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Inspiring Minds: John Savory インスピレーションを
Inspiring Minds: John Savory Misia Landau* Sponsored by the AACC History Division and Department of Laboratory Medicine Children's Hospital Boston [email protected] インスピレーションを与えてくれる人:John Savory John Savory は、イギリス北西の Rossendale という、谷にある小さな村で両親の住む家の 2 階の寝室で、1936 年の春の初めに生まれた。その地域は湿って霧の深く(それはイギリスの標準的な気候ではあるのだが)、そ して急な勾配のある丘があり、石におおわれた地域だった。その村は 19 世紀の初めに急成長する繊維工業を 背景に変貌した。その地域の湿った気候は、南アメリカから大量に輸入された綿繊維の輸入が、途切れること がなかった。アメリカの南北戦争の間、綿の輸入は止まり、多くの仕事がなくなった。Savory が生まれた 2 階 の寝室は、不作の年には配給所として使われることもあった。 意外なアメリカとのつながりのあるその部屋は、Savory に本当にぴったりの場所だった。彼は少年時代はクリ ケットと、その他のイギリスの典型的なスポーツにも打ち込み、大学時代は Durham の大聖堂のある町で学ん た。その後、彼はアメリカの地で大きなドラマを展開した。有機化学で学位を取得した数週間後に、彼は 2 年 間の特別研究員として、Florida の Jacksonville に到着していた。それは、1961 年のことだった。工場での短い 勤務の後、彼は Seattle にある Washington 大学で臨床化学のトレーニングプログラムを経験した。 そのころ、臨床化学には技術革新が起こっていた。電気泳動、ラジオイムノアッセイ、その他にも疾患を検出 するさまざまな新しい測定法が発明された。遠心分離器のような自動装置が現れ、検査室では単調な作業から 解放され、時間の余裕が生まれた。しかし、検査室の中でその最新の装置をどのように使うのか、そして、配 置の仕方さえ決まっていなかった。 数年後に、Virginia 大学の教授となり、臨床化学と毒物学の中心的な研究室の責任者であった Savory は、臨床 化学におけるひとつの改革に携わることになった。それは、遠心分離器や原子吸光やその他の装置を使って、 タンパク質を分析する方法を導入することだった。1967 年に彼は Florida 大学に戻り、研究室にコンピュータ ーを導入した。そして、その技術を習得すると同時に、新しい試みを始めた。その試みとは、臨床検査室の内 外からもたらされる膨大なデータの解析に関するものだった。Savory はロボット工学を使うというアイデアを 持っていた。そして、Virginia 大学の James Boyd と Robin Felder と協力して研究し、独創的なデータマネージ 1 メントプログラムを開発した。Remote Automated Laboratory Systems (RALS)という名のそのプログラムによ り、離れた場所から無人の研究室をモニターし運用することも出来るようになった。 Savory は現場での挑戦を好んだ。それは、彼が臨床化学に引きつけられる大きな理由となった。「もし解決す べき問題があれば、それは意味ある問題であり、それにより私は本当に創造的になることができる。」と彼は 言った。彼は、すべての研究分野から新しい技術を取り入れ、問題を解決した。「彼には、その分野で重要と なる新しい開発が起こるだろうという確信があり、将来、研究室で分子診断技術を使うようになることを予想 し、常にそのことを考えていました。」と病理学の准教授である Boyd は言う。 長く横たわっていた問題に変化が現われたり、解決の糸口が少しでも見えたりすることがあれば、彼はそこに 飛び込むのだった。そして、それを本当に楽しむのだった。新しい方法を考案したり、見捨てられた研究室を 復活させたりするときに、彼は研究室にいることを楽しみ、そこで深い満足感を得て、どのようにより良くで きるかどうかを考えることに喜びを感じていた。「彼は動きまわることが好きなのです。」と Boyd は話す。 Savory は自分自身を変えることさえしたのだった。1990 年代に、彼はアルミの毒性がアルツハイマーやその 他の神経変性による疾患の 1 つの原因になっているかもしれないと気づいた。そして彼はその仮説を研究する ために、神経学者としての基本的な教育を再度受けた。 「それは、分析化学者が専門外の分野に踏み出すことであり、彼はそのことに決して躊躇することなく挑戦し ました。」と Florida 医科大学の臨床病理学教授の Roger Bertholf は言う。 ふたつの世界大戦の後で、人里はなれた Rossendale Valley で育った内気な少年には、どのような類の科学者に なることも起りそうにない運命だった。Savory の両親は、John が生まれた部屋の下の 1 階の小さなパン屋に 戻っていた。「店の上の部屋から私の産声が聞こえたとき、両親のパン屋はお客さんで一杯でした。」と彼は 言った。きびしい時代だったが、家はいつもパンを焼く匂いで満ちていた。彼のお父さんは、彼の 4 歳の誕生 日にクリケットのバットをプレゼントしてくれた。その日は英国の戦争が始まった日だった。 Irwell 川に面した家の裏で、彼は自分でクリケットを何時間も練習したのだった。サイレンが鳴るとき、近く のいろいろな工場から出る煙で空はおおわれていた。「空襲の中で生活することは普通だった。」と彼は言い ます。Savory はクリケットに打ち込み、8 歳のときに初めて本当の試合に招待された。そして、13 歳また 14 歳の少年たちと一緒に試合をした。「自分はクリケットが上手かったのだが、問題は自分の不確かさでした。 自分はとても神経質だったようです。」と彼は言った。 彼はお母さんと Mary お姉さんと話をするのが大好きだった。お姉さんは彼より 6 歳年上で、ピアノを弾いた。 しかし、彼はバイオリンを選んだ。「バイオリンは人の声に似ている。」と彼は言う。学校が終わると彼はバ スに乗り、近くの Rawtenstall 町に行ったのだった。バイオリンの先生の家まで、暗い道のりだった。「私は いつも懐中電灯を下に向けていました。」と彼は言った。夜の空に懐中電灯を向けることは、戦争の時代には 違法行為だった。彼の先生は彼が 10 歳のときに引っ越し、そのことに彼は落胆したが、彼はオーケストラで バイオリンを学び続けた。 2 Savory は動物が好きで、犬を欲しがった。しかし彼のお母さんは、彼に犬を飼わないように言った。それで、 彼は裏庭でウサギを飼い始めた。イギリスの Ermine Rex という種類だった。彼は土曜日の午後に自分の動物 を多くの人に見せるために、バスに乗り近くの町に行くのだった。 彼がクリケット、音楽、ウサギの飼育に情熱を惜しげなく注いでいた時間と精力を考えると、彼が化学に興味 を深めていったことは不思議なことだった。学校は、彼が化学を始めるという点では、まったく魅力がなかっ た。「私は母親に学校へ連れて行かれたのを思い出します。そのとき私は彼女の髪を引っ張り、反抗しようと しました。」と彼は話した。Savory は勤勉な学生とは言えなかったが、中等学校に入るために競争率の高い試 験に合格した。小学校のクラスの 25 人の中で、合格したのはたった 3 人だった。 そのころ、彼が化学に引き付けられたのは、たわいもない理由だった。「私は爆発させることが好きでした。」 と彼は言う。先生は Ormerod 氏であり、彼の深い興味に火をつけるようにした。Savory はクリケット場に何 時間も居たし、密かにプロの選手になることを夢見ていた。けれども彼は 15 歳のときに、化学教師になるた めの教育を受けることを決めた。彼は、最高レベルの最後の試験に合格した。Durham 大学の化学の優等学位 プログラムを得るのに十分な学力だった。しかし、彼は 3 年生まで研究に興味を持つことはなかった。 「私は簡単にそれを好きになりました。幾つかの物質を混合し、何が起こるのか見るのが好きでした。これま で誰もしなかったことをするのに興奮しました。」と彼は言う。彼は優秀な成績で大学の最後の試験に合格し た。それは学位プログラムの中で、彼にひとつの実験室を提供するほどのものだった。「私は頭が良いとは思 わない。私の最後の目標は自分が創造的であることであり、最後に役に立つ何かを見つけ出すことなのです。」 と彼は言った。 Savory は 3 年間で有機フッ素化学の分野で学位を取得され、妻 Anne と一緒に Florida 大学に移った。2 人は Durham の土曜の夕方のダンスで、2~3 年前に会った。「自分が知っていた誰もが、土曜の夜のダンスで伴侶 を見つけました。」と彼は言う。彼らは Glasgow から貨物船に乗って、1961 年の夏に Jacksonville に到着した。 「私は空調機を使ったことがありませんでしたし、その音を聞いたこともありませんでした。」と彼は言った。 また、彼らはゴキブリを見たことはなかった。最初のアパートに空調機はなかったが、ゴキブリはいた。それ は最も衝撃的なことだった。 ある夜のこと、彼と妻の Anne は Big Red という Walt Disney の映画を見に行った。「私はちょうど Irish Setters 犬に恋していました。」と彼は言った。それはひとつの人生を決めるときでもあった。彼と Anne は Irish setters 犬を育てることに専念した。その後、Anne はそのことで成功する。「それは彼女の人生になった。」 と彼は言う。世界を旅して、Irish Setters 犬やその他の犬の紹介と鑑定をした。 1963 年にもうひとつの出来事があった。特別研究員の期間が終了した後、彼は北 Carolina の Research Triangle Park にあるひとつの会社に就職した。「その最初の日に、自分がそこでは満足できないことを知ったのです。」 と彼は言った。ある日、彼はデスクで新しい臨床化学の分野の論文を読んでいた。「これが私のなりたいこと だと思いました。そして、私は臨床化学者になろうと決めました。」と彼は言った。 3 彼と Anne は荷造りをして、Seattle に移った。そこは、彼が Alex Kaplan のもと臨床化学の勉強を始めた場所だ った。彼らは 1966 年に Florida に戻り、1 人の少女を養女にした。名前は Joy といった。Savory は Seattle に居 たとき熱心にクリケットをした。空いている時間は沼地の近くの場所でクリケットをした。「沼地にボールが 入らないように少し注意がいります。そこには沢山のワニがいますから」彼は言った。1972 年に彼は北 Carolina 大学の地位の提案を受けた。 「私が活躍できる研究室を得ることが出来たのは、本当にすばらしいことだった。」と彼は言う。彼はすぐに Gerry 指導教官に助けてもらいながら研究室を立上げ、教育プログラムを作った。しかし、彼の Anne との結 婚生活は終わりを告げた。1977 年に彼は Virginia 大学の毒物学部の地位を得た。「その研究室は確かに自分が やりたいものだったが、仕事は激務でした。」と彼は言った。 「その研究室は地獄のような忙しさだった。」と Virginia 大学の David Bruns 教授は言う。当時、彼は Savory と同じ時期に大学で働いていた。Bruns は Savory に、彼の指導法の素晴らしさについて語っていたことを思い だした。「『なんで、彼女をここに呼ばないんだ?』と私は言いました。『そうするつもりだが、そのために 彼女と結婚しようと思う。』と彼は答えました。私は『そうなの?』といいました。そして、彼は彼女と結婚 しました。」と彼は話す。Gerry はその研究室の必須の存在となった。息子 Alistair を生んだ後もそれは続いた。 「彼女はその研究室にまったく新しい考え方をもたらしました。それは、分析結果に細心の配慮とその結果の 細かい点まで注意を払い、そしてその実験に常に真剣な態度で臨むというものでした。なぜならば、我々が扱 っていた研究は、人間の命に関するものであったからです。」と Bruns は言った。 クリケットと動物の飼育の昔の情熱に、蓋をすることが Savory の新しい家庭を作る方法だった。しかし、 Virginia で彼はランニングを始め、年齢別のレースに出た。「もし彼がランニングを始めたら、彼はそれに一 生懸命になるだろう。」と Bertholf は言った。「彼は生まれついてスポーツ好きで、ずっとその情熱を持ち続 けました。」と彼の長年のランニング仲間である Boyd は言う。 2005 年に Savory は教授を引退した。Bruns は退官パーティを 2008 年に行った。世界中から彼の教え子が駆け つけた。「彼が教えた多くの臨床化学者が驚きました。」と Bertholf は言う。参加者たちは Savory の生涯の写 真のスライドショーに写っていた。そして、最後に短い詩で締めくくられた。 「かつて、John という名のランナーがいた。彼は来る日も来る日も走り続けた。彼は自分自身を訓練し続け た。それが、Boyd が何かを得ることができた原因だろうと考えられ、そのことは、もし彼が弱きになったと きに彼を激励するものであったろう。」 いたずらっぽいユーモアで知られる Savory は、自分自身のプレゼンテーションを作ったのだった。「1982 年 彼と私は初めての 10 マイルレースを走りました。」と Boyd は言った。Boyd はレースの終わりに体の不調を 感じた。そして、レースでもらえる無料のメッシュシャツを貰えなかったことを残念に思った。「John はい つも私より上位で、そのときもシャツを貰っていました。」と Boyd は言う。Savory は引退のとき、16 年前に 勝ち取ったそのメッシュシャツを Boyd に手渡した。 4 Savory は最近さらにもうひとつのスポーツに取り組んでいる。それはゴルフだ。彼は朝 5:30 に起きて、 Gerry と一緒に 2 頭の Irish Setters 犬と 2 頭の Rhodesian Ridgebacks の世話をする。そして、彼はゴルフコース に向かい、7:30 に開始する。「彼は自分でゴルフクラブを運ぶ、数少ない人のひとりでした。」と Boyd は 話した。彼は Charlottesville に引っ越したときに、Gerry と一緒に購入した 110 エーカーの農場に戻り昼食を取 る。Gerry の前の結婚のときの子供たち Andrea と David がそうであったように、Joy と Alistar も近所に住んで いた。彼らの間には 8 人の孫がいて、そこに孫をみるために立ち寄る。 昼食の後、Savory はトラクターを動かすこともできた。また、彼は犬の一匹をつれて農場を散歩することもで きた。農場は Blue Ridge 山麓のふもとにあった。その傾斜した野原と林は、いろいろな工場ができる前の Rossendale をすぐに思いださせるものだった。Savory の大好きな場所は、林の小さな小道だった。「私は、物 事が正しく進まなかったり、問題が抱えたりすると、よくその場所に行って座っています。私の Irish Setters は近づいてきて、私の耳をなめます。彼らは自分たちが必要なときがわかるのです。」と。 (訳者:廣渡 祐史) © 2011 The American Association for Clinical Chemistry 5