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着床前診断 - 日本産科婦人科学会

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着床前診断 - 日本産科婦人科学会
N―374
日産婦誌54巻9号
!.クリニカルカンファランス
8.出生前診断の再評価―いまどこまでわかるのか
1)着床前診断
慶應義塾大学医学部
産婦人科助教授
末岡
浩
座長:東邦大学教授
久保 春海
はじめに
生殖補助技術の発展に伴い,体外受精の初期胚の一部を取り出し遺伝子診断を行う着床
前遺伝子診断 preimplantation genetic diagnosis(PGD)
の概念が作られ,その技術面
での発展と同時にこの実施を巡って倫理,社会面での議論もなされてきた.
着床前診断はあくまでも体外受精を基本としている.一般的には4∼8細胞に分裂した
初期胚から1∼2個の割球を生検し,その胚の遺伝情報を知ったうえで,胚移植を行う手
技である.
PGD の意義と原則
着床前診断の意義はこの概念を提唱した Handyside の言葉によって示されている.
妊娠が成立した後に胎児の異常の有無を知る出生前診断は,その異常が判明したときには
現実的に人工妊娠中絶につながる事実がある.出生前診断による精神的・身体的ストレス
から解放する方法として開発された技術である.
着床前遺伝子診断の基本原則は,第 1 に生殖細胞に対する遺伝子治療は医学的にも倫
理的にも現段階では不可能であることから,診断による細胞の選択が唯一の手段であるこ
とである.第 2 に遺伝子疾患の保因者の妊娠に対する情報提供を行ううえで,着床前診
断を行うという意思も,診断された胚を移植するかどうかについても親の自己決定による
ことである.第 3 にこの方法が,臨床研究としての位置付けがなされ,一般臨床とは一
線を画して考えられている点である.
PGD の発展と世界の対応
PGD の歴史をまとめたものを表 1 に示す1)∼3).PGD が可能な疾患は,大別すると,
(1)
X 連鎖性遺伝性疾患,
(2)単一遺伝子疾患に分けられるが,これまでに対象とされてきた
疾患には,!"胞性線維症(⊿F508 allele)
," Lesch-Nyhan 症候群(HPRT 変異)
,#
Preimplantation Genetic Diagnosis(PGD)
Kou SUEOKA
Department of Obstetrics and Gynecology, Keio University School of Medicine, Tokyo
Key words : Preimplantation genetic diagnosis(PGD )・ Polymerase chain reaction(PCR)・Direct sequencing・Fluorescence in situ hybridization
(FISH)
・Duchenne muscular dystrophy
(DMD)
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2002年9月
(表1) 着床前診断(PGD)の歴史
1989 年
1990 年
1992 年
1995 年
∼ 1997 年
胚生検の安全性を報告
ヒトに対する最初の PGD の報告(性別診断)
Duchenne 型筋ジストロフィー(DMD)の保因者に対する PGD
胞性線維症(⊿ F508 変異)に対する PGD(初めての疾患遺伝
子診断の試み)
DMD(exon 17 deletion)の PGD による健常女児を妊娠・出産
Tay-Sachs 病の PGD
世界 35 施設において 377 症例に対して PGD が行われ,96 人の
児が出生
(Wilton)
(Handyside)
(Handyside)
(Handyside)
(Liu)
(Gibbons)
Duchenne 型筋ジストロフィー(DMD)
(欠失型)
,! Tay-Sachs 病,
" α -1-antitrypsin
欠損症,#脆弱 X 症候群,$ Fanconi 貧血などがある.
PGD への対応は各国で異なり,歴史的背景や宗教的・社会的背景などから,倫理観や
イデオロギーに差のあることは想像に難くない.米国では,1999年に米国食品医薬局
(FDA)
が精子などの生体組織提供に関するガイドラインを提示したが,遺伝子検索の取
り扱いについては確定がなされていない.しかし,2001年に米国産婦人科学会では"胞
性線維症の PGD によるスクリーニング検査を推進する決定を行っている.また,単に診
断目的の PGD にとどまらず,Fanconi 貧血の第 1 子を出産した保因者の母親が PGD
を行い,その出生児の臍帯血幹細胞を Fanconi 貧血患者である姉に移植したケースが
2001年に米国で報告されている.オーストラリアの Victoria 州では,初めて体外受精卵
の染色体異常を含むスクリーニング検査を法的に認める唯一の行政体となった.英国では
2001年に PGD によるスクリーニング検査に関する法律を緩和し,重大な遺伝病をもつ
子供を産む危険性のある母親が健康な受精卵を選別できることを認めている.フランスで
は,ヒト胚の研究は法律で禁止しているが,PGD に関してはすでに2000年に初めての出
生児が誕生している.そして日本では,1999年10月に日本産科婦人科学会のガイドライ
ンが提示され,重篤な遺伝病に限り実施を認可した4).しかし,実際には実施に至ってい
ないのが実情である.
PGD 実施における問題点
我が国において PGD を実施するうえで,大別して 2 つの解決すべき問題点が挙げられ
る.第 1 に診断技術に関する問題として,微量 DNA からの診断の困難性,診断精度の限
界,安全性,性別診断に代わる疾患遺伝子診断の可能性などが挙げられる.第 2 に社会
的倫理的問題として,優生思想・差別の概念,患者やその家族の心理,個人情報の公開に
関する問題などが挙げられる.
それに加え,これらの診断や人工妊娠中絶が及ぼす医療従事者のストレスの問題は,社
会からは#仕事$として理解され,これまで取り上げられてこなかったが,潜在する問題
である.
医師および助産婦に対する出生前診断,着床前診断に関する意識調査
医師および助産婦にして人工妊娠中絶の実施に関する現状や意識および,出生前診断,
着床前診断に対する意見を調査すると,人工妊娠中絶に対して実施者側は,理由によりや
むを得ないと容認しているものの, その実施に際し, 85%以上でストレスを感じていた.
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日産婦誌54巻9号
その適応としては,両親の事情よりも胎児の異常に基づく理由の方が受け入れやすいとい
う傾向があったが,それでもストレスを感じると答えた実施者は少なくなかった.対応策
としての着床前診断に関しては,
「賛成」および「条件による賛成」が医師で96.4%と,助
産婦の81.4%より積極的に賛成する意見が多い傾向はあったが,いずれも反対はきわめて
わずかでその条件として諸問題の解決を挙げた5).
PGD の診断情報
PGD は開発当初より診断が容易であることから X 連鎖性遺伝性疾患に対する性別診断
が対象として選択された.その診断は,PCR
(polymerase chain reaction)
法によるも
のと FISH
(fluorescence in situ hybridization)
法によるものとに大別される.
(1)性別診断
PCR 法では,効率よく遺伝子増幅を行うために X,Y 各染色体の α -サテライトや heterochromatic region の特異的な繰り返し配列を増幅する PCR 法が単一遺伝子を増幅
するよりも極めて効率がよいために応用されてきた.FISH 法においても,この繰り返し
配列をターゲットにしている点は同様である.さらに,性判定でも X 染色体と Y 染色体
上の各遺伝子を同時に増幅する multiplex PCR 法はサンプリングの失敗や増幅上の手技
上のミスを知ることのできるという意味で極めて有効な方法である6).
一方,FISH 法では極体と割球からサンプルの存在を確認しながら診断を行うことがで
き,より一層多くの情報を得るために multi color FISH は,広く用いられている.この
ように FISH 法で検出できる異常には,染色体の数の異常が主なものであるが,それによっ
て,!性別の判定,"特定の染色体の異数体の検索が可能となる.また,利点として,細
胞分裂の時期を問わず間期であっても検出可能なため,精子や卵子,極体における染色体
数の異常を検出できることがある7).
しかし,性別診断には,! X 連鎖性遺伝性疾患以外を対象とできない,"結果的に男
性胚は棄却されるが,そのうち1"
2は正常遺伝子胚である,#女性胚の1"
2は保因者とな
るが,軽症ながらも発症することがある,$ FISH 法による性染色体の核型異常の情報は
スクリーニング検査と理解され,より優生思想的と受け取られることがある,などのデメ
リットがある.
(2)疾患遺伝子診断
これに対して,本来望ましいと考えられる疾患遺伝子診断には,!単一細胞から抽出し
た微量のゲノム DNA から,単一疾患遺伝子を診断しなくてはならない,"各種の遺伝子
病型に対応する必要があるなどの技術的問題点に加え,#発端者および保因者の遺伝子病
型が診断されている必要があるため,これが困難な場合には診断が不能である,$de
novo の発生には対応はできない,などの問題点がある.
(3)慶大式 PGD の原則と方向性
これらの条件から以下の 2 点を原則とする方向性で我々は PGD を検討している.
1)疾患遺伝子本体の診断を原則とする:PGD の各局面を鑑み,本施設は方向性を提
案している,発端者の遺伝子病型および保因者診断が前提であり,1 細胞からでも各種変
異(欠失,重複,微小変異)
に対応する技術開発が必要となる.
2)疾患を対象とする場合にとくに染色体スクリーニングなどの付帯する情報は診断項
目には加えない.
この点から割球と極体診断の併用による各種の変異に対応する確実性の高い診断法の開
発を行う選択をする方向にある8).
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(4)極体診断と割球診断の併用
診断精度を向上させるために複数の割球を採取して診断する考え方に対し,極体診断を
補助診断とすることによって,単数の割球からの診断ミスを軽減させる方法は極体採取が
胚成長にかかわらないため,少ない侵襲で情報を得る意味から有効である.極体は,卵子
の減数分裂過程に放出される染色体を含み,とくに第 1 極体は卵子に ICSI を行う際に採
取ができ,卵子ないしは割球と相反する情報を有している.
Duchenne 型筋ジストロフィー(DMD)に対する PGD のアプローチ
PGD を行うことの意義はその疾患と戦う患者本人やそれを支える家族への物理的,心
理的な救済である.したがって,その疾患に対する理解を深め,疾患に関わる人々の社会
環境や意思を知ることなく医療技術としてのみ進めるべきものではない.われわれがこれ
までに行ってきた DMD に対する PGD のアプローチについて示す.
(1)DMD について
DMD は,骨格筋の変性・壊死を主徴とし,10歳前後で歩行困難,16歳前後で臥床生
活,20歳前後で呼吸不全にて死亡に至る重篤な疾患である.頻度は本邦の遺伝子病とし
ては最も多く,男児の出生約3,500名に 1 名の発生で,年間に約50名の出産児がある.遺
伝形式は,X 染色体劣性遺伝で遺伝子座位は,Xp21.1に存在する dystrophin 遺伝子の
異常で発生するが,80以上の exon が2,400kb にわたり散在する大きな遺伝子である.
遺伝子病型にも欠失,重複,微小変異がある.
(2)筋ジストロフィー家系の出生前診断・着床前診断に関する家族関係および精神的
健康度の調査
疾患家系の心理的背景を知るために心理テストやヒアリングを行った.
妻が遺伝子キャリアである筋ジストロフィー家系夫婦では,妊娠に対して妻側のみに不
安感が強く,心の健康度が低く,ストレス度は高い傾向を示した.また,妻は夫から愛さ
れている気持ちが低く,夫から管理されているという気持ちがやや高い傾向を示した.こ
れに対し,着床前診断に対しては,肯定的意見が大多数を占めた.
(3)ホームページ「受精卵診断フォーラム」による情報公開と意見交換
PGD に対する社会の認識を把握し,社会に対する十分な説明を行い,理解を得ること
は,実施のうえで極めて重要な作業である.社団法人日本筋ジストロフィー協会の協力を
得て協会のホームページ内に「受精卵診断フォーラム」のホームページを公開し,会員が
実際の診断内容,技術,問題点,現状などについて容易に知ることができる情報発信と意
見交換を行っている.
会員の意見として科学の進歩を否定する意見はないが,議論の継続を前提に,さらなる
社会認識のための啓蒙の必要性が示唆され,実施に向けては継続的な社会整備の充実が必
要と考えられる.
(4)各種遺伝子型と診断
!欠失型の遺伝子診断
欠失型はその98%が遺伝子の診断が可能であり,PGD による疾患遺伝子診断としては
最も取り組みやすい病型である.
欠失型の診断には 1 細胞から遺伝子増幅を 2 組のプライマーによって 2 回にわたって
行う nested PCR 法が基本技術となる.さらに,multiplex PCR は複数の遺伝子を同
時に増幅する高い効率以外にサンプルの紛失や増幅のミスなどを検出できる意義があるこ
とから,この双方を組み合わせた multiplex-nested PCR 法が有効である.
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非患者の余剰胚の極体および患者
正常男性
のリンパ球 1 つから実際に,単一
細胞からの欠失診断精度は,好発す
る exon 8,
44,
45,
51に つ い て80∼
90%を保っており,偽陽性率は約11
C10661 ins
DMD患者
%,偽 陰 性 率 は 約2%で あ る.1回
の割球診断および極体診断各法では
86.5%の胚を移植可能と診断できる
が,極体診断と割球診断を併用する
ことにより,移植可能と診断する胚
(写真 1)単 一 細 胞
(リ ン パ 球)
からのジストロ
は72.3%と低下するが,胚移植可能
フィン遺伝子 exon 74の塩基配列分析.
と診断した胚における正診率は99.9
PCR 増幅後の塩基配列分析により,1
%と診断ミスを削減させることがで
塩基挿入が診断された DMD 症例
9)
きる .
!微小変異型の遺伝子診断
この中には点変異や 1 塩基挿入型があり,PCR によって増幅した後,遺伝子の配列分
析を行う必要がある.multiplex-nested PCR 法を用いて目的とする遺伝子部位を増幅
し,ゲルから切り出し抽出したうえで,遺伝子配列分析機を用いて塩基配列を解析(direct
sequencing)
する(写真1)
.
我々の成績では,PCR によるバンドの検出が可能であればほぼ確実に変異の解析がで
きることから,その診断精度は欠失型に等しいと考えられる.
"重複型の遺伝子診断
増幅遺伝子を半定量化して分析する方法を微量 DNA からの検出法を開発する必要があ
る.
最大の問題は PCR 法の定量性の安定性に関する限界であり,さらに,変異遺伝子の配
列が必ずしもタンデムに並ぶ変異とは限らず,その変異も家系により異なること,重複部
分が PCR で増幅するには巨大であること,break point が不明であることなどが挙げら
れる.
重複型については multiplex PCR によって正常遺伝子と重複遺伝子の量比が初期効率
を保つような条件で分析し,Gene Scan ソフトによるパターン解析で PGD が可能とな
る可能性があるが,現在なお開発途上の技術である.
おわりに
PGD の実施においては,単に技術開発を追求するのではなく,疾患の病態や患者およ
び家系家族の立場を十分に理解したうえで対象や方法の選択を社会環境を鑑みながら行っ
てゆくことが重要である.技術的には非侵襲な極体生検を割球生検とともに行うことで極
めて高い精度の診断効率を得ることが可能となるが,診断情報は可能な限り性別診断で代
用するのではなく,疾患遺伝子の各遺伝子型に対応すべきである.なお,すべての遺伝子
病型が診断可能な状況ではないが,欠失型,微小変異型は高い診断精度が得られ,重複型
は,半定量法による単一細胞の診断はなお検討の余地がある状況である.
《参考文献》
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2002年9月
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断を併用した疾患遺伝子診断を原則とした慶應義塾大学式診断ストラテジーとその成
績.日本受精着床学会雑誌 2000 ; 17 : 4―7
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