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火縄銃のうた

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火縄銃のうた
架
橋
1981
目
3
春
次
傷だらけの構図――李恢成著『死者の遺したもの』を読んで・・・裵鐘眞
衷失と脱自・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・文学謙
架橋小話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・与語潮
命運憶う・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・権星子
自分にとっては・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・みたたみ
抵抗史を継ぐ――許南麟『火縄銃のうた』・・・・・・・・・・・磯貝治良
○会
録
○あとがき
傷だらけの構図
――李恢成著『死者の遺したもの』を読んで
ペェ
裵
チョン
鐘
ジン
眞
(一)
私には、李恢成とは年令的にも体験的にも同世代の二世としての親近感がある。李の作
品世界はほとんどが(『追放と自由』『見果てぬ夢』以外は)彼の個人体験を下敷きしてい
るといってよい。しかもそのうえ李の個人体験の中味というやつは、なにも彼ひとりの特
異な限定された種類のものではない。われわれ在日二世のすべてにとって極めて共通かつ
類似したものが多分にある。たとえば『死者の遺したもの』のなかで、狂暴な父のむごい
仕打ちに、東植が
「わが家は在日朝鮮人でどの家庭よりも暗くて陰うつな家庭なのではあるまいか」
と絶望の声をあげるのだが、それを思いすごしだと反省して
「在日朝鮮人のどの人間よりもその不幸をとなえることはやはりおこがましいことなの
だ」
というくだりがあるが、これは誇張でもウソでもない。ここにはいわば現象的に在日二
世全体の同一体験の世界がある。陋狭な儒教倫理の化物の暴力的な家父長の父親像という
ものは、ごくごくありふれており、一般的でさえある。一方在日二世としての思想感情に
おいても、われわれは李恢成と非常に近接した軌跡というものをもっている。こうした同
一同時体験と共有の思想感情は、在日二世にとってふたつの共通項であり、ひらたくいえ
ば李の世界はわれわれ自身の世界とぴったり重なっている。従って二世作家の作品をみる
ときは、題材として在日朝鮮人の世界を描いているだけに、心情として客観的に作品鑑賞
できないという側面がある。あまりにも現実のわれわれ自身と作品世界との距離がなく、
適当な距離を置いて眺められないという問題がどうしても出てくる。これはなにも単に李
の作品に対してだけでなく、他の在日作家の作品をみるときにも出てくる。在日朝鮮人の
生きざま自体が暗くて重く、
“在日”を題材にした作品に接したとき、どうしても心情的な
印象が先走り、理性的な批判が欠けるということになる。至近距離では当然視野のひろが
りもないし、全体としての軸郭も把握できない。見えてくるのは部分であり、局部であり、
ときには独善的な見方しかできないという欠点が不可避的にしかも多分にある。特に完全
に虚構の作品でない、李の一連の私小説的作品(あくまでも自己体験を土台にしたという
意味で、個人=自我の中に沈潜し、そこに人生と文学の美をさぐるという種類の日本的私
小説をさすのではない)を読むときには、以上のような陥穽にどうしてもはまってしまう。
そこから出てくる主観的印象というものは、李の作品を読んでいて、まるで自分自身が爼
上にのせられて、細かく刻まれ、さらに腑分けされているようで、ある種の忍耐と恥ずか
しさと痛苦を伴うことからまぬがれない。裏返していえば、それほどまでに李の文学はわ
れわれの情念の琴線の奥深いところをうち震わせてくれるということになる。このように
われわれが抱く李への親近感がときとして冷静に読むうえで妨げになってしまう。なかで
も在日朝鮮人世界の退廃とか、かげりとか暗黒面などの否定的側面があばき出されると実
にやりきれない思いをさせられる。しかし彼の文学的関心が単なる暴露にあるのではなく、
また在日の悲劇やある種の疎外感だけを強調するというのも彼の目的でもない。彼の目指
すものはあくまでもそこを突き抜けたところから新生するところの人間像にある。かたわ
ら在日朝鮮人文学にとって、悲劇かつ退廃の暗黒面の描写は日本との関係を逆照射するも
のであり、さらには在日の諸矛盾をあぶり出すといった効果がないわけではない。在日朝
鮮人作家のひとりである金泰生は
「僕は素材によりかかるつもりはないですが、そういう人間の底にひそむ人間存在に何
とかして表現を与えたい。そのためには僕の、人々の、過去の暗部や恥部を書くほかない
し、それを書かないと僕らに暗部や恥部をもたらした社会は浮かぶ上ってこない」(磯貝著
『始源の光』一九七頁)
のことばはこの間の事情を説明してあまりある。また李恢成も『容疑者の言葉』の中で
言っている。
「私は自分の姿を〈あるがまゝに〉掘り下げ、その姿を通じて人に問題をなげかけたい
と思う人間である。自分の切実な心情を媒介として、そこにつまらぬ人間である自己救済
をも求める言葉が他人の救済をも可能にするものと考えるからである」
李の文学があくまでも、
“朝鮮人になる”ための自己確認と“失われたもの”の回復への
もがきを描くものであることを、われわれは一連の李の作品を通して知ることができる。
李の作品を読んでいまさらながらに、われわれは李の位置を再確認するのだ。そして李の
位置はわれわれ自身の位置であり、しいては在日朝鮮人二世全体の位置であることを発見
するのだ。そこにわれわれが李の作品から切実に同時代人としての文学的感銘を与えられ
かつ人生的教訓を示唆される理由がある。単なる在日二世の苦境や虚無感を訴えるだけで
は、同胞のわれわれからも排斥されるだろうし、民族文学として在日朝鮮人を教育し救済
する役割ももたないし、在日朝鮮人文学としての独自性もなければ文学としての普遍性も
ない。
ところで李の文学理念の最も特長的なことは、
“朝鮮人になる”ための民族の主体性と同
一性(李のいうアイデンティティ)獲得のためのもながきは、朝鮮民族にとって最大の矛
盾である国土の分断と民族の分裂を止揚する“統一朝鮮”への志向と地つづきであるとい
うことである。アイデンティティと統一の問題は表裏一体でしかも不即不離の関係にある
という認識を李はもっている。磯貝氏が指摘した在日朝鮮人文学の特長は、
“朝鮮的なもの”
をいかに描出し、
“民族的なもの”をいかに獲得してゆくかの中にある、といったが李恢成
にとって“朝鮮的なもの”の究極はアイデンティティの獲得のことであり、
“民族的なもの”
の究極は祖国の統一をかちとるということになる。アイデンティティと統一の問題は李の
文学の最も主要な文学テーマであり、また彼の文学の全存在を規定し支配しているといっ
てよい。以下彼の文学理念を『死者の遺したもの』の分析を通して追ってゆきたいと思う。
(二)
『死者の遺したもの』も李恢成自身の個人体験を土台にした一群の家庭小説の中に入れ
てよいと思う。シベリヤから日本へ渡ってきた朝鮮一家の離散を描く『またふたたびの道』
と『私のサハリン』
、父を描いた『人面の大岩』、母を描いて芥川賞をとった『砧をうつ女』、
屈折した在日朝鮮人二世の青春の群像を描いた『われら青春の途上にて』『青丘の宿』『半
チョッパリ』等の作品には、家庭内の親子関係、兄弟関係が物語の展開のなかで重要なた
て糸になっている。
『死者の遺したもの』で描かれる骨肉の相剋は、在日朝鮮人家族のもた
されている矛盾のひとつの典型的形象として活写されている。
『死者の遺したもの』の前半は、父の死をきいて東植は家にかけつける。父の死体を前
にして、粗暴な父を象徴する「短距離競争」とその特、訓、にきりきざまれた少年時代を
思い起こしながら、どうしても父とうちとけて話し会えなかった自分をふりかえる。父を
単なる暴君として憎悪の対象にし、その背後にある“恨(ハン)
”の感情(悲哀の集積集合
の感情)にまで思い至らずに、父に対して酷薄であった息子は、父の死に直面して甦って
くる父子の愛情をかみしめる。後半は父の葬儀に、総連葬でもなく民団葬でもなく「共同
葬」が提案される。共同葬をめぐって兄と弟の確執、それに在日朝鮮人社会を二分する組
織の対立がからんで“在日”の複雑な一断面がえぐり出される。しかし最後には共同葬が
実行され、そこには不安定ながらも同一民族の共通の広場が具現されるというのが、おお
まかなあらすじである。ひとことでいえば、在日朝鮮人の置かれている状況、抱えている
問題が、父の死の共同葬をめぐって縮図のように凝縮されて描き出されている作品という
ことになる。
舞台劇を見るような時間と場所の限定の中に、つまり共同葬をめぐって(たぶん李は手
法的にそれを意図したにちがいない)ストーリィは展開される。酷薄な人生を送り「それ
だけが楽しみだからな。国が統一されて故国の土を踏む、それだけかな・・・・・」
と怨念と望郷の心を遺して死んだ在日一世の父。封建的な一世の父を反面教師として新
しい朝鮮人の生き方をめざす在日二世の息子。共同葬をめぐっての兄弟の角逐。その背後
にあるふたつの組織の民団と総連、さらにその大きな背後にある朝鮮民族の最大唯一の矛
盾である祖国の分断と民族の分裂の悲劇。それらの因子が重層的に交互にからみあいなが
ら作品世界はくりひろげられてゆく。作品構成の面から実に巧妙かつ適確であるが、実際
問題として在日朝鮮人の現実の生活自体が、このような因子に複雑に不可分的に折り重な
る要素をいっぱいにもっている。そうした意味でも『死者の遺したもの』は集約的にしか
も象徴的に在日朝鮮人をとりまく状況を映し出すことに成功しているといってよい。
作品の中でこれらの因子がどうからみあっているかを右の図で示してみた。
作品中の人物について若干の説明をすると、在日一世を代表するものとして父と分会長が
いる。父は古い儒教道徳の家父長の絶対的権力をふりかざす暴君であり、封建的で前時代
的でしかも無知無字である。そうした否定的側面をもちながらも、統一朝鮮に対する志向
は純粋で一直線。風化の侵蝕が這入りこむ余地のないほど濃厚な“原朝鮮的なもの”の体
現者。粗暴の中にもヒューマンな感情が底流にある素朴な父には、愛さずにはおれない父
親像というものがあり、それは原始的なふるさと像、祖国像と重なるものがある。同時に
分断以前の単一朝鮮のイメージの生き証人でもある。二世が継承しなければならない“原
朝鮮的なもの”を多くもっている。父の死はある意味で“原朝鮮的なもの”の消滅であり
終焉である。こうした認識があるので父の中にある“原朝鮮的なもの”の再確認と継承の
志向がはたらき、それは同時に父を含めた在日一世たちへの理解につながり、同族として
のまた血肉としての愛情と連帯に発展してゆき、二世にとって最も重要な“朝鮮人として”
の歴史体験を一世を通して学びとり共有できるということになる。もうひとりの一世の分
会長は、父とは対称的に描かれる。どんなに状況が変わっても過激的でもなく、守勢的で
もなく「地下に根を張った切株」みたいで、いつの時代にも最後まで生きのこる民衆の英
知を感じさせるタイプで、一世の中になる“原朝鮮的なもの”の肯定的要素を多くもつ。
まさに地に這う静かでしたたかな聡明な朝鮮人像がここにある。この分会長の人物像は「ウ
リはゆっくり走った」と息づかいが聞こえるような鮮烈な父親像にくらべると、すこし実
在感に欠け、やや典型的形象に流れているうらみはあるが、民族のイメージのうえで陽画
的部分の具現者としての役割を与えられている。一方二世を代表する人物として泰植、明
植、東植の三兄弟がいる。二世たちの一般像としては、封建思想からの自由は得たが、“民
族的なもの”を稀薄的にしかもちえず、風化の浪に押し流されようとしている。長兄の泰
植は組織のうえで民団に属し暴君の父にいちばん抵抗しながらも、自らを父と同じように
暴君化させ封建化させてゆく。末弟の東植をして「他人ならば一生つき合いたくない」と
いわしめるほど兄弟の断絶は深い。明植は組織のうえでも兄弟関係のうえでも中立。
「オレ
たちはまちがっている、どこかまちがっている」「他人よりも冷い関係になってしまうよ」
「父がのこしたものは、オレたちが仲良くやっていくようキカイをつくってくれた」と分
裂の悲劇を歎く。しかし「すべてに円満をねがう明植がえてして折衷的になり勝になる傾
向がある」と東植は明植に対してどっちつかずの日和見を懸念する。末弟の東植は北の総
連に属している。この三兄弟は分断朝鮮の現実をそのまま映し出している。しかも兄弟は
もともとひとりの父(=単一朝鮮)から生れ出たものではないか。そのほかの人物として
は組織人として副委員長(総連)と事務局長(民団)のふたりと日本人の村の有力者がい
るが端役なので言及は省く。
分断の悲劇が家族という血肉の中で、たとえば親と子、妻と夫、兄と弟、また同胞の中
で、隣人友人の中で反目と断絶、対立と抗争といったものを際限なく複雑化し細分化し極
端化させてゆく場面は、在日朝鮮人社会にあっては日常的にあちこちにある。分断の現実
が体制の対立、政治の対立、組織の対立、思想の対立、世代の対立、血肉の対立といった
ものまでに拡散し、重層的に入り乱れて折重なり会いながら不幸と悲劇を固定化させてい
る構図がここにある。
二世の息子が一世の父の酷薄で不幸な生きざまに対する理解を深め、愛情を回復し、父
の“恨(ハン)
”の感情を共有し、さらには父を認知することは、一世がもっていて二世が
もっていない“朝鮮的なもの”の奪回であり、狂暴な父に抗いながら自身が粗暴に流れ、
東植を「裏切った」泰植に対しても信頼が回復しかかっており、それらは親子、兄弟の骨
肉の親和と愛情の復活である。民団と総連が一同に会して言葉を交えるというのは、単一
民族としての同族意識の発見である。いずれも「共同葬」を契機として“失われたもの”
の回帰である。このようにみてゆくと李恢成が「共同葬」の中に在日朝鮮人社会の“失わ
れたもの”の回帰、回復、奪回といったものを収歛させてゆく構成は、見事というほかな
い。作者の卓抜した文学的力量をみる思いがする。
このような図をみてゆくと、在日二世にとって“朝鮮人になる”ことと“祖国の統一”
への志向が同じ地平線上にあるという李の文学理念がよくわかる。
磯貝氏は『始源の光』の中で在日朝鮮人の位置を“矛盾としての存在”
“引き裂かれた存
在”
“境界線に立つ存在”という三つの極点に捉えて把えるという鋭い分析をしている。在
日朝鮮人にとってひとりとして、この三つの極点から完全に自由なものはいない。在日朝
鮮人文学作品の題材のすべては、複雑で困難で悲劇的なこの三つの極点の緊張関係から生
れる事件と現象を映し出しているといっても過言ではない。
『死者の遺したもの』とて例外
ではない。当然李恢成自身の世界もこの三つの極点を結ぶ空間の中にある。李の場合この
三極構造の在日朝鮮人の位置を止揚するものとして“朝鮮人になる”ことと“祖国の統一”
を唯一の必要かつ絶対条件としており、同時に彼の最も主要な文学的課題として描こうと
しており、さらには自らの存在の根幹を支える文学的理念にまで昇華させようとしており、
彼の文学的営為のすべてを精魂こめてここに集中させているといってよいと思う。こうし
た李の特質と傾向は、彼の文学作品名からも明白に知ることができる。長編大作の『見果
てぬ夢』は統一の悲願を示し、『青丘の宿』は祖国の別称であり、『またふたたびの道』と
『死者の遺したもの』は“失われたもの”の回帰への執念の言葉であり、エッセー集の『北
であれ南であれわが祖国』
『イムジン江をめざすとき』はそのものずばりの祖国観を叫んで
いる。
(三)
『死者の遺したもの』というのは一体何なのか。この問いかけに対する答えには、作品
の明植がいうように、兄弟の仲直りの場をつくってくれたということがある。兄弟の仲直
りは、ただ単に骨肉の和解というだけでなく、その背後にある総連と民団のふたつの組織
の対立の緩和と話し合いの場づくりであり、さらには不毛の対立と分裂の中で実現できた
「共同葬」という北でもない南でもない“ひとつの朝鮮”という民族と国土の統一への志
向につながってゆく。ふたつめは「くるぶしの傷」に象徴される日帝時代の被抑圧民族と
しての酷薄で不幸な歴史の生き証人としての父の生きざまがある。それは国を奪われた辛
酸と苦痛の人生を生きた朝鮮人一世としての紋章といってよく、この在日朝鮮人の歴史を
物語る肉体に刻まれた古傷は、二世の脳裏に正確かつ鮮明に記憶されなければならないも
のだ。東植が自分の父の遺骸に触れさせてやろうと思うのは、この「くるぶしの傷」に象
徴される朝鮮人の紋章を継承させようとする小さいけれども重要な儀式であったわけだ。
泰植と東植は、父の「共同葬」を通して仲直りのきざしを見つけたが、はっきりと仲直
り宣言したわけではない。うたたね中の東植に毛布をかぶせたくれたのが、どうやら泰植
らしいと思って
「あけがた、毛布を懸けてくれたのはこの兄ではないかと思っていた。しかし訊ねると、
泰植は否定するだろう。そうであってもよい。……これからのあり方で僕はあの分会長の
ようにきびしくやさしい態度で兄にむかっていこうと一人できめているのだ。それが自分
にとって兄を理解するための道にちがいなかった」
東植は対立と憎悪の思想からは何も生み出されないことを改めて悟り、泰植を理解し包
みこむ姿勢が仲直りを完成させると考える。この東植の気持の変化が『死者の遺したもの』
の三つめである。作品の中では兄弟の分裂と民族の分裂を重ねているわけだが、李恢成は
ここで、民族の統一への基本的姿勢を東植の心情を通して吐露しているように思われる。
李恢成の最も強調したかった箇所のひとつではなかっただろうか。
(四)
李恢成の言葉づくりのうまさ、エピソードづくり、イメージづくりのうまさについて少
しふれたい。
『われら青春の途上にて』の春治の「胸のペンダント」は自己存在を証明する象徴的な
小道具としてあつかわれ、
「あさり、しじみ」の早朝の売り子の呼び声は「あっさり、しん
じまえ」と在日朝鮮人二世の生きざまを皮肉る声にきこえた。『武装するわが子』の「聖地
地区」という言葉は、朝鮮人と日本人の連帯の理想郷を示し、それは加害者意識と被害者
意識の奇妙なすれちがいからくる幻想の産物の虚像であった。『青丘の宿』の「赤い腰ひも
をつけた男」は、若い青年の性欲と出口のない陰うつな側面と気味悪い不透明な行為の代
名詞であった。いずれも作品世界の中で際立った色どりをそえ、ときには作品テーマその
ものを象徴するものであった。
『死者の遺したもの』の中では、この李の特長が隋所に発揮
される。
先ず少年の心をずたずたの恐怖心で支配した狂暴な父のイメージを鮮明に浮き彫した
「短距離競争」
。また「……ウリはゆっくり走った。東植、ウリはいつもゆっくり走った」
と夢の中で語りかけてくる父の言葉は、絶望を暴力行為でごまかしていた父のヒューマン
な内面が躍動してくるようで、父子の情愛の交感がひたひたと迫ってきて、きわめて印象
的かつ感動的描写である。本来ならば二世作家にとっては色薄くしか持ち得ないはずの朝
鮮的感性が如実に結晶化した見事な文章といえる。われわれはこんな文章に接する無条件
降伏してしまうのだ。朝鮮人としての感情が一挙に爆発して胸はあつくなり、息苦しくな
り、自らを含めて“なんと愛すべき朝鮮民族よ!”と感涙にむせんでしまうのだ。このく
だりを金石範がほめるのも当然で、朝鮮人ならこの文章に凝縮されている朝鮮の父親像の
極致に民族感情を喚起、触発されないものはないのだ。
「どす黒い血」と「くるぶしの傷」
。
万身創痍の傷だらけの在日朝鮮人一世は、生きているときに流した血だらけでは足らず、
死んでも血を流さなければならない傷の深さ。亡国の時代を生きた痛恨の人生を最も激越
な方法、つまり自らの血でもって表現せざるをえない凄絶さが伝わってくる。それはまた
“原朝鮮的なもの”
、単一朝鮮、ふるさと祖国の痛みであり、苦悶であり傷痕でもあるわけ
だ。同時に「共同葬」をめぐっていいあらそっている生者の同胞たちの角逐を訓める血の
叫びでもある。それから朝鮮戦争の最前線の兵士のののしり言葉の交感は、同一民族の底
流にある同族への愛情は、殺りくと破壊の前線においてすら消滅し尽されえないものであ
ることを示す象徴的エピソードとして紹介される。この作品の主題の「共同葬」という言
葉は、イメージとしては統一というものに置き換えてもよいと思うし、共通の広場といっ
てもよいと思う。この「共同葬」について少し言及したい。
祖国の分断と同胞の分裂の究極的解消は国土の統一しかない。統一にむけてのさまざま
の営みのなかで、そのひとつとしての「共同葬」という発想は最も受け容れられる要素を
含んでいる。死者に対する尊崇の念は生者をして一時的和解の状況を割と容易にしかも素
直に現出される。一世の父が生きていた大半の時代は朝鮮が日本の植民地治下にあったと
はいえ、国土の分断はなく、朝鮮民族は文学通りの単一民族であった。一世の死は総連葬
でもなく民団葬でもなく朝鮮葬でなくてはならない。北でもない南でもない単一朝鮮人と
しての喪章を冠せられるべきである。しかし現実はどうか。葬儀はいまでは民族としての
共通の立場を表現し保持する数少ない限られた機会になってしまし、その機会さえ祖国の
分断という人為的な政治の壁に大きな制約を荷わされている。金石範作の『驟雨』の中で
在日一世が祖国ふるさとで死んだ親の祭祀をする場面がある。故国の土地に自由に往来で
きず異郷の地で親を祀らねばならない在日一世の痛恨と苦衷が吐歴される。ここでも在日
同胞は北も南も同席する。政治や体制を越えた同族としての共有意識が彼らを瞬時の休戦
の気持にさせる。葬儀と祭祀が在日朝鮮人社会においてまさしく共通の広場としての役割
を発揮する。ここではたとえ政治の話はされても遠慮がちにされて、故人の思い出が語ら
れ、遺族への慰めの言葉が多く投げかけられる。
ここで祭祀の場面のでてくる『驟雨』を想い起してみる。それは現実の政治的状況に眼
をつぶり、自分の生活を便利と安逸の中に埋没させて祖国の分断と民族の分裂という問題
を日和見の迎合主義の流れにまかせていた初老の在日一世の良心のうずきの物語である。
にわかあめという自然現象を実にうまくつかって、にわかあめのまえとあとの主人公の心
の動きを鮮やかに映し出しながら、在日一世の中の南北をしみじみと浮び彫りした味わい
深い作品であった。にわかあめにたたきつけられて押し流される「さくら」の花びらに朝
鮮民族の運命を重ねあわせながら、同時に主人公の保身的な迎合の心と後退化していた民
族精神をにわかあめが洗い清めてゆくという印象的な描写があったが、この物語の中で祭
祀の場面がある。総連の運動をしているために、ふるさとの南の地へ自由に帰れない男の
母親が死ぬ。男は異国のこの日本で母親の葬儀をしなければならない。この事件自体が祖
国の分断という民族の矛盾の場面であるが、この葬儀に参列する同胞はこのときだけは組
織の壁をかたわらにずらしてやって来る。この作品では共同葬というはっきりした宣言の
もとに行われてはいないが、これもひとつの共同葬である。そこでは政治より民族が優先
される。李恢成のいう時間的存在の国家よりも永久的存在の民族という発想が特別に強調
されるわけではないが、故人を偲び遺族を慰める送別の行事に同族としての心がひらく。
民族という同族意識が確認される場所だけに、なごやかなけ、ん、か、にしかならない。
(こ
の作品では硬直した組織、腐敗した幹部への批判が語られるのだが)南のものも北のもの
も同じ席に顔をつき合わせるこの事実こそ深甚の意義がある。いわばここに民族の共通の
広場が現出されるのだ。ここにひとつの具体的な統一への指向を秘めた可能性がある限り、
それは希望であることにまちがいない。葬儀とか祭祀が朝鮮人にとって、民族という自然
的存在が国家、体制、政治、組織という人為的存在を超越する、或いは包みこんでしまう
ひとつの役割を果たす現象であるという認識が李にも金にもわれわれにあるということだ。
さらに大袈裟にいえば、在日朝鮮人にとって葬儀や祭祀は分断を止揚する統一への希望を
つなぐ民族的行事であるということができまいか。
(五)
作品の結末では共同葬が実行されるのだが、逆に共同葬ができなかったという結末にし
たらどうだろうかと考えた。共同葬ができないほどに亀裂が深く、兄弟内の憎悪と対立は
簡単に埋められそうもない、それらはそのまま組織のしいては祖国朝鮮の政治的状況を反
映しているわけだが、政治の壁は同族の、また兄弟の連帯を頑固にはばんでしまう。或い
は朝鮮人の最も悪しき特質といわれる派閥主義、それに地縁、血縁がからんで利益集団が
形成される民族的傾向があるが、兄弟の延長線にある、これらのセクト主義の矛盾をえぐ
り出す方向にもってゆく。ひとつの統一への具現化である共同葬がそれらの頑迷な因子の
ために失敗したという展開にしたら、つまり共同葬を志向するひとたちが共同葬を反対す
るひとたちの壁をとりくずせなかったという結末になれば、もっと民族の矛盾が強烈に濃
厚にあぶり出されてくるのではないだろうか。
ここで李の文学の体質について考えてみたい。彼の文学は矛盾や問題を提起はするが、
それをそのまま鋭くつきつけるだけで、読者に考えさせてゆく方法をとらずに、なんらか
の解決策を示唆してゆくという形式をとっているように思われる。ひとすじの希望の灯が
常にともっている。断崖絶壁の進退きわまった極限状況というものは彼の世界には存在し
ないみたいである。たとえ他者からみて出口のない場所でさえ、彼には常に脱出可能の出
口が必ずあり、光明転回への端緒というものが示される。頂上から垂れさがっている一条
のロープをひとにぎりずつ確実に希望をもって這い上ってゆくというのが彼の体質のよう
に思われる。魯迅の有名な言葉「絶望の虚妄なことは希望と相同じ」みたいに峻厳でもな
く難解でもなく哲学者でもない。人間のあるがままの姿を凝視することで、人間の中に併
存する弱さや酷さに愛情の眼をそそぎながら、同時に人間自身が生来的に備える善意性と
真摯性に絶対的信頼を仮託するという姿勢がうかがえる。こうした李の姿勢は彼の文学を
平明なものにし、かつ独特の明るさを招来している。彼の文学は余音じょうじょうで深遠
な思索を呼ぶ起すという種類の難解なものではなく、わかりやすさという面で読者にとっ
てきわめて身近な存在になっている。特に民族文学として李の文学をみるとき、彼の時代
先取性と時代抵抗性の精神は『見果てぬ夢』で偉大で深甚なものであることを証明したわ
けだが、在日朝鮮人文学としての平明さと明快さは、彼の底流にある人間性そのものへの
讃歌に裏打ちされた朝鮮民族への同胞愛が、作品中に強く押し出されてくるという楽観主
義からきているように思われる。共同葬の成功という結末も、こうした李の体質からすれ
ば当然ということになるのだろうか。彼の文学のロマンチシズムはあくまでも陽性で、陰
影の深い屈折したものではないようだ。李の文学の体質にからませて、作中の結末の共同
葬の成功をみてきたが、逆の失敗の結末にしたらという問いはひとつの問題提起としてあ
げたいと思う。
――以上は十一月二十四日の例会で報告者として発表したものに若干加筆したものです
――
喪失と脱自
ムン
文
ハク
学
キョン
謙
小松川女子高生殺人事件をモデルにした、金石範(キムソクボム)の小説「祭祀なき祭
り」
(すばる81.1)が発表された。この作品の文学的評価を云々する資格を私は持たぬ
が、事件後二十数年を経て何故に小説化されねばならなかったのだろうか。金石範は一体
誰のために何のためにこれを書いたのだろう。私は二世に、三世に、そして未来を背負う
べき在日朝鮮人に向けて投げかけられた一世といっていい作家からのメッセージなのでは
ないかと思う。一世が、二世を描くという、ヘタをすればピエロになりかねない役廻りを
引き受けたのは、二十数年前の背景が、現実になお影を落とし、さらにその色を濃くし続
けていることを作者が敏感に嗅ぎ付けているからであろう。
主人公金朋男(キムホウナム)の独白である。
「――金沢朋が自分の本名というものでないのも知っていた。通名、朝鮮人が日本で生
きる場合に使う日本式の通名であるのを知っていた。しかしやはり金沢朋男は、彼の血肉
であって、彼からその名前を引き剝がせば皮膚がいっしょにくっついて破れるだろう――」
「――自分にいちばん近い馴染みの名前」なのだ、とは二世の通名に対する的確な描写
である。半日本人(バンチョッパリ)と云っていい彼を、受入れる社会はこの日本には存
在しない。逆に、彼にとって朝鮮人、朝鮮すらも外部の事象になる。社会とは生きるため
の糧を得るところでそれ以上のものではありえない。辛うじて生きることのみを与えられ
る日本とは監獄なのである。金朋男にとってこの現実は、仮の場所、夢の続きなのである。
意志や行為はそのまま日本に吸収され薄められ、後にはなにも残らない。人間実存にとっ
て我慢できないこの喪失感覚が、確かな手応えを求めての強姦殺人へと駆り立て、そして
自ら破滅を招くのである。
この作品は在日朝鮮人による女子高生殺人事件という衝撃的な事実を題材にしながら実
は、そこに至ってしまった喪失感覚をテーマにしているのではないかと思える。この喪失
感覚はひとり在日朝鮮人のものではなく現代人に普遍のものである。だが金石範はこれを
普遍的なものとしてはなく、在日朝鮮人、とりわけ二世三世に特有のものとして描きたか
ったのである。これは日本における朝鮮的なものの風化、同化と深く関り合いながらより
以上に深刻な問題をはらんでいるからである。
在日朝鮮人二世である私は生れて以来、この喪失感覚と向かい合わせて生きてきたとい
っても良い。少しばかり自分を甘やかしていえば、学校や職場で、通名を使ってきた私に
一体何が残っているのか。学校で良い成績を残し、職場で真面目に働いて、人にほめられ
る一方で人目のつかぬように外国人登録証の存在を確認するときのあのいやな気分を何と
いって表現したらいいのか。それまでやってきたことが何の意味も無くなるような虚しい
気持、奈落に落ちこむような喪失感覚に他ならないのだ。金鶴泳はつっかい棒をいきなり
取り払われたような気分といった。私はどこまでいっても日本の皆様とは同じになれない、
外国人ではなく朝鮮人なのだと思い知らされる。そう思いながらそれとは隔ってしまった
日常の感性は自分自身を朝鮮人と決めつけることに頑強に抵抗する。だがこんな気持は日
本人はもとより一世にも理解されにくいものである。
生れ落ちた時すでに朝鮮は海の向こうにあり、日本との間には外国人登録証のある現実
は一体何を我々に強いるのか。社会は我々をあるがままに受け入れようとは決してしてい
ない。だが、喪失感覚にとらわれたあるがままの半日本人=「神の怠惰」によって産み落
とされた「悪魔」として、神=日本と向き合おうとしたのが金朋男である。結局、「悪魔」
としての自律性を持ちえなかったため、殺人を電話で告白してしまう。その結果、マスコ
ミ警察との、電話―追認というイタチごっこの末の逮捕によって、はじめて彼は朝鮮人の
殺人者として社会の表面に浮かび上がるのである。
在日朝鮮人は一世から二世へと確実に変容している。それにつれて意識もまた深刻に変
容しつつあると云わねばならない。そして将来、在日朝鮮人の法令上としての立場もます
ます微妙になることが予想されるにもかかわらず、半日本人(バンチョッパリ)は、もは
や一般的な傾向である。我々は、私は、――半日本人(バンチョッパリ)的な精神が、日
本社会と抜き差しならぬぐらい関り(かかわり)合いながら常に崩壊の危機をはらんだ緊
張の持続を強いられている――金朋男の悲劇を決して他人事と見ることはできないのであ
る。
風化、同化は在日朝鮮人共通の問題である。しかしその解決は個人に帰結するしかない。
この小説はそのはがゆさを十分知りながら、そうあってはならない、あらしめる社会に負
けるなと、あえて言わなければならない、金石範の苦衷に満ちた我々二世へのメッセージ
なのである。
架橋小話
よ
与
ご
語
うしお
潮
その1
在日朝鮮人が日本人に向けて「実は私は朝鮮人なのです」と告白することは、彼等にと
ってあたかも自分がノーベル賞受賞者であるかの様に自身と誇りを持って出来ることなの
であろうか。またその様な自身と誇りを在日朝鮮人が示すことを日本の社会は期待してい
るのだろうか。「そうか、お前は朝鮮人だったのか」「ええ、あなたは朝鮮人……」と言わ
れ就職を断わられ、失恋を余儀なくさせられていった在日朝鮮人の数は枚挙に暇がない。
この様な日本の厳しい現実の中にあって、日本人が在日朝鮮人に向って本名を名乗って
生きて行く様にと勧めることは暴挙以外の何物であろうか。しかし、僕は敢えてこの暴挙
を振るったのであった。昨年、一在日朝鮮人女子学生が三重県の教員採用試験に合格した。
彼女 I さんは初め採用されるにあたり、本名で行くか通名で行くか迷っていた。
「通名でな
ければ採用されないのでは……」と在日朝鮮人学生らしい将来への不安感を覗かせていた。
その時、ふと朝鮮人として司法修習生に採用されたいと最高裁へ請願書を出した金敬得君
のことが頭に浮んだ。彼は請願書の中で次の様に書いた。
「在日朝鮮人であることを恨み、いたいけな心を痛めている同胞の子供に対して『朝鮮
人であることを恥じずに、強く生きるんだよ』と諭してみても、それが帰化した人間の言
葉であってみれば、一体いかなる効果があるでしょうか」
「この様に頑張っている朝鮮人もいるのだから、君も本名で」と言ってみたのであった。
そして、昨年(八〇年)四月、彼女は本名で採用されることを希望し、三重県も彼女を採
用した。人類が初めて電球を発明して明るい光を灯したときの様に、ここ三重県でも一筋
の光が放ちはじめた。この光こそは、本誌一号で藤本さんが書いた様に八〇年以降におけ
る「始源の光」である。僕らは決してこの光を絶やしてならないと思う。
(付記、去年合格できなかった H 君が今年見事に合格出来ました)
その2
十二月十四日の日曜日、
「在日朝鮮人作家を読む会」が主催して「架橋をめざす集い」が
読む会の参加者の一人 Y さんのお店を借りて開かれた。一人一人が立って自分の事を話す
段になって、Y さんのお店へよく来るという二十過ぎの日本人青年 T 君が「自分はある女性
が好きになり結婚をしたいと思うようになった。その女性は朝鮮人であり、いろいろ両親
にも話して自分はどうしても彼女と結婚するつもりである」と話した。結果的には彼女に
振られたけれど、今でも彼女の事が好きであるということでした。
私事を波瀝すれば、かつて一度在日朝鮮人女性をお茶に誘おうとしたことがあった。電
話の向こう側は躊躇いながらも「いいわよ」という返事であった。なぜかこの時僕はビビ
ってしまった(二人の仲が発展するのを期待しているのにもかかわらず)。「・・・・・あ
あいいよ。また電話するから」と電話を切ってしまった。後日、次の様なやりとりがあっ
て振られてしまった。
「君さえその気になって燃えるから……」
「私のごときをその対象とせずとも……」
「民族がちがう、国籍がちがうということで自分の気持ちを発展させ得ないのであれば、
いつまでも自立できない。僕は自立するしかない」
「私はあなたと結婚したいと思っていませんし、これからも思わない、いや思えない。
私はあなたの思いを受けとめることが出来ない」
「これからも思わない、いや思えない」というのは、家族という共同体を作っていく相
手としては失格であり、また表裏の関係として民族問題があるのかもしれない。所詮自分
には抑圧、搾取民族の血が流れているのであり、
「生まれて来てすみません」という気持ち
に思い至る。現在過去の日本人と朝鮮人の関係を考えるならば、
「いや思えない」といわれ
る訳は充分に納得の出来る処である。自民族の歴史に反逆し、否定していく中で新たなる
光を求めて行きたいと思う。
(‘80.12.25)
命運憶う
クォン
権
ソン
ジャ
星 子
怒りこめ署名せし日も遠くして確定判決迫まる日々の無力感
地を叩き哀号を喚ぶ夢を見き金大中極形の影を惧れて
一人の生命に衡る政治と冷えては滾る身に冬は来る
「金大中死刑」抗議する汽笛いま高鳴れり冬晴るる街
散り残る銀杏黄葉は淋し金大中無辜の命運憶う
署名デモそれより他にすべなきや金大中抹殺の判決せまる
心砕く日々のつづきて降圧剤含めば甘し企みのごと
なにびと
そこな
何人の人権も 害 うことなかれ今日カーデモにわれら集い来
車つらね師走の風の町ゆけばスローガン幕はボディーを叩く
金大中救えとスピーカーの声響く師走の街の顔々白し
黒地を寄せゆく葱の秀鋭き畑に処刑ゆるすなの声流れ来る
自分にとっては
み た た み
一番はじめ、高史明の「夜がときの歩みを暗くするとき」を図書館で借りて読んだ。も
うずっと以前で、何気なく読んだのにちかい。その後、
「看守朴書房」を読んだ。一年半ち
かく前のことで、その時、私は少し構えながら読んだ。
『在日朝鮮人作家を読む会』がある
ことを知っていて、そこへ参加する為に読んでみたのだ。その小説はその時の会のテキス
トだったわけではないので、先ず読んでみた、のだった。それから暫くして、次回のテキ
ストである作品を読んでから会へ出かけて行った。
その頃、既にいくつかの作品を読んでいて、会へも参加している知り合いの日本人が何
人かいた。一年たってみると中には欠席がちになった人も数人いる。そのうちまた現れる
だろうし、その間の事情もわからないけれど、彼らが最初にそこから飛び立ってきた古単
へ、舞い戻ったわけではないことだけは確かだ。その人達は、相変わらず作品を読み続け
ているようだし、たぶん恐れたり、逡巡したり、時には陥ち込んだり尻込みしながらだろ
うけれど、引き返さずに、割と熱っぽく喋りながら歩いているのをよく見かける。何かを
集会とか飲み屋の一隅などで。彼らの行く先がどうなっているのか、果たして正しい歩き
方なのかどうか、今の私に判断できない。言えることは、この一年余り、自分でそうとは
気付かずに『在日朝鮮人作家を読む会』にしがみついていた自分、そこへ参加することで
自分を変えようと初めは考えながら、少しも本気で意欲することをしなかった自分、当然
の結果のように殆ど変わることのなかった自分についてなのだ。
そうは言っても、思いがけず変化する部分もあって、いつの間にか強靱になっている自
分にある時気付き、驚いて振り返ってみたりすることもあるのだ。それは私にとってとて
も貴重な経験ではあるけれど、よく考えてみるとそれはただ、臆病でひねくれたところの
ある子供が、親切で分別のある大人達の仲間入りをしてこわごわ動き回ってみたところ、
幾らか大胆になり、手ひどく傷付かない範囲を狡猾に探ることで大人になったように周囲
にも自分にも錯覚させているのに似ていて、恥ずかしい気がしてくる。自分の中の最も肝
腎な点は変化していないのだから。
私にとって本当に収穫と言えるものは、実は別のところにあるようだ。それは、意外に
も自分が日本的な感覚を持った日本的なの日本人であるようだ、ということに気付かされ
たことだ。意外にもというのは自分の性格的な弱点とか、利己的な気持の動きとか、非社
会性などにはある程度気付いていながら、日本人として外側から規定される事柄の外(ほ
か)にあるように見える自分の内面まで日本人である。とは私は全く考えたことがなかっ
たからだ。むしろ、自分の周囲にある世間というものには馴染めないものがあまりに多い
のだから、わたしは世間から感覚的に弾き出されている、と初めから信じて疑わなかった
ようなのだ。こう信じることで生きにくくもあったけれど、ひねくれた子供の時代からず
っと現在に至るまでの密かな誇りでもあり、こういう世間への感じを支えにして歩いてき
たようなところさえあったので、実はそれはひどい思いあがりであったらしいと気付かさ
れたことで、とても吃驚した。作品に対する自分の感じ方は、はっきりと否定的な現実を
教えられたり、目のあたりにしたときの自分の気持の動き、会に参加している一人の朝鮮
人の男の人が言った私の文章への感想―それらから、長い時間かかって否応なしに気付か
されたこのことは、私にとってあまり気持のよいものではなかったが、長い間安易に信じ
込んでいたことが覆されたことに対して、痛快さと新鮮さがあって、却って少し元気にな
った程だ。それにしても私が、自分がそこから解放されていると信じていたものは何だっ
たのだろう。又、解放されたいのは本当は何からなのだろう。
そこでもう暫く、作品を読んで跳ね返されるような感じ、こちらから作品への反発、わ
からなさ、思い込み、跳ね返されることへの恨みなどをグチャグチャと抱えながら、次の
テキストを何とか手に入れて(手に入りにくい場合が多いので)読む、ということを続け
てゆきたい。いつか、しがみついている状態から、自分で判断した後に参加したり、踏み
とどまったり距離をおいて見てみたりという風にしながら、それでも後退せずに、快活に
独りで歩き続けられるように自分を鍛えてゆきたい。
抵抗史を継ぐ――許南麒『火縄銃のうた』
いそ
がい
じ
ろう
磯 貝 治 良
『火縄銃のうた』には、祖母がジュヌアに語りかけるリフレインが、いくつか挿入され
ています。この長編叙事詩を叙事詩たらしめている大きな要素が、このリフレインですが、
それはたんに詩作のうえの手法というよりも、詩の主題とリズムを構造を形づくっている
基調です。読者のがわからすれば、それはこの詩を解くカギでもあります。
詩のなかでくりかえされるリフレインは、作者・許南麒(フォナムキ)の歴史観を投映
しています。
「祖国解放戦争」(いわゆる朝鮮戦争をこのように呼ぶには一定の留保があり
ますが、作者の意を即してこの呼称を用います)が、一八九四年の甲午農民戦争(東学党
の乱)から延々と語りづかれ、ひき継がれ、たたかい継がれてきた朝鮮民衆の抵抗史とつ
ながっているという、ゆるぎない歴史観を投映しています。だからリフレインは、甲午農
民戦争と、三・一独立宣言運動(一九一九年)と、「祖国解放戦争」(一九五〇年)とを、
切れ目なくつなぐ作用をはたしています。民族の抵抗史はひき継がれたとする歴史観と、
叙事詩を叙事詩たらしめている構成―歴史観と詩作上の方法論との、この緊密な関係から
必然に生まれてきたのが、
『火縄銃のうた』におけるリフレインです。
そのことを具体的に見たいとおもいます。
導入部の、ジュヌアが火縄銃を磨くという設定のリフレインが、まずあります。ジュヌ
アは「祖国解放戦争」への出立つをまえにして、ふるぼけた一挺の火縄銃を磨いています。
その火縄銃は、聞慶鳥嶺の樫の木と忠州山の銑鉄でつくられた銃。五十六年まえ、祖母
が嫁入り道具として持ってきた衣裳一切と銀の指輪と銀のかんざしをたたき売って、百両
で買った銃。――それは甲午農民戦争の折、農民と力を合せて、売国奴――王族、両班、
官吏ら――とたたかい、侵略者―日本、清―に抗するため、肩にしていった銃です。また
抗日独立宣言運動の折には、父が祖国を守るためにたずさえていった銃でもあります。
ジュヌアはその火縄銃を、祖父と父と母の遺した着物の切れはしで磨いています。
この状景にはすでに、祖父から父、息子へとつらぬかれた抵抗の歴史への、作者の視点
は、火縄銃を表徴として鮮明に示されています。
抵抗史をむすぶ、あるいは伝承する視点は、つぎのリフレインにもはっきりとこめられ
ています。
ジュヌア
お前は行くがいい
〈略〉
お前は その銃と共に去るがいい、
お前の父が越えた峠
お前の祖父が越えた山路を分けて
「峠」と「山路」を結節点として、祖父と父と息子の歴史が継承するものとして表現され
ています。
ジュヌアによって磨かれ、かれとともに峠や山路を越えてゆく火縄銃は、敵のカービン
銃や機関銃に抗して、詩のリフレインを弾丸の一発一発のごとく射ちだします。
しかし その銃が射ち出す
弾丸の一つ一つには
祖父のうらみ 父のうらみ
母と祖母との三代をかけた
不幸な この地の女のうらみがこめられよう
歴史をつらぬく作者の眼は、祖父から父、息子へと語りつがれてきた抵抗史から、いっ
きょに、地べたに根をはって被虐の時間を耐えぬいてきた女たちの歴史へと、ひろがりま
す。それは、この叙事詩の詩的ひろがりとして、読者の胸奥にひろがっています。
詩のリフレインは、甲午農民戦争から三・一独立運動、「祖国解放戦争」へとひき継がれ
た歴史の記録的な記述をむすぶ、いってみれば時空の軌跡をかたちどる詩的イメージとし
て、効果的に、しかもたしかな歴史観にささえられて、息づいています。
ところで、抵抗史に対置するものとして、同質の重みと時間の流れをたどって、もう一
つ歴史―被侵略と、それに供する背信の歴史があります。女たちの歴史へとひろがったリ
フレインは、この被侵略の歴史をも照射するのです。
ああ 余りにも 涙は
この地には 恵まれ過ぎ
余りにも 血と死とは
この地には豊かであり過ぎた、
ああ 余りにも 侵略者は
この地には 多過ぎ
余りにも 国を売ろうとする者、叛逆徒は
この地には 豊かであり過ぎた
このようなリフレインは、日清戦争前夜、一八九四年の日本と清国による侵略と、それ
に民族を供しようとする王族、両班、官吏の姿を、さらには一九一〇年の「韓国合併」に
はじまる日本の植民地統治と、それに民族を売りわたそうとする「近代化論者」や、
「同化
主義者」の姿を、そして一九四五年の九月九日にはじまるアメリカ軍の占領支配と、支配
者によって手わたされた銃をもって祖国統一を挫く者らの姿を、ひとつながりの被侵略、
背信の歴史として、射しつらぬく作者の眼があります。
いま引用したリフレインは、被虐の三代を生きぬいてきた祖母=歴史の、悲嘆でもあり
ます。しかしその悲嘆は、被侵略の歴史が朝鮮民衆にとってはそのまま抵抗の歴史でもあ
ったように、祖母=歴史の告発でもあったのです。祖母の悲嘆は、火縄銃を手に出立つす
るジュヌアへの、つぎのようなリフレインに連動します。
ジュヌア
しかし 祖母は
それを止めまい、
ジュヌア
しかし 祖母は
お前のみちを塞ぐまい、
それが お前の祖父のみちであり
それが お前の父のみちであり
そして それが
この地に生れ この地に育った者の
ただ一つの 行くべきみちであるとすれば
ジュヌア
『火縄銃のうた』のリフレインをここまでたどってきて、明確にいえることが一つあり
ます。ジュヌアが火縄銃を肩にしてゆく道は、祖父が越えた山路であり、父が越えた峠で
あり、祖父と父が生きた歴史を継ぐ時間であって、それを語りつぐのは祖母であるが、同
時に、一挺の火縄銃なのだということです。
歴史―より厳密にいえば朝鮮民衆の抵抗史を語りづくのは、一挺の火縄銃です。歴史と
祖母と火縄銃とは、一本のふとい命綱によってない合わされます。堅固な歴史観によって
つらぬかれた詩のなかで、歴史と祖母は同質となり、一挺の火縄銃は詩的象徴となってい
ます。抵抗の歴史のシンボライズされたものともなります。
この詩のなかで、レフレインは叙事詩的達成といっていいのではないでしょうか。
『火縄銃のうた』が青木文庫で発表されたのは、一九五二年八月一日となっています。
それは四月に「サンフランシスコ単独講和」がむすばれ、形のうえで日本がアメリカの占
領下から「独立」した年であったが、いわゆる「血のメーディー」「大須事件」などの起こ
った年でもあります。そして「朝鮮戦争」が熾烈さをましている頃でした。
しかし、それよりさきに朝鮮語で書かれたガリ版刷りの『火縄銃のうた』が刊行され、
在日同胞のあいだで読まれたと、朝鮮人の友人からきいたことがある。とすれば、この詩
が書かれたのは一九五〇年か五一年ごろでしょう(詩作年月日については、許南麒さん自
身の証言がどこかに発表されているだろうが、わたしは知らない)。
いずれにしても『火縄銃のうた』が書かれたのは、一九五〇年六月二五日、「朝鮮戦争」
が勃発して間もない時期とおもわれます。とすれば、作者はこれをアジ・プロ詩としても
書いたのではないでしょうか。むろん、たんなる政治的な煽動、宣伝のための詩としてで
はなく、詩の厳密な意味でアジ・プロ詩として。
『火縄銃のうた』は、当時、祖国でのたたかいに呼応して日本の地で立ちあがった在日
同胞たちに、熱い励ましをあたえたにちがいありません。そうだとすれば、
「祖国解放戦争」
が甲午農民戦争いらいの朝鮮民衆による抵抗史の伝承をひき継ぐものであるという、この
詩をつらぬく史観が、ひとびとの胸を強く打ったからでしょう。そして、祖母の三代にわ
たる願いとうらみをこめた語り部の声が、ひとびとの心を激しくうながしたからでしょう。
『火縄銃のうた』には、さきにふれたリフレインをはさんで、甲午農民戦争と三.一独
立運動がうたわれています。その記述は記録的な手法によって書かれ、それぞれのたたか
いの性質がどのようなものであったか、またそれぞれの侵略とそれに供する者たちの背信
の性質がどのようなものであったか、その類似と違いが鮮明に読者につたわるように記さ
れています。
「祖国解放戦争」もふくめて、それが要約的にうたわれているが、たとえば次
のようなフレーズです。
お前の祖父が言った
百姓全体が 楽になる 国を作る戦い、
お前の父が言った
祖国の独立と自由を奪いとる戦い、
そして お前が言う
売国奴と 悪質地主、資本家を
この地から追い出し
働く民と 虐げられた者がこの地の主人
になる
その戦いに加わるがいい、
三代もの いのちをかけた願いが
夫と子と孫まで犠牲にして
成就出来ないということがあるものか
甲午農民戦争は、日・清二つの国の侵略とそれに民族を売る王族、両班階級らから、常
民(サンミン)
、農民、貧民を救う「天地開闢、済世安民」のたたかいでした。三・一独立
運動は、日本の植民地支配とそれに民族を売る「近代化論者」「維新主義者」らに抗して、
民族の独立を宣言する抗日のたたかいでした。「祖国解放戦争」は、アメリカ帝国主義とそ
の走狗たちに抗して、祖国統一と「社会革命」をはたそうとするたたかいでした。この二
年まえ、一九四八年には、済州島を拠点に南北の統一選挙をもとめる熾烈なパルチザン闘
争が全土にひろがり、この要求運動には、反共主義者ともみられていた(わたしは、いち
がいにそのようにはみない)金九(白凡)ら熱烈な民族主義者も加わりました。
ところで、
『火縄銃のうた』には、三つの民族抵抗闘争のほかに甲午農民戦争から「韓国
合併」までの、あるいは「韓国合併」以降の植民地統治下の、さらには日本による中国へ
の侵略戦争から第二次世界大戦を経て「祖国解放戦争」にいたるまでの朝鮮に歴史も挿入
されています。
それら歴史の軌跡は、それぞれに異質な要素をふくみ、抵抗の位相もそれぞれに独自性
をもちながらも、ひとつながりの土壤のうえを伝って朝鮮民衆にひき継がれ、語りつがれ
ました。
『火縄銃のうた』を十何年ぶりかで読みかえしてみて、わたしは一つのことを痛感しま
した。なぜ、日本の近代詩のなかには『火縄銃のうた』と比べられるような長編叙事詩が
生まれないのだろうか――という疑問です。それは、アイヌ民族の恋と抵抗史をうたった
ユーカラの世界に接したときも、ふりかえって痛感したことです。そういえば、小熊秀雄
の「飛ぶ橇」も、
「主人公」はアイヌ民族です。
いま思いつくことは、ヤマトの民族史には、長編叙事詩をうみだす起源であり、その世
界を形づくるのに欠かすことのできない要因となるものが、欠けているからではないかと
いうことです。すなわち、民衆が語りつぐべき、連流する歴史性をもったものとしての抵
抗史が、欠落しているからではないでしょうか。たえず侵略史のがわを生きてこざるをえ
なかったヤマトのいびつさをものがたっているのではないでしょうか。
長編叙事詩は、哀しみの歴史だけからは生まれない。もしてや、侵略の歴史からは生ま
れない。キム・ジハは〈恨〉と呼ぶように、たくわえられた哀しみの歴史がいきどおりの
エネルギーに転嫁し、抵抗の歴史へと結晶してゆくとき、長編叙事詩創成の土壤である民
衆伝承がうまれてくるのではないでしょうか。『火縄銃のうた』は、そのことを読者に示し
ています。
いまは一九八〇年代。韓国では、光州の民衆蜂起に象徴される民主化闘争とコミューン
革命のたたかいが熾烈にたたかわれています。それは一八九四年の東学農民革命(甲午農
民戦争)からひき継がれ、一九一九年の三・一抗日独立運動からひき継がれ、一九四八年
のパルチザン闘争からひき継がれ、一九六〇年の四・一九学生革命からひき継がれ、その
あいだに間断なくたたかわれた抗争からひき継がれた、民衆による抵抗の歴史の一つの時
代です。
一挺の火縄銃は、生きています。
会
録
第22回 (1980.1.20)金石範「往来異聞」 報告者・磯貝治良
参加者19名
第23回 (2.17)金石範「驟雨」 報告者・裵鐘真 参加者14名
第24回 (3.20)金石範「万徳幽霊奇譚」 報告者・みたたみ 参加者11名
第25回 (4.20)金石範「糞と自由と」 報告者・
参加者8名
第26回 (6・1)金石範「1945年夏」 報告者・伊藤俊郎 参加者7名
第27回 (6.22)討論「金石範の文学について」 報告者・蔡太吉 参加者10名
第28回 (7.20)李恢成「われら青春の途上にて」 報告者・五十褄達彦
参加者14名
第29回 (8.24)李恢成「青丘の宿」 報告者・
第30回 (9.21)李恢成「武装するわが子」
参加者13名
報告者・服部瑗子 参加者11名
第31回 (10.19)李恢成「沈黙と海・北であれ南であれわが祖国Ⅰ」
報告者・磯貝治良 参加者12名
第32回 (11.24)李恢成「死者の遺したもの」 報告者・裵鐘真 参加者13名
第33回 (12.14)交流会「架橋をめざす集い」
参加者18名
第34回 (1981.1.11)李恢成「追放と自由」 報告者・与語潮
参加者11名
第35回 (2.15)金時鐘「クレメンタインの歌」 報告者・羅順子 参加者14名
第36回 (3.15)李恢成「約束の土地」 報告者・戸谷 参加者7名
第37回 (4.19)李恢成「見果てぬ夢1.禁じられた土地」 報告者・磯貝治良
参加者8名
第38回 (5.10)李恢成「見果てぬ夢2.引き裂かれる日々」 報告者・劉竜子
参加者 名
あ
と が
き
「架橋」は在日朝鮮人と日本人をつなぐ論議の場としての意味をこめています。3号が、
その希望を少しは達するように読者のみなさんへお届けします。今後、さらに紙面を充実
し、確固とした「架橋」づくりに努力していきたい。
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