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プ ラ ト ン の 国 家 論(読)

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プ ラ ト ン の 国 家 論(読)
39
プ ラ ト ン の 国 家 論(読)
匹男
「
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(法 学 教 室)
1
ソクラテスにおいては、人間行為の自律性・人間存在の主体性の問題にまで思索が深化きれた
のであるが、それを形而上学化したのはプラトンである。ソクラテスにおいては、個人的人間が
問題としてとりあげられたのであるが、プラトンにおいては、人間の存在性、すなわち人間存在
論・人間のあり方・人間の公共性が問題としてとりあげられ、著しく国家的色彩の濃い人間の存
在性の探究がなきれたのである。
国家は人間の大なるものであり、人間は国家の小なるものである。人間について論ずることは
国家について論ずることである。国家の自主性は人間の自律性に求めねばならないのである。プ
ラトンにおいては国家は一つのイデアである。イデアが現象を超越するのはただ現象と無関係に
あるのではなく、現象によって分有され、現象によって関与される原型としてあるのである。イ
デアはイデア的存在であり、存在の理想型である。イデアは存在に対して理想的なるものであ
り、価値的なるものである。イデアは自律的・自由的・自体的性格をもつ理念的存在である。イ
デアは人間性を失ったものではなく、むしろ人間行為のそれに向って努力きるべき目標として存
在するのみならず倫理的な規範であるO イデアの根源が善のイデアであるのはこれによるのであ
る。
国家は一つのイデアである。イデアがイデアとして働くのは善のイデアの支配と指図によるの
である。国家が国家として活動し得るのはイデア的なすぐれた支配者の支酉己と指図によるので
ある。国家の働きを活かすものは、イデア的支配者であり、イデア的思念を完全に身につけた哲
人政治家である。善き人間によって行われる善き政治とは正しき理性によって行われる正しき政
治である。支配者・政治家は人間であるが、更に政治家を支配するものは正しいロゴスでなけれ
ばならない。正しい政治は、名誉を求めて行われる名誉政治(Timocracy)であってはならない。
日常の需用品に対する欲望から行われる寡薗政治(Oligarchy)であってはならない。奮修-の
欲望が支配的なる民主政治(Democracy)であってはならない。犯罪-の欲望さえも敢えて辞
することのない借主政治(Tyrannis)であってはならない。正しい政治は正しい知意によって
支配される哲人政治でなければならない。善のイデアがあらゆるイデアの典型であるごとく、哲
人もあらゆる人間の典型である。国家を離れた人間はただ単なる人間に過ぎないが、国家的人
間,すなわち国民各個人は善のイデアの表現として存在するのである。すべての現象は仮象に過
ぎないが、イデアのみが真の実在であるように、人間は単なる個人としては価値をもたず、国家
を構成する国民の一員として価値をもつのである。
個物がイデアを分有し、イデアが個物に臨在する限りにおいて、個物がその存在性をもつご
とく、人間は国家に関与し、公共的なるものが人間を支配する限りにおいて、人間の意義が認め
られるのである。国家と国民との関係は全体と部分との関係である。国家は公共的なる存在であ
プラトンの国家論(続) (今井)
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り、国家を構成する人間・国民は公共的なる人間である。国家の倫理は公共の福祉である。公共
的人間たる国民の倫理は公共の福祉でなければならない。公共の福祉を希求する魂をやしなうこ
とこそ国家的人間の徳(apery)であるo
プラトンにおいては徳(dγαOo'ぐ)とは善きもの(apiaTOC)の最上級の最もよきものより由来
する。或るものがもつ優れた性質・能力をいうのである。馬のよく走ることは馬の徳であり、鳥
のよく飛ぶことは鳥の徳であり、彫刻家が立派な彫刻晶を作ることは彫刻家の徳である。他のも
のに比して優れた能力をもつことは、それだけ徳をもつことなのである。徳は価値的性質であ
り、徳はあるものというよりも、あるべきものであって、人間のあるべき方向を規定するもので
あるO人間は有徳的にあらねばならないのであるo有徳的になるためには、人間は国家的人間と
ならねばならないのである。
徳は人間の到達すべき状態である。人間が人間として優れているのは徳をもつがためである。
徳をもつものは人間の魂である。魂の働きのうちでも特に徳に優れているものは知悪である。徳
は人間の優れた能力・知性である。徳は知性であるとともにまた実践である。徳は知性のともな
った実践であり、実践のともなった知性である。徳の徳たる所以のものは、その実践知のあるに
よるのである。徳は単なる知性ではなく、知らんとする意思である。知らんとする働きである。
知らんとする働きは永遠なるもの・イデアの認識である。人間の魂はイデア的なるものであって、
イデアを認識する働きをもっている。魂はイデア的であって、その働きは無限であり、超時間的
であり、無限にして永遠なるもの・イデアを認識する。イデアは魂の内奥に存在する無限にして
超時間的なる存在である。
プラトンはカルミデス篇において徳を節制・ソ-プロシネ- (cra>4>po<TUVT])として説いている
が、ソ-プロシネ-はJbの静安なる状態であって、謙虚にして出しやばらぬ自制の態度である。
ソ-プロシネ-は外面的に見れば、ただ静安なる魂の状態であるが、内面的には単なる静安なる
魂の状態ではなく、むしろ魂のうちにおける激しい葛藤の状態でもある。それは魂の優れた部分
・理性が魂の劣れる部分・欲情を交配する状態である。しかしこの場合の支配は自己のある部分
・優れた部分が他の部分を支配するのであるから、自制・自己支配・自己規制・自律である。自
己が自己に対して深く念慮することによって、魂の内奥にひそめる、すなわち、自己のうちに存
在する善なるもの・イデアを認識することができるのである。これがいわゆるアナムネーシス
{avd^vrjcr↓C)であるO魂が自己の内奥にひそめるイデアをアナムネ-シス・深慮することによ
って、徳の根源的なるものに触れ有徳となり得るのである。人間が有徳となることは、魂が深慮
することによって、イデアに関与するからであって、イデアに関与することは徳の根源に触れ、
徳の根源を知ることである。徳は徳の根源を知ることによって人間に臨在するものであるO徳は
徳の根源を知ることなくして、すなわち、イデアを深慮し、これに触れることなくしては人間に
臨在することはあり得ないのである。主知主義的観点において徳は知であるといわれるのはこの
ことを指しているのである0
2
自己の魂の内奥にひそめる徳の根源の認識が人間の自覚である。自覚によって人間は徳が臨在
し有徳となる。自覚は人間を有徳にし、人間を当にあるべき人間に形成するのである。自覚は自
己の魂に固有なる・アブ])オリな超越的-者を認識することであって、自覚はアナムネ-シスに
プラトンの国家論(統) (今井)
m
ほかならないのである。自覚は自己のうちにありながら、自己を超越する-者・イデアを深慮し
見出すことである。自覚とは自己において自己を知ることであって、自己の魂のうちに奥深く内
在するイデアを内観することである。それ故に自覚とは自己と自己のイデアとの対比考察、すな
わち現にある自己と当にあるべき自己との比較考量にはかならないO イデアが主体的なるものと
なって、自己を批判すること、換言すれば、イデア的自己が主体となって現象的自己を批判する
のが自覚である。現象的自己がイデア的自己の批判に会い、イデア的自己にあこがれをいだい
て、それを志向し、それに向って努力を傾け、それを追求する働きが自覚であり、徳の本質的性
格である。現実にあるものに満足せずして、尚もあるべきものにあこがれ、これを追求し、それ
を現在せしめんとする努力が徳の本質的性格であるo この現象的自己がイデア的自己にあこがれ
て、これを現在せしめんとして努力し追求することがェロースepra?であるO
イデアはただの存在ではなく、それは目的としての存在である。目的はあるものではなく、あ
るべきものではあるが、あるものにも増して力強い働きをもつものであるo 目的としての存在・
あるべきものとしての存在は、あるものをして自己に到達させるべく努力させるところのものと
して力強く働くものである.それは人間の魂をゆり動かし、自己に向って働かす目的原因であ
る。イデアにあこがれ、イデアを追求する限り、すなわち、イデアにエロースを感ずる限り、イ
デア的性格が現在し、イデア的人間の形成がなされているのである。有徳の人間とはつねにイデ
アをェロースし、イデアを追求する人であるO
イデアを追求することはペニア rtevcaを母とし、ポロスno九oCを父として生れてきた人間の
宿命的性格である。それはまた人間の魂の構造のうちにおいても見られることができるのであ
る。人間の魂のうちには、ポロス的なロゴス九o'γoC、ペニア的なェピチュミアi7TJOvula.、ロゴ
スとエビチュミアとの中間にあって、ロゴスを助け、エビチュミアを抑制するチュモス<?u/m>cが
存在し,互に矛盾・背反しながらよく調和を保っている。
触ら。人間。魂)監(慧)芸芸芸芸霊b:=芸三Fiu誓霊霊芸忘芸O.
-∴
l'二 mttviuct(欲情) 欲性 本能的欲望快楽を追求するO
これらの魂の働きの三者が国家を構成する三つの階級の人々の徳として対応せしめている。ロ
ゴスは国家を交配し統治する統治者の徳としている。統治者・哲人政治家は完全なる国家の守護
者(4>uhαE 7fαvre九車)として、ロゴスの徳を身につけた人でなければならないのである。チユ
モスは国家を防衛する武人の徳である。武人は国家の干城として、正義を愛し、邪悪を排除し、
国家を安泰にするために気概の徳を身につけておかなければならないのであるOェピチュミアは
ひたすら利潤を追求して物質的生産に専念する産業人の徳であるO農民・商人・工人はそれぞれ
の分野において、専ら生産流通の業務に従い、名誉・権力を求めず、物質的利益のみを追求して
国家の産業に従事して、産業の興隆のために貢献し、国富の増進に寄与し、統治者・武人の生活
を保障し、物資の欠乏を防ぎ、安んじて統治者・武人がそれぞれの職務に専念することを得しめ
るのである。かくして人間の魂におけるこの三徳が、国家の三つの階級の人々の徳として、互に
三階級の人々が自己の分限を厳守して、他の階級に関与・干犯することなく、職域に専念奉公す
るとき国家の徳たる正義が実現されるのである。正義が国家の全体的な徳であって、理性・気概
・欲情は国家の各階級の部分的な徳である。国家の部分的な三つの徳が互に矛盾・対立しながら
プラトンの国家論(続) (今井)
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も、よく均衡・調和を保っているとき、国家の全体的徳である正義が実現されることができるの
である。正義は国家の公共的な徳であるo正義は各階級の部分的な徳の統一を破らないようによ
く調和するときに実現する、統一的・全体的な徳である。
正義とは統一の徳であり、調和の徳である。個人の魂の三作用がそれぞれの性能を発揮して、
よく精神作用の統一・調和を保つとき、人間の魂は健全であり、人間の人格が有徳であるごと
く、国家において各々の階級が、それぞれのすぐれた性能を発揮するとき、そして統一調和する
とき正義の徳が顕現するのである。正義の徳は階級と階級との統一・調和の徳である.正義は階
級相互関係における統一調和の徳であり、国家の徳である。
すべて自己の分限を守り、他を犯さないことは正義の徳を実現せしめるための要件である。人
間は自分の分限を知ることが大切である。人間が自己の分限を忘れて、神を倦することは最大の
悪徳であるD倣慢呂βp上りま神々によって忌み嫌われるものであるo 借主政治の貴意なる所以の
ものは、人間が自己の分限を忘れて借上せんとするからである。正義によって、それぞれの徳
が、そのところを得、それぞれの徳がよく調和し中庸を得て健全であり得るのである。正義は分
割的なる徳ではなく、全体的なる徳である。それは国家の徳である。それは国家において実現す
る徳であり、国家において実現させねばならない徳である。正義は自ら分限を守り他を侵さない
消極的な徳でもあり、また部分的な徳を調和・統一して、部分的な徳を全体的な徳に癒す役割を
果す徳でもある。白と他を統合し、階級と階級とを調和・結合して国家を形成するところの徳で
ある。
3
プラトンの国家論における正義は、また一般に正義の本質を明らかにしている。現実の国家に
失望したプラトンは、理想的な国家を描き出すことによって、国家の本質を明らかにせんとした
のである。理想国家は正義の実現を目指し、正義を原型として描かれた国家である。理想国家の
成立する限りにおいて正しい者が不幸で苦しみ、不正なるものが幸福で楽しむようなことはあっ
てはならないのである。国家は正義の徳の表現であり、正義は国家の徳である。国家においての
み正義の本質を明らかにすることができる。正義は国家の骨格である。それ故に正義は単なる私
の徳ではなく公の徳である。
正しきことに努める人々はよき生活を送ることができ、常に正しさを守り、正しさから逸脱し
ない人に兵の幸福が享有されねばならないO宰福EJ8αifiovca とはダイモン8αc/juwvとともにあ
ることである。幸福とはダイモンと共に住み、ダイモンに通わしい生活をすることである。ダイ
モンは神と人間との間にあって、人間の魂をして神にあこがれ、エロ←スを感じ、神を追求せしめ
るものである。神、すなわち、イデア、特に善のイデアは人間のあこがれの的であって、人間は
ダイモンを通して神を愛し、神を追求するO幸福とはダイモンを通して、神によって愛されるよ
りも、むしろ神を愛することである.神を思い、神を慕い、神を追求することは、神にエロース
を感じている魂にとっては己み難い要求である。神を愛することは無限を追求することである。
エロースとは神に対する無限の追求であり、善のイデアに対する至純の要である。ここにェロー
スの純粋性が存在するのである。
ダイモンと共に住み、ダイモンの意に通った生活をし、ダイモンが満足する行為をすることが幸
福である。幸福とはダイモンを通して善のイデアをェロースし、善きことをなすことである。そ
プラトンの国家論(続) (今井)
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れゆえに幸福とは徳の内容をなすものである。ダイモンと共にあるということは、ダイモンが常
に人間に側待して、人間をしてダイモンの意に通うように命令し、それからそれることを禁止す
ることであるoかくしてダイモンは人間をして欲情の専窓を制し、節度あらしめ、肉体に対する
かかわりから魂に対するかかわりに引きあげる。ダイモンは神と人間とを結びつけ、人間をして
神を愛し、善を思い、善を行う人間たらしめるのである。ダイモンと共にあることはダイモンの
支配の下にあることであって、ダイモン自体は理性的なるものであるから、理性の支配の下に立
つことである。理性の支離の下にあるとき、人間は知ることは多く知ることなく、善きことを知
るようになり、正しいことを知るようになる。ダイモンの人間に命ずることは多知ではなく、真
知であり、善知であり,正知である。
へシオドスの有名な黄金の時代に、クロノスKpOVOSが天を支配した。クロノスはゼウス大神
の父であって天界を支配したのであるが、彼の支配中は全くの黄金時代を出現した。不死の神々
がオリムパスに住み、人間も神々のごとく憂なく苦悩なく楽しい生活を営み、眠るがごとくに死
んでいった。人間が死んで再生したときには最早や前生の人間ではなく、ダイモンになっていた
のである。人間が肉体を死によって放棄し、肉体の繋縛を離脱して魂の再生したものがダイモン
である。数多くのダイモンがつねに死すべき人間を見守りつつ、善意正邪を判別して、人間を
して正善の道に進ませるように補導するのである。神々はオリムパスの山上に住み、神酒ネク
タルy∠NTαPを飲み、神食アムプロシアdFLβpomαを食べて人間と異った生活をしている。人間
は孤独に堪えかねてポリスをつくり、神を求める。オリムパスの神々は人間と関係のない外なる
神である。ダイモンは人間と関係の深い人間の神である。ダイモンは人間の魂に臨在する内なる
神であり、人間を支配し、人間を正幸に向って進ましめる補導をなす神である。ダイモンは善の
イデアに側待して人間を見守る神である。それは個物を一般者に高め、一般者を個物に結びつけ
る働きをするものである。かくて、ダイモンの働きによって人間は個物であって、同時に一般者
であり、個物が一般者にまで閉きれた運命を開拓する。人間はダイモンによって閉鎖的な個人を
脱出して一般者への道を開き、神に交わることができるのである。ダイモンの声は神の声であっ
て、それは哲人の教説ではなく、神の啓示である。ダイモンによって人間は個物的存在から一般
者的存在への道が開かれるのである。人間を単に個人的なるものとしてではなく、一般的公共的
なるものとして理解する道が開示される。人間の存在性がロゴスによって理解され、ロゴスによ
って決定されるO人間はつねに一般者へと深慮し、個的知は一般者的知にまで深められ、一般者
的知にまで高められる。
人間の幸福は人間を私的生活から解放して国家生活にまで高めることである。人間は個人生活
においてよりも、国民としての生活に生き甲斐と幸福を感じ誇をもつに至るのである。かくして
個人主義的立場から国家主義的立場へと発展するo
人間の存在はただ個人としてそこにあるのではなく、市民として国家的全体性の関連において
存在するのであるO個人をして一般者的立場に進ましめ、一般者的存在を自覚せしめるものが国
家である。国家の存在は個物から離れた一般者としての存在である。国家は個物の集合ではなく
一般者として、イデア的な存在である。国家は理性的存在であって、理性の眼をもって国民を見
守り、統一調和するものである。国家はロゴス的な存在であるから、よく統一きれた国家におい
ては統治者は理性的であらねばならない。国家の優劣はロゴスによる統一性の優劣にかかってい
るのである。統治者が理性的であって、ロゴスによってよく統治し、人民が一般者的自覚をもっ
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プラトンの国家論(碑) (今井)
てよく統治に服するとき国家の統一はよく保たれ、その国家は優れた国家たり得るのである。国
家が理性的な統治者によって統治されて、よくその統一を保つとき、生産者たる貴工商の産業人
はよくその欲情を節制し生産に専念し、武人は正しい勇気を鼓舞して国家を防衛し国家を安泰に
するために献身することになるのである。
4
プラトンの時代に出現したギリシアの国家はいずれも理性の支配から逸脱した堕落せる状態に
あった。それらの政態はすべて名誉心・欲情・利己心に根ざすものであった。スパルタにおける
功名政治Timocracy 寡薗政治、アテナイにおける愚民政治(Ochlocracy)、シラクサにおける
借主政治Tyrannisは最も忌むべき政治形態であった。かかる非理性的な国家の状態を救済する
方法として、すなわち、虫ばめる病的国家を処方によって健康状態にひきもどす国家の医師が必
要である.国家の病的状態を健康にひきもどす医師として、国家の当にあるべき健康な姿を描い
たものがポリティアである。ポリティアは当にあるべき国家の像を描いたものであって、歴史的
な国家ではないから、地上の何処にも発見されないのであるが、地上の何処にも存在しないか
ら、それは実現不可能であるということはできない。むしろ虫ばめる現実国家の状態を処方して
健康な国家状態に形成してゆく基準を示したものである。現実国家はポリティアに描かれた国家
像の理念によって形成されねばならないのである。ポリティアはユ-トピアではなく、どこまで
も理念であり、確信であって、決して実現不可能な空想ではないのである。 (ポリティア四九九
D)現実の国家を指導してロゴス的な、正義の実現する国家状態に形成する指導原理として、国
家形態の理念として描かれたのがポリティアである。ポリティアは現実の国家の当にあるべき理
念であり、国民が国家においてあるべき理念でもある。
ベルシア戦争(BC.492-479)において、ギリシア都市の協力によって大勝を得たのは、アテ
ナイの指導力によるものであが、他方ギリシア精神に固有なるハルモ二アapfiovlCCの美の発露で
あり、感性と理性、精神と肉体、神と人間の調和と緊張が斎した賜である。ベルシア戦争までの
アテナイは貴族支配形態から民主的政治形態へと変り、血族貴族と商工階級との政治的権力関係
の調整をはかったソロンの改革や、従来の村落や地方都市のもっていた地方自治権を廃して、新
たなる若干の区に区画して、区民であることと市民であることとの同一化をはかったクレイステ
ネスの改革は、市政に参与する民主主義的精神を高揚せしめた。政治的自由と平等はアテナイの
一貫した政治的原理である。アテナイのデモクラシイの基本的概念は、イソノミア C<TQVO{JjCOL
法の前の平等とイセ-ゴリア car)γopia 国政に対する発言の自由である。国政は特定の個人、
特定の階級のみが専断すべきものではなく、市民は平等に国法によって保障された権利をもち、
平等に国政に参与する自由をもつのである。これらの平等や自由は国家から分離する平等や自由
ではなく、国家と共存する自由であり平等であった。今日自由について考えられているような個
人の自由と国家の権力との対立はない。自由とは国家より個人を解放することではなく、個人
が国家に協力することである。スパルタのごとき貴族主義的国家においても、アテネのごとき民
主主義的国家においても国家と個人との分裂は全く見られることができない。個人は内面的生活
においても外面的生活においても国家を離れては存在し得ないのである。自由も国家からの自由
Freiheit vom Staateでなく、国家への自由Freiheit am Staate であり、国政参与の自由であ
プラトンの国家論(競) (今井)
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る。ソロン改革による血縁的貴族の特権の廃止やクレイステネスによる財力的特権者の政治的権
力の制限は特権階級のみが国政を専断すべきものではなく、一般市民が他の階級の者とともに国
政に参与することを意味する。
I
民衆を政治的に解放しても、貴族は古くから存続していたアレイオパゴスApsionaγoCを組織
して、国憲の監督と国事犯の裁判を担当したのである。官吏就任の資格として一定の財産が必要
とされ、また市民はそれぞれの能力に応じて国政に参与するのであるo市民の能力に応じて国政
に参与することは国政に対する緊張を与えるものである。 BC-461になって、アテナイの国憲の
擁護者であったアレイオパゴスは実権を停止され、その権力は一般市民から選出された五百入会
民会及び陪審裁判所に移された。市民の裁判が最高の司法権を掌握した。民会の議決は貴族の束
縛を受けることなく、直ちに法の効力をもったoアルコンapXov 就任の資格は低下され、より
多くの市民に解放されたOアルコン以下の官吏は抽栽官吏制により抽我によって決定されたO多
数の民衆と小数の貴族の対立は、多数民衆の勝利に向わしめ、国政は民衆政治の独占の方向へと
進んで行ったo民衆は国家の絶対者KVplOTαTOC T(av Iv716九ei aTtavr&v (Aristoteles, Politika
1,9.3)民衆はその欲するところを行い得る権力者、すなわち、法の主人tcupcoC 〟αEt T∂y I,Jjuav
(Arist,op.cit.K,4.6)となった。官吏は全く偶然性に依存する抽簸のみによって決定され、舵
力や人格は官吏就任の絶対条件ではなくなったのである。アテネの本来の民主制の企図したとこ
ろは、すなわち、ソロンやクレイステネスの意図したところは特権階級を抑制して、国民全体に
その能力に応じて国政に参与する道を拓く、いわゆる機会均等主義の実現にあらたO 自由も平等
も絶対的のものではなく、配分的のものであって、均分的のものではなかったO 自由も平等も国
民の能力に応じて比例的に享有されるものであった。ペリクレスの治下における民衆は法の主人
・国家の絶対者となり、特権的民衆の創設がなされることとなった。能力のない、権力を所有す
る価値のない者が、特権・不当な権力を保持するのが当時の民主政治の状態であった。愚民政治
の意政の成果を暴露したのは、ペロボネソス戦争におけるアテネの敗戦である。ペリクレスの死
デロス同盟諸国のアテネに対する離反である。かかる敗戦を契機として、過激な民主主義の不幸
な成果・その不当に気付いた市民は三十人の寡頭政治の成立を認め、国家再建の事業を彼等に委
託したのであるo もともと三十人寡頭政治は国家の不正な政治の形式を正しい方向に導くこと
であった。 (プラトン書翰七)三十人の寡頭政治は国家の改善であり、市民に対して穏健な、古
の憲法によって統治することである。ところが次第に横暴となり、富・門地・徳性において優れ
ているものを殺致し始めたのである。彼等の地位を脅かすおそれのある者を除去し、その財産を
掠取せんとした。僅かの間に1500人以上の人々が殺されていった0 (プラトン書翰七巻)三十人
寡頚政治は国家自体のための政治ではなく、彼等自身の私利私欲のための政治であった。市民は
これに対して激しい憤怒を覚え、不正な政治家を追放するに至ったのである.間もなく寡頭政治
が頼覆してB〇.403に民主政治が復活された。
かかる国家状態を目のあたりに目撃したプラトンは正義と真理のために不正と俗論に挑戦し
て、祖国アテナイが正しい国家として発展することを希求したO国家を清浄にするためには国家
を構成する国民の魂を浄化することが要件と考えた。プラトンには当時のアテナイの市民は知悪
や真理に配慮することなく、魂を浄化することに意を用いない人間達に見えた。(プラトン・アテ
ナイの人々)プラトンはポリティア第六巻において「狂気じみた衆愚の世、現実の政治のうちに
不動な正しいものがない。哲学者は心静かに自己の問題を考えねばならない。荒狂う暴風から安
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プラトンの国家論(統) (今井)
全な障壁の下に逃れ、不正に満ちた人々をよそに見ながら、罪過のうちにまき込まれることさえ
なければ先づ単て自ら慰めとしなければならない」とのべているo (ホリティア第六巻496)プ
ラトンにとっては物質的繁栄のごときは、それ自体Egl家生活の目的ではないOプラトンの求める
国家は力としての国家、物としての国家ではなく、精神的な国家、道徳正義の実現者としての国
家であった。精神なき国家は空虚な形骸であって、自ら没落すべき運命にある。
プラトンにおいては哲学は単なる思索や論理の遊戯ではなく、それによって善のイデアを魂に
おいて認識するとともに、それを社会的に具体化する道の発見に努める実践への情熱を含んだ知
行合一の真知の把握であるo国家は人間の生存の地盤としての共同体であって、国家以外に人間
の存在の基盤としての社会は存在しないのである。哲学も哲学者も国家における何ものかであ
るO (プラトン書輸,IX.358A)プラトンは個人も思想もそのよって立つ基盤が国家であることを
自覚していた。国家は善のイデアの具体化せるものでなければならないのである。イデア論は理
想国家を実現するための基礎を与えるものである。人間は元来国家的な存在である。然し現実の
国家は正義を殺す不正な国家である。人間は、特に哲人は不正な国家の権力と戦っても正義を守
らねばならない。ソクラテスが実践したごとくに、人間の理性は実定的な国法に反しても人間生
活の最高規範たる正義の擁護を厳命する。正義の擁護・正義の確立は現実の国家の命令-の反抗
であり、国法に対する違反となったのである。しかし、一般のギリシア人にとっては非国家的な
人間は、国民たる資格の欠如者である。市民であること以外に完全な人間であることができなか
った。最高の徳たる正義を愛しながら、不正の権力ではあるが、国家という名に布いて行われる
からには、国法の権威に服し、刑罰を甘受したソクラテスは典型的市民たらんとすることを念願
したからにはかならなかった。正義と不正、理性と非理性、理想国家と現実国家との矛盾の克服
が、国家の権威の擁護と国法の尊厳の遵守という形においてなされたのである。
5
国家は人間生活の最高のあり方をせしめる団体であるから、国家生活は人間にとって最高の価
値を表現しているのである。国家は正義を実現し、正義を表現するものである。国家は国民が正
義を踏みはずした場合に、国民を正しく正義に復帰せしめる役目、すなわち、教育的役割を有し
なければならない。国家は国民を抑圧するものではなく、国民を教え導くものでなければならな
い。国家は国民を正義と真知に導く教師でなければならないOプラトンの国家学も法律学も政治
論もすべて人間の行為論であって、道徳生活・政治生活・ポリス的人間生活を説いたものであっ
て、人間の心情・魂・行為を離れた純国家論・法律論・政治論ではない。国家は国民の統一的・
有機的生命体であって、国家を離れた個人をアトム的に考えることは具体的な人間生活の実態を
無視した抽象観念である。
ペリクレスは各自の所有地の生産物は全部一応売却せしめて、各自の必要な食物は日々これを
買わしめていた。各人の収入と消費が均衡して、彼の政治生活が維持されればよいと考えてい
た。土地の所有者は、土地を企業の対象として利用するよりも、土地によって利をはかる経済人
としてよりも、政治的人間として、国民の日常生活の物的基礎を提供すればよいと考えたアテネ
の市民は農民・商人・手工業者であった。手工業者には陶工・金属工・石工・大工・靴工・布工
等があった。
プラトンにとっては、財力・金力・経済力は人間生活・国家生活において支配的根抵とは考え
Wt
プラトンの国家論(統) (今井)
られなかった。富と徳とは秤の両端である。一方が上れば他方が下るのである。富に対するプラ
トンの非難は富そのものが憩いのではなく、人間の魂が寓に関心をもつがために徳に対する関心
が薄れ、イデアを忘却するに至るからであるOそれ故に、とくに政治家たる者は富に心を奪われ
ることなく、ひたすら正義への愛好者、イデアに対するあこがれを感ずるものでなけれはなら
ないのである。財そのものは悪しきものでも不正なるものでもない。人間が財に関心をもつと、
財に心を奪われて徳に対するあこがれを忘れるから惑いのである。求むべきものはイデアであ
り、徳であり、正義であって、物欲しげなる眼を物質に向けてはならないのである。物が精神を
支配するようなことになってはならないからである。
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政治は政治家の名利のために行われてはならないO政治は市民の安寧と相互の幸福EEPワyワ7T/XJC
d九九4九ouCォ>α ICあ¢`九o(j>pOc7ん77のために行われなければならないのであるO (プラトン,法律,
貰,628C)全市民が日常生活において我をすてて、市民相互に対して共同体的友誼の感情をもって
奉仕しなければならないのである。 (法律X,667D)自己のみに奉仕する生活や当に望むべきもの
以上のものを望む生活は望むべからざるものを望むところの盗人の生活である。市民が自己中心
に動くとき、共同体としての国家は内的に崩壊するに至るのである。他を傷つけてでも自己の我
欲を強奪すること、すなわち、 7t九eovetcaは国家を無秩序aico(Tfj,ca と無拘束&KO九α<xcaに階入
れる。国家は、宇宙全体が秩序を本質としているように、秩序・統一・調和を本質としなければ
ならない。国家は個人のアトム的集合ではなく、全体的統一性・秩序・調和を本質とする。
プラトンにおいては部分的個体は全体において、その部分としての働きを担当する。部分は更
に全体との関連において他の部分との連絡を緊密にする。すなわち、政治家は政治に、武人は防
衛に,、産業人は生産に、各自の活動舞台に専念するo TふEeαvtov nparTeL 各自の職域は単なる
自己の職域ではなく国家の職域である。 (国家論,W,433D)各人の生活は国家の全体性に関連し
て全体的調和を保だねばならないO (国家論,Vl,519C)個人が、交響楽の高音・中音・低音・中
間音のごとくに、全体の部分となるとき、全体は調和ある全体となり得るのである。 (国家論lV
433D,E)階級は国家の外から生まれたものではなく、国家自体のうちから生まれたもので、国家
自体の要求である。階級は国家の全体秩序維持のために要請されるのである。国家は市民が共同
軍理念を媒介として一つの統一体となることによって、秩序と調和が斎らされるのであるo国家
における公共奉仕は、暴力政治におけるごとく強権に対する屈服ではなく、全体的自覚oJU.01KHα
の発現である。それは自律的な自由意思の発現である。個人は個体であるとともに国民として全
体性を担うものであるo全体性を担う者はもはや個人ではなく市民である。市民はそれぞれの特
異な生命を通じて全体の肢体となるのである。市民としての人間の生活においては血管の全体に
亘って、全体性の血液が脈動しているO国家は生ける人間JCαddnep Jvα avdpco7tovであるO (汰
律-VI,829A)生ける人間は物質的精神である。
人間が衣食住の欲望と自己防衛の勇気と知的能力とをもつごとく、国家にも物質的生産者と国
家防衛者としての武人と理性に卓越した統治者とが存在し、互に秩序と調和を保っているのであ
る。プラトンの国家構造論の根延には人間精神についての深い心理的分析と省察が看取きれる。
各人が自己に適した仕事を選んでそれに専念して他の領域の仕事に手を延ばさないと、その仕事
に上達して、能率が増進して、その生産量も増大する。 (国家論,lV.423D)これが国家における
正義の発現である。
各国家は独立国として、他国に対して自主独立的であるのは、国家が世界内存在として、つね
48
プラトンの国家論(続) (今井)
に対他的自覚がよぴさまきれているからである。若し国家が他国の不正な侵害をうけることがあ
るとすれば、国家は国民と国土の安全を保障するために他国と戦うことも敢えて辞すべきではな
い。戦いは意に対する正義の術であるからである。楯や剣をとる術は正義の維持と実現の道であ
る。戦争の根源には善と悪との相魅があり、正しい戦争の反面には悪が爪牙をむいているのであ
る。武人は意を斥ける正義の擁護者である。戦争は国家の欲望の手段ではなく、正義を実現する
ための術である。武人は強き意思と情熱を静かなるロゴスによって包まねばならない。産業人は
市民の私的生活を支えることを使命とする。
プラトンは理想の国家を地上に創設せんとしたのである。理想の国の原型は天上にあるイデア
の国である。イデアの国にあこがれるもののみがよく理想の国を認識することができるのであ
る。現実に存在する国は仮象の国である. (国家論, IY,592A)地上の仮象の国を理想の国にする
のが哲人政治家に課せられた仕事である。すなわち、哲人は孤高な生活に甘んぜす自己を救うだ
けでなく、国家をも救って理想の国にしなければならないのである。 (国家論.VI.497A)哲人は
善意の斗争する世界にとびこんで社会の要と戦う、正義実現のために戦う実践の戦士でなければ
ならない。哲学は認識であるとともに実践でなければならない。哲人は一般市民を指導すること
によって国家に奉仕することを職能とするものであるO一般市民を指導する地位にある者が政治
家である。哲人はイデアの認識と国家に善を窟らすことを職能とするものでなければならないo
統治者も武人も私を無にして公に奉ずるために、家族も私有財産ももたないのであるo かく
て、公共精神に徹するために、すなわち私有欲を遮断するために私有のない国家構造を考えたの
であったo当時ピタゴラス教団では「友のものは共有である」という標語がかかげられていたO
スパルタにおいては土地は私有であって、市民は私有地において自己の奴隷を使って耕作してい
たが、生産物は一切市民の共同食卓に供せられた。クリート島においても各共同体は公有地を公
有の奴隷に耕作せしめその生産物は政府及び一般市民に供給されたのである。しかしプラトンの
共有思想は我欲を止揚して公共精神に徹するためであった。物を共有するということよりも、物
の所有を放棄して国家に献げることであった。プラトンの意図するところは高貴な魂を所有する
た釧こその妨害となる物質を放棄して国家公共団体の所有に帰せしめることである。これを共産
主義思想と考えることは魂への道と物質への道とを混同したものと考えられる。共産主義思想は
唯物思想で、階級の排除、権力の消滅、経済的平等の確保、すべての物の共同・平等所有、権力
なき社会の実現を企図する。共産主義は物欲万能精神から出発した,物をもたない者が、物をも
つ者への反抗の結果、私有財産制度を否定して反抗的物欲精神を満足せし砂るものである。プラ
トン思想は物欲精神の抑制を求める。物欲精神の抑制は魂を浄化するための妨害物の排除であ
る。しかしこれは特に国家を統治し指導する者、国家を擁護する者に対して要求されるのであっ
て、一般市民たる産業人に対しては財産・子女の共有は要求されていないのである。プラトンの
階級は魂と職能による階級であって、財物による階級ではない。
プラトンの構想した理想国家は独裁専制の権力国家でもなく、無知な民衆の支酉己する愚民国家
でもない。国家論第八巻において、金権政治・寡頭政治・民主政治・借主政治を激しく非難して
いるのは、これらがすべて、正義を無視して行われた独裁専制であったからである。ソロンの政
治は金権政治であった。スパルタの政治は寡頭政治であった。アテナイにては、クレイステネス
以後の政治は借主政治であり、ペリクレス時代の政治は民衆政治であった。これらの政治はいず
れもイデアを実現せんとする国家の理念に反するものであるとして排斥し、イデア的国家に合致
しないものは存在を許すことができないと考えた。国家は決して国民の享楽に奉仕するものでは
プラトンの国家論(続) (今井)
49
なく、善のイデアの実現者であって、国軍に平和と幸福を与えるものでなければならない.国家
にとって必要なるものは権力でも物質でもなく、精神であり、徳であり、ロゴスである。国家は
権力国家・物質国家であってはならない。国家は理性国家・道徳国家でなければならない。国家
はすべて倫理国家でなければならないということがプラトンの国家論に貫かれた思想である。そ
れがためには、国家構成の要素について配慮がなされねばならない。イデア的思念を十分に身に
つけ、知書の明らかな哲人が支配者として国家を統治すべきである。統治者としては哲人にまさ
る者を他に求めることができない。哲人政治が、倫理国家実現の最高の形態であると考えた。ま
た、たくましい身体と敏活な版体と勇敢な精神に満ちた武人をもって国家の防衛の任に当らし
め、年若き頃より父祖伝来の生業に馴致され、すぐれた技術を体得した生産者が一般市民として
存在する。これらの三職業階級がよくその職分に専念するとき、正義が実現し、倫理国家が出現
するのである。
6
プラトンは理想国家・正義国家が罪の多い人間にとっては容易に実現できないことを覚り、理
想国家論から次善の法治国家論を説いた。プラトンが、シラクサのディオニシオス王の下で理想
国家を実現せんとして失敗し、理想国家の困難を覚り、理想国家へ至る過程として現実的に法治
国家の構想を説くに至ったo
昔の立法者は英雄や神の子に立法したのであるが、我々は英雄や神の子に立法しているのでは
なく、人間に対して法を立てるのである。それ故に、我々の市民が他と融和しないような頑固な
心をもったり、敵情な行為をしないようにするためには恐怖の鞭を加えることは許されねばなら
ない。 (法律,lX.853A)法の対象は理性的な人間としての英雄や神の子ではない。罪多き人間に
は他との融和を破る漁情きがあり、ロゴスに背く自我性がある。火にあてても軟くすることので
きない頭固さがある。人は根源的には善であるが、後天的に恵の衝動が純なる心を覆い善ととも
に要の衝動をももつのが、神の子や英雄と異る人間の現実である。人間は衝動的に恵に誘われる
のである。プラトンは現実の人間の状態と社会に意の充満するのを見て、イデア的国家論のよう
な高貴なものは描くことができなくなったQいかなる悪人も進んで悪人であるのではない.犯罪
の原因は欲情・恐怖・快楽・真ならざる希望と臆断である。意の根源は真理に対する無知であ
る。法は意を防ぐ基準であり、正義-の道しるべである。法は人を有徳ならしめるための社会教
育の規矩である。国家は法律によって市民を教育し、市民をして自発的に倫理的国家を成立せし
めるべきである。 (法律IV,721C)プラトンは理法ロゴスを以て法律・実定法の根概と考えた。
ロゴスは法律に先行し、法律の根砥となり、法律として具体化する。法律とは書かれたる理性で
ある。 (法律W.714A)法律に従うことは内面的な理性に従うことである。それ故に遵法とは他
律と同時に自律であるということができる。法治国家においてなされる、法による市民に対する
規制.他律性は単に外的な力として市民の自由を抑圧するのではなく、法を契機として人間を根
源的なロゴスに還帰せしめ、この根源性のうちから再び自律的に遵法の生活に復帰せしめること
ができる。法は市民を意から護る教師であり、悪と緑を断って、本然的な善艮な市民に復帰せし
める愛の按である。 (法律甘,693B)しかし頑迷固随な人間は火にあてても軟くならない.この
ような人間にはどのような厳格な法によってもかまわない。他に影響を及ぼさないようにしなけ
ればならない。法の教育性は法の愛情性であるが、それかといって法は常に愛情をもつ教師では
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プラトンの国家論(読) (今井)
なく、死刑・国外追放・懲役等の刑罰の鞭をもつ力である。 (法律IX,906ff.)それ故市民にとっ
て法は時には強力無比な圧力であり、恐怖である。現実の社会を構成する人間はイデア的国家へ
.復帰するには余りに非哲学的であるo社会には欲情・恐怖・快楽・不正なる希望・勝手な臆断が
渦を巻いているからである。 (法律IX.864B)法治国家においては最早や理想国家のうるわしい
夢を追うのではなく、個人的・社会的な意と戦って、これを克服する力が必要である。これによ
ってプラトンの理想主義が現実主義となったのである。プラトンは現実のアテナイの国家の状態
を見つめ、豊かな遍歴の経験を思い浮べて理性から現実へ、哲学から法律-の転向を意識した。
理想国家躍設の夢を追うよりも国家の内的構造に更に力強い、国民を正しく導くための現実的基
礎を加えようとしたのである。法は市民に対してあらゆる分野に亘って、その行為を規制するも
のであって、軍務・競技・婚姻・産業・教育・信仰等一切の公的・私的の生活全体を統制するも
のである。 (法律Ⅴ臥833A)法は市民が党派を解消し、内的統一を確保し、外敵に対する勝利よ
りも、和解によって友情と平和を斎らすものであらねばならない。 (法律1,628C)すべて立法
者の目的とするところは国家生活の最善を求めることにある。最善とは戦争でなく、内乱でな
く、相互の友情である。 (法律1,628D)最高の勝利とは自己が自己自身に勝つことである。法
律論においてプラトンは法律は対外的な国家の規定であるよりも対内的な国家の規定であるとの
べている。プラトンにおいては国家の国際性・対外性はとりあげられることなく、対外的・国際
的な集団としての国家の主体性・権力性については十分に論ぜられていない。対内的な、市民の
倫理的結合体としての国家、市民に対する法的な統一的規制が問題としてとりあげられているの
である。
法は理性の表現であるから、法によって統治されること、すなわち、法治主義は理性によって
統治されることと同じである。法は真理であるから法に従うことは真理に従うことと同一であ
る。真理に従って生活することが法における生活である。人間の悉意から離れて純粋に理性によ
って支配することが法治主義の原則である。法は人間の作為というよりも神によって与えられた
ものである。プラトンの国家建設は道路・建築・港湾の施設よりも国民の道徳的簾に重点がおか
れている。法は国民を道徳的に教育する役目を果すものである。
法治国家とは、私のことについても、公のことについても我々のうちにある不死なるもの・理
性が支配する国家である。統治者とはただ法に奉仕する人なのである。法に奉仕することは理性
に奉仕することである。法が統治者を支配し、統治者が法の僕である国においては神々の与える
すべての善きものが見出されるのである。 (法律IV.715D)法治国家においては支酉己する者は人
間ではなくて法である。法が万物の王であって、各市民は恰も国ゐ城壁のごとくに法を守らなけ
ればならない。法のうちには制定法・慣習法・条理法が含まれている。人間の世界に法を立てる
ことは人間の窓意の抑制と調和と統一秩序を与えるためである。専制政治も衆愚政治もすべて政
治の原則が政治を担当する者の悪意に委ねられていたo若し実定法が政治を担当する者の悪意に
よって制定され、法が統治者の慈意をあらわすならば、末だ法ということはできないのである。
また法が理性の表現というよりも、民衆の欲望に婚びるものであるならば、それは理性の表現と
しての、真の意味における法・兵法ということはできない.法が国家形成の中心であって、法が
民衆に奉仕するのではなく、民衆が法に従うのでなければ善き国家は形成されない。主人が下僕
に奉仕するのではなく、下僕が主人に従うのでなければ、秩序が保たれない。
何が法であるかを知るのは神の賜{dela fioipa)によってである。法が統治者の統治の基準と
して定立されるのは、思慮なき統治者の無知と不公正を物語るものである。若し統治者が哲人で
プラトンの国家論(読) (今井)
51
あって明知の所有者であるならば、統治者はその知悪によって、法によると同等以上によく国家
を統治することができるのである。しかし、いかなる国家も統治者が明知の所有者とは限らない
し、時には暗愚なる統治もあり得るから、いかなる統治者が出現しても正しく統治が行われるT=
めには、理性の表現たる法を制定して、それに従って統治を行うことは最も安全な統治の方法で
ある。ここに法治国家の意義があるのである。しかし法にも法の欠陥があるから、かかる領域は
法によることのできない無法の穎域であるQかかる場合に知悪の支配が必要となってくるOそこ
でプラトンは次のごとくのべている。最もよいのは法が支配するということよりも知悉ある王が
交配することである。というのは法は人間の行為のあらゆる場合に亘ってすべての人に命ずるこ
とができないからである。人間の行為は無限であり、あらゆることがらに関して法を立てること
は不可能であるからである。法の貫徹力について「法は一旦言い出したことは是が非でもおし通
そうとする頑迷なる借主に似ている」とのべている。立法家の立てる規定は大体を目あてにした
概括的なものであるから、法を活かすか殺すかはこれを運用する人の考えによるのである。真の
政治家は成文法であれ不文法であれ、その時々の事情に応じて適応してゆかなければならない。
(政治家295D)公正を公正として知るものは人間であり、正義を正しく行うのも人間である。
法を立てて、これを行うのも人間である。それ故に法の制定・運用もすべて人間の知慧に依存し
ている。理論知<rorj>c(x と実践知7tp6vOlαとを兼ねそなえたものが真の政治家である。それ故
に、理想国家においても法治国家においても、哲人が政治家の地位につくのが最もよい国家の状
態であるということができる。
天体が正しく軌道を守って運行するのは宇宙理性が全宇宙を支配するからである。国家が法律
をもつのは正しく国政の運用が行われるためである。プラトンにおいては理想国家については理
想的な支配者の知慧によって統治されるのが理想的な政治形態である。法治国家においては法が
はじめて重要なる意義をもってくるのであるO 理想国家においては国政の軌道は哲人王の知君
である。しかし法治国家においては国政の軌道は法律である。現実国家・法治国家において最
も正しい美しいことは、兵の国家・理想国家から伝えられた書かれたもの((TVγγpatfi/jbα)法・
すなわち、伝承法を遵守することである。 (政治家297D)法治国家においては治者も被治者も共
に法に背くことなく、法の権威を絶対なるものとして尊重し、それに服従することが要求され
る。 (政治家300C)それ故に理想国家の哲人王の地位に代るものが法治国家の法である。法を
犯すものは厳罰に、時には死刑にさえ処さなければならない。法の権威は理想国家の哲人王の知
憲を具体的に表現するものである。 (政治家299C)若し選挙や薮によって当選して統治者の地
位に立つ人々が、書かれた法を顧みず、我欲や慈意によって違法な行為をするならば、それから
生ずる害意は書かれた法に固着することによって生ずる弊害よりも遥かに意く、国政を破滅に導
くことになる。
法治国家における政治形態を分類すれば次のごとくに考えることができる。
神の支配(哲人王代行)第一国家・理想国家・正義国家
人間の支配(法に従って統治者が行う)第二国家・模倣国家・法治国家
個人の統治
少数者の統治
哲人統治①
喝3:Mir;辛
貴族政体③
寡頭政体④
プラトンの国家論(線) (今井)
52
法に従う統治(立憲民発政体) ⑤
民衆の統治
(民衆政態) ( 法に従わない統治(専制民衆軟体) ㊨
①③⑤においては法によって統治が行われるから法治国家
④⑤⑥においては統治者の悪意によって統治が行われるから専制国家
民衆政体は善にも恵にも弱い政体である。政治の実行力は支配者の数に反比例する。
n
法律においてプラトンは国家の発生を三段階にしてのべている。洪水や疫病のた馴こ減尽を免
れた少数の牧人の生活から説いている。遊牧生活においては貧富は生じなかった。暴慢も不正も
嫉妬もなかったO彼等は貴い性格をもっていた.彼等は文字を知らなかったので県習と家長の法
ざ6scn T6Ic九eγoJLんOK 7ZαTp/oc vo/iOJC を守って生活していたo (法律1680A)家長の法は
一種の政体法であった。各家族毎に、または各氏族毎に集まり、そのうちの古老が支配し、他の
ものは古老の命令に服したOそれが家長政治であった.この政治はあらゆる政治のうち最も正し
い政治であるとプラトンはのべているO (法律,甘,680E)山腹に定住し農耕を営んで大集団をな
していた各氏族は祖先から継承した家法1(7tO^ V毎oC から彼等の集団全体を支配する団体法が
発生したのである。この集団の各氏族のうちから選ばれた人たちが種々なる家法を比較研究して
それらのうちで最も適当と思われるものを採用したのが立法vo/iodeaca のはじまりである。こ
のような立法者達によって、法に基づいて政務を行う行政者apXo〝TeCが定められ、貴族政体や
寡頭政体が発生したのである。
よい国家はクロノスの時代の国家の模倣である。神が支配するのではなく人間が支配するよう
になった現在の国家においてはクロノスの時代の国家を模倣しなければならない。理性の指図に
よって法を与へる。尋y T石-v v'ov Siα〝OFLヰv inovo/idzovTαr vojJbov (法律ff,714A)模倣の国の最
上のものは人間が支配せずに法が支配する政治形態である。統治者が法に従って統治すること
は、統治者が神の命を受けて統治することであるO統治者が法に従うかどうかが国家の存亡の岐
路となるのである。 (法律ff,715C)
ギリシアにおける法の概念は著しく広いものであった.法律は国家の組織や制度をつくり、国
民の行為を規律して、秩序を維持するのみでなく、.伝統も風習も国民性・国民の道義も法律の影
響によって形成されていったのである。法律は時には厳格なる強制の声をもって語り、また合理
的な説眼の語調で語るO命令と禁止とより成る短い法は主として威嚇法ane九sIV として用いら
れ、専制的命令TUPαuLK∂V 」7tCTαγPα として、服従しないものには威嚇を加えて行わしめる。
(法律F,722A)賢明なる立法者の立てる立法の趣旨を徹底せしめる長い法は、法の本文と前文
との混合より成り、法に服しない者にのみ威嚇を加えるが、それに先立って立法の趣旨を説明す
るのである。この説服neiOeivが法の前文であるO 法の前文は命令や禁止によって強制しない
で、市民を説服し勧説する。
プラトンは法律において法の種類を次のごとくに分けている。
H 法律制定者の法律制定の意図によって分けると
U)理性法 市民をロゴス的に自覚せしめて有徳に向わしめる法であって、これが真の法であるO これ
は立法者の理性によって定立された法である。
プラトンの国家論(梶) (今井)
53
(D)暴力法 統治者の窓意によって定立された法であって、自己の利益のための法であるO しかも法に
違反する者を厳罰に処するから、ピンダロスの言葉をかりて暴力法と名づける。これは偽
の法である。
の 階級法 或階級の利益のみを目的として定立される法であって、全体の利益を顧みないものである
支配階級擁護のための法である。これは偽の法であるo
t=)裾民法 民衆政治家が自己の地位を守るために民衆に姫び、民衆の欲求を充足するために定立する
法であるOアテネの大衆政治家達は皆この法によって衆望を得たのであるO これは偽の法
嗣KE3!
仁)法の淵源によって分けると
(a)自然法(ヒユシス)天則、近代自然法のごとく、人定法を破壊するために案出きれた法ではなく、
宇宙理性の支離する神の意図による法である。宇宙の秩序・調和の維持は自然法に従って行われて
いる。この法は時と処を超えて普遍的に妥当する法である。
(b)条理法(ロゴス)心則、人間の魂のうちにおいて支配的地位を占めている理性の内面的な自律的な
法である。この法は実定法の根抵をなすものである。これは良心の法であり、道徳律でもある0
回 実定法(ノモス)
(1)不文法 慣習法・伝承法・戒律等のごとく、文字に書かれない法であって、ギリシアにおいては
書かれた法である成文法の基礎となり、不文法に反する成文法は効力を有しないのであ
る。 (不文法が成文法に優先したのである)
(Z)成文法 法文で書かれた明示的な法である。
i 専断的命令 命令禁止より成る短い法であって、市民に服従を要求し、服従しない者に威赫を
加える。前文も説明もない一方的命令である。
ii 説 得 法 前文において十分市民を説得し、市民に立法の精神を会得せめし自発的に遵守せ
しめる法であって、本文と前文が混合しているので、混合法ともいわれる。一般
に教育法・勧説法といわれるものである。
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1920,
to Greek
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S.76.
1910,
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1954,
P.238.
(BaW38^
9 J330Hgg)
55
PLATON'S
DOCTRINE
OF
IDEAL
Naoshige
Department
of Lava,
Nara Gakugei
STATE
(PART
II)
Imai
University,
Nara,
Japan
The aim of this treatise
is to clarify
the true meaning of Plato's doctrine of ideal state.
Plato was not only a great philosopher,
but also an eminent political
thinker
and a highly
ambitious
person of national
government. His dialogues,
above all, State, Law, Statesman,
etc. clearly
show this fact. Plato has an urdent desire to relieve
the peopleof
Athens
of the willful
and despotic
government of ochlocracy
and the violence of oligarchy.
His
sincere desire is to realize
the idee of justice
in the actual,
national
life and the state. So
that, I want to make clear the conception
of Plato's justice
and next explain the structure
of Plato's
ideal state,
so-colled
greek polis city state and then the purpose of national
government.The
purpose of national
government, in Plato's
doctrine,
is to educate
and
cultivate
the people as moral and cultured
persons. So the ruler, that is, the governor
should be the most educated
and trained person. That is to say, he must be a philosopher.
This is generally
called Plato's
rule of philosopher-king.
Plato wanted to put cooperative
life into practice
in his ideal polis state. So that,
he is said as if he were a man of
communistic idea. But he was not a communistic thinker.
He was far from a communist,
and in fact, he was a spiritualist
and a lover of kaloskai
agathos.
He loved, most of all,
good and beautiful
purified
spirit.
He made light
of material
goods, riches and physical
treasures. But communists, as a rule, love material
goods above all and are interested
in
physical
treasures.
They are quite materialist.
Plato, however, was entirely
a spiritualist.
He intended
to makethe people transcend
material
wants. For marerial
wants prevent
the people from becomming moral and cultured
persons.Moreover,
drance against
improving
and establishing
the purified
personality
they are a great hinof the people.
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