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会 報
平成 24年4月 25 日 所沢織物文化研究会 会 報 <八日節句> 顧問 NO.32 越阪部三郎 二月、十二月の八日をいう、行事としては、高い竿を屋外に立てその先にざるなどをつけて、 魔除けとした。 この日に大目玉、または一つ目の怪物が家の中をうかがうといわれた。 このため、目籠やざるなど目の多いものを屋外の竿につけて立てたのである。 目籠の竿に柊をつけたり、唐辛子をいぶし悪魔を追い払うこともした。 <原 善三郎生家、競進社模範蚕室、片倉シルク記念館を訪ねて> 副会長 小川英樹 4月15日(日)は、前日の雨がウソのように晴れ、絶好の行楽日和だった。集合は朝9時、所沢駅東口。 参加者は、会員の玉井、秋田、小川の3人と農工大シルク研究会の上岡さん夫婦、それにNPO法人文化遺産 保存映像記録協会代表の河西さんの全部で 6 人だ。 車 2 台に分乗し、高速道路をひた走りに走り、最初に着いたのは、原 善三郎(横浜の三渓園を造った原三 渓の義理の祖父)の生家だ。善三郎は、150 年前の横浜開港と同時に郷里の埼玉県児玉郡神川町の山林を処分し、 横浜に移住、生糸貿易を始めて大成功を収め、巨万の富を築いた。ここには、まだ善三郎の子孫が住んでいる ので、毎年、桜の咲く頃、1 カ月間しか一般公開をしない。屋敷は、母屋とちょっと離れた別荘の二つに分かれ ているが、入れるのは別荘だけだ。ここは、神流川のすぐ上にあり、下には、きれいな渓流が流れ、起伏を利 用し、公園のたたずまいを見せる広い庭が続いている。所沢の桜は、もう半分散 ってしまったが、ここは、ちょうど満開だった。古い屋敷の中は入れないが、屋 敷の周りは自由に散策できる。太陽が降り注ぎ、桜並木をみんなでそぞろ歩いて いると、渓流が見え、小鳥の声が聞こえてくる。150 年前に原 善三郎も、ここ を歩いていたと思うと、なんだか不思議な気持ちがした。 お昼は、近くの古い蕎麦屋で、博識な玉井さんの織物談義を聞きながら、美味 しいそば会席を食べ、次に向かったのは、児玉町の競進社模範蚕室だ。ここは、 養蚕技術の改良に一生を捧げた木村九蔵が、明治 27 年に建てた 50 坪位の建物だ。 九蔵は、炭火の火力で蚕室の湿気を排除して、病蚕を防ぐ、蚕の飼育法を考案し た。床下にレンガ積みの炉を設け、ここで炭火を燃やし、天井は、空気が通り抜 けられるようにしてある。この飼育法は、同社出身の多くの卒業生により、全国 原善三郎 (神川町まちの紹介より) に広められ、わが国の養蚕業に大きく貢献したそうだ。九蔵の作った競進社は、 今は県立児玉白楊高校に発展し、模範蚕室は、県指定有形文化財になっている。 最後に訪れたのは、片倉シルク記念館だ。1873 年(明治 6 年)創業の片倉工業は、140 年近い歴史を持ち、 シルク記念館は、同社の熊谷工場の跡地にある。片倉工業は、ピーク時には全国に62の工場を持ち、熊谷工 場は、3万4千平米の広さがあり、1200人の工員がいた。同社は生糸と製糸業で、日本の近代化に大きく 貢献したが、栄華と衰退をともに味わい、熊谷工場は平成6年に操業を停止し、工場跡地の大半は大手スーパ ーに売却。記念館は、その片隅にひっそり建っている。倉庫をそのまま生かした記念館は2棟あり、 「蔵造り倉 庫」は、当時の機械や製糸工程や工場の歴史をパネルや写真で見せ、隣りの「蜂の巣倉庫」は、繭を貯蔵する 縦穴が105個もある特異な構造だ。 両倉庫とも、民家であれば4階建てほどの高さがある。ベテランの女性の中島説明員から詳細な説明を聞い たが、生糸の複雑な製造工程に驚く一方、製糸業は、かつては世界を制覇したものの、今は、コストがまたっ く合わず、撤退を余儀なくされた話を聞き、改めて時代の変化を感じた。 シルク記念館を後に夜の7時頃、所沢に到着。玉井さんの提案で、居酒屋の「百味」で「夜学」を行い、談 論風発、工学博士の上岡さんから、専門の「超流動」の説明を聞いたり、ご夫婦の馴れ初めの話を聞いたり、 楽しいひと時を過ごした。 玉井さんは、事前に詳細な資料を用意し、この日の玉井さんの企画は、万全だった。 <東日本大震災を現地で体験して> 立間朗子 大きな地鳴りが、穏やかで幸せな時を紡いでいる人々に転変を伝えて、瞬く間もなく不気味な鳴動をともな って建物が上下左右に揺れ始めた。 そこは静かな住宅街の一角にあるジャズ喫茶店。知り合いもいない仙台の街で、何を考えてひとりでジャズ を聴きに行ったのかと言うと、娘の一家がお世話になっている隣家のご婦人の、友人の夫と言う人が、ご家族 の協力を得て念願の喫茶店を開いたばかりだと聞いていたので、家の中でいつもジャズにひたっていたにもか かわらず、物好きな私は出かけた。 店内の装飾はささやかだったし、世界的に有名な岩手一ノ関のジャズ喫茶店のベイシーの百坪はあるかと思 われる店内を想うと、まことに小さくて、CD の数もごくわずかだった。リクエストした数曲を聴き、美味しい ケーキを賞味してコーヒーを飲んだところでそれは襲ってきた。 とりそろえたばかりのたくさんのガラス食器が横とびにビュンビュン飛び散って、大きな音をたてて砕ける。 数人の客は建物の外に飛び出してしまった。お金を払っていない私はレジの前で覚悟を決めた。西武遊園地で 乗ったことがあるヴァイキングの船を模した乗り物で大揺れしたことを考えたりして、襲ってくる恐怖とたた かっていた。単純な私は簡単に自己暗示にかかって、遊園地の情景さえ目に浮かぶのである。 そして店内の人々に通路になっている柱の多い空間が安全だと伝えた。出口までの距離も 4 メートルほど、 建物が倒れ始めたら飛び出せばよいと考えた。後に東日本大震災と呼ばれる地震の揺れは恐ろしく長く感じら れた。 2011年3月11日のことであった。太平洋三陸沖を震源とした瞬間マグニチュード9の地震で、それに 伴って発生した大津波と余震により大きな被害がもたらされたのである。 あの日から、日本の長い苦しみの時間が始まったのである。電気も、ガスも水もない被災地の生活が始まっ た。夫婦で働いている娘の家には、買い置きの食糧さえごくわずかしかない状態であった。 まだ浅い3月上旬の冷え込みはきびしい。砕け散っている大事な食器類をバケツに二杯掃き集めたあとは、 次第にせまる夜の闇の中、小さなろうそくを灯しダックスフントのベルを抱いて、恐怖と寒さでガタガタと震 えていた。 しかし、その時はまだ災害の大きさもわからなかった。 驚愕の事実を知ったのは翌日の午後のことでした。 やっとテレビで見たニュースは人々の後ろに迫る大津波、立派な建物や車が次々と濁流の中を流されていく 様を映しだした。まるで地獄絵さながらの情景であった。若い頃の娘夫婦が勤務していた志津川の病院でも医 師や看護師、患者の多くが犠牲者となってしまった。 福島原子力発電所の事故も起こって、私たちに不安と焦燥の日々が訪れた。 四方を海に守られ豊かな自然に恵まれた私たちの国は、この上ない幸せを人々にもたらすが、築き上げた文 明に酔いしれている私たちに時に見せしめの鉄槌を打ちおろすのである。 仙台から無事に所沢の自宅に戻れたのは、震災後三週間が過ぎてからのことだった。東日本大震災を現地で 体験して2、3キロ痩せて夜遅く自宅に帰りついた私を、両手を広げて迎えてくれたのは所沢織物文化研究会 の羽田正子さんでした。 七年前に参加させていただいた織物文化研究会の仕事によって、小さな歩みながら徐々にかつて地元の若者 たちがおりあげた〝まぼろし〟の「湖月縮」の製法を解き明かしていくのではないかと密かに期待している。 その上、人々の繋がりがあって奇跡的に見つけ出された〝まぼろし〟の「所沢小唄」を所沢市の街興しのた めに普及させていただいて、所沢市民が粋なこの「所沢小唄」の音頭に合わせて踊りだす日が来れば痛快であ る。炭坑節ならぬ、粋な「所沢小唄音頭」で所沢の老若男女が輪になって踊り出すのである。 所沢に所沢音頭!振り付けは軽快なリズムに合わせて大人も子どもも踊りだせる身振りにして、 「さあ!みんな で輪になって踊りましょう!」 所沢市側のお力をお借りして、健やかな所沢市民を目指してがんばりましょう! ここで、〝まぼろし〟の「湖月縮」の研究、更に〝まぼろし〟の所沢小唄のレコード SP 盤を見つけ出された 越阪部三郎氏と、普及に尽くされた今は亡き青木雄二郎氏や、発起人の方々、そして私たち織物文化研究会の 会員の念願を忘れることなく!と、震災後一年を迎えて今、やっと平常の生活を送りつつ考えているのである。 <徳川好敏大尉「会式にて帝都訪問」の快挙より百年> 会長 鈴木源太郎 昨年は日本最初の飛行場が所沢に出来て百年と言うことで種々な イベントが開催された。今年は、飛行場にまつわる活動は特にない ようである。然し明治 44 年所沢飛行場の幕は開けられたばかりであ る。ファルマン、グラーデ、ブレリオ、ライト機の飛行技術を習得 するために日夜飛行訓練と修繕に明け暮れ、その日その日の飛行記 録が更新されている時期でもあった。徳川式と呼ばれている会式 1 号がファルマン式の改良型として製作され、さらに 2 号も更なる改 良が施され明治 45 年 6 月には完成した。 徳川大尉は、飛行機による東京の飛行は代々木での日本最初の飛 行以来東京上空を飛んでいないことに腐心し、飛行機の普及を願い 東京上空を飛行することを決心した。 徳川大尉は当時の臨時軍用気球研究会幹事井上仁郎少将を訪ね、その決意を申し出るのである。 然しこの時使用できる飛行機は会式1機のみであり破損しないという保証はないのにも関わらず、 徳川大尉は「破損しなければよろしいのですか。」と申し出た。井上少将は「絶対に破損しないと 保障するならよろしい。」徳川大尉は 「絶対に破損しません。」「それならよ ろしい許可するから飛べ。」と井上少将 の許可を得て、いよいよ大正元年10月27日所沢 飛行場を離陸し代々木練兵所に着陸、その後愛宕山 上空を通過し品川沖から銀座、九段そして再度代々 木練兵所に着陸、点検と給油をすませ、その後所沢 飛行場へ帰還する。この時の関係者はさぞ安堵と共 に感極まった事と思う。 (「日本航空事始」徳川好敏著参考) (於所沢飛行場会式第2号機) 《こんなレコードが》 昭和5年4月 ビクター(新小唄) (A)帝都復興行進曲 西条八十作詞 唄 中山晋平作曲 羽衣歌子・日本ビクター合唱団 花のお江戸に今日咲く花は 焼けた土 から咲いた花・・・ (B)復興小唄 時雨音羽作詞 唄 佐々紅華作曲 二三吉 関東大震災からの復興を成し昭和5年3月に帝都復興記念式典が開催された。 ☆1月25日 掬水亭にて新年会が開催されました。 参加者17名。越阪部三郎氏のコレクションの様々な柄の手拭いを見せていただいたり、東新井町の森田 家から頂いた「飛白」の着物を着たり、楽しいひとときを過ごしました。 ・・・ お 知 ら せ ・・・ 平成24年度定期総会のご案内 日時 平成24年5月21日(月)午後2:00開会 会場 ふらっと会議室 記念講演 講師 所沢郷土美術館 館長 平塚宗臣氏 演題「100年前に活躍した所沢人」 ・・・ 彼方 あち 此方 こち ・・・ 所沢郷土美術館特別展 山崎政子手鞠展 会館日時 平成24年5月3日、4日、5日、6日及び5月中の 日曜日 午前10時∼午後4時30分 入館無料 (所沢織物文化研究会事務局 所沢市緑町4−19−4 事務局長 秋田芳浩)