲良くなれるかな?なんだか緊張している
みたいだけど。
部屋でしばらく休んだあとは、ホテルの庭でバーベキュー。食材
はすべて用意してあったので、私達はただ焼いて食べるだけ。
私は一応女子のリーダーなので、お皿や飲み物が行き渡っている
か、委員長とチェックしたりする。専任のスタッフの人がいるから
形ばかりだけどね。
でもバーベキューって今世になって初めてだ。前世のバーベキュ
ーよりは格段に食材が豪華だけど。
おぉっ、焼きトウモロコシがある!あら焼きそばはないのね。い
か焼きも欲しかったけど残念。
瑞鸞のバーベキューだから、屋外での優雅なランチっぽい風情で、
想像していたのとは少し違ったけど、これはこれで楽しい。
さりげなく野々瀬さんの近くに座ってみる。いつものメンバーが
誰も来ていないので、今日の私は完全アウェーだ。
下手に出て仲間に交ぜてもらう。
﹁まさか麗華様が参加するとは思いませんでした﹂
﹁私も﹂
368
﹁そうですか?でも一度体験してみたいと思ってましたのよ﹂
﹁去年は参加していませんでしたよね?﹂
去年は補習三昧だったからな。
﹁みなさん、去年も参加したんですの?﹂
﹁私は今年が初めて﹂
﹁私は2度目です﹂
半分以上の女子が初参加だった。良かった。
﹁ところで、明日はハイキングですけど麗華様は大丈夫ですか?﹂
うっ。それが今回、一番の不安要素だ。日程表では2時間くらい
歩かされるようだけど、私についていけるのか。
﹁頑張りますわ﹂
私は拳を握りしめて宣言した。
バーベキューのあとは陶芸体験。手動のろくろを使ってお皿を作
ったんだけど、微妙に歪んでしまった。この手のものは、どうして
も苦手なんだよなぁ。ま、いいか。
夜になって、夕食を食べたらいよいよ私の念願の花火だ!
上流階級では花火は見るものであってやるものではないとでも思
っているのか、全くやるチャンスがなかった。
この花火独特の匂いって夏って気がするなぁ。今回は手持ち花火
だけで、ロケット花火やドラゴンのような物はないらしい。小さい
頃、どこに飛んでくるかわからないネズミ花火が怖かったなぁ。そ
ういえば、へび玉ってなにが楽しいんだろう。今も昔も全くわから
ない。売られてるってことは、需要があったんだよね。うーん。
369
委員長が離れたところで線香花火をしていたので、近寄ってみた。
﹁委員長は線香花火ですか?もっと派手な物はやりませんの?﹂
﹁僕は線香花火が好きなんだ﹂
ほう。さすが乙女委員長。
﹁本田さんは来ませんでしたね﹂
委員長にだけ聞こえるようにボソッとつぶやいたら、委員長の線
香花火の火玉が地面に落ちた。
﹁去年は来てたんだけど⋮﹂
﹁そうでしたか。今年もクラスは離れてしまいましたけど、その後
進展は?﹂
委員長は頭を横に振った。
﹁吉祥院さん、どうしたらいいと思う?﹂
﹁どうしたらって、告白でもすればいいのでは?﹂
﹁無理だよ。断られたらそのあとの学院生活真っ暗だよ﹂
﹁上手くいくかもしれませんよ?﹂
﹁だって本田さんは円城君がタイプなんだよ﹂
委員長が拗ね始めた。
﹁本田さんは去年円城様と同じクラスで副委員長をして、きっと苦
労したと思うから、タイプも変わったかもしれませんよ﹂
﹁⋮⋮吉祥院さん、聞いてきてくれる?﹂
﹁クラスが違うので、なかなか難しいですわねぇ﹂
370
なんだかんだと委員長と話していたら、みんなの花火も終わりつ
つあったので、片づけをはじめた。
花火が終わって部屋に戻ると、野々瀬さんと交代でお風呂に入る。
実は私の髪にはお母様の指示でゆるくパーマがかかっている。ど
んだけ巻き髪にこだわりあるんだよって思うけど、しょうがない。
このウエーブに沿ってカーラーを巻くと、ちょっとやそっとじゃ
崩れない巻き髪ができあがる。
あまりパーマがかかっていることを知られたくないので、しっか
り乾かす。
﹁麗華様、私は明るいと眠れないんですけどいいですか?﹂
﹁いいですよ。じゃあライトは消しましょう﹂
トランプも持ってきたんだけど、やる暇なかったな。明日は出来
るかな。
では、電気を消しておやすみなさい。
早朝から起こされて、自然の中で体操をさせられたら朝食だ。私
は朝が弱いので、なかなかつらい。
今日はハイキングなので、しっかり日焼け止めを塗って帽子をか
ぶる。
リュックサックが重い⋮。この時点で参加したことを少しだけ後
悔してしまった。
そしていよいよハイキングスタート。割と平坦な道だから楽かと
思ったけど、いつまで続くかわからない山道に、すぐに心が折れる。
そしてここには軟弱ないつものメンバーがいない。正真正銘、私
が最後尾だ。リーダーなのに最後尾。つらい、帰りたい。
371
野々瀬さん達が私に付いて、励ましてくれる。完全にお荷物状態
だ。泣ける。
なんとか2時間かけて、目的地の牧場にたどり着く。ここで冷た
い牛乳と昼食を摂る。
よぼよぼの私の代わりに、野々瀬さんがリーダーとして働いてく
れた。本当に申し訳ない。
ホテルへの帰り道、重いリュックを背負いながら、たぶん来年は
来ないだろうな⋮と思った。
昼間の疲れのせいか、夕食後の星の観察では先生の話を子守唄に
うとうとしっぱなしだった。
おかげで部屋に帰ってお風呂に入ると、すぐに寝てしまった。
そして夜中に目が覚めた。
⋮おなかすいた。
疲れて食欲もなかったから、夕食もあまり食べなかったんだよな。
このままじゃちょっと眠れないかも。
確か熱中症対策にカリカリ梅を持ってきてたな。あれを食べよう
か。
明かりがついていると眠れない野々瀬さんのために、私は白いカ
ーディガンを羽織るとカリカリ梅を持って廊下に出た。
見つからないように、廊下の端にある薄暗い階段の踊り場にしゃ
がみこみ、赤いカリカリ梅を食べた。
はちみつで甘くしてあるから食べやすい。カリカリ、カリカリ⋮。
﹁きゃあああああっっっ!!!﹂
えっ?
372
女の子の悲鳴が近くで聞こえて、バタバタと走り去る音がした。
部屋を抜け出してカリカリ梅を食べていたのがバレたら嫌なので、
私も慌てて部屋に戻った。
カーディガンとカリカリ梅をバッグに投げ入れ、証拠隠滅。
騒ぎに起きた野々瀬さんと、私も今起きましたよという体で廊下
の様子を見る。
やだ、ちゃんと乾かして寝なかったから寝癖がついてる。手櫛で
整えとこ。
﹁どうしたのかしら﹂
﹁さぁ﹂
この階は女子しか泊まっていない。何事かとみんなが出てくると、
ひとりの女子が
﹁階段の踊り場で、ざんばら髪の幽霊が血肉を貪っていた!!﹂
と叫んだ。
へ?
それを聞いた女子達は幽霊だ妖怪だと大騒ぎになり、一気に阿鼻
叫喚の地獄絵図と化した。
それって、もしかしなくても私のこと?
確かに洗いざらしの髪はぼさぼさで、手には赤いカリカリ梅を持
っていたけど、貪ってはいないぞ⋮。
どうやら私を見つけたのはオカルトさんだったようだ。。オカル
トさんは夜中に喉が渇いて水を取りに廊下に出たらしい。そこで幽
霊に出会ったそうだ。
オカルトさんは﹁私には霊感がある﹂﹁あの階段には嫌な気配が
ある﹂﹁恨みのこもった顔をしていた﹂などと言いだし、﹁そうい
373
えば私もそんな気がする﹂﹁なんだかさっきから寒気が止まらない﹂
と共感する子まで出てきた。どうしよう⋮。
今更それは私ですなんて、絶対言えない。夜中に起きて食べ物食
べてたって、どれだけ食い意地はってんだって思われちゃうもん。
幽霊が出るなんて不名誉な噂が流れて、ホテルには大変申し訳な
いけど、私は自分の保身のほうが大事なんだよ∼。
どうかバレませんようにと指を組んで祈っていたら、野々瀬さん
達が
﹁大丈夫ですよ、麗華様。みんなで一緒にいれば怖くありませんわ﹂
﹁そうですよ、そんなに怯えなくても平気です﹂
と私にくっついて励ましてくれた。ぐっ⋮心が痛む!
﹁ありがとう、みなさん﹂
ごめんなさい。そして来年は私は来ません⋮⋮。
こうして次の日の朝まで、幽霊騒ぎは続いた。私はカリカリ梅を
バッグの奥深くに隠し、髪をカーラーで完璧に巻いて、家路に着い
た、
374
62
2学期は忙しい。
体育祭に学園祭と続くのだ。
例によって、私は体育祭ではクラスの足を引っ張らないような種
目だけに出る。
ギャル系のグループの子達は張り切ってリレーなどにエントリー
していた。
そういえば、去年は望田さんが体育祭でミスをして、いじめられ
るはめになったんだったな。
さすがに私がミスしたところで、いじめられるとは思わないけど、
気を付けないと。
円城はリレーには出ても、騎馬戦には出るつもりはないようだっ
た。てっきり皇帝と同じで張り切って出るのかと思ったけど。
でも確かに今まで円城が騎馬戦に出てるのって見たことないな。
円城も出たら騎馬戦はさらに盛り上がると思うんだけどなぁ。
すると円城は﹁僕には雅哉のように、騎馬戦に対しての情熱なん
てないし。隣であいつの意気込みを見ていると、とても出たいとは
思わないなぁ﹂と笑って言った。
今からその騎馬戦に出る選手を決めるのに⋮。生贄候補の男子達
はどよーんとした空気を漂わせはじめた。
なんとかじゃんけんで選手を決めて、少しでも生き残れるように
練習しようという話になった時、﹁あいつ、去年生徒会長に苦戦さ
せられて、相当悔しかったらしく、兵法の本を読んでいた﹂という
円城のありがたくない情報を聞いて、さらに男子がどよーんとした。
良かった、私は女子で。
体育祭の練習でも、女子達は円城の応援を夢中でしているので、
375
ほかの男子達も少しは応援しようよと、根回ししてみた。クラスの
ために頑張っているのに、あの粗末な扱いはあんまりだ。
私は今まであのふたりと一度も同じクラスになったことがなかっ
たので、この熱狂に少し驚いた。大変だなぁ。去年までの平和なク
ラスが懐かしい。
それでもまだ私のクラスはマシらしい。鏑木と同じクラスの乙女
委員長は、体育祭が始まる前からすでにげっそりしていた。皇帝の
騎馬に選ばれてしまった男子達は死んでも負けるわけには行かない
と必死に練習し、女子達は皇帝に勝利を!と騎馬戦以外にも、鏑木
と一緒にリレーなどに出る男子達にプレッシャーをかける。その板
挟みになって苦労しているらしい。
円城が熱い男でなくて良かった⋮。
結局、本番の騎馬戦は外部生の生徒会役員の男子が乗る騎馬が最
後まで残っていたけど、兵法まで学んで臨んだ皇帝の敵ではなかっ
た。
来年は彼ももっと精進してくるのだろうか。まぁ頑張れ、銀髪君。
体育祭が終わり中間テストが終わると、今度は学園祭だ。忙しい。
クラスは任意参加なのだけど、私のクラスは出るらしい。お化け
屋敷や模擬店といった候補もあったが、そもそもありがちな、たこ
私達のクラスの円城様
をほかの
焼きやホットドッグを食べたことがない生徒がほとんどなのだから、
いい案が浮かばない。
カフェも候補に挙がったが、
クラスの女子達に取られてなるものかと、反対意見が出たので流れ
た。
結局最後に残ったのは、手作りキャンドル販売だった。
みんなで工作気分でアロマキャンドルやジェルキャンドル、モザ
イクキャンドルやフラワーキャンドルなどを作っていく。
376
元々儲けようなどと考えてはいないので、材料も良いものを集め、
中学生が作ったにしてはかなりのクオリティだと思う。
円城の作るキャンドルには、すでに予約者が殺到していた。
私もホットプレートで溶かしたワックスで、ちまちまお花の形の
キャンドルを作る。
ピンクの顔料を混ぜたので結構可愛い。ブレンドしたアロマオイ
ルも入れてある。私にしてはいい出来じゃないか?
そのうちアロマオイルだけではなく香水を使う子も出てきたりし
て、教室はあらゆる匂いが混じって、頭痛を訴える子が続出し、換
気が必須になった。
そして全員がキャンドル作りのノルマを果たし、無事、学園祭当
日を迎えることができた。
キャンドルの売れ行きは上々のようだ。
買っていくのは生徒達やその父兄、OGなど。瑞鸞は防犯上、招
待客を厳選しているのでほとんどが身内だ。
円城手作りのキャンドルは、最終的にオークションにかけられ、
その金額は天井知らずに上がっていったが、さすがにキャンドルに
その値段はまずいとストップがかけられ、くじ引きとなった。
私の作ったキャンドルは売れるかしらとドキドキして見ていたら、
何人かの人が買っていってくれたのでホッとした。その中に手下を
引き連れた璃々奈がいたのには驚いたけど。
売り子さんは数人でいいので、残りの生徒達はほかのクラスや部
活の、模擬店や展示などを見に行った。
私も友達といろいろと見て回ることにした。
どこから見るか決めるため、フランスの高級茶葉を使ったカフェ
で、お茶とクッキーをいただきながら、パンフレットを見る。
結構いろいろあるなぁ。地味なのもあるけど。華道部の生け花の
展示とか、おば様方しか行かなそう。
一応一通り回って、人気のある出し物は空いているときに行こう
377
とみんなで決めた。
文芸部の教室の前を通ったとき、そういえば委員長は文芸部に入
ってたなと思い出し、中に入ってみた。
文芸部の展示品は部員による書評や自作の小説や俳句、詩などだ
った。
ふんふんと適当に流し見ていた私の目がその時、驚愕である1点
に釘付けになった。
海の絵が描かれている薄い青のポストカードに
灰色だった僕の世界が、鮮やかに色づいた。そうか、僕は恋に落
ちたのか
いいんちょーーーーーーう!!!!!
委員長、あんたなにやってんだ!どうした!?いったいなにがあ
ったんだ?!
そこには確かに委員長の名前で、恋のポエムが書かれていた。
私はあまりのショックによろめいた。
これは、あれか。あの有名な中学生が罹るという不治の病か。
委員長、あんた本人に告白する勇気はないくせに、なんという大
胆なことをするんだ。
断られるのが怖いと言いながら、なぜ不特定多数の人間に片思い
をカミングアウトするか。
疲れてたのかな?皇帝と同じクラスで体育祭、学園祭の仕切りは
大変だもんね。きっとそうだね。
﹁これ、あの委員長ですよね。恋に落ちたって相手は誰?!﹂
﹁あの真面目な委員長がね∼﹂
﹁意外すぎてびっくり⋮。委員長の好きな子って心当たりある?﹂
378
一緒にいた友達もザワザワしていた。私の心もザワザワしている。
委員長、君の勇気に天晴だよ。そしてその勇気を本人に向けろ。
これじゃたぶん、美波留ちゃん本人には、自分のことだと気づい
てもらえないぞ⋮⋮。
それとも本人に気づいてもらうつもりは始めからないのか?詩人
の心の声を綴っただけなのか?
あぁ、委員長⋮、あたしゃ本当にびっくりだよ。
学園祭が終わった後、問題の委員長のポエムが話題になり、相手
は誰だと騒がれたが、それを一喝したのはなんと皇帝だった。
﹁ひとの恋路はそっとしておいてやれ﹂だそうだ。同じ恋する男子
として、委員長に共感したらしい。
良かったね、委員長。最強の味方を手に入れたようだよ。
そして案の定、美波留ちゃんは委員長の気持ちに、全く気付いて
いないようだった⋮。
頑張れ、委員長。負けるな、委員長。乙女な委員長を私は応援し
ているよ。
それから私はこれが将来、君の黒歴史にならないよう、切に祈る
よ。
379
63
愛羅様と優理絵様も無事、希望の学部への進学が決まって、あと
は卒業を待つばかりとなった。
高等科を卒業すれば優理絵様がサロンに来ることもなくなるので、
鏑木は一見平気なフリをしているが、実は密かに落ち込んでいる。
それ以上に、来年度は大学生と中学3年生という、さらなる立場の
差も追い打ちをかけているようだ。
しかし年の差ばかりは頑張っても縮めることは出来ないからねー。
そんな鏑木を気遣って、優理絵様はなるべく一緒の時間を作るよ
うにしていると愛羅様から聞いた。
それでも用事があって優理絵様がサロンに来られない日などは、
鏑木は窓の外を見てそっとため息などをついている。
あの様子では、そのうち鏑木もポエムを書きはじめるのではない
か?花占いを教えてあげようか。
あ、私いい縁結びの神社を知っていますよ。おみくじがとっても
当たるんです。鏑木様もぜひどうぞ。
ポエムといえば、委員長はあんな大胆な片思いアピールをしてお
きながら、あれからも全く美波留ちゃんとの進展はない。
私はてっきりあの後告白をするのかと思っていたのに、委員長に
動く気配がないので、こっそり聞いてみたら、恥ずかしくてとても
出来ないと言われた。
委員長の恥ずかしいの基準がわからない⋮。
じゃあなんであんなことをしたんだと聞いたら、島崎藤村に影響
されて思わず⋮だそうだ。怖いね、中学生の病って。
委員長としては、あのポエムで美波留ちゃんに自分の気持ちに気
380
づいて欲しかったらしい。
美波留ちゃんの名前にちなんで、海の絵のポストカードを使って
アピールしていたようだけど、そんなので気づくか!
同じクラスだったり、元々仲が良かったりするならまだしも、あ
れだけで、これって私のことかも?と思ったら、むしろちょっと自
惚れ屋さんだと思うし。
これからどうしようと相談されたので、バレンタインに逆チョコ
でも渡せばと適当なアドバイスをしたら、本当に気合の入った高級
チョコを用意してきた。
しかも自分で渡すのは恥ずかしいから、私に渡してほしいときた
もんだ。あんたはどこまで乙女なんだ。
せめてカードに恋のメッセージを添えればと言ったのに、やっぱ
り勇気がないから無記名でと言い出した。今こそあのポエムの出番
だろうに。それとも敬愛する藤村にあやかって、林檎の絵でも描い
ておくか。
結局なぜか、私から美波留ちゃんへの友チョコとして渡すことに
なり、突然渡された美波留ちゃんもびっくりしていたけど、私だっ
て困った。こんな気合の入ったチョコを、それほど普段仲良くして
るわけでもない女の子に渡したら、誤解されて変な噂が立ちそうじ
ゃないか。
ただその誤解は私の考えていた方向ではなく、本当は好きな人に
あげたかったんだけど、勇気がなくて渡すことができなかったので、
美波留ちゃんにあげたということになっていた。
美波留ちゃんは、私はわかっているといった顔で頷き、﹁来年は
頑張ってくださいね﹂といらない励ましをされた。
どうしてくれるんだ、委員長!
そして美波留ちゃんは私が誰を好きだと思っているんだ!
そんな委員長は後日、ホワイトデーに私が美波留ちゃんからもら
ったお返しをあげたら、感動に酔いしれていた。
委員長の乙女化がどんどん加速している気がする。もう女友達扱
381
いでいいかな。
そんな時、芹香ちゃんが蔓花さんの情報を持ってきた。
﹁蔓花さんの耳に、ピアスの穴が開いているんです﹂
﹁えっ﹂
中学生がピアス!?なんという不良!
ピアスなんて校則で禁じられてるんじゃないの?って巻き髪の私
が言えた義理じゃないんだけど。
﹁ほかの子の耳にも開いていましたわ﹂
﹁信じられない。許されないわ﹂
菊乃ちゃん達も話題に参加してきた。
瑞鸞は良家の子女が通う学校というブランドイメージを大事にし
ているので、身だしなみに関しての校則も厳しい。
カラーリングも基本は禁止だ。それでもこっそり自然に見える程
度に茶色く染めている人もいるようだけど。
私だって巻き髪だしね。
しかしピアスかぁ。中学生が病院に行ってピアス穴を開けてくだ
さいと頼んでも、親の承諾がないとやってくれないんじゃないかな。
そしたら親公認?
案外、ピアッサーで自分で開けてたりして。
それにしても大胆だな。パーマやカラーはともかく、ピアスとい
うのは古い家では眉をひそめる方々も多い。私のお母様もピアスは
ダメよと言っている。
蔓花さん達は学院内でどんどん幅を利かせてきている。今は私達
382
のほうが上だけど、逆転される日も近いのかもしれない。
芹香ちゃん達はピアスの件を学院にチクってやろうかと姑息な相
談をしている。
それはやめておけ。私の巻き髪など、こちらにも弱みはいろいろ
ある。
﹁もう少し様子を見ましょうよ。私達が先生に告げ口するのはあま
りいいとは思えませんわ﹂
なんとかみんなを宥めてはみたけど、両者の対立は3年に上がっ
たら益々激しくなるのかもしれない。
やだなぁ。妙に買い被られているけど、本当の私は女子同士の対
決なんてことになったら、一番に逃げるタイプよ。だって怖いじゃ
ん。
そんな中、鏑木が高等科の卒業式に大きな百合の花束を抱えてお
祝いに行ったという話を聞いた。
委員長といい、鏑木といい、男子のほうが乙女思考で平和でいい
なって、ちょっと羨ましくなった。
しかし百合の花か。あいつ、私が初等科の卒業式にお兄様からう
ららをもらったシチュエーションに、実は憧れていたのではないか?
サマーパーティーで優理絵様とワルツを踊っていたこともあった
しな。
鏑木はお兄様はともかく、伊万里様あたりに弟子入りしてみては
どうだろうか。
この前、久しぶりに家に遊びに来た伊万里様にボックスフラワー
をいただいた。なんておしゃれ!さすが伊万里様!
鏑木、バカの一つ覚えのように花束ばかりじゃダメらしいぞ!
383
満開の桜が散り始める頃、私達も3年生に進級した。
384
64
あぁ、私のクラス替え運は完全に地に落ちたらしい⋮⋮。
中等科最後の年、私はとうとう皇帝陛下と同じクラスになってし
まいました。
私とともに鏑木と同じクラスになった芹香ちゃんは狂喜乱舞だ。
﹁とうとうやりましたわね、私達!今までどれだけくじ運が悪かっ
たんだか!﹂
今までどれだけくじ運が良かったんだか。
﹁この1年楽しみですわぁ!麗華様もそうでしょ?﹂
思えばあの凶みくじから、けちがついている気がする。お祓いに
行くべきか。
厄除けで有名なのってどこだったかしら。
浮かれまくっている芹香ちゃんに連れられ、新しい教室に行く途
中で、女子に囲まれている円城に出会った。
﹁吉祥院さん。良かった、話があったんだよ。ちょっといいかな﹂
﹁え﹂
円城の言葉に、周りの女の子達が悲鳴をあげて大騒ぎをはじめた。
﹁お話ってなに?!﹂﹁まさか告白?!﹂﹁じゃあ三角関係?!﹂
385
やめろ!妙な想像をするな!この腹黒が告白なんて可愛げのある
こと、するわけないだろう!
﹁ここじゃなんだから、こっち来てくれる?﹂
笑顔の円城には逆らい難い圧力がある。私の小鳥の心臓では太刀
打ちできないっ!
嫌な予感ビシバシで絶対行きたくなーいっ!と内心では叫んでい
るけど、私の外面が焦りを見せない余裕の顔で受ける。
芹香ちゃんはキラキラした目で私を死地に送り出してくれた。
連れて行かれたのは、階段の端。
怪しい。怪しすぎる。この張り付いた笑顔はどこか信用できない。
﹁あのね、実は吉祥院さんにお願いがあるんだ﹂
﹁お願い?﹂
﹁うん。今度、雅哉と同じクラスになったでしょ。吉祥院さん、ク
ラス委員やってくれない?﹂
﹁はあっ?﹂
クラス委員?!なんで私が!っていうかなんで円城がそんなこと
!?
﹁雅哉のクラスは毎年女子達が騒ぐのは知っているでしょう。今年
は中等科最後で、しかも修学旅行もあるから特に大変だと思うんだ。
きっと普通の女子なら仕切ることは出来ないよ。その点、吉祥院さ
んならって思ったんだ﹂
﹁え⋮なんでそこまで﹂
ほかのクラスの心配までするほど、こいつが愛校心溢れる人間だ
とは絶対思えない。
386
そんな人間だったら、去年だって率先してクラス委員に立候補し
たんじゃないか?
﹁う∼ん。実は頼まれたんだ。今度吉祥院さんと同じクラスで学級
委員をする奴に。あのクラス表を見て、自分一人じゃ手に負えない
から副を吉祥院さんにやってもらえないかって。担任もそのつもり
らしいよ。ただ君、去年断ったでしょう。だから僕に説得して欲し
いんだって﹂
やだ!絶対にやだ!
去年の委員長のげっそりした顔を思い出せば、引き受けるなんて
とんでもない!
疲れ切った心に病が宿り、私までおかしなポエムを書きはじめた
らどうする!
前世の私にはその前科がある!
とある映画を見た後、思いっきり影響されてランボーやヴェルレ
ーヌ気取りで、ためいきがどうの、永遠がどうのと書いた覚えがあ
る!
確か次の日正気に戻って慌てて捨てたはずだけど、あのメモ、ち
ゃんと捨てたよね?ずぼらが高じて引き出しに入れっぱなしなんて
こと、ないよね?
ぎゃあああっ!あんな気のふれたメモ、家族に読まれたら、死ん
でも死にきれないっ!
﹁吉祥院さん?大丈夫?﹂
﹁えっ、ああ大丈夫ですわ﹂
過去は過去。忘れよう。大丈夫、きっとちゃんと捨てたはず。
うわああっ!でも私、人様のサイン帳にポエム書いてた!怖い!
証拠に残るものって怖い!
387
﹁吉祥院さん?﹂
﹁大丈夫ですわ﹂
忘れるんだ、私!誰にだって黒歴史のひとつはふたつ、絶対にあ
る!
ポエムは誰もが一度は通る道なのだ。
﹁それでクラス委員の話でしたわね。申し訳ありませんけど、私で
は力不足だと思いますので、ほかの方にお願いしていただけます?﹂
厄介ごとはごめんだよ。
﹁そっかぁ。じゃあしかたないかな﹂
円城は黒い笑顔を見せた。
﹁吉祥院さん、僕に借り、あるよね?﹂
は?借り?なんだっけ、借りって。借り⋮⋮?
あっ!
﹁璃々奈の⋮﹂
﹁そう。思い出してくれた?あの借りを今返してもらえるかな﹂
1年も前のこと、今ここで持ち出すか?!
あんなのとっくに時効になってたと思ってたのに!
前世のお母さんが言ってた通り、借金なんて絶対しちゃいけなか
ったよ。とんでもない利子つけられて取り立てにきやがった!
388
その後すぐに、私は新しい担任の先生に呼ばれた。
隣にはお坊さんみたいな男子。こいつか、円城に頼んだという元
凶は。
なんてことしてくれたんだ、小坊主!
﹁いやあ吉祥院さんが引き受けてくれて助かったよ。なんだったら
委員長でも﹂
﹁いえ、副で﹂
そこだけはきっちり断る。
ぼうだ
﹁あの僕、坊田です。よろしくお願いします﹂
え、小坊主の名前が坊田?
名は体を表しすぎだ。
﹁こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ﹂
甚だ不本意ではあるけど、引き受けた以上はしょうがない。これ
から1年、よろしく坊主君。
﹁坊⋮田君は円城様とお親しいの?私を説得するよう頼むことがで
きるなんて﹂
教室に戻る道すがら、ずっと疑問だったことを聞いてみた。
なんとなく、円城と坊主君がそんなに仲良しだとは想像できない。
389
﹁親しいなんて、そんな。前に同じクラスになったことがあって。
その時いろいろ助けてもらったんだ。円城君は凄い人だよ!﹂
坊主君は円城派か。憧れちゃっているらしい。
私にはただの悪徳取り立て屋にしか見えなかったけどな。
﹁今回も先生から学級委員を頼まれたんだけど、でもあの鏑木君の
クラスの学級委員なんて絶対無理だって思った時、ちょうど職員室
に来てた円城君が、だったら吉祥院さんに副委員長をやってもらっ
て、女子を纏めてもらったらいいんじゃないかって。自分が頼んで
きてあげるって。なんて優しいんだろう、円城君は。思いやりに満
ち溢れてるんだよね﹂
円城が先に話を持ちかけたのか!なんだ、それ。さっきの話と全
然違うじゃないか!
あの腹黒め!なに企んでるんだ!
そんな私の心中など知らず、坊主君は円城を褒めちぎっていた。
どうやら坊主君は人を見る目がないらしい。
教室に入ると、去年の円城以上の騒ぎになっていた。
うわぁ⋮、私本当にこのクラスで1年、副委員長なんてやるの?
みんな都合よく忘れているみたいだけど、私一応ピヴォワーヌな
のに。
あ!芹香ちゃんがしっかり取り巻きの中に入り込んでる!一番い
い場所取りしてる!
﹁吉祥院さん、お願いします﹂
坊主君、私には無理です⋮。
390
治ったはずの胃に違和感を感じた。
私の姿を見つけた芹香ちゃん達がわくわくした顔で駆け寄ってき
た。
﹁麗華様、円城様のお話ってなんだったんですか?もしかして告白
?きゃあっ、素敵!﹂
胃がキリキリと痛んだ。
胃に良い食べ物ってなんだったかなぁ⋮⋮。
391
65
鏑木のファンの女の子達は授業妨害をしたり、あきらかな迷惑行
為まではしない。ただ休み時間などに教室にきて騒ぐだけだ。これ
は去年の円城と同じ。
ただ鏑木は円城よりも怒りの沸点が低いので、そこを見極めなが
らアイドルを鑑賞するように騒いでいる。
一見、休み時間にうるさいだけなので、それを我慢すれば平和に
過ごせそうなのだけど、教室の人口密度が増えるぶん、自分の座席
を勝手に使われたりして不自由する子達が出てきたりしているのだ。
自分の席に戻りたくても戻れない気弱な生徒達が迷惑を蒙っている。
困った。いちいち注意していたら、物凄く口うるさい人間になる
し、見て見ぬフリをするのもクラス委員として良くないし。
去年の円城はどうだったかなぁ。私はクラス委員じゃなかったか
ら他の生徒のことは、実はあまり気にしていなかったな。
それに時々円城が、あまり教室に押し掛けないようにやんわり注
意していたし。
1学期の頃は本当にうるさかったけど、しばらくすると慣れもあ
ったのかもしれないけど、それなりに調和が取れていた気がする。
でも、あの鏑木はそんなファン管理なんて絶対しないな。
小坊主の訴えかけるような目がつらい。無理だってば。
だって、鏑木ファンの中には蔓花さんがいるんだから。私が言う
と、角が立ちすぎるんだよ。
あぁ、被害者生徒からの無言の訴えが⋮。
しょうがない。
﹁蔓花さん、お話し中ごめんなさいね。その席の子が戻れないよう
だから、どいてくださる?﹂
392
﹁⋮ふーん。この席って誰の席かしらぁ?﹂
蔓花さんが挑戦的な目で教室をぐるりと見回す。
席の持ち主の子が目を泳がせた。
﹁ねぇ、この席、座っててもいい?それとも使う?﹂
﹁あ⋮どうぞ。私はまだ戻らないので⋮﹂
げっ!梯子外された!
そりゃないでしょう。貴女が無言の訴えをしてきたから、嫌々な
がらも言いに来たのに。
﹁ですって。これでいいかしら?吉祥院さん?﹂
蔓花さんがくすりと笑った。
むかっ。でも被害者がいないんじゃ、これ以上言い返せない。
﹁そう。本人がそうおっしゃるなら私はかまわないわ。お邪魔して
ごめんなさいね﹂
﹁大変ね∼、学級委員さんは﹂
引き攣りそうな顔をなんとかごまかし、あくまでも余裕の笑みで
退散する。
くそぉっ、負けた!
芹香ちゃん達が不満気な顔で出迎える。ごめんね、小心者で!
いけない。このままじゃ蔓花さん達のグループとの派閥対決どこ
ろか、私がこのグループで下剋上されてしまうかもしれない。
なにもかも、鏑木のせいだ!あいつがちゃんとしないから!って
完全に言いがかりだけど!
鏑木はそんな女子達の騒ぎなど全く意に介さず、男子達とスポー
393
ツの話題に興じていた。
ひとの苦労も知らないで⋮。どうか神様、あいつの頭に鳩の糞が
落ちますように。
教室にパイプ椅子を用意して、テレビの観覧者席のように鏑木観
覧コーナーでも作ろうかな。
近頃の私は、コンビニで買うおやつはなるべく甘いものを避ける
ようにしている。
吹き出物や太るのが怖いので。
そのかわり、おにぎりやサンドイッチに手が伸びる。これならお
菓子より栄養があって体にも悪くないしね。ただ日持ちしないのが
難点。
平日は送迎があるので毎日買うことは出来ないけど、休日や塾の
合間にこっそり買って帰る。
今時のコンビニおにぎりは、変わり種も多いな。でも私はやっぱ
り焼き鮭が一番だな。
家に帰ったら面倒くさい学院のことは一切忘れるために、私は最
近どうでもいいことに没頭することにしている。完全なる現実逃避
だと自覚している⋮。
そして今日は、コンビニおにぎりのランク付けだ。
私としては1位焼き鮭、2位とり五目、3位明太子ってところか
なぁ。あ、この前食べたオムライスってのもおいしかった。
もぐもぐとおにぎりを食べながらそんなことをやっていたら、桜
ちゃんから電話があった。
﹁桜ちゃん、どうしたの?突然電話なんて﹂
﹁ちょっと聞きたいことがあって。麗華、今なにか食べてる?﹂
﹁フォンダンショコラを食べてましたわ﹂
394
﹁夜そんなもの食べてたら太るわよ﹂
﹁⋮気を付けます。ところで用事はなに?﹂
﹁そうよ!匠にバレンタインのチョコを渡してた子がいたのよ!﹂
バレンタイン?ずいぶん前の話だな。
﹁いまさらバレンタインの話なの?それで相手は誰?﹂
﹁だって今日発覚したんだもの。匠のお姉さんから聞いたの。相手
は陸上部の後輩だって。麗華知ってる?﹂
名前を言われたけど知らなかった。
﹁義理チョコじゃないかしら?﹂
﹁麗華、匠を見くびっているわね﹂
いやいや、そんな。秋澤君は初等科時代はリスみたいに可愛い顔
をしていたけど、中等科に上がってからは陸上部で毎日練習してい
るせいか、精悍になってきたと思っておりますよ。
﹁どんな子か調べてきて﹂
﹁う∼ん。顔見てくるくらいなら。でも私も今、いろいろ大変です
し﹂
﹁なにが大変なの?﹂
私はクラス委員の苦労を桜ちゃんに愚痴った。
﹁麗華がおとなしくしているから、嘗められているんじゃないの?
ガツンと言ってやりなさいよ。それか皇帝に直訴するか﹂
﹁ええ∼っ、どっちも出来ないわよ∼﹂
﹁じゃあ諦めなさい﹂
395
﹁うっ⋮﹂
今のところはそれほどの被害でもないし、直接対決は避けたいな
ぁ。
﹁麗華はストレスが溜まると食に逃げるから気を付けなさいよ。ヨ
ガでもやったら?私今、家でヨガをやってるの﹂
﹁ヨガねぇ﹂
ヨガってインド人がアクロバティックがポーズしているイメージ
しかないんだけど。
﹁ヨガは心を安定させる効果もあるのよ﹂
え、桜ちゃん全然心安定してないじゃん。でも怖いから言わない。
桜ちゃんお奨めのヨガDVDを教えてもらったので、とりあえず
今度やってみることにする。ちょうどフラフープにも飽きてきたと
ころだったし。
第3の目が開くかも?
次の日、桜ちゃんの指令通り秋澤君の陸上部の後輩とやらを見に
行った。
廊下から教室を覗いて観察した限り、小麦色の活発そうな子だっ
た。和風美少女の桜ちゃんとは正反対のタイプだな。さて、見に来
たのはいいけど、このあとどうすればいいんだ?
﹁麗華さん、ここでなにしているの?﹂
突然後ろから声をかけられてびっくりして振り向くと、璃々奈が
396
立っていた。
﹁璃々奈こそなにしているの?﹂
﹁なにってここは私のクラスですもの。もしかして私に用事でも?﹂
ここって璃々奈のクラスだったのか。だったらあの子とも同じク
ラスってことか。
とりうみ
﹁ねぇ。あの鳥海さんて子、どんな子かしら﹂
﹁どうして麗華さんがそんなことを?﹂
﹁ちょっとね﹂
﹁体育委員をやっているような、元気が取り柄みたいな子よ。私は
まだそれほど仲良くないもの。貴女達は知ってる?﹂
璃々奈が手下達に聞いた。
おとなしそうな手下達は﹁確か陸上部です﹂﹁明るくて友達も多
いです﹂などと答えてくれた。
﹁そうなの。ありがとう。それと、璃々奈と仲良くしてくれてあり
がとう。これからもよろしくね﹂
﹁なんで麗華さんがそんなこと言うのよ!余計なこと言わないで!﹂
璃々奈がちょっと赤くなった。ふん。あんたの評判が落ちると、
私まで巻き添え食らうからだよ。
﹁それより、ちょっと⋮﹂
璃々奈に腕をつかまれて、ふたりで手下達から離れて廊下の壁に
寄った。
397
﹁最近あの蔓花先輩達が、麗華さん達より派手に行動しているけど、
大丈夫なの?﹂
璃々奈達にまでそう見えているのか。
﹁大丈夫よ。私達とは関係ない方々ですもの﹂
﹁ちゃんとしてよね。麗華さんが落ちたら私まで巻き添え食うんだ
から﹂
同じこと考えていたか。
なんかもう、ほとほと面倒なことになってきたなぁ。
と返事がきた。
とりあえず璃々奈達から聞いた話をそのまま桜ちゃんに、ポチポ
引き続き情報を求む
チとメールしておいた。
桜ちゃんからは
そんなに心配しなくても、きっと義理だって。
398
66
蔓花さんは日に日に態度が大きくなってきている。
もはや私など敵ではないとでも思っているようだ。
鏑木の気を引くために仲間達ときゃあきゃあと騒いで、うるさい
ことこの上ない。そんなことしたって、鏑木が蔓花さんに興味なん
て持つわけないのに。
芹香ちゃん達の不満も募るばかりだ。
私のいないところで、気の強い芹香ちゃんと菊乃ちゃんが中心と
なって、何度かぶつかっているようだ。
その時も﹁真面目ちゃん達はこわ∼い﹂と揶揄されたらしく、激
怒していた。
﹁もう我慢できないっ。鏑木様の迷惑も顧みずにぎゃあぎゃあと!
麗華様もなんとか言ってください!﹂
﹁そうよ!蔓花さんだって、麗華様の言うことなら逆らえないはず
!﹂
いやいや、私にそんな力はないから。蔓花さん、完全に私のこと
嘗めてるし。
この前の瑞鸞中等科恒例の、山登り遠足でのぐだぐだっぷりで、
この女恐るるに足らずと確信したっぽいし。
あれは確かにダメダメだった。私がまだ山の中腹を必死で登って
いる間に、とっくに頂上に着いた蔓花さん達は、鏑木と円城を囲ん
で大はしゃぎだったらしい。
最後は鏑木が﹁うるさい!﹂とキレて黙らせたそうだけど。その
間、全くの役立たずだった私は、そろそろ期待外れの烙印を押され
つつある。
399
まずいなぁ⋮。
どうにか穏便に済ます方法はないものか。
そんな事を考えていたら、数日後の休み時間、クラスに怒鳴り込
んできた人間がいた。
新生徒会長だ。
﹁おい、蔓花!お前等ほかのクラスに入り浸るな!このクラスの生
徒達が迷惑している!﹂
﹁はあ?なによ偉そうに。外部生が何様?﹂
﹁頭からっぽのお前等に言われたくないね。いいから戻れ。それか
らピアス、髪で隠しててもわかるんだよ。校則違反だ。外せ﹂
﹁なんですって!﹂
女子の集団に睨まれても、生徒会長は全く動じない。
﹁何度も言わせるな。ピアスを外してこのクラスから出ていけ。生
徒会に苦情が殺到してるんだよ﹂
自分達より頭一つ分高い生徒会長の迫力に圧倒されたのか、蔓花
さん達はふんっと鼻を鳴らしながら教室を出て行った。
クラスにホッとした空気が流れた。
クラスメート達が生徒会長を尊敬の眼差しで見ている。
うん、さすがだね、銀髪生徒会長。
私も心の中で拍手していると、銀髪はこちらを見て
﹁それからクラス委員もちゃんと注意しろよ﹂
怒られた。
う、すみません。
銀髪生徒会長は言いたいことを言うと、自分の教室に戻って行っ
400
た。
﹁今度の生徒会長ってちょっとかっこいいかも﹂
﹁そうね、ワイルド系ね。あ!でも麗華様に失礼なことを言ったの
は許せませんよね?﹂
﹁いいえ、全然気にしていませんわ﹂
銀髪君にポォッとなっていた子達が、慌てて私をフォローした。
本当に気にしていない。むしろ助けてもらえてありがたかった。
そうそう、君は正義の人だったからね、銀髪君。
しかしあんな小さくて目立たないピアス、それも髪で隠していた
のによく気が付いたな。それとも誰かチクったかな。
﹁確か去年の騎馬戦でも皇帝と最後まで戦ってたのって生徒会長で
しょ﹂
﹁実は私、あの時もかっこいいなって⋮﹂
﹁えっ、実は私も⋮﹂
ほほーぉ、銀髪君はすでに何人かのファンがいるようだ。高嶺の
花の鏑木、円城コンビより近づきやすいしね。
みずさき
ありま
﹁生徒会長の名前ってなんでしたっけ?﹂
﹁水崎君。水崎有馬君ですわ﹂
私は彼の名をはっきりと答えた。
みんなはあら?っといった顔をしていたけど、もちろん知ってお
りますとも。
私は昔から彼に、一方的なシンパシーを感じているのだ!
なぜならば彼こそは、君ドルの中で主人公を皇帝と取り合って最
後は負ける、私にとっては同志当て馬だから!
401
有馬で当て馬。ぷぷぷ、なんかおかしい。
しかし同じ当て馬ポジションといえど、吉祥院麗華と彼とでは決
定的に違うところがある。彼はあくまでも正攻法で皇帝と対峙して
主人公を取り合い、麗華のように汚い真似は一切しない誠実な人間
だったので、最後は皇帝と男の友情を築いていた。
あれだけ想いを伝え尽くしたあげくに、結局はヒーローに掻っ攫
われていく、まさに君こそが当て馬!私が悪の当て馬なら、君は善
の当て馬。同志当て馬なのだ!
マンガのカラーイラストでは銀髪だったから、ちょっと違和感あ
るけど黒髪も素敵だよ、同志当て馬。
そもそも普通の日本人、いや地球人で地毛が銀髪って聞いたこと
ないし。染めてくれたら似合うと思うけど、絶対しないだろうな。
黒髪の皇帝と銀髪の生徒会長に挟まれる主人公の表紙はかっこ良
かったんだけどなぁ。
だが私は君の味方だよ、同志当て馬。私はここで見守っているか
ら、君は当て馬街道を突っ走ってくれたまえ!
﹁麗華様?どうなさったの?﹂
﹁いいえ、なんでもありませんわ﹂
みんなが私を変な顔で見ていた。いけないいけない。
私はにっこり笑って誤魔化した。
同志当て馬の注意などなんのその、蔓花さん達は相変わらず鏑木
鑑賞にやってくる。
そして私達への敵対姿勢もだんだんと露骨になってきていた。
この前はとうとう蔓花さんがわざと私にぶつかってきた。
402
﹁あらごめんなさい、吉祥院さん。大丈夫でしたぁ?﹂
﹁⋮ええ﹂
﹁吉祥院さん、あまり運動神経がよくないから、気を付けないと﹂
かっちーーん。
蔓花さんと数人はくすくす笑っているけど、それ以外の子達はさ
すがにまずいと目を見合わせていた。
﹁ちょっと貴女達!麗華様にどういうつもり!﹂
﹁だからわざとじゃないって。ほんとうるさい﹂
﹁なんですってぇっ!﹂
まずい、騒ぎになる。私は慌ててみんなを止めた。
芹香ちゃん達の我慢も限界に近いようだ。
さすがにそろそろムリかな⋮。
今日私は、行きつけのヘアサロンにやってきていた。
ふぅ、リラックス出来るわぁ。お母様のオーダーでいつも通り毛
先をカットしてトリートメントをするだけなんだけど。
私は出されたハーブティーを優雅に飲んでいた。
﹁あっ、これは﹂
私の髪をいじっていた美容師さんが目を見開いていた。
ん?どうしたの?
﹁麗華様、後頭部に白髪が﹂
403
ええええーーーーっ!!
﹁し、白髪?!﹂
﹁はい。髪の中側なので目立ちませんけど。ほら﹂
ショックで心臓が止まりそうになった。
合わせ鏡で見せてもらった後頭部には、確かに髪の中に白髪が密
集している箇所があった。
そういえば最近後頭部に違和感があって、おや人面疽かな?なん
て思っていたけど、あれは白髪が生えてきていたのか。
ストレスだ。ストレスで白髪になったんだ。ロココの女王もそう
だったではないか!
中学3年生の乙女が白髪⋮。
﹁大丈夫ですよ、麗華様。すぐに元に戻ります。抜くと頭皮に悪い
ので根元から切っておきましょうね。それとヘッドスパをいたしま
しょう。頭皮が固くなっているのも良くないのですよ﹂
﹁⋮⋮お願いいたしますわ﹂
私はよろよろとシャンプー台へと行った。
もうダメだ。このままじゃ私の髪は真っ白になってしまう。
銀髪生徒会長の代わりに、私が白髪の女王⋮⋮。
私は腹を括る事に決めた。
404
67
その日はいつも以上にしっかりと完璧に髪を巻いた。昨夜は1枚
1万円もするシートパックをして、肌はぷるぷるつやつやだ。
今日の私の外見には、一部の隙もなし!
胃薬を瓶からざらざらと出して水で流し込んだ後は、チェストか
らお気に入りの扇子を取り出す。そろそろ暑い季節だし、不自然で
はないだろう。
蝶の模様の入った黒の扇骨に、花の模様の入った紫とワインレッ
ドの扇面を持つ、繊細で美しい洋扇子は、戦いに相応しい小道具に
なってくれそうだ。
しっかりと握りしめる。
私は女優、私は女優⋮⋮。女優!女優!女優!
よし、行くぞ!いざ出陣!
問題はいつ行動を起こすかだ。人が多い休み時間の教室では、出
来れば避けたい。
やはり放課後か。蔓花さん達は授業が終わってもすぐには帰らな
いからそこが狙い目か。
上手いこと捕まえられればいいけど。
﹁麗華様、その扇子とっても素敵ですわねぇ﹂
﹁ありがとう。私も気に入っているのよ﹂
私は手の中の扇子をもてあそんだ。
今日も蔓花さんは私と目が合った時、鼻で笑ってきた。
405
もう一刻の猶予もならない。私の白髪がこれ以上増える前に決着
をつけないと。
私は放課後を今か今かと待ち続けた。
その間こっそり胃薬補給もした。ひとりじゃ怖いから、両脇は芹
香ちゃんと菊乃ちゃんに固めてもらおう。
そしてとうとう放課後になった。
私は扇子を手に席を立った。
﹁芹香さん、少し付き合ってもらえる?蔓花さん達とお話をして来
ようと思うの﹂
芹香ちゃんの目がギラリと光った。
携帯で親友菊乃ちゃんを速攻で呼び出す。私より殺る気だ。
ほかの子達も周りに集まりだした。
﹁では、行きましょうか﹂
私が微笑むと、みんなも口角だけを上げて笑った。
廊下に出ると、探すまでもなくあちらから蔓花さんを中心にギャ
ル達がやってきた。
帰宅する生徒達の波も一端途切れ、ちょうどいいタイミングだっ
た。
私は扇子を開いたり閉じたりしながら、蔓花さんと目を合わせた。
﹁吉祥院さん、そこ通りたいの。どいてくれる?﹂
蔓花さんが私を挑戦的に笑い、その取り巻きもくすくすと笑った。
406
私の周りの子達が一気に殺気立った。
私は扇子をパンッと閉じた、
﹁蔓花さん、貴女誰に向かって口をきいているの?﹂
﹁は?﹂
私は一歩前に踏み出した。
﹁ねぇ蔓花さん、貴女いつからこの私にそんな口がきけるようにな
ったのかしら?ピヴォワーヌのメンバーである私に、所詮は一般生
徒の貴女が﹂
私は扇子で蔓花さんを指差し、目にグッと力をこめる。
強気だった蔓花さんの目が揺れた。
﹁ピヴォワーヌの権威というものは、この学院でずいぶんと軽いも
のになってしまったのね?だってそうでしょう?貴女程度の人間が、
この私にそんな態度が取れるんですもの﹂
私は蔓花さんに近づいた。
﹁あぁそれとも、蔓花家は吉祥院家よりも格が上だとおっしゃりた
い?知らなかったわ。いつの間にか我が吉祥院家が蔓花家よりも劣
っていたなんて。でも、蔓花さんはそういう認識なのよね?それは
蔓花家の総意なのかしら?吉祥院家を侮れと。でしたら私も父に相
談してみませんとね。だって今後の対応もありますでしょう?﹂
ねぇ、と青ざめる蔓花さんに微笑みかける。
﹁私、争いごとは嫌いなの。だから貴女の振る舞いも大目に見てき
407
てあげたわ。でも最近、ちょっと調子に乗りすぎているみたいねぇ。
ご自分でもそう思わない?﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁ねぇ蔓花さん、それともこれは、貴女の、私に対する、宣戦布告
と受け取ってよろしい?だったら私も、ピヴォワーヌの、吉祥院家
の力を持って、全力でお相手してさしあげてよ?﹂
ねぇどうなさるの?と扇子で蔓花さんの頬に触れながら、耳元で
問いかける。
じっと黙り込む蔓花さんを、トントンと扇子で頬を叩いて促した。
﹁⋮⋮申し訳ありませんでした、麗華様﹂
青ざめた蔓花さんが下を向きながら苦しげに、悔しげに答えた。
私は出来るだけ艶然と見えるように微笑みかけた。
﹁あら、わかってくれればそれでいいのよ?私だって別に、蔓花さ
んを潰したいだなんて思っていないのですから。ただ私を煩わせる
ようなことをしないでくれれば、それでいいの。よろしいわね?﹂
﹁⋮わかりました﹂
﹁蔓花さんのお友達のみなさんも、それでよろしい?ご不満があれ
ば遠慮なく言ってくださって結構よ。ただし、それ相応の覚悟を持
っていらっしゃい﹂
扇子がピシリと音を立てた。
蔓花さんの取り巻き達も下を向いて恭順の意を表した。
﹁そう、わかって頂けて嬉しいわ。これからは節度を持った行動を
お願いね。では、みなさん、ごきげんよう﹂
408
円城ばりの黒い笑顔を作ると、私はスカートを翻して彼女達に背
を向けた。
私の取り巻きもごきげんようと口々に言い、私の後に続いた。
ふと視線を感じて前を向くと、通りすがりの鏑木が私を嫌そうな
目で見てそのまま去って行った。
﹁やりましたわね、麗華様!私すっきりしました!﹂
﹁蔓花さんのあの顔!いい気味だわ﹂
教室に戻ると周りの子達が一斉に喜びはしゃぎだした。
でも私には彼女達のそんな声は、ほとんど頭に入ってこなかった。
なに、あの目。
あの軽蔑したような鏑木の目。なんなのよ、あれ!
いったい誰のせいでこんなことしたと思っているのよ!
ふざけんな、あのボケェッ!
﹁私、ちょっとピヴォワーヌに行ってきますわ!﹂
﹁え、麗華様?!﹂
私は教室を飛び出した。
吉祥院家の力を振りかざすのだけは、本当は絶対やりたくなかっ
た。
でもこれしかなかったんだもん、しょうがないじゃないか。
もし仮に没落した時、振りかざした権力はそのまま自分に返って
くる。その時に小公女みたいな扱いされたらどうしよう。
盛者必衰の理だ。おごれる人は久しからずだ。波の下の都は嫌だ
よぉ!
って、そうやってずっと悩んできたのに、人の気も知らないであ
いつ!
409
鏑木こそ、総白髪になればいい!
サロンに着くと、鏑木が円城とともにお茶を飲んで寛いでいた。
私はそのままふたりの前に歩いて行った。
鏑木が訝しげな眼でこちらを見た。
﹁鏑木様、お話がありますわ﹂
﹁⋮⋮なに﹂
﹁いい加減、自分の始末は自分でつけていただけないかしら。自分
の取り巻きぐらいちゃんと制御してくださらない?﹂
﹁別に俺が呼んでるわけじゃない。あいつらが勝手に騒いでるだけ
だろ。そもそも相手にもしてないし。取り巻きなんて認めた覚えも
ねぇよ﹂
﹁勝手に寄ってくるから関係ないって?よくもそんな無責任なこと
が言えたものですね。これでは将来の鏑木グループの後継者たる資
質も疑わしいわ﹂
﹁なんだと!﹂
﹁だってそうではありませんか。あの程度の人数もまとめ上げられ
ないなんて、先が思いやられますわ﹂
睨まれたので睨み返す。
そこへ円城が間に入ってきた。
﹁まぁまぁ、吉祥院さんも落ち着いて。ちょっと頭に血が上っちゃ
ってるんじゃない?﹂
私は円城をギッと睨む。
﹁円城様こそ、親友のフォローを私に押し付けないでくださらない
410
?借りなら充分返したはずです。もう尻拭いはうんざり﹂
﹁おい!﹂
﹁雅哉。うん、ごめんね。吉祥院さんには迷惑かけたね﹂
あんたの謝罪には誠意が全く感じられないんだよ。
﹁では、私はこれで失礼いたしますわ。ごきげんよう﹂
私はサロンを出ると、習い事も休んでそのまま家に帰った。
蔓花さんに勝った興奮と、鏑木への怒りが冷めると、途端に怖く
なった。
鏑木にとんでもないことを言ってしまった。
興奮して冷静な判断力がなくなってたんだ。よりによって鏑木に
ケンカを売るなんて!
やっちまったよ。やってもうたよ。
なんてこった⋮。
でもあいつらが悪いんじゃん!私は悪くない!
私は帰ってすぐ、布団を被ってぶるぶる震えた。
その内、開き直ってふて寝した。
起きてサラダせんべいをバリバリとやけ食いした。
せっかく親しみやすいキャラになろうとしてたのに、ぼんくら鏑
木のせいで高飛車麗華様への道、まっしぐらじゃないか!
くっそーっ、麦チョコも開けてやるっ!
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⋮⋮⋮⋮あの恥ずかしい女優モードは完全に黒歴史だ。
私いったい誰気取りだよ。思い出すだけで全身がかゆくなるよ。
全く。なんであれを見るかなぁ、鏑木は。
412
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次の日は、学院へ行くのが怖かった。
高飛車麗華様を披露したことで、みんなの私を見る目が変わって
いるかもしれないという不安もさることながら、サロンで鏑木に罵
詈雑言を浴びせた出来事が広まっていたら、それこそ私は完全孤立
になってしまう!
それに鏑木がどれだけ怒っているか⋮想像するだに恐ろしい!
目をキョロキョロさせ、敵の攻撃を警戒しながら教室に入る。
まだヤツは来ていない。しかし油断は禁物。
﹁麗華様、おはようございます﹂
﹁ごきげんよう麗華様﹂
お友達のみなさんが笑顔で迎えてくれる。いい笑顔だ。今まで溜
まりに溜まった鬱憤を晴らしたおかげだろうか。
﹁ごきげんよう﹂
私は自分の席に座る。その周りにひとが集まりだした。
﹁うふふ、昨日はすっきりしましたねぇ、麗華様﹂
芹香ちゃんが悪い笑顔をしている。教室の端の席では、私と同じ
クラスで蔓花さんのグループの子が、私と目が合った途端怯えたよ
うに逸らした。
いかん、脅しすぎたか。
413
﹁ねぇ、みなさん。彼女達も反省したようですし、これ以上はやめ
ましょう。私は謝ってくれたからそれでいいのよ﹂
﹁え、でも﹂
﹁あまり女子達がギスギスと対立していたら、鏑木様からも良い印
象を持たれないわよ?﹂
みんながハッとした顔をした。
鏑木にケンカを売った私が言うセリフではないけどね。
﹁麗華様がそう言うなら⋮﹂
みんなが顔を見合わせて頷く。良かった。鏑木効果は絶大だね。
逆に言えば私が鏑木の敵になったと知ったら、速攻離れそうだけど。
﹁きゃっ、皇帝と円城様よ﹂
﹁えっ﹂
教室に鏑木と、なぜか円城も一緒に入ってきた。やばい、私への
死刑宣告か?!断頭台行きか?!
ドキドキしながら敵の出方を待つ。げっ!こっち来る!
私の席の周りの子達が余計な気を利かせて左右に分かれる。鏑木
は私の目の前までやってきた。
胃、胃が⋮。
すると突然、鏑木が私の頭にげんこつを落とした。
﹁んぎゃっ!﹂
痛いっ!暴力反対!そして変な声でた!
﹁昨日のは、これでチャラにしてやる﹂
414
私が頭を押さえて呻いていると、鏑木はそんなことを言ってその
まま自分の席に歩いて行った。
は?
﹁あー、ごめんね吉祥院さん。ちょーっと話があるんだけど、いい
かな﹂
取り巻き女子達がきゃあっと騒ぎ出した。あ、デジャヴ。
でも今回ばかりは逆らえない。平穏無事な学院生活のためにも。
またもやありえない誤解をしている友達の羨望と嫉妬に見送られ、
頭頂部をさすりつつ連れて行かれたのは、前回と同じく階段の端。
怖い⋮。こいつが私の死刑執行人か?!
﹁頭、大丈夫?雅哉もいきなりげんこつはないよねー。でも、一応
あれでも雅哉なりの謝罪なんだよね﹂
﹁謝罪?﹂
ひとの頭を殴るのが?
﹁昨日あれからふたりで話し合ってね。確かに僕たちは少し無責任
だったなって反省したんだ。でも雅哉は意地っ張りだから、素直に
謝れないんだよね。だからチャラにするなんて言い方になっちゃっ
たんだ﹂
なんだそれ。やっぱり残念皇帝だ。
でもそしたら鏑木は、私のことをもう怒っていないってこと?
私は鏑木ファンを敵に回さなくて済んだってこと?
415
﹁昨日サロンにいた人達には、僕から説明しておいたから。僕達が
吉祥院さんを怒らせるようなことをしたからって。運のいいことに
そんなに人数もいなかったしね。口止めしておいたから噂が広まる
ことはないよ﹂
﹁それは、ありがとうございます﹂
﹁それと僕も、吉祥院さんに悪いことしたなって反省してます。ご
めんなさい﹂
円城がぺこりと頭を下げた。
うわっ、謝られたのにますます怖い!
﹁えーっと、それでは昨日の件はなかったことにしていただけると
?﹂
恐る恐る尋ねると、﹁もちろん﹂と頷かれた。
本当かな∼、また裏があるんじゃないかな∼。怪しい∼。
﹁その顔、思いっきり疑ってるね。僕ってそんなに信用ないかな﹂
はい、全く信用していませんとは言えないので、聞こえなかった
フリをする。これってとっても便利な技だよね。
﹁本当に悪かったって思ってるんだけど。さっきの雅哉のげんこつ
も含め、吉祥院さんには一発くらいは叩かれてもいいと思ってるよ﹂
えー、それって今度はそのことをネタに脅してくるんじゃないの?
そりゃあ私の胃への負担と白髪の代償は欲しいけど。
とりあえず怪しいので断っておく。だって私お嬢様だし。暴力な
んてとてもとても。
416
﹁これくらいしないと僕の気が済まないからね。遠慮なくやってく
れていいよ。その代わり、雅哉じゃないけどこれでチャラね﹂
﹁本当に、恨みっこなしですか?あとでこの件で脅したりとかは﹂
﹁しないよ﹂
ふーん、では遠慮なく、やっちゃう?
円城は私が叩きやすいように、顔を少し前に出した。
そうですか、では。
﹁ぐっ!﹂
みぞおちを抉るように拳を一発。
顔なんて、そんな目立つところを叩くわけないじゃん。やるなら
見えない場所、これ基本。
﹁では、これで本当にチャラですわね、円城様?﹂
円城はおなかを押さえながら、無言で何度も頷いた。
よし!
私はその場に円城を置いて、意気揚々と教室に戻った。
よくわからないけど、断頭台送りは免れた!ロココの女王はデュ
ラハンにならずに済んだのだ!
今日は自分へのご褒美に、カロリー激高のアンナトルテを食べち
ゃおっかな∼。
面倒事が解決して、すっかりご機嫌な毎日。
桜ちゃんからの催促があったので、秋澤君と後輩の子を調べてみ
417
る。
うーん、仲がいいと言えば仲がいいかな。
でも結局全然わからないので、本人に確かめることにする。
秋澤君の後をつけていって、ひとりになった時を見計らってそっ
と声を掛ける。
﹁秋澤君、秋澤君﹂
﹁うわっ!吉祥院さん?!どうしたのそんな陰から﹂
なにもそんなに驚かなくても。
﹁ちょっと聞きたいことがありまして﹂
﹁え、なに?﹂
﹁ずばり、鳥海さんとはどういう関係でしょう﹂
﹁えっ!﹂
秋澤君がギョッとした顔をした。おや?
﹁なんで吉祥院さんがそんなことを?﹂
﹁調べてくるように言われました﹂
﹁⋮⋮桜子か。吉祥院さん、桜子と仲がいいみたいだね。あいつ人
見知り激しいのに﹂
人見知り?あの毒舌女王が?秋澤君、桜ちゃんの正体知らないの
かしら。
﹁依頼主は明かせません。で、どうですの?﹂
﹁えー⋮、なんでもないよ﹂
﹁ただの先輩後輩だと?﹂
﹁うーん﹂
418
﹁煮え切らない態度ですわね。バレンタインにチョコをもらったん
でしょ?義理ですか?まさか本命?﹂
﹁⋮カードにはそんなようなことが書いてあったかなぁ﹂
なんと!本当に桜ちゃんの勘が当たっていたのか!見くびってい
てごめんなさい。
﹁誰にも言わないでね﹂
﹁もちろんですわ。それでどうしたんですの?﹂
﹁断ったよ、ごめんねって。鳥海さんもわかりましたって言ってく
れたし。それで終わったはずなんだけど、この前姉さんが桜子の前
で、今年は後輩の子からもチョコをもらってきてたねって暴露しち
ゃって。姉さん、勝手に僕の部屋に入って見たらしいんだ﹂
﹁あらぁ﹂
﹁それで桜子がなんで隠してたんだって﹂
うわぁ、桜ちゃんからの追求かぁ。怖いなぁ。
﹁それから桜子がずっと怒っているような気がしてさ。どうしよう﹂
﹁う∼ん。では、デートにでも誘ってみては?﹂
﹁えっ、デート?!﹂
﹁ええ。最近秋澤君は陸上部の練習ばかりで、桜ちゃんは寂しいん
だと思いますわ。だからデートに誘えばきっと喜びます。場所は、
そうですね。井の頭公園のボートはどうでしょう。カップルの定番
のデートスポットです﹂
﹁デートって、僕達まだそんなんじゃないんだけど⋮。でもうん、
誘ってみるよ。ありがとう吉祥院さん﹂
﹁いえいえ﹂
秋澤君を笑顔で見送る。
419
いや∼、いい仕事したな、私。
璃々奈の手下から鳥海さんの情報ももらったけど、これなら使わ
ずに済みそうだ。
王道幼馴染カップルに幸あれ!
420
69
修学旅行の時期になった。
中等科の修学旅行先はアメリカはロサンゼルスだ。荷物は減らそ
うとは努力したけど、スーツケースとキャリーバッグの2個になっ
てしまった。でも日数分のブラウスに予備の制服のジャケットとス
カート。私服も入ってるし靴も何足か入れたらスーツケースなんて
すぐに埋まってしまう。
普段家族旅行に行くときは、もっと大荷物になるんだから、今回
は相当頑張ったな。
楽しいといいな∼。
修学旅行なんて言っても、ただの観光だ。
チャイニーズシアターやビバリーヒルズに連れて行かれて、ロデ
オドライブでお買いものして。
そこで青い箱でおなじみの宝飾店で、仲のいい子達と記念におそ
ろいのネックレスを買った。
モチーフはハートがいい、鍵がいい、リーフがいいとみんなであ
れこれ相談したけど、最後はクロスに落ち着いた。
さっそく全員で着けてみる。制服のブラウスで隠れてしまうけど、
新しい、しかも友達とおそろいのネックレスをしているということ
で、気持ちが盛り上がった。おそろいって凄く友達っぽい!なんだ
かもっと買い物したくなっちゃったな。
価格表示がドルで、しかもカード払いというのは、非現実的で金
銭感覚が狂うね。気が付けば両手に戦利品をたくさん持っていた。
いらない物をどんどん買いそうになって怖い。もう何も見ない。
421
泊まるホテルは瑞鸞にふさわしい一流ホテル。ディナーはボリュ
ームのある肉料理中心。さすがアメリカ、量が多いな。
残すのは悪いので毎食しっかり食べる。おいしいし余裕、余裕。
なんて思ってたけど、すぐにおなかに異常が出た。毎日お肉はち
ょっときつい。しかもディナーだけではなく、ランチも肉だし。こ
の国は肉ばかりか!
とにかく量が多いので、せめてパンだけは勧められても1個を死
守した。でも本当はむしろパンだけでいい。炭水化物LOVEの私
としては、肉、肉、肉は脂っこすぎてつらいよ。お豆腐食べたい。
胃が常に重い⋮。
同室の芹香ちゃんも、﹁寝る前にこの量はつらいですね﹂と言っ
ていた。それでも芹香ちゃんはお肉をちょっと残してるよね?
なんだかみんな、旅行前より顔が丸くなってきてる気がするんだ
けど⋮。
食べ物が合わなかったらと、非常食のお菓子も持ってきてたけど、
おなかが常に苦しくて、手を付ける気にもならない。
夜は芹香ちゃんと消化促進の体操なるものをした。でも効いてい
る気は全くしない。
そんな時、プロテスタント系の学校見学があった。
修学
にならないので、形ばか
姉妹校でもないのになんで?と思ったけど、買い物三昧にアミュ
ーズメントパークで遊ぶだけは、
り組み込んでみたのかな。
本物のクリスチャン達を前に、制服の下に着けている、クロスの
ネックレスに後ろめたい気持ちになった。同じネックレスをしてい
る子達と、ブラウスのボタンがしっかり留まってることを確かめ合
う。
422
﹁やっぱりフラワーかハートにしておくべきでしたね﹂
﹁ええ⋮﹂
でも解放感があって素敵な学校だった。広い庭で寝転んでいるア
メリカ人学生達を見て、海外ドラマみたーい!ってわくわくしたし。
なんだか留学したくなっちゃった。
昼食は見学先の学校で食べることになっていた。
実は私はこの昼食を密かに楽しみにしていた。この学校は菜食主
義なのだ。肉がない!胃に優しい!
さぁ、どんなメニューかな?と目を輝かせていると、全体的に薄
茶色の料理が出てきた。んん?
恐る恐る食べると、⋮⋮まずい。なんだろう、この独特の味付け。
食べたことないけど、たぶん病院食よりまずいんだろうな。これ
はさすがの私でも食べきることは出来ないかも。グルテンってなに。
連日の肉料理攻撃で1食くらい抜いても平気だけどさー。参った
なぁ。
周りを見ると、みんな食が進んでいないようだった。やっぱり思
いは一緒だよねー。普通にサラダとかで充分だったのに。なんでこ
んな変な味と触感なんだろう。
しかしそんな中、鏑木だけが淡々と食事を続けていた。
ちょっと意外だった。
鏑木なんてまずい料理が出てきたら、真っ先に残すタイプだと思
っていたから。
絶対おいしくないはずなのに、そんなことはおくびにも出さない。
⋮⋮そうだよね。せっかく学校側が用意してくれた食事なのに、
残すのは悪いよね。反省。
私も鏑木を見習って、なんとか食べる。でも、うう⋮やっぱりま
ずい。あいつ、なんであんなポーカーフェイスで食べられるの?!
最後にデザートはキャロットケーキとミントケーキを選べたので、
好奇心でミントケーキを選んだら、真っ青なケーキが出てきた。青
423
いケーキってなに⋮。
一口食べたら歯磨き粉の味がした。これはムリ⋮⋮。
鏑木と目が合った。私とケーキを見比べて残念な子を見る顔をし
た。なんだよ!
それ以外は連日アミューズメントパークで遊んだりしているだけ
だった。
考えてみれば、瑞鸞の友達と遊園地に行くなんて初めてだ。なん
か嬉しい!
張り切って次々とアトラクションに乗っていたら、乗り物酔いを
した⋮。
アメリカの夢の国は、日本のアトラクションより豪快で怖いんだ
よ。しかも距離長くない?
肉料理攻めが祟ったのか、気持ち悪くてしかたがない。
しょうがないから少し休むことにする。
﹁麗華様、大丈夫ですか?﹂
﹁ええ。少し休めば平気だと思いますわ。どうぞ遠慮なく乗りに行
って﹂
芹香ちゃん達が気を使って一緒にいてくれようとしたけど、かま
わず遊んできてもらう。1つ乗ったら様子を見に戻ってくると言っ
てたけど、いいから楽しんでおいで。ほかにも少し休みたいと言っ
ている子達もいるしね。
ベンチに座ってボーッとしていたら、目の前を鏑木と円城が通っ
た。普段ポーカーフェイスの鏑木が楽しそうにしている。実は遊園
地好きだったか。
仲間の男子生徒達と共に、急ぎ足で次のアトラクションを目指し
て歩いて行く。そしてその後を、蔓花さん達が追っかけて行った。
424
元気だなー。
今日はみんな私服だから、観光客に紛れてどれが瑞鸞生がよくわ
からない。ここ広いしね。誰かほかに知ってる人いないかな∼。
って、あっ!
乙女な委員長が美波留ちゃんと一緒に歩いている!
ほかにもお互いのグループの友達もいるけど、委員長、美波留ち
ゃんとアトラクション回っているのか!
くっそーっ、遊園地デート、羨ましいっ!
しばらくして戻ってきた芹香ちゃん達の後ろには、男子生徒達が
いた。同じアトラクションに並んでいたので、一緒に乗ってきたん
だって。なんかお互い顔を見合わせて笑ってる。
えっ、なんでみんな私のいないところで、デート紛いなことして
んの?!
そしてなぜ、男子生徒達はそこで去っていく?このまま一緒に回
るって展開じゃないの?
もしかして⋮、いや気のせいだ。大丈夫。気にするな。
夜はお化け屋敷のアトラクションに乗った。夜だとなんだか雰囲
気が出ていい。
﹁そういえば、去年の夏合宿でお化けが出たんですって﹂
﹁そうそう。5組の子が見たんですって。ずぶ濡れの女の幽霊!﹂
﹁死体を食いちぎっていたって聞いたわ﹂
怖∼い、とみんなが盛り上がった。
私こそ怖いよ、噂がどんどん大きくなっていて。
﹁麗華様は確か去年夏合宿に参加したんですよね?﹂
﹁ええ。でも私は全然その話は知らないの﹂
425
今年は絶対に夏合宿には行かない。
肉料理三昧の修学旅行から帰ったら、3キロも太っていた。どう
しよう!
そして私以外の男女が心なしか仲良くなってる気がする!どうし
て?!
426
70 委員長 / 小坊主
吉祥院さんとは初等科の5年生の時に、初めて同じクラスになっ
た。
女子の中でも特に目立つ子なので、クラスが違っても存在はよく
知っていた。
あのピヴォワーヌのメンバーで吉祥院家のご令嬢。お姫様みたい
な髪型をして、きれいだけど少し怖くて近寄りがたい。第一印象は
そんな感じだった。周りを固めている友達がいると、さらに迫力が
増すし。
そんな吉祥院さんと、なぜか6年生の時に学級委員を一緒にやる
ことになってしまった。
普通はピヴォワーヌの人が委員なんて滅多にやらないんだけど。
しかもあの吉祥院さんなのに。
でも確か、5年の時には運動会の実行委員をやってたっけ。あの
時も意外だと思ったな。
吉祥院さんと一緒にやる学級委員は最初少し不安だった。吉祥院
さんのグループは、鏑木君と円城君以外の男子への当たりがきつい
し。
でも予想に反して吉祥院さんはしっかりと副委員長の仕事をこな
してくれた。特に女子を纏める力が絶大なので、なにかとスムーズ
だ。
普段提出物をすぐ忘れる男子生徒も、吉祥院さんが出てくると慌
てて次の日に持ってきてくれる。凄い。別に脅してるわけじゃない
のに、あの無言のプレッシャー。
思わず御大登場と声を掛けたくなった。
そんな吉祥院さんだけど、用事があって声をかけると割と普通に
427
話してくれた。
あの外見だし、言葉遣いも典型的な瑞鸞お嬢様だけど、しゃべる
と案外気さく?
雑用も頼むとほいほい平気でやってくれる。もしかして断れない
タイプ?
本当は去年と同じように本田さんと委員をやりたかったんだけど、
修学旅行のある今年は、吉祥院さんが副委員長で良かったのかもし
れないな。
本田さん。本田美波留さんは僕の好きな人だ。
去年一緒に学級委員をやった時から好きになったんだけど、勇気
がなくてなかなか話しかけられない。
修学旅行で行った縁結び神社のおみくじでは大吉だったんだけど
な。
吉祥院さんなら相談に乗ってくれるだろうか。卒業の記念にサイ
ン帳にもメッセージを書いてもらいたいんだけど。
そんな話を吉祥院さんにしたら、快く引き受けてくれた。
それ以来、僕は吉祥院さんにたびたび恋の相談をするようになっ
た。
中等科に進学して僕はまた吉祥院さんと同じクラスになった。そ
してまた一緒にクラス委員をやることになった。
今はもう吉祥院さんへの苦手意識は全くないので、平気でいろい
ろ話せる。相変わらず見た目は近寄りがたいけど。
ただ良く見ていると、時々イメージが崩れる瞬間があるんだ。
ある時、昼休みに吉祥院さん達が中庭を歩いていた。僕は偶然そ
こに通りかかったんだけど、その瞬間、吉祥院さんの頭に鳩の糞が
直撃した!
428
﹁きゃあっ、麗華様!﹂
﹁麗華様に鳩の糞が!﹂
周りの子達が﹁すぐに保健室に!﹂﹁大丈夫、すぐに落ちますわ。
気を確かに!﹂と、呆然とする吉祥院さんを隠すようにすぐに運び
去って行った。
あれだけ何人もいたのに、吉祥院さんにだけ直撃するって⋮。
ちらっと見えた吉祥院さんの半分白目をむいた顔が忘れらない。
そういえば初等科の修学旅行でも鹿に囲まれていたな。動物と縁
があるのかもしれない。
その日、吉祥院さんは早退した。
そんな吉祥院さんが恋をした。
相手は3年の生徒会長だ。本人は隠しているつもりみたいだけど、
僕にはすぐにわかった。
だって生徒会への用事は僕が頼まれたものでも、横から奪い取っ
て行くんだもん。
生徒会室から戻ってくる時は、ひとりでブツブツ呟きながら笑っ
ているし。
ダメだ、吉祥院さん!その姿を誰かに見られたら、変な人だと思
われちゃうよ!
僕は﹁吉祥院さん、なにか良いことでもあった?なんだか楽しそ
うだから﹂と遠回しに教えてあげた。吉祥院さんは﹁あらやだ﹂と
両手で顔を押さえていた。それからは独り言もひとり笑いもしてい
なさそうだ。良かった。
でも生徒会長かぁ。ああいうカリスマタイプが好きなのかな。
吉祥院さんの恋はなかなか上手くいっていないようだ。僕も本田
さんと全然進展していないから、気持ちはよくわかるよ!
429
そうしたら、吉祥院さんから東京にある縁結びの神社を教えても
らった。
男がひとりで行くのは恥ずかしいけど、せっかく吉祥院さんが教
えてくれたから、行ってみることにした。
﹁吉祥院さん、行ってきたよ。おみくじも引いたんだ﹂
﹁あら、そうですの。で、おみくじの結果は?﹂
﹁うん、残念ながら中吉だった﹂
﹁へー⋮﹂
﹁吉祥院さんも引いたんだよね。どうだった?﹂
﹁⋮⋮吉、でしたわね﹂
﹁あ、そうなんだ。それは残念だったね﹂
﹁⋮⋮﹂
吉だからそんな変な顔してるのかな?そりゃあ、あまり良い結果
とは言えないけど。
吉祥院さんはチッとこっそり舌打ちをしていた。女の子がそんな
ことしたら良くないよ。
しばらくすると吉祥院さんの生徒会詣でがピタリとなくなった。
あれ?おかしいなと思って、﹁最近、生徒会室に行かないね﹂と聞
いてみたら、鬼気迫る顔で﹁知っていますか、委員長。初恋という
のは実らないんですよ∼。実らないんですよ∼、委員長﹂と、呪い
をかけるように僕に迫ってきた。怖いよ、吉祥院さん!
吉祥院さんは去り際にくるりと振り向き、にやりと笑った。
悪霊退散!
僕は家に帰って、その日から本田さんにむけた詩を書き始めた。
僕の詩で、悪い気を祓ってみせる!
430
そんな吉祥院さんだけど、毎年秋になると必ず﹁月見の季節です
ね∼﹂と物思いにふける。
さすがは腐っても吉祥院麗華。風流なんだな。
ちょっと変わったところもある人だけど、時々カップルを恨みが
ましい目で見てる人だけど、お人好しでたまに間抜けな吉祥院さん
のことが僕は結構好きだ。
でも彼もよく吉祥院さんを観察してるよな。鳩の糞事件の時も見
ていて、口元が笑ってたし。
♦♢♦♢♦
円城君は僕の憧れだ。
笑顔でさらりとすべてをこなし、必死で勉強しているように見え
ないのに、成績は常にトップクラス。
鏑木君の絶対王者のカリスマ性よりも、円城君の優しい雰囲気の
ほうが僕は好きだな。
鏑木君は黙っているだけで周りの人間を従わせる空気を持ってい
る。勉強もスポーツも出来て、家柄も財力も申し分ない、完璧な人。
時々、黙って窓の外を見ている姿なんて、僕達よりずっと大人に見
える。そこが僕には怖くて近寄りにくいんだけど。
その点円城君は誰とでも笑顔で話してくれるので、近寄りやすい。
僕が1年の時、円城君と同じクラスになった。僕はクラス委員長
になって内部生と外部生の溝や、円城君目当ての女子達に四苦八苦
していた。
431
その時、﹁大丈夫?﹂とフォローしてくれたのが円城君だ。円城
君を好きな女子達が騒ぎすぎると、傷つけないように優しく注意し
たり、外部生にも早く学院に馴染むようにと、委員会や係を勧めて
あげてたりした。
あのさりげない心遣い!僕と一緒にクラス委員をやっていた本田
さんもうっとりしていた。
その円城君が、3年になってあの鏑木君と同じクラスのクラス委
員をやることに不安を覚えていた僕に、吉祥院さんを副にするよう
薦めてくれた。
吉祥院さんといえば、女子の鏑木君ともいえる人じゃないか!
いつも女子の友人達に囲まれて、静かに微笑んでいる、敵に回し
ちゃいけない女子ナンバーワンだ。
鏑木君が皇帝なら、吉祥院さんは女帝だ。怖すぎる。
しかしそんな吉祥院さんが副委員長をやってくれることになった。
さすがだ、円城君。あの吉祥院さんを説得できるなんて。
怖いと思っていた吉祥院さんは思ってたよりは話しやすい人だっ
た。でもやっぱり少し緊張するけどね。特に後ろにいる女子達の圧
力が⋮。
その女帝吉祥院さんに反旗を翻す集団が現れた。蔓花さん達だ。
ふたつのグループは火花を散らしあっていたが、当の吉祥院さん
は余裕の笑みを浮かべているだけで、まるで相手にしない。
たまに副委員長として注意をするけど、言う事を聞かない蔓花さ
ん達に﹁だったらいいわ﹂とすぐに引いてしまう。
僕としてはもっとしっかり注意すればいいのにと思ったけど。で
もあの吉祥院さんのことだ。なにか考えがあるのかもしれない。
ふたつの女子グループの対立で、教室には殺伐とした空気が流れ
432
ていた。それを気にもしていなさそうなのは、鏑木君と吉祥院さん
くらいだ。さすがだなぁ。格が違う。
でもいつかなにかが起きる予感がしていた。なぜなら吉祥院さん
の目が笑っていなかったから。
そしてその日は突然やってきた。
朝から扇子を持った吉祥院さんは迫力満点だった。なんか内側か
ら得体のしれないオーラが滲み出ていた。
放課後、吉祥院さんは微笑みながら、ゆっくりと側近達を従え教
室を出て行った。
残っていたクラスメート達は﹁とうとう山が動くか!?﹂﹁女神
カーリーの降臨だ!﹂などと興奮して騒いでいた。
でも怖いので野次馬に行く勇気はみんななかった。
次の日、蔓花さん達は教室に来なかった。ほかのクラスの友達に
聞いても、蔓花グループが妙におとなしいと言っていた。
どうやら決着は吉祥院さんの圧勝だったらしい。
それをこっそり見ていた勇者が、﹁女王様が怒りの鉄槌をくだし
た。女王様には絶対逆らっちゃいけない!﹂と震えながら教えてく
れた。
そしてあの女子に冷たい鏑木君が、吉祥院さんに親しげに頭をコ
ツンとしたと、女子達は大騒ぎだ。しかも円城君とも仲がいいなん
て!
やっぱり僕らとは世界が違うし、敵に回したら1番怖い人なんだ。
5組のクラス委員長にその話をしたら、﹁あの人はただの面白い
人だよ﹂と言っていたけど⋮。
円城君も﹁吉祥院さんは楽しい人だ﹂と言っていたし、僕も先入
観を捨てて見たほうがいいのかな。
433
でも面白いところなんて特になかった。
修学旅行で誰もが一口でギブアップした青いケーキを笑顔で完食
し、その後最終日までずっと具合が悪そうだったり、夢の国のアト
ラクションでなぜかひとりだけずぶ濡れになって友達に励まされて
いたりしていたくらいだ。
あ、一度ホテルの廊下で片足立ちをしていたから、どうしたのか
聞いたら﹁ヨガの立木のポーズです﹂と言われた。女神カーリーだ
からヨガなのかな?
﹁ホタルのポーズやワシのポーズもお薦めですよ。どうですご一緒
に﹂と言われたけど、丁重にお断りした。
立木のポーズの吉祥院さんは、同室の風見さんに発見され、すぐ
に部屋に連れ戻されていた。
やっぱり吉祥院さんのような凄い人は、僕ら凡人には理解できな
いのかもしれない。
434
71
夏休みの間に、なんとか付いた肉を成敗しようと、ステッパーを
買ってみた。
内部進学がほぼ約束されているとはいえ、私も一応受験生なので、
家で勉強しながら運動が出来ればいいなと考えたのだ。
参考書を読みながら、足はステッパーを踏む。踏む。踏む。
雑誌に載っていたスーパーモデルの、﹁私は飲み物からカロリー
は摂らない﹂という言葉に目からうろこを落としまくり、大好きな
甘いミルクティーと冷たいココアをやめてみた。
毎日続けているうちに、徐々に痩せてきた。夏期講習で会った葵
ちゃんからも、﹁なんだか体が小さくなったね﹂と言われた。よし
っ!
そんな葵ちゃんは国立付属の内部進学試験が相当大変らしく、今
からかなり頑張っているようだ。体壊さないといいけど⋮。
夏休み中、ずっとステッパーを踏み続けたおかげで、元の体重に
戻すことが出来、その頃にはすっかり飽きてしまったステッパーは、
フラフープと共に部屋の隅に放置状態になった。
2学期になり久しぶりに登校すると、たった1ヶ月なのにみんな
が少し大人っぽくなっている気がして驚いた。
特に男子はにょきにょき背が伸びていて、ずいぶんと様変わりし
ている子もいた。
私はとっくに身長は止まってしまったけど、男子はこれからもど
んどん伸びていくんだもんねー。あれって夜、骨がきしむような鈍
痛で、眠れないんだよね。大変だ。
435
夏休みの間の出来事をみんなでおしゃべりしている時、今年の夏
合宿には幽霊は出なかったらしいと聞いた。ホテルが夏合宿前にお
祓いをしたのだそうだ⋮。心の底から申し訳ない。
そして中間テストを無事クリアしたあとにやってくるのは、体育
祭だ。
体育祭は毎年経験しているけど、今年は今までとは違う。同じク
ラスに、皇帝がいるのだ。
私はクラス委員として、坊主君と一緒にHRに各競技の出場選手
の立候補を募った。
無難な競技はすぐに決まっていき、最後にはやはり騎馬戦が残っ
た。
皇帝陛下は席に座り腕を組んで民草を見据えた。
そして腕力、脚力に自信がありそうな男子をひとりひとり指名し
ていった。
選ばれた3人の顔からは悲壮な覚悟が見てとれた。うん、頑張れ。
ほかにも力がありそうな男子はいたんだけど、夏休みの間に背が
伸びすぎてバランスが悪いので、今回は外されたらしい。良かった
ね。成長期に感謝だ。
選ばれし馬は、鏑木家で体育祭まで秘密特訓をするそうだ。知ら
なかった。毎年、どこで練習しているのかなって思ってたんだ。校
庭にもいないし。
練習内容や作戦は極秘だそうだ。皇帝をそこまで駆り立てる騎馬
戦っていったい⋮。
私はクラス委員なので、体育祭の準備で生徒会室に行くことが多
くなった。
生徒会長は同志当て馬。私はついつい好奇心で観察してしまう。
436
やっぱり髪は根元から黒いな。
同志当て馬はそんな私の視線に気づいて、不審な目で私を見てき
た。
﹁なに?﹂
﹁えっ、いや∼、水崎君も騎馬戦に出るのかな∼って﹂
確か去年は、皇帝と最後まで戦ったのは同志当て馬だったはず。
もちろん皇帝の敵ではなかったけど。
﹁⋮それって探りいれてんの?﹂
﹁いえいえ、そんな﹂
﹁出るけど、それ以上は教える気ないから﹂
あらぁ、警戒されちゃった。
﹁それと﹂
﹁はい﹂
﹁俺、相手がピヴォワーヌだからって、容赦はしないから﹂
同志当て馬は強い目で私を見た。
あー、この人は反ピヴォワーヌだったな。
﹁よろしいと思いますよ。頑張ってください﹂
でも相手は同志当て馬が考えている以上の、騎馬戦馬鹿だからね。
きっと今頃自宅で練習していることだろう。
用事が済んだ私は、生徒会室を退出した。でもその前に、
﹁生徒会長、髪を銀色に染めたいと思ったことはありますか?﹂
437
﹁銀?ありえない﹂
ですよねー。
体育祭当日は皇帝の出陣にふさわしい快晴だった。
皇帝は騎馬戦以外にも選抜リレーにも出るので、そちらの練習も
あった。いかにバトンをタイミング良く渡すかがリレーの命だと、
リレーの選手達は何度も練習させられていた。熱いなぁ。この皇帝
のどこがクールなんだ。
皇帝の馬の男子達は、この短期間にずいぶんと筋肉が付いていた。
あんた達、いったいどんな目に合わされてたんだ⋮。目が爛々とし
てて怖いよ。
しかし私もミスして皇帝の怒りを買わないように、気合入れて頑
張らないと。
私はスプーンリレーや綱引きをこなした後、玉入れに参加した。
ステッパー効果なのか、足に筋力がついた気がする。拾っては投
げの作業が去年より楽だ。
その時、私の後頭部にべしっと玉が当たった。
思わず﹁痛っ﹂と声を上げ、後ろを振り向くと、同じクラスの男
子が﹁ごめんなさい!わざとじゃないんです!わざとじゃないんで
す!﹂と大慌てで弁解した。
うん、わざとじゃないのなら別にいいから。そんなに怯えないで
くれる?
なんとなく、みんなが私に当たらないように玉を入れているよう
に見える。被害妄想か?
結局、私のクラスの玉入れの成績は良くなかった。おかげでクラ
スの席に戻ると皇帝の機嫌が悪かった。ほら∼。
438
そしてとうとうこの時間がやってきた。騎馬戦。
王者の貫録で競技場に入っていく皇帝の騎馬と、捨て駒扱いのも
うひとつの騎馬。彼らは秘密特訓には参加させてもらえなかったら
しい。自力で頑張れ。
スタートの合図と共に、騎馬が一斉に走り出した。
皇帝は近くの騎馬をどんどん仕留めていく。ほかの騎馬達はなる
禿山の一夜
べく皇帝から離れようとしているのか、遠くで団子状態だ。
その獲物達を狩りに、皇帝が動く。久々に私の頭に
が鳴り響いた。毎年思うけど、女子で良かったー!
そんな皇帝の前に1年生の騎馬が突進してきた。なんたる無謀!
﹁うおおおっっ!﹂
1年生は果敢に攻めていったが、所詮は皇帝の敵ではなかった。
腕を掴まれ髪ごとハチマキを毟られたあげく、地面に投げ落とされ
ていた。
﹁くっそーーーっ!﹂
いやいや、心意気は買うよ、1年君。土まみれでズタボロだけど
ね。
馬上の皇帝はそんな1年君をふんっと鼻で笑い、いつの間にか最
後の一騎になっていた同志当て馬と対峙する為に動いて行った。
同志当て馬も気合十分。間合いをはかって両騎が同時に走り出し
た。
去年よりも強くなっている同志当て馬。しかし馬になっている男
子達の実力の差は歴然だった。
馬上でふたりが戦っている間にも、馬同士で蹴り合ってバランス
を崩させようとしていた。
最後は皇帝が騎馬の蹴り合いのタイミングを見計らって、同志当
439
て馬を騎馬ごとなぎ倒し、見事全勝記録を守り抜いた。
そして皇帝はこの後、今日を最後に騎馬戦から引退をすることを
表明。騎馬戦皇帝は伝説となった。
って、騎馬戦から引退ってなんだよ⋮⋮。
440
72
冬になり、私も本格的に受験勉強を始めた。どうせエスカレータ
ーで進学は決まったも同然なんだけど、まぁ一応。
高等科に入学すれば、外部生がドッと入ってさらに順位が落ちそ
うだしね。今から対策しておかないと。
なので今日も家庭教師の先生について、お勉強。
まりん
教えてくれるのは、就職して家庭教師をやめた花梨先生に代わり、
花梨先生の妹の真凛先生。 真凛先生も国立大学なんだって。姉妹
で優秀だわ∼。
﹁この調子なら内部入試は合格間違いなしですね﹂
﹁本当ですか?﹂
﹁最後までこのペースで勉強し続ければ、ですけど﹂
そっかぁ。でもお墨付きもらうとすぐダラけそうだから、あまり
褒めないで。
さぼり癖は私の魂に刻み込まれている前世からの因縁なのだから。
﹁そういえば、麗華様のお兄様とはほとんど会う機会がありません
ねー﹂
﹁そうですわねぇ﹂
お兄様は成人式を過ぎてから学業と家業を掛け持ちしているので、
とっても忙しい。夕食の時間にも間に合わないことがほとんどで、
前のように気軽に遊んでくれと言えなくなってしまった。
でもお兄様は夜遅くにならないと帰ってこられないくらい忙しい
のに、お父様は夕食に間に合うっておかしくない?お父様、お兄様
441
を働かせすぎなのでは?
はっ!もしかして不正を見つけてそれの秘密処理に追われている
とか?!きっとそうに違いない。頑張ってお兄様!
今度お弁当を作ってあげよう。妹の愛情たっぷりの手作りお弁当。
きっと喜んでくれるはずだ。桜でんぶでごはんにハートマークを描
いてあげよう。驚くぞぉ、うぷぷ。キャラ弁に挑戦もいいな。
﹁麗華様のお兄様は本当に素敵ですものね。姉も年下に思えない!
って噂していたんですよ﹂
﹁まぁ﹂
知らなかった。花梨先生、実はミーハー?
確かに私のお兄様は素敵ですけどね。勉強や本を読むときはメガ
ネをかける、そのインテリ横顔がメガネ男子好きの心をくすぐりま
す。
﹁真凛先生も私のお兄様みたいな人がタイプなんですか?﹂
﹁こう言ってはなんですけど、貴輝様は観賞用。現実に恋人にする
にはもっと普通の人でいいです﹂
﹁そんな方がいらっしゃると?!﹂
﹁ううん、いないけど。ただアタックしてくる同級生はいるかな∼。
でも私のタイプとは真逆なの。私の好きなタイプは恥ずかしいけど、
ビジュアル系バンドのボーカルみたいな人だから﹂
﹁あら∼。痩せてて色白で皮パンが似合うような人ですか﹂
﹁うん。恥ずかしいですけどね﹂
普通の人がいいと言いながら、ビジュアル系とはこれいかに?
国立に通う才女の意外な一面だ。
﹁ちなみに麗華様の好きなタイプは?﹂
442
﹁え⋮。どうでしょうね、優しくて真っ直ぐな方でしょうか﹂
友柄先輩以来、好きな人がいないのでよくわからない。
ジュリエット香澄様からは、時々友柄先輩ののろけ話を聞かされ
ている。いいですね∼みなさん、楽しそうで。
﹁私にアタックしてくる人も真っ直ぐなんですけどねぇ。少し暑苦
しくて⋮﹂
﹁困っているのですか?だったら井の頭公園でボートに乗ってみた
らいかがでしょう?﹂
﹁あれはカップルでないと効かないんじゃないかしら?﹂
あれ?そうなんだ。桜ちゃんは激怒していたけどな。リアル般若
っているんだなってくらいの恐ろしい形相だった。
全く、ちょっとした遊び心だったのになぁ。﹁自分が恋愛ぼっち
だからって、他人まで仲間に引き摺りこもうとするなぁっ!﹂って、
凄い剣幕だったけど、桜ちゃんだってまだ両思いではないでしょう
?それに運命の恋人ならその程度の妨害はエッセンスですよ。心に
余裕をもたないとね。
恋愛ぼっち村の村民募集中。
一応受験生ということで、気分転換に学業の神様にお参りに行っ
てみた。
合格祈願鉛筆の存在は知っていたけど、必勝ハチマキなんてもの
まであるとは知らなかった。
よく年末年始のニュースで、ハチマキ締めてお正月返上で塾で勉
強してる子供達の映像が流れてるけど、必勝ハチマキって結構定番
443
なのかな?
皇帝の異常なハチマキへの執念を考えると、ハチマキにはひとを
やる気にさせるなにかがあるのかもしれない 。
面白そうなので鉛筆と一緒に買ってみる。葵ちゃんのぶんも含め
て2枚。怖い般若桜には買ってあげない。あれはガミガミ妖怪だか
らね。
葵ちゃんは日に日にやつれていくから本当に心配だ。絵馬には葵
ちゃんが無事合格しますようにと書いて、しっかりお祈りしておく。
しかし天神様って学業の神様って言われてるけど、実際は左遷さ
れてるんだよねぇ。本当にご利益あるのかしら。
などと不届きなことを考えていたら、鳩の糞攻撃にあった。目の
前に落ちてきて、セーフ!と思ったら、地面からのおつりがタイツ
に!!
ごめんなさい。私が悪かったです。許してください。⋮⋮怨霊、
怖い。雷落とすのだけはやめて。
ガミガミ妖怪には言っていなかったけど、実は体育祭の後くらい
に、鳥海さんから話しかけられた。
もちろん秋澤君のことで。
秋澤君と、桜ちゃんの話を時々している姿を目撃して妙な勘違い
をしたらしい。
﹁もしかして、秋澤先輩とお付き合いされてるんですか﹂って。あ
りえな∼い。私達がこそこそ話しているのからそう思ったらしいけ
ど、桜ちゃんといい、どんだけ恋愛フィルターかかってるんだよ。
そして自分で言うのもなんだけど、よく私に話しかけられたな鳥
海さん。恋の力って凄いな。
その勇気に免じて、しっかり私達の関係を訂正したうえで﹁幼馴
染の彼女がいるようだ﹂と教えてあげる。
﹁やっぱり⋮﹂と落ち込む鳥海さんに、﹁鳥海さんにはもっとお似
444
合いの人がいると思いますわ﹂とアドバイスする。
実は璃々奈の手下のメガネちゃんから、鳥海さんを好きな男子が
いるという情報をもらっていたのだ。
﹁同じ陸上部の同級生にも目を向けてあげて﹂と遠回しに教えてあ
げたら、びっくりしていた。
え∼っと、と目を泳がせて赤くなっていたから、鳥海さんに片思
いしている陸上部男子に春が来るのも近いかもしれない。
今度こそいい仕事をした。
ガミガミ妖怪、私は君の為に結構裏で頑張っているのだよ。村長
の心は広いのだ。
しかし璃々奈の手下のメガネちゃんは、おとなしそうな顔をして
かなりの情報通だ。いんちきスパイの私など、足元にも及ばない本
物のスパイかもしれない。
こっそり面白情報からお役立ち情報まで教えてくれる。
私には慕ってくれる後輩も少ないので、メガネちゃんの存在は嬉
しい。﹁麗華様﹂ではなく﹁麗華先輩﹂と呼んでくれるようにお願
いしてみた。
そのメガネちゃんから、騎馬戦で皇帝にボコボコにされた1年君
がなぜか私にライバル心を抱いていると聞いた。なぜ?
﹁桂木はバカだという噂なので気を付けてください﹂って、私の周
りはバカばかりだな∼。鏑木に桂木。バカは名前も似ているらしい。
難儀なことだ。
そのおバカな1年君は一度私とすれ違った時に、﹁お前なんか円
城さんにふさわしくない!﹂などと気の触れた発言をかましてくれ
た。バカの発想は素っ頓狂すぎて、私には理解できないよ。
そんな残念な1年君は、後日私の取り巻きに闇討ちされたとかさ
れなかったとか⋮⋮。
女子の集団に囲まれて、トラウマになるくらい罵られるってどれ
445
くらいつらいんだろうなぁ。
ストレスで白髪になったら、相談に乗るぞ。
446
73
中等科の卒業式。
これは初等科の時と違ってなかなか感慨深いものがあるなぁ。
だって来月には高等科に主人公が入学してくるはずなんだもん。
いったいどうなるんだろう。
今までは小さなトラブルは結構あったけど、私にとっては概ね平
和な学院生活だった。でもこれからはわからない。いっそこのまま
鏑木が優理絵様とくっついてくれたら楽なのに。
愛羅様を通じて、優理絵様に鏑木をアピールしてみようか。鏑木
のアピールポイントが全然思い浮かばないけど⋮。
そういえば葵ちゃんや桜ちゃんも今日が卒業式だって言ってたな。
無事合格しました
って
私と同じくエスカレーター式の桜ちゃんと違って、葵ちゃんの受験
は傍で見ているこっちまで苦しかった。
って、嬉しいじゃないか。
いうメールが着た時には、心底ホッとした。
麗華ちゃんの鉛筆と鉢巻のおかげだよ
私も家でハチマキをして勉強したよ。そのまま家の中をうろうろ
していたら、家族にギョッとされたけど。﹁そんなに思いつめなく
ていいのよ﹂ってお母様に心配されたけど、これは受験勉強の雰囲
気作りだから、全然追い込まれていないのに。
むしろ追い込まれていたのは、大好きなホットチョコレートの飲
みすぎで、少しだけふくよかになったおなか周りだけだ。連日通っ
たのはさすがにまずかった。
フラフープを復活させて、なんとか凌いだけどね。
卒業生答辞は鏑木がおこなった。ストーカー気質で体育祭大好き
の騎馬戦馬鹿だけど、我が学年では一番優秀らしい。
447
こういうのって普通、生徒会長がやるものだと思っていたんだけ
どな。めげるなよ、同志当て馬。
壇上で答辞を読み上げる姿はさすが堂々としたものだ。女子生徒
だけではなく、男子生徒もうっとりだ。騎馬戦で不動の強さを見せ
つけた皇帝は、男子の心も鷲掴みらしい。
騎馬戦引退宣言をした皇帝には、一時期弟子入り志願者が殺到し
ていた。その中にはあのズタボロ1年君もいた。次代の騎馬戦皇帝
は自分だという、大いなる野心を持っているそうだ。いいなぁ、揺
るがないバカっぷり。しかし瑞鸞男子はどれだけ騎馬戦が好きなん
だ。
その皇帝は弟子をすべて断った。曰く﹁技は教えられるのではな
く、盗むものだ﹂と。
弟子入り志願者達は﹁はいっ!﹂と感動に打ち震えていた。バカ
だ。瑞鸞男子はバカばかりだったのだ。これは大変だ。
いつも隣にいる円城が、その時は少し離れたところに立っていた。
あれはきっと、自分はこのバカ達とは関係ないという、意思表示だ
ったに違いない。
そんな鏑木が読む答辞の中には絶対に騎馬戦の話も盛り込むと思
ってたのに、全くなかった。鏑木の中等科の一番の思い出なんて、
絶対それだろうに。守ったな。
式が終わって外に出ると、お兄様が!
今年は忙しいから来て欲しいと頼むのは遠慮したほうがいいかな
∼と迷っていたんだけど、そんな私の気持ちを察したお兄様から行
くよって言ってくれたのだ。
だから我がままついでに、その時はうららを持ってきてねともお
願いした。
約束通り、お兄様はうららの交じった素敵な花束を持ってきてく
れた。
448
忙しいのにありがとう、お兄様!お兄様の大学の卒業式はこれか
らだから、お礼にぜひ私も駆けつけましょうと言ったら、笑顔でお
断りされてしまいました⋮。なぜ。
お兄様の花束のほかに、ピヴォワーヌの後輩達から代表のお祝い
のお花と、なんと璃々奈の手下達からもお花をもらってしまった!
そして璃々奈は自分が持っていた花束を私ではなくお兄様にあげて
いた。おいっ!
﹁貴兄様、来年の私の卒業式には百合の花を持って見に来てくださ
いね!璃々奈の花ですわ!﹂
百合の花を自分の花というのは、皇帝が怒るのでは?
ほら、璃々奈が大声で言うから、振り向いちゃったし。
﹁璃々奈の花というと、彼岸花かしら?とってもお似合い﹂
﹁なに言ってるのよ!あれはユリ科ではないわ!私の花はマドンナ
リリーよ!﹂
うわっ、図々しい。
﹁う∼ん。来年は僕も働いているからね。約束は出来ないなぁ﹂
﹁ええーーっ﹂
璃々奈の卒業式には私が花束持ってお祝いに駆けつけてあげるよ。
璃々奈にぴったりの花、ロリーポップを持ってね。
﹁璃々奈は鏑木様にお祝いのご挨拶をしなくていいの?﹂
﹁もちろん、今から行くわよ﹂
449
鏑木は大勢の女子生徒達に囲まれて、握手会だ。
璃々奈は青い薔薇のブリザーブドフラワーの花束を持って、手下
と共に鼻息荒く輪の中に突進していった。
振り向きざま、
﹁ああ、ついでに麗華さん、卒業おめでとう﹂
と言い残して。
ツンデレさんだなぁ⋮。
﹁璃々奈とすっかり仲良くなったんだね﹂
﹁そうでしょうか?でもバカな子ほど可愛いといいますからね﹂
うんうんと私が頷くと、お兄様も﹁⋮そうだねぇ。バカな子ほど
可愛いねぇ﹂と同意してくれた。
今回はお父様もお兄様にしっかり対抗してお祝いの花束を持って
きてくれた。﹁蘭の女王カトレアだ。麗華にぴったりの花だ﹂と自
慢げに。
どうせ隣のお母様あたりに教えてもらったんだろう。ぽんぽこ狸
の発想とは思えない。私、自分の父親を侮りすぎ?
あ、美波留ちゃんがデジカメ持って円城の輪の中に入っていった。
あら∼。
そしてその後ろで同じくデジカメを持った委員長が⋮。委員長、
玉砕?!委員長、中吉を過信しすぎたのではないかしら?
鏑木や円城の写真を撮るのに一段落した芹香ちゃん達が、一緒に
写真を撮ろうと誘ってくれた。﹁麗華様のお兄様もご一緒に﹂って、
もしやそっちが目当てか?!
それでも仲良しの女子達ときゃあきゃあはしゃいで写真を撮る。
残念ながら男子生徒からのお声はかからなかったけど。私に憧れ
450
を抱いている男子はいないのか?遠慮しなくていいんだよ?今なら
握手も付けますが。
⋮⋮まぁいい。私の恋愛運はきっと高等科で花開くのだから。凶
みくじの呪いは今日でおさらばだ!
でも私は幸せ者だなぁ。こんなにたくさんの人達にお祝いしても
らって。
高等科でも、そしてその後も未来でも、この幸せが続くといいな
ぁ。
451
74
とうとうこの日がやってきた。
本当に主人公はこの学院にやってくるのだろうか。
ドキドキする。これからの3年間で私の人生が決まるんだ。頑張
るぞ!
高等科の入学式は、散りかけの桜が舞い散る4月のある晴れた日
に行われた。
講堂の中をきょろきょろと見回してみたけど、それらしき姿はな
い。
高等科からの外部生は約100人程度入ってくるので、ここで見
つけるのは難しそうだ。
おとなしく式典に臨む。
在校生代表の挨拶は、高等科でも生徒会長の友柄先輩だ。しばら
く見ない間に物凄く大人っぽくなったなぁ。笑いながらお菓子食べ
ていた中学生の時とは全然違う。
やっぱりかっこいいなぁなどと考えていたら、次の新入生代表の
挨拶に鏑木が立った。
鏑木が壇上に上がると、式場が一瞬ざわっとした。確かに鏑木は
目鼻立ちの整った見惚れるほどの顔貌だから、驚くのもしかたがな
い。黒髪で少しきつめの冷たいその顔は、まるでしなやかな黒豹み
たいだ。内部生はともかく、耐性のない外部生には衝撃だろう。
こういう時の鏑木のカリスマオーラというのは、確かに凄い。こ
れだけの注目を集めながらもその視線をはねかえし、全く緊張も動
揺も見せない堂々とした立ち振る舞いは、私も思わず尊敬してしま
う。でも中身は騎馬戦馬鹿なんだけどねー。
452
そんな鏑木ショックもあった入学式が終わり、渡されたクラス表
を見ながら教室へ移動する。
最初に自分の名前を確認したあとは、もちろん彼女の名前を探す。
私のクラスにはいないな。1組から順番に見ていく。えーっと⋮、
あった!
たかみちわかば
高道若葉
⋮⋮本当にいた。
若葉ちゃん。﹃君は僕のdolce﹄の主人公で、皇帝と紆余曲
折の末に結ばれるヒロイン。この先の私の人生を左右する重要な女
の子。
どこにいる?見たい。若葉ちゃんの姿を確認したい。
しかし新入生は速やかに教室に移動しなければいけないので、ほ
かのクラスに行く余裕はない。
しょうがない、これから確認するチャンスはいくらでもあるんだ
から。今は諦めよう。
私は自分のクラスにおとなしく向かった。
新しいクラスでは、緊張した顔をしてひとりで席に座っている外
部生達と、仲の良い子達で集まって同じクラスになれた喜びにはし
ゃぐ内部生達にくっきり分かれていた。
﹁あっ、麗華様!﹂
﹁麗華様ごきげんよう。同じクラスになれましたわね!﹂
私は同じグループの子達を中心とした、女子の輪に迎え入れられ
た。
﹁ごきげんよう、みなさん。同じクラスになれて良かったわ。1年
453
間どうぞよろしくね﹂
﹁ごきげんよう、麗華様。私も麗華様と同じクラスで安心しました
わ﹂
﹁麗華様、ごきげんよう﹂
みんなと笑顔で挨拶をする。数人の外部生がこちらをちらちら見
ていた。その中にはどこかで見た覚えのある顔もあったので、たぶ
ん上流階級に所属する人間だろう。特待生枠はそれほど大きくはな
いので、それ以外の外部生は上流階級とは言えなくても、瑞鸞の学
費を支払うことのできる程度の家の子達だ。本物の庶民は案外少な
い。そして若葉ちゃんはその少ない庶民のひとりだ。
今頃若葉ちゃん、カルチャーショックを受けているだろうなぁ。
今まで通っていた公立学校とのあまりの差に。私も初等科に入った
時に驚いたもんね。でもこれから学内の施設を案内されたらさらに
ショックを受けるだろうな。
教室に新しい担任が入ってきて全員が席に着くと、自己紹介が始
まった。
﹁吉祥院麗華です。みなさま1年間よろしくお願いいたしますね﹂
私の番が回ってきたので無難な挨拶をして終わらせようとしたら、
何人かが拍手をした。
ちょっ、やめてよ!
拍手をした子達に悪気は全くないのはわかっているけど、それは
ない!
ほら、外部生がぎょっとした顔してるし!こいつはやばいって顔
してるし!
やばくないよ∼。私そんなに怖い子じゃないよ∼。要注意人物じ
454
ゃないよ∼。
その後は先生からクラス委員の指名があった。女子は薄々覚悟は
していたけどやっぱり私だった。え∼っ、今年こそピヴォワーヌら
しく雑用とは縁のない生活をしたかったのに。
クラス委員を出来そうな女子はほかにもいたのでお断りしちゃお
うと思ったけど、先生の断らないよね、やってくれるよねという目
に押し切られて、結局引き受けてしまった。うえ∼、大変そう。
一緒にクラス委員をやるのは、中等科から瑞鸞に入学してきた男
子だった。
それ以外の各委員会や係を決めたり校内の案内は明日のHR以降
ということで、今日はこれで解散となった。
結局今日は若葉ちゃんの姿を見ることは出来なかったな。
マンガの若葉ちゃんは元気な女の子だったけど、本物はどんな子
なんだろう。
しかし若葉ちゃんが本当に入学してきたということは、もはや一
刻の猶予もならない。
私は家に帰るとお父様に﹁不正、よくない﹂と繰り返し諭した。
お父様は言っている意味がわからないととぼけていたけど、お願い
だから本当のことを言って。
今の私に鏑木と若葉ちゃんの恋を邪魔する気は毛頭ないけど、お
父様が不正を働いていたら、ほかの誰かに告発されるかもしれない
じゃないか。
あぁお父様じゃ埒が明かない。お兄様にもしっかり言っておかな
いと!
次の日は朝から委員会や係を決めることから始まった。
455
そういえば去年、小坊主が﹁円城君は学院に慣れない外部生に、
委員会や係を勧めてあげたんだよ﹂とか言ってたな。それを真似し
てみようか。
でもいきなりやらせるのは酷かな。準委員的なお手伝いとして参
加させたほうがいいのかな。
とりあえず﹁今年から瑞鸞に入学した方も、ぜひ積極的に立候補
してくださいね﹂と水を向けてみた。
それでもなかなか手を挙げる外部生はいなかった。う∼ん、しょ
うがないか。
結局は内部生を中心に決まってしまったけど、これから少しずつ
参加してもらおう。
その後は学院内の案内だ。先生を先頭にクラス委員が続き、その
後ろにクラスメートが並んだ。
高等科の校舎は人数が増えたぶん中等科よりも広くて設備も増え
ていたけど、大体は似たようなつくりだった。おかげで私達内部生
は割とリラックスして見学していたけど、外部生の子達はひとつひ
とつに驚いて戸惑っていた。まぁそうだろうな。
次に行ったのは食堂だった。ここも中等科よりも広いな。メニュ
ーは中等科より増えているのかしら?
あ!そういえばこの食堂で、若葉ちゃんがピヴォワーヌ専用席に
座ろうとしてトラブルになったんだ。どうしよう、今ここで外部生
達にも注意しておいたほうがいいのかな。でもそれにはまず、ピヴ
ォワーヌの説明からしないといけないし、私が大っぴらにピヴォワ
ーヌの特権を言うのもな。後で誰かにこっそり言ってもらおうか。
中等科の時はどうだったんだっけ。いつの間にか外部生の間でも
暗黙の了解みたいになってたけど。
それからもいろいろと回り、そろそろ校内見学も終わりに差し掛
かった頃、やってきたのは生徒会室だった。
456
﹁おー、今度は吉祥院さんのクラスかぁ。どうぞ、入って﹂
部屋の中には生徒会長の友柄先輩をはじめ役員の方々が待ってい
て、ひとりひとり自己紹介をしてくれた。
﹁吉祥院さん、ピヴォワーヌなのにまたクラス委員やってるの?も
ういっそ生徒会に入っちゃいなよ﹂
そう言って友柄先輩は快活に笑った。
﹁私などとても無理ですわ﹂
﹁だよね、ピヴォワーヌだもんね。あぁ、外部組の子達、ピヴォワ
ーヌっていうのは瑞鸞で特別待遇されているグループのことね。細
かいことは内部組に聞いてみて。ちなみにこの吉祥院さんが付けて
いる赤い花のバッチがメンバーの証だから、このバッチ付けている
人間には注意するようにね﹂
友柄先輩、説明してくれたのはいいけど、その言い方だとまるで
私に注意するようにって言ってるようにも聞こえますけど?!
友柄先輩の彼女だってピヴォワーヌじゃないですか。香澄様に言
いつけちゃうぞ。
ほら、益々私を見る外部生の目が怯えたようになっちゃったじゃ
ないか⋮。
﹁学院内で困ったことがあったら、生徒会になんでも言って。でも
君たちのクラスには吉祥院さんがいるから平気かな。彼女は面倒見
がいいからね。わからないことは吉祥院さんに聞くといいよ。この
子凄くいい子だから﹂
457
きゃう∼んっ!友柄せんぱーい!やっぱり大好きですぅっ!
素敵な素敵な友柄先輩達とお別れして廊下を歩いていると、別の
クラスの集団が向こうからやってきた。
││その時私の横を、確かに見覚えのある顔が通り過ぎた。
若葉ちゃん!
初めて見た若葉ちゃんは、私の知っている若葉ちゃんそのものだ
った。
相変わらず、髪がちょっとはねてた。好奇心いっぱいの目をして
いた。あの子は確かに本物の若葉ちゃんだ。
うわーっ、なんか感動。
その後何度も振り返って若葉ちゃんの後ろ姿を見ていたら、隣を
歩いていた新委員長に心配されてしまった。おっと入学早々失敗、
失敗。私、不審者じゃないよ∼。
昨日は若葉ちゃんの名前だけだったけど、今日本人を見たらにわ
かに実感が湧いてきた。
私はもう一度お父様に﹁天罰覿面﹂という四字熟語の意味を懇々
と説いた。
やはり後ろ暗いところがあるのか、お父様が書斎に閉じこもって
しまったので、駄目押しで書斎の前で﹁お天道様はお見通しですよ
ー﹂と言っていたら、帰ってきたお兄様に無言でリビングに連行さ
れ、﹁2年間経営にも携わってきてそんな事実はなかったから、変
な心配はしなくていい﹂と怒られてしまった。
本当ですか、お兄様。信じていいんですね?
458
﹁娘にあらぬ疑いをかけられて、お父さんは落ち込んでいる﹂とお
兄様に言われてしまったので、お父様に悪いことをしたなと少し反
省した。
わかりました。お父様を、お兄様の言葉を信じることにしましょ
う。家族ですからね。
⋮⋮でもやっぱり一応時々は、お父様にお天道様=私が見ている
んだぞということを教えてあげようかな。ほら、念のためにね。
459
75
高等科に入学して数日経ったが、特にトラブルはない。若葉ちゃ
んもなにかをしでかしたって話は聞かないし。
こっそり若葉ちゃんのクラスを覗いてみたけど、一応数人の友達
ができて、なんとかやっているようだ。
この調子なら今のところは放っておいて平気だろう。
なので私は、これから自分のクラスの親睦を深めるべく動きたい
と思う。
新しいクラスに外部生はまだあまり馴染めていない。内部生同士
でも中等科時代に接点がなければ、探り探りだし。
ここはひとつ、親睦会的なものを開くべきだと考える!そして親
睦会といえば食だ!
﹁クラス全員でお昼を食べる?﹂
﹁ええ、一度みんなでランチを一緒にして、親睦を深めたらどうか
と思いましたの﹂
さとみゆきなり
私はさっそくクラス委員の相方、佐富行成君に提案してみた。
休み時間だけじゃ、なかなか仲良くなりにくいと思うのだ。だっ
たら一度みんなでお昼を一緒に食べて、いろいろおしゃべりしたら
いいんじゃないかと考えた。
話題だってランチなら﹁これおいしいね﹂とか、当たり障りのな
い導入から入れるし。どうだろう?
﹁う∼ん。いいアイデアだとは思うけど、食堂でクラスの人数分の
460
座席を固まって確保できるかなぁ﹂
確かにね。大体はみんな、空いている席に座ってしまうから、約
40人分の席を纏めて確保するのは相当難しい。
だがしかし!佐富君は重大なことを忘れている!
﹁大丈夫ですわ﹂
シャキーン!
私は制服の赤い牡丹を佐富君に見せつけた。
﹁あぁピヴォワーヌ。えっ!まさかピヴォワーヌの専用席を使うの
?!﹂
﹁さすがにそれは無理ですけど。でもあらかじめ、食堂にクラス分
の座席を予約させていただくことくらいは出来ると思いますわ﹂
最初は中庭あたりにシートを敷いてみんなでお弁当でも食べよう
かと思ったけど、万が一雨が降った時のことを考えると、食堂が一
番問題なさそうだと思ったのだ。
﹁いきなり新入生が食堂の一角を占領したら、先輩方からの風当り
がきつくないかな﹂
私は再び牡丹の花をキラーンと光らせた。
﹁私がすべて仕切っていることだと言えばいいですわ。それと生徒
会長にも話を通しておきましょう。たった1日のことなのですから、
きっと皆様大目にみてくださいますわ﹂
﹁おおーっ、さすが吉祥院さん﹂
461
佐富君がパチパチと拍手をした。
ホッホッホッ、文句があるならピヴォワーヌへいらっしゃい!
⋮あれ?これはロココの女王のセリフではなかったっけ?
食堂と生徒会長である友柄先輩の了解も取り、私達のクラスは無
事ランチ親睦会を執り行うことができた。
友柄先輩には香澄様の名前をちらつかせてお願いしたら、苦笑い
でOKしてくれた。
脅しじゃないよ、お願いだよ?
あまりいい席を占拠するのは申し訳ないので、すみっこのなるべ
く目立たない場所を使わせてもらうことにした。ど真ん中で注目浴
びるのも嫌だし。
﹁ではみなさん、いただきましょうか﹂
学食のランチを食べる子もいれば、お弁当持参の子もいる。お弁
当でも食堂を使っていいのだけど、気後れしてまだ一度も食堂に来
たことのない子もいたので、今回は食堂を使ういいきっかけになっ
たかも。
最初はぎこちなく会話もあまりなかったクラスメート達も、食事
が進むにつれ徐々に周りの子達と楽しく話し始めた。
内部生が外部生にいろいろ学院のことを教えてあげてたりして、
いい感じだ。
﹁でね、あっちの奥の席、あそこはピヴォワーヌの方々の専用の席
だから、絶対に一般生徒は座ってはいけないのよ﹂
ひとりの内部生の子が外部生に教える声が聞こえてきた。
462
うん、一応専用席はピヴォワーヌのプレートが置いてあるから、
たぶんわかると思うよ。
ちなみに私は滅多に使わない。中等科時代から、ランチはほとん
ど芹香ちゃん達と一緒に食べている。専用席を使うのはたまにピヴ
ォワーヌの方に誘われた時くらいだ。中等科の1年の時には香澄様
に時々誘われたりしていた。主に香澄様から友柄先輩ののろけを聞
かされる時などに。
大体、お昼は一番おしゃべりが盛り上がる時間なのだ。その時に
いないと後でみんなの話題についていけなくて、だんだん取り残さ
れるはめになる。女子のグループにとって、お昼を一緒に食べると
いうのは、結構重要なことだ。
鏑木と円城はお昼は常に専用席だ。そこならファンの女の子達も
入ってこられないからだろうけどね。さすがに彼らもお昼くらいは
静かに食べたいよね。
食事が終わる頃には、みんなだいぶ打ち解けてきたようだ。私の
周りには、同じクラスになったいつものグループの子達が座ってい
て、新たな友達作りはあまり出来ていないけど⋮。
まぁいい。それでも何人かの女子は話しかけてきてくれたのだか
ら。これから増やしていけばいいさ。
しかし、男子生徒が私と目を合わせないのは気のせいか?私はク
ラス委員なんだから、わからないことはなんでも聞いていいんだよ
ー。
こんなに私はウェルカムなのに、なぜみんな佐富君にばかり聞く
か。
ランチ懇親会の後から、クラスの子達の仲も縮まった気がする。
良かった良かった。
463
﹁吉祥院さんのアイデアのおかげで、前よりもみんな仲良くなれた
みたいだね。さすがは吉祥院さん﹂
佐富君にも褒められた。
そういえばこの佐富君はほかの男子と違って、私に最初から普通
に話しかけてきてくれているな。
﹁私は男子達に怖がられているような気がするのですが、佐富君は
平気なのですね﹂
﹁えっ、怖がられている?!あー⋮、え∼っと、どうなのかなぁ。
吉祥院さんはほら、高嶺の花みたいに思われているんじゃない?﹂
⋮⋮どうだか。
﹁でも俺の場合は秋澤と友達だから、吉祥院さんの話はあいつから
時々聞いてたんだ﹂
﹁佐富君は秋澤君と仲が良かったんですか?!﹂
それは初耳。そして秋澤君、私のどんな噂をしているのか?
﹁吉祥院さんとは初等科の頃に同じ塾に通って、仲良くなったって
聞いたよ。それで今は秋澤よりも秋澤の幼馴染の女の子と仲がいい
って。あの子、確か名前は蕗丘さんだっけ﹂
﹁桜ちゃんを知っているんですの?﹂
﹁うん。前に秋澤の家に遊びに行った時に会ったよ。清楚でおとな
しい、いかにも百合宮のお嬢様って感じの子だったなぁ﹂
騙されてるよ、佐富君!桜ちゃんは外見は和風美少女だけど、中
身はガミガミ妖怪で、口には毒蛇を飼っているんだよ!
464
しかし桜ちゃんの猫かぶりも相当なものだなぁ。
私も桜ちゃんをぜひ見習いたいものだ。
465
76
葵ちゃんと久しぶりに会うことになった。葵ちゃんとは春休みに
会って以来だったので、とっても嬉しい。
残念なことに葵ちゃんとは高校に入って塾が別になってしまった
のだ。おかげで今までのように定期的に会うことがなくなってしま
った。私の心のオアシスだったのに。
でもメールや電話でまめに連絡を取っているので、この友情はず
っと続くと思っている。逃がしませんよ、葵ちゃん!
葵ちゃんとやってきたのは、ケーキが評判のカフェ。確かに種類
が豊富だ。
バナナのタルトおいしそうだな。でも紅茶のシフォンケーキも捨
てがたい。ロールケーキはお土産で買って帰ればいいかな。
あれこれと悩んで、結局ミルクショコラケーキにした。あ∼、ケ
ーキはひとを幸せにするねぇ。
﹁葵ちゃん、春休みに会った頃よりも顔色が良くなっていますわね。
良かった﹂
﹁うん、ありがとう﹂
受験勉強でやつれていた葵ちゃんも今はすっかり元通りになって、
入試直前にはげっそりしていた頬もふっくらしている。
﹁高校は慣れた?﹂
﹁入学直後にいきなりテストがあったの。せっかく受験勉強から解
放されたと思ったのに﹂
﹁へぇ∼﹂
466
さすがは進学校だなぁ。
﹁でもしばらくは勉強はいいや。部活に入ろうかなって思ってて、
今いろいろ見学してるんだ﹂
部活かぁ。中等科では結局帰宅部だったな。私もなにか入ってみ
ようかな。そしたら新しい出会いがあるかもしれないし!
﹁どうせなら運動部がいいと思ってるんだ。バレーとかバドミント
ンとか。私、中学の時はバスケ部だったから﹂
運動部か。体を動かすのもいいな。なにより痩せるし。
﹁私も入ってみようかしら。運動部﹂
﹁麗華ちゃんが?うん、いいと思うよ!そうだなぁ、麗華ちゃんな
らテニス部が似合いそう!﹂
﹁テニス部以外でお願いします﹂
テニス部にだけは絶対に入りたくない。全くの初心者なのに、な
んとなく最初からやたら上手いと誤解されそうな気が凄くするし。
これはあれだ。翼という名前の男の子が、サッカー部で過剰な期
待をされるのと同じだ。
高確率で夫人というあだ名を付けられそうで怖い⋮。
﹁私も今度、見学に行ってみますわ。ただどんな部活があるか詳し
くは知らないの。一応部活の一覧表はもらったんですけどね﹂
﹁そうだね。実際自分の目で見てみないとわからないもんね﹂
葵ちゃんは楽しそうに笑いながら、紅茶のシフォンケーキを一口
467
食べた。
やっぱり、紅茶のシフォンケーキもおいしそうだな。もうひとつ
頼んでしまおうか⋮。
﹁葵ちゃん、受験勉強が終わって毎日楽しそうね。良かった﹂
﹁うーん⋮、悩みはあるよ。学校関係じゃなく、家のことで﹂
﹁家?﹂
﹁うん。お兄ちゃんが突然ギターに目覚めて、毎日家族の迷惑を顧
みずにベンベンベンベンかき鳴らしてるの。うるさくってしょうが
ない﹂
﹁あらら﹂
﹁しかも最近は歌まで歌い始めて、もう最悪。ベベンベンベンあ∼
あ∼あ∼って、下手なギターと奇声がご近所中に響き渡ってるの。
この前ね、お母さんがお宅のお兄さんギター上手いわねぇって言わ
れたんだって。これ完全に嫌味でしょ!﹂
温和な葵ちゃんが珍しく声を荒げている。
﹁ちなみにふたりいるお兄様方のうち、どちら?﹂
﹁⋮筋肉﹂
筋肉でギター。火山のふもとで歌っちゃう系かな?
﹁本当にもういい加減にしてほしい。恥ずかしくて外歩けない﹂
﹁大変ねぇ﹂
うん、と葵ちゃんが頷いて大きなため息をついた。
でも葵ちゃんには悪いけど、その筋肉お兄さん、一度お会いした
い。
468
﹁私、一度そのお兄様に⋮﹂
﹁ダメ﹂
そうですか。
﹁ごめんね、変な話をして。筋肉の話はもういいよ。麗華ちゃんは
学校どう?﹂
﹁そうねぇ。私、周りから近寄りがたいと思われているみたい。特
に男子が﹂
﹁確か前にもそんなこと言ってたよね?あの時は補習の時だっけ﹂
﹁あぁ、ありましたわね。さすがにあの時よりはいいですけど﹂
あの時の補習は、結局最後まで無人島生活だったもんなぁ。
﹁やっぱり私、意地悪顔なのかしら。なんかね、怯えたように目を
逸らす子もいるのよ?﹂
﹁え⋮。でも、仲のいい友達もいるんでしょ?それにほら、男子だ
って同じ塾の友達がいるって﹂
﹁ええ、まぁ﹂
秋澤君か。
﹁その男の子に頼んで、麗華ちゃんの良いところをみんなに広めて
もらったら?それに女子の友達にも頼んで。そしたら麗華ちゃん、
友達いっぱいできるかも﹂
﹁それって自作自演ぽくない?バレた時、死にたくなるほど恥ずか
しいと思う。それにまず、私の良いところを広めてって頼むのが恥
ずかしくてできないわ﹂
﹁まぁねぇ⋮﹂
469
そこまで追い込まれているとは思いたくない。
﹁だったらやっぱり部活だよ!きっと新しい友達も出来るよ!﹂
﹁そうね。さっそく今度見学に行ってみるわ!﹂
そうだ。部活に入れば新しい友達も出来て、もしかしたら素敵な
先輩とのラブロマンスもあるかもしれない!
なんの部活に入ろうかなぁ。
私が部活に入ろうか考えているという噂を聞いて、テニス部が勧
誘に来た。だからテニス部だけはムリ。 テニポン部ってなに。それもテニスでしょ。しかもマイナーすぎ
る。瑞鸞にそんな部あったんだ。
テーブルテニス?むしろはっきり卓球と言ってくれ。おのれの部
活に自信を持て。
そんなに私にラケットを握らせたいなら、折衷案でバドミントン
なんてどうだろう。葵ちゃんも入ろうかなって言ってたし。前世で
子供の頃友達とよくやって楽しかったし。うん、いいかも。
気楽な気持ちでバド部を見学に行ったら、シャトルの速さに戦い
た。これはダメだ。当たったら凄く痛い。それにかなり激しい走り
込みがあるらしい。う∼ん、走るのはちょっと⋮。私、走ると口の
中で血の味がするときがあるんだもん。走るのに向いていないと思
うんだよね。
友達を誘っていろいろな運動部を見学して回ったけど、その厳し
さにどんどん心が離れて行った。
﹁せっかく見学に付き合ってもらったけど、私には無理そうだわ。
ごめんなさいね﹂と友達に謝ったら、みんながそうだろうなという
顔をした。すみません。
470
あまりの自分の軟弱さに、私がちょっと落ち込んで歩いていたら、
偶然出会った委員長に文芸部に誘われた。委員長、あんたはまだポ
エムを書いていたのか。
ポエムはともかく、文化部のほうが私には合っているかもしれな
い。優しい友達が出来るかも。明日は文化部を見学して回ろうかな。
そうだ、そうしよう。
結局、私がのんびり楽しそうでいいなと惹かれた料理部や手芸部
は、私が見学に行ったらやたら緊張されてしまったので、遠慮する
ことにした。
編みぐるみ、作ってみたかったんだけどな⋮。
部活のハードルって高いなぁ。 471
77
今日は香澄様に誘われて、ピヴォワーヌ専用席でランチ。最近、
ちょっと甘いものばかり食べすぎている気がしないでもないので、
ヘルシーな春野菜とベーコンのパスタにしておく。
﹁この前はクラスのランチ懇親会を企画したんですってね﹂
香澄様が悪戯っぽい目で聞いてきた。
これはきっと友柄先輩から、私が香澄様の名前を出してお願いし
たことを聞いてるな∼。
﹁ええ。食堂や生徒会長からも快い返事をいただけまして。楽しく
みんなで食事をすることが出来ましたわ﹂
﹁まぁ﹂
香澄様がふふっと笑った。
すると私達の会話を聞いたほかのメンバーが、話に加わってきた。
﹁生徒会にわざわざ話を通す必要はなかったのでは?それではまる
で、あちらが上みたいに思われるわ﹂
﹁そうだな。あくまでも瑞鸞ではピヴォワーヌが最上位なのだから﹂
ありゃ∼。面倒くさい話になってきたな。
ピヴォワーヌ至上主義の方々は生徒会を毛嫌いしているから。
香澄様が気まずそうに下を向いた。その生徒会の長と付き合って
るなんて、これじゃ絶対言えないだろうなぁ。
中等科ではそこまでではなかったピヴォワーヌと生徒会の確執が、
472
高等科ではずいぶん激しくなっていた。
生徒会の持つ権力が、高等科の方が大きいせいもあるのだろう。
まぁ今の生徒会長なら、全面対決なんてことにはならないだろうけ
ど⋮。
﹁私は新入生ですし、スムーズに事が運ぶように、生徒会にも事前
連絡をしておいたほうがいいかと思ったのです。でももし私の行動
が不快にさせたのでしたら、申し訳ありませんでしたわ⋮﹂
﹁あ、いやっ、麗華さんは悪くないよ。すまないね、気にしないで
いいよ﹂
哀しそうな顔でか弱い私を演出してみたら、わりとすぐに折れて
くれた。うへへ。
この話はそこで終わり、その後の食事はなごやかに進んだ。鏑木
と円城も時々会話に参加した。ふたりは部活には入らないそうだ。
運動部からの相当な勧誘があったみたいだけど。
﹁麗華様はどこか入りたい部があったの?前に見学に行ったと聞い
たけど﹂
﹁ええ。でもまだ決めかねていて⋮﹂
本当は文化部で入りたい部はいくつかあったけどね。そのどれも
が部員がおとなしそうな子達ばかりで、突然の猛獣登場に怯えるう
さぎちゃん達みたいだったんだもん。あれは絶対歓迎していない。
﹁茶道部や華道部はどう?﹂
﹁小さい頃から教えていただいている先生がいらっしゃるので、わ
ざわざ部活に入りたいとは思いませんの﹂
﹁そう。ほかに希望はあるの?﹂
﹁最初は運動部を希望していたんですけど⋮﹂
473
その瞬間、鏑木と円城がちらっとこちらを見た気がした。なんだ
よ、私が運動部希望じゃおかしいかよ。
私は遠足の山登りでは、いつもあまり芳しい成績ではないけれど、
体育の成績は人並みだ!体育祭ではそこそこ活躍しているじゃない
か!
私は別に運動神経が悪いわけじゃない。ただ根性がないだけだ。
﹁瑞鸞の運動部はわりと練習がきついと聞くわよ。麗華様にはつら
いのではないかしら﹂
﹁ええ。見学して無理そうだと思いましたわ﹂
鏑木と円城が小さく噴き出すのが聞こえた。ムカッ。
﹁あれ∼、こっちの席空いてるよ∼﹂
その時、若葉ちゃんがお弁当を抱えながらこちらにやってきた。
うそっ、なんで?!
お昼休みになってからずいぶん経っていたので油断していた。授
業が押してたのか?!
プレート!ピヴォワーヌ専用席のプレートは?!ないっ!誰だ、
どかしたのはっ!
そのまま無邪気な笑顔でやってきた若葉ちゃんに、ピヴォワーヌ
の先輩方の空気が厳しくなった。これはまずい⋮。至上主義の先輩
方が今にも怒りそうな雰囲気だ。
﹁あ、あのっ、こちらの席は私達の専用の席なので、一般の生徒は
座れないのよ?﹂
私は思わず立ち上がって、若葉ちゃんに注意した。
474
若葉ちゃんはきょとんとした顔で私と目を合わせた。そして自分
の後に続いてこない友達を振り返り、その友達の顔色を見て、自分
の行動がまずかったのを悟ったみたいだった。
﹁すみませんっ。私気づかなくて。申し訳ありませんでしたっ﹂
若葉ちゃんは思いっきり頭を下げて、大急ぎで友達の元に戻って
行った。セーフ!
﹁なんだ今のは。外部から入ってきた新入生か。後で名前を調べて
正式に注意しよう。示しがつかない﹂
﹁あの子、あまり瑞鸞の生徒っぽくないわね。もしかして特待生枠
なんじゃないかしら﹂
﹁それなら余計に問題だな﹂
げげっ!
﹁あのっ、なにもそこまでしなくても。きっとまだ慣れていないの
ですわ。今回は大目にみてはいかがでしょう?﹂
﹁しかし⋮﹂
﹁もちろんこのままというわけにはいきませんから、私から彼女の
クラスの、クラス委員を通じて注意をしておきますわ。その時にピ
ヴォワーヌのこともしっかり教えますわ。ね、お願いします﹂
﹁⋮では今回だけは麗華さんに免じてということで﹂
﹁⋮そうね。麗華さんがそこまで言うなら﹂
﹁まぁ、ありがとうございます!﹂
怖い∼っ。ピヴォワーヌ、怖い∼。
たかが席に座りそうになったくらいで、そこまで怒るなよ∼。
それと若葉ちゃん、迂闊すぎ。一緒にいた友達はしっかり気づい
475
ていたのに。友達も教えてやれよ。青ざめて突っ立ってる場合じゃ
ないよ。
そして今の小さな騒ぎの間も、鏑木と円城は全く気にせず普通に
食事を続けていた⋮⋮。
でもこれって、君ドルで吉祥院麗華が﹁身の程知らず!﹂って若
葉ちゃんを怒鳴っておおごとにする、あのシーンだよね?
マンガでは食堂が静まりかえり、若葉ちゃんが入学早々悪い意味
で注目される、一番最初のトラブルだったけど。
一応、回避したってことなのかな?つい衝動的に立ち上がって注
意しちゃったけどさぁ。だってあのままじゃ、物凄く厄介な展開に
なりそうだったんだもん。
あぁ、でも本当にマンガと同じことが起きるんだ⋮。うっ、なん
だか胃が痛くなってきた。
でもパスタはしっかり食べるよ。春野菜は体にいいからね。
若葉ちゃんのクラスのクラス委員には食堂での話をして、それと
なくピヴォワーヌへの注意事項を教えてあげるようにお願いした。
いっそピヴォワーヌ対策マニュアルでもあるといいんだけど。友
柄先輩に相談してみようかな⋮。
476
78
今年の遠足は鎌倉だ。
場所を聞いて、とうとう都会だ!山登りとはおさらばだ!と喜ん
だのもつかの間、やっぱりハイキングだった。鎌倉にもハイキング
コースなんてあったのね⋮。
しかしまぁ、それは多少は覚悟していたからいい。問題は昼食だ。
午前中いっぱいかけてハイキングをした後は、鎌倉のホテルに戻
って宴会場を貸し切っての学年全員での昼食会だ。海の幸をふんだ
んに使った料理が出るらしい。それはいい。問題はそのあとだ。
その昼食時に、外部生がクラスごとに余興をやるのが瑞鸞高等科
の毎年の恒例なのだ。一種の洗礼みたいなものだね。
しかし余興!約300人の前でやる余興って、どんだけきつい罰
ゲームだよ。
余興の話を聞いて、私のクラスの外部生達は真っ青になった。そ
りゃそうだろうなぁ。
過去の余興例をリサーチしてきたところ、ほとんどが合唱や合奏、
、時々ダンスや手品、変わったものだと全員で和歌や俳句を詠むと
いったものがあったらしい。
その話を聞いてから、外部生達は休み時間のたびに固まって話し
合いをしている。まずはなにをするかを決めるところからだもんね。
﹁適当に歌を歌って終わりでいいんじゃない?﹂
﹁何を歌うの?この人数で大勢いるホールに響き渡るほどの歌声が
出るかしら﹂
﹁手品こそ見えないのでは?﹂
う∼ん、あまり決まっていなさそう。
477
クラス委員である私と佐富君は、彼らに声をかけた。
﹁どうかしら?何をやるか決まりまして?﹂
外部生達は困った顔で首を横にふった。
﹁毎年、ほとんどの方々が歌や楽器演奏のようですよ﹂
﹁合奏は遠足に楽器を持っていくのが大変で⋮﹂
﹁ピアノとギターくらいは貸していただけるそうだけど。あとはマ
イクもあるし、スクリーンもあるから、手品のような細かいことも
出来るみたいですわ﹂
﹁そうなんですか!﹂
選択肢が広がったようだ。
﹁ちなみに今までで一番盛り上がった余興ってなんですか?﹂
誰も寝て
だそうよ。瑞鸞の三大テノールと呼ばれて拍手喝采だっ
﹁私が聞いた話では、声楽に自信のある生徒が熱唱した
はならぬ
たとか。あまりの評判に、その後の年からミニオペラをやる方々も
増えたんですって﹂
﹁オペラ⋮﹂
﹁三大テノール⋮。でも独唱の場合、ほかの生徒達はどうしてたん
ですか?﹂
﹁照明や音響係をやったみたい﹂
﹁全員でやらなくても、ひとりが芸を披露するというパターンでも
いいんですね﹂
﹁でもそれで、誰か一人に押し付けるようなことになるのは良くな
いので、基本は全員ですわね。その中に一芸に秀でた方がいらっし
ゃる場合のみということだわ﹂
﹁一芸⋮﹂
478
外部生達は顔を見合わせた。どうやらこのクラスの外部生には、
残念ながらそういった芸達者な生徒はいないようだ。全員が少しが
っかりとした顔をしていた。
﹁ダンスも人気らしいけど、ハイキングの疲れがどれくらい残って
いるかで、出来が変わるらしいよ﹂
佐富君もアドバイスをした。
確かにな∼。私だったら散々歩いた後にコサックダンスなんて踊
れない。
﹁ダンスといっても本格的なものから、ピアノの伴奏に合わせてワ
ルツを踊るようなものまで、いろいろあるけど﹂
﹁俺、ワルツなんて踊ったことない⋮⋮﹂
﹁俺も⋮。ダンスなんて精々フォークダンスくらいしか⋮﹂
フォークダンスか。余興でオクラホマミキサーとか、ちょっと笑
っちゃうかも。あ、マイムマイムのほうが盛り上がるかもよ?
全員一致でフォークダンスは却下になった。
そして散々悩んだ結果、無難な合唱に決定した。
さっそく放課後を使っての練習になったが、ほかのクラスも考え
ることはほとんど同じなので、ピアノの奪い合いだ。合唱にしろ合
奏にしろ、ピアノはなにかと重宝するね。
高等科の音楽室だけでは足りないので、私は学院に掛け合って中
等科の音楽室の使用許可をもらってきた。
﹁凄いですね。中等科の音楽室まで借りてこられるなんて。あの、
479
それもやっぱりピヴォワーヌの力、なのでしょうか?﹂
外部生の女子が遠慮がちに聞いてきた。
うーん、どうだろうなぁ。ただ私は先生方に、この私にクラス委
員を引き受けさせたんだから、これくらい融通してくれますよねぇ
?という空気を出して、お願いしただけだ。うん、あくまでもお願
いだ。
﹁学院が生徒達に協力的だったってことじゃないかしら?﹂
私はにっこり微笑んだ。
そんな疑わしい目で見ないで∼。
合唱曲は、私はゴスペルを推したんだけど﹁声量がないので無理
です⋮﹂と断られてしまった。そうかな∼、瑞鸞の三大テノールの
例もあるし、頑張れば出せるんじゃない?きっと受けると思ったん
だけど。
結局、これまた無難な曲目に決まってしまった。まぁ私も好きな
曲だからいいけど。
外部生達に音楽室の鍵の管理をしっかりお願いして、私はピヴォ
ワーヌのサロンに向かった。一応帰る時にもう一度様子を見に行っ
ておこう。
そしてその途中の廊下で、桂木少年に出会った。
﹁あっ!なんでお前が中等科にいるんだよ!﹂
私は廊下の前後左右を確認した。ふむ、誰もいないな。よし。
﹁痛ってーっ!﹂
480
私は先輩への口の利き方のなっていない後輩を、梅干しの刑に処
した。
手加減なしで思いっきりやったから、さぞや痛かったであろう。
身長が同じくらいなので、すぐに引き剥がされてしまったが。
﹁なにすんだ!この暴力女!﹂
﹁先輩に対してその口の利き方はなんですの?可哀想に、少しおつ
むが悪くていらっしゃるのね。では今日から貴方のことを鳥男君と
呼びましょう。アホウドリの鳥男君です﹂
﹁ふざけんな!﹂
﹁あら、お気に召しません?では礼儀をきちんと身に着けたら、人
間に昇格させてあげますわ。それではごきげんよう、鳥男君﹂
ホッホッホッと笑ってそのまま行き過ぎようとしたら、アホウド
リの鳥男君が﹁円城さんはお前なんか相手にしないんだからな!﹂
という、すっとぼけたことを叫んだので、引き返した。
﹁な、なんだよ﹂
鳥男が上半身のガードを固めたので、私は脛を蹴った。
﹁痛ってーー!!﹂
そうだろう、痛いだろう。弁慶すら泣くくらいだからな。
﹁本当に頭の悪い鳥ですわねぇ。心配しなくても、私は円城様にな
んの感情も抱いておりませんわ。貴方の恋の邪魔はいたしませんよ。
同性愛は世間ではまだまだ理解されにくいようですが、まぁ想うの
は自由ですからね。精々お頑張りあそばせ﹂
﹁ち、違っ﹂
481
おほほほほ、聞こえませーん。
私はそのまま残念なおつむの後輩を放置してその場を去った。
その後各クラスでも、連日外部生達が余興の練習に励んでいた。
一度廊下で、若葉ちゃんが妙な布をかぶって走る姿を目撃したけ
ど、えっ、まさかの仮装大賞?!
482
79
遠足当日の朝の天気は快晴。しっかり食べて、いざ出発。
毎年恒例のつらい遠足だけど、今年の私は少し違う。疲れない歩
き方というのを教えてもらったのだ!
私はいつも、少しでも前に進みたいと歩幅を大きくとっていた。
しかし山登りやハイキングでは歩幅を小さくするのが疲れないコツ
だったのだ!
そんなの先に教えておいてくれよ!毎年私がどれだけ苦しい思い
をしていたか⋮。
歩き方のコツのほかに、久々にステッパーを引っ張り出して足も
鍛えてきた。もうあんなぐだぐだな私とはおさらばだ!
まぁ結論から言えば相変わらずの後方グループだったけど、それ
でもハイキングコースが今までより難易度が低かったのか、わりと
楽しく歩けた。小さい歩幅とステッパーも効いていたと思う。
毎年これくらいの余裕が欲しいものだなぁ。親切な私は、ぐだぐ
だ仲間達にもしっかり小さい歩幅を伝授した。
でもさ、本当は私達より軟弱で運動神経の悪い子達もいるんだよ
?ただそういう子達はすぐにリタイアして、別ルートで車移動させ
てもらったり、麓でのんびりお茶でも飲んで待っていたりするのだ。
それってちょっとずるくない?
本当は私だってリタイアしたい!でも小心者の私はリタイアのタ
イミングがわからないのだ。そしていつもタイミングを見つけられ
ないまま、ずるずると登るはめになっていた。貧血でも起こせばリ
タイアできるのに、歩いているぶん妙に血行が良くなっちゃって、
こんな時に限って立ちくらみも起こしやしない。
今回も何人かリタイア組がいて、優雅な車移動をしていた。その
483
中には私達のグループの子も数人いたりするけど。たとえば私と同
はぎのこうじ ふゆこ
じピヴォワーヌメンバーである、麿眉が似合いそうな平安御公家顔
の萩小路芙由子様とかね。
芙由子様は私達のグループが最大派閥だから所属しているけど、
だけど、芙由子様は
和
だ。洋服より十二
ちょっと毛色が違うんだよなぁ。顔のせいもあるのかもしれないけ
和風
ど、浮世離れしているというか⋮。
桜ちゃんは
単が似合いそう。
﹁麗華様、ほら海が見えますわ﹂
﹁本当。きれいねぇ﹂
おしゃべりをする余裕もある今年の私。素晴らしい。毎年これく
らいの余裕があればいいんだけどなぁ。
っていうか、遠足の行先が山にならなければそもそも問題ないん
だけど。今年だってせっかく場所が鎌倉なら、銭を洗ったりわらび
餅食べたりプリン食べたりしたかったよ。
今度誰かと一緒に観光で来たいなぁ・
ハイキングが終わって昼食のためにホテルに着くと、まず制服に
着替えだ。
あぁやっとジャージが脱げる。私はジャージが似合わない。出来
れば外ではあまり着ていたくないのだ。
身だしなみを整え昼食を食べるホールに入ると、クラスごとに席
が設けられていた。メニューは海の幸がメインのコース料理。運動
したあとは食事が進むわぁ。お、この鎌倉野菜の冷製スープおいし
い。
しかしふと見ると外部生達は食事そっちのけで、頭を寄せ合って
いる。そうか、これから余興をしないといけないから、それどころ
484
じゃないのか。本当に大変だ。
メイン料理が終わった頃から、1組からの余興が始まった。
やはり定番の合唱だったけど、トップバッターだったのもあり、
少し声が震えていた。そりゃそうだろうな。私、心の底から外部生
じゃなくて良かったよ⋮。
その後は合奏や手品もあった。私達のクラスの子達もピアノのほ
かにタンバリンなどを持って、頑張って歌っていた。練習した甲斐
もあり、身内びいきじゃないけど上手だったと思うよ。
合奏組ではひとり、髪を振り乱しながらバイオリンを演奏してい
た男子がいたけど、彼は入学する学校を間違えたのではないかしら?
そして若葉ちゃんのクラスの番がやってきた。
若葉ちゃんのクラスは、江の島に伝わる伝説﹃天女と五頭龍﹄の
寸劇をやった。
この話は、昔、鎌倉の湖に棲む五つの頭を持つ恐ろしい龍が、天
変地異を引き起こし、子供達を生贄に取り、村人達を苦しめていた
が、ある時天女が舞い降りて、そのあまりの美しさに龍が求婚をす
ると、悪行を重ねる龍に嫁ぐことはできないと断られ、改心して善
龍になるという内容だ。
五頭龍役の男子は龍のお面を被り、黒の布を体に巻いて龍を演出。
天女役の女子も頭に冠を被って白い布を纏ってそれらしくしていた。
ほかの生徒もナレーションや村人や子供の役をやっていた。
若葉ちゃんは長い棒に括りつけられた青い布を動かしての、海の
役だった。
﹁ざざーん、ざざーん﹂と若葉ちゃんは、荒れ狂う海、凪いだ海を
青い布を動かして熱演していた。
⋮⋮いや、若葉ちゃん、素晴らしいよ、輝いてるよ。誰も見てい
ないのに、パタパタパタパタと布を細かく動かし続けるその生真面
目さ。時々疲れた腕を片方ずつ下ろして振りつつも、最後まで海役
485
をやり通した若葉ちゃん、さすがだよ。
もしかして若葉ちゃん、すでに苛められてるのかな?って勘繰っ
ちゃったけど、江の島役の子もいたから、ただの私の杞憂のようだ。
島よりは海のほうが、まだいいよね?
私達のクラスの外部生達が、余興が終わると私と佐富君の元にお
礼にやってきた。
﹁いろいろ助けてもらってありがとうございました﹂
﹁ありがとうございました、麗華様﹂
私は場所を確保してあげたくらいだけど、佐富君は一緒に練習に
参加して、タンバリンやマラカスも借りられるから使った方がいい
などのアドバイスをしてあげていたらしい。佐富君は面倒見がいい
んだな。
﹁とても上手でしたわ。練習の成果が出ていましたわね﹂
外部生達は嬉しそうな顔をしていた。今回のことで、彼らには仲
間意識が芽生えたようだ。でもあまり外部生達だけでくっついてる
のは良くないので、程々にね。
今年の余興大賞は寸劇をやった若葉ちゃんのクラスだった。
賞品に全員分の学食の食事券が贈られた。若葉ちゃんは目を輝か
せていた。うちの学食は高いから、庶民にはなかなか手が出ないも
んね。良かったね。若葉ちゃんにおすすめメニューを教えてあげた
いなぁ。
いこま
この余興以来、私は生駒さんというひとりの外部生の子とも仲良
くなれた。
486
友達ひとりゲット?
ただ生駒さんは、私のことを妙に憧れの目で見てくるのがちょっ
と困る。頭の中で勝手なイメージを作り上げないでねー。
キラキラした目で尊敬してくれる生駒さん。小心者の私は、生駒
さんの期待を裏切らない為に、彼女の前ではなるべくボロを出さな
いように心がけようと思った。
生駒さん、そんなに私のこの髪型が気に入ったのなら、貴女も一
緒に巻いてみませんか?
487
80
遠足が終われば、その後にやってくるのが中間テストだ。
優秀な外部生達が大勢入ってきたので、私もさらに気合を入れて
試験勉強しないと。
実は少しのんびりしようと、高校用の塾にまだ入っていないので、
家庭教師オンリーなのだ。テスト前は回数を増やしてもらうことに
した。
﹁麗華さんはどうしても、数学が少し苦手なようですね。問題集を
繰り返しやっていけば、弱点も克服していけると思いますから、頑
張ってね﹂
﹁はい﹂
その繰り返しが出来ないんだよなぁ。だって嫌いなんだもん⋮。
さすが
でもやらないと、またもや補習に呼ばれてしまうかもしれない。
と持て囃される今の状況を手放したくない!
あの孤独な日々は絶対に嫌だ。そして本当は小物のくせに
麗華様
このくだらないプライドのために、私は今日もせっせと理解不能
な公式と戦う。
私は今回、栄養ドリンクに手を出した。一日7時間睡眠が基本の
私は、それ以下の睡眠が続くと、途端に眠くなってふらふらしてし
まうので。
しかしいきなり、箱に入った1本千円以上するような大物には怖
くて手が出せない。これは最後の砦な気がするから。
とりあえず3本パックになっているポピュラーなものを買ってみ
た。
488
あ、この味久しぶり。前世では時々飲んでたもんなぁ。
効いてるのか効いてないのか、いまひとつわからないけど、なん
となく栄養ドリンクを飲んで試験勉強を頑張る自分っていうのが、
気に入った。
私がゴミ箱に栄養ドリンクの瓶を捨てているのを見て、お母様が
﹁女の子がそんなに頑張らなくていいのよ﹂と心配してきたけど。
お母様には恐ろしく高い美容ドリンクをたくさん渡されたので、こ
れも飲む。
さぁどこからでもかかってこい!中間テスト!
栄養ドリンクを飲んで頑張った中間テストは、うん、まぁ私だし
ね⋮。
お母様にはテストが終わるとエステとヘアサロンに連れて行かれ
た。お母様は本当に私の外見にこだわりがあるなぁ。お母様は自分
が考えるお嬢様像というものがしっかりあるんだろうな。ゴスロリ
とかじゃなくて良かったけど。
そして突如現れた白髪も、今は元通りの黒髪だ。二度とあんな悲
劇を繰り返さないためにも、あれから毎回念入りにヘッドスパをし
てもらっている。
そんなエステとトリートメントで、私の肌も髪もぴかぴかになっ
た数日後、中間テストの結果は貼り出された。
高等科では貼り出される順位は30位までだ。約300人の中の
30人って、絶対私には無理だな。
⋮⋮無理だなと言いつつも、心のどこかでもしかしたら?と期待
してしまうのはなぜでしょう。
いつも通り私なんてとてもとてもという顔をしながら、掲示板を
見に行く。
ドキドキしながら上から見ていったけど、うん、やっぱりないね。
489
しかし知らない名前が多いなぁ。これってきっと外部生達だよね。
さすがだ。
そんな中、燦然と輝くのは
1位 鏑木雅哉
2位 円城秀介
凄すぎる。合計点数もほぼ満点に近いし。いったいどんな頭の中
身してんだ。羨ましい。私達の学年において、1位2位は中等科か
ら揺るがないなー。このふたりの間で順位が入れ替わる事はよくあ
るけど。
そして1位2位は鏑木と円城だったが、3位がなんと若葉ちゃん
だった!しかもふたりの点数に肉薄する勢いで。これってヘタした
ら次回の期末では首位に躍り出ちゃうんじゃないの?!
若葉ちゃんはいつものようにちょっと毛先がはねた状態で、ボー
ッと掲示板を見ていた。とても頭が良さそうには見えない⋮。若葉
ちゃんっ、口開いてる!おバカっぽく見えるから口閉じて!
ほかの生徒達も高道若葉って誰だ?と噂をしていて、その本人を
見るとまさかあれが?!と驚いていた。若葉ちゃんは能ある鷹は爪
を隠すを体現しているね。
外部生の名前が多い順位表の中で、同志当て馬は5位に食い込ん
でいた。凄いぞ!私は同じ当て馬仲間として鼻が高い!
若葉ちゃんは自分の名前を見つけたのか、ホッとしたような顔を
していた。特待生にとっては成績は死活問題だもんねぇ。おめでと
う。
そこへ鏑木と円城がやってきた。普段は順位表なんてほとんど気
にしていないのに、やっぱり入学して一番最初の順位には関心があ
るのかな?
ふたりがやってくると順位表に群がっていた生徒達が一斉に左右
490
にわれた。
自分達の名前があるであろう上位だけを見て、鏑木がボソッと言
った。
﹁3位の高道若葉って誰﹂
鏑木のその声を周囲の生徒達が聞き取り、﹁あの女みたいです﹂
とご注進していた。
鏑木は若葉ちゃんを一瞥すると、そのまま円城と共に掲示板から
去って行った。無表情な鏑木とは逆に、円城はちょっと面白そうな
顔をしていたけど。
すると生徒達が先程までとは違ったざわつきをし始めた。なにや
ら少し不穏な空気。そして聞こえてきた言葉は﹁生意気﹂だった⋮。
表だって若葉ちゃんを攻撃する生徒はいないけど、一部の生徒達
は鏑木と円城の順位を脅かした若葉ちゃんが気に食わないようだ。
しかもその子がおよそ瑞鸞にはいないタイプの庶民的な生徒だった
ので、余計に癇に障るらしい。
そんなこと言ったってねー。若葉ちゃんの場合、特待生だから結
果残さないといけないんだし。それにふたりの順位を脅かすってい
うなら、中等科でずっと3位だった同志当て馬はどうなのよ。
それを聞いたら友達がみんな﹁水崎君はいいんです﹂と言った。
なんでよ、顔か?顔がいいからか?
それだけじゃなく、同志当て馬には男女関係なく人を惹きつける
魅力があるんだと。そりゃあ生徒会長までやったくらいだもんねぇ。
だからって自分達の頭の悪さを棚に上げて、頭のいい外部生に矛
先向けるなよ。
﹁厳しい受験に勝って入学してきた外部生達ですから、頭がいいの
は当然でしょう?それよりも、そんな外部生達を抑えての鏑木様と
491
円城様が素晴らしいわ﹂
﹁確かにそうですわね!さすがですわ∼、皇帝と円城様!﹂
女の子達の前ではあのふたりの名前を出しておけば、ほぼ間違い
はない。途端にきゃあきゃあと楽しげな空気に変わった。
個別に配られた成績表での私の順位は73位。う∼ん、これって
喜んでいい順位なのかな?
最近の私のストレス解消。それはニードルフェルトだ。
羊毛フェルトを専用のニードルでチクチク刺していく。これが妙
に楽しい。教本を見ながら一番最初に作ったのは雪だるま。大小の
白い丸玉を作って目を付けただけなんだけど。
そしてこの趣味は、集中しすぎると目が痛くなるので気を付けな
いと。目がっ、目がぁ∼!
いつもは自分の部屋で作っているんだけど、たまにリビングでや
ったりもする。
今作っているのはとろろん芋タロウだ。茶色いフェルトを針でひ
たすらチクチクチク⋮。
夜遅くに帰ってきたお兄様にその姿を発見され、﹁相手は誰だ!﹂
と言われた。
呪いの藁人形じゃないよ⋮⋮。
あぁこの気持ちをわかってくれる手芸友達が欲しい。手芸部入り
たい⋮。空気読まずにゴリ押ししちゃおうかな。
でもそれをやったらまた、私は部室でぽつんとひとりだ。うっ、
この涙はニードルフェルトに集中していたせいだ。
492
81
高等科に上がってから、皇帝の人気はさらに高まった。特に2,
3年のお姉さま達の目が本気だ。
今まではかっこいいと騒ぎつつも、それでも相手は中学生だしと
いう気持ちがあったみたいだが、同じ高校生で、しかも外見は大人
びているので年下に見えず、なによりあの鏑木グループの御曹司だ。
そりゃ本気になるよね。
鏑木は仲の良い人間以外の前では基本無口だ。そのためボロが出
にくいみたい。沈黙は金って本当だね。
なんとなく、優理絵様の髪型を真似たお姉さま方が多い気がする
のは気のせいかしら?
そんな皇帝は、今日はサロンでシブーストを召し上がっていらっ
しゃる。
私はちょっと甘いものを食べただけですぐに太っちゃうのに、な
んで男子ってたくさんごはんを食べても太らないんだろう。羨まし
い。
皇帝は、確か前に乗馬が趣味だって噂を聞いたな。やっぱり体を
動かしているからなのかもしれない。馬術部からの勧誘は断ったみ
たいだけど、もし瑞鸞にポロ部なんてものがあったら、きっと入部
してたんじゃないかな?だって騎馬戦皇帝だし。うぷぷ。
私ももう一度水泳でも始めようかな。しかし私はなぜか潜水が出
来ない。自分としては底まで潜ってやる!って気持ちでいるのに、
すぐにぽこって浮かんでしまう。あれってなんでだろう。習いに行
ったら出来るようになるのかな。
それからもボーッとくだらないことを考えていたら、3年の男子
の先輩がやってきた。
493
﹁麗華さん、なにか悩みごとでもあるのかい?難しい顔をして考え
ごとをしていたみたいだけど﹂
考えごと?私もシブーストを食べたいなとか、早く帰ってニード
ルフェルトをやりたいなとか、そんなことしか考えてなかったけど?
﹁いえ、たいしたことでは。今度のお花のお稽古の時に生けるテー
マを考えていただけですわ﹂
﹁あぁ麗華さんは華道が趣味なんだね。ぜひ麗華さんの作品を見て
みたいなぁ﹂
﹁そんな。あまりに拙いものですから、とてもお見せできませんわ﹂
う∼ん。私も高校生になってから、近づいてくる男の人がちらほ
ら出てきたなぁ。私宛のパーティーの招待状も増えているし。なる
べく断ってもらうようにしてるけどさ。
私は恋はしたいけど、利害目的で近づいてくる人は嫌なんだよね
ー。
その後集まってきた何人かの方々と、華道の流派について語りあ
った。
桜ちゃんを初めてうちに招待した。
百合宮女学園のお嬢様ということで、お母様の覚えもめでたい。
ちょうど出かけるところだったお兄様とも挨拶を済ませた後は、桜
ちゃんを私の部屋に連れて行った。
﹁さすがは吉祥院家ねー。百合宮でもこれだけの大きな家の子は少
494
ないわ。しかもあの吉祥院家の御曹司とも会っちゃったし。先輩方
に自慢できるかも﹂
桜ちゃんは私の部屋に入ると、先程までの巨大な猫の皮を脱ぎ捨
てた。
私は桜ちゃんがお土産に持ってきてくれた老舗フルーツ店のゼリ
ーと、冷たいお茶をテーブルに置いた。
﹁お兄様?﹂
﹁吉祥院家の御曹司といえば、今お嬢様達の間で結婚相手として大
本命にあげられてる方じゃない﹂
﹁ふうん、そうなの﹂
やだなぁ。打算的な人がお兄様のお嫁さんになるのは。お兄様に
は幸せな結婚をしてもらいたいね。
まぁお兄様なら変な人に引っかかることはないと思うけど。
﹁あ、このキウイのゼリー、おいしいわ﹂
﹁麗華は本当に甘いものが好きねぇ﹂
﹁う。実は最近、少しだけ太った気がするんだけど⋮。まだ平気か
な?﹂
﹁ヨガは続けてるの?﹂
﹁うーん。山のポーズと死体のポーズだけ?﹂
﹁立ってるのと寝てるだけじゃない﹂
だってさー、ひとりで部屋でやってると飽きちゃうんだもん。や
っぱり教室に通わないとダメね。
﹁桜ちゃんは体を動かす習い事をしてる?﹂
﹁私は小学生の時から日舞をやっているわ﹂
495
おぉっ、和風美少女にぴったりのお稽古!
﹁私、今度水泳を習おうかと思ってるんだけど﹂
﹁⋮冬になったら寒いと言ってサボる姿が目に浮かぶわ﹂
なんてことを!そして我ながら、とってもありうる!
﹁え∼っと、桜ちゃんは部活は入った?﹂
﹁吹奏楽部に入ったわ。チェロをやってみたくて﹂
﹁へ∼ぇ、吹奏楽部かぁ﹂
﹁麗華は?﹂
﹁私は手芸部に入りたかったんだけど⋮﹂
﹁手芸部⋮。またあまり麗華には似合わない部ね﹂
﹁やっぱりそう思う?手芸部の人達からもなんとなく怖がられてい
るみたいで、入部したら迷惑かなって思って⋮﹂
﹁麗華は一見完璧なお嬢様だものね。権力も持っているし。⋮そう
ね、手作りのお菓子を持って行ってみたら?きっと今までのイメー
ジを覆して、親近感を持ってくれると思うわ﹂
手作りお菓子か。確かに親近感を持ってくれるかも。
﹁ありがとう、桜ちゃん!私さっそく作ってみるわ!﹂
﹁え⋮本気?﹂
さぁなにを作ろうかなぁ。
夜帰ってきたお兄様に、学校で配る手作りのお菓子は何がいいか
を聞いたら、﹁親しくない人に手作りはやめなさい﹂と止められた。
496
﹁大体どうして突然そんなことを?﹂
﹁だって、手芸部に入りたいんだけど、あまり歓迎されていないよ
うで⋮﹂
﹁手芸ねぇ。そういえばこの前も針で刺して何か作ってたね。あれ
を部活でもやりたいの?﹂
﹁ううん。部活では編みぐるみ。家で本を見ながら作っていたんで
すけど、あまり上手くいかなくて。その内ニードルフェルトにはま
っちゃって⋮﹂
﹁だったら素直に、編みぐるみを作りたいから教えてくださいって
お願いしてみたら?﹂
﹁教えてくれるかしら⋮﹂
﹁大丈夫だよ﹂
お兄様が頭をポンポンと叩いてくれた。なんか久しぶりだなぁ。
お兄様が大丈夫って言ってくれると、本当に大丈夫だと思えるから
不思議。
よし!頑張ってみるか!
次の手芸部の活動の日、無駄に威圧感を出さないために、私はひ
とりで部室を訪ねてみた。
えっまた来たの?!って顔されちゃったけど。
﹁あの、教えていただきたいことがありまして、少しよろしいかし
ら?﹂
﹁なんでしょう?﹂
部長さんが出てきたので、私は持参したバッグから編みかけの毛
糸と編みぐるみの教本を取り出した。
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﹁実は編みぐるみを作りたくて。でも不器用で上手くできないんで
すの。ですから手芸部に入って教えていただきたかったんですけど
⋮﹂
﹁編みぐるみ?吉祥院さんが?﹂
部員さん達が驚いた顔をした。
﹁それで何を作りたかったんですか?﹂
﹁これです﹂
私は教本を差し出した。
﹁あぁこれならコツがわかれば簡単だと思いますよ。⋮⋮私で良け
れば教えますけど﹂
﹁本当ですか?!﹂
やった!最初からこうやって頼めば良かった!
私はさっそく部長さんに教えてもらって、茶色い毛糸を編み出し
た。
私は初心者で、しかも結構大きめの編みぐるみを作る予定なので、
時間もかかりそうだ。
その内ほかの部員の子達にも打ち解けてもらえて、いろいろアド
バイスももらった。
最近では手芸部に顔を出しても怯えられることもなくなって、と
っても嬉しい。
他愛もない話なんかもしちゃったりして、まったりとした時間を
過ごしている。
498
でも、いまだ手芸部の入部届の用紙は渡されていない⋮⋮。
499
82
ふんふんふ∼ん。
編みぐるみは順調に形になってきている。高い毛糸を使っている
から編んでる時の手触りがいい!これは出来上がった時に頬ずりし
たら気持ちよさそうだ。
家でも夕食後にリビングでのんびり編んだりしているので、もう
すぐ出来上がるかなぁ。
こういう手作業の趣味に没頭していると、間食が減るのも嬉しい。
人間、暇だと食べちゃうんだね。
これが完成したら、またニードルフェルトに戻ろうかな。今度は
猫を作ってみよう。
ふんふんふん。
今日も編みぐるみを持って、手芸部に通う。
﹁麗華様、ずいぶん出来上がってきましたね。これならもうすぐ完
成しますね﹂
﹁本当。可愛く仕上がってきてますね。特にこのおなか﹂
﹁ええ。家でも時間のある時に編んでいますのよ﹂
色の違う毛糸の継ぎ目は特にていねいに編んでいく。おなか部分
の丸い曲線もていねいに、ていねいに。心をこめて。
﹁これが完成したら、今度はニードルフェルトで猫を作ろうと思っ
ていますのよ。手芸部でもニードルフェルトを作っている方が何人
かいますわね﹂
500
﹁そうですね﹂
私はフェルト組ににっこり笑いかけた。
彼女達も笑ってくれた。うん、私達、とっても良い関係を築けて
いるね。
だから部長さん、早く私に入部届をください。その学生鞄の中の
クリアファイルに入っているのは知っているんですよ?
編みぐるみが終わっても、私の手芸部通いは終わりませんからね
ぇ。
一度手芸部に行く途中で、廊下ですれ違った円城に、﹁桂木が吉
祥院さんのことを暴力女なんて言ってたんだけど、心当たりある?﹂
と聞かれたので、﹁いいえ全く。身に覚えがありませんわ﹂と答え
ておいた。
円城は﹁そうだよねぇ。おしとやかな吉祥院さんに限ってねぇ﹂
と含んだ笑顔で言ってきたので、﹁ええ、もちろん﹂と笑い返して、
私はそのまま手芸部に向かった。
告げ口するなんて、男の風上にも置けないヤツめ⋮。今度のニー
ドルフェルトはアホウドリで決定だ。刺してやる!
そしてとうとう、編みぐるみが完成した。私はそれを持ってリビ
ングに行った。
リビングでは両親とお兄様がお茶を飲んで寛いでいた。
﹁あれ、麗華、編みぐるみが完成したの?﹂
﹁ええ、そうなんです﹂
﹁あぁ最近よく編み物をしていたな。ぬいぐるみを作っていたのか﹂
501
じゃじゃーん。
完成した編みぐるみを家族にお披露目。出来上がったのは小さな
メガネをかけた狸の編みぐるみだ。
﹁これはお父様です﹂
﹁えっ﹂
私はお父様に狸の編みぐるみを渡した。
﹁お父様に一番似ている動物で編みぐるみを作りましたの。お父様
のために編みましたのよ。受け取ってくれます?﹂
﹁これを私に?﹂
お父様は私の作った編みぐるみを両手で持って、それをジッと見
つめていた。
実は私が若葉ちゃんが入学してきた衝撃で、お父様を疑う発言を
繰り返したため、お父様がすっかり落ち込んでいるとお兄様に怒ら
れて反省したのだ。
私は自他ともに認めるお兄様っ子だけど、お父様にも小さい頃か
ら可愛がってもらっている。なので、お父様のことも好きだ。それ
に中年のおじさんが哀しそうにしている姿は、私にかなりの罪悪感
をもたらした。
だからお詫びの意味を込めて、編みぐるみを作ったのだ。
手編み物はプレゼントとしては重いと嫌われがちだけど、父娘な
ら全然平気だよね?
﹁ちゃんとメガネもかけているでしょう?お父様に似ていると思い
ません?﹂
502
私はお父様の隣に腰かけた。
﹁うん上手だね。ありがとう、麗華。とても嬉しいよ。でも麗華の
お父様のイメージは狸か。狸親父というヤツかね⋮﹂
﹁いいえ。お父様はメタボなので、そのぽっこりおなかをイメージ
したのですわ。でも狸親父ですか。そういう見方もあるのですわね
ぇ﹂
﹁⋮⋮そ、そうかい﹂
お父様はちょっとだけ複雑そうな顔で、手の中の狸の編みぐるみ
を見た。
﹁編みぐるみを作ったのは初めてだったので、少し編み目が歪にな
ってしまった部分もあるんですけど、よく見なければわからないで
しょう?私の編みぐるみ完成品第一号ですわ﹂
﹁ほぉっ!初作品が私へのプレゼントかね﹂
お父様がお兄様に向けてドヤ顔をした。
お父様、そういう顔をすると本当に悪狸に見えてしまいますよ。
﹁貴方、良かったですわね﹂
﹁うんうん。しかし麗華、お父様はそんなにおなかが出ているかな
ぁ﹂
お父様は自分のおなかをさすりつつも、ご機嫌だ。
﹁ええ、出ていますわ。メタボは健康に悪いのです。お父様はダイ
エットをすべきです﹂
﹁⋮そうかね﹂
﹁私、おなか痩せの良い方法を知っていますの。フラフープを回す
503
のですわ。私のフラフープをお父様にも貸してあげます﹂
﹁フラフープって、麗華、お前そんなものを持っていたのか﹂
﹁⋮⋮まだやっていたのか﹂
え、お兄様、今何か言いました?
﹁今から私とフラフープを回しましょう。大好きなお父様にはいつ
までも元気でいて欲しいですからね﹂
﹁おお、そうか!﹂
私の大好きという言葉に、お父様の機嫌はウナギのぼりだ。
大丈夫かな、お父様。これじゃすぐに他人に騙されてしまわない
かな。あまり他人の言葉を信用しすぎちゃダメだよ。
お父様は自分そっくりの狸の編みぐるみを抱えながら、﹁娘の部
屋に入るなんてお父様は照れちゃうなぁ﹂などと、変なことに喜ん
でいた。
やだわ、お父様。もしかして不正じゃなくてセクハラで訴えられ
るんじゃないかしら。
﹁さあ、お父様。ガンガン回してメタボ脱却ですわ!﹂
﹁よしっ!﹂
お父様は勢いよくフラフープを回した。
﹁ぎゃっ!﹂
﹁お父様?!﹂
お父様はぎっくり腰で病院に運ばれた。
504
お母様にめちゃくちゃ怒られた。
病室で、ついぽろっと﹁ごめんなさい。年寄りの冷や水でしたわ
ね﹂と言ったら、お兄様にも﹁デリケートな年代なんだから、言葉
を選べ!﹂と怒られた。
はい。反省してます⋮。
そして私のお手製の編みぐるみは今、退院したお父様によって、
書斎に大事に飾られている。
時々お父様は嬉しそうに、編みぐるみの頭を撫でているらしい。
そんなに気に入ってくれたならと、お父様がいない間に悪戯心で
こっそり、狸の編みぐるみにぎっくり腰用の杖を持たせようとした
ら、お兄様に﹁お前は本当に反省しているのか!﹂とまたも怒られ
てしまった。
もちろんですとも。これは愛情の裏返しです。
505
83
6月のある日、私は香澄様経由で放課後、友柄先輩に生徒会室に
呼び出された。なにやら秘密の匂いがするような⋮。
恐る恐る生徒会室の扉を開けると、そこには友柄先輩のほかに同
志当て馬の姿もあった。
﹁吉祥院さん、わざわざごめんね。こっちに座ってくれるかな﹂
友柄先輩は応接セットのソファに私を誘導した。席は同志当て馬
の隣だ。
同志当て馬はちらっとこちらを向いて、すぐに顔を逸らした。
私が座ると友柄先輩は向かい側のソファに座り、私達の顔を確認
するように順番に見た。
﹁実はふたりに来てもらったのは、来期の生徒会の役員をやって欲
しいからなんだ﹂
﹁は?﹂
﹁えっ?﹂
来期の生徒会の役員?!
中等科では生徒会の任期は二学期末までだったけど、高等科は一
学期末までだ。夏休み明け早々、会長と副会長を選出する選挙が行
われる。そしてそれ以外の役員は、選ばれた会長と副会長の指名だ。
ただその前に、めぼしい生徒にはあらかじめ声を掛けていると聞
く。どうやら私達はその網に引っ掛かったらしい。
506
﹁有馬は中等科で生徒会長をやっていたんだから、選ばれて当然だ
ろ。もちろんやってくれるよな?﹂
﹁ええ、まぁ、俺が引き受けるのは問題ないですけど⋮﹂
そう言って、同志当て馬が私を困惑した目で見てきた。うん、気
持ちはわかる。なんでピヴォワーヌの私がって思ってるんでしょ?
それは私も同じ気持ち。
﹁確かに吉祥院さんはピヴォワーヌだけど、初等科時代からクラス
委員を何度もやっていて、その陰日向なく働いてくれる仕事ぶりは、
俺も良く知っている。それに吉祥院さんはピヴォワーヌの中でも、
生徒会に好意的な、どちらかといえば親生徒会派だろ。だったらそ
んな吉祥院さんにぜひ来期の役員をやって欲しいんだ﹂
うわ∼っ、友柄先輩にそこまで信頼されているのはとっても嬉し
いけど、さすがにピヴォワーヌに弓を引くような真似は、怖くて出
来ないよ。そんなことしたらそれこそ破滅だ。
﹁申し訳ありません、友柄先輩。それだけはどうしてもムリですわ。
私はあくまでもピヴォワーヌのメンバーですから﹂
﹁掛け持ちもダメ?﹂
﹁二重スパイのような目で見られそうです⋮﹂
怖い。私は内部にいるからこそわかる。ピヴォワーヌを怒らせた
ら本気で怖い。ヘタしたら自主退学にまで追い込まれるって話だ。
まぁそれを助けるのが生徒会の役目なんだけどさ。
それにピヴォワーヌと生徒会は対極にあるような存在なんだから、
掛け持ちなんてしたら、それこそ矛盾した存在になってしまう。
﹁う∼ん、やっぱりダメかぁ﹂
507
友柄先輩は大きく伸びをした。
﹁俺もね、ムリかな∼ってわかってたんだけど、まぁダメ元ってヤ
ツ?もしかしたら吉祥院さんなら引き受けてくれるかもしれないっ
ていう、一縷の望みに賭けてみたんだけど。でもしょうがないよね、
ピヴォワーヌと生徒会の垣根って、中等科の時より高いもんね﹂
はい。垣根どころかマリアナ海溝なみの、深い深い溝があります。
﹁じゃあ、来期の生徒会役員は有馬だけってことで。でも吉祥院さ
ん、クラス委員として、生徒会の仕事は手伝ってやって﹂
﹁はい。私に出来ることがあれば﹂
隣の同志当て馬が、私を胡散臭そうな目で見ている。なにその目。
中等科時代に生徒会長とクラス委員として、何回か交流があったの
に。あぁでも、クラスのプリントとか生徒会への提出物を集めるの
は私で、それを届けるのは坊主君が多かったな。
もしかして、私がクラス委員の仕事を全部坊主君に押し付けてた
と思ってる?!失敬な!めちゃくちゃ働いていたっての!
なんだよ、同じ当て馬仲間なのに。そんな疑わしげな目で見てき
ちゃってさ。君は我が恋愛ぼっち村の副村長なんだぞ!
﹁なに﹂
﹁いいえ、別に﹂
友柄先輩は私達の間に漂う、およそ友好的ではない空気に苦笑い
した。
﹁有馬。吉祥院さんはいざという時に頼りになるから。ピヴォワー
508
ヌだからって偏見の目で見ない。視野を広く持てよ﹂
﹁⋮⋮でもこいつのあだ名って﹂
あだ名?!
私の高性能の耳は、同志当て馬の小さなつぶやきもキャッチした。
﹁水崎君。私のあだ名ってなんですの?﹂
﹁いや⋮、なんでもない﹂
なんでもないはずはない!私、知らない間に変なあだ名付けられ
てる?!
もしかしてそれで男子が近づいてこないのかも!?
﹁水崎君﹂
﹁俺は知らないって!﹂
﹁嘘です。人は嘘をつく時には右上を見るのですわ。今、水崎君は
右上を見ました﹂
﹁あんたはなんでそんなことを知ってんだよ!﹂
お兄様から教えてもらったんですが、なにか?
﹁とにかく俺はよく知らないっ!マッキーとかそんな感じのだよ!﹂
マッキー?もしや巻き髪だからマッキー?!
う∼ん、微妙だけど縦ロールよりは全然マシか。なんだか可愛く
ない?マッキーって。男子のみなさん、私をマッキーと呼んでもよ
くってよ!
同志当て馬は隣で目を手で隠している。そんなに嘘を見抜かれる
のが怖いか。その時点で君、隠しごとをしているのがバレバレだよ。
ほかにも変なあだ名があるんじゃないか?
509
﹁まぁまぁ、ふたりとも。有馬と吉祥院さんは、俺が1年の中でも
特に信頼している後輩なんだ。だから俺が会長をやめて、高等科を
卒業したあとも、生徒会を支えて欲しいんだ﹂
友柄先輩が間に入って止めたので、この話はそこで終わった。あ
とで追求しなければ。
それより、友柄先輩が卒業か⋮。せっかくまた同じ校舎で親しく
させてもらえてるのに、1年後にはいなくなっちゃうなんて、凄く
寂しい。
﹁あれ?吉祥院さん、どうかした?﹂
﹁いえ⋮﹂
やだなぁ。寂しいなぁ。
友柄先輩はとってもバランス感覚の良い人だ。友柄先輩が会長だ
から、ピヴォワーヌと生徒会も今は上手くやっているのに。
だいたい友柄先輩くらいだよ。私に生徒会に入らないかなんて言
ってきた、歴代の生徒会長は。普通、ピヴォワーヌなんて勧誘しな
いよ。
友柄先輩がいなくなったら、これからどうなるんだろうな。ギス
ギスするのは嫌だよ。
﹁じゃあこの話は終わり。有馬は来期の打ち合わせをするからこの
まま残って。吉祥院さんはこれで帰ってもらっていいよ。今日はあ
りがとう﹂
﹁はい。友柄先輩、水崎君もごきげんよう﹂
﹁気を付けて帰って。お疲れ様﹂
﹁⋮お疲れ﹂
510
私はそのままサロンにも寄らず、迎えの車の待つ駐車場に向かっ
た。
なーんか、気分が落ち込んじゃったなぁ。よし!今日は久しぶり
に駄菓子を食べるか!クローゼットに隠してある、ラッキーターン
を開けちゃうぞ。
次の日、私は佐富君を捕まえて、私に付けられたあだ名について
問い質した。
﹁吉祥院さんのあだ名?﹂
﹁ええ。昨日水崎君が私にはあだ名が付けられていると。そしてそ
れはマッキーだと聞きましたけど、ほかには何があるんですの?﹂
﹁マッキー?あぁ巻き髪か。いやぁ、あだ名ねぇ。今は特にないよ﹂
﹁今は?では前にはあったということですわね?なんですか?﹂
﹁え⋮あー、女神⋮とか?﹂
﹁女神?﹂
﹁いやっ、俺も詳しくは知らないから!でも今は誰もあだ名でなん
て呼んでないし!中等科の頃だよ!ちゃんと俺もフォローしておく
から!﹂
女神⋮。女神といえばアフロディーテだけど、このあだ名の生徒
はすでにいる。遠足で髪を振り乱しながらバイオリンを演奏してい
た男子だ。髪型がちょっとアフロっぽいから、男子だけどアフロデ
ィーテ。そしてそれが縮まって、今はディーテだ。
ほかに女神というと、アフロディーテの別名ヴィーナスとかアテ
ナとか?有名なのは、美と愛の女神か戦いの女神だもんね。でもギ
リシャ神話の女神はたくさんいるからなぁ。まぁ、いいか。
﹁一応それで納得しておきますわ﹂
511
佐富君はホッとした顔で友達の輪に戻って行った。
⋮⋮女神か。ヴィーナスだったらどうしよう。困っちゃうな。
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84
クリームチーズに蜂蜜をかけると、とてもおいしい。
このままで食べるのも大好きだけど、私はこれをスコーンの上に
乗せて食べる。これまたおいしい。
蜂蜜専門店で売られている希少で高価な蜂蜜も、吉祥院家では平
気で贅沢使いできるのだ。なんて素晴らしい。
今日はどの蜂蜜にしようかなぁ。ラベンダーの蜂蜜にしよっと。
小さな瓶に入ったそれを、遠慮なくクリームチーズにかける。ス
コーンと共にがぶり。あぁ至福、至福。
なかなかボリュームがあるので、ひとつでおなかいっぱい。調子
の良い時にはふたつでもぺろりなんだけどね。
しかしこの甘美な食べ物は、三日も続けて食べれば恐ろしい結果
をもたらす。主に重量的なところに。
あぁ、なんという悪魔の食べ物!
そんな悪魔の誘惑に今日も負けていた時、葵ちゃんから電話があ
った。﹁お兄ちゃんの様子がどんどんおかしくなってきている﹂と。
﹁ギターにはまってしまった筋肉のお兄さんね。まだ毎日弾いてる
の?﹂
﹁弾いてるし歌ってる⋮﹂
﹁あら∼﹂
葵ちゃんの声は暗い。
513
﹁実はね、お兄ちゃんがギターを始めたのは、好きな人が出来たか
ららしいの。で、その人に自作のラブソングで告白するんだって⋮。
毎日ね、血を分けた身内が、自分で作った気持ちの悪い愛の歌を歌
っているの。つらいよ?家族全員でやめるように言ってるんだけど
聞かないの。それにね、これがまた酷い歌詞でね。君に会ったら胸
がドッキドキ、僕の心はふっわふわ、みたいなどうしようもない歌
詞なの。もう本当にどうしようもなく恥ずかしい歌詞なの。お母さ
んはお兄ちゃんが歌いだすと耳をふさいでる。私妹として本当、情
けないよ⋮﹂
自作のラブソングか⋮。メロディがあるぶん、その羞恥心への攻
撃力はポエムの比じゃないな。
たまにテレビで好きな女の子に歌で告白なんて企画をやってるけ
ど、あれって贈られた女の子は、本当に嬉しいのかな。私なら恥ず
かしくて居たたまれないけど。
でもポエムやラブソングのプレゼントって、やらかしちゃうのは
ほとんど男の人だよね。あまり女の子で好きな人にポエムをプレゼ
ントしたって話は聞かないし。あぁ女の子は手作り系かな。
自作ラブポエムやラブソングはもしかしたら、男の人にしか感染
しない恐ろしい病なのかもしれない。怖い⋮。お兄様が感染しなく
て良かった。
でもお兄様が時々弾く、シューベルトのセレナーデはとっても素
敵!
うん、やっぱり素人が迂闊に作っちゃいけないんだな。
﹁突然歌で告白なんてされたら、驚いて逃げられてしまうんじゃな
いかしら。それに相手の女性が、そういったことが苦手な場合もあ
るし⋮﹂
﹁そうだよね。でもその相手が音楽好きなんだって。ミュージシャ
ンタイプが好きって﹂
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﹁ほぉ∼﹂
﹁同じ大学の同級生で、一生懸命アピールしたけど難しくて、最後
の手段でラブソングに手を出しちゃったみたい⋮﹂
﹁あら∼﹂
大学の同級生か。筋肉お兄さんは大学生だったんだな。
﹁マリ∼マリ∼、愛しのマリ∼僕は君の虜さ∼って、もうバカみた
いっ﹂
確かにまるで作詞の才能がなさそうだな。これならまだ委員長の
ポエムのほうがマシかもしれない。委員長も病が悪化するとそのう
ち歌いだすのかな。委員長、そこだけは踏み止まってくれ。
しかし、マリーか。
﹁ちなみにその大学はどこか、聞いてもいいのかしら?﹂
葵ちゃんがあげた国立大学の名前は、真凛先生の通う大学と同じ
だった。しかも同い年。
え、もしかして⋮。
﹁私の家庭教師をしてくれている先生も、その大学でお兄さんと同
い年よ。しかも好きなタイプはビジュアル系﹂
﹁ええっ!﹂
﹁名前もマリーに近いかな。でも私が勝手に個人情報を漏らすのは
問題なので、名前は教えられないわ﹂
﹁そっかぁ。もしかしたらその人なのかもね。でもビジュアル系か。
お兄ちゃんの歌はギターかき鳴らすフォークソングみたいなのだよ。
全然違うね﹂
﹁その人が本人と決まったわけではないですけどね﹂
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葵ちゃんは﹁そうだね。でもお兄ちゃんにちょっと話してみよう
かな﹂と言って電話を切った。葵ちゃんもなんだかんだ言って、実
の兄の恋を心配しているようだ。
愛の
でも葵ちゃんのお兄さんと、真凛先生かぁ。世間は狭いなぁ。
を奏でていた。
次の日の放課後サロンに行くと、鏑木がピアノでリストの
夢
えーっ!!なにこれ?!かっこいいっ!!
窓の外からこぼれる木漏れ日の中、情感たっぷりに弾く鏑木のピ
アノに、不覚にも胸がときめいてしまった。いかんっ、目を覚ませ!
しかし、騎馬戦馬鹿の脳筋系かと思っていたら、まさかのピアノ。
これがギャップ萌えというやつか。その破壊力、なんて恐ろしいっ。
でもこのピアノはきっと、優理絵様を想って奏でているのだろう
なぁ。切ないねぇ⋮。
お兄様のセレナーデも素敵だけど、鏑木のリストもいいな。乙女
心ど真ん中だ。
私以外のピヴォワーヌの女子生徒達もうっとりと聴き入っている。
これぞメンバーのみの特典といったところだね。
鏑木、リクエストは受けつけてくれないのかなー?
鏑木のピアノを聴いて改めて思った。自作はダメだ。
私は葵ちゃんに﹁既存の曲にするべし。自作はハイリスクノーリ
ターン﹂とメールを送った。しかし葵ちゃんからは﹁お兄ちゃんの
情熱は止められない。麗華ちゃんから聞いた話をしたら、同一人物
516
だって確信したみたい。相手の人、凄いお嬢様の家庭教師をしてる
んだって。フォークからビジュアル系に宗旨替えして、歌に変なシ
ャウトが入るようになった。つらい﹂と返ってきた。
⋮⋮筋肉お兄さーん。
私は葵ちゃんのために一肌脱ぐことにした。真凛先生に葵ちゃん
のお兄さんを売り込むのだ。ふたりがくっついて、真凛先生がギタ
ーをやんわり止めてくれたら、葵ちゃんの家も平和になるに違いな
い。
さっそく真凛先生が来る家庭教師の日に実行した。
﹁真凛先生、前に同級生から猛アタックされてるって話をしていま
したよね、ちょっと暑苦しいっていう⋮﹂
﹁えぇ、ありましたね。それがなにか?﹂
﹁今もその人からはアプローチされているんですか?﹂
﹁やだぁ、麗華様ったらどうしたんですか突然。⋮まぁそうですね
?﹂
やっぱり!
﹁あの、その方のことなんですけど、好きなビジュアル系じゃない
し、暑苦しいかもしれないけど、きっといい人だと思うので、一度
よく話してみたらどうでしょう?もしかしたら好きになる可能性も
あるかもしれませんよ?﹂
﹁えっ、あぁそうですね﹂
﹁でしょう!いきなり歌のプレゼントをされても引かないでくださ
いね!﹂
﹁歌のプレゼント?いったいなんのことでしょう。彼は音楽にはほ
とんど興味がありませんよ﹂
517
﹁前はなくとも、今はあるのですわ!真凛先生のためにギターの練
習をしているんです。告白するために!﹂
あ、言っちゃった。
﹁告白⋮﹂
﹁あのっ、本当はサプライズにするはずなんです。だから⋮﹂
﹁告白もなにも、私は今、彼と付き合ってるんですけど﹂
⋮⋮⋮え?
﹁付き合ってる?﹂
﹁ええ。あまりにも一生懸命なのでつい絆されちゃって﹂
見せてくれた写メには真凛先生と一緒に、研究者タイプの真面目
そうな男性が写っていた。
痩せていて、全然筋肉じゃない。
﹁え、暑苦しいタイプって⋮。ビジュアル系と真逆だって⋮﹂
﹁あぁ私への好き好きアピールがね、ちょっと暑苦しいなって。そ
れに真面目な彼とビジュアル系って性格真逆でしょ?﹂
﹁あぁ⋮そうですか⋮。あ!あのっ!ほかに真凛先生にアタックし
ている男性はいらっしゃらないですか?こう、筋肉タイプの﹂
﹁いませんよ﹂
﹁本当に?﹂
﹁ええ、いません﹂
間違えたーーーー!!
そうだ。そんな都合のいい話があちこちに転がっているはずがな
518
い!
どうしよう。早く葵ちゃんに知らせなれば、あぁなんてこった。
彼の話をのろけている真凛先生に、友達へのメールを送る許可を
もらった。すると先に葵ちゃんからのメールが届いていた。
﹁どうしよう!お兄ちゃんがデスメタルみたいになっちゃった!お
母さんの化粧品を勝手に使って、今めちゃくちゃ怒られてる!怖い
よ!私今日眠れないっ!﹂
どうしようっ!!
なんてことをしてしまったんだ。もう葵ちゃんのご家族に顔向け
できない。
震える手でどうにか人違いだというメールを送って、筋肉お兄さ
んが早まった行動を取っていないことを必死で祈った。
⋮⋮筋肉お兄さん、恋愛ぼっち村、入村決定?
ああっ!ごめんなさいっ!!
519
85
葵ちゃんのお兄さんには、混乱させてしまったお詫びに、最高級
プロテインを贈らせていただいた。
筋肉お兄さんの好きな人はマリさんというそうだ。先に名前を聞
いておくべきだった。優しい葵ちゃんのお兄さんは、私のせいでは
ないから気にしないでくれと言ってくれているそうだし、葵ちゃん
も私のことは全く怒っていないようなので、とりあえずホッとした。
筋肉お兄さんは周囲の強い反対で、自作ラブソングでの告白は断
念したけれど、ギターを毎日弾くのはやめていないようで、﹁お兄
ちゃんが、最近はギター漫談みたいなことをやり始めた⋮﹂と葵ち
ゃんが電話で、途方に暮れた声で言っていた。心を強く持って、葵
ちゃん!
そんなある日、鏑木グループ傘下の会社の創立記念パーティーの
招待を受けた。
﹁確か前にその話はお断りしたはずですけど。お父様達だけで行っ
てきてくださいって﹂
﹁そうなんだがね。この前ほかの会社のパーティーで鏑木会長にお
会いした時、麗華の話をしたら、では今度のパーティーには、ぜひ
お嬢さんもご一緒にと言われてしまってねぇ﹂
狸の編みぐるみをあげて以来、お父様はあちこちで、私がさもフ
ァザコンのように言いふらしているようだ。ピヴォワーヌの方から
﹁麗華様はお父様ととっても仲がよろしいそうね﹂と言われて、何
520
も聞いていなかった私はびっくりした。
上流階級の方々の間では、私は長年ブラコンだと周知の事実のよ
うに語られているが、最近はそれにファザコンのレッテルも付けら
れてしまったらしい。心外だ。
しかし所詮はお父様の自演。ブラコンの噂はそのままだけど、フ
ァザコンの噂はいまひとつ浸透していないようだ。当然だ。事実無
根なのだから。
﹁私はまだ高校生ですし、ご遠慮させていただきたいわ﹂
﹁それがもう、出席の返事をしてしまったんだよ。だから一緒に行
ってくれるね?麗華﹂
はあっ?
よりによって鏑木の会社のパーティーなんて、絶対行きたくない
のに!
﹁このパーティーにはもしかしたら雅哉様もいらっしゃるかもしれ
ないのよ!麗華、新しいドレスを見に行きましょうね?﹂
お母様はウキウキだ。だからそれが一番イヤなんだってば。
これから期末テストの勉強もあるのに、当分はお母様の着せ替え
人形状態だな、これは。
﹁大丈夫だよ。お父様がちゃんとエスコートしてあげるからね﹂
﹁いいえ。エスコートはお兄様にお願いします﹂
なにを頓珍漢なことを言っているんだ、この狸は。
ふんっ。しょんぼりした顔したって、同情なんてするもんか!
521
一応、サロンで会った時に、今度鏑木グループの会社のパーティ
ーに出席させていただきますと一声掛けておくべきか悩んだけど、
結局やめた。鏑木が来るかわからないし、だからなにって言われて
も困るし。
そんなこんなで、パーティーの日はすぐに来てしまった。
企業のパーティーなんて、面白くもなんともない。どうしても断
れない場合を除いて、今までは子供だと言うことを盾になるべく断
ってきたけれど、これからは参加することが増えてくるんだろうな
ぁ。あぁ面倒くさい。そして鏑木は来ていなかった。
宣言通りお兄様にエスコートしてもらって、ひたすら笑顔。中に
はピヴォワーヌのメンバーの親御様もいらっしゃるので、ご令息ご
令嬢との学院での交流の話などをさせていただく。ほとんどが﹁と
ても素晴らしい方で﹂だけどね。
お父様とお母様も、離れたところで似たようなメタボなおじさん
達と挨拶を交わしている。
﹁疲れた?麗華﹂
﹁まだ大丈夫ですわ﹂
﹁そう?もう少しだから頑張って﹂
小声でお兄様に励まされて、気合を入れ直す。﹁ごきげんよう。
吉祥院麗華でございます﹂
そこへ﹁よく来てくれたね、貴輝君﹂と後ろから声をかけてきた
人物がいた。
﹁これは鏑木会長。本日はお招きいただいてありがとうございます﹂
522
鏑木会長?!鏑木のお父さんか!
私は慌てて振り向いた。
どっきーーん!!
鏑木のお父さんは、とんでもなくダンディなおじさまだった。
今まで鏑木関連の行事は、ことごとく避けるようにしてきたから、
こんなに間近で会うのはほぼ初めてだった。何度か遠目に見かけた
ことはあったけど速攻で逃げたし。小さい頃には会ったかもしれな
いけど、よく覚えていない。
たぶん私のお父様と同じくらいの年代のはずなのに、この差はな
に?!おなかも全く出てない!目尻のシワすらも、老いではなく渋
さという表現に変わる。そしてこの、鋭いだけじゃなく包容力もあ
皇帝
だ。息子の
禿山の一夜
りそうな眼力!あふれでるカリスマオーラ!かっこいいーー!!っ
ていうか背ぇ高っ!
曲に例えるとベートーベンの
とはわけが違う。そう、この方こそ、真の皇帝!
思わずぼけーっと見惚れていたら、
﹁会長。妹の麗華です。麗華、鏑木会長だよ﹂
﹁こんばんは、麗華さん。今日は来てくれてありがとう﹂
麗しのおじさまが笑顔で声を掛けてくださった。
いけない!ぼーっとしている場合じゃない!
﹁本日はお招きいただきまして、ありがとうございます。吉祥院麗
華でございます﹂
内心の動揺を押し隠し、丁寧に会釈する。あぁ、この方の前でだ
523
けは、ボロを出したくない!
﹁そんなに畏まらなくていいんだよ。雅哉の同級生なんだってね。
あいつが迷惑をかけているんじゃないかな?﹂
﹁いえ、そんな。雅哉様は素晴らしく優秀な方ですから﹂
迷惑をかけられるほど親しくもない。
﹁麗華さんも優秀だと評判だよ。お父上が自慢するはずだ。いつも
大好きなお父上のために、手作りのお菓子をプレゼントしているん
だってね。この前は手編みのお父上の人形をプレゼントしてあげた
とか。やはり女の子はいいねぇ。吉祥院会長が羨ましい﹂
お父様、話を盛りすぎだ!
いったい外でどれだけ私の妄想話をしているのか、恐ろしくて考
えたくない。
﹁鏑木会長、先程はどうも﹂
﹁あぁ吉祥院会長。今、吉祥院夫妻ご自慢のご兄妹とお話しさせて
いただいていたんですよ﹂
お父様達が私達が鏑木のお父さんと話しているのを見て、やって
きた。
﹁麗華さんは実に可愛らしいお嬢さんですね。さすが吉祥院会長の
愛娘だ﹂
﹁いやぁ、ありがとうございます。鏑木会長﹂
そこは謙遜しておけよ、狸。
メタボな狸が横に並ぶと、鏑木のお父さんのかっこ良さがさらに
524
光る。お母様は偉いな、こんな素敵なおじさまを目の前にしても、
お父様にがっかりしないんだから。
狸はそれからも鏑木のお父さん相手にかなり盛った娘との仲良し
秘話を語っていた。誰か止めろ。
心の広い鏑木会長は、笑顔で狸の妄想に付き合ってあげていた。
最後に鏑木会長は、﹁ぜひまた麗華さんともお会いしたいですね﹂
などと言ってくださった。麗しい笑顔とともに。
あぁ、素敵⋮。
って、馴染んでる場合じゃないだろ私!
鏑木家とは関わらないっていう誓いから、どんどん離れていって
いる気がする⋮⋮。
今こそ初心に帰らなけば!
何日かしてサロンで会った鏑木に、﹁うちの父親が言ってたけど、
お前、ブラコンの上にファザコンなんだってな﹂と笑われて怒髪天
を衝いた。
狸︱︱︱!!
525
86
廊下で委員長に会ったので、腕を掴んで端に引っ張って行った。
﹁えっ、どうしたの吉祥院さん﹂
﹁委員長、もしや貴方、ポエムだけではなく自作のラブソングなど
は作ってはいませんよね?﹂
﹁えぇっ!どうしてそれを?!﹂
やっぱり作ってるのか!
委員長の病は、依然加速付きで進行中。なんという残念なお知ら
せ。
﹁まぁ、それが委員長の趣味だと言うのなら仕方ありません。しか
しですね、それを決して相手に聴かせて告白しようなどと考えては
いけませんよ。はっ!まさか委員長のことですから、学園祭で発表
するなんてことを考えているのでは?!﹂
﹁いやいや、さすがに僕もそれはまずいとわかっているから﹂
おぉっ!成長したんですね?委員長。
﹁ちなみにどんな曲なのですか?﹂
﹁⋮秘密﹂
委員長は頬を赤らめた。乙女め。
﹁⋮女の子はやっぱり、自分のために作られた曲をいきなりプレゼ
ントされても困るよね?﹂
526
﹁そうですわねー。全員がとは言いませんけど。嬉しさよりも驚き
のほうが先なのでは?﹂
﹁そうかぁ⋮﹂
委員長は少し項垂れた。聴かせたいのか。
これは学園祭前にもう一度確認をしたほうがいいかもしれないな。
血迷って歌いだす可能性もなくはない。
﹁でも妙な自作のラブソングを贈られるより、彼女のために既存の
曲を弾くほうが女の子の受けはよさそうですよ﹂
﹁そうなんだ﹂
﹁ええ。この間、とある方がそれはもう見事にピアノで愛の曲を奏
でていらっしゃいましてね、女の子達はうっとりです。恥ずかしな
がら私も少しときめいてしまいました。そのあまりの意外性に。委
員長、ギャップ萌えですわ、ギャップ萌え﹂
﹁ギャップ萌え⋮。吉祥院さんもそんな言葉知ってるんだね。でも
ギャップか。僕が楽器を弾くのはギャップになるかな﹂
﹁真面目な委員長が情熱的な愛の曲を奏でる。充分ギャップがある
でしょう。しかし選曲を間違えないように﹂
﹁たとえばどんな曲?やっぱりさ、海にちなんだ曲がいいよね?そ
れとピアノでいいと思う?﹂
﹁いいですわねぇ、ピアノ﹂
﹁問題は聴かせるチャンスが⋮﹂
﹁委員長、どうしたんだ?大丈夫か?!﹂
私達が廊下の端でこそこそと話し合っていると、そこへ少し急い
だ様子で同志当て馬が現れた。
﹁あ、水崎君。僕になにか用?﹂
527
﹁いや。委員長こそなにかあったんじゃないか?こんなところに呼
び出されて﹂
呼び出す?人も通る廊下の端ですが?
﹁呼び出すって、僕達はただ話していただけだよ﹂
﹁しかし⋮﹂
同志当て馬は委員長を心配そうに見ている。さりげなく私達の間
に割り込んで。
ねぇ、あんたの中で私はどれだけ危険人物扱いなんだよ。
﹁⋮えーっとさ、よくわからないけど、たぶん吉祥院さんは水崎君
の考えているような人じゃないと思うよ?吉祥院さんが僕になにか
するなんてありえないし。それに吉祥院さんは僕の恋愛の師匠だか
らね﹂
﹁恋愛の師匠?﹂
﹁うん。初等科時代からのね。いつもいろいろアドバイスをもらっ
てるんだ﹂
委員長は照れくさそうに髪をいじった。乙女め。
﹁恋愛の師匠ねぇ。そのわりには浮いた話なんて聞いたことないけ
ど﹂
おいこら、同志当て馬。ケンカ売ってるのか。あんただって副村
長のくせに。
⋮いや、同志が女子生徒達からモテてるのは知っているけどね。
でも私だって、女神とか言われてるみたいだし?
528
﹁それより委員長、好きな子がいたのか﹂
﹁ええっ!やだなぁ、水崎君、内緒にしておいてくれよ?﹂
乙女、照れ照れ。
乙女が中学2年の時に放った爆弾ポエムの衝撃は、どうやら世間
ではすっかり風化しているらしい。良かったね。でも私は一生忘れ
ないよ?
﹁だったら俺も協力しようか?﹂
﹁えっ本当?﹂
委員長が同志の提案に乗りそうになっているので、慌てて腕を引
っ張る。
﹁ダメよ、委員長!﹂
﹁え、なんで?﹂
同志当て馬を放置して、こそこそ密談。
﹁ふたりの間を取り持つなんて言って協力してくれた友達を、片思
いの相手が逆に好きになっちゃうなんてパターンはよくある話じゃ
ないですか。しかも水崎君はモテ男子ですよ。ダメです。とても危
険ですわ﹂
﹁確かに﹂
﹁ヘタしたら彼女から水崎君が好きなの、なんて相談を持ちかけら
れたりして⋮﹂
﹁うわぁ、最悪だそれ。でもありえそ∼﹂
﹁でしょう?﹂
密談終了。
529
﹁せっかくだけど水崎君、協力はいいや。僕は今まで通り吉祥院さ
んに相談するから﹂
委員長、手を止まれポーズにしてお断り。同志当て馬はまたもや
私を疑わしげな目で見る。
﹁本当に恋愛の話なんだな?委員長、脅かされてるなんてことはな
いんだな?﹂
﹁えーっ、ないよ!﹂
私、そこまで悪いイメージ持たれるほど、同志当て馬になにかし
たか?
﹁吉祥院さんからは、本当にいいアドバイスをいつももらってるん
だ。恋愛成就の神社を教えてもらったりね﹂
﹁⋮たいしたアドバイスじゃないな、それ﹂
﹁そんなことないよ。ご利益あったし﹂
えっ、ご利益ですと?!
﹁ちょっと、委員長。ご利益ってなんですの?﹂
再び腕を掴む。こそこそ。
﹁修学旅行でね、一緒にパークを回れたんだ。ふたりだけじゃなく
てみんな一緒にだったけど。楽しかったなぁ﹂
あぁ、私がマーライオンに変身しそうになってた時か。そういえ
ばあったな、そんなこと。いいね∼、修学旅行で素敵な思い出作れ
530
て。私、なんにもなかったよ。
﹁まぁとにかく、吉祥院さんとは別に揉めてたわけじゃないから、
水崎君が心配することはなにもないよ﹂
﹁⋮そうか﹂
なんでそんなに私が疑われなきゃいけないのか。これは話し合う
必要があるかもしれない。
﹁水崎君、少しお話があるのですけど﹂
﹁なんだ﹂
委員長にはふたりにして欲しいと頼むと、委員長が逆に私を大丈
夫?と心配したので、同志が戸惑った顔をしていた。ほら見ろ、委
員長にとっては、私よりあんたの方が危険人物に思われてるんだよ!
委員長が心配しながらもその場を去ってくれたので、私は話を切
り出した。
﹁ねぇ水崎君。なんで私の印象がそんなに悪いのかしら。私、水崎
君に何もした覚えはありませんけど﹂
﹁俺にはな﹂
俺には?
﹁あんた中3の時、蔓花を脅しただろう。自分に逆らったら潰すっ
て。それだけの力を自分は持ってるって。俺、それを偶然見たんだ
よ﹂
扇子振り回したあの時かーーー!!
531
あの時は放課後の廊下で、人も少なくなっていたけど皆無ってわ
けじゃなかったし、見てた人間が何人かいても不思議じゃない。そ
のひとりが同志当て馬だったのか。
確かに、あれはイメージ悪すぎるな⋮。
﹁蔓花は自業自得な面もあった。でも俺は権力を使って他人を脅す
ような人間は許せない。それが学院を牛耳るピヴォワーヌのやり方
だとしてもな。だから俺はあんたからほかの生徒を守るよ﹂
うお∼っ、私ってば物凄い悪役認定されてる。
でもあれを見られちゃったら、それも仕方ないのかもしれないな
ぁ⋮。弁解の余地なしだよ。
﹁⋮まぁあれには事情があったのですけどね。でも理由はわかりま
した﹂
﹁話はそれだけか。じゃあ俺行くから﹂
﹁ええ﹂
天知る地知る我知る人知る。狸に懇々と諭していたことわざが、
そのまま私に跳ね返ってきた。これぞ狸ブーメラン。
この悪印象を払拭するのは難しそうだな∼。そして扇子ぺちぺち
は、私の恥ずかしい過去なので、なるべく早く忘れてもらいたいん
だけど⋮。
532
87
真凛先生の力を借りて、なんとか期末テストを乗り切った。でも
手応えはあまりなし。試験勉強中にこれはダメだなと思ったので、
塾の夏期講習の申し込みをした。
意志薄弱な私は、ひとりで勉強するのは向いていないみたいだ。
家には誘惑がありすぎる。解けない問題があるとつい、気分転換に
ニードルフェルトでもちょっとやっちゃおうかなとか、部屋の模様
替えをしちゃおうかなとか、ほかのことをしたくなっちゃうのだ。
塾の雰囲気に合えば、そのまま二学期からも通おう。だから先生、
補習だけは勘弁してください⋮。
期末テスト最終日。テストは午前中で終わったのでそのまま帰っ
て着替える。今日はこれから行きたいところがあるのだ。
それは郵便局。タンス貯金をしたお金を預けに行くのだ。それと
同時に切手を買う。
私の小さな趣味は切手集めだ。可愛い切手をちょこちょこ買うの
がひそかな楽しみ。手紙を送る相手はいないけどね。
アニメやキャラクターものが特にお気に入りだ。有名なロボット
アニメや絵本のキャラクターなどもあって、見てるだけで楽しい。
その中にはロココの女王の切手もあった。もちろん買った。誰か
に送る時のために何枚か余分に買った。今のところ誰にも送る予定
はないけれど。
縦ロールの私が縦ロールの切手を買うのは、えっコスプレ?!っ
て思われたらどうしようって結構恥ずかしかったけど、一番のお気
に入り切手になったので、勇気を出して買ってよかった。
この切手を貼って誰かに手紙送りたいなぁ。葵ちゃんなら笑って
533
受け取ってくれそうだけど、今度送ってみようかなー。
着ていく服は私の持っている服の中でも比較的ラフな感じの、胸
の下にリボンの切り替えの付いたフェミニンなワンピースにした。
今日は郵便局のほかにも寄りたいところがあるから、あまりお嬢様
すぎない服がいい。
実は今日はお昼にお蕎麦屋さんに行ってみたいと思っているのだ。
ひとりでお蕎麦屋さんに行くのは初めてなので、あまり目立つ格
好はしていきたくない。
あ∼おなか空いた。なに食べようかな∼。
複合ビルの中のチェーン系のお蕎麦屋さんに入ってみた。メニュ
ーを見るといろいろあって迷っちゃう。山菜そばもいいけど冷たい
おそばもいいな。う∼ん、しかしやっぱりここは天ぷらそばだわ!
エビが2本も入っていてとってもおいしい。うん、これにして良
かった。ネギがいっぱい入っているから血液がサラサラになるね。
あまりにおいしかったので、つゆも最後までしっかり飲んだ。あ
ー、満足満足!
ちょっと食休みしてから近くにある規模の大きい郵便局に向かう。
受付が混んでいたので先に番号札を取ってから、切手を見に行く。
動物や古典も好きなんだよな∼。和歌シリーズのどれかを買っちゃ
おうかな。
可愛い動物の切手を見つけたので、今回はそれを選んだ。今度ま
たふみの日に来よう。
楽しい気分で貯金窓口のほうに行くと、順番はまだずいぶん先の
ようだった。混んでいるので座る席もなさそうだ。まぁ仕方がない。
私は若いから立っているのもそれ程苦じゃないし。
534
そう思っていたのに、サラリーマンの男の人が席を譲ってくれた。
なんて紳士なんだ!
日本もレディーファーストが定着してきたのだなぁ。ありがとう、
見ず知らずのジェントルマンよ。私は笑顔でお礼をいって、座らせ
ていただいた。
こういう小さな親切を受けると、気分がほっこりしてなんだかと
っても幸せな気分になるね。
あーしかし、さっき食べた天ぷらそばがまだちょっと苦しいな。
つゆも最後まで飲み切っちゃったからな。
おなかを無意識にさすっていたら、隣に座っていたおばさんが﹁
何ヶ月?﹂と聞いてきた。
何ヶ月ってなにが?
﹁?﹂
﹁まだ5ヶ月くらいかしら?いい子が生まれるといいわねぇ﹂
﹁⋮⋮﹂
⋮⋮⋮⋮え?
まさか⋮⋮、まさか私、妊婦さんと間違えられてる?!
なんで?!おなかをさすってたから?!
違う!おなかがポンポコリンだからだ!!
﹁⋮⋮私、妊婦さんじゃありません﹂
﹁え?﹂
﹁おなかに赤ちゃんなんていません⋮⋮﹂
おなかに力をこめてグッと引っ込める。たいして引っ込まなかっ
たけど。
﹁あ、あら、ごめんなさい﹂
535
おばさんは気まずそうに目を泳がせると、席を移動した。
はっ!もしかして!と後ろを振り向くと、先程のジェントルサラ
リーマンがサッと顔を逸らした。あんたもか!
あれはレディーファーストではなく、妊婦さんへの労りか!
なんてこった⋮。
どうやら私のおなかには、知らない間に子が宿っていたらしい。
そのうち大天使が受胎告知にやってくるに違いない。脂肪の国の神
の子よ、早く生まれてくるがよい。でないと、この聖母麗華のおな
かがいつまで経ってもポンポコリンのままになってしまう。
⋮⋮なんてね。現実を直視しなくっちゃ。これはただのデブ化が
引き起こした悲劇なのだと。
そしてもうひとつ、受け入れがたいことがある。
それは、もしかして私って老けてるの?妊婦さんでもおかしくな
い年齢だと納得されるくらいに?ということだ。
太ったうえに老けちゃった。
あぁ、ここは蛍光灯が眩しいな。眩しすぎて目に涙が⋮⋮。
私を中心としたこの局地的な気まずい空気。窓口の順番は当分来
ない││。
涙をこらえて家路に着くと、部屋に籠って無言でフラフープを一
心不乱に回した。
腹筋をした。V字バランスをした。具合が悪くなった。
次の日から私はランチも野菜中心にした。﹁夏バテかしら、少し
食欲がなくて⋮﹂とサラダメインだ。一緒に食事をしている子達が
﹁まぁ大変﹂などと言っていたけど、絶対気づいている⋮。
ピヴォワーヌのサロンでも紅茶のみだ。今日はブルーベリーのタ
536
ルトがあるのか。でも食べない!
みなさんにいろいろなお菓子を勧められるが、﹁食欲がなくて⋮﹂
で断る。見ちゃダメだ。
そこへ通りすがりの円城が、フッと笑って﹁頑張ってね﹂と言っ
てきた。こいつも気づいたか。黙れ、余計なことを言うな。私は今、
おなかが空いて気が立っているのだから。
桜ちゃんに苦しい胸の内をメールしたら、﹁座禅と滝行どっちが
いい?﹂と返ってきた。
桜ちゃんがいうには、まず最初にダイエットが続かないこの私の、
自分に甘い軟弱な精神を見つめ直すべきらしい。一理あるね。確か
に私は他人に厳しく自分に甘い。
こうして私は夏休みに、桜ちゃんと座禅に行くことになってしま
った。
でも桜ちゃん、私目をつぶると3分で寝ちゃうけど大丈夫かな?
そしてなぜか、お母様からは断食を勧められた。私は夏休みにお
母様と断食にも行くことになってしまった。
どうやら今年の夏休みは、肥満解消修行の夏になるようだ。今度
こそ第3の目が開くか?!
537
88
期末テストの結果が出た。もちろん私の名前は貼り出されていな
い。
今回のトップ3も前回と同じで、鏑木、円城、若葉ちゃんの順だ
った。若葉ちゃん、本当に頭良いんだな。凄いな∼。一部の目がさ
らに厳しくなっているけど⋮。
そして、おぉっ同志当て馬が7位になっている!同志よ、少し順
位を落としたのではないか?!私のぶんも頑張ってくれたまえよ。
君は我が村の期待の星なのだから。次期村長候補として。
そんな私の順位は86位。おうっ、ひとのこと言えないくらい落
ちてる!このままでは2学期には3桁台転落なんてことも充分あり
うるな。夏期講習で気合を入れ直さないと。今年の夏は勉強に、ダ
イエットに、修行と大忙しだ。
﹁ねぇ今年の夏休みはみんなでどこかに遊びに行きません?﹂
菊乃さんが私達に提案した。
ええっ!友達とお出かけ!素敵!
﹁これからのシーズンに予約が取れるかしら﹂
﹁あら私の家の別荘にいらっしゃる?﹂
きゃあきゃあとみんなが計画を立て始めた。
ほとんどの家が別荘を持っているので、誰の家の別荘を使うかを
協議する。とりあえず家族にも聞かないとね。
そしてもちろん、その別荘計画に私も入っているよね?ね?あ、
うちの別荘を使ってもいいよ?だからちゃんと、仲間に入れてね?
538
夏休み前最後の休日に、私は桜ちゃんに座禅に連れて行かれた。
始めに和尚さんから座禅の仕方を聞いて、お堂に入る。蒸し暑か
ったらどうしようと思ったけど、ひんやり涼しくて良かった。
先に教えられた通り、結跏趺坐は出来ないので半跏趺坐で座り、
目を半眼にする。呼吸を整え心を整える。呼吸はともかく心は整え
られるかな∼。私、雑念だらけだけど。
シーンと静まり返った薄暗いお堂でひたすら座っていると、目が
段々閉じてくる。あぁ心が静まると眠くなるものなんだなー。
あ、和尚さんが私の後ろに立った。やっぱりばれた?右肩を出し
て警策をありがたくいただく。想像していたよりも痛くない。か弱
い女の子だから手加減してくれているのかな?でもそれだとまた眠
気が⋮。パシッ。
最後はあまりの眠気に体が左右に揺れだして、警策を受けたかも
よく覚えていない。
30分程の座禅の後は、お茶をいただきながら和尚さんの法話を
聞き、今度は写経に入る。座禅だけかと思っていたら、写経もやる
のね。
渡されたお手本の上に紙を置いて、その上からなぞるだけなので
思ったよりも簡単。小さい頃から書道も習っていたし、こんなの楽
勝楽勝とやってみたけど、先に、同じお手本を書き写すのでもその
人間の心持で全く違うと教えられた通り、漢字が整然と並んだ桜ち
ゃんの写経と比べて、私のは時々字が踊っているような部分があっ
た。
きっとここは、これから行く和カフェのことを考えてた時だな。
煩悩だらけだ、私。
写経をお堂に納めて、本日の修行終了。
539
﹁麗華、貴女全然自分の心を見つめ直してなかったでしょう﹂
和カフェに着いた途端、桜ちゃんから厳しいご指摘があった。そ
ういえば最初の目的ってそれだったっけ。
﹁座禅の時、隣からバシバシ叩かれる音がして、気が散ってしょう
がなかったわよ。そのうち体が揺れてきてる気配もするし⋮﹂
﹁それは桜ちゃんの精神が試されていたのよ。この程度のことで集
中が乱されてはならぬという﹂
﹁⋮あんたなんか警策じゃなくて罰策受ければいいのよ﹂
和尚さんの話では、座禅の時に受けたのは警策で、ほかに修行中
のお坊さんが規則を破った時に受ける罰策というのがあるんだって。
こっちは本気で痛いらしい。
﹁今日のお寺さんは優しいところを選んだんだからね。厳しいお寺
なら麗華なんて百叩きよ﹂
﹁え∼。桜ちゃんだって叩かれてたじゃない﹂
﹁私は自らお願いしたの﹂
そりゃ凄い。
﹁それで、座禅をして精神修行をした成果は⋮全然なさそうね﹂
メニューの和風スイーツ欄をジッと見つめる私に、桜ちゃんがた
め息をついた。
違うよ、見てるだけだよ。食べるなんて一言も言ってないよ。
540
﹁人間、そう簡単にニルヴァーナの世界には行けないものなのよ∼﹂
﹁デブ道に落ちろ﹂
やめて。和尚さんが言っていたでしょう。言霊はあるのだから、
ひとに対して悪い言葉は口にしてはいけないと。私が本当にデブに
なったらどうするの?
﹁麗華は運動をしないからよくないのよ。ホットヨガとかエアリア
ルヨガとかどう?﹂
﹁桜ちゃんヨガ、好きだよね﹂
今は毎日腹筋とフラフープを頑張っているし、家でもヨガをやっ
てるからいいや。やるならほかのスポーツがいいな。
私はなんとか和風スイーツの誘惑を断ち切り、冷たい抹茶ドリン
クのみで我慢した。
私のおなかは食べないとへっこむ。でも食べると膨らむ。これが
油断を誘うんだよな∼。食べなきゃすぐに痩せられるわって。
しかし今回こそは頑張るよ。妊婦さんに間違えられたのは本気で
ショックだったから。実は今もまだ引き摺ってるから。
あの時着ていたワンピースは封印した。妊婦さんに見えるような
服は絶対着ない。座る時はおなかの贅肉がでろんとなりがちなので、
常に力を入れておく。
﹁ねぇ、桜ちゃん。私って老けてるかな?﹂
﹁そんなことないと思うわよ?最近は前より顔が丸くなったから余
計に若く見えるもの。気にしなくて大丈夫よ﹂
私、顔も丸くなったんだ⋮。
541
夏期講習に通う塾には初めてきた。
中等科まで通っていた塾とは、受講人数が違うな。
席は自由のようなので、真ん中より少し後ろ側の席に座る。瑞鸞
生はいないかな。う∼ん、なんだかみんな頭が良さそう。
すると男女数人のグループが、私の席の隣と後ろに座った。全員
友達らしい。わー⋮孤立感が凄いよ。
私の隣に座った男の子の荷物が、どんどん私のテリトリーを侵食
してくる。でも彼は私に背を向けて、横の友達と夢中でしゃべって
いるから気がつかない。なにこのないがしろ感。
やばい、中等科時代の補習のトラウマが⋮。
その時、オーバーリアクションで笑った男の子の手が私にぶつか
ってきた。痛い⋮。
﹁あ、ごめん﹂
﹁⋮いえ﹂
ついでに荷物にも気がついてくれるとありがたいです。
﹁うわっ、この子すげーお嬢様っぽい!﹂
﹁髪、きれいに巻いてるね∼﹂
げ。
﹁ねぇねぇ、どこの学校?﹂
後ろの男の子が話しかけてきた。耳にピアスを何個も付けている。
チャラい。
542
﹁瑞鸞です﹂
﹁うおーっ、瑞鸞!マジお嬢!﹂
なにが面白いのか、全員が大受けしていた。
女の子達は笑いながらも私を値踏みしている。怖い⋮。
﹁ねぇ、名前なんていうの?﹂
﹁⋮吉祥院麗華です﹂
﹁名前もお嬢!受けるー!﹂
⋮⋮こいつら。
席選びを完全に失敗した。いや、塾選びもだ。この吉祥院麗華、
今までの人生でここまで粗末な扱いをされたことはない。
妊婦さん事件に続きこの扱い。今ならおみくじで確実に大凶を引
く自信がある。
﹁やめろよ、可哀想じゃん。困ってるよ。瑞鸞のお嬢様は俺らとは
違うんだから﹂
チャラピアスの隣の子が止めてくれた。女の子達も﹁そうだよ∼、
やめなよ∼﹂とか言っている。ふん、本心じゃないくせに。
私はなにも気にしていませんよという態度で、問題集を見ている
フリをした。今こそ何事にも揺れない座禅の心を!
それなのに、後ろのバカが私の髪を引っ張ったりしてちょっかい
をかけてきた!よりにもよって私のこの巻き髪を!あんたなんて、
世が世ならバスティーユ送りだ!
だいたい女の子の髪を引っ張るって、高校生のやることか?なん
てバカなんだ。
そして講義が始まると、そのバカ達が私よりよっぽど頭が良かっ
たことに、さらに心を抉られた。
543
私は家に帰ると、部屋の四隅に盛り塩をした。
544
89
うめわか
夏期講習では私の姿を見つけると、チャラピアス達は近くの席に
って挨拶するん
座るようになった。チャラピアスは梅若といった。しかしチャラピ
アスで充分だ。
﹂
ごきげんよう
ごきげんよう
﹁ねぇねぇ吉祥院さん、瑞鸞てさ
でしょ?俺にも言ってよ、
うるさい。
私は次の日から問題集や参考書を持ち込んで、空き時間に話しか
けられる隙を作らないようにした。
あわよくば成績アップ以外に友達が出来たらいいなと思っていた
けど、それはこいつらじゃない。
ひたすら問題を解く。
﹁真面目だよねー、吉祥院さん。あ、それ間違ってるよ﹂
ちいっ!
午前の講義が終わると昼休みがある。ほとんどの生徒達はコンビ
ニで買ってくるか外に食べに行く。
私は吉祥院家の料理人さんの作ってくれたお弁当があるが、チャ
ラピアス達は外に行くようだ。
﹁吉祥院さんの弁当すげー!料亭みたい!﹂
⋮こいつらが行ってから開ければ良かった。今日のお弁当はバラ
545
ンスよく作られた松花堂弁当だ。
﹁うまそー!一口ちょうだい?﹂
バカめ。誰がやるか。私は食べ物に関してはとっても心が狭いん
だ。本当はもう少し量が欲しいのに、ダイエットと人目を気にして
の若干小さめのお弁当箱なのだ。誰かにやる余裕なんてあるもんか。
﹁梅若∼。早く行こうよー﹂
焦れたようにショートカットの女の子がチャラピアスの名を呼ん
だ。ほら、呼んでるぞ早く行け。
﹁お∼。じゃあまたあとでね、吉祥院さん﹂
行ってこい、行ってこい。そして戻ってくんな。
私はおいしいけど少しだけ量の足りないお弁当を堪能した。煮魚
がおいしい。冷たい玉露とよく合うね。
そしてその後の残りの休み時間は、問題集を解くことに専念した。
そんな毎日が続いたある日、重大な事件が起こった。
私のお弁当の茶巾寿司をひとつ、チャラピアスに横取りされたの
だ!
﹁これすっげーうめー!もしかして吉祥院さんの家って料亭?﹂
茶巾寿司。ふたつしかなかった茶巾寿司。主食だった茶巾寿司。
あぁ茶巾寿司⋮⋮。
﹁あれ?吉祥院さんが固まっちゃってる。もしかしてショック受け
てる?じゃあお詫びに俺がおごるから、一緒に飯食いに行かない?﹂
546
私は無言で荷物を片付けて立ち上がると、そのまま教室を出て電
話をした。私の大好きな本命の男は忙しいだろうから、キープの男
を呼び出す。﹁今すぐおいしい物を食べさせて!﹂
タクシーをすっ飛ばして本社ビルに着くと、キープ狸がいそいそ
と出迎えた。
﹁麗華が会社まで来てくれるなんて嬉しいねぇ。まぁ座りなさい﹂
﹁お父様、休み時間が1時間半しかないの。早くお店に行きましょ
う!﹂
﹁おぉそうか﹂
私はお父様の腕を引っ張って急がせた。
秘書の方の先導で廊下に出ると、私の大本命のお兄様にばったり
出くわした。
﹁あれ麗華。なんで会社にいるの?﹂
﹁麗華は私とお昼を一緒に摂りたいらしくてね。わざわざ来てくれ
の部分を強調して、お父様はドヤ顔をした。
たんだよ﹂
私と
しかし残念ですがお父様、貴方は私にとって都合のいい男ポジシ
ョンです。
笑顔のお兄様に見送られ会社を出るまで、﹁娘に一緒に食事がし
たいとねだられたので、少し出てくるよ﹂と社員達へのファザコン
アピールに付き合わされ、ちょっとした晒し者になった。キープ狸
のくせに。
547
お父様に連れられてきたのは、会社の近くの中華料理店。高層階
にあって景色もよく、個室なので人目も気にならない。
よくこの短時間で予約が取れたな。さすがお父様の有能秘書さん。
﹁さぁさぁ好きなだけ食べなさい﹂
私は一番大好きなエビチリとふかひれのスープ、海鮮おこげを注
文した。お父様はふかひれの姿煮と上海蟹の炒飯を注文していた。
昼から豪勢だなお父様。ほかにも点心なども頼み、ランチにしては
ボリュームのありすぎる内容になってしまった。
しかし今日は特別なのだ。だって明日からお母様と断食に行くの
だから。気分はすでに最後の晩餐だ。
﹁麗華、塾はどうだい?﹂
﹁頑張っていますわ﹂
早く食べないと次の授業に間に合わない。
そういえばお父様って電話1本で簡単にすぐ捕まえられたけど、
仕事してないのかな。大丈夫かなあの会社。すれ違った社員の人達
はみんな、ザ・エリート!って感じの人達ばかりだったけど。
﹁お父様こそちゃんと仕事なさっていますか?﹂
﹁なにを言うんだ麗華。私はきちんと働いているぞ、なぁ笹嶋﹂
テーブルには秘書の笹嶋さんも一緒に座っている。最初は父娘水
入らずでと固辞されたんだけど、量もあるし私は食べたらすぐにお
店を出るつもりなので、頼んで同席してもらったのだ。
﹁はい、会長は毎日多忙を極めております﹂
548
そりゃあお父様の秘書ならそう言うよね。でも多忙を極めている
とは言っても、働いているとは言っていないな。
﹁兄は学生時代から笹嶋さんに付いて、仕事を教わっていたんです
よね?﹂
﹁はい。貴輝さんは本当に優秀で、今は営業部の仕事にも携わって
おられます﹂
そうなんだ。さっき会ったお兄様は忙しそうだったもんね。お兄
様はちゃんとお昼食べる時間があるのかな。
それからしばらくお兄様の話題ばかりしていたら、お父様がちょ
っと拗ねた。大人げないぞお父様。
私は食べるだけ食べると、スケジュール調整をしてくれた笹嶋さ
んにお礼を言って席を立った。お父様が引き止めてきたけど、のん
びりしていると次の講義に間に合わなくなる。お父様こそ早く食べ
て会社に戻ったほうがいいのでは?
さらばだ、お父様!杏仁豆腐で誘惑してきてもきくもんか!
ぎりぎりで戻った教室はすでにほとんど席が埋まっていたので、
はじっこの席に座った。チャラピアス達とも席が離れたので心も穏
やかだ。おなかは苦しいけど。
カバンとストールでおなかを周囲の目から隠す。特に横からのア
ングルはとても危険なので。
次の日はお母様と一緒に断食プランだ。
私が最初に想像していたのは、どこか山奥の道場での修行のよう
549
な断食だったんだけど、連れてこられたのは超一流ホテル。
ここでジャグジーに入ったり、エステを受けたり、ホテル自慢の
庭園をウォーキングしたりして2日間を優雅に過ごすのだそうだ。
今回一緒に断食プランを受けるのは、ほとんどがお母様の知り合
いの上流階級のマダム達だ。どうやらお母様はお付き合いで断れな
かったので、私も一緒に連れてきたらしい。そうだよね、お母様痩
せてるし。本来断食なんて必要ないもの。
社交で断食までしないといけないなんて、大変だな。
個別で簡単なメディカルチェックを受けた後は、ホテルの一室で
スタッフによるプランの説明。基本はホテル側が用意したドリンク
とお粥のみで、飲み物は水かお茶。食事以外は自由に過ごしていい
そうで、プールやジムもあるそうだ。
マダム達はさっそくエステの予約をしている。私もお母様の付き
人として一緒に予約させられた。
なるとみあきみ
参加メンバーの中でも特にふくよかなマダムが、これまたふくよ
かなお嬢様を連れてきていた。お嬢様は成冨耀美さんといって、現
在20歳だそうだ。若い娘は私達ふたりだけだった。成冨夫人から
はぜひ娘と仲良くしてあげてくれと言われたので、笑顔で挨拶をし
ておいた。耀美さんはうつむきがちに母親の後ろから会釈をしてき
た。年上だけど、なんとなく気が弱そうな人だ。私、苛めたりしな
いよ∼。
その時、颯爽と鏑木夫人が部屋に入ってきた。鏑木夫人の登場で、
部屋は一瞬で華やかになった。
そう、実はこのホテルは鏑木グループ系列なのだ。私達が断食プ
ランに参加すると聞いて、わざわざ挨拶にきてくれたらしい。
よりによって鏑木のホテルとは⋮。この話を聞いたとき、まず最
初に思ったのがそれだった。
ただ泊まるだけならまだしも断食プランって、私必死でダイエッ
トしています!って宣言しているようで恥ずかしいじゃないか⋮。
鏑木には知られたくない。そしてあのダンディな鏑木パパにはも
550
っと知られたくない。これが繊細な乙女心というものだ。
鏑木夫人は挨拶を済ますと、こっそり隠れていた私を見つけ笑顔
で近づいてきた。
﹁麗華さん、よくいらしてくれたわね!2日間、大変でしょうけど
ぜひ頑張ってね!私、応援していてよ﹂
﹁はい、ありがとうございます⋮﹂
恥ずかしい。デブだと認めているようで恥ずかしい。でもさっき
測ったBMIでは痩せ型分類だったし!
鏑木夫人に応援されてしまったことで、マダム達にも変に注目さ
れてしまった。愛想笑いでその場をごまかす。
そして鏑木夫人は参加者のマダム達に笑顔を振り撒き、そのまま
風のように去って行った。
さてと、それではまず私達が宿泊する部屋に移動しましょうかね。
551
90
案内された部屋はツインのスイートルームで、アメニティも充実
していた。さすが鏑木グループのホテル。
しかし断食プランのため、冷蔵庫の中身は水とお茶のみだった。
あぁ本当にこれから何も食べられないんだなー。
ソファでハーブティーを飲みながら寛ぐ。もうしばらくしたら、
全員で庭園を散歩するらしい。
﹁断食なんてお父様を誘えばよかったのではありませんか?我が家
で一番断食が必要なのはお父様だと思いますけど﹂
﹁お父様はお仕事があるでしょう。それにお父様は断食では痩せな
いわ﹂
きっぱり。
﹁それより、麗華さんはすっかり鏑木様に気に入られたわね∼﹂
お母様が嬉しそうに言った。⋮まぁあれは周りからはそう見える
かもね。
﹁さすがはお母様の娘だわ!だって麗華さんはこんなに可愛いんだ
もの。雅哉さんとお似合いだと考えるのも当然よ!﹂
いやいや、飛躍しすぎですお母様。変なこと考えて暴走しないで
ね!
物騒な夢を語りだしたお母様をなんとか現実に引き戻して、集合
場所の庭園に連れて行った。
552
スタッフが案内する庭園を散歩しながらも、マダム達にも先程の
鏑木夫人の態度を話題にされた。
﹁麗華さんは鏑木様もお認めになるお嬢様ですもの。気品が違いま
すわねぇ﹂
﹁まぁ、おほほ。皆様、そんなにおだてないでくださいな﹂
お母様、否定しつつも鼻高々のようだな。すっかりご機嫌だ。そ
れからもマダム達の社交辞令は続いたけど、ふとこの場には同年代
の耀美さんもいたなと思い出したら、少し心苦しかった。
それからはプラン専用ルームで、断食ドリンクを全員で飲んでの
夕食。こんなんじゃ全然おなかの足しにならない⋮。せめておかわ
りが欲しい。2日間これはきついなー。
その後、エステでおなか周りを中心にマッサージをされた。腸マ
ッサージだ。うひゃひゃひゃひゃ、くすぐったい!ぐえっ!
一晩明けるとなにも食べていないせいか、おなかがへっこんでい
た。朝もドリンクのみ。固形物が食べたい。
ジムやプールもあるそうだけど、食べていないのに動けないよ。
せいぜい庭園を散歩するくらいだ。
お母様はすでにギブアップ気味なのか、お昼のドリンクを飲んだ
あとは部屋に戻って寝てしまった。私はお母様の代わりにマダム達
に誘われて、ヨガに参加した。
ヨガはリラックス目的の初心者用でポーズは全然苦しくなかった
けど、水分しか摂っていない胃が、動くたびにブクブクぐるぐると
水音をさせるので恥ずかしい。マダム達は楽しくおしゃべりをしな
がらヨガをしている。元気だな∼。なにも食べていないのに、どっ
から出てくるその体力。
マダム達は﹁麗華さんには好きな人はいないの?﹂﹁鏑木家の雅
哉さんと同級生なんでしょ?﹂﹁円城家の秀介さんは?﹂﹁お兄様
553
に決まったお嬢様はいるの?﹂と若者の恋愛事情を根掘り葉掘り聞
いてきた。⋮元気だ。
夕食もドリンク。もういい加減飽きた。味は毎回違うけど、そう
いう問題じゃない。
お母様は携帯でお父様に泣き言を言っていた。
夜は時間があるので塾のテキストをやっていたけど、おなかが空
いて集中できない。
気分転換に散歩でもしてこようかと部屋を出たら、耀美さんに会
った。
⋮⋮あ、気づいてしまった。耀美さんが背中に隠した袋が、ホテ
ル内のパティスリーの物だと。
気まずい⋮。
このまま気づかなかったフリをして別れようかなと考えてた時、
耀美さんが観念したように袋をそっと前に持ってきた。
﹁どうしてもおなかが空いちゃって⋮﹂
﹁あぁそうですよねぇ。おなか空きますわよねぇ﹂
私も愛想笑いで同意する。そんな困った顔で笑わないで∼。別に
入院患者とかじゃないんだから、食べたかったら食べてもいいんじ
ゃない?
﹁麗華さん、少しだけお話しできる?﹂
私達は庭園に出た。
ライトアップされた庭園はとても美しい。私達はそこにあるベン
チのひとつに腰かけた。
554
﹁麗華さんみたいな方から見たら、私なんて本当に意志の弱いダメ
な人間でしょうね?﹂
﹁えっ、そんなことありませんわよ?!﹂
むしろ私ほど根性のない人間はいないと思ってるし。三日坊主と
は私のためにある言葉。
﹁食べてはいけないと思うと余計に食べたくなるの﹂
﹁⋮わかりますわ﹂
私はうんうんと頷く。
ダイエットしようと決意した瞬間、おなかが空くんだよね。
﹁小さい頃から太ってて、何度も痩せようと思ったんだけど、本当
に私はダメね⋮。耀美なんて、名前負けもいいとこ﹂
いやいや私の麗華だって相当な名前負けですよ?華のように麗し
いって、ねぇ?
それに間食ばかりしているし、本当の私は妊婦さんに間違えられ
るような、ぐーたら子狸だ。だからそんな、パティスリーの袋抱え
ながら哀しそうに笑わないで。
﹁麗華さんはいいわねー、きれいだから。よく妹さんを連れ歩く貴
輝様の噂を聞くわ。きっと自慢の妹さんなんでしょうね。羨ましい﹂
﹁えっと、そんなことはないと思いますけど⋮﹂
﹁⋮私にも兄がいるの。でもこんなに太った見苦しい妹だからイヤ
なのでしょうね。ほとんどふたりで出かけることなんてないわ﹂
うーんあれは、お兄様が連れ歩くというより私が付き纏っている
だけなんだけどなー。
555
﹁鏑木様にまで気に入られてるし、本当に凄いわ麗華さんは。吉祥
院会長もあちこちで自慢の娘だと話していると評判よ。いいわね、
自分のお父様にそんな風に言ってもらえるなんて﹂
なにをやっているんだ、狸め。帰ったら鍋にしてやる!
﹁父は親バカなんですわ。全く恥ずかしい。帰ったら釘を刺してお
かなくちゃ。それに私は隠れているところが太っているんです。た
とえばおなか。これは父に似てしまったのですわね、残念なことに。
つきたて餅のような状態です﹂
﹁つきたて餅?やだ、麗華さんたら面白いこと言うのね?﹂
ふふふっと耀美さんは優しい笑顔をした。確かにふくよかだけど、
そのぶん癒し系なんだよな∼。あまり自分を卑下しないでもいいの
に。なんというか、源氏物語の花散里っぽい?
私は耀美さんに元気を出してもらおうと、﹁実は制服のスカート
のホックが座った途端に飛んだことがある﹂とか﹁試着したらビリ
ッと音がしたので、着られなかったのにそのまま買って帰った﹂と
か﹁ひとりでケーキをワンホール食べておなかを壊したことがある﹂
などという、自虐ネタを披露した。
耀美さんは笑って聞いていたけど、半分大げさに言ってると思っ
ているようだ。だが甘い。大げさどころかこんなのは序の口だ。本
当は﹁ターザンごっこで危機一髪事件﹂﹁カラスに生ごみをぶつけ
られた事件﹂など、ひとには言えない話がまだまだいっぱいあるの
だから。
でもこれで、耀美さんは少しは親近感を持ってくれたようだ。﹁
よかったら﹂と、パティスリーの袋からリーフパイをくれた。
リーフパイ!食べたい!しかし今は断食中だ!なんと悩ましいっ!
そんな私を見て、耀美さんは笑った。
556
﹁でもね、実はこうやって陰で食べているのは私だけじゃないのよ
?参加者のほとんどはみんな、多少はこっそり食べてるの﹂
﹁ええっ!﹂
﹁真面目に断食しているのなんて、麗華さん達くらいじゃないかし
ら。ホテル側だって気づいてても黙認しているの。でなきゃお菓子
なんて買えないでしょ?﹂
お母様∼、私達すっかり騙されていましたよー。
道理でみなさん、断食中なのに元気だと思った。
﹁⋮私はおなかが空きすぎて、食べ物のことばかり考えているのに﹂
﹁ふふっ。じゃあ今から食べちゃう?﹂
﹁いえ、ここまできたからには最後まで頑張ります。なんだか悔し
いので﹂
﹁麗華さんならそうでしょうね。頑張って﹂
そろそろ冷えてきたので私達は部屋に戻ることにした。一応パテ
ィスリーの袋を隠すために、私は持っていたストールを貸した。耀
美さんはありがとうと笑った。
少しは仲良くなれたかな?
断食最後のメニューはお粥だった。はぁ∼っ、おいしい⋮。隣の
お母様は恍惚とした顔をしている。わかるよ、その気持ち。わかる
よ。
スタッフの﹁これで断食プランは終了です﹂という挨拶で、全員
解散となった。
帰りましょう。早く帰りましょう。
みなさんとお別れの挨拶をして、迎えの車に乗り込む。耀美さん
は手を振って見送ってくれた。
557
帰ってきたよ∼、我が家!
お父様とお兄様が温かい食事を用意して出迎えてくれた。
すっかり心の弱っていたお母様が、感極まってお父様に抱きつい
た。美女と狸だな。
私もお兄様に抱き着こうとしたら、ひらりと躱された。なぜ!
558
91
4日ぶりに塾に行くと、チャラピアスが駆け寄ってきた。
﹁吉祥院さんっ、この間はごめん!﹂
うわっ!いきなりなに?!
思わず体ごと引く私に構わず、チャラピアスはひとり反省の弁を
述べている。
﹁あれからずっと吉祥院さん塾を休んでただろ。俺、スッゲー責任
感じちゃって⋮。本当にごめん!﹂
だからなにがよ。なんの話よ。
それとチャラピアス、顔がシュンとしちゃってるぞ、一体どうし
た。
﹁あの後すぐに教室出て行っちゃって、そのまま直前まで戻ってこ
なかったしさ。もしかしてどっかで泣いてたんじゃないかって思っ
てさ﹂
ん?⋮⋮あっ!茶巾寿司か!
おのれ茶巾寿司の恨み、いまだ忘れてはおらぬぞ!
﹁それからずっと休んでただろ。もしかして俺に会いたくなかった
から?毎日家で泣いてた?﹂
あぁ、そういえば茶巾寿司事件の次の日から、塾を休んで断食に
559
行ったんだっけ。なんかもうすいぶん昔の話に思えるよ。あー、断
食つらかったもんな∼。
で、このチャラピアスは、それを私が傷ついたからだと勝手に解
釈して、この3日間、罪悪感に苛まれていたのか。そりゃご愁傷様。
でも本当のことは教えてあげないよー。私の大事な茶巾寿司を横
取りしたんだ、せいぜい勘違いしたまま反省するがよい。けけけ。
食べ物の恨みは恐ろしいのだよ。
﹁まさかそんなにショック受けるとは思わなくて。でも本物のお嬢
様は俺らと違って繊細そうだもんな。なんだか吉祥院さん、前より
痩せちゃったし﹂
えっ!なに?!今、チャラピアスはなんと言った?私が痩せたの
言ったのか?!
⋮⋮チャラピアス、特別に許す!
﹁もう気にしないでいいですわ。今回は少し体調を崩してしまって
休んでいただけですから﹂
にっこり笑顔で許しを与える。しょうがない、今回ばかりは脂肪
とともに水に流してあげましょう。
﹁本当?!良かった。まだ具合悪いんだったらムリしないほうがい
いよ。さ、座って﹂
離れた席に座ろうと思っていたのに、いつの間にかチャラピアス
達のグループに連れていかれてしまった。うぬぬ、やるな。
﹁吉祥院さん久しぶりー。この前はコイツがごめんねー﹂
﹁酷いよな、お弁当食べちゃうなんて﹂
560
﹁お嬢様って傷つきやすいのね∼。あの程度で休んじゃうんだから﹂
ショートカットがさりげなく毒を吐いたな。
﹁吉祥院さん、体調悪かったんだって。具合悪かったらすぐに言っ
てね﹂
﹁ありがとうございます﹂
妙に甲斐甲斐しいな、チャラピアス。繊細で傷つきやすい箱入り
お嬢様だと、勝手にイメージを作ったか。甘いな。チャラピアスが
罪悪感を感じていた頃、私は高級中華料理店でお父様から奪い取っ
たふかひれを食べていたよ。
しかし痩せたか⋮。最後のメディカルチェックでは確かに2キロ
弱痩せていた。ただこれって食べたらすぐに戻っちゃうんだろうな。
でも今のこのおなか周りの体型を維持できるように頑張ろう。チ
ャラピアス、モチベーションを上げてくれてありがとう。
そしてチャラピアス、君の名前はなんだったっけ?
お昼休みになり、チャラピアス達は外に食べに行った。私はいつ
ものようにお弁当だ。のんびりお弁当を食べた後は、パラパラと塾
のテキストを見る。休んだぶんは真凛先生に教えてもらう予定でい
るけど、少し予習もしておこう。
ランチから戻ってきたチャラピアスが、私にコーヒーショップの
袋を渡してきた。わけがわからず中を見ると、生ハムと野菜のパニ
ーノが入っていた。
﹁これ、この前のお詫び。良かったら食べて。吉祥院さんみたいな
お嬢様の口には、もしかしたら合わないかもしれないけど﹂
561
えーっ!ありがとう!私、これ大好きなんだよ!なんだ、いい奴
じゃないか、チャラピアス。
﹁ありがとう。あとでちゃんといただくわ﹂
パニーノをくれた人間には、笑顔の大盤振る舞いだ。チャラピア
スも嬉しそうな顔をした。
﹁梅若∼、電子辞書貸して∼﹂
ショートカットがチャラピアスを呼んだ。あぁそうだ、梅若だ。
良かった思い出せて。
チャラピアス改め、パニーノをくれた梅若君は電子辞書をショー
トカットに渡し、楽しげに携帯をいじっていた。
それからは梅若君とも少しずつしゃべるようになった。梅若君は
妙に過保護だ。荷物が重いんじゃないかとか、暑いから大丈夫かと
か。
そのたびにショートカットの目が嫉妬で燃えている。わかりやす
い。たまに﹁いいよね∼、お嬢様はちやほやされて﹂などと、嫌味
を言ってくる。実にわかりやすい。
彼らのグループは、男子3人女子2人の混合グループだ。もうひ
とりの女の子は、初日に私の隣に座っていた茶髪の男の子と仲がい
いみたいで、私のことはショートカットほど気にしてはいないらし
い。
ある日、トイレで会ったショートカットに﹁吉祥院さんっていか
にも女の子って感じだよね﹂と話しかけられた。
562
﹁私って男っぽいしサバサバしてるから、男子からも男友達みたい
に扱われちゃうんだよね∼﹂
﹁そうなの﹂
自称男っぽいサバサバ女ほど、内面がドロドロして嫉妬深いとい
うのは、女子の間では常識だ。
面倒なのでショートカットを置いてさっさと出た。
梅若君は相変わらず﹁暑さには気を付けてね﹂﹁髪の手入れ大変
?﹂などとやたら心配してくる。
ある時、なんでそんなに心配してくるのか尋ねてみたら、梅若君
は目を輝かせて、﹁俺の愛するベアトリーチェに、吉祥院さんはそ
っくりなんだ!﹂と言ってきた。
ベアトリーチェとは誰だとさらに聞いたら、携帯の待ち受けを見
せてくれた。
犬だった。
﹁ほら、可愛いだろ?アメリカン・コッカー・スパニエルでね、つ
ぶらな目が可愛くて可愛くて。でさ吉祥院さんの髪型って、俺のベ
アトリーチェにそっくりなんだよ。初めて後ろからその髪を見た時、
ベアトリーチェだ!って思ったもんね。うちのベアたん、マジ天使﹂
梅若君の愛犬は、頭にリボンを付けたくるくるウェービーな長毛
種だった。
梅若君はそれから、頼んでもいないのに可愛いベアたんの写メを
次々に見せてくれた。元気に走るベアたん。転がるベアたん。眠る
ベアたん。1枚1枚どれだけ可愛いかを力説してくる。
梅若君は犬バカだった。
563
﹁ベアトリーチェは毛が長いから絡まりやすいんだ。毎日しっかり
ブラッシングしているんだけどさ。吉祥院さんってその髪、どうや
って手入れしてる?ベアたんはこの縦ロールを維持するのが大変で﹂
梅若君改め犬バカ君は、私に同じ長毛種としてアドバイスをして
欲しいらしい。犬バカ君、私はこれでも人間だ。
﹁⋮梅若君は本当に犬が好きなのね﹂
﹁うん。これ見てよ!﹂
自慢げに自分の耳のシルバーピアスを指差す犬バカ君。よく見た
ら、そのピアスは犬の肉球マークだった。
本物の犬バカだった。
﹁これが一番気に入ってるんだけど、ほかに骨のピアスもあるんだ
ぜ。見たい?今度付けて来ようか?﹂
正真正銘の犬バカだった。
﹁私は犬ではありませんけど、髪は絡まないようにサロンで薦めら
れた目の粗いブラシを使っていますわね﹂
﹁あ、俺のベアたんも専用のブラシを使ってるよ﹂
﹁私は犬ではありませんけど、最低でも月に一回はヘアサロンでト
リートメントをしてもらっていますわね﹂
﹁俺のベアたんも月一でトリミングしてもらってる!﹂
⋮いい加減、犬と私を切り離せ、犬バカ君。
﹁アメリカン・コッカー・スパニエルは太りやすいから、運動と食
べ物に気を付けないといけないんだ﹂
564
同族だ!
家に帰ると、鏑木夫人からお茶のお誘いがきていた。
565
92
⋮⋮行きたくない。
鏑木家と関わりたくないというのももちろんだけど、今なら絶対
に断食の話題が出るはずだし。みんなの前で断食行きましたって発
表されるって⋮⋮ないわー。
一応お茶会の名目は、息子と同世代の子供達と交流したいってこ
とで、ほかにも何人か誘われている人達もいるそうだから、断食さ
えなければ一対一よりは気が楽だと思えたんだけどなー。
今までも何回かこの手のお誘いはあったけど、人見知りぶって逃
げてきた。でもさすがにこの歳になったら、吉祥院家の娘としてそ
ろそろきちんと社交しないといけないよなぁ。あぁ憂鬱。
犬バカ君に自分で作った﹃らぶ♡ベアトリーチェ!﹄という写真
集を無理やり見せられたり、鏑木家訪問に張り切ったお母様に、服
だ髪だエステだと連れ回されている内に、お茶会の日がやってきて
しまった。
気楽なお茶会ということなので、手土産はお花とチョコレートだ。
しかしこのチョコレートはただのチョコレートとは違う。つい先日、
日本に上陸したばかりのフランスの新進気鋭ショコラティエのお店
のものなのだ。実は甘党の鏑木なら食いつくかもしれないと思った
ので。
初めて訪れた鏑木家に緊張しながらも笑顔の鏑木夫人に出迎えら
れ、、庭に面した広間に案内されると、すでにそこには何人かの招
待客が来ていた。ほとんどが瑞鸞生でピヴォワーヌメンバーの顔も
あったので、とりあえずホッとする。もちろん鏑木と円城もいた。
566
﹁麗華さん、初めて会う方もいらっしゃるかしら?ぜひ紹介させて
ね﹂
鏑木夫人は一通り私に顔ぶれを紹介すると、新たな来客を迎えに
行った。
のうぜんさらら
私はとりあえず、顔見知りの人のそばに寄ってみた。同級生であ
り、ピヴォワーヌのメンバーでもある凌霄讃良様だ。
讃良様はピヴォワーヌメンバーでありながら、普段はひとりで静
かに本を読んでいることが多く、その一種静謐で気高い雰囲気に一
目置かれている女の子だ。くだらない話などには参加せず自分の世
界を持っている讃良様には、私もなんとなく俗物と思われているん
じゃないかと勝手に気後れしているので、それほど親しくはない。
ただその落ち着いた物腰に、落ち着きのない私は少し憧れている
んだけど。
そんな讃良様が、鏑木家のお茶会にやってくるとは意外だ。ピヴ
ォワーヌのサロンでも、鏑木と親しそうな素振りを見せていなかっ
たし、鏑木、円城コンビに興味があるようには見えなかったから。
もしかして私と同じで両親にせっつかれて仕方なく来てるのかな?
﹁讃良様、ごきげんよう。讃良様が今日いらしているなんて知らな
くて。驚いてしまいましたわ﹂
﹁ごきげんよう。麗華様こそ珍しいわね、鏑木家に来るなんて﹂
﹁ええ。実は今日初めて伺わせていただいたの。讃良様は?﹂
﹁私は時々伺わせていただいているのよ。鏑木家の所蔵する本を拝
見させていただきにね。鏑木会長は稀覯本の収集家なの﹂
﹁まぁそうでしたの?!﹂
あの素敵な鏑木パパの趣味が本だったとは!あぁっ、もっと本を
読んでおけば良かった!稀覯本の世界なんて全く知らない!
567
でもなんだかとっても高尚な趣味!重厚な書斎で皮の装丁の本を
読む鏑木パパ。似合いすぎる!
うちの狸の趣味はなんだ?!老眼鏡集めか?!
﹁鏑木会長は時間が空けば自ら稀覯本を探し求めてヨーロッパ中を
回るのよ。それだけの労力を惜しまないからこその、あの素晴らし
い所蔵コレクションなのよ!﹂
﹁そうですの﹂
﹁そうよ!特にユイスマンスの稀覯本なんて、感動で体が震えたわ
!﹂
﹁⋮まぁ﹂
普段冷静沈着な讃良様がこんなに熱く語るなんて、初めて見た。
確かにいつも本を読んでいる人だったけど、ここまで思い入れがあ
ったとは。なんだか肉球ピアスを自慢してきた人に通じるものがあ
る⋮。
讃良様はフランス文学が特にお好きらしい。私の乏しい知識を総
動員して、なんとかコクトーとワイルドの名前をひねり出したら、
目を輝かせた讃良様に次々と題名を列挙され内容をさらに熱く語ら
れた。
うん、讃良様、話しながらどんどん迫ってくるのはやめようか。
そこへ鏑木夫人が、セミロングの毛先を緩く巻いた女の子を伴っ
て戻ってきた。巻きが甘いな。
まいはまえま
﹁こちらは百合宮に通う舞浜恵麻さんよ。みなさんよろしくね。さ
ぁ、では全員が揃ったので始めましょうか!﹂
こうして鏑木夫人主催のお茶会は始まった。
鏑木は母親の前だからか、いつにも増して口が重い。隣で必死に
568
話しかけている舞浜さんにも必要最小限の返事しかしていない。そ
りゃあ高校生にもなって母親と一緒にお茶会って、よく考えたら結
構な罰ゲームだよね。しかも今日は優理絵様もいないし。
今、優理絵様と愛羅様は夏休みを利用して、イギリスにホームス
テイに行っている。
きっと鏑木も優理絵様と一緒にホームステイに行きたかったんだ
ろうなー。
そんな鏑木がテーブルの上のチョコを一粒取って、口にした。そ
して少し驚いた顔をした。やった!
今鏑木が食べたチョコは何を隠そう私が持参したものなのだ。ど
うだ、おいしいでしょう!
その息子の様子を目敏く見つけた鏑木夫人が、﹁それは麗華さん
が持ってきてくれたのよ﹂と声をかけた。
﹁ふーん⋮。これどこの?﹂
私はお店の名前を教えてあげた。すると﹁日本に出店してたんだ
⋮﹂と呟いた。詳しいな。
﹁鏑木様はチョコがお好きなのですね?﹂
﹁ショコラは嫌いじゃない﹂
あ、ショコラね。そうですか、すみませんね、チョコなんて庶民
的に呼んじゃって。
﹁麗華さんはこの前、お母様と一緒に鏑木グループのホテルにも泊
まってくれたのよね。どうだったかしら、うちのホテルは﹂
﹁はい。オリジナルアメニティがとっても素敵で使うのがもったい
ないくらいでした。それと庭園が夜ライトアップされて、幻想的で
したわ﹂
569
﹁まぁありがとう!気に入ってくれて嬉しいわ﹂
﹁吉祥院さん、鏑木グループのホテルに泊まったの?﹂
そこへ円城が会話に入ってきた。
﹁えぇまぁ⋮﹂
﹁断食したんだって。ダイエットのために﹂
鏑木ーーーー!!
やっぱりあんたは知っていたか!そしてここでバラすか!
なんという無神経!なんというデリカシーのなさ!
乙女心を全くわかっていない!
﹁断食?﹂
﹁うちのホテルのプランのひとつ﹂
﹁へぇ、吉祥院さん断食したんだ⋮﹂
円城が笑いを堪えるような顔をした。周りも断食に興味津々だ。
これじゃ自分でデブだと認めたようで恥ずかしいっ!
﹁あら断食と言ってもダイエットだけではなく、内臓を休ませるデ
トックス目的もあるのよ。麗華さんは痩せているもの、ダイエット
なんて必要ないものねぇ﹂
鏑木夫人がフォローをしてくれた。でもみんなきっと信じていな
い。
﹁麗華さんはお母様の付き添いでいらしたの。ご両親ととっても仲
がいいのね。吉祥院会長は毎年麗華さんから、手作りのバレンタイ
ンチョコをもらっているそうよ﹂
570
狸!またもや余計なことを!
﹁やっぱり女の子はいいわねぇ。男の子なんて本当に可愛げがない
んだから﹂
母親の言葉に鏑木がうんざりとした顔をした。
﹁雅哉様は手作りチョコは受け取らない主義だって聞いていますけ
ど、私は今お菓子の学校に通っているので、ぜひ一度食べてもらい
たいわ!﹂
舞浜さんが話に割り込んできた。私を見る目がライバル視?
﹁いらない。俺は素人が作った中途半端にまずい手作りより、プロ
が作った完璧な市販品が好きだ﹂
舞浜さん、撃沈。
鏑木は言葉をオブラートに包むという技術を学ぶといいよ。
その後は、私に断食体験の話を聞いてくる人達に開き直ってしっ
かり答え、ついでに﹁最近友人に誘われて、座禅も行きましたわ﹂
と言ったら、ピヴォワーヌの先輩に﹁えっ、麗華さんてそっちの人
?﹂と言われてしまった。
円城は背中を向け、声に出さずに大笑いしていた。その背中に警
策するぞ。
私の話を聞いて、自分も一度断食をしてみたいと言う人達も出て、
帰りに鏑木夫人からは﹁麗華さんのおかげで盛り上がったわ。ぜひ
またいらしてね!﹂と声をかけられた。私はずいぶん身を削るはめ
571
になりましたが⋮。
舞浜さんには思いっ切りフンッとそっぽを向かれた。面白いなぁ。
精神的にぐったり疲れて家に帰ると、待ち構えていたお母様にお
茶会の話を聞かれたので、断食ダイエットをした女として出席者に
認知されたと話したら全身でがっかりを表現された。
いやいや、半分はお母様の責任ですから。、
572
93
芹香ちゃんから別荘お泊り計画の連絡があった。嬉しい!
実は少しだけ心配していたんだけど、ちゃんと私も頭数に入って
いたみたい。良かった。疑心暗鬼になっちゃったよ。
私の家の別荘を使ってもいいよと言っておいたんだけど、違う子
の別荘に行くことに決まったみたい。 あぁ、楽しみだなぁ。
﹁吉祥院さん、今日はずいぶんご機嫌だねー﹂
塾に行くと、梅若君が私の顔を見てそう言ってきた。どうやら私
はひとりで笑っていたらしい。
﹁ええ。友達と泊まりに行く約束をして﹂
﹁へーっ、いいじゃん!海?﹂
﹁いえ、避暑地ですわ﹂
﹁おぉっ!さすがお嬢様。海は行かないの?夏といえば海でしょう
!﹂
﹁そうですねぇ。梅若君は海が好きなんですか?﹂
﹁もちろん!今年も言ったよ、海!ビキニの女の子達サイコー!﹂
﹁⋮あぁそうですか。梅若君はスタイルの良い女の子が好きなんで
すか?﹂
﹁まぁね!男のロマン、ボンキュッボン!俺のベアたんが人間の女
の子だったら、絶対小悪魔セクシー系悩殺美少女になってるね!吉
祥院さんもそう思うだろ?﹂
﹁そうですね﹂
﹁だよなー。どっかにいないかな?ベアたんみたいな女の子!﹂
573
⋮あんた、私がベアたんにそっくりだと言っていなかったか?髪
か、髪型のみか。私は小悪魔でもセクシーでも悩殺美少女でもない
か。
せっかく犬の形の可愛いチョコレートを見つけたから持ってきて
あげたのに、絶対にこいつにはやらない。
へらへら笑う今日の犬バカ君の耳には、シルバーの骨が光ってい
る。
トイレに行くと、ショートカット達が後から入ってきた。犬バカ
君と仲良く話すようになってから、余計に私を見る目がきつくなっ
てきている。この塾には夏期講習が終わってからも通おうと思って
いるので、このままでは少し面倒だ。そろそろどうにかしないとい
けないかな。
﹁吉祥院さんってすっかり梅若と仲いいねー。てか梅若としかしゃ
べんないけど﹂
来た。
﹁私は人見知りでなかなか自分から話しかけられなくて。本当は森
山さん達とも仲良く出来たらなって思っているんだけど﹂
﹁へぇ∼﹂
森山さんとはショートカットの名前だ。
ショートカットは私の言葉を全く信じていないらしい。
鏡越しに疑わしげな目で見てきた。
﹁瑞鸞でも友達は女子ばかりなので﹂
574
﹁へーそうなんだぁー。私はてっきり吉祥院さんは梅若を狙ってる
とばかり思っていたけどぉ∼?﹂
お、直球できたか。
﹁まさか。私、好きな人いますし﹂
だから貴女のライバルではありませんよ。
﹁えっ!そうなの?!誰?誰?瑞鸞の人?﹂
ショートカットが餌に食いついた。
誰?⋮⋮誰にしよう?
もちろん好きな人なんていない。私が犬バカ君を好きでもなんで
もないというアピールのために、適当に言っただけだ。
誰ってことにしておこうかな。あまり身近な人をイメージすると、
どこで横のつながりがあるかわからないし。もちろん鏑木、円城な
んて論外。
﹁兄の友人なんです。私が一方的に憧れているだけなんですけどね﹂
﹁へぇっそうなの!どんな人?﹂
﹁大人でとっても素敵な人なんです。私の家に遊びにきた時は可愛
いブーケを持ってきてくれたりして。小さい頃からの憧れの人なん
ですわ﹂
﹁へぇーっ﹂
﹁なになに、吉祥院さんは年上がタイプなの?﹂
もうひとりの女子、榊さんも食いついてきた。
﹁ええ。優しくて落ち着いた、包容力のある人が好きです﹂
575
たとえばお兄様のような。
﹁そうなんだ。吉祥院さんは年上がタイプかー。じゃあ梅若とは全
然タイプが違うじゃん。あいつ落ち着きないもんねー﹂
ショートカットの態度が軟化した。
﹁梅若君はどちらかというと弟タイプですものね﹂
﹁そうそう。あいつは本当に世話が焼けるからさー﹂
﹁吉祥院さんの好きな人ってことは、やっぱりセレブ?﹂
﹁セレブというのかわかりませんけど⋮、ある企業のご子息ではあ
りますね﹂
﹁うわー、やっぱりお嬢様が相手にするのはセレブ男子だよね。梅
若じゃ話になんないよね∼﹂
ショートカットの中で私へのライバル疑惑がかなり薄れてきたよ
うだ。
﹁それに梅若君はボンキュッボンの小悪魔美少女がタイプみたいで
すわ。私にもどこかにそんな女の子がいないかなって言ってました﹂
﹁何、あいつそんなバカなこと言ってんの?でもそっか。ボンキュ
ッボンね﹂
ショートカットは私の全身をジッと見て、にっこり笑った。
﹁梅若も本当に失礼だよねー。吉祥院さんもあいつに困ったら私に
言って。助けてあげるから﹂
﹁ええ、ありがとう﹂
576
どうやら私のささやかな体型に安心したらしい⋮⋮。
自称サバサバ女は、自称姉御肌であったりもするので、こちらか
ら頼ると結構簡単に転がってくれる。女子の誰かと揉めたりした時
には、結構な戦力になってくれたりもするし。ただし揉めた相手が
男子だとすぐに裏切って男子側に付いちゃうけどね。
﹁私、おいしいチョコレートを持ってきているんです。良かったら
食べません?﹂
﹁あ、私チョコ好き﹂
﹁私もセレブチョコ食べたい﹂
まだまだ綱渡りだけど、とりあえずショートカットのライバル認
定を外すことに成功。
戻って架空の私の好きな人の話をしながら女子だけでチョコを食
べていたら、犬バカ君が﹁ベアたんチョコ!﹂と騒いできたので無
視した。
ダメ押しで﹁私の髪型が梅若君の愛犬にそっくりなんですって。
いつも愛犬と比べられているの。梅若君の愛犬のほうが毛艶がいい
って言われたわ﹂と話したら、﹁なにそれ。ちょっとー梅若!吉祥
院さんに失礼でしょ!﹂とショートカットが嬉々として犬バカ君に
絡みに行った。
チョコを食べていた榊さんがニヤリと笑って﹁吉祥院さん、やる
ね﹂と言った⋮。
やってきましたよ、軽井沢!
参加メンバーは私を入れて6人。別荘は菊乃ちゃんの家の物だ。
私は大宮あやめちゃんと同室になった。窓を開けると東京より湿
気がなくて涼しい。
577
きゃあきゃあはしゃぎながら荷物を整理すると、リビングに行っ
てこれからの計画を話し合った。
食事は朝は管理人さんが持ってきてくれるそうなのでそれを食べ
て、それ以外は自炊と外食をすることに決まった。
その後、みんなでメイン通りに遊びに行って、ジャムなどのお土
産を買ったりスイーツを食べたりして楽しんだ。
夕食も外で済まして帰ってくると、リビングにお菓子を用意して
のおしゃべり大会だ。
学院の噂話などをしていると、当然話題はあのふたりのことにな
る。
鏑木様と円城様、貴女はどっち派?
﹁私は当然鏑木様よ。初等科からの生粋の鏑木様派﹂
﹁私は優しい円城様のほうがいいかなぁ。でももちろん鏑木様も好
きよ!﹂
﹁ちょっと、図々しいわよ!﹂
﹁でも最近、中等科上がりや高等科上がりがおふたりに近づこうと
しているのが腹立つわ﹂
﹁そうよ。私達のほうがおふたりを好きな歴史は長いのに﹂
さっき買ってきたブルーベリージャム、食べちゃおうかなぁ。で
も夜だから我慢したほうがいいか。でも一口なら⋮。
﹁麗華様はどっち派?﹂
﹁えっ、なにがですの?﹂
﹁やだ、聞いていなかったんですか?鏑木様と円城様ですよ。麗華
様は鏑木様ですわよね﹂
﹁あら麗華様は円城様と仲がよろしいわよ﹂
﹁それだったら鏑木様とも親しげですわ﹂
578
とんでもない誤解だ!
﹁私はどちらの方とも特に仲は良くありませんわよ。妙な誤解をな
さらないで﹂
﹁あらだって、円城様に時々呼び出されていますでしょ。ほかの女
子にはそんなことしませんもの﹂
﹁⋮あの、私、麗華様が鏑木家のお茶会に招かれたって聞いたんで
すけど本当ですか?﹂
どっからの情報だ!
みんながきゃーっ!と騒いだ。
﹁素敵!鏑木家公認ですわね!﹂
﹁麗華様!私悔しいですけど、麗華様なら応援しますわよ!﹂
﹁ちょっ⋮!﹂
﹁麗華様ったらなんでそんな大事なことを隠していたんですの?﹂
恐ろしいことを言うのはやめてくれ!
﹁みなさん落ち着いて!変なことを言わないでくださいな﹂
﹁え∼っだって∼﹂
﹁ねぇ﹂
﹁鏑木様には心に決めた方がいらっしゃるでしょう?﹂
﹁あ⋮﹂
みんなが互いの顔を見合わせた。
鏑木が優理絵様を長年好きなのは公然の事実だ。
みんながなんとなく静かになったので、今日はそのまま部屋に戻
って寝ることにした。
579
次の日の朝、あやめちゃんに﹁麗華様、塾に通われているそうで
すけど、勉強は大変ですか?﹂と聞かれた。
え、突然なに?
580
94
夏休みも後半になり、毎年恒例のピヴォワーヌのサマーパーティ
ーの時期がやってきた。
華やかで楽しいんだけど、毎年行ってると最初の感動がなくなっ
てしまったな。お兄様も卒業してしまったし。
お母様は私を着飾るのが大好きなので、パーティーがあるとやた
ら張り切ってドレス選びに私を連れ回す。
今年はシフォンの生地が折り重なったパウダーピンクのドレスに
決まった。私としては少し可愛すぎるのではないかと思ったけど、
お母様はとても気に入ったようでご機嫌だ。
この機嫌の良い時がチャンスかと、さりげなさを装って話を振っ
てみた。
﹁ねぇお母様。夏だし私もヘアスタイルをイメージチェンジしよう
かと⋮﹂
﹁あらそれはダメよ。お母様は麗華さんのその髪型が大のお気に入
りなんだもの﹂
⋮⋮ですよねー。わかっていましたよ、言ってみただけです。
﹁お母様ね、小さい頃からジュモーのビスクドールに憧れていたの。
娘をジュモーの人形のように可愛く飾り立てるのが夢だったのよ﹂
いや∼、ジュモーは無理があるでしょう。だってあれは金髪碧眼
だもの。根本から違うぞ。良かった、金髪に染められてカラコン付
けさせられなくて⋮。
しかしアンティークドールみたいな子って実際にいたら怖くない
581
か?生きた人形ってことでしょ。絶対怖いよ。そもそも私、人形っ
て昔から凄く苦手なんだけど。
だって精巧に出来ている人形ほど、夜中動きそうじゃない?特に
日本人形⋮。
吉祥院家には、私が生まれた時に買ってもらった新しいお雛様の
ほかに、代々伝わる古いお雛様がある。これがまた年代物のぶん、
物凄い迫力なのだ。
毎年出すたびに、あれ?こんなに目が細かったっけ?口元がニュ
ッと笑ってたっけ?と思ってドキドキしている。なんとなく、毎年
顔が違う気がするのだ。
それにお雛様のメンテナンスをしてもらっている人形師さんが、
時々髪を切っているのを知っている。⋮⋮伸びているのか?怖くて
絶対に聞けないけど。
私の部屋に飾るのだけは全力で阻止しているけれど、お雛様が飾
られている部屋に行くと、見られている気がして背筋がぞくぞくす
る。
あのお雛様なら、夜中に徘徊してても不思議じゃない。古い物に
は魂が宿るっていうし。
あ、やめよう。こんなことを考えていたら今日の夜、苦しくて目
が覚めたら胸の上にお雛様が乗っているなんてことが起こるかもし
れない。目が合ってニタリと笑われたら、一瞬で総白髪になりそう
だ。
⋮しかしジュモーか。
仕方ない。お母様の少女趣味を叶えるために、もう少しこのロコ
コヘアを我慢するかな。
サマーパーティーに行くと、すでに鏑木と円城の周りには女の子
達がひしめいていた。
582
今年は優理絵様がホームステイで欠席なので、てっきり鏑木も来
ないかと思っていたけど、そういうところはきちんとしているのね。
私はほかの出席者と挨拶を交わしながら飲み物を片手に庭に出た。
夕方で風も出てきたけれど、まだ少し蒸し暑い。それでも私は毎
年、ここの薔薇のアーチが一番のお目当てなのだ。
初めて参加した時には、お兄様とこの鐘を鳴らしたなぁ。懐かし
い。あの時の写真は今も部屋に飾ってある。
そのまま薔薇のアーチを見ていたら、たぶん初等科のプティの子
であろう、小さな女の子と男の子が鐘の近くでうろうろしていた。
あ、もしかして
﹁鐘を鳴らしてみたいの?﹂
私が声をかけると、小さな子供達がびっくりして振り向いた。ふ
たりはしっかり手を繋いでいて、なんだかとっても微笑ましい。
﹁あの、いえ⋮﹂
ふたりは目を見合わせてどうしようか迷っているようだ。
﹁私も前に鳴らしたことがあるのよ。とても楽しかったわ。大丈夫
よ、私がここにいるから、ふたりで鳴らしてごらんなさい﹂
﹁⋮いいんですか?﹂
﹁もちろん!鐘は鳴らすためにあるのよ!﹂
ふたりは一緒にロープを持つと、遠慮がちに一度鳴らした。
﹁あら、もっと勢いよく鳴らさないと、カランカランってきれいな
音が出なくてよ?﹂
583
私が焚き付けると、ふたりは力を込めて鳴らし始めた。私は持っ
ていたデジカメでふたりの写真を撮った。
その鐘の音にギャラリーが集まり始め、子供達は顔を赤くしなが
らも嬉しそうに笑っていた。
﹁もう満足した?﹂
﹁はいっ!ありがとうございました!﹂
﹁ありがとうございました﹂
ふたりの後から、楽しげに鐘を鳴らす人が出てきた。なんだかデ
ジャヴだなぁ。
私は写真を撮ったので後日学院に届ける約束をして、ふたりと自
己紹介をした。ふたりは同級生で仲良しなのだそうだ。いいなぁ、
私にはそんな甘酸っぱい初等科の思い出なんて一個もないよ。
その後少しだけおしゃべりをして、ふたりはホールに戻って行っ
た。
﹁ありがとうございました麗華お姉様﹂
⋮⋮、素敵!!
女の子が最後に振り返り、はにかんだ笑顔でもう一度お礼を言っ
てくれた。
麗華お姉様
考えてみると、私をお姉様と呼んでくれる子はほとんどいない。
たまに璃々奈がわざと呼ぶくらいだ。
なんか感動だわ。年下の子に慕われるってあまりないから。
お姉様
の余韻に浸っていると、いつの間にか円城が隣に
﹁こんばんは、吉祥院さん﹂
私が
いた。気配に全く気づかなかった!忍びか!
584
﹁ごきげんよう円城様﹂
愛想笑いで返す。こいつはなんとなく腹黒いから油断がならない。
﹁今日は鐘を鳴らさないの?﹂
﹁えっ﹂
﹁昔、鳴らしていたでしょう。確かお兄さんと﹂
なぜ知っている!
﹁雅哉が羨ましそうに見ていたからね﹂
なんてこった!ワルツだけではなく、あれも見られていたか!そ
して私の心を読むな!
﹁今日のドレス、とても似合っているね。断食が成功して良かった
ね﹂
﹁⋮っ、ありがとうございます﹂
まだ忘れていなかったか⋮。けっ、嫌味ったらしい。
﹁あれですっかり雅哉のお母さんに気に入られたねぇ。今度は晩餐
会に招待したいって言ってたよ﹂
﹁え﹂
晩餐会、冗談じゃない!お茶会よりハードルが高い。
﹁嬉しくないんだ﹂
﹁え、いえ、光栄ですわ﹂
585
まずい、顔に出ていたか。
﹁ふぅん﹂
こいつの見透かすような目が苦手だ。私の周りには心眼の使い手
が結構いる。
﹁風も出てきましたし、私、そろそろ戻りますわね﹂
早足で逃げる私の後ろで、円城が笑っている気がした。
円城って、あのお雛様みたいな得体のしれない怖さがあるな⋮。
586
95
新学期が始まり、夏休み前に受けた模試の結果が発表された。高
偏差値の生徒のみが貼り出され、若葉ちゃん含め偏差値稼ぎ要員の
特待生達の中に、例のふたりと同志当て馬はしっかりと食い込んで
いた。凄いな∼。
若葉ちゃんは模試の結果を嬉しそうに見ていた。良かったね。
みなさんのおかげで、瑞鸞の体面が保てております。感謝、感謝。
そしてその後にやってくるのが次期生徒会長、副会長選挙だ。
これでとうとう友柄先輩は引退してしまうと思うと、また寂しさ
がこみあげてきた。
選挙といっても立候補者も多くないし、大体は前生徒会役員の生
徒が当選するので、それほど白熱するものでもない。
今回もほぼ下馬評通りの結果になった。
新しい生徒会長は友柄先輩ほどのカリスマ性はないけれど、そこ
そこのリーダーシップを発揮しそうな2年生の先輩で、副会長はメ
ガネをかけた真面目そうな先輩だった。普通、こういう場合は副会
長ポジションは腹黒メガネと決まっているのだけど、今度の副会長
はメガネはかけていても裏のないただの実直メガネさんのようだ。
そして同志当て馬も1学期に友柄先輩に言われていた通り、1年
生から生徒会入りすることが決まった。
﹁では体育祭の競技参加者を決めまーす﹂
587
新生徒会発足後の一番最初の大きなイベントは体育祭だ。新役員
達は慌ただしくて大変だろうと思うけど、すでに前期のノウハウを
持っている人達が多いから平気なのかな。
私も、高等科での体育祭は初めてだから少しドキドキする。ボロ
を出さないようにしないと。でもこのクラスは体育祭に熱い生徒が
いないからミスをしても大丈夫そうだ。
﹁じゃあ次、選抜リレー﹂
佐富君の進行で、参加者を自薦他薦で次々に決めていく。全員必
ず最低でも一種目は出ないといけないので、楽な競技は立候補者が
多い。私は玉入れの常連だ。
﹁じゃあ次は騎馬戦﹂
男子達の顔が一瞬強張った。しかし、伝説の騎馬戦皇帝はすでに
引退宣言をしている。今回は中等科の時よりは全然楽なはずだ。
﹁皇帝が出ないなら⋮﹂
男子達の中でも運動神経のいい子達がざわざわと盛り上がり始め
た。誰が上に乗るか、どのクラスの誰が強敵かなどを話し合ってい
る。
﹁水崎は絶対今年も出てくるだろうな﹂
﹁あいつは強いぞ。去年、最後まで残って皇帝とやり合ったからな﹂
﹁佐富、お前も出ろよ!﹂
﹁うーん、どうしようかなぁ﹂
男子達は楽しげにやいのやいの言っている。この学院の男子は本
588
当に騎馬戦が好きだ。
なんとか我がクラスの騎馬戦精鋭部隊を選び、次の種目に移った。
﹁次は全学年の選抜生徒によって行われるダンスですわね。今年の
演目はカドリールです﹂
私が種目を読み上げると、何人かの生徒が私の顔をバッと見て慌
てて逸らした。え、なに?
ダンスは運動神経の悪い生徒の救済競技でもあるので、立候補す
る生徒達がすぐに出た。でもカドリールってどんどんテンポが速く
なるけど大丈夫なのかな?
﹁あの⋮吉祥院さんはダンスに出ないんですか?﹂
ひとりの男子が遠慮がちに手を挙げた。
﹁ええ。私はほかの競技に出ますから﹂
﹁⋮そうですか﹂
その男子は残念そうな顔をした。え、なんでそんな残念そうな顔
をしてるの?あれ?ほかにも同じような顔をしている男子がいる。
どうして?
⋮⋮もしかして、私と踊りたかったとか?
まぁもちろん、お嬢様のたしなみとして私もカドリールは一応踊
れますけど?
シャルウィダンス?されたら考えないこともありませんが?
⋮⋮今度こそ私のモテ期が来るのかもしれない。
589
私は二人三脚にも出るので、その練習に参加することになった。
相手は生駒さんだ。
﹁私、麗華様にご迷惑かけないように頑張ります!﹂
﹁こちらこそよろしくね﹂
掛け声をかけながら校庭をとっとこ走る。速さより転ばないこと
が重要なので息を合わせるために何度も練習をすることが大事だ。
校庭ではほかに、体育祭の花形競技であるリレーなどの練習も行
われている。
運動神経に自信のある蔓花さんが走っていた。さすが速い。外部
生にも俊足がいるようで、競うように走っている。いいなぁ、足の
速い人達って。
そこへ女の子達のきゃあっ!という黄色い声がして、見るとトラ
ックを走る鏑木と円城がいた。速い!
鏑木は今回、騎馬戦に出場しないかわりにリレーと短距離走に懸
けているらしい。物凄い速さだ。しかしゴール直前で円城に抜かさ
れてしまった。
﹁秀介!もう一本!﹂
﹁え∼っ﹂
﹁行くぞ!次!﹂
円城は休む暇もなく付き合わされている。体育祭バカが親友だと
大変だな。
私は休憩も終わり、また二人三脚の練習を再開した。
590
体育祭の練習ですっかり足が筋肉痛だ。
そんな話をしながら友達のみなさんと廊下を歩いていたら、アホ
ウドリの鳥男君こと、桂木少年がやってきた。
﹁あっ!暴力女!﹂
﹁あら、アホウドリの鳥男君。中等科生が高等科になんのご用?﹂
﹁お前には関係ないっ!﹂
﹁あ、そう﹂
﹁麗華様になんて口の利き方を!﹂
相変わらず生意気な奴だ。
﹁麗華様、アホウドリというのは?﹂
﹁この子のあだ名ですの。私がつけました﹂
﹁あらぴったりですわ﹂
私の取り巻きがほほほと笑った。
すると鳥男君が顔を真っ赤にして
﹁うるさいっ!お前なんか、お前なんかネジネジあたまのくせにっ
!﹂
﹁ネッ、ネジネジ?!﹂
あ⋮、目眩が。
﹁麗華様!﹂
﹁麗華様!お気を確かに!﹂
ネジネジ⋮。私のロココがネジネジあたま⋮。
591
﹁なんて失礼な!麗華様の髪はそこまでねじれていないわ!﹂
﹁そうよ!このアホウドリめ!﹂
﹁⋮よろしくてよ、みなさん﹂
面と向かってこの髪型に暴言を吐かれたのは、たぶん初めてなの
で、動揺してしまった。
﹁所詮はおバカさんの言うことですもの。私は全然気にしませんわ﹂
﹁さすが麗華様。心が広いわ﹂
﹁ほほほ﹂
私はバカは放っておいてそのまま通り過ぎて行った。バカは後ろ
でぎゃあぎゃあと叫んでいたけれど。
⋮⋮あいつ、後で絶対報復する。
592
96
昼休みに体育祭の用事で生徒会室に行くと、引退したはずの友柄
先輩がいた。
﹁友柄先輩!﹂
﹁あれ∼吉祥院さん、久しぶり!﹂
うきゃっ!相変わらずかっこいい!
﹁今日はどうしたの?あぁ、校庭の使用許可ね﹂
﹁はいっ。先輩こそどうしたんですか?﹂
﹁ん?俺はお手伝い。まだ新体制になって間もないからね﹂
﹁そうなんですか﹂
当分は生徒会の用事はすべて私が引き受けよう。
﹁吉祥院さんは体育祭、どの種目に出るの?﹂
﹁私は毎年玉入れです。それから二人三脚にも出ますよ﹂
﹁そっか、怪我しないようにね﹂
﹁はいっ。友柄先輩は何に出られるんですか?﹂
﹁俺?俺は騎馬戦﹂
騎馬戦!
そうだ!友柄先輩こそ、あの伝説の騎馬戦バカにあと一歩まで迫
ったつわものじゃないか!あの一戦のおかげで、皇帝は次の年に兵
法まで学んできちゃったんだ。
そんな友柄先輩が出るとなると、皇帝は引退宣言したことを後悔
593
するだろうなー。
﹁私、応援してますわね!﹂
﹁嬉しいけど、自分のクラスを応援しなくていいの?﹂
いいの、いいの。初恋の君の勝利のためなら、クラスなんて心の
中でいくらでも裏切るよ。
﹁大丈夫です。ですから友柄先輩、絶対に勝ってくださいね!﹂
私はグッと握りこぶしを作った。
﹁よし!吉祥院さんが応援してくれるなら頑張っちゃおうかな。あ、
そういえば、お前も出るんだっけ?騎馬戦﹂
友柄先輩が私の後ろに声を掛けた。
振り向くと同志当て馬が立っていた。
﹁あっ、同志⋮⋮たの?水崎君﹂
あぶなーい!ナイスフォロー、私!
いつも頭の中で呼んでた癖が出そうになった。本人を目の前に﹁
同志当て馬﹂なんて言ったら殺される。気をつけよう⋮。
そんな同志当て馬は、私を訝しげに見た。
﹁なに、今の﹂
﹁えっ?なんのことでしょう?﹂
あ、思わず目が右上向いちゃった。
益々怪しいといった顔で見てくる同志当て馬。まずい⋮。
594
﹁有馬。有馬も騎馬戦出るんだろ﹂
友柄先輩が同志当て馬の意識を自分に向けてくれた。ホッ。
﹁あ、はい。出ます﹂
あー、やっぱり。
﹁私のクラスでも、水崎君は強敵だと噂していましたわ﹂
﹁へぇ、有馬って強いんだ。じゃあ気合入れないとなー﹂
﹁友柄先輩ファイト!﹂
﹁おーっ!﹂
私たちの盛り上がりに同志当て馬は困惑顔だ。そして持っていた
紙を友柄先輩に見せながら、
﹁⋮盛り上がっているところすみませんが、友柄先輩、体育祭の進
行で相談が﹂
﹁うん?どれ?﹂
友柄先輩を同志当て馬に取られてしまった。だが仕方がない。同
志の話のほうが重要だ。
それからふたりはなにやら来賓の挨拶について話し始めたので、
これ以上邪魔しないように私もそろそろ失礼することにしよう。
﹁では私はこれで失礼しますね、友柄先輩。ついでに水崎君も﹂
﹁ついで⋮﹂
﹁あはは、ご苦労様﹂
私は友柄先輩の笑顔に見送られ、浮かれ気分で生徒会室を出た。
595
当て馬有馬が馬に乗る。うぷぷ、馬だらけだ。馬が三つで驫だね。
当って馬、有馬∼と心の中で歌いながら教室に戻ると、佐富君を
中心にクラスメート達が騒いでいた。
﹁佐富君、どうしたの?﹂
﹁あ、吉祥院さん。実は⋮﹂
佐富君の話によると、仮装リレーに出る女子がこの昼休み中に捻
挫をして、突然出られなくなってしまったというのだ。その女子は
今、保健室に行っているそうだ。
いわむろたかし
私のクラスではシンデレラの仮装をすることになっていて、シン
デレラは柔道部に所属する、ガタイのいい岩室崇君が女装すること
になっている。
そして捻挫をした子はネズミの仮装をして、かぼちゃを持って走
る予定だった。
﹁代役はどうする?﹂
﹁出られる女子いない?﹂
昼休みで教室にまだ戻ってきていない女子もいるし、この場にい
る女子達はあまり出たくはないようだ。まぁネズミ役だもんね。
う∼ん、仮装かぁ。
私は手を挙げてみた。
﹁よかったら私が代わりに出ましょうか?﹂
﹁えっ吉祥院さんが?!﹂
﹁麗華様が?!﹂
596
クラスメート達が驚いた表情で私を見た。
﹁ええ。私は玉入れにエントリーしていますけど、玉入れなら捻挫
をしていても出られると思いますの。だから種目を交換しましょう
か?もちろんそのまま私が玉入れにも出場してもいいですけど﹂
﹁吉祥院さん、本当にいいの?﹂
佐富君が遠慮がちに聞いてきた。仮装リレーってキワモノ競技だ
からなー。まさかこの私が出るとは思わなかったんだろう。まぁ私
もこんなハプニングがなければ率先して出ようとは思っていなかっ
たけど。
﹁かまいませんわよ。足はあまり速くありませんが﹂
私は頷いた。私の返事を聞いて佐富君が笑顔になった。
﹁じゃあ代役は吉祥院さんということで決まりだね﹂
話が纏まりかけた時に、今度は私のグループの子達が不満を言い
始めた。
﹁麗華様がネズミの格好なんてあんまりだわ﹂
﹁そうよネズミの仮装なんて麗華様に相応しくないわ!﹂
再び場がざわついた。ほかの女子達もなぜか酷いと言い出した。
いや、私は全然不満に思ってないんだけど?それに酷いといって
も元々ネズミ役だった女子もいたわけだし。
なんとか宥めようとしても﹁麗華様がネズミの着ぐるみなんて!﹂
と引かない。さてどうしようと思っていると﹁じゃあさ!吉祥院さ
んにはシンデレラをやってもらえばいいんじゃないか?﹂と、ひと
597
りの男子が提案した。するとクラスメート達もそれに次々と賛同し
始めた。
﹁吉祥院さんならお姫様役ぴったりだし﹂
﹁ゴツイ岩室に女装させて笑いを取ろうと思ったんだけど、正統派
でもいいよな﹂
私のグループの女子達も﹁シンデレラなら﹂と納得したようで、
あれよあれよと私がネズミからシンデレラに変更になってしまった。
私がシンデレラ。でもなぁ⋮。
﹁岩室!良かったな!女装するはめにならなくてさ!﹂
﹁お前もやりたくねーって言ってたもんな!﹂
シンデレラの仮装をするはずだった岩室君は友達に肩を叩かれて
いた。岩室君も﹁そうだな、ホッとしたよ﹂となどと言っている。
⋮でも私は知っている。面白がって柔道部の岩室君にシンデレラ
の仮装をさせることに決まった後、時々ドレスを試着した岩室君が
ちょっと嬉しそうだったのを。
﹁ホッとした﹂なんて言ってるけど、内心かなり落胆しているんじ
ゃないだろうか。今もちょっとしょんぼりしているように見えるし。
﹁待ってください。私はネズミでいいですわ﹂
全員がえっ?!という顔をした。
﹁シンデレラの衣装は岩室君に合わせて作られていますし、私では
身長が合いませんもの。それにシンデレラはアンカーですから、私
には荷が重いですわ﹂
﹁でも麗華様⋮﹂
598
﹁その代り、着ぐるみではなく、グレーのワンピースにネズミの耳
のカチューシャを付けて、ネズミの足型スリッパに手袋にしていた
だける?﹂
私としては着ぐるみでも全然いいんだけど、私の周りが納得して
くれなさそうなので妥協案。結構可愛くなると思うんだけど。
﹁麗華様、本当にそれでよろしいのですか?﹂
﹁ええ。無理に丈を詰めたドレスで走っても怪我をしそうですし。
それに私、岩室君の女装を楽しみにしていたんですもの!﹂
私の言葉にクラスメート達が笑った。
﹁岩室!吉祥院さんのご指名だからもう逃げられないぞ!﹂
﹁頑張れよー、女装シンデレラ!﹂
岩室君は﹁参ったなぁ﹂などと言いながらも口元が嬉しそうだ。
本当に着たかったんだな、シンデレラのドレス。
岩室君には明日、家にある未使用の化粧パレットをプレゼントし
よう。
ドレスだけじゃなくメイクもしたら、もっと喜ぶと思う。禁断の
扉の向こうから帰って来られなくなるかもしれないけど。
次の日、化粧パレットを持ってくると岩室君は﹁ええーっ!﹂と
言いながらもほとんど抵抗しなかった。ほっぺをピンクに塗って口
紅を塗っただけだけど、本人は鏡を見ながらご満悦だった。
私はそんな岩室君に、体育祭の前日に使うようにと、高級シート
パックをこっそり渡した。これを使うとお肌がつるつるになるのだ。
岩室君は目を潤ませながら﹁俺、吉祥院さんについていきます﹂と
599
言った。それは遠慮します。
女装癖のあるゴツ男子に懐かれてしまった⋮⋮。
600
97
体育祭当日、私が登校すると岩室君が小声で私を隅に呼んで、昨
日の夜にパックをしたので肌チェックをして欲しいと頼んできた。
手の甲で感触を確かめる。うん、ぷるぷるだね。褒めてあげると嬉
しそうにお礼を言って、岩室君は男子の輪の中に入って行った。一
度開いた扉は、もう閉まらないのかもしれないな。
花形競技では私はもっぱら応援係だ。友達と日焼けをしないよう
にテントに入って観戦する。あ、岩室君にも日焼け止めを貸してあ
げればよかった。
選抜リレーでは騎馬戦に出られない鬱憤をすべてここに懸けてい
る皇帝が、リレーメンバーを猛特訓したという噂通り、一糸乱れぬ
バトンの受け渡しでぶっちぎりの1位だった。なんかどこぞの軍隊
のようで怖い⋮。
1年の女子では蔓花さん達が活躍していた。これでまたしばらく
は大きな顔をしそうだな。
私が出る二人三脚の番が回ってきたので、入場ゲートに行ってペ
アの生駒さんと足を結んでいたら、同じ列に若葉ちゃんがいた。
若葉ちゃんも二人三脚に出るのか。しかも同じ組。若葉ちゃんっ
て運動神経良かったっけ?
まぁ今は他人のことよりも自分達のことだ。結構練習したので、
できれば1位を獲りたい。生駒さんも﹁麗華様、私頑張ります!﹂
と気合十分だ。
ピストルの合図で私と生駒さんはいっちに、いっちにと声を出し
ながら勢いよく走った。後ろで転ぶペアの気配がする。この組では
601
私達が1位だ!ゴールテープが見えて勝利を確信したその時、横か
らあっという間に私達を追い抜いたペアが、1位を掻っ攫っていっ
た!
あまりの衝撃に足がもつれ、たたらを踏みながらもなんとか2位
でゴールをしたら、1位の旗を持っていたのは若葉ちゃんだった。
﹁やったー!1位だ!﹂と喜ぶ若葉ちゃんの隣で、ペアの女子がま
ずいといった顔で慌てて若葉ちゃんをとめていた。
若葉ちゃんは﹁え?なんで?﹂ときょとんとしていたけど、ペア
の子になにやら耳打ちされた後、私のほうを見た。ん?
そして若葉ちゃんはそのままペアの子に引っ張られ、ほかの選手
達の中に紛れて行った。
﹁麗華様、すみません。麗華様を負けさせるなんて⋮﹂
生駒さんが悔しそうに謝ってきた。え!そんなに責任感じなくて
も!
﹁しかたないわよ。私達より速いペアがいたんだから﹂
﹁でも⋮﹂
﹁次の競技を頑張りましょう?生駒さんも玉入れに出るんでしょ?﹂
﹁はい⋮﹂
私はあまり体育祭でなにがなんでも勝ちたいと思ったことはない
んだけど、ほかの人達は違うみたいだな。
そのあと行われた大玉転がしにも若葉ちゃんは出場していて、大
玉の軌道をコントロール出来ずに、隣を走っていたクラスの大玉に
激突していた。その大玉の犠牲になったのはアフロディーテで、﹁
僕の手があーーっ!僕のバイオリン生命があーーっ!﹂と大騒ぎさ
れ、若葉ちゃんは必死で謝っていた。アフロディーテに絡まれてい
602
る間に若葉ちゃんはビリになっていた。⋮⋮合掌。
午後の部で私が出るのは仮装リレーだ。
私の衣装はグレーのワンピースにグレーのレギンス、頭に大きな
ネズミの耳を付けている。手はネズミの手袋がなかったので猫の手
袋で代用。足は安全の為にスニーカーだ。しかし片手にかぼちゃ、
片手にバトンは危ないのでかぼちゃのリュックを背負うことになっ
た。シンデレラ、王子、魔法使いと比べて、私のキャラが一番ぼん
やりしている気がする⋮。
シンデレラのドレスを着て金髪のカツラをかぶった岩室君が、私
にどうでしょうと見せに来た。ピンクの頬紅にピンクの口紅も塗っ
ている。
私は岩室君にグロスも持ってきているけど塗るかと聞いたら、﹁
ぜひ!﹂と返事をされたのでグロスを持ってくると、身長170セ
ンチ以上、柔道部所属のゴツイ岩室君が私の前に跪いて目を閉じて
唇を差し出してきた。
え、私が塗るの?
私の想像以上に乙女の階段を急ピッチで駆け上がっている岩室君
の唇に、私はラメの入ったグロスをたっぷりと塗ってあげた。うん
うん、可愛いよ。
岩室君は鏡を見ながらこっそりあひる口をしていた。戻ってこい
⋮。
仮装リレーは私の番が来ると、客席が歓声からざわつきに変わっ
た。客席を見ると気まずそうに目を逸らす人までいる。なんで?変?
芹香ちゃんや菊乃ちゃんは﹁麗華様!ご立派です!﹂と妙な声援
をくれた。
リレーの順位は1位ではなかったけれど、私達のクラスの仮装は
なかなか話題をさらったと思うのでよしとする。シンデレラも終始
嬉しそうだったしね。ラメ入りグロスはプレゼントした。
603
それからもいろいろな競技があった後、とうとう騎馬戦の時間が
やってきた。
私のクラスからは体格がいいからと岩室君も騎馬戦に参加してい
る。中身は乙女なのに大丈夫か?
人気のある騎馬がゲートから入場してくると、ギャラリーの声援
がひときわ大きくなる。1年生では同志当て馬の騎馬に女子の声援
が大きかった。副村長なのに、ヤツはモテる。なんだか悔しい。
そして一番男女の声援が大きかったのは、私の初恋の君、友柄先
輩だ。私も思いっ切り拍手をした。友柄先輩頑張って!
高等科の騎馬戦は、中等科よりも迫力があった。上級生の体格と
身体能力が中等科生とは全然違うせいだと思う。
それでも同志当て馬は検討していた。上級生相手でも互角に戦い
ハチマキを奪っていた。同志よ!村の名誉のためにも頑張るのだ!
乙女な岩室君は無事かしらと心配して姿を探したら、シンデレラ
のドレスを着て喜んでいた姿とは別人のように、うおーーっ!と雄
叫びをあげて敵に突進していた。こっちも頑張れ柔道部!
そんな中、友柄先輩の騎馬は次々に襲ってくる敵をなぎ倒し、危
おお運命の女神よ
が鳴り響きまくってるよ!
なげなく戦功を重ねている。友柄先輩、かっこいいーーっ!久々に
私の頭に
友柄先輩ばかり目で追っていたら、いつの間にか岩室君の騎馬が
負けていた。ごめんね見てなくて。あとで日焼けした肌に効く化粧
水を貸してあげるね。
同志当て馬は最後の数騎の中に残っていた。凄いぞ、さすが我が
同志!しかし友柄先輩にロックオンされて、ずいぶん粘っていたけ
れどフェイントを食らった隙にハチマキを奪われてしまった。その
時の友柄先輩の悪い笑顔に胸キュンです!
ふと思い出して皇帝の様子を窺うと、皇帝は眉間にシワを寄せ、
604
拳を固く握りしめながらジッと友柄先輩の騎馬を見つめていた。そ
の目はとても悔しそうだった。
⋮⋮だったら出ればよかったのに。なんで引退宣言なんてしちゃ
ったかなぁ?バカだなぁ。
最後は友柄先輩が同じ3年生の騎馬と戦って勝ち、今年の騎馬戦
の王者となった。
私はその雄姿に立ち上がって拍手をした。もう飛び跳ねて手も振
っちゃうぞ!
その時、友柄先輩がこちらの席を向いて、片目を瞑り笑いながら
親指を立てた。えっ!私?!
思わずきょろきょろすると、友柄先輩が私を指差した。そして私
に手を振ると、そのまま仲間達と肩を抱き合いながら去って行った。
私は幻の鼻血をプシーッと噴き出した。
605
98
体育祭の後、少しの間だけ私と友柄先輩の仲が話題になった。
﹁麗華様、前生徒会長とそんなに親しい仲でしたの?﹂
﹁あんな風に笑顔で勝利報告してもらうなんて。実はおふたりは何
かあるのでは?﹂
恋バナ大好きな女の子達がちょっとワクワクした顔で私を取り囲
んで聞いてきた。
﹁友柄先輩のことはとても尊敬していますし、憧れの先輩ではあり
ますけど、みなさんの思っているような関係ではありませんわ。そ
んな噂が流れて友柄先輩にご迷惑がかかったら、私先輩に申し訳な
いわ⋮﹂
まずい。私は火消しにかかった。
﹁えぇ∼っ、でも、麗華様があんなに応援なさっていたし、私おふ
たりのやり取りを見てて、胸がドキドキしてしまいましたわ!﹂
﹁私も!﹂
﹁でも前生徒会長、素敵だったわ∼!それに騎馬戦での優勝!﹂
﹁確かにかっこ良かったわ!実はあの方は去年も優勝していて、今
年は二連覇だったって話よ!﹂
﹁まあっ!﹂
友柄先輩のあの笑顔にハートを撃ち抜かれたのは、私だけではな
かったらしい。みんなは私をダシに友柄先輩の話で盛り上がってい
606
た。
う∼ん、どうしよう。マッチの火程度の小さな噂だから、すぐに
消えると思うけど⋮。
ピヴォワーヌのサロンでもこの話が出た時には、さすがに少し困
った。
なんといってもここには、友柄先輩の本当の彼女である香澄様が
いらっしゃるのだから。
﹁麗華さんがあの友柄と親しかったなんて、知らなかったよ﹂
3年の先輩に話をふられた。
﹁ええ。私は中等科の時からクラス委員でお世話になっていますの。
今も副委員長をしていますので、いろいろと助けていただいており
ますのよ﹂
﹁そうなのか。まさか麗華さん、友柄のことが好きだなんて言わな
いでくれよ﹂
﹁まぁそんな。友柄先輩は、尊敬申し上げている先輩ですわ﹂
ううっ、香澄様、気を悪くしていないといいけど⋮。
ご自分の彼氏がほかの女子生徒と妙な噂になっていたら嫌な気分
になるよね。軽率な行動を取ってしまった。
女子の先輩方が皇帝の体育祭での活躍の話をはじめたので、そっ
とその場を離れて、離れたソファに座る香澄様のそばに近寄って行
った。
﹁香澄様﹂
607
﹁まぁ麗華様、ごきげんよう﹂
香澄様は笑顔で私を迎えてくれた。
﹁あの⋮、なんだか申し訳ありません⋮﹂
私は小声で謝罪した。
﹁あら、ふふっ、もしかして私のことを気にしていらした?大丈夫
ですわ、私はなんとも思っていません﹂
﹁そうですか?﹂
﹁ええ。それにね、彼はあれでもモテるから女の子と噂になること
はよくあるもの﹂
﹁えっ、そうなのですか?!﹂
﹁そ。だから麗華様が気にする必要はありませんわ。千寿もね、麗
華様に応援してもらったって喜んでいたのよ?﹂
﹁あー、はは﹂
香澄様は本当に今回のことは不快には思っていないようなので、
ひとまずホッとした。私は生まれが悪役横恋慕キャラだから、順調
なカップルの仲を知らない間に引き裂いてることもあるかもしれな
いし。
﹁それより、私は麗華様がネズミの仮装をしたことのほうがショッ
クでしたわ。いったいどうしてあんな恰好を?﹂
﹁え?﹂
香澄様は心配そうな顔で私を窺った。
﹁仮装リレーに出る予定だった子が怪我をしてしまって、私が代役
608
で出ることになりましたのよ﹂
﹁そうでしたの。でも麗華様がネズミの仮装なんて⋮。麗華様は本
当にクラス委員としてご自分のクラスに尽くしていらっしゃるのね
⋮﹂
えーっと⋮、そんな痛ましげな顔をされても⋮。あの仮装はそん
なに変だった?派手なシンデレラや王子様に比べて、地味な仮装で
はあったけど。
そういえば、仮装リレーが終わって友達の元に戻った時も、やけ
に励まされたし。クラスでも岩室君の仮装の話題は出ても、私の話
は全く出ないな。
﹁私の仮装、変でした?﹂
﹁いいえ!とてもチャーミングな仮装でしたわ!ただ、今までピヴ
ォワーヌで仮装リレーに出た方はあまり聞いたことがありませんで
したので⋮﹂
そういえばそうだな。ピヴォワーヌのメンバーとしてまずかった
だろうか。
﹁仮装したことはまずかったでしょうか⋮﹂
﹁そんなことはないと思いますけど⋮﹂
今年の体育祭は、私はいろいろと軽率だったのかもしれないな。
反省。
ふと時計を見ると迎えの車が来る時間だった。
﹁私、今日はそろそろ﹂
﹁あら、もう?﹂
﹁ええ。今日は習い事の始まる時間が早くて﹂
609
﹁そうなの。では麗華様、また明日﹂
﹁はい。ごきげんよう﹂
私が帰り支度をするのと入れ違いに、鏑木と円城が入ってきた。
ふたりと目が合った。
﹁あ、間抜けネズミ﹂
﹁雅哉﹂
サロンに一瞬気まずい空気が流れた。
﹁⋮ごきげんよう、鏑木様、円城様。お先に失礼しますわ﹂
引きつる頬を根性で抑え込んで、私は笑顔で挨拶した。
そのまま部屋を出ようとする私に、鏑木が真面目な顔で
﹁お前なんでネズミなのにネズッ鼻付けなかったんだ?来年はもっ
と頑張れよ﹂
﹁雅哉﹂
⋮⋮黙れ体育祭バカ!勝手に私が来年も仮装リレーに出ると決め
つけんな!
ネズッ鼻はみんなが許さなかったし、私もそこまで自分を捨てき
れなかったんだ!
私はドスドスと廊下を歩いて駐車場に向かった。
ピアノのお稽古を終えて家に帰ると、本当に久しぶりに伊万里様
610
がいらしていた。
﹁伊万里様!﹂
﹁麗華ちゃん元気だった?﹂
﹁ええ。伊万里様も?﹂
﹁元気、元気﹂
今日の伊万里様はスーツ姿。大人の魅力だわ!
﹁今日はどうなさったのですか?﹂
﹁貴輝に借りたい物があってね。麗華ちゃんは相変わらずお人形さ
んみたいに可愛いねー﹂
伊万里様に頭をいい子いい子された。
﹁伊万里、ひとに妹に触るな﹂
お兄様が私の頭の上にあった伊万里様の手を払った。
﹁麗華ちゃんのお兄様はおっかないねー。でも俺も麗華ちゃんみた
いな妹が欲しかったよ。俺んちなんて男兄弟だけだもんなー。そう
だ!麗華ちゃん、俺の弟と結婚しない?そしたら麗華ちゃんは晴れ
て俺の妹になるし。あ、別に俺と結婚するのでもいいよ?﹂
﹁伊万里様と?それは素敵ですわねぇ﹂
﹁だろ?いつでもお嫁においで﹂
ふたりで冗談を言い合ってあははと笑っていたら、お兄様が珍し
くイラッとした顔をした。
﹁⋮伊万里、俺の部屋に来い﹂
611
﹁冗談です、お兄様。すみませんでした﹂
﹁うるさい黙れ、さっさと来い﹂
伊万里様はずるずるとお兄様に引き摺られて行った。いつまで経
っても仲良しだなぁ。
そういえば私、塾では伊万里様が好きってことになってたっけ。
すっかり忘れてた。後でふたりが戻ってきたらこの話もしてみよう。
﹁私、伊万里様をずっと好きだってことになってるんです﹂って。
きっとお兄様も伊万里様も大受けするに違いない。
リビングに戻ってきた伊万里様が少しやつれていた。仕事が大変
らしい。伊万里様も﹁また当分来れない⋮﹂って言っていたし。
612
99 名もある女子生徒 / 名もない男子生徒
吉祥院麗華様は、私達女子の憧れの同級生。
だってその名の通り、きれいで華やかなお姫様みたい外見で、あ
のピヴォワーヌのメンバーで、しかも頭までいいなんて、女の子と
して完璧なんだもの。
私も麗華様と親しくなれたらなってずっと思っていたけど、麗華
様のグループはやっぱり同じく華やかな子達ばかりだし、もし麗華
様の機嫌を損ねて嫌われたら、瑞鸞での立場がかなり悪くなると思
うと、近づくのに二の足を踏んでしまう。
でも普段の麗華様ってどんな生活をしているのかな。
きっと家でも薔薇に囲まれて優雅にお茶を飲みながら、詩の朗読
会などを催しているのではないかしら。うん、麗華様のイメージに
ぴったり!
その麗華様と、中等科の2年生の時に突然お近づきになるチャン
スがやってきた。
なんとあの麗華様がなぜか夏合宿に参加してきたのだ!夏合宿な
んて麗華様とは一番かけ離れたイベントなのに。
麗華様はいつものメンバーを誰も連れてこないでひとりで参加し
ていたので、私が同室になることになってしまった。
あの麗華様と同室!なにか粗相をしでかしたらどうしようとドキ
ドキしたけど、麗華様は﹁夏合宿は初参加なので、よろしくお願い
しますわね﹂と笑顔で話しかけてくれたので、少し安心した。
麗華様は同い年なのに落ち着いていて、動じることなんてほとん
どなさそう。見習いたいな。
613
夜になって花火大会になり、最初手持ち花火をにこにこしながら
やっていた麗華様の姿が、いつの間にか近くからいなくなっていた
ので、どこに行ったのかとあたりを探しにいったら、なんと麗華様
は委員長とふたり、隅の方で楽しそうに線香花火をしていた。
えっ?!委員長と麗華様って、もしかして身分違いの恋?!
本気でそんなことを考えたわけじゃないけど、そうやって見ると
ちょっと面白いんだもの。
今日は家の都合で来られなかった美波留ちゃんにも、あとでメー
ルで教えてあげよう。まるで姫君と侍従の恋みたいよって。きっと
美波留ちゃんも面白がるに違いないわ。
一応私達女子の間では、麗華様に一番お似合いなのは鏑木様って
ことになっているんだけど、姫君と皇帝の間に入り込む、思わぬラ
イバル侍従。この先どうなるのかしら?
私は昔から部屋が真っ暗じゃないと眠れない。最初にそのことを
話すと、麗華様は笑顔で簡単に受け入れてくれた。良かった。
就寝時間になり、部屋を暗くしてしばらくしたら、突然麗華様の
声が聞こえてきた。
﹁だろだっでーにーだーなーなら!﹂
⋮⋮えっ?今のはなに?
なにやら形容動詞の活用が聞こえたような⋮。
麗華様、起きているのかしら?
﹁麗華様?なんですか?﹂
614
﹁⋮⋮﹂
﹁あの、麗華様?﹂
﹁⋮⋮﹂
え⋮もしかして、寝言?!
でも、あんなにはっきりと声が聞こえてきたけど⋮。
いえ、私の空耳かもしれないわね。
寝ましょう。
しばらくするとまた、暗がりに麗華様の声が響いた。
﹁かろかつくーいーいーけれ!﹂
今度は形容詞の活用?!
﹁⋮⋮麗華様∼?起きていますか∼﹂
﹁⋮⋮﹂
⋮麗華様は夢の中でも勉強をなさっているようだ。さすがです。
私は布団をかぶった。
徒然草の暗唱とかが始まらないといいな⋮⋮。
次の日のハイキングの休憩時間に麗華様は、裏手でひとり金属の
棒を両手に持って、ぐるぐる近くを歩きまわっていた。
麗華様?
その夏合宿の夜、幽霊騒動が起きた。
615
騒々しくて私が目を覚ますと、すでに起きていた麗華様が手で髪
を整えながら廊下を覗いていた。寝起きの麗華様の髪は、いつもよ
り少しカールがゆるくなっている。
廊下は大騒ぎで、私も話を聞いたら、ざんばら髪の白い顔の幽霊
が血肉を食らいながら、恨みのこもった目で振り返ったのを見た子
がいるんですって!怖いっ!
みんなが恐怖でパニックになった時に、﹁落ち着いてみなさん!﹂
と場を収めてくれたのが麗華様だった。自信に満ちた目で、﹁幽霊
はもう出ません﹂と麗華様にきっぱり断言されると、私達の恐怖も
少しずつ薄れた。さすが麗華様!麗華様が﹁出ない﹂と言えば、本
当にもう安心な気がするもの!
その後、引率の先生もやってきて巡回を徹底するからと約束して
くれたので、全員おとなしく部屋に戻った。
部屋に戻って麗華様に﹁怖かったですね﹂と声をかけると、﹁私
は円山応挙じゃない⋮﹂となぜか落ち込んでいらした。
なんと言ったのかよく聞こえなかったけれど、でも真面目な麗華
様だから、合宿の女子リーダーとして、騒ぎが起きたことに責任を
感じているのかもしれない。幽霊が出たのは麗華様のせいじゃない
のに⋮。
麗華様の言った通り、その後は幽霊も現れず無事に朝を迎えるこ
とが出来た。ああいう時に冷静な判断ができる麗華様はやはり素晴
らしい方だと思うの。
夏合宿以来、私は麗華様とは親しくお話をさせてもらえるように
なった。
麗華様はピヴォワーヌのメンバーなのに珍しくクラス委員を引き
受けるような方なので、同じ委員としていろいろ学校行事の相談な
どをしたりして、麗華様に憧れる私としてはとても嬉しい。
委員長も麗華様と仲良くしゃべっている姿を時々見かける。麗華
616
様は高嶺の薔薇の花のような人だから、男子で気軽に話しかける人
って結構少ないのに。やるわね、侍従。
そんな麗華様に新たな男子の影が!
見た目がゴツゴツしていて麗華様とは全く合わない柔道部の岩室
君だ。麗華様と並ぶと、なんだか姫君と護衛の傭兵みたいに見える。
麗華様と同じクラスの友達に聞いたら、岩室君が最近の麗華様の
お気に入りらしくて、体育祭や学園祭で女装をさせて楽しんでいら
っしゃるんですって。
岩室君も麗華様には逆らえないらしくて、おとなしくメイクをさ
れるがままらしい。﹁美女と野獣っぽくて案外お似合いかもよ﹂な
んて友達は言ってたけど、私は麗華様には皇帝を押したいわ。
だって鏑木様が変な女の子と付き合うのなんて見たくないもの。
だったらせめて、私達が納得できるような素敵な人を選んで欲しい。
鏑木様はずっと優理絵様がお好きだというのはみんな知っている
けど、もし優理絵様以外だったら麗華様くらいしか認められないっ
ていうのが、ファンの心理なのよね。
私の鏑木様への憧れは比較的軽いものだけど、もし鏑木様がつま
らない女の子を選んだら、過激なファンの子達はなにをするかわか
らないと思う。
♦♢♦♢♦
瑞鸞高等科1年には、絶対に敵に回してはいけない人間が男女合
617
わせて3人いる。
その中のひとりが女子のラスボス、吉祥院麗華だ。
あの吉祥院家の令嬢でピヴォワーヌメンバー。吉祥院麗華を怒ら
せれば、女子全員を敵に回すと言われているくらい、力を持ってい
るらしい。
怒ったところは滅多に見たことがないし、いつも取り巻きに囲ま
れて余裕の笑みを浮かべているけど、噂では調子に乗って下剋上し
ようとした蔓花真希を、扇子でひっぱたいて屈服させたって話だ。
扇子でひっぱたくってスゲーな⋮。貴族のケンカだ。
蔓花真希も自分と似たような仲間達と派手に騒いでいるけど、所
詮女神カーリーの敵ではなかったようだな。
かといって俺たちが蔓花に勝てるかといったらムリだけど。あい
つらこえーし。
だいたい俺達と皇帝達への態度が全然違うんだよ!俺なんて名字
呼び捨てで命令されるし!逆らえば凄んでくるし!蔓花達がまた調
子に乗ってるってカーリー様にチクってやるぞ!なんて言ってカー
リー様に直接話しかけるなんて怖くて出来ないけどな!
そんな吉祥院さんには、吉祥院麗華を守る風神雷神のような側近
がいる。風見芹香と今村菊乃だ。こいつらがまた怖い。
このふたりが中心となって、吉祥院さんに失礼なことをした人間
には女子の集団で圧力をかけてくるんだ。
俺も吉祥院さんと同じクラスになった時、うっかり提出物を忘れ
たら、取り巻きに囲まれ﹁麗華様の手を煩わせてるんじゃないわよ﹂
と睨まれた。家の人間にすぐに届けてもらった。
一度吉祥院さんが通った後に、度胸試しにふざけて﹁カーリー﹂
と言ったヤツが、あとで風見と今村達に連行されて行った。戻って
きたそいつは顔面蒼白で、別人のようにおとなしくなっていた。い
618
ったいなに言われたんだよ、お前⋮。
それ以来俺達も怖いので、カーリー呼びを自主規制することにし
た。万が一吉祥院さん本人に知られたら、取り巻きからの制裁だけ
じゃなく、俺達も扇子でぶっ叩かれるかもしれないし!
吉祥院さんにはほかにもたくさん密かな呼び名があるけど、今の
ところ巻き巻きマッキーは風見達にはバレていなさそうだ。
それ以外に全体の雰囲気からドーリーガールなんてのもあるな。
体育祭では、一部の連中がドーリーガールがカドリール!なんて
ダジャレを言って盛り上がっていた。俺もちょっと期待していたん
だけど、吉祥院さんはダンスには出なかった。残念だ。ダジャレは
置いておいて、お姫様ヘアの吉祥院さんのダンスは見応えありそう
だと思ったんだけどな。
しかしその吉祥院さんが、なぜか背中にかぼちゃをくっつけたネ
ズミの姿で仮装リレーに出てきた!
さっきまで仮装した選手達を見て笑っていた観客達の動きが止ま
った。女帝がネズミ⋮。
ほかの選手達のように笑って見ていいのか、見ないフリをするべ
きか、受け止め方がわからない。
風見や今村達が﹁なんとおいたわしい姿に!﹂といった顔で、吉
祥院さんを応援していたので、ここは笑ってはいけないと判断した。
ネズミの吉祥院さんが登場した時には、あの皇帝や円城君も目を
見開いていたけど、委員長が﹁吉祥院さん頑張れー!﹂と笑って応
援していたのには驚いた。委員長、実は大物か?!
でもあのクラスは、吉祥院さんが仮装に寛大だとわかったので、
今度の学園祭では女装男装カフェをやるらしい。
吉祥院さんと一緒にクラス委員をしている佐富に聞いたら、﹁吉
619
祥院さん、ネズミも可愛かったけど執事姿も可愛いから、当日は客
として見に来いよ﹂と笑っていた。やっぱり吉祥院さんに男装させ
るのか!
全員が接客するわけじゃなく、裏方組もいるはずなのに⋮。その
疑問に佐富は﹁せっかくうちのクラスには吉祥院さんという知名度
抜群の生徒がいるんだから、表に出して客寄せしてもらわないと、
もったいないじゃん﹂と言われた。
﹁お前、怖くないのかよ﹂
﹁なにが﹂
﹁あの吉祥院麗華をそんな扱いして。ブチ切れられなかったか?﹂
﹁ないない。吉祥院さん、中身はお人好しの羊だから。あ!吉祥院
さんに羊の耳を付けてもらおうかな。今からちょっと頼んでこよう﹂
佐富ーー!お前、度胸ありすぎんだろー!
男装して羊耳付けた吉祥院さん。⋮⋮怖いもの見たさで行ってみ
ようかな。
620
100
学園祭のクラスの出し物が女装男装カフェになった。
最初は普通のカフェをやる予定だったのが、シンデレラが好評だ
った岩室君の話題になって、じゃあ女装カフェにしようということ
になったのだ。
それなら女子は男装で、ということで男子はメイド、女子は執事
の格好をすることになった。
メイドか⋮。せっかくだから普通のメイド服ではなく、ゴスロリ
ファッションにしてみたら?と提案したら、即採用になった。岩室
君の目がキラキラしていた。あとでメイド服の相談に乗ってあげよ
う。
そして私は、裏で注文された食べ物を用意したりする係をやろう
と思っていたのに、佐富君に﹁吉祥院さんは絶対に表!﹂と言われ
てしまったので、執事の格好をすることになってしまった。
でも私は女顔だし縦ロールだし、男装の麗人にはなれないと思う
んだけど?
実際に執事服を着た姿を自分で見ても、あまり男装っぽく見えな
かった。せめて髪をひとつに縛ってみるかな。まぁ不気味な女装男
子達の中に入ったら、私の男装なんて誰も注目しないと思うから別
にいいか。
そんなことを考えていたら、佐富君に動物の耳の付いたカチュー
シャを渡された。
﹁これはなんですの?﹂
﹁羊の耳だよ。羊の執事。可愛いと思わない?ぜひ吉祥院さんに付
けて欲しくて。あ、髪は結ばないでね。吉祥院さんのトレードマー
クなんだから。そのくるくるした髪が羊っぽいでしょ?﹂
621
はい、と頭に羊の耳を装着された。また動物か⋮。しかし、
﹁耳だけですの?﹂
﹁うん。なんで?﹂
﹁仮装リレーの時に、なんでネズミの耳だけ付けて鼻を付けなかっ
たんだと、鏑木様に言われたのですわ﹂
﹁え⋮、さすがに俺も吉祥院さんに羊の鼻を付けろとは言えないん
ですけど﹂
﹁私も息苦しそうだから付けたくありませんわ﹂
﹁⋮じゃあ今回も耳だけってことで﹂
﹁耳は決定ですのね﹂
﹁うん!﹂
佐富君は清々しいくらいの笑顔で、私を羊にした。
﹁だって吉祥院さんはオオカミの皮を被った羊だからね。ぴったり
でしょ﹂と言われたけど、佐富君、私の外見はそんなに怖いの?
執事服を着て羊の耳を付けた自分の姿を、鏡でジッと見る。
大丈夫かな、私。もしかして岩室君のことを言えないくらいおか
しな方向に進んでいないかな。ロココの女王だったはずなのに、な
んだかお笑い路線に転がっているんじゃないかって思うのは気のせ
いなのかな⋮。
ゴスロリメイド服については、岩室君の相談にしっかり乗ってあ
げた。頭に被るのはボンネットがいいかヘッドドレスがいいか、ワ
ンピースがいいかブラウスとコルセットスカートがいいか、パニエ
重ね穿きでスカートを思い切り膨らませるかとか、とにかくいろい
ろ。
岩室君のゴスロリへの情熱が凄くて、妥協を許されなかったのだ。
622
結局頭はボンネットに縦ロールの部分ウィッグにすることにした。
そのウィッグ、なんだか見覚えがあるんだけど⋮、私の髪に少し似
ていない?まぁ私の髪はそこまで巻きが強くはないけどね。
﹁師匠のそのお姫様のような髪型に憧れてて⋮﹂
岩室君はデカい図体でもじもじした。もう岩室君は取り返しのつ
かないところまで進んでしまっているようだ。ご両親に申し訳ない。
そして、私は師匠になった覚えも、弟子を取った覚えもない。間
違えるな、君の師匠は柔道部にいる。
それでも可愛いゴスロリメイドさんにするために、岩室君の顔に
メイクを施す。
仮装リレーの時と違って時間があるので、涙の粒付きのつけまつ
げも付けてあげよう。ネイルもしてみますかね。
うんうん、岩室君、とってもきれいだよ。
私達のクラスのカフェは朝から盛況だった。
最初はやりたくないよーとか騒いでいた男子達が、メイド服を着
たあたりからだんだん自分達の美を追求するようになって、最後は
やたらクオリティが高くなってしまったのだ。女装願望を持ってい
る男子って実は多いの?
はご指名ありなので、売れっ子メイドさん
おかげで私達執事は、メイドさん達のアシスタントだ。我らが
カフェ・羊のドーリー
は接客に忙しいのだ。
この店名は、羊の執事とドールなメイドを合わせた名前らしいけ
カフェ・羊のドーリー
では遺伝子組み換え食品は使
ど、羊耳つけているのって私だけだよね?
ちなみに
用しておりません。
623
私にご指名が入った。
初めてのご指名は友柄先輩だった!
﹁友柄先輩!いらっしゃいませ!﹂
﹁いらっしゃいましたよー。吉祥院さん、その耳可愛いね。執事だ
から羊なの?﹂
﹁そうみたいです⋮﹂
やっぱり変かな、羊耳。今更だけどさ。
﹁じゃあ羊さん、このラムレーズンのパウンドケーキセットをくだ
さいな﹂
﹁はい、かしこまりました!﹂
私は急いで友柄先輩のオーダーを裏に伝えに行った。
友柄先輩がわざわざ来てくださるなんて、嬉しいな!えへへ、羊
耳、可愛いって言われちゃった!
なんだかとっても幸先良いスタートが切れた気がする!
その後もほかのクラスのお友達が遊びに来てくれたり、璃々奈に
ふんぞり返って﹁そこの妙な執事、さっさとお茶を持っていらっし
ゃいな!﹂と命令されたりと、私はなかなかの指名率を誇った。ゴ
スロリ岩室君の指名率には負けるけどね。
佐富君にも﹁さすが吉祥院さん!抜群の集客力だよ!﹂と褒めら
れた。
日は一般公開で外のお客様もお見えになるから、頑張るぞ!
空いた時間に私は手芸部を覗きに行った。
手芸部は毎年ウェディングドレスを作るのだ。今年もこの日の為
に4月からデザインを相談し合って縫った、手芸部員渾身のドレス
624
が中央に飾られていた。
ドレスは裾にまで繊細な刺繍が施されていて、高校生が作ったと
は思えないような出来栄えだ。
私も手芸部員︵仮︶なので、アートフラワーのブーケの薔薇をひ
とつだけ作らせてもらった。みんながドレスを作っているのを無言
でジーッと見ていたら手伝わせてくれたのだ。決して圧力ではない。
部室には見学客が何人かいて、ウェディングドレスの前には委員
長がいた。うっとりとする乙女。
﹁委員長も着たいですか?﹂
﹁うわっ!吉祥院さん!﹂
後ろからそっと近づいて声をかけると、乙女が驚いた顔で振り向
いた。
﹁僕にそんな趣味はないよ。ただ、きれいだなーって思って﹂
﹁ふぅん。では誰かさんが着ているところを想像したのですね?﹂
﹁なに言ってるんだよ、やだな∼﹂
乙女委員長の顔がみるみる赤くなる。そうかいそうかい、いつか
現実になるといいね。
そこへ偶然岩室君もやってきた。ウェディングドレスにうっとり
とする岩室君。
カフェ・羊のドーリー
は大繁盛だ。
乙女委員長と乙女柔道部。乙女達の邂逅だった。
次の日も
一般公開はチケット制なので、生徒の関係者しか入れない。犬バ
カ君に﹁ぜひ招待してくれ!﹂と頼まれたけど、学院で愛犬呼ばわ
625
りされたら困るので丁重にお断りした。それに羊の耳を付けるのが
OKなら犬耳を!とか言いだしかねないし。ただでさえ今も学院で
は牧羊犬みたいな扱いなのに、縁起でもない。
葵ちゃんは瑞鸞と学園祭がかぶってしまったので、招待できなか
った。残念。
そんな時、私にご指名が入った。
﹁桜ちゃん!﹂
桜ちゃんが秋澤君と一緒にやってきた。
﹁ごきげんよう、麗華さん﹂
﹁こんにちは吉祥院さん。桜子が来たいっていうので連れてきたよ﹂
秋澤君が女の子連れということで、女装メイド達がざわざわした。
﹁麗華さん、執事姿とっても似合ってますわ。その耳も個性的﹂
そう言う桜ちゃんの目が完全に笑っている。ふんだ。
裏から佐富君が出てきた。
﹁蕗丘さん、いらっしゃい。今日は秋澤と見学?﹂
﹁お久しぶりです、佐富君。麗華さんの男装が見たくて来てしまい
ました﹂
﹁そうなんだ。吉祥院さんと友達なんだっけね﹂
﹁ええ。麗華さんとは小学生の頃からのお友達です﹂
さっきから気になっているんだけど桜ちゃん、いつもの呼び捨て
はどうした?なにその控えめな笑顔。
女装メイド達から﹁清楚﹂﹁大和撫子﹂などと言う声が聞こえて
626
きた。凄いな桜ちゃん、飼ってる猫が化け猫クラスだ。
桜ちゃん達はこれからふたりで学園祭を見て回るのだそうだ。ど
うやら桜ちゃんの目的は、瑞鸞に自分の存在を知らしめて、秋澤君
に近づく女子を牽制することのようだ。化け猫包囲網に全く気付い
ていない秋澤君は、ある意味幸せ者だ。
カフェ・羊のドーリー
に皇帝と円城が入っ
午後になりしばらくすると、廊下が急に騒がしくなった。どうし
たのかと思ったら、
てきた!そしてその後ろからは優理絵様と愛羅様が!あと、夏に会
った舞浜さん。
とんでもない大物達の来店に全員が騒然とした。特に指名はなさ
そうなので、とりあえず私が注文を取りに行った。
﹁麗華ちゃん久しぶりね!﹂
愛羅様が声をかけてくれた。私もみなさんにご挨拶した。
﹁吉祥院さん、ネズミの次は羊なんだ。すっかり話題になってたよ﹂
そう言って笑う円城と
﹁羊、鼻はどうした﹂
とダメ出しをしてくる鏑木。
﹁鼻を付けると苦しいので﹂と答えたら﹁精進しろ﹂と言われた。
なにをだ。
﹁麗華さんって吉祥院家のお嬢様のわりには、ずいぶん変わった扮
装をしてるのね﹂
627
鏑木が私に話しかけたのが面白くなかったのか、舞浜さんが毛先
をいじりながら私に嫌味を言ってきた。
﹁恵麻。ごめんなさいね、麗華さん﹂
優理絵様が舞浜さんを窘めた。舞浜さんは﹁だって∼優理絵お姉
様∼﹂などと言っている。
﹁仮装したり断食したり、麗華さんって変わってるんだもの﹂
舞浜さんがふふんと笑った。断食の話題をここで出すな!
﹁それって企画した雅哉のお母さんへの批判かなー。僕からおば様
に伝えておこうか?﹂
笑顔の円城の言葉に、舞浜さんが慌てて取り繕い始めた。バカめ。
そして腹黒円城、よく言った。
注文を取り終えて裏にいった後も、そのテーブルはカフェ中の注
目を一身に浴びていた。
舞浜さんは鏑木の隣に座り、あれこれと話しかけている。鏑木は
面倒くさそうにそれをあしらっていた。優理絵様と愛羅様は女装メ
イド達の品評を楽しそうにしていた。
瑞鸞で鏑木にベタベタするのは大勢の女子生徒達を敵に回す行為
だ。だんだんカフェの中が殺伐とした空気に包まれてきた。外から
カフェを覗く女の子達からも殺意の視線を感じる。それを勝ち誇っ
たような顔で跳ね返す舞浜さん。怖っ!
﹁吉祥院さん、これを﹂
628
佐富君に渡されたお茶には、女性客だけにサービスされる羊のク
ッキー付き。
私はそれぞれの前にお茶を置いた。優理絵様と愛羅様には黄色い
羊のバタークッキー。舞浜さんには黒い羊のクッキー。
黒い羊のクッキーは、特別なお客様にだけ出される物。さっさと
帰れ、厄介者!
帰り際、愛羅様が困った顔で﹁不愉快な思いさせてごめんね、麗
華ちゃん﹂と謝ってくれた。愛羅様が気にする必要なんてないのに。
鏑木は散々舞浜さんに纏わりつかれてうんざりした顔で帰って行っ
た。
なんだかぐったりとしてしまった私の隣に岩室君が立った。
﹁中途半端な巻きでしたね。師匠の足元にも及びませんよ﹂
⋮⋮うん、ありがとう岩室君。
その1ヶ月後に貼りだされた期末テストの順位表に、鏑木雅哉の
名前はなかった。
629
101
学園祭が終わってしばらく経って、桜ちゃんから連絡があった。
﹁瑞鸞の学園祭に舞浜恵麻が来てたでしょ﹂
﹁うん。桜ちゃん知り合い?確か同じ学校だよね﹂
﹁学校は一緒。でも仲良くはないわ。舞浜恵麻には気を付けなさい
よ。あの子は気に入らない子はすぐにネチネチ苛めるからね。百合
宮でも被害者がいっぱいいるんだから﹂
﹁そうなんだ。えっ、もしかして桜ちゃんも舞浜さんに苛められた
ことがあるの?﹂
﹁は、誰が?﹂
ですよねー。化け猫桜ちゃんにケンカを売ったら、私だって絶対
に勝てない⋮。
﹁その舞浜恵麻が学園祭で、あの有名な皇帝にくっ付いていたのを
見たから、麗華が面倒事に巻き込まれるんじゃないかと思って。あ
の子、百合宮で自分がいかに瑞鸞の皇帝と親しいかを自慢しまくっ
ているんだから﹂
﹁へぇ∼﹂
確かに鏑木夫人のお茶会に招待されていたし、優理絵様とも親し
そうだったから、それなりに鏑木に近いのかもしれないけど、本人
には全く相手にされていなかったようだぞ。
まぁ勝手に頑張れ。
630
学園祭も好評の内に終わり、私は友達とおしゃべりしたり、手芸
部に通ったり、サロンでお茶を飲んだりして楽しく秋を過ごした。
そして1ヶ月が経ち期末テストの時期がやってきた。私は塾と家
庭教師の真凛先生に教わり、必死で試験勉強をしてテストに臨んだ。
高等科に入学して一番勉強したので、もしかしたら30位以内に入
っちゃうかも?!
その数日後に発表されたテスト結果に、学年中に衝撃が走った。
1位 高道若葉
2位 円城秀介
3位 水崎有馬
鏑木の名前がどこにもなかった。
どうした、皇帝?!一気に30位以上落とすなんて、名前を書き
忘れたのか?!うっかり答えを一段ずつずらして記入しちゃったか
?!
すべてにおいて完璧な皇帝陛下に一体なにが!と、1年のみなら
ず上級生にまでこの結果の話は駆け巡った。
当の皇帝は学校を欠席していた。
私もみんなと前代未聞の皇帝不調の話題に参加しつつ、掲示板の
30位までの名前をもう一度チェックした。私の名前もなかった。
個別に渡された成績表の順位は31位。⋮⋮私って本当に残念す
ぎる。
そのまま鏑木はずっと登校してこなかった。
最初は病気で体調を壊したのではないかと噂されていたけど、肝
心の病名も欠席理由も明らかにされていない。しかも一番近い存在
である円城も何も言わないので、余計に様々な憶測を呼んだ。
631
テスト以降ピヴォワーヌのサロンに円城も顔を出さない。サロン
に集うメンバー達も心配の色を見せている。
本当に、いったいどうしちゃったんだろう。成績ガタ落ちにショ
ックを受けて不登校になったとか?!あ!補習がイヤで不登校とか
?!
う∼ん⋮。あれ?でも考えてみたら、私はいつからあのふたりの
顔を見ていなかっただろう。テスト前はサロンもほぼ閉鎖状態だっ
たから会うこともなかったし、その前はえーっと⋮。
⋮うん、まあいいか。
それよりも、皇帝が成績を落とし欠席が続いていることで、なぜ
か若葉ちゃんの評判が落ちている。
皇帝が不調の時に蹴落とすように首位に立ち、あまつさえ円城様ま
で抜かすような真似をするとは!って、別に若葉ちゃんは不正をし
たわけじゃないよね?
大半の女子が皇帝の名前がないことにショックを受けている時に、
若葉ちゃんが﹁1位だ!﹂って喜んじゃったのがまずかったらしい。
鏑木、円城ファンが、1位になるためにあの子が何かしたんじゃな
いかと言い始めた。完全な言いがかりだ。
しかもよりにもよって今期のピヴォワーヌの新会長がピヴォワー
ヌ至上主義の考え方の人なので、庶民の若葉ちゃんにピヴォワーヌ
の顔を潰されたと苦々しく思っているらしい。
若葉ちゃん、一気に立場が悪くなってるけど大丈夫か?!
私が放課後手芸部の部室に行こうとひとりで歩いていたら、カバ
ンを持って駐車場に向かっている円城と出くわした。
げ⋮。
﹁ごきげんよう円城様﹂
632
無視したいところだけど、人として一応挨拶はしておく。
﹁やあ吉祥院さん﹂
そう言って微笑む円城の顔が少し疲れているように見える。
﹁なんだかお疲れのようですけど、大丈夫ですか?﹂
﹁うん?平気だよ。まぁいろいろあって﹂
でしょうね。今学院はその﹁いろいろ﹂でもちきりですよ。
﹁吉祥院さんも気になる?雅哉のこと﹂
﹁え?﹂
気になるといえば気になる。だってこれだけ騒ぎになっているん
だもの。でもここで好奇心丸出しにするのは命取りでしょう。
﹁いえ。お加減が悪いのかと心配はしておりますわ﹂
﹁お加減ねぇ⋮﹂
﹁えっと⋮、体調を崩されているとか?﹂
﹁体調は⋮崩しているのかな。どうだろう、僕は知らないけど﹂
﹁えっ!﹂
知らないって、あんたは親友でしょう?!
﹁会ってないからね、雅哉に﹂
﹁⋮お見舞いには行かれないのですか?﹂
﹁お見舞い。吉祥院さん、一緒に来る?雅哉のお見舞い﹂
絶対にイヤだ⋮。
633
﹁なーんてね。家に行ってもいないよ、雅哉。今、旅に出てるから﹂
﹁旅、ですか?﹂
﹁そ。これ秘密ね。誰かにしゃべったらあとが怖いよ﹂
﹁絶対しゃべりませんわ﹂
口が裂けても言いません。でもそれなら最初から言わないで欲し
いんですけどね。しゃべるなと言われるとしゃべりたくなるのが人
間の性。
﹁まさか親友が突然旅人にジョブチェンジするとは思わなかったか
らねー﹂
﹁はあ⋮﹂
旅人になっちゃったんだ、鏑木。あの、自分探しってやつか?
﹁それで鏑木様はいつ旅からお戻りに?﹂
﹁それがわからないから困ってるんだよね。今日もこれから電話で
雅哉の説得﹂
﹁はあ⋮それはまた⋮﹂
円城は人差し指を口元に当て、もう一度秘密ねと念を押して帰っ
て行った。
面倒な親友を持つと、大変だな⋮。
しかし、旅⋮⋮。鏑木はどこに旅に出たんだろう。きっと北だな。
コートの襟を立てて吹雪の中を歩く鏑木の姿が見える。
あぁもうすぐ冬休みだな。年明けの新学期には帰ってくるのかな、
鏑木。
634
そして私は来年こそは手芸部の正式部員になれるのかな。
私はニードルフェルトの道具の入ったカバンを持って、部室に急
いだ。
部活納めの日には部員みんなでお茶会をするんだって。私は呼ば
れてないけどね。
終業式の日、特になんの誘いもなかった私が、帰るために友達と
校舎を出て歩いていると、見知った顔を見かけた。
桂木だ。
私はねじねじと言われた、よい報復の方法を思いついた。
﹁桂木君、ちょっとお話があるんだけど﹂
﹁なんだよ!﹂
﹁朝の沙悟浄って知ってる?﹂
﹁はあ?﹂
﹁あのね、昔とある戦場で、多くの兵士が亡くなったの。それはも
う、凄まじい死に方だったそうよ。そしてね、その兵士達の魂はま
だ成仏出来ていなくって、自分達をそんな目に合わせた敵を探して
って言いながら。で
っていうのはね、敵と自分達を見分ける暗
あさのさごじょ∼う
毎晩さまよい歩いているの。切られた首から血を流し、口からひゅ
朝の沙悟浄
ーひゅー息を漏らし、
ね、この
号で、この暗号の中にはある秘密の言葉が隠されているの。そして、
その暗号を解けない人間は、敵と見做され取り殺されるのしまうの。
でね、この話を聞いた人の家には、今日の真夜中、死んだ兵士達が
やってきて枕元に立つから、その時に暗号の意味を言わないと、殺
されてあの世に連れて行かれちゃうんだって﹂
﹁はああっ?!なんだよ、それ!﹂
635
私はぶら∼んと両手を垂らして、ゾンビのポーズをとってアホウ
ドリに迫った。
﹁⋮実はね、私の家にも来たの、血塗れの兵士達が。でも私は暗号
の意味がわかっていたから無事だったわ。頭のいい桂木君ならすぐ
解けるわよね。今日の夜、首が半分取れかけた兵士達が来るから、
きちんと伝えてね。それとね、この話を人にすると、その人の家に
も来ちゃうから気を付けてね﹂
﹁お、おいっ⋮!﹂
﹁じゃ、話はそれだけ。ごきげんよう、桂木君﹂
私は踵を返した。
﹁待て!ねじねじ!答えを言っていけ!﹂
﹁人の名前もちゃんと呼べない人に、教えてあげる義理はないわね﹂
先輩
﹂
﹁うっ!⋮。⋮⋮吉祥院﹂
﹁
﹁⋮⋮吉祥院、先輩。⋮教えろ﹂
﹁ごめんなさぁ∼い。この暗号の意味を人にしゃべっちゃうと、私
が殺されちゃうのよ∼。だから自力で頑張って∼。では今度こそご
きげんよ∼う。よいお年を∼﹂
﹁お前っ!待て!おいっ!﹂
私は足取りも軽く、その場を後にした。
してやったり。あいつはバカだから、きっとすぐには解けまい。
そしてバカだから本気で怖がっているに違いない。けーっけっけっ
けっ!ざまーみろ!ねじねじの仕返しだ!
﹁⋮あの、麗華様。私も今の話、聞いちゃったんですけど⋮⋮﹂
﹁えっ、ああ、うそよー﹂
636
﹁嘘ですか?﹂
あさのさんごぎょう
だった
﹁ええ、うそ。兵士は首を切られて息が漏れてるから、言葉が上手
く発音出来ないのよねー。正確には
んだけど。ま、どっちにしろ、うそなんだから別にいいわよねー﹂
﹁⋮⋮﹂
あの真っ青になった桂木の顔!信じるかね、中2にもなって。で
もバカだからしかたないか∼。
あぁ愉快、愉快。今年の遺恨は今年のうちにってね。
637
102
お正月、私は栗きんとんを食べながらとんでもないことに気が付
いてしまった。
もしかして、鏑木ってば優理絵様に振られたのでは?!
あのテスト結果は、振られたショックで勉強も手に付かない状態
だったからなんじゃないかな。そして旅人は失恋傷心旅行に出たの
ではないかな。
凄い、今年の私は冴えている⋮。
でも振られ方が君ドルと違う。だってマンガでは傷心旅行にも出
ないし、振られる頃には若葉ちゃんともう少し接点があったはずだ
し。
うーん⋮。マンガとは少しずつ話が変わってきてるのかな。そも
そも若葉ちゃん苛めの急先鋒の吉祥院麗華の妨害がないんだもんね。
それに主要人物の性格も微妙に違うように思えるし。私がマンガ
を読んできゃあきゃあ言っていた皇帝は、間違っても騎馬戦に異常
な情熱を燃やし、人の仮装に獣鼻指導をしてくるような体育祭バカ
なキャラじゃなかった。もっとクールだった。円城だって皇帝と若
葉ちゃんを見守る優しい人で、決してあんな腹黒じゃなかった。そ
もそも髪が蜂蜜色じゃない時点で、マンガとは違う。
それに⋮、若葉ちゃんがちょっとおバカさんになってる気がする
⋮⋮。
なんだろうなぁ、この主要キャラ全体に漂う残念臭は。
それと対照的に、君ドルには出てきていないお兄様や伊万里様や
友柄先輩のかっこ良さときたら!この人達が登場していたら、確実
に人気が出ていたはず!特に友柄先輩なんてマンガのかっこいい皇
帝みたいな雰囲気も持ってるし。
イレギュラーも多いから、このままマンガと違う展開になってい
638
くのかな。まぁ私の人生が平穏無事なら、別にいいんだけど。
とりあえずもらったお年玉は全額貯金しとこ。でもお兄様からい
ただいたお年玉は枕元に飾って毎日拝んでいます。
3学期の始業式にも鏑木の姿はなかった。まだ旅の途中なのかな?
新学期を迎えても皇帝不在ということに、高等科だけではなく中
等科の生徒達も騒いだ。たったひとりの生徒の欠席にここまで影響
力があるとは。
サロンに行くと、久しぶりに円城が来ていた。ピヴォワーヌのメ
ンバーに囲まれて鏑木のことを聞かれている。
﹁雅哉は新年早々風邪を引いてしまったので、大事をとって休んで
いるんです。あと何日かで登校すると思いますよ﹂
風邪?傷心旅行からは戻ってきているのか?いやいや、まだ傷心
旅行と決まったわけじゃないか。自分探しの旅かもしれないし。個
人的には旅に出たくらいで見つかる自分なんてたいしたもんじゃな
いと思うけど⋮。
円城は私を見つけると、周りの方々に挨拶をしてこちらにやって
きた。
﹁明けましておめでとう、吉祥院さん﹂
﹁おめでとうございます、円城様﹂
円城は私を周囲から見えないところに誘導して、なにやら袋を渡
してきた。
﹁はいこれ。雅哉をあちこちに迎えに行った時の、お土産という名
の口止め料﹂
639
え⋮、なんか怖い。
﹁⋮それは、お心遣いありがとうございます﹂
笑顔の円城から物凄く消極的にお土産を受け取った。
円城、わざわざ鏑木を迎えに行ってあげたんだ。しかもあちこち
と言うことは何ヶ所もあったってことでしょ。ただでさえ年末年始
は忙しいのに、円城も友情に篤いな。なんだかんだで面倒見いいも
んね、この人。
﹁鏑木様は風邪を引いてしまわれたとか﹂
﹁そうなんだ。今も自宅で静養しているよ。寒い場所にばかり行っ
やはり傷心旅行か?!
ていたからね。しかし病は気からって本当なんだねぇ。すっかり弱
っちゃって﹂
病は気から
﹁そうなんですか⋮﹂
寒い場所
寒い場所というと北欧とかロシアあたりかな。あ、皇帝ナポレオ
ンがロシア行っちゃまずいか。でもシベリアの永久凍土に佇む鏑木
って、想像するとちょっと面白いんだけど。マンモス発見しちゃっ
たりして。うぷぷっ。
﹁でも熱もないしすぐに良くなるよ。雅哉が出てきたら吉祥院さん
もよろしくね﹂
﹁⋮ふふ?﹂
なにがよろしくなのかわからないので、笑ってごまかした。
640
華厳の滝サブレ
樹海まんじゅう
私は家に帰って円城からもらったお土産を袋から出した。
東尋坊クッキー
面白いなんて言って笑ってごめん鏑木⋮⋮。
まさか傷心旅行のさらに向こう側に行っていたなんて⋮。鏑木︱
っ、戻ってこーいっ!
しかし天下の鏑木家の御曹司の旅が、日本どころか本州すら出て
いなかったことに少し驚いた。
数日後、約1ヶ月ぶりに登校してきた鏑木はすっかりやつれ果て
ていた。
髪にも肌にも艶がない。目が死んでいる。うわぁ⋮、これもう確
定じゃん⋮。
いつもとは違う意味で近づきがたい空気を出している鏑木に、周
囲はどう対応していいか様子を窺っていた。私は見て見ぬフリをし
た。
鏑木のあの様子は病み上がりだからだというのが大半の意見だっ
たけど、絶対違うと思う。一部の女子達の間では、やつれて弱って
いる鏑木様も素敵!などと言われていた。
私も友柄先輩に失恋した時は落ち込んだけど、さすがにここまで
じゃなかったな。そりゃあ初恋歴数ヶ月の私と、初恋歴10数年の
鏑木とじゃショックの度合いが桁違いだろうけどさ。
普段元気な人間が弱っていると、見ているこっちも少し心が痛む
ね。ここは新しい恋だぞ、鏑木!君には若葉ちゃんという運命の恋
人がすぐ近くにいるのだから!
その若葉ちゃんは、期末テストのあとに受けた全国模試の結果が
641
良かったのでほくほくしていた。奨学金がかかってるんだもんね。
学院中が皇帝を心配しているけど、若葉ちゃんはそれほど興味が
なさそう。一応どうしたんだろうって顔はしてたけど。
接点がないから失恋の八つ当たりをされる気配はまるでない。そ
もそも今の鏑木に八つ当たりするほどの気力がないとみた。
そんな鏑木を、舞浜さんが学院まで迎えにきた。普段の鏑木なら
無視するはずが、弱っているせいなのか舞浜さんに腕を組まれても
振りほどくことなく、そのまま同じ車に乗って帰ってしまった。
学園祭で舞浜さんを見た生徒達も大勢いたので、ふたりが一緒に
帰ったことで大騒ぎになった。
﹁あの子は誰なの!﹂
﹁百合宮の舞浜恵麻よ!優理絵様と親しいとかで、鏑木様に纏わり
ついているのよ!﹂
﹁鏑木様が優理絵様以外の女の子と一緒にいるなんて、どういうこ
となの!﹂
うわぁうわぁ、大変だ。みんなが鬼のような顔になっている!
私のグループの子達も目を吊り上げて去って行った車を睨みつけ
ていた。芹香ちゃんと菊乃ちゃんは呪詛の言葉を吐いていた。
鏑木、本当に大丈夫なのかな⋮。そういえば円城はこんな時にな
にをやってるの?
その姿を探したら、いつも鏑木のそばにいる円城が、厳しい表情
でとっくに見えなくなった車のあとを、ジッと見つめていた。
なんだかこっちも怖かったので、気づかれないようにそっと離れ
た。
642
その夜、愛羅様から話したいことがあるので会いたいというメー
ルがきた。
久しぶりに胃がキリキリとした。
643
103
愛羅様とは日曜日の昼下がりのカフェでお会いした。
﹁わざわざごめんね、麗華ちゃん﹂
﹁いえ、とんでもありませんわ。愛羅様に会えるなんてとても嬉し
いです﹂
私はカフェラテを注文した。ここのお店はラテアートをしてくれ
るのだ。私は羊をリクエストした。
﹁可愛い羊ね。そういえば麗華ちゃんも学園祭で羊の耳を付けてい
たわよね?﹂
﹁ええ﹂
羊の執事が案外評判が良かったので、あれ以来羊が好きになって
しまったのだ。あぁ崩すのがもったいない。
羊アートを楽しんでいる私に、愛羅様が遠慮がちに声をかけてき
た。
﹁あのね、今日来てもらったのはほかでもない、優理絵と雅哉のこ
となの﹂
来たな⋮。ほぼその話だと思っていましたよ。私は羊を崩さない
ようにそーっと飲んだ。おいしい。
﹁雅哉の様子がおかしいのは麗華ちゃんも気づいているわよね?﹂
﹁⋮はい﹂
644
そりゃああんな抜け殻のような姿を見せられちゃ、気づかないほ
うがおかしい。しかも事前に円城から鏑木は旅に出てるなんて言わ
れたり、不吉なお土産をもらったりしてるんだから。
﹁実はね、優理絵が雅哉にとうとう引導渡しちゃったのよ⋮﹂
﹁あー⋮﹂
やっぱり⋮。
﹁優理絵も雅哉のことはずっと大事に思っていたけど、それは一貫
して弟に対する愛情だったから、そろそろはっきりさせないといけ
ないと思ったのね。ほら私達も20歳になったし、けじめをつける
意味で﹂
﹁はぁ⋮﹂
確か君ドルでの振られ方もそんな感じだったなぁ。﹁弟としか思
えないから雅哉の気持ちには応えられない﹂とかなんとか。それで
も﹁嫌だ!諦められない!﹂とずいぶん鏑木は粘っていたけど。で
も最後まで優理絵様は前言を撤回しなかったんだ。お互いのために。
﹁雅哉にはっきりと言ったのは学園祭が終わってしばらく経った頃
だったかな。それまでにも、優理絵は雅哉が高等科に入学したあた
りから、少しずつ距離を置いてほかの子に目を向ける機会を作った
りしてたの。ほら、学園祭に優理絵が連れてきた子、覚えてる?﹂
﹁舞浜恵麻さんですね﹂
﹁そう。あの子は優理絵と同じお茶の先生に師事しているから、昔
から知っていたのよ。彼女も優理絵を慕っていたし、雅哉に憧れて
もいたから、何度か雅哉の家に一緒に行ったりしてね。雅哉も優理
絵の可愛がっている子だからと、無下には出来なくて⋮﹂
645
﹁そうですか⋮﹂
﹁学園祭にも私と優理絵だけが来ると思っていたら、恵麻さんも来
たでしょ。雅哉が不機嫌になっちゃってね。優理絵と見てまわるは
ずが、ずっと恵麻さんがくっついているから。その後も優理絵の家
に会いに行くと恵麻さんがいたりして⋮。そういうストレスもあっ
て、雅哉が優理絵にどういうつもりだ!って詰め寄っちゃったのよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それで、優理絵が雅哉のことは弟としか思えないから諦めて欲し
いって。雅哉がどんなに想ってくれても気持ちは変わらないって、
言っちゃったらしいのよ。いい機会だからって﹂
﹁それを受けての、あのテスト結果ですか⋮﹂
﹁⋮あぁ、あの雅哉が順位落ちしたんですってね。後で聞いたわ。
優理絵も気にしてた。それよりも、その後にホームステイ先で知り
合ったイギリスの男性が仕事で来日してね。優理絵と私達も歓迎し
に会いに行ったんだけど、それを雅哉が見て優理絵に、恋人が出来
たから突然あんなことを言いだしたのか!って逆上しちゃって大騒
ぎ。私達もとてもお世話になった方だったから、失礼なことをした
雅哉に優理絵が怒っちゃって、私が誰と付き合おうが雅哉には関係
ない!もう雅哉の顔なんて見たくない!って言っちゃったのよねぇ
⋮。もちろん、その方と優理絵は付き合ってなんかないわよ?﹂
﹁なるほど⋮﹂
そのショックで旅に出たか。
しかし鏑木、あんたは小学生の時から成長していないのか。なぜ
同じ轍を踏む。
﹁雅哉が行方をくらませちゃったのは秀介から聞いた?どこに行っ
てるのかはだいたい把握できていたんだけど、行った場所が場所だ
けに、優理絵も真っ青になっちゃって。自分の一言でここまで思い
詰めると思わなかったどうしよう!って私に泣きながら相談してき
646
たの。秀介は雅哉を毎日電話で説得して、場所がわかれば迎えに行
って⋮。鏑木家のおじ様もおば様も息子になにがあったんだって大
混乱。優理絵はおじ様とおば様に申し訳ない、顔向けできないって
落ち込みっぱなし。散々な年末年始だったわ﹂
お雑煮に飽きた私がお汁粉にはまっていた頃、愛羅様達はそんな
ことになっていたとは⋮。
﹁なんとか雅哉を家に連れ戻すことができて、ほら風邪を引いて具
合が悪くなってたから、これ以上旅が続けられなくなったの。それ
でもすっかり元気がなくなっちゃって、まるで別人のようでしょう。
私達もとても心配しているの﹂
﹁そうですか﹂
ずいぶん深いところまで聞いてしまった⋮。よくない流れだ。
﹁私のような無関係な人間が、ここまで聞いてよいのでしょうか﹂
無関係を強調してみる。無駄な足掻きっぽいけど⋮。
﹁それでね﹂と愛羅様は身を乗り出してきた。
﹁雅哉を立ち直らせるために、麗華ちゃんにも力になって欲しいの。
お願い麗華ちゃん﹂
﹁私ではなんのお力にもなれないと思いますけど⋮。特に親しくも
ありませんし。舞浜さんに頼んでみては⋮﹂
愛羅様は﹁そんなことはない﹂と私の手を握ってきた。
﹁麗華ちゃんならきっと力になれる!だって学園祭の時、ずっと不
機嫌だった雅哉が唯一表情を変えたのが、麗華ちゃんの執事姿を見
647
た時だけだったんだもの。あいつは俺の言ったことを全く守ってい
ないとか言って。雅哉が優理絵以外の女の子に興味を示すなんて、
普段あまりないのよ!﹂
それは私に興味があるというより、仮装へのダメ出しをしたいだ
けだと思います。
﹁それに悪いけど恵麻さんでは雅哉の心は動かないと思うわ﹂
愛羅様はきっぱりと言った。
﹁いや、でも∼﹂
﹁お願い、麗華ちゃん!優理絵も責任を感じちゃって精神的にかな
り弱っているのよ。雅哉が元気になるようにアドバイスなり話しを
するなりしてあげて?ね、お願い﹂
ううっ⋮、愛羅様のお願いは断りづらい私です⋮。
でもやだよぉ、悩んでいる人を立ち直らせるスキルなんて持って
いないし、そもそも面倒事には関わりたくないし。
﹁麗華ちゃん﹂
﹁う⋮⋮わかりました﹂
││││底なし沼に片足を突っ込んでしまった。
アドバイス。そう言われてもどんなアドバイスをすればいいの?
失恋を吹っ切る方法ねぇ。本当は若葉ちゃんとの新しい恋が始ま
るのが、立ち直る一番のきっかけなんだろうけど。今のところ始ま
648
る兆しすら見えないし。
若葉ちゃんをけしかけてみる?いやいや、これ以上危ない橋を渡
るのはやめておこう。
そうだなー⋮。
﹁あのー、鏑木様?﹂
サロンでぼんやりと座る鏑木に怖々話しかけてみる。隣の席には
微笑む円城。
﹁つらい俗世を忘れ、ヨーロッパの女人禁制の厳しい修道院に入る
というのはいかがでしょう。鏑木様にはトンスラもとてもお似合い
だと思いますわ。薔薇の名前の世界です﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁吉祥院さん、ちょっといいかな﹂
私は笑顔の円城に腕を掴まれ端に連れて行かれた。
﹁雅哉がなんでトンスラで修道院に入らないといけないんだよ。し
かもヨーロッパって﹂
﹁やはり鏑木様のような方でしたら本場がよいかと﹂
﹁却下﹂
我がままだなぁ。
私はもう一度鏑木の元に戻った。
﹁鏑木様、日本には比叡山と高野山という場所があります。どうで
しょう、俗世を捨て丸坊主にして仏に仕えるというのは。鏑木様に
は丸坊主もお似合いだと思いますわ。西行の作ったホムンクルスに
も出会えるかもしれません﹂
649
﹁⋮⋮﹂
﹁吉祥院さん、ちょっと﹂
さっきより強く、円城が私の腕を引っ張った。
﹁雅哉を出家させようっていう考えから離れてくれるかな。吉祥院
さん、君、厄介ごとを遠い地に封じようとしてるでしょ﹂
﹁まさか、そんな。私は気分を一新するがいいのではないかと思っ
ただけですわ。善意です﹂
﹁嘘つき﹂
酷い。ひとの真心を信じられないなんて、円城の心は歪んでいる
ね。
﹁トンスラ⋮丸坊主⋮﹂
鏑木がつぶやく声が聞こえた。
﹁ほら、鏑木様も興味を持ったようですわ。鏑木様、私はトンスラ
をお薦めしますわよ!﹂
﹁吉祥院さん、もういいです﹂
せっかくの私のアドバイスだったのに、円城に追い払われてしま
った。いいアイデアだと思ったのにな。
善意です。
雅哉のことは私達でなんとかすることにしたから。
というメールをもらった。
愛羅様からは
ありがとう
あら、そうですか?役立たずで申し訳ありません。
650
104
寒いと思ったら雪が降っていた。
これだけ雪が降っていたら、休校の連絡が来るかもとわくわくし
ながら待っていたけど、なんの音沙汰もなかったのでおとなしく学
校へ行く準備をする。
電車通学の人は大変だろうけど、私は車で送ってもらえるので雪
でもさほど苦労はしない。雪の日のローファーほど危険な物はない
からね。しかも雪が靴に滲みてきて冷たいし。庶民だった前世は大
変だったなぁ。雪が降って喜ぶのなんて小学生くらいのものだ。
快適な車の中から外を見ると、雪に足を滑らせて転ぶ人が何人も
いた。危ないな。
瑞鸞の生徒は車通学が多いけど、学院に近づくにつれ徒歩通学の
生徒の姿もちらほら見える。みんな雪にローファーを取られて歩き
にくそうだ。そんな中ザッザッザッと雪道など物ともせずしっかり
歩く生徒がいた。若葉ちゃんだ。若葉ちゃんは長靴を履いていた。
長靴と言っても魚屋さんの履くような物ではなく、女の子用のサ
イドにお花模様が付いている紺の長靴だったけど、寒さよりおしゃ
れを選ぶ女子高生の中で実利を取る若葉ちゃん、さすがだ。
若葉ちゃんは鼻の頭を赤くして、マフラーに顔を埋めていた。
マフラーか⋮。
私は突然マフラーを編みたくなってしまった。
普段から送り迎えは車なので、防寒でマフラーはあまり使わない
のだ。ファッションとしては使うけど。
さっそく毛糸を持って手芸部に行った。
冬は手芸部も編み物が盛んなようで、みんな編み棒を持って編ん
651
でいる。
楽しいよねぇ、編み物。私はあまり器用ではないので、編み目が
詰まっているところと緩いところがあって、歪んで波々になってる
けど。
﹁麗華様も編み物ですか?もしかしてまた編みぐるみを?﹂
新部長の先輩が話しかけてきてくれた。
﹁いえ、今回はマフラーを編んでみようと思っています﹂
﹁まぁマフラー。ご自分でお使いになるんですか?それともどなた
かへのプレゼントでしょうか﹂
﹁特に自分で使う予定も誰かに贈る予定もないのですけど⋮。なん
となく編みたくなってしまって﹂
さすがにお兄様もお父様も、私の手編みのマフラーをもらっても
困るだろうしね。手芸屋さんで一番手触りのいい柔らかい毛糸を買
ってきたので、出来上がったら家で巻こう。
﹁あの⋮ところで、麗華様。少しお話があるのですけど﹂
﹁なんでしょう?﹂
部長さんが言いづらそうな顔をしているので、嫌な予感がした。
周りの部員達もこちらをチラチラ見ている。これは益々嫌な予感だ。
﹁実は麗華様が手芸部に通っていることについてなのですが⋮﹂
﹁はい⋮﹂
うぉ∼ん、とうとう来たか。この1年、何食わぬ顔で居据わって
いたけど、誰もがきっといつまで来るんだろうと思っていたに違い
652
ない。新部長は優しい顔して事なかれ主義ではないようだ。
どうしようかな、立ち退き要求されても聞こえないフリしちゃお
うかな⋮。
﹁麗華様、よければ手芸部に入部しませんか?﹂
﹁えっ!﹂
部長さんがそっと入部届を出してきた。
﹁部活納めの時に部員みんなで話し合ったんです。麗華様は手芸が
お好きなようですし、学園祭でもブーケ作りを手伝ってくださった
でしょう?だったら正式に部員になってもらったらどうかって﹂
私が誘われなかった部活納めのお茶会で、そんな話題が!
﹁よろしいんですか?私が入部しても⋮﹂
﹁ええ、もちろん﹂
﹁⋮でも、最初は迷惑に思っていませんでした?﹂
﹁いえ、そんな!﹂
部長さんの目が少し泳いだ。やっぱり⋮。
﹁あの、麗華様が入部してくれたら、私達も嬉しいです﹂
そう、ひとりの部員が言ってくれた。本当に?私が周りを見ると、
ほかの部員達もそれに笑顔で頷いてくれた。
私、1年がかりで受け入れられた!︵仮︶が取れるんだ!
私は入部届を握りしめ。﹁私、手芸部に入部いたしますわ!﹂と
高らかに宣言した。みんなが拍手をして迎え入れてくれた。
嬉しい!嬉しい!
653
私は俄然張り切った。勢いよく席を立ちあがり、両手を腰に当て
た。
﹁正式部員になった以上、私は手芸部のために力は惜しみませんわ
!手芸部の環境改善のために、生徒会に直談判し、部費をもぎ取り、
もっと広い部室を確保してみせましょう!﹂
﹁え、そんなことは頼んでいないけど⋮﹂
﹁おまかせください、みなさん!来年度の学園祭は、一番目立つ場
所にどーんっと!﹂
﹁麗華様、私達は今まで通りでいいんです!﹂
﹁あまり目立つことはちょっと⋮﹂
﹁お願い麗華様、やめてやめて﹂
みんなが慌てて私を止めに入った。
いけない。嬉しさのあまり少し暴走してしまったようだ。新部長
が私の持っている未記入の入部届を引っ張っている。なにしてるん
ですか?返しませんよ。明日、判子押して持ってきますから。握り
つぶさず受理してくださいね?
それから最後の子、﹁やめて﹂は止めてですよね?辞めてじゃな
いですよね?私、卒業まで辞めませんから。
吉祥院麗華、手芸部の正式部員になりました。うほほーい!
私は手芸部に入部したことを、葵ちゃんと桜ちゃんにメールした。
あれ
良かったね!麗華ちゃんの良さをみんなわかっ
と心温まる返信をもらい、桜ちゃんからは
葵ちゃんからは
てくれたんだよ
だけ無言の圧力かければ、折れざるを得ないでしょ。粘り勝ちね
と相変わらずの毒舌メールが届いた。
それから桜ちゃんは、舞浜さんの近況も教えてくれた。舞浜さん
654
は百合宮でまるで自分が皇帝の彼女であるかのように、吹聴してい
るそうだ。皇帝のお母様や皇帝が姉と慕う女性から認められている
のだと。
﹁うへぇ∼﹂
舞浜さん、他校だからって言いたい放題だな。そんなこと、瑞鸞
でやったら即潰されるぞ。
舞浜さんが瑞鸞にまで迎えに来たのはあの時1回だけだったけど、
桜ちゃん情報によると何度か鏑木家にも行っているらしい。
鏑木も円城達の励ましと支えのおかげか、表面上は少しずつ元気
になってきているようには見えるけど、まだまだダメージは深そう
だから、舞浜さんを蹴散らす気力がないのかなぁ。
本当は、鏑木を元気にさせる一番の方法は雪合戦大会だと思うん
だけど。
騎馬戦バカの鏑木は、雪合戦なんて言ったら大張り切りで味方軍
を鍛え、采配を振り回して﹁鶴翼の陣をとれー!﹂とかやりそうだ
もん。
でも鏑木のためだけに、高校生にもなって雪合戦大会なんて企画
出来ないしね。
しかし舞浜さんって小粒の君ドル吉祥院麗華だよねぇ。
手芸部の正式部員になったので模範部員となるべく毎日通い、何
も考えずひたすら編み続けていたら、マフラーにするには長すぎる
妙な物体になってきてしまったので、膝掛けに変更した。
出来上がった膝掛けはあまり出来が良くなかったのでお父様にあ
げた。
狸が調子に乗って﹁麗華はお父様っ子だねぇ﹂などとのたまわっ
たのでイラッとした。
655
秘書の笹嶋さんから狸が手編みの膝掛けを自慢しまくっていると
いう話を聞いて、大後悔中⋮。
656
105
ピヴォワーヌ内で、若葉ちゃんの雪の日の長靴登校が地味に問題
になっていた。曰く、瑞鸞の品位を損なうと。
たかが長靴とは思うけど、瑞鸞ブランドをなによりも大切にする
人達にとっては、許しがたいようだ。私が手芸部に日参している間
に、ピヴォワーヌ会長直々に若葉ちゃんへの厳重注意が下されたら
しい。
ピヴォワーヌ会長から睨まれたことで、若葉ちゃんを遠巻きにす
る生徒が増えていった。
若葉ちゃんは素直に謝って、学院には長靴を履いてこないと誓っ
たらしいんだけどね。
こんな時鏑木はどうしているのかと思えば、ハイネの詩集を読ん
では落ち込んでいた。優理絵様はアマーリエか。面倒くさい⋮。
でもこのまま卒業まで鏑木がうじうじ悩んでいたら、私の高校生
活も安泰なんじゃないか?むしろ立ち直らないほうが都合がいいか
も?!
円城も鏑木が旅人は一端廃業したようなので、放置気味だし。な
んだか今年はとってもいい年になりそうだ。
塾に行くと、もうすぐバレンタインも近いということで、森山さ
んと榊さんがチョコの相談をしていた。自称男っぽいはずの森山さ
んは手作りするらしい。
﹁吉祥院さんは例の好きな人にチョコをあげるの?﹂
657
あぁそんな設定だったっけ。伊万里様とは頻繁に会えるわけじゃ
ないし、わざわざチョコを郵送するのもおかしいので、あげたこと
はない。
﹁特にその予定はありませんわ。バレンタインはいつも身内にしか
渡していませんし﹂
﹁えーっ、もっと積極的にならないとダメだよ﹂
﹁密かに憧れているだけなので、私の気持ちに気づかれたくないん
です﹂
﹁ふーん﹂
そこへ梅若君達男子3人が﹁なになにバレンタイン?!﹂と、話
に入ってきた。
﹁梅若はどうせチョコなんてもらえないだろうから、私があげるわ
よ﹂
森山さんがさりげなくアピールをした。やっぱりね。
﹁家族の目が痛いので、数が欲しい﹂というので、全員に1個ずつ
チョコを渡すことになった。なぜか私も。
私、義理チョコって配ったことないんだけど。
﹁吉祥院さんのチョコって、超高級そー!﹂
梅若君の言葉に、森山さんの目が鋭くなった。怖い。ほかのふた
りには普通のチョコで、梅若君にはベアトリーチェ用の犬チョコを
贈ろう。これなら梅若君に直接渡したことにはなるまい⋮。
あ∼ぁ、本命チョコのないバレンタインなんてつまんないなー。
658
学院では芹香ちゃん達も皇帝達へ贈るチョコの話で、毎日花を咲
かせている。一応私からは﹁鏑木様はチョコではなくショコラと言
うことにこだわりがある﹂とアドバイスしておいた。
バレンタイン談義ではひとり蚊帳の外なので、退屈して校内をふ
らふら散歩していたら、職員室から出てくる友柄先輩に出くわした。
﹁友柄先輩!﹂
﹁あれ、吉祥院さん﹂
私はタタッと駆け寄った。もうすぐ卒業してしまう友柄先輩と会
えるのは、私にとってとても貴重なのだ。
﹁友柄先輩、希望の学部に合格なさったそうですね。おめでとうご
ざいます!﹂
﹁ありがとう﹂
友柄先輩が裏表のない笑顔でお礼を言ってくれた。うふふ、眼福
眼福。
﹁なにか合格のお祝いを差し上げられたら良いのですけど⋮﹂
﹁お祝い?そんないいよ、気持ちだけで。どうもありがと﹂
うーん、まぁそうだよね。ただの後輩から合格祝いのプレゼント
なんて贈られても困るか⋮。でもなぁ、卒業まであとわずかだし、
なにかしたいんだよね。
すると友柄先輩が、だったらと代替案を出してくれた。
﹁合格祝いはバレンタインのチョコでいいよ﹂
﹁えっ!﹂
659
友柄先輩にバレンタインのチョコですと?!
そんな夢みたいなことしていいの?!やっぱり今年の私はツイて
いる!
友柄先輩にどんなことがあっても必ずお贈りいたします!と固く
約束して、私は3年生の教室に早足で向かった。
私も楽しいバレンタインイベントに参加できる!と浮かれたけれ
ど、まずは友柄先輩の彼女である香澄様の了解を取らないと。
香澄様に事の次第を話して私が友柄先輩にチョコを渡していいか
尋ねると、香澄様は笑って許可してくれた。﹁千寿はお菓子好きだ
から、おいしいチョコを選んであげてね﹂って、おまかせあれ!
私は芹香ちゃん達の話に首を突っ込み、桜ちゃんにリサーチし、
あらゆる情報網を使って、これだと思うチョコを厳選した。みずか
らすべて試食して。
妄想恋愛でも楽しい。こんなに真剣にチョコ選びをするなんて初
めてのことだ。アイドルにチョコを贈っちゃうファンの人達の気持
ちって、こんな感じなのかな?
バレンタイン当日、私は香澄様と友柄先輩にお揃いのチョコを渡
した。メッセージカードにはふたりのイニシャル、S&Kを入れた。
恋愛ぼっち村村長として、幸せなカップルを応援、祝福するよ!
このチョコレートは、私が食べまくったチョコの中で一番おいし
かったから自信を持って贈れるぞ!
友柄先輩は﹁ありがとう嬉しいよ!﹂と笑ってくれた。きゅーん!
内部進学だけど、希望の学部に内定おめでとうございます友柄先
輩。贈り物は消え物が一番ですね。
﹁私にももらえるなんて、ありがとう麗華様﹂
660
香澄様も嬉しそうに袋を受け取ってくれた。おいしいですから、
ぜひ食べてくださいな。
﹁ちなみに香澄様はどんなチョコを贈ったのですか?﹂
﹁え、私は手作りのケーキを⋮﹂
おおっ!やっぱり本命は手作りなんですね!!
いいなぁ、羨ましいなぁ。私もいつか好きな人に手作りチョコを
渡したいなぁ。
香澄様とはその後しばしバレンタイントーク。﹁麗華様は好きな
人に渡さないの?﹂と聞かれたので、﹁相手がいませんの。友柄先
輩のような方がいたら別ですけど﹂と言ったら、﹁あら、千寿みた
いな人はいないわよ?うふふ﹂とのろけられてしまった。むきーっ
!私だって来年こそは!
今日の私があとやるべきことは、家に帰ってお兄様とお父様へ渡
すバレンタインチョコを作ることだけなので、早めに帰ろうと友達
数人と校舎を出たら、門の前に人だかりが出来ていた。
野次馬根性で見てみると、なんと舞浜さんが鏑木にチョコを渡す
ためにわざわざ瑞鸞にまで乗り込んできていた。ゆる巻き、口元が
もう得意気に上がってる。
﹁雅哉様、お約束のバレンタインのチョコですわ﹂
﹁⋮⋮﹂
あ!そのチョコ、私が夏の鏑木家のお茶会で持って行ったお店の
じゃないか!好きな人にあげるチョコならば、自力で食べつくして
探せ!そして﹁チョコ﹂って言った!愚か!
瑞鸞女子達が放つ憎悪のオーラの中、すべてに投げやり状態の鏑
661
木は、どうでもいいとばかりに適当な様子で受け取った。
鏑木達がもらうチョコの数はあまりに大量なので、家から人が来
てまとめて運ぶことになっているのだが、舞浜さんのチョコはその
まま鏑木の手にぶら下がっているので、女子達の顔がどんどん凄い
ことになっていく。
私が怒りの芹香ちゃん達とそれを見物していたら、舞浜さんが私
に気が付いた。
﹁あら、麗華さん﹂
うわ、面倒。
﹁ごきげんよう舞浜さん﹂
﹁私これから雅哉様とご一緒に、私のバレンタインチョコを食べる
予定ですの﹂
﹁そうですか﹂
﹁雅哉様のお母様に誘っていただいたものですから。麗華さんもこ
れから鏑木家にいらっしゃるの?﹂
﹁いいえ﹂
﹁あら∼っ!麗華様はお声をかけていただいていないの?やだ、ご
めんなさい。期待させちゃった?﹂
舞浜さんの馬鹿にした態度に、私の周りの子達が一気に殺気立っ
た。
舞浜さんは私に自分のほうが上だと自慢したいようだけど、私相
手にそんなことをしている間に、鏑木はひとりで鏑木家の迎えの車
に乗り込んで帰ろうとしてるけど?あらら発進しちゃった。舞浜さ
ん置いてけぼり。
﹁雅哉様?!﹂
662
舞浜さんは慌てて自分の車に乗って後を追って行った。笑える。
﹁あの女、麗華様に対してなんという口を!﹂
﹁許せないっ!麗華様!身の程知らずに鉄槌を!﹂
芹香ちゃんと菊乃ちゃんが私の両腕を掴んで怒り狂っている。ま
ぁまぁそんなに怒らないで。面白い見世物だったじゃないか。
﹁所詮、小物ですわ﹂
私の言葉に、芹香ちゃん達が少し落ち着く。そう、あの巻きを見
てもわかる通り、小粒で小物なのだ。他校だし本当にどうでもいい。
舞浜さんの道化一人芝居よりも、私にはバレンタインチョコ作り
という仕事のほうが大事なので、お先に帰らせてもらう。どうせみ
んなはこれから舞浜さんの悪口大会だろうから。
校舎から若葉ちゃんが出てくるのが見えた。若葉ちゃんの趣味は
お菓子作り。若葉ちゃんも今日はバレンタインチョコを手作りする
のかな?
今年は普通のチョコレートケーキを作ることにした。
あらかじめ用意されていた材料を混ぜていく。ここで麗華オリジ
ナルレシピ。
大人の味にするために、今回は少しグラニュー糖を減らして甘さ
を控えめにしてみる。そのかわりにリキュールを入れる。これが大
人の隠し味。
リキュールもオリジナリティを出すために、数種類混ぜる。ふん
ふんふん。
663
レシピサイトに投稿してみようかな。あ!だったら作業工程を写
真に撮っておくべきだった!ああいうのって画像が大事なのに。し
ょうがない、今回は諦めるか⋮。残念だ。
出来上がったチョコレートケーキからはお酒の匂いがふわっとし
た。うん、いいんじゃない?
試食してみると少し苦い⋮。
庶民の人達は知らないと思うけど、高級なチョコレートというの
はビターが多い。甘いチョコというのは安っぽいのだ。
お兄様は帰りが遅くなるというので、しょうがないけどお父様に
先に渡す。狸は一口食べて﹁お父様、最近人間ドックで引っかかっ
ちゃって⋮﹂などともごもご言っていたけど、さっさと食べろ狸。
娘の愛情がたっぷり詰まっているぞ。
お兄様には⋮⋮少し小さめに切り分けておいた。
664
106
とうとうこの日が来てしまった。友柄先輩の卒業式だ。
もちろん卒業式の答辞は友柄先輩が読んだ。あぁ、制服を着た友
柄先輩を見るのも今日が最後。さようなら、私の初恋。⋮⋮なんて
自分に酔ってみる。
私はピヴォワーヌのメンバーとして、卒業していくピヴォワーヌ
の先輩方にご挨拶をした後、友柄先輩の元へ行った。友柄先輩の周
りには同じく卒業していく方々が大勢いた。ちょっと緊張。
﹁友柄先輩、ご卒業おめでとうございます!﹂
﹁ありがとう吉祥院さん﹂
うっ、間近で見たら涙が⋮。寂しいよぉ。
﹁この間のチョコもありがとうね。香澄も喜んでた﹂
﹁はいっ﹂
あ、香澄って名前出しちゃったけどいいの?
私の疑問が顔に出ていたのか、友柄先輩が笑って頷いた。
﹁香澄!﹂
離れたところでご友人のみなさんと一緒にいた香澄様がびっくり
した顔をした。
友柄先輩はそのまま香澄様の元まで歩いて行くと、その肩を抱き
寄せて﹁俺達、付き合ってるから!﹂と電撃発表した。
元生徒会長とピヴォワーヌメンバーとの恋に、あたりはどよめい
665
た。
生徒会役員も、ピヴォワーヌも慌てふためいている。
しかし私は感動して、力いっぱい拍手をした。うわぁうわぁっ、
これぞ私の大好きな王道少女マンガの世界だよぉっ!
卒業しちゃえば、もう生徒会もピヴォワーヌもそれほど関係ない
もんね!大学では大手を振ってふたりで歩けるもんね!
私の拍手につられて、ほかの人達も拍手を始めた。その拍手はど
んどん大きくなっていった。
友柄先輩はそれに応えて笑顔で手を振っているけど、香澄様は真
っ赤になって小さくなっている。でも嬉しそうだ。あぁっ!香澄様
泣いている!いかん、私ももらい泣きが止まらない!良かったです
ねぇ、香澄様!ずっと隠していたんだもんねぇ。誰にも言えないこ
とに心を痛めていたもんねぇ。
ふたりのカミングアウトに驚かされた人達に囲まれていた友柄先
輩と香澄様が、人垣を抜け出して私のところにやってきた。
私はもう一度拍手をした。
﹁ありがとう、吉祥院さん﹂
﹁ありがとう、麗華様﹂
﹁お゛、おべでどう、ございばずぅっ!﹂
やばいっ、私は泣くと鼻が詰まるんだよ∼っ!
私は持っていたハンカチで涙と一緒にこっそり鼻水をぐいっと拭
いた。⋮ふうっ、なんとか鼻呼吸できるようになった。
﹁良かったですわね、香澄様。やっと公表できましたわね﹂
﹁今までずっとありがとう、麗華様。いつも話を聞いてくれて、私
とっても嬉しかった﹂
﹁香澄様∼っ﹂
666
再び涙が出てきた私の手を、同じく涙ぐむ香澄様が握った。あ、
ダメです香澄様、このハンカチには私の鼻水が⋮。
﹁俺も吉祥院さんのこと、ずっと可愛い妹みたいに思ってたよ。今
までありがとう。卒業しても香澄と仲良くしてやって﹂
﹁はい。おふたりのこと、ずっと応援しています﹂
友柄先輩が私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。うわーん!こんな
出来損ないの妹でいいですかー?!
私って、実のお兄様を筆頭に伊万里様、友柄先輩と素敵なお兄様
に恵まれている!
友柄先輩達を見送って、私はやっと涙腺も落ち着き人心地ついた。
泣いちゃったのが恥ずかしいので、ひとり校舎の隅のあたりに移
動した。ここなら誰もいないな。私はティッシュを取り出して、思
いっ切り鼻をかんだ。あー、すっきりした!
はぁーっ。いやー、すっかり感動しちゃったよ。やっぱり友柄先
輩は凄いなぁ。私も1度でいいから卒業式であんな告白されたーい!
私が頭の中で鐘をリンゴンリンゴン鳴らしていると、肩をポンと
叩かれた。ん?
振り向くと、悲愴な顔の鏑木が立っていた。
なんでこんなところに鏑木が?
﹁あの⋮なんでしょう?﹂
私が当然の疑問を投げかけると、鏑木は私の肩に手を置いたまま、
なおいっそう沈痛な面持ちで口を開いた。
﹁お前、偉いな⋮﹂
667
﹁え?﹂
偉い?なにが?
﹁ずっと好きだったんだろ?あの生徒会長のこと﹂
﹁え?﹂
﹁妹みたいに思ってるなんて言われて、つらかったよな⋮﹂
﹁え?いや⋮﹂
鏑木はわかっていると言わんばかりに、私の肩を何度も叩いた。
痛いよ。そして勝手に妙な勘違いしないでよ。なにを言いだすんだ、
こいつは。
﹁俺も、お前と同じだから気持ちはよくわかる。好きな相手に妹な
んて言われて⋮!﹂
鏑木は感極まったように私の肩をぎゅうっと掴んだ。痛いっ痛い
っ!
﹁でも凄いよ、お前は。それでも笑って祝福してやったんだからな。
よくやったぞ﹂
今度は背中をバシバシ叩きはじめた。だから痛いってば!!私は
力士じゃない!
﹁鏑木様、なにか誤解をなさっておいででは?﹂
私はさりげなく距離を取って鏑木の手から逃れようとした。しか
し鏑木に両肩をがっしり掴まれた。
668
﹁いいんだ、俺にはわかってる。みなまで言うな。俺はお前の姿に
励まされた。あんなふたりの姿を見せられたってのに⋮っ!偉いぞ、
吉祥院!俺もお前を見習ってなんとか前向きになろうと思う⋮。だ
からお前も失恋なんかに負けるな!﹂
両肩バシバシバシ。痛い痛い痛いっ!地面にめり込む!
肩だ背中だと、あまりの痛さに涙ぐむと、鏑木まで目が潤みだし
た。
﹁つらかったら俺が話を聞くから。お互い頑張ろうな⋮。お互いな
んとか乗り越えような⋮﹂
鏑木は浮かんだ涙を隠すように、さっと背中を向けて目元をぬぐ
っていた。そして﹁滅多なことは考えるなよ﹂と言って、去って行
った。
⋮⋮⋮⋮。
なんだ今の。
滅多なことってなによ。私が旅に出るとでも思っているのか?い
や、行かないよ?東尋坊。寒いもん。
しかし鏑木、思い込みが激しすぎる。なに勝手に私が友柄先輩に
失恋したとか勘違いしちゃってんだ。そんなの大昔の話だぞ。しか
も妹扱いされたことで、失恋の仕方が自分と同じだと、変な仲間意
識持たれても困るんだけど。
バカだバカだと思っていたけど、あれ、本物だな。
肩、痛い⋮。
669
次の日、肩に湿布を貼って登校すると鏑木に呼び止められ、黙っ
て詩集を渡された。え、いらないと思って返そうとしたのに、また
肩を叩かれ頷かれた。﹁俺達の想いが綴られているから⋮﹂
俺達ってなんだよ⋮。だから一緒にしないでよ。
⋮⋮まさに、恋とはすでに狂気。
せっかくの詩集からなにも学んでいないな、鏑木。
﹁それから吉祥院、お前泣き顔に気を付けろ。結構酷いぞ﹂
﹁⋮は?﹂
鏑木は自分の言いたいことだけ言うと、満足気な顔をして教室に
戻って行った。
円城にはとてもいい笑顔で、﹁吉祥院さんのおかげで雅哉がなん
だか元気になったよ、ありがとう﹂と言われた。
⋮⋮はあっ?!
勝手にひとを失恋女に仕立て上げて元気になってんじゃねーよ!
泣き顔ブサイクで悪かったな!詩集より湿布持ってこいよ!無臭の
湿布だぞ!
人目があるので投げ捨てるわけにもいかず、詩集を手に教室に入
ると、﹁麗華様が鏑木様から恋の詩集を渡されたわー!﹂とギャラ
リーが一斉に騒ぎ出した。もう最悪⋮!
﹁女性に詩集を贈る鏑木様の感性はなんて素敵なの!﹂と女の子達
はうっとりしているけど、そうかぁ?私は全く嬉しくない。
2ヶ月以上も失恋男がめそめそ読み続けていた詩集なんて、持っ
てたら私の恋愛運まで下がりそうじゃないか。なんて縁起でもない!
670
家に帰って詩集入りのカバンを乱暴に置くと、お雛様の首がごろ
りと落ちた。
671
107
不吉なお雛様を修理に出すと同時に、学年末テストがやってきた。
数日後に出された結果は、
1位 円城秀介
2位 高道若葉
3位 水崎有馬
・
5位 鏑木雅哉
だった。
テスト前ぎりぎりまで死人状態だったくせに、なんで復活してす
ぐに5位になれるんだ!私なんて万全の体調だったはずなのに、今
回もまた入ってない!なんだこれは!お雛様の呪いか?!
鏑木、円城の取り巻きの女子達は、円城の1位と鏑木復活を喜ぶ
のかと思いきや、﹁円城様と水崎君に挟まれているなんてずるい!﹂
と、完全な言いがかりを若葉ちゃんの順位に向けていた。
鏑木は無表情に順位表を見ていた。
⋮あの詩集、引き取ってくれないかな。一応パラパラとめくって
みたけど、ここを読めとばかりに、ご丁寧に自分が心に残った箇所
に付箋が貼られていた。押し付けがましい⋮。しかもそれが辛気臭
いフレーズばかりだった。鬱陶しい⋮。鏑木の机にこっそり返しち
ゃおうかな。それがダメならお焚き上げしてもらおうか。なんかあ
の詩集に鏑木の厄が詰まっている気がする⋮⋮。
672
3月14日はホワイトデー。いつものグループでランチを食べて
雑談をしていたらメールが届いた。
私はそれを見た瞬間に、大急ぎで校門まで走った。横っ腹が痛く
なったのですぐに減速したけど。
﹁香澄様!友柄先輩!﹂
門には香澄様と友柄先輩が手を振って待っていてくれた。
﹁2週間ぶりだね吉祥院さん﹂
﹁ごきげんよう麗華様﹂
﹁はい!ごきげんよう、香澄様、友柄先輩﹂
友柄先輩の私服!制服姿じゃないと凄く大人っぽく見えます!か
っこいいーー!
﹁ごめんなさいね、お昼休みに呼び出して﹂
﹁いいえ、とんでもない!おふたりにお会いできてとても嬉しいで
すわ!﹂
﹁実は今日は吉祥院さんにこれを渡したくて。はい、ホワイトデー
のお返し﹂
友柄先輩に渡されたのはギモーヴで有名なお店の袋!やった!私
はここのギモーヴが大好きなのだ。前世ではマシュマロをおいしい
と思ったことがなかったけど、お高いお店のお高いギモーヴは、口
に入れると溶けてなくなるのだ。そして果物の味がとってもジュー
シー。
しかも渡された袋がちょっと重い。たくさん入っている予感。⋮
嬉しい。
673
﹁それからこれも。俺達ふたりから﹂
そう言って友柄先輩が差し出したのは、ジュエリーショップの袋。
﹁えっ!﹂
﹁吉祥院さんに似合う物を、ふたりで選んだんだ﹂
﹁麗華様、もしよければ使ってくださいね﹂
﹁開けて見てもよろしいですか?﹂
友柄先輩と香澄様が笑って頷いてくれたので、外で申し訳ないけ
ど中身を開けさせてもらった。
出てきたのはお花のモチーフのネックレス!その中心には小さな
アクアマリンが付いている。可愛い!
﹁チョコのお返しに、こんなに素敵な物をいただいてしまってよい
のですか?﹂
﹁もちろん!吉祥院さんは花のイメージだからね。絶対に似合うと
思うよ﹂
友柄先輩の中で、私のイメージは花!あっ、幻の鼻血が⋮。
﹁ありがとうございます。私、一生大切にいたしますわ!﹂
﹁一生?嬉しいなー﹂
﹁麗華様に喜んでもらえて、私達も嬉しいわ﹂
ふふっと笑って口元を覆う香澄様の手に指輪が!
﹁香澄様、その指輪は﹂
﹁えっ、あ、これは千寿からのホワイトデーのプレゼントで⋮﹂
674
頬を赤らめる香澄様。かーっ!いいねぇ、幸せカップルは!
でも今の私だって、このネックレスをもらっただけで充分幸せだ
よ。
せっかくの休みの日でしかもホワイトデーなのに、わざわざ卒業
した高校に出向いてお返しのプレゼントを持ってきてくれたおふた
り。本当に嬉しい。
香澄様と友柄先輩はこれからデートだそうだ。ちぇっ、私はまだ
授業が残っているのになー。羨ましい。
もうすぐお昼休みも終わる時間なので、名残惜しいけどおふたり
とはお別れした。大学に行ってもまた会いに来てくれると言ったの
で、その言葉を信じて待っています。
思わぬ友柄先輩達との再会に、嬉しくて小躍りしそうになりなが
ら校舎に入ると、なにやら妙な強い視線を感じた。
プレゼントを両手に抱え込み、あたりをきょろきょろしてみると、
少し離れたところに、鏑木が立っていた。
じーーっと私を見てくる鏑木。え⋮なに?
無言でひたすらじーーっと音がするほど見てくる鏑木がちょっと
気持ち悪かったので、後ずさりしてみる。
﹁あの⋮なにか?﹂
じーーーーっ⋮⋮。
なんだよ、なにか用かよ。私には心眼スキルはないから、無言で
見つめられてもわかんないよ。そして怖いよ。言いたいことがある
なら言ってくれ。
無言でじーーっと見てくる鏑木。少しずつ後ずさる私。校舎前玄
関には運の悪いことに誰もいない。なにこれ⋮⋮。
675
⋮あれ?よく見ると鏑木の視線が私の持っているプレゼントにい
ってる?
もしかして、同じ失恋仲間だと思っていた私が、友柄先輩からホ
ワイトデーのプレゼントをもらったことになにか言いたいことが?
裏切り者とか思ってたりして?袋にはジュエリーブランドのロゴ入
りだし⋮。
あ、それともホワイトデーのお返しの参考にしたいとか?
﹁鏑木様⋮、今日はホワイトデー、ですわね?﹂
鏑木の目がカッと開いた。
まずい、地雷だ!こいつ、きっと今年優理絵様からバレンタイン
もらっていない!もらっていなければ、返すこともできない!
この視線は失恋仲間の私だけいい思いをしていることに対しての、
無言の抗議なのだ!
やだー!こいつ全然治ってないじゃん!病みが深すぎるよ!近く
にいたら私まで病んじゃうよ!
いやだ!逃げたい!この場を今すぐ逃げ去りたい!
しょうがない!私は友柄先輩達からいただいたギモーヴの袋を開
けた。
あった。
袋の中には透明なケースに入った、数種類のギモーヴ。ピンクは
フランボワーズ、水色はライム、オレンジはマンゴー、白は桃⋮。
私はその中から桃のギモーヴのケースを取り出して、ボーッと突
っ立っている鏑木に近づき、その手にぐいっと押し付けた。
そしてそのままダッシュ!
古来より、桃には魔除けの効果があるという。古事記によるとイ
ザナギが黄泉の国から逃げる時に、追いかけてくる鬼に桃を投げつ
けて祓ったそうだ。
この廊下は黄泉比良坂なのだ!振り返ってはいけない!現世に無
676
事戻るためには振り返ってはいけないのだ!
成仏しろよ、鏑木!
今日は中等科の卒業式だ。可愛くない従妹の卒業のお祝いに、私
はロリーポップの花束と、特別大サービスでお兄様を用意した。
お兄様は仕事で忙しかったのだけど、拝み倒して抜け出してきて
もらったのだ。璃々奈よ、この慈悲深い私に感謝するがよい。
花束はお兄様に持ってもらった。
﹁麗華が自分で渡せばいいのに﹂
﹁いいのですわ。璃々奈はお兄様に祝ってもらいたいのですから﹂
璃々奈達が出てきた。璃々奈はお兄様を目敏く見つけると、友達
を置いて一目散に走ってきた。
﹁貴兄様!来てくださったのね!﹂
﹁卒業おめでとう、璃々奈﹂
﹁これ百合の花!璃々奈の花ね!ありがとう貴兄様!﹂
お兄様から花束を受け取って、璃々奈はとても嬉しそうな顔をし
た。ま、今日くらいはお兄様を貸してあげるわよ。
私はそれより少し小さいブーケを、お祝いの言葉とともに璃々奈
の友達に配った。少し多めに用意しておいたので余裕で足りそうで
良かった。
﹁ありがとうございます!﹂
﹁麗華先輩からお花をいただけるなんて!﹂
﹁ありがとうございます麗華先輩﹂
677
口々にお礼を言ってくれる後輩ちゃん達。麗華様ではなく、麗華
先輩って呼んでと頼んだのは私だけど、うふふやっぱりいいな先輩
って響き。慕われてる感じがするじゃない?
﹁いつも璃々奈みたいな我がままな子と仲良くしてくれてどうもあ
りがとう。大変でしょう?子供だから﹂
﹁ちょっと!なに言ってるのよ!﹂
私達の話が聞こえたのか、璃々奈が噛みついてきた。あーうるさ
いうるさい。
﹁璃々奈ったら卒業式だというのに騒々しくってよ﹂
﹁貴女のせいでしょ!﹂
﹁はぁ、うるさい。これだから子供は﹂
﹁なんですって!﹂
﹁ふたりとも、せっかくの卒業式なんだから﹂
﹁だって貴兄様!﹂
璃々奈がお兄様の袖を引っ張って私が悪いと主張する。
﹁だいたい麗華さんはなにしに来たのよ。おめでとうの一言もない
んだから﹂
﹁あら忘れてたわ。卒業おめでとう、璃々奈﹂
﹁遅いのよ﹂
ほーんと可愛くない。
お兄様が時計を確認した。忙しい合間を縫ってきてもらったから、
もうタイムリミットか。
678
﹁ごめん璃々奈。僕はそろそろ仕事に戻らなきゃ﹂
﹁え∼っ﹂
﹁璃々奈のおじ様とおば様にはさっき挨拶したから、このまま帰ら
せてもらうね﹂
﹁⋮はぁ∼い。残念だけどお仕事なら仕方ないわ。今日は来てくれ
てありがとう、貴兄様﹂
﹁うん。卒業おめでとう﹂
﹁私もお兄様と一緒に帰りますわ。ではみなさん卒業おめでとう。
これで失礼いたしますわね、ごきげんよう﹂
私がみんなに手を振ってそのまま帰ろうとしたら、花束に顔を埋
めた璃々奈に﹁麗華さん﹂と引き止められた。
﹁⋮⋮⋮⋮この花、ありがとう﹂
ふん。
﹁マドンナリリーなんて10年早いわ、図々しい。璃々奈にはロリ
ーポップがお似合いよ﹂
﹁うるさい!﹂
可愛げのない従妹の相手は疲れるので、私はお兄様とさっさとそ
の場を後にした。
﹁全く、ふたりしてなにをやっているんだか﹂
﹁やだわお兄様、私と璃々奈を一緒にしないでくださいな﹂
あー、子供の相手をしたらおなかが空いちゃった。お兄様がこの
まま会社に戻るなら、お昼ご飯はどうしようかしら。家に帰るのも
いいけど、なにか食べて帰ってもいいわね。あ、長崎ちゃんぽん食
679
べたい。
そこへひとりの男子生徒が飛びだしてきた。
﹁おい!﹂
アホウドリの桂木少年だった。
﹁お久しぶりね、桂木君。ごきげんいかが?﹂
﹁お前!この前のわかったぞ!うそだな!﹂
この前の?なんのことだ?うそ?
﹁あんな暗号、すぐに解けたぞ!それに血塗れの兵士なんて来なか
ったぞ!﹂
あぁ!あれか。この様子だと相当苦戦したな。それに血塗れの兵
士は来なかったって、当たり前じゃないか。あれ?もしかしてその
日のうちに解けなくて、兵士が来るのを怯えてた?
﹁それは運が良かったですわね。では私達はお先に﹂
﹁それだけかよ!﹂
﹁あら、もうひとつの話もお聞きになりたい?﹂
桂木が体を逸らして逃げ腰の姿勢になったので、私はお兄様を促
してそのまま駐車場に歩いた。
後ろでアホウドリがガアガア鳴いている。のどかだわ∼。もうす
ぐ春ね∼。
﹁麗華、彼はいいの?﹂
680
﹁ええ。なんだか私の周りにはおバカさんが多くて⋮﹂
﹁それはきっと⋮﹂
お兄様は困った笑顔で私の頭を撫でた。
早く春休みにならないかな∼。
681
108
﹁むふふふふ⋮﹂
通帳に並ぶ0のマーク。私立大学の4年間の学費分は貯まった。
これでもしも国公立大学に落ちても、大学はなんとかなる。
でもなぁ⋮、学費以外の生活費が心もとない。バイトするにして
もそこまで稼げるか。私ひとりならまだしも、家族の食い扶持まで
稼ぐのはきつい。特に狸はよく食べそうだ。
やっぱりコツコツ勉強して奨学金がもらえるくらいになっておか
ないとダメか。
﹁どっかに一攫千金のチャンスが転がっていないかなぁ﹂
例えば埋蔵金とか。
自宅や別荘の敷地は探してみた。でもなんにも出てこなかった。
せめて小判の1枚でも掘り当てたかった。
あぁ、一攫千金。濡れ手で粟、なんて素敵な言葉でしょう。私は
本当は、出来れば人事を尽くさず天命を待ちたいタイプだ。
そういえばここ掘れわんわんって昔話があったな。犬バカ君にベ
アトリーチェを借りて山に行ってみようか。もとは猟犬だしな。ま
ずは赤城山あたりか?
犬バカの梅若君にはホワイトデーにお菓子と一緒に、﹁吉祥院さ
んには特別だよ﹂と手作りのベアたんポストカードをもらった。﹁
チョコありがと。おいしかったよ!﹂というベアたんからのメッセ
ージ入りだ。
682
﹁特別﹂という言葉に森山さんが反応してちょっと怖かった。良け
れば譲りましょうか?ベアたんポストカード。
犬バカ君は愛するベアトリーチェに貢ぐためにバイトもしている
らしい。ベアたんへのホワイトデーのお返しに、キャンディプリン
トのお洋服とお揃いのヘアアクセサリーをプレゼントしたのだとか。
だいたいホワイトデーのお返しって、そもそもベアたんからバレ
ンタインをもらったのかと冗談で聞いたら、﹁もちろん!俺達は相
思相愛だから!﹂と笑顔で言われた。⋮へー、そうなんだー。
森山さんには悪いけど、犬バカ君は諦めたほうがいいんじゃない
かな⋮。相思相愛の彼女がいるらしいよ。
でもあれだけ甘々に可愛がられている犬では、野生の勘は失われ
ているかもな。前に見せてもらったベアたん写真集でも、海で波と
戯れるベアたんの写真はあったけど、山で泥まみれの写真はなかっ
た。箱入り娘のベアたんでは大判小判がザックザクの夢の片棒を担
ぐのは無理かもしれん。
あ∼あ、そんな夢みたいなことを考える前に、堅実に発明でもし
ようかなぁ。特許料で一生安泰⋮。不労所得でウハウハ生活⋮。
私は机に向かい、ノートを開いた。まずは家庭用品を攻めよう。
春休みになり、私は桜ちゃんと会った。そろそろ暖かくなってき
たので、これが最後のホットチョコレートになるかもしれないと思
いつつ注文する。おいしいよねぇ、ホットチョコレート。
﹁あら、麗華、そのネックレス可愛いわね﹂
﹁うふふ、そうでしょー。これ、友柄先輩と香澄様にホワイトデー
にいただいたのよ﹂
683
私は桜ちゃんに良く見えるようにネックレスを持ち上げ、自慢し
まくった。
﹁友柄先輩って、確か昔、麗華が好きだった先輩だっけ。麗華まだ
好きだったの?﹂
﹁違うよ、ただの憧れだよ。だって友柄先輩には香澄様がいるんだ
もん﹂
私は卒業式での友柄先輩と香澄様の話をした。桜ちゃんは﹁素敵
ねぇ⋮﹂とうっとりした。
﹁私の卒業式に匠が来てくれないかしら。そして百合宮でドラマチ
ックに宣言するの﹂
﹁いやぁ、秋澤君にはそんな芸当ムリだと思うわよ﹂
﹁なによ、匠をバカにする気?﹂
﹁そんなつもりはないけど、人には向き不向きというものがあるか
ら∼﹂
そういえば桜ちゃんの秋澤君への片思い歴も相当長いよな。その
一途と言えば聞こえはいいけど要するに執念深い恋心って、鏑木と
似ているかも。同類ということで、鏑木は桜ちゃんに教えを請えば
良かったのではないかな?
あ、そうだ。桜ちゃんにあの詩集をあげたらどうだろう。今日は
持ってきていないから、桜ちゃんの家に郵送してあげようかな。
﹁麗華、悪い顔してるけど何を企んでいるの?﹂
﹁えっ、気のせいだよぉ﹂
﹁⋮よくわからないけど、滅多なことをしたら許さないから﹂
﹁はい⋮﹂
684
ちぇっ。
﹁ホワイトデーといえば、舞浜恵麻が瑞鸞の皇帝にホワイトデーの
プレゼントをもらうって、当日はしゃいでいたけど﹂
﹁ええっ!鏑木っ、様が、ホワイトデーのプレゼント?舞浜さんに
?﹂
鏑木は毎年大量のバレンタインチョコをもらっているけど、ホワ
イトデーにお返しをしたなんて話は聞いたことがない。例外は優理
絵様だけだ。
今まで優理絵様にしか贈らなかったホワイトデーのプレゼントを、
ほかの女の子にするなんて。本当に舞浜さんは特別扱いなの?バレ
ンタインのあの態度からは想像できないけど。
﹁それが次の日にはすっかりその話題は避けるようになっちゃって。
プレゼントはもらったけど何をもらったかは教えないとか言ってた
けど、あれはたぶん嘘ね。本当にもらっていたらあの子のことだも
の、これみよがしに自慢しまくるに違いないんだから。百合宮では
舞浜恵麻が皇帝と親密だと信じている子も結構いるけど、実際はど
うなの?﹂
﹁さぁ⋮?私はそれほど鏑木様と仲がいいわけじゃないから知らな
いわ。ただバレンタインに瑞鸞まで来てチョコを渡したのは驚いた
わ﹂
﹁あぁ、これから皇帝にチョコを渡して一緒に過ごすなんて吹聴し
てたわね。匠からも凄い騒ぎだったって聞いたわ。前から舞浜恵麻
は皇帝の彼女気取りだったけど、今年に入ってからは特に酷いわね。
瑞鸞の皇帝が素敵だと騒いでいる子達に皇帝の彼女として文句を言
ったり﹂
﹁うわぁ⋮﹂
685
舞浜さん、予想以上の痛い人だ。マンガの吉祥院麗華だって、さ
すがに自分が皇帝の彼女だなんて恐ろしいデマは流さなかったぞ。
あ、そうだ。舞浜さんにあの詩集をあげたらどうだろう。鏑木の
愛読書だと知ったらきっと大切にするに違いない。ホワイトデーに
ぬか喜びさせられた舞浜さんへ、私からのささやかな贈り物だ。さ
て、どうやって届けようか?
春休みなのに宿題があるので、真凛先生に手伝ってもらってこな
す。春期講習もあるし、勉強しているだけで春休みが終わりそうだ。
出かける友達がいるといいんだけど⋮。葵ちゃんに連絡してみよう
かな。
部屋でひとり、顎に鉛筆を何秒乗せられるかの記録にチャレンジ
していたら、笑顔のお母様が手に招待状を持ってやってきた。
それは鏑木家主催の観桜会の招待状だった。
毎年開かれているこの会は招待客は大人がメインなので、これま
では両親から一緒に行こうと言われても私に関係ないと不参加を貫
いてきた。けれど今回は﹁ぜひ麗華さんもご一緒に﹂という言葉が
添えられていたので、逃げることは難しいようだった。
うげ∼、凄く行きたくない。鏑木家と関わりたくないというのも
もちろんだけど、そもそも私は夜桜があまり好きではないのだ。昼
間の桜は素直にきれいだと思えるけど、夜の桜はなんだか怖い。
昔の人も言っている。桜の木の下には死体が埋まっているのだと
⋮。
お母様は張り切って私に振袖を着せようとしている。夜桜に振袖
の少女。まさに怪談⋮。
どうにか行かないで済む方法はないかと考え、私は病気になるこ
とにした。まずは水風呂に浸かってみた。あまりの冷たさに1分と
686
持たなかった。心臓が一瞬止まった気がする。唇は紫になり歯のカ
チカチ鳴る音が止まらない。寒い!死ぬ!でもこれを我慢すれば風
邪を引いて病欠できるかもしれない!きっと明日は高熱だ。
寒くて寒くて、つま先なんて寒さ通り越して痛くて、ベッドに入
ってもぶるぶる震えていたけど、朝起きた時にはくしゃみひとつ出
なかった。どこか体に異常はないかと確かめたけど、朝から食欲も
ありまごうことなき健康体だった。
私の体は存外丈夫に出来ているらしい。がっかりだ。
よし、今度は少し腐った物に挑戦するか⋮⋮。
687
109
私は手作りお弁当屋さんでお弁当を買ってきた。それを2日間暖
かい部屋に置いた。
蓋を開けて箸で煮物を取ってみる。にんじんが糸をひいた。⋮こ
れは、いける。
意を決して口に入れると、にちゃっとした。⋮つらい。触感が気
持ち悪いのでほとんど噛まずに飲み込む。
いったい私は、なんでこんなことをやってるんだろう⋮。まずい。
まずくて吐きそうだ。ここまでする必要があるのだろうか⋮。それ
でも腐った野菜を食べ続ける。五目炒飯も糸ひきまくりだ。これは
なかなか恐ろしい代物だ。臭いがすでにおかしい。しかし女は度胸
!私は糸ひき炒飯を頬張った!
﹁!!!!!﹂
体中の細胞が拒絶反応を起こした!敵機来襲!敵機来襲!総員配
置につけー!!
口中に広がる薬品のような臭いと苦い味。慌てて吐き出したけど
こみあげてくる嘔吐反射が止まらない。
腐った煮物とは破壊力がまるで違う。毒物劇物クラスだ。口の中
がビリビリする。あまりの苦しみに涙が出た。そこへまた、嘔吐反
射の大波が襲ってきた。
私はトイレに駆け込んで吐いた。便器に赤いものが吐き出された。
血だ!血を吐いてしまった!!吐血だ!私、死んでしまう!
神様、神様、ごめんなさい。もう二度と腐った物を食べるなんて
バカなことはしません。おとなしく花見にも行きます。だからどう
688
か助けてください。この襲いくる吐き気から私を救ってください。
あぁ誰か助けて。私、血を吐いてしまった⋮。
まさかこんな大事になるなんて。生まれて初めて血を吐いた。私、
死んじゃったらどうしよう⋮!
涙で滲む視界でもう一度吐いた血を確かめる。恐ろしさで体が震
える。
赤い血の塊は、よく見ると赤ピーマンの欠片だった││。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
私はおなかを押さえ嘔吐反射と戦いながら、口に残る劇毒物を排
除すべく、一心不乱に口を漱いだ。
良かった、吐血じゃなくて⋮。まだ胃がむかむかして気持ち悪い
けど。
私がふらふらとした足取りでトイレから出てきたので、お手伝い
さんが心配してくれた。﹁胃薬と白湯をお願いします⋮﹂
私の部屋には放置された食べかけの腐り物があるので、誰も入ら
ないようにお願いする。どんなに具合が悪くても、あれだけは処分
しておかなければ。
胃薬を飲んで部屋に戻り、お弁当をゴミ袋に入れて隠す。明日こ
っそり捨てに行こう。
ゴミ袋の腐った炒飯を見て改めて確信する。腐った肉はシャレに
ならない⋮。
それからしばらく、私の体調は戻らなかった。主治医の先生まで
呼ばれたけど、本当のことは絶対に言えないので、﹁最近体調が悪
くて、とうとう吐いてしまった﹂と適当なことを言ったら、胃腸風
邪かもしれないと診断された。ううん、自業自得で食中毒っただけ
です。
689
胃薬と睡眠のおかげで、真夜中に目が覚めた時には少し調子が良
くなっていた。くらくらするので、何か食べたほうがいいのかもし
れない。
部屋を出てキッチンに行こうとしたら、お兄様が部屋から出てき
た。
﹁どうしたの麗華。具合はどう?﹂
﹁お兄様。もう平気です。何か食べたほうがいいかもしれないと思
って、今からキッチンに行くところですわ﹂
﹁食べ物か。病人食はあったかな﹂
﹁大丈夫ですわ。なければ自分で作ります﹂
﹁⋮僕が作るよ﹂
こんな夜中にお兄様の手を煩わせるわけにはいかないと遠慮した
のに、お兄様は自分が作ると言い張った。麗華は病人だからと。
優しいなぁ、お兄様は。自ら腐らせた物を食べるような、バカな
妹でごめんなさい。私は言われた通り、自分のベッドに戻ってお兄
様を待った。
ところで、お兄様って料理なんて出来るの?
お兄様が作ってくれたのは、シンプルな塩粥だった。梅干し付き。
一口食べてみると、おいしい!!この絶妙な塩加減!あぁ優しい
栄養が、五臓六腑にしみわたる⋮。
﹁ネギを入れようかとも思ったんだけど、まだ胃腸の調子が戻って
いないだろうから、塩と梅干しだけにしたよ﹂
﹁とてもおいしいですわ、お兄様﹂
お兄様が料理をしている姿なんて見たことがなかったけど、さす
がです。私より上手だと思う。明日は自分でもお粥を作ってみよう。
690
ごはんに水を入れて煮込めばいいのかな?あとは塩をパッパと振り
かける、と。
﹁みんな心配したんだよ。回復しているようで本当に良かった﹂
﹁⋮⋮はい﹂
猛省しています⋮。それでもおなかは空くので、お粥をおかわり
した。塩だけのお粥なのに、なぜこんなにおいしい。
結局小さな土鍋のお粥は、ぺろりと完食した。大変おいしゅうご
ざいました。ごちそうさま。
お兄様がそのまま土鍋を片付けてくれると言うので、申し訳ない
けどそのまま寝かせてもらうことにした。
はー、満足満足。
あわよくば観桜会に出なくてもいいと言われないかな∼と期待し
ていたんだけど、すっかり体調が戻ってしまったのがばれていたの
で、病欠は出来なかった。それに神様に誓ってしまったし。しょう
がない。ただ病み上がりということで、振袖は免除された。リボン
の付いたシャンパンゴールドのフレアワンピースだ。お母様は桜色
のドレスがいいと言ったけど、たぶん桜色の服を着てくる人は結構
いるはずだ。かぶりたくない。一応桜色のネイルと桜モチーフの髪
留めだけは付けた。
観桜会は夏に断食プランを体験した鏑木グループのホテルで行わ
れた。確かにここの庭園は素晴らしかったものね。
今日はお兄様は仕事が忙しくて欠席だ。いいなぁ、私も仕事があ
ればいいのに。
会場はライトアップされた桜が一番美しく見えるホールだった。
樹齢50年を超えるしだれ桜が見事だ。見事すぎて怖い。
691
それ以外にも満開のソメイヨシノが何本も植えられていて、さす
が鏑木家の観桜会だ。
大人達は桜を鑑賞しながらワインなどを飲んでいる。甘酒もある
らしい。いいな、甘酒。
私は未成年なので、桜のノンアルコールカクテルをいただいた。
薄ピンクの炭酸の液体に、桜の花びらが浮かんでいる。きれい。飲
んでみると不思議な味がした。
花の食べ物って結構微妙な物が多いと思う。薔薇ジャムとかラベ
ンダーのアイスとか。薔薇ジャムは初めて食べた時はびっくりした
なぁ。ロココな私にふさわしい食べ物と取り寄せてみたけれど、な
かなかパンチのある味だった。スミレの砂糖漬けもそうだけど、花
のお菓子はおしゃれな自分に酔うための食べ物なのかもしれないな。
磨き抜かれた猫かぶり笑顔で両親とほかの招待客に挨拶をしなが
ら、会場で見知った顔を探す。讃良様来ていないかな∼。
鏑木と円城の周りには、若い招待客達が集まっていた。ピヴォワ
ーヌメンバーもいる。
私は桜を見に行くと言って両親から離れた。やはりまだ食中毒か
ら完全に体力が戻っていないらしい。人ごみに酔ってしまった。少
し休憩したい。
桜の見える椅子に腰かけて、新しい飲み物をもらう。緊張してい
るせいか食欲があまりない。水分でおなかがたぷたぷだ。
﹁あら、麗華さんじゃない﹂
私の前に桜色のドレスを着た舞浜さんが立った。ふっ、底が浅い。
会場には桜色のドレスがひしめいているぞ。
﹁ごきげんよう舞浜さん﹂
﹁こんなところでひとり寂しく座っているなんて、麗華さんったら
どうしたの?﹂
692
全く心配していない顔で、舞浜さんが笑った。この子、なぜか私
をライバル認定してるよな∼。
﹁少し休憩していただけですわ﹂
﹁ふ∼ん﹂
舞浜さんが意地の悪い顔をした。なにか私への嫌味を考えている
な。さてどうしたものか。
ちょうど取り巻きの輪から鏑木がひとり、こちらに歩いてくるの
が見えた。
﹁舞浜さん、鏑木様ですわよ﹂
﹁えっ!まぁ、雅哉様!﹂
舞浜さんは鏑木に駆け寄った。鏑木は舞浜さんをチラッと見て興
味なさげに﹁あぁ﹂と物凄く適当な挨拶をした。
ほほぉ⋮。
﹁雅哉様、今日はお招きくださってありがとうございます。私、雅
哉様に誘ってもらえてとっても嬉しいわ!﹂
﹁礼なら両親に言ってくれ。俺が招待したわけじゃないから﹂
鏑木のそっけない態度にも、舞浜さんはめげる様子がない。鏑木
の腕に手を添えた。
﹁雅哉様、また今度お家にご招待してくださいね。私、雅哉様のお
母様にもいつでも遊びに来てと言われてますし﹂
﹁母親に会いたければ、勝手にするといい。俺には関係ない﹂
693
鏑木は腕をずらして舞浜さんの手を避けた。舞浜さんはそれでも
手を伸ばそうとしている。凄い。
﹁吉祥院、お前も来ていたのか﹂
鏑木が舞浜さんの陰になっていた私を見つけた。気づかなくてい
いのに⋮。でもやっぱりここは礼儀として挨拶はしておくべきだろ
うな。私はどっこいしょ、と席を立った。
﹁本日はご招待していただき、ありがとうございます﹂
﹁ああ﹂
鏑木が私に話しかけたことで、舞浜さんがムッとした。
﹁雅哉様、麗華さんたらせっかくの鏑木家の観桜会なのに、こんな
ところに座って全然楽しんでいないみたいなの﹂
鏑木の眉があがった。それを見て舞浜さんが私に向かってニヤッ
と笑った。底意地の悪い小物感が隠せていないぞ。
別に鏑木を取り合う気は毛頭ないけど、この場で私が退屈してい
るなんて吹聴されたら、私の立場が悪くなる。しょうがない。
﹁そういえば舞浜さん、ホワイトデーにはどなたかから素敵なプレ
ゼントをいただいたとか﹂
﹁えっ⋮﹂
舞浜さんが私の言葉に怯んだ。やはり桜ちゃん情報は正しいよう
だ。
﹁百合宮では舞浜さんのホワイトデーの相手の噂で持ちきりだとか。
694
羨ましいわぁ。いったい誰からのプレゼントですの?ぜひお相手を
教えていただきたいわ﹂
﹁それは⋮﹂
舞浜さんが目を泳がせた。さぁどうする?私はもうひとつ情報を
握っているぞ。鏑木の前でそれを暴露してあげようか?
私達が目で駆け引きをしていると、鏑木がふいに言葉を発した。
﹁ホワイトデーといえば、あの桃のギモーヴはおいしかった。あれ
は限定だったんだな﹂
﹁は?ギモーヴ?﹂
げ。こいつ余計なことを。
舞浜さんは怪訝な顔をして、﹁雅哉様、ギモーヴってなんのこと
ですか?﹂と聞いている。さらに余計なことを聞くな。
﹁ホワイトデーに吉祥院から桃のギモーヴをもらったんだ﹂
﹁麗華さんから?!﹂
舞浜さんがギッと睨んできた。まるで抜け駆けだと言わんばかり
だが、あれはただの魔除けの桃だ。
﹁ホワイトデーのお返しがもらえないからって、自分からギモーヴ
を渡すって、それってどうなの?催促みたいじゃない﹂
うん、舞浜さんは鏑木にお返しがもらえなかったんだね。
﹁催促もなにも、私は鏑木様にバレンタインのショコラは渡してい
ませんわよ。ギモーヴはただのお裾分けです﹂
﹁嘘よ!雅哉様にチョコを渡していないなんて!﹂
695
﹁本当ですわ。そうですわよね?鏑木様﹂
私は鏑木に同意を求めた。鏑木は﹁誰からもらったかなんて覚え
ていないし興味もない﹂と無自覚に舞浜さんの傷を抉った。
﹁でも吉祥院には詩集をやったから、そのお礼と考えればいいのか
⋮﹂
鏑木が無自覚爆弾を投下した。
﹁詩集をあげた?!﹂
舞浜さんの顔が嫉妬と驚きで凄いことになっている。睨むな、睨
むな。
鏑木は円城の姿を見つけたので、﹁じゃあな﹂と言ってそのまま
歩いて行った。
残された私達の間の険悪な空気。その空気は舞浜さんが一方的に
出しているのだけど。
﹁どういうことよ﹂
﹁なにがですの?﹂
﹁雅哉様から詩集をもらったってことよ!﹂
﹁さぁ?鏑木様の気まぐれではないかしら?﹂
舞浜さんがギリギリと睨んでくる。
﹁そんなに気になるなら、瑞鸞に転入してきたらいかが?ただし転
入試験に受かれば、の話ですけど﹂
﹁なんですって!﹂
696
讃良様が遠くにいるのが見えた。
﹁私、瑞鸞のお友達を見つけたので失礼しますわ。あぁそれから、
百合宮での噂、あれ面白いですわね。本当の話ならば﹂
﹁⋮っ!﹂
私は舞浜さんを置いて、讃良様の元に向かった。
バッグには扇子が入っていたけど、所詮相手は小物。使うまでも
ない。
あぁでも、そんなに鏑木からもらった詩集が羨ましいなら、もっ
てきてあげれば良かった。食中毒ですっかり忘れていたよ。
私は振り向いて、もう一度舞浜さんのところに戻った。
﹁それほど欲しかったら、あげましょうか?鏑木様からいただいた
詩集﹂
舞浜さんの顔が真っ赤になった。あらら若いのに高血圧かしら。
お気をつけあそばせ。
﹁いらないわよ!﹂
舞浜さんは私を睨みつけると、ドシドシ音を立てるように歩いて
行った。
やあねぇ、ひとの善意を素直に受け取れない人って。ほほほ。
697
110
讃良様は鏑木パパとお話をしている最中だった。きっとマニアッ
クな本の話をしているのだろう。これは近づいたらお邪魔かな?
すると鏑木会長が先に私に気が付いた。
﹁やあ麗華さん、こんばんは。今日は麗華さんが来てくれると聞い
て、妻共々楽しみにしていたんだよ﹂
﹁こんばんは。本日は素晴らしい桜を拝見できる機会を与えてくだ
さってありがとうございます。とても見事なしだれ桜で感動いたし
ました﹂
﹁麗華さんに喜んでもらえて光栄だな﹂
相変わらず、笑顔が渋くて素敵です。いいなぁ、こんなに素敵な
人が自分のお父さんだったら自慢しまくっちゃうよ。
﹁讃良様ごきげんよう﹂
﹁ごきげんよう、麗華様﹂
讃良様も笑顔で迎えてくれた。でもやっぱりお邪魔だったんじゃ
ないかなぁ。ずいぶん楽しそうだったし。
﹁私はおふたりのお話の邪魔をしてしまったのではありませんか?
どうぞお気になさらずお話の続きをなさってください﹂
﹁邪魔だなんて、そんなことはないよ。この間ドイツで見つけた稀
覯本について話していただけだから﹂
ドイツ?!もしや鏑木にハイネを薦めたのは鏑木パパか?!
698
﹁⋮もしかしてハイネですか?﹂
﹁いや?違うけど。麗華さんはハイネが好きなのかい?﹂
﹁いいえ﹂
私はきっぱり返事をした。父親として責任を持って息子の愛読詩
集を引き取ってもらえないだろうか。
﹁今日は貴輝君は来ていないようだね﹂
﹁はい。兄は仕事の都合がどうしてもつかなくて。せっかくのご招
待なのに申し訳ありませんわ﹂
﹁気にしなくていいよ。貴輝君が優秀なのは私もよく知っているか
らね。麗華さんが来てくれたので充分だよ﹂
はうっ、笑顔が眩しいです。
﹁麗華さんは吉祥院会長と兄君が大切に隠しているから、なかなか
会えるチャンスがなくてね﹂
﹁そんな﹂
﹁特にお父様とはとても仲良しなんだってね。この前も手編みの膝
掛けをプレゼントしたそうじゃないか。大好きなお父様へって﹂
﹁まぁ、ほほほ﹂
大好きなお父様へなんて言っていないぞ、狸!あの狸、懲りずに
あちこちで盛りまくった話をしているようだ。帰ったら覚えていろ。
﹁子供の頃は、大きくなったらお父様と結婚するなんて言ってたら
しいねぇ。いやぁ羨ましい﹂
はあっ?!話を盛ってるだけでは飽き足らず、完全な嘘まででっ
699
ち上げているのか、あの狸は!
お兄様ならいざ知らず、お父様と結婚したいなんて、私は絶対に
言っていない!冗談じゃないぞ!
病か。お父様、脳の病か!
﹁麗華さんてファザコンだったの?﹂
ちっがーーーう!!
﹁讃良様、とんでもない誤解ですわ。私には身に覚えがありません﹂
私が必死で否定するも、鏑木パパは鷹揚に頷くだけだ。
﹁思春期だからねぇ。これは私が悪かったかな。でも麗華さんの気
持ちはお父様に伝わっているよ。いいねぇ、父親が大好きな娘さん
というのは﹂
違うのに!結婚相手にあんなメタボ狸を望んでいるなんて思われ
たら心外だ!
そりゃあ私の父親がこの鏑木パパのような人だったら、お父様と
結婚するなんて言ったかもしれない。しかし残念ながら私の父親は
あのメタボ狸だ。
﹁いつまでも父親にべったりで困っていますなんて吉祥院会長が言
っていたけどね、本当は喜んでいるんだよ﹂
あの大ボラ狸がぁっ!!
私は会場にいる嘘つき狸の姿を探した。嘘つき狸は今すぐ狸汁に
してやる!!
700
これ以上この場にいると、私の心がガリガリ抉られそうなので、
すごすごと退散した。
ファザコンの汚名だけはどうにかしないといけない⋮。私のプラ
イドが許さない。
その後、桜を見がてら会場を彷徨った。
テーブルにはおいしそうな料理が並んでいるけど、やはり食欲が
ない。
一応来る前に、お兄様からお見舞いでもらったロールケーキを1
本だけ食べてきたけど⋮。これは食中毒からまだ胃腸が完全回復し
ていないのかもなぁ。
飲み物ばかり飲んでいるからトイレが近くて困る。さすがに体も
冷えてきたし。温かい飲み物をもらおうかな。ホットチョコレート
はもうないだろうから、ミルクティーでいいか。お、ジャスミンミ
ルクティーがあるぞ。
席に座って甘いミルクティーを飲んでいると、私の横に涼しげな
和風青年が立った。
﹁こんばんは、麗華さん﹂
﹁⋮こんばんは﹂
え、誰だっけ?まずい、思い出せない。年の頃はお兄様と同じく
らい?優しそうな雰囲気の、趣味で篠笛とか吹きそうなタイプ。着
はると
物似合いそー。って、本当に誰だ?!
いちのくら
﹁僕は市之倉晴斗といいます。麗華さんとこうして話すのは初めて
かな。どうぞよろしく﹂
﹁まぁそうでしたか。初めまして、吉祥院麗華と申します﹂
701
なんだ初対面か。良かった。どうやって忘れていることをバレず
に名前を聞き出そうか悩んじゃったよ。
﹁隣、座ってもいいかな﹂
﹁ええ、どうぞ﹂
さ
市之倉さんが私の隣に座った。手にはシャンパンを持っている。
年齢20歳以上確定。
﹁実は僕は麗華さんにお礼が言いたかったんだ﹂
﹁私にお礼ですか?﹂
はて、私達はほぼ初対面のはずでは?
わらびまお
﹁僕の姪が麗華さんにお世話になったみたいでね。瑞鸞初等科の早
蕨麻央というんだけど﹂
﹁あぁ、麻央ちゃん!﹂
早蕨麻央ちゃんはサマーパーティーで同級生の男の子と一緒に、
鐘を鳴らしていた女の子だ。後日ふたりに撮った写真をプレゼント
したらとっても喜んでくれて、私を麗華お姉様なんて呼んで慕って
くれている。あの子は手放しで可愛い!
﹁麻央がね、パーティーで麗華さんに凄く良くしてもらったって喜
んでて、僕にも何度もその話をしてきたんだよ。きれいな鐘を鳴ら
したい麻央達の背中を押してくれたんだってね。どうもありがとう。
あの子本当に嬉しかったみたいで、麗華さんからもらった写真を部
屋に飾って、いろんな人に見せびらかしているんだよ﹂
﹁そうでしたか。たいしたことはしていないんですけど、麻央ちゃ
702
んがそんなに喜んでくれているなら私も嬉しいですわ。あれから麻
央ちゃん達には麗華お姉様なんて呼んでもらって、それも凄く嬉し
いんです。可愛い姪御さんですわね﹂
﹁ありがとう。僕も初めての姪っ子なので猫可愛がりしてしまって
いるんです。ついつい欲しがる物をすぐ買ってあげちゃったりして﹂
姪の話をする市之倉さんはとても優しい笑顔をしていた。
私の周りはアクの強い人間が多いせいか、市之倉さんのような穏
やかで優しいひとにはなんだか心が癒されるなぁ。
それからも麻央ちゃんや瑞鸞での学院生活を話した。市之倉さん
は名門付属男子校出身で、瑞鸞出身ではなかったので、可愛い麻央
ちゃんの通う学校に興味津々のようだ。
﹁そういえば麗華さん、なにか食べた?さっきから飲み物しか飲ん
でいないけど。料理をもらってこようか﹂
う∼ん。特におなかは空いていないなぁ。
﹁いえ大丈夫ですわ﹂
﹁そう?あぁそれとも、すでになにか食べた?﹂
﹁いいえ。ここに着いてからは、まだなにも食べてはいませんわ﹂
市之倉さんが驚いた顔をした。時計を見たらもう8時過ぎだ。
﹁先に夕食を食べてきたの?﹂
﹁いいえ﹂
すると市之倉さんが﹁麗華さん﹂と真剣な顔をした。
﹁麗華さん、きちんと食べてる?ダメだよ食べなきゃ。麗華さん、
703
なんだか折れちゃいそうだよ﹂
﹁えっ?!﹂
。女の子が一度は言われてみたい台詞ベスト1
折れちゃいそう?!えっ、私が折れちゃいそう?!
折れちゃいそう
0に必ず入るというこの言葉!︵注・麗華ランキング調べ︶
麗華さん折れちゃいそうだよ、折れちゃいそうだよ、折れちゃい
そうだよ⋮⋮。
あぁ、市之倉さんの言葉が頭の中でエンドレス。
﹁折れちゃいそうだなんて⋮。大丈夫ですわ。これでも三食しっか
り食べていますのよ?﹂
﹁そう?本当?﹂
市之倉さんは半信半疑の顔だ。
﹁フルーツなら食べられるかな?なにか持ってこようか?﹂
﹁いえ、本当に平気ですわ。私は元々小食でして⋮﹂
﹁うん、そんな感じに見えるよ。でも本当にちゃんと食べないとダ
メだよ?﹂
﹁はい。お気遣いありがとうございます﹂
市之倉さんは困ったように笑った。
﹁麗華さん華奢だから、なんだか心配だよ﹂
﹁えっ?!﹂
華奢!!
女の子が一度は言われてみたい台詞ベスト5に必ず入るというこ
の言葉!︵注・麗華ランキング調べ︶華奢!
704
麗華さん華奢だから、麗華さん華奢だから、麗華さん華奢だから
⋮⋮。
あぁ、夢のよう⋮。今日、来て良かった!
華奢
この二つの言葉だけで、成層圏まで舞
嬉しすぎて、羽があったらこのまま飛んでいってしまいそうだ!
折れちゃいそう
い上がっちゃう!
それからも市之倉さんは終始、私を繊細でか弱いお嬢様のように
扱ってくれた。﹁寒くない?﹂とか﹁疲れてない?﹂と心配してく
れる。
考えてみれば、私は今までこういった扱いをあまりされたことが
ない。⋮ぐふふ、嬉しい。
どうしよう、私、市之倉さんを好きになってしまいそうだ⋮。
吉祥院麗華16歳。新しい恋の予感です。
705
111
さあさあ、今日から私も高等科の2年生に進級だ。毎年祈ること
だけど、仲のいい子と同じクラスになれるといいな∼。孤立はイヤ
です⋮。そして厄介な人と同じクラスになりませんように。
外に出ると春の嵐か、風が強かった。私は華奢で折れちゃいそう
だから、風に飛ばされちゃうかもしれな∼い。
せっかく巻いた髪が乱れてしまうので、慌てて車に乗り込んだ。
鏡を取り出し身だしなみチェック。クラス替え初日は、印象良くし
たいからね!ニッと口角を上げてみる。エクボもしっかり出ている。
オッケー。
学院に着くとすでにクラス表を持って生徒達がわいわい盛り上が
っていた。お目当ての人と同じクラスになって喜ぶ生徒、落胆して
周りに慰められている生徒と、反応は様々だ。
特に好きな男の子がいない私としては、同じクラスに仲のいい女
の子がいるかどうかが一番大事。私は恋愛ぼっち村村長ではあるが、
友達ぼっち村の村長になるつもりはない。
しらさぎるね
まず私と同じクラスの女子名簿をチェックすると、同じグループ
の白鷺流寧ちゃんの名前があった。よっしゃあっ!
流寧ちゃんは去年一緒に軽井沢にも行ったことのある子で、グル
ープ内でも仲のいい子だ。良かった、これでとりあえずクラスで孤
立する憂き目は免れた。ほかにも何人か同じグループの子もいた。
ひとまずホッとした。
さて問題の男子は⋮と上から順番に見ていくと、委員長の名前が
あった。おお、委員長!久しぶりの同じクラスだね!数少ない男子
の友達と一緒なのは嬉しいな。
706
それ以外の男子も比較的無害な子達ばかりで、厄介な連中は別ク
ラスだった。いやっほーう!!
やっぱり今年の私はツイているかもしれない。一度は呪いのアイ
テムを受け取ってしまったせいで運気がガタ落ちしたけれど、あの
例の詩集は厄除けのお札とともにきっちり風呂敷に包み、お雛様の
しまってある蔵に封印した。魔をもって魔を制すだ。もし誰か欲し
い人があれば、いつでもあげるぞ。
ほかのクラスを見てみると、なんと円城と若葉ちゃんが同じクラ
スだった。そこに蔓花グループのナンバー2もいたりした。このク
ラスはなかなか大変そうだな⋮。近づかないようにしよ。
﹁麗華様!同じクラスですわよ!﹂
流寧ちゃんが笑顔で私に駆け寄ってきてくれた。私達は﹁一緒で
嬉しい﹂と喜びを分かち合った。そこにほかの子達も集まってきて
和気藹々とクラス分けの話をしたりした。仲良しの友達もいるし、
問題児もいなさそうだし、この1年は平和に過ごせそうだ。
新しいクラスでは、当然のように委員長がクラス委員になった。
女子は野々瀬さんがいるから今回はお役御免かなと期待したけれど、
担任や委員長に﹁ぜひ﹂と言われ、当の野々瀬さんからも﹁麗華様
が適任だと思います﹂と言われてしまったので、またもや副をやる
ことになってしまった。最近では半分以上諦めている。問題を起こ
しそうな生徒もいないし、相方は気心の知れた委員長だし、まぁい
いか。
﹁またよろしくね、吉祥院さん﹂
委員長がニコニコして挨拶してくれた。いえいえ、こちらこそ。
707
そして委員長はこそっと﹁恋愛相談にも乗ってください﹂と小声
で言ってきた。恋愛相談か⋮。君もいい加減片思い歴長いよね。よ
し、まかせておきたまえ。私が委員長を立派な村民に育てあげよう
ではないか!まずはあの詩集を読むことから始めようか?
﹁吉祥院君﹂
は?吉祥院君?
誰だ、私を君付けなどで呼ぶ人間は?││ディーテだ。
﹁吉祥院君、ちょっと訪ねたいんだがいいかね?﹂
アフロディーテのディーテ君の頭は今日も爆発している。髪型の
せいか、近くで見ると顔おっきいなー。そして個性的な外見の人は
個性的なしゃべりかたをするらしい。
そんなディーテ君とも実は同じクラスだ。無害と思ってスルーし
ていたけれど。
﹁今年の遠足でもクラスごとの余興はあるのかね?﹂
﹁余興ですか?さぁ、特に聞いてはいませんけど﹂
﹁⋮そうか。しかし僕のバイオリンが必要な時にはいつでも言って
くれたまえ。遠慮はいらないよ。僕のバイオリンのレベルについて
こられる生徒がいなければ、独奏でいいと思う。この件について吉
祥院君、君の意見を聞かせてもらいたい!﹂
え、意見⋮?要するに、このアフロディーテはみんなの前で自慢
のバイオリン演奏を披露したくてしょうがないということか?
﹁⋮まぁ、よろしいんじゃありません?﹂
708
余興があるかわからないけれど。
﹁そうだろうとも!やはり僕の見込んだ通り、君は話がわかるよう
だ!吉祥院君、これから1年よろしく頼むよ!﹂
﹁⋮よろしく﹂
ディーテ君は我が意を得たりと頷き、アフロを揺らして揚々と去
って行った。
﹁なんだか、凄いね⋮﹂
隣にいた委員長がぽつりと呟いた。ディーテ君、ここまで委員長
丸無視だったけど、いいの?
﹁芸術家はエキセントリックな人が多いから⋮。去年も遠足のバス
の中でずっとバイオリンを弾いていて、みんな眠れなかったらしい
よ﹂
そういえば私もディーテ君と同じクラスだった子から、そんな話
を聞いたことがある。
前言撤回。厄介なのがひとりいた。
放課後、私はピヴォワーヌのサロンに行った。今日のお菓子はア
ップルパイだ。私はアップルパイが大好きなのだ。パイはサクサク、
林檎は柔らかでおいしいよねー。
あまりにおいしかったので、すぐに一切れ食べ終わってしまった。
サロンでおかわりはまずいか。大食いだと思われてしまう。でも食
べたい⋮。
709
私が食欲と心の中で戦っていると、私を訪ねてきている子がいる
と知らされた。
誰かと思えば、初等科の麻央ちゃんだった。
プティの麻央ちゃんがピヴォワーヌのサロンにやってくるのは珍
しい。年長者ばかりのサロンに来て、麻央ちゃんは少し緊張してい
た。
﹁麻央ちゃん、どうなさったの?さぁ、こちらに座って﹂
﹁はい﹂
私は麻央ちゃんを自分が座っていたソファに導いた。
﹁なにか召し上がる?そうだわ、今日はアップルパイがあるのよ。
ぜひ麻央ちゃんもどうぞ﹂
﹁え、でも⋮﹂
麻央ちゃんはひとりで食べることに気後れしているようだ。しょ
うがない。
﹁では私も少しだけいただきますわ。そうすれば遠慮なく麻央ちゃ
んも食べられるでしょう?﹂
﹁はいっ、ありがとうございます。麗華お姉様﹂
﹁いいのよ、気にしないで﹂
私達の前にアップルパイが運ばれてきたので、ふたりで仲良く食
べた。
﹁麻央ちゃんが会いに来てくれて嬉しいわ。なにか私にご用があっ
たのかしら?﹂
﹁あ、はい!あの、今度私のお誕生日パーティーがあるんです。そ
710
れで、麗華様に来ていただけないかと思って⋮。無理ならいいんで
すけど﹂
﹁お誕生日パーティー?﹂
﹁はい。晴斗兄様も来てくれると言ってて、私、麗華様にも来ても
らえたらなって﹂
﹁そう⋮﹂
誕生日パーティーか⋮。その日の予定を確かめないとわからない
けど、せっかくの可愛い麻央ちゃんの誘いだ、少しだけ顔を出すの
で良ければ参加しようか。
﹁わかりましたわ。予定を確認してお返事いたしますわね﹂
麻央ちゃんは嬉しそうに笑ってくれた。可愛いなぁ。
小さい女の子の誕生日プレゼントか⋮。なにがいいかな?お姉さ
まとしては素敵なプレゼントを選びたいものだ。
私達はおいしいアップルパイを食べながら、和やかにおしゃべり
した。
711
112
璃々奈が高等科に入学してきた。中等科に入学してきた時には、
あんな我がままな性格では孤立して友達も出来ないんじゃないかと
心配したけれど、そんな私の危惧をよそに、璃々奈は外部生ながら
結構な規模の派閥を作り上げ、ボスとして君臨してしまった。
璃々奈の同級生のピヴォワーヌメンバーも、璃々奈がただの外部
生ではなく私の従妹ということで、明確に対立することは出来ない
らしい。知らないところで私の名前を利用しているとは、恐るべし
璃々奈。
璃々奈の友達には、あの子が暴走して迷惑をかけていたら教えて
くれと頼んであるけれど、今のところは特別問題を起こしてはいな
いようだ。
ただ一度、璃々奈が下級生と衝突したと聞いた時にはドキッとし
たけれど、相手がアホウドリ桂木だったので、放置した。その後、
璃々奈が鼻息荒く得意気に、﹁あのバカは私がシメておきましたわ
!﹂と、お嬢様にあるまじき言葉で報告にきた。優しい私は類友と
いう言葉を飲み込んだ。
ともかく、高等科でも私の評判を落とすような行動は控えてもら
いたいものだ。
私達の学年の女子も、中等科までは私達と蔓花さんのグループが
二大派閥のようになっていたけれど、最近外部生を取り込んだ第三
の勢力も出てきているので、なかなか油断がならない。
同志当て馬も女子人気がどんどん増えていっている。同じ当て馬
なのになんで私は男子から遠巻きにされているんだ?!ずるくない
?私だってモテてみたい!
712
でもきっと女子の派閥のリーダーなんてやっている女の子は、お
っかなくて敬遠されちゃうんだろうなぁ⋮、と自分の立場上しょう
がないんだと無理やり納得した数日後、高等科の食堂に現れた璃々
奈の取り巻きの中に男子が交じっていたことに全身の震えが止まら
ないくらいのショックを受けた。
いったい私のなにが悪いんだ⋮。
ひとりくらい私に好意を寄せてくれている男子はいないのかと、
目をギラつかせて周りを見れば、目の合った男子達からは一様に怯
えた様子で逸らされた。
どうしよう。私このまま一生村長だったらどうしよう⋮。
そんな時、私は一条の光を思い出した。麻央ちゃんの誕生日パー
ティーだ。
麻央ちゃんからのお誘いの後、スケジュールを調べたら出席でき
そうだったのでそう伝えたら、麻央ちゃんは手を叩いて大喜びして
くれた。なんて可愛いんでしょう!
そしてそこには、私をお姫様のように大切に扱ってくれた市之倉
さんも来るのだ。これぞささくれだった私の心を癒してくれる光!
私は市之倉さんの持つ華奢で折れちゃいそうなお嬢様イメージを
守るべく、久々にステッパーをギコギコ踏みまくった。
久しぶりのせいなのか、ステッパーから不快音がする。寿命なの
か?
ステッパーを踏みながら通販番組を見ると、新しい商品がぞくぞ
く登場していた。ほぉん、面白そう⋮。
気がつけば、私はステッパーを降りてフリーダイヤルをメモして
いた。
713
麻央ちゃんの誕生日は平日だったので、私は授業が終わるとすぐ
に麻央ちゃんの家に駆けつけた。
早蕨家ではすでにパーティーは始まっていて、麻央ちゃんは同級
生の子供達に囲まれていた。
﹁麗華お姉様!来てくれたんですね!﹂
﹁お誕生日おめでとう、麻央ちゃん﹂
私はお祝いの言葉とともに、プレゼントを渡した。
子供向けのプレゼントにかなり悩んだのだけれど、いろいろ探し
いつか王子様が
で、蓋を開けると王子様と
た結果、私は繊細な装飾の施されたアンティーク風のオルゴールを
選んだ。メロディは
お姫様の陶器のお人形がくるくると踊るのだ。
どうだろうな∼、気に入ってくれるかな∼と少し不安だったのだ
けど、プレゼントを開けた麻央ちゃんは目を輝かせて喜んでくれた。
ホーッ、良かった。
﹁良かったね、麻央﹂
﹁うん!﹂
ゆうり
麻央ちゃんの隣には悠理君という、サマーパーティーで麻央ちゃ
んと一緒に鐘を鳴らした男の子が座っていた。
麻央ちゃんにはいつかではなく、もうすでに王子様がいるようだ。
くっ、ここでも負けた⋮。
ならば私の王子様候補はどこ?と市之倉さんの姿を探したけれど、
生憎仕事の都合でまだ来ていないそうだ。くーっ、気合入れて髪も
巻いてきたのに⋮。
バースデーケーキのイベントはすでに終わっていたようで、私に
は給仕さんから切り分けられたケーキが渡された。お礼を言って一
714
口食べたら、とてもおいしかった。素直においしいと感想を言った
ら、ケーキもお料理もほとんどが麻央ちゃんのお母さんの手作りだ
と教えられて驚いた。上流階級の家では普段から専任の料理人さん
やお手伝いさんが料理を作るものだと思っていたから。
ケーキ以外のほかのお料理にも手をつけると、どれも素晴らしく
おいしい。プロ並みの味だけど、どこか母親の手作りというアット
ホーム感が出ているところがさらにいい。
早蕨家は麻央ちゃんがプティピヴォワーヌに入れるくらいの家な
のだから、確実に奥様が家事をする必要のない家だと思う。それな
のにこの腕前は凄い!
私が尊敬の眼差しで料理を褒めると、市之倉さんのお姉さんで麻
央ちゃんのお母さんは﹁料理が趣味なの﹂と、笑ってくれた。
料理が趣味かぁ。いいなぁ。実は私はあまり料理は得意ではない
のだ。まぁ多少は出来るけど。
将来、もし仮に吉祥院家が没落したら、あの家の家事は私が一手
に引き受けることになるだろう。たぶんお母様に料理の腕は期待で
きない。お母様がキッチンに立っているところを見たことがないか
らだ。ならば私が頑張るしかあるまい。
あぁ料理上手な麻央ちゃんのお母様に弟子入りさせていただきた
い。まずは弟子志願者として、師の料理を堪能することから始めよ
う。
初等科の子供達は、最初私に人見知りして近寄ってこなかったけ
れど、麻央ちゃんと悠理君とこれおいしいね、あれおいしいねと楽
しくおしゃべりしている私を見て、徐々に打ち解けてきてくれた。
お姉様、お姉様と呼んでくれる。みんな可愛い!
私が初等科時代の経験談を話すと、子供達は熱心に聞いてくれた。
瑞鸞では騎馬戦に勝つとヒーローになれるという話をすると、男の
子がキラキラした目で﹁僕のお兄ちゃんも言ってました!伝説の皇
帝がいるって!僕もお兄ちゃんも皇帝が目標です!﹂と言ってきた。
715
うわぁ⋮。
子供達がこれもおいしいよと私の前に料理を持ってきてくれるの
で、お礼を言って食べる。ほうれん草のキッシュおいしい。ミート
パイおいしい。シーフードパエリアおいしい。
麻央ちゃんを筆頭に可愛い子供達とおいしいお料理。あぁ来て良
かったな∼。
私がブルスケッタを齧っていると、仕事を終えた市之倉さんが入
ってきた。
﹁晴斗兄様、おそーい!﹂
麻央ちゃんが文句を言いつつも市之倉さんに抱きついた。市之倉
さんは﹁ごめんごめん﹂と謝りながら、麻央ちゃんにプレゼントを
渡していた。
麻央ちゃんはプレゼントを抱きかかえながら、﹁晴斗兄様!麗華
お姉様も来てくれたのよ!﹂と言った。
﹁麗華さん?﹂
市之倉さんが子供達に囲まれている私を見つけた。
﹁麗華さん、来てくれたんだね、ありがとう﹂
﹁こちらこそ。とても楽しませていただいていますわ﹂
私は口に付いたトマトソースをそっと拭き取り、笑顔で迎えた。
﹁麻央がね、ずっと麗華さんに来て欲しいって言ってたんだよ﹂
﹁光栄ですわ﹂
麻央ちゃんのお母さんが﹁晴斗、仕事帰りならおなか空いてるん
716
じゃない?﹂と料理を取り分けたお皿を持ってきた。市之倉さんは
それを受け取りながら﹁隣いいかな?﹂と私の横に座った。
﹁麗華さんも食べてる?姉さんの料理は結構おいしいんだけど﹂
﹁ええ、いただきましたわ。市之倉様のお姉様はお料理上手でいら
っしゃいますわね﹂
﹁でも相変わらず、あまり食べていないようだけど⋮﹂
私の前には齧りかけのブルスケッタしかない。ほかはすべて完食
しているからだ。
﹁先程いただきましたのよ﹂
﹁本当?﹂
そういえば私は小食キャラだったと思い出し、そのキャラを突き
進もうとした時、思わぬ横槍が入った。
﹁麗華お姉さんはさっきからたくさん食べてるよねー﹂
子どもの無邪気な言葉だった。子供達としては、私の言っている
ことを信じない市之倉さんに対しての援護射撃のつもりだったのか
もしれない。あれも食べたこれも食べたこーんなに食べたと暴露さ
れた。
子供達の話に、市之倉さんは唖然とした顔をしていた。
穴があったら入りたい⋮⋮。恥ずかしい!小食キャラがとんだ食
いしん坊キャラに変貌だ!
﹁⋮そうなんだ。麗華さん、結構食べるんだね﹂
﹁⋮⋮はい﹂
717
居たたまれない。
考えてみたら女の子の食べる量じゃなかったかもしれない。人様
の家で油断しすぎだ、私。
市之倉さんは少し考えた後、ニコッと笑った。
﹁じゃあ今度、一緒に食事に行きませんか?僕はよく食べる人が好
きなんだ﹂
﹁えっ!﹂
神は私を見捨てていなかった!!
私、大食漢で良かった!
数日後、お誕生日パーティーの写真を届けにプティのサロンに行
くと、天使のような男の子に出会った。
718
113
プティの扉を開けてくれたのは、逆光に照らされてきらきら光る
小さな天使様でした。
私の目の前には今、白い肌に琥珀色の髪、つぶらな瞳の天使ちゃ
んが微笑んで立っている。かっ、可愛いーーー!!
世の中にこんなに可愛い子供がいるのか?!本当に人間かしら?
良くできた自動人形か本物の天使様じゃないのか?!
﹁こんにちは、高等科のお姉さん。なにかご用ですか?﹂
天使ちゃんが鈴のような声でしゃべった。さすが天使様は声まで
愛らしい!
小首をかしげてきょとんとする顔も可愛い!お人形好きのお母様
に見せてあげたい!連れて帰っちゃダメかなぁ⋮。
﹁お姉さん?﹂
天使ちゃんがちょっと困った顔をしている。
はっ!いけない!私、この可愛い天使に不審人物に思われている
?!無言で目を爛々とさせて自分を凝視してくる怪しい変質者と思
われている?!違う!私はただ天使ちゃんを愛でたいと思っている
だけの、無害なロココです。
﹁あ、ごめんなさい。少し考えごとをしていてボーッとしてしまい
ましたわ。こちらにいらっしゃる早蕨麻央さんに会いに参りました
のよ。私は高等科2年のピヴォワーヌメンバーで吉祥院麗華と申し
719
ます﹂
私の言葉に天使ちゃんは無垢な笑顔で頷くと、私の手を取り﹁ど
うぞ﹂と中へ招き入れてくれた。天使ちゃんの小さな手、やわらか
∼い!マシュマロみたいよ!うく∼っ!やっぱり連れて帰っちゃダ
メ?
私が天使の導きでサロンに足を踏み入れると、麻央ちゃんがすぐ
に気が付いてくれて大輪の笑顔を見せてくれた。
﹁麗華お姉様!﹂
﹁麻央ちゃん﹂
小走りで私の前まできた麻央ちゃんが、天使ちゃんと反対側の私
の腕にくっついた。
﹁麗華お姉様、この前は来てくださってありがとう!私、とっても
嬉しかったです!あのオルゴールもお気に入りなの。毎日聞いてい
るんです﹂
﹁まぁ私こそ楽しい時間をありがとう。オルゴール、気に入ってく
れて私も嬉しいわ﹂
私が麻央ちゃんと話している間に、気が付くと天使ちゃんが私の
手を離して、とことこ奥へと歩いて行ってしまった。あぁっ!天使
ちゃん!待って!
﹁麗華お姉様?﹂
﹁⋮ううん、なんでもありませんわ﹂
あのふわふわの髪に触りたかった⋮。
720
﹁今日は私に会いに来てくれたんですか?あ!麗華お姉様、座って
ください﹂
私が麻央ちゃんに連れられてきたソファには悠理君もいて、今ま
で食べていたであろう、ふたりぶんの食べかけのケーキとお茶が置
いてあった。
﹁こんにちは、麗華、お姉さん﹂
悠理君は私をお姉さんと呼ぶのが恥ずかしいらしく、いつも言っ
た後にはにかむ。可愛いねぇ。和むわぁ。
Happy
Birthday!
と書かれた
﹁こんにちは。今日はこの間のお誕生日パーティーの写真を持って
きたのよ﹂
そう言って私は
フォトアルバムを麻央ちゃんに渡した。
﹁わぁっ!﹂
﹁悠理君とふたりの写真もたくさんあるのよ﹂
﹁あっ、本当﹂
﹁麻央、僕にも見せて﹂
麻央ちゃんと悠理君は仲良く写真を見始めた。本当は梅若君に教
えてもらって写真集を作ろうかと思ったのだけど、梅若君にその話
を振るとなんだか面倒なことになりそうだったので結局やめた。犬
バカ梅若君とは、うっかりメアド交換なんてしてしまったために、
メルマガのように定期的にベアトリーチェの画像が送られてくる。
私ベアトリーチェ。毎晩
寒いのでベアトリーチェは
と返したら、
前にベアたんメルマガに社交辞令で
風邪を引いていませんか
721
という、トチ狂ったメールがきた。犬からメール
あーたんと一緒に寝ているから平気よ。あったかいもこもこパジャ
マも着ているの
あすか
⋮。というより犬になりきった高校生男子からの嬉々としたメール
⋮。きつい。
ちなみに犬バカ君の名前は朱鳥という。朱鳥だからあーたん。自
分で言っちゃうか、あーたん。
もうさ、犬バカ君はベアトリーチェと結婚すればいいと思うよ。
私が異類婚しそうな友の将来を憂いていると、向こうからお茶と
ケーキの乗った銀のトレーを、落とさないように両手でしっかりと
持った天使ちゃんがやってきた。
あぁ天使ちゃん!一生懸命な姿が可愛い!
﹁お姉さん、これどうぞ﹂
﹁えっ?!﹂
このお茶とケーキのセットは私のため?!私の手を離してどこか
へ行っちゃったのは、これを用意するため?!あぁっ!なんていい
子なんでしょう!天使ちゃん!
そんな天使ちゃんが運んできてくれたケーキはクレームアンジュ。
天使ちゃんが天使のケーキを持ってきてくれたのね!
﹁どうもありがとう。ひとりで運んでくるのは大変だったでしょう
?﹂
﹁いいえこの程度、全然平気です﹂
でもトレーをぎゅっと握りしめて持ってきたせいで、手のひら赤
いよ?
﹁さぁ召し上がれ﹂天使ちゃんがニコニコと笑った。はあ∼っ!可
愛い!天使ちゃん、君、吉祥院家の子になりませんか?
722
ゆきの
﹁麗華お姉様のお茶を持ってきてくれたの?ありがとう雪野君﹂
﹁どういたしまして﹂
﹁雪野君?あなたのお名前は雪野君とおっしゃるの?﹂
真っ白な天使ちゃんにぴったりなお名前!
﹁はい。円城雪野です。よろしくお願いします、麗華お姉さん﹂
天使な雪野君が可愛く微笑んだ。⋮⋮ん?
⋮⋮⋮⋮円城?
﹁えーっと⋮、雪野君?あなたはあの、円城秀介様となにか関係が
お有りかしら?﹂
私は恐る恐る尋ねた。無関係だと言ってくれ。せめて遠縁だと言
ってくれ。あれだけはやめてくれ。
﹁円城秀介は僕の兄です﹂
げーーー!!
円城の弟?!なんで?全然似てないじゃん!あの腹黒の弟が、こ
んなに無垢な天使ちゃんなんて!
確かに顔だけ見れば似ていないこともない。髪の色は違うけど。
って、この髪色って君ドルの円城と似ていない?あっちは蜂蜜色。
雪野君は琥珀色。あぁもしかしたらマンガの良心部分が、髪色とと
もに弟に受け継がれちゃったのかなぁ。
しかし弟ってパターンだけは勘弁して欲しかったよ⋮。
723
﹁あの⋮、兄がどうかしましたか?﹂
無意識に顔が歪んでいたのか、雪野君が不安そうに私を見つめて
いたので、慌てて笑顔を作った。
﹁いえ。雪野君のお兄様とは同級生ですので少し驚いてしまったの
ですわ。円城様にこんなに可愛らしい弟さんがいらっしゃったなん
て﹂
﹁本当ですか?﹂
あぁ!そんな心配そうな顔をしないで。
﹁お兄様とはピヴォワーヌのサロンでも時々お話しいたしますのよ。
そうですわ!冬休み明けにお土産のお菓子をいただいたこともあり
ますの!﹂
﹁兄様がお土産?﹂
﹁ええ。有名な滝や森に行ったみたいですわね。おいしくいただき
ました﹂
﹁そうなんですか﹂
私の話を聞いて、やっと雪野君に笑顔が戻った。
﹁あの、僕もお隣に座ってもいいですか?﹂
﹁もちろん!﹂
雪野君が私の隣にちょこんと座って、ふんわり微笑んだ。天使⋮。
あの腹黒円城の弟だから、あまり関わらないほうがいいとはわか
っているけど、でもこの天使の微笑みには抗えないっ!
私は天使ちゃんの持ってきてくれた白い天使のケーキを食べた。
ふわふわで溶けるー!
724
﹁とってもおいしいですわ。ありがとう雪野君﹂
﹁はい﹂
頑張って運んでくれた雪野君は、私がお礼を言うと嬉しそうに笑
ってくれた。
雪野君は今年初等科に入学したばかりの1年生だそうだ。言われ
てみれば初々しいものね∼。小さいし。
雪野君は甲斐甲斐しくお茶のおかわりはどうですかなどと、私の
お世話を焼いてくれた。可愛い!雪野君のお兄さんが他人のために
お茶を淹れる姿なんて見たことないよ?
﹁麗華お姉様、せっかくいらしてくれたのに、私ともおしゃべりし
て欲しいわ﹂
麻央ちゃんがちょっと拗ねたように、私の腕を引っ張った。両手
に雪野君と麻央ちゃん。ここは楽園か?!
﹁ごめんなさいね、麻央ちゃん﹂
﹁いいですわ。ねぇ麗華お姉様、今度晴斗兄様とお食事に行くんで
すよね?﹂
﹁ええ、そうね。この前そのようなお約束をしましたわね﹂
﹁晴斗兄様はおいしいお店をたくさん知っていますのよ。期待して
いてくださいね!﹂
そうなんだ。それは楽しみ。
私は子供達に癒され、おいしいクレームアンジュを堪能し、プテ
ィを後にした。
帰りは扉まで麻央ちゃんと悠理君と雪野君がお見送りしてくれた。
みんな可愛いなぁ。
725
家に帰ると市之倉さんからお食事の日程の問い合わせメールが届
いていた。
市之倉さんとのお食事楽しみー!あ、でも私は大食キャラでいっ
ていいのか、バレてても小食キャラを貫くべきなのか⋮。乙女とし
ての正解はどっちだ?
726
114
円城の弟が初等科に入学したという噂は、私が雪野君に会ってか
ら間もなく、学院中に広まった。
その噂では弟は兄とそっくりの美少年だという話で、なかには初
等科まで雪野君を見に行った子達も大勢いたらしく、その子達から
とても可愛かったと大評判になり、円城弟への騒ぎはどんどん加速
していった。しかしそれに対し円城がいつになく厳しい表情で、﹁
弟は体が弱いからあまり騒がないでくれないか﹂と抗議したので、
円城の怒りを恐れて、あっという間に広がった雪野君騒ぎは、徐々
に沈静化しつつある。
サロンでも雪野君の話題になったけど、さすがの円城もピヴォワ
ーヌメンバーにまで弟のことで騒ぐなと強くは言えないのか、それ
なりに受け答えしていた。
﹁円城様に弟様がいらしたなんて、私達ちっとも知りませんでした
わ。ぜひ一度サロンにお連れになって﹂
﹁そうですね。機会があれば﹂
﹁雪野様のお姿を一目見るために、初等科まで出向く生徒達も多い
そうですわね。お兄様にそっくりの可愛らしい弟様だとか﹂
﹁それなんですが、弟は小さい頃から喘息であまり丈夫ではないの
で、変に騒ぎ立てられて体調を崩したらと心配しているんです。弟
には静かな環境で過ごさせてやりたいので﹂
﹁まぁ!それは大変ですわね。でしたら雪野様が健やかに学院生活
を送れるように、ピヴォワーヌからプティにも注意するように伝え
ておきましょう。愚かな連中が雪野様の周りをうろつかぬようにと﹂
﹁よろしくお願いします﹂
727
円城がにっこりと微笑むと、円城と鏑木を囲む女子達の頬が赤く
染まった。
こうして円城はピヴォワーヌの会長も味方につけ、雪野君の守り
を盤石にした。
雪野君、体弱いのか⋮。確かに肌も白かったもんな。でも円城っ
て腹黒だけど弟思いだったんだ。ちょっと意外。
私が甘いミルクティーを飲んでいると、その円城と目が合った。
げ。
﹁吉祥院さん、弟と会ったんだって?﹂
﹁え⋮﹂
円城の笑顔に冷や汗が流れた。もしかして私も雪野君を野次馬し
に行ったと思われてる?!まずい⋮。
﹁あ、私がプティに行った時に偶然お会いしましたの。私はプティ
の女の子に渡すものがあって行ったんですけど。たまたま扉を開け
てくれたのが円城様の弟様でしたのよ。本当に奇遇で﹂
あくまで偶然会ったんだと強調する。やめてよ、愛弟の敵認定!
﹁うん、弟から聞いているよ。弟のおしゃべりに付き合ってくれた
んだってね、ありがとう﹂
﹁いえ⋮﹂
そのお礼は本心かしら?雪野君と違って兄は信用ならないからな。
﹁吉祥院、雪野に会ったのか﹂
728
鏑木が話に入ってきた。鏑木も雪野君を知っているのか?まぁ親
友なら知ってるか。
﹁ええ、まぁ﹂
﹁ふーん⋮﹂
﹁⋮あの、とても可愛らしくて、優しい弟様ですわね?﹂
﹁ふーん⋮﹂
なぜか鏑木が眉間にしわを寄せた。円城は﹁そう。ありがとう﹂
と食えない笑顔のままだった。
なんとなく気まずい雰囲気だったので、私は早々にサロンを退散
した。
今の私には雪野君の騒ぎよりも大事なことがある。それは新入生
の部活見学だ。
手芸部は正直言って地味な部活だ。部員もおとなしい子ばかりで
人数もそれほど多くはない。ここは新たな部員獲得のためにも私も
頑張らねば!
私は手芸部の正式部員になってから活動日はほぼ皆勤賞だ。これ
は正式部員なのだから当然といえよう。
今日も私は手芸部の部室に急ぐ。カバンにはさっきサロンでかっ
ぱらってきたお菓子が入っている。これを見学に来た子達へ振る舞
うのだ。どう!この気配り!
瑞鸞では基本的にお菓子などの持ち込みは禁止なので、これはか
なりポイントの高いもてなしだと思う。ふっふっふっ⋮。
私達が思い思いの手芸に勤しんでいると、新入生が見学にやって
きた。私は張り切って立ち上がった。新入部員獲得!
部室に入ってきた子達は、一瞬ギョッとした顔をした。
729
あら?どうしたのかな?緊張しているのかしら?おお!そうだ!
こういう時こそお菓子を!
私は笑顔で新入生達に席を勧めた。
﹁さぁ、こちらにお座りになって。お菓子もあるのよ?﹂
﹁え⋮﹂
﹁お茶はいかがかしら?良い茶葉がありますの﹂
この茶葉もサロンからの盗品だ。
新入生達はお茶とお菓子を前に妙に萎縮してしまっている。もっ
とリラックスして部活動の話をなんでも聞いてくれていいのに。私
は優しい部活動の先輩として、笑顔を心掛けた。にこにこ。あら?
どうしてドアのほうばかり見ているの?来たばかりなのに。
﹁ゆっくり見学していってよろしいのよ?さぁさぁ召し上がって﹂
﹁あの⋮でも、食堂以外での飲食は⋮。それにお菓子は校則違反で
は⋮﹂
﹁あら平気よ。これはピヴォワーヌのサロンのお菓子ですもの﹂
新入生達が色を失い仰け反った。ひとりの子は震えている?
﹁あのー⋮﹂
私が声を掛ける前に新入生達は立ち上がり、申し訳ありません申
し訳ありませんと米つきバッタのように謝りながら、出直してきま
すと逃げるように部室を後にした。
﹁⋮⋮﹂
⋮もしかして、私が悪かったのだろうか?でもどうして?こんな
730
にフレンドリーに接したのに。せっかく出したお菓子も食べるどこ
ろか持って帰ってもくれなかった⋮。
その後も、やってくる見学の生徒達は似たような反応ばかりだっ
た。見学に来たはずなのにすぐに帰ってしまう。お菓子どころかお
茶にすら手をつけずに。ひどいのだとドアを開けた瞬間にすぐ閉め
て逃げる子までいた。なんなの、いったい!私も思わずムキになっ
て一度、お菓子を食べるまで逃がさないといった態度に出たら、ひ
とりの子が青ざめて﹁これを食べてしまったら⋮﹂と呟いた。なに
?ここは黄泉の国ではないから平気だよ?さぁ、お食べなさい。さ
ぁ。
その子は涙ぐみながらマドレーヌを齧った。⋮⋮食べたわね?も
う逃がさない。
新入部員1名獲得。さ、署名なさいな。
しばらくすると部長さんが私に、部室の一番奥の場所で手芸をし
ているようにと言い渡してきた。
え∼、でも私も手芸部の正式部員として貢献したいのに。お茶出
しでもなんでもしますよ?
それから部長命令で部室の奥に座らされた私の前には、部員の子
達が壁のように立っているので、見学の子達の顔すら見えなくなっ
てしまった。
新入生、入部してくれるかなぁ。心配だよ。やっぱり私ももう一
度⋮。あっ、見えない。ど、どいて?
市之倉さんとのお食事の日が来た。
和食でいいかな?と聞かれたので了承したけれど、どこに連れて
いかれるのかな?懐石とか?
などと考えていたけれど、市之倉さんが連れていってくれたのは
731
釜飯屋さんだった。
なんとなく釜飯って庶民の食べ物って感じだから、かなり意外だ
った。しかし私は前世から釜飯が大好きだ。というよりお米が大好
きだ。VIVA!米食!
﹁こういうお店は苦手かな?もしイヤならイタリアンのおいしいお
店もあるんだけど﹂
﹁いいえ。こちらで結構ですわ﹂
釜飯、釜飯∼。格調高いおしゃれなフレンチなんかじゃなく、釜
飯料理屋さんをチョイスしたことで、私の中の市之倉さんの株はか
なり上がった。
このお店だって個室になっていて、釜飯屋さんの中ではかなりの
高級店のはず。
﹁ここの釜飯はとってもおいしいんだ。ぜひ麗華さんに食べて欲し
くて。この前、姉からパエリアをおいしそうに食べていたと聞いて、
ごはんが好きなのかなって思ったんだ﹂
﹁まぁ﹂
その通り!
メニューにはたくさんの釜飯が載っていて、目移りしてしまう。
紅鮭といくらの釜飯おいしそ∼。鳥釜飯も捨てがたいけど、海老も
いいな。でも無難に五目かなぁ⋮。
﹁僕は紅鮭といくらの御膳にするけど、麗華さんは?﹂
﹁では私は五目御膳で﹂
無難を選んでしまった。しかし後悔はない。うずらの卵大好き。
でも紅鮭⋮。
732
運ばれてきた御膳には釜飯以外に茶碗蒸し、揚げ出し豆腐、お新
香、お吸い物が付いてきた。茶碗蒸し大好き!銀杏サイコー!
アツアツ釜飯は出汁が染みてておいしい!このお店、大正解だ!
うずらはもう少し取っておこう。
﹁麗華さん、良かったらこっちも食べてみない?﹂
なんと!素晴らしい提案です、市之倉さん!
私はそっと自分の茶碗にうずらを避けて、釜飯を交換した。紅鮭
サイコー!
気がつけば私は釜飯と茶碗蒸しについて、市之倉さんに熱く語っ
ていた。市之倉さんも自分の好きな食べ物の話をしてくれた。市之
倉さんは堅苦しい料理より、味が第一なのだそうだ。わかります、
わかります。そんな市之倉さんの食べっぷりは良かった。楽しく食
について語り合いながら、一品料理もどんどん頼んだ。ふたりでし
っかり完食した。デザートの抹茶アイスおいしかった。自家製だっ
て。素晴らしい。
市之倉さんとは帰りに、また一緒に食事をしようと固く約束をし
た。
私は偽らざる自分を見せられる人に出会ってしまったらしい。
733
115
手芸部にはポツポツと入部希望者が現れているらしい。らしいと
いうのは、私が関与させてもらえていないので直接知らないからだ。
部長さんが言うには、私のピヴォワーヌという肩書が少し新入生
達を気後れさせてしまっているとのことで、見学中はなるべく気配
を消して欲しいと頼まれてしまった。
確かに言われてみればそうかもしれない。手芸部に入部したいと
いう子達は総じておとなしそうな子達ばかりだから、学院の不可侵
領域であるピヴォワーヌは怖かろう。その気持ちはわかる。しかし
私だって手芸部の正式部員。なにかお役に立ちたいではないか!
部室の奥でニードルフェルトをやりながらも、誰か私に質問して
くれないかな∼と見学者をチラチラ見ていたら、ひとりの子が遠慮
がちに声を掛けてきた。よしっ!
﹁なにかご質問かしら?﹂
﹁はい。あの、手芸部で使うミシンについて教えていただきたいの
ですが⋮﹂
ミシン?
自慢じゃないが、私は手芸部でミシンを使ったことはない。とい
うよりミシンは苦手だ。糸通しの順番が上手く出来ないから。それ
に布に糸が絡まると取るのも大変。そういえば昔、布に糸が絡まっ
たままウィンウィンいって動かなくなったミシンから、無理やり布
を引っ張って格闘したら煙が出たこともあったなー。器械は難しい
ね。
でもせっかくの入部希望者からの質問だ。出来る限り期待に応え
たい!
734
﹁ミシンのなにを聞きたいのかしら?﹂
﹁ロックミシンのメーカーはどこのでしょう?それから4本糸のロ
ックミシンはありますか?﹂
⋮ロックミシンってなに?4本糸とは?
﹁私は3本糸しか使ったことがないんです。出来れば4本糸も使っ
てみたくて﹂
???
どうしよう、せっかくの質問なのになにを聞かれているのかさっ
ぱりわからない⋮。でも手芸部の正式部員として、入部希望者にそ
れを悟られたくはない。
﹁⋮ちょっとお待ちになって。私は今、手が離せないので別の部員
を呼んできますわ。ロックミシンの説明ですわね﹂
誰か!ロックミシンとやらを知っている部員はいませんか?!
私が手の空いていそうな部員に声を掛けている間に、ロックミシ
ンの子にほかの見学者が近づいて、﹁あのかたはピヴォワーヌの麗
華様よ!ダメよ、ピヴォワーヌのかたの手を煩わせるような真似を
したら!不興を買ったらどうするの﹂と注意していた。
私がミシンに詳しい子を連れて戻ると、ロックミシンちゃんが﹁
申し訳ありません!私は外部から今年入学してきたばかりで、全く
知らなかったんです!﹂と平謝りしてきた。全然いいんだけど⋮。
ただ聞かれていることがわからなかったから、ごまかそうと忙しい
フリをしただけだし。だからそんなに怖がらないで∼。私はピヴォ
ワーヌの中でも庶民派よ?
あとでミシンのこと、勉強しよっかな⋮。
735
そんな時に璃々奈が仲間を引き連れて手芸部にやってきた。﹁麗
華さんたら、こんな地味な部に入ってるの!﹂と。
このバカ従妹め!私は内心怒りの炎が燃え上がったが、璃々奈に
は大勢の取り巻きがいる。璃々奈が入部すれば新入部員大量獲得の
チャンスか?!と計算し、﹁まぁいらっしゃい、璃々奈さん。手芸
部に興味がおありかしら?﹂と愛想良く迎えてやったのに、﹁まさ
か!私が手芸部なんてマイナーな部に入るわけないじゃない。ただ
の麗華さんの冷やかしよ!﹂と言い放ったので、問答無用で叩き出
してやった。
そのやり取りを運悪くほかの見学者に見られてしまい、貴重な新
入部員候補がなぜか怯えて逃げて行った。璃々奈めーー!
私は部長さんにそっと背中を押されて、一番奥の定位置に戻され
た。私の前にトルソーが衝立のように並べられた。
トルソーに囲まれてひとりぽっちの隔離状態は寂しいです⋮。
委員長の顔色が冴えない。どうしたのかと聞いたら、美波留ちゃ
んが同じクラスになった男子と仲が良くなってしまったことが原因
のようだ。
﹁僕はクラスも違うし、完全に分が悪いよね?どうしたらいいかな。
本田さんは彼が好きなのかな﹂
﹁う∼ん﹂
私もそんなに美波留ちゃんと仲がいいわけじゃないから、聞くチ
ャンスがないなぁ。委員長は眉が八の字になっている。
そういえば野々瀬さんは美波留ちゃんと仲がいいんじゃなかった
736
かな?食堂で一緒にランチを食べている姿を何回も見たことがある
し。
﹁私、野々瀬さんから探りを入れてみましょうか﹂
﹁えっ!本当に?!ありがとう、吉祥院さん!﹂
恋する乙女はパアッと顔を輝かせた。いいけど、これで美波留ち
ゃんが本当にほかに好きな人がいるなんてことになったら、委員長
どうするんだろう。
次の日私は野々瀬さんに朝の挨拶をした流れで、世間話に持ち込
んでみた。いきなり美波留ちゃんと彼の関係は?なんて聞けないの
で。
﹁野々瀬さんには中等科の夏合宿でとてもお世話になりましたわね。
あの時も不出来なリーダーの私をしっかりサポートしてくれて、と
ても感謝しましたのよ。今年も私がクラス委員などになってしまい
ましたけど、ぜひ力を貸してくださいね﹂
﹁もちろんです!私が麗華様のお役に立てるかわかりませんけど。
でも夏合宿、懐かしいですね﹂
それから私達は夏合宿の思い出話に花を咲かせた。
﹁確か毎年、美波留さんも参加していたのに、あの年だけ用事があ
って来られなかったのでしたっけ﹂
﹁あぁ、そういえばそうでした。あの時は美波留ちゃんに夏合宿の
メールを送りましたわ﹂
﹁まぁどんなメールを?﹂
﹁えっと⋮忘れてしまいましたわ。花火が楽しいとかそんな感じの
737
ことですね、きっと﹂
﹁そうですの。美波留さんとも同じクラスになれたら楽しかったで
しょうね﹂
﹁本当にそうですね。クラス替えの時、残念だったねって話したん
です﹂
﹁そう。もし美波留さんが同じクラスなら、きっとクラス委員は美
波留さんだったわね。委員長とも気が合いそうですし﹂
﹁そうでしょうか⋮?私は委員長と麗華様がクラス委員のほうが合
っていると思いますけど。麗華様は委員長をどう思いますか?﹂
﹁委員長?真面目で信頼できる人だと思いますわよ?﹂
﹁そうですか∼!麗華様、柔道部の岩室君ともお親しいんですよね
?彼のことはどう思います?﹂
﹁岩室君ですか?自分のやりたいことをしっかりと持っている人で
努力家ですわね﹂
岩室君は私からパックをもらって以来、自分でも肌の手入れを欠
かしていないらしい。おかげで汗まみれの柔道部員のなかでピカイ
チの美肌を誇っている。
﹁なるほど∼﹂
野々瀬さんはなにやら楽しそうに頷いている。いや、私のことよ
り美波留ちゃんの話なんだけど。
﹁美波留さんはクラスで仲のいい男子は出来たのかしら﹂
﹁仲のいい男子ですか?さぁ、特にそんな話は美波留ちゃんから聞
いていませんけど。あら、麗華様は意外と恋バナがお好きなんです
か?﹂
﹁えっ、そういうわけでは⋮﹂
﹁麗華様の恋バナ、興味ありますわー。でも聞いてはいけませんよ
738
ね?﹂
野々瀬さんはちょっと残念そうな顔をした。いや、話せるような
素敵エピソードを持ち合わせていないんです。
﹁私達に聞こえてくる麗華様の恋の噂は、ロマンチックなものばか
りですもの。羨ましいです﹂
﹁は?恋の噂?﹂
﹁恋の詩集の話なんて、私うっとりとしてしまいました。やっぱり
侍従や傭兵ではダメですね。私、麗華様を応援しています!﹂
﹁え?侍従?傭兵?﹂
野々瀬さんの発した理解できない単語を問う前に、予鈴が鳴って
しまって話はそこで終わってしまった。
なんだったんだ⋮?
でも聞き捨てならない言葉もあった。恋の詩集だ。もしかして鏑
木のことか?!どこにロマンチック要素があるというんだ!呪いの
アイテムだぞ!
委員長がこちらを窺っていたけれど、すまん、委員長。肝心の収
穫はなかった。
ディーテから遠足の余興についての問い合わせの催促がきた。
ごめん、忘れてた。
CD−Rを渡され、ここから演奏楽曲を選んで欲しいと依頼され
た。ディーテのバイオリン演奏が録音されているらしい。これ、聞
かなきゃダメ⋮?
739
116
市之倉さんから次のお食事のお誘いをもらった。そして今回は麻
央ちゃんも一緒だ。
前回のお食事会の時に、市之倉さんから麻央ちゃんの話を聞いた。
実は麻央ちゃんには最近、弟が生まれたそうなのだ。
早蕨家待望の男の子誕生!跡継ぎ誕生!と、祖父母や親戚は大喜
びで、麻央ちゃんがその場にいるのに﹁やっと男児が生まれてくれ
た﹂﹁次も女だったらどうしようかと思った﹂などと、心無い発言
を繰り返したらしい。本人達は無意識で、麻央ちゃんに対する悪意
などは全くなかったらしいのだけど、それを聞いた麻央ちゃんは大
層傷ついた。その後も周囲の関心は弟ばかりで、麻央ちゃんはすっ
かり拗ねてしまったのだそうだ。
市之倉さんは、自分はないがしろにされているとショボンとして
いる、可愛い小さな姪を可哀想に思っていて、麻央ちゃんの両親も、
そんな麻央ちゃんの傷ついた気持ちをずいぶん心配しているらしい。
なるほどなー。だから麻央ちゃんの誕生日はほぼすべてお母さん
の手料理だったのか。早蕨家の奥様があれだけの料理を手作りで用
意するって、趣味といえど凄いなと思ったけど、あれは麻央ちゃん
に貴女も大事な子供よというお母さんからのメッセージだったんだ
な。お母さんの手料理を食べる麻央ちゃんは、とっても嬉しそうだ
ったもの。
でも麻央ちゃんはまだ8歳なのに、そんなつらい思いをしてたん
だな⋮。全然気づかなかった。
私は前世では妹だけで男兄弟はいなかったし、今の兄妹はお兄様
ひとりだけど、女児で残念といったことを言われたことはなかった。
もし今の歳でもそんなことを言われたら相当カチンとくると思うけ
ど、麻央ちゃんの歳で言われたら胸が潰れそうなくらいショックだ
740
っただろうな。
市之倉さんは、ほかの親類縁者が跡継ぎの弟第一ではしゃいでい
るぶん、せめて自分だけは麻央ちゃんを一番に可愛がってあげたい
んだと言った。
﹁麻央は麗華さんをずいぶん慕っているようなんだ。サマーパーテ
ィーで初めて麗華さんと会った後、帰ってきてから楽しかったと嬉
しそうにしゃべっていてね。とても素敵なお姉様に会ったんだって
教えてくれた。悠理君と一緒に撮った写真をきれいな写真立てに入
れてプレゼントしてくれただろう?麻央、大喜びしてたよ。それか
らも度々、麻央から麗華さんの話が出たよ。優しくしてもらってる
って。麻央には弟より自分を可愛がってくれるお姉さんの存在が嬉
しかったんだと思う。だから図々しいお願いなんだけど、麻央が憧
れて懐いている麗華さんに、麻央を少しでいいからかまってやって
もらいたいんだ。あの子が寂しくないように⋮。麗華さん、お願い
します﹂
そう言って市之倉さんは頭を下げた。
私はお姉様と言って慕ってくれる麻央ちゃんが可愛くて大好きだ
し、市之倉さんにお願いされなくても仲良くしたいと思っていたか
ら、二つ返事で引き受けた。むしろそんなことで頭を下げないで欲
しい。そもそも私は市之倉さんに頼まれたから仲良くするんじゃな
く、自分の意志で麻央ちゃんと一緒にいたいと思っているんだから。
市之倉さんこそ麻央ちゃんの可愛さを見くびっているんじゃないの
か?
そんな感じのことを言ったら、市之倉さんは破顔した。
その後、では次は麻央ちゃんも一緒に食事に誘おうという話にな
り、スケジュールが確認できたら連絡する約束をした。市之倉さん
からその話を聞いた麻央ちゃんはまた大喜びしていたそうだ。すぐ
に行きたいとはしゃぐ麻央ちゃんを宥めるのが大変だったとメール
741
がきた。
麻央ちゃんと市之倉さんと食事かぁ。楽しみだなぁ。
遠足は、2年生は余興はないそうだ。先生に確認を取り、ディー
テにそれを伝えると、あからさまにがっかりされた。なんでディー
テは音大付属に行かなかったんだろう⋮。
今年の遠足の場所は日光だ。高校生にもなって今更日光?と思っ
たけど、いいハイキングコースがあるそうだ。瑞鸞はお坊ちゃまお
嬢様の集う学校のはずなのに、遠足だけはハードだよなぁ。噂じゃ
去年よりずっときついらしいから、今から不安だよ。
それともうひとつ気になるのは、日光といえば華厳の滝ですが、
鏑木的には大丈夫なんでしょうか?迎えに行った円城からお土産の
サブレをもらってから、まだ半年も経っていませんが。
治りかけの傷を抉って再発なんて展開にだけはならないといいけ
ど。面倒くさいから。
遠足当日は早朝集合だった。眠い⋮。
去年の鎌倉より厳しいコースだと聞いて、私は家を出る前にちょ
っとお高めの栄養ドリンクを飲んできた。効いてくれますように。
小さい歩幅を心掛けて歩いているけど、やっぱり苦しい。あとど
れくらい歩けばいいのかわからない道を歩き続けるのって、凄く疲
れる。
芙由子様達は早々にリタイアしたらしい。うーっ、私もリタイア
したいよ。でもクラス委員としてズルは出来ない!後方組だから遠
742
足ではクラス委員としてはまるで役立たずだけどね!しょうがない
から野々瀬さんにゴールした後のクラスの纏めをお願いした。
流寧ちゃんに﹁ゆっくり行きましょうね﹂と励まされ、後方組と
ダラダラ歩く。後方組はいつも同じ顔ぶれだなぁ。
ゴールに着くと、案の定ほかの生徒達はすでにお昼を食べ始めて
いた。ここは団結力を深めるためにも待つものじゃないの∼?と僻
み根性でいつも思う。
ぐったりした私達がやっとお弁当に手を付ける頃には、食べ終わ
っている生徒達もいて、その中には若葉ちゃんもいた。
若葉ちゃんは近くに咲く花を見たりしながら、のんびり辺りを散
策している。元気だなぁ。
するとそこへ円城がやってきて、若葉ちゃんに話しかけた。えっ!
なにを話しているのかは聞こえないけれど、若葉ちゃんは円城の
言葉に笑って頷いたりしている。いつの間に仲良くなってんだ?!
そして円城の近くに鏑木の姿はなかった。
私がふたりの姿を凝視していたので、周りの子達もそれに気づい
てざわめいた。
﹁円城様と話している子は誰?﹂
﹁確か特待生の高道さんという子よ。ほらテストでいつも上位の﹂
﹁なんであんなに円城様と親しげなの?!﹂
まずい、私が見ていたせいで余計な注目を集めさせてしまった。
私がみんなの気を逸らそうとする前に、若葉ちゃんと円城は離れた。
⋮良かった。
円城のそばには今度蔓花グループNO2が近づいて、それを合図
にわらわらと女子が囲んだ。遠ざかる若葉ちゃんの背中を、NO2
が睨んでいるのが見えた。
743
午後はバスで観光地巡りで、華厳の滝にももちろん行った。
ここが冬に鏑木が来た滝かぁ⋮。涼しい通り越して少し寒い。鏑
木はこんなところに真冬に来たから風邪を引いたんだ、きっと。
思わず鏑木の姿を探すと、ヤツは滝の一番近くでひたすら滝壺を
一心に見つめていた。あ⋮、傷が開いたか?
鏑木の隣にはぴたりと円城が付いていた。そして腕をしっかり掴
んでいた。うん、親友思いだね⋮。
集合時間の合図がされても、鏑木はなかなか滝から離れようとし
なかった。なにかを考え込んでいる。怖い。最後は円城に引き摺ら
れるようにその場を後にしていた。傷心旅行の時もああやって円城
に連れ戻されていたんだろうなぁ⋮。
華厳の滝サブ
バスに戻る時、若葉ちゃんが円城に﹁これ、薦めてくれてありが
だ。
とうございました!﹂とお土産の袋を見せていた。
レ
隣の鏑木がそのお土産をジッと見ていた。﹁その土産⋮﹂という
鏑木の声が聞こえた。円城は﹁僕は食べていないんだけど、あげた
人にはおいしかったと言われたよ﹂と笑っていた。
次の観光地で、若葉ちゃんがNO2にわざとぶつかられていた。
744
117
麻央ちゃんと市之倉さんとのお食事は、麻央ちゃんリクエストの
パンケーキだった。
いつも思うんだけどパンケーキっておやつじゃないの?
メニューを開くとホイップクリームのタワーの写真がいっぱい。
これを主食というハワイの人達の感覚がわからない。朝からこって
りホイップクリームって胸焼けしないのかな。慣れなのかしら。
そう言いながらも割とノリノリで、チョコバナナとホイップクリ
ームのパンケーキを注文した。麻央ちゃんはストロベリー、市之倉
さんはホイップクリームのないフルーツパンケーキを選んだ。
﹁わぁっ!おいしそうっ!﹂
運ばれてきたパンケーキに麻央ちゃんが目を輝かせた。パンケー
キは思った以上のボリュームだった。
﹁麗華お姉様のパンケーキもおいしそうですね!﹂
﹁麻央ちゃん、こっちも少し食べてみない?﹂
﹁いいんですか!だったら私のも食べてください!﹂
私達は仲良くパンケーキを分け合った。チョコバナナパンケーキ、
おいしーい!私はクレープもチョコバナナ派だ。この甘い食べ物を
夕食と言われるのには納得できないけど、おやつとしては最高だ。
しかしなんでお店のパンケーキはこんなにきれいに焼けるのかな
ぁ?私が前世でホットケーキを焼いた時は毎回必ずフライパンいっ
ぱいにタネがでろ∼と流れて、ホットケーキミックスの写真のよう
に厚みを持たせたいと更にタネの量を増やしたら、最後はお皿から
745
はみだす座布団のようなホットケーキが出来上がってたんだけど。
あの量は食べるの大変だったなぁ。表面は焦げてて中は生焼けだっ
たし⋮。
きっと家庭ではあんな写真のようにきれいに焼ける人はいないに
違いない。誇大広告というやつだな。
わ、麻央ちゃんのストロベリーもシュガーパウダーがかかってて
おいしーい!
﹁市之倉様もチョコバナナいかがですか?おいしいですよ?﹂
﹁私のストロベリーも食べて、晴斗兄様!﹂
﹁う∼ん、僕はいいや﹂
おや、前回の釜飯と違って消極的だな。
﹁市之倉様、もしかして甘いものはあまりお好きではないのですか
?﹂
﹁そういうわけではないよ。甘いものは割と好きだけど、ただその
クリームの量に圧倒されちゃって﹂
市之倉さんはそう言って苦笑いした。気持ちはちょっとわかる。
﹁晴斗兄様、パンケーキはイヤだった?﹂
麻央ちゃんがちょっと哀しそうな顔をした。それを見て市之倉さ
んが少し慌てた。
﹁そんなことないよ、麻央。じゃあ少しもらおうかな?﹂
﹁本当?﹂
﹁本当だよ﹂
746
市之倉さんは麻央ちゃんのストロベリーパンケーキを少し切って
食べた。
﹁うん、おいしい。麻央ありがとう﹂
﹁どういたしまして。遠慮しないでもっと食べてもいいのよ?﹂
﹁そしたら麻央のぶんがなくなっちゃうよ。僕は自分のがあるから
大丈夫。麻央こそ僕のパンケーキ、少し食べてみる?﹂
﹁うん!﹂
麻央ちゃんはパンケーキにフルーツをたくさん乗せて頬張った。
﹁おいしい!あ、でもフルーツを取り過ぎちゃった、ごめんなさい。
お詫びに私のクリームを分けてあげる!﹂
そう言って麻央ちゃんは市之倉さんのパンケーキにホイップクリ
ームをたっぷり乗せた。
麻央ちゃん⋮。
﹁大好きな晴斗兄様と麗華お姉様と一緒に、食べたかったパンケー
キを食べに来られて、私とっても嬉しいわ﹂
麻央ちゃん、なんて可愛いことを言ってくれるんだ!
市之倉さんも優しい笑顔を浮かべた。
﹁麻央は麗華さんが憧れだって言ってたもんね﹂
﹁うん、麗華お姉様はきれいで優しくて頭もいいのよ。凄いんだか
ら﹂
麻央ちゃん、それはあまりに買い被り過ぎです⋮。
747
﹁そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、実際の私は麻央ちゃん
が考えるような人間ではありませんわよ。頭も良くありませんし⋮﹂
﹁そんなことありません!先生だって麗華お姉様は昔から成績優秀
だったっておっしゃってたもの!それにクラスのために率先して働
いていたって﹂
﹁先生?﹂
聞けば麻央ちゃんの今の担任は、私が初等科時代に運動会の実行
委員や学級委員を押し付けられた時の担任だった。いつ私が率先し
たよ。
﹁小さい頃から先生にも信頼されていて成績もトップクラス。さす
が麗華お姉様ですわ!﹂
﹁えっと、麻央ちゃん⋮﹂
﹁へえ。麗華さんは優秀なんだね﹂
﹁そうなの!私も麗華お姉様みたいになりたいの!﹂
﹁そうか。だったら麻央も勉強頑張らないとな﹂
﹁はぁ∼い﹂
﹁⋮⋮﹂
小心者の私に、麻央ちゃんの描く美化されたイメージが重くのし
かかってきた。今度の中間テスト、死ぬ気で頑張らないと⋮。
﹁そういえば麗華お姉様のことは、雪野君も優しいお姉さんって言
ってましたわ﹂
﹁えっ、雪野君が?!﹂
天使ちゃんが私を優しいお姉さんとな?!
﹁雪野君は初等科でも大人気なんですよ。小さな王子様って言われ
748
て中等科や高等科からも見にくる人がいたくらい。でも雪野君は体
が弱いから、そうやって群がってくる女の子達から雪野君を守るよ
うにって、ピヴォワーヌの会長様から通達がありました﹂
﹁そうでしたの﹂
確かにそんな話を円城としていたな。
﹁その雪野君という子はそんなにかっこいいの?﹂
市之倉さんが興味を示した。市之倉さん、クリームが減っていま
せんよ⋮。
﹁かっこいいというより、可愛いって感じですよね?麗華お姉様﹂
﹁そうね﹂
﹁私達の間では天使みたいって言われてるんですよ﹂
あぁやっぱりみんな同じように思ってるんだな。まさに天使。
私はうんうんと頷いた。 ﹁天使かぁ。僕も一度会ってみたいな﹂
弟をよろしくね
っ
﹁雪野君のお兄様もとっても素敵なのよ。前に雪野君を迎えにサロ
ンまでいらしたことがあるんだけど、私達に
て微笑んでくれたの!上級生のお姉様方もうっとりしていたわ。雪
野君のお兄様も王子様みたいなのよ﹂
﹁それは凄いな﹂
王子様?円城が?!やだ大変!私の可愛い麻央ちゃんが騙されて
る!
﹁それに王子様の親友の方もとってもかっこいいの。麗華お姉様は
749
あのおふたりと同級生なんですよね?﹂
﹁あー⋮まぁ﹂
﹁いいなぁ。きっとお親しいんですよね?雪野君も麗華お姉さんが
僕の兄と仲が良いみたいで嬉しいって言ってましたもの﹂
﹁えっ!?﹂
雪野君、申し訳ないけどそれはとんでもない誤解だ!でも私がこ
の前余計なことを言ったせいか?!
やばい、円城があの女なにを勝手に自分と仲良しなんて大事な弟
に吹き込んでんだって思ってたらどうしよう?!
麻央ちゃんが無邪気に笑う隣で、私の胃は重くなった。
今回の食事会で、麻央ちゃんが私を才色兼備と大きな誤解をして
しまっているのを知った。そのイメージを壊して可愛い麻央ちゃん
に失望されないために、私はそれはもう必死で試験勉強をした。夢
の中にまで単語帳が出てきたくらいだ。
栄養ドリンク一気に2本飲みで脳みそがジンジンするくらい勉強
した結果、中間テストの順位表に私の名前が初めて載った。29位
だ。
あれだけ頑張って29位⋮。ぎりぎりじゃないか⋮。いや、でも
私は頑張った!
しかし順位表を見るギャラリーの関心は1点だけだった。
1位 高道若葉
2位 鏑木雅哉
3位 円城秀介
750
4位 水崎有馬
とうとう若葉ちゃんが鏑木と円城を押さえて首位に躍り出た││。
前回若葉ちゃんが1位になった時は、皇帝失恋の巻の時だったか
ら、まぁしょうがないともいえたけど、今回は違う。完全に実力で
勝ったんだ。
2年に上がって最初のテストでこの結果。あたりには不穏な空気
が流れていた。
そこへ鏑木と円城がやってきた。鏑木は順位表の結果を見て片眉
をあげた。
﹁⋮この高道若葉って秀介のクラスだったか?﹂
﹁そうだよ。元気な子﹂
﹁ふ∼ん﹂
﹁あ、噂をすれば。高道さん、1位おめでとう﹂
タイミングの悪いことにそこに若葉ちゃんがちょうどやってきて
しまった。
﹁えっ1位?!あ⋮、ありがとうございます⋮﹂
若葉ちゃんが周囲の目を気にしておどおどしている。前にだいぶ
チクチク言われたみたいだからな。
﹁お前が高道か﹂
﹁え、はい⋮﹂
鏑木の視線に若葉ちゃんはどんどん小さくなっていっている。
鏑木は若葉ちゃんを無言でしばらく見つめた後、なにも言わずそ
のままふらりと校舎に戻って行った。円城は﹁じゃあね﹂と若葉ち
751
ゃんに手を振って鏑木の後に続いた。
残された若葉ちゃんは針のむしろ⋮⋮。
あの∼、ところで、私も高等科に入学して初めて順位表に載って
るんですが、誰も気づいてくれないの?
29位は吉祥院麗華って書いてありますよ∼⋮。
752
118
﹁最近、2年生に調子に乗っている子がいるようね﹂
と、ピヴォワーヌ会長が言った。
若葉ちゃんの中間テスト1位で、一部の生徒達の目が若葉ちゃん
に対し、はっきりと厳しくなった。
私からすれば、実力で1位になったんだからしょうがないだろう
と思うのだけど。それに私だって出来ることなら1位になってみた
い。いいなぁ、1位⋮。ううん、せめてベスト5⋮、いや10位以
内でもいい。もしそんなことになっちゃったら、喜びのあまりベリ
ーダンス踊っちゃうよ。
ただ1年の時からそうだったけど、外部生の若葉ちゃんが、生粋
瑞鸞生の栄光の象徴ともいえる、鏑木、円城の輝かしい首位の座を
脅かすのが我慢ならない人達がいるのだ。ほかにも成績のいい外部
生もたくさんいるのに、若葉ちゃんが槍玉にあげられてるのは、そ
のいかにも庶民といった見た目のせいもあるんだろうな。時々口を
ぽかんと開けている間抜けな顔からはとても秀才には見えないので、
﹁あんな子がなんで﹂﹁カンニングじゃないのか?﹂などと陰口ま
で叩かれている。
それに加えて、円城や鏑木から声を掛けられていたのがまずかっ
た。円城だけならともかく、あの女子生徒とほとんどしゃべらない
皇帝に話しかけられたというので、いらぬ嫉妬まで買ってしまった。
私のグループの子達も若葉ちゃんに良い感情を持っていないよう
753
だ。﹁麗華様、頑張って!﹂とよくわからない激励までされた。私
がいったいなにを頑張るのでしょうか?それに、私は今回の中間テ
ストでちゃんと頑張ったんですけど、まだみなさんお気づきでない?
高道、鏑木、円城のトップ3争いの陰にはもうひとつ、29位、
吉祥院麗華という物語があったことを、誰も気づいてくれないまま、
順位表は剥がされた⋮。
あんなに頑張ったのに、誰も褒めてくれない。誰も気づいてくれ
ない。哀しい⋮。
だから私は自作自演をすることにした。
お兄様が仕事から帰ってくる頃を見計らって、リビングのテーブ
ルに中間テストの成績表をさりげな∼く出しておいた。それだけを
出しておくのはいかにも見て欲しいとアピールしているみたいなの
で、ほかにも筆記用具や教科書やプリントなども一緒に散らばして、
学校のカバンの中から探し物をしていたらついうっかり成績表も出
しちゃってました風を装う。
あれ、おかしいなお兄様、まだ来ないの?
しょうがないからもう一度カバンの中に筆記用具をしまう。また
出す。⋮来ない。またしまう。また出す。
何度か繰り返しているうちに、やっとお兄様がリビングに現れた。
﹁おかえりなさいお兄様!﹂
﹁ただいま。どうしたの麗華、テーブルにお店広げちゃって﹂
﹁ちょっと探し物をしていて⋮﹂
私は特になにも入っていないカバンをごそごそ漁る。お兄様、そ
こに妹の成績表がありますよ!
754
私は時間稼ぎにペンケースの中身をひとつひとつ取り出した。
お兄様!目の前!目の前!
﹁ん?これ、麗華のテストの成績表?﹂
お兄様がやっと気が付いて、成績表を手に取った。
﹁やだぁ∼、お兄様!恥ずかしいから見ないで∼﹂
あっ、カバンが邪魔でお兄様が成績表を開くのを阻止できないわ。
こまるぅ∼。
﹁へえっ!麗華、今回のテスト29位じゃないか。凄い、よく頑張
ったね!﹂
﹁え∼っ、そんなこともないけどぉ∼﹂
﹁29位だと高等科では名前が貼り出されただろう。凄い凄い。こ
れは頑張ったご褒美になにかプレゼントしないといけないかな﹂
﹁えぇっ、29位なんてたいしたことないからいいのに∼﹂
﹁そんなことないよ。麗華の努力の賜物だよ﹂
そう言ってお兄様が優しく笑いながら私の頭を撫でてくれた。
お兄様∼っ!!
今回のテスト、私本当によく頑張ったんだよ。誰も気づいてくれ
なかったけどさぁ。
⋮はぁ、やっと私、報われた。
市之倉さんにテスト終了祝いのお食事に連れて行ってもらった。
755
今回は麻央ちゃんは欠席だ。料理は市之倉さんお薦めのイタリアン。
イタリアンといっても気取ったリストランテではなくトラットリア
だった。
お店に入った瞬間に、炒めたニンニクの匂いがしておなかが空い
た。
パスタは私はボロネーゼで市之倉さんがペスカトーレをチョイス。
ピザはマルゲリータ。
﹁ブルスケッタも食べるでしょ﹂
﹁そうですね﹂
﹁ほかにはサラダかな。麗華さん、サラダはなにが好き?﹂
﹁私はカプレーゼが好きですわ﹂
﹁じゃあそれにしよう。あ、でもそしたらトマト尽くしになっちゃ
うな。僕パスタを変更するよ。なににしようかなぁ⋮﹂
最初、市之倉さんと食事をする時は小食キャラを守るべきか悩ん
だけれど、釜飯の時点ですっかり化けの皮が剥がれてしまったので、
今では遠慮なくガンガン食べている。
市之倉さんもよく食べる人なので一緒に食事をするのは楽しい。
テーブルには次々に料理の皿が並べられ、ちょっとした大食い選
手権気分だ。さぁ!じゃんじゃん持ってきて!
ボロネーゼおいしーい!この平べったいパスタが最高だね!マル
ゲリータもチーズが伸び∼る!イタリアンのトマト料理はどうして
こんなにおいしいのかな?それにトマトには脂肪燃焼効果もあるん
だって。食べても太らない食物なんて素敵すぎるね!
さすがにこれだけ食べるとおなかいっぱいだ。デザートはティラ
ミスでお願いします。
市之倉さんに中間テストの結果はどうだったか聞かれたので、そ
こそこだったと謙遜しておいた。
756
﹁麻央の話だと、麗華さんはずいぶん優秀らしいよね?﹂
﹁そんなことありませんわ。麻央ちゃんたら買い被りすぎなんです
もの﹂
﹁今度麻央に勉強教えてあげて﹂
んふふ、まかせてください。この中間テスト29位の私には、初
等科の勉強など楽勝ですわ。
帰りに市之倉さんがお土産にスイーツを買って、今日来られなか
った麻央ちゃんに届けるというので、そのぶんだけは私に支払わせ
てもらえるよう頼んだ。毎回ご馳走になっているから、せめてこれ
くらいは出させて欲しい。私、相当食べてるしね⋮。
固辞する市之倉さんを押し切って私が支払いをする時に、レジの
近くにアマレッティが置いてあるのを発見したので、自分用のお土
産にそれも買う。明日食∼べよう。
﹁スイーツ、ありがとう。麻央に麗華さんからだよって渡すね﹂
﹁こちらこそ、いつもご馳走していだたいてありがとうございます。
今日もとってもおいしかったですわ。特にカプレーゼは私が今まで
食べた中でも3本の指に入りますわね﹂
﹁そう?気に入ってもらえて良かった。あの店はトマトにこだわり
があるんだ﹂
﹁道理でおいしいはずですわね。でもチーズもおいしかったです﹂
﹁チーズかぁ。なら今度はリゾットの専門店に行かない?ブルーチ
ーズのリゾットがお薦めなんだ﹂
﹁リゾットですか!私大好きですわ﹂
﹁じゃあ決まりだね﹂
市之倉さんとの楽しいお食事から帰ると、お兄様が旅雑誌を読ん
でいた。どこか行くのかな?
757
自分の部屋に戻って、お土産のアマレッティを1個だけ食べた。
おいしい⋮。
廊下で蔓花グループが若葉ちゃんに足を引っ掛けようとしていた
けれど、若葉ちゃんはそれをハードル選手なみの跳躍で次々に跳び
越えていた。
体育の授業では、若葉ちゃんだけバスケットボールがドッジボー
ル状態になっているらしい⋮。
大丈夫かなって少し心配になったけど、若葉ちゃんは今のところ
飄々としているのでなんとかこのまま乗り切って欲しい。
申し訳ないけどピヴォワーヌ会長に目を付けられてしまった若葉
ちゃんを、私は助けてあげることはできないから。
ちっ、他力本願だけど鏑木、あんたなんでなにも動かないんだよ。
運命はどこいった。
758
119
普段のランチは芹香ちゃん達と食べているんだけれど、今日はピ
ヴォワーヌの会長のお声掛かりで、メンバー全員での昼食になった。
﹁ピヴォワーヌの結束を強めるためにも、全員で食事もいいものよ
ね?そもそもランチはピヴォワーヌ専用席で、メンバーと食べるの
が一番良いと思うのよ﹂
会長はご機嫌だ。会長と同じくピヴォワーヌ至上主義のメンバー
達もその言葉に頷いている。
私は出来れば友達と食べたいんだけどなぁ⋮。友達ぼっち村の村
長にはなりなくないし。
しかし長いものには巻かれちゃう私は、どっちつかずの笑顔でお
昼を食べた。鏑木と円城はランチはほぼ毎日専用席で食べているか
ら、人数がいつもより増えようが我関せずで、ふたりでスポーツの
話をしながら食べていた。
﹁やっぱり初等科から瑞鸞で育っている人達といるのは落ち着くわ
ね。高等科ともなると、外部から瑞鸞の校風に馴染まない人もずい
ぶんと混じってきてしまうから﹂
﹁そうだね。瑞鸞の名前を汚すような真似だけはやめてもらいたい
ものだよ﹂
﹁今年の1年生はどう?﹂
﹁まだ入学して日が浅いので問題を起こす外部生はいません﹂
﹁そう。なにかあればピヴォワーヌの名の元に、しっかりと立場を
教えて差し上げて﹂
﹁わかりました。僕達の瑞鸞で好き勝手なことはさせません﹂
759
﹁全く、瑞鸞に憧れるのは結構だけど、身の程を知らずに入学して
きて苦労するのはご自分達なのにねぇ﹂
不穏⋮。
私は基本的にピヴォワーヌでは当たり障りなく笑ってお菓子を食
べているだけだけど、ピヴォワーヌメンバーには選民意識の強い人
が結構多い⋮。ピヴォワーヌのメンバーということに、並々ならぬ
プライドがあるのだ。
ゆえに生徒会ともぶつかっちゃうんだけど。
去年は友柄先輩が生徒会長だったから、上手いことバランスが取
れていたんだけどなぁ⋮。
﹁ところで、2年生には問題行動を起こす外部生がいるけれど⋮﹂
きた。
﹁あぁ、高道とかいう女子生徒だろう﹂
﹁瑞鸞の制服に長靴を履いているのを見た時は、私はショックで目
眩がしましたわ﹂
﹁あれは驚きましたね。常識がないにも程がある⋮﹂
﹁本当だな。よくも外で瑞鸞の恥を晒してくれたものだ。あれが瑞
鸞生だと思われるなど許しがたいよ﹂
﹁この前も廊下で飛び跳ねていたり、とにかくガサツで見ているだ
けで腹立たしいわ﹂
﹁髪も時々はねていたりしない?身だしなみもきちんと出来ないの
かしら﹂
﹁帰りも駅まで走っているのを見たことがあるぞ。瑞鸞の制服を着
て道を走るなど、みっともなくて思わず車を降りて注意しようかと
思ったよ﹂
﹁まぁ、そんなことが⋮。とにかくあまりにも瑞鸞に似つかわしく
760
ない子ですわね。だいたいあの成績だって実力かどうか⋮﹂
﹁鏑木様と円城様を抜くなんて⋮。ありえないのよ⋮﹂
本人達が近くにいるのでさすがにその部分は声を潜めたけれど、
ピヴォワーヌは鏑木、円城に泥を塗ったと言わんばかりに怒ってい
る。だったらどうしろと言うんだ。若葉ちゃんに成績落とせと?特
待生にそんな無茶な。それよりも鏑木と円城に﹁もっとしっかり勉
強して首位キープしろや!﹂って言えばいいのにね。なーんて、言
えるわけがないのはわかってるんだけどね。でもそっちのほうがよ
っぽど建設的でしょ。
それと廊下を飛び跳ねてたってのは、障害物を跳び越えないと転
ばされちゃうからだと思うよ。
長靴履いてたとか髪がはねてたとか道路を走ってたとか、ピヴォ
ワーヌはお姑さんのようだ⋮。
﹁とにかく、あの子は要注意ね。特に2年生のメンバーは彼女に目
を光らせてくださいな。麗華様﹂
﹁⋮えっ!﹂
気配を消していたはずなのに、突然名前を呼ばれてびっくりした。
﹁麗華様もよろしくお願いしますわね。目に余る輩は粛清なさって﹂
粛清⋮。
あまりに怖い単語に、私はひたすら笑ってごまかすしかなかった。
誰か助けてくれないかと探しても、食事を終えた讃良様は自分の
世界に入って本を読んでいるし、同じグループの芙由子様は相変わ
らずおっとり微笑んでいるだけだし、元凶の一端を担っているはず
の鏑木と円城は楽しく別の話をして聞いちゃいないし⋮。
やだよ、粛清なんて。カトリーヌ・ド・メディチじゃあるまいし。
761
若葉ちゃんに毒手袋なんて渡せません⋮。私はあくまでもロココの
女王です。あ、でもロココの女王の大好きなマカロンは、カトリー
ヌ・ド・メディチがフランスに持ち込んだんだっけ。ありがたや、
ありがたや。帰りにマカロンを買って帰りましょう。
気疲れいっぱいのピヴォワーヌランチを終えて教室に戻る道すが
ら、誰かに押し付けられたのか、重そうな提出用ノートを両手に抱
えてよたよた歩く若葉ちゃんがいた。
近くを歩いている子達も、気づいていながら誰も手伝ってあげな
いのか⋮。瑞鸞の紳士教育はどこへいった!
そこへ同志当て馬が走ってきて、横からノートを半分取り上げた。
﹁手伝うよ﹂
﹁え、でも違うクラスだし﹂
﹁いいから。これ職員室?﹂
﹁いえ、準備室のほうで⋮﹂
﹁わかった﹂
同志当て馬はそう言うと、若葉ちゃんを置いてさっさと歩きだし
た。若葉ちゃんはその後を慌てて追いかけていた。
おおっ!同志当て馬はしっかりと、当て馬たる自分の仕事を全う
しているようだ。偉いぞ、同志当て馬。さすがは正義の当て馬だ。
しかしそれを見ていた女子生徒が、﹁なにあれ、男子に媚びちゃ
って﹂と憎々しげに言っていた⋮。
若葉ちゃん、あと約2年、大丈夫かなぁ。
なんだか殺伐とした心持になってしまったので、放課後に癒しを
762
求めてプティに行った。
麻央ちゃんに勉強を教える約束をしているのだ。小2の勉強なん
てさすがに楽勝よ。プティに行くと、麻央ちゃんと悠理君が笑顔で
歓迎してくれる。可愛い。嬉しい。
麻央ちゃん達と宿題だという算数をやる。ふたりが問題を解いて
いる間に、私はカバンからニードルフェルトの材料を出してチクチ
ク刺していた。
﹁それ、なにをやっているんですか?﹂
振り向くと、天使な雪野君が興味深そうに私の手元を見ていた。
﹁これはニードルフェルトといって、こうして専用の針で刺して形
を作っていくものなのですわ﹂
﹁へぇ、面白そう⋮﹂
雪野君がずいぶん興味を持ってくれたので、試しにやってみる?
とフェルトと針を渡してみたら、天使ちゃんは輝く笑顔で頷いた。
雪野君は私の隣に座ると、さっそくフェルトをチクチク刺し始め
た。
﹁最初は丸を作ってみてくださいね﹂
﹁はい﹂
手先が器用なのか、雪野君は少し教えるとどんどん上手に作れる
ようになった。実は男の子のほうが凝り性だから、手芸に向いてい
るのかしら。そういえば今年は手芸部に男子の新入部員が1人入っ
てきたし。あの男子の新入部員は確実に私より手芸のレベルは上だ。
﹁出来た!﹂
763
雪野君が作ったのは、白い楕半円に緑の耳と赤い目の物体。⋮う
さぎ?
﹁これは、うさぎさんかしら?﹂
﹁そうです。雪うさぎ。僕は小さい頃から体が弱いから、雪が降っ
てもあんまり外で遊べないんだけど、そうすると兄様が寝込んでい
る僕に雪うさぎを作って持ってきてくれるんです﹂
﹁まぁ﹂
あの腹黒円城が、そんな可愛いことを!
﹁僕の部屋の窓から見える場所に、兄様とお友達の雅哉兄様が大き
な雪だるまを作ってくれるんですよ。雪だるまは赤いバケツを被っ
ていないとダメだって言って、雅哉兄様がわざわざ小さな赤いバケ
ツを買ってきて被せてました﹂
雅哉兄様って鏑木か!鏑木、雪だるまにもこだわり有りか⋮。
﹁雪野君はお兄様と仲がよろしいのね?﹂
﹁はい﹂
雪野君ははにかんだように笑って、﹁この雪うさぎ、もらっても
いいですか?兄に僕が作ったんだって見せたいんです﹂と言った。
可愛いっ!
なんだかちょっとだけ円城と鏑木を見直してしまった⋮。
764
120
麻央ちゃんの私に対する才色兼備なお姉様像を壊さないためにも、
今日も私は真面目に塾に通って勉強する。
次は目指せ25位だ。小さなことからコツコツと。そしていつか
はあの栄光の⋮。
大いなる野望を胸に問題集を開いていると、梅若君達がやってき
た。
﹁ねぇ吉祥院さん、さっき聞いたんだけど、あのドア側の前から2
番目に座ってる男、瑞鸞生なんだって。知り合い?﹂
﹁えっ﹂
瑞鸞生が同じ塾の同じ講座に通っているなんて初耳だ。目を凝ら
して見てみるけど、見覚えがない。
﹁さぁ⋮。たぶん同じクラスにはなったことはないと思いますけど
⋮﹂
﹁なんだかあっちは吉祥院さんのことを知ってるみたいだよ?﹂
﹁そうですか﹂
﹁ここには今年から通い始めたんだってさ。同じ学校なら話しかけ
てみたら?﹂
﹁そうですねぇ﹂
瑞鸞生だと聞いてしまったからには、一応あとで挨拶だけでもし
ておくべきかな。
先生が来て授業が始まってしまったので、休憩時間にでも声をか
けてみることにした。
765
休憩時間に瑞鸞生だという男子の元に行くと、私の顔を見てあき
らかに怯えた顔をされた。え、なんで。
﹁瑞鸞の生徒だと伺ったんですけど、そうなんですか?﹂
﹁あっ、はいっ⋮﹂
たがき
ちょっと地味で真面目そうな男子の名前は多垣君といって、高等
科からの外部生なんだそうだ。
﹁私は吉祥院麗華と言いますのよ。よろしくお願いしますね﹂
﹁はいっ、もちろん知ってます⋮﹂
多垣君は妙におどおどしている。そんなに怖がらなくてもいいの
に。
﹁多垣君は瑞鸞では何組ですか?どなたと同じクラスなのかしら﹂
﹁えっと⋮僕は円城さんとかと同じクラスで⋮﹂
﹁円城様?﹂
円城と同じクラスということは、若葉ちゃんとも同じクラスとい
うことじゃないか。
﹁では高道さんとも一緒ね。高道さんとは親しいの?﹂
﹁えっ!いや、特には⋮﹂
﹁そう。高道さんってクラスではどんな感じ?お友達はいらっしゃ
るの?﹂
﹁あ⋮一応いるみたいですけど⋮﹂
友達はちゃんといるんだ。良かった、完全孤立じゃなくて。別に
766
学院中から嫌われているわけじゃないもんね。あくまでも一部だし。
ただその一部が厄介なんだけどさ。
聞けば多垣君はひとりでこの塾に通っているそうなので、なにか
わからないことがあったら遠慮なく聞いてねと言って、私は自分の
席に戻った。
﹁瑞鸞生だったでしょ?どうだった?﹂
﹁ええ。でもクラスも違うのでほぼ初対面でしたわ。あちらは私の
ことをご存じのようでしたけど﹂
﹁なに吉祥院さんって学校で有名人なの?﹂
﹁吉祥院さん、目立つもんねー﹂
﹁そんなことはないですけど、私は初等科から瑞鸞なので、外部生
より名前が浸透しているのでしょう﹂
なんとなく多垣君の背中を見ていたら、視線に気づいたのか本人
が振り向いて、目が合った途端すぐに逸らされた。う∼ん、多垣君
の中で私はいったいどんなイメージなんだ⋮。
というメールが届いていた。あり
ガンバ!私は麗華たんの友達だよ!あなた
﹁あれ?吉祥院さん、もしかしてビビられてる?﹂
ほっといてくれ。
帰るとベアたんから
の心の友、ベアトリーチェより
がとう、ベアたん⋮。
雲ひとつない爽やかな朝、登校すると玄関でばったり円城に出会
767
ってしまった。
﹁おはよう、吉祥院さん﹂
﹁おはようございます、円城様﹂
そしてなぜかそのまま一緒に教室までの道のりを歩くはめになっ
た。すれ違う女子生徒達は、円城に見惚れてポーッとなっている。
妬ましい⋮。私はなにもしていないのに、ほぼ初対面の男子に怯え
られ目を逸らされたっていうのに⋮。
﹁どうかした?吉祥院さん﹂
﹁いえなにも﹂
そお?と円城が眩い笑顔を向けてきた。後ろでそれを見ていた女
子達から、きゃあ!という声が上がった。
﹁今朝は鏑木様とご一緒ではありませんの?﹂
﹁別に雅哉と僕は一緒に登校してるわけじゃないから。えっなに、
もしかして吉祥院さん、僕達が毎日仲良く同じ車で登校してるとで
も思ってた?高校生の男達がそれをやってたら、なかなか不気味で
しょ。ただ来る時間帯が同じだからかち合うことはよくあるけど﹂
﹁あら、そうだったんですか?﹂
でも一緒の車で登下校している姿を何度か見かけたぞ。
私の顔から考えていることを察したのか、円城は﹁そういえば確
かに一時期、朝迎えに行ってた時があったね﹂と言った。
﹁あの時は雅哉から目が離せなかった時期だったからねぇ。そうそ
う、あの時は吉祥院さんにもお世話になっちゃって﹂
768
円城がにっこりと笑った。
⋮あの時か。
﹁吉祥院さんの捨て身の励ましで雅哉もなんとか元気になったよ。
あの時はどうもありがとう﹂
﹁どういたしまして⋮﹂
捨て身の励ましってなんだよ。嫌味ったらしい。勝手にひとを失
恋女に仕立てたのはそっちだ!
﹁弟もお世話になっているみたいだね。この前吉祥院さんに習った
とかいうマスコットを持って帰ってきたよ﹂
﹁あぁ雪うさぎですね!﹂
雪野君。こんな腹黒い兄とは似ても似つかない真っ白な天使ちゃ
ん。どうか円城から悪影響を受けずに、このまままっすぐに育って
おくれ。
﹁ニードルフェルトっていうんだってね。吉祥院さんにそんな趣味
があったとは知らなかったよ。弟も楽しかったと喜んでた﹂
﹁そうですか。雪野君に喜んでもらえたら、私も嬉しいですわ﹂
私は雪野君の無垢な笑顔を思い出して、思わず口角があがってし
まった。
﹁あの雪うさぎは円城様との思い出の品だそうですね。鏑木様とふ
たりで雪だるまを作ってもらった話も聞かせてもらいましたわ。円
城様は雪野君をとても可愛がっていらっしゃるのですね﹂
﹁まぁ歳の離れた弟だからね。体も弱いし。吉祥院さんだってお兄
さんにずいぶん可愛がられているそうじゃないか。噂で聞いている
769
よ、吉祥院さんのブラコンぶりは。最近ではそれにファザコン疑惑
なんて話も持ち上がってるけど﹂
狸!
﹁確かに兄とは昔から仲がいいですわね。ファザコン疑惑というの
はいったいどこから出てきたのか、心当たりが全くありませんわ﹂
﹁へぇ、そうなんだ﹂
円城は面白そうに笑った。
女子達の注目の中、円城の教室の前あたりまで来た時に、あぁそ
うかと円城が呟いた。
﹁年の離れた兄君が大好きだから、吉祥院さんは年上の男性が好き
なのかな?﹂
﹁えっ﹂
円城はにやりと笑って教室に入って行った。
⋮⋮怖い。誰のことを言ってんだ。
爽やかな朝がすっかり台無しな気分で自分の教室に向かうと、な
んだかワクワクした目をした野々瀬さんと美波留ちゃんがいた。
﹁やっぱり姫には侍従じゃダメだったのよ。姫には王子!﹂
﹁侍従、応援してたんだけどな﹂
﹁慰めてみる?﹂
なにか楽しい出来事があったようだ。
野々瀬さんと美波留ちゃんは委員長に話しかけに行っていた。委
770
員長は美波留ちゃんと話せて嬉しそうだった。
私は円城と楽しそうになにを話していたのかと、興奮した流寧ち
ゃん達に囲まれた。
771
121
市之倉さんとはすっかり食友になってしまった。とにかく食事の
趣味が合う。ほぼ1週間に1度は一緒にごはんを食べている。この
前は通勤通学前の早朝から築地にお寿司を食べに行ってしまった。
いくら大好き!ただあの日はいつもより早めの朝食だったせいで、
お昼前にはおなかが空いてしまってちょっとつらかった⋮。そんな
市之倉さんとのお食事会の半分以上は麻央ちゃんも一緒だ。時々そ
こに悠理君も交じる。おかげで益々麻央ちゃんとは仲良しだし、悠
里君もすっかり打ち解けてくれた気がする。
麻央ちゃんと悠理君は家同士が仲が良く、幼稚園も同じだったそ
うだ。なんとなく桜ちゃんと秋澤君を思い出した。ただあのふたり
と違う点は、あちらは桜ちゃんが外堀を埋めてぐいぐい一方的に攻
めているのに対して、こちらは悠理君と相思相愛の両思いカップル
に見えるというところか。
﹁麻央、デザートは決まったの?﹂
﹁う∼ん、どちらにしようか迷ってるの﹂
今もふたりは私の前でメニューを仲良く覗きこんでいる。
﹁どれで迷ってるの?﹂
﹁このシフォンケーキに果物のアイス添えか、ブルーベリーのチー
ズケーキタルト﹂
﹁だったら僕が片方頼むから、半分こしよう﹂
﹁うん!ありがとう悠理!﹂
ああ、ほのぼのするわぁ。可愛い彼女の食べたいものを、ふたり
772
で半分こ。なんて微笑ましいんでしょう。
﹁麗華さんもデザートは決まった?﹂
隣の市之倉さんが声をかけてくれた。おっと、可愛いふたりに見
惚れている場合じゃない。私もさっさと決めないと。
苺のタルトは凄くおいしそうだけど、最近の私はティラミスブー
ムなのだ。あちこちのティラミスを食べ比べて、ランキングを決め
ている。
﹁どうしたの?﹂
﹁ティラミスか苺のタルトかで迷っているんです﹂
﹁なんだ。だったら両方食べればいいよ。麗華さんなら大丈夫!﹂
⋮ええ、そうですね。
しかしメイン料理も完食し、ここでさらにデザートをふたつも食
べるというのは、さすがにいかがなものか。いや、本当は食べよう
と思えば食べられると思うけど、年頃の女の子としてどうなのよ。
それに可愛い麻央ちゃんと悠理くんの、麗華お姉様のイメージが
壊れてしまうのも怖い。憧れのお姉様が大食いって、なにか違うと
思うんだ。
﹁いえ、やはり苺のタルトだけにしておきますわ⋮﹂
私は苦渋の決断をした。
﹁せっかくだから食べればいいのに﹂
﹁いえ、苺のタルトだけで﹂
773
ティラミスよ、許せ。
私達は運ばれてきたデザートをおいしくいただいた。市之倉さん
はコーヒーのみだ。
﹁ふふっ、このチーズケーキもおいしいっ。ありがとう、悠理﹂
﹁うん﹂
麻央ちゃんは悠理君と食べたかったデザートを分け合ってご満悦
だ。甘いものを食べると笑顔になっちゃうよねー。
﹁あぁ、こんなに食べたら太っちゃう﹂
麻央ちゃんの言葉に私はドキッとした。
実は私も毎週のように市之倉さん達と食事に行っているからか、
最近ちょっぴり肉付きが怪しくなってきている気がしているのだ⋮。
﹁なに言ってるんだ、麻央。子供がそんなこと気にしてダイエット
なんてしたらダメだぞ。育ち盛りなんだからしっかり食べないと﹂
﹁だって、太りたくないもん。女の子ならみんなそう思いますよね、
麗華お姉様?﹂
﹁えっ!そうね⋮﹂
﹁ほら!麗華お姉様もこう言ってるわ。晴斗兄様は痩せてるからわ
からないのよ﹂
確かに市之倉さんはあれだけ食べているのに痩せている。羨まし
い限りだ。もしや、女子の憧れ、胃下垂の持ち主か?!
市之倉さんはため息をついた。
﹁なんのために痩せたいのかわからないけど、ガリガリに痩せてい
るより、むしろちょっとふっくらしているほうが女の子は絶対に可
774
愛いと思うよ。世の男はみんなそう思ってるよ﹂
﹁え∼、そうかなぁ⋮﹂
え∼、そうかなぁ。
﹁悠理君もそう思うよね?﹂
﹁本当?悠理!﹂
﹁あ⋮僕は⋮麻央は今のままでいいと思う⋮﹂
悠理君は麻央ちゃんの真剣な眼差しに気圧されて若干引きつつも、
模範的な答えを導き出した。
そんな悠理君の言葉に麻央ちゃんはすっかりご機嫌になってシフ
ォンケーキを食べるのを再開した。
﹁麗華さんも、無理なダイエットなんてしちゃダメだよ。それでな
くても麗華さんは痩せているんだから﹂
えっ、私痩せてる?!なんだじゃあ、このおなか周りは気のせい
かな⋮。
﹁そういえば、雪野君に麗華お姉様と一緒にお食事に行ってるって
話をしたら、楽しそうでいいなって言ってましたわ﹂
﹁えっ、雪野君が?!﹂
﹁雪野君、この前麗華お姉様に教わった手芸に興味を持ったんです
って。また教えてくださいって麗華お姉様に伝えて欲しいって言わ
れました﹂
﹁まぁ⋮!﹂
もしかしたら私に天使な弟子が出来るかも?!あー、でもその天
使の後ろには、関わりたくない腹黒兄貴がいるんだっけ⋮。どうし
775
ようかなぁ。
とりあえず今は目の前の苺のタルトを片付けましょう。
お店を出て4人で歩いていると、前を歩く市之倉さんの肩にキラ
ッと光るものがあった。それを手に取ってみると、銀色の毛⋮?
﹁どうかした?﹂
﹁いえ、市之倉様の肩にこれが付いていたものですから﹂
﹁なに?あぁそれ、もしかしたらうちの猫の毛かな﹂
﹁猫?市之倉様の家では猫を飼ってらっしゃるのですか?﹂
﹁うん﹂
﹁ちなみに猫の種類は?﹂
﹁ヒマラヤンだよ。名前はアリスっていうんだ﹂
﹁ヒマラヤン⋮﹂
⋮⋮長毛種だな。
私はどこぞの誰かを思い出した⋮。
﹁麗華様、麗華様﹂と、麻央ちゃんが小声で私の袖を引っ張った。
﹁晴斗兄様の家の猫は、ちょっとおでぶさんなんですよ﹂
私に内緒話をするようにそう言って、麻央ちゃんは手で口を隠し
て笑った。
﹁麻央、聞こえてるよ﹂
市之倉さんは振り返ると、冗談めかして麻央ちゃんを睨んだ。
776
﹁ふふふっ、だって本当のことだも∼ん﹂
﹁アリスはでぶじゃない。毛が長いから太って見えるだけなの﹂
麻央ちゃんは私に向かって、絶対に違うとばかりに首を横に振っ
た。だがしかし、私にはそれよりも、市之倉さんがどれくらい飼い
猫を愛しているかのほうが気になる。今の私は犬バカだけで手いっ
ぱいなのだ。
幸いなことに市之倉さんのアリスちゃん愛は極々普通の飼い主レ
私アリス、仲良くし
なんてメールがきたら、さす
ベルであった。良かった⋮。市之倉さんから
てね!今日はハルたんとおねむなの
がに受け止めきれないと思うから。
若葉ちゃんの敵は鏑木、円城ファンの女子生徒だけではない。男
子の一部、特に若葉ちゃんと同じく高等科から入学してきた外部生
の男子が、成績優秀な若葉ちゃんに嫉妬して目の敵にしているらし
い。優秀だとそれを妬む人間も増えて大変だな⋮。
でも多垣君の言っていた通り、若葉ちゃんには女子の友達もいる
ようだから大丈夫そうだな。時々悪口を言われたりしているけど、
毎日元気に学院に通ってきているし、このまま平穏無事に毎日が過
ぎればいいな。
││などと考えていた私が甘かった。
ある日、ピヴォワーヌ会長が3年の取り巻きを引き連れて2年の
階にやってきた。
777
122
それはちょうど、若葉ちゃんが廊下で友達とおしゃべりをしてい
る時だったので、若葉ちゃんはすぐに会長達に発見されてしまった。
﹁高道さん﹂
﹁はい?あっ!﹂
若葉ちゃんは会長達の姿を見て、顔を強張らせた。若葉ちゃんと
一緒にいた子達がそろそろと離れていった。
﹁高道さん、貴女いい加減にしてくださらない?どこまで瑞鸞の名
を貶めれば気が済むの?﹂
﹁え⋮、私がまたなにかしましたか⋮?﹂
若葉ちゃんが恐る恐る尋ねた。その言葉に会長の目が吊り上がっ
た。
﹁なにか、じゃないわ!貴女、今日自転車で登校したそうね。瑞鸞
の生徒が自転車で登校なんて、いったいなにを考えているの?!﹂
廊下で様子を見ていた生徒達がざわめいた。
若葉ちゃん、自転車で登校したのか⋮。
﹁すみません⋮。あの⋮自転車通学は特に校則違反ではないので大
丈夫かなって思って⋮﹂
﹁校則?!自転車で通学する生徒など瑞鸞にはいないから、今まで
は規則にする必要がなかっただけよ!なんてみっともないことをし
778
てくれたの!﹂
﹁すみませんでした⋮﹂
若葉ちゃんは頭を下げた。
周りの生徒達の何人かも自転車で通学したという若葉ちゃんに不
快な表情を浮かべている。私の隣で芹香ちゃん達が﹁自転車⋮?!﹂
と眉をひそめた。
﹁高道さん、貴女まさか毎日自転車で登校していたんじゃないでし
ょうね﹂
﹁違います!ただ今日はたまたま朝から電車が事故で止まってしま
っていて、このままじゃ遅刻しちゃうと思って、だったら自転車で
行こうと⋮⋮。いえ、本当にすみません⋮﹂
家から自転車って、若葉ちゃんの家は学院の近くじゃないよね?
どれだけの距離を自転車漕いで来たんだ?!凄いな若葉ちゃん。っ
て、感心している場合じゃない。
若葉ちゃんは会長に批難され、しゅんとなっていた。
それを見ながら、会長はわざとらしく大きなため息をついた。
﹁高道さん、貴女、入る学校を間違えたようね?自転車で通学なさ
りたければ、ご自宅の近くの公立高校にでも入ればよろしかったの
ではなくて?﹂
﹁申し訳ありませんでした⋮﹂
﹁とにかく、二度とこんなみっともない真似はしないでちょうだい。
貴女の行動には目に余るものがあるわ。これ以上瑞鸞の名に泥を塗
るようなことをするなら、覚悟しておくのね﹂
﹁本当にすみませんでした!﹂
会長の取り巻き達が﹁成績がいいからって天狗になっているんじ
779
ゃないの?﹂﹁立場を弁えなさいよ﹂と口々に文句を言う中、若葉
ちゃんはひたすらぺこぺこと頭を下続けた。確かに瑞鸞で自転車通
学はまずかったけど、なにもそこまで言わなくても⋮。
﹁高道、どうした?!﹂
廊下での騒ぎを聞きつけて、同志当て馬が走ってきた。
﹁あら、貴方はなに?﹂
会長が同志当て馬を睨みつけた。
﹁俺は生徒会役員の水崎です﹂
﹁そんなことはもちろん知っているわよ。その生徒会の役員が何を
しに来たと言っているのよ﹂
﹁学校の問題を解決するのが、生徒会の仕事ですから﹂
同志当て馬が厳しい表情で言い返した。
しかし自分よりもかなり体の大きい同志当て馬を前にしても、会
長は怯むことなく鼻でせせら笑った。
﹁まぁ、ずいぶんと自信がおありになるのねぇ。たかが生徒会の分
際で。調子に乗るのもいい加減になさい!﹂
﹁なっ⋮!﹂
﹁やめてやめて水崎君っ、私が悪かったんだよ。本当にやめて﹂
若葉ちゃんが慌てて同志当て馬の腕を引っ張っり、小声で必死で
止めた。若葉ちゃんとしては、これ以上騒ぎを大きくされるのだけ
は避けたいようだ。
780
﹁すみませんでした。今後一切自転車に乗ってくるようなことはし
ません。今日は本当に申し訳ありませんでした﹂
若葉ちゃんがもう一度しっかり頭を下げると、会長もふんっと鼻
を鳴らして矛を収めた。
﹁二度目はありませんわよ﹂
﹁⋮わかりました﹂
会長は冷たい視線を若葉ちゃんと同志当て馬に向けた後、踵を返
した。そのまま廊下を戻る途中、私の姿を見つけて会長が微笑んだ。
ようこ
﹁まぁ麗華様!ごきげんよう﹂
﹁ごきげんよう、瑤子様﹂
うわっ、見つかっちゃった⋮。
﹁麗華様も野良犬が紛れ込んで大変だと思いますけど、なにかあっ
たら私達にすぐにおっしゃってね﹂
﹁まぁ、ほほほ⋮﹂
野良犬って⋮。
思わず頬が引き攣る。野次馬達の注目を集めて、胃がキリキリし
てきた⋮。同志当て馬、睨むな。
﹁ピヴォワーヌに今日、新しい茶葉が入ったそうなの。放課後はぜ
ひサロンにいらしてね﹂
﹁はい、楽しみにしておりますわ﹂
会長は鷹揚に頷くと3年の教室に戻って行った。
781
会長達の姿が見えなくなると、後に残された生徒達は今の件につ
いて各々騒ぎ始めた。若葉ちゃんは瑞鸞ブランドを驕っている子達
から﹁恥晒し﹂などと詰られていた。若葉ちゃんはその子達にも謝
っていた。
同志当て馬はそんな生徒達から若葉ちゃんを庇い、いったいなに
があったんだと尋ねた。
﹁実は今日、自転車で登校しちゃって⋮﹂
﹁自転車?!なんだってそんなことを﹂
﹁朝電車が止まってて、振り替え輸送でも間に合いそうになかった
の。で、皆勤賞逃したくなくて、つい⋮﹂
﹁⋮皆勤賞は遅延証明もらえば平気だったんじゃないか?﹂
﹁あっ!﹂
若葉ちゃんはがっくりと項垂れた。若葉ちゃん、皆勤賞の代償が
あまりに大きすぎるよ⋮。
その日、若葉ちゃんは人目を憚るようにこっそりと自転車に乗っ
て帰って行った⋮⋮。
ピヴォワーヌの会長の逆鱗に触れたということで、若葉ちゃんへ
の風当たりがてきめんに強くなった。特に聞こえよがしの陰口が酷
かった。
若葉ちゃん、大丈夫かな⋮。平気な顔をしているけど、きっと内
心はつらいに違いない⋮。
そんな時、若葉ちゃんが放課後にひとり、瑞鸞の森に入って行く
のを発見した。
瑞鸞には緑がとても多く、その深い緑は瑞鸞の森と称されている。
782
そんな瑞鸞の森の奥は鬱蒼としていて、汚れるのをを気にして入っ
樹海まんじゅう
が浮かんだ。まさか
て行く生徒も少ないのに、いったい何をしに⋮。
ハッ!と私の頭の中に、
?!
私は慌てて若葉ちゃんの後を追った。早まらないで、若葉ちゃん!
すると若葉ちゃんが庭師さんと一緒にいるのを見つけた。瑞鸞に
は樹木医の資格も持っているという、専任の庭師さんがいる。その
庭師さんと、若葉ちゃんはなにやら袋を片手に楽しそうに話してい
た。あれ?
しばらくすると若葉ちゃんは庭師さんに手を振り、笑顔で元来た
道を帰って行った。
私は若葉ちゃんの姿が見えなくなったのを確認して、庭師さんに
近づいた。もしかしたら若葉ちゃんを止めてくれたのかもしれない
し⋮。
﹁お仕事中に申し訳ありません。今の子は、ここでなにをしていた
のですか?﹂
﹁えっ!﹂
庭師のおじさんが驚いた声をあげて振り向いた。
﹁あぁ驚いた。こんな場所に生徒が来るとは思わなかった。今の子
って、若葉ちゃんかい?山菜摘みに来ただけだよ﹂
﹁⋮山菜?﹂
﹁この森にはいい野草がたくさん生えていてね。それを時々採りに
来てるんだよ。たらの芽、ぜんまい、茗荷、わらびなんかをね﹂
﹁そんなものが生えているんですか?!﹂
知らなかった!瑞鸞に食べ物が生えていたなんて。
783
﹁たくさん生えているよ。みんな興味がないのか気づかないのか、
わざわざ採りに来る生徒は初めてだけどね。去年からよく若葉ちゃ
んが野草図鑑を手にうろうろしてたから、声を掛けてみたら食卓の
彩を探しにって言われてね∼。面白かったからおいしい野草が生え
ている場所を教えてあげるようになったんだ﹂
﹁それは⋮問題にはならないのでしょうか?﹂
﹁所詮は勝手に生えている野草だからね。手入れされている花を採
るのはダメだけど、野草なら学校側も特に文句はないようだよ﹂
﹁まぁ、そうですか﹂
若葉ちゃんに窃盗容疑がかからなくて、ひとまずホッとした。
﹁今日はてんぷらの材料を採りに来たんだってさ。本当は茗荷が一
番の目当てだったらしいけど少し時期が早かったね。茗荷を薬味に
冷奴を食べたかったって言ってたよ。しょうがないから茗荷は来週
もう一度様子を見に来るってさ。キクラゲも探してたなぁ。春雨サ
ラダにして食べたいって﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮いじめを苦にどころか、若葉ちゃん、瑞鸞学院を満喫中。
﹁若葉ちゃんは自分でもハーブやプチ野菜を育ててるから、その栽
培方法なんかもよく聞きに来るんだ。この前はミントが大量繁殖し
て大変なことになったらしいよ。それでミントティーを作ってみた
って、水筒に入れて持ってきてくれたよ。いやぁ面白いねぇ、あの
子は﹂
そう言って庭師のおじさんは笑った。
でも私には心配なことがあった。いくら学校側が黙認していても、
こんなことがピヴォワーヌやアンチ若葉ちゃんの生徒達に知られた
784
ら、益々若葉ちゃんの立場は悪くなるんじゃないかな。野菜も買え
ない貧乏人とか叩かれそう⋮。決して若葉ちゃんの家は貧乏なわけ
じゃないんだけどさ。
﹁あの⋮、彼女が山菜摘みに来るのはいいと思いますけど、出来れ
ばこのことはほかの生徒に聞かれても内緒にしてあげてもらえます
か?問題視する人もいるかもしれませんから⋮﹂
﹁ん?そうかい?まぁもしかしたら良く思わない人間もいるかもし
れないね。じゃあこれはここだけの話にしておこうか。せっかくの
若葉ちゃんの楽しみを台無しにしちゃ可哀想だからね。そういや若
葉ちゃん、冬には寒い中、七草粥を作るからって春の七草を採りに
来てたこともあったなぁ。新鮮でおいしい七草粥が出来たって喜ん
でいたよ、これで一年無病息災ってね。風流だね﹂
﹁七草粥ですか⋮﹂
これを風流だと言っていいのだろうか⋮。新鮮な七草粥を食べる
ために、学校でたくましくも野草を摘む女子生徒⋮。
どうやら若葉ちゃんは私が考えるよりもはるかに図太い根性をし
ているようだ。いや、若葉ちゃんが楽しそうでなによりです⋮。
君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ││
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朝、私は早起きして1時間以上も前に登校した。
人気のない廊下を歩いて、若葉ちゃんのクラスを覗く。よし、誰
もいないな。
私は事前に調べておいた若葉ちゃんの机に、そっと手紙を忍ばせ
た。そして見つからないうちにダッシュ!
誰もいない自分の教室に戻ると、やり遂げた感が湧き上がった。
任務完了だ。
あの手紙には瑞鸞で生活する上での注意事項が書いてある。サロ
ンでも話題になっていた学院外を制服で全力疾走しないとか、廊下
もなるべく走らないとか、制服を着て電車で熟睡しないとか。それ
以外にも長靴NG、合羽NG、扇子はいいけど団扇はNG,イヤー
マフNGとか、思いつく限り書いた。さすがに合羽を着て登校する
女子学生なんて都会にいないだろうと思いつつも、いや長靴を履い
てきた若葉ちゃんなら傘も差せない台風の時などにやりかねないと
念のため書いておいた。
ピヴォワーヌへの注意事項もしっかり書いた。むしろこれが一番
重要だし。ピヴォワーヌ専用席には近づかない、メンバーが前から
歩いてきたら道を開けて、特に上級生なら通り過ぎるのを会釈して
待つといった基本から、食堂のメニューでの会長の好物を数点挙げ、
これには手を出さないほうがいいといったプチ情報まで書いた。そ
れから中、高等科のピヴォワーヌメンバーの名前を全員書いた。赤
い小さな牡丹バッチだけじゃ、気づかない場合もあるかもしれない
ので。プティメンバーの名前は私も全員把握していないので無し。
プティはサロンも別だから若葉ちゃんに影響もあまりないだろうし
ね。ただ初等科の子供だからと侮るべからず。中、高等科に兄妹が
いる場合有りと付け足しておいた。特に1年生の円城雪野君には決
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して関わってはいけない、と。これは初等科における、最重要注意
事項だ。
ほかには比較的頼りになる先生の名前とか、逆に完全にピヴォワ
ーヌ寄りの先生の名前を書いておいた。
それから、瑞鸞の植物などを採取する場合や入り込んだ猫に餌を
山菜摘みする時には気をつけて!
なんて書
やったりする場合には、必ず周りに人がいないことを確認すること、
と書いた。いきなり
いたらこの手紙の主が私だって特定されちゃうのでさりげなく。
そう、この手紙はもちろん匿名だ。筆跡でバレないように封筒の
宛名も手紙も直筆を避けた。指紋も付けないように手袋をしたほう
がいいかなとも思ったけれど、いくらなんでもそこまでする必要は
ないかと考え直した。別に犯罪ではないし⋮。
我が身が一番可愛い私としては、若葉ちゃんを直接庇ってあげる
ことはできないから、こうして手紙でトラブル防止策を授けること
くらいしか出来ない。すまぬ。
最後に保険として、この手紙は誰にも見せないで下さいと書いて
おいた。頼むよ、若葉ちゃん。朝学校に来た途端、﹁この手紙なに
∼﹂とかやらないでね。
1時間以上も前に来てしまったので、手紙を机に入れるという用
が済んだらやることがなにもない。どうしよう⋮。
窓から外を見ると、部活動の早朝練習をしている生徒達の姿があ
った。こんなに朝早くから登校している生徒もいるんだなぁ。
このまま教室にいたら、もしも若葉ちゃんへの手紙を出した子探
しをされた場合に、一番乗りで登校していた私だとバレてしまうの
で、ほかの生徒達が登校するまで、どこか別の場所に移動しようと
思った。サロンでもいいけど、どうしようかな∼。
ふと、あまり行かない図書室に行こうと考えた。次の期末テスト
に向けた密かなる野望のために、今から勉強をするのだ。おお!な
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んという学生の鑑!
図書室では数人の生徒がすでにいて驚いた。私以外に朝から図書
室で勉強をしようと考える人間がいたとは!
私ははじっこの席に座り今日の授業の予習を始めた。静かな図書
室での勉強は誘惑の多い自室での勉強よりもはかどった。これはい
いかもしれない。今度から図書室で勉強をしようかな。
集中して勉強をしていたらあっという間に時間が過ぎて、生徒達
もだいぶ登校してきた頃合いなので、私はカバンを持って教室に戻
った。その際に若葉ちゃんの教室の前で若葉ちゃんの様子を偵察し
てみたけれど、若葉ちゃんは特に普段と変わりなく、﹁この手紙な
に∼﹂もやっていなかったので、ひとまずホッとした。
1時間目の授業では早起きのせいで猛烈な睡魔に襲われた。私は
それに抗うことなく、頬杖をついて下を向き、教科書を読んでいる
かの如く姿勢で熟睡した。
この微動だにしない高度なテクニックで、私は授業中の居眠りが
バレたことは今までに一度もない。
その日の放課後はクラス委員の仕事で残ることになってしまった。
プリントの集計が休み時間内に終わらなかったのだ。まぁ今日は手
芸部もないから別にいいんだけどね。
仕事をしながら委員長が声をひそめて、最近の美波留ちゃんとの
恋の進展について語ってきた。
﹁なんだかね、近頃本田さんとよく話せるようになったんだよ。ほ
ら野々瀬さんがうちのクラスにいるから、時々遊びに来てるでしょ。
その時に野々瀬さんと一緒に話しかけてくれるんだ﹂
﹁まぁ、それは良かったですね﹂
﹁へへっ。最初はね、遠足の時に吉祥院さんの代わりに野々瀬さん
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がクラス委員の仕事をしてくれたでしょ。あの時に本田さんも手伝
ってくれていろいろしゃべったんだ。それから仲良くなっちゃって
ね。ほら、本田さんと仲がいい男子がいるって話したでしょ。あれ
も別に好きな人ってわけじゃないみたい。うん、はっきりと聞いた
わけじゃないんだけどね﹂
﹁ほぉ∼﹂
﹁本田さんはまだ円城君に憧れているみたいだしね。でも恋愛感情
とは別みたい。本田さんは、円城君は吉祥院さんとお似合いって言
ってたし﹂
﹁はあっ?!なんですの、それ?!﹂
聞き捨てならない言葉を聞いて、私は思わず大声を出した。
﹁えっ、いや、え∼っと⋮。野々瀬さんは吉祥院さんは鏑木君とお
似合いって言ってたけど、僕は中立って言っておいた﹂
﹁ちょっと!そこははっきりと否定しておいてくれないと!﹂
なんてことだ。私の知らないところで、またおかしな話になって
る!
﹁委員長は私の味方なのではありませんの!﹂
﹁うん、もちろん僕は吉祥院さんの味方になりたいと思ってるよ。
今回、本田さんと仲良くなれたのも、吉祥院さんが遠足でゴールす
るのが遅かったおかげだし。さすがは恋愛の師匠だね!﹂
﹁どういたしまして。ってそんなことよりも、私と鏑木様や円城様
との妙な噂を払拭してくれないと!﹂
﹁う∼ん⋮﹂
﹁委員長!﹂
﹁いやぁ、だって結構この噂話って昔からだし根強いから、それを
消すのって難しいんじゃないかなぁ﹂
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﹁そうなの?!﹂
なぜ?!私はほとんどあのふたりと仲良くした覚えはないのに!!
私はショックで机に突っ伏した。
そんな身に覚えのない勝手な噂でいらぬ敵を作りたくないし、あ
のふたりに知れて、私がふたりに気があるなんて思われるのはなに
より悔しいっ!
それに益々モテなくなったらどうするんだ⋮。
﹁あれ、吉祥院さん、ここだけ髪の巻きかたが反対だよ?﹂
﹁え?﹂
私が机から顔を上げると、委員長が私の後ろ髪をちょこっと引っ
張った。
﹁ほら、この一部分だけ違う﹂
私は合わせ鏡で指摘された部分をチェックした。確かによく見る
と後ろの髪の内側のほんの十数本だけが周りと反対の巻きだった。
﹁なにこれ!﹂
この私の完璧な巻きに瑕疵を発見!
﹁でも内側だから全然気づかないよ。今も見つけたのは偶然だし﹂
私の巻き髪はパーマもかかっているから、その時にうっかりそこ
だけ反対に巻いてしまったのだろうか⋮。
やだ、見えない場所だけどパーマをかけ直してもらいに行こうか
な⋮。今まで気づかなかったことだけど、知ってしまったからには
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気になってしょうがない。
﹁なんだか珍しいものを発見しちゃったから、いいことがありそう﹂
私のもやもやをよそに、委員長が暢気なことを言った。
私の頭は日光東照宮の逆さ柱じゃない!
次の日、私が登校すると委員長がホクホク顔で近寄ってきた。
﹁今日、門の前で本田さんと偶然会って、教室まで授業のこととか
話しながら来れたんだ。師匠のご利益かも!﹂
﹁へー⋮﹂
私は朝から逆さ巻き髪がしっかり隠れているか、鏡で何度もチェ
ックしたっていうのに。
でもなんでこんな内側のほんの一部分だけが、逆さ巻きになっち
ゃってるのかなぁ。
⋮もしかして、完璧な巻きはその瞬間から崩壊の始まりだから、
わざと未完成にしたのか?!これは魔除けの巻き髪なのかもしれん!
﹁その反対の巻き髪って、四つ葉のクローバーみたいだよねぇ﹂
﹁⋮⋮﹂
さすがは乙女委員長、私とは発想が違う⋮。そうか、乙女的発想
では東照宮ではなく四つ葉のクローバーか。
﹁今度、本田さんや野々瀬さん達と、試験が近くなったら一緒に勉
強しようかって話も出たんだよ。僕、昨日その反対の巻き髪見つけ
てラッキーだったなぁ﹂
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﹁良かったわね⋮﹂
まぁ委員長が喜んでくれるなら私も嬉しいよ。好きな人と一緒に
お勉強。乙女にはたまらない、胸キュンシチュエーションだよね。
私も前世から憧れておりますよ。一度もそんな経験ないけどね。
これは魔除けの巻き髪ではなく、幸運の巻き髪です。見つけた人
は幸せになれますよ?
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若葉ちゃんは手紙を読んでくれたらしい。なぜなら私が廊下を歩
いている時に脇によけてお辞儀をしてきたから。
私自身は若葉ちゃんにそういった態度を取られるのは本当は抵抗
があるんだけど、会長達には恭順の姿勢を示しているということで、
これで少しは風当たりが弱まるといいなぁ。
麻央ちゃんから、雪野君が梅雨で体調を崩して初等科を欠席して
いると聞いた。なんてことだ!可哀想に!大丈夫なのかな。体が弱
いって言ってたもんな。﹁麗華お姉さん﹂と私を呼ぶ、あの天使ち
ゃんの可愛い笑顔を思い出して胸が痛む⋮。
サロンに行くと円城がいたので、思わず声を掛けてしまった。
﹁あの、円城様、雪野君が体調を崩して学院をお休みしていると聞
いたのですが⋮﹂
﹁ん?耳が早いね。そうなんだ。喘息の発作で今入院しているんだ
よ﹂
﹁えっ!入院?!﹂
雪野君の病気はそんなに悪いのか?!入院って⋮。ちょっと寝込
んでいるくらいだと思ってたのに、入院⋮。
私は苦しむ雪野君を想像して、顔を歪めた。
﹁あぁ、今回はそんなに大きな発作じゃないから。梅雨の時期には
毎年なるんだ。一応大事を取っての入院﹂
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﹁でも入院するくらいですから、大変なことなのではありませんか
?﹂
﹁そうでもないよ。病院に入院していたほうが、発作を起こした時
に対処が早いからってだけだし。それに弟は今まで何度も入退院を
繰り返しているからね﹂
﹁ええっ!﹂
私は前世も今世も健康体で入院なんてしたことがない。救急車だ
って乗ったことがない。私にとって入院とは人生の一大事だ。
雪野君⋮。
﹁大丈夫だよ。本人は病室で寝ているだけだからずいぶん退屈して
いるみたい。僕も毎日学校帰りに病院に寄ってるんだけど、つまら
ない早く帰りたいって文句言ってるよ﹂
﹁そうですか⋮﹂
たった6歳の子供が、家族と離れてひとりで入院するのはきっと
物凄く寂しくて心細いだろうな⋮。
それに夜の病院ってとっても怖そうだし⋮。雪野君、毎晩泣いて
るんじゃないかな。
﹁円城様!こんなところでのんびりお茶なんて飲んでないで、早く
雪野君の元に行ってあげたほうがよろしいんじゃありませんか?き
っと寂しがっていますわ!﹂
﹁そんなに急かさなくても。あの子はもう入院に慣れてるから平気
だよ﹂
﹁なんて冷たい!﹂
慣れるほど入退院を繰り返しているなんて、小さい子供なのにあ
んまりだ。
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﹁きっと今頃雪野君は、雨の降る窓の外を眺めて、お兄様が来てく
れるのをじっと待っているんですわ。お兄様まだかな、寂しいな、
まだ来てくれないのかな、って⋮。うっ、雪野君っ⋮﹂
窓辺に立って外の景色を見つめる、寂しそうな小さな雪野君の背
中を想像したらっ⋮。
﹁確実にDVDかゲームしていると思うけど﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ははっ、ごめん。心配しなくても今日は雅哉も一緒に病院に行く
から、雅哉が来たらすぐに帰るよ﹂
﹁まぁ、鏑木様も行かれるんですか﹂
お見舞い客が増えれば雪野君も楽しいに違いない。前に鏑木が雪
だるまを作ってくれたって言ってたしな。なにをやっているんだ鏑
木、さっさと来い!雪野君が待っている!
﹁遅いですわね。鏑木様のクラスはいったい何をしているのでしょ
う﹂
私はつい、片足をトントン踏み鳴らしてしまった。
﹁もうすぐ来ると思うけど⋮、ほら、噂をすれば影だよ﹂
鏑木がサロンの扉を開けてやってきた。遅い!
﹁秀介⋮って、お前、なに眉間にシワ寄せてるんだ?﹂
鏑木が円城の隣にいる私に、不思議そうな顔で尋ねた。なにが?
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﹁吉祥院さんは雅哉が早く来ないからイライラしてたんだよ。ね、
吉祥院さん﹂
﹁俺が?なんでだよ。なにか用があったのか?﹂
﹁いえ、なんでもありませんわ。それよりも早く行かないと。面会
時間が過ぎてしまいますわ﹂
﹁は?﹂
いいからさっさと行け!でないと⋮。
﹁鏑木様︱!こちらに座ってお茶をいかがですか?﹂
ほら来た!まんまと会長達に捕まっちゃったじゃないか!座るな
!くつろぐな!
ぐお∼っ!雪野君が待っているのにぃっ!イライラMAX!
隣で円城が苦笑いしている気配がした。
次の日、私は雪野君宛にお見舞いの品を用意した。前世で私が風
邪で寝込んだ時に、お見舞いに従兄がくれた思い出の童話だ。それ
と一緒に雪だるまの絵の描いた可愛いレターセットで手紙も書いて
添えた。
妙な誤解を招かないように、なるべく人のいない時に渡そうと思
ったのだけれど、なかなか円城がひとりになることがないので困っ
た。
そしてやっと放課後に取り巻きから離れて、ひとりで駐車場に向
かうところを捕まえることができた。
﹁円城様!﹂
﹁吉祥院さん?﹂
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霧雨まじりの小雨だったので面倒で傘も差さずに走ってきた私に、
円城が自分の傘を差しかけてくれた。
﹁どうしたの?﹂
﹁これを雪野君に渡してもらえませんか?﹂
私は持っていたリボンでラッピングされた袋を円城に渡した。
﹁これは?﹂
﹁本なんです。入院している雪野君の退屈を紛らわせることが出来
たらと思って﹂
﹁へえ、ありがとう。ちなみになんの本か聞いていい?﹂
﹁シュペッサルトの森の宿屋っていう童話です。私が子供の頃大好
きだった本で﹂
﹁童話?﹂
﹁はい。えっ!もしかして雪野君は童話なんて読まないんですか?
!﹂
しまった!今時の小学1年生はすでに童話なんて卒業しているの
か?!
﹁いや、そんなことはないよ。雪野も本は好きだからきっと喜ぶ。
どうもありがとう﹂
慌てる私を制して、円城が笑顔でお礼を言ってくれた。本当⋮?
﹁それじゃ、これは確かに雪野に渡しておくから﹂
﹁はい。円城様、引き止めてしまって申し訳ありませんでした。私
もう戻りますね。ごきげんよう﹂
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﹁うん、また明日ね。あ、この傘使って﹂
﹁平気ですわ。走ればすぐですから。では!﹂
円城の申し出を断り、私は校舎に向かって走り出した。
あ、若葉ちゃんに走るなって言ってるピヴォワーヌの私が、思い
っ切り走っちゃった⋮。誰も見ていないよね?
二日後、病床の雪野君からの手紙をもらった。
本とお手紙をありがとう。麗華お姉さんがくれた本はとっても面
白くて、よふかしして読んだら夜中に発作起こしてきんきゅう処置
になっちゃった。なんてうそだよ。びっくりした?
僕が一番好きなのは冷たい心臓のお話です。麗華お姉さんはどれ
が一番好きですか?ぼくが退院したら本の感想をいっぱい聞いてく
ださいね。
入院はいつものことだから平気です。この前は雅哉兄様も来てく
れて、ふたりでゲームで遊びました。それから雅哉兄様はゾンビが
出てくる映画のDVDを持ってきてくれたんですけど、ぼくは怖く
てまだ見られません。どうしよう⋮。 雪野
鏑木︱︱︱!!
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円城から雪野君が退院して学院に登校したと聞いたので、さっそ
くプティに会いに行った。
﹁雪野君、退院おめでとう!﹂
﹁麗華お姉さん!﹂
私を天使の笑顔で出迎えてくれた雪野君は、前に会った時よりも
少しやつれて痩せてしまったように見えた。まだ本調子じゃないん
じゃないかな。学校に来て平気なのかな。
そんな私の心配をよそに、雪野君はソファから立ち上がって私の
元に駆け寄ってきた。
﹁あぁっ!立たなくていいから座って雪野君!﹂
﹁え∼、このくらい全然平気ですよ?﹂
﹁ダメダメ、退院したばっかりなんですから。ほら座って﹂
﹁はぁい﹂
雪野君が素直にソファに座ってくれたので、ホッとした。
﹁雪野君は病み上がりなんですから、ムリしてはいけませんわ﹂
﹁ムリなんてしてないですよ?もう大丈夫です﹂
﹁でも⋮﹂
﹁本当に平気ですってば。麗華お姉さん、心配してくれてありがと
う﹂
うっ⋮。ニコッと可愛い笑顔でそこまで言われたら、もうこれ以
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上はなにも言えない。でも本当にムリしないでね?
私の隣で、雪野君は温かい紅茶をおいしそうに飲んだ。
﹁そうだ!お見舞いの本、ありがとうございました。凄く面白かっ
たです﹂
﹁そお?良かったですわ。雪野君のお兄様から雪野君が退屈してい
るって聞いて、なにか退屈しのぎになる物をと考えましたの﹂
﹁うん、面白くって2回も読み返しちゃった﹂
﹁気に入ってくれたなら嬉しいですわ。⋮入院生活は大変でした?﹂
﹁ううん。いつものことだから﹂
﹁いつもって⋮、今まで何回入院したことがあるの?﹂
﹁え∼、覚えてないなぁ⋮、何回だろう?﹂
えっ!覚えていないほど入院しているの?!
﹁小さい頃から大きな発作のたびに入院しているんです。でも同い
年くらいの子達がたくさんいて楽しいですよ?クリスマスには先生
がサンタの格好をして、みんなでクリスマス会をするんです﹂
﹁えっ!クリスマスにも入院してたの?!﹂
﹁はい、一度だけですけど﹂
そんな!子供にとってクリスマスとは一大イベントのはずなのに!
楽しいクリスマスを、家族と離れて病院で過ごさないといけない
なんて⋮。雪野君のようなまだ小さい子供がそんなつらい思いをし
てきているのに、私ときたら暢気にたいした苦労もせず今まで生き
てきちゃって、なんだか罪悪感⋮⋮。
﹁麗華お姉さん、そんな顔しないで。それに入院してても家族も面
会に来てくれて、プレゼントをたくさんもらいました。あと去年は
元気だったからちゃんと家でお祝いできましたよ?﹂
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﹁そうなの。じゃあ去年は家族全員で楽しいクリスマスを過ごせた
のね?﹂
﹁はい。あ、でも兄様はいませんでした﹂
﹁まぁ!せっかく雪野君がいるクリスマスなのに!﹂
円城のヤツ、可愛い弟を放っておいてなにをやっているんだ。き
っとモテる男はクリスマスはデートなんだ。取り巻きの女の子達を
侍らせてハーレムワールドなんだ。なんてヤツだ。許せん。私は毎
年しけたクリスマスなのに。
﹁兄様は雅哉兄様と日本海に行っていました。お土産に蟹を買って
きてくれましたよ。吹雪で海が暗くて荒れていたって言ってました﹂
﹁⋮⋮﹂
⋮⋮あらぬ誤解をしてごめん、円城。あんた、去年は私以上にし
けたクリスマスを過ごしてたんだね⋮。男二人で吹雪の日本海で迎
えるクリスマス。しかもその相方は失恋で再起不能状態。涙なしで
は語れないね⋮⋮。
﹁でも私、雪野君が入退院を繰り返すほど、悪かったとは思っても
みませんでしたわ⋮。治療って大変?﹂
﹁吸入と点滴くらいだから平気ですよ﹂
﹁点滴するんだ⋮﹂
健康が取り柄の私は、点滴なんてしたこともない。腕にずっと針
を刺しっぱなしって怖すぎる⋮。そもそも私は昔から注射が怖いん
だ⋮。
﹁今回はもう腕の血管は使えなかったから、手の甲に刺されちゃい
ました。ほら﹂
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﹁えっ、手の甲?!﹂
そう言って見せてくれた雪野君の手の甲には、赤い痕がポツポツ
あった。点滴を手に刺すなんてあるんだ?!見てるだけで痛いっ!
﹁手はそれほど痛くないですよ。足の甲は痛かったなぁ。あれはも
うヤだ﹂
﹁足?!﹂
足の甲なんて肉がほとんどない場所じゃないか。うおおおっっ!
痛いっ!
もうなんで天使みたいに可愛い雪野君が、そんなつらい目に合わ
なきゃいけないの!
﹁雪野君、私に出来ることがあればなんでも言ってね!﹂
﹁ありがとう!麗華お姉さん﹂
本当だよ?私じゃ力になれないかもしれないけど、頑張ってる雪
野君のためならなんでもするよ?
その後、雪野君が動物が好きだけど喘息だから飼えないという話
をしたので、梅若君から送られてくる何枚ものベアたん画像を見せ
てあげたら、可愛いと大喜びしてくれた。確かにベアたんは飼い主
が手塩にかけてお世話しているだけあって、毛並も艶々で可愛いよ
ね。飼い主はアレだけど⋮。
猫も好きだっていうから、今度市之倉さんにアリスの画像を送っ
てもらおうかな。
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手芸部には今年、南君という手芸の得意な男子の新入部員が入っ
てきた。南君は刺繍の腕前が特に見事で、今年の学園祭のウエディ
ングドレス制作では素晴らしい戦力になると期待されている。
そんな南君が部室に続く廊下で今、同級生らしき男子達にからか
われていた。
﹁南、男のくせに手芸部入ってるんだろ?﹂
﹁お前おかまかよ﹂
﹁編み物とかやっちゃってんの?超ダセー!﹂
おとなしい南君は、げらげら笑われながらもじっと耐えていた。
あ、小突かれた。
﹁おい南、なに作ってんのか見せてみろよ!﹂
﹁やめろよ!﹂
南君がカバンを引っ張られて取り上げられそうになった。これは
いけない。
﹁貴方達、なにをしているの?﹂
私が声をかけると、男子達が一斉にこちらを振り返った。
﹁誰だよ﹂
﹁バカ!2年の吉祥院麗華、さんだ!ピヴォワーヌの!﹂
﹁えっピヴォワーヌ?!﹂
﹁南君は私の手芸部の後輩ですけど、なにかご用かしら?﹂
私がピヴォワーヌのバッチを光らせながら近づくと、南君をから
かっていた男子達が怯んで、南君から離れた。
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﹁えっと⋮﹂
﹁いや、俺達は別に⋮﹂
男子達はお互い顔を見合わせている。
﹁さきほど手芸部をバカにするような発言が聞こえましたけど、気
のせいかしら?﹂
﹁えっ!﹂
全員の顔が引き攣った。
﹁いえ、僕達そんなつもりでは⋮。なあ?﹂
﹁うん﹂
﹁はい⋮﹂
﹁そう?南君は私の部活動の大事な後輩ですの。ですから南君に妙
な真似をしたら、私が敵になると思ってね?﹂
私がにっこり微笑むと、南君をからかっていた男子達はとても良
いお返事をして、走り去っていった。まぁ、廊下は走ってはいけま
せんよ?
﹁あの!吉祥院先輩、ありがとうございました!﹂
南君が私にガバッと頭を下げた。
﹁いいのよ。後輩を守るのは手芸部の先輩として当然のことですも
の。またなにかあったら、いつでもおっしゃってね。さ、手芸部に
参りましょう﹂
﹁はいっ!﹂
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南君が大きく頷いた。
あんなバカ共のせいで、貴重な戦力に逃げられてたまるか。私は
刺繍が出来ないんだ。
南君は両手にカバンを抱え、私の後ろを小走りで追ってきた。
次の日、南君は璃々奈に﹁麗華さんの後輩ならしょうがないから
私が守ってあげるわよ﹂と宣言されたそうだ。
南君、これでもう1年生の間では無敵だね?
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市之倉さんと麻央ちゃんとの食事は相変わらず週1ペース程度で
行っている。
本当に市之倉さんは食べることが大好きなようで、この前は私が
小龍包が食べたいと話したら、﹁僕が一番おいしいと思うお店に連
れて行くよ﹂と、週末に日帰りで台湾に連れて行かれてしまった。
空港からお店に直行して、わんこそばのように次々に出てくる蒸籠
に入った小龍包をひたすら食べた。小龍包を食べるのに、わざわざ
台湾にまで行かなくてもと最初は思ったけれど、来たかいがあった。
確かに今まで食べた中で一番おいしい。あんこ小龍包はなにか違う
と思ったけれど、小さいあんまんを食べたと思えばそれもまた良し。
小龍包のほかにも蒸し餃子やシュウマイをおなかが苦しくなるま
で食べた後は、お土産のお茶を買いに行った。ジャスミン茶と、名
前に釣られて選んだ東方美人と、脂肪分解作用があるという謳い文
句にこれまた釣られてプーアール茶も買った。今日食べたぶんの脂
肪もぜひ分解してもらいたい。食べすぎで胃がはちきれそうだ。
弁髪の子供の絵が描いた可愛い赤い茶器も購入。この小さい茶杯
で飲むと雰囲気が出て楽しいね。
﹁女性に人気のお茶があります﹂と言われたので見たら、お湯を注
ぐとガラス容器の中できれいな花が開く工芸茶だった。迷わず購入。
これは麻央ちゃんにもお土産であげよう。
弾丸ツアーで観光はなにひとつせず、小龍包を食べるだけで帰っ
てきた台湾。市之倉さんの食へのなみなみならぬこだわりを見た。
でも食べるだけといえど、楽しかったなぁ。今度は誰かときちん
とした泊りがけの旅行で行きたい。誘う相手が見当たらないのだけ
が問題⋮。ひとり旅はヤだな。
家で工芸茶をわくわくしながら透明ポットで淹れたら、なんだか
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ちょっと気持ち悪かった。冬虫夏草みたい⋮。麻央ちゃん、ごめん。
毎日雨が鬱陶しいなぁ。
雨だれ
を弾いていた。
そんな少しうんざりとした気分でサロンの扉を開いたら、鏑木が
ピアノでショパンの
サロンにいるメンバーはそれをうっとりと静かに聴いている。鏑
木がサロンでピアノを弾くことは滅多にないけれど、たまに気まぐ
れで弾くとその演奏力が実感される。私も思わず引き込まれて、立
ったまま聴き入ってしまった。鏑木の奏でるピアノに合わせて、知
らず知らずの間に体が揺れていた。
鏑木がピアノを弾き終わると、全員が拍手をして讃えた。もちろ
ん私も。上手いな∼。なんだかさっきまでの雨にうんざりしていた
気分が消えちゃった?もう少し早く来ていれば、最初から聴けたの
に、残念。
雨だれ
が聴けるなら、梅雨もいいものです
﹁鏑木様、素晴らしい演奏でしたわ!﹂
﹁こうして鏑木様の
わね﹂
﹁鏑木様、ほかの曲も弾いてくださいません?﹂
女子生徒達が鏑木とピアノの周りにわらわらと集まった。
私がその様子をぼけっと突っ立って見ていたら、円城がやってき
て﹁せっかくだから吉祥院さん、リクエストしてみたら?﹂と言い
ながら、私の背中を押すようにして輪の中に入れた。
﹁雅哉、吉祥院さんの好きな曲を弾いてあげて﹂
﹁えっ?!﹂
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私は円城の言葉にギョッとなった。こいつ、いきなりなに言って
んだ!私が目を見開いて円城の顔を見ると、﹁雪野のお礼﹂と円城
は小声で言ってきた。は?
その場の全員が私に注目した。鏑木も怪訝な顔で私と円城を見た。
﹁吉祥院さんにはいつもお世話になっているからね。聴きたい曲、
なんでも言っていいよ﹂
﹁おい、誰が弾くと思ってるんだ﹂
﹁ん?雅哉﹂
円城がにっこりと笑った。
鏑木がピアノを弾くのは自分の気が向いた時だけで、例えリクエ
ストをされてもホイホイ弾くような人間じゃないことは、私を含め
メンバーはよく知っている。これで嫌だとか言われたら、私の立場
ないじゃないか!いたたまれないっ!
﹁⋮曲目は?﹂
﹁えっ!﹂
鏑木が私を見据えた。曲目って、まさか本当に弾いてくれるの?!
女子達からまぁ⋮とため息のような呟きがもれた。
﹁え∼っと⋮﹂
どうしよう、どうしよう。リクエスト曲なんて何も考えていなか
ったので、私は目を泳がせながら必死で考えた。あぁっ注目がつら
いっ。
でもどうせならバーン!ガーン!と盛り上がれる曲がいいな。
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﹁では、同じくショパンの
幻想即興曲
を﹂
言ってから、さすがに不意打ちのリクエストでこれは難しすぎる
と撤回しようとしたが、鏑木はつと考えるように上を見上げると、
﹁わかった﹂
と了承した。
えっ?!事前練習もなしに弾けちゃうの?!幻想だよ?!
そんな私の驚きをよそに、鏑木は両手で指をほぐす仕草をすると、
勢いよく鍵盤を叩き始めた。
今日は麻央ちゃんと市之倉さんとのお食事会。いつもは悠理君も
一緒のことが多いのに、今日は来ていなかった。
﹁今日は悠理君は一緒ではないのね?﹂
私がそう聞くと、麻央ちゃんが頬を膨らませて﹁悠理とはケンカ
しました﹂と言った。
﹁ケンカ?いつもあんなに仲が良かったのに﹂
﹁だって、悠理ったら私に、最近太った?って言ったんですよ!太
った?って!酷いと思いません?もう悠理なんて知らないっ!﹂
なんと、悠理君がそんなことを!
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﹁女の子にそんなこと言うなんてサイテーですわ!麗華お姉様もそ
う思うでしょ?﹂
﹁そうね﹂
麻央ちゃんはすっかりおかんむりだ。好きな男の子から太った?
と言われたら、そりゃあ傷つくし怒るだろう。
私達の会話を聞いていた市之倉さんも、﹁麻央は全然太ってない
よ。育ち盛りなんだから気にすることはない。むしろ今のほうがず
っと可愛い﹂と慰めた。
﹁⋮麗華お姉様、私太りました?﹂
﹁そんなことないわよ!麻央ちゃんは可愛いわ﹂
私も一緒になってフォローした。
でも言われてみれば確かに麻央ちゃんは最初に会った時よりも、
ちょっぴり丸くなったような⋮⋮。
﹁ガリガリの女の子なんて可愛くないよ。麻央はいつだって可愛い
から心配しなくて大丈夫﹂
私と市之倉さんの言葉に麻央ちゃんもようやく機嫌を直して、お
いしそうにデザートを食べていた。
太った?か⋮。私は誰にも言われてないけど、大丈夫だろうか⋮
⋮。
でも市之倉さんは男性はガリガリよりぽっちゃりが好きだって言
ってるし⋮、平気だよね?
私も麻央ちゃんとおいしいねと笑いながらデザートを食べた。
810
127 手芸部の丁稚
僕は子供の頃からおばあちゃんの影響で手芸が好きだ。冬になる
と毎年、おばあちゃんと編み物をした。簡単な物はなんでも自分で
作った。それをみんなに見せて褒めてもらえるのも嬉しかった。
特に好きなのが刺繍。複雑な図案を糸だけで無心で仕上げていく
作業は、出来上がった時の充実感がとても大きい。
でもしばらくすると、男が編み物や刺繍をしているのは周りから
バカにされることだと知った。小学校や中学校でもそれでよくから
かわれた。だから僕は中学でも家庭科部には入らなかった。手芸は
家でやればいいんだから。
高校に入っても手芸関係の部活に入部するつもりはなかった。な
のに志望校だった瑞鸞の学園祭を見に行った時、手芸部の展示室の
中央に飾られていたウエディングドレスの見事さに、いっぺんに心
を奪われてしまったんだ。
あのドレスは部員の共同制作だと聞いた。だったら僕も入部した
ら作ることが出来るのかな⋮。
それから必死に受験勉強をしてなんとか瑞鸞に受かることが出来
た。瑞鸞は学校設備が他校とは比べものにならないくらい充実して
いて、僕は圧倒されてしまった。
僕の家も公立校に通う生徒達の中ではわりとお金持ちの部類に入
っていたけど、内部生達はレベルが違った。そしてその中でもピヴ
ォワーヌと呼ばれる人達は桁外れだった。
しかもこのピヴォワーヌという人達は、入学前から話には聞いて
いたけれど、学院の権力者で、サロンと呼ばれる独自の部屋を持ち、
何をやっても許される、敵に回したら絶対にいけないと言われてい
る人達だった。噂では、逆鱗に触れた生徒は退学にまで追い込まれ
811
るとか⋮。怖いな。同じ学年にも10人くらいいるらしい。目を付
けられないようにしないと⋮。
そんな新しい学校生活に四苦八苦しながらも、僕は入学前から憧
れていた手芸部に部活見学に訪れた。
手芸部は予想通り女子部員ばかりで、男子部員は一人もいなかった。
どうしようかな⋮、やっぱりやめておこうかな⋮。
でも最新式の刺繍ミシンに惹かれた。僕は断然手刺繍派だけど、
どんなものか使ってみたい!織機も面白そう!
先輩方から手芸の話を聞く。楽しい。男が手芸部なんてまたバカ
にされるかもしれないけど、入部したいな。
ふと、部室の奥に並べてあるトルソーに目がいった。そのトルソ
ーの向こう側に瑞鸞の制服を着たマネキンが見えた気がした。
好奇心に駆られてトルソーの間から覗きこむと、よく出来た等身
大の縦ロールの女の子の人形がぽつんと置いてあった。と思ったら
生きてた!本物の人間だ!えっ?なんでこんなところにいるの?
その人は僕に気づかず、ずっと下を向いている。よく見ると手に
持った人形に一心不乱に針を刺している。え⋮ブードゥー教の儀式
⋮⋮?
なんだろう、危ない人なのかな⋮。この部、怪しいのかな⋮。
ドキドキして見ていたら、後ろから部長さんに声を掛けられた。
思わず﹁ヒ⋮ッ!﹂と小さな悲鳴をあげてしまった。
﹁どうかしました?﹂
﹁あの⋮、この人は誰なんですか⋮?﹂
部長さんに小声で尋ねると、一瞬目を泳がせてから﹁2年生の手
芸部員ですよ﹂と教えてくれた。そうなんだ⋮。僕はもうひとつの
疑問を恐る恐る尋ねた。
812
﹁あれは、なにをしているんですか⋮?﹂
呪術ですか?
僕達がすぐそばで話しているのに、縦ロール先輩は集中している
のか、全く聞こえていないようで、ひたすら針を刺し続けている。
﹁あぁ、あれはニードルフェルトと言って、最近流行っている手芸
ですよ。羊毛に針を刺して形を作るんです﹂
へぇ、そんなのがあるんだ。知らなかった。
﹁麗華様﹂
麗華様?
部長さんがトルソーをどかして、縦ロール先輩に声を掛けた。
きょとんとした顔で上を向いた先輩は、やっぱり人形のような顔
をしていた。
﹁見学に来た1年生ですわ。麗華様がなさっているニードルフェル
トに興味があるみたいですの﹂
その途端、縦ロール先輩の顔が輝いた。
﹁これはフェルトに針を刺して作る手芸ですわ。簡単で楽しいんで
すのよ?それで今はレッサーパンダを作っているんです。ほら!﹂
そう言って片手で持った作品を僕に向けて見せてくれたけど、二
足歩行のレッサーパンダというよりも、僕にはやっぱりブードゥー
人形に見える⋮⋮。
でも﹁ぜひ入部してくださいね!﹂と笑う先輩は、とても明るく
813
て嬉しそうだったから、思わず僕も笑い返してしまった。
﹁麗華様は一見とっつきにくく見えるかもしれませんけど、話すと
とても優しくて、手芸部が大好きな方ですから、安心してください
ね?﹂
﹁はい﹂
風変りな先輩もいたりして、なんだか自由で楽しそうな部だなと
思った僕は、思い切って手芸部に入部することに決めた。
でもまさかそのちょっと変わった先輩と思ってた人があのピヴォ
ワーヌのメンバーで、しかも2年の実力者だとは、その時は想像す
らしていなかった││。
吉祥院麗華先輩の名前は、入学してしばらくすると1年の間にも
知れ渡った。この学院には何人か特に有名な先輩がいて、一番有名
なのは皇帝と呼ばれる鏑木雅哉先輩だ。初めて見た時には、その威
圧感とカリスマオーラに気圧された。この人には絶対に逆らっては
いけないと思わせる空気があった。凄い、さすが皇帝などと呼ばれ
ている人は僕らとはその存在感がまるで違った。覇王という言葉が
浮かんだ。
その有名な何人かの先輩の中に、吉祥院麗華先輩の名前もあった。
吉祥院家の令嬢で、2年の女子の最大派閥の長で、鏑木先輩が皇帝
なら吉祥院先輩は女帝だと言われていた。
僕はその話を聞いた時、とんでもない人と関わってしまったと震
えあがった。
呪いのブードゥー人形なんて作るわけがない。そんなものに頼ら
なくても、あの先輩は気に入らない人間はその手で簡単に抹殺出来
る力を持っているんだ。
どうしよう。まさか手芸部なんて地味な部にピヴォワーヌの人が
814
いるとは思わなかった。それも女帝。ピヴォワーヌの女子メンバー
は、だいたい部活に入るとしたら華道部とか茶道部あたりにいると
聞いていたのに⋮。
正体を知ってしばらくはビクビクと怯えていたけれど、そんな僕
の怯えをよそに、吉祥院先輩は熱心に部活に通い、楽しそうに手芸
をしていた。先輩はほかの部員達と比べてあきらかに異質な存在だ
とわかるけど、でも不思議と馴染んでいるようにも思えた。
﹁南君は刺繍が上手ですわねぇ。きっと学園祭の展示では大活躍し
ますわね﹂
吉祥院先輩がニコニコと話しかけてくれるので、いつの間にか僕
も普通に返事が出来るようになっていた。僕が学園祭には刺繍のタ
ペストリーを出そうと思っていると話すと、感心して応援してくれ
た。先輩は何を出品する予定なのか聞いてみたら、困った顔で﹁実
は私、手芸は好きですけど得意ではないんですの⋮﹂と教えてくれ
た。﹁一番好きな手芸はなんですか?﹂と聞いたら、やっぱりニー
ドルフェルトだった。ならばそれを作ればいいのでは?と言えば、
貧相に見えませんか?と自信なさげに聞き返された。う∼ん⋮。
﹁だったら貧相に見えないくらい大きくて立派な物を作ればいいじ
ゃありませんか﹂
両手に抱えられるくらいの、と手を広げてジェスチャーをすれば、
先輩はパッと顔を明るくして、﹁私、部長に相談してきますわ!﹂
と飛び跳ねて行った。
⋮⋮なんだ、ピヴォワーヌっていっても、吉祥院先輩は全然怖く
ないじゃないか。
そんな風に思っていた僕だったけど、ある時部活に行く途中で同
815
じクラスの目立つ男子達に、手芸の趣味をからかわれてしまった。
こいつらには手芸部に入部したことを知られて、何度かバカにされ
たりしている。このままエスカレートしていったら、そのうちイジ
メに発展していくのかもしれないと、毎日不安だった。
なんとかやり過ごそうとしたけれど、作りかけのタペストリーの
入ったカバンを奪われそうになって、もうダメだ!と思ったその時
に、突如、吉祥院先輩が現れた。
いつもののんびりと笑って手芸をする先輩とは別人のような態度
で僕のクラスメート達に対峙し、笑顔で恐ろしい忠告をした。クラ
スメート達はピヴォワーヌの大物の登場に泡を食って逃げて行った。
吉祥院先輩に大事な後輩と言ってもらえて、僕は凄く嬉しかった。
それにさっきの先輩は皇帝と同じ王者のオーラを溢れさせていて、
別人のようにかっこ良かった。僕、先輩が卒業するまで、ずっとつ
いて行きます!
部室に着くと、先輩はすっかりいつもの先輩に戻り、新品の男性
用靴下を持って﹁ここに狸の刺繍をしたいから教えて欲しい﹂と言
ってきた。なんで靴下に狸?その疑問に先輩は﹁嘘つき狸への嫌が
らせ﹂と答えてくれた。僕が狸の刺繍を教えてあげると、﹁全部に
付けてやる⋮﹂とぶつぶつ唱えながら先輩は未知の生物の刺繍をし
ていた。雲上人の先輩のセンス、凡人の僕には理解できないみたい
です⋮。
次の日に隣のクラスの古東さんに呼び出された。古東さんといえ
ば、中等科からの外部組だったのに派手に行動して内部生の敵を大
勢作った時に、﹁中途半端な連中に文句を言われる筋合いはない!
学力も財力も私より劣る二流どもが!﹂と返り討ちにして、自分の
派閥を作り上げたという、気が強くて有名な女子だ。怖い。呼び出
される心当たりがない⋮。
816
そんな不安でいっぱいの僕に、古東さんは尊大に顎を上げて、﹁
麗華さんの後輩ならしょうがないから私が守ってあげるわ。貴方を
苛める人間がいたら言いなさい。私が潰してあげるから!﹂と上か
ら目線で宣言してきた。びっくりして理由を聞いたら、なんと吉祥
院先輩の従妹なんだそうだ。仲がいいんだねと言ったら、全然仲良
くないわよ!と怒られた。
吉祥院先輩と古東さん、このふたりの後ろ盾を得てしまったおか
げで、僕をからかっていたクラスメートがすっかり静かになった。
気が強くて我がままなお嬢様だけど、自分の庇護下に置いた人間
はきっちり守る古東さんの周りには、いつも男女混合の仲間がたく
さんいる。たまに僕もそこに交ぜてもらえるようになった。
古東さんに﹁最近麗華さんが太ってきているわね。丁稚、貴女麗
華さんに太ったわよと伝えてちょうだい﹂と命令されたけど、先輩
にそんなこと言えるわけがない!
全力で断ったら、﹁なら私が言ってくる!﹂と教室に乗り込んで
行きそうになったのを、周りの子達が﹁お願いやめてー!﹂と必死
に止めていた。古東さんは﹁だって麗華さんが⋮﹂と口を尖らせた。
古東さん、先輩のことが大好きだよね?
その古東さんから僕は丁稚と嬉しくないあだ名を付けられた。最
初は﹁貴方、南雷太って言うんでしょ。だったら略して見習いね。
今日から見習いと呼ぶわ﹂と言われ、そんなあだ名イヤだと言った
ら、﹁じゃあ見習いだから丁稚﹂とさらにろくでもないあだ名にさ
れた。切ない⋮。でも僕のあだ名が丁稚になってから、声を掛けて
くれる人が増えた気がする。強力な後ろ盾がいるから丁稚でもパシ
リにされることはないし、みんなが僕を覚えてくれる。だったらま
ぁ、丁稚でもいいかな⋮?
新しく出来た情報通の友達からの噂では、吉祥院先輩はあの皇帝
から恋の詩集やピアノ演奏のプレゼントをされ、皇帝の親友の円城
先輩とは相合傘で帰ったりプレゼントをもらったりして、とても華
817
やかな学院生活を送っているらしい。さすがだなー。
窓の外を見ると、先輩らしき人とそのお友達が、鳩の群れに襲わ
れていた。たぶん僕の見間違いだと思う。あの吉祥院先輩が、そん
な目にあうはずがない。
僕ら外部生は、生徒会役員の先輩達から入学当初からよく気にか
けてもらっていて、この前も﹁内部生や特にピヴォワーヌとトラブ
ルになったらすぐに相談してくれ﹂と言われたので、﹁僕には吉祥
院先輩がいるから大丈夫です!﹂と胸を張って答えた。
818
128
期末テストの勉強をしながら夜中小腹が空いたので、ロココの女
王の王朝名の付いたお菓子会社のチョコレート菓子を食べた。薄紫
色のチョコは齧るとパリパリとしておいしい。軽いのでつい手が止
まらなくなっちゃうね。夕食もちゃんと食べたのに。
最近時々思うんだけど、私、満腹中枢がイカれてるんじゃないか
な⋮。市之倉さんとの食事で胃が大きくなっているのかも⋮。
それでも腹が減っては戦が出来ぬ。誰にも気づいてもらえなかっ
たけど、前回のテストで29位になったので、今回もその順位のラ
インは死守したい。お菓子で脳に栄養を行き渡らせながら、ひたす
ら暗記、暗記。
そして暗記は覚えたあと一度寝ると、記憶に保存、定着すると聞
いたのでぐっすりと寝たら、朝になって覚えたことをほとんど忘れ
ていた!どういうこと?!
定着どころかデリートされてしまった暗記を半泣きで一からやり
直す。もうダメだ、赤点だ⋮。あぁ、若葉ちゃんはいったいどんな
勉強法を実践しているんだろう。ぜひ教えてもらいたい。
脳の血行が良ければ暗記もはかどるかもと、お風呂に浸かりなが
ら歴史年表を覚えていたら、のぼせて具合が悪くなった。
頑張れ、私!
そうやって頑張った期末テスト。結果は30位だった。うおおっ
!順位表に首の皮一枚でなんとか繋がってるぅっ!
﹁あらっ!麗華様、30位ですわ!﹂
﹁麗華様、凄いわ!﹂
819
今回は周りの子達が私の順位に気づいてくれた。嬉しいっ!でも
ここで露骨に喜ぶようなことはしない。﹁まぁ本当ね﹂などと言っ
てホホホと笑い、裏で必死になって勉強していたなんて、絶対に悟
らせない余裕の態度を見せる。芹香ちゃん菊乃ちゃんが﹁さすがで
すわ、麗華様!﹂と褒めたたえてくれたので、﹁ありがとう。でも
むしろ前回より順位は下がってしまったのよ?今回はあまり試験勉
強をする時間がなかったから⋮﹂と、誰も気づいてくれなかった前
回のアピールをチラッとしてみた。﹁そうだったんですか?!﹂﹁
30位で下がったなんて、麗華様はやはり違うわ﹂﹁勉強しないで
30位だなんて!﹂と益々高まる称賛の声。嬉しすぎて口角がにや
∼っと上がるのを、慌てて手で隠した。
﹁みなさん、もうおよしになって。私の順位なんてたいしたもので
はありませんわ。それよりもほら、鏑木様達のほうが素晴らしいの
ではなくて?﹂
これ以上は嫌味になると思って、話題を逸らした。
﹁そうですわね!さすがは瑞鸞の皇帝ですわ!﹂
今回の期末テストで、鏑木は見事首位の座に返り咲いた。そして
円城は2位。若葉ちゃんは3位だ。
鏑木と円城が1位2位を獲ったので、前回と違い生徒達の空気が
明るい。見たか!我々の代表の実力!といった感じだ。
若葉ちゃんは順位表を見ながら﹁おおっ!﹂という口をしていた。
若葉ちゃんを良く思っていない子達が﹁所詮まぐれだったのよ﹂と
聞こえよがしに後ろで言っていた。
﹁鏑木様と円城様よ!﹂
820
人垣がモーセの十戒のように割れ、そこをふたりが悠々と歩いて
きた。生徒達が注目する中、鏑木と円城は順位表を確認した。あ、
今一瞬、鏑木の片方の口角がピクッとした。
﹁鏑木様、1位おめでとうございます!﹂
﹁円城様、素晴らしいですわ!﹂
賛美の嵐に、円城はありがとうと微笑み、鏑木は当然の結果だと
いわんばかりの態度で接した。
誰かの﹁高道さんなどに負けるわけがないのよ﹂という言葉に、
鏑木の目が若葉ちゃんの姿をとらえた。そして鏑木はふっと笑うと
若葉ちゃんに近づき、﹁まぁ次は頑張れ﹂と肩を叩いて円城とふた
り、颯爽と順位表から立ち去った。
後に残された若葉ちゃんは、皇帝に声を掛けられ肩まで叩かれた
ことで、いらぬ嫉妬を買っていた⋮。
負けず嫌いの鏑木。あんた今回の試験勉強、相当頑張っただろう。
市之倉さんからテストが終わったお祝いに食事に誘われた。しか
を全く知らなかった麻央ちゃんは、かな
もその時に、紹介したい人がいるという。聞けばどうやら市之倉さ
んの恋人らしい!
晴斗兄様の恋人の存在
りショックを受けていた。プティのサロンに行くと、若干落ち込み
気味で迎えてくれた。今日も麻央ちゃんの隣に悠理君の姿はない。
まだ太った?発言が尾をひいているらしい。
821
﹁私、晴斗兄様に恋人がいたなんて知りませんでしたわ⋮﹂
﹁そうねぇ。私も初めて聞きましたわ﹂
麻央ちゃんからしたら、大好きなお兄様を取られる気分なのかな。
ちょっと寂しそうにしていたので、肩に手を回してポンポンと軽く
叩いた。
私もお兄様が恋人を連れてきたら麻央ちゃんみたいにショックを
受けるのかなぁ⋮。
﹁私、晴斗兄様には麗華お姉様とお付き合いして欲しかったのに⋮﹂
﹁えっ!﹂
それはちょっと⋮。年齢差がありすぎるし。市之倉さんて確か今
26歳でしょ。私と付き合ったら犯罪だよ?
観桜会で初めて会った時には、華奢で折れちゃいそうという殺し
文句にときめいちゃったけど、親しくするうちに段々、食の同志と
いう気持ちのほうが強くなっちゃった。市之倉さんもなんでもおい
しく食べる麗華さんとの食事は楽しいって言ってくれてたし。優し
いし和の空気が癒されるし、お兄様とは違う安心感。彼女がいても、
今の関係が続けられるといいなぁ。だってこんなに食べ物の好みが
合う人、ほかにいないし。
﹁麻央ちゃん、市之倉さんが幸せならいいじゃない?祝福してあげ
ましょう?﹂
﹁⋮はい﹂
麻央ちゃんがちょこんと頷いた。
﹁どんなかたなのかしらねぇ。市之倉さんが選んだかたですもの。
822
きっと素敵なかたね﹂
﹁晴斗兄様と一緒で、おいしいものが大好きなかただと思いますわ
!﹂
立ち直った麻央ちゃんが笑いながら言った。うん、私もそう思う。
きっと市之倉さんとおいしいものを食べ歩きしているんだろう。
﹁晴斗兄様の好きなぽっちゃりさんね、きっと﹂
﹁私もそう思いますわ﹂
あの市之倉さんの恋人だもの、たくさん食べるんだろうなぁ。
﹁週末に会えるのが楽しみですわね﹂
私と麻央ちゃんはにっこり笑って頷き合った。
休日の昼下がり、私と麻央ちゃんの前に現れた市之倉さんの恋人
は、モデルのように華奢で細いひとだった。
はあああああっっっ?!
823
129
﹁彼女は僕の大学時代の同級生で、弓山エリカさん﹂
﹁こんにちは﹂
市之倉さんの隣できれいに微笑む弓山エリカさんは、モデルのよ
うに細かった。いや、ファッション誌で見たことのある、本物のモ
デルさんだった。
﹁エリカ、オーダーは?﹂
﹁私はサラダだけでいいわ。もうすぐ撮影があるから﹂
先にお店に着いて注文をし終えていた私と麻央ちゃんの前には、
料理の乗ったお皿がたくさん並べられていた。
麻央ちゃんは自分の目の前の料理とエリカさんの注文したサラダ
をジッと見比べた。
頼んでしまった物を残すわけにもいかないので、サラダしか食べ
ないエリカさんの前で、私と麻央ちゃんはなんとなく気まずい思い
をしつつも、いつもの要領でカロリー摂取に勤しんだ。
﹁晴斗からふたりの話はいつも聞いていたのよ﹂
エリカさんがニコニコしながら話しかけてきた。
﹁とっても可愛がっている姪っ子ちゃんとそのお友達って。晴斗が
言ってた通り、本当にお人形さんみたいに可愛いふたりね∼!﹂
そう言ってエリカさんは小さく手を叩いてはしゃいだ。
824
﹁でしょ?麻央も麗華さんも妹みたいに可愛いんだ。この子達と一
緒にごはんを食べていると、ストレスも忘れちゃうんだよ﹂
市之倉さんもエリカさんの隣でニコニコと笑って言った。それに
対し﹁晴斗は食道楽だものね∼﹂とエリカさんが返した。
﹁麻央ちゃんの話は前から聞いていたんだけど、最近新しく麗華さ
んていう可愛い女の子と仲良くなったって聞いて、ぜひ会いたくな
っちゃったの﹂
その言葉に私はギョッとした。
﹁あの、恋人のいるかたと頻繁に食事をして申し訳ありませんでし
た。私、なにも存じ上げていなかったものですから⋮。ご不快な思
いをさせていたらお詫びいたしますわ﹂
やばい。もしかして今日会いたいと言ってきたのは、﹁ひとの彼
氏と遊び歩いてるんじゃないわよ﹂って牽制するためか?!正確に
は食べ歩きだけど。あ!この前、日帰りとはいえふたりで台湾に行
っちゃった!朝から出かけて夕方には帰国という、旅行とも呼べな
いような内容だけど。
今の私の立場ってまたもや悪役横恋慕キャラ?!あぁっ!なぜ香
澄様の時に学ばなかった、私!不倫⋮。慰謝料請求⋮。
﹁やだ、誤解しないで!私は全然不愉快な思いなんてしてないんだ
から!むしろ大食いの晴斗に付き合って食べてくれる子がいて、喜
んでいるくらいよ?﹂
エリカさんが両手を振って私の言葉を否定した。⋮本当だろうか。
825
﹁晴斗は知っての通り食道楽でしょう?私もなるべくそれに付き合
ってあげたいとは思ってるんだけど、なかなかそうもいかなくて。
そうしたら最近、麻央ちゃんと麗華さんがそれに付き合ってくれて
るって聞いて、良かったな∼って思ってたの。晴斗もね、たくさん
食べてくれる子と一緒に食事をするのは楽しいって言ってたし﹂
私は曖昧な笑顔で相槌を打った。
﹁エリカは食が細いからね。無理して付き合ってくれなくてもいい
よ。麗華さんも最初に会った時は飲み物しか飲まないで一切食べ物
に手をつけないから心配したんだけど、麻央の誕生日会で会った時
は、凄くおいしそうに食事をしててホッとしたんだ。エリカは元々
食が細いし仕事柄あまり食べられないけど、ふたりは成長期なんだ
からしっかり食べないとダメだよ。あ、デザートはなにがいい?﹂
そう言って市之倉さんが、たらふく食べた私と麻央ちゃんにデザ
ートメニューを見せた││。
ふたりの馴れ初めやらモデルの仕事などの話を聞いたりして、一
応和やかにランチを終えることができた。心配した市之倉さんとの
台湾も﹁日帰りで台湾って疲れたでしょう。小龍包おいしかったよ
うで良かったわ。私も晴斗からお茶をお土産にもらって毎日飲んで
るの﹂と笑ってくれた。
﹁さて、これからどうしようか?今日はエリカもふたりの好きな場
所に付き合うって言ってるし﹂
826
﹁ええ。ショッピングに行かない?私、ふたりに似合う洋服を選ん
であげたいわ。あ、それともほかに何か食べに行く?﹂
私と麻央ちゃんはそっとアイコンタクトをした。
﹁いえ、私はこれで失礼いたしますわ。おふたりのデートのお邪魔
はできませんもの﹂
﹁私も!おなかいっぱいになったからもう帰るわ!﹂
﹁えっ、そんなこと気にしなくていいのに﹂
﹁そうよ、せっかく会えたのにもう解散なんて寂しいわ﹂
私と麻央ちゃんは﹁でもこれ以上は馬に蹴られてしまいますもの
ね﹂﹁そうですよね、麗華お姉様。晴斗兄様こそ遠慮しないで、ど
うぞデートを楽しんできて!﹂ときゃあきゃあ笑い合った。
私達の冷やかしに、市之倉さんとエリカさんは困ったように笑っ
た。
﹁じゃあ、せめて送るよ﹂
﹁平気ですわ。家の車が迎えに来ますから。どうぞお気遣いなく﹂
﹁麗華お姉様、だったら私も乗せて行っていただけますか?﹂
﹁もちろんよ、麻央ちゃん﹂
﹁う∼ん、本当に平気?﹂
平気平気と、私達は機嫌良く頷いた。
エリカさんは﹁また今度絶対に会いましょうね?麻央ちゃん、私
のこともお姉さんって呼んでくれると嬉しいな﹂と言い、麻央ちゃ
んは恥ずかしそうに笑った。
そして私と麻央ちゃんはにっこり笑顔でカップルを見送ると、そ
のまま反対方向へ無言で歩き出した。
827
﹁⋮麻央ちゃん、どこか入りましょうか﹂
﹁⋮はい﹂
私達は手近なカフェに入って、甘いドリンクをオーダーした。
﹁なにあれ!晴斗兄様の彼女、ガリガリじゃない!﹂
麻央ちゃんが先に不満を爆発させた。
﹁モデルさんですからね⋮﹂
﹁信じられない!痩せている子よりぽっちゃりしているほうが可愛
いなんて散々言っておいて、選んだ彼女はガリガリのモデル?!あ
りえないわ!﹂
麻央ちゃんは拳を握りしめた。
私だって信じられない。エリカさんの足、私の二の腕くらい細か
った。エリカさんの足が細すぎるのか、私の二の腕が太すぎるのか
⋮。
﹁⋮サラダしか食べませんでしたわね﹂
市之倉さん、私達には散々ダイエットを否定してきたのに⋮。
﹁そう!私達がたくさん食べているのにひとりだけサラダだけって
!まるで、よく食べるわねってバカにされているみたいに思えたわ
!﹂
うん⋮。
﹁私、晴斗兄様が選ぶ人は、きっと食べることが大好きで、お料理
828
上手なぽっちゃりした人だと思っていました。なのにあの人ったら、
サラダしか食べないダイエッターじゃない!﹂
麻央ちゃんは怒りで頬を赤くした。
私は無言でバナナオレを飲んだ。
﹁⋮⋮私、太りました﹂
﹁えっ!﹂
麻央ちゃんが俯いてボソッと呟いた。
﹁晴斗兄様と麗華お姉様にはああ言われましたけど、やっぱり悠理
に言われたことが気になって⋮。体重計に乗ったら太ってたんです。
でもお母様に言っても全然太って見えない、可愛いって言ってくれ
たから、平気かなって思っちゃったんです⋮﹂
麻央ちゃん、貴女は私ですか?
﹁悠理が正しかったんだ⋮。晴斗兄様なんて大嘘つきよ!﹂
麻央ちゃんが悔しそうな顔をした。
﹁そっか⋮。実は私も、太っちゃったの⋮﹂
﹁麗華お姉様!﹂
麻央ちゃんがハッとした顔で私を見た。
﹁私も薄々気づいていたんですわ、最近体が重いなって。でも現実
から目を背けていました⋮﹂
﹁そんなお姉様!お姉様は全然太って見えませんわ!﹂
829
﹁ううん。私脱いだらラ・フランスなの⋮﹂
﹁⋮⋮!﹂
私と麻央ちゃんはお互いの手を握り合った。
見渡すと、カフェにいるカップル達の彼女は、小さなケーキをフ
ォークで更に小さく小さく切り分けて食べるような、痩せてて可愛
い子達ばかりだった。2個も3個も食べるような子はいない。
アリスの飼い主の甘い言葉に騙されて、気が付けば私、ハンプテ
ィダンプティに変身していました⋮⋮。
家に帰ると浮かれ狸が﹁麗華!麗華の大好きなケーキを買ってき
たから、お父様と一緒に食べよう!﹂と寄ってきたので、ギンッと
睨んで部屋に戻った。
憎い⋮っ。この世のすべての男が憎いっ!嘘つき!嘘つき!嘘つ
き!
世の中の男はみんなぽっちゃりが好きなんて言っておきながら、
最終的に選ぶのは痩せている女の子なんだ!本音と建前を奴らは使
い分けているんだ!
よく食べる子が好きなんて言って本当によく食べたら内心で嗤っ
ているんだ、きっとそうに違いない!
﹁ぬぉぉぉぉぉぉっっ!!!﹂
私はこの高ぶる負の感情のすべてを、ニードルフェルトにぶつけ
た。ザクザクザクザク!
エロイムエッサイム、エロイムエッサイム!
830
﹁うぉぉぉぉぉっ!!!﹂
私の雄叫びが吉祥院家に響き渡った。
すべての嘘つき男どもに呪いあれ!
831
130
││ワタクシ、少々取り乱してしまいました⋮⋮。
もしや私に鉄輪が憑依したのでしょうか。だとしたら恐ろしいこ
とです。
いざなぎ流の扉を開く前に正気に戻れて幸いです。
さて、現実を直視するためには、的確なアドバイザーが必要だ。
私が部屋を出ると、ドアの前になぜかお父様がぬぼ∼っと立って
いた。怖っ。娘の部屋の前で突っ立って、なにやってんの?お父様。
﹁なにかご用でしょうか?お父様﹂
﹁⋮麗華ちゃん、なにかあったのかな?お父様に話してごらん。お
父様、可愛い麗華ちゃんのためならなんだってしてあげるからね?
さぁ!悩みがあるならお父様に!﹂
﹁は?﹂
突然どうした、お父様。ケーキを無視したことがそんなにショッ
クだったか?
よくわからないけど私は忙しいので、申し出はサクッとお断りし
てリビングに向かった。後ろで麗華∼、麗華∼と私を呼ぶ狸の声が
する。やだ、本当に怖い⋮。お父様こそ悩みがあるんじゃないの?
リビングではお母様がお茶を飲んでいた。
﹁麗華さん、部屋では静かになさって。なにやら獣のような声が聞
こえてきましたよ﹂
832
﹁あっ、申し訳ありません﹂
私の魂の叫びが外に漏れていたか。
もしかしてお父様、そのせいで私の様子を窺ってた?だったらご
めん、気にしないで。ちょっと鉄輪っちゃっただけだから。
私はお母様の隣に座った。
﹁ねぇ、お母様、私太ったと思いませんか?﹂
熟考の末、この家で本当のことを言ってくれるのはお母様しかい
ないと私は判断した。お父様は私に甘い上に自分もメタボだから絶
対に太ったなんて言わないし、お兄様も紳士だからきっとはっきり
と言わない。必然的に同じ女性のお母様が一番正直に言ってくれる
と思ったのだ。
お母様は私の言葉に目を見開いた。そしてそのあと、静かに頷い
た。やっぱり!
﹁麗華さんも気が付いたのね⋮﹂
﹁お母様!なぜもっと早く言ってくれなかったのですか!﹂
娘のためを思えば、時には厳しいことを言うのも必要なのでは?!
﹁ごめんなさいね。麗華さん。でもお母様言えなかった⋮﹂
﹁お母様⋮﹂
お母様もデリケートな年頃の娘に、そんなことはなかなか言えな
かったのだろう。
﹁お母様はいつから気が付いていたんですか?﹂
﹁そうねぇ、ここ1、2ヶ月といったところかしら⋮﹂
833
﹁そうでしたか⋮﹂
この前麻央ちゃんリクエストでホテルのランチビュッフェ行っち
ゃったしなぁ。デザート全種類制覇に挑戦!とかバカなことしなき
ゃよかった⋮。
﹁でもね、麗華さん、とってもいいお話があるのよ!﹂
お母様は一転して嬉しそうな表情でそう言うと、私に一通の封筒
を渡してきた。
了解を取って中を見ると、鏑木グループのホテル主催のデトック
スプランのパンフレットだった。
﹁これは⋮﹂
﹁去年一緒に断食に行ったでしょう?今年もお誘いを受けたのよ。
でも今年は断食ではなくて、デトックスなんですって。エステを受
けてマクロビ食を食べて運動するんですって。ね、麗華さん、お母
様と一緒に行きましょう?﹂
﹁お母様⋮﹂
⋮⋮お母様、貴女確信犯ですね?
私が太ってきているのを気づいていたのに黙って泳がせていたの
は、このプランに一緒に行ってもらうためだったんですね?お母様
ひとりで参加するのがイヤだったから!
鬼だ!ここに真の鬼がいた!
﹁お言葉ですが、私の贅肉はこの程度では落ちるとは思えませんわ﹂
己のために娘が肥え太るのを黙って見ていたお母様に腹が立った
ので、わざと突き放してやった。
834
お母様は慌てて縋ってきた。
﹁麗華さん!お願いよ、一緒に行って?去年だってお母様、ひとり
だったらつらくて耐えられなかったもの。ねぇ?お願い、麗華さん
!﹂
﹁イヤです﹂
つーんとそっぽを向いてやった。
﹁鏑木家の奥様にもぜひ麗華さんに一緒に参加して欲しいって、こ
の前パーティーでお会いした時も言われてしまったのよ。だから麗
華さん、貴女も行ってくれるわね?﹂
﹁え∼っ﹂
鏑木のお母さんのご指名なんて聞いたら、益々行きたくないよ。
お母様は太りにくい体質作りだとか自然派料理だとか、パンフレッ
トを持っていろいろ説明してきたけど、私は首を横に振り続けた。
すると私がうんと言わないことに業を煮やしたお母様が、突如態
度を豹変させた。
﹁だったら麗華さん!貴女このままずっと太ったままでいると言う
の!夏なのに!薄着の季節なのに!こんなにたくましいウエストに
なっちゃって!﹂
﹁痛いっ!お母様、痛いですっ!﹂
お母様が私のおなかの鏡餅を両手でぐいぐい引っ張った。痛いっ!
﹁麗華さんには絶対に行ってもらいますからね!拒否は認めません
っ!﹂
835
逆ギレか、お母様?!人は疾しい時に怒ってごまかすと聞いたこ
とがある。お母様はまさに今それを実践していた。
お母様の剣幕に負けた私は、とぼとぼと部屋に戻った。行きたく
ない⋮。
部屋には私の怨念の塊が転がっていたので、供養の意味を込め火
にくべた。
週明けの朝、私が靴箱で靴を履きかえていると、璃々奈が﹁麗華
さん、貴女太りましたわよ!﹂と人差し指をビシッと私に突き出し
て言い放ち、その璃々奈を南君達が速攻で回収していった。朝っぱ
らからなに言ってんだあのバカ、ぶん殴ってやろうか⋮。
夏休みに向けて配るプリントを委員長とともに生徒会室に取りに
行くと、同志当て馬がいた。
そういえば生徒会は夏休み明けに代替わりするんだったなぁ。や
っぱり同志当て馬が生徒会長になるのかなぁ。
﹁吉祥院さん、こっち半分持ってくれる?﹂
﹁は∼い﹂
半分と言いながら、3分の2は委員長が持ってくれた。心は乙女
だけど委員長も紳士だね。
全部持ったかなぁとふたりで確認して生徒会室を出ようとしたら、
同志当て馬に声を掛けられた。
﹁私になにか?﹂
﹁⋮前に、決めつけるようなことを言って悪かった﹂
﹁はい?﹂
836
なんのことでしょう?
﹁友柄先輩からも一方的な決めつけは良くないと怒られた﹂
﹁えっ、友柄先輩?!﹂
なに?友柄先輩の話?!聞きたい!友柄先輩がどうしたの!
﹁この前友柄先輩に会って、吉祥院の話が出た時、そう言われた⋮﹂
え∼っ!同志当て馬、友柄先輩に会ったのー?!ずるい!私も会
いたいっ!
﹁吉祥院も俺になにか言いたいことがあったら言っていいから﹂
﹁水崎君には特にありませんわね﹂
うん。私が知りたいのは友柄先輩の近況だけ。同志に言いたいこ
とはなにもない。しいて言えば副村長としてしっかり働けよという
ことだけだ。副村長たるもの、村長を差し置いて卒村出来ると思う
な!
などと本人には絶対に言えないので、納得できない顔をしていた
同志に当たり障りない退室の挨拶をして部屋を出た。
﹁吉祥院さん、水崎君となにかあったの?﹂
﹁さぁ。よくわかりませんけど⋮。まぁ悪いことではなさそうです
から、よろしいんじゃないかしら﹂
﹁そうなんだ﹂
教室までの道で委員長の、﹁夏休みの補習に本田さん達も参加す
るらしいから、僕も参加しようかと思うんだ﹂という恋の相談に付
837
き合っていると、向こうから歩いてきた岩室君が、﹁師匠、自分が
持ちます!﹂と違うクラスなのにプリントを持ってくれた。そして
﹁師匠、あとで相談が⋮﹂と言われた。岩室君の相談か⋮。夏の日
焼け対策についてだな、きっと。
教室前の廊下では、美波留ちゃんと野々瀬さんが楽しそうにはし
ゃいでいて、それを見た委員長が乙女になっていた。
傭兵
って戦記かしら?
美波留ちゃんと野々瀬さんはファンタジーが好きなのか、時々そ
んな話が聞こえてくるな。
838
131
麻央ちゃんはあれからすぐに悠理君と仲直りし、今では元通りラ
ブラブに戻っている。羨ましい。可愛い麻央ちゃんには恋愛ぼっち
村とは無縁な生活を送ってもらいたいものだ。
その麻央ちゃんと私はあの日以来、共通の敵と共通の悩みを持つ
もの同士、急速に絆を深めた。
麻央ちゃんは市之倉さんに対し、﹁もう晴斗兄様とは一緒に食事
に行かない!﹂と怒り心頭で、私もその言葉には同意した。だって
恋人のエリカさんに悪いしね。麻央ちゃんは﹁晴斗兄様の食べ歩き
の趣味にはエリカさんが付き合えばいいのよ。だって彼女なんだか
ら。そして太っちゃえ⋮﹂と悪い顔でくくくっと笑った。やめてー
!可愛い麻央ちゃんの黒い笑顔やめてー!あどけない麻央ちゃんに
戻ってー!
しかしそのあと麻央ちゃんが少し不安そうな顔をして、﹁晴斗兄
様がいなくても、麗華お姉様、私と一緒に出掛けてくれますか?﹂
と尋ねてきたので、あまりの可愛さにぎゅっと抱きしめてしまった。
なんて可愛い私の妹!
あまりに可愛いので、夏休みに我が家へ遊びに来てもらう約束ま
で取りつけた。夏休みはふたりでたくさん遊ぼうねー。あ、もちろ
ん悠理君も一緒ね。
市之倉さんは、突然溺愛する姪から嫌われたことにかなりの衝撃
を受けたらしく、私に大慌てで連絡してきた。
﹁麻央がもう一緒にごはん食べないって怒ってるんだけど⋮﹂
﹁あらぁ﹂
﹁どうしたらいいかな。麗華さん、麻央を説得してくれないか?﹂
﹁申し訳ありませんけど私は市之倉様よりも麻央ちゃんが大事です
839
から、麻央ちゃんの味方になりますわ﹂
﹁麗華さん⋮﹂
﹁大丈夫ですわ。ほとぼりが冷めれば麻央ちゃんも許してくれます
わよ。麻央ちゃんは市之倉様が大好きですからね﹂
﹁そうかな⋮。麻央に会いに行ったら、晴斗兄様はお母様の弟だか
ら今日から叔父さんと呼ぶ!って言われちゃって、僕もうショック
で⋮﹂
市之倉さんの精神的ダメージが、電話の声からひしひしと伝わっ
てきた。26歳で叔父さんって呼ばれるのはなかなかきついだろう
なぁ。しかし乙女心を傷つけた罪だ、甘んじて受けるがよい。うけ
けけけ。
今日は麻央ちゃんがピヴォワーヌのサロンに行ってみたいと言っ
たので、悠理君と一緒に連れて行くことにした。途中で﹁やっぱり
お邪魔じゃないかしら。ほかの方々から迷惑だと思われないかしら
⋮﹂と麻央ちゃんが心配し始めた。
﹁平気ですわ。同じピヴォワーヌのメンバーなのですから。それに
前にも来たことがありませんでした?﹂
﹁そうですけど⋮﹂
確か前に一度お誕生日パーティーのお誘いをしに、わざわざピヴ
ォワーヌへ会いに来てくれたことがあったはず。その時だって誰に
も咎められなかったんだから大丈夫大丈夫。
果たして可愛い麻央ちゃんと悠理君はしっかり歓迎された。
﹁まぁ!可愛らしい!プティの子達ね?私はピヴォワーヌの現会長
840
の沖島瑤子ですわ。どうぞよろしく﹂
﹁はいっ、よろしくお願いいたします!﹂
﹁本当に可愛いわねぇ﹂
会長に気に入られたので、この学院における麻央ちゃん達の明る
い前途は約束された。
私達が小さなお客様をもてなしていると、鏑木と円城がサロンに
やってきた。ふたりはサロンに子供がいたので、あれっ?という顔
をした。そして麻央ちゃんは、かの有名な皇帝達が現れたことに動
揺してしまった。
すると円城がそんな麻央ちゃんの気持ちを読み取ったのか、優し
く微笑みながら話しかけてきた。
﹁こんにちは。プティの子達かな?﹂
﹁はいっ﹂
﹁じゃあ僕の弟は知っているかな?円城雪野というんだけど﹂
﹁はい!雪野君とはプティでよくおしゃべりをしています!﹂
﹁そう。仲良くしてくれてありがとう。これからも弟のことよろし
くね?﹂
﹁はいっ!﹂
﹁雪野はプティではどんな様子かな﹂
﹁えっと⋮﹂
円城のキラキラ笑顔に麻央ちゃんは顔が真っ赤だ。鏑木も﹁へぇ、
雪野の友達?﹂と珍しく気安く声を掛け、﹁雪野に迷惑をかけられ
たら、いつでも言いに来い﹂と麻央ちゃんの肩を軽く叩いた。麻央
ちゃん完全に茹でダコ状態。このままじゃ耳からプシューッと湯気
を出すんじゃないか?
隣の悠理君はそんな麻央ちゃんの態度に、少し面白くなさそうな
顔をしていた。可愛いーー!
841
円城に、顔を赤くしながらも一生懸命に雪野君の初等科での様子
を伝えている麻央ちゃんは、隣の悠理君の不機嫌に全く気づいてい
ないけれど、鏑木がそれに目敏く気づいてしまった。
﹁なんだお前、妬いてるのか?﹂
悠理君は内心を直球で言い当てられてギョッとした顔をした。鏑
木!デリカシー!
﹁なんだよお前ー、しっかりしろよー!秀介なんかに取られてるん
じゃねーよ!﹂
そう言って鏑木が楽しそうに悠理君の頭をがしがし撫でた。鏑木
!力加減!
悠理君は髪をぐしゃぐしゃにされながら、﹁そんなんじゃないで
す!﹂と必死に抵抗していた。
﹁よし!俺がお前の恋の悩みを聞いてやろう﹂
そう言うと、鏑木は悠理君を強引に引っ張って端のソファーに連
れて行った。ちょっと鏑木!悠理君に余計なこと吹き込まないでよ
ね!だいたい麻央ちゃんと両思いの悠理君は、現時点であんたより
恋愛ステージは上だ!鏑木こそ教えを請え!若葉ちゃんとまるで進
展がないってどういうことだ!
心配した私が必死で聞き耳をたてていると、案の定鏑木は恋の相
談役として全くの役立たずだったようで、すぐにサッカーの話題に
変わっていた。良かった⋮。悠理君に悪影響が出たら大変だもの。
麻央ちゃんは隣に悠理君がいないことにやっと気づき、慌てて悠
理君の元に駆け寄った。悠理君がいなくなって不安になっちゃった
のかな?
842
子犬のワルツ
を弾きだした。それにまた麻央
鏑木はそんな小さなラブラブカップルを面白そうに眺め、興が乗
ったのかピアノで
ちゃんが感動してはしゃぐので、悠理君の口がへの字になってしま
った││。
その日鏑木は麻央ちゃんのリクエストに応え、次々にピアノを演
奏してくれたので、麻央ちゃんは女子メンバー達から帰りに、﹁ぜ
ひまたいらして!﹂と懇願されていた。
帰り道、麻央ちゃんは胸に手を当て、﹁夢のような時間でした⋮﹂
とうっとりしていたけれど、私はいつもそばにいて麻央ちゃんを守
り、しかも嘘をつかない悠理君のほうがよっぽど素敵だと思うぞ。
しかし楽器っていうのは強いな∼。ディーテがモテるという噂は
聞かないけれど⋮。
そして、麻央ちゃん達がピヴォワーヌのサロンに遊びに行ったと
いう話を知った雪野君が少し拗ねていると、次の日苦笑交じりの円
城から聞かされた。雪野君、ごめんね!
家に帰るとお兄様に突然﹁水族館と動物園、どっちがいい?﹂と
聞かれたので、よくわからないけど夏だし﹁水族館﹂と答えておい
た。
﹁今回はあまりダメージ受けていないから日帰りかなぁ⋮﹂って、
だからなんのこと?
でも忙しいお兄様が私を水族館に連れて行ってくれるのかな?だ
ったら嬉しい!そうだ!麻央ちゃんも誘おう!お兄様ポジションを
取られたら、市之倉さんがまたショックを受けそうだけど。うけけ
けけ。
843
132
もうすぐ夏休みだ。去年は芹香ちゃん達と軽井沢の別荘に遊びに
行ったなぁ。今年もみんなで旅行に行く予定はあるのかしら?
期待いっぱいで聞いたけれど、返事は芳しくなかった。私を含め、
みんな予定が詰まっているので、上手くスケジュール調整が出来な
さそうなのだ。残念。泊りがけの旅行じゃなくていいから、どこか
に遊びに行ったり集まっておしゃべりしたりしようよ∼。
私達のグループも高等科にまで上がると、結構な大所帯になって
しまったので、グループ内でもさらに、気の合う子同士が数人の小
さなグループを形成している。私といつも一緒にいてくれるのは芹
香ちゃん、菊乃ちゃんにあやめちゃんや流寧ちゃんなどだ。
夏休み∼、遊びたい∼、という空気を出しまくったら、その芹香
ちゃん達がスケジュール調整を考えてみると言ってくれた。やった!
桜ちゃんや葵ちゃんとも夏休みに会えるといいな。
ウキウキ気分で手芸部に行けば、夏休みにも学園祭で展示するウ
エディングドレス制作のために、部員が登校する日があるそうだ。
去年は手芸部員︵仮︶だったので呼ばれなかったけれど、今年は正
式部員なのでもちろん私も参加する。刺繍もミシンも苦手なのでド
レス制作ではすでに戦力外通告を受けているが、だからといって不
参加では正式部員の名が廃る。ドレス作りにあたり、みなさんが落
とす端切れや糸くずをこまめに掃除しようじゃないか。その合間に
自分の出品物制作をしよう。南君のアドバイスに従って、私は大き
くてなるべくリアルなニードルフェルトを作ることにしたのだ。私
の実力では今のうちから手を付けておかないと間に合わない。まず
はなにを題材にするかも早く決めないと。
844
最初はテディベアにしようかと思ったんだけど、テディベアのぬ
いぐるみを作る部員がほかにもいて、その子のほうが私よりはるか
に実力が上なので比べられることを恐れて断念。でも可愛い動物が
いいよなぁ。あとはうさぎとか∼、犬とか∼、猫とか∼。でも小さ
いと見栄えが悪いし⋮。あ、条件にぴったり合う素材があった。
私の心の友、ベアトリーチェだ。
さっそく塾で梅若君にベアトリーチェをモデルに使いたいとお願
いしたら、一も二もなく快諾してもらえた。
﹁ベアトリーチェのぬいぐるみかぁ。素晴らしい発想だよ、吉祥院
さん!﹂
﹁そお?﹂
﹁うん!あの子の愛らしさをぬいぐるみにして永遠に留めたいって、
その気持ちは凄くよくわかるなぁ。ベアたんの可愛さは世界一だか
らね!しかし困ったなぁ、これで瑞鸞にもベアたんファンが増えち
ゃうかも?!﹂
梅若君の犬バカが暴走し始めた。やっぱりほかのひとに頼むか動
物園に行くべきだっただろうか⋮。万が一ブサイクな仕上がりにな
ったら、大変なことになりそうだ。3割増し美化して作ろう。
﹁それでですね、梅若君。モデルを引き受けてもらうにあたって、
ベアトリーチェのサイズと全体写真と部分写真が欲しいのですが、
今度持ってきていただけますか?﹂
﹁サイズ?ベアトリーチェの体長は32センチだよ。体重は⋮、ダ
メダメ!女の子だから秘密ね!バラしたらベアたんに怒られちゃう
から!﹂
845
﹁ええ⋮﹂
頭に花を咲かせた言動はとりあえずスルーした。しかし32セン
チか。案外小さいな。だったら等身大で作れるかも?!
﹁体重はよろしいですけど、胴回りとか細かいサイズはお願いでき
ますか?出来れば等身大で作りたいので﹂
﹁えっ!そうなの?!等身大のベアたんぬいぐるみかぁ。完成した
らめちゃくちゃ可愛いだろうなぁ。あ!だったらさ、吉祥院さん直
接測れば?自分で好きなところを測ったほうがわかりやすくない?
それに本物に会った方がイメージがわくと思うし﹂
﹁いいんですか?!﹂
﹁うん。今度公園かどこかで会う機会を設けるよ。それでどう?﹂
﹁ぜひ!﹂
写真だけを見本に作るよりも、本物に直に会って触れ合ったほう
が絶対に作りやすい!欲しいパーツの写真も自分で撮れるし!
﹁ではいつにしましょうか。梅若君のスケジュールに合わせますわ。
場所と時間を指定してくれれば、私がそこに出向きます﹂
﹁そうだなぁ⋮。あ!サイズ測るの、ちょっとだけ待って!実は今
ベアたん、運動不足と食べすぎで少し太っちゃってるんだよ。今、
朝夕の散歩とヘルシーメニューで戻してる最中だから、もう少しだ
け時間ちょうだい!﹂
なんてことだ!
ベアたん、シンパシーーー!!
君は私のドッペルゲンガーか?!
﹁⋮もちろん!そういうことでしたらベスト体型に戻すのを待ちま
846
すわ。女の子たるもの、太った自分を形に残されるなんて、屈辱以
外のなにものでもありませんからね!﹂
﹁ありがとう、吉祥院さん!必ず最高に可愛い状態のベアトリーチ
ェに会わせることを約束するよ!﹂
私達は固く握手を交わした。
あ、犬バカ君のしてるシルバーリング、よく見たら犬の肉球の刻
印がされてる⋮⋮。
私がモデルなんて嬉しい!あーたんと一
お礼はペアリングならぬペア首輪とネックレスなんてどうかなぁ。
ベアトリーチェからは
というメールをもらった││。
緒に頑張ってダイエットするから待っててね!ベアたん空腹になん
て負けないっ!
我が分身、ベアトリーチェも頑張っているのだから、私も見習わ
ないと。私は無為な毎日を過ごすばかりで、少したるんでいるので
はないだろうか、心も体も。
そこで私はまず心身を鍛えるべく、走ることを考えた。身ひとつ
で出来るからお手軽だしね。夏は暑いし熱中症も怖いので、早朝か
夜に近所を走ってみようかな。
それを夕食時に軽い気持ちで家族に話したら、ジョギング時専用
の護衛を付けられることになってしまった。え⋮、おおごと?
近所だし平気だと何度も断ったけれど、危ないから絶対にひとり
で走るのはダメだと全員に却下された。え∼っ、だってわざわざジ
ョギング専用の護衛を付けられたら、簡単にやーめた!って言えな
いじゃん⋮。私が飽きっぽい性格なのは、自分が一番よくわかって
いるんだよ。どうしようかなぁ、先に前言撤回しちゃおうかなぁ⋮。
うん、そうしよう。
847
と思っていたのに、さっそく一緒に走ってくれる護衛のかたを用
意されてしまったので、完全に退路を断たれてしまった⋮。う∼ん、
暑いしさぁ、早朝のラジオ体操通いに変更したいなぁ∼、なんて⋮、
ダメ?
紹介された護衛のかたは筋骨隆々で日焼けしたおじさまだった。
﹁麗華お嬢様!私は学生時代に陸上を経験しているので、フォーム
の指導もしっかりコーチさせていただきますからご安心ください!
一緒に記録を伸ばせるように頑張りましょう!初日は軽く3キロ走
るところから始めましょうね!﹂
とんだ体育会系熱血中年だった⋮。まずい⋮。
﹁ジョギングじゃなくてラジオ体操に⋮﹂と私がささやかな抵抗を
したら、﹁わかりました!ジョギングのほかにラジオ体操も加えま
しょう!﹂とメニューが増えた⋮。
どうしよう、不安しか残らない。私、500メートル以上は走れ
ないんですけど?!
お母様からはデトックスプランに行く前に見栄えを良くするため
か、エステに連れて行かれた。
この数ヶ月、美食をして肥えた体に油を塗りたくられ、容赦なく
肉を揉まれる。
ふと宮沢賢治の注文の多い料理店を思い出した。
丸々太らされ調味料を塗りたくられた私は、このままラ・フラン
スのタルトにでもされるのだろうか⋮⋮。
あぁ、高校2年の夏休みが始まった。
848
133
初めてのジョギングは、太陽が昇ったばかりの早朝だった。朝な
のに元気いっぱいの笑顔で迎えに来てくれたのは、護衛の三原さん。
﹁おはようございます!麗華お嬢様!さぁ!今日から頑張りましょ
う!﹂
﹁おはようございます⋮。よろしくお願いいたします⋮﹂
庭で足を中心としたストレッチをした後、私達は家の周りをゆっ
くりと走り出した。
三原さんの提案で初日は3キロだ。私は3キロも走ったことがな
いと渋ったのだけど、これ以上短い距離では意味がないと言われて
しまったのでしょうがない。
﹁今日はタイムを競っているわけではないので、自分のペースでゆ
っくり走りましょう!﹂
﹁はい﹂
三原さんに促されて最初は元気よく走ったが、門を出てしばらく
すると、すぐにバテた。肺が痛くなってきたのだ。
﹁えっ!麗華お嬢様、どうしました?!﹂
﹁⋮苦しいです﹂
﹁まだ500メートルも走っていませんよ?!﹂
そんなの知りません。もっとペースを落とさないと3キロも走れ
ないと思います。
849
私のひ弱な根性を、熱血体育会系の三原さんは許してはくれなか
った。
﹁麗華お嬢様!それじゃあ歩くよりも遅いですよ?!しっかり!﹂
ムリです。苦しいです。もうギブアップです⋮。
1キロも走っていないうちから、私の呼吸はゼイゼイいいだした。
上半身が前に傾き、手が犬かきのように空気を掻く。気管支が⋮気
管支が、ヒリヒリする⋮。口の中に血の味が⋮。
﹁麗華お嬢様!もっと腕を振って!ほら、いっちに!いっちに!﹂
三原さんは併走しながら手拍子で私を鼓舞する。
﹁麗華お嬢様!自分に負けるな!﹂﹁麗華お嬢様!まだ半分も走っ
てませんよ!元気出して!﹂﹁ほら顔を上げてしっかり前を向く!
はい!はい!はい!﹂
朝の高級住宅街に三原さんの声が響く。
苦しい⋮、なんで走ろうなんて考えちゃったんだろう⋮、エンド
ルフィン放出はまだか⋮。待てど暮らせどランナーズハイがやって
こない⋮。苦しい⋮、苦しいよぉ⋮。
最後は三原さんに背中を押されながらも、私はなんとか家の周り
3キロを走りきった。
ガクガクする足をもつれさせ、私はそのまま庭に倒れこんだ。芝
生がチクチクするけど気にしてらんない。
﹁麗華お嬢様!ジョギング後のストレッチが残っていますよ!﹂
ムリです⋮。もう起き上がる力も残っていません⋮。心臓がドド
ドドドドド⋮ッて危険なビートを刻んでいます。
850
ぐったりと庭を転がる私の姿を、様子を見にきたお兄様が目を丸
くして発見した。
﹁麗華、大丈夫か⋮?﹂
呼吸が戻らず声を出そうとするとヒューヒューと変な音がするの
で、首だけを振って意思表示をした。
﹁三原さん、どのくらい走ったの?﹂
﹁約3キロですが﹂
﹁う∼ん、3キロでこれかぁ⋮﹂
お兄様の困った声が聞こえます。不甲斐ない私でごめん、ふたり
とも。
﹁でも大丈夫ですよ!毎日走り続ければ体力もついてきますから!﹂
えっ!毎日走るの?!
拒絶したくても苦しくてしゃべれない。やだよ、すでに今日一日
で懲りたっていうのに⋮。もう走るのやめたいよ⋮。
でも三原さんは私のジョギング専用の護衛さんだ。私の気まぐれ
に付き合わされたあげく、たった一日でやーめた!は、あまりに我
がままだよね⋮。でもつらい⋮。
日差しも強くなってきたので、このまま転がっていると焼けてし
まう。よっこらしょと、重い体をなんとか起こし、三原さんとお兄
様に支えられながら室内に入った。そしてまた転がった。
三原さんの熱血叱咤激励のおかげで、私の醜態がお昼にはご近所
中に知れ渡っていた。それに対し、外聞を人一倍気にするお母様激
怒。最悪だ⋮。
851
次の日から、私達は車で家から少し離れた公園まで行き、そこで
走ることになった。
というメールだ。私はひとり
今日は5キロ走った
しかしお母様の機嫌は未だ直らない。最悪だ⋮。
今日は夜も走っちゃった!
唯一の心の慰めは、ベアトリーチェからの
よ!
じゃない││。
お母様の損ねてしまった機嫌をとるためにも、私はお母様の勧め
るデトックスプランに参加するしかなくなってしまった。
行きたくないな∼。でもこれで私が行かないなんて言ったら、今
度こそお母様が怒り狂うだろう。恥をかかせたペナルティとして、
甘んじて受けるしかあるまい。
今回は去年の断食のようなダイエットプランではなくデトックス
プランなんだし、そこまでつらくはないだろう⋮。
お母様と一緒に、今回のプランが開催される鏑木グループのホテ
ルにやってきた。後ろからポーターさんが私達の大荷物を運んでく
れる。案内された部屋にはお母様とお付き合いのある上流階級のマ
ダム達が揃っていた。去年と似たような顔ぶれだ。この中にダイエ
ットが好きなマダムがいてみんなを誘っているんだろうなぁ。迷惑
なことだ⋮。
ふと見ると、そこになぜか着飾った舞浜さんの姿があった。
﹁あら、麗華さん。貴女も来たの﹂
舞浜さんが私に気づき、こちらに近づいてきた。
852
﹁ええ。舞浜さんもいらしてたのね﹂
舞浜さんの攻撃的な視線を、私は笑顔で受けた。
﹁断食に続き、今年はデトックス?貴女も必死ねぇ。そこまでして
雅哉様のお母様の気を引きたいなんて﹂
はあ?
﹁誤解なさっているようですけど、私はあくまでも母の付き添いで
すわ。舞浜さんこそ、断食をあれほど小バカになさってたのに今年
は参加されるなんて、どういった風の吹き回しかしら。将を射んと
欲すればまず馬を射よ。ご自分がそうだからと言って、私まで同じ
だと思われるのは心外ですわ﹂
﹁なんですって﹂
ふん。舞浜さんに睨まれたって怖くもなんともない。あんたは今
日も巻きが甘いんだよ。
私は笑顔でごきげんようと挨拶をし、その場を離れた。
なんだか面倒なことになりそうだなぁ⋮。
あっ、耀美さんだ!おーい!
舞浜さんの視線が背中に突き刺さっているけど気にしなーい。
全員が揃ったところで、鏑木のお母様がバーンと登場した。
853
134
私達はそれぞれ席に着いて、鏑木夫人を迎えた。
﹁今日はみなさん、参加してくださってありがとう!今回のプラン
は私達のホテルが今一番自信を持ってお薦めしているプランですの
よ﹂
そう言って鏑木夫人が華やかな笑顔で参加者に挨拶をした。舞浜
さんはしっかり鏑木夫人の目につく席に座っている。あんたこそ目
的バレバレじゃん。
デトックスプランについて、スタッフの人が一通りの説明をして
くれた。なにも食べられなかった断食と違って今回はマクロビ食を
食べるという以外は、前回と似た過ごしかただった。要するにエス
テを受けたりジムなどで体を動かして優雅に過ごすということだ。
こんなことのために夏期講習を休みたくはなかったけど、お母様
の命令には逆らえない。空き時間は宿題でもやっていよう。
プランの説明が終わり、各自いったん自由時間になると、さっそ
く鏑木夫人のそばに舞浜さんが寄って行った。アピールタイムか。
私はお母様がお友達らしきマダム達と談笑していたので、耀美さ
んとおしゃべりをした。
﹁また麗華様と一緒で嬉しいわ。年の近い子がいると安心だもの﹂
﹁私もですわ。今回はお食事が出るから去年よりは楽そうですわね﹂
﹁ふふっ﹂
私達が和やかに話していると、鏑木夫人が舞浜さんを伴ってやっ
てきた。
854
﹁麗華さん!それに耀美さんも、よくいらしてくれたわね!今日は
会えるのを楽しみにしていたのよ。特に麗華さんはパーティーにも
なかなか顔を出してくれないから寂しくて﹂
﹁ごきげんよう。本日はよろしくお願いいたします﹂
﹁お久しぶりです、鏑木様﹂
私と輝美さんは立ち上がり、揃って挨拶をした。
﹁麗華さん、学院生活はどう?うちの雅哉はなんにも話してくれな
いのよ。だからぜひ麗華さんに瑞鸞の話を聞かせてもらいたいわ﹂
﹁まぁ⋮。私ではたいした話もできないと思いますが⋮。雅哉様は
試験でも常にトップの成績で、毎日お友達と充実した生活を送って
いるようですわ﹂
﹁そう?あの子愛想のない子でしょう?麗華さんに迷惑をかけてい
るんじゃないかしら?粗暴な振る舞いでもしたら、すぐに私におっ
しゃってね﹂
﹁粗暴な振る舞いだなんて、とんでもありませんわ。雅哉様は雨の
日にはサロンでショパンを奏でられるようなかたですから⋮﹂
﹁まぁ!あの子ったらそんなことをしているの?!﹂
鏑木夫人は楽しげに笑った。その隣では自分の知らない瑞鸞での
鏑木の話を知っている私に、舞浜さんが敵意のこもった目を向けて
いた。はいはい。
そこへスタッフの人が鏑木夫人を呼びに来た。
﹁今日は私も食事には参加するのよ。その時にまたお話をしたいわ﹂
﹁はい。楽しみにしています﹂
鏑木夫人が去ると、舞浜さんも﹁雅哉様のお母様にちょっと気に
855
入られたからって、調子に乗らないでよね!﹂という捨て台詞を吐
いて去って行った。
耀美さんは舞浜さんの様子に少し怯えていた。
﹁⋮あの、麗華さん大丈夫?ずいぶん睨まれていたけれど⋮﹂
﹁私は全然平気ですわ。なんだか一方的にライバル視されています
の﹂
耀美さんは﹁そうなの⋮、大変ね⋮﹂と同情した目をしてくれた
けど、たまに会ってぎゃあぎゃあ言われるくらい、どうってことな
い。これが同じ学校だったら話は別だけどね。
お母様が部屋に戻るというので、耀美さんとまたあとで話す約束
をしていったん別れた。
夕食までは各自自由に体を動かしたり散歩をしたりするように言
われていたので、私はジムに行ってみた。マシンでストイックに鍛
えるというのは私の性に合わないのであまりやらないんだけど、今
日はエアロバイクに挑戦してみようかな。
私がエアロバイクに近づくと、そこへちょうど舞浜さんもやって
きた。えっ、舞浜さんもやるの?向こうも私に気づき眉をひそめた。
まぁ関係ないやと思い、インストラクターの指示に従って負荷を
かけバイクを漕ぎ出した。おっ、なんか楽しい。
すると隣の舞浜さんが私よりも早く漕ぎ出した。ちらっとこちら
を向いて勝ち誇ったような顔をする。ムカッ。
私は舞浜さんよりさらにスピードを上げた。楽勝楽勝!しかし舞
浜さんもさらにスピードを上げる。ムムムッ!負けるか!私達は競
輪選手の如く漕ぎまくった。
頭の中で三原監督の声が聞こえる。﹁自分に負けるな!﹂はいっ
監督!﹁君なら出来る!﹂はいっ監督!
私達はグングン漕いだ。インストラクターの制止の声を無視し、
一心不乱に漕ぎまくった。うりゃああああっっっ!
856
なのに突然舞浜さんが漕ぐのをやめてバイクを降りてしまった。
えっ。
﹁麗華さんたらなにムキになってるの?髪振り乱しちゃって見苦し
∼い。勝手に競争心燃やしてきて、相手にしてらんないわ﹂
はあっ?!先に挑発してきたのはそっちじゃないか!汗だくにな
って漕いでいたくせに!監督!こいつ、自分が負けそうだからって
逃げましたよ!
﹁息あがっちゃってんじゃない。ほーんと必死﹂
強気で私を嘲笑っているけど、あんたこそその早い呼吸はなんだ。
ここまでブーメランという言葉が似合う女も珍しい。
インストラクターがおろおろしているので、ここらでお引き取り
願おうか。
﹁舞浜さんこそご無理なさっているんじゃない?目の下にクマが出
来ていましてよ。あら?ごめんなさい、私の見間違いでしたわ。ク
マではなかったみたい。舞浜さん、差し出がましいようですけどマ
スカラはウォータープルーフになさったほうがよろしいんじゃない
かしらぁ?﹂
﹁えっ!﹂
舞浜さんは私の指摘に慌てて柱の鏡で顔を確認し、そのままジム
から逃げて行った。ほーーっほっほっほっほっ。高校生のくせにマ
スカラなんぞに頼るからだ、愚か者めが。さぁ、インストラクター
さん、次のマシンに案内してくださいな!
夕食時、舞浜さんはマスカラを落とし、つけまつげで現れた。な
るほど、舞浜さんの弱点は目だな。
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あまりしつこく絡んできたら、あのつけまつげをひっぺがしてや
ろう。私は舞浜さんに向けて、自分の天然の長いまつげをバッサバ
ッサと見せつけてやった。どうだ、羨ましかろう。
夕食の前にマクロビオティックについての講義。食べてはいけな
いものが多くて、厳密に実践するには白米LOVEの私には難しす
ぎる。私は白いごはんが大好きだ。自分の部屋に炊飯器を買っちゃ
おうか悩むくらい好きだ。あぁ、アツアツごはんに山形名物のだし
をたっぷり乗せて食べたい⋮。お漬物最高。
マダム達は感心したように話を聞いているけど、上流階級には美
食家が多い。とてもじゃないけどマクロビに転向はムリだろう。し
かし意外なことに、あのおとなしい耀美さんが質問をしたりして熱
心に聞き入っていた。
そのあとは場所を移動してマクロビ食による晩餐会。中等科の修
学旅行で出たベジタリアンのランチみたいなのが出てくるのかなと
思いきや、とってもおいしかった。さすが鏑木系列のホテル。ヘタ
なものは出さないよね。マダム達も舌鼓を打っていた。
断食プランの時のようにドリンクだけのメニューではないので、
みんなの会話も弾む。私もおいしいですわねなどと適当に話を合わ
せていた。
耀美さんはひとつひとつの料理を味わって食べながら、時々先生
に料理についての質問をしているようだった。耀美さん、マクロビ
に興味あるんだー。
食事が終わってもノートとペンを片手に、あれこれと先生に質問
する耀美さんの姿に、プランを企画した鏑木夫人が満足そうに話に
加わっていた。
﹁耀美さん﹂
858
話が終わったようなので、私は耀美さんに声を掛けてみた。
﹁あっ、麗華さん。どうしたの?﹂
﹁ずいぶん熱心に聞いていらっしゃいましたわね。マクロビに興味
がおありなんですか?﹂
﹁ええ。とても興味深いお話を聞かせていただけたわ。私、今日来
て良かった﹂
へー。去年は隠れてお菓子を食べていたくらいやる気がなかった
のに。えらい違いだな。
﹁耀美さん、よかったらお茶でもいかがですか?私にもそのお話、
聞かせてくださいな﹂
﹁私でよければ喜んで﹂
私達はホテルのティールームに移動した。
﹁実は私、お料理をするのが好きなの﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁ええ。大学の専攻もそちらだし、将来は料理に携わる仕事に就け
たらなと思って⋮﹂
﹁まぁ﹂
おっとりとした耀美さんが、将来の職についてしっかり考えてい
ることにちょっと驚いてしまった。お嬢様の中には当然のように花
嫁修業と称して就職しない人が大勢いるから。
﹁それは自分でお店を開きたいということですか?﹂
﹁ううん。私にそこまでの才覚はないから⋮。でもいつかお料理教
室の先生になれたらなって⋮﹂
859
耀美さんは恥ずかしそうに笑った。そうなんだー。
﹁だからいろいろなお料理を学びたいの。マクロビもそのひとつ。
今もいくつかのお料理教室に通っているのよ?﹂
﹁そうなんですか!﹂
耀美さんは世界の調味料やおいしい出汁の取りかたなどの話を楽
しそうにしてくれた。ポン酢と醤油のコレクターなんだって。
﹁これだから私、太っちゃうのね⋮﹂
﹁そんなことありませんわ。私も耀美さんの作ったお料理、ぜひ食
べてみたいですわ﹂
﹁本当?でもまだまだなのよ?﹂
今回は耀美さんという会話が弾む話し相手がいるから楽しく過ご
せそうだ。耀美さんともっと早く打ち解けていたら、去年ももっと
今日は夏期講
楽しかったのになー。でも断食中に料理の話なんで拷問か。
部屋に帰ると梅若君からのメールが届いていた。
という文と、
習を休んでたので皆が寂しがってたよ。ベアトリーチェもだいぶ理
想体型に戻ってきたので、来週会う予定を決めようね
梅若君の頬にキスをするベアトリーチェの画像が添付されていた。
ベアトリーチェに負けないよう、私も頑張らねば。
翌朝の散歩とヨガでは私はマダム達に囲まれ、鏑木のことを聞か
れた。確か去年もあったな∼。おば様達は若い子の話が大好物だ。
860
﹁麗華さん、雅哉さんとはお親しいの?﹂
﹁いえ、それほどでは﹂
﹁あら、噂は聞いていましてよ?麗華さんは雅哉さんと仲がいいっ
て﹂
﹁素敵よね∼、雅哉さん。私がもう少し若かったら﹂
﹁やだわ、奥様ったら。でも私も﹂
﹁ね∼ぇ!うふふ、私達、雅哉様のファンなの﹂
﹁麗華さんもそう思うでしょう?﹂
おば様達は朝から元気だ。
﹁麗華さんと雅哉さんだったらお似合いね﹂などという戯言に嫉妬
したのか、舞浜さんが私の足を引っ掛けようとしたので、無言で踏
んでおいた。悪役小物の発想は瑞鸞も百合宮も同じだな。
861
135
2日目はお母様とエステや岩盤浴に行ったり、ヨガスタジオで先
生に筋がいいと褒められて有頂天になったりしながら過ごした。
舞浜さんとは食事以外でかち合うことはなかったので、概ね平和
だった。
そしてその夜の夕食にも、鏑木夫人は顔を出して参加メンバーと
一緒に食事を摂った。
玄米や雑穀米もたまにならいいけど、毎日だと少しつらそうだな
ぁなどと考えながら食べていたら、鏑木夫人が席を移動して私に話
しかけてきた。うっ⋮。
﹁麗華さん、今回のプランはいかがだったかしら?﹂
﹁はい。自然食を身近に感じることができて、とても有意義な2日
間でした﹂
﹁そう言ってもらえると私も嬉しいわ。麗華さんは痩せているから
ダイエットは必要ないものねぇ?﹂
﹁とんでもありませんわ﹂
はい、お世辞ですね。自分の肉は自分が一番良くわかっています
とも。さすがにそんな見え透いたお世辞じゃ、浮かれて木に登るこ
ともできません。
お世辞には愛想笑いで返しておく。
﹁麗華さんは夏休みはどのように過ごす予定なのかしら?﹂
﹁塾の夏期講習や習い事に通ったり、お友達と会う約束などがいく
つかあります。あとは両親との家族旅行でしょうか﹂
﹁あらよろしいわね。今年はどちらに行かれるの?﹂
862
﹁母の希望でオーストリアです。湖上オペラが観たいそうなので﹂
お母様はオペラやバレエなど、美しくて非日常的な世界が大好き
だ。さすが娘をジュモーの人形にしようとするだけのことはある。
﹁まぁ素敵ね!湖上オペラなら私も前に観に行ったことがあるのよ。
圧倒的な迫力で、とても素晴らしかったわ!麗華さんはオペラもお
好きなの?﹂
﹁母の影響で、ヨーロッパに行った時に好きな演目が上演されてい
れば、観劇いたします。ただ私はお恥ずかしながら毎回楽しく鑑賞
しているだけで、オペラそのものにはあまり詳しくはありませんの。
もっと知識を深めてから鑑賞すべきとは思っているのですけど⋮﹂
﹁そんなことないわ!頭でっかちで難しく鑑賞するよりも、麗華さ
んのように素直な心で楽しむほうが私はいいと思うわよ?私もオペ
ラは大好きなの。麗華さんの好きなオペラはなにかしら?﹂
﹁月並みですが、ローエングリンとか魔笛などでしょうか﹂
﹁ローエングリンがお好きなのね?では同じワーグナーでトリスタ
ンとイゾルデはどうかしら?﹂
﹁とても情熱的だと思います﹂
﹁まぁ!﹂
鏑木夫人はころころと笑った。
その後しばらくオペラの話をしていると、鏑木夫人が﹁そうだわ
!﹂と手を合わせた。
﹁今度、蛍狩りの会を開くの。麗華さん、ぜひいらして!幻想的な
世界がお好きな麗華さんならきっと気に入ると思うの!﹂
﹁え⋮﹂
それはちょっと⋮⋮。できれば全力でお断りしたい。今回だって
863
お母様に半ば脅されて来たっていうのに。
私がなんとか断りの口実を探している間に、鏑木夫人はさっさと
私の隣のお母様に話しかけて了解を取り付けてしまった。げっ!
﹁蛍狩りだなんて素敵だわ。麗華さん良かったわね。麗華さんは源
氏物語が好きだものね﹂
﹁あら、麗華さんは源氏がお好きなの?でしたら当日は麗華さんに
玉鬘になっていただかないと﹂
﹁まぁ、ほほほ。では蛍兵部卿宮はどなたかしら?﹂
﹁うちの雅哉などいかが?﹂
﹁あらぁっ麗華さん!どうしましょう。良かったわねぇ﹂
お母様と鏑木夫人は私そっちのけで勝手に盛り上がっているけど、
勘弁してくれ⋮。
だいたいお母様、私がいつ源氏物語が好きだなんて言ったよ。吉
祥院家の夫婦は、そろって話を作る癖があるらしい。
そんな私達の会話を聞いていた舞浜さんの目は凄いことになって
いた。
2泊3日のデトックスプランもやっと今日で終わりだ。
鏑木夫人の蛍狩りのお誘いで、昨日の夜からお母様の機嫌は絶好
調だ。昨夜は私の耳元で﹁雅哉さんのお母様に気に入られてるんだ
から、お近づきになるチャンスよ﹂と、洗脳するかの如く唱え続け
ていた。怖いので頭から布団を被ってすぐに寝た。
全員がミーティングルームに集まりスタッフから今回のプランの
総括を聞いていると、鏑木夫人が息子を従えて部屋に入ってきた。
突然の鏑木雅哉登場に、マダム達から黄色い声があがった。
864
﹁みなさん、2日間お疲れ様でした。今日は息子の雅哉も連れて参
りましたのよ﹂
﹁まぁっ雅哉さんにお会いできるなんて嬉しいわ!﹂
マダム達はアイドル系演歌歌手に群がるおば様方のように、鏑木
の周りを取り囲んだ。う∼ん、凄いな、おば様パワー。舞浜さんは
そのパワーに押され、その輪の後ろをうろちょろしている。私のお
母様はその中には入っていなかった。良かった⋮。
どうやら鏑木は、頑張った参加者のマダム達へのご褒美として連
れてこられたようだ。鏑木は﹁お疲れ様でした﹂などと言ってマダ
ム達を労っていた。
鏑木、学院じゃ愛想の欠片もないけど、外では後継者としてきち
んと働いているんだなぁ。
私はこの2日間ですっかり仲良くなった耀美さんとメアド交換な
どをした。
そこへ、マダム達からやっと解放された鏑木がやってきた。
﹁おっ、なんだお前も来てたのか﹂
﹁ごきげんよう鏑木様﹂
﹁言っとくが、こんなプランじゃ痩せないぞ。運動しろ﹂
自分の家のホテルのプランを真っ向否定かよ⋮。
﹁私は母に付き添ってきただけですから⋮。特に痩せるために参加
しているわけではありませんのよ?﹂
ダイエットしてると思われるのは恥ずかしいので、お母様のせい
にする。それに付き添いは本当のことだし。
865
﹁ふ∼ん。まぁどっちでもいいけど﹂
なら言うな。
﹁夏休みだっていうのに、母親とダイエットプランに参加なんてご
苦労なことだな﹂
﹁デトックスプランですけどね。ご自分もお母様に依頼されて今日
顔を出されたのでしょう?似たようなものではありませんか﹂
﹁まあな﹂
そこへ追いかけてきた舞浜さんが、横から会話に割り込んだ。
﹁雅哉様、今日は会えて嬉しいですわ!この前のパーティーでもな
かなかお話し出来なかったんですもの。雅哉様のこの後のご予定は
?よかったら下のラウンジでお茶をご一緒に﹂
﹁この後は人と会う約束があるから﹂
鏑木は舞浜さんの誘いを関心のなさそうな顔でばっさり切り捨て
た。それでも纏わりつく舞浜さん。しぶとい。鏑木は舞浜さんを面
倒くさそうに払いのけながら、私に﹁じゃあな﹂と言って去って行
った。もちろんそのあとを舞浜さんは追って行った。舞浜さんは振
り返って私を一度キッと睨むと、﹁昨日麗華さんに足を踏まれまし
たの∼﹂としっかりチクッていた。鏑木はそれに対し﹁ああ、そう﹂
と適当に返していた。
疲れた⋮⋮。
塾に行くとさっそく梅若君と、ベアトリーチェご対面の日取りを
866
話し合った。暑いのでベアトリーチェの体調も考えて、室内のドッ
グランのある場所に決めた。犬がいるといってもふたりだけで会う
と、梅若君を好きな森山さんにまた敵視されそうなので、せっかく
だからみんなで会わないかと提案してみた。
森山さんはもちろんOK。ほかの子達も来られそうだったので良
かった。梅若君はどれだけ自分の愛犬が可愛いかをみんなに熱弁し
始めた。なんだか最近私の周りには熱い人が多いなぁ⋮。いや、三
原さんと梅若君だけなんだけどね。
夜にはまたラブラブ写真とともにベアたんメールが届いた。
お気に入りのリボンでおめかしして行くから楽しみにしててね!
お洋服のリクエストはあるかな?ベアたん、麗華たんに会えるの楽
しみ!
うんうん、私も早く会いたいよ。梅若君の犬バカっぷりという、
怖いもの見たさ半分で⋮。
867
136
ベアトリーチェと会う日、私達は室内ドッグランのある最寄駅の
前で待ち合わせをした。私だけ日傘を差していたので、さすがお嬢
様とか言われちゃったけど、日焼けをするとお母様に怒られるので
許してほしい。それでも今日は犬と戯れるので、私にしては珍しく
チェニックにレギンスというかなりカジュアルな格好をしてきたの
だ。
﹁おーい!﹂
改札から梅若君が出てきた。手に大きなキャリーバッグを抱えて
いる。
﹁おまたせ!連れてきたよ、ベアトリーチェ!﹂
そっとキャリーバッグのファスナーを開けると、中から茶色い犬
がひょこっと顔を出した。
﹁可愛い!﹂
つぶらなお目々のベアたんは、写真で見るより数倍可愛かった!
私達はベアトリーチェの入ったバッグを取り囲み、口々に﹁可愛
いねぇ﹂﹁ベアトリーチェ∼﹂と話しかけた。梅若君はそれに対し
﹁可愛いって、良かったね∼、ベアた∼ん﹂とすでに犬バカの片鱗
を見せ始めていた。
このまま外にいても暑いので、私達はおしゃべりしながらドッグ
ランに移動することにした。
868
﹁犬も電車に乗れるんですね﹂
﹁うん。きちんとバッグに入れて乗車料金払えば乗れるよ﹂
バッグから顔だけ出したベアトリーチェは好奇心旺盛なのか、き
ょろきょろと辺りを見回している。可愛いな∼。梅若君はみんなと
おしゃべりをしながらも、ずっとベアトリーチェの頭を撫で続けて
いた。
梅若君はベアトリーチェの入ったバッグのほかにもうひとつトー
トも持っていたので大荷物だ。ベアトリーチェのブラシや水などが
入っているらしい。
お店は駅から歩いて数分の場所にあった。受付で予約していた旨
を伝える。
ドッグランはほかのお客さんに気兼ねすることなく写真を撮った
り計測したりしたかったので、私があらかじめ予約して貸し切りに
させてもらった。。
室内ドッグランに着いて梅若君がバッグを開けると、勢いよくベ
アトリーチェが外に飛び出した。
﹁ワンッ!﹂
元気いっぱいのベアトリーチェは、梅若君の周りをぐるぐると走
った。
﹁ベアた∼ん!狭かったね∼!でもいい子にしてたね∼!﹂
梅若君は膝を付いてベアトリーチェに頬ずりをした。ベアトリー
チェもくぅんくぅん言って梅若君に甘えている。甘い甘いふたりだ
けの世界だ。
869
﹁聞きしに勝るデレっぷりだな﹂
茶髪の北澤君が梅若君を見て言った。そうかな。ベアたんメール
を送られている私からすれば、こんなのまだまだ序の口だと思うけ
ど。
﹁さぁ!ベアたん、今日はお友達の麗華たんのモデルさんになって
あげるんだよ∼。可愛く撮ってもらうために、きれいきれいにしよ
うね∼﹂
梅若君は傍らのトートバッグからブラシを出し、ベアトリーチェ
を丁寧にブラッシングした。ベアトリーチェの茶色い毛は梅若君が
毎日手入れしているたまものか、艶々ふわふわだ。両耳にピンクの
お花のヘアアクセサリーを付けている。
﹁ほ∼らきれいになった!ベアたん、麗華たん達にご挨拶しよう!﹂
﹁麗華たん⋮?﹂
隣の森山さんの顔が若干引き攣った。あ、まずい。麗華たん呼び
はあくまでもベアたんの心の友という意味でして⋮。
私が森山さんに言い訳しようとしたその時、ベアトリーチェがい
きなり私に飛びかかってきた!
﹁わあっ!﹂
突然のベアトリーチェの攻撃に、私がよろけて尻もちをつくと、
ベアトリーチェはさらに私の上半身に伸し掛かり、私の髪をはむは
む噛みだした!
﹁うわあっ!なに?!なに?!﹂
870
ベアたん大興奮。私の髪を離さない。誰か助けて!飼い主!飼い
主!
北澤君達はベアたんの行動にどうしたらいいかわからない様子で、
私達に向けて手を伸ばしたり引っ込めたりしていた。
﹁おい、梅若!﹂
﹁ベアたん、大好きな麗華たんに会えて嬉しいんだね∼。麗華たん
の毛づくろいをしてあげてるのかぁ。ベアたんは優しいね∼﹂
この髪をはむはむして引っ張っているのは毛づくろいなのか!で
もベアたん、ダメだ!私の髪には化学物質がたくさん塗られている
のだから、体に悪いよ!舐めちゃダメだ!あぁ、私の髪の毛よだれ
まみれ⋮。
犬バカ、なんとかしろ!
﹁ベアたん喜んでる、喜んでる。自分と同じくるくるヘアーだもん
ねぇ。仲間に会えて嬉しいねぇ﹂
﹁いや梅若、吉祥院さんが限界だ⋮。助けてやれ﹂
﹁そうか?吉祥院さん、限界?そっか。じゃあベアたん、こっちお
いでー﹂
私が全力で限界だと訴えると、犬バカ君がやっとベアトリーチェ
を後ろから抱えて引き離してくれた。それでもベアトリーチェはぎ
りぎりまで私の髪を噛み続けていた。
﹁吉祥院さん、大丈夫?!﹂
森山さん達が私を支えて起こしてくれた。レギンス履いてきてよ
かった⋮。
871
﹁⋮ええ、大丈夫ですわ。少し驚いてしまっただけで⋮﹂
﹁でも髪、ぼろぼろだよ?一度トイレで直してきたほうがいいかも
⋮﹂
そうさせてもらいます⋮。
私はよろよろしながらトイレに行き、洗面所でよだれの付いた髪
を静かに洗い、顔に付いた茶色い毛を落とした⋮。
なんとか復活して戻ると、少し正気に戻った梅若君に謝罪された
ので、気にしないでと言っておいた。
さて、先にプレゼントを渡しておこう。プレゼントはベアトリー
Asuka&Beatri
チェ用のキャリーバッグにした。水色の生地にひまわりのプリント
と名前も入っている。
が付いた可愛いバッグだ。横に小さく
ce
最初はお揃いのネックレスと首輪にしようと思ったのだけど、ベ
アトリーチェはともかく梅若君にアクセサリーをプレゼントしたら、
また梅若君を好きな森山さんに余計な勘繰りをされるかもしれない
と思ったのでやめたのだ。
﹁うわあっ!凄い可愛いっ!これもらっていいの?!ありがとう吉
祥院さん!﹂
梅若君はプレゼントを見て大喜びしてくれた。気に入ってもらえ
て良かった。梅若君はベアトリーチェに﹁ほら、麗華たんからベア
たんにって可愛いバッグもらったよー。わ!あーたんとベアたんの
名前も入ってるよ、嬉しいねぇ﹂と声をかけていた。
ベアたんは私のプレゼントしたバッグをがじがじ噛んでいた。喜
んでくれてなにより。
一息ついたところで写真撮影だ。今日のためにベアたんはサロン
でトリミングもしてきてくれたんだって。完璧なベアたんだ。全体
872
写真と部分写真をデジカメで何枚も撮る。合間に体の計測もさせて
もらった。
﹁おリボンは変えたほうがいい?いろいろ持ってきたよ﹂
﹁うわっ、冠まであるのかよ﹂
﹁もちろん。ベアたんはお姫様だからねー。ティアラは必需品だよ。
ねー、ベアたん﹂
撮影に飽きたベアたんがドッグランを走り回る。その後を﹁待て
∼!﹂と追いかける梅若君。﹁つかまえた!﹂﹁きゃうんきゃうん
!﹂﹁ベアたん小悪魔∼!﹂
友人の予想以上の犬バカぶりに、みんなが少し引いていた。
それからもドッグランに併設されているカフェでみんなでお茶を
飲んでいる間や、近くを散歩している時も、終始ベアたんとベタベ
タにじゃれ合う梅若君を見て、森山さんが﹁梅若ってこういうヤツ
だったんだ⋮﹂とボソッと呟いていた。あれ、森山さん、もしかし
て恋愛ぼっち村に入村ですか?
榊さんに慰められる森山さんをよそに、梅若君は恋人の顔にキス
の雨を降らしていた。
私がぬいぐるみを作ることを知っている梅若君が、気を利かせて
トリミングした時に切った毛をチャック付きの小袋に入れて持って
きてくれた。ありがたい。これがあればフェルトの色選びの参考に
なる。梅若君は迷惑な犬バカだけどいい人だ。
さっそく帰りに手芸屋さんに寄ってベアトリーチェの毛に合わせ
た羊毛フェルトを買った。今夜から頑張るぞー!
ベアたん、今日は麗華たんに会えてとっても嬉しかった!ベアた
んのぬいぐるみ、美人に作ってね
873
おまかせください。
874
137
犬のニードルフェルトの作り方の本を参考に、ベアトリーチェの
図案をおこすことにした私は初手で躓いた。なんということだ。私
には絵心がない。
子供の頃、お受験対策の一環で絵画教室にも通ったけれど、結局
身につかなかったねぇ⋮。
胴体は本を参考にしちゃえばいいけれど、肝心の顔が決まらない。
ぬいぐるみは顔が命なのに!
何枚も何枚も描き損じて自分の絵心のなさを痛感した私は、結局
ベアトリーチェの写真を引き伸ばしたものを代用することにした。
人間諦めが肝心だ。
しかしリアル追求型のぬいぐるみは難しい。先に何体か練習で作
ってからにしようかな。むしろモデルがあるほうが難しい気がして
きた!長毛種を選んで大失敗か?!
塾に行けば梅若君が﹁ベアたんのぬいぐるみはどう?﹂と無邪気
にプレッシャーをかけてくる。今更やっぱりムリかもとは言えない
雰囲気だ。期待が重い。どうしよう。己の実力を過信していた。学
園祭に間に合うのか、私?!
梅若君から、ベアたんが私のプレゼントしたバッグから顔だけ出
している写真をもらったので、いっそこれを参考に既製のバッグに
顔だけ縫い付けておしまいにしちゃおうかな⋮。実力不足でごまか
したってすぐにバレるかな⋮。
部屋にはニードルフェルトの材料が溢れているので、気が散って
875
勉強も出来ない。宿題もたくさんあるのに。
そういえば前に学院の図書室で勉強した時、ずいぶんはかどった
な。そうだ、図書館に行ってみよう。
小さな図書館だと座る席がなさそうなので、大きい図書館を調べ
て行ってみた。図書館は混んでいたけれどところどころ空いている
席があったので、近くの席に適当に座った。勉強道具を机に出して、
なるひと
なんとなしにふと前の席に座る人を見た時、私の全身に衝撃が走っ
た。
ナル君?!
私の前で静かに勉強をしている人は、前世で私の従兄だった成人
君にとてもよく似ていた。
ナル君だ。ナル君がいる。
従兄のナル君は私よりも年上のお兄さんで、会うといつも面倒を
みてくれた私の初恋の人だ。
ちなみにナル君の名前は、生まれたのが1月15日だったので、
成人の日に生まれたから成人という、子供心に安直な付けかただと
思わせる由来だった。ナル君の両親は、誕生日がわかりやすくてい
いじゃないと言っていたけれど、まさかその数年後にハッピーマン
デーなどという制度で、ナル君の名前の由来そのものが吹っ飛んで
しまうとは、その時は誰も想像だにしていなかったに違いない。本
人は﹁俺の名前の由来が⋮﹂とがっくり落ち込んでいたなぁ。可哀
想なナル君。懐かしい。﹁大丈夫だよ、ナル君。私はナル君の誕生
日をちゃんと覚えているよ﹂と一生懸命慰めたものだ。
優しくで時々おとぼけだったナル君。目の前にいる人は、そのナ
ル君が高校生くらいだった頃にそっくりだった。ううん、本当にそ
っくりなのかはわからない。だってもうあれから15年以上経って
きら
いる。時々思い出す家族の顔も、段々ぼんやりしてきているのだか
ら。
が似合う優しい人。
でも、それでもやっぱり似ていると思う。モーツァルトの
きら星
876
私はそれから帰る時間がくるまで、ほとんど勉強そっちのけでド
キドキしながらナル君観察をし続けた。
夕食が終わった後、私はお兄様にニードルフェルトがまるで進ん
でいない愚痴をこぼした。
﹁オリジナルの図案が描けないから、そこからダメなんです。写真
を見て作ろうにもなかなか上手くいかなくて⋮﹂
﹁ふぅん。その写真と麗華の描いた絵を見せてくれる?﹂
私は部屋から一式を持ってきた。
﹁これです﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
お兄様はベアトリーチェの写真と私の描き損じがたくさん描かれ
たスケッチブックを見比べた。わあっ!お兄様に恥を晒した!やっ
ぱり見ないで!
私はお兄様からスケッチブックを取り戻そうとしたけれど、その
前にお兄様がサラサラとベアトリーチェの絵を描きだした。上手い
っ!
﹁お兄様、絵のご趣味があったのですか?!﹂
﹁いや、特にそういうことはないけれど、まぁ適当に描いてるだけ﹂
はい、と見せられた絵は写実主義!凄いや、お兄様!
877
だったらと、試しに細かい図案を描いてくれるよう頼んでみると、
お兄様はあっという間に私のお願い通りの絵を次々に描いてくれた。
なんと!こんな身近に救世主が!
しかしなぜ同じ血を引く兄妹だというのに、これだけ才能が違う
のか⋮。ちょっぴり嫉妬。
﹁お兄様はなんでも出来るんですねー﹂
﹁そんなことないよ。コツがわかっているだけ﹂
﹁そのコツとやらが、私にはわかりません⋮﹂
お兄様は困ったように笑った。
﹁そういえば今度、麗華と仲のいい子供さんが泊まりに来るんだっ
け?﹂
﹁ええ、そうなんです。早蕨麻央ちゃんといって瑞鸞の初等科に通
う女の子なんですけど、とっても可愛いんですよ!﹂
夏休みに麻央ちゃんが私の家に遊びに来る予定は、麻央ちゃんの
ご両親に許可をもらってお泊り会になった。泊りがけということで、
麻央ちゃんも大喜びだ。
﹁そうなんだ。楽しみだね。確か市之倉家の晴斗さんの姪御さんだ
ったかな﹂
﹁そうですわ。お兄様も市之倉様はご存じなんですよね?﹂
﹁うん。何度かお会いしたことがあるよ。一度パーティーでも姪が
妹さんにお世話になっていますとお礼を言われたこともあるしね﹂
﹁そうでしたかー。でもお世話になっているのは私のほうなんです
けどね。ほら、何度もお食事に連れて行ってもらったり﹂
﹁あぁ、そうだね﹂
﹁それで、お兄様にお願いがあるんです。前に水族館に連れて行っ
878
てくれると約束してくれたでしょう?あれってせっかくだから麻央
ちゃんも一緒に連れて行って欲しいんです。ダメですか?﹂
﹁かまわないよ。じゃあ麻央ちゃんが遊びに来る日のスケジュール
を確認してみるよ。麻央ちゃんが一緒だから近場でいいかな﹂
﹁ええ!麻央ちゃんもきっと喜んでくれますわ!﹂
うふふ、楽しみ。麻央ちゃんには当日まで内緒にしておこう。
麻央ちゃんが泊まりに来る日は塾はお休みにした。もちろん朝の
ジョギングもその時はお休みにしてもらう。
三原さんとは頑張って毎朝遠くの公園を走っている。最初の頃よ
りも止まらずに走れるようになってきた。三原さんには私の名前を
連呼しないようにお願いしたけれど、﹁お嬢様﹂呼びは相変わらず
なので目立つらしく、時々走っていると見ず知らずの人達から﹁お
嬢様、頑張ってー!﹂と声援をいただくはめになった。なんだかこ
の公園の名物になりつつある気がする⋮。
﹁お嬢様はだいぶ走るのに慣れてきましたね!夏休みの終わりには
皇居に行ってみましょう!﹂
﹁ええっ!皇居ですか?!ムリです、私には敷居が高すぎます!﹂
皇居の周りを走っている人達って本格的なランナーばかりじゃな
いか。いやいや、走るというより歩くに等しい私では、場違いにも
ほどがある。
﹁お嬢様、目標は高く掲げてこそです。大丈夫、皇居の周りは約5
キロといったところですから、今から練習すれば走れます!﹂
﹁ええっ!5キロって今よりも2キロも増えるじゃないですか!﹂
879
﹁お嬢様ならきっと走れます。毎日頑張って、そして来年にはホノ
ルルに行きましょう!﹂
﹁ええーっ!ホノルル?!﹂
さすがにそれはムリ!ホノルルマラソンっていったい何キロ走る
と思ってるの?!
﹁走る前に諦めるな!﹂﹁自分の心の弱さに打ち勝つ努力を!﹂と
熱弁を振るう三原さんを説得するのに、走るよりも骨が折れた。
そして麻央ちゃんがお泊りセットを持って、お母様とご一緒に私
の家にやってきた。
﹁ごきげんよう、麗華お姉様!今日はよろしくお願いいたします﹂
麻央ちゃんは少し緊張しつつも嬉しそうに頭を下げた。
﹁いらっしゃい、麻央ちゃん。こちらこそよろしくね﹂
﹁麗華さん、本日は娘がお世話になります﹂
﹁そんな、なんのおもてなしもできませんのよ?ただ大事な麻央ち
ゃんは責任を持ってお預かりいたしますので、どうかご安心なさっ
てください﹂
そこへ私のお母様も遅れて挨拶に現れた。
﹁まぁ早蕨様ごきげんよう。今日はお嬢さんが泊まりにいらしたの
ですわね?﹂
﹁ごきげんよう、吉祥院様。娘がお世話になります。どうぞよろし
880
くお願いいたします﹂
﹁よろしくお願いいたします﹂
﹁あら可愛らしいお嬢さんだこと﹂
お母様は愛らしい麻央ちゃんを気に入ったようだ。それからお母
様を交えてしばらく談笑した後、麻央ちゃんのお母様が帰って行っ
たので、私は麻央ちゃんを自室に案内した。
﹁麻央ちゃん、お母様が帰ってしまって寂しくない?﹂
﹁平気ですわ。わぁっ、麗華お姉様のお部屋、可愛い!﹂
麻央ちゃんは私の天蓋付のベッドに目を輝かせた。それから楽し
そうに私の部屋を探検し始めた。フラフープやステッパーなど、怪
しい物体はすべて蔵にしまってあるので、今の私の部屋は、どこを
見られても安心だ。
楽しいお泊り会になるといいなー。
麻央ちゃん、楽しい夏休みの思い出を作ろうね!
お母様が麻央ちゃんとショッピングに行きたいと言い出した。新
たな人形候補を見つけてしまったらしい⋮。お母様、巻き髪は許し
てあげて!麻央ちゃん、逃げてー!
881
138
結局、恐縮する麻央ちゃんをお母様は半ば強引に連れだし、着せ
替え人形にしてしまった。
﹁ごめんなさいね、麻央ちゃん⋮﹂
嬉々としてドレスを選ぶお母様を見ながら、私は麻央ちゃんに謝
った。私は慣れているけど、さぞ麻央ちゃんは困っていることだろ
う。
﹁いえ、私はいいんですけど。でも本当に買っていただいていいん
でしょうか?なんだか図々しい気がします⋮。お母様達が知ったら
怒られるかも⋮﹂
﹁そんなことないわ。むしろ私の母の趣味に付き合わせてしまって
申し訳ないくらいだもの。麻央ちゃんのご両親には私からきちんと
お話させていだだくから大丈夫よ。麻央ちゃんもここまで来たら逃
げられないんだから、せめて服の好みだけは主張したほうがいいわ
よ?でないと勝手に決められちゃうから﹂
﹁はい﹂
麻央ちゃんはまだ少し遠慮していたけれど、お母様にあれこれ試
着させられているうちに、段々嬉しそうな表情になってきた。それ
を見ていたら私も麻央ちゃんの服を選びたくなって、結局参加して
しまった。だって麻央ちゃんは可愛いからなんでも似合うんだもん!
最終的にお母様と麻央ちゃんが選んだのは夏らしいレモンイエロ
ーのドレス。スカートがふんわり広がっていてとっても可愛い。
882
﹁可愛い!似合うわ、麻央ちゃん!﹂
私が手を叩いて褒めると、麻央ちゃんは恥ずかしそうにお礼を言
った。
そして私が選んだのは白地にお花模様のワンピース。こちらも乙
女チックで可愛い!
麻央ちゃんは私が選んだワンピースを着て帰ることになった。お
母様はそれにちょっと不満顔だけど、街中でドレスは大げさだもの、
しょうがない。でも麻央ちゃんの﹁あのドレス、今年のサマーパー
ティーで着させてもらってもいいですか?﹂の言葉に、一気に機嫌
を直した。気を使わせてごめんね、麻央ちゃん。
そして麻央ちゃんはそのままヘアサロンに連れて行かれ、髪を巻
かれてしまった。うわぁっ!
私のミニチュア版のようになってしまった麻央ちゃん。鏡の前に
ふたりで並ぶと、完全に巻き髪シスターズだ。
心の中で申し訳ないと両手を合わす私に反し、麻央ちゃんは﹁お
姫様みたーい!﹂と喜んでいた。
﹁私、麗華お姉様の髪型にいつも憧れていたんです。絵本に出てく
るお姫様みたいだなって﹂
嬉しそうに巻き髪を触りながら、何度も鏡を見ている麻央ちゃん。
え、そうなの?
私はどうやらロココの後継者を得たようだ。
そのあと3人でティーサロンに行ったりショッピングをしたりし
て家に帰ると、お父様がケーキを買って帰ってきた。狸は女の子へ
883
のお土産は甘いお菓子という貧相な発想しか持っていない。食べ物
しか頭に思い浮かばないからメタボなんだな。
麻央ちゃんもダイエット中のはずなのに大丈夫かなと思ったけれ
ど、優しい麻央ちゃんは笑顔でお礼を言っていた。いい子だ⋮。
麻央ちゃんの初等科での話などを聞きながら楽しく夕食を食べた
あとは、私の部屋でまったりと過ごした。
麻央ちゃんが部屋の隅に置いてあるニードルフェルトの材料に興
味を示したので、学園祭に出品する話をしてベアトリーチェの写真
とスケッチブックを見せた。
﹁わぁっ!素敵っ、上手っ。この絵は麗華お姉様が描いたんですか
?﹂
﹁いいえ、これは私のお兄様が描いたのよ﹂
﹁麗華お姉様のお兄様は絵がとってもお上手なんですね。あ!こっ
ちも素敵。わぁ⋮、ん?あら?これは⋮﹂
なに?あっ!それは、私の描いた絵!
﹁えっと、これは⋮﹂
麻央ちゃんが気まずそうに尋ねた。
﹁それはね、私が遊びで左手で描いてみた物なのよ。利き手ではな
い手でどこまで描けるかなって﹂
﹁まぁっ、そうだったんですか!道理でおかしいと思いました。で
も左手でここまで描けるなんて、お姉様には絵の才能があるのでは
ありませんか?﹂
﹁まぁ、ほほほ⋮﹂
泣いてもいいですか?
884
私はスケッチブックをそそくさとしまい、麻央ちゃんの夏休みの
宿題を一緒にやることにした。
﹁実はまだ、全然やっていないんです⋮﹂
﹁そうなの?ではふたりで頑張って早く終わらせてしまいましょう
か﹂
﹁はいっ﹂
麻央ちゃんに勉強を教えるのはお姉さん気分が味わえて楽しい。
本当にこんな可愛い麻央ちゃんが私の妹だったらなぁ。
しばらくすると仕事から帰ったお兄様が私の部屋に顔を出した。
﹁こんばんは、麻央ちゃん。僕は麗華の兄の吉祥院貴輝です。よろ
しくね﹂
﹁早蕨麻央と申します。本日はお邪魔しております!﹂
麻央ちゃんがぺこっと頭を下げた。いつも思うんだけど、お兄様
は仕事で帰りが遅いのになんでお父様は早く帰って来られるのかな
ぁ。自分の仕事をお兄様に押し付けているんじゃないの?お父様。
お兄様は麻央ちゃんの宿題を優しく教えたりしてしばらく私の部
屋で過ごしたあと、自分の部屋に戻って行った。
夜も更けてそろそろ寝ようと準備をする。麻央ちゃんは私の天蓋
付ベッドにわくわくしていた。天蓋に喜んでくれるならなりよりだ
けど、案外と天蓋付ベッドって、毎日見ているとわりとすぐに飽き
るものだよ?ホコリも気になるしねー。
私達は同じベッドに横になった。
﹁今日は振り回してしまってごめんなさいね。疲れたでしょう﹂
885
﹁いいえ。とっても楽しかったです﹂
本当はもっといろいろと遊ぼうと思っていたのだけど、思わぬお
母様攻撃で予定が狂ってしまった。まったくもう。
しかし麻央ちゃんはそれも嬉しかったと言ってくれた。聞けばこ
の夏休みの間に、また家に来た親戚や祖父母が弟だけを可愛がりま
くっていたらしく、麻央ちゃんはちょっぴり寂しい思いをしていた
らしい。
そっかぁ。うるさくかまってくる私の両親も、少しは役に立って
いたか。それなら良かったかな。
明日こそは一緒に楽しく遊びましょうね。私はそんなことを考え
ながら眠りについた。
││はずだったのに、なぜか次の日の昼間から璃々奈が突撃訪問
してきた。
﹁麗華さん!遊びに来てあげたわよ!﹂
いや、誰も呼んでいないから。見ろ、麻央ちゃんのびっくり顔を。
﹁あら、この子は誰ですの?﹂
私と一緒にニードルフェルトをやっていた麻央ちゃんを、璃々奈
が無遠慮にじろじろと眺めた。
﹁この子は早蕨麻央ちゃんといって、私が妹みたいに思って可愛が
っている子よ。瑞鸞の初等科に通っているの。麻央ちゃん驚かせて
ごめんなさいね、この子は古東璃々奈。私の従妹なの﹂
886
私は麻央ちゃんを庇うようにしてお互いを紹介した。
﹁妹⋮?﹂
璃々奈の眉がピクッと動いた。
﹁妹⋮﹂
璃々奈は不機嫌そうに私達を見比べた。麻央ちゃんは璃々奈の視
線に怯えた様子だ。ここは私がきっちり璃々奈に言ってやらねば!
﹁璃々奈﹂
﹁麻央!﹂
璃々奈は私を押しのけるようにして、麻央ちゃんの前に仁王立ち
した。
﹁は、はい⋮﹂
﹁麻央、ね。いいわ!今日から貴女を私の妹にしてあげる!﹂
﹁えっ!﹂
﹁はあっ?!﹂
驚きすぎて思わず素が出てしまった。妹にしてやる?!なに言っ
てんだ、こいつは。
﹁あの⋮﹂
﹁麗華さんの妹なら、私の妹も同然。今日から私のことは璃々奈お
姉様と呼びなさい!﹂
﹁え⋮璃々奈、お姉様⋮?﹂
887
璃々奈は麻央ちゃんに満足気に頷いた。
﹁ちょっと、璃々奈⋮﹂
﹁麻央は初等科なのね。今日は麗華さんの家に遊びに来てたの?え
っ、泊まり?!だったら私も今日は泊まるわ﹂
私の制止の声など聞こえないのか、璃々奈は麻央ちゃんにぐいぐ
い迫って話を進めていく。そして気が付けば、いつの間にか仲良く
なってしまっていた。って、璃々奈が泊まっていくってのは確定な
のか?!
昨夜の私と同じく、お姉さん風を吹かせたい璃々奈は麻央ちゃんに
勉強を教えてやると言い出し、宿題を手伝い始めた。余計なことを
と思って止めようとしたけれど、意外にも璃々奈の教え方は上手か
った。そして頭が良かった。さりげなく璃々奈の成績に探りを入れ
れば、期末テストは20位だったという衝撃の事実!
﹁わぁ、璃々奈お姉様は頭が良いんですねー﹂
﹁20位なんて、たいしたことないわよ。むしろ中間より下がった
くらい﹂
負けた⋮。いまやすっかり麻央ちゃんの尊敬の目は璃々奈に向け
られている。私はそっと部屋を出た。
﹁あれ、どうしたの麗華。麻央ちゃんは?﹂
休日で出かける支度をして部屋を出てきたお兄様が、暗い顔をし
た私に気がついた。
﹁璃々奈が来て⋮﹂
888
﹁璃々奈?﹂
お兄様が私の部屋を覗いて﹁なるほど⋮﹂と呟いた。中からはき
ゃっきゃっとふたりの楽しげな声が聞こえてきた。
﹁璃々奈に麻央ちゃんを取られちゃったんだ﹂
﹁はい⋮﹂
﹁まぁ、3人で仲良く遊んでて。僕も帰ったら付き合うから﹂
﹁本当ですか?!﹂
お兄様、早く帰ってきてくださいね。私はお兄様を見送ったあと、
ひとり蔵へと向かった。
先日フラフープなどを片付けるために入った蔵で、私は恐ろしい
物を見つけてしまった。蔵の奥にしまわれていた大きな木箱。好奇
心で開けてみると、中にはおかっぱ頭に赤い着物を着た日本人形が
入っていた。
﹁ぎゃああっ!﹂
日本人形が苦手な私は悲鳴をあげた。しかもよく見るとそれは茶
運び人形だった。怖いもの見たさで怖々とぜんまいを巻けば、カタ
カタと音を鳴らしながら人形がこちらに向かって動き出す。怖いっ
!勝手に動く人形、怖すぎるっ!
後ろには髪が時々伸びる、年代物のお雛様の入っている箱。前に
は不気味に動く茶運び人形。夜中だったら恐怖で髪が真っ白になり
そうだ。
私は急いでそれを箱に戻し、蔵から逃げ帰った。夜、あの人形が
部屋に来たらどうしようとビクビク怯えながら⋮。
889
そんな不気味な自動人形を今こそ目覚めさせよう。
私は蔵から持ち出した茶運び人形のぜんまいを巻き、ドアの隙間
から自室に投入した。
しばらくすると璃々奈と麻央ちゃんの悲鳴が響き渡った。うへへ
へへ。私からお姉さん役を奪った嫌がらせだ∼。
そのあと私は璃々奈からなにを考えているんだ!と、こっぴどく
怒られ、半泣きの麻央ちゃんに謝り倒した。
夜にはお兄様も帰ってきたのでみんなでトランプやジェンガをし
たりして遊んだ。人数が多いとこういった遊びが出来て楽しいね。
私のベッドはそこまで大きくないので、璃々奈には客室で寝ろと
何度も言ったのに、璃々奈は自分も一緒に寝ると言って譲らなかっ
たので、私達は3人でくっついて寝ることになってしまった。狭い
⋮。
璃々奈は麻央ちゃんの家の事情を聞いて怒った。
﹁なんなの、それ!腹立たしいわね!麻央も我慢しないではっきり
言ってやればいいのよ!﹂
﹁でも⋮﹂
﹁璃々奈、麻央ちゃんは貴女と違って優しい子なのよ﹂
﹁ふんっ。だったら麻央がその弟から跡継ぎの座を奪ってやればい
いわ。麻央のほうが優秀だと見せつけてやるのよ。ふふふ、弟め、
歯ぎしりして悔しがればいいわ﹂
﹁え⋮あの、別に私は弟が嫌いなわけではないので⋮。それに後を
継ぎたいとも思っていませんし﹂
﹁そうなの?﹂
﹁はい﹂
890
そうよ。麻央ちゃんが継ぐのはロココの女王。
﹁なーんだ。だったら麻央は好きな人と結婚できるように今から根
回しすればいいわ﹂
﹁どっから結婚の話が出たのよ﹂
話の飛躍についていけない。
﹁だって私達はうかうかしていると政略結婚で相手を親に決められ
てしまうじゃない。だから好きな人が出来たら早めに手を打たない
と﹂
﹁はあ⋮。全く、璃々奈は子供のくせにそんなこと考えているの?﹂
﹁考えるに決まってるじゃない。私は一人っ子だからお婿さんをも
らわなきゃいけないんだもの。麗華さんこそお気楽すぎるわ。本当
になにも考えていないのね﹂
﹁⋮すみません﹂
家を継ぐために婿取りを覚悟していたとは⋮。我がままで子供だ
と思っていた璃々奈の意外な一面を知った夜だった。
私は没落したあとの身の振り方ばかり考えていたけど、このまま
順調にいけばそのうち私にも政略結婚の話がくるのかなぁ⋮。
やだやだ、私は絶対に恋愛結婚がいい。璃々奈の言う通り、手を
打たなくちゃ!今のところ相手いないけど!
私がブツブツと独り言を言っている間に、ふたりはぐっすり眠っ
てしまった。
私は昔、寝る時に体を左右対称にして寝ると金縛りにあいやすい
という話を聞いたことがあったので、音熟睡する璃々奈の手足をそ
っときちんと揃えてあげた。
891
139
麻央ちゃんお泊り会最終日の予定は、お兄様と前から約束してい
た水族館。場所は恋する遊び島だ。恋愛ぼっち村村長の私にケンカ
を売るようなキャッチコピーに、多少の引っ掛かりを覚える。
麻央ちゃんには悠理君という素敵な男の子がいる。それは去年の
サマーパーティーで初めてふたりに会った時からなんて微笑ましい
小さな恋人達でしょうと見守り、時にはいいなぁ、羨ましいなぁと
すら思ってきた。
しかし、だ。璃々奈は私と同じく、恋愛には縁がない我が村の村
民だろうと密かに思っていた。だって我がままで自己中な璃々奈だ
もんねー。なのに、昨夜話の流れで璃々奈が、今までに何人かに告
白されたことがあるとサラッと爆弾発言をしてくれたので、私は天
地がひっくり返るような衝撃を受けた。。璃々奈が男の子から告白
?!しかも数回?!
恋愛面において、こいつは私と同レベルの寂しいヤツよと見縊っ
ていた璃々奈からのまさかの激白!ショックであうあうとなる私に、
璃々奈は怪訝な顔で﹁高校生にもなれば告白された経験くらい誰に
だってあるでしょう?﹂と更なる追い打ちをかけた。
ねーよっ!生まれてこのかた1度もねーよっ!なんなら前世を含
めて1度もねーよっ!
勉強面でも恋愛面でも、私は璃々奈に完全に敗北を喫した││。
璃々奈のくせにっ!璃々奈のくせにっ!ボコボコと沼気のように
湧き上がる黒い感情に蓋をして、私はふたりに笑顔で朝の挨拶をし、
麻央ちゃんにお願いされて髪を巻いてあげた。
麻央ちゃんは水族館に行ったあとはそのまま家に送り届ける予定
なので、荷物も車に積み込みお兄様の運転で、いざ敵島に出発!
892
夏休みということで、水族館はかなり混んでいた。これははぐれ
ないように気を付けないと。特に小さい麻央ちゃんは要注意だな。
手を繋いであげよう。
﹁麻央ちゃ⋮﹂
﹁麻央、迷子にならないように手を繋ぐわよ﹂
﹁はい。璃々奈お姉様﹂
麻央ちゃんと璃々奈は仲良く手を繋いでふたりでさっさと水族館
に入っていった。私を置いて。
⋮⋮いいんだ、私にはお兄様がいるから。ねっ、お兄様。お兄様、
携帯をいじっていないで私をかまって。
麻央ちゃんの一番のお目当てはシロイルカ。私は昔から大好きな
ホッキョクグマだ。白クマ可愛いよねー、白クマ。切手も持ってい
ます。
麻央ちゃんは昨日のトランプや今日の水族館でずいぶんとお兄様
という称号をお兄様に取られ
に格下げされた市之倉さんは大ショック
兄様
にも打ち解けてくれたようで、﹁貴輝兄様﹂と呼ぶようになってい
叔父様
た。可愛がっている姪っ子の
たと知ったら、
を受けるだろうなぁ⋮。
水族館はトンネル型のイルカの水槽が良かった。外の暑さを忘れ
させてくれる光景で、私達はしばらく頭の上を泳ぐイルカに見入っ
ていた。でもやっぱり私は白クマさんだけどね。
今度はみんなで沖縄か大阪の水族館に行きたいねなどと話しなが
ら、一通り水族館を堪能したあと、私達は横浜の繁華街に出た。こ
れからぶらぶらとお店を見たり食べたりするのだ。
するとお兄様が﹁暇な人間をもうひとり呼んだから、少しだけ待
893
ってくれる?﹂と言い出した。暇な人間?はっ!まさか彼女とか言
わないよね、お兄様!
﹁ほら、来たみたいだ﹂
車道の向こう側でこちらに向かって手を振る人物がいた。
﹁伊万里様?!﹂
わぁっ!伊万里様に会うのって久しぶりだ。相変わらずモテオー
ラが凄いなー。
﹁突然呼び出すなよ、貴輝﹂
﹁だってお前、暇だろ﹂
﹁失礼なヤツだなー﹂
伊万里様はお兄様と軽く憎まれ口を叩きあった後、私達ににっこ
り笑いかけた。
﹁久しぶり、麗華ちゃん。こちらのふたりは初めましてかな?この
吉祥院貴輝と小学生からの腐れ縁を結んでいる、桃園伊万里です﹂
﹁貴兄様の従妹の古東璃々奈です﹂
﹁初めまして!早蕨麻央です!﹂
よろしくーと、伊万里様は全員と握手をした。
﹁そうそう。女の子達に差し入れね。はいこれ。塩バターが入って
いるから熱中症予防にどうぞ﹂
そう言って伊万里様が私達に手渡してくれたのは、フランスの有
894
名なキャラメル専門店の1粒150円以上するという高級キャラメ
ル。さすがだ、伊万里様。赤いキャラメルを口に入れると、フルー
ツの味が口の中いっぱいに広がった。おいしーい!
﹁この暑さにキャラメルじゃ、溶けちゃうんじゃないか?﹂
﹁だからなるべく外は歩かないようにしようぜ。俺、暑いのイヤだ
し﹂
伊万里様は私達を先導してショッピングモールに入って行った。
女の子の買い物に付き合うのなんて退屈で面倒だろうなと思うのに、
伊万里様はこれが似合うよ、あれも可愛いねとにこやかに相手をし
てくれる。階段を下りる時などには、はいどうぞとさりげなく手を
差し出してエスコートしてくれる伊万里様に、麻央ちゃんがすっか
りポーッとなってしまっていた。悠理君、大変だ!君のライバルが
こんなところにも!
とあるアクセサリーショップに入った時、ガラス製の可愛らしい
髪飾りを見つけた。振るとしゃらしゃらとガラスが音を立てる。
﹁わぁ、その髪飾り素敵ですね﹂
麻央ちゃんが私が手に持つ髪飾りを見て言った。髪飾りは色違い
で何種類かあったので見ていると、﹁どれが気に入ったの?﹂と伊
万里様に聞かれた。
﹁ふたりともそれが気に入ったの?じゃあ今日の記念に俺がプレゼ
ントするよ﹂
ええっ?!
最初は私達も悪いと遠慮したけれど、伊万里様の話術に乗せられ
て気が付けば買ってもらうことになってしまった。麻央ちゃんはピ
895
ンク、私は赤、璃々奈が青だ。麻央ちゃんは買ってもらった髪飾り
を伊万里様に手ずから付けてもらって、完全に虜だ。うわわわわ、
確かに伊万里様は素敵だけど!
それを見ていた璃々奈が麻央ちゃんを隅に引っ張って行き、﹁あ
の方は危険だから好きになっちゃダメよ﹂となどと諭していた。な
にやってんだ璃々奈。
ふと後ろからお兄様と伊万里様の会話が聞こえてきた。﹁お前そ
んなことばかりやっていると、また刺されるぞ﹂⋮⋮え?
どうやら璃々奈は見る目もあるらしい。
夕方になり車で麻央ちゃんと璃々奈をそれぞれ家に送り届けると、
お兄様と伊万里様は一端私の家に戻ったあと、ふたりで出かけてし
まった。
1日中遊んで疲れた私が自分の部屋のドアを開けると、昨日しま
ったはずのおかっぱ頭の茶運び人形が、カタカタと揺れながらこち
らにやってきた。
今日は鏑木家主催の蛍狩りだ。場所は鏑木グループのホテルの日
本庭園。私は張り切ったお母様に着物を着せられた。夏らしい水浅
葱色の絽の着物だ。お父様は菖蒲色の着物を着たお母様にきれいだ
よなどとほざいていた。
会場に入り、鏑木夫妻に挨拶をしたあとは吉祥院家とも付き合い
のある方々への挨拶回り。会場を連れ回されて少し疲れたので、休
ませてもらおうかなと手ごろな椅子を探していると、﹁どうぞ﹂と
飲み物が差し出された。
896
﹁円城様﹂
﹁こんばんは、吉祥院さん﹂
こいつも来ていたか⋮。
﹁今日は着物なんだ。とてもよく似合っているよ﹂
﹁ありがとうございます﹂
私はほかに誰かいないかと目で探すと、﹁雅哉ならあっちだよ﹂
と見当違いのことを言われた。
﹁私は別に鏑木様を探していたわけではありませんけど﹂
﹁あれ、そうなんだ。一応主催者の息子だから挨拶したいかと思っ
たんだけどね﹂
なんだよ、礼儀知らずとでも言いたいのかよ。
蛍狩りはもう始まっていて、庭にはたくさんの蛍が飛んでいるよ
うだ。
﹁見に行かないの?﹂
﹁そうですね﹂
せっかくだから見てみたい。でも前に玉鬘がどうのとか言われて
たなぁ。着物着てきちゃったし、変な展開になったらイヤだな。
﹁雅哉も行ってるみたいだから、僕達も行こうよ﹂
﹁⋮ええ﹂
だから鏑木目当てじゃないってば。
庭に出ると無数の蛍が飛んでいた。招待客の周りをふわふわと飛
897
ぶ蛍はとても幻想的だった。うわあっ!いいなぁ!
私も蛍に近づいてみると、ふわっと蛍が逃げた。あれ?
私が近づく。蛍、一斉に逃げる。また近づく。蜘蛛の子を散らし
たように逃げる。
⋮⋮おかしい。私の着物に薫きしめられた香は、決して除虫菊で
はないはずだ。なぜだ。
﹁まぁっ、恵麻さん、人気者ねぇ!﹂
見ると、舞浜さんが蛍に囲まれて玉鬘になっていた。
蛍が一匹も近くにいない私に気づき、舞浜さんがふふんと笑った。
負けた⋮⋮。
玉鬘役をまんまと舞浜さんに取られるの巻。
笑ってるんじゃないよ、円城!蛍に嫌われているのは私の隣にい
るあんたじゃないの?!
そこへピヴォワーヌ会長の瑤子様が華やかな笑みを浮かべ、ほか
のピヴォワーヌメンバーとともにやってきた。
あ、なんかヤな予感⋮⋮。
898
140
会長達が﹁ごきげんよう、円城様、麗華様﹂と、私達の元にやっ
てきた。
﹁見事な蛍ですわね。本当に日常を忘れてしまいそう﹂
会長はうっとりと庭を舞う蛍を見やった。
﹁もう少し近くを飛んでくれたらもっと素晴らしいのでしょうけど
⋮﹂
蛍に嫌われてしまった私はつい、自虐的になった。隣で﹁ふっ⋮﹂
と円城が笑い声を洩らした。だから蛍が逃げちゃったのは、あんた
が犯人かもしれないでしょうが!
﹁そうね。でも蛍を一番美しく観賞するには、これくらいの距離が
ベストなのかもしれなくてよ﹂
さすが会長、いいこと言う!
﹁吉祥院さん、そんなに蛍を近くでみたかったら、一匹獲ってきて
あげようか?﹂
﹁⋮⋮お気持ちだけで充分ですわ、円城様﹂
目が思いっ切り笑ってるぞ、円城。こいつ笑い上戸だったのか。
舞浜さん達がいる場所から華やかな笑い声が響いた。そこでは鏑木
とその隣を陣取る舞浜さんの周りを蛍がふわふわと回っていた。
899
﹁雅哉様、ほら見て!私達の周りを蛍が!﹂
舞浜さんが得意気に、まるで蛍がふたりの仲を祝福しているかの
ように周囲にアピールした。あんなに騒いでいるのに、なぜ蛍が寄
って行くんだ?あの人、なにか虫を呼び寄せる香でも使っているん
じゃなかろうか。
はしゃぐ舞浜さんとは逆に、無表情な鏑木が若干鬱陶しそうに舞
浜さんをあしらっていた。モテるのも大変だね。
﹁鏑木様とご一緒にいるかた⋮。確か、舞浜さんでしたかしら、百
合宮の⋮﹂
会長の目が鋭くなった。
﹁ええ、瑤子様。何度か瑞鸞にも押しかけてきましたわ﹂
﹁百合宮では一部の生徒の間で、百合宮の女王などと呼ばれている
とか﹂
百合宮の女王?!私はピヴォワーヌメンバーの言葉に驚いた。舞
浜さんって小物だと思ってたのに百合宮では女王として君臨してた
の?!
﹁まぁ⋮﹂
艶然と微笑む会長の目は全く笑っていない。この場に円城がいる
のでみんな滅多な発言はしないが、不穏な空気に私は退路を探しは
じめた。
すると舞浜さんを纏わりつかせた鏑木が、親友の姿を見つけてや
ってきた。
900
﹁秀介、ここにいたのか﹂
﹁あれ、探してた?﹂
﹁鏑木様、本日はお招きいただきましてありがとうございます﹂
会長が代表してお礼の挨拶をして、私達がそれに続いた。鏑木は
二言三言私達と言葉を交わしたあと、円城に話したいことがあると
誘った。それ完全に舞浜さんから逃げる口実だろう。
﹁なら中で話そうか﹂
円城がそれに応えてふたりはその場を離れようとしたが、舞浜さ
んは諦めずふたりに付いていこうとした。が、やんわりと円城に断
られていた。
﹁少しふたりだけで話したいから、今は遠慮してもらえるかな﹂
﹁せっかくの蛍だ。楽しんで行ってくれ﹂
円城と鏑木は舞浜さんを置いて室内に戻って行った。鏑木、上手
く逃げおおせたな。
取り繕う相手がいなくなったことで、私達の空気が一気に殺伐と
した。さっそく舞浜さんが私に攻撃を仕掛けてきた。
﹁あら麗華さん。さきほどの様子見ていたわよ。蛍にも相手にされ
ないなんてお可哀想ー。玉鬘になれなくて残念でした﹂
やっぱりあの時の鏑木夫人達の会話を聞いていたか⋮。凄い顔し
て私を睨んでいたもんなぁ。
﹁まぁ!虫にしか相手にされないどなたかと麗華様は違いましてよ。
901
貴女はさながら玉鬘というより虫愛づる姫君といったところかしら
?ご立派な眉毛ですこと﹂
私が言い返そうとする前に、会長が参戦してきた。会長の言葉に
周りの子達もほほほと笑う。
﹁虫愛ずる姫君?!ずいぶんと失礼なことを言うのね﹂
舞浜さんが会長を睨んだ。会長はその目に怯むことなく笑顔で受
けた。
﹁そうね。虫愛ずる姫君というより、鏑木様という光に吸い寄せら
れる虫そのものかしら。貴女を見ていると誘蛾灯を思い出しますの。
あら、今日のドレスも大水青のようでとてもお似合いよ﹂
﹁なっ⋮!ふんっ!私が虫なら貴女は私を食らおうとする食虫植物
かしら。あぁ、怖い!雅哉様に守っていただかなきゃ!﹂
﹁ほほほ、鏑木様にまるで相手にされていないくせに﹂
﹁それ自分達のことを言ってるの?何年も同じ学校に通っているの
に、いつまで経ってもその他大勢の扱いをされているみなさん?﹂
舞浜さん、会長相手に凄い度胸⋮。会話の内容が聞こえていない
周囲からは、一見、若い令嬢達が楽しげに談笑しているように見え
ているだろうが、内実は真剣での切り合いだ。
﹁生憎だけど、こちらの麗華様は鏑木様からピアノの演奏を贈られ
るほどお親しいのよ。あの時のショパンは素晴らしかったですわよ
ね、麗華様﹂
﹁えっ!はいっ!﹂
うわっ、私も戦場に引っ張り出す?!でも今日の私は着物に合わ
902
せてまとめ髪にしてしまっているから、戦闘力が普段の20%減な
のよ。持ってる刀はスポチャンのソフト剣です。
﹁麗華様のために鏑木様が弾いて差し上げた幻想即興曲や子犬のワ
ルツ、あぁモーツァルトのトルコ行進曲もありましたわね。素敵で
したわぁ﹂
あ!会長さりげなく麻央ちゃん達のために弾いた曲も盛った!
﹁へぇ⋮そう。だったら私も今度、雅哉様にピアノをお願いしてみ
ようかしら﹂
﹁そうしたらいかが?ただし鏑木様が弾いてくださればの話ですけ
ど﹂
こ、怖い⋮。退路!退路はどこだ!
切り合っているのは主に会長と舞浜さんなのに、なにも言ってい
ない私を舞浜さんが憎々しげに睨むのはなぜ!
舞浜さんがこの場を離れるまで、舌戦はしばらくの間続いた。
﹁あのかた、百合宮では相当派手になさっているそうよ。女王気取
りで、気に入らない人間を取り巻きに指示して孤立させたり﹂
舞浜さんの後ろ姿を見つめながら、会長がそうこぼした。
﹁集団でひとりを孤立させるなんて、あのかたの性格がわかるとい
うものですわ﹂
﹁百合宮の方々も大変。あんなかたに学校を牛耳られていては﹂
え⋮、貴女達がそれを言う?
人の振り見て我が振り直せ。昔の人はいいこと言うなぁ、
903
私は庭を舞う蛍を見つめ、心を遠くに飛ばした。蛍、もっと近く
で見たいなぁ。
なんだか腕が痒いので見ると蚊に刺されていた。蛍は寄ってこな
いのに、蚊は寄ってくるとはどういうことだ。痒いけど掻けないの
で、赤く腫れた部分を私は気休めに爪でバッテンを付けた。痒いっ
!明日、皮膚科に行って来なくちゃ。
﹁ピヴォワーヌのメンバーを守るのが会長たる私の務め。麗華様、
舞浜さんとなにかあったら私にすぐにおっしゃってね。私、いつで
も力になりますわ﹂
﹁ありがとうございます⋮﹂
なにかあっても絶対に言いません。瑞鸞と百合宮の全面戦争なん
て、考えただけで恐ろしい。
うふふ、ほほほと蛍の庭に私達の笑い声が響いた。
次の日、私宛てに円城から虫籠に入った一匹の蛍が届けられた。
昼間の蛍はただの黒い虫だった。
904
141
せっかくもらった蛍だけど、1週間程度しか生きられない残りの
人生ならぬ虫生を、虫籠の中で終わらせるのは忍びないので、瑞鸞
の森に放してあげることにした。本当は麻央ちゃんにも光る蛍を見
せてあげたいとちょっと思ったんだけどね。まぁそれはまた今度機
会があればということで。
そうして私は夏休みの学院に登校した。瑞鸞の森で虫籠を開ける
と、飛んでいくかと思った蛍は意外にも近くの草にへばりついて動
かなくなった。⋮⋮もしかして今が臨終の瞬間?!落ちていた枝で
蛍のとまっている草をツンツン突くと、蛍がふよふよと飛んで離れ
た葉っぱにまたとまった。どうやらいまわの際ではなく、ただの休
憩時間だったらしい。蛍、大往生しろよ!
私は心の中で蛍を激励し、森を後にした。
やはり緑が多くある場所は多少涼しいようだ。森を出た途端、う
だるような暑さが襲ってきた。日傘で直射日光を避けながら、小走
りで校舎に向かう。こんな暑さの中でも練習をしている運動部って
凄いなぁ。熱中症には気を付けてね。
校舎に入って廊下でしばし涼んでいると、委員長と岩室君が通り
がかった。
﹁あれっ、吉祥院さん、今日はどうしたの?﹂
委員長が私に声を掛けた。
﹁ちょっと用がありましたのよ。おふたりは補習ですか?﹂
905
﹁うん﹂
夏休み中に学院では希望者に向けての補習授業がある。そして今
回委員長達が受けているのは、私が中等科の時に受けた成績のあま
りよろしくなかった生徒を対象にしたものではなく、やる気のある
生徒達向けの特別授業だ。
﹁確か休み前に本田さんも受けると言っていませんでした?﹂
私がコソッと委員長に聞くと、委員長も辺りに人がいないのを確
かめて﹁そうなんだ。クラス分けも一緒で﹂と嬉しそうに頷いた。
﹁岩室君も同じ補習クラスだから、僕と岩室君と本田さんと野々瀬
さんの4人で近くの席に座って勉強してるんだよ﹂
﹁まぁっ﹂
美波留ちゃん目当てに補習に参加した甲斐があったな、委員長。
この夏休みの間にずいぶんと進展しているようじゃないか。
﹁本田さんと野々瀬さんが僕と岩室君に、吉祥院さんと仲がいいね
と話しかけてきてくれたのがきっかけなんだ。元々岩室君とも吉祥
院さん繋がりで仲良くなったし、なんだか吉祥院さんのおかげかも﹂
ほー。私のおかげとな。実際はなにもしていませんが。
﹁私が少しでもお役に立てたのなら良かったですわ﹂
﹁いやぁ、さすが僕の恋愛の師匠だよね。それと岩室君にも話して
協力してもらっているんだよ。岩室君とは妙に気が合うんだ。ね、
岩室君﹂
﹁そうだな﹂
906
﹁そうでしたか。私もおふたりは気が合うのではないかと、前から
思っていましたのよ﹂
ぱっと見、柔道部の岩室君と委員長では毛色が違うように見える
けど、中身は同じ乙女結社だもんな。
その時窓の外から、私の後頭部にバシッと何かがぶつけられた。
﹁痛っ!﹂
えっ、なに?!石でもぶつけられた?!でも頭に重みを感じるん
だけど。
すると突然左横から、ジジジジーーーーッ!!!というけたたま
しいの目覚まし時計のような音が私を襲った。えっ?!この音って
まさか!
﹁吉祥院さん!頭に蝉がとまってる!﹂
﹁いやあっ!!﹂
やっぱり!
やだあっ!気持ち悪いっ!怖いっ!うるさいっ!
左斜め後ろでジージー大音量で鳴き続ける蝉をどうにかしたくて
も、大きさが大きさだけに手で触りたくないっ!トンボは触れても、
蝉はムリ!
慌てて委員長が私の頭に手を伸ばそうとするけれど、高速で動く
羽に威嚇されて躊躇した。私も必死で頭を横にブンブン振って落と
そうとしたけれど蝉はびくともしない。頭を振ると蝉の本体が目の
端に見えて全身に鳥肌が立った。気持ち悪いっ!怖いっ!うるさい
っ!ぎゃーーーっ!
もう私はパニックでただひたすら蝉を落としたいと、連獅子のご
とくグルングルンと頭を振り回した。離れてーーー!
907
﹁少し動かないで!﹂
背の高い岩室君が﹁痛かったらすいません﹂と言いながら私の背
後に手を伸ばし、その手の甲でバシッと頭の蝉をはたき落してくれ
た!
﹁やった!岩室君!吉祥院さん、取れたよ!﹂
﹁ぅえ⋮?!﹂
頭を振りすぎて目眩がする視界の端で、あおむけになった蝉が床
に落ちているのが見えた。
蝉ははたき落されたショックで気絶でもしていたのか、少しの間
そのままの状態だったが、すぐに復活してブーンッと窓から飛んで
行った。
﹁大丈夫だった?吉祥院さん﹂
﹁具合悪そうですね。保健室に行きますか?﹂
﹁ありがとう、おふたりとも。驚いて取り乱してしまいましたわ、
ごめんなさい⋮﹂
大きな虫がとまった恐怖とあの喧しい鳴き声に、思わず我を忘れ
てしまった。あの騒音に風情を感じる芭蕉先生の境地には私は至れ
ないな⋮。あー、びっくりした。
﹁あっ、吉祥院さん、髪に折れた蝉の足が⋮﹂
ぎゃあああああああっっっ!
908
あの悪夢の蝉事件のあと、私は速攻ヘアサロンにシャンプーの予
約を入れて直行した。理由は言わず、とにかく念入りに洗ってもら
った。
蝉の足は委員長達が取ってくれて、ほかに頭に異常な物体が付い
ていないか、ふたりでチェックしてくれた。ふたりにはどうかこの
出来事は内密にしておいてくれと頼んだ。ふたりは誰にも言わない
と約束してくれ、﹁南仏では蝉は幸運の象徴だから、これからきっ
といいことがあるよ!﹂と慰めてくれた。本当?
そして委員長は私の髪をチェックしながら、岩室君に﹁逆巻きの
一房を見つけると幸運が訪れるよ﹂とも言っていた。それを聞いた
岩室君は熱心に探し始めた。そして見つけたらしい。良かったね⋮。
そんなこともあった数日後、私は久しぶりに桜ちゃんの家に遊び
に行った。夏なので手土産は世界的に有名なチョコレート店のアイ
スクリームにした。ストロベリー味、濃厚でおいしーい!アイスの
中に入ったチョコチップもこれまたおいしい!
私達は桜ちゃんの部屋でのんびりアイスクリームを食べながら、
近況を話し合った。
﹁今日は秋澤君はいないの?あ、部活かな﹂
﹁そう。合宿だ練習試合だのって忙しそうよ。それ以外に塾の夏期
講習もあるし、せっかくの夏休みなのに、あまり一緒にいられない
のよ﹂
﹁そっかぁ﹂
﹁陸上部といえば!ねぇ、陸上部に1年のマネージャーが入ったん
だけど知ってる?﹂
﹁え、知らない。そもそも瑞鸞の陸上部にマネージャーなんていた
んだ﹂
﹁いたのよ。マネージャー、要注意だわ。あの子達は下心満載よ﹂
909
﹁わ、決めつけ﹂
﹁だって女子校である百合宮の運動部にはマネージャーなんていな
いもの。瑞鸞の陸上部のマネージャーは男子部女子部の合同らしい
けど、たいていの男子運動部のマネージャーをやる子で、純粋にそ
のスポーツが好きだからってだけの目的の子なんていないわよ。今
度牽制するために大会に応援に行かなくちゃ。学園祭まで待ってら
れないわ﹂
﹁頑張れ∼﹂
相変わらず桜ちゃんの秋澤君への守備は鉄壁だなぁ。
﹁心がこもってないわねぇ。まぁいいわ。それより麗華はどうなの
?最近﹂
﹁う∼ん、特にはなにも。あ、舞浜さんと何回かぶつかった﹂
﹁舞浜?なにかされたの?﹂
﹁たいしたことはないわ。ケンカを売られたり嫌味を言われたりし
たくらい。瑞鸞の皇帝がらみでなぜか私に敵対心を持っているのよ
ねぇ﹂
﹁そういえば前に舞浜が、瑞鸞で皇帝の周りをうろつく目障りな子
がいるって言っていたのを小耳にはさんだけれど、もしかして麗華
のこと?﹂
﹁え、私、皇帝の周りをうろついた覚えはないけど⋮﹂
でもたぶん私のことだろうなぁ。あの憎々しげな睨み方をみると。
﹁舞浜さんって百合宮の女王なの?﹂
﹁気取り。そんな器じゃないわ﹂
﹁そうなんだー﹂
﹁ちょっと大丈夫?もし舞浜についてあまりに我慢できなかったら、
私も力になるわよ﹂
910
﹁ありがとう桜ちゃん。でも全然平気。申し訳ないけど舞浜さんを
怖いと思ったことないし。面倒だなぁとは思っているけど﹂
﹁それならいいけど﹂
舞浜さんかー。鏑木はまるで相手にしていないみたいだけど、優
理絵様がらみで強く拒否出来ないのかな。
あれ以来優理絵様とどうなったのか、私には情報が入ってこない
し、この間の蛍狩りでも優理絵様の姿はなかったし、結局ふたりは
どうなったんだろう。鏑木は吹っ切ることができたのかな。
今の時点で鏑木は若葉ちゃんとも進展が全くないし、優理絵様と
もう一度ってことはないのかな。でも優理絵様は大学を卒業したら
アメリカに行っちゃうかもしれないんだもんね。う∼ん。
まぁ、他人の恋路より自分をどうにかしないとな⋮。明日も図書
館に行かなくちゃ。たまに隣に座って脳内で学生カップルの妄想を
したりしてるんだ。
この夏、気が付けば私は、立派なストーカー予備軍になっていた。
911
142
夏休みの私は忙しい。早朝ジョギング、夏期講習に旅行、芹香ち
ゃん達や桜ちゃん達とのお出かけもあった。お父様やお母様の付き
合いに駆り出されることもあった。そしてその合間を縫っての図書
館通い。もちろん目当てはナル君似の男の子だ。
なるべく近くの席を狙っているけれど、毎回そう上手くいくわけ
もない。そういった時には諦めて遠く離れた席でひたすら勉強する
が、少しでも近くの席が空けば移動して距離を縮めていく。運良く
隣の席に座れた時は体中が心臓になったみたいにドキドキした。横
目で持ち物チェックをして、どうにか名前を知ることが出来ないか
頑張ってみたけれどダメだった。これって一歩間違えば完全にスト
ーカーだよね?でも後をつけることだけはしていない。それをやっ
たら、人としてなにかが終わる気がするから⋮。だからまだ予備軍。
私の夢を叶えるための時間は残り少なくなってきているのに、本
当になにをやっているんだか⋮。
私の前世からの夢。それは制服デート。とにかく好きな人と制服
姿で一緒に歩きたい!放課後ふたりで帰りたい!そしてたどたどし
く手なんかつないじゃったりして⋮きゃーっ!
いいなーいいなー、憧れるなぁ。それ以外にも、好きな人の自転
車の後ろに乗せてもらうっていうのも憧れる。荷台に横座りしちゃ
ったりして⋮うわぁっ!
前世で従兄のナル君の自転車の後ろに乗せてもらった時、頭の中
で恋人シチュを妄想してたなー。まずい、あの頃と恋愛的精神年齢
が全然変わっていない。
そういえばナル君が高校生の時に、制服姿で彼女らしき女子高生
912
と歩いているのを見た時はショックだったなー。ナル君の家の伯母
さんに話したら、確かに同じ学校の女の子と付き合ってると聞いて
落ち込みまくったけど。当時の私は小学生。あぁ、この年の差が憎
いっ!
そのナル君は伯母さんが親戚中に彼女が出来たことをペラペラし
ゃべったおかげで、お正月におじさんおばさん達の餌食にされて放
心していた。今も昔も若者にとって親戚の集まりというのは鬼門だ
⋮。
それはさておき、制服デートだ。私が制服を着られるのも残りあ
と1年半。それまでの間に神様、私にも春を!
今年のサマーパーティーは会長がピヴォワーヌの権勢を誇るため
に例年より力を入れたため、OBOGの参加者やプティの参加者も
多かった。人の波に酔いそう。
私は会長に挨拶に行った。
﹁まぁ麗華様、今日のドレスも素敵ですわ。先日の蛍狩りでのお着
物もお似合いでしたけれど﹂
﹁ありがとうございます。瑤子様も夏の夕闇のような色合いのドレ
スに、月のような真珠が映えてとてもお似合いです﹂
﹁この真珠のイヤリングは母から譲り受けた一点物なの﹂
会長はご機嫌に笑った。
﹁ところで麗華様、百合宮の舞浜さんからはあれからなにも言われ
ていないかしら?﹂
﹁ええ。ご心配ありがとうございます﹂
913
会長の周りには次から次へと挨拶に来るメンバーが続いているの
で、私は会釈をしてその場を離れた。会場を見渡すと讃良様を見つ
けたので小走りに近づき声を掛けた。
﹁讃良様、ごきげんよう!﹂
﹁ごきげんよう、麗華様﹂
勝手に私が孤高の人と思っている讃良様とは、残念ながら学院で
はそれほど親しくする機会がないのだけれど、自分の世界をしっか
り持っている讃良様に私は一方的に好意を寄せている。なのでピヴ
ォワーヌのサロンで会ったりこうしたパーティーの時は讃良様に率
先して話しかけに行く。
﹁讃良様は夏休みをどうお過ごしになっていたの?﹂
﹁とりたてて話すほどの出来事もなかったのだけど。でも絶版にな
っていた本を手に入れることが出来たの﹂
讃良様は相変わらず本の虫のようだ。やたら難しそうな本のタイ
トルばかり出てきて、正直言って私にはさっぱりだ。愛想笑いでご
まかす。
讃良様と談笑しながら前に目を向けると、満開の笑顔でこちらに
向かってくる麻央ちゃんと悠理君がいた。
﹁麗華お姉様!﹂
﹁麻央ちゃん!悠理君も﹂
今日の麻央ちゃんの装いは、先日私のお母様が見立てたレモンイ
エローのドレスだ。
914
﹁麻央ちゃん、ドレスとっても似合っているわ。可愛い!﹂
﹁ありがとうございます。悠理にも褒めてもらえましたの﹂
そう言って、麻央ちゃんは隣の悠理君と笑い合った。あら∼、悠
理君たら紳士!麻央ちゃんが伊万里様によろめいたことは、悠理君
には内緒にしておいてあげるね。
私が麻央ちゃんと悠理君から夏休みの話を聞いていると、突然会
場にどよめきが起きた。えっ、なに?
みんなが注目している様子の入口付近に私も目をやると、そこには
優理絵様をエスコートする鏑木の姿があった。ええっ!!
そしてその後ろからは愛羅様をエスコートする円城もいる。これ
はいったいどういうこと?!
鏑木が避けていたのか、優理絵様が気を使っていたのかは知らな
いけれど、あの冬以来、公式の場で優理絵様と鏑木が一緒にいると
ころは見たことがなかった。
誰も表立って口に出すことはなかったが、ピヴォワーヌのメンバ
ーもそれ以外の瑞鸞の生徒達も、なんとなく鏑木と優理絵様の間に
なにかあったのは気づいていた。そりゃそうだ。昔からなにかとい
えば優理絵様の隣にいた鏑木が、ぴたりと優理絵様を追うのをやめ
たのだから。そして先日の鏑木家主催の蛍狩りもそうだけど、鏑木
関連のパーティーなどに、優理絵様が全く姿を見せなくなった。
それと鏑木と優理絵様が一緒にいることがなくなった同じ時期に、
鏑木の成績が下がったり面やつれしたりしたこともあり、みんな内
心、なにがあったのか知りたい気持ちは山ほどあった。しかし迂闊
に聞けば鏑木の逆鱗に触れかねないということで、ひたすら心の中
で憶測するにとどまっていたのだ。
その渦中のふたりが連れ立ってサマーパーティーに出席したのだ。
会場中の関心はふたりに集中した。
しかしそんな好奇な視線など意に介すそぶりもなく、まるで騒動
前と同じように鏑木達は飲み物を手に4人で楽しげに話をしていた。
915
そのうち鏑木が優理絵様になにやら耳打ちすると、一瞬驚いた顔
を見せた優理絵様が笑顔になり、ふたりはワルツを踊る輪の中に入
っていった。
優理絵様の手を取り巧みに踊る鏑木。その顔は穏やかでその目は
優理絵様への慈しみに溢れていた。
これは、もしかしてとうとう鏑木の長年の想いが実ったというこ
と?!高校2年生にもなり、体格も顔立ちもすっかり大人びた今の
鏑木なら、優理絵様ともお似合いに見える。
円城と愛羅様もワルツに参加し、ホールの中央は瑞鸞屈指の美貌
の4人のおかげで、夢のように華やかな空間になった。
﹁素敵⋮。私もあの中に入ってみたいな⋮﹂
麻央ちゃんがほうっとうっとりため息をついた。それを聞いた悠
理君が﹁じゃあ僕達も踊りに行こうか?﹂と誘い、恥ずかしがる麻
央ちゃんの背を、私が押してあげた。
わくわくした表情で悠理君と踊る麻央ちゃん。私が初等科の時に
お兄様にワルツを踊ってもらった時のことを思い出すなぁ。
﹁麗華様は踊らなくていいの?﹂
﹁えっ﹂
私が見惚れてると思ったのか、隣の讃良様がそう言った。う∼ん、
ワルツねぇ⋮。あ、そうだ!
﹁私の踊りが観たければ、預言者ヨカナーンの首を持っていらっし
ゃ∼い﹂
私は近くにあった銀の盆を片手に持って、讃良様にサロメなポー
ズを取った。
916
﹁⋮⋮そう﹂
あくまでも冷静な表情の讃良様。
デカダン趣味の讃良様に合わせた、私の渾身の文学ギャグはすべ
った⋮⋮。
私はそっとテーブルに銀の盆を置いて、今のことをなかったこと
にした。
そこへ雪野君がやってきた。おおっ!このいたたまれない空気を
払拭する救いの天使よ!
﹁麗華お姉さん、こんばんは﹂
﹁雪野君!﹂
天使な雪野君に久しぶりに会えて、私のテンションは一気にあが
った。
﹁讃良様、こちらは円城様の弟さんで雪野君ですわ!﹂
私は自分の手柄のように雪野君を讃良様に紹介した。
﹁ごきげんよう、雪野さん。凌霄讃良ですわ﹂
﹁円城雪野です。よろしくお願いします﹂
ニコッと笑う雪野君、可愛いっ!
﹁麗華お姉さんは踊らないんですか?﹂
雪野君は自分の兄が踊る姿を見て言った。
917
﹁残念ながらお相手がいませんの﹂
私の言葉に雪野君がきょとんとしたあとすぐに破顔し、﹁では僕
と踊ってください!﹂と言った。
ええーーーっ!
﹁えっ、でも⋮﹂
﹁僕ではダメですか?﹂
ぐっ⋮。そんな哀しそうな顔しないで。
﹁⋮⋮では雪野君、私でよろしければ、1曲お相手願えますか?﹂
途端にパッと顔を輝かせた雪野君が﹁はいっ﹂と返事をし、私の
手を取った。
私と雪野君は讃良様に見送られ、華やかなワルツの輪に入ってい
った。
918
143
音楽に合わせて、私達はくるくると回る。身長差があるのに雪野
君は頑張ってちゃんとリードしてくれる。まだ6歳なのに凄いぞ!
﹁雪野君はダンスが上手ねー﹂
﹁本当ですか?僕、背が低いから麗華お姉さんは踊りづらくないで
すか?﹂
﹁そんなことないわ。雪野君がリードしてくれるおかげで、私とっ
ても楽しく踊れているもの﹂
﹁えへへ。僕も今凄く楽しいです﹂
可愛い∼っ!こんな天使ちゃんと踊ることが出来るなんて、私は
幸せだ!
ステップを踏みながらホールを移動すると、キラキラした目の麻
央ちゃんや愛羅様と踊る円城と目が合った。円城は一瞬雪野君と踊
る私におっという顔をしたので、後で大切な弟になにしてくれてる
んだって苦情を言われたりして。
でも雪野君が﹁僕、早く背が伸びないかなー。牛乳が嫌いだから
かな﹂なんて可愛いこと言うので、その瞬間円城のことなどスコー
ンッと彼方に消えていった。背が低いのを気にするなんて、やっぱ
り男の子なんだなぁ。小学1年生だし背なんてこれからいくらでも
伸びるのに。むしろ今の可愛い雪野君のままでいて欲しいくらいだ
よ。
雪野君の琥珀色の髪が光に透けて輝いている。
私は雪野君のリードに合わせてくるりと回転した。
919
雪野君の体調も考慮して、私達は1曲だけ踊るとワルツの輪から
出た。
頬を少し上気させた雪野君はプラムジュースを、私はノンアルコ
ールのフローズンマルガリータで喉を潤した。おいしーい!
﹁雪野君、大丈夫?疲れていないかしら﹂
﹁平気です。麗華お姉さんは?﹂
﹁私はまだまだ元気ですわ﹂
この夏のジョギングのおかげか、私は休み前よりも体力がついた
気がする。明後日は夏の集大成として三原さんと皇居に行くのだ。
走れるかなー、5キロ。私みたいなの、本格的なランナーばかりの
皇居では完全に場違い扱いされそうだ。
﹁でも雪野君はまだ1年生なのにワルツがお上手ね。ずいぶん練習
したのではなくて?﹂
﹁そんなことないです。兄様に比べたら僕なんてまだまだです﹂
そう言って雪野君はまだ踊っている兄を見た。
﹁あら私は充分だと思いましたけど﹂
むしろ雪野君が円城くらいそつなく踊れたら、そのほうが怖い。
﹁雪野君はもう宿題は終わった?﹂
﹁はい。ほとんど7月中に終わらせてしまったので、あとは涼しい
別荘に行ったりしていました﹂
﹁まぁそうなの!雪野君は偉いのねぇ﹂
﹁暑くて外に出られなかったので、やることがなかったんです。わ
920
からないところは兄様が教えてくれましたし﹂
﹁円城様が﹂
前から思っていたけど、円城はなにげに弟思いだよな。
﹁はい。兄様も忙しくてあまり家にはいなかったんですけど⋮。あ、
兄様だ﹂
ダンスを終えた4人が衆人の注目を集めたまま、こちらにやって
きた。
﹁兄様!﹂
﹁雪野﹂
円城が給仕に合図して飲み物を頼みながら、雪野君の頭にポンと
手を置いた。
﹁雪野、吉祥院さんに迷惑をかけていないか?﹂
﹁そんなことないもん﹂
雪野君が不服そうにちょっと口を尖らせた。おぉっ、こんな雪野
君を見るのは珍しい。やっぱり実のお兄さんには甘えてるんだな。
﹁麗華ちゃん、久しぶり﹂
﹁お久しぶりです、愛羅様﹂
愛羅様が笑顔で声を掛けくれた。本当に久しぶりだ。直接会うの
は、確かあの鏑木失恋事件以来か。たまにメールを送りあったりは
していたけど。
921
﹁麗華さん、お久しぶりね。私のこと、覚えていてくれているかし
ら﹂
﹁もちろんですわ、優理絵様﹂
こんなに素敵な優理絵様のことを忘れる人なんているわけがない。
優理絵様はふふっと微笑んだ。
鏑木は﹁雪野、元気だったか!﹂と雪野君の頭を豪快に撫でた。
髪をぐしゃぐしゃにされた雪野君は嫌がって手を払おうとしている
が、鏑木は面白がって離さない。やめろ!力加減の出来ないバカが
!雪野君の細い首が折れる!
私が止めるより先に、愛羅様と優理絵様が雪野君を魔の手から救
出して、ふたりで乱れた雪野君の髪を整えた。鏑木は優理絵様に﹁
なにをやっているのよ、雅哉は!﹂と怒られていた。やーい!
﹁吉祥院さん、さっきは弟の面倒を見てくれてありがとう﹂
円城が私に言ってきた。
﹁面倒とはダンスのことですか?それでしたらむしろ、壁の花だっ
た私を気遣って誘ってくれた雪野君に、私のほうがお礼を言うべき
ですわ﹂
本当に悠理君といい雪野君といい、初等科には将来有望なプチ紳
士達がいて羨ましいかぎりだ。
ほら今も遠くで初等科の女の子達がこちらをチラチラ見ている。
雪野君は初等科でもすっかり人気者と聞く。私が独り占めしている
のは申し訳ないかも。
その子達にお願いされた麻央ちゃんと悠理君が、代表で雪野君を
迎えにきた。
922
﹁雪野君、あのね。プティのみんなが一緒にお話ししましょうって﹂
﹁はい。兄様、僕行ってきますね﹂
雪野君は私達に手を振って、初等科の友達のところへ行った。
﹁愛羅様と優理絵様がサマーパーティーにいらっしゃることは、前
から決まっていたのですか?﹂
そんな情報は入ってきていなかったけど。
﹁現会長の瑤子さんから熱心にお誘いを受けていたので迷っていた
のだけど、雅哉が一緒に行こうって誘ってくれたから⋮﹂
そう言って優理絵様が嬉しそうに微笑んだ。鏑木が誘ったとな!
そしてこの優理絵様の反応は⋮。もしや本当に鏑木の恋が実ったの
か?!
﹁なにか誤解しているでしょう、吉祥院さん﹂
﹁えっ﹂
円城が苦笑いで私を見た。
﹁俺と優理絵はなにもないぞ﹂
﹁えっ﹂
4人が私を見て笑った。
﹁雅哉がね、私を訪ねてきて、やっと気持ちの整理がついた。今ま
で悪かった、待っていてくれてありがとうって言ってくれたの﹂
923
心なしか優理絵様の目が潤んでいる。
﹁私の曖昧な態度が雅哉をあれほど傷つけることになってしまって、
本当に申し訳なかった。雅哉が東尋坊に行った、樹海に行ったって
話が入ってくるたびに、胸の潰れる思いがしたわ。生きた心地がし
なかった⋮﹂
当時のことを思い出したのか、優理絵様の手が細かく震えた。鏑
木失恋一人旅は、関係者達に相当大きな波紋を及ぼしていたようだ。
そりゃ場所が場所だからな。
﹁雅哉が少しずつ元気になったって聞いても、私はもう合わせる顔
がないと思ったの。雅哉も私を許してくれないって。でもね、この
前その雅哉が会いにきてくれて私⋮﹂
とうとう優理絵様が涙を堪えきれなくなった。鏑木はすまなそう
な顔で、優理絵様にハンカチを差し出した。優理絵様にとっても、
子供の頃から可愛い弟と思っていた鏑木を傷つけて会えなくなった
期間はかなりつらかったんだな⋮。
﹁俺も優理絵の気持ちはわかってたんだ。だけど14年の想いはそ
う簡単に断ち切れるものじゃなくて⋮ごめんな、優理絵﹂
優理絵様は頭を横に振った。
﹁でもやっと吹っ切ることができた。優理絵への恋は終わったけど、
だけど俺にとって優理絵はいつまでも特別な存在だから、優理絵に
なにかあったら、どこにいたって必ず助けに行く﹂
あ、それって君ドルでのセリフだ。
924
そっかぁ、本当に吹っ切ることが出来たんだ。私もハイネの詩集
を渡されたり面倒なこともあったけど、優理絵様も鏑木も、愛羅様
も笑っているから良かったなと思えた。
﹁愛羅から聞いたわ。麗華さんにもずいぶん迷惑かけちゃったんで
しょう?ごめんなさいね、ありがとう﹂
﹁いいえ、そんな。私はなにもしていませんわ﹂
﹁そうだな。俺はただ吉祥院と失恋の痛手を分かち合っただけだ﹂
おいっ!鏑木、あんたなにを言うか!
﹁えっ、麗華ちゃん失恋したの?いったい誰に?!﹂
﹁まぁ麗華さん、つらかったわね﹂
ちょっとやめて!そんな同情的な目で見ないで!相手は誰とか聞
かないで!鏑木、訳知り顔で頷いてるんじゃないよっ!
円城は笑いを堪えているし、もうっ!ムカつくーっ!雪野君っ、
戻って私に天使の癒しを!
皇居を半分ゾンビ状態で完走した思い出で締めくくられた夏休み
が終わり、今日から2学期が始まる。
││そして始業式の朝、親しげに話をしながら登校した鏑木と若
葉ちゃんに、瑞鸞が揺れた。
﹁麗華様、あれはいったいどういうことですか!﹂
﹁麗華様!なんで鏑木様が高道さんと!﹂
925
左右の腕を芹香ちゃんと菊乃ちゃんに掴まれた私の体も物理的に
揺れた。
知∼り∼ま∼せ∼ん∼。
926
144
鏑木と若葉ちゃんが朝から仲良く登校した件で、これは一体どう
いうことかと、始業式早々瑞鸞は上を下への大騒ぎとなった。
さっそく事の真相を確かめるべく大勢の生徒達がふたりに詰めか
けたが、鏑木も若葉ちゃんも﹁校門で偶然会ったから﹂と言うだけ
だった。いやいや、偶然会ったからってあの鏑木が女子生徒と話し
ながら登校するなんてまず無いでしょうが。
それでも若葉ちゃんから聞き出した鏑木との話の内容が、夏休み
前に受けた模試の話であったり数学や物理の話だったりしたことで、
常に成績上位争いをしているふたりだからこその会話だったのかと、
一応みんなそれで納得した。確かに1学期の期末テストの順位発表
の時も鏑木が若葉ちゃんに声を掛けていたし。
でもな∼⋮。みんなは皇帝が勉強以外で若葉ちゃんなど相手にす
るわけがないと思っているようだけど、私はここが君ドルの世界だ
と知っているのでかなり怪しいと思っている。しかもその前のサマ
ーパーティーで、鏑木が優理絵様への初恋を吹っ切ったということ
もあったしね。
サマーパーティーの時にもいろいろと話を聞いたけど、鏑木は本
当に優理絵様を諦めたらしい。あのダンスは鏑木にとって初恋への
決別のワルツだったようだ。それはさすがに私も、鏑木切ないな∼
とちょっと思ったけれど。私はひとりの人を10年以上想い続けた
経験なんてないので、それを諦めるのは相当苦しかっただろうな。
14年間の心の整理をつけるのに8か月以上かかるのも仕方ないと
思う。その間ずっと罪悪感に苛まれていた優理絵様もお可哀想だけ
ど。
しかし初恋歴14年って長いな。鏑木が2、3歳の頃からってこ
とでしょ。2歳児が初恋なんてわかるんだ。そんな私の疑問に円城
927
が言うには、初めて優理絵様に会ったのがその頃だからそう言って
いるだけで、実際自覚したのは幼稚園の頃からだったはず、らしい。
幼稚園児の鏑木は﹁ゆりえ∼ゆりえ∼﹂といつも優理絵様の後を追
いかけていたそうだ。優理絵様も小さな子供が自分を慕ってくっつ
いてくるのが可愛くてしょうがなかったらしく、いつも遊び相手に
なってあげていたんだって。生意気だけど自分を慕う可愛い弟と思
っている小学生の優理絵様と、大好きな女の子と思ってべったりし
ている幼稚園児の鏑木との間には、相手に対する気持ちにかなりの
隔たりがあるけれど、それでも鏑木にとっては一番幸せな蜜月期間
だったのかもしれないなぁ⋮。
まぁ、サマーパーティーで会ったふたりは晴れやかな顔をしてい
たし、終わり良ければ全て良しかな。
2学期に入るとすぐに生徒会長、副会長選挙が始まる。今年の会
長候補は当然、現生徒会役員でもある同志当て馬だ。成績優秀で中
等科での生徒会長実績などもある同志当て馬は、選挙前から最有力
候補に挙げられていた。女子生徒達からの人気もかなりあるしね。
結局、強力な対抗馬もいなかったことから、すんなりと次期生徒
会長は同志当て馬に決まった。そして選挙ではなく会長の指名で決
まる生徒会役員に、同志当て馬が指名したのはなんと若葉ちゃんだ
った!
えっ?!若葉ちゃん生徒会に入るんだ!確かに若葉ちゃんは優秀
だから、生徒会の役員になるのは当然といえば当然なんだけど⋮。
そっかぁ。
原作ではそんな話はなかった。マンガの若葉ちゃんはすでに学院
の大勢の生徒達から敵視されていたから、生徒会に入るなんてあり
えなかったのだ。一部の生徒達からは嫌われているとはいえ、皇帝
928
とほとんど接点がない現世だからこその今回の生徒会入りだろうな。
でも見た目からは想像も出来ないほど優秀な若葉ちゃんなら、生
徒会でもきっとその力を発揮するに違いない。若葉ちゃん、頑張っ
て!
あ⋮でも、ピヴォワーヌは年末まで代替わりしないから会長は瑤
子様のままなんだけど、若葉ちゃん大丈夫⋮⋮?
3年生が引退することによってあちこちで代替わりが行われてい
るが、私にはな∼んにも関係がないとお気楽でいたら、とんでもな
い爆弾が落とされた。
﹁麗華様、ぜひ次の手芸部の部長を引き受けてもらえないかしら﹂
﹁ええっ!!私が手芸部の部長?!﹂
部長さんから突然もたらされた、まさかの時期手芸部部長への打
診。いや∼、それはないでしょう。だって、私だよ?今年やっと正
式部員に昇格した私だよ?手芸部員の中でも腕前がいまひとつの私
だよ?
﹁それはちょっと⋮。私は手芸は好きですが詳しくありませんし、
つい最近正式に入部したばかりの私が部長になるのは、あまりにム
リがありすぎるのではないかと⋮。第一ほかの方々が納得しないと
思いますけど⋮﹂
手芸の実力もある生え抜きの手芸部員がたくさんいるなかで、異
端の私が部長になったらみんな納得しないと思うぞ。
﹁それは大丈夫。みんなで話し合って決めたことだから。みんなも
929
麗華様に次期部長を引き受けて欲しいって言っているわ﹂
﹁えっ、そうなんですか?﹂
﹁ええ。麗華様は手芸部が大好きでしょう?夏休みも部室に通って
ドレス制作を一生懸命手伝っていたのをみんな知っているもの﹂
確かに私は夏休みに時間が取れる限り、なるべく部室に通った。
刺繍も出来ないしウエディングドレス制作ではほとんど役に立つこ
とは出来なかったけど、飾りに使う花を作ったり端切れや糸くずを
掃除したりしていた。
﹁手芸の知識とか実力よりも、手芸部に対する気持ちのほうが私は
大事だと思います。麗華様ほど手芸部を愛している部員はなかなか
いないでしょう?﹂
﹁麗華様、私達も出来るだけフォローしますから、部長になっても
らえませんか?﹂
同じ2年生の部員である浅井さんも部長さんの横から口添えして
きた。
そしていつの間にかほかの部員達も私達の周りに集まってきて、
口々に部長になって欲しいと言った。
私が、手芸部の部長⋮。
﹁本当に、私でいいんでしょうか⋮?﹂
﹁もちろん!﹂
みんなが笑顔で頷いてくれる。
去年1年ずっと手芸部員︵仮︶に甘んじてきて、今年とうとう正
式部員に昇格できた私。その私が手芸部の部長⋮!これはなんとい
う破竹の大出世!
930
﹁私、頑張りますわ!﹂
私の宣言に、みんながわあっと拍手をしてくれた。
私は今日から手芸部部長、吉祥院麗華ですわ!
でも麗華新部長、学園祭に出品するニードルフェルトのぬいぐる
ベアたんのぬいぐるみ、早く見たいなぁ。絶対
みがまるで進んでいないんだけど、どうしましょう?
ベアたんからの
というメールが私に重く圧し掛かる⋮⋮。試作品のベアた
に可愛く作ってね!ベアたん楽しみにしてる!もちろんあーたんも
だよ!
んの顔に縫い付けた目が、片方ボロッと取れてホラー化しているこ
とは、犬バカ君には絶対に言えない。
夏休みの補習ですっかり仲良くなったらしい委員長と岩室君、本
田さんと野々瀬さんは、最近時々一緒にいるところを見かける。
どうやら岩室君は野々瀬さんが好きらしい。女装癖はあるけれど、
恋愛対象は女の子だったんだな⋮。
そして同じ生徒会役員ということで、同志当て馬と若葉ちゃんが
一緒にいる姿もよく見かけるようになった。その若葉ちゃんに気軽
に声を掛ける鏑木の姿も。
ピヴォワーヌ会長瑤子様がサロンでゆったりとお茶を飲みながら、
﹁今期の生徒会はなにかと問題がありそうね?﹂と呟いた。
私はそそくさとサロンを後にし、手芸部部室に逃げた。あー、部
長は忙しい、忙しい。
931
145
鏑木は今まで、優理絵様以外の女の子にはほとんど関心がなかっ
た。ゆえに何か用事でもない限り、自分から女子に話しかけること
もほとんどなかった。なのに。
﹁よぉ、高道﹂
﹁あ、こんにちは﹂
鏑木は廊下で若葉ちゃんとすれ違ったりするたびに声を掛ける。
まるで親しい友達のように。
そして若葉ちゃんは円城と同じクラスなので、聞くところによる
と休み時間に円城に会いに来た鏑木が若葉ちゃんに話しかけること
もしばしばあるとか。
これはもう、始業式の朝のように﹁偶然会ったから﹂なんて言葉
ではごまかしきれない。偶然会ったって話しかけるような鏑木では
ないのだから。
しかもその繋がりで、最近では円城とも親しげに話すようになっ
たとか。おかげで同じクラスの蔓花グループNO2達の若葉ちゃん
への嫌がらせが激しくなっているらしい。
私の周りの友達もみんな、鏑木と若葉ちゃんの噂ばかりしている。
特に芹香ちゃんと菊乃ちゃんは﹁麗華様、サロンで鏑木様に聞いて
きてくださいな﹂とけしかけてくる。え∼っ。
でもほんと、若葉ちゃん、いったい夏休みの間になにがあったん
だよ⋮。
932
不穏な気配漂う高等科から逃避した私の憩いの場は、手芸部と初
等科のプティ。今日は麻央ちゃんに会いに放課後プティに顔を出す
約束をしていた。
天気予報で台風が近づいてきていると言っていた通り、空が薄曇
りになってきているなぁ⋮。廊下の窓から外を見ながらプティへと
歩いていると、その先に小さく蹲る人影を見つけた。
﹁え、雪野君?!﹂
よく見れば雪野君が苦しげに胸を押さえて、廊下にしゃがみこん
でいた。私は慌てて雪野君に駆け寄った。
﹁どうしたの、雪野君!﹂
雪野君は返事をするのも苦しいのか、いつもより青ざめた顔をし
ながら浅く呼吸を繰り返していた。その喉からはヒューヒューとい
う音がもれていた。
﹁もしかして、喘息の発作?!﹂
雪野君は私の言葉に頷いた。大変だ!
雪野君は苦しそうに呼吸をしながら、自分のカバンからなにかを
探している。なに?なにを探しているの?
出てきたのは喘息用の吸入器だった。震える手でそれを振ろうと
しているので、私が代わりによく振って手渡した。これで治るの?
プシュッと薬を吸い込んだ雪野君だけど、即効性はないのか、ヒュ
ーヒューといった苦しげな呼吸は治らない。
933
﹁ねぇ雪野君、とりあえず保健室に行きましょう。ね?﹂
雪野君は﹁はい⋮﹂と小さく返事をした。私も付き添って行こう
と雪野君に手を貸し立ち上がらせたけれど、酸欠になっているのか
雪野君はふらっとその場に倒れそうになった。
﹁雪野君!﹂
慌てて支えたけれどこれじゃ保健室まで歩かせるのはきついかも
しれない。どうしよう。私は必死で頭を巡らせて考えた。そうだ!
﹁雪野君!私の背中に乗って!﹂
﹁⋮え⋮﹂
私はしゃがみこんで雪野君に背中を見せた。こうなったら私が雪
野君をおぶっていくしかない!
﹁でも⋮﹂
雪野君は遠慮しているけれど、そんなこと言ってる場合じゃない。
相変わらず顔色が真っ白じゃないか。吸入器を使ったおかげか、さ
っきよりは楽になったのかもしれないけど、治ったようには全く見
えないよ!
﹁いいから、早く!﹂
私が急かすと、雪野君はおずおずと私の背中におぶさってきた。
途端にずしっの圧し掛かる重み。雪野君は痩せているといっても小
学1年生だ。やはり重い。この体勢から立ち上がれるか、私?!
でも私の耳元では雪野君の相変わらず苦しそうな呼吸音。私の肩
934
に置かれた手も冷たい。
よーーしっ!女は根性っ!目覚めよ!この夏休みにジョギングで
鍛えられた私の足の筋肉!
ぬおおおおおおおっっっ!!
私は雪野君を背負ってガンッガンッと立ち上がった。よしっ、行
ける!
﹁雪野君、しっかりつかまっててね!﹂
ちょうどそこに運良くプティの子が通りがかったので、私と雪野
君のカバンを麻央ちゃんに渡すようにお願いし、私は一路保健室を
目指した。
いっけーーーっ!根性見せろ!目指せホノルルーーーーッ!!う
おおおおおおっっっ!!
私は初等科の廊下にダンッダンッダンッと力強い足音を響かせな
がら、雪野君を背負って保健室にひた走った。
保健室に着くと、雪野君はすぐに養護教諭によってベッドに寝か
せられた。
﹁大丈夫?雪野君。先生が雪野君のお兄様とお家に連絡を取ってく
ださったから、すぐにお迎えがきますからね?﹂
﹁はい⋮、ありがとうございます⋮麗華お姉さん⋮﹂
横になると苦しいそうなので、今雪野君は上半身だけ起こしてあ
る状態だ。
﹁よくあるの?こういった発作⋮﹂
﹁今日は、もうすぐ台風が来るから⋮﹂
935
どうやら台風が近づくと喘息の発作が出やすいらしい。なんてこ
とだ!台風なんて毎年何回も来るじゃないか!そのたびに雪野君は
こんな苦しい思いをしているのか?!
雪野君は温かい紅茶をちびちび飲みながら﹁平気⋮﹂と力なく笑
った。平気じゃないよ。平気じゃないよ、雪野君!
そこへ連絡をもらった円城が、保健室に入ってきた。
﹁雪野!﹂
円城はまっすぐに雪野君のベッドに来て、弟の様子を窺った。
﹁吸入はした?﹂
﹁うん⋮﹂
﹁今、車を呼んだからこのまま病院に行くよ。病院にも連絡入れて
おいたから﹂
﹁うん⋮﹂
雪野君は円城に支えられてベッドを降りた。
﹁自分で歩けるか?﹂
﹁うん⋮﹂
私が通りすがりのプティの子に託したカバンが、麻央ちゃんと悠
理君によって届けられたので、私達はそれを持って駐車場まで円城
兄弟を見送った。
﹁吉祥院さん、弟のことを助けてくれてありがとう。このお礼は必
ずするから﹂
﹁私にとっても雪野君は可愛い大事な後輩ですから、お礼には及び
936
ません。それより早く病院へ。明日容体を教えてくださいね﹂
﹁ごめん、ありがとう﹂
私達は遠ざかる円城家の車に手を振った。
﹁雪野君、苦しそうでしたね⋮﹂
﹁ええ﹂
どうか雪野君の具合が良くなりますように⋮。
次の日の朝、私は円城に廊下に呼ばれた。
﹁円城様、雪野君の具合は?!﹂
私は朝の挨拶もそこそこに、昨日の雪野君のことを聞いた。
﹁一応大事をとって入院させたんだ。でも今回はわりと軽いから明
日か明後日あたりには退院すると思うよ﹂
﹁そうですか⋮﹂
雪野君、また入院か。可哀想に⋮。
﹁吉祥院さん、雪野をおんぶして保健室まで運んでくれたんだって
?どうもありがとう。重かったでしょう?その話を雪野から聞いて
驚いちゃったよ﹂
﹁いえ、それほどでも﹂
三原さんの鬼指導にめげずに頑張って毎日走ったかいがあった。
937
私の軟弱な筋肉は確実に成長していた。鍛えていなかった腕は、今
朝から筋肉痛でぶるぶるズキズキしているけどね!
﹁女の子におんぶされたって、雪野は少し落ち込んでいたけどね﹂
﹁まぁ!﹂
雪野君の男の子のプライドを傷つけちゃったかしら。そういえば
サマーパーティーでも背が低いことを気にしていたな。
﹁では雪野君に謝っておいてくださいな﹂
﹁そんな必要ないでしょ。雪野のためにそこまでしてくれて、本当
に感謝してる。ありがとう﹂
円城が私に頭を下げた。廊下を歩く周囲の注目を感じて、私は慌
てて円城をとめた。勘弁してくれ。
ふと廊下の向こうから鏑木と若葉ちゃんが歩いてくるのが見えた。
またあのふたり一緒に登校したのか。
なんで突然あんなに仲良くなったのかなー。気になる、気になる、
気になる⋮⋮。
﹁あのふたりが気になる?﹂
﹁ぅえっ!﹂
円城に私の心を読まれた!
﹁教えてあげようか?どうして雅哉が急に高道さんと親しくなった
のか⋮﹂
﹁え⋮﹂
円城の目が面白そうに光った、気がした。
938
﹁いえ!結構ですわ!﹂
君子危うきに近寄らず!
危ない、危ない。私は円城に﹁それでは私はこれで!﹂と言って、
自分の教室に足早に戻った。
さぁさぁ今日は運動会の出場決めをしないとね!他人の恋路に関
わっている暇はなくってよ!
昨日の雪野君おんぶで自信がついたから、今年はリレーにでも出
てみようかしら?
﹁麗華様、今年も仮装リレーに出場されるのですか?﹂
うん、そっちのリレーじゃない。
939
146
各クラスがそれぞれ生徒達の運動会の出場種目を決めた頃、私は
岩室君にこっそり呼び出された。なにやら相談があるそうだ。
﹁実は今度また、仮装リレーに出ることになったんですけど⋮﹂
岩室君のクラスの仮装リレーの演目はピーターパン。そしてその
中で岩室君はウェンディをやることになったらしい。いいじゃない
か、また可愛い衣装が着られるぞ。しかしさすがに岩室君のティン
カーベル抜擢はなかったか⋮。
﹁クラスの連中が去年のシンデレラを面白がって、今年も出ろって
うるさくて⋮。もちろん出るのはかまわないんですけど⋮、その、
野々瀬さんがどう思うかなって⋮﹂
どうやら恋する乙女は、女装をしている自分の姿を好きな女の子
にどう思われるか心配しているらしい。
﹁野々瀬さんなら面白がって見てくれると思いますけど﹂
﹁そうかな。気持ち悪いとか思われないかな⋮﹂
﹁では仮装リレーに出るのをやめますか?﹂
﹁⋮⋮﹂
あ、葛藤してる。そうか、そんなに女装がしたいか。公然と女装
できる数少ないチャンスだもんな。
﹁⋮俺、変ですよね?﹂
940
﹁なにがですの?﹂
﹁女の子の格好して楽しいって、おかしいですよね⋮﹂
岩室君が暗い顔をした。えっ、もしかして自分の隠れた趣味に悩
んでた?!
﹁そんなことありませんわ!別に人に迷惑をかけているわけでもあ
りませんし、好きなことをすればよろしいんですわ。それに大丈夫
!世の中には女性になってみたいという密かな願望を持つ男性は多
いのです!﹂
﹁え⋮そうですか?﹂
﹁そうですわ!思い出してみてください。去年の学園祭での女装メ
イドカフェを。私達のクラスの男子達は嬉々としてメイド服を着て
いたではありませんか。岩室君だけではありませんのよ。紀貫之の
土佐日記を読んだことがありますか?千年以上も前に、岩室君の先
輩がすでにいたのです。大丈夫、岩室君はひとりじゃない。もし心
配であれば、私が野々瀬さんに聞いてみましょう。仮装リレーで女
装をする男子をどう思うかと﹂
﹁本当ですか?!﹂
﹁ええ、まかせてください。私は岩室君の味方ですとも﹂
﹁師匠!﹂
岩室君は﹁俺、ウェンディでも必ずカツラは巻き髪にします!﹂
と言って、さきほどよりは明るい表情で戻って行った。
とりあえず野々瀬さんに探りを入れないとな。岩室君が女装に目
覚めてしまったのは、私が唆したせいというのが多分にあるので、
これに関しては責任を感じているのだ。
﹁野々瀬さん﹂
941
教室で野々瀬さんが友達と話していたので、さりげなく声を掛け
た。
﹁なんでしょう、麗華様﹂
﹁実は運動会のことなんですけど、申し訳ないんですけど私が自分
の種目に出ている間は野々瀬さんにクラスのことをお願いしてもい
いかしら。遠足の時も迷惑をかけてしまったので心苦しいのですけ
ど⋮﹂
﹁もちろんです!そのくらいいつでもお手伝いしますわ。なんでも
おっしゃってください!﹂
﹁麗華様、私達も出来ることがあればいつでもお手伝いいたします
!﹂
﹁ありがとう。とても嬉しいわ﹂
野々瀬さんの友達の子達も一緒になって言ってくれた。ありがた
い。そしてこれからが本題だ。
﹁運動会といえば、ほかのクラスでは仮装リレーで男子が女の子役
をやって盛り上げるそうですわ。楽しそうですわね?﹂
﹁まぁ、そうなんですか!﹂
﹁私も去年のクラスではシンデレラを男子がやったんですけど、あ
れも盛り上がりましたわねぇ﹂
﹁へぇ。あ!確か岩室君がやったんじゃありませんでしたか?﹂
野々瀬さんが思い出した!といった顔をして言った。
﹁ええ、そうですわ。岩室君は真面目なかただから一生懸命やって
いらしたわ。おかげでとても完成度が高かったと思います﹂
﹁そうでしたね。岩室君には悪いですけど、私も大笑いしてしまい
ました。まさかあの体の大きな岩室君がドレス姿って⋮ふふっ﹂
942
野々瀬さんの様子からは岩室君の女装に対しての嫌悪感は見られ
ない。よし。
﹁ちょっと野々瀬さん、よろしいかしら?﹂
私は野々瀬さんを友達の輪から連れ出した。
﹁実はね、ここだけの話、今年も岩室君はクラスのために仮装リレ
ーで女の子の格好をすることになったらしいんです﹂
﹁えっ、そうなんですか?﹂
﹁ええ。一応どんな仮装にするかは当日までどのクラスも秘密にし
ているから、詳しい衣装などはわかりませんけど、でもそうらしい
んです﹂
﹁へ∼え、あの岩室君が。あとでからかっちゃおうかな﹂
﹁ただ本人は仮装リレーといえども、女の子の格好をすることで、
人からどう思われるかちょっと気にしているみたいなの﹂
﹁あら、そんなこと気にすることないのに。私は岩室君の女装、む
しろ見たいですけどね﹂
﹁そうよねぇ!それ、ぜひ野々瀬さんからも岩室君に言ってあげて
!楽しみにしてるって﹂
﹁はい。当日の出来が良かったら、記念に一緒に写真撮ってもらお
うかな。でも女装かぁ。私達のクラスの仮装もそっちにすればよか
ったでしょうか?﹂
私達のクラスの仮装リレーの演目はブレーメンの音楽隊だ。各自
が犬とかロバの扮装をして走る。
そしてなぜブレーメンの音楽隊になったかというと、私が去年ネ
ズミや羊の仮装をしたので、なぜかみんなが私は動物の仮装をする
のが好きだと誤解をしたらしく、では麗華様のために動物がたくさ
943
ん出てくる演目にしましょうと、妙な気遣いをされてしまったのだ。
いやいや、私は別に仮装趣味はないから。あれは仕方なくやった
ことだから。
ということで、私のために選んだ作品らしいけれど、きっぱり辞
退させてもらった。出ない言い訳としては、﹁鏑木様から去年、動
物の仮装なのに鼻をつけていないのは怠慢だと注意されてしまいま
したの。でも私、鼻をつけて走るのは苦しそうで⋮﹂と鏑木の名前
を使った。するとみんなは皇帝の名前にあっさりと引いた。さすが
皇帝。
そして今、仮装リレーに出る子達は﹁皇帝は動物の鼻にこだわり
があるらしい﹂と鼻重視の仮装を用意し始めている。大変そ∼。
まぁそんなことが私達のクラスではあったが、今は岩室君のこと
だ。私は野々瀬さんに一緒に岩室君の変身に協力しないかと持ちか
けた。
﹁去年、私が岩室君のメイクや衣装をあれこれアドバイスしたんで
すけど、楽しかったですわよ?﹂
﹁そうなんですか?!いいなぁ、面白そう﹂
﹁まぁほとんどは岩室君のクラスの子達が協力するから、他のクラ
スの私達が口出しするのは迷惑かもしれませんけど、ほんの少しだ
けなら、ね﹂
﹁そうですね。私も岩室君にメイクしてみたいなぁ﹂
﹁頼めばさせてくれますわよ、きっと﹂
ついでに美波留ちゃんと委員長も巻き込むことにした。あぁ、私
ってばなんて有能なキューピット!
944
無事退院した雪野君から、保健室まで運んでくれたお礼にとイギ
リス製のアロマキャンドルとタオルをプレゼントしてもらった。
残念ながら雪野君は体調のことを考え、初等科の運動会は見学だ
そうだ。﹁僕の代わりに運動会頑張ってくださいね。タオルは運動
会の練習の時に使ってくれたら嬉しいな。一番柔らかいタオルを選
んだんですよ﹂と言われた。雪野君!貴方はなんていい子なの!
﹁アロマキャンドルは兄様が家で使っている物と同じなんです。い
い香りだから麗華お姉さんも気に入るかと思って﹂
円城とお揃いのアロマキャンドルか⋮。微妙だな。でも雪野君の
せっかくの好意だ。ありがたくいただこう。
運動会で私は流寧ちゃんと二人三脚に出る。去年は惜しいところ
で若葉ちゃんに抜かされちゃったんだよなぁ。今年こそは1位を獲
るぞ!
私達が校庭に練習に出ると、若葉ちゃんが玉入れの玉をバンバン
ぶつけられていた。若葉ちゃん、もしかして玉入れに出るのか?無
謀すぎる⋮。ボコボコにされるぞ。
私は流寧ちゃんと二人三脚の練習を始めた。私達が地味に二人三
脚の練習をしている向こう側では女子の歓声の中、鏑木と円城がリ
レーの練習をしていた。いいねぇ、あちらは華やかで。
私と流寧ちゃんの二人三脚の息もだんだんと合い、一度休憩をし
ようということになった。私はさっそく雪野君からもらったタオル
を使った。雪野君が一番柔らかいものを選んでくれたというだけあ
って、このタオル肌触りが最高!
﹁あらっ、麗華様の使っていらっしゃるタオル、円城様とお揃いじ
945
ゃありません?﹂
﹁えっ﹂
誰かが私の使っているタオルを目敏く見て言った。するとその場
にいた子達が向こうで円城が首から下げているタオルとを見比べて
騒ぎ始めた。
﹁まぁっ!円城様とお揃いのタオルだなんて!﹂
﹁このブランド、日本では取扱店が少ないブランドですわよね!﹂
﹁もしかしてどちらかからののプレゼント⋮﹂
﹁違いますわっ!これは円城様の弟様からいただいたもので!﹂
﹁まぁっ!家族ぐるみのお付き合い!﹂
﹁違⋮!﹂
私の否定の声ははしゃぐ女の子達の声にかき消された。
雪野くーんっ!お揃いっていうのはアロマキャンドルだけではな
く、タオルもかーっ!そこははっきり教えておいてくれないと!
雪野君、無垢な善意が時に人を窮地に陥らせることもあるんだよ
⋮。
私はタオルを家専用として封印した。
あっ!ベアたんぬいぐるみがまるで進んでないっ!
946
147
体育祭の練習に手芸部に塾や習い事、そして学園祭に出品するベ
アたん作製と私は今めちゃくちゃ忙しい。
特に体育祭の練習は体力を使うので家に帰ると疲れて眠くなって
しまうのだ。だからベアたんが全然進まないよーっ!
手芸部員の誰かにベアたんの相談をしようかとも思ったけれど、
みんなウェディングドレス作りと自分の出品制作とで手いっぱいだ。
むしろ私が手芸部で一番暇だ。
私もなにか手伝うべきだよな∼、でもやれることがあまりないん
だよな∼と悩んでいたら、今回副部長になった浅井さんに、﹁御大
はどっしりとかまえていればいいんですよ﹂と言われた。
御大⋮。私、御大なんだ。そのうち大御所様とか呼ばれる日が来
たらどうしよう⋮。
手芸部唯一の男子部員、南君はドレスの刺繍に大活躍だ。
﹁南君は本当に刺繍の腕前が素晴らしいですわねぇ﹂
﹁それほどでもありません。ただ小さい頃からやってただけで⋮﹂
私が褒めると南君は照れくさそうに否定した。いや、これは謙遜
せずに誇っていいレベルだと思うよ。
﹁あの⋮ところで南君、貴方、璃々奈から丁稚などと呼ばれている
って本当?﹂
﹁えっ、あぁ、はい﹂
南君の目がちょっと泳いだ。
なんてことだ!あのバカ璃々奈!
947
﹁ごめんなさい。私今まで知らなくて。あの子ったら南君になんて
失礼なあだ名をつけるのかしら。私からやめるようにきつく言って
おくので許してくれる?本当にごめんなさいね﹂
﹁いえっ、別にイヤじゃないですから!いや、最初はイヤでしたけ
ど、でも今はわりと気に入っています。はい﹂
﹁え、気に入ってるの?!﹂
南君には被虐の趣味が?!
﹁えっと⋮、古東さんが僕を丁稚と呼ぶようになってから、今まで
あまり話したことのない子達からも丁稚って声を掛けられるように
なって、友達も増えたんです。それに丁稚の前は見習いって呼ばれ
そうになったんですよ。南雷太だから略して見習いねって。見習い
に比べたら丁稚のほうがいいと思いませんか?﹂
﹁どっちもどっちだと思いますけど⋮﹂
﹁そうですか?でも僕は丁稚のほうがいいと思うけどなぁ﹂
⋮⋮南君、君洗脳されてやしないか?まぁ、本人がいいって言う
ならいいけど。
﹁もし南君が璃々奈に困っていたら、いつでも私に相談してくださ
いね?﹂
﹁そんな、大丈夫ですから。あ、でもそしたらひとつだけ⋮﹂
﹁なにかしら?﹂
南君は刺繍針を弄びながら下を向いた。
﹁古東さん、手芸好きな男ってどう思ってるんでしょう⋮﹂
948
え⋮⋮?
私と円城のお揃いのタオル事件は、鏑木の﹁俺も秀介から借りて
気に入ったから買ってみた﹂という一言でさらに激化し、瑞鸞女子
達に円城、鏑木とのお揃いタオルブームを巻き起こしている。今じ
ゃ瑞鸞の女子のほとんどがあのタオルだ。
雪野君に﹁あのタオルは円城様もお使いでしたのね?﹂と話を向
けると、﹁気に入りませんでしたか?ごめんなさい⋮。とても使い
心地が良さそうだったので、兄様にも一緒にプレゼントしたんです
⋮﹂としゅんとされてしまったので、慌てて﹁とっても気に入って
るわ!﹂と打ち消した。
優しい雪野君は、大好きな兄様にもプレゼントしたかったのか。
それならしょうがないよね⋮?うん。
夏休みのジョギングで自信のついた私は、今年の体育祭で100
メートル走に出ることにした。三原監督に毎回言われている通り、
しっかりストレッチをしてから練習をする。学校が始まった今は週
末しか走っていないけれど、100メートルならきっと楽勝だ。
しかし走れるのと速いのは別物だった。まずい⋮。私、あまり足
が速くない。でも立候補したからには頑張らなくっちゃ!
何度目かの練習の時、私は若葉ちゃんと一緒になった。どうやら
若葉ちゃんも100メートル走に出るらしい。
私と若葉ちゃんがコースに並ぶと、若葉ちゃんと同じクラスらし
き子が﹁わかってるよね⋮?﹂と囁いているのが聞こえた。うん?
そして私達が走り始めると、あきらかに若葉ちゃんのほうが途中
まで速かったのに、最後で突然失速した。えっ!どういうこと?!
949
私がゴールすると、﹁速かったですわ、麗華様!﹂などと周りが
ちやほやしてくれたけど、これってさ、完全に八百長だよね⋮?
そんな!スポーツマンシップはどこいった?!八百長で勝っても
私嬉しくないよ!
八百長で負けるように言われた若葉ちゃんは気にしたふうでもな
く普通の顔をしている。でも私は気にするよ。だって八百長だよ?
今は練習だからいいけど、本番でこれをやられたら大問題だ。
私は思い切って若葉ちゃんに声を掛けた。
﹁あの、高道さん﹂
﹁はい?﹂
若葉ちゃんは私に声を掛けられて驚いた顔をした。
﹁今、わざと負けましたわよね?﹂
﹁えっ、いや∼﹂
若葉ちゃんは困った顔で周囲に目を動かした。私の取り巻きを含
め、みんなが注目しているのがわかる。
﹁わざと勝ちを譲られても私は全く嬉しくありませんわ。高道さん
も変に気を使わず全力で走ってくださって結構よ。それで負けたの
ならそれが私の実力ということなのですから﹂
﹁あー⋮、はい﹂
せっかくの体育祭に八百長なんて持ち込まれたら、みんなだって
楽しくないだろう。私だったイヤだ。それにそんなことを知ったら、
あの体育祭バカが怒るぞ。
みんなも納得してくれたのか、そのあとの練習では私はしっかり
負けた。
950
そして後日渡された100メートル走のグループ分けでは、私の
グループに私より遅い子達が集められていた。あぁ接待走⋮。
毎晩、眠い目を擦りながらベアたんのパーツに針を刺す。途中、
鏑木家から月見の会のご招待を受けたけれど、もちろんお断りだ。
そんな時間あるもんか。私にとって月見とは、見るものではなく食
べるものです。今年もしっかり食べました。
鏑木家の月見の会は行かないけれど、せっかくなので私の部屋に
も薄を飾って塩豆大福を食べてひとりお月見。風流だねぇ。
明日は週末で学校も休みだから、今夜は夜更かしして頑張ろうか
な。
ここしばらく私が家に帰ると、毎日すぐに部屋に閉じこもってい
るのを気にしてか、お父様が様子を見に来た。
﹁麗華が最近食事の時以外に部屋から出てこないから、お父様は心
配しているんだよ﹂
﹁それは申し訳ありません。ですが私はこの通り学園祭の準備で忙
しいのですわ﹂
私は手を止めずに返事をした。するとお父様はなにを思ったのか
自分も手伝うと言い出した。娘とのコミュニケーションを図ろうと
しているらしい。私が前からニードルフェルトをやっているのを見
て、自分にも出来ると思ったようだ。
﹁どれ、お父様はこの胴体をやってみよう﹂
﹁出来るんですか?お父様に﹂
﹁なぁに、簡単だよ。まかせなさい﹂
951
しかし自信たっぷりに請け負った狸は、とんでもなく不器用だっ
た!
﹁お父様!針が折れて中に入り込んでしまったではありませんか!
あぁっ!胴体がひしゃげてるっ!﹂
﹁おおっ、すまん!なに、こうやれば﹂
﹁やだぁっ!もう、触らないでっ!ここ、へこんでるっ!わーんっ
!﹂
ふざけんな、狸!半分まで出来た胴体が台無しじゃないかっ!な
んなの、これ!どうしてくれんの!
﹁出てってっ!﹂
私は半泣きで部屋から狸を追いだした。もうやってらんないっ!
ふて寝だ、ふて寝!
ドアの向こうから﹁お父様が悪かった、麗華、許しておくれ﹂な
どと聞こえてきたけど知るもんか!狸は罰として月の桂を伐りに行
ってこいっ!
私は頭から布団をかぶった。もうこんなんじゃ、絶対に間に合わ
ないっ!もうやだっ!
次の日、朝からお父様の秘書の笹嶋さんが訪ねてきた。
﹁麗華お嬢様、なにか問題が起こったとか⋮﹂
どうやらお父様は娘を怒らせた尻拭いのため、出張中のお兄様の
代わりにわざわざ休みの日の笹嶋さんを呼びつけたらしい。なにや
ってんだ、狸!
952
﹁お休みの日に申し訳ありません、笹嶋さん﹂
﹁いえ、お気になさらず。それでその手芸というのも見せていただ
いてもよろしいですか?﹂
私は平気だと何度も辞退したのだけれど、ぜひと言われて渋々リ
ビングにベアたんパーツを持ってきた。
﹁なるほど、これですね⋮﹂
笹嶋さんはひしゃげた胴体をあれこれ見分すると、﹁これお借り
しますね﹂とニードルを持ち、へこんだ部分に羊毛フェルトを次々
と継ぎ足していった。ええっ!
そしてお父様が力を入れすぎてひしゃげた部分も上手く元に戻し、
図案を見ながら笹嶋さんはあっという間に胴体を完成させてしまっ
た。
﹁凄いっ!﹂
﹁恐れ入ります﹂
さすが有能秘書!手芸も難なくこなすとは!
胴体さえ完成していれば、あとは手足と顔だけだ。手足はほぼ出
来上がっている。ということは、これで学園祭に間に合う?!
﹁ありがとうございました!笹嶋さん!﹂
﹁いえ。これくらいたいしたことではありませんよ。ではお嬢様、
これでお父様と仲直りしていただけますね?﹂
﹁⋮はい﹂
妻子との休みを返上して助けに来てくれた笹嶋さんの顔を立てて、
953
私はお父様を許すことにした。しかし笹嶋さんにはなにかお礼をせ
ねば。お中元にたくさん贈られてきた乾物でもなんでも持って帰っ
てくださいな。あ、お父様のお酒もいいわね。奥様にはフランス製
の超高級入浴剤をどうぞ。汗がたっぷり出て保湿効果も高いので、
これからの季節にお薦めですよ?あとお子様にはお菓子ですね。
﹁それと笹嶋さん、休日手当はしっかりと請求してくださいね?﹂
﹁お嬢様はわりと庶民的なことをおっしゃる⋮﹂
笹嶋さんは両手にお土産をたくさん持たされ、私とお父様に見送
られ帰っていった。
﹁お父様、こんなことでいちいち秘書のかたの手を煩わせるのは金
輪際やめてくださいね﹂
﹁わかった⋮﹂
﹁休日手当以外に臨時ボーナスも、ですわよ﹂
﹁わかった⋮﹂
﹁もちろんお父様のポケットマネーですわよ﹂
﹁わかった⋮﹂
954
148
瑞鸞女子の多くが円城、鏑木愛用のタオルと同じものを使ってい
たが、中には好きな人と同じタオルをこっそり使うという生徒達も
いた。さらにはお揃いのタオルをプレゼントして愛を育むなんてい
う子達まで出てきた。空前の瑞鸞恋のタオルブームである。
そしてなんと、委員長達4人が同じタオルを使っていた!
﹁いやぁ、これは別にそういう意味じゃなくて、ただ仲良くなった
記念に4人お揃いで買っただけで、吉祥院さんが考えているような
ことじゃ全然ないんだよ∼﹂
委員長に問い質すと照れながら弁解していたが、だったらなぜ私
を誘わない。
私だって岩室君の仮装に協力するメンバーのひとりではないか?
そもそも言いだしっぺは私じゃないか?それなのに⋮。まぁ、みな
まで言うまい。いいんじゃないの?楽しそうでさぁ。
確かに友情の証としてお揃いのタオルを仲良く使う子達もいた。
正直羨ましい。
私は円城とのペアタオルの噂がやっと下火になったので、雪野君
からプレゼントされたタオルを学院で使うわけにもいかず、友達の
芹香ちゃん達は当然皇帝達とのお揃いタオルを嬉々として使ってい
るので、私はひとり寂しく普通のタオルを使っているのだ。ちぇ∼
っ。委員長、誘えよ私のことも∼。
するとある日、璃々奈が﹁これを使いなさいよ!﹂とわたしの顔
面にタオルをぶつけてきた。痛い。
見るとクリーム色のタオルには赤い糸でR.Kと刺繍がされてあ
った。璃々奈、あんた⋮。
955
私はありがたくそれを使わせてもらうことにした。あいつめ、可
愛いとこあるじゃないか。この私のイニシャル、璃々奈が刺繍した
のかな?うん、凄く上手と思うよ。ふふっ。
体育祭の練習後、手芸部でカバンの中身を整理していると、私が
手に持っていたタオルを見て南君が﹁あっ、それ僕が刺繍して古東
さんに贈ったタオル⋮﹂と呟いた。
私は速攻璃々奈の元に走り、不届き者の首をタオルで絞めた。
璃々奈ーーっ!!あんたって子はぁーーーっ!私のほんわか返せ!
それよりも若葉ちゃんだ。鏑木は若葉ちゃんと顔を合わせるたび
に気安く声を掛ける。時には円城を交えて3人で立ち話をしている
姿も見かける。円城はともかく、鏑木が女子の名前を呼ぶのは珍し
い。その鏑木が﹁高道﹂と名前を呼ぶたびに、皇帝ファンの女の子
達は憎しみを滾らせた目で若葉ちゃんを睨みつけていた。
おかげで若葉ちゃんは水道に行けば水をかけられたり、聞こえよ
がしの陰口を叩かれたりしていた。
その日も私が二人三脚の練習後に校庭横の水道前を通ると、その
光景が見られた。
﹁なにあの子の使っているタオル、ずいぶんと安っぽいわねぇ﹂
﹁しょうがないじゃない。お金がないのよ﹂
﹁あんなの私の家じゃ、掃除にしか使わないわよ﹂
﹁やだぁ、それって誰かさんには雑巾で充分ってこと?﹂
くすくすと後ろから若葉ちゃんを傷つける言葉をぶつけ嘲笑う子
達。しかし若葉ちゃんはそれに聞こえないフリをして淡々と水道で
956
顔を洗っていた。
すると全く堪えていない様子の若葉ちゃんが気に食わなかったの
か、蔓花グループNO2が若葉ちゃんにわざとぶつかり、その拍子
に若葉ちゃんのタオルが地面に落ちてしまった。
﹁あらぁ、ごめんなさ∼い﹂
そこにすかさずもうひとりが若葉ちゃんに手で掬った水をかけ、
若葉ちゃんは前髪から水を滴らせるくらい水浸しになってしまった。
しかしその顔を拭くタオルはもうない。ご丁寧に落ちたタオルは踏
みつけられ、足型まで付けられていた。
どうしよう⋮。助けるべきか。
﹁行きましょう、麗華様﹂
流寧ちゃんが興味ないといった態度で私を促した。うん、でもさ
⋮。
そこへリレーの練習を終えた男子の集団がやってきた。女子達は
その気配を察し、すぐさま若葉ちゃんから離れた。
男子の中心にいた鏑木が、ぽたぽたと水滴を落としながら手でな
んとか顔の水を払っている若葉ちゃんを見つけ眉を上げた。
﹁なんだお前、その顔。タオル持ってないのか﹂
﹁えっと⋮、落としてしまいまして⋮﹂
﹁なにやってんだ、ばーか。だったらこれ使え﹂
鏑木はそう言うと、自分の持っていたタオルを若葉ちゃんに投げ
た。その瞬間、若葉ちゃんを苛めていた女子達の顔色が変わった。
﹁えっ!いいです!大丈夫です!﹂
957
若葉ちゃんは周囲の険悪な空気を感じ、慌ててタオルを鏑木に返
そうとした。しかし鏑木はそれを受け取らず、
﹁いいから。それやるよ。あとで返さなくていいから﹂
鏑木は片手をあげ若葉ちゃんを制すると、円城達とともにそのま
ま校舎に入って行ってしまった。
あとに残された若葉ちゃんは自分のタオルを拾うと、﹁あの、こ
れ返してきます⋮﹂と周りに言い訳するように言って、鏑木を追い
かけて行った。
﹁なによ、あれ!どういうことよ!﹂
蔓花さん達の怒声が響いた。
鏑木⋮。本当にどういうこと?
最近面倒なことが多いなぁ。
鏑木が若葉ちゃんにタオルを貸した事件は、私と円城のペアタオ
ル事件とは比べものにならない大きさで噂になった。
これに関しては芹香ちゃん達も若葉ちゃんへの嫉妬で連日悪口大
会だ。何度か止めようと試みたけれど難しい。
若葉ちゃんが苛められているのを黙って見ているのはつらい。ど
うにかしてあげたいけど、出来ない。情けない⋮。
ピヴォワーヌのサロンに行けば、就任後めきめきとリーダーシッ
プを発揮し始めた新生徒会長、同志当て馬を苦々しく思う会長の機
958
嫌が思わしくない。
﹁今期の生徒会はずいぶんと思いあがった連中が多いわね⋮﹂
﹁この間もあの水崎とかいう男、ピヴォワーヌのメンバーに意見し
てきたらしいぞ。身の程知らずも甚だしい﹂
﹁自分達の立場を勘違いして、のぼせあがっているんだわ﹂
﹁会長、どうしますか?﹂
会長の周りをピヴォワーヌ至上主義のメンバーが囲み、生徒会へ
の今後の対応が話し合われている。
﹁とりあえず、あちらの出方を見て考えましょう。これ以上ピヴォ
ワーヌを軽んじる態度を取るならば許さないわ﹂
怖い⋮。こっちもどうなるんだろう。
ほかにもベアたんぬいぐるみの顔が上手く出来ないとか、図書館
の君と全くお近づきになれないとか、細かいことはいろいろある。
そこで私は気分転換にと、休日に散歩に出かけた。
家から離れた駅で降り、ぶらぶらと散歩をしているといい匂いが
漂ってきた。はっ!この匂いは!
私が鼻をひくつかせて匂いの元と辿っていくと、そこには縁日の
いか焼きの出店があった。やっぱり!
私はいか焼きを買い、その場でぱくついた。おいしいっ!吉祥院
麗華になって初めての縁日のいか焼き!おいしーいっ!
このチープな味、たまらんっ!たこ焼きも食べちゃおうかな。で
も今はまず、このいか焼きを完食するぞ!あぁ、おいしいものを食
べるとストレスも忘れちゃうよ。
前世ではよくお祭りで食べたよなぁ。妹のユカちゃんと時々ナル
君も一緒に行ってさ。わたあめやべっこう飴も買ったな。りんご飴
959
とか焼きそばも!いろんな種類を食べたいからみんなで分け合って
食べたりして。懐かしいなぁ。お父さんはいか焼きが一番好きだっ
たっけ。
私は久しぶりのいか焼きに我を忘れ、完全に油断していた。
﹁えっ、吉祥院さん⋮?!﹂
その声に私は血の気が引いた。
960
149
そこにはいか焼きにかぶりつく私を、驚いた顔で見つめる若葉ち
ゃんの姿があった。
﹁えーっとぉ⋮﹂
若葉ちゃんは思わず声を掛けてしまったものの、そのあとをどう
したらいいかわからないといった様子で、言葉を探していた。
しかし私はそれ以上に内心パニックに陥っていた。動悸が止まら
ない。
どうしよう。今までずっと、外では知り合いに会わないように気
を付けてきたのに。こんな小さな縁日なんて、瑞鸞の生徒がいるわ
けがないと高を括ってしまった。普段だったら絶対に人目に付かな
い場所で食べたはずなのに。バカすぎだ、私。どうしよう、瑞鸞の
生徒に見られてしまった!
﹁えっと⋮、奇遇ですね?﹂
若葉ちゃんが少し困ったように言った。
﹁⋮そうです、わね﹂
食べかけのいか焼き片手にお嬢様ぶってる私ってば、とんでもな
く間抜けだ!ああ∼っ!なんで食い意地に負けた、私!前世の思い
出に浸って油断しすぎだ、バカ!
瑞鸞の生徒達の顔が次々に浮かぶ。芹香ちゃん、菊乃ちゃん、あ
やめちゃん、流寧ちゃん⋮。ピヴォワーヌのメンバー。会長。あぁ
961
っ、会長の瑤子様に知られたら、私は終わりだ!ピヴォワーヌの恥
晒しと、私の所業に怒り狂う会長達の幻影が見える⋮。
﹁あの、大丈夫ですか?﹂
ネガティブ思考に陥って黙り込む私に、若葉ちゃんが遠慮がちに
声を掛けた。そうだ、口止め!
﹁高道さんっ!﹂
﹁はいっ!﹂
若葉ちゃんは直立不動で返事をした。
﹁このこと、誰にも言わないでもらえないかしら⋮﹂
﹁このことって、今日会ったこと?﹂
今日会ったことというか、正確には私がいか焼きにかじりついて
いたことなんだけど⋮。
﹁その⋮もろもろすべてです⋮﹂
﹁⋮う∼ん、よくわからないけど⋮。でも、わかりました。今日の
ことは誰にも言いません!﹂
﹁えっ、本当?!﹂
本当に?!誰にも言わないでくれる?!
﹁うん!約束します!﹂
若葉ちゃんは力強く頷いた。
962
﹁ありがとう!絶対ね、約束ね!信じてるからね!﹂
﹁う、うん﹂
必死に詰め寄る私に若葉ちゃんは少し引いたけど、もう一度ちゃ
んと頷いてくれた。
よし。マンガの通りの若葉ちゃんなら、きっと信用できる!たぶ
ん、きっと!むしろ無理やりにでも信じないことには、今夜怖くて
眠れない。
﹁では、私はこれで失礼しますわね﹂
とりあえず若葉ちゃんの前から逃げたい。逃げたところで私がい
か焼きにかじりついていた姿が、若葉ちゃんの記憶から消えること
はないのは、重々わかっているのだけれど。今は現実逃避したい。
私は愛想笑いをして食べかけのいか焼きを手に、若葉ちゃんの前
から去ろうとした。
﹁待って、吉祥院さん。その恰好で帰るの?﹂
﹁えっ﹂
私は一刻も早くこの場を逃げ去りたいのに、若葉ちゃんに引き止
められてしまった。その恰好?
﹁うわっ!﹂
なんと、私の着ていた白いワンピースの胸からおなかにかけて、
いか焼きのたれがべったりと付いていた!ぎゃあっ!スカート部分
にも点々としみが!
﹁やだ、なにこれ!あぁっ!どうしようっ!﹂
963
私は急いでバッグからハンカチを取り出したけれど、こんなんじ
ゃ全然落ちない。水に濡らしてこようかな。それよりもどこかでシ
ミ抜きを買うか⋮・やだっ、手にも付いてる!食べかけのいか焼き
が邪魔。あぁ泣きそう⋮。
﹁⋮あの、吉祥院さん。よかったらうちに来て落とす?すぐに洗濯
すれば落ちると思うんだけど⋮﹂
えっ!若葉ちゃんの家?!いや、でもそれはまずいでしょう。
﹁いえ、平気ですわ。タクシーを拾ってこのまま帰ります﹂
私は平静を装って、若葉ちゃんの申し出を辞退した。本当はこん
ないか焼きのたれを服に付けて帰ったら、お母様達に買い食いがバ
レて大ピンチなんだけど⋮。
﹁全然平気そうにはに見えないんだけど⋮。少しでも落としてから
帰ったほうがいいよ。ね?﹂
﹁でも﹂
﹁すぐに洗えばきっと落ちますから。ね?﹂
そうして私は若葉ちゃんの強い勧めで、若葉ちゃんの家に行くこ
とになってしまった。なんでこうなる⋮。でもいろいろありすぎて、
もうなにも考えられない⋮。
若葉ちゃんはどこかからの帰りで、偶然あの場所を通ったのだそ
うだ。そして白いワンピースを着たいかにもお嬢様といった子が立
っていたのでつい目がいったら、それが私だったと⋮。
﹁目立ってました⋮?﹂
964
﹁そうですね∼﹂
なんてこった⋮。もしかしたら若葉ちゃん以外の通行人にも注目
されていたのかもしれん。ワンピースだけどわりとカジュアルなタ
イプなんだけどなぁ。
若葉ちゃんは私の服のシミを隠すように、前を歩いてくれた。私
は手に持ったままのいか焼きをどうするか、密かに悩んでいた。
しばらく歩くと、若葉ちゃんが﹁ここだよ∼﹂と私を振り返った。
若葉ちゃんのおうちは、いわゆる町のケーキ屋さんだ。
瑞鸞の生徒が普段食べる、有名パティシエが作るジュエリーのよ
うなケーキではなく、シンプルないちごのショートケーキやチョコ
レートケーキ、モンブランなどが売られていて、値段も200円か
ら300円代が主で、シュークリームは150円という、まさに庶
民のためのケーキ屋さん。
でも味はピカイチと評判なのだ。
私は前世で君ドルを読んでいた時、ずっと若葉ちゃんのおうちの
ケーキ屋さんのケーキが食べたいと思っていた。だって、とっても
おいしそうに描かれていたんだもん。その夢のケーキ屋さんが目の
前に!
﹁玄関は裏なんだ﹂
私は若葉ちゃんに促され、ケーキ屋さんの裏手に回った。若葉ち
ゃんが門を開け私を中に入れてくれた。そして若葉ちゃんが玄関の
鍵を開けている間にふと横を見ると、玄関脇の奥に、前部分がぐん
にゃり潰れた自転車が置いてあった。
あれ?これって確か若葉ちゃんが前に瑞鸞に乗ってきた自転車じ
ゃない?え⋮、なんか凄いことになってるけど、どうしちゃったの
?!
965
若葉ちゃんは私が見ている物に気づいて、﹁あぁそれ﹂と笑った。
﹁夏休みに鏑木様の車とぶつかって、壊れちゃったんですよね∼﹂
﹁ええっ?!﹂
鏑木の車とぶつかった?!
﹁ぶつかったって⋮。それで大丈夫だったんですの?怪我は?!﹂
﹁平気∼。カーブしようとしたら横から出てきた車にぶつかって、
自転車ごと飛ばされちゃったんだけどね、咄嗟に私は自転車から飛
び降りたから、打ち身と擦り傷くらいでたいしたことはなかったの﹂
﹁たいしたことなかったとは思えないけど﹂
この自転車の惨状を見る限り⋮。若葉ちゃんはあははと笑いなが
ら﹁さぁどうぞ﹂と私を家に招き入れてくれた。
﹁お邪魔いたしますね⋮﹂
﹁はいはい、どうぞ∼。それじゃあ先に服を着替えたほうがいいで
すね。今、持ってくるので脱衣所に行ってもらえますか?あ、それ
どうします?﹂
若葉ちゃんは私のいか焼きを指差した。どうしましょう?
﹁とりあえず一端預かりますね。手はこっちで洗ってもらって。え
ーっと、着替え着替えっと﹂
若葉ちゃんは私の食べかけのいか焼きを手にパタパタと家の奥に
消え、すぐに着替えを持って戻ってきた。
﹁着替えたら声を掛けてください。そしたらそのお洋服を洗っちゃ
966
いましょ﹂
﹁ありがとう﹂
私は渡された着替えを手にぺこりとお辞儀をした。するとその瞬
間、おなかがぐるっと鳴った!
﹁⋮⋮﹂
もういっそ溶けて消えてしまいたい。
﹁今は3時だけど、もしかしてお昼まだ食べてない?焼きそばくら
いなら作れますけど﹂
﹁いえ、これ以上はお気遣いなく!﹂
﹁私もお昼まだだから、よかったら服が渇くまでの間に食べません
か?あ、焼きそばなんて食べないか⋮﹂
﹁そんなことありませんわ!﹂
むしろ大好物です。本当はさっきいか焼きのあとに食べる予定で
した。
﹁じゃあ用意するね!あのいか焼きはどうします?刻んで焼きそば
に入れましょうか?﹂
﹁よろしくお願いします⋮﹂
﹁は∼い﹂
若葉ちゃんは明るく笑って脱衣所のドアを閉めた。
私は渡されたTシャツとウエストがゴムの膝丈のパンツに着替え
ながら、不思議な気持ちになった。
あの君ドルの主人公の若葉ちゃんの家に、今私がいる。なんだか
現実味が湧かないなぁ。だって昨日までは私が一方的に若葉ちゃん
967
を知っているだけで、ほとんどしゃべったこともなかったんだもん。
﹁似合わない⋮﹂
鏡に映る、縦ロールにTシャツ短パン姿の自分にがっくりしつつ
も、私が脱衣所から顔を出して遠慮がちに声を掛けると、すぐに若
葉ちゃんが来てくれた。
﹁ではシミ抜き付けて洗濯しちゃいましょうか﹂
﹁えっ、この服1枚だけで洗濯しちゃうの?!電気代と水道代が!﹂
もったいない!そして申し訳ない!適当に手洗いでいいのに!
﹁電気代?ええっと、結構派手に汚れちゃったから、丸洗いしたほ
うがいいと思うんだけど、ワンピースが傷んじゃうかな﹂
﹁傷みとかは全然いいのですけど⋮﹂
﹁なら、ちゃっちゃと洗っちゃいましょう!大丈夫!ドライ仕上げ
でやりますからね!﹂
若葉ちゃんは手際良く洗剤をシミの箇所に付け服をネットに入れ
ると、洗濯機のスタートボタンを押した。
﹁あとは洗い終わるまで、ごはん食べて待ってましょ﹂
﹁ええ。本当に迷惑かけてごめんなさい⋮﹂
﹁あはは、全然大丈夫ですよ∼﹂
私はダイニングに案内され、若葉ちゃんお手製の焼きそばを振る
舞われた。
﹁こんなものしかなくてごめんね。吉祥院さんみたいなお嬢様には
968
口に合わないかもしれないけど﹂
﹁いいえ、とんでもない!いただきますわね﹂
﹁召し上がれ﹂
焼きそばには私のいかも刻んでしっかり入っていた。ありがとう、
若葉ちゃん。その焼きそばを一口食べる。あっ、この味は!
﹁大丈夫?食べられそう⋮?﹂
﹁とてもおいしいですわ﹂
もぐもぐと咀嚼して私は返事をした。この焼きそばは、前世でよ
く食べた3個パックのチープな焼きそばの味だ。懐かしいっ。
焼きそばって吉祥院家じゃ絶対に出てこないもんなぁ。仮に食べ
るとしても高級中華料理店のお上品な焼きそばだし。このソース味
の焼きそばがたまりませんよ!
私はあっという間に完食をした。はー、ごちそうさま。私は最後
に若葉ちゃんから出された麦茶をごくごく飲んだ。懐かしい、麦茶
⋮。
﹁なんだか、何から何までお世話になっちゃって⋮﹂
﹁気にしないでください﹂
若葉ちゃんものほほんと麦茶を飲んだ。
私達の間にしばらく沈黙が流れた。
﹁あのね、高道さん⋮﹂
﹁はい?﹂
私はずっと気になっていたことを思い切って聞くことにした。
969
﹁あの、学校、どうですか?﹂
どうですかっておかしいかな。でもいじめつらくない?とは聞け
ないし。
﹁どうって、なにがですか?﹂
案の定、聞き返された。
﹁えっと⋮、ですから瑞鸞での生活をどう思っていらっしゃるのか
な∼って﹂
﹁それなりに充実していると思いますよ?﹂
﹁えっ、そうなんですか?!﹂
だって毎日陰口叩かれて、足引っ掛けられそうになったり水かけ
られたりしてるのに?!
もしかして気を使っているのかな。強がりなのかな。
﹁はい。瑞鸞に入学出来てラッキーでした﹂
﹁ラッキー⋮﹂
遠回しな私への嫌味かとも思ったけれど、若葉ちゃんはなんの含
みもなさそうな笑顔でニコニコしている。
﹁だってあれだけの設備と高レベルの授業を只で受けさせてもらえ
るんですよ?しかもいい成績をとれば奨学金ももらえるなんて⋮う
くっ﹂
若葉ちゃんの口元がニヤニヤした。
970
﹁実はここだけの話、この前の模試の結果が今までで一番いい成績
を取りましてね。その臨時奨学金の金額が⋮﹂
若葉ちゃんは笑いを堪えるために手で口元をおさえた。⋮どうや
らかなりいい金額だったようだ。
﹁勉強を頑張るだけでお金がもらえるって、最高の学校ですよねー﹂
成績をお金で買う、最低の学校だと思いますけど。
﹁さすがに卒業までに大台は絶対にムリだけど、その半分くらいは
頑張れば⋮﹂
若葉ちゃんは嬉しさを堪えきれないように、うくくくくと笑った。
大台?!大台って、瑞鸞の奨学金とはいったいいくらなんだ。
﹁でも、その、いろいろされているでしょう⋮?その、悪口とか⋮﹂
気まずい気持ちで私が言うと、若葉ちゃんはけろりと﹁あまり気
にしていません﹂と答えた。
﹁えっ、気にしていないんですか?﹂
﹁はい。特に実害ないですしね﹂
え、実害ありまくりでしょう。水かけられたり、ボールぶつけら
れたり。
﹁でも傷つきますよね?あんなことされたら⋮﹂
﹁う∼ん⋮﹂
971
若葉ちゃんは本気で悩んだ。
若葉ちゃんは私の想像をはるかに超えた、とんでもなく図太い精
神の持ち主だった││。
﹁では、あのもうひとつ。鏑木様に撥ねられた件ですが⋮﹂
私はさっきからずっと気になっていたことを聞いた。
972
150
さっきはさらっと流されたけど、鏑木の車に撥ねられていたと言
うのは、聞き捨てならない話だぞ。
﹁夏休みに鏑木様の車に撥ねられたのですか?﹂
﹁あはは、まぁ﹂
なんと!夏休み明けから突如親しくなったふたりのきっかけが、
鏑木が若葉ちゃんを車で撥ね飛ばしたことだったとは!
﹁撥ねられたっていうほど大げさな話じゃないんですけどね。そこ
まで車はスピードは出ていなかったし。それでぶつかって、私は自
転車ごとぽーんと飛ばされて、こうくるくるっと﹂
そう言って若葉ちゃんは、カエルのようなポーズから体を丸めて
ごろごろと地面を転がる実演をしてくれた。
﹁自転車からすぐに手が離れたから大きな怪我もしなかったみたい
ですよ?自転車は前がちょっと轢かれてたから、あのままハンドル
を握り続けてたら危なかったかも∼。あはは﹂
撥ねられたうえに轢かれてたのか。笑いごとじゃないぞ、若葉ち
ゃん。
﹁それで、鏑木様からはきちんと対処してもらえたんですの?まさ
か轢き逃げなんてことは⋮﹂
﹁まさか∼。ちゃんと謝ってもらえましたし、大丈夫だった言った
973
のに病院にも連れて行かれて﹂
﹁それは当然ですわ﹂
﹁でも頭も背骨も打ってなかったし、撥ねられたっていうより転ば
されたって程度ですよ?まぁ、夏で半袖だったからアスファルトで
腕や手のひらに擦り傷が出来ちゃったんですけどね∼。その程度で
す。あとは打ち身で地面にぶつけたところが何か所か数日痛かった
くらいかなぁ﹂
若葉ちゃんはそう言って暢気に笑った。
﹁でも実際、軽傷とはいえ怪我もしたんだし自転車もあの有様です。
もちろん慰謝料は請求したんでしょうね?﹂
﹁え∼っ!慰謝料なんてもらえませんよ﹂
﹁なに言ってるんですか!それでは泣き寝入りじゃありませんか!
遠慮せずにふんだくってやればいいんです!﹂
﹁ふんだくるって⋮﹂
若葉ちゃんはちょっと顔を引き攣らせたけど、相手は大金持ち。
示談にするなら毟り取ってやればいいんだ!
﹁慰謝料については、実は鏑木様も支払うって言ってくれたんです
けどねー。鏑木家の顧問弁護士さんって人も、家に何度も来てくれ
て。私、弁護士さんて初めて会ったからドキドキしちゃった!いか
にも仕事できますって感じの人で、さすが鏑木家の顧問弁護士!っ
てそれはどうでもいいか。えっと、それで慰謝料ですけど、私達が
断ったんです。だって本当にたいした怪我じゃなかったし。でも結
局最後、お見舞金って渡されたお金は断りきれなかったんですけど
ねー。慰謝料の金額よりは少なかったですけど、それでも多かった
ですよ?最初に慰謝料って提示された金額はあまりに大きすぎて、
家族全員震えちゃいましたから﹂
974
﹁まぁ⋮﹂
﹁これだけはどうしても受け取って欲しいって言われて、分厚いお
見舞い袋を渡されちゃって。でもこーんなに分厚いの﹂
﹁こーんなに﹂と若葉ちゃんは人差し指と親指で厚みを再現した。
少なくとも50万以上ってとこか。
﹁驚いたのはそのお見舞い袋、鏑木家の紋が入ってたんですよね。
やっぱりああいう大きな家では熨斗袋もオーダーメイドしてるんで
すね∼。もしかして吉祥院さんの家もですか?﹂
﹁ええ、まぁ﹂
﹁そっかぁ。凄いな∼﹂
若葉ちゃん、そんなことに感心している場合じゃないと思うけど
⋮。
﹁あっ!それにね、自転車は弁償してくれたんですよ。それがイタ
リア製の物凄く高い自転車でびっくりしちゃいました!﹂
﹁へぇ﹂
﹁1万円ちょっとの自転車が、何十万もする自転車になって戻って
きちゃった。わらしべ長者っぽくありません?﹂
ちょっと違う気がする⋮。
﹁でも高級すぎて盗難に遭いそうなのが怖いんですよね。だから今
も庭の奥にしまってあるんです。ワイヤーキーにも鈴を付けてます
!﹂
﹁そうなの﹂
﹁前の自転車には交通安全祈願のシールを貼っていたんですけど、
私が車にぶつかっても平気だったのはそのお守りシールのおかげだ
975
と思うんです。だから新しい自転車にもシールを貼ろうとしたら、
鏑木様に頼むからやめてくれ、この自転車に対する冒涜だって怒ら
れちゃいました。それ以外にも自転車をカスタマイズできるって言
うから、だったらカゴと荷台も付けて欲しいとお願いしたら、この
自転車のデザインが⋮とかいろいろ言われちゃいましたね∼﹂
う∼ん、それは鏑木の美意識が許さなかったのかな。
そこで若葉ちゃんは洗濯が終わったみたいだと一度席を外し、し
ばらくするとハンガーに吊るされた私のワンピースを持って戻って
きた。
﹁きれいに落ちてるよ∼。乾燥機にも少しだけかけたけど、あとは
外に干しておけばすぐに乾きますよ∼﹂
﹁どうもありがとう﹂
私の白いワンピースが外の物干しにはためいた。まだまだ暑いか
ら、このぶんだと若葉ちゃんの言う通りすぐに乾きそうだ。
そこに若葉ちゃんのお母さんらしき人が顔を出した。
﹁若葉、お友達が来ているの?﹂
﹁あぁ、お母さん。えっと、友達というか⋮。瑞鸞の同級生の吉祥
院さんだよ﹂
﹁初めまして、勝手にお邪魔させていただいて申し訳ありません。
瑞鸞で高道さんとご一緒させていただいている吉祥院麗華と申しま
す﹂
﹁あらあっ!若葉の友達とは思えない、お上品なお嬢様ねぇっ!さ
すがは瑞鸞だねぇ!﹂
﹁お母さん!﹂
若葉ちゃんのお母さんは、私の前世のお母さんをどこか思い出さ
976
せるような、明るくて優しそうな人だった。
﹁お母さん、お店のほうはいいの?﹂
﹁ちょっと様子を見にきただけよ。せっかくだから若葉、お友達に
うちのケーキを食べてもらったら?﹂
﹁わかったから。吉祥院さん、よかったらケーキ食べます?﹂
﹁えっ!﹂
若葉ちゃんの家のケーキ!帰りに絶対に買って帰ろうと思ってた
んだけど、今食べていいの?!
﹁いいのかしら⋮﹂
﹁吉祥院さんがいつも食べているようなケーキとは全然違うと思い
ますから、ムリしなくてもいいですけど。本当に庶民派ケーキなん
で﹂
﹁ううん。楽しみですわ!﹂
﹁じゃあ、どうぞ﹂
そうして私は若葉ちゃんと一緒に、お店にケーキを見に行った。
﹁わぁっ!﹂
これが若葉ちゃんの家のケーキ!シンプルで昔ながらのケーキだ
けど、おいしそう!どれにしようかな。
﹁決まった?﹂
﹁ではこのモンブランを⋮﹂
﹁わかったー。なら私もそれを食べようかな。お母さん、モンブラ
ンふたつ∼﹂
﹁あっ、お金はお支払します!﹂
977
﹁いいよ、そんなの﹂
﹁いけませんわ!売り物の商品なのに﹂
﹁あはは、いいっていいって﹂
えーっ、それはダメでしょう。いくらなんでも図々しすぎる!
でも結局また若葉ちゃんに笑顔で押し切られて、そのまま私達は
ケーキを持ってリビングに戻ってきた。
﹁ごめんなさい。ありがとう。いただきますね﹂
﹁いいよ、これくらい。でも吉祥院さんの口に合うかな∼⋮﹂
私は差し出されたフォークで、モンブランを一口食べた。
﹁おいしいっ!﹂
﹁本当?!嬉しいな!﹂
あぁ、これが私がマンガを読んで食べたいとずっと思っていた若
葉ちゃんの家のケーキか⋮。ほろっと甘くて優しい味だ。
﹁ええ、とっても、とってもおいしいです。私、帰りに絶対に買っ
て帰りますわ﹂
﹁良かったぁ、そう言ってもらえて。こんな小さなお店だけどね、
最近はお客さんがネットの口コミやブログで紹介してくれたりして、
遠方からわざわざ買いに来てくれる人もいたりするんですよ?﹂
若葉ちゃんはそう嬉しそうに言って、自分もモンブランを食べた。
﹁確かにこれなら遠くから買いに来たくなる気持ちもわかりますわ。
今もお店にお客様が何人もいらしたものね﹂
﹁えへへ、ありがとう﹂
978
今日はお兄様が長期出張から帰ってくるから、ぜひお土産に買っ
て帰ってあげよう。きっと喜ぶ。ふふっ。あぁ、おいしい。
﹁ケーキといえば、さっきの話の続きですけどね。私が慰謝料を断
った時の話﹂
﹁ええ﹂
﹁私がどうしても受け取れないって言ったら、だったらとりあえず、
ここの店のケーキを全部買って帰る!って鏑木様に言われちゃった
んですよ﹂
﹁はぁっ?!﹂
なにを言ってるんだ、あいつは!
﹁それはお気持ちだけで結構ですって断ったんですけど。いいや、
全部くれって﹂
﹁なんて迷惑な⋮﹂
わざわざ遠方から買いに来てくれるお客さんもいるのに、商品全
部を買い占められたりしたら、とんだありがた迷惑だ。
﹁で、押し問答の末に、最後は全種類を1個づつ買って帰ってくれ
ました﹂
﹁そうなの⋮。大変だったわね﹂
本当に、なにをやっているんだかねー。
﹁でね、一応この話は瑞鸞の誰にも話していないんです。やっぱり
人聞き悪いでしょう?鏑木様の車が人にぶつかったって﹂
﹁そうですわね﹂
979
軽傷といえど立派な人身事故だからね。だからふたりが仲良くな
った理由を聞かれても、具体的に答えられなかったんだろうな。
﹁でもそしたら私に話してよかったんですの?﹂
﹁うん。だからこの話はここだけの話ってことで。だって今日のこ
とは誰にも秘密なんですもんね?﹂
若葉ちゃんはニカッと笑った。あ、さっきの買い食いの件だ。も
しかして私に自分の秘密をしゃべることで、安心させようとしてく
れたのかな。
﹁わかりました。私は絶対にしゃべりません!﹂
﹁うん。私もしゃべらないよ。約束﹂
夕方になり若葉ちゃんの弟達も家に帰ってきた。そしてその頃に
は私の服も乾いたので、着替えてお暇することになった。
﹁せっかくだから夕食も食べていけばいいのに﹂
﹁ありがとうございます。でも門限があるので⋮﹂
若葉ちゃんのお母さんがありがたいことを言ってくれたけれど、
今日は家に連絡もしていないし遅くなるのはまずい。
私はお目当てのケーキをしっかりと買い、高道家のみなさんにお
別れの挨拶をして帰った。
さて、帰ったらお兄様に手芸部の部長になったことをさりげな∼
く自慢をしないとなー。
980
151
若葉ちゃんにはとってもお世話になったので、なにかお礼をしな
いといけないと考えたけれど、いいものが思い浮かばない。
普段なら吉祥院家御用達、一見さんお断り完全予約制の洋菓子店
のクッキーか、高級果物店のフルーツあたりを贈るんだけど、ケー
キ屋さんのおうちに洋菓子は失礼だよな∼。しかもこれみよがしな
高級店。う∼ん⋮。
あれこれ悩んで結局、高道家にはケーキに合う紅茶とコーヒー、
若葉ちゃん個人には瑞鸞の校章の入ったノートなどの消耗学用品を
自宅に贈っておいた。やっぱり贈り物は負担にならない消え物が一
番だよね!
あの日のことはふたりだけの秘密なので、学院でも私達が親しく
話すことはない。そうしていると段々若葉ちゃんの家に行ったこと
が夢だったように思えてきた。私、本当に若葉ちゃんの家に行った
よね?白昼夢を見たわけじゃないよね?
体育祭まであと少しなので、各クラスの練習も佳境に入ってきて
いる。私達のクラスでもみんな高得点目指して練習を頑張っている
けれど、どうだろうな∼。笑いながら練習しているから真剣味が足
りない気がする。男子は騎馬戦の練習もしているけれど、最初から
逃げの作戦に出てるのは過去の経験からか。でも今年だったら頑張
ればいい線いけるんじゃないの?
皇帝は宣言通り、今年も騎馬戦は辞退。
皇帝と同じクラスの子に聞いたら、クラスでの出場種目決めの時
981
に案の定、皇帝に騎馬戦にぜひとも出て欲しいという生徒達が続出
したらしい。しかし皇帝はそれを無言で手で制したという。
自分はすでに引退したのだからと。
それでもと追い縋るクラスメート達。しかし皇帝は首を縦には振
らない。そして言った。
俺は引退したから出るつもりはない。だがその代り、騎馬戦に出
る選手達は俺自らが鍛えてやろうと。ほかの種目でも完全勝利出来
るように、お前達男子全員を全力で鍛えてやろうと。
うん、同じクラスでなくて良かった。そして男子に生まれなくて
本当に良かった。だって、鍛えられすぎて皇帝のクラスの男子達、
スパルタ軍みたいになっちゃってるもん⋮。目がギラギラしてて怖
いよ。
そんな時、ピヴォワーヌ会長と同志当て馬がとうとうぶつかった。
どうやらピヴォワーヌのメンバーが食堂で、眺めの良い席に座っ
ていた一般生徒をどかして座ったのが原因らしい。しかもそのメン
バーが1年生で、どかされた一般生徒が3年生だったので、同志当
て馬が下級生として先輩を敬えと注意をしたようだ。
しかしそれに怒ったのが会長率いるピヴォワーヌ至上主義の一派。
ピヴォワーヌのメンバーに意見するとは何事かと出てきた。
今、食堂は一触即発のピリピリとした空気に包まれていた。
﹁そもそも先に座っていた人達がいたのに、自分達がそこに座りた
いからどけというのは横暴というものでしょう。しかも相手は上級
生。礼儀に反する行為です﹂
﹁下級生だろうとあの子達はピヴォワーヌのメンバーよ。この瑞鸞
ではピヴォワーヌがなによりも優先されるのは当然のこと。相手が
誰であろうとそれは変わりませんわ。貴方こそ上級生である私に意
982
見するのは、その礼儀とやらに反する行為なのではなくて?﹂
﹁俺は生徒会長ですから。生徒達を守るのが生徒会の義務です。ピ
ヴォワーヌだからなんでも許されるなんて間違っている。自分達専
用の席もある。それ以外に空いている席もあった。でも座りたい席
があるからそこにいた人間をどかす。傍若無人な振る舞いだと思い
ませんか。生徒会はそんな身勝手な行動を見過ごすわけにはいきま
せん﹂
﹁傍若無人ですって?!私達にそのような口をきいて、貴方いった
い何様なの?﹂
会長が柳眉を逆立てた。しかし同志当て馬は動じない。
﹁ピヴォワーヌといえど、同じ瑞鸞の生徒だ。間違った行動をした
ら注意するのが生徒会の役目だと思っています﹂
﹁お黙りなさいっ、成り上がりがっ!﹂
成り上がり?!
﹁生徒会など所詮瑞鸞の成り上がり連中じゃないの。生徒会だなん
だと偉そうにしていられるのは、私達ピヴォワーヌが貴方がた生徒
会とやらの自治権を寛大な心で許してあげているからなのよ?それ
をなにを勘違いしたのか、ピヴォワーヌに楯突くとは⋮。身の程知
らずもたいがいになさい!瑞鸞の象徴たるピヴォワーヌと、成り上
がりの生徒会ごときではその立場に天と地ほどの差があるわ!﹂
﹁⋮っ!﹂
会長のあまりの言葉に、同志当て馬の顔に怒りが走った。
そこへ騒ぎを聞きつけた先生方が慌ててやってきて、ふたりの間
に入った。同志当て馬は先生に連れて行かれ、それを心配したほか
の生徒会のメンバーが後を追った。会長達は怒りが収まらぬ様子で
983
その後ろ姿を睨みつけていた。
私は怖いので芹香ちゃん達の中に紛れてこっそり成り行きを見て
いたのだけれど、胃がキリキリして一気に食欲がなくなった。
﹁なんだか、大変なことになりましたね⋮﹂
﹁水崎君ももう少し言い方を考えればいいのに。大丈夫かしら⋮﹂
芹香ちゃん達が周囲を気にするように小声で話した。
この先のことを考えると、私は同じピヴォワーヌメンバーとして、
いつ火の粉が飛んでくるんだろうと手の震えが止まらない。怖い⋮。
強い心臓が欲しい。外見はロココでも、中身は小市民な私です。
こんな時鏑木達はどうしているのかと目で探したら、鏑木はピヴ
ォワーヌ専用席から未だ騒ぎの中心となっている場所をつまらなそ
うな顔で見ていた。そしてその目が困った顔で同志当て馬を追おう
か迷っている様子の若葉ちゃんを捉えると、そのままジッと若葉ち
ゃんを見つめ続けていた。
同志当て馬は学院長から直々に注意を受けた。もちろんピヴォワ
ーヌにお咎めはなし。私も理不尽だと思うけど、これが瑞鸞なのだ
から同志当て馬は悔しいだろうが引くしかない。
学院側からピヴォワーヌへの態度について生徒会へ注意がなされ
たということで、食堂での一件は一応の決着をみたが、これ以上の
トラブルがないことを祈るよ。
そして体育祭の日がやってきた。
984
初っ端から皇帝と配下のスパルタ軍は飛ばしていた。あぁ、いっ
たいあの男子達はどんな過酷な訓練をさせられたんだろう。意気込
みが違う。お祭り感ゼロだ。彼らと同じ女子達はお気楽にきゃあき
ゃあ言って応援しているけどね。
そして同志当て馬もそれに負けず劣らず活躍していた。うんうん、
ストレスは体を動かして発散させるのが一番だよね。頑張れ、同志
当て馬。
そうしている内に、私が出る100メートル走の順番が近づいて
きた。100メートル走に出る選手達が集まる場所に行くと、私と
目が合った若葉ちゃんが﹁全力出します!﹂とガッツポーズをして
きた。あはは、やる気だねー、若葉ちゃん。でも私と若葉ちゃんは
走る組が違うよ。
私が笑って若葉ちゃんに返事をしようとしたその時、同じく10
0メートル走に出る予定の私の取り巻き達が﹁馴れ馴れしいっ!こ
のかたを誰だと思っているの?!﹂と間に入って若葉ちゃんを睨ん
だ。
﹁行きましょう、麗華様。なんて身の程知らずな!﹂
私はその子達に引き摺られ、若葉ちゃんから離された。若葉ちゃ
ん、せっかく話しかけてくれたのに、ごめん⋮。
でもよく考えてみたら、自分で言うのもなんだけどピヴォワーヌ
の吉祥院麗華に気軽に話しかけるって、怖いもの知らずだよね、若
葉ちゃん⋮。
接待グループの100メートル走では当然私が1位。取り巻きの
みなさんが﹁素晴らしいですわ、麗華様!﹂と拍手で接待の上乗せ。
なんという出来レース。いたたまれない⋮。
若葉ちゃんは惜しくも2位だったようだ。楽しそうに笑っていた。
985
瑞鸞学院の体育祭は始まったばかり││。
986
152
男子リレーでは鏑木チームが円陣を組み、うおーーっ!!と気合
の雄叫びをあげていた。うわぁ、なんか1チームだけ凄いことにな
ってる⋮。
スタートの合図が鳴った。一斉に走り出す選手達。おおっとっ!
我先に走り出した鏑木チームの第一走者が、気合が入りすぎて転ん
だーー!!バトンも飛んでったーー!!
ぎゃあああっ!と応援席からあがる悲鳴。慌ててバトンを拾って
走るも、鏑木チームはかなり出遅れてしまった。うわぁ、うわぁ、
あの男子の今の心境や如何に⋮。
走り終えた鏑木チームの第一走者は真っ青な顔をしていた。そり
ゃそうだろうな。しかしそんな男子を鏑木は背中をバンバン叩いて
労っていた。なにか耳元で声を掛けている。どうやらミスを怒って
はいないようだ。良かったね、見知らぬ男子よ。
そしてアンカーの鏑木の番になった。鏑木のクラスは第二走者以
降のスパルタ軍の決死の走りで現在4位。鏑木はバトンを受け取る
と風のように走り出し、すぐ前を走る3位を抜き去った。そして2
位に追いつき、1位を射程圏内に捉える。速い!
鏑木の破竹の勢いに地鳴りのような声援が響き渡る。ゴールは目
前。抜くか、皇帝!抜いたーーー!!
ゴールテープを切った鏑木に、その場にいた選手達全員が駆け寄
った。あ、第一走者の男子が号泣してる。責任に押し潰されそうに
なっていたんだろうねぇ⋮。そんな彼を見て鏑木が笑顔で親指を立
てていた。鏑木はまた男子の信者をひとり増やした。
私が次に出るのは玉入れだ。団体戦だし、今度こそ接待なしで勝
987
ってみせる!
ほかのクラスを顔ぶれを確かめると、練習で球をぶつけられまく
っていた若葉ちゃんの隣になんと円城が立っていた。えっ、玉入れ
に円城が出るの?!
また玉をぶつけてやろうと意気込んでいた子達は、隣にいる円城
に当てるわけにもいかないので、諦めておとなしくカゴに投げてい
た。
もしかして円城、若葉ちゃんをフォローしたの?偶然かな?
玉入れの結果は可もなく不可もなくの3位だった。
午後は仮装リレーだ。野々瀬さん達も協力した岩室君の仮装の出
来はどうかな∼。続々と出場クラス達が姿を現した。
﹁んんっ?!﹂
私のクラスはブレーメンの音楽隊だったが、なぜか全員の動物の
頭に巻き髪がくっつけてあった。
なんだ、あれ?!
﹁委員長!委員長!﹂
﹁どうしたの?吉祥院さん﹂
私は委員長の元へ行き、あの妙ちくりんな仮装について問い質し
た。
﹁なんで動物の頭に変な髪がついているんですの?!﹂
﹁ああ、あれ。吉祥院さんの髪型を真似たみたいだよ﹂
やっぱりか!
988
﹁吉祥院さんはうちのクラスの顔だから、自分達のクラスのアピー
ル?リスペクト?うん、そんな感じで﹂
﹁そんな感じって⋮。私、聞いていませんわよ!﹂
﹁あー、事前に知ったら嫌がってやめさせられちゃうかもって思っ
たみたい。ごめんね、吉祥院さん。僕が仮装リレーのメンバーに、
岩室君が吉祥院さんの髪型を真似たカツラを被るんだって話をしち
ゃったら、なんだか対抗意識燃やしちゃったらしくって。吉祥院さ
んは僕らのクラスなのにって﹂
﹁意味わかんない!﹂
カツラといえど、岩室君の巻き髪のクオリティとは比べものにな
らない付け巻き髪じゃないか。あれじゃ優雅なロココというよりレ
ゲエの神様だ!
ほら、なんか変な笑い取ってるしーっ!私まで笑われている気が
する!
﹁ほら吉祥院さん、始まるよ。応援、応援﹂
委員長に促されても、妙なネジネジを頭に付けた動物達を素直に
応援出来ない。
﹁あ!岩室君が出てきたよ!﹂
岩室ウェンディは見事な金髪の巻き髪カツラを被り、水色のワン
ピースを着て全力疾走していた。レゲエブレーメン達はあっという
間に抜かされた。フルフェイスのロバが完全に足を引っ張っている。
酸欠だな。
見ると若葉ちゃんも仮装リレーに出ていた。若葉ちゃんのクラス
の仮装は浦島太郎だった。浦島太郎や乙姫の後ろを、全身に鯛やヒ
989
ラメを付けた若葉ちゃんが走っていた。若葉ちゃん⋮。
私はゴールした仮装リレーの選手達に一言言ってやりたかったが、
私の出る二人三脚の順番が来てしまったのでしょうがない。この気
持ちを競技にぶつけるため移動する。
私が巻き髪とドレッドの違いについて考えながらペアの流寧ちゃ
んと歩いていると、前から鏑木がやってきた。
﹁吉祥院!﹂
なぜか鏑木に声を掛けられた。流寧ちゃんは余計な気を利かせて
さっと私達から少し離れた。
﹁鏑木様﹂
鏑木の周りにはいつものように一定の距離を持って女の子達がく
っついてきている。ハーメルンの笛吹き男のようだ。
鏑木が私の肩に手を置いた。それを見て遠巻きに女子達が黄色い
声をあげた。
﹁お前の去年からのテーマがわかったぞ。干支シリーズだな!﹂
﹁は?干支?﹂
私のテーマだとか干支だとか、いきなりひとを掴まえてなにを言
いだすかと思ったら、またわけのわからないことを⋮。
しかし鏑木は私の困惑をよそに、ひとり納得したように頷いた。
﹁今年は仮装リレーに出ないから、さては付け鼻から逃げたかと思
ったが、まさか分身を出してくるとはな。去年のネズミに羊、そし
て今年のブレーメン。お前が干支をコンプリートしようとしている
990
ことが俺にはすぐにわかったぞ﹂
﹁はあっ?!﹂
こいつなに言っちゃっての?!バカじゃないの?!仮装で干支を
コンプリートしたいなんて、私は生まれてこのかた1度だって考え
たことはない!
そもそもよく見ろ!ブレーメンの音楽隊には猫がいたでしょうが。
猫は干支には入っていないぞ!なぜなら猫はネズミに騙されたから!
ちょっと、なにが﹁なるほどな﹂なの?!やめて、また勝手に納
得しないで。怖いから!
﹁今回で数を稼いだから卒業までにはコンプリートできるかもな。
まぁ頑張れ﹂
言いたいことだけ言うと鏑木はポンポンと私の肩を叩いて、意気
揚々と去って行った。ちょっと待てーーっ!
断じて私は高校生活の目標に干支をコンプリートなんて間抜けな
ものは掲げちゃいない!体育祭バカのあんたと一緒にすんな!普通
の人はそんな基準で生きちゃいないんだよ!待つんだ、鏑木!
﹁あの麗華様⋮。余韻に浸っていらっしゃるところを申し訳ないん
ですけど、そろそろ急がないと時間が⋮﹂
固まる私に流寧ちゃんが遠慮がちに声を掛けた。は?余韻に浸る?
離れて様子を窺っていた周囲には、競技の応援の声にかき消され
て私達の会話がよく聞きとれていなかったらしい。﹁鏑木様がこれ
から出る麗華様を励ましていらしたわ﹂と羨ましげにうっとりされ
た。違う!﹁良かったですわねぇ、麗華様﹂って流寧ちゃんまで誤
解しないで!私はただあのバカに、干支仮装にこだわりを持つ珍妙
女の烙印を勝手に押されただけなんだから!
991
鏑木のバカのせいで精神力がどっと削られた私は、二人三脚でも
パッとしない成績に甘んじるはめになった。流寧ちゃんが﹁せっか
く鏑木様に激励していただいたのに、残念でしたね﹂と私を慰めた。
だから違うってば⋮。
なんやかやとありつつも体育祭は終盤になり、そしてとうとう騎
馬戦の時間がやってきた。皇帝直々の訓練を受けた騎馬達は鼻息も
荒く入場してきた。やはりここが本命か。鏑木も腕を組んで見守っ
ている。
そこへ同志当て馬が登場した。一際大きくなる声援。ピヴォワー
ヌの会長とぶつかったといえど、同志当て馬の人気は高い。なぜだ。
顔か。
﹁水崎くーん!﹂﹁会長︱!﹂といった声援の中に、﹁皇子様︱!﹂
という声がちらほら聞こえた。皇子様?
聞けばどうやら私の知らぬ間に、同志当て馬には皇子というあだ
名が付けられていたようだ。皇子⋮。有馬皇子か。
でも有馬皇子って悲劇の皇子だよね。それってどうなの?あぁで
も、有馬皇子ってある意味当て馬ポジションだよね。それなら同志
にふさわしいあだ名なのか?イメージ全然違うけど。アフロディー
テなみに合ってないけど。
そんな有馬皇子様は次々に敵のハチマキを取って行く。目指すは
鏑木の教えを受けた騎馬のみ!鏑木軍の2騎に挟まれ、絶体絶命の
同志当て馬だったが、右手で1騎をなぎ倒し、もう1騎を捨て身の
頭突きで潰した。その活躍に、もう応援席は全員立ち上がっての大
拍手だ。自分が手塩にかけて育てた配下が負けた鏑木も、厳しい顔
をしながらも拍手をしていた。
あ∼ぁ、眉間にシワ寄せちゃって。去年の友柄先輩優勝の時もそ
うだけどさ、そんなに思い入れがあるなら出りゃいいじゃん。そん
なに苦悩した顔しても、考えてる内容はバカすぎるぞ、鏑木。
992
153
体育祭が終わったあと、納得のいっていなかった私は仮装リレー
メンバーにレゲエ巻き髪を付けた理由を問うた。
それによると私が出ない言い訳に使った、去年鏑木に仮装のダメ
出しをされてそれに応えられる自信がないからという話を真に受け
て、では楽しみにしている皇帝のためにせめて自分達が頭に巻き髪
を付けて走ろうと決意したらしい。なんだそりゃ。あいつか!やっ
ぱりすべての元凶はあの体育祭バカか!
ひとりの男子は﹁皇帝に、面白い趣向だったと声を掛けてもらえ
ました!﹂と喜んでいた。そして﹁辰と巳あたりは難しそうだが知
恵を絞って頑張れと言われたんですが、なんのことですか?﹂と言
われた。干支シリーズだよ!
あれ?でもさ、私が干支シリーズなら、若葉ちゃんは海シリーズ
じゃない?1年の時に余興で海役やってたし。海、魚、ときたら次
はなんだろう。海藻⋮、船⋮って、私まで体育祭バカの思考回路に
毒されてる!
やだよ、私。干支なんてコンプリートしたくないよ。
そして誰が最初に言いだしたのか、同志当て馬の有馬皇子という
あだ名は一部で定着してしまったようだ。
有馬温泉はいいよねー。日本最古の温泉。前世では有馬温泉の素
を家のお風呂に入れて楽しんだけど、今世はお金持ちなので本物の
有馬温泉に行っちゃった。いや∼、いいお湯でした。お肌つるつる。
そして夕食に出た温泉たまごのおいしかったこと!温泉たまごはい
いよねー。シーザーサラダと一緒に食べるととってもおいしいんだ!
しかし同志当て馬としてはいいのか?悲劇の皇子の名前なんて付
993
けられて。まぁピヴォワーヌとしては同志当て馬の名前が早良じゃ
なくてよかったと思うべきか。祟り怖い。
この学校って、というよりこの学年って、あだ名付けるの好きだ
よね。皇帝とか有馬皇子とかアフロディーテとか。あと、私の⋮女
神、とか?
うん、よく知らないけど私を女神と呼ぶ男子達がいるらしいって、
去年同じクラスだった佐富君から聞いたことがあるんだよね。まぁ
言われてみれば?確かに、女神っぽい気品はあるかもしれないけど
?でも大げさだと思うんだよね。そういうの困るし。だいたいなん
で私が女神なのかなって思ったけど、たぶん私の苗字の吉祥天から
取ったんじゃないかと思うんだ。同志当て馬の有馬皇子と同じ発想。
あ、そういえば吉祥天って、美、の女神だったりするらしい。だ
からなんだってわけじゃないけど。ただ吉祥天は美を司っているな
∼って思っただけなんだけど。ただそれだけ。
体育祭が終わればすぐに中間テストだ。前々回は29位、そして
前回は30位だったので今回もどうにか順位表に名を残したい!着
実に下がっているのが不安材料だけど、夏休みに図書館通いして勉
強したぶんもなんとか活きてくれればいいな。
私は机に向かって参考書を開いた。今頃若葉ちゃんも試験勉強し
ているのかな∼。
若葉ちゃんの家は決して貧乏ではない。一軒家だし家業のケーキ
屋さんは地域密着型で繁盛している。牛乳パックを花瓶や鍋敷きの
代用にしたりお風呂にペットボトルを沈める節約術などをして生活
を切り詰めている様子もない。まぁ、お風呂は実際には見ていない
んだけど、少なくともマンガにはそんな描写はなかった。この前家
に伺った時もエアコンを普通に使ってたしね。
ただ若葉ちゃんには兄妹が多いのだ。若葉ちゃんを筆頭に下に弟
994
2人と妹1人の計4人兄妹だ。だから若葉ちゃんは弟達が将来進学
する時のことを考え、少しでも家の負担を減らそうと瑞鸞の特待生
になり、もらった奨学金を貯金している。孝行娘なのだ。
若葉ちゃんの弟達も瑞鸞の初等科にはいない、わんぱくな子達だ
ったなぁ。私を見て﹁うわっ、この姉ちゃんの頭チョココロネみて
ー!﹂とか言ってきたし。そしてそれを聞いた若葉ちゃんに速攻で
頭はたかれて﹁いってーっ!﹂とか騒いでたし。本当に高道家は楽
しい一家だったなぁ。
よし!私も若葉ちゃんを見習って頑張ろう。しがみつけ!順位表!
そんな意気込みで臨んだテストは、私にしてはわりと出来たほう
じゃないかと思う。あくまでも私にしては、だけどね。
ドキドキしながら結果発表を待つ間、私はひたすらベアたん制作
に勤しんだ。学園祭まであと約1ヶ月。どうにか間に合わせねば。
お父様の秘書の笹嶋さんの助っ人で胴体は出来、手足も完成。あと
は顔だけなんだけど、これがどうにもいまひとつなんだよな∼。何
個か作ったけど写真のベアトリーチェとどこか違う。梅若君からは
ベアトリーチェの画像が定期的に送られてくるので、顔だけはすっ
かり頭に叩き込まれているのだ。鼻と目の位置かなぁ。それと長い
毛をまだ付けていないから似ていないように見えるのかなぁ。ベア
トリーチェの一番の特徴である長い毛はからまり防止のために最後
に付けようと思っているのだ。
今度手芸部のみんなにアドバイスをもらおうかな。
そして迎えた中間テストの順位発表。私の成績は⋮と、おおっ!
28位だ!上がってる!前回よりも2つも上がってる!凄いぞ、私!
﹁まあっ、麗華様!28位ですって!凄いわっ!﹂
﹁麗華様が28位!確か前回は30位でしたよね?素晴らしいわ!﹂
995
一緒に掲示板を見に来ていた芹香ちゃん達の賛辞が心地よい。
﹁どうもありがとう。でも28位ってそんなに褒めてもらえるよう
な順位なのかしら⋮。私にはよくわからなくて﹂
﹁あら、充分ご立派な成績ですわ。麗華様は順位とかをあまり気に
なさらないからおわかりにならないのでしょうけど﹂
﹁そうですわ。麗華様はご自分の成績をもっと誇っていいんですよ
?﹂
﹁まぁ、そんな⋮﹂
おほほほほほ。もっと言って。
しかし上には上が大勢いる。今回も1位は鏑木、2位に円城、3
位が若葉ちゃんだ。あの3人の頭の中はどうなってんだ?
順位表を見上げる若葉ちゃんは、今までの経験を踏まえて口を真
一文字にして喜びを露骨に出さないようにしている。が、小鼻がひ
くひくしているぞ、若葉ちゃん。嬉しいんだな。これでまた臨時奨
学金ゲット!とか考えているな。
この前聞いた話によると、普段はお弁当の若葉ちゃんは、臨時奨
学金をもらった時だけご褒美に食堂の高級メニューを食べるのが密
かな楽しみなんだそうだ。良かったね、若葉ちゃん。今回はなにを
食べるのかな?今月はヌーベルキュイジーヌフェアをしているよ。
﹁若葉ちゃん、凄∼い!﹂
﹁えへへ、ありがとう﹂
若葉ちゃんは生徒会に入ってから同じ役員をしている子達と仲良
くなったようだ。最近一緒にいる姿を時々見かける。
﹁今回も高道に負けたな∼﹂
996
若葉ちゃんの隣には同志当て馬もいた。同志当て馬は4位だ。
﹁次回頑張って﹂
﹁余裕の発言だな、それ﹂
若葉ちゃんと同志当て馬もずいぶんと親しくなったみたいだな。
孤立していないのはいいことだ。後ろにいる有馬皇子ファンの目が
厳しいけど。
そこへやってきた鏑木と円城は、周囲に騒がれながらも順位表を
いつもと同じく当然の結果と受け止め、たいして関心もなさそうに
去って行った。その時、鏑木が同志当て馬としゃべる若葉ちゃんを
ちらっと見ていたのを、私は見逃さなかった。
鏑木って、本当に若葉ちゃんをどう思っているのかなぁ⋮?
体育祭、中間テストと終わり、これから瑞鸞は学園祭一色だ。そ
してその学園祭で、私達のクラスは中国茶カフェをやることになっ
た。中国茶は市之倉さんに台湾に連れて行ってもらった時にたくさ
ん買ってきたから、少しはアイデアで貢献できるかも。
それと手芸部の展示の準備だ。私は部長なのだから部員のみんな
を引っ張って行かないとね!
よーし!みんな、この部長の私にまかせてね!
でもまずは部長として自分の出品物を完成させないと。今日はベ
アたんぬいぐるみを学院に持ってきた。みんなのアドバイスが欲し
いからだ。手芸部に行く前にサロンに顔を出し、お茶を飲みながら
大きな袋に入れてきたベアたんを覗きこむ。一応候補の顔は3つあ
るんだけど、どれがいいかな∼。どれも可愛いと思うんだけど。
サロンの隅でベアたんの胴体に頭を付け比べて悩んでいると、鏑
997
木が通りがかって不思議そうな顔をした。
﹁なんだ、それ。ケルベロスか?﹂
はあああっっ?!表出ろや、こらぁぁっ!!!
998
154
鏑木に、我が渾身の作品ベアたんぬいぐるみを地獄の番犬呼ばわ
りされ、私は大いに憤慨した。
ケルベロスだと?!暗に私が大食の罪を犯しているとでも言いた
いのか!貪食者の地獄か!違う!この子の名前はベアトリーチェ!
ダンテの神曲における永遠の恋人だ!ケルベロス呼ばわりしたこと
を、ダンテ梅若に謝れ!パペサタンパペサタンアレッペ!おのれ鏑
木、地獄へ落ちろ!
心の中で罵るだけ罵り、私はベアトリーチェの入った袋を担ぎ、
サロンを飛び出した。手芸部のみんなにこの私の無念を聞いて欲し
いっ!
私は手芸部に着くと、3つのベアたんの頭部と写真を持って部員
達に切々とこの胸の内を訴えた。似ているかどうかはともかく、こ
んなに可愛く出来たのに!
手芸部のみんなは﹁3つという数が良くなかったですわね∼﹂な
どと遠慮がちにフォローした。まぁ、確かにそうかもしれない。で
もさ、こんなに可愛いんだよ?数が合うだけでケルベロス扱いなん
て酷いっ!
﹁まぁまぁ、麗華様。鏑木様が驚くような愛らしい作品を作り上げ
ればよいではないですか。私もお手伝いしますから。この写真の顔
に似せたいのですよね?﹂
前部長さんが私に優しく声を掛けてくれた。そうだった!あんな
体育祭バカの言葉に憤っている場合じゃない。このベアたんぬいぐ
るみの顔をできるだけ本物そっくりにまで仕上げるのが今の私の最
大の課題であった!まずはこの3つの候補から、どれが一番似てい
999
るかを選んでもらわないと!
﹁麗華様、動物の首を持ってうろつくのはあまりよろしくないかと
⋮﹂
あ、そう?
私は前部長さんにアドバイスをもらいながら、ベアたんの顔を修
正していった。
﹁ところで麗華様、明日は各部の部長が集まる学園祭会議ですね﹂
そういえばそんなのがあったな。部活別の学園祭のいろいろを決
めるんだっけ?初めて出席するけど、なにをやるんだ?
﹁なにか注意事項はありますか?﹂
﹁いえ、これといって特には。使う教室などの話し合いなどをする
のですが、例年通りの割り当てでしょうからね。予算も決まってい
ますし。ただ進行に沿っていればいいと思いますよ﹂
﹁そうですか﹂
形だけの会議ってやつか。でもまぁ、私の手芸部部長としてのデ
ビュー戦といっても過言ではない。手芸部のためにも気合を入れて
張り切って行かねば!
﹁手芸部の不利益にならぬよう、精一杯頑張りますわ﹂
私はにっこりと笑った。
1000
そして次の日の放課後、各部の部長が一堂に会した。進行役は生
徒会。
部活動に今まであまり関心がなかったから、ほかの部の部長達を
初めて知ったよ。文芸部の部長って委員長だったのね。
おとなしく指定された席に座っている文化部と違って、運動部は
騒がしいのが多いな。若干鼻につくと思ったけれど、大会に出場し
たりして名が売れている部だからしょうがないのかな。
予定調和の会議は進み、次の議題は各部の使用する教室などの場
所についてだ。前部長の話の通り学園祭の割り当てはほぼ例年通り
の内容で、私は手元の資料を見ながらふんふんと話を聞いていた。
するとここでいきなり、毎年屋外で模擬店をしているいくつかの
運動部が文句を言い始めた。
﹁あのさー、屋外だと天候に左右されるし、俺達今年は屋内がいい
んだけど﹂
﹁ああそれ、うちの部も。どっか空いてる教室ないの?あ、もちろ
ん広い教室で。毎年うちの部は繁盛してるんだし、それくらい当然
だよね﹂
﹁俺達の部は学院にかなり貢献してるんだから、それくらい融通し
てくれてもいいだろ﹂
﹁全然客が入ってない部とかあるじゃん。それらが1室に固まって
くれたら教室も余るんじゃない?﹂
﹁それいいね!写真部や文芸部、生物部とかな﹂
﹁あと囲碁将棋ってなかった?あいつら学園祭でなにやってんの?﹂
﹁知らね。展示系?﹂
名前を出された部の部長達の体が強張った。同志当て馬が﹁おい﹂
と窘めたが、そんなことは意に介さず、連中は好き勝手なことを言
い続けた。こいつら⋮。
1001
私はカバンを開けて、封印を解く準備をした。
﹁見に来るヤツも少ないんだから、纏めて同じ部屋で展示すればい
いんだよ。そのぶん俺達が盛り上げてやるんだからさ﹂
﹁ほかに展示系の部活ってなんだ∼?美術部、書道部⋮﹂
﹁あとほら、あれ!手芸部とか!﹂
その言葉に私はすっくと立ち上がり、扇子をパシっと打ち鳴らし
た。
﹁手芸部が、なんですって?﹂
その瞬間、騒々しかった会議室が水を打ったように静かになった。
私は微笑を湛え、展示系文化部から展示室を取り上げようとした
部長達の顔を、目を合わせてひとりひとり確認した。
﹁今、手芸部の名前が聞こえたような気がいたしましたけど、なに
かしら?あぁ、申し遅れました。私が手芸部の部長ですわ。みなさ
ま、どうぞよろしく﹂
﹁え⋮﹂
さっきまで好き勝手な発言を繰り返していた連中は、どうやら私
が手芸部部長だったと知らなかったらしい。全員がギョッとして顔
を引き攣らせた。ピヴォワーヌの女子が入部するのは主に華道部や
茶道部あたりと油断したか。展示系なのに華道部の名前は出さなか
ったものな。愚かなり!
敵は主に、サッカー部、野球部、バスケ部だった。どれも大会で
好成績を出している花形部活だ。それゆえ発言も傲慢になるのだろ
う。しかしどんなに活躍していようが私には関係ない。私にとって
大事なのは、彼らが我が手芸部に仇なす敵であるということだけだ。
1002
私はそのままゆっくりと彼らの元に歩き出した。静まりかえる教
室の中、私の扇子の音だけが響き渡る。ピシリ、ピシリ。
まずはサッカー部の部長の後ろに立った。振り返ろうとしたので、
その右肩に扇子を乗せて動きを封じた。サッカー部部長が前を向い
たまま固まったので、そのまま扇子でトン、トン、トンと肩を叩く。
﹁サッカー部、ご活躍ですわね?﹂
﹁は⋮いや⋮﹂
﹁ご謙遜なさらなくてもよろしくてよ。大会ではとても素晴らしい
成績を収めていらっしゃると、私も聞き及んでおりますもの﹂
﹁どうも⋮﹂
﹁でも、どうなのかしら⋮?﹂
一定のリズムで肩を叩いていた扇子を、頸動脈に当ててぴたりと
止めた。
﹁優勝の打ち上げにお店を借りきってお祝いするのは結構ですけど、
未成年として法は守るべきではないかしら。ねぇ、部長さん?勝利
の美酒のお味はいかがでした?﹂
﹁え⋮﹂
私は次に野球部部長の元へ歩いて行き、その肩に扇子を乗せた。
トン、トン、トン⋮。
﹁野球部の練習はとても厳しいそうですわね。でも、どうなのかし
ら?私の耳には野球部ではミスをした部員が殴られるなどという噂
が聞こえてきますけど、本当かしら?体罰に対して世の中の風潮は
厳しいですものね。中には出場停止なんて学校もあるそうですわよ
?﹂
1003
私は野球部部長の頸動脈をトンッと叩いた。
そして最後はバスケ部。そんな怯えた目で見なくても、一言で済
みますわよ。ねぇ?
﹁貴方、先輩の彼女に手を出したそうですわね?﹂
石のように固まった3人の背中を確認し、私は悠々と自分の席に
戻った。そして席に座ると、私は閉じた扇子で机をパンッと叩いた。
﹁それで?﹂
私はサッカー部、野球部、バスケ部部長を強い微笑で見据えた。
﹁さきほどのお話ですけれど、学園祭の教室がなんでしたかしら?
私、物覚えが悪いのね?忘れてしまいましたわ。ぜひもう一度おっ
しゃって?﹂
﹁⋮⋮サッカー部の模擬店は外でいいです﹂
﹁⋮野球部も外で﹂
﹁右に同じ⋮﹂
3部長は私を目を合わせないまま、そう言った。
﹁あら?でもさきほどは手芸部以外の文芸部などの名前も挙げてい
らっしゃったような気がいたしますけど⋮?﹂
﹁いえっ!俺達は外でいいです!﹂
﹁むしろ外がいいです!﹂
﹁雨が降っても外でいいです!﹂
﹁まぁっ!なんて紳士的なんでしょう。弱小文化部に広い心で譲っ
て下さるその優しさに、私は思わず感動に打ち震えてしまいそうで
すわ﹂
1004
私は口元に扇子を当て、ホホホと勝利の笑い声をあげた。
同志当て馬はため息をつき、若葉ちゃんはぽかんと口を開けてい
た。
ホーッホッホッホッ!
1005
155
会議後、名前の挙がった文化部の部長達からは感謝の言葉をもら
った。うんうん、文化部にとって、学園祭は一番の晴れ舞台だもん
ね。お遊び気分で模擬店やってる連中とはわけが違う!私がベアた
んぬいぐるみにどれだけ時間をかけていると思っているんだ!
同志当て馬にはまた批難されるかな∼と思っていたのだけど、特
になにも言ってこなかったので、今回は目をつぶってもらえたらし
い。
ベアたんのぬいぐるみはもう出来た?ベアたん楽しみに
さ、早く手芸部に行かなくちゃ。最近頻繁に届く、ベアトリーチ
ェからの
となどとい
しているよ!ぜーったい可愛く作ってくれなきゃダメだからね!早
く見たいよ∼。麗華たんガンバ!ベアトリーチェより
うメールが、じわじわと私を追い詰める。ケルベロス化しているな
んて、梅若君には死んでも言えない⋮。
私は手芸部の部長でもあるがクラスの副委員長でもあるので、当
日全員が着る衣装や中国茶やお菓子の手配などもしなくてはいけな
いので忙しい。中国茶については私が台湾で買ってきた数種類のお
茶を持ってきて試飲してもらったり、お茶に詳しいクラスメートが
中心となってメニューを決めた。まさか小龍包を食べに台湾に行っ
たのがこんなところで役に立つとはな∼。そういえば市之倉さんは
どうしているだろう。あれ以来市之倉さんの彼女に遠慮して食事の
お誘いも断るようにしていたから、近況を詳しく知らないのだ。あ
れだけおいしいものをたらふく食べさせてもらったのに、私ってば
1006
恩知らずかもしれない。麻央ちゃんにまたプティに遊びに来て欲し
いと何度か言われていたから、ちょっと顔を出して聞いてみよう。
私はさっそくプティのサロンに足を運んだ。初等科の校舎では、
あちこちから歌や楽器の音が聞こえる。初等科は学園祭ではなく学
習発表会という名で生徒達が合唱や合奏、演劇などを発表したり、
研究発表をしたりするのだ。
麻央ちゃんも練習に忙しいかなと思ったのだけど、事前に連絡し
たところ今日はサロンにいるらしい。
少しだけ急ぎ足でプティへの廊下を歩いていると、曲がり角で桂
木少年に出会った。
﹁あっ!お前は!﹂
﹁あら、桂木君ではありませんの。お久しぶり﹂
久しぶりに見た桂木少年は前よりもずいぶん背が高くなっていた。
これではもう気軽に頭を叩けないな。残念。
﹁なんでお前がここにいるんだよ!﹂
﹁用事があるからに決まっているでしょう。貴方とはよく廊下で会
いますわねぇ。もしかして私のストーカー?﹂
﹁そんなわけあるか!誰がお前なんかのストーカーなんて!﹂
﹁相変わらずぎゃあぎゃあとうるさいわねぇ。だったら初等科でな
にをしているの?あぁ、あまりに成績が悪いから初等科に逆戻り?﹂
﹁関係ないだろ!﹂
﹁あっそ。では、ごきげんよう﹂
﹁あっ、ちょっと待て!﹂
私はさっさとその場を後にしようとしたのだけれど、桂木少年に
1007
引き止められた。
﹁なんですの?﹂
﹁お前、円城さんに近づいていないだろうな﹂
﹁はあ?!﹂
桂木少年は顔をしかめた。
﹁中等科の女子達が噂してたんだよ。お前と円城さんが仲がいいっ
て⋮﹂
﹁はあ?!﹂
誰と誰の仲がいいって?!全く身に覚えがありませんが。
﹁そんな噂は聞いたことがありませんが、私と円城様は桂木君が心
配するような仲ではありませんわよ。心置きなく片思いなさってく
ださい﹂
﹁はっ?!片思い?!﹂
﹁やたら円城様のことで絡んでくるのは、桂木君が円城様に密かな
思いを抱いているからなのでしょう?いいのよ、隠さなくって。私
はマイノリティーにも理解のあるつもりです﹂
﹁ふざけんな!変な想像してんじゃねぇよ!﹂
桂木少年は顔を真っ赤にして喚いた。
﹁俺はただ、お前なんかが円城さんのそばをうろつくのが許せない
んだよ!そして俺はホモじゃねぇっ!﹂
﹁そうね、そうね。その通りね﹂
﹁その言い方!全然信じてないだろう!﹂
1008
うふふ、どうでしょう?面白いなぁ、アホウドリは。なんてから
かいがいのあるヤツだ。
﹁だいたいお前は!﹂
﹁なにしてるの?﹂
可愛い声に振り返ると、雪野君が立っていた。
﹁まぁ、雪野君!﹂
雪野君は私が頬を緩めて声を掛けるのも無視し、厳しい顔で桂木
少年を押しのけるように私達の間に入ると、桂木少年に向かってバ
ッと両手を広げた。
﹁女の子をいじめちゃダメなんだぞ!﹂
ええーーっ!
﹁えっと、雪野君⋮?﹂
﹁いや、俺はこいつをいじめてなんか⋮﹂
﹁いじめてたじゃないか、大声出して!女の子には優しくしないと
いけないんだから!﹂
﹁ゆ、雪野君!﹂
なんてことだ!今私、雪野君に庇われてる!感動っ!!私は今ま
でこんな風に男の子に庇ってもらった経験があまりないのだ。嬉し
いっ!
﹁行こう、麗華お姉さん!﹂
1009
雪野君は幻の鼻血を噴き出す私の手を引っ張って、桂木少年の横
を勇ましい足取りで通り過ぎた。
﹁え、でも⋮﹂
雪野君に怒られた桂木少年が、なんだか凄くショックを受けた顔
をしているんですけど。あのまま放置は可哀想じゃない?そもそも
私、いじめられていないしさ。
しかし私が桂木少年に怯えているとでも思ったのか、私を振り返
った雪野君が﹁大丈夫!僕が守ってあげるから平気だよ﹂とニコッ
と笑ってくれたので、誤解はそのままにしておくことにした。
日頃の行いのせいだ、諦めろアホウドリ。私は雪野君の中でか弱
い女の子のイメージでありたい。だって守ってあげるなんて言われ
たの、家族以外で初めてなんだもーーーん!
あまりの嬉しさにプティでデヘデヘ笑っていたら、麻央ちゃん達
に心配されてしまった。ごめん、気持ち悪かったですか?いけない、
いけない。気を取り直さないと。可愛いプティの子達の信用を失っ
てしまう。
﹁雪野君は桂木君を知っていますの?﹂
﹁はい。たまに家に来ますから﹂
﹁そうなの﹂
﹁でも僕はそんなに仲良くないんですけどね⋮﹂
ふーん。
﹁でもさきほどの話ですけど、私は桂木君にいじめられていたわけ
ではありませんのよ?﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁ええ。彼は元々声が大きいから勘違いされやすいのでしょうね?
1010
でも守ってもらえて嬉しかったですわ。ありがとう、雪野君﹂
雪野君は私のお礼にはにかんで応えてくれた。なんていい子なん
でしょう!
学習発表会で雪野君はクラスの合唱のピアノ伴奏をするらしい。
天使のピアノ!それはぜひ見てみたい!
雪野君と麻央ちゃん達も高等科の学園祭に来たいそうなので、当
日は会えるかな?でも円城の弟である雪野君が来たら、高等科はパ
ニックになっちゃうかも。その時は今日のお礼に私が守ってあげる
からね!
麻央ちゃんには市乃倉さんと来てみたらと言ってみた。残念なが
ら市乃倉さんは未だにおじさんと呼ばれているようだけど⋮。頑張
れ、市乃倉さん!また晴斗兄様と呼ばれる日まで!
次の休みの日、私は桜ちゃんから呼び出しをくらった。私の怠慢
で秋澤君の周りに女の子の影があるらしい。うわぁ⋮。
1011
156
休日に桜ちゃんと訪れたのはチョコレート専門店。ここでは有名
な高級チョコレートを使った贅沢なチョコレートパフェが食べられ
るのだ。
チョコレートには心を落ち着かせる効果があるなどと言われてい
ますからね。桜ちゃんにはぜひ食べてもらいたい。ささ、どうぞ召
し上がれ。
むふ、おいしい。贅沢パフェ最高。
﹁匠に近づく女がいるのよ﹂
﹁ほぉ∼ん﹂
﹁信じていないわね﹂
﹁そんなことないけどぉ﹂
本当はあまり信じていない。桜ちゃんが思うほど秋澤君はモテな
いってば。
﹁麗華は匠を見縊りすぎなのよ。前にも匠を好きな後輩がいたでし
ょう﹂
﹁後輩?⋮あぁ、そういえばいたねぇ﹂
確かにあの時は桜ちゃんの嫉妬による思い込みだと思っていたの
に、情報通の璃々奈のお友達に調べてもらったら陸上部の後輩の女
の子が秋澤君に片思いしていたのだ。結局あの子は諦めてくれたみ
たいで、めでたしめでたしだったけど。
﹁それで今回は誰でしょう?﹂
1012
﹁夏に話したでしょう、陸上部の1年のマネージャーよ﹂
とかそん
桜ちゃんによると、その1年のマネージャーから秋澤君宛にメー
ルがよく送られてくるらしい。
先輩、今度みんなで遊びに行きませんか
﹁それはただの部活の連絡事項では?﹂
﹁違うわよ。
な内容だったもの﹂
﹁え、桜ちゃん秋澤君のメールを見たの?﹂
﹁勝手に携帯をいじって盗み見たわけじゃないわよ。匠が届いたメ
ールを見ている時にじゃれつくふりをして横から覗き込んだだけ﹂
﹁凄いね⋮﹂
﹁とにかく、怪しすぎるでしょ。全部のメールを見せてもらっては
いないけど、たぶん似たような内容だと思うわ。その子、体育祭の
時にも匠にタオルを渡してきたり⋮﹂
﹁あれは陸上部員全員に、マネージャー達からの激励の意味を込め
たプレゼントだったんでしょ?﹂
そしてそれを知った桜ちゃんも、負けじと秋澤君に自分の選んだ
タオルをプレゼントしたと体育祭の時に聞いていた。
﹁秋澤君は桜ちゃんからプレゼントされたタオルも使ってくれたん
でしょう?だったら心配しなくて平気だって﹂
﹁麗華には好きな人と学校が違う、私のこの不安がわからないのよ。
ただでさえ私達の関係は、幼馴染以上恋人未満なのに⋮。だから同
じ学校に通う麗華に、匠に近づく女の子がいないか見張っててって
頼んでおいたのに、なにをやっているのよ﹂
﹁すみません⋮﹂
一応チェックはしていたんだけどな。うっ、桜ちゃんの顔が怖い
1013
⋮。役立たずって、目が言っている⋮。
﹁ちょっと私、ショーケースのチョコレートを見て来ようかな﹂
桜ちゃんの恨みがましい目から逃げるように、私は席を立った。
その間にチョコレートパフェの鎮静作用が桜ちゃんに効くことを期
待しよう。
チョコレート売り場のショーケースにはおいしそうなチョコレー
トがいっぱい。お店で食べるぶん以外に、いくつか買って帰ろうか
な。そうだ、雪野君にも買って行ってあげよう。悪者から守ってく
れた小さな王子様へのお礼だ。あの日の雪野君は可愛かったなぁ。
﹁麗華さん⋮?﹂
﹁えっ﹂
後ろから私の名前が聞こえたので、誰かと思えば舞浜さんだった。
﹁ごきげんよう、舞浜さん。奇遇ですわね﹂
﹁ええ本当に。麗華さん、おひとり?﹂
﹁いいえ、お友達と一緒ですわ﹂
﹁へ∼え﹂
舞浜さんは私をじろじろと眺めまわした。
﹁相変わらず雅哉様のそばを纏わりついているんじゃないでしょう
ね。いい加減目障りなんだけど﹂
それはこっちのセリフだ。鏑木に纏わりついているのは舞浜さん
でしょうが。
1014
﹁あぁ、でもこの前の蛍狩りでは円城家の秀介様にも色目を使って
いたわよねぇ!麗華さん、貴女節操がなさすぎるんじゃない?﹂
ちょっと!ほかのお客さんもいる店内で、変なこと言わないでよ
!人目を気にしろ!ってわざとか!
﹁人聞きの悪いことをおっしゃらないでいただきたいわ。貴女が鏑
木様を想うのは自由だけど、それに私を巻き込まないでくださらな
い?はっきり言って迷惑よ﹂
﹁ふんっ、よく言うわ。あんたの魂胆なんてわかってるんだから!﹂
だから声が大きいってば!私が思わず口をムーっとさせると、す
かさず舞浜さんが﹁なにその顔。頬袋に食べ物でも蓄えてるの?み
っともない。もう一度断食にでも行ってくれば?﹂とせせら笑った。
頬袋だと?!こいつーっ!私がおたふく顔とでも言いたいのか!
もう我慢ならない。よし!そのケンカ買った!シメる!
その時、スッと私の横に桜ちゃんが立った。
﹁麗華、なにしてるの﹂
﹁桜ちゃん﹂
﹁蕗丘っ!﹂
桜ちゃんの登場に、なぜか舞浜さんがうっと呻いて後ろに下がっ
た。
﹁桜ちゃん、どうしたの?﹂
﹁戻ってくるのが遅いから、様子を見に来たのよ。それで?なにを
しているの?﹂
1015
桜ちゃんは私と舞浜さんを交互に見据えた。
﹁なんでここに蕗丘が⋮﹂
﹁なんでってチョコレート専門店にいるのだから、買いに来たのと
食べに来たのに決まっているでしょう。そんなこともわからないの
?頭悪いわね﹂
﹁なっ⋮!﹂
どこまでも冷静な桜ちゃんに対し、舞浜さんはいきなり挙動不審
になった。さっきまでの強気はどうした。
﹁どうして麗華さんと蕗丘が⋮﹂
﹁ねぇ舞浜、麗華は私の親友なんだけど?﹂
﹁えっ!!﹂
舞浜さんがあからさまにぎょっとした顔で、私達を見比べた。そ
れをわけのわかっていない私はボーッとした顔で、桜ちゃんは無表
情で見返した。
﹁麗華さんが、蕗丘の親友⋮?!﹂
﹁そうよ﹂
舞浜さんは盛んに目を動かすと、唐突に﹁そ、う。では私はお邪
魔のようなので、これで失礼しますわ。ごきげんよう﹂と言って、
そそくさとお店を後にした。
⋮⋮桜ちゃん、貴女はいったい何者ですか?
百合宮で気に入らない人間をいびり倒す性悪お嬢様の舞浜さんが、
その姿を見ただけで怯えて逃げるって⋮。もしかして桜ちゃんこそ
1016
が百合宮のラスボス?!
それともうひとつ、とっても、とっても気になることがあるんだ
けど⋮。
﹁さ、早く席に戻るわよ﹂
桜ちゃんに促され、後ろを付いていく私。
﹁桜ちゃん⋮﹂
﹁なによ﹂
﹁私、親友?!﹂
私は堪えきれず桜ちゃんの腕に飛びついた!
﹁私、桜ちゃんに親友って思われてたんだね!嬉しいよぉっ桜ちゃ
ん!﹂
﹁ちょっと、気持ち悪い!離してっ、鬱陶しい!﹂
﹁桜ちゃーん!﹂
桜ちゃんは細い腕にもかかわらず、くっつく私を力づくで引き剥
がした。痛いよ桜ちゃん!握力が凄いよ!
﹁酷いよ桜ちゃん、私親友なのに⋮﹂
﹁誰が親友よ、図々しい﹂
桜ちゃんは私を置いて、さっさと席に戻ってしまった。桜ちゃん
てばツンデレ!しょうがないなぁ、でも私は親友だからそんな桜ち
ゃんも許してあげるよ!
﹁うへへ﹂
1017
﹁⋮気持ち悪い笑い方しないで。あんたそれでも本当にお嬢様?﹂
﹁ツンデレ桜ちゃん﹂
﹁調子に乗るんじゃないわよ!﹂
も∼う、照れ屋さんだなぁ。私達は親友なんだから、素直になれ
ばいいのに。
﹁桜ちゃんたら、ツンデレたん!﹂
私は桜ちゃんのほっぺを人差し指でツンツンとつついた。すると
その指をガッと握られ、あらぬ方向に折り曲げられた!痛い痛い痛
いっ!ごめんなさいごめんなさいごめんなさーい!
﹁調子に乗りました!ごめんなさい!﹂
﹁肝に銘じなさいよ﹂
﹁⋮はい﹂
ちょっと本気入ってたよね?桜ちゃん⋮。
﹁ねぇそれで、なんで舞浜さんは桜ちゃんが出てきた途端、怯えた
ように逃げて行ったの?﹂
﹁それは前に、私があの子にターゲットにされそうになって返り討
ちにしたからね、きっと﹂
﹁返り討ち?え、まさか暴力?!﹂
﹁しないわよ。ただあの子が一番隠したがっている秘密を盾に、あ
んまり怒らせると、本気で追い込むよって言っただけ﹂
﹁え∼っ、人の弱みにつけ込んで脅すような真似はよくないと思う
なぁ。あの気の強い舞浜さんがあれほど怯えるって相当だもん﹂
﹁向こうが私に手出ししてこなければ、こっちもなにもしないわよ﹂
1018
怖いなぁ。桜ちゃん、百合宮で恐れられているんじゃない?友達
ちゃんといるのかしら。あ、でも親友の私がいるから平気ね!
﹁ところで、舞浜さんの弱みって?﹂
﹁秘密。でも麗華はもしあの子が嫌がらせをしてきたら、思わせぶ
りな笑顔をしてやればいいのよ。それで勝手に疑心暗鬼になってく
れるから﹂
﹁うわぁ⋮。じゃあどうやって舞浜さんの弱みを握ったの?﹂
﹁相手の言動や行動から、どの話題の時に挙動不審になるかを観察
していればだいたいわかるわよ。そうしたらあとは、その裏付けを
とるだけね﹂
﹁うわぁ⋮。じゃあ私の隠したい秘密もわかるの?﹂
桜ちゃんは私の顔を見てから、目線を下に移した。凄いっ。私が
今、パフェとチョコレートだけじゃ足りないって思っていることが
わかったんだ!
﹁走っても引っ込まない、その丸いおなかね﹂
﹁⋮⋮﹂
なんという千里眼。桜ちゃんは敵に回してはいけない人だという
ことを再確認したので、陸上部のマネージャーという子をきちんと
調べることを約束する。桜ちゃんは﹁学園祭に行って周りしっかり
釘を刺しておかないとね﹂と悪い笑みを浮かべていた。怖い⋮。
学園祭で忙しいのに、また仕事が増えてしまった。璃々奈のお友
達に頼めるかなぁ。
あぁ、ベアたんの顔が上手くできないっ!
1019
鏑木のクラスはお化け屋敷をやるらしい。このままでは私の力作
が、手芸部ではなくお化け屋敷のオブジェにされてしまうっ!
吉祥院さん、俺のベアトリーチェを見に、みんなで学園祭に行っ
てもいいよね?楽しみにしてるから
ぎゃーーーーっ!!
学園祭まであと数日。私はケルベロスを持って半泣きでお兄様の
部屋を訪ねた。
1020
157
魔法の手を持つお兄様に助けられ、なんとか学園祭当日までにベ
アたんぬいぐるみを仕上げることができた。大変だった⋮。
あの長い毛を再現するのが意外と難しく、特に犬バカ君が私とそ
っくりと評した耳のウェーブをきれいに出すのに苦労した。元々ウ
ェーブになっている羊毛を使ったのだけど、本物のベアトリーチェ
となにかが違う。試行錯誤の末、単色だからニセモノっぽい質感に
なるのかもしれないと、あらゆる茶色のウェーブフェルトを買い込
んで混ぜて植毛していったら、どうにかそれらしく出来上がった。
やったよ、私⋮。
おかげで私の部屋には今、余った茶色の羊毛フェルトが溢れてい
る。あれらを消費するのに、学園祭が終わったら茶色の動物でも作
るかなぁ。でも当分ニードルフェルトはしたくないかも⋮。
手芸部の展示室には、中央に手芸部員の努力と情熱の結晶である
美しいウェディングドレスが飾られ、各部員達の作品が壁に沿って
展示されている。部員達の出品物も素晴らしい出来栄えで、特に南
君はウェディングドレスの銀糸刺繍の主力メンバーだったにも関わ
らず、自分の出品物の聖母子像の見事な刺繍のタペストリーまで仕
上げてきたから凄い。私なんて部長なのにウェディングドレス制作
にはほとんど携われなかった⋮。ブーケ作りを手伝ったくらいだ。
う∼ん、不甲斐ない。
それでも私の作った等身大ベアトリーチェのニードルフェルトは、
リアリティがあって可愛いと言ってもらえたので、手芸部員として
の面目は保たれたかな。手伝ってくれたお兄様、秘書の笹嶋さん、
手芸部のみんな、ありがとう。
1021
手芸部は受付なしの見学自由なので、案内係として数人の部員が
交代で詰めるだけでいいので楽だ。
徐福
そのぶん、クラスの出し物に全力投球だ。
中国茶カフェ
私達は方士徐福とともに日本に渡ってきた弟子という設定で、﹁
これは不老不死の妙薬にございます﹂と、霊感商法まがいの怪しい
謳い文句で訪れたお客さんにお茶を薦める。
お茶は烏龍茶、ジャスミン茶、プーアール茶といった普通の物か
ら、花茶や工芸茶など多数揃えた。特にガラス容器の中で花が開く
工芸茶は、私が家から持ってきた物をクラスで試飲してもらった時
に女子受けが良かったので期待している。
お菓子は杏仁豆腐、マンゴープリン、黒ゴマプリン、月餅数種な
どを用意した。もちろんすべて外注なので味は確かだ。私も一通り
試食したけれど、おいしかった。
そして店内はシノワズリーを意識した装飾を施し、衣装は男子は
長袍、女子は旗袍にズボン着用だ。最初女子は天女のような唐服を
徐福
だが、ディーテのバイオリンが
着る案も出たのだけれど、方士の弟子っぽくないのでやめた。
これでほぼ完璧に思えた
オリエンタルな雰囲気を微妙にぶち壊す。事あるごとにバイオリン
を弾きたがるディーテは、もちろん今回の学園祭でも絶対に弾くと
言いだした。中国茶カフェにバイオリンは合わないから、楽器を弾
きたいなら二胡でも弾いとけとみんなに言われても、ディーテは譲
らなかった。
結局ディーテの説得が面倒になった私達が折れ、ディーテは西洋
から来た楽人という設定で、即席舞台で自己陶酔しながらアフロを
揺らしてバイオリンを奏でている。
1022
﹁いらっしゃいませ。こちらはかの蓬莱山より取り寄せた、不老不
死の妙薬でございます。このお茶を飲めば、たちどころに若返り⋮﹂
私もせっせと接客に努める。
珍しいお茶目当てにやってくる子達やお友達が遊びに来てくれた
りして、そこそこ繁盛してはいるが、大盛況というほどでもない。
ゆったりくつろいでお茶を楽しめるので、このくらいのペースでい
いのかなとも思うけれど、副委員長としてお店の外で客寄せをした
ほうがいいだろうか。
廊下に顔を出し、道行く生徒達をチェックしてみる。おや、あれ
に見えるはサッカー部の部長ではないか。私は来い来いと手招きを
した。
するとサッカー部の部長は﹁ひっ、則天武后⋮!﹂と言って、逃
げて行った。
⋮⋮⋮⋮。
則天武后じゃないもん。心は楊貴妃のつもりだもん。
私達の学年の出し物で、学園祭前から期待値最大で、一番注目を
浴びていたのが鏑木のクラスの3Dサウンド型のお化け屋敷だ。ほ
とんどのお客さんを今、ここに取られてしまっている。
さして広くない教室でお化け屋敷をやるには、動かなくて済む3
Dが最適なのだ。そして妥協を許さない皇帝の指揮の元、音響設備
にこだわり抜いた結果、たかが高校の学園祭の出し物とは思えない
耳なし芳一
。白装束の係員から顔に般若心経のシール
ようなクオリティのお化け屋敷が出来上がった。
演目は
を貼られると、卒塔婆や火の玉が揺れる暗い室内に誘導され、椅子
に座ってヘッドホンを装着する。そこからは阿鼻叫喚の世界だ。
暗い琵琶の音色。おどろおどろしい歌声。3Dだから、平家の亡
1023
者どもにすぐ耳元で語られている感覚がして、背中が終始ゾクゾク
する。背後に立たれている気がするのだ。
そして般若心経を全身に書かれた芳一を亡者が迎えに来るあたり
では、あまりの恐怖に気の弱い人はこの後の展開に耐えきれず、ヘ
ッドホンを外してリタイアしてしまうらしい。般若心経のシールは
顔にしか貼られていないのだから。
クライマックスの、自分の耳がメリメリメリッと引き千切られる
瞬間には、お客の絶叫が廊下まで響き渡った。
怖がりの私は絶対に行きたくないけれど、委員長達は4人で行く
約束をしているらしい。なんだよ、ダブルデートか?羨ましい。で
も個々に椅子に座って聞くタイプだから、普通のお化け屋敷のよう
徐福
やってきた璃々奈もこの後みんなで
にきゃーっ!ってくっつくことはできないよ?
さっき友達と一緒に
行くと言っていた。その中のひとりの南君は、全身から行きたくな
いという空気を出していたけれど⋮。
工芸茶を注文した璃々奈が、お湯の中で水中花のように開いたお
茶をいたく気に入っていたので、今度私の家にある台湾で買ってき
た工芸茶を分けてあげることにした。
交代時間に私も友達と学園祭見学に繰り出した。今日だけですべ
てをしっかり見るのはムリそうなので、残りは明日見に行くことに
する。
円城と若葉ちゃんのクラスもカフェをやっている。カフェって簡
単だもんね。私達のクラスは中国茶だけれど、若葉ちゃん達のクラ
スはごく普通のカフェだ。ただし、限定でバリスタ姿の円城がラテ
アートを作ってくれるというので、その整理券を求めて、朝から女
1024
子達の長蛇の列が出来て話題になっていた。
﹁麗華様、円城様のカフェに寄って行きましょうよ﹂
﹁いいですけど、整理券がないのでラテアートは作ってもらえませ
んわよ?﹂
﹁それは残念ですけど、しょうがありませんわ。でもせっかくです
から、円城様のバリスタ姿だけでも見たいんですもの﹂
流寧ちゃんは整理券をもらい損ねたのだ。円城人気を甘くみてい
たらしい。
賑わう店内に入ると、鏑木が来ていた。流寧ちゃん達は大喜びだ。
コーヒーを注文した鏑木のテーブルに、お茶請けの手作りクッキー
が一緒に出された。
鏑木は手作り物は食べない。なのでそのクッキーにも手は付けら
れないと誰もが思っていたのに、予想に反して鏑木はサクリと一口
食べた。そして少し目を見開き、﹁これを作った人間を呼べ﹂とク
ッキー製作者を席に呼び寄せた。
何が起こったのかと注目される中、奥から出てきたのは若葉ちゃ
んだった。
﹁あの、なにか⋮﹂
﹁高道。このクッキー、お前が作ったのか?﹂
﹁え、はい。そうですけど⋮﹂
わけがわからず困っている若葉ちゃんに、鏑木はフッと笑い、
﹁美味かった﹂
と言った。
1025
黄金
手作りの物は絶対に食べない鏑木が、いち女子生徒の作ったクッ
キーを口にして、しかも﹁美味かった﹂と褒めた。
に女子達が殺到した。
その話は瑞鸞中を駆け巡り、芙由子様のクラスの占いの館
の夜明け団
鏑木、これって本当に若葉ちゃんを好きになっちゃったってこと
⋮?
﹁吉祥院さん、これ僕からのサービス﹂
円城がうさぎのラテアートを私の前に置いて、にっこり微笑んだ。
1026
158
初等科時代からバレンタインの手作りチョコも、調理実習で作っ
たお菓子や料理のプレゼントも一切受け取らないし食べない鏑木が、
学園祭の模擬店で出された手作りクッキーを食べた。しかもわざわ
ざ作り手を呼んで﹁美味かった﹂などと声を掛け、女子には滅多に
見せない笑顔まで見せた。
この一件は、夏休み明けの始業式にふたりが一緒に登校した事件
を上回る大きさで瑞鸞を揺るがした。
今まで手作り物を嫌う皇帝が唯一食べる例外は、優理絵様の作っ
た物だけだった。もしや皇帝宗旨替えか?!と、ほかの模擬店をや
っている女子達が自分達の作った食べ物を持って皇帝の元に殺到し
たが、皇帝はいつものように﹁手作りは食べない﹂と一刀両断した。
ではあのクッキーはどういうことなの?!と噂は駆け巡り、本人に
聞けないので占いに頼る子が続出した。
おかげで若葉ちゃんはまたいらぬ注目を浴び、女子達の敵意の的
になってしまった。みな口には出さないが、まさか皇帝は⋮という
私と似たような憶測を抱き、鏑木ファンは危機感を覚えた。
若葉ちゃんのカフェにはあの皇帝が食べたクッキーとはどれほど
のものかと女子達が詰めかけ、﹁たいしておいしくもない﹂﹁この
程度のクッキーを褒められたからっていい気にならないで﹂と若葉
ちゃんに嫌味を言って帰って行ったらしい。私はおいしかったと思
うけどな。まぁ、あの子達にはそもそも味なんて関係ないのか。
その皇帝若葉ちゃんクッキー事件とは別に、学園祭ではもうひと
つの小さな話題があった。私が円城にラテアートを作ってもらった
一件だ。
﹁整理券を持っていなければ作ってもらえないラテアートを、円城
1027
様が麗華様だけに特別に出されたそうよ!﹂
﹁まぁっ、やっぱり円城様は麗華様のことを?!﹂
などとあちこちから聞こえてきた。いい迷惑だ。
一緒にカフェに行った流寧ちゃん達も、興奮したように﹁麗華様
だけの特別サービスなんて、羨ましいわ!﹂﹁しかも可愛らしいう
さぎの絵でしたわ﹂と騒いでいた。
﹁ただの円城様の気まぐれだと思いますわよ﹂
﹁そんなことありませんわよ。円城様の優しさですわ﹂
なにが優しさなもんか。あれは鏑木の思いもよらぬ行動で、ふた
りに一身に集まってしまった注目を逸らすために、円城が私を利用
したのだと思っている。
そしてうさぎのラテアートは、鏑木から干支シリーズの話でも聞
いて、面白がって描いたのだろう。きっとそうだ。あいつはそうい
うヤツだ。あの笑顔はそういう笑顔だった。
素人が作ったくせにやけに上手なうさぎのラテアート。悔しいか
らみんなが止めるのも聞かず、スプーンでかき回してやった。干支
コンプリートなんて間抜け極まりない野望なんて、私は断じて持っ
てはいない!
まったく⋮。楽しいはずの学園祭が、あいつらのせいで初日から
大波乱だ。
学園祭2日目はチケット制での一般公開だ。
去年も梅若君からは学園祭に行きたいと言われたけれど、羊の耳
1028
を付けていたし、愛犬に似ているという話を無邪気に瑞鸞でされた
ら困るので、丁重にお断りした。でも今年はベアたんぬいぐるみで
協力してもらったし、ずいぶん楽しみにしているようだったので、
チケットを渡すことにしたのだ。決して瑞鸞で私が愛犬に似ている
と言わないようにと言い含めて。
梅若君達には入場チケットのほかに、中で使えるクーポン券も渡
した。瑞鸞の学園祭では現金のやり取りをしないために、あらかじ
め模擬貨幣として使うクーポン券を購入してそれを使う。そしてピ
ヴォワーヌでは学園祭への寄付の意味で、毎年大量のクーポン券を
一括購入してそれがメンバーに配られるが、それがひとりで使うに
は多すぎる量なので、私はいつもほとんど使わず余らせているのだ。
今回は梅若君達がせっかく遊びに来てくれるので、それを5人に平
等に渡した。
梅若君達はクーポン券に大喜びしてくれつつも、私の分はちゃん
とあるのかと心配してくれたが、全然大丈夫。ピヴォワーヌからの
配布分以外に、保護者からの寄付という形でのクーポン購入分も相
当額あるので、私はクーポン長者なのだ。足りなくなったらいつで
も取りに来てくれていいよ?
せっかく来てくれるんだから、楽しんで行ってくれたまえ。
徐福
にも、歩き疲れたお客さんが憩いを求めて続
一般客が大勢来るので、学園祭は2日目のほうが圧倒的に忙しい。
中国茶カフェ
々と来店してくれていた。繁盛、繁盛。
そこへ麻央ちゃんが、市之倉さんと悠理君を連れて遊びに来てく
れた。
﹁麗華お姉様!﹂
﹁いらっしゃい、麻央ちゃん。悠理君と市之倉さんも﹂
1029
おめかししてやってきた麻央ちゃんの頭には、夏に伊万里様に買
ってもらったガラスの髪飾りがキラキラ揺れていた。ほかの男性か
らプレゼントされたアクセサリーを付けて彼氏とデートとは、麻央
ちゃんたら悪女!
﹁麗華お姉様、そのお衣装とっても可愛いわ。ね、悠理、晴斗叔父
様﹂
﹁うん﹂
﹁そうだね、麻央。麗華さん、似合っていますよ﹂
﹁まぁ、ありがとうございます﹂
麻央ちゃん、やっぱりまだ市之倉さんを叔父様と呼んでいるか。
麻央ちゃんの中では叔父様呼びがすっかり定着してしまったのか?
麻央ちゃんと悠理君は、杏仁豆腐と黒ゴマプリンを仲良く分け合
って食べていた。微笑ましい。
﹁市之倉さんに以前台湾に連れて行っていただいたおかげで、今回
の中国茶カフェに私でも少しは役に立てることができました。あり
がとうございます﹂
﹁あぁ、台湾か。懐かしいね。あの時の小龍包はおいしかったよね。
最近は麻央も麗華さんも一緒に食事に行ってくれないから僕は寂し
いよ﹂
﹁だって晴斗叔父様にはエリカさんがいるじゃない﹂
それを聞いた麻央ちゃんが、ツンとそっぽを向いた。困ったよう
に苦笑いする市之倉さん。
﹁まぁまぁ、麻央ちゃん。その叔父様呼びはもう許してあげたら?
市之倉さんは麻央ちゃんに叔父様と呼ばれたことに、ずいぶんとシ
1030
ョックを受けていたわよ?﹂
﹁だって⋮﹂
晴斗兄様
が大好きなんでしょ?﹂
麻央ちゃんがぷくーっと頬を膨らませたので、その可愛さに思わ
ず笑ってしまった。
﹁麻∼央∼ちゃん﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁麻央ちゃんだって本当は
﹁⋮⋮いいわ、許してあげる。麗華お姉様が言うから特別よ、晴斗
兄様!﹂
なんて可愛いんだ、麻央ちゃん!悠理君が褒めるように麻央ちゃ
んの頭を撫で、市之倉さんは溺愛する姪にまた兄様と呼んでもらえ
て感激していた。
﹁ありがとう、麗華さん。今日来て本当に良かったよ﹂
﹁そうですか。あぁ、麻央ちゃん、よかったらまた私の家に遊びに
来てね。お兄様も麻央ちゃんに会いたいと言っていたから﹂
﹁わぁっ!私も貴輝兄様にお会いしたいです!晴斗兄様、前にも話
したでしょ?貴輝兄様はとっても素敵なのよ!﹂
﹁へぇ、そうなんだ⋮﹂
市之倉さんの笑顔が少し引き攣っていた。うけけ。あ、悠理君の
顔まで歪んでいる。これはしまった。ごめんね、悠理君。
麻央ちゃん達はこれから璃々奈のクラスの出し物を見に行くそう
だ。璃々奈のことだ、麻央ちゃんを自分の妹分だと触れ回るに違い
ない。
1031
次に遊びに来てくれたのは、桜ちゃんと秋澤君だった。
桜ちゃんはこの前、学園祭では陸上部のライバルの偵察と、相手
に自分の存在を知らしめるため、1年の出し物を重点的に回ってや
ると言っていたけれど、内心でそんな物騒なことを考えているとは
おくびにも出さず、桜ちゃんは今日も清楚な和風美少女を完璧に演
じ切っていた。
﹁麗華さん、ごきげんよう﹂
﹁いらっしゃいませ。桜ちゃん、秋澤君﹂
秋澤君を知っている生徒達は、他校の女の子を連れた秋澤君を興
味津々で見ていた。そんな視線に気づいているくせに、桜ちゃんは
﹁どれがいいかしら、匠﹂などと秋澤君に可愛く聞いている。さす
がだ。
﹁麗華さんのお薦めはどのお茶?﹂
﹁そうですわね。せっかくですから珍しい工芸茶などはどうでしょ
う﹂
﹁工芸茶?﹂
﹁ええ。お湯の中で花が開くお茶で⋮﹂
﹁桜子さんっ!﹂
私と桜ちゃんの会話に、突如闖入者が現れた。西方から来た楽人、
ディーテだ。
﹁桜子さん!まさかこんなところで会えるなんて!もしや僕のバイ
オリンを聞きに?!﹂
1032
ディーテがアフロを揺らして桜ちゃんに迫った。椅子に座ってい
る桜ちゃんはディーテから逃げるように秋澤君のほうに体を避けた。
﹁えっ、桜ちゃん、ディーテと知り合いなの?﹂
﹁⋮バイオリンの発表会などで何度か会ったことがあるのよ﹂
私が小声で桜ちゃんに聞くと、桜ちゃんも小声で苦々しげに答え
た。そういえば桜ちゃんも小さい頃からバイオリンを習っていたっ
け。まさかそんな繋がりがあったとは。しかもディーテのこの様子
だと⋮。
お茶が運ばれてきても、ディーテは桜ちゃんのそばから離れず、
ずっと話しかけていた。楽人は舞台に戻れと言っても聞く耳を持た
ない。う∼ん、これは誰が見てもそういうことだろうなぁ⋮。
最初は普通の顔をしてお茶を飲んでいた秋澤君が、徐々に不機嫌
になってきた。あれ?温厚な秋澤君にしては珍しく眉間にシワまで
寄ってきたぞ。その様子に桜ちゃんも気が付いたようだ。
﹁桜子、そろそろ行こうか﹂
﹁匠?﹂
秋澤君はお茶を一気に飲み干すと勢いよく席を立ち、桜ちゃんの
手を引いた。
﹁あっ!まだ僕と桜子さんの話が﹂
﹁吉祥院さん、ごちそうさま。行くよ、桜子﹂
﹁え、ええ。じゃあ、またね、麗華さん﹂
桜ちゃんは秋澤君に引っ張られながらお店を出て行った。あれれ
?もしやこれは、嫉妬というヤツでは?
出て行く桜ちゃんの顔が、一瞬悪い笑顔になっていたし。
1033
﹁吉祥院君、桜子さんとあの秋澤君というのはいったいどういう関
係だね!﹂
ディーテが私に詰め寄った。幼馴染以上恋人未満の関係だそうで
すよ、今日までは。それもディーテのおかげでなにかが変わるかも
しれませんが。
完全に当て馬だな、ディーテ。もしかしてディーテは恋愛ぼっち
村の村民候補か?
イヤだな、毎朝毎晩バイオリンをかき鳴らす、キリギリスのよう
な村民は⋮。
舞台に戻ったディーテは、思いの丈をバイオリンにぶつけていた。
1034
159
携帯に着信があったのでチェックしたら、梅若君から
来たよ∼
とメールが入っていた。梅若君はさっそくベアたんぬいぐるみを
見に行きたかったらしいけど、森山さんや北澤君達が先に食べたり
遊んだりしてからにしようと言ったので、私が手芸部の受付をして
いる時に来るとのこと。
あぁ、大丈夫かなぁ。犬バカ君に合格点をもらえるかなぁ。顔は
お兄様に直してもらってずいぶん本物に近づいたと思うんだけど、
ベアトリーチェを溺愛している犬バカ君からしたら﹁こんなの俺の
ベアたんじゃないっ!﹂って怒っちゃったらどうしよう⋮。
陸上部のマネージ
とあった。なにをした、
そしてもうひとつのメールには桜ちゃんから
ャーには無事釘を刺すことができました
桜ちゃん⋮。
接客の合間に委員長から、昨日美波留ちゃん達と学園祭を見て回
ったのだと頬を染めて報告された。4人でお菓子を分け合って食べ
たりして、ずいぶんと楽しかったとさ。そりゃ結構。私は女の子の
友達だけで見て回ったけどね。
一番楽しみにしていた鏑木のクラスのお化け屋敷は、想像以上に
怖かったらしい。委員長は﹁思い出すだけで⋮!﹂と、自分の耳を
守るように両手でふさいだ。
午後になって私は手芸部の受付当番に行った。受付と言っても記
帳してもらうわけでもなく、ただ椅子に座って展示物に触ったりす
1035
る人がいないかチェックするだけなんだけどね。
私と一緒に受付をするのは南君だった。そういえば南君も昨日璃
々奈達と鏑木のお化け屋敷に行っていたなぁ。
﹁どうでした?お化け屋敷は﹂
﹁凄く怖かったです。恥ずかしいですけど僕は途中でヘッドホンを
外してしまいました⋮。そしたらそれを古東さんに気づかれて、あ
とで根性なしと怒られてしまいました﹂
﹁まあ。ごめんなさいね、南君。私から璃々奈を叱っておきますわ﹂
﹁いえ!僕が意気地がなかっただけですから⋮﹂
全くもう、璃々奈のやつは。
しかし手芸部の展示を見に来るお客さんはまばらだなぁ⋮。運動
部の部長達の言い分もわかる気がする⋮。
そこへ、連絡をしておいた梅若君達がやってきた。
﹁おおー、吉祥院さん!﹂
﹁いらっしゃい、みなさん﹂
梅若君達は学園祭をいろいろと見て回ったのか、戦利品をぶら下
げている。
﹁招待してくれてありがとう、吉祥院さん。瑞鸞の学園祭、チョー
楽しい!﹂
北澤君達がニコニコ笑って言った。
﹁そう言ってもらえて良かったですわ。楽しかった出し物はなにが
ありました?﹂
﹁パンの器に入ったクラムチャウダーを食べたよ。あれ、器も全部
1036
食べられるからいいね﹂
﹁それとピアディーニっていう、野菜や肉を挟んだクレープみたい
なのがめっちゃ美味かった!人が大勢並んでたから俺らも食べてみ
たんだけどさ。人気があるだけあるよな∼﹂
﹁あぁ、サッカー部の模擬店ですわね﹂
サッカー部め、部長会議で幅を利かせるだけのことはあったか。
﹁一口ドーナツもおいしかったわよ。フレッシュジュースも﹂
﹁俺はフォーがおいしかったなぁ﹂
﹁みなさん、食べてばかりですのね﹂
﹁いやいや、ゲームもしたよ。ダーツとか。さすが瑞鸞、ダーツボ
ードじゃなくてマシンだったのには驚いたよ。本物のお店みたいだ
った﹂
﹁あとさ、なんといっても一番はお化け屋敷だよ!スッゲー怖かっ
た!たかが文化祭のお化け屋敷と完全にナメてたよ。マジで怖かっ
た。耳が本当にもぎ取られる感じがしてさ!﹂
﹁北澤涙目だったもんねー﹂
﹁うっせ﹂
うんうん、学園祭を満喫してもらえてるようで良かったよ。瑞鸞
の学園祭はお金がかかっているから模擬店も出し物も普通の高校よ
り充実しているはずだ。
﹁そうだ。学園祭に入る時に受付で吉祥院さんからもらったチケッ
トを出したんだけど、チケットに押されてた赤い花のマークを見て、
係の生徒達が慌てちゃってさ。あの花ってなんか意味があるの?﹂
それはピヴォワーヌメンバーの関係者という意味です。
1037
﹁たいした意味はありませんわ﹂
﹁ふーん。でもなんかいろいろ優待券とかもらったから特別な意味
〇
とか呼ぶのな。もしかして吉祥院さんも麗華様とか呼ばれて
があるのかと思ったんだけど。あ、それとさ、瑞鸞って女子が
〇様
たりして?!﹂
﹁ええ、まぁ⋮﹂
﹁麗華様って、似合う∼。俺達も今日から麗華様って呼んじゃう?﹂
あははと北澤君達に大受けされた。絶対に呼ぶな。
﹁ねぇ!私達疲れたからカフェに入ったんだけど、そこに王子様み
たいなイケメンバリスタがいたの!物凄くかっこ良かった!誰、あ
れ。吉祥院さん知ってる?たぶん同じ学年だと思うよ。女の子達に
囲まれて凄い人気だった。吉祥院さん、彼と仲いい?﹂
イケメンバリスタ⋮。円城だな。
﹁顔見知り程度ですわね﹂
﹁な∼んだ、残念﹂
森山と榊さんはがっかりとした。それでもめげずに﹁ほかにかっ
こいい人いる?﹂などと聞かれ、北澤君達には﹁可愛い女の子いる
?﹂と聞かれた。可愛い女の子?ここにいるじゃないか。
﹁ねぇ、それよりもベアたんを見せてよ!﹂
梅若君が焦れたように私に言った。とうとう審判の時がきたか⋮。
﹁こちらですわ﹂
1038
恐る恐る梅若君達をベアたんぬいぐるみの元へ案内する。
﹁おおっ!﹂
梅若君はベアトリーチェのぬいぐるみを感動したように見つめた。
﹁どうでしょう⋮?﹂
﹁似てる⋮。そっくりだよ、吉祥院さん!﹂
﹁そうですか!﹂
やった!合格をもらえたようだ!
﹁ベアたんの愛らしさがよく出ているよ。凄いよ、吉祥院さん!﹂
そうかい、そうかい。苦労した甲斐があったというものだよ。
﹁ねぇ、吉祥院さん、これ触っちゃダメ?﹂
一応展示物は触っていはいけないことになっているのだけれど、
私の作品だけなら構わないと思う。
﹁どうぞ。ただしあまり力を込めると歪んでしまうかもしれません
ので気を付けて﹂
﹁ありがとう!﹂
梅若君はそっとベアたんぬいぐるみを抱っこした。そしてそのま
ま凝視する。どうした⋮?
すると次の瞬間、梅若君は感極まったように﹁ベアたんっ!﹂と
ぬいぐるみをギュッと抱きしめた。
1039
﹁ベアたん、ベアたん!なんて可愛いんだ!﹂
そう言ってぬいぐるみに頬をスリスリし、﹁ラブリー!﹂と言っ
てぬいぐるみにキスをする背の高いピアスの男子高校生。シュール
だ⋮。
森山さん達は人目を気にして周りをきょろきょろし、北澤君は﹁
落ち着け!﹂と犬バカを止めた。
見ると受付に座る南君が口をあんぐりさせていた。ちらほらいた
見学客は展示室から出て行った⋮。
﹁あぁ、ごめん、つい興奮しちゃって。でも吉祥院さん、このベア
たん、なんだかいい匂いがするんだけど、これって吉祥院さんの家
の匂いかなぁ﹂
ぬいぐるみの胴体にクンクンと鼻を近づける梅若君。ふっふっふ
っ、気が付きましたか。
﹁実は中に薔薇のポプリが入っているんです﹂
﹁薔薇のポプリ?﹂
そう。あえて公言せず、わかる人にだけわかるという、このさり
げないおしゃれ心!こういうところにセンスって現れるよね!ほほ
ほほほ。
﹁へえ。そうなんだ。でもこの子、本当に可愛いな。ベアたんにそ
っくりだ。⋮欲しいな。ねぇ、吉祥院さん、この子俺にくれない?﹂
﹁え?﹂
﹁ね、ね。絶対に大事にするから!ベアトリーチェの妹としてうち
に養子にくれよ。ね、吉祥院さん!﹂
﹁え∼っと⋮﹂
1040
﹁ちょうだい、ちょうだい!﹂
爛々と光る犬バカ君の目が怖い⋮。みんなも犬バカ病炸裂にドン
引きだ。森山さん、貴女梅若君が好きだったんじゃなかったのです
か?
﹁吉祥院!﹂
振り向くと同志当て馬がドアの前に立っていた。
﹁ちょっといいか﹂
厳しい顔で同志当て馬が私を廊下に呼び出した。え、私またなに
かやった?
1041
160 璃々奈KGB所属、西加つぐみ
私の友達の璃々奈ちゃんは、従姉の吉祥院麗華先輩が大好きだ。
私が瑞鸞に入学したのは初等科からで、家はわりと裕福ではあっ
たけれどピヴォワーヌに入れるほどの家柄でもないし、自分から前
に出るタイプでもないので、似たようなおとなしい子達と、派手な
子達に目を付けられることもなく、ほどほどに楽しい6年間を過ご
した。
そして中等科に上がった時に、同じクラスになったのが古東璃々
奈ちゃん。
璃々奈ちゃんは中等科からの外部生なのに全く物怖じせず、内部
生達にもずけずけと言いたいことを言う子だった。
そんな璃々奈ちゃんだから、初対面の印象はなんだか気が強くて
怖い子だな、私とは全然違うタイプだからきっと来年のクラス替え
までほとんど口をきくことなく終わりそうだな、なんて思っていた。
瑞鸞学院には私達の1つ上に、皇帝と呼ばれる誰もが憧れる鏑木
雅哉先輩がいた。皇帝は常に女子のファンに囲まれ、しかもファン
にも序列があった。新参者は出しゃばらず、先輩方の後ろから皇帝
の姿を眺めるだけという不文律があったのに、なんと外部生の古東
さんはそんなしきたりなど完全無視して皇帝に話しかけ周りをうろ
つき始めた。
当然お姉様方からも1年の内部生の女子達からも大顰蹙だ。何度
1042
も呼び出されたり注意を受けたりしても、古東さんは﹁誰を好きに
なろうと私の勝手でしょ!あんた達に言われる筋合いはないわよ!﹂
と逆ギレをする始末。
あまりの態度に敵も増え、これは学院から完全に孤立するなと見
ていたら、2年生の女子で一番有名なピヴォワーヌの吉祥院麗華様
が、古東さんと敵対した相手に謝罪をして回っていた。聞くところ
によると、麗華様と古東さんは従姉妹らしい。それで同級生のピヴ
ォワーヌの子達が、古東さんに対して苦々しく思っていても何も行
動を起こさなかったのか。
あの麗華様に頭を下げられたら、古東さんの振る舞いに激怒して
いた人達も引かざるを得ないものね。古東さんは麗華様の後ろ盾で
なんとかその危うい立場を保っていた。
そんなある日、突然古東さんの皇帝への付き纏いがぴたりと止ん
だ。皇帝を怒らせたという話を聞いたからそのせいかもしれない。
でも皇帝の逆鱗に触れたとしたらただでは済まないはずなのに、普
通に学院生活を送っている。これはいったいどういうことだろう。
前よりもおとなしくなって分別のつく行動をし始めた古東さんに、
同級生達は様々な推理を巡らせたけれど、本人も教えてくれないの
で結局、謎は謎のまま。
それからの古東さんは持ち前の気の強さはそのままで、常識的な
行動をするようになったので、徐々に友達が増えていった。私はそ
さいか
れでもなるべく関わりたくないな∼と思っていたのに、古東璃々奈、
西加つぐみと名字が近かったせいで、ことあるごとにグループ分け
が一緒になった。そのせいで教室移動の授業の時は当たり前のよう
に私の腕を掴み一緒に移動し、許可した覚えはないのにいつの間に
か私を﹁つぐみ﹂と呼び、目敏く私の携帯を見つけ﹁私の携帯の機
種と一緒だわ。メアドを交換してあげる﹂と強引にアドレス交換を
させられた。それからは毎日のメール攻撃。なんだか気に入られて
1043
しまったらしい。皇帝を追っかけていた時も思ったけど、古東さん
は押しが強い⋮。この頃にはもう、私古東さんからたぶん逃げ切れ
ないな⋮と半分諦めた。
古東さんは気が強くてちょっと我がままだけど悪い子じゃない。
仲間と認めた子は全力で守る子だ。一度私が男子に﹁ちびメガネ﹂
とからかわれた時、古東さんが飛んできて﹁あんた私の友達をバカ
にしたら、毛根に再生不可能なダメージを与えるわよ!﹂と脅しを
かけ、怯えて逃げる男子を﹁M字がいいか!河童がいいか!蝉丸が
私の友達
か⋮。
いいか!﹂と追いかけ回して撃退してくれた。古東さん、凄い⋮。
でも、
﹁璃々奈ちゃん、ありがとう﹂と初めて名前で呼んでみたら、古東
さん改め璃々奈ちゃんはちょっと驚いたあと、満足そうに笑った。
この日から、私達は本当に友達になった。
璃々奈ちゃんのする話には、よく麗華先輩が登場する。
璃々奈ちゃんと友達になったことで、私みたいな地味な子とは普
通縁のないピヴォワーヌの吉祥院麗華様を、麗華先輩なんて呼ばせ
てもらえるようになった。凄く嬉しい。
その麗華先輩だけど、私達から見ると麗華先輩はきれいで頭が良
くてカリスマ性のある完璧なお姉様なんだけど、従妹の璃々奈ちゃ
んにとっては違うみたい。
﹁麗華さんたらまた顔が丸くなったわ﹂﹁麗華さん、日光の遠足で
猿に飛び蹴りされたのに反撃もできなかったんですって﹂﹁麗華さ
んは抱えきれないほどの花束を持ってプロポーズされるのが夢だと
言っていたわ。でもその前はライトアップされたクリスマスの礼拝
堂でふたりだけで愛を誓い合いたいとか言っていたのよ。麗華さん、
結婚詐欺師に騙されるかもしれない⋮﹂﹁麗華さんはテレビ通販で
くだらないものばかり買っているの。寝袋みたいなかい巻き布団と
かいう物とか。この前泊まりに行ったら貴女はこれで寝なさいって
1044
自慢げに出されたのよ﹂﹁実は、麗華さんが作った自家製ヨーグル
トで家族全員食中毒になったことがあるの﹂﹁麗華さんに理想のタ
イプを聞いたら、滅びの呪文を一緒に唱えてくれる人ですって。も
ういつまで経っても夢見がちなんだから﹂
嘘か本当かわからない麗華先輩の話をしたあと、璃々奈ちゃんは
いつも大きなため息をついて、﹁世話の焼ける姉を持つと、妹は苦
労するわ!﹂と言う。一人っ子の璃々奈ちゃんは実は兄妹に憧れて
いる。
意地っ張りな璃々奈ちゃんは絶対に認めないけど、本当は麗華先
輩が大好きだ。麗華先輩の中等科の卒業式には﹁麗華さんはきっと
誰からもお花なんてもらえないから!﹂と言い訳をしながら一生懸
命花を選んでいたのに、なぜか麗華先輩のお兄様に渡しちゃうし。
たぶん麗華先輩がほかの後輩から花束をたくさんもらっていたのが
悔しかったのね。
その次の年の私達の卒業式には麗華先輩とお兄様がお祝いに駆け
つけてくれて、璃々奈ちゃんにぴったりだとロリーポップの花束を
渡されてた。いつものように麗華先輩の前では憎まれ口を叩いてい
たけど、麗華先輩達が帰ったあとに璃々奈ちゃんが花束を抱えてち
ょっぴり泣いていたのは秘密だ。
今璃々奈ちゃんは自宅の庭でロリーポップと薔薇のうららを育て
ている。
そんな麗華先輩には恋の噂が絶えない。
麗華先輩といえば美人で女王様のようにいつも人に囲まれている
方だから当然といえば当然なんだけど。
まずは一番華やかで女の子達がうっとりと羨ましがる噂の恋のお
相手のひとり、それはあの皇帝だ。
1045
女子生徒達にほとんど無関心な皇帝が親しくする数少ない女の子
が麗華先輩で、皇帝は麗華先輩に恋の詩集をプレゼントしたり、麗
華先輩のためにピアノを弾いたりしたらしい。すごーい!
噂では校舎裏で麗華先輩の肩に皇帝が手を置いて、今にもキスを
しそうだったのを遠くから目撃した人がいたとか。これが本当だっ
たら大スクープだ。
もうひとりはその皇帝の親友で、女子の人気を二分する瑞鸞の王
子様である円城様。円城様も麗華先輩に好意を持っているという噂
で、相合傘で帰ったり旅行に行ったお土産を麗華先輩だけにあげた
という話。ピヴォワーヌの子からの情報によると、サロンやパーテ
ィーなどでも円城様はよく麗華先輩と楽しげに談笑し、これも噂だ
けど蛍を欲しがった麗華先輩のために円城様が蛍を獲ってプレゼン
トしたなんて話もあるみたい。
しかも決定的だったのが円城様とのお揃いのタオル!麗華先輩は
円城様の弟様からのプレゼントなんて言っていたけど、そんなのは
みんな信じていない。聞かれた円城様も﹁これは僕のお気に入りの
タオルだから﹂と答えていたそうだし。
円城様は学園祭の初日にも麗華先輩のために特別にラテアートを
描いたカプチーノを作ってあげたという情報もあるし、これは円城
様が一歩リード?
麗華先輩が春頃にどちらかおふたりからプレゼントされた可愛い
ネックレスを大切にしているという噂もあって、女の子達は羨まし
いときゃあきゃあ騒いでいたけれど、これは残念ながら私調べでは
ちょっと違うみたい。
でも女の子達は麗華様と鏑木様、円城様の雲の上のような恋の話
を、夢物語のように想像して楽しんでいる。
それ以外にも同級生で一緒にクラス委員をやっている真面目そう
な先輩や、柔道部の硬派な先輩がたびたび麗華先輩と親しげに一緒
にいる姿を目撃されていているのよね。このふたりの先輩達は時に
顔を赤くして嬉しそうに麗華先輩に話しかけていたりするので、麗
1046
華先輩を好きなのは間違いという噂。
ほかにも大人の男性から求婚されているとか、実は麗華先輩のお
兄様のお友達が、光源氏のように将来の妻にするために大切に育ん
でいるとか、いやいや他校の男子生徒と身分違いの恋をしていると
か、年下男子達が年上の麗華先輩を想って愛を競っているとか、と
にかく麗華先輩の恋の噂は尽きない。
ただしこの噂の中には完全なデマも混じっているので、全部を丸
ごと信じるのもどうかと思う。たとえば麗華先輩を好きな年下男子
の噂の中に丁稚君も入っているけど、丁稚君は確実に璃々奈ちゃん
が好きだというのは私達の間では暗黙の了解なんだよね。
それなのに璃々奈ちゃんてば丁稚君が勇気を出して璃々奈ちゃん
のイニシャル入りのタオルをプレゼントした時に、同じイニシャル
だからっていそいそと麗華先輩にあげちゃうんだもん。あれはない
よ∼。璃々奈ちゃんとしては麗華先輩にタオルをあげる口実が欲し
かったんだろうけどね。あとで同じタオルを買っていたもん。だっ
たら璃々奈ちゃん、そっちを麗華先輩にあげればよかったのでは?
璃々奈ちゃんからもらったタオルが丁稚君からのプレゼントだと
知った麗華先輩は激怒して、しばらく璃々奈ちゃんは落ち込んじゃ
った。だから私は麗華先輩に運動部の部長達の情報を進呈して、こ
れで璃々奈ちゃんを許してあげて欲しいって頼んでみた。
あとで麗華先輩から﹁とても役に立つ情報だったわ。どうもあり
がとう﹂と笑顔でお礼を言ってもらえたので教えてよかった。
学園祭前に麗華先輩から陸上部のマネージャーのことを調べて欲
しいと頼まれた。なんでも麗華先輩の親友の恋敵かもしれないんだ
って。
秋澤先輩を好きな女の子のことは前にも麗華先輩に頼まれて調べ
1047
たことがあるけど、あの時も確かに片思いしている女の子がいた。
最後はその子を好きだった男子とくっついちゃったけどね。
今度はどうだろうと思っていたら、麗華先輩の心配通りマネージ
ャーは黒だった。
秋澤先輩には他校に幼馴染の彼女がいるともっぱらの噂で、実際
に陸上部の大きな試合や学園祭などに来ることもあるというのに。
その子が友達と﹁幼馴染って陸上に興味ないみたいだし、私のほ
うが先輩を理解してあげられると思うんだ。私のほうが一緒にいる
時間は長いし⋮﹂﹁だったら頑張って取っちゃいなよ﹂などと話し
ているのを聞いて、麗華先輩に報告したら、麗華先輩は真っ青にな
って﹁どうしよう。私殺される⋮﹂と大慌てしていた。
それを見ていた璃々奈ちゃんにどうしたのか聞かれたので事情を
説明したら、﹁麗華さんの親友⋮?﹂と眉をピクリと動かして、﹁
つぐみ!その麗華さんの親友の彼氏とマネージャーを徹底的に調べ
るのよ!﹂と張り切りだした。あ∼、また璃々奈ちゃんの暴走が始
まった⋮。
結局は一般公開日の学園祭で手を繋いでラブラブな秋澤先輩とそ
の彼女の姿を見て、マネージャーも諦めたみたいだったけどね。あ
れだけラブラブじゃ勝てないと思ったのかな。しかも彼女はさすが
麗華先輩の親友だけあって、上品でおとなしそうな大和撫子さんだ
ったしなぁ。他校に来て心細いのか、手を繋いでいないほうの手を
秋澤先輩の腕にそっと置いて、﹁匠、あれはなにかしら⋮﹂なんて
秋澤先輩と目を見交わして控えめに微笑みながら聞いたりしていた。
もうラブラブ。
その大和撫子さんから時々﹁麗華さんが⋮﹂という単語が聞こえ、
さらには璃々奈ちゃんが﹁貴女が麗華さんの親友ですね!私は従妹
の古東璃々奈と申します。どうぞ不肖の従姉をよろしくお願いいた
しますわ!﹂と言ったものだから、秋澤先輩の彼女は吉祥院麗華様
の親友という話がバッと広まった。それも理由でマネージャーが秋
澤先輩から手を引いたのかもしれないな。親友を泣かせたら確実に
1048
あの麗華先輩を敵に回すもんね。
私の情報によると、麗華先輩は一部の2年生の男子達の間でずい
ぶん失礼なあだ名を付けられている。﹁吉祥院麗華が妖刀扇子を抜
きし時、学院に血の雨が降る﹂なんて話もあった。あの人達はいっ
たい麗華先輩をなんだと思っているのかしら。怖い怖いと言いなが
ら遊び過ぎ。こんな話は璃々奈ちゃんには絶対に聞かせられないな。
﹁麗華さんの仇!﹂と、2年生の教室に殴り込みに行きそうだ⋮。
でもサッカー部、野球部、バスケ部の部長は本気で怖がっている。
たぶん私が教えた例の情報のせいだろうな。学園祭の部長会議の内
容は箝口令が敷かれているのか、情報が洩れてこない。麗華先輩に
聞いても﹁とても有意義な会議でした﹂と笑うばかり。まことしや
かに聞こえてきた噂は、妖刀扇子が抜かれたらしいなんて話のみ⋮。
この前中庭を歩く麗華先輩を見かけたけど、秋なのに日焼け対策
で日傘を差していた。さすがだなぁ。でもその麗華先輩のお友達の
方々がなぜかキラキラ光るCDを持っていたのよね。あれはなにか
のおまじないかしら?﹁打倒、ヒッチコック!﹂ってなんのこと?
あ∼でも、麗華先輩の今一番の恋の脅威と言われている高道若葉
先輩。あの人のことも調べておいたほうがいいのかなぁ⋮。璃々奈
ちゃんは噂に疎いから高道先輩の存在をまだあまりよくわかってい
ないみたいだけど、知ったら大変だろうなぁ⋮、
でも麗華先輩から璃々奈ちゃんのことをくれぐれもよろしく頼む
と言われているし、璃々奈ちゃんが暴走したら私達が止めなきゃね。
お互いがお互いのことを友達に頼むところとか、麗華先輩と璃々
奈ちゃんて、従姉妹だけあって似てる。なんて言ったら璃々奈ちゃ
1049
んは﹁似ていないわよ!﹂と言いながら内心大喜びするんだろうな
ぁ。
それから円城様に関して、妙な噂を聞いたんだけど本当なのかな
⋮⋮。
1050
161
﹁なにかご用かしら、水崎君﹂
頭の中で同志当て馬を怒らせる心当たりを探す。やっぱりピヴォ
ワーヌ絡みかな。
私と一緒に廊下に出た同志当て馬は、手芸部の展示室のほうをき
つい目で見ると私を隠すように体をずらし、私に﹁大丈夫か﹂と聞
いてきた。大丈夫か?なにが?
﹁なんのことでしょう?﹂
﹁⋮あいつらにたかられているんじゃないか?﹂
﹁は?﹂
たかられている?私が梅若君達にってこと?
﹁あの、どこからそんな発想が⋮﹂
﹁ピヴォワーヌの刻印の入ったクーポン券を彼らが使っているのを
目撃したんだ。それで一応気に留めていたんだが、今見回りでここ
を通ったら、君が彼らにしつこくなにかをねだられているのを見て、
もしかしたらと止めに入ったんだ﹂
﹁あー⋮﹂
なるほど。入場チケットだけではなく、クーポン券の赤い牡丹の
刻印が目立っちゃったか。茶髪やピアスをした男子高校生達が、ピ
ヴォワーヌの関係者とはとても見えなかったと。
﹁吉祥院、もし彼らにたかられていて自分から断れないのなら、俺
1051
が言うから﹂
﹁あの、水崎君。誤解をなさっているようですけど、あの人達は全
員私の友人ですわ﹂
﹁友人?彼らが、吉祥院の?﹂
同志当て馬は思いっ切り不審そうな顔をした。
うん、友人。確かに私も去年の夏期講習で初めて出会った頃は、
チャラくてうるさくて鬱陶しいと思ってた。でもそっけない態度を
取り続けても笑顔で話しかけて仲間に入れようとしてくれた梅若君
達を、今では本当にいい友達だと思っているんだ。
﹁吉祥院、君騙されているんじゃないか?瑞鸞の生徒は温室育ちだ
からカモにされやすい。自覚がないのかも⋮﹂
﹁ちょっと、水崎君﹂
同志当て馬の中では梅若君達は完全にろくでもない連中になっち
ゃってる。でも、よく見るんだ。チャラいシルバーのピアスは実は
肉球マークだぞ。それに梅若君達って別にガラは悪くはないよねぇ
?わりと品はあると思うんだけど。一度思い込んじゃうとそうとし
か見えないのかな。
﹁心配していただいたようですけど、本当にたかられているような
事実などありません。通っている塾が一緒で仲良くしているのです
けど、それでも今まで私が彼らにおごったりしたこともありません
し、対等な関係です。それどころか、私の手芸部の出品物のために
暑い夏休みにわざわざ集まってくれるような人達なんです。水崎君
にはどう映っているかわかりませんけど、彼らは私よりもよっぽど
成績も良くて真面目なんです﹂
そうだ。梅若君達は私が瑞鸞のお嬢様だって知っているけど、お
1052
ごって欲しいなんて言われたこともない。梅若君に関してはむしろ、
私がベアトリーチェ用のバッグをプレゼントしたら、お礼にと後日
お昼に人気のコンビニスイーツをおごってくれたくらいだ。
﹁ちなみにさっき欲しいとねだられていたのは、私が作った犬のぬ
いぐるみです。あれは彼の愛犬をモデルにして作ったもので、あま
りにそっくりなので欲しいと言われていたのを、水崎君が誤解して
しまったのですわね﹂
﹁ぬいぐるみ⋮?﹂
﹁そうです。今日もモデルにしたぬいぐるみを見たいというので学
園祭に招待したのですわ。クーポンはご存じの通りピヴォワーヌの
メンバーはひとりでは使い切れない程の量をもらっていますからね。
せっかくですから渡しただけです﹂
私が展示室に近づき中を覗くと、北澤君達に止められながらもベ
アたんに顔を埋める梅若君の姿があった。う∼ん、あれは絶対にあ
げるって言うまで動かないな。
私の後ろから梅若君達の様子を窺った同志当て馬は、その光景に
やっと納得してくれたようだ。
あ、同志当て馬、犬バカ君に驚いてる?でもあんなのまだ甘いよ。
ベアたんなりきりメールを見せてあげようか?でもあれを見せたら
別の意味で危機感を覚えて、友達付き合いを止められるかも。
﹁これで誤解は解いてもらえたでしょうか﹂
﹁⋮悪かったな、勘違いして吉祥院の友達を疑うようなことをして。
ただ俺は生徒会長として瑞鸞生を守る義務があるんだ﹂
﹁そうですね、心配していただいてありがとうございます。でも少
し意外でしたわ。生徒会長がピヴォワーヌのメンバーである私の心
配をするなんて﹂
﹁ピヴォワーヌとかは関係ない。瑞鸞の生徒が困っていたら生徒会
1053
は助ける﹂
﹁⋮それはたとえば相手がピヴォワーヌの会長でも?﹂
﹁当然だ﹂
同志当て馬は迷いのない目で頷いた。
ふ∼ん。あれだけ会長に暴言を吐かれて、学院側からは厳重注意
まで受けて相当理不尽な思いをしたはずなのにね。私が同志当て馬
の立場だったら絶対に助けないけどな。
そう考えると、やっぱり同志当て馬は生徒会長の器なんだなぁ。
ちょっと見直した。
﹁では私は誤解も解けたところで、受付当番に戻りますわね﹂
﹁わかった。もし彼らに俺の態度が不愉快な思いをさせていたら謝
っておいてくれ﹂
﹁わかりました﹂
﹁それと、吉祥院。この前は見逃したけど、あの扇子を学校に持っ
てくるのは禁止な。あれは立派な凶器だ﹂
ええ∼っ!ただのロココの小道具だよぉ。
私が展示室に戻ると、森山さん達が﹁さっきの人もかっこ良かっ
た!誰?知り合い?瑞鸞ってイケメン率高くない?﹂と言ってきた。
森山さん、梅若君は⋮?
その梅若君はぬいぐるみを抱っこしたまま私に向かって﹁絶対に
幸せにします!﹂とさきほどと同じように養子縁組を迫ってきたの
で、私は根負けして﹁学園祭が終わったらね﹂と返事をした。
梅若君は大喜びでしばしのお別れのキスをぬいぐるみにして、や
っと離れた。これから科学部のプラネタリウムを見に行くんだって。
森山さんは完全に梅若君を諦めたようだ。これはしかたがないね⋮。
愛犬に似たぬいぐるみにまで愛を捧げる男の子を受け止められる女
子高生はなかなかいない。
1054
梅若君達が出て行ったあと、静かになった展示室で南君が﹁なん
だか凄い人達でしたね⋮﹂と呟いた。ごめんね。
手芸部の受付当番の交代の時間がきたので、芹香ちゃん達と合流
して学園祭を回った。
﹁麗華様、今日も鏑木様が円城様のクラスのカフェに行って、高道
さんのクッキーを食べたそうですわ⋮﹂
﹁まぁ、そうですか﹂
あの鏑木が⋮。そうなるともう、これは確定的かなぁ。学園祭が
終わったあとに面倒なことが起きそう⋮。
でも今はとりあえず学園祭を楽しもう。確か梅若君達がサッカー
部のピアディーニが大人気でおいしかったって言ってたな。行って
みるか。芹香ちゃん達を誘い屋外のサッカー部の模擬店に行くと、
私を見つけたサッカー部部長が、﹁お金はいりませんから!﹂と商
品を私に押し付けてきた。それは野球部やバスケ部の模擬店でも同
じことが起きた。
え、これって私のほうがみかじめ料を脅し取りに来たたかり屋み
たいじゃない?
徐福
徐福
の売り上げには
で接客。さぁ!残り時間、
やっぱり同志当て馬の言う通り、扇子は封印しよう⋮⋮。
クラスに戻ってまた着替えて
ガンガンさばくわよぉ!あれ?梅若君達は
貢献してくれないの?ちっ、なんて友達甲斐のない人達だ。
﹁きゃあっ!鏑木様と円城様ですわ!﹂
1055
鏑木達が店内に入ってくると、女子達が色めきたった。なにしに
来た。あ、お茶を飲みにきたのか。
一気に店内が騒がしくなったけど、このふたりがいると女子のお
客さんがドッと増えるので、まぁありがたいのか?
ふたりだけかと思ったら、円城の後ろから雪野君がちょこんと顔
を出したので、私のテンションが急上昇した。
﹁こんにちは、吉祥院さん。雪野が来たいって言うから連れてきた
んだ。今日は可愛い姑娘姿だね?﹂
﹁こんにちは、麗華お姉さん!﹂
﹁こんにちは∼、雪野君。来てくれてとっても嬉しいわ!いらっし
ゃいませ、鏑木様、円城様。円城様はご自分のクラスのカフェを放
っておいてよろしいんですか?﹂
﹁僕のクラスは朝から満員御礼で全部売り切れちゃったんだ。だか
らもうおしまい﹂
﹁まぁ、それは⋮﹂
ちっ、円城効果か。うちはまだまだ余っているぞ。売れ残ったら
最後にみんなで山分けするんだ。
﹁なんだ、吉祥院。背中に龍はないのか。コンプリートの道は険し
いな﹂
﹁そのような珍妙な野望は抱いておりませんので⋮﹂
ちょっと!雪野君の前で変なことを言わないでよ!肩をふるわせ
て笑うな円城!やっぱり昨日のうさぎは嫌がらせだったか。
鏑木は鉄観音、円城は菊花茶、雪野君は工芸茶を注文した。選ぶ
お茶にも性格が出るな。嫌がらせとはいえ、昨日整理券がないと作
ってもらえないラテアートのカプチーノをサービスしてもらったの
1056
で、私もお茶に月餅を付けた。しかし鏑木は﹁甘いものは今日はも
ういい⋮﹂と手を付けなかった。鏑木、若葉ちゃんの手作りクッキ
ーを食べすぎたのか?でもそんな鏑木だけど、私が出した月餅を放
置せず、制服のポケットに入れた。ちゃんと持って帰るようだ。鏑
木は意外と律儀らしい。
雪野君がニコニコとお湯の中で開く花を見ているので、私もつい
笑顔になっちゃう。雪野君、杏仁豆腐も食べる?
主に私と雪野君がおしゃべりをして時が過ぎ、お茶を飲み終わっ
た3人が帰る頃になったので私は廊下までお見送りをした。
﹁今日は来られて楽しかったです。麗華お姉さん﹂
﹁私も雪野君に会えて嬉しかったわ﹂
えへへ∼とふたりして笑う。腹黒円城のそばでどうしてこんな天
使な弟が育つのでしょう。
鏑木はこれからクラスの打ち上げがあるとかで、お化け屋敷に戻
った。鏑木は意外と付き合いがいいらしい。
見送りにきたはずが、ついつい雪野君と話し込んでしまう。だっ
て可愛いんだもん。円城は笑顔で私達の会話を聞いていた。
そこへ女の子の声が聞こえた。
﹁シュウ﹂
シュウ?
反射的に振り向くと、アホウドリ桂木と、セミロングの黒髪の儚
げな女の子が立っていた。え、誰?
ゆいこ
﹁唯衣子﹂
シュウと呼ばれた円城が、少し驚いた顔をした。円城の知り合い?
1057
円城は優しげに女の子に微笑むと、ふたりに近づいていった。隣
に立っていた雪野君が私の手をきゅっと握ってきた。ん?どうした
の、雪野君。
﹁なんで唯衣子がここに?﹂
﹁シュウが学園祭でラテアートをしているって聞いて、ハルに連れ
てきてもらったの。でも少し遅かったかしら?﹂
女の子はおっとりと首をかしげる。色が真っ白で濡れた瞳が揺れ
る、印象的な女の子。
さっきまで廊下で騒いでいた人達も静かになり、唯衣子さんに注
目する。いつもぎゃあぎゃあとうるさい桂木少年まで別人のように
おとなしい。
﹁うちのクラスはかなり前に店じまいしたんだ。でもラテアートな
ら別にわざわざ学園祭に来なくても、家で唯衣子の好きなものをい
くらでも描いてあげるよ﹂
﹁そう?だったら今度作ってもらおうかな﹂
﹁了解﹂
円城と唯衣子さんはかなり親密そうな空気を出している。これは
いったい⋮。
﹁雪野、そろそろ帰ろうか。唯衣子はどうする?﹂
﹁そうね⋮。私もこのままシュウと一緒に帰るわ。シュウがいなか
ったらつまらないもの﹂
名前を呼ばれた雪野君は私の手を離し、心なしか固い表情で兄の
元に行った。
1058
﹁じゃあ、吉祥院さん、今日はありがとう﹂
﹁ごきげんよう、円城様。さよなら、雪野君﹂
﹁さよなら、麗華お姉さん﹂
唯衣子さんは私をふっと見て微笑むと、円城の腕に当たり前のよ
うに自分の腕を絡ませて、廊下を後にした。
それをボーッと見ていた私のそばに、いつもとは別人のようにお
となしい桂木少年が駆け寄ってくると、私の耳元で﹁唯衣子さんは
円城さんの恋人だから﹂と言い、そのまま3人のあとを追った。
4人の姿が見えなくなると、その場にいた全員が爆発したように
騒ぎ出した。
﹁あの人はいったい誰!﹂
﹁まさか円城様の彼女?!﹂
﹁そんな話、聞いたことないわ!﹂
﹁美人だったなぁ。唯衣子さんかぁ⋮。また会えるかなぁ⋮﹂
そこにプラネタリウムを堪能した梅若君達が空気を読まずに元気
にやってきた。
﹁あーっ、吉祥院さん!チャイナドレスだぁっ!写メ、写メ!﹂
﹁チャイナドレスに巻き毛ってある意味斬新﹂
わぁわぁと能天気に騒ぎながら私の写メを撮る梅若君達に言われ
るがまま、私はなんだかもう捨て鉢な気分になってポーズを取った。
﹁俺のベアトリーチェにも今度着せてみようかな⋮﹂
よろしいんじゃないでしょうか。
1059
162
と、
皇帝2日続けて高道若葉
円城様に謎の女の子現る!
学園祭が終わった直後から、瑞鸞では
の手作りクッキーを食べる!
の話で持ちきりだった。
おかげで私の周りも騒がしい。
﹁麗華様、どう思います?あの鏑木様が手作りのお菓子を進んで食
べるなんて。しかも2日目にはテイクアウトもしたそうですわ!﹂
﹁テイクアウト?あのクッキーは売り物ではなくて、お茶請けとし
て出されるサービス品という物だったはず⋮﹂
﹁そこは鏑木様ですから⋮。でもクッキーの味がことのほかお気に
召したというわけではなさそうですの。あのクッキーは数人で作っ
たらしいのですけど、高道さんが作った物だけ持って帰ったそうで
すわ﹂
鏑木⋮。露骨すぎるな。
﹁2日目に鏑木様がいらした時に、クッキー作り担当の子達が全員
自分の作ったクッキーをお出ししたんですって。でもその時も高道
さんの作ったクッキーしか食べなかったとか⋮﹂
﹁それはまた⋮。きっとよほど高道さんの作ったクッキーが、鏑木
様のお口に合ったのでしょうね?﹂
﹁なにを暢気な。麗華様、しっかりなさってくださいな!﹂
菊乃ちゃんが目を吊り上げる。しっかりって言われてもなぁ⋮。
﹁今朝も鏑木様が廊下で高道若葉に声を掛けていましたわ⋮﹂
1060
﹁私も鏑木様が円城様に会いにクラスに行くと、いつも高道さんに
も声を掛けると同じクラスの子から聞いたわ﹂
﹁それってまさか本当に⋮﹂
﹁ちょっと、滅多なことを言わないで!﹂
あやめちゃんの言葉に芹香ちゃんが耳を塞いだ。
﹁麗華様?鏑木様からなにか聞いてはいないのですか?﹂
﹁なにか、と言いますと?﹂
﹁ですから、高道さんのことに関して、とか⋮。ピヴォワーヌのサ
ロンでそういった話は出ませんの?﹂
﹁特にはありませんわねぇ﹂
芹香ちゃん達がはーっとため息をついた。ごめんなさいね、使え
ないヤツで。
﹁でも鏑木様が恋をするのは自由では⋮?﹂
﹁麗華様、なんてことを!私はイヤです。鏑木様が誰かひとりのモ
ノになるなんて!これは瑞鸞の女の子達みんなが思っていると思い
ますわ!﹂
﹁それは大げさでは⋮﹂
﹁いいえ、そうなのです!﹂
菊乃ちゃんがきっぱり言い切り、ほかのみんなもその通りだと頷
いた。まぁ鏑木はアイドルと同じような存在だから、ファン心理と
してはそんなものなのかなぁ。
﹁もし仮に鏑木様に好きな人が出来たとしても、その相手は私達が
納得できるかたでないと。優理絵様なら誰もがしかたがないと思え
ましたけど、高道さんでは誰も納得できないと思いますわ﹂
1061
﹁そうよねぇ。だいたい家柄だって釣り合わないし顔も普通じゃな
い?唯一の特技は勉強くらい?﹂
﹁イヤだ、もしかして高道さんって玉の輿狙いで瑞鸞に入学したん
じゃないの?なんてさもしい!﹂
いやいや、勝手に若葉ちゃんを玉の輿狙いの性悪女にしないであ
げて。
﹁高道さんはそんな悪い子ではないんじゃないかしら⋮?﹂
﹁あら、麗華様は私達より高道若葉の味方するのですか?﹂
﹁そういうわけではありませんけど⋮﹂
まずい、ヘタに庇うと火に油を注ぎそうだ。しかも私の足元にも
火がつくかもしれん。
﹁ところで、円城様のことですけど、あの女の子はいったい⋮﹂
あやめちゃんがなんともいえない顔をして円城の名前を出すと、
全員が顔を見合わせた。
﹁ずいぶんと親しげでしたわね⋮﹂
﹁円城様と腕を組んでいたわ﹂
﹁しかも円城様をシュウなどと呼んでいたし⋮﹂
彼女では?
という最後の言葉を
﹁その円城様も唯衣子と名前で呼んでいましたわ﹂
﹁まさか⋮﹂
あやめちゃん達は苦い顔して
飲み込んだ。
﹁麗華様はどう思います?﹂
1062
﹁さぁ⋮。私にもわかりませんけど﹂
桂木少年は﹁唯衣子さんは円城さんの恋人だから﹂って言ってい
たけどね。でも本当かどうかわからないし⋮。ただアホウドリ桂木
がなんで今まで私に突っかかってきたのか、これで理由はわかった。
桂木が唯衣子さんを見る時のあの憧れの眼差しときたら。完全に骨
抜きにされているな。まぁ気持ちはわかるけど。
会ったのはほんの少しの時間だったけど、唯衣子さんのあの独特
の雰囲気。水面に揺れる月のような危うさ。
芹香ちゃん達もなんとなく気づいているのか、若葉ちゃんの悪口
を言っている時のような勢いがない。
うん、あの人は怖い。たぶん私では勝てない。
が
麗華た
﹁ところで麗華様。麗華様の撮影会をしていたあの男の子達はなん
なのですか?﹂
麗華さんこっち向いて∼
に聞こえたのだけど⋮﹂
﹁舌ったらずなのかしら。
んこっち向いて∼
そこはあまり触れないでください⋮。
考えなしでバカな鏑木のせいで、若葉ちゃんへの女子達の嫉妬が
ますます高まっている。すれ違いざまに﹁ブス﹂﹁調子に乗るな﹂
などと言われているのを何度か目撃した。若葉ちゃんは全く気にし
ていなさそうだったからよかったけれど。
朝、私がいつもより早く登校すると、靴箱の前に若葉ちゃんが立
1063
っていた。一応朝の挨拶くらいはしたほうがいいかな∼と近寄って
みると、靴箱を開けた若葉ちゃんが困った顔をしていた。
﹁ごきげんよう、高道さん。どうかなさったの?﹂
﹁えっ﹂
振り返った若葉ちゃんの手には、インクで黒く汚された上靴があ
った。
﹁あー⋮、なんか真っ黒になっちゃってて⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
誰かにやられたんだ。酷い。
﹁とりあえずスリッパを借りたらどうかしら。その靴を履くわけに
はいかないし。購買が開いたら新しい靴を買えばよろしいわ﹂
﹁う∼ん、これ、洗っても落ちないですかねー﹂
﹁⋮どうかしら。黒いから残ると思いますわよ。水彩絵の具とかで
はなさそうですし。墨汁かしら⋮﹂
﹁さあ。でも落ちないとなると、困ったなぁ。新しい靴を買うのは
痛いなぁ⋮﹂
そうか。私達なら汚れたらすぐに新しい上靴を買い替えるけれど、
庶民の若葉ちゃんにとっては痛い出費に違いない。特に瑞鸞の学用
品は高いから。
﹁悪口とかは全然平気なんですけど、この手の嫌がらせはダメージ
が大きいなぁ。う∼ん、やっぱりシミ抜きで落ちないかなぁ。うっ
すら黒くてもこの際いいんだけど﹂
1064
私はふと思い出した。私にも汚れて買い替えた上靴があったと。
﹁あの、私が持っている少し汚れている上靴、よかったら高道さん
使います?﹂
﹁えっ!﹂
とりあえずスリッパを履いた若葉ちゃんと、私はロッカールーム
に移動して、自分のロッカーから袋に入れて奥にしまっておいた上
靴を取り出した。
﹁これなんですけど﹂
﹁えっ、これ?!全然汚れてないけど?﹂
﹁汚れているのは靴の裏なんです⋮﹂
ひっくり返して見せたけど、一見するとなにも汚れていないよう
に見える。
﹁きれいですけど?﹂
﹁⋮実はこれ、鳩の糞を踏んづけちゃったんです﹂
﹁鳩の糞⋮?﹂
﹁ええ﹂
私は重々しく頷いた。
あれはぽかぽかした昼下がりだった。お友達と食後のお散歩をし
ながら、あぁおなかいっぱい、いい天気だな∼とよそ見をしていた
私はぐにゅっと見事に糞を踏んづけてしまったのだ。しかも落とし
たてホカホカだったので、ズルっとちょっと滑った。
﹁あぁっ!麗華様が糞を踏んでしまったわ!﹂
1065
﹁麗華様!とりあえず洗いましょう!﹂
ショックで軽く現実逃避しそうになっている私を、みんなが水道
まで連れて行ってくれたので、そのへんにあるブラシを使い擦って
洗った。底がゴム地だったので割とすぐに落ちて、その後で消毒ス
プレーもしたけれど、やっぱり気持ち悪いし周りから鳩の糞を踏ん
だ靴を履いていると思われるのが嫌で、そのまま購買に新しい靴を
買いに行ったのだ。
﹁一応ちゃんと洗って消毒もしてあるんですけど⋮﹂
﹁⋮これ、本当にもらっちゃっていいんですか?だって新品同様に
ぴかぴかですよ?﹂
﹁ええ。でも鳩の糞を踏んだ靴ですわよ?気分はあまり良くないで
すわよね?﹂
﹁いいえ、全く﹂
若葉ちゃんはきっぱりと言い放った。
﹁見た目は全然汚れていないし、むしろ凄くありがたいです。あ、
でもサイズが合うかな?私結構足のサイズ大きくて。23.5なん
ですけど﹂
﹁⋮私は24ですわ﹂
﹁あれ?じゃあぴったりかな?﹂
若葉ちゃんはえへへと笑った。
良かった。若葉ちゃんの役に立てたなら、私が鳩の糞を踏んだこ
とにも意味があったね!
﹁これ、昨日のうちにやったのかしら⋮﹂
1066
それとも朝早く来てやった?今もどこかで見ていたりして⋮。
﹁どうでしょうねぇ。あ、サイズは丁度いいみたいです!ありがと
うございます!﹂
﹁いえ、鳩の糞付きですからお気になさらず⋮。でも偶然早く登校
して良かったですわ﹂
今日は図書室で苦手な授業の予習をしておこうと思ったのだ。
﹁そうですね。おかげで私は前よりきれいな靴をもらえちゃったし。
なんてラッキー!﹂
どこまでも前向きな若葉ちゃんであった。
﹁高道さんもずいぶん早くに来ていたけれど、今日はなにかありま
したの?﹂
﹁あぁ、私は遅刻しないように毎日早めに家を出ているんです。電
車通学だと時々人身事故とかで電車が止まっちゃうんですよ∼。皆
勤賞を逃したくないですからね!﹂
そう言って若葉ちゃんは握りこぶしを作った。
あ∼、電車はそういう心配があったね、そういえば。前に若葉ち
ゃんが自転車で登校したのも確か電車が止まったという理由だった
はず。そして皆勤賞への熱意が凄い。やはり粗品目当てでしょうか?
﹁でも皆勤賞でしたら遅延証明をもらえば平気なのでしょう?﹂
﹁そうなんですけど、それは私にとって逃げっていうか。それに授
業もきちんと出たいですしね﹂
おおっ、偉い!さすがは学年トップ3に入る秀才。
1067
そろそろ誰かが来そうなので、私は若葉ちゃんに別れを告げて自
分の教室に行った。
1068
163
若葉ちゃんが自分のせいで嫌がらせを受けているというのに、サ
ロンでお茶を飲む鏑木はご機嫌だ。噂では今日も若葉ちゃんに話し
かけていたらしい。バカめ。
私がいつものお気に入りのソファで抹茶ロールを食べていると円
城がやってきた。
﹁吉祥院さん、この前の学園祭では雪野の相手をしてくれてありが
とうね﹂
﹁こちらこそ雪野君に来てもらえて嬉しかったですわ﹂
学園祭が終わってからまだプティに行っていないけど、雪野君は
元気かな?
そのまま円城と雪野君や学園祭についての他愛のない話をする。
﹁雪野は最近、自分もやってみたいってラテアートに凝っているん
だ﹂
﹁まぁ、雪野君がですか?﹂
﹁僕が飲まされるんだけどね。一番簡単だからって、実の弟が描い
た大きなハートの浮かぶコーヒーを毎朝飲むのは微妙な気分だよ﹂
円城は困ったものだという顔をしたけれど、小さい雪野君が一生
懸命ハートのラテアートを作っている姿を想像して、私は心の中で
身悶えした。
でもラテアートといえば、唯衣子さんに円城が作ってあげるとか
なんとかって言ってたよな∼。唯衣子さんのこと、この流れで聞い
ても平気かな。
1069
﹁そういえば、中等科の桂木君も学園祭に来ていましたわね。女の
子とご一緒に﹂
﹁あぁ⋮﹂
私が話を向けると、円城は思い出す様なそぶりをした後、少し面
白そうな顔をした。
﹁僕と唯衣子のこと、なんだか噂になっているみたいだね﹂
﹁そうみたいですわね﹂
﹁それで、吉祥院さんも興味があるんだ?﹂
﹁い∼え、私は別に﹂
なんだか私がゴシップ好きみたいに思われるのは癪だ。いや、本
当は興味あるけども。
﹁何人かの子に聞かれたから答えたけど、唯衣子は親戚なんだよね﹂
﹁そうなんですか﹂
その話は私も耳にした。でも親戚にしては∼っていうのが私を含
む大半の感想だ。
﹁それでも唯衣子は僕の彼女なんじゃないかって言われているみた
いだけど﹂
﹁そうですわね。私もそんな話を聞きました﹂
﹁唯衣子は僕の彼女じゃないよ﹂
えっ、そうなの?でもアホウドリ桂木は唯衣子さんは恋人って言
ってたぞ。
1070
﹁あれ、意外?﹂
﹁ええ、まぁ。桂木君がそのようなことを言っていたものですから
⋮﹂
と、こっそりアホウドリのことをチクってみる。
﹁あー、あいつは昔から唯衣子に心酔しているからなぁ⋮﹂
そう言って円城は苦笑いした。心酔。うん、確かにそんな感じだ
った。
﹁彼女ではないんだけどね﹂
﹁はい﹂
﹁婚約者なんだ﹂
﹁はいいっ?!﹂
婚約者?!円城に?!
って、吉祥院さん、今凄い顔してたよ。もしか
私が思わず目を見開いて全身でびっくりを表現すると、円城が吹
はいいっ?!
き出した。
﹁
して信じちゃった?﹂
﹁はあ?﹂
候補
﹂
嘘なの?!どっちなの?!私をからかって遊んでいるな、この根
性悪!
﹁正確には婚約者
﹁候補?﹂
﹁そ。なんかね、歳が近いこともあって、そんな話が昔からあるん
1071
だ。あくまでも正式な話ではないから、候補﹂
﹁へぇ⋮﹂
婚約者⋮⋮。
﹁うーん⋮﹂
家に帰ってからも、なんだかずっとモヤモヤする。なに、この置
いてけぼり感。
私達はまだ高校生なのに、すでに結婚を現実として考えている同
級生がいるということに、地味に動揺している。特に円城は初等科
からずっと一緒だったから、なんだか複雑だ。
私にとって結婚なんて、遠い遠い先の将来の話としか考えられな
い。
﹁将来かぁ﹂
私はベッドの上をごろごろと転がった。
目先のことばかり考えて、将来のことをあまり真剣に考えていな
かったな。このままお父様とお兄様が頑張って没落を回避し、会社
を盛り立ててくれれば、私は家族を養う心配もせずにやりたいこと
をやれるわけだ。
しかしここで問題が。私には特にやりたいことが、ない。なんと
いう夢のない話!
でも子供の頃から培われた習性か、堅実な職業に就きたいという
思いが強い。間違ってもアイドル目指します!なんて夢は持たない。
公務員が理想だけど、吉祥院家の令嬢が地方公務員なんて、許して
1072
もらえなさそう⋮。今度堅実な職種を、いろいろ調べてみるか。
将来か⋮。
ちっ、円城のせいで重たい気分になっちゃったじゃないか。
次の日学校へ行くと、昇降口で鏑木が若葉ちゃんに話しかけてい
た。周りの目を少しは気にしろ、鏑木!
若葉ちゃんは私に気づくと、私があげた上靴をアピールするよう
に軽く跳ねて足をポンポンと前に出した。それを見て鏑木が﹁なん
だ高道、タップの練習か?﹂と言った。
ブレないバカに安心した。
週末、久しぶりに図書館に行く。ベアたん制作でしばらく来られ
なかったけれど、ナル君はいるかな∼。って、いた!
私は資格の本を手に、運良く空いていたナル君の隣の席に座った。
ナル君は問題集を解いていて私の熱い視線には気づいていない。
あぁ、どこか個人情報のわかるものはないか。
真横を向いてじろじろ眺めるわけにもいかないから、本を読むふ
りをしながら限界まで横目で見る。こんな時に横にも顔があったな
ら。今こそ出でよ、人面疽!
ペンを転がしてみようかな。少女マンガではこういうところから
恋のきっかけが生まれることがよくあるし。
いや、なにをやっているんだ、私。私が今日図書館に来たのは、
ナル君目当てなのは否定しないが、将来を考えるためにいろいろ調
べるためじゃないか。
将来の安定のためには、資格を取るのがいいんじゃないか?税理
1073
士、会計士、弁護士⋮。うーん、私にはムリそうだなぁ。私は通帳
を見るのは大好きだけど数字に弱いし、人の人生を背負う覚悟もな
い。さて、どうしたものかなぁ。福利厚生のしっかりした公務員が
ベストなんだけどなぁ。
すると隣に座るナル君が、クリアファイルからはさんであったプ
リント類を机に出し始めた。これは、個人情報ゲットのチャンス?!
必死で盗み見た学校のテストの問題らしきプリントに、国立付属
高校の名前があった。
その学校は、葵ちゃんと同じ!今度こそ運命か?!
というメールが届いていた。
さっそく葵ちゃんに連絡を取ろうと携帯を出すと、愛羅様から
雅哉に新しい恋?!
1074
164
愛羅様からのメールによると、鏑木がとある女の子に興味を示し
ているらしいとのこと。これは確実に若葉ちゃんのことだな。
どう返事をしていいかわからなかったので、とりあえずこっちは
保留。先に葵ちゃんにゲットしたナル君の名前を知っているかメー
ルをした。
隣で私が自分のことを調べているなんて全く知りもせず、ナル君
は真剣な顔で勉強をしている。前世の本物のナル君が勉強をしてい
る姿は見たことがなかったけど、きっと私の知らないところではこ
うやって勉強していたんだろうなぁ。
葵ちゃんからの返事はまだなかったので、私も真面目に本を読み
始めた。すこーしだけナル君のほうに椅子を近づけて。
そうなんですか?お相手は
家に帰って愛羅様に返信を打つ。若葉ちゃんの噂を私が積極的に
と惚けておいた。
吹聴しないほうがいいと思ったので、
誰でしょうね?
するとしばらくして愛羅様から電話がきた。
﹁麗華ちゃん、久しぶり。元気だった?﹂
﹁お久しぶりです、愛羅様!﹂
愛羅様も大学に入って忙しそうなので、こうして話すのも久しぶ
りだ。嬉しいな。今年は優理絵様も愛羅様も用事があって学園祭に
来られなかったので、クラスの出し物や手芸部の話などをした。
1075
﹁ところで、メールで言った雅哉の新たな恋なのだけどね﹂
﹁はい﹂
そもそも気が付いたのは優理絵様なんだそうだ。夏休み頃から鏑
木の様子が変わったと。
﹁この前も雅哉が優理絵の家に会いに来た時、普段雅哉が食べない
ような素朴な感じのケーキを持ってきたんですって。聞いたら同じ
瑞鸞に通う女の子の家のケーキだっていうじゃない?全種類食べた
なかで、雅哉が選んだ選りすぐりを買ってきたって自慢げにしてい
たそうなんだけど、ただそこのお店のケーキが好きってだけじゃあ
なさそうなのよねぇ。あいつは面白いヤツでとか、自転車に妙なシ
ールを貼ったりして変わっているとか、その女の子の話ばかりして
いたんですって﹂
鏑木は若葉ちゃんの家にも通っているのか?!ストーカー気質健
在だな。
そして若葉ちゃんの家のケーキを全種類制覇とは!ずるい!私だ
って若葉ちゃんの家のケーキを買いに行きたいのに!エクレア食べ
たい!
﹁考えてみれば、雅哉が優理絵を吹っ切ることができたのも、雅哉
なんだか雅哉が浮かれているの
って楽しそうだったけど﹂
の中に新しい恋が芽生えていたからなのかもしれないわねぇ。優理
絵は
﹁そうですか﹂
﹁私としては密かに麗華ちゃんを推していたんだけどなぁ﹂
﹁なにを言っているのですか、愛羅様﹂
不吉なことを言わないで欲しい。それは没落ルートと同義語だ。
1076
﹁麗華ちゃんは好きな人はいないの?﹂
﹁えっ!﹂
好きな人?!えーっと、今一番気になっているのは図書館のナル
君だけど⋮。
﹁特にはいませんわ﹂
﹁あら∼。寂しいわねぇ﹂
﹁愛羅様はいらっしゃるんですか?﹂
﹁どうかな∼﹂
むむっ、気になるじゃないか。素敵な愛羅様の好きになる人が万
が一にでも変な人だったら、絶対にイヤだ。
愛羅様からはそれ以外に、瑞鸞の大学に進んだ女子の先輩達の卒
業後の進路の話などを聞いた。愛羅様は働くつもりだそうだけど、
卒業と同時に結婚したり就職せずに花嫁修業と称して家にいる人も
多いそうだ。
そして地方公務員になった人はあまり聞かないらしい⋮。
鏑木のせいで若葉ちゃんへの風当たりが前以上に厳しくなったの
で、心配した同じ生徒会の同志当て馬が、若葉ちゃんのボディーガ
ードのように傍にいることが多くなった。そしてそれがさらに女子
達の反感を買った。
瑞鸞学院では高等科から週に一回選択授業で、華道、茶道、書道、
剣道、弓道のどれかを選び、授業を受けることになっている。
1077
これは主に高等科から入学してくる一般家庭の外部生のためとい
う意味合いが強い。
そしてそんな選択授業で、女子の大半は華道か茶道を選択し、私
は1年の時から茶道を選択している。私が華道を選択しなかったの
は、決して自分の生け花のセンスに自信がなかったからではない。
昔から私が習っている流派と選択授業の華道の流派が違ったからだ。
そうなのだ。
私は花鋏は蕨手しか使わないことに決めておりますの。ええ、そ
うですの。決して逃げたわけではありませんの。
私はやれば出来る子です。
若葉ちゃんはこの機会になるべくいろいろ経験したいと考えたの
か、毎年選択を変えている。去年は華道で今年が茶道だ。
でもなー、だったらせめて1年の時に茶道を選択して、2年で華
道にしておけばよかったのに⋮。茶道は毎年少しづつ習うお点前が
変わる。去年は袱紗の捌き方などを練習する基本から盆略手前まで
だった。盆略なら使うお道具も少ないので、失敗する確率も少しは
減っていると思う。でも2年でやる風炉手前は手順も増えてそれだ
け難しくなっている。いきなり基本をすっとばしてやれるもんじゃ
ない。教本を読み込んで手順を覚えてきていても、実際にやると勝
手が違う。
茶道の作法は面倒くさい。本当に細かい。畳を歩く歩数すら決ま
っている。あれは一朝一夕にできるものではない。
その点華道のほうが全然楽だ。基本の生け方さえ覚えておけば、
あとは自分のセンス次第。それに華道を選択すると、授業で生けた
花を持って帰ることも出来るからさらにお得。瑞鸞だから華やかで
高い花がバンバン用意されているしね。間違っても仏壇花みたいな
しょぼい花は出てこない。
でも今日は若葉ちゃんが亭主としてお点前をする日。どうか失敗
しませんように⋮。
1078
そう思っていたのに。
﹁⋮⋮っ?!﹂
若葉ちゃんが釜に乗せた柄杓が床に転がった!
あちこちから忍び笑いが聞こえてくる。若葉ちゃんは顔を赤くし
てすみませんとペコペコ謝りながら、先生から柄杓をもう一度拭き
直させられていた。
あぁっ、わかるよ若葉ちゃん!若葉ちゃんの今のつらい気持ち、
私には痛いほどわかる!私も昔、茶席で懐紙に取ったお菓子を落と
して、コロコロコローッと畳の上を転がしたことがある!いやぁ、
あの時は本当によく転がったよ。丸かったから勢いついたのかな。
おむすびころりんなみの転がり方だった。手を伸ばした時にはすで
に届かない距離まで転がっていってたよ。あの時の、いっそこのま
ま記憶を失いたいと現実逃避した気持ち、今でも忘れていないよ。
貧血を起こしたフリをしてその場に倒れてしまおうかと、真剣に悩
んだ。うっ⋮、思い出すだけで胃がっ!
あれ以来、丸いお茶菓子が出てくるとドキドキする。だいたいな
んで懐紙なんて安定感の悪い物で食べなきゃいけないんだ。お皿持
ってこい!お皿!
﹁やっぱりお育ちが⋮﹂
﹁ねぇ、みっともない⋮﹂
ここぞとばかりに若葉ちゃんをバカにした声が聞こえる。あぁっ、
どうしよう⋮。
﹁あ、あの、このお菓子、もしかしたら山茶花かしら?﹂
苦肉の策でひねり出した言葉に、先生が食いついてくれた。
1079
﹁まぁ、吉祥院さん。よくおわかりになりましたわね。椿と間違わ
れやすいのですけど、今日のお菓子は山茶花を模した物ですのよ﹂
みんなの気がお菓子に逸れた!今だ、若葉ちゃん!どんどん進め
ちゃって!って、若葉ちゃんまで感心したように頷いている場合じ
ゃない!
たどたどしく何度も先生に注意されながらも、若葉ちゃんのお点
前は無事終了した。みんなの見ている前で失敗して笑われて、落ち
込んでいるんじゃないかなと様子を見ていたら、先生に頑張ったご
褒美にと余ったお菓子をこっそりもらって喜んでいた。うん、さす
がだね⋮。
今日は久しぶりに三原さんと皇居を走ることになった。髪をポニ
ーテールにして気合充分!頑張るぞー!
自分でいうのもなんだけど、夏休みに走った時よりはだいぶ成長
したと思う。体力もついてきたしね。
ぜいぜい、はあはあ。
皇居沿いを走る私達の横に、フライングレディを従えた、白い迫
力のある車が止まった。
なにごとかと思う前に、三原さんが私を庇うようにサッと前に出
た。そういえば三原さんの本来の仕事は私の護衛だったな。
なんだろう、怖い人に因縁つけられるのかな。応援呼んだほうが
いいかな。
すると、スーッと後部座席の窓が開き、中から顔を出したのは鏑
木だった。
1080
﹁やっぱりお前か﹂
﹁鏑木様!﹂
迫力満点の車の主は皇帝鏑木だった。
もしかしてこの車で自転車に乗った若葉ちゃんを轢いたのか?よ
く若葉ちゃん軽傷で済んだな。しかし轢いた相手がこんな威圧感の
塊のような車だったら、そりゃあ高道家の人々も慰謝料を断る。こ
れはカタギの乗る車じゃない⋮。
﹁こんなところでなにをやっているんだ?﹂
﹁なにって、見ての通り、ジョギングですわ﹂
走っていたせいで息が切れる。長く話をさせんな、苦しいから。
でもなにをやっているって見ればわかるでしょうよ。本当に残念
でバカだなー、鏑木は。
﹁ジョギング?その場でずっと足踏みしているようにしか見えなか
ったぞ。歩行者にも抜かされていたじゃないか。妙なのがいると思
って見ていたら、お前だった﹂
なんだとーーっ!
なにが足踏みだ!ちゃんと前に進んでるっての!むかつく!むか
つく!むかつく!
あんたは、思慮とか気配りとかデリカシーとかが決定的に足りな
いんだよっ!
﹁ヘアスタイルはジャマイカっぽいのに残念なヤツだな。まぁ、精
々頑張れ。じゃあな﹂
そうして言いたい放題言うと、わなわな震える私を残し、動くパ
1081
ルテノン神殿は去って行った。
﹁⋮お嬢さん、自分のペースで走ればいいんですよ?﹂
失恋しろ、鏑木。失恋してしまえ!そしてまた、旅人になるがよ
い!
私は見えなくなった車に呪いをかけた。
1082
165
葵ちゃんからメールがきた。数日前の返信ではナル君の名前は知
らないとあったんだけど、でも少し調べてみるねと請け負ってくれ
て、今日はその結果、3年生に確かにいたというお知らせだ。わざ
わざ調べてくれてありがとう、葵ちゃん!
3年生か。私が横目で必死に見た情報では、学校名と氏名までは
かろうじて見えたんだけど、学年とクラスまではチェックしきれな
かったんだよね。うふふ、一歩前進。
実は私も麗華
と書いてあった。相談?私に葵ちゃんが
その葵ちゃんのメールには、ナル君情報のほかに
ちゃんに相談があるんだ
?なんだろう。
私よりよっぽどしっかりしている葵ちゃんが私に相談なんて滅多
にない。これは友達として全力で相談に乗らねば!
どうせだったら会って話をしたほうがいいかなと思って、さっそ
くお互いの空いている放課後に待ち合わせの約束をした。
約束のカフェの近くに着くと、私は車を降りて少しの距離をお店
まで歩いた。やっぱり立冬を過ぎるとだんだんと寒くなってきたな
ぁ。私は車通学だからあまり寒暖に左右されないけど、電車通学し
ている若葉ちゃんのような子達はこれから大変だ。前世の私は真冬
はストッキング2枚重ねに背中にカイロを貼って通ったもの。スト
ッキングを2枚履くと繊維が擦れて木目模様が出るから変なんだけ
ど、真冬のスカートは寒いんだから背に腹は代えられない。あの頃
は毎年、冬になると防寒対策が大変だったなぁ。今年は雪が降った
ら若葉ちゃんどうするんだろう。長靴にはNG出されちゃったし⋮。
などとつらつら考えながら歩いていたら、待ち合わせのカフェに
1083
着いた。お店を覗くとすでに葵ちゃんは到着していた。
﹁葵ちゃん、お待たせ!﹂
﹁麗華ちゃん!﹂
私が声を掛けると、携帯をいじっていた葵ちゃんが顔を上げて笑
顔で迎えてくれた。あぁ、癒し系⋮。私はアップルシナモンティー
を注文した。
﹁どうしたの、葵ちゃん。私に相談なんて﹂
﹁うん。あのね、瑞鸞に通う2年生の男子についてなんだけど⋮﹂
そう言って若葉ちゃんはとある男子生徒の名前を出した。
﹁麗華ちゃん、知ってる?﹂
﹁ごめんなさい、私あまり男子の名前は知らなくて。同じクラスに
なっていたら覚えているのだけど⋮﹂
う∼ん、その名前には心当たりがない。今まで同じクラスにはな
っていないよねぇ、たぶん。
﹁それで、その男子がどうかしたの?﹂
﹁うん、実は⋮、ちょっとしつこくされてて⋮﹂
﹁えっ﹂
その瑞鸞の男子生徒と若葉ちゃんは同じ塾に通っているそうだ。
そして夏期講習で一緒になったあたりから付き合ってほしいと何度
も言われ、断ってもしつこく言い寄られて困っているという⋮。
﹁そんなことが⋮﹂
1084
﹁うん。困るって言ってるんだけど、帰りに待ち伏せされたり⋮﹂
﹁待ち伏せ!それは怖いわね﹂
﹁うん⋮﹂
でもなぁ、恋する気持ちが溢れちゃったがゆえの行動ともいえる
しなぁ⋮。こっそりナル君の個人情報を葵ちゃんに調べてもらおう
としている私に、大きなことは言えない。正面から堂々といってい
るその男子のほうが、私より潔いかも。
﹁その子と付き合う気持ちは、葵ちゃんにはないんだ?﹂
﹁それはないかな。だって私、付き合っている人いるし﹂
﹁えっ!!﹂
葵ちゃんが今、サラッと大変なことを言った!
﹁葵ちゃん、彼氏いるの?!﹂
﹁うん、いるよ﹂
﹁ええっ!﹂
聞いてない!そんな話、私聞いてないよ!葵ちゃん!
﹁いつから!﹂
﹁え、夏休み前くらいからかなぁ﹂
﹁ええっ!﹂
夏休みに会ったよね?私達!なんでそんな重大な話を教えてくれ
なかったの!ショック!大ショック!
﹁全然知らなかったけど、私⋮﹂
﹁あ∼、あえて話すようなことでもないかな∼と思って。それに麗
1085
華ちゃんはあまり恋愛には興味がなさそうだったから﹂
あるよ!むしろ私の頭の中は恋愛問題が大半を占めているよ!図
書館で見かけるだけの見知らぬ男の子にプチストーカーしちゃうく
らいあるよ!でもきっと今年のクリスマスも村長はひとりだよ!
﹁それで!葵ちゃんの彼はどんな人なの?﹂
﹁同じテニス部でね、2年になってから一緒に帰ったりするように
なったんだ。それで告白されて付き合うようになったんだけど﹂
﹁へー﹂
私の前世からの憧れ、制服デート。国立付属校で勉強も頑張って、
テニス部で楽しく汗を流し、その上彼氏までいるなんて、葵ちゃん
はずいぶんと充実した高校生ライフを過ごしているんだね。
私は後輩の南君以外全員女子の手芸部に所属し、男子で仲良くし
ているのは唯一乙女結社の子達だけ。彼氏どころか告白すらされた
ことのない、木枯らしぴゅ∼ぴゅ∼のお寒い毎日を過ごしておりま
すがね。
﹁なんか麗華ちゃん、顔が能面みたいになっちゃってるけど⋮﹂
﹁気のせいだよ、葵ちゃん﹂
そうだ、友達が幸せなのはいいことじゃないか。心を広く持て、
私!
﹁とにかく、その男子に葵ちゃんは困っているというわけね﹂
﹁うん。彼氏がいるからって言っても諦めてくれないんだ⋮﹂
﹁へー﹂
だったらその彼氏に守ってもらえばいいじゃんなんて、やさぐれ
1086
た気持ちになっちゃダメだ、私!葵ちゃんは大事な友達なんだから!
﹁わかったわ。私がその子をなんとかしましょう﹂
﹁えっ、本当?!でも麗華ちゃん、大丈夫?﹂
瑞鸞での私の立場を知らない葵ちゃんが心配してくれたけど、も
ちろん大丈夫です。
でもまずは、相手を知ることから始めないとね。恋する純情男子
の心を傷つけないように。
と考えていたけれど、葵ちゃんにちょっかいをかけている男子は、
若葉ちゃんを攻撃している男子達の急先鋒のひとりだった。
若葉ちゃんを苛めているのは女子だけではない。男子の一部は若
葉ちゃんの成績を妬んで嫌がらせをしている。
これは断罪決定でしょうか。
放課後にでも問題の男子に会いに行ってみようと考えていたら、
にわかに外が騒がしくなった。
﹁麗華様、鏑木様が高道さんと一緒に登校してきました!﹂
﹁まぁ、また?﹂
教室で仲のいい子達とおしゃべりをしていたら、同じグループの
子が駆け込んで報告してきた。
﹁前にも偶然門の前で会って、そのまま一緒に登校したことがあり
ましたわよね。そんなに騒ぎたてなくても⋮﹂
﹁今回は違うんです!鏑木様の車に高道さんも一緒に乗って来たん
です!﹂
1087
﹁ええっ!﹂
それはさすがに驚く。なんで若葉ちゃんが鏑木の車に?!
﹁どういうことでしょう?!﹂
﹁さぁ⋮﹂
まさか朝から家まで迎えに行っちゃったなんてことは、さすがに
ないよね?でもあの鏑木ならあり得る⋮。
ほかのみんなと一緒に廊下を覗くと、機嫌良さげに話す鏑木と、
若干困った顔の若葉ちゃんが歩いてきた。
視線がレーザービームなら、今頃若葉ちゃんは丸焦げだ。
﹁雅哉﹂
先に登校していた円城が現れた。
﹁おお、秀介おはよう!もう来てたのか﹂
﹁おはよう、雅哉。高道さんもおはよう﹂
﹁おはようございます﹂
﹁どうしたの、今日はふたりして﹂
円城がその場にいる全員が一番知りたいことを聞いてくれた。
﹁あぁ、たまたま外を歩いている高道を見かけてな。雨が強かった
から乗って行くように言ったんだ﹂
﹁へぇ、そうなんだ﹂
若葉ちゃんはあははと誤魔化すように笑っていたけれど、あの様
子だと確実に強引に乗せられたな。
1088
廊下に出てきていた蔓花さん達は、完全に殺し屋の目だった││。
あの単細胞がーっ!!
殺し屋達は、お昼に行動を開始した。
1089
166
バカで単細胞で考えなしの鏑木のせいで、蔓花さん達は完全に若
葉ちゃんに対して臨戦態勢に入った。
お昼休みにいつものお友達と食堂でランチを食べていたら、ずい
ぶん時間が経った頃、若葉ちゃんがジャージ姿で入ってきた。よく
見ると髪も濡れている?
若葉ちゃんは手近な席に着くとお弁当を取り出し、残り時間を気
にして急いで食べ始めた。
﹁なに、あれ﹂
﹁さぁ?あの人、変わっているから﹂
白い制服の中にひとりジャージ姿の若葉ちゃんは悪目立ちだ。あ
ちこちでヒソヒソと噂をされていた。
周囲に目をやると、若葉ちゃんを見ながら楽しそうに嗤う蔓花さ
ん達を見つけた。もしかして、なにかされた?
ジャージ姿の若葉ちゃんは、ピヴォワーヌ専用席からでもすぐに
目についたようで、鏑木が立ちあがって若葉ちゃんの元にやってき
た。
﹁高道、その恰好はどうした﹂
食堂がザワッと騒いだ。
皇帝が公衆の面前で女子生徒に話しかける。しかも相手は最近な
にかと噂の若葉ちゃん。食堂にいるほとんどの生徒の目がふたりに
向けられ、その会話に聞き耳をたてた。
若葉ちゃんは口に入れたお弁当をもぐもぐと咀嚼し飲み込むと、
1090
﹁制服が濡れちゃったので着替えました﹂と答えた。
﹁濡れた?どうして﹂
鏑木が眉をひそめた。
﹁ちょっと外に出たので﹂
﹁外にって、この雨の中をか?傘も差さずに?﹂
思わず私も窓の外を見ると、朝からの雨は今もザアザアと強く降
り続いていた。
﹁はあ、まぁ﹂
﹁なにをやってるんだ、お前は﹂
﹁すみません﹂
若葉ちゃんはぺこりと頭を下げた。
﹁で、どうしてこんな雨の中、外に出たりしたんだ﹂
皇帝のその言葉に、蔓花さん達が少し動揺したのが見えた。
﹁あー、ちょっと用事があって⋮﹂
﹁だから、なんの﹂
若葉ちゃんがう∼んと言いながら、視線をきょろきょろと泳がせ
た。どうやら鏑木に本当のことを言うつもりはないらしい。
そこへ若葉ちゃんを心配した同志当て馬が席を立ってやってきた。
﹁高道、大丈夫か﹂
1091
﹁水崎君﹂
鏑木は同志当て馬の登場に少しだけムッとした顔をした。
﹁なんだ、水崎。高道は今、俺と話をしている﹂
﹁見ればわかる。食堂中の注目の的だからな。少しは自分の立場と
周りの目を気にしろ。高道が困っているのがなぜわからない﹂
﹁あ?﹂
鏑木が同志当て馬を睨みつけ、同志も強い目でそれを受けた。頭
お弁当を食べる時間が
の上で火花を散らせているふたりを、おろおろと手で止めようとし
ている若葉ちゃんの顔には、はっきりと
と書いてあった。
成り行きを見かねた円城が割って入り、ふたりを止めると、なん
とか事態は収まった。が、そこで無情にも予鈴が鳴った。
若葉ちゃんは最後の悪足掻きのように口いっぱいに煮物を詰め込
むと、そっとお弁当の蓋を閉めた。
鏑木は円城に連れられ食堂を後にし、若葉ちゃんは同志当て馬と
一緒に出ようとしたその時、後ろから取り巻きを連れたピヴォワー
ヌの会長が声をかけた。
﹁高道さん、貴女には瑞鸞の制服よりもジャージのほうがお似合い
だけど、よもやその姿で帰ろうなんて非常識なことは思っていない
でしょうね。そんなみっともない真似だけは絶対にやめてちょうだ
いね﹂
会長は若葉ちゃんに冷たい視線をくれると、ツンッと顔を逸らし
て去って行った。
1092
くすくすと笑う女子達に混じり、﹁ざまーみろ﹂﹁あいつマジ目
障りなんだよ﹂﹁もっとやれ﹂という悪意ある男子の声も聞こえた。
振り返るとその男子達の中に、例の葵ちゃんを好きな男子が、嫌な
笑いを浮かべて若葉ちゃんの悪口を言っていた。
これは確かに葵ちゃんにはふさわしくないね。
放課後、私は一度サロンに行き、目的の物を手に入れるとすぐに
2年の教室に引き返してきた。
葵ちゃんにしつこくしている男子は、同志当て馬と同じクラスだ
った。
私が彼を廊下に呼び出すと、それに気づいた同志がこちらを注視
し、さりげなく会話が聞こえる位置まで移動してきた。いやだわ、
水崎君たら。心配しなくても、言われた通り扇子は家に置いてきて
いますとも。
﹁あの、なんですか﹂
件の男子は突然の呼び出しに困惑を隠せない。
ふーん、さっき若葉ちゃんの悪口を言っていた時とはずいぶん態
度が違うね。聞くところによると行きたい学部があるのに成績が足
りないので、成績上位の若葉ちゃんを妬んで足を引っ張ろうといろ
いろやっているらしい。
﹁実は、私のお友達のことなんですけど﹂
﹁吉祥院さんの、友達ですか?﹂
﹁ええ、私のお友達。名前は頼野葵さんというのだけど﹂
﹁えっ、頼野⋮?!﹂
1093
男子の顔がサッと青ざめた。人間ってこんなに一瞬で顔色って変
わるものなんだな。
﹁⋮⋮それで、あの、僕になにか⋮?﹂
﹁おわかりにならない?﹂
﹁え⋮﹂
私は手に持っていた赤い牡丹の花をタクトのように目の前で振っ
て見せた。男子が顔を引き攣らせ一歩退いた。
﹁大切なお友達が困っていると、私も哀しくなってしまうの。哀し
くて、自分でもなにをするかわからないわ。ですから⋮﹂
私は牡丹の花を喉元に突き付けた。
﹁引いてくださるわね?﹂
﹁⋮っ、はいっ!﹂
男子は直立不動の姿勢になった。私はにっこり頷いた。
﹁それと、ご自分より成績のいい女子を妬むのは、瑞鸞の男子生徒
としてあまりよろしくないと思いますわよ?﹂
私は牡丹の花を振って、逃げるように教室に戻る男子を見送った。
よし、任務完了、と。あとで葵ちゃんにメール打っておかないと
ね。
﹁今のはなんの話だ﹂
陰から聞いていた同志当て馬が出てきた。
1094
﹁彼が私のお友達を好きになって、少ししつこくし過ぎているので、
その子が困って私に相談してきたんですの﹂
﹁なるほどな⋮。でも吉祥院、それは扇子よりもタチが悪いだろ﹂
同志当て馬は額に手を当て、ため息をつきながら私の持つ牡丹の
花を指差した。
﹁とにかくその兵器をどうにかしろ。ピヴォワーヌが持つ牡丹の花
なんて、リーサルウエポンじゃないか﹂
どうにかしろって言われても∼。
部活に向かうためタイミング悪く通りがかったサッカー部部長が
私を見てひいっと悲鳴をあげたので、部活頑張って!という意味を
込めて牡丹の花をプレゼントした。触れた指先が氷のように冷たか
ったけど、体調が悪いのかしら?
﹁サッカー部のエースを再起不能にする気か!﹂
まさか。私は善意の塊なのに。
駐車場に行くと、またもや鏑木に強引に車に乗せられる若葉ちゃ
んの姿があった。あれはすでに拉致の域だろ。なにやってんだ、鏑
木。
1095
167
私は次の週末に、ケーキを買うという名目で若葉ちゃんの家を訪
ねてみた。
お店に入ると私を覚えていてくれた若葉ちゃんのお母さんが、笑
顔で迎えてくれた。
﹁まぁまぁ、いらっしゃい!﹂
﹁こんにちは。先日はお世話になりました﹂
﹁とんでもない!こちらこそ、この前はおいしい紅茶とコーヒーを
わざわざ贈ってくれてありがとうね。今日は若葉に会いに来てくれ
たの?﹂
﹁はい、でもケーキもいただきたくて。先日こちらで求めたケーキ
がとってもおいしかったものですから﹂
﹁そぅお?瑞鸞のお嬢様の口には合わなかったんじゃないかって、
おばさん少し心配だったんだけど﹂
﹁そんなことありません。ふんわり甘いのにくどくなくて、何個で
も食べられそうでした﹂
実際、家ではいっぺんに2個もぺろりと完食した。時間を置いて
残りも食べた。おいしかったなぁ⋮。今日はどのケーキを買って帰
ろう?
﹁そう言ってもらえると嬉しいわ。若葉はバイトに行っていてまだ
帰っていないの。でももうすぐ帰ってくると思うから、中で待って
て﹂
﹁えっ、それは申し訳ないので帰ります。元々約束もせずに来てし
まった私が悪いのですから。それに今日はケーキが一番の目的です
1096
し﹂
﹁あら、ケーキなんてあとでいいじゃない。それともこれから用事
があるの?﹂
﹁いえ、特には⋮﹂
恋愛ぼっち村村長の私には、休日なのになんの予定も約束もあり
ません。
﹁だったら寄ってって!せっかく遊びに来てくれたんだもの、遠慮
しないで。若葉ならすぐ帰ってくるから。ね!﹂
﹁でも⋮﹂
﹁いいから、いいから﹂
若葉ちゃんのお母さんはショーケースの向こうから出てくると、
もうひとりのカウンター業務の人に﹁ちょっとお願いね∼﹂と頼み、
私の手を取って半ば強引に家に連れて行ってしまった。
その時目の端に映った、お店に角にドーンッと鎮座するやけに立
派なフラワーアレンジメントに、嫌な予感がした。
﹁吉祥院さんだったわよねぇ?どうぞ、どうぞ。ここに座って!﹂
若葉ちゃんのお母さんは私をソファに座らせると、紅茶まで出し
てくれた。
﹁すみません。約束もなしに急に訪ねて来てしまったのに⋮﹂
﹁いいのよぉ。若葉の学校のお友達がわざわざ遊びに来てくれたん
だもの。そうだ!若葉が寄り道しないように、先にメールしておく
1097
ね﹂
﹁本当に申し訳ありません﹂
私はペコペコと頭を下げた。
世の中、私のように暇な休日を過ごしている人間ばかりではない
のだ。アポなしで突然来た私が全面的に悪い。でも今回は若葉ちゃ
んの家のケーキを食べたかったのと、ケーキを買いに行ったついで
に若葉ちゃんにも会えたらいいなという気持ちだったのだ。
﹁あの、これ、もしよろしければ﹂
私は手に持っていたかりんとうの詰め合わせを差し出した。
﹁えっ、なあに?やだ、気を使ってくれなくていいのに。でもあり
がとうね。まぁ、かりんとう?可愛いわねぇ﹂
ここのかりんとうは梅や唐辛子などいろいろな味があって、さら
に可愛い和袋に小分けされているので、見た目もいい。私のお気に
入りだ。それに和菓子ならケーキ屋さんを営む若葉ちゃんの家への
手土産にしても失礼にならないかなと思って。
﹁うちの悪ガキ達に見つかっちゃうとあっという間に食べられちゃ
うから、おばさん大事に隠しておかないと﹂
﹁ふふっ﹂
若葉ちゃんのお母さんはおどけるように紙袋を抱えた。いいなぁ、
このノリ。前世のお母さんを思い出すよ。
﹁若葉のバイトは2時までなの。だからもうすぐ帰ってくると思う
んだけど﹂
1098
﹁そうなんですか﹂
時計を見るともう2時半だ。
﹁若葉の学校での様子はどう?あの子、瑞鸞みたいな学校でちゃん
とやっていけてるのかしら﹂
うっ、痛いところを突かれた。きっとお母さんは若葉ちゃんが瑞
鸞でつらい目に合っていることを知らないのだろう。
﹁ええ。高道さんは成績がとにかく良くて。今度生徒会の役員にも
なったんですよ。その生徒会の人達と仲がいいみたいです﹂
﹁そうなの。上手くやっていけているなら良かったわ﹂
ホッとしたように笑うお母さんに、胸が痛んだ。
そこへ﹁ただいまー!﹂という若葉ちゃんの声が聞こえた。
﹁吉祥院さんが来てるんだって?﹂
バタバタと足音を立ててリビングに入ってきた若葉ちゃんは、ソ
ファに座る私を見て、マフラーを外しながら﹁いらっしゃい﹂と笑
った。
﹁お帰り、若葉﹂
﹁お帰りなさい。お留守の間にお邪魔して、ごめんなさい﹂
﹁ただいまー﹂
若葉ちゃんのお母さんが﹁じゃあ私は店に戻るね﹂と席を立った
ので、私はもう一度お礼を言った。
1099
﹁吉祥院さん、今日はどうしたの?なにか用事?﹂
﹁いえ⋮。この前のケーキがとてもおいしかったので、また食べた
いと思いまして。もしその時に高道さんにも会えたらな∼、と﹂
﹁そうなんだ。待たせちゃってごめんね﹂
﹁いえ、こちらこそ。勝手に上がらせていただいて⋮。でも高道さ
ん、バイトなさっていたのね?﹂
﹁え、ああ、うん。ファミレスで休日のランチだけやってるんだ。
前に吉祥院さんと会った時も、バイトの帰りだったんだよ﹂
﹁そうでしたの﹂
あの、私がいか焼きにかぶりついていた時か。
﹁あ∼、お昼まだだからおなか空いちゃった。私、カレー食べるけ
ど、吉祥院さんもお昼まだなら食べる?﹂
﹁いえ、私は大丈夫ですわ﹂
﹁そう?﹂
若葉ちゃんはキッチンに立ち、お鍋を温め始めた。すぐに漂って
くる食欲をそそるカレーの匂い。う⋮、おなかが⋮。
若葉ちゃんはお皿を出して炊飯ジャーからごはんをよそい、そこ
にカレーをかけた。はうっ、おいしそう。
﹁吉祥院さんも一口くらいは食べる?﹂
一口⋮。一口なら図々しくないかな。
﹁では、せっかくですから一口だけ⋮﹂
﹁オッケー﹂
若葉ちゃんがダイニングテーブルにふたりぶんのカレーを用意し
1100
てくれた。
﹁いただきまーす﹂
﹁いただきます﹂
ゴロっとしたじゃがいもやニンジン入りで、市販のカレールーを
使った懐かしの家庭カレーだ。スプーンで掬って食べる。おいしい
っ!
﹁おいしいですわ﹂
﹁一晩寝かせたからねー。あー、労働の後のごはんはおいしいっ!﹂
私達はニコニコと笑いながらカレーを食べた。
﹁でもバイトは瑞鸞では禁止のはずですから、大っぴらには言わな
い方がいいと思いますわ﹂
﹁あ、そうだね。気を付ける!﹂
本当に気を付けないと。こんなことを敵方に知られたら大変だ。
﹁そういえば、上靴のことなんだけど、改めてありがとうございま
した。おかげで助かっちゃった。あの汚れた靴、やっぱり洗っても
落ちなかったんだ﹂
﹁そうですか。気にしないでくださいな。あの靴は今後履く予定は
なかったのですから﹂
捨てるのも忍びないし、かと言って履きたくないしで、むしろ引
き取ってもらえてありがたいくらいだ。
﹁ところで高道さん、先日のことなんですけど⋮﹂
1101
凄く聞きにくいけど、私は雨の日のジャージ事件を切り出した。
﹁あれって、蔓花さん達になにかされたんですよね?﹂
﹁え、う∼ん⋮﹂
若葉ちゃんは困った顔をした。
あの日、帰りには若葉ちゃんは制服に着替えていたから、食堂で
言っていた通り濡れただけなんだと思うけど、絶対に蔓花さん達が
噛んでいるはずだ。でもそれとなく周りに聞いても、私のところま
では真相が入ってこなかった。
﹁高道さん?﹂
﹁えっと、お昼に1階の非常口に呼び出されて、いろいろ言われて、
そのまま外に締め出されちゃったんだ。非常ドアには鍵が掛けられ
ちゃったから、そのまま走って玄関まで回ったの。でも雨が凄かっ
たからびしょ濡れになっちゃったんだー﹂
﹁そうだったんですか⋮﹂
最悪バケツの水でも掛けられたかと思ったんだけど。でも11月
の肌寒い雨の中、外に締め出すなんて酷すぎる。
﹁これ、一応誰にも言っていないんで、内緒ね?﹂
﹁内緒って⋮。きちんと抗議したほうがいいんじゃありません?生
徒会長の水崎君に相談するとか﹂
﹁水崎君かぁ。水崎君にもずいぶん聞かれたんだけどねー。でもあ
まり事を荒立てたくないんだ﹂
﹁でも⋮﹂
﹁大丈夫だよ。たいした被害じゃないから﹂
1102
いや、なかなかの被害だと思うよ。
﹁あのね、高道さん﹂
﹁なに?﹂
﹁もし、高道さんが今の状況がつらかったら、私が蔓花さん達に言
っても、いいのよ?﹂
本当は中等科の時と違って、勢力をさらに拡大させた蔓花さん達
に私が確実に勝てるかはわからない。老舗は新興にちょっぴり押さ
れつつあります。
﹁ええっ!いいよぉ。吉祥院さんにそんな迷惑はかけられない。平
気、平気﹂
﹁でも⋮﹂
﹁心配してくれたんだ?ありがとう﹂
にぱっと若葉ちゃんは笑った。
﹁鏑木様がもう少し考えた行動を取ってくれたらいいのですけど⋮﹂
君
?﹂
﹁あはは。鏑木君も面白い人だね﹂
﹁鏑木
水崎を君付けで呼ぶなら、俺もそう呼べ
あ、と若葉ちゃんが口を押さえた。
﹁えーっと、鏑木様に
と言われてしまって⋮﹂
鏑木⋮、なんて子供なんだ。私が顔を歪ませたのを誤解したのか、
若葉ちゃんが﹁ごめんなさい﹂と謝ってきた。
1103
﹁鏑木様とのこと、不愉快ですよね?﹂
﹁え、いえ別に。高道さんが大変だなと思ってはおりますけど﹂
﹁あれ⋮?でも、その、好き、なのでは?﹂
﹁は?誰が、誰をですか?まさか私が鏑木様を?それはないですわ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁ないっ!﹂
大事なことなのではっきりと答えた。
﹁そうなんだ。噂ではそんなことを聞いていたから⋮﹂
﹁噂など、当てにならないものですわ﹂
﹁そうなのかー﹂
若葉ちゃんは感心したように頷いた。
﹁ところで、お店にあった豪華なお花ですけれど、もしかして⋮﹂
﹁あっ!気づいた?うん、あれ、鏑木君にもらったんだ。この前ケ
ーキを買いに来てくれて⋮﹂
﹁まぁ!﹂
あいつ、やっぱり若葉ちゃんの家のケーキ屋さんに通っていたか
!私より先に、ケーキ全種類制覇を成し遂げた憎きヤツ。
﹁ちなみにお家にあげたりとかは⋮﹂
﹁ううん、それはないよ。自転車事故の時は何度かあがってもらっ
たけど﹂
ふっ、勝ったな。私はこうしてカレーまで振る舞われている。
﹁あの、私もまた、ケーキを買いに来ていいかしら?﹂
1104
﹁もちろん!大歓迎だよ!﹂
﹁それと私のことは鏑木様には内緒に⋮﹂
﹁あはは、またふたりの秘密だね。オッケー﹂
そのまま若葉ちゃんとアドレス交換までして、私はケーキをお土
産に鼻歌を歌いながら家路に着いた。
メールの着信があったので開いてみると、梅若君から七五三の赤
い晴れ着を着たベアトリーチェの画像が送られてきていた。
晴れ着姿のベアトリーチェの横には、しっかりと例の千歳飴の袋
も置いてある。立派に七五三だ。犬用の着物なんてあるんだね。は
うん、うん、似
っ、まさか犬バカ君の手作り?!いや、まさかね。
ベアたんの3歳のお祝いだよ!似合うでしょ!
合う似合う。
もう一枚の画像には、私があげたベアたんぬいぐるみが同じ晴れ
着を着て写っていた。
どうやら梅若君は、実子と養子の区別なく大切にする素晴らしい
人柄の持ち主らしい。
しかし、七五三か。このぶんだと、確実にベアトリーチェ用のお
雛様もあるに違いない。
犬バカ君とベアトリーチェに幸あれ!
1105
168
葵ちゃんから、あのしつこかった瑞鸞の男子が、塾ですっかり葵
ちゃんを避けるようになったと報告があった。﹁何度言っても諦め
てくれなかったのに、麗華ちゃん凄い!いったいどうやったの?﹂
と聞かれたけれど、ちょっとお話をしただけなんですよ?
若葉ちゃんへの嫌がらせもやめたようだし、改心してくれて良か
ったよ。ひとの成績を妬む前に、自力で順位を上げる努力をするべ
きだね、うん。
なんて私も他人事のように言っている場合じゃない。もうすぐ期
末テストだ。ぎりぎりで順位表にしがみついている私としては、必
死で頑張らないと。常に成績上位の若葉ちゃんは、いったいどんな
勉強の仕方をしているのかなぁ。
と、テスト勉強に一直線の決意をしたのに、吉祥院家の会社のパ
ーティーにどうしても出るようにとお父様達に言われてしまった。
私はまだ未成年の高校生だから、企業のパーティーにはなるべく
出たくないと常々言っているのだけれど、今回は自社の会長の娘と
して顔を出さないわけにはいかないらしい。うえ∼。
張り切ったお母様にパーティーのためのドレス選びに引っ張り出
されたり、エステだヘアサロンだと放り込まれるので、テスト勉強
をする時間がない。まずい、非常にまずい。
こうなったら睡眠時間を少し削ってでも勉強するしかないか。う
がーっ!
1106
それでも学校では、私は特にガリガリ勉強なんてしていませんの
よというポーズを取っているので、休み時間は参考書を開くような
こともせず、お友達と楽しくおしゃべり。
﹁知ってます?鏑木様は円城様のクラスに毎日顔を出されているん
ですって﹂
﹁聞いているわ。それで毎回高道さんに声を掛けているんでしょう
?鏑木様ったらどういうおつもりなのかしら﹂
﹁ただの気まぐれだとは思うけど⋮﹂
﹁ねぇ?﹂
鏑木が若葉ちゃんを好きだというのは、ほぼ間違いないな。みん
なも内心ではそう思っているのだろうけど、認めたくはないらしい。
蔓花さん達以外の女子達からも目の敵にされている若葉ちゃんは、
今もあちこちでチクチクいびられているけれど、鏑木の目を気にし
てそこまであからさまなものはあまりない。
だからなのか、君ドルではとっくに皇帝と若葉ちゃんはドキドキ
わくわくの恋愛展開になっていたのに、こちらではいまひとつ進展
していない。
やっぱりマンガの吉祥院麗華のような明確な障害がないと話が進
まないのかなぁ。だからといって私がその役を買って出るようなこ
とは、絶対にしないけどね。障害なんかなくたって、自分達でどう
にかして欲しい。
でもそれ以外にも、鏑木や若葉ちゃんがマンガとはずいぶん違う
ということも関係していると思う。
君ドルの鏑木はもっと大人で普段はクールだけど若葉ちゃんには
情熱的という、乙女心をくすぐるキャラクターだったのに、どこを
どう間違って体育祭バカのお子ちゃま皇帝が出来上がってしまった
んだか。
1107
若葉ちゃんだって⋮、マンガではもう少し普通だった⋮。気が付
くと口をぽけーっと開いていたり、長靴を履いて登校したり、瑞鸞
の森で山菜摘んだり、ましてやいじめを全く気にしない鋼の精神の
持ち主なんかじゃ絶対になかった。読者が感情移入しちゃうような、
健気で一生懸命な頑張り屋さんだった。いや、もちろん今の若葉ち
ゃんも頑張っているのはわかっているんだけどさー。
でもあの若葉ちゃんは、私の知っている若葉ちゃんとは完全な別
物だと思わざるを得ない。
本当に、どうするんだかねー。
テスト前なので手芸部はお休み。でもピヴォワーヌのサロンには
顔を出さないといけない。あぁ、付き合いって大変。
会長とその一派は最近、なにやら難しい顔でよく話し合っている。
その話の内容はなんなのだろうね。怖いなぁ⋮。でも若葉ちゃんや
生徒会絡みの気がするんだよなぁ。触らぬ神に祟りなし。私はなに
も見ないし、聞かない。目の前のお菓子のことしか頭にありません
とも。
今日のお菓子はシャルロット・オ・ポンムだ。林檎のほのかな酸
味がおいしい。私はアップルパイが好きだけど、たまにはシャルロ
ットもいいね。
そうして私がお菓子に逃避していると、なんと初等科の雪野君が
円城と一緒にサロンにやってきた!
﹁雪野君!﹂
﹁麗華お姉さん!﹂
雪野君は私を見つけると、ぱーっと笑顔で走ってきた。
1108
﹁雪野君、今日はどうしたんですの?﹂
﹁えへへ、兄様にお願いして遊びに来ちゃいました﹂
あぁっ!この天使の笑顔!最近の疲れた私の心を一瞬で癒してく
れます!
﹁雪野、先にみなさんにご挨拶は﹂
後ろから円城が雪野君の頭にポンと手を置いた。雪野君は﹁あ、
いけない﹂と振り返った。
﹁円城雪野です、こんにちは﹂
雪野君はサロンにいるメンバーにちょこんと頭を下げて挨拶をし
た。もちろん天使の笑顔付きで。
そんな雪野君の登場に、サロンの空気が一気に明るくなった。特
に女子メンバーは雪野君の可愛さに心を奪われてしまっている。
﹁円城様の弟様が遊びにいらしてくれるなんて、今日はなんて素敵
な日なのでしょう!雪野様、どうぞこちらにいらして﹂
会長は雪野君を真ん中のソファに座らせると、テーブルにお茶と
お菓子を用意させた。雪野君は大勢のお姉様方に囲まれ、ちょっと
困った顔をしながらも、次々に聞かれる質問に笑顔で答えていた。
﹁雪野がね、吉祥院さんにどうしても会いたいって言うから、しょ
うがなく連れてきたんだ﹂
私の横に座った円城が、雪野君を取り囲む輪を見ながら言った。
1109
﹁まぁ、とても嬉しいですわ!﹂
雪野君が私に会いたいと思っていてくれたなんて!私だって雪野
君に会いたかったよ!
でも今雪野君は会長達に取られてしまったので、戻ってきてくれ
るまでおとなしく待っていることにする。
それまで円城と世間話でもするかな∼。
﹁今日は鏑木様はご一緒ではありませんの?﹂
﹁なんだか用事があるみたいだよ﹂
﹁そうなんですか﹂
鏑木の用事ねぇ。まさか若葉ちゃんのケーキ屋さんに行ったので
はあるまいな。
﹁雅哉もなんだか最近浮き足立っているからね﹂
円城がそう言って、うっすらと笑った。その微笑みが怖い。
﹁そうなんですか﹂
ここは当たり障りなく流すのが正解だろう。
﹁うん。僕のクラスにもなぜかよく来るしね。目当ては僕ではない
みたいだけど﹂
げっ!それを私に言う?!
﹁まぁ、そうなんですか﹂
1110
﹁そうなんですよ﹂
私達はにっこりと微笑み合った。雪野君、早く戻ってきてー!貴
方のお兄さんが怖いのー!
会長達に解放された雪野君が戻ってきた頃には、私は腹の探り合
いですっかりくたびれてしまっていた。鏑木の真意を知りたいとは
思うのだけど、なんとなく今ここで円城から聞くのはまずい気がす
るんだよ。円城がこういう微笑みをする時は、たいていなにかを企
んでいる時なんだから。
腹黒な兄に全然似ていない雪野君は、最近練習しているラテアー
トの話をしてくれた。
﹁麗華お姉さん、干支の動物にこだわりがあるって聞きました。僕、
頑張って作れるようになりますね!﹂
誰だ!雪野君に変なことを吹き込んだヤツは!
雪野君の誤解を解こうと言葉を尽くしたけれど、雪野君は﹁今は
牛の絵に挑戦です﹂と聞く耳を持ってくれなかった⋮。
ミルクで牛の絵って、まぁ、合っているといえば合っているけど
さぁ⋮。
1111
169
パーティーの当日は学校から帰るとすぐさまヘアサロンに直行さ
せられ、ヘアセットとメイクを施された。そしてそのままお母様と
パーティー会場のあるホテルへ向かう。お父様達は仕事が終わった
後こちらに来るので、それまでは控え室でサンドウィッチを摘まみ
ながらテスト勉強でもするか。ドレスは皺になっちゃうといけない
ので、ギリギリまで着ない。今はゆったりワンピースだ。このハム
サンド、おいしいな。
﹁麗華さん、あまり食べないで。ドレスが入らなくなるわよ﹂
はーい⋮。
今回のパーティーは吉祥院家にとって大きなパーティーだという
のは本当のようで、親戚筋の璃々奈まで駆り出されている。お互い
期末テストも間近だというのに、家の都合で勉強時間が削られてつ
らいねー。でも璃々奈って私より成績いいんだよね。あとで勉強法
を聞いてみよう。
一応会長の娘とはいえ、高校生だし跡継ぎでもないので、所詮今
日のパーティーでは添え物みたいなものだ。ひたすらニコニコとお
父様達の横で笑っておく。
しばらくするとお父様は同じような立場のおじ様方と、お母様は
親しいマダム達に囲まれはじめたので、少し輪から外れて誰かいな
いかと会場を彷徨ってみた。お兄様はとっくの昔に結婚相手の座を
狙うご令嬢達に捕獲されてしまっている。お兄様、ご武運を。
声を掛けてくる方々に笑顔を振り撒きながら歩いていると、断食
1112
プランで知り合った成冨耀美さんを見つけた。
﹁耀美さん﹂
﹁あ、麗華さん﹂
ちょっぴりふくふくとした耀美さんは、一緒にいるとほわんとし
た安心感があるなぁ。
﹁本日はお招きいただいてありがとうございます﹂
﹁こちらこそお忙しい中いらしてくださって、ありがとうございま
す﹂
耀美さんは手に料理を持っていた。私の視線に気づいたのか、﹁
ここのお料理はとてもおいしいですね。つい食べ過ぎてしまいそう
⋮﹂と、耀美さんは恥ずかしそうに笑った。
﹁まぁ、気に入っていただけて良かったですわ﹂
私は常々お父様に、パーティーでは料理に一番力を入れろと言っ
ているのだ。企業のパーティーなんてただでさえ退屈なんだから、
料理くらいおいしくなくてどうする。ついでに社員食堂も充実させ
た。食で社員のモチベーションを上げ、没落回避を目指すのだ!小
さなことからコツコツと。
﹁麗華さんは召し上がらないの?﹂
﹁ええ、私はあとで⋮﹂
そうなのだ。せっかくのおいしいお料理も、こういったパーティ
ーでパクパク食べるのは実際にはお嬢様にはなかなか難しい。グロ
スが取れるのも気になるし、あまり食べ過ぎるとおなかが出てドレ
1113
スのラインにひびく。それに私の場合、粗忽者なので万が一ドレス
にソースをこぼしたりしたら怖いしね。
でもしっかり持って帰るお料理はキープしてあるから、帰ったら
食べるんだ∼。
耀美さんはおいしそうにホタテのムニエルを食べている。それも
おいしそうだな。テイクアウトするメニューに入っていたかしら?
その時私達の横を数人の男性が通り過ぎた。
﹁やっぱりデブはよく食うな﹂
そして、それに続く仲間達の笑い声。耀美さんの顔色がサッと変
わった。
なんて連中だ、許せない!
私はそいつらの後を追おうと一歩踏み出したが、耀美さんに止め
られてしまった。
﹁耀美さん?﹂
﹁いいの、麗華さん﹂
﹁でも﹂
耀美さんは弱々しい笑顔で首を横に振った。﹁私が太っているの
は本当のことだから⋮﹂
なにを言っているんだ。そんなことは関係ない。あんな無神経な
ことを言う連中には天罰を下さねば!
大丈夫ですよ、耀美さん。心配しなくても﹁失礼なことを言った
のを、耀美さんに謝りなさい!﹂なんて、やりませんから。そんな
ことをしたって、あのバカ男は口先だけの謝罪で反省なんてしない
だろうし、耀美さんが晒し者になってさらに傷つくだけなのはわか
っています。
姑息には姑息を。
1114
あのバカ男のズボンのお尻に、後ろからデミグラスソースをピッ
とひっかけてきてやる。その後の﹁あら?なんだか、変な臭いが⋮﹂
という呟き付きでな!う○こたれの汚名を着て、世間に大恥を晒す
がいいわ!うけーっけっけっけっけっ!
﹁私、少し化粧を直してきますね⋮﹂
耀美さんが空いたお皿を置いて会場を出て行くのを見送って、私
も報復の旅に出た。
旅から帰ると伊万里様が私に手を振っていた。
﹁伊万里様!﹂
﹁こんばんは、麗華ちゃん﹂
あぁ、今日も伊万里様は大人の魅力ダダ漏れでございます。
﹁今日はワインレッドのドレスで、いつもより大人っぽく見えるね。
思わず見惚れちゃたよ。まるで薔薇の妖精みたいだ﹂
はうっ!心に魅了の矢が!
でも小さい頃から伊万里様を知っている私には耐性がある!
伊万里様は私のドレスと同じ色のノンアルコールワインを選んで、
私に手渡した。モテ男は気配りが行き届いている。
伊万里様とお兄様の話などをした後、私は一番聞きたかった話に
触れた。
﹁ところで伊万里様、女性に刺されたという話は本当でしょうか﹂
﹁えっ!麗華ちゃん、なんでそんなこと知ってるの?!貴輝から聞
いた?﹂
﹁風の噂です﹂
1115
盗み聞きとは言いません。
﹁いやぁ、まさか麗華ちゃんに知られるとは。でも刺されるなんて
大げさな話じゃないんだよ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁うん。刃物を持った女性と揉みあいになって、左の手のひらを少
し切られただけ。ほら、これ。おかげで手相が変わっちゃったんだ
よねー﹂
そう言って見せてくれた手のひらには、なるほど横に白い傷跡が
ある。
しかし刺されたんじゃなくて切られただけ、ってどっちにしろ刃
傷沙汰じゃないか。伊万里様の私生活っていったい⋮。
あれ?そういえば伊万里様って⋮。
﹁伊万里様は確か、瑞鸞の高等科時代はバスケ部ではありませんで
した?﹂
﹁おぉ、よく覚えてるね∼。そうだよ、俺、バスケ部。懐かしいな
ー﹂
なんと!瑞鸞のバスケ部は女癖の悪い人間の巣窟か?!
瑞鸞学院男子バスケットボール部。別名カサノヴァ村と命名。恋
愛ぼっち村の敵村である。
﹁麗華さん!﹂
それからも伊万里様といろいろと話しているところへ、璃々奈が
小走りでやってきた。
1116
﹁あら、璃々奈﹂
﹁久しぶり、璃々奈ちゃん﹂
﹁ごきげんよう、伊万里様。もうっ、お母様がなかなか離してくれ
ないんだもの!﹂
璃々奈はぷりぷりと怒りながら給仕さんから飲み物を受け取ると、
一口飲んではあっと息を吐いた。
﹁それはお疲れ様﹂
﹁璃々奈ちゃん、今夜はほのかに百合の香水の香りがするね。璃々
奈ちゃんの名前にぴったりだし、今日のドレスとも合っていて、と
ても素敵だよ﹂
なんと!カサノヴァ村長は女性の香水の香りを嗅ぎ分けるスキル
も持っているらしい。さすがだ。
璃々奈も﹁どうも⋮﹂とか言いながら、口角が嬉しさにぴくぴく
している。機嫌はすっかり直ったようだ。伊万里様はいつか本当に
刺されると思う。
耀美さんが戻ってきたのが見えたので、合図をした。耀美さん、
大丈夫かな。もしかしたら化粧室で泣いていたのかもしれない⋮。
耀美さんは微笑みながらやってきたが、私の隣に伊万里様が立っ
ていたのでぎょっとしたようだ。
﹁耀美さん。ご存知かと思いますがこちらは桃園伊万里様ですわ。
兄の昔からのお友達ですの。伊万里様、私がお世話になっている成
冨耀美さんです。それとこの子は従妹の古東璃々奈です﹂
﹁あ、あの、初めまして。成冨耀美と申します⋮﹂
﹁初めまして。麗華ちゃんにこんな愛らしいお友達がいたなんて知
1117
らなかったな。
あきみ
という名前の漢字はどう書くんですか?﹂
﹁あ、あの美しく耀くという字で⋮﹂
﹁あぁ、なるほど。貴女にぴったりだ。ではその耀美さんの名前に
ふさわしい、太陽のお酒を注文しよう﹂
耀美さんは顔を真っ赤にしてあたふたしている。さもありなん。
カサノヴァ村長、私には貴方の私生活が目に見えるよ⋮。まぁ、耀
美さんが元気になったのならそれでいいけど。
耀美さんはすっかり伊万里様にポーッとなってしまっている。ま
ずい。耀美さん、その人だけはダメですよ∼。
﹁こんばんは、吉祥院さん﹂
そこに今度は鏑木と円城までやってきた。うへぇ∼⋮。
あ、きらきらしい男子3人を前に、耀美さんのメーターが限界値
を超えそうだ。頑張れ、耀美さん!
1118
170
耀美さん以外は、卒業した伊万里様含め全員が瑞鸞生なので、挨
拶はスムーズに行われた。
そういえば璃々奈は中等科に入学してきた当初は鏑木を追っかけ
まわしていたけど、円城にガツンと言われてからすっかりおとなし
くなったんだっけな。あれ以来、璃々奈から鏑木が好きだとかって
いう話は聞かないけれど、もうそういった恋愛感情は一切なくなっ
たのかな。
⋮うん、なさそうだね、この顔からすると。警戒心しか見えない。
誰に警戒してるんだ?この様子だと鏑木よりもどちらかというと円
城、かな?まぁ、あれだけ厳しいことを言ってきた相手だから苦手
意識が出来ちゃったのかも。
円城は社交辞令的に私達女子3人を適当に褒めたが、鏑木の口か
ら出たのは、パーティーの規模と﹁ここの料理は美味いな﹂だった。
褒めどころ、そこ∼?!でも私にとって一番嬉しい褒め言葉だった
りするけどさ。
﹁吉祥院会長は、グルメ社長、美食会長なんて言われているからね﹂
えっ、そうなの?!世間で狸がそんなあだ名で呼ばれているとは
全く知らなかった!狸のくせに美食家気取りか。
鏑木になにか食べたか聞かれたけれど、私と璃々奈は飲み物しか
飲んでいなかった。すると鏑木は﹁またくだらないダイエットでも
しているのか﹂と言った。
﹁いえ、そういったわけでは⋮。いらしてくださったお客様方への
ご挨拶があって、口にするタイミングがなかったのですわ﹂
1119
﹁私も⋮﹂
私と璃々奈がそう言い訳をすると、鏑木は疑わしげに私達を見た。
﹁ふ⋮ん。俺はシェフが腕によりをかけて作った料理を、ダイエッ
トをしているからと平気で残したり、一口も食べない人間は嫌いだ﹂
うっ、と私達は息を詰まらせた。
﹁吉祥院さんはそんな子じゃないでしょう。いつもランチをしっか
り完食しているし、ピヴォワーヌでもよくお菓子を食べているんだ
から﹂
﹁そうそう。だいたい吉祥院家の主催するパーティーの料理がおい
しいと評判なのは、麗華ちゃんが吉祥院会長に進言したからだって、
貴輝が言っていたよ﹂
円城と伊万里様のフォローに、鏑木は﹁確かに⋮﹂と頷いた。納
得してくれたようだ。
次に鏑木の視線に晒された耀美さんは、怯えたように﹁私は、手
まり寿司がおいしかったと思います⋮﹂と小声で申告した。
耀美さんはさっき無神経なバカ男に傷つけられたばかりだ。頼む
から酷いことを言ってくれるなよと祈るような気持ちでいたら、予
想に反し鏑木は﹁あぁ、女性が好きそうな料理ですね。俺は肉料理
の方が好きですが﹂と笑った。
鏑木にとって、きちんと料理をおいしく食べている耀美さんの答
えは合格だったようだ。それから鏑木は耀美さんに自分が食べてお
いしかった料理の話をしていたが、鏑木、あんたさぁ、ご令嬢とい
うか年頃の女の子に振る話題が食べ物ってどうなのよ?いつもパー
ティーで取り囲んでくるお嬢様方には、もうちょっと取り繕った会
話をしているくせに。
1120
カサノヴァ村に短期留学して、女性の扱いスキルを学んできたら
どうだろう?
耀美さんは鏑木に話しかけられて緊張がピークに達しているのか、
目が泳ぎまくっている。頑張れ、耀美さん!
﹁そういえば吉祥院はこの前、ジョギングという名の牛歩をしてい
たけど、効果はあまり見られないな﹂
﹁は⋮?﹂
効果?効果ってなにが?ジョギングをしているのに体力が付いて
いないってこと?足が遅いってこと?それともダイエットの効果が
まるで出ていないって言いたいのかーっ!
殺す!こいつ、絶対に呪い殺す!牛歩ってなんだ、牛歩って!あ
れは立派なジョギングだ!
すると、今までほとんど話に加わらなかった璃々奈が鏑木と対峙
するように前に出ると、私のおなかに手を当て、﹁あら、失礼です
わ!麗華さんは一時期本当に太っていたけれど、今はほらこの通り、
おなかだって引っ込んでいますわ!﹂と、ぽんぽこ叩いて反論した。
全員が私のおなかを直視した。
璃々奈は、どうだ、言ってやったわ!とドヤ顔だけど、私は恥ず
かしさで倒れそうになった。
このバカ璃々奈がっ!!善意が時に人に止めを刺すということを
知れ!
耀美さんは眩い男子3人に囲まれ、お嬢様方の嫉妬と羨望の眼差
しにそろそろ耐えきれなくなったようで、﹁私、酔ってしまったよ
うなので、少しあちらの椅子に座って休ませていただきますわ⋮﹂
と言った。それを聞いて伊万里様が﹁大丈夫?では席までエスコー
トしましょう﹂と、耀美さんに優しく手を差し出した。やめろ、カ
サノヴァ村長!そっちにも違う止めを刺さすな!
顔を真っ赤にして若干足取りもおぼつかない耀美さんと、その耀
1121
美さんをエスコートする伊万里様に、璃々奈が﹁私も一緒に付いて
行きます﹂と、伊万里様から守るように耀美さんにくっついた。
まぁ、璃々奈がいれば伊万里様ファンのお嬢様方から耀美さんが
仮に嫌味でも言われても、しっかり反撃してくれるだろう。
⋮⋮ん?
って、あれ?私、このふたりの間に置いて行かれた?げっ、待っ
て!私も一緒に行く!
それなのにここにきて、今度は円城のお母様が現れた。ぐわっ、
逃げるタイミングが!
﹁秀介さん、ここにいたのね?こんばんは、麗華さん。息子がいつ
もお世話になっております﹂
円城のお母様とは卒業式などで数回顔を合わせたくらいで、あま
り面識がない。私が年齢を言い訳に、パーティーなどに顔を出さな
いからなぁ。
﹁こちらこそ、秀介様にはいつもご迷惑をかけてばかりで⋮﹂
私も貼り付けた笑顔で挨拶をした。円城のお母様は、凛とした鏑
木夫人と違って儚げな美人だ。もしかしたらあの唯衣子さんは、円
城のお母様の親戚筋かもしれないなぁ。
あ、そういえば、今日のパーティーには円城夫妻とともに円城も
来ている。ということは⋮。
﹁あの⋮、今日は雪野君はひとりでお留守番ですか?﹂
まだ小さいのにひとりでお留守番なんて、寂しくないのかな。私
の時は両親がパーティーなどで夜家にいなくても、お兄様がいたか
ら全然寂しくなかったけれど。
1122
﹁ええ。シッターさんに来てもらっているの。今頃は家庭教師の先
生とのお勉強も終わった頃かしら﹂
﹁まぁ、家庭教師⋮﹂
雪野君はまだ小学1年生なのに、家庭教師を付けられて勉強とは
大変だ。
﹁雪野は入退院を繰り返しているから、学校の授業の遅れを家で取
り戻さないといけないんだ﹂
私の気持ちを察したのか、円城がそう補足してくれた。なるほど、
そういうことか。あぁ、でも考えてみれば私も1年の時から塾に通
っていたっけ?
﹁吉祥院さんには雪野が凄く懐いているんだ﹂
﹁まぁ、あの子は気難しいところがあるのに珍しいわね?﹂
気難しい?天使で優しい雪野君が?
﹁雪野君は優しくって、とってもいい子だと思いますよ?﹂
私が本心からそう言うと、円城夫人は微笑んだ。
﹁どうもありがとう。雪野は小さい頃から病気がちだったので、ち
ょっと我がままだったりするかもしれないですけど、どうぞよろし
くね?﹂
﹁こちらこそ。可愛い雪野君と仲良くさせていただけて、とても楽
しいですわ﹂
﹁雪野のヤツ、最近秀介の影響でラテアートをやったりしてるよな。
1123
この前秀介の家に行った時もハートのラテが出てきたぞ。今度吉祥
院にも作ってやると言っていたから、吉祥院はハートよりも干支の
動物のほうが喜ぶと教えておいてやった﹂
鏑木、雪野君に変なことを吹き込んだ犯人はあんたかーーっ!
﹁干支⋮?そういえば最近、雪野が牛の絵を練習していたけど⋮。
それって麗華さんの影響⋮?﹂
﹁ネズミはすでに攻略済みだと教えてやったからな。良かったな、
吉祥院﹂
いいから、お前は少し黙れ!
雪野君のお母様、違うんです!私は干支好きの変わり者なんかじ
ゃ、決してないんです!可愛い息子に悪影響を及ぼす女と思わない
でください!
そんな中、円城はひとり余裕の笑みで私達を見ていた。親友の暴
走を止めろ!そして私に対する自分の母親の誤解を解くんだ!
するとそこに鏑木夫人までがやってきて、気がつけば完全なアウ
ェー状態。四方八方敵だらけ。伊万里様、耀美さん、璃々奈、戻っ
てきて∼!
そんな私の心の叫びが彼らに聞こえるはずもなく、私は鏑木夫人
のクリスマスパーティーのお誘いを﹁お友達から先にお誘いを受け
ていまして⋮﹂と必死でかわした。どんなお友達とか聞かないで∼
!全部嘘なんだから!胃がキューッとしてきた。もうムリ⋮。
結局、私を助け出してくれたのはお兄様だった。以心伝心ですね、
お兄様!やっぱり最後に頼りになるのはお兄様だけだよ∼!
私は家に帰って、テイクアウトした手まり寿司を片手に、鏑木を
1124
イメージした黒豹のニードルフェルトをザクザク作った。
呪い、呪い、呪い、呪い、呪い⋮⋮。
いつも壁の花の私が、夢のような時間を過ごせ
とメールが届いた。楽しんでくれたのならいいけど、伊万
耀美さんからは
ました
里様だけは好きになっちゃいけませんよ、耀美さん!
1125
171
しかし今回のパーティーに参加してわかったことは、今のところ
吉祥院家が潰れるような要素が見当たらなかったということ。
パーティーを仕切っている社員の人達も、エリート!仕事出来ま
す!って感じの人達ばかりで、その表情も明るかったから業績も悪
くないんだと思う。
私が小さい頃から口を酸っぱくして﹁不正はダメ!﹂と言い続け
たおかげで、お父様も悪事に手を染めている気配もないし、なにし
ろあの優秀なお兄様がいる!お兄様だったら内部の不正も他社から
の乗っ取りも未然に防いでくれると思うんだ。お父様の秘書の笹嶋
さんもいるしね。
お母様も浪費家ではあるけど身代を傾けるほどではないし、私だ
って慎ましやかに生きているつもりだ。
君ドルでは吉祥院家を破滅させる鏑木との関係も、仲良くはない
けど悪くもないと思う。少なくとも潰してやろうと思われるほどの
恨みは買っていない、と思う。たぶん。
これだったら、無理に国公立の大学を目指さなくても、瑞鸞の大
学に行っても大丈夫かなぁ。学費の心配がないのなら、本当は瑞鸞
大学に行きたいんだよな∼。
夕食とお風呂を済ませた後、リビングでクッションを抱えてうん
うん唸っていたら、仕事から帰ったお兄様にどうしたのかと聞かれ
た。
﹁う∼ん、進路のことで悩んでいるんです﹂
﹁進路?瑞鸞の大学に行くんじゃなかったの?﹂
﹁そうしたいんですけどね∼﹂
1126
お兄様はネクタイを緩めながら私の隣に座った。
﹁だったらなにが問題なの?行きたい学部に成績が足りないってこ
と?﹂
﹁いえ、学部はまだ決めていないんですけど、学費とか、どうなの
かな∼って﹂
﹁学費?﹂
お兄様はなにを言っているんだ?という顔をした。まぁ、そうだ
よね。吉祥院家の娘が大学の学費の心配をするなんて。
﹁たとえば、急に吉祥院家が斜陽族になるとか⋮。そんなことがあ
った場合、瑞鸞の高額な学費を払えるかな∼とか⋮﹂
﹁斜陽族?また麗華のいつもの悪い想像の話だね。なぜか昔からそ
んな心配ばかりしているよね、麗華は。なにか理由があるの?﹂
﹁理由は特にないですけど⋮﹂
まさか前世のマンガで読みましたなんて、トチ狂ったことは言え
ない。
お兄様は大きく息を吐くと、黙り込んだ私の頭に手を置いた。
﹁あのね、麗華。なにがそんなに心配なのかわからないけど、会社
も家も大丈夫だから安心していいよ。それにね、もし家にお金がな
くなっても、僕にだって妹を大学に通わせるくらいの蓄えはあるか
ら、行きたい大学に行けばいい﹂
ね?とお兄様が安心させるように笑ってくれたので、私の漠然と
した不安も解消された。そうだよね、お兄様もいるもんね。私はひ
とりじゃないんだもん。きっと大丈夫だよね。
1127
﹁麗華はもっと家族を頼っていいんだよ﹂
うん、ありがとう。
鏑木は相変わらず毎日若葉ちゃんのクラスに通っていた。若葉ち
ゃんは鏑木の前以外ではみんなと同じように﹁鏑木様﹂と呼んでい
たけれど、鏑木と話す時は鏑木に言われた通り、﹁鏑木君﹂と呼ん
今日の高道若葉
の報告を聞い
だ。あくまでもそれは鏑木に半ば強制されて呼んでいるに過ぎない
のに、周囲の目は吊り上がった。
サロンでは会長が冷たい表情で
ている。ピヴォワーヌ至上主義の会長達は、一般生徒の若葉ちゃん
があの皇帝を﹁鏑木君﹂と気安く呼び親しくしているのが、どうに
も我慢できないらしい。若葉ちゃんに対して﹁立場をわきまえなさ
い﹂と内々に注意をしたけれど、鏑木の希望だと言われれば会長達
でもそれ以上は言えない。それが余計に若葉ちゃんへの苛立ちを募
らせていた。
会長達は今日も固まってヒソヒソとなにかを話し合っている。
テスト勉強もあるので早々にサロンを後にした私が駐車場に向か
うと、偶然鏑木と会った。
﹁ごきげんよう、鏑木様。もうお帰りですか?﹂
﹁ああ﹂
鏑木もトップの成績を維持するために陰ではしっかり勉強してい
るのだろうな。
1128
﹁先日はお忙しい中、パーティーにお越しくださってありがとうご
ざいました﹂
﹁いや、こちらこそ楽しかった﹂
おおっ!鏑木が私に社交辞令を!珍しい。
その時、ふと鏑木が遠くに目をやった。その遠い視線の先には若
葉ちゃんらしき姿が。鏑木はそのまま若葉ちゃんが見えなくなるま
で、動かなかった。
﹁鏑木様は⋮﹂
﹁うん?﹂
鏑木の目はまだ見えなくなった若葉ちゃんを追っていた。その姿
を探すように。
﹁高道さんが鏑木様にかまわれていることで、多くの人から妬まれ
ていることを知っていますか?﹂
﹁えっ﹂
鏑木が振り向いたけれど、私はそのまま別れの挨拶をして車に乗
り込んだ。
期末テストはなんとか乗り切った。期末は中間よりも教科が増え
るからつらい。私は記憶容量が少ないのか、暗記をすると先に覚え
たものがどんどん消えていってしまうのだ。脳のメモリを増やすに
はどうしたらいいのかなぁ。
そのテストでは、若葉ちゃんが座る机にテスト範囲に関するなに
1129
かが書いてあったらしい。幸いにも始まる前に若葉ちゃん本人が気
がついて先生に言ったそうだけど、気づかずにテストを受けていた
ら、カンニングの疑惑をかけられ大変なことになっていたはずだ。
若葉ちゃん、動揺してテスト結果に響いていないといいけど⋮。
﹁あの、麗華様。今日から部活が再開されますけど、部室に寄って
行きますか?﹂
手芸部の副部長の浅井さんが私のクラスにやってきた。もしかし
て誘いに来てくれた?凄く嬉しいんだけど、今日はこのあと予定が
入っている。
﹁ごめんなさい。ピヴォワーヌのサロンに行かないといけないの。
そちらの用事が終わって時間があったら行きたいと思っているので
すけど⋮﹂
そう。私はテスト最終日の放課後に、サロンに来てほしいと会長
に呼び出されているのだ。嫌な予感しかしない。行きたくない⋮。
﹁そうでしたか。たぶん部員もテスト終わりで疲れてほとんど欠席
だと思いますから、麗華様も無理せずそのまま帰ってしまっても大
丈夫ですよ﹂
﹁ええ、ありがとう﹂
私だって手芸部に行って楽しく手芸をしたい。これから寒い冬だ
から、自分用に手編みの腹巻を作りたいのだ。
でも会長の呼び出しを断るなんてことは出来るわけがない。重い
足取りでサロンに行くと、会長とその一派が笑顔で待ち構えていた。
﹁ごめんなさいね、麗華様。テストが終わったばかりだというのに﹂
1130
﹁いえ、とんでもありませんわ。私になにかお話があるとか﹂
﹁ええ、そうなのよ。ね、みなさん﹂
会長の周りのメンバーも同じように頷いた。
﹁実はね、麗華様に来期のピヴォワーヌの会長を引き受けてもらい
たいの﹂
﹁えっ!私がですか?!﹂
私が来期のピヴォワーヌの会長って⋮、絶対にムリ!
だいたいなんで私がピヴォワーヌの会長なの?!会長っていうの
はメンバー全員を纏める力がないといけないのに!私には鏑木と円
城を従わせる力なんて持ってないよ。特にあの鏑木が、私の言葉に
従うとはとても思えない。会長の言葉に従わないで好き勝手やる人
間がいれば統率力が疑われ、そのうち他のメンバーも私の言うこと
など誰も聞かなくなってしまうに違いない。
そして一般生徒達からも、メンバーが誰も従わないこいつならチ
ョロイと軽んじられ、最後にはとうとう生徒会に革命起こされちゃ
ったりするのだ!あぁ、そして私は哀れギロチン送り⋮。
私がロココの女王ならば、同志当て馬はロベスピエールなのだ!
え、だったら若葉ちゃんがサンジュスト?いーーやーー!助けて、
フェルセーン!
﹁麗華様?﹂
はっ、現実逃避!
﹁私ではとても⋮﹂
﹁大丈夫よ!ピヴォワーヌの下の子達にもしっかりと心得を説いて
ありますから、生徒会ごときには負けなくてよ﹂
1131
いやいや、生徒会と対立する気なんて私には全くないし。もしや
会長、私を次の会長に据えて院政を敷くつもりでは?
﹁ピヴォワーヌのためにお願い、麗華様﹂
ムリだ⋮。孤立無援になる姿しか想像できない。首切りサムソン
が早く来いと私を手招く。
あぁ、ストレスで総白髪になりそうだ⋮⋮。
葵ちゃんからテストが終わったから今度の休みに遊ばない?とい
う誘いがあった。もちろん行くよー!瑞鸞生には言えない私の愚痴
を聞いておくれよ∼!
1132
172
その週の日曜日、葵ちゃんと会った私は盛大にピヴォワーヌの次
期会長要請を愚痴った。
﹁つまりその会長に、麗華ちゃんはなりたくないんだね?﹂
﹁うん、絶対にヤなの。荷が重すぎるの。私に出来るのは、精々ク
ラス委員までなの﹂
﹁そっかぁ。ほかに適任者はいないの?﹂
本来なら一番影響力を持つ鏑木がなるべきだと思う。若しくは円
城か。でもそんな面倒なことを鏑木がやるわけがない。ピヴォワー
ヌの会長として権力を握ることにも興味は全くなさそうだし。現会
長の瑤子様達もそれがわかっているから私に話を持ってきたんだろ
うな∼。
﹁約2名いるけど、とても引き受けるとは思えないの⋮﹂
円城のほうがまだ頼めば引き受けてくれる可能性があるけど、ど
うだろうなぁ。
﹁会長の仕事っていうのはそんなに大変なの?﹂
﹁仕事自体は大変ではないと思うけど⋮﹂
サマーパーティーなどの各種イベントはすべて外注だし、ピヴォ
ワーヌ専用のコンシェルジュが細々とした事務作業はすべてやって
くれる。生徒会長と違ってピヴォワーヌの会長は具体的な仕事とし
てはあまりない。だから受験生なのに12月までやっていられるん
1133
だと思う。
﹁それでもやりたくないんだね﹂
﹁うん⋮﹂
困ったね∼と葵ちゃんに慰められていると、マナーモードにして
おいた携帯がバッグの中でブルブル震えた。
﹁あれ?麗華ちゃん、携帯鳴っているみたいだけど出なくていいの
?﹂
﹁ごめんね。確認だけさせてもらっていい?﹂
﹁遠慮しなくていいよ∼﹂
携帯を出して着信相手を見たら桜ちゃんからのメールで、予定が
空いちゃったから今から遊ぼうという誘いだった。桜ちゃんめ、私
が常に暇人だと思っているな。
﹁お友達から遊ぼうっていうメールだった﹂
﹁そうなんだ。大丈夫?﹂
﹁うん﹂
桜ちゃんには友達と一緒だからムリだと返信した。ふふん、私に
だって休日に遊ぶ友達がおるのだよ。
﹁今のはね、百合宮の子で小学生の時には私達と同じ塾に通ってい
たのよ。外見は日本人形みたいだけど、中身は面白いの﹂
﹁へぇ。なんだったらここに来てもらって一緒に遊ぶ?﹂
﹁えっ!いいの?!﹂
﹁うん。私はかまわないよ﹂
1134
いきなり知らない子と遊ぶのも平気って、小学生時代に私から逃
げ回っていたおとなしい葵ちゃんとは別人のようだ。あれ?それと
もあの頃の私がそれだけ怖かったってこと?いや∼、まさかね。
﹁じゃあ一応メールしてみるけど﹂
猫かぶりの桜ちゃんこそ、友達の友達と急に一緒に遊ぶなんて嫌
ちょうど近くにいるからすぐ行く
がりそう。きっと断るだろうなぁ。
と思ったのに、桜ちゃんから
と返ってきた。ええっ!みんなアクティブなのね?!
﹁来るって﹂
﹁そっか。お店の場所わかるかな?﹂
葵ちゃんはニコニコと笑った。本当に気にしないんだ⋮。
近くにいるという言葉通り、桜ちゃんはわりとすぐに現れた。
﹁こんにちは、頼野葵です﹂
﹁初めまして、蕗丘桜子です﹂
初対面の子と一緒に遊ぶといわれても、ぎくしゃくしちゃうんじ
ゃないかなと心配だったけど、ふたりはすぐに意気投合した。主に
恋愛面で。
﹁葵ちゃんは同じ学校に彼氏がいるんだ∼。いいなぁ﹂
﹁でも桜子ちゃんも瑞鸞にいるんでしょ?﹂
﹁まだ正式に彼氏ってわけじゃないの。あと一押しなんだけどね﹂
学園祭以来、秋澤君の態度が変化したと桜ちゃんから聞いている。
桜ちゃんを好きなディーテの存在に嫉妬して、秋澤君は桜ちゃんに
1135
対する恋愛感情をやっと自覚したらしい。ディーテ様様だ。
そのディーテはまだ桜ちゃんを諦めていないらしく、私に桜ちゃ
んへの熱い想いを語ってきたり、熱い想いをバイオリンで表現した
自作CDを聞かせてきたりする。厄介な物件をまたひとつ抱えてし
まった。
﹁吉祥院君、どうにかしてくれたまえ!﹂と言われても、秋澤君を
ずっと好きな桜ちゃんがディーテに振り向くことはまずないと思う
ので、次の恋を探したほうがいいのではと言うしかない。まずはそ
のアフロを切ることから始めてみてはどうだろう?
﹁週に1回お弁当を作って行ってるんだけど、頑張って凝ったお弁
当にした時より、時間がなくて白いごはんに豚の生姜焼きを敷き詰
めただけの適当なお弁当だった時のほうが、おいしいおいしいって
喜んで食べられちゃうと、がっかりしちゃうんだ∼﹂
﹁わかる!私も匠に時間をかけて作った より唐揚げのほうが食い
つきがいいとがっかりしちゃう。陸上部の大会の時に私がお弁当を
作って持たせるんだけどね、毎回唐揚げ唐揚げって、バカのひとつ
覚えみたいに言うのよ。やんなっちゃう﹂
﹁あ∼、わかる∼。揚げ物の食いつきはいいよね。私の彼はエビフ
ライも喜ぶ﹂
﹁そうなの。作り甲斐がないったら。でも匠が、桜子の作った唐揚
げが一番おいしいって言うから、しょうがなく毎回入れるんだけど
ね∼﹂
﹁あ、結局のろけ?﹂
﹁うふふ∼﹂
桜ちゃんと葵ちゃんは﹁最近はなに作った?﹂﹁秋刀魚の竜田揚
げは好評だったかな。甘辛い味付けがおいしいって。それとロール
キャベツ﹂﹁ロールキャベツはいいね。ちなみにコンソメ?トマト
?﹂﹁私の家はコンソメなの。でもトマトもおいしいよね﹂﹁トマ
1136
トソースはドライパセリをまぶすと彩りもきれいだしね﹂﹁うんう
ん﹂と盛り上がっていた。私を置き去りにして。
桜ちゃんも葵ちゃんも当たり前のようにお料理出来るんだ⋮。私
はたまにお菓子を作るくらいだ。なんだか焦る。私も未来の恋人の
ために、お料理を習おうかな⋮。
﹁クリスマスはどうするの?﹂
﹁私の学校はカソリック系だからクリスマスには教会でハンドベル
を演奏したり、バザーをしたりと忙しいの。でも夜は毎年匠の家で
クリスマスパーティーをするのよ﹂
さすが家族ぐるみのお付き合い。桜ちゃんは毎年、秋澤君のお母
さんやお姉さんと七面鳥を焼いたりお料理を作ったりするらしい。
お母さんからも娘のように可愛がられている幼馴染が相手では、
秋澤君も将来に向けて腹を括るしかないな。
﹁クリスマスのイルミネーションも観たいよね﹂
﹁いいよね∼。私も行きたいと思っているんだけど、当日は混んで
そうだからその前に行こうと思ってるんだ﹂
﹁私も。ちなみにどこ狙い?﹂
ふたりはきゃっきゃと楽しそうにクリスマスの予定をしゃべって
いた。私は黙ってずるずるとお茶を飲んだ。
けっ、なにがクリスマスだ。大雪が降って交通網がガタガタにな
るがいい。
1137
雪野君から練習をしたラテアートの成果を見て欲しいと、円城を
通じて伝言を受け取ったので、喜び勇んでプティに行くと、出迎え
てくれる初等科の天使達。
﹁麗華お姉さん、早くこっちに座って!﹂
私をソファに座らせると、雪野君はさっそくラテアートを作り始
めた。
﹁雪野君、私達にも作ってくれる?﹂
﹁うん、いいよ﹂
雪野君は麻央ちゃん達にもねだられて、3連のハートのラテアー
トを描いてあげた。しかし私の前にはブチ模様も鮮やかな牛アート。
これはホルスタインかな?
﹁凄く上手な牛ね?﹂
﹁えへへ、頑張りました﹂
雪野君は嬉しそうに笑った。私は記念に牛の写メを撮ってから、
ありがたくいただいた。うん、おいしい。
﹁そうだ麗華お姉さん、この前はケーキをありがとうございました。
ピスタチオのプチケーキがおいしかったです﹂
﹁そう?良かった﹂
先日のうちのパーティーの時、私はひとりでお留守番をしている
雪野君にと、帰りにホテルのプチケーキセットをお土産に円城に持
たせたのだ。
大きくなってお兄様が跡取りとしてパーティーに出席するように
1138
なると、お兄様は留守番をしている私にいつもケーキやお菓子など
をお土産に買って帰ってきてくれていたので、それの真似。
﹁麗華お姉さんはクリスマスはどうするんですか?﹂
﹁私?私はお友達といろいろと予定があるけど⋮﹂
雪野君に聞かれて、つい見栄を張る私。するとそれを聞いた麻央
ちゃんが、﹁ええっ!麗華お姉様には私の家のクリスマスパーティ
ーに来て欲しかったのに!﹂と言った。
﹁雪野君もちょっとだけ来てくれるのよね?﹂
﹁はい﹂
雪野君は頷いた。ええっ、そうなの?!しまった、くだらない見
栄なんて張らなければ良かった⋮。可愛い天使達と過ごすクリスマ
スを、自ら棒に振ってしまうなんて、私のバカ!今更予定がないな
んて言えない⋮。
麻央ちゃん達はプレゼント交換をしようね∼と楽しそうに計画を
話していた。ううっ、私も参加したい。
そして期末テストの結果発表の日。いつものように﹁私は自分の
順位はあまり気にしていないんですけど∼﹂という顔をして見に行
ったら、まさかの圏外だった。ぐおっ!!
ここ最近のツキのなさ。鏑木に見立てた黒豹ニードルフェルトか
らの呪い返しかもしれない⋮。
1139
173
お兄様に学費のことは心配しなくていいと言われてから、確かに
気が緩んだからな∼。今までよりは少しだけ力が入っていなかった
かもしれない。パーティーに時間を取られたっていうのも痛かった。
それでもちゃんとテスト勉強はしたんだけどねぇ。
それとそろそろ進路を考えて、本気で受験勉強に取り組み始めた
人達が出てきているからなぁ。一応全員内部進学は出来るけど、人
気の学部は成績が良くないと入れないから。あ∼、心を入れ替えて
私も頑張らないと、ごろんごろん成績が落ちていきそう⋮。
そして今回もトップは鏑木、2位は円城だ。凄いなぁ。このふた
りもパーティーに来ていたのに、圏外に脱落した私とは大違いだ。
でも私は当日以外に、お母様に連れられてエステやヘアサロンに行
ったり、ドレスを選びに行ったりしてたから∼と、言い訳をしてみ
る。
カンニング偽装の嫌がらせまでされた若葉ちゃんはというと、同
志当て馬に抜かされての4位だった。それでも4位。素晴らしい。
その頭の中身を分けて欲しい。
女子の中では学年トップなのに、全然そうは見えない若葉ちゃん
は今日も後ろ髪がちょろんと跳ねて、口が軽く開いていた。もっと
キリリとしないと、若葉ちゃん!隙だらけだよ!
﹁ブスは勉強くらいしか取り柄がないから﹂
﹁おしゃれもしないで勉強一筋って、女として終わっているわよね
∼﹂
これみよがしに若葉ちゃんのすぐ後ろで聞こえるように陰口を言
われても、若葉ちゃんに全く動じる気配なし。きっと頭の中では、
1140
ご褒美に食べる食堂メニューのことでも考えているに違いない。
﹁高道﹂
﹁あ、水崎君﹂
同志当て馬が若葉ちゃんに声を掛けて近づいてくると、若葉ちゃ
んの陰口を言っていた子達がサッと離れた。
﹁今回は水崎君に負けちゃったよ∼﹂
﹁それでも4位だろ。しかも僅差。ま、次も高道に負けないように
頑張るさ﹂
﹁うん、頑張って﹂
﹁なんだ、その余裕の発言は﹂
﹁あはは﹂
同じ生徒会の役員だからか、若葉ちゃんと同志当て馬はずいぶん
と仲良くなっているんだな。若葉ちゃんの態度も鏑木相手の時には
ない気安さがある。うわ、有馬皇子ファンの子達の顔がちょっと怖
い。
きゃあきゃあと黄色い声とともに鏑木と円城が現れた。すでに周
りを取り巻く女の子達から自分達の順位は聞いているのか、ふたり
は順位表の上のあたりをちらっと見る程度だった。なんだよ、もっ
と喜べよ。私なんて圏外落ちなのに。
そのまま自分達の教室に行くかと思いきや、若葉ちゃんの姿を見
つけた鏑木が足を止めた。
﹁⋮よお﹂
﹁あ、1位おめでとうございます﹂
﹁当然だろ?﹂
﹁ですね﹂
1141
朝から若葉ちゃんと話せて嬉しいのか、鏑木の表情が楽しげにな
った。確かにこれはほかの女子と話す時とは全然違うから、鏑木フ
ァンが嫉妬するのもわかる。
掲示板を背にした若葉ちゃんの隣には同志当て馬。その前には鏑
木。そして鏑木の少し後ろに立っている円城。2学年というよりも
高等科の男子人気トップ3に囲まれる女の子って、これはまた若葉
ちゃん、まずいんじゃないの⋮?
ほら、少し離れたところにいる会長グループも厳しい顔で4人を
見ているし!
若葉ちゃ∼ん、終業式まで残り1ヶ月弱。なんとか穏便に乗り切
ってよ∼。
と祈っていたのに、さっそく若葉ちゃんは体育終わりの更衣室で、
女子の集団に囲まれていた。
﹁あんた調子に乗り過ぎなんじゃないの!﹂
﹁鏑木様に円城様、それに水崎君まで侍らして何様のつもり!﹂
﹁お勉強の出来るかたは、男子に媚びるのも上手いのね∼﹂
私がその情報を聞きつけて更衣室に行った時には、すでに若葉ち
ゃんは集中砲火を浴びていた。
中心に若葉ちゃんと若葉ちゃんを攻撃する女子の集団。その周り
を囲むように野次馬の女子達がいる。更衣室は男子の目がないので、
その攻撃に一切の遠慮がない。
﹁ねぇ、玉の輿狙いで瑞鸞に来たって本当?﹂
﹁この顔で?冗談でしょ?﹂
1142
﹁でも順調に鏑木様を誑かしているものね∼。計画通りなんでしょ
?﹂
なにを言われても若葉ちゃんは困った顔でやり過ごすだけ。言い
返せばいいのに。って、できるわけないか。余計に火を煽るだけだ。
若葉ちゃんは気にしていなさそうなだけど、見ているこっちが苦
しい。胸が痛い。
﹁貴女の家ってケーキ屋さんなんですってね﹂
その瞬間、若葉ちゃんの顔がぴくりと動いた。それを見逃さなか
ったのか、攻撃していた子達が意地悪く笑った。
﹁まぁ、さぞや有名なパティシエが作るケーキなんでしょうねぇ。
お名前は?﹂
﹁きっとクープ・デュ・モンド・ドゥ・ラ・パティスリーに出場さ
れるような高名なかたなのよ﹂
﹁そうよねぇ。まさか町のちっぽけなケーキ屋の娘が、瑞鸞に入学
するなんてありえないものぉ﹂
﹁噂ではお安いと聞きましたけど、材料はなにを使っていらっしゃ
るの?﹂
それはあまりにもルール違反だ。親のことを持ちだすなんて!
周りもクスクスと笑っている。家族思いの若葉ちゃんの顔色が変
わった。
酷いっ!もう黙っていられない!
﹁私、食べましたわ。高道さんのおうちのケーキ﹂
﹁麗華様!﹂
1143
私は輪の中心に入った。
﹁え、あの、麗華様⋮﹂
﹁とっても優しい味でした。私は一度でファンになりましたわ。い
ちごのショートケーキも、シュークリームも凄くおいしかったもの。
お土産に買って帰ったら、兄もおいしいと喜んでいましたわ。兄は
ロールケーキが特に気に入ったみたい。でも、私や兄の味覚はおか
しいのかしら?みなさんの今の言い方ですと﹂
私は若葉ちゃんを笑った人間をきつい目で見渡した。私と目の合
った子達は次々に下を向いた。この中には在学中にお兄様に憧れて
いた子や、姉や従姉がお兄様を狙っている子もいる。お兄様の神通
力よ、私を守って!
﹁麗華様と貴輝様が⋮﹂
﹁私達、そんなつもりでは⋮﹂
﹁ではどんなおつもり?﹂
更衣室が静まり返った。
﹁私、こういうやりかたはあまり好きではありませんわ﹂
私はそう言うと、更衣室に集まっている女子達に、解散を促した。
心臓がバクバクいって、足がブルブルと震えていたのをどうにか
押し隠して私も教室に戻った。
あとで芹香ちゃん達からどうして若葉ちゃんの家のお店に行った
のか聞かれたので、偶然立ち寄ったお店が若葉ちゃんの家だったと
ごまかした。
あぁ、これが会長の耳に入ったら、私どうなるのかなぁ⋮。
1144
その夜、初めて若葉ちゃんからメールが届いた。
お礼に特製ブッシュドノエルをプレゼント!
1145
174
﹁昨日また、あの高道若葉が問題を起こしたそうですわね?﹂
会長はゆったりくつろぎながら、お茶に口をつけた。
﹁あの子ひとりのために、瑞鸞の風紀が乱れるのは本当に迷惑だわ。
みなさんもそう思うでしょう?﹂
会長派のメンバー達が﹁本当にそうですね﹂と、若葉ちゃんに対
しての不愉快な想いを表情に出して頷いた。
私は微笑みながらもひたすら無言を貫いた。
若葉ちゃんを庇ったことで、会長からなにか言われるかと昨日か
ら戦々恐々としていたけれど、やっぱりきたか。
今日放課後サロンに顔を出すと、さっそく会長から﹁麗華様、こ
ちらでお茶でもいかが?﹂と呼ばれてしまった。それからずっと動
悸が止まらないんだけど、私の心臓大丈夫かな?哺乳類の一生の心
拍数は決まっているという都市伝説めいた話を聞いたことがあるん
だけど、私の寿命短くなっているんじゃないかな。
﹁麗華様はどう思っていらっしゃる?﹂
きた!
﹁私は特には⋮﹂
﹁聞いたところによると、昨日の高道さんと女子生徒達の対立を、
麗華様が止めに入られたとか?﹂
1146
うぉぉっ、ティーカップの中の紅茶が波打っちゃってるよぉ⋮。
頑張れ、麗華!私は女優!
﹁ええ。なにか騒ぎが起こっていると聞いたものですから行ってみ
たら、それがあまりにも聞くに堪えない内容でしたので、つい⋮﹂
﹁まぁ⋮﹂
﹁いくら高道さん個人に問題があろうとも、そのご家族まで貶める
のはどうかと思いますの。私も家族のことを悪く言われたら、とて
もつらいですもの⋮﹂
私は胸に手を当て、哀しい⋮を表現した。会長達は﹁麗華様はご
家族と仲が良いと評判ですものね⋮﹂と同情してくれた。よし。
﹁麗華様はお優しいから見過ごすことがお出来にならなかったのね。
確かに品位に欠ける発言ですわ﹂
﹁ええ⋮﹂
﹁でも元はと言えば、高道さんの分をわきまえない奔放な振る舞い
が、多くの子達の反感を買ってしまったのが原因だわ。あの子さえ
いなければ、麗華様の御心を煩わせることもなかったというのに﹂
﹁え⋮﹂
メンバー達は口々にそうだそうだと言った。
﹁麗華様お可哀想﹂
﹁あんな子のために不快な思いをすることになって﹂
﹁麗華様の気も知らず、高道若葉は今日はずっと生徒会長の水崎有
馬を横に侍らせていたんですって。いいご身分ですこと﹂
﹁生徒会がのさばっているから、あの女もつけあがっているのだろ
う﹂
1147
会長は3年の男子メンバーの言葉に﹁その通りだわ﹂と言った。
﹁今期の生徒会が図に乗っているから、あの子も態度を改めないの
よ﹂
会長は私の手を取った。
﹁麗華様。麗華様がお優しいのは私も充分わかっていますわ。でも
ピヴォワーヌの会長になったら優しいだけでは務まりませんのよ?
時には厳しい対応もしなくては。でないと生徒会がますます増長し
てしまうのですから﹂
﹁いえ、前にもお話したように、私は会長の器では⋮﹂
﹁今期の生徒会は本当に忌々しい。ピヴォワーヌに取って代わろう
という野心すら見えるようだわ﹂
﹁あの⋮﹂
それから話題は最近の生徒会との小競り合いに映ってしまった。
あぁ、まだ私の会長就任話は生きているのか⋮。
私はそっと席を外して、いつも座っている壁際のソファに移動し
た。一応、昨日のことはごまかせたからよしとするべきか?あ∼あ。
私が2杯目のお茶を飲んでいる頃に、やっと鏑木と円城がやって
きた。人の苦労も知らないで!
私の鬱屈した気持ちが体から滲み出ていたのか、円城が﹁どうし
たの、吉祥院さん。今日はなんだか疲れてるね﹂と声を掛けてきた。
ああ、疲れているとも!
﹁師走ですから﹂
最近は気苦労が絶えなくて、毎日ストレス性の白髪が再発してい
るんじゃないかと、合わせ鏡で確認しているんだぞ。今のところは
1148
サロンでのヘッドスパと自宅での頭皮専用マッサージ器のダブル使
いで、髪のコンディションは上々だけれども!
こんな日は、さっさと手芸部に行って腹巻作りに励もうっと。編
み物をすると無心になれるんだよねー。
私は円城と鏑木に挨拶をして、サロンを出た。
手芸部は天国!
みんなで楽しく手芸をしながら、部活納めの日のお茶会について
のおしゃべり。去年は手芸部員︵仮︶だったので参加できなかった
お茶会だけど、今年は正式部員だから堂々と参加できるのだ。嬉し
いな、嬉しいな。
﹁古東さんに話したらお茶会に自分も参加したいと言っていたんで
すけど﹂
﹁あらダメよ、南君。参加したければ入部しなさいと伝えておいて﹂
璃々奈ったら本当に我がままなんだから。私なんて︵仮︶だった
から去年は参加できなかったのよ。それだけ手芸部の部活納めのお
茶会への道は険しいのよ。全くの部外者が参加できるようなお茶会
ではないのよ。
﹁麗華様はネックウォーマーを作っていらっしゃるのですか?﹂
﹁うふふ、秘密﹂
腹巻とはまだカミングアウトできていない⋮。いざとなったら狸
用だと言ってやろう。可愛いピンク色だけどね!
1149
私は先日の桜ちゃんと葵ちゃん達の会話を聞いて、料理に対する
危機感を覚えた。世間の女子はみな料理が当たり前に出来るものな
のだろうか。それはまずいぞ⋮。
さりげなく芹香ちゃん達にも聞いたら、出来ない子のほうが多か
った。お手伝いさんがいる家の子が多いからなぁ。でもそれで安心
してはいけない。私だっていつ何時お料理を作らなくてはいけない
事態になるとは限らないのだから。そう、例えば好きな人にお料理
を作らないといけない時とか?!
料理本を片手に自己流でやってみようかと何回かチャレンジしてみ
たけれど、すぐに飽きてやめてしまった。やっぱり専門家に習いに
行くのが一番か?
う∼んと考えていた時に、ふと耀美さんのことが頭に浮かんだ。
確か将来料理の先生になりたいと言っていなかっただろうか。
ここだけの話だけど、私はあまり料理の知識も技術もない。基礎
の基礎から教えてもらわないとダメだと思う。耀美さんなら不器用
な私相手でも優しく教えてくれる気がするんだよね。
私は耀美さんにお料理を習いたいというメールを送ってみた。耀
美さん、引き受けてくれるかな∼。
耀美さんからはすぐに私でよかったらという返事がきた。今度耀
美さんの手料理を食べさせてもらって、その味が私の味覚が合うか
確かめてから決めてくださいだって。わーい!
私だって未来の彼氏にお弁当を作れるようになっちゃうぞ!待っ
ててね、まだ見ぬ我が恋人よ!
まだ確定ではないので、お料理を習うかもしれないことをお兄様
だけにこっそり話したら、微妙な顔をされてしまった。どうして?
一番に食べさせてあげるって言ってるのに。
1150
とあった。なんだこりゃ。
なぜか鏑木にツボの本をもらった。付箋の貼ってある場所には
疲れに効くツボ
え∼っと、おなかが引っ込むツボは⋮。
1151
175
鏑木からもらったツボの本は、なかなか面白かった。人間の体に
はずいぶんとたくさんのツボがあるんだな∼。
むくみ、水分代謝にはおへその上の水分というツボが効く、とな。
試しに指で押してみる。う∼ん、どうだろう?足の疲れとむくみに
はふくらはぎの真ん中の承山ね。うおぉっ、痛い!効いている気が
する!
私は手近な丸いぺンで、足の裏の反射区もぐりぐり押した。痛たた
た⋮。
すっかりツボにはまった私は、次の日にシールを剥がして貼るタ
イプのお灸を買ってみた。お灸は前から気になっていたんだよね∼。
痕になると怖いので足の裏から貼ってみよう。湧泉にぺたり。う
おぉっ!熱痛い!熱痛いから効いてる気がする!本当か?!
お灸を貼った箇所は赤くなっていた。これは皮膚の柔らかいとこ
ろや、目立つところにはやらないほうがいいな。足の裏は煙が消え
てお灸を剥がすまでうつ伏せでいないといけないのが少し不自由な
ので、手のひらにすることにした。手のひらの真ん中は労宮か。ぺ
たり。親指の付け根の魚際は指で押すと気持ちいい∼。ここにもぺ
たり。それから全部の指先に貼ってと⋮。
煙が消えるまでは指を広げ手のひらを上にし、同時に足の裏のツ
ボも刺激するために前に買った青竹を踏む。土踏まず痛∼い!でも
この痛みの向こうに健康が!
﹁麗華、ちょっといい?﹂
ノックの音がしてお兄様の声が聞こえたので、入ってくださいと
お願いする。すべての指にお灸を貼ってある私の手では、ドアを開
1152
けることも出来ないからね。
部屋に入ってきたお兄様は、私の姿に目を見開いで絶句した。
﹁こんな姿でごめんなさい、お兄様。お兄様もご一緒にいかがです
か?﹂
私は青竹をリズミカルに踏みながら誘った。
﹁麗華、仕事が一段落ついたら食事にでも行こうか。悩みがあった
ら相談に乗るから⋮﹂
﹁わぁ、嬉しいですわ﹂
お兄様とお食事か。だったらそれまでに念入りに胃腸のツボを押
しておかないとね。最初はなにこれって思ったけど、いやぁ、いい
本もらっちゃったな∼。く∼っ、効いてる、効いてる!
とうとうこの日がやってきた。2、3年生のメンバーを中心とす
る、ピヴォワーヌ次期会長を決める話し合いのためのお茶会。
話し合いと言っても、毎年あらかじめ根回しなどがなされ、当日
にはほぼ誰が次期会長になるかは決まっていたりするのだけれど。
あー、結局断りきれなかった⋮。おなかが石を詰め込まれたよう
に重苦しいよ。やだなぁ、来年いっぱい平穏無事に過ごせるかなぁ。
ムリだろうなぁ。
ダメ元で円城にお願いしてみようかとも考えたけど、のらりくら
りと笑顔でかわされそうだし、もし引き受けてくれたとしても、そ
のあとが怖い。あいつに借りを作ったら、闇金なみの取り立てに苦
1153
しめられそうだ。
しょうがない。自分で解決できないくらいの大きなトラブルが勃
発したら、最後はお兄様に泣きつこう。もしかしたら伊万里様も助
けてくれるかもしれない。お兄様は頭脳で、伊万里様は色仕掛けで
きっとなんとかしてくれるはずだ。心を落ち着かせるために、こっ
そり手のツボを刺激。
﹁では、来期のピヴォワーヌの会長についてですけれど、どなたか
立候補なさりたいかたはいらっしゃるかしら?﹂
当たり障りのない話題が一通り終わると、現会長の瑤子様が本題
を口にした。もちろん私は手を挙げない。自分から名乗りを上げる
のは、さすがにちょっと⋮。
﹁もし、誰もいらっしゃらなければ私が推薦したいのは⋮﹂
﹁俺がやる﹂
瑤子様の言葉をさえぎって手を挙げたのは、信じられないことに、
皇帝、鏑木雅哉だった。
﹁え⋮﹂
﹁鏑木様⋮?﹂
全員が驚愕した。もちろん私もびっくりだ。
鏑木が自ら会長に立候補?!そんなバカな。あの会長なんて職に
は全く興味もなさそうな鏑木が?!嘘でしょう、どういう風の吹き
回しだ?!ありえない。
﹁俺では、不満ですか?﹂
1154
固まる私達に、鏑木が視線で威圧した。それを受けて全員が慌て
て取り繕った。
﹁鏑木様が引き受けてくださるんでしたら、ねぇ?﹂
﹁ええ、願ってもないことだと思いますけど⋮﹂
﹁ピヴォワーヌの会長に、鏑木様ほどふさわしいかたはいないと僕
達も思いますが⋮﹂
でも本当に?全員が半信半疑だった。そりゃあ瑤子様を筆頭にみ
んな鏑木に会長をやってもらいたいのは山々だったけど、絶対に引
き受けないと思っていたからこそ、最初から諦めていたのだ。
﹁ならば来期の会長はこの俺、鏑木雅哉ということで、異論はない
ですね?﹂
全員が頷いた。
﹁そうですか。では、そういうことで﹂
鏑木はそう言って話を終わらせると、尊大な態度でソファに背を
預け、お茶の香りを楽しんだ。
話し合いが終わると、瑤子様が申し訳なさそうな顔ですぐに私の
元にやってきた。
﹁麗華様、本当にごめんなさいね。まさか鏑木様が立候補なさると
は思ってもみなくて⋮﹂
﹁いえ。今日のことは私も驚きましたもの。でもむしろ、ピヴォワ
ーヌの顔ともいえる会長に鏑木様がなってくださるのなら、これほ
1155
ど心強いことはないと私も思いますのよ?﹂
﹁そうですわね。鏑木様はピヴォワーヌというより、今やこの瑞鸞
の顔とでも言えるお方ですもの。その鏑木様が会長ならば、水崎有
馬率いる生徒会など物の数ではないわ﹂
﹁ええ﹂
﹁会長の鏑木様を中心に、両脇に円城様と麗華様がいらっしゃる来
期のピヴォワーヌ。なんて素晴らしいんでしょう。ねぇ、麗華様?﹂
ほほほと瑤子様は機嫌よく笑った。
なんだかよくわからないけど、私がピヴォワーヌの会長になると
いう最悪の事態からは逃れることができたらしい。これで総白髪の
運命からは回避だ。
やったー!待てば海路の日和あり!ってちょっと違うかな?果報
は寝て待て?これも違う?まぁ、なんでもいっかぁ。うっほーい!
幸運を噛みしめスキップしそうな勢いでサロンを出ようとした私
を、鏑木が引き止めた。え、なに。もしかしてやっぱりやーめたっ
て話?それなら絶対に聞かないよ!
﹁なんでしょう⋮﹂
﹁お前、会長になるつもりだったのか?﹂
﹁え?﹂
なんで鏑木がそんなことを?あぁ、瑤子様との話が聞こえていた
のかな。
﹁誰も成り手がなければ私に、という話はされていましたけど、私
自身は会長は荷が重すぎると思っていましたので、出来れば別のか
たにやっていただければと思っていましたわ﹂
﹁そうか。だったらいい﹂
1156
なんだそれと思っていたら、鏑木の隣にいた円城が、﹁雅哉は吉
祥院さんから横取りしたんじゃないかって思ってたんだよね?﹂と
説明してくれた。あぁ、そういうこと。
﹁本当に本心から会長職への野心など持っておりませんでしたから、
お気になさらないでください。来期からの会長、どうぞ頑張ってく
ださいね﹂
﹁ああ﹂
あ、そうだ。忘れるとこだった。
﹁鏑木様、いただいた本、とても興味深く拝見しておりますわ。あ
りがとうございました。では、ごきげんよう﹂
さーて、悩みも解消されたことだし、今夜もお灸をしちゃおうか
なぁ。
でも鏑木って、なんで突然会長になろうなんて思ったんだろう?
ま、いっか。
朝起きていつものようにお風呂に入って目を覚ます。はぁ、あっ
たかい。髪は朝濡らさないと寝癖が付いてきれいな巻きが出ないか
らね。
お風呂からあがって鏡の前でスキンケア。化粧水は惜しみなくた
っぷりとね。たっぷりと⋮って。
﹁わああああっっ!!﹂
1157
ないっ!眉毛がないっ!!
私は鏡に両手をついて、己の眉毛を凝視した。ない⋮。
右の眉毛の眉山が、眉頭と眉尻を残してばっさりとなくなってい
た。真ん中だけない眉毛⋮。
片方の眉毛の、それも一部分だけがなくなっただけで、こんなに
変な顔になるなんて⋮。いや、そんな感想を抱いている場合じゃな
い。なんで右の眉毛がなくなった?!いつからだ?!
とにかくこれをどうにかしなければ。こういう時に一番頼りにな
るのは⋮。
﹁お母様∼っ!﹂
私は手で眉毛を隠して、お母様の元にすっ飛んで行った。
お母様は私の眉毛を見て悲鳴をあげた。
﹁麗華さん、貴女いったいなにをしたの?!﹂
﹁わかりませんわ、お母様!さっき鏡を見たらこんな状態になって
いましたの﹂
﹁間違って自分で剃ったのではなくて?﹂
﹁いいえ!そんなことは絶対にしていませんわ。しかも眉毛の真ん
中だけ剃り落すなんて、ありえません!﹂
﹁そうよね⋮。だったらどうして⋮。麗華さん、もしかして寝てい
る間に自分で抜いたのではないかしら?﹂
﹁そんな器用な真似できませんわ。たぶん﹂
﹁そうよね﹂
﹁どうしましょう、お母様∼っ!﹂
﹁とにかく、今日は学校をお休みなさい。今からお母様と病院に行
きましょう﹂
1158
うんうんと私は半泣きで頷いた。
うお∼んっ!こんな間抜けな顔じゃ、人前に出られないよぉっ!
いったい、どうしちゃったの、私の眉毛!虫にでも刺されたのか?!
お父様とお兄様が私達の騒ぎにどうしたとやってきたけれど、見
ないでください!特にお兄様にはこんな変な顔を絶対に見られたく
ない!
病院での診断結果は、円形脱毛症だった。
どうやら円形脱毛症は頭だけに出るものではないらしい。完全に
油断していた。
﹁結構よくあることですよ。男性ではヒゲに円形脱毛症が現れるこ
ともあります﹂
そうなんだ。私のメンタルってば、ブランマンジェのように繊細
だから、ここしばらくのストレス続きに耐えられなかったのね⋮。
塗り薬を処方され、お母様に支えられながら帰宅。一生生えてこ
なかったらどうしよう⋮。悩んじゃダメだ。余計に抜ける。
鏡を見ながら綿棒で丁寧に薬を塗りこむ。どれくらい効果がある
のかわからないけど、指で適当に塗って、右眉だけボーンッと生え
たらそれも困るし。明日からアイブロウペンシルと前髪でなんとか
隠せるかなぁ⋮。
﹁あ∼あ⋮﹂
お正月には絶対に厄除けのお祓いをしてもらおう。
そして今はまず、育毛のツボ押しだ。
1159
176
ハゲちゃった眉毛はウォータープルーフのペンシルで自然に見え
るよう、丁寧にきれいに描いた。部分的に抜けちゃってるだけなの
で、よく見なければわからないはずだ。世の中にはスッピンになる
と、毛抜きで抜きすぎて麿眉の女の人もいっぱいいるし!それに比
べたら私は眉頭も眉尻も残っているし!
前髪も眉毛が隠れるくらいの長さがあるから、走らない、向かい
風に立たないを守ればきっと大丈夫!車通学、万歳。
私は海藻づくしの朝食を食べると、学校へ行く準備をした。
私が登校すると、芹香ちゃん達が昨日突然休んだ私を心配してく
れた。
﹁前日までお元気そうだったのに、麗華様が風邪でお休みだって聞
いて心配しましたのよ?﹂
﹁ごめんなさい。朝起きたら体調が悪くて⋮。疲れがたまっていた
のかもしれませんわ﹂
﹁まぁ、あまり無理なさらないで?﹂
﹁それで麗華様、今日はもう体調は平気なんですか?﹂
﹁ええ。病院にも行きましたし、もうすっかり﹂
﹁良かったですわ。もうすぐ冬休みで、クリスマスもありますもの
ね!﹂
クリスマスか⋮。
1160
﹁みなさんはクリスマスはどうなさるの?﹂
私が聞くと、みんなは﹁私はパーティーに出席します﹂﹁私は家
族で旅行に﹂などと計画を話してくれた。みんなしっかり予定が入
っているらしい。ちぇっ、やっぱり暇なのは私だけか。
﹁麗華様のご予定は?﹂
﹁親しい方達からのお誘いで、ちょっとしたパーティーに⋮﹂
﹁まぁ!麗華様が出席されるパーティーですから、きっと華やかな
のでしょうねぇ!﹂
﹁いえ、そういった類のパーティーではありませんのよ?﹂
空想の友達とのパーティーです。
これ以上追及されるとボロが出るので、私は話題を変えた。
﹁私が昨日お休みしている間に、なにか変ったことはありませんで
した?﹂
﹁いえ、特には﹂
﹁あら、あったじゃない!ビッグニュースが﹂
﹁そうよ。昨日は鏑木様が次のピヴォワーヌの会長になるっていう
話で持ちきりでしたのよ!﹂
あぁ、それか。昨日は朝から眉毛がハゲるという衝撃的な出来事
に見舞われて、一日中大騒ぎしていたから、すっかり忘れてたよ。
あのお茶会が、なんだかずいぶん前のことのように思えるな。
﹁まさか鏑木様が会長をなさるなんてね∼﹂
﹁芙由子様から聞いたんですけど、ご自分から立候補なさったんで
すって?あの鏑木様がと、みんな驚きましたのよ﹂
﹁でも昨日もみんなで話していたんですけど、鏑木様が体育祭や学
1161
園祭でクラスのリーダーシップをとると、クラスが一丸となって纏
まりますもの。会長にはぴったりだと思いますわ﹂
﹁そうよね∼。瑞鸞の皇帝がピヴォワーヌの会長だなんて来年が楽
しみ!﹂
﹁でも逆に生徒会の人達はピリピリしてましたけど⋮﹂
﹁そうなんですの?﹂
私は昨日の生徒会の様子を聞き返した。
﹁生徒会長は特に気にしているようには見えませんでしたけど、ほ
かの役員達は難しい顔をしていましたわね﹂
﹁来年から鏑木様を相手にするとなれば、生徒会役員達の顔色も悪
くなるわよねぇ﹂
﹁鏑木様のピヴォワーヌ会長就任の話に平然としていた生徒会のメ
ンバーなんて、生徒会長と高道若葉くらいじゃない?﹂
﹁高道さん?﹂
﹁あの人はなんにも考えていないのよ、きっと。いっつもボケッと
した顔をしているんだから。あれで本当に特待生になれるほど頭が
いいのかしら。信じられないわ﹂
﹁でも噂では電卓さばきが生徒会一だとか﹂
﹁なによ、それ。頭の良さと関係あるの?﹂
﹁さぁ﹂
ふぅん。1日休んだだけで、いろいろあったんだなぁ。しかし鏑
木が次期会長になることが、それほど騒ぎになるとは。まぁ、鏑木
だからかな。これが私だったらそんなに話題にもならなかっただろ
うし。
でも改めて、本当に会長をやるはめにならなくて良かった。鏑木
に感謝だ。あのまま瑤子様に推薦されて会長にされてたら、今頃私
の眉毛は左右全部丸ハゲになっていたに違いない。
1162
おっと、そこの男子、迂闊に窓を開けないでおくれ。前髪が風に
なびくじゃないか。
サロンに行くと、﹁麗華様、風邪だったんですって?大丈夫です
か?﹂とみなさんに声を掛けられた。仮病なのに朝からいろんな人
に心配されて、段々後ろめたくなってきた⋮。
おとなしくいつもの定位置でカモミールティーを飲んでいたら、
鏑木と円城がやってきた。
﹁吉祥院さん、昨日風邪で欠席したんだってね。もう平気なの?﹂
﹁ええ⋮﹂
しょうがないから、病み上がりっぽく弱々しげに微笑んでみた。
﹁咳が出るならかりんがいいよ。雪野も喘息の発作が出ると、よく
かりん湯を飲んでいるんだ﹂
﹁そうなんですか。ありがとうございます﹂
本当は眉毛以外は元気いっぱいなんだけどね。できれば咳よりも
育毛に効く飲み物を教えて欲しい。
﹁今朝登校したら、鏑木様のピヴォワーヌの会長就任の話がすっか
り広まっていて驚きましたわ﹂
私の前で足を組んで紅茶を飲んでいた鏑木が顔を上げた。
1163
﹁まぁな⋮﹂
﹁昨日はもっと凄かったけどね﹂
﹁そうですか﹂
﹁面倒くさがりの雅哉が会長なんて、絶対にやらないだろうって誰
もが思ってたんじゃない?﹂
﹁そうですわねぇ﹂
﹁どういう風の吹き回しなんだか﹂と円城が笑うと、ふいと鏑木が
顔を逸らした。
私がジッと鏑木を見ていると、その視線に気づいて嫌そうな顔を
した。
﹁なんだよ﹂
﹁いえ、別に﹂
なんで会長をやろうなんて思ったんだろうねぇ、鏑木は。
円城が新しいお茶を取りに席を立つと、私とふたりきりになった
鏑木がボソッと呟いた。
﹁⋮⋮ピヴォワーヌは、あいつをよく思わない人間が多いからな﹂
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声だったけれど、私の耳
にはしっかりと届いていた。
ふーん⋮。やっぱり若葉ちゃんのためだったか。実は尽くすタイ
プだな、鏑木。
﹁お前は⋮﹂
﹁え﹂
﹁お前は、あいつをどう思ってる⋮?﹂
1164
私を見据える強い視線に、緊張で心臓がドクンとした。
﹁特には、なにも﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
怖い。もっとしっかりと若葉ちゃんの敵ではないとアピールした
ほうがいいのかもしれない。でないと敵だと勘違いされて消えかか
っているはずの破滅ルートが復活してしまうかもしれない。
私が口を開こうとした時に円城が戻ってきてしまい、そのまま鏑
木が席を立ったので、話すタイミングを逃してしまった。
やばい、今度は左眉毛の危機か⋮?!家に帰ったらすぐに薬塗ら
なくちゃ。
若葉ちゃん特製ブッシュドノエルは、休日に私が取りに行くこと
になった。わーい、楽しみだ!
若葉ちゃんはクリスマス、どうするのかなぁ。
1165
177
ブッシュドノエルを受け取る日、私達は若葉ちゃんの家の最寄駅
で待ち合わせをした。
﹁はい、これ!わざわざ取りに来てもらっちゃってごめんなさい!﹂
﹁こちらこそ、図々しくケーキを作ってもらっちゃって申し訳ない
わ﹂
﹁全然!だってブッシュドノエルは結構簡単だし。って、手抜きじ
ゃないよ?﹂
﹁もちろんわかっていますわ﹂
今日は若葉ちゃんは用事があるとかで、これから電車に乗らない
といけない。私も帰る方向が同じだったので一緒に乗ることにした。
﹁吉祥院さんも電車に乗ることあるんだね⋮﹂
﹁あら、今日もここまで電車で来たのよ?﹂
若葉ちゃんは意外だという顔をした。まぁねー。毎日学院まで車
通学だもんね、私。
﹁ピヴォワーヌの人って、電車やバスには乗ったことがないと思っ
てました﹂
﹁確かにそういう方々も多いかもしれないわねぇ﹂
﹁それじゃあもしかして吉祥院さん、自転車も乗れたりする⋮?﹂
﹁もちろんよ﹂
﹁えーっ、そうなんだぁ!﹂
1166
私が自転車に乗れるのがそんなに意外かね。前世では毎日のよう
に乗っていたし、今世でも小学校のお受験の時に自転車教室に通わ
されたからね。お受験以来乗っていないけど。
席がふたつ空いたので、私達は並んで座った。今日の若葉ちゃん
は赤いダッフルコートを着ていた。元気な若葉ちゃんによく似合っ
ている。
﹁今日はどこへ出かけるんですの?﹂
﹁もうすぐクリスマスでしょ。だから弟達のプレゼントを買いに行
くの﹂
﹁そうでしたの﹂
若葉ちゃんの家は兄妹が多いから、プレゼントを用意するのも大
変そうだな。
﹁高道さんは今年のクリスマスはどうなさるの?﹂
﹁私?私は毎年お店の手伝いだよ。うちはケーキ屋だからクリスマ
スは1年で一番忙しいんだ。もう冬休みに入ってるからね、朝から
働くよ∼﹂
﹁それは大変ですわね﹂
﹁うん。先に予約を受けているんだけど、受け渡し時間が何人もか
ぶると結構大変。そういう時に限って予約なしのお客さんが買いに
来ちゃったりして、てんてこ舞いだよ∼﹂
﹁あら∼。では誰かとクリスマスを楽しく過ごすなんてことは出来
ませんのね﹂
﹁残念ながらねー。でもお店が終わった後、家族みんなでパーティ
ーするよ。パーティーっていっても、吉祥院さん達がするような豪
華なパーティーじゃないけどねー﹂
若葉ちゃんはあははと笑った。
1167
﹁鏑木君の家のパーティーでは、楽団が演奏したりオペラ歌手が歌
ったり、マジシャンがショーをしたりするんでしょ。凄いよね∼﹂
﹁それは、鏑木様から聞いたの?﹂
﹁え、うん﹂
﹁もしかしてパーティーに誘われたとか?﹂
﹁う∼ん⋮﹂
あのバカ⋮。
﹁でも私はお店の手伝いがあるしね。それに私が鏑木君の家のパー
ティーなんて、場違いにも程があるだろうし。本物のマジックショ
ーは見たいと思っちゃったんだけどね﹂
﹁そう﹂
﹁きっとさ、ケーキも物凄いのが出るんだろうね∼﹂
﹁あら、私は今日高道さんからもらったケーキのほうが絶対におい
しいと思うわ﹂
﹁え∼っ、でもそれはお父さんじゃなくて私が作ったケーキだから
なぁ。ちょっと自信ないかも。お父さんが作ったケーキだったら胸
を張って渡せるんですけどね﹂
﹁ふふふ﹂
﹁⋮だからね、あの時、吉祥院さんがうちのケーキを擁護してくれ
たの、凄く嬉しかったんだ。ありがとうございました﹂
﹁高道さん⋮﹂
﹁あっ、私ここで降りなきゃ。じゃあね、吉祥院さん!﹂
﹁ええ、ごきげんよう﹂
若葉ちゃんはホームから元気に手を振って見送ってくれた。
帰ってから開けた若葉ちゃん手作りのブッシュドノエルには、メ
レンゲで作られたサンタクロースの人形の隣に、巻き髪の女の子の
1168
メレンゲ人形も付いていた。
ええっ!もしかしてこの女の子って、私?!可愛すぎるー!若葉
ちゃん、ありがとう!しっかり写真に撮っておかなくちゃ!
私を模ったメレンゲ人形は、あまりに可愛いくて食べるのがもっ
たいなかったので、部屋の小型冷蔵庫にそれだけ取っておくことに
した。あとでお兄様にだけ自慢しちゃおー!
若葉ちゃんには私とメレンゲ人形のツーショット写真とお礼の言
葉をメールした。
サロンで鏑木に会った時、私はあのメレンゲ人形を自慢したくて
たまらなかったが、ここはぐっと我慢した。このことを知ったら悔
しがるかな?
だがしかし鏑木よ、しれっとクリスマスに若葉ちゃんを誘ってい
たとは、なにげに積極的だよね。ま、断られちゃったんですけどね。
うぷぷぷぷ。
私の心の声が漏れていたのか、鏑木が私を胡散臭そうな目で見て
きた。いけない、いけない。
﹁そうだ、吉祥院さん。雪野が吉祥院さんに渡したいものがあるら
しいから、終業式の日かその前にプティに顔を出してあげてくれる
?﹂
﹁雪野君が?いったいなんでしょう﹂
﹁なんかね、クリスマスプレゼントを渡したいんだって。本当は当
日に渡したかったみたいだけど、冬休みに入っちゃってるからね﹂
﹁まぁっ、雪野君が私に?!﹂
なんということでしょう!天使からクリスマスのプレゼントをも
らえるなんて!
終業式の日は難しそうなので、その前日に行くと円城に伝言をお
1169
願いしていると、なぜか鏑木も一緒に行くと言いだした。
﹁雪野がプティでどんな様子なのか、俺も一度見てみたい﹂
え∼∼っ!勝手に別日にひとりで行けばいいじゃんか!すっごく
迷惑なんですけど!
去年は呼ばれなかった手芸部の部活納めのお茶会。しかし今年は
大手を振って参加できるのだ。なぜなら私は正式部員で、しかも部
長だから。ふっふっふっ。
普段は食べ物の持ち込みは禁止なんだけど、こういった特別な日
は学院側も黙認してくれる。私達はお茶やお菓子をテーブルに並べ
た。あぁ、楽しいなぁ。
すると何人かの部員が、手作りのキッシュやシュトレンなどを出
してきた。
﹁もし良かったら、私が作ったものなんですけど﹂
﹁わぁ、おいしそうですわね!﹂
お茶請けが甘いものばかりだったので、これはありがたい。ドラ
イフルーツの入ったパンっておいしいよねー。
みんなで楽しく食べながら今年あった出来事などをおしゃべりを
していると、隣に座っていた子が手作りキッシュを食べながら、﹁
お恥ずかしいのですけど、私はお料理をほとんどしたことがないん
です﹂と言い、それを聞いた数人の子が﹁実は私も﹂と同意した。
﹁家ではなかなかお料理をする機会ってないですものねぇ﹂
1170
﹁そうなの。必要に迫られないとどうしてもね﹂
﹁麗華様はどうですか?﹂
げっ、私?!
﹁私はどちらかというと、お菓子作りのほうが好きなの。でも簡単
なものしか作れないのよ?父と兄が私の作るチョコレートブラウニ
ーが好きなので、毎年バレンタインに作ったり。あとは自家製ヨー
グルトや、庭に咲いている薔薇を練り込んだクッキーを焼いたりと
か⋮﹂
﹁まぁ、素敵ですね!﹂
﹁ううん。そんな全然大したものじゃないの。ただちょっとした工
夫がね、作り手の個性になると思うのよ﹂
﹁そうなんですかぁ。さすが麗華様ですね﹂
﹁麗華様のお菓子、私達もぜひ食べさせてもらいたいですわ﹂
﹁うふふ。でも兄に、私の作るお菓子は家族限定だからねって約束
させられているの﹂
﹁そうなんですか?お兄様に溺愛されているんですねぇ、麗華様は﹂
﹁どうなのかしら?﹂
私達はうふふ、おほほと和やかに笑い合った。
ホッ。お菓子の話題でなんとかごまかせた。早く耀美さんに料理
を習いに行かなくちゃ。一応来年からって話にはなっているんだけ
ど。実は包丁も満足に使えないなんて、みんなには絶対に言えない
や。
しかしこの前の若葉ちゃんのブッシュドノエルは本当においしか
ったなぁ。チョコの甘さと中に入っていた苺の酸味が絶妙だった!
若葉ちゃんも簡単だって言ってたし、冬休みに私も作ってみようか
な。そうだ、苺の代わりにラベンダーのジャムを入れてみたらどう
だろう。これは試してみる価値ありだな。
1171
女子部員の中にひとりだけの男子部員の南君は、お茶会が始まっ
た当初は若干居心地が悪そうだったけど、手芸の話になると活き活
きと話していた。
﹁南君、部活納めに出たがっていた璃々奈は、あれからどうでした
?﹂
﹁少し不貞腐れていましたけど、でも納得してくれましたよ﹂
﹁それならよかったわ。いつも南君達には迷惑ばかりかけているの
でしょう?﹂
﹁そんなことないです。古東さんは誤解されやすいですけど、友達
思いの優しい人だと思います﹂
南君は顔を赤らめてお茶を飲んだ。へー、ふーん。蓼食う虫も好
き好きっていうしねー。
まぁなんにせよ、手芸部の皆さん、来年もどうぞよろしくね!
1172
178
雪野君達に会いに行くプティへの道に、今日は邪魔者がふたりも
付いてきた。せっかくの私の癒し空間、サンクチュアリだったのに。
思わず両手に持っていた紙袋をぶんぶん振って歩いていたら、円
城に﹁吉祥院さん、ずいぶん大荷物だね。持つよ﹂と声を掛けられ
た。そうですか。では遠慮なく。私は一番大きな袋を円城に渡した。
﹁わ、結構重いね。これって中身はなに?﹂
﹁クリスマス限定ショコラですわ。プティの子達に配るんです﹂
雪野君が私にクリスマスプレゼントをくれると聞いたので、私も
雪野君へのお返しと麻央ちゃん、悠理君へのプレゼントを用意して
きたけれど、それ以外の子達にはなにもないというのはどうかと思
ったので、クリスマス仕様のチョコレートを人数分用意してきた。
ちょっとしたプレゼントは消え物が一番です。
﹁へえ。ここのショップからクリスマス限定のショコラなんて出て
たんだ﹂
﹁アソートでツリーの形をしているものが入っていたりするんです
よ﹂
すると横から鏑木が﹁お前、限定モノ詳しいよな﹂と、円城の持
つ紙袋を覗きこんだ。別に詳しくないけど。そして鏑木にそんなこ
とを言われるほど、私達は親しくないはずだけど。あれか、前に黄
泉比良坂で魔除けに渡した桃のギモーヴか。
私達がプティに着くと、すぐに雪野君達が笑顔でお出迎えしてく
れた。
1173
﹁麗華お姉さん!﹂
﹁雪野君、ごきげんよう。麻央ちゃんも悠理君もごきげんよう﹂
﹁ごきげんよう、麗華お姉様!﹂
﹁こんにちは、麗華、お姉さん﹂
悠理君はいつまで経っても私をお姉さんと呼ぶのが恥ずかしいみ
たいだな∼。うんうん、男の子だもんね。言いにくかったらムリに
お姉さんを付けないで、麗華ちゃんと呼んでくれてもいいのよ?
プティの子達は鏑木と円城が来ることを知らなかったらしく、普
段滅多に近寄ることの出来ない高等科の有名人ふたりに大騒ぎをし
て、周りを取り囲んだ。
なんということだ。この1年間、プティに遊びに来る上級生は私
くらいしかいなかったから、お山の大将状態で子供達の人気は私の
独占状態だったのに、あっという間に子供達のハートを根こそぎ持
っていかれてしまった。私の妹分の麻央ちゃんまで、ちょっと向こ
うをチラチラ気にしているじゃないか!きーっ!やっぱり連れてこ
なければ良かった!
﹁麗華お姉さん?どうしたの。こっちに座って?﹂
あぁ、雪野君!君だけだよ、私の味方は!
私は雪野君に促されて、ソファに座った。あ、円城様、そのチョ
コレート適当に配っておいて。
﹁僕ね、麗華お姉さんに渡したいものがあったんです﹂
そう言って、雪野君が小さな両手で私に赤いリボンの付いたプレ
ゼントを差し出した。
1174
﹁麗華お姉さん、ちょっと早いんですけど、メリークリスマス!﹂
﹁ありがとう、雪野君!﹂
箱を開けると、中にはクリスマスツリーの前で雪だるまを作る男
の子のスノードームが入っていた。可愛い!
﹁もしかしてこの男の子は雪野君?﹂
﹁うんっ!﹂
雪野君は笑顔で頷いた。雪野君は体が弱いから、寒い雪の日に外
で大きな雪だるまを作るなんてことを、今までしたことがないのか
もしれないなぁ。確か寝込んでいる雪野君のために、円城と鏑木が
庭に雪だるまを作ってあげたっていう話を前に聞いたけど。いつか
雪野君がこのスノードームの男の子のように、自分で雪だるまを作
れるようになるといいな。
﹁では私からも。メリークリスマス、雪野君﹂
私が雪野君にプレゼントしたのは、制服にも合わせられる紺のマ
フラー。端に小さな白い雪の結晶のワンポイント付き。車通学だか
らマフラーはほとんど使わないかもしれないけど、どうだろう?
雪野君は﹁わぁ、あったか∼い!﹂とマフラーを首に巻いて、フ
リンジに頬ずりをした。
﹁この雪の結晶って、僕の名前が雪野だからですか?﹂
﹁そうよ。雪野君のマーク﹂
特注で入れてもらったんだ。雪野君は﹁嬉しいです﹂と輝く笑顔
を見せてくれた。喜んでもらえて良かった。
麻央ちゃんと悠理君にはお揃いのお道具バッグをプレゼントした。
1175
お揃いっていいよね∼。憧れるなぁ、好きな人とのお揃い。ペアル
ックはイヤだけど。
﹁麗華お姉様、ありがとう!大切に使いますね。それと、私と悠理
からもクリスマスプレゼントです!﹂
麻央ちゃんと悠理君からのプレゼントは、くるぶし丈のふかふか
モコモコのルームブーツだった。リボンに付いたポンポンが可愛い!
﹁まぁ、あったかそう!私は寒がりなので、これから毎日使わせて
もらいますわ﹂
色もピンク色で、私が編んだ腹巻とぴったりだ。これで越冬準備
は万全だな。
私達がほのぼのしていると、チョコを配り終えた円城と鏑木がや
ってきた。うむ、ご苦労。余ったチョコは褒美として受け取るがよ
い。
﹁雪野、そのマフラー、吉祥院さんにもらったの?どうもありがと
う、吉祥院さん﹂
﹁いいえ、どういたしまして。こちらこそ、こんなに可愛いプレゼ
ントをいただいてしまって、ありがとうございました﹂
そこにチョコを持った子供達が﹁麗華様、プレゼントをありがと
うございます﹂と、私の周りに集まって口々に笑顔でお礼を言って
くれた。ぬほほ、プレゼント効果あり。
﹁やっぱり麗華お姉様にも、私の家のクリスマスパーティーに来て
欲しかったなぁ﹂
1176
麻央ちゃんがちょっと口を尖らせて言った。
﹁麻央。麗華、お姉さんにも都合があるんだから我がままを言っち
ゃダメだよ﹂
﹁だって⋮﹂
ううっ、私も行きたいです!あの時、余計な見栄を張ったばかり
に!私のバカ!都合がついたとか言っちゃおうかな⋮。
﹁雪野もお邪魔するんだよね。よろしくね﹂
麻央ちゃんは円城に微笑みかけられて、頬を赤くしながら﹁はい
っ!﹂と返事をした。麻央ちゃん!悠理君が隣にいるんだよ!
﹁そういえば雅哉のお母さんが、吉祥院さんがパーティーに来られ
なくて残念って言ってたね﹂
﹁あぁ⋮﹂
円城の言葉に、鏑木がどうでもいいような顔で頷いた。
その話は先月の吉祥院家のパーティーの時に鏑木夫人に誘われ、
あとからお母様達にも行くように何度も言われたけれど、頑として
断った。だって猫かぶりって疲れるんだもん。ほかの堅苦しいパー
ティーも同じく。
しかしそんなお母様達からの面倒なパーティーの参加要請も、眉
毛に円形脱毛症が発生したおかげで、すべて断ることが出来た。﹁
こんな眉毛では人前に出たくありません!﹂と嘘泣きで訴えたら、
同性としてお母様も気持ちはわかると許してくれたのだ。
災い転じて福となす。
﹁円城様は鏑木様主催のパーティーに行かれるのですか?﹂
1177
﹁いや、僕はその日、用事があるから﹂
ふーん、そうなんだ。
雪野君がぷいっと横を向いたのを見て、円城が苦笑いしながら﹁
すぐに帰ってくるから﹂と頭を撫でた。天使の雪野君も、お兄ちゃ
んの前ではそんな顔するのね∼。可愛い。
﹁鏑木様もお家のパーティーに出席なさるのでしょう?﹂
﹁まぁな。去年出なかったから、今年は少しでいいから顔を出せと
母親にも言われているし。でもすぐに帰るつもりだけどな﹂
﹁そうなんですの﹂
去年⋮。あぁ、君は旅に出ていたんだっけね。
鏑木は退屈したのか、席を立つと子供たちを集め出した。なにを
始める気だ。
﹁吉祥院さんは友達と過ごすんだっけ?﹂
﹁ええ、まぁ﹂
円城は勘が鋭いから、エア友達だとバレたらどうしよう⋮。バレ
て寂しいヤツだと思われたらどうしよう⋮。なにか違う話題を⋮。
﹁雪野君は、今年はサンタさんになにをお願いしたの?﹂
﹁えっ﹂
雪野君はきょとんとした顔をした。あれ?
﹁サンタさんが選んでくれたものなら、なんでもいいです﹂
ニコッと雪野君が笑って答えてくれた。
1178
子供って、いつまでサンタクロースを信じているんだっけ⋮?
鏑木は子供達の前で500円玉を消したり、ティッシュを浮かし
たりして拍手喝采を浴びていた。
スナック芸?
瑞鸞は冬休みに入った。
1179
179
冬休みは塾の冬期講習だ。期末テストの成績が落ちてしまったの
で、気合を入れ直さないとね!
学生の本分は勉強なので、クリスマスももちろん返上だ。学生に
クリスマスなど関係ないのだ。当然である。
そんな決意を胸に秘めた私に、同じ冬期講習に通う梅若君達が、
せっかくだからクリスマスに1000円以内でプレゼント交換をし
ようと誘いをかけてきた。プレゼント交換ですと?!絶対やるとも
さ!
1000円以内のプレゼント交換って、昔を思い出して懐かしい
なぁ。友達と集まって500円以内でプレゼント交換をしたなぁ。
でもこういう誰に渡るかわからない場合のプレゼント選びって、
難しいなぁ。渡す相手が決まっていれば、その人の好きそうな物を
選べばいいだけなんだけど⋮。それに今回は男女混合だし。女の子
だけだったら、可愛いグロスとかネイルセットとか思いつくんだけ
ど、男子がグロスをもらっても困るもんねぇ。あぁ、岩室君は喜ぶ
かもしれないが⋮。
うんうん悩んで私が用意したプレゼントは、全国有名温泉の素セ
ット。消え物だし本人が使わなくても、家族が使うかもしれないも
んね。可愛いバスボムだと香りが甘すぎて男子は使えないかもしれ
ないし、無難な選択だと思うんだけど、どうかな?
クリスマスイブのお昼休み、私達は教室でお弁当を食べたあと歌
に合わせてプレゼント交換をした。教室にはほかにも受講者がいた
ので恥ずかしかったけど、でもうきうきするね!私のは誰に当たる
かなぁ。
赤鼻のトナカイの歌を歌い終わった瞬間に、私の手元にあったの
は緑のリボンの付いた両手サイズの包み。これは誰のかな?
1180
私のプレゼントは榊さんに当たった。あ∼、女の子に当たるなら
温泉の素じゃなくてバスボムやバスキューブにしておけばよかった
!榊さんの反応やいかに!
﹁わっ、入浴剤だ。なんか凄いいっぱい入ってるんだけど。これっ
て誰のだっけ?﹂
﹁はい、私です﹂
私が手を挙げると、みんなが意外そうな顔をした。
﹁これ吉祥院さんのプレゼントなんだ?!なんか想像してたのと違
った﹂
﹁うん。吉祥院さんのプレゼントはもっとセレブっぽい物を選んで
くると思ってた﹂
﹁う⋮、ご期待を裏切ってすみません⋮﹂
そうか。瑞鸞のお嬢様がまさかド庶民な品物を持ってくるとは思
っていなかったか。ごめん。間違えた。
﹁ううん!ごめん!そんな意味じゃなくて!ただ意外だったってい
うだけで!私、お風呂大好きだから凄く嬉しいよ。でも温泉の素っ
て、渋いよね﹂
やっぱりおフランスの入浴剤にしておけばよかった∼!別府に登
別、有馬もあるよ!じゃなかったな⋮。
私がもらったプレゼントを開けると、中から出てきたのは小さな
鉢植えにグサッと一枚刺さった緑のハート型の植物⋮?
﹁あ、それ俺の。可愛くない?ホヤカーリー。別名ラブラブハート
とか、ラブリーハートとかいうんだって﹂
1181
﹁ホヤカーリー﹂
鉢に付いていた説明書きに育て方が書いてあったので、読んでみ
る。寒さに弱く、冬は水を控えめに、か。毎日水やりをしなくてい
いなら、育てやすいかも。
﹁ありがとう、北澤君。頑張って枯らさないように育てますね!﹂
﹁おう!﹂
ハート型の植物か。男子のくせに侮れないおしゃれチョイスだわ。
ほかのみんなもそれぞれプレゼントを開けてわいわいはしゃいだ。
プレゼントはハンドクリームやお菓子詰め合わせ、柑橘系の石鹸セ
ット、クリスマスの絵のマグカップなどだった。
まずい、私の温泉の素が、一番可愛くない⋮。
でもクリスマス気分が味わえて楽しいな!私はプティに配って余
っていたチョコをみんなにも渡して、クリスマスケーキ代わりに食
べた。美味。
塾から帰るとお父様とお母様はパーティーに出掛けるところだっ
た。やっぱり一緒に行かないかと誘われたけど、ごめんなさい。行
ってらっしゃいませ。
私は部屋に戻ると、帰りにコンビニで買ってきたあたりめに、お
ナイトメア
のDVDを観た。この映画はつい毎年観ちゃ
醤油をかけてマヨネーズを付けたものを齧りながら、
ビフォアクリスマス
うんだよね∼。あたりめ、がじがじ。緑茶ぐびーっ。
お兄様も今日は仕事とパーティーで遅いみたいだし、いいんだ、
いいんだ。私はひとり寂しくDVDを観て寝ちゃうんだ。次はなん
の映画を観ようかな。
1182
若葉ちゃんは今頃お店のお手伝いで忙しいんだろうなぁ。桜ちゃ
んは教会でハンドベルを演奏したら秋澤家でクリスマスパーティー
だっけ。葵ちゃんはデート?⋮メールしてみようかな。いや、ダメ
だ。私が暇人なのがバレてしまう。我慢、我慢⋮。
梅若君からは赤鼻と角を付けたベアトリーチェの画像が送られて
きた。絶対送ってくると思ってたけど、サンタじゃなくてトナカイ
の扮装とは思わなかったな。でもこれを、私の作ったニードルフェ
ルトをケルベロス呼ばわりした鏑木がもし見たら、﹁バフォメット
か?﹂とか言いそうだ。
あーたんとクリスマスケーキを食べたよ!プレゼントはお花の首
輪だよ。可愛い?麗華たん、メリークリスマス!
メリークリスマス、ベアたん。
夜中、ふと何かの気配を感じて飛び起きた。暗闇に怪しい影が!
﹁お化けーーっっ!!﹂
私は取り憑かれないように、ベッドの上を必死で逃げた。悪霊退
散!悪霊退散!死者が来るのはクリスマスじゃなくてハロウィンの
はずなのに、なぜ!
﹁麗華、麗華!お父様だよ!お化けじゃないよ!﹂
﹁⋮⋮お父様?﹂
私はベッドサイドのランプを点けた。ぼんやりとした明かりの中
に、狸のお化けがいた。
﹁なにをやっているのですか、お父様!﹂
1183
心臓が止まるかと思ったんだぞ!このバカ狸が!寝起きで大声出
して、くらくらするわ!
﹁いや、麗華がひとりでお留守番していたから、お父様、枕元にプ
レゼントをね﹂
﹁プレゼント?﹂
周りをよく見ると、私の寝ていた近くに、包装の角が若干潰れた
プレゼントがあった。お化けに驚いて、私が潰したらしい。
いい年してサンタ気取りか。ロマンチックの空回りだ、狸。
﹁それはどうも。では私はもう寝ますので、さっさと部屋から出て
行ってください﹂
﹁はい⋮﹂
お父様がすごすごと部屋を出て行くと、ドアの向こうから﹁だか
ら言ったでしょう﹂というお母様の声が聞こえた。お母様、止める
ならしっかり止めないと。
朝起きて、昨夜の狸サンタのプレゼントを開けたら、文字盤の上
をムービングダイヤが転がる腕時計だった。可愛い。これは絶対に
お母様に選んでもらったな⋮。
朝の食卓には、お父様達とお兄様が買ってきた2つのクリスマス
ケーキがどーんと置いてあった。誰が食べるんだ、これ。塾に持っ
ていったら、みんな食べてくれるかなぁ⋮。
桜ちゃんから、秋澤君にクリスマスプレゼントにファッションリ
ングを買ってもらったというメールが届いた。なんだとーー!!
私はラブラブハートに祈りを込めて水をやった。
1184
180
新年明けましておめでとうございます。私のおでこに白毫が生え
ました。
正確にいうと髪の生え際の右下あたりで、しかも直毛なので、白
毫ではなく宝毛?
これを発見したのは年が明け、三が日も過ぎ、社会人は仕事始め、
私達もそろそろ冬休みも終わるという頃。いつものように前髪をピ
ンで留め、綿棒で抜けた眉毛に薬を塗っていた時、おでこにキラッ
と光る透明な糸のようなものを見つけたのだ。
なんということでしょう。私は菩薩の生まれ変わりのようです。
去年は後半に厄介事が目白押しで、円形脱毛症にまでなってしま
ったので、危機感を覚えて初詣には厄除けのお祓いを念入りにして
もらったのだ。祈祷料も自腹を切って大盤振る舞いをした。
その甲斐あってか、ハゲた眉毛は数本、パヤパヤと生えてきてい
る。頑張ったな、私の毛根!まだスカスカ状態ではあるけれど。や
っぱり一番のストレス原因が解消されたからかね。
そして白毫、若しくは宝毛まで生えてくるとは。今年こそ私にツ
キが訪れるんじゃないか?!金運、そして恋愛運。
しかし女の子として、おでこの生え際とはいえ顔に生えた長い毛
を放置しておくのは、ちょっと悩む⋮。前髪で隠れているから大丈
夫だよね?
年明けの瑞鸞は、久々の顔合わせに学院全体が浮ついていた。休
み明けの学校はどこもこんな感じだと思うけどね。
1185
﹁明けましておめでとう﹂
﹁おめでとうございます、麗華様!﹂
私は先に登校していた芹香ちゃん達の輪に入って、冬休み中の出
来事をおしゃべりし合った。
﹁私はお正月に食べ過ぎて太っちゃったわ﹂
﹁やだ、菊乃さん。私もよ∼﹂
﹁私も、私も﹂
これはどの女子グループも共通の、毎年交わされる会話。なんで
お正月って太っちゃうんだろうねー。やっぱりお餅が原因かな。お
雑煮、お汁粉、磯辺焼き。大量にストックされているお餅を消費し
なければという、妙な使命感に駆られて、つい食べてしまうのかね。
私はお雑煮はそれほどでもないけど、磯辺焼きは大好きだ。
﹁あら麗華様、素敵な時計ですね!﹂
﹁あぁ、これは両親からのクリスマスプレゼントですの﹂
﹁まぁ!﹂
﹁麗華様はどんなクリスマスを過ごしたんですか?﹂
﹁お友達とちょっとした集まりをしたくらいですわ。みなさんは?﹂
﹁私は家族と食事に出かけて、欲しかったバッグを買ってもらいま
した﹂
﹁私はお呼ばれしたパーティーに﹂
﹁私は冬休み中ずっと旅行に行っていました﹂
いいなぁ、海外で過ごすクリスマスやお正月。小さい頃は両親と
お兄様と、クリスマスにハワイに行ったりしていた。町中に仮装を
した人達がいてお祭り騒ぎで楽しかったな。初めて本物のドラァグ
1186
クイーンを間近で見て、目が点になったのはいい思い出だ。あの時
お兄様、ほっぺにキスされてたな⋮。
でも最近は、お兄様がなかなか一緒に旅行に行くことが出来なく
なってしまったので、旅先で遊んでくれる人がいなくて前ほど旅行
が楽しくなくなってしまった。ひとりでプールで泳いでてもつまら
ないんだもん。年の近い姉妹か、一緒に行ってくれる友達がいたら
いいんだけどなぁ。
するとにわかに廊下が騒がしくなった。
﹁鏑木様と円城様よ!﹂
その声に、新年初の皇帝達の姿を一目見ようと、女子達がこぞっ
て教室の外に出て行った。
﹁私達も行きましょうよ、麗華様!﹂
﹁ええ⋮﹂
面倒だけど、みんなが行くならしかたがない。よっこらしょ。
久しぶりの鏑木と円城は、気のせいか少し日焼けしているように
見えた。どこかに行ったのかな。
取り巻きの女子達から新年の挨拶をされ、円城はにこやかに、鏑
木は淡々と返事をしていた。
﹁かっこいい∼!﹂
﹁私、ご挨拶しちゃったわ!﹂
﹁なんだか冬休み前より精悍になられたように思えません?﹂
芹香ちゃん達は両手を組んでうっとりとその後ろ姿を見つめてい
た。
1187
﹁麗華様も冬休みの間中、おふたりとは会うことはなかったんです
か?﹂
﹁ええ﹂
﹁それは残念でしたわねぇ﹂
いやぁ、別に⋮。
今日は始業式のみだったので、午前中で学校は終わり。でもピヴ
ォワーヌのメンバーは新年の挨拶のために全員サロンに集合だ。
サロンでは初めに、新会長の鏑木が中心に立って年頭の挨拶をし
た。特に新会長としての抱負はないらしい。鏑木らしいけどさぁ。
それからみんなで和やかにお茶を飲みながら新年の挨拶をし合っ
ていると、円城と鏑木がやってきたので、会釈をした。
﹁明けましておめでとうございます。円城様、鏑木様﹂
﹁明けましておめでとう、吉祥院さん﹂
﹁おめでとう﹂
近くで見るとやっぱり少し年末よりも黒くなっているような⋮。
そう指摘してみると、鏑木と円城はカナダにスキー旅行に行ってい
たと言った。ほぉ、カナダで優雅にスキーとな。それはまた、去年
とはずいぶん違う過ごし方ですね。行先は同じ寒い場所ですが。
﹁あ、これ吉祥院さんにお土産ね。メープルシロップ﹂
﹁一番美味いヤツだ﹂
﹁まぁ、ありがとうございます!﹂
去年の不吉なお土産とはこれまた違う、素敵なお土産。さっそく
ホットケーキを焼きましょう。そして鏑木、﹁一番美味いヤツ﹂っ
てあんたもしかして食べ比べたの?
でも円城が鏑木と旅行に行っちゃったら、弟の雪野君はどうして
1188
いたんだろう。体が弱いから一緒にスキーには行けないと思うし。
﹁雪野君はお兄様がいない間、ひとりでお留守番でしたの?﹂
﹁両親と沖縄に行ってたよ。暖かいところでのんびり過ごして、体
調も良くなったみたい﹂
﹁それは良かったですわね!﹂
なんとなく雪野君と南国ってイメージが湧かないけど、沖縄もい
いよね!
﹁でも雪野君って泳げるんですの?﹂
﹁一応ね。体力をつけるために習ってはいるんだ﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁沖縄でも泳いだみたいだよ。両親と海やプールに入っている写真
を見せてもらった﹂
﹁まぁ、楽しそうですわね。私もぜひその写真を見てみたいですわ﹂
﹁今度またプティに遊びに行ってやって﹂
﹁ええ﹂
でもさー、弟としてはお兄ちゃんと一緒に行きたかったんじゃな
いかな。鏑木め、雪野君からお兄ちゃんを取り上げるなんて。
つい鏑木を非難がましい目で見ると、鏑木は私を見返して﹁ミル
ク神﹂と言った。
は?ミルク神?
﹁いや、なんでもない。沖縄の話と今お前の顔を見たら、なぜかそ
の単語が思い浮かんだ﹂
﹁はぁ﹂
﹁気にしないで、吉祥院さん﹂
﹁はぁ﹂
1189
なんのこっちゃと思いつつ、家に帰ってミルク神を調べた。
鏑木ーーっ!私の顔を見てミルク神を思い浮かべたって、私が似
てるとでも言うのか?!このふざけた顔に?!白毫の生えた菩薩の
私になんたる暴言!許すまじ!
私はこの悔しい思いを、ホヤカーリーのホヤちゃんにぶつけまく
った。植物は話しかけると成長が早いというからね!毎日話しかけ
てるんだ。
私はホットキーキを焼いてもらってカナダ土産のメープルシロッ
プをかけてやけ食いをした。なにこれ、美味!
⋮⋮今回に限り、この絶品メープルシロップに免じて許してやる。
1190
181
同志当て馬はモテるらしい。
容姿もさることながら、生徒会長として辣腕を振るい、相手がピ
ヴォワーヌであっても一般生徒と同じ対応をする公平さ、その信頼
できる人間性、ということで男女共に人気が高い。
君ドル作者の好きなタイプがそうなのかもしれないけど、皇帝と
若干キャラが似ているんだよね。カリスマ性と求心力があって、甘
さのない顔立ち。マンガではカラーイラストでのその髪の色で、ふ
たりは黒豹と銀狼に例えられていたし。普通はこういう場合、当て
馬には真逆のタイプを持ってくると思うんだけどなぁ。だからほぼ
確実に作者の好みが強引系なんだと、当時から思ってた。
ただ違うのは皇帝は人を寄せ付けない冷たく鋭いオーラを持って
いるのに対し、生徒会長はその役職もあって皇帝よりも近づきやす
く、話しかけやすい。どんな相手にも一定の誠意を持って対応して
くれるからだ。
ゆえに女子からの告白も多い。
﹁また生徒会長が告白されたんですって﹂
﹁今度は誰?﹂
﹁1年生らしいわよ。ほら、ちょっと可愛いって評判の﹂
新学期が始まってまだ間もないのに、もう告白なんてされちゃっ
てるんだ。我が村の副村長であるはずなのに、村長とのこの差はな
んだ。
同志当て馬は告白相手が可愛かろうが冴えなかろうが、邪険な扱
いをせず同じ対応で断る。そこは偉い。なかには告白してきた相手
の女の子によって、態度を変える男子もいるからねー。
1191
だから同志当て馬に自分と付き合ってもらえなくても、気持ちだ
けは知って欲しいと告白する女子は後を絶たない。
あぁ、そういう意味では皇帝も同じか。優理絵様以外の女の子は、
可愛かろうが冴えなかろうが、どうでもいいっていう対応。﹁興味
ない﹂で冷たく一刀両断。おかげであれだけモテるのに、皇帝に告
白する子って実はあまりいない。そういえば、舞浜さんは元気かな
ぁ∼。
そんな同志当て馬が、若葉ちゃんと初詣に来ていたという噂が流
れた。場所が有名な神社で同志当て馬も目立つので、目撃情報が多
かったのだ。
女の子達が同志当て馬にそのことを問い質すと、ふたりきりでは
なく生徒会のメンバーみんなで行ったという答えが返ってきたそう
だけど、参拝客で混雑する境内で、ふたりがずっと一緒に並んで親
しげにしていたことには変わりはない。
そして皇帝鏑木も、去年同様若葉ちゃんを見かけると声を掛け、
円城に会いにクラスに行けば話し掛ける。
生徒会長と皇帝という、瑞鸞でも特別な存在のふたりと親密な若
葉ちゃんは、新年早々、嫉妬の視線に晒されまくっていた。
放課後、私が手芸部で楽しく部活動をした帰りに、今夜予習する
教科書をロッカーに取りに行くため、人気のない廊下を歩いている
と、トイレに入っていく若葉ちゃんらしき姿を見つけた。
誰もいなければ、今更だけど新年のご挨拶をしようかな∼と若葉
ちゃんの後を追ってみると、磨き抜かれた洗面台でブラウス姿の若
葉ちゃんが制服のジャケットを洗っていた。
1192
﹁⋮⋮高道さん?﹂
私がそっと声を掛けると、若葉ちゃんは驚いたように振り返った。
﹁あぁ、吉祥院さんか。どうしたの?﹂
﹁どうしたのって、私が聞きたいんですけど⋮﹂
若葉ちゃんの手元に目を移すと、白いジャケットが広範囲に汚れ
ていた。よく見ればスカートも。
﹁それって、絵の具の水⋮?﹂
﹁え、うん。さっきぶつかっちゃって﹂
﹁ぶつかったって誰に?﹂
﹁顔はよく見えなかったけど。ごめんなさいって言って、すぐにど
っか行っちゃったから﹂
﹁どっか行っちゃったって、ひとの制服を汚しておいて逃げちゃっ
たの?!﹂
﹁あ∼、うん⋮﹂
それって、絶対わざとでしょう。美術部の生徒かどうかも怪しい
もんだ。
﹁でも白い服は洗ったくらいじゃ全然落ちないや。クリーニングに
出すしかないか⋮﹂
﹁酷いですわね。相手を見つけてクリーニング代を請求するべきで
すわ!それにこれ、クリーニングで落ちるかもわかりませんわよ!﹂
﹁クリーニング代は割引券があるから、まぁいいんですけどね。去
年の期末テストの臨時奨学金も入ったし。シミ抜きはもう、ひたす
らクリーニング屋さんに頑張ってもらって⋮。ただ明日からジャケ
ットなしで登校がきついな∼﹂
1193
﹁えっ、予備の制服持っていないんですの?!﹂
﹁うん﹂
この真冬にコートを羽織るとはいえ、ジャケットなしで電車通学
は寒すぎる。そもそも瑞鸞でジャケットを着ていないのは校則違反
になるかはわからないけど、長靴なみに悪目立ちしてまずいかも。
﹁ジャケットがないのは問題になるかもしれませんわよ。主に前ピ
ヴォワーヌ会長あたりから⋮﹂
﹁あ、やっぱり﹂
若葉ちゃんは困った顔をした。
﹁シミ抜きできれいに落ちるかどうかもわからないし、これは買う
しかないのかなぁ。いやぁ、それはきつい⋮﹂
心底悩んでいる若葉ちゃんに、私は遠慮がちに声を掛けた。
﹁あの、私が持っている予備の制服、差し上げましょうか?﹂
﹁ええっ!さすがにそれは悪いよ!﹂
私は汚れた時などのために、制服は何着か持っているのだ。1着
くらいあげたってどうってことない。白い制服は本当に汚れが気に
なるからね。
﹁制服は高いもの。そんなのもらえないよ!上靴とはわけが違うよ
!﹂
﹁でもこのままじゃ高道さんが自腹を切らないといけないわよ?﹂
﹁う∼ん⋮﹂
1194
瑞鸞の制服は高い。私も詳しいことは知らないけど一式揃えるの
に10万くらいはするはずだ。
﹁あっ!﹂
﹁え?﹂
あった!私が持っている制服で、もうたぶん一生着ないのが!
﹁1着、汚れて私が着ない制服がありますの。それなら差し上げて
もなんの負担にもなりませんわ。むしろ清々しますけど﹂
﹁えっと⋮それはこの制服よりはきれいなんですか?﹂
﹁ええ。クリーニングに出してシミ抜きしましたからきれいなはず
です。でも⋮元は鳩の糞が付いた制服なんですけど⋮﹂
﹁えっ!また?!﹂
﹁ええ﹂
私は重々しく頷いた。
あれは少し肌寒い昼下がりだった。お友達と食後のお散歩をして
いたら、よそ見をしていた私に、上空を飛ぶ鳩が糞を落としてきた
のだ!
頭に直撃は免れたものの、スカートに落ちた糞は、出したてホヤ
ホヤだったため、スカートの上でワンバウンドして弾け、ジャケッ
トにまで汚物が飛んだ。
﹁麗華様にまた鳩の糞が落ちたわ!﹂
﹁麗華様、しっかり!今日は制服だからまだセーフですわ!﹂
ショックで完全に現実逃避しそうになっている私を、みんなが保
健室まで連れて行ってくれて、洗剤でなんとか落とした。その後す
1195
ぐに家に連絡して替えの制服を持ってきてもらって、鳩の糞付きの
制服はそのままクリーニングに出してもらったけれど、やっぱり気
持ち悪くてそのまま1度も着ていないのだ。
なぜ私だけいつも鳩の糞の襲撃を受けるのだろう。きーっ、忌々
しいっ!
しかし物は考えようだ。世界には鳥の糞で出来た島からリンが産
出されて、一躍大金持ちの島になったなんていう話もあるくらいな
のだから、私もこの鳩の糞でいつか一発逆転のチャンスがくるのか
もしれない。
いや、絶対にないな⋮。
私は遠慮する若葉ちゃんを説得して、吉祥院家の車に乗せると、
そのまま一緒に帰宅した。
﹁おっきい家ですね∼﹂
若葉ちゃんは口をぽかーんと開けて、吉祥院家の大きさに驚いて
いた。良かった、お父様もお母様もまだ帰っていない。
私は自室に入ると、クローゼットにしまっておいた鳩の糞付きの
制服を取り出して、若葉ちゃんに差し出した。
﹁これなんですけど、どうかしら?﹂
﹁わぁ、全然汚れてないしきれい!こんなにきれいな制服、本当に
これもらっちゃっていいのかな﹂
﹁私はこの先着る予定はありませんし、ほかにも予備が何着もあり
ますから、遠慮なく持って帰ってくださいな﹂
﹁本当?ありがとう。助かります!あ、でもサイズ合うかな?身長
は同じくらいだけど、私結構太いよ?吉祥院さんは細いから﹂
﹁そんなことありませんわよ∼。きっと一緒くらいよ∼﹂
1196
そう言われて、私は機嫌よくオホホホと笑った。
若葉ちゃんは制服を試着した。
﹁あれ⋮?﹂
どうやら試着した私の制服のウエストが、若葉ちゃんにはゆるか
ったようだ││。
﹁⋮裁縫道具、貸しましょうか?﹂
﹁えっと、家で縫うから大丈夫!﹂
若葉ちゃんは私に気を使って笑ってごまかした。
言い訳をするわけじゃないけど、その制服を着てたのは市之倉さ
んと食べまくってた時期だから!今は違うから!
﹁本当にありがとう。お礼をしたいから、よかったらまたうちに遊
びに来てください!家族も会いたがってるし!﹂
﹁ええ、ぜひ﹂
私は最寄駅まで若葉ちゃんを送って行った。若葉ちゃんは改札を
抜け、こちらに元気よく手を振って帰って行った。
しかしあれをやったのは、皇帝ファンなのか、同志当て馬ファン
なのか⋮。
1197
182
去年からお願いしていた耀美さんに料理を習う件について、具体
的にどんな料理を教えて欲しいか、耀美さんと電話で話し合った。
ホームパーティーなどのおもてなし料理か家庭料理か、について
は迷わず家庭料理を選択。ホームパーティーなんて頻繁にする予定
はないし、あってもケータリングを頼めば困らないけど、家庭料理
はもし将来私が一人暮らしをしたり、結婚してお手伝いさんのいな
い生活をするようになった時に絶対必要だと思うからね。それに、
近い将来、彼氏が出来た時に葵ちゃん達みたいにお弁当を作ってあ
げたりしたいし!
和食と洋食は、とりあえず和食。煮物とか、ささっと作れたら家庭
的な子って思われそうじゃない?まぁ私が、とにかく和食が好きだ
からというのが一番の理由だけど。
そんなこんなで、耀美さんのお家にお伺いしました。
﹁いらっしゃい、麗華さん﹂
﹁耀美さん、ごきげんよう。本日はよろしくお願いいたします﹂
耀美さんの家は羽振りがいいという噂通り、最近建て替えられた
大きな邸宅だった。
﹁今日は父はゴルフ、母はお友達とランチに出掛けているから、気
兼ねしないでくださいね﹂
﹁ありがとうございます﹂
私は手土産を渡すと、耀美さんのあとについて行った。
1198
﹁前にも話したんだけど、先に私の作った物を食べてもらって、味
付けが麗華さんの舌に合えばお教えするということでいいかしら?﹂
﹁はい﹂
﹁今日は一応簡単な料理を用意しているので、まずはそれを食べて
みてもらえますか?﹂
﹁まぁ、わざわざ事前に作ってくださったのですか?﹂
﹁ええ。でもお味噌汁とお惣菜といった程度の物ですけど﹂
私が耀美さんに広めのダイニングに案内されると、そこには煮物
などの料理が用意されていた。おぉ!おいしそう。でも、なぜか同
じ料理が小鉢に2種類ずつ。
﹁あのね、同じ家庭料理でも少し違う物を用意したの﹂
﹁違う物ですか?﹂
﹁ええ、それは⋮﹂
﹁耀美、お客さんか?﹂
男の人の声に振り向くと、見覚えのある顔がダイニングに入って
きた。この人確か、先日の吉祥院家のパーティーで、耀美さんに失
礼なことを言って私がデミグラスの報復をしたデミ男だ!
﹁お兄様⋮﹂
﹁お兄様?!﹂
あのデミ男が、耀美さんのお兄さん?!嘘っ!!私、相手を知ら
ずにデミグラスソースを引っ掛けちゃったよ!
﹁貴女は、吉祥院家の麗華さんじゃないですか?﹂
﹁え、ええ。ご挨拶が遅れまして。吉祥院麗華でございます。本日
はお邪魔しております﹂
1199
﹁なんで麗華さんがうちに?﹂
﹁耀美さんにお料理を教えていただきに参りましたの﹂
﹁料理?耀美にですか?﹂
デミ男改め耀美さんのお兄さんは、テーブルに並べられた料理を
見て眉を顰めた。
﹁耀美、お前まさか麗華さんにこんな粗末な料理を教えるつもりじ
ゃないだろうな﹂
は?
耀美さんが用意してくれたのは、筑前煮とぶり大根、ほうれん草
と油揚げの白和えだった。
﹁吉祥院家のご令嬢にこんな貧乏くさい料理を出すなんて、お前な
にをやってるんだよ﹂
﹁ちょっ⋮﹂
耀美さんは下を向いて哀しそうな顔をした。
﹁お待ちください。私が耀美さんにリクエストしたんです。これら
は私の好物ですわ。ぶり大根、よろしいじゃありませんか。旬の物
をいただくことこそが、真の贅沢だと思いますわ!﹂
って、ぶりって今が旬だよね⋮?寒ブリって言葉を聞いたことが
あるし⋮。神様、間違っていませんように。
私の反論にデミお兄さんは少し怯むと、﹁麗華さんがそうおっし
ゃるなら﹂と引いた。
﹁しかし耀美が麗華さんのような人にモノを教えることなんて出来
1200
るのか?むしろお前が麗華さんから、令嬢の立ち居振る舞いなどを
教えてもらったほうがいいんじゃないか?﹂
﹁耀美さんは今のままでも充分素敵なかただと思いますけど﹂
耀美さんがどんどん萎縮するから、デミ兄、あんたもうどっか行
け。
私の心の祈りが天に通じたのか、デミ兄は言いたいことを言うと、
﹁では麗華さん、僕は予定があるのでこれで﹂と、ダイニングを出
て行った。
﹁⋮ごめんなさい、麗華さん。嫌な思いをさせてしまって﹂
﹁そんなことありませんわ!でも、あのかたが耀美さんのお兄様で
したのね⋮﹂
﹁ええ⋮。兄は太っていて見苦しい私が疎ましいみたいです⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
太っているって、デミ兄だってわりと小太りだと思うけど。耀美
さん達のお母様もふくよかだし、成冨家はふくよか一家なんじゃな
いか?
﹁それより、お料理を温め直してきますね。お口に合うといいんだ
けど﹂
﹁楽しみですわ﹂
そうだ。失礼な闖入者に邪魔されたけど、試食会が本題なのだ。
耀美さんが温め直してくれた料理を私の前に並べ直してくれた。
﹁あのね。同じ家庭料理でも材料にもこだわってきちんとした基本
で作った物と、私の好きな庶民的な味付けの両方を用意したの。そ
れで麗華さんの好みがわかると思って﹂
1201
﹁そうなんですか。ではさっそくいただいてよろしいですか?﹂
﹁どうぞ、召し上がって﹂
私はまず、お豆腐と長ねぎのお味噌汁から口を付けた。うん、お
いしい!こっちが基本レシピだっけ。次は庶民レシピね。
あ⋮⋮。
﹁麗華さん、どうかしました?﹂
これ、前世の、お母さんの味に似ている⋮。
﹁麗華さん?﹂
やばい、涙が出そうだ。
お母さんの味だ。お母さんのお味噌汁だ。
﹁麗華さん⋮、おいしくなかったかしら⋮?﹂
﹁⋮いえ、とっても、おいしいです﹂
﹁そう?ムリしなくてもいいんですよ?こっちはちょっと、だしを
取るかつおぶしの量も少なくて、あまりおいしくないかも⋮﹂
﹁いいえ。こちらのお味噌汁の作り方を、ぜひ教えていただきたい
です﹂
﹁こっち?でも麗華さんには庶民的すぎないかしら?﹂
﹁お願いします﹂
私は耀美さんに頭を下げた。
お母さんに教えてもらわなかったせいで、二度と食べられないと
思っていたお母さんのお味噌汁。その味に似ている物が目の前にあ
る。だったら今度こそ、私がお母さんの味を再現できるようになり
1202
たい。
﹁お願いします﹂
﹁麗華さんがそう言うなら⋮﹂
煮物などのお惣菜も全部おいしかった。そしてやっぱり庶民派は
どこか懐かしい味がした。うん、絶対こっちを習おう。
私が庶民レシピを習いたいとお願いすると、耀美さんはちょっと
驚いていた。
﹁まさか麗華さんがこちらを気に入ってくれるなんて。嬉しいです
けどね﹂
﹁普段はこちらのレシピで作っているんですか?﹂
﹁ううん。家で誰かに食べさせる時は、贅沢レシピ﹂
耀美さんはそう言って笑った。
﹁お恥ずかしいのですが、私の家は成り上がりだというのはご存知
ですか?﹂
あー、確かお父様が不動産関係で財を成したとかなんとか⋮。
﹁祖父母の代までは郊外で農家をやっているような、ごく普通の庶
民家庭だったんです。山と畑しかないような牧歌的な土地だったん
ですけど、ニュータウン計画でその山と畑しかない土地の値段が跳
ね上がって、それを元手に父が事業を興したんですね﹂
﹁そうなのですか﹂
﹁兄と私が生まれた時は、すでに家は成金で、出される料理も贅沢
な物だったんですけど、祖父母は昔からの習性で、貧乏性といいま
すか、節約精神といいますか、まぁそんな感じで﹂
1203
﹁はい﹂
﹁私は兄にもよく言われるんですけど、小さい頃からどんくさくて、
周りの子供達にも成金とバカにされることもあったりして、そんな
時は祖父母の家に逃げ込んで泣きついていたんです﹂
﹁まぁ⋮﹂
﹁その祖母のお手伝いでお料理を習っているうちに、私もお料理を
することが好きになったんですけど、さっきも言ったように祖母は
昔の習性が染み付いていますので、料理もケチなんです﹂
﹁ケチ?﹂
﹁ええ。だしを取るかつおぶしの量もケチりますし、それで二番だ
し、さらには三番だしまで取ったりするんですよ?﹂
﹁そうなのですか﹂
二番だし、三番だしってなんでしょう⋮?でもここは知ったかぶ
りで頷いておく。
﹁麗華様には信じられないかもしれませんが、だしを取ったかつお
ぶしでふりかけを作ったり、大根やカブの葉も食べたり、しかもそ
れを栽培したり﹂
﹁栽培ですか?﹂
﹁ええ、ヘタを水に漬けて置くと葉が増えるんです﹂
あっ!前世のお母さんも、キッチンでやってた!最初に見た時は
キッチンに生け花感覚で飾っているのかと、しばらく思ってたんだ
よね。
﹁でも私が祖母に食べさせてもらった懐かしの味ですし、誰かに食
べさせる時はきちんと材料もふんだんに使って料理するんですけど、
やはりこの節約料理の味も大事にしていきたいんです。たぶん一般
家庭ではこれが普通だと思うんですよ?﹂
1204
﹁ええ﹂
言われてみれば、吉祥院家の厨房を覗いた時、料理人さんがお鍋
いっぱいにかつおぶしを入れているのを見かけたことがあったけど、
前世のお母さんがそんなことをしているのは見たことがない。今思
うとお母さん、かなりケチっていたんだな。でもおいしかったけど
さ。
﹁ふふっ。でも生粋のお嬢さまの麗華さんがこちらを選ぶなんて。
おばあちゃんが聞いたら喜んじゃうかも﹂
﹁これからよろしくお願いします。先生﹂
﹁やだ、先生だなんて﹂
耀美さんは飾らない、いい人だ。私だったら他人に自分の家が成
り上がりだなんて言えない。この人だったら私が包丁も満足に使え
ない不器用さんでも絶対に笑わないと思う。
﹁耀美さん、実は私、包丁で野菜を切るのも出来ないんですけど⋮﹂
まずはさっき知ったかぶりした、二番だしとやらの正体を教えて
ください。
1205
183
いやぁ、腕が重い。耀美さんのお料理教室で、ずっと包丁で野菜
の皮を剥く練習をしていたせいだな。手が滑って包丁で怪我をする
んじゃないかと思うと、無駄に腕と手に力が入ってしまう。
薄く剥きたくても包丁が皮を突き抜けて、添えた親指をザックリ
切ってしまうんじゃないかと想像すると、どうしてもぶ厚くなっち
ゃうし。耀美さんが剥くとシュルシュルシュルって音なのに、私が
剥くとザクッザクッ。もう諦めておとなしく皮むきはピーラーオン
リーでいこうかな。
千切りする時の猫の手も、これまた関節をザックリやりそうで上
手く押さえられない。なんてビビりなんだ、私は!すると耀美さん
が猫の手ガードのグッズを貸してくれた。これを包丁と野菜の間に
挟むことによって、関節がガードされるのだ。でもさぁ、見た目的
にかっこ悪くない?
耀美さんからはまず料理を作ることよりも、基本中の基本である
野菜を切る練習からゆっくり始めましょうと言われたので、早く上
達できるように、家に帰ってからも厨房の片隅でにんじんを切る練
習をした。ちょっと上手くできた。調子に乗った。指切った。
明日猫の手ガードを買って来よう。
新学期に入ってから、蔓花さん達のグループに去年よりも勢いが
あるように見える。聞いた話によると、クリスマスにどこかの会場
を借り切って仲間達でパーティーをしたらしい。そこに外部生や3
1206
年や2年の男子も来たりして、かなり盛り上がったとか。イベント
で仲間達との団結力を深め、さらにご新規さんも取り込んだか。ま
ずいな。
ほかにも生徒会を中心とした第三勢力もあるし、ピヴォワーヌの
威光に胡坐をかいてうかうかしてたら足元をすくわれるかもしれな
い。
今まではなんだかんだ言ってもピヴォワーヌが後ろ盾としてしっ
かりあったから、のんびり構えてても平気だったけど、今年からは
会長が鏑木だ。瑤子様ならば確実に、ピヴォワーヌメンバーに仇な
す相手を許さず守ってくれただろうけど、あの無関心男がいざとい
う時にピヴォワーヌの会長として、私を助けてくれるとはとても思
えない。今年からは自力で立場を守るしかない。う∼ん、穏便に1
年過ごせるといいんだけどなぁ。
私の心配をよそに、ピヴォワーヌ新会長様は今日もサロンで悠然
とお茶を飲んでいらっしゃる。しまったなぁ。こいつを会長にした
のは痛恨のミスだったのではないか?でもほかに適任者はいなかっ
たし⋮。せめて円城が会長を引き受けたらまだましだったのかなぁ。
まぁ、円城だって女子の争いに首を突っ込むようなことはするタイ
プじゃないか。
ここはひとつ、さりげなく芹香ちゃん達に相談してみるべきか。
そして相談した結果、芹香ちゃん達がぼうぼう燃えた。
﹁よくぞ言ってくれました、麗華様!最近の蔓花さん達は調子に乗
っていると私達も思っていたんです!﹂
﹁高等科に上がってから派手に行動していて、私達にも挑戦的な態
度を取ることもありましたわ﹂
1207
﹁喉元過ぎれば熱さを忘れる。中等科時代に麗華様にこてんぱんに
されたくせに﹂
﹁生徒会を中心とした外部組も、なんだか生意気なのよね﹂
﹁そうそう。高等科からの外部組なのに態度が大きいの。私達の瑞
鸞なのに﹂
あれ?私が相談したのは、﹁蔓花さん達や外部生達が、最近力を
つけているようだけど、私達と対立するようなことになったらどう
しましょう?﹂だったんだけど⋮。間違っても﹁あいつらムカつく
からやっちゃおうぜー!﹂という話では決してない。
﹁あの、みなさん、ここは平和的に⋮﹂
﹁それに!私、許しがたい陰謀を耳にしましたの!﹂
﹁なに、陰謀って?﹂
﹁一部外部生の間で、高道若葉と鏑木様をくっつけようという、恐
ろしい陰謀ですわ!﹂
﹁なんですって!﹂
﹁どういうことなの!﹂
みんなが鬼の形相になった。
﹁高道若葉を使って皇帝を味方に付けることが出来れば、瑞鸞を手
中に収めることも可能と考えているみたいよ﹂
﹁なによそれ!妲己のような女ね!﹂
﹁許せないわ!﹂
ええ∼っ⋮。
﹁あのぉ、それは外部組の総意なのかしら?﹂
﹁いいえ。あくまでも一部の考えのようです。外部生の中には逆に
1208
鏑木様に憧れていて、高道若葉の存在をあまり面白く思っていない
人達もいるようですし。外部組も一枚岩ではありませんから﹂
﹁そうなの⋮﹂
若葉ちゃん、なんだか凄いことになっているみたいだけど、大丈
夫なのかな⋮。
﹁ですから!ここは麗華様に頑張っていただかないと!﹂
﹁え、私?﹂
﹁そうですわ!身の程知らずの蔓花派閥も、高道若葉も成敗なさっ
て!﹂
﹁そして皇帝の寵愛をその手に!﹂
﹁はぁ?!﹂
そのまま芹香ちゃん達は、妄想の海に溺れて行ったまま帰って来
なかった。
相談なんかしたせいで、益々ややこしいことになってしまった⋮
⋮。怖い。
そして私は疲弊した心を癒しに、天使たちの園に逃避する。
﹁麗華お姉さん、いらっしゃい!﹂
﹁雪野君、ごきげんよう﹂
プティのドアを開けると、雪野君が眩い笑顔で出迎えてくれた。
はぁ、癒される。
1209
私は雪野君と一緒にソファに座り、仲良くお菓子を食べた。
﹁雪野君、ご両親と沖縄に行ったんですって?楽しかった?﹂
﹁はい。水族館に行ったり、ホエールウオッチングをしたりしまし
た﹂
﹁まぁ、そうなの。水族館は私も大好きよ﹂
﹁水族館にはおっきいマナティがいて⋮﹂
雪野君は楽しそうに水族館の話をしてくれた。いいなぁ、マナテ
ィ。私も見たいな。
﹁麗華お姉さんはどこかに行ったんですか?﹂
﹁私は京都に行きましたの。母方の親戚がいるものですから﹂
冬の京都は死ぬほど寒かった。京都の寒さは足元から深々と骨に
染み込む。
雪野君達にはきつねのお面のおせんべいと金平糖をお土産に買っ
てきた。きつねせんべいは見た目が可愛いから子供のお土産にはい
いと思ったんだよね。
﹁はい、これどうぞ﹂
﹁わぁ!ありがとうございます﹂
麻央ちゃん達にも配ると、喜んでもらえた。よし!
﹁あれ?麗華お姉さん、その指どうしたんですか?﹂
雪野君は絆創膏を貼った私の指を見て、心配そうな顔をした。
﹁これ?ちょっとお料理をしている時に包丁で切ってしまったの。
1210
恥ずかしいわ﹂
﹁麗華お姉さん、お料理ができるんですか?﹂
雪野君がキラキラした目で見つめてきた。
﹁ええ、まぁ。ほんの家庭料理ですけどね﹂
﹁どんな物を作るんですか?﹂
﹁本当に簡単な物ばかりなの。煮物とか﹂
雪野君に素敵なお姉さんと思われたくて、つい見栄を張る。雪野
君は素直に感心してくれた。そして感心したまま爆弾を落とした。
﹁僕も麗華お姉さんの作ったお料理を食べてみたいです!﹂
﹁え⋮?!﹂
﹁もうすぐ僕の誕生日なんです。その時、麗華お姉さんの作ったお
料理を食べさせてもらえませんか?﹂
﹁え⋮?!﹂
とんでもない依頼が舞い込みました。
耀美さーーーん!!どうしようっ?!
雪野君、胃は丈夫ですか⋮?!
1211
184
行き当たりばったりの考えなしでくだらない嘘をつくと、結果的
に自分で自分の首を絞める羽目になるということを、いつになった
ら学ぶんだ、私!お前の頭は三歩歩くと忘れる鶏か!
耀美さんには即行SOSを出した。まさかお誕生日パーティーに
煮物を作って持っていくわけにはいかないし、そもそも私はまだ煮
物も作れない。
おもてなしパーティー料理なんて私には必要なしと却下した数日
後に、よもや必要になるとは思わなかったよ。
あ∼、参った。
次の日さっそく円城に声を掛けられた。
﹁雪野から聞いたんだけど、吉祥院さん、あの子の誕生日会に来て
くれるんだって?しかも手料理付きで﹂
うっ⋮。雪野君、すでに家族に話してしまったか。逃げ道なし。
﹁ええ⋮。でもせっかくの雪野君の晴れやかなお誕生日に、私の作
った拙い手料理などむしろ失礼だと思うので、今回はご遠慮しよう
かと⋮﹂
﹁雪野は大喜びだったよ。今から食べるのを楽しみにしているみた
いだけど﹂
﹁それは⋮﹂
雪野くーん⋮。プレッシャーで私の眉毛が全部抜けそうだよ。
1212
﹁雪野の体調のこともあるし、そんなに大きな会ではないんだ。初
等科の仲の良い友達を何人か招待して、雪野の誕生日を祝ってもら
うってだけ。だからそんなに気負わなくても大丈夫。でもまぁ、ム
リにとは言わないけど﹂
円城は私の絆創膏の貼られた指をちらっと見た。もしかして実力
を見抜かれたか。
でも断って雪野君をがっかりさせるのも、食べさせて失望もされ
たくないよぉ。耀美さん、助けて。貴女だけが頼りです!毎日千切
りの練習をします!レシピもしっかり覚えます!だから力を貸して
ください!
それでも⋮。
﹁あまり期待しないように、雪野君に言い含めておいてくださいね
⋮﹂
円城家で食中毒!なんてニュースが瑞鸞を駆け巡らないように、
頑張るよ。
放課後、クラスで集めたレポートを先生に提出するため、私と委
員長は教員室に向かっていた。
委員長達は冬休みに4人で初詣に行ったらしい。
﹁みんなでおみくじを引いて、絵馬を書いたんだ﹂
照れながら話す委員長。片思いしている人と初詣。なにそれ、凄
1213
く楽しそう。なんで私を誘ってくれなかったの?さ∼そ∼え∼よ∼。
元はといえば私が仲を取り持ってあげたんじゃなかったの∼?
﹁神様に、本田さんと今年も仲良く出来ますようにってお願いもし
て﹂
﹁へー﹂
﹁それで今年、本田さんと野々瀬さんがバレンタインにふたりで手
作りチョコを作るらしくって、僕と岩室君にもくれるって話で⋮。
あ、もちろん友チョコなんだよ!それはわかってる。うん﹂
﹁ふーん﹂
﹁でもいつかは、本命チョコがもらえたら嬉しいんだけど﹂
﹁ほー﹂
バレンタインねぇ。私は今年も本命チョコをあげる相手がいない
んだけど。焦る⋮。花の高校生活はあと1年ちょっとしかないのに。
私もバレンタインに浮かれてみたい。思い切って図書館のナル君に
あげてみようか。でも見ず知らずの女の子からチョコを渡されるっ
て、男の子の本音としてはどうなんだろう。少女マンガとしては王
道なんだけど。
そして今年はなにを作ろうかなぁ。
﹁吉祥院さん、僕の話ちゃんと聞いてくれてる?﹂
あ、適当に受け流していたのがバレた。
﹁だったら委員長も、想いを込めてバレンタインチョコをプレゼン
トしてみては?﹂
半分冗談だったのに、乙女の目が輝いた。え、本気?
1214
レポートを提出し終わった後、私は手芸部、院長は文芸部に行く
ためにそれぞれ別れた。腹巻も作っちゃったし、今度はなにを作ろ
うかなぁ。
そんなことを考えながら階段を下りていたら、後ろから﹁吉祥院
さん﹂と声を掛けられた。振り向くと若葉ちゃんだった。
﹁どうなさったの、高道さん﹂
若葉ちゃんは周りに人がいないことを確かめてから、私に近づい
てきた。
﹁あのね、今度家に遊びに来ませんか?﹂
﹁えっ?!﹂
若葉ちゃんからのお誘い?!急にどうしたの?!
若葉ちゃんは誰かに聞かれないように、声を潜めて話した。
﹁ほらこの前、制服をもらっちゃったでしょ。だからなにかお礼を
したいと思って﹂
﹁そんな、気になさらないで。そもそも汚れて着なくなってしまっ
た制服ですし﹂
﹁でも高い制服をタダでもらっちゃったから、なにかお返しをした
いなってずっと思ってるんだ。でも今回はケーキでお礼出来るって
レベルじゃないんだけど⋮﹂
﹁本当に気にしなくていいのに。でも高道さんのお家に遊びに行か
せてもらえるのは嬉しいわ﹂
﹁本当?それでなにかして欲しいこととか、欲しい物とかあるかな。
私が吉祥院さんに出来ることって限られてるけど﹂
﹁高道さんの家でケーキを食べさせてもらえれば、それで充分よ﹂
﹁だからお礼がケーキじゃ釣り合わないって﹂
1215
隣り合って階段を下りている時、ふとマンガで吉祥院麗華が若葉
ちゃんを階段から突き落とすシーンがあったなと思い出して、つつ
と間をとった。
﹁どうかした?﹂
﹁ううん、なんでもないの﹂
今の私に若葉ちゃんを階段から突き落とすなんて真似、絶対にす
る気はないけれど、一応念のため、階段ではちょっぴり離れておこ
う。若葉ちゃんは不思議そうな顔をした。
﹁そうだわ。高道さん、私にバレンタインに作るお菓子を教えてく
ださらない?﹂
﹁バレンタイン?﹂
﹁ええ﹂
なんていい考えだ。お菓子作りが趣味の若葉ちゃんと一緒に作れ
れば、きっとおいしいお菓子ができあがるに違いない。あげる人は
家族しかいませんが!
﹁そんなの、いつでも教えるけど﹂
﹁では、よろしくお願いいたしますわね﹂
私は満面の笑みを浮かべた。
1216
猫の手ガードを買ってきてから、手を切ることもなくなった。初
日に切った治りかけの傷に絆創膏を貼り直していると、お兄様が伊
万里様を伴って帰宅した。
﹁伊万里様、お久しぶりです!﹂
﹁遅いけど、明けましておめでとう、麗華ちゃん﹂
﹁明けましておめでとうございます、伊万里様﹂
今年もキラキラしています、伊万里様。仕事帰りのスーツ姿が素
敵。
﹁今日は麗華ちゃんに渡すものがあったんだ﹂
﹁なんでしょう?﹂
伊万里様はカバンからリボンの付いた箱を出した。
﹁はいこれ、長崎のお土産﹂
﹁わぁっ、ありがとうございます。確かご親戚の家が長崎にあるの
でしたよね?﹂
﹁そう。お正月に顔を出したんだ。アメリカに行っている弟も帰国
してたから一緒にね﹂
﹁そうなんですか﹂
伊万里様の弟様はアメリカに留学してそのままあちらに居ついて
いる。窮屈な日本よりも肌に合うらしい。
私は渡されたお土産の封を開けた。伊万里様からは昔、長崎のお
土産にびいどろやカステラをお土産にいただいたことがある。可愛
いびいどろは今でも私のお気に入りだ。伊万里様は女の子の好きそ
うな品選びを外さない。
1217
﹁わ、真珠?!﹂
ビロードのケースを開けると、銀のハートから真珠が涙のように
こぼれるネックレスが入っていた。
﹁素敵!﹂
﹁長崎は真珠が有名だからね。麗華ちゃんに似合うと思って。付け
てあげようか?﹂
﹁伊万里、人の妹に気安く触るな﹂
お兄様が伊万里様を冷たく睨んだ。
﹁麗華ちゃんのお兄さんは怖いよねぇ。真珠は人魚の涙、妖精の流
した涙という話があるけど、僕は女性には哀しい涙ではなく、嬉し
い涙を流して欲しいな﹂
にっこり微笑むカサノヴァ村長の脳天に、お兄様の鉄拳が落ちた。
﹁いってーっ!﹂
﹁死ね。いっぺん死んでこい!海の藻屑となり、アコヤ貝の核とな
れ!補陀落渡海してこい!﹂
お兄様は伊万里様の首をぐいぐいと締めた。いつも優しく穏やか
なお兄様が珍しい。仲がいいんだなぁ。
﹁素敵なお土産をありがとうございます、伊万里様。そうだわ!バ
レンタインに伊万里様にも、この真珠のお礼にチョコをお渡しいた
しますわ!﹂
﹁えーっ、麗華ちゃんからのチョコレート?それは嬉しいな﹂
1218
伊万里様は殴られた頭を擦りながら喜んでくれた。
家族以外にプレゼントする相手がいれば、やる気も出るもんね!
﹁麗華、それは⋮﹂
お兄様も期待しててね!
あっと、その前に雪野君の誕生日の手料理が⋮。
1219
185
バレンタイン当日になにを作るかはまだ決めていないので、若葉
ちゃんの家に遊びに行った時にふたりで相談し合って決めることに
した。いつがいい?と聞かれたので、一番早い休日でとお願いした
ら、若葉ちゃんに笑われてしまった。私が暇人だとバレたかしら。
でも休日はジョギングしたり、隔週で習い事が入ったりしてこれで
も忙しいんだから!真正の暇人ではないんだから!
若葉ちゃんの家に遊びに行く時は、いつも電車を乗り継いで行く。
寒いなぁ。
﹁吉祥院さーん!﹂
改札を出ると、若葉ちゃんが大きく手を振って待っていてくれた。
﹁ごめんなさい、待たせちゃった?﹂
﹁ううん、全然平気だよ﹂
若葉ちゃんは今日も赤いダッフルコートを着て元気いっぱいの笑
顔だ。
﹁お昼ごはんは食べてきた?ハヤシライスなら家にあるけど、どこ
かで食べて行く?﹂
﹁大丈夫よ。高道さんは平気?﹂
﹁私も平気。じゃあ家に行こうか﹂
私と若葉ちゃんはのんびり歩いた。
1220
﹁あの、高道さん、あれからどう?嫌がらせのほうは﹂
﹁えっ、あー、うん。まぁ適度に﹂
﹁そう⋮﹂
私が聞いた話だと、若葉ちゃんの机に足跡が付けられていたこと
があったとか、相変わらずわざとぶつかられたりとか、聞こえよが
しの悪口を言われたりとかがあるらしい。
﹁でもあれ以来、制服を汚されるようなのはないよ﹂
﹁それは当然でしょう。頻繁にされたらたまりませんわ﹂
﹁まぁねぇ﹂
若葉ちゃんはけらけらと笑った。
﹁私で力になれることがあれば⋮﹂
﹁今のままで充分だよ。上靴もらって制服までもらっちゃって。吉
祥院さんには、ほんっとーに感謝してるよ?﹂
﹁でも﹂
﹁それに大っぴらに私を庇えば、吉祥院さん立場悪くなるでしょ?
私、ピヴォワーヌの人達から良く思われていないし﹂
﹁え⋮﹂
図星を指された。確かに私が若葉ちゃんと仲良くなれば、私の立
場がどう転ぶかはちょっとわからない。
﹁大丈夫ですよ。私のことを庇ってくれる人達もいるから。水崎君
達とかね﹂
﹁あぁ⋮﹂
同志当て馬や生徒会の友達が若葉ちゃんと一緒にいるから、露骨
1221
な攻撃からは守られているっていうのはある。ただ同志当て馬ファ
ンの嫉妬を買うはめにもなっているけど。
﹁それとあの、極少数ですけど、ピヴォワーヌをあまり良く思って
いない人達がいるって知ってます?﹂
﹁ええ、まぁ﹂
ピヴォワーヌに対して家柄と親の財力を盾に好き放題しやがって、
と不満を持っている層は昔からいる。今の生徒会を中心とした第三
勢力もそうだ。
ピヴォワーヌと生徒会の確執は根深い。あのバランス感覚に長け
ていた友柄先輩ですら、卒業まで香澄様との交際を隠していたくら
いだ。
そうなんだよな∼。今の生徒会長の同志当て馬はあれで生徒達か
らの人望もあるし、皇帝には劣るけどカリスマ性もある。そこに私
なんかがピヴォワーヌの会長になったら、ここぞとばかりに不満分
子が反乱起こしそうで、次期会長の打診があった時は凄く怖かった。
私の代でピヴォワーヌ崩壊とかさ、笑えないよ?そんなことばかり
考えていたら、眉毛に円形脱毛症が出来ちゃったし。だから鏑木が
会長になってくれて、本当によかった∼!
﹁私、これでも一応生徒会の役員だし、吉祥院さんはピヴォワーヌ
の有名人でしょ。それが裏で繋がっていたなんて言われたら、お互
い裏切り者扱いされそうですよね∼﹂
﹁そうね⋮﹂
しがらみが面倒くさいな∼。普通にお友達づきあいが出来ればい
いんだけど。
﹁だから吉祥院さんはなにもしなくて大丈夫ですよ。私も自分のこ
1222
とは自分でなんとかしますから。なんて言いながら、何度も助けて
もらっちゃってるけど﹂
若葉ちゃんはペロッと舌を出した。
﹁ほら、そんな話をしている間に家に着いちゃった。もうこの話は
終わりね!家族の前では特に﹂
﹁わかりましたわ﹂
今の言い方からすると、若葉ちゃんの家族には若葉ちゃんが学校
でどんな仕打ちをされているのか教えていないらしい。そりゃあ家
族には心配かけたくないもんね。
私は3回目となる若葉ちゃんのお家にお邪魔させてもらった。今
日の手土産はあられだ。
﹁毎回気を使わなくていいのに。今度からは手土産はいいから!私
の家はそんな上等なものじゃないし!﹂
﹁でも大した物ではありませんから﹂
﹁いいってば。嬉しいけど、毎回頂き物しちゃうと、誘いにくくな
っちゃう﹂
﹁そうですか?﹂
そういうものなのか。考えてみれば前世では友達の家に遊びに行
くのに、毎回手土産を持っていくようなことはしていなかったかも。
﹁でもこの前もらったかりんとうも、みんなであっという間に食べ
ちゃったんだよ。ありがとう!﹂
﹁どういたしまして﹂
若葉ちゃんは手土産の袋を捧げ持つと、﹁いただきます﹂と恭し
1223
く頭を下げた。
﹁さて!ではバレンタインになにを作るかだよね?﹂
﹁はい。よろしくお願いします、先生﹂
﹁あはは。でも私でいいのかな?そんなに豪華なのは作れないよ?﹂
﹁高道さんの作るお菓子がいいんですわ。クリスマスにいただいた
ブッシュドノエルも、とってもおいしかったもの。あのメレンゲ人
形、私にも作れるかしら?﹂
﹁あぁ、あれ。うん、コツさえ掴めば出来ると思うよ。あとは絵心
かな﹂
﹁絵心ですか⋮﹂
絵はあまり自信がないんだよな。プレゼントする相手に似せたメ
レンゲ人形をケーキと一緒に渡したら、喜ばれるんじゃないかと思
ったんだけど。
﹁今まで作ったバレンタインのお菓子は、どんなのがあったの?﹂
﹁そうですわね∼。チョコレートブラウニーは何度か作りましたわ
ね。お友達に誘われて、パティシエに習いに行きましたのよ。去年
はチョコレートケーキを作ったわ。それからトリュフ、生チョコレ
ート⋮﹂
﹁結構いろいろ作ってるんだ﹂
﹁ええ。でもやっぱり素人の域を出ていないというか、食べ比べる
と市販のケーキのほうがどうしてもおいしいんですよね﹂
﹁う∼ん、そこはプロの作ったものだからねぇ﹂
﹁ですわよねぇ。普通の人が作ったお菓子に、プロと同じレベルを
求められても困りますわよねぇ﹂
﹁でもある程度までは作れると思うよ。それにマフィンとかは焼き
たてのほうがおいしいし﹂
﹁マフィン!バレンタインにチョコレートマフィンでもいいですわ
1224
ね!﹂
﹁うん、いいんじゃないかな。ただちょっと地味かもしれないけど﹂
﹁う∼ん、確かに﹂
1年に一度のバレンタインにチョコレートマフィンは地味かな。
﹁それならフォンダンショコラは?﹂
﹁フォンダンショコラ!それがいいわ!﹂
フォンダンショコラは、前々から一度作ってみたいとは思ってい
たのだ。
﹁フォンダンショコラがいい?だったら今日はそれを練習してみる
?それともほかのお菓子を作ってみる?﹂
﹁ほかのお菓子ですか?たとえば﹂
﹁そうだなぁ。私がバレンタインに作るのは、チョコレートチーズ
ケーキとか、ガトーショコラとか、オペラとか﹂
﹁チョコレートチーズケーキは興味がありますわ﹂
それが作れれば、普通のチーズケーキも作れるってことだよね。
いいかも。
﹁そっか。なら今日は試しにチョコレートチーズケーキを作ってみ
ようか﹂
﹁はい!﹂
私が勢いよく立ち上がると、おなかがクウッと鳴った。ぎゃっ!
食べ物の話をしてたから?!
﹁⋮先にちょっとだけなにか食べる?﹂
1225
﹁いえ、平気ですわ⋮﹂
この腹鳴め!何度私に恥をかかせれば気が済むんだ!
﹁そうだ。とっておきのがあるんだった!﹂
若葉ちゃんは両手をパチンと合わせてキッチンに立つと、なにや
らお鍋を温めだした。さっき言ってたハヤシライスかな?
そして若葉ちゃんが小さいお椀で出してくれたのは、卵と緑の野
菜の入ったお粥だった。とっておきって、これ?
﹁どうぞ﹂
﹁ありがとう。いただきます﹂
本当にそこまでおなかは空いていなかったんだけど、せっかく出
してくれたので、ありがたくいただく。
熱々のお粥をふうふうと冷ましてから、れんげに掬って食べる。
熱っ、熱っ!
﹁どうかな?﹂
﹁ええ、熱いけどおいしいですわ﹂
うん。病気じゃないけど、たまにはお粥もいいよね。でもなんで
お粥なんだろう?ハヤシライスがあるって言ってたのに。それと卵
にからまる、この緑の草はなんの野菜かな?いや、山菜か?
私がれんげで緑の草を掬って見ていると、若葉ちゃんがニコニコ
と笑った。
﹁それはね、春の七草だよ。1月7日はとっくに過ぎちゃったけど、
遅めの七草粥ね。これで1年無病息災に過ごせるよ﹂
1226
﹁あぁ、七草粥でしたか。卵にからまっていてわかりませんでした﹂
七草粥かぁ。うん?七草粥⋮?もしかしてこれって、瑞鸞の森で
採ってきたきた野草じゃ⋮。
﹁吉祥院さんにもおいしく食べてもらえて良かったぁ﹂
﹁⋮⋮﹂
若葉ちゃん、もしかしなくても、私を山菜泥棒の共犯者にしまし
たか⋮?
1227
186
疑惑の七草粥を食べ終わると、いよいよお菓子作りだ。私は持参
したエプロンを付けた。
﹁えーっとね、器具はこっちで、調味料はこっちにあるからね。レ
シピはここに書いてある通り﹂
若葉ちゃんは手書きのノートを出してくれた。
﹁これは高道さんが考えたお菓子レシピですの?﹂
﹁お父さんに教わったのと、お菓子の本に載っていておいしかった
レシピをメモしてあるの。あとは人に聞いたものとか﹂
﹁そうなんですか﹂
私はいつもその場のひらめきで作っているから、レシピとして残
していない。残すほどの味のお菓子を作ったことがないのもあるけ
ど。
﹁じゃあ、まずは材料を出そっか。クリームチーズにチョコレート、
それから卵と﹂
﹁あらっ?﹂
私は冷蔵庫の中に見覚えのある瓶を見つけた。
﹁これって⋮﹂
﹁なに?あぁ、それ。お土産でもらったんですけど、すっごくおい
しいの!吉祥院さんも食べてみます?﹂
1228
間違いない。私が円城達からもらったのと同じ、メープルシロッ
プだ。
﹁このメープルシロップ、もしかして鏑木様からのお土産かしら?﹂
﹁えっ、なんで知ってるの?!﹂
﹁私もいただいたからですわ。私はどちらかというと蜂蜜派なんで
すけど、このメープルシロップは私の持つ蜂蜜コレクションを凌ぐ
おいしさでした﹂
﹁そうなんだ!お菓子作りに使うにはもったいないから大事に食べ
てるんだけど、みんなおいしい、おいしいって食べちゃうから、も
うそれだけしか残ってないの。バニラアイスにかけて食べるとおい
しいよぉ﹂
﹁それはおいしそうですわね!﹂
アイスにかけるのかぁ。冬にアイスは寒いけど、今度お風呂上り
にやってみよう。
﹁でも冬休みにカナダにスキー旅行なんて、凄いよね∼。私、海外
なんて行ったことないもん﹂
﹁お店もありますしねぇ﹂
家がお店をやっていてしかも家族も多いとなると、なかなか海外
旅行に行くのは大変そうだもんね。⋮って、ああっ!思い出した!
﹁パスポート!﹂
﹁は?﹂
﹁高道さん!パスポート持ってる?!﹂
﹁パスポート?持ってないけど﹂
1229
瑞鸞学院高等科の修学旅行はもちろん海外だ。そして瑞鸞生はほ
ぼ全員、パスポートを当然のように持っている。だからマンガでは
手続きの際に初めて若葉ちゃんがパスポートを持っていないことが
判明して、トラブルになったのだ。なんとかギリギリ間に合ったけ
ど、パスポートも持っていないのかと、またバカにされる要因にな
っていた。
﹁瑞鸞の修学旅行がヨーロッパなのはご存じですわよね?その時に
パスポートが必要なのですわ。瑞鸞では持ってて当たり前ですから、
手続きの直前までパスポートの有無の話が出ないのです﹂
﹁そうなんだ﹂
﹁ですから、早めに手続きをしたほうがいいですわ。必要書類を集
めたり証明写真を撮ったりしないといけませんし、申請してからパ
スポートを受け取るまで10日くらいかかりますから﹂
﹁そっかぁ。そんなこと全然考えてなかった!教えてくれてありが
とう、吉祥院さん!さっそく取りに行ってくるよ!﹂
あぁ、良かったぁ、思い出して。マンガでは肩身の狭い思いをし
ていたもんね。最後に君ドルを読んでから15年以上は経っている
から、細かいエピソードは忘れつつあるんだよね。鏑木のメープル
シロップ、よくやった!
しかし鏑木は、このお土産をいつ若葉ちゃんに渡したんだ?
﹁さぁ!では今度こそ作りますか!﹂
﹁は∼い﹂
私は若葉ちゃんの指導の元、チョコレートチーズケーキを作り始
めた。
レシピを見ながら、材料を混ぜていく。若葉ちゃんの指導は細か
かった。
1230
﹁しっかりレシピ通りの分量でやらないとダメですよ﹂
﹁はい﹂
﹁あ⋮、今クリームチーズ適当に入れましたよね﹂
﹁濃厚にしようと思って⋮﹂
﹁ダマになっていますけど﹂
﹁この程度はご愛嬌、かな?﹂
﹁いいえ全く。もっと丁寧に混ぜないと﹂
﹁はぁい﹂
厳しいなぁ、若葉ちゃん。
そこに一番上の弟が﹁ただいまー!﹂と元気よく帰ってきた。
﹁おかえりー﹂
﹁おかえりなさい﹂
﹁あっ、コロネが来てる!﹂
弟は私を見て指差した。
かんた
﹁寛太!コロネじゃないでしょ!吉祥院さんでしょ!それから人を
っ!﹂
指で差さない!﹂
はい
﹁へぇ∼い﹂
﹁返事は
寛太君は﹁へー、へー﹂と返事をしながら、手を洗いに洗面所に
行ってしまった。
﹁ごめんね、吉祥院さん﹂
﹁いいえ、気にしないで。お姉さんは大変ね?﹂
﹁中1にもなるとすっかり生意気になっちゃって。全然言うこと聞
1231
かないんだもの﹂
若葉ちゃんは﹁全くもうっ﹂と、ボウルをかき混ぜた。
私がレシピノートを見ていると、戻ってきた寛太君に﹁コロネ、
コロネ﹂と呼ばれた。
﹁なぁに?﹂
﹁これ、見てみろよ!姉ちゃんが男にもらったの!﹂
寛太君が手に持っていたのは、テディベアだった。
﹁寛太!あんた私の部屋に勝手に入ったね!﹂
激怒する若葉ちゃんに知らん顔で、寛太君は﹁クリスマスに姉ち
ゃんに届けにきたんだぜー!﹂と暴露した。
﹁その相手はもしかして⋮﹂
﹁いやぁ⋮﹂
若葉ちゃんは気まずい顔をした。鏑木ですね。
﹁でもさぁ、プレゼントにクマのぬいぐるみって子供っぽくね?﹂
﹁寛太!﹂
﹁このテディベア、ドイツ製でクリスマス限定商品ですわね﹂
﹁そうなの?﹂
﹁ただのぬいぐるみじゃねぇの?﹂
﹁まぁ、ただのぬいぐるみと言われればそうなんですけど、普通の
クマのぬいぐるみと一緒にしては可哀想かしら。シリアルナンバー
も入っている、由緒正しいクマさんですし﹂
1232
鏑木がテディベアねぇ。あいつ、私が限定モノ好きみたいなこと
を言ってたくせに、自分だってしっかり限定商品買っているじゃな
いか。
﹁ぬいぐるみだから気軽にもらっちゃったけど、もしかしてこれ、
高いの⋮?﹂
若葉ちゃんが怖々尋ねてきた。
﹁数万円ってとこかしら﹂
﹁数万円!﹂
﹁高っ!﹂
高道姉弟はそろって仰天した。
﹁ぬいぐるみのくせに、なんて高いんだお前は!﹂
﹁どうしよう、そんな高い物をもらって、ありがとうの一言で済ま
せちゃったよ!﹂
わーわー騒ぐふたりに、私は﹁別に気にせずもらっておけばいい
のでは?﹂とアドバイスをした。
﹁鏑木様にとっては、むしろお安いプレゼントだと思いますわよ?﹂
﹁すげぇなぁ、瑞鸞⋮﹂
﹁ぬいぐるみが数万円⋮﹂
ふたりは軽いショックから立ち直れない様子なので、私は先にケ
ーキ作りを進めていく。あ、香りづけでちょっとリキュールを入れ
てみようかな。ポトポトっとね。
1233
﹁あっ!吉祥院さん!なにやってるの!﹂
﹁うん?リキュールを足してみました﹂
﹁足してみたって、レシピにはリキュールを入れるなんて書いてな
いでしょ?﹂
﹁でも入れたらおいしくなるかなって﹂
若葉ちゃんと、テディベアを抱いた寛太君がしばし無言になった。
﹁⋮さっきから思ってたけど、吉祥院さん、もしかしていつもそん
な感じで適当に?﹂
﹁適当っていうか、まぁ、ひらめきは大事にしていますけど。手作
りは一期一会という気持ちで作っています﹂
﹁わぁ⋮﹂
寛太君はスプーンでボウルの中のタネを取って舐めると、﹁まず
っ!﹂と顔を顰めた。
﹁なんだよ、これ!妙に酸っぱいし、苦いっ!﹂
﹁リキュール、苦くなるほど入れちゃったの、吉祥院さん⋮﹂
﹁寛太君、大げさだよ!ちょっとしか入れてないよ!﹂
﹁後味が苦いんだよ!ケーキ屋の息子として許せねぇっ!ケーキは
レシピを無視して作んな!﹂
﹁そんなぁ⋮﹂
﹁これは寛太の言う通りかな⋮。お菓子は分量を適当にしたら確実
に失敗するよ。今まで市販品よりおいしく作れなかったのは、それ
が原因かも⋮﹂
その後、若葉ちゃんが味を軌道修正し、寛太君に私が余計なこと
をしないように監視されながら、どうにかチョコレートチーズケー
キは出来上がった。
1234
﹁おいしいっ!﹂
私が今まで作ったお菓子の中でも1、2を争うおいしさだ。大成
功だ!
﹁おいしくない⋮﹂
﹁う∼ん⋮﹂
ケーキを食べた高道姉弟の評価は厳しかった。そして再度、いか
にレシピ通りに作ることが大事かを懇々と説明された。そして顔を
出した若葉ちゃんのお父さんにも同じことを言われた。そんなに分
量を正確に量ることが大事とは。目からうろこです。
そっかぁ、お菓子はお料理とは違うんだね。勉強になりました。
帰り、若葉ちゃんに駅まで送ってもらいながら、改めてクリスマ
スのことについて聞いてみた。
﹁えっと⋮、クリスマスイブの夜に、お店が終わって閉めようとし
た時に、鏑木君が現れて、クリスマスプレゼントって渡されたんだ﹂
﹁そうでしたの﹂
﹁真っ黒いコートを着て、いつもより大人っぽかったなぁ。街灯に
照らされてキラキラ輝いて、これぞ皇帝って感じだった!﹂
﹁ふぅん﹂
鏑木のヤツ、家のパーティーを抜け出して、若葉ちゃんにプレゼ
ントを届けに来たのかな。
どうやら私の知らないところで、いろいろ事態は動いているらし
1235
い。今度、しっかり聞いてみたい。
﹁では、私はここで﹂
﹁うん、気を付けてね!﹂
私は若葉ちゃんに手を振って、改札をくぐった。
1236
187
バレンタインは若葉ちゃんに全面的に頼ることが決定した。今度
フォンダンショコラの作り方を教えてもらう予定だ。
普段、バレンタインはお兄様とお父様以外に手作りで渡す人はい
ないので、最近はわざわざ習いに行くこともなく、レシピを見てひ
とりで作っていたのだけれど、やっぱり人に教わると全然違うね。
今年のバレンタインは若葉ちゃんにおまかせだ。
まぁ元々、私が手作りチョコを渡す相手はほぼ身内に限られてい
るから気楽なもんだ。伊万里様にはおいしく出来なかったら既製品
を渡せばいいし。
しかし、雪野君の誕生日パーティーにリクエストされてしまった
手作り料理は、バレンタインチョコとはわけが違う。食べるのは身
内以外。しかも円城家。変な物を作って食べさせるわけには絶対に
いかないのだ。
なにを作ればいいのか、耀美さんと話し合い、結果ちらし寿司を
作って持っていこうということになった。彩りでごまかしがきくし、
なによりも食中毒が怖いので、お酢の殺菌効果に期待するメニュー
選択だ。
今年の雪野君の誕生日は土曜日なので、午前中に耀美さんに私の
家に来てもらって一緒に作ってもらい、私はそのままそれを持って
雪野君のパーティーに行く。当日、あたふたしないように、耀美さ
んから送られてきたレシピを毎日熟読し、家で錦糸卵を作る練習を
した。焦げた。細かく切れなかった。うん、これは耀美さんにおま
かせしよう。
1237
﹁吉祥院さん、手料理が食べたいなんて雪野が我がままを言ってご
めんね。大変なら断ってくれてもいいんだよ﹂
私がピヴォワーヌでも料理本を見ているのを気にしてか、円城が
そんなことを言ってきた。
﹁大丈夫ですわ。ご期待に添えず申し訳ないのですけど、凝った物
ではなく簡単な物を作っていく予定ですし。この本を読んでいるの
は、単にお料理に興味があるだけですから﹂
これは本当。耀美さんにお料理を習うことにして、家でも野菜を
切る練習をしたりしているうちに、お料理に興味が出てきたのだ。
私が練習で切った野菜を、家の料理人さんがミキサーにかけてスー
プやドレッシングに使ったりしてくれている。どうやら私の切った
不格好な野菜は、メインのお料理には使えないらしい。この前作っ
てくれたじゃがいものポタージュはおいしかったなぁ。
今こうして料理本を見ているのは、私の練習の後始末に迷惑をか
けているようなので、あの野菜達をどうにか自分でも活用できるメ
ニューを研究しているからなのだ。やっぱりカレーかなぁ。
今度カレールーを使ったカレー作りに挑戦してみようか。吉祥院
家の料理人さんは市販のルーを使うような手抜きをせず、香辛料を
使った本格的なカレーしか作らない。でもたまにはあの懐かしい味
が食べたいんだよー。前に若葉ちゃんの家で食べさせてもらったカ
レーはまさにその味だった。
前世のお母さんは市販のルーを2種類ブレンドして使っていたな。
あれがおいしくなるコツなんだと思う。それと私は知ってるんだ。
隠し味。チョコレートやヨーグルトを入れるとコクが出るんだ。
⋮チョコレートにヨーグルトか。要は甘いものを入れるといいっ
てことでしょ?そしたらプリンはどうだろう。なめらかプリンなら
溶けやすいしいいんじゃないかなぁ。でもあんまり甘いカレーは好
1238
きじゃないんだよなぁ。だったらそのぶん、激辛カレーのルーを使
えばいい?市販のルーを使ったカレーでも、きらりと光るオリジナ
ル感が欲しいんだよなぁ。ミラクルフルーツを入れてみるか⋮。
今度耀美さんに相談してみよう。
﹁吉祥院さん、聞いてる?﹂
﹁え、ああ、ごめんなさい。聞いていますわ﹂
いけない。カレーに心を持っていかれてた。なにか話しかけられ
ていたらしい。
﹁手料理が、吉祥院さんの負担になっていないのならいいけど。招
待する友達も20人いないくらいのこじんまりした会だから、あま
り肩に力入れすぎないでね﹂
﹁ええ﹂
麻央ちゃんと悠理君もよばれているんだよなぁ。麻央ちゃんのお
母様は料理上手だからプレッシャーだ。しかし私には耀美さんがい
るからきっと大丈夫!
当日は朝から耀美さんが約束通り家に来てくれた。
﹁ごきげんよう、耀美さん。お休みの日に朝からごめんなさい﹂
﹁全然大丈夫ですよ。今日は頑張りましょうね﹂
﹁はい﹂
材料はすでに全部厨房に揃えてある。あとは耀美さんにお願いす
1239
るだけだ。厨房に案内する前にリビングで一休みしてもらおうと思
っていたら、耀美さんの訪問を知り、両親とお兄様が玄関までやっ
てきた。
﹁ようこそ、耀美さん。今日は妹のために朝からありがとう﹂
﹁麗華が料理を習っているそうだね。今後とも娘をよろしく頼みま
すよ、耀美さん﹂
﹁円城様のお宅に持参する手料理ですの。くれぐれもよろしくお願
いいたしますわね、耀美さん﹂
﹁円城家のご子息から、麗華の手料理が食べたいとのリクエストだ
そうなんだ﹂
﹁円城家のみなさんが召し上がる物ですからね﹂
﹁お父さん、お母さん、それくらいにしてください。耀美さん。帰
りは僕が送りますから声を掛けてください﹂
﹁は、はいっ⋮﹂
耀美さんが目に見えて恐縮してしまったので、私はそのまま家族
を散らして、とりあえず耀美さんを厨房に連れて行った。お母様達
をお兄様が止めてくれて助かった。
﹁どうしましょう。責任重大だわ⋮﹂
﹁ごめんなさい、耀美さん。リビングでお茶でも飲んでいただこう
と思っていたのですけど、どうします?もれなく家族が付いてきま
すけど﹂
﹁ううん、平気よ。一刻も早く取り掛かりたいわ。失敗した時のた
めに時間に余裕が欲しいの﹂
さっきまでほのぼのしていた耀美さんの顔が険しい。ごめんなさ
い⋮。
家族には私が耀美さんにお料理を習うことは前から話していたけ
1240
れど、雪野君の誕生日パーティーに手料理を持参することはつい最
近話したのだ。それを聞いた家族は大慌てで、自分で本当に作るこ
とはせず、我が家の料理人さんかどこかのお店のシェフに代わりに
作ってもらうように何度も説得してきたけれど、それは楽しみにし
ている雪野君に嘘をつくことになるので、断固拒否した。耀美さん
に手伝ってもらうから大丈夫だと言っても、安心できないらしい。
特にお母様の心配は凄まじかった。ここで不味い物を持参すれば、
私の今後の縁談にまで響くと言い出した。
たぶんこうなるだろうなと思って、私もあまり言いたくなかった
んだけどなぁ。まぁ、家の問題もあるし、言わないわけにはいかな
かったけどさ。
﹁とにかく、作り始めましょうか、麗華さん﹂
﹁はい﹂
最初の話では、ふたりで分担して作りましょうという話だったの
だけど、結局は耀美さんがほとんど作る形になってしまった。特に
味付け関係はすべて耀美さんまかせだ。私がやったことといえば、
うちわでひたすら酢飯を扇ぐくらい⋮。でも卵をかきまぜたり、す
し桶にごはんをよそったりしたし、耀美さんの指示で材料を渡した
り、使った器具をどかしたり、アシスタントはしっかりやった。う
ん、これで一応共作という形にはなったと思う。
出来上がったちらし寿司を重箱に詰めて、残りは両親とお兄様に
試食してもらった。作っている間中、ずっと心配して待っていたみ
たいだからね。
﹁おいしいわ!﹂
﹁これなら円城家の方々に食べてもらっても大丈夫だ!﹂
﹁麗華、おいしいよ。ありがとう、耀美さん﹂
﹁本当にありがとう、耀美さん!﹂
1241
その過剰なまでの反応に、耀美さんは﹁良かった⋮﹂と心からほ
っとした顔をした。
私は誕生日パーティーに行くための準備をするために席を外し、
その間耀美さんはリビングで休んでいただくことにした。
私が着替えて戻ってくると、耀美さんはお兄様と和やかにおしゃ
べりをしていた。
﹁麗華、用意は出来た?そうしたら僕が耀美さんを送るついでに麗
華も送るから﹂
﹁お願いしますわ、お兄様。荷物が多いので運ぶのも手伝ってくれ
ます?﹂
﹁両手いっぱいに凄い荷物ねぇ、麗華さん。大丈夫?﹂
﹁ふふふっ﹂
いろいろ考えたら、こんなに大荷物になっちゃったんだ。ちらし
寿司もあるしね。
﹁さあ、参りましょうか!﹂
雪野君、待っててねー!
あ、耀美さんにカレーの隠し味の話をするのを忘れちゃった。
1242
188
円城邸は、兄弟のイメージ通りの白亜の洋館でした。
荷物が多いので、玄関までお兄様に付き添ってもらう。出迎えて
くれたのは円城だった。
﹁いらっしゃい、吉祥院さん﹂
﹁ごきげんよう、円城様﹂
﹁こんにちは、秀介君。今日は妹をよろしく﹂
﹁こちらこそ﹂
お兄様と微笑みあった円城が、お兄様が持っていた荷物を代わり
に受け取ると、私は家に招き入れられた。お兄様は﹁失礼のないよ
うにね﹂と私に言って、そのまま帰って行った。
今日の円城は、ラフなグレーのカーディガン姿だった。普段見る
姿はほぼ制服姿だし、私服もパーティーでのフォーマル姿くらいし
か見たことがなかったから、こういう普段着の姿を見るとちょっと
ドキッとしてしまう乙女心。くそーっ、元がいいと何を着ても似合
うな∼っ。
﹁今日の吉祥院さんの服、真っ白で可愛いね。うさぎさんみたいだ
よ﹂
﹁うぇっ?!﹂
驚きすぎて、変な声出た!心臓、飛び跳ねた!
う、うさぎさんだと?!女の子にそんなことを笑顔でさらっと言
えちゃう、このスキル。もしや円城はカサノヴァ村の仮村民?!い
やさ正式村民?!伊万里様の後継者ではあるまいか?!
1243
警戒警報発令!警戒警報発令!
﹁あ、会場はこっちね﹂
私の内心の動揺などおかまいなしに、円城は家を案内した。悔し
い、なにかこっそり報復ができまいか。円城の背中に抜け毛を探す。
抜けた髪の毛を他人に捨てられると失恋するというジンクスだ。し
かし身だしなみに気をつけているらしく、収穫はなかった。ちっ。
ふたりで歩いていると、廊下にまで子供達の楽しそうな笑い声が
聞こえてきた。
﹁雪野の友達がもう来ているから、賑やかなんだ﹂
﹁私、遅れてしまいました?お待たせしてしまったかしら﹂
﹁そんなことないよ。開始時間はまだだしね。それに雅哉も遅れて
くるって連絡があったし﹂
﹁鏑木様もいらっしゃるのですか?﹂
﹁うん﹂
へぇ∼。親友の小さな弟の誕生日に、律儀にお祝いにやってくる
んだ。でもまぁ、確かに鏑木は、雪野君を可愛がっているもんね。
ドアを開けると、子供たちがわいわいと騒いでいた。
﹁雪野。吉祥院さんが来てくれたよ﹂
友達に囲まれて楽しそうにしていた雪野君が、兄の言葉に振り向
いて眩しい笑顔を見せてくれた。
﹁麗華お姉さん!﹂
﹁お誕生日おめでとう、雪野君﹂
1244
私は雪野君に手を振った。するとお手伝いさん達に指示を出して
いた円城のお母さんも私に気が付いて、こちらにやってきた。
﹁いらっしゃい、麗華さん﹂
﹁ごきげんよう。本日はお招きいただいてありがとうございます﹂
儚げ美人の円城夫人は、笑うと雪野君に似ている。
﹁こちらこそ雪野のためにわざわざありがとう﹂
﹁あのこれ、雪野君とお約束した手料理なんですけれども⋮﹂
﹁まぁ、どうもありがとう。聞いているわ、雪野が我がままを言っ
たんですってね。ごめんなさいね、麗華さん﹂
﹁そんな。大した物ではありませんの﹂
﹁ではこちらでお預かりさせていただこうかしら?それとも雪野に
渡したほうがいいかしらね。あの子が楽しみにしていたから﹂
私達が話していると、雪野君が身を乗り出して﹁こっち!麗華お
姉さんは、こっちの席ね!﹂と手招きをした。なんだか今日は雪野
君、いつもより元気だな。可愛い。
﹁あの子ったら、もう。ごめんなさい、麗華さん。雪野の我がまま
に付き合ってもらえる?﹂
﹁ふふっ、はい﹂
円城夫人は苦笑いして私を送り出し、私はそのまま渡しそびれた
風呂敷包みと共に、雪野君の近くの席に座らされた。ニコニコ楽し
そう、雪野君。
円城は小さなお客さんを出迎えるために部屋を出て行った。
そのすぐ後に招待された子供が何人か着いて、鏑木以外の全員が
揃ったので、いよいよ雪野君の誕生日パーティーが始まった。
1245
部屋を暗くし、手拍子に乗せてみんなが歌うバースデーソングに
合わせ、7本のロウソクの立った2段重ねの豪華なバースデーケー
キが、雪野君の前に運ばれてきた。
歌が終わったと同時に、雪野君がフーッとろうそくの火を吹き消
すと、全員が拍手喝采!
﹁雪野君、お誕生日おめでとう!﹂
﹁おめでとう、雪野君!﹂
雪野君は頬を上気させ﹁ありがとう﹂と嬉しそうに笑った。
みんなが雪野君に誕生日のプレゼントを渡す間に、ケーキが切り
分けられ各自の席に配られた。私も雪野君にプレゼントを渡す。
﹁ありがとう、麗華お姉さん!﹂
﹁雪野君、誕生日おめでとう﹂
﹁なんだろう、大きいですね?﹂
﹁あとで開けて見てね﹂
喜んでくれるといいんだけどなぁ。子供の、しかも男の子のプレ
ゼントって全然思い浮かばなかった。
プレゼントはケーキや料理を食べながら、随時開けることになっ
た。テーブルには子供達が好きそうなメニューがいっぱい。
﹁麗華さん、作ってきてくださった手料理を、そちらに出していた
だいてよろしい?﹂
﹁あ、はい﹂
うっ、とうとうこの時がきたか。
円城夫人に言われ、私が風呂敷を開いてテーブルに重箱を出すと、
雪野君がぱあっと笑顔になった。
1246
﹁わぁっ!本当に作ってきてくれたんですね!﹂
﹁雪ちゃん、麗華さんにお礼は?﹂
﹁ありがとう、麗華お姉さん!﹂
﹁どういたしまして。雪野君のお口に合うといいけれど⋮﹂
そう言って私は若干緊張しながら、子供達の注目の中、重箱の蓋
を開けた。
﹁きれい!ちらし寿司だ!﹂
﹁これ、麗華お姉様が作ったの?私も食べてみたいわ!﹂
﹁おいしそう﹂
おお、一応見た目は合格みたいだ。良かった。この刻み海苔をま
ぶしたのは私だよ。
﹁麗華さんはよくお家でもお料理をしていると、麗華さんのお母様
が話していらしたけど、本当にお上手なのね﹂
﹁いえ、まだ勉強中で、お恥ずかしいですわ﹂
どうやらお母様も外で私の話を盛っているらしい。だからあんな
に手料理を持っていくことを心配していたのか。いろんなことがバ
レるから。夫婦そろってあの人達は全く⋮。
﹁ではせっかくですから、麗華さんの作ってきてくださったお寿司
をいただきましょうか、雪ちゃん﹂
﹁うん﹂
円城夫人がお皿にちらし寿司を取り分けて雪野君に渡した。お味
はどうでしょう⋮。どきどきするーっ。
1247
雪野君がぱくりと一口食べた。
﹁おいしい!麗華お姉さん、とってもおいしいです!﹂
天使が微笑んだ。良かったーー!
円城夫人や麻央ちゃん達も、おいしいおいしいと食べてくれた。
耀美さん、やりましたよ!
あまり大きくないお重に詰めてきたので、ちらし寿司はあっとい
う間になくなった。あー、心の底からホッとした!
﹁うん、本当においしかった。吉祥院さん、料理上手なんだ﹂
円城もちゃんと完食してくれた。円城は鏑木と違って他人の手作
り料理が平気なんだな。あ、それともムリして食べた?
﹁ムリしてないから﹂
ぎゃっ!心を読まれた!やっぱり円城って、怖いっ!
﹁いや、全部顔に出てるから﹂
そうなの?って、また読まれた!
これ以上心を読まれると怖いので、私は円城に背を向けて、ケー
キをもそもそと食べた。
﹁麗華お姉様はお料理も上手なのねぇ﹂
麻央ちゃんが尊敬の目で見てきた。雪野君達も﹁本当にそうだね
ぇ﹂と大絶賛。ううっ、純粋な子供達に対して罪悪感⋮。
1248
﹁本当は、私のお料理の先生に手伝ってもらって、一緒に作ったの﹂
罪の意識に苛まれ、あっけなくカミングアウト。
﹁そうなのですか?でも麗華お姉様が作ったことには変わりないで
しょう?﹂
﹁まぁそうですけど。人に手伝ってもらったのにあまり絶賛される
と、手柄を独り占めしているようで、心が痛みますわ﹂
ちゃんと手伝ったけど。盛り付けは一緒にやったけど。でもほぼ
耀美さんの作品といっても過言ではない。
﹁ふふっ、麗華さんは正直なかたなのね。どちらの先生に習ってい
らっしゃるの?﹂
円城夫人に聞かれたので、私は﹁成冨家の耀美さんです﹂と答え
た。
﹁耀美さんはお料理がご趣味で、私は個人的に教えていただいてい
るんです﹂
﹁そうでしたの。確か成冨家のお嬢様はまだ学生でしたかしら?﹂
﹁はい﹂
麻央ちゃんが私もお料理を習ってみたいなぁと言った。麻央ちゃ
んはお母さんが料理上手なんだから、教えてもらえばいいと思うな。
ケーキを食べ終わった雪野君が、友達に囲まれながらもらったプ
レゼントを開け始めた。素敵なプレゼントに喜ぶ雪野君が、次に手
に取ったのは私のプレゼントだった。
大丈夫かなぁ⋮。
1249
﹁なんだろう﹂
﹁大きいね﹂
﹁早く開けて、雪野君﹂
﹁うん。わっ、なにこれ?﹂
誕生日プレゼントは喘息持ちの雪野君の体調を考え、加湿器にし
た。しかしただの加湿器ではない。透明の球体で中が二重になって
おり、外側には水と青い油が入って海の生物のミニチュアがぷかぷ
か浮いている。そこにはイルカやくじらやクマノミ、そして沖縄で
雪野君が一番気に入っていたマナティなども泳いでいて、インテリ
アのオブジェとしてとっても可愛い。加湿器型の水族館オブジェ。
正直言って、加湿器としての威力は二の次だ。
﹁可愛い!イルカが泳いでる﹂
﹁雪野君の好きなマナティもいるのよ?﹂
﹁えっ、どこどこ?﹂
雪野君がマナティを探して喜んでくれたので、気を良くしてもう
ひとつの箱も渡す。
﹁雪野君、こっちも開けてみて。おまけのプレゼント﹂
﹁えっ、これも?﹂
雪野君は私が渡したもうひとつのプレゼントを開けると、﹁んん
?﹂と言って、きょとんとした顔をした。
﹁これ、なあに?﹂
中身は初心者向けから難易度の高い物までいくつも入った知恵の
輪だ。
1250
﹁知恵の輪。知ってる?このくっついている輪っかを、頭を使って
外すの﹂
﹁へえっ!﹂
暇つぶしには最適なのです。雪野君は体が弱くて家にいることが
多いから、ひとりで遊べるものがあると楽しいかな∼って思って。
私も小さい頃からひとりでジグゾーパズルをやったりするのが好き
だったからさ。
雪野君や子供達が興味を持って、知恵の輪に挑戦し始めた。
﹁んーっ、難しいっ﹂
﹁全然できないよ﹂
﹁わぁっ、雪野君のお兄様が簡単に解いてくれたわ!﹂
女の子にせがまれ、円城が知恵の輪を解いて優しく手渡していた。
うん、盛り上がってくれてなにより。実はジェンガとかボードゲー
ムも持ってきたんだけど、やるかな?
そこへ、お手伝いさんが鏑木の到着を告げた。
1251
189
﹁悪い。遅くなった﹂
颯爽と鏑木が部屋に入ってくると、子供達、特に女の子達がきゃ
あっと騒いだ。今日の鏑木は黒を基調としたファッションで、まる
で光に反射して輝く黒水晶のようだ。だから麻央ちゃん、悠理君が
隣にいるのにうっとりしちゃダメだって!
鏑木は真っ直ぐに雪野君の元にやってきた。
﹁雪野、誕生日おめでとう。これ、プレゼント。それとケーキも買
ってきた﹂
そう言って雪野君にプレゼントを渡した鏑木は、もうひとつの手
にケーキ屋さんの袋を持っていた。そう、若葉ちゃんの家のケーキ
屋さんの袋を。
﹁雅哉、もしかしてケーキを取りに行ってて遅れたの?﹂
﹁まぁな﹂
えーっ!なにそれ!若葉ちゃんに会いたいから、パーティーに遅
刻してでも自分で取りに行ったのか、それとも若葉ちゃんと過ごす
ひとときに、思わず時間を忘れてしまい遅刻したのか。どっちにし
ろ、誕生日ケーキを口実に会いに行ったとしか思えん!
雪野君はお母さんと一緒にケーキの箱を開けた。
﹁あ、雪だるまだ﹂
1252
Birthday
Yuk
若葉ちゃんの家のケーキはシンプルな苺の乗った白いデコレーシ
Happy
と書いたチョコプレートが乗っかっており、その隣に雪だ
ョンケーキ。真ん中には
ino
るまのメレンゲ人形がちょこんとあった。
﹁お前、雪だるま好きだろう。ケーキを注文する時に、なにか要望
はあるかって聞かれたんで、頼んで作ってもらった﹂
﹁へぇっ、可愛いね﹂
せっかくなので、もう一度ロウソクを立てて誕生日のお祝いをす
ることにした。さっきの豪華な2段重ねのバースデーケーキも凄く
おいしかったけど、こういったシンプルな苺のケーキがなんだかん
だ言っても私は一番好きだな。
2回目のバースデーソング。私は張り切って歌ったけれど、鏑木
は手拍子のみだった。歌えよ!
﹁雪野君、誕生日おめでとう!﹂
ケーキがそれほど大きくないので、ひとりぶんは少し小さめ。私
は大人なので苺は子供達に譲った。ケーキの生クリームがついた苺
はおいしいけどね。大好きだけどね。ほら私、大人だから。
雪野君は自分のお皿に乗った雪だるまを﹁どうしようかなぁ。食
べちゃおうかなぁ﹂と可愛く悩んでいた。わかるなぁ、その気持ち。
私も若葉ちゃんにもらったブッシュドノエルに付いていた麗華ちゃ
ん人形、もったいなくて食べられなかったもん。結局冷蔵庫で年を
越しちゃったけど、メレンゲの賞味期限ってどれくらいなんだろう
⋮。
若葉ちゃんの家のケーキは、苺がなくてもとってもおいしかった
!今度また買いに行っちゃおっと。
1253
﹁雪ちゃん、雅哉さんからのプレゼントを開けてみましょうか﹂
﹁うん。わっ、重っ﹂
鏑木から雪野君へのプレゼントはエッシャーの大きな画集だった。
﹁前に雪野がエッシャーの絵を見て興味を持ってたから。また寝込
んだ時にでものんびり見ろよ﹂
寝込んだ時って、縁起でもないことを!
でも雪野君は気にするでもなく、﹁ありがとう﹂と言って熱心に
画集を眺めていた。
しかし鏑木は本を贈るのが実は好き?私も前にハイネの詩集やツ
ボの本をもらったし。お父さんが稀覯本のコレクターだから、その
影響もあるのかな。
﹁麗華お姉さん達も一緒に見よ?﹂
﹁ええ﹂
雪野君に誘われたので隣に座って画集を見る。一緒に見ていた円
城夫人は﹁なんだか、くらくらしてきたわ﹂と途中でリタイアした。
そのうち子供達はきゃいきゃいはしゃぎながら、大画面でテレビ
ゲームをしたり、私が持ってきたゲームで遊んだりし始めたので、
雪野君も画集を閉じて友達と遊ぶことにした。私も参加しちゃおう
かな。でもジェンガは自分で持ってきておいてなんだけど、小心な
ので取る時に緊張で手が震えちゃうんだよね。やるならボードゲー
ムがいいなぁ。
1254
鏑木にまた双子が生まれた。
﹁鏑木様、子だくさんですわね⋮﹂
﹁雅哉兄様、大家族﹂
﹁せこい稼ぎ方だよね、雅哉﹂
﹁うるさい。さっさと全員、祝儀をよこせ﹂
﹁あらっ、庭から油田が出ましたわ﹂
﹁すごーい!麗華お姉さん!次は雅哉兄様だよ。あ、雅哉兄様、投
資で大損だって﹂
﹁っんだよ、これ!このルーレット、壊れてるんじゃないのか?!﹂
﹁いいから早く銀行に支払って、雅哉﹂
﹁くっそっ!﹂
﹁プレイヤーの資産横取りだ。じゃあ雅哉かな﹂
﹁はあっ?!なんで俺なんだよ!一番儲けているヤツから取れよ!﹂
﹁消去法だよ。一番心が痛まない相手﹂
﹁ふざけんな!﹂
﹁あ、僕も横取りだ∼。雅哉兄様、お願い﹂
皇帝陛下はひとり負けだった。円城兄弟は遠慮なく鏑木から搾取
した。鏑木の機嫌は最高潮に悪かったが、主役の雪野君が楽しそう
だったので問題はない。頭から湯気が出そうな鏑木。クールで怜悧
という皇帝のイメージはどこへ行った。
この手のゲームは人柄が出るね。手持ちのお金を堂々と全額目の
前に出してある鏑木。資産総額を知られないために、こそこそハン
カチで隠している私。目の前にお金は出しているけど、どうやら隠
し財産がありそうな円城。
﹁吉祥院さんがこういうゲームを知っていたとは驚きだな﹂
1255
﹁そうですか?﹂
まぁ確かに庶民的すぎるかなと、自分でも持ってくる時に思った
けど。
私は前世で妹と年が近かったから、小さい頃から一緒にゲームを
したりして遊んでたんだよね。それにお正月などにお祖父ちゃんの
家に従兄妹が集まると。みんなでボードゲームやトランプをして遊
ぶのが本当に楽しかった。
年が近い兄妹がいれば一緒に遊べるけど、年が離れているとなか
なか一緒に遊ぶのも難しいから、たまには庶民的なゲームもいいで
しょう。
﹁もう一回やろ!﹂
﹁俺はもうやらない﹂
﹁あ、逃げた﹂
﹁逃げてない!子供の遊びに疲れただけだ﹂
﹁一番子供のくせに﹂
鏑木は大きく舌打ちをすると、足音も荒く向こうへ行ってしまっ
た。私達はカモがいなくなってしまったので、新しく参加した子供
達と、和やかにゲームを再開した。
わあっ!と声援が上がったので見ると、鏑木がジェンガでヒーロ
ーになっていた。
﹁勝因は緻密な分析力と、怯まぬ度胸だ﹂
得意げだった。
1256
楽しかった時間もあっという間に過ぎ、そろそろお開きの時間に
なった。小学生だからあまり遅くなれないからね。
私も帰り支度をしていると、円城夫人と円城に﹁今日はありがと
う﹂とお礼を言われた。
﹁麗華さんが来てくれたおかげで、とっても盛り上がって楽しいお
誕生日会になったわ。本当にありがとう﹂
﹁雪野も大喜びだったよ﹂
雪野君にも﹁ありがとう、麗華お姉さん﹂と無垢な笑顔で言われ
て、ほっこりした。
﹁こちらこそありがとうございました。とても楽しかったです。で
は失礼いたしますわ﹂
﹁またぜひ遊びにいらしてね﹂
﹁麗華お姉さん、また来てね﹂
﹁ふふっ﹂
子供達の帰った部屋には鏑木だけがいた。鏑木はまだ残るらしい。
﹁ごきげんよう、鏑木様。お先に失礼いたします﹂
一応挨拶をしておく。知恵の輪と格闘していた鏑木は、顔も上げ
ずに﹁おう﹂とだけ言った。鏑木の眉間にはしわが寄っていた。
鏑木、それ、難易度の高い上級者用の知恵の輪だから、たぶん解
けないよ⋮。
私が玄関先で円城達に見送られ、迎えの車に乗り込もうとした時、
入れ違いに一台の車が家の前に横付けされた。中から出てきたのは、
学園祭で会った唯衣子さんだった。
1257
唯衣子さんは私に気づくと、ゆったりと微笑み、そのまま円城達
の元へ歩いて行った。
私を乗せた車が発進した。
1258
190
雪野君のお誕生日会の次の日に、ピヴォワーヌのサロンで円城に
昨日のお礼を改めて言われた。
﹁昨日は、ありがとう。おかげさまで雪野はずいぶん楽しい誕生日
を過ごせたみたいだ。吉祥院さんのプレゼントの加湿器も、自分の
部屋でさっそく使ってたよ。電源を入れるとライトが点いて、より
海っぽくなるって喜んでた﹂
﹁まぁ、喜んでもらえて良かったですわ。雪野君は冬休みに行った
沖縄がとても楽しかったようで、海の生物がお気に入りのようでし
たから﹂
﹁そうらしいね。今は熱帯魚が飼いたいとか言っているよ﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁あの後、夜に父も帰ってきて、家族や親戚でまた雪野の誕生日を
祝ったんだけどね、祖父母に熱帯魚が欲しいとねだってた﹂
﹁まぁ﹂
親戚の集まりか⋮。だからあの時、唯衣子さんが来たんだな。円
城の婚約者候補の唯衣子さん。淡く儚い印象は、学園祭の時と変わ
らなかったな。
﹁そういえば雅哉があれからもずっと知恵の輪が解けなくてさ、ム
キになっちゃって大変だったよ。それで結局泊まっていったんだよ、
あいつ。寝ないでずっと知恵の輪をやっていたらしくて、明け方近
くまで起きてたらしい。だから今日の雅哉は寝不足でさ、朝から目
が充血してて怖かったよ﹂
﹁それは⋮大変でしたわね。それで鏑木様は、あの難しい知恵の輪
1259
を解けたのかしら﹂
﹁解けたらしいよ。朝から清々しい笑顔で僕にバラバラになった知
恵の輪を見せてきたからね。目は血走っていたけど﹂
﹁そうですか﹂
鏑木⋮、もうなにも言うまい。ただ、ただ残念。
﹁それで今日は、鏑木様はサロンにいらっしゃらないのですか?睡
眠不足でお疲れだから﹂
﹁いや、雅哉が今日いない理由は寝不足とは関係ないんだけどね。
あいつは少しくらい寝ていなくたって平気だから。体力バカなんだ
よ﹂
﹁まぁ、ほほほ⋮﹂
否定も肯定もできないな。
﹁それから、母がまたぜひ遊びに来て欲しいって、吉祥院さんに伝
言﹂
﹁ありがとうございます。機会がありましたら⋮﹂
あらっ、そろそろ手芸部に行く時間だわ。私はカバンを持つと円
城とサロンのみなさんにおいとまの挨拶をして席を立った。
くわばらくわばら。
瑞鸞の女の子達の間では今、あちこちでバレンタインの話題だ。
この時期だけの最高級の限定チョコが世界中の有名ショップから
出されるので、その情報交換などで盛り上がっている。
1260
私も、若葉ちゃんにバレンタインのフォンダンショコラの作り方
を教えてもらうために、もう一度家にお邪魔させてもらう約束をし
ている。
そして手芸部の部員達には、お友達から編み物の相談などが寄せ
られているらしい。うん、私にはないんだけどね。しかしみんな楽
しそうだなぁ。
﹁麗華様は今年はどなたに差し上げるのですか?﹂
﹁いつも通りですわ。家族やお世話になった方などに﹂
﹁まぁ、それだけ?麗華様はどうして毎年、鏑木様や円城様に渡さ
ないんですか?﹂
渡す理由がないからです。
お昼休みに私が職員室に行く用事があると言うと、芹香ちゃんと
菊乃ちゃんが付き合ってくれた。芹香ちゃんと菊乃ちゃんは違うク
ラスなのに、いつもありがたいなぁ。
﹁芹香さんと菊乃さんはどうするの?﹂
﹁私は、やっぱり皇帝に渡してしまいますわ﹂
﹁ねー。厳選したチョコだったら受け取ってもらえるんですもの。
チョコ選びにも力が入るというものですわ﹂
﹁鏑木様の前では、ショコラって言わないとダメよ﹂
﹁そうでした﹂
﹁麗華様の貴重なアドバイスでしたわね﹂
﹁皇帝に受け取ってもらえるだけで、嬉しいの﹂
﹁私も。でも直に渡すのが大事だわ。予め用意された専用の袋に入
れたり、皇帝の机に置くだけなんて絶対にイヤ﹂
﹁お供え物みたいですものね﹂
﹁やだ、麗華様。なんてことおっしゃるの﹂
﹁麗華様も一緒に渡しましょうよ。楽しいですよ。渡す時に指先が
1261
触れたりしようものなら⋮﹂
﹁きゃあっ。なにを言っているのよ、菊乃さんたら!﹂
﹁あら、芹香さんだって狙ってるって言ってたじゃない﹂
﹁ちょっと、内緒にしてって言ったでしょ!﹂
3人でおしゃべりしながら廊下を歩いていると、蔓花さん達が向
こうからやってきた。サッと芹香ちゃんと菊乃ちゃんが私の両脇を
固める。
﹁ごきげんよう、麗華様﹂
﹁ごきげんよう、蔓花さん﹂
笑顔で挨拶をし合うが、お互い目は全く笑っていない。
蔓花さんの取り巻きのひとりが、バレンタイン特集の雑誌を持っ
ていた。私の視線に気づいた蔓花さんが私に﹁麗華様のバレンタイ
ンのご予定は?﹂と聞いてきた。
﹁特別なことは、なにも﹂
﹁まぁ!麗華様ともあろう人が、ずいぶん寂しいバレンタインを過
ごすのですねぇ!﹂
こいつ!わざと周りに聞こえるように大きな声で言いやがった!
﹁ちょっと、蔓花さん、失礼じゃない?﹂
芹香ちゃんが蔓花さんを睨みつけた。
﹁あら、ごめんなさい。私ったら正直なもので﹂
クスクスと蔓花さんの取り巻き達が笑った。
1262
一緒になって笑っていた蔓花さんがスッと真顔になる。
﹁そうやっていつも取り澄ました顔で、高みの見物を決め込んでい
るから、トンビに油揚げをさらわれるようなことになるのよ﹂
﹁なんですって!﹂
トンビに油揚げ⋮。若葉ちゃんと鏑木のことか。
﹁自分より劣っている外部生に、その女王の座を取って代わられる
日も近いんじゃありません?なんといってもあちらは、学院の実力
者ふたりの心を掴んでいるようですし?﹂
﹁蔓花さん!口の利き方に気を付けなさい!﹂
﹁もしやすでに誰かさんの時代は終わってたりして⋮﹂
﹁蔓花さん!調子の乗ってるんじゃないわよ!﹂
﹁もう許せないっ!よくも麗華様にむかって!﹂
芹香ちゃん達は今にも掴みかからんばかりだ。このままでは収拾
がつかない。
私は、ほほほほと高笑いをした。
﹁空き樽は音が高いとは、よく言ったものだわ。本当に蔓花さん達
はよく響くこと﹂
あ∼、おかしいと私は笑った。
﹁よろしくてよ。そのケンカ、買いましょうか?﹂
今ならまだ、瑤子様が卒業していないから大丈夫!⋮だと思う。
虎の威をがんがん借りるぜ!
ふたりの間にバチバチと火花が飛び散る。怖くても、絶対に目を
1263
逸らすな、私!
﹁ふんっ、行きましょう、みんな﹂
先に蔓花さんが折れた。
そのまま通り過ぎていく蔓花さん達に、芹香ちゃんと菊乃ちゃん
は激怒していた。
﹁なんなの、あれ!絶対に許さない!﹂
﹁今年に入って、すっかり態度が大きくなって!こうなったら全面
戦争よ!﹂
怒髪天を衝く。怖いよ、ふたりとも。
ギャラリーも多いので、早くこの場を去りたい。そこに﹁怖ぇ∼。
ゴルゴン三姉妹﹂という、お調子者の男子の声が聞こえた。
ゴルゴン三姉妹?!
3人で、声の主をギッと睨むと、その男子はひいっと怯えたよう
に逃げて行った。逃げても無駄だ。顔は覚えたぞ。お前も石像にし
てやろうかぁっ!
﹁麗華様!あの無礼な男子は私達が責任を持って成敗しておきます
!﹂
﹁瑞鸞にいられなくしてやる!﹂
﹁およしになって、ふたりとも。ほんの軽口ではありませんか。で
も、そうねぇ、私に考えがあります﹂
私は女子全員にお触れを出した。あの男子には卒業するまで、バ
レンタインに本命チョコはおろか義理チョコひとつ渡してはならぬ
と。
恋愛ぼっち村、強制入村決定。
1264
191
土曜日の昼間、私は若葉ちゃんにフォンダンショコラの作り方を
習いに、お家にまたお邪魔させてもらうことになった。
﹁寒いねぇ!そろそろ雪が降るかもね!吉祥院さん、鼻の頭赤いよ。
平気?﹂
﹁ええ。空が鉛色ですから、降るかもしれませんわねぇ﹂
今日も若葉ちゃんに駅まで迎えに来てもらった。
﹁高道さんも休日の予定があるのに、何度もごめんなさいね﹂
﹁全然平気ですよぉ。私の予定なんてバイトくらいだし!﹂
若葉ちゃんは休日のランチタイムのみ、ファミレスでバイトをし
ている。
﹁今日もバイトの帰りでしょう?帰りの支度を急かしてしまったの
ではないかしら﹂
﹁ううん。終わったらいつも着替えてすぐに帰るから気にしないで。
吉祥院さんこそ忙しいんじゃない?﹂
﹁そんなことないけど⋮﹂
今のところ、休日の予定は隔週の習い事や耀美さんのお料理教室
くらいだ。
耀美さんには雪野君のお誕生日パーティーの後すぐに電話をして、
ちらし寿司が好評だったことを報告した。我が事のようにずっと心
配してくれていたらしい耀美さんは、心底ホッとした様子で﹁良か
1265
った⋮﹂と言っていた。自分の手料理をあの円城家の皆様と、その
招待客の名家のお子様方が食べるという上に、私の両親からの﹁娘
の今後の評判は貴女次第﹂というプレッシャーが、相当重く背中に
圧し掛かっていたようだ。本当に申し訳ない。厄介な生徒だと、料
理を教えるのを辞退されたらどうしよう。見捨てないでください、
耀美さん。
﹁高道さんも毎週バイトなんて、大変ね。お休みはないの?﹂
﹁試験前は休ませてもらってるよ﹂
﹁くれぐれも学院にバレないようになさってね﹂
﹁あぁ、そのことなんだけど。許可をもらったんだ!﹂
﹁許可?バイトの?﹂
﹁そう!前に吉祥院さんに校則でバイトは禁止されているはずって
言われたでしょう?私はキッチンだし、そう簡単にバレることはな
いとは思うんだけど、万が一ってことがあるからね。それで一応水
崎君に相談してみたんだ﹂
﹁水崎君に?﹂
﹁うん。こういうことは生徒会長に相談するのが一番だと思って。
実はこっそりバイトをしているんだけどって話したの。そしたら、
なにやってるんだお前は!ってめちゃくちゃ怒られちゃったよぉ。
バレたら停学だぞ、特待生が停学になったらどうなるかわかってい
るのか!って。確かにそうだと猛省しました﹂
若葉ちゃんはガクッと頭を下げ、反省を表現した。
﹁それですぐに水崎君が学院側に許可を取る手続きをしてくれたん
だ。定期代と学用品を買うためとかなんとかって名目で。奨学金を
もらっているから、その言い訳が通じるかなって思ったんだけど大
丈夫だった!﹂
﹁まぁ、それは良かったですわね﹂
1266
﹁うん!水崎君には大感謝だよぉ!﹂
若葉ちゃんはそう言って、ニコニコ笑った。
どうやら同志当て馬に対する若葉ちゃんの好感度は高いようだ。
そもそも相談をしている時点で信用しているってことだもんな。頼
りがいのある同志当て馬と、厄介事しか持ってこない皇帝。鏑木、
ピンチ。
﹁これでもし誰かに見つかったとしても大丈夫!吉祥院さんもあり
がとうね﹂
﹁私はなにもしていませんけど﹂
﹁ううん、吉祥院さんに言われなかったら気づかなかった。中学時
代の友達も学校に隠れてバイトしている子が多いし、バイト先にも
高校生が多いから、大丈夫だと思い込んでいたんだよね﹂
﹁そう。確かに高校生になったらバイトをしている人は多いですも
のね﹂
﹁うん、そうなの。あ、でも吉祥院さんが高校生のバイト事情を知
ってるって驚き。瑞鸞の生徒達にはバイトをするって発想がまずな
さそうなのに﹂
﹁あ∼、まぁ⋮﹂
私も前世でいろいろバイトしてたからね。欲しい物がある時、親
からもらうお小遣いだけじゃなかなか足りなかったりするし。
でも浮世離れした瑞鸞のお嬢様が、バイトをすることを当たり前
のように受け止めるのは、やっぱり違和感があるか。普通は﹁まぁ
!バイトというのはなんですの?﹂くらいのことを言いそうだもん
ね。
化けの皮が剥がれる前に、話題を変えよう。
﹁そういえばこの前、鏑木様が高道さんのケーキ屋さんに誕生日ケ
1267
ーキを依頼されませんでした?﹂
﹁うん、よく知ってるね。確かに注文があったよ。私はその日もバ
イトで2時過ぎにならないと帰ってこれなかったんだけど、バイト
だっていうのを隠して2時半頃にならないと家にいないって話をし
たら、じゃあその頃に取りに来るって言って﹂
あいつ!わざわざ若葉ちゃんが家にいる時間に合わせてケーキを
取りに行ったから、遅刻したのか!完全に雪野君の誕生日を若葉ち
ゃんに会う口実に使ったな!だいたいケーキなんて鏑木なら本人が
取りに行かなくても誰かに行かせればいいんだから。天使を自分の
恋のだしに使うとは、なんてヤツだ。
﹁確か円城君の弟さんのバースデーケーキだったんだっけ?雪の付
く名前だから雪だるまのスイスメレンゲを付けて欲しいって言われ
たよ﹂
﹁ええ。あの雪だるまはとっても可愛かったですわ﹂
﹁吉祥院さんもお誕生日会に行ったんだ?どうだった?円城君の弟
さん、喜んでくれたかなぁ﹂
﹁雪だるまが可愛くて、なかなか食べられなかったようですわよ。
ケーキ自体もおいしかったので子供達もみんな、すぐに食べてしま
いましたわ﹂
﹁そっかぁ!良かった。実は少しだけ不安だったんだ。大金持ちの
家の子達がおいしいと思ってくれるかどうか⋮﹂
へへっと若葉ちゃんが笑った。
﹁高道さんのお父様の作るケーキはおいしいんですから、もっと自
信を持っていいと思いますわ﹂
﹁ありがとう!﹂
﹁⋮それと高道さん、円城様のことも君付けなんですわね?﹂
1268
﹁あっ!﹂
若葉ちゃんがしまった!という顔をした。うん、スルーできなか
ったよ。ごめんね。
﹁え∼っとぉ、円城君に鏑木君と呼んでいるのを聞かれて、だった
ら僕のことも円城君でいいよって言われて⋮﹂
﹁そうでしたの⋮。でも学院ではくれぐれも気を付けて﹂
﹁はい⋮﹂
鏑木に続き、円城とまで親しくしていると思われたら、若葉ちゃ
ん本当に大変なことになるぞ。
そして円城がいつの間にか若葉ちゃんと親しくしていたことにも
驚いた。
﹁今日は弟達が家にいるからうるさいかも。さ、入って!﹂
﹁お邪魔いたします﹂
若葉ちゃんが玄関を開けて元気な声で﹁ただいまー!﹂と言った。
﹁おかえりー!あっ、コロネも一緒だ!﹂
﹁お姉ちゃん、おかえり∼。いらっしゃい、コロちゃん﹂
﹁おかえりー﹂
リビングに入ると、一番上の弟の寛太君と小学5年生の双子の兄
妹が出迎えてくれた。
﹁こら!コロネじゃないでしょ!吉祥院さんでしょ!﹂
1269
若葉ちゃんが慌てて弟達に訂正するが、どうやら私は高道家では
すっかりコロネというあだ名が定着しているようだ。これは私がい
ないところでは普通にコロネと呼んでいるな。
﹁ごめんね∼、吉祥院さん﹂
﹁いえ、気にしていませんわ﹂
寛太君は若葉ちゃんに怒られても平気な顔で、﹁コロネ、今日は
余計なことするなよ!﹂と私に釘を刺してきた。わかっていますと
も。前回、寛太君にガンガン怒られたからね。
﹁寒かったよね、吉祥院さん。まずはあったかい飲み物でも飲もう
か﹂
﹁どうもありがとう﹂
そこにお店を抜け出して、お母さんが現れた。
﹁いらっしゃい!コ⋮吉祥院さん﹂
﹁お邪魔しております﹂
私は立ちあがって挨拶をした。
だもんな﹂
﹁あらあら、相変わらず礼儀正しいわねぇ。さすがは瑞鸞のお嬢様
おほほのコロネ
だねぇ﹂
﹁
﹁寛太︱︱っ!﹂
寛太君は若葉ちゃんに思いっ切り拳骨で頭を殴られていた。
おほほのコロネ⋮。それはさすがに許容できないかも。若葉ちゃ
ん、やっちゃって。
1270
﹁あの、これ金平糖なんですが、よかったら﹂
﹁やだ!いつもどうもありがとう。いいのよ、気を使ってくれなく
て。家なんか手土産持ってきてもらうような、大層な家じゃないん
だから!﹂
﹁そうだよ、吉祥院さん。この前も言ったけど気を使ってくれなく
ていいから!逆に申し訳なくなっちゃうから!﹂
﹁いえ。これは家にあったものを持ってきただけですから。余りも
のを差し上げるようで失礼かと思いますが﹂
﹁そんなそんな!じゃあ、遠慮なくいただきますね。でも次回から
は手ぶらでね﹂
﹁はい﹂
身に付いた習性か、どうも手ぶらだと訪問しづらいんだよねぇ。
それでも今回のは、お正月の京都土産をそのまま持ってきた手抜き
なんだけど。
﹁そうだ、吉祥院さん。お餅焼いてあげようか。ね!きなこ餅と揚
げ餅。おいしいわよぉ。吉祥院さんはなにが好き?﹂
するとお母さんが突然そんなことを言い出した。
﹁お餅ですか?私は磯辺焼きが⋮﹂
﹁そう。じゃあそれも作ろう。実はね、お正月のお餅がたくさん残
っているのよ。若葉もお昼まだでしょ。お餅食べなさい﹂
﹁はーい﹂
﹁僕達も食べるー!﹂
お母さんが子供達がキッチンに入った。
1271
﹁高道さんのお家は角餅ですのね﹂
﹁うん。吉祥院さんの家は違うの?﹂
﹁いえ、私の家も角餅です。ただ母の実家が京都なので、そちらで
は丸餅が出ますね﹂
﹁丸餅?コロネ、餅が丸いのか?﹂
﹁ええ。しかもお雑煮ではお餅は焼きません。煮るんです。そして
おすましではなく白味噌仕立てです﹂
﹁え∼っ!お雑煮っぽくない!﹂
﹁そうですわねぇ﹂
私も最初に京都で白味噌仕立てのお雑煮を出された時には、えっ
?!って思ったよ。前世も東京だから透明なすまし汁に焼いた角餅
のお雑煮だったし。お料理は奥が深いね。
﹁私もなにかお手伝いしますわ﹂
﹁別に座っててくれていいんだけど。でも好きなトッピングがある
もんね﹂
﹁トッピング?﹂
お餅のトッピングなんて磯辺ときなことおしるこぐらいじゃない
の?
その時﹁俺はチーズ明太にする!﹂と寛太君が言った。
﹁チーズ明太?﹂
お餅にそんなバリエーションがあるのか?!
これは私のオリジナリティを出す、絶好の機会かも?!
﹁コロネはキッチンに来るな﹂
1272
私は寛太君に相当信用されていないらしい。
1273
192
﹁ねぇ寛太君。お餅にヨーグルトをかけるってのはどうかな﹂
﹁やめとけば。ほらコロネ、チーズ明太食べろよ﹂
﹁ありがとう!わぁ、おいしいね!ねぇ寛太君。お餅にジャムを塗
るってのはどうかな﹂
﹁不味そう。ほらコロネ、餅ピザ﹂
﹁うわぁ、お餅のピザって初めて食べた!おいしいね!﹂
私のアイデアは寛太君に悉く却下された。けど、寛太君が作って
くれたお餅は全部おいしかったので、まぁいいか。
お餅をスイーツにするのは難しそうだな。白玉だったらいいけど。
う∼ん。
﹁コロネさぁ、なんで普通に食べようと思わないの?﹂
﹁いつもは普通に食べてるわよ。でも個性的な食べ方を生み出そう
と思って⋮﹂
﹁だからなんでさ。ヨーグルトやジャム塗ったお餅を、コロネは心
からおいしく食べ切る自信があるのか?﹂
﹁うっ⋮﹂
﹁食べ物で遊ぶのはいけないんだぞ﹂
﹁ぐっ⋮﹂
それを言われちゃうと⋮。
﹁だいたいさ、この前のケーキの時もそうだけど、なんで妙なアレ
ンジしようとすんだ?﹂
1274
うっ、それは⋮。
﹁⋮⋮ようと⋮たから﹂
﹁なに?﹂
﹁⋮⋮なんでもない﹂
⋮⋮バイトも出来ない私は、オリジナルレシピで一山当てようと
思ったのだ。
そしてさらに大きな夢を見た。
レシピサイトに素敵レシピを載せる素人料理家。それが話題にな
り料理本出版。メディアにも取り上げられ、私は一躍有名人。そん
な時、料理が趣味のイケメン若手俳優から対談のオファーが!意気
投合する私達。やがてそれは恋に変わる。
しかし今をときめく若手俳優と日本屈指の令嬢との恋は、お互い
の周囲が許さなかった。引き裂かれる若い恋人達。家に閉じ込めら
れ泣き暮らす私の元に、政略結婚の話が!会いたい。でも会えない。
私はとうとう決意する。家を捨てる決意を!
しかしそれは私だけではなく、彼の俳優としての前途も潰しかね
ない大きな賭け。それでも諦めきれないと夜中に家を抜け出した私
は、追っ手から逃れようと道路に飛び出してトラックに轢かれてし
まうのだ!
緊急手術で輸血が必要となった私。しかし私は世界でも珍しい血
液型であった!私に献血できる該当者が見つからず、よもやこれま
でかという時に、なんとあの恋人である若手俳優が同じ血液型の持
ち主であると判明!彼は愛する私のために己の限界まで血を分け与
える。涙ながらに感謝する私の家族。﹁いいえ、彼女のためなら、
僕は自分の命を投げ打ってもかまわない!﹂
そして一命を取り留めた私は、特別室のテレビで彼の緊急記者会
見を目にする。﹁僕には愛する女性がいます。僕は俳優である前に
1275
恋をするひとりの男なのです!﹂との。あぁっ!もう涙で彼の姿が
見えない!
命の恩人に私の家族も折れ、彼の事務所も彼の覚悟を知って許し
てくれた。日本中が私と彼の純愛を祝福し、ヨーロッパの古城で行
われた結婚式で、二重の虹が架かる下、私達は永遠の愛を誓い合っ
た。あぁ、感動の大フィナーレ!!
││という、夢という名の誇大妄想をしました。
﹁コロネ、どうしたんだ?ニヤニヤして気持ち悪いぞ﹂
﹁えっ﹂
寛太君が胡散臭そうな目で私を見ていた。どうやら架空の恋人と
の大恋愛妄想を思い出して、にやついていたらしい。
人前での妄想は気を付けよう⋮。
しかし昔は憧れたなぁ、珍しい血液型に。よくマンガとかに出て
くるRHマイナスABとかさぁ。私はほかの人とは違うという特別
感?さすがに今はないけど。ちなみに私の実際の血液型は、日本人
に2番目に多い平凡な血液型です。
﹁とにかく!コロネは料理もお菓子もレシピ通りに作ること!﹂
﹁はい⋮﹂
中1のくせに生意気なことを言う寛太君だけど、寛太君は働いて
いる両親の代わりに家のことをやる若葉ちゃんの手伝いをして、小
さい頃から料理も出来るらしい。偉いぞ、寛太君。磯辺焼きにつけ
てくれた砂糖醤油も絶妙の味加減です!
1276
おいしいお餅をいただいた後は、若葉先生によるフォンダンショ
コラ教室。
今日は寛太君以外にも下の双子ちゃん達にも見られているのでち
ょっぴり緊張。わかってるよ、ちゃーんとレシピ通りに作りますと
も。寛太君の監視の目が厳しいからさ。
﹁まずは薄力粉をふるいにかけてね﹂
﹁はい﹂
﹁コロネ、こういうところで手を抜くなよ﹂
﹁はい⋮﹂
﹁コロちゃん、がんばれ∼﹂
﹁じゃあ次は湯せんしながらチョコとバターを溶かします﹂
﹁はい﹂
湯せんかぁ。
﹁昔ね、湯せんの重要性がわからなくて、溶かして固めるだけなん
だからと、お鍋に直接チョコレートを入れて加熱したことがあった
の﹂
﹁ええっ!﹂
﹁なにやってんだよ?!﹂
高道姉弟が信じられない物を見ような目で私を見た。
﹁それでどうなったの⋮?﹂
﹁お鍋は焦げるし、固まったチョコはジャリジャリして不味いしで、
最悪でしたわ。湯せんって大事ですわよ﹂
﹁知ってるよ⋮﹂
1277
場を和ませるためにちょっとした失敗談をしたら、それから寛太
君の監視の目がさらに厳しくなってしまった。余計なことを言わな
きゃ良かった⋮。この家にいると、つい気がゆるんじゃうんだよね
ぇ。この庶民な空気が前世の家族を思い出すからかな?
﹁出来た!﹂
外はサックリ、中はトロ∼リのフォンダンショコラ、完成!
そんなに時間もかかっていないのに、なんておいしいんだ!若葉
ちゃんのレシピは凄いぞ!
﹁粉砂糖が雪のようで目でも楽しめますわねぇ﹂
この前教えてもらったチョコレートチーズケーキもおいしかった
けど、今日のフォンダンショコラの方がもっとおいしい!今年のバ
レンタインはこれに決定!今度桜ちゃんと葵ちゃんにもレシピを教
えてあげよう。
﹁な!コロネが余計な物を入れないと、こんなにおいしく出来るん
だぞ﹂
﹁寛太!﹂
肝に銘じます⋮。
夜も暗くなってきた帰り道、空を見上げるとちらちらと雪が降っ
てきた。
﹁大丈夫?傘貸しましょうか?﹂
1278
﹁ううん、平気。私の家の駅に着いたら迎えの車を呼ぶから﹂
若葉ちゃんの家に行っていることは内緒なので、ここで呼ぶわけ
には行かない。それにこの程度の雪なら傘は必要ないしね。
﹁今日はありがとう。私の我がままで、高道さんにはすっかり迷惑
かけちゃっているわね﹂
﹁全然!私こそ吉祥院さんには返せない恩がありますし!﹂
﹁それって制服や上靴のこと?大した物ではないから気にしなくて
いいのに﹂
﹁そうはいかないよ。あんな高い物。今でも少しお金を払ったほう
がいいか悩んでいるくらい﹂
﹁ええっ!﹂
若葉ちゃんがお金を払おうと思っていたなんて知らなかった!あ
れは鳩の糞が付いて私が着られなくなった制服だからいいのに。
﹁高いと言っても、上下で10万程度ですし⋮﹂
﹁えっ、もっとするよ。吉祥院さん、自分が着ている制服の値段も
知らないの?それと仮に10万だったとしても私の感覚では10万
は大金だよ﹂
まぁ確かに。私も10万は大金だとは思うけど。
若葉ちゃんは真面目な顔になった。
﹁え∼っとさ、もらった私がこんなこと言うのなんだけど、吉祥院
さんはもっとご両親に買ってもらった物を大切にしたほうがいいん
じゃないかな﹂
﹁え⋮﹂
﹁あの制服だって、吉祥院さんのお父さんが働いて買ってくれた物
1279
なんだよ。もっと大事にしてあげないと、悪いと思う⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ごめんなさい。失礼なことを言って。でも私は自分のお父さんと
お母さんが一生懸命働いているのを知っているから、そのふたりが
お金を出してくれたものは大事にしてるんだ。あのさ、人が10万
円稼ぐのって大変なんだよ﹂
﹁そうね⋮﹂
お金のありがたみは前世でよくわかっていたはずなのに。いつの
間にか私は金銭感覚が麻痺していた。私のお父様は若葉ちゃんのお
父さんと違って、自営業で働いている姿が見えるわけじゃないから、
そういう感謝の気持ちが曖昧になってた。
親に買ってもらった制服の値段すら確かめることをしなかった。
当然のように受け取っていた。お父様達が働いて稼いだお金だった
のに。
なにやってるんだ、私。全然堅実じゃないじゃないか。
﹁吉祥院さん、大丈夫?﹂
﹁ええ、大丈夫ですわ﹂
私が黙りこくってしまったので、若葉ちゃんが心配してくれた。
﹁ごめんね、変なこと言っちゃって。つい⋮﹂
﹁いいえ。私がいけないんですわ。ありがとう、目が覚めました。
でもあの制服は遠慮せずにもらっておいてくださいね。私は予備が
たくさんあるのですから﹂
私は電車の中でも若葉ちゃんに言われたことをずっと考えていた。
1280
家に帰るとお父様がソファでのんびりくつろいでいた。
﹁お父様!﹂
﹁あぁ、おかえり麗華﹂
﹁ただいま﹂
私はお父様の隣に座り、ぺったりくっついた。
﹁おやおや、どうしたんだね。今日の麗華は甘えん坊だねぇ﹂
﹁⋮いつも、ありがとう。お父様﹂
﹁どうしたんだ、麗華﹂
お父様は不思議そうな顔をした。
﹁お父様が毎日頑張って働いてくれているから、私が毎日贅沢に暮
らしていられるんだなって再認識したの。学費や私の着る物も全部
お父様が働いて買ってくれた物なのよね。だから、ありがとう。お
父様の苦労も知らず、いつも散財しちゃってごめんね⋮﹂
﹁麗華⋮。なんて父親思いのいい子なんだ!麗華、欲しいものはド
ンドン買いなさい!お父様がなんでも買ってあげよう!明日一緒に
買い物に出かけよう!﹂
え、ちょっと違う。そういうことじゃないんだけど⋮。しかし狸
は舞い上がって聞く耳持たず。物で娘の点数をさらに稼ごうとして
いないか、狸よ?いやいや、お父様に感謝をせねば。感謝、感謝。
﹁お父様、私は今日バレンタインのケーキ作りを習いに行っていた
んです。当日はお父様のためにおいしい手作りチョコを用意します
から、楽しみにしていてくださいね!﹂
1281
今まではお兄様第一で、お父様へのバレンタインはおまけだった。
でも今年は、ちゃんとお父様に心をこめて作ります!
﹁や、お父様、この前の人間ドッグにも引っかかっちゃって⋮﹂
﹁まぁ!それは大変ですわ!では私がお父様に毎日、健康的な手料
理も作りましょう!﹂
耀美さんに健康食の作り方を教えてもらおう。健康食ってどんな
のかな。豆腐バーグみたいなもの?難しそうだけど頑張るよ。お父
様のためだもんね!
﹁麗華や、気持ちだけでお父様は⋮﹂
﹁遠慮なさらないで、お父様。私からの日頃の感謝の気持ちです。
いつまでも元気で働いてもらえるように、お父様の健康管理は私に
ませかてくださいな!﹂
やだ、お父様ったら。愛娘の心遣いに涙ぐんじゃってる。
そうだ。将来は栄養士さんになるのもいいかもしれない。
次々に画期的な栄養指導法を生み出す、注目の美人管理栄養士、
吉祥院麗華。そんな私の元に超一流スポーツ選手の栄養管理のオフ
be
continued
ァーが。私の行き届いた栄養管理で記録を飛躍的に伸ばす彼。そし
て感謝がいつか愛に変わる⋮。to
1282
193
土曜の夜から降り始めた雪は、日曜には本降りとなり、月曜の朝
には止んでいたものの、車窓から外を見ると雪かきをしていない道
路はところどころ凍結していた。あ、サラリーマンがツルッと滑っ
た。危ないなぁ。
これだけ降ったから、今年も円城と鏑木は雪野君のために大きな
雪だるまを作るのかなぁ。
道路状況を考えて早めに登校すると、すでに委員長が来ていた。
﹁おはよう、吉祥院さん﹂
﹁ごきげんよう、委員長。早いんですのね﹂
﹁うん。雪が降ったからね。テストも近いし学校で試験勉強しよう
と思って﹂
﹁まぁ、朝から偉いですわね。私も見習って今から勉強しようかし
ら﹂
私も今回の学年末試験で、30位以内に返り咲かないとね。そろ
そろ本気でやっておかないと。
﹁そうだ。前に吉祥院さんに、バレンタインに僕から本田さんにチ
ョコをあげたらって言われたでしょ﹂
﹁そんなことを言いました?﹂
﹁言ったよ。それでね、本田さん達が手作りのチョコをプレゼント
してくれるって言うから、僕もお返しに手作りのチョコをあげよう
かと思って﹂
﹁え?手作り?!﹂
1283
驚く私に委員長は﹁せっかくだし、挑戦してみようかと⋮﹂と照
れながら言った。
﹁で、なにを作ろうかと悩んだんだけど、ザッハトルテにしようか
と思うんだ﹂
﹁ザッハトルテ?!﹂
初心者がいきなり難しそうなのをチョイスしたな!
﹁それは少し難しいのでは⋮?﹂と言おうとした私に、委員長は携
帯の写メを見せてくれた。光輝く見事なザッハトルテが写っていた。
﹁ケーキなんて初めて作ったんだけどね、なかなか上手く出来たと
思うんだ﹂
﹁へー﹂
どうやら乙女にはお菓子作りのスキルも標準装備されているらし
い。私なんて何年も作り続けて、ようやく光明が見えてきたばかり
なのに。羨ま悔しい。
でも美波留ちゃんのお菓子作りの腕前がどれほどのものかは知ら
ないけど、自分よりも上手に出来ている手作りチョコケーキを男の
子からプレゼントされたら、微妙な気持ちにならないかな。少なく
とも私なら劣等感を持っちゃうな。
﹁瑞鸞のバレンタインは市販品推奨ですから、今回は手作りはやめ
ておいたほうがよろしいのでは?それに手作りを交換し合うって、
一歩間違えたら女友達枠に入れられてしまう可能性大ですわよ﹂
﹁えっ、女友達?!それは困るな⋮﹂
委員長は慌てた。
1284
﹁それとも手作りチョコで本田さんに告白をするつもりですの?そ
れでしたら止めませんけど﹂
﹁ええっ!違うよ、告白なんてまだ考えていないって!﹂
委員長は顔を赤くして否定した。﹁あくまでもお礼の気持ちだし
!﹂って、お礼ねぇ⋮。
﹁でしたら期間限定の高級チョコを数粒と、ハンカチや手袋といっ
た小物をプレゼントしてあげたほうが、効果的だと思いますわよ。
まぁ、一説にはハンカチのプレゼントは別れを意味するなんて話も
あるので、気になさるなら別の物がよろしいかもしれませんが﹂
﹁なるほどね。さすが恋愛のお師匠様だよ。岩室君にも教えてあげ
なくちゃ!﹂
﹁私がいただいたちょっとした贈り物では、小さなブーケも嬉しか
ったですけれど、学校に持ってきた場合、きちんと保管しておかな
いと放課後には萎れている可能性もありますからねぇ。今回は避け
ておいたほうが無難かもしれませんわね﹂
﹁そうだね。でも吉祥院さんはどうやってその恋愛の機微を学んだ
の?﹂
プレゼント関係は伊万里様、それ以外は前世で読んだ少女マンガ
と妄想です。
﹁いつも岩室君と話しているんだけどね。吉祥院さんの逆巻き髪に
触ってから、恋愛運が上がった気がするんだ。いつもご利益をあり
がとう!﹂
なんだか委員長の中では、私はすっかり撫で牛扱いになっている
ようだ。ま、鰯の頭も信心からって言うしね。でもあの逆巻き髪は
美容院でパーマをかける時に直してもらっちゃったから、今はもう
1285
ないんだけどな。その代り、おでこに宝毛があるよ!
﹁ねぇ委員長、もし話したこともない見ず知らずの女の子から、突
然バレンタインにチョコをもらったらどう思います?﹂
﹁えっ、見ず知らず?!う∼ん、嬉しいけど知らない子だから困惑
はするかも⋮﹂
﹁ですよねぇ﹂
私もバレンタインの楽しい波に乗りたくて、図書館のナル君に勇
気を出してチョコを渡してみようかと一瞬考えたんだけど、実際そ
んなことをしても警戒されるだけかもしれないと思い直したのだ。
やっぱり今年も村長は面白くもないバレンタインかぁ。誰か村民
候補はいないか。体験入村もありだぞ?
流寧ちゃん達が登校してきたので、私は委員長に勉強の邪魔をし
たことを謝って席を離れた。
﹁麗華様、ごきげんよう。寒いですわねぇ﹂
﹁ごきげんよう。本当に寒いわね。私は朝起きるのがつらかったで
すわ﹂
﹁私も∼﹂
それでもみんな車通学なので、駐車場から校舎までの距離くらい
しか寒い思いはしていないんだけどね。
﹁徒歩で登校している子達は大変ですわね﹂
﹁そうですね。車から見ていたんですけど、凍った地面に足を取ら
れてずいぶんと歩きにくそうでしたわ﹂
1286
﹁まぁ、危ない﹂
その内、芹香ちゃんや菊乃ちゃん達も私のクラスに集まってきて、
きゃいきゃいと雪の話をみんなで楽しくしていた。
そこに同じグループの子が﹁大変ですわ、麗華様!高道さんがま
た、鏑木様の車に同乗してきましたわ!﹂と飛び込んできた。
﹁えっ﹂
﹁鏑木様が?!﹂
私達に報告しに来てくれた子の話では、教室の前で鏑木と別れた
若葉ちゃんは、すぐにみんなに取り囲まれ、どういうことか問い詰
められたそうだ。そこで若葉ちゃんが言うには、雪で徒歩と電車通
学は大変だろうからと、通りがかった鏑木が親切にも車に乗せてく
れたらしい。
﹁これで何度目なの?あの子が鏑木様の車に乗せてもらうのって﹂
菊乃ちゃんが眉間にしわを寄せた。他の子達も口々に﹁図々しわ
よねぇ﹂と怒った。
しかしそれよりも私は、さっきの言葉が引っ掛かった。徒歩はと
もかく、電車通学が大変って、では若葉ちゃんが電車に乗る前から
車に乗せたってこと?それってもしや家まで迎えに行ってまちぶせ
したんじゃ⋮。怖っ!ストーカー、怖っ!
﹁吉祥院さん、ちょっといいかな﹂
私を呼ぶ男子の声と同時に、クラスの女子達の黄色い声が沸いた。
教室のドアの前に、円城が立っていた。
1287
﹁どうなさったのですか?﹂
円城に廊下に呼び出され、周りの好奇の視線を気にしながら問う
と、﹁実は昨日、雪野が入院したんだ﹂と円城が困った笑顔で言っ
た。
﹁ええっ、雪野君が?!﹂
﹁あ、でも念のために入院しただけだから、大したことはないだけ
どね﹂
﹁そんなこと。入院するなんて大変なことですわ﹂
﹁あ∼、うん。それでね、申し訳ないんだけど、放課後までに雪野
に励ましのメッセージを書いてくれないかな﹂
﹁メッセージですか?﹂
﹁うん。今回は軽い発作だから入院したくないって駄々をこねちゃ
って。それでずっと機嫌が悪いから、吉祥院さんの手紙でご機嫌を
取りたいんだ﹂
﹁まぁ⋮﹂
入院っていうのは子供にとっては、きっととってもつらいものな
のだろう。
﹁私の手紙くらいで、雪野君の気持ちが少しでも浮上するなら、い
くらでも書きますわ!﹂
﹁本当にごめん、ありがとう。このお礼は必ずするから﹂
﹁いえ、私が雪野君のためにしたいのですから、お礼には及びませ
ん﹂
私はロッカーからレターセットを取り出し、さっそく手紙を書き
始めた。
1288
放課後、円城に手紙を渡すともう一度丁寧にお礼を言われた。今
日はサロンに寄らず、そのまま病院にお見舞いに行くそうだ。
ついそのまま雪野君の容体を聞きながら、円城を駐車場まで送っ
た。
﹁じゃあ、また明日。手紙、ありがとう﹂
﹁いいえ。ごきげんよう、円城様﹂
円城は私に手を振り、迎えの車に乗り込んだ。あれ⋮?
今、車の中に唯衣子さんらしき人が乗っていなかった?
1289
194 高道寛太
俺には4歳年上の姉ちゃんがいる。
この姉ちゃんが中3の時、金持ち学校で有名な瑞鸞学院を受験す
ると言い出したから大変だ。
担任も両親も、姉ちゃんは公立の進学校に行くと思っていたのに、
なんで瑞鸞?!
先生に﹁高道の成績なら特待生枠を取れると思うけど、あの学校
は特殊だぞ。大丈夫か?﹂と言われて、お父さんとお母さんも﹁若
葉には合わないんじゃないの?﹂と心配したけど、姉ちゃんは﹁特
待生になれば学費はタダだし、しかも成績が良ければ返却不要の奨
学金ももらえる。カリキュラムもほかの学校と段違いに充実してる
から、行ってみたいんだ﹂と言った。
それを聞いてお父さんとお母さんは﹁学費の心配をしているなら
全然平気だから、ムリすることないんだ。自分に合った学校に行き
なさい﹂と止めたらしい。学費かぁ。うちは姉弟が多いからな。
でも姉ちゃんは﹁学費のことだけじゃなく、知らない世界を見て
みたいし、やってみたい﹂と言い、﹁それに制服が可愛いんだ﹂と
女の子らしい理由も言ったので、それを聞いたお父さん達は﹁本人
がそこまで言うなら、まぁしょうがないか﹂と受験させることにし
たんだってさ。制服が可愛いから志望校を決めるって、女ってよく
わかんねぇなぁ。
お母さんが言うには、姉ちゃんは小さい頃から好奇心が旺盛だっ
たんだって。
蝶を追いかけて隣町まで行ってしまい、帰って来られなくなって
おまわりさんから連絡がきたり、図鑑片手に虫眼鏡で草や虫を1日
中見に行って熱中症で倒れたり。星図鑑片手に一晩中ベランダにい
て、高熱で寝込んだこともあったらしい。姉ちゃんは図鑑好きだ。
1290
ってのを着て何度も鏡
だから﹁また好奇心の虫が出てきちゃったのね﹂と姉ちゃんの好
可愛い制服
きにさせることにしたんだって。
瑞鸞に合格した姉ちゃんは
を見たり、﹁似合う?私もお嬢様みたい?﹂と、俺達が﹁可愛い、
ごき
なんだよ。寛太、ごきげんよう﹂と言ってきたのでちょ
似合う﹂と言うまで見せびらかしてきたり、﹁瑞鸞は挨拶が
げんよう
っとウザかったけど、お母さんが﹁厳しい受験を頑張ったんだから、
大目にみてやりなさい﹂と言ったので、大目にみてやった。
そして瑞鸞に張り切って通い始めた姉ちゃんは、しばらくすると
﹁あの学校は、想像していた以上に凄い﹂と言った。﹁なにが?﹂
と聞いたら、﹁う∼ん、いろいろ。世の中にはああいう世界もあっ
たんだなぁ﹂とひとりで納得していた。だからなにがだよ!
は私とは全然違ったよ。違和感
ごきげんよう
﹁いやぁ、本物の
ごきげんよう
って言うたび、
がまるでないの。私なんて自分が
内心、私は真顔で何言ってんだって照れるもんね。でもそれが当た
り前の世界なんだよねぇ。それにハイソな話題が飛び交ってて、つ
いていけない。あれは未知の言語だね﹂
﹁若葉、あんた大丈夫なの?﹂
﹁やっぱり普通の学校に行ったほうが良かったんじゃないか?﹂
姉ちゃんの話を聞いて俺達は心配したけど、姉ちゃんは﹁まぁ、
そのうち慣れるよ。慣れたら私も立派なお嬢様だね!﹂なんて言う
ので、﹁お嬢様って顔かよ﹂と言ってやったらぶん殴られた。痛ぇ
よ!
﹁そんなに凄い学校なのか?﹂
﹁うん。学食のメニューも聞いたことのないものばっかで、ためし
にスープを注文してみたら冷たいの。あ!温め忘れだ!って思った
1291
﹂
ビ
じゃないよ
ヴィ
。言って
んだけどさ、ヴィシソワーズって言うんだってさ。冷たいじゃがい
ヴィ
ものスープ。ヴィシソワーズ。
みな、寛太。
﹁うっせーよ!﹂
﹁学食があんなにおいしいと思わなかったなぁ。そのぶんお値段も
するけどね。毎日は食べられないけど、お金が入った時にちょっと
ずつ食べていきたいなぁ﹂
﹁お姉ちゃん、私も食べたい!﹂
﹁俺も!﹂
下の双子が姉ちゃんの話に食いついたので、﹁今度家でも作って
みるね!﹂と姉ちゃんが約束した。冷たいスープっておいしいのか?
それからも姉ちゃんは、瑞鸞で華道を習ったといって持って帰っ
てきた花を玄関に飾ったり、茶道を習ったと茶碗を回し始めた。
﹁私が今習ってるのは盛り花っていうんだけどね。剣山に枝を挿す
時は、まずこの一番立派な枝を真ん中あたりに挿して∼。これが真
ね。次に副をこっちに挿して∼﹂
﹁お茶を飲む時は絵が描いてる部分をこう回して、避けて飲むんだ
よ﹂
﹁お箸を手に取る時は右手で上から持って、左手で下から支えて、
また右手に持ちかえるんだよ﹂
姉ちゃんが瑞鸞で習ったことを俺達家族に披露すると、お母さん
達は、高校の授業でそんなこともやるのか、さすが瑞鸞だと感心し
た。姉ちゃんは、まぁねと笑った。
﹁瑞鸞みたいな学校に入って、苦労しているんじゃないかと心配し
たけど、楽しそうなので良かったわ﹂
1292
﹁カルチャーショックの連続で、しきたりもたくさんあって大変な
ことも多いけど、楽しいし勉強にはなるよ﹂
﹁姉ちゃん、そんな学校で友達いるのか?﹂
﹁周りはお坊ちゃまとお嬢様ばかりだから、友達は多くはないけど
ちゃんといるから平気だよ﹂
だったらいいけど。
姉ちゃんは高校に入ってからバイトも始めた。奨学金は将来の時
のためにとっておくんだって。﹁寛太の大学の費用は私が大学を卒
業して、就職したら出してあげるからね!﹂なんて言ってるけど、
俺だって高校入ったらバイトするし。
姉ちゃんは毎日、勉強にバイトに忙しそうだ。でも姉ちゃんは中
学時代の地元の友達とは遊ぶけど、瑞鸞の友達とは遊びに行ったり
していなさそうなので、お母さん達が密かに心配しているのを、俺
は知っている。
そんなある時、夏休みに姉ちゃんが車に轢かれた。相手は瑞鸞の
同級生だった。
姉ちゃんの乗っていた自転車は前が潰れちゃったけど、同級生に
連れて行かれた病院で検査をしてもらったら、姉ちゃんは打ち身と
擦り傷くらいで大きな怪我はしていなかった。
そしてその同級生は、その日のうちにドデカい花と弁護士を連れ
て謝りにやってきて、妹が興奮しながら﹁家の前に霊柩車みたいな
のが止まってるよ!﹂と知らせにきた。
﹁大切なお嬢さんに怪我をさせてしまい、大変申し訳ありませんで
した﹂
1293
リビングで深々と頭を下げ続ける同級生の男に、帰ってきた姉ち
ゃんに車に轢かれたことを聞いて、軽い怪我といっても心配して怒
っていたはずのお父さんとお母さんは恐縮した。姉ちゃんは﹁うわ
わわわ﹂と、それ以上にパニック状態になっていた。
﹁か、鏑木様!頭を上げてください!私はこの通り、ピンピンして
いますから!﹂
﹁そうですよ。病院にも連れて行っていただいたし、こちらとして
も誠意は見せてもらいましたから﹂
﹁軽傷ですし、娘の同級生ですから、訴えたりということは考えて
おりませんので﹂
姉ちゃん達の言葉に、同級生の男はやっと顔を上げた。超イケメ
ンだった。
﹁では慰謝料のご相談を﹂と弁護士が言ったけど、お父さん達は断
った。﹁それではこちらの気が済まない﹂と同級生の男が何度も言
って、最後はやたらぶ厚いお見舞金というのだけ受け取った。
﹁それから自転車は弁償させていただくのと、今後の治療費ももち
ろんすべてお支払いたします﹂
﹁ええっ!このお見舞金だけで充分ですから!﹂
﹁そうはいきません。それとこれとは別の話です﹂
﹁鏑木様。あの、治療費って、今日の病院代はすべて払ってもらっ
ちゃったし、骨も折っていないのでこの先病院に通うこともないと
思うんですが⋮﹂
﹁ダメだ。医者が完治したと言うまで通わないと。後遺症が出ない
とも限らない﹂
同級生の男が姉ちゃんに厳しい顔でそう言った。姉ちゃんは﹁わ
かりましたぁ⋮﹂と小さくなった。なんか怖そうな男だな。同級生
1294
なのになんで敬語?
その同級生の男が、帰りに店のケーキを全部買うと言った時には、
姉ちゃんが﹁買いにきてくれたほかのお客さんに悪いので、お気持
ちだけで∼!﹂と必死に止めた。
﹁高校生なのにしっかりした子だったわねぇ⋮﹂
﹁そうだねぇ⋮﹂
同級生の男と弁護士が帰ったあと、店に戻ったお父さん以外の家
族はリビングに残った。
﹁お母さん、麦茶なんて出しちゃったけど、失礼だったかしら﹂
﹁今さらだよ﹂
﹁かっこいいお兄さんだったねー﹂
﹁車もかっこよかった!﹂
﹁姉ちゃん轢いた車だぞ﹂
﹁ううん、私が轢かれたのはあの車じゃない。同じくらい立派な車
だったけど。乗り換えてきたみたい﹂
﹁そうなのか?!﹂
あんな車を何台も持っているのか?!
﹁自転車がぶつかった時に、車も少し傷ついたからさぁ。むしろ弁
償しろって言われたどうしようかと思ったよ﹂
﹁相手がまともな人で良かったわね﹂
ってなんだよ﹂
﹁そういや姉ちゃん、なんで同級生なのに敬語だったんだ?それと
様
﹁お姉ちゃん、あの人友達じゃないの?﹂
﹁まさか、まさか!あの人は瑞鸞でも特別な人なんだから!こんな
1295
ことがなかったら、私なんて卒業するまで話すこともなかったはず
だよ!﹂
﹁ふぅん、そんなもんなんだ﹂
﹁そうだよ。私達の学年では、2人、いや3人かな。特に学院中か
ら一目置かれている人達がいるんだけど、鏑木様はその1人﹂
その特別で一目置かれている男は、夏休み中何度も姉ちゃんの病
院の送り迎えをするために会いに来た。自転車もイタリア製の高級
自転車を弁償してくれて、姉ちゃんはそれをママチャリに改造して
もらっていた。もったいない。
でも瑞鸞の生徒ってのは、やっぱ普通の高校に通う生徒とは雰囲
気が違うな∼。
家に帰ったら、リビングになんかすげぇのがいた。
チョココロネみたいにくるくる巻いた頭にリボンを付けた、マン
ガやドラマに出てくるお嬢様やお姫様みたいな女。でもなぜか姉ち
ゃんのTシャツと短パンを着ていた。物凄く似合ってなかった。
姉ちゃんは帰ってきた俺達に焼きそばを作ってくれた。そしてチ
ョココロネ女にも﹁おかわりする?﹂と聞いた。チョココロネは先
に食べていたらしい。チョココロネは﹁いえ、私はもう⋮。そうで
すか?ではせっかくですので一口だけ﹂と一緒に食べた。
﹁口に青のり付いてっぞ﹂
﹁あら、やだ﹂
俺の指摘にチョココロネは、おほほと笑って口を拭いた。おほほ
だって。おほほって笑う人、本当にいるんだな⋮。おほほのコロネ
1296
だな。
は量が多い。コロネは﹁では一口だけ
それ以来、コロネは家に遊びに来るようになった。来るたびにな
ちょっと一口
にか食べている。
コロネの
いただきますわ﹂とよく言うけど、結局皿の中身をぺろりと平らげ
る。姉ちゃんが﹁おかわりいる?﹂と聞くと、﹁いえ、もう充分で
すわ。でも、そこまでおっしゃるなら、ちょっと一口だけ⋮﹂と、
なんだかんだで食べる。
﹁なぁ、姉ちゃん。なんでコロネは最後は必ずしっかり食べるくせ
に、一度断るんだ?﹂
﹁う∼ん、お嬢様の様式美?﹂
よくわかんねぇ。
この前もお餅を出したらよく食べた。あまりによく食べるので、
そんなにおなかが空いているのかと、力うどんを作ってやろうか?
と俺が言ったら、それは本気で断られた。﹁また今度いただきます
わ﹂と言って。﹁うどん雑炊もおいしいですわよねぇ⋮﹂っていう
呟きは、力うどんに雑炊も付けろってことか?全くコロネはしょう
がねぇなぁ。
﹁なぁ姉ちゃん。コロネは姉ちゃんの友達なんだろ﹂
﹁コロネじゃなくて、吉祥院さん!友達かぁ。私はそう思っている
けどねぇ。ただあの人も鏑木君と同じくらい凄い人だからねぇ。で
も吉祥院さんにはいつも助けてもらってるよ。吉祥院さんが瑞鸞で
一番信用できる人かな﹂
﹁へぇ。じゃあコロネが来た時は歓待してやるか!﹂
﹁偉そうに。それから吉祥院さん!﹂
﹁コロちゃんは礼儀正しくていい子だもんねぇ。若葉にコロちゃん
みたいなお友達がいて、お母さん安心しちゃった﹂
1297
﹁お母さんまで⋮。うん、心配かけてごめんね。友達もいるし学校
も楽しいから﹂
﹁それなら良かった。それで?コロちゃんは学校ではどんな子なの
?﹂
﹁吉祥院さんは純血瑞鸞生で∼、瑞鸞女子はこうあるべきっていう、
みんなの憧れの的かな?﹂
﹁ぶはっ、コロネがぁ?!毎回うちで焼きそば食べたりカレー食べ
たりお餅食べたりしてるコロネがぁ?!おほほって笑うからか?お
ほほのコロネ﹂
﹁寛太!でも、まぁ私も、あの吉祥院さんがこんなに親しみやすい
人だとは思ってもみなかったけどさぁ⋮。でもこれからも仲良くし
てもらえたらいいなって思ってるんだ﹂
﹁ふーん、そっか﹂
﹁ねぇ、じゃあ鏑木君はどうなの?若葉の彼氏?﹂
﹁はあっ?!違うよ!バカなこと言わないでよ!﹂
﹁え∼っ、でも何度も若葉に会いにきてくれるし、クリスマスにも
わざわざプレゼント持って会いにきてくれたじゃない﹂
﹁ちょっと、本当に変なこと言わないで!そんなこと万が一瑞鸞の
人達に聞かれたら⋮﹂
﹁あら、コロちゃんにも内緒なの?﹂
﹁吉祥院さんには話してあるけど⋮。でも外で余計なこと言わない
でね!誰が聞いてるかわからないんだから!みんなもだよ!いいね
!﹂
姉ちゃんがやけに真剣な顔で迫ってきたので、俺達は渋々返事を
した。
﹁だったら若葉、初詣に一緒に行ったって男の子は?ほら、一緒に
撮った写真を見せてくれたじゃない﹂
﹁一緒に生徒会をやってる、ただの友達!それにほかに友達も写っ
1298
てたでしょ!﹂
﹁でもあの子もかっこよかったじゃな∼い﹂
﹁だ∼か∼ら∼、違うってば!この話はもう終わり!終わり!﹂
﹁お父さんも心配してたわよ。若葉に彼氏ができたんじゃないかっ
て﹂
﹁姉ちゃん、玉の輿?﹂
﹁違ーう!!﹂
でもなぁ。鏑木さんはぜったいに姉ちゃんのこと好きだろ。だっ
てクリスマスイブだぜぇ。ただの友達に会いにくるかぁ?
そのプレゼントは高校生なのにクマのぬいぐるみで笑ったけど、
あとでコロネから有名な高いぬいぐるみだって聞いて、俺と姉ちゃ
んはびっくりした。ぬいぐるみが数万円?!意味わかんねぇ。
クマのぬいぐるみはクリスマスのコートを着て、首にハートのネ
ックレスまでしていた。妹がそのネックレスを見て可愛いと欲しが
ったので、姉ちゃんは﹁ぬいぐるみ用だけど、小学生だからいいよ
ね?﹂と外して妹に付けてあげていた。おもちゃのわりにはすげぇ
キラキラしていて、妹の大のお気に入りアイテムだ。さすが高いぬ
いぐるみは、小物もしっかりしているな!
ぬいぐるみは年末まで店に飾られて、今は姉ちゃんの部屋に飾ら
れている。
姉ちゃん、今年のバレンタインはチョコを鏑木さんにあげないの
かな。きっと待っていると思うんだけど。
それとバレンタインといえば、コロネのアレンジがヒジョーに心
配だ⋮。大丈夫かな、あいつ。きちんと渡したレシピ通りに作るん
だぞ!
1299
195
円城と唯衣子さんらしき人を見送った次の日の朝に、円城に改め
てお礼を言われた。
﹁雪野、喜んでたよ。吉祥院さんに返事を書く!って言ってたから、
明日持ってくるね﹂
﹁まぁ!雪野君に少しでも喜んでいただけたら、私も嬉しいですわ
!あまり実のある内容を書けなかったのは申し訳なかったですけど﹂
﹁そんなことないよ。最近お菓子作りに凝っているとか、楽しそう
なことがいっぱい書いてあったって言ってたよ﹂
﹁本当にくだらないことを書いてしまって⋮﹂
﹁お菓子作りに凝ってるって、もしかしてバレンタイン用?﹂
﹁ええ、まぁ⋮﹂
男子にそれを聞かれるのって、バレンタインに気合を入れている
ヤツだと思われる感じがして恥ずかしいんですけど⋮。
﹁そっかぁ。チョコをあげる相手はリストアップした?﹂
﹁えっ?﹂
なんで円城がそんなこと聞くの?
﹁う∼ん。たぶん雪野のヤツ、期待してると思うんだよね、吉祥院
さんからのチョコ﹂
﹁えっ、そうなんですか?!﹂
﹁はっきりとは言わないけどたぶんねー。昨日、手紙を読んでいる
時も、お菓子作りだって∼、なにを作っているのかな∼?なんて言
1300
ってたし。この時期にお菓子作ってるって、バレンタインを普通連
想するでしょ﹂
﹁バレンタインに関係なく、お菓子作りが趣味なかたもいらっしゃ
ると思いますけど。でも私も雪野君にはチョコを渡したいと思って
いましたから、期待してくれているのなら嬉しいですわ。ただ私の
手作りは家族にしか食べさせられないようなレベルですので、雪野
君には雪野君のイメージにぴったりの、ホワイトチョコの可愛い品
を選んできますわ﹂
﹁ありがとう。これで雪野にぬか喜びさせずにすむよ。絶対にもら
えるはずって期待して待ってて、結局もらえないでバレンタインデ
ーが終わるのって、期待値が大きかったぶん、ショックも大きいか
らね。男側のダメージは相当なものだよ﹂
﹁ふふふ。いつもたくさんのチョコをもらっている円城様達は、そ
んな目に合ったことはないのでしょうね?﹂
﹁さぁ、どうかな?﹂
お∼お∼、モテ男は余裕の笑みですねぇ。ちっ。
でもバレンタインがくるたびに毎年思うけど、この時ばかりは男
の子に生まれなくてよかったよ。今の私の状況から考えて、たぶん
1個ももらえない⋮。
いやーっ!恋愛ぼっち村の村民を増やさなきゃ。村おこし、村お
こし。
そしてさらに次の日、雪野君からの手紙の返事と、円城のお母様
からお礼のお菓子をいただいてしまった。また返事書かなくちゃ!
バレンタインが近づくにつれ、鏑木と同志当て馬のファンらしき
女の子達からの若葉ちゃんへの嫌がらせも増えていった。最大のラ
1301
イバルだもんねぇ。
若葉ちゃんに大丈夫なのか思い切って電話をしてみたら、若葉ち
ゃんは、ロッカーにも鍵をかけてあるし、靴箱にもあれ以来鍵を付
けている。机の中にも何も残して帰らない。だから朝登校すると机
や椅子が汚れていたり、ロッカーや靴箱に泥のようなものが付いて
いたりするくらいで、実害はないよと言った。
﹁ただ、消しゴムを椅子の下に落として拾った時、椅子の裏にお札
が貼ってあるのを発見した時は、さすがに驚いたけど﹂
ええーーっ!それって呪いですか?!怖いよ!お祓いに行ったほ
うがいいよ!
﹁それで、どうしたのですか?﹂
﹁えっ、剥がして、ゴミ箱に捨てたよ﹂
強すぎる⋮。
バレンタインの当日の瑞鸞は、朝から大騒ぎだった。
鏑木と円城と同志当て馬のクラスには、女子達が行列を作った。
チョコを持ってくる女子は中等科の子達も大勢いて、もらう総数は
いくつくらいなんだろうなぁと、他人事ながら面白く見ていた。強
者だと鏑木と円城、両方に渡していたりするからなぁ。
芹香ちゃん達も当然チョコを鏑木達に渡していた。いいなぁ、楽
しそう。
私が持ってきているのは、女子の友達と交換するぶんと、雪野君
のチョコくらいだ。プティには放課後持って行こう。
そう思っていたのに、放課後円城に呼び止められた。
1302
﹁ごめん、吉祥院さん。雪野のヤツ、今日病院に行くからもう帰っ
ちゃったんだ﹂
﹁ええっ!﹂
なんだ、早く渡せばよかった!
﹁では、どうしましょう、これ⋮﹂
私は手に持っていた雪野君用のチョコを見せた。
﹁明日本人に渡すか、今日僕が受け取って雪野に渡すか⋮﹂
﹁今日中に渡したほうがよろしいですよね。でしたら円城様、これ
を雪野君に渡していただけます?﹂
﹁うん、わかった。気を使わせてごめんね﹂
﹁いいえ﹂
円城に雪野君へのチョコを手渡した瞬間、ハッと気がついた。
これって私が円城にバレンタインのチョコを渡したように見えな
いか?!まずい!
﹁円城様!このチョコレート、必ず弟様に渡してくださいね!私か
ら弟様へのプレゼントですから!﹂
私は周りに聞こえるように、大きな声で円城の弟の存在をアピー
ルした。円城は私の思惑を知ってか、楽しげに笑っていた。ムカッ!
さっさと帰ろうと踵を返したら、鏑木が誰かを探すように廊下を
ウロウロしていた。
1303
若葉ちゃんと寛太君の教え通り、私はレシピに忠実にフォンダン
ショコラを作った。
1個試食してみたら、若葉ちゃんの家で作ったものと同じ味がし
た!凄くおいしい!手作りは一期一会じゃないのね!
さっそく出来上がったフォンダンショコラをお父様の元に持って
いく。さぁ、お父様、出来たてを召し上がれ!
お父様は﹁ありがとう麗華、嬉しいよ﹂と言いながら、なんだか
ゆっくりとフォークを刺した。女の子みたいにちまちませず、もっ
とガッと取ればいいのに。
私の作ったフォンダンショコラを一口食べたお父様は、目を見開
いた。
﹁どうしたんだ、麗華!おいしいじゃないか!﹂
⋮口が滑ったな、狸。
﹁どういう意味でしょうか、お父様﹂
﹁いや⋮。しかし麗華のお菓子作りの腕は、ずいぶん上がったんだ
ねぇ。これも成冨家の耀美さんに教えてもらったのかい?﹂
さっきまでのためらいがちな顔から一変、上機嫌になったお父様
はパクパクとフォンダンショコラを口に運んだ。
﹁⋮いえ、これはお友達に教わりましたの﹂
﹁ほぉ、瑞鸞の友達かい?﹂
﹁ええ、まぁ⋮﹂
﹁前に何度か家に遊びに来てくれた子達かしら?初等科から仲の良
1304
い、確かお名前は芹香さんとか⋮﹂
お父様の隣に座っていたお母様が、話に入ってきた。お母様は美
容のために甘い物をあまり食べないようにしているので、毎年私が
作るバレンタインチョコにも手をつけない。
でもお母様、数回しか来たことのない私の友達の名前まで覚えて
いるのか⋮。
﹁芹香さん達ではありませんわ。部活関連のお友達です﹂
なんとなく若葉ちゃんの名前は出さないほうがいいかなと思った
ので、ごまかした。手芸部の友達とは言ってないもん。生徒会役員
も大きな意味で部活関連だもん。
﹁そう。きちんとした家のかたなのでしょうね?変なかたとはお付
き合いなさらないようにね﹂
﹁はい⋮﹂
﹁瑞鸞も高等科ともなると玉石混淆だからなぁ。付き合う相手は選
びなさい﹂
﹁大丈夫ですわ。それよりお父様、もう1個いかが?まだたくさん
ありますのよ﹂
﹁そうかい?麗華がお父様のために作ってくれたんだから、もう1
個食べるかな﹂
﹁貴方。寝る前にそれ以上食べると、コレステロール値がまた上が
りますわよ﹂
﹁⋮そうだったな﹂
やだ、お父様。コレステロール値が高いの?美食ばっかりしてい
るせいね。試験が終わったら、耀美さんに健康食を習わないと。
お兄様のぶんはきちんとラップをして冷蔵庫に。食べる時にはレ
1305
ンジでチンするとトロ∼リチョコが復活するそうなので、帰ってき
たら食べてもらおうっと!
あ∼あ、結局今年も本命チョコは誰にも渡せなかったなぁ。学校
帰りに図書館に寄ってみたけど、ナル君はいなかった。直接渡す勇
気はなくても、ナル君が気づかないうちに、こっそりナル君のカバ
ンにチョコの箱を落とそうと思ったんだけど、考えてみれば自分の
知らないうちにカバンの中に食べ物が入っていたら怖いよね⋮。や
らなくて良かった⋮。
お兄様が帰ってくるのを自分の部屋で待っているうちに眠くなっ
てしまったので、ちょっとベッドに入ったらそのまま朝まで熟睡し
てしまった。
お兄様ったら、何時に帰ってきたの?
伊万里様にはいつ会えるかわからないので、手作りのフォンダン
ショコラと、チョコレートショップの出しているコーヒーをお家に
送らせてもらった。だってカサノヴァ村の村長が、バレンタインに
体が空いているわけがないじゃないですかぁ。
きっとたくさんもらっているだろうけど、食べてくれるといいな
ぁ。きっと伊万里様のことだから、絶対に一口は食べてくれると思
うけど。
後日、伊万里様から私宛にフィレンツェに本店のある世界最古の
薬局の、とても可愛いサシェとハーブティーのセットが届けられた。
伊万里様、まさかチョコをくれた人全員に、こんなお返しをしてい
るの?!さすがだ⋮。
そしてバレンタインの次の日、鏑木は元気がなかった⋮⋮。
もしかして、期待値が大きいとショックも大きいってやつですか
1306
?
1307
196
バレンタインの次の日から、案の定私が円城にチョコを渡したと
いう完全なる誤解が広まった。
﹁麗華様の本命が円城様だったとは!﹂
﹁てっきり鏑木様だと思っていましたわ!﹂
﹁でも円城様は包容力もあって、麗華様とお似合いよね﹂
﹁最近よく、円城様に呼ばれて仲良くお話していたし﹂
芹香ちゃん達も、私をだしに勝手に盛り上がっている。違うっ!
﹁私ずっと円城様に憧れていますけど、麗華様なら応援しますわ!﹂
円城ファンのあやめちゃんが、私の手を取って見当違いの応援を
してくれた。いらない、そんな応援。
﹁何度も言いますけど、あのチョコは円城様の弟様へのプレゼント
で、円城様に宛てたものではありませんのよ﹂
﹁麗華様ったら、照れなくても﹂
芹香ちゃん達はニヤニヤして冷やかしてくる。ねぇ、本当に胃が
痛くなるからやめて。
﹁照れてなどいませんわ。私がチョコを差し上げたのは円城様の弟
様の雪野君です。これだけははっきりと否定させていただきます!﹂
事実無根の噂はしっかり潰しておかないと。高校卒業まであと約
1308
1年しかないのに、円城とあらぬ噂をたてられて、これ以上モテな
くなったら大問題だ。
もしも、もしもだよ?万が一、私のことを密かに好きな男子がい
るとしてだよ?その男子が、私が円城を好きだなんて噂を聞いて私
を諦めちゃうなんて事態になったら、困るじゃない!
﹁⋮麗華様がそこまで否定するなら、まぁそういうことにしておき
ましょう﹂
私が不機嫌になったのを感じたのか、芹香ちゃん達が引いてくれ
た。
﹁噂の払拭にも力を貸してくださいね?﹂
﹁わかりました。誰かに聞かれたら弟様宛だと否定しておきます﹂
﹁本当に、本当にお願いね?﹂
私の必死のお願いに、みんなが頷いてくれた。良かった。頼んだ
よ、みんな!
私にせっかく勇気を出して告白しようと考えていた男子が、私が
円城を好きなら諦めようなんて冗談じゃないわ。ダメよ、そこの貴
方!諦めないで!
しかし告白か⋮。憧れるなぁ。放課後の呼び出し。﹁話があるか
ら、ちょっと残ってくれる?﹂﹁えっ、なぁに?﹂これは告白か!
ってわかっているくせに気づいてない風を装う。きょとん顔もしよ
う。そして夕日の沈む教室での告白。﹁ずっと好きでした﹂﹁えっ
⋮﹂かーっ!いいなぁ!
されてみたいわぁ、告白。
﹁そういえば、今日の鏑木様は少しお元気がなさそうね﹂
1309
﹁教室でもひとりでため息をついているんですって。どうしたのか
しら﹂
﹁心配だわ⋮﹂
若葉ちゃんからのチョコを期待していたのに、もらえなくて落ち
込んでいるのか、鏑木。春は遠いのぉ。
マンガではとっくに、ラブラブじれじれすれ違いと盛り上がりま
くっていたのに、現実は厳しい。
しかし教室で特別に目立つ生徒がため息なんてついて黄昏ていた
ら、辛気臭くてしょうがないな。
﹁でもアンニュイな皇帝も、素敵﹂
﹁憂い顔に胸がキュンとするわね﹂
え、そうなの?顔がいいと、陰気もアンニュイに脳内変換されち
ゃうんだ。世の中って不平等。
私のバレンタインチョコ疑惑も、私の完全否定と、取り巻きに聞
かれた円城本人の弟宛てだよという否定で徐々に下火になった。
そしてなんとそれから数日後、雪野君本人がピヴォワーヌのサロ
ンに足を運び、﹁麗華お姉さん、バレンタインのチョコをありがと
!﹂とお礼を言ってくれたので、私達の言ったことの確かな裏付け
にもなってくれた。あぁ、雪野君てば本当に天使様だわ!
雪野君は乾燥がつらいのか、時々ケホケホと咳をしたりしている
から心配だ。
﹁雪野君、大丈夫?﹂
1310
﹁うん、平気です。麗華お姉さんは風邪大丈夫ですか?﹂
﹁ええ。私は健康なの﹂
私は体力はあまりないが、大きな病気はしたことがない。
﹁この前入院もしたんでしょう?ムリしちゃだめよ?﹂
﹁はい﹂
雪野君は熱いお茶を両手で持って、フーフーと息を吹きかけなが
らニコッと笑った。
可愛い天使の雪野君に、ピヴォワーヌのほかのメンバーもすっか
り虜だ。私と雪野君の座るソファを取り囲んで、いろいろと雪野君
に話しかけた。その中には前ピヴォワーヌ会長の瑤子様もいる。
瑤子様は引退した後もサロンの中心で常に華やかにしていた。
ピヴォワーヌの新会長は鏑木だけど、鏑木は会の活動に積極的な
タイプの会長ではないので、いまだに前会長の瑤子様の存在感は大
きい。しかもピヴォワーヌの厄介なのは、中、高一緒のサロンなの
で、今度高等科に入学する新1年生のメンバーにもすでに多大な影
響を及ぼしているところだ。
鏑木が本気を出して、そのカリスマ性を発揮すれば全員ついてい
くと思うんだけどね。でも肝心の鏑木が恋の病で使えないからなぁ。
瑤子様達は相変わらず若葉ちゃんの存在を忌々しく思っているし、
若葉ちゃんを守るために会長になったんだったら、しっかりしてく
れよ、鏑木!
﹁麗華お姉さん、どうかしましたか?﹂
﹁えっ﹂
﹁なんだかちょっぴり怖い顔をしていました﹂
﹁やだ、ごめんなさい。ほかのことに気を取られてしまって⋮﹂
1311
少し離れた席で暢気に本を読む鏑木を、知らず知らずのうちに睨
んでいたようだ。私は慌てて雪野君に笑いかけた。
人の気も知らずに気楽に読書か。いったい何を読んでいるんだか。
まさかまた詩集か?!
あぁ、蔵に封印したハイネはどうしよう。鏑木から渡されたあの
本からは、フラレ臭がプンプンするんだよ。あんな不吉な物が近く
にあるから、私の恋愛運が下がっているんじゃないかな。どうにか
処分する方法はないだろうか。
そうだ、蔓花さんにあげたらどうかな。蔓花さんは昔から鏑木の
ファンだしね。きっと喜ぶね。蔓花さんは鏑木ファンのくせに、他
校にも男友達が多くてバレンタインのチョコもたくさん配ったらし
い。先輩から告白もされているらしい。あんなに性格悪いのに!
性格が悪くても美人ならいいのか!男の本心は結局それか!なぜ
私には⋮!
﹁麗華お姉さん?﹂
あら、いけない。また怖い顔になっていたかしら。
まぁ、いい。みんなが恋だなんだと浮かれている間に、私は勉強
しまくって、順位表に返り咲くのだ。見ているがいい!
今日は日付を超えるまでテスト勉強だ。夜食は赤いうどんだ。
雪野君が円城と一緒に帰ったあと、しばらくサロンに残っていた
私も帰宅するために駐車場に向かって歩いていた。するとそこに、
中等科生の桂木が私を睨むように立っていた。
﹁円城さんにチョコを渡したって本当かよ!﹂
大声を出さなくても聞こえてるよ。そして情報が古いんだよ。
1312
﹁雪野君宛てですわ﹂
私は寒いので桂木少年を素通りしてさっさと車に向かう。
﹁円城さんには唯衣子さんがいるんだからな!邪魔するなよ!﹂
あー、うるさい。
しかし、そっか。私がチョコを渡した話が、唯衣子さんにも伝わ
っている可能性があるのか⋮。面倒だな。
1313
197
若葉ちゃんの机に落書きがされているのを、鏑木が発見したらし
い。
普段はあまり早く登校しない鏑木が、たまたま早く登校して円城
の教室を覗いた時に、机を拭いている若葉ちゃんに気づき、机に書
かれている﹁ブス!﹂﹁消えろ!﹂といった悪口を見つけたそうだ。
﹁誰だ!こんなことをしたヤツは!﹂
鏑木の激昂する声は、廊下にまで響き渡った。
﹁言え!誰がこれを書いた!﹂
私も騒ぎを聞きつけて一緒にいた友達と、教室まで見に行った。
﹁なにごとなの?﹂
﹁それが⋮﹂
そして私も鏑木の怒りの理由を知った。鏑木は目をギラギラさせ
て周囲を睨みつけている。その射殺すような視線に、私達は縮み上
がった。
﹁答えろ。これを書いたヤツは誰だ﹂
瑞鸞の皇帝が本気で怒っている。怖い。野次馬根性で見に来た生
徒達も、鏑木の剣幕に恐れをなして動けなくなっていた。
若葉ちゃんは雑巾を片手におろおろしつつ、﹁鏑木様、あの落ち
1314
着いてください⋮﹂と遠慮がちに声を掛けた。
﹁これが落ち着いていられるか!﹂
鏑木を止めようとしたら、反対に若葉ちゃんが鏑木に怒鳴られた。
﹁ふざけんな!お前、こんなことされて悔しくないのかよ!こんな
嫌がらせ!﹂
﹁いやぁ、まぁ⋮﹂
﹁⋮まさか、これが初めてじゃないのか?﹂
机の落書きやロッカーや靴箱へのいたずらはともかく、基本的に
若葉ちゃんへの嫌がらせは男子に気づかれないようにやっていたか
ら、鏑木は具体的に若葉ちゃんがどれほどの目に合っているか知ら
なかったらしい。まぁ現時点でも詳細はわかっていないだろうけど。
ほとんどが鏑木達のいない場所で言いがかりをつけたり、本人に聞
こえるように中傷したりするたぐいだし。そしてそれは女子だけで
はなく、男子の中にも若葉ちゃんの成績を妬んで悪口を言っている
連中がいた。
﹁え⋮っと﹂
目を泳がせた若葉ちゃんの反応に、鏑木の目がさらに吊り上がっ
た。
﹁誰だ!﹂
鏑木がここまで感情を顕わにするのを目にするのは珍しい。鏑木
は近くにいる生徒を片っ端から問い詰めて行く。ほとんどの生徒は
﹁知らない﹂と答えたが、なかには﹁今日のは知らない﹂とポロっ
1315
と言う人もいて、鏑木の追求はさらに厳しくなった。
結果、過去に蔓花さん達のグループや、ほかの女子グループが何
人かで若葉ちゃんの机にいたずらしているのを見たことがある人も
出てきて、蔓花さん達を青ざめさせた。
﹁お前らか⋮﹂
鏑木は全身から黒い気を溢れさせた。
﹁わ、私達じゃありません!今日だってさっき登校したばかりです
もの!﹂
﹁私達だって違います!﹂
鏑木の視線に怯えながらも、彼女達は必死に弁明した。
﹁でも前にやったことはあるんだろう?﹂
﹁それは⋮﹂
﹁ねぇ⋮?﹂
﹁だったら今日のも誰かに指示してやらせたんじゃないのか?﹂
﹁そんなこと!だいたい高道さんは学院中から嫌われているから、
私達だと決めつけるのはおかしいですわ!﹂
﹁なんだと!﹂
そこに円城が登校してきた。円城は親友を中心とした自分のクラ
スの騒ぎに少し驚いた顔をした。
﹁おはよう、雅哉。どうしたの?﹂
﹁どうしたもこうしたもあるか!高道がこんなろくでもない嫌がら
せをされていたんだよ!﹂
1316
鏑木は若葉ちゃんの机を指差した。机には半分消えかかったマジ
ックの跡。今までは鉛筆で書かれていたそうだから、目立たなかっ
たんだろうなぁ。
﹁あ∼、そういうことか﹂
円城は納得したように頷いた。同じクラスの円城は、若葉ちゃん
の置かれている状況を、鏑木よりは把握していたらしい。
﹁とにかく、高道の机に悪口を書いたヤツを見つけ出す﹂
﹁それは雅哉の仕事じゃなくて、生徒会長の仕事じゃない?﹂
円城に同志当て馬の名前を出されて、鏑木は眉を顰めた。
﹁⋮肝心な時にこの場にいないヤツになにが出来る﹂
﹁あの⋮、会長の水崎君は来月の卒業式の打ち合わせで先生の元に
行っているので⋮﹂
若葉ちゃんと一緒に生徒会の役員をやっている女子が、同志当て
馬を庇う発言をした。そしてそれを鏑木は鼻で笑って一蹴した。
﹁高道、これをやった人間に心当たりは?﹂
﹁えっ、さぁ⋮?﹂
心当たりはありすぎて絞り込めないんじゃないかな。鏑木は犯人
捜しを再開した。円城は特に鏑木に協力するわけでもなく、かたわ
らで静観している。
当事者の若葉ちゃんはすっかりおいてけぼりで、途方に暮れた顔
をしていた。このまま放っておくわけにもいかないなぁ⋮。
1317
﹁とにかく、もうすぐ始業時間ですから、先に高道さんの机をきれ
いにしてしまいましょう﹂
渦中に入るのは嫌だったけど、私は若葉ちゃんに向けてそっと声
を掛けた。若葉ちゃんはハッと気が付き、﹁そうですね﹂と手に持
っていた雑巾でゴシゴシ拭き始めた。生徒会の女子も雑巾を持って
きてそれを手伝った。水性マジックだったのか、どんどん薄く汚れ
が落ちていった。よかったぁ、油性じゃなくて。
次々に登校してくる生徒達が見に集まってくるので、教室と廊下
はすっかり黒山の人だかりだ。
﹁この騒ぎはいったい何事なの?﹂
その鋭い声に、ザッと人垣が割れて、今度は2年生の教室に3年
生である瑤子様とその取り巻き達が現れた。げえっ!一番来てほし
くない人がやってきた⋮。
瑤子様は教室を見回した。
﹁登校してみれば、朝からこの騒ぎ。誰か説明なさって﹂
前ピヴォワーヌ会長のお出ましに、さっきまで騒がしかった教室
がシンとなった。
ひとりの生徒が瑤子様に耳打ちをすると、瑤子様は大きなため息
をついて、若葉ちゃんを冷たく見つめた。
﹁また貴女なの、高道さん﹂
若葉ちゃんは﹁すみません⋮﹂と小さく謝った。
﹁何度騒ぎを起こせば気が済むのかしら?﹂
1318
﹁そういう言い方はないんじゃありませんか。彼女は被害者です﹂
鏑木が若葉ちゃんを背に庇うようにして、瑤子様と対峙した。
﹁確かに被害者かもしれません。でも高道さんの生活態度にも問題
があるんじゃないかしら?貴女の問題行動は、私もよく耳にしてい
てよ﹂
瑤子様は若葉ちゃんをここぞとばかりに非難した。
﹁高道の問題行動とはなんですか﹂
﹁瑞鸞の生徒にふさわしくない振る舞いのことですわ﹂
﹁ふさわしくない⋮?﹂
﹁ええ、そうですわ。ねぇ、高道さん。貴女もしかして、こうやっ
て鏑木様達に庇ってもらうために、ご自分でその机に落書きしたの
ではなくて?﹂
ええっ!そこまで言う?!
鏑木の顔色がはっきりと変わった。
﹁沖島先輩、それはあまりに酷い言い草じゃないですか?高道に謝
ってください﹂
鏑木は瑤子様を睨み据えた。
うわわわわ、鏑木ってば先輩である瑤子様になんて態度を!
瑤子様は、鏑木が若葉ちゃんへの謝罪を求めたことにムッとした
顔をした。
﹁ありえない話ではないでしょう?なんといっても高道さんは、私
達では想像もつかないことばかりをしでかすんですから﹂
1319
﹁沖島先輩!それ以上言うなら⋮﹂
売り言葉に買い言葉。握りしめた鏑木の拳が、怒りに震えている。
これはまずい⋮。
一触即発のふたりの空気を、円城が破った。
﹁沖島先輩、雅哉は卑劣な行為が昔から嫌いなので、頭に血が上っ
てしまったようです。ここは僕の顔を立てて収めてもらえませんか
?﹂
円城は鏑木と瑤子様の間に体を入れ、人当りのいい笑みを見せて
お願いした。それを見て、瑤子様の態度が軟化した。
﹁⋮円城様がそうおっしゃるのなら、しかたありませんわね﹂
﹁ありがとうございます。もうすぐ授業が始まります。そこまで送
りましょう﹂
円城は微笑みながら、瑤子様を教室の外までエスコートしていっ
た。
⋮⋮こ、怖かった∼っ!円城、よくやった!たぶん今ここにいる
全員が同じ気持ちのはずだ!
始業のベルが鳴り、野次馬の生徒達が続々と自分の教室に戻って
いく中、鏑木は若葉ちゃんの両肩を掴んで若葉ちゃんを強い目で見
つめた。
﹁なにかあったら俺に言え。俺がお前を守るから﹂
﹁えっ⋮!﹂
若葉ちゃんの顔が赤くなった。えっ、若葉ちゃんが鏑木にときめ
いた?!そして若葉ちゃん、口が開いちゃってるよ!
1320
嫉妬した女子達から﹁瑤子様のおっしゃった通り、皇帝の気を引
くための自作自演なんじゃない?﹂﹁ありえる∼﹂と言った声が聞
こえた。
その日から、若葉ちゃんの傍に鏑木がいることが多くなった。
1321
198
鏑木はあれ以来、自分が会長としてピヴォワーヌをしっかりと掌
握していないと、若葉ちゃんを守れないと思ったのか、前よりも会
長としての自覚が見えるようになった。前よりは、だけどね。円城
もフォローしているし、これから鏑木会長の時代がやってくるのだ
ろう。たぶん。
そして瑤子様達3年生の卒業式がやってきた。
瑤子様が卒業して、ピヴォワーヌ関係はひとまず落着?なんて楽
観はできない。瑤子様達に影響を受けたピヴォワーヌ至上主義の子
達が大勢残っているのだから。
いくら鏑木が会長としてカリスマ性を発揮してメンバーの絶大な
支持を受けようとも、若葉ちゃんへの悪感情を払拭することはなか
なか難しいだろうな。むしろ鏑木が崇拝されればされるほど、鏑木
の恋人になる女の子が外部生で庶民で普通の子の若葉ちゃんなんて
容認できないと思われそう。憧れの人の隣に自分が立てないのなら、
せめて自分が敵わないと思えるような素敵な人を選んで欲しいと思
ってしまう身勝手な感情とかね。
まぁ、誰が誰を好きになろうと当人同士の問題なんだから外野が
文句を言ってもしょうがないだろうと思うけど、ちょっとその気持
ちもわからなくもない。もし、お兄様が彼女だと紹介してきた女性
が変なかただったら、お兄様の選んだかたですからなんて広い心で
受け入れるなんて絶対にできないね。確実に邪魔すると思う。そし
てお兄様にも、見る目ないなぁと失望しそう。いやいや、お兄様が
将来連れてくる人は、素敵な人だと信じていますよ?
そんなことを式の最中に考えていたら、鏑木が壇上に上がった。
1322
今年の送辞は鏑木だ。現時点で首席でピヴォワーヌの会長でもある
鏑木ですから、当然の人選ですね。鏑木はよく通る声で送辞を読ん
だ。皇帝のその凛々しいその姿に、卒業生や在校生、果ては保護者
からも感嘆のため息がもれた。う∼ん、見た目は抜群にいいからね
ぇ。中身はアレだけど。
瑞鸞生のほとんどは内部進学なので、初等科でも中等科でも卒業
式で号泣する生徒はあまりいなかったけれど、高等科の場合は制服
の着納めとか大学が今までの敷地とは少し離れているといった理由
からか、卒業式の最後にはすすり泣く声が聞こえてきた。
式も終わり卒業生が外に出てきたので、私達は花束を持って駆け
付けた。
﹁瑤子様、ご卒業おめでとうございます﹂
卒業されるピヴォワーヌの先輩方に、私達はお祝いの言葉と花束
を渡した。
﹁どうもありがとう。みなさん、私達が卒業したあとのピヴォワー
ヌをよろしくお願いしますわね﹂
﹁はい﹂と私達は神妙に頷く。卒業してもOBOGとしてパーティ
ーなどには顔を出す機会はあるけれど、一応これで先輩方は完全な
引退だ。
﹁麗華様も鏑木様をよく支えて、瑞鸞の女子を纏めていってくださ
いね﹂
﹁はい﹂
1323
鏑木を支えるのは、円城の役割だと思うけど。まぁ、頷いておこ
う。
その鏑木は円城とともに、普段あまり見せない笑顔のサービス付
きで先輩方を祝福し、先輩方を喜ばせていた。あれでも腐っても鏑
木家の御曹司なので、最低限の社交辞令はできるのだ。
瑤子様は、自分を慕う後輩のピヴォワーヌの子達を集め、なにや
らいろいろと言い含めたあと、卒業していった。
卒業式のあとはすぐに学年末テストだ。私は頑張った。努力をし
ているのがあまり見えなかったかもしれないけど、人知れず毎日必
死で勉強しまくった。
若葉ちゃんからいつ勉強しているのか聞いたら、一番はかどるの
が朝夕の電車の中だと言うので、藁をも掴む気持ちで休みの日にわ
ざわざ電車に乗って暗記の勉強をしたりもした。なにげに成績が良
いらしい璃々奈も、通学の車の中で予習をしていると言っていた。
乗り物での勉強は頭に入りやすいのかな?でも私はあの微妙な振動
にすぐ眠くなっちゃうんだけど。
とにかく、それくらい頑張ったのだ。すべては順位表に返り咲く
ために。
2学期末テストで成績を落とした時、実は結構落ち込んだ。クリ
スマス間近のテストは絶対に良い成績を取りたかったのだ。クリス
マスプレゼントをねだるために。もちろん成績が悪くても家族は気
にせず毎年プレゼントをくれる。しかしそうじゃないのだ。お兄様
の﹁テストを頑張った麗華にプレゼントだよ﹂が欲しいのだ。私は
褒められるのが大好きだ。私の名前のない順位表を見た時、一番大
事な時になにやってんだよ、私って思ったよ。だからこそ、今回は
1324
死に物狂いで頑張った。なぜならもうすぐホワイトデーだから!
その努力の成果は、29位。ギリだなぁ⋮。これだけやっても2
5位の壁は厚く、向こう側は全く見えない。
一応、瑞鸞の同学年の中では成績が良い部類に入っているけれど、
この成績で国公立は厳しいかもしれないなぁ。これから1年、ほか
の受験生が本腰入れて勉強してくるだろうし。それでも国公立を目
指して努力をするか、瑞鸞の大学に行くか。すぐに楽をしたがる私
の心は瑞鸞の大学にかなり傾いている。
今のところ鏑木を敵に回していないし、お父様とお兄様の様子か
ら会社の業績も悪くはなさそうだ。
目標設定、替えちゃおうかな?
学年末テストの成績表を教科書に挟んでお兄様の帰りを待ってい
ると、仕事を終えたお兄様が伊万里様と一緒に帰宅した。
わぁい、伊万里様だ!でも伊万里様がいる前では成績自慢は出来
ないな。今回はリビングで教科書を読んでいたら挟んであった成績
表がはらりと落ちる作戦だったんだけど。しょうがない、明日にし
よう。
﹁こんばんは、麗華ちゃん。この前はバレンタインのフォンダンシ
ョコラをありがとー。おいしくいただいたよ!﹂
﹁ごきげんよう、伊万里様。私こそ素敵なお返しをありがとうござ
いました﹂
﹁いいえ、どういたしまして。麗華ちゃんはお菓子作りが得意なん
だねぇ。毎年あんな愛情たっぷりのおいしい手作りチョコをもらっ
ている貴輝が羨ましいな﹂
﹁そんなぁ﹂
1325
ぐふふ。ありがとう、若葉ちゃん、寛太君。半分はお世辞だとし
ても、賛辞の言葉はやっぱり嬉しい。お兄様は伊万里様の言葉にな
んだか苦い顔をしていた。
﹁それで、今日寄らせてもらったのは、麗華ちゃんに渡したいもの
があったからなんだ﹂
そう言って伊万里様は持っていた紙袋を私に差し出した。
﹁はい、これ。少し早いけどホワイトデーのお返し﹂
﹁まぁ!すでにバレンタインに素敵なお返しをいただいたのに、よ
ろしいのですか?﹂
﹁もちろん﹂
あ、これ蜂蜜専門店の蜂蜜キャンディだ。
﹁アカシアのキャンディと、こっちはユーカリの蜂蜜のキャンディ
ですね!おいしそう﹂
﹁麗華ちゃんは蜂蜜が好きでしょ?だからこれにしてみたんだよ。
気に入ってくれたかな?﹂
﹁ええ!ありがとうございます﹂
﹁それから、もうひとつ﹂
伊万里様は正方形の箱を私の手に乗せた。開封してみると、中か
らは銀色の球体が出てきた。オブジェ⋮?
﹁これはなんですか?﹂
﹁なんだろうね?振ってごらん?﹂
1326
言われた通り振ってみたら、シャンシャンシャンと澄んだ音が聞
こえた。
﹁わぁっ!﹂
﹁オルゴールボールっていうんだ。振ると綺麗な音がするでしょう
?﹂
﹁はい。まるで水琴窟のような音色です﹂
私は耳元で振ってその音色に耳を澄ました。あぁ、本当に綺麗な
音。
﹁麗華ちゃんは今年受験でしょう?疲れた時にこれを聞いて癒され
て﹂
伊万里様は﹁ね?﹂と頭を傾けて微笑んだ。ま、眩しいっ!
はぁー⋮っ。カサノヴァ村の村長の貫録を見せつけられました。
私、これを片手に受験勉強を頑張ります!
お兄様はそんな伊万里様に﹁用事が済んだら帰れば﹂と冷たい仕
打ちをしていた。親友にお茶くら出しましょうよ、お兄様。
次の日、教科書から偶然成績表がはらり作戦を決行したところ、
お兄様からご褒美とホワイトデーのお返しに、お食事に連れて行っ
てもらえる約束をしてもらえた。むふ∼ん。
でもホワイトデー当日ではないのね。ねぇ、お兄様。まさか私に
隠れて恋人を作っていたりしませんよね?
1327
199
委員長と岩室君から美波留ちゃんと野々瀬さんへのホワイトデー
のプレゼントの相談をされたので、さっそく伊万里様からいただい
た蜂蜜キャンディを推薦してみた。あれは甘くておいしい上にのど
飴としての効果もある。
﹁へぇっ!僕はそのキャンディにしようかな﹂
﹁でもふたりとも同じ物にするわけにはいかないよな﹂
﹁それ以外の候補ではキャラメルもいいかと思いますわ﹂
私は夏に伊万里様にいただいたキャラメル情報も披露した。
﹁キャラメルか﹂
﹁種類がたくさんあって、味もジューシーでおいしかったですわよ﹂
﹁じゃあ、それにしてみようかな⋮﹂
それと去年友柄先輩と香澄様からいただいたギモーヴもおいしか
ったな。鏑木のお墨付きだ。この情報も教えてあげる。
﹁それもいいなぁ﹂
﹁じゃあそのお菓子に付けるちょっとしたプレゼントは何がいいか
な。バレンタインの手袋は凄く喜んでもらえて本田さんに使っても
らえたんだよ。⋮僕も色違いでお揃いの手袋を買ったんだけど、そ
れは言ってなくて⋮。こっそり使ってるんだ﹂
委員長は乙女としてのブレがないな。﹁本田さんからもらった手
作りのチョコレートは、今まで食べたどのチョコレートよりも甘く
1328
ておいしかったな﹂と、頬を染めて言う委員長の本田さんへの恋心
は、島崎藤村の初恋のように甘酸っぱくて、聞いているこっちが気
恥ずかしくなるよ。
しかしちょっとした可愛いプレゼントねぇ⋮。
﹁私の経験からですと、オルゴールボールやネックレス、サシェと
ハーブティーのセット⋮。それからボックスフラワーなら場所も取
らずに持って帰りやすいかもしれませんわね﹂
すべては偉大なるカサノヴァ村の村長伊万里様からのプレゼント
だ。
﹁ボックスフラワーってなに?﹂
﹁箱を開けると中にお花が敷き詰められているんです﹂
﹁へぇ∼﹂
﹁可愛いですね⋮﹂
岩室君は可愛い物が好きそうだもんね。どちらかというと、お花
はあげるよりもらいたい派とみた。
でもプレゼントは別に品物じゃなくてもいいんだよね。
﹁若しくは春休みに一緒に遊園地に行きませんかと、フリーパスチ
ケットを贈るとか⋮﹂
﹁師匠、なんという大胆な提案!﹂
﹁それは⋮!でも、迷惑だって断られる可能性も⋮﹂
﹁バレンタインは既製品が慣例の瑞鸞で、手作りチョコを贈るくら
い親しい間柄なら、誘えば快諾してくれそうだと思いますけど﹂
﹁吉祥院さん!僕に勇気をください!﹂
﹁師匠!﹂
1329
委員長と岩室君は﹁ご利益∼、ご利益∼﹂と唱えながら、私を拝
んだ。仕方がない、可愛い弟子達のためだ。私のなけなしの恋愛運
を持って行くがいい。
上手くいくといいね。
あ⋮、めまいがする。
頭がしびれるような感覚と、吐き気とめまい。寒い⋮。息が苦し
い。気持ち悪い。目がチカチカして前が見えない⋮。
﹁どうしたんですか、麗華様。やだ、顔色が真っ青!﹂
﹁麗華様、大丈夫ですか?﹂
突然襲ってきた症状に、具合が悪すぎて返事をすることもままな
らない。まずい、本当に気持ち悪い⋮。
﹁麗華様!保健室に行きましょう﹂
﹁それがいいわ。立てますか?﹂
﹁手が氷のように冷たくなってるわ。麗華様、大丈夫?﹂
椅子から立ち上がろうとしたら、そのまま意識が一瞬途切れた。
あ∼、これはダメだ。耳鳴りがして、みんなの声が聞き取れなくな
ってる。
私は両腕を支えられながら、半分意識朦朧状態で保健室へと連れ
て行ってもらった。
﹁先生。麗華様が具合が悪いそうなんです﹂
1330
﹁まぁ!貧血かしら。ベッドに横になって﹂
私は支えられたまま、言われた通りベッドに横になった。あー、
目を瞑っても世界が回る。
﹁あとは先生にまかせて。みなさんは次の授業に間に合わなくなる
ので、戻っていいわよ﹂
﹁はい﹂
﹁麗華様、お大事になさってね﹂
私は付き添ってくれた子達に、﹁ありがとう⋮﹂となんとか声に
出してお礼を言った。問診の結果、養護教諭の見立てでは睡眠不足
による脳貧血らしい。実はこの3日間、シリーズ物の長編小説を夜
遅くまで読んでいて、毎晩の睡眠時間が5時間を切っていた。しか
も今日は物語が佳境に入っていたので明け方近くまで起きていたか
らなぁ⋮。
足元に下がった血を戻すために頭の枕を外され、足首の下に置か
れた。
﹁これで少し休んで、症状が治まらなかったら早退しましょうね﹂
という言葉に従ってそのまま目を閉じていたら、すぐに熟睡してし
まった。
起きたら、頭がすっきりしていた。睡眠って大事だ!
﹁先生、体調が戻ったようです﹂
私はベッドを降りて机に向かって書き物をしていた養護教諭に声
1331
を掛けた。
﹁もう大丈夫?﹂
﹁ええ。すっかり元気になりました﹂
少し眠っただけなのに、さっきまでの具合の悪さが嘘のように楽
になっている。
﹁顔色も良くなりましたね。夜更かしは程々にね﹂
﹁はい。ご面倒をおかけしました﹂
本当にねぇ。反省、反省。
﹁もうすぐ今やっている授業が終わる時間だから丁度いいわね。チ
ャイムが鳴るまで保健室にいますか?﹂
﹁いえ、ロッカーに取りに行きたい物もあるので﹂
私はお礼を言って保健室を出た。
廊下には授業中なので当然誰もいなくて、閉まった各教室から先
生とたまに生徒の声が聞こえてくるのみだ。静かな廊下に、私の足
音だけがかすかに響く。私は次の授業の教科書を取るためにロッカ
ーへと歩いた。
私が階段を上って2年生の階まできた時、カツーンとなにかを落
とす音がして、次に誰かが走り去る足音がした。ん?誰かがいたよ
うだけど、授業中だよね⋮?
どこかのクラスが早く終わったのかななどと考えながら廊下を歩
いて行くと、黒いマジックが落ちていた。さっきの音って、これか
な?私はそのマジックを拾って、落とし主を探すように辺りを見回
したけど、誰もいない。あとで生徒会にでも届ければいいかな?
そしてそのままロッカーに行った時、私の心臓はドクンッと大き
1332
な音を立てた。
学校やめろ!
なにこれ⋮。ロッカーの名札には
ッカーだ。
高道若葉
。若葉ちゃんのロ
さっきの足音は、私が階段を上ってくるのを気が付いた犯人の、
逃げる足音だったんだ!
次の瞬間、授業終了チャイムが鳴った。
早いクラスはチャイムと同時に教室を生徒達が出てくる。出てき
た生徒達が、廊下にいた私に気づき、そしてロッカーの落書きに気
づいた。
﹁え⋮﹂
え⋮?って、あ!まさか、この状況だと私が犯人だと思われちゃ
う?!
﹁いえ、これは違うんです!私も今来て発見したばかりで﹂
慌てて言い訳をするも、廊下に出てきた人だかりに、あっという
間に取り囲まれてしまう。﹁なんだ、これ﹂﹁高道さんのロッカー
?﹂といった声で廊下は一気に騒がしくなった。
﹁なによ、どうしたの?え∼っ、なにこれぇ!﹂
寄りによって、一番早く終わったのは蔓花さんのクラスだったら
しい⋮。最悪。
蔓花さんは私とロッカーと私の持つペンを見て、﹁へぇ⋮﹂と心
底楽しそうな嫌な笑みを浮かべた。
1333
﹁なぁんだ。上辺ではきれいごとを言ったって、やっぱり麗華様も
裏で汚い真似してるんじゃない﹂
蔓花さんが勝ち誇ったように言い放った。
﹁私じゃないわ!﹂
﹁でもこの場には麗華様しかいなかったわけですし?大体授業中な
のにこんなところでなにをしていたのかしら﹂
﹁体調が悪くて保健室で休んでいたのよ。それで戻ってきたら﹂
﹁マジックまで持って、言い訳がそれですかぁ?﹂
﹁このペンは落ちていたのを拾っただけよ﹂
﹁ずいぶん都合のいい話ですよねぇ﹂
﹁嘘じゃないわ!﹂
﹁本当は自分だって高道若葉が気に入らなかったんでしょ。だから
陰で嫌がらせをしていたわけだ﹂
﹁違う!﹂
でも今この場で、一番疑わしいのは私だというのはまぎれもない
事実だ。授業中でほかの生徒達にはアリバイがあるんだから。
こうしている間にもどんどん人が集まってきて、私を疑いの目で
見る人間が増えている。どうしよう⋮!
授業を終えた先生方が騒ぐ生徒達を制しようと働きかけるが、み
んな面白がって聞く耳を持たない。
﹁麗華様!﹂
芹香ちゃん達が騒ぎを聞きつけて私の元に走ってきた。
﹁なんなのよ、あんた達!麗華様がこんなことをするはずがないで
1334
しょう!﹂
﹁でも証拠は揃っているのよ﹂
﹁どんな証拠よ!もしかしてあんた達が麗華様を陥れるために仕組
んだんじゃないの?!﹂
﹁ちょっとぉ、他人に罪を擦り付けないでよ!﹂
﹁麗華様に罪を擦り付けているのはそっちでしょう!﹂
そしてそこに、最悪のタイミングで鏑木が現れた││。
﹁なんだ、これは⋮﹂
若葉ちゃんのロッカーを一目見て、その目に怒りが宿った。
﹁またこんなことを⋮!﹂
﹁犯人はそこにいる麗華様です﹂
蔓花さんがここぞとばかりに断定して鏑木に告げた。
﹁吉祥院⋮?﹂
鏑木が眉間に深いシワを寄せたまま、私を注視した。まずい!こ
の展開はまずすぎる!
﹁違いますわ!私じゃありません!﹂
﹁でもこの場にいたのは麗華様だけです。手にはペンまで持って﹂
﹁いや、でもなんで吉祥院が⋮﹂
鏑木は半信半疑の様子だ。
﹁表ではいい人ぶってても、裏では誰よりも高道さんが目障りだっ
1335
たということでしょう。今までの高道さんへの嫌がらせも、たぶん
この人なんじゃないんですか?﹂
﹁しかし⋮吉祥院は⋮﹂
﹁私達が知らないだけで、陰で彼女の行動範囲を調べて、見つから
ないように嫌がらせをし続けていたんでしょうよ。それで同じクラ
スの子にダメージを報告させて楽しんでたんですよ、きっと﹂
それはあんたでしょうが!なんだ、その陰険な発想は!
言い返そうとしたその時、とんでもない方向から矢が飛んできた。
﹁そういえば前に、塾で吉祥院さんに高道さんのクラスでの様子を
聞かれたことがある⋮﹂
ぽつりとひとりの男子が呟いた。誰だ!振り返れば、同じ塾に通
う多垣君がいた!
ええーっ!多垣君、今それを言う?!確かに聞いたけれども!で
もそれに他意はなかったし!
多垣君はその時のことを思い出して、つい言っちゃったのかもし
れないけど、タイミング悪すぎだよ!
多垣君の言葉に私の立場は一気に悪くなった。
﹁吉祥院、お前まさか、本当に⋮﹂
鏑木が呆然とした顔で私を見た。嘘っ!鏑木も私が犯人だと思っ
てる?!若葉ちゃんを苛める敵だと?!
ぎゃーーっ!とうとうこの時がやってきた!一家没落の危機だ!
会社を乗っ取られ破滅させられて、路頭に迷う未来がはっきり見え
る!
あぁっ、弁解しなきゃ⋮。でもどうやって⋮?!
1336
﹁麗華様じゃありません!﹂
その時、人垣の中から女の子の悲鳴のような声が聞こえた。え、
誰?
﹁麗華様は、そんなことをする人じゃない!﹂
人垣が割れ、震える足で前に出てきたのは望田さんだった。
望田さんは中等科時代に一時期、蔓花さん達にくだらない理由で
いじめられていた子だ。あれ以来会えば挨拶をする程度の付き合い
だけど、おとなしい望田さんがいったいどうした。
﹁なんなの、あんた﹂
蔓花さんに睨まれ望田さんはビクッとしたが、ガタガタ震えなが
らもう一度﹁麗華様はそんなことはしない!﹂と叫んだ。
﹁麗華様は人を苛めるようなことをする人じゃない!麗華様は、麗
華様は、私が一番つらい時に助けてくれた!﹂
望田さんは目に涙を溜め、顔を真っ赤にしながら拳を握った。
﹁私が昔、蔓花さん達に苛められていた時、苦しくて苦しくて、毎
日学校に行くのがつらかった!﹂
蔓花さん達は、周囲の視線に少し気まずそうな顔をした。
﹁誰も助けてくれなかった!もう学校を辞めたいと思った!でもそ
んな時、麗華様だけが私に手を差し伸べてくれた!声を掛けてくれ
た!毎日励ましてくれた!助けてくれた!﹂
1337
望田さんはボロボロと涙を流し、﹁麗華様じゃない!麗華様じゃ
ない!﹂と声をひっくり返しながら叫んだ。
﹁も、望田さん?﹂
望田さんは何かが振り切っちゃったのか、﹁うぅぅ∼っ!﹂と唸
りをあげ、半分白目をむきながら体をブルブルと痙攣させ始めた!、
うわぁーっ!望田さんが悪魔憑きみたいになっちゃってる!全力
で庇ってもらっておきながらこんなことを言うのはなんだけど、ご
めん、怖いっ!
﹁よく言ったわ!望田さん!﹂
﹁見直したわ!望田さん!﹂
芹香ちゃん達が望田さんの体を支え、その勇気を讃えた。望田さ
んはゼイゼイと肩で息をして黒目を戻した。良かった⋮、正気に戻
ってくれて⋮。ありがとう、ありがとう望田さん。メンタルに異常
をきたすくらいの勇気を振り絞らないと、望田さんのようなおとな
しい女子生徒が、この場で発言するのは相当きつかっただろう。
﹁私も違うと思います﹂
若葉ちゃんがいつの間にか同じクラスの円城に誘導されて、鏑木
の傍にやってきていた。
﹁高道⋮﹂
﹁吉祥院さんはこんなことをする人じゃ、絶対にない!これは確実
です。そのペンも本当に拾っちゃっただけじゃないかなぁ﹂
1338
わ、若葉ちゃん!私のこと、信じてくれるの?!これだけ不利な
状況証拠が揃っているのに。
﹁はぁ?なに適当なことを言ってんのよ。瑞鸞の実力者に媚びて点
数稼ぎ?それとも瑤子様の言っていたように、すべてが自作自演な
のかしら?﹂
﹁おい、蔓花!﹂
﹁客観的に見た意見です。まず吉祥院さんはこんな陰湿な嫌がらせ
をするタイプではないということ。それに私のことを仮に気に入ら
なければ、こんなことをしなくても一言、気に入らないと言うだけ
で、私を追い込むことができるでしょう。それだけの力のある人な
んだから﹂
う、うん。嬉しいような、哀しいような⋮。
﹁確かに吉祥院は、真正面から息の根止めてくるヤツだよな﹂
﹁あぁ。しかも一撃で仕留める女だ﹂
﹁一撃必殺かぁ。横綱の貫録だな﹂
誰だよ、後ろで変なこと言ってる奴らは。サッカー部部長、また
あんたか!なんだ、その顔は。目が合ったくらいで怯えるな。私の
印象がますます悪くなる!そして私を横綱と言ったヤツは、どうい
う意味でその単語を使った。場合によってはあとで必ず見つけ出す!
﹁とにかく、私は吉祥院さんではないと信じています﹂
被害者である若葉ちゃんがそう言うので、その場はなんとか収ま
ってくれた。
先生方にも事情を聞かれ、直前まで保健室にいた事実と、私がピ
ヴォワーヌメンバーであるということで先生方の遠慮もあり、犯人
1339
は私ではないという結論が下された。疑惑は残ったけれど⋮。
﹁運が悪かったですわね!麗華様﹂
﹁本当よ。麗華様がこんなことをするわけがないじゃない!﹂
芹香ちゃん達が慰めてくれた。ありがとう。
﹁でも、高道さんに対しては、少しだけ見方が変わりましたわ﹂
﹁そうね⋮﹂
若葉ちゃんが私を庇ったことにより、芹香ちゃん達の気持ちが少
し変化したようだ。
でも若葉ちゃんにはちゃんと話をしたいし、なんで信じてくれた
のか話を聞きたい。
私は今日の放課後、若葉ちゃんに会いたいというメールを送った。
1340
200
瑞鸞の誰かに見られないように、私達は若葉ちゃんの自宅のある
駅の、さらに1つ手前の駅にある、瑞鸞生が来ないような寂れた喫
茶店で待ち合わせをした。念には念をだ。
お店のドアを開けると、カランコロンとカウベルのレトロな音が
響いた。
若葉ちゃんは奥の席で参考書を読んでいた。なるほど、秀才はこ
ういう時間も無駄にしないのか!
﹁ごめんなさい、待った?﹂
﹁ううん、そうでもない。吉祥院さんはもう少し来るのに時間がか
かるかなって思ってたけど、案外早かったね﹂
若葉ちゃんは参考書を閉じて、にっこり笑った。
本来なら、今日はピヴォワーヌのサロンに顔を出した後で手芸部
にも行く予定だったけれど、体調が悪いからと全部断ってきた。
帰り際に廊下にいた鏑木の、私に対してなにかを言いたげな視線
が怖くて、競歩で駐車場まで逃げた。呼び止められなくて良かった
⋮。
メニューにホットチョコレートがなかったので、私はミルクティ
を注文した。若葉ちゃんはホットコーヒーを飲んでいた。大人だね。
﹁高道さんこそ早かったのね。生徒会の用事があったのではないの
?﹂
﹁うん。だけど家の用事があるからって、先に帰らせてもらっちゃ
った﹂
﹁そう⋮﹂
1341
あの騒動の後、同志当て馬にも生徒会長として改めて事情を聞か
れたなぁ。私としては保健室から戻ってきた時に人の足音に気づい
て、ペンを拾ってロッカーの落書きを見つけたとしか言いようがな
いんだけど。同志当て馬は信じてくれたかなぁ。ほかの生徒会の役
員は私のことを疑っているような感じだったけど。
﹁それでね、今日のことなんだけど⋮﹂
﹁うん。大変だったねぇ、吉祥院さん。あれから平気だった?酷い
目にあっちゃったね﹂
若葉ちゃんは開口一番、私に同情する言葉をくれた。
﹁あ⋮、本当に私がやったんじゃないって、信じてくれてるんだ⋮﹂
﹁もちろんだよ!﹂
当たり前だという表情で、若葉ちゃんは頷いた。そこに私への疑
いは欠片も見当たらなかった。
﹁でも、どうしてそこまではっきりと信じてくれるの?あの場で一
番疑わしいのは、私だったでしょう?少しは疑う気持ちがあって当
然だと思うけど⋮﹂
﹁え∼?それは私が、吉祥院さんだけは私の味方だなって思ってる
からかな﹂
﹁!﹂
なんと!うっ、嬉しいっ!若葉ちゃん、私のことをそんな風に思
っていてくれたの?!でも⋮。
﹁その根拠は?もしかして蔓花さん達の言った通り、高道さんの前
1342
では善人ぶって、裏で陥れようとしているのかもしれませんわよ?﹂
そういう人も世の中にはいるもんね。私は若葉ちゃんのことをよ
く知っているけど、若葉ちゃんは私のことをそこまで言い切れるほ
ど知らないでしょう?
ちょっといじけて言うと、若葉ちゃんは﹁それはない﹂と笑って
一蹴した。
﹁だって吉祥院さん、裏でも私のために動いてくれているでしょ?﹂
なぜか自信たっぷりに笑顔で断言してくる若葉ちゃん。え∼、な
んのことだ?
﹁身に覚えがありませんけど⋮﹂
﹁えっ、そお?﹂
﹁ええ﹂
﹁う∼ん⋮﹂
すると若葉ちゃんは腕を組み、難しい顔で﹁本人があくまで隠し
たいのなら、言わないほうがいいのかなぁ⋮。や、でも本当に隠し
ているのかな⋮。あれって、隠してないよねぇ⋮﹂などとブツブツ
独り言を呟いた。
﹁高道さん?﹂
﹁あ∼、うん⋮。えっとねぇ⋮、吉祥院さん、前に瑞鸞の注意を書
いた手紙をくれたでしょう﹂
﹁えっ!﹂
なんで?!なんで手紙の主が私だって知っているの?!
1343
﹁あ、その様子だと、やっぱり隠してた?﹂
若葉ちゃんが苦笑いをした。
﹁えっ、えっ、どうして?!﹂
私だとバレないように書いたはずだ。それなのにどうして、私だ
と断言できる?!
﹁いつから気づいていたの?!﹂
﹁いつからって、最初から﹂
﹁最初から?!﹂
﹁うん﹂
ええーっ!
﹁手紙の入ってた封筒がね、内側が、光に透かすと吉祥院って薄く
浮かび上がるようになってたから。あぁ、吉祥院さんが書いてくれ
たんだなって、最初から知ってたよ﹂
﹁ええっ!﹂
なにそれ、知らないっ!確かに手持ちのレターセットに白無地の
封筒がなかったから、家の封筒を使った。家には、元々吉祥院家の
紋と名前が裏面に入っている封筒があるけど、もちろんそれは避け
て、無地の封筒を使ったのだ。それなのに、封筒の内側に透かし?
!全然気づかなかった!
﹁手紙に差出人の名前は書いてなかったけど、封筒が吉祥院さんの
家の物だったから、それが記名代わりなのかなって最初は思ってた
んだよね。でもしばらくして、どうも吉祥院さんの態度から、手紙
1344
を書いたのが自分だと私に隠しているのかなって思い始めて⋮。お
礼を言おうかと何度も思ったんだけど、本人が隠しているつもりな
ら、あえて触れないほうがいいいのかなって、一応今まで知らない
とか他人
フリをしていたんだ。手紙の内容も第三者を装っていたし﹂
吉祥院麗華さんは∼
うきゃーーっ!恥ずかしいっ!!
私が書いたとバレないように、
だ!書いたのはお前じゃないか!
って、自分で書く
吉祥院麗華さんのグループは、同学年の女子
のフリをする小細工しちゃった!最初からバレてたのに!最悪だ、
恥ずかしすぎるっ!
吉祥院麗華さん
で一番力を持っているので注意したほうがいい
∼?なにが
私はテーブルに頭を擦り付けた。
﹁ありゃ∼、吉祥院さん、大丈夫?﹂
大丈夫じゃない⋮。慙死しそう。
﹁たまに合図を送ってみたりしたんだけどねー。七草粥を出したり
して。手紙に野草摘みをする時の注意も書いてあったから﹂
やっぱりあれは確信犯だったか!
﹁それとあの手紙をもらった頃に、庭師のおじさんからも誰かに知
られないように気を付けなさいって言われたんだ。あれも吉祥院さ
んが庭師さんに言ってくれたんでしょう?﹂
﹁⋮⋮﹂
すべてバレているらしい。もうこうなったら開き直るしかない。
﹁⋮そうでしたか。それは今までお気遣いいただきまして⋮。ええ、
1345
ええ、私が書きました﹂
﹁うん⋮﹂
若葉ちゃんは私のやさぐれた態度に、困った顔をして笑った。
﹁まぁ、それで、吉祥院さんは私の味方だなって思ったわけです﹂
﹁はい⋮﹂
﹁でもこれでやっと言えるね。陰日向なくいつも助けてくれて、あ
りがとう、吉祥院さん﹂
う⋮っ。
﹁どういたしまして⋮﹂
私は恥ずかしくて、若葉ちゃんの顔を見ることが出来なかった│
│。
若葉ちゃんとはあれから、生徒会の話などを聞いたりした。どう
やら同志当て馬も私の仕業ではないと思ってくれているらしい。理
由は﹁手口が違う﹂だって。若葉ちゃんも﹁学園祭の会議で運動部
を黙らせた吉祥院さんの手腕を見たら、やり口が全然違うのはわか
るよね∼。あの扇子捌きは凄かったよ!﹂と笑っていた。そうです
か。
家に帰って若葉ちゃんの言っていた白の無地封筒を確認したら、
目に見える開封部には透かしなど何もなかったのに、内部を光に透
かしてよく見たら、吉祥院の名前と紋がうっすら浮かび上がった。
げっ、本当だ。しかし、こんなのをよく見つけたな、若葉ちゃん⋮。
今度から似たようなことをする時は、絶対に横着して家の備品を使
1346
わないようにしよう。
若葉ちゃんは私を信じてくれているけれど、問題は鏑木だ。
鏑木が私を若葉ちゃんの敵だと認定したら、私の未来は一気に危
うくなる。どうにか鏑木の誤解を解いて、私と私の家族を守らなく
ては。さて、どうするか。
若葉ちゃんとの関係をすべてバラせば、今回のことは解決できる
かもしれないけど、今の状況で私達が仲がいいと全校生徒に知られ
るのは、私達の立場的にちょっときつい。
どっちにしろ、明日の鏑木の様子次第だなぁ⋮。鏑木が何も言わ
なかったら、そのままにしておこう。うん、そうしよう。
などと考えていたのに、次の日の放課後にさっそく鏑木に呼び出
された。ひぃ∼∼っ!
場所はピヴォワーヌのサロンではなく、瑞鸞の小会議室。誰にも
聞かれないために部屋を借りたらしい。怖い。死刑宣告されたらど
うしよう。
﹁あの、お話とは⋮﹂
私は恐る恐る尋ねた。
﹁ああ。昨日のロッカーの件だ﹂
きた!
﹁犯人は私ではありません!﹂
﹁わかってる﹂
1347
﹁へ?﹂
疑ってたから私をこんな場所に呼び出したんじゃないの?
﹁実際は少しだけ疑う気持ちがあった。でもあの後、岩室が吉祥院
は絶対にそんなことをする人間じゃないから信じてやってくれって
言いにきて﹂
﹁岩室君が?﹂
岩室君と鏑木は仲が良かったのか?!
鏑木が言うには、岩室君は昔、騎馬戦で皇帝の馬になったことが
あったらしい。
﹁ほかにもお前のクラスの委員長とかな。人望あるな、お前﹂
乙女結社ーー!ありがとう、乙女達よ!
﹁少しでも疑って、悪かったな﹂ ﹁いえ⋮。でもそうでしたか。では、私に話というのは﹂
﹁それなんだが⋮﹂
鏑木は少し話すのを躊躇った。
﹁実は、俺には好きな人がいる⋮﹂
﹁はい﹂
知っていますが。
﹁協力してくれないか﹂
﹁ええーっ!﹂
1348
なんで私が?!
﹁どうして、私に?!﹂
﹁岩室と委員長が、吉祥院は
﹁ええっ!﹂
恋愛成就の髪様
だと言っていた﹂
鏑木になにを話しているんだ、あのふたりは!誰が、恋愛の神様
だ!
﹁その髪に触ると、恋愛成就するという話も聞いた。とてもご利益
があるそうだな﹂
﹁ええっ!﹂
委員長ーー!
﹁本気で信じているんですか、そんな話﹂
﹁いや、そうではないが⋮。ただ女子の相談役は欲しいと思ってい
るんだ。そして吉祥院は適役だと判断した﹂
﹁え∼っ﹂
ほかを当たってくださいよ。
﹁頼む、吉祥院。ムチャな頼みはしない﹂
﹁え∼っ﹂
やだよ、絶対。あんた昔、私をパシリに使ったじゃん。それに鏑
木達の恋愛になんて関わりたくないし。
しかし鏑木は引く気はないらしい。私が引き受けるまでここから
出さない勢いだ。げー。どっちにしろ、私に選択の余地はないって
1349
こと?!
あ、でもそれなら⋮。
私はとってもいいことを思いついた。
﹁⋮⋮わかりました。ただし引き受けるには条件があります﹂
﹁なんだ?﹂
﹁この先、私の家の不正を暴いて潰そうとしたり、家ごと破滅させ
たりしないと誓ってください﹂
﹁お前の家、不正しているのか?﹂
﹁言葉のあやですわ!我が家は不正などしておりません!ええ、絶
対に!﹂
しまった、逆に余計な疑惑を持たせてしまった。鏑木の目が不信
感丸出しだ。
﹁とにかく!それを約束してくれない限り、私は一切協力はいたし
ません!﹂
﹁はーっ、わかったよ。約束すればいいんだろ﹂
﹁口約束だけでは信用できませんので﹂
﹁はい。きちんと文書にしてください。
﹂
私、鏑木雅哉は吉祥院家
私はカバンからレポート用紙を取り出した。
を崩壊させる行為は絶対にいたしません
﹁そんなに後ろ暗いことをやっているのか?お前んち﹂
﹁天地神明に誓って、そんな事実はございません!ささ!早く書い
てくださいませ。きちんと署名もなさってね﹂
﹁面倒くせー⋮﹂
鏑木はブツブツと文句を言いながらも、言われた通りに記入し、
1350
私に紙を突きつけた。
﹁ほら、これでいいんだろ?﹂
﹁まだですわ﹂
私はペンケースからカッターを取り出した。
﹁はい。これで血判してください﹂
﹁はあっ?!血判?!お前、なに言ってんだよ!こえーよ!なんだ
よ、それ!赤穂浪士かよ!﹂
﹁署名だけでは弱いですからね。覚悟のほどをお見せくださいませ。
さ、血判を。さ、さ﹂
﹁やだよ!重いよ!重すぎるよ!お前んち、やっぱり絶対なんかや
ってんだろ!どんだけやばいことしてんだよ!血判なんて絶対にや
だ!﹂
鏑木は両手をグーにして背中に隠した。子供か。
﹁ふぅっ、ではしかたありませんね。それでは譲歩して、ただの拇
印で結構ですわ﹂
朱肉を持っていなかったので、私は赤いマジックを取り出した。
﹁拇印⋮。まぁ、それならいいか⋮﹂
鏑木は親指にマジックで色を付けると、拇印を押した。
まぁこんな物になんの効力もないけれど、直情型の鏑木の心には
抑止となって残るだろう。
﹁はい、結構。では私も鏑木様に協力すると約束いたしましょう﹂
1351
﹁よし!じゃあ、さっそく⋮、と、その前にこの赤いの落としてく
るから﹂
そう言って鏑木は手を洗いに行った。私はその間に宣誓書をしっ
かりとカバンにしまった。するとしばらくも経たないうちに鏑木が
﹁おい!これ油性じゃねーか!全然落ちないぞ!﹂と怒鳴り込んで
きた。全く、落ち着きのない⋮。
1352
201
﹁あー、やっと落ちた⋮﹂
指に付いた赤マジックをなんとか落とした鏑木が、小会議室に戻
ってきた。
﹁強く洗いすぎて手が乾燥した。吉祥院、ハンドクリーム持ってる
か﹂
手のかかる坊ちゃんだな∼、全く。私はカバンからハンドクリー
ムを出して貸してやった。鏑木はハンドクリームを手に擦り込み、
気になる乾燥が解消されると満足気な顔をして商品名を確かめてい
た。気に入ったらしい。それ日本未発売だから。あげないよ。返し
て。
﹁それで、これからのことについてだが﹂
これからのこと?あぁ、若葉ちゃんとの恋の成就のお手伝いね。
私としては、鏑木が私を若葉ちゃんいじめの犯人だと思っていない
ってことを確認できて、さらに吉祥院家に手を出さないという念書
ももらったから、あとはお好きにどうぞって感じなんですけどね∼。
﹁これからですか∼﹂
ついでに私もハンドクリームを塗り塗り。爪にもしっかり塗りこ
まないとね。ちょっと指先が乾燥しているかなぁ。帰ったらネイル
オイルを爪に塗っておかなくちゃ。
1353
﹁おい、なんだよその気のない返事は。しっかりしてくれよ。恋愛
成就の髪様なんだろ?数々の恋愛を纏めてきたという﹂
﹁私は神様になった覚えはないんですが⋮﹂
それに数々って誰のことさ。委員長も岩室君も、まだ片思いの段
階だと思うぞ。そういえば桜ちゃんは秋澤君とバレンタイン以降ど
うなったのかしら。あとで連絡しよっと。
﹁おい、吉祥院。俺の話ちゃんと聞いてるか?﹂
﹁もちろん、聞いていますわ﹂
鏑木が物凄∼く疑わしい目で私を見てきた。そんなに私の、どう
でもいいって気持ちが態度に出ていたかしら?あ、もしかして怒っ
てる?まずい⋮。
私が慌てて﹁これからのことについてですわよね?さ、続きをど
うぞ﹂と、取り繕うように促すと、鏑木はしばらく私を胡散臭げに
見た後、諦めたようにため息をついて話し始めた。
﹁吉祥院はさ、俺の好きな相手が誰か、知っているか⋮?﹂
﹁高道さんですわよね?﹂
私が当然のように答えると、鏑木はギョッとした表情をしてから
﹁やっぱり吉祥院は気づいていたか⋮﹂と呟いた。やっぱり吉祥院
は⋮?
﹁あの⋮、私だけではなく、たぶん、ほとんどの生徒が知っている
のでは?﹂
﹁えっ⋮!﹂
1354
私の言葉になぜか鏑木が驚いた。そりゃあ、あれだけ態度に出さ
れりゃ誰だって気づくでしょうよ。まさか本人は、隠しているつも
りだったとか?!
﹁普段女子生徒と必要最低限にしか口を利かない鏑木様が、高道さ
んにだけ熱心に声を掛けているんですから、わかりますって﹂
鏑木は口元を押さえながら、﹁そうか、そうだよなぁ⋮﹂と言っ
た。
﹁あれで隠しているつもりだったのですか?﹂
﹁いや、特に隠すつもりはなかったんだが、そうはっきり言われる
と⋮﹂
恥ずかしかったらしい。しかし若葉ちゃんの立場を慮れば、むし
ろしっかり隠せよ。
﹁高道さんが嫌がらせを受けている一因は、鏑木様にかまわれてい
るという女子のやっかみもあるのですが﹂
私がそう言うと、鏑木は途端に厳しい表情に変わった。
﹁俺のせいか⋮﹂
﹁まぁ、それだけではありませんけど﹂
一般家庭の出身の外部生で、見た目は愛嬌はあるけど、ちょっぴ
りおとぼけ風味で決してお嬢様にも才女には見えない若葉ちゃん。
そんな普通の子が、瑞鸞の輝かしき象徴として君臨している鏑木達
を成績で脅かす。瑞鸞ブランドを大事にしている内部生には、若葉
ちゃんの存在が気に食わなくてしょうがないって人も多い。
1355
﹁昨日の犯人に心当たりはあるか?﹂
﹁わかりませんわ⋮﹂
昨日のことは学院側も知ることとなったので、調べているようだ
けど。
﹁学院の調査はどうなっているのでしょう?﹂
﹁あいつらは本気で犯人を突き止めようなどとはしていない。事を
荒立たせないように、すべてを曖昧にしようとしている﹂
鏑木が悔しそうな顔をした。
まぁ、学院側としては、万が一藪をつついて、とんでもない大蛇
が出てきたら困るものね。たとえばピヴォワーヌメンバーとか。過
去にもピヴォワーヌが生徒を退学に追いやったなんて話もあるから、
ありえない話じゃない。ピヴォワーヌを糾弾すれば、歴代のOBO
Gが黙ってはいないだろう。被害者は力のない外部生だし、保身を
考えれば穏便にお茶を濁そうと考えるか⋮。
﹁俺も個人的に犯人捜しをしているけど、まだわからない﹂
﹁そうですか﹂
若葉ちゃんの机に落書きをしたりしている人と、昨日の犯人が同
一人物とは限らないしねー。
しかし昨日のことに関しては、私をまだ疑っている人達もいるは
ずだ。これはどうにかしないとな。まずは蔓花さん達が自分達がや
った嫌がらせを、私のせいにしていると噂を流そう。望田さんの告
発もあったし、蔓花さん達がいじめの常習だとみんなも思っている
のですぐに信じるだろう。麗華様はいわれなき罪をかぶせられた哀
れな被害者。よし、これでいこう。そのあとで、真犯人を捜し出す!
1356
﹁高道を助けるには、どうしたらいいかな﹂
﹁高道さんのことを考えれば、鏑木様が今後一切高道さんに関わら
ないのが一番なんですけどねぇ﹂
﹁おいっ!﹂
愛する人のために身を引くという選択は鏑木には⋮うん、その顔
からだとなさそうだね。
﹁卑怯な連中に対し、俺に屈しろと言うのか!﹂
﹁そういうわけでは⋮﹂
﹁俺はそんな妨害には決して負けない。高道を守ってみせる。俺は
諦めないぞ!﹂
﹁そうですか⋮﹂
なんか変なスイッチ入っちゃったかも。面倒くさい。
ひとりで熱くなっていた鏑木が、﹁ん?﹂と言ってポケットから
携帯を取り出した。
﹁あぁ、秀介からどこにいるんだってメールだ。サロンで俺達が今
日はこないのかって話題になっているらしい﹂
ちょうどいい。やっと帰れる。
﹁では続きはまた今度ということで。私はこのまま帰りますが、鏑
木様はサロンに寄られますよね?嫌がらせの犯人については、私も
女子の間から情報を集めてみますから﹂
﹁そうか?嫌がらせについてはそれでいいとして、まだ肝心の恋愛
の相談が全くされていないんだが。あぁ、でももうこんな時間か。
わかった、今日はこれまでにしよう﹂
1357
﹁ええ。では私はお先に﹂
ヤツが余計なことに気づく前に、私はカバンを持って急いで小会
議室を出ようとしたが、﹁ちょっと待て﹂と引き止められた。
﹁そうだ、吉祥院。これからのことも考えて、アドレスを教えろ﹂
げ!
﹁私、携帯は⋮﹂
﹁持っていないとか言うなよ。もうその手は通じないからな。さっ
さと寄こせ﹂
げーっ!
私は渋々携帯を出した。できればアドレス交換はしたくなかった
んだけどなぁ⋮。メールが着ても、充電が切れていましたで逃げ切
れないかな。
小会議室を出た途端に、鏑木から確認の空メールが送られてきた。
返信をしなかったら5分ごとに空メールが届いた。アドレス変えた
ーい!
1358
202
空メールには、10通を超えた時点で返信をした。なんだろう、
という幻が見えた。怖い。
移動中で気づきませんで
何も書いていないのに空白から怒りをひしひしと感じた。画面いっ
怒
と言い訳をしてしまう、小心者の私。
ぱいに
した
後日鏑木から文句を言われたら、恋には忍耐力が大事なのだ。こ
れは私からの試練なのである。とでも言ってみよう。何事も自分が
最優先されると思ったら大間違いだ、鏑木め!
しかし、常に連絡が取れる状態になってしまったのは痛い。あん
まり頻繁に連絡がくるようなら、水没させてしまおうか。車に轢か
せてしまおうか⋮。
私の、蔓花さんが自分達の悪事の濡れ衣を私に被せて犯人にしよ
うとしたという情報操作は、思いのほか上手くいった。
私と同じグループの子達が、先陣を切ってこれみよがしに私を庇
う噂をばら撒けば信憑性がないけど、私とは普段グループの違う手
芸部の子達や、美波留ちゃんや野々瀬さん達のようなクラス委員を
やるような真面目な子達が、﹁麗華様が犯人扱いされて可哀想⋮﹂
﹁麗華様が誰かに嫌がらせをしているのなんて見たことないわ﹂﹁
偶然その場にいただけであんなに非難されるなんて酷い⋮﹂﹁どう
して麗華様が疑われないといけないの?﹂と同情票を集めてくれた。
そのあとで芹香ちゃん達が﹁麗華様は罠にはめられたのよ﹂﹁誰
に?﹂﹁この前麗華様に女王の座を取って代わると宣戦布告してき
た人達にでしょ﹂﹁ええっ、あの人達そんなこと言ったの?!﹂﹁
1359
被害者の高道さんは、犯人は麗華様ではないと断言したけど、誰か
さん達の仕業ではないとは言わなかったわねぇ。それがすべてじゃ
ない?﹂と噂の上塗りをして回った。
いやぁ、日頃の行いって大事だねぇ蔓花さん。おかげ様でほとん
どの人達があれは蔓花さん達が私を陥れるために謀った出来事で、
私は無実だと信じてくれたよ。
そして私のグループも団結力がなんだか強まった気がする。仮想
敵を作ると集団は纏まるって本当だね。
結局誰が犯人だったかはわかっていないけど、あの日のロッカー
事件以来、若葉ちゃんへのそういった嫌がらせは止んでいるような
ので、ひとまず安心。このまま平穏に3年に進級できればいいなぁ。
ふんふんふんと、機嫌よくサロンでお茶を飲んでいたら、円城が
やってきた。
﹁吉祥院さん、明日のホワイトデーなんだけど、雪野がお返しのお
菓子を渡したいらしいんだ。少しでいいから時間を作ってやっても
らえないかな﹂
﹁まぁ、雪野君が?!嬉しいですわ!﹂
もうすぐ春休みだから、その前に私もプティの子達の顔を見たい
と思っていたのだ。
﹁でも初等科はもう短縮授業ですわよね?雪野君と時間が合うかし
ら﹂
﹁それなら大丈夫。最近あいつはプティのサロンに吉祥院さんが誕
生日に持ってきてくれたゲームを持ち込んで、みんなで遊んでいる
らしいから﹂
1360
﹁あら﹂
お茶を飲み、お菓子を摘まみながら優雅に談笑するプティピヴォ
ワーヌのサロンが、児童館のようになっちゃった?
﹁たぶん雪野は吉祥院さんにも一緒に遊んで欲しいと言うと思うけ
ど、吉祥院さんにも予定があるだろうから、適当に断っていいから
ね﹂
﹁予定?﹂
私の予定はいつも通りだけど。あぁ、ホワイトデーだから忙しい
でしょうという気遣いですか?なんの予定もありませんが。
﹁そういう円城様は、ホワイトデーはデートでしょうか?﹂
と軽口を利いてみたら、﹁ま、そんなとこ﹂という返事が返って
きて、ちょっとびっくり。そしてなにやら敗北感。
へー、ホワイトデーにデートですか。⋮けっ!楽しそうでよろし
ゅうございますわねー。デートの予定なんて全くない私は、プティ
にトランプやかるたを持ち込んで遊びまくったる!
﹁麗華お姉さん、いらっしゃい!﹂
プティは私の癒しの楽園。そして迎えてくれるのは雪野君をはじ
めとする可愛い子供達の笑顔。あぁ、ほっこり。
1361
﹁麗華お姉さん、これどうぞ﹂
﹁まぁ、ありがとう、雪野君﹂
雪野君に渡されたホワイトデーのお菓子は、瓶に入った可愛いラ
スク。おいしいよねぇ、ラスク。私も大好き!サクサク口当たりが
軽くて何枚でも食べられちゃう。
せっかくなので開封して1枚いただく。うん、おいしい!
﹁甘くてとってもおいしいですわ。素敵なお菓子をありがとう﹂
雪野君は隣でふふっとはにかんだ。天使!
でもラスクは口当たりは軽いのにカロリーは高い。食べ過ぎに気
を付けないとね。
それから私は、雪野君や麻央ちゃん達と春休みの予定などを話し
た。今年の春休みは、私は春期講習や耀美さんのお料理教室の予定
などが入っている。
耀美さんには何回かお料理を教えてもらった。基本中の基本であ
る野菜の切り方やだしの取り方などを、バカにせず優しく教えてく
れるから、私も素直になにもわからないと言いやすくて、耀美さん
にお願いして良かったなぁと思ってる。
とにかく今はレシピ通りにお料理を作る練習をして、基本をマス
恋に効く、R
としてネットに投稿すれば人気が
ターしたら徐々に自分の味を追求していこうかな。
eikaのキューピットレシピ
出るかも。まずは肉じゃがで男性の胃袋を掴む、と⋮。
﹁いいなぁ。麗華お姉様、私も行っちゃダメですか?﹂
私が春休みに耀美さんにお料理を習うと話したら、麻央ちゃんに
1362
おねだりをされてしまった。確か麻央ちゃんは前に話した時も、興
味がありそうだったもんね。
﹁そうね。耀美さんに了承を得てからですけど、私の家で習う時に
は1度遊びにいらっしゃる?﹂
麻央ちゃんが嬉しそうに歓声をあげた。
可愛い麻央ちゃんのお願いを、私が断れるものですか!私の拙い
包丁使いを見られるのは厳しいけど、野菜の皮むきはピーラー使え
ばいいし、最近は地道な練習の成果か、耀美さんにもよく褒められ
る。﹁千切りが上手になりましたね、麗華さん﹂﹁麗華さんは熱心
だから教え甲斐があります﹂﹁盛り付けのセンスがとっても素敵﹂
と、毎回褒められると、益々調子に乗って頑張りたくなっちゃう私
の性格に、耀美さんは相性ぴったりな先生だと思う。
﹁ねぇ、麗華お姉さん。ゲームして遊ぼ?﹂
雪野君が私の腕を軽く引っ張って誘った。おお、そうでした!
見ればサロン内のあちこちで子供達が、ジェンガやボードゲーム
やトランプで遊んでいた。なんだか本当に高級な児童館状態じゃな
い?
最初は和やかに坊主めくりや神経衰弱などをして遊んでいたけれ
ど、トランプのスピードのルールを教えた頃から、私の前世のスピ
ードの女王の血が蘇り、子供相手に本気の勝負をしてしまった。大
人げないと本当に反省したけれど、全戦全勝だった。高学年の男の
子達は悔しそうだった。精進なさい。
1363
春休みまでの残り少ない日数を、トラブルなく過ごしたいという
私の願いはあっけなく崩れ去った。
私の情報操作で完全に分が悪くなった蔓花さん達が、食堂で私達
にケンカを売ってきたのだ。
﹁麗華様って本当に怖いわよねぇ。自分のやったことを平気な顔で
私達のせいにするんだから﹂
﹁なにを言っているのよ。麗華様を陥れようとしたのはそっちでし
ょう?!﹂
芹香ちゃん達が応戦した。ええ∼っ、こんなところでやめようよ
ぉ。
蔓花さん達と芹香ちゃん達が舌戦を繰り広げていると、生徒会の
女子が﹁静かにしてください﹂と文句を言いにきた。
﹁はぁ?外部生が偉そうな口を叩いているんじゃないわよ﹂
蔓花さんが生徒会の子を思い切り睨みつけた。
﹁外部生とか内部生とか関係ないでしょう。私は生徒会役員として﹂
﹁生徒会役員だからなんだっていうのよ。たかが生徒会が﹂
蔓花さんにせせら笑われたその子は、顔を真っ赤にして怒った。
口ゲンカはヒートアップし、生徒会を交えた三つ巴の様相を呈し
てきた。やめようよぉ。ほら、周りから注目されているから落ち着
いて!目立ってるから!
﹁麗華さん、どうしたの!﹂
1364
そこへ璃々奈が、おうおうおう、どうしたどうした、といった態
度で手下を引き連れのっしのっしとやってきた。
この期に及んでさらに面倒くさいのがきたーー!
1365
203
﹁璃々奈⋮﹂
厄介。とても厄介。
璃々奈の顔が張り切っている。殺ったるでえって顔をしている⋮。
﹁聞いたわよ、麗華さん!濡れ衣着せられて酷い目に合ったそうじ
ゃない。なんで私に言わなかったのよ!﹂
璃々奈なんかに話したら、余計に騒ぎを大きくするのがわかって
いたからだよ!今みたいにね!
﹁まぁいいわ。で、こいつらが麗華さんの敵ってわけね。私も力を
貸すわよ!ちょっとあんた達!私が相手になってやろうじゃない!﹂
やっぱりかーー!!やめてぇーー!これ以上問題を大きくしない
でーーー!
でも私の心の叫びは誰にも通じなかった。私が余計なことをする
なと止める前に、目を爛々と光らせた璃々奈は、見えない長ドスを
ぶん回して特攻していった。
﹁なんなの?!関係ない1年生はすっこんでいなさいよ!﹂
﹁私は麗華さんの従妹よ!麗華さんに文句があるなら私が聞いてあ
げるわ!さぁ、言いなさい!﹂
﹁麗華様の従妹なんてどうでもいいわ!それとも貴女も麗華様の悪
行の片棒を担いでいるのかしら?﹂
﹁だから麗華様に言いがかりをつけるのはよしてちょうだい!麗華
1366
様を誰だと思っているの!ピヴォワーヌのメンバーよ!﹂
﹁ピヴォワーヌであろうと、生徒会は特別扱いしないわ!﹂
﹁だから関係のない生徒会は黙っていなさいよ!﹂
﹁たかが外部生が、私達、純血瑞鸞生に偉そうな口を利くんじゃな
いわよ!﹂
﹁そうよ!外部生のくせに!﹂
﹁生徒会役員になったからって、外部生が調子に乗らないで!﹂
﹁外部生、外部生って初等科から通ってるのがどんだけ偉いってい
うのよ!﹂
﹁そうよ!内部生なんてバカばっかりじゃない!﹂
﹁なんですって!﹂
﹁ちょっと、私を無視すんじゃないわよ!﹂
﹁なによ!離しなさいよ!﹂
﹁きゃあっ!やったわねぇっ!このぉっ!﹂
﹁痛いっ!髪引っ張らないでよ!﹂
﹁やっちゃえ!璃々奈さん!麗華様の仇よ!﹂
﹁あっ!蔓花さん!ピアス開けているわね!校則違反よ!﹂
﹁うっさい、外部!あんたはそんなダサいからモテないのよ!この
ブス!﹂
﹁なんですって!﹂
ひいいいっっ!バーリトゥード!!
瑞鸞学院とは良家のお嬢様が通う学校ではなかったか?!
﹁なにをやってるんだ!いい加減にしろ!﹂
野次馬をかき分けてやってきた同志当て馬が、無法と化した騒ぎ
を止めるために一喝した。
騒ぎの中心にいたお嬢様達は髪も制服も乱れ、肩で息をしながら
鬼の形相で、止めに入った同志当て馬を睨みつけた。璃々奈の拳に
1367
は長い髪が数本絡まっていた。彼女達のあまりの姿に、同志当て馬
の顔が一瞬引き攣った。頭に血が上った女子の争いを、有能な生徒
会長といえど、男子ひとりで簡単に止められると思うな。
各々が同志当て馬に相手の文句を訴えた。
﹁先に因縁をつけてきたのは彼女達よ!﹂
﹁はあ?!原因を作ったのはそっちでしょ!﹂
﹁私達はくだらない争いを止めようとしただけよ﹂
﹁いい子ぶらないでよ!貴女私のこと叩いたでしょ!﹂
﹁麗華さんの敵は私の敵よ!﹂
一斉に女子達に訴えられた同志当て馬は、﹁わかった!わかった
から落ち着け!﹂とうんざりしたように宥めた。
私達は陣地に戻ってきた戦士達を労い、身繕いさせ、酷使した喉
を潤す飲み物を渡した。
﹁ケンカの原因はなんだ﹂
彼女達が落ち着いたのを見計らって、同志当て馬が聞いた。
﹁いきなり蔓花さん達が麗華様に因縁をつけてきたんですわ﹂
﹁私が麗華様に罪を擦り付けたとこの人達が言いふらしたのが悪い
のよ!﹂
﹁私は生徒会として注意しただけで⋮﹂
﹁止めに入った人間が、騒ぎを大きくしてどうするんだ⋮﹂
同志当て馬がため息をついた。そして﹁君は⋮﹂と璃々奈を見た。
﹁私は従妹として、麗華さんの窮地に黙ってはいられないわ!﹂
1368
堂々と言い放つ璃々奈を見て、同志当て馬は額に手をやり、﹁君
はもういいから⋮﹂と蚊帳の外に追い出した。
﹁とにかく!不平不満があるなら、冷静に話し合え。掴み合いのケ
ンカなんて言語道断だ﹂
﹁だって!﹂
女子達が再度自分達の主張を訴えようと、同志当て馬に詰めかけ
た時、﹁うるさい﹂という声と共に、鏑木が現れた。
﹁耳障りな上に見苦しい﹂
冷たい目でバッサリと切り捨てた皇帝に、場がシンとなった。言
われた女の子達は恥ずかしさと気まずさで顔を赤くした。
﹁高道のロッカーの犯人は、まだ誰か特定されていない。くだらな
い憶測で騒ぎを起こすな﹂
その姿は、血判に駄々をこねた鏑木とは別人のように威圧感があ
った。
﹁わかったな﹂と皇帝が返事を促すと、全員が頷いた。
では話はこれまでと鏑木が終わらせようとした時、﹁待ってくだ
さい!﹂と芹香ちゃんが引き止めた。
﹁あ、あの鏑木様!﹂
芹香ちゃんと菊乃ちゃんが顔を強張らせながら鏑木の前に出た。
﹁鏑木様、麗華様は嫌がらせなどしていません。それだけは信じて
ください!﹂
1369
﹁そうです!麗華様のことを誤解しないでください!﹂
驚いた││。
芹香ちゃんと菊乃ちゃんは初等科時代からずっと鏑木ファンで、
鏑木のやることはすべて肯定するくらい心酔していた。そんな子達
が鏑木に真っ向から意見した。
子供の頃から憧れている皇帝よりも、私側に立ってくれた。
うん、鼻の奥がツンとしてきた。
鏑木はそんな芹香ちゃん達をしばらくの間見つめた後、
﹁信じてるよ﹂
そのまま鏑木は食堂を出て行った。
鏑木がいなくなって少しの間の後、きゃーっ!という女子達の黄
色い悲鳴が食堂に轟いた。
﹁麗華様!鏑木様が信じてくださいましたわ!﹂
﹁良かったですわねぇ、麗華様!﹂
芹香ちゃん達が私を囲んで大はしゃぎした。
﹁⋮ええ。ありがとう、芹香さん、菊乃さん。みなさんも﹂
私は心からお礼を言った。芹香ちゃん達はニコニコと笑った。本
当に、ありがとう。
鏑木が私を信じる宣言をしたおかげで、私を疑うようなことを言
う人は完全にいなくなった。さすが皇帝。
しかし私が巻いた種とはいえ、この殺伐とした空気はどうしよう
1370
か⋮。春休みまでこれじゃあきつい。なにか別の楽しい話題で落書
き事件の話題を消すしかあるまい。芹香ちゃん達も蔓花さん達も食
いつく別の話題⋮。そうだ!
私は円城を売ることにした。
円城様に女の影が!
と円城スキャンダルに
﹁円城様がホワイトデーにどなたかとデートしたらしいですわよ﹂
案の定、女子達は
食いついた。よし、よし。瑞鸞は陰謀めいた話より、楽しい恋の話
のほうが合ってるからね。私の口は水素なみに軽い。
私は上手く話題を逸らせたことに機嫌よくして廊下を歩いている
と、後ろから肩を叩かれた。
円城が微笑んで立っていた。
﹁吉祥院さんにはなにかと借りがあるからね。今回のことは目を瞑
るよ﹂
私は背中の冷や汗が止まらなかった。
円城は﹁まぁ、これからもよろしくね﹂と黒い笑顔を見せた。
あぁっ!早く春休みよ、来い!
1371
204
やっと、来たよ、待ちに待ってた春休み!
私が保身と意趣返しのためにやった蔓花さんへの情報操作で揉め
事が起き、そのギスギスとした学院の空気を変えようと、今度はみ
んなのアイドル円城様の恋の噂を提供したら、すぐさまその円城に
尻尾を握られた。怖かった⋮。
あの後春休みに入るまで、サロンや廊下で会うたびに、微笑の円
城の視線に体を縮こまらせ、ビクビクと怯えていたよ。目で語って
くれるな、円城。自業自得とはいえ、胃がキリキリとした。
軽挙妄動は良くない。心から反省。
そして逃げるように迎えた春休み。私は受験生なのでもちろん塾
の春期講習に通う。
春期講習では梅若君達と同じ教室だ。ただ私は塾以外に家庭教師
も付いているので彼らよりも受講する講座は少ないけど。
さすがに今年は受験を控えている年なので、教室にいる学生達の
顔も本気になってきているなぁ。これが受験か。
私は梅若君達と一緒に座り、授業が始まるまで他愛もないおしゃ
べりをして過ごした。森山さんはさっきからずっと携帯をいじって
メールを送っている。
森山さんには彼氏が出来た。同じ学校の同級生だそうだ。森山さ
んはずっと梅若君を好きだったけれど、梅若君の飼い犬への過剰な
までの溺愛っぷりを知り、それを目の当たりにするたびに、いろい
ろと思うところがあったらしい。
1372
うん、瑞鸞の学園祭で梅若君が私の作ったニードルフェルトのベ
アたんぬいぐるみに、人目を憚らず頬ずりして抱きしめてキスをし
ていた時、森山さんドン引きしていたもんね。あれがトドメだった
な、きっと。
で、まぁそんな時に行った修学旅行で、意気投合した男子と森山
さんは付き合うことになっちゃったんだってさ。修学旅行をきっか
けに付き合うって、共学の定番だよね∼。かーっ、羨ましいっ!
しかし片思い相手がドン引きするくらいの犬バカ君に春は来るの
かね。私は隣に座る梅若君を横目で見た。梅若君は私の視線に振り
返ると、﹁あ、もしかして気づいた?﹂と言って、自分のピアスを
指差した。真ん中にふたつ凹みのある楕円形のピアス。ぱっと見は
スカルモチーフのピアスかと思いきや、目を凝らしてよく見るとそ
れは犬っ鼻だった。とてもよくお似合いですよ、梅若君。
あぁ、彼にはすでにベアトリーチェという永遠の恋人がいるのだ
から、いらぬ心配をした私がバカでした。
お幸せに、ベアたん&あーたん。
そして春期講習の同じ教室には、例の多垣君もいた。たぶんあの
騒動の前に申込をしちゃったんだろうなぁ。
私と同じ教室になってしまった多垣君は、目に見えて怯えていた。
それはもう、私と目があった瞬間に、この世の終わりといった表情
になるくらいに。
﹁吉祥院さん、あいつと何かあったの?﹂
﹁う∼ん、あったような、なかったような⋮﹂
ポロっと自分が余計なことを言ったせいで、私を窮地に陥らせた
自覚はあるらしい多垣君は、あれから学院でもガタガタ震えて過ご
していたという噂だ。別に若葉ちゃんも鏑木も信じてくれた今とな
っては、怒っていないんだけどね。
1373
口は災いの元ということわざが、お互い身に染みますね。
でもこのままじゃよくないよなぁ。ということで、休み時間に話
しかけてみた。
﹁多垣君﹂
﹁⋮!﹂
私はできるだけ優しく声を掛けたつもりだったんだけど、多垣君
は声にならない悲鳴をあげたあと、﹁ごめんなさい!ごめんなさい
!﹂と頭を抱えて謝り倒した。ちょっと、やめてよ!
﹁あの、多垣く⋮﹂
﹁わぁぁっ!ごめんなさいっ!許してください!助けてっ!﹂
教室にいたほかの受講者達がなにごとかとこちらを見ている。こ
れじゃまるで私がリンチでもしているみたいじゃないか、やめてく
れ!
﹁吉祥院さん、彼どうしたの?﹂
一緒に来てくれた梅若君達が目を丸くしている。私だって困惑だ。
とにかく落ち着いてもらわないと。
﹁多垣君、私は別に怒ってはいませんから。落ち着きましょう?ね
?﹂
﹁ごめんなさい!ごめんなさい!﹂
いや、殴ったりしないから、その頭を庇って怯えるのだけはやめ
て。
1374
﹁多垣君、とりあえず吉祥院さんが話があるらしいから聞いてあげ
てくれないかな﹂
梅若君が多垣君の体をポンポンと叩いた。ほかのみんなも﹁大丈
夫だから落ち着け∼﹂﹁はい、深呼吸∼﹂と多垣君に声を掛けてく
れた。
多垣君は頭から手は離さなかったけれど、やっと黙って私のほう
を涙目でそろそろと見た。どんだけ怖がられているんだ、私。
﹁多垣君の謝罪は受け入れましたから、そんなに怯えなくてもよろ
しいのよ?﹂
私が慈愛の笑みを浮かべると、多垣君はさらに怯えた。なんでだ
よ!
﹁なに、多垣君は吉祥院さんになにかやらかしちゃったの?﹂
北澤君が面白そうに聞いてきた。
﹁まぁ、たいしたことではないんですけどね。多垣君がずいぶんと
それを後ろめたく思っているようなので、私は気にしていないと伝
えたかっただけなのですわ﹂
ふーんと言いながら、みんなは怯える多垣君を見た。
﹁多垣君さぁ、吉祥院さんのこと怖いの?﹂
梅若君がずばり聞いた。多垣君は返事に困って目を泳がせた。
﹁あ∼、俺達は吉祥院さんの瑞鸞での様子はよく知らないけど、少
1375
なくとも多垣君がそこまで怖がるようなことをするような人ではな
いと思うよ﹂
梅若君の言葉に北澤君達も頷いた。
﹁そんなに怖がらなくても平気だって。この子そんなに悪い子じゃ
ないよ?それにもし吉祥院さんになにかされたら、私が助けてあげ
るからさ!﹂
森山さんが多垣君の背中を叩いた。多垣君はやっと頭から手を下
して私と目を合わせた。
﹁多垣君もそうやって毎日怯えて生活するのは大変でしょう?もう
気にしなくていいですから、普通になさって?﹂
私はもう一度多垣君に微笑んでから、自分の席に戻った。これで
少しは気楽になってもらえればいいけど。私へのストレスで受験に
失敗したとかってなったら、こっちが罪悪感に潰される。
もうちょっと気さくなキャラになりたいなぁ。
次の日に、多垣君からデパ地下の高級プリンをたくさんもらった。
どうやら梅若君達が女の子へのお詫びにはスイーツがいいとアドバ
イスしたらしい。ありがとうございます。
お昼にそのプリンを、無理やり多垣君も誘ってみんなで食べた。
多垣君はプリンを食べ終わると即行逃げて行った。そんなに怖いか。
﹁あそこまで怯えるって、吉祥院さんって、瑞鸞でどういう立ち位
置なの?﹂
学院の特権階級に所属し、女子の最大派閥のリーダーという立ち
1376
位置です。
1377
205
今日の耀美さんのお料理教室には春休み前に約束した通り、麻央
ちゃんも参加する。
耀美さんの手料理を食べて、前世のお母さんの味を自分の手で再
現したいと思ったのもあって、いつも私が耀美さんに教えてもらっ
ているのは、和食の家庭料理が中心だ。
でも小さい麻央ちゃんには、せっかく習うものが茶色っぽい料理
ばかりじゃつまらないかもしれないと耀美さんと相談して、今回は
グラタンを作ることになった。
﹁わぁ!私、グラタンは大好きです!﹂
持参した可愛いエプロンを付けた麻央ちゃんは、献立を聞いて喜
んだ。やっぱり子供には洋食だね。
小麦粉と牛乳をダマにならないように混ぜていく。ダマをしっか
り潰すのが大事なのは、若葉ちゃんのお菓子作りで教わりました。
耀美さんはホワイトソースの作り方を知っていると、グラタン以
外のお料理にも応用できて便利よと言った。ほぉ∼、前世のお母さ
んはシチューも市販のルーを使っていたなぁ。手抜き?いやいや、
おいしかったし!
グラタン以外はミネストローネ。こちらは野菜を切る作業があっ
たので、ちょっとドキドキした。麻央ちゃんの前であまりにもたど
たどしい包丁使いをするわけにはいかない。にんじんを切るのは家
でも何度も練習したので、なんとかなる。ピーラーで皮を剥いて1
センチ角に切っていく。
私の立場を考えて、耀美さんがさりげなく私の苦手な作業は引き
受けてくれたので、なんとか麻央ちゃんの前でボロを出さずに済ん
1378
だ。
途中で耀美さんが﹁麗華さんのその真珠のネックレス、素敵ね?﹂
と、私のしていたネックレスを褒めてくれて、それが伊万里様から
のプレゼントだと知って、ふたりがきゃあとはしゃいだりする場面
もあった。
ふたりは私が話す伊万里様のエピソードにうっとりとしていたけ
れど、悠理君がいる麻央ちゃんはともかく、耀美さんはあまり伊万
里様に憧れすぎちゃいけませんよ?お兄様も﹁伊万里だけは絶対に
ダメだ﹂と、いつも苦い顔で私に言っている。どうやら前に聞いた
刃傷沙汰以外にも、いろいろと修羅場があったようです。伊万里様
⋮。
今日のお昼の献立はグラタンとミネストローネと、耀美さんが焼
いてきてくれたバゲット。耀美さんの手作りパン、おいしい!私は
パンも大好きで、おいしいパン屋さんをチェックしているんだけど、
自分で焼くのも楽しそう。麻央ちゃんのお母さんも時々焼いてくれ
ることがあるんだって。そっかぁ、今度はパン作りを教わるのもい
いかも。
そんなことを話したら、耀美さんがバゲットは難しいから、最初
はベーグルでも作ってみましょうかと言ってくれた。ベーグル!お
いしいよねぇ、ベーグル。ベーグルサンドも大好きだよ。
麻央ちゃんは今日1日ですっかり耀美さんを気に入ってしまった
ようだ。おっとりとして優しいし、外見もふっくらしているから安
心感があるんだよね。もし今度パンを習う時があったら、また来て
もいいですか?と頼んできたので、もちろんと言った。
帰りに、今日はお兄様が出かけていて家にいないので、耀美さん
には吉祥院家の車を出すと言ったら、麻央ちゃんが自分が送ると言
い出した。すっかり仲良しになったのねー。
そして麻央ちゃんを迎えにきたのは市之倉さんだった。
1379
﹁こんにちは。今日は麻央がすっかりお世話になってしまって。ど
うもありがとう、麗華さん﹂
﹁いいえ。こちらこそ麻央ちゃんと楽しい時間が過ごせましたわ﹂
﹁晴斗兄様、こちらは成冨耀美さんとおっしゃるのよ。今日、私達
にお料理を教えてくれた先生なの!﹂
麻央ちゃんが市之倉さんに耀美さんを紹介した。
﹁初めまして、麻央の叔父で市之倉晴斗です﹂
﹁あ、成冨耀美と申します⋮﹂
引っ込み思案な耀美さんは、初対面の市之倉さんに少し緊張した
様子で挨拶をした。
﹁ねぇ、晴斗兄様。耀美さんも送って行って?ね、いいでしょう?﹂
﹁あの麻央ちゃん、私はタクシーで⋮﹂
﹁もちろん、かまわないよ。耀美さん、ご自宅まで送らせていただ
きます﹂
早蕨家の運転手さんが迎えにくるのだと思っていたのに、やって
きたのが年若い叔父だったので耀美さんはちょっと困っているよう
だ。しかし麻央ちゃんの少し強引な誘いを断りきれず、結局一緒に
市之倉さんの車に乗って帰って行った。
う∼ん、麻央ちゃん、なにか企んでやしませんか?まるで仲人お
ばさんみたいでしたよ?
1380
遊びましょ?
とは誘いづらかったので、
せっかくの春休み、私は若葉ちゃんと遊びたかった。
でも気軽に
ぜひ遊びに来て!
高道さ
とメ
という返事がきた。こう
んの家のケーキが食べたいから、買いに行ってもいいかしら
ールをしてみたら、
いう時、若葉ちゃんの家がケーキ屋さんだと訪問する口実が出来て
いいよね!
若葉ちゃんは今日も私を駅まで迎えに来てくれた。
﹁寛太達がね、いつも吉祥院さんは来ないの∼?って言ってたんだ
よ﹂
﹁コロネは来ないの?でしょ?﹂
﹁あはは∼。何度怒っても聞かなくて。ごめんねぇ﹂
﹁別にいいですわよ。もうコロネで﹂
吉祥院さんと呼ばれるよりも、コロちゃんと呼ばれたほうが親し
まれている感じがするしね。
﹁その後どうですの?嫌がらせのほうは﹂
﹁うん。あのロッカー以来、特にないよ。思った以上に大きな話に
なっちゃったから、みんなの注目もあるし、変なことはできないん
じゃない?﹂
﹁そう。このまま何事もなく卒業できればいいですけど﹂
﹁そうだねぇ﹂
若葉ちゃんの場合は、容姿に隙があるのも嫌がらせしやすいんだ
と思うんだ。学院の才女として、もっとキリッとしていればみんな
も一目置くと思うんだけど。
ほら、今も﹁あったかくなってきたねぇ∼﹂とか言いながら、口
が開いてるし。なんという暢気顔。
1381
﹁あの、高道さん、口が開いていますわよ﹂
﹁わわっ!﹂
思わず私が指摘すると、若葉ちゃんは慌てて口をキュッと閉じた。
﹁高道さんって、時々口が開いていますよね⋮﹂
失礼だとはわかっているけど、思い切って言ってみた。もしかし
たら本人は自分の癖に気づいていないのかもしれないし。キリッと
した若葉ちゃんへの変身の第一歩だ。
﹁あー、うん。これはですねー、実は食いしばり予防なんです﹂
しかし若葉ちゃんから返ってきた答えは、意外なものだった。
﹁食いしばり予防?﹂
﹁うん。私は寝ている時とか無意識の状態の時に、歯を食いしばる
癖があるの。頬の裏側の粘膜に、食いしばり線ってのが出てまして。
このままだと歯茎への負担も大きいし、歯も削れていっちゃうから、
若いうちに直したほうがいいよと歯医者さんで注意されて、それ以
来食いしばらないように、時々思い出したら口を開けるようにして
いるんだ﹂
なんと!若葉ちゃんの間抜け顔には、そんなしっかりとした理由
があったとは!
﹁本当はね、口を開けるというよりも、唇は閉じて上下の歯だけを
開ければいいんだけど、つい唇も開いちゃうんだよねー﹂
あははと若葉ちゃんは笑った。そういうことなら治せとは言えな
1382
いかぁ。
﹁食いしばり線ですかぁ﹂
﹁鏡で見るとよくわかるよ。横に白い線が入っているから。舌で触
ってもわかるかな﹂
そうなんだ。ためしに私も自分の頬の粘膜を舌で確認すると、横
にでっぱりがあった。えっ!私も食いしばってる?!
ストレスが多いからなぁ⋮。この痕は、決してほっぺのお肉が厚
いからじゃないよね?時々私、物を食べている時に、ほっぺのお肉
を噛んじゃう時があるんだけど⋮。
家では寛太君が出迎えてくれた。バレンタインのフォンダンショ
コラは、レシピ通りに作って上手に出来たと報告したら、当然だと
偉そうに言われてしまった。
今度パンを焼こうと思っているんだと言ったら、注意事項をいっ
ぱい言われた。パンとお菓子作りは似ているみたい。とにかくレシ
ピを守れと口を酸っぱくして言われた。わかってるよぉ。
3人で楽しくおしゃべりをして、せっかくだから今から何か作ろ
うかという話になった。わいわいと何を作るか話していると、若葉
ちゃんのお母さんがお店から戻ってきた。
﹁若葉、お店に鏑木君が来ているわよ﹂
ぎゃああああああっっっ!!
1383
206
まずい、まずい、どうしよう!私が若葉ちゃんの家に遊びに来て
いることを、鏑木に知られるのはすっごくまずい!
私が若葉ちゃんに縋って頭を横にブンブン振ると、若葉ちゃんは
﹁わかってる﹂と頷いて玄関を出て行った。頼むよ、若葉ちゃん!
私は今、心臓がドクンドクンいって、手汗が止まらないよ!
﹁どうしたんだよ、コロネ﹂
﹁私がここにいることを、鏑木様には知られたくないの﹂
﹁なんで?同じ学校なんだろ?﹂
﹁同じ学校だから、よ﹂
あぁ、神様神様、私を守ってくださいっ! 狼狽える私を見て寛太君はちょっと考える表情をすると、﹁じゃ
あさ、こっそり見てみようぜ﹂と誘ってきた。ええーーっ!
と言いつつも、気になってしかたがなかったので、寛太君の誘い
に乗っかる。寛太君は2階にある若葉ちゃんの部屋に入って行った。
﹁寛太君、ここ高道さんのお部屋でしょ?勝手に入ったらまずいん
じゃない?﹂
﹁大丈夫だって。ほら、やっぱりこの下にいたぞ﹂
若葉ちゃんの部屋の窓の下がお店の裏になるらしく、ふたりはそ
こで立ち話をしていた。若葉ちゃんの手には、家を出る時には持っ
ていなかった花束があった。鏑木が持ってきたのかな。
私達は気づかれないように、窓をそっと開けてカーテンの隙間か
ら片目だけ出した。
1384
﹁⋮⋮見つかっていなくて。でも絶対に見つけるから﹂
﹁もういいんです。私も出来れば、これ以上騒ぎを大きくしたくな
いから﹂
ん?聞こえてきた話の内容からして、ロッカー事件の犯人捜しの
話か?あ、でも若葉ちゃんは瑞鸞で嫌がらせを受けていることを、
家族に知られたくないそうだから、これは寛太君に聞かれるのはま
ずいんじゃ⋮。
﹁姉ちゃん、なにかあったのか?﹂
案の定、寛太君がひそひそ声で私に聞いてきた。
﹁さぁ⋮﹂
咄嗟に上手い言い訳が見つからなかった。どうしよう。ここは話
を逸らしてみる。
﹁ねぇ寛太君、あの人はよく遊びにくるの?﹂
﹁月に1回くらいはケーキを買いにくるぞ﹂
うげーっ、月イチ訪問ですか。そりゃ鉢合わせもするさ。鏑木の
ヤツ、私の知らないところでずいぶんいろいろと動いているな。あ
の本棚に置いてあるテディベアも、確か鏑木のクリスマスプレゼン
トだったはず。
﹁な、な。鏑木さんって姉ちゃんと付き合ってるの?﹂
﹁たぶんそれはないと思うけど⋮﹂
﹁でも鏑木さんって絶対に姉ちゃんのこと好きだと思わね?﹂
1385
﹁そうねぇ、どうかしら。高道さんはなんて言ってるの?﹂
﹁そんなんじゃないって言い張ってる。この話をするとすぐに怒る
んだもんなー﹂
﹁なるほど﹂
その内ふたりは、春休みの課題や休み前に受けた模試の話などを
しだした。さすが成績上位組。
話している内容は勉強の話なのに、鏑木の声が心なしかいつもよ
り明るい。おぉ、笑い声まで。好きな子とおしゃべり。そりゃ楽し
いよねぇ。
﹁ところで高道は、春休みはなにをしているんだ?﹂
﹁私はお店の手伝いや図書館に勉強に行ったりしていますよ﹂
﹁そうか。今日は⋮﹂
そこへ遊びに行っていた妹の菜摘ちゃんが帰ってきた。
﹁ただいまー。あっ、鏑木さん、こんにちは﹂
﹁こんにちは﹂
妹が名前を覚えて普通に挨拶をしちゃうくらい、この家に来てい
るか、鏑木め。
鏑木に挨拶をした菜摘ちゃんは、﹁お姉ちゃん、お姉ちゃん﹂と
若葉ちゃんに声を掛けた。
﹁ねぇ、お姉ちゃん、コロちゃん来てるの?﹂
うえわあああああっっ!
心臓が一瞬止まった。衝撃で目が見えなくなった。
1386
﹁おい!大丈夫かよ、コロネ!﹂
今私は白目をむいているようだ。
﹁コロちゃん⋮?﹂
よもや鏑木の口からコロちゃんという単語が発せられようとは。
痛いっ!胃に搾り取られるような痛みがっ!
﹁誰か来てるのか?﹂
﹁えっと、はい。友達が遊びに来ているんです!なっちゃん、お家
入ってて﹂
﹁はーい﹂
﹁そうか。友達が⋮﹂
じゃあ俺も一緒にとか言うなよ。絶対に言うなよ!空気を読めよ、
鏑木!
﹁じゃあ俺はこれで帰るから﹂
鏑木が空気を読んだ!
﹁わざわざ、どうもありがとう。あっ、このお花も﹂
﹁いや、この辺りを偶然通りがかっただけだから。ケーキも食べた
かったし﹂
偶然通りがかるわけないじゃん!しかも花束を持って!鏑木よ、
なんという見え透いた言い訳だ!でも私が来ていなかったら、鏑木
が若葉ちゃんと過ごせたんだよね。邪魔してごめん?
鏑木は若葉ちゃんに右手を軽くあげると、止めていた車に乗って
1387
帰って行った。はあーーっ。
しかし菜摘ちゃんの不意打ち発言には、胃に激痛が走ったな。こ
れからは高道家での私の呼び名はコロちゃんで統一してもらおう。
そして若葉ちゃん、私のことを友達だって言ってくれたよね?本
心ですか?
鏑木を見送った若葉ちゃんは、家に戻ってくるともらった花を花
瓶に生けた。
﹁お姉ちゃんは学校でお花を習っているんだよねー。いつも生け方
を私にも教えてくれるんだよ﹂
それを見て若葉ちゃんの妹が、自分のことのように自慢げに言っ
た。
﹁ちょっと、恥ずかしいから吉祥院さんの前で余計なことを言わな
いで﹂
妹の菜摘ちゃんは﹁なんでー?お茶も教えてくれたじゃん。茶碗
を回すんだよね﹂と言って、若葉ちゃんを慌てさせた。若葉ちゃん、
家でそんなことしているんだぁ。でも瑞鸞での授業を、楽しんでく
れているなら良かった。
﹁えへへ。華道、茶道と習ったから、3年では書道を選択しようか
と思っているんだ﹂
若葉ちゃんは照れたように私に言った。
1388
やる気のあるのはいいことだけど、書道なんて選択したら、頭か
ら墨汁ぶっかけられるんじゃないか?
外で遊んできた妹がおなかが空いたと言ったので、若葉ちゃんが
お好み焼きを作ってくれることになった。お好み焼き!今世で食べ
るのって初めてじゃない?!
わぁい、かつおぶしが踊ってる!ソースとマヨネーズの匂いがた
まらんっ!粉もの万歳!
もうひとりの弟も帰ってきたので、ホットプレートを出してみん
なでお好み焼きパーティーを始めた。焼いて食べて、焼いて食べて。
私がひっくり返したお好み焼きは見事に崩れた。なぜだ。それを見
た寛太君に戦力外通告を受けた。泣く。若葉ちゃん、キャベツの千
切り早いなぁ。
﹁吉祥院さんも、もう1枚食べる?﹂
﹁いえ、私はもうおなかいっぱい。あぁ、でもタネが余っているの
でしたら、一口だけいただこうかしら⋮﹂
楽しいなぁ。おいしいなぁ。若葉ちゃんの家は本当に居心地がい
い。
﹁なんだかいつも、ごちそうになってしまって⋮﹂
私は帰り道で若葉ちゃんにお詫びを言った。気が付けば私、若葉
ちゃんの家に行くたびに何かごちそうになってる。さすがに毎回食
べさせてもらっているのは、図々しすぎるよね。今度お肉を手土産
に持ってこようか。
1389
﹁全然気にしないで∼。みんなも吉祥院さんと一緒に食事をするの
が楽しいって言ってるし。よかったらまた遊びに来て?﹂
﹁ありがとう﹂
そんなこと言われちゃったら、またすぐに来ちゃうぞ。
﹁そういえば、鏑木様は⋮﹂
﹁あぁ、うん。近くを通りがかったから、ケーキを買いに寄ってく
れたんだって。それとロッカーの犯人も捜しているけど見つからな
いって﹂
ええ、知っています。盗み聞きしていました⋮。
﹁高道さんは犯人を捜し出したい?﹂
﹁ううん。私はこれ以上騒ぎを大きくしたくないから。鏑木君にも
そう言ったんだ。もう捜さなくていいって﹂
﹁そう﹂
鏑木が動くとどうしても目立って事が大きくなるからね。
﹁高道さんは、鏑木様のことをどう思っているの?﹂
﹁えっ!﹂
若葉ちゃんはぎょっとした顔をした。あ、やっぱり聞いちゃダメ
だったかな?
﹁ほら、えっと人柄とか。どう思っているのかな∼って﹂
マンガではとっくに若葉ちゃんは鏑木を好きになっていて、すれ
違いや障害を乗り越えて盛り上がっている時期なんだけど。今のと
1390
ころ、障害はあっても盛り上がってはいないよね?
﹁う∼ん、最初は凄く近寄りがたい人で私とは別世界の人って思っ
てたけど、でも話してみると少しだけ印象が変わったかな﹂
﹁たとえば?﹂
﹁そうだなぁ⋮。私に怪我させた時にね、凄く真摯に謝ってくれて、
毎回病院に付き添ってくれたりとか﹂
﹁それって普通じゃない?﹂
﹁そうかなぁ。お金で解決しておしまいってしないで、最後まで自
分で責任を取るっていう姿勢は偉いなと思ったよ。ちゃんとしてる
よね﹂
﹁ふぅん﹂
﹁その時にいろいろ話して、私なんかの話を笑って聞いてくれたの
には驚いた。だって瑞鸞の皇帝だよ?!﹂
その皇帝のあだ名の由来は騎馬戦だけどね。そのことを外部生の
若葉ちゃんは知らない。
﹁そこから少しずつ身近に感じられるようになったかな。普段は大
人っぽいのに、時々子供みたいな時があるんだよね、鏑木君って﹂
おや?若葉ちゃんの中での鏑木のイメージは、まるで君ドルの皇
帝のようじゃないか。もしかして脈あり?しかし美化されている気
がするなぁ。時々子供みたいって、本当の鏑木の精神年齢は寛太君
より下だと思う。
若葉ちゃんに鏑木を好きなのかすっごく聞きたいけど、さすがに
そこまでは聞いちゃ悪いよね∼。さっきもぎょっとしてたし。でも
本当は聞きたい⋮。
﹁どうかした?﹂
1391
﹁えっ、いえ。高道さんは春休みは図書館で勉強しているの?﹂
﹁うん。あれ?私そんな話したっけ?家だと下の子達がうるさいか
らねぇ。近所の図書館に行ったり、たまに遠くの大きな図書館に行
ったり。前に水崎君にね、カフェが併設されている大きな図書館を
教えてもらったんだ﹂
﹁まぁ、水崎君に?﹂
それって一緒に行って勉強してたりして⋮。
﹁水崎君と図書館で勉強しているの?﹂
﹁時々ね。ほとんどはひとりで行ってるけど。あ、でも今度一緒に
勉強する約束をしてるんだ﹂
それは私の憧れの図書館デートじゃないか?!ちょっと若葉ちゃ
ーん⋮!
﹁実はね、生徒会として、いつかふたりで成績表のワンツーフィニ
ッシュを飾ろうって言ってるの。打倒ピヴォワーヌ!なんてね。あ
っ、嘘だよ!打倒ピヴォワーヌだなんて!気を悪くしちゃった?﹂
﹁ううん、全然。でも鏑木様と円城様は手強いですわよ?﹂
﹁そうなんだよね∼﹂
鏑木!あんたの知らないところで同志当て馬と若葉ちゃんは着実
に距離を縮めているぞ!偶然を装ってケーキを買いに行っている場
合じゃないぞ!
﹁でもさ、人間って話してみると印象が変わる人が多いんだなって、
瑞鸞に来て思ったよ﹂
﹁そう?﹂
﹁うん。入学した当初は私、吉祥院さんとこんなに仲良くなれると
1392
は思ってもみなかったもん﹂
﹁そうね﹂
私と仲がいいって思ってくれてるんだ。嬉しい。それとさっき、
鏑木をごまかす時に友達が来てるって言ってくれたよね。私のこと、
本当に友達だと思ってくれてるのかな?
﹁私の印象ってそんなに悪かった?﹂
﹁悪くなんてなかったよ!ただ鏑木君と同じで、私とは別世界だな
ぁって思ってただけ﹂
﹁今も?今も別世界の人間だと思ってる?﹂
﹁う∼ん。同じだと言い切ることはできないけど⋮﹂
﹁でも私は、高道さんと友達になれたらいいなって思ってるわ⋮﹂
﹁本当?えへへ、実は私のほうは、とっくに吉祥院さんを友達だと
思ってたんだけど﹂
若葉ちゃん!
感動した私は、がっしりと若葉ちゃんの両手を握った。
その後、若葉ちゃんに書道を選択するのだけはやめとけとアドバ
イスをして、駅の改札の前でお別れした。
﹁また遊びに来てね∼。みんな待ってるから﹂
﹁ありがとう!﹂
強い風が吹いて、私の髪が舞い上がった。あっ、ちょっと私の髪
例の件につ
にお好み焼きの匂いが!帰ったら気が付かれない内にお風呂入らな
きゃ。でも今日も楽しかった!
電車の中でカバンから携帯を取り出すと、鏑木から
1393
いて相談したい
とメールがきていた。うげっ。
昼間若葉ちゃんの家に行って、即行で私に相談のメールか。面倒
くさ∼い。はっ、まさかコロちゃんが私だとはバレていないでしょ
うね?!
でもまぁ、面倒くさいとは思うけど、今日の鏑木の恋路を邪魔し
たのは私なので、ちょっと罪悪感がある。なんかね、嬉しそうで楽
しそうだったからね、若葉ちゃんといる鏑木がさ。鏑木だって若葉
では今度の観桜会で
相談はメールより電話のほうがいいですか?あま
ちゃんと一緒にいたかったよね?⋮ごめん。
仏心を出して
と返信したら、
って。はああっ?!いつの間に私が今年の鏑木家
り時間は取れないですけど
ゆっくり話そう
の観桜会に出ることになっているのさ?!
1394
207
お父様達は、鏑木家の観桜会に去年出席したから、今年も当然私
は出席すると思っていたらしい。聞けよ!言えよ!わざとでしょう!
行きたくない。でも去年のように腐った食べ物を食べて食中毒を
起こす勇気はない。あれは二度とやらない。本気で死ぬと思った。
彼岸が見えた。
お母様は今年こそはと張り切って振袖を着せようとしている。夜
桜に振袖。怖っ。イヤだぁ⋮。
大雨が降って桜が全部散っちゃったら、会も流れるのかしら?
晴れでした。
お兄様は仕事が忙しくて途中参加。最近本当に忙しそう。ホワイ
トデーのお返しに食事に連れて行ってくれるという約束も、まだ果
たされていない。
﹁まぁ、麗華さん!よくいらしてくださったわね!﹂
私達が鏑木夫妻にご挨拶に行くと、鏑木夫人が両手を広げて私に
声を掛けてくれた。いつもながら華やかで美しいかただ。そして鏑
木会長は相変わらず渋いっ!私のお父様と足の長さが全然違う!メ
タボじゃない!はぁ、うっとり。
鏑木夫人は私の振袖姿を大袈裟なまでに褒めてくれたあと、息子
の話を振ってきた。
1395
﹁あの子ったらピヴォワーヌの会長になったんですってね。あんな
に無愛想な子に務まるのかしらねぇ?﹂
﹁雅哉様は人望がおありですから、そんなご心配は無用かと思いま
すわ﹂
﹁そうかしら?麗華さんにもご迷惑をおかけしているのではない?﹂
﹁とんでもないですわ。雅哉様はしっかりしていらっしゃいますも
の。成績も常にトップで⋮﹂
たいして親しくもないので、具体的に褒める要素が見つからない。
う∼ん、鏑木の良いところ、良いところ⋮。残念、見つからない。
﹁うちのバカ息子が麗華さんに迷惑をかけたら、私にいつでも言っ
てね。叱り飛ばしてあげるから﹂
﹁そんな⋮。ほほほ﹂
現在進行形で迷惑をかけられていますが。
﹁これからも雅哉のこと、どうぞよろしくね?﹂
﹁こちらこそ⋮﹂
よろしくしたくないという感情をなんとか押し込める。うっ、笑
顔が引き攣る。鏑木夫人は次のお客様に挨拶するために華の笑みを
残して去って行った。それからもお父様達に連れられて、挨拶回り。
巨大な猫の仮面が重い⋮。
両親と繋がりのある方々に一通りの挨拶を終えたら、やっと解放
してもらえた。最近は私に自分の息子を売り込んでくる人もいたり
するので、躱すのに四苦八苦。おかげでせっかくのご馳走を前にし
ても食欲がなくなってしまった。桜のジュレをちびちび食べて一休
み。あ、おいしい。
1396
﹁吉祥院さん、こんばんは﹂
﹁⋮ごきげんよう、円城様﹂
イヤな奴に会ってしまった。
﹁今日は振袖なんだ。深緋色っていうのかな?素敵だね。とっても
似合ってるよ﹂
﹁ありがとうございます⋮﹂
あぁ、笑顔が胡散臭い⋮。ホワイトデーのデートを暴露したこと
を、まだ根に持っているのかしら。逃げ出したい⋮。
﹁吉祥院さんは桜は観に行かないの?﹂
﹁さきほど近くで拝見いたしましたわ。それに私は夜桜は、少し離
れたところから観るのが好きなんです﹂
今年も見事に咲いたしだれ桜に、招待客達が称賛の声を上げてい
る。ライトアップされたソメイヨシノも満開で本当に怖いくらいに
幻想的。
﹁なんとなく気持ちはわかるかな。夜桜って少し怖くない?人の精
気を吸い取って咲き誇っているような、さ。ほら、桜の木の下には
⋮﹂
﹁死体が埋まっている!﹂
そうなの!そうなのよ!夜桜って怖いよね?!桜は好きだし、夜
桜もきれいだと思うけど、きれいすぎて怖いんだよ。なんで、世の
中の人は夜桜の下で宴会なんてやれるんだろう?
私は同じことを考えている人を見つけて嬉しくなった。
1397
﹁梶井基次郎を読んだ時に、あぁわかるって思った。あの夜桜を見
た時のなんともいえない不安感﹂
うんうん、私もわかる!
﹁昼間の桜にはそこまで感じないんですけどね?﹂
﹁闇にボウッと浮かんで、吸い込まれそうな感じがするからかな﹂
﹁そうですわね﹂
﹁ここのしだれ桜は樹齢50年ちょっとだからまだいいけど、樹齢
何百年っていう桜なんてさ、どれだけの生き血を啜っているのかと
⋮﹂
﹁怖いから、やめてくださいな!﹂
想像しちゃったじゃないか。
﹁同じお花見でも、梅や桃なら夜でも怖くないと思いません?﹂
﹁しっ。そんなことを雅哉のお母さんに聞かれたら、張り切って企
画されちゃうよ?麗華さんは梅や桃が好きなの、だったらってね﹂
おっと、いけない。イベント好きの鏑木夫人は本気でやりかねな
い。私は慌てて口を噤んだ。そんな私を見て、円城は楽しそうに笑
った。
﹁でも桜は怖くても、桜のお菓子は好きなんでしょ?桜餅とか﹂
なぜ知っている。花を使った洋菓子は薔薇ジャムとか微妙なもの
が多い気がするけど、和菓子はおいしいんだよね。桜餅、梅が枝餅
⋮あら、お餅ばっか。
﹁ええ。桜のお菓子をいただくと、気持ちも春めいてまいりますも
1398
の。そういった意味では、季節を模ったお菓子をいただくのは、そ
の季節を感じることができるので好きですわ﹂
私は決して食いしん坊キャラじゃないということを、強く押す。
家では緑茶をぐびぐび飲みながら、桜餅をバクバク食べているけど
ね!
﹁そっか。吉祥院さんは風流なんだね?﹂
そうなのよ。風流なのよ、食いしん坊じゃないのよ。円城め、目
が笑っている。絶対に信じていないな?﹁さすがだねぇ、吉祥院さ
んは。今も桜のジュレをおいしそうに食べていたもんねぇ﹂って、
ムカッ。どうにかやり返したい。
﹁そういえば、雅哉が吉祥院さんを探していたよ﹂
﹁そうですか﹂
本当にこの大勢の招待客達のいる中で、恋愛相談なんてしてくる
気かな、鏑木は。
﹁円城様は、今日は鏑木様とご一緒ではありませんの?珍しいです
わね﹂
﹁なんだか吉祥院さんって、僕と雅哉をセットみたいに思ってない
?﹂
﹁いつもおふたりが仲睦まじく寄り添っていらっしゃるのは有名で
すから⋮﹂
﹁寄り添ってはいないでしょ、絶対に。吉祥院さん、わざと言って
るね?﹂
あ、からかいすぎた?腹黒が本領発揮するかも。まずいぞ。くる
1399
か、逆襲?!
私が身構えた時に、その人は現れた。
﹁シュウ、ここにいたのね?﹂
斜め後ろから白い手を伸ばして、そっと円城の腕を掴んだのは、
唯衣子さんだった。
この人も来てたのか⋮。
﹁唯衣子﹂
﹁シュウの姿が見えなくなったので、心配していたのよ?﹂
唯衣子さんは円城の肩に凭れるようにして、ゆったりとその顔を
見上げた。
美しくも儚げな唯衣子さんを、周囲の男性は放っておけない様子
で見惚れている。
﹁君は彼らと楽しそうにしていたから、平気だと思ってね﹂
﹁あら、やきもち?﹂
﹁どうかな﹂
どうやら唯衣子さんはこの男性達にさっきまで囲まれてちやほや
されていたようだ。唯衣子さんが円城と話す姿に悔しそうな顔をし
ている男の人もいる。でも相手が円城では太刀打ちできないか。絵
になるふたりだもんね。
﹁唯衣子。こちらは吉祥院麗華さん、僕の同級生だよ﹂
円城は自分の腕に絡んだ手を軽く叩き、私を紹介した。
1400
﹁吉祥院、麗華さん?﹂
唯衣子さんが私のほうにゆっくりと目を向けた。黒目がちな瞳が
私を捉えた。ゾクッとした。
うりゅう
﹁吉祥院さんは唯衣子を知っているよね。僕の親戚。瓜生唯衣子﹂
﹁ごきげんよう、吉祥院麗華です﹂
私は精一杯余裕のある笑顔で、挨拶をした。
﹁瓜生唯衣子です。前に、お会いしたわよね⋮?﹂
﹁ええ。瑞鸞の学園祭で﹂
唯衣子さんは揺れる瞳で私を見つめたあと、ふんわりと微笑んだ。
﹁そうだったわ。可愛らしいチャイナ服を着てたの。ね?そうでし
ょ?﹂
﹁ええ﹂
唯衣子さんは、ふふっ、当たったと楽しそうに笑った。それを見
た周囲がデレッとした顔になった。
﹁ねぇ、シュウ。喉が渇いたわ?﹂
﹁ではなにか飲み物を取りに行こうか。吉祥院さんは⋮﹂
﹁私は少し桜を観てきますわ。では失礼いたしますわね、円城様、
唯衣子さん﹂
円城はかすかに眉を顰めて、唯衣子さんはまたどこを見ているの
かわからない目で私を見て微笑んだ。冗談じゃない、誰が一緒にい
るもんか。恐ろしい。
1401
一刻も早くこの場を去りたいので、得意の競歩をしたかったが、
振袖なんて着てきたせいで歩幅が取れん!しくじった!
ペンギンだ!今こそ私はペンギンになるんだ!
あぁ、なんだか背中に唯衣子さんの視線を感じる⋮⋮。つるかめ
つるかめ。
1402
208
桜見物に恋人連れですか。けっ、忌々しい。そもそも観桜会なん
て浮かれた行事をしているが、まずは花鎮めの祭りを厳かに執り行
うべきではなかろうか。古来より、桜の花の散る季節に流行る疫病
祓いのお祭りだ。そう、この時期は疫病神が力を振るうそれはそれ
は恐ろしい季節なのだ。それをいちゃいちゃチャラチャラと⋮。神
妙な心持で臨まぬ輩は疫病神の祟りを受けるぞ!きぃっ!
ふたりから離れたら、むくむくと私の心の負け犬が目覚め遠吠え
をはじめた。なんだい、あの空気。ひとをお邪魔虫みたいに⋮!
腹が立ったらおなかが空いた。帯が苦しくても構うものか。私は
お料理を取り分け、手近な席に着いた。時々ピヴォワーヌ関係者や,
両親の知人などが声を掛けてきたので談笑した。
なかには私がファザコンだというデマを真に受け、﹁年頃の娘が
冷たいのだが、どう接したらいいか⋮﹂という悩みを相談してくる
切ないおじ様もいたので、受けを狙って親父ギャグを言うな、身な
りに気を付け清潔感を心掛けろ、説教に絡めて自分が若い頃はとい
った昔語りを延々とするな、若い女に鼻の下を伸ばすな、褒めろし
かし媚びるな、等々をオブラートに包みまくって助言した。これは
すべてあのダンディな鏑木のお父さんの姿を思い浮かべて言ったこ
とだ。あんなお父さんだったら、娘も自慢してべったりだよねぇ⋮。
はっ、ダメよ麗華!貴女の父親はあのぽんぽこ狸だという現実を
見なくては!
私が現実と向き合い、食事を再開していると、佳人がふたり声を
掛けてきた。
﹁麗華ちゃん、久しぶり!﹂
﹁愛羅様!優理絵様!﹂
1403
うわぁ!本当に久しぶりだ。愛羅様とは時々メールや電話で連絡
を取り合っているけど、大学3年生ともなると、なにかと忙しそう
なんだよね。愛羅様も優理絵様も相変わらず綺麗だなぁ。会えて嬉
しい!
﹁おふたりとも、ごきげんはいかがでした?お忙しそうですよね?﹂
﹁そうね。もう進路をはっきりさせないといけない時期だから、な
にかとね﹂
﹁将来はどうなさるか、もう決められたのですか?﹂
ふたりは目を見合わせて苦笑いした。
﹁希望はあるのよ?でも親は大学を卒業したら、自分の会社か、懇
意にしている家の会社に私を入れようとしているからぶつかっちゃ
って⋮﹂
﹁私も、両親の思惑と私の考えが違うから大変﹂
ふたりはハァ∼ッとため息をついた。
やっぱり就職となると大変なんだなぁ。お嬢様の就職なんて、親
としたら釣書の彩りくらいにしか思っていなさそうだし。
瑞鸞のお嬢様の大半は、就職するならコネ入社で結婚までの腰掛
けの考えの人が多いと思うけど、愛羅様達はちゃんと自立しようと
しているのが偉い。
私だって、自分の家の会社に就職するなんて絶対にイヤだ。そん
なことしたら、社長令嬢としてあまり忙しくないけど華やかな部署
に回されて、腫れ物に触るような扱いをされて、孤立するのが目に
見えているもの。そしてそのあとは政略結婚?うへ∼っ。没落もイ
ヤだけど、そっちもイヤだ。私は恋愛結婚をするのだ!
愛羅様は﹁優理絵、いざとなったら一緒に海外逃亡しちゃう?﹂
1404
なんて誘って、優理絵様に﹁なに言ってるのよ﹂と笑って窘められ
ていた。本当に大変そうだなぁ。
﹁ねぇねぇ、それより麗華ちゃん。なんだか雅哉が面白いことにな
っているんですって?﹂
できた⋮
って!雅哉った
好
キラキラ目を輝かせた愛羅様達が私の両サイドに座って、内緒話
をするように顔を近づけてきた。ふたりは凄く楽しそうだ。
﹁面白いこととは?﹂
﹁雅哉に好きな子ができたって﹂
﹁麗華さんは知ってる?﹂
﹁えっ?!﹂
そっちこそ、なぜ知っている?!鏑木が話したのか?!
﹁その顔だと知ってたみたいね?﹂
﹁鏑木様にお聞きになったんですか?﹂
﹁優理絵がね﹂
って聞いたら、
﹁クリスマスにそわそわしているからもしかしてって思って、
きな子でもできた?
ら私の家に来た時にも、私の持っていた女性用のファッション誌を
突然読みだしたり、バレンタインに落ち込んでたり。わかりやすい
のよね∼﹂
優理絵様はケラケラと笑った。
﹁優理絵をきっぱり諦めたのも、新しい恋をしたからだと思うのよ﹂
﹁今思えば、あの頃から怪しかったわねぇ﹂
﹁相手はご存じなんですか?﹂
1405
﹁外部の子なんでしょ?麗華ちゃんはどんな子が知ってる?﹂
﹁ええ、まぁ⋮﹂
私は言葉を濁した。若葉ちゃんの気持ちがまだはっきりしていな
いのに余計なことは言いたくない。病は口より入り禍は口より出ず。
しばらくおしゃべりをしたあと、愛羅様達はピヴォワーヌの先輩
方に呼ばれて席を立って行ったので、私も腹ごなしに少し動くこと
にした。
会場をふらふら歩いていると、お嬢様達に囲まれた鏑木と目が合
った。あ、見つかった。
﹁吉祥院﹂
さっそく鏑木がお嬢様達に何事かを断り、こちらにやってきた。
﹁ごきげんよう、鏑木様。本日はお招きいただきましてありがとう
ございます﹂
﹁ああ、こちらこそ﹂
鏑木は私を夜桜も見えない壁際に誘導した。ここなら衝立の陰に
なって目立たないし近くに人がいないので、話を聞かれることもな
さそうだ。さすが主催者の息子。会場のベストポジジョンもしっか
り把握している。
﹁まぁ、座れ﹂
﹁失礼します⋮。それで、相談とは﹂
﹁いきなりかよ。相談は⋮あいつのことだ﹂
﹁はい﹂
そりゃそうでしょうね。
1406
﹁最初から話すが、一番初めは夏に俺とあいつの間でちょっとした
事故があったんだ﹂
鏑木はそこから若葉ちゃんと親しくなって、若葉ちゃんの家のケ
ーキ屋にも時々行くことを話した。うん、全部知ってる。
﹁だが、それ以上に発展しない﹂
﹁はぁ﹂
﹁どうしたらいいと思う?﹂
えっ、そこから?!
﹁告白をすればいいのでは?﹂
﹁こっ、バッ!﹂
鏑木が動揺して言葉に詰まった。あんた今、バカって言おうとし
たね?
﹁それはまだだ。まだ早い!﹂
﹁そうなんですか﹂
鏑木の目がきょろきょろと泳いでいる。思ったよりヘタレだな、
こいつ。
﹁ではデートに誘って、親交を深めるとか?﹂
﹁それは俺も考えた。が、タイミングがどうも合わない。あいつは
あれで忙しいんだ。それに俺も予定がいろいろと詰まっていること
が多い。この前も俺がやっと時間が空いた時に会いに行ったら、友
達が遊び来ていて誘うことも出来なかった﹂
1407
あ、それ私だ⋮。
﹁事前に連絡をなぜしないのですか﹂
﹁驚かせたかったというか⋮﹂
迷惑!胃痙攣起こしそうになるほど、驚いたっての!
﹁あまり突然ご自宅に押し掛けるのは、あちらのご迷惑になると思
いますわよ﹂
﹁そう、か⋮?﹂
﹁そうです!これからは絶対にアポを取ることをお勧めします!﹂
うん。私が若葉ちゃんの家に遊びに行っている時に、鉢合わせし
たら困るもん。本当は鏑木には来ないで欲しい。けどそれは私のエ
ゴなので、せめて事前連絡をして欲しい。切実にね。
﹁でも本人に会いに行っているのではなく、ケーキを買いに行って
いるんだが﹂
﹁口実ですよね?﹂
﹁まぁ⋮な﹂
﹁でしたら、ケーキを買いに行くつもりだけど、いついつの日はい
るか?とさりげなく予定を聞けばよろしいのでは?﹂
﹁わかった。善処する﹂
鏑木は素直に頷いた。なんだよ、善処って。
﹁で、この前行った時に遊びに来ていたという友達なんだが⋮﹂
その一言にドキッとした。気づかれたか?!
1408
﹁⋮なんですか?﹂
﹁コロちゃんと呼ばれていた﹂
﹁⋮はい﹂
﹁コロちゃんって、なんだ?﹂
﹁は?﹂
なんだって、なんだ?
﹁コロ山か、コロ田か⋮。コロ子、コロ美、コロ絵⋮。どれもしっ
くりこない。コロちゃんって、なんだ?﹂
﹁はぁ⋮﹂
正解はコロネです。
﹁そこで気が付いたんだ。友達とは実は男で、コロじゃなくゴロー
だったのではないかって!﹂
﹁⋮⋮﹂
コロちゃんじゃなく、ゴローちゃんだったと⋮。私は脱力した。
﹁どう思う?﹂
﹁さぁ⋮﹂
﹁さぁじゃないだよ。しっかりしろよ、アドバイザー﹂
私は鏑木のアドバイザーになっていたらしい。
﹁気になるのなら、はっきりと聞いてみたらいいのでは?この前の
ゴローちゃんという友達は誰だ?って。それでゴローちゃんじゃな
くコロちゃんですと言われたら女の子の可能性もあるし、否定され
1409
なければ男の子だということで﹂
﹁う∼ん⋮﹂
煮え切らないなぁ。私だよ。女の子だよ!
﹁では先にデートの誘いのほうをしますか?﹂
﹁そうだな!場所はどこがいいだろう﹂
鏑木の顔がパッと明るくなった。
﹁気軽に誘える場所としては⋮、そうですね、図書館で一緒に勉強
しないかと誘ってみては?﹂
﹁図書館?!それってデートなのかよ?!﹂
私の憧れ、図書館デートをバカにするな!
私は受験生を誘うのに一番ハードルが低く最適な場所だと力説し、
鏑木も最後は納得していた。そうだ、まずはここからだ。すでに同
志当て馬は図書館デートをクリアしているのだぞ!
主催者の息子がいつまでも姿を消してはいられないので、鏑木は
戻っていった。私はお兄様が迎えに来たので、最後に一緒に夜桜を
観に行くことにした。
桜の前で妖艶な美女と語らう伊万里様を見つけた。伊万里様は私
達に気づいていないようだし、お邪魔しては悪いのでそのまま後ろ
を通り過ぎると、﹁山ざくら霞の間よりほのかにも見てし人こそ恋
しかりけれ﹂という情感たっぷりの伊万里様の声を聞いた。
カサノヴァ村長のポテンシャルの高さに、お兄様は舌打ちし、私
はひれ伏した。
1410
209
今日はお兄様と鴨料理を食べにフレンチレストラン。これは少し
遅いホワイトデーのお返しだ。
お兄様は大きなプロジェクトを任されて、ここ最近ずっと忙しか
ったそうだ。確かに毎晩残業で夜遅くまで帰って来ないし、帰って
きてもPCとにらめっこが多かったもんね。大変だなぁ、社会人っ
て。で、その仕事にやっと目途が付いたということで、今夜約束し
ていたディナーに連れてきてもらった。久しぶりのお兄様との外食、
嬉しいな!今日はいつもより髪をしっかり巻いております。ドレス
も買ってもらったばかりのお気に入りだ。お兄様にエスコートされ
て、お姫様きぶ∼ん!
﹁ごめんね、約束が遅くなって﹂
﹁そんな!お兄様はお仕事で忙しかったのだから、気になさらない
で﹂
私がそう言うと、キャンドルの灯りの向こうでお兄様は優しく微
笑んだ。
﹁でもあまり頑張り過ぎないでくださいね?お兄様の体が心配です﹂
﹁ありがと。ただ今回のプロジェクトは絶対に成功させないといけ
なかったから。僕が後継者だということは周知の事実だけど、実力
を示さなければ所詮名ばかりのお坊ちゃんだと内外的にも侮られる
しね。でもこれで一応、認めさせることはできるかな。あらゆる意
味で﹂
﹁まぁ!﹂
1411
偉い!偉いよ、お兄様!後継者の椅子に胡坐をかかず、仕事で周
りを納得させようというその姿勢。さすがは私の自慢のお兄様だ!
﹁尊敬しますわ、お兄様!私も妹として鼻が高いです!﹂
私はぐっと拳を握りしめた。お兄様は﹁大袈裟だね﹂と笑ってワ
インを飲んだ。
﹁どうです?お兄様。今日のワインのお味は﹂
﹁うん、程よい重さで麗華が好きな味かもね﹂
私はソムリエのかたに頼んで、お兄様が飲んでいるワインのラベ
ルをもらった。私は前々からこうして家族がおいしいと言ったワイ
ンのラベルをコツコツ集めている。20歳になってまだ家が没落し
ていなかったら、お兄様達がおいしいと言っていたワインを1本ず
つ飲むのだ。お兄様の話では会社も順調のようだし、高いワインを
がぶがぶ飲める未来ももうすぐだ。前世では居酒屋のサワーくらい
しか飲んでいなかったからね。楽しみ∼!前世の私の酒癖はあまり
良くなかったけれど、今世は大丈夫だと思う!
しかしこの鴨サマはおいしいなぁ。あ∼んと口を開けてもう一口。
﹁ところで麗華、鏑木家の雅哉君とは最近どう?﹂
ぐほっ!鴨が喉に詰まった!こんな場所で醜態を晒すわけにはい
かない。私は必死で飲み下した。
﹁麗華、大丈夫かい?﹂
﹁⋮ええ、お兄様﹂
さすがお兄様ですわ。核心に触れるのは相手が息を吸った時。見
1412
事に動揺してしまいました。
﹁最近と言われましても、特になにもありませんけど⋮﹂
﹁そうなの?でもこの前の観桜会では、ふたりで親しげに話してい
たようだしね﹂
気づかれていたか⋮。でも断じて親しくはない!
﹁話くらいはいたしますけど、特別仲が悪いわけでも良いわけでも
ありませんわね⋮﹂
疾しいことはないけれど、なんとなく気まずい。私は食事に集中
しているフリをして、お兄様から目を逸らした。お兄様は﹁そうな
んだ﹂と納得した。
﹁では円城家の秀介君とはどうなのかな?﹂
ぐへっ!
﹁⋮以下同文ですわね﹂
勘弁して∼。そっちはさらに聞かれたくない⋮。
﹁彼は観桜会できれいな女性を伴っていたけど。麗華は知ってる?﹂
﹁円城家の親戚筋のかただとお聞きしましたわ⋮﹂
﹁へぇ。親戚筋、ねぇ?﹂
お兄様は意味深に笑った。え、なにぃ⋮?
﹁まぁ、なにかあったら僕に言うんだよ?﹂
1413
﹁はい。お兄様﹂
私は神妙に頷いた。
﹁最近の麗華は僕に隠しごとが多いようだから心配だよ?﹂
﹁えっ⋮?!﹂
私が顔を上げると、お兄様はにっこり微笑んだ。
お兄様は、どこまでご存じなのでしょうか⋮?
今日はお釈迦様の誕生日。私はお寺でお釈迦様の像に甘茶をかけ
た。
お釈迦様、私は西洋文化にかぶれた浮かれ者達のように、クリス
マスやバレンタインなどという行事にも参加せず、こうしてお釈迦
様の誕生日を祝う敬虔な仏教徒でございます。
どうか、私にも素敵な恋を!そして平穏な新学年生活を!
3年は修学旅行があるので、クラス替えで一緒になるメンバーが
誰かがとても重要だ。ドキドキしながらクラス表を見ると、なんと
芹香ちゃんと菊乃ちゃんと一緒だ!3人一緒のクラスって、初等科
以来じゃない?!
﹁麗華様、同じクラスですわよ!﹂
﹁3人で楽しい1年を過ごしましょうね!﹂
1414
﹁嬉しいですわ!今年も仲良くしてくださいね!﹂
私達はきゃっきゃと喜びあった。お釈迦様効果かも?!
﹁でも鏑木様達とは同じクラスになれませんでしたわね∼﹂
芹香ちゃんが残念そうに呟いた。鏑木と円城と私、ついでに同志
当て馬は全員別のクラスだ。これは学院側が、クラスのパワーバラ
ンスを考えて振り分けているのかなぁ。でも修学旅行で鏑木、円城
と同じクラスは大変そうだから、私としてはラッキー。これもお釈
迦様効果か?!
私はまたもやクラス委員をやることになってしまった。もう恒例
だから黙って引き受ける。そして相方は1年の時に同じクラスだっ
た佐富君だ。佐富君なら気心も知れているから良かった。
﹁よろしくね、吉祥院さん﹂
﹁こちらこそ﹂
私は佐富君とクラス委員の挨拶を交わした。
そして同じクラスになったのはもうひとり。教室にいる私達の姿
を見て、この世の終わりのような顔をしている多垣君だ。
多垣君は結局春期講習でも私に怯えて逃げまくっていた。ここは
優しく声を掛けてあげないとね。私は芹香ちゃんと菊乃ちゃんと一
緒に多垣君の座る席を取り囲んだ。
﹁多垣君、私は今年もクラス委員をすることになりましたの。なに
かと協力していただけるわよね?﹂
あら?親しくなるために声を掛けたつもりが、なんだか脅しのよ
うに聞こえてしまったかしら?多垣君の顔色が青を通り越して土気
1415
色になっているけど?芹香ちゃん、菊乃ちゃん、﹁わかっているわ
よね?﹂はやめとこうか。多垣君、泣かないで?
始業式のあと、私はピヴォワーヌのサロンに向かう。新年度の顔
合わせもあるけれど、昨日の夜鏑木からメールがきたのだ。
今日一緒に図書館に行ってきた。しかしトラブル発生。詳しいこ
とは明日話すので、必ずサロンに来い!
あ∼あ、また恋愛相談に付き合わないといけないのかぁ⋮。でも
鏑木って、昔から提案を即実行にうつすヤツだな。素直というか、
バカというか。
サロンでは鏑木が手ぐすね引いて待っていた。
1416
210
新年度最初のピヴォワーヌのサロンでのお茶会は、会長である鏑
木が簡単な挨拶をし、プティを卒業した新中等科1年生のメンバー
の自己紹介から始まった。そのあとはお菓子を食べながら春休み中
の話題などをそれぞれおしゃべりした。
今日のお菓子は私の大好きなイスパハン。乙女の夢を凝縮したよ
うな薔薇とフランボワーズとライチのマカロンケーキだ。可愛すぎ
て食べるのがもったいないっ。あぁ、まさにロココの女王たる私に
ふさわしいお菓子である!むふっ。
私がひとり定位置に座り薔薇のケーキを堪能していると、不肖の
新参弟子がやってきた。
﹁まずは報告だ﹂
挨拶もなしにいきなり始めますか。まぁいいけど。む、弟子よ、
師の許可なく隣に座るとは何事ぞ。
﹁コロは女だった﹂
でしょうね。あ∼、フランボワーズの酸味がおいしい。ラズベリ
ーは見た目も可愛いし味もおいしいし、大好き。
﹁おい、聞いているのか﹂
﹁聞いていますわ。どうぞ続けてください﹂
ライチといえば楊貴妃だよね∼。私はライチはそれほどおいしい
とは思わないんだけど、楊貴妃はこれを食べるために遥々シルクロ
1417
ードで運ばせたんだよね∼。私がもし楊貴妃なら、そこまでして食
べたい物ってなんだろうなぁ。
﹁お前に言われた通り、ゴローちゃんという友達は誰だと聞いてみ
た。そしたらゴローちゃんとは誰かと聞き返された。やはりゴロー
ではなくコロだったのだ。あいつに、ゴローちゃんじゃなくてコロ
ちゃんですよと笑われた﹂
さくらんぼが好きだな、私は。早くさくらんぼの季節にならない
かな。
﹁コロはあだ名で女だそうだ。とんだ杞憂だったというわけだ﹂
さくらんぼといえば、うっかり種を飲み込んだりすると、昔聞い
た果物の種を飲むと盲腸になるという迷信が頭をよぎってドキドキ
するのよね。デマだとわかっていても、なんとなくね∼。
﹁おい﹂
﹁聞いていますわよ。コロちゃんはあだ名で女の子だったと。それ
で?﹂
鏑木はなにやら不満そうな目で私を見てきたけれど、﹁ちゃんと
聞けよ﹂と諦めたように話を続けた。
﹁春休みの最後の日に、高道を図書館に誘った﹂
﹁ええ﹂
私はサロンをそっと見回した。ピアノの音が流れているし、私達
の周りには人がいないので、鏑木が若葉ちゃんの名字を小声で口に
出しても聞かれる心配はなさそうだ。
1418
﹁高道は春休み中はほとんど毎日図書館で勉強していたらしくて、
じゃあ一緒に行きましょうと、気軽に応じてくれた﹂
﹁まぁ、良かったではありませんか﹂
﹁ここまではな⋮﹂
鏑木が何かを思い出したように、苦々しい顔をした。
﹁高道お薦めの図書館とやらに行ったら、なんとそこに水崎がいた
!﹂
﹁水崎君が?!﹂
﹁そうだ。あっちも俺達が来て驚いていたがな。だがそもそも、そ
の図書館を高道に教えたのが水崎だったらしい。しかも!ふたりは
何度か図書館で一緒に勉強をしていたらしいんだ!﹂
﹁あぁ∼﹂
確かに若葉ちゃんがそんなことを言ってたな。
﹁それでどうしたんですか?﹂
﹁3人で勉強したよ。1度併設されているカフェで休憩したくらい
で、あとはひたすら勉強だ。あれはデートじゃない。勉強会だ!﹂
﹁あら∼﹂
﹁本当はそのあとで夕食を一緒に食べようと思って店も予約してい
たのに、閉館と同時に高道は家の手伝いがあるとさっさと帰って行
って、それでおしまいだ。誘う間もなかった﹂
﹁夕食ですか。それはあらかじめ彼女と約束をしていなかったので
すか?﹂
﹁ああ、していなかったな﹂
なにやってんだよ。
1419
﹁ですから相手の都合をまず聞くように言ったでしょう。だいたい
どのようなお店に連れて行くつもりだったのですか?﹂
﹁青山のフレンチに﹂
﹁アホか!﹂
﹁あ゛?!﹂
おっと!思わず本音が口から飛び出てしまった。鏑木が﹁お前、
今アホって言っただろ﹂と怒っている。まずい⋮。私は﹁いいえ、
まさか!私は青山って言ったのですわ。聞き間違いですわ﹂で押し
切った。鏑木の疑わしげな視線を躱すためにも話を進める。
﹁あのですね、鏑木様。いきなり夕食に誘われてフレンチレストラ
ンに連れて行かれたら、女の子は嬉しいより先に困るのですわ﹂
﹁なんでだ?﹂
鏑木は全くわかっていないようだった。本当にアホだな∼、こい
つ。
﹁そのへんの学生が入る庶民的なお店ならいいですけど、青山の高
級フレンチに、なんの心構えもなく普段着で連れて行かれるなんて、
周りから浮いちゃって軽い拷問ですわね。女の子はそういったお店
に行く時には、精一杯のおしゃれをしたいものなのです!﹂
おしゃれは武装なんだよ!それに素敵なお店に食事に行く時に、
着ていく服を選ぶのも女の子の楽しみのひとつなのだ。それが普段
着って⋮。しかもランチではなくディナー。周りの華やかで大人の
お客さん達と自分を比べて、居たたまれない気持ちで早く帰りたく
なること請け合いだ。
1420
﹁ドレスコードのあるような店ではないぞ。俺も普段着だったし﹂
あんたの普段着と、普通の女子高生の普段着は全然レベルが違う
んだよ!それに鏑木のような人間はラフな服装をしていても、生ま
れから培われた洗練された場慣れ感がある。それでむしろ、肩ひじ
張らない姿が素敵!とか言われたりするんだ。だからわからないん
だな、皇帝には庶民の気持ちが。
﹁本当にわかっていない⋮﹂
私がため息をつくと、鏑木がムッとした。
﹁なにがだよ﹂
﹁なにもかもですわ﹂
私は若葉ちゃんのためにも、鏑木にはっきりと言ってやることに
した。
﹁鏑木様の思い付きでの行動は、彼女にとって迷惑になりかねない
ということです!まずアポイントは必ず取ること。そしてどこに行
くのかその日の予定はきちんと最後まで教えておくこと。彼女の生
活スタイルを尊重すること。具体的に言えば、その場で気軽に食事
に誘うなら彼女が普段行きそうなお店から。今回のようなフレンチ
ディナーを考えていたのなら、先に言えってことですよ!﹂
鏑木は目を丸くした。
若葉ちゃんの普段着は私も知っている。ごく普通の高校生らしい
可愛い服装だ。もしかしたら遠くの図書館に行くから少しおしゃれ
をしていたかもしれない。それでも突然勉強道具の入ったカバンを
持ったままフレンチに連れて行かれたら困ったと思う。
1421
鏑木は難しい顔で考え込んでいたが、やがて﹁わかった﹂と頷い
た。
﹁俺も高道に合わせられるように、努力しよう﹂
お!皇帝が折れた。これが恋の力か?!そしてちょっと言葉使い
に素が出てしまったのはスルーしてくれたらしい。良かった⋮。
﹁吉祥院、愛とは何だ﹂
次の日、廊下ですれ違った鏑木に、秘密を囁くように声を掛けら
れた。
﹁は?﹂
﹁愛とは何だ、吉祥院﹂
こいつは唐突になにを言いだしているんだ。愛とは何だって、禅
問答かよ。愛とは、愛とは⋮。あぁ、そういうことか⋮。
﹁たちこめる霧に包まれるひとつの星だ﹂
﹁よし﹂
鏑木は正解を導き出した私に満足したように頷き、歩いて行った。
うざい⋮。これから毎回こんな抜き打ちテストのようなことを言
ってきたら鬱陶しくてたまんない。早くあの押し付けられた詩集を
上手いこと処分しないと⋮。
1422
211
3年に進級してまだ間もないというのに、修学旅行のためにさっ
そく生徒会主催のクラス委員会議が入った。瑞鸞学院高等科の修学
旅行は、5月にロンドン、パリ、ローマのヨーロッパ3都市の旅だ。
どの都市もだいたい1日目に市内観光、2日目に自由行動、3日
目に移動といった、なかなかのハードスケジュール。
なんでこんな時期に修学旅行をぶつけてくるかね∼、まったく。
新入部員の部活見学もあるから手芸部部長としてはそっちも忙しい
ってのにさ。会議室へ行く道すがら、私は佐富君と愚痴り合った。
﹁でもクラス委員を一緒にやるのが吉祥院さんで良かったよ。修学
旅行は羽目を外すヤツが出るけど、吉祥院さんの注意ならみんな素
直に聞くからね。頼りにしてるよ、吉祥院さん﹂
と、佐富君に言われたけど、そんなことを言いながら1年の時も
佐富君は上手いことクラスをまとめてたんだよね。真面目一辺倒で
はないから融通もきくしね。こちらこそ頼りにしていますよ、佐富
君。
会議室に行くと、生徒会役員とほかのクラスのクラス委員達が集
まっていた。あ、委員長だ。私が目が合った委員長にちょこっと手
を振ったら、委員長とその隣に座る美波留ちゃんが笑顔で手を振り
返してくれた。
クラス替えで別のクラスになってしまった委員長は、なんと美波
留ちゃんと同じクラスになってふたりでクラス委員をやっている。
しかもホワイトデーには私のアドバイス通り遊園地のペアチケッ
トをプレゼントして、見事春休みに岩室君、野々瀬さんと4人で遊
びに行ったらしく、新学期早々喜びの報告をされた。
1423
﹁ありがとう、吉祥院さん!さすが師匠だよ!4人でね、いろんな
アトラクションに乗ったんだけど、僕ったらジェットコースターが
ちょっと苦手だから怖がってたら、本田さんに大丈夫って励まされ
ちゃったりして。もう男なのに恥ずかしいよね∼。でも乗ってみた
ら思ったより怖くなくてさぁ、本田さんの前で醜態を晒すことにな
らなくて良かったよぉ。1日じゃアトラクションを全部回ることが
できなかったから、4人でまた来ようねって約束して⋮﹂
4人で遊園地とは、世にいうダブルデートというヤツだね。羨ま
しいっ!グループ交際、まさに青春!私も遊園地でダブルデートを
してみたいっ!
私にさんざん惚気た委員長と岩室君は﹁お礼を兼ねたお土産﹂と
可愛いお菓子をくれた。ありがとう、おいしかったです。
そんな委員長と美波留ちゃんは今、配られた修学旅行のプリント
を見ながら、なにやら楽しそうに話をしている。もしかして修学旅
行の自由時間に一緒に回ったりする気かしら。
うぬ、それは少し恋愛を謳歌しすぎではなかろうか。ご利益を与
えすぎたか。師匠は恋愛ぼっち村の村長だというのに。一番弟子な
らば師匠にもう少し気を使うべきでは⋮?いやいや、師匠として弟
子の幸せを素直に祝福しようではないか。彼らは恋愛謳歌村の村民。
我が村との間には深く大きな川が横たわっているのだから⋮。
今回の会議は各クラスの委員の顔合わせがメインで、修学旅行の
班分けや部屋割りなどの説明や、自由時間の注意事項などが話され
た。班分けや部屋割りは基本クラスごとだけど、自由時間は別のク
ラスの友達と行動したりする子が多いので、トラブルが起きないよ
うに気を付けないといけない。
鏑木や円城のクラスのクラス委員からはすでにうっすら疲労感が
漂っている。あのふたりには自由時間に女子が殺到しそうだもんな
1424
ぁ。頑張れ⋮。
なので今3年生の生徒達の間での話題といえば、修学旅行の話ば
かりだ。
﹁自由時間はどこを回ります?﹂
﹁もちろんパリではお買い物よね。私、日本未発売のバッグが欲し
いの﹂
﹁私は靴。でもバッグも欲しいわ。どこのお店に行くの?﹂
﹁ピカデリーサーカスでミュージカルを見ましょうよ!﹂
﹁素敵ね!でしたらオペラ座の怪人がいいわ。昔家族でロンドンに
行った時に観たけれど、とっても良かったわ﹂
﹁私はレ・ミゼラブルがいいかな﹂
﹁重くない⋮?﹂
﹁だったらバレエもいいんじゃない?﹂
﹁ローマでオペラも観たいわ!﹂
う∼ん、ミュージカルにバレエにオペラかぁ。私はバレエなら海
賊が観たいなぁ。そして切手集めが密かな趣味の私としては、各地
できれいな切手を買いたいところだ。ヴァチカンで切手を買って家
族や桜ちゃんや葵ちゃん達にエアメールを送ってみようかな。でも
手紙より先に私が帰国しちゃうかな?
塾の友達の森山さんは、修学旅行で恋が芽生えて彼氏が出来たら
しい。修学旅行でカップル誕生ってよく聞く話だものね。私にも素
敵な出会いがあるかも⋮。
1425
若葉ちゃんは修学旅行はどこを回るのかなぁと思い、電話をして
みた。
﹁私は断然、大英博物館!猫のミイラが見たい!ロゼッタストーン
が見たい!しかも入館料無料!イギリス、なんて太っ腹!あとねぇ、
スペイン広場でジェラートが食べたい!﹂
若葉ちゃんは初の海外旅行に興奮していた。
﹁残念だけど、スペイン広場での飲食は禁止のはずではないかしら
⋮﹂
﹁ええっ?!﹂
若葉ちゃんはがっかりしていたけれど、近くのお店でスペイン広
場を見ながら食べればいいんじゃないかな。
﹁そうだ!吉祥院さんが先にパスポートを作っておくように教えて
くれたから、手続きもスムーズだったよ。ありがとう!﹂
﹁どういたしまして﹂
私が今まで何度か訪れた時の3都市の感想などを話して、若葉ち
ゃんがそれを熱心に聞いたあと、私は﹁ところで⋮﹂と春休みの図
書館通いで勉強ははかどったかと話を向けてみた。
﹁うん。静かだしね∼。集中できて良かったよ﹂
﹁そうなの。それは良かったわね。図書館へは毎回ひとりで?﹂
﹁だいたいはね。水崎君と一緒に行った時もあったけど。あ、それ
と鏑木君とも行ったんだ﹂
﹁まぁ、鏑木様と?﹂
﹁うん。鏑木君からね、図書館に行って一緒に勉強しないかって誘
1426
われて。でも鏑木君って普段はあまり図書館で勉強をしないらしい
んだ。だから私が前に水崎君に教えてもらって気に入った図書館に
一緒に行ったんだよ。そしたらそこに偶然水崎君もいてね、席も空
いてたし3人で勉強したんだ﹂
﹁ほぉ∼﹂
それは鏑木から聞いた通りの話だね。鏑木が天国から地獄に突き
落とされた瞬間だ。
﹁3人で勉強は楽しかった?﹂
﹁楽しかったというか、参考になったかな。水崎君が通っていた春
期講習のテキストを見せてもらったり、鏑木君の使っている参考書
を教えてもらったり﹂
これは本当にデートじゃなくて勉強会だったらしい。哀れ、鏑木。
﹁それより今度、家でホットプレート使って鉄板焼きをやるんだ。
吉祥院さんも来ない?﹂
﹁えっ?!行く、行く!﹂
私は高道家の訪問スケジュールを話し合った。鉄板焼き∼!
1427
212
クラス委員として修学旅行の準備で慌ただしいけれど、手芸部も
おろそかにしてはいけない。
そろそろ、新入生達が部活見学を始める時期だ。去年は正式部員
になれた嬉しさに張り切り過ぎてしまったが、今年は部長として節
度ある対応でがっつり部員を確保せねば。南君のような男子の部員
も増やしたいね!
そんなことを手芸部のみんなと話しながらのんびり手芸をしてい
ると、穏やかな気持ちになれて癒されるわ∼。このままずっと、難
しいことを考えずに編み物をしながらおしゃべりしていたいわ∼。
世俗はなにかとわずらわしいことが多い。
若葉ちゃんと鏑木はクラスは別れてしまったけれど、瑞鸞は3年
になると選択授業が増えるので、その授業によってはいくつかふた
りが同じ授業を受けることもある。若葉ちゃんと同じクラスになれ
なかったことを﹁極めて遺憾⋮!﹂と言っていた鏑木は、この少な
いチャンスをモノにしようと、勉強に関する話を、授業の前後に話
しかけたりしているらしい。
若葉ちゃんも勉強の話なら乗ってくるので、傍から見ると話が弾
んでいるように見える。
春休みを挟んで若葉ちゃんへの風当たりとふたりの噂が沈静化す
るのを期待していたけれど、鏑木の態度がこれじゃあ女子の嫉妬は
収まりそうにない。
いいかげん鏑木も若葉ちゃんの立場を考えて、話しかけたりする
なよと思うけど、鏑木としてもクラスは違うし、放課後は若葉ちゃ
んは生徒会の仕事で忙しいし、休みの日もなかなか会えない。そう
なると休み時間くらいしか交流できる時がない。恋する男子はこれ
1428
でも最大の譲歩をしているそうだ。まぁ、気持ちはわかるけど⋮。
本来なら周りなど気にせず、若葉ちゃんに好きなだけ話しかけて一
緒にいたいところをグッと我慢しているのだろう。鏑木は生徒達の
人気がありすぎるから、好きな女の子を諦めろというのはさすがに
酷だもんね。バカだけど一途だからね。
そして円城の噂もある。
鏑木家の観桜会で、円城が唯衣子さんと腕を組んで親密にしてい
たという話が新学期に広まっていた。たぶん招待されていた数人の
瑞鸞生から流れたんだと思うけど。
円城は関係を聞かれると、﹁親戚だよ﹂と躱していたけれど、あ
れはどこからどう見ても仲睦まじい恋人同士だろう。親戚の距離感
じゃなくない?
おかげで私も、円城ファンの女の子達から﹁円城様がきれいな女
性と寄り添っていたというのは本当ですか?﹂﹁相手はあの学園祭
に来ていたかただというのは本当ですか?﹂といろいろ聞かれた。
﹁円城様が女の子と一緒にいたのは見かけましたけど、それ以上は
わかりませんわ?﹂と無難に答えておいたけど⋮。
どっちにしろ円城の恋愛話をこっちに持ってこられてもね∼。﹁
麗華様から円城様にお相手の女性のことをどう思っているのか、聞
いていただけません?﹂って、絶対にムリ!
そんなこんなで、瑞鸞は相変わらず鏑木、円城の話題を中心に回
っている。
ただでさえまだ慣れない新年度と、修学旅行などの雑務で忙しい
のに、他人の恋愛にまで振り回され、ささくれだつ私の心を癒して
くれるのが手芸部。ちまちま手芸をしていると、俗世間を忘れられ
るのだ。ずっとここで和んでいたいわ∼。
なのに元凶からの呼び出しメールが今日も届く。ちっ。今日はサ
ロンに行かず手芸部にずっといるつもりだったのに。無視すると5
分間隔で催促メールが来るからなぁ⋮。迷惑この上ないよ。やはり
携帯を水没させてしまおうか⋮。
1429
﹁遅かったな﹂
開口一番がそれかよ。手芸部という楽園からわざわざ出てきてや
った私に向かって、なんたる我田引水。
﹁鏑木様。こんなことを申し上げるのは心苦しいのですが、私にも
予定というものがあります。鏑木様の都合にすべて合わせるわけに
は参りません。高道さんに対しての嫌がらせに関しては、酷いもの
は私も目を配っておきましょう。しかし恋愛問題に関しては、まず
はご自分で努力なさいませ。そしてアドバイスが必要な時にだけ連
絡をしてきてください。よろしいですね?﹂
カチンときたので少し反論してやったら、鏑木はまた目を丸くし
ていた。
﹁わかった⋮﹂
鏑木の唯一の長所、素直。鏑木は渋々頷いた。
﹁わかっていただけたのでしたら、よろしいですわ。それで今回の
お話は?﹂
﹁⋮⋮高道の気持ちがわからない﹂
サロンに来ているメンバーに聞かれないように、今日も私達は小
会議室でこそこそ話している。
1430
﹁それを私に聞かれましても⋮﹂
﹁どうすれば、その、気を引けると思う⋮?﹂
クールで怜悧な瑞鸞の皇帝が、恋する乙女のようなことを言いだ
した。
﹁ですから告白してしまえばよろしいじゃありませんか﹂
﹁だから、早いって!﹂
心なしか顔が赤くなった鏑木が、私の提案を否定した。
﹁でも、相手の気持ちもわかり、さらに恋愛対象として意識しても
らうには、告白が手っ取り早いのではありませんか?﹂
﹁それは⋮。でも俺は告白する時は万全のシチュエーションで臨み
たい。まだその準備が出来ていない!﹂
告白のシチュエーション?放課後の教室とか、夕暮れの公園とか、
そういうこと?
﹁シチュエーションとは、たとえば?﹂
﹁⋮たとえばだな、花火を何十発も打ち上げるとか、スカイライテ
ィングで空にメッセージを描くとか﹂
﹁ええっ?!それってプロポーズでやるシチュエーションでしょ?
!たかが告白でそれ?!﹂
好きだ
とか描くんでしょ?!あ
またもや衝撃で素が出てしまった。でもだって、スカイライディ
ングってさぁ、飛行機雲で空に
りえな∼い!
﹁大切な告白シーンだ。思い出に残るものにしたい﹂
1431
鏑木は自信たっぷりだ。
﹁いやいや、それは絶対にやめておいたほうがいいと思いますわよ。
そういった演出に感動する女の子もいますけど、高道さんはそうじ
ゃないと思いますから。むしろ自分のためにそこまでお金を使った
ことに引くと思います﹂
﹁そうか?﹂
﹁そうです!﹂
高い制服を簡単にあげた私の金銭感覚に驚いた若葉ちゃんだ。自
分への告白に何百万もかけるようなことをしたら確実に鏑木の金銭
感覚に引いて、仮に好意があったとしても冷めると思う。
﹁じゃあ家中を埋め尽くす薔薇の花を贈って、俺の想いの大きさを
訴えるか。ロマンチックだと思わないか?﹂
﹁足の踏み場もない上に、枯れた時のゴミ処分が大変です。ゴミ袋
何十個分ですか﹂
﹁貧乏くさい指摘だなぁ﹂
﹁これが現実です﹂
﹁ならホールを貸し切りオーケストラを呼んで、彼女のためだけに
演奏を﹂
﹁ですからお金にモノを言わせる発想から離れてください。高道さ
んは普通の家庭に育った普通の金銭感覚の持ち主なんですから。今
まで言ったどれでも、実践したらドン引きされますわ﹂
﹁普通の金銭感覚ってなんだよ。お前がロマンを解さないだけなん
じゃないのか?﹂
﹁絶対に違います。瑞鸞のほかの女子なら、その演出に感動するで
しょう。でも高道さんは違うでしょう。彼女はお金を稼ぐというこ
との大変さをよくわかっているのです。それを親のお金で派手な演
1432
出をしたりしたら、喜ぶどころか負担になるでしょう。そもそも今
挙げた演出のどれもが陳腐なんですよね﹂
﹁言いすぎじゃないか⋮?﹂
﹁心を鬼にして苦言を呈しております﹂
﹁⋮じゃあどうするんだよ﹂
﹁ただ好きですとだけ言えばよいのでは?﹂
﹁普通すぎる。せめて彼女の誕生石の指輪を一緒に渡すとか﹂
﹁重っ!付き合ってもいないのに指輪って重すぎるっ!それで断ら
れたらその指輪はどうするんですか!﹂
﹁断られるとか不吉なことを言うな!指輪は⋮処分だ。海にでも投
げる﹂
﹁うわっ!物を大切にしない人は、高道さん一番は嫌いますよ。そ
して海に投げるって⋮ぷふっ﹂
﹁てめぇ⋮﹂
﹁失礼。まぁいつか指輪を渡すことがあるとして、もし受け取って
もらえなかった場合は換金してどこかに寄付いたしましょう。とて
も有意義なお金の使い方です﹂
﹁相談する相手を間違えたかなぁ⋮﹂
いやぁ、いきなり指輪はないわ。ヘタしたらホラーだわ。鏑木は
話すたびにその恋愛スキルの低さを見せつけてくれる。
﹁女はアクセサリーが好きなものだろう。でもそうだな⋮、高道に
はアクセサリーをプレゼントしたけど、付けているのを見たことが
ない﹂
﹁えっ!アクセサリーのプレゼント?!いつの間に!﹂
それは若葉ちゃんからも聞いていないぞ!
﹁いつ渡したのですか?﹂
1433
﹁クリスマスだ﹂
﹁クリスマス?﹂
鏑木のクリスマスプレゼントは、ドイツ製のクリスマス限定テデ
ィベアだったはず。数万円と普通の高校生だったら高い贈り物だけ
ど、鏑木にしては常識の範囲内のプレゼントを選んだなって思った
のに。
﹁テディベアを贈ったんだ⋮﹂
﹁ええ﹂
それは知っています。
﹁その首にダイヤモンドのハートのネックレスを架けたんだが﹂
﹁はぁっ?!﹂
あの時見せてもらったテディベアに、そんなの付いてたか?!可
愛いクリスマスの衣装を着ていたから全然わからなかった!
﹁ハートに俺の気持ちを込めてみた﹂
﹁告白すらしていない相手になにをやっているんですか!﹂
﹁わかりやすいハイブランドの商品では遠慮するかと思って、オリ
ジナルで作った﹂
﹁誰が﹂
﹁俺が﹂
﹁俺が⋮といいますと﹂
﹁俺のハンドメイド作品だ。工房に通ってロストワックスから仕上
げまでやった、渾身のハートのネックレスだ﹂
﹁重っ!手編みのマフラーより数倍重いっ!﹂
1434
それにさぁ⋮。
﹁そのネックレスの意味に、気づかれていないんじゃないんですか
⋮﹂
﹁えっ?!﹂
ぬいぐるみの服に隠れて見えなくなっている状態なのか、もしか
したら外して若葉ちゃんが別に保管しているのかはわからないけど、
少なくとも私が見た時にはネックレスなんてしていなかった。
﹁いや、気づくだろう、普通﹂
﹁どうでしょうねぇ﹂
テディベアの値段にびっくりしていた高道姉弟だ。ネックレスの
プレゼントもあったら絶対に私に教えてくれたと思うけど。
﹁⋮まさか高道は、本当に気づいていないのか?﹂
﹁さぁ。だいたいなんで別々に渡さなかったんですか?﹂
﹁演出だ﹂
紛らわしいんだよ!そういった演出は、相手の適性を見極めない
と!
﹁でもハンドメイドのアクセサリーなんて、鏑木様がよく思いつき
ましたわねぇ﹂
﹁どういう意味だ﹂
﹁いえ、別に﹂
﹁優理絵が好きな映画に、手作りの指輪でプロポーズするって話が
あったんだ。それで優理絵のクリスマスプレゼントに、毎年アクセ
サリーを作ることを思いついた。中学の時だけどな。最初は百合の
1435
モチーフのネックレス。次の年は同じ百合のモチーフのイヤリング。
そして高校にあがった年には、百合の指輪を贈ろうとした⋮けど⋮﹂
あぁ、その前に振られたんでしたね。つらい過去を思い出したの
か、鏑木の顔が暗くなった。
﹁ネックレスとイヤリングには中心に優理絵の誕生石を入れて、指
輪にはダイヤモンドと、俺と優理絵の誕生石を入れた物を贈る予定
だった⋮﹂
ダイヤの指輪って、それエンゲージリングでしょう?!優理絵様
は今年は確実に指輪がくるって思ったから、慌ててきっぱり振った
んじゃないの?そりゃ怖いわ。そりゃ逃げるわ。
困った⋮。予想以上だ⋮。このバカは私の手には負えないかもし
れない⋮。
1436
213
疲れた⋮。
鏑木の想像以上の庶民感覚と恋愛スキルのなさに私は頭を抱えた。
あれからサロンに戻っても、鏑木は私に素敵な告白シチュエーシ
ョンについて語ってきた。ろくでもないアイデアが湯水のように溢
れてくる。さすがに若葉ちゃんの名前を出してくることはなかった
が、思いつくすべてのアイデアが大袈裟、かつ非現実的。これはダ
メだ。とりあえず告白はまだやめておこうという結論になった。ま
ずはこのバカに庶民感覚を覚えさせないと。うわぁ、道のりは厳し
そう⋮。
﹁吉祥院さん、雅哉の参謀になったんだって?﹂
﹁はぁ?!﹂
人目もあるし、あまりに鬱陶しいので、シチュエーションではな
く告白の言葉を考えてこいと鏑木に課題を出して追っ払い、私がぐ
ったりとしてお茶を飲んでいると、今度は円城が楽しそうに笑いな
がらやってきて、私に話し掛けてきた。
﹁なんですか、参謀って﹂
﹁うん?雅哉が言ってたよ。このたび吉祥院さんを参謀に迎えるこ
とにしたって﹂
なんだよ、それ!参謀ってさ、部下じゃん。私が鏑木の部下!な
んということだ、弟子の分際で!
﹁その役割は、私には荷が重すぎるようですわ。ご親友の円城様に
1437
あとはおまかせいたします﹂
﹁いやぁ、僕ではとてもとても⋮﹂
ふんっ。恋愛謳歌村の村民がなにを言うか。自分の経験を元にア
ドバイスをしてやればいいじゃないか。
﹁円城様は鏑木様が私になにを相談しているのか、ご存じですの?﹂
﹁うん、まぁね﹂
円城は鏑木のいる方向をちらっと見た。鏑木は窓辺に座り長い脚
を組んで静かに本を読んでいる。あれはたぶんきっと、厄介な恋の
詩集に違いない。また変な引用をするんだ⋮。
鏑木の残念な中身を知らないメンバー達は、その姿にうっとりと
ため息をついていた。
﹁それでしたらますます、円城様がアドバイスをなさったほうが有
意義だと思いますわ?﹂
﹁どうして?﹂
彼女持ちだからだよ!
だいたいなんで仲良くもない私にお鉢が回ってきたんだか。あぁ、
岩室君達か⋮。
﹁僕は異性の意見のほうが有意義だと思うな﹂
円城がニコニコと笑顔で言った。
﹁雅哉のこと、よろしく頼むね、吉祥院さん?﹂
1438
おでこに宝毛が生えてきたというのに、今年に入って厄介ごとば
かりだ。あ∼、面倒くさい。
そんなことを考えてごろごろしていた土曜日、ピヴォワーヌのメ
ンバーであり同じグループの芙由子様に﹁ぜひ一度麗華様と親しく
お話ししたいの﹂と、突然お茶に誘われた。
学院外でお友達と会うのはとても嬉しいので、二つ返事で了解し
た。
芙由子様とは、初等科からずっと同じグループで、ピヴォワーヌ
のメンバーとしても付き合いがあったけど、個人的にあまり仲良く
するチャンスがなかったんだよね。ちょっとテンポの違うお公家様
気質というか。
でもこうして、休みの日に遊びに誘ってもらえるんだから、これ
からもっと仲良くなれるかな?新たな友達ゲット?!
うきうきした気分で、指定されたホテルのラウンジに行くと、芙
由子様のほかに年上の女性の姿もあった。
ん?芙由子様のお姉様?
﹁芙由子様﹂
﹁麗華様!﹂
私はふたりの座る席に近づき、声をかけた。
﹁よく来てくださったわ!さ、座って﹂
﹁ええ、ありがとう﹂
私はふたりの向かいの席に座ると、ハーブティーを注文した。
1439
﹁⋮え∼っと、それで今日は?﹂
﹁ええ!ぜひね、一度麗華様とじっくりお話がしたくって﹂
⋮そうですか。それは嬉しいんですけど、なぜ見知らぬ人が?
芙由子様の隣に座る女性は、年の頃は25歳前後?スーツを着た
地味な女性で、とても上流階級に所属する芙由子様の身内とは思え
ない。誰だ。
私はなんとなく、来たことを後悔した。
﹁私ね、最近麗華様が疲れた顔をしているのが、ずっと気になって
いたの﹂
﹁はぁ、そうですか﹂
﹁ええ。麗華様、今なにか悩んでいることがあるのではなくて?﹂
﹁悩み⋮いえ特には⋮﹂
﹁あら、あの庶民の子をめぐって、鏑木様といろいろとトラブルが
あったのではなくて?それにピヴォワーヌのサロンでも鏑木様達と
こそこそ話しているでしょう?ほかの方々は鏑木様と円城様とあん
なに仲が良くて羨ましいなんて噂していたけど、私は違うと思った
わ。だって麗華様の顔が幸せそうじゃないんですもの﹂
﹁はぁ﹂
いつもおとなしい芙由子様が、別人のように捲し立ててくる。
﹁それであの、芙由子様、こちらの方は⋮﹂
﹁ええ!そうなの!この方はリュレイア様といって、高位のヒーラ
ーです!﹂
は?
ヒーラー?ヒーラーってなんだ?ひら?平?平社員?
1440
﹁ヒーラーというのはね、癒しの力を持つ人のことを言うの。その
力で体や心を癒すことが出来るのよ!﹂
﹁初めましてヒーラーのリュレイアです﹂
欧米の血は一滴も入っていなさそうな化粧っ気のない地味な女性
の名前は、リュレイアさんというそうだ。
ヴァーチューズ
﹁⋮珍しいお名前ですね?﹂
﹁ヒーラーネームです。力天使から授けられました。奇跡の力で人
々を癒し導けという天啓とともに﹂
﹁はあ⋮﹂
ヴァーチューズ
力天使の加護を
と書いてあった。
リュレイアさんから渡された紫色の名刺には、
リュレイア
受けし高位のヒーラー 龍霊愛
まさかの漢字だった。
﹁私がとてもつらかった時、リュレイア様にお会いして心を救って
いただいたのよ。それ以来私はずっと、リュレイア様に導いていた
だいているの﹂
﹁あ、すみません、この本日のお薦め、ケーキ3種の盛り合わせと
いうのをお願いします﹂
通りすがりの店員さんにメニューを指差して注文した。小さなケ
ーキを3種類食べられるというのは、とても魅力的だね。
﹁⋮それで最近の麗華様を見ていたらずいぶんと大変そうでしょ。
ぜひ力になりたいと思ってリュレイア様にご相談したの﹂
へー。
それからもごちゃごちゃと説明をされたけど、終始気のない態度
1441
を取り続けていたら、高位のヒーラーの目がきつくなった。
﹁貴女には狐の霊が取り憑いています﹂
﹁大変だわ!麗華様﹂
﹁はあ⋮﹂
そうきたか。狐、ねぇ⋮。
なんだかもう、どうでもいいや。
﹁今すぐ除霊をしないと、さらに不幸なことが⋮﹂
﹁いいえ、それには及びません﹂
私はきっぱりと否定した。
﹁なぜなら私に憑いているのは狐ではなく、狸だからです﹂
﹁は?﹂
﹁その狸に、私は子狸化の呪いをかけられております。これは油断
すると腹部が狸化するという恐ろしい呪いなのです。そしてこの呪
いを解く術はありません﹂
﹁麗華様、なにを言って⋮﹂
﹁ですが、私はこの狸に愛着を持っておりますので、一生付き合っ
ていく覚悟をしております。うるさい狸ですが慣れれば可愛いもの
です。それゆえ除霊は結構。不幸な運命など、踏み潰し、蹴散らし
て前に進んでみせましょう﹂
ケーキとハーブティーを完食し終わった私は力強く宣言し、﹁で
は、ごきげんよう﹂と挨拶をして席を立った。
芙由子様は浮世離れしていると思っていたけど、そっちの人だっ
たかぁ⋮。参ったなぁ。
1442
家に帰ると私に取り憑いた狸の生霊が私を呪うべく、旬のフルー
ツタルトを用意して待っていた。ええいっ!調伏してやる!
1443
214
今日は若葉ちゃんの家で鉄板焼きだ。お土産はもちろん上質な牛
肉。タダ飯を食べるわけにはいきませんからね!
﹁高道さん、これね、お肉なの!よかったらあとでみんなで食べま
しょう?﹂
﹁ええっ!わざわざお肉を持ってきてくれたの?!いいのに∼。わ、
重い。ありがとう﹂
﹁いいえ∼﹂
うふふ、鉄板焼き、鉄板焼き。ホットプレートで鉄板焼き∼。
﹁どうぞ。あがって、吉祥院さん﹂
﹁お邪魔いたしま∼す﹂
若葉ちゃんのあとについてリビングに入ると、若葉ちゃんの弟妹
が出迎えてくれた。
﹁いらっしゃい、コロちゃん!﹂
﹁来たな、コロネ!﹂
﹁いらっしゃい﹂
﹁こんにちは。お邪魔します﹂
すっかりコロちゃん呼びが定着しちゃっているね。寛太君はキッ
チンに立ち、なにかを作っていた。
﹁吉祥院さん、座って?麦茶でいいかな﹂
1444
﹁ええ、ありがとう。寛太君、なにを作っているの?﹂
﹁ミルクプリン。コロネのぶんもあるからな﹂
﹁わぁ、嬉しい。ありがとう寛太君!私も手伝おうか?﹂
﹁いい。コロネは座ってろ﹂
﹁は∼い﹂
寛太君は口はちょっと乱暴だけど、面倒見がよくて凄くいい子だ。
いや、食べ物に釣られたわけじゃないよ?
私は若葉ちゃんに出された麦茶を飲んで、しばし休憩。はぁ∼、
落ち着くわぁ。
さっそくだけど、私は若葉ちゃんの家に遊びに行ったら、絶対に
確認したいことがあった。それはもちろん例の、鏑木手作りネック
レスのことだ。鏑木の話ではテディベアの首に架けて渡したらしい。
恐ろしいが聞いてしまった以上、確かめねばなるまい。
私は隣で4月からの授業の話をしている若葉ちゃんに、さりげな
∼く話を振ってみた。
﹁ねぇ、高道さん。前に鏑木様にテディベアをプレゼントされてい
たでしょう?可愛かったからもう一度見せてもらえない?﹂
﹁えっ?うん、いいよ﹂
若葉ちゃんはなんの疑いもなく私を自分の部屋に案内し、テディ
ベアを見せてくれた。
﹁はい、これ﹂
﹁ありがとう﹂
私の記憶通り、渡されたテディベアの首に鏑木の言っていたネッ
クレスは見えなかった。そっと服をずらして首回りを確かめる。無
い。
1445
﹁可愛いよねぇ、このテディベア。吉祥院さんから値段を聞いてび
っくりしたけど﹂
﹁そうね。目がクリクリしてて可愛いわね﹂
若葉ちゃんに相槌を打ちながら、服に隠れた胴部分などを隈なく
手で探ったけれど、金属の感触はどこにもなかった。
﹁⋮これはクリスマス限定テディベアですから、季節に合った可愛
いマントをしていますわね。ほかのテディベアだとクリスマスプレ
ゼントを持っていたり、小道具にも凝っていたりするのよ。この子
はなにも持っていなかった?﹂
どう聞いていいかわからなかったので小道具の話に絡めてみたけ
れど、若葉ちゃんからは﹁なにも持っていなかったよ!﹂という返
事しか返ってこなかった。
え∼っ!じゃあ鏑木が重すぎる気持ちをこめて作ったハートのネ
ックレスはどこにいった?!
私はひっくり返したり全身を触ったりして、もう一度隅々まで確
認した。ないじゃん!
﹁吉祥院さん、ずいぶんそのテディベアに興味があるんだねぇ﹂
﹁えっ、あ、私は手芸が趣味なので、今度自分で作ってみようかと
思って。ごめんね、ジロジロと﹂
さすがにちょっと挙動不審だったか。
﹁ううん、全然。そっか、吉祥院さんって手芸部だもんね。どうぞ
ゆっくり見て!﹂
﹁ありがとう⋮。えっと、この子は女の子かしら?女の子のテディ
1446
ベアだと、ティアラを付けていたりアクセサリーを付けていたりす
るのもあるのよ?﹂
﹁そうなんだぁ。マントが女の子っぽいから女の子かもね﹂
﹁そうね⋮。この子はなにも付けていなかった?その、アクセサリ
ー的なモノを⋮﹂
﹁アクセサリー?付けていなかったと思うけど⋮﹂
﹁そう⋮﹂
私は諦めて若葉ちゃんにテディベアを返した。すると受け取った
若葉ちゃんが﹁あ!﹂と声をあげた。
﹁思い出した。この子ネックレスを付けてたよ﹂
﹁えっ?!付けてたの?!﹂
やっぱりあったんだ!
﹁うん。可愛いハートのネックレス。そうだった、あれは元々この
子が付けていた物だった﹂
﹁それはどこに?!﹂
私は意気込んで尋ねた。
﹁妹が持ってるよ﹂
﹁菜摘ちゃんが?!﹂
なんで若葉ちゃんの妹が?!
でもまだ小学生だからね。ちゃんとしたア
﹁うん。なっちゃんが一目見て気に入っちゃってさ。ほら、おしゃ
れしたい年頃でしょ?
クセサリーなんて早いけど、ぬいぐるみが付けてたおもちゃのネッ
1447
クレスならいいかなって思ってね。あげたんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
鏑木⋮、なんてこった。
﹁そのネックレス、良かったら見せてもらえないかしら⋮?﹂
﹁え?うん、いいけど。じゃあ、なっちゃんに言ってみるね!なっ
ちゃーん!﹂
鏑木、どうしよう。若葉ちゃんはネックレスの価値にも意味にも、
本当に全く気づいていなかったよ。
若葉ちゃんに言われて小学生の妹がネックレスを持ってきてくれ
た。
﹁これだよ﹂
それはパヴェダイヤをぐるりと敷き詰めた、オープンハートのプ
ラチナネックレスだった。
﹁全然おもちゃに見えないでしょ?﹂
おもちゃじゃないからね⋮⋮。
﹁ぬいぐるみのおまけとは思えないよねぇ﹂
そもそもこのネックレスのおまけが、テディベアだからね⋮⋮。
私はネックレスを手に取ってじっくり見せてもらった。
手作りっていうから、もっと歪な形の素人作品を想像していたけ
れど、鏑木は無駄に器用だったようだ。普通に売っている物と遜色
ないクオリティだった。頑張ったんだね、鏑木⋮。さすが優理絵様
1448
と彫られているのを見つけた私は、幻の涙が止まらない
に毎年作ってプレゼントしていた実績持ちだけあるよ。裏に小さく
M&W
よ。
これは若葉ちゃんのために、鏑木が工房に通って一から作った重
い重い気持ちのこもったハートのネックレスだ。しかし菜摘ちゃん
が嬉しそうに自分の首に架けているのを見て、私はとても本当のこ
とは言えなくなった。とっても気に入っちゃってるんだね、菜摘ち
ゃん⋮。
うん、なかったことにしよう。見ざる、聞かざる、言わざる⋮。
あぁ、でもせめて、おもちゃ扱いで鏑木の手作りネックレスが簡
単に失くされたり捨てられたりしないように⋮。
﹁これね、クリスマス限定商品だから、テディベアが付けているア
クセサリーも、普通に人間が使える良い品だったりするの。だから
大切に使ってあげて?﹂
﹁ええっ?!そうなんだ!なっちゃん、大事にしてね?﹂
﹁うん!﹂
忘れよう。鏑木が若葉ちゃんを想いながらデザインを考え、若葉
ちゃんを想いながら工房に通ってコツコツ作り、若葉ちゃんへのサ
プライズでテディベアにネックレスを架けて、ドキドキしながらク
リスマスにプレゼントしたことなんて、全部忘れるんだ。
なにも知らない高道姉妹は無邪気な笑顔の陰で、私は幻の涙をそ
っと拭いた。
1449
215
ひとまず哀しいプレゼントのことは忘れ、リビングに戻ったあと
は、寛太君の作ってくれたおいしいミルクプリンを食べながら、若
葉ちゃんと修学旅行で行く場所についておしゃべりをした。若葉ち
ゃんは修学旅行がかなり楽しみらしく、ガイドブックまで買ってい
た。
﹁私、海外旅行初めてだからドキドキするよぉ。ねぇ、吉祥院さん
はこの衛兵交代って見たことある?﹂
﹁あるわよ。こ∼んな長い帽子を被った兵隊さん達が目の前を行進
するの﹂
﹁いいなぁ、見たいなぁ!﹂
そこに若葉ちゃんの弟妹達も話に加わり、ガイドブックを見なが
らわいわいと観光スポットの話で盛り上がった。
そろそろ夕食の準備に取り掛かる時間になって、お母さんが戻っ
てきた。
﹁いらっしゃい、コロちゃん!﹂
﹁こんにちは、お邪魔しております﹂
﹁お母さん、吉祥院さんからお土産もらった﹂
﹁まぁ、ありがとう!あらっ、いいお肉ねぇ!﹂
若葉ちゃんはお母さんの手伝いでキッチンに立ったので、私は寛
太君達と一緒にテーブルを拭いたりホットプレートを出したりした。
若葉ちゃんの家は人数が多いから、ホットプレートも2台使う。
しかしこうやって一緒に手伝いをさせてもらうと、なんだか単な
1450
るお客様じゃない感じがして嬉しい。私も高道家の一員になっちゃ
った、みたいな?えへへ。
って挨拶するんだろ
は浮くし、これみよがし
って言わないんだよ﹂
ごきげんよう
ごきげんよう
﹁なぁ、コロネ。瑞鸞って、
?なんでコロネはいつも
﹁TPO﹂
ごきげんよう
寛太君の疑問に、私は簡潔に答えた。
一般家庭の家に行って
ごきげんよう
って言ってみて∼﹂﹁
おほほ
っ
に聞こえるからね。臨機応変。でもそれを聞いた双子ちゃん達に﹁
コロちゃん、
なんだ⋮。
おほほのコロネ
⋮。若葉ちゃんの家にい
て笑って﹂とリクエストされてしまった。私のイメージ、やっぱり
おほほ
る時は、笑いかたに気をつけよう。
仕事を終えた若葉ちゃんのお父さんも戻ってきて、いよいよ鉄板
焼きの始まりだ。私は若葉ちゃんと寛太君と3人でホットプレート
を使った。
﹁すげぇ!今日、肉の量多くない?﹂
﹁コロちゃんがお土産に持ってきてくれたのよ。こっちのお皿のお
肉はいいお肉なんだから、味わって食べるのよ﹂
﹁でかした、コロネ!﹂
私の持参したお肉は高道家のみなさんに好評だったので、おかげ
で私も遠慮なく人様の家で夕食をごちそうになることができた。こ
うやって大人数で食卓を囲むと、食事がさらにおいしくなるね。あ
∼、ポン酢ダレがおいしい!
前世でもこうやって家族でホットプレートで焼き肉をしたりした
なぁと、懐かしくも庶民的な光景に思わず気が抜けて、時々﹁若葉
ちゃん﹂と呼んじゃったりして焦った。言葉使いも素が出てる時が
1451
あったな。若葉ちゃんは気にする様子もなかったけど。だったら学
校以外では若葉ちゃんって呼んでもいいかな⋮?
満腹になり、飾らない高道家の居心地の良さにいつまでもこのま
ま寛いでいたかったけど、門限もあるから急いで帰らないと。
帰り際に﹁余り物で悪いけど﹂と、ケーキをお土産にいただき、
駅までは若葉ちゃんのお父さんが車で送ってくれた。至れり尽くせ
りだ。ありがたい。車から降りると、若葉ちゃんが﹁また明日ね!﹂
とお父さんと手を振って見送ってくれた。それに応え、私も手を振
り返す。あぁ、楽しかった。また来たいなぁ。
私は電車の中で若葉ちゃんにお礼のメールを送った。
今夜はお父様とお母様はパーティーに出かけているから、帰った
時にどこに行っていたのか聞かれずに済むので良かった。
門限ギリギリに帰宅すると、お兄様がいた。
﹁おかえり、麗華﹂
﹁ただいま、お兄様﹂
お兄様は鼻をクンと鳴らすと、﹁なんだか香ばしい匂いがするね﹂
と言った。やばい!お風呂直行だ!
香りのいいシャンプーで髪もしっかり洗い、ルームウェアに着替
えた私は、お土産にもらったケーキを持ってリビングに戻った。
﹁お兄様、ケーキがあるの。一緒に食べません?﹂
﹁ありがとう。もらうよ﹂
私はお茶を淹れてお兄様の隣に座り、苺のショートケーキを食べ
1452
た。
﹁ねぇ、お兄様。お兄様のお友達は、どんなかたが多いのですか?﹂
﹁友達?そうだなぁ、学生時代にできた友人が大半かな。社会人に
なってから知り合う相手はどうしても仕事に関係がある人が多いか
ら、純粋な友人とは言い難いし﹂
﹁そうなんですか。学生時代ということは、瑞鸞の同級生?﹂
﹁まぁ、そうだね。それ以外にも他校の学生や旅行先で意気投合し
たヤツとか、いろいろいるけど﹂
﹁そうですか⋮。お兄様のお友達には、普通の家のかたはいらっし
ゃるのですか?﹂
﹁普通の家って、一般的なサラリーマン家庭のような家ってこと?﹂
﹁ええ、まぁ⋮﹂
その問いに、お兄様は隣に座る私を窺うように見てきたあと、﹁
⋮いるよ﹂と答えた。
﹁高等科から入ってきた外部生の友人もそうだし、大学時代の友人
にも大勢いる﹂
﹁そうなんだ⋮﹂
食べ終わったお皿にフォークを置き、私は小さく独り言のように
呟いた。
そんな私の頭を、なにかを察したお兄様がポンポンと撫でた。
﹁麗華。お父さん達の考えかたなど気にせず、どんな家柄だろうと、
麗華が素晴らしいと思う人達と付き合えばいいんだよ﹂
﹁うん⋮﹂
いつか、若葉ちゃんをお兄様に紹介できたらいいな。
1453
週明けの月曜日は、芙由子様と顔を合わせるのが少し気まずかっ
たけど、特になにかを言われることはなかった。ほっ、良かった⋮。
土、日の暴食で確実に狸の呪いが私の身に降りかかっているのがバ
レませんように。
しかし芙由子様以上に顔を合わせるのが気まずかったのは鏑木だ。
話だけを聞いていたぶんには完全に他人事として考えていられた
けど、昨日あの鏑木渾身の手作りネックレスの実物と、その行方を
目の当たりにしてしまってから、どうにも鏑木への同情心が渦巻い
て、これまでのように勝手にすればと心の中で突き放すことができ
なくなってしまった。
あれは切なかった。
鏑木という男は、放っておいたら次々に頓珍漢な涙の恋エピソー
ドを増産していくに違いない。そして私はこのままではそれを逐一
目にする羽目になるのだ。それはいけない。私が泣いてしまう。号
泣だ。
だってあのネックレス、作るのに時間かかったと思うよ?私はア
クセサリーを手作りしたことはないから、どれくらい大変なのか知
らないけど、女の子が好きな人を想って編んだ手編みのマフラーと
種類は一緒だもんね。その重さはともかく⋮。
私の心の平安のためにも、今後はもう少し親身になって鏑木の相
談に乗ることを決意した。
1454
216
私がマンガを読んで胸をときめかせていた﹃君は僕のdolce﹄
の鏑木雅哉は、あんな頓珍漢な残念皇帝じゃなかった⋮。
眉目秀麗、頭脳明晰で瑞鸞の皇帝と呼ばれ、クールで近寄りがた
い外見とは裏腹に、中身は熱く強引で、好きになった女の子には一
途だけど恋愛にはちょっと不器用。おかげで言葉が足りなくて時々
すれ違っちゃう時もあったけど、そのギャップに読者は母性本能を
くすぐられた。ごめんねの代わりに手を差し出し、夜光虫が輝く夜
の海を無言で手を繋いで歩くシーンとか、胸がキュンキュンしたわ
∼!
とにかく女の子の理想が詰まった、乙女のハートを惹きつけてや
まない魅力あふれる皇帝だったのだ。
それなのに⋮。
現実の鏑木雅哉は、確かに眉目秀麗、頭脳明晰で瑞鸞の皇帝と呼
ばれている。そしてクールで近寄りがたい外見でもある。しかし!
中身は小学生なみの精神構造でストーカー気質で空気が読めず、片
思いの女の子に手作りのアクセサリー︵ふたりのイニシャル入り︶
皇帝
という異名は、その圧倒的なカリス
を贈っちゃうような残念っぷり。これはあんまりだ。前世の私の胸
キュン返せ。
そもそも君ドルでの
マ性から付けられたもので、決して騎馬戦由来などではなかったは
ずだ。君ドルの皇帝にお笑い要素は皆無だった。ギャップが行き過
ぎだろう。
しかし鏑木は上手いことその残念な中身を隠せている。ほとんど
の人が鏑木をまるで君ドルの皇帝のような人間だと思っているんじ
ゃないか?若葉ちゃんだってこの前鏑木を大人っぽいなんて言って
たし。本当の中身はアレなのに⋮。顔がいいって得だね!
1455
私の知らないところで鏑木が恋愛黒歴史を勝手に積み重ねている
ぶんには、私の心が痛むこともないんだけどなぁ。でもその不憫っ
ぷりを知っちゃうとさぁ、こっちが泣けてくるんだよ。なんで見せ
てもらっちゃったかなぁ、お手製ネックレス⋮。知らなきゃ良かっ
た。
そんな私の気も知らず、鏑木は次のプレゼント作戦を考えている。
﹁女の欲しい物が思いつかない。なにがいいと思う?﹂
ピヴォワーヌのサロンの定位置に座る私に、鏑木が相談を持ちか
けてきた。
私の元に真剣な顔の鏑木が話し掛けに来ると、周りは気を使って
距離を保ってくれるので、小声なら話を聞かれる心配もない。
﹁消え物が一番ですわね﹂
私は即答した。
受け取る側に負担にならない生花や食べ物がお薦めだね。特に食
べ物はいいね。食べればなくなっちゃうから。
﹁消え物?!イヤだ。俺は形に残る物にしたい。いつも身に付けら
れる物だったり、常に近くにある物だったり﹂
さすがストーカー気質。発想が重い。
しかしこのまま放置しておけば、またとんでもないプレゼントを
するに違いない。軌道修正しなければ。
﹁プレゼントはあまり高価な物はやめておいたほうがいいと思いま
すわよ﹂
﹁なんでだ﹂
1456
﹁彼女の性格上、親からもらったお金で高価な物をプレゼントされ
るのは、嬉しいよりも心苦しさが先に立つと思いますから。それだ
ったらたとえば、自分でアルバイトをして買った安いプレゼントの
ほうがよっぽど喜ぶのではないでしょうか﹂
私が親に買ってもらった制服を、正確な値段も知らずに気軽にあ
げた時の反応からして、それは絶対だと思う。若葉ちゃんは親思い
の上にお金を稼ぐことの大変さを知っているからね。
﹁自分で稼いでプレゼントしろということか﹂
﹁まぁ、そういうことですわね﹂
自分のために汗水流して働いてプレゼントを買ってくれるなんて、
泣かせるじゃないか。確実に心に響く。ただ若干重いけど⋮。付き
合ってもいない相手からだったら更に重いけど⋮。
﹁自分で稼いだ金も多少はあるぞ﹂
﹁えっ、そうなんですか?!どうやって?﹂
びっくり。瑞鸞は基本的にバイト禁止なのに。
﹁主に投資だな﹂
﹁投資⋮、というと株とかですか。う∼ん、投資で稼いだお金か⋮。
それなら一応自分で稼いだということになるのか⋮。でも株⋮。は
っ!株?!鏑木様!株を買い占めて私の家を乗っ取るつもりでは?
!約束が違いますよ!﹂
﹁はぁっ?!そんなことするか!﹂
鏑木が大声を出したので、サロンにいたメンバーが一瞬こちらに
注目したが、今の私はそれどころじゃない。株!乗っ取り!一家離
1457
散!
私はカバンからかつて書かせた念書を取り出した。
﹁この約束を覚えているのでしょうね!﹂
﹁うわっ、お前それ、わざわざフィルム加工したのかよ!怖ぇよ﹂
当然だ。鏑木に書かせた念書は、汚れたりしないようにしっかり
フィルムパウチして保存してある。これで水で滲んだり破けたりと
いった心配もなしだ。
しかし鏑木が株をやっている以上、これだけでは心もとない。
﹁鏑木様、今後お手伝いするにあたり、もう一筆書いてもらいまし
ょうか。今度こそ血判で!﹂
やはり拇印くらいじゃ信用ならない。その誓いを体に痛みとして
刻み込んでおかねば。
﹁また血判かよ!お前の家、絶対になんかやってるだろ!﹂
﹁声が大きいですわ。誰かに聞かれたらどうします﹂
﹁粉飾か?!黒い交際か?!勘弁してくれよ⋮﹂
なにを言っている。吉祥院家の会社は後ろ暗いところなどなにひ
とつない、優良企業です。
﹁株をやっているといっても、会社を乗っ取れるほど稼いでないか
ら平気だって⋮﹂
﹁本当ですか?﹂
﹁本当だよ。学業の合間にやってる投資なんて、たかが知れてるっ
て。お前の家の会社の株を買い占めるのに、どれだけの資金が必要
だと思ってるんだよ﹂
1458
﹁どれだけの資金があれば買い占めることができるか、知っている
のですね?!﹂
私が身を乗り出して問い詰めると、鏑木は後ろにのけぞった。
﹁知っててもやらないし、できない!﹂
本当でしょうね。私の人生がかかっているんだ。嘘は許さない。
ジーッと鏑木を見据えると、﹁どんだけやばい会社なんだよ⋮﹂と
嫌そうに顔を背けられた。失礼な。優良企業です!
でも、そこまで言うなら一応信じてみるか。しかし要注意事項だ
な。目を光らせておこう。帰ったらお兄様に株の買い占めが行われ
ていないか聞いてみたほうがいいな。
﹁わかりました。信じましょう。それでは先ほどの話に戻りますか﹂
﹁あぁ﹂
私が引くと鏑木はホッとしたような顔をした。信じているからね、
鏑木!
﹁ではプレゼントの話ですが、消え物は相手側の心の負担も少ない
ので気軽に受け取ってもらいやすいんです。それにきれいなお花や
可愛いお菓子などをもらうと、女の子は嬉しいものですよ。だいた
い毎回高いプレゼントでは、なんだか物で釣っているような気がし
ませんか?﹂
﹁それは確かに⋮﹂
鏑木はなるほどといったように頷いた。
﹁高価なプレゼントは、ここぞという時にだけですわ﹂
1459
M&W
ブランドのネックレス
﹁ここぞというクリスマスに渡した、俺のハンドメイドネックレス
はどうなったんだろう⋮⋮﹂
わ!やめて。思い出さないで!
は若葉ちゃんの妹の手に渡りました。
﹁⋮まぁ、それはいいではないですか。あ、そうだわ。テディベア
は良かったと思いますわよ。それにカナダのお土産のメープルシロ
ップも!﹂
あのメープルシロップのお土産は、若葉ちゃんはかなり喜んでい
た。私ももらったけど、おいしかったもんね∼。日本で売っていな
いかしら?
﹁そうか。ん?俺がメープルシロップをやったことを、なんでお前
が知っている?﹂
えっ?!言わなかったっけ?!まずい!
﹁あら?鏑木様から聞きませんでした?前に聞いた覚えがあるので
すけど⋮?﹂
目を合わせたらダメだ。目は口ほどに物を言う。ティーカップの
中身を見ているフリをする。私は今、紅茶占いをしているんです。
動揺なんてしていません。
﹁話した覚えはないが⋮﹂
無駄に記憶力がいいな、鏑木。自分の話したことをすべて覚えて
いるのか。鏑木が記憶を辿りはじめたので、慌てて﹁あのメープル
1460
シロップはおいしかったですわねぇ!いかがでした?反応は﹂と邪
魔をした。
﹁⋮あぁ。あれは高道にもおいしかったとお礼を言われた﹂
鏑木はその時を思い出したのか、ちょっと嬉しそうな顔をした。
﹁でしょう!素晴らしいセレクトでしたわ﹂
私はここぞとばかりにヨイショした。
﹁まぁな。本当はメープルシロップなどではなく、もっといい物を
買って贈るつもりだったんだが、秀介に止められた。クリスマスプ
レゼントも贈ったんだし、お土産にはこれくらいが丁度いいなんて
言われて﹂
﹁まぁ!﹂
円城、ナイスアシスト!
﹁円城様からもアドバイスをいただいているんですね?﹂
﹁たまにな﹂
そうだったのか。
﹁でしたら私などに相談するよりも、円城様に相談すればよろしい
のに﹂
そうだ。ヤツは恋愛謳歌村の村民だ。さぞや実体験に元づいた、
いいアドバイスをくれるだろうよ。
1461
﹁その秀介が言ったんだよ。恋の相談なら、女性の意見を取り入れ
るべきだってな﹂
﹁なんですって?!﹂
円城ーー!!今のこの私の心労はすべてお前のせいかっ!
あいつめ!私にはしれっと、雅哉の参謀になったんだって∼なん
て言っておきながら、お前こそが元凶じゃないか!あの、腹黒っ!
どこに行った、あの腹黒炎上は!帰ったのか!きーっ!
﹁女性の意見っていっても誰に聞けばいいか困ってたところに、岩
室達からお前の話を聞いたんだ﹂
あぁ、岩室君、委員長⋮。いや、彼らは悪くない。悪いのは円城
だ。
﹁女性の意見が欲しいのなら、優理絵様か愛羅様にご相談されれば
よろしいのでは?﹂
﹁優理絵達は進路のことで忙しいんだよ⋮﹂
私も受験で忙しいのですが?
あれ?なにちょっと不貞腐れた顔してんのよ。もしかして優理絵
普段は大人っぽい
のですか?
様にかまってもらえないから拗ねてるの?若葉ちゃん、コレのどこ
が
﹁⋮ったく。岩室達は吉祥院を恋愛成就の髪様なんて言ってたけど、
俺には全然ご利益ないぞ﹂
﹁信心が足りないのです﹂
祈りなさい。
私は右手を挙げ左手を垂らし、施無畏与願印のポーズをとった。
1462
﹁神様からの助言を与えましょう。自分の趣味を押し付けるのでは
なく、相手の趣味や好みに合わせなさい。さすれば少しずつ道は拓
かれます﹂
﹁胡散臭い⋮﹂
胡散臭いだと?!そんな態度だからご利益がないのです!鏑木に
は私のなけなしの恋愛運は絶対に分けてやんない!
﹁では理解力、想像力に乏しい鏑木様に、具体的な助言を与えまし
ょう。高道さんがもらって一番喜ぶ物。それは参考書に問題集でし
ょう﹂
﹁はぁ?!﹂
特待生で受験生でもある若葉ちゃんにとって、参考書はなくては
ならない物だ。参考書も問題集も高いからね。
﹁なんて夢のないプレゼントだ⋮。やはり相談相手を間違えたか⋮﹂
鏑木はがっくりと肩を落とした。
そんなことを言っておきながら、唯一の長所が素直という鏑木は、
さっそく参考書と問題集をプレゼントして、若葉ちゃんに大喜びで
お礼を言われた。しかもその流れで、また図書館で一緒に勉強しよ
うという約束まで取り付けて。
﹁やるな、吉祥院﹂
1463
私は鏑木の信頼を勝ち得たようだ。いらな∼い!
1464
217
鏑木は浮かれていた。
参考書と問題集をプレゼントして以来、若葉ちゃんと問題でわか
らないところをふたりで話し合ったりしているらしい。
﹁問題集をお互いどこまで進んだか、競争したりしてるんだ﹂
夢のないプレゼントだって言ってたくせに。﹁あいつ負けず嫌い
だからさぁ﹂って、余裕ぶってお茶を飲む口元がにやけているぞ、
鏑木。
﹁切磋琢磨でよろしゅうございました﹂
どうだ、この私の的確なアドバイスは。同じ問題集をやることに
よって、共通の話題も増えたであろう。さすが、私だ。
﹁わからない問題は、メールや電話で教え合っている﹂
﹁アドレスをご存じだったのですか?!﹂
いつの間に?!
﹁あぁ。夏に事故があって、その時にな﹂
﹁そうでしたか⋮﹂
まさか私の時のように、返信がないと5分おきに攻撃を仕掛けて
いるんじゃないだろうな。あれは最悪だぞ。そして怖いんだぞ。
1465
﹁⋮あまり頻繁にメールを送ると迷惑になるかもしれませんので、
ほどほどに﹂
﹁わかっている。俺だって節度くらい弁えている﹂
自信たっぷりに言ってるけど、鏑木の言う節度というものの尺度
が全く信用できないのですが。
﹁本当ですか?しつこい男性は嫌われますからね﹂
﹁あぁ﹂
﹁メールの返信がないからといって、何度も催促してはいけません
からね?﹂
﹁お前こそしつこい!俺をなんだと思ってるんだ!﹂
ストーカー予備軍だと思っていますが?
鏑木が不機嫌そうに顔を逸らしたので、今日はこれくらいで勘弁
してやろう。肝に銘じなさい。私はハイビスカスティーを一口飲ん
だ。ほんのり甘酸っぱくておいしい。
﹁⋮今度、一緒に図書館に行くだろ?﹂
不機嫌から復活した鏑木が、会話を再開した。
﹁ええ、そんなことを言っていましたわね﹂
﹁今度こそ、食事に誘おうと思ってるんだが⋮﹂
この前は確か青山のフレンチに連れて行こうとしたんだったか。
﹁あまり敷居の高すぎるお店は避けてくださいね﹂
﹁敷居が高いって、どれくらいのレベルを言うんだよ﹂
﹁そうですねぇ。まずフレンチのディナーは敷居が高いですわね。
1466
イタリアンならリストランテではなくトラットリアで。そして照明
の明るいお店でしょうか﹂
﹁難しいな。そこまで限定するか?﹂
どこが難しいんだ。いったいいつもどんなお店に通っているんだ。
﹁高道とは前にも食事に行ったことがあるけど、そんなに気にした
様子はなかったぞ﹂
﹁えっ?!いつですか?!﹂
﹁夏だ﹂
またか!
﹁ディナーですか?﹂
﹁いや、その時はランチだ。病院に行った帰りに寄った﹂
﹁ああ⋮﹂
若葉ちゃんの通院に、毎回付き添って行ってたんだっけ。
﹁ちなみにどちらに行かれたのですか?﹂
鏑木が名前を挙げたお店は、オーガニックにこだわった隠れ家フ
レンチレストランだった。あのお店かぁ。
﹁優理絵が好きな店なんだ﹂
﹁優理絵様が好きなお店⋮﹂
ふぅ∼ん⋮。
﹁で、その時もいきなり誘ったのですか?﹂
1467
﹁え?あぁ。診察が終わってちょうど昼だったから、食事でもして
帰ろうって言って、連れて行った。あの店は急に予約しても席を用
意してくれるからな﹂
私が前回言ったことを思い出したのか、鏑木は若干気まずそうな
顔をした。
﹁でも別にあいつ変な恰好はしていなかったぞ!料理もおいしそう
に食べていたし!それにあの店はフレンチといってわりとカジュア
ルだし!﹂
鏑木が私に言い訳をするように言い募った。声が大きい。周りに
聞こえたらどうする。静かにっ。
﹁カジュアルねぇ⋮﹂
まぁ、ランチならまだ平気か⋮。あのお店はそこまで敷居は高く
ないし、若葉ちゃんも鏑木に送迎してもらうのにあまりにラフすぎ
る服装はしていなかっただろうから。
﹁まぁ、いいでしょう⋮。でも鏑木様はフレンチがお好きなのです
か?前も高道さんを青山のフレンチに誘おうとしていましたし﹂
﹁あぁ、いや俺は特別好きなわけじゃないけど、フレンチは優理絵
が好きだから﹂
鏑木はなんのためらいもなくそう言った。このバカ⋮。
﹁鏑木様⋮﹂
﹁あ?﹂
1468
私は鏑木の真正面に体をずらした。
﹁あのですねぇ、鏑木様。優理絵様をすべての基準で考えるのはや
めてください﹂
﹁は?﹂
鏑木は言ってる意味がわからないという顔をした。気づけよ⋮。
﹁優理絵様が喜んだプレゼント、優理絵様が好きなレストラン、優
理絵様が好きな料理、鏑木様はなんでも基準が優理絵様。優理絵様
が喜んだんだから高道さんも喜ぶだろうと。でも鏑木様の好きな子
は高道さんでしょう?だったら高道さんが喜ぶプレゼント、高道さ
んが好きな食べ物を考えてあげるべきではないのですか?﹂
﹁それは⋮﹂
﹁確かに優理絵様なら、突然フレンチのディナーに連れて行かれて
も動じないファッションも場慣れもしているでしょう。だから鏑木
様は気づかず同じことを高道さんにもしたんですよね?でも彼女は
違いますよ。普通の高校生はフレンチレストランに頻繁に出入りし
たりしていません﹂
私は鏑木の目を見据えた。
﹁貴方はいったい誰を見ているんですか﹂
鏑木は目を見開いた。
⋮そりゃあ物心つくころから一番近くにいた女の子が優理絵様で、
しかもずっと片思いしていた相手でもあったから、擦り込まれてい
るのはしょうがないけどさー。鏑木はほかの女の子は寄せ付けなか
ったし⋮。でも優理絵様の趣味嗜好を基準にすべてを考えられちゃ
うのはね∼。それをやられる若葉ちゃんが可哀想だ。
1469
鏑木は下を向いて黙りこくってしまった。
あ、ショック受けてる?落ち込んじゃった?まずい、きつく言い
すぎたか⋮。どうしよう。鏑木、実は打たれ弱い?
﹁あ、えっとぉ、でも鏑木様は良かれと思ってやったんですよね?
うん、わかります﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あっ、そうそう!あのメープルシロップは良かったですわよ?そ
れにテディベアのプレゼントも良かったと思いますわ。うん﹂
小心な私が慌ててフォローしまくると、下を向いた鏑木がボソッ
となにかを言った。
﹁え?なんですか?﹂
﹁⋮⋮メープルシロップは秀介の薦めだし、テディベアは⋮⋮昔か
ら優理絵が好きなんだ﹂
﹁うわぁ⋮﹂
フォローどころか、傷口に塩を塗りこんでしまった⋮。あ∼、鏑
木の頭がどんどん下がる∼。
そうだ!こういう時は、鏑木を一番理解している親友にフォロー
してもらおう!親友は⋮、今日も来ていないか!使えないっ!
私は隣の人を見ないように前を向き、ひたすらハイビスカスティ
ーを無言で飲んだ。
その状態でしばらく経った頃、鏑木が上を向いた気配がした。
﹁⋮わかった﹂
うん?なにがわかった?
1470
﹁少し考えてみる。明日もう一度話し合おう﹂
鏑木はそう言って立ち上がった。あ、帰るのね?でも⋮。
﹁申し訳ないですけど、明日は私、用事がありますのでサロンには
来られませんの﹂
ごめん⋮。でも明日は麻央ちゃんのお誕生日パーティーに招待さ
れているんだよ∼。
わっ、そんな非難がましい目で見ないで∼。お菓子持って帰れば
?ね、好きでしょお菓子。え、いらない?あ、そう。
﹁麗華お姉様、ようこそ!﹂
﹁ごきげんよう、麻央ちゃん。お誕生日おめでとう﹂
今日の麻央ちゃんは真っ白いドレスを着ていて、蝶ネクタイをし
た悠理君が隣に立つと、まるで小さな新郎新婦みたい!
﹁そのドレス、とっても可愛いわ、麻央ちゃん。このブーケを持っ
たら本当にお嫁さんみたいよ?﹂
そう言って持参したブーケを麻央ちゃんに手渡すと、麻央ちゃん
は悠理君と目を見合わせて、嬉しそうにはにかんだ。いいねぇ、い
いねぇ、春だねぇ。
高等科よりも早く終わる初等科の子供達は、すでにパーティーを
始めていた。すっかり顔見知りになったプティの子達が口々に挨拶
1471
をしてくれる。可愛い∼、和む∼。癒される∼。
だって今日一日、いつ鏑木に呼び出されるかドキドキしていたん
だもん。なにも言ってこなかったし、傍目から見たら様子もいつも
通りだったからとりあえずホッとしたけど。
﹁麗華お姉様、学校が終わってそのまま来てくれたんですか?﹂
﹁ええ。制服のままでごめんなさいね﹂
﹁ううん。来てくれて凄く嬉しいです﹂
私は麻央ちゃんの隣に座って、誕生日プレゼントを渡した。プレ
ゼントはスワロフスキーのペンダントだ。若葉ちゃんの妹もそうだ
けど、女の子はキラキラしたものが好きだからね。麻央ちゃんは伊
万里様に買ってもらったガラスの髪飾りもかなり気に入っていたし、
どうだろう?
﹁わぁ、可愛い!ありがとうございます!付けてみてもいいですか
?﹂
﹁どうぞ﹂
気に入ってくれて良かった!
麻央ちゃんはペンダントを付けると、隣の悠理君に﹁どぉ?﹂と
聞き、それに対し悠理君は﹁似合ってるよ、麻央﹂と笑った。
あぁ、鏑木は小学生の悠理君にすら恋愛スキルで負けている気が
する⋮。
私はプレゼントのお礼を言いに来た麻央ちゃんのお母様に勧めら
れ、お料理に手を付けた。今日のお料理も麻央ちゃんのお母様が大
半を作ったそうだ。さすがだな∼。チキンのトマト煮おいしいっ!
﹁本当は耀美さんにも来て欲しかったのですけど、まだ会ったばか
りなのに誘ったらご迷惑になるかと思って、今回は遠慮したんです﹂
1472
﹁まぁ、そうなの﹂
麻央ちゃんは春休みに私の家で開かれた耀美さんのお料理教室以
来、耀美さんをすっかり気に入ったようだ。
﹁今度耀美さんにパン作りを習う日が待ち遠しいです!パンは晴斗
兄様も好きで、この前の帰りの車でも、おいしいパン屋さんの話で
盛り上がったんですよ﹂
﹁そうだったの⋮﹂
﹁焼き立てのレーズンブレッドが耀美さんは大好きなんですって。
その時話していた耀美さんお薦めのお店のレーズンブレッドをあと
で晴斗兄様に買ってきてもらったんですけど、晴斗兄様もおいしい
って褒めていました﹂
﹁まぁ⋮﹂
﹁耀美さんって甘い物も大好きなんですって。今度、みんなで食べ
に行きませんか?私と麗華お姉様と耀美さんと晴斗兄様と悠理の5
人で!﹂
﹁麻央ちゃん⋮﹂
﹁なんですか?﹂
﹁⋮もしかして耀美さんと市之倉様をくっつけようとしていません
?﹂
﹁うふふ﹂
やっぱりか。あの日もやけに強引に、耀美さんを同じ車に乗せて
帰って行ったもんなぁ。
﹁市之倉様にはれっきとした恋人がいらっしゃるでしょう?﹂
あのモデルをやっているきれいな彼女が。
1473
﹁それが、最近あまり会っていないようなのです﹂
﹁そうなの?!﹂
﹁はい。だったら今がチャンスと思って⋮﹂
麻央ちゃんがにやりと笑った。
なんということでしょう!いつの間にか無垢な麻央ちゃんが悪い
笑顔を覚えていた。
﹁本当は麗華お姉様に晴斗兄様のお嫁さんになって欲しかったので
すけど⋮﹂
﹁ええっ!﹂
﹁でも諦めました。だって麗華お姉様には伊万里様のような素敵な
かたが傍にいるし、高等科の皇帝や雪野君のお兄様といったかたも
いるでしょう?ライバルが多すぎですもの﹂
ううん?聞き捨てならない名前がいっぱい出てきたような⋮。
﹁えっと、大きな誤解をしていないかな?麻央ちゃん﹂
﹁いいんです!そのかわり、麗華お姉様も協力してもらえませんか
?ねっ?﹂
うっ!可愛い麻央ちゃんにそんなお願いポーズをされたら、断れ
ないっ。麻央ちゃんは将来、とんでもない小悪魔さんになりそうだ。
悠理君、頑張れ!
1474
218
私がサーモンのマリネに舌鼓を打っていると、背中をチョンチョ
ンとつつかれた。
﹁麗華お姉さん﹂
﹁雪野君!﹂
振り向くと、相変わらず天使のような雪野君が笑顔で立っていた。
久しぶりだね∼、雪野君!最近なにかと忙しくてプティに顔を出
せなかったので、雪野君とも全然会えていなかったんだ。
﹁隣に座ってもいいですか?﹂
﹁もちろんよ、雪野君。元気だったかしら?﹂
﹁はい﹂
雪野君がちょこんと隣に座った。
﹁でも麗華お姉さんに会えなくて、寂しかったです⋮﹂
ぐはっ!なんという破壊力!麻央ちゃんといい、プティは小悪魔
の巣窟か?!ううっ、頭ナデナデしたい!
﹁私も寂しかったわ、雪野君!﹂
私も心の底からそう言うと、雪野君がニコーッと笑ってくれた。
ぐおっ!幻の鼻血が!
1475
﹁忙しかったんですか?﹂
﹁うん、そうなの﹂
新学期が始まって、クラス委員の仕事に新入生の部活見学に厄介
な弟子の恋愛相談と、本当に忙しい。特にあの新参弟子が⋮。
﹁雪野君は2年生になってどう?﹂
﹁う∼ん、まだよくわかりません。でもクラスに新しい友達もでき
ましたよ?﹂
﹁まぁ、そうなの。良かったわねぇ。どんなお友達?﹂
﹁星が好きな子です。僕も星を観るのが大好きだから星の話をして
います﹂
﹁まぁ、雪野君は星が好きなの?﹂
雪野君と夜空の星。なんて似合う!まさに星の王子様ね!
﹁はいっ。望遠鏡で観察もしてるんです。流星群の時には、夜更か
ししちゃダメって言われてるんですけど、どうしても観たくてこっ
そり夜中に起きて観てました﹂
﹁あら、夜遅くまで起きてて体は大丈夫なの?風邪を引いたりしな
かった?発作は?﹂
﹁ふふっ、大丈夫です。部屋でひとりで観てたんですけど、兄様に
はバレてたみたいで、あったかいココアを持ってきてくれました﹂
﹁まぁ!﹂
あの腹黒め、たまにはいいことするじゃないか。
﹁それでね、兄様と一緒にそのまま流星群を観ていたんですけど、
僕ったら気がついたら寝ちゃってて。朝になったらベッドにいまし
た﹂
1476
えへへと恥ずかしそうに笑う雪野君が可愛い!
その後も、雪野君と楽しくおしゃべりしたり、ほかの子供達と戯
れたりしている内に、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまった。
子供達は帰る時間なので、私もそろそろお暇しないと⋮。すると
雪野君が私の袖をキュッと引っ張った。
﹁ねぇ、麗華お姉さん、僕の家の車で一緒に帰ろ?﹂
﹁えっ?!﹂
いや、それはさすがに⋮。一応私の家の車が迎えにくる予定だし、
それがなくてもひとりで帰れるし⋮。円城家の車に送ってもらうっ
てのはちょっと⋮。
﹁だってずっと会いたかったんだもん。もっとお話ししたい!ダメ
ですか⋮?﹂
﹁ぐっ⋮!﹂
そんな可愛いことを言われたら⋮っ!私だって可愛い雪野君に会
いたかったよ。それにもっと一緒にいたいけどさぁ⋮。ううっ、そ
んな目で見られると⋮。ダメだ、つぶらなお目々で見上げないでぇ
⋮。
﹁う⋮ん。じゃあ送ってもらっちゃおうかな⋮?﹂
﹁わぁ!﹂
負けた。天使のうるうるお目々に完敗だ。しょうがない、送って
もらうだけだし、あとで円城家にはお礼を言えばいいか。
﹁雪野君、お迎えが来たわよ﹂
1477
﹁はぁい﹂
雪野君に手を引かれて一緒に玄関に行くと、そこに立っていたの
は円城だった││。
﹁げ⋮﹂
思わず心の声が洩れてしまった。わざわざ円城が弟の迎えにきた
のか。最近円城も忙しそうだったのに。
﹁やぁ、吉祥院さん。こんばんは﹂
﹁ごきげんよう、円城様⋮﹂
外灯で髪をキラキラ輝かせ、王子度をアップさせた円城がにっこ
り微笑んだ。
﹁兄様、麗華お姉さんも家の車で一緒に帰ってくれるんだよ!﹂
﹁えっ﹂
﹁いえ、それは⋮。雪野君、私はやっぱり⋮﹂
﹁麗華お姉さん?﹂
うおお∼っ!天使の顔に、約束したよね?って書いてある∼っ!
やっぱりやめたって言える空気じゃない∼!
﹁麗華お姉さん?﹂
﹁あ∼、うん。そう、ね?﹂
私がしどろもどろしている間に、円城が状況を把握した。
﹁そうなんだ。じゃあ乗って?吉祥院さんの家まででいいのかな?﹂
1478
﹁⋮よろしくお願いいたします﹂
そうして私は円城家の車に乗せてもらうことになった。後部座席
に私、雪野君、円城の順で。乗り込んだ瞬間、ふわりと甘い香りが
した。
﹁誕生会は楽しかった?﹂
﹁うん﹂
雪野君は円城に返事をすると、隣の私に向かって﹁まだスピカは
見えないね。今日は雲がないから春の大三角がきっときれいに見え
るよ﹂と窓を指差して言った。
﹁あぁ、星の話?﹂
﹁ええ。雪野君は星に詳しいんですね﹂
﹁うん。夜更かしばかりして困ってるんだ﹂
円城の言葉に雪野君は、﹁毎日じゃないもん﹂と言い返した。
﹁春休みに軽井沢に行った時も、夜に星ばかり観ていたから朝全然
起きられなかったんだろう?﹂
﹁だって、空気が澄んでたから凄くきれいだったんだもん⋮﹂
あらら。雪野君は味方が欲しいと私の腕にくっついて、﹁東京で
見えない星もよ∼く見えるの﹂と訴えてきた。うんうん、わかるよ。
空が近いよね。
我慢しきれず、私は雪野君の頭を撫でてしまった。髪、柔らか∼
い。雪野君はくすぐったそうな顔をして笑った。
﹁ねぇ、麗華お姉さん!一緒にごはん食べて帰ろ!﹂
1479
﹁えぇ?!﹂
突然どうした、雪野君。
﹁ごはん?﹂
﹁うん。僕、麗華お姉さんと兄様とごはんを食べに行きたい﹂
雪野君は、私と円城に﹁ね、いいでしょう?﹂とおねだりをした。
﹁え、でもついさっきまで麻央ちゃんのお家でごちそうになってい
たばかりですし⋮﹂
たらふくいただいちゃったから、全然おなかすいてないよ?
﹁でもぉ﹂
﹁こら、雪野。あんまり我がままばかり言うんじゃない﹂
円城が雪野君の頭に手を乗せ諌めると、雪野君はしょぼんとして
しまった。うわ∼っ、罪悪感。どうしよう、困った⋮。雪野く∼ん、
お顔上げて?円城め、少し言い方がきつかったんじゃない?雪野く
∼ん。心の中で呼びかけても反応なし。
下を向いちゃった雪野君の頭ごしに円城をちらっと見ると、円城
も困ったような笑顔を返してきた。どうする?
﹁吉祥院さん、このあと予定ある?﹂
﹁え﹂
﹁ごめんね。もう少しだけ弟に付き合ってもらえないかな?カフェ
でお茶を飲む程度の時間でいいんだけど⋮﹂
﹁あ∼⋮はい。それくらいならお付き合いさせていただきます﹂
1480
私の是の言葉に雪野君はパッと顔を上げた。
﹁本当?!﹂
﹁ええ﹂
﹁わぁ、嬉しい!ありがとう、麗華お姉さん!﹂
雪野君は私の腕にぺったりしがみついて喜んだ。もうっ、天使ち
ゃん可愛いぞっ!
私達はレストランが併設されているカフェに入った。
﹁僕アップルレモネード。麗華お姉さんは?﹂
﹁う∼ん、どれにしようかしら﹂
せっかくカフェに来たのなら、普段飲まないような変わったもの
が飲みたいなぁ。あら、ケーキの種類が豊富ね。いかん!狸の呪い
が⋮!
﹁ラベンダーティーにしますわ﹂
﹁僕はダージリンで﹂
私と雪野君は注文を終えたあとも、メニューを見ながらこのケー
キがおいしそうなどとおしゃべりをした。今度ケーキセットを食べ
に誰か誘ってみようかな。
﹁雪野君もわりとスイーツが好きよね?﹂
﹁はい。でも兄様はあまり食べないよね?﹂
1481
黙ってお茶を飲んでいた円城は、﹁そうだね﹂と軽く頷いた。
﹁甘いものはお嫌いなのですか?﹂
﹁嫌いってわけじゃないけどね。自分から進んで食べようとは思わ
ないかな﹂
確かにサロンでも鏑木はお菓子をよく食べているけど、円城が食
べているのはたまにしか見たことがないな。それもちょっとだけ。
雪野君と私は﹁おいしいのにね∼﹂﹁ね∼﹂と言い合った。そん
な私達に円城は苦笑いした。
﹁そういえば雅哉にいいアドバイスをしたんだってね。女の子への
プレゼントが参考書って、吉祥院さんしか思いつかないよ。実用的
すぎて恋愛に結びつかない気がするけど﹂
げっ!その話を今する?!なんか意味ありげな顔でこっち見て笑
ってるし!参考書の話を聞いたなら、昨日のことも聞いてるんじゃ
ないの?!
﹁⋮鏑木様、今日なにか言ってましたか?﹂
﹁なにかって?﹂
だからたとえば、私に酷いことを言われたとか、傷ついたとか。
あっ!この俺に無礼を働き許さん!とかだったらどうしよう!
﹁特になにも言ってなかったよ﹂
﹁そうですか﹂
なんだ。あの時相当ショックを受けているように見えたから、今
日も引き摺っているかと思ったけど、私のほうが気にしすぎだった
1482
か。良かった∼。
﹁でも今日は少しおとなしかったかな﹂
﹁えっ⋮!﹂
やっぱり⋮!まだ落ち込んでるのか?!そこまで傷つけちゃった
か?!言い過ぎちゃったよなぁ。別に鏑木に悪気はなく、ただ単純
バカだからってだけだったんだし。う∼ん⋮。
あぁ、雪野君が﹁なになに∼?﹂と無邪気な笑顔で問うてくる姿
に、胸が痛い⋮。
﹁ふっ⋮。吉祥院さんって本当にお人好しだよねぇ。ほら、ケーキ
注文する?﹂
﹁結構です⋮﹂
なにそれ。食べ物与えておけばご機嫌になると思ったら大間違い
だぞ。私はそんなに単純ではない。だいたい、フォローすべき親友
の円城が、さっさと帰っちゃったのが悪い!そうだ。そういうこと
にしておこう。
話し合いかぁ。鏑木はいったいどんな結論を出したんだろう。明
日が怖いなぁ。また新たな詩人にはまってたらどうしよう。あぁ、
あの倉に封印してあるハイネの詩集もどうにかしないと。あれが私
の恋愛運を下げている呪物な気がする⋮。
﹁麗華お姉さん、そのお茶おいしいですか?﹂
﹁そうねぇ、おいしいわよ?﹂
でもハーブティーって3割⋮4割くらいは味より雰囲気だよね?
﹁僕も一口飲んでみたいな?﹂
1483
﹁いいわよ?どうぞ﹂
私がテーブルのラベンダーティーを雪野君の前に滑らせると、雪
野君はわくわくした表情でそれを飲んだ。そして眉が下がった。
﹁どう?﹂
﹁えっと⋮ありがとうございます﹂
雪野君はそっと私の元にカップを戻した。どうやらお口に合わな
かったようだ。
﹁ねぇねぇ、麗華お姉さん。また僕の家に遊びに来て?﹂
﹁えっ?!﹂
﹁だって僕の誕生日に一緒に遊んでくれたのがとっても楽しかった
んだもん。またゲームをして遊んで?﹂
﹁そうねぇ⋮﹂
円城家に行くのは遠慮したいなぁ。でも雪野君のお願いだし⋮。
あ、だったらプティのサロンで遊べばいいんじゃないかな?うん、
そうしよう。
﹁ゲームかぁ。あれは面白かったね。雅哉がボロ負けで﹂
円城がさりげなく酷いことを言いながら話に入ってきた。
﹁雅哉兄様、最後借金まみれだったね。約束手形しか残ってなかっ
た﹂
﹁しかも大家族。雅哉がおんぶ紐してベビーカー押しながら子供達
をあやしている姿を想像してごらん﹂
﹁ぷっ﹂
1484
﹁あはは﹂
瑞鸞の皇帝が赤ちゃんおんぶしてガラガラ持ってあやしている姿
を想像したら、吹き出してしまった。似合わな∼い!
﹁でも案外似合うかもよ。雪野が生まれた時にはよく寝ている雪野
にちょっかい出して泣かせたり、雪野を抱っこするために無理やり
ベビーベッドから出そうとしたりして、周りを慌てさせたりしたこ
ともあったしね﹂
﹁まぁ、そんなことがあったのですか?﹂
﹁うん。僕の家にいる時は、たいてい雪野を膝に抱っこしてたなぁ。
最初は落としそうになって危なっかしかったけど、コツをつかんだ
ら抱っこも堂にいったものだったよ。雪野のためにピアノで子守唄
を弾いたもしてたなぁ。でも雪野は全然寝なかったけど﹂
﹁僕、覚えてない﹂
﹁そりゃそうだよ。雪野は赤ちゃんだったんだから﹂
へぇ。鏑木って子供好きなんだ。そういえばプティや雪野君の誕
生日パーティーでも子供達とよく遊んであげてたな。精神年齢が近
いからだな、きっと。
それから雪野君の可愛い赤ちゃん時代の話で3人で盛り上がって
いたら、円城の携帯が鳴った。画面を確認した円城から、さっきま
での笑顔が消えた。
そして円城は私達のほうを見ると、﹁さて、そろそろ帰ろうか﹂
と言った。
﹁え∼っ﹂
﹁雪野。もう時間も遅いよ﹂
﹁⋮⋮わかった。麗華お姉さん、また今度一緒に来てくれる?﹂
﹁ええ、もちろん。今度はケーキも食べましょう﹂
1485
﹁うん!﹂
私は雪野君と手を繋いで車に乗り、家まで送ってもらった。
1486
219
﹁忠言耳に逆らう﹂
例によって小会議室に呼び出された私に、鏑木が放った第一声が
これだった。
﹁はい?﹂
﹁あの日お前に言われた言葉はあまりにも耳に痛く、厳しい指摘で、
俺にはその場で簡単に受け入れることができなかった⋮﹂
﹁はい⋮﹂
鏑木、相当ショックを受けていた様子だったもんねぇ。あれを見
て、私も言い過ぎたってすぐに後悔したもん。鏑木はブランマンジ
ェのように繊細な私と同じく、柔いメンタルをしているのかもしれ
ん。
﹁決してそんなことはないとはあの時の俺には言えなかった⋮。俺
は一晩考えて、お前の言う通りだったと認めざるをえなかった。確
かに俺は、優理絵を基準に考えていたことを認める﹂
﹁そうですか⋮﹂
あの状態で一晩も考えさせちゃったかぁ⋮。ごめん。言った私は
その頃、ぐっすり熟睡していたというのに。でもちゃんと自分の間
違いを認められるのだから偉いね。さすが唯一の取り柄が素直なだ
けある。
﹁俺はずっと優理絵と一緒にいたから⋮、優理絵しか見ていなかっ
1487
たから、優理絵以外の女の好きなものなんて知らないんだ。あぁ、
あとは愛羅くらいか。でもあのふたりの好みはだいたい似ているか
らな。だから余計にそういうものだと思い込んでいた﹂
﹁ええ﹂
﹁優理絵が好きなものだったら、高道も好きなんだろうと、思って
しまった⋮﹂
﹁はい⋮﹂
鏑木はそう言って一瞬下を向き悔しそうな表情をすると、すぐに
その顔を上げた。
﹁でもな、吉祥院﹂
鏑木は真摯な顔で私の目をしっかと見た。
﹁俺が今好きなのは、高道だから﹂
﹁⋮⋮!﹂
う、うん。その整った顔でジッと強く見つめられて﹁好き﹂とか
言われたら、本人じゃないのにドキッとするじゃないか。どぎまぎ
してしまった私は、慌てて鏑木から目を逸らした。恋愛ぼっち村村
長には刺激が強すぎる。く∼っ、私だっていつかは!
﹁吉祥院、あいつと俺の考える高校生らしさというものは、全く違
うんだな?﹂
﹁そうだと思います。ピヴォワーヌと、中学まで公立に通っていた
子とでは、育ってきた環境がまるで違いますから﹂
﹁そうか⋮﹂
鏑木は頷いた。
1488
﹁だったら俺は、これから高道の生活圏やその価値観を学んでいこ
うと思う﹂
﹁よろしいんじゃありませんか?﹂
ま、基本中の基本だよね。好きな相手を知るということは。
﹁しかし、そこで問題がある﹂
﹁なんですか?﹂
﹁高道の考える高校生らしさがまるでわからん﹂
あ、そこからか。だよね、皇帝サマだもんねぇ。庶民を知ろうに
も、どこから手を付けていいかすらわからないか。そもそも鏑木っ
て、一般的なことってどこまで知っているんだろう。
﹁鏑木様は、コンビニって行ったことあります?﹂
﹁バカにするなよ。それくらいあるに決まっているだろう﹂
鏑木は少しムッとしたようだ。ほお、そうですか。
﹁ではファーストフードは?﹂
﹁ファーストフード?ファーストフードは⋮、ない、な﹂
﹁ファミリーレストランは?﹂
﹁⋮ない﹂
想像通りの箱入りお坊ちゃんですなぁ。
﹁なんだよ!そういうお前は行ったことがあるのかよ!﹂
私の目が口ほどに物を言っていたらしく、鏑木が噛みついてきた。
1489
なに言ってんだ。あるに決まってるじゃん。私を誰だと思ってる
のよ。麗華ランキングには、チーズバーガーランキングもあるのだ。
たかがチーズバーガーといっても、お店によって結構違う。そのた
め私は日々フィールドワークを重ねている。
﹁俺は基本的にジャンクフードは食べないんだ﹂
そうですか。大抵の庶民はジャンクと仲良しですよ。そして私こ
そが、ジャンクフードの女王だ!
﹁お前だって俺と似たような家庭環境だろう。なんでそんなところ
に行ったことがあるんだよ﹂
﹁なにごとも人生勉強ですから﹂
なんてね。本当は単に好きだからってだけだよ∼。
﹁高道もファーストフードに行ったことがあるのか?﹂
﹁あるんじゃないんですかぁ?﹂
見たところ若葉ちゃんにはジャンクフードを食べないというこだ
わりはなさそうだし、だったら普通に行くよね。
﹁そうか。よし、吉祥院。だったら俺を今からファーストフードに
連れて行ってくれ!﹂
﹁は?!今から?!﹂
﹁そうだ。善は急げ。俺はすぐに知りたい。さぁ、行くぞ﹂
えーっ!なんで私が⋮!
﹁ほかのかたと行けばよろしいじゃありませんか。なんで私が﹂
1490
﹁お前くらいしか俺の周りに行ったことのあるヤツがいなさそうだ
からだ﹂
﹁絶対にいますって、ファーストフードくらい。あぁ、それこそ高
道さんに連れて行ってもらえばいいじゃないですか。ファーストフ
ードデート。高校生らしくて大変結構だと思いますわよ﹂
﹁ダメだ。高道には俺がファーストフードも行ったことがない男だ
と知られたくない。そしていつか一緒に行く時には、高道をスマー
トにエスコートしたい﹂
なんだよ、その変なプライド。
﹁ファーストフードにエスコートもなにもないでしょうよ﹂
﹁いいから。デートの前の視察だ。行くぞ﹂
﹁私、今日塾があるんですけど⋮﹂
﹁だったら塾の時間に間に合うように行動すればいい。急いで支度
をしろ﹂
こいつ⋮。前に私の都合を考えろって言ったよね?
しかし、ほら早く早くと急かす鏑木をもう止めることは難しそう
だ。制服で行くのかぁ、目立つなぁ。瑞鸞の生徒や誰か知り合いに
見られたらまずいなぁ。
﹁せめて学院から遠く離れた、瑞鸞生が誰もいないような場所のお
店を選びましょう﹂
﹁なんでだ?﹂
﹁瑞鸞は塾や習い事以外の寄り道は禁止ですわよ?﹂
﹁⋮それをやって、誰が俺達を注意すると言うんだ?﹂
ですよね∼。たかがファーストフードの寄り道でピヴォワーヌ、
しかも皇帝に注意する人間なんていませんよね∼。だいたい他の子
1491
達もみんな、制服でショッピングや飲食店に行ったりしているし。
﹁ファーストフード店に出入りしていることを知られるのは、吉祥
院家の娘としてあまりよろしくないんです!しかも制服だから目立
つし!﹂
今まで私がどれだけ気を使って行っていたか!このバカ弟子のせ
いで、すべての努力が無駄になるのはごめんなんだよ!それに鏑木
と一緒にいることで、妙な噂になるのが一番困る!
﹁ふぅん⋮。わかった﹂
﹁それからこのことは、くれぐれも誰にもしゃべらないでください
よ﹂
﹁わかった﹂
本当だろうね。私の足を引っ張るような真似をしたら許さないよ。
今日はこの間きつく言い過ぎた負い目があるから一緒に行ってあげ
るけどさぁ。
そうして私は鏑木の車に乗って、瑞鸞から離れたファーストフー
ド店に向かった。
駅の近くで降ろしてもらい、近くにあるファーストフード店に入
ると、店内は学校帰りの学生達で溢れていた。
﹁吉祥院、おいっ!ここのシステムを教えてくれ!﹂
鏑木は私に小声で教えを乞うてきた。
1492
﹁カウンターに並んで、好きな物を注文すればいいだけですわ﹂
﹁そうか﹂
鏑木はおとなしく列に並んだ。一見堂々とした佇まいだが、目は
上に掲げられているメニューに釘づけだ。やっぱり目立つなぁ∼鏑
木は。みんながこっちを見てる。他学校の女子達が鏑木に見惚れ小
さく騒いでいるが、鏑木はそんな子達の視線に一抹の興味も示さず、
ひたすらメニューを見ていた。この態度、普段から女の子に注目さ
れているのに慣れているヤツは違うね。
やがて私達の順番がやってきた。鏑木はハンバーガーとアイスコ
ーヒーを注文した。
﹁ご一緒にポテトはいかがですか?今ならこちらのセットメニュー
がお得です﹂
鏑木の目が泳いだ。私の袖を引っ張ってくる。どうにかしろとい
う合図だろう。
﹁ではせっかくですからセットメニューにしましょうか?﹂
﹁そうだな﹂
私が助け舟を出すと、ヤツは即行で乗ってきた。私もチーズバー
ガーのセットメニューにした。
トレーを持って2階に上がり適当な席に座ると、鏑木が﹁思った
以上に安かった⋮﹂と感想を洩らした。そりゃあそうでしょうよ。
鏑木はアイスコーヒーを一口飲んで、顔を顰めた。
﹁味が薄いな﹂
﹁そんなものです﹂
1493
ファーストフードのドリンクに期待などするな。私はウーロン茶
を飲んでのどを潤すと、チーズバーガーの包みを開いた。鏑木は私
の真似をしてハンバーガーの包みを開け、かぶりついた。
﹁なるほど⋮﹂
なにがなるほどなのかわからないけど、鏑木は感心したようにひ
とり頷いた。
﹁高校生が多いな⋮﹂
鏑木は客席を一瞥して呟いた。
﹁学校帰りに小腹がすいたのを満たすのにちょうどいい価格設定だ
からでしょう。おしゃべりもできますし﹂
﹁なるほど⋮﹂
﹁もう少ししっかり食べたい場合はファミリーレストランや、男子
ならラーメン屋さんなどに行くのかもしれませんけどね﹂
﹁なるほど⋮﹂
鏑木は続いてポテトも食べた。ポテト、おいしいよね∼。私もフ
ァーストフードに来た時には必ずポテトを食べるよ。麗華ランキン
グにはポテトランキングももちろんある。私は細切りが好きだ。
私もポテトを一口。おっと、いけない忘れてた。私はケチャップ
の封を開けた。フライドポテトにはケチャップは必需品だよね。そ
れを鏑木が目敏く見つけた。
﹁おい!それはなんだ!﹂
﹁ケチャップです﹂
1494
私はケチャップをポテトにつけて齧った。おいしっ。鏑木は自分
のトレーを漁った。
﹁なんでだ?俺のにはついていないぞ!﹂
﹁ポテトのケチャップは言わないともらえませんから﹂
﹁言えよ!そんな話、聞いてないぞ!﹂
﹁欲しかったんですか?﹂
鏑木が悔しそうに私を睨んだ。ふふん。私は気にせずケチャップ
付きのポテトを食べる。おいしいわぁ、ケチャップ付きポテト。
﹁⋮それを俺にもよこせ﹂
﹁イヤですよ﹂
分けたら足りなくなっちゃうもん。私はポテトにはケチャップ派
なのだから。
﹁だったら俺の分をもらって来てくれ﹂
﹁イヤですよ。自分で取りに行けばいいじゃありませんか﹂
階段の上り下り面倒くさい。
﹁⋮ひとりで取りに行くには、まだ俺のファーストフード店におけ
る経験値が足りない﹂
﹁なんですか、それ﹂
﹁⋮あれだけ人が並んでいたのに、また並び直してケチャップだけ
もらうのか?﹂
﹁カウンターの横から声を掛ければいいんじゃないんですか?﹂
﹁あの忙しない中でか。高度すぎる﹂
1495
鏑木は首を横に振った。じゃあ諦めろ。
﹁お前、酷くないか?﹂
﹁人は手痛い失敗から学ぶんですよ。これで鏑木様はファーストフ
ードに行った時に、ケチャップをもらうことを忘れないでしょう。
これは教訓です﹂
良かったね、ひとつ勉強になったね。
鏑木は恨みがましい目をしながら、ハンバーガーを咀嚼していた。
天下の皇帝鏑木雅哉が、ファーストフードでハンバーガーを齧っ
ているとは、瑞鸞の生徒は夢にも思うまい。しかも右往左往してい
たなんて。
﹁でもまぁこれで、俺もファーストフードの仕組みはだいたいわか
った﹂
﹁甘いですわね﹂
﹁なに?﹂
私はウーロン茶をズズッと飲んだ。
﹁ファーストフードではここのように作り置きがなく、注文してそ
の場で作るパターンもあります﹂
﹁なんだと?!﹂
﹁その際には番号札を渡されて、出来上がるのを待たねばなりませ
ん﹂
﹁そんなことが⋮?!﹂
﹁ファーストフードといっても、お店によって特色があるのです。
メニューも全然違います。ここだけですべてをわかったと思ったら
大間違いです﹂
1496
鏑木は愕然とした顔をした。ふぉっふおっふぉっ、庶民の生活は
奥が深いのだ。
私達はそれぞれトレーの上の物を食べ終わると、席を立った。
おい、こら鏑木。なにトレーをそのままにして帰ろうとしてるん
だよ。ゴミは自分で捨てるんだよ。﹁なるほどな⋮﹂じゃないんだ
よ。今日覚えたことをしっかりメモしておけよ。一度しか教えない
からね!
﹁次はファミレスだな﹂
ひとりで行けよ!
1497
220
新入生の部活見学が始まった。
手芸部の繁栄のためにも、新入部員の確保が重要だ。南君を前面
に出して、男子生徒達にもアピールをしよう。ファッションデザイ
ナーやアパレルの仕事に就いている男性は大勢いるのだから、手芸
に興味のある男子だって瑞鸞にもっといるはずなのだ。そういった
隠れ手芸男子をガンガン取り込むわよ!
と意気込んでみたものの、思ったようには人が集まらない。ほか
の部活はどんな勧誘をしているのか探りに行けば、グラウンドでサ
ッカー部が見学に来た生徒と一緒にリフティングの記録に挑戦して
盛り上がっていた。なるほど、体験型か。新入生も楽しそうだ。
リフティング競争で最後まで残ったのは部長だった。ほぉん、や
っぱり部長が一番上手いのか。いつまでも軽やかに蹴り続ける部長
を、それそれ、と私も一緒に手拍子で応援をしてあげたら、私と目
が合ったタイミングで、部長が足をもつれさせボールが落ちた。あ
ら∼、惜しかったねぇ。でも頑張った頑張った。拍手。
するとサッカー部部長が、落としたボールをそのままに私の元へ
駆けてきた。応援のお礼かな?
﹁また弱みを握りにきたのか⋮!﹂
﹁まぁ、なんという被害妄想でしょう!私はただ見学をしていただ
けですのに⋮﹂
酷いわ∼、心外だわ∼。それとも知られたら困ることをまた隠し
ているのかしら?私は目の前に立つ部長の横から顔を出し、グラウ
ンドのサッカー部員達をじろじろと眺めた。おや、あれに見えるは
同じクラスの男子ではないか。サッカー部だったのね。手を振って
1498
みよう。あ、逃げた。そこへ部長が私の前に立ちはだかるように体
をずらしたので、部員達の姿は再び見えなくなってしまった。ちぇ
っ。
﹁見学?﹂
サッカー部部長が訝しげに私に聞き返した。
﹁ええ、偶然通りかかったらなんだかずいぶんと盛り上がっていま
したので、つい。でも部長なだけあって、リフティングがお上手で
すのねぇ。私感心してしまいました。まるで蹴鞠大納言のようでし
たわよ﹂
﹁蹴鞠大納言⋮﹂
平安時代に藤原成通という、清水寺の欄干を鞠を蹴って渡ったと
いう伝説を持つ蹴鞠の達人の大納言がいたそうだ。蹴聖と称されて
いるけど、でも蹴鞠をしながら欄干渡りに挑戦って、蹴聖というよ
り蹴鞠バ⋮、いやいや、ひとつのことに熱心に打ち込むのは尊いこ
とだ、うん。
﹁ぜひ今度はリフティングをしながら、平均台を渡ることをお勧め
いたしますわ﹂
サッカー部部長よ、現代の蹴鞠大納言になるのだ!
せっかく褒めてあげたうえにアドバイスまでしてあげたというの
に、蹴鞠大納言は﹁部員達が委縮するので、お願いだから帰ってく
ださい﹂と私をグラウンドから追い出した。﹁良かったらこれどう
ぞ﹂とスポーツドリンクまで渡されて。蹴鞠大納言め、みかじめ料
を渡しておけば私がおとなしくなると思うなよ。
1499
ほかの部活もいろいろと見て回る。大半はただの見学が多いよう
だ。合唱部は一緒に歌っていて楽しそうだった。囲碁将棋部は見学
者と対局していた。やっぱり体験型のほうが見学者の受けがいいな。
運動部の中には、練習をする部員をきゃあきゃあと応援する女の子
達の華やかさで、新入生を釣っている部もあった。そういえばカサ
ノヴァ村長はかつてこの部の部長であったな⋮。
途中、柔道部を覗くと野々瀬さんがいて、岩室君に﹁崇君、タオ
ルここに置いておくね∼﹂と声を掛けていた。タカシクン?
乙女2号よ、師匠に報告すべきことがあるのではないかな?
スパイ活動を終え、そろそろ部室に戻ろうかと歩いていると、ア
ホウドリ桂木に出会った。あぁ、こいつも新入生だったな。桂木は
私に気づいた途端、嫌そうな顔をした。
﹁円城さんに近づいていないだろうな﹂
最上級生に会った第一声がそれかね。礼儀のなっていないアホウ
ドリは無視して通り過ぎてやる。
﹁おい!﹂
﹁ワタクシ、挨拶も出来ないアホウドリの相手をしてあげるほど、
暇ではありませんのよ∼﹂
そう言って、私はオホホホホと笑ってやった。
﹁円城さんには唯衣子さんがいるんだからな!﹂
喚くな、うるさい。人の顔を見れば同じことを何度も何度も。
﹁桂木君は本当に、唯衣子さんがお好きなのねぇ。健気ですわぁ﹂
1500
嫌味ったらしく言ってやるとアホウドリが顔を赤くして言葉に詰
まったので、そのまま放置して私はさっさと部室を目指した。けっ。
あ∼あ、これから1年、アホウドリと同じ校舎なのは鬱陶しいなぁ。
言いたいことがあれば円城に言え。
これまでの手芸部の部活見学は、部員による活動内容の説明と部
室内の見学が主だったけれど、ほかの部活を偵察してみて、実際に
部活動を体験させたほうが反応がいいということを知ったので、私
手芸体験、
達の部も手芸体験を組み込むことになった。作るのは簡単な物とい
の張り紙をした。
うことで、ポケットティッシュケースだ。部室の前にも
実施中
すると見学者が増えた。作る物はティッシュケースという、なか
なかに微妙な物だったりするけれど、一緒にチクチク手芸をしなが
らおしゃべりをすることによって、部内の雰囲気も伝わり、質疑応
答もしやすく、完成する頃に部活以外の話もできるくらいに新入生
も打ち解けてくれた。
﹁手芸体験は盲点でしたわ。さすが麗華様﹂
﹁おかげで例年より新入生が見学に多く集まってくれています﹂
﹁男子も入ってきてくれていますよ﹂
﹁学園祭でも体験コーナーを設置してみましょうか、麗華様﹂
手芸部のみんなに褒められ、記入済みの入部届の枚数を数えなが
ら私はほくほくした。蹴鞠大納言に感謝だね。
1501
入部届が足りなくなる前に生徒会室に取りに行くと、同志当て馬
達が仕事をしていた。なんだか忙しそう。生徒会室を見回すと、若
葉ちゃんが指サックを付け、伝票らしきものをめくりながらパチパ
チパチパチ⋮と凄まじい勢いで電卓を叩いているのを見つけた。お
ぉ、これが噂の、高道若葉の電卓さばき!
﹁なんか用?﹂
会長席に座っていた同志当て馬に声を掛けられたので、私は入部
届が欲しいことを告げた。
﹁あぁ、ちょっと待って﹂
同志当て馬が席を立って取りに行ってくれた。う∼ん、なんとな
く一部の役員達が私を警戒するような空気を醸し出している気がす
る。ピヴォワーヌが自陣に乗り込んできたとでも思っているのかな。
戻ってきた同志当て馬が私に入部届をくれた。
﹁これくらいで足りるか?﹂
﹁ええ、充分です。ありがとう﹂
この用紙が全部無くなるくらいに入部希望者が来るといいなぁ。
﹁そうだ、吉祥院。君に見てもらいたいものがあるんだけど﹂
﹁なんでしょう?﹂
﹁会長!その人に見せるなんて!敵に手の内を見せるようなものじ
ゃないですか!﹂
ひとりの役員が立ち上がって同志当て馬の行動を止めようとした。
1502
え、なに?
﹁吉祥院はピヴォワーヌの中でも話のわかる人間だから平気だ﹂
ピヴォワーヌへの対応マニュアル
⋮?
そう役員を制した同志当て馬に﹁これなんだけど﹂と見せられた
紙には、
﹁入学してきたばかりの外部生は、ピヴォワーヌをへの対応を間違
えることがよくある。だから彼らに向けてのマニュアルを作ろうと
思っているんだ﹂
﹁まぁ﹂
いいんじゃないかな。今まではクラス委員や内部生がそれとなく
注意したりして教えていたけど、あまり詳しく教えられていない外
部生が失敗して冷や汗をかく場面もよくあるし。実際内部生も、ど
こまで言っていいかわからないというのもあるしね。
﹁これまでも生徒会にそれらしきものはあったんだけどな。でも曖
昧なところも多くあったから、今回、箇条書きにして明確にしてみ
ることにしたんだ。どうだろう?﹂
﹁よろしいかと思いますわよ?これを外部生全員に配るのですか?﹂
﹁いや、これを各クラス委員に渡して、口伝で教えてもらおうかと
思っている。やはり書面で直接渡すのは、問題があると思うから﹂
﹁そうですか﹂
あくまでもこれは規則じゃなくて暗黙の了解だからね。証拠には
残せないと。
同志当て馬はマニュアルを見ながら苦笑いした。
﹁生徒会がピヴォワーヌを特別扱いするマニュアルを、率先して作
1503
るのはどうかと思ったんだけどな。高道が困るのは外部生だからと
提案したんだ﹂
若葉ちゃんが?!
言われてみればこのマニュアル、私が若葉ちゃんのために書いた
注意事項がほとんどだ。電卓を叩いている若葉ちゃんを見ると、自
分の名前が出たのに気づいた若葉ちゃんが顔を上げ、私達に向かっ
てにかっと笑った。
﹁君が見て、足りないと思うものはないか?﹂
﹁そうですわねぇ。えっと⋮ピヴォワーヌ専用席に座らない。みだ
りに馴れ馴れしくしない。廊下等で出くわしたら先を譲る。校内の
牡丹の花を踏んだり粗略に扱わない⋮﹂
﹁犬公方かよ⋮﹂
私が音読していると、役員の誰かがボソッと呟いた。私が振り返
り、﹁まぁ、上手いことおっしゃるのね?﹂と親しみをこめた微笑
みで返事をしたら、下を向いて黙ってしまった。あら?
マニュアルの中身は私が考えたのとほぼ一緒なので、補足するこ
とは特にない。
﹁これでよろしいんじゃないかしら。あまり細かすぎてもどうかと
思いますし。ただピヴォワーヌ対応マニュアルとして単独で教える
のではなく、瑞鸞の注意事項の一環として教えたらいかがでしょう。
他の学校にはない、瑞鸞独特のしきたりなどを教えるついでとして。
そのほうが角が立たないかもしれませんわよ?﹂
﹁なるほどね。そのほうがいいかもしれない。単独で教えるとピヴ
ォワーヌへの特別扱いが露骨すぎるしな。でも独特のしきたりか。
なにがある?﹂
﹁はーい!長靴禁止!﹂
1504
若葉ちゃんが手を挙げて元気よく発言した。
﹁それをわざわざマニュアルに入れるか⋮?たぶん高道しかそんな
ことする人間いないと思うぞ?﹂
﹁うそぉ!﹂
﹁本当だよ。学校指定の長靴がない時点で察してくれ﹂
﹁え∼っ。じゃあ廊下を走らないとか、階段を一段抜かしで上らな
いとか?﹂
﹁高道、それは世間の高校では常識っていうんだよ﹂
﹁え∼っ﹂
同志当て馬と若葉ちゃんは、ポンポンと仲良さげに掛け合いをし
ていた。う∼ん、これは⋮。
﹁じゃあ瑞鸞独特のしきたりってなぁに?﹂
若葉ちゃんの問いかけに、みんなの目が私に集まった。
﹁そうですわね⋮。ごきげんようの挨拶は女子のみ、とかでしょう
か﹂
﹁お∼!なるほどぉ∼﹂
若葉ちゃんが拍手をしてくれた。
﹁ここにいるみなさんは、ほとんどが中等科や高等科からの外部生
なのですから、ご自分達が入学した時に驚いたことを書きだしてみ
ては?﹂
﹁そうだな。やってみるか。誰か思いつくことあるか?﹂
﹁バレンタインに手作りチョコは好ましくない﹂
1505
﹁あれってなんで?﹂
﹁さぁ、食中毒予防とか?﹂
﹁はーい!名前入り粗品タオルの使用禁止!﹂
﹁高道さん、それしきたり以前に女子高生としてちょっと終わって
る﹂
﹁え∼っ﹂
﹁でも男子ではいそうだから一応入れとくか﹂
﹁校門の前で一礼﹂
﹁それは校則の範疇じゃない?﹂
﹁コンビニ弁当禁止﹂
﹁それ重要﹂
﹁確かにね。最初うっかり持ってきて浮きまくった﹂
﹁はーい!雨合羽禁止!﹂
﹁高道、たぶんそんなことをするのも君だけだ﹂
﹁やだなぁ、水崎君。私だって合羽は着てきたことないよ﹂
頑張ってね∼。私は入部届を手に生徒会室を後にした。
1506
221
週明けの月曜日、私が登校すると昇降口でばったり会った鏑木に
﹁放課後の約束を忘れるなよ﹂といつもより少し弾んだ声で念押し
された。
というメールが送られ
今日図書館に行ってきた。その詳細を伝えるの
あー、はいはい。昨日、若葉ちゃんと図書館デートをしてきたん
だよね。
昨夜鏑木から、
で、明日の放課後いつもの小会議室に集合
てきた。どうやらこの様子だと前回と違って上手くいったようだ。
わかりやすい⋮。
﹁遅いぞ、吉祥院!﹂
放課後小会議室に行くと、嬉しさを隠しきれない表情で鏑木が私
を出迎えた。早く話したくってしょうがなかったな、こいつ。
私が椅子に座ると同時に、さっそく鏑木が前傾姿勢で話し始めた。
﹁今回は前回の経験を踏まえ、水崎に偶然会わないように、高道の
地元にある図書館に行ってきたんだ﹂
﹁へぇ∼﹂
﹁それで誰にも邪魔されずにふたりで勉強したんだが、この前行っ
た図書館と違って、そこにはカフェがなかったので、しばらくして
休憩するのに外に出ることにしたんだ﹂
﹁ほぉ∼﹂
﹁だが手近にいい店がなくてな。あったのはファーストフード店だ
1507
けだった﹂
﹁へぇ∼﹂
﹁俺は言った。ここにするかと。高道は驚いていたな。でも俺はす
でにファーストフードをクリアしている男だ。ためらうことなく入
って行ったよ。注文したのはもちろんセットメニューだ。今回は限
定メニューなるものを注文した。知っているか吉祥院、ファースト
フードには期間限定メニューがあることを﹂
知ってるよ。この前もあったじゃないか。
﹁もちろんケチャップももらった。しかも、だ。高道はポテトにケ
チャップをもらい忘れたのだ。俺は自分のぶんのケチャップを一緒
に使おうと申し出た﹂
ここで鏑木の口角が我慢しきれず上がった。
﹁俺はお前と違って心が広いからな。独り占めなんてしないんだ。
高道が、ありがとう、1個しかないから大事に使おうねって言って、
俺もそうだなって言ってふたりでちょっとずつ付けて食べて⋮﹂
ニヤニヤが止まらないな、鏑木。
﹁オプションのケチャップをもらったことで、高道は俺がファース
トフードに慣れていると思ったらしい。鏑木君みたいな人もこうい
うお店に行くんだね∼と言われたから、たまになと言っておいた。
実際は2回目だったがな。上手く立ち回ったと自負している。それ
からはいつもより話が弾んでな。図書館でしゃべれなかったぶん、
勉強でわからないところを話したり、瑞鸞の授業の話をしたりして
凄く楽しかった。気が付いたら店に1時間以上もいてさ。図書館に
戻る時に、しゃべり過ぎたからって高道が笑いながら飴をくれたん
1508
だ。ミント味のはずなのに、甘かった⋮﹂
﹁ほぉ∼﹂
それは好きな子からもらった飴だから、味も甘く感じたと言うこ
とかね?乙女結社に片足突っ込んでるなぁ。
﹁おい、吉祥院!ちゃんと聞いてるか?さっきから適当な返事ばか
りじゃないか!﹂
﹁聞いておりますとも﹂
若葉ちゃんとの図書館デートは大成功って話でしょ。よろしゅう
ございましたね∼。
﹁ファーストフードに行ったことは、かなりポイントが高かった気
がする。高道もよく笑っていたし﹂
﹁普段の自分の行動範囲だから、リラックスしていたんじゃありま
せんか?それと、鏑木様も自分が行くようなお店に出入りしている
んだという親近感﹂
﹁そうだな。俺もそう思う﹂
鏑木は大きく頷いた。
﹁よかったじゃありませんか。これからもその調子で頑張ってくだ
さい。では話はこれで終わりですね?﹂
サロンに少し顔を出したあと、手芸部に行こう。部長として新入
部員との交流を図りたい。
﹁なにを言っている。本題はここからだ﹂
﹁え﹂
1509
﹁今回、俺が高道の生活スタイルに合わせたことで、ふたりの距離
が縮まった。だからこれからも庶民的なものをどんどん学んでいこ
うと思う。次はファミレスだ﹂
げっ、物凄く嫌な予感⋮。鏑木は勢いよく立ち上がり言い放った。
﹁さぁ、吉祥院!今からファミレスに行くぞ!﹂
やっぱりかーー!
用事があるとの抵抗むなしく、私は張り切る鏑木に引き摺られ、
瑞鸞から離れたファミレスに連れて行かれた。
﹁ファミレスなんて普通のお店と変わらないのですから、実地体験
など必要ないのに⋮﹂
﹁まぁ、そう言うな。お前は俺の参謀だろう﹂
﹁私はそのような怪しげなものに就任した覚えはありませんが﹂
私とあんたは師匠と弟子の関係だ!鏑木恋愛軍の参謀なんて冗談
じゃない。
ひとの話を聞かない鏑木は、馬耳東風でメニュー表を熱心に見て
いる。聞けよ。
私はドリア、鏑木はステーキのセットメニューを注文した。鏑木
は覚えたばかりのセットメニューという言葉を使いたくてしょうが
ないとみた。ドリンクバーでは飲み物を自ら取りに行かなくてはい
けないことに驚き、ドリンクのディスペンサーに興味津々だった。
ドリンクは1度にひとつ!子供か、あんたは!
1510
席に戻ってしばらくすると、料理が運ばれてきた。ドリア大好き。
熱いからやけどしないように最初は少量ずつね。
﹁⋮ファーストフードのハンバーガーの時も思ったが、俺の知って
いる肉と違う﹂
ステーキを一口食べた鏑木が呟いた。そりゃそうでしょうよ。鏑
木がいつも食べているお肉は、品評会で賞を獲るような、氏素性の
はっきりした最高級和牛だもん。
﹁お肉にもいろいろあるんです﹂
﹁そうか⋮﹂
鏑木はそれ以上はなにも言わず、黙って食べた。
﹁そういえば高道なんだが、毎日行き帰りの電車の中で参考書を開
いて勉強しているそうなんだ。でも電車というのは混んでいるもの
だろう?そんな窮屈な状態で勉強をするのは大変だから、俺が毎日
車で送り迎えしてやったらどうかと思うんだが﹂
﹁絶対にやめてください﹂
またこのバカはろくでもないことを⋮。
﹁なんでだ?俺は高道のためを思って﹂
なにが若葉ちゃんのためだ。本音はただ若葉ちゃんと登下校を一
緒にしたいだけだろう。
﹁彼女には彼女の生活のリズムがあるのです。高道さんにとっては、
電車の中で勉強するほうがはかどるのかもしれませんわ。世の中に
1511
は乗り物に乗っている時のほうが、集中して勉強ができるという人
もいるのですから。鏑木様のやろうとしていることは、むしろ迷惑
になるかもしれませんわよ﹂
﹁⋮車でも、はかどるんじゃないか?﹂
﹁わざわざ家まで迎えに来てもらって、隣に鏑木様が乗っているの
に、なにも話さずに一人の世界で参考書に没頭などできるでしょう
か。鏑木様は何度か高道さんを車に乗せて登校なさっていますわよ
ね。その時に彼女は教科書なり参考書なりを広げましたか?﹂
﹁いや⋮﹂
﹁でしょう。普通はそんな失礼な真似はできません。本人が電車通
学がつらいと言うならともかく、そうでないなら余計なことはしな
いことです。よろしいですね?﹂
﹁わかった⋮﹂
鏑木は渋々頷いた。そんなあからさまにがっかりしなくても⋮。
こいつは本当にろくなこと思いつかないな。
﹁じゃあ次の議題。高道と図書館以外の場所にも行きたい。どこが
いいと思う?﹂
﹁そうですわねぇ。それは相手の趣味にもよりますよね?彼女の興
味のない場所に連れて行っても退屈なだけですし﹂
﹁そうだな﹂
﹁修学旅行の話などをして、さりげなく彼女の好きなものや、行き
たい場所などをリサーチしてみてはいかがです?勉強以外の話題も
できますわよ﹂
﹁それはいいな!さっそく聞いてみよう﹂
﹁メールにしろ電話にしろ、連絡する時はくれぐれも相手の都合を
考えてくださいね﹂
﹁お前そればっかな。わかってるって何度も言ってるだろう﹂
1512
ついさっき私の都合を無視してここに連れてきた人間が、なにを
言うか!
皇帝はファミレスダンジョンを無事クリアしたので、今日はもう
帰ります。
﹁ファミレスは大衆的なだけで、普通の店とあまり変わらなかった
な﹂
だから言ったじゃん!でもせっかく来たんだし、最後に鏑木が絶
対に使ったことのない技を見せてやるか。
私達はレシートを持ってレジに立った。
﹁お会計は別々で﹂
世の中には割り勘システムというものがあることを、覚えておく
ように。
4月23日はサン・ジョルディの日。男性は女性に薔薇を、女性
は男性に本を贈り合うという、花屋さんと本屋さんの陰謀的な記念
日でございます。
私はこの日を見逃さなかった。
﹁鏑木様、これをどうぞ﹂
﹁なんだ、これは﹂
﹁今日はサン・ジョルディの日です。恋人や家族、親しいかたやお
世話になっているかたなどに本を贈る日なのですわ﹂
1513
私はここぞとばかりに適当な本と一緒に、蔵に封印していた失恋
臭のする詩集を返した。やった!
﹁お前!そんな日を知っていたなら、なぜ先に言わない!あぁ!す
っかり忘れてた。せっかくのイベントなのに!﹂
鏑木はサロンを飛び出し、花屋さんに走って行った。薔薇の量は
考えろよ∼。
1514
222
私が鏑木の車に乗って立て続けにふたりで帰ったことが、噂にな
っている。
曰く、﹁鏑木様と麗華様がまたご一緒に帰っていた﹂﹁麗華様が
朝、鏑木様に放課後の約束を忘れないようにと声を掛けられていた﹂
等々。
もう最悪。今回の噂は鏑木が原因なのだから、もし鏑木から責め
られるようなことが万が一あったとしても、返り討ちにしてやるけ
どさ。でも身に覚えのない恋の噂なんて、鬱陶しいことこの上ない。
﹁麗華様ったら、いつの間に﹂
﹁鏑木様と麗華様ならお似合いだと思いますわ﹂
﹁ねぇ麗華様、鏑木様とどんなお話をしているのか、聞かせてくだ
さいな﹂
﹁わぁ、聞きたい、聞きたい!﹂
昼休み、芹香ちゃん達が目を輝かせて私に恋バナをせがむ。どん
なお話?主に鏑木の頓珍漢な恋愛相談と庶民のレクチャーだよ。鏑
木はねー、告白する時に花火打ち上げようとしたり、片思い中の子
にふたりのイニシャル入りの手作りアクセサリーをプレゼントした
りするんだよ∼。
﹁用事があったので同乗しましたけど、特にみなさんが期待するよ
うなことはなにもありませんのよ?﹂
﹁え∼っ、でもあの鏑木様が麗華様の手を取っていたという目撃情
報が﹂
1515
それは行きたくないな∼と、だらだら歩いていた私の腕を、鏑木
が掴んでグイグイ引っ張って連行していた時だと思う。
﹁私の足が遅いので、鏑木様が腕を一瞬引っ張った時かしら。でも
それだけよ﹂
﹁おふたりが仲良さそうにお話していたって聞きましたわ﹂
﹁勉強の話ですわね﹂
若葉ちゃんに参考書と問題集をプレゼントするアドバイスをした
り、鏑木の図書館デートの話を聞いたりしています。
木で鼻をくくったような私の返事に、芹香ちゃん達がつまらなそ
うな顔をしたけど、鏑木なんかと根も葉もない噂を立てられて、こ
れ以上私が縁遠くなったらどうするんだ。私はまだ、この学院のど
こかにひとりくらいは、私を好きな男子がいるんじゃないかと淡い
希望を持っているのだ。縁起の悪い詩集をやっと手放せたんだから、
私の恋愛運もこれからガンガン上がる違いない。
﹁吉祥院さん、修学旅行の自由行動予定、男子のぶんを集めたよ﹂
佐富君が手に持っていた紙を見せて私の元にやってきた。女子の
ぶんはすでに私が集めてある。
﹁では出しに行きましょうか﹂
﹁俺ひとりで行ってきてもいいけど?﹂
芹香ちゃん達とおしゃべりしていた私に気を使ってか、佐富君が
そんなことを言った。
﹁いえ、大丈夫ですわ。私も一緒に行きます﹂
1516
目前に迫った修学旅行の各自の自由時間の行動予定表を、生徒会
に届けに行くのだ。だいたいはみんな、似たようなところに行くん
だけどね。
私と佐富君は芹香ちゃん達にいってらっしゃ∼いと見送られ、教
室を出た。
﹁吉祥院さん達は自由行動の日はどうするの?﹂
﹁私達はミュージカルに行く予定ですわ﹂
﹁へぇ。ミュージカルは希望者が結構いるみたいだね。なにを観に
行くの?﹂
﹁オペラ座の怪人ですわ﹂
﹁あ∼、あのシャンデリアが落下する話かぁ﹂
﹁ええ。佐富君達は?﹂
﹁俺達はサッカー観戦﹂
なるほど。男子はそっちか。ヨーロッパだもんね。当然蹴鞠大納
言達も行くんだろうなぁ。
﹁でも母親に買い物も頼まれているんだよねぇ。これが結構面倒で﹂
﹁まぁ﹂
﹁買い物リストを渡されたんだけど、俺じゃよくわからないから、
そのブランドに買い物に行く女子達に付いて行って、教えてもらう
ことになってるんだ﹂
すでに自由時間に女子と行動する予定が入っているとは⋮!佐富
君め、なんと羨ましい。これぞ私の憧れる修学旅行だ。森山さんも
修学旅行で、一緒に寺巡りなどをしてお参りしたり、お団子を食べ
たりして仲良くなった男子と付き合うことになったと言っていた。
しかし私のグループには今のところ男子からのお声はなにひとつ掛
かっていない。寂しい。ここは共学のはずなのに、私の周りだけ初
1517
等科から女子校状態だ。男女七歳にして席を同じゅうせずなどと掲
げた覚えはないのに。
﹁ところで吉祥院さん、ロンドン塔の幽霊って知ってる?﹂
﹁怖いからやめてください﹂
お化けの話をしていると、本当に来ちゃうんだぞ。
﹁え∼、わくわくしない?アン・ブーリンは首ありバージョンと、
首なしバージョンがあるらしいよ﹂
﹁しません。話題を変えましょう。佐富君はトレビの泉でコインを
何枚投げますか?﹂
佐富君はきっと、京都の血天井を観に行っちゃうタイプだな。ひ
ぃ∼、怖いっ。背筋がゾクゾクするっ!楽しい話をしようよ∼。
私達はそのまま生徒会室まで、どこに行きたい、あれが食べたい
などと歩きながら話した。
﹁予定表の提出に来ました﹂
﹁ご苦労様です﹂
生徒会室には会長の同志当て馬と、若葉ちゃんと2年生の男子が
いた。昼休みだってのに役員は当番で生徒会室にいなきゃいけない
とは大変だ。
﹁水崎、頑張ってるか∼?﹂
﹁まぁな。お前こそちゃんとクラス委員の仕事をやっているのか?﹂
﹁やっているだろ∼。今もこうして昼休みだってのに真面目にお使
いしてさぁ。もっと労えよ﹂
﹁なに言ってんだ﹂
1518
佐富君は同志当て馬とも友達のようで、軽口を叩き合っている。
佐富君は人当りがいいから男女ともに友達が多いよね。
﹁あれ?このクッキーなんだ?﹂
会長の机の上には、透明な袋に入ったクッキーがあった。
﹁高道の差し入れ﹂
﹁高道さんの?﹂
若葉ちゃんの手作りクッキーとな?!
﹁昨日、家でクッキーを焼いたからみんなで食べようと持ってきた
んだ∼﹂
若葉ちゃんがニコニコ笑って答えた。
﹁へぇ、そうなんだ。俺もひとつもらっていい?生徒会室でお菓子
を食べていた口止め料に﹂
﹁あはは、どうぞ∼﹂
佐富君は1枚齧って﹁おいしい。高道さん、お菓子作り上手だね﹂
と褒めた。そりゃあケーキ屋さんの娘ですもの。
﹁吉祥院さんもよかったらどうぞ?﹂
若葉ちゃんが屈託なく私にもクッキーを勧めてくれたので、﹁あ
りがとう。いただきますわ﹂と、遠慮なくもらった。チョコクッキ
ーは甘い中に少しほろ苦さもあっておいしい。さすが若葉ちゃん。
1519
今度このクッキーの作り方も教えて欲しいなぁ。
しかし私が若葉ちゃんの手作りクッキーを普通に食べたことに、
同志当て馬達は少し驚いた表情で見てきた。あ、そうか。私がすっ
かり若葉ちゃんに胃袋を掴まれていることを、ほかの人達は知らな
いんだった。
﹁ごちそうさまでした。とてもおいしかったですわ﹂
もう1枚もらいたかったけど、やめておこう。
それから私達は自由行動時の注意などを受けて、生徒会室を出た。
う∼ん、あの様子だと、若葉ちゃんの生徒会への手作りお菓子の
差し入れは、今日が初めてではないとみた。鏑木が知ったら悔しが
るだろうな∼。今のところ、若葉ちゃんと一緒にいる時間が、同志
当て馬のほうが圧倒的に多くて有利だけど。これを巻き返せるか、
鏑木?!
その夜、私は若葉ちゃんに今日のクッキーのお礼を兼ねて連絡を
した。
﹁あのクッキー、サクサクしてて凄くおいしかったから、また作り
方を教えてもらいに遊びに行ってもいい?﹂
﹁もちろんだよ。いつでも来て。この前の鉄板焼きも楽しかったよ
ねぇ。吉祥院さんの持ってきてくれたお肉が、凄くおいしかった!﹂
﹁ふふっ、そうね﹂
あの日は本当に楽しかったなぁ。私もリラックスしすぎて何度も
若葉ちゃんって呼んじゃってたし。
1520
﹁よく差し入れは持って行くの?﹂
﹁たまにね。生徒会の仕事が忙しくて放課後遅くなりそうな時とか、
おなかが空くかなって時に、みんなで食べようと思って﹂
友柄先輩も生徒会室に行くと、よくお菓子を食べていたなぁ。懐
かしい。食べ盛りだからおなか空くもんね。
﹁生徒会の特権ね?﹂
﹁あはは。あ、そうだ。この前吉祥院さんにも考えてもらったマニ
ュアルね、完成したんだ﹂
﹁へぇ!どうだった?﹂
﹁うん。新しく外から入ってきた子達にはかなり役に立ったみたい。
やっぱりわからないことがいっぱいあったみたいだから﹂
﹁そう。良かったわね﹂
﹁コンビニのお弁当禁止は、すでにやっちゃった子がいたみたいだ
けど。ほかの高校では普通のことだからねぇ﹂
﹁そうねぇ﹂
前世で通っていた高校では、私にも当たり前の光景だったよ。
﹁瑞鸞の子達って、コンビニのお弁当なんて食べたことないのかな﹂
﹁う∼ん、どうかしら﹂
少なくとも内部生は食べたことがないと思う。私はおにぎりをよ
く買うけどね。いろいろ種類はあるけれど、やっぱり鮭を選んじゃ
うんだよね∼。
﹁あ、でもね、この前鏑木君とファーストフードに行ったの!﹂
1521
お!その話は?!
﹁まぁ。鏑木様と?﹂
﹁そうなの。図書館に一緒に勉強しに行ったんだけどね。ちょっと
休憩するために外に出たのはいいけど、鏑木君が普段入るような店
がなくてさぁ。どうしようかと思ってたら、鏑木君がここでいい?
ってファーストフードにスタスタ入って行っちゃうんだもん。もう
びっくりだよ∼。私、ピヴォワーヌの人は絶対にそんなお店に入っ
たことなんて一度もないんだと思ってた!﹂
うん、正解だよ。鏑木のファーストフードデビューはつい最近の
ことです。
﹁結構ね、よく来るみたい。普段はハンバーガーを食べているらし
くて、季節メニューは初めて注文するって言ってたけど﹂
﹁へぇ∼﹂
﹁鏑木君って、外食は常に三ツ星レストランみたいなところしか行
かないと思ってたんだけど、まさかファーストフードにも行くなん
てね。本当にびっくり。なんかね、広く社会を見るために、そうい
人生勉強
をパクったな。鏑木め。
うお店にも入るようにしているんだって﹂
あ、それ、私の
﹁今までは同じ学校に通う同級生っていっても、雲の上の存在って
いうか、住む世界が違う人ってどこか思ってたんだけど、案外普通
のところもあるんだなって、ちょっと親しみを持っちゃった﹂
﹁そうなんだ﹂
おぉ、これは親近感を持ってもらうという作戦成功かな。さすが、
私。ナイスアドバイス!
1522
﹁それでね、その鏑木君からもさっき電話があって、修学旅行の話
をしていたんだけどね。私がスイーツの有名店に行きたいんだって
話をしたら、じゃあ自分が連れて行ってあげるって言ってくれて、
結局一緒に行くことになっちゃったんだけど、吉祥院さんどう思う
⋮?﹂
﹁はあっ?!﹂
鏑木!あいつはまた何をやってるんだ?!修学旅行の話から若葉
ちゃんの好みをリサーチしろとは言ったけど、その修学旅行の自由
時間に強引に割り込めとは言っていない!
﹁それは⋮、高道さんにも予定があるでしょうから、迷惑ならはっ
きり断っていいと思いますわよ﹂
あのバカ、あのバカ⋮。うざがられても知らないぞ。
﹁ううん、それは全然迷惑なんかじゃないんだ。むしろ嬉しいくら
い﹂
﹁えっ?!﹂
それは意外!だって若葉ちゃんだって、友達との予定があるでし
ょう?
﹁だって、高道さんのお友達は?﹂
﹁それがね、ほかの友達は自由時間にショッピングに行きたいらし
いんだけど、私はあまりブランド物には興味がないから。だったら
その間に憧れの有名スイーツのお店に行ってみたいなって思ってた
の。最初はひとりでも行っちゃおうかなって思ったんだけど、でも
やっぱり初めての海外で、ひとりで出歩くのって少し怖いでしょ?
1523
チップとかもよくわからないし⋮﹂
﹁そうね﹂
﹁そのことを鏑木君に話したら、だったら自分がって言ってくれた
んだけど。でもね、鏑木君がせっかく言ってくれたんだけど、鏑木
君の自由時間を私のスイーツ巡りに付き合わせるのは悪いと思うん
だ。鏑木君にも行きたいところがあるだろうし⋮﹂
鏑木の行きたいところ?あのバカ弟子に、若葉ちゃんと過ごす自
由時間より行きたい場所などあるもんか。
﹁⋮それはどうかしら。鏑木様はヨーロッパには何度も行っている
から、いまさら修学旅行でどうしても行きたい場所などはないと思
うわよ﹂
﹁そうかな?﹂
﹁ええ。それに鏑木様は甘党だから、本人も楽しいんじゃないかし
ら?﹂
﹁そっかぁ。じゃあ厚意に甘えちゃってもいいかな⋮?あのね、ロ
ーマに鏑木君のお薦めのドルチェのお店があるんだって。その話を
聞いて、実は凄く行きたかったんだ!﹂
﹁えっ、ドルチェ⋮?!﹂
﹃君は僕のdolce﹄の主人公の口から、いきなりその単語が出
てきたので、心臓がありえないくらいドキンッとして、あやうく携
帯を落としそうになった。
甘党の皇帝が、好きな女の子をdolceに例えるタイトルのマ
ンガ。
その皇帝と若葉ちゃんが一緒にドルチェを食べに行く。これはド
ルチェが縁で急展開の予感?!うひょおっ!なんだかよくわかんな
いけど興奮してきたー!
1524
﹁若葉ちゃんが行きたいなら、ぜひ行ってきなよ!ドルチェ、いい
よドルチェ!﹂
﹁う、うん、ありがとう⋮﹂
パリとローマの
と返信をしておいた。
という喜びのメールが入
妙なテンションのまま電話を切ると、鏑木から
健闘を祈る!
自由時間を一緒に過ごすことになった!
っていたので、
くれぐれも目立
若葉ちゃんにいつか﹃君は僕のdolce﹄って言っちゃうの?
!ねぇ、言っちゃうの?!鏑木!!
一晩寝て、元の精神状態に戻った私は、鏑木に
と、冷静なアドバイスをメールした。
つ行動は取らないように。瑞鸞の誰かに見つからないように。いつ
までも引き止めないように
修学旅行、楽しいといいな。
1525
223
修学旅行の最初の滞在地はロンドンだ。
全員での市内観光はビッグベンやロンドン塔、トラファルガー広
場にバッキンガム宮殿、ウエストミンスター寺院等々を観て回る。
ほとんどの生徒にとっては、すでに何度も訪れたことのある場所だ
ったりするので、あまり新鮮味はないはずなんだけど、それでも修
学旅行で友達が一緒だと気分も全然違う。私もバッキンガム宮殿で
の衛兵交代式に、芹香ちゃん達とはしゃぎながら写真を撮った。お
馬さ∼ん、通り過ぎるの早すぎ!
このおもちゃの兵隊さんみたいな人達の実力は、実際のところど
うなんだろうなと思いつつも、こういうのを見ると、外国に来たな
ぁって楽しくなっちゃうね!
ロンドン塔では怖いので、なんとなくずっと親指を隠した。佐富
君が日本であんな話をしてきたせいだ⋮。えっ、ここで写真?!大
丈夫かなぁ⋮。ピースサインはできません。親指隠してるから。
﹁次は車中からロンドン橋とタワーブリッジを観まーす﹂
添乗員さんが生徒達をバスに誘導しながら言った。
ロンドン橋かぁ。ロンドン橋と聞くと、つい頭の中でロンドン橋
落ちる∼と歌ってしまうよね。
同じクラス委員として一緒に生徒を誘導していた佐富君に、﹁吉
祥院さん、頭揺れてるけど、大丈夫?﹂と指摘された。あら、いや
だ。頭の中で歌いながら、無意識にリズムを取っていたみたい。
﹁ねぇ佐富君。ロンドン橋と聞くと、あの有名なマザーグースの童
謡を思い出しません?ほら、ロンドン橋落ち││﹂
1526
﹁あぁ、あの人柱の歌ね﹂
人柱││││。
⋮⋮さーーとーーみーー!
今からその橋を渡るって時に、なんで人柱なんて怖いことを言う
かね、君は?!私は怖がりなんだ!やめろ!また佐富君のせいで親
指を隠さないといけなくなった!
イギリス土産にマザーグースの洋書を買って帰ろうと思っている
けど、日本に着くまで読むのはやめよう⋮。マザーグースって子供
のための童謡のはずなのに、なんで残酷な内容ばっかなんだろう。
斧でお父さんとお母さん滅多打ちって⋮。イギリスの子供はそんな
話を聞かされて、夜安眠できるのだろうか?
佐富君のせいで怖くなっちゃったので、同室の菊乃ちゃんがお風
呂に入っている間に部屋に持参した清めの塩を撒いた。床がザラザ
ラしたらごめんね?
自由行動の日は、私達のグループの予定は夜のミュージカルがメ
インだけれど、その前にショッピングやアフターヌーンティーに朝
から繰り出す。買いたい物がいっぱいだ。ロッキンホースバレリー
ナ、今回こそ買っちゃおうかなぁ。あの靴で外を歩くのは怖いので、
家の中だけで履くつもりだけど。どうしよっかなぁ、買っちゃおう
かなぁ。でもその前にアロマキャンドルや精油といった雑貨も欲し
い!お土産に配る紅茶も買わないと。挿絵がきれいな洋書も欲しい。
麻央ちゃんには不思議の国のアリスと鏡の国のアリスを買っていこ
う。悠理君にはピーターパンかな。雪野君は私と同じで、マザーグ
ースの洋書を欲しがっていたけど、天使な雪野君に猟奇殺人がゴロ
ゴロ出てくる歌を読ませちゃっていいのかなぁ⋮。英国ブランドを
好むお兄様へのお土産も探したい。おっ、可愛いカフス発見!ネク
1527
タイも買っちゃう?!あぁ、お買い物って楽しいな。
一旦荷物をホテルに置いてから再始動。イギリスといったらアフ
タヌーンティー。たまにお菓子がお皿で出てくるお店もあるけれど、
私は絶対にシルバーの三段トレイに載って出てくるタイプがいい!
お姫様気分を味わうには三段トレイ。ここは絶対に譲れない!見た
目重視。
﹁このスコーン、おいしいですわね﹂
﹁本当。ここのジャムとクロテッドクリームは、とてもおいしいわ﹂
﹁本場ですもの﹂
イギリスは食べ物がまずいと有名だけど、アフタヌーンティーは
その雰囲気もあってか、やけにおいしく感じる。雰囲気って本当に
大事だな。スコーンなんて日本ではそんなに食べるほうでもないん
だけどね∼。でも今日をきっかけに私の中でスコーンブームが来そ
うな予感。帰国したらおいしいお店に買いに行っちゃおうかなぁ。
でも実は高級スコーンよりも、フライドチキンのファーストフード
店のビスケットが一番口に合うというのは秘密だ。いつも付属のメ
ープルシロップが足りなくなっちゃうんだよね。
⋮しかしこのジャムとクリームの取り合わせは、乙女の腹囲の大
敵だな。だが私は敵に後ろを見せるような真似はしない。スコーン
め、勝負だ!
﹁あ∼、楽しい。NYやLAもいいけど、やっぱりヨーロッパです
よねぇ⋮﹂
﹁ねぇ∼﹂
﹁私もヨーロッパが一番好きよ﹂
流寧ちゃんの言葉にみんなが賛同した。そうだよねぇ、なんだか
んだ言っても、ヨーロッパはお城や古い町並み、ファンタジーに可
1528
愛いお菓子など、女の子の夢がいっぱいで楽しいんだよ。
﹁あぁ、これで鏑木様や円城様がここにいらしたら⋮﹂
芹香ちゃんがほうっとため息をついた。女の子の描く完璧な景色
には王子様が必須。芹香ちゃんにとってそれは鏑木達らしい。鏑木
も円城も外見だけはいいからね。
﹁鏑木様と円城様とアフタヌーンティー!﹂
﹁まぁ、そしたら私、緊張でなにも喉を通らないわ!﹂
﹁私も!きっと最初のサンドウィッチを一口で精いっぱいよ﹂
﹁ねぇ、麗華様もそう思いません?﹂
ジャムとクリームをたっぷり添えたスコーンとの一騎打ちに挑ん
でいた私に、突然話が振られた。
﹁え、まぁ、そうですわね?﹂
確かに好きな異性が目の前にいたら、腹八分目で留めるかな。大
食いだと思われたくないもん。
すると菊乃ちゃんに﹁でも麗華様はピヴォワーヌのサロンでいつ
もおふたりと、こういった時間を過ごしているのでしょう?﹂と言
われた。
﹁そうだわ。麗華様にとっては日常なのですもの。羨ましいわぁ。
サロンでのおふたりはどんな感じなのですか?﹂
﹁麗華様、聞かせてぇ﹂
どんな感じって、お茶飲んでお菓子食べてるだけなんだけど。で
もみんなが期待しているのは、そんな話じゃないんだろうなぁ。私
1529
は友達思いなので、空想のお手伝いをしてあげよう。
﹁そんなに特別なことはしていないわ。今こうして私達が過ごして
いるのと、同じような感じかしら。鏑木様は気が向くとピアノを奏
でてくださって、私達はその演奏を聴きながらお茶をいただくの﹂
﹁まぁっ!﹂
芹香ちゃん達のうっとりメーターがグンッと上がった。
﹁では円城様は?﹂
﹁そうですわねぇ。微笑みを湛え静かにお茶を飲んでいることが多
いでしょうか。たいていは鏑木様と談笑なさっていますわね。ご存
じの通りあのおふたりはとても仲がよろしいから。鏑木様がピアノ
を奏でると、円城様はその傍らに立って演奏を鑑賞されたりするの。
それと、おふたりがお互い背中を預けて思い思いの本を読んでいら
した時もあったわ﹂
﹁素敵⋮!﹂
﹁誰も入り込めない、ふたりの世界ね⋮﹂
﹁耽美だわぁ⋮﹂
背中合わせで本を読んでいたのは初等科の時だったけど、まぁ嘘
は言っていない。
みんなは宙を見ながらそれぞれの妄想に耽っている。私はその間
にスコーンに再度挑む。焦るな、私。この後には城の天辺で待つケ
ーキとの戦いも控えているのだから。
﹁今頃、おふたりはどこにいらっしゃるのかしら⋮﹂
﹁サッカーを観に行くという話を耳にしましたけど﹂
ほぉ、あのふたりもサッカーを観に行くのか。
1530
﹁サッカーだったら一緒に行くのは男子ばかりでしょうから、安心
ね﹂
﹁そうね。修学旅行では、ここぞとばかりに鏑木様達に近づこうと
する女子が大勢いるでしょうから﹂
﹁図々しいわよね!﹂
﹁特に外様が純血瑞鸞の鏑木様達に近づくのは許せないわ!﹂
﹁そうよねぇ﹂
﹁次のパリではどこを回られるのかしら。パリの街を鏑木様達と一
緒に歩いてみたいわぁ﹂
﹁それは素敵ねぇ﹂
⋮⋮パリとローマでは、鏑木は若葉ちゃんとスイーツを一緒に食
べに行く約束になっているんだけどなぁ∼。絶対に取り巻き撒けよ、
鏑木!
私達は上段のケーキまでしっかり食べ切ると、これからの予定に
ついて話した。
﹁お買い物もしたし、この後どうします?ここでのんびりもいいで
すけど﹂
﹁そうねぇ﹂
ショッピングでちょっと疲れちゃったけど、でもせっかくだから
時間いっぱい遊びまわりたいよね。
﹁ねぇそれだったら、ミュージカルまで時間があるし、大英博物館
にでも行きませんか?﹂
そうあやめちゃんが提案した。大英博物館かぁ。大英博物館は若
葉ちゃんが修学旅行で一番楽しみにしていたなぁ。猫のミイラはち
1531
ゃんと観ることができたかな?
﹁そうね、行ってみましょうか﹂
この女の子の夢の詰まったアフタヌーンティーの世界は名残惜し
いけど、私達は大英博物館に移動するため、後ろ髪を引かれる思い
で席を立った。
タクシーで大英博物館まで行くと、ちらほらと瑞鸞の生徒らしき
見知った顔を見かけた。
私達は大英博物館まで来たものの、どうしても観たいという展示
物があったわけでもないので、おしゃべりをしながら適当に歩いて
回った。
﹁あら?ねぇ、あれって⋮﹂
菊乃ちゃんが示した方向には、若葉ちゃんと同志当て馬と、他男
女数人の仲間達がいた。
若葉ちゃん、同志当て馬達と観に来てたのか。カバンをしっかり
たすき掛けにした若葉ちゃんは、楽しみにしていただけあって、熱
心に写真を撮ったりメモを取ったりしていた。時々隣の同志当て馬
が、展示物を指差しながら若葉ちゃんに話し掛け、若葉ちゃんもそ
れに頷いたりしている。親密だ。
﹁高道さんと水崎君はずいぶんと仲良さげですわね⋮﹂
﹁同じ生徒会ですからね⋮﹂
芹香ちゃん達もジーッとふたりを観察していた。ちょっとやめな
よ、みんな!私は若葉ちゃん達に気づかれないうちに、みんなを引
っ張って移動した。
1532
﹁あっ、吉祥院さん﹂
声を掛けられ振り向くと、ロゼッタストーンの前に委員長と岩室
君、美波留ちゃんと野々瀬さんが立っていた。
﹁まぁ、みなさんもいらしてたのね?﹂
修学旅行の自由時間を4人で回っていたのか。くっ、羨ましいっ!
﹁うん。大英博物館は何度来ても飽きないから﹂
ね、と4人は頷き合った。すっかり仲良しさんねぇ。弟子が幸せ
なのは師匠として喜ばしいことだ。喜ばしいけど⋮ちょっと悔しい。
若葉ちゃんも男女混合グループで来ている。館内をよく見れば男女
のグループで行動しているほかの瑞鸞生達も発見。そうだよね、共
学だもんね。なのにどうして私は女子校なの!
聞けば委員長達も、夜はオペラ座の怪人を観に行くらしい。ほぉ
ん。恋する乙女な委員長が好きそうな題材だもんねぇ。
﹁それと、パリでは4人でセーヌ川の遊覧船に乗ろうと思ってるん
だ。ねっ﹂
﹁うん﹂
﹁そうなんです﹂
﹁へぇ⋮﹂
カップルでセーヌ川クルーズ⋮。なんてロマンチックなんだろう。
羨ましすぎる。⋮別にいいもん。私だってお兄様と乗ったことある
し!いつか私の未来の恋人と絶対に乗りに来るし!
去っていく委員長達の背中を見送りながら、﹁セーヌ川、いいな
ぁ⋮﹂とポツリと独り言を呟いたら、それを聞いた芹香ちゃん達が、
1533
私が純粋に川下りをしたいと思ったらしく﹁だったら私達もパリで
乗りましょうよ!﹂と言ってくれた。うん、ありがとう⋮。
ミュージカルの上演時間まではまだ時間がある。先に夕食を済ま
せておこうということになったけど、アフタヌーンティーで結構食
べたのでそこまでおなかは空いていない。そうだ!
﹁ねぇ、みなさん。フィッシュアンドチップスを食べてみません?﹂
フィッシュアンドチップスはイギリスのファーストフード的な国
民食だ。名前だけは知っていたけど、イギリスに遊びにくる時はい
つも家族と一緒だったので、そんな庶民的な食べ物を食べる機会が
なかったのだ。でもずっと興味があったんだよね∼。どうかな?
﹁フィッシュアンドチップスですか⋮?﹂
あ、みんなちょっと困惑した表情。
﹁ええ。本にね、よく出てきて、どのような食べ物なのかしらとず
っと思っていたの﹂
﹁そうですね。私もよく聞きますけど、食べたことはありませんわ﹂
﹁私も﹂
﹁ちょっと興味あるかも⋮﹂
﹁ではせっかくですから、食べに行ってみましょうか?﹂
﹁そうね!﹂
﹁賛成!﹂
やった!ロンドンでファーストフード体験!
誰も食べたことがないので、お店がどこにあるのかわからなかっ
1534
たけど、なんとか調べて行ってみた。私が読んだ本には、新聞紙に
包まって公園などで食べたりする物だったけど、私達が選んだお店
はお皿に出てくるらしい。お魚もポテトも大好きだ。どんなお料理
なのかなぁ。
とわくわくしながら注文して、出てきた憧れのフィッシュアンド
チップスは、フライドポテトドーン!揚げた魚ドーン!といった、
まさにその名の通り、魚とイモといった代物だった。
﹁⋮⋮﹂
⋮なんというか、もうちょっとフライを一口サイズにするとか、
きれいに盛り付けるとか、ひと工夫できないものなのだろうか。そ
して量が多い⋮。
でも味はおいしいのかもしれない!だってこれだけ有名なんだも
の!一口食べる。⋮見た目通りの大味だった。これが国民食とは、
噂にたがわぬイギリス食⋮。日本のB級グルメって偉大だ。なんか、
みんなごめんね?
油でもたれたおなかを抱え、ホテルに戻ってドレスアップ。げ、
食べ過ぎで少しおなかが出てる⋮。寝る前にストレッチしなくちゃ。
劇場には瑞鸞生が大勢いた。人気作だもんねぇ。しかも明日から
は本物のオペラ座のあるパリに行くんだから、絶対観ておかないと!
そして始まったオペラ座の怪人のミュージカルは素晴らしかった。
そんなに広い劇場でもなかったので、舞台が近くて臨場感が凄い。
身を乗り出して観賞した。シャンデリアが落下してくる場面では、
わかっていたはずなのに﹁ぅひゃっ!﹂と声をあげてしまった。
え∼っ、そりゃないんじゃないの?クリスティーヌ!嘆かないで
ファントム∼、私がいるよ∼っ!と感情移入。ファントム!貴方こ
1535
そ、パリ恋愛ぼっち村村長だ!同じ村長として、私は力いっぱい拍
手をした。
劇場から出てきても、ミュージカルの世界に未だ夢見心地だ。み
んなも余韻に浸っている。舞台はやっぱりいい!あぁ、歌いたくな
ってきちゃった!
帰る途中で、感激に涙ぐむ委員長が、美波留ちゃんに背中を擦ら
れているのを見つけた。
今日は朝から晩まで動いていたので疲れた∼。ホテルに戻り、ツ
ボを押す為に持ってきたゴルフボールを土踏まずの下でゴロゴロ転
がす。く∼っ!効く!私くらいになるとボールに乗ったまま歩ける
んだよ。亀の歩みだけどね。ゴロゴロゴロ。あ∼、オペラ座の怪人、
良かったなぁ。ラストは切ないけど。
今日の同室の芹香ちゃんがお風呂に入っている間に、クリスティ
ーヌになりきって、ら∼ら∼っと小さい声で歌う。そのうち興が乗
って適当な振付もつける。ちょっぴり歌声も大きくなる。くるくる
と縦横無尽に踊りながら歌っていると、いつの間にかバスルームか
ら出てきていた芹香ちゃんとばっちり目が合い、お互いそのまま固
まった││。見られたっ!
しかし無言の芹香ちゃんは一旦目を瞑ると、おもむろに私に向か
ってスッと手を差し出した。
﹁クリスティーヌ!﹂
ファントム!
バスタオルのマントを翻し、芹香ファントムが歌姫の私を闇へと
誘う。えぇ、ともに参りましょう!ら∼ら∼っ、らららら∼っ!
こうして私達は、手と手を取り合い歌いながら、オペラ座の奥深
1536
くへと旅立っていったのだった。
1537
224
修学旅行の2ヶ国目はフランスはパリだ。グッバイ!ロンドン!
また来ます。そしてボンジュール!パリ!
パリはロココの女王の第二の故郷。あぁ、どこを見てもおしゃれ
!歩いている人もごく普通の格好しているはずなのに、なぜかおし
ゃれに見える。フランスマジックだ。でも実は私、パリは第二の故
郷のはずなのに、何度来てもちょっぴり気後れしちゃうんだよね。
ロンドンはその街のコンパクトさと人々の時間の流れ方が、なん
だか東京に似ている気がするので、私には過ごしやすくて好きな外
国都市なんだけど、パリは、というかフランス人は、その気位の高
さと、自国のファッション、食、芸術が一番だと思っている感じが
なんだか京都っぽい。もちろん京都は大好きなんだけどね。
パリもロンドンと同じく、1日は全員でエッフェル塔、凱旋門、
ノートルダム大聖堂、サクレクール寺院などを市内観光する。エッ
フェル塔を観るとパリに来た!って感じがするよね。さすがおフラ
ンス。東京タワーとはおしゃれ度が全然違う。
おぉっ、オペラ座じゃないか!ファントム、貴方はここにいたの
ね!ら∼らら∼っ。ロンドンでオペラ座の怪人を観た生徒達は、私
と同じようにテンションが上がっていた。そうだよね∼。つい何日
か前に観たミュージカルの舞台が目の前にあるんだもん。あの時の
興奮した気持ちが蘇っちゃうよ。
ガルニエ宮の館内見学では豪華絢爛な内装にうっとり。このシャ
ンデリアが落ちたのね∼。オペラ座は舞台を観る予定がなくても、
ガルニエ宮のこの美しい内装だけでも見に行ったほうがいいと思う。
でもオペラ座の怪人を観たあとだと、やっぱり舞台も観たくなっち
ゃった。ロンドンでミュージカルを観るから、パリでは観劇はいい
1538
かと予定に入れなかったことを後悔。
コンコルド広場はロココの女王が処刑された場所だ。ひぃ∼っ。
思わず首を守る。ギロチン怖い。でもギロチンで公開処刑って凄い
よね⋮。人の首が飛ばされるところを見世物にしちゃうんだよ。フ
ランス人、恐るべし。私なら絶対に直視できない。うほ∼っ、考え
ただけで背筋がゾクゾク。
あっ、佐富君が近くに寄ってきた。また余計なことを言おうとし
てるでしょ!
﹁吉祥院さん知ってる?ギロチンって、結構最近まで処刑に使われ
ていたんだよねぇ﹂
さーーとーーみーー!
どうしよう。夜中に首なし死体が枕元に立ったら!佐富君のせい
で、またホテルに帰ったら部屋に清めの塩を撒かなくちゃならなく
なった!
セーヌ川にかかるポンデザールは、別名恋人達の橋。南京錠にふ
たりの名前を書いてフェンスに取り付けて愛を誓うんだってさ。恋
愛ぼっち村に真っ向からケンカを売ってくる橋だ。けっ。早くルー
ブルに行きましょうよ!って、動かない連中がいる!こいつら全員
恋愛謳歌村の村民達か?!ちょっと、なに南京錠を買いに行こうと
してんの?!市内観光で勝手な行動はしないで欲しいんだけど!む
かむか。
﹁なんだか鏑木様の機嫌がよろしいらしいの﹂
観光の合間にこんな噂話を耳にした。
﹁なにか楽しいことでもあったのかしら?﹂
﹁ロンドンでサッカー観戦をしたそうだから、応援していたサッカ
1539
ーチームが勝ったんじゃないかしら?﹂
﹁あぁ、そうかもしれないわね。鏑木様はスポーツがお好きだから﹂
鏑木の機嫌がいいのはたぶん、いやほぼ確実に、若葉ちゃんとパ
リで自由時間を過ごせるからだ。パリデートだと浮かれているんだ
ろう。あのバカ、わかりやすすぎ。鏑木め、恋人達の橋で南京錠を
買ったんじゃあるまいな。そして乙女な委員長はこっそり買ったけ
ど、結局本人には言いだせなくて終わるに違いない。
パリでの自由時間は、これはもうメインはショッピングだ。日本
未発売の商品を手に入れるために、朝から動く。バッグ、靴、アク
セサリー、雑貨、お菓子⋮。シャンゼリゼ通りは戦場だ!
あっ!佐富君のグループが女の子達と一緒に買い物してる!こっ
ちは佐富君のせいで昨夜、ちょっとビクビクしながら寝たってのに
嫉妬
発動。その背中に恋愛ぼ
!なのに当人はパリを、シャンゼリゼ通りを女の子達と楽しそうに
歩いている。許せん。七つの大罪
っちの呪いをかける。
日本で人気の化粧品雑貨も安いなぁ。ここのハンドクリーム大好
き。桜ちゃんや葵ちゃん、塾の女子メンバーへのお土産用に買い込
んでおこう。梅若君達にはなにがいいかな。女の子へのプレゼント
はすぐに頭に思い浮かぶんだけど、男の子のは全然思いつかない。
だって村長だもの。
そして男の子へのプレゼントといえば、日頃からたくさんのプレ
ゼントをくれる、伊万里様へのお土産も探さないといけない。カサ
ノヴァ村の伊万里様は、立ち居振る舞いはまるでイタリア男のよう
だけど、ファッションはエレガントなフランスのメゾンのものをわ
りと好んで身に着けているというのは知っている。だからパリで選
ぼうと思っていたけど、おしゃれな伊万里様のお眼鏡に適う品なん
1540
てハードルが高すぎだ∼。
長年傍にいるおかげで、お兄様の趣味に合うものはなんとなくわ
かるんだけど、それ以外の男性の好みや似合うものなんてまるでわ
からん。だって村長だもの。旅行前にお兄様に伊万里様へのお土産
はなにがいいか相談したら、返ってきたのは一言、﹁消え物﹂だっ
た。なんて素っ気ない!お兄様、もう少し親身になってよ∼。妹が
親友にセンスのない子って思われてもいいの?!
でも消え物か⋮。伊万里様にお菓子をあげてもしょうがないから、
だったらワイン?でも伊万里様の嗜好は知らないし、たぶん高けれ
ばいいってもんじゃないんだろうなぁ。将来飲むために、ワインラ
ベルは集めているけど、どれがおいしいかなんて正直わからない。
有名なワインでも当たり年とか外れ年とかあるみたいだし。それに
私の貧相な発想ではワインはフランス産って思ってたけど、お兄様
は結構カリフォルニアワインを飲んでいたりするんだよね∼。最初
はお兄様がカジュアルなカリフォルニアワイン?!って驚いちゃっ
パリスの審判
とい
たけど、最近はフランスよりカリフォルニアのワインのほうがおい
しい物もあるんだってさ。ソムリエのかたが
う、フランス対カリフォルニアのワイン対決の話を教えてくれた。
奥が深すぎてますますワイン様に腰が引ける∼。うん、ワインは無
しだ。
ショッピングが一段落して、ランチを兼ねてカフェに入った時、
みんなにこのことを相談してみた。
﹁男性へのお土産ですか∼﹂
﹁ええ、そうなの。迷ってしまって﹂
フランスはパンがおいしい!さすがフランスパンの国!ロンドン
と違ってパリはどこに行っても食べ物がおいしい。食べ物のおいし
い国っていいわ∼。もちろん、アメリにちなんでクレームブリュレ
も注文する。映画のお店とは違うけどね。カラメルをコンコンと叩
1541
いてアメリ気分。えへへ。
﹁やはりネクタイとかでしょうか﹂
﹁私も家族にネクタイをプレゼントしたことがありますわ﹂
﹁ネクタイね﹂
私もそれは考えていたんだ。だからパリを選んだんだし。
﹁では食事が終わったら、麗華様のお土産選びにメンズブランドに
も行ってみましょうよ﹂
流寧ちゃんがそう言ってくれた。わぁい、ありがとう!
⋮⋮う∼ん。そうして来てはみたものの、悩み続行中。ネクタイ
ってこだわりありそうだよねぇ。趣味に合わないものをもらっても
困るだろうし⋮。ラペルピンも難しいなぁ。カフスならスーツの袖
に隠れるからまだいいかなぁ。でもなぁ⋮。身に着けるものはやめ
ておこうかなぁ。う∼ん⋮。
﹁選ぶのに時間がかかりそうですから、みなさんほかのお店を見に
行ってくださってかまいませんわよ?﹂
私は一緒にお店まで来てくれた芹香ちゃん達に提案した。せっか
くのショッピングタイムなのに私のお土産選びにずっと付き合わせ
るのも申し訳ない。たぶん私はまだまだ選べない。
﹁でも麗華様をおひとりにするなんて﹂
﹁ひとりでお買い物なんて、心細くありません?﹂
1542
心配してくれて嬉しいけど、みんなももっと見たいお店がたくさ
んあるだろうし、メンズ物を見ててもつまらないでしょ?
﹁平気ですわ。時間を決めて待ち合わせをしましょうよ﹂
﹁でも⋮﹂
﹁あれ、吉祥院さん?﹂
﹁えっ﹂
私の名前を呼ぶのは誰かと思えば、数人の男子達と入店してきた
円城であった。
﹁円城様!﹂
突然の円城の登場に、芹香ちゃん達が小さくきゃあと声を上げた。
円城はにこやかに私達に近づいてきた。
﹁なにしてるの、吉祥院さん。こんなところで﹂
﹁見ての通り買い物ですわ﹂
﹁あぁ、お兄さんへのプレゼント﹂
あっ、こいつ!私がメンズブティックでプレゼントを買う相手は
お兄様しかいない思っているな!くそーっ、侮られた!モテないと
確信されてる!悔しいっ!
﹁いえ。兄へのお土産はすでにロンドンで購入済みですわ!﹂
﹁あ、そうなの?﹂
﹁ええ。今選んでいるのは、別のかたへのプレゼントですの﹂
おほほほほ。瑞鸞での私がすべてだと思うな。
1543
﹁ふぅん﹂
円城が面白そうに笑って私を見た。くっ、目を合わせるな、私。
見栄を張っているのを見抜かれる!
﹁円城様こそ、こんなところでなにをしていらっしゃるの?﹂
﹁見ての通り買い物﹂
ちっ。円城もこのブランドが好きだったのか。今もおしゃれにス
トールなんぞ巻いている円城には、ここのエレガントなデザインの
服はお似合いでしょうけども!
﹁あの、円城様。鏑木様はご一緒ではないんですか?﹂
菊乃ちゃんが円城に話し掛けた。店内に一緒に入ってきた友人達
の中に、鏑木の姿はなかった。
﹁うん?雅哉はちょっと用事があってね。あとで合流するよ﹂
そう言って円城がちらっとこちらを見た。あぁ、鏑木は若葉ちゃ
んとスイーツデートか。
若葉ちゃんは朝からパリ郊外にあるヴェルサイユ宮殿を観に行っ
て、お昼過ぎにこちらに戻ってくると聞いたから、そろそろ帰って
きている時間だものね。ヴェルサイユは遠いからねぇ。ロココの女
王としては行かなくちゃいけない場所ではあるけれど、自由時間を
ショッピングメインにした私達は、遠いことを理由に今回は外した。
どうせみんな1度は観に行ったことがあったからね。でも時間があ
ったら行きたかったなぁ。
1544
﹁そうだわ!麗華様、円城様に相談に乗っていただいたらどうでし
ょう!﹂
﹁は?﹂
いきなりなにを言いだすんだ、あやめちゃん!
﹁相談?﹂
円城が柔らかく微笑んだまま、小首をかしげた。
﹁はい!麗華様はお世話になっているかたへのお土産を何にしたら
いいか、ずっと悩んでいるのですわ。円城様、麗華様のお力になっ
ていただけませんか?﹂
ちょっと、やめてくれ。
﹁まぁ、ダメよあやめさん。円城様のご迷惑になりますから⋮﹂
﹁僕でよければ相談に乗りましょうか?お嬢様﹂
私の言葉を遮って、円城がにっこり笑った。げーーっ!!
あやめちゃん達はきゃあきゃあと大喜び。なにこれ!私を置いて
話が進んじゃってる!
﹁でも、円城様もお友達とご一緒ですし⋮﹂
﹁彼らなら向こうで買い物をしているから大丈夫だよ。僕ひとりが
外れたってなにも問題ない﹂
うおぅ、そうですか。
﹁良かったですわねぇ、麗華様!﹂
1545
﹁円城様に選んでいただけば間違いありませんわ!﹂
いや∼、まぁ、そうかもしれないけどさぁ⋮。でも円城だもんな
ぁ。
﹁吉祥院さんは、相談相手が僕じゃ不満かな﹂
げっ!そんな言い方されたら、私が他人の厚意を無下にするイヤ
な人間みたいに見えるじゃないか!計算だ!
﹁⋮⋮では、よろしくお願いいたしますわ﹂
くっ、負けた⋮。
まぁ、あやめちゃん達が憧れの円城と一緒にいたいと望んでいる
ならしょうがないか⋮。
と思ったのに、あやめちゃん達は﹁私達は別のお店を見に行って
きますね∼﹂﹁円城様、麗華様をよろしく∼﹂と妙にニコニコしな
がらお店を出て行ってしまった。なにそれ?!
﹁お友達、行っちゃったね﹂
﹁⋮そうですね﹂
酷い⋮。
﹁じゃあ、吉祥院さんのお土産選びをしますか﹂
﹁⋮そうですね﹂
うん、そうだ!こうなったら、円城のセンスを利用しまくってや
る!
1546
﹁なにを買うか、具体的には決まっているの?﹂
﹁いえ、それがなかなか思い浮かばなくて⋮。ネクタイはそのかた
の趣味があるでしょう?﹂
﹁そうだねぇ﹂
﹁カフスやラペルピンも選ぶのが難しくて⋮﹂
﹁相手はいくつくらい?﹂
﹁お兄様と同い年です﹂
﹁ふぅん。服飾系で選ぶのが難しければ、名刺入れやカードケース
とか﹂
﹁なるほど!﹂
それはいいアイデアだ!
﹁でもラインで揃えている場合があるからねぇ﹂
﹁なるほどぉ∼⋮﹂
伊万里様ならすでに厳選されたものを使っていそうだもんね。
﹁貴輝さんには相談しなかったの?﹂
﹁お兄様からは消え物一択でしたわ﹂
﹁あはは。さすがだなぁ﹂
さすがってなにが?まぁ、いいか。
﹁あと気楽に贈れるものとしたら、ゴルフマーカーかな﹂
﹁ゴルフマーカー?﹂
﹁ゴルフのグリーン上などで、自分の打ったボールの目印に使うア
イテム。グリーンに他人のボールがいくつも転がっていると、打つ
時邪魔になるでしょ。だから普通はマーカーを代わりに置いてボー
ルをどかすんだよ﹂
1547
ほほぉーっ、そんなグッズがあるのですか!私はゴルフもやらな
いし、興味もなかったので全く知らなかったよ!
﹁でも気に入って使っているものが、すでにありそうですよね?﹂
これから始める人ならともかく、すでにやっている人は一通りの
道具を揃えているはずだもん。
﹁まぁ、それはあると思うけど。でも何個あっても困らないものだ
し﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁うん。その日の気分に合わせて使い分けたりする人もいるよ。そ
れこそカフスみたいなもんだよ﹂
﹁なるほど∼!﹂
たくさんあっても困らないものなら、贈られても負担にならない
かもしれない。
﹁でしたら、少しセンスに問題があっても平気かしら?﹂
﹁あはは。吉祥院さん、自分のセンスに自信がないの?でも大丈夫
じゃない?おしゃれな人ほど個性的なデザインのマーカーで遊んで
たりするし﹂
﹁遊び心ってヤツですわね!﹂
これはハードルが低い!決めた!伊万里様へのお土産はゴルフマ
ーカーだ!
あぁっ!でもそれならイギリスで探せばよかったんじゃない?!
ゴルフはイギリス!失敗した!戻りたいっ!今すぐイギリスに戻り
たいっ!
1548
﹁どうしたの?がっかりした顔しちゃって﹂
﹁⋮その情報を、ロンドンにいた時に知りたかったと思いまして﹂
﹁あぁ、そういうこと。でも別に関係ないんじゃない?パリにもゴ
ルフウェアで有名なブランドがあるけど、畑違いのブランドで自分
の知らない面白いマーカーを見つけてきたほうが喜ばれるかもよ﹂
﹁なるほど!﹂
円城がいいこと言った!よし、こうなったらパリとローマで、気
に入ったゴルフマーカーをいろいろ買って、その中から一番いいと
思うものを伊万里様にプレゼントしよう。そして残りはお父様への
お土産にすればいい。お兄様のぶんのマーカーはちゃんと選んで買
います。
このお店にも装飾品扱いでマーカーが置いてあった。ほほぅ、可
愛い。ほかのお店もチェックしてみよっと。
でも良かった。伊万里様へのお土産が一番悩んでいたものだから。
今回ばかりは円城に感謝だな。
﹁円城様、素晴らしいアドバイスをありがとうございました﹂
﹁どういたしまして。お役に立てて光栄です﹂
円城って、案外いい人かもね!ふたりでにっこり。
笑顔のまま円城が私の肩に手を置いた。ん?
﹁恩に着なくていいからね?吉祥院さん﹂
恩に着せられたーーー!!
1549
円城は鏑木との待ち合わせに行き、私達はロンドンで約束した通
りセーヌ川の遊覧船に乗りに行った。しかもおしゃれなサンセット
クルーズだ!素敵っ!
しかし周りはカップルばっか。あっ、あの子達瑞鸞生だ!手を繋
いでる!男女七歳にして席を同じゅうせず!あっ、こっちの外国人
カップル、今キスした!公序良俗をなんと心得るか!⋮羨ましい。
⋮⋮前にどこかで聞いた、恋人のいない女友達同士で固まってい
ると、ずっと恋人ができないという話が頭をよぎる。今の私はまさ
にそれではなかろうか。私がモテないのはもしかしてモテない子達
と一緒にいるから⋮。
﹁楽しいですねぇ、麗華様!クルージング大正解でした!﹂
隣のあやめちゃんがニコニコと私に言った。うっ!私ってば、な
んてことを!モテない友達だっていいじゃないか。遊覧船に乗りた
いと言ったらこうして一緒に乗ってくれ、フィッシュアンドチップ
スが食べてみたいと言えば一緒に食べてくれた。芹香ちゃんはファ
ントムにも変身してくれた。
そうだ!愛情より友情。私達は女友達との友情をなによりも大事
にしているだけなのよ。モテないわけじゃなく、あえて遠ざけてい
るだけなのだ。そうなのだ。
しかし、5月のセーヌ川クルージングは、楽しいけど寒かった⋮。
1550
225
んふふ∼ん。今、私の小指には、ピンクゴールドの華奢で可愛い
ピンキーリングが嵌まっている。これは昨日のパリの自由時間にみ
んなとお揃いで買ったものだ。私が円城のアドバイスで伊万里様へ
のゴルフマーカーを買っている間に、芹香ちゃん達が今回の修学旅
行の記念にお揃いで付けようと見つけてきてくれた。
小さいお花が横に並んだ女の子っぽいデザインで、と∼っても可
愛い。中等科での修学旅行ではお揃いのネックレスを買った。今回
は指輪。仲良しの証。嬉しいなぁ∼。
ローマの空港から中心部までのバスの中、自分の手を見てニマニ
マしていたら、同じくピンキーリングをきらきら光らせた隣の席の
菊乃ちゃんが、﹁麗華様、聞きました?﹂と話し掛けてきた。
﹁さっき噂を耳にしたんですけど、鏑木様がパリで宝飾店に行かれ
たって﹂
﹁宝飾店?!﹂
鏑木がジュエリー購入?なんのために。
﹁鏑木様、今朝もとっても機嫌がよろしいでしょう?もしかしたら、
どなたか意中のかたへのプレゼントを買ったんじゃないかって⋮﹂
﹁意中?!﹂
げっ!まさか、若葉ちゃんとのパリデート成功に、暴走して婚約
指輪でも買いに行っちゃったとか?!いやいや、さすがそこまでバ
カじゃないでしょう、とはっきり否定できないのがつらい⋮。
1551
﹁どう思います?麗華様﹂
﹁どう思うって言われましても⋮﹂
﹁円城様もね、ご一緒だったそうなんです﹂
﹁円城様が⋮。でしたら鏑木様ではなく、円城様がどなたかに贈る
お買い物だったのかもしれませんわよ?﹂
それこそ唯衣子さんに贈る婚約指輪を買いに行ったんだったりし
て。
﹁円城様のお買い物!それはそれで凄くイヤなんですけど!﹂
﹁イヤと言われましても﹂
﹁気にならないんですか?麗華様﹂
﹁そうですわねぇ﹂
﹁え∼っ!私達はとっても気になってます!ねっ、芹香さん!﹂
﹁ええ﹂
﹁うわっ!﹂
前の座席に座る芹香ちゃんが、窓と座席の細い隙間からこっちを
見ていた。怖いよ芹香ちゃん。シャイニングみたいだよ!
﹁鏑木様に聞いてきてくださいな、麗華様﹂
﹁えっ、私が?!﹂
なんで、私が?!やだよ、自分で聞きに行きなよ。
﹁こんなこと、麗華様しか聞けませんわ。麗華様、お願∼い﹂
﹁いや、でも⋮﹂
﹁麗華様∼っ!でないと私達、ローマを楽しめませんわ﹂
﹁そうよねぇ、菊乃さん﹂
﹁ねぇ、芹香さん﹂
1552
えーーっ!
というわけで、断りきれなかった私は、ホテルに着くと芹香ちゃ
ん達に追い立てられ、ロビーで男子の仲間達といる鏑木に渋々近づ
いていった。男子の集団にひとりで声を掛けるって、結構勇気いる
んだけどなぁ。
鏑木はすぐに私に気が付いた。
﹁どうした、吉祥院﹂
﹁あの、鏑木様。ちょっとお話が⋮﹂
﹁話?﹂
男子の輪から出てきた鏑木は私の言葉に一瞬眉間にしわを寄せて
考えたあと、すぐに﹁あぁ⋮﹂と合点のいった顔をした。
﹁話してやりたいが、これから部屋移動だから時間がない。30分
後にラウンジに来い。そこで話そう﹂
﹁えっ、わざわざ?!﹂
﹁立ち話で終わる話じゃないからな﹂
その辺の柱の陰で、昨日の買い物の内容をちょろっと教えてくれ
るだけでいいんだよ?立ち話で充分だ。
なのに鏑木は私が引き止める間もなく、さっさと男子の輪に戻り、
エレベーターに乗って行ってしまった。え∼っ!こんなどうでもい
いことを聞くために、わざわざラウンジまで出向かないといけない
のぉ?!面倒くさいよ∼。
待っていた芹香ちゃん達に、今は時間がないからあとでラウンジ
に聞きに行くことになったと言うと、﹁まぁ、鏑木様からお茶のお
1553
誘いが⋮!﹂と目を輝かせた。違うでしょ。
部屋で荷解きを済ませ、一方的な約束通りホテルのカフェラウン
ジに行くと、先に来ていた鏑木が、こっちだと片手を挙げて合図し
た。そしてその隣には優雅にカップを持ち上げて私に微笑む円城の
姿も。ん?なんで円城も?
﹁雅哉が吉祥院さんと密会するって聞いて、面白そうだから僕も来
ちゃった﹂
﹁はあ﹂
来ちゃったって⋮、腹黒がニコッと笑って言っても全然可愛くな
いぞ。
﹁吉祥院。お前の聞きたいことはわかっている﹂
私が席に座ると、鏑木がしたり顔で頷いた。たぶん、絶対にわか
っていないと思う。そんな鏑木は私に向かって身を乗り出すと、自
信たっぷりに言い切った。
﹁聞きたいことと言うのは、俺達のパリデートのことだな!﹂
﹁全然違いますけど﹂
﹁えっ﹂
ほら、やっぱりわかってなかった。なに、その鳩が豆鉄砲くらっ
たような顔は。鳩⋮。天敵繋がりだな。
﹁鏑木様は昨日、パリで宝飾店に行かれたとか﹂
﹁え、あぁ、確かに行ったが﹂
﹁なにをお買い求めになられたのですか?﹂
﹁は?なんでそんなことをお前に言わなきゃいけないんだよ﹂
1554
ですよね∼。私だって好き好んでこんなことを聞きたいわけじゃ
ないんだよ。でもさぁ、芹香ちゃん達が聞いてこいって言うんだよ
ぉ⋮。
﹁あの∼、まさかとは思いますけど、あの子へのプレゼントではあ
りませんよね?﹂
﹁あの子?あぁ、違うぞ﹂
﹁そうですか﹂
ホッ、良かった。常識知らずのバカ弟子といえど、そのくらいの
分別はついてきたようだ。しかしそれなら何を買ったのでしょうか
?なんの戦果もなく芹香ちゃん達のところに帰れないんです。ジー
ッと無言で訴えると、鏑木が鬱陶しそうに顔を顰めた。
﹁だいたい、なんでそんなことを知りたいんだよ﹂
﹁鏑木様が宝飾店で買い物をしたと噂になっているそうで、私に聞
いてきて欲しいと頼まれたのですわ﹂
﹁なんだそれ。ゴシップ記者かよ﹂
失敬な。円城とのペアウォッチを買ったとガセネタ流すぞ。
﹁別に教えてあげてもいいんじゃない?たいした話じゃないんだし﹂
おぉっ、円城ナイスアシスト!⋮あ、でもこれも借りになるのだ
ろうか。円城は悪徳高利貸しだ。利息が怖い。
鏑木は大きなため息をつくと﹁わかったよ⋮﹂と言った。
﹁母親が先月パリの本店に修理に出した時計を取りに行っただけ﹂
﹁えっ、それだけ?﹂
1555
﹁それだけ。アンティークで扱える職人が本店にしかいなかったん
だ﹂
な∼んだ。ただのママンのお使いだったか。
﹁そうでしたか。それで他にはなにも購入なさらなかったのですね
?﹂
﹁あぁ﹂
﹁ちなみに円城様は?﹂
﹁僕?僕も買ってないよ﹂
本当ですかぁ∼?唯衣子さんへのプレゼントを買ったんじゃない
んですかぁ∼?うわっ、円城の微笑の圧力がっ⋮!わかりましたよ、
信じますとも。でもちょっと話を面白く⋮﹁記者さん、話を作らな
いでね?﹂なぜ私の心が読める?!
﹁教えていただきありがとうございました。では私はこれで﹂
聞きたいことはそれだけだ。さて帰りましょうと席を立とうとす
ると、鏑木が﹁待て待て!﹂と引き止めてきた。なにさ。
﹁違うだろ。これからが本題だろ!聞きたいんじゃないのか?俺達
のパリデートを!﹂
﹁いいえ別に﹂
きっぱり否定すると、鏑木は目を見開き、円城は小さく吹き出し
た。
﹁⋮聞きたいだろう。聞きたいはずだ﹂
﹁いいえ別に﹂
1556
﹁遠慮しなくていいぞ﹂
﹁いいえ別に﹂
なんだその不満気な顔は。そんなに聞いて欲しいのか。楽しかっ
た若葉ちゃんとのデートを。
﹁⋮お前は俺の参謀だ。聞く義務がある!﹂
﹁ですから参謀なんて引き受けた覚えはありませんてば﹂
﹁⋮お前は恋愛成就の髪様なんだろう?聞く義務がある!﹂
﹁その神様にお供え物もしたことがありませんよね﹂
なによ。なに口を尖らせてんの。拗ねちゃったのか?ご機嫌なな
めでちゅね∼とか言ったら殴られるかな。
﹁まぁまぁ。こっちも情報提供したんだから、吉祥院さんも少しは
雅哉の話に付き合ってあげてよ。お供え物はここのドルチェでいい
かな?ティラミスにする?それともパンナコッタ?両方にしようか﹂
うっ、甘物で釣るとは卑怯なり。でもせっかくだから両方食べた
い⋮。でも我慢。もうすぐ夕食だし、人目もある。ティラミスだけ
で結構です。﹁参謀にゴシップ記者に髪様って、吉祥院さん肩書き
いっぱいだね﹂うるさいよ。全部あんたの親友が勝手に付けたんだ
よ。来た∼ん、ティラミス!いただきま∼す。
﹁よし。供物はこれでいいな?じゃあパリでのデートのことなんだ
けどな﹂
﹁さっそくですわね﹂
﹁昨夜からその話ばっかなんだよ。もうエンドレス﹂
﹁うるせぇな。秀介は黙ってろよ﹂
﹁はいはい。ごめんねぇ、吉祥院さん。聞いてやって﹂
1557
円城に適当にあしらわれた鏑木は、ちっと舌打ちすると話を続け
た。
﹁お前に言われた通りタクシーを乗り継いで、後をつけてくる連中
を撒いたあと、俺は高道との待ち合わせ場所に行った﹂
﹁ここで名前は出さないほうがよろしいですわよ﹂
﹁⋮わかった。で、あいつと会って、行きたがっていたパティスリ
ーに案内したら、凄く喜んでさ。ずっと楽しみにしてたんだ、って﹂
鋭い鏑木の目尻が下がった。嬉しそうだな∼。そしてここのティ
ラミスもなかなかのお味ですな∼。
﹁日本で食べたいケーキをリストアップしてきたって、俺に見せて
くれてさぁ。こことここのお店にも行けるかなぁ、なんて一生懸命
話してきて﹂
﹁へぇ∼﹂
口元を拳で隠しているけれど、鏑木のニヤニヤは止まらない。
﹁ふたりでマカロンの食べ比べをして、どれが一番おいしいか話し
たり、あいつが食べたいケーキが何個もあったから、別々の物を注
文してふたりで分け合ったり⋮﹂
ここで鏑木の顔が、完全に笑み崩れた。ひとつのケーキをふたり
で食べる。ラブラブカップルの王道シチュエーションだね。
﹁明後日の自由時間も、ふたりで抜け出してドルチェを食べに行く
んだけどさぁ。鏑木君が教えてくれたお店はどれもおいしかったか
ら楽しみにしてる!って言われちゃってさぁ。参ったよ﹂
1558
﹁へぇ∼﹂
ラヴィアンローズ
パリでのスイーツデートは思った以上に大成功だったようだ。ク
ールな瑞鸞の皇帝サマは、今にも﹁薔薇色の人生!﹂と叫びそうな
勢いで浮かれまくっている。もしかしたら昨夜は実際に叫んだかも
しれん。
﹁ショコラも喜んでたなぁ。日本にも店舗があるから今度誘ってみ
ようか⋮﹂﹁ローマでジェラートのおいしい店といえば⋮﹂﹁ピザ
が食べたいって言ってたから、そっちも⋮﹂ティラミスも食べ終わ
ったし、もう、部屋に戻っていいかな。
浮かれ皇帝の隣で、我関せずの円城は淡々とカプチーノを飲んで
いた。円城はこれを一晩中聞かされていたのか⋮。親友ってのも大
変だな。
やっと鏑木の話が一段落着いたので、これ幸いとお開きにする。
あら、まだ話足りないですか?知りません。お供え分は聞きました。
席を立つと、円城が私の耳元でこっそり﹁でもパティスリー巡っ
てケーキやマカロンを食べるって、異性というより女友達ポジショ
ンだよね?﹂と毒を囁いた。この腹黒め。
部屋に戻り、ママンのお使いだったことをみんなに報告し、生徒
全員での夕食の席に行くと、なぜか帰りに鏑木にマカロン詰め合わ
せをもらった。
﹁お前が供物と言うからな。幸せのお裾分けだ。これはあいつが特
においしいと喜んだマカロンで一緒に買ったものなんだけど、ほか
にも⋮﹂
マカロンをダシに、またノロケを再開する気らしい。ホテルに戻
るまでずっと甘ったるい戯言を聞かされ続けた。まさにエンドレス。
円城はどうした。離れたところでにっこり手を振っている。逃げた
1559
な。
これのせいで、後日生徒達の間に、鏑木が私にプレゼントを渡し
て楽しげに話し掛けていたというデマが流れた。なんという迷惑!
ちなみにディナーのデザートはティラミスだった。お供え物はパ
ンナコッタにしておけば良かった!
マカロンは芹香ちゃん達と分けて食べた。
今日はローマの市内観光。ローマはコロッセオ、パンテオン、真
実の口、フォロ・ロマーノ等々、見どころ満載だ。真実の口は人が
大勢並んでいたので、私は今回は手を入れるのはパス。別に手を入
れたからって何かが起こるわけでもないので、あれは1度やったら
満足かな。初ローマの若葉ちゃんが、カメラ片手にしっかり並んで
いるのを見かけた。
トレビの泉ではコインを当然しっかり2枚投げた。好きな人と結
婚!恋愛成就!私も恋人と食べ物を分け合うようなデートがしたい
!あ、キリスト教圏なのに柏手打っちゃった。昨日、円城は鏑木の
パリデートを女友達ポジションなどと毒づいていたけど、恋愛ぼっ
ち村村長の私には羨ましい、妬ましい話であったよ⋮。
しかしローマはなんとなく、街が茶色っぽいイメージ。古代遺跡
が街中に溢れているせいかなぁ。パリが京都なら、ローマは奈良っ
て感じ。ローマはローマ帝国の歴史が好きな人にはたまらないんだ
ろうなぁ。でも古代ローマ文明ってちょっと暑苦しくない?古代ロ
ーマ人って美食をとことん楽しむために、満腹になると孔雀の羽根
を喉に突っ込んで吐いて、また食べるなんていうとんでもないこと
をしてたんでしょ。なんだ、その発想。貪欲すぎて引いちゃうよ⋮。
でもヴァチカンは好きだ。サンピエトロ大聖堂やシスティーナ礼
拝堂は荘厳で、大きなピエタ像や、天井の宗教画に圧倒される。で
も人が多くてじっくり観られないのが難点。1日かけて観たいね。
1560
ヴァチカンには切手好きにはたまらない、ここでしか手に入らな
い美しい切手があるから、それを使って日本のみんなにエアメール。
エアメールが届くよりも先に、私が帰国しちゃうんだけど、ヴァチ
カンといったら切手だもんね∼。送りたいじゃない。
あらかじめ昨日ホテルの近くで買った、美しい宗教画絵葉書に住
所とメッセージを記入してきたから、ここでは切手を貼るだけで大
丈夫。本当はヴァチカンで売ってる絵葉書を使いたかったんだけど、
その場で書く時間がないんだよ∼。ヴァチカン絵葉書はお土産に買
って行こう。あぁきれいな切手がいっぱいだ。記念にたくさん買っ
ちゃうぞ。切手好きの血が騒ぐわ∼。もう、目移りしちゃうっ!こ
れは前に来た時に買ったな。こっちは持っていなかったはず⋮、新
作かな。雪野君達には天使の切手が似合うよね!お兄様と璃々奈に
は聖母子像切手。この切手はきれいだから大好き。お父様とお母様
にはサンピエトロ大聖堂。桜ちゃんや葵ちゃん達にはどれにしよっ
麗華ちゃんお元気ですか?
かな。やっぱり絵画切手かな。そしてみんなに隠れてこっそり自分
宛てにも送る。
﹁吉祥院さ∼ん、集合時間だって﹂
﹁は∼い﹂
佐富君が呼びに来た。ごめんね、私もクラス委員なのに。
﹁吉祥院さんはさぁ、明日の自由時間にカタコンベは観に行かない
の?﹂
行くか、バカ!なにが楽しくて、山盛りの骸骨を観なきゃいけな
いんだ。佐富君、絶対にわざとだよね?!残りわずかの清めの塩は、
部屋にではなく佐富君にかけるべきか⋮。
﹁あれ?吉祥院さん。背中の巻き髪が獣の数字になってるよ?ヴァ
1561
チカンで獣の数字を数えちゃやばくない?﹂
⋮⋮決めた。残りすべての塩を佐富君にぶちまける!
次の日の自由時間、私達はもちろんカタコンベなどという恐ろし
げな場所には赴かず、ショッピングとおいしいイタリア料理を堪能
することにした。
﹁ローマに来たらピザは外せませんよね∼﹂
﹁私が前にローマに来た時に行ったお店はおいしかったですわよ﹂
﹁じゃあそこにする?﹂
きゃいきゃいと女の子達だけではしゃぎながら歩いていると、あ
ちこちからピーッという口笛や﹁ヘーイ!ジャパニーズ!﹂﹁ピザ
?ピザ?﹂とふざけた声がかかる。不愉快。キリスト教総本山のお
膝元で昼間っからなにをチャラチャラと⋮。シエスタシエスタ言っ
てないで働け!
私達はピザが評判のトラットリアでマルゲリータやアマトリチャ
ーナを食べ、スペイン広場近くのお店でジェラートを食べた。次は
ティラミスよ!
おなかが満たされたらショッピング。耀美さんにはオリーブオイ
ルをお土産にしよう。チーズはありったけ買い込んじゃう!ペコリ
ーノロマーノにチーズの王様パルミジャーノ・レッジャーノ!イタ
リアの銀行ではパルミジャーノ・レッジャーノを担保にお金を貸し
てくれるって本当かな?お菓子はパリで買ってあるからローマでは
R
ほどほどに。でもジャンドゥーヤは忘れずに。あぁっ!おしゃれな
イタリア文具!封蝋欲しいっ!薔薇の印璽おしゃれすぎる!
の飾り文字印璽は絶対に買いだわ!手紙に封蝋って、お貴族様みた
1562
いだよね∼!香り付きのボトルインクも可愛い。ガラスペンと対で
お土産に配ろうかな。羽ペンも買っちゃう?
﹁買いすぎましたわね?麗華様﹂
﹁ええ⋮﹂
腕がもげそうだ。
修学旅行最後の夜は、いつもの仲良しメンバーで部屋に集まり、
ヨーロッパの乾燥した空気で潤いの足りなくなった肌にパックをし
ながらごろごろ。さすがに疲れたよ。
﹁スケジュールがぎっしりでしたけど、楽しかったですねぇ﹂
﹁本当。どの国ももう少しゆっくり滞在したかったですけどね﹂
﹁今度またみんなで来ましょうよ。卒業旅行とかで﹂
卒業旅行!行きたいっ!私はガバッと起き上がった。
﹁いいですわね!卒業旅行!絶対に行きましょう?﹂
﹁そうですね!麗華様はどこに行きたいですか?﹂
﹁う∼ん。今回と同じくロンドンやパリでもいいですけど、スペイ
ンや北欧もいいですわよね?イタリアならミラノやフィレンツェと
か﹂
﹁ヴェネツィアも行きたいわ﹂
ヴェネツィアかぁ。未来の恋人とゴンドラに乗るのが密かな夢な
んだよね。デコラティブされた日傘を差す私の傍らで、優しく微笑
みながら愛を囁く未来の恋人。あぁ、うっとり。
1563
﹁ヴェネツィアといえばゴンドラですけど、セーヌ川の遊覧船も楽
しかったですよね?﹂
﹁そうね!乗って良かったわ﹂
うん。ちょっと寒かったけど楽しかった。
﹁結構、セーヌ川下りをした子達って多かったみたいですわね﹂
そうだ。しかもそこで何組か修学旅行カップルが生まれたという
噂も聞いた。許せん⋮っ。結局私に修学旅行ロマンスはなにひとつ
生まれなかった。男子から自由時間に一緒に回ろうとのお誘いすら
なかった。普段鏑木に熱を上げている蔓花さん達も男子達とパリの
オープンカフェでお茶を飲んでいた。前を通った時にふふんと笑わ
れた気がするのは私の僻みであろうか⋮。蹴鞠大納言がスペイン階
段で女子に話し掛けようとした時には、その真ん中を通って邪魔し
てやった。けけけ。
でもまぁ、修学旅行でくっ付いたカップルは短期間で別れるって
言うしね。一過性のものでしょ、きっと。みんなすぐに我が村に戻
ってくるに違いないわ。ホーッホッホッホッ。
﹁麗華様、なんだか目が据わっていますけど⋮﹂
あらいけない。妬み嫉みが目に出ちゃった。
パックが浸透したようなのでペロンと剥がす。どれどれ、お肌の
調子はどうかな?ぷるぷるだねと鏡を見て仰天した。
﹁ないっ!白毫がないっ!﹂
そんなバカな!おでこの生え際を鏡で何度も確認してみる。嘘っ
1564
!本当になくなってる!幸運の印、白毫。抜けた眉毛の代わりに生
えてきた私に福をもたらすはずの白毫が、なくなってる!
﹁どうしたんですか?麗華様!﹂
﹁なにがないんですか?﹂
﹁白毫がなくなってるの!私のおでこにあった白毫が!﹂
私はみんなに必死に訴えた。いつからなかった?!パックと一緒
に取れた?!でもシートパックだから剥がす時に抜けるってことは
ないはず?!
﹁白毫ってなに⋮?﹂
﹁さぁ⋮﹂
﹁白くて長い毛のことみたいよ﹂
﹁あぁ、おじいさんの眉毛みたいな?﹂
違う!仙人眉毛のことじゃない!白毫はお釈迦様のぐるぐるだ!
そして私のおでこの生え際の透明な毛は正確には白毫ではなく宝毛
だ!人を呪わば穴二つ。私のあまりの恋愛謳歌村を妬む心に幸運が
逃げちゃった?!帰国後の私の恋愛運に暗雲の予感?!
﹁まぁまぁ、麗華様、落ち着いて﹂
﹁疲れているんですわ。さぁ、もう寝ましょう﹂
﹁でも、白毫が⋮!宝毛が⋮!﹂
﹁大丈夫ですよ∼﹂
白いパックを顔に貼り付けた芹香ちゃん達は私をぐいぐいとベッ
ドに押し込めると、その周りをぐるりと取り囲み﹁眠れ∼、良い子
だ眠れ∼﹂と手をゆらゆらさせながら歌いだした。えっ、黒ミサ?!
1565
﹁あ、あの⋮﹂
﹁大丈夫ですよ∼、麗華様。さぁ、眠りましょう﹂
﹁疲れているんですよ、麗華様は。眠れ∼眠れ∼﹂
﹁眠れよ眠れ∼、麗華様眠れ∼﹂
照明の落とされた薄暗い部屋で私を取り囲んで歌い続けるスケキ
ヨ達。どうしよう。芹香ちゃん達はなにか悪魔的なものを信仰して
いたのだろうか。私の獣の数字が目当てだろうか。清めの塩はもう
使い切ってしまった。私を守る白毫もない。万事休す!
1566
226 佐富行成
俺はわりと人見知りもしないし、人の好き嫌いもあまりないほう
だと思うけど、それでも高等科に上がって担任に、あの吉祥院麗華
と一緒にクラス委員をやるように言われた時は正直、うわぁ、マジ
か?!とちょっと腰が引けた。
吉祥院麗華││。瑞鸞学院の特権階級であるピヴォワーヌのメン
バーで、女子を牛耳る超大物。彼女の不興を買った生徒は、配下の
者によって人知れず闇に葬られるという⋮⋮。
というのは冗談としても、クラス委員なんて一応名誉職だけど、
実際はクラスの雑用係みたいなもの。ピヴォワーヌがそんな雑用仕
事をちゃんとやってくれるかも怪しいし、なんかいろいろ気を使う
はめになって面倒くさそうだなぁと思っていた。
そんな時、秋澤に声を掛けられた。
﹁佐富、吉祥院さんとクラス委員やるんだって?﹂
﹁あぁ、うん。そういや秋澤って吉祥院さんと仲いいんだっけ﹂
中等科時代、時々しゃべっているのを見かけたことがあったな。
﹁僕というより幼馴染と吉祥院さんが仲がいいんだ﹂
﹁幼馴染ってあの女の子?学園祭に来てた、確か蕗丘さん⋮﹂
﹁うん﹂
秋澤の幼馴染は清楚でおとなしそうな大和撫子の可愛い女の子だ。
秋澤は幼馴染なんて言ってるけど、たぶん彼女。
1567
﹁僕と吉祥院さんとは小学生の時に塾が一緒で友達になったんだけ
ど、そこから桜子とも仲良くなって、今じゃすっかりふたりは親友
だよ﹂
﹁へぇ∼﹂
あの吉祥院麗華を秋澤は平然と友達と言い切った。凄いな、秋澤。
﹁そうだ。吉祥院さんは疲れた時にお菓子をあげると元気になるよ﹂
﹁なんだ、それ﹂
﹁小学生の時からね、おなかがすくとちょっと元気がなくなっちゃ
うんだけど、そういう時にお菓子をあげると復活するんだよ。桜子
もあの子は食べ物さえ与えておけばごきげ⋮、あ、いやっ、なんで
もないっ﹂
秋澤は自分の言葉を慌てて打ち消すと、﹁とにかく、佐富も吉祥
院さんを変な先入観を持った目で見ないであげて。誤解されがちだ
けど中身は真面目でいい子だから﹂と言って、自分の教室に戻って
行った。
真面目でいい子、ねぇ。まぁ、ちょっと様子をみてみるか⋮。っ
ていうかピヴォワーヌの吉祥院麗華が、たかがお菓子を食べたくら
いで元気になるとかってありえないだろ、秋澤。
それから件の吉祥院さんとクラス委員として働き始めたが、予想
を裏切る働きぶりだった。目配せひとつで配下を動かし、自分は全
く動かないイメージの吉祥院さんだったけど、率先して提出物を集
めて当然のように自分で職員室や生徒会室に持って行く。備品の補
充も俺が気づくよりも先にやってくれていた。むしろ俺よりもしっ
かりクラス委員の仕事をこなしていた。秋澤の言う通り、人を見か
けで判断しちゃいけなかったな。
1568
そして嬉しい誤算。吉祥院さんがいると、提出物の回収率が異様
に高い。内部生はもちろん、入学したての外部生ですらこの人には
逆らっちゃいけないと危険察知能力が働くらしい。ほかのクラスに
比べてうちのクラス運営はめちゃくちゃスムーズだ。ありがとう、
吉祥院さん。
俺も吉祥院さんまかせにしないで働かないとね。この生徒会室へ
の提出物は俺が行くよ。って、あっ、プリントを奪われたっ。いや、
別に仕事を横取りする気はないから焦って走らなくても⋮。あっ、
何もないところで躓いたっ。でもプリントは手放さないっ。
生徒会室へと走り去る吉祥院さん。真面目⋮なのかなぁ。なにか
別に不純な動機抱えてそうだけど⋮。
その外部生だけど、まだ入学して日が浅いからしょうがないけど、
外部生と内部生との間に厚い壁があるのが目につく。これはどこの
付属校でも同じらしいけどさ。でも瑞鸞は校風が独特だから、溶け
込むのにほかの高校よりも難しいのかもしれないなぁ。
クラス委員として、なるべく外部生に声掛けをするようにしてい
ると、吉祥院さんにクラスランチ会の提案をされた。
いいアイデアだとは思うけど、食堂でクラスの人数分の座席を固
まって確保できるか?それに入学して間もない新入生達が食堂の一
角を占領したら、先輩方からの風当りがきつくないか?という俺の
心配は、吉祥院さんが胸を反らすようにして見せつけてきた赤い牡
丹のバッチのご威光でサラッと解決してくれた。おー、さすがピヴ
ォワーヌ!
拍手で褒め称えると吉祥院さんの口角がにゅ∼っと上がった。
あれ?この人、もしかしておだてに弱い?
ある日の放課後、集めたプリントの集計をふたりでやっていた時
のこと。吉祥院さんがキラキラデコレーションされた電卓を叩きな
1569
がらため息をついた。心なしか元気がない。
﹁吉祥院さん、具合でも悪いの?﹂
﹁え⋮。ううん、平気ですわ﹂
そうかぁ?トレードマークの巻き髪も精神状態に合わせて、心な
しかくたっとなってないか?
そういや、秋澤が吉祥院さんはお菓子が好きだって言ってたな。
カバンにチロリアンチョコがあるけど、吉祥院さんがこんな駄菓子
を食べるかなぁ。一応出してみるか。
﹁吉祥院さん、チョコ食べる?﹂
﹁まぁ、チロリアンチョコじゃないですか!あら?こんな味出てい
たかしら﹂
チョコを見た吉祥院さんの目がギラリと光った気がした。知って
んだ、チロリアンチョコ。
﹁ご当地限定だって。お土産にもらったんだ﹂
﹁ご当地モノ!なんということでしょう。その存在を忘れていたな
んて⋮。不覚っ!﹂
え、なにが?
吉祥院さんは悔しそうな顔で拳を握りしめたあと、俺から受け取
ったチョコを﹁いただきます﹂と一口齧った。その途端、にこ∼っ
と幸せそうに笑った。
﹁さすが限定。美味⋮!﹂
﹁そっか。良かったね﹂
1570
小さなチョコはあっという間に溶けてしまったようで、名残惜し
げにしていたので、もう1個いるかと聞いてみた。
﹁いえ。私は1個で充分ですわ。どうもありがとう﹂
﹁そう?まだ何個か残ってるから遠慮しなくていいけど﹂
﹁⋮そうですか?そこまでおっしゃるなら、もう1個だけいただこ
うかしら?﹂
そして吉祥院さんはご当地限定チョコを嬉しそうに食べた。こん
な安物チョコをここまで喜んで食べるとは意外。ピヴォワーヌの吉
祥院さんなら、ヨーロッパ王室御用達のチョコしか食べないとかっ
てこだわりを持ってても不思議じゃないのにな。
﹁どうもありがとう、佐富君。こんな貴重なものをいただいちゃっ
て。佐富君は心が広いのね﹂
﹁は?いやいや、たかがチョコの1個や2個でおおげさな﹂
﹁あら、山で遭難した時、ひとかけらのチョコレートが命の明暗を
分けたという話を聞いたことがありますわよ。チョコを侮ってはい
けないわ﹂
ここは東京のど真ん中だよ、吉祥院さん。
1個数十円のチョコを食べ終わった吉祥院さんは、ペンケースか
ら自前の派手な指サックを取り出し、元気よく働き始めた。チョコ
ひとつにどれだけの威力があるんだよ。秋澤のアドバイスに偽りな
し。
後日、きょろきょろと周りに人がいないことを確かめた吉祥院さ
んが、俺にさっと小さな包みを渡してきた。﹁誰かに見られる前に
早く隠して!今すぐ!ナウッ!﹂
え、吉祥院さんって非合法なブツの売人?俺、そういうのには手
を染めない主義なんだけど⋮。
1571
そっと覗いた怪しい包みの中には、ファンシーなご当地キャラク
ターの描かれたチロリアンチョコが入っていた。うん、間違いなく
合法。
﹁どうしたの、これ﹂
﹁シッ!声が大きい!この前のお礼ですわ。絶対に誰にも言わない
でくださいね。特別なルートから手に入れましたの﹂
﹁⋮闇ルート?﹂
﹁ネットですわ﹂
それはただのご当地グルメのお取り寄せだね、吉祥院さん。
吉祥院さんは﹁また欲しくなったら声を掛けて﹂と言って、人目
を避けるように立ち去った。その後ろ姿に警察24時をみた。職質
に気を付けてね∼。
そうして吉祥院さんと一緒にクラス委員の仕事をやっていくうち
に、その少し近寄りがたい雰囲気や持っている肩書と権力に反して、
中身はちょっと抜けてる楽しい人だということが徐々にわかってき
た。どこまでやったら怒るかなといろいろ試してみたけど、かなり
のところまで平気だった。たとえちょっと怒らせたとしても、謝っ
てお菓子をあげると﹁しょうがないですわね∼。今回だけですわよ﹂
と簡単に許してくれた。
ピヴォワーヌの女王は、賄賂に弱い。
﹁佐富君の髪って、それ地色?﹂
ある時、吉祥院さんはジーッと俺の髪を凝視して言った。
1572
﹁それ、微妙にカラーリングしてますよね?﹂
﹁あ、バレた?﹂
﹁校則違反ですわね∼﹂
吉祥院さんはにやりと笑った。
﹁そういう吉祥院さんだって、その巻き髪、パーマじゃないの?﹂
﹁天然パーマですの﹂
嘘つけ。根元は直毛じゃねーか。しかたがない。
﹁どうかひとつ、これでお目こぼしを﹂
俺は朝コンビニで買ったひとくちドーナツを進呈した。
﹁おぬしも悪よのぉ﹂
吉祥院さんはひとくちドーナツを悪い笑顔で受け取った。
ピヴォワーヌの女王は、100円の駄菓子で簡単に買収できる。
そんな感じで吉祥院さんで遊んでいたら、人気のない廊下で左右
からそれぞれの腕をガシッと取られた。ピヴォワーヌの女王の側近
中の側近、風見芹香と今村菊乃だ。
﹁貴方、最近麗華様に対してちょっと行動が目に余るわよ﹂
﹁あまり調子に乗りすぎるんじゃないわよ﹂
⋮⋮俺、闇に葬られちゃう?!
吉祥院さんの怖いイメージって、半分以上はこいつらのせいじゃ
1573
ないかな?
ある時吉祥院さんが俺に難しい顔で聞いてきた。
﹁佐富君、私にあだ名が付いてるって知ってる?﹂
げーーーっ!なんでそれを?!
平静を装い聞き返すと、なんと水崎から聞いたと言う。なんで本
人に言うんだよ、水崎!あいつバカじゃねーの?!
ドーリー︵ガー︶ル
とかいろいろあ
巻
吉祥院さんには数多くのあだ名が付けられている。ほとんどは彼
以外にも
女の外見から連想されたもので、吉祥院さんが水崎から聞いた
き巻きマッキー
女神カーリ
だ。そのカールされた髪と怒らせると怖いというイメージから
るけど、代表格はもちろんインドの殺戮と破壊を司る
ー
付けられているあだ名だけど、さすがにこれだけは本人に知られる
のはまずいっ!
だいたい吉祥院さんが女神カーリーなら、そのカーリーに腹の上
で舌出して踊り狂われるシヴァ神は誰だよ?!って話だ。あのふた
りのどちらかか⋮?!なんてことは、誰もが頭によぎっても口には
しない。ピヴォワーヌの三強全員を敵に回すようなバカはさすがに
いない。俺達は無事に瑞鸞を卒業したい⋮。
﹁佐富、大丈夫か?﹂
体育の授業で一緒になった水崎からの唐突な一言。
1574
﹁なにが﹂
﹁あの吉祥院麗華とクラス委員やってるんだろう?問題が多いんじ
ゃないか?﹂
﹁問題ねぇ﹂
水崎は吉祥院さんにあまりいい印象は持っていないんだな。まぁ
吉祥院さんのイメージからすると無理はないけど。俺も最初はそん
な感じだったし。でも、
﹁吉祥院さんって、たぶん水崎が思っているような子じゃないと思
うよ。クラス委員の仕事も、俺より全然真面目にやってるし。知っ
てる?あの人って事務仕事のために専用の指サック持って来てんの。
俺も1個もらっちゃった。ハート型のラメラメの派手なやつ﹂
ほぼ秋澤の受け売りだけどな。
﹁⋮ふぅん﹂
﹁あっ!ってかお前!吉祥院さんにあだ名が付いていること本人に
バラしたろ!何やってくれてんだよ!聞かれたこっちは寿命が縮ま
ったんだよ!﹂
﹁あ、悪い。俺も言ってからしまったって思ったんだよ﹂
しまったじゃねーぞ!気を付けろ!俺、マジで闇に葬られるから!
吉祥院さんは体育祭ではネズミ、学園祭では羊の執事の仮装を嫌
がらずにやってくれた。ノリが良くてありがたい。この頃にはもう
すっかり、俺の中でピヴォワーヌの吉祥院麗華への畏れは一切なか
った。
1575
しかし吉祥院さんがネズミの仮装をすることに対して、﹁麗華様
がネズミの仮装だなんて、どういうことなの!﹂と、吉祥院さんの
周りから抗議が殺到したけどな。
本人が友達連中を説得して抑えてくれた後も、グレーのダボダボ
着ぐるみを着せようとしたら﹁ネズミ色の着ぐるみなんて!それじ
ゃ小汚い貧乏妖怪の扮装じゃないの!﹂﹁着ぐるみはダメよ!麗華
様を巨大ネズミにするつもり!﹂﹁巨大ネズミ!麗華様がヌートリ
アになってしまう!﹂﹁そこはせめて愛らしいハムスターを目指し
なさい!﹂とそれはもう喧しかった。その吉祥院さんは、着ぐるみ
を着て鏡の前でお尻を振って尻尾を揺らしたり、まんざらでもなさ
そうに見えたけどな∼。
結局は妥協案でグレーのワンピースにネズミの耳を付けた、ぬる
い仮装になったけれど、仮装リレーではダントツで話題をさらった
ので満足だ。女子の敵は増やしたけどな⋮。
学園祭では吉祥院さんが羊耳を付けているという怖い物見たさの
客と、吉祥院さんの華麗なる人脈で大物客が続々来店。ピヴォワー
カフェ・羊のドーリー
の売り上げは上々
ヌ三強が客と店員として揃い踏みした時は、生徒が廊下まで鈴なり
状態だった。おかげで
で、クラス委員長としては笑いが止まらない。風見達の射殺す様な
視線が怖かったが⋮。
そしていつの間にか、岩室が吉祥院さんと仲良しになっていた。
意外すぎる組み合わせだ。
2年ではクラスが分かれ、3年になってまた俺は吉祥院さんと同
じクラスになった。しかもまた一緒にクラス委員をやることに。
風見と今村と同じクラスになったのはかなりおっかないが、ほか
は特にトラブルを起こしそうなヤツはいなさそうだし、なにより吉
1576
祥院さんがクラス委員だってのに、進んで騒ぎを起こすような無謀
なヤツなんているわけがない。
この1年円満にやっていけそうだなと思ったら、ひとり挙動不審
なヤツがいた。体を縮こまらせ、怯えたように体を小さくさせてい
る。
﹁どうかしたのか、多垣﹂
コイツは確か高等科からの外部組だっけ。
﹁なんか困ったことがあるなら話聞くけど。俺これでも一応クラス
委員なんで﹂
多垣はきょろきょろと誰かを探すように教室を確認すると、目を
泳がせながら小声で﹁実は⋮﹂と口を開いた。
そして俺はその内容を聞いて、あぁそういえばあの時、余計な一
言をポロッと口走ったのってコイツだったっけと思い出した。
2年の終わりに事件が起こった。
外部組で特待生の高道若葉のロッカーに、吉祥院さんが嫌がらせ
をしたという事件だ。と言っても、保健室で休んでいた吉祥院さん
が教室に戻る途中でロッカーの落書きに気づき、そこに立っていた
のを授業の終わった生徒達に見られて犯人疑惑をかけられただけで、
吉祥院さんが犯人だったわけではなかったんだけど⋮。
高道若葉は瑞鸞でちょっと微妙な立場の女子だ。
日本でも指折りの資産家の子供達が占める瑞鸞で、一般家庭出身
で成績優秀な特待生。それだけならそんなに珍しくもないけれど、
よりによって瑞鸞生が誇る、学院の顔ともいえる完全無欠な皇帝の
首席の座を脅かすほど優秀だったから、内部生としては面白くない。
そしてその特待生が、今まで女子を近くに寄せ付けなかった皇帝の
1577
関心を引いてしまったから最悪だ。
嫉妬した女子から高道はチクチク嫌がらせを受けたらしく、それ
を正義感溢れる水崎まで真っ向から高道を庇いだしたから、高道は
多くの女子から蛇蝎の如く嫌われた。そりゃそうなるだろうなぁ⋮。
皇帝はともかく、水崎はもう少し考えろよ。
成績がいいのも、男子の人気トップ3のうちのふたりが高道を構
うのも、高道自身に罪はないことだけど、嫉妬なんてものに理屈は
ない。男に媚を売っていると女子からは陰口を叩かれ、高道に成績
順位に勝てず悔しい思いをしていた男もそれに便乗した。
先代ピヴォワーヌ会長達にも目を付けられていた高道だったけど、
そんな中で吉祥院さんは我関せずの中立の立場を保っていた。女子
のことだから詳しくは知らないけど、どちらかと言うと高道に同情
的だったらしい。
そんな時に起こったロッカー事件。ここぞとばかりに蔓花達が吉
祥院さんを犯人扱いした。
もちろん吉祥院さんは否定したけど、運悪く犯行に使われたマジ
ックまで手に持っていたのはまずかった。なにやってんだよ、吉祥
院さん⋮。
吉祥院さんにとっては、絶体絶命のピンチだったけど、当の高道
が吉祥院さん犯人説をばっさり切り捨てたから、疑惑を残したまま、
なんとかその場は収まった。
あの時は俺も生徒会長である水崎に一応、﹁吉祥院さんは変わり
者だけど、あんな悪質なことをする人じゃないぞ﹂と言いに行った
なぁ。1年の時、水崎は吉祥院さんをあまり良く思っていなかった
から少し心配だった。水崎は﹁⋮そうだな﹂と頷いていた。
俺達の代の男子は、完全に皇帝を頂点としたヒエラルキーがはっ
きりとしていたので、ほかの学年に比べても平和なもんだったけど、
女子は蔓花が虎視眈々と下剋上を狙っているので、時々騒ぎが起こ
蔓花の乱
と呼ばれていたが、のちに高等科での乱と区別す
る。中等科の時にも蜂起して返り討ちにされていた。あれは俺達の
間で
1578
るために
蔓花、春の乱︵中等科編︶
に改められた。
蔓花、冬の乱︵高等科編︶
は、食堂での
そして中等科時代に一度は敗れた蔓花達が、ここでまた下剋上を
夢見て乱を起こした。
蔓花グループ、吉祥院さんグループ、生徒会グループの血で血を洗
う掴み合いの大ゲンカにまで発展した。
誰かの﹁女の争い、こえぇ⋮﹂と言った声を聞いた連中は﹁あ゛
ぁっ?﹂と善良な男子を三白眼で威嚇した。お前等、世間じゃお嬢
様と呼ばれているんじゃないのかよ⋮。
その騒ぎを鎮めたのは、瑞鸞の絶対王者の皇帝だった。
でもこのままあの蔓花達がおとなしくしているかなぁと思ってい
たら、ピヴォワーヌ三強の最後のひとり、円城君が人もまばらな廊
下で蔓花を呼び止めているのを見かけた。
通りすがりに聞こえた円城君の声。
﹁普段は女子の諍いに口をはさむ気はないんだけど、今回は少しや
りすぎだね。これ以上吉祥院さんへの誹謗中傷を続けるなら、僕が
蔓花、冬の乱︵高等科編︶
はここに収束した。
吉祥院さんに付くけど、どうする?﹂
二度も乱を起こした蔓花に、密かに付いたあだ名は、瑞鸞の平将
門。日本三大怨霊じゃないか⋮。なんで俺達の代の女子は、物騒な
あだ名が付くようなのばっかなんだよ⋮。
まぁ、そんなこともありました、と。で、その時のことでこの多
垣は報復を恐れて怯えまくっているわけか。
確かに多垣が口を滑らせた余計な一言で、吉祥院さんの立場が悪
くなったけど、あの人はそんなことをいつまでも根に持つタイプじ
ゃないと思うけどな。
﹁それで吉祥院さんにはちゃんと謝ったのか?﹂
1579
﹁う、うん⋮。春期講習が一緒で、そこで謝って、吉祥院さんの友
達のアドバイスでプリンをお詫びに渡して⋮﹂
﹁許してくれた?﹂
﹁全然気にしていないって⋮﹂
﹁なら平気じゃね?プリンも受け取ってもらえたんだろう?﹂
﹁う⋮ん﹂
俺の経験上、吉祥院さんはお詫びのお菓子で大抵のことは許して
くれるからな。
﹁大丈夫だって﹂と、俺は多垣の背中を叩いた。
﹁過剰に怯えすぎなんだよ。顔色悪いぞ。これから昼食だろ。甘い
物でも食べて元気出せ。なっ?﹂
﹁そうだね⋮。プリンでも食べようかな﹂
﹁そうしろ、そうしろ﹂
俺のアドバイスに従い、多垣は食堂でプリンを注文していた。
そこへ吉祥院さん達がやってきた。
﹁麗華様、今日はなにを召し上がります?﹂
﹁私はデザートに、新作メニューのクレマカタラーナをいただこう
と思っていますの﹂
﹁あぁ!最近の麗華様のお気に入りメニューですわね?﹂
﹁そうなの。今日も楽しみにしてましたのよ﹂
顔を綻ばせながら楽しげに友達と話す吉祥院さん。
しかしその楽しみにしていた新作デザートを注文した吉祥院さん
に、﹁申し訳ございません。ちょうど今、最後のひとつが出てしま
いました﹂という非情な宣告が!
吉祥院さんの体がふらりと揺れた。
1580
﹁麗華様!お気をしっかり!﹂
﹁一体誰が麗華様のお昼のお楽しみの邪魔立てを!﹂
ギンッと最後のひとつを取った犯人を捜すように周囲を見回す風
神雷神。そして見つけた。
多垣だった⋮。
多垣が注文したプリンこそ、吉祥院さんが楽しみにしていたとい
うクレマカタラーナ。多垣∼ぃ、お前、つくづくタイミングの悪い
ヤツ⋮。しかも主食にいく前にすでにプリンに手をつけちゃってる
し。そんなに疲れてたのか?
スプーンを口に入れたまま顔面蒼白で固まる多垣に、俺は心の中
で十字を切った。強く、生きろよ、多垣。
あずみ
サッカー部部長の安曇という男がいる。
サッカー部という花形部でエースを務める安曇は、皇帝達には遠
大納言
あずみ
だから
と呼ぶようにな
く及ばないが、女子達からも人気があり、学院でもそれなりに一目
置かれる存在だった。
だがしかし、最近吉祥院さんが安曇を
ってから、その地位が危うくなってきた。
周りから﹁大納言って小豆のこと?﹂﹁名字が
小豆の大納言か。なるほどな﹂﹁お∼い、小豆﹂と、今じゃ小豆呼
ばわりされる始末。
本人は必死で﹁違うっ!小豆の大納言じゃない!﹂と弁明してい
たが、あっという間に小豆由来のあだ名が定着してしまった。哀れ
⋮。
一応、名付け親に由来を確かめてみると、心外だという顔をされ
た。
1581
﹁あら、私はそんなダジャレのような愛称を付けたりしませんわ。
蹴鞠大納言は平安時代に実在した、蹴鞠の名手にちなんだ由緒正し
き愛称です。それをダジャレだなんて⋮。ところで小豆といえば、
佐富君はおはぎはこしあん派?それともつぶあん派?ちなみに私は
こしあん派﹂
﹁えっ、あ∼、強いて言えばつぶあんかな﹂
﹁まぁ。では桜餅は長命寺派?それとも道明寺派?ちなみに私は長
命寺派﹂
﹁あ∼、皮で巻いてあるほうかな﹂
﹁一緒ですわね。では桜餅の葉は食べる派?それとも⋮﹂
大納言という安曇のあだ名について話をしていたはずなのに、な
んでいつの間にか桜餅の葉っぱの話に⋮?!
そこから葉包み菓子では桜餅派?柏餅派?と、もう安曇のことは
サッカーボールと共にどっかに蹴り飛ばされてしまったようだ。さ
よなら、安曇。
﹁吉祥院さんってさぁ、変わってるよねぇ﹂
俺の口から思わずポロッと本音が飛び出すと、吉祥院さんは﹁は
ぁ?!﹂と目を見開いた。
﹁どこが?!私は普通ですけど?!変わってるなんて言われたこと
ないですけど?!﹂
﹁あ、ごめん!そうだよね﹂
﹁そうよ!﹂
たまに自分で自分を﹁私︵俺︶って変わってるからぁ∼﹂って言
うヤツがいるけど、そういう連中は変わり者に憧れる凡人で、本当
1582
の変わり者にはその自覚がない
本物の変わり者、吉祥院さんに
変わってる
は禁句。
ほら吉祥院さん、振り向いてごらん。後ろで風見達が心配そうに
君の様子を窺っているよ。
5月の頭は修学旅行だった。クラス委員としての雑用もあるけど、
そんなに大変でもない。が、それは俺のクラスだけらしい。
旅行の途中で会った水崎に様子を聞かれた。
﹁佐富のクラスは門限破りや羽目を外す連中はいないか?ほかのク
ラスは結構大変みたいだぞ﹂
﹁あ∼、なんかそうらしいな。でもうちのクラスは点呼を取るのが
吉祥院さんだからね∼。誰もそんな命知らずな真似はしないよ﹂
元々クラスの女子のほとんどは吉祥院さんに協力的で煩わせるよ
うな行動はしないし、男子も吉祥院さんを怒らせて女子全員を敵に
回すようなリスクは冒さない。それに旅行の空気に浮かれてふらふ
ら羽目を外そうものなら、すぐに秘密警察なみの密告情報が入って
くるからな。
﹁恐怖政治かよ﹂
門限破りは粛清対象。吉祥院麗華独裁体制、万歳。
吉祥院さんにロンドン塔の幽霊の話を振ったら、嫌がられた。俺
は怪談話って結構好きなんだけど、吉祥院さんは苦手みたいだな。
1583
ふと吉祥院さんの手を見ると、なぜか両手とも不自然にグーにし
ている。え、もしかして親指隠してる?それって霊柩車に出会った
時に小学生がやる行動じゃん!
それからは吉祥院さんの反応が面白くて、ついからかって遊んで
しまった。そんな俺の行動も小学生並だけどな。
ヴァチカンでも吉祥院さんの苦手そうなカタコンベの話を振った
ら睨まれた。
怒り混じりに前を歩く吉祥院さんの背中に揺れる髪が、クルンと
巻いてまるで数字の6のように見えた。
﹁あれ?吉祥院さん。背中の巻き髪が獣の数字になってるよ﹂
俺の言葉に吉祥院さんはギョッとした顔で振り返ると、﹁ここを
どこだと思っているの!キリスト教の総本山よ!不謹慎だわ!﹂と
激怒した。すみません。
それから吉祥院さんはヴァチカンを出国するまで、両手で髪を押
さえきょろきょろと挙動不審に周りを警戒していた。どうやら魔女
狩りを恐れているようだ。動きで6をごまかそうとしたのか、吉祥
院さんは小刻みに頭を振って、挙句立ちくらみを起こし、風見達に
支えられていた。やべ⋮。
ローマの市内観光を終え夕食に行く時、バシッと背中に衝撃が走
った。驚いて振り向くと、吉祥院さんが投球フォームで立っていた。
なんだぁ?
なにかをぶつけられたらしい部分に手をやると、え、うわっ!襟
足がザラザラする!なんだこれ?!白い⋮粉?マジかよ、白い粉が
髪に付いてるって完全に見た目フケじゃん!勘弁してくれよ∼っ!
なんて思ってたら、とうとう風見達に夕食後呼び出しを食らった。
﹁よくも麗華様に数々の無礼を!﹂﹁許せないわ!﹂﹁貴方のせい
1584
で麗華様が怪しげな行動を取っているのよ!﹂等と、一通り責め立
てられた後、一転して風見達がその顔に黒い笑みを浮かべてきた。
怖っ⋮。
﹁佐富行成。聞くところによると、貴方2年生に彼女がいるそうね
?﹂
﹁えっ!なんでそれを?!﹂
﹁私達の情報網を甘くみるんじゃないわよ﹂
﹁彼女へのお土産をパリで買ったそうね﹂
﹁ペアのアクセサリーですって?﹂
秘密警察、恐るべし⋮!
風見達は俺を囲う輪を縮めてきた。後ろは壁、逃げ場なし。
﹁可愛い彼女だそうねぇ﹂
﹁いやぁ、まぁ⋮﹂
﹁2年生には、あの麗華様の従妹である璃々奈さんがいるってこと
を忘れたわけじゃないわよね?﹂
﹁しかも彼女は麗華様に憧れているそうね﹂
﹁ふたりの仲を引き裂くことなんて、簡単なのよ﹂
人質を取られた⋮。
﹁わかったら今後、麗華様への態度を考えなさい﹂
﹁残りの高校生活を無事に過ごしたいならね﹂
﹁貴方の仕打ちに麗華様はとても心を痛めているのよ!﹂
﹁はい。反省してます。ごめんなさい﹂
女子の集団に逆らってはいけない。俺は素直に頭を下げた。
1585
﹁ところで、さっき吉祥院さんに白い粉末をぶつけられたんだけど、
あれ何?﹂
友達にも手伝ってもらって、はたき落すのに苦労した。まだ残っ
ている感じがして気持ち悪いから、早く部屋に戻ってシャワーを浴
びたい。
﹁⋮あれは、塩よ﹂
﹁はぁ?塩?!どっから塩なんて出てきたんだよ﹂
まさかわざわざ日本から持参してきてるってことはないよな?だ
ってさっきの量も片手一掴みくらいあったぞ。さすがにそれは、な
ぁ。でもじゃあどっから調達してきたんだ?
﹁い、いいのよ、そんなことは!﹂
﹁それより、これからはちゃんと麗華様を敬った行動を取ってちょ
うだい!﹂
﹁だいたい貴方は一体、麗華様をなんだと思っているの!﹂
﹁え⋮﹂
吉祥院さんをなんだと思ってるって、それはもちろん⋮
﹁友達﹂
真面目でお人好しでおだてに弱くてちょっと変わり者な吉祥院さ
んは、俺の友達だ。
1586
227
帰ってきたよ、ニッポーーン!
はぁ∼、ヨーロッパはいつ行っても街並みも美しくて、物も人も
雰囲気があっておしゃれで、毎日凄く楽しかったけど、やっぱり日
本が一番落ち着くわ∼。紅茶より緑茶、パンより白米。家に帰って
まず最初にやったことは、梅鮭茶漬けを食べること!ふぃ∼っ、日
本の味だわ∼。
瑞鸞高等科の修学旅行は授業日数になるべく影響が出ないように、
ゴールデンウィークにぶつけられている。お父様達もその間に旅行
に出かけていたけど、私が帰国する日に間に合うように帰ってきて
くれていた。リビングで大量のお土産を並べて、お互いの旅行話。
もちろんお兄様もね!
﹁修学旅行は楽しかったかい?﹂
﹁ええ、とっても!お父様達は?﹂
﹁楽しかったけど、少し疲れたなぁ﹂
﹁貴方はゴルフばかりしていたからよ﹂
お母様は旅行先で受けたらしいエステでお肌ツヤツヤだけど、お
父様はちょっとぐったり?お兄様は大学時代のお友達と北海道に行
ってたんだって。私の大好きなお菓子をたくさんお土産に買ってき
てくれていて、嬉しいっ!とうきびチョコは、食べ始めたら止まら
ないのよ∼。
旅行中は全くホームシックになんてならなかったけど、約10日
ぶりに家族の顔を見たら、なんだかやけに嬉しくてベタベタくっつ
いてテンション高めでおしゃべりしまくっちゃった。えへへ。実は
寂しかったのかな?お父様のぽんぽこ狸腹すら愛しく感じてしまう
1587
なんて、ホームシックって恐ろしいね。
お兄様、見て見て。お兄様にいっぱいお土産買ってきたのよ!あ
∼、楽しい。あ∼、幸せ。
││しかし私は旅先に、大切なものを失くしてきていたのを忘れ
てはいけない。それは白毫。
ローマでの最後の夜に喪失に気づき大いに狼狽え、次の日の朝に
はすっかり忘れていたけれど、幸運の印である宝毛が抜け落ちてし
まった影響は、確実に、ジワジワと私に忍び寄っていた。
そしてそれはまず自室の隅にあった。
去年のクリスマスにプレゼント交換でもらった、多肉植物ホヤカ
ーリーのラブラブハートが腐っていた。目にも色鮮やかな緑色をし
ていたホヤカーリーが、茶色く変わり果てた姿になっていたのだ。
どうやら長期間家を空けるので、枯れないように水をたっぷりあ
げ過ぎたのが良くなかったみたいだ。私が渡欧している間の日本は
気温が低かったのも追い打ちをかけたか。ごめんよ、ホヤちゃん!
私を許して!
植物は話しかけると成長が早いというから、毎日話しかけていた
ホヤちゃん。恋愛ぼっち村村長としての愚痴を毎日聞いてくれてい
たホヤちゃん。栄養剤をあげてもムリかな。心なしか変な臭いがし
ている気がするし⋮。
せっかくくれた北澤君に申し訳ない。半年もしないうちに腐らせ
たなんて絶対に言えない。あぁ、罪悪感⋮。
ハートの形から恋が叶う植物なんて言われて、ラブラブハートと
呼ばれているホヤカーリー。私だって﹁今年こそ素敵な恋ができま
すように﹂とホヤちゃんにお願いしていた。今のところ効き目は皆
無だったけどね。でもそんな恋愛成就の植物を腐らせてしまったこ
とは、不吉以外の何物でもない。不安だ。ホヤちゃん、恨まないで
ね。迷わず成仏してください。
1588
そして修学旅行から帰って最初の登校日の朝。私はクルルルルゥ
という、うるさい鳴き声と羽音に起こされた。
とってもとっても嫌な予感を抱きつつも、そっとバルコニーのカ
ーテンを開けると、そこには二羽の鳩が!
朝から天敵の鳩!追い出さなきゃ!窓を開けて部屋に入って来ら
れたら怖いので、窓ガラスをドンドン叩いて私の存在をヤツらに知
らせる。狙い通り、二羽の鳩は飛び去った。良かった⋮。
もう、爽やかな朝が台無しだ。あいつら、私の部屋のバルコニー
に、糞なんかしていないでしょうね。鳩が近くにいないのを確認し
てから、窓を開けた。糞はなさそうだけど⋮。ふと見るとバルコニ
ーの端にある室外機の下に、なぜか小枝がたくさん落ちていた。な
にこれ?⋮って
﹁うわあああああっっ!﹂
奥に丸くて白い物体がある!これって、まさか卵?!鳩に卵産み
つけられてる!しかも2個もあるよ!
なんてことだ。あいつらはつがいだったんだ。私がいない間にこ
れ幸いと巣を作り、卵を産んでいたんだ。どうしよう。卵なんて自
分じゃ怖くて処分できない。やだ、今この瞬間にも孵化したらどう
しよう!
とりあえず私は適当に着替えて、人を呼びに行った。お願いしま
す、小心者の私の代わりになんとかしてください⋮。
部屋に来てくれたお手伝いさんは、鳩の巣を見て驚いた。
﹁麗華お嬢様がいらっしゃらない間に、空気の入れ替えだけはさせ
ていただいていたのですけど、室外機の下まで見ておりませんでし
た。申し訳ありません﹂
1589
﹁ううん。見えにくい場所に巧妙に作ってあるんだもの。しかたな
いわ﹂
元々私の部屋には駄菓子とかへそくりとか、他人に見られたくな
いものがいろいろあるので、普段から自分がいない間の部屋の掃除
は最小限にとどめてもらっているのだ。そのかわり、ロボット掃除
機が大活躍している。文明の利器って素晴らしい。たま∼にベッド
の裏にケサランパサランが住んでいるのを発見することもあるけれ
どね。
﹁先日窓拭きをした時には見当たらなかったんですけどねぇ﹂
﹁じゃあつい最近なのかしら﹂
旅行前は鳴き声も羽音もしなかったもんね。これはやっぱり白毫
の守りがなくなったせいか⋮!
﹁あっ!鳩がまた来てる!手摺りにとまってる!﹂
﹁こら!あっちに行きなさいっ!﹂
お手伝いさんが威嚇して追い払ってくれたけど、巣がある限り何
度でもやってくるに違いない。なんといったってここには卵もある
んだし。
﹁どうしたの、朝から﹂
﹁お兄様!﹂
騒がしかったのか、お兄様が開きっぱなしだった私の部屋のドア
の前に立っていた。
﹁お兄様、聞いて!バルコニーに鳩の巣があるの!しかも卵まで!﹂
1590
私はお兄様に鳩の巣、及び卵について訴えた。
﹁鳩の巣?あぁ、本当だ﹂
お手伝いさんが﹁私が近くの公園にでも捨ててきましょうか﹂と
言ってくれた。ありがとう!そうしてくれますかっ?
しかしそれにお兄様が異を唱えた。
﹁野鳥の卵は鳥獣保護法で勝手に処分してはいけないと定められて
いるよ﹂
﹁ええええっっ!﹂
じゃあどうすればいいの?!卵が孵ったら、それこそ家族で永住
されちゃうよ!鳩の帰巣本能をなめちゃいけないよ!私の部屋のバ
ルコニーが常宿にされるなんて!鳩の終の棲家にされるなんて、そ
んなの困る!
﹁私、鳩とルームシェアなんて出来ないわ、お兄様!﹂
私は涙ながらに訴えた。
﹁⋮保健所に連絡しなさい﹂
おおっ!さすがお兄様!なんて頼りになるの!
お手伝いさんが朝一で保健所に連絡してくれると言ってくれたの
でおまかせする。はぁ、これでひとまず問題解決、かな?
﹁ありがとう、お兄様。朝からごめんなさい﹂
﹁いや。麗華が家に帰ってきたなぁと、しみじみ実感するよ⋮﹂
1591
お兄様はなんとも言えない笑顔で、私の頭を軽くポンポンと叩い
た。
鳩の巣のショックで傷ついた私の繊細な神経を心配してか、学院
にはお兄様が車で送ってくれた。わ∼い。スーツ姿で運転するお兄
様、素敵っ!
﹁でも今朝は驚きましたわ。まさか私の部屋に鳩が巣を作るなんて﹂
﹁そうだね﹂
上空からの糞攻撃にとどまらず、とうとう本陣にまで攻めてくる
とは。おのれ鳩め!しかもつがい。鳩の分際でこれみよがしにラブ
ラブしおって。でもしょうがない。春だし。
﹁春は繁殖期ですものね。これが過ぎれば一安心かしら﹂
﹁生憎、鳩は1年中発情期だから年に数回卵を産むよ﹂
﹁えええっ!﹂
なにそれ!初耳なんですけど?!
﹁麗華、運転中は危ないから腕を掴まないようにね﹂
﹁ごめんなさい﹂
1年中発情期だと!なんて節操のない!許し難し、鳩め。さすが
天敵。鳩は恋愛謳歌村の村鳥だったのだ!
﹁じゃあ今回、巣と卵を撤去しても、近いうちにまた産みつけられ
る可能性があるのですね?!﹂
1592
冗談じゃないぞ。ひとんちのバルコニーでいちゃいちゃするなん
て許さないわよ!
﹁ちゃんと鳩避け対策を施すように言っておいたから、心配しなく
ていいよ﹂
﹁お兄様ぁっ!﹂
﹁麗華、運転中は危ないから腕を掴まないようにね﹂
﹁ごめんなさい﹂
鳩避け対策ってあれかしら。ネットとかCDとか?それとも罠で
も仕掛けるのかな。
﹁そうだわ、お兄様。伊万里様にもお土産を買ってきたので、お渡
ししたいの。近々いらっしゃるご予定はあるかしら﹂
﹁宅配便で送りつけてやればいいよ﹂
え∼っ、日頃伊万里様には数々のプレゼントをいただいているか
ら、感謝の気持ちを込めて自分で渡したいのに。宅配便って味気な
くない?バレンタインの時には生ものだから利用したけどさぁ。
不満そうな私を横目で見て、お兄様は﹁一応伝えておくよ﹂と言
ってくれた。お願いね、お兄様!
登校すると、学院には修学旅行をきっかけにした、恋愛謳歌村へ
の体験入村者達の姿があちこちにあった。忌々しい⋮。
前世でも思ったけど、よく聞く修学旅行ロマンスというのは、一
体どこで生まれているのだ。不可解。
1593
﹁ごきげんよう、麗華様。今修学旅行の話をしていたところなんで
すよ?﹂
﹁ごきげんよう、皆さん﹂
私が教室に入ると、すでに登校していた何人かの友達が固まって
おしゃべりをしていた。私も旅行の思い出語りた∼い。交ぜて交ぜ
て。
﹁楽しかったですわよねぇ、修学旅行。今はどこの国のお話をして
いたの?﹂
﹁それが⋮。麗華様、実はローマで鏑木様と高道さんが一緒にカフ
ェから出てくる姿を目撃したという噂が流れているんですけど⋮﹂
﹁えっ!﹂
なんてこった。あれほど周りに注意して行動しろと言ったのに見
つかるなんて!
﹁それ、本当に鏑木様達だったの?見間違いの可能性もあるんじゃ
ないかしら﹂
﹁でも鏑木様を見間違えるなんてあるでしょうか﹂
⋮あのバカは無駄に目立つからな。
皇帝ローマデートの噂はあっという間に広まった。そのお店はロ
ーマでもティラミスがおいしいと評判の有名店で、お店から仲良く
出てきたふたりはそのままタクシーに乗って去って行ったという。
鏑木には聞きに行けないので、皆は若葉ちゃんに確かめに行った。
詰め寄られた若葉ちゃんは目を白黒させながら﹁偶然会って⋮﹂と
かなんとかごまかしたらしいけど、じゃあなんで一緒のタクシーに
乗ったんだって言われてつじつまが合わなくなったらしい。結局ス
イーツ巡りをしていたことまではバレなかったけど、ローマである
1594
程度の時間をふたりで過ごしたということはバレてしまった。
あぁっ、帰国早々厄介事の予感大!
帰宅すると、私の部屋のバルコニーには薔薇の花が咲き乱れてい
た。手摺りには蔓薔薇が巻きついていて、とっても可愛い。これぞ
乙女のバルコニー。おぉ、うららもあるね。
でも一体どうしたのかと思ったら、鳩は薔薇の香りが嫌いだって
ことで、鳩の巣と卵を撤去してもらったあと、庭師さんに来てもら
ってセッティングしてもらったんだって。確かに吉祥院家の邸宅の
バルコニーに、CDをぶら下げて鳩避けネットを張るわけにはいか
ないもんねぇ、見栄え的に。
しかし私は緑の手ならぬ茶色の手を持つ女。サボテンすら枯らす
私の部屋の薔薇が、いつまで持つかしら⋮?
どうか神様、明日は鳩がきていませんように。
1595
228
クルルルルゥ⋮という、獅子身中の鳩の鳴き声で目が覚めた││。
どうやら薔薇の結界によってバルコニーへの侵入を阻止された宿
敵鳩は、我が身の内に巣食ったらしい。成敗するためにさっさと着
替えて食堂へ向かう。
今日も元気だ。朝ごはんがおいしい。やっぱり朝は白米ね!
瑞鸞では、今日も朝から浮かれた恋愛謳歌村の村民達が、そこか
しこで幅を利かせているのが目につく。体験村民、にわか村民達の
はしゃぎようときたら!
修学旅行帰国後からの、我が恋愛ぼっち村の急激な過疎化に危機
感を覚える。恋愛ぼっち村でも五人組制度を採用すべきであろうか
⋮。村長として、脱走者をこれ以上出すわけにはいかない。厳しく
戒めていかなくては。
あっ!あの子達、見つめ合って手を繋いでいる!なんというふし
だらな⋮。瑞鸞の校則で男女交際は認められていたかしら?!確か
めなくっちゃ。生徒手帳、生徒手帳!
﹁あ、吉祥院さん、おはよう。ちょうど良かった﹂
私が、ボコボコと呪いのガスが湧き出す心の中の黒い沼を覗きこ
んでいると、委員長に声を掛けられた。
1596
﹁おはようございます、委員長。私に何か?﹂
﹁うん。ちょっとだけ今いいかな﹂
﹁ええ﹂
私は委員長に袖を引っ張られ、廊下の端に寄った。委員長は声を
潜めて話し始めた。
﹁実はね、修学旅行で本田さん達と、自由時間に一緒に出掛けるこ
とができたんだけど﹂
﹁⋮ええ。大英博物館でお会いしましたわよね。確かセーヌ川クル
ーズをなさるとか﹂
﹁覚えててくれた?そうなんだよ。一緒にね、クルージングをした
んだ。楽しかったなぁ。乗船する時に少し揺れてね、その、僕が本
田さんに手を貸してあげて⋮﹂
嬉しそうに照れながら私に報告する委員長。ここにも謳歌村の村
民が⋮。我が村の過疎化待ったなし。
﹁で、手を握れて嬉しかったと。下心の報告ですか?﹂
﹁ええっ!し下心なんてそんなっ。僕そんなこと考えてないよ、吉
祥院さん!﹂
﹁ふ∼ん﹂
どうだかね∼。あわよくばって魂胆があったんじゃないのぉ?だ
って遊覧船には手摺りがあったじゃない。私は手摺りに掴まってひ
とりで乗りましたけど?
﹁それで?﹂
﹁えっと吉祥院さん、なんだか機嫌悪い⋮?悪くないならいいけど
⋮。あぁそれで、岩室君もね、寒そうにしてた野々瀬さんに自分の
1597
着ていたジャケットを貸してあげたりして、僕から見てるといい雰
囲気だったんだよね﹂
﹁へ∼﹂
私はあやめちゃん達とハムスターのように身を寄せ合って暖を取
っていましたけどね。あぁ、女の友情って素晴らしい!
﹁本当はポンデザールの南京錠を一緒に付けたかったんだけど、そ
れは恥ずかしくて誘えなかったんだ。一応、こっそり買っちゃった
んだけどね。いつか、一緒に付けに行けたらな∼って⋮。あっ、こ
れ秘密だよ!﹂
いつか一緒にパリ旅行したいと。大胆発言だな、委員長。恋愛橋
では南京錠を付けられなかった委員長だけど、トレビの泉では愛す
る人と一生いられるようにコインを2枚投げたそうだ。あぁそうで
すか。ちなみに私も2枚投げてきたけどね。相手は未定ですが!
今度日本でも4人で遊びに行く約束をしたらしい。まぁ楽しそう。
ここはぜひ、水辺繋がりでダブルデートには井の頭公園のボートに
乗ることをお薦めしよう。ええ、もちろん他意はありませんとも。
委員長よ、沼気を放つ黒き沼を鎮める生贄となれ││。
生贄の乙女はそんな私の心も知らず、にこにこと笑っている。哀
れなり。
﹁それで僕と岩室君から吉祥院さんにお礼を⋮。あっ、岩室君だ。
お∼い、岩室君!﹂
お礼?なんのことだ。
廊下の向こうから、岩室君が手を振る委員長に気が付いて大股で
歩いてきた。おはよう。
1598
﹁岩室君、今吉祥院さんに修学旅行の話をしていたんだよ。それで
ほら、ふたりで買ったプレゼントを渡そうと思って﹂
﹁そうだな﹂
委員長はカバンを開けると中から可愛くラッピングされた包みを
出してきた。
﹁これ僕と岩室君からの吉祥院さんへのお礼。いつも相談に乗って
くれてありがとう﹂
﹁ありがとう師匠﹂
﹁⋮⋮﹂
⋮⋮なんてことだ。私は自分が恥ずかしい。こんなに善良な人達
に対して、嫉妬のあまり私は酷いことを願ってしまった。恋愛成就
の神様失格だ。ううっ、井の頭公園を薦める前で良かった。
﹁ありがとう。とっても嬉しいわ﹂
私はプレゼントを大切に抱えた。
﹁中身はフランスで買ったトリートメントとヘアオイルなんだ。吉
祥院さんのその幸運の巻き髪が、いつもきれいでいられるようにっ
て、岩室君が選んだんだよ﹂
﹁師匠の髪は俺の憧れだから。気に入ってもらえるといいんですけ
ど⋮﹂
さすが美容系乙女。選ぶプレゼントも乙女らしい細やかな発想。
そんな岩室君の髪も短髪なのに艶々だね。毎日のお手入れは欠かし
ていないようで、美容の師匠としても嬉しいよ。
ふたりのおかげで、私はそこらに蔓延る恋愛謳歌村の連中を、広
1599
い心で少しだけ許す余裕ができた。
放課後、私は麻央ちゃん達にお土産を渡すために、両手に紙袋を
持ってプティのサロンに向かった。途中、鏑木から呼び出しメール
が何度もあったけど、無視無視。十中八九、若葉ちゃんとのローマ
デートの話を惚気たいなんて、どうでもいい用事に違いない。けっ、
プティの天使達との癒しの逢瀬の前では、皇帝の惚気話など塵芥に
等しくってよ!
プティの扉を開けると、麻央ちゃんが溢れんばかりの笑顔でお出
迎えしてくれた。
﹁麗華お姉様、ごきげんよう!﹂
﹁ごきげんよう、麻央ちゃん﹂
室内に入ると、サロンにいたほかの子供達も口々に笑顔で挨拶を
してくれた。なんて可愛いんでしょう。和むわ∼。
私がお土産のチョコレートやフルーツパテといったお菓子を子供
達に配ると、わぁっと歓声があがる。麗華お姉様、麗華様と私を囲
んで慕ってくるプティの子供達。あらあら、私は逃げないから、私
を取り合ってケンカなんてしないでぇ∼。
あぁ、タイムスリップしてこの子達の同級生になりたい⋮。私は
ちょっと早く生まれすぎた。今の私がこの子達の同級生だったら、
どれだけ充実した学院生活を送れたことだろう。ここは疑似モテの
楽園⋮。
﹁こんにちは、麗華お姉さん﹂
﹁雪野君!﹂
1600
私が小学生だったら確実に大本命の王子様が登場!あぁ、私は早
く生まれすぎた。
お土産のお菓子を配り終えた私は、麻央ちゃん達に促され子供達
の輪から離れたソファに座った。私の隣には雪野君。前には麻央ち
ゃんと悠理君。
﹁では3人にも約束のお土産ね﹂
3人にはお菓子のほかに絵本の原書に色鉛筆も買ってきた。この
色鉛筆は世界的にも有名な絵本にも使われたという、とっても柔ら
かい色味が出る色鉛筆なのだ。ぜひ図工の時間に使ってもらいたい。
可愛い私の小さなお友達はそれぞれ満開の笑顔で喜んでくれた。
﹁それと麻央ちゃん、これを市之倉様に渡しておいてもらえるかし
ら?﹂
何度もお食事をご馳走していただいた麻央ちゃんの叔父さんには、
チーズや紅茶のほかに飼い猫アリスにちなんで、ガラスでできたチ
ェシャ猫のペーパーウェイト。ちょっと帰りの荷物が多くなるけど、
車だから平気だよね?
﹁わかりました。晴斗兄様に渡しておきますね。そうだわ。麗華お
姉様、聞いてください。実は、麗華お姉様が修学旅行に行っている
間に、耀美さんにお料理を習っているお礼がしたくて、晴斗兄様に
お願いして3人でお食事に行ったんです!﹂
﹁えっ、そうなの?﹂
﹁はい。麗華お姉様に先にお話していなくてごめんなさい。でもち
ょうどふたりとも時間が合う日があったので⋮﹂
﹁それは別によろしいのだけど⋮。それで、お食事会は楽しかった
1601
?﹂
﹁うふふ。晴斗兄様に素敵なお店を予約してねってお願いしたんで
すけど、お料理もとってもおいしくて、耀美さんのお口にも合った
みたいです。ほら、ふたりとも食べることが大好きでしょ?話が合
うみたいです。だから今度は、ふたりでお食事に行ったらどうかな
∼って﹂
﹁まぁ⋮﹂
なんてことだ。可愛い可愛い麻央ちゃんが、私の与り知らぬとこ
ろで、やり手の仲人おばさんと化していた!
これは完全に、気に食わない恋人のエリカさんを排除し、市之倉
さんに耀美さんを推す気だな∼。
麻央ちゃんの笑顔の裏に隠れた企みに気づかない悠理君は、隣で
﹁良かったね、麻央﹂と笑っている。男の子って⋮。いや、そうだ
ね、気づかないほうが幸せなこともあるよね⋮。
has
ki
雪野君は私の隣で、熱心にマザーグースを読んでいた。どれどれ、
mother
me。うん、雪野君、もっとほのぼのした詩を読もうか。
なにを読んでいるのかな∼、⋮My
lled
夜、眠れなくなっちゃうよ?
4人で楽しくお土産の本の読み比べや修学旅行の話をしていると、
サロンのドアが開く気配と同時に女の子達の黄色い声がした。私達
はその声に何事かと思い振り返った。げっ!
﹁あれ?兄様だ﹂
振り返った先にいたのは、雪野君の兄である円城と、皇帝鏑木。
プティのサロンに何しに来た。
﹁兄様達、どうしたの?﹂
1602
私達の元にやってきたふたりに、雪野君がきょとんとした顔で尋
ねると、苦笑した円城が﹁雅哉がね、吉祥院さんになにか用がある
んだって﹂と答えた。え、私に用?物凄くイヤな予感がするんだけ
ど⋮。
円城の言葉に鏑木は腕を組み眉間にシワを寄せて頷くと、私に向
かって
﹁お前、何度もメールを送ったのに気付かなかったのか?しょうが
ないから俺から出向いてやったぞ﹂
﹁⋮⋮﹂
⋮⋮やっぱりか。
メールの返信がなければ直接追ってくる。なんという生まれなが
らのストーカー気質⋮。ナチュラルボーンストーカー鏑木。うん、
リングネームのようで語呂がいい。
私はナチュラルボーンストーカーに、﹁それは申し訳ありません
でした。携帯をカバンに入れたまま確認していませんでしたわ﹂と
殊勝な態度で謝罪した。顔を上げると、ニヤリと笑う円城と目が合
った。ちっ。
鏑木と円城はそのままの流れで、私達と同じテーブルを囲んだ。
﹁雪野、その本は?﹂
﹁麗華お姉さんからもらったんだ。修学旅行のお土産にって﹂
﹁吉祥院さんから?そうなんだ。吉祥院さん、弟にわざわざお土産
をどうもありがとう﹂
﹁いえ、大した物ではありませんから、お気になさらないでくださ
い﹂
鏑木は横から雪野君の手元を﹁なんの本だ?﹂と覗きこんだ。
1603
﹁マザーグースの本だよ﹂
﹁マザーグース?あぁ、俺の家の書庫にもあるな。そういえば、マ
ザーグースと言えば、そこに出てくる10人のインディアンをモチ
ーフにした人形が家にあったんだけど、いつの間にか1体が壊れて
いたんだよなぁ﹂
あれは確か1年の終わりだったかと思い出すように呟く鏑木。1
年の終わりって、鏑木が優理絵様に失恋した頃じゃないか⋮?
鏑木が失恋するごとに壊れる呪いのインディアン人形。そして誰
もいなくなった⋮。怖∼い!
私が不吉な妄想をしている間に、麻央ちゃん達が鏑木達にも修学
旅行の思い出を聞き、ふたりがイギリスでサッカー観戦をしたと言
うと、悠理君がそれに食いついたりしていた。
おしゃべりはそれなりに盛り上がり、皆が目の前のお茶を飲み終
わる頃、円城の携帯が鳴った。円城は立ち上がり少し離れたところ
で通話をし終えると、こちらに戻ってきて雪野君に帰宅を促した。
﹁迎えが来たみたいだ。帰ろうか、雪野﹂
﹁え∼っ⋮。僕まだお話していたい⋮﹂
﹁また今度。ほら、下で待っているみたいだから﹂
不満そうな顔をした雪野君は円城に頭を撫でられながら諭され、
渋々立ち上がった。しかしどうやら鏑木はこのまま残るらしい。一
緒に帰ればいいのに⋮。
﹁雪野君がお話したいみたいですし、せっかくですから鏑木様もご
一緒したら⋮﹂
﹁生憎だけど、今日は僕がほかに約束があるんだ﹂
ちぇっ、そうですか。
1604
﹁じゃあ、お先に。また明日ね、吉祥院さん﹂
﹁ごきげんよう、円城様。またお話しましょうね、雪野君﹂
﹁さよなら、麗華お姉さん。本と色鉛筆ありがとう。それとお菓子
も!﹂
﹁ふふっ、どういたしまして﹂
去りゆく癒しの天使に名残を惜しむ私の肩を、後ろからベシッと
音がするくらい叩く不穏な影。
﹁さて、じゃあ場所を移そうか。話したいことが山ほどあるんだ﹂
⋮レポート用紙に要点を纏めて提出してくれませんか。暇な時に
読んでおきますから。
1605
229
可愛いプティの子供達に泣く泣く別れを告げ、楽園を後にした私
は、鏑木にずるずると引き摺られるように、いつもの小会議室に連
れてこられた。
その際、まだ子供達とのお話が∼今日はこの後予定が∼と理由を
つけて渋る私に業を煮やした鏑木が、﹁いいから、ほら行くぞ!﹂
と私を連行しようと二の腕をぐいっと掴んだ瞬間、﹁えっ⋮!﹂と
驚いたように振り返って二度見したのが、綿菓子のように儚く、ブ
ランマンジェのように繊細な私の心を深く抉った。
違う!これは制服の生地が厚いせいだから!生地の厚いブレザー
の下にブラウスも着ているから、モコモコして余計に太く感じるだ
けだから!やめろ!自分の手の大きさと私の二の腕を見比べて二の
腕の太さを確認するんじゃないっ!
﹁で、お話とはなんでしょうかぁ∼?﹂
二の腕の秘密を暴かれ、すっかりやさぐれた私が、席に着くなり
サッサと話せと言わんばかりに促すと、鏑木が﹁態度が悪いぞ﹂と
文句を言ってきたが、知らんぷり。今日はこのあと塾の予定がある
のだ。早く家に帰って着替えたい。ついでに帰りがけにダンベルを
買って帰りたい⋮。
そんな私に対して鏑木は﹁はぁ∼っ﹂とこれみよがしにため息を
つくと、諦めたように口を開いた。
﹁⋮話と言うのは、高道とのローマでの自由時間のことだ﹂
1606
でしょうねぇ。むしろこのタイミングでそれ以外になにがある。
あ∼はいはい、聞いていますよ。睨まないでください。どうぞ、続
けて、続けて。
﹁⋮ローマで俺達はパリと同じく、高道が食べてみたいというドル
チェの店巡りをしたんだ。ティラミスの店では、どれもおいしそう
で迷っちゃうって言うから、定番以外にも数種類注文して、分け合
って食べたんだ。高道は日本ではあまりない苺のティラミスが一番
気に入ったらしくて、これ、私が残り全部食べちゃってもいい?な
んて聞いてきてさぁ。俺が別にかまわないと言ったら、嬉しそうに
笑ってありがとう!って⋮﹂
その時の若葉ちゃんの笑顔を思い出したのか、鏑木の口がにやけ
た。鏑木の女言葉、気持ち悪いぞ。今ちょっと声音変えたでしょ。
鏑木の惚気話は止まらない。あの店に行った、これを食べた、こ
んな話をした。お皿を取る時に一瞬指が触れて、お互い動揺してし
まったという話のくだりでは、ウガーッと叫んで頭を掻き毟りたく
なった。村民であえーっ!敵襲、敵襲!敵が来たぞー!
﹁ただ、これからショッピングをしている友達と合流してお土産を
買いに行くんだけど、なにか良い物はないかなと聞かれたので思い
つく物を答えたんだが、それは反応がいまひとつだったな﹂
ふんっ。どうせ鏑木のことだ。普通の高校生の金銭感覚とはかけ
離れた品をアドバイスしたんだろうな。
あ、塾に行ったら梅若君達にもお土産を渡さないと。私が用意し
たのは、日本未上陸、未発売のお菓子と、イタリアで買ったステー
ショナリーグッズだ。プティの子供達へのお土産よりも、塾のみん
なや手芸部の後輩達へのお土産考えるほうが遥かに難しかった。
1607
なぜなら、私には周りからセンスのある人だと思われたいという、
強い願望があるからだ。
だからお菓子選びは吟味に吟味を重ねた。たかがお土産のお菓子
と侮ることなかれ。ここがセンスの見せどころなのだ。間違っても
おしゃれな人は京都土産に八ッ橋、ハワイ土産にマカデミアナッツ
を選ぶような真似はしない。それが例えどんなにおいしくとも!一
箱なんてペロリと食べられちゃう安定のおいしさであっても!
っていう、流行
あ、これ前に吉祥院さん︵麗華
日本未発売商品は、普通じゃ手に入らないプレミア感と、後々日
本に上陸して話題となった時に、
先輩︶からお土産にもらったお菓子だ。さすが∼
る前から知っていましたアピールも出来ちゃうスグレ物。
私は自分のセンスにあまり自信がない。だからこそ、おしゃれな
人と思われたい。センスがいい人と憧れられたい。瑞鸞の流行発信
源に私はなりたい││。
﹁おい、俺の話を聞いているのか﹂
﹁ええ、もちろんですとも﹂
私は鏑木に大きく頷いてみせた。
ローマデートはまだまだ続く。腹ごなしに近くを散歩して、教会
を見たり遺跡に寄ったりもしたらしい。鏑木お薦めのお店のジェラ
ートのおいしさに、若葉ちゃんは大喜び。ローマの休日、充実しま
くりだな。その内段々気が緩んで、最後のほうではテルミニ駅の近
くで堂々とタクシーから降りたらしい。なにをやっているんだ。あ
れだけ周りの目を警戒しろと忠告したのに。だから目撃されて今、
若葉ちゃんの立場が悪くなっているんじゃないか、バカめ!
高校最後の修学旅行で、憧れの皇帝とヨーロッパを一緒にまわっ
て思い出作りがしたいと夢見ていた子達は大勢いた。それを出し抜
いて日頃から気に食わなかった若葉ちゃんが一緒に過ごしたという
から、﹁ブスのくせに﹂﹁図々しい﹂と若葉ちゃんはこれみよがし
1608
に悪口を言われている。せっかく嫌がらせも下火になっていたのに
⋮。
それ以外に若葉ちゃんには、ロンドンで同志当て馬と観光してい
たという目撃情報もあるからなぁ。そっちのファンからのやっかみ
もあるらしい。
ちなみに芹香ちゃん達情報によると、私もパリで円城とショッピ
ングを楽しみ、ローマでは円城、鏑木と宿泊先のホテルのカフェで
語り合い、鏑木からはマカロンをプレゼントされていたと、若葉ち
ゃんに匹敵するくらいの華やかな噂の的になっているらしい。なん
て虚しい⋮。
﹁それで、だ。ここからが本題なんだが﹂
﹁ええっ?!﹂
この今まで長々と聞かされ続けたお惚気デート話︵ローマ編︶が、
本題ではなくまさかの前口上?!長いよ、鏑木。長すぎるよ。途方
に暮れちゃうよ。本当に要点を纏めて文書で提出してもらえないか
な⋮。
﹁この修学旅行でかなり親密度があがった気がするんだ﹂
﹁左様でございますか﹂
﹁だからこの流れに乗って、いろいろと誘ってみようと思っている﹂
﹁大変よろしいと存じます﹂
﹁どこがいいと思う﹂
﹁ご随意になさるのがよろしいかと﹂
﹁おいっ、真面目に聞けよ!﹂
だってもう他人の恋バナにはおなかいっぱいなんだもん。
﹁そういったお話は、親友の円城様にご相談なさったらいかがでし
1609
ょう﹂
﹁秀介にはもう話した。そしたら吉祥院に相談してみたらと言われ
た﹂
⋮あいつ、面倒を私に押し付けたな。
﹁前から言っているように、高道さんが気後れしない場所を選んだ
らいいと思いますよ﹂
﹁気後れ、ねぇ﹂
﹁お土産のアドバイスも価値観が合わなかったのでしょう?そうい
う点に注意したほうがいいということですわよ﹂
﹁価値観、なぁ﹂
﹁雑誌などをチェックしてみたらどうですか?デートスポット特集
などの﹂
﹁マニュアル頼みなのはなぁ﹂
鏑木は腕を組んで虚空を見上げた。
﹁そういえば、高道は友達とローマのスーパーに行くと言っていた
な。日本のスーパーには無い、珍しい物を買いたいんだと。⋮なぁ
吉祥院、お前スーパーって行ったことあるか?﹂
﹁ありますわよ﹂
当然のように頷く私に、鏑木は驚いた顔をした。
﹁スーパーなんて、なにしに行くんだよ﹂
﹁なにしにって⋮﹂
それはもちろん、備蓄食料の調達だ。お菓子やカップ麺等は庶民
派スーパー、たまに立ち寄る高級スーパーでは夜食に食べるお惣菜
1610
や輸入お菓子と、用途によって使い分けもしている。来店の狙い目
はポイント5倍デーの日だ。
﹁⋮市場調査ですわね﹂
﹁市場調査ぁ?﹂
﹁各家庭の食卓を知ることは、それすなわち今の日本を知ることと
なるのですわ!﹂
私を見る鏑木の目が、疑わしげに細められた。
﹁コンビニと何が違うんだ﹂
﹁まぁっ、なにをおっしゃいますやら!品揃えが全く違いますわ!﹂
スーパーにはコンビニにはない、ファミリーパックのお菓子があ
るのだ。あぁ、魅惑のファミリーパック⋮!
﹁そういうところですわよ、鏑木様﹂
私が嘆かわしいというように頭を振ると、鏑木はムッとした顔を
した。
﹁よし!だったらこれからスーパーに行くぞ!﹂
﹁は?﹂
鏑木は立ち上がると、今にも私を引っ張ってスーパーに直行しそ
うな勢いで宣言した。
﹁高道が興味を持つスーパーを俺も体験したい。その市場調査とや
らも手伝ってやる。ほらっ、お前も早く立て!﹂
﹁なっ、ちょっと待ってください。私は今日は塾の予定が﹂
1611
﹁塾?﹂
﹁ええ﹂
気勢をそがれた鏑木は不満顔だ。しかし譲らん。もうすぐ中間テ
ストだぞ。勉強しろよ。
﹁⋮わかった。じゃあ、いつならいい﹂
﹁中間テストが終わってからでしたら⋮﹂
﹁遅すぎる!明日は?じゃあ週末は?﹂
明日、週末って⋮。皇帝、さてはあんた、暇人だな。哀しい。実
はスケジュール真っ白な瑞鸞の皇帝。切ない。うぷぷ。
﹁なんだよ、その目は﹂
﹁いいえ、別にぃ﹂
おほほ、ごめんあそばせ。ワタクシ予定が詰まっておりまして、
なんとか開けられても来週になりますわ∼。お暇な人が羨ましい∼。
﹁そんなに行きたければ、おひとりで行くか円城様を誘って行けば
よろしいのでは?﹂
﹁⋮俺と秀介でスーパー行ってどうすんだよ﹂
ふてくされたように口を尖らす鏑木にちょっと笑いつつ、私は会
議室のドアを開けた。
しょうがない。普通の高校生のデートスポットをリサーチしてき
てやるか。
1612
230
塾に着くと、私は早速修学旅行のお土産をみんなに配った。ロー
マで買った、色鮮やかで奇抜なデザインのペンやノート、ブックマ
ーカーは軒並み好評だった。よしっ!
﹁この箱はチョコ?パッケージがおしゃれ∼﹂
﹁それは今パリで評判のショコラトリーの物なの。確かまだ日本に
は入ってきていないのではないかしら。ワインに合うショコラをコ
ンセプトに作られているから、少し大人向きの味なんだけど、最近
の私のお気に入りなので、よかったらぜひ食べてみてね﹂
﹁へえっ、凄∼い。せっかくだから今開けて、一粒だけ食べちゃお
うかな﹂
﹁ねっ。うわっ、おいしい!ほんとだ、ちょっとビターだね。でも
ほんのり甘い﹂
﹁さすが吉祥院さん。お土産も違うよねぇ﹂
﹁うふふ、気に入ってもらえて嬉しいわ﹂
上々な反応に、私の自尊心くすぐられまくり。そして森山さん、
今﹁おしゃれ﹂って言ったよね?ぬほほ、その単語、連呼してくれ
てもいいのよ?あっ、北澤君が﹁このチョコ、マジでうまい﹂って
まるで10円チョコを食べるかのように、パクパク口に放り込んじ
ゃってる!そのチョコはパリで評判のショコラトリーで、日本未発
売で、選び抜かれたおしゃれなお土産で⋮って、まぁ、いいか。た
んと召し上がれ。
﹁でも修学旅行でヨーロッパって、さすが瑞鸞って感じだよね∼﹂
﹁うちの高校なんて萩、津和野だったよ。ま、いい所だったけどさ
1613
ぁ。修学旅行で渋すぎでしょ、萩、津和野。海外なんて贅沢は言わ
ないから、せめて本州は抜けたかった﹂
﹁うちは北海道か九州の選択制で俺は北海道。楽しかったよ。食べ
物おいしかったし﹂
﹁俺は九州選んじゃったんだよなぁ﹂
﹁あぁ、お前の土産かるかんだったよな﹂
私が持ってきたお土産のお菓子を食べながら、それぞれが修学旅
行の思い出を語った。
﹁修学旅行って、絶対に羽目外す奴が出てくるよね。特に男子﹂
﹁俺達も門限破ったり、夜宿舎抜け出そうとしたのを見つかって、
追いかけられたりしたな∼﹂
﹁私達も集合時間には毎回遅れて、クラス委員の子に文句言われた
けど、そのくらいは大目に見て欲しいよねぇ﹂
他校のことながら、なんだか大変そう⋮。同じクラス委員として
同情してしまう。私のクラスは真面目で協力的な子達ばかりだった
から、集合時間に遅れる子なんてほとんどいなかったもんね。佐富
君には吉祥院さんのおかげって、妙に感謝されたけど。
お菓子を食べ終わった梅若君達が、次の講義の内容について話始
めたので、私は森山さん達女子ふたりにリサーチをかけてみること
にした。やはり現役高校生の生の声というのは貴重な情報源だ。
﹁みなさん、デートするとしたらどこに行きますか?﹂
﹁えっ、吉祥院さんデートするの?なになに、彼氏できた?﹂
﹁いえ、私のことではないのだけど、今日ちょっとそんな話になっ
て⋮。ほら、森山さん彼氏ができたって言っていたでしょう?どん
なところにデートに行くのかなぁって﹂
1614
森山さんと榊さんは﹁そうだなぁ﹂と少し考えこんだ。
﹁やっぱお薦めは遊園地かな。高いからそんなに行けないけど、楽
しいし絶対に盛り上がる!﹂
﹁遊園地はハズレがないよね。ジェットコースター乗ってお化け屋
敷入って、で、最後は観覧車でしょ﹂
﹁そりゃあ、もちろん絶対乗るよ。夜景がキラキラしてて、きれい
なんだよねぇ﹂
﹁私も観覧車好き。フラッと観覧車だけ乗りに行くこともあるくら
い﹂
﹁わかる∼﹂
﹁観覧車⋮⋮﹂
⋮観覧車って、あれでしょ?天辺でカップルはキ、キスをするっ
ていう、噂のあれでしょ?
⋮⋮⋮⋮。
キャーッ!恥ずかしいっ。無理っ!私には絶対に無理っ!観覧車
に誘うのも、誘われるのも無理よぉっ!だってだって、観覧車に乗
るってことは、そういうことなんでしょ?なんという不埒っ!私達
はまだ高校生よ?!でもいつか、私も恋人に観覧車に誘われたら⋮。
うひゃああっ、どうしよ∼っ!こ∼ま∼る∼ぅ。
キス⋮キス⋮⋮。
﹁吉祥院さん、なんか目が怖いよ。どうしたの?﹂
﹁えっ!あら、ごめんなさい。最近少しドライアイ気味で、瞳孔が
開いちゃったわ﹂
いけない、いけない、興奮して瞬き忘れちゃったよ。
私が目薬を差している間にも、森山さん達のデート話は続く。
1615
﹁映画もたまに行くかな。それから彼氏がスポーツ好きだから、一
緒に公園でバスケしたり、バドミントンしたりしてよく遊んでる﹂
﹁公園いいよねぇ、安上がりで。私も前に庭園行ったことあるよ。
鯉に餌やってさぁ﹂
﹁なにその老いらくデート。でも大体は放課後、一緒に帰りながら
だらだらおしゃべりしてるのが多いかなぁ。これも一応デート?﹂
なに言ってんの、森山さん!立派なデートだよ!私の憧れ、放課
後の制服デート!
や、やっぱり手は繋ぐよね。制服の高校生がちょっと照れながら
手を繋ぐ⋮。キャーッ!いいなぁ、いいなぁ、憧れるなぁ。ううん、
私だっていつかは手繋ぎデートをしてみせる!あぁっ、でも私って
ば緊張すると手に汗かいちゃうんだった!彼女の手を握ったら湿り
手だったって、引いちゃうよね?!どうしよう、あらかじめ手をパ
タパタ振って乾かしておく?緊張をしないツボを押しまくる?手を
繋ぐのって、なんてハードルが高いの!
でもそれを乗り越えれば、制服で好きな人と手を繋ぎながら、観
覧車⋮。観覧車?!放課後に制服で観覧車?!
﹁吉祥院さん、またドライアイになってるみたいだけど⋮﹂
﹁えっ!あら、ごめんなさい。私に気にせず、どうぞ続けて?﹂
﹁眼科行ったほうがいいよ⋮﹂
いけない、いけない、興奮して目がギラギラしちゃったみたい。
私は目薬をボトボト差した。
﹁あとはカラオケ行ったり、ゲーセン行ったり、ファミレスで一緒
に勉強したりとか。でもこれは友達でも行くけど﹂
﹁えっ、男子の友達と遊びに行くの?﹂
﹁もちろん彼氏がいる時はふたりでは行かないよ。ほら、テスト明
1616
けなんかにクラス全員で打ち上げしたりするじゃん﹂
﹁あ∼、あるある。放課後に有志募ってボウリング行ったり、カラ
オケ大会したりね。この前ボウリングで組んだ男子がめちゃくちゃ
上手くて、私達のペアが優勝したんだよ。面白かった∼﹂
﹁ボーリングはよく行くよね。私のクラスでも4月に親睦会だ∼っ
とか言ってみんなでボウリング行ったよ﹂
﹁スコアの悪かったペアがみんなにジュース奢ったりね﹂
﹁そうそう!ペア決めの時、必ず張り切ってくじを作る奴がいたり﹂
﹁クラスに好きな人がいる子は、ペア決めで小細工するんだよね。
そこからいい感じになったりする子達もいるし﹂
なんと!よその共学ではそんな楽しいイベントが?!
当たり前のように話す森山さん達に私は目を見張らずにはいられ
ない。テスト明けの打ち上げ?!初耳だ。なぜうちの学校にはない
のか。瑞鸞という校風のせいか?なんということだ。私、今現在ま
女子
高等科だ。
で共学に通うメリットを全く活かせていない⋮。私の通うのは瑞鸞
学院
﹁吉祥院さんは瑞鸞の男子とはどんな所で遊ぶの?﹂
﹁えっ!﹂
一番聞かれたくない話を振られたーー!それを私に聞くか!塾に
は同じ瑞鸞生の多垣君もいるから、迂闊に嘘は言えない。でも恋愛
ぼっち村の村民、しかも村長だなんてことだけは、絶対に知られた
くないっ!彼氏どころか男友達もほとんどいない、女子校状態だな
んて絶対に、絶対に知られたくないっ!
﹁⋮そうねぇ、それぞれ習い事や予定があるので、特にみんなでど
こかへ遊びに出かけるということはあまりないかしら。個別に仲の
良い人の家に集まってゲームをしたり︵小学生のお誕生日会︶、た
1617
まに食事に行ったり︵麻央ちゃん、悠理君︶、休日にちょっと遠出
して水族館やショッピングに行ったり︵麻央ちゃん、悠理君、お兄
様に伊万里様︶。あぁそういえば、今日も同級生の男子に帰りにシ
ョッピングに付き合って欲しいって頼まれたけど︵スーパー︶、塾
があるから別の日にしてもらったの﹂
﹁へえ、瑞鸞の子達ってそんな感じなんだ∼﹂
嘘は言っていない。全員瑞鸞生だ。ただ相手が小学生だったり、
瑞鸞OBだったりするだけだ。少し話を脚色しているだけだ。嘘は
言っていない。
私は森山さん達の視線から逃れるように、講義のテキストをパラ
パラと捲った。
﹁やっぱり瑞鸞の男子は、放課後にゲーセンやカラオケなんて行か
ないんだろうねぇ﹂
﹁う∼ん、どうかしらね。他の人達は知らないけど、私の仲の良い
子達は行かないかな。でもさっきも言ったように、テレビゲームが
好きな男子︵雪野君︶がいるから、ゲームはその子の家でやること
はあるわよ︵お誕生日会︶。私はあまり得意ではないから、いつも
みんながやっているのを近くで見ているだけなんだけどね﹂
ひとつの出来事を膨らませるだけ膨らまし、広げるだけ広げて、
うす∼く伸ばして使い回す。嘘は言っていない。
﹁じゃあ、修学旅行はその男子達と回ったの?﹂
﹁ううん。修学旅行は、ほとんど女の子の友達と一緒だったわ。自
由時間に誘われて、パリでショッピングをしたり、ローマでティラ
ミスを食べに行ったりしたことくらいはあったけど﹂
瑞鸞に流れる私の噂を丸ごと投入。
1618
﹁え∼、なんだ吉祥院さんってあんまり男子の話しないけど、実は
男友達いっぱいいるんじゃ∼ん!﹂
﹁そんなことないわ。普通よ?﹂
今の話に出てきた男子の内、ふたりが小学生だけどね⋮。
嘘、大げさ、紛らわしいの団体が頭の隅をかすめる││。いやい
や、嘘は言っていない。嘘は言っていないけど⋮、自分で言ってて
切なくて涙がでそうだ。鼻の奥がツーンとするよ。
制服デートができるタイムリミットはすでに1年切っているって
いうのに、なにやってんだ私⋮。
帰りがけにこっそり梅若君にだけ、ベアトリーチェ用のブラシと
ありがとう麗華たん!
とお礼のメールが、当然可愛
ヘアアクセサリーのお土産を渡したら、夜
ベアたんもこれでパリジェンヌね!
いベアたん写メ付きで届いた。
そして律儀に別メールで届いた梅若君本人からのメールには、
最近、散歩中に俺のベアトリーチェに付き纏うオス犬がいて怒髪天
という、ライバル犬との三角関係の相談が綴られていた。
!しかもベアトリーチェもまんざらでもなさそうなのが腹立たしい
!
犬バカ君の入村の日も近いかもしれない││。日当たりの良い土
地を用意して待ってます。
1619
231
朝、学校に行くと芹香ちゃん達が難しい顔をして、なにやら話し
込んでいた。
﹁ごきげんよう。なにかあったのかしら?﹂
﹁ごきげんよう、麗華様。実は⋮、昨日の放課後、円城様を迎えに
きた車に、例の女性が乗っていたそうなんです﹂
﹁例の女性?﹂
﹁ほら、学園祭の時の﹂
﹁あぁ⋮﹂
私の頭に、儚げでゆらりと微笑む唯衣子さんの姿が浮かんだ。
昨日の放課後って、円城は鏑木と私と一緒にプティにいたよね。
確かあの時、途中で円城に電話がかかってきて、その電話を切っ掛
けに雪野君と帰って行ったけど、あっ!もしかして電話で話してい
た相手は唯衣子さんだったのか?!彼女が迎えに来たから、これ幸
いと私に厄介な親友の面倒を押し付けて、自分は恋人とデートに行
ったんだな。いや違う。初めからあの腹黒は単細胞を私に押し付け
るためにわざわざプティまでやってきたんじゃないか?なんて奴だ
!私があの後、どれだけ鏑木のネバーエンディング惚気を聞かされ
て、精神力を奪われたか⋮。これだから、恋愛謳歌村の連中は!平
気で我が村を虐げる!
﹁円城様は本当にあの女性とお付き合いされているのかしら﹂
﹁婚約者だという噂は本当なのかしら﹂
﹁円城様はただの親戚だとおっしゃっていたけど⋮﹂
﹁麗華様は円城様からなにか聞いていないんですか?﹂
1620
生憎情報はなにも持っていない。だって本人に根掘り葉掘り聞く
のもなんだかねぇ。そこまで親しくもないし。第一、私が興味津々
だと思われるのが物凄く癪だ。自分の村の恋愛畑が枯れ果てている
から、謳歌村の咲き誇る畑を羨んでいるなんて思われたら、村長の
プライドが許さない。みんなの﹁聞いてきて欲しい﹂という懇願も
拒否。私が目指しているのは瑞鸞の流行発信源であって、瑞鸞のゴ
シップ記者ではない!
しかし唯衣子さんの情報は、思わぬところからもたらされた。
それは昼休み、私がカロリーを意識してサラダ中心の食事をして
いた時のことだ。そうそう、私は昨日の夜から腕立て伏せを始めた。
それはもちろん、皇帝二の腕二度見事件の影響だ。実は昨日、森山
さん達にデートスポットの話を聞いた後、ダイエットについても聞
いたのだ。最初は﹁特になにもしていない﹂と言っていたけれど、
食い下がると﹁寝る前に腕立て、腹筋をちょっとやるくらいかなぁ﹂
という答えを得た。やっぱり、みんな裏でコツコツ努力してるんだ!
﹁腕立て伏せかぁ。私もやってみようかしら。最近少し二の腕が気
になって⋮﹂
と私がこぼすと、﹁え∼っ、吉祥院さんは痩せてるから気にしな
くて大丈夫だよぉ。ダイエットなんて必要ないよぉ﹂﹁吉祥院さん
は今が一番ちょうどいいよぉ﹂というお決まりの返しをもらったり
もしたが、そんな言葉はもちろん信用しない。久しぶりにやったら
20回で腕が攣りそうなくらい痛くなったけど、今度こそ頑張る。
あと1ヶ月で夏服だ。それまでにこの二の腕に取り憑いた悪魔を⋮!
﹁麗華さん、ごきげんよう﹂
1621
﹁あら、璃々奈﹂
食事を終えた璃々奈達が、私達の席にやってきた。
﹁どう?これ﹂
キラーンと璃々奈が腕を出して見せてきたのは、私が修学旅行の
お土産にあげた時計だ。わざわざ着けたところを見せにきたらしい。
﹁似合うわよ﹂
﹁ふふん﹂
この璃々奈の得意気な顔。女の子らしいデザインで、普段使いに
いいと思って璃々奈に選んできたけれど、どうやら気に入ったらし
い。
璃々奈と一緒にいた子達も﹁私達にもお土産をありがとうござい
ました﹂とお礼を言ってくれた。いいのよぉ、あれは今パリで評判
のショコラトリーの物で、日本未発売のおしゃれチョコなのよぉ、
ということをさりげなくアピール。ふっふっふっ、瑞鸞の流行発信
源への足場固め、草の根運動だ。
﹁もうっ、どんな人なのか気になってしょうがない!﹂
未だ円城と唯衣子さんの話を続けていた芹香ちゃん達が、焦れた
ように声をあげたのを見て、璃々奈が私に﹁なにを話していたの?﹂
と聞いてきた。
﹁円城様と噂になっている女性のことでね﹂
﹁あぁ、唯衣子さんのこと?﹂
﹁璃々奈も知っているの?﹂
1622
璃々奈の学年にも唯衣子さんの噂が伝わっているのか。さすがの
円城の人気ぶりだ。まぁ璃々奈の友達には情報通のメガネちゃんが
いるもんね。そんな軽い気持ちで聞いた私に璃々奈はさらっと爆弾
を落とした。
﹁知ってるわよ。だって私、唯衣子さんと小学校が一緒だったもの﹂
﹁えええっっ!﹂
思わず出た私達の驚愕の声に、食堂中の注目が集まった。まずい。
私達は慌てて体を小さくした。
璃々奈の家は少し遠くて、そこから瑞鸞に通ってくる生徒はあま
りいない。しかし璃々奈は母親が瑞鸞出身で、ピヴォワーヌOGで
もあったため昔から瑞鸞に憧れが強く、瑞鸞初等科への入学も本人
は熱望していたけれど、受験資格の通学時間制限に、泣く泣く小学
校は近くの名門女子校に通っていたのだ。
﹁璃々奈さん、あの人はどういう人なの!﹂
周りの目を気にしつつも興奮した芹香ちゃん達に小声で迫られ、
璃々奈は若干背中を反らせつつも、﹁私も詳しくは知らないけど﹂
と話し始めた。
﹁唯衣子さんは私の2つ上の先輩で、昔からおしとやかできれいな
人だったわよ﹂
まさかの年上かい!妙に余裕というか落ち着いた雰囲気だと思っ
ていたけど、1個とはいえ年上だったとは。高校生の分際で、年上
の女性と付き合うとはなんというポテンシャルの高さ。円城め、カ
サノヴァ村への正式入村も近いか?!
1623
﹁それとあの通り美人だからモテたわね。中学校の文化祭には唯衣
子さん目当ての男子生徒が大勢きたって小学校にも噂が流れてきた
し、下校時には学校の前に唯衣子さんを待つ取り巻きもいたくらい
よ﹂
﹁凄いわね﹂
﹁私も小学生の時に何回かお話したことがあるけど、優しくてたお
やかで、みんなの憧れの的だったわよ﹂
﹁ふ∼ん⋮﹂
﹁近隣の学校からは、勝手にミスの称号も付けられていたし﹂
﹁へぇ∼⋮﹂
芹香ちゃん達の声が段々勢いを失くし小さくなっていった。
﹁唯衣子さんを女神のように崇めている人もいたくらい﹂
﹁女神⋮﹂
みんながチラッと私を見た。えっ、なに?
﹁それだけモテて騒がれていると、普通は嫉妬して攻撃する人も出
てきたりするけど、不思議と唯衣子さんには誰もそんなことしなか
ったわね。あの折れそうで守ってあげたい雰囲気のせいかしら﹂
確かになぁ。芹香ちゃん達含め他の女子達も、鏑木と噂になって
いる若葉ちゃんの悪口や文句は公然と言うのに、唯衣子さんを表立
って批判する人ってほとんどいないんだよね。あの独特の雰囲気の
せいか。同じように、鏑木に会いに学院までやってきた舞浜恵麻に
は罵詈雑言の嵐だったのにね。そういえば最近舞浜さんを見かけな
いな。今度桜ちゃんに会った時に聞いてみよう。
1624
﹁美人で優しくてたおやかで、守ってあげたくなるタイプ、ねぇ﹂
﹁まぁ、麗華さんとは正反対のタイプよね﹂
なによ、それ。私が不器量で性格が悪くてひとりで生きていける
タイプだって言ってんの?失礼な!お土産にあげた時計返してよ!
ムッとした私の肩に、璃々奈が訳知り顔で手を置いた。
﹁大丈夫よ。麗華さんにも麗華さんなりにいいところはあるから﹂
璃々奈にだけは言われたくない!
私はその手を思いっ切り叩き落とした。
噂をすれば影。
食堂を出て教室へ戻る途中の廊下で、男子生徒と立ち話をする円
城がいた。あ、相手はアホウドリ桂木だ。あいつはうるさいから関
わりたくない。
そのまま無視して通り過ぎようと思ったのに、空気を読まない円
城に声をかけられた。
﹁吉祥院さん、昨日はどうもありがとう。帰ってからも雪野はずっ
と吉祥院さんからもらった本を熱心に読んでいたんだよ﹂
﹁そうですか。雪野君に喜んでもらえて、私も光栄ですわ﹂
うわ、アホウドリが睨んでる。別に全然怖くないけど。それより
も後ろから刺す芹香ちゃん達の期待のこもった視線の方が怖い⋮。
そして円城の微笑み⋮。その微笑みは、美人で優しくてたおやか
な年上彼女がいる余裕の笑みと感じるのは、私の僻みか。
1625
﹁今度また、雪野の相手をしてやってくれるかな。家にも遊びにき
て欲しいって言ってたよ﹂
家
という単語に芹香ちゃん達が色めき立ち、アホウドリの目
﹁まぁ、うふふ﹂
が更に厳しくなった。⋮こいつ、絶対に今の状況を楽しんでいるな。
私が困っているのをわかって、わざとやっているな。
家はご勘弁だよ、雪野君。君のお兄さんは私にとって鳩のような
存在なのだ。ええい、薔薇の棘でつついてやる!
私が笑ってごまかし、﹁あっ、そろそろ予鈴が⋮﹂というわかり
やすい逃走を図ると、後から追い掛けてきた芹香ちゃん達から不満
の声が洩れたが、誰が恋愛謳歌村の村民なんかと仲良くするもんか。
安易な合併にNO!恋愛ぼっち村は孤高を貫く!
なんだか疲れた⋮⋮。
それもこれも、全部あの鏑木と円城のせいだ。昨日から他人の恋
愛に振り回されっぱなしだ。いや、その前からか。はぁ⋮。
疲れた時には甘いものが一番。ダイエットは明日から。放課後の
部活動の前に、私はピヴォワーヌのサロンにお菓子を求めにやって
きた。
いつもの私の定位置のソファに座り、林檎のコンポートジュレを
いただく。おいしい。ジュレなら簡単だから、今度私も作ってみよ
うかな。そうだ。林檎なら水の代わりにシードルを入れてみたらど
うだろう。キリッとした大人の味になるんじゃないかな。試す価値
あり。
1626
﹁麗華様、ご一緒してよろしいですか?﹂
その声に顔をあげると、目の前に芙由子様が立っていた。おっと
りマイペースな芙由子様が自分から声をかけてくるなんて珍しいな。
私が﹁ええ、どうぞ﹂と応えると、芙由子様が心配そうな顔で私を
覗きこんだ。
﹁麗華様、なんだかお顔の色が冴えませんわね﹂
﹁そうかしら﹂
疲れが顔に出てるのかな。ジュレの他に焼き菓子も食べておこう
かな。
﹁そうだわ。私、良いものを持っていますの。修学旅行で本場のも
のを手に入れましたのよ﹂
﹁まぁ、なにかしら?アロマオイルか何か?﹂
これまた珍しくウキウキとした芙由子様がカバンから取り出した
のは、アルファベットと数字の書いたボードに、ハート型で真ん中
に穴の開いているコースターのような板だった。ボードの左右には
YES、NO。そうだった。芙由子様はそっちの世界の人だった。
どこかで見覚えのある形状に、なんだかとってもイヤな予感⋮⋮。
﹁⋮え∼っと、これは?﹂
﹁ウィジャボードですわ。これを使うと霊と交信することが出来る
んです。こうしてこのプランシェットをボードの上に置いて、それ
に手を添えて霊に問いかけると、霊が私達の手を借りてプランシェ
ットに降りて、答えをほら、このYESかNOで教えてくれるんで
す。こちらのアルファベットや数字で会話することも出来ますのよ﹂
1627
⋮うん、イヤな予感的中。それは間違いなく、こっくりさん。
芙由子様に恐る恐る﹁こっくりさんですよね⋮?﹂と聞いても、
﹁いいえ、ウィジャボードですわ﹂と否定される。でも芙由子様が
嬉々として説明してくれる使用方法を聞けば聞くほど、こっくりさ
んだった。芙由子様、顔は平安お公家顔なのにオカルトは西洋趣味
なのね⋮。
﹁なにか悩みごとがおありなのでしょう。さ、ご遠慮なさらないで﹂
いやいや、悩み相談なら生身の人間にするから!怖いよ。なんか
面白半分にやっちゃいけないらしいよ、そういうの!なんかね、悪
い霊が取り憑くらしいよ!
﹁あらやだ、もうこんな時間。ごめんなさい。私これから部活に行
かないといけなくて。では、ごきげんよう芙由子様﹂
私は焼き菓子を数個握りしめ、おほほほとまたもや笑顔で逃走し
た。
林檎のジュレで癒されたはずの疲労感が、再び背中に圧し掛かる。
もしやこの背中の重みは低級霊か⋮?!ぎゃあああっ!怖いーー!
私は誰もいない階段の踊り場で、背中をカバンでバシバシ叩いて
悪いモノを祓った。
1628
232
そうして部活に来たものの、最近羊毛フェルト熱が少し治まり、
これといって作りたいものがなかった私は、暇つぶしがてら部長と
して部員達の様子を見て回ることにした。私達3年生が修学旅行で
いない間も特に部活で問題はなかったようで、今日も部員達はのん
びり手芸を楽しんでいる。結構、結構。
部室の一角で新1年生のグループのひとつが、楽しそうにおしゃ
べりをしながら手芸をしていたので、私はそこに近づいて行った。
﹁ごきげんよう、みなさん。なにか困ったことなどはないかしら。
あったらいつでも部長の私に相談なさってね?﹂
﹁は、はいっ!﹂
出来るだけにこやかに、気さくに声を掛けたつもりだったけれど、
新1年生達は一斉に作業を止めて、若干怯えた様子で身を寄せ合っ
た。なんだかいたいけな子羊を追い立てる牧羊犬の気分だ⋮。
﹁まぁ、そんなに畏まらないで?私達は同じ手芸仲間なのですもの。
気楽になさって?﹂
﹁はい⋮っ﹂
入部して約1ヶ月。残念なことに、まだまだ新入部員達は私に対
して距離を縮めてはくれない。ほかの先輩にあたる部員達とは打ち
解けていっているみたいなのにな。親しみやすい部長を目指してい
るのに、これじゃいけない。私は牧羊犬じゃないよ∼、長毛種だけ
ど同じ仲間の子羊ちゃんだよ∼。
私が近くの椅子に座って長居をする意思を見せると、彼女達はあ
1629
からさまにギョッとした顔をした。うん、居座るよ。
笑顔を振りまきながら新入部員達の手元を覗きこみ、﹁みなさん、
どのような物を作っているのかしら?﹂と水を向けると、彼女達は
恐る恐るといった感じで、自分達の作品を見せてくれた。
﹁まぁ、これはキルトね。何に使うものかは決めていらっしゃるの
?﹂
﹁はい、クッションカバーを作りたいと思っています⋮﹂
﹁それは素敵ね!図案はこれ?とっても可愛いわ。出来上がりが楽
しみね。ぜひ頑張ってね。そちらのおふたりは刺繍?﹂
﹁はい⋮。あの、ブックカバーにクロスステッチをしています⋮﹂
﹁私もです⋮﹂
﹁手作りのブックカバーにステッチするのね。素敵ね!仲良くお揃
いにするのかしら?﹂
﹁いえ、私はこちらの図案を⋮﹂
﹁私はこっちを参考にしています⋮﹂
と言ってそれぞれが型紙を見せてくれた。おおっ、可愛い。クロ
スステッチなら比較的簡単だから、私でも出来るかなぁ。
﹁私もやってみようかしら﹂
﹁えっ、麗華先輩がですか?﹂
﹁ええ。おふたりの作品を見ていたら、私もクロスステッチで何か
作りたくなりましたわ﹂
﹁そうなんですか⋮。麗華先輩は確か普段は、羊毛フェルトがご専
門ですよね?﹂
﹁ご専門って程でもないのだけれど⋮﹂
暇つぶしとストレス解消に、フェルトにグサグサ針を刺している
だけだからね。
1630
﹁羊毛フェルトも楽しいのですけど、最近は違うものにも挑戦した
いと思っていますのよ。なにかお薦めはあるかしら?﹂
﹁お薦めですか⋮﹂
1年生達は互いに顔を見合わせた。するとキルトをしていた子が、
﹁ではタティングレースはどうですか?﹂と提案してくれた。
﹁こちらの名取さんはレース編みが得意で、今はタティングレース
をしているんです。ねっ、名取さん!﹂
﹁えっ?!﹂
﹁まぁ、そうなの?﹂
グループの中でも小柄で一番おとなしそうな女の子は、突然名指
しされおろおろと狼狽えた。なるほど。手にはタティングレースに
使う舟形のシャトルを持っている。
﹁名取さんはレース編みがお得意なの?﹂
﹁えっ、いえ、まだ全然得意では⋮、でもはい⋮、レース編みは、
好きです。あの、祖母に教えてもらって⋮、今まではずっとかぎ針
だったんですけど、南先輩に、レース編みが好きなら、かぎ針だけ
じゃなく他の編み方にも挑戦してみたらって言われて、タティング
レースの編み方を教えてもらったんです﹂
﹁まぁ!南君に﹂
2年生で唯一の男子部員、南君は刺繍だけではなくレース編みに
も精通しているとは!後輩の面倒もよく見てあげているようだし、
手芸の腕も抜群。これは来期の手芸部部長に南君は最有力候補かも
!あとで副部長に相談してみよう。
1631
﹁ではせっかくですから教えていただこうかしら﹂
﹁そんな!私が麗華先輩にお教えすることなんて⋮!﹂
名取さんは完全に恐縮してしまっているけど、構わず余ったシャ
トルと糸をスタンバイ。部長として、新入部員達との交流は大事だ
からね。
﹁名取さんは何を編んでいらっしゃるの?﹂
﹁私は今、ビーズレースで飼い犬の髪飾りを作っています⋮﹂
﹁まぁ、髪飾り?!﹂
名取さんが見せてくれたのは、ビーズをレース糸で編み込んだ小
さな五弁の花。その花をたくさん合わせて髪飾りに仕上げるらしい。
﹁可愛いわねぇ。ぜひ私もこのお花作りに協力したいわ!﹂
﹁ええっ?!﹂
レース編みというと、あのおかんアートの代表格ともいえる、使
い道に困る白い敷物が思い浮かぶけど、図案に載っているビーズを
編み込んで作るアクセサリーはとても可愛い。手作りの犬の髪飾り
かぁ。梅若君に話したら自分もやると言い出しかねないな。
動揺する名取さんをなだめすかし、私はタティングレースの編み
方を教わった。要は編む道具がかぎ針かシャトルかの違いでしょ。
かぎ針編みは編みぐるみでやったことがあるし、なんとかなるさ。
余裕、余裕。
││なんて甘い考えで始めたら、めちゃくちゃ難しかった⋮⋮。
レース編みは糸が細いから失敗した時にほどくのも一苦労。これは
大変だ。でも名取さんが一生懸命教えてくれるから、途中で投げ出
すわけにはいかない。おっと編み目飛ばした、やり直し!
私は必死にレース糸と格闘しながら、﹁もう高等科は慣れました
1632
?﹂とみんなに聞いた。
﹁手芸以外でも、学院で困ったことなどがあったら、気軽に相談な
さってね?﹂
むしろ手芸以外でお願いしたい。
すると先程タティングレースを紹介してくれた子が、﹁ねぇ、名
取さん。せっかくだから麗華先輩に相談してみたら⋮?﹂と言った。
﹁あら名取さん、なにか悩みごとがあるのかしら?私にできること
なら力になりますけど﹂
﹁いえ⋮、あの⋮﹂
名取さんが困ったように目線を下げ、言おうか言うまいか悩む仕
草をしていると、隣にいた子が代わりに﹁実は、名取さんはクラス
に馴染めなくて悩んでいるんです﹂と私に言ってきた。
﹁馴染めないって、まさかいじめられているの?!﹂
だとするならば由々しき事態だ。部長として大切な部員がいじめ
られているのを黙って見過ごすわけにはいかない。この私が教室に
乗り込んで、ガツンとやってやろうじゃないの!まずは私の可愛い
後輩をいじめた、首謀者の首を討ち取ってやるわ!
私が鼻息荒く心の中で出陣のほら貝を吹いていると、不穏な気配
を察知したのか、名取さんや他の子達が﹁違います!いじめられて
はいません!﹂と慌てて否定してきた。あら、そう?なんだったら
闇討ちという手もあるけど?
そうして説明された話によると。名取さんは高等科からの外部生
なのに、運悪く入学早々季節遅れのインフルエンザに罹ってしまい、
外部生が親睦を深める遠足やその余興の練習も欠席するはめになっ
1633
てしまったそうだ。そしてやっと登校できた時には、クラスでは遠
足をきっかけに仲良くなった新しいグループが出来上がっていて、
輪に入りづらくなってしまったらしい。
せめて同じ手芸部員の子がクラスにいてくれれば良かったんだけ
ど、今年は手芸部に新入部員が多く入ってくれたにも関わらず、名
取さんのクラスからの入部者は彼女ひとりだけだったというのも、
これまた運が悪い。
﹁お昼は手芸部のお友達と一緒に食べているから平気なんですけど、
休み時間にひとりで席に座っているのがつらくて⋮﹂
﹁それは確かにつらいわねぇ﹂
﹁それに⋮、ひとりでいると、周りからどう思われているのか、気
になるといいますか⋮﹂
﹁あぁ∼﹂
教室でひとりポツンとしていると、あの子友達がいないんじゃな
いか、嫌われているんじゃないか、いじめられているんじゃないか
って周りに思われているかもって、気になるのよねぇ。
﹁わかりますわ﹂
私が腕を組んでうんうんと頷くと、名取さん達はびっくりした顔
をした。私とは縁のない話だと思った?
でも私だってこれでも毎年クラス替えの度にドキドキしているの
だ。初等科から瑞鸞に通っているおかげで、仲のいい子が大勢いる
分、友達と同じクラスになれる確率は高いけど、それでも万が一誰
もいなかったらどうしよう、同じクラスに友達が誰もいなくて、し
かも蔓花グループが固まっているクラスだったりしたらどうしよう
って、毎回不安に駆られているもん。みんなそんなものだよ。
名取さんの隣の子が、慰めるように彼女の背中を擦りながら﹁麗
1634
華先輩、どうしたらいいと思いますか?﹂と聞いてきた。
﹁そうねぇ⋮﹂
一番の解決法は、自分から積極的に話しかけていければいいんだ
けど、それが出来ないから悩んでいるんだもんね。そうだなぁ、ま
ずは休み時間の過ごし方か⋮。
私は前世でクラスの子に無視されていた時の記憶を思い出した。
﹁そういう時は本を読むといいんじゃないかしら﹂
﹁本、ですか?﹂
﹁ええ。本を読んでいれば、自分は友達がいなくて孤立しているの
ではなく、本を読んでいるから輪に敢えて入らないのだという演出
ができるじゃない。時間潰しにもなるし。携帯もいいのですけど、
休み時間に毎回ひとりでずっと携帯をいじっていると、依存症だと
思われてしまう可能性があるから、ここはやはり本で﹂
﹁はあ⋮﹂
私の時は、なぜか妹が持っていた日本全国の心霊スポットの本を
持っていったんだっけ。なんであの時の私は数ある本の中でそれを
チョイスしたんだかわからないけど。でもこれが思いのほか面白く
て、休み時間になると熱心に読みふけっていたら、そのタイトルに
興味を持った子達が面白そう、一緒に見せてと近づいてきてくれる
ようになったんだよね。あれでなんとなく私の無視も終わったんだ
よなぁ。心霊スポット様様だ。あ、それとも私が物騒な本を読んで
いたから、怖くなって無視をやめたんだったりしてね?
﹁出来ればクラスの子と親しくなりたいのよね?でしたらベストセ
ラー小説をカバーをせずに読んでいたら、それに興味を持った子が
話しかけてくるかもしれないわ﹂
1635
さすがに心霊スポット本は勧められないから、それ以外で興味を
引ける本を紹介する。
﹁わかりました。明日から本を持ってくることにします﹂
素直な名取さんに気を良くした私は、次々に提案を出した。
﹁それと小物に凝るのもいいわよ。可愛いデザインのペンやポーチ
とか。私はこういった物が好きな子ですよっていう自己紹介になる
から、同じ趣味の子が釣れるかもしれないわ。あとはそうねぇ、手
なに作っているの?
って話
芸をしていてもいいわね。手芸部員ですってアピールになるし、手
芸が好きな子や、興味を持った子が
しかけやすいもの﹂
上手くすれば手芸部に新たな入部希望者が増える可能性もあるか
もしれないし?!
﹁わかりました。それも明日から頑張ってやってみます!﹂
名取さんはシャトルを持った手をグッと握りしめた。うんうん、
頑張って!
﹁でもまさか麗華先輩から、こんな細かい具体的なアドバイスが出
るとは思いませんでした﹂
﹁ねぇ﹂
﹁ふふっ、参考になれば嬉しいわ﹂
自分から話しかけられないのなら、相手が食いつく餌をたくさん
仕込まないとねぇ。名付けて食虫植物戦法。
1636
ほかにもみんなが興味のある話題を提供できるのもポイント高い
よね。そう思った私は﹁1年生のみなさんが興味を持っている話題
ってなにかしら﹂と聞いた。
﹁興味ですか?そうですねぇ。やはり今は入学したばかりなので、
学院内の情報交換が多いですね﹂
﹁まだわからないことがいっぱいなので﹂
﹁そうそう。特にピヴォ⋮あっ!﹂
ん?なになに。慌てて口を噤んだけど、ピヴォって聞こえたよね。
﹁もしかしてピヴォワーヌ?﹂
﹁あ⋮っ、はいっ。すみませんっ﹂
﹁別に謝らなくてもよろしくてよ。みなさんピヴォワーヌに興味が
おありなのかしら﹂
﹁⋮はい﹂
全員が小さく頷いた。なるほど。一般の生徒からしたら謎の組織
だもんな。だったらこれは友達作りの餌としてはかなり使えるんじ
ゃないか?
﹁実は私もこう見えて一応そのピヴォワーヌのメンバーですのよ!﹂
﹁⋮もちろん知っています﹂
﹁⋮誰よりも有名です﹂
﹁⋮むしろ知らない人はいません﹂
あら、そう?
気を取り直し、
﹁ピヴォワーヌのどんなことをお知りになりたいのかしら。メンバ
1637
ーの個人情報はお教えできませんけど、それ以外で問題のない範囲
でしたらお話しましてよ﹂
そう言うと、1年生達はわあっと歓声をあげて喜んでくれた。
手芸をしながらサロンの様子や当たり障りのないピヴォワーヌ情
報を話すと、みんなは目を輝かせて聞いてくれた。これで名取さん
に撒き餌がまたひとつ増えたかな?
そうして話す中でも、やっぱりみんなの一番の興味の中心は鏑木
と円城。
﹁あまりに大人っぽくてキラキラしてて、世の中にはあんな人達も
いるんだなぁって、びっくりしてしまいました﹂
﹁雲の上の存在って、ああいった方々を言うのでしょうねぇ﹂
﹁鏑木様はまさに瑞鸞の皇帝の名にふさわしい風格を備えた方です
し﹂
1年生達は宙を見つめながらうっとりとする。
そうだね、皇帝は遠くから見ているぶんにはクール&クレバーキ
ャラだものね。憧れちゃうよね。でも実際の中身は、気配り、常識、
デリカシーの欠けた残念坊ちゃんなんだけどね。そしてそのあだ名
の由来は初等科時代の騎馬戦だけどね。
でも夢を壊すのも可哀想なので、皇帝は乗馬がご趣味よと言って
おく。
﹁そうだわ。先程ピヴォワーヌのサロンから焼き菓子をもらってき
ましたの。みなさんで一緒に食べましょうよ!﹂
ピヴォワーヌのお菓子を食べたっていうのも、話題作りにならな
いかしら?
お菓子を取り出そうとカバンを開けると、底のほうで何かが小さ
1638
く動いている気配がした。携帯か。
どうやらさっき背中に憑いたモノをカバンで自己祓いした時に、
携帯が奥に入り込んでしまっていたらしい。おかげで全然気づかな
かったな。
取り出して着信を見る。ずらりと並ぶ送信者の名前は、鏑木雅哉。
話があるから、いつもの小会議室に来い
まだ来ないのか?
遅い。何をしている
今すぐ連絡をしろ
どこにいる
部室に迎えに行く
もうすぐ着く
いやぁぁぁぁっ!メリーさん!!
私が呪いの携帯を机に放り投げて立ち上がると同時に、部室のド
アがバンッ!と音を立てて開いた。
﹁吉祥院!いつまで待たせる気だ!﹂
平和な子羊ちゃんの群れに、獰猛な黒い肉食獣が現れたーーっ!
!
1639
233
子羊ちゃん達がのんびりと草を食んで日向ぼっこをしているよう
な牧歌的な空間に、突如現れた恐ろしき漆黒の猛獣メリーさん││。
その黒豹の射殺すような鋭い眼光の前では、外敵から子羊を守る
べき立場であるはずの牧羊犬の私も、尻尾を丸めて為す術なし。い
や、そもそも私もか弱い子羊ちゃんの仲間ですし?
そんな人畜無害な子羊ちゃんの群れ改め手芸部員達は、突然の瑞
鸞の皇帝の来臨に、恐れ戦き、慌てふためいた。さっきまで憧れの
眼差しで皇帝を語っていた新入部員達は、目と口を開けたまま石化
している。
﹁吉祥院!メールを無視するなと昨日も言っただろう!﹂
私の姿を見つけた鏑木の怒鳴り声に、部員達が全員ビクッと大き
く震えた。
﹁これはこれは鏑木様、手芸部へようこそ。メールの件ですが、着
信にたった今気づいたばかりだったものですから、大変失礼いたし
ました﹂
震える子羊ちゃん達を庇うように、私は口角を引き攣らせながら
笑顔で応えた。
﹁毎回毎回、なんの為の携帯だと言わせるんだ﹂
それはこっちの台詞だ。毎回毎回、相手の都合を考えろと言わせ
るな。
1640
﹁行くぞ﹂と当然のように顎で私に指図する鏑木に、私はとても済
まなそうな顔を作って頭を下げた。
﹁ここまでわざわざ出向いていただいて恐縮ですが、生憎、私は今
手芸をしている最中ですので、鏑木様とご一緒できそうにはありま
せんわ﹂
﹁⋮手芸?﹂
﹁ええ。見ておわかりになる通りここは手芸部で、私は部活動をし
ておりますの。それに私はこの部の部長ですから、途中で勝手に抜
けるわけには参りません﹂
どうだ。いつもいつも皇帝の思い通りになると思ったら大間違い
だ。世界は自分中心に回っていると思うなよ!
しかし味方が私を裏切った。
﹁麗華様。鏑木様とご用事があるのでしたら、行って差し上げた方
がよろしいのではないでしょうか?手芸部は私達があとを引き受け
ますから﹂
副部長が私を売った。
そしてその副部長の発言に、みんなが﹁そうですとも﹂﹁ご遠慮
なさらないで﹂と同調する。厄介払いしたいという心の声がひしひ
しと伝わる⋮。普段周りを取り囲む取り巻き達がいない今こそ、皇
帝に近づく千載一遇のチャンスのはずなのに、それよりも平穏な学
院生活を望む手芸部員達。しかし譲らん。
﹁いいえ。私もまだ作業の途中ですから、それを放り投げては行け
ませんわ。申し訳ございません、鏑木様﹂
ふふん、どうだ。私は鏑木にタティングレースのシャトルを印籠
1641
のように見せつけた。
﹁なんの作業だ﹂
﹁後輩が愛犬に手作りの髪飾りを、ビーズとレース編みで作ってあ
げたいと言うことなので、そのお手伝いをしていますのよ﹂
さりげなく後輩に慕われている私をアピール。ほっほっほっ。
﹁犬の髪飾り⋮?﹂
すると、鏑木は目を眇めたまま大股でこちらにやってきた。それ
に動揺した1年生達はガタガタと椅子を倒し、チャコペンが音を立
てて床に転がった。
﹁⋮どれ?﹂
﹁は?﹂
問いの意味が理解できなかった私に、鏑木はますます不機嫌そう
な空気を出すと、作業机に目をやった。
そして机の上に置いてあった名取さんが編んだビーズを手に取り、
その髪飾りの編み図をしばらく目で追うように見て﹁ふん﹂と鼻を
鳴らすと、先程まで私が座っていた椅子にドカッと座った。
﹁貸せ﹂
﹁は?﹂
私に向かって手を出す鏑木。まさかこいつ⋮と思っていると、焦
れた鏑木は私の手からシャトルを取り上げ、長い脚を気だるそうに
組むと、悠然とビーズレースを編み出した!
瑞鸞の皇帝がレース編み。あまりの非現実的な光景に、部室は水
1642
を打ったような静けさとなり、チッチッチッと時計の音だけが大き
く響いた。
﹁お前、ここ編み目がおかしいぞ﹂
﹁⋮そこはもう、やり直すのが大変だからそのままでいいんですよ﹂
﹁チッ、なんだよ、これ。ここのとこ糸が絡まってる﹂
﹁⋮どうもすみません﹂
全部員に知れ渡る、部長の不器用の数々。なんという屈辱!私は
恥ずかしさに震えた。許すまじ。
私は目力で怨敵のつむじに圧力をかけた。開け、サードアイ!鏑
木め、自室とトイレを往復し、くだしの苦しみにのたうちまわるが
いい!
すると、不穏な気配を察知した鏑木が、斜め後ろに立つ私をパッ
と振り返った。
﹁⋮なんだ﹂
﹁いえ、なにも?﹂
サードアイ終了。
鏑木は絡まったレース糸も難なく解し、スルスルとタティングレ
ースを編んでいく。コツを掴んだのか、もう編み図を見る様子もな
い。
﹁お上手ですね⋮。もしやレース編みのご経験が?﹂
﹁あるわけないだろう。説明書き通りにやっていけば、こんなもの
誰にでも出来る﹂
さっきまでの私の苦労を一刀両断された。ムカつく。開け、サー
ドアイ⋮。わっ、睨まれた。なぜ気づく。
1643
﹁吉祥院﹂
﹁はい⋮﹂
﹁俺の後ろに立つな﹂
あんたはどこの殺し屋だ。
そして全員が皇帝の一挙手一投足を固唾を飲んで見守る中、鏑木
が小さく息を吐いて手元から顔を上げた。
﹁出来たぞ﹂
迷いのない動作で編み上げた小さな花型のビーズレース。放り投
げるように渡してきたそれを私は受け取って、出来栄えをチェック
した。完璧だった。
手芸部員達からも﹁この短時間で⋮﹂﹁さすが鏑木様だわ﹂と感
嘆の声が聞こえた。悔しいが、私が途中までやったのより、ずっと
綺麗に出来ている。
私は名取さんの手を取ると、その手のひらに﹁どうぞ﹂とビーズ
細工を乗せた。
﹁えっ⋮!﹂
名取さんは目を見開き、嘘でしょう?!といった半泣きの表情で、
私に向かって現実逃避するように頭を横に振ってくるが、それは貴
女のものよ、受け取りなさいと、私も慈愛の笑みで首を振る。
そんな私達の無言のやり取りを見ていた鏑木が、名取さんの手に
乗ったビーズレースを取り上げた。そしておもむろに一部分を指差
すと、
﹁この、糸が歪んで編み目が飛んでいる部分はこいつだから﹂
1644
と、私を親指で指差し、部長としての面目を木っ端微塵に打ち砕
く指摘をしてくれた。絶対に許すまじ⋮!私は後で、鏑木の靴の中
に極小のビーズを一粒落とす決意をする。歩く度に足の裏の不快感
に苦しむがいい!
皇帝より下賜されたビーズレースを、震える手で恭しく受け取る
名取さん。瑞鸞の皇帝が編んだビーズレースを手中にし、皇帝直々
にお声まで掛けられた名取さんは、ヘタな小細工をせずとももう、
明日からクラスの話題の中心人物になることであろう││。
﹁さぁ、今日こそスーパーに行くぞ﹂
結局鏑木と共に部室を去ることになった私は、周囲に誰もいない
ことを確認すると、にっこり微笑んで反撃に出た。
﹁私にも都合があると、何度申し上げたらご理解いただけるのでし
ょうか。今日もこの後予定が詰まっておりますから、無理です﹂
﹁なんだ。今日も塾とか言うつもりじゃないだろうな﹂
﹁いいえ。今日は家庭教師の方がみえる日です﹂
なによ、その目は。あんたこそ遊んでばっかりいないで勉強しな
よ。中間テストはもう間近だよ。
私はカバンから昨日の内にネットからプリントアウトしておいた、
数店舗のスーパーのチラシを出した。
﹁どうぞ﹂
﹁⋮これは?﹂
1645
﹁スーパーのチラシですわ。これで大体の傾向がわかりますでしょ。
さ、これを持って帰って、予習なさってくださいませ﹂
私からチラシを受け取った鏑木は、興味深そうにそれを読み始め
た。﹁お肉の日⋮、魚の日⋮?﹂などという独り言も聞こえる。よ
しよし。チラシに気が逸れている今の内に﹁では私はこれで﹂と立
ち去ろうとすると、鏑木がボソッと呟いた。
﹁⋮さっき、お前のカバンの中に焼き菓子が見えた﹂
私はその場に固まった。
﹁あれはピヴォワーヌの茶菓子だよな﹂
﹁⋮⋮﹂
別にサロンのお菓子を持って帰ってはいけないという規則はない。
ないのだけれど⋮。後ろめたい。
﹁吉祥院﹂
﹁⋮鏑木様、ぜひお供させていただきますわ﹂
鏑木ピヴォワーヌ会長は、にやりと笑った。
憎い。己の食い意地が憎いっ!なぜ持って帰ってきてしまった、
私!そしてなぜそれを鏑木に見られるようなヘマをした、私!
私はこの言いようもない敗北感をどうにか胸に納めると、気持ち
を切り替え、鏑木を連れて行くスーパーについて考えた。やっぱり
広尾や青山辺りの高級スーパーがまずは妥当かな。だけどあの辺の
街は、私達を知っている人の目があちこちにありそうだからな∼。
﹁どうした?﹂
1646
﹁いえ、どこのお店に行こうかと⋮﹂
日替わり超特価!
冷凍食品半額!
すると鏑木は私が渡したチラシの中から、﹁ここがいい﹂と1枚
選んで見せてきた。それは
などの文字が踊る、およそ鏑木とは縁のない家計に優しい庶民派
スーパーだった。
﹁ちなみにどうしてこのお店を選ばれたのでしょう?﹂
﹁数あるチラシの中で、ここが一番売ってやろうというやる気に満
ち溢れているから﹂
﹁なるほど﹂
このスーパーで、知り合いに絶対に見つかりそうもない遠く離れ
た店舗はどこかなぁ。あ∼あ、面倒くさいなぁ⋮。
﹁あ∼あ⋮﹂
﹁なんだよ﹂
思わず出てしまった心の声を、鏑木に聞き咎められてしまった。
﹁いえ⋮。そういえば、よく私が手芸部にいることがわかりました
ね﹂
﹁あぁ、サロンに居たお前の友達に聞いた﹂
﹁友達?﹂
う∼んと考える。あ、もしかして芙由子様か?
﹁さっきまで一緒にいたけど、吉祥院は部活に行ったと教えてくれ
たぞ。部活は手芸部で部室の場所もな﹂
1647
芙由子様、余計なことを⋮。
でも芙由子様って、私が手芸部だって知っていたのね。同じグル
ープだけど芙由子様は浮世離れして、あまり特定の子と仲良くして
いるのも見たことがなかったから、私を含め、あまりみんなに興味
がないんだと思ってた。
そこでふと、さっきの名取さんの話を思い出した。芙由子様はピ
ヴォワーヌのメンバーで、初等科からの内部生で、一応私達の最大
派閥に所属しているしで、名取さんとは全く置かれた立場は違うけ
ど⋮。
私に悩みごとがあるんじゃないかと、話しかけてきた芙由子様。
一緒にヴィジャボードをしましょうと楽しそうに言ってきた芙由子
様。
いつもグループの輪にはいるけど、自分からは話を振らず、おっ
とり微笑んでいるだけだから、そういう人なんだと思っていたけど、
本当はもっとみんなと話したいと思っているのにタイミングが掴め
ないだけだったりしたりして。さっきも私と仲良くしたいと思って、
頑張って話しかけてきてくれたのだったりして。私の勝手な想像だ
けど。
でもだとしたらさっきの私の逃げるような態度は冷たかったな。
﹁どうした?﹂
﹁いえ⋮﹂
明日、芙由子様に話しかけてみようかな。⋮オカルト以外の方向
で。
﹁おい吉祥院!時間がない。ほら早く行くぞ!﹂
﹁は∼い⋮﹂
﹁なんだ、その気のない返事は!覇気を持て!﹂
1648
まずはこの、目の前の問題を片付けないと。
1649
234
鏑木のリクエストした庶民派スーパーで、できるだけ瑞鸞から遠
い場所にある、知り合いのいないであろう店舗に私達はやってきた。
自動ドアの脇にある買い物かごを持って店内に入ると、鏑木は他
のお客さんと私を見比べて、﹁あれは使わないのか?﹂とカートを
指差した。
﹁大きくてかさばる物も、量も買わないので必要ありません﹂
﹁ふぅん⋮﹂
顔は無表情ながら、声がどことなく不満気だ。カートを使いたか
ったか。子供め。カートを押すお客を横目で追うな。
﹁ではまず、食品コーナーへ行きましょう﹂
私はスーパーのメインスポットへと案内した。
﹁ほら、見てください。飲み物もコンビニで買うよりもお安いでし
ょう?お菓子などもスーパーのほうが断然お得なんですよ﹂
﹁ふぅん﹂
商品の値札を指差して説明するも、鏑木はピンときていない様子。
⋮さてはこいつ、値札を気にして買い物をしたことがないな。
﹁新発売の野菜ジュースで∼す。一口いかがですか∼﹂
ぬっと横から小さなプラスティックのコップが、鏑木の目の前に
1650
差し出された。鏑木は突然現れて声を掛けてきたお姉さんに対し、
なんだこいつはといった表情で眉間にシワを寄せた。まずい⋮。
私は鏑木を肘でぐいっと押しのけると、﹁わぁ、おいしそ∼﹂と
試飲コップを受け取ってジュースを飲んだ。そしてサクラよろしく
﹁飲みやすくて、おいしかったですぅ。全然苦味がな∼い﹂と言っ
て、その野菜ジュースを1本かごに入れ、鏑木を引っ張りながら笑
顔でその場を立ち去った。
﹁⋮今のはなんだったんだ?﹂
﹁商品の実演販売ですわ。ああやって試飲や試食をしてもらって、
商品を買ってもらうお仕事なんです。だからいきなり声を掛けられ
たからって、不愉快そうな態度を取らないこと!﹂
﹁ふぅん﹂
わかってんのか、ほんとに。おかげで欲しくもない野菜ジュース
を買う羽目になったというのに。
おや、なんかソースの焼けるいい匂いがする。本当は今日の夜食
にお惣菜も買って帰りたいけど、鏑木が一緒だから買えないなぁ。
あ∼、焼きそばおいしそうだな。部屋に自分用の電子レンジ買っち
ゃおうかな。でもお嬢様の部屋に電子レンジって、おかしいよねぇ。
って、鏑木!
鏑木は物珍しげにあっちへふらふら、こっちへふらふらするから
目が離せん!
慌てて後を追いかけると、鏑木はハムステーキの実演販売に捕ま
っていた。この辺の下町じゃお目にかかれないような凛々しい美貌
の男子高校生に、販売員のおばちゃんは﹁お兄さん、食べて食べて
!﹂と焼き上がったハムをすべてくれそうな勢いだ。
﹁このハムステーキは特製のタレで下味がついているから、こうや
って焼いても、そのままでも食べられるの﹂
1651
﹁ふぅん﹂
あ、食べちゃった⋮。
﹁どう、お兄さん?おいしいでしょ∼﹂
﹁⋮まぁまぁだな﹂
ううっ、試食しておきながら買わずに立ち去ることはできないっ。
おばちゃんの口車に乗せられ、まんまと食べちゃった鏑木の代わり
に、私は真空パックの焙りハムステーキをかごに入れた。せめて私
もひとつ試食を⋮。
それからも鏑木は季節限定ジャムの販売に呼び止められ、腸まで
届く新商品ヨーグルトに呼び止められ、焼き立てのガーリックパン
に呼び止められ、その度に私の買い物かごに余計な商品がどんどん
増えていった。
﹁実演販売か。こんなのもあるんだな﹂
鏑木がガーリックパンを咀嚼しながら、感心したように洩らした。
﹁実演販売なんて別にスーパーだけではなく、デパ地下でもやって
いるではありませんか﹂
特に珍しいものでもあるまいとポロッと言った一言に、鏑木は﹁
デパ地下⋮﹂と引っかかった。あ、しまった⋮。
﹁よし。では今度はそのデパ地下に⋮﹂
﹁ほら!あちらがお菓子コーナーですわよ∼。鏑木様のお好きなチ
ョコもありますよ∼﹂
1652
私は鏑木の腕をぐいぐい引っ張って、言葉を遮った。冗談じゃな
い。皆まで言わすもんか!
せっかくだからお菓子買って帰ろうかなぁ。あっ、ラッキーター
ンが特売してる!私は本日限りの特売お菓子に飛びついた。かごに
二袋入れる。
﹁ふたつも買うのか?﹂
﹁この値段は私の知る限り、底値に近いです。買い溜めしておかな
くては﹂
もう一袋買っちゃう?おっと、揚げせんべいも安いじゃないか。
これも買いだな。クリームサンドクッキー、おいしいよねぇ。ココ
アのほろ苦いクッキーが牛乳に合う!よし、買い!
﹁⋮手慣れているな。よく来ているのか﹂
﹁ええ。市場調査の勉強の為に。私は現場主義ですの﹂
私が他のお菓子もあれこれ物色していると、鏑木が無言でスッと
私の持つ買い物かごを取り上げた。
﹁え⋮?﹂
﹁持つよ﹂
皇帝が人の荷物を持つことを覚えた!
あの気配りを知らない鏑木が、か弱い女の子︵私だ︶を平気でパ
シリに使う鏑木が、私が重いかごを持っていることに気がつき、代
わりに持つ日が来ようとは!人間って成長する生き物なのね∼。で
も本来なら、お店に入った時に持つべきだったんだけどね∼。
不肖の弟子の成長に感慨にふける私を置いて、買い物かごを持っ
た鏑木はどんどん先に歩いて行く。
1653
わぁっ!鏑木が目についた品物をポイポイとかごに放り込んでい
る!魚の形のキッチンスポンジなんて、あんた皿洗いしないでしょ
うが!麻婆豆腐の素なんて買ってどうする気だ!今入れたもの、全
部元の棚に戻してこいっ!だからカートは、いらん!
私は鏑木から買い物かごを奪い返した。
﹁あれは?﹂
カップ麺のコーナーか。
私は値札を見て、そこを素通りする。カップ麺の底値はここじゃ
ない。
続いて人が集まる生鮮食品コーナーに鏑木が引き寄せられて行く
と、そこではメロンの試食をやっていた。試食メロンに群がる主婦
達の後ろに立つ美青年を目敏く見つけたおばちゃん販売員が、﹁イ
ケメンのお兄さん、おひとつどうぞ∼﹂と、鏑木に楊枝に刺さった
メロンを手渡した。またか⋮。私はすでに諦めの境地だ。
﹁見たことのないメロンだ﹂
鏑木は山と積まれたメロンを確認しながら呟いた。
作って安心、売って安心、買って安心、安心ですメロ
の、アンデスメロンです﹂
﹁それは、
ン
﹁ほぉ﹂
私の説明に頷きながら、キング・オブ・カモ鏑木は、庶民の味方
の低価格メロンを口に入れた。
私はため息をつきながら、またもや食べちゃった鏑木の代わりに、
一口サイズに切られたメロンを1パック買い物かごに入れた。あぁ、
生ものは今日中に食べないと⋮。
1654
店内を一通り見回り、鏑木が満足したところでお会計に行く。予
想以上に買っちゃったなぁ⋮。
レジの順番待ちの間に私がお財布からポイントカードを出すと、
鏑木が﹁それは?﹂と聞いてきた。
﹁このスーパーのポイントカードです。100円で1ポイントつく
んですよ。たまにポイント5倍デーなどもあるんです﹂
﹁ふぅん﹂
私達の番になり、私がお金を出そうとすると、横から鏑木が﹁い
い﹂と言った。
﹁俺が出す﹂
﹁そうですか?では後で清算しましょう﹂
﹁いらない﹂
﹁えっ、でも⋮﹂
﹁今日はここまで付き合ってもらったからな﹂
鏑木がフッと笑った。それを見たレジのお姉さん、ポッ。
引く気はなさそうだったので、それでは今回はありがたくおごっ
てもらうことにする。
﹁だから、これくれ﹂
それは私のラッキーターン!そういうことは先に言って!
商品の入ったかごをカウンターに運び、私はレジ袋に詰めていく。
﹁自分で袋に入れるのか?﹂
﹁そうですよ。レジの回転率を上げるため、こういったスーパーで
は袋詰めはセルフなんです﹂
1655
﹁ふぅん﹂
しばらく私の作業を見ていた鏑木が、﹁俺がやる﹂と言い出した。
幼稚園のお店屋さんごっこ気分か?
鏑木は私が適当にレジ袋に入れた商品をすべて出すと、意外にも
几帳面に重い物は下に、柔らかい物は上にときれいに詰めていった。
﹁丁寧ですね∼﹂
﹁お前が雑すぎるんだ。見ろ、パンが少し潰れている﹂
﹁⋮⋮﹂
鏑木は私が自分用にと選んだスナック菓子の大半を自分の物とし
た。ちょっと!だったら野菜ジュースも持って帰りなよ!﹁俺は作
りたてのフレッシュジュースしか飲まない﹂ってうるさいよ!
実演販売に引っかかって買ったヨーグルトは、無理矢理鏑木の袋
に入れてあげる。手芸部で施したサードアイの効き目がそろそろ胃
腸に出る頃だろうから。
そしてスーパーを出たところで、私の嗅覚が異常を察知した。ス
ーパーの横の駐車場に、もくもくと煙をたてた焼き鳥の屋台が出て
いる!
ダメだ。今は鏑木が一緒にいるんだ。買っちゃダメだ。買っちゃ
ダメだ⋮!
﹁おじさ∼ん。ねぎまくださいな!﹂
﹁はいよっ!何本だい?﹂
私は屋台に走っていき、ニッコニコの笑顔で注文した。私は焼き
鳥はねぎま派だ。もちろん塩とタレの両方を買う。1本ずつじゃ悪
いよね∼。だったらここは
1656
﹁おじさん、塩とタレ、5本ずつくださいな!﹂
﹁はい、塩とタレ5本ずつで計10本ね。まいどありっ!﹂
うふふぅ、おいしそう。おじさんは紙袋に焼き鳥を詰めていく。
﹁お嬢ちゃん、とっても美人さんだから、おじさん1本ずつおまけ
してあげるね﹂
﹁ええ∼っ!嬉しいっ!おじさん、ありがとう!大好きっ!﹂
私はおまけしてもらった焼き鳥の袋を受け取ると、﹁ありがとう
ね、おじさん!﹂と満面の笑みで手を振って戻った。
いやぁ、得した。得した。これが下町の人情ってやつかしら。早
く食べたい。
﹁おい⋮﹂
げっ!鏑木。焼き鳥の魔力に、一瞬その存在を忘れてた!
﹁⋮なんだ今のは﹂
﹁⋮なにがですか﹂
﹁お前、人格変わってたぞ。おじさん大好き!って、なんだあれは﹂
﹁こうしたお店の人との臨機応変なやり取りも、フィールドワーク
の一環ですわよ、鏑木様﹂
屋台で普段とは別人のような振る舞いをした私を、鏑木は怪しげ
なものを見るような目をして見てくる。おいしい焼き鳥を食べるた
めなら、いくらでも愛想を振りまくんだよ、私は。
﹁⋮鏑木様、焼き鳥食べます?﹂
﹁食べる﹂
1657
私達は隅に設置されたベンチに座り、焼き鳥を食べた。
﹁なかなか美味いな﹂
﹁でしょう。タレもどうぞ﹂
﹁おう。しかし喉が渇くな﹂
﹁野菜ジュース飲みます?﹂
﹁⋮いらない。そこの自販機でお茶を買ってくる。お前はなにがい
い?﹂
﹁では私もお茶で﹂
私の愛想でゲットしたおまけのおかげで、6本ずつ平和的に焼き
今日のスーパー視察は実に有意義だった。
鳥を分けて食べ、本日の皇帝接待は終了した。
その夜、鏑木からは
という上機嫌なメールが届いた。
チープな安菓子も今まで食べたことのない味で、面白い。今度は別
のスーパーにも行ってみたい
私はそれを部屋で野菜ジュースを飲みながら、パンとハムとメロ
ンをもそもそと完食しながら読んだ。おばちゃんの言う通り、焙り
ハムは温めなくてもおいしかった。
真夜中、私はゴロゴロと鳴るおなかの不調に目が覚めた。ああっ、
まさかの呪い返し⋮っ!
1658
235
放課後、ピヴォワーヌのサロンに行くと、円城に声を掛けられた。
﹁吉祥院さん、昨日は雅哉とずいぶん楽しそうなところに行ったん
だって?﹂
﹁⋮お聞きになったんですか﹂
口が軽いな、鏑木。私と庶民生活ツアーをしていることは、誰に
も言わないように再度口止めをしておかないと。
﹁朝から実演販売についてレクチャーされたよ﹂
それは得意気な顔で語る鏑木の顔が目に浮かぶな。
﹁鏑木様は好奇心旺盛なので、大変でしたわ⋮﹂
﹁あはは、それはご苦労様﹂
面倒事を私に押し付けておきながら、他人事のように私の苦労を
笑う円城が憎い。おかげで私は昨日の夜、トイレの住人と化したの
だ。寄せては返す腹痛の波と戦う羽目になったのだ。
﹁ご親友なのですから、円城様が連れて行って差し上げればよろし
いのに﹂
腹が立ったので嫌味っぽく言ってみるが、﹁さすがに僕もスーパ
ーなんて行ったことないしねぇ﹂とサラッと返された。それはそう
だろうともさ。
1659
﹁でも吉祥院さんもコンビニならともかく、スーパーに出入りして
いるって珍しいよね。想像以上に場慣れしていたって、雅哉が驚い
ていたよ﹂
ぐっ、痛いところを突かれた。スーパーにはファミリーパックの
お菓子や、こっそり夜食に食べるお惣菜が豊富なんだよ。コンビニ
には無い、タイムセールがあるんだよ。とは口が裂けても言えない。
﹁私はお料理が趣味ですので、自分の目で食材を選びに行きたいの
です﹂
嘘は言っていない。料理は現在修行中。
﹁ふぅん、そうなんだ。へえ∼﹂
﹁⋮なんですか﹂
﹁うん?別に∼﹂
円城は含んだような笑みで面白そうに私を見た。うっ、なにその
目。この円城の何もかも見透かしたような笑顔が苦手なんだよ。こ
の心眼使いめ!
マンガの円城の笑顔はこんなに黒くなかった、なにが違う。髪か。
髪の色か。蜂蜜色だったはずの髪色が黒髪だから、心根も黒く染ま
ったか。
﹁円城様は髪をもっと明るい色にカラーリングしようと思ったこと
はないんですか?﹂
﹁それ普通に校則違反だよね﹂
﹁⋮ですね﹂
1660
円城秀介氏は常識人だった││。
気まずくなったので必死に目玉だけを動かし救いを探すと、サロ
ンの隅にひとり座る芙由子様の姿を見つけた。
﹁あっ!私、芙由子様にお話があったので失礼しますね﹂
﹁うん、またね﹂
指をひらひらと振ってにこやかに私を見送る円城に背を向け、私
は芙由子様の元へ近づく。
その芙由子様は自分の手のひらをじっと見つめていた。一握の砂
⋮?
﹁あの∼、芙由子様⋮?﹂
﹁まぁ、麗華様!﹂
真剣な表情で己が手を凝視する芙由子様に遠慮がちに声を掛ける
と、顔を上げた芙由子様は私を見て、パッと笑顔になった。
﹁ごきげんよう芙由子様。こちらに座らせていただいてもよろしい
かしら?﹂
﹁もちろんですわ、麗華様!さぁ、どうぞ﹂
嬉しそうに席を勧めてくれる芙由子様に、もしかしたら私と仲良
くなりたいと思ってくれているのかなという、昨日の私の想像は間
違っていなかったのかもと思う。
﹁芙由子様、昨日のことなのですけど﹂
﹁昨日⋮?あぁ!もしかしてウィジャボードをなさりたいのですね
!やっぱり麗華様も興味があったのね。よろしいですとも。お待ち
になって。すぐに出しますから!﹂
1661
げっ!いきなりのスピリチュアル攻撃。
﹁い、いえ、そうではなくて。昨日はお話の途中で退出してしまっ
て申し訳なかったですわ。それを謝りたくて﹂
芙由子様がカバンから怪しい呪物を取り出そうとするのを阻止す
るように、私が慌てて謝罪の言葉を被せると、芙由子様はきょとん
とした顔をした。
﹁まぁ、そのようなこと、お気になさらなくてもよろしいのに。ご
丁寧にありがとうございます﹂
そうおっとりと言って、芙由子様は深々と頭を下げた。それに私
もつられて頭を下げる。
﹁ところで芙由子様。先程なにやら手のひらをじっと見つめていら
っしゃったけれど、何をなさっていたのですか?﹂
﹁まぁ、見ていらしたのですか?﹂
芙由子様は恥ずかしそうに頬を押さえた。何をしていたのかはだ
いたい予想がついているので、ズバリ当ててみる。
﹁手相占いかしら?﹂
﹁いいえ。これはオーラを見る訓練ですわ﹂
え。
﹁⋮オーラ?﹂
﹁ええ。こうしてじっと指先を見ていますとね、段々オーラが見え
1662
るようになってくるそうなんです。本来は暗い部屋で実践するのが
一番見えやすいのですけれどね﹂
﹁へぇ⋮﹂
﹁私はまだシャーマン見習いですので、オーラをはっきりと見るま
でには至っていませんので、こうして時間がある時には訓練してい
るんですのよ。ぜひ麗華様もご一緒になさってみて?﹂
﹁え∼っとぉ⋮﹂
﹁集中すると、指先を覆うようにオーラが見えてくるんですよ。ほ
ら、こんな感じで﹂
⋮やっぱりこの人、首までどっぷりスピリチュアルに浸かってい
る。どうしよう。手相くらいだったら、まだ歩み寄ってみようかな
と思っていたんだけど、オーラ談義はハードルが高すぎる。そして
シャーマン見習いってなんだ⋮。でもめげちゃいけない。
﹁いえ、私は遠慮しておきますわ。あまりそういった方面の才能は
ない気がいたしますので﹂
芙由子様が熱心にオーラの色の種類と意味について説明するのを
遮って、なるべく当たり障りのないようにお断りすると、芙由子様
は﹁まぁ、そうですか?﹂と残念そうな顔をした。これは早く違う
話題を振らねば。
﹁そうだわ、芙由子様。昨日は鏑木様に私の居場所を教えてくださ
ったそうですね?ありがとうございます﹂
内心では余計なことをしてくれてと思わないでもないんだけど、
芙由子様は善意で教えたんだからしょうがない。
﹁いいえ。私はただ麗華様をお探しになる鏑木様に行方を尋ねられ
1663
て、手芸部に行かれたようですとお伝えしただけですから﹂
﹁そうでしたか﹂
﹁うふふ。おふたりは仲がよろしいのですね﹂
やっぱり鏑木様は麗華様のことがお好きなのかしら、と芙由子様
がうっとりと呟いた。うげっ。
﹁それは誤解ですわ、芙由子様。昨日はただ鏑木様が私に用事があ
ったから探していただけです。そこに恋愛感情などあるわけがあり
ません﹂
﹁まぁ。でも修学旅行で鏑木様との仲が進展したと、すっかり噂で
してよ。昨日おふたりが連れだってお帰りになったと、今朝も話題
になっていましたでしょう?﹂
思わず顔が歪む。
迷惑な話だ。鏑木なんかと噂になったら、また縁遠くなってしま
うこと必至なのに。天下の皇帝相手に挑もうとする気概のある男子
など、瑞鸞にはそういない。縁起の悪い詩集をやっと手放せたのに、
私の恋愛運は上がる兆しがみえない。
﹁ではやはり、麗華様の想い人は円城様?!﹂
﹁違いますって﹂
あれ?浮世離れしていると思っていた芙由子様は、意外とミーハ
ー?
﹁恋に効く石はローズクォーツですわよ、麗華様﹂
⋮パワーストーンにも手を出しているのか。そして一瞬、買って
みようかなって思ってしまった自分が怖い。スピリチュアルは弱っ
1664
た心に忍び寄る。
その後、恋の噂話をなんとか躱すと、今度は芙由子様は瑞鸞七不
思議を滔々と語ってきた。いつもおとなしくてあまりしゃべらない
芙由子様なのに、得意分野では饒舌になる人だったらしい。
えっ、旧講堂の壁の中には昔生き埋めにされた人の死体があって、
その霊が﹁ここから出せ∼﹂と壁を叩く音が聞こえる?!何人もそ
の音を聞いている?!なにそれ怖いっ!
﹁実は私もその音を聞きましたの⋮﹂
﹁ええっ?!﹂
﹁あれは朝からシトシトと、雨の降る薄暗い日のことでした﹂
﹁わぁ⋮﹂
﹁私が旧講堂に行きますと、壁の中からドーン、ドーン⋮、ゴトン、
ゴトン⋮という重い音が、響いてきましたのよ﹂
﹁やだぁっ﹂
﹁そして壁には人型のシミがうっすらと浮き上がっていて⋮﹂
﹁いやああっ﹂
歴史ある瑞鸞の建物だからね。そんなこともあるかもね?!清め
の塩!清めの塩はどこ!なんだか背中がゾワゾワするの!
そんな私の気も知らず、芙由子様は楽しそうに笑った。
﹁今日は麗華様とこんなにたくさんお話をすることができて、私と
っても嬉しいですわ﹂
﹁え、そうですか?﹂
﹁はい。ずっとこうしてお話したかったんです。今とっても楽しい
ですわ﹂
そう言ってもらえると、私も嬉しい。
1665
ニコニコと微笑む芙由子様を見て、あまりディープなスピリチュ
アル世界への誘いは困るけど、これからもう少しずつ芙由子様とも
仲良くできたらいいなと思った。
﹁それと瑞鸞の森には秘密の防空壕があって、そこには⋮﹂
﹁いやぁっ﹂
怖い話もできれば無しでお願いします。
芙由子様とそんな話をしていたら、鏑木がこちらにやってきた。
﹁吉祥院、話がある﹂
またか。
﹁申し訳ありませんが、今は芙由子様とお話し中ですので﹂
﹁まぁ麗華様、私のことはお気になさらないで。私もこのお茶を飲
み終わったら、そろそろ帰ろうと思っておりましたの﹂
意外と恋バナ好きのミーハーだった芙由子様は、目を輝かせて身
を引く言葉を言った。なんといういらぬ気遣い。
﹁円城様は⋮﹂
﹁秀介なら先に帰った﹂
あいつ!また私に面倒事を押し付けて、自分だけ逃げやがった!
くーっ、この自分勝手な瑞鸞ツートップへのやり場のない怒りを
どうしてくれよう。あ、そうだ。せめてもの嫌がらせ。私の受けた
恐怖を鏑木にもお裾分けしよう。
﹁ご存知ですか、鏑木様。旧講堂の壁の奥から、ドン、ドンと誰か
1666
が壁を叩く様な音が聞こえるそうなんです。こちらの芙由子様もお
聞きになられたとか。それが実は旧講堂には昔生き埋めにされた⋮﹂
﹁壁の奥から音?それは壁の中に通る水道管から聞こえるウォータ
ーハンマー現象だな。誰かがトイレや洗面所で勢いよく水を使って
止めたことで、逃げ場を失った圧が音を立てているんだろう。配管
が劣化しているのかもしれない。学院にメンテナンスを依頼しろ﹂
﹁でも壁に人型のシミが⋮﹂
﹁すでに漏水も起きているのか。早急にメンテナンスが必要だな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
││後日、鏑木の指示により旧講堂の配管のメンテナンスが行わ
れ、瑞鸞七不思議のひとつが消えることとなる。
芙由子様のオカルト熱量は1下がった。
そして私は今、結局いつもの小会議室に鏑木とふたりで向かい合
っている。もうこの部屋にお菓子とティーセットを常備しようかな。
﹁昨日のスーパーは実に有意義だったな﹂
﹁左様ですか﹂
皇帝陛下は私から分捕った下々の者が食す駄菓子の味にも、満足
されたとのこと。そして胃腸を揺るがすサードアイの呪いは効かな
かったらしい。
﹁しかし、だ。スーパーを知り尽くしても、デートの場所には成り
1667
得ない。今週末にでもあいつを誘おうと思っているんだが、どこが
いいと思う?﹂
﹁えっ、今週末?!﹂
今度の日曜日には寛太君達へのお土産も渡しがてら、私が先に若
葉ちゃんと遊ぶ約束をしている。
﹁もうすぐ中間テストですよ。高道さんも試験勉強でお忙しいので
は?﹂
鏑木は眉間にしわを寄せた。
どうやら修学旅行の雑務で、生徒会役員の若葉ちゃんは帰国して
から生徒会長である同志当て馬とよく一緒に行動していることに、
鏑木は焦りを感じているらしい。うん、今日も仲良く連れ立ってふ
たりで廊下を歩いているのを、私も見かけたよ。
﹁高道さんは特待生ですから、テスト前に誘われるのは困るのでは
ありませんか?とりあえずテスト明けにどこかに出かける約束を先
に取り付けて、それまでにデートプランをじっくり練ってはいかが
でしょうか﹂
﹁⋮⋮﹂
納得いってなさそうだなぁ。
そこで私は塾で森山さん達からリサーチした、高校生の人気デー
トスポット情報を披露した。どうよ、この私のリサーチ力。鏑木は
もたらした情報に興味を示した。
﹁遊園地に映画、カラオケ、ゲームセンター、ボーリング⋮。遊園
地や映画はまだしも、それ以外はデートにしては地味すぎないか?﹂
﹁でもこれらが極一般的な高校生の定番デートコースですから﹂
1668
﹁う∼ん⋮﹂
まぁ、鏑木がカラオケボックスでノリノリで歌っている姿なんて
想像できないけど。
﹁ちなみに鏑木様はカラオケはしたことはあるんですか?﹂
﹁カラオケは嫌いだ。俺は生演奏でしか歌わない﹂
どこの大物歌手だよ。
﹁ではカラオケは却下と。私の調べによりますと、遊園地が一番盛
り上がるようですね。ジェットコースターやお化け屋敷などが人気
です﹂
﹁遊園地ならうちの会社がいくつが出資しているから、融通が利く
ぞ﹂
﹁⋮貸切とかはやめてくださいね﹂
ひと気のない遊園地なんて、ちょっとしたホラーだと思う。シン
と静まり返った遊園地で、ふたりだけで乗るジェットコースターな
んて、別の意味で怖い。
﹁これらを参考に、テスト明けまでに下準備をしておいたらどうで
すか?﹂
﹁⋮わかった。考えておく﹂
﹁それとアドバイスは私にではなく、親友の円城様に聞いてくださ
いね。きっと親身になって相談に乗ってくれますとも﹂
﹁ああ﹂
﹁あ、それからくれぐれも約束もないのに、高道さんのお家に突然
訪問するようなことはしないでくださいね。迷惑になりますから﹂
﹁⋮ああ﹂
1669
さて、これで今日のミッションは終了。私も早く家に帰って試験
勉強をしないと。
腕を組んでデート先を考え込む鏑木に、あんたも色ボケしてない
で試験勉強しなよと言ってやりたくなったが、あえてここはライバ
ルをひとりでも減らすために黙っておく。
お先に失礼、ごきげんよう鏑木様。
夜、電気を消してベッドに入った私はふと思い立ち、布団から左
手を出して暗がりの中で指先をじっと見つめた。開け、サードアイ。
オーラは見えなかった。
1670
236
今日は待ちに待ってた若葉ちゃんのお家にお邪魔させていただく
日。いつものように若葉ちゃんが駅まで迎えにきてくれた。
﹁お∼い、吉祥院さ∼ん﹂
﹁若葉ちゃん、おまたせ!﹂
改札の向こうから手を振る若葉ちゃんの元に小走りで駆け寄る。
﹁中間テスト前なのに、押し掛けちゃってごめんなさいね﹂
﹁ううん、全然、全然。来てくれて嬉しいよ!﹂
お互い顔を見合わせてにっこり。今日の若葉ちゃんは前髪をピン
で留めてポンパドールにしている。おおっ、これはロココの女王た
る私への挑戦か?!
﹁若葉ちゃん、今日はおでこを出しているのね﹂
﹁うん。前髪が伸びてきちゃって邪魔だから、今日は留めてみたん
だ∼﹂
私は﹁可愛い﹂と褒めつつも、さりげなく指で髪をねじって、自
若葉ちゃんの家までの道のりを、お散歩気分でてくてく歩く。
分の巻きを強く再現させる。ロココの女王の座は渡さなくってよ!
今日はぽかぽか陽気で過ごしやすいねぇ。
﹁なんだかこうしてゆっくりしゃべるのも、久しぶりね﹂
1671
﹁そうだねぇ。修学旅行もあったしねぇ﹂
旅行先で若葉ちゃんの姿を時々見かけたけど、こうして仲良くし
ていることは周囲に内緒なので、当然気軽に話すことなんて出来な
かったもんね。
﹁若葉ちゃんは、修学旅行はどうだった?﹂
﹁すっごく楽しかったよ!﹂
若葉ちゃんは目をキラキラと輝かせながら、旅行前から絶対に行
きたいと言っていた大英博物館で、見たかった猫のミイラを見たと
か、ロゼッタストーンが神秘的でわくわくが止まらなかった等々、
展示物を熱く語ってくれた。
そういえば大英博物館で同志当て馬と一緒にいるのを見かけたな
ぁ。
﹁確か生徒会長の水崎君達と見て回っていたわよね﹂
﹁うん、そうなの。水崎君は前にも来たことがあるらしくて、中を
案内してくれたから助かっちゃった﹂
﹁それは良かったわね﹂
﹁うん。それからパリで食べたスイーツもおいしかったなぁ。ロー
マのティラミスは絶品だった!スペイン広場の近くのお店で、ジェ
ラートも食べたの!﹂
あぁ、それは鏑木と一緒に行った本場スイーツ食べ歩きツアーの
ことだね。
﹁確か鏑木様に案内してもらったのよね?﹂
﹁うん、そうなの。鏑木君は私が食べてみたいって言ったお店以外
にも、たくさん連れて行ってくれたんだ!﹂
1672
若葉ちゃんは楽しそうにパリとローマで食べたスイーツの名前を
その味の思い出と共に、指を折り曲げながら数々あげていく。
ふむ。イギリスでは同志当て馬と博物館を回り、フランスとイタ
リアでは鏑木とスイーツ巡り、か。
⋮⋮なんかさ、恋愛方面で充実しまくりの修学旅行だよね。男の
子と自由時間に回る修学旅行。共学を余すことなく満喫している感
じだよね。私も鏑木や円城とケーキを食べたりショッピングをした
なんて噂になっているみたいだけど、私の実の伴わない噂とは全然
違うよね。
うぅっ、いけないっ。友達なのに!若葉ちゃんは私の大切な友達
なのに!卑小な私の心に巣食う、妬み、嫉み僻みが抑えきれないっ
!いいなぁ、いいなぁ。せっかく共学に通っているんだ。私だって
共学ならではの楽しい思い出が作りたかった。男の子と仲良くジェ
ラートを食べながら、観光名所を回ってみたりしたかった⋮。なん
でこうなった、私の高校生活!私だって共学高校に通っているはず
なのに!
恋愛ぼっち村の奥にある黒い沼が、ボコボコと泡を立てて呪いの
沼気を発生させる。
﹁⋮⋮﹂
﹁あれ?吉祥院さん、どうかした?﹂
﹁え、なにが?﹂
﹁いや、なんか思いっ切り眉間にシワが寄ってて、その、ちょっと
顔が⋮﹂
まずい、顔に出ていたか。
﹁ごめんなさい。花粉症気味でくしゃみを我慢していたの﹂
1673
私はバッグからハンカチを取り出し、鼻にあてて花粉症アピール
をした。
﹁あぁ、そうだったんだ。まだ花粉って飛んでいるんだね。大丈夫
?﹂
私の適当な嘘を疑うこともなく、心配してくれる若葉ちゃんに反
省。友達の幸せを共に喜んであげてこその真の友情じゃないか。ご
めんね、若葉ちゃん。私は心の毒沼に清めの塩を撒く。
﹁大丈夫。続けて?念願のスイーツ巡りはずいぶん楽しかったみた
いね?﹂
﹁うん!あのね、私も事前にガイドブックでいろいろ調べて行った
んだけど、鏑木君はそういうのに載っていないお店もいっぱい知っ
てて、たくさん案内してくれたんだ。さすが行き慣れている人は違
うよね∼。連れて行ってくれたお店が全部おいしいの!﹂
﹁へぇ﹂
子供の頃から何度もヨーロッパに滞在している鏑木は、どこに何
のお店があるかもしっかり把握しているので、まさにうってつけの
ガイド役だ。
﹁ただお店に連れて行ってくれるだけじゃなくてね、ここはあの映
画に出てきたお菓子のお店だとか、ここは日本にはまだ入ってきて
いないショコラトリーだとか、色々教えてくれたんだよ﹂
﹁そう。良かったわね﹂
生徒会活動や図書館デートで、同志当て馬に完全リードを許して
しまっていた感のある鏑木だったが、どうやら甘党という最大の武
器を手に、修学旅行で一気に点数を稼いだみたいだ。
1674
﹁他にはどういったところに行ったの?﹂
﹁えっとね、ローマではお友達とテルミニ駅のスーパーに行って、
いっぱいお菓子を買っちゃった。日本の輸入食品店で売っているお
菓子がいっぱいあったんだよ!﹂
外国のスーパーかぁ。それは私も行ってみたかったな。でも芹香
ちゃん達を誘うにはあまりに庶民的すぎるもんなぁ。治安も不安だ
ったし。でももう少し冒険してみるべきだったかなぁ。
﹁日本のスーパーと雰囲気も置いてある商品も全然違ったよ﹂
﹁そうなの。それは面白そうねぇ﹂
﹁うん、面白かった!﹂
若葉ちゃんは海外のスーパーも非常に楽しんだようだ。このぶん
だとこの前私が半ば強引にガイドを務めさせられた、皇帝庶民派ス
ーパーに行くの巻の苦労も報われそうだ。もし今のように若葉ちゃ
んに日本のスーパーとの違いを語られても、話についていけるだろ
う。
﹁あ、そういえばね、昨日、鏑木君がケーキを買いに来てくれたの﹂
﹁えっ!﹂
あいつ!今週末はテストが近いから誘うなって釘を刺しておいた
のに!まさかケーキを買うというのを口実にやってくるとは!
なんてことだ。来たのが昨日で良かった。危うくかち合うところ
だった。こういう時、家が商売をやっていると、それを口実に訪ね
やすくて困る。
﹁鏑木君みたいに舌の肥えた人にうちのケーキを食べてもらうのは、
1675
ちょっと気が引けちゃうんだけどね﹂
﹁あら!若葉ちゃんのおうちのケーキはおいしいわよ。自信を持っ
ていいと思うわ!﹂
﹁うん、ありがとう。鏑木君にもね、味がシンプルなとこがいいっ
て言われた﹂
若葉ちゃんはえへへと照れくさそうに笑った。
しかしシンプルって⋮。若葉ちゃんが喜んでいるならいいけど、
もう少し言い様があるでしょうよ、鏑木。
﹁えっと、それでね⋮﹂
若葉ちゃんは言おうか言うまいか迷うようなそぶりを見せた。
﹁なあに?﹂
﹁うん、あのね⋮。鏑木君に、テストが終わったら気分転換にどこ
かに行こうって誘われたんだ﹂
﹁ええっ!﹂
素早いな!なんたる行動力!
﹁あっ!もちろん、ただの甘い物好きの友達として、誘っているだ
けだと思うんだけどね!﹂
若葉ちゃんは慌てたように手を振りながらそう言った。
いやいや、甘い物好き仲間って⋮。これはまさに円城の言ってい
た、スイーツ好きの女友達扱い?!鏑木、詳しすぎるスイーツ情報
が裏目に出たか?!
﹁それはどうかしら∼﹂
1676
一応否定してみると、私の言葉に心なしか顔が赤い若葉ちゃんは
口をもごもごさせながら、﹁そうだと思う⋮﹂とかなんとか言った。
え∼、でも鏑木の態度からして、自分に好意があるのはなんとな
くでも気づいてはいるよねぇ?まぁ、思っててもそれを自認するよ
うなことは言えないか。それにこの様子だと、若葉ちゃんも鏑木の
気持ちを少なくとも迷惑には思っていない?むしろ脈あり?しかし
そうなると⋮。
﹁若葉ちゃん、最近学院ではどう?﹂
ここしばらくは収まっていた若葉ちゃんへの嫌がらせが、帰国し
てから再発してきているんだよね。この前も靴箱に泥がなすりつけ
られていたみたいだし。
﹁え、別に変わりないよ﹂
﹁そう?なにか困ったことがあったら、いつでも言ってね﹂
﹁ありがとう、吉祥院さん!﹂
若葉ちゃんはひまわりのように笑った。
若葉ちゃんの家に着くと、私は弟の寛太君達に修学旅行のお土産
であるステーショナリーとお菓子を渡した。
寛太君とその下の双子ちゃん達は口々に﹁ありがとう、コロネ﹂
﹁ありがとう、コロちゃん﹂とお礼を言ってくれた。どういたしま
して。
﹁そうだコロネ、これ食べるか?﹂
1677
そう言って寛太君が出してきた箱には、色鮮やかなゼリー状のキ
ューブに白い粉がかかった求肥のような可愛いお菓子。
﹁ちょっと寛太!﹂
﹁いいじゃん、別に。ノルマ、ノルマ﹂
若葉ちゃんと寛太君がお菓子を間になにやら揉めだした。この可
愛いお菓子が一体どうしたんだろう。
私が﹁これは?﹂と聞くと、若葉ちゃんは気まずそうに﹁ターキ
ッシュディライト﹂と答えた。
﹁実は、妹がナルニア国物語が大好きで、そこに出てくるターキッ
シュディライトっていうお菓子を食べてみたいってずっと言ってた
から、ロンドンのお土産に買ってきたんだけど⋮﹂
﹁鳥肌が立つくらい、激甘なんだ﹂
困ったように笑う若葉ちゃんの言葉に続けて、寛太君がうんざり
した顔で言った。なるほど。それで処理に困っているお菓子を私に
出してくるとは。高道家での私の扱いが段々と雑になってきている
気がする。
﹁捨てるのももったいないから、なんとか減らそうとみんなで頑張
って食べてはいるんだけどねぇ﹂
﹁俺はもう無理﹂
﹁私も⋮﹂
﹁俺も⋮﹂
﹁張り切って大きな箱のを買ってきちゃったから、全然減らなくて
⋮﹂
﹁ふぅん﹂
1678
私は宝石のような可愛いお菓子をひとつ手に取る。
﹁コロネが食べるのは、俺のノルマにカウントして﹂
﹁あっ、ずるいよお兄ちゃん!﹂
激甘だというお菓子を巡って、兄妹ゲンカが始まった。そんなに
か。見た目は求肥だけどねぇ。一口齧ってみる。⋮⋮ぐっ。
﹁甘いだろ?﹂
私は寛太君に無言で頷く。ぬおおおっ、あまりの甘さに歯がしび
れるっ。そしてくどいっ。赤いから苺味だと思っていたら、この口
の中いっぱいに広がる芳香剤のような匂いは薔薇か!薔薇ジャムを
更に甘くしたようなお菓子をなんとか飲み下すべく、出された紅茶
をがぶ飲みする。
﹁吉祥院さん、紅茶もう一杯いる?﹂
﹁お願いします﹂
まだ口の中が甘ったるい。さすが海外のお菓子だ。なんという攻
撃力⋮。
う∼ん、しかしなんとかこの甘いお菓子を上手く食べる方法はな
いものか⋮。あっ、そうだ!
お砂糖代わりにこのターキッシュディライトを紅茶に入れてみた
らどうかな。紅茶にジャムを入れるロシアンティーのアレンジ。。
可愛いお菓子をお砂糖代わりに一粒落とすって、なんだかとっても
おしゃれじゃない?うふふ、こういうちょっとしたアイデアで、セ
ンスって出るよね。
早速やってみる。ボトンと落としてスプーンでくるくる∼、くる
1679
く⋮。あれ、おかしい。全然溶けない。ジャムなら溶けるのに、な
んで?げっ、底にべちょっとへばりくっついたっ。うげっ、しかも
白い粉も溶けずに表面に浮き上がってきた!なんか汚いっ。うわあ
っ。
私が必死にスプーンを動かしているのに気づいた寛太君が、﹁な
にやってんだ、コロネ﹂と私の手元を覗き込んできた。
﹁えっと、ロシアンティーのジャム代わりにね⋮﹂
﹁うわっ、なんか浮いてる!なにやってんだよコロネ!﹂
声が大きいよ、寛太君!ほら、若葉ちゃん達にも気づかれちゃっ
た。高道家のみなさんの注目が集まる。あぁ、視線が痛い⋮。
﹁吉祥院さん⋮?﹂
﹁いえ、これはその、ロシアンティーのジャムの代わりに⋮﹂
﹁うん、そっかそっか。でもどうする?紅茶、新しいのに替えよっ
か?﹂
若葉ちゃんの優しさがつらい⋮。
﹁食べ物で遊ぶなよなぁ、コロネ。それ、最後まで責任持って食べ
ろよ﹂
﹁⋮はい﹂
私は得体のしれない味に変わった紅茶と、底にこびりつく物体を
口の中に流し込んで、なんとか証拠を隠滅した。ふうっ、失敗失敗。
たまにはこんなこともあるよね。だったら他には⋮。
﹁そうだ。ねぇ、隠し味でカレーに入れたらどうかしら?コクが出
ると思うの﹂
1680
﹁却下﹂
﹁溶かしてパンケーキに添えるとか⋮﹂
﹁却下﹂
﹁じゃあ煮物に⋮﹂
﹁却下!﹂
私のアイデアは悉く寛太君に一刀両断された。ちぇ∼っ、せっか
く協力してあげようと思ったのになぁ。
﹁口直しに杏仁豆腐でも作るか﹂
寛太君が立ち上がったので、私もレシピを教えてもらいがてらお
手伝いを買って出る。材料は寒天に牛乳にお砂糖っと⋮。
﹁あ、お砂糖代わりにターキッシュディ⋮﹂
﹁却下!却下!却下ー!﹂
そんな冷たい目で見ないで、寛太君。もう言わないから。
寛太師匠に﹁だからすり切り一杯はちゃんとすり切れ!﹂と怒ら
れながらも作った杏仁豆腐は、とてもおいしゅうございました。
1681
237
若葉ちゃんの家から帰ると、これから伊万里様を連れて帰るとお
兄様から連絡があった。これは伊万里様にもお土産を渡すチャンス
!部屋で伊万里様用のお土産を選別していると、おふたりが帰って
きたと知らせがきたので、急いで出迎えに行く。
エントランスの照明をスポットライトのように浴びた伊万里様は、
まるで舞台の主役登場かのように華々しくて、その眩しさに私は一
瞬たじろいだ。
﹁麗華ちゃん、こんばんは∼﹂
﹁伊万里様、ごきげんよう!﹂
スターが観客に手を振ってくれたので、全開の笑顔でそれに応え
る。
﹁お兄様もお帰りなさい﹂
﹁ただいま、麗華﹂
おふたりに挨拶をした後、私は伊万里様に差し上げたい修学旅行
のお土産があることを話した。
﹁うん、貴輝から聞いたよ。それで貴輝が持ってきてくれるって言
ったんだけど、せっかく麗華ちゃんが僕のために選んでくれたお土
産だからね。麗華ちゃんから直接受け取りたかったから、来ちゃっ
た﹂
﹁来ちゃった﹂と目を細めていたずらっぽく笑う伊万里様に、隣に
1682
立つお兄様が﹁大の男が可愛い子ぶるな、気色悪い﹂と毒づいた。
﹁ではもしかして、わざわざそのためにいらしてくださったんです
か?﹂
﹁わざわざじゃないよ。麗華ちゃんに会いたかったから﹂
﹁まぁ!﹂
カサノヴァ村の村長は今夜も絶好調のようだ。いつもの伊万里様
の軽口だとわかっていても、ときめく乙女心。
﹁ありがとうございます。今すぐ持って参りますね!﹂
﹁慌てなくていいよ。貴輝の部屋で待ってるね﹂
﹁はいっ﹂
自室へ向かう私の後ろで、伊万里様の﹁痛っ﹂という声がした聞
こえた気がした。
伊万里様へのお土産を持ってお兄様の部屋に行くと、テーブルの
上にはワインのボトルとお皿にきれいに盛り付けられたチーズが置
かれていた。
﹁このチーズも、麗華ちゃんのお土産なんだって?貴輝に先に出し
てもらっちゃったけど、よかったかな?﹂
﹁ええ。お口に合うかわかりませんが、ぜひ召し上がってください﹂
ワイングラスを片手にソファにくつろぐ伊万里様が、おいでおい
でと私を隣に呼んだので、その指示に素直に従うと、向かいのソフ
ァから伊万里様めがけてワインのコルクが飛んできた。
1683
﹁う∼ん、おいしい!﹂
ワインとチーズに舌鼓を打つ伊万里様。さすがカサノヴァ村の村
長、チーズとワインが良く似合う。
かのカサノヴァはシャンベルタンのワインとロックフォールチー
ズは。消えかけた愛を蘇らせ、芽生えた恋を成就させると豪語した
そうだけど、残念ながら今回買ってきたチーズはロックフォールで
はない。ブルーチーズは臭いがきつくて、万が一スーツケースの中
で真空パックが破けたらどうしようという心配から、買ってこられ
なかったのだ。私はチーズは好きなんだけど、ブルーチーズの臭い
だけはダメだ。ワインはともかく、あんな強烈な臭いのするチーズ
を食べて恋愛が成就するって、私には全く理解できない。そもそも
あれだけびっしりと青かびが生えて、強烈な臭いを放つチーズを、
よく一番初めに食べたフランス人がいたもんだ。臭い上にカビだら
けの食べ物を食べるチャレンジ精神。グルメは命がけだな。
などということを考えながら、私は伊万里様にお土産を渡す。
﹁伊万里様これ、たいした物ではないのですが⋮﹂
﹁なんだろう。あ、ゴルフマーカー?へぇっ、いいねこのデザイン
!こっちのも面白い。ありがとう麗華ちゃん。さっそく今度行った
時に使わせてもらうよ﹂
良かった。気に入ってもらえたらしい。つい旅先のテンションで
コロッセオやトレビの泉の絵のマーカーを買っちゃったけど、あん
なベタなデザインの物を趣味のいい伊万里様に渡さなくて大正解。
余っちゃった観光地マーカーは、もったいないのでお父様にあげた
ら、大喜びしてくれてたっぷりお小遣いをくれた。なんというわら
しべ麗華。
﹁貴輝、せっかくだから次の休みに一緒にゴルフに行くか?﹂
1684
﹁僕は忙しい。ひとりで行け﹂
﹁冷たいヤツだ。でもこれ本当に気に入ったよ。麗華ちゃんは、セ
ンスいいね﹂
﹁いえ、そんなぁ﹂
うふふふぅと笑ってごまかすけど、所詮私のセンスはコロッセオ。
伊万里様に渡したのは、結局たくさん買った中でもどれがおしゃれ
なデザインなのか全くわからなかったので、円城が﹁これいいんじ
ゃない?﹂と言っていた物にしたのだ。どうやら円城はセンスがい
いらしい。
それ以外のお土産にも、ひとつひとつ大袈裟なくらい伊万里様は
喜んでくれて、そのセレクトを褒めてくれながらも、﹁修学旅行は
楽しかった?﹂などと聞いてくれるので、私も嬉しくなって身振り
手振りを交えてあれこれと話し、それをまた伊万里様が楽しげに聞
いてくれるものだから、私の気分がグングン舞い上がる。途中でお
兄様が﹁お前もう、それ飲んだら帰れよ﹂と忌々しげに言うも、伊
万里様はどこ吹く風。
﹁お兄様と伊万里様の時の修学旅行も、行先は私達と一緒ですよね。
特にどこが思い出に残っていますか?﹂
﹁どこが?う∼ん、そうだなぁ。どこに行ったかよりも、誰と過ご
したかの方が印象に残っているかな﹂
﹁そうなんですか﹂
﹁俺は旅では人との繋がりを大事にするから﹂
笑顔で話す伊万里様とは対照的に、お兄様の目が不穏に光ってい
ますが⋮?
﹁そうそう思い出した。旅行中はずっと貴輝と同室だったんだけど、
ちょっと夜出かけてて朝そっと帰ると、すでに起きていた貴輝にそ
1685
れはもう冷たい目で出迎えられてね﹂
﹁朝帰りって⋮。一体どこに行っていらしたんですか?﹂
﹁あ、それ聞いちゃう?﹂
﹁聞くんじゃない、麗華。耳が腐る﹂
伊万里様、私の耳が腐るような爛れた行動をしていたのですか⋮?
﹁そういえばある時は、貴輝に真夜中に着の身着のままで部屋から
叩き出されたこともあったなぁ﹂
﹁それはお前が真夜中に電話でジュテームだのモナムールだのって、
とち狂ったような台詞を吐き続けていたからだ﹂
マジで殺すぞ
って首を締め上げられてさ
伊万里様、現地女性とも交流があったのですか⋮?
﹁最終夜には貴輝に、
ぁ。あの時のあの目は、絶対に本気だったね﹂
﹁⋮僕がそれまでどれだけお前の尻拭いをさせられたと思ってる。
もう思い出したくもない﹂
その吐き捨てるような言葉に、当時のお兄様の苦労が偲ばれます
⋮。
﹁でもさぁ、修学旅行なんてみんな羽目を外すものだろう?麗華ち
ゃんの時も、そんな連中たくさんいたでしょ?﹂
﹁どうでしょうか。少なくとも私のクラスでは誰もいませんでした
ね。全員、門限順守でした﹂
﹁え、マジで?﹂
﹁はい﹂
﹁全員?﹂
﹁もちろんです。門限順守で5分前行動です﹂
1686
﹁そりゃ凄い﹂
いや、それが普通ですよ。伊万里様の代のクラス委員は大変だっ
ただろうなぁ。って、あれ、もしかしてその時のクラス委員ってお
兄様だったりして⋮?うわぁ。
﹁そんなに怒るなよ、貴輝。大体、お前だって言うほど清廉潔白で
もないだろ﹂
﹁えっ、そうなんですか?!お兄様﹂
﹁帰れ﹂
やだお兄様、どういうこと。あとでしっかり聞かないと。 ふと気がつくと伊万里様の片腕が当たり前のように私の背もたれ
に回されていた。こういうことを自然にやっているところに、伊万
里様の私生活が窺えるなぁ、しかし一度その腕の存在に気づいてし
まうと、当人にとってはたいして意味のない仕草であっても、なん
だか意識してしまって、もうソファにもたれることはできない。あ、
頻脈発動。
そんな私の心拍数も露知らず、優雅にワイングラスに口をつけ、
その味を堪能する伊万里様の端正な横顔に、思わず感嘆のため息が
もれてしまった。やっぱりかっこいいよねぇ、伊万里様は。大人の
魅力だわぁ∼。
うっとりと見惚れる私の視線に気づいた伊万里様がふっと甘く微
KISS
笑み、未成年でワインが飲めない私の為にお兄様がハーブティーを
淹れて差し出してくれる。
なんだなんだ、ここは。ホストクラブか?!CLUB
HOUINか?!
﹁あれ?麗華ちゃん。可愛いピンキーリングをしているね﹂
1687
さすがは伊万里様。女の子が着けているちょっとしたアクセサリ
ーも見逃さない。
﹁これですか?パリでお友達みんなとお揃いで買ったんです﹂
友情の証の指輪を、私は帰国してからずっとしている。男子がな
んだ。私には強い絆で結ばれた女の友情がある!
﹁そうなんだ、よく見せて﹂
そう言いながら伊万里様は流れるような動作で私の手を取ってご
自分の顔の近くに持っていった。今日のお兄様の部屋は、なぜかム
ーディーな間接照明のみなので、至近距離でないと見えにくいのだ。
﹁この部屋少し暗いですよね。もう少し明るくしましょうか。どう
して間接照明だけなのかしら﹂
﹁うん?このままでいいよ。間接照明はね、女性を一番美しく見せ
てくれるんだよ。今夜の麗華ちゃんは、いつも以上にきれいだね﹂
﹁ええっ!﹂
きゅきゅ∼んっ!このお店で一番高いワインを開けます!
﹁おい、人の妹に気安く触るな!こっちに来なさい、麗華﹂
向かいから今度はチーズに刺してあった金属のピックが、伊万里
様めがけてヒュンッと飛んできた。お兄様、今確実に目を狙いまし
たね。しかし伊万里様は動じない。
﹁へぇ、花のように愛らしい麗華ちゃんにぴったりなデザインだね。
凄く良く似合っているよ。とっても可愛い﹂
1688
うひょ∼ん!伊万里様の大人の魅力にときめきが止まらない。こ
のお店のすべてのワインを!
﹁あ、ありがとうございます﹂
﹁じゃあこれは丁度良かったかな。はいどうぞ﹂
伊万里様はそう言って私の手のひらにリボンでラッピングされた
小さな包みを乗せてくれた。中から出てきたのは、天使のボトルの
可愛らしいネイルオイル。
﹁麗華ちゃんのイメージにぴったりだったから、つい買っちゃった。
貸して、塗ってあげる﹂
ピンキーリングをした指を含めたすべての爪に、機嫌良さそうに
鼻歌を口ずさみながら伊万里様が薔薇の香りのネイルオイルを丁寧
に塗ってくれる。ときめきメーター、振り切れ寸前!恋愛ぼっち村
の村長にあるまじき異性からのお姫様のような待遇に、許容量を超
えて口からエクトプラズムが出てしまいそう⋮。
﹁ねぇ麗華ちゃん、知ってる?女の子は19歳の誕生日に、男性か
ら銀の指輪をもらうと幸せになれるってジンクス。麗華ちゃんが1
9歳になった時には俺がとびきり素敵な銀の指輪をプレゼントする
よ﹂
﹁まあぁっ!﹂
ぬおおおっ!ときめきメーター、限界値越えたぁっ!虎の子の通
帳と実印を今すぐ持ってきます!狸に貢がせた金目の物をすべて持
ってきます!
私はこのまま、子供の頃からコツコツと貯めた身銭を、このナン
1689
バーワンホストに根こそぎ持っていかれてしまうのか?!もしや、
伊万里様こそが私を没落させる真打か?!
そこへゆらりと立ち上がったナンバーツーホストが、私達の座る
ソファの後ろに立ち、私と伊万里様の手をむんずと引き離した。
﹁麗華、すべての電気を点けてあちらのソファに移動しなさい﹂
はっ!底冷えするお兄様の声に、妹の呪縛は解けました。
私は部屋中のありったけの灯りを点けて、先程までお兄様が座っ
ていたソファに座る。
﹁なぁ、伊万里。今度の週末には一緒に湯殿山に行こうか。伊万里
には僕からはなむけに鈴をプレゼントするよ﹂
﹁え、俺入定させられんの?!﹂
﹁末期の酒だ。味わって飲め﹂
お兄様は伊万里様の後頭部を掴み、その口にボトルからワインを
ゴボゴボと流し込む。伊万里様は週末、即身仏にお成りあそばすら
しい││。
衆生を救いたまえ、伊万里様。南無∼。
部屋に戻って試験勉強の追い込みをかける。修学旅行カップルが
大量入村した恋愛謳歌村の連中が、恋だなんだと浮かれている間に、
私は学年10位以内に上り詰めてやる!まずは苦手な数学の復習か
らだ。数問解いたところで、ある問いに躓く。え∼っと、これはな
んだったっけ?参考書を開く私の手から、先程伊万里様に塗っても
らった薔薇のオイルがフワッと香った。
1690
薔薇といえば、バルコニーの鳩避けに設置した薔薇にお水をあげ
ておかなくちゃ。霧吹き、霧吹き。薔薇以外の植物も育てたいなぁ。
若葉ちゃんの家の庭にはハーブがあったな。私もハーブを育てて自
家製ハーブティーを作ってみようかなぁ。
これからの季節に咲くハーブが気になったので、それを調べてか
ら寝ることにする。
1691
238
週明けの月曜日。中間テストはもう目前だ。受験生にとっては一
放課後、小会
という味も素っ気もないメールひとつで、鏑木に呼び出され
分一秒も無駄にはできない。それなのに私は今日も
議室
ていた。なにこの都合のいい女扱い。ワタクシはそんな簡単な女で
はなくってよ!
いつもの小会議室に入ると、先に来ていた鏑木は難しい顔でテー
ブルに何冊も雑誌を広げ、それを熱心に読んでいた。この部屋は完
全に鏑木の私室と化しているな。
﹁⋮鏑木様には私も忙しい身だと、何度言えばご理解していただけ
るのでしょうか﹂
﹁まぁ座れ﹂と顎をしゃくって偉そうに言う鏑木に、一言嫌味を言
ってやらねば気が収まらない。
﹁テスト明けに高道と出かけることになった。ついてはそのプラン
を立てる﹂
私の嫌味は無視かい。
﹁⋮それテストが終わったら考えましょうって言いましたよね?﹂
﹁それでは遅いだろう。何事も早めに計画して準備をしておくこと
が肝要だ﹂
週末に若葉ちゃんの家に行ってデートの約束を取り付けることが
できたので、テスト明けまで我慢できなかったようだ。⋮試験勉強
1692
しろよ。今年度の成績が内部進学に直結しているってのに、まった
く⋮。その点、私なんてローマで買ったカラフルで可愛いステーシ
ョナリーで、英単語帳を作成中だもんね。答えに付け足すちょっと
した注釈は、色ペンで見やすく色分けしたりしてるから、なかなか
枚数を作れなくて大変なんだけど、かなりおしゃれな出来になって
いると思う。あぁ、早く帰って続きを作らなくちゃ。こんなところ
にいる場合じゃないのよ、私は。
﹁たまには私以外の人間にも恋愛相談なさってはいかがですか?例
えばお友達とか⋮﹂
ハッと私は口元に手をやった。
﹁もしかして鏑木様、実はお友達が誰もいな﹂
﹁潰すぞ、お前﹂
ひいいいいっ!凄んだ鏑木の目の奥に怒の文字がっ!!没落させ
られるーー!少し調子に乗りました。すみません、すみません。
人は図星を指されると怒るものだよね。
﹁座れ﹂
﹁⋮はい﹂
鏑木が読んでいた雑誌を見ると、どれもおよそ普段皇帝が手にす
ることもないであろう、お出かけスポットや流行りモノを特集した
庶民系情報誌だった。一応庶民の若葉ちゃんに合わせた雑誌選びと、
自分で調べようとする姿勢に多少の成長が見られるな。しかし買っ
てきた雑誌がラーメン特集、B級グルメ特集ってのはどうだろう⋮。
本屋さんにあった雑誌を中身を確認せずに手当たり次第に買ってき
たな。バックナンバーでもいいから、遊園地特集や最新デートスポ
1693
ット特集を買ってこなくてどうする。あら?その表紙に写っている
のはお好み焼きかしら。ちょっと見せて。
しばらく私達は無言で雑誌を読み耽った。
﹁⋮吉祥院はラーメンを食べたことはあるか﹂
﹁愚問ですわね﹂
誰に向かって言っているんだ。
豚玉のお好み焼き食べたいなぁ。あ、この海鮮お好みっておいし
そうっ。ふ∼ん、海老にイカにホタテ貝も入っているのかぁ。
﹁俺はこういった店のラーメンは食べたことがないが、ずいぶん人
気のようだな﹂
﹁ですよ∼﹂
トッピングにシャキシャキのじゃがいももおいしそうだなぁ。
﹁待ち時間60分。俺には行列に並んでまでラーメンを食べたいと
いう気持ちがわからない﹂
﹁ですね∼﹂
締めはやっぱりもんじゃだよね。あ∼、チーズもんじゃ食べたい。
﹁そこまでして食べる価値があるものなのかは、気になるところで
はあるが﹂
﹁ですか∼﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お前、俺の話をちゃんと聞いてるか?!﹂
﹁もちろんです。聞いていますです﹂
1694
ですです。
鏑木はチッと舌打ちをした。
﹁⋮それで?お前はさっきから俺の話も聞かずに、なにを読んでい
るんだ﹂
鏑木が私の隣に席を移動してきて、私の読んでいる雑誌を横から
覗きこんできた。なんだよ∼、見るなよ∼。
﹁なんだこれは。お好み焼き?貸せ。俺に見せてみろ﹂
﹁あっ!ちょっと!﹂
私が先に読んでるのに!
今度はお好み焼きに興味を持った鏑木は、私から雑誌を取り上げ
て自分が読み始めた。この自己中め!
﹁鏑木様はお好み焼きを食べたことはあるんですか?﹂
﹁確か日本の店が支店を出している海外の鉄板焼き店で、食べた覚
えがあるな﹂
なぜにわざわざ海外。
まぁラーメンもだけど、庶民の食べ物の代表格を鏑木家の御曹司
が食べる機会なんて、あまりないだろうねぇ。私だってお好み焼き
を吉祥院家の家族で食べたことは記憶にない。もっぱら屋台などで
自力調達だ。
そうして私が鏑木にラーメンあっさり派とこってり派の争いや、
お好み焼きのトッピングについてのレクチャーをしていると、小会
議室の扉が開いた。
現れたのは円城だった。
1695
﹁ここにいたのか。ふたりしてなにしてんの?﹂
﹁高道とのデートプランを立てている﹂
鏑木の言葉にそういえば最初の目的はそれだったなと思い出した。
お好み焼きに心を持っていかれて、すっかり忘れていたよ。
﹁ふぅん、そうなんだ﹂
⋮﹂
並んでも絶対食べたいラーメン特集
B級グルメ完全網羅!
円城は私達がテーブルに広げている雑誌に目をやり、
﹁
住みたい街ランキング
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁デートプラン?﹂
みなまで言うてやるな、円城よ。鏑木が買ってきた雑誌がとんち
んかんなのは、本人だって薄々気がついている。ほら、鏑木が痛い
ところを突かれたって顔をしているじゃないか。
﹁え、えっと、あらっ!ここに何組かの読者カップルのある日のデ
ートコースが載っていますよ﹂
﹁どこだ﹂
心優しい私はなんとか挽回させてやろうと、読者ページから恰好
の記事を見つけ出した。鏑木も興味深げに読み込んだ。
﹁ここにも載っているように、まずは待ち合わせをして、映画を観
て、その後でランチかカフェに行くのがいいんじゃありませんか?﹂
1696
﹁映画か﹂
﹁デートの定番といえば映画ですからね。ほら、こっちの学生カッ
プルの談話に﹃映画を観た後はカフェでお互いの感想を言い合って
盛り上がる!﹄って書いてありますし﹂
﹁なるほど。それはいいかもしれないな﹂
乗り気になった鏑木は公開中の映画をチェックし始めた。ご親切
にもデートにお薦めの映画も紹介されている。
﹁鏑木様は映画はよくご覧になるんですか?﹂
﹁あぁ。映画は好きだ﹂
それなら丁度いいんじゃないか?
﹁好きなジャンルはあるんですか?﹂
﹁俺は生き物の生態を追うドキュメンタリーが好きだな。厳しい自
然の中で生きる動物達の壮大な世界に圧倒される。家でも気分転換
をしたい時によく観ている﹂
ほお∼。鏑木の好きな映画はネイチャードキュメント物か。らし
いと言えばらしいセレクトかな。
﹁でも残念ながら、今はその手の映画は公開されていませんねぇ﹂
﹁そうだな。今一番人気なのは、この恋愛映画のようだ﹂
恋愛映画か。
鏑木が指差した映画のあらすじを読みながら、私が﹁鏑木様は恋
愛映画なんてご覧になったりしますか?﹂と聞くと、鏑木より先に
円城が﹁こう見えて雅哉はラブストーリーも好きなんだよ﹂と答え
た。
1697
﹁あら、そうなんですか?﹂
﹁そう。ロマンチストなんだよ。しかもラブコメディよりも苦難を
乗り越えて結ばれるような王道のラブストーリーが好きなんだ﹂
﹁うるせぇよ﹂
恋愛映画好きをばらされて恥ずかしかったのか、鏑木は不機嫌そ
うな顔をした。
みた
﹁でしたらこの映画はぴったりなんじゃありません?閉鎖的な村に
ショコラ
は好きだ。あの映画は恋愛というよりヒューマ
やってきたよそ者と村娘の道ならぬ恋ですって。
ショコラ
いな話かしら﹂
﹁俺も
ンドラマだけどな﹂
チョコレートをショコラと言う人間は、映画もショコラが好きか。
私はショコラをチョコレートと言うから、映画はチャリチョコが好
きよ。
でも男子でも恋愛映画が好きだったりするのね∼。
﹁もしかして円城様も、実は恋愛映画がお好きなんですか?﹂
私は先程から薄笑いで私達を見ている円城に質問をした。
﹁僕?僕はほとんど観ないなぁ。正直言って恋愛映画って何が面白
いのかわからない。恋愛は観るものじゃなく、するものでしょ﹂
私と鏑木は石化した。
﹁ほ、ほほほ。そうですか。では円城様はどういった映画がお好き
1698
なんですか?﹂
﹁僕は昔の映画が好きかな。
⋮﹂
カリガリ博士
コックと泥棒、その妻と愛人
、
ブリキの太鼓
⋮好きな映画でその人の性質が垣間見えることってあるよね。
私は円城から心の距離を置いた。
、
私と鏑木が雑誌を見ながら当日のスケジュールを細かく練ってい
ると、暇だったのか円城は近くの雑誌を手に取り、気のない様子で
パラパラとめくった。
そして﹁まぁこうして色々調べるのもいいけどさぁ﹂と呟くよう
に言った。
﹁なんだ、秀介﹂
﹁うん?雑誌に載っているような型通りのデートコースをなぞって、
果たして相手は本当に楽しんでくれるのかなぁって思ってさ﹂
私と鏑木は目を見合わせた。
﹁どういう意味だ﹂
﹁だって誘うからには自分よりもまずは、相手が楽しいと思ってく
れることが一番大切でしょ。だったら見ず知らずのカップルのデー
トコースをそのまま真似するよりも、自分がデートする相手の趣味
嗜好に沿ったプランを立ててあげるほうが喜んでもらえるんじゃな
いの?﹂
円城は﹁雑誌を隅々まで読んだって、結局高道さんの意見は書い
ていないんだしね﹂と続けた。
⋮なるほど。デートをし慣れた恋愛謳歌村の村民はこう言ってい
るけど、どうする鏑木?
1699
鏑木は雑誌をテーブルに置いた。
﹁マニュアルに頼るなよ、吉祥院﹂
清々しいほどの裏切りーー!!
なんてヤツだ。マニュアル頼みの汚名をすべて私だけに被せて、
自分だけしれっと恋愛謳歌村の村民側ですって顔をするなんて!こ
の雑誌はすべて鏑木が用意してきたくせに!最初にマニュアルに頼
ったのは自分のくせに!これではまるでここにいる三人の中で、私
だけがデートもしたことのないモテない女子みたいじゃないか!デ
ートくらい年上から年下まで何回もしてるしぃ!
頭にきたので、雑誌は慰謝料代わりに私がもらって帰ることにす
る。これみよがしにカバンにしまいこんでやると、一瞬鏑木があっ
という顔をしたけれど、知るもんか。
そしてそこまで言うなら、自力でデートプランを想像できない恋
愛ぼっち村の村長が、恋愛謳歌村の村民に尋ねようではないか。
﹁では参考までに、円城様がこれまでご自分で立てたデートプラン
を教えていただきたいですわねぇ﹂
つまらないプランなら、鼻で笑ってやるわ!
円城はにっこり微笑んだ。
﹁僕の話は参考にならないんじゃないかな?自分から誘ったことは
ほとんどないから﹂
おお神よ!どうか恋愛謳歌村に局地的氷河期を!常春の地を永久
凍土に!
﹁まぁ、ほほほ。そんなことではお相手から、つまらない人とすぐ
1700
に振られてしまうのではありません?﹂
﹁ごめんね、吉祥院さん﹂
円城は笑みを深めた。
﹁僕は生まれてこのかた、振られたことがないんだ﹂
呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪
呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪
呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪⋮⋮⋮⋮。
傍らでは皇帝陛下が、見えない敵に向かってシャドーボクシング
をしていた││。
テストが終わったらラーメンとお好み焼きに連れ
という迷惑メールは当然削除した。
その夜届いた
て行け
1701
239
明日からいよいよ中間テストなので、最後の復習をしておく。し
ばらく問題集を解いていたが、書き損じた部分を修正するために消
しゴムを取ろうとした時、ふと参考書の山に挟まった瑞鸞大学のパ
ンフレットが目に入った。
ちょっと休憩しようかな。
私はベッドにごろんと転がって、大学のパンフレットを見ながら、
将来について考えた。
実は私には子供の頃から抱いている野望がある。││それは一攫
千金。
没落した時のことを考えて、小学生の頃からコツコツ貯金をし、
将来は福利厚生のしっかりした所に就職︵公務員希望︶して手堅い
人生を送ることを第一目標としていたが、一方で濡れ手で粟の人生
にも途轍もなく憧れているのだ。はぁ∼、いいよねぇ。一生困らな
いだけのお金を稼いだら、あとはのんびり悠々自適生活。うっとり。
でもだからと言って宝くじで1等が当たるとか、見ず知らずのお
じいさんを助けて遺産が転がり込んでくるとか、そんな夢みたいな
ことは考えていない。私はもっと堅実だ。
そしてそんな堅実な私が一体なにでボロ儲けを狙っているかとい
うと、それはズバリ発明だ。
主婦が発明して大ヒットとなった、洗濯機のゴミ取りネットやつ
ま先スリッパのような商品をいつか私も発明して、夢の不労所得生
活を狙っているのだ!
憧れのパテント料生活のためにも、私は大学では特許について学
べる学部に行きたいと考えた。でも内部進学での倍率が高いなぁ。
それとどうせ特許を勉強するなら、弁理士になって自分の発明を自
分で特許申請できたら楽でいいよねぇ。コツコツ人生に国家資格は
1702
必須だし一石二鳥だ。資格の本がどこかにあったはず⋮。どれどれ、
ふんふん。まずはためしに検定から受けてみるか。
最初は発明主婦達のように日常生活の便利グッズの発明から始め
て、できれば最終的には世界をアッと驚かすようなものを作りたい。
そしてアメリカのニュース雑誌で、世界で最も影響力のある100
人に選ばれるのだ。
﹁ぐふふふふふふ﹂
私は雑誌で艶然と微笑む将来の自分の姿を思い浮かべて、ベッド
の上で足をバタバタと動かした。
野望への第一歩に、まずは何を発明しようか。身近な物からの発
明というと、やっぱり先人達に倣ってキッチングッズやダイエット
グッズかしらねぇ。これさえ使えば簡単ダイエットもの。う∼ん⋮、
たとえば着るだけで全身のツボを押してみるみる痩せる衣類とか。
でもある程度の強い刺激を与えるには、硬い素材じゃないとダメだ
よね。硬い素材。金属か。そうだ、鎖帷子なんてどうだろう。ダイ
エット・ネオ鎖帷子。アヴァンギャルドでいて、コンサバティブな
デザインですので、インナーとして場所を選ばずお召しになってい
ただけます。首元からチラリと見える鎖帷子がファッションのアク
セントになって、とっても素敵ですよねぇ。夜中の通販番組で売っ
てもらおう。そして1時間で数億円を売り上げるのだ。
﹁うひょひょひょ﹂
そのうちどこかのファッションデザイナーから、コラボの依頼が
きたりして?!世界展開なんかしちゃったりして?!この勢いだと
一等地に鎖帷子御殿が建っちゃうかも∼?!
﹁うひょひょひょひょひょひょ﹂
1703
これは笑いが止まらないっ。まずは会社を興さねば。
それ以外では最近のオイルブームに乗っかって、魚の脂でヘアパ
サヴァーandブリェ
新発売。⋮⋮イケる!
ックっていうのはどうだろう。青魚のツヤを貴女の髪に。新感覚ヘ
アオイル
そうなると消費者のニーズにお応えして、他の商品も出した方が
いいかな。同、青魚からの贈り物シリーズで、ドコサ︵シャンプー︶
、ヘキサ︵コンディショナー︶、エンサン︵ボディソープ︶も新登
場。お求めはお近くの取り扱い店舗、またはネットで。⋮⋮売れる!
あぁ、湯水のように湧いて出るアイデアがとまらない!一等地に
青魚自社ビルが建っちゃうかも∼?!
巨万の富はもう目前!
﹁ひょひょひょひょひょ∼っ!﹂
コンコンと部屋のドアを叩く音がした。
﹁麗華、もう遅いから寝なさい﹂
﹁はい、お兄様﹂
いけない、いけない。ちょっと興奮しすぎちゃった。
気分転換もできたことだし、さてそろそろ勉強を再開するか。ぎ
ゃっ!信じられない。休憩してから1時間以上も経ってる!いつの
間に?!
私はタイムロスした分を取り戻すために、栄養ドリンクをぐびぐ
び一気飲みして大慌てで机に向かった。今夜は徹夜で勉強だ!未来
の富豪生活のためにも頑張るぞ!
1704
そんなこんなでなんとかテスト最終日まで乗り切ると、鏑木はテ
ストの打ち上げという名目で若葉ちゃんをそのまま放課後デートに
連れ出した。体力あるなぁ。私はこの数日の睡眠不足で意識朦朧。
心身ともにボロボロになって、帰宅後ノンストップ10時間睡眠に
入ったっていうのに。
あとで若葉ちゃんに電話でそれとなく話を聞くと、連れて行かれ
た場所は有名なチョコレートの専門店だったらしい。
﹁あのね、1日個数限定のチョコレートパフェを食べに連れて行っ
てくれたんだけど、そのパフェに使われているチョコレートアイス
がとっても濃厚で深い味わいで、私の中のチョコレートパフェの概
念を覆すくらいおいしかったの!﹂
どうやらあれだけ悩んでいた鏑木のデートプランは、若葉ちゃん
に高評価をいただけたようだ。しかもなんと鏑木は次のデートの約
束まで取り付けたらしい。
﹁そのあとで立ち寄ったお店の壁にアンモナイトが埋まっているの
を見つけてね。私が瑞鸞でも大理石の壁の中の化石探しをよくして
いるって話をしたら、鏑木君も実は古生物学が好きで、瑞鸞のどこ
の壁になにが埋まっているって私よりも詳しかったの!もう話が尽
きなかったよ。でね、今度一緒に恐竜展に行くことになったんだ﹂
⋮デートで恐竜展というのはなかなか個性的だけど、若葉ちゃん
も楽しみにしているようだし、円城が言っていた相手の趣味嗜好に
沿ったデートコースとしては合格点みたい。やるじゃないか鏑木。
1705
そして数日後、中間テストの順位表が貼り出された。
﹁麗華様、先日の中間テストの順位が発表されたようですよ﹂
﹁あら、本当ね﹂
今回の私は少し、いやかなり自信がある。いつものように、それ
ほど興味もないけれど一応見に行きましょうかという演技をしつつ、
みんなと一緒に掲示板に行く。その間に﹁修学旅行の疲れが出てし
まって、私はあまり試験勉強ができなかったの﹂という保険もしっ
かりかける。
掲示板の前は黒山の人だかりだった。さぁ来い!学年10位以内!
え⋮っ。
﹁まぁっ、今回も鏑木様がトップでしてよ﹂
﹁さすがは鏑木様ねぇ﹂
芹香ちゃん達が横でなにかしゃべっていたけれど、私はそれどこ
ろではなかった。
無い⋮。私の、名前が、どこにも、無いっ!
私は順位表を何度も上から下まで確認した。⋮⋮無い。嘘でしょ。
あれだけ恋に現を抜かしていた鏑木が1位で、真面目に毎日コツ
コツ勉強をしてきた私が圏外?!ありえない。ありえなーいっ!
﹁あー、今回も高道には勝てなかったなぁ﹂
﹁結構頑張って勉強したからね∼。でも水崎君だって3位だよ﹂
﹁まぁな。次回は絶対に勝つよ。とりあえず高道2位おめでとう﹂
﹁えへへぇ。ありがとう。水崎君もね。3位おめでとう﹂
﹁ありがと﹂
1706
少し離れた場所では、若葉ちゃんと同志当て馬がお互いの健闘を
讃え合っていた。
若葉ちゃん、結構頑張ったのか。ちなみに私もかなり頑張ったん
ですけど⋮。こう言ってはなんだけど、若葉ちゃんは生徒会の仕事
が忙しかったり、休日は私と遊んだりもしていたし、鏑木なんか恋
に浮かれてほとんど勉強なんてしていなかったよね?!なのになん
なのこの差は。私と彼らのなにが違うと言うの?!テスト期間中は
ほとんど寝ないで勉強して行ったのに。栄養ドリンクを何本消費し
たと思っているのよ。吹き出物が出来て、ちょっと胃も荒れたよ。
そこへモーセの海割れをさせて、鏑木と円城がやってきた。
鏑木は周囲の称賛の声にも淡々とした態度で、自分の順位を特に
感動もなく一瞥した。そして片眉を上げると、隣の円城に﹁秀介、
調子が悪かったのか﹂と聞いた。
円城はそれに対して、苦笑いで応えた。
鏑木が1位、若葉ちゃんが2位、同志当て馬が3位。そして円城
は4位だった。
円城が4位か⋮。4位で調子が悪いって言われちゃうのもどうか
と思うけど、でも考えてみたら今まで円城ってトップ3から滑り落
ちたことがないのよね。そんな円城がその座から陥落するとは意外
だったな。とは言っても充分好成績の4位だけどね。4位。⋮4っ
てちょっと不吉な数字だよね。私の呪いが効いたかな?
私の視線を感じたのか、鏑木がふいにこちらを向いてぱちりと目
が合った。
目が合った鏑木は一旦私から目を外すと、順位表に向き直り視線
を上下させ、もう一度私のほうを見た。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
やめろ。そんな目で見るな。
1707
鏑木の口ほどにものをいう目から逃れるように、私は芹香ちゃん
達を連れて教室に戻った。
﹁ねぇ、さっき鏑木様が麗華様を見つめていらっしゃらなかった?﹂
﹁菊乃さんも気がついた?熱い眼差しで麗華様を見ていらしたわよ
ね!﹂
芹香ちゃん達はきゃあきゃあと盛り上がっているが、見当違いも
甚だしい。鏑木のあの目は﹁お前、塾だ家庭教師だって散々ガリ勉
発言していたくせに、全然成績良くないじゃないか﹂って言ってた
んだよ!
ああっ!鏑木の呼び出しを断る口実に、勉強なんか使うんじゃなか
った!恥ずかしくて居たたまれないっ!
その後配られた成績表を、誰にも見られないようにそ∼っと確か
める。⋮やだっ、死人番号!不吉!
想像以上の下落ぶりに、激しい動悸と息切れに見舞われた。塾の
日数増やそうかな⋮。
ショックを放課後まで引き摺ったまま、ピヴォワーヌのサロンの
隅で無言でお茶を飲んでいると、芙由子様が﹁元気がないようです
けど、なにかお悩みごとでも?﹂と、そっと声を掛けてきた。
﹁悩みがあるのなら、私にお力にならせてくださいませ。実は私、
この度リュレイア様のお導きで、巫女見習いになりましたの﹂
﹁巫女見習い⋮?﹂
リュレイア様って誰?ってあぁ、前に芙由子様に呼び出されて紹
介された、自称ヒーラーの人か。巫女ってまた怪しげなことを⋮。
1708
﹁ええ。天に仕える私達巫女は悩める人々を導くことが使命ですの。
麗華様、私の手をお取りになって。まずはこうして私の手から麗華
様に気を送りながら、心も浄化し癒していきます﹂
﹁はぁ⋮﹂
﹁ほら、だんだん体の中を温かい気が巡っていく感覚がございませ
んか?﹂
いや、全然。すると芙由子様が突如、ウィ∼∼とホーミーのよう
なうなり声をあげ始めた。
﹁ちょ、ちょっと芙由子様﹂
﹁天使を降ろします。ウィ∼∼﹂
﹁やめて、やめて﹂
お願い、人目を気にして。近くにいた何人かの人達が妙な音に気
づいて﹁携帯?﹂﹁蝉?﹂と、その音の発生源をきょろきょろと探
していた。
﹁私はまだ巫女見習いですが、精一杯導かせていただきますわ。5
人導けば正巫女になれますのよ。さらに10人導けば中級巫女、2
0人導けば上級巫女に⋮﹂
﹁⋮芙由子様、それって﹂
ネズミ講ですよ、芙由子様!
私は鍋や洗剤を例に、ネズミ講というシステムについて、芙由子
様に懇々と諭した。悩みを解消してくれるどころか、更に悩みが増
えた気がする⋮。
1709
240
なんとか芙由子様にネズミ講の危険性を理解してもらい、ひとま
ず怪しげな巫女修行を止めさせることには成功した。そして芙由子
様をひとりにしておくと、すぐに電波な空想世界に飛んで行ってし
まうので、休み時間やお昼休みにもなるべく積極的に話しかけて、
グループの輪の中に入れるようにしたら、相変わらずおっとりとし
ていて皆と若干テンポが違いつつも、今までのように輪の端で微笑
みながらもただ黙っているだけの状態から、それなりに芹香ちゃん
達とも打ち解けて楽しくおしゃべりできるようになってきた。
そして今日もピヴォワーヌのサロンで私は芙由子様と一緒にお茶
を飲んでいる。
﹁そもそもどうしてああいった方々とお知り合いになったのですか
?﹂
芙由子様はティーカップを手に小首をかしげ、﹁そうですわねぇ﹂
と思い出すように空を見上げた。
﹁確かよく当たるという占い師さんを巡っている時に、偶然お会い
したのが最初でしたわね。私は昔から占いや黒魔術や世界の不思議
な話、怖い話などが大好きだったのですが、残念なことに周りに同
じ趣味の方がいなかったので、同好の士の方々との交流はとても楽
しゅうございました﹂
ん?今、サラッと黒魔術って言ったよね。
﹁あの芙由子様、よもや黒ミサやサバト的な集会に参加したりは⋮﹂
1710
私の心配を芙由子様は﹁まさか﹂と一笑してくれたので、とりあ
えずホッ⋮。瑞鸞のモンテスパン侯爵夫人になっちゃったかと思っ
たよ。私は﹁絶対に参加したらダメですよ﹂と念押しした。
﹁大丈夫ですわ。私はそのような話を語るのは好きですけれど、実
際に動物の生き血を頭からかぶるような真似は、とてもじゃないで
すが恐ろしくて出来ませんもの。それにどちらかと言えば、私は降
霊術や占星術が好きなので﹂
あぁ、私にもしきりに西洋こっくりさんを一緒にやろうと誘って
きたっけ。あれに率先して付き合ってあげる人を身近で見つけるの
は、確かに難しいかもしれない。瑞鸞にもオカルト部とかあれば良
かったんだけどねぇ。さすがにそんな怪しい部活を学院が承認する
はずないか⋮。
﹁その頃、プライベートなことで少し悩みごとがございまして。リ
ュレイア様には色々と相談に乗っていただいたのです﹂
﹁まぁ悩みが⋮。芙由子様、なにか悩みごとがあるのでしたら、よ
ければ私に聞かせてくださいな。私でお力になれるかわかりません
が、一緒に解決法を考えましょう?﹂
あんまり重すぎる悩みだと対応に困るけど、聞くだけは聞くよ!
役に立つ自信はないけどね!
芙由子様は一重の目を見開くと、ちょっと嬉しそうに﹁ありがと
うございます﹂と頬を緩めた。
﹁では麗華様、私の悩みを聞いていただけますか?﹂
﹁ええ、もちろん﹂
1711
私は力強く頷いた。私達って悩み多きお年頃だものね。なにかし
ら?家族関係の悩み?友人関係の悩み?学業の悩み?やっぱりお年
頃の悩みといったら恋愛の悩みかしら?
私は芙由子様の悩みを聞き洩らさない為に、隣に移動して芙由子
様の方へ耳を寄せるように体を傾け内緒話の姿勢をとった。さあ、
芙由子様。悩みをどうぞ!
﹁実は夜ひとりで部屋にいると、ラップ音がするんです﹂
﹁え﹂
そっち?!
﹁ラップ音の悩みですか⋮﹂
⋮⋮さすがだ、芙由子様。悩みごとすらオカルトとは⋮。萩小路
芙由子。徹頭徹尾ブレない女││。
﹁数年前からでしょうか。ベッドに入って眠ろうとすると、部屋の
隅から不吉なラップ音が鳴って、金縛りにあうようになったのです
⋮﹂
﹁わぁ⋮﹂
芙由子様の背後から、ひゅ∼どろどろどろどろ⋮というBGMが
聞こえてきた気がした。
﹁そして夜中、部屋のあちこちからするバキッ、バシッといった身
の毛もよだつようなおぞましいラップ音に目を覚ましますと、必ず
金縛りにあい、誰かに上から押さえつけられる様な圧迫感に苦しめ
られるのです⋮﹂
﹁うわぁ⋮﹂
1712
それは怖い。ラップ音に金縛り。確かに心霊現象かもしれない⋮。
別の意味で悩みが重い。
芙由子様の背後に、サロンを飛び交う幻の人魂が見えた気がした。
ううううっ、背筋がぞわぞわするっ。
﹁⋮ええっと、それはきちんとしたお寺や神社でお祓いをしてもら
ったほうがよろしいのでは?﹂
﹁ええ。私もそう思いまして、リュレイア様にご相談いたしました
ら、高名な霊能者様を紹介していただきましたの﹂
﹁霊能者⋮﹂
﹁ええ。その霊能者様はそれはもう強いお力を持つお方で、一度も
来たことも見たこともない私の家の庭に、古い井戸があったことを
霊視されましたのよ!﹂
その時の興奮を思い出すかのように、芙由子様は熱く語りだした。
﹁もちろん私は家の庭に井戸があるなどという話もしていませんわ。
だって枯れた古井戸があったことすら普段は忘れているくらいです
もの﹂
﹁それは凄いですね⋮﹂
﹁ええ、凄いです。他にも庭には大きな松の木があるはずだとか、
あまりにもピタリピタリと当てられて驚いてしまいましたわ。それ
でその先生がおっしゃるには、昔その井戸では結婚を控えた若い女
性が落ちて亡くなっているそうで⋮。当時は不幸な事故として処理
されたそうなのですけど、実はそれは事故などではなく、その許嫁
に⋮﹂
﹁ええっ!﹂
殺されたってこと?!やだやだ!怖すぎるよっ!ごめん、芙由子
1713
様。私には芙由子様の悩みは荷が勝ちすぎるみたい!
﹁そして先生の霊視で、その女性が今も成仏しきれず、自分の恨み
や悲しみを一番歳の近い私に知ってもらいたいために、ラップ音や
金縛りといった霊障を起こしているということがわかったのです⋮﹂
あれ、なんだか急に肩が痛くなってきた⋮。
﹁それで先生に除霊はしてもらえたのですが、長年その井戸に強い
念を持つ霊がいたことによって霊道が繋がってしまったそうなので
す﹂
﹁霊道?﹂
﹁ほら、京都にもありますでしょう?平安時代に小野篁が地獄へ行
き来するのに使ったという井戸が。私の家の古井戸が、あのような
状態になってしまったそうなのです﹂
﹁大変じゃないですか!﹂
﹁ええ。でも先生が井戸を封印するお札をくださったので今の所そ
れほど大事には至ってはいないのですが、やはりラップ音と金縛り
には時々悩まされますの﹂
﹁⋮⋮﹂
⋮困った。力になるなんて軽々しく言っちゃったけど、霊障の悩
みは私にはどうすることもできない。だいたい私だったら霊がいる
部屋なんて、一時だって我慢できない。よく居られるな芙由子様。
いや、悩んでいるのか。
﹁うっ⋮﹂
そして肩が重い。ねぇ、もしかして憑いちゃってるんじゃない?!
1714
﹁どうかしました?﹂
﹁いえ⋮、なんだかちょっと肩が⋮﹂
﹁まぁなんてこと!お待ちになって﹂
芙由子様は制服のポケットからピンク色の勾玉を出すとそれを握
り、私の肩を擦りながら﹁オンキリキリ⋮﹂と真言を唱え始めた。
﹁芙由子様、それは魔除けの勾玉なのですか?﹂
﹁いいえ。これは縁結び神社でいただいた良縁勾玉です﹂
縁結びのご利益じゃ意味なくない?!
それでも芙由子様に肩を擦り続けてもらう内に、徐々に肩が軽く
なってきた。良かった⋮。
﹁でも霊道が通っている限り、芙由子様のお悩みは解消されないの
ですよねぇ⋮﹂
﹁ええ。でも仕方ないと半ば諦めてはいるのです。定期的に先生に
祈祷をしていただいていますし、私もリュレイア様よりヒーラーの
力を授けていただいたので、こうして悪い気を自分で浄化すること
もできますし⋮﹂
そう言って芙由子様は私の肩から背中を丁寧に擦ってくれた。
﹁お前達は一体なにをやっているんだ﹂
突然声をかけられたのに驚いて顔を上げると、不審なものを見る
ような顔をした鏑木が私達の前に立っていた。
今の私の格好は、サロンの隅で芙由子様と体を寄せ合いながら、
ひたすら肩を擦ってもらっている状態だ。うん、ちょっぴり不審か
も。私は背筋を伸ばして座り直した。
1715
﹁ごきげんよう、鏑木様﹂
まずは何事もなかったかのように挨拶と笑顔でごまかす。が、鏑
木はますます訝しげな目付きになってしまった。ちっ、流すという
ことを知らないヤツだ。
﹁⋮えっと、こちらの芙由子様と大切なお話をしている最中でした
のよ﹂
私の言い訳めいた言葉に、芙由子様が﹁はい。麗華様に私の悩み
を聞いていただいておりました﹂と続けた。あ、それ言っちゃって
いいの?
﹁悩み?﹂
鏑木が目を眇めた。
﹁え⋮ええ、そうなんです。それでまだそのご相談を受けている途
中ですので⋮﹂
邪魔者はあっち行けと言外に匂わせたつもりが、なぜか鏑木は私
達の前のソファにどっかと座った。はい?
﹁よし。話してみろ﹂
﹁は?﹂
なぜに?
﹁俺も吉祥院に少し用事があるんでな。先にそっちの問題を片付け
1716
よう﹂
え、なにを勝手に話を進めてんの。しかも鏑木の用事なんて悪い
予感しかしないんですが。
﹁それはちょっと⋮﹂
鏑木の表情が続きを促しているけど、私は話を渋った。
﹁だったらその悩みとやらの解決策は見つかりそうなのか﹂
それは心霊現象の悩みなんて、全くのお手上げ状態ですけど。
﹁どうした。俺には話せない内容か﹂
う∼ん。だってこれ話していいのかな。ヘタしたら萩小路邸に霊
に取り憑かれた、いわく付き物件といった悪評が立つ恐れがあるし
⋮。
横の芙由子様にどうしますか?とアイコンタクトで確かめると、
芙由子様が小さく首を縦に振った。どうやら鏑木に話してもいいら
しい。仕方なく代表で私が説明することとなった。
﹁くれぐれも他言無用としていただきたいのですが﹂
﹁わかった﹂
鏑木がしっかり頷いたのを確認して、私は小声で話し始めた。
﹁実は芙由子様は前から超常現象に悩まされているそうなのです⋮﹂
﹁超常現象?﹂
1717
鏑木は眉を顰めた。
﹁はい。具体的には夜中に部屋でラップ音が鳴ったり、金縛りに合
ったりしているそうなのです。ね、芙由子様﹂
﹁はい⋮﹂
芙由子様は困ったように微笑んだ。私はそれが数年に渡っている
ことや頻繁に起こることなどを更に代弁する。鏑木は芙由子様に視
線を向けた。
﹁家は木造建築か﹂
﹁え、はい⋮﹂
﹁それは乾燥や湿気によって建材か、部屋の木製家具などが収縮し
てきしむ音だな。家鳴りというよくある自然現象だ。気にする必要
もないが、ただ建物自体に問題が発生している可能性も無くはない
ので、まず家に帰ったら部屋の中央にビー玉を置き、一定方向に転
がっていったら速やかに建築士に連絡を取ることを勧める﹂
﹁自然現象⋮﹂
﹁ビー玉⋮﹂
鏑木はあっけなくラップ音を解決した。そして﹁シロアリは厄介
だぞ﹂と付け足した。
﹁ですが金縛りは⋮﹂
﹁睡眠の質が悪いせいだな。金縛りにあうようになった時期に生活
に変化は?﹂
﹁近くでお葬式がございましたわ﹂
﹁それは全く関係ない。枕を変えたとかストレスで眠りが浅いとか﹂
﹁枕⋮?そういえば高等科にあがった時期に和室だった部屋をリフ
ォームして洋間になったのを機に、お布団からベッドにいたしまし
1718
た﹂
子供の頃からベッドで寝ることに憧れておりましたのと、恥ずか
しそうにはにかむ芙由子様に、鏑木は﹁それだな﹂と頷いた。
﹁リフォームによる新建材の家鳴り現象と、慣れない寝具による睡
眠障害から起こる金縛りだ。家鳴りは建材の収縮が落ち着けば減る。
金縛りは床に布団を敷いて寝れば治る﹂
﹁寝慣れないベッド⋮﹂
﹁床で布団⋮﹂
平安顔の芙由子様に、ベッドは合わなかったらしい⋮。
﹁これで終わりか﹂
鏑木が腰を上げようとした時、芙由子様が﹁でも霊能者の先生が
⋮﹂と漏らしてしまった。
﹁霊能者⋮?﹂
あー、聞かれちゃった。鏑木は一旦上げた腰をもう一度下ろした。
芙由子様、井戸の話をする気?
﹁霊能者とは、なんのことだ﹂
私と芙由子様はチラッと目を見合わせた。
﹁えっと、私達には見えない物が見える方がいらっしゃるそうで⋮﹂
﹁見えない物が見える?﹂
1719
鏑木の目が鋭くなった。
﹁それは視覚障害が幻視を引き起こすシャルルボネ症候群かもしれ
ない。速やかに病院で精密検査を受けることを勧める﹂
﹁視覚障害⋮﹂
﹁シャルルボネ症候群⋮﹂
鏑木は眼科の名医のいる病院の名前を挙げた。
﹁あの、でもその方は来たことのない芙由子様の家の庭に、枯れた
井戸や松の木があることを知っていたそうなんですけど⋮﹂
芙由子様もうんうんと同意する。
﹁ええ、そうなんです。誰にも言っていない井戸のありかを正確に
当てたのです。これはやはり幻視ではなく霊⋮﹂
﹁それは不動産登記簿を調べたか、航空写真でも見たんじゃないか﹂
﹁不動産登記簿⋮﹂
﹁航空写真⋮﹂
﹁そうやって事前に調査した内容を、あたかも超能力のように披露
するテクニックをホットリーディングという﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
なんという現実的な答え。そしてなんという説得力。ラップ音は
リフォームした建材のきしみ。金縛りは合わない寝具での睡眠障害。
霊視はシャルルボネ症候群に不動産登記簿と航空写真。そしてホッ
トリーディング⋮。
私は傍らの芙由子様の様子を窺った。
1720
﹁だ、そうですよ。芙由子様⋮﹂
﹁え、あ⋮、はい﹂
芙由子様は毒気の抜けた顔をしていた。
最後に私の﹁じゃあ先程からのこの肩の重苦しい痛みは⋮﹂とい
う不安に対しては、
﹁吉祥院、それは無理な姿勢による肩こりだ﹂
の一言で解決した。
﹁じゃあこれでもういいな﹂
今度こそ鏑木は立ち上がった。そして私の肩にがしっと片手を置
いた。
﹁さて、次は俺の話だな﹂
あっ、肩に悪霊の重みが⋮!
1721
241
肩に取り憑かれた悪霊の導きにより私が小会議室に移動すると、
そこにはサロンにいなかった円城がいた。
﹁遅かったね﹂
﹁まあな﹂
今日は円城も一緒なのか。
鏑木は椅子にも座らず立ったまま、自分のカバンからゴソゴソと
一冊の雑誌を取り出した。あ、それは私が前に裏切りの代償に没収
したラーメン特集の情報誌。あれからまた買い直したのか⋮。なに
やら付箋がいくつも貼ってあるのが見えるんだけど。
﹁テスト前に約束したラーメン体験だが、熟慮を重ね比較検討した
結果、今日俺はこの3つのうちのどれかに行ってみたいと思ってい
る﹂
そう高らかに宣言をした鏑木が付箋の貼ってあるページを開き、
私に赤ペンで丸の付いているお店を指し示す。ここと、ここと、こ
こ。
私は深々と頭を下げた。
﹁同行は謹んでご辞退させていただきます﹂
額にどーんと不採用を押された鏑木は、早速﹁なぜだ﹂と不機嫌
になった。
1722
﹁なぜって。この3店舗ともすべて繁華街のど真ん中ではありませ
んか。こんなところを制服でウロウロしていたら、確実に誰かに目
撃されるに決まっています。私は自身のフィールドワークを瑞鸞生
や身内等には極秘にしていると前から言っていますよね﹂
しかもどのお店も何十分も並ぶことで有名な大人気店だ。日本屈
指の名門校の制服を着た、他を寄せ付けない黒豹のような風格と美
貌を持つ男子高生と、ゴージャス縦巻きロールの女性高生がラーメ
ン屋さんの行列に並んでいたら、悪目立ちするにもほどがある。
鏑木は手にした雑誌に目を落としてむむむと黙り込み、円城は無
責任に﹁がんばれ∼﹂と囃し立てた。それはどっちに対してのがん
ばれだ。
﹁でも俺はラーメンが食べたいんだ﹂
そりゃあ雑誌を買い直すくらい興味があるんだからねぇ⋮。
ひとり椅子に座っている円城は、机に両手で頬づえをついて面白
そうに笑いながら、完全に高みの見物をしている。ニヤニヤすんな!
⋮面倒くさい。断りたい。心の底から行きたくないけど、あの中
間テストの結果から、もう断る口実に勉強は使えない。あれだけ今
まで試験勉強を言い訳にしていたのに、蓋を開けて見ればあの体た
ど
らくだ。学年トップと、圏外の死人番号。とてもじゃないが恥ずか
しくて、二度と勉強が∼なんて言えない。
と笑って語ってきた。
特等席で見物している円城をチラッとみると、その目が私に
うするの?
⋮⋮。
はっきりと了承していない一方的な約束だったとはいえ、一応テ
ストが終わったらラーメンを案内する話にはなっていた。そしてた
った今、八方塞がりだった芙由子様の心霊相談をバッサバッサと切
1723
り捨てて、スピリチュアルにどっぷり嵌まった芙由子様の目を覚ま
させてくれた恩もある⋮。
﹁⋮私の知っているラーメン屋さんでしたら、案内しますが?﹂
﹁よし、譲歩する!﹂
即決した鏑木は雑誌をカバンにしまうと、﹁さぁ行くぞ!﹂と指
揮を執って小会議室のドアを開け、私と円城がそれに続いた。
﹁吉祥院さん行きつけのお店かぁ。楽しみだね﹂
先を歩く鏑木の背中を見ながら、私と並んで歩いている円城が言
った。
﹁行きつけというわけではないのですけど⋮。でも珍しいですね、
円城様もご一緒するなんて﹂
﹁雅哉からいつも話を聞いていて、僕も興味があったんだよね﹂
﹁そうだったのですか﹂
だったら仲良くふたりで調べて行って来ればいいのに。
﹁しかし吉祥院さんもずいぶんと変わった所に出入りしているよね
ぇ。なんだっけ、ファーストフードにファミレスに、スーパーだっ
け?で、今回はラーメン。僕達の周りにいる人達の話題には、およ
そ出ないスポットばかりだよね﹂
きた。
﹁私は常々視野を広く持った人間でありたいと考えております。た
だでさえ小学校から瑞鸞という限られた世界で育ってきているので、
1724
何かと情報が偏りがちの自覚がございます。それでは将来社会に出
た時に困るのは自分ですから。世間知らずとならぬよう、日頃より
情報収集に勤しみ努力している次第でございます﹂
私のつらつらと淀みない答えに円城がクッと小さく吹き出した。
﹁なにその丸暗記したかのような答弁口調﹂
そりゃあもう、万が一買い食いがバレた時の為に前々から用意し
ておいた言い訳ですから。
﹁私のこのフィールドワークは誰にも言っていない秘密事なので、
円城様もくれぐれも他言しないでくださいね﹂
﹁フィールドワークね⋮。大丈夫、僕は口は堅いほうだから﹂
﹁絶対ですからね。約束ですよ﹂
﹁OK。でももし破ったら?﹂
﹁祟ります﹂
こちらには黒魔術に精通した芙由子様がいるのだ。毎晩夢枕に立
って恨み言を一晩中言うぞ。円城は﹁祟られるのは怖いから、約束
は守るよ﹂と両手を上げた。
お店に着いたら少しでも目立たないように、制服のジャケットを
脱ぐようにと注意する。鏑木に加え円城までいるのだ。変装にどこ
かで安い紺のスクールセーターでも買おうかしら。
﹁制服といえば、もうすぐ夏服に衣替えの季節だね﹂
﹁そうですね﹂
夏服かぁ。夏服⋮。半袖⋮。
駐車場まで来た私達は、誰の車に同乗していくか話し合う。いっ
1725
そタクシーでいいんじゃない?
そこへ﹁円城さん!﹂と走ってくる人影が││。人の顔を見ると
バカの一つ覚えのように﹁円城さんに近づくな﹂しか言わない、鳥
頭のアホウドリ桂木少年だった。
﹁あの円城さん、ちょっといいですか﹂
﹁なに﹂
﹁ちょっと⋮﹂
他の人には聞かれたくないのか、桂木少年が私達の方を窺う。そ
して私と目が合った。
﹁あっ!またお前か!﹂
私の姿は長身の鏑木と円城の影に隠れて見えていなかったらしい。
気づいた瞬間から敵対心むきだしで睨んできた。
﹁あら鏑木様、この後輩が鏑木様を睨んでおりますよ。これは鏑木
様への謀反の疑いありでしょうか﹂
アホウドリはギョッと目を見開いた。
﹁違いますっ!俺が睨んでいたのは鏑木さんじゃなくて⋮!﹂
﹁おお怖い。謀反、謀反﹂
アホウドリは両羽をバサバサ揺らし大焦りだ。けけけっ。鏑木が
呆れたような目で私を見た。
﹁お前はまた円城さんに付き纏っているんだな!しかも円城さんだ
けじゃなく鏑木さんにまで!なんてヤツだ!﹂
1726
﹁ごきげんよう、桂木後輩。貴方は先輩に対しての礼儀というもの
を、何度言わせれば理解できるのかしら?あらごめんなさい。貴方
は三歩歩くと忘れる鳥さんなみのオツムだったわね。でもご存じ?
中等科までは義務教育でどんなに成績が悪くても進級できたけど、
高等科からは留年制度があるということを。あぁ私には見えるわ。
瑞鸞の生き字引、永遠の高校1年生として伝説になるヨボヨボのお
じいさんの貴方の姿がっ﹂
﹁なるかっ﹂
﹁では、この間の中間テストの結果はどうだったのかしらぁ?﹂
鳥頭が顔を赤くしてグッと唇を噛む。ふっふっふっ、図星か。あ
んたの成績が中学時代から悲惨なことは知っているのだ。
﹁吉祥院、それはブーメランだ﹂
ぐはっ!特大ブーメランが死人番号の私の脳天に突き刺さった!
やっぱり鏑木は順位表圏外だった私を、がり勉してたのに全然成績
良くないじゃないかって思ってたんだ!
はるき
﹁春希、いい加減にしろ。僕に用があるのだろう﹂
私達の醜い言い合いに円城が割って入った。
﹁あ、はい。すいません﹂
円城と鳥頭が話をするために私達から少し離れた。
﹁お前、性格悪いぞ﹂
﹁礼儀を知らない後輩への教育的指導です﹂
1727
私は携帯を取り出し従妹の璃々奈の友達で情報通のメガネちゃん
に、鳥頭のメアドの情報を求めた。返信はすぐに来た。さすがだメ
ガネちゃん。
そうこうしている間に、ふたりの話は終わったようだ。円城は小
さくため息をついてこちらにやってくると、私達に﹁ごめん、残念
だけど用事が入った﹂と言った。
﹁そうか﹂
それに対して鏑木はそれだけ言うと﹁行くぞ﹂と私を促した。円
城と桂木後輩は私達とは反対側に歩いて行った。
﹁いいんですか?﹂
﹁あいつにも色々あるんだろ﹂
ふうん。
なにげなく振り返ると、ちょうど同じようにこちらを振り返った
鳥頭が最後に思いっ切りジロッと私を睨んできたのでそれをフンッ
と無視し、歩きながら携帯を操作した。ポチポチポチ⋮。
私ドリーさん、今アナタの後ろにいるの
遠くでギャーッという男子の叫び声が聞こえた。
今回私が案内する場所は私が何回か来たことのある、郊外の行列
はできていないけどおいしいラーメン屋さんだ。店内に入ると威勢
のいい声に出迎えられ、空いているカウンター席に案内される。座
1728
ると同時に私は早速メニューをチェックした。さて今日はなにを食
べようか。
私はラーメンは断然味噌派だ。なので今日も当然注文するのは味
噌ラーメン。でもこっちの味噌バターラーメンもおいしそうなんだ
よねぇ。
ふと円城が私にぽとりと落とした﹁もうすぐ制服も衣替えの季節﹂
という毒が、ジワッと効いた。
﹁決めたのか﹂
﹁ええ。私はただの味噌ラーメンにします﹂
バターは危険。バターは危険。
﹁鏑木様は?﹂
﹁この醤油かとんこつかで迷っている﹂
﹁初心者はまずシンプルなお醤油でいいのでは?﹂
﹁わかった﹂
師匠の適当なアドバイスに弟子は素直に従った。私は店員さんに
声を掛け、二人分の注文を頼む。
注文したラーメンを待つ間、鏑木は表情こそあまり変わらないが、
カウンターの向こうの調理風景に興味津々の様子だった。奥にある
寸胴鍋の中身を見ようと首を伸ばし、シャッシャッと麺が湯切りさ
れ、ラーメンが出来上がるたびに自分のかと身構え、別のお客さん
の元に運ばれると一瞬口が不満げに尖り、勢いよく中華鍋を振る音
でまた興味が移る。大変忙しい。
そんな様子を見ながら、そういえば中間テストが終わった後、鏑
木は若葉ちゃんを有名なチョコレート専門店に連れて行って、一緒
に限定のチョコレートパフェを食べてきたんだったなということを
思い出した。
1729
﹁⋮⋮﹂
私をテスト前に自分の都合で振り回しておきながら学年トップに
なった鏑木と、脳天にブーメランが突き刺さり血がピューピュー噴
き出す死人番号の私⋮。
﹁⋮⋮﹂
熱した中華鍋に溶き卵が投入され、ジャアッと大きな音が店内に
響いたのと同じタイミングに、私達の後ろをレジ係の人が通り過ぎ
た││。
﹁はい。味噌ラーメンと醤油ラーメンのお客様!お待ちどうさまで
した!﹂
鏑木がカウンターに置かれた調味料の瓶を1つ1つ確かめている
頃に、とうとう私達のラーメンが出来上がってきた。おおっ、おい
しそうっ。私達は早速割り箸を割った。
ここのお店の味噌ラーメンは、もやしが山盛りに入っていて肝心
の麺にまで中々到達できないのが特徴だ。まずはこの大量のもやし
を片付けねば。麺までの道は険しいぞ!
﹁うん。なかなか美味い﹂
初めての庶民ラーメンに、皇帝もご満悦だ。私の丼鉢を見て﹁味
噌もいいな﹂などと言いながら、醤油ラーメンの煮卵を食べている。
鏑木はトッピングのエースを先に食べる派のようだ。
そこへ﹁餃子お待ち!﹂と私の目の前に餃子の乗ったお皿が置か
れた。私はそれを鏑木とは反対側の味噌ラーメンの横に移動し、小
1730
皿にお醤油とお酢と辣油を入れた。よし、黄金比だわ。
すると隣の鏑木が﹁おい、それはなんだ!﹂と言ってきた。やあ
ねぇ、餃子も知らないのかしら。
﹁見ての通り、餃子です﹂
﹁そんなことはわかっている!俺のには付いていないぞ!﹂
﹁別で注文したんですから、当然です﹂
サイドメニューです。
﹁いつだよ?!﹂
ラーメンの注文を終えて鏑木が店内を物珍しげに観察している時
に、後ろを通った店員さんに追加で頼んだのだよ。他のお客さんの
ご迷惑にならないよう小声で言ったので余所見をしていた鏑木は気
づかなかったのかもしれないね∼。
﹁⋮この前のポテトのケチャップもだが、お前の行動からは、そこ
はかとない悪意を感じる﹂
﹁被害妄想ですよ﹂
鏑木が胡乱な目で私を見つめた。
⋮⋮若葉ちゃんは高級チョコレート専門店で、私は町のラーメン
屋。同じ女の子なのにこの待遇の格差にイラッとして、小さな嫌が
らせをしてやったわけでは決してない。
﹁吉祥院、その餃子を俺にも半分よこせ﹂
﹁イヤです﹂
断りは、きっぱりはっきり明確に。
1731
バカめ。餃子は6個しかないんだぞ。半分も渡せるものか。食べ
たければご自分で注文をどうぞ。あぁ、熱々でおいしいっ。肉汁が
ジューシー!私は餃子はやっぱり水餃子よりも焼き餃子派だわぁ。
横からジーッと恨みがましい視線が私のこめかみを焦がすが気にし
ない。
完全無視を決め込んだ私に埒が明かないと諦めたのか、眉間にが
っつりと深いシワの入った鏑木が自分も餃子を頼もうと、片手を挙
げて厨房で調理する店員さんに声を掛けようとした。が、同時に別
のお客さんが掛けた注文の声にもっていかれ、更に次々と他のお客
さんの注文も入り、店員さん達が忙しく炒め物やラーメン作る音に
鏑木の声は虚しくかき消された⋮。
胸元あたりまで上げられていた手を、鏑木はテーブルへと静かに
下ろした。
﹁餃子、頼まないんですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
どうやら鏑木の第二人格、内弁慶君が現れたようだ。
背中に哀愁を漂わせ、無言でラーメンをすする鏑木。そこに黒豹
のような鋭さを持つ瑞鸞の皇帝の面影はない。やだ切ない⋮。
まるで雨の中、毛をペッタリとさせ、とぼとぼと歩く黒猫のよう
な哀れな姿になってしまった鏑木に、これはさすがにやりすぎたか
と、私はそっと餃子のお皿を鏑木の方へ寄せた。
鏑木がハッとした顔でこちらを見る。しょうがない、芙由子様の
件では助けてもらったからね。
﹁1個だけですよ﹂
﹁⋮ケチくさいこと言うな﹂
﹁そういうことを言うと、餃子のタレの黄金比率を教えてあげませ
んよ﹂
1732
結局、1個だと言ったのにも関わらず、鏑木がパクパクと3個も
立て続けに食べてしまったので、餃子をもう一皿注文する羽目にな
った。もちろん注文は内弁慶君の代わりに私がした。
次の日の朝、すれ違った円城に﹁昨日はどうだった?﹂と聞かれ
たので、﹁格差社会のなんたるかについて、思いを馳せた一日でし
た﹂と重々しく答えた。
﹁は?﹂
今は恋愛貧困層の私だけれど、いつかは恋愛富裕層となり、恋愛
タワーマンションの最上階の住人になってみせる!
﹁円城様こそ、ご用事はいかがでした?﹂
私が聞き返すと、円城はにっこりと読めない微笑みを浮かべた。
⋮どうやら、その微笑が答えの代わりらしい。
﹁次こそはぜひ、僕も参加させてね﹂
﹁まぁ、ほほほ。次があれば⋮﹂
円城からの申し出を愛想笑いでお茶を濁し、私が自分のクラスに
入ると芙由子様が私を待っていた。
﹁ごきげんよう麗華様。昨日はありがとうございました。ご助言通
1733
り、昨夜はお部屋の温度と湿度を一定に保ち、床にお布団を敷いて
就寝しましたら、ラップ音も金縛りもなくぐっすり眠れましたの。
それをご報告したくて﹂
﹁まぁ、それは良かったですね!﹂
﹁ええ﹂
うんうん。これは私も鏑木をラーメン接待した甲斐があるという
もの。
﹁それで麗華様、これをどうぞ﹂
芙由子様から手渡されたのは水の入った小さな瓶。
﹁これは?﹂
﹁月の女神アルテミス様のお力の宿った水ですわ﹂
﹁⋮アルテミス?﹂
思わず顔を引き攣らせた私に気づく様子もなく、芙由子様はニコ
ニコと頷く。
﹁満月の夜に銀の盤に水を満たし、そこに月を映してアルテミス様
へ祈りを捧げ一晩置いた水には、乙女を魅力的にし、恋を叶える力
があると言われているのです﹂
この人、全然目を覚ましていなーいっ!
もしかしてこの水も怪しいスピリチュアル商法に買わされたので
はと勘繰ると、芙由子様は﹁私が先日、自分で作りました﹂と自信
満々に答えた。あぁ、あの例のラップ音がバンバン鳴るという部屋
でね⋮。
1734
﹁この月の水を飲み、月に向かって呪文を唱えれば、アルテミス様
のお力を借りることができるのです﹂
﹁え、これ飲むの⋮?﹂
一晩外に放置しておいた水を?!
私はさりげなく瓶を光にかざして浮遊物を確認した。一応不純物
は浮いていないみたいだけど⋮。そして満月っていつだったっけ。
水って数日で腐るよね⋮。
そんな私の胸中を察したのか、芙由子様は﹁大丈夫です﹂と請け
合った。
﹁月光を浴びた水には自浄作用が﹂
ほんとかよ⋮。
﹁このアルテミス様のおまじないは一部でとても強力だと評判なの
です。ぜひ麗華様に使っていただきたくて﹂
﹁はぁ﹂
芙由子様は私の手に﹁こちらがおまじないの呪文です﹂とカード
を握らせた。
その夜、私は薔薇の咲き乱れるバルコニーに出て、小瓶の水をぐ
っと飲み干すと、夜空に浮かぶ月を見上げた。
﹁アルテミス様、アルテミス様、どうか私に恋を叶える力を⋮﹂
1735
242
││中間テストが終わってから、若葉ちゃんへのいじめや嫌がら
せが増えている。
具体的には若葉ちゃんへのこれみよがしな陰口やロッカーや机が
汚されていたり、わざとぶつかられたり体育の球技で集中攻撃をさ
れたり⋮。内容は今までとそれほど変わりはないけれど、受験イヤ
ーということで、我らが皇帝に近づく庶民の外部生が気に食わない
というアンチだけじゃなく、若葉ちゃんの成績を妬む男子を中心と
したアンチが増えているのが特徴だ。
同じ境遇であるはずの外部生ですら若葉ちゃんに嫉妬して敵愾心
を抱いている子達もいるのがなぁ⋮。
エスカレーター式だから基準値以下のあまりに酷い成績を取らな
ければ、付属大学のどこかに潜り込ませてもらえることは約束され
ているけれど 倍率の高い学部狙いや推薦で外部受験を考えている
ような生徒達にとっては、そうはいかないのだろう。
そういう生徒達の受験スイッチがすでに入っていることは先日の
中間テストの結果で私も実感済みだ。今までと変わらない勉強量だ
ったのに驚くくらい順位が下がった⋮。まずい、このままじゃ私の
野望を叶えるための希望学部に入れないかもしれない。将来設計が
崩れてしまう!そう、私には彼らの焦りはよーくわかる。わかるけ
どさぁ。これは、ねぇ⋮。
﹁お前んちって貧乏なんだろ。だから必死で勉強して奨学金稼いで
いるんだろ﹂
移動教室帰りに皆とおしゃべりをしながら歩いていたら、例によ
って若葉ちゃんが廊下で数人の男子にしつこく嫌味を言われていた。
1736
女子のいじめは、男子の目を気にして裏でコソコソやるのが多い
けど、男子のいじめは周りに見せつけるように大っぴらにやるのが
多いんだよなぁ。針でチクチク刺され続けるのと、刀でザックリ切
られるのでは、ダメージはどちらが大きいものかな。
しかし聞き捨てならない。若葉ちゃんのお家はケーキ屋さんも繁
盛しているし、決して貧乏なんかじゃない。ごく普通の一般家庭だ。
それをなんて失礼な言い草だ。心の中でわが別宅と思っている高道
家をバカにすることは、私にケンカを売っているのと同義。
私は顎をツンと上げると芹香ちゃん達を後ろに従え、辺りを払う
足取りで廊下の中央を闊歩した。私達の存在に気づいた生徒達はサ
ッと廊下の端に寄って道を開けてくれるが、若葉ちゃんを囲んで罵
っている連中はまだ気づいていない。
私は片足を一歩前にタンと踏み鳴らした。
﹁邪魔よ、貴方がた。どいてくださる?﹂
私の声に振り返った男子達は、ギョッと目を見開いて後ろに飛び
退った。文字通り、まさに二、三歩飛んだ。
私は目をぎょろぎょろ動かして挙動不審になったその連中をちら
りと見流し、﹁ねぇ芹香さん﹂と、今日も完璧な巻き具合の自分の
髪をくるんと指でもてあそびながら、左の芹香ちゃんに声を掛けた。
﹁私の進路を妨害するこの邪魔な障害物達は、どこのクラスの、な
んという名の生徒達なのかしらぁ?﹂
私の言葉に男子達が﹁ぅげっ⋮!﹂と声を洩らし目を剥いた。
﹁困ったわぁ。こうして道を塞がれていたら、私達、次の授業に間
に合わなくなるかもしれないわねぇ?﹂
1737
そこに畳みかけるように、不逞の輩顔負けの因縁をつける。﹁不
愉快だこと⋮﹂というため息交じりの止めの台詞のおまけつきだ。
私の不満の声を聞いた芹香ちゃん達が、目を吊り上げて前に出た。
﹁おどき、路傍の石ども!まとめて蹴り飛ばすわよ!﹂
﹁麗華様の歩かれる道を塞ぐなど、言語道断!無礼討ちを覚悟なさ
い!﹂
廊下に男子達の悲鳴が響く。ほっほっほっ。芹香さん、菊乃さん、
懲らしめてやりなさい。気分は水戸のご老公。
芹香ちゃん達の剣幕に恐れをなした不届きな男子達は、﹁すみま
せんでした!﹂と叫ぶと蜘蛛の子を散らすように逃げだした。ふっ、
小物どもめ。瑞鸞カーストの頂点に属する、このバラモン麗華に刃
向える人間などそういないのだ。
そしてあとに残されたのは口をぽかーんと開けた若葉ちゃんだけ。
若葉ちゃん、口閉じて!
﹁麗華様、どうします?麗華様を不快にさせたあの連中、あとでき
っちりと落とし前を⋮﹂
﹁まぁ菊乃さん、物騒なことをおっしゃらないで。こうして廊下の
見晴しも良くなったことですもの、今回は不問にいたしましょう﹂
おほほほほと寛容に笑ってみせると、廊下に出てこちらの様子を
窺っていた他の生徒達が、一斉に壁に張り付いて、それに同化した。
どうやら瑞鸞の生徒達は忍法隠れ身の術の使い手らしい。中にはカ
タカタと体を震わせ、術が解けている未熟者もいるけれど。
横からシャカシャカシャカと音がする。
見れば若葉ちゃんがなぜかペンケースをリズミカルに振っていた。
⋮どうした若葉ちゃん。
そんな若葉ちゃんの行動に疑問を抱きつつも、あえて声を掛けず
1738
に私は芹香ちゃん達と歩きやすくなった廊下を進んだ。
おや、あそこになにやら見覚えのある地蔵尊が。よく見れば中等
科時代に一緒にクラス委員をやった小坊主こと坊田君ではないか。
高等科にあがっても丸めた頭は健在だ。
せっかくなので立ち止まり、家内安全を祈って全員で手を合わせ
ると、お地蔵さんがガラガラと地面に崩れ落ちた││。
教室に入ると廊下でのやり取りを見ていたらしい笑顔の佐富君が、
﹁いやぁ、さすがの迫力﹂とパチパチ手を叩きながら近寄ってきた。
﹁吉祥院さんってさぁ。クラス委員長っていうより組長って呼ぶほ
うが似合っているよね。あ、もしかして背中に緋牡丹とか入ってた
りする?﹂
瞬間、佐富君の体に芹香ちゃんと菊乃ちゃんの拳が炸裂した。
﹁ぃだっ!組長!若頭達が暴力を!痛いっ!痛いっ!肝臓はやめろ
!﹂
私は芹香ちゃん達に正中線を狙いなさいというアドバイスをして
から、自分の席に向かった。芹香さん、菊乃さん、懲らしめてやり
なさい。
その日の夜、心配だった私は若葉ちゃんに電話をかけた。若葉ち
ゃんは私が電話をした理由を察したのか、挨拶のあとですぐにお礼
を言われた。
1739
﹁今日はありがとう、吉祥院さん。あれって私を助けてくれたんだ
よね﹂
﹁お礼なんていいわよ。たいしたことしていないし﹂
全く。出来る人を妬む暇があったら自分が勉強しろ。私も落ちた
成績を挽回するためにこれからガリガリ勉強するつもりだ。
﹁ううん、凄かった。吉祥院さん達のやり取りは、まるで演劇を観
ているようだったよ﹂
⋮その演劇ってどんなジャンル?まさか極道ものじゃないわよね
?若葉ちゃんの頭の中で私に迫力満点な黒留袖とか着せていないよ
ね?
﹁そうだ。私音響担当してみたんだけど、気付いてくれた?﹂
あの謎のペンケース振り振りは、BGMのつもりだったのか⋮。
﹁⋮若葉ちゃん何やってんの﹂
﹁あははは。口笛と迷ったんだけど、考えてみたら私口笛吹けなか
ったんだよねー﹂
あの場でご陽気に口笛なんて吹いてたら、バカにしてんのかって
うちの若い衆にボコボコにされてたぞ⋮。
﹁でもここ最近の若葉ちゃんへの嫌がらせは酷いよね。やっぱり私
が生徒達に直接注意しようか﹂
若葉ちゃんを嫌っていたピヴォワーヌの前会長達も卒業したし、
1740
まだ前会長の息のかかった後輩達はいるけれど、最上級生となった
今の私なら表立って庇ったところで彼らを黙らせることも可能だ。
しかし若葉ちゃんはそんな私の提案を﹁え∼っ、いいよ別に﹂と
断った。
﹁どうして?だって大変でしょう?﹂
﹁平気平気。陰口なんて慣れちゃったし、聞き流していればたいし
た害はないしね。机とか備品に嫌がらせされるのはちょっと困るけ
ど、まぁ大丈夫だよ﹂
﹁でも﹂
﹁あと1年ちょっと乗り切れば卒業だからね。それまでの辛抱だと
思えばへっちゃらだよ。わざわざ吉祥院さんの立場を悪くすること
ないって﹂
若葉ちゃんの言葉が私の胸を深く突き刺した││。
ショックだった。
⋮⋮若葉ちゃんにとって、瑞鸞を卒業するということは寂しいこ
とではなく、待ち遠しいことなのだ。
胸が痛い⋮。
そりゃあそうだ。何を言われても何をされても、いつもへらへら
笑って受け流しているからって、傷ついていないわけがないのだ。
﹁⋮⋮﹂
私は唇を噛んだ。
私にとって瑞鸞はなんだかんだ言ったって初等科から通っている
学校だから、母校としての愛着もあるし、瑞鸞で過ごした約10年
はかけがえのない宝物になっている。
でも若葉ちゃんにとってはそうではないのだろう。家柄や財力に
価値を置く生徒達に敵視され、成績などで目立つ行動をすれば直接
1741
的間接的に悪口を言われる生活はさぞや居心地の悪いものだろう。
そんな学校とっとと卒業しておさらばしたいと思うのは当然だ。
﹁あれ?吉祥院さん、どうかした?もしもーし﹂
⋮でも、これは私のエゴでしかないけれど、若葉ちゃんにそんな
想いで瑞鸞を卒業して欲しくない。できれば卒業した後で瑞鸞での
高校生活を思い出したくない過去じゃなく、楽しかった思い出とし
て振り返って欲しい。
﹁⋮ごめんね若葉ちゃん﹂
﹁えっ、なにが?﹂
若葉ちゃんなら平気そうだと、自らの保身を選んで友達なのに本
気で助けようとしてこなかったこと。
﹁私、やるよ﹂
﹁えっ、なにを?﹂
﹁いろいろ﹂
きっと若葉ちゃんを笑顔で卒業させてみせるよ!
そんな私の決意を知らない若葉ちゃんは﹁ん∼、よくわからない
けど頑張って!﹂と応援してくれた。そして﹁そういえばね﹂と言
った。
﹁この前、鏑木君と約束していた恐竜展に行ってきたんだ!﹂
おおっ!鏑木とのデート!
﹁どうだった?﹂
1742
﹁すっごく良かったよ!感動した!﹂
若葉ちゃんの声が興奮している。これはデート成功か?!不肖の
弟子よ、やるじゃないか。
﹁最初、博物館に着いたら館長さん自らがお出迎えしてくれたのに
はびっくりしちゃったんだけどね﹂
﹁え﹂
館長のお出迎え?なんだそれは⋮。
﹁よくぞいらっしゃいましたって鏑木君大歓迎されてたよ。で、そ
の後も館長さん以外に学芸員さんがアテンドに付いてくれて、私達
と一緒に回りながら展示物をひとつひとつ丁寧に説明してくれたん
だ﹂
﹁え﹂
⋮あのバカ、一般でチケットを買わずに鏑木の名前で行ったな。
おおかた家に送られてきた招待券でも安易に使ったのだろう。鏑木
家に送られてきた招待券で堂々と行けば、そりゃあ主催者側も付き
っきりで鏑木家の御曹司を持て成すだろうね。鏑木はお忍びという
言葉を知らないのか⋮。
最初から最後まで係員が説明しながら見学する博物展。それはデ
ートというよりどこぞの公務⋮。
﹁さすが専門家は違うね。学芸員さんの説明はわかりやすくて、知
らなかったことがたくさんあったよ﹂
﹁⋮そうなんだ。ちなみに、それは楽しかったの?﹂
﹁もちろん!すごく為になった!﹂
﹁⋮そっか。若葉ちゃんが楽しかったのならいいね﹂
1743
﹁うん!﹂
そう、若葉ちゃんが楽しかったのならそれでいい。それがたとえ
関係者がぞろぞろと付き従った、およそデートとは呼べぬ代物だと
しても。
それから若葉ちゃんは中生代だ恐竜の進化だ絶滅だと、恐竜のあ
れこれを私に語って聞かせた。若葉ちゃん曰く、恐竜はロマンらし
い。
﹁そうだ。お土産も買ってきたんだよ。恐竜クッキー、今度渡すね﹂
﹁え∼、ありがとう。そんなに気を使ってくれなくていいのに﹂
﹁気持ちだから!それと恐竜のキーホルダーもあるけどいる?かな
りリアルでかっこいいよ。懐中電灯にもなるから、カバンにぶら下
げておくと夜道でも便利だと思うよ﹂
⋮リアルな恐竜の懐中電灯キーホルダー。
﹁⋮え∼っと、それは若葉ちゃんが使うといいよ﹂
﹁そう?遠慮しなくていいよ。吉祥院さんにはいつもお世話になっ
てるし!﹂
﹁ううん。私はクッキーだけで充分。どうもありがとう﹂
﹁え∼、吉祥院さんは遠慮深いなぁ﹂
ごめん、若葉ちゃん。私は爬虫類が苦手なのだよ⋮。
私は電話を切ると、早めにベッドに入った。勉強は明日から頑張
る。
1744
243
早寝早起きをした私は翌朝から1時間も早く登校し、若葉ちゃん
が受けている机等への物理的な攻撃をどうにかすることから始めた。
陰口等の心理攻撃に対しては効果的な解決策がまだ思い浮かばない
のでとりあえず後回しにする。人の悪口を言わないようにしましょ
うなんて、標語めいたことを言っても簡単になくなるわけがないの
はわかりきっているし。こっちの攻撃は相手の若葉ちゃんへの心証
が変わらない限り、本当になくすことは難しいだろうなぁ⋮。
私は人気のない靴箱からチェックをした。よし、今日は靴箱の被
害はないようだ。次はロッカーと教室だな。
3年生の廊下にも誰の姿もない。若葉ちゃんのロッカーも無事だ
った。今日は嫌がらせはないのかな。それならそれでいいんだけど。
しかし人の気配を探りながら若葉ちゃんの教室をそっと覗くと、
それはすぐに見つかった。
﹁あ∼、やられてる⋮﹂
誰もいない教室に入ると、若葉ちゃんの席はすぐにわかった。若
葉ちゃんの机の上だけうっすら白く汚れていたからだ。これは黒板
消しで叩かれたな⋮。
私はカバンから持参した掃除グッズを取り出すと、汚れた机にス
プレー洗剤を吹き付けて雑巾で素早く拭いた。
﹁これでよし﹂
きれいになった机を見ながらふとピンとくるものがあって椅子を
引いてみると、案の定座面部分にもチョークの粉が付いていた。若
1745
葉ちゃんが気づかずに座っていたら、制服が汚れるところだったな
⋮。こちらも洗剤で拭き取る。ちなみにこの洗剤は頑固な汚れも簡
単に落とせ、かつ除菌もできるというドイツ製の万能洗剤だ。夜中
に見たテレビショッピングで買った。これ以外にも油性マジックの
汚れすら、塗ればたちどころに落とせるアメリカ製のチューブ洗剤
もある。今ならもう1本つけてお値段据え置きと言うので、即注文
した。水に溶かして黄ばんだ服をつけ置きすればあっという間に真
っ白にすることもできるというスーパー洗剤だ。全米シェアNO1
らしい。
せっかくなので脚の部分などもきれいに拭いておいてあげよう。
このドイツ製洗剤はアルコール成分が速乾するので水気が残らず拭
きあがりがとてもきれいなのだ。あのやたらオーバーリアクション
のドイツ人の言っていた言葉に偽りはなかった。終わってみれば、
この教室内の誰よりも若葉ちゃんの机が輝いているではないか。
﹁ふうっ⋮﹂
この清々しいやりきった感。さすがドイツ製、いい仕事をする。
今度は前から気になっている、洗剤不要で水だけで汚れが落ちる魔
法の雑巾を注文してみようか。洗剤いらずだから赤ちゃんやペット
のいるご家庭でも安心して使えるらしいぞ。
私は掃除グッズをカバンに仕舞うと、もう一度教室に誰も隠れて
いないことを確かめてから、そっと教室を出た。
今回の私のミッションは、若葉ちゃんに物理攻撃を仕掛けている
犯人を捜し出すことと、若葉ちゃんの備品にされている嫌がらせを
若葉ちゃんやそのクラスメート達に見つかる前に隠滅することだ。
いじめはいじめを呼ぶからね。これで若葉ちゃんも朝から嫌な気分
にならなくて済んで、一日を気持ちよく過ごせるだろう。
今日は犯人らしき人物に当たらなかったけど、私よりももっと早
く来ているのか、放課後に残って仕掛けているのか。犯人を現行犯
1746
で押さえることが出来れば一番いいんだけどなー。
ただ唯一の心配事としては、今回敵と対峙するのが私ひとりだけ
だっていうこと。実は物凄く心配だったりする。
ほら私って、数の暴力に訴えるタイプだから。ひとりだと戦闘能
力が格段に落ちるのよね。所詮周りのにぎやかしに助けられたハリ
ボテの風格だからさ。
大丈夫かなぁ。芹香ちゃん達が一緒にいたらいくらでも強気でい
けるんだけど、ひとりだともし刃向われたりしたら、弱気な素が出
てアワアワ動揺しちゃう自信がある。犯人が蔓花さん達だったらど
うしようかなぁ⋮。ひとりじゃ絶対にびびって負ける。派手なギャ
ル系女子怖い⋮。
早朝の犯人捜しを始めて数日経ったが、犯人はまだ見つかってい
ない。放課後にやっているのかと、ピヴォワーヌの帰りに若葉ちゃ
んの教室を覗いたりもしたけれど、その時は汚されてはいないんだ
よなぁ。でも朝見るとやられているから、やっぱり朝の犯行だと思
うんだけど。う∼ん⋮。今度からあと30分早く来てみるか。⋮起
きられるかなぁ。これ以上早く起きたら、髪をセットする時間が⋮。
若葉ちゃんへの嫌がらせはチョークの粉以外にも、クレヨン状の
ものだったり、土だったり、マジックだったりがあったけれど、今
私のロッカーには、洗剤どころかハンディ掃除機まで完備されてい
る。どんな汚れだろうとピカピカにしてみせるわ!今度、机と椅子
にワックスをかけてみようかな。使い方が簡単なお手軽ワックスを、
筋肉ムキムキアメリカ人が紹介してたんだ。新品よりも光沢が出る
んだって!気になるなぁ∼。
そして私が通販掃除グッズを試しまくっている間も、鏑木から恐
1747
竜展デートの報告はなかった。どうやら失敗した自覚はあるらしい。
あの単純バカのことだから、もしも満足のいくデート結果であれば、
翌日には私の迷惑を顧みずに呼び出してきて、その詳細を語り尽く
してきたことだろう。いや、その日のうちに恐怖のメール攻撃がき
たであろう。しかし今回はそれがない。なんてわかりやすい。ぷく
くくく。
││呼ぶより謗れ。
﹁げっ﹂
そんなことを考えていたら、鏑木から呼び出しメールが入った。
なにこれ怖い。野生の勘?
断る断らせないのやり取りがもう面倒なので、おとなしく応じる
ことにする。どうせ皇帝が我を通して私が折れる結果になることは、
今までの経験でわかっているから。
それでも言いなりになるのが少し悔しいので、ささやかな反抗で、
先にサロンに寄って時間を潰してから行く。
馥郁たるお茶の香りを楽しみながら、芙由子様と壮大な宇宙につ
いて語り合う。芙由子様は宇宙に興味があるらしい。ピヴォワーヌ
にふさわしい、知性と教養に溢れる会話だわぁ。
﹁麗華様はバシャールについてどう思います?﹂
﹁バシャールとはなんでしょう?﹂
﹁惑星エササニに住む地球外知的生命体です﹂
宇宙ではなく宇宙人の話だった。
﹁⋮あー、宇宙人はどうでしょう∼。広い宇宙のどこかにはいるか
もしれませんが∼。あっ、でも私も微生物のような地球外生命体は
1748
いると思っていますよ?﹂
﹁バシャールは存在しますわ、麗華様。だってバシャールとは何人
もの地球人がチャネリングしておりますもの﹂
知性と教養に溢れる会話のはずが、一気に胡散臭さ満点の会話に
なった。
﹁バシャールは我々地球人に、愛のメッセージを送ってくれている
のです﹂
﹁はあ、愛のメッセージ⋮。えっと、そのバシャールさんという、
う、宇宙人が⋮?﹂
﹁麗華様、バシャールは個人名ではなく、エササニ星人の精神の集
合体です﹂
﹁エササニ星人⋮﹂
⋮笑っちゃいけない。芙由子様は至って真面目だ。でもなんだよ、
エササニ星人って。星人って⋮。
あれだけ鏑木にバッサバッサと切り捨てられて、目が覚めたと思
ったのになぁ。根深いなぁ、根強いなぁ。芙由子様のスピリチュア
ル大好き魂は。
﹁私もいつかバシャールと交信し、人生の指針となるメッセージを
いただきたいと思っているのです﹂
﹁芙由子様。遠くの宇宙人よりもまず近くの地球人と交流しましょ
うよ﹂
とりあえず新しく出来た評判の和カフェに、芹香ちゃん達を誘っ
て行ってみませんか。きっとエササニ星人とよりも楽しい会話がで
きると思いますよ。
放課後に寄り道をして出かける経験があまりなかった芙由子様は、
1749
私の提案に目を輝かせてくれた。その和カフェでは宇治の抹茶を使
った抹茶パフェが特においしいらしいですよ。
そしてさきほどからずっと、ポケットに入れた携帯がブルブルと
振動しっぱなしでうるさい。けれど私は芙由子様とのおしゃべりに
忙しくて全然気がつかないわぁ。あぁ、今日もお茶がおいしいこと。
イライラしながら待つがいい小次郎よ。
しかしそろそろ鏑木の我慢の限界がきている気がする。無機物で
あるはずの携帯から、怒りの波動が伝わってくる。
これ以上は危険なので、芙由子様に別れを告げ、私は鏑木の待つ
いつもの場所へと向かった。
完全に鏑木が私物化している小会議室に着き、ノックをしてドア
を開けようとしたら鍵が掛かっていた。あれ?待ちくたびれて帰っ
ちゃった?だったら私も帰るけど。
﹁││誰だ﹂
いた。
﹁吉祥院です﹂
ガチャリと鍵が開いた。
﹁遅い﹂
開かれたドアの向こうには、これ以上ないくらい不機嫌な顔の鏑
木が立っていた。
﹁申し訳ございません。私もなにかと忙しい身なものですから﹂
鏑木は不機嫌な顔のまま、ドスッと音を立てて椅子に座った。
1750
﹁お前が来るのが遅いから、関係のないヤツが入ってきたんだぞ!﹂
﹁関係のないヤツ?どなたですか?﹂
﹁知らん。誰もいないと思って開けてしまったらしい。そこに俺が
いてかなり驚いていた。俺だって急に開けられて驚いた﹂
﹁あら∼﹂
﹁あら∼じゃない!そいつには俺がここにいることは固く口止めし
ておいたが、この先同じことが起こらないとは限らない﹂
﹁そうですね。その可能性はあるでしょう﹂
﹁あまり他の人間に俺達がここを使っているのを知られるのは面倒
くさい﹂
﹁そうですね。では集まるのをやめましょうか﹂
﹁鍵を掛ける﹂
これからは最初に来た人間が鍵をかけ、後から来た人が相手を確
かめてから鍵を開けるシステムにするらしい。無理に集まらなくて
もいいのにぃ∼。
﹁そこでだ。合言葉を決めようと思う﹂
﹁合言葉?﹂
﹁そうだ﹂
鏑木は鍵を開けるための合言葉を決めると言った。あれか。山、
川ってやつか。
腕を組み鏑木は目を瞑った。そして目を開けると、おもむろに﹁
見つけた﹂と言った。は?
鏑木は無反応な私に苛立ったように指で机を叩きながら、﹁見つ
けた﹂を繰り返す。
﹁見つけた﹂
1751
﹁なにが﹂
﹁永遠が﹂
鏑木は満足そうに頷いた。
﹁合言葉はこれにする﹂
⋮ランボーでした。相変わらず詩集が好きだなー。
﹁でも声を出したら、中に人がいることがわかってしまうのでは?﹂
着きました
でいいのでは?﹂
﹁⋮着いたら合言葉をメールで送る﹂
﹁でしたら
﹁合言葉をテンプレ登録しておけ﹂
無視された。あくまで合言葉を使いたいらしい。子供か!
﹁そういえば、恐竜展に行くとかいうお話はどうなりました?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁もしかして、まだ行っていませんでした?﹂
わかっていて聞いてやる。鏑木が無言で目を逸らした。
﹁⋮行った。有意義な一日だった﹂
﹁まぁ、それはそれは﹂
意地の悪さが堪えきれず、にやぁっとしてしまった私の笑顔を不
愉快そうに睨みながら、鏑木は﹁⋮当初の予定とは違った形ではあ
ったが﹂と呟いた。でしょうねぇ。
そして鏑木は私の予想通り、家に招待券が送られていたのでそれ
を使って来館したら、主催者に熱烈な歓待をされて、若葉ちゃんは
1752
楽しそうだったけれど計画していたふたりだけのデートとはまるで
様子の違ったものになってしまったことをカミングアウトした。
﹁だが、お揃いのお土産を買ってきた﹂
﹁まぁっ、それは良かったじゃないですか。それで、なにを買った
のです?﹂
﹁恐竜の懐中電灯キーホルダーだ﹂
﹁うっ⋮!﹂
そのおそろいのお土産を、若葉ちゃんは私にくれようとしてまし
たけどーーっ?!
やめて鏑木。﹁今度お揃いのキーホルダーを見せてやろうか﹂な
んて自慢しないで⋮。
全くむくわれていない男、鏑木雅哉17歳。負けるな、鏑木。頑
張れ、鏑木。あっ、涙が⋮。
ただ若葉ちゃんの名誉のために言っておくが、聞けばキーホルダ
ーは若葉ちゃんが気に入って買おうとしているのを見て、鏑木が真
似して買った一方的なお揃いだったようだ。なので当然ながらお揃
いをするのによくある﹁これお揃いで買おうか﹂﹁いいよ。今日の
記念だね﹂の、お揃いラブラブトークなんてものも一切ない。しか
も若葉ちゃんのぶんのお土産代も支払うと言った鏑木の申し出を断
って、若葉ちゃんが自分で買ったものだから、誰にあげようと若葉
ちゃんの勝手だったのだ。若葉ちゃんからしたら、お揃いの意識も
なかったのだろう。⋮うん、頑張れ。
どうせなら恐竜展を見終った後に、どこか別の場所で記念になる
お揃いの小物を買ってプレゼントすれば良かったのにと言ったら、
学芸員さんの説明があまりにも丁寧すぎて、博物館を出た時にはす
でに帰る時刻になっていたらしい。⋮心の底から頑張れ!
﹁俺は過去は振り返らない男だ。次の作戦を考えるぞ!﹂
1753
そうだね。前向きなのはいいことだね。振り返りたくない過去も
あるよね。
その時、小会議室のドアノブがガチャガチャと回された。
私達はピタリと押し黙り、顔を見合わせた。
﹁誰だ﹂
﹁僕﹂
あ、この声は⋮。
﹁鏑木様、これは僕僕詐欺です。開けてはなりません﹂
詐欺られちゃいますよ。
それなのに私の警告を無視して鏑木はさっさと鍵を開けてしまっ
た。あ∼あ。
ほらご覧なさい。ドアの前には詐欺師のような笑顔の男が立って
いる。
1754
244
私を見つめて円城はにっこりと微笑んだ。
﹁こんにちは、吉祥院さん。詐欺師です﹂
ぎゃっ!なんという地獄耳。瑞鸞って贅を尽くした金持ち学校の
はずなのに、実は壁が薄いのか?
﹁ごきげんよう円城様。円城様だとは気づかずほんの冗談のつもり
で言ってしまいました。申し訳ございません﹂
﹁うん、僕も冗談だから気にしなくていいよ﹂
お互い目を見合わせてほほほ、ふふふと笑い合う。
本当に冗談だってば。詐欺師のように胡散臭いなんて思ってない
ってば。だから円城、その本心の読めないアルカイックスマイルは
やめて!次にどんな攻撃が仕掛けられるかと思うと、背筋がゾクゾ
クするの!
微笑だけでひとしきり私を威圧した円城は、﹁ところで鍵が閉ま
っていたけどどうかしたの?﹂と聞いてきた。
﹁ああ、それはさっき部外者が突然部屋に入ってきたから、鍵を閉
めることにしたんだ﹂
そうだった。
﹁鏑木様、さきほど合言葉を言わない相手にはドアは開けないとご
自分が決めたのに、合言葉どころか名前を名乗りもしない相手に、
1755
簡単にドアを開けるのはいかがなものでしょうか﹂
防犯意識が低すぎやしないか?詐欺られた人達はみんな言うよ。
自分だけは大丈夫だと思ってたって。
﹁合言葉?﹂
円城が首を傾げたので、私は鏑木が自分達以外の入室を制限する
ために、合言葉制度を導入したことを教えた。ついでに私まで合言
葉なんて子供じみたことを率先してやりたがっていると思われたく
ないので、私としては合言葉など使わなくてもメールでドアの前に
着いたことを知らせるだけでいいのでは、という異論を述べたこと
もしっかり付け加えておく。
そう、ドアの向こうの人間に、メールで着いたことを知らせれば
いいだけなのだ。
私ドリーさん、今アナタの部屋の前にいるの
それだけで良い。
﹁なるほどね。雅哉は昔からそういうのが好きだからね﹂
円城が納得したように微笑み頷いた。
﹁そういうのとはなんですか?﹂
﹁ん?合言葉とか暗号解読とか。子供の頃から好きなんだ﹂
それは鏑木が、子供の頃から成長していないということですね?
わかります。
1756
見つけた
なにが
永遠が
﹁それで?合言葉は何にしたの?﹂
﹁
﹁あぁ、地獄の季節﹂
だそうです﹂
すぐに察した円城は、﹁雅哉は詩も好きだからねぇ﹂と続けた。
皇帝陛下の詩集好き。それは私も嫌というほど知っています。優理
絵様に失恋した時にはハイネの詩集を読んで共感し浸ったあげく、
私にまでそれを読めと無理やり押し付けてきてくださいましたから。
ええ。
あの鏑木の負の念のこもった詩集が手元にあったせいで、私の恋
愛運が著しく低下したと言っても過言ではないはず。全く迷惑な話
だ。今回はランボーということで、どうやらあの時の失恋を乗り越
えハイネからは卒業したみたいですけど。
あ、そういえばランボーといえば⋮。
﹁円城様も詩はお好きなのですか?﹂
﹁僕?特別好きって程ではないけど、読むこともあるよ。秋の夜長
にはふと古典詩集を読みたくなる時があるよね﹂
﹁まぁそうなのですか!さすがは円城様、高尚なご趣味でいらっし
ゃる。ちなみに秋といえばヴェルレーヌの詩が有名ですが、円城様
はヴェルレーヌの詩はお好きですか?﹂
期待に口角がにゅうっと上がってしまう。心なしか円城が警戒し
たように目を細める。
﹁嫌いじゃないけど⋮﹂
﹁まぁっそうですか、そうですか。円城様はヴェルレーヌがお好き
と。そうですか﹂
ふっふっふっ。言質は取った。ランボーが好きな鏑木と、ヴェル
1757
レーヌが好きな円城。これは不謹慎な女生徒達が、あらぬ裏を邪推
して色々と妄想してしまう良いネタゲット!あぁっ、背徳だわ!退
廃だわ!耽美だわ!芹香ちゃん達だけにこっそり教えてあげよう。
きっと大喜びで盛り上がるに違いない。別になにかをはっきりと言
うわけではない。ただデカダンスな関係に耽っていた詩人ふたりを、
彼らが好きだという情報を教えてあげるだけ。そこからなにを汲み
取るかは皆様次第。
鏑木様と円城様は太陽と月に背いちゃっているみたいなの⋮。
巨大組織を率いる長は、人心掌握の為にも定期的に配下に娯楽を
提供しなくてはいけないのだ。
﹁吉祥院さん、またろくでもないことを考えているよね﹂
怖い笑顔で円城が私の肩に手を置いた。うっ、重いっ。肩に無言
の圧力がっ!
﹁とんでもございません。ただ秋の日にためいきをつきながらヴェ
ルレーヌを読む円城様は、さぞや絵になることでしょうと思っただ
けですよ﹂
﹁そう?僕の気のせいなら別にいいんだけどね﹂
﹁気のせい。そうですとも。鏑木様はランボーがお好き。円城様は
ヴェルレーヌがお好き。おふたりはとても仲良し。ただその事実確
認をしただけで、他意はございませんとも。ええ全く﹂
ほほほと笑う私に、ふふふと笑う円城。肩の重みがどんどん強く
なる。
﹁くれぐれも変な噂を流さないようにね。でないと君のご両親に
っていう電話が本当にかかってきち
弁護士ですがおたくの娘さんが名誉棄損で訴えられたので、示談金
を今すぐ振り込んでください
1758
ゃうかもよ。怖いよねぇ、まるで僕僕詐欺のようだよねぇ﹂
ひいっ!微笑む詐欺師の目に本気の光を見た!言いません、言い
ません。誰にも言いませんとも!
﹁おい、お前達。遊んでいないでいい加減座れ。本題に入るぞ!﹂
先に席に座って待っていた鏑木が、しびれを切らして文句を言っ
てきた。
﹁はいはい﹂と、その言葉に従って円城が鏑木の真向かいに座った
ので、私はコの字型の真ん中の部分に座る。⋮肩痛い。
﹁それで?本題ってなに﹂
﹁それはもちろん、俺達の次のデート計画についてだ﹂
鏑木は例の付箋のついた情報雑誌を取り出した。
﹁まずはこのお好み焼きを食べに行くことから始める﹂
あー、この前からラーメンとともにお好み焼きにも興味津々だっ
たもんねぇ。
﹁俺はこの写真の店に行ってみたい。ただどうやら今の時間帯は休
憩時間のようだから、ディナータイムで店が再開するまで、ここで
次のデートコースの作戦などを練ってから行こう﹂
﹁え、まさか今から行く気ですか?﹂
﹁当然だ﹂
ありえない。
1759
﹁お好み焼きは匂いが髪や服につくので、制服で行くなんてもって
のほかです。両親にばれたらどうしてくれるんですか﹂
鏑木はむうっと口を尖らせた。そんな顔してもダメなものはダメ!
﹁あぁ、吉祥院さんはご家族には食べ歩きの趣味は秘密にしている
んだっけねぇ﹂
円城がニヤリと意味深に笑う。ぐっ、人の弱みをチクリと刺して
くる陰湿なヤツめ。
﹁ええ、まあ⋮。世間体もありますし、過保護な家族なものですか
ら⋮。ばれるのは都合が悪いんです。ですからおふたりもこの件に
関しましては、くれぐれも秘密厳守でお願いしますね﹂
お願いしますねにギンッと目力を込めて、ふたりに再度釘を刺す。
円城と鏑木はわかったと了承した。
﹁それからひとつ訂正させていただきますが、私は別に食べ歩きを
趣味としているわけではなく、あくまでも社会勉強の一環、フィー
ルドワークの一環としてそれらの食文化も探訪しているだけですか
ら、お間違えのないように。私の趣味は食べ歩きなどでは決してあ
りません﹂
うら若き乙女の趣味が食べ歩きだなんて、そんなことは絶対に認
められない。たとえそれが真実であろうとも。
オフィシャルコメントでは、ワタクシの趣味は手芸とお菓子作り
でございます。
﹁そうだよねぇ。吉祥院さんは勉強熱心なだけだよねぇ﹂
1760
円城の全く心のこもっていない嫌味ったらしい賛同は無視する。
鏑木がまだ未練がましくお好み焼きのページを見ているので、﹁そ
んなに今日行きたいのなら、私抜きで行ってくればいいのでは?﹂
と言うと、﹁⋮行ける日を教えろ﹂と返された。やはりアテンドが
いないと不安かね、内弁慶君。
私は机の上の他の雑誌をめくる。この前よりも雑誌が増えている。
あ、こっちの雑誌は最新号だ。おお、水族館特集。
﹁次のデートは水族館はどうでしょう?博物館が好きなら水族館の
珍しい魚達にも興味を持つかもしれませんよ﹂
﹁水族館か⋮﹂
鏑木が私の提案に関心を示す。
﹁ここの水族館は私も行ったことがありますがとても良かったです
よ。魚の種類も豊富で規模も大きいので1日いても飽きませんが、
少し遠いですね。逆にこちらの水族館は近場で行きやすいですが規
模は小さいですね。もちろん小さいなりに趣向を凝らしているので
充分楽しめますし、周りにカフェなどもたくさんありますから、水
族館を出た後のお茶やランチにも便利ですよ﹂
﹁ほぉ﹂
﹁詳しいね。吉祥院さんも水族館が好きなの?﹂
﹁ええ。わりとよく行きます。水族館はデートコースとしても人気
ですよね﹂
﹁ふぅん。お前はひとりで行っているのか?﹂
﹁は?!違いますけど!﹂
私は鏑木の失礼発言を瞬息で否定した。
どうして﹁水族館はデートコースとして人気﹂の流れから﹁お前
1761
はひとりで行っている﹂になるんだよ!こいつ、絶対に私を恋愛ぼ
っち村の村民だと決めつけてる!悔しいっ!村民どころか村長だけ
ど!
いけない。ここで怒ったら、図星を指されて癇癪を起したと思わ
れてしまうわ。落ち着くのよ、私!
私はさも気にしていませんよという態度で、笑顔を作りながら雑
誌を読む。そしてあるひとつの水族館を指差し、﹁あら懐かしい﹂
と呟いた。
﹁この水族館もお薦めですよ。私達が行った時には夏休みシーズン
だったから混んでいたのですけど、白クマが水浴びをする姿がとっ
ても可愛いかったんです。あぁそういえば、ここは近くに素敵なア
クセサリーショップがあるんですよ。私もその時にプレゼントして
いただいた可愛い髪飾りが今もお気に入りなんですけどね。機会が
私達
プレゼントしていただいた
でそ
のワードを入れ、ひとりで行っていないことを
あったらぜひ行ってみてくださいな﹂
話の中に
さりげなく知らしめる。さらに
れが男性であることまでチラつかせる高等技術も披露する。どうだ!
ありがとう、伊万里様。あの髪飾りはいろんな意味で私の役に立
ってくれていますよ!
﹁白クマがいるのはいいな﹂
⋮食いつくのはそこかよ。
水族館デートに心惹かれたのか、鏑木が一緒に雑誌を見るために
椅子を私の横に移動してきた。そしてどれどれと肩を寄せて雑誌を
覗きこむ。⋮ちょっと近くないですか。
鏑木は雑誌の中の生き物達にあーでもないこーでもないと言って
いる。ジンベイザメが見たいんですか、そうですか。エイとマンタ
1762
の違い、さぁ知りません。それよりも私達の距離がなんか体温が感
じられるくらい近いほうが気になるのですが⋮。
不本意ながら私は日頃から瑞鸞にはないはずの女子高等科に在籍
状態で、男女七歳にして席を同じゅうせずを体現させられているの
で、この距離感は一度気になりだすと止まらない。
異性との適切なパーソナルスペースを確保すべく、私が椅子をズ
リズリとずらしていると、そうした私の挙動不審な様子に鏑木が雑
誌から顔を上げ、どうしたという目でこちらを見た。いやいや、距
離が近いんですよ。
すると顔を上げた鏑木がおや?となにかに気づいたような表情に
なり、私を真顔でじーっと見つめてきた。⋮え、え、なに?
黒曜石のような瞳に凝視された私は、緊張に体が固まった。私が
内心で泡を食って動揺していることも知らない鏑木は、﹁んー?﹂
となにかを確認するように、ひたすら私を見入る。近いっ、近いっ、
近いっ!さっきサロンで大好きなアーモンドヌガーを何個も食べち
ゃったせいで、顔の皮脂が気になるっ!あんたは無駄に肌がきれい
で羨ましいな!
﹁吉祥院﹂
鏑木が目を外さないまま、私の名を呼んだ。
﹁⋮な、なんですか?﹂
私は鏑木の目線の強さに気圧される。うっ、なんだか心臓がバク
バクとっ⋮。一体、なにを言う気なの、鏑木!
﹁吉祥院、お前、座高高くないか﹂
﹁⋮⋮は?﹂
1763
⋮座高?
座高?!なに、座高?!
﹁はあああっっ?!﹂
言うに事欠いて私の座高が高いだと?!
﹁なんですか、それは!﹂
﹁いや、お前と俺とでは身長差が20センチはあるのに、座ると目
線の位置が一緒だなと思って﹂
なにそれ!私が胴長短足だと言いたいのか!あぁ、言いたいんだ
ろうね。親指と人差し指で私の上半身の長さを目測するな!
座高が高い⋮。座高が高い⋮。知っていたよ。気づいていたよ。
ズボンを穿くとそれが微妙にわかるんだよ。あれ?私、他の子達よ
りお尻の位置がちょっと低くない?って。だからなるべくスカート
しか穿かないようにしているんだよ。ズボンを穿く時にはバレない
ようにトップス丈でそれを隠すようにしているんだよ。それなのに、
よくも、よくも私の密かなコンプレックスを⋮!
癇癪玉、大爆発!
私は椅子を蹴倒して立ち上がった。そして鏑木をビシッと指差す。
﹁気配り!常識!デリカシー!﹂
﹁は?﹂
﹁鏑木様に足りない三拍子ですよ!気配り、常識、デリカシー!さ
ぁ今すぐ復唱なさい!貴方に欠けているこの3つ、その無神経な心
に深く刻みこめ!リピートアフターミー!気配り、常識、デリカシ
ー!﹂
私の剣幕に鏑木は唖然とした表情でこちらを見上げていた。
1764
﹁今のは雅哉が悪いね。ごめんね、吉祥院さん。ほら雅哉も謝る﹂
円城が笑顔で取り成すがフォローが遅い!﹁さすがに測っちゃダ
メだよ﹂って、それ以前の問題だ!鏑木は復唱はどうした!気配り、
常識、デリカシー!ったく、どいつもこいつも!
﹁⋮⋮伊万里様に弟子入りして来い﹂
地の底から響く低い声で洩れた私の独り言を、鏑木の耳が捉えた。
﹁伊万里様?伊万里様って、桃園家の伊万里さんか?﹂
ちっ、聞かれたか。怒りのあまり言葉使いに素が出てしまったの
に。
﹁⋮ええ、ああそうですね。ピヴォワーヌOBの桃園伊万里様です。
伊万里様は女心を熟知されていらっしゃいますから、伊万里様から
女性の扱い方を学んで来たらどうですかね!﹂
鏑木はふむと顎をさすり、﹁丁度伊万里さんとは近々うちのパー
ティーで顔を合わせる機会があるな⋮﹂と考える仕草をした。
﹁う∼ん、伊万里さんから学ぶのはどうだろうなぁ⋮﹂
円城は困ったように微笑みながら親友を案じる発言をしたが、あ
の伊万里様に師事すれば、この気配り、常識、デリカシーのない鏑
木だって、きっと少しは女心のわかるジェントルマンになるんじゃ
ないの!鏑木よ、カサノヴァ村に体験入村して来い!
1765
││後日、﹁ムリだ⋮。あんな真似、俺には絶対にムリだ⋮!﹂
と頭を抱え、懊悩する鏑木の姿があった。
一体、なにがあったよ、鏑木。そしてなにをしたんですか、伊万
里様⋮。
1766
245
﹁吉祥院さん、ちょっといいかな﹂
休み時間に芹香ちゃん達に囲まれておしゃべりをしていたら、教
室に円城が訪ねてきた。
突然の円城の登場に教室が沸き立ち、芹香ちゃん達は興奮してき
ゃあきゃあと浮かれまくった。
﹁なんでしょう﹂
﹁うん。ちょっと吉祥院さんに話というか、お願いがあってね﹂
﹁⋮お願い?﹂
円城からのお願い。え∼、なんか嫌な予感しかしないんだけど⋮。
拒否オーラを全面に出している私を無視して、芹香ちゃん達が私
を円城の元へとぐいぐい押し出す。
﹁麗華様、早くお行きになって﹂
﹁そうですわ、麗華様。円城様をお待たせしては悪いですよ﹂
﹁さぁさぁ、麗華様﹂
﹁さぁさぁ﹂
やり手の仲人おばさんと化した芹香ちゃんが、ドナドナの花道を
歩く私の体をペチペチと無意味に叩いて送り出す。私は力士じゃな
い。
﹁ごめんね、なんだか騒がせちゃったみたいで﹂
1767
全く申し訳ないと思っていない笑顔の円城に、こちらも全く心の
こもっていない﹁どうぞお気になさらず﹂を返す。
ちらりと横目で教室のドアを見ると、そこには隠れる気が全然感
じられない芹香ちゃん達が、ドアにへばりついて目を爛々と輝かせ
ながらこちらを覗いている。うわぁ⋮。
どんな内容の話かわからないので、皆から見聞きできない柱の影
へと円城を促すと、後ろから﹁あぁ∼﹂という芹香ちゃん達の残念
そうな声が聞こえた。まったく⋮。
﹁それでお願いとはなんでしょう﹂
警戒を解かない私に円城が少し困ったような微笑みで口を開いた。
﹁実は雪野が吉祥院さんと水族館に行きたいって言っているんだ﹂
﹁雪野君がですか?﹂
どうせまた鏑木絡みの厄介話だろうと思っていたら、私の心の天
使ちゃん雪野君からの素敵なお誘いだった。
﹁ほらこの前、雅哉と水族館の話をしたでしょ。それを帰ってから
雪野に話したら自分も水族館に行きたいって言いだして﹂
﹁あぁ、あの時の⋮﹂
鏑木からの、座高が高いという繊細な乙女の心に消えない傷を負
わされた恨みは忘れていない。あれから私はどれほどの怒りかをア
ピールすべく、鏑木からの呼び出しやメールを完全に無視している。
まだ数日だけど根が小心の私はいつ逆ギレされるかと内心ではドキ
ドキヒヤヒヤだ。人間関係は綱渡り。
﹁それでせっかくだから雪野の友達も誘って皆で行きたいって話に
なってね﹂
1768
﹁雪野君のお友達って、プティの子ですか?﹂
﹁うん。吉祥院さんも知っている子達だよ﹂
そう言って円城が名前をあげたのは、麻央ちゃんと悠理君だった。
雪野君と麻央ちゃんと悠理君と一緒に水族館かぁ。それはぜひ行き
たい!
﹁雪野君達からのお誘いでしたら、ぜひともご一緒させていただき
たいですわ﹂
﹁本当?ありがとう。ごめんね、弟の我が儘に付き合わせて﹂
﹁とんでもない﹂
可愛い天使ちゃんからのお誘いならいつだって二つ返事で快諾し
ちゃうよ。
﹁それで予定はいつなのでしょう?﹂
﹁実は急なんだけど、今日の帰りはどうかな﹂
﹁えっ、今日ですか?!﹂
﹁うんそうなんだ。雪野やその友達の子達との予定が合うのが、一
番早くて今日しかなくてね。それ以外の日にちだとずいぶん空いて
しまって。本当急な話で申し訳ないんだけど﹂
私もそうだったけど、小学生といえども瑞鸞の子供達は放課後は
習い事などがびっしり入っているからねぇ。
う∼ん今日かぁ。昨日も芹香ちゃん達と放課後に和風スイーツの
お店に行ったばかりなんだよねぇ⋮。
ちなみに放課後に友達と寄り道をしてスイーツを食べに行くなん
て今までしたことがなかった芙由子様は、とっても楽しそうだった。
だからまた皆で別のお店に遊びに行く約束もしたら芙由子様はそれ
はもう嬉しそうに頷いていたな。
1769
﹁どう?無理そうかな﹂
﹁そうですねぇ⋮﹂
今日は塾もあるし、これでも一応受験生だからなぁ。連日遊びに
行くのはさすがにちょっとなぁ⋮。
虚空を見上げると、ほわほわと目の前に雪野君の笑顔が浮かぶ。
幻の雪野君が私に﹁麗華お姉さん﹂と笑いかけた。
﹁行きましょう﹂
雪野君の笑顔には代えられない。勉強は帰ってからすればいいこ
とだ。
﹁ありがとう。じゃあ放課後にね﹂
﹁はい﹂
円城は私に軽く手を振ると、自分の教室へと戻って行った。水族
館か。楽しみだな。ペンギン、アザラシ、イルカにクラゲ⋮。
教室に戻るとニタァと笑った芹香ちゃん達が手ぐすねを引いて待
っていた。
﹁麗華様∼﹂
﹁放課後ってなんですの∼﹂
﹁話を聞かせて∼﹂
ひいいいいいっっっ!
恐ろしい船幽霊と化した芹香ちゃん達の無数の手に両腕を掴まれ、
私はゴシップの海に引き摺りこまれた。
1770
そしてなぜあんたがここにいる││。
円城と約束した待ち合わせの駐車場に行くと、円城と雪野君、麻
央ちゃん悠理君に交じって、なぜか鏑木の姿もあった。
﹁帰りに雅哉に捕まっちゃって﹂
﹁なぜ俺を誘わない﹂
髪をかきあげ苦笑いの円城に、腕組みをし不機嫌な鏑木。
﹁麗華お姉さん!﹂
﹁麗華お姉様!﹂
笑顔の雪野君達がわらわらと私の周りを取り囲む。あぁ、なんと
いう至福。
﹁麗華お姉さん、今日は来てくれてありがとうございます﹂
﹁こちらこそ、誘ってくれてどうもありがとう。私も雪野君達と水
族館に行けるなんて、とっても嬉しいわ﹂
雪野君の琥珀色の柔らかい髪をそっと撫でる。あぁ、なんという
極楽。
﹁さて、じゃあ行こうか﹂
円城の先導で私達は車に乗って水族館へと向かう。今から行くの
は閉園時間が遅めなので放課後にも余裕をもって立ち寄れる水族館
1771
だ。
﹁この水族館はつい先日行ったばかりだから、案内は俺にまかせろ﹂
勝手についてきた鏑木が偉そうに仕切る。その手には今から行く
水族館のパンフレット。ん⋮?先日行ったばかり⋮?
﹁あの後ですぐに高道さんを誘って、放課後に二人で水族館に遊び
に行ったらしいんだ﹂
私の疑問を補足するように、円城が耳元でそっと囁いてきた。
なんだと!私が天の岩戸に閉じこもっている間に、そんなことを
していたとは!聞いてないわよ!って私が鏑木からのメールも呼び
出しも全部無視していたんだな。
﹁雅哉としては本当は休日に1日がかりで出かけたかったみたいな
んだけど、彼女も休みの日は勉強で忙しいみたいで、放課後になっ
たみたいだよ﹂
﹁⋮それは制服のままで?﹂
﹁?だろうね﹂
なんてことだ。制服デートは前世からの私の憧れで、放課後に好
きな人と制服で水族館デートなんていうのは、その私の理想そのも
の。なのにそれを、気配り、常識、デリカシーのない鏑木が、さら
りと実現しているなんて!
﹁だからこれから行く水族館も、遅くまでやっているって雅哉が紹
介してくれたんだ﹂という円城の話も聞こえない。キーッ!鏑木の
くせにっ。
﹁麗華お姉さん、どうかしたのですか?﹂
1772
黒いオーラが漏れ出していたのか、雪野君が私の袖をちょんと持
って心配そうに見上げていた。おっといけない。
﹁なんでもないのよ﹂
慌てて笑顔を作ると、雪野君も安心したように微笑んでくれた。
ホッ。あぶないあぶない。純真無垢な雪野君達に私の妬み嫉みの闇
を垣間見せてしまうところだったわ。
﹁ほら、お前等、早くしろ﹂
仕切り屋に急かされて、私達は車に乗り込んだ。
水族館に着くと早速興奮した子供達が﹁わぁ、魚がいっぱいだ﹂
と小走りで水槽に近づいて行く。
﹁こら、先に行くな。迷子になるぞ﹂
そんな子供達を鏑木が注意する。﹁はあ∼い﹂と良い返事をする
子供達。子供達に魚の生態などを説明しながら誘導している鏑木は、
なんだかすっかり引率の先生状態だ。私もその後をのんびりついて
いく。
大きな水槽の中では小魚の大群泳が私たちの前を横切っていった。
きれ∼い。
﹁アジかしら﹂
1773
﹁イワシじゃない?﹂
私の呟きを隣に立った円城に訂正された。⋮そうか、イワシか。
﹁あ、サメがきたよ﹂
水槽のガラスにくっついた雪野君が、奥からやってきたサメを目
をキラキラさせて待ち構えている。
﹁サメは全世界に約400種類いるといわれ、その中で日本近海に
いるのは約100種類⋮﹂
俺にまかせろと言うだけあって、鏑木はやたら魚に詳しい。
﹁いつも思うのだけど、サメを一緒の水槽に入れて魚達は食べられ
てしまわないのかしら﹂
﹁多少は食べられているだろうけど、餌を与えているから平気なん
じゃない?﹂
なるほど。幼気な子供達の見ている前で水槽が真っ赤に染まった
らとんだ猟奇なトラウマだもんね。
﹁あ、エイもいるよ﹂
﹁エイというのは⋮﹂
私達は先頭に立って説明していく鏑木解説員の話を聞きながら、
水に棲む生き物達を見て回った。
幻想的なクラゲやちょっと不気味な深海魚などを順繰りに見て、
お土産コーナーでは麻央ちゃんが﹁弟へのお土産に﹂と、フカフカ
の白いあざらしのぬいぐるみをと手に取っていた。麻央ちゃんも弟
1774
君が生まれたばかりの時は、今まで独り占めしていた大人達の関心
が弟君にいってしまってちょっと落ち込んでいたりもしたけど、す
っかりお姉さんなのねぇ。ほろり。
﹁おい、吉祥院﹂
麻央ちゃんの成長を微笑ましく見守っていると、鏑木が隣にやっ
てきた。
﹁お前また俺からの連絡を無視しただろう﹂
﹁え∼、そうでしたぁ?!﹂
鏑木よ、その鋭い眼光をやめるんだ。私の小心な部分がぷるぷる
震えてしまうから。
﹁高道さんと水族館に行ったそうで﹂
﹁そうだ。その話をしようと思っていたのにお前ときたら⋮﹂
鏑木は苦々しげに大きなため息をついた。なんだなんだ、恋バナ
をしたかったのに聞いてもらえなくて怒っているのか。どこの女子
だ。
﹁楽しかったですか﹂
社交辞令として一応聞いてやる。
﹁ああ。学院の人間に見られないように水族館近くの駅前で待ち合
わせをして行ったんだが、無事に会えて良かった﹂
なんてことだ。学校帰りに駅で待ち合わせて﹁ごめん待った?﹂
1775
﹁俺も今きたとこ﹂なんて、私の理想の放課後デートを、気配り、
常識、デリカシーのない鏑木が、さらりと実現しているなんて!
はっ!振り返った雪野君が小首を傾げてこちらを見ている!純真
無垢な雪野君達に私の妬み嫉みの闇を垣間見せてはいけない。深呼
吸、スーハー。
それからお土産を買った麻央ちゃん達が戻ってくるまで、私は延
々鏑木の惚気に付き合わされた。﹁高道がアザラシに手を振られて
喜んでいた﹂﹁高道がタカアシガニっておいしいのかなと笑ってい
た﹂﹁高道が熱帯魚きれいだねと笑っていた﹂﹁高道とふたりでネ
オンテトラの数を数えた﹂⋮あんたなんてピラニアに噛まれちゃえ
ばいいのに。
﹁それから高道は深海魚に一番興味を持っていた﹂
﹁へー、それはマニアックですね﹂
﹁実に奥深い人間といえよう﹂
﹁ほー、左様ですか﹂
⋮あんたなんてアンコウに噛まれちゃえばいいのに。
水族館を堪能した私達は、帰る前に近くのカフェに寄ることにし
た。長テーブルの向こう側に小学生組が3人並んで座ったので、必
然的に私達高校生組もこちらで並んで座ることになる。当然のよう
に鏑木が窓際の上座に座り、その隣に円城が座った。
え∼⋮、私も雪野君達の隣に座りたいなぁ。
﹁あれ、吉祥院さん座らないの?﹂
﹁⋮ええ、まあ﹂
だって隣に座ると座高の高さに気づかれちゃうんだもん⋮。身長
差約20センチに対し、座高は一緒⋮。ううっ、呪われた胴長短足
の狸の遺伝子が憎いっ。子供達の隣なら身長差でごまかせるんだけ
1776
どなぁ⋮。
すると怪訝そうに私を見ていた円城が﹁あぁ⋮﹂と呟き、にっこ
りと微笑むと、
﹁前から思っていたけど、吉祥院さんは首が鶴のようにすらりと長
いよね﹂
﹁!!﹂
今、円城がいいこと言った!
そうなのだ。私はエステサロンや美容室でもよく言われるんだけ
ど、首が長いのだ。﹁麗華様はお首が長くていらっしゃるから、デ
コルテまでのラインがとてもお綺麗ですね∼﹂なんて言われちゃっ
たりしてね。
よくぞ見抜いてくれた、円城よ。私は胴が長いんじゃない。首が長
いんだ!聞いたか、鏑木!ってメニューを見てて聞いてない!
⋮まぁ、いい。私は理解者の隣に安心して座った。
﹁ん?ん?兄様、なんの話?﹂
﹁うん?女性で首が長いのは美人の条件って話﹂
﹁!!!﹂
なんと恐ろしい⋮!高校生の分際で、そんな歯の浮くようなセリ
フを平気で口にできるとは!やはり伊万里様の後継者候補は円城か
もしれない⋮。
私は椅子ごと円城から距離を取った。
注文をし終ると、おのおの水族館の話で盛り上がる。うんうん、
ペンギンは可愛かったね。
﹁麗華お姉様﹂
﹁なあに、麻央ちゃん﹂
1777
﹁麗華お姉様と水族館に来たのは久しぶりですね﹂
﹁そうね。麻央ちゃん達と遊びに来られて、今日はとっても楽しか
ったわ﹂
﹁私もです!﹂
私は麻央ちゃんとふたり、目を見合わせてニコーッと微笑み合う。
あぁ、ほのぼの。
するとそこに円城が﹁前にも一緒に水族館に行ったことがあるの
?﹂と話に入ってきた。
﹁はい。去年の夏休みに麗華お姉様と璃々奈お姉様と、お姉様のお
兄様の貴輝様と行ったんです﹂
﹁へぇ、そうなんだ﹂
その時のことを思い出して嬉しくなった麻央ちゃんは、楽しかっ
た思い出を円城に語り始めた。
﹁白イルカやペンギンがとっても可愛かったんですよ。麗華お姉様
は白クマがお好きなんですよね?﹂
﹁ええ、そうね﹂
﹁それから水族館に行った後には、貴輝お兄様のご親友の伊万里様
もいらして、皆でお店を見て回ったり海の近くを散歩したりしたん
ですよ﹂
﹁へぇ、伊万里さんも?﹂
片眉をあげた円城が、意味ありげな笑みで私に視線を寄こした。
あ、まずい⋮。
このままではこの前、鏑木からの私がまるでモテないと決めつけ
たかの言い草に腹が立って披露した水族館デートのエピソードが、
すべて見栄っ張りの嘘だったことが円城にバレてしまう⋮!
1778
﹁ねぇ麻央ちゃん。最近初等科はどう⋮﹂
﹁伊万里さんは女の子が喜びそうなお店や場所をたくさん知ってい
るから、楽しかったんじゃない?﹂
﹁はいとっても。それで伊万里様は今日の記念にって、私と麗華お
姉様と璃々奈お姉様にお揃いの素敵な髪飾りをプレゼントしてくれ
たんです!ね、お姉様﹂
ひいぃぃぃっ、麻央ちゃん!それだけは言わないで欲しかったっ。
﹁⋮ふぅん、水族館の帰りに髪飾りのプレゼント、ねぇ。どこかで
聞いた話だな﹂
バレた。バレた。実の兄とその親友を脳内恋人役に仕立てて虚言
を吐いたことがバレたー!うひ∼っ、恥ずかしいっ。円城の顔が見
られないっ。
﹁どうかしました?お姉様﹂
﹁⋮ううん。なんでもないの﹂
無邪気な刀で私に瀕死の重傷を負わせた自覚のない麻央ちゃんの
笑顔がつらい⋮。
大丈夫。大丈夫。私は一緒に水族館に行った相手が彼氏だとか特
別な異性だとかなんて、はっきりと言ったわけではないんだから。
あっちが勝手に解釈しただけなんだから。私は相手が誰かを言わな
かっただけで嘘はついていないんだから。そうだ、私はなにも悪く
ない。胸を張るのよ、麗華!
私は円城からの視線を避けるように、ひたすらメニューを端から
端まで読み込んでいった。
1779
今日も私の朝は恒例となった若葉ちゃんの備品にされた嫌がらせ
チェックから始まる。
今朝は靴箱の扉に泥が付いていたのでそれを通販で買った洗剤い
らずの魔法の雑巾で一拭きで消し、ロッカーは無事だったので教室
の机を調べる。表面上はきれい。でも実は机や椅子の裏側に落書き
がされていることもあるから見落とさないようにしないとね。うん、
今日の嫌がらせは靴箱の泥だけだったみたい。
時計を見るとまだまだ時間に余裕があった。せっかくだからワッ
クスをかけておこうかな。
私は愛用のアメリカ製のワックスを取り出し、キュッキュと机を
磨き上げる。さすが通販売れ筋ベストセラー商品。机の表面は鏡の
如く光り輝いてツヤツヤのピカピカだ。鏡いらずだ。私の顔もくっ
きりはっきり⋮、やだ、上から覗き込むと私の顔がお餅みたいにな
ってる⋮。おのれ重力。
一通り机と椅子にワックスをかけ、周りの机との輝きの差を確か
めて満足すれば今朝の作業はお終い。あぁ、このやり切った感。清
々しい!
さてお掃除グッズを片付けて退散しようか。
私は腰をトントン叩き、体をぐーっと伸ばした。
その時、バンッと音を立てて、教室のドアが勢いよく開かれた│
│。
﹁ここでなにをしている!﹂
﹁ど⋮っ!﹂
同志当て馬ーーー!!
1780
246
ドアの前には眉間にしわを寄せて、こちらの一挙手一投足を見逃
すまいと鋭く見据える同志当て馬。
日頃嫌がらせを受けている若葉ちゃんの机の横には、他のクラス
の生徒である私。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
絶体絶命。
四面楚歌。
万事休す。
⋮今の私の状況を、端的に表す言葉が脳裏をよぎる。
ただでさえピヴォワーヌと生徒会は反目しあっていて、瑞鸞の対
極にある私と若葉ちゃん。しかも数ヶ月前には若葉ちゃんのロッカ
ーに嫌がらせをした犯人が私であると疑われる事件まで起きていた。
そんな私が若葉ちゃんの机の近くにいたら、そこから導き出される
答えは││。
あ、私、終わったな⋮⋮。
﹃吉祥院麗華、市中引き回しの上、打ち首獄門の刑に処す!﹄
﹃待ってください、お奉行様!これには深いわけが!﹄
﹃引っ立ていっ!﹄
﹃あ∼れ∼!﹄
柄杓の水で刀を濡らし、私の後ろに立つ同志当て馬。そして白装
束で筵に正座をしている私の首に今、ギラリと光る刃が振り下ろさ
1781
れる││!
﹁吉祥院﹂
これから起こるであろう恐ろしい現実を直視できず江戸時代に逃
避していた私を、同志当て馬の声が引き戻した。
﹁もう一度聞く。ここでなにをしている?﹂
そう言いながら同志当て馬は扉を静かに閉め、私を追い詰めるべ
く一歩一歩こちらへと足を進めてくる。
﹁こんな早朝の、まだ誰も登校していない時間に﹂
銀の狼が逃げ遅れたぽんぽこ子狸の喉笛を食いちぎる距離まで、
あと二十歩││。
﹁自分のクラスではない教室で﹂
あと十歩││。
﹁一体なにをしていたんだ?﹂
進退維谷まる││!
もうダメだ。もう完全に私終わった。
﹁吉祥院⋮?﹂
濡れ衣とはいえ私が犯人として事が公になったとしても、ピヴォ
ワーヌのメンバーである私が表立って処罰されることはないかもし
1782
れない。いや、たぶんない。でもこれから卒業までの期間、瑞鸞の
生徒達からコソコソと嫌がらせ行為を働いていた姑息な人間として
白い目で見られる生活に、果たして私は耐えられるだろうか。
鏑木や円城も私に二度と気軽に話しかけることもなくなり、軽蔑
した目で見てくるだろう。慕ってくれていた雪野君や麻央ちゃんや
悠理君達プティの子達から笑顔を向けられることもなくなる。乙女
な委員長や岩室君も弟子を辞めるだろう。決死の覚悟で私を庇って
くれた望田さんは失望する。芹香ちゃんや菊乃ちゃん達は⋮?
どうしよう、どうしよう⋮。
真っ暗な未来を想像して、恐怖で手が氷のように冷たくなってき
た。
﹁おい、吉祥院。聞いているのか?﹂
﹁⋮っ!﹂
私の腕に触れた断罪者の手に、反射的に恐れ戦き身が竦んだ。
﹁あ、ごめん﹂
思った以上の反応に驚いたのか、同志当て馬は私から手を離すと
﹁あ∼﹂と言いながらその手で自分の髪をかきあげた。
﹁とりあえずさ、顔あげてくんない?﹂
ため息と共に発せられた言葉にビクビクと少しだけ顔をあげると、
持て余したような顔をした同志当て馬と目が合った。
﹁まずは説明して﹂
説明⋮。
1783
他のクラスの私が、早朝のひと気のない若葉ちゃんの教室にいた
説明。ピヴォワーヌの吉祥院麗華が、若葉ちゃんがされていた嫌が
らせの掃除をこっそりしていました、なんて普通誰も信じないよね?
同志当て馬は若葉ちゃんの机を指でトントンと叩いた。
﹁これは吉祥院がやっていたのか﹂
﹁これ、といいますと⋮?﹂
机の落書きですか⋮?
﹁高道の机磨き﹂
ハッとして私は大きく顔をあげた。
﹁ここ最近、誰かが高道の机やロッカーの汚れ落としをしているら
しい﹂
気づかれてた!
﹁なんで⋮﹂
﹁なんでって、見ればわかるだろう。高道本人も、近頃自分の机や
椅子が日に日にピカピカと光輝いていっている気がすると言ってい
たし、今だって周りと見比べても明らかに高道の机だけ朝日の反射
が違うじゃないか﹂
⋮仰せごもっとも。
確かにワックスを塗りたての若葉ちゃんの机は、前後左右とは比
べものにならない眩しい輝きを放っている。自慢の通販掃除アイテ
ム達は、今日も看板に偽りなしの働きをしてくれていた。
1784
﹁なぜ高道の机やロッカーだけが掃除されているのか不思議だった。
高道が、きれいになって嬉しいけど磨かれ過ぎて机の上に置いたプ
リントが滑って落ちることがよくあるというので、もしや新手の嫌
がらせかとも考えたんだけど⋮﹂
ええっ?!
﹁そんなつもりじゃないわ!﹂
﹁だろうな﹂
﹁えっ﹂
試された?!
﹁まぁ、嫌がらせで机を毎日掃除するっていうのも変な話だしな。
高道も靴屋のこびとさんの仕業かもねぇなんて言って気にしていな
いし﹂
メルヘンだな、若葉ちゃん。
同志当て馬は若葉ちゃんの机の四隅にスーッと指を滑らせ、汚れ
をチェックするような仕草をした。その姿は、まるでお姑さんのよ
うだと思ったことは決して口には出すまい。
﹁修学旅行から帰国して、高道の備品への嫌がらせが再発した。具
体的には土汚れや落書きなんかだな。ただそれはしばらくして無く
なったから、収まったように見えていたんだけど⋮﹂
同志当て馬が、ちらりと私を見た。
﹁もしかして、吉祥院が毎日消していたのか?﹂
1785
⋮これは私の立場上、肯定してもいい場面なのだろうか。挙動不
審に目が泳いだ私に、同志当て馬が目を眇めた。
﹁どうして、吉祥院が高道のフォローをしているんだ?﹂
﹁それは、えっと⋮、高道さんに気分よく朝を迎えて欲しいからと
言いましょうか⋮﹂
﹁はあ?なんだそれ﹂
﹁はあ。なんでしょう⋮?﹂
自分でもなにを言っているのかわからない。学院内では私と若葉
ちゃんが友達であることは隠している。それなのにほとんど接点の
ない外部生が清々しく過ごせるように早朝から掃除をしています?
怪しい。怪しすぎる。
でもこの様子だと生徒会長である同志当て馬は、一応私の言い分
を聞いてくれる気はあるってことだよね?
﹁高道さんの机などへの嫌がらせが呼び水となって、面白半分に高
道さんをいじめる人間が増える可能性もありますし、なにより朝か
ら自分の靴箱やロッカーが汚されているのを見るのはつらいでしょ
う?﹂
﹁⋮なるほどね﹂
﹁えっ?!﹂
言ってる自分が嘘くさいと思うのに。
﹁えっと⋮、信じてくれるの?﹂
﹁そうだな﹂
同志当て馬が頷いた。
1786
﹁どうして⋮﹂
﹁どうしてって、なにが﹂
﹁だって私、ピヴォワーヌですよ?﹂
﹁言われなくても知っている﹂
私の自己紹介に同志当て馬が今更なにを言っているんだというよ
うな表情をした。
﹁⋮ピヴォワーヌの私の言うことを、生徒会長が簡単に信じるので
すか?﹂
﹁吉祥院が俺をどう認識しているのかは知らないが、俺は相手の所
属や立場で一括りに考えることはしない﹂
なんという公明正大!まさに生徒会長の鏡!
﹁ありがとうございます⋮!﹂
﹁それに、前に誰かも言っていたけど、吉祥院なら回りくどい嫌が
らせなんかしなくても、気に入らなければ指1本動かすだけで学院
から追放できるだろ?﹂
﹁できませんから。なんですかその悪い意味での過大評価は﹂
﹁そりゃあピヴォワーヌの実力者だしなぁ﹂
﹁1分前に発した自らの言葉の責任!﹂
生徒会長の鏡はヒビ割れている!
﹁ところで、これはなにで磨いているんだ?ただの雑巾の水拭きじ
ゃないだろ﹂
えっ、私の通販コレクションを見たいの?う∼ん、まぁ私の無実
を一応信じてくれたし、証拠品も兼ねて見せてもいいかな。
1787
私はカバンの中から代表メンバーの中でもエース格であるチュー
ブ洗剤をおもむろに取り出した。
﹁あ、これなにかで見たことがある﹂
﹁これは全米シェアNO1の、どんな汚れもたちどころに落とすス
ーパー洗剤です﹂
﹁あぁ、確か子供がフローリングに描いたクレヨンの落書きも簡単
に落ちるとか、溶かした水に汚れた布を入れると真っ白になるとか
っていう⋮﹂
﹁あら良くご存じですね。その通りです﹂
﹁これって本当に漬け置きしただけで真っ黒に汚れた布が白くなる
のか?﹂
﹁ええ。私もまず届いてすぐにあのテレビでやっていたデモンスト
レーションを試しましたが、確かに宣伝通りに漂白されましたよ﹂
﹁へえ!﹂
﹁興味がおありなら1本差し上げましょうか?キャンペーン期間中
で1本のお値段で2本付いてきたので﹂
﹁いや、いい⋮﹂
﹁そうですか?﹂
遠慮しなくてもいいのに。
﹁それからこれと、これと⋮﹂
﹁おい、どんどん出てくるな﹂
机の上に出されたアイテムの数々に同志当て馬が目を見張ったが、
甘いな。家には代表落ちしながらも出番を待つメンバーがまだまだ
数多く控えている。
﹁あ、これってもしかしてマジカルなんとかっていう﹂
1788
﹁洗剤いらずの魔法の雑巾ですね。ちょっとした汚れにはこれ1枚
で二度拭きいらずの手間いらず﹂
﹁洗って何度も使えるんだよな﹂
﹁ええ、そうです。でも実際には洗っているうちに劣化して効果が
薄くなるので、テレビで言うほどは持ちませんね﹂
﹁まぁそうだろうな﹂
私は同志当て馬が次に手に取ったワックスの仕様説明もする。
同志当て馬は魔法の雑巾で隣の机を拭くと、ワックスをかけ出し
た。
﹁もしかして、蒸気で汚れを浮かして落とす器械も持ってる?﹂
﹁スチームクリーナは現在検討中です。すっごく欲しいんですけど、
水が出るから掃除の場所を選ぶんですよね﹂
﹁あぁ、水周りか外限定だよなぁ﹂
そうなんだよねぇ。教室やロッカーで使ったら水浸しで大惨事だ
もん。でも一度使ってみたい!
しかし⋮。
私は自分のクリアファイルを油性マジックで汚してチューブ洗剤
の威力を試している同志当て馬を横目で見た。この男、話が合い過
ぎる。
﹁テレビ通販にお詳しいのね﹂
同志当て馬の手が一瞬止まった。
﹁⋮夜中にテレビをつけるといつもやっているから、つい目がいっ
ちゃうんだよ﹂
1789
さもありなん。
﹁夜中は通販番組のゴールデンタイムですから﹂
同志当て馬は別の意味でも同志であった。
でも無言のアイコンタクトでお互い、このことはここだけの話に
しておこうということになった。だって高校生が夜な夜な通販番組
を楽しみに観ているってなんだかちょっと恥ずかしいんだもん。
﹁吉祥院、明日から一緒に犯人を見つけないか﹂
﹁えっ!﹂
そろそろ生徒が登校してきそうなので、掃除グッズをカバンに片
付けている時に同志当て馬が驚くべき提案してきた。
﹁どうせ明日も吉祥院は高道のされている嫌がらせを消しに来るん
だろう?﹂
﹁ええ、まぁ⋮﹂
﹁それもいいことだとは思う。けれど、いつまでも対症療法みたい
なことをやっていても埒が明かない。いじめの元を断たないと﹂
﹁それは確かにそうですけど﹂
﹁だったら力を貸してくれないか。1人より2人で探したほうが見
つかる確率が高い﹂
え∼、犯人を探すのは別にいいけど、ピヴォワーヌの私が生徒会
長と手を組むっていうのはまずくないか?だってこれってピヴォワ
ーヌ的に敵と通じている裏切り者じゃない?
それはちょっと∼と保身に走ったが、断ってもどうせ明日同じ時
間帯に来れば会うことになるぞと逃げ道を塞がれ、仕方なく一緒に
犯人探しをすることになってしまった。
1790
しかし犯人を見つけた場合は表に出るのは同志当て馬のみで、私
はその場からすばやく退散することは約束させる。誰かに目撃され
た場合も他人のフリをするべし。私のことを誰にもしゃべらない。
同志当て馬は条件を飲んで頷いた。
﹁じゃあ明日からよろしくな﹂
明日は通販で買った壁や床のキズをたちどころに消す消しゴムを
持って来ようかな⋮。
1791
247
そうして始まった同志当て馬との犯人探しだけど、敵もなかなか
尻尾を出さない。嫌がらせも毎日ではないから、そういう時は私の
持参した掃除グッズを使ってふたりでなんとなく他の人の机なんか
も磨いていたら、若葉ちゃんのクラスでは密かに朝、机が輝いてい
たら幸運の印という妙な噂が出回ってしまった。
抜き打ち
等々、体験者からの喜びのコメン
好きな人と上手くいきました
その手の話に目がない芙由子様からの情報によると、
臨時収入がありました!
テストで良い点数が取れました!
!
トが続々と届けられているらしい⋮。
﹁きっとあのクラスには瑞鸞の座敷童がいるのですわ﹂
本日のピヴォワーヌのお菓子はフロランタン。アーモンドキャラ
メルがおいし∼い。
甘いお菓子を堪能する私の隣で、オカルト少女芙由子様は瑞鸞の
新たな不思議に胸を高鳴らせ、ほおっと熱いため息をついた。座敷
童って⋮。
同志当て馬よ、知らない間に私達は座敷童にメタモルフォーゼし
ていたようですよ?
でも、なんとかボードやらアルテミス様の恋まじないやら、西洋
オカルトが大好きな芙由子様なら、座敷童よりも靴屋の妖精を想像
すると思ってた。というようなことを芙由子様に言ったら、﹁最近、
私は和に目覚めましたの﹂と返された。
﹁麗華様達と和風スイーツのお店にご一緒させていただきましたで
しょう?それがとても楽しかったものですから、それから日本や東
1792
洋の文化にも興味がわいて今色々と勉強しているのです﹂
﹁へえ﹂
日本の文化に興味がわいた結果が日本のオカルトに行っちゃうの
が芙由子様だなぁ。
それから芙由子様は、この学院には風水による結界陣が敷かれて
いる、鬼門裏鬼門だの龍脈だとの怪しげなことを言い出した。やめ
ろ、戻ってこい。
﹁私の部屋も風水を元にインテリアを変えようと思っていますのよ﹂
え∼っ、迷信のためにそこまでやる?風水に縛られて家具も好き
に配置できないのって面倒くさいなぁ。私だったら迷信よりも便利
さとインテリアのバランスのほうを取るよ。
﹁それで生活が不自由になるのは大変ではありません?﹂
﹁それほど大規模なことではありませんもの。今実践しているのは
鏡の位置を変えたり、小物の置き場所を変えたりする程度ですし。
あとは方角によって運気のあがる色を置いたりですね﹂
﹁あぁ、西に黄色とかでしたっけ﹂
﹁それは金運ですわね。ええ、そうです!西に黄色いお花を飾った
り、お財布を黄色や金色にすると金運があがると言われていますね﹂
﹁黄色いお花はともかく、いかにもな金色のお財布はためらってし
まいますわねぇ﹂
いくら金運をあげたいからってそんな派手な金ぴか財布はちょっ
とね∼。あはは。
﹁ふふふ。まぁ麗華様は金運などご興味ありませんものね。でも風
水で色はとても重要ですのよ。赤は火の象徴ですのでキッチンやお
1793
財布には使ってはいけないですとか、他には⋮﹂
﹁えっ、赤いお財布がダメ?!﹂
私のお財布の色、ワインレッドですけど?!
﹁ええ。赤いお財布はお金を燃やしてしまうので良くないそうなの
です。それから青いお財布もお金が水に流れていってしまうので良
くないとか﹂
ええっ、知らなかった。だから私は散財が多くて今ひとつお金が
貯まらないのか?!いやいや迷信だし⋮・
﹁なんだか大変。赤もダメ、青もダメでは選択肢が限られてしまい
ますよねぇ。やはり風水ではお財布は黄色か金色以外はダメという
ことでしょうか﹂
﹁いえ、ピンクや黒も良いそうですよ。特にピンクは恋愛運もあが
りますし﹂
﹁あら、そうなんですか?﹂
そうだよね。お金持ちが全員、黄色いお財布を使っているわけじ
ゃないもんね。ふ∼ん。
﹁それと私、座禅にも興味があるのです﹂
﹁座禅?﹂
﹁ええ。やはり精神修養といえば座禅ですし、ぜひ一度修行をして
みたくて﹂
座禅か。そういえば、何年か前に桜ちゃんに連れられて行ったこ
とがあったな。
1794
﹁座禅なら私、前に体験したことがありますよ﹂
﹁まぁっ、本当ですか?!﹂
まぁまぁ羨ましいと、芙由子様が興奮した。
﹁それでどうでした?悟りの境地は見えました?宇宙の真理は?﹂
﹁え、いや、一回で悟りは⋮﹂
芙由子様の平安顔がグイグイ迫ってきて怖い。
﹁そうですよね﹂と芙由子様は少し残念そうな顔をした。
﹁でもご存じですか、麗華様。かの一休禅師は闇夜にカラスが一声
鳴いたのを聞いて、悟りの境地に至ったそうなのです。ですから麗
華様もいつ何をきっかけに悟られるかわかりませんのよ﹂
うん、芙由子様。私は別に悟りを目指していないから。
芙由子様は座禅体験をした私をしきりに羨ましがる。行きたいけ
れどどこのお寺や道場が良いのかわからないそうなのだ。確かにね
ぇ。例のリュレイア様と縁が切れたのに、また怪しい縁を繋がれた
りしたら私も気が気じゃない。
﹁では私に禅寺を紹介してくれたお友達に今度会う予定があります
ので、よければ聞いておきましょうか?﹂
﹁本当ですか、麗華様!ぜひお願いいたします!﹂
桜ちゃん所縁のあのお寺なら、由緒も正しいしきちんとしている
から芙由子様が行っても大丈夫だろう。
そのお寺では座禅の他に写経もありますよと教えると、芙由子様
は増々心を躍らせた。喜んでいただけてなにより。
1795
﹁鏑木様、円城様、もうお帰りですか?﹂
その声の方向に目をやると、ちょうど鏑木と円城が席を立ったと
ころだった。
﹁ああ。あとはよろしく頼む﹂
﹁ごきげんよう﹂﹁お気をつけてお帰りになってください﹂と、周
りを取り囲むメンバー達からの挨拶に片手を軽く上げて応えながら、
鏑木は微笑みの円城と共に退出すべくサロンの扉へと向かう。そし
て私達の前を通り過ぎる時に私を見ると、顎をクイッと上げた、よ
うな気がした⋮。
それから数分後、私の携帯電話がブルブルとメールの着信を知ら
せた││。
﹁⋮そろそろ私も手芸部に行かないと﹂
﹁でしたら私もこのまま帰宅いたします﹂と言う芙由子様とご一緒
に、サロンに残っている皆様に帰りの挨拶を済ませると、芙由子様
は玄関に、私は手芸部の部室に続く廊下へと別れた。
そしてその廊下を中ほどまで歩くと踵を返し、元来た道を引き返
すと、呼び出しを受けたいつもの小会議室のドアをノックした。
﹁来たか。座れ﹂
ドアを開けてくれた円城の肩越しに、偉そうにふんぞり返って座
る鏑木の姿が見えた。この横柄な態度に慣れてきている自分が嫌だ
⋮。
指示通り私が向かい側に着席すると、鏑木は早速本題に入った。
1796
﹁今日の話はほかでもない、高道のことだ﹂
﹁でしょうね﹂
むしろそれ以外になにがあるんだ。
﹁⋮高道がいじめを受けている﹂
鏑木が深刻な顔で言った。
﹁知っているか﹂
﹁それは、まあ⋮﹂
数ヶ月前には私がその犯人ではないかと疑われる騒動まであった
んだから、そりゃあ知っているでしょ。
﹁お前、心当たりはないのか﹂
心当たりがあったら同志当て馬と毎朝犯人探しなんてしていない
よ。この前、更衣室の若葉ちゃんのロッカーにマジックで付けられ
たような汚れがあったから、たぶん備品への落書きは女子なんじゃ
ないかとは思うんだけど。でも若葉ちゃんの成績を妬む男子の模倣
犯もいるかもしれないからなぁ。複数犯の可能性もあり。う∼ん。
﹁具体的に誰かはわかりませんけど、高道さんを嫌っている生徒が
一定数いることは確かですね﹂
鏑木は不機嫌そうにチッと舌打ちをした。
﹁一体どうしたのですか急に﹂
﹁なにがだ﹂
1797
﹁急にこのようなことを言いだしたことです。こう言ってはなんで
すけど、高道さんへの風当たりの強さは入学当初からですから、今
更改めて鏑木様が問題にしたことに驚いたのです﹂
鏑木はケッと口を歪めた。さっきから行儀が悪いぞ。
﹁それは今日ね、高道さんが背中に丸めたゴミをぶつけられている
現場に、偶然遭遇しちゃったからなんだよね﹂
私の疑問に円城が代わりに答えた。なるほど⋮。
﹁その犯人は捕まえたのですか?﹂
﹁いいや。おいっ!と怒鳴ったら逃げられた。追いかけようと思っ
たけれど、高道に止められたから犯人はわからずじまいだ﹂
﹁ちょうど外を歩いている時でね。あっちは二階の窓から投げてき
てすぐに隠れたから、顔も見えなかったんだ。でも数人の気配がし
たかな﹂
﹁そうですか⋮﹂
気に入らない人間にゴミをぶつけるって、高校生にもなって幼稚
なことを⋮。
﹁本人は丸めた紙だから当たっても痛くないし気にしていないって
笑っていたけどね﹂
﹁そういう問題じゃないだろ﹂
まぁ、それは確かにね。
﹁とにかく、こんな状況をいつまでも見過ごしておくわけにはいか
ない﹂
1798
鏑木が拳で机を叩いた。
⋮なんだか嫌な予感がするぞ。
﹁そこでだ﹂
鏑木は高らかに宣言をした。
﹁俺は高道をいじめている首謀者を探そうと思う﹂
げええっっ!!!
なにこのデジャヴ!!
﹁秀介、吉祥院。ふたりとも首謀者探しに協力してくれ﹂
いやいやいやいや無理無理無理無理。私ってばすでに同志当て馬
の協力者ですし!
私が実は裏で生徒会長と手を組んでいるなんてことがバレたら、
ピヴォワーヌでの私の立場が!そしてその時の鏑木の反応は?!配
下の者が敵と通じていましたって?いやあっ、想像するだに恐ろし
い⋮!
﹁具体的に、首謀者というのはそのゴミをぶつけた人間のことです
か?﹂
﹁いや。それ以外にも高道に悪意ある行動を取っている人間達もだ﹂
﹁⋮参考までに、探してどうなさるおつもりで?﹂
﹁当然、その罪を明白にし、高道に謝罪させる﹂
うわぁ⋮。なんという唐変木。
1799
﹁それは逆効果だと思いますよ。鏑木様が面と向かって非難するこ
とで、表面的ないじめはなくなるかもしれませんが、高道さんへの
悪感情は増すと思います。男子に大っぴらに庇われると、同性の反
感を買いますから﹂
﹁⋮⋮﹂
わ、あからさまに不満気な顔。でもここだけは引けない。私の保
身のためにも!
﹁僕も吉祥院さんに賛成﹂
すると横から思わぬ助け舟がやってきた。
﹁高道さんが女子から嫉妬されている原因って雅哉にもあるのに、
その雅哉が公然と高道さんを守るために行動したら、余計火に油を
注ぐよ﹂
いいぞ、円城!
﹁それに彼女にも水崎とか助けてくれる仲間達がいるみたいだし、
そこまで心配することもないんじゃないかな﹂
同志当て馬の名前に鏑木の眉がピクリと動いた。
﹁大体、高道さんへの悪意ある行動って、陰口や悪口を言っている
人達もですか?残念ですが受験期ということで高道さんの成績が良
いことをやっかんで当てこすりを言う連中はそこそこ多いですが、
その生徒達全員ですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
1800
腕を組んだ鏑木の目付きがどんどん悪くなっている⋮。好きな子
の窮地を助けたいという気持ちはわかるし、その想いは尊いんだけ
どねぇ。
﹁⋮高道の机などがイタズラ書きなどの嫌がらせをされていると聞
いた﹂
﹁!!﹂
鏑木に知られてた!
皆が来る前に私が毎朝チェックして消してまわっていたから、特
に他のクラスの鏑木には気づかれていないだろうと高を括っていた
のに。まずいっ。
﹁悪口はともかく、そっちは対処すべきだと思う﹂
対処って、犯人探し?3人で?若葉ちゃんの教室で?でも私、同
志座敷童と毎朝幸運の印を授けてまわっているんですけど?!
冷や汗を通り越して脂汗が出てきた⋮。あぶら取り紙!
﹁それ、僕も聞いたな﹂
おいいっ!味方じゃなかったのかいっ、助け舟っ!
これはダメだ。私はもう逃亡するから、同志座敷童よ。絶対に私
のことはしゃべるなよ!
﹁中間テストが終わった頃かな。そんな話を小耳にはさんだけど。
でも最近はなくなったみたいだよ﹂
一時的なものだったんじゃないかなぁと円城の言。おや?
1801
﹁そうなのか?﹂
﹁うん。だからそっちの犯人は見つけるのは難しいかもね。無理に
おとなしくなった藪をつつく必要はないよ﹂
円城の説明に、そうかと鏑木が納得した!
すごいぞ!まさに空母なみに頼れる助け舟!浮沈船円城!
﹁なにより本人がどう思っているかだよね。こんなところで第三者
がああでもないこうでもないと議論していてもあまり意味がない。
直接本人に聞いてみればいいんだよ。雅哉に助けて欲しいと思って
いるのかどうかをさ﹂
若葉ちゃんに直接?
﹁雅哉のヤツ、ゴミをぶつけられた現場でちゃっかり次のデートの
約束を取り付けたんだよ。気晴らしに映画でも観に行かないかって
さ﹂
それはなんというちゃっかり!
﹁ちゃっかりって言うな﹂
鏑木が口を尖らせた。
﹁それで?なんの映画を観に行くの?﹂
﹁まだ決めていない﹂
鏑木は情報誌を取り出して上映中の映画を検討しはじめた。なん
だか首謀者探しの話がこれでうやむやになった?
艱難辛苦が去り、肩の力が抜けた私は椅子の背もたれに寄り掛か
1802
った。ほっ。
﹁これなんかいいんじゃない?スパイ映画﹂
﹁スパイ映画か﹂
﹁二重スパイとなった主人公の過酷な未来を描く、クライムサスペ
ンス映画だって﹂
鏑木が円城の薦めに興味を示し、あらすじを読み込み始めた。
その間に円城が﹁吉祥院さんもスパイ映画は好き?﹂と、私に話
しかけてきた。
﹁普通、でしょうか﹂
とりたてて好きでも嫌いでもないかな。ただ、今の私にとってス
パイとは他人事の存在ではない。しかも二重スパイ。身につまされ
る⋮。映画ではぜひその二重スパイにハッピーエンドを迎えてもら
いたい。
円城はそっかそっかと頷いた。
﹁でも、二重スパイの末路というのはいつの時代も悲惨なものだよ
ね。正体が知られれば味方からは切られ、敵からも裏切り者の烙印
を押され追われて、始末される﹂
え⋮。
﹁最期は人知れず海の底か山の中か⋮。どちらにせよ、二重スパイ
なんてやるもんじゃないよね﹂
そう思わない?吉祥院さんと、円城がニヤリと笑った││。
1803
248
今日は桜ちゃんと葵ちゃんと休日ランチ。
待ち合わせの駅に着くと、すでに桜ちゃん達は先に来ていた。私
はふたりに小走りで駆け寄る。
﹁おはよう桜ちゃん、葵ちゃん!﹂
﹁あっ、麗華ちゃん!﹂
﹁おはよう麗華﹂
お互いの手を取ってきゃあきゃあとはしゃぐ。久しぶりだね∼。
特に葵ちゃん。
﹁葵ちゃん元気だった?﹂
桜ちゃんとは定期的に電話でおしゃべりをしたり、秋澤君に予定
が入っていて桜ちゃんが暇な時などに会ったりしていたけど、葵ち
ゃんとこうして会うのは何ヶ月かぶりだ。
国立付属に通う葵ちゃんは、ある程度の成績を取っていればエス
カレーターで付属大学に進学が約束されている私達とは違って一般
受験をしないといけないので、受験勉強のために遊べる時間がほと
んど取れないのだ。今日もこの後に予備校の授業が夜まであるらし
い。
﹁葵ちゃん、なんだかちょっとやつれたというか、痩せた?﹂
﹁そうかな?﹂
﹁今、話を聞いていたんだけど、平日も食事とお風呂の時間以外は
ずっと受験勉強をしているんですって﹂
1804
﹁ええっ!﹂
本物の受験生というのはそんなに勉強をしているの?!
そりゃあ勉強疲れでやつれもするよ⋮。大丈夫か、葵ちゃん。
﹁ちなみに毎日どれくらい受験勉強をしているの?﹂
﹁平日は学校もあるから大体6時間から8時間くらいかな。休みの
日だと予備校を含めて15時間くらい﹂
﹁15時間?!﹂
﹁これくらい普通だよ。もっと勉強している人だって大勢いるよ﹂
﹁ええ∼っ⋮﹂
骨の髄まで甘ちゃん内部生の私には考えられない勉強スケジュー
ルだ。15時間って、頭から煙が出ちゃうよ。
﹁だったら今日は誘っちゃって悪かったかなぁ﹂
﹁そんなことないよ。たまには息抜きも必要だし﹂
葵ちゃん⋮。せめて今日はおいしい物をたくさん食べて少しでも
栄養をつけてね。
ランチのお店は予め予約をしておいたので、すぐにテラス席に通
される。気候も良い季節になって風が気持ちいい。
﹁このお店ってデザートのテイクアウトもできるのね﹂
﹁そうみたいだね。なあに桜ちゃん、テイクアウトしたいの?﹂
﹁せっかくだから匠になにか買って帰ろうかと思って﹂
ふーん、相変わらず仲がよろしいことで。結構なことでございま
すなぁ。
1805
﹁なによ、その目﹂
おっと、僻みが目に出てしまっていたか。気のせいだよぉと笑っ
てごまかす。うふふぅ。
﹁葵ちゃんは彼氏とはどう?﹂
桜ちゃんが葵ちゃんに話をふった。
﹁受験があるから終わるまでは遊びに行ったりはできないねって話
しているの﹂
﹁そうなの。それはしかたないけどちょっと寂しいわね﹂
﹁うん。でも一緒に勉強をしたりはしているから﹂
こちらの恋も順調らしい。
﹁麗華は?﹂
﹁⋮なにが﹂
﹁なにか報告はないの?﹂
﹁⋮特にお話するようなことはありませんが﹂
誰も彼もが恋愛謳歌村の村民だと思うなよ!
﹁あら、前に言っていた図書館の君はどうなったの?﹂
﹁図書館の君⋮﹂
ナル君︵仮称︶のことだ。
﹁受験が終わったのか、図書館には現れなくなってそれっきり⋮﹂
﹁えっ、それだけ?﹂
1806
﹁それだけって他になにが?﹂
図書館でしか会えない人なんだから、図書館に来なくなったら接
点だってなくなるよ。何度か会えないかなと図書館に行ったりはし
ているんだけどさぁ。あぁ、思い出したら会いたくなっちゃったな
ぁ、ナル君。
﹁図書館の君って、もしかして私と同じ学校のあの先輩のこと?﹂
葵ちゃんが遠慮がちに聞いてきた。
﹁そう。葵ちゃんの高校の先輩だからって色々調べてもらったこと
もあったよね﹂
﹁⋮うん。麗華ちゃん、まだあの先輩のことを好きだったんだ⋮﹂
﹁好きっていうか⋮、気になるっていう程度だけど。そうだ葵ちゃ
ん。あの図書館の君のその後の情報ってなにかある?﹂
ナル君の受験の結果はどうだったんだろう。図書館に現れなくな
ったってことは合格したんだろうと思うんだけど。
桜ちゃんが同じ学校なら葵ちゃんに力になってもらったらと言っ
た。
﹁卒業してからのことは詳しく知らないけど⋮﹂
﹁うん﹂
葵ちゃんは逡巡するように何度か口を開けては閉じた。
﹁先輩、彼女がいるみたい⋮﹂
││私の心がハンマーで殴られた。
1807
ナル君に彼女がいた⋮⋮。
ショックのあまりテーブルに突っ伏す私に代わって、桜ちゃんが
﹁それって本当なの?﹂と聞いた。
﹁うん⋮。卒業式の時に彼女と一緒に記念写真を撮ってたよ。それ
から卒業後に職員室を二人で訪ねてきたのも見かけた⋮﹂
﹁それだけじゃ彼女かわからないんじゃない?﹂
﹁手を繋いでいたし、私の知っている先輩からも二人は付き合って
いるって聞いたから⋮﹂
﹁⋮あぁ、それは確実ね﹂
確実だね⋮。
前世のナル君と現世のナル君︵仮︶と、二回も失恋してしまった
⋮。
好きだった従兄のナル君に似ているな∼、懐かしいな∼って気持
ちでときめいていただけだから、友柄先輩の時よりは全然ショック
は小さいけど。でもなぁ⋮!
﹁麗華ちゃん、元気だして﹂
﹁う∼⋮﹂
今世、二度目の失恋。図書館に運命は転がっていなかったかぁ。
﹁果たしてこの世に両思いなんて本当にあるのだろうか⋮﹂
﹁あるわよ﹂
﹁ある、かなぁ﹂
この謳歌村の村民どもめ!
﹁大体図書館で見掛ける人に一目惚れをしたのはいいとして、声を
1808
かけたりはしなかったの?﹂
﹁ええっ、しないよぉっ﹂
ありえない、ありえない。見ず知らずの人になんて言って声をか
けるの?不審者だと思われちゃうじゃない。なにこの子って目で見
られたらどうするの。そんなことになったら恥ずかしくて立ち直れ
ない。
﹁じゃあただ見ていただけなのね﹂
﹁こっち向け∼こっち向け∼って念は送っていたけど通じなかった
みたい﹂
﹁なにそれ、怖いわね﹂
﹁奥ゆかしいって言ってよ﹂
私の繊細な乙女心を桜ちゃんは鼻で笑った。
﹁通っている学校までわかっているんだったら、文化祭に行ってみ
るとかお近づきになる手段はいくらでもあったのに、なにをやって
いたのよ﹂
﹁だって⋮﹂
私は口を尖らせた。
だって文化祭まで行って、私の好意がバレたら恥ずかしいじゃな
いか。
そんな私に桜ちゃんが﹁麗華ってさぁ﹂と続けた。
﹁いつか白馬に乗った王子様が迎えに来てくれるとか、夢見がちな
ことを考えているでしょ﹂
﹁え⋮﹂
1809
私を見る桜ちゃんの目が眇められた。
﹁あのねぇ、そんないつ来るかもわからない不確かな王子様をぼん
やりと待っているからダメなのよ。自分から白馬に乗って王子様を
迎えに行くくらいの気概を持ちなさいよ。気概を!﹂
気圧される私に、桜ちゃんはさらに畳みかける。
﹁いつかきっと素敵な王子様が私を迎えにきてくれるわ、なんてボ
ケーッと待っていたら、あっという間におばあさんよ。それでもい
いの?﹂
私の脳内に、縦ロールの老婆が王子様はまだかしら∼と恋愛ぼっ
ち村を徘徊する恐ろしい光景が映し出された。
﹁⋮乗馬は苦手だから、白いポニーでいい?﹂
私は村を出て旅に出る約束をした。
﹁しかし軍曹殿。自分には迎えに行くべき王子様の存在がどこにも
見当たらないのであります﹂
﹁誰が軍曹よ﹂
出会いがないんだよ。出会いが。
﹁瑞鸞にいないの?﹂
﹁いない﹂
きっぱりはっきり。
1810
﹁瑞鸞の男子生徒は私の学校でも人気が高いわよ﹂
だって比較的仲のいい男子達にはもう皆、お相手がいるんだもん。
委員長しかり。岩室君しかり。それ以外の男子となると距離があっ
てよく知らない。常に遠巻きにされているし。
﹁そういえば匠が言っていたわね。麗華が廊下を歩くと参勤交代状
態になるって﹂
﹁なにそれ!秋澤君、陰でそんなことを言ってたの!ひどい!﹂
﹁本当なの、麗華ちゃん﹂
﹁そんなわけないでしょ!大嘘だよ!﹂
笑いごとじゃないよ、桜ちゃん!参勤交代ってなんだ。そんなわ
けないじゃないか。確かにほとんどの人は皆、道を譲ってはくれる
けど、土下座したりはしないから!目はあまり合わせてくれないけ
ど!
﹁だったら他校に目を向けてみたら﹂
﹁他校?それこそどうやって知り合うのよ﹂
﹁お誘いはないの?﹂
お誘い?なんだそれは。
﹁桜ちゃんはあるの?﹂
﹁私の通っている学校はお嬢様学校として有名だもの。男子校から
のお誘いは色々あるわよ﹂
なんと!
﹁瑞鸞だってあるんじゃないの?﹂
1811
﹁聞いたことないわよ﹂
そもそもどうやってお誘いとやらがくるのよ。その疑問に桜ちゃ
んは友達を介しての紹介と答えた。なんてこった。
﹁瑞鸞の仲のいい友達で誰か紹介してくれそうな子はいないの?﹂
女子
高等科在籍だ。
芹香ちゃんや菊乃ちゃん達の顔を思い浮かべた。
﹁いない﹂
きっぱりはっきり。
私の周りは全員、瑞鸞学院
﹁じゃあ麗華に誰か紹介をしてくれそうな他校の友達は?﹂
他校の友達⋮。
私は無言で目の前の二人を指差した。
﹁えっ、私達?!﹂
驚く二人にコクコクと頷く。
桜ちゃんと葵ちゃんは目を見合わせて﹁それはちょっと∼﹂と言
った。なんでよ。
﹁桜ちゃんはいっぱいお誘いがあるって言ってたじゃない﹂
﹁私は匠がいるからすべて断っているもの﹂
﹁葵ちゃんの学校は共学だよね⋮﹂
﹁うちの高校は今はもう受験一色で合コンをする余裕のある人は1
人もいないと思うよ。ごめんね﹂
1812
ほら見ろぉ!白いポニーに乗って村を出る決意をしても、王子様
を見つける糸口すらないじゃんか!
私はパスタをやけ食いした。 ﹁せっかく共学に通っているんだから、葵ちゃんみたいに同じ学校
にいればいいんだけど﹂
﹁どうせモテませんよ﹂
﹁そんなこと言ってないでしょ﹂
共学に通うメリットを全く活かせていない私は、ぶーっとふてく
された。
﹁麗華は性格は悪くないのよね。少し変わっているけど﹂
﹁褒めてるのか、貶してるのかわかんない﹂
﹁麗華ちゃんは明るくて性格もいいし、すごくいい子だよ﹂
ありがとう葵ちゃん。
﹁じゃあなんでさ﹂
桜ちゃんがじーっと私の顔を見た。その目線。
﹁⋮顔がダメって言いたいの﹂
ひどい。
﹁そんなことないわよ﹂
﹁いいよ。はっきり言って。どうせどうせ﹂
﹁ちょっといじけないでよ。麗華は決して不細工じゃないわよ。む
1813
しろ整っていると思うわ。ただなんと言うか⋮﹂
﹁なんと言うか⋮?﹂
私の顔を隅々まで観察した桜ちゃんが、う∼んと唸った。
﹁顔が、時代遅れなのよね﹂
顔が時代遅れ!
初めて言われた。顔が時代遅れ。時代遅れの顔ってどんなの?!
﹁麗華ちゃんは10代にはない品があるからっ﹂
葵ちゃんが慌ててフォローしてくる。
﹁顔が時代遅れ⋮﹂
言われてみれば私の顔って、一昔前のぬりえっぽい⋮。
﹁麗華ちゃん、しっかり!﹂
﹁麗華ごめん。そういう意味じゃなくて﹂
私のショックの受けように、さすがの桜ちゃんも謝ってきた。
﹁葵ちゃんが言ったように、品がありすぎるから今時の高校生には
見えないってこと。顔だけじゃなく髪型や服装もね。だから普通の
男の子には近寄りがたいのかなって﹂
⋮そこは私にも大いに思い当たるふしはある。街を歩いていても、
私みたいな女子高生あんまりいないもん。ゴージャス縦ロールの女
子高生なんて。
1814
﹁日焼けでもしてみようかな﹂
小麦色の肌で溌剌感を出したら遅れた時代に追いつけるかも。
﹁それは絶対にやめたほうがいいわ﹂
しかし桜ちゃんに止められた。
﹁昔から色白は七難隠すと言ってね。色が白いだけで七つも欠点を
カバーしてくれるんだから、麗華、その色白は大切にしなくちゃ﹂
ちょっと!それは私に隠さねばならない難が七つもあると言って
いるのか?!失敬な!
私の七つの難ってなに?豊満な腹囲。人よりちょっぴり高い座高。
そして時代遅れの顔⋮。
胸を押さえて苦しむ私の背中を、葵ちゃんが大丈夫大丈夫とさす
ってくれた。現実がつらいよ、葵ちゃん⋮。
すったもんだのランチを終え、そのまま予備校へ行く葵ちゃんに
別れを告げると、私と桜ちゃんは途切れないおしゃべりをしながら、
ショッピングやカフェを巡った。途中、今時の女子高生に近づくべ
くカジュアルな服などを見に行ってみたけど、どうにも縦ロールの
壁が高すぎてカジュアルの入る隙間はなかった。
帰宅すると伊万里様がいらしていた。
﹁おかえり∼、麗華ちゃん﹂
1815
﹁おかえり麗華﹂
﹁ただいま帰りました。ごきげんよう伊万里様﹂
立ち上がった伊万里様がにこやかに私の手を取ってソファに誘導
してくれた。
﹁今日はどこに行ってたの?﹂
﹁お友達とランチです﹂
﹁楽しかった?﹂
﹁はい﹂
﹁それは良かった﹂
KISSHOUINの客となる
そして気がつけば、私は伊万里様と並んでソファに座っていた。
││こうして私は今宵もCLUB
﹁伊万里様は最近よくいらっしゃいますね﹂
﹁麗華ちゃんは俺がきたら迷惑?﹂
伊万里様はわざとらしく哀しい表情をする。
﹁いえ、決してそんなことはありません。伊万里様ならいつでも歓
迎です。ただ伊万里様のようなかたは、休日は女性との約束がぎっ
しり詰まっているのかと思いまして﹂
﹁え∼、俺ってそんなイメージ?﹂
ごめんなさい。そのイメージしかないです⋮。
﹁ちょっとね。麗華ちゃんのお兄さんと相談事﹂
﹁相談事?﹂
1816
﹁知りたい?﹂と顔を近づけて意味深に笑う伊万里様にダーツの矢
が飛んできた。
﹁おまっ、危ないだろ!麗華ちゃんに当たったらどうする!﹂
﹁だから麗華から速やかに離れろ﹂
ヒュンヒュンヒュンと伊万里様に矢が次々と放たれる。私は一番
安全なお兄様の隣に避難する。さすが元弓道部部長。ダーツといえ
ど的を外さない。伊万里様はそれを近くにあった雑誌で防御した。
ひとしきりお兄様による伊万里様への制裁が落ち着いた頃、私は
﹁私の外見って時代遅れだと思います?﹂と二人に聞いてみた。
﹁時代遅れ?﹂
﹁いきなりどうしたの?﹂
﹁なんとなく、私って今時っぽくないかなぁって﹂
お兄様だって特に流行を追ってはいないのに、その凛とした佇ま
いからは時代遅れ感は全く受けない。同じ兄妹なのにこの違いはな
んだろう。センスか。
悩む私に伊万里様もお兄様もそんなことはないよと否定してくれ
た。
﹁麗華ちゃんは、ソフィー・アンダーソンの描く乙女達のように愛
らしいよ﹂
﹁ええっ﹂
KISSHOUINのN
私って伊万里様にあんなに可愛いと思ってもらえているの?うふ
ふ、でも嬉しいっ。もうさすがCLUB
O1!
両手で頬を押さえて照れる私の隣で、無表情のお兄様が静かにダ
1817
ーツの矢を手に取った││。
でも後で考えてみたら、100年前の絵画の乙女って時代遅れも
甚だしいよね?
1818
249
今朝は数日ぶりに若葉ちゃんの机が汚されていた。この白いのは
チョークの粉かな。これだったら魔法の雑巾で拭けばすぐにきれい
になるね。
﹁今日は簡単だったな。毎回チョークの粉程度の汚れだったら楽で
いいんだけど﹂
ほんの数分の作業で終了してしまったので、同志座敷童は他の生
徒の机も拭き始めた。さて今日の幸運の印は誰の机に輝くのかな?
﹁でもありがとな。高道のために毎朝こうして付き合ってくれて﹂
私はその言葉に内心首を傾げた。私がこうして掃除兼見張りをし
ているのは、若葉ちゃんが私にとって大切な友達だからだ。
﹁別に私は自分の意志でやっているので、水崎君にお礼を言われる
筋合いではありませんよ﹂
なんとなく同志当て馬の言葉からは﹁︵俺達の仲間の︶高道﹂と
いうニュアンスが聞き取れた気がして、ちょっと反発したくなった。
そして月曜日の鏑木との会話を思い出した。
それはいつもの小会議室での出来事││。
1819
﹁昨日のデートは不発に終わった﹂
﹁まぁ、そうでしょうね⋮﹂
﹁なぜわかる!﹂
﹁そりゃあ、そんな不機嫌そうな顔をしていたらあまり良くない結
果だったのだろうと想像がつきますよ﹂
鏑木は日曜日に、若葉ちゃんがいじめられていた現場でどさくさ
まぎれに約束したデートで、映画を一緒に観に行っていた。確かス
パイ映画だったかな。
﹁それで、なにを失敗したんですか?﹂
﹁特に失敗をしたわけじゃない。ただ、映画を観た後でゆっくりカ
フェにでも行こうと計画していたのが、高道に次の予定が入ってい
て頓挫した﹂
﹁あら﹂
﹁それが⋮、水崎のヤツとの勉強会だったんだ﹂
﹁あらら∼﹂
﹁それで結局、昨日は映画を観ただけで終わってしまった⋮﹂
﹁なるほど。いっそ空気を読まずに一緒についていっちゃえばよか
ったのに﹂
ギロリと鏑木に睨まれた。茶化してごめん。
﹁私達は受験生ですし、高道さんは外部生で特待生でもあるのです
から、今の時期は丸一日遊ぶのは難しいのかもしれませんよ。もう
すぐ実力テストもありますし。むしろそんな中でも時間を作って会
ってくれたのだから良かったではないですか﹂
シビアな受験環境に置かれている葵ちゃんだって似たようなもん
だった。
1820
﹁⋮まぁな﹂
それには鏑木も同意した。
﹁しかし事あるごとに高道の周りにチラチラと現れる水崎の存在が
気になる﹂
﹁それはまぁ、あちらは同じ生徒会仲間ですし。鏑木様よりも懇意
なのは否めないのでは?﹂
私は鏑木の殺し屋のような目に射抜かれ悲鳴をあげた││。
若葉ちゃんの代わりにお礼を言う同志当て馬か。まずいよ鏑木、
あんた二歩も三歩も出遅れているっぽいよ⋮。
﹁それでも一応、俺からも礼を言いたかったんだ。毎朝痕跡を消し
ているおかげで、高道は嫌がらせに気づいていないみたいだから﹂
﹁それは良かったです﹂
﹁うん﹂
若葉ちゃんが心穏やかに楽しく過ごせているのなら良かった。
﹁でも早く犯人を特定してこんな嫌がらせをやめさせないと。いじ
められるのって大なり小なり絶対に傷つくし、つらいもの﹂
私のつぶやきに同志当て馬が意外そうな顔をした。
﹁なにか?﹂
﹁まるで吉祥院もいじめられた経験があるみたいな物言いだったか
1821
ら。そんなわけないのにな﹂
﹁⋮⋮﹂
確かに今の私はありがたいことに、いじめられたことはない。蔓
花さん達や鏑木を好きな舞浜さんなんかと対立や嫌味の応酬をする
ことはあっても、ピヴォワーヌのメンバーで吉祥院家の娘の私をい
じめることのできる人なんてそういないからね、でも前世の私はど
こにでもいる平々凡々な人間だったから、当然いじめられたことも
あった。突然無視をされたり、クスクス後ろで陰口を叩かれたり。
まぁ、若葉ちゃんがやられているような嫌がらせのいくつかを経験
した。あれはつらかったなぁ。休み時間やグループ学習の時なんて
針のむしろで、とにかく早く時間が過ぎてくれるのだけを祈ってい
たなぁ。う∼、嫌なことを思い出したな。私の場合は若葉ちゃんと
違ってそんなに長引かず、ターゲットは別の子に代わっていったけ
ど。
﹁⋮いじめられる人の気持ちくらい、想像がつきますから﹂
﹁そうか﹂
それ以上は詮索することなく、同志当て馬は黙々と手を動かした。
﹁吉祥院、もし仮にこの犯人がピヴォワーヌの人間だったらどうす
る?﹂
﹁え⋮﹂
私は掃除の手を止めて、同志当て馬の横顔を凝視した。
﹁水崎君はピヴォワーヌのメンバーが犯人だと思っているの?﹂
﹁仮の話だよ﹂
﹁⋮⋮﹂
1822
もしも犯人が同じピヴォワーヌの人間だったら⋮、どうしようか。
﹁水崎君はどうするつもりなの?﹂
ずるいけど返答を保留して質問で返す。
﹁当然、罪を明らかにして高道に謝罪をさせ、場合によっては相応
の処罰も要求する﹂
まぁ、生徒会長ならばそれが当然でしょうね。
でもピヴォワーヌは学院内で多少の横暴が許されている特権階級
だから、そんな人間が格下と見下している外部生の若葉ちゃんへ謝
罪なんてさせられたら、自尊心を傷つけられて逆上する可能性が高
そう。
﹁そしてその時には、生徒会とピヴォワーヌの直接対決は避けられ
ないだろうな﹂
﹁⋮⋮﹂
ピヴォワーヌと生徒会の直接対決か⋮。
同志当て馬は﹁ま、戦ったところで確実にこちらの負け戦だけど
な﹂と自嘲気味に続けた。
﹁ずいぶんと気弱なことですね。最初から負ける気でいるんですか
?﹂
﹁そりゃそうだろう。生徒会はピヴォワーヌの対抗勢力だなんて言
われていても、権力の差は歴然としているからな﹂
﹁意外と冷静なのね﹂
1823
同志当て馬なら自分の信じた正義のためならピヴォワーヌを倒す
のも辞さないと、自ら宣戦布告をするタイプかと思っていたけど。
それはそうと⋮。
﹁まだピヴォワーヌだとは決まっていないでしょう?﹂
﹁そうだけどな﹂
決まっていないうちからピヴォワーヌだと決めつけないで欲しい。
﹁水崎君はピヴォワーヌに偏見があるかもしれないけれど、争いを
好まない平和的な人達だっているのよ﹂
少なくとも芙由子様は浮世離れはしているけどピヴォワーヌの選
民意識で他人を見下したりはしていないし、文学少女の讃良様も権
力を笠に着たりはしない。
﹁そうだな⋮。悪い﹂
同志当て馬は少しばつが悪そうに謝ってきた。
﹁そうだよな。力を振りかざす奴もいれば、こうやって朝から外部
生のために人知れず掃除をしている人間もいるからな﹂
﹁え⋮﹂
これって褒められているの?どう対応していいか困るんだけど。
動揺する私を横目でフッと笑うと、同志当て馬は﹁あ∼ぁ、俺も
まだまだダメだなぁ﹂とひとりごちた。
﹁本当はさ、俺は生徒会長になったら、ピヴォワーヌと生徒会との
対立構造を取り払いたかったんだ﹂
1824
﹁そうだったの?!﹂
私の反応に同志当て馬は苦笑いした。
﹁ああ。でも思った以上に難しかった。長年に渡って出来た溝はそ
う簡単に埋まらないし、下手に歩み寄ろうとすれば、周りから生徒
会がピヴォワーヌにおもねり屈したように見られる心配もある﹂
全然知らなかった。同志当て馬はそんな密かにそんな目標を持っ
ていたのかぁ。
﹁それに俺自身も、気をつけていてもピヴォワーヌに対してどこか
で偏見が出てしまう⋮﹂
同志当て馬は﹁今みたいにな﹂と顔を歪めた。
﹁まぁそれは、今までの積み重ねた歴史がありますしねぇ﹂
私だって同志当て馬に見つかった時に、絶対に信じてもらえない
って思ったし。
そんな感じのことを言ってフォローすると、同志当て馬も﹁そう
だな﹂と笑った。
﹁それにそっちの首領はマイペースだしなぁ﹂
﹁首領って、悪の組織みたいな呼称はやめてくださいな。会長がマ
イペースなのは否定しませんけど﹂
同志当て馬が吹き出した。
﹁そんなこと言っていいのか?﹂
1825
﹁ここだけの話でお願いします﹂
同志当て馬は笑ったまま﹁了解﹂と言った。
﹁⋮この話はもういいか。別の話をしよう。吉祥院は通販で買って
失敗した物ってあるのか?﹂
﹁失敗した物ですか⋮﹂
同志当て馬が話題を変えてきたので、それに乗る。
﹁買って失敗した通販商品⋮。そうね。失敗した物というより、買
ってはみたものの使わなくなって扱いに困っている物ならいくつか
ありますわね﹂
ステッパーを代表とする主にダイエット器具がね。特にステッパ
ーは斜めになっているから上に物も置けやしない。
﹁へぇ。例えば?﹂
例えば⋮。
﹁大正琴とか﹂
﹁おい、渋いな﹂
大正琴については前世で夏休みの昼間にやっている通販番組で紹
介されているのを見た時から、ずっと興味があったんだよね。琴と
いいながらも卓上でタイプライターのような形状で子供心に一体あ
れは何?!ってね。こういう時、無駄に買えちゃう財力があると欲
望がとまらないね。今なら楽曲教本付きというので即電話注文して
しまいました。
1826
﹁買ったのが数年前の夏休みだったのだけど、その夏休みの間はす
っかり嵌まって毎日弾いていたんですけどね⋮﹂
教本の曲を見よう見まねでたとたどしくも一通り弾いた頃には、
学校も始まってなんとなくそれっきり⋮。うん、なんか地味なんだ
よね、大正琴って。趣味が琴だと箱入りお嬢様の高尚なご趣味のイ
メージなのに、趣味は大正琴ですって言うと途端におばあちゃんの
手慰み臭くなると言うかさ⋮。でも、今は蔵にひっそり仕舞い込ん
であるけど、いつか私が年を取った時にもう一度やろうと思ってい
るよ。それまではちょっとお休みね。自分で自分に言い訳をする。
﹁水崎君はテレビ通販に詳しいけれど、何か買ったことはあるの?﹂
﹁俺?﹂
同志当て馬は宙を見上げ少し考える仕草をした。
﹁⋮そうだな。通販とは少し違うけど、毎月本を購読して、それに
付いているパーツを組み立てて完成させていくという⋮﹂
﹁えーっ!水崎君、分冊百科買ってるの?!﹂
意外!意外すぎる!
﹁あれでしょ?創刊号は特別価格でご提供のあれでしょ?﹂
﹁⋮⋮﹂
同志当て馬は私から目を逸らした。
﹁創刊号には便利なバインダー付きなのよね?ね?ね?﹂
﹁⋮⋮﹂
1827
同志当て馬は顔を横に背けた。
﹁分冊百科を買っている人を初めて見た!へえ∼っ!水崎君がねぇ
∼。分冊百科に手を出しているとは。いやはや意外や意外﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それで?それでそれで?なんのシリーズを買っているの?﹂
なぜかだんまりを決め込む同志当て馬の腕を叩いて振り向かせ、
﹁ねぇねぇねぇ﹂としつこく聞くと渋々﹁⋮日本の城シリーズとか﹂
と答えてくれた。
﹁お城!さらに意外!まさか水崎君にお城趣味があったとは!そう
ですかぁ、お城ですかぁ。それで?やっぱりお城といえば姫路城?﹂
﹁⋮松本城﹂
﹁松本城!水崎君こそ渋いご趣味!そのお城が完成したら私、お祝
いにお城の前で大正琴弾こうか?荒城の月しか弾けないけど﹂
﹁⋮遠慮しとく。そしてすでに完成している﹂
﹁えっ、すごい﹂
途中で飽きて投げ出さず、最後まで完成させたんだ。偉いな。で
も自室に何十冊も積み上がった分冊百科と、デンと鎮座する出来上
がったお城の模型の前に佇む同志当て馬か。想像するとなんだか笑
っちゃう。
﹁⋮さっきから気になっていたけど、吉祥院、言葉使いがいつもと
変わっていないか?ずいぶん雑なんだけど﹂
﹁えっ!﹂
うわっ、いけない。興奮して思わず素が出てしまっていた!ピヴ
1828
ォワーヌの吉祥院麗華ともあろう者が。
﹁気のせいではなくって?ワタクシいつも通りでしてよ?﹂
おほほと笑ってごまかす私を、同志当て馬は胡散臭そうな目で見
ていた││。
1829
250
午前の授業を終えた私と芹香ちゃん達は、いつものように連れだ
って食堂へと足を運んだ。
﹁麗華様、今日はなにを召し上がります?﹂
﹁そうねぇ。私は今週の限定デザートのアイアシェッケをいただこ
うかと思っているの﹂
﹁まぁ、それはよろしいですね﹂
﹁私もデザートはそれにしようかしら﹂
﹁私も﹂
うんうん。チーズのお菓子はおいしいもんねぇ。しかも期間限定
のメニューは人気も高い。早く行かないと無くなっちゃうかもしれ
ない。思わず気持ちが急いて私が心持ち早歩きになってしまうのも
仕方がない。芹香ちゃん達と和やかにおしゃべりをしながらも、心
はすでにチーズケーキの元へ∼。
﹁あっ!麗華様﹂
﹁えっ。きゃっ!﹂
菊乃ちゃんの慌てたような声の後に、体にドンっという衝撃を受
けた。
﹁大丈夫ですか、麗華様!﹂
﹁⋮ええ。平気よ﹂
少しよろけてしまったけれど、後ろに立っていたあやめちゃんが
1830
支えてくれたから、特に痛いところもなく問題はない。
しかし一体なにごとかと思いきや、どうやら曲がり角から飛び出
してきた男子と、おしゃべりをしていて余所見をしていた私が正面
衝突したようだ。
﹁すすすすすいませんんっっっ!﹂
声を上擦らせ今にも土下座せんばかりの勢いで謝罪する男子生徒。
誰かと思えば、同じクラスで塾も一緒の多垣君だった。
クラスも塾も同じなら普通はもう少し親しくなれそうなものだけ
ど、残念ながらこの多垣君には目が合っただけでいつも怯えられて
しまう。これは前に若葉ちゃんのロッカー落書き事件の時に、多垣
君の不用意な一言で一瞬でも私を窮地に陥らせた事を、まだ引き摺
っているのかな。別にもう気にしていないからいいのに。
すみませんすみませんと謝罪を繰り返す多垣君を、芹香ちゃん達
が囲んだ。
﹁ちょっと貴方!誰にぶつかったかわかっているの!﹂
﹁かなりの激突でしたもの。これは打撲では済まないお怪我をなさ
ったに違いないわ。骨が折れたんじゃありません?麗華様﹂
﹁痛みますか、麗華様。あぁお可哀想に!﹂
﹁貴方、この責任どう取るつもり!﹂
﹁誠意を見せなさいよ、誠意を!﹂
⋮一体どこのゴロツキですか、
軽くぶつかった程度で、骨が折れたと騒ぎ立て、責任を取れ、誠
意を見せろと脅迫する人達を、世間では当たり屋という││。
そんな当たり屋に因縁をつけられた多垣君の顔は真っ青を通り越
して蒼白だ。
私が多垣君に必要以上に怖がる原因の大半は、絶対に芹香ちゃん
1831
達のせいだと思う⋮。
﹁おやめなさいな。皆さん﹂
少女マンガなら、出会い頭に男女がぶつかったらそこから恋愛が
始まる王道シチュエーションのはずなのに、なぜかアウトロー街道
まっしぐらこの状況に目も当てられず、私は止めに入った。
﹁麗華様﹂
﹁それほど強くぶつかってもいませんし、私も余所見をしていたの
ですから、それくらいにして差し上げて?﹂
﹁よろしいのですか?麗華様﹂
﹁ええ。でも危ないですから今後このようなことのないよう、これ
からは廊下は走らないようになさってね、多垣君﹂
﹁ははいっっ。申し訳ありませんでしたぁっ!﹂
できるだけ親しみやすく優しげに見えるように心掛けて微笑んだ
のに、なぜ更に怯えるか⋮。
多垣君は米つきバッタの如く頭を下げまくると、一目散に逃げて
行った。だから、廊下は走るなと今言ったばかりでしょうが。
まぁ、いい。それよりも早く食堂に行きましょう。
と、そこへ
﹁なにあれ。格好つけちゃって﹂
私に向けてのあからさまな当てこすりを、背中に浴びせられた。
一体誰だ。相手を確認しようとくるりと振り向くと、大方の予想
通り、そこには腕を組んで私を鼻でせせら笑う蔓花さんとその一派
がいた。
私と目が合っても逸らさず、逆に挑戦的な目で口角を上げる蔓花
1832
さんの態度に、芹香ちゃん達が殺気を漲らせる。両者は完全にやる
気だ。しかし私はそんな芹香ちゃん達を制すると、鷹揚な笑みで
﹁あら、格好いいと思っていただけの?光栄だわぁ。どうもありが
とう﹂
予想外の反応に頬をピクリとさせ一瞬言葉に詰まった蔓花さんに、
﹁どうぞご遠慮なさらず、真似してくださっても、よろしいのよ?﹂
と畳みかけ芹香ちゃん達を促すと、反撃の隙を与えぬよう、おほほ
ほほと高笑いで蔓花さん達に背を向け、何事もなかったように歩み
を再開した。
﹁麗華様に対してあのような言い草、許せないわ!﹂
﹁本当よ!﹂
私の後に続いてきた菊乃ちゃん達の怒りは収まらない。
﹁あの程度のくだらない挑発など、相手にするのも時間の無駄よ。
気にする程のものでもないわ﹂
﹁でも⋮﹂
﹁小事に拘わりて大事を忘るな。放っておけばいいのよ﹂
﹁さすがは麗華様。器が大きくていらっしゃる﹂
﹁ほほほ﹂
だってこんなことをしている場合じゃないんだもん。多垣君とぶ
つかって当たり屋が登場したのと、蔓花さん達に足止めされたこと
で、結構タイムロスしているのだ。これは急がないと。早く行かな
きゃ限定デザートが売り切れちゃうかも!さぁ、皆さま、競歩競歩!
そして着いた食堂で、私は早速お目当てのアイアシェッケを注文
1833
した。すると、給仕係から﹁すみません!こちらのデザートは人気
が高くて、たった今、最後の1個が出てしまったんです﹂と衝撃の
一言が!ええええっっっ!
私はがっくりと肩を落とした。たかがデザート、されどデザート。
楽しみにしていた食べ物が食べられない時のこの肩透かし感。この
失望感⋮。
﹁麗華様、あれを!﹂
地味にショックを受ける私に、菊乃ちゃんがなにかを見つけ指し
示す。そしてそれを見た私は、驚愕に目を見開いた。
つい先ほど私にぶつかって走り去って行った男子生徒が座るテー
ブルの前には、私が焦がれていたアイアシェッケが!
﹁またあいつか、多垣!﹂
﹁何度目だ、多垣!﹂
騒ぐ菊乃ちゃん達を置いて私は彼の元まで歩いて行くと、静かに
その背後に立ち、肩に手を置くと、
﹁多垣君、誠意をみせて?﹂
ねぇ私、ぶつかられた腕がとても痛いの。
いい加減、止まない嫌がらせの跡を掃除して回るという後手対応
では、いつまで経っても埒が明かないので、同志当て馬と相談して
1834
積極的に犯人を捕まえることにした。正直言って、終わりの見えな
い早朝登校が負担になってきたのもある。
⋮それに、円城は私が同志当て馬と密かに通じていることに気づ
いている気がするんだよね。決定的なことを言われたわけじゃない
けど、あの思わせぶりな口ぶりと微笑み⋮。この前なんて、﹁ねぇ、
吉祥院さん。伝説の女スパイ、マタ・ハリの最期について君はどう
思う?﹂と話しかけられた。これってすでに思わせぶりのレベルを
超えていると思う⋮。
ここ最近の私は円城と目が合うたびに、君がスパイだということ
を知っているよ、と言われているかのような心理的圧力を感じ、真
綿でじわじわと首を絞められるかのような恐怖を味わっている。近
頃、なにかに追いかけられて逃げきれない悪夢をよくみるのは、偶
然ではないはずだ。私の心が悲鳴をあげている。がんばれ、麗華。
がんばれ。
これ以上円城に弱みを握られている状況は、精神的にもかなり悪
い。一刻も早くこのスパイ生活から足を洗いたい。逮捕されて銃殺
刑なんて絶対にイヤだ!
というわけで、この数日は今までよりも更に早い時間に登校して、
嫌がらせの現場を押さえるべく張り込みをしている。
﹁確認ですけど、犯人が現れた場合、まずは水崎君が出て行くので
すよね?﹂
現在、私と同志当て馬は嫌がらせ犯に見つからないように、若葉
ちゃんの教室が見える廊下の陰に隠れている。
﹁そうだな。基本的には俺ひとりで捕まえるつもりだけど、もし逃
げられそうになった時には力を貸してくれ﹂
同志当て馬が取り逃がしたら、通りがかったフリをした私が犯人
1835
を捕まえるということね。
﹁相手にもよりますけどね﹂
﹁いまさら頼りないこと言うなよ﹂
だって蔓花さん達だったらちょっと、いやかなり怖いし。私が普
段強気な態度で蔓花さん達に対峙できるのは、あくまでも芹香ちゃ
ん達ががっつり脇を固めてくれている時限定だから。実は小心者の
私が1人で蔓花さん達を相手取るのは絶対に無理。勝てる気がしな
い。なのでその時は同志当て馬には悪いけど、見つからないよう抜
き足差し足でこっそり逃げよう。仮に犯人が男子だった場合は力で
は敵わないから、体当たりをして大袈裟に怪我をしたと騒ぎ立てれ
ばいいかな。
同志当て馬は時間潰しに教科書を読んで予習をしている。さすが
成績上位陣。勉強のできる人は空いている時間も無駄にはしない。
私も見習わなくては。
私は自分で受験対策用にまとめているバインダーを取り出して暗
記の勉強を始めた。
﹁⋮すごいな、それ﹂
暗記の優先順位によって色ペンを変え、教科ごとに付箋も色分け
している私のまとめノートを見て、同志当て馬が感想をもらした。
そうでしょう。これを作るのは時間がかかって大変なんだ。完璧で
きれいなノートにしたいから、大きく書き間違えをした場合は、修
正テープで見た目が汚くなるのがイヤで、最初から書き直したりも
している。1枚書き上げるのにも時間がかかるから、まだ完成には
ほど遠いんだけど、ここは覚えたほうがいいぞ、なんていう一言メ
モなんかは吹き出し付箋に書いて目立つようにしたり、我ながらと
っても見やすくて自信作の対策ノートなのだ。
1836
対して、同志当て馬の読んでいる教科書は、赤いペンしか使われ
ていないシンプルすぎる様相だったので、文房具問屋街で仕入れて
きた飛び出す絵本方式の立体付箋をあげた。これおすすめだから、
ぜひ使って!教科書を開けるたびに気分が高まるから!あっ、こっ
ちの走る人型付箋もあげるよ。後ろから順番に貼っていくとパラパ
ラマンガみたいになるから!
﹁あー、ありがとう⋮﹂
﹁どういたしまして﹂
そうしてお互い自分の勉強に没頭していると、同志当て馬が教科
書から顔をあげた。
﹁おい。誰か来たぞ⋮﹂
耳をすますと階段を上ってくる小さい音が聞こえる。私と同志当
て馬は見つからないように壁にへばりついた。とうとう犯人か?!
ひたひたと足音を忍ばせた気配が、若葉ちゃんの教室に入って行
ったのを感じた私達は、そっと教室に近づき、ドアの隙間から中を
窺った。
教室の中には、若葉ちゃんの机の前に立つ女子生徒が1人いた。
後姿で誰かわからないけど、派手な感じではないから蔓花一派では
なさそうだ。ひとまず良かった。でも本当にあの子が犯人⋮?
私の疑問に答えるかのように、女子生徒は若葉ちゃんの椅子を引
くと、カツカツと音を立てて何かをこすり付け始めた。現行犯だ!
﹁なにをしている!﹂
私が現行犯と認識したと同時に、同志当て馬が大きくドアを開け
放し中へ踏み込んだ。あ、デジャヴ⋮。
1837
生徒会長の突然の登場に、女子生徒は驚いて、手に持っていたチ
ョークを床に落として振り返った。
﹁あ⋮﹂
その振り返った女子生徒の顔に、私は見覚えがあった。名前は、
そう⋮
﹁生駒さん⋮?﹂
1年生の時に同じクラスだった生駒さんだった⋮⋮。
1838
251
この子は確か1年の時に同じクラスだった外部生の生駒さんだ。
この子が若葉ちゃんの嫌がらせの犯人だったの?!
﹁麗華様⋮﹂
思わず同志当て馬の後ろから教室に入ってしまった私を、生駒さ
んは驚愕の表情で迎えた。
﹁どうして麗華様が⋮﹂
うん。若葉ちゃんと別のクラスの私が、早朝に生徒会長の同志当
て馬と一緒に現れるなんて、普通はありえないよね。偶然通りかか
ったって言い訳はあまりに無理があるので、聞こえなかったことに
する。
﹁これは君がやったのか﹂
生駒さんの疑問を無視し同志当て馬が指差したのは、チョークで
ガリガリと落書きをされた若葉ちゃんの椅子。指摘された生駒さん
は真っ青になった。
一応質問の体はとっているけど、床には生駒さんが驚いて落とし
た証拠のチョークも転がっていて、私達は犯行現場を押さえている
のだから、生駒さんは言い逃れができる状況ではない。なので生駒
さんに出来ることといったら、潔くすべてを自白するか、現在のよ
うに黙秘をすることだけ││。
1839
﹁なぜこんなことをした﹂
﹁⋮⋮﹂
同志当て馬が重ねて問い質しても、生駒さんは蒼白な顔を俯けた
まま微動だにしない。
⋮これは私の出番か。
﹁生駒さん﹂
私の呼びかけにピクリと肩を揺らした生駒さんに近づき、その背
中にそっと手を当てる。
﹁ねぇ、生駒さん。どうしてこんなことをしてしまったのか、水崎
君に話しづらかったら私に話してくれないかしら。生駒さんにだっ
てきっと言い分はあるのでしょう?﹂
刑事ドラマの取り調べ風景でよくある、強面刑事が犯人を厳しく
追及し、ベテラン刑事がそれを﹁まぁまぁ﹂と取り成しつつ犯人に
優しくすることによって自白に導く、北風と太陽戦法を実践する。
﹁生駒さん⋮?﹂
私は生駒さんの背中を擦りながら、根気強く問いかける。すると、
﹁⋮⋮から﹂
﹁え?﹂
小さくて聞き取れなかった声に耳をすませば、突如生駒さんがガ
バリと顔を上げた。
1840
﹁だって、高道さんが麗華様と鏑木様の邪魔するから!﹂
﹁は?﹂
﹁は?﹂
私と同志当て馬の間抜けた声がシンクロした。
若葉ちゃんが、私と鏑木の邪魔をする?
﹁⋮えっと、それはどういうことかしら⋮?﹂
﹁だって、だって、麗華様のお隣には瑞鸞の皇帝がふさわしいのに
⋮。それなのに高道さんが鏑木様の周りをうろちょろしてそれを邪
魔するから⋮。だから⋮﹂
それは完全に逆じゃないか?若葉ちゃんの周りをうろちょろして
いるのは、確実には鏑木のほうだと思うけど。それはもうストーカ
ーの如く。
﹁高道さんのせいで麗華様が苦しむなんて許せない⋮!﹂
﹁えー⋮﹂
生駒さんの意外すぎる独白に、私と同志当て馬は目を見合せた。
つまり、嫌がらせの動機は生駒さんが皇帝に恋い焦がれるが故の
嫉妬ではなく、皇帝に恋をする私︵とんだ誤解︶のためだったと⋮。
﹁吉祥院⋮﹂
同志当て馬の視線から、お前が原因じゃないかという心の声をビ
シビシと感じる⋮。えー⋮。
﹁あのね、生駒さん。なにか勘違いをしているようですけど、私は
鏑木様のことはなんとも思っていませんのよ?﹂
1841
どうにか誤解を解こうとするも、生駒さんは全く信じていない表
情だ。本人が否定しているのになぜ信じない⋮。
﹁本当よ。初等科に入学してから今日まで、私は鏑木様に恋をした
ことは一度たりともありません﹂
少しでも疑う余地のないように、きっぱりと否定する。
﹁もちろんご尊敬は申し上げておりますが、恋愛感情は一切ござい
ません﹂
しかし保身のための皇帝ヨイショも忘れない。
﹁⋮⋮﹂
私から出る否定の数々に、生駒さんの顔が徐々に戸惑いに変わっ
ていく。
﹁⋮本当、ですか﹂
﹁本当よ﹂
﹁じゃあ、私のやったことって⋮﹂
﹁とんだ見当違いの行動だったわけだ﹂
目をせわしなく動かして自問自答する生駒さんに、同志当て馬が
容赦なく言い捨てた。
﹁そんな⋮﹂
呆然とした様子で体から力の抜けた生駒さんに、私達は今までや
1842
ったことのすべてを話すように説き勧めた。
そして語られた自白。若葉ちゃんの靴箱やロッカー、机に嫌がら
せをしたことに始まって、若葉ちゃんの上靴や制服を汚したのもな
んと生駒さんだった。結構やってんな、おい⋮。
しかも、私が犯人として嫌疑を受けたロッカー落書き事件も実は
生駒さんの仕業だった!あんたが犯人かい!
﹁まさか、麗華様に疑いがかかるなんて思ってもみなくて⋮。本当
にごめんなさい﹂
あー、うん。なんと言っていいのやら⋮。
﹁大体なんで吉祥院なんだ?ふたりは仲が良かったのか?﹂
それは私も疑問だった。1年生の時に一緒のクラスだっただけで
同じグループでもないし、クラスが分かれてからは接点なんてほと
んどないはずなんだけど。
﹁麗華様は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、私は1年の
時に麗華様と同じクラスだったんです⋮﹂
﹁ええ。それは覚えていますけど﹂
すると生駒さんの目に喜色が浮かんだ。
﹁憧れていた瑞鸞学院にがんばって入学したものの、今までとはか
け離れた学校生活で、右も左もわからず不安だった時に、麗華様が
私達外部生に手を差し伸べてくださって、遠足の余興の手助けもし
てくれたんです﹂
﹁あ∼⋮﹂
1843
そういえばあったな、そんなこと。
﹁ピヴォワーヌという雲の上の存在のかたが気さくに声をかけてく
ださって、優しくしてくださって、私、とってもとっても感動した
んです!なんて素敵な人だろうって。自分と同じ高校生とは思えな
い、私が今まで生きてきた世界では出会うことのない、キラキラと
した存在でした﹂
﹁まぁ、公立には絶対にいないわな⋮﹂
同志当て馬がボソッと呟いた。
﹁子供の頃に見た、フランス人形みたいな人が現実にいるなんて思
ってもみませんでした!﹂
﹁公立にフランス人形がいたら、校内に激震が走るわな⋮﹂
﹁そこからずっと、私は麗華様に憧れていました。あぁ、これぞ瑞
鸞。お近づきになれなくても、見ているだけで嬉しかったんです﹂
﹁公立なら全校生徒が二度見するだろうけどな⋮﹂
ちょっと同志当て馬、うるさいよ!
﹁私にとって、憧れの瑞鸞学院の象徴が、ピヴォワーヌであり、皇
帝であり、麗華様だったんです!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
重い⋮。生駒さんの私への偶像視が圧し潰されそうに重い⋮。
同志当て馬が咳払いをして、場を仕切り直した。
﹁動機はおおよそ理解した。だけど君がやったことは、結果的に憧
れていた吉祥院を窮地に追い込み、一時的にも名誉を傷つけること
1844
になったんだぞ﹂
生駒さんは息を呑むと、唇を噛みしめた。
﹁⋮ごめんなさい﹂
生駒さんは涙ぐみながら頭を下げた。
しかし同志当て馬はそんな生駒さんを、﹁謝る相手が違うんじゃ
ないか﹂と一刀両断した。
そうだよね。同志当て馬からしたら、仲間の若葉ちゃんがずっと
傷つけられてきたんだから、まず若葉ちゃんに謝罪してもらいたい
よね。
それはともかくとして、同志当て馬が発する冷たい空気が怖くて、
居心地が悪いんだけど⋮。
﹁生駒さん。自分のしたことが悪いことだとはわかっている?﹂
﹁はい⋮﹂
﹁高道さんに対しては?﹂
﹁⋮高道さんにも、申し訳ないと思っています。私の勝手な思い込
みで、ひどいことをしました。ごめんなさい⋮﹂
生駒さんは涙をこぼしながら﹁ごめんなさい。ごめんなさい﹂と
繰り返した。
困った⋮。反省を促したものの、泣いて謝る人に対して、直接の
被害者ではない私がなんと言えばよいのか⋮。気まずい。しょうが
ないので、ひたすら背中を擦る。
﹁さて、これからどうするか⋮﹂
謝り続ける生駒さんを横目で見下ろしながら、同志当て馬が難し
1845
い顔で思案に暮れた。
どうすると言うのは、生駒さんの行った罪を告発することについ
てか││。
生駒さんは外部生だし、学院側に知られればきっとそれなりの処
分が下されるだろう。自宅謹慎か、停学か⋮。停学になったら外部
生の生駒さんは多分、瑞鸞の大学への内部進学は取り消されると思
う。せっかく受験に合格し高い学費を払って付属高校に通っていた
のに、内部進学ができないのはかなり厳しい。
しでかした事の重大さをようやく実感してきたのか、生駒さんの
体が震え始めた。
﹁私⋮﹂
どうなるんでしょうという言葉を飲み込んだ生駒さんに停学かも
とは言えず、黙って震える体を支えてあげるしかできない。でも停
学になって内部進学取り消しもさることながら、それよりももっと
問題なのは⋮。
すると同志当て馬が私の考えを読んだように重く頷くと、
﹁鏑木雅哉に知られれば、ただでは済まないだろうな﹂
だよね∼⋮。
鏑木は若葉ちゃんに嫌がらせをしている犯人に憤り、自ら犯人探
しをしようとしていたくらいだ。犯人がわかったら、一体どうする
か⋮。想像するだに恐ろしい。瑞鸞の皇帝の不興を買った生徒に未
来はない。学院内で居場所はなくなり、針のむしろどころではない
だろう。
生駒さんの震えが大きくなった。
その様子を無表情で見つめていた同志当て馬が、腕時計に目を移
した。
1846
﹁そろそろ他の生徒達が登校してくる時間だ。ひとまずこの件は俺
が預かる。それで昼休み、いや、放課後に話し合うことにしよう。
悪いけど吉祥院も付き合ってくれるか﹂
﹁私もですか?﹂
﹁頼む﹂
﹁でも他の生徒会の方々がいらっしゃるのであれば、私は⋮﹂
私が関わっていることを知られるのは困る。
﹁他の役員にはまだ伏せておく。とりあえずは俺達だけでの話し合
いだ﹂
ものすごく気は進まないけど、この状態の生駒さんを見捨てるこ
ともできない。仕方ないと私は了承し、では放課後に生徒会室に集
合ということで、若葉ちゃんの落書きされた椅子を、取り出した魔
法の雑巾でササッと拭き取り、床に落ちたチョークの欠片を片付け
ると、いったん解散することになった。
ヨロヨロと力なく歩く生駒さんの後ろ姿を見送ると、同志当て馬
は顔を手で覆いながら、はあーっと大きなため息をついた。
﹁犯人がピヴォワーヌだったらな⋮﹂
﹁まだ、そんなことを﹂
同志当て馬はどんだけピヴォワーヌを悪者にしたいんだ。
﹁そうじゃなくてさ⋮。ピヴォワーヌなら、事が露見したところで
学院側からは厳重注意くらいで済まされるだろう?﹂
﹁⋮まぁ、そうですね﹂
1847
特権階級のピヴォワーヌは、外部生を多少︵?︶いじめたくらい
では罰せられることはない。むしろ注意すらもないかもしれない。
﹁やっぱり生駒さんの罪状からして、停学でしょうか⋮﹂
﹁停学か。もしくはこの学院の体質から考えて、停学なんて外聞の
悪い処分者を出すよりも、自主退学を勧めてくる可能性のほうが高
いかもな﹂
﹁えっ、自主退学?!﹂
高3で退学って、事実上死刑宣告にも等しいんじゃないか?!そ
うなったら内部進学どころか大学受験すらできない⋮。
驚愕に目を見開く私に、同志当て馬は何とも言えない表情で﹁ま
た放課後にな﹂と言って去って行った。
彼女の自業自得とはいえ、仮にも私を慕っていたという人間が裁
かれる場に立ち会わないといけないのは非常に気が重い。しかも停
学どころか退学の可能性もあるなんて⋮。
あれからずっと憂鬱な気分で1日を過ごした。
けれど、放課後になってしまったので生徒会室に行かないと。あ
ぁ、行きたくない。あぁ、気が重い⋮。
﹁麗華様、これからピヴォワーヌのサロンですか?﹂
重い足を引き摺って裁きの場に向かう途中で、笑顔の芙由子様に
声をかけられた。
1848
﹁いえ。今日は用事がありまして⋮﹂
私の返事に芙由子様は少し残念そうな表情をした。
﹁そうですか。麗華様と座禅についてお話したいことがあったので
すが﹂
桜ちゃんにお寺の手配をしてもらったと伝えてから、芙由子様は
ずっとうきうきと楽しそうにしている。そして紹介した手前、座禅
体験に私も同行することになっていた。
﹁なにかありまして?﹂
﹁実は今度ご一緒するお寺の修行内容について少し調べてみたので
すけど、こちらのお寺では座禅以外に滝行もあるのですね。私、座
禅もですが滝行にも大変興味がありましたの﹂
⋮やっぱり興味を持ったか。
確かに前に桜ちゃんと行った時に滝行コースもあったんだけど、
水が冷たくてつらそうだし、なにより頭から水をかぶって髪を濡ら
したくなかったから選択しなかったんだよね。それに通りすがりの
人達が物見遊山がてら、結構橋の上から見物しているんだよ⋮。そ
の中でやるのはかなり恥ずかしい。
﹁ねぇ麗華様、ぜひ滝行もやりましょうよ!﹂
﹁それは⋮。座禅はお付き合いいたしますが滝行はちょっと⋮﹂
ごめんね、芙由子様。しっかりセットした巻き髪をずぶ濡れには
したくないんだよ。あぁっ、そんなしょんぼりしないで!
﹁芙由子様が滝行をしているのを、傍で見守っていますから﹂
1849
ね、ねと説得すると、渋々ながらなんとかわかってもらえた。ほ
ぅ、良かった。
でも芙由子様の相変わらずの浮世離れしたマイペースぶりに、鬱
々とした気持ちも紛れたので、覚悟を決めて生徒会室へと足を運ぶ。
そして生徒会室近くまで着くと、部屋には入らず待機した。
さっきここに来る前に確認したら、生駒さんはまだ自分の教室に
残っていた。私は生駒さんを待った。
しばらくすると、苦痛を押し殺したような表情をした生駒さんが
やってきた。
﹁生駒さん﹂
﹁麗華様⋮!﹂
声をかけると生駒さんは驚いた顔になった。
﹁どうしたのですか、こんなところで﹂
たった半日で、生駒さんはすっかり憔悴していた。小耳にはさん
だ話では、授業中に具合が悪くなって保健室に運ばれたらしい。ど
こかの誰かさん達のせいで日頃からストレス性胃炎に悩まされてい
る私には、痛いほど気持ちはわかる。この半日は生き地獄だっただ
ろう。
﹁生駒さんを待っていたの。一緒に入りましょう?﹂
﹁えっ﹂
これから自分が裁かれる場に、ひとりで赴くのはさぞや恐ろしい
ことだろう。小心者の私がその立場だったら、誰かに一緒に来て欲
しいと泣きついちゃうかもしれない。だから待っていた。
1850
⋮なんて格好つけてみたけれど、本音は生駒さんのためが半分、
残り半分は私ひとりで法廷︵生徒会室︶に出頭するのが緊張して不
安だったから。ええ、私は学校のトイレに友達と一緒に行くタイプ
です。だってひとりで行って仲が良くない人達と遭遇したら怖いじ
ゃないか。手を洗っている時にぷーくすくすなんて後ろで笑われて
み。つらいぞ∼。居たたまれないぞ∼。女子トイレはダンジョンだ。
パーティーで挑まないと怪我するぞ!
﹁麗華様⋮、ありがとうございます⋮っ﹂
生駒さんは唇を震わせた。私はその腕をポンポンと叩いた。
﹁では参りましょうか﹂
﹁はい⋮﹂
私は生徒会室のドアをノックした。
1851
252
中からの応えに名前を名乗ると、少しの間の後で同志当て馬がド
アを開けてくれた。
﹁遅くなりました﹂
﹁いや。こちらこそわざわざ時間を割いてもらって悪かったな。あ
ぁ、生駒も一緒だったのか﹂
同志当て馬が私の陰になっていた生駒さんに気づき、そのげっそ
りとした憔悴ぶりに一瞬目を見張ったが、黙って私達を室内に導い
た。私は生駒さんを先に通して、その後に続いた。
﹁あ⋮﹂
生徒会室には若葉ちゃんがいた。
席に座って書類作業をしていた若葉ちゃんは顔を上げると、﹁よ
うこそ∼﹂と笑顔で私達に手を振った。
﹁当事者に来てもらうのが一番だと思って呼んだんだ﹂
若葉ちゃんがいる理由を説明した同志当て馬が、事後承諾で悪い
と謝った。
そんな若葉ちゃんは立ち上がると、ニコニコしながら﹁まぁ、座
って座って﹂と私達をソファに誘導した。
﹁なにか飲む?コーヒー?お茶でいいかな?﹂
1852
若葉ちゃんがグラスに冷たいお茶を人数分用意してくれている間、
生駒さんは両手を固く握りしめ、無言で下を向いていた。
そしてお茶が出され、若葉ちゃんも席に着くと、同志当て馬が﹁
では始めようか﹂と口火を切った。
﹁えっと、大体の話は聞いたよ。犯人は生駒さんだったって﹂
それに﹁はい⋮﹂と生駒さんが消え入りそうな声で認めると、若
葉ちゃんは腕を組み﹁そっか、そっか﹂と頷いた。
﹁私の身勝手な思い込みで、高道さんに大変申し訳ないことをして
しまいました。本当にごめんなさい⋮。謝っても謝り切れません⋮﹂
生駒さんは立ち上がると、若葉ちゃんに向かって深々と頭を下げ
た。
﹁うん、わかった。座っていいよ、生駒さん。それで理由は、生駒
さんが吉祥院さんのファンで、吉祥院さんのためにやっていたって
ことで合っているのかな?それが理由で私の持ち物を汚したりして
いたと﹂
﹁はい⋮﹂
﹁そっか、そっか﹂
若葉ちゃんはうんうんと頷いた。
﹁高道への嫌がらせのすべてが生駒の仕業ではないけれど、さっき
話した通り、かなりの余罪があった﹂
同志当て馬が補足した。
1853
﹁なるほどねー。生駒さんはそんなに吉祥院さんが好きなのかぁ﹂
そっかぁ、私に嫌がらせをしちゃうくらい、吉祥院さんを好きだ
ったのかぁ、と若葉ちゃんは独り言のように繰り返した。
﹁吉祥院さんが好きだから、私の上靴や制服まで汚しちゃったわけ
だね?﹂
﹁⋮ごめんなさい﹂
そっか、そっかぁと、若葉ちゃんは頷いた。さっきから若葉ちゃ
んはなぜそんなに、私のためだったというのを何度も確認している
んだろう。私と同志当て馬は若葉ちゃんの気持ちが読めなかったけ
れど、黙って成り行きを見守った。
すると、
﹁だったら、これを言ったらショックを受けちゃうかなぁ⋮﹂
若葉ちゃんが妙に芝居がかった困り顔で、小首を傾げた。
﹁なにかあるのか?﹂
﹁う∼ん。どうしようかなぁ。ねぇ、吉祥院さん。例のこと、言っ
てもいいと思う?﹂
えっ、なにが?!一体、なにを言うつもりなの、若葉ちゃん?!
急に話を振られて焦る私を置いて、あのね、と若葉ちゃんは生駒
さんに話しかけた。
﹁実は私が今着ているこの上靴と制服、吉祥院さんからのお下がり
なんだよ﹂
﹁えっ?!﹂
1854
若葉ちゃんの爆弾発言に、驚いた生駒さんが顔を上げた。
﹁その上靴と制服が、吉祥院からのお下がり?!どういうことだ、
高道﹂
先程まで冷静だった同志当て馬も、あまりに予想外だったのか落
ち着きを失っている。しかし私だってそれどころじゃない。若葉ち
ゃんによるいきなりの秘密の暴露にパニック状態だ。若葉ちゃん、
なんで!それは秘密だと言ったじゃないかーーー!!
﹁うん。嫌がらせで汚されていたんだけどね。偶然その場に居合わ
せた吉祥院さんが、同情して自分の持っている替えの靴と制服をく
れたの﹂
﹁吉祥院が⋮﹂
衝撃の事実に同志当て馬が唖然とした表情で私を見るが、私も狼
狽から立ち直れていない。瞬きの回数が異常に増えて止まらない!
なぜバラしたか、若葉ちゃん!
私達3人を驚愕させた若葉ちゃんは、立ち上がって制服を見せび
らかすように、その場でくるりとターンをした。
そして生駒さんの前に立つと、スカートの裾をドレスのようにち
ょこんと持ち上げて、笑顔でポーズを取った。
﹁憧れの吉祥院さんのお下がりだよ。羨ましい?﹂
生駒さんが目を見開いた。
﹁生駒さんの嫌がらせが、私が吉祥院さんのお下がりをもらうこと
に繋がって、私と吉祥院さんを近づけるきっかけ作りになっちゃっ
1855
たんだけど、それについてどう思う?ねぇ、どう思う?﹂
若葉ちゃんが﹁悔しい?悔しい?﹂って顔で生駒さんを挑発する。
一体どうした、若葉ちゃん。黒いよ、黒すぎるよ⋮。
﹁何わざわざ神経を逆なでするようなことを言ってんだ﹂
復調した同志当て馬が若葉ちゃんを窘めた。
﹁いやぁ、私だってそれなりに嫌な思いをさせられてきたからね∼。
これくらい意地悪をし返してもいいかなと﹂
若葉ちゃんは悪びれもせず、へらりと笑った。
﹁全く、なにやってんだ⋮。だけど驚いたな。まさか高道の制服が
吉祥院のものだったなんて⋮﹂
﹁本当だよね∼。靴はともかく、制服は買い替えるとなるとかなり
厳しいから、吉祥院さんに予備の靴と制服をもらえて助かったよ。
あらためて、吉祥院さん、その節はありがとう﹂
﹁⋮どういたしまして﹂
なんでバラしちゃうのよと、恨みがましい目で訴えたが、若葉ち
ゃんにはえへへと笑って返された。
﹁しかしその時に他の生徒に見られなくて良かったな。ヘタしたら
ロッカーの時のように吉祥院が犯人だと思われたかもしれないぞ﹂
それは確かにその通りだ。ピヴォワーヌ前会長から睨まれていた
若葉ちゃんと私が一緒にいて、若葉ちゃんの制服が汚されていたら、
ほとんどの人が私がやったと思うよね⋮。ロッカーの時もだけど、
1856
私って結構綱渡りでここまできているんだよな∼。やだ、今度厄除
けしてもらおうかな⋮。
﹁知らなかった⋮。私の行いでまた麗華様にご迷惑をかけていたん
ですね⋮﹂
生駒さんは項垂れた。
﹁そうだねぇ。ところで生駒さん。一度減った机や靴箱なんかへの
いたずらが、修学旅行から帰ってきたあたりから再開したんだけど、
それってやったの生駒さん?﹂
﹁⋮ごめんなさい﹂
﹁あっ、責めているわけじゃなくて、確認したいだけなんだけどね。
それでどれくらいの期間やっていたの?今朝、水崎君と吉祥院さん
に見つかっちゃったけど、再開してすぐに一旦やめて、今日また再
開したの?﹂
﹁⋮?一旦やめてって言う意味がわからないんだけど、修学旅行か
ら帰国してからは、毎日ではないけれど、不定期で週に2⋮3⋮4
回⋮﹂
﹁多いね﹂
﹁⋮ごめんなさい﹂
生駒さんは身を縮こまらせた。
﹁ふうん。でもおかしいね。私に覚えがあるのって帰国後の短期間
で、それからは今日まで朝のいたずらは一度も受けた覚えがないん
だよねぇ﹂
﹁えっ﹂
生駒さんが不可解な表情を浮かべた。
1857
﹁でも生駒さんはずっと続けていたんだよね。だとしたらそれって
誰かが私が来る前に、毎回消してくれていたってことにならないか
な∼﹂
若葉ちゃんは私と同志当て馬に順番に視線を向けた。
﹁それはもしかして、吉祥院さんと水崎君なんじゃないのかな∼﹂
バレてる?!
どうごまかそうかとグルグル考えている間に、同志当て馬が﹁そ
うだ⋮﹂と認めてしまった。
﹁ただ、先に朝早く来て、嫌がらせの除去作業をしていたのは吉祥
院だ。俺は途中から合流した﹂
﹁えっ!麗華様が?!﹂
生駒さんが私を振り返った。
﹁それじゃあ⋮﹂
﹁うん。生駒さんの尻拭いをずっと吉祥院さんがやってくれていた
ってことだね!﹂
﹁お前、責めているわけじゃないと言っていなかったか⋮?﹂
若葉ちゃんは、もちろんだよぉと笑顔で答えた。
﹁私が聞きたいのは、なんでふたりは私に言わずに、そんなことを
してくれていたのかってこと。どうして?﹂
﹁それは⋮﹂
1858
若葉ちゃんの顔が、嘘は許さないよ?とプレッシャーをかけてき
た。
﹁俺は生徒会長として、それから高道の仲間であり友人として、嫌
がらせの犯人を捕まえようと思ったんだ﹂
﹁私は⋮、高道さんが哀しい想いをするのがイヤだったから⋮﹂
若葉ちゃんはやっぱりねぇと笑った。
﹁ありがとう。ふたりにはいっつも面倒かけっ放しだよね。特に吉
祥院さん、ずっと朝早く来るのって大変だったでしょう。ごめんね、
どうもありがとう。でも言ってくれたら、私も一緒に来たのに﹂
﹁それじゃ意味がないじゃない﹂
﹁そんなことないよ。犯人探しもできるし、余った時間で一緒に勉
強したりおしゃべりしたりできたじゃない。それなら私、お菓子を
作って持っていってたよ﹂
﹁うっ⋮。だったら今度、その食べ損ねたお菓子をちょうだい﹂
﹁あはは。りょうかーい﹂
﹁⋮もしかして、お前達ふたりは友達なのか?﹂
私達のやり取りを見ていた同志当て馬が訝しげに尋ねた。
﹁そうだよ。私と吉祥院さんはずっと前から友達!ねっ!﹂
若葉ちゃん!
私達の関係のことはこれまでずっと隠し続けてきた秘密だったの
に、またこんなにあっさりバラしちゃったよ!
﹁う、うん。私と若葉ちゃんは友達!﹂
1859
でも、若葉ちゃんに友達って宣言されたよ。それは素直に嬉しい
!え∼い、もういいや。認めちゃえ!
浮かれた気分で私は若葉ちゃんと、ね∼っとお互いにっこり確認
し合った。
﹁聞いてないんだけど﹂
﹁言ってないからね!﹂
同志当て馬の抗議も若葉ちゃんは笑って受け流す。同志当て馬は
﹁もうなにがなんだか⋮﹂と頭を抱えた。
﹁でも今回のこともだけど、私は吉祥院さんに助けてもらってばか
りだよね﹂
﹁そんなことないよぉ。いつもお家にお邪魔させてもらって、おい
しいお昼をごちそうになったり、お菓子作りを教えてもらったり、
若葉ちゃんと若葉ちゃんのご家族にはたくさん良くしてもらってい
るものぉ﹂
それに私達は友達なんだもの!友達なら助け合うのは当然だよね!
同志当て馬は勝手にやってくれと投げやりな表情だったが、パン
と手を叩くと、﹁話を戻すぞ﹂と真顔になった。
﹁さて、生駒の罪状については明らかになったわけだから、次は処
分をどうするかだ﹂
﹁⋮!﹂
とうとう本題だ。ここで生駒さんの行く末が決まる。
生駒さんがギュッと目を瞑った。体が小刻みに震えはじめる。そ
んな様子を見て、若葉ちゃんが、
1860
﹁学院側には報告しなくていいよ﹂
﹁えっ﹂
若葉ちゃんはのほほんと笑った。
﹁もちろん、やられたことに対して怒りはあるけどさ。事を公にす
ることで、もし生駒さんの人生を左右するような処分が下されたら、
それはそれで後味の悪い思いをして、たぶんずっと罪悪感を引き摺
ることになると思うんだよね﹂
﹁⋮そうか。それで?﹂
同志当て馬は若葉ちゃんの答えを慎重に促した。
﹁うん。だから、この件に関しては、ここだけの話で収めるってこ
とでいいよ﹂
生駒さんは信じられないといった顔で若葉ちゃんを瞠目した。
﹁高道はそれでいいのか?﹂
﹁いいよ。っていうか、水崎君。そのために私を彼女に会わせたん
でしょ?﹂
﹁⋮悪い﹂
同志当て馬も、生駒さんを停学や退学にするのはできれば回避し
たいと思っていたのか。
意図を見透かされていた同志当て馬は、苦笑いで謝罪した。
﹁⋮そんな、⋮本当に、いいの⋮?﹂
生駒さんの目を涙の膜が覆う。
1861
﹁まぁね。でも今回だけだよ。次はないよ?﹂
﹁⋮っ!っありがとう!⋮ごめんなさい!ありがとう⋮!﹂
生駒さんは震える手で口元を覆うと、ボロボロと涙をこぼして頭
を下げた。
﹁生駒は自分の行いの何が悪かったのか、もう一度しっかりと考え
ろ。犯行が見つかったからではなく、誤解で嫌がらせをしていたか
らでもなく、どんな理由にせよ他人を傷つける行為をしていたこと
が悪かったんだと、心の底から反省しろ。今回はたまたま高道の心
が強かっただけで、別の人間だったら追いつめられて不登校や学院
を退学していてもおかしくなかったんだからな。そして仮にそうな
っていた場合、その時は俺は絶対に生駒を許さなかった﹂
﹁うううっ、ごめんなさい、ごめんなさ∼いっ﹂
生駒さんは堰を切ったように号泣すると、自分の膝に突っ伏した。
私は生駒さんの背中を擦り、全員で生駒さんが泣き止むのを待っ
た。
しばらくして、ようやく生駒さんが泣き止むと、同志当て馬が﹁
ただし﹂と話を続けた。
﹁生駒が行ったとする数々の所業を考えると、謝罪して高道が許し
たからといって簡単に即無罪放免とすることには、俺は納得しがた
い﹂
う∼ん、それは確かにね。相当なことをやらかしているんだから、
全くお咎め無しっていうのも違うかもなぁ。普通なら掃除1ヶ月な
んてペナルティが科せられたりするのかもしれないけど、今回の場
合は内密にすることになったから、大っぴらな罰は受けさせられな
1862
いしねぇ。
﹁でしたらとりあえず、物的被害だけは弁償してもらったら?﹂
﹁そうだな。上靴と制服だったか。最低限それは弁償してもらうべ
きだな﹂
私の提案に同志当て馬が賛成した。
﹁制服と上靴を弁償となると⋮﹂
﹁正確な金額は不明だが、約2、30万くらいか?﹂
﹁⋮⋮﹂
生駒さんも制服の値段を知らなかったようで、驚きに目を剥いた。
約2,30万円って、家がお金持ちの瑞鸞の内部生ならまだしも、
一般の高校生に簡単に用意できる金額ではないよね⋮。生駒さんの
ご両親の資産状況は知らないけど、金額を聞いての本人の顔色を見
るに、私の想像はそう間違ってはいないと思う。
﹁あ、あの⋮、お年玉とかを貯めている貯金があるので、それを下
ろせばなんとか⋮。足りない分は毎月のお小遣いを分割で⋮﹂
お年玉か⋮。生駒さんがご両親に話して弁償をしてもらうのが一
番なんだろうけど、心理的にそれはやっぱり難しいのかなぁ。
すると、若葉ちゃんがはいっと挙手をした。
﹁でもそれって、ひとつ間違えると恐喝にならない?﹂
え、恐喝⋮?
私と同志当て馬は揃って若葉ちゃんを注視した。
1863
﹁弁償は正当な権利だけどさぁ。私が生駒さんからお金を受け取っ
ているのって、知らない人が見たら恐喝に見えるよね﹂
同志当て馬がムムッと黙り込んだ。
言われてみればそうかも⋮。同級生に大金を渡しているって、な
にかあるのかもと勘繰ってしまうシチュエーションだよね。
私達の反応に、若葉ちゃんは困ったように笑った。
﹁だからさ。まぁ、予備の靴と制服を提供してくれた吉祥院さんの
前で言うのもなんだけど、吉祥院さんの厚意で私の金銭的な被害は
なかったから、弁償はいいよ﹂
﹁えっ﹂
私達3人は目を見合わせた。
﹁でもそれではさすがに⋮﹂
﹁高道。お前の気持ちもわかるけど﹂
﹁その代り、条件がある﹂
若葉ちゃんはピッと人差し指を立てた。
﹁弁償する代わりに、しばらく私の家のお店でバイトして﹂
﹁バイト?!﹂
﹁私の制服と靴を買ってくれたのは働いてお金を稼いでくれた両親
だからね。だからその両親の気持ちを踏みにじったことへの償いの
意味と、自分で働いてみてお金を稼ぐ大変さを身を持って知って欲
しい﹂
若葉ちゃんは、﹁ずっとじゃなくて、休日に1ヶ月くらいでいい
よ﹂と言った。
1864
﹁高道、わかっていると思うけど、瑞鸞はバイト禁止だぞ﹂
﹁わかっているよ。だから私の家なんじゃない。当然、タダ働きだ
よ。私の両親には訳を話すから、ちょっと気まずいかもしれないよ。
それが生駒さんへの罰﹂
﹁しかし⋮﹂
﹁私、やります!﹂
生駒さんの力強い声が同志当て馬を遮った。
﹁生駒﹂
﹁私、高道さんのお家で働きます。ひどいことをたくさんしたのに、
許してくれた高道さんに、少しでもお詫びをしたいんです。私、一
生懸命頑張ります!高道さんの寛大な措置と、私の犯した罪の後始
末をずっとしていてくれた麗華様に、少しでも報いたい!﹂
生駒さんはやる気に満ち溢れた顔で、若葉ちゃんによろしくお願
いします!と頭を下げた。
若葉ちゃんはそれにうんうんと頷いているし、本人達がそう言う
なら、それでいいのかな⋮?
ちらっと同志当て馬と見ると、同志当て馬も仕方がないとため息
交じりに頷いた。
ではこれで一応は解決かなと思ったところに、生駒さんが立ち上
がった。
﹁私、お遍路に行ってきます!﹂
﹁は?﹂
﹁え?﹂
﹁ん?﹂
1865
生駒さんの突然の宣言に、私達3人の頭にはてなマークが浮かん
だ。お遍路?
﹁これからどうしたらいいのか、ずっとずっと考えたんです。高道
さんと麗華様、そして水崎君には多大な迷惑をかけました。高道さ
んは許してくれたけど、私の罪は消えない。真に反省をするにはど
うしたらいいのか。それなら頭を丸め、自分の罪に向き合い、お遍
路に行くしかないかと。ええ、すぐにでも!﹂
﹁いやいやいや!﹂
﹁飛躍しすぎだと⋮﹂
﹁四国は遠いよ﹂
学校があるのに頭を丸めてお遍路修行に行くのはまずいでしょう!
﹁一歩一歩、自分の罪の深さを踏みしめて参ります﹂
﹁えっ、徒歩?!﹂
﹁それだと1ヶ月以上かかるのでは?﹂
﹁出席日数が足りなくて留年になっちゃうよ﹂
せっかく停学も退学もなく無事に内部進学ができることになった
のに、留年して棒に振ったら意味がなくない?
しかし生駒さんの決意は固いようで、私達の説得の声も耳に届か
ない。そんな生駒さんに同志当て馬は呆れたように私を見て、
﹁お前の信者はなんでこう、極端に走るヤツが多いんだよ⋮﹂
﹁信者ってなんですか?!変な表現をしないでください!﹂
人聞きの悪い。信者なんて募った覚えはないわよ。
しかしお遍路はまずいよ。これから期末テストだってあるんだか
ら。行くならせめて夏休みまで待ちなよ。芙由子様といい、若い女
1866
の子に修行ってブームなの?
⋮ん?あっ、そうだ!
﹁私から提案があります。生駒さん、お遍路は保留してまずは滝行
をなさったらどうでしょう﹂
﹁は?﹂
﹁吉祥院さん?﹂
ポカンとする若葉ちゃんと同志当て馬を放置して、私は生駒さん
の手を取った。
﹁滝に打たれて弱い己を見つめ、それに打ち勝ち、禊をして、新し
い自分に生まれ変わるのです。大丈夫、私が良い修行の場を知って
います﹂
﹁麗華様⋮!﹂
芙由子様の滝行にちょうど良い人材を確保できたぞ。ふふふ。
﹁お前、やっぱりそっちの人間だったのか⋮﹂
﹁言っていることが怪しい新興宗教の勧誘そのものだよ、吉祥院さ
ん﹂
若葉ちゃんと同志当て馬がドン引きしていた。目を輝かせる生駒
さんにふたりが、騙されるな!目を覚ませ!と呼びかける。
新興宗教麗華教へ、ようこそ。
1867
253
生駒さんの一連の悪事に対する若葉ちゃんへの謝罪と、その処罰
内容に決着がついたので、今日のところはひとまず解散ということ
になった。
帰宅が許された生駒さんは、最後にもう一度﹁すみませんでした﹂
と深々と頭を下げて生徒会室を退出していった。
後には同志当て馬と若葉ちゃんと、帰るタイミングを逃して居残
ってしまった私││。
﹁あ∼っ、終わった∼っ!﹂
同志当て馬が両手をぐーっと上に伸ばしながらひとりごちた。ど
うやら同志当て馬も生徒会長としての責任からか気を張っていたみ
たいだ。
その姿を見た若葉ちゃんが笑いながら、
﹁お疲れさま。新しいお茶を淹れ直そっか。あったかいのと冷たい
の、どっちがいい?﹂
﹁俺、熱い紅茶がいい﹂
﹁了解。吉祥院さんは?﹂
﹁え?いえ、私はもうお暇するので﹂
﹁え∼っ、せっかくだから3人で慰労会しようよぉ。私は冷たいの
にしよ∼。吉祥院さんも同じでいいよね?﹂
私の返事を待たず、若葉ちゃんはお茶を用意しに行ってしまった。
なんとなく帰るタイミングを逃してしまった私は、こうしてなぜ
かアウェーの生徒会室で同志当て馬と若葉ちゃんとの簡易茶話会に
1868
参加することになってしまった。
こんなところを誰かに見られたらまずいんだけどなぁ⋮。
﹁しかし高道と吉祥院がかなり前から親しい友人関係だったとは、
思いもしなかったよ﹂
リクエストした熱い紅茶を一口飲んだ同志当て馬が、改めて驚き
の気持ちを吐きだした。
﹁生駒さんにも念押ししたけど、私と吉祥院さんが友達だってこと
は水崎君も誰にも言わないでね﹂
生駒さんには今回の一連の事件とその処分についてと、私と若葉
ちゃんが友達だったということについても、固く口止めをしておい
た。
﹁言わないけどさ。でも別に隠すこともないんじゃないか?﹂
﹁ダメだよ。私のことを知られたら、吉祥院さんの立場が悪くなっ
ちゃうもん。だからこのままでいいの。私はたまにこっそり会えれ
ばそれでいいんだから。ね、吉祥院さん﹂
﹁えっ!﹂
なんてことだ!若葉ちゃんが日陰の愛人みたいなことを言いだし
ている!
いやいや、違うし!ふたりの関係を秘密にしているのは、若葉ち
ゃんの立場を考慮してのことだし!決して自分の保身の為だけじゃ
ないし!
﹁いや、私もいつかはちゃんとしようと考えているのよ?本当よ?﹂
﹁うん、わかってる﹂
1869
そうして笑う若葉ちゃんの姿はまさしく、不実な恋人の仕打ちに
耐え忍ぶ日陰の女!やめて∼っ!
心なしか同志当て馬の目が冷たく感じるのは、罪悪感でじくじく
と痛む私の心が見せる被害妄想か⋮。
﹁ところで高道は、誰かが自分への嫌がらせを消していたのに気付
いていたんだな﹂
あぁ、話が変わった。良かった⋮。
﹁そりゃあねぇ。毎朝チョークの粉や靴跡で汚されていた机や椅子
が、ある時からピカピカに光り輝いているんだもん。これは誰かが
私に黙ってきれいにしてくれているんだろうなって思うでしょ﹂
そうかな?
﹁そんなにわかりやすかった?﹂
﹁うん!朝、教室に入ると私の机だけ朝日を反射してやたら光って
目立っているんだもん。あまりにツルツルすぎて机にプリントを置
くと滑って落ちるくらいだし﹂
さすが通販ベストセラー商品のワックス。無駄に陽気な外国人が
ワーオ!と大袈裟に宣伝するだけのことはある。
﹁でも毎日朝早くから大変だったでしょう?ふたりともどうもあり
がとう﹂
若葉ちゃんがぺこりと頭を下げたので、私は気にしないでと両手
を振った。
1870
﹁だけど高道、本当に弁償してもらわなくて良かったのか?休みの
日に数時間バイトをする程度じゃ、到底弁償金額には届かないだろ﹂
﹁いいんだよ。実を言うと私は入試の成績が良かったから、入学の
際の学用品のお金もいくらか免除されていたんだよねぇ﹂
﹁そうだったのか﹂
﹁うん。それに制服や靴は吉祥院さんが無償で提供してくれたしね
!本当に吉祥院さんには助けてもらいっぱなし。ありがとうね、吉
祥院さん﹂
﹁本当に気にしなくていいから!﹂
やめて!あまり美談にされると心が痛むの!あげた制服と靴なん
て、鳩の糞が付いたから着られなくなったのを渡しただけなのに!
鳩の糞なんか付いた制服を着させてごめん!
﹁それより、たまに鏑木様がお店にお買い求めにいらっしゃるのよ
ね?生駒さんが鉢合わせをする危険性はないの?﹂
居たたまれない話題をそらそうと、私がこっそり若葉ちゃんに耳
打ちすると、
﹁あ、忘れてた﹂
若葉ちゃんがペロッと舌を出した。
存在を忘れられていた鏑木が切ない⋮。頑張れ、鏑木。
﹁ふたりでなんの話だ?﹂
﹁秘密です﹂
同志当て馬はフンと鼻を鳴らした。鏑木の名誉のためにも、これ
1871
は秘密にしておいてやらなければならない。
﹁しかし吉祥院がこんな変わり者だとは、思ってもみなかったな。
この何日かですっかり俺の中の吉祥院に対する認識が覆された﹂
﹁は?私は変わり者なんかじゃありませんけど!﹂
なにいきなり失礼なことを言ってるの?!
﹁さて仕事の続きをするか﹂
﹁ちょっと!﹂
私の抗議をしれっと無視した同志当て馬は、生徒会長の席につく
とデスクトレーに入った書類を読み始めた。
ちっ。人を変わり者呼ばわりしたことにきっちり物申してやろう
と思ったけれど、書類の量に免じて今回は引いてやることにした。
さっき若葉ちゃんも私達が来るまで書類仕事をしていたし、生徒会
は色々と仕事が多くて大変そうだ。
その点ピヴォワーヌのサロンの運営は専任のコンシェルジュがい
るし、イベント等にかかる雑務は外注だから、メンバーの負担はほ
とんどない。現会長の鏑木があれだけ自由気ままなのだから言わず
もがなだ。
﹁それでは私は帰りますね。水崎君も今回の私のことについては、
くれぐれも秘密にしておいてくださいね﹂
わかったと手を挙げる同志当て馬を確認して、私は今度こそお暇
をした。
1872
誰にも見られないように注意して足早に生徒会室から去り、人の
気配のない遠くまで離れたところで、私は喜びに両手を天高く突き
上げた。
これでもう、円城にスパイ容疑の弱みを握られて怯える日々から
解放だー!
私がピヴォワーヌの対立組織である生徒会の会長で鏑木の恋敵の
可能性のある同志当て馬と裏で繋がったことを、円城が知っている
なら知っている、知らないなら知らないとはっきりしてくれたらま
だ楽になれたのに、思わせぶりな視線と口ぶりでじわりじわりと追
い込まれるのは、本当に恐ろしかったんだよ。胃がギューッとなっ
たんだよ。
でもそんな日々ともおさらばだ。私は敵に正体がばれることなく、
スパイ活動から無事引退することができたのだ!
﹁お、吉祥院。サロンに来ないでこんな所で何をしていたんだ?﹂
﹁わあっ!﹂
後ろから急に掛けられた聞き覚えのありすぎる声に動揺して思わ
ず叫んでバッと振り向くと、そこには﹁うるせぇ﹂と顔をしかめる
鏑木が立っていた。やっぱり⋮。
﹁か、鏑木様こそ何をしているんですか?﹂
まだ心臓がドキドキしているよ。なにしろこっちには後ろめたい
ことがあるからね。まさか、若葉ちゃんのストーキングで生徒会室
の近くをうろついていて、生徒会室から出てきた私の後をつけてい
たとか?!
﹁俺はこれから帰るところだ﹂
1873
確かに今私が歩いてきたのは迎えの車がある駐車場へと続く道だ。
どうやら私の気の回しすぎだったらしい。
﹁でも丁度良かった。吉祥院、今日こそお好み焼きを食べに行くぞ
!﹂
﹁行きませんって﹂
鉄板焼きの破壊力を知らない世間知らずはこれだから。焼き物の
匂いは服や髪につきやすいんだ。それはもう街中や電車の中でも周
囲の人間がその人が何を食べてきたのか匂いでわかってしまうくら
いに。
そんなお好み焼きを制服で食べに行ったりしたら、焼けたソース
の香ばしい匂いががっつりついて、帰宅した途端に親にばれるでし
ょうが。
鏑木が﹁なんでだよ﹂と不満を露わにするのでそのようなことを
説明する。
﹁だったら一旦帰って着替えてから行けばいい﹂
﹁嫌ですよ、面倒くさい。私は一度家に帰ったらもう出かけたくな
いタイプなんです﹂
特に部屋着に着替えてリラックスしちゃったらもう無理。家です
っかり寛いでいるところに今から出てこられない?なんて急な誘い
にすぐ動けるフットワークの軽さは私にはない。だって着替え直し
て身支度するのって面倒くさいし∼。ま、急な誘いなんて誰からも
受けたことないけどね⋮。
﹁出不精か⋮。わかった。ではその辺で服を買って着替えよう﹂
﹁どれだけお好み焼きを食べに行きたいんですか貴方は。とにかく
今日はムリです﹂
1874
ムーッとした顔をしても知りません。どっちみち今日は夜に塾が
あるから、そんなに多くの時間はないし、朝から色々ありすぎて心
身ともに疲れているんだ。
しかし鏑木は諦めない。じゃあいつ行くんだと詰め寄ってくる。
さてはこいつ、友達いないな。
するとそこに誰かの話し声が近づいてきた。
﹁うん。だから今日は友人と先約があるから﹂
声の主は円城だった。円城は携帯で誰かと話をしながらこちらに
歩いてきた。そして二言三言会話を続けると、﹁それじゃあ﹂と通
話を終了した。
﹁あれ?吉祥院さんも一緒?﹂
携帯をポケットにしまった円城がにっこりと笑った。
﹁今、吉祥院に俺をお好み焼きに連れて行くよう言っていたんだ﹂
﹁ですから今日はムリですって﹂
鏑木は円城に私の断りの理由を教えた。
﹁なるほどねぇ。匂いがついちゃうのは困るかもね﹂
そうでしょう、そうでしょう。特に私は髪の毛が長いから匂いも
残りやすいのだ。諦めなさいって。
円城を間にはさんで、お好み焼きの匂い問題と私の出不精につい
てあーだこーだと言い合いながら駐車場へと歩いていると、﹁円城
さーん!﹂とお馬鹿後輩桂木が走ってきた。
1875
﹁円城さんっ﹂
息切れをしながら呼びかける桂木に対して、円城は
﹁見ての通り、今日は彼らと約束があるから行けないよ。さっき電
話でも言っておいたから﹂
え、なんの話?っていうか彼ら?それって私も頭数に入ってるの?
﹁でも円城さん⋮﹂
﹁桂木﹂
断られてもなお追い縋ろうとする桂木を、笑みを消した円城が威
圧した。
普段笑顔の人が真顔になると怖い⋮。私まで身を震わせた。
﹁⋮わかりました﹂
唇を噛みしめた桂木は、私を見て思いっ切り嫌そうな顔をした後、
一礼して走り去って行った。
なんだったのか気になるところではあるけど、厄介事の匂いしか
しないので、あえて聞かない。
桂木の姿が小さくなったのを見届けた円城は、振り返ると私達に
微笑んだ。
﹁おまたせ。じゃあ行こうか﹂
﹁え、どこにですか?﹂
﹁どこでもいいよ。ふたりはどこか行きたいところある?﹂
﹁ふたりって、私もですか?!﹂
1876
なんで私がふたりとこれから出かける話になってるの!
﹁もちろん。でなきゃ桂木に約束があると言った僕の言葉が嘘にな
っちゃうでしょ?﹂
なにをいけしゃあしゃあと⋮。その程度の嘘に罪悪感を覚えるよ
うな殊勝な人間じゃないでしょうが。
﹁いえ、生憎と私は塾があるので⋮﹂
﹁ふぅん。それって何時から?﹂
それは夜からだけど⋮。だけどこのまま円城の言い様に話を運ば
れるのは癪だ。
﹁ちょっとお茶や軽いものを食べるくらいの時間もないのかな?﹂
﹁申し訳ないですが⋮﹂
﹁そっかぁ。ところで吉祥院さんは今日はサロンに来ていなかった
みたいだけど、何か用事でもあったの?﹂
﹁え?﹂
何なに。その笑顔はなに?背筋がゾクゾクするのはなぜ?
﹁あ、もしかして部活?﹂
﹁ええっとぉ⋮﹂
﹁なんだ吉祥院、部活だったのか﹂
鏑木も話に入ってきた。もうこれは部活だったと嘘をついちゃう
べきか⋮?よし、そうしよう。
1877
﹁あ、でも萩小路さんが今日は吉祥院さんは部活の日ではないって
言っていたっけ﹂
トラーーープッ!!
恐ろしいっ。なんてヤツだ!初めから部活がなかったと知りなが
ら笑顔で罠を仕掛けるなんて!
﹁吉祥院さんはどっちの方角からここまで来たんだっけ?あっちか
な。あっちだとすると向こうにあるのは⋮﹂
﹁お茶を飲む程度の時間でしたら作れると思います﹂
電話をしていたくせに、私が来た方角をチェックしていたとは⋮!
これはやっぱり気づいているのか?それとも適当に鎌をかけてい
るだけか?どっちにしろ依然私が弱みを握られている状態なのは変
わりないらしい⋮。
スパイとは一度手を染めたら、足を洗ったつもりでも一生怯えて
暮らさなければいけないって誰かが言ってた⋮。
﹁あ、そう?それは良かった。雅哉、何かと忙しい吉祥院さんが僕
らに付き合ってくれるみたいだよ。さてどこに行こうか﹂
⋮本当にいちいち嫌味ったらしい。
﹁よし。じゃあファーストフードに行こう﹂
﹁ファーストフード?﹂
なんで今更。ファーストフードならすでに体験済みじゃない。
﹁秀介は行ったことはないだろう。俺が案内してやる﹂
1878
鏑木の鼻がニュウッと高く伸びた。どうやら円城相手に先輩風を
吹かせたいらしい。
﹁う∼ん。僕は別にいいけど。吉祥院さんはそれでいい?せっかく
だから吉祥院さんが行きたいお店でもいいよ﹂
﹁私は別にどこでもいいですよ﹂
さっさと行ってさっさと帰りたい。
﹁決まりだな。行くぞ﹂
張り切って先導しているけど、場所をわかってるの?制服で行く
から学院から遠く離れた場所じゃないとダメなんだからね。
そして着いた瑞鸞生がいなそうな下町のファーストフード店。鏑
木は並びながら円城にセットメニューや季節限定メニューなどを鼻
高々に説明している。
﹁せっかくだからポテトも付けたほうがいい﹂
﹁わかった﹂
鏑木のアドバイスに円城は素直に従い、私達はそれぞれ別のカウ
ンターに並んで注文した商品を受け取った。
そしてその時、私は円城の持つトレーと自分のトレーを鏑木がチ
ラッと見比べたのを見逃さなかった。そして気づく。あ、こいつ、
わざとポテトのケチャップのことを教えなかった。
私達は客席で適当な席に着き、ハンバーガーを食べ始めた。初め
1879
てのジャンクフードの味に対して円城は特になんの感想もなく淡々
と口に運んだ。まぁ、日頃から美味しいものを食べ慣れた人からし
たら、そんなもんだよね。
そして円城がサイドメニューのポテトに手を付けた時、鏑木が動
いた。
見えない位置に置いていたケチャップをトレーの真ん中に置き、
たっぷりとポテトにつけて食べ始めたのだ。
﹁あれ、そのケチャップ⋮﹂
円城のその呟きを聞いた瞬間、鏑木の目が輝き、鼻は最高潮に高
く伸びた。
﹁ああ、これはオプションで注文時に頼まないともらえないものな
んだ。言うのを忘れていたな。欲しかったらカウンターに自分で取
りに﹂
﹁ごめんね。ケチャップをひとつもらえるかな﹂
円城は溜まったトレーの回収をしに横を通った店員さんに自然な
動作で声を掛け、ポッと顔を赤らめた店員さんは﹁かしこまりまし
た﹂と抱えたトレーと共にケチャップを急いで取りに行った。
﹁え⋮﹂
アドリブの利く男、円城秀介││。
かつて自分が私にされて悔しかったことを親友に行い、戸惑う円
城を尻目に愉快と笑うはずだった鏑木の鼻はポッキリと折られ、円
城は席まで届けにきてくれた店員さんにありがとうと余裕の笑みで
お礼を言って、ケチャップ付きのポテトを味わった。
1880
﹁⋮それは反則じゃないか?﹂
﹁ん∼?なにが﹂
小首を傾げる円城を睨むと、鏑木は悔しまぎれにケチャップまみ
れのポテトを次々に口に放り込んだ。
﹁円城様は鏑木様と違って、初めてのわりには物慣れたご様子です
ね﹂
鏑木が初めて来た時はもっと落ち着きがなかったぞ。
﹁そうだね。まぁこういったファーストフード店には来たことはな
いけど、システムの似たようなお店には行ったことがあるから﹂
そう言って円城が出したコーヒーチェーン店の名前は、アメリカ
から日本に上陸して、流行に敏感なオサレ若人達にこぞって支持さ
れているお店だった。
﹁僕はコーヒーが好きなんだけどね。チェーン店にしては煎りたて
の豆をドリップしたコーヒーをきちんと淹れていて、なかなかおい
しかったよ﹂
﹁へぇ。そうなんですか⋮﹂
﹁吉祥院さんは行ったことはある?﹂
﹁⋮いえ、私はコーヒーはそれほど飲まないので﹂
そんな所に1人で行けるわけがない。注文の仕方がわからなくて
ワタワタしていたら笑われそうなんだもん。私は慣れ親しんだド庶
民の集う安いお店や、真逆の超高級店には1人でも平気で行けるけ
ど、流行の先端の人達がいるような場所には気後れして行けないの
だ。だって自分のセンスに自信がないから!どんなにおしゃれをし
1881
て街を歩いていたって、雑誌の街角スナップに声を掛けられたこと
も一度もないし!もちろん声を掛けられたって断るから手間がはぶ
けていいんだけどね!
でも私だって流行の波に乗りたい。どうせだったら今日はそこに
連れて行ってくれたら良かったのに。どんな場所でも堂々としてい
る円城達と一緒だったら、きっと私も余裕ぶって入店できたのにっ。
﹁⋮高道さんは好きかもしれませんね﹂
﹁えっ、そうか?!﹂
鏑木が食いついた。しめしめ。
﹁ええ。ケーキとコーヒーって合いますものね。もしかしたら興味
があるかもしれませんよ﹂
﹁秀介!﹂
ふふふ。これで次回の予定は決まり。私も流行に乗る女子高生の
仲間入りだ。
﹁じゃあこの後で行く?﹂
﹁えっ﹂
﹁そうだな﹂
えっ、えっ、なんで?だって私はこの後、塾があるから時間がな
いのに。
円城が残念そうに私を見た。
﹁吉祥院さんはコーヒーはあまり好きじゃないんだよね?﹂
しまったぁぁっ!なんであんな負け惜しみを言ったのか、私!
1882
﹁そんなことは⋮﹂
私の言い訳は鏑木が勢いよく立ち上がった音にかき消され、前言
撤回をする間もないまま、私はがっくりとした気持ちを隠してふた
りを送り出した。
1883
254
あぁ、まずいなぁ⋮。非常にまずい。
鏑木の我が儘に振り回されたり、早朝登校するために早寝をした
り、円城の影に怯えたりと何やかやと時間がなかったせいで、全然
受験勉強が出来ていない!
受験年ということもあって、瑞鸞でも定期テスト以外に実力テス
トや小テストが増えているけど、正直言って順位があまり上がって
いない。いや、上がっていないどころか他の生徒達の追い上げがす
ごい。大多数の瑞鸞生はエスカレーターで付属の大学に内部進学を
するけれど、希望する学部への入学は成績上位者から決まっていく
ので、高倍率の学部狙いの生徒は真剣に受験勉強に取り組み始めて
いるのだ。
小学生の時には将来は学費の安い国公立の大学を受験しようと野
望を抱いていたのに、気が付けば学費の心配も今のところないし、
瑞鸞の大学に内部進学でいっかぁと難しい外部受験を避け、人生目
標を楽な方へと修正してしまった私。せめて就職に強い学部に入ろ
うと勉強は続けているけど、このままではフリーパス学部行きにな
ってしまうかも?!
あ∼っ、焦る∼、焦る∼。塾の皆も完全受験モードに入っていて、
今までとは顔付きが違うもんなぁ。国立付属の葵ちゃんなんてやつ
れるくらい毎日勉強をしているみたいだし。私も頑張らなくちゃ。
そう決意した私は机に向かい、ひたすら問題集を解く。解く。解
く。
2時間が過ぎた頃、難しい問題を参考書を調べながらなんとか解
いたところで、何か飲みたくなった。夜だしハーブティーがいいか
な。
キッチンにローズヒップティーを取りに行き、部屋に戻って勉強
1884
の続きをしようと思ったところでマガジンラックに置いてあるファ
ッション誌に目がいった。
常日頃からセンスのあるおしゃれな人と思われたいという密かな
願望を持つ私は、毎月ファッション誌にも何冊も目を通している。
目指すは時代遅れから時代の最先端へ!
がしかし、今のところ身になっている実感はない。
私はローズヒップティーを飲みながら、パラパラとページをめく
専属モデルアヤの1ヶ月着回しコーディネート術
る。
1日、今日は仲間とバーベキュー。動きやすいパンツスタイルに
ブルーのアクセで涼感コーデ
2日、気になる彼から映画のお誘い。ふんわりシフォンワンピに
パステルカーデで女子力をアピール!さて彼の反応は?
5日、親友のミホと代官山で雑貨屋めぐり。可愛いピアスを見つ
けちゃった!今シーズンのマストアイテムになるかも
8日、今日は幼馴染の応援でサッカー観戦。ビタミンカラーでヘ
ルシーカジュアル。ケンタ頑張れ!
9日、憧れの先輩と美術館。眼鏡をアクセントにモノトーンで知
的大人コーデ。いつもと違う私に気づいてくれるかな?ドキドキ
11日、今日は女子会!甘すぎないコーディネートにあえての外
しアイテムをセレクト
12日、彼と喧嘩しちゃった︵涙︶仲直りのカフェにはピンクの
トップスにマシュマロメイクで愛されコーデ
14日、大好きなバンドのライブに初参戦!髪はまとめてくるり
んぱ。楽しむぞ∼︵小物、スタイリスト私物︶
16日、雨の日でもお気に入りのレインブーツがあればどこにだ
って行けちゃう!美容院では好きな音楽の話で大盛り上がり。今度
お薦めCDを借りる約束をしちゃった
18日、大変!親友のミホが失恋しちゃった。ミホの家でお泊り
1885
会&慰め会。一晩中話を聞くよ!友達ママにも好かれるお呼ばれコ
ーデ
20日、今日は私の誕生日。みんながパーティーを開いてくれた
よ!彼が手の中に隠しているのはもしかして⋮
22日、幼馴染のケンタたちとキャンプ!防寒対策には大判のス
トールがお役だち∼。私が焼いてきた手作りパンは全部ケンタに食
べられちゃった!
23日、テーマパークのナイトイベントには、ショーパンにロン
グカーディガンで適度なこなれ感を
26日、ええっ!親友のミホが怪我で入院?!お見舞いはガーリ
ーなトップスにフレアスカートで
30日、憧れの先輩からサンセットクルーズに誘ってもらったの。
ちょっと背伸びしたきれいめワンピで大人っぽさを演出。船上から
見る夕日がきれいだった∼
31日、彼との待ち合わせにはレースのトップスでレトロフェミ
ニン。そして手には誕生日にもらったおそろいの指輪
﹁⋮⋮﹂
⋮世の中の女の子はこんなにも毎日スケジュールが埋まっている
ものなのか?私の日常とはかけ離れた世界だ。こんな生活を送って
いる女の子なんて本当にいるのかな。
バーベキュー?キャンプ?サンセットクルーズ?ありえない。今
の私に必要な情報は、座禅修行に行く時のコーディネートだ。
それにしても毎日の予定がギッシリ盛りだくさんもありえないけ
ど、普通の女子学生の設定のはずなのに、これだけ毎日遊びに行っ
ファンタジーだなぁ!
てよくお金が続くなぁ!もしかしてアヤは瑞鸞の内部生なみのお金
持ち設定なのかなぁ!
お金はあるけど誘いは無い私のスケジュールは、ほぼ学校と家の
往復がメインだ。そこに塾や習い事や鏑木のパシリの予定が入るだ
1886
麗華の1ヶ月コーディネート術
け。
○日、休日だけど予定がないから、朝から部屋でするめいかをか
じりながらゴロゴロしていたら、もう夕方になっていてびっくり!
どうやら時間泥棒が出たみたい
×日、今日は前から気になっていた行列のできる洋食屋さんに行
ったよ。並んでいる間に誰かに会ったら困るから、ニット帽にサン
グラスとマスクで行ったら不審者扱いされちゃった!もう少しで入
店拒否されるところだった。あっぶな∼い
○日、今日はスーパーのお菓子全品1割引きデー!できる私はポ
イントカードだって忘れない
×日、休日だけど予定がないから、朝から部屋で頂き物のお菓子
をかじりながらゴロゴロしていたら、もう夕方になっていてびっく
り!もしかして私って無自覚のタイムトラベラー?!
⋮着回さなくても大量に服はあるけど、おしゃれなコーディネー
トをして出かける場所が無い私に、果たしてこんなに何冊ものおし
ゃれファッション誌なんかを読む意味があるのだろうか。
いやいやいや、まだ諦めちゃいけない。もしかしたら一緒にいる
友達が良くないのかもしれない。桜ちゃんや葵ちゃんはともかく、
芹香ちゃん達や芙由子様とかって今時の女子高生っぽい遊びを知ら
なそうだもん。女子高生が学校の友達と出かける予定先が座禅修行
って、そりゃどの雑誌でも取り上げない。私を取り巻く環境が悪い
んだ、きっと⋮。
勉強もせずに毎日遊びほうけている専属モデルアヤは留年して泣
きをみてしまえ。そして親友のミホは色々がんばれ、と雑誌の企画
に毒づいていた私は、ふと時計を見てギョッとした。もう1時間も
経ってる!ほんのちょっとの休憩のつもりだったのに!
アヤとは別の理由で勉強をしていない私が先に泣きをみそうだ⋮。
1887
というわけで、今日も鏑木からのお好み焼きツアーは断る。おか
げで目の前の鏑木の不機嫌は最高潮だ。
﹁約束したことは守れよ﹂
﹁私も忙しいんです。先日もファーストフードにお付き合いしまし
たでしょう?﹂
鏑木の鋭い眼光に射殺されそうだけど、こっちだって人生がかか
っているんだ。期末テストで結果を出してなんとか希望学部に滑り
込みたい。ここで今までみたいに楽な方へ流されたら、待つのはコ
ネ入社一択だ。
定期的にお父様とお兄様に探りを入れて、吉祥院家の会社が現時
点では安泰だという確信をほぼ得られている今、根が怠け癖のある
私にはフリーパス学部に入ったらそのままなし崩しに楽なコネ入社
を選んでしまう未来が見える。でもそれだけはダメだ。私はどうし
てもコネ入社だけは避けたいのだ。
吉祥院家の系列会社か、またはお父様とお付き合いのある企業か、
いずれにしてもそんなところにコネ入社をしたら、腫れ物扱いで遠
巻きにされ同期の友達もできず、私のミスを毎回代わりに怒られる
一般入社の同僚達に、﹁あの縦ロールうぜ∼。マジ使えね∼﹂と仕
事帰りの居酒屋で私の悪口を酒の肴にされる未来が確実に想像でき
るんだもん。お昼ごはんは私だけ役員食堂で重役と食べる毎日なん
てい∼や∼だ∼!
﹁おい、人の話を聞いているのか﹂
1888
はっ、恐ろしい未来に我を見失いそうになっていた。図らずも私
が無視してしまっていた鏑木の背後に怒りの黒い炎が見える。これ
はまずい⋮。
﹁それで?俺との約束を反故にしてまで忙しい理由はなんだ﹂
﹁⋮勉強です﹂
あまり勉強をしていることは言いたくないんだけど、ヘタなごま
かしはすぐに見抜かれそうだからしょうがない。
﹁また勉強か。勉強勉強って、一体なにをそんなに勉強しているん
だ﹂
﹁なにって色々です。宿題もありますし﹂
そっちこそ受験生の自覚はないのか?
引かない私に鏑木がやっと﹁わかった﹂と折れた。よしっ。
﹁だったら俺が勉強を見てやる﹂
﹁はぁ?!﹂
なんで私が鏑木に勉強を見てもらわないといけないのよ!どっか
らそういう話になった?!
﹁お前の勉強が終わらないと、いつまで経っても行けないからな﹂
いやいや、受験生の勉強は合格するまで終わらないぞ。
しかし妙にやる気になってしまった鏑木に私は引き摺られ、連れ
てこられた場所はすっかり皇帝の私室と化したいつもの小会議室。
もうこうなったら仕方ないから宿題だけ学校でやって帰ろう。どう
1889
せ宿題は今日中にやらないといけないんだし。
鏑木と私は向かい合わせで座った。
﹁それで、どこがわからない﹂
﹁自分でやるからいいです﹂
私は自分が勉強をしているのを誰かにジッと見られていたり待た
れるのが苦手なのだ。だから鏑木にも私のことは放っておいて自分
の宿題でもやってくれとお願いし、私も今日出された宿題を机に取
り出した。すると私が広げたノートに鏑木が反応した。
﹁なんだ、そのカラフルなノートは﹂
﹁私が使いやすいようにまとめたノートです。見ないでください﹂
呆れたような声音に反発して、私がノートに覆いかぶさって見ら
れないように隠すと、鏑木はフンッと鼻を鳴らして自分もノートを
広げた。鏑木のノートは私とは正反対の黒一色。字はきれいで読み
やすいけど赤線すら引いていなくてわかりにくくないのかな。
静かな部屋にペンの音だけが響く。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
あ、ここ大事なところだから、教科書に線を引いておこうかな。
大事だけどそこまで大事じゃない部分は蛍光ブルー。やだこっちの
ペン先がダマになってる。ティッシュティッシュ。
﹁鏑木様、色ペンを使いたかったらこれ、どれでも好きな色を使っ
1890
てくださいね﹂
﹁⋮ああ﹂
静かな部屋にペンの音だけが響く。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
あ、これなんだっけ。いつも忘れちゃうんだよなぁ。ほら、すで
に過去の私が付箋が貼って覚えるように注意喚起している。ついで
にこっちにも貼っておこう。
﹁鏑木様、付箋が必要だったら言ってくださいね。私たくさん持っ
ていますから﹂
﹁⋮ああ﹂
静かな部屋にペンの音だけが響く。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮ふうっ﹂
││今日1番の難問を解き終わった。躓いてからが長かった∼。
しかも鏑木の止まらないペンの音がプレッシャーをかけてくるしさ。
私は伸びをして立ち上がった。
﹁⋮どうした﹂
1891
﹁お茶でも淹れようかと思いまして。鏑木様はなにがよろしいです
か?﹂
ほとんど使われていない部屋なのに、いつの間にかウォーターサ
ーバーだけではなく、お茶セットまで完備されているのは鏑木の存
在が要因なんだろうなぁ。
すると鏑木は返事の代わりに大きなため息をついてパチンと音を
立ててペンを置くと、﹁吉祥院﹂と私の名前を呼んだ。
﹁はい?﹂
﹁吉祥院、毎日塾だ家庭教師だと言うわりに、お前の成績がパッと
しない理由がわかったぞ﹂
パッとしないだと?!なんて失礼なことを言うんだ。なんという
無神経っ。
心を抉られて固まる私を気にも留めず、鏑木は納得したようなし
たり顔で頷く。
﹁俺は今まで、あえてこのことには触れずにいてやった。たとえ心
の中では、いつもガリ勉発言をしているくせに、ほとんど成果とし
て表れていないじゃないかと思っていたとしてもだ﹂
﹁ええっ!﹂
あんた、いつも心の中でそんな酷いことを思ってたんかいっ!ひ
どい。そりゃあテスト順位トップ3常連さんからしたら、パッとし
ないかもしれないけどさ!
私は完全に不貞腐れた。当然だ。それでも私の成績がパッとしな
い理由は気になる⋮。
﹁⋮なんですか、理由って﹂
1892
﹁それは、獲得的セルフハンディキャッピングだ﹂
﹁は?﹂
なんだそれ。
﹁最優先でやらなければいけない試験勉強や仕事の前に、なぜか身
の回りの片付けや別のことをしたくなる現象のことだ。お前には無
駄な時間が多すぎる﹂
なんと!この私の怠け癖に名前があったとは。
私は話の続きを待った。しかし鏑木は言いたいことを言い終える
と自分の勉強を再開してしまった。ちょっと待て。
私はペンで机をコツコツと叩き、鏑木の注意をこちらに向けさせ
る。鏑木は鬱陶しそうな表情で顔を上げた。
﹁なんだ﹂
﹁それで?﹂
﹁?﹂
﹁それで、その獲得的なんちゃらを治すにはどうしたら良いのです
か﹂
﹁気合じゃないか?﹂
うわぁ、使えない⋮。言いっ放しはないでしょう。
﹁ちょっと⋮﹂
﹁集中しろ、集中﹂
﹁ねぇ⋮﹂
﹁集中、集中﹂
私を完全に無視することに決めたらしい鏑木は、自分の言った言
1893
葉そのままに驚異的な集中力でペンを走らせ、次々に課題を終わら
せていく。すごい。これが常にトップ争いをしている人間と、50
位圏内のギリギリをうろちょろしている人間の差か。まずいっ、置
いていかれてる。私も集中しなきゃっ。
そして1時間後、とっくの昔に手持ちの課題をすべて終わらせて
携帯をいじる鏑木と、未だ課題に四苦八苦している私。
﹁⋮ノート写させてやろうか?﹂
﹁結構です!﹂
敵の情けは受けない!
1894
255
座禅修行と滝行の日、私が車で待ち合わせのお寺の最寄駅に着く
と、そこにはすでに生駒さんが立って待っていた。
﹁生駒さん、お待たせ﹂
﹁麗華様!おはようございます!﹂
大きなカバンを持った生駒さんは体を直角に折り曲げて挨拶をし
てくれた。
﹁おはよう。芙由子様はまだいらしていないのかしら?﹂
﹁はい。まだ約束の時間の前ですから﹂
﹁そうね。私達は早く着き過ぎたみたいね。芙由子様が到着するま
でそこのベンチにでも座って待っていましょうか﹂
﹁はいっ﹂
生駒さんはカバンを抱え直して私の後に続いた。
﹁それにしても大きな荷物ねぇ﹂
﹁あ、これはいただいた案内パンフレットに書いてあった、バスタ
オルとか着替えとかが色々入っているので⋮﹂
﹁あぁそうね。滝行をする人は準備するものがたくさんあるのよね﹂
﹁はい。麗華様はやらないんですよね⋮?﹂
﹁ええ。私は待っているわ﹂
だって完璧にセットしたこの巻き髪を濡らしてぺちゃんこにした
くないんだもん。これを元通りにするのに、ドライヤーやスタイリ
1895
ング剤やヘアアイロンと色々持参しなくちゃいけないのも面倒だし。
なにより通行人に見物されているのも恥ずかしいし、そんなギャラ
リーの多い中で、戦闘力の落ちた髪を晒すわけにはいかないし⋮。
﹁滝行は芙由子様のご希望なの。ですから生駒さんは芙由子様とご
一緒してあげて?﹂
﹁はい。でも私大丈夫でしょうか。その、芙由子様もピヴォワーヌ
のかたですよね。外部生の私なんかがピヴォワーヌのおふたりのお
出かけに混じることになって、不満や不快感とか⋮﹂
﹁それは確認してあるから心配しなくても平気よ。芙由子様はそう
いったことは気にしないかただから。むしろ一緒に滝行をしてくれ
る人がいて喜んでいたわ﹂
芙由子様は良くも悪くも浮世離れした変わり者だから、ピヴォワ
ーヌ的な選民意識はそこまで持っていない。
﹁そうですか。だったらいいですけど⋮﹂
﹁ところで生駒さん、高道さんのお家のお手伝いはどうかしら?﹂
生駒さんは若葉ちゃんの制服や靴を汚してダメにした償いに、若
葉ちゃんの家のケーキ屋さんで働くことになっている。
﹁先日初日だったのですが、ご両親は私が高道さんのお家でアルバ
イトをする経緯をざっくりとは聞いていたようで、初めてお会いす
る時はどれだけ厳しいことを言われるかと、緊張と不安で体が震え
てしまいました。でも誠心誠意謝罪をしたら、反省して二度と繰り
返さないと約束してくれるならもういいと言ってもらえまして﹂
﹁そう。良かったわね﹂
﹁はい。それからお店で働いたのですけど、接客は高道さんと高道
さんのお母さんがやっていて、私がやっていることといえば雑用が
1896
主なのですけど、少しでもお返しできるようになんとか頑張ってい
ます﹂
生駒さんは余ったケーキをもらって帰ったそうで、﹁逆に申し訳
なくて。でもおいしかったです﹂と眉を下げて笑った。どうやら上
手くいっているようで良かった。
すると生駒さんが人がいないことを確認するように辺りを見回す
と、声を潜めて﹁ところで⋮﹂と切り出した。
﹁実は、私がお店を手伝っている時に、なんとあの鏑木様がお客さ
んとして来店したんです﹂
﹁えっ!﹂
生駒さんが若葉ちゃんの家でバイトをするにあたっての一番の懸
念材料が鏑木との鉢合わせだったんだけど、初日から心配していた
ことがいきなり的中したか−っ!
﹁麗華様も驚きですよね。私もびっくりしちゃって。まさか鏑木様
がいらっしゃるなんて思いもしなかったですから、一体どうして鏑
木様がって、すっかり頭が真っ白になっちゃいました﹂
﹁⋮あ∼、そうなの。そうでしょうね⋮﹂
﹁わかってくれますか!それで鏑木様がいらっしゃった理由なんで
すけど、ケーキを買いに来たそうなんです。まぁケーキ屋さんなん
ですから当然なんですけど。でも鏑木様のようなかたが普通の、い
え悪口ではなくて、その私が普段買うような比較的庶民的なケーキ
屋さんにいらっしゃるなんて信じられなくて。しかも誰かに頼むの
ではなく自ら買いに来るなんて!﹂
﹁そうね⋮﹂
﹁しかも鏑木様が来店するのは初めてではなかったみたいで、高道
さんのお母さんも娘は丁度今出かけてしまっていないんですよ∼な
1897
んて親しげに話していて。あ、高道さんは休憩中に図書館に本を返
却しに行っていたんです。鏑木様はケーキを買いに来ただけだから
とおっしゃって、何個かケーキを買って帰られました﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁後で高道さんのお母さんに聞いたら、うちのケーキを気に入って
くれているみたいで、たまに買いに来てくれるのよ∼なんて言って
いて、帰ってきた高道さんにも聞いたら、鏑木様は密かに甘党みた
いだねぇなんて笑っていて。でもあの鏑木様がわざわざ足を運ぶこ
とを、気に入っているから、甘党だから、だけで片付けていいので
しょうか﹂
絶対にそれだけじゃないだろうと生駒さんの目が語っている。そ
りゃあ誰だってそう思うよね⋮。
﹁⋮まぁ、鏑木様が実は甘党なのは本当ですから﹂
﹁えっ、そうなんですか?!﹂
﹁ええ。ピヴォワーヌのサロンでも時々召し上がっているわ﹂
﹁そうなんですかぁ。鏑木様のイメージから、てっきりお菓子など
甘い物は嫌いなのかと思っていました﹂
思わぬ皇帝情報に、生駒さんは声を弾ませた。
﹁ところで生駒さん、このことを誰かに話した?﹂
﹁え、鏑木様のことですか?いいえ?﹂
﹁そう。でしたらいいけれど。お客様のことを軽々しく話して広め
るのは、お店の信用問題に関わりますからね。鏑木様が高道さんの
お店に来たことは、くれぐれも誰にも話さないようにしてください
ね。特に瑞鸞の生徒には絶対に漏れないように﹂
﹁はい、それはもう。高道さんからも鏑木様が時々買いに来ている
ことは絶対に秘密ねと口止めされましたし、この話をしたら私が高
1898
道さんのお家で働いている理由も話さないといけなくなりますから
誰にも言いません。ただ麗華様にだけは伝えておいたほうがいいと
思って。私、少しでも麗華様のお役に立ちたいんです!﹂
生駒さんは使命感に燃えた目でグッと握り拳を作った。
﹁⋮それはどうもありがとう。でも気持ちだけで充分だから﹂
﹁まかせてください、麗華様。私、高道さんへの嫌がらせをするた
めに居残ったり、早く来たりしていたおかげで守衛の見回り時間も
把握していますし、隠密行動が得意になったみたいなので、どこか
に忍び込んで麗華様の敵の情報を取ってくることもできますから!﹂
﹁うん。絶対やめて?﹂
それ本物のスパイじゃん。ダメじゃん。犯罪じゃん。
﹁でも考えていた以上に鏑木様と高道さんは親密な関係だったんで
すね⋮。その、麗華様は大丈夫ですか⋮?﹂
﹁なにが?⋮あぁ、ですからこの前も言った通り、私は鏑木様には
恋愛感情は持っていませんから。変な気を使ってもらわくていいか
ら﹂
﹁そうですか?あっ、そうか。麗華様の想い人は鏑木様ではなく円
城様なんですね!﹂
﹁はぁっ?!﹂
﹁わかりました。私、応援しますから!﹂
﹁違うから。私の好きな人は円城様ではないから﹂
﹁あっ、いけない。私ったらまた余計なことを言っちゃって。そう
ですよね、麗華様は円城様のことはなんとも思っていないんですよ
ね﹂
生駒さんはわかっているから皆まで言うなと、したり顔で頷いた。
1899
絶対にわかっていないだろ。
私は、思い込みは良くない、思い込みで今回の事態を招いたのを
忘れたのかと懇々と言い聞かせて誤解を解いた。この調子だと今度
は私のためだと言って円城の周りをうろつきかねない。そんなこと
をしたら、生駒さんなどあっという間に円城に捻り潰されるぞ。蟻
を潰すが如く、プチっとね。そしてその因果は私にも及ぶのだ。あ
の円城の黒い笑顔⋮。ううっ、考えるだけで恐ろしい⋮。スパイ容
疑をかけられ、じわじわ追い詰められた時の恐怖を、私のブランマ
ンジェメンタルは忘れていない。
﹁でも私、鏑木様をあんなに近くでじっくり見たのは初めてでした
!しかも私服姿を見られるなんて!今思い出してもドキドキします。
光り輝いて神々しさすら感じましたからね。鏑木様が入ってきた瞬
間にお店の空気が一瞬で変わりましたもん。あれぞカリスマオーラ
というものなのでしょうねぇ。他のお客さんも黙り込んじゃって。
それで鏑木様が帰った後で今の人かっこ良かったねぇとザワザワし
ていました﹂
生駒さんはその時のことを思い出してか興奮ぎみにしゃべると、
虚空を見上げうっとりとした。
﹁でも生駒さんは鏑木様に顔を見られてしまったのよね。今後学院
内で気づかれてしまう恐れがあるわね﹂
﹁それならたぶん大丈夫です。瑞鸞はアルバイト禁止だから万が一
誰かに見つかった場合に備えて、高道さんにマスクをするように言
われていたし、私の仕事は裏方メインだったので直接接客はしてい
ませんから﹂
さっそく習得した隠密スキルを使ったようだ。
そんなくだらない話をしていると、黒塗りの車が私達の前に止ま
1900
り、中から笑顔の芙由子様が降りてきた。
﹁ごきげんよう、麗華様﹂
﹁ごきげんよう、芙由子様。こちらは今日ご一緒に座禅と滝行を体
験する生駒さんです﹂
﹁っ生駒と申します。本日はよろしくお願いいたします﹂
芙由子様を迎えるために私と一緒にベンチから立ち上がった生駒
さんは、若干顔を強張らせて、深くお辞儀をした。
﹁ごきげんよう。どうぞよろしくね﹂
芙由子様のおっとりとした笑顔に、生駒さんはひとまずホッとし
たように息をついた。
﹁緑が多くて良い所ですわねぇ。このような場所でしたら、きっと
素晴らしい修行が出来るに違いありませんわ﹂
芙由子様の頭の中はすでに座禅と滝行でいっぱいのようだ。
私達は私の先導でお寺に向かって歩き出した。その時に芙由子様
が﹁生駒さんは滝行もなさるのよね?﹂と生駒さんに話し掛けた。
﹁はい。滝に打たれるのは初めてなので少し心配なのですけど⋮﹂
﹁まぁ、そうなんですの。私も滝行は初めてですのよ。でも前から
とても興味があったので、今日はとても楽しみにしていますの。私
はこの日のために3日前から精進潔斎をして水垢離もして参りまし
た﹂
﹁えっ!そうなんですか?!どうしましょう。私は何もして来なか
ったのですけど⋮﹂
1901
芙由子様の気合の入りすぎた前準備を聞いて、生駒さんが途端に
不安そうな顔になった。
﹁大丈夫よ、生駒さん。私もしていませんから。あくまでも修行体
験なのだから、お寺様もそこまで求めていらっしゃらないわよ﹂
﹁でも麗華様は滝行はされないんですよね。私、昨日の夕食にお肉
を食べちゃいました⋮﹂
悩む生駒さんに芙由子様は﹁私はこの日のために数珠も新調いた
しました﹂と更なる追い打ちをかける。生駒さん、大丈夫だから。
気楽に行こうよ。むしろ芙由子様がやり過ぎなだけだから。
﹁座禅中に叩かれるのを警策というそうですわね。麗華様は受けた
ことはありますか?﹂
﹁ええ。なかなか痛いものですけれど、目が覚める思いがいたしま
した。警策は文殊菩薩の手の代わりで、警策を受けることは罰では
なく、聖僧様よりの励ましだと前回教えられましたわ﹂
芙由子様は﹁まぁ﹂と嬉しそうに声をあげたが、生駒さんは﹁罰
ではなく励ましですか⋮﹂と考え込んだ。
そして顔を上げて前を向くと、
﹁罰ではなくても、私はその警策を志願しようと思います。少しで
も自分の罪に向き合うために﹂
決意の表情で宣言をした。
事の次第を知らない芙由子様は﹁罪?﹂と小首を傾げたけれど、
生駒さんがそれ以上を詳しく語ることはなかったので﹁せっかくで
すから私もぜひ警策を受けてみたいですわ﹂と、すぐに関心はこれ
からの修行体験に戻った。
1902
お寺に着くと住職にご挨拶をした後で広間に案内され、初めに写
経の説明を受けた。前回は先に座禅だった覚えがあるけれど、今回
は写経からのようだ。私達以外にもすでに体験修行者が写経を始め
ていた。
長机の前に正座をして、お手本の上から経文を1文字1文字、丁
寧になぞっていく。ただなぞるだけといっても、筆で細かい漢字を
書くのは意外と難しい。滲まないようにはみ出さないようにと集中
して写す。
時間をかけて書写し終わった時には、集中から解放された体から
気力が失われていく感覚と、やり遂げた充実感とでフーッと体中か
ら大きな深呼吸が出た。
芙由子様と生駒さんも終わったので、3人で見せ合ってそれぞれ
の感想を言った後はお寺に奉納をする。
﹁ひとつひとつの文字の意味を考えながら書き写していくうちに、
不思議と落ち着いた心持ちとなりましたわ。写経とはとても奥深い
ものですわね﹂
お手本はいただいて帰れるので、芙由子様はこれから自宅でも続
けると言った。
私も毛筆の練習は最近さぼっていたから所々字が決まらなくて満
足のいかない箇所もあったから、家でやってみようかなぁ。
写経が終わった後は座禅だ。住職から足や手の組み方や入堂して
から退堂するまでの座禅の一通りの作法や、心得である調身、調息、
調心、身体を調え、呼吸を調え、心を調えることなどを教わる。
お堂の中で私を真ん中にして左右に芙由子様と生駒さんが座ると、
鐘の音を合図に座禅が始まった。
シンと静まり返った空間││。この静寂に前回はフッと意識が眠
気に襲われて警策を受けてしまったけれど、今回は同じ轍は踏まな
い。私の心、無心になれ。無心になれ。
1903
それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。
来る前に言っていた通り、生駒さんは警策を希望したようで、生
駒さんの前に住職が立つ気配がすると、続いて堂内にパシンと音が
響いた。
すると今度は住職が芙由子様の前に移動する気配がした。えっ、
芙由子様、どうしたの大丈夫?!あぁでも、芙由子様も警策を経験
してみたいと言っていたから、もしかして自ら希望したのかな?
どうしても気になってしまった私が、薄目を開けてそ∼っと横の
芙由子様の様子を窺うと、丁度芙由子様が打たれて低頭していた。
││そして薄目の私は、住職と目が合った。
言い訳の仕様がない雑念まみれの心が調っていない現場をばっち
り押さえられた私は、黙って合掌し文殊菩薩の手を待った。
1904
256
座禅修行の後は滝行まで時間があるので昼食などの時間にあてる。
お寺の近くにはおいしそうなお蕎麦屋さん等があったけれど、芙
由子様がお寺の精進料理を希望したので、そちらをいただくことに
なった。一汁五菜で思ったよりも豪華だ。うわぁ、ごま豆腐がおい
しそう。
体験修行なので厳しくは言われないけれど、本来は音を立てず無
言で食べるのが規則のようなので、私達も雑談をせず黙々と食べる。
うっ、沢庵を音を立てずに食べるのは難易度が高すぎる。あえて咀
嚼音が立ちやすい沢庵を出すのは修行僧達への試練なのか?これは
あえて噛まずに飲み込むのが正解なのだろうか。
私は必殺技、鳥が鳴いたタイミングに合わせて三噛みして飲み込
むという荒業で乗り切った。あとで消化不良にならないといいな⋮。
食事が終わり少し休むと、いよいよ芙由子様お待ちかねの滝行だ。
参加者は持参したジャージやスイムウェアの上からお寺で貸し出
される白装束を着こむ。う∼ん、全身ラッシュガードで防寒対策ば
っちりな滝修行って不思議。
﹁この白い装束を着用すると、身が引き締まる思いがいたしますわ
ね﹂
まぁ本人が満足しているのならいいか。
私はふたりの荷物を預かることを申し出る。生駒さんは恐縮して
遠慮をしたけれど、1人分も2人分も同じだから気にしないでいい
よ。滝から戻って来た時に新しいタオルとか鏡とかすぐに使いたい
物もあるだろうしね。気分は運動部のマネージャー。
ふたりは他の参加者と共に滝まで誘導されて行ったので、私は滝
1905
壺が見える橋に行った。通りすがりの見物客もちらほらいる。滝行
をやっている場面なんて物珍しいもんね。
﹁あらぁ、荷物がいっぱい。ご家族のぶん?﹂
上からふたりの姿を見守っていると、3人分の荷物を持っている
私に同じように近くで見学していたおばちゃんが話しかけてきた。
大荷物の私が目に留まったみたい。
﹁いえ、これは⋮﹂
﹁滝に打たれるのも大変だけど、荷物番をしてお子さん達を待って
いるお母さんも大変よねぇ﹂
﹁お母さん?﹂
お母さんってなんのこと?
一瞬、言われている意味がわからなかった。
⋮えっ?!まさか、私子持ちの母親だと思われてる?!
﹁⋮私、子供はいません。友達の荷物を持っているだけですけど⋮﹂
﹁えっ?!﹂
震える声で訂正すると、おばちゃんはまずいといった顔で﹁あら
やだ、ごめんなさい∼﹂と笑ってごまかしながら、連れのおばちゃ
ん達と逃げて行った。
﹁なにやっているのよ、野中さん。若い女の子だったじゃない。可
哀想に﹂
﹁だってほら、日傘なんて差してずいぶんと落ち着いた雰囲気だっ
たから﹂
﹁あの様子はまだ20歳過ぎくらいでしょ。そんな若い子をつかま
1906
えてお母さんだなんて﹂
﹁そうよ野中さん。悪いわねぇ﹂
私、女子高生だけど⋮。未成年だけど⋮。
うら若い女子高生なのに子持ちの母親に間違われるなんてっ。こ
れって老けているってこと?!所帯じみているってこと?!お寺を
訪問するのだからカジュアルすぎちゃいけないと、座禅や正座をす
るのにも適しているフレアスカートのお上品コーデが選択ミスだっ
たってこと?!なんてこった。熟読しているファッション誌がまる
で身についていないらしい。それともそれとも、原因はやっぱり⋮
時代遅れな顔?
おばちゃん達にとんだ晒し者され、他の通行人や見物人達から同
情と好奇の目で見られている気がして顔から火が出そうなくらい恥
ずかしい思いでいっぱいだけど、プライドにかけてさも気にしてい
ない風を装う。芙由子様達の順番はまだかしら∼。あ∼、いいお天
気。あら。携帯が震えている。メールかしら?新着メールなど1通
も届いていないメールボックスを開いて、メールを読んでいるフリ
をする。
⋮⋮お願いだから、ふたりとも早く戻ってきて。
芙由子様が介添えされて水の中に入って行く。滝の勢いはなかな
か強いけど大丈夫なのかなぁ。案の定滝の下に入ると水流に圧され
て芙由子様の体がよろめいた。けれどなんとか立て直すと新調した
という数珠を持って手を合わせた。滝に打たれていた時間は数分だ
けれど、介添え人に滝から出された時には1人で歩けないようで手
を貸してもらって岸まで上がっていた。
次の生駒さんは芙由子様よりも長い時間滝に打たれて、介添え人
が制止する限界まで頑張っていた。おかげで岸に戻ってきた時には
フラフラだ。
滝行をした人達には芋汁が振る舞われるようで、タオルを頭から
かぶったふたりは両手で椀を持って岩場にちょこんと座っていた。
1907
芋汁おいしそう⋮。
私は荷物を持って滝壺へ続く道まで行くと帰ってきたふたりを出
迎えた。
﹁おかえりなさい。お疲れさま﹂
﹁素晴らしい体験でしたわ!新たな世界が開けた思いです!﹂
陶然とした様子の芙由子様の隣で、生駒さんも﹁麗華様に荷物を
持たせてすみません﹂と謝りながらも、滝に打たれた顔は清々しい
表情をしていた。
﹁ふたりとも頑張っていましたね。特に生駒さんは皆さんのなかで
一番長く打たれていたのじゃない?﹂
初夏とはいえまだまだ水は冷たいのに、よくあそこまで耐えられ
たなぁ。まだ唇が紫じゃないか。
﹁私の罪を洗い流すにはあのくらいでは足りなかったですから﹂
﹁あ∼、まぁほどほどにね⋮﹂
﹁やはり自宅での水垢離とは全然違いましたわ∼﹂
﹁芙由子様、タオルタオル﹂
濡れた頭をろくに拭かずに浮かれた足取りで歩く芙由子様の頭を
片手で拭き、もう片手で芙由子様のキャリーバッグを転がす。さす
がピヴォワーヌの芙由子様。日頃から人に荷物を持ってもらう生活
に慣れているおかげで、今自分が手ぶらだということを全く気にし
ない。
﹁⋮あの、麗華様。芙由子様の荷物は私が持ちます﹂
﹁いいわよ。生駒さんも自分の髪を拭いて﹂
1908
お寺に戻って着替える段になった時にやっと自分のバッグの行方
を思い出した芙由子様は、私が持っているのを見て﹁まぁ麗華様。
ありがとうございます﹂とおっとり微笑んだ。どういたしまして。
身支度を済ませたふたりと住職に本日のお礼を済ませると、ハイ
キングがてらお山を散策する。
﹁森林浴ですわね∼﹂
﹁そうですね∼﹂
私達は﹁あら珍しい形の植物。山菜かしら﹂﹁ただの雑草じゃな
い?﹂等と自然好きなおばちゃんのような会話をしながらのんびり
歩く。
﹁今日は念願の座禅や滝行、写経まで体験できて素晴らしい一日で
したわ。これも誘ってくださった麗華様のおかげですわね﹂
うっかり芙由子様の前で座禅をしたことがあると口を滑らせちゃ
ったからねぇ。ま、喜んでもらえたのなら良かったよ。
﹁麗華様と芙由子様は同じピヴォワーヌなので普段から仲が良いん
ですね?﹂
﹁そうね﹂
芙由子様とは初等科からの付き合いだけど、実際にはこんな風に
親しく話すようになったのはつい最近からなんだけどね。
私が仲良しを肯定すると芙由子様は嬉しそうに頬を緩ませた。
﹁麗華様がピヴォワーヌのサロンにいらしている時は楽しい時間を
過ごさせていただいていますけど、麗華様は部活動の方もお忙しよ
1909
うでサロンにいらっしゃれない時も多いので、そんな時は少し寂し
い思いがいたします﹂
え、それはごめん、手芸部以外に鏑木からの呼び出しが私と芙由
子様の時間を裂いているのよ。恨み言は鏑木に言ってね。
﹁麗華様は手芸部の部長をなさっているのですよね﹂
﹁ええ、そうなの。今は学園祭に出展するウェディングドレスの制
作をしているのよ﹂
﹁わぁ、素敵です!私も毎年手芸部の展示を見に行かせてもらって
いるんです。麗華様の作品も拝見させてもらいました!﹂
﹁まぁ、それはどうもありがとう。拙い作品で恥ずかしいわ。よか
ったら今年もぜひ見にいらして﹂
﹁はいっ﹂
﹁羨ましいわぁ。私も入部できる部があれば良かったのですけど﹂
﹁芙由子様は何も部活にも入っていらっしゃらないのですか?﹂
﹁ええ。私が興味を持つ分野の部がありませんでしたので﹂
残念ながら瑞鸞にオカルト研究会はないからね。
﹁私がもう少し早く麗華様に打ち明けていれば良かったのですけど﹂
芙由子様はそう言ってホウっと溜息をついたけれど、オカルト趣
味を早くに打ち明けられていたところで、私はオカルト研究会創設
の片棒は担がなかったから。
﹁打ち明ける⋮?﹂
﹁あ、え∼と、芙由子様は世界中の伝承や古来からの超自然的なし
きたりを研究するのがお好きなの﹂
1910
さすがに芙由子様がスピリチュアルにどっぷり浸かっていたオカ
ルト趣味の人だというのは、芙由子様の面目を守るためにも明け透
けには言えない⋮。
私達が修行体験をしたお寺以外にも、近くには神社や別の宗派の
お寺などもいくつかあった。その中に大きくて立派な神社があった
ので行ってみることにした。手水舎で手を清めてからお参りをする
と、芙由子様が社務所に行きたいと言う。授与品に何があるか見た
いらしい。
社務所に置いてある授与品はお札やお守りの他に神社の名前入り
の紙袋に入った清めの塩もあった。
﹁私はこの清めの塩をいただきますわ﹂
清めの塩なら私も欲しいな。私達は3人で清めの塩を分けてもら
った。
﹁あら?あちらにも何かありますよ﹂
拝殿の少し離れた横に小さな池があった。中央に小さな島があり
鳥居と社もある。そしてその隣には台の上に人型の紙が置いてあっ
た。どうやら京都の神社などにもある願いを書く人型のようで、こ
の人型に願いごとと名前を書いて息を吹きかけ水神様を祭った池に
沈めると、それが溶けて願いが叶うというものらしい。
﹁まあっ!ぜひ私達もやりましょうよ!﹂
スピリチュアル芙由子様が当然飛びついた。私もこういうのは好
きなので賛成する。
私達は初穂料を納めて人型をいただくと、各々願いごとを書くた
めにペンを持った。生駒さんと芙由子様は願いごとを何にしようか
1911
素敵な恋人ができますように
の
楽しそうに考えている。しかし私が書く願いごとは決まっているの
で迷いはない。願いはもちろん
一択だ。
すると芙由子様が﹁そうだわ﹂と先程の清めの塩を取り出した。
﹁どうしたのですか?﹂
﹁塩まじないですわ。紙に願いごとを書いてそこにお塩をひとつま
みかけて清め、火で燃やした後に水に流すおまじないです﹂
へー、そんなおまじないがあるんだ。
﹁でも火がありませんよ?﹂
﹁燃やせない環境でしたら水に流すだけで良いのです。ここは水神
様のご利益がある池で、特にこのお塩はお祓いを受けた清めの塩で
すから、効果はいやが上にも高まりましょう!﹂
でもまぁ確かに、水神様の水に清めの塩だもんね。そしてそんな
話を聞いちゃったら、せっかくなので私もそのおまじないにあやか
りたい。
私と生駒さんも清めの塩を取り出した。
素敵な恋人ができますように
と願いごとと名前を
恥ずかしいのでふたりに見られないように背中で隠しながら、私
は人型の紙に
書き、息を吹きかけると、その上にぱらぱらと清めの塩をかけ、包
んで水の中に落とした。どうか神様、私の願いが叶いますように!
﹁注意点といたしましてはこの塩まじないは、叶えたい願いごとを
そのまま書くのではなく、成績があがらない、好きな人と両思いに
なれないなど、現在困っていることを書くことです。塩まじないが
悩みを浄化してくれるので、そのまま書いたらむしろ逆効果になっ
てしまうので気を付けてくださいね﹂
1912
﹁ええっっ!﹂
なにそれ、早く言ってよ!っていうことは、素敵な恋人ができま
すようにの願いは、素敵な恋人ができないになっちゃうってこと?
!うわあっ、今の無し無し!ぎゃあっ、私の人型、もう溶けてる!
私は膝から崩れ落ちた。
恋愛ぼっち村を私が卒村する日は、まだまだ遠い││。
1913
257
あの後、私は帰宅すると若葉ちゃんに電話をした。話したいこと
や聞きたいことが色々あったのだ。
﹁今日は滝行に行ったんでしょ。お疲れ様∼﹂
﹁私は見学していただけだけどね﹂
私が今日あった出来事を話すと、若葉ちゃんは興味深く聞いてく
れた。好奇心旺盛な若葉ちゃんは﹁なんだか面白そう。私もやって
みたいなぁ﹂と笑って言った。それ芙由子様が聞いたら本気にとら
れて連れて行かれちゃうぞ。
﹁ところで生駒さんのバイトはどう?本人は一生懸命やっているみ
たいだけど﹂
﹁うん。すごく頑張っているよ。お客さんがいない時はゆっくりし
ていていいのに、サボっちゃいけないと思うのか、布巾を持ってず
ーっとあちこち拭いて回っているよ。最初はいらっしゃいませや、
ありがとうございましたって言うのも緊張して声が小さかったけど、
慣れたらスムーズに言えるようになったしね﹂
﹁そうなんだ。若葉ちゃんの家のご迷惑になっていないなら良かっ
た﹂
﹁うん、大丈夫だよ。それにね、この話は生駒さんから聞いている
かな。生駒さんは結局、自分がやったことを両親に話したみたいで
ね。初日に生駒さんと一緒に生駒さんのお父さんとお母さんも来て、
娘が申し訳ありませんでしたって謝罪と弁償金を払ってくれたんだ
よ﹂
﹁そうだったの?!﹂
1914
それは聞いていなかった。自分の悪事を親にカミングアウトする
のって相当勇気がいるよね。特に同級生に裏で嫌がらせをしていた
なんて卑劣な行為を話すのは。生駒さん、本当に心から反省して罪
を償いたいと思っていたんだなぁ。
﹁それでね、弁償までしてもらっちゃったから、初日でもうバイト
をしてもらう理由がなくなっちゃったんだよねぇ﹂
﹁う∼ん、言われてみれば確かにそうなるのかな。でも今回のバイ
トは弁償をしてもらうことより、働いてお金を稼ぐことの大変さを
知ってもらうってことが主旨だったし﹂
﹁そうなんだよ。だから私が親御さんにまで謝ってもらったし、初
日だったけどバイトはいいよって言ったら、生駒さんも約束だから
最後までやりますって言って、生駒さんの両親にもよろしくお願い
しますって言われちゃって﹂
﹁へぇ∼、そんなことがあったんだぁ﹂
﹁うん。麗華様とも約束しましたから!って言っていたよ。そこに
一番力が入ってた。慕われているねぇ、吉祥院さん﹂
﹁ははは⋮﹂
﹁それで本人がそこまで言うならって、当初の予定通りバイトはし
てもらうことになったんだけど、期間は短くすることにしたんだ。
生駒さんだって勉強とかあるだろうしさ。数日やってもらってそれ
で終わりにすることにしたの。だからあと来てもらっても1,2回
かな。あまり長くやってもらうと、色々ばれる恐れがあることもわ
かったし⋮﹂
﹁あっ、そうだった!生駒さんから聞いたんだけど、鏑木様が来店
してニアミスしたんでしょ!﹂
そうだよ。今日電話をしたのは、それが一番聞きたかったからな
んだよ!
1915
﹁あ、聞いた?そうなんだよ。私はその時いなかったんだけど、帰
ってきたら生駒さんが顔を真っ赤にして、か、鏑木様が⋮っ!って
店の中でバタバタしてたの。どういうことって追求してくる目が怖
かったなぁ﹂
﹁大変だったね⋮﹂
﹁いえいえ﹂
私に話す時も興奮していたもんなぁ。
﹁吉祥院さんが鏑木君と会っちゃうかもよって言っていたのが、ま
さか初日で当たるとは、さすがに思わなかったよ。すごいね吉祥院
さん。占い師の才能あるかもよ﹂
笑いごとじゃないよ、若葉ちゃん。私はその話を聞いて色んな意
味で一瞬冷や汗が出たよ。
﹁ペナルティは別のことにすれば良かったわね⋮﹂
﹁あはは。それは後の祭りってことで﹂
﹁ねぇ。生駒さんのバイトが終わったら、私も若葉ちゃんの家に遊
びに行ってもいいかな?﹂
﹁もちろんだよ、大歓迎!寛太達も会いたがってるよ﹂
﹁コロちゃんに?﹂
﹁コロちゃんに﹂
私達はあはは∼と笑い合った。
﹁私も寛太君達に会いたいなぁ﹂
寛太君は私のお菓子作りの師匠だからね。
1916
私達はそれから高道家の皆さんの近況やお互いの学院生活などを
おしゃべりしてから電話を切った。
次の日の放課後、芙由子様に寂しいと言われてしまったのでピヴ
ォワーヌのサロンに少し顔を出した後で、私は珍しく自分から鏑木
を小会議室に呼び出した。
﹁なんだよ、話って﹂
﹁鏑木様。この前の休日に高道さんのお店に行きましたね﹂
ずばり聞いてやると、鏑木がギョッとした顔をした。
﹁なんで知っている。あっ!お前もしや、俺のストーカーか?!﹂
本物のストーカーにストーカー呼ばわりされたくない!
鏑木は両手で自分を守るように抱きしめて、﹁うわぁ⋮﹂と私を
不審者のように見ながら後ずさった。
﹁違います!﹂
﹁じゃあなんで知っているんだよ﹂
バイトの生駒さんから聞いたとは言えないので。
﹁私のお庭番からの報告です﹂
﹁⋮え、お前それギャグで言ってんの?﹂
1917
真顔で問い返され、私は言ったことを後悔した。
﹁⋮偶然、高道さんのお店の近くで鏑木様を見かけたという話を耳
にしたので、もしかして行ったのではないかと推測したんです﹂
﹁ふぅん﹂
鏑木は半信半疑の様子で私に胡散臭そうな視線を向ける。だから
私は鏑木のストーカーなんかしないから。
﹁アポなし訪問はやめてくださいと前に忠告しましたよね﹂
アポイントだけは必ず取ってくれ。このままじゃ私が若葉ちゃん
の家に遊びに行った時に会っちゃうリスクが高すぎる。
﹁⋮ケーキを買いに行くだけなのに、アポイントなんか取る必要は
ないだろうが﹂
﹁本当にケーキだけが目当てですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ご自宅からは遠いのに、代わりの者に買いに行かせるでもなく、
鏑木家のご子息がご自分でわざわざ買いに行かれるなんて、ねぇ﹂
﹁⋮クラスも違う。学校でも一緒にいられる時間が少ない。だった
ら休日に会いに行くしかないだろうが﹂
﹁うわぁ、開き直りですか﹂
﹁うるさい﹂
鏑木が悔しそうな顔をした。
ケーキを口実にしているのはとっくの昔にばれているんだから、
今更隠してもしょうがないのに。
﹁相手にも都合というものがあるのですから、事前連絡をしないと
1918
迷惑をかける可能性だってあるじゃないですか。不在の場合だった
あるんだし。それで?突然行って会えたんですか?﹂
﹁会えなかった⋮﹂
知っているけどね。
﹁ほらそうでしょう。甘党の鏑木様が高道さんの家のケーキを食べ
たいと言うのも本当なのでしょうけど、一番の目的は高道さんに会
うことなのでしょう?だったらそんな口実を使ったりせず、会いた
ければきちんとデートに誘うとかすればいいじゃないですか﹂
﹁⋮誘ってる。誘ってるけど3回に1回ぐらいしか予定が合わない
んだ﹂
﹁えっ、そんなに頻繁に誘っているの?!﹂
鏑木が私の把握してないところでかなりアグレッシブに動いてた!
思わず驚きの声をあげた私に、きまりが悪そうに鏑木は目を逸ら
した。
﹁3回に2回も断られていたんですかぁ⋮。それって脈がないんじ
ゃ⋮﹂
﹁高道は忙しくて3回に1回ぐらいしか空いている日がないんだ﹂
﹁ふ∼ん﹂
まぁ、みんな鏑木みたいに暇じゃないからねぇ。
﹁高道は吉祥院みたいに暇じゃないんだ﹂
鏑木雅哉を心の中でタコ殴り。
﹁せめて帰り道が一緒だったら良かったんだが生憎方向が違うし、
1919
なにより俺は車で高道は電車だからな。俺が方向が違っても送ると
言っても、高道が悪いと言って遠慮する﹂
そりゃあそうだろうなぁ。瑞鸞の内部生なら普通の感覚なんだけ
ど、若葉ちゃんは違うからねぇ。一緒に遊びに行った帰りにそのま
ま送ってもらうとかならいいけど、下校時に別方向の人に毎日車で
送ってもらうのは心苦しいと思うだろうな。
﹁⋮あの辺りに完成間近の新築マンションが建つんだよな﹂
﹁は?﹂
﹁俺も社会勉強のために一人暮らしをしてもいいかもしれないな⋮﹂
えっ、若葉ちゃんに近づくために近所にマンションを買って引っ
越す気?!それもう言い訳のしようがないストーカーじゃん!怖い、
怖い!
﹁絶対にやめてください。そんなことをしたら高道さんに全速力で
逃げられますよ!﹂
﹁一人暮らしを考えていた時に、高道の家の近くに偶然良さそうな
物件を見つけただけだ⋮﹂
﹁そんな言い訳が通用しますか。では考えてみてください。通学距
離にも問題がなく、実家で何不自由なく暮らしている私が、いきな
り鏑木様のご自宅近くのマンションに越して来たら⋮﹂
﹁弁護士に相談するな﹂
ほら見ろぉ。っていうか引っ越しただけで弁護士案件にするって、
私のことをまだ鏑木のストーカーだと思っているでしょ?!
一生忍んで思い死することこそ恋の本意なれ
と先人も言って
﹁そこまでやるなら、潔く告白しちゃえばいいのに﹂
﹁
1920
いる⋮﹂
それ、恋愛ぼっち村の村訓。こいつ、入村許可も出していないの
に、勝手に裏山に家を建てて住みついてやがるな。不法入村者め。
﹁それって一生告白しないって言っているんですか﹂
﹁⋮タイミングを計っているんだ﹂
﹁要するに勇気がないんですね﹂
﹁うるさい﹂
まぁ、デートの誘いを3回に2回も断られている現状じゃあねぇ。
﹁それに今は水崎の動向も気になる﹂
﹁生徒会長ですか⋮?﹂
﹁ああ。俺が誘ったけど高道の予定が合わなくて断られた日に、水
崎が先に高道と約束をしていた時があったんだ﹂
﹁あら∼﹂
﹁俺の見立てでは、あいつも高道に気があるんじゃないかと踏んで
いる﹂
﹁なるほど﹂
若葉ちゃんの気持ちはわからないけど、同志当て馬はそうだろう
ねぇ。だって原作からして当て馬キャラだったし。
﹁お前、水崎の情報を何か持っていないか﹂
﹁⋮日本のお城が好きらしいですよ﹂
﹁いらねぇよ。そんな情報﹂
口が悪いなぁ。通販に詳しくて実は密かに分冊百科を買っている
って、レア情報だと思うけど?
1921
すると鏑木がなにかに気がついたように腕時計で現在の時間を確
かめた。
﹁あぁ悪い。今日は吉祥院の無駄話に付き合ってやれる時間がない。
優理絵と食事に行く約束があるんだ﹂
はぁっ?!なにそれ。その言い方じゃまるで私のほうが鏑木にか
まってもらいたがっているみたいに聞こえるじゃないか!
﹁ちょっと待っ⋮!﹂
﹁あー、わかった、わかった。今度な﹂
なにその大人のあしらい。ムカつく!
いそいそと帰り支度をした鏑木は、私の制止を無視して﹁じゃあ
な﹂と部屋を出て行った。
二度とヤツの恋愛相談になんて乗ってやるもんか!
なにが優理絵様と食事だ。若葉ちゃんを好きだと言いながら初恋
の優理絵様と嬉しそうに食事に行くって、なんだか不誠実に思えま
せんこと?奥様。
不法入村者のくせに。村八分にしてやると心の中で悪態をつきな
がら迎えの車の待つ駐車場に行くと、吉祥院家の車の傍に小さな人
影があった。
え、あれはもしかして⋮。
﹁雪野君⋮?﹂
1922
私の声に顔を上げた天使は、私の姿を見つけると、
﹁麗華お姉さん⋮!﹂
﹁うわっ﹂
駆け寄ってきた雪野君は、飛び付くようにそのまま私に抱きつい
た。
1923
258
﹁どうしたの、雪野君。なにかあったの?﹂
私が雪野君の柔らかいふわふわの髪を撫でながら尋ねると、私に
抱きついていた雪野君が体を離して顔を上げた。
﹁なにもないです。ただ麗華お姉さんに会いたいなぁって思って⋮。
あの、迷惑でしたか?﹂
﹁まぁっ!私が雪野君を迷惑に思うわけがないじゃない。もしかし
て、ここで私をずっと待っていてくれたの?﹂
雪野君がコクンと頷いた。なんてこと!
可愛い雪野君が待っていると知っていたら、鏑木なんか打ち捨て
て全力疾走してきたのに!
﹁ごめんなさいね。ずいぶんと待たせてしまったでしょう。連絡を
してくれたら良かったのに⋮﹂
﹁ううん。僕が麗華お姉さんに会いたくて勝手に待っていただけだ
から﹂
なんという健気!いいのに。子供はわがままを言っていいのに!
鏑木に雪野君のこの気遣いを見習わせたい。
﹁ではなにか緊急の用事があったわけではないのですね?﹂
﹁はい﹂
その返事にひとまずホッとした。小学生がポツンとひとりで待っ
1924
ているなんて、なにか悩みごとか困ったことでもあったのかと思っ
た。
﹁雪野君のお兄様は今日はどうしたの?一緒ではないのかしら﹂
﹁⋮知らない。どこかの誰かと約束でもあるんじゃないの﹂
口を尖らせた雪野君がプイッと横を向いた。あらら。
これはもしかして、大好きなお兄様である円城が弟の雪野君を放
って出かけているから拗ねちゃっているのかな?そうだよねぇ、ま
だ小学生だもんねぇ。私も雪野君くらいの歳の頃にお兄様が忙しく
て帰りが遅かった時はちょっと寂しかったもの。私の場合は精神年
齢が大人だったし、帰ってきたお兄様が甘やかしてくれたから拗ね
たりはしなかったけど。
そっかぁ。原因は兄弟ゲンカ︵?︶かぁ。
﹁とりあえずお家まで送って行きましょうか?﹂
雪野君はキュッと私の制服を掴んだまま、動かない。う∼ん、こ
れはヤだってことかなぁ。
どうしたものか⋮。幸い今日は塾はないし、家庭教師の先生には
謝罪して別の日に振り替えてもらえば時間は作れるけど⋮。
﹁どこか行きたいところはある?﹂
﹁行きたいところ⋮﹂
う∼んと雪野君が考え込む。行きたがっていた水族館はつい最近
一緒に行ったばかりだしねぇ。小学生の男の子はカフェでおしゃべ
りとかショッピングなんか興味ないだろうし。どこかのんびり遊び
ながらおしゃべりもできるところ⋮。
今朝家を出てくる前の自室の状態を思い出す。脱ぎっぱなしの服
1925
やダイエットグッズなんかは転がっていなかったはず⋮。
﹁よかったら、雪野君のお家のかたが迎えにきてくれるまで、私の
家にくる?﹂
﹁いいんですか?!﹂
円城が出かけていて拗ねちゃっている雪野君は、このまますぐに
帰りたくないみたいだし、数時間私の家で遊んで、後で迎えにきて
もらえばいいか。
﹁ただし、雪野君のお家のかたが許可してくださったらね﹂
﹁わあっ!﹂
雪野君の顔がぱあっと輝いた。ペットもいないし、そんなに期待
されるような家でもないんだけど⋮。念のためにお手伝いさんに私
の部屋を軽く掃除をしておいてもらうように連絡をしておこう。
﹁では円城家のご両親かお兄様に、私の家に遊びに行ってよいか確
認してみましょうか﹂
﹁はいっ。兄様にメールをしてみます﹂
と送りま
雪野君が携帯を取り出してポチポチと操作した。連絡相手はケン
カ中︵?︶の円城でいいんだ。
これから麗華お姉さんのお家に遊びに行ってきます
私もお手伝いさんと家庭教師さんに連絡をしておく。
﹁
した﹂
遊びに行っていいかじゃなく、遊びに行ってきますの断定形なん
だね。
1926
﹁麗華お姉さんのお家に行けるなんて楽しみです﹂
﹁たいしたおもてなしはできないので、あまり期待しすぎないで?﹂
ゲーム類はどこにしまってあったかな⋮。
このまま外で話しているのもなんだから、車に乗りましょうかと
話していたところに、雪野君の携帯電話が鳴った。
﹁あ、兄様だ﹂
電話に出た雪野君は﹁うん、うん、そうだよ﹂としばらく話した
後、﹁兄様が麗華お姉さんに代わって欲しいと言っています﹂と携
帯電話を差し出してきた。円城か⋮。
﹁もしもし、お電話を代わりました﹂
﹁吉祥院さん?円城です。うちの雪野が今から吉祥院さんのお宅に
行くと言っているんだけど﹂
﹁ええ、そうなんです。もし円城様のお家の許可が取れたらという
話なのですが﹂
﹁急に押しかけるなんて吉祥院家は迷惑なんじゃないかな﹂
﹁いえ、我が家は平気ですけれど。丁度今日は両親も外出予定で私
しかおりませんし﹂
﹁本当に?﹂
﹁はい。円城様のお家こそ、保護者がいないのに私が勝手に雪野君
を寄り道させてしまって大丈夫ですか?円城家のご両親の了承はい
ただけるのでしょうか﹂
﹁そっちは僕が連絡を入れておくから大丈夫。ごめん。なるべく早
く迎えに行くから、それまで雪野を預かっていてもらえるかな。弟
のわがままで迷惑をかけちゃって申し訳ないんだけど⋮﹂
1927
いえいえ。貴方の親友に比べたら、雪野君の可愛いわがままなん
て迷惑のうちに入りませんよ∼。
するとその時、電話口の遠い向こうから﹁シュウ?﹂と女性の声
が聞こえた。それに対して送話口を手で押さえたのか、円城の﹁待
って﹂というくぐもった声が聞こえた。
﹁本当にごめんね。雪野がわがままを言ったら遠慮なく叱ってくれ
ていいから。それからもう一度雪野に代わってもらえるかな﹂
﹁雪野君、お兄様がもう一度変わって欲しいんですって﹂
携帯を受け取った雪野君は、﹁わかってるよ。僕きちんとおとな
しくしているもん。お迎えはゆっくりでいいよ!﹂と言って通話を
切った。その口調から、どうやらまだつむじは曲がっているらしい。
ぷくっと膨れる雪野君も可愛い。
﹁では雪野君のお兄様の許可ももらえたことですし、行きましょう
か﹂
﹁はい!﹂
一転してニコニコ顔になった雪野君を連れて私は車に乗り込んだ。
雪野君を伴って吉祥院家に帰宅すると、私は雪野君を自分の部屋
へと案内した。
﹁雪野君、こっちよ﹂
﹁はい﹂
1928
するとそこへ着飾ったお母様が衣裳部屋から出てきたのと鉢合わ
せた。まだ出かけていなかったのか。
﹁あら、麗華さん。おかえりなさい。そちらのお子様は⋮﹂
﹁ただいま帰りました、お母様。こちらは円城様の弟様で円城雪野
君です﹂
私が紹介すると、雪野君はお辞儀をして
﹁こんにちは、円城雪野です。今日は突然お伺いして申し訳ありま
せん﹂
ニコッと笑顔で挨拶をする雪野君に、お母様は両手で頬を押さえ
た。
﹁まああっ!なんて利発で愛らしいお子様なのでしょう!﹂
血は争えない。お母様も天使の微笑みに心を奪われたらしい。
﹁私の家に遊びに来たいとおっしゃったのでお連れしたのです。後
で円城家のお家の方が迎えにいらっしゃるそうですわ﹂
﹁まぁ、そうなの。ようこそ雪野さん。ゆっくりしていらしてね。
ねぇ、麗華さん。お母様も雪野さんと少しお話がしたいわ﹂
え∼っ。雪野君が気疲れしちゃうよ⋮。
でも心優しい雪野君は﹁はい﹂とお母様のお茶の誘いを快く受け
てしまった。うわ∼、ごめんよ。
居間に移動した私達は、お茶を飲みながら談笑をした。雪野君は
お母様からの質問にも持ち前の天真爛漫さを振り撒いて答えてくれ
1929
るので、可愛いものが大好きなお母様はご機嫌だ。気を使わせて申
し訳ない。
﹁雪野さんは本当に愛らしくて、このようなお子様をお持ちの円城
家のご両親が羨ましいわねぇ、麗華さん﹂
﹁ええそうね、お母様。私も雪野君みたいな弟がいたら良かったの
にと思います﹂
﹁そうよねぇ。貴輝さんも子供の時は可愛かったのだけど、すっか
り大人びてしまって﹂
二十歳を過ぎた男性に子供の可愛さを求められても、お兄様だっ
て困ると思う。
お母様は上機嫌に雪野君に﹁お菓子はいかが?﹂と焼き菓子を勧
めている。
⋮そうだ。お母様が雪野君の可愛さに浮かれている今だったら、
例の計画がもしかしたらいけるかも。
﹁そういえばお母様。私、気分転換を兼ねて、たまにはへアスタイ
ルを変えようかと思っているのですけど⋮﹂
時代遅れから脱却して今時のおしゃれ女子高生になるには、まず
このザ・お嬢様な巻き髪から卒業しないと。それにはまず最大の壁
であるお母様を説得しないといけない。今がそのチャンス!
﹁えっ、麗華お姉さん、その髪型をやめちゃうんですか?﹂
それなのに、お母様より先に隣の雪野君に反応された。
﹁どうしてですか?とっても似合っているのに﹂
1930
つぶらな瞳でコテンと首を傾げる雪野君。
﹁えっ⋮、そうね。ずっと同じヘアスタイルというのも飽きるし、
たまにはイメージチェンジをしてもいいかなぁと⋮﹂
﹁そうなんですかぁ⋮﹂
なんだか声がちょっぴり残念そう。
﹁雪野君は、私のこの髪型が好きなのかしら⋮?﹂
﹁はい。まるで絵本のお姫様みたいです﹂
﹁えっ、お姫様?!﹂
確かに自他ともに認めるロココヘアだけど、雪野君はそんな私を
お姫様みたいだと思ってくれていたの?!
﹁まあまあっ!雪野さんは見る目もあるのねぇっ﹂
自分の趣味の賛同者を得たお母様のボルテージは上がりまくった。
﹁雪野さんも今の髪型は麗華さんに似合っていると思うわよねぇ?﹂
﹁はい。麗華お姉さんはお姫様みたいでとっても可愛いと思います﹂
﹁雪野君⋮!﹂
雪野君の目にはこの時代遅れ顔の私がお姫様に見えているのか。
ありがとう雪野君。私は雪野君のお姫様でいるために、一生縦ロ
ールで生きていくと宣言するよ!
時間になり、お母様が名残惜しげに出かけて行って私達はやっと
解放された。
1931
﹁ごめんなさいね、雪野君。母に付き合わせてしまって﹂
﹁いいえ。お菓子もおいしくて、麗華お姉さんのお母様とお話でき
て楽しかったです﹂
いい子だなぁ。なんていい子なんだ。
あまりにいい子なので、私の部屋を物珍しげにクリクリとした瞳
で見る雪野君の頭を撫で繰り回したくなる。
私達はゲームをしたり、雪野君が宿題があると言うのでそれを一
緒にやったりした。⋮私の頼りない脳みそは初等科の勉強内容をま
だ忘れていなかったようで良かった。
﹁僕そろそろ家に連絡をして迎えにきてもらいます﹂
時計の針は6時を過ぎている。小学生なら夕食の時間だろうか。
﹁せっかくだから夕食も一緒に食べていったらどうかしら。どうせ
今日は私ひとりだし﹂
さすがにそこまではと遠慮する雪野君を、いいからいいからと説
得する。なんだったら夕食の後にうちの車で送っていってもいいし
ね∼。
結局私の説得に負けた雪野君が、家に連絡をして一緒に夕食を食
べた。
可愛い雪野君を手放したくない私がもういっそ泊まっていっちゃ
えばという心境になっていた頃、雪野君の迎えが来たとの知らせを
受けた。
帰り支度をした雪野君と一緒に玄関に行くと、そこにはセミフォ
ーマルな私服に身を包んだ円城が立っていた。もしかしたらそれな
りのレストランでディナーの予定でもあったのかもしれないな。急
1932
ピッチで食べてきたか、途中で抜けてきたか、どちらにせよご苦労
様です。
﹁遅くまで弟が面倒をかけてごめんね﹂
﹁面倒なんてかけられていませんから。私こそ遅くまで引き止めて
しまって申し訳ありません﹂
﹁兄様、麗華お姉さんとゲームもして、宿題も教えてもらったんだ
よ﹂
宿題か⋮。どうか教えたところが間違っていませんように。
円城は雪野君に厳しい目を向けると、
﹁雪野。吉祥院さんにわがままを言って困らせたんだから、きちん
とお礼を言いなさい﹂
﹁はい。ありがとうございました、麗華お姉さん。今日はとても楽
しかったです﹂
﹁こちらこそ、楽しかったわ。またぜひ来てね﹂
﹁はい!﹂
﹁吉祥院さん、今日はありがとう。この借りは今度返すから﹂
なんと!雪野君はささくれだった私の心を癒してくれただけでは
なく、腹黒円城に貸しまで作ってくれるなんて!まさに天使!
私は車の中から手を振ってくれる雪野君を、見えなくなるまで見
送った。
1933
259
今日は授業が早く終わる日だったので、学校帰りにお母様と待ち
合わせ。美容命のお母様に付き合ってエステに行き、お父様の仕事
が終わるのを待って3人で外食だ。
私が制服デートに並々ならぬ憧れがあるように、お母様も瑞鸞の
制服を着た娘とお出かけをするのが好きらしい。
﹁もうすぐこの制服を着ている麗華さんも見納めなのね。寂しいわ﹂
﹁そうですね。多少のデザインの違いはあっても、初等科から数え
て11年以上着ていますから、そう考えると私も名残惜しい気持ち
です﹂
﹁そうでしょう。だから卒業までに私とたくさん出かけましょうね、
麗華さん﹂
﹁はい﹂
まぁ、制服で出かける程度で親孝行になるなら、いくらでも付き
合うよ。
﹁いらっしゃいませ、吉祥院様﹂
お母様行きつけのエステサロンで出迎えられ、本日のメニューは
お母様はアンチエイジングコース、私はホワイトニングコースをお
願いする。この前、桜ちゃんに色白は七難隠すと失礼なアドバイス
をもらったからね。
薔薇を浮かべたフットバスで足先から血行を良くした後、フェイ
シャルエステをしてもらう。
1934
﹁麗華様。最近お疲れだったりストレスが溜まっていたりしますか
?﹂
﹁わかりますか?﹂
受験のプレッシャーと思い通りに進まない勉強。学院で起こるト
ラブルや鏑木と円城からもたらされる面倒事に、私の繊細な神経は
疲弊しまくっているのだ。
﹁ええ。表情筋が少し固くなって老廃物が溜まり、むくみやすくな
っています。特に眉間のあたりなどに日頃から力が入っているよう
ですね。ここは放っておくとシワになってしまいますからケアして
いきますね﹂
﹁!よろしくお願いします﹂
眉間のシワが固定されるなんて恐ろしすぎる⋮!それもこれもみ
んなあいつらの⋮。
﹁麗華様、お顔に力が⋮。リラックスなさってください﹂
﹁すみません﹂
つい思い出し怒りが⋮。目を瞑ってリラックス、リラックス⋮。
1時間後、熟睡から目が覚めた私の顔はむくみも取れ、真っ白ツ
ルツルになっていた。
やっぱり私には修行よりもこっちのが合っているな。
エステサロンを出た後、お母様がショッピングがしたいと言うの
でお目当ての旗艦店の近くで車を降りて歩いていると、
﹁あら、吉祥院様ではありません?﹂
その声に親子で振り向けば、そこには華やかな空気を纏う鏑木母
1935
が立っていた!
﹁まぁ、鏑木様!ごきげんよう﹂
﹁ごきげんよう、吉祥院様。瑞鸞の制服をお見かけしたので、どち
らのお嬢さんかしらと思ったら、麗華さんでしたので、声をお掛け
してしまいましたわ﹂
お母様孝行の制服が仇となった!
やっぱり制服って目立つんだ。どこで誰が見ているかわかったも
んじゃない。これからも制服での寄り道は細心の注意を払っていこ
う。特に存在が目立つ鏑木との庶民ツアーは断固拒否の方向でいか
ねばと、固く心に誓う。
﹁今日はおふたり揃ってどちらへ?﹂
﹁ええ。今日は娘とエステに行って参りまして、今はその帰りです
のよ﹂
﹁まぁそれで今日はいつにも増して奥様のお肌が輝いていらっしゃ
ったのね﹂
﹁ほほほ。鏑木様はお上手ですこと﹂
﹁あら御謙遜なさらないで。奥様はいつも美意識が高くていらっし
ゃるから、尊敬申し上げていますのよ。麗華さんのお美しさはお母
様譲りですものねぇ。ご自慢のお母様ではなくて?﹂
話を振られた私はうふふと、どちらとも取れる微笑みで調子を合
わせる。
﹁そうだわ。今度我が社で新しく建てるホテルでは、独占契約を結
んだオーガニックブランドの日本初上陸エステサロンが入る予定で
すので、開業した暁にはぜひご招待させてくださいな。私が現地へ
行って直接その効果を確かめたサロンですので、お目が高い吉祥院
1936
様にも自信を持ってご紹介できると思いますのよ﹂
﹁まあ!それは楽しみですわね。ぜひ伺わせていただきます﹂
﹁嬉しいわ。その時はぜひ麗華さんもお母様とご一緒にいらして!
ね、麗華様﹂
﹁ありがとうございます。母と楽しみにしております﹂
鏑木母は私の返事に満足げに頷くと、
﹁あぁ、やっぱり女の子はいいですわねぇ。こうして可愛い娘を連
れて歩けるんですもの。うちなんか男の子だから可愛げがなくて﹂
﹁まぁ、そんな。こちらこそ雅哉様の優秀な評判は聞き及んでおり
ましてよ。ピヴォワーヌでも会長を務めていらして、卓抜したリー
ダーシップを発揮されているとか。素晴らしい後継者に恵まれて鏑
木グループは安泰ですわね﹂
﹁ほほほ。まだまだ未熟でお恥ずかしい限りですわ。吉祥院様こそ、
御子息の貴輝さんが若くして大きなプロジェクトを成功なさったと
か。さすがですわねぇ﹂
ひとしきりお互いの子供の褒め合いをすると、鏑木母が艶やかな
ネイルの施された両手を合わせた。
﹁私ったら楽しくてつい長くお引止めしてしまったわ。ごめんなさ
い。そろそろ退散いたしますわ。あ、そうだわ。吉祥院様には招待
状をお送りしていると思いますけど、今度私が主催する七夕の会に
は麗華さんもいらしてくれるのかしら﹂
﹁えっ﹂
﹁麗華さんはあまりパーティーには参加されないから、いつもお会
いできなくて残念に思っていましたのよ。今回の七夕の会はうちの
雅哉も参加しますし、他にもお若いお客様が大勢みえる予定ですか
ら、どうぞ麗華さんも気軽なお気持ちでいらして?﹂
1937
﹁え⋮、あ⋮﹂
﹁素晴らしいお誘いじゃない、麗華さん。雅哉様もいらっしゃるの
だし、ぜひご招待をお受けしましょうよ。私も麗華さんのドレスを
選ぶのが楽しみだわ﹂
﹁あらぁ、親子でドレス選びだなんて素敵ねぇ。私も当日の麗華さ
んのドレスを楽しみにしているわ﹂
返事をする間も与えてもらえず、気が付けば鏑木家主催のパーテ
ィーに参加することが決定事項にされている⋮!
行きたくない⋮。でも小心者の私にはこの状況では今更断ること
なんてできない。
﹁雅哉にも麗華さんをエスコートするように言っておきましょうか﹂
﹁まぁ、麗華さん!良かったじゃない!﹂
﹁いえ。雅哉様はお忙しいと思いますし、両親がおりますからお気
持ちだけで充分ですわ。お気遣いいただきありがとうございます﹂
﹁あら、そう?﹂
お母様が横で、なんで断っちゃうのと不満そうな目で睨んできた
けれど、鏑木のエスコートなんて冗談じゃない。考えただけで胃が
キリキリする。
そうして鏑木母は、私に胃痛の種を残して颯爽と去って行った。
予約したフレンチレストランのウェイティングバーでお母様と、
シャンパンとノンアルコールカクテルを飲んでいるとお父様が到着
した。今日は生憎お兄様は仕事が忙しくて来られない。お兄様は仕
1938
事なのにお父様はいいのか?
席に案内され、美しく盛り付けられた前菜からいただく。はぁ、
おいしい。
﹁さっき鏑木様の奥様と偶然お会いしてね。今度のパーティーには
麗華さんも一緒に行くことになったのよ﹂
﹁ほぉ、珍しいな。麗華は学生のうちはあまりパーティーには参加
したくないと言っているのに﹂
﹁うん⋮﹂
あの鏑木母を目の前して直接断る強心臓を持ち合わせていなかっ
たんだよ。
﹁でも麗華さんたら、せっかく雅哉様にエスコートしてもらえる話
を断ってしまったのよ﹂
﹁なんだ、もったいない﹂
﹁でしょう﹂
私は聞こえないフリで、運ばれてくる料理を口にする。う∼ん、
白身魚が香ばしくておいし∼い。
﹁しかし麗華はつい先日も円城家のご次男が遊びにきていたようだ
し、瑞鸞で良好な人間関係が築けているようだな﹂
う∼ん、良好な人間関係か。芹香ちゃん達とは相変わらずだし、
芙由子様は変わっているけど打ち解けて話せるようになったし、若
葉ちゃんとは仲良しだし、雪野君を筆頭にプチの子達は可愛いし、
鏑木と円城が引っかかるけど今の所パシられている程度だから、良
好といえば良好かな。
1939
﹁そうですね﹂
私は頷いた。
﹁でもねぇ。瑞鸞も高等科にもなると、毛色の違う生徒さんも何人
か入学してこられるでしょう?もちろん瑞鸞の入学試験をパスして
こられたのだから、とても優秀ではいらっしゃるのでしょうけど。
でも成績が優秀なだけでは、ねぇ﹂
え⋮?
﹁学院の方針ですから仕方ないですけど、校風に合わない生徒さん
を大勢入れて瑞鸞の評判を落とす様なことがないかと、この前も他
の保護者の方々からも心配するお話を聞いたのよ﹂
﹁そうだな。元々瑞鸞にふさわしくない生徒が入ってきて、麗華に
迷惑をかけられたり悪影響を受けるのは困る。麗華、大丈夫なのか
?﹂
﹁⋮え、はい。皆様とても頑張っていらっしゃいます﹂
﹁そうか。学院でなにか困ったことがあったら、お父様に言いなさ
い。すぐに対処するからな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁麗華さんのお友達は、初等科からの身元のしっかりしたお嬢さん
ばかりだから安心ですけど﹂
さっきまでおいしかったはずの料理が急に、胃に重たく感じられ
た││。
1940
260
塾へ行くと、ショートヘアの森山さんの髪が一挙に伸びて、長い
ポニーテールになっていた。
﹁森山さん、その髪はどうしたの?﹂
﹁これ?お姉ちゃんが昔使っていたポイントウィッグなの﹂
驚いた私が聞くと、森山さんは長い髪をくるくると指に巻きなが
らそう教えてくれた。
﹁ウィッグ!いつもとイメージが全く違うので別人かと思ったわ﹂
﹁たまにはいいでしょ?毎日受験勉強漬けで滅入ってくるから、髪
型でも変えて気分転換でもしようと思ってね。だけどお姉ちゃんも
言っていたけど安物だからこれ、抜け毛がすごいんだよね∼﹂
﹁でもロングも似合っているわ、森山さん﹂
﹁そお?﹂
不満を言いつつもまんざらでもない様子の森山さんは、頭を動か
して自分の長い髪を強調した。
なるほどウィッグか⋮。いいかもしれない。
おしゃれはヘアスタイルから。私がいまひとつ時代遅れなのは、
このロココ巻き髪のせいというのがかなりあると思う。
しかし長い髪をいきなりばっさり切るというのも、ちょっと勇気
がいる。お母様が私が髪を切ることに反対するのと、先日雪野君と
も髪を切らないと約束してしまったのもあるけど、私自身、長年時
間と手間暇をかけて手入れをしてきた愛着のある長い髪を切ること
に躊躇いもあるのだ。だってばっさり切って似合わなかったらどう
1941
する?意外と自分に似合う髪型を見つけるのって難しいよ。失敗し
てもう一度ここまで伸ばすのは大変だ。
と、そこでウィッグだ。これならどんな髪型にも簡単に挑戦でき
るよね!良いことを聞いた!
﹁ありがとう、森山さん。私もウィッグを試してみるわ﹂
﹁えっ、吉祥院さんが?﹂
せっかくだから思い切りイメチェンをしたい。そうなるとやっぱ
りショートヘアかな。今のロココヘアとは真逆のモード系もいいよ
ねぇ。スタイリッシュな髪型といったら、黒髪のボブとか、おしゃ
れフランス映画に出てくるベリーショートかな。
﹁縦ロール以外の吉祥院さんって想像できないんだけど﹂
﹁ふふっ﹂
私もだよ。でもわくわくしてきた。
よおし、そうと決まれば早速ウィッグを買いに行って、クールビ
ューティな私に大変身よ!
﹁やだ、髪が抜けちゃった﹂
おっと、つい妄想しながら髪を触っていたら髪が数本抜けちゃっ
た。ゴミ箱に捨ててこないと。他に服に抜け毛は付いてはいないよ
ね。自分の抜け毛を他人に取って捨てられると失恋するってジンク
スを本気で信じているわけではないけど、聞いたからには多少は気
になる。別に信じているわけではないんだけど。
私が抜けた髪を丁寧にティッシュに包み、捨てるために席を立つ
と、それを見ていた梅若君から、
1942
﹁吉祥院さん換毛期?うちのベアトリーチェも換毛期には抜け毛が
大変でさぁ。朝晩ブラッシングをしても追いつかないんだよ。吉祥
院さんにもごっそり取れるいいスリッカーを紹介しようか?これほ
んとおススメ﹂
﹁どうもありがとう。お気持ちだけで結構です﹂
犬バカを適当にあしらい、ゴミ箱まで行くと、私達とは離れた席
に座っていた同じ瑞鸞生の多垣君が問題集をやっていたので、優し
く﹁ごきげんよう﹂と声をかけたら、﹁ひいっ!﹂と露骨に怯えら
れた。
﹁ただ挨拶をしただけなのに、その態度はあんまりではなくて?多
垣君﹂
﹁ひいっ、すみません、すみません!﹂
だからなぜそこまで怯える。私はいつだって優しく接していると
いうのに。
その時、多垣君が私を見てハッとした。
﹁あっ、その手に持っているのはゴミですか?わかりました。僕が
捨ててきます!﹂
﹁えっ﹂
ちょっとやめてよ。私が失恋したらどうするのよ!
私の手からティッシュを取ろうとした多垣君の手を思わず払いの
けると、﹁ひぃ∼っ、すみませ∼ん﹂とまた平謝りされた。周りに
あらぬ誤解を与えるから、今すぐその怯え様をやめろ。
﹁ねえ。私は多垣君にそこまで怯えられるほど、何かしたかしら﹂
﹁はい、何もされておりません。僕は吉祥院さんに何もされており
1943
ません﹂
機械的すぎて嘘くさいにも程がある。
﹁だったらなんで怯えるのよ﹂
﹁いやぁ、それは⋮﹂
﹁あちらの席にいる梅若君や森山さん達みたいに、多垣君も私に普
通に接してくれていいのよ﹂
﹁え⋮、さすがにそれは⋮。僕は吉祥院さんがピヴォワーヌのメン
バーだと知っていますから。あんな態度は取れません﹂
あぁ、そっちか。瑞鸞生にとってピヴォワーヌは畏怖の対象でも
あるもんね。
﹁それに⋮﹂
﹁それに?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁怒らないから、正直に言っていいのよ﹂
﹁その、吉祥院さんは存在そのものが弾圧といいますか⋮﹂
﹁なによ、それ!﹂
何もしなくても、いるだけで恐怖ってこと?!
目を吊り上げた私に、多垣君は身を守るように頭を手で覆い隠し
ながら﹁すみません、すみません!﹂と机に突っ伏した。
まったくもう。だけど私は優しいから失礼なことを言われても怒
ったりはしない。
﹁ありがとう。多垣君の気持ちはよ∼ぉくわかったわ﹂
安心させるように背中をトントンと叩き、﹁覚えておくわね﹂と
1944
抱えた頭に優しく声を掛けてあげた。
うえ∼っ、今日は朝から数学かぁ⋮。
吉祥院家の送迎の車を降りて、1時間目の憂鬱な科目を思い浮か
べながら門から校舎までの道を歩いていると、其処彼処から﹁麗華
様ごきげんよう﹂﹁おはようございます、吉祥院様﹂と声を掛けら
れるので、それに﹁ごきげんよう﹂と笑顔で応える。
﹁吉祥院様、おはようございます﹂
そしてまた斜め後ろから掛けられた挨拶の声に、﹁ごきげんよう﹂
と振り返ると、そこにはピヴォワーヌの1年生の男子生徒が笑顔で
立っていた。
﹁そろそろ暑くなってきましたね﹂
﹁そうね。もうそろそろピヴォワーヌのサロンの冷たいミントティ
ーがおいしい季節かしら﹂
﹁いいですね。あれは僕も好きなんです﹂
愛想良く話しかけてくるピヴォワーヌの後輩と、他愛ない話をし
ながら連れだって歩く。
ピヴォワーヌメンバーは初等科のプティ時代からサロンで顔を合
わせているので、学年が違ってもこうして会えば親しげな会話も行
われる。
ふと、彼がカバンを持っていないことに気がついた。
1945
﹁カバンはお持ちではないの?﹂
﹁え、ああ。カバンなら後ろです﹂
﹁後ろ?﹂
彼の目線を追って一緒に振り向くと、カバンを両手に抱えた男子
生徒が歩いてきた。
え⋮?
﹁それ、僕の教室に持って行っておいて﹂
ピヴォワーヌの後輩が顎で校舎を指し示すと、その子は﹁はい﹂
と返事をした後、おどおどした態度で私に会釈をしてから校舎に歩
いて行った。
え、なに今の⋮。
﹁それで吉祥院様。実は今度我が家でパーティーがあるのですが、
良かったら吉祥院様も⋮﹂
﹁今の子はどうして貴方のカバンを持っていたの⋮?﹂
私が話を遮って疑問を問うと、後輩は質問の意味がわからなかっ
たのか一瞬きょとんとした後、笑顔で﹁外部生だからですよ﹂と答
えた。
﹁外部生だから⋮?﹂
﹁はい﹂
自分の振る舞いになんの疑問も持っていないその様子に、私は言
葉に詰まった。
そういえば、この子はピヴォワーヌ至上主義だった前会長とよく
行動を共にしていた選民思想派だったっけ。
1946
﹁⋮カバンくらいは自分で持った方がいいかもしれないわね?﹂
﹁はあ﹂
一応返事はしたものの、納得のいっていない表情の後輩にこれ以
上なんと言えばいいのかわからなくて、朝からイヤなものを見てし
まったと憂鬱な気分になった。
そして朝からのなんともいえないモヤモヤを心の片隅に抱えたま
ま放課後を迎えた私に、あやめちゃんが耳寄りな情報を教えてくれ
た。
﹁お聞きになりました?麗華様。食堂で放課後にも試験的にデザー
トを出すことになるって﹂
﹁そうなの?!﹂
瑞鸞の食堂は基本的にはランチのみでその時にはデザートメニュ
ーもあるのだけど、それ以外は自動販売機で買った飲み物を飲んだ
り、放課後に運動部の生徒のために軽食があるくらいでデザートは
ない。
﹁ちょっとした焼き菓子程度らしいのですけど、今日から始めるみ
たいなので、良かったら見に行ってみませんか?﹂
﹁ぜひ行きたいわ!﹂
焼き菓子かぁ。一応お菓子の持ち込みは禁止になっているので、
甘いものがランチ以外に出るのは画期的かもしれない。プリンはあ
るかな。
私は帰り支度をした後で芹香ちゃん達と食堂に向かった。
1947
﹁あやめさんは、よくそんな情報を知っていたわね。私は全然知ら
なかったわ﹂
﹁私も今日偶然、運動部の人に聞いただけなんです。運動部からの
要望に応える形で試験的に出すらしいので、まだ数も少ないし運動
部内での口コミらしいんです﹂
﹁へぇ﹂
ピヴォワーヌのサロンに行けばメンバー特権でいつでも極上のお
菓子が食べ放題だけど、新メニューや限定メニューと聞くと気にな
っちゃうよねぇ。
あくまでも軽食の一環だしあまり期待しないでおきましょうね∼
などとおしゃべりをしながら1階の渡り廊下を歩いていると、向こ
うからピヴォワーヌの1年生の男子生徒達がやってきた。運動でも
してきたのか、全員が手にスポーツドリンクを持っていて、その中
には今朝の後輩も混じっていた。なんとなく顔を合わせづらいなぁ
⋮。自分達の話に夢中で私に気づいていない間に、別の道を通ろう
か。
そんな私の気持ちも露知らず、彼らは廊下の真ん中でわいわいと
賑やかにふざけ合いながら歩いていたが、ひとりの子が笑いながら
隣にぶつかった拍子に、手に持っていたスポーツドリンクを落とし
て、転がった中身が床を汚した。
﹁あ∼あ、なにやってんだよ﹂
﹁お前が押すからだろ﹂
﹁きったないなぁ﹂
それでも彼らはおかしそうに笑っている。あれか、箸が転がって
もおかしい年頃ってやつか。男子だけど。
すると落とした子が笑いながら周りを見て、誰かを見つけると、
1948
﹁おい、そこの外部生。これ片付けておいて﹂
私はそれに目を見張った。
指名された子は、授業の片付けなのか両手に大きな荷物を持って
いた。
﹁あ⋮、でも僕はこれを至急先生に届けないといけないんですけど
⋮﹂
﹁それはお前の都合だろ﹂
目を忙しなく動かしながら震えた声でなんとか言葉を紡いだ外部
生を、冷たく切って捨てたピヴォワーヌの後輩達は、そのまま外部
生に背を向けて立ち去ろうとした。
その時、
﹁自分で落としたものは自分で片付けろ﹂
厳しい表情をした同志当て馬が、生徒会の役員と共に中庭側から
現れた。同志当て馬の後ろには若葉ちゃんもいた。
しかしピヴォワーヌの1年生達は同志当て馬を鼻で笑うと、無視
して通り過ぎようとした。
﹁待て﹂
﹁なんだよ﹂
後輩達がうるさそうに振り返る。
﹁片付けてから行け﹂
﹁そういうのは外部生の仕事だろう?﹂
1949
私が朝聞いたのと同じようなことを、別のピヴォワーヌメンバー
が口にした。
﹁なんだと﹂
﹁外部生は俺達内部生が快適な学院生活を送れるために存在してい
るんだから、当然だろ?ああ、そいつが手が空いていないなら別の
ヤツでもいいよ。そこの、特待生のお前がやっておいて﹂
指を指された若葉ちゃんはびっくりして﹁え、私?﹂と自分を指
して確認し、同志当て馬と生徒会役員からは一気に険悪な空気が立
ち上る。
﹁なぜ関係のない、しかも先輩である高道が片付けてやらないとい
けないんだ﹂
﹁外部生だからだろう﹂
なにか騒ぎがあったようだと聞きつけて、人がどんどん集まって
きた。これはまずいかもしれない⋮。
﹁この学院においてピヴォワーヌが特別な地位にあることは理解す
るが、度が過ぎる横暴は認めるわけにはいかない﹂
﹁横暴?それを決めるのは誰だ。生徒会か?違うね。瑞鸞ではピヴ
ォワーヌが法だ。お前達が僕らに指図する権限はない﹂
今朝外部生にカバンを持たせていた後輩が言い切った。そして若
葉ちゃんを見据え、周りにいる他の外部生を確認するように見渡す
と、
﹁わかっていないようだから教えてやる。お前達外部生がこの瑞鸞
で使っている、他校では類を見ないハイレベルな施設や備品をどう
1950
やって維持しているか。すべて僕達の寄付金で成り立っているんだ
よ。その寄付金も満足に払っていない人間が、使わせてもらってい
る対価に僕らに尽くすのは当然だろう﹂
﹁おいっ!﹂
激昂して前に出た生徒会役員を同志当て馬が手で押さえた。それ
をピヴォワーヌの1年生達はせせら笑った。
﹁僕らのお情けで学院に通わせてもらっている分際で、弁えろ﹂
そこまで言うか!
長年の歴史からほとんどの生徒はピヴォワーヌの特別待遇を当然
のものとして受け入れているから、同志当て馬の強硬な姿勢に同調
するよりも戸惑っている生徒の方が今は多い。でもこれ以上ピヴォ
ワーヌの排他的で選民的思想を鮮明にしたら、それに不服や不満を
覚える生徒達が出てきて、瑞鸞革命を企むレジスタンスを生んでし
まうかもしれない。そんなことになったらロココの女王なんて真っ
先にギロチン台送りだ!うわああっっ!恐ろしい未来に体が震えた。
同志当て馬が怒りを抑えるためか、一度大きく息を吐いた。
﹁それがピヴォワーヌの考え方か﹂
﹁そうだよ﹂
違う!違うよ!勝手にピヴォワーヌの総意にしないでよ!私みた
いな平和主義者もいるんだから!
ピヴォワーヌの1年生達と生徒会は睨みあい、完全に一触即発の
状態になってしまった。唯一若葉ちゃんだけが困った顔で両者の様
子を窺っている。ああっ、若葉ちゃん。
レジスタンスから我が身を守るためにも、とりあえずこの騒ぎを
どうにか収拾しないと。
1951
もうっ、なんで蓋の開いた飲み物を持って廊下でふざけたりする
かなぁ?飲み物さえこぼれなければ、こんな修羅場にならなかった
のに!
両者の間に横たわるドリンクさえ無くなれば、この場もお開きに
なるんじゃないか?
ピヴォワーヌの麗華様
が、下級生のこぼした
じゃあ誰が片付けるのが一番この場が穏便に済むのか。私?いや
いや、最上級生で
飲み物を代わりに掃除したら、それこそ大問題になってしまう。だ
からといって芹香ちゃん達にお願いしたら、同級生を子分扱いした
あの1年生と同じになってしまうし⋮。誰かササッと片付けて無か
ったことにしてくれたらいいんだけどなぁ。でも迂闊にピヴォワー
ヌに関わって目を付けられたら怖いから、動く生徒は誰もいない。
どうしたものか⋮。もうこれ以上は私の胃がもたない。﹁おやめ
なさいな。騒々しくってよ﹂と私がピヴォワーヌの大物感を漂わせ
て割って入り、﹁ここは私に免じてお互いお引きなさいな﹂とやる
しかないか⋮。
ピヴォワーヌの後輩達は私の言うことはたぶん聞くと思うけど︵
むしろ聞いてくれなかったら、ピヴォワーヌ内での軽んじられぶり
に泣くよ︶、問題は生徒会だな。あれだけ激怒していると憎きピヴ
ォワーヌの私の言うことなんて絶対に聞いてくれないだろう。
でも同志当て馬なら毎朝早起きして一緒に若葉ちゃんの備品の掃
除をし、共に犯人探しをした仲の私が仲裁に入ったら私の顔を立て
て、きっと、いやたぶん、矛を収めてくれる⋮かなぁ?
あぁ、だけど元凶の転がるドリンクを誰が片付けるか問題が⋮。
ごちゃごちゃ考えている間にも、争いはどんどん激化していく。
こうなったら行き当たりばったりでいくしかない!
私は心に扇子を広げ、一歩足を踏み出した。
1952
261
﹁なにが生徒会だ。調子に乗るな!﹂
﹁ここは俺達の学院だ。瑞鸞にふさわしくない者は去れ!﹂
﹁そうだ!そうだ!﹂
﹁お前達、いい加減にしろ!﹂
なぜか矛先が若葉ちゃんにまで向けられ、ピヴォワーヌの1年生
達の罵声と怒って応戦する生徒会役員達と、面白がってその尻馬に
乗る野次馬達。
この騒ぎの渦中に飛び込むなんて心臓バクバクで声も裏返りそう
だけど、行くしかない!
女優に成り切るのよ、麗華!ここは私の主演舞台!さぁ、心の扇
子を翻し、高らかに第一声を上げるのよ!
﹁おやめ⋮﹂
﹁これは一体、なんの騒ぎだ﹂
振り返りその低い声の持ち主を確認した途端、人垣はザッと割れ、
現れたのは瑞鸞の皇帝だった││。
あたりを払う威厳を纏った鏑木の登場に、一瞬にして騒ぎは収ま
り、私は心の扇子を慌てて閉じた。
鏑木は輪の中心に歩を進めると、ピヴォワーヌの1年生達、同志
当て馬と生徒会役員達とを、看取するようにゆっくりと見回した。
﹁誰か説明を﹂
眼光鋭く威圧感を放つ皇帝の問いに全員が黙り込む中、同じく強
1953
い目をした同志当て馬が代表して口を開いた。
﹁そこにいる外部生の生徒に対しての、ピヴォワーヌの生徒達の理
不尽な態度を改めるよう注意していた﹂
﹁⋮理不尽?﹂
﹁彼らが自分達の落とした飲み物の後始末をしろと、外部生に命令
していたんだ﹂
鏑木は無表情で同志当て馬が指差した床の飲み物をちらりと見る
と、すぐに興味を失ったように視線を外した。
﹁それだけでこの騒ぎか﹂
鏑木は﹁くだらない﹂と言い捨てた。それを聞いた同志当て馬の
眉間がピクリと動く。
﹁それだけではない。彼らは外部生を明らかに見下し、自分達に従
うのは当然だといった主旨の発言を繰り返した。⋮この、上級生で
ある高道に対しても代わりに片付けろと言うようにな﹂
同志当て馬は隣にいる若葉ちゃんを気遣うような目で見ると、鏑
木もそれを追って若葉ちゃんを見た。若葉ちゃんは﹁あ∼⋮﹂と困
り顔で笑った。
﹁そしてその言葉を裏付けるような、入学してからこれまでの外部
生への言動行動の数々も、俺の元に報告がきている。荷物持ちや校
内の雑用などを押し付けられ、暇つぶしにからかわれ、逆らえば彼
らに追従している生徒達から酷い目に合されると﹂
﹁本当か?﹂
1954
鏑木がピヴォワーヌの1年生達を見やる。
1年生は唇を噛みしめると、鏑木ではなく同志当て馬を睨みつけ
ながら、
﹁本来ならば分不相応な外部生がこの瑞鸞に通えているのは、僕ら
ピヴォワーヌと内部生達のおかげなんだから当然だろう!﹂
そして大荷物を抱えたまま立ち竦んでいた最初に命令された1年
生をも睨み、
﹁お前がさっさと片付けていればこんな騒ぎになることもなかった
のに。この愚図が﹂
と憎々しげに暴言を浴びせた。
口撃を受けた外部生の1年生は、下を向いて体を縮こまらせた。
﹁よせ﹂
﹁うるさい。生徒会ごときがピヴォワーヌに指図するな﹂
その時、外部生の1年生がボソッと呟いた。
﹁⋮こんな学校、来なければよかった﹂
その言葉が私の胸をズキリと抉った。この子は瑞鸞に入学したこ
とを後悔しているんだ⋮。こんな目に合されていたら当然だけど、
当然なんだけど、母校を否定されるのはやっぱり哀しい⋮。
一連の様子を無言で見つめていた鏑木にも、その声は耳に届いて
いた。鏑木は虚空を仰ぎ、外部生の1年生へと目を向けると、
﹁悪かった﹂
1955
瑞鸞の皇帝が、頭を下げた!!!
同志当て馬が目を見開いて息を呑む。
﹁鏑木様!﹂
ピヴォワーヌの1年生達が悲鳴を上げた。
﹁鏑木様、どうして⋮!﹂
﹁ピヴォワーヌの人間の過ちは、会長である俺の責任だ﹂
顔面蒼白の後輩の声に対し、鏑木は同志当て馬にひたと目を合わ
せたまま答えた。
互いに見つめ合うことしばし││。同志当て馬が息を吐きながら
ゆっくりと瞼を下ろした。
﹁わかった⋮。ピヴォワーヌの会長の謝罪を受け取ろう。君もそれ
でいいか?﹂
話を振られたピヴォワーヌの被害者である外部生の1年生は、瑞
鸞の頂点であるピヴォワーヌの皇帝に頭を下げられた現実に恐慌状
態をきたし、痙攣したようにガクガクと頭を振った。
﹁か、鏑木様⋮﹂
﹁僕達は⋮﹂
自分達の行いで皇帝に謝罪をさせてしまったことに狼狽し取り乱
す後輩達を、鏑木は見据えた。
﹁ピヴォワーヌこそが瑞鸞の象徴と自負するならば、それに恥じぬ
1956
よう模範となる行動を取れ﹂
そしてもう一度、鏑木は目の前に立つ同志当て馬達に視線を戻し
た。
ピヴォワーヌの会長の鏑木と、その鏑木に真正面から対峙して隣
の若葉ちゃんを守るように立つ同志当て馬。両者の間には見えない
線がはっきりと引かれているかのような光景だった。
先に視線を逸らしたのは鏑木だった。
﹁行くぞ﹂
鏑木はピヴォワーヌの後輩達を促すと、同志当て馬と若葉ちゃん
達に背を向けて校舎へと歩き出した。
その数拍後、静まり返っていた観衆からわあっと声があがった。
﹁鏑木様、なんと潔い﹂
﹁さすがは瑞鸞の皇帝だ!﹂
﹁鏑木様こそが、ピヴォワーヌの体現者だ!﹂
﹁頭を下げたからって、皇帝の威光には傷ひとつ付いていない!む
しろその品性の高邁さを再確認させられた﹂
﹁鏑木様、万歳!﹂
﹁皇帝、万歳!﹂
生徒達が皇帝を讃え盛り上がる中、私には気になっていることが
ある。
あの転がったドリンクと床は誰が掃除をするんだ⋮?
まだすべての元凶が全然解決していなーい!落とした張本人達は
鏑木がたった今連れて行っちゃったし、どうするのよこれ!
﹁ここは僕がなんとかしておくから、吉祥院さんは雅哉の方をお願
1957
い﹂
﹁え⋮﹂
すると騒動の最中、鏑木の後ろで傍観に徹していた円城が、私の
隣にやってきて小声で耳打ちをしてきた。
なんとかするって⋮。私もさすがに鏑木の様子は気になっていた
ので、追いかけるのはやぶさかではないけど、円城はどうする気な
んだ?
芹香ちゃん達に断って鏑木の跡を追いながらも後ろを見ると、円
城は転がったゴミの前に立ち、す、とそれを拾うかの如く、床に手
を伸ばす仕草をした。
えっ、まさか円城が片付けるの?!
その刹那、円城ファンの女子生徒達が、ズザザッ!と四方八方か
ら現れた!
﹁円城様!私達がやります!﹂
﹁ここは私達におまかせくださいませ、円城様!﹂
すると円城はにっこりと華やかに微笑んで、
﹁ありがとう。気配りのできる女の子って素敵だよね﹂
恋の矢に射抜かれた、瑞鸞女子達の叫びがあたりに轟いた。
すごい⋮。指先の動作ひとつで、すべての憂いをあっという間に
消し去ってしまった。その手管の恐ろしさよ。円城はカサノヴァ村
のポスト伊万里様か?!
そんなことを考えながら急ぎ足で校舎に入ると、廊下の奥にひと
り歩く鏑木の姿を見つけた。
私は小走りで鏑木の背中を目指す。パタパタと走る私の足音に気
づいているはずなのに、鏑木は振り返らない。
1958
やっと追いついて、乱れた呼吸を整えながら鏑木を横目で確かめ
るけど、鏑木の表情は動かない。そして足も止まらない。
あ∼、これはなんと声を掛けたらよいのか⋮。
鏑木は一見いつものポーカーフェイスだけど、よーく見ると目に
先程までの覇気はなく、気落ちしているのがわかる。空気がしょん
ぼりしている。
まぁ、気持ちはわかるけど。片思いしている若葉ちゃんと同志当
て馬の近しい距離感と、自分との距離や属する立場の違いをまざま
ざと見せつけられてしまったものなぁ⋮。
﹁⋮あの、鏑木様﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮え∼っとぉ﹂
鏑木は無言。
そして私も名前を呼びかけてはみたものの、そのあとの言葉が続
かない。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
鏑木の歩幅に合わせ、早歩きをしながら隣に並ぶ。いつにない寂し
げな横顔に、少し心が痛んだ。
﹁えっと⋮鏑木様。お好み焼き、食べに行きましょうか⋮?﹂
鏑木がフッと小さく笑った。
1959
お好み焼きは特に衣服に臭いが付くし、なにより制服姿が目立つ
というのは先日の鏑木母で実証済みだ。
私は変装の意味もこめて、買ったばかりのウィッグを取り出した。
あの日すぐにウィッグを買いに行って、財力にものを言わせて数
個手に入れたのだ。
鏑木との隠密B級グルメツアーにふさわしく、今日はクールビュ
ーティーなスパイをイメージした黒髪ボブスタイルでいこう。
付属のみかんを入れるような伸縮性のあるネットをかぶり、長い
地毛をそこに押し込める。⋮うわぁ、ものすごく間抜けな頭。これ
ネットが白かったらマスクメロンだな。
ネットでしっかりと地毛をつぶしてペタリとさせた頭にウィッグ
をかぶると、おおっ!いい感じじゃないか!真っ赤な口紅と黒いサ
ングラスが似合いそう。
どうしよう。かけちゃう?サングラス。いやいや、行先はお好み
焼きなのにさすがにそれは目立ちすぎちゃうでしょう。パリコレモ
デル風ファッションは、後日の変身に取っておこう。
路線変更し、本日は黒髪ボブに合わせてフランス映画に出てくる
キュートな女の子風レトロファッションで決定。
待ち合わせ場所に向かう途中、ショーウィンドウに映る私の姿は
さながらサブカル系美大生ってとこかな。これはこれで可愛いと思
う。見慣れていないせいか、若干ヘアスタイルに違和感はあるけど
⋮。
すでに着いていたふたりは、無駄に目立つのですぐに見つけられ
た。
﹁お待たせしました﹂
1960
鏑木は目を丸くした。
﹁どうした吉祥院。岸田劉生の麗子像みたいな頭をして﹂
キィーーーッッ!!
麗子像だと?!この、乙女心を解さないぼけなすめ!
﹁雅哉。僕は市松人形みたいで、とても可愛いと思うよ。うん﹂
そっちも全然褒めていないしフォローになっていない!笑いをご
まかすためにした咳払いがわざとらしい。カサノヴァ村の次期村長
の座を狙う、ポスト伊万里様の片鱗はどこに行った!
ふたりの反応に、ウィッグなんてかぶってきちゃった自分にとて
つもない恥ずかしさが襲ってきた。⋮もう取っちゃおうかな、これ。
でも取ったらもっと悲惨なマスクメロンヘッドでネットに押し込ま
れた髪は跡がついてボサボサだ。あぁ、このまま帰ってしまいたい
⋮。
﹁それでどうして、今日はそんなに気合を入れてきちゃったの?﹂
﹁これは、誰かに見つからないための変装です⋮﹂
﹁変装ねぇ﹂
﹁吉祥院さん、まだスパイごっこをしていたの?﹂
もうこのウィッグについては触れないで⋮。
﹁でも僕は吉祥院さんは、いつものふわふわとした長い髪の方が似
合うと思うよ﹂
﹁うっ⋮!﹂
1961
けなしてから褒める高度テクニック!日頃異性に褒められ慣れて
いないおかげで、この程度の不意打ちのお世辞に心臓が飛び跳ねて
しまった自分が悔しいっ⋮。
雪野君といい、円城兄弟は縦ロールが好きなのか?!
﹁吉祥院、なにを立ち止まっているんだ。さっさと行くぞ﹂
﹁こっちでいいの?いちまさん﹂
﹁⋮いちまさんと呼ばないでください﹂
今夜円城が寝苦しくて夜中に目を覚ました時、枕元に立って顔を
覗き込む市松人形がいますようにと、呪いをかける。
そうこうしている間にも、鏑木は私を置いて先頭を切って歩き出
す。
鏑木ってばすでに立ち直っていないか⋮?さっきまでの殊勝な様
子はどうした。
迷いなく堂々とした足取りだけど、お店への横道を通りすぎてい
るからね。ある程度まで歩かせてから、﹁そっちじゃないですよ∼﹂
と声を掛けてやる。麗子像呼ばわりされたことへの、小心者のささ
やかな嫌がらせ。
﹁早く言え﹂
ふてくされた顔で戻ってきた鏑木に溜飲を下げていると、微苦笑
を浮かべた円城が﹁吉祥院さんて⋮﹂と言った。
﹁なんですか﹂
﹁やることが小さいよね﹂
﹁⋮⋮﹂
明日の朝起きて鏡を見た円城の首に、人形の手形が残っています
1962
ように。
まったく。なにが麗子像だ。なにが市松人形だ。今日の私のコン
セプトはおしゃれフランス映画の女の子だし、この黒髪ボブのウィ
ッグは元々スパイのようなクールビューティーのイメージで買った
んだっての。
あれ⋮?
ふと、先程の会話を思い出した。⋮さっき円城って、まだスパイ
ごっこをしていたのって断定形で言ったよね?
瞬間、背中にぞわりとしたものが走った。
1963
262
私が案内したお好み焼き屋さんは、鏑木が前に持っていた情報誌
に載っていた自分で焼くタイプのお店で、そこそこ庶民的だけど学
生が集う安さ重視のお気軽店よりは上で、夜景の見える高層ビルの
店内でシェフが目の前で焼いて恭しく切り分けてくれるような高級
店よりは下という中間くらいの位置のお店だ。
店内は混んでいたけれど予約をしておいたので、すぐに座れた。
テーブルを挟んで鏑木円城と、向い側に私だ。
﹁さて、なにを注文しますか?﹂
﹁そうだな⋮﹂
鏑木はさっそくメニューを手に取る。ナチュラルに自分ひとりで
メニューを見る鏑木、さすがだ。真ん中に置いて全員が見られるよ
うにしろと注意する。
﹁吉祥院さんのお薦めはなに?﹂
﹁う∼ん。私もこのお店は初めてですから⋮。でも海鮮が人気らし
いですよ﹂
﹁海鮮かぁ﹂
牛明太もちチーズも気になるけど、私はやっぱりこの雑誌にも載
っていた海鮮ミックスかな。ネギ玉⋮。いやいやでも定番の豚玉も
捨てがたい。豚もちチーズもあるのかぁ。山芋チーズ豚玉?!これ
は⋮!
﹁せっかくですから3人別のものを注文して、シェアしましょうね﹂
1964
色んな種類を食べたいもんね!
﹁俺は海鮮ミックスにする﹂
決めるのが早いな。そして鏑木に海鮮を取られた!
だったら私は、えっとえっと⋮。
﹁吉祥院さんはどれで悩んでいるの?﹂
﹁私はこの牛明太もちチーズと山芋チーズ豚玉のどちらにしようか
と﹂
﹁ふぅん⋮。だったら僕が山芋チーズ豚玉にするよ。シェアするん
だよね?﹂
﹁いいんですか?!﹂
﹁うん、いいよ﹂
円城に後光が差して見えた!
なによ、円城。意外といい人?!
﹁これはなんだ?﹂
注文を終えると、テーブルに設置してある油やソースに鏑木が興
味を持った。
﹁お好み焼きを焼く時に使うんですよ。これは油で、こっちはソー
スで⋮﹂
私が蓋を開けて説明すると鏑木はふむふむと頷いた。特に油引き
が気になったようで手に取って矯めつ眇めつ見ていた。
1965
﹁お待たせしました∼﹂
しばらくするとそれぞれが注文したお好み焼きの具材が運ばれて
来た。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
目の前に座る鏑木に動く気配がない。両手は組んだままだ。
﹁⋮なにをしているんですか?﹂
﹁なにがだ?﹂
きょとんとした顔の鏑木。全然可愛くないぞ。
﹁なにって、自分の分は自分で混ぜて自分で焼くんですよ。もしか
して誰かが全部やってくれるのが当然だと思っています?というか
私がやるのが当然と思っています?女性がやるのが当然だと?うわ
ぁ、男尊女卑ですか。引きますわ∼﹂
﹁⋮言っていないだろ、そんなこと﹂
﹁いいえ。今の態度からわかります。あれですか、もしかして男子
厨房に入らずの人ですか?わぁ∼ムリ∼。今時流行らないんですよ
ねぇ。そういう亭主関白的なタイプって﹂
﹁⋮チッ。やり方を教えろ﹂
﹁あ、もしかしてイヤイヤやりますか?これじゃあ女の子は幻滅し
てしまいますねぇ。女の子は見ていますよ、そういうところ﹂
﹁あ∼もう、うるさいうるさい。いいから早くやり方を教えろ﹂
こういうことは最初が肝心だからね。若葉ちゃんの弟の寛太君は
私の分も焼いてくれたもん。
1966
﹁ではまずは、具を混ぜてください。きちんと下から混ぜてくださ
いよ。玉子もしっかり混ぜてください﹂
﹁⋮わかった﹂
私達はそれぞれの具材を混ぜ始めた。
﹁⋮これ、混ざりにくいぞ﹂
山盛りの具をこぼさずに混ぜるのは意外と難しい。私もキャベツ
がテーブルの上にボロボロと落ちた。ふたりに気づかれないように
こっそり隠す。
﹁ある程度でいいんです。ある程度で。できましたか?﹂
﹁あぁ﹂
﹁これでいいのかな?﹂
鏑木は私と同じくキャベツが少しだけこぼれていたけれど、なん
とか混ざっているようだ。円城は⋮、初めてのくせにこぼした様子
もなく上手に混ぜてあるな。
﹁はい。そんなものでしょう。では次はいよいよ焼きに入ります。
鉄板にこれで油を薄くひきます﹂
私が油引きを使って鉄板に油を伸ばすと、鏑木が俺にやらせろと
手を出し鉄板に油を塗りたくった。楽しそうだ。
﹁では焼きましょう。お肉は先にに少し焼いておくんですよ。生は
危険ですからね。それから生地を焼く。そんなにぶ厚くすると火が
通らないので、もう少し薄くしてください。伸ばしすぎ!﹂
1967
俺様殿様鏑木様が私の陣地にまで生地を伸ばしてきたので、ヘラ
でここからはみ出てくるなときつく言い渡す。
﹁底がほど良く焼けてきたら、このヘラを使ってひっくり返します。
こうして両側からヘラを下に入れて崩れないようにポンとひっくり
返す。この返しがきれいに上手くできるかで、料理のセンスが問わ
れますよ﹂
﹁大袈裟な⋮﹂
鏑木は躊躇なく勢いをつけてひっくり返す。ちょっ、あぶなっ!
油が飛んでくるじゃないか!
﹁もっと静かにやるんですよ!今なにか飛んできましたよ、私の方
に!﹂
﹁わかったわかった﹂
私が鏑木に文句を言っている間に、何事も器用な円城はきれいに
返していた。
私も続いてひっくり返す。あ、ちょっと生地がデロっとなった⋮。
﹁センスがなんだって?吉祥院﹂
﹁すぐに整えれば問題ありません﹂
この程度は許容範囲です。
﹁なかなか面白いな﹂
鏑木は﹁もうそろそろいいか?﹂と何度もヘラで底の焼き具合を
確かめる。まだだから。
1968
両面しっかり焼けたのを確かめてから、専用の刷毛でソースを塗
る。
﹁焼けたら仕上げにこうして表面にソースを塗って、かつおぶし、
青のり、マヨネーズは各自お好みでかけてくださいね﹂
うわぁ、かつおぶしが踊っておいしそうだぁ!
﹁三等分に切るのは難しいので、とりあえず四等分にしましょう。
余った分は注文した人の分にしましょうね。不公平にならないよう
に均一に切り分けてくださいね﹂
﹁わかった﹂
﹁これで切ればいいんだね?﹂
﹁そうです﹂
切り分けたお好み焼きをお皿に乗せて、ではいただきましょう!
﹁あつっ。でもおいしいっ﹂
﹁⋮美味い﹂
﹁うん。自分で焼いて食べるのも乙なものだね﹂
私達はほくほくとお好み焼きを食べた。
﹁でも今日は大変だったよねぇ﹂
えっ、今その話を出す?!
私はお好み焼きを食べながらコソッと鏑木の顔を窺う。
﹁まぁな﹂
1969
どうやら鏑木はもう落ち込んではいないみたいだ。眉間にしわが
寄ったけど。
﹁いくらピヴォワーヌだからといって、さすがに1年生が3年生相
手にあそこまで罵詈雑言で騒ぎを起こすのはやり過ぎだったね。し
かも相手が生徒会長の水崎有馬。あれを見た時は正直かんべんして
くれと思ったよ﹂
﹁円城様もそんなことを思っていたんですか?﹂
﹁そりゃあね。トラブルはないに越したことはないでしょ﹂
鏑木はイヤなことを思い出したとばかりに、お好み焼きをバクバ
クと食べながら、
﹁なんであいつらはあそこまで極端に増長しているんだ﹂
う∼ん、それはたぶん⋮。
﹁あの子達は前会長の沖島瑤子様の影響を強く受けていたので⋮﹂
﹁あ∼⋮﹂
鏑木と円城が微妙な顔をした。
﹁沖島先輩はよく生徒会とぶつかっていたからねぇ﹂
円城が苦笑いをした。
前会長の沖島瑤子様はピヴォワーヌ至上主義で、瑞鸞生らしから
ぬ外部生を嫌っていた。特に雪の日に長靴を履いて登校した若葉ち
ゃんのことは、瑞鸞ブランドを傷つける不届き者として目の敵にし
ていた。
1970
﹁今回は偶然通りかかることが出来たから止められたけど、こんな
ことが度々起こるのは少し困るね﹂
﹁⋮そうだな。それに高道への態度も大問題だ。あいつらだけじゃ
ない。周りに集まっていた連中の中にも便乗して高道をバッシング
していたのもいた。なんなんだあいつらは!﹂
怒りを顕わにした鏑木が乱暴な仕草で鉄板の上のお好み焼きをヘ
ラですくい取って食べた。うん⋮?
﹁あっ!それ私の分の山芋チーズ豚玉ですよ!﹂
﹁えっ、ああそうだったか?﹂
信じらない⋮。ひとり1個って決まっているのに!
﹁吉祥院さん、僕の分をあげるから⋮﹂
﹁僕はひとつ食べたから﹂と自分の分を差し出した円城に免じて、
鏑木の暴挙を許してやることにする。危ないからちゃんと見張って
おかないと⋮。
﹁それで、なんの話でしたっけ?﹂
﹁高道のことだ﹂
そうだったそうだった。若葉ちゃんへのバッシングね。
﹁あれは成績優秀な高道さんに嫉妬している層も混ざっていたんで
しょうね﹂
﹁なんだそれは﹂
受験年だからね。良い進路を勝ち取るには若葉ちゃんの存在は目
1971
の上のたんこぶなんだろう。
﹁今日くらい大きな騒ぎでしたら気づいて注意できるかもしれない
ですけど、当て擦りや嫌味まで防ぐのは難しいでしょうね⋮﹂
﹁雅哉が高道さんを庇い過ぎると、今度は別の嫉妬を買うんじゃな
い?﹂
﹁ったく、忌々しい⋮!﹂
瑞鸞の皇帝といえど、すべてを思い通りにするのは難しいようだ。
﹁いっそ完全なる瑞鸞の独裁者となって、誰を庇おうがひいきしよ
うが、誰にも文句ひとつ言わせないようにしますか?﹂
﹁⋮俺は暴君になるつもりはない﹂
﹁あら御自覚がない?今でもすでにわりと暴君ですよ﹂
﹁はあっ?!﹂
﹁ええっ!!﹂
本当に無自覚なのか?!これまで私をどれだけ好き勝手に振り回
してきたか!そしてたった今も私の分の山芋チーズ豚玉を食べたと
いうのに?!
﹁さて、締めのもんじゃ焼きを頼みましょうか。私はチーズミック
スもんじゃにしますよ﹂
﹁⋮おい、俺が暴君だという話はどうした﹂
﹁円城様はどうしますか?﹂
﹁そうだなぁ。この五目もんじゃにしてみようかな。雅哉は?﹂
﹁⋮デラックスもんじゃ﹂
では注文しましょう。
1972
﹁おふたりはもんじゃ焼きは食べたことはありますか﹂
﹁ない﹂
﹁僕もないな﹂
まぁ、そうだろうな。もんじゃなんてB級グルメの最たるものだ
し。
﹁混ぜ方はさっきと同じ要領ですよ。はい混ぜて﹂
﹁さっきより水っぽいな﹂
鉄板に油をひきなおし、もんじゃを焼く。
﹁待った!いきなり全部焼こうとしない!まずは出汁を残し具材だ
けを先に焼きます。そしていい感じに炒めたらこうしてドーナツ状
の土手を作る﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そしてこの真ん中に先程の出汁を投入!土手の外に流れた出汁は
ヘラで戻す﹂
あとはぐつぐつと煮立ったら土手を壊して混ぜ合わせると。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮吉祥院。本当にこれが完成形か?﹂
﹁そうですよ﹂
﹁なんというか、食べるのに少し躊躇する見た目だね⋮﹂
﹁初めて食べる人はそうかもしれませんね。でも食べたらやみつき
ですよ。この小さいヘラでこそぎ取って食べるんです。う∼ん、お
いしい﹂
﹁⋮⋮﹂
1973
﹁⋮⋮﹂
鏑木と円城が私に倣ってモソモソともんじゃ焼きを口に入れる。
﹁あ⋮、見た目に反して意外とおいしい﹂
﹁味はまともだ﹂
一口食べたら見た目にも慣れたようだ。焦げたところを食べるの
が通だと教えたら、自分のもんじゃを育て始めた。
もんじゃ焼きをあらかた食べ終えたところで、円城が﹁それでど
うするの?﹂と鏑木に話を向けた。
﹁そうだな。俺に少し考えがある﹂
ニヤリと笑い﹁吉祥院も明日は絶対にサロンに来い﹂と私に命令
した鏑木の顔は、どこからどう見ても暴君皇帝にしか見えないんで
すけど⋮。
1974
263
次の日は朝から昨日の騒動の余波が学院中の生徒のあちこちから、
まだ残っているように感じられた。
耳を澄まして周囲の反応を窺っていると、あの瑞鸞の皇帝が謝罪
した衝撃は相当大きかったようだけど、鏑木の行動に疑問を持った
りピヴォワーヌの会長が生徒会及び外部生に頭を垂れたことによっ
ての、ピヴォワーヌの絶対的権威が揺らぐようなマイナスの影響も
なさそうだった。とりあえずホッとした。
芹香ちゃん達はあの時に私と一緒に間近で見ていたのもあって、
ランチタイムの話題も昨日の話が中心だった。
﹁あれだけ大騒ぎになってどうなることかと思いましたけど、鏑木
様がいらしてくださったおかげで事態もすぐに収拾されて、本当に
良かったですよね﹂
﹁やはりいざという時に頼れるのは瑞鸞の皇帝なのよ﹂
﹁あの毅然としたお姿!﹂
﹁凛々しい佇まい!﹂
﹁素敵ね∼﹂と芹香ちゃん達はそこに鏑木がいるかのように、うっ
とりと宙を眺めた。
﹁もちろん鏑木様に頭を下げさせてしまったことに、忸怩たる思い
はありますが⋮﹂
唇を固く結んだ菊乃ちゃんに芹香ちゃん達も﹁本当にその通り﹂
と同意した。
1975
﹁二度と鏑木様にあのようなことはさせないわ﹂
﹁そうよね!﹂
﹁私達が一丸となって鏑木様をお支えするのよ!﹂
マイペースに食事をする芙由子様以外が熱く誓いを立てた。昨日
と同じ状況になった時に、芹香ちゃん達は一体どう動くつもりなの
かな。考えるとちょっと怖い⋮。
﹁ところで麗華様﹂
﹁なあに?﹂
﹁あの後で鏑木様と麗華様はどうされたんですか?﹂
﹁え⋮﹂
全員の目が私に向いた。
あの後か⋮。お好み焼きを食べに行ったよとはもちろん言えない
ので、
﹁ご挨拶をしてすぐに帰りましたよ﹂
﹁そうなんですか?私達はてっきり、鏑木様と麗華様が今後につい
ておふたりでお話し合いでもなされたのかと﹂
﹁いえいえ。鏑木様に私が申し上げられることなどありませんから﹂
﹁え∼、そうなんですかぁ?﹂
皆はな∼んだとがっかりした顔になった。
﹁でも昨日は鏑木様だけではなく、円城様も素敵だったわよね!﹂
円城びいきのあやめちゃんが両手を頬に当てて言った。
﹁そうだわ。聞いてください麗華様。昨日麗華様が去られた後、落
1976
ちていたゴミを拾おうとなさった円城様に代わって女の子達がお掃
除をしたんですけど、あやめさんはそこに我先に駆けつけたんです
よ﹂
﹁そうだったの?!﹂
あのくノ一集団の中に、あやめちゃんもいたのか!
﹁私達もすぐ後に続いたんですけど出遅れちゃって﹂
﹁ふふっ。私は常に円城様の一挙手一投足を見逃さないようにして
いるもの﹂
とあやめちゃんが自慢した。
﹁それであやめさんは上手なんですよ。ペットボトルを見事にゲッ
トして、自分が拾ったことをしっかり円城様に見えるようにアピー
ルしたんです﹂
ありがとう、大宮さん
と名指しでお礼を言ってくれたんです
﹁そうしたら、聞いてください麗華様。あの円城様から去り際に私
に
!﹂
興奮のあまり、あやめちゃんの声が大きくなった。周りの人達が
ありがと
驚いてこっちを見ているから、落ち着いてあやめちゃん。
の声がリフレインしていたわ⋮﹂
﹁あまりの嬉しさに昨日一日は耳の奥でずっと円城様の
う、大宮さん
あやめちゃんは耳を押さえて夢心地の溜息をもらした。ここにも
カサノヴァ村の被害者が⋮。
夢の世界から戻ってこないあやめちゃんを置いて、芹香ちゃんが
﹁そういえば﹂と言った。
1977
﹁昨日麗華様と寄る予定だった食堂のお菓子なのですけど、あれは
ドーナツでしたわ﹂
﹁まぁ、ドーナツ﹂
それは瑞鸞にしてはシンプルなお菓子だね。
﹁運動部の生徒達のための甘味ですから、簡単で腹持ちの良いもの
が選ばれたのでしょうね﹂
﹁味も粉砂糖とシナモンシュガーの2種類だけでした﹂
﹁ふぅん。そうだったの﹂
ドーナツはそれほど好物というわけではないけど、どうせだった
ら食べてみたかったな。
すると、
﹁それで麗華様が楽しみにしていらしたので、一応麗華様のぶんも
取っておいたのですけど⋮﹂
と芹香ちゃんが布バックから小分けされたドーナツをひとつ取り
出した。
﹁えっ、私のぶん?!﹂
私のぶんをわざわざ買っておいてくれたの?!
﹁はい。昨日揚げたドーナツなど、油っぽくて食べられないとは思
ったのですけど、初日でしたし記念にと思って。見るだけで処分し
てもらっていいですから﹂
﹁ううん。とっても嬉しいわ。どうもありがとう!﹂
1978
ちゃんと私のことを考えてくれていたなんて嬉しいよ!昨日のド
ーナツだろうが喜んで食べるよ!
渡されたのはシナモンシュガーのドーナツだった。
﹁麗華様はシナモンと普通のシュガーのどちらがいいですか?﹂
﹁他にもあるの?﹂
﹁はい。人数分﹂
そう言って芹香ちゃんは6つのドーナツをテーブルに出した。
﹁皆さんも今食べるの?﹂
﹁昨日のですから味が落ちていたら全部は食べませんけど、せっか
くですからどんなお味か試してみたくて﹂
﹁えっ、昨日食べなかったの?﹂
﹁もちろんですよ。麗華様がいないのに、私達だけ先に食べるわけ
にはいかないじゃないですか﹂
﹁どうせだったら麗華様と一緒に食べたいですものね﹂
ええーっ!嬉しすぎる!ありがとう!
素晴らしきかな友情!もう感動で胸がいっぱいだよ!
﹁ありがとう。とってもとっても嬉しいわ。ぜひ皆で食べましょう﹂
﹁はい!﹂
昨日揚げたドーナツは冷めて少し固かったけど、私達の友情の証
をおいしくいただいた。
1979
││そして放課後、鏑木はピヴォワーヌのサロンで、日当たりの
良いソファに座り足を組み黒いファイルを片手に、昨日騒ぎを起こ
したピヴォワーヌの1年生達を自分の前に立たせた。
サロン内にもいつもの優雅な雰囲気とは違う、どこか張りつめた
空気が流れている。
1年生達はこれから鏑木にどのような処分を言い渡されるのか、
どのような制裁を受けるのかと、唇まで色を失っている。
そんな1年生達をよそに手元のファイルに目を通していた鏑木は、
顔をあげ睥睨すると、
﹁お前達は次の期末テストで必ず50位以内に入れ﹂
と言明した。
成績順位50位以内⋮?!
ピヴォワーヌや他の内部生も進級するための最低ラインの成績は
取るために、ほとんどが塾や家庭教師を付けて勉強しているけど、
受験のないぬるま湯生活を送ってきた内部生と、過酷な受験戦争を
戦い抜いてきた外部生とでは勉強に対する地力が違う。
しかも高校受験を終えてまだ数ヶ月の1年生では外部生と内部生
の間の学力にかなりの差があるはず。あの子達の成績がどれくらい
なのかは知らないけど、50位以内は言うほど簡単ではないと思う。
言われた1年生達も皇帝からの予想外の難題に目を見合わせて困
惑している。
﹁お前達は昨日、ピヴォワーヌに所属する己の優位性について語っ
ていたが﹂
鏑木はソファから立ち上がった。
1980
﹁すべてにおいて秀でていなければ、真に人を従えることなどでき
ない。権威を振りかざすのならば、それだけの価値を示せ﹂
外部生を従わせたければ、外部生が納得できる成績を取れってこ
とか。
⋮なんというか鏑木って、意外すぎるほど考え方が真っ当だ。
鏑木が合図を送ると、コンシェルジュが問題集の積まれたカート
を運んできた。
﹁これを今日から始めろ。テストまで俺がお前達の勉強をみる。必
ず結果を出してみせろ﹂
⋮しかもテスト勉強にも付き合ってあげるのか。
しかし鏑木はそれだけではなく、サロン内をぐるりと見渡すと、
﹁ここにいる他のメンバー達もだ。全員、ピヴォワーヌのプライド
にかけて、次の期末テストは50位以内に入れるよう努力しろ﹂
鏑木からの突然の無茶な命令に、メンバー達がどよめいた。
ざわつくメンバー達を鏑木は冷静に見据え、
﹁生徒会に、全瑞鸞生に、この胸の牡丹のバッジの名にふさわしい
王者の風格を見せつけろ!﹂
ピヴォワーヌの会長にそこまで言われたら、メンバー達も頷くよ
りほかなかった。
うんまぁ、あの1年生達と違って、あくまで努力目標だしね⋮。
﹁意外だった?﹂
1981
ざわつきがまだ止まぬ中、隣にやってきた円城が面白そうに片笑
んだ。
﹁あの1年生達へのペナルティーですか?﹂
﹁うん﹂
﹁そうですね。正直に言えば意外です。当人達ももっと非情な裁き
を受けると思っていたのではないですか?﹂
鏑木の顔に泥を塗ったんだ。切り捨てられたっておかしくない。
﹁雅哉はあれで、自分を頼ってくる人間には面倒見がいいんだよ﹂
﹁へぇ⋮﹂
他人に無関心にみえて、案外そうでもないってことか?確かに騎
馬戦やリレーで皇帝のスパルタ訓練を受けた男子達からは、妙に慕
われているみたいだけど。
ただ私の経験から言わせてもらうと、鏑木は優秀すぎるがゆえに
人に勉強を教えるのは下手だぞ。
でも50位以内かぁ。私は倍率の高い就職に有利な学部に内部進
学するためにも、元々貼り出される順位表に名前が載る50位以内
を目標としているから、このまま頑張ればギリギリでどうにかなる
かな。まさに日頃の努力の賜物。
﹁吉祥院、ちょっと来い﹂
1年生達を解放し周囲の人間を下がらせた鏑木が、人差し指を上
に曲げて私を呼んだ。ちょっとなによ、そのぞんざいな呼びつけ方
は。この吉祥院麗華はそんな軽い扱いをされてよい女ではなくって
よ!
1982
﹁なんでしょう、鏑木様﹂
愛想笑いでソファにふんぞり返る皇帝の元にへこへこと馳せ参じ
る私は、小心者の民草です。
﹁吉祥院。お前は今度の期末テストでは20位以内に入れ﹂
﹁えっ、なぜ?!﹂
なんで私だけ20位以内?!
﹁お前は現ピヴォワーヌの女子の中での代表格的立場にいるようだ
し、影響力も強いようだからな。手本となるには丁度いい﹂
﹁いや、だからって20位以内は⋮﹂
しかし鏑木はそんな私の申し立てを無視し、手に持っている黒い
ファイルをパラパラとめくりながら、
﹁この資料によると、吉祥院は毎回、平均40位から50位の間を
うろちょろしているようだな﹂
﹁えっ、なんで?!まさかその手元にあるのは、私の成績表?!﹂
﹁お前のだけではない。全校生徒の成績一覧だ﹂
なんですと?!瑞鸞の個人情報管理体制は一体どうなっている!
でも20位以内⋮。
鏑木の言いたいこともわかるし、私も成績を上げることに関して
は異議はないけど、でもさすがに20位以内はムリだって。他の生
徒達だって受験に向けて本気を出してきているんだもん。
﹁40位以内でしたらなんとか頑張れそうですけど⋮﹂
1983
﹁なんて志の低いヤツだ。初めからそんなことでどうする!﹂
﹁小さなことからコツコツとやるタイプなんです﹂
﹁却下だ﹂
﹁そんな∼﹂
もう泣き落とししかなかった。
﹁せめて30位以内でお願いします∼⋮!﹂
哀れっぽく見えるように、眉を下げるだけ下げた。
苦々しい表情で舌打ちをした鏑木は、﹁わかった﹂と譲歩した。
やった!それでも30位以内は厳しいなぁ⋮。
﹁そんなお前には特別メニューを用意してやった﹂
そうして私は、鏑木から10枚以上あるプリントを渡された。
﹁この前のお前の勉強ぶりを見て、苦手な分野をピックアップして
やった﹂
﹁え⋮﹂
それはありがたいというか、ありがた迷惑というか⋮。
﹁毎日採点するからな﹂
﹁えっ、毎日?!﹂
﹁これは1日分のノルマだ﹂
﹁これが1日分?!﹂
多くない?だって私がやらないといけない勉強は、鏑木に課せら
れたプリントだけではない。学校からの宿題もあるし、塾の授業の
1984
予習もある。
﹁ムリです、鏑木様。それをすべてこなすには、私には時間が足り
ません∼﹂
﹁甘えたことを言うな。時間がなければ作れ。睡眠時間を減らせ﹂
それこそムリだ。今だって睡眠時間を6時間前後にまで削って毎
日勉強している。そしてテスト直前と最中は5時間まで削って努力
しているんだ。
7時間以上は毎日寝ないとつらい私は、睡眠時間が5時間以下だ
と1日中睡魔に襲われ、意識が朦朧として頭が回らなくなり、ふら
ふら状態になるのだけど、それを高価な栄養ドリンク2本一気飲み
という禁断のドーピングに手を染めて毎回テストを乗り切っている
んだ。怖いんだぞ。飲んでしばらくすると、おなかがカッカして目
がチカチカするんだぞ。
最初の頃はドラッグストアで10本売りしているような庶民的な
栄養ドリンクの複数本飲みをしていたのが、段々ともっと強力な効
果を求めて、それにはまだ手を出しちゃいけないと戒めていたはず
の1本で千円以上する高価な栄養ドリンクをとうとう飲んでしまっ
た。無駄に買えちゃう財力があるおかげで⋮。
しかも最近ではとうとう高価な栄養ドリンク2本飲みにまで手を
染めてしまった。あの体の状態異常は我ながら絶対にまずいと思う
⋮。
そんな恐ろしいドーピングをしながら、ギリギリ状態でテストに
臨んでいる私に、これ以上睡眠時間を削れとおっしゃるか!
﹁今ですでに毎日睡眠不足なのです。これ以上は体調面を考慮して
減らせません﹂
﹁毎日どれくらい寝ているんだ﹂
﹁そうですね。5、6時間でしょうか﹂
1985
﹁は?﹂
鏑木があんぐりと口を開けた。
﹁充分じゃないか﹂
﹁ええっ。全然少ないですよ。だったら鏑木様の睡眠時間はどれく
らいなのですか?﹂
﹁俺の普段の睡眠時間は4時間から5時間だ﹂
﹁ええっ?!﹂
4時間睡眠!それはダメでしょう。
﹁そんなに睡眠時間が短くて、日中眠くならないんですか?よく授
業中に寝てしまったりしないんですか?体調は?﹂
﹁別に眠くなったりも体調が悪くなったりもしないな。俺は元々睡
眠時間が短くても平気だから﹂
なんと!鏑木は世の受験生垂涎の、ショートスリーパーだったの
か!なんて羨ましいっ。持って生まれた地頭の良さに加えショート
スリーパー体質だったとは。天は鏑木にものを与えすぎている!
﹁でも私は鏑木様と違い、生粋のロングスリーパーなのです。理想
の睡眠時間は7時間以上なんです。体質なんです。変えられません
⋮﹂
これ以上のドーピングはムリです∼。
必死で言い募る私に対し鏑木は難しい顔を作ったけれど、体質な
らば仕方ないとなんとか納得してくれた。わかってくれて良かった。
﹁ではこのいただいたプリントは、とりあえず今日は様子見で出来
1986
るところまでやって、明日から本格的にやっていくということで⋮﹂
﹁明日⋮?﹂
鏑木にぎろりと睨まれた。
﹁なぜ明日からなんだ﹂
﹁いやぁ、いきなり今日からこれを全部というのは∼﹂
結構、量あるよこれ。今日は宿題も出ているし、これを全部やる
のは厳しいよ⋮。
﹁そうやって明日からやろう明日からやろうと先延ばしにしている
から、お前はいつまで経ってもヒノキの木になれないあすなろなん
だ!﹂
﹁ぐっ!﹂
図星をぶっ刺されて私はぐうの音も出なかった。
﹁でしたら鏑木様、今度のテストの山を教えてくださいませ﹂
﹁山⋮?﹂
さらに鏑木の目が鋭くなった。
﹁勉強に山などない。すべてが山だ﹂
えー⋮。そりゃそうだけどさぁ。ここは絶対に出るとか、ここは
出そうとかってあるでしょうよ。なにその融通の利かなさ。
﹁いいから、つべこべ言わずに血反吐を吐くまで勉強しろ。わかっ
たな、吉祥院﹂
1987
血反吐を吐いたら死んじゃうよ⋮?
私は数式の並ぶプリントに目を落としながら、途方に暮れた。
1988
264
鏑木に今日中とのノルマを課せられたプリントが予想以上にハイ
レベルで難しい。
優先順位的に学校から出されている宿題をとにかく先に終わらせ
てしまおうと、家庭教師の先生に手伝ってもらって宿題を片付けて
からは、鏑木のプリントを解くことだけに専念して教科書や参考書
と首っ引きで頑張っているけど、全然進まなくて終わりが全く見え
ない⋮。
﹁がーーーーっ!﹂
私は何十分かに一回襲ってくる叫びたくなる衝動に、頭を掻き毟
った。
普通の問題集と違って解答が付いていないから、自分の出した答
えが果たして正解なのかもわからない!せっかく解いてもずっとす
っきりしないもどかしさに、モヤモヤするー!
とりあえずわかる問題だけ解いていけばいいと割り切ればいいの
かもしれないけど、他人からどう思われているのかが気になる小心
者の私は鏑木から、この程度のプリントも出来ないってこの女頭悪
いなとか思われたらと考えると、プライドが邪魔をして妥協できな
いんだよー!
あと何枚残ってる?ひぃ∼っ!まだ半分以上終わってない⋮。
家庭教師の先生もとっくに帰ってしまったし、このままでは本気
で今夜は徹夜になってしまう!と追い詰められた私は、私の最強最
高の切り札に助けを求めるべく、勉強道具一式を抱えて、仕事から
帰ってきたばかりのお兄様の部屋に押しかけた。
1989
﹁お兄様助けて!勉強を教えてください!﹂
私があまりに必死の形相をしていたのか、妹の急襲を受けたお兄
様は少しびっくりした表情で出迎えてくれた。
﹁勉強?﹂
﹁はい。このままでは徹夜でやっても終わりそうにないんです⋮﹂
とっても困っているんです、つらいんですという女優の顔芸を披
露すれば、お兄様は﹁いいよ﹂と快く部屋に通してくれた。やった!
﹁とりあえずソファに座って待っていて。僕は着替えてくるから﹂
見ればお兄様はスーツ姿で着替えすらまだだった。うわぁ、ごめ
んなさい。兄妹とはいえ自分本位過ぎたな⋮。反省。
﹁ごめんなさい、お兄様﹂
﹁うん?なにが﹂
ネクタイを外しながら隣接する衣裳部屋に歩いていたお兄様が振
り返って首を傾げた。
﹁お仕事から帰ってきたばかりで疲れているのに、わがままを言っ
ちゃって⋮﹂
それを聞いたお兄様は笑って﹁妹の勉強をみるくらい、全然平気
だよ﹂と言ってくれた。なんて出来た兄なんだ⋮!ありがとうお兄
様!やっぱり持つべきものは優しくて出来の良い兄だよ!
﹁私、お茶でも淹れてきますね!﹂
1990
﹁ありがとう﹂
せめてものお詫びの気持ちを込めて、少しでも疲れが取れる様に
労いのお茶を用意してきます!
そして私がふたりぶんのお茶を持って戻ってくると、ラフな格好
に着替えてきたお兄様がソファに寛いで待っていてくれた。
﹁それで?どこがわからないの?﹂
﹁これなんです﹂
私は鏑木特製のプリントをお兄様に見せながら、これまでの経緯
を愚痴を交えて話した。
﹁ピヴォワーヌ全員が50位以内にねぇ。それは雅哉君も厳しい要
求を出したね﹂
﹁そうでしょう。しかも私には20位以内に入れと言うんです!﹂
交渉してなんとか30位以内にしてもらったけどね!それでも3
0位以内に入れる自信は全くない。
﹁まぁ、勉強をすることは自分の身になりこそすれ、悪いことでは
ないけどね﹂
﹁⋮はい﹂
そうなのだ。学生の本分は勉強だ。その学力の向上を厳命する鏑
木は何ら間違ったことは言っていない。言っていないからこそ正論
すぎて逆らえないのがつらい。
﹁それで雅哉君が用意したプリントがこれだと﹂
﹁はい﹂
1991
﹁1,2.3⋮。そこそこ量があるね﹂
﹁そうでしょう。でもこれを明日までにやって行かないといけない
んです﹂
明日までにやって行かないと、ヒノキの木になれないあすなろと
呼ばれ続ける羽目になるんですぅ∼!
﹁私の苦手な分野をピックアップしたというだけあって、難しくっ
てもうお手上げ状態なんです。でも明日までに絶対に終わらせてこ
いって。鏑木様は血反吐を吐くまで勉強しろって∼﹂
﹁血反吐⋮。女の子に対してそれは容赦がないね﹂
﹁そうでしょう、そうでしょう?﹂
鏑木からのプレッシャーが尋常じゃないんだよ。
腕に縋りついてここぞとばかりに泣き言を言う私を慰めながら、
﹁それで、ここからここまでが今回のテスト範囲?﹂と、お兄様は
付箋の付いた教科書を手に取って確認した。
﹁はい﹂
﹁なるほどね﹂
お兄様は教科書と鏑木式プリントを見比べると
﹁このプリントはテスト範囲のポイントがしっかり押さえられてい
て、かなり良く出来ているね。これを難なく解けるようになれば今
度のテストでは高得点を取れると思うよ﹂
と鏑木式プリントを評価した。そうなのか。さすが首位争いの常
連の作った問題。ありがた迷惑だけど。
1992
﹁じゃあ僕は麗華がすでに解いた問題を採点して、間違っている箇
所やわからない箇所を教えればいいんだね﹂
﹁お願いします!﹂
それからお兄様の指導の元、私は鏑木式プリントを着々とこなし
ていった。最後はほとんどお兄様に解いてもらったような感じだっ
たけどね。
﹁できた!﹂
﹁お疲れ様。よく頑張ったね﹂
﹁お兄様、ありがとう!﹂
日付が変わるまでに終わった!これで徹夜回避だ!
﹁でもこれテストが終わるまで毎日雅哉君から出されるんだっけ﹂
﹁うっ⋮!﹂
そうだった。今日終わってもまだ明日もあるんだ。鏑木式プリン
トはどこまでも追ってくる。
絶望に打ちひしがれる私の頭を、お兄様が慰めるように撫でた。
﹁僕もテストが終わるまで、できるだけ勉強に付き合うから﹂
﹁お兄様∼!﹂
私、貴輝ゼミナールに入学します!
﹁しかし瑞鸞は今、そんなことになっているのか﹂
新しく淹れ直したお茶を飲みながら、お兄様が私から聞いた話の
感想を洩らした。
1993
﹁お兄様が在学中もピヴォワーヌと生徒会の軋轢などはありました
か?﹂
﹁う∼ん、どうだったかなぁ。僕らの頃も生徒会との確執はあった
けれど、正面切って対立することまではなかったと思うよ。ピヴォ
ワーヌが起こしたことに対しての生徒会からの抗議みたいなものは
何度かあったけどね。そこまで真っ向から抗議してくる生徒会長は
いなかったな。今回の生徒会長はずいぶんと熱血漢なんだね﹂
﹁確かに正義感は強い人ですね﹂
相手が誰であろうとも弱者を守って抗議してくれるんだから、生
徒としては同志当て馬は頼りがいのある生徒会長なんだと思う。ピ
ヴォワーヌにとっては都合が悪いけど。
﹁でもあまりピヴォワーヌへの不平不満が鮮明化すると、いつか不
満分子にクーデターでも起こされないかと心配で﹂
﹁クーデター?﹂
私が重々しく頷くと、お兄様が笑った。
﹁麗華はそんなことを心配しているのか。クーデターはないよ﹂
﹁そうでしょうか﹂
﹁彼らも理解しているからね。学院が数十人のピヴォワーヌ生と、
数百人のそれ以外の生徒達だったら、数十人のピヴォワーヌを取る
ってことをね﹂
お兄様の冷静な見解に、目から鱗が落ちた。そうだった。瑞鸞は
そういう学校だった。現役ピヴォワーヌの親と、ピヴォワーヌOB
OGの持つ絶大な財力権力と影響力で瑞鸞は成り立っている。いざ
となったら反乱分子は全員退学させられてお終いだ。
1994
﹁安心した?﹂
﹁不穏すぎて別の意味で不安になりました﹂
逆らえば退学なんて、そんな他人の一生を左右する重い荷物は背
負えない。
﹁お兄様の時代は平和で羨ましいなぁ﹂
﹁まぁ、そこまで言うほど平和ってわけでもなかったけどね﹂
お兄様は苦笑いした。そうなのか。
﹁お兄様が会長になればよろしかったのに﹂
お兄様は包容力もあるし家柄も成績も優秀で、ピヴォワーヌを纏
めるのに最適な人物だと思うんだ。
﹁そんなことないよ。僕などより会長にふさわしい人間は何人もい
たからね。それに僕は自分が会長になるよりも、裏でフォローにま
わる方が楽だから。そういった意味では伊万里が会長になればいい
と思ったこともあったけど、ただあれは一方向に限定して素行に問
題がありすぎて⋮﹂
当時を思い出したのか、お兄様の顔が険しくなった。
﹁あぁ、そうだ。瑞鸞内での大きないざこざはあまりなかったと思
ったけれど、伊万里を巡っての女子生徒達のいざこざはよくあった
な。時には伊万里に会いに来た他校の女子達と瑞鸞の女子達の小競
り合いまであった。そうだった。その度に僕が生徒会から伊万里を
なんとかして欲しいと要請と抗議を受けたんだ。僕に持ち込まれる
1995
トラブルのほとんどが、伊万里が原因のものだった。人の苦労も知
らずなにがモナムールだ。あのバカがっ。それに巻き込まれる度に
僕は、お気楽に女の子の肩を抱いて去っていくあいつの延髄が弓道
の的に見えてしょうがなかったよ。あの的ならば僕は絶対に外さな
い自信があったね。あぁ、今でも遅くないか。蔵に弓があったはず
⋮﹂
お兄様!目が!目が怖いっ!
温厚なお兄様をここまで怒らせるなんて、伊万里様は一体なにを
やらかしたんだ。
放課後のピヴォワーヌのサロンで、お兄様の力を借りて仕上げて
きたプリントを私は鏑木に提出した。お兄様からお墨付きをもらっ
た完璧な解答だ。どーよ。
鏑木はすべてのプリントに目を通して採点をすると﹁よし﹂とだ
け言い、﹁今日の課題はこれだ﹂と次のノルマを渡してきた。えっ、
それだけ?
こんなに頑張ってきたのに、よくやったとか全問正解を評価する
言葉とかないの?これを全部終わらせてくるのに、私がどれだけ苦
労したか⋮!褒められて伸びるタイプの私の性質を、鏑木はなにも
わかっちゃいない。
褒めるまでその場に居座ってやろうかと思ったけれど、私の後ろ
に鏑木の採点を待つ1年生の列ができていたので、黙って引き下が
った。
私同様、ノルマが厳しかったようで1年生達は心なしかやつれて
いた。すれ違いざまに縋るような目を向けられたけど、すまぬ。所
1996
詮私の権力はハリボテなので、皇帝の暴挙を止めることなどできな
い。
このまま帰ってもいいけれど給仕がお茶とお菓子を用意してくれ
たので、私が好きな壁際のソファに座って少しだけ課題をやってい
くことにした。むむっ、今日の問題も難しい⋮。
﹁吉祥院さん、どう。順調?﹂
すると円城が私の前にやってきた。
﹁⋮それなりに﹂
すでに2問目で躓いている状況だけど、同級生である円城に自分
の頭の悪さを知られたくない。
それなのに円城は私の前の席に座ると、﹁どれどれ﹂と課題を覗
きこんできた。
﹁あ∼、この問題はこの副読本の例文と照らし合わせるとわかりや
すいかもね﹂
円城はテーブルの上に置いてあった私の教科書や参考書の中から
副読本を手に取ると、﹁ほら﹂と該当ページを見せてくれた。
﹁あっ、本当だ!﹂
こんなところにヒントが!
言われた通り、例文に添えば引っ掛かっていた問題も難なく解け
た。おおっ!
﹁この先生のテストは、学校指定の教科書や副読本に準じた問題が
1997
出されることが多いから、雅哉もそこを考慮して作っていると思う
よ﹂
﹁そうなんですか?!﹂
なによ、鏑木。そういうことを事前に教えておいてよ!そしてな
んという有益な情報だ。これで今回のプリントも解きやすくなった。
それからも円城は、ひとつひとつの問題をわかりやすく解説して
くれた。ほお、ほお、なるほどねー。
﹁円城様は教えるのが上手ですね﹂
鏑木と違って、という悪態を言外に匂わせる。
でも本当に円城の教え方は私のお兄様に並べるくらい上手い。問
題を解く度にさりげなく褒めてくれるので、おだてられた私は張り
切って木に登ってしまう。
﹁たまに雪野の勉強を見てやっているからね﹂
へぇ∼。
﹁円城様もご自分の弟にはお優しいのですね﹂
﹁心外だな。僕は誰に対しても優しいと思っているのだけど?﹂
私と円城はお互い目を見合わせて、ふふふと笑い合った。さ、次
の問題をやろうかな。
そこへ、1年生の採点と不正解箇所を教え終わった鏑木が来て、
円城の隣にどっかりと座った。
円城は鏑木に﹁彼らは50位以内に入れそう?﹂と聞いた。
﹁入れそうではなく、必ず入るんだ﹂
1998
ひえ∼っ。仮定じゃなく断定なんだ。あちらで必死に問題集と格
闘している1年生達に心の中で合掌した。でもそれより厳しい30
位ノルマを課せられている私も他人事じゃなかった!
﹁どこがわからないんだ﹂﹁まだやっているのか﹂と口うるさい鏑
木を無視して、円城に教えてもらいプリントを解いていく。
﹁そういえば、先日鏑木様のお母様にお会いして、鏑木家主催の七
夕の会にご招待を受けました﹂
﹁あぁ、そんなことを聞いたな﹂
鏑木が気のない返事をした。
﹁お前をエスコートしてやれと言われた﹂
﹁あ、お気持ちだけで充分です﹂
笑顔できっぱりお断り。
﹁でも期末テストの勉強もありますし、出席はお断りした方がいい
と思うのですが、どうでしょう。せっかくのお誘いですが鏑木様か
らお母様に取り成していただけませんか﹂
﹁あの人を止めるのは俺には無理﹂
無表情できっぱり断られた。
も∼っ。テストにパーティーにやることが多すぎて、頭から煙が
出そうだよー!
﹁ほら、さっさと続きをやれ。課題を増やすぞ﹂
﹁頑張って、吉祥院さん﹂
1999
つらい⋮。
2000
265
鏑木家主催の七夕の会は、鏑木夫人が話していた通り、若い招待
客も大勢きていて大いに賑わっていた。
会場は煌びやかなドレスと着物の色彩が溢れ、中央には七夕らし
く大きく立派な笹が飾られていて、招待客達は短冊に願いを書いた
りして楽しんでいるようだ。
ここしばらくは毎日テスト勉強のために学校と家の往復だけで、
唯一出かけた場所は塾だけという生活だったから、このような華や
かな場所は久しぶりだ。
今日は両親以外にお兄様も参加しているので、私はお兄様にエス
コートをしてもらっていた。
﹁まぁ!吉祥院様、ようこそ!﹂
受付を済ませ会場入りすると、私達の元へすぐに鏑木夫人が来て
両手を広げて歓迎の意を示してくれた。今夜の鏑木夫人は光沢のあ
る黒地に細かな銀のストーンが流れるようにちりばめられた、それ
はもう艶やかなドレスを纏っていた。
﹁本日はお招きいただいてありがとうございます﹂
私も両親とお兄様に続いて挨拶をすると、お母様と一緒に夫人の
ドレスの素晴らしさを讃えた。
﹁今夜の私は織姫と彦星を橋渡しする天の川なの﹂
うふっと鏑木夫人は悪戯な眼差しで笑うと、﹁だから貴輝さんも
2001
麗華さんも、橋渡しして欲しい方がいたら、おっしゃってね﹂と言
った。
そしてお母様と私の装いも褒めてくれたけど、実は今夜の私も織
姫と彦星のために翼を広げて橋を作ったという鳥のカササギをイメ
ージして、白や薄青のオーガンジーを重ねた繊細なデザインのドレ
スに黒いストールを羽織ってきてしまった。主催者とコンセプトと
色被りは大失敗。でも私のドレスは白が基調だから大丈夫だよね?
笑顔で両親と夫人の会話を聞きながら、そぉっと黒のストールを外
した。証拠隠滅成功。
ひとしきり話し終えた鏑木夫人は﹁どうぞ皆様、今夜は楽しんで
いらしてね﹂と言うと、次のお客様を出迎えに行った。
﹁麗華。僕らはあちらに行こうか﹂
広い会場では若者グループと大人グループとに分かれて集まって
いたので、私とお兄様はお父様達と別れて、そちらに向かった。
ピヴォワーヌのメンバーや見知った人達もいたので、私はお兄様
と一緒にその方々の輪に入って行った。
﹁麗華様、ごきげんよう﹂
﹁ごきげんよう﹂
私に声をかけてくる女の子達も、私の隣で優しく微笑むお兄様に
頬を染めている。ふっふっふっ。
眉目秀麗で将来有望なお兄様に憧れや好意を抱いている女性は多
いので、隣にいる私は鼻高々だ。
しばらくするとお兄様は仕事関係の人を見つけたようで、
﹁ごめん、麗華。少しだけ席を外していい?それとも一緒に来る?﹂
2002
と申し訳なさそうな顔で聞いてきた。
う∼ん。私が行っても話の邪魔にしかならなそうだしなぁ。
﹁私はここでお友達とお話しています﹂
﹁そう?じゃあ何かあったらすぐに呼ぶんだよ﹂
﹁はい﹂
お兄様の背中を目で追いながら、出席者の顔触れもチェックする。
あ、あちらにいるのは優理絵様と愛羅様だ。おふたりはピヴォワ
ーヌのOGOBと仲良く談笑している。おふたりとも、いつ見ても
相変わらず綺麗だなぁ。あとでお話できるかな。
﹁こんばんは、麗華様﹂
挨拶をしてきたのは、例のピヴォワーヌの1年生男子達だった。
彼らは皇帝からの絶対命令を遂行すべく、連日大量の問題集ノルマ
をこなしているおかげで、すっかり目の下のクマが定着し、外部生
に横暴な振る舞いをする気力すらなくなっていた。
﹁ごきげんよう﹂
そして彼らは同じ過酷な境遇にある私に仲間意識を感じたらしく、
親しみを込めて麗華様と呼ぶようになった。
私達が揃えば話題は期末テストと勉強だ。私達はコソコソと固ま
った。
﹁どうです?進捗状況は﹂
﹁⋮ギリギリといったところです。しかも今日はこのパーティーに
出席しているので、鏑木様からの課題を終わらせることができるか
どうか⋮﹂
2003
﹁俺も⋮﹂
﹁うん。徹夜かもしれない⋮﹂
﹁わかりますわ。私は鏑木様にお願いして、今日だけは少し減らし
てもらいましたの﹂
﹁えっ?!﹂
﹁そんなことを許してもらえたのですか?!﹂
それはもう、懇願したもの。名女優もかくやという演技で泣き落
とした。惜しむらくは瞬きをしまくっても涙の1滴もこぼれなかっ
たことだけど。でも勉強をする時間がないのは鏑木家のパーティー
にお呼ばれしたためなんだから、少しは妥協してくれてもいいはず
だもんね!
﹁いいなぁ。やはり鏑木様も麗華様には優しいんですね﹂
﹁僕達は交渉の余地すら与えてもらえませんでしたよ﹂
そのかわり﹁必ず30位以内に入る自信があるんだろうな﹂とい
う脅しももらったけどね⋮。うっ、胃がキリキリする。今夜もお兄
様に勉強を助けてもらわないと⋮。
﹁俺、実は今日も問題集を持ってきているんです。行き帰りの車
の中で少しでもやろうと思って⋮﹂という聞くも涙語るも涙の話や、
勉強の苦労を語り合っていると、手に持っていたグラスの中身が無
くなった。
﹁私、ちょっと飲み物を取りに行ってきますね﹂
﹁あっ、俺が行きますよ﹂
﹁いいの。芙由子様や讃良様のお姿も探したいので﹂
胃に優しい飲み物はあるかな⋮。
そうして私が飲み物を配る給仕の元へ歩いていると、
2004
﹁あらぁっ、麗華さんじゃありません?﹂
あっ!そういうあんたは舞浜恵麻!
鏑木を追いかけ回して私にライバル意識を燃やし、事あるごとに
私にケンカを吹っかけてくる、百合宮に通う桜ちゃんの同級生だ。
﹁お久しぶりですこと﹂
﹁本当に。ごきげんいかが?舞浜さん﹂
笑顔と共に戦いのゴングが鳴った。
﹁やだぁ麗華さん、前にお会いした時よりも少し太ったんじゃなぁ
い?なんだか二の腕がたくましい∼﹂
こいつ!オブラートにも包まず、いきなり直球できやがった!
腕立て伏せも出来ない私にとって、二の腕のぷよぷよは最大の弱
点だ。
﹁⋮そうかしら?今日は肌の露出も多いのでそう見えてしまうのか
もしれないわね。私は人よりも肌の色が白いからそう感じてしまう
のかも﹂
私の色白よ。今こそ七難を全力で隠せ!
﹁そうよねぇ。白は膨張色だもの。そのせいよねぇ。ごめんなさぁ
い﹂
﹁気にしないで﹂
ホホホと余裕ぶって笑いながらも、二の腕を隠すように黒のスト
2005
ールを羽織り直す。
そっちがそうくるなら、こっちだって負けていられない。
舞浜さんの弱点はまつ毛だ。今日も短いまつ毛を少しでも長く見
せようと、ごってりとマスカラを塗りたくっている。
﹁あらっ、大変!舞浜さん。まぶたにコオロギの足が付いていまし
てよ!﹂
﹁は?!﹂
﹁って、いやだ、短いまつ毛をビューラーで無理やり上げているか
ら、虫の足に見えてしまったのね。それにマスカラを塗りすぎてダ
マになっているから余計にそう見えてしまったみたい。いやだわ、
私ったら。ごめんなさい。私は普段マスカラなんて付けないのでわ
からなくて⋮﹂
︵まつ毛が短いのにビューラーで必死に上げて大変ね∼。少しでも
まつ毛を際立たせようとマスカラを塗りたくっているけど、ダマを
放置して人前に出るなんて女の子としてありえな∼い。私はまつ毛
がマスカラなんかに頼らなくても長いから、舞浜さんの苦労がわか
らないわぁ∼︶
﹁ごめんなさいね。悪気はないのよ。ほら、私って天然だから﹂
﹁⋮へ∼え﹂
舞浜さんは顔を引き攣らせ、無理やり口角を上げる。
私と舞浜さんの間にバチバチと火花が飛び散った。
さらにここで、畳みかけるように連続攻撃!
﹁あらっ、瑞鸞では禁止されているんですけど、舞浜さんは髪をカ
ラーリングなさっているのね。しかも毛先だけ茶色に染めるなんて、
斬新ね∼﹂
2006
﹁は?していないけど﹂
﹁ではどうして毛先の色が違⋮、あらごめんなさい。毛先が傷んで
いるから茶色く見えていたのね。ねぇ舞浜さん、世の中にはトリー
トメントという製品があるのってご存知かしら?﹂
﹁⋮⋮﹂
私は自慢の巻き髪をこれみよがしにふわりとなびかせる。どうだ、
このお金と時間をかけて作り上げたキューティクルは。
本当はそこまで傷んでいるようには見えないけど、女の子にとっ
て髪が傷んでいると指摘されるのはかなり恥ずかしくて屈辱なのだ。
そして私にはまだ、女の子が絶対に言われたくない最終凶器、﹁貴
女、顔の毛穴開いてません?﹂攻撃も残してある!
舞浜さんも私の輝く髪の前では言い返す言葉が見つからないよう
で悔しそうな顔をしている。この勝負、勝ったわね!
しかし舞浜さんはとんでもない隠し玉を持っていた。
﹁ところで、麗華さんは今日はどなたにエスコートしていただいた
の?﹂
﹁兄ですけど⋮?﹂
﹁あらぁ、お兄様!麗華さんはお兄様にエスコートしてもらったの
ぉ﹂
だから何よと訝しむ私に、満面の笑みを浮かべた舞浜さんが想像
もしていなかったパンチを放った。
﹁私は、今日は彼と来ていますの﹂
彼氏だと?!
私はコーナー際まで吹っ飛ばされた!
2007
﹁え⋮、だって舞浜さんは鏑木様をお慕いしていたのではなかった
の﹂
﹁あら、ずいぶん昔の話を持ち出すのね﹂
舞浜さんは﹁いやだわ、麗華さん﹂と笑った。
﹁確かに雅哉様は今でも素敵な方だと思っていますけど、彼がね、
どーしても私のことが好きだと熱心に言うものだから、ほだされて
しまって。ほら、やはり女性は愛するより愛された方が幸せになれ
ると思いません?﹂
舞浜さんは﹁どーしても﹂という部分を強調して言った。
﹁ねぇ、麗華さんもそう思うでしょう?﹂
﹁どうかしら⋮?価値観は人それぞれですから。でもお幸せそうで
なりよりだわ⋮﹂
﹁ふふふ。ありがとうございます。でも高校生だったら、恋人くら
い普通でしょう?﹂
﹁⋮そうね﹂
﹁そうよねぇ。特に麗華さんは私と違って共学だもの。さぞやおモ
テになるのでしょうねぇ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あ、でも麗華さんは今日のエスコート役はお兄様でしたっけ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ご兄妹仲がよろしくて羨ましいわぁ﹂
ま、負けた⋮。
私をリングに沈めた舞浜さんは、﹁恵麻さん﹂と迎えに来た彼氏
の腕を取り、勝利の高笑いしながら去って行った。
寒い⋮。心が寒い⋮。
2008
私はすさんだ心を守るように、黒いストールを体にしっかりと羽
織った。
私も恋愛ぼっち村から卒村できるようにと、七夕の短冊に願いを
書きに行こうかな⋮。
﹁吉祥院﹂
聞き覚えのある声に振り向くと、主催者の息子が立っていた。
仕方ない。
﹁鏑木様、ごきげんよう。本日はお招きいただきありがとうござい
ます﹂
私が挨拶をすると鏑木は偉そうに頷いた。
そして私の姿をしげしげと眺めると、
﹁お、今日はパンダか?﹂
はあああっっ?!パンダだと?!
黒と白イコールパンダって単純すぎるだろうが!あれか、笹だか
らパンダか!
﹁違います!もうっ、伊万里様から何も学んでいないではないです
か!もう一度伊万里様の元で勉強し直してきてください!﹂
﹁いや。むしろあの人からは学んじゃいけないだろう﹂
鏑木は大真面目な顔で首を横に振った。いーや、あんたは少しは
伊万里様を見習うべきだね!
﹁伊万里様も今日いらしているのかしら﹂
2009
﹁桃園さんなら、さっき庭の方に行くのを見かけたぞ﹂
庭園か。ライトアップもされているし、せっかくだから伊万里様
にご挨拶しようかな。そうだ。麗しの伊万里様と一緒に舞浜さんの
目の前を歩いたら、一矢報いることができるんじゃないか?
﹁私、伊万里様にご挨拶して参ります﹂
﹁だったら俺も行こうかな﹂
﹁えっ、なぜ﹂
なんで鏑木までついてくるのよ。
﹁ずっと挨拶回りをしていたから、少し疲れたんだよ。外の空気が
吸いたい﹂
え∼っ。
﹁今日は円城様はどうしたんですか。ご一緒じゃないんですか﹂
外の空気を吸いたければ、円城とふたりで行ってきなよ。
﹁秀介ならあそこだ﹂
鏑木が指した方角を見ると、円城は数人の人に取り囲まれていた。
そして、その円城の隣には、妖精のように儚げな唯衣子さんの姿
があった││。
周りの男性達はどうやら唯衣子さんの取り巻きらしく、唯衣子さ
んの気を引こうとあれこれと話しかけていた。唯衣子さんはそんな
彼らにゆるりと微笑んだ。
隣の円城は、表情の読めない笑みを浮かべていた。
2010
﹁ほら行くぞ﹂
と鏑木が私の背中を叩くと、私を従えるように前を歩きだした。
だからなんであんたが主導権を握るのよ!
2011
266
雨が上がって湿気の残る庭園は、夜露に濡れた紫陽花がライトに
照らされて瑞々しく輝いている。
﹁綺麗ですね∼﹂
﹁紫陽花が一番見事な会場を選んでいるからな﹂
なるほど。そこまで考えて会場選びをしているのかぁ。
庭園には数人の人影があるけれど、さて、伊万里様はどこだろう。
﹁ここにはいないな。あっちじゃないか﹂
﹁あっちは薔薇が咲いているんだ﹂という鏑木に付いて、庭園の少
し奥まった場所に歩いて行く。
﹁雨も止んで、星もよく見えるようになりましたね∼。天の川はど
こかしら﹂
都会だとはっきりとは見えないかなぁ。鏑木も立ち止まると、夜
空を仰いだ。
﹁人工の光に邪魔されて、ここからでは見るのは難しいだろう﹂
﹁ですよね∼﹂
残念。
﹁でも、織姫のベガと牽牛のアルタイルだったら見つかるんじゃな
2012
いか﹂
﹁えっ!どこですか?﹂
﹁あれだ。あの東の空にある星が、夏の大三角﹂
﹁え∼⋮﹂
目を凝らして見るけど、よくわからない。あの一番光っている辺
りかなぁ⋮。
﹁なぜ、わからない。あれだ、あれ﹂
﹁う∼ん﹂
﹁昔、理科で習っただろう﹂
やめて!もう勉強の話はしないで!
私は拒絶反応で耳を塞いだ。あぁ、思い出しちゃった。こんなと
ころで暢気に星空なんて眺めている場合じゃなかった。もう今夜あ
たりから栄養ドリンクがぶ飲みでラストスパートをかけないといけ
ないのに!
鏑木は呆れたような目で私を見ると、星空に目を移した。
私はその横顔を眺めた。見れば見るほどよく整った顔だ。そうし
て黙っていれば、乙女の夢を体現した理想の貴公子然なんだけどね
ぇ⋮。
夜空を見上げていた鏑木が、ふいに﹁あいつはどうしているかな
⋮﹂と呟いた。
﹁あいつ?﹂
﹁⋮なんでもない﹂
鏑木は、言ってからしまったといった表情をして顔を背けたけれ
ど、え、なに。もしかして自分と若葉ちゃんを、周囲と立場に引き
裂かれる織姫と彦星に重ね合わせたの?
2013
⋮ここは笑っちゃいけない場面だよね。よし、フォローをしなく
ちゃ。
﹁確かにいつまで経っても、天の川なみに縮まらぬ深∼い距離があ
りますよね﹂
﹁⋮⋮﹂
鏑木がショックを受けた顔をした。しまった。図星をついて心の
傷を抉ってしまった。
﹁え∼っと、伊万里様はこっちかしらぁ⋮﹂
ごまかすように伊万里様探しを再開すると、
﹁⋮そんな距離、すぐに縮めてみせる﹂
﹁えっ﹂
振り向くと鏑木の目に、愚恋の炎がめらめらと燃えていた。
まずい。変な決意スイッチを押してしまった。
﹁ダメですよ、鏑木様。相手の迷惑を考えて浅慮な行動は慎んでく
ださいね﹂
﹁わかっている﹂
﹁本当ですかぁ⋮﹂
﹁水崎なんぞには負けない﹂
﹁全然わかってない!﹂
私は紫陽花の小道を歩きながら、絶対に大っぴらな行動は控えろ
と口を酸っぱくして諭し続けた。
﹁わかった、わかった﹂って、本当にわかっているのかなぁ。
2014
﹁⋮ん?あそこにいるのは伊万里さんじゃないか?﹂
﹁どこですか?﹂
﹁ほら﹂
さっきのベガとアルタイルといい、鏑木は視力がいいな。
﹁あ⋮﹂
白い薔薇が咲き乱れる花壇の前に、伊万里様は年上らしき美しい
女性と一緒にいた。
咄嗟に木陰に隠れたけど、どうしよう⋮。これは声をかけない方
がいいよね。
お邪魔をしたら悪いから、そっと立ち去ろうとした時、
﹁綺麗だけど私は白薔薇よりも、真紅の薔薇が好きだわ﹂
と連れの女性が伊万里様に言った。
真紅の薔薇かぁ⋮。実は私は小さい頃に読んだ童話が元で、赤い
薔薇は苦手なのよね⋮。
﹁そうだね。貴女には情熱的な真紅の薔薇の方が似合うかもしれな
い﹂
ナイチンゲールと赤いバラ
という童話を知っている?﹂
伊万里様の指先が女性の頬を掠めた。
﹁貴女は
﹁なぁに、それ﹂
あっ!それはまさに今私が考えていたこと!
2015
伊万里様は白い薔薇に手を差し伸べて、その童話を語りだした。
││あるところに我がままで美しい令嬢がいて、その令嬢が誕生
日に赤いバラが欲しいとまた我がままを言った。しかし街に咲くの
は白バラしかなく、赤いバラはどこにも見つからない。令嬢に恋を
して赤いバラを探す青年に同情した小鳥のナイチンゲールが、白バ
ラに相談をすると、ナイチンゲールの心臓をこのバラの棘に突き刺
せば、白バラが血を吸って赤いバラになると教えてくれる。健気な
ナイチンゲールは自らの命と引き換えに赤いバラを作り上げた。そ
してその赤いバラを見つけた青年は、それを持って喜び勇んでバー
スデーパーティーに赴くが、取り巻きに豪華なプレゼントをもらっ
た令嬢は、自分が前に言った言葉などすっかり忘れ、赤いバラ一輪
しか持ってこなかった青年をバカにする。その態度に怒って令嬢へ
の恋も冷めた青年は、赤いバラを投げ捨て帰りましたとさ。
うん。私もその童話は知っている。
その話を読んで、あまりの救いのなさと、小鳥の哀れさと、赤い
バラは小鳥の心臓から吸い上げた血液の色という恐ろしいイメージ
で、それ以来赤い薔薇がどうにも少し苦手になってしまったのだ。
そんな私の気持ちを知ってか、お兄様が私に贈ってくれた薔薇の
品種うららは、真紅ではなく鮮やかなピンク色で、さすがお兄様な
のよ!
﹁血で染められた薔薇と聞くと、なんだか怖いわね﹂
﹁そう?﹂
伊万里様は女性の手を取ると、魅惑的な微笑みを浮かべ、その指
に口付けた。
﹁俺は貴女が望むなら、この心臓の血を捧げてもかまわない﹂
2016
その瞬間、私と鏑木の口がぱかーんと開いた。
﹁あら、伊万里さんが健気で可憐な小鳥なの?﹂
﹁ええ。ナイチンゲールは夜の鳥ですから。俺にぴったりでしょう
?﹂
﹁ふふふ。でも七夕だったら彦星ではないの?﹂
﹁貴女は俺に、1年に1度しか会わなくてもいいと言うの?ひどい
人だな﹂
私は左に立つ鏑木を見た。鏑木は右に立つ私を見た。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
何も言わずとも心をひとつにした私と鏑木は、同時にサササササ
⋮と後ろ歩きをすると、そのまま猛スピードでその場から退場した。
遠く離れていく光景の中、最後に見たのはカサノヴァ村長が、女
性を抱き寄せている姿だった││。
伊万里様達の姿が見えなくなる、紫陽花の小道まで戻ってくると、
鏑木は鬼の形相で私に詰め寄った。
﹁お前は!この俺に!あの人の真似をしろと言うのか!あ・の・ひ・
と・の!﹂
押し殺した声で噛み付くように怒鳴る鏑木から頭を手でガードし
ながら、私は素直に反省した。うん、ごめん。これは私が悪かった。
あの伊万里様からは学んじゃいけない。下手したら鏑木家が滅ぶ⋮。
喚く鏑木をなんとかなだめすかし、室内に戻ってくると、円城が
唯衣子さんを伴ってこちらにやってきた。
2017
﹁雅哉、ここにいたのか。おば様が探していたよ﹂
そして﹁吉祥院さん、こんばんは﹂と言った。
﹁ごきげんよう﹂
私は円城と唯衣子さんに会釈した。唯衣子さんも﹁ごきげんよう﹂
と輝く月のような綺麗な微笑みを浮かべた。
﹁ああ、もうそんな時間か⋮。これからピアノを弾かないといけな
いんだ﹂
鏑木は中央に置かれているピアノで、雨にちなんだ曲を演奏する
らしい。それは女性達がさぞや色めき立つことだろう。でも鏑木っ
てなにげに自分の母親にこき使われているよね。
﹁大丈夫?なんだか疲れた顔をしているけど﹂
﹁⋮なんでもない。夜啼く鳥の毒気にあてられただけだ﹂
﹁夜啼く鳥?﹂
円城が首を傾げたが、私と鏑木はそれ以上の説明は避けた。
ふと視線を感じて前を見ると、唯衣子さんと目が合った。
あ∼⋮、今日の私のドレス選びはつくづく失敗だ。今夜の唯衣子
さんはその儚げな容姿を引き立たせる白いドレス姿だった。完全に
被ってる。華奢な唯衣子さんと派手顔の私とでは、どちらがより白
いドレスが似合うかは一目瞭然だ。こんな時のために替えのドレス
を用意してくるべきだった。いたたまれない⋮。
そんな私の心の葛藤も知らず、唯衣子さんは目が合っても逸らす
ことなく、でも話しかけるでもなく、ただ微笑んでいた。
2018
これは私がなにか会話の糸口を見つけるべきか⋮。
唯衣子さんは手に、グラスの縁に花をあしらったオーロラ状に何
層も分かれたピンク色の綺麗な飲み物を持っている。こんな飲み物
あったかしら?
﹁唯衣子さんは、なにを飲んでいらっしゃるのですか?﹂
唯衣子さんは自分の持っているグラスを持ち上げると、
﹁これ⋮?さぁ、なにかしら。飲み物が欲しいと言ったら、私のイ
メージに合わせて作ってくれたの﹂
﹁でも甘くておいしいのよ?﹂と微笑んだ。
そして会話が止まる。唯衣子さんは淡く微笑みながら見つめるだ
けで、自分から話題を提供する気はないらしい。え∼っと⋮。
﹁時間だ。行ってくる﹂
腕の時計を見て鏑木が言った。え、ここに私を置いて行っちゃう
の?
私の心の声が届いたのか、鏑木は﹁あ、そうだ﹂と振り向くと、
﹁吉祥院、七夕のそうめんを食べていけ﹂
﹁縁起物だぞ﹂と言うと、颯爽と立ち去って行った。
そうめんって⋮。なんというマイペース。そして私イコール食べ
物の図式を改めろ。でも、
﹁⋮えっと、鏑木様にお勧めいただいたので、せっかくですから私
はそうめんをいただいて参りますね?﹂
2019
無意識にでも逃げ道を作ってくれた鏑木に今回ばかりは感謝だ。
﹁ひとりで大丈夫?僕達も一緒に行こうか?﹂
冗談じゃない。なにを言っているんだ、円城は!ドレスの色被り
の気まずさに気づけ!
﹁あっ﹂
今度こそ、正真正銘の天の助けを見つけた!
﹁あちらに兄がおりました。私のことを探しているようなので行か
ないと﹂
お兄様!私はここです!
私に気づいたお兄様がこちらにやってきてくれたので、私はふた
りに笑顔で﹁では、また﹂と挨拶をして、お兄様の元へ向かった。
﹁麗華﹂
﹁お兄様!﹂
ああ、お兄様。やっと絶対安心安全な領域に戻ってこられた。今
日はもうお兄様の隣から離れない!お兄様の優しい笑顔に癒される。
﹁どこに行ったのかと思ったよ﹂
どうやら本当に探してくれていたようだ。
﹁ごめんなさい。伊万里様にご挨拶をしようかと⋮﹂
2020
﹁伊万里?﹂
お兄様は会場を見渡すと、
﹁麗華。伊万里の姿が無い時は、不用意に探しに行ってはダメだよ﹂
遅いアドバイスだったよ、お兄様。
﹁麗華は短冊に願い事は書いた?﹂
﹁まだです﹂
﹁じゃあこれから書きに行こうか﹂
﹁はい﹂
私は笑顔で頷いた。でもなにを書こうかな。期末テストで30位
以内に入りますようにとか切実な本音は書けないし、織姫にあやか
って手芸の腕が上達しますようにとでも書いておこうかな。
﹁麗華ちゃん、お久しぶり﹂
笹の近くまで行くと、愛羅様と優理絵様に声をかけられた。
﹁愛羅様!優理絵様!ごきげんよう﹂
﹁ごきげんよう、麗華ちゃん。吉祥院様もごきげんよう﹂
﹁こんばんは﹂
さっき見かけた時も相変わらず美しいと思ったけれど、愛羅様も
優理絵様も間近で見ると眩しい美貌だ。
﹁元気だった?麗華ちゃん﹂
﹁はい、とても﹂
2021
﹁雅哉には迷惑をかけられていない?﹂
優理絵様の問いに否定できずにいると、﹁雅哉にも困ったものね﹂
と苦笑された。
﹁困ったことがあったらいつでも私に言ってね。私が雅哉を叱るか
ら﹂
﹁よろしくお願いします﹂
私は深々と頭を下げた。その姿に愛羅様が﹁麗華ちゃんも苦労し
ているのね⋮﹂と同情してくれた。ええ、とても。とても苦労して
いるんです。
﹁麗華ちゃん達は短冊に願い事を書きにきたの?﹂
﹁はい、そうなんです﹂
﹁お願い事はなにかしら﹂
﹁手芸の腕が上達しますようにと書こうかと思っています﹂
﹁そういえば麗華ちゃんは手芸部に入っているのだったわね﹂
愛羅様と優理絵様は﹁学園祭にはぜひ見に行くわね﹂と言ってく
れた。学園祭かぁ。私も手芸部部長として恥じない展示物を出さな
くては。
それから私達4人は願い事を書いたり、他の短冊を眺めたりして
和気藹々と楽しんだ。結構俗物的な願い事もあったりして面白かっ
た。
﹁ほら、雅哉のピアノが始まるわよ﹂
ピアノの前に座った鏑木は鍵盤に指を乗せると、ドビュッシーの
雨の庭を奏で始めた。
2022
267
地獄の期末テストがやっと終わった││。
長かった⋮っ!そして苦しかった!
最終日最後のテスト科目が終わった瞬間、無理やり詰め込みまく
った公式や暗記が私の脳からしゅーっと音を立てて蒸発してお空に
消えていくのを感じた。まさに燃え尽きた。燃え尽きて燃えカス状
態の真っ白だ。
この数週間、本っ当につらかった。毎日鏑木から有言無言の圧を
ガンガンかけられ、半泣きで夜中まで鏑木式プリントを解く日々。
寝る直前まで問題集を開いていたせいで、毎晩夢見も悪かった。テ
スト直前には何かに追いかけられて必死で逃げるけど、足元の階段
が崩れ落ちる恐ろしい夢で目を覚ましたこともあった。走っても走
っても前に進まない恐怖にうなされた。
もちろん禁断のドーピングにも手を出した。すでに耐性がつきま
くって廉価品では効果がなくなってきている私は、今回も高価な栄
養ドリンクをがぶ飲みだ。私の部屋に勉強を教えにやってきたお兄
様が、ずらりと並ぶドリンクコレクションを見て絶句していた。
でも国立付属に通っている葵ちゃんは、毎日お風呂と食事の時間
以外のほとんどを受験勉強に費やしていると言っていた。上を目指
す受験生達は皆これくらい勉強しているんだと思ったら、私くらい
のオツムでは本気で受験態勢に入った優秀な生徒達には勝てない。
ドーピングは今回限りだと心配するお兄様を説得して、私は中毒街
道をひた走った。
同じ境遇にあったピヴォワーヌの後輩達からは﹁気のせいか、周
りの同級生達が自分より頭が良く見えるんです﹂等の弱音メールが
届いた。残念だけど後輩よ。それは気のせいではない。
栄養ドリンクを飲みまくり、ストレスから神経性胃炎を発症して
2023
胃薬を服用し、私達は一体どんなブラック企業に勤めているんだと
自問自答しながら、毎朝頭皮をチェックした。大丈夫。まだハゲは
できてない⋮。
そんな聞くも涙語るも涙のつらく苦しい日々とも、今日でおさら
ばだー!
﹁麗華様、このあと皆でどこかに寄って行きませんか?﹂
心の中で万歳三唱し、行儀悪く机に突っ伏してだら∼っとしたい
気持ちをぐっと我慢しながらカバンに筆記用具をしまっていると、
芹香ちゃん達がやってきた。
﹁まぁ!いいわね。ぜひ行きたいわ﹂
テストが終わった慰労会だね!行くよ!
菊乃ちゃんがタルトのおいしい素敵なお店を見つけたというので、
そこに行くことになった。
皆でなにを食べようかなぁ、今が旬のフルーツってなんだったと
盛り上がっていると携帯が震えた。胃に鋭い痛みが走る。
イヤだな∼、見たくないな∼と思いながらそっと着信メールを開
くと案の定迷惑メールが届いていた。
これからテストの反省会及び答え合わせをする
げーーっ!やっとあの地獄の日々から解放されたと思ったのに、
まだテストを引き摺る気か!絶対にイヤだ!もう泣いても笑っても
終わったんだから、答え合わせなんて必要ない!
鏑木は暇人なのか。さては円城しか友達がいないな。ぷくくっ。
友人との先約がございますので欠席します
と嫌味
無視していると返信するまでメール攻撃がくるのは経験済みなの
で、速やかに
2024
も込めたお断り返信をした後、即電源を落とす。
そしてその後ですぐ小心者の私は、こんなに強気な態度に出て鏑
木が怒ったらどうしようとちょっぴり不安になりながらも﹁さぁ、
早く参りましょう﹂と皆を急かして瑞鸞を出た。どうか鏑木が怒っ
ていませんように⋮。
﹁今回のテストはヤマが外れてしまったわ∼﹂
﹁でも赤点さえ取らなければ大丈夫でしょ﹂
﹁そうよね﹂
菊乃ちゃんお薦めのおいしいタルトに舌鼓を打ちながら、終わっ
たばかりのテストについて語り合う。
﹁麗華様は余裕ですよねぇ﹂
﹁そんなことないわよ﹂
ピヴォワーヌ内では、メンバーが50位以内を目標にガリガリ勉
強をしまくっていることは、対外的に洩らさないことが暗黙の了解
となっていた。ピヴォワーヌはあくまでも優雅な雲上人であって、
外部生と同じ立場で目の下にクマを作って必死に勉強をしている姿
など知られてはいけないのだ。どんなに暑く苦しくてもそれをおく
びにも出さず、顔だけは汗をかかずに涼しげに笑ってこその大女優。
﹁ねぇ。今年の夏休みは、皆でどこかに遊びに行きたいですよね﹂
と芹香ちゃんが言った。
﹁いいわね!﹂
﹁私、海外に行きたいわ!﹂
﹁素敵!﹂
2025
わぁ、楽しそう!
一気に全員のテンションが上がった。
﹁私は南の島に行って、水上コテージに泊まりたいわ﹂
﹁私は涼しいところがいいなぁ。北欧なんてどう?﹂
﹁お買い物もしたいなぁ﹂
水上コテージかぁ。いいなぁ。皆で夜通し海を眺めながらおしゃ
べりとか楽しそう。シュノーケリングもしたいなぁ。
フィジーだ、アンデルセンの国だ、アメリカだと話が盛り上がる。
﹁だったらスケジュールを合わせましょうよ。皆さんの夏の予定は
?﹂
私は今年の夏は受験対策で、塾の夏期講習にも行くし、時間があ
る時には瑞鸞が主催する特別補習にも参加する予定だ。
瑞鸞の補習授業は一流の教師陣を集めているだけあって、かなり
内容が濃い。家庭教師にマンツーマンで教えてもらっているピヴォ
ワーヌメンバーや、とりあえず付属のエスカレーターで上まで行け
ればいいや∼という生徒達以外の、勉強熱心で真面目な生徒達が毎
年参加をしている。
う∼ん。でもそうなるとあまり長い休みはないなぁ。
他の子達も家族旅行や色々予定が入っていて、全員の予定が合う
連休は精々数日だった。
﹁この日数だと海外はムリね﹂
﹁そうですね﹂
あれだけ上がった全員の気分がしゅるしゅると盛り下がった。
2026
﹁でも、国内旅行も楽しいと思うわよ﹂
海外もいいけど、私としてはお友達と夏休みに出かけること自体
が楽しみなので、場所はそこまでこだわらない。それなので国内で
もいいじゃないとフォローする。
そこでハッと気が付く。さきほどからニコニコと皆の話を聞いて
いるだけだった芙由子様はどう思っているのだろう。おっとりした
芙由子様はこういう時には話題に入って来ない︵入れない?︶のだ。
でもピヴォワーヌの芙由子様は国内小旅行なんてしょぼいと思っ
て不満かもしれない。それどころか旅行も行きたいと思っていない
かも⋮。
﹁芙由子様はどうですか?﹂
そんな思いで芙由子様に意見を聞くと、芙由子様はにっこりと微
笑んだ。
﹁いいですわね。私、国内で行ってみたい場所がたくさんあります
のよ﹂
⋮芙由子様が行きたい場所。恐山か物部村かしら⋮。
﹁たとえば⋮?﹂
怖いもの見たさで聞いてみる。せめて遺跡巡りとかで留まってい
て欲しい。
﹁そうですねぇ。青森とか⋮﹂
2027
やっぱり恐山だー!
オカルト芙由子様はこちらの予想を裏切らない。
芙由子様は私にズズッと顔を近づけた。
﹁麗華様はキリストのお墓がある戸来村という場所をご存じかしら﹂
恐山以上にマニアックなことを言いだしたー!
芙由子様は﹁へー⋮﹂と生返事を繰り返す私を物ともせず、怪し
げなキリスト渡来伝説を目を爛々と輝かせながら語り続けた。
夏の小旅行はオカルトとは縁のない明るい避暑地に行くことが決
定した。
瑞鸞でも期末テストから夏休みまでの間に少しだけ試験休みがあ
る。この試験休み中に赤点を取った生徒には学校から補習と追試の
連絡があるんだけど、さすがに私はあれだけ勉強をしたので今回は
大丈夫だと思う。でも部活やなんだかんだで登校する予定だけどね。
今日も手芸部のウェディングドレス制作のために、テストが終わっ
た次の日だというのに、学校に来ている。戦力にはあまりならない
けど、これでも一応部長なので。
﹁おっ﹂
﹁あら﹂
階段を上った先の廊下に、同志当て馬がいた。
私が目礼をすると、同志当て馬は片手を上げて応えた。
2028
﹁ごきげんよう﹂
﹁おはよう。試験休み中にどうした﹂
﹁部活がありまして﹂
﹁あぁ、手芸部か⋮﹂
﹁よく知っていますね﹂
私が入部している部活名を同志当て馬が覚えていることに驚くと、
﹁去年の学園祭の予算会議の時に、俺の目の前で運動部の連中を脅
して恐怖のどん底に突き落としておきながら、なにを言うか﹂
あ∼、そんなこともありましたねぇ。でも恐怖のどん底なんて大
袈裟な。首に扇子を当てて、ちょ∼っとお願いしただけですよ?
﹁今年の予算会議では頼むからおとなしくしていてくれよ﹂
﹁それは運動部の出方次第でしょう﹂
同志当て馬は﹁頭が痛い﹂と額に手をやった。
﹁水崎君こそ、今日はどうしたんです?﹂
﹁俺は生徒会の用事﹂
﹁大変ですわねぇ﹂
﹁夏休みが明けたら代替わりだしな。やることが色々あるんだ﹂
そうか。二学期になったら生徒会長選挙があって、同志当て馬も
その座を退くんだ。
なんだか卒業が刻一刻と迫ってきている感じがして、寂しいなぁ。
﹁ピヴォワーヌは年末まで代替わりしないんだっけ?﹂
﹁そうですね﹂
2029
ピヴォワーヌの会長の仕事は生徒会長ほど無いので、年末いっぱ
いまで代替わりしない。
﹁そうなると年内はピヴォワーヌの会長が瑞鸞の皇帝のままか。そ
れは二年の新生徒会長には荷が重すぎるだろ⋮﹂
私は今いる生徒会の顔触れを思い出した。あの中の二年生で鏑木
に意見できそうな子はいないなぁ。そもそもあの鏑木に意見できる
人間が全校生徒合わせても一握りなんだけど。
﹁生徒会長が代わっても水崎君が助けてあげれば大丈夫よ。きっと
⋮﹂
﹁そうだな⋮﹂
私の完全な気休めの台詞に、﹁せめて次のピヴォワーヌ会長は穏
健派であってくれ⋮﹂と同志当て馬が諦めのため息をついた。
﹁ああ、そうだ。会長と言えば、そっちの会長に俺が礼を言ってい
たと伝えておいてくれないか﹂
﹁お礼?﹂
同志当て馬が鏑木に?
首を傾げる私に、同志当て馬が説明してくれた。
﹁あの日、騒動を収めてくれたことだよ。ピヴォワーヌの会長が一
喝してくれたおかげで、あれからピヴォワーヌの生徒達の目に余る
傍若無人な行動の報告も上がってこなくなった。まだそれほど日数
が経っていないから、ほとぼりが冷めたらわからないけど、今のと
ころは皇帝の威光は相当効いているようだ﹂
2030
﹁そうですか﹂
﹁正直に言うと、騒ぎの発端となった外部生にピヴォワーヌの生徒
が報復するんじゃないかと警戒していたんだけどさ﹂
それは、鏑木式スパルタ勉強に心身ともに追い込まれていて、報
復するどころじゃなかったからね⋮。
﹁俺の代では生徒会とピヴォワーヌの軋轢は解消できなかったけど、
次代にはお互い仲良くやってもらいたいと思っているんだ﹂
えっ、そんなことを考えていたの?!
目を見開いた私に、同志当て馬は苦笑いすると、
﹁世話になった友柄先輩の意志を継いで、なんとか歩み寄れる道を
探そうとしたんだけど、全然ダメだったなぁ⋮﹂
と心情を吐露した。
﹁どうしても感情が先に立って、友柄先輩みたいに上手いこと立ち
回ることができなかった﹂
己のふがいなさを自嘲する同志当て馬に、私は泡を食った。ええ
っ?!こういう時には何と言ったらいいの?!
確かに友柄先輩が生徒会長の時はピヴォワーヌとの大きな衝突も
なかったし、平和な代だった。でもその時はこちらの会長も好戦的
な人ではなかったのもあると思う。そもそも誰にでも分け隔てなく
気軽に声を掛けられる太陽のように明るい友柄先輩と同じことを、
他の人は簡単に真似できないよ。
﹁友柄先輩は特別だから⋮﹂
2031
しまった。言葉が足りなかった!同志当て馬が目に見えて落ち込
んだ⋮。
﹁えっとでも、水崎君も頑張っていたと思うわよ!この前の騒動の
時もピヴォワーヌから外部生を守ろうと戦っていたし、生駒さんの
時だって穏便に済むように行動していたじゃない。立派な生徒会長
だよ。ピヴォワーヌとの仲だって、ここだけの話、あの先代の瑤子
様と生徒会が上手くやることはムリだったと思うもの。運が悪かっ
たのよ﹂
そしてその次の会長が興味のないことには我関せずの鏑木だもん。
同志当て馬は運が悪すぎた。
﹁ありがとう﹂
どうにか同志当て馬の顔に笑顔が戻った。良かった。言葉足らず
な私のせいで傷つけたら申し訳ないからね。
﹁ピヴォワーヌが迷惑をかけているお詫びに、今度水崎君の大好き
なお城の模型を差し入れしますね﹂
﹁いらない﹂
間髪をいれずに断られた。なんだよ。せっかくの私の厚意なのに。
不満が顔に出ていたのか、同志当て馬が小さく吹き出した。失敬
な。
﹁吉祥院がピヴォワーヌの会長だったら、もっと上手くやっていけ
ていたかな﹂
﹁それはない!﹂
2032
私のきっぱりとした否定に、今度は同志当て馬が驚いた。
﹁なんで﹂
﹁私がピヴォワーヌの会長になっていたら、生徒会と仲良くなる前
に神経性胃炎で病院送りなっていたはずだから﹂
今だって会長でもないのに、どれだけ苦労しているか。
鏑木が持ってくる厄介事や我がままに付き合わされ、そのフォロ
ーに回り、最近だって必ず50位以内に入るべしとのペナルティを
課せられた後輩達から毎晩届く泣き言メールに励ましの返信をして
睡眠時間が削られている。しかもテストが終わっても結果がでるま
で気が気じゃないと今も泣き言メールが途切れない。返信をしたら
またその返信が届く。メールの終わりってどうすればいいの?
鏑木なんて会長になっていなかったら、今よりももっと自由勝手
に突っ走っていたと思うし、あれを私が会長として止めるなんて絶
対にムリ。はっ!私の苦労の大半は鏑木が原因じゃないか!
﹁あ∼、吉祥院も頑張れよ⋮﹂
﹁ありがとう⋮﹂
同志当て馬の気の毒そうな目が心に痛い。
2033
268
手芸部に着くと、すでに何人かの部員が学園祭で展示する手芸部
名物のウェディングドレス制作の作業をしていた。
﹁ごきげんよう、麗華様﹂
﹁ごぎげんよう。皆様、朝から精が出ますね。私もなにかお手伝い
できることがあるかしら﹂
﹁では部長はこの部分の刺繍の続きをしてもらってもいいですか﹂
﹁わかったわ﹂
ウェディングドレスの刺繍は、刺繍の達人である2年生の南君が
中心で進められている。
南君の刺繍は繊細でプロでも通用するんじゃないかと思うくらい
綺麗で美しい。
私は細かい手作業の刺繍が苦手で全く上達しないので戦力外とし
て、今年も部長なのにドレスの裾の目立たない場所を担当している。
不器用で下手な部員でもドレス制作に参加させてあげる優しさがこ
の手芸部の良さだね。
﹁麗華様﹂
流れるような南君の刺繍の手技をすごいな∼と見惚れていると、
名ばかり部長の私をサポートして、実質手芸部を動かしている副部
長が私の隣にやってきた。
﹁実はご相談がありまして﹂
﹁なにかしら﹂
2034
副部長は内緒話をするように手で口元を隠すと、小声で
﹁私は次の手芸部部長は、南君が良いと思うのですけど、麗華様の
お考えはいかがでしょうか﹂
﹁次の部長⋮﹂
そうか。すっかり頭から抜けていたけど、同志当て馬が生徒会長
を代替わりする時期なら、手芸部部長も代替わりする時期というこ
となんだな。そっかぁ⋮。
﹁そうね。南君でしたら手芸の実力も折り紙つきで次代の部長にふ
さわしいと私も思います﹂
男の子なのに手芸部に入部するくらい手芸愛が強い子だしね。私
よりも何倍も素晴らしい部長になって、手芸部を発展させてくれる
ことだろう。
それは私の手芸部引退も近いということで、胸の奥に寂しさが押
し寄せてきた。まだ1学期も終わっていないのに、今から寂しがっ
ていたらしょうがないのになぁ。
センチメンタルになった私に、副部長は﹁それともうひとつ﹂と
言った。
﹁麗華様、ウェディングドールを作ってみませんか﹂
﹁ウェディングドール?﹂
意外な提案に私は目を瞬いた。
ウェディングドールってあれでしょ。結婚式の入口や受付でウェ
ルカムボードと一緒にお客様を迎える、動物やキャラクターでデフ
2035
ォルメされた新郎新婦のぬいぐるみ。
﹁今回のドレスと同じものを着せたウェディングドールを作って、
それを展示したドレスの近くにウェルカムボードと一緒に飾る趣向
はどうかなと思うんです﹂
﹁まぁ、それは可愛いわね﹂
ミニチュアの可愛いぬいぐるみが豪華なドレスと共にお出迎えか。
いいと思う。
﹁でも私でいいのかしら﹂
自分でいうのもなんだけど、私は手芸は好きだけど腕はないよ。
そんな目立つ展示物を私が作って大丈夫か?
﹁もちろんです。手芸部の顔である麗華様が作ることに意義がある
んですよ。これは私だけではなく、手芸部員全員の総意です﹂
副部長の﹁どうぞ麗華様の3年間の手芸部への思いを込めて作っ
てください﹂という言葉に胸が詰まった。部長なのに最後まで不器
用すぎてウェディングドレスの主要制作にすら携われない私に花を
持たせようとしてくれているんだな。その気持ちが嬉しい。
﹁うん。頑張る⋮﹂
なんだか気を抜くと涙が出そうだったので、唇をぎゅっと結んで
頷いた。そんな私を母の如き慈愛の笑顔で副部長が見守ってくれた。
周りからも温かい視線を感じる。私、手芸部に入って良かったよ。
どこまで上手に作れるかわからないけど、精一杯素敵な作品を作
るよ。
2036
﹁それで、具体的にどうやって作ったらいいのかしら﹂
世の中にはウェディングドールの簡易キットなんてものも売られ
ているけど、さすがにそれを使って作れというわけじゃないよね?
﹁麗華様といったらニードルフェルトではありませんか。ですから
ニードルフェルトで作ってみませんか﹂
ニードルフェルトか!それだったら慣れているから私でもできる
かも?!
﹁わかったわ!﹂
﹁今回の目玉作品のひとつですから、ある程度の大きさの物を作っ
てもらわないといけないので、大変ですよ﹂
﹁大丈夫よ!頑張るわ!﹂
私は張り切った。
﹁人形に着せるドレスはウェディングドレスとそっくり同じものを
別に作って着せてくださいね﹂
うっ⋮、ドレスはフェルトで作るんじゃなく手縫いか。一気に難
易度が上がったな。ミニチュアとはいえ、この緻密なデザインのド
レスと同じものを作るのか⋮。作りかけのウェディングドレスに目
を馳せて、一瞬心が挫けそうになったけど負けない!
他の部員達からも﹁頑張ってください麗華様!﹂﹁私達もお手伝
いします!﹂と励ましの声援が掛かった。ありがとう!
﹁それで、ぬいぐるみは何をモチーフにしたらいいのかしら。人気
2037
のあるものだとうさぎや猫などよね?﹂
﹁それはもちろん、モデルは麗華様ですわ!﹂
﹁えっ、私?!﹂
私がモデルの人形?!
﹁麗華様は手芸部の顔だと言ったではありませんか。その手芸部の
看板である麗華様のお人形で、お客様をお出迎えするのです!﹂
副部長はどうです、素晴らしいでしょうといった顔をしているけ
ど、私は自分で自分の人形を作るの∼?!それって傍から見ると相
当なナルシストっぽくない?!
﹁それはちょっとどうかしら⋮﹂
しかも自分で作った自分そっくりな人形にウェディングドレスを
着せるって、ナルシストを通り越して痛い人と思われる可能性も⋮。
﹁いいえ!ここだけは譲れません!今回、麗華様モデルのウェディ
ングドールを作ることは前から決定していたので、仮に麗華様が制
作しないと言っても私か他の誰かが作ることになりますから﹂
﹁ええっ?!﹂
前から決まっていたの?!私、部長なのに今聞いたんだけど?!
﹁麗華様、お客様の心に残る素敵な作品を作りましょうね!﹂
爆笑の意味で心に残る作品になったらどうしよう⋮。
2038
具体的なウェディングドール制作の打ち合わせと刺繍作業で疲れ
た私は、帰りにピヴォワーヌのサロンに寄ってお茶を飲んで帰るこ
とにした。
普通のウェディングドールはウェルカムボードのサイズに合わせ
た、手のひらサイズのものが多いけど、私が作ることになったドー
ルは目立たせるためにも両手で抱えるような大きなものを作ること
になった。
安請け合いしちゃったけど、大丈夫かなぁ。いまさら心配になっ
てきたよ。
サロンの扉を開けると、試験休み中なのでメンバーはいなかった。
これは貸切か?!
と思ったら、ピアノの奥で人影が動いた。
﹁誰?﹂
それは私の台詞。
でもその声には思いっ切り心当たりがあったので、ソファからゆ
らりと立ち上がった男子生徒の姿に私は驚かなかった。
﹁吉祥院さん⋮﹂
﹁ごきげんよう、円城様﹂
逆光で黒髪が原作さながらの蜂蜜色に輝いた円城がいた。
なんでサロンに寄って帰ろうなんて考えちゃったかなぁ、私は。
お茶なんて外のカフェで飲めば良かった⋮。
﹁試験休みなのにどうしたの?﹂
2039
円城は私を見ながら不思議そうな顔をした。普通の生徒はせっか
くの休みに登校なんてしないもんね。
﹁え、まさか追試⋮﹂
﹁違いますよ!﹂
不吉なことを言うな!
﹁そうだよね、ごめん。吉祥院さんは勉強頑張っていたもんね﹂
私の剣幕に円城は素直に謝罪した。
﹁雅哉も吉祥院さんだったらたぶん大丈夫だろうと言っていたよ﹂
鏑木に私の努力が認められていた!
﹁ただ、名前さえ書き忘れなければなとも言っていたけど﹂
﹁やめてください!﹂
恐ろしいことを言わないで!えっ、私ちゃんと名前を書いたよね
⋮?書いた、よね⋮?自信がなくなってきた。今すぐ職員室に行っ
て記名確認をしたい。
﹁ごめん、ごめん。冗談だよ。そんな深刻そうな顔をしないで﹂
﹁円城様は言霊というのをご存じですか⋮﹂
恨みがましい目で睨みつけてやると、円城は笑いながら降参する
ように両手を上げた。
2040
﹁それで?今日はどうしたの?﹂
﹁私は部活です﹂
﹁あぁ、そっか。手芸部ね﹂
同志当て馬といい、皆当たり前のように私の所属部活を知ってい
るのね。円城の場合は親友の鏑木が手芸部に乗り込んできたことも
あったし、知っていてもおかしくないけどね。
﹁円城様こそ、どうされたのですか?﹂
常に成績トップ争いの中に入っている円城に限って、赤点を取っ
て呼び出されたなんてことはありえないしね。
﹁僕?う∼ん、家にいると煩わしいことも多いから、避難してきた﹂
円城はピアノにもたれかかりながら、軽い口ぶりで﹁その行き先
が学校っていうのも情けない話だけどね﹂と続けた。
﹁でも休み中の学校は人も少ないし関係者以外立ち入り禁止だから、
案外良い避難スポットなんだよね﹂
﹁なるほど⋮﹂
深くは追及しないけど、円城にも色々あるのでしょう。
﹁せっかく来たんだから、吉祥院さんもゆっくりしていきなよ﹂
そして誘導するように自分が今まで座っていた日当たりの良いソ
ファの一角を手で示した。え、同じテーブルを囲むの?
﹁なにを飲む?﹂
2041
この状況でにっこり微笑んで尋ねる相手に、私は帰りますと断る
のはさすがに感じが悪すぎるよなぁ⋮。
﹁⋮ではミントティーを﹂
蒸し暑い季節に合うハーブティーを選んで、私は日が直接当たら
ない場所を選んで座った。
円城は﹁わかった﹂と言ってコンシェルジュに飲み物を頼むと、
私達の席に近い窓だけ薄物のカーテンを閉めてから、自分も席に着
いた。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
小心者の私は沈黙に耐えられない。なにか話題はないか。共通の
話題は⋮。
﹁円城様は期末テストはいかがでしたか?﹂
﹁別に、いつも通りかな﹂
それはいつも通り、全科目のほとんどを完璧に解答できたという
ことですね。
﹁例の1年生達は雅哉に答え合わせをされて、青ざめていたけどね﹂
﹁うわ∼⋮﹂
それはメールでも報告があった。確実に不正解だった問題がいく
つかあって、周りの結果次第では50位以内はギリかもしれないと。
あとは他の生徒がしくじっているのを祈るだけですと他人の不幸を
2042
願う暗いメールは、こちらにも厄が飛んできそうなので即刻削除し
た。
﹁吉祥院さんは上手く逃げたよね﹂
それはテストの反省会のことかな。
円城がニヤリと笑って言ったので、﹁私はお友達とテストが終わ
ったお祝いに出かける予定が入っていたものですから﹂と返した。
誰がせっかく終わったテストの反省会なんてしたいものか。
﹁円城様も参加したんですか?﹂
﹁まぁ、僕は見ているだけだったけど一応ね。それですべての答え
合わせが終了した時にすっかり気落ちしていたから、慰めがてら帰
りに食事に連れて行ったよ。雅哉も一緒にね﹂
そんなフォローもしていたのか⋮。
﹁円城様も大変ですねぇ⋮﹂
﹁わかってくれる?﹂
﹁ええ。もちろん﹂
私は大きく頷いた。私だって鏑木には苦労させられている。
﹁吉祥院さんも雅哉に巻き込まれて、苦労しているもんね﹂
﹁そうですね﹂
と頷いたけれど、あれ?考えてみれば、鏑木の起こす面倒事によ
く私を巻き込むのは、目の前の円城では⋮?
﹁あれは子供の頃から猪突猛進だからなぁ﹂
2043
﹁一番大変だった出来事はなんですか?﹂
﹁一番といえばやはりあれだよ。1年の冬休みに突発的に旅に出た
雅哉を追いかけて行ったこと﹂
あぁ、優理絵様に振られたショックで失恋旅行に出た時か。
﹁真冬の日本海から吹き荒れる海風は、想像を超える冷たさだった
よ﹂
﹁それは⋮、お疲れ様でした﹂
﹁ほんとだよ。優理絵もさぁ、振るならせめて秋にして欲しかった
よねぇ﹂
﹁そういう問題ですか?﹂
﹁切実な問題だよ﹂
円城は﹁冬の樹海の寒さをなめちゃいけない﹂と真顔で言った。
相当つらかったようだ。
﹁それだけ迷惑をかけられているのに、円城様はどうして鏑木様と
一緒にいるのですか?﹂
いつも疑問だったんだよね。一方的に迷惑をかけられているのに、
どうして円城は鏑木の面倒をみているのだろうと。
﹁変かな﹂
﹁う∼ん⋮。変ではないですけど⋮﹂
円城は﹁友達でいることに明確な理由なんてないと思うけど﹂と
言った後で、
﹁雅哉はさ、一見無表情に見えるからわかりにくいけど、中身は真
2044
っ直ぐで裏表がないから一緒にいて楽なんだよね。それと人に対し
て誠実だから、雅哉だけは僕を裏切らないという絶対的な安心感か
な。なにより突拍子もない部分が見ていて楽しいんだ﹂
と、円城は笑った。その優しい表情からは本当に親友の鏑木を信
頼して好きなのが伝わった。
⋮確かに鏑木が真っ直ぐな性格なのは、今回の外部生とのいざこ
ざの収め方で私もわかったけどね。
そう言いながらも円城はこれまでの鏑木による苦労話を面白おか
しく語って聞かせ、私も鏑木にスーパーに連れて行かされ、鏑木が
実演販売に引っかかりまくっていた話をして円城に大いに受けた。
実演販売の野菜ジュースとメロンを両手に持つキング・オブ・カモ
の鏑木の姿を想像させると、円城は大笑いした。
﹁恋をした雅哉はさらに厄介なんだよなぁ﹂
﹁そうなんですよねぇ﹂
私はミントティーをおかわりして、サイドメニューを注文できな
い内弁慶君の話を円城にした。円城はそれを上回る鏑木の内弁慶秘
話を教えてくれた。私は笑い過ぎて息ができなくなった。
結論。その場にいない人の悪口って楽しい。
2045
269
若葉ちゃんに試験休み中にお家に遊びに行っていいか聞いたら﹁
ぜひ来て!待ってる!﹂と快諾してもらったので、今日はフルーツ
シャーベットを手土産に高道家に遊びに来た。
﹁吉祥院さん、いらっしゃい!﹂
﹁若葉ちゃん!﹂
最寄駅を出ると、いつものように若葉ちゃんが迎えにきてくれて
いた。
﹁暑いのに待たせてしまってごめんね﹂
﹁平気、平気﹂
若葉ちゃんは今日も元気いっぱいの笑顔だ。私と若葉ちゃんはて
くてくと歩く。
﹁そうだ。今日はお店に生駒さんがいるんだよ﹂
﹁えっ!生駒さん、まだバイトを続けていたの?﹂
﹁私はもういいよって言ったんだけどね∼﹂
と若葉ちゃんが眉を下げて笑った。
﹁でも生駒さんに、けじめですから夏休みが始まる前までは時間が
ある時だけ続けさせてくださいって言われちゃって﹂
﹁そうなの﹂
2046
生駒さんは思った以上に責任感があったらしい。
﹁鏑木様とは最初にニアミスして以来、生駒さんが会うことはなか
ったのかしら﹂
﹁うん。テスト期間もあったし、ふたりが会ったのはあの1回だけ
だよ﹂
﹁それなら良かったわ﹂
滝行に行った時に生駒さんが、鏑木様が来店した!とかなり興奮
していたから、何度も遭遇したらまずいなと心配していたんだよね。
﹁鏑木君が来たのは、生駒さんがテスト勉強でお休みしていた時だ
ったから﹂
﹁えっ!あれからまた来たの?!﹂
若葉ちゃんがさらっと驚くことを言った。私に隠れてどれだけ通
っているんだ、あいつは!
﹁うん。ほら、1年生が揉めた時があったでしょ。あの少し後に不
愉快な思いをさせてごめんって、わざわざ謝りにきてくれたんだ﹂
鏑木式スパルタ勉強で私と1年生を扱いている間に、そんなこと
をしていたのか!
私もあの日のことはすぐに若葉ちゃんに電話をして止めに入れな
くてごめんねと謝ったけど、知らない間に鏑木も動いていたとは。
1年生達の勉強を見て、私専用のプリントを作って、自分の試験
勉強もしているのによく若葉ちゃんに会いに行く時間まで作れたな。
超人か?!
﹁そうだったの﹂
2047
﹁うん。私としてはあの場で後輩に代わって謝罪してくれただけで
充分だと思っていたのに、直接謝りたかったって言ってくれたんだ﹂
⋮それって会うための口実だと勘繰ってしまうのは、私の心が荒
んでいるせいでしょうか?
﹁でもあの時もだけど、鏑木様が謝罪するなんて、若葉ちゃんも驚
いたでしょう﹂
あれは衝撃だったもんね。まさか瑞鸞の皇帝が頭を下げるなんて
ね。
﹁う∼ん?そうだね。でも、前に私の乗っている自転車と接触事故
を起こした時も、家まで来て謝罪してくれたし、鏑木君は自分が悪
いと思ったらきちんと謝れる人だと思う﹂
へぇ、若葉ちゃんの中では鏑木はそういう評価なのか⋮。
﹁あの状況で潔く謝罪ができる鏑木君を、私は尊敬したよ﹂
﹁そうだね。謝るって簡単そうで難しいからね﹂
プライドの問題があるから。私があの日の鏑木の立場だったら、
衆目の中、好きな人の前で毅然と謝罪できたかなぁ⋮。
でも若葉ちゃんはあれを見て鏑木を尊敬したのか。鏑木と若葉ち
ゃんの間にあったように見えた深い溝は、実はなかった?
﹁そうだわ。私も水崎君に、鏑木様にあの時のことでお礼を言って
おいて欲しいと頼まれたのよね。まだ伝えていないのだけど﹂
今度の登校日の時にでもサロンで言えばいいかな。あっ、今度の
2048
登校日は期末テストの成績発表があるんじゃないか!⋮恐ろしい。
成績次第では全速力で逃亡だ。
﹁あぁ、水崎君ね∼。あの後少し、凹んでいたんだよね。私達だけ
では抑えきれなかった騒動を、サッと来てサッと鎮められちゃった
からさ。あいつはやっぱり凄い、とか言っちゃって﹂
へぇ⋮。同志当て馬は若葉ちゃんにそんなことを言っていたんだ。
﹁でも水崎君も生徒会長として頑張っていると思うけど﹂
﹁うん、水崎君は頑張ってる。私もかなり助けてもらっているもん。
でも理想が高いのか、自己評価は低いんだよねぇ﹂
同志当て馬の目標は友柄先輩だからね⋮。
﹁私は水崎君はもっと自信を持っていいと思うんだけどね!﹂
と、同志当て馬の頑張りを身近で見ている若葉ちゃんは、握り拳
を作って主張した。
﹁若葉ちゃんは水崎君と仲が良いのね﹂
﹁そうかな?私が一方的にお世話になっている感じだけどね﹂
﹁だから私も水崎君の力になりたいと思っているんだよね﹂と言っ
て、若葉ちゃんはえへへと笑った。そのためにも生徒会が代替わり
するまで同志当て馬を全力でサポートする心づもりでいるらしい。
これは後輩の非礼を口実にしないと会えない鏑木は、同志当て馬に
何十歩もリードされているぞ⋮。
﹁到着︱!﹂
2049
若葉ちゃんの家のケーキ屋さんに着くと、中から生駒さんが出て
きた。
﹁おかえりなさい、高道さん。ごきげんよう、麗華様﹂
﹁ごきげんよう、生駒さん﹂
生駒さんは私達を見比べて、﹁本当にお友達だったんですねぇ⋮﹂
と呟いた。そうなのよ。
﹁生駒さんは、今日もバイトをしているのですってね﹂
﹁はい。でも今日はこれで終わりなんです﹂
言われてみれば、エプロンも外して私服姿だ。
﹁あら、そうなの?でしたら⋮﹂
私が若葉ちゃんを見ると、若葉ちゃんも頷いて
﹁だったら生駒さんも家に寄って行きなよ﹂
﹁私、おいしいシャーベットを買ってきたのよ﹂
﹁わぁ!生駒さん、一緒に食べようよ!吉祥院さんの手土産は、毎
回すっごくおいしいんだよ!﹂
﹁あ、でも⋮﹂
と生駒さんが躊躇う素振りをみせたので、﹁なにか予定があるの
?﹂と聞いた。
﹁はい。あの、これからちょっと塾が⋮﹂
﹁あー⋮﹂
2050
それじゃムリに引き止められないか。
﹁あれっ、生駒さんが通っている塾ってもう夏期講習が始まってい
るの?﹂
﹁ううん。夏期講習は夏休みが始まってからで今日は通常授業。授
業は夕方からなんだけど、それまでに自習室で予習をしようと思っ
て﹂
塾の前にちゃんと予習もしているんだ。偉いなぁ。私もやろうと
は思うけどいつもできない。
﹁私も今年の夏は塾の夏期講習に行く予定なんだ。それと瑞鸞の特
別補講も受けるつもり﹂
﹁あ、私もです﹂
﹁ふたりとも?私も夏期講習と学院の補講を受けるのよ﹂
私も同調すると、ふたりに驚かれた。塾はともかく学校の特別補
講に私が出るとは思わなかったらしい。そうだよねぇ。私の友達は
誰も出るつもりないみたいだもん。補講を受けるのはいいけど、親
ピヴォワーヌの麗華様
なのに、周りがグループで固まってい
しい子が誰もいない教室でひとりぼっちは少しきついなぁ。特に私
は
る中で誰からも話しかけられず、ポツンとしているのは厳しいよ∼。
よし、教室にはギリギリで行こう⋮。
でも⋮と私は考えた。元から頭が良い外部生のふたりと同じ勉強
量では、まずいんじゃないの?
﹁ふたりは今年の夏の予定は?﹂
﹁今年は勉強で終わりそうだなぁ。私はお店の手伝いもあるけど﹂
﹁私もそんな感じです﹂
2051
﹁⋮家族旅行とかは?﹂
﹁今年はムリだと思います﹂
﹁そうだね∼﹂
家族旅行どころか、友達と小旅行まで計画している私は、受験生
としての自覚がなさすぎだったか?!塾の夏期講習だけじゃなく学
校の特別補講も受けるので、自分としてはかなりやる気を出してい
るつもりだったんだけど、これじゃ全然足りないのかも⋮。あぁっ
!それに手芸部もあるじゃないか!ウェディングドール制作を引き
受けちゃったよ!
若葉ちゃん達が受験生の平均勉強量だとしたら、夏休みが終わっ
た時に他の生徒達に差をつけられまくっているんじゃない?!私っ
てばアリのつもりがキリギリスだったの?!
若葉ちゃん達は私の焦りをよそに﹁お互いが受ける夏期講習のテ
キストを見せ合おうよ﹂などと話していた。違う塾同士のテキスト
を交換して、さらにそれで勉強をするつもりらしい。わぁ⋮。帰っ
たら夏休みの受験勉強スケジュールを立て直そう⋮。
それから、生駒さんが帰るのを見送ってから家に入ると、若葉ち
ゃんが私の持ってきたシャーベットをさっそく食べようと、スプー
ンを用意してきた。
﹁吉祥院さんはどれがお薦め?﹂
﹁私はマスカットが好きよ﹂
﹁だったらそれにする。吉祥院さんは?﹂
﹁では私はグレープフルーツにするわ﹂
﹁コンビニのアイスとは味が全然違∼う!﹂と喜びながら味わう
若葉ちゃんに倣って、私も果汁たっぷりのシャーベットを食べなが
ら、勉強の相談をした。
2052
﹁ふたりの話を聞いていたら、焦ってきちゃって。旅行や出かける
予定があるぶん、私の勉強量はふたりに比べて少ないと思うの。私
が夏休みに遊んでいる間にも他の子達は勉強していると思ったら、
このままじゃいけない気がして﹂
﹁そっかぁ﹂
スプーンで口をトントンと叩きながら、若葉ちゃんは﹁う∼ん﹂
と唸った。
﹁でも私も、旅行は行かないけどお盆にはお墓参りや親戚の家に行
ったりもするよ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁うん。それに生徒会の仕事もあるし﹂
私の手芸部の夏休みの活動が、若葉ちゃんにとっての生徒会かな。
﹁偉そうなことは言えないけど、勉強は時間より質だと思うよ﹂
質か⋮。そうなんだよね。私もきっと時間を作ろうと思えば作れ
るんだよね。でもひとりで勉強をしているとすぐに気が散っちゃう
んだよ。だからいつもダラダラ勉強しているわりには結果がでない
んだよ。
﹁ひとりだと、つい別のことに気を取られてしまって⋮﹂
﹁あはは、わかる﹂
本当?若葉ちゃんは鏑木と同じ集中型だと思うけど。
﹁だったら私と一緒に勉強する?﹂
﹁えっ!若葉ちゃんと一緒に?!﹂
2053
﹁吉祥院さんも瑞鸞の特別補講を受けるんでしょ?その時の空いて
いる時間に一緒にやろうか﹂
若葉ちゃんは﹁苦手な教科を教え合おうよ﹂と言ってくれた。あ
りがとう!でも私に苦手教科はあるけど、特待生の若葉ちゃんに私
が教えられる分野が果たしてあるかな?
私と生徒会役員の若葉ちゃんが学院内で仲良く勉強するのは、注
目を浴びすぎて難しいかもしれないけど、夏休みに若葉ちゃんとぜ
ひ勉強会をしたいなぁ。
そこへ中学校から帰ってきた寛太君が﹁腹減ったー﹂と言ってリ
ビングに入ってきた。
﹁あれ、コロネ来てたんだ﹂
﹁寛太!吉祥院さんって呼びなって言ってるでしょ!﹂
﹁いいわよ、若葉ちゃん。お邪魔しています、寛太君﹂
﹁うっす﹂
もうすっかり高道家ではコロちゃん呼びが定着しちゃっているん
だから、いまさら気にしない。若葉ちゃんは﹁せめて敬語を使いな
よ∼﹂と注意しているけど、それもいまさらだよ。
しかし冷蔵庫を漁る寛太君は会う度に背が伸びている気がする。
成長期だな∼。
﹁お昼ごはん食べてきたんじゃないの﹂
﹁食べたよ﹂
それでも育ち盛りの男子中学生は、すぐにお腹が空くらしい。
冷凍庫を開けた寛太君は﹁うどんでいいか﹂と、冷凍うどんを取
り出した。
2054
﹁姉ちゃんとコロネも食べる?﹂
﹁私は夕飯が食べられなくなると困るからいいや﹂
﹁じゃあコロネだけだな。コロネ、暑いから冷やしでいい?﹂
え、私は食べることが決定しているの?
﹁私もいいわよ﹂
﹁遠慮すんなって﹂
若葉ちゃんは食べないみたいだし、私だけ図々しくごちそうにな
るのはどうなんだろう。でも寛太君はそんな私を無視して、キッチ
ンに立つと手際良く準備していく。そしてしばらくすると、温泉玉
子に細切りしたきゅうりと梅肉がトッピングされた冷やしうどんを
持ってきてくれた。
﹁わぁ、おいしそう!﹂
﹁冷蔵庫のありあわせだけどな﹂
﹁充分よ!﹂
一口食べて私は﹁おいしい!﹂と絶賛した。
﹁大袈裟だよ﹂
﹁そんなことないわ﹂
簡単に作ったはずなのに、味もしっかりしている。冷蔵庫の中に
ある材料でササッと作れるって、これこそまさに料理上手って感じ
で理想だよね。
私も耀美さんに時々料理を教わっているけど、まだ全然レパート
リーが増えていない。私もありあわせ料理にチャレンジしたい。何
かないかな⋮。ひらめいた!
2055
﹁あのね、寛太君。この前とってもおいしい林檎のコンポートジュ
レを食べたんだけど、ジュレなら簡単だから私も作ってみようと思
うの。それで今思いついたんだけど、水の代わりにシードルを入れ
たら大人向けのちょっと高級感のある味になるんじゃないかな。あ、
シードルってわかる?林檎の発泡酒なんだけどね﹂
ありあわせ料理とは少し違うけど、なかなか良いアイデアだと思
う。シードルを使って作りましたっておしゃれな感じもするしね!
寛太君はお箸を置くと、私をビシッと指差した。
﹁コロネ、お前は破門だ!﹂
﹁ええっ!﹂
お菓子作りの師匠からの突然の破門宣言にのけぞった。
﹁俺は何度も言ったはずだ。お菓子作りに余計なアレンジを加える
なと。レシピ通りに作れと。それをシードル?!なんだそりゃ!﹂
﹁シードルはリンゴの発泡酒⋮﹂
﹁そういう意味じゃない!水代わりに発泡酒なんて入れたらゼラチ
ンが溶けずにボソボソになるぞ﹂
しゅんとする私に、寛太師匠は﹁アレンジなんて10年早い!﹂
と言って、冷やしうどんを掻きこんだ。ちぇ∼っ。
寛太君特製冷やしうどんを食べ終わった後で、若葉ちゃんが﹁せ
っかくだからこれから少し勉強しようか﹂と言って参考書や問題集
を持ってきた。
参考書をパラパラとめくると、そこにはシャーペンでびっしりと
書き込みがされていた。
2056
﹁ごめんねぇ。汚くて﹂
﹁ううん。そんなことはないけど﹂
私は教科書や参考書はできるだけきれいに使いたいので、色ペン
でアンダーラインは引くけど書き込みとかはほとんどしない。でも
こうやって自分の注意点や重要なことは直接書き込んでいった方が
いいのかな。これを見ただけで、若葉ちゃんが参考書をしっかり読
み解いているのがわかる。
若葉ちゃんが問題集を始めたので、私もルーズリーフと問題集を
1冊借りて、わからないところは参考書で調べたら、この参考書に
書かれた若葉ちゃんの書き込みが役に立ちすぎ!すごいな、若葉ち
ゃん。これが頭の良い人の勉強法か!
﹁若葉ちゃん、今度この参考書、写させてもらってもいい?﹂
﹁いいよ?﹂
自分の部屋でひとりで勉強するよりも断然捗った私は、若葉ちゃ
んのお母さんからの﹁コロちゃん、お夕飯食べていきなさいよ﹂と
いうありがたいお誘いを断って、家路についた。
2057
270
今日は期末テストの順位発表日。いよいよ審判の下る日だ││。
﹁麗華様、順位表が貼り出されたみたいですよ。見に行きませんか
?﹂
﹁そうね﹂
芹香ちゃん達に誘われて、一緒に掲示板に見に行く。あぁ、胃が
キリキリする⋮。
﹁今回の鏑木様と円城様の順位も楽しみですね﹂
﹁あら、あのお二人だったら当然上位よ﹂
﹁そうよねぇ。鏑木様が今回も1位かしら﹂
﹁円城様だって負けてはいないわよ﹂
端から成績上位を目指す気もない芹香ちゃん達は、歩きながら気
楽に他人の順位予想などをしている。
﹁麗華様はどう思います?﹂
﹁え、なにが?﹂
﹁期末テストのトップですよぉ﹂
﹁どうかしらね⋮﹂
皆の話を上の空で聞いていた私は、適当に返事をした。
正直言って、鏑木達の順位なんてどうでもいい。私が気になるの
は自分の順位のみだ。30位以内のノルマは果して達成しているの
か⋮。大丈夫。あれだけ頑張ってきたじゃないか。でも他の生徒達
2058
も同じくらい頑張ってた⋮。もし、30位以内に入っていなかった
ら⋮。怒れる鏑木の顔が目に浮かんだ。うっ!胃にギューッと絞ら
れる鈍痛が!
掲示板の前は順位表を見に来た人でいっぱいだ。人だかりを芹香
ちゃん達が露払いをして進むと、
﹁見て!トップはやはり鏑木様よ!﹂
菊乃ちゃんが真っ先に1位の名前を確認して叫んだ。
本当だ。1位 鏑木雅哉。
あれだけのハードスケジュールで、首位を守れるとは、本当に鏑
木の頭の作りはどうなっているんだ。
いや、それより私の順位は⋮。鏑木の順位にはしゃぐ芹香ちゃん
達を尻目に、私は下から順番に名前を追っていった。⋮⋮無い。無
い。無い!
私は血の気が引いた。
課せられた目標を達成できなかった場合、鏑木からどんな制裁が
下されるのか⋮!
あぁ、神様。どうか、どうか哀れな子羊の私をお守りください!
みぞおちを手で押さえ、祈るような気持ちで目線を上げていくと、
﹁⋮っは!﹂
18位 吉祥院麗華
息を吸い込んだまま、一瞬呼吸が止まった。
幻覚じゃないよね?18位に私の名前が書いてあるよね?ね?ち
ょっと、お願いだから誰か一緒に確認して!
芹香ちゃん達は上位陣の順位に夢中でそれ以外は眼中にない。ち
ょっと!貴女達のお友達の麗華ちゃんが18位に入っているかもし
2059
れないんだってば!もうっ!
﹁麗華様は18位ですわねぇ﹂
おっとりとした声に振り向くと、私達の後ろから芙由子様が掲示
板を見上げていた。
﹁芙由子様⋮!﹂
﹁おめでとうございます﹂
にっこり笑う芙由子様に後光が見えた。
芙由子様にも見えているってことは、私は正真正銘、18位に入
ったんだ⋮!
この苦節何週間。睡眠不足に抗い、胃痛に苦しみ、本気で血反吐
を吐くんじゃないかと思いながらもひたすら勉強しまくった成果が
今ここに!やった!私、やったよ!
芙由子様の声が聞こえた芹香ちゃん達も、順位表を確認して﹁麗
華様が18位?!﹂﹁凄いですわ、麗華様!﹂と口々に賞賛してく
れた。
﹁ありがとう。でも18位なんて大したことではないから、あまり
騒がないで?恥ずかしいわ﹂
﹁そんなことないですよ!もっと誇ってくださいな!﹂
﹁麗華様はご自分の成績がどれだけ凄いのか、自覚がないのね﹂
﹁奥ゆかしいから、麗華様は﹂
私は困ったわといった表情を作って、ほほほと笑った。
﹁あっ、鏑木様と円城様だわ!﹂
2060
誰かの声を合図に道が開かれると、その間から鏑木と円城が悠々
と歩いてきた。
来たわね、鏑木。ほら、とくと御覧なさい。18位に私の名前が
あることを!
鏑木は無表情で順位表の一番上を見ると、そのまま目線を下まで
下げた。今、私の順位もしっかり目に入ったはず!
30位以内どころか、鏑木が一番最初に設定した20位以内の目
標すらクリアしているんだぞ!どうだ!さぁ、褒めなさい!讃えな
さい!
私の強い視線に気づいた鏑木がこちらを見た。そして私と目が合
うと、ふいっと目を逸らして踵を返して立ち去った。え⋮、それだ
け?
私、18位なんだけど。鏑木に言われたノルマを見事クリアした
んだけど。なにその無視するような態度は。無反応で帰る気か!
キーッと頭の中でヒステリーを起こしていると、﹁おめでとう、
吉祥院さん﹂と肩をポンと叩かれた。
﹁円城様﹂
赤い頬を押さえた芹香ちゃん達が、声を出さずに口パクで﹁円城
様よ!﹂と騒いだ。
﹁ありがとうございます﹂
﹁僕はちょっと調子が悪かったんだよなぁ﹂
と言った円城の順位は4位。嫌味か。
円城は﹁放課後にサロンでね﹂と言うと、にこやかに歩いて行っ
た。後に残された芹香ちゃん達が円城の後ろ姿を目で追いながらき
ゃあきゃあと盛り上がる中、今度は同志当て馬と若葉ちゃんがやっ
てきた。
2061
﹁あっ!あった!﹂
﹁⋮今回は俺の負けだな﹂
﹁えへへ、勝ったー!﹂
若葉ちゃんは3位で、同志当て馬は5位だった。
﹁麗華様、私達も教室に戻りましょうよ﹂
﹁そうね﹂
私達が掲示板を離れる時、近くにいた男子生徒達から﹁あの女、
マジムカつく⋮﹂という声が聞こえた。思わずそちらを見ると、そ
の男子達は若葉ちゃんを苦々しげに睨んでいた。あの子達って、外
部生だよね⋮。
﹁麗華様?﹂
﹁今行くわ﹂
成績優秀だから嫉妬されるって、若葉ちゃんも大変だなぁ⋮。
教室への帰り道で、蔓花さんの一派と出くわした。そのまま通り
過ぎようとした時、丁度やってきた英語の教師が﹁蔓花﹂と蔓花さ
んに声を掛けた。
﹁蔓花、今回の英語のテストで95点だったぞ﹂
私達は音が出る勢いで一斉に振り返った。嘘っ、蔓花さんが英語
で95点?!
﹁えーっ!真希。英語95点だったの。すごーい!﹂
﹁真希って英語得意だったっけ?﹂
2062
蔓花さんの取り巻きが驚き騒いでいるけど、私だってびっくりだ。
こう言ってはなんだけど、蔓花さんは典型的な瑞鸞内部生。つま
りエスカレーターで大学まで行けるからほとんど勉強をしていない
おバカ内部生なのだ。それなのに、95点って急に受験勉強に目覚
めたのか?!
しかしそうではなかった。蔓花さんはふふんと笑うと、
﹁インターに通う友達のジェフに教えてもらったの﹂
インターナショナルスクールに通う男友達だと?!
瑞鸞のような名門ブランド校とは別次元の、どんな学校かはよく
知らないけどなんだかおしゃれだよね∼という謎のブランド力を持
つインターナショナルスクール!
そのインターに男友達がいて、なおかつその男友達に英語を教わ
るという、まさに絵に描いたような恋愛謳歌村村民からの爆弾に、
私は満身創痍レベルのダメージを受けた。
この場かから一刻も早く逃げねばならない。そうでないと⋮。
﹁あらぁ?麗華様、ごきげんよう﹂
しかし獲物を見つけたハンターの如く目を光らせた蔓花さんは、
私を逃がしはしなかった。
﹁ごきげんよう、蔓花さん⋮﹂
﹁見ましたわよ、順位表。さすがは麗華様、素晴らしい成績ですこ
と﹂
﹁ありがとう﹂
﹁凄いですよねぇ。さぞや試験勉強を必死に頑張ったんでしょうね
ぇ﹂
2063
﹁そうでもないわよ﹂
﹁またまたぁ。毎日ずーっとお家で勉強しないと、あんな成績は絶
対に取れませんよぉ﹂
蔓花さんは私を勉強しかしていないガリ勉と決めつけてくる。
﹁それに比べて私なんて、インターの友達に教えてもらった英語く
らいしか良い点数が取れなくって。麗華様は優秀な家庭教師をつけ
て、毎日勉強に励んでいるんでしょうねぇ?﹂
︵男友達のジェフに教わる私と違って、あんたは雇った家庭教師に
勉強を教わっていたんでしょ。さすがボッチ村村長、さびし∼い︶
という副音声が聞こえた。
﹁真希、言い過ぎ∼﹂
﹁え∼、私は褒めているつもりなんだけどぉ?遊んでばかりの私達
と違って、麗華様はずっと家で勉強しているんだもの。偉いじゃな
ぁい﹂
勝ち誇った表情の蔓花さんに言い返してやりたいけれど、図星す
ぎてぐうの音も出ない⋮。
負けた⋮。完全敗北だ⋮っ!
芹香ちゃん達も反撃材料が見つからず、蔓花一派にやられっぱな
しで黙り込む中、思わぬところからとんでもない砲撃が飛んできた。
それはおっとりと﹁家庭教師⋮?﹂と首を傾げる芙由子様からだ
った。
﹁麗華様の成績が上がったのは、ピヴォワーヌのサロンで鏑木様と
円城様に勉強を教わっていたからでしょう?﹂
2064
瑞鸞のツートップ、鏑木と円城から勉強を教えてもらっていた!
この凄まじい破壊力を持つ攻撃に、形勢は一気に逆転した。
﹁それは本当ですか、芙由子様!﹂
目を血走らせた芹香ちゃん達に詰め寄られた芙由子様は、﹁ええ﹂
と頷いた。
﹁鏑木様と円城様に勉強を見てもらうだなんて、なんて素敵なの!﹂
﹁あのおふたりから教わっていたから、麗華様の成績が上がったの
ね!﹂
﹁私も鏑木様と円城様に勉強を教わりた∼い!﹂
いくらインターナショナルスクールに謎のブランド力があろうと
も、この瑞鸞で絶対的な崇拝の象徴である鏑木と円城の価値に勝る
者などない。
鬼の首を取ったかのように、鏑木と円城の名前で蔓花さん達に攻
撃を繰り出す芹香ちゃん達。
逆転負けを喫した蔓花さん達が敗走していくのを芹香ちゃん達は
鼻息も荒く、やってやったぜといった顔で見送りながら、﹁よくぞ
言ってくれました!芙由子様!﹂と芙由子様のファインプレーを讃
えた。
芹香ちゃん達に囲まれた芙由子様は﹁あ、でもこれは言ってはい
けなかったのかしら。ねぇ、麗華様?﹂と、いまさらなことを言っ
た。
しかし、インターナショナルスクールか⋮。瑞鸞とは交流も接点
もないのに私と同じく初等科から瑞鸞に通う蔓花さんが、どうやっ
てインターの学生と友達になれるのかな。
﹁一体、どこで知り合うのかしら﹂
2065
うわっ、心の声が表に出てしまった!
﹁麗華様?﹂
﹁いえ⋮。私の周りにインターナショナルスクールに通っている方
はいないので、ふと気になってしまっただけなのよ﹂
﹁そうですねぇ﹂
私の疑問に、皆もう∼んと唸る。
﹁それはもしかしたら⋮﹂
﹁合コンとか⋮﹂
合コン?!
私の耳には全く話は入ってこないけど、やっぱり瑞鸞生も合コン
をしているのか?!
でもそうだよね。他校の男子生徒と知り合う機会なんて合コンく
らいしかないもの。合コンか⋮。
私は前世でも合コンに行ったことはほとんどないし、現世では当
然1度もない。なんとなく合コンって出会いを求めてがっついてい
る印象があるんだよねぇ。だけどそれは偏見かもしれない。健全な
出会いもあるかもしれないしね。私も思い切って合コンデビューを
⋮。
﹁ふしだらだわ!﹂
菊乃ちゃんが叫んだ。えっ⋮?
﹁合コンだなんて、瑞鸞生として軽薄すぎます!﹂
2066
菊乃ちゃんの憤りに、
﹁そうよね。瑞鸞生としてあるまじき振る舞いだわ﹂
﹁私もそう思う﹂
﹁私も。合コンなんてふしだらだわ﹂
と他の子達が次々に同調した。えっ?えっ?
﹁麗華様もそう思いますよね?﹂
﹁え⋮﹂
全員の目が私に注がれた。
﹁そうね⋮。私も合コンは、あまり賛同できない振る舞いだと思う
わ⋮﹂
﹁ですよね∼!﹂
﹁私達は瑞鸞の名に恥じない慎み深い行動をしなくては﹂と一致団
結する菊乃ちゃん達の姿を見ながら、私はこの子達とずっといたら、
一生ぼっち村を卒村できないかも⋮という危機感に襲われた。
2067
271
鏑木の様子がおかしい││。
正確には、鏑木が私を避けている。
朝の掲示板で私と目が合った時にすぐに逸らしたことから始まっ
て、廊下やお昼の食堂ですれ違った時もサッと顔を背けられた。ま
るで私と話したくない、関わりたくないというような態度に、なに
か皇帝を怒らせるようなことをしたかと不安になった。
だから午後の休み時間に円城を捉まえて、廊下の端で聞いてみた。
﹁円城様。私は鏑木様の不興を買うようなことをしたのでしょうか
?﹂
﹁僕はなにも聞いていないけど。どうして?﹂
﹁今日は朝から避けられている気がするのです﹂
元々、フレンドリーに﹁おはよう!どう調子は?﹂なんて軽口を
言い合う間柄ではなかったけれど、こうもあからさまに無視される
こともなかった。
円城も特になにも聞いていないらしく、顎に手を当て﹁う∼ん﹂
と首を捻った。
﹁試験休み中に雅哉と会った?﹂
﹁いいえ﹂
最後に会ったのは期末テストの最終日だ。それからはメールも来
ていない。
﹁あ!﹂
2068
﹁うん?どうしたの?﹂
心当たりがひとつだけあった!
﹁私がテストの反省会を欠席したから怒っているのでしょうか?﹂
しかも挑戦的なメールの返信までしてしまった。
﹁まさか。そんなことを何日も根に持たないでしょ﹂
円城に笑って否定されたけど、でもそれ以外に心当たりは全くな
い。テスト最終日までは今までと同じ態度だったんだから。
﹁大体、雅哉だったら怒っていたり不満があったら、すぐに言って
くると思うよ﹂
﹁それは確かに⋮﹂
鏑木なら私に文句があれば休み中でも平気で呼び出しそうだし、
顔を合わせる機会がなければ怒涛のメール攻撃をしてくるはずだ。
﹁本人に聞いてみたら?﹂
﹁鏑木様にですか?﹂
﹁うん﹂
気軽に言うけど、私に対して怒っているかもしれない鏑木に直接
聞くって、かなりハードルが高いよ。虎の尾を踏むことになりかね
ないんじゃないかな⋮。
﹁僕も多少手を貸すよ﹂
﹁円城様がですか?﹂
2069
﹁うん。本当に雅哉が吉祥院さんを避けているなら、僕もその理由
が気になるからね﹂
理由によっては私の味方になってくれると円城が言ってくれたの
で、私は放課後に鏑木に問い質す決意をした。このままずっと鏑木
に無視されていたら、私の学院での立場も危うくなるしね⋮。
そして放課後になり、ピヴォワーヌのサロンに行く途中で鏑木と
円城を見つけたので、小走りで近づいた。その足音に気づいて私の
姿を確認した鏑木は、またもや顔を背けて私から距離を取るように
歩調を速めた。
﹁鏑木様!﹂
﹁⋮なんだ﹂
渋々といった態度で振り向いた鏑木は、露骨に顔を顰めて眉間に
シワを寄せていた。怖い⋮。
でも鏑木の隣に立つ円城が私に頷いてくれたので、気を強く持って
﹁鏑木様、お話があります﹂
﹁俺は忙しい﹂
バッサリ切り捨てられた。え∼⋮。
そのまま私を置いて歩いて行こうとする鏑木を、円城が引き止め
てくれた。
﹁雅哉、吉祥院さんが話があるって言っているんだから聞いてあげ
なよ﹂
﹁うるさい!秀介は黙ってろ!﹂
怒鳴られた円城は目を丸くした。
2070
⋮さすがにこれはおかしい。
私ばかりかなんの非もない円城にまで怒り出すとは、これはなに
かある⋮。私は目を眇めた。
﹁鏑木様﹂
﹁⋮なんだよ﹂
﹁いいから、ちょっと来てください﹂
﹁はあ?なんで俺が⋮!﹂
円城が﹁まぁまぁ﹂と私に加勢して鏑木の腕を掴み、いつもとは
逆に私が小会議室に鏑木を押し込めた。
出口を塞ぐように円城がドアにもたれたので、鏑木は舌打ちして、
﹁で、なんだよ。忙しいんだから用件があるならサッサとしてくれ﹂
鏑木は相変わらず、私の目を見ない。椅子にすら座ろうとしない
のは、早くこの場を去りたいからだろう。
﹁鏑木様。私、鏑木様に言われた期末テストで30位以内に入ると
いうノルマをクリアしたんですけど﹂
﹁だからなんだ。30位以内に入るくらい当然だろう﹂
﹁あ゛あ゛っ!﹂
カッチーン!!なんだ、こいつ!
﹁吉祥院さん。令嬢にあるまじきドスの利いた低い声が出ているよ﹂
後ろから円城の注意が飛んでくる。
﹁そんなことで俺をここに連れてきたのか。くだらない。勉強は自
2071
分のためにやることで、それで他人に褒めてもらおうなんて筋違い
も甚だしい﹂
⋮殺す。
鏑木は﹁用がそれだけなら俺は行く﹂と部屋を出て行こうとする。
なぜそこまで不機嫌なのか⋮。これは怪しい。
﹁俺は忙しいんだ。これからサロンで今日のテスト結果の総括もし
ないといけないし、帰ってからもグループの新事業についての資料
に目を通さないといけないんだ。視察にも同行することになってい
るから、それまでにすべて把握しないといけなくて、一刻の時間の
余裕もないんだ﹂
聞いてもいないことまでペラペラをしゃべっている。ますます怪
しい⋮。
私は確信を持った。
﹁鏑木様。なにか隠しているでしょう﹂
﹁はぁ?!お前なに言ってんの?!﹂
﹁男性は心にやましいことがある時、逆ギレして場をごまかす。こ
れ浮気を見抜く定石その1﹂
﹁浮気なんてしてねぇし!﹂
﹁浮気はしていなくても、隠し事はありますよね。さぁ、吐きなさ
い﹂
どうしてこうわかりやすい態度をとるかなぁ。
前世のお父さんがそうだった。
美人なママさんのいるスナックにこっそり通っていたのを、お母
さん、私、妹と、女性陣3人にはとっくにお見通しだった。
﹁今日は部下がミスして残業になって、帰るのが遅くなったんだよ。
2072
全くあいつにも困ったもんだよ。夕飯はそのへんの居酒屋で済ませ
てきたんだけど、部下の話も聞いてやって⋮﹂と、聞いてもいない
のに、容疑者トドはよくしゃべった。細部に渡ってペラペラと、そ
りゃあもうしゃべり倒した。しゃべりすぎて話の内容に小さな矛盾
がボロボロ生じるくらいに。
たまに帰宅したお父さんに﹁今夜も遅かったんだね∼﹂と何の気
なしに声を掛けたら、﹁そんなことより勉強してるのか!この前の
テストの成績も悪かっただろう!﹂と突然キレてきた。不機嫌な空
気を出して、それ以上追及されないようにごまかそうとしているの
が、バレバレ。しかし自分にやましいことがあるからって、こちら
に当たってくるのはいかがなものか。
私達3人は食卓会議を開き、﹁そろそろあの浮かれトド親父、〆
るか﹂と話し合った。そしてトドの通うスナックに乗り込んだ。
気風の良い美人ママさんは﹁あら∼、いらっしゃ∼い﹂とにこや
かに出迎えてくれ、ママさんの出してくれたおいしい煮物やお惣菜
をいただき、カラオケを熱唱し、飲めや歌えの楽しいひと時を過ご
した。もちろんすべてトド親父のおこづかいで。
帰り道、すっからかんになった財布を抱えて、お父さん泣いてた
⋮。
お母さんは﹁結婚生活の秘訣は生かさず殺さずよ﹂と言っていた
けど、あの時のお父さんは瀕死状態であった││。
そして、今の鏑木の態度はその時のトドとまるでそっくりだった。
﹁予言します。貴方は将来、浮気が必ずバレるでしょう﹂
﹁なんだ、それは!しかも俺が浮気をする前提で話をするな!俺は
浮気なんてしないっ!﹂
鏑木が喚くが、すでに裏を見破った私は怖くない。ほれ、目に焦
りが出ているぞ。
2073
﹁吐け﹂
私は三白眼で詰め寄った。そしてもう一度言う。﹁吐け﹂
鏑木は観念したのか、手近な椅子に腰掛けて重い口を開いた。
﹁⋮この前、高道に夏休みの予定を聞いたら、夏休みはずっと夏期
講習に通うと言ったんだ﹂
それは私も本人から聞いている。
﹁それで?﹂
﹁⋮⋮高道と同じ夏期講習に通う手続きをした﹂
﹁夏期講習?!鏑木様が?!﹂
瑞鸞は夏休みに希望者を対象とした特別講習を開いている。受講
者は外部生が中心で、家庭教師が毎日ついているような内部生はほ
とんど受けることはない。それに鏑木が出るというのか。
﹁鏑木様が特別補習を受講すると知ったら、今まで受けていなかっ
た生徒達の申し込みが殺到するかもしれませんね﹂
パニックにならないといいけど⋮。
﹁あー、そっちじゃなくて⋮。いや、そっちもだが﹂
﹁なんです?はっきり言ってくださいな﹂
煮え切らない口調に、私がさらに問い質すと、
﹁高道が受講すると言っていた民間の予備校の夏期講習に、俺も通
2074
うことにしたんだ﹂
﹁ええっ!?﹂
若葉ちゃんと同じ予備校の夏期講習?!
﹁それストーカーじゃん!本物じゃん!﹂
あまりの衝撃に心の声が隠しきれなくなった。
﹁誰がストーカーだ!失礼なことを言うな!﹂
いやいや、それはもう言い訳のしようがない正真正銘、真正のス
トーカーだから!
﹁ちなみにそれ、高道さんに言ってあるんですか。鏑木様も同じ予
備校の夏期講習に申し込んだって⋮﹂
私は恐る恐る尋ねた。
﹁言っていない。当日に驚かせようと思って﹂
﹁はあっ?!﹂
なにそれ!サプライズ演出気取りか?!
﹁それで?当日に何と言うつもりだったんですか?自分の夏期講習
やあ偶
と手を振ってくるなんて、ホラーですよ。私なら顧問弁護
の予定を聞いてきた異性が、初日に教室に行ったら笑顔で
然だね
士に即刻相談に行きますよ!﹂
﹁⋮⋮﹂
2075
活動的な馬鹿より、恐ろしいものはないとはよく言ったものだ。
偉人の言葉にこれほど共感したことはない。
﹁すでに申し込みは済ませてあるんだよね?﹂
﹁⋮ああ﹂
二の句が継げない私に代わり、円城が鏑木に聞いた。
﹁それはキャンセルした方がいいかな⋮﹂
私も円城と同意見だ。ストーカーだと若葉ちゃんにバレる前に証
拠を隠滅するのだ。鏑木の財力だったら夏期講習のキャンセル料な
んて微々たるものだろう。
しかし鏑木はその提案に頷かなかった。
﹁ただでさえ、夏休みに入ったら1ヶ月も会えないんだ。俺は絶対
に高道と同じ夏期講習に通う!﹂
私と円城が目を見合わせた。
﹁でも、瑞鸞の生徒が同じ予備校に申し込んでいたらどうするつも
りなんですか﹂
今よりもっと若葉ちゃんの立場が悪くなるぞ。
﹁それは大丈夫だ。高道の通う予備校は高道の家に近い支部で、瑞
鸞の生徒は誰も通っていない﹂
ストーカーの無駄な調査力よ⋮。
円城とふたりでどうにか翻意させようとしたけれど、鏑木は絶対
2076
に意志を曲げなかった。
しかたなく円城が﹁せめて、夏期講習が始まる前に高道さんに同
じ講習を受けることを話した方がいいね﹂と妥協案を提示した。う
ん、これじゃ恋愛マンガじゃなくてホラーマンガだもんね。
﹁わかった⋮﹂
鏑木も自分の暴走を少しは反省したようだ。声が小さくなってい
る。
円城はそんな鏑木を慰めるように肩を叩くと、優しく
﹁大丈夫だよ、雅哉。高道さんみたいにポジティブな思考の人はス
トーカーに気づきにくいから﹂
あ、今さりげなく円城も鏑木をストーカーと断定した。
しかしまったくもう⋮。
﹁はぁ∼っ﹂
﹁なんだ、ため息なんかついて﹂
﹁鏑木様と一緒にいるようになったせいで、最近胃が痛くて⋮﹂
﹁ピロリ菌か?﹂
違うわ、ボケェッ!嫌味に気づけ!あんたのせいで神経性胃炎に
苦しんでいるんだという、わかりやすすぎる嫌味でしょうが!
﹁ピロリ菌の良い医者を紹介してやろう﹂
﹁私はピロリ菌は持っていません!﹂
﹁ピロリ菌は早期の除菌が⋮﹂
﹁違う!﹂
2077
もう黙れ!乙女の消化器にピロリ菌疑惑をかけるな!
﹁もうこんな時間か。サロンに行くぞ﹂
隠し事をすべて話してすっきりしたのか、いつもの調子に戻った
鏑木が席を立った。
﹁だから、そこまでするなら告白した方が早いのに⋮﹂
﹁一生忍んで思い死すること⋮﹂
﹁あ、それ前にも聞いたからいいです。面倒なんで﹂
﹁面倒とか言うな!﹂
けっ!
﹁あ、鏑木様﹂
﹁なんだ?﹂
﹁改めまして、私今回の期末テストで18位を取りました﹂
鏑木は体を30度に折り曲げてお辞儀をした。
﹁おめでとうございます﹂
﹁ありがとうございます﹂
私も同じ角度でお辞儀を返した。
2078
272
ピヴォワーヌのサロンでは、鏑木が﹁目標を達成できた者もでき
なかった者もそれぞれよく頑張った﹂と、寛大なお言葉を宣った。
これを受けた皆も誇らしげな顔をしている。
今回の期末テストでは、ピヴォワーヌの生徒達の成績が全体的に
上がっていたそうだ。そりゃあ会長である皇帝からの指令だものね。
程度の差はあれ必死になる。下級生の中には元から成績の優秀な者
もいて、その子達はかなり良い成績を取っていた。あの辺りの子達
が、次代のピヴォワーヌの中心になるのかな∼。
﹁やりましたよ、麗華様∼﹂
そして鏑木からペナルティーで必ず50位以内に入るよう厳命さ
れていた1年生達もそれぞれギリギリ50位以内に滑り込んでいた。
それはもう、48位、49位、50位と、首の皮一枚で繋がったギ
リギリのラインで。
﹁おめでとう﹂
﹁今日まで生きた心地がしませんでしたよ﹂
﹁つらかったです⋮﹂
﹁昨日は眠れませんでした﹂
﹁わかるわ﹂
私達は身を寄せ合って互いの辛苦を労いあった。どれだけ勉強し
てきたか。一旦ベッドに入って寝ようとしたけれど、不安になって
起きてまた問題集を広げたとか、朝起きて昨日暗記した内容を忘れ
ている時の絶望感等々、身につまされる話ばかりだ。誰もが鏑木の
2079
ように一度覚えたことをすべて記憶できる高性能な大容量メモリを
搭載しているわけではないのだ。
﹁もしも50位以下だったらって考えると、吐き気がこみあげてき
て⋮﹂
﹁俺も最近ずっと寝ても悪夢ばかり見ていました﹂
吐き気や悪夢といった症状に、わかるわかると私達は頷き合う。
私だって怖い夢を頻繁に見たもの。特にこの子達は鏑木のテスト反
省会に出席して、自分がどれだけ解答を間違ったか知っているから、
余計に怯える日々だっただろう。
するとひとりが声を潜めて。
﹁俺なんて、とうとう血尿が出ちゃって⋮﹂
﹁ええええっっ!!﹂
血尿が出たって、大ごとじゃないか?!
﹁それもストレスのせい?!﹂
﹁わからないですけど、タイミング的にそうじゃないかなって。他
に心当たりがないし﹂
﹁病院には行ったの?﹂
﹁いいえ。病院には怖くてまだ行っていないんです。血尿が出たの
はその1回だけだったので⋮﹂
﹁でも別の病気の可能性だってあるから、絶対に病院に行くべきよ
!﹂
私は病院の受診を強く勧めた。自己判断は良くない。
﹁そうですよね。この場合は、どこの科に行くべきでしょうか﹂
2080
﹁それは泌尿器科じゃないかしら﹂
﹁ですよね∼⋮。でも1回だけだし⋮﹂
彼は悩むように黙り込んだ。あまり乗り気ではないらしい。いや
いや、早めに行ったほうがいいって。
﹁麗華様だったら、すぐに病院に行きますか﹂
﹁そうね⋮﹂
と言いつつ、実際に自分がその立場になったら、病院に行くのは
怖くてまずは少し様子を見ちゃうかも⋮。現実逃避タイプの小心者
だから、もしも検査結果で大変な病気が見つかったらどうしようっ
て想像して二の足を踏んじゃうんだよね。
でも他人事だったら客観的な判断ができる。病院で診察を受ける
べきだ。まずはホームドクターに相談してみたらと提案しようとし
た時、後輩が顔を上げて
﹁麗華様、一緒に来てくれませんか?﹂
﹁えっ!なんで私が?!﹂
﹁だって、泌尿器科に1人で行くのは不安なんですよ﹂
気持ちはわかるけど⋮。でも付き添いはちょっとなぁ。
﹁どなたかご家族に付き添ってもらったら?﹂
﹁高校生にもなって、親に付いてきてもらうのって恥ずかしくない
ですか?﹂
高校生男子が女子の先輩に付き添ってもらって泌尿器科に行くの
は平気なのか?
お願いしますと頼まれても困る。う∼ん⋮。あっ、そうだ!
2081
﹁鏑木様に相談したらどうかしら﹂
﹁えっ、鏑木様にですか﹂
後輩3人は目を見交わした後、いやいやいやと手を振った。
﹁尊敬する鏑木様に血尿の相談なんて出来ませんよ﹂
﹁だよな∼﹂
﹁鏑木様には絶対に言えない﹂
だから、どうして私には相談できるのよ。今の発言で、こいつら
の中の私と鏑木の立ち位置がよくわかったな。泌尿器科に付き添い
なんか絶対にしてやらないぞ。
﹁それに鏑木様だって、血尿の相談なんてされても困ると思います
し﹂
﹁あら大丈夫よ。私が鏑木様に胃が痛いと言ったら、ピロリ菌の専
門医を紹介されそうになったわ﹂
﹁えっ、麗華様ピロリ菌持ちなんですか﹂
﹁違うわよ!﹂
﹁ピロリ院麗華様ですか﹂
﹁誰がピロリ院よ!﹂
こいつら、完全に私を舐めくさってるな!
私はひゃっひゃと笑う連中の横隔膜に、拳で鋭いダメージを与え
黙らせた。ふんっ。
﹁でも麗華様しか頼れる⋮﹂
﹁お前達はさっきから、そんな端で何をコソコソ話している﹂
2082
噂をすれば影だ。後ろから声を掛けられ、後輩達は﹁ひっ!﹂と
文字通り飛び上がった。
﹁えっと、その⋮﹂
﹁なんだ﹂
鏑木の登場に後輩達はしどろもどろだ。連日の期末テストのスパ
ルタ指導で、すっかり鏑木への恐怖心が植えつけられてしまったみ
たいだ。
﹁鏑木様、彼は最近血尿が出たと悩んでいるそうなのです﹂
﹁麗華様!﹂
なぜ言うんですか!と縋られたけれど、知らない。このままじゃ
私が泌尿器科に付き添いしないといけなくなるもの。
﹁血尿?﹂
鏑木にじろりと見られた後輩は身を竦ませた。
﹁どういった症状だ﹂
﹁いえ、1回だけ血尿が出ただけなんですけど⋮﹂
﹁わかった。泌尿器科の名医を紹介しよう﹂
﹁ええっ!﹂
よもや本当に鏑木が血尿の相談に乗ってくれるとは思わなかった
のだろう。驚く後輩に鏑木は血尿が出る原因をいくつか挙げ、すぐ
に診察を受けられるよう手配までしてくれた。
﹁あ、ありがとうございます⋮﹂
2083
鏑木に紹介されてしまったら、怖かろうとイヤだろうと問答無用
で行くしかない。後輩は悲痛な顔でお礼を言った。
﹁それと、彼はひとりで病院に行くのは怖いので、誰かに付き添っ
て欲しいそうですよ﹂
私は後輩のためを思い、親切心から後輩の不安を代わりに鏑木に
話してあげた。断じてピロリ院と笑いの種にされた仕返しではない。
﹁麗華様∼!﹂
後輩は恨みがましい目を私に向け、身悶えた。鏑木のことだ。い
い歳をした男が軟弱なと一喝しそうだもんね∼。けけけ。
しかし鏑木は顎に手を当て、しばし考え込んだ後、
﹁俺の時間が空いている時であればいいが⋮﹂
えっ!鏑木、付き添ってあげる気なの?!
﹁いいです、いいです!自分で行けます!ありがとうございます!﹂
鏑木からのまさかの付き添い受諾に、慌てふためいた後輩は全力
で辞退した。そりゃあそうだろうな⋮。瑞鸞の皇帝を付き添わせて
病院受診なんて、プレッシャーで別の病気を誘発しそうだ。観念し
た後輩は仲間達に﹁お前達が付いてきてくれよ﹂と頼んでいた。
麗華様
ね⋮﹂とぽつりと呟き、奇妙な目で私を見
3人で固まり、受診日について話し合いをする後輩達を眺めてい
た鏑木が、﹁
た。
2084
﹁いつの間にか、ずいぶんと仲良くなったものだな﹂
その原因はすべて貴方なんですけどね。
﹁鏑木様こそ、後輩の付き添いを引き受けようとするなんて、円城
様もおっしゃっていましたけど、本当に面倒見が良いのですね﹂
鏑木は、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。なんだ、照れてい
るのか?
そのまま話を逸らすように後輩達に近づくと、
﹁ところで、今回のテストの結果だが﹂
途端に後輩達がシャキンとした。
﹁際どい順位ではあったが、一応50位圏内の成績を出せたことは
よくやった﹂
﹁ありがとうございます!﹂
皇帝からのお褒めの言葉を受けた後輩達は、感動で打ち震えた。
﹁次回のテストでもこの成績を維持し、更なる向上を図るように﹂
終わらないテスト勉強地獄宣告に、後輩達の顔は絶望に染まった。
お気の毒⋮。
﹁失礼します⋮﹂と頭を下げ、背を丸めふらふらと去っていく後輩
達。あの子、今日あたりまた血尿が出るんじゃないかな。同情の眼
差しを向け、心の中で合掌していると、
﹁他人事みたいな顔をしているけど、吉祥院。お前もだからな﹂
2085
げぇーーっっ!
せっかく予想以上の好成績で浮かれていたのに、鏑木の最後の一
言で胃痛再発だ。
悔し紛れに﹁鏑木様こそ、先ほど円城様に言われたことを今日中
に必ず実行なさいませよ!でないと貴方、夏休み初日には立派な不
審者ですから!﹂と捨て台詞を吐いてやった。もちろん周りに聞い
ている人が誰もいないのを確認してからだけどね。鏑木がストーカ
ーだというのが、私が発端でバレて鏑木の評判が著しく落ちたとな
れば、私が鏑木家から破滅させられてしまう。王様の耳はロバの耳。
王様の耳はロバの耳。
そんなこんなでお兄様が帰宅したので、私は成績表を持って順位
の報告をしに行った。
﹁お兄様、やりました。期末テストの結果は18位でした﹂
お兄様の目の前でバーンと広げる。
﹁おめでとう。頑張った甲斐があったね﹂
﹁これも忙しい中、私の勉強を見てくれたお兄様のおかげです﹂
﹁麗華の努力の賜物だよ﹂
えへへぇ。お兄様はカバンからリボンでラッピングされた黒い箱
を取り出すと、﹁はい、これ﹂と私の手に乗せてくれた。あ、これ
私の好きなお店のチョコレートだ!
2086
﹁今日が成績発表だと言っていたからね。頑張った麗華にご褒美﹂
﹁ありがとう、お兄様!﹂
私の成績発表日を覚えていて帰りにご褒美を買ってきてくれるな
んて、さすがお兄様!
さっそく二人分の紅茶を用意して、チョコレートの箱を開ける。
同封の説明書を見ながら、どれから食べるか吟味する。ガナッシュ
にしようかなぁ。
﹁でも麗華もこれで一段落ついて、夏休みは楽しく過ごせそうだね﹂
私はチョコレートをかじりながら、ううんと首を横に振る。
﹁夏休みは受験対策で夏期講習に通うから、そんなにのんびりはで
きないの﹂
﹁そうなの?﹂
首を傾げるお兄様に私は頷く。受験勉強はこの夏休みが勝負だか
らね。
﹁麗華は瑞鸞の大学に進学する予定だったよね。進みたい学部があ
るの?﹂
﹁就職に有利な学部に入りたくて。お兄様の卒業された学部を第一
志望にしようかと思っているのですけど﹂
ここが競争率が高いんだよね∼。
﹁就職に有利ねぇ。麗華がそんなにキャリア志向だとは思わなかっ
たな﹂
﹁キャリア志向というわけではないのですけど⋮﹂
2087
バリバリ仕事して出世してやろうなんていう上昇志向は全くない。
むしろ仕事のやりがいよりも、福利厚生と人間関係重視の就職先希
望の超安定志向。
﹁就職する気があるのなら、うちのグループ企業でも﹂
﹁ダメです!お兄様、それだけは!﹂
誘惑しないで!
私は両手で耳を塞いだ。コネ入社は楽な道だけど、腫れ物扱いで
陰で同期に悪口を言われるのはイヤだ!
﹁そうだ。ねえ、お兄様。吉祥院家の会社は大丈夫ですよね?業績
悪化で乗っ取られたり、不正で司法の手が入ったりはしませんよね
?﹂
コネ入社はする気はないけど、君ドルだとお父様の不正が見つか
りお家乗っ取りで吉祥院家が没落する予定だからどうしても心配に
なる。
﹁麗華はなぜか昔からよくその質問をしてくるけど、大丈夫だよ。
遠い未来のことはわからないけど、今のところは順調で盤石﹂
ホッ、良かった。そうだよね。有能なお兄様がいるんだもの。
﹁クーデターを起こしそうな社員とかもいませんか?﹂
﹁いないよ。仮にいても成功する確率は極めて低いから安心して﹂
そして苦笑いしたお兄様に﹁もう少し、自分の父親を信用してあ
げて﹂と言われてしまった。確かに。ごめん、お父様。おわびに最
2088
近健康診断で引っかかったお父様に、今度ヘルシーメニューの手料
理を作ってあげようっと。
2089
273
まだ夏休みには入っていないのに、期末テストも終わった気楽さ
からか、すでに学院中に浮ついた空気が流れている。
蔓花さん達などその典型例だ。近くを通り過ぎた時に﹁新しい水
着が∼﹂﹁クルージングが∼﹂という世にもキリギリスな会話が聞
こえてきた。蔓花さん達の頭の中には、受験勉強という言葉は存在
していないらしい。
﹁遊びの誘いが多くて、スケジュール管理が大変∼。この日なんて
休み
なのに全然休めな∼い﹂
昼間は皆でホテルのプールで遊んで、夜はベイサイドにオープンし
たお店でディナーだもん。夏
ライターの妄想記事だと思っていた、1ヶ月着回しコーデのリア
ルアヤがここにいた││!
﹁終業式が終わったら、そのまま美容院にカラーリングに行く予約
もすでに取ってあるの﹂
﹁私も海で髪が濡れてもいいように、夏休みだけパーマをかけてお
こうかなぁ﹂
夏休み中に堂々と校則違反のヘアスタイルにする計画を立てる蔓
花さん達が、瑞鸞の特別補講を受けることは絶対にないことだけは
わかった。
⋮ふん。せいぜいキリギリスは夏に歌い踊り遊びほうけているが
よい。夏が終わった時に笑うのはアリの私だ。
放課後に佐富君とクラス委員の仕事をする。
2090
クラス委員なんて雑用係と同じだからはっきり言って面倒くさい
けど、私のクラスの生徒達は提出物の出し忘れがほとんどなく、仮
に忘れたとしたら謝罪してすぐに持ってきてくれる、クラス委員に
協力的な人達なので仕事は比較的楽だ。今日は集めたプリントが全
員分あるのを確認して、先生に提出するだけの簡単な仕事だ。帰り
がけに職員室に寄ればいい。
お気に入りのキラキラ指サックでプリントの枚数を数えながら、
私は佐富君に夏休みの予定を聞いた。麗華のキリギリスチェックだ。
﹁う∼ん。今年はさすがに遊んでいられないかなぁ﹂
﹁それは今年の夏休みは受験勉強に費やすということですか?﹂
﹁そんなとこかな﹂
校則に引っかからない程度に髪をカラーリングしている佐富君は、
意外にもキリギリス派だったようだ。
﹁塾の夏期講習には行くの?﹂
﹁一応ね﹂
﹁では夏休みは相当気合を入れて勉強をするつもりなのね?﹂
﹁そこまでではないけど、まぁ、それなりに。吉祥院さんは?﹂
﹁私も塾の夏期講習に参加する予定なの。それから時間があったら
瑞鸞の補講も受けてみようかと思っているの﹂
﹁お∼、吉祥院さんこそ気合入っているね﹂
﹁そんなことないわよ﹂
それ以外に家庭教師も付いているけど、ガリ勉だと思われるのが
イヤなので言わない。
﹁やっぱり内部生といえど、皆、夏休みは受験勉強をするのねぇ﹂
﹁そりゃそうじゃないの﹂
2091
そうだよね。キリギリスの大きな声に油断しちゃダメだ。アリ達
は隠れてこっそり冬の準備をしているんだ。
しかし、来たる夏休みに浮かれるキリギリスがここにもいる。
そのキリギリスの名を、鏑木雅哉という││。
私と円城の忠告通り鏑木はあの後で、若葉ちゃんに電話をしてき
ちんと同じ予備校の夏期講習に申し込んだことを話したらしい。そ
れに対して若葉ちゃんからは、一緒に勉強を頑張ろう!という前向
きな返事をもらったそうだ。えっ、それってストーカー?と引かな
い若葉ちゃんがすごい。
しかもちゃっかり、せっかく同じ予備校に通うのだから受ける授
業が一緒の時は隣同士の席で受講しようという約束まで取り付けて
きた。
!
がやたら入った長文メールが届いた。
その喜びをどうしてもその日の内に誰かに話したかったのか、結
果報告と称してその夜に
すぐに返信して暇人だと思われたくなかったので、しばらく放置
して1時間後くらいに返信しようと、携帯を横に置いてベッドでゴ
ロゴロしていたら、10分後に鏑木から電話がかかってきた。最悪
だ。あの時にすぐにメールの返信をしていれば⋮!
次の日の鏑木は朝から無表情を装いながらも、注意してよ∼く見
れば時折ピクピクと動く口角から浮かれっぷりが隠し切れていなか
った。
そして今日も、ピヴォワーヌのサロンに顔を出した後、呼び出さ
れた小会議室で最新号の夏のイベント特集の情報誌を熱心に見比べ
ながら、
﹁予備校の講義が終わった後にお好み焼きに誘おうと思っている。
丁度小腹が空く時間帯だからいいだろう。カフェでその日の講義内
容を語り合うのもいいな。あの辺りに気の利いた雰囲気のあるカフ
2092
ェはあったかな。調べておこう。そうだ、たまには息抜きも必要だ
から、どこか遠出のデートに誘うのもいいな﹂
などと、独り言なのか私達に聞かせているのかわからない花咲か
発言をほくほく顔で語る鏑木に、あんたは一体何をしに予備校に行
くんだ、遊びに行くんじゃないんだぞ!受験生の本分を忘れるな!
と、私は説教をしてやりたい衝動に何度も駆られた。
﹁俺と高道の進展状況については、吉祥院にも教えてやるから楽し
みに待っていろよな﹂
楽しみでもないし、待ちたくもありません。
どうやら夏休み中も頻繁に私相手に恋バナをする気でいるらしい。
どこの乙女な女子高生だ。携帯電話水没させちゃおうかな⋮。
﹁くれぐれも、高道さんの勉強の邪魔はしないでくださいね﹂
若葉ちゃんは私と同じアリさんなのだから。
﹁するかよ﹂
ムッとして反論する鏑木だけど、説得力が全くない。今見ている
その雑誌の数々はなんだ。
﹁どうだかね﹂
私の心の声を代弁するかのように呆れた笑みをして円城が言った。
その通り!
﹁円城様も予備校の夏期講習に行くのですか?﹂
2093
﹁僕?僕は専属の家庭教師とカリキュラムをすでに組んでいるから
行かないよ。本来、雅哉もそのはずなんだけどねぇ﹂
円城は困ったものだという眼差しを鏑木に向けた後、私に苦笑い
をしてみせた。
今日の呼び出しの理由は、夏期講習でいかに若葉ちゃんと親睦を
深めるか、だ。知らん。午前と午後の通しの授業の時は、ランチに
誘ってみたら∼?
私も鏑木の持参した雑誌を1冊手に取ってパラパラとめくる。話
題のお店の特集がさっきから気になっていたのよね。あ、このキッ
シュの専門店おいしそう。フルーツを使ったデザートキッシュもあ
るんだね。輪切りにされたオレンジが敷き詰められたキッシュが可
愛いな。
﹁どこか気になるお店でもあった?﹂
私が同じページをずっと読んでいるのに気づいた円城が、私に尋
ねた。
﹁このキッシュのお店に行ってみたいなと思いまして﹂
﹁ふぅん﹂
私は角を挟んで斜めの席に座っていた円城にも見えるように雑誌
を机に広げた。
﹁ここ?﹂
﹁はい。このポテトとベーコンのキッシュやトマトのキッシュみた
いに食事として食べられるキッシュ以外にも、デザートキッシュも
あるみたいなんです。ほらこっちのオレンジのキッシュやチョコレ
ートのキッシュとか﹂
2094
﹁なるほど。これは女性が好きそうなお店だね﹂
ほうれん草のキッシュも好きだけど、どうせなら珍しい種類が食
べたいな。
﹁じゃあ今から行ってみる?﹂
﹁えっ﹂
今から円城と?!
私は目を見開き、そして警戒した。なぜ円城がこのタイミングで
キッシュ専門店に誘ってくるのだ?なにか企んでいるんじゃないか
?!
﹁それでできれば雪野も一緒に﹂
﹁えっ、雪野君も?!﹂
脳裏に天使の笑顔が浮かんだ。
﹁試験や色々あってしばらく雪野の相手をしてやれなかったから、
今日はこれからプティに雪野を迎えに行って一緒に帰る約束をして
いるんだ。それでせっかくだから、雪野が大好きな吉祥院さんを連
れて行ったら、喜ぶかなと思ってね﹂
﹁吉祥院さんにはいつも弟の面倒を押し付けるようで申し訳ないん
だけどね﹂と円城が続けたけれど、とんでもない。あの可愛い雪野
君に会えるなら大歓迎だ。
﹁行きます﹂
﹁本当?ありがとう﹂
2095
そうと決まれば、こんな所でのんびりしている場合じゃない。
期末テストが終わり短縮授業でいつもより早い時間とはいえ、初
等科だってとっくに終わっているんだから、雪野君はプティでお兄
様が迎えにきてくれるのを、まだかなまだかなとずっと待っている
かもしれない。
私は席を立つと、﹁早くプティに行きましょう﹂と円城を急かし
た。雪野君を待たせているのに、なにをのんびりしているんだ。
すると雑誌に没頭していたはずの鏑木が、
﹁俺も行く﹂
﹁え﹂
なぜか鏑木も席を立った。
﹁良さそうな店だったら、そこも高道とのデートの候補地にする﹂
キリギリスがこう言っていますが。
私がちらりと円城を見ると、円城は肩をすくめて笑ってみせた。
﹁麗華お姉さん!﹂
私達がプティに迎えに行くと、雪野君が駆け寄ってきてくれた。
そして円城がこれから皆でキッシュを食べに行くと説明すると、
﹁わぁ!﹂とはじける笑顔を見せてくれた。幸せ。
プティのサロンには麻央ちゃんや悠理君もいて会えたことを喜ん
でくれたので、二人も一緒に行かないかと誘ってみたんだけど、こ
2096
れから習い事が入っているそうだ。残念だけど二人とはまた今度一
緒に出かける約束をした。
そして4人で訪れたキッシュ専門店では、私の隣に雪野君が座り
メニューを見ながら、どれがいいかなぁと相談し合った。
﹁このぶどうのキッシュかチョコレートのキッシュにしようかなぁ﹂
﹁それもおいしそうね﹂
﹁麗華お姉さんは?﹂
﹁私も迷ってしまうのだけど、やっぱりこのオレンジのキッシュに
しようかな﹂
﹁そっちもいいなぁ。僕もオレンジのキッシュにしようかな﹂
でも雪野君はチョコレートのキッシュも捨てがない様子だ。う∼
んと口を尖らせ悩んでいる。
だから私は雪野君に﹁では半分こにしましょうか﹂と提案した。
﹁いいんですか?﹂
﹁もちろんよ﹂
雪野君が﹁ありがとうございます﹂と笑ってくれた。うふふ。
私達のやり取りを向かいの席で見ていた円城が、﹁ごめんね﹂と
謝ってきたけれど、むしろチョコレートのキッシュも食べられて私
の方こそありがとうだわ。さっき雑誌で見た時からそっちも気にな
っていたのよね。
﹁さくらんぼのキッシュか⋮﹂
鏑木がメニューを見ながら呟いた。
﹁鏑木様はさくらんぼが好きなのですか?﹂
2097
﹁好きだな﹂
へえ。私もフルーツの中ではさくらんぼは上位に入るくらい好き
だ。今年もすでにたくさん食べている。
でも鏑木は少しおなかが空いていたみたいで、最終的にきのこの
キッシュを選んだ。円城はポテトとベーコンのキッシュだ。王道だ
よね。
話題は雪野君の夏休みの話で、雪野君は海外のサマーキャンプに
参加するらしい。それを聞いて、小学生が1人で海外に行くのかと
思ったら、家族旅行で行った先の海外で、雪野君だけ途中で抜けて
子供向けのサマーキャンプに行くということらしい。
雪野君はサマーキャンプをとても楽しみにしているみたいなので
面と向かって水を差すようなことは言いにくいけど、喘息の発作は
大丈夫なのだろうか。心配なので円城にコソッと聞いた。
﹁うん。僕達もどうかなと思ったんだけど見ての通り本人がどうし
ても行きたいと言うし、両親も近くにいてキャンプにはうちからも
念のための専任ドクターを同行させるから、まず大丈夫だと思う﹂
﹁そうですか。それなら良かった﹂
﹁心配してくれてありがとう﹂
いえいえ。私にとっても雪野君は大事な天使ちゃんなので。
鏑木は雪野君にキャンプの心得を説いていた。鏑木と円城も小学
生の頃はサマーキャンプに参加していたらしい。お兄様が経験した
ことだから、雪野君も行ってみたくなったのかな。
やがて注文したキッシュが運ばれてきたので、約束通り私はナイ
フで半分に切って雪野君と分け合った。
﹁おいしい!﹂
﹁ね!﹂
2098
オレンジは当たりだった!甘酸っぱくておいしい!そしてチョコ
レートのキッシュは添えられたクリームと一緒に食べると甘くてお
いしい!甘酸っぱいオレンジと甘いチョコレート。交互に食べると
おいしさが更に引き立つ。半分こにして大正解。
私と雪野君はおいしいねと笑い合った。
鏑木も店内の様子とキッシュの味で、このお店をデートの候補地
のひとつに選んだみたいだ。
私達はキッシュを食べながら感想を言ったり、雪野君のサマーキ
ャンプにちなんでどれくらい泳げるかといった話などをした。雪野
君はスイミングスクールで現在は背泳ぎの練習をしているそうだ。
すごいなぁ。私もスイミングスクールに通っていたけど、クロール
と平泳ぎしかできない。背泳ぎはどうしても顔を水面に出すことが
できなくて、息継ぎができず溺れてしまうのだ。でも日常生活で背
泳ぎが必要になる時などないから別にいいのだ。
キッシュのお会計は円城が﹁今日は僕が誘ったから﹂と払ってく
れた。固辞するのもなんなので、今回はありがたくごちそうになる。
﹁あぁ、楽しかった!﹂
お店を出た雪野君は私と手を繋ぎながら、ニコニコと笑った。そ
して、﹁ねえ、麗華お姉さん﹂と言った。
﹁夏休みにも、遊んでくれますか?﹂
﹁えっ﹂
夏休みかぁ⋮。私としても雪野君と会えるのは嬉しいけど⋮。
﹁雪野。吉祥院さんも忙しいんだから、我がままを言うのはやめな
さい﹂
2099
円城に窘められた雪野君がしょんぼりした。あぁ⋮っ!
﹁えっと、雪野君⋮﹂
﹁なぁに?﹂
うっ。そんなつぶらな瞳で見つめられたら⋮。
﹁そこまで忙しくない、かなぁ⋮﹂
﹁本当?!﹂
雪野君がぱあっと笑顔になった。うん。忙しくない。全然忙しく
ない。
﹁なんだ、吉祥院。夏休みは暇なのか﹂
すると鏑木がよしよしと何かを確認するように頷いた。
しまったあああっ!これで遠慮なく鏑木から夏休み中も頻繁に連
絡があるに違いない⋮。
後日、なんだかんだでいつもごちそうになっているので、お礼の
気持ちを込めて瑞鸞の皇帝にさくらんぼを贈った。
﹁佐藤錦か?﹂
﹁ナポレオンです﹂
﹁⋮⋮﹂
円城にも雪野君と食べてくださいと私の一番好きな果物の桃を渡
2100
すと、﹁こちらには嫌味は隠されていないよね﹂と言われた。なん
のことでしょう?
2101
274
雨も上がり清々しい朝だ。
梅雨もそろそろ明ける時期になり、まだ朝の7時台だというのに
すでにじわじわと蒸し暑い。本格的な真夏はすぐそこだ。
こういう時には車通学が許されている特権階級に生まれて良かっ
たとつくづく思う。真夏の通勤通学ラッシュの電車の地獄は前世で
イヤという程味わったからね。エアコンなんてドアが開くたびに入
ってくる熱い外気と乗客の体温でほとんど効いていないし、そんな
暑さの中でべたべたした肌同士がぶつかった時の不快さといったら
⋮!
すでに家から駅までの道のりで汗がだらだらだっていうのに、さ
らに蒸し風呂状態のラッシュに乗らないといけないなんてと、毎朝
げんなりしたものだ。
すし詰め状態とは縁のないエアコンの効いた車での快適な通学に
どっぷり慣れてしまったら、あのラッシュには二度と乗れないなぁ。
今日は渋滞にも巻き込まれず早めに着いたので、登校してきてい
る生徒はまだまばらだ。
友達が誰も来ていなかったら、1人でどうやって時間を潰してい
ようかなぁ。と考えながら廊下を歩いていたら、見知った後姿を発
見した。あれは秋澤君ではないかね?獲物発見。
﹁秋澤く∼ん。秋澤く∼ん﹂
ふいに聞こえた自分を呼ぶ声に、ビクッとして周囲を見回した秋
澤君を、﹁ここよ∼。秋澤く∼ん﹂と私は柱の影から手招いた。
﹁びっくりした。どうしたの、吉祥院さん﹂
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そう言いながら秋澤君が近づいてきたので、私はその腕を引っ張
り廊下の端まで連れ出した。
﹁ごきげんよう、秋澤君﹂
﹁は?ああ、うん。おは、よう?﹂
﹁秋澤君も来るのが早いのね﹂
﹁今日は部活の朝練があったから⋮﹂
﹁そうでしたの﹂
秋澤君は中等科時代からずっと部活を頑張っているものねぇ。私
は頷いた。
﹁ところで秋澤君、桜ちゃんから聞いたんだけど参勤交代ってなに﹂
﹁えっ﹂
前に桜ちゃんと会った時に秋澤君が私が瑞鸞の廊下を歩くと参勤
交代状態になると言っていたと話していたことを、私は忘れていな
かった。
心当たりのある秋澤君はあわあわと慌てた。
﹁ひどいわぁ。私は秋澤君を信頼していたのに、私のいないところ
で陰口を言っていたなんて﹂
﹁陰口なんて、そんなつもりはないよ!ただ桜子に瑞鸞での生活を
聞かれて、その流れで吉祥院さんの話になったから、日常の風景と
して説明しただけで⋮﹂
日常の風景が参勤交代っておかしいでしょ。
﹁もう。秋澤君は冗談で言ったのでしょうけど、知らない人が聞い
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たら本気にしてしまうでしょ﹂
﹁え、冗談⋮?﹂
そりゃあ私達が廊下を歩いている時に人がどいてくれるのは本当
だけど、参勤交代は誇張しすぎ。気づかずどいてくれなかった人達
を、芹香ちゃん達がたま∼に注意?恫喝?したりするけど、それは
あくまでも極たまにの出来事だから。それ以外は至って平和だから。
﹁ちゃんと桜
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