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ペローの 「仙女たち」 - 京都産業大学 学術リポジトリ
『京都産業大学論集』人文科学系列第 号(平成 年3月) ペローの「仙女たち」 ――これまで考えられてきたような,ありふれた教訓物語なのか?―― 藤 倉 恵 子 〈目次 1.はじめに 2. 「やさしい言葉」と「礼儀正しさ」の教訓的読解 物語と教訓部分との関連 )に対する「人の心」( .「贈りもの」 ( ) 王子と母親 .仙女への「礼儀正しさ」と「やさしい言葉」 妹娘と姉娘の比較において .「天賦のもの」( ) .ほんとうの贈りもの 他のテキストとの関係において .レリチエ嬢との競作 競作の意図の検討 タイトルの謎への答 .ペローの策略あるいは挑戦 寡黙さと「オネットファム」 .古典派ラ・フォンテーヌとの競作 「やさしい言葉」をめぐって .オウィディウスの古典寓話との競作 水を所望する女神のモチーフをめぐって 3.通過儀礼と儀礼的風習の象徴的物語 類話群との関連において― ― 通過儀礼の物語 大文字表記の語の分析 .大文字表記の語と類話群参照について .「森」( .泉と水汲み )と森( ) 通過儀礼の行われる場 自己省察の場 .自画像としての仙女たち 儀礼的風習の物語 .贈りものに見られる対比の意味 自然神話 .贈りものをもらうための儀礼的風習 4.精神分析学的読解 近親相姦的愛情の投影 類話群との関連において生じる相互テキスト性― ― 「仙女たち」「サンドリヨン」「ろばの皮」における,近親相姦的愛情表現をめぐる相互テキスト 性 .作品間の類似の問題 .話型どうしの接近とヒロイン像の違い 「仙女たち」と「サンドリヨン」 .ダンダス説 「シンデレラ」の近親相姦のモチーフを「投影」の視点から解釈 ペローの「仙女たち」 .「仙女たち」と「サンドリヨン」における近親相姦のモチーフと寡黙さ リビドー表現をめぐっての相互テキスト性 「仙女たち」と「ろばの皮」 .ロバの皮を身にまとうことの意味するもの .金貨を排泄するロバと口から財宝を出すモチーフの普遍性について .維持し続けられる近親相姦的愛情 リビドー性欲 .昔話におけるリビドー表現 .金貨を排泄するロバと財宝を「吐く」モチーフの意味するもの .肛門排泄と食欲(口唇)とのつながり 5.終わりに 1.は じ め に シャルル・ペロー( )は,韻文による物語3扁からなる『韻文による物語』 ( ) と 散 文 に よ る 物 語 8 扁 か ら な る 『過 ぎ し 昔 の 物 語 な ら び に 教 訓』 ( )の2冊の童話集を残したが,ここで ) とりあげる「仙女たち」( )は,後者に収められている。これらの童話がすべてそうで ) あるように,「仙女たち」も,口承の昔話に源を発する再話である。ペローと同時代の多くの 女性作家に,時代特有のプレシオジテに充ちた心理描写が見受けられるのにたいして,ペロー 童話は,そのプロットと文体の簡潔さによって,原話の形態を失っていない素朴な物語となっ ている。 「仙女たち」は, 「報われる良き者と罰せられる悪しき者という,フランス魔法昔話の ) 形態」を示していると評される物語で,善悪の対比が明確であるので,この物語の簡潔さは際 立っているように思われる。また,何より,童話集のタイトルそのものに「教訓」の語句を含 めていることでも明らかだが,『韻文による物語』の序文では「仙女たち」のタイトルは挙げ ずにこの物語を引用して,昔話の教訓面が重要だと述べている。つまり,このような〈モラル の物語 は,彼の意図にうってつけの素材であったということである。 しかし,「仙女たち」は,語られるがままのできごとだけの教訓物語ではないように思われ る。物語を通して明確に教訓がわかるだけに,物語のあとに付された「教訓」が物語のトート ロジーではありえないものとして,その存在の意味を問われるのである。物語と教訓部の注意 深い照合から,物語では具体的に語られなかった「やさしい言葉」や「礼儀」がどのように表 現されているかを明らかにし,仙女からの「贈りもの」の深い意味を考えたい。また,他の作 家のテキストにおける「やさしい言葉」の表現や,当時の「オネットム」( )と いう宮廷における理想像をあらわした表現との照応をもはかることで,ペローの物語の説く教 訓について再考できると思う。 ところで,ペローの時代,童話は刊行される前に,まずサロンで朗読されることが多かった ようである。「仙女たち」は,ペローの姪にあたるレリチエ嬢との競作として誕生した作品で 藤 倉 恵 子 あるとの説があり,両者の作品がともにサロンで朗読されたことはおおいにありうることであ ) る。ペローは 年に,朗読のための注意事項と思われる書き込みのある手書き原稿を発表し ており, 年に,これをもとに物語を5話から8話に増やして童話集を刊行したのだが,彼に しても,刊行する以上は,アカデミーのメンバーであり,また,当時,社会を二分する文学論 争の立役者であっただけに,エクリチュールでしか表現しえないことに当然腐心したであろう と思われる。 まずは視覚レベルで注目される点として,寓喩文学の特色でもある大文字表記の語が検討に 値するだろう。また,この物語と同話型類話群( )との関連をはかれば,ヒロインの内 的成長を描いた物語,昔話の典型的テーマである通過儀礼の物語を指摘することになるだろう。 ペロー童話を自然神話や儀礼的風習をなぞらえたものとして解読することを一貫して試みてい ) るサンチーヴの説も参照したい。 昔話というものは,それを物語る主体の無意識を投影するものであり,同一の無意識のメカ ニズムがさまざまな話型のモチーフとなっている。ダンダスは,近親相姦的愛情の投影という 心のメカニズムが「リア王」と「シンデレラ物語」に共通するものであることを検証している。 この無意識の問題に注意を喚起させるかのように,ペローの物語どうしも,たがいを指し示し あうかのような物語要素の類似を示している。「ろばの皮」「サンドリヨン(シンデレラ物語)」 を参照することは「仙女たち」の理解に必要であり,また,その逆も言えるだろう。 2. 「やさしい言葉」と「礼儀正しさ」の教訓的読解 (1) 物語と教訓部分との関連 「仙女たち」が収められている童話集においては,いずれの物語のあとにも,韻文からなる 「教訓」が一つ,あるいは二つ付されている。「教訓」の役目は,物語ですでに読解可能な教訓 を繰り返すトートロジーにはなっていないはずである。しかし,物語に則さないことも述べて はいないだろう。 「仙女たち」には二つの教訓がついている。ペローが, て, 年の『童話集』の刊行に先立っ 年に,「がちょうおばさんの話」 とのタイトルで発表した手 書き原稿では,「仙女た ち」の教訓は一つであった。 年版で教訓をあらたに追加したことにも意味があったと思われ る。 各教訓と物語,ならびに二つの教訓相互がどのように対応し,補完しあっているかを検討し たい。 分析に先立ち,教訓部の和訳,および物語の概略を以下に記しておく。なお,教訓部におい て大文字表記された語は,カギ括弧に入れてこれを示している。 ペローの「仙女たち」 「教訓」( ) 「ダイヤモンド」( 「人の心」( )と「金貨」( )は )に絶大な力をもっているもの。 けれどもやさしい言葉( )は それを上廻る強い力をもち,はるかに大きな値打ちあるもの。 「もう一つの教訓」( ) )とは気遣いが要るもの, 「礼儀」( それでいて親切気からであってほしいもの, けれども遅かれ早かれ報われるもの, それも大抵は思ってもみなかったうちに。 寡婦である母親は,「やさしく礼儀正しい」( )妹娘を虐待し, 「不愉快 で傲慢な」姉娘を溺愛している。妹娘は亡くなった父親に「生き写し」であり,姉娘は母親に そっくりであった。ある日,妹娘は,日課の仕事となっている水汲みに泉を訪れ,そこで貧し い身なりに姿を変えた仙女に出会う。水を飲ませてくれとの仙女の頼みにたいして,礼儀正し い応対をした妹娘は,「贈りもの」( )として,口をきくたびにバラや真珠やダイヤモンド が飛び出す力を得る。一方,母親に言われて,しぶしぶ泉を訪れ,王女のような姿であらわれ た仙女に,無礼な態度をとった姉娘の口からは,マムシやヒキガエルが飛び出るようになって しまう。妹娘は,姉娘が不幸な結果になったことのせいにされ,母親に追い出される。しかし, 逃げ込んだ森で王子に出会い,聞かれるままにそれまでのいきさつを話したところ,ふさわし い相手として宮殿へ迎えられ結婚する。一方,姉娘は,皆から嫌われたあげく,母親にも追い 出され,森のかたすみで死ぬことになる。 .「贈りもの」( )に対する「人の心」( ) 王子と母親 二つの教訓全体を通して数えれば,大文字で表記された語は4語あるが,これらのうち, 「教訓」の1行目に含まれる「ダイヤモンド」と「金貨」の語は,物語部分の大文字で表記さ れた語である「花」 「宝石」「バラ」「真珠」 「ダイヤモンド」と,容易に結びつく。すなわち, 妹娘が口をきくたびに飛び出した花や宝石類が,「ダイヤモンド」 「金貨」と言い換えられてい るのであり,「教訓」では一般的な話として,これらが「人の心」( )に絶大な力をもっ ているものだと述べているように受け取れる。しかし,物語の中で,妹娘の口から飛び出す財 宝が絶大な力を及ぼした人として語られているのは母親と王子である。そして,以下に引用の ように,驚いた二人が,妹娘にまったく同じ質問をしていることが,かえって,それぞれが妹 娘をどう受けとめたかの対比を強調する結果になっている。 藤 倉 恵 子 母親 「どうしてこうなったの,娘や」 王子 どうしてこうなったのか言うように頼みました 母親は妹娘に, 「娘や」と呼びかけるのであるが,このことについて,以下のような説明が, わざわざ括弧付きで加えられている。 (彼女のことを娘やと呼んだのはこれがはじめてであった) ) 年の手書き原稿の「仙女たち」にも,括弧付きの説明は同様に見られる。ただし,手書 き原稿版では,母親は継母という設定である。したがって,同じ括弧付きの補足説明でも, 年版のほうが意味は重い。すなわち,実の娘に対して母親がそれまで娘と呼んでこなかったと いう精神的虐待の強さと同時に,それだけに母親がこのような贈りものを受けた妹娘を見ての 喜びが際立 つことになる。また,「仙女 たち」について, 年の手書 き原稿版が,かなりの ) 「凝縮と無駄の削除」を経て, 年の『童話集』に収められている作品の形になったと認めら れているだけに,このような推敲を経て,なお,この括弧内の補足説明が残されたことは,こ れが,この物語の理解に重要であることを意味するだろう。 さて,このように二人は一様に驚きを示すが,このあとそれぞれが妹娘に示す評価は,母親 の上機嫌の一過性と王子の喜びの永続性という対比を示している。これは,妹娘が仙女から受 けた「贈りもの」( )を,それぞれがどう評価したかの違いとして表現されている。 母親は,妹娘に奇跡が起こった事情を知り,姉娘に次のように言う。 年版「同じ力( )を持てたらうれしかないかい?」 《 》 年版「同じことをできたらうれしかないかい?」 《 》 「仙女たち」について, 年版を 年版と比べると,使用する語彙の一貫性にも推敲のあと が見られる。その例が,上に引用した部分では「贈りもの」というより「力」という意味で用 いられている《 》の語である。 年版では,仙女も母親も王子も,妹娘に起こった魔力に よる現象をすべて等しく,「贈りもの」( )の語で呼んでいる。では,母親と王子のそれぞ れが,「贈りもの」をどのようにとらえたのか検討してみよう。 母親にとって,妹娘が「贈りもの」を受けるに値すると評価されたことも,何をもって評価 ペローの「仙女たち」 されたかも,何の意味も持たない。母親は,財宝などを生み出す「力」そのもの,これを手に 入れることにしか関心がない。また,その「力」が容易に手に入ると考えているのである。 一方,王子は娘がそれまでのできごとをすべて話すと,以下のように考える。 王子は,それですっかり娘のことを好きになり,このような贈りものは,結婚とともに もたらされるどんなものよりも値打ちがあると考えました。 引用部分の《 》の語で王子が意味しているものについて,文脈から判断し,また,「教 訓」との関係 からとらえれば,「持参金」 の語義にも解釈される。「教 訓」1行目の「金貨」 ( )が,正確には,国内のエキュ金貨( )に対して,イタリア,スペインなどの 外国の金貨をさすものだからだ。この場合,王子が,とりわけ,外国の王女との結婚で得られ るかもしれない持参金( )に言及していることになるだろう。 では,仙女が妹娘において認めたものは評価されなかったのだろうか。「教訓」の後半2行 で,財宝よりも人の心にさらに力を及ぼす価値あるものとして語られている「やさしい言葉」 )は,どのように評価されるに至ったのだろうか。 ( .仙女への「礼儀正しさ」と「やさしい言葉」 妹娘と姉娘の比較において そもそも,妹娘が話した言葉として,その内容が具体的に明らかにされているのは,仙女へ の言葉と,泉での仙女との出会いのあと家に戻ってから,母親に帰宅の遅れを詫びた言葉のみ である。あとは母親,王子それぞれに,仙女との出会いによって贈りものを得たことを,「自 分の身に起こったこと」「こうなったいわれ」を説明したと,話した行為に触れられているだ けである。まず,以下に仙女への妹娘の言葉を検討する。 「ええ。いいですとも,おばさん」 妹娘の仙女への言葉は,水を飲ませてくれという頼みにたいしての承諾の言葉と,身なりの 貧しい女へ の呼びかけの言葉だけで成り 立っている。上の引用部で, 定・否定の返 事に添えて庶民が用いた間 投詞であり, 「親愛なる」( )の意味で付加した表現であり,とくに, は, 世紀頃,肯 も, 庶民が好意をこめて, は年輩者に添えられる 語である。つまり,妹娘は,庶民の日常語で,承諾と呼びかけの言葉で返答したにすぎない。 ところで,仙女が妹娘を評するのに用いた「オネット」の語は,教訓部で大文字表記の語の 藤 倉 恵 子 中でも,全文字が大文字表記になっている唯一の語であった。また,この語は,物語を通して, 品詞的相違 ( ) や派生語 ( ) の違いはあっても,一 貫して同じ「礼儀正しさ」(オネット)という語義で使用されていると考えられるのだが,それ はひとえに,妹娘の仙女にたいするふるまいを私たちがそう受けとめるからである。しかし, 実のところ,引用した娘の言葉については,寡黙すぎて評価できないだろう。 注目される のは,娘の言葉が, 世紀,ペローの時代,「オネットム」( 精神が言葉の問題としてあらわれたとも言えるプレシオジテ( )の )と対極にあることだ ろう。つまり,当時,サロンでもてはやされた,月並みを嫌い,自分を際立たせるための気取 りの表現とは無縁であることにおいて際立っているのだ。ちなみに,ペローとの競作とされる レリチエ嬢の「雄弁の魅力または優しさの効用」( ) )と題される作品から,同じ場面を引用する。ブランシュは「良い」ほうの 娘の名である。 「奥様,ほんとうに恐縮致しており ます」と感じよくブランシ ュは答えた。「それには ( 水を飲むこと)ほんとうにふさわしくございませんこんな水がめに入れてしか差し上げ られませんことを」 このような比較を待つまでもないほど,妹娘は寡黙である。これに続く,仙女に水を飲ませ る部分も,両作品から引用しておく。 ペローの妹娘 美しい娘はこう言うと,すぐに水がめをゆすぎ,泉の一番きれいなところ から水を汲み差し出すと,飲みやすいようにずっと水がめを支えてやりました。 レリチエ嬢のブランシュ 注意深く ( こういうと同時に,この美しい娘は泉のほとりに身をかがめ, ) 水がめをゆすぎ,それから婦人に飲むよう にと愛想よく ( )差し出しました。 妹娘のしぐさは,「もうひとつの教訓」において,礼儀とはかくあってもらいたいと述べら れている通り,ブランシュ以上に,「気遣い」( )や「親切気」( )に満ちてい ることがわかる。しかし,ペローは妹娘のしぐさに価値判断を加える表現を行っていない。そ れでも,妹娘の寡黙さが,これに続くしぐさに一連の儀式のような印象すら与えるのである。 こうして,彼女のたった四語のありふれた言葉をも,「やさしい言葉」にしてしまうのである。 では,次に,妹娘と対極にある姉娘がどのように言い,どうふるまったかを見てみよう。 ペローの「仙女たち」 この粗野で高慢な娘は言いました。「わたしはあんたに水を飲ませるために来たとでも いうの?なるほど,奥方に水を差し上げようと,わざわざ銀の水差しを持ってきてるのよ ね。そうだ,ほしけりゃ,じかに飲めばいいのさ」 「あなたはあまり礼儀正しく( )ありませんね」と仙女は腹を立てることもなく 答えました「しかたありません,こんなに不親切( もの( )なんですから,贈り )として,あなたが口をきくたびに〔…〕 姉娘は,仙女に水を飲むなと言ったわけでも,飲むのを妨害しようとしたわけでもない。し かし,水差しを差し出さなかったことは,動物のようにじかに飲めと言ったことになるだろう。 いずれにせよ,姉娘は,相手が「贈りもの」をくれるはずの相手ではないと思っている。言い 換えれば,みかけだけの礼儀正しさすら,見返りがなくしては示されることがなかったのであ る。 .「天賦のもの」( ) では,次に,母親は妹娘の言葉をどう受け止めたのかを取り上げる。 「おかあさん,ごめんなさい,こんなに遅くなってしまって」と,あわれな娘は言いまし た。 《 》 母親が妹娘にはじめて「娘や」と言ったのは,このあとのことである。これは,あたかも娘 の側からの「おかあさん」の呼びかけに呼応するかのようである。ただし,母親には「やさし い言葉」は届かなかったのである。このことを,天賦のものという視点からとらえてみよう。 物語冒頭部,妹娘は,「やさしさと礼儀正しさ」( )において, 亡くなった父親( 年の手書き原稿では亡くなった母親)と「生き写し」であると,つまり,これ が天賦のものであると特筆されている。ここで,妹娘の言葉をやさしい言葉たらしめる「やさ しさと礼儀正しさ」が,妹娘の天賦のものとして語られていることに注目しよう。さらには, 「人が自分に似た者を好むのは自然なことなので」 ,母親が自分にそっくりの姉娘を溺愛するの は当然であると説明されている。したがって,母親は自分に似ていない妹娘も,その父親似の 天賦の「やさしさや礼儀正しさ」についても,これを好まないかあるいは理解できないのだと いうことになるだろう。母親は,遅れたことを詫びる妹娘の言葉に込められたものに真の評価 を与えることはできなかったのである。 もっとも,妹娘の寡黙さに天賦の美点を評価できたのは仙女だったからこそなのだと描かれ ているとすれば,「リア王」でのコーデリアを例に挙げるまでもなく,飾らない日常の言葉に 藤 倉 恵 子 込められている深いやさしさが正当に評価されることの困難さという普遍的真理をも示唆して いることになるだろう。 一方,ここで,王子が妹娘に認めた「このような贈りもの」( は,王子が妹娘において認めた「天賦のもの」をも意味するだろう。 )に戻れば, と の語には,聖書が出 ) 典となる「聖 霊からの賜」( ) の意味 が比喩的に転じた超自 然的存在からの「さずかりもの」の意味がある。つまり,王子が妹娘に見い出したのは,まさ に,仙女からの贈りものであり,かつ,これが,そのまま妹娘の「天賦のもの」なのである。 そして,贈りものが空からではなく,その者の体内から飛び出すものであることは,合理的な 魔法表現なのである。 .ほんとうの贈りもの こう考えると,仙女は,もともと妹娘にそなわっていた「天賦のもの」であるやさしさや礼 儀正しさが,寡黙な彼女にあふれていることを,まずは母親に,そして良き伴侶となるべき人 に理解されるようにと,その天賦のものを財宝などに視覚化したのであって,口から飛び出す 財宝は,このことにおいてしか意味がないのである。そして,王子は,この仙女の贈りものの 意味を理解したのである。 王子が妹娘において,天賦のものととらえた「やさしい言葉」が,どんな内容の言葉かは語 られてはいない。しかし,これが具体的にどんなものかは,たしかに仙女と妹娘との一つの出 会いを通して描かれているのである。 さらに具体的なことに,口から飛び出した贈りものについて,〈バラ2つ・真珠2つ・大き なダイヤ2つ 〈2匹のマムシ・2匹のヒキガエル とわざわざ数量を具体的に述べているこ とにも意味があるだろう。姉娘の発した言葉「それがね,おかあさん」( )に 含まれる単語数と飛び出したマムシとヒキガエルの合計数は,ともに4の同数である。泉から 帰ってきた 妹娘の発した言葉「ごめんな さい,おかあさん,遅くな って」( )についても,ダイヤが「大きい」( )と特筆した ことで,やはり,飛び出したものの個数と言葉数との対応を認めることは可能であろう。つま り,口からこぼれる財宝のすばらしさを量的に表現することで,仙女の贈りものは言葉の豊か さをも促すものとなっているのである。妹娘の言葉数が,仙女と会って以降,増えていくこと にも注目できるだろう。母親に帰りが遅くなったと詫びたあとは,具体的言葉の内容は語られ ないが,泉で仙女に出会ったことの説明,そして,最後に,王子には,泉でのできごとから森 に追いやられるまでのいきさつを,ある程度の言葉数を必要として語ったことになる。 すなわち,仙女の贈りものとは,単に,やさしいが寡黙な娘の言葉がやさしい言葉として理 解されるようにという願いだけではない。もっと豊かな言葉が口からほとばしるようにという のが,仙女の願いであったと思われる。これが仙女が与えた将来へ向けての真の贈りものであ ペローの「仙女たち」 った。 「もうひとつの教訓」において,「遅かれ早かれ報われるもの,それも,大抵は思ってもみな いうちに」と述べているのは,仙女から贈りものをもらったあとの,その先に訪れる贈りもの をさしているのである。仙女の贈りものに込められたこの二重の願いは,王子との出会いによ って,成就されたものとして描かれているのである。 (2) 他のテキストとの関係において 競作の意図の検討 .レリチエ嬢との競作 タイトルの謎への答 レリチエ嬢は,ペローの姪であり,選ばれた女性だけが対象のアカデミーのメンバーであり, 衒学的才女である。ペローの「仙女たち」と,彼女の「雄弁の魅力またはやさしさの効用」の, どちらがどちらをコピーしたのかは不明とされるが,同じ語り手から採話したと思われ,サロ ンでの競作となったのではないかと考えられている。 もっとも,類似しているとはいっても,両作品の印象はまったく異なる。レリチエ嬢の場合, 昔話として聞き及んだことを友人の公爵夫人に語る形式をとっており,その心理描写と,登場 人物のプレシオジテに充ちた言葉は,昔話の体裁の短編物語である。それも,タイトル通り, ほめたたえられているのは,才気,やさしさ,上品さ,礼儀にともなう雄弁( あり,娘に水を飲ませてくれるように頼んで,娘を試す仙女の名は, )で (生ま れついての雄弁さ)とされているほどである。 また,一番顕著な違いは,作品の長さであろう。レリチエ嬢の方は,ペローの9倍にあたる。 これは,レリチエ嬢の作品には心理描写が多いことに加え,実は,仙女が二人登場し,エピソ ードがペロ ーの倍になることにもよる。 が登場す る後半部が,ペローの 「仙女たち」にあたる。 前半に登場するもう一人の仙女 (やさしさ)は,イノシシを深追いして,あやまっ てブランシュをけがさせてしまった王子の意を汲んで,娘のもとに傷薬を持参する。そして, 娘のやさしさや感じのよい話ぶりや,美しさに感嘆し,魔法の杖で,それらが変わることのな いようにとの贈りもの( )をするのである。 ところで,すでに見たように,ペローは,「類似」の強調によって妹娘の美点を天賦のもの として表現した上で,そこから先の問題,それが評価されるかどうかの問題を問うている。さ らには,天賦を評価されるにふさわしい豊かな言葉(雄弁といってもよいだろう)をもつべしと する。つまり,ペローはレリチエ嬢における複数の仙女の登場する物語と同じ効果を,一人だ けの仙女の物語で生み出すことに成功しているのである。 ペローの「仙女たち」というタイトルの名詞が,登場する仙女の数に反して複数形であるこ との謎については,一般的にはきわめて抽象的表現だが,仙女たちの叡智を総称しているから だとされてきた。しかし,ひとつのパロディ的表現なのだとするあらたな説の提唱が可能かも 藤 倉 恵 子 しれない。 あるいは,登場人物の言葉の寡黙さにせよ,感情移入を排除した描写にせよ,あるいは作品 の長さにせよ,言葉の使用において節度を保った,この意味で寡黙な作品であっても,有能な る読者は,そこに作者の雄弁なる天賦を読むはずであるという自負と願いをこめて,仙女から の二重の贈り物を読み解くキーワードとして仙女の語を複数形にしたのではないかと考えられ る。 .ペローの策略あるいは挑戦 寡黙さと「オネットファム」 ふたたび,ペローとレリチエ嬢が描くところのヒロインを比較するが,「仙女たち」の妹娘 について,その内的生活は物語られていないのにたいして,レリチエ嬢描くところのブランシ ュは,雄弁をみずからの美点とできるようになる伏線として,継母とその娘による虐待の日々 にあって,読書だけをひそかな愉しみとすることが語られる。ギリシャ語の本まで読むことも 明かされる。そこには,自分を表現することで,自我を解放していこうとしたサロンの女性た ちの姿が重なっている。 世紀は,フェヌロンが「女子教育論」で女性の教育の必要性や,修道院でなく母親のもと での女子教育を唱えるなど,女性をめぐる知的環境についての価値観が大きく変わった時期で ある。「オネットム」( ) についても,ラ・ブリュイエールなどは,ジェンダー を超えて,「オネットムの諸特質を備えた美しい女性には,両性のあらゆるメリットが見いだ ) される」などとといった表現をしている。しかし,「オネット」の語は,貴族社会の社交術一 般にかかわることを表現するのに用いられていても,やはり,「オンム」(男性)についてのも のであり,ジェンダー別のモラルは社会に厳然として存在したようである。というのも, 世 ) 紀のフュルチィエールの辞書には,「オネットファム」( )の項目もあるからだ。 以下に引用する。 (現代綴りに修正) (訳)オネットな女性とは,貞節で,貞淑で,慎みがあり,噂の 対象になったり,疑わ れたりする隙さえ与えない人のことを言う。 さらに,同辞書では, を「正しい品行」( ジェンダー別に以下の説明がある。 ) と定義した項目にも, ペローの「仙女たち」 (現代綴りに修正) (訳)女性がオネットたるゆえんは,貞節,慎み,貞淑,控え目にある。 男性がオネットたるゆえんは,義にかない,心うち解け,礼儀をわきまえ,相手への好 意に充ちた,丁重なるふるまいかたにある。 「オネット」に関するジェンダー別の語義説明で特徴的なのは,あるべき女性の条件として, 控え目であることや慎みを挙げていることである。これは礼儀と物質面における節度がともな ったものとして理解されている。 それでは,「仙女たち」において,妹娘が「オネット」であるための一般的条件としての, やさしさや,礼儀正しさ,気遣い,親切気を示し,寡黙と言ってよい様子で描かれているのも, それはジェンダーに固有の社会通念の枠を超えない節度を示したものであろうか。いずれにし ても,このことをも,文学的モチーフとして取り込んでしまった上でのことであり,当時,社 会をにぎわせていた新旧論争において,サロンの女性たちを敵にまわすことは避けたかったに ちがいない。 .古典派ラ・フォンテーヌとの競作 「やさしい言葉」をめぐって この新旧論争であるが,ギリシャ・ローマの古典と,当世のフランス文学との優劣を議論す るものであった。大きく2期に分かれるが,その第1期の中心的人物となったのがペローで, 『寓話詩』で有名なラ・フォンテーヌであった。 彼は近代派であった。彼の論敵の一人が, 本来,昔話は教訓を明確に切り離して付すような形式をとるべきものではないにもかかわら ず,ペローが口承話を再話しながら,物語部分と教訓部分をいわば並置する形式をとったのは, ラ・フォンテーヌを意識してのことではないかと拙稿で取り上げたことがある。そして,「仙 女たち」に ついても,「教訓」で重要な キーワードとなった「やさし い言葉」は,やはり, ラ・フォンテーヌを意識したものではないかと思われる。 ジベール・ルージェは,ラ・フォンテーヌの『寓話詩』の中に収められている「白鳥と料理 人」( )の中に同じ教訓があるとの註をつけている。 鵞鳥と白鳥が同じところで飼育され,一緒にたわむれて暮らしていたが,ある時,酔っぱら った料理人が鵞鳥と間違えて白鳥の首を絞めようとする。しかし,白鳥はまさに死なんとする 時,その囀りで嘆く。その瀕死の嘆きの声に,料理人は間違いに気づき,「こんな歌い手をス ープに入れるなんて。こんなに立派に使っている喉を切るようなことは断じてしまい」と言う。 この話の教訓として,以下の文で締め括られている。 このように,わたしたちの身に迫っている危険にさいして, やさしい言葉はけっして害にならない。 藤 倉 恵 子 ) ここで,「やさしい言葉」とは,白鳥のような「歌い手」をもう殺すのをやめると言った料 理人の言葉ではなく,白鳥の瀕死の嘆きの歌(言葉)である。 古典派のラ・フォンテーヌらしく,この寓話じたい,イソップ寓話「鵞鳥の身代わりになり ) かけた白鳥」の話に基づいている。家の者が,食卓にあげるべき鵞鳥を取り違えて,白鳥を連 れていきそうになった。白鳥は,「歌を歌って主体を明かし,音楽の力で死を逃れた」という 「若者を言葉の尊重へと促す」と明快に教訓が述べられている。 もので,冒頭に, ところで,ラ・フォンテーヌが該当の『寓話詩』第3集(第 前年, 年であり,翌年 編)を刊行したのは,死の 年,ペローの手書き原稿が発表されたのだが,同年,レリチエ 嬢も,以下に引用のように,「雄弁の魅力」のなかで,ペロー以上に,ラ・フォンテーヌへの 言及(下線部参照)を行い,さらには,「やさしい言葉」を教訓としている。 古代ギリシャ・ローマ古典に造詣が深く,ゴールの地の古代のことにはなおもっと精通し ているある婦人が,こどもの私にこの話をしてくれたのでございます。そして,私の心に 刻み込んだのです。礼儀正しさはけっして誰の害にもなったことなどないのだということ を。そしてまた,古い諺が言うように,「美しく話すことは舌を傷つけない」のであり, そして,しばしば, やさしく礼儀にかなった言葉は 豊かな遺産よりも値打ちがある ということを言って聞かせたのです。 このように,ラ・フォンテーヌの「やさしい言葉」( )の表現が,同じ口承話か ら再話したペローおよびレリチエ嬢の教訓として,それぞれ, の表現となって引用されていることは,二人が競作だという説があるだけに,これがテ ーマであったのかと興味深い。 しかし,いずれにせよ,イソップも,ラ・フォンテーヌも,言葉を危急を救う力だととらえ ている点で,ペローたちとは大きく異なる。宮廷批判も辞さなかった自由人であるラ・フォン テーヌが描いてみせた「やさしい言葉」( )とは,強者の自省を促すほどの強い力 をもつ,不当な目にあっている弱者の側からの心にしみる言葉であろう。 一方,ペローは,言葉を日常生活の儀礼としてとらえたのである。古代ギリシャ・ローマの 古典に範をとることを至上命令とする文学のありかたを皮肉るかのように,古典派のラ・フォ ンテーヌを引用した上で,テーマをあえて,日常の家庭においたのである。しかも,日常生活 ペローの「仙女たち」 で,なんの利害関係もない間柄で交わす言葉を問題にしたのである。ペロー同様に近代派であ ったサロンの女性も,意図するところは同様であったに違いない。 .オウィディウスの古典寓話との競作 水を所望する女神のモチーフをめぐって ペローの「仙女たち」が必ずしも口承話ではなく,文学作品を参照したものではないかとい うことについては,すでに幾つか名が挙げられてきた。なかでも,水を所望する女神というモ ) チーフについて,オウィディウスの『変身物語』をモチーフとしているのではないかというこ とは,すでに指摘されてきた。女神ラトーナが喉の渇きに,淵のほとりで,身をかがめて水を すくって飲もうとしたところ,農民たちが罵声を浴びせ,女神の懇願に耳を貸すどころか,池 の水をかきまわしたり,水底から泥をかきたてたりするので,そのふるまいと,神に対してあ るまじき言葉に腹を立て,両手をさし上げて,彼らにいつまでも池にいるようにと願をかける。 これが蛙の由来だという話である。 ドラリュは伝承話の起源を古典とする説一般については懐疑的である。たしかに,「仙女た ち」が口承民話を素材にしている以上,当然,口承話は変形を経ているのであって,もしこの なかに「変身物語」という古典を見分けたとしても偶然であるかもしれない。しかし,むしろ, ペローは積極的に,ギリシャ・ローマの古典よりもすぐれた教訓話へ挑戦したのだと考えられ る。 というのも,ペローは新旧論争の近代派の論客らしく,『韻文による物語』の序文で,自分 の寓話( )は,ギリシャ・ローマの古代の寓話よりも語られる価値があると述べており, おおいに対抗心を示しているからだ。彼は自分の童話集( )のタイトルには寓 話の語を用いていない。しかし,教訓があらゆる寓話の根本であるがゆえに,自分の物語を寓 話だと考え,教訓の提示において自負していることを述べているのだ。そして,すぐ引き続い て,タイトルは挙げないものの,明らかに「仙女たち」の仙女の魔法の贈りものの部分を引用 しているのである。これは,「仙女たち」が教訓話として古典と競おうとする当の作品であっ たからだとしても,あながち無理な推測ではないだろう。 では,農民から無礼を受けたラトーナと姉娘から無礼を受けた仙女の様子,罰の与えかた, あるいは物語から引き出しうる教訓を比較してみよう。 ペローの時代は,信仰を否定はしないものの,理性を信仰の上におき,すべてに合理的解釈 を与えようとした時代である。ペローの仙女は,女神ラトーナより冷静である。姉娘の無礼な 態度に「腹も立てずに」答えるのである。 罰としては,相手そのものが蛙になることを空想するより,言葉のみずみずしさ・美しさ, あるいは冷たさ・醜さに応じたもの,その言葉の属性にふさわしいものが,その言葉が発せら ) れた口から出てくるほうが,ポール・アザールが「サンドリヨン」を例にとって指摘したほど ではないにしても,合理的連想であろう。 藤 倉 恵 子 次に,いかなる教訓が引き出せるかについて考える。ペローは,姉娘に,農民たちほどの妨 害をさせなかった。つまり,姉娘は,仙女に水を飲むなと言ったわけではない。また,泥をか きたてたわけでもない。通常,何の日常的関係もない相手に,そのような妨害行為をすること に与えるべき合理的理由がないからだろう。絶対悪にたいする自業自得という物語から引き出 せる教訓は,その行為だけをさして,そのような悪いことはしないという紋切り型の,普遍性 のない教訓でしかない。 姉娘の行動として,妹娘と対比を示す行動パターンはいくらでも可能性があったはずであり, そのうち,行動の対比を免れ,言葉の礼儀の問題として教訓を示すものを選択したということ であろう。つまり,無為にして指図するという「傲慢さ」を表現し,純粋に言葉の礼儀の問題 としたのである。 最後に,蛙についてだが,変身譚というジャンルではあっても,動物への変身を描く場合, 変身する動物にたいして時代が,あるいは社会が抱くイメージの考慮が必要とされたと思われ る。そして,ペローが,姉娘の口から蛙を飛び出させたのは,蛙を災いとした古代の,オウィ ディウスの時代の慣例にならったものである。紀元後,蛙はキリストの復活のシンボルであり ) ながら,キリスト教会の聖水盤の底には,追い払われるべき悪魔として描かれるようになった。 しかし,ペローは,このような両義性をもつようになった意味では,「蛙」を用いていない。 ペローが紀元前の古典と競作したとしても,この点では,古代人へのオマージュを示したので あり,それほど古代に源を発する昔話であると考えていたことにもなるだろう。 3.通過儀礼と儀礼的風習の象徴的物語 ― (1) 通過儀礼の物語 類話群との関連において― 大文字表記の語の分析 .大文字表記の語と類話群参照について 先に見たように,ペローは自分の物語の教訓面を重視する点から,自分の物語を「寓話」で あると述べているが,エクリチュールの面でも,大文字表記の語によって,これを示している。 というのも,寓話は寓喩の物語であり,寓喩文学のならいとして,寓意的意味をもつ存在は大 文字表記されるからだ。ラ・フォンテーヌの『寓話詩』においても,人間のある一面を表象す る擬人化された動物は,大文字で表記されている。有名な「キツネとぶどう」の話では,「キ ツネ」はもちろんだが,手が届かなかった「ぶどう」もまた大文字表記されている。 ペロー童話についても,朗読する際の声音の注意書きが書き込まれていた 年の手書き原 稿の段階では,大文字表記の語はいくつか見られるものの,まだ意図が明確でなかったが, 年刊の『童話集』においては,この手法は検討に値するものとなっている。この視点からの分 ) 析を,「赤ずきん」について拙稿で試みたが,「仙女たち」についても検討を試みたい。 ペローの「仙女たち」 また,昔話は話型によって,同じ物語構造に基づく同じ象徴体系を示すことから,ここでは 「仙女たち」が属する話型番号である の類話群を参照するものとする。 王子の聞いた「やさしい言葉」が語られずして示唆されていたように,物語られてはいない 別の物語が隠されていないだろうか。 .「森」( ) 通過儀礼の行われる場 )と森( まず,大文 字で注目されるのは,場所 を表す語群,「台所」( 「王宮」( ) ,「森」( ), ) である。これら は,以下の引用で明らかなよ うに,それぞれ,母親 との生活・母親から追放された生活・結婚により完全に母親から切り離された生活という人生 の3段階をさし示しているように思われる。 彼女( 母親)は妹娘を「台所」で食事させ,たえまなく働かせていたのでした。 彼女( 母親)は妹娘のところへとんでいき,ぶちました。あわれな娘は逃げて,近くの 「森」に身をひそめました。 〔…〕と考えて,彼女を父親の「王宮」へ連れ帰り, 王子はそれで娘のことを好きになり, そこで結婚しました。 ところで,上に挙げた大文字表記の語のうち,森をあらわす語には小文字の《 》も使用 されている,これらは区別されているのだろうか。 まず,当時ですら,なお,森が危険な場所であったことの認識が必要である。レリチエ嬢の 作品では,娘が水を汲みに行く泉の近くには森があり,オオカミが出没する危険にさらされて いることへの言及がある。森は,さらに,社会的落伍者・犯罪者が死を覚悟で身をひそめるし かない場でもあった。実際,母親に追い出された姉娘のほうは,奔走のかいなく,誰にも受け いれてもら えず,森 ( 「森」( ) のかたす みで死ぬことになる。一方,妹娘が追いやられた )は,王子との結婚(「宮殿」)に向かう新たな人生への移行段階を過ごした場に あたるが,現実に危険な〈森 であったことに変わりはない。つまり,「森」が象徴的に表す 人生の時期が,試練として受け止めるべき時期であることを,現実に危険な空間であるという 一般的認識の対象としての〈森 の語で補完的に示しているのである。 そもそも昔話には,こどもを森に捨てる話が多く,ひとつの話型として 類話群を構 ) 成しており,ドラリュの『フランス民話話型カタログ』(以降『カタログ』という)では「親指 小僧」または「森に置き去りにされる子供たち」のタイトルで分類されている。この話型に属 するペローの「親指小僧」やグリムの「ヘンゼルとグレーテル」では,こどもたちは,口減ら しのため,森に捨てられる。 森への子捨てというモチーフは,飢饉などの実際の社会の反映から生まれた面もあるが,プ 藤 倉 恵 子 ) ロップの言うように,若者が成人社会への加入を認められるための時に苛酷な儀礼(通過儀礼) が,かつて,森のような隔離された場で行われていたことの人々の記憶が昔話に反映している 面もある。昔話としては,森で生命を脅かす人食い鬼や魔女や,援助してくれる存在などとの 出会い,あるいは魔法の品を得るなどの超自然的体験を経てのこどもの成長として描かれ,こ れらは通過儀礼の物語と称される。 しかし,妹娘が,物語冒頭から,森で出会う魔女にあたるような母親から虐待を受ける生活 を送っていたという点から考えれば,試練の時代は,物語冒頭の「台所」時代からすでに始ま っているのである。つまり,「仙女たち」において,「台所」は試練の場としては「森」と同等 の意味をもつことになるだろう。 また,超自然的存在である仙女が登場するのも,この物語では,「森」ではなく,泉のほと りという妹娘の日課の仕事の場である。もっとも,妹娘が仙女と出会った場は,泉という以外 の詳細は述べられていない。しかし,姉娘が泉に行った際に,貴婦人姿に着飾った仙女が現れ たのは,「森( )の中から」であったと述べられている。しかも,わざわざ, 「それは妹の 前に現れたのと同じ仙女でしたが」と,仙女の同一性だけでなく,妹娘が会った仙女も森にい るのだと説明されているのである。つまり,この物語において,泉は超自然的存在との出会い において,「森」と同等の場と言えるだろう。 「仙女たち」において,ペローの描く通過儀礼の場は,古代に実際に儀礼の行われた森に限 定されてはいない。「台所」や泉といった日々の生活の場であり,これらは「森」の象徴的属 性をそなえているのである。 .泉と水汲み 自己省察の場 次に,この物語において,最も重要な部分,泉と,そこで行われる水汲みという行為につい て,その意味を考えよう。妹娘にとっても,姉娘にとっても,今までの生活を一変させること になるのが,泉のほとりでの仙女との出会いである。とりわけ,水汲みを日課とする妹娘にと って,泉でのできごとは,日々の内的時間が凝縮された象徴的できごととして描かれていると 思われる。これは,妹娘がどのように自分と折り合いをつけて虐待の日々を耐えていたのかと いう疑問にたいする答にもなるだろう。 すでに指摘したように,「仙女たち」において,泉は森と同様に,魔力を持つ存在との出会 いの場である。この出会いの場とそこでの水汲みの行為,そして出会った仙女との関係を,妹 娘と姉娘について考えてみたい。手がかりとして,「仙女たち」( )類話としては唯一の ) グリム童話となる「ホレのおばさん」を参照する。 娘は井戸に落とした糸巻きを取り返すように継母に言われ,どうしていいかわからないまま に井戸に飛び込むが,意識を取り戻すと,そこは草原で,やがて,地下の教育者であるホレの おばさんの家にたどり着く。娘は,ホレのおばさんのもとで働き暮らすうちに,自分をいじめ ペローの「仙女たち」 ていたはずの継母や妹を懐かしく思い始めるという心の変化をみせるのである。 このように,井戸や泉や川など,水を魔界への入り口とするモチーフは, 類話群に おいて特徴的に認められるものとなっている。 ) ロバーツスは,「仙女たち」類話,つまり 類話群を,主人公 の超自然的存在との出 会い方という点から2つのタイプに分類している。その一つは,〈川に流されたものを追って 川に沿って進むうちに超自然的存在に出会うタイプ である。ペロー版のように,水汲みに行 っての出会いも含まれ,これをフランス民話に特徴的だとしている。またもう一つの分類は, 超自然的存在に〈道で出会う タイプだが,これに属する類話の大部分について,「ホレのお ばさん」のように,物語冒頭に「井戸に飛び込む」モチーフが見られるとする。つまり,いず れの分類においても,水のわき出る場が,魔界への入り口となっている。 実際,ペローは,このような類話群の特徴に気づいていたのかもしれない。 稿版では「水」( )の語を大文字表記にしている。ところが, 年の手書き原 年版では,「水」はもはや 大文字から解除されている。かわりに,さまざまな人物表現が大文字表記になっている。これ については,水面の象徴的鏡効果を考えれば,妹娘が自己省察を通じて,自己のイメージを仙 女のイメージに重ね合わせていることを手がかりとして,後ほど検討できるだろう。 ところで,先に引用した「ホレのおばさん」において,井戸の中,地下の世界での娘の心の 変化は,彼女が井戸にみずからをうつした内省の時間の経過をあらわしている。同時に,水面 下の無意識が浮かび上がってくるのに必要な時間でもある。その結果としての自己との和解で ある。 「仙女たち」においても,仙女との出会いの場となる水汲みの場が,同様の内的体験の場の 意味をもっていたと考えることができるだろう。妹娘は日課として一日2回,泉を訪れ,そこ で水を汲むため身をかがめるしぐさをする。妹娘の行為は,水面に自分の姿を写す行為であり, これは,自己の姿を求めて自己省察を繰り返す娘の内的生活を暗示している。 一方,母親と姉娘においては,強調されている類似を互いに確認することが,それぞれにお ける内省の代替となっている。母親と姉娘は,互いに他方の鏡となって,互いの類似関係によ って自己を確認しているに等しい。それが自分の虚像かどうかにとらわれることもない。これ は,鏡像段階の幼児が,鏡の中に自分の像を見て歓喜するナルシズムに似ている。姉娘が,母 親に言われて,泉に「出かけたものの,ずっと,ふくれっつらであった」ことが強調されるの も,自らの姿を無心に顧みる必要を感じていない「不愉快で傲慢な」性格を説明するものとな っている。 ここで,ペローにおいては,水汲みの行為の象徴的意味との関連で暗示されている内面的生 活が,レリチエ嬢の物語では,どのように表現されているのか参照してみたい。 まず,ブランシュの内面的生活については,これは独白のように,しかも,具体的に,思案 の内容が物語られる。ブランシュは,辛い日々の中で,そこから抜け出すことを考えなかった 藤 倉 恵 子 わけではない。家を出ることも考えたが,父親を愛していることや,世間を騒がすことを天秤 にかけた上で思いとどまったことが語られる。また,読書に没頭して慰めとした暮らしぶりに も触れられている。次に,水汲みについては,ブランシュの時代には,貴族の娘たちも水汲み に来ていたので,彼女にとっては,他の家事と比べて,格別,嫌な仕事でもなかったとも説明 されている。しかも登場する二人の仙女のうち,一人は娘の家を訪問しさえするので,物語に おいて,泉という場と仙女の象徴的結びつきも弱められている。 ペローは水汲みという仕事に,純粋に象徴的意味しか与えなかった。妹娘が仙女に水を汲ん で飲ませてやった様子に評価を加えなかったように,その内面に立ち入らない。しかし,ここ まで見てきたように,妹娘と姉娘において,水汲みという行為の日常的実践の有無,あるいは, 類似関係をめぐり示唆される自己認識形態が示す対比は,妹娘にも自己認識へ向けて模索する 内面的生活のあったことを明確に示しているのである。 .自画像としての仙女たち 以上の分析をふまえて,大文字表記の語で,人間存在に関する語,「王」( ( ( ),「王女」( ) ,「父 親」( ),登場した「仙女」( ) ,「貴婦人」 ),さらには姉 娘の名前ファンション )について,これらが意味するところを考えてみよう。 上に挙げた中には,姉娘が出会った「仙女」をさす,「貴婦人」「王女」も含まれている。身 なりを変えた仙女の姿が表象するものを検討する前に,仙女が身なりを変えたことそのものの 意味を考えてみよう。妹娘と姉娘が出会った仙女の身なりは,それぞれに,貧しい身なりと王 女のような身なりであり,正反対である。さらには,ペローとレリチエ嬢の物語の間では,娘 と仙女の身なりの組み合わせが逆であることが注目されるだろう。 しかし,そもそも, 類話群では,仙女が会う人によって姿を変えるのは珍しく,ド ラリュが 話収集したフランス民話のなかでも,ペローとレリチエ嬢の物語だけであり,物語 ) 構成要素には挙げられていない。バジーレの『ペンタメローネ』における の妖精」 「ふたつのケーキ」「 類話「三人 の月」のいずれの物語においても,2人の対照的主人公たちを 試す妖精あるいはこれに類する超自然的存在は,いずれの者にも同じ姿で登場している。また, グリムの「ホレのおばさん」でも,もちろんホレのおばさんは,同じ姿で井戸の中の地下の世 界に棲んでいる。 したがって,ペローやレリチエ譲が,良い娘と悪い娘の前にあらわれる仙女の姿を変えたの は,伝承的要素を継承したのではなく,純粋に,作家独自の文学的手法の問題なのである。 そこでレリチエ嬢の物語について見れば,娘が侯爵の家柄であると語られていることが,仙 女の姿を出会う娘によって変えたことの作家としての意図をわかりにくくしている。なぜなら, 泉で出会う仙女の身なりがある種の身分を示すことによって,ブランシュの場合のように,貴 族の身なりの仙女に出会うにせよ,継母の娘の場合のように,農婦の身なりの仙女に出会うに ペローの「仙女たち」 せよ,娘が出会う仙女の身なりに応じて生じる一定の身分間にあるべき礼儀のかたちについて の社会通念という視点が生じるからだ。そして,これが,仙女に示された娘のふるまいや言葉 について,人としての純然たる礼儀の視点からの判断に介入してくることになるだろう。つま り,レリチエ嬢が,純粋に文学的に成功しているとは理解されないのである。 一方,ペローにおいては,泉は純粋に昔話における象徴的手法として,魔力の存在に出会う 場であり,自己確認の場,自己を模索する場として表現されている。そこで,出会う仙女の姿 が,泉のほとりに立つ者の自画像であることにおいて,会う人ごとに仙女の身なりが変わるこ との意味があると思われる。 そこで,妹娘の自画像に関連して,ふたたび,「類似」の問題に立ち戻れば,「父親」の存在 が注目される。 妹娘が同一視しうる現実の類似存在は,亡くなった「父親」( ) だけであろう。母親 が姉娘を溺愛するように,父親に「生き写し」の妹娘を父親は溺愛し,後ろ盾となってくれた はずの存在である。しかし,その父親は不在である。それでも,彼女が出会う「みすぼらしい 身なりの」仙女は,自己のイメージであると同時に,そこには父親の姿が影を落としているは ずだ。 それゆえ,妹娘の出会った仙女は,彼女が父親からゆずり受けたやさしさと礼儀正しさを肯 定する存在となっているのだ。彼女に礼儀を試す「仙女」( )は,自分自身のありかたを 問うもう一人の彼女の姿なのである。この物語のタイトルの「仙女たち」の名詞が複数である ことの意味は,さらに増すように思う。 ここで,ペローが描くところの仙女( )が, 「サンドリヨン」でも,「眠れる森の美女」で も,「ろばの 皮」(『韻文による物語』) でも,かならず,いつも主人公の 「名付け親」あるいは 「代母」( ) と言い換えられてい ることを参照したい。ペロ ーが描く仙女たちは, 「サンドリヨン」の仙女のように,いつのまにか,日常生活の場で出会う存在であったり,あ るいは, 「ろばの皮」の仙女のように,「遠く離れた洞窟」に住んでいたりする。ペローの仙女 たちは,空想的な場ではなく,遠く人里離れていたり,あるいは日常の生活にかかわる面をも ちながら,人間とともにいる超自然的存在なのである。そこから,現実に洗礼に立ち会う名付 け親という制度があるのを反映して,名付け親である仙女存在が描かれているのだと考えられ る。もちろん,ヨーロッパの妖精伝承でエルフが赤ん坊の誕生に立ち会ったというイメージを も踏襲しているのであり,まさしく,先祖伝来の妖精に,現実存在(名付け親)を反映させた 妖精の姿である。 ところが,「仙女たち」では,名付け親(代母)に言い換えられることがない。「サンドリヨ ン」においても「ろばの皮」においても,仙女は,亡き母親にかわっての代母でもある。しか し,「仙女たち」では,母親が亡くなったわけではなく,妹娘の後ろ盾となるべき存在は,亡 き父親である。つまり,仙女,妖精とは,かつてアイルランドでは妖精を「母」とか「母なる 藤 倉 恵 子 祝福」と呼んだように,女神崇拝から誕生した存在である以上,仙女を代父( 換えることはできなかったのである。そのかわり,「仙女」( 存在を,仙女と同格に表現して, 「父親」( )と言い )に娘が反映させている父親 )の大文字表記にしたと考えられるだろう。 一方,姉娘についても,彼女自身による自画像,あるいは同一視するイメージが大文字で表 記された語によって語られている。まず,彼女の名前はファンション( れる。また,彼女が出会う仙女は,「貴婦人」( )であり, 「王女」( る。これは,物語において,王子をさす語が,けっして 子」( )だと明かさ )であ ではなく,一貫して「王の息 )の表現をとっていることと対照的である。つまり,姉娘が自分を絶対存在 とみなすほど「不愉快で傲慢」であることを表現しているのである。 ファンション( )のように,ペロー童話には突如として固有名詞が登場することが ある。昔話における人名の突然の登場は,詮索の意味がないのが普通であるが,ペローの場合, ) たとえば,縮小辞の遊びの視点から解釈されたりもしている。ここでは,彼女が家から「わざ わざ」持ち出してきた銀の「水差し」( )の語との語呂合わせと,水差しに注意を向けさ せる効果のためと考えてよいだろう。この水差しを仙女に差し出すどころか,「わざわざ」家 から持参したのは,おまえに水を飲ますためではないと言わんばかりのありさまであったこと はすでに見た。つまり,暗に,銀の水差しは自分にこそふさわしいものと考えているのである。 また,ファ ンションは,『韻文による物 語』に収められた「愚かな 願いごと」( )に登場する女房の名でもある。せっかくなんでも3つの望みがかなえられるという 天からの贈りものなのに,うっかりソーセージを注文し,それを女房の鼻先にくっつけ,それ を引き離す願いごとで終ってしまった夫婦は,「願いごとをするには向かない」「あわれな人, 無分別な人,軽率な人々,落ち着きのない人々,気の変わりやすい人々」の類なのだと語られ る。こういった人たちが,「天からの贈りもの( ) をうまく行使できることはほとんどな いのだ」と物語は締め括られている。姉娘が仙女に対する傲慢な応対で,せっかくの仙女から の贈りものの機会をだいなしにしたことを考え合せれば,テキスト相互性の点からも,意味の ない固有名詞ではないだろう。 (2) 儀礼的風習の物語 .贈りものに見られる対比の意味 自然神話 大文字表記された語として,あとに残るのは,実はすでに,「教訓」における「ダイヤモン ド」,「金貨」に相当するものとして指摘したものである。仙女が妹娘への贈りものとして総称 した「花」( 珠」( ), 「宝石」( ), 「ダイヤモンド」( ) であ り,実際に口から飛び出し た「バラ」( ) ,「真 )の語群であるが,これらは,姉娘の口から飛び出す 蛇やヒキガエルと対比をなすものであった。この対比に寓喩的意味をもたせ,「仙女たち」を 時の移ろいが擬人的に表現された自然神話として読む試みを,ピエール・サンチーヴは紹介し ペローの「仙女たち」 ている。 ) ヤサント・ユッソンやアンドレ・ルフェーヴルは,「仙女たち」の類話群に見る二人の娘へ の贈りものについて,良い娘への贈りものが輝きや自然の恵みに関与するものであり,悪い娘 へのそれが,闇や湿っぽさに関与していることに注目する。そして,その対比に,曙と夜,そ れぞれの属性の対比を見る。さらに,シャルル・ブロワは,原始の人々が,一日の始まりの太 陽の光を,年の始まりを意味した植物の芽吹きと同一視したことをふまえ,春と冬の対比を見 るに至る。 ところで,この物語において,贈りものを数量化したささいな数字に意味があったことを思 い起したい。妹娘の水汲みは,1日2回である。そして,いつもは,妹娘が一日に2回,泉を 訪れるべきところ,仙女と会った日には,妹娘と姉娘が1回ずつ,泉を訪れることになったは ずである。娘たちへの贈りものの対比が,昼と夜という1日の区分に相当するところのもので あると考えうるだろう。 しかも,仙女が求めた「水」は,自然の恵みに最も必要なものであり,これに応じた妹娘は, 実りをもたらす春の擬人的存在となり,「仙女たち」からは,ペローがあれほど自分の物語に 強調する教訓が失われてしまうことになるだろう。 しかし,サンチーヴは,このような自然神話的解釈を認めつつも,かならずしも,ペローの 話を含めてヨーロッパの物語に,このような解釈を強いるものではないと述べている。たしか に,この説を例証する類話の選択の指標があいまいであることは否めない。サンチーヴの著は 年にさかのぼるが, 年にドイツ語で発表されたフィンランド派の学者アァルネの「昔 話の比較研究入門」において示された話型分類がまだその研究にいかされていないのか,いっ さい 番号に触れられていない。 また,ドラリュの『カタログ』によれば,この説が,かならずしも適用できないような贈り ものが存在するのである。仙女からの贈りものが,美しい馬車であったり,娘がさらに美しく なることであったり,季節にも,輝きにも,自然の恵みにも無関係なものが見受けられる。そ こで,サンチーヴが紹介するもう一つの説,儀礼的風習をなぞらえた物語とする説のほうが, 説得力があるように思われる。以下に検討しよう。 .贈りものをもらうための儀礼的風習 サン フワは,「フランス王国の最初の王朝の終り頃,フランス人の3分の1以上がまだま ) だ異教の偶像崇拝をおこなっていた時代」に見られた風習として,以下のように紹介している。 大晦日の晩に,幸運と不運をそれぞれ右手と左手に携えた妖精は,家から家を訪れるので, 妖精たちの好意を勝ち得るように,ごちそうを用意しておき,翌日,家の主が,妖精たちに供 したパンを割いて,テーブルの上の器に入れた水かワインに浸し,家族全員で,さらには使用 人とも分かち合い,新年の挨拶をかわし,このパンで食事するのである。つまり,この風習が, 藤 倉 恵 子 妖精をもてなさなければ幸運は得られないし,また,妖精を心を込めてもてなした女性は理想 的な夫に引き合わせてもらえるという類話群を生んだとする。 このような風習が,サンチーヴの時代, 世紀初頭にはまだまだ実際に,ロシアやヨーロッ パ各地に確認できたことが,彼にこの説をよりいっそう支持させたようである。サンチーヴは, 新年を迎えるにあたり妖精を迎えるというセレモニーは,何百もの物語と結びついたのであり, ペローの「仙女たち」も,そのひとつであると位置づけている。 類話について,ドラリュの『カタログ』に収集のもの(フランス民話 話) 以下に, や,バジーレによるものを参照し,サンチーヴの説が 類話群に対応しているかを検証 しておく。 1.妖精(の類いの魔法の力をもつ存在)が,娘に水や食べ物を求めるモチーフについて,食べ 物の内容は妖精に準備するごちそう(パン・水・ワイン)の内容と類似している。 しかし,フランス民話のいくつかにおいて見られるこれとは異なる話は,バジーレの『ペン タメローネ』の「三人の妖精」と似ている。妖精のシラミのまじった髪について,娘は「頭に 何かいるか」とたずねられ,シラミが実際にいることの表現のしかたをもって礼儀を問われる ものである。シラミは,民間伝承によれば,魔女によって遣わされるものとなっているが,歓 待の風習の要素とはかけ離れている。 先にあげた 類話を分類したロバ ーツスは,この「シラミ類 話群」を,「流されたも のを追って川に沿って進むうちに妖精に出会う」タイプの下位グループに含めている。つまり, この類話群が少ないわけではないことを示すことになる。 類話をすべて食事提供をと もなう風習と結びつけることは困難だということになるだろう。 2.妖精を食事でもてなす風習を守る人々が,妖精の贈りものとして期待していた幸運とは, 収穫や家畜の繁殖にかかわるものであったが,すでに触れたように,フランス民話には贈りも のが,美しい馬車であったり,罰に小石が降ってくるものもある。 ) 3. 類話群には,グリムの「ホレのおばさん」やアファナーシェフの「鵞鳥白鳥」の ように,結婚のエピソードをもたないものもある。また,結婚のエピソードについても,「仙 女たち」のように,王子とめぐりあうという単純な結末ではなく, 話型(「すりかえら れた花嫁」)に属するモチーフが入りこんでいるものもある。バジーレの「三人の妖精」 「ふた つのケーキ」は,このタイプで,しかるべき王子の花嫁として,良い娘と悪い娘が入れ替わる という展開をみせる。ただし,ドラリュが収集した 類話(ペロー,レリチエ嬢を含む)中, 話に,結婚の結末があるのみであり,風習に込められた女性の結婚への願いと 類話と の結びつきは絶対的ではない。 4.「良き娘」の属性として一般的に見られるのは,ペローの「仙女たち」の妹娘の寡黙な礼 儀正しさであるにたいして,バジーレの「三人の妖精」では,物質的欲望を述べることにおけ る節度である。これらは,ある種の女性像として考えられがちである。 ペローの「仙女たち」 しかし,サンチーヴによれば,アフリカに見出される話などでは,そもそも,敬意を払う対 象は妖精ではなく,肉切れだったり,あるいは犬であったりするという。サンチーヴは,これ はトーテム表現である可能性があり,この場合,神聖なるものへの恭順を示すとともに,神聖 ) なる儀式には「沈黙を守って従うべき」( )ことを示しているとする。 トーテム表現の昔話にまでさかのぼれば,主人公の寡黙さは,美徳という価値評価と何の関 係もないものとなるだろう。そこで,妹娘が寡黙なままに,儀式のように水を汲み仙女に捧げ た描写は,ペローの文学的意図によるものだと考えることもできるだろう。彼が,妹娘のしぐ さに,価値判断を与える言葉を,物語においていっさい加えなかったのは,この風習の儀礼的 面をも表現しようとしたためではないだろうか。語られている物語が『過ぎし昔の物語』であ ) ることを演出するために,あえて古語を使用する例が「赤ずきん」に見られるぐらいであるか ら,かつての風習を物語でなぞらえたとしても不思議ではないだろう。 4.精神分析学的読解 ― 近親相姦的愛情の投影 類話群との関連において生じる相互テキスト性― (1)「仙女たち」「サンドリヨン」「ろばの皮」における,近親相姦的愛情表現をめぐる相互 テキスト性 .作品間の類似の問題 ペローの「仙女たち」を,ペローの他の作品との関連において読む試みをしたい。その手が かりとして,作品間の類似点に注目できるだろう。 たとえば,ペローの「サンドリヨン」と「仙女たち」では,ともに,親子の「類似」が強調 されていることに注目せざるをえない。「サンドリヨン」では,主人公サンドリヨンは亡くな った母と,そして継母はその娘二人と,それぞれにそっくりである。一方,「仙女たち」では, 母親の姉娘への溺愛の理由が姉娘が母親に類似しているからとされ,人は自分に似た者を好む のは当然であると説明されている。また,妹娘は亡くなった父親に生き写しであることが語ら れている。 ) 本来,各作品は独立性をもっており,バルシロンが考えるように,作家は作品相互が類似し ないように工夫するものと思われる。しかし,ただ単に,母親似か父親似かというペアのつく りかたの次元の類似ではなく,類似を強調するということにおける類似が注目されるのではな いだろうか。 異なる話型に属する童話間の類似については,以下の二つの場合が考えられる。作品のもと になった伝承(口承)話の属する話型どうしが類似関係にあること,あるいは,作者のエクリ チュールが類似を示していることである。前者の場合,類似関係にある話型どうしの一方の類 話群へのアプローチ方法は他方にも有効か検討できるだろう。また,後者の場合,この類似を 藤 倉 恵 子 意図されたものと考えるのが妥当であろうし,類似の中にある差異が重要と思われる。 ペローの童話は,それぞれの話がまったく話型の異なる伝承(口承)話をもとにしているた めに,作品間に関連をはかって読むという視点は今までとられてこなかったように思う。しか し,作家ペローは,作品間に相互に呼応するようなエクリチュールを生みだすことで,互いに, よりいっそう理解が深まるべく配慮したのではないかと考える。 上に述べた2点の「類似」の関連をはかりながら,「仙女」を検討したい。 .話型どうしの接近とヒロイン像の違い 「仙女たち」と「サンドリヨン」 ドラリュの『カタログ』を参照すると, ある 類話の中には,いわゆるシンデレラ物語で の冒頭にあたる部分で終わるものが見受けられる。つまり,「良い娘」はすばら しい贈りものをもらい,「悪い娘」は罰せられるのだが,それでも相変わらず,母親は「良い 娘」を虐待し続け,「悪い娘」をかわいがり続けるところで終わっているのである。これは, ドラリュが収集した 群と 類話 話のうち,実に8話にのぼっている。これは, 類話 類話群との関連を注目させるのに充分である。 二つの類話群には,このような物語構造上の類似が見られるが,一方では,ペロー作品につ いては,「仙女たち」( )と「サンドリヨン」( )とでは,いずれにおいても,虐 待される娘が描かれていながら,そのヒロインが与える印象はまったく異なる。そもそも, 「仙女たち」における妹娘の寡黙さは,ペローの『童話集』の他の物語に見られる女性たちの, 能弁で機知に富んだイメージと比べて,きわめて異質なものなのである。ペローの描く女性像 が,グリムのそれと比較して,その自発性や能弁さが特色とされてきただけに,いっそう,そ の印象は強い。 ところで,「サンドリヨン」と「灰かぶり」は,ペローとグリムの描く女性像の対比を示す ) 例とされてきた。そして,興味深いことに,「仙女たち」において虐待される妹娘の印象は, その寡黙さによって,グリムの描く灰かぶりに近しい印象を与えるのである。言い換えれば, グリムが描くところの灰かぶりと「仙女たち」における妹娘との間には,何か共通する無意識 的ものがあって,同じような性格表現を生んだと考えられるのではないだろうか。この点につ いて,シンデレラにおける無意識的ものを分析したダンダス説を参照したい。 ) .ダンダス説 「シンデレラ」の近親相姦のモチーフを「投影」の視点から解釈 「リア王」と「シンデレラ」については,その類似点が注目を浴びてきた。フロイトは,「小 ) 箱選びのモチーフ」で,「リア王」のコーデリアとシンデレラを取り上げ,それぞれ3人姉妹 の3人目にあたる娘の沈黙に等しい態度を死の表現であると論じている。ここで,フロイトが グリム童話の「灰かぶり」を対象として述べていることは触れずとも明らかであり,「サンド リヨン」を素材にすればこの論は成り立たなかっただろうと思われる。ダンダスは,フロイト ペローの「仙女たち」 同様に,この二つの物語に注目しながら,寡黙さの理由に違った解釈を与える。 シェークスピアの「リア王」は, 話型「愛は塩のごとく」に分類されている民話を 下敷きに書かれたとされるが,諸研究の結果,この民話の筋は,実は「気の狂った」父親が実 の娘を妻にしようとしたとする民話が姿を変えたものであると断定されるに至った。ダンダス は,これをふまえながら,これは「父親の娘に対する」ではなく,「娘の父親に対する」近親 相姦的愛情が投影された話であるとの論を展開している。この視点から,民話によく見られる モチーフの解釈も可能だとする。 エディプス・コンプレックス的欲求がタブーの欲求であるからこそ,民話には,自分の父親 を始末したいと望む息子が英雄として描かれるのではなく,むしろ,息子を追い払おうとする 邪悪な父親が描かれるのだとする。同様に,娘が中心の妖精物語では,一般的に,実の母がす でに死んだ後に始まるが,これは,母親を排除して自分の父親を得たいとする望みが成就した かたちなのである。これはシンデレラ物語の解釈となるだろう。あるいは,娘にとってタブー である父親との結婚は,投影作用によって,父親のほうが実の娘との結婚を望むプロットにな る。妃が,亡くなる前に,次の妻が自分に似た女でなければならないと言い残すのは,娘の側 の母親の代わりになりたいという幻想の反映だと理解されることになる。これは「ろばの皮」 ( )の解釈となる。 ここから,ダンダスが引き出す「リア王」のテーマ,および,そのもととなっている民話の 原型のテーマとは,「娘が自分の父親に対してもつ(性的な)愛情を実際には表現しえないとい うこと」だとする。コーデリアの寡黙は,姉たちと対比をなし,彼女が話すことができないか, 話したがらないという状況を説明する。この物語において,親密に話すことが性的な理解とし て表現されていることも考え合わせ,ダンダスは,フロイトが娘の無言を死の象徴だとするの は誤りであり,話すことは,生ではなく性の象徴だと主張する。 ダンダスは,このように近親相姦のモチーフを投影の概念から理解することが可能であるこ とを指摘し,「民話のシンデレラ物語は通常,父親が娘にたいしてあからさまに近親相姦的な 関係を迫るという出来事が含まれている」ことから,シンデレラ類話についても,投影という 視点からの解釈が可能なのだとする。 そこで,同じ話型番号どうしである「ろばの皮」( )とシンデレラ物語( )は もちろんだが,物語構造的つながりと,寡黙なヒロイン像を通じて関連づけられた「仙女た ち」とシンデレラ物語についても,同じモチーフをめぐって生じた物語間の「類似」を再考で きるだろう。つまり,「仙女たち」についても近親相姦のモチーフを検討すれば,それぞれの 作品を異なった視点から理解することにもつながるのではないかと思われる。 .「仙女たち」と「サンドリヨン」における近親相姦のモチーフと寡黙さ 両作品の類似点を手がかりに,妹娘の心的状況を考えてみたい。すでに見たように,「仙女 藤 倉 恵 子 たち」類話群とシンデレラ類話群の間には,虐待の継続を蝶番にして構造的つながりがあるが, これは一部の 類話に該当するのであって,ペローの「仙女たち」にはあてはまらない。 しかし,おそらくほとんどすべてのシンデレラ類話の物語冒頭で,ヒロインのあだ名の由来 に触れられるが,その際,かまどの灰への言及を通じて,「台所」という場が示唆されている ことは注目できるだろう。しかも,「仙女たち」においても,物語冒頭,妹娘が一人追いやら れる場として,「台所」の語は大文字表記されて強調されている。すなわち,この「台所」は, 両類話群の蝶番要素にもあたる虐待の象徴たる場であり,「仙女たち」と「サンドリヨン」に おける「虐待」の本質の類似をさし示しているのである。 ところで,「仙女たち」における「台所」は,すでに指摘したように,単に,物語上,虐待 を表すというだけではない。「台所」は「森」同様に精神的試練の場の象徴でもある。つまり, 人間の成長段階にかかわるものとして分析されるべきなのである。したがって,「仙女たち」 における虐待の要素についても,ダンダス分析にならって,これを娘の父親に対する愛情をお さえようとする抑圧が自罰的表現をとったものとして考えることが可能だろう。母親はかなら ずしも継母である必要はない。虐待を受けるという表現をとったことにおいて意味があるから である。では,娘を心的葛藤状態に陥れている父親存在は,ペローの両作品ではどのように描 かれているのだろうか。 「仙女たち」,「サンドリヨン」において父親の〈不在 が強調されるという「類似」の面か ら,父親の存在を考えよう。すでに述べたことだが,「仙女たち」における母親の姉娘に対す る溺愛は,「人は似た者を好むもの」だからであり,妹娘が(「生き写し」であるところの)父親 にかわいがられるはずだと考える根拠を与える。ところが,父親はすでに亡くなっている。 一方,サンドリヨンの父は,継母に「すっかり支配されていて」 ,サンドリヨンが虐待を訴 えたところで「彼女を叱ったことだろう」と語られる。そして,サンドリヨンの父親は,この ような物語冒頭での紹介以降,いっさい,その存在に触れられることはない。つまりサンドリ ヨンの父親は,娘が受けている虐待に無理解,無関心なのであり,これが娘に父親の不在感を もたらすのである。 つまり,このような不在感が端的なまでの表現となったのが,「仙女たち」における父親の 「死」による不在感と考えられるだろう。言い換えれば,父親が自分の愛情に応えてくれない 状況の究極の表現が,父親の死というかたちを取ったと考えられるだろう。 ちなみに,グリムの「灰かぶり」においては,父親の無関心は,父親の不在ではなく,娘に たいして攻撃的とさえ受け止められかねない不可解な行為として表現されている。灰かぶりが, 舞踏会の帰りにあとを追ってきた王子から身を隠したあと,いつも父親が王子に応対するのだ が,父親は,娘がそこに隠れているかもしれないと思いながら,鳩小屋をまっぷたつに割り, あるいは木を切り倒すのである。自分を脅かす父親の行動は,灰かぶりの近親相姦的愛情に対 する自罰的感情を投影しており,かつ,父親が王子の前に立ちふさがる点において,父親の側 ペローの「仙女たち」 からの愛情の期待表現でもあるだろう。では,最後に,妹娘の寡黙および彼女の仙女との出会 いについて,近親相姦的愛情との関連から検討しておこう。 妹娘は,「父親ゆずりの」「やさしさと礼儀正しさ」を持ち続けるかぎりは,父親の愛情を確 信できる根拠となり,これが彼女の言動を支え,おそらくは,父同様の寡黙さに至らせている のである。しかし,父親の死として表現された〈不在感 は,やはり,父親からの愛情の期待 を否定せざるをえない現実認識に引き裂かれた心の葛藤をあらわしており,これが彼女を寡黙 に追いやっているとも解釈可能である。つまり,コーデリア的寡黙である。 しかし,仙女との出会いは,妹娘にとって,寡黙に甘んじることからの決別となり,母親に 家を追い出されるという虐待の究極のかたちで,彼女を近親相姦的愛情と決別する方向へと導 く。物語の出発地点である「台所」は,サンドリヨンにとっても,「仙女たち」の妹娘にとっ ても,通過儀礼の〈分離・境界・再統合 の3段階の期間のうち,その第1段階が空間的に表 現されたものと言えるだろう。食べ物に関わる場であることについては後ほど検討できるだろ う。 ここで,近親相姦的愛情との決別の決意という視点から,「仙女たち」の結末に向かう部分, すなわち,妹娘が家から追い出される部分と,「ろばの皮」( )の冒頭部,王女が城を 出ることになる部分とのつながりに注目してみたい。ペローが,近親相姦が明確にモチーフに なっている「ろばの皮」においてにせよ,これが隠された表現で埋め込まれている「仙女た ち」「サンドリヨン」においてにせよ,二つの異なる童話集において,同じモチーフを繰り返 したことに,意味はあるのだろうか。この点で,「仙女たち」と「ろばの皮」において,フロ イト理論によるリビドー表現がそれぞれに見られることが注目されるだろう。口から花や財宝 を吐く行為と,金貨を排泄するロバのモチーフの対比である。 (2) リビドー表現をめぐっての相互テキスト性 「仙女たち」と「ろばの皮」 .ロバの皮を身にまとうことの意味するもの まずは,ロバという動物の意味,それを身にまとうことの意味を検討しておきたい。 ペローの「ろばの皮」では,主人公の王女は,亡き王妃のかわりに娘と結婚しようとする父 王への抵抗に,仙女の忠告に従って,空の色,月の色,そして太陽の色のドレスを次々と注文 するが,その望みはすべてかなえられ,ついには,宮殿で飼っている金貨を排泄するロバの皮 を所望するが,これも与えられることになる。王女は,このロバの皮をまとって城を出るに至 る。では,獣皮を身にまとう行為はどのような意味を含んでいるのだろうか。 これは,ドラリュの『カタログ』によれば,王女が父のもとを去るにあたって,「美しさを 隠す方法」としてとらえられ,物語要素として挙げられている。類話によって,バリエーショ ンがあるのだが,フランスにおいて,「ろばの皮の話」が「がちょうおばさんの話」と同様に, 昔話をさす呼称となるほど,圧倒的にロバの皮を身にまとう話が多数で, 類話中 話を占め 藤 倉 恵 子 る。なかには,牛の皮にすっぽりとくるまるという類話もあるが,これは, 世紀頃の「牛の ) 話」という物語詩を連想させる。近親相姦を犯した母親と息子が牛の皮に縫い込まれて贖罪の 旅をするというものである。いずれにせよ,動物の皮の服は,中世において,宮廷文化の対極 にある森の住人の衣服であり,キリスト教以前の異教の伝統と結びついた衣服という面があっ たがゆえに,教会の非難の対象となり,そこから,これを身にまとうことに,懲罰的意味合い が生じたのである。これは,物語においては,投影の視点から,自罰的意味をもつことになる。 そもそも,ロバという動物じたいが,古典的に懲罰と結びついている。ローマ神話では,フ リギアのミダス王は,パーンの笛の音がアポロンの竪琴よりうまいと神の審判にさからったか どで,ロバの耳にされてしまう。また,ローマの詩人アプレイウスの「黄金のロバ」(ここでは, 「黄金」は「素晴らしい」という意味の形容詞がわりに用いられている)では,肉体の快楽に身をまか せたことへの懲罰として,男はロバに変身させられるのである。このように見てくると,「ろ ばの皮」において,王女が自分をおおうことになる動物にロバを選んだことそのものが,すで に,充分,自罰的行為と解釈されよう。 ) しかし,一方,動物の皮をかぶるという行為を,動物への変身という昔話に見られるひとつ ) のモチーフと見れば,通過儀礼に関与した行為となる。プロップによれば,昔話においての動 物への変身は死の世界を意味し,逆に,人間に戻ることが生への生還を意味するという。城を 出た王女は,遠くたどり着いた地で下女をして働く中で,王子にめぐり会い,めでたく結婚に 至り,この物語は終わる。物語の最後で,王女はロバの皮を脱ぎ捨てた姿で,王子の妃として 紹介されるべ く,一堂に会した席に登場 することになる。つまり,父 王から逃れるべく ( 「分離」 ),ロバの皮をまとっての出奔( 「仮死状態」あるいは「境界状態」 )を経て,王子との結 婚( 「再統合」あるいは「生還」)に至る通過儀礼の物語になるだろう。 王女は,最後に父王とも和解する。父親は本来の父親の感情を取り戻すのである。これは, 娘の側にとっては,父親にたいする近親相姦的愛情から解放され,抑圧からも解放され,あら たな人生を踏み出すべく,父親以外の異性を求めるに至る性的成熟の段階の表現となっている。 .金貨を排泄するロバと口から財宝を出すモチーフの普遍性について 金貨を排泄するロバと口から財宝を出すというペローのモチーフは,ペローのオリジナルだ ろうか。それとも,普遍的に見られるものなのだろうか。 ドラリュの『カタログ』を参照すると,口から花や財宝を吐くというモチーフは, 類話においては,仙女の贈りものの一つのタイプとなっていて,バジーレにも見られ,ペロー 独自のものではない。しかし,ロバの金貨排泄のモチーフについては,「ろばの皮」類話 話 ) の中で, 年刊行の,モーリス島の民話集において見られるのみである。フランス領レユニ オン島に近いこともあり,これはペローからの書承の可能性が高い。ソリアーノも,ペロー以 前にこの類話には見られなかったモチーフだと述べている。 ペローの「仙女たち」 ソリアーノによれば,ペローは「ろばの皮」のプロットの着想をバジーレの『ペンタメロー ) ネ』の「雌熊」(2日目・第6話)から得たが,金貨排泄のロバのモチーフだけをオリジナルに したのだという。バジーレ作品では,父王から結婚を迫られた王女は,出入りの化粧品を売る 老婆から魔法の棒を手にいれ,これを口にくわえれば,ただちに雌熊に変身し,口から棒を放 せば人間に戻るという魔力によって,父親から逃れる。ペローは,棒を口にくわえるという品 位に欠けるこのようなモチーフを宮廷に持ち込むことができなかったのだろうと考えるのであ る。このように推測するソリアーノは,おそらくは,同じく『ペンタメローネ』の「鬼の話」 (1日目・第1話)からペローがモチーフを得たものと考えている。 ところで,「鬼の話」は「ナプキン・ロバに棒」( )話型に属し,広く普及している話 類話の7割がたに,金貨の糞をする で,しかも,ドラリュの『カタログ』によれば, ロバが登場する。主人公は異界の存在から,かけ声だけでお膳がととのうテーブルや,金貨を ひり出すロバなどの魔法の贈りものをもらうが,家に持ち帰る途中に,単なるテーブル,糞を するロバに,次々とすりかえられてしまう。再度,贈りものを願い出るのだが,3回目には, これがすりかえていた張本人に天罰を下すかのような,打ちたたく棒であったので,主人公は すべてを取り戻すことになるという話である。 この 類話のほとんどにおいて,主人公が受け取る3つの魔法の品のひとつに,金貨 をひり出すロバが入っていることは,重要な意味をもっている。ペローがこのモチーフを「ろ ばの皮」に取り入れたことはオリジナルであっても,このモチーフじたいは,広く民間伝承さ れていたことになるだろう。したがって,ペローがこのモチーフをバジーレから得たとするソ リアーノの説は,確証を欠くものに思われる。 さて,民話に一般的に見られるモチーフには,人間についての普遍的なもの,隠された欲望, すなわち,無意識的ものが反映していると考えられてきた。これが,フロイトをはじめ,昔話 を精神分析学 的研究の対象として扱って きたことの根拠となっている ものである。金貨 (財 宝)をめぐる二つの広く普及したモチーフが口唇と肛門という身体部位にかかわる表現である のも,フロイトのリビドー理論を思い起こさせる。次に,フロイト理論にしたがって,近親相 姦的愛情(「エディプス・コンプレックスあるいは,エレクトラ・コンプレックス)とリビドーとの関 係を確認しておく。 .維持し続けられる近親相姦的愛情 リビドー性欲 ) 去勢コンプレックスは,エディプス・コンプレックスの禁止面と深い関係がある。両親の権 威によって,その子が近親相姦的欲望を断念し,愛の対象である異性の親をあきらめるに至る のであるが,フロイトによれば,超自我の発生は,このように,エディプス・コンプレックス 期の葛藤が解決され消滅する時期に遡る。この超自我とは,エディプス期に内面化された両親 の権威であるが,エディプス・コンプレックスを解消するのではなく継承することになる。つ 藤 倉 恵 子 まり,自我の一部が禁止を命じる父親像と同一化し,他方ではなお,近親相姦的欲望を抱き続 けるのである。こどもは,掟と欲望を,ともに共存させることになる。 そして,前者,すなわち,禁止の掟の役割を持続的に維持する自我の一部である超自我は, 大人になってからも,心的にタブーの痕跡を保ち続け,かつての,エディプス・コンプレック スから脱出するに際しての内面体験を刻んでいる。近親相姦的愛情に対して感じた恐れは,の ちになって,超自我からの禁止に対して,罪悪感を感じさせ,自罰行為を生む。 一方,後者,抱き続ける近親相姦的欲望は,ファルスが他の等価な対象と交換されることで, 維持され続けるのである。この交換の系列,フロイトがいうところの「象徴の等式」の中の, ペニス 糞便 贈りものというさまざまな等価対象は,こどもの性的力を発動させ続けること になる。この力,つまり欲動のエネルギーをフロイトはリビドーとして定義し,これを「満足 を求める性欲に似たもの」であるとする。身体のどの部位であれ,成長の過程で性感覚を生じ た部位には,その性感覚が刻みつけられることになる。フロイトは,こどもの発達段階に応じ て性感覚が刻まれることになる部位の推移を,性器帯の優位が確立される性器段階(思春期) とそれにいたる前性器体制の段階に区分した。後者について,さらに,口唇体制,肛門期,男 根体制の段階をもうけた。昇華という欲動の直接的充足に対する自己防衛がつくりあげる幻想 の中で,優位にたつ性感帯に応じて異なった名称をもつことになったものである。 たとえば,口が支配的な性感帯から感じる欲動の満足は,母乳を摂取した快感が刻まれたも のである。そして,筋肉力に変換されるものとしては,母親からの食物摂取行為にともなう 「吸いつく・かみつく」あるいは,さらに,食いちぎったりする活動である。また,筋肉に変 換されることなく,使用されないまま残ったものとしては,たとえば乳房がその対象となる。 肛門が支配的な性感帯の場合,これは排便行為による快感が刻まれたものである。筋肉力に 変換されるものは,肛門括約筋の「排泄と貯溜」というふたつの異なる調節機能からなる排便 活動で, 「贈与と拒否」,あるいは消費と貯蓄という象徴的価値に結びつく。また,筋肉に変換 されず,使用されることなく残ったものは糞便であり,象徴関係に対応させれば,お金となる。 .昔話におけるリビドー表現 このようなリビドー性欲を昔話に読みとることが可能である。ベッテルハイムは,グリム童 話の「赤ずきん」や「ヘンゼルとグレーテル」に描かれているこどもの成長段階を,以上のよ ) うなフロイト理論から特定している。 ヘンゼルとグレーテルが森で出会う魔女は,自分たちを置き去りにした悪い母親をあらわす が,この母親の象徴である魔女のお菓子の家を食べることで,二人は魔女によって中に連れ込 まれてしまう。これを,母親に依存した口唇期の段階を示す行為とし,この時期からの脱出に ともなう不安や恐怖が物語のテーマだとする。ここで,先に,通過儀礼の第一段階の空間的表 象として触れた「台所」については,これが食べ物と竈の場であるところから,物語において, ペローの「仙女たち」 そこに日常的に位置づけられる者の口唇性欲段階を示唆したものと解釈することもできるであ ろう。 一方,「赤ずきん」では,おつかいの品である食べ物には関心を示さないことが,赤ずきん が口唇期を脱していることの証拠だとする。また,祖母は母親の代替存在であり,赤ずきんが オオカミに祖母の家への道を教えることは,母親への敵対心の表れであり,エディプス・コン プレックスに悩む時期を示しているとする。 このように,昔話に,こどもの成長段階が,フロイトの唱えるリビドー段階に応じて表現さ れているものと理解すれば, 類話に登場する3つの贈りものが,食べ物・財宝・懲ら しめるものであることは象徴的ことに思われる。人間の食欲と物欲を満たす贈りものは,口唇 性欲・肛門性欲に対応する満足をあらわす。そして,その満足を妨害するものとは,近親相姦 的欲望を断念したあとも,これと等価対象なものへの欲望を抱きつつけることへの検閲として の超自我ではないだろうか。この構図から,金貨を排泄するロバのモチーフが意味するところ は明白であり,これを物語において確認しようと思う。 .金貨を排泄するロバと財宝を「吐く」モチーフの意味するもの 「ろばの皮」にリビドー段階を読み取ってみよう。王女は,まず,素晴らしいドレスを3つ 所望する。これは,金貨をひり出すロバへの伏線となる物質欲であり,肛門性欲的満足に対応 する。しかし,金貨を「肛門」より排泄するロバを所望することで,欲望の対象となる性感帯 が端的にあらわれ,王女が物質的欲望の形のかげに潜めている充足願望,すなわち,近親相姦 的愛情を断念しながらも,これを維持してきたその代替的等価としての肛門性欲的充足願望が あることを露呈しているのである。したがって,殺害されたロバの皮をまとって父王のもとを 去る行為は,肛門サディズム期との決別であり,男根期への移行である。女性の場合,自分に 欠けている男性性器(ファルス)を,自分の身体から生まれでるこどもにおきかえるのであり, つまり,ペニス羨望は生殖への願望へと代替される。「ろばの皮」において,王女が王子を先 に見初めたことが語られる。ここに,異性の親と等価の対象を見いだすことで,王女のエディ プス・コンプレックスは交換という社会システムの中へ導入され,その克服へと向かうことに なったのである。 一方, 「仙女たち」において妹娘が口から財宝を吐くモチーフは,性欲段階を特定するには, 複雑な要素を混在させている。なぜなら,本来,口は吸う,食いつく筋肉活動を行い,外から 体内への吸収行為であるはずなのに,娘の口からは,「飛び出す」( )現象が起こるのであ ) る。これを,バルシロンは「吐く」( )行為として受け止め,一気に,口からの排泄行 為というモチーフに還元してしまう。ただ,口唇の筋肉力への変換活動としては,口をきく行 為を含めうるだろう。そして,本来,口唇性欲の対象となる食べ物にあたるものは,口から飛 び出すがゆえに,すでに摂取されていたものとして示されることになる。この場合,妹娘はあ 藤 倉 恵 子 たかも財宝にあたるものを摂取して育ったかのようである。姉娘のほうは,文字通り「ことば を吐く」( )との表現が意味するところのように,仙女に悪態をついたのだから,ヒキ ガエルやマムシを摂取せしものという烙印を押されることになるだろう。 バジーレの「三人の妖精たち」では,「悪い娘」は妖精たちから「ロバの睾丸」( )がくっつく贈りものをされる。それでも奸計を弄し, 「良い娘」に入れ替わって花嫁に ) なろうとするが,自業自得の最期を遂げる。以下に引用の文で話は締め括られているのだが, これは「仙女たち」の姉娘にもふさわしい。吐いた言葉に相当したところのものが,口からマ ムシやカエルとして出てくることになったのである。また,ペローは,「吐く」( )とい う言葉に「悪態をつく」という意味があるだけに,このモチーフを表現するのに,少なくとも 妹娘には,「吐く」の語は使えなかったと思われる。しかし,同時に,リビドーの段階として, 排泄に充分な筋力への変換ができない段階を示唆したことになるだろう。 「天にむかって唾を吐く者は,吐いた唾をふたたびもらうことになる」 《 》 ということわざを地でいった,というお話でございました。 .肛門排泄と食欲(口唇)とのつながり このようなリビドー表現は,「ろばの皮」の物語部分においても見られる。 王子は,ロバの皮を脱いだ姿の王女を盗み見て,それがろばの皮と呼ばれる娘だと知っても, 激しい恋心を燃やす。たったひとりのこどもである王子が悩むのを見た母の王妃は問いただす が,王子は嘆き涙を流すものの何も言わず,ただ,「ろばの皮が自分に,みずからの手でケー キを作ってくれることを願っている」とだけ言うのである。人々は,ろばの皮の不潔さを説く が,王妃は王子を満足させることだけを考えなくてはと答える。そして,「王子には黄金だっ て口に入れてやったことでしょう」と,「それほどまでに王子を愛している」王妃は考えたの である。 「もし,王子が黄金を食べたがったならば」と。 なぜ,王子が黄金を食べたいと言い出すことがあるのだろうか。これには,ろばの皮が「み ずからの手で」ケーキをつくることに王子が固執したことと関連があるだろう。彼女の手が食 べ物を食べ物として彼に与え,けっして,ミダス王のように食べ物をも黄金に変える魔力を持 っていないことの確認の願いである。これは,かつて金貨を排泄していたロバをまとっている 王女の肛門性欲にみたてての表現である。肛門性欲期を脱していれば,黄金を排泄することも ないだろうと。王妃が,「王子が黄金を食べたいと願ったとしても」などと唐突に言い出すの は,王子のこのイメージを引き継いだにすぎない。 と同時に,黄金をも口にするとは,王子の旺盛な食欲を暗示している。実際,「ひどく飢え ていた」王子は,ろばの皮の作ったケーキに口唇性欲的満足を得る。王子はケーキに混入した ペローの「仙女たち」 指輪を見つけ,ケーキを生み出した手の指輪の持ち主としてのろばの皮に,母乳に満足したこ どもが乳房に抱くのと同様の愛情を抱くのである。 王子のこのようなリビドー段階を指し示すかのように,王妃の王子への溺愛ぶりが述べられ ているだけでなく,同時に,恋のかけひきにおいて,ろばの皮がいかに常に優位であったかも, ) それとなく語られることになる。以下に引用した下線部分で明らかだが,王女の策略にまんま と乗せられた,おそらくは年下の王子を描きだしていると考えることもできるのである。 王女があまりにも急いで仕事をしたので, あやまって,指からパンだねの中へと 高価な指輪のひとつが落ちたのだということです。 でも,この物語の語らんとするところがわかっているとおぼしき人たちは 断言するのです。彼女が,わざと,そこに入れたのだと。 率直に申しあげて,僭越ながら信じていることなのです。 わたくしが確信していることなのです。 王子が に近づいて 鍵穴から彼女をながめた時, 彼女はたしかに気づいていたのだと。 こんな点にかけては女はまことに機敏なので〔…〕 さらにまた確信していますし,誓ってもよいでしょう。 彼女は疑いもしなかったのだと。若い恋人のもとに, その指輪がかならずやわたることを。 最後に付け加えれば,母親である王妃の「王子には黄金だって口に入れてやったことだろう。 もし,王子が食べたがったならば」という言葉は,「仙女たち」に描かれた財宝を吐くモチー フを連想させることにも気づくのである。先に指摘したように,妹娘のようにやさしい言葉を 吐くのは,財宝を摂取していたことに相当する。したがって,王妃の言葉は,もっとやさしい 言葉でもって,それも雄弁に語るためには,財宝の摂取が必要だと〈皮肉っている のである。 恋心に悶々としながら,自分の言葉で王女(ろばの皮)に一言の想いを告げることもできず, ケーキを作ってくれと人づてに頼むのが精一杯の息子を前にしての親心であり,溜息であろう。 ペローは,『韻文による物語』の序文で行ったのに引き続いて,このように,物語の中でも, 「仙女たち」の作品予告を行っているのである。彼の「仙女たち」という作品にたいする並々 ならぬ愛着が,ウィットをこめて他の作品に顔をのぞかせたものと理解できるだろう。 5.終 わ り に 藤 倉 恵 子 すでにと言うべきか, 世紀末に,ドゥランは,「仙女たち」が,ペローによる散文物語の ) なかで, 「もっとも好ましくない」と評している。 「ありきたり」であり,しかも「タイトルか らして」,「正しくない」というのである。これにたいして,充分な反論はなされてこなかった ように思う。そもそも,「赤ずきん」に次ぐ短さである小品に,ペローが力を注いだとは思っ てもみないことであったに違いない。 ペローの評論家として第一人者であるソリアーノすら,「仙女たち」の細部について,作品 を解読するコード体系を提示して,そこに組み込むには至っていないと思われる。彼は,くし ) くも,「こんなに短く,こんなにもレトリックに欠ける」作品と評してしまってさえいるので ある。 しかし,「仙女たち」に「教訓」が付されているのは,仙女の妹娘への贈りものが彼女の将 来へ向けてのものであることを示唆するためであり,ベッテルハイムが非難したように,「教 訓」を付することが昔話の愉しみを台無しにしていることにはならないのである。また,ペロ ーが同時代作品や,古典に思いを馳せる愉しみを提供してくれていることにも気づくのである。 ペローは,単に,口承話を書き留めただけでなく,なにより作家であったのだとの認識のもと に,より深い読解が試みられるべきだろう。 また,作品をサロンで朗読することと刊行することは,まったく別のものてあることを,ペ ローほど端的に示した作家はいないのではあるまいか。しかるに,たとえば,彼の大文字表記 の語群がルージエ版においては,正しく再現されているのに対して,おそらくはこれらが正し ) く理解されないままに,すでに, 版でのように,この表記を無視した版が重 ねられている。 近親相姦のモチーフは,ペローのテキスト間に,あるいはモチーフを共有する他の昔話群や ローマ神話やバジーレ作品などとの間に相互テキスト性を引き起こしたが,さらには,ペロー の機知に富んだ言及が作品に織り込まれていることを気づかせてもくれたのである。「仙女た ち」は,妖精物語の枠をこえた寓話であり,童話であり,なによりすぐれた文学作品なのであ る。 ペローのような合理的精神の持ち主が「仙女たち」の物語の作者であることへの違和感,そ れは,ヒロインが他のペロー童話の女性に見られるような機知やユーモアを発揮することなど 望むべくもないほどに寡黙であること,そして,タイトルの名詞の複数形が実際に物語に登場 する仙女の数と合わないことによって,強く印象づけられるものであった。 これらの問題は解決されたと思われる。やさしさや礼儀は,寡黙であっても,心によって補 えること。でも,豊かな言葉は持つべきだということ。儀礼的風習に置ける儀式性,そして, けっして語られることのない近親相姦的愛情の反映としての寡黙。ペローは,これらを,ヒロ インの寡黙を通して,雄弁に物語っているのである。一方,タイトルの仙女の語が複数形であ るのは,他の作家が描いた二人分の仙女を一人だけの登場で,十二分に描ききったというペロ ペローの「仙女たち」 ーの自負を示すものであり,ヒロインが出会った仙女に反映している自らのイメージを合わせ ての数であり,コーデリア的寡黙あるいは寡黙に埋もれた「やさしい言葉」を読み取る仙女の 叡智へのオマージュでもある。そして,「仙女たち」と相互テキスト性を示すペローの他の物 語に登場する仙女たちをも数に加えた複数形タイトルにすることで,相互テキスト性の視点か らの作品理解をも示唆したのではないだろうか。 註 (注) 訳者名のない引用はすべて拙訳である。ペロー童話については新倉朗子氏訳( 『ペロー童話集』 岩波文庫)を参考にした。 ) 《 》 《 》 ) 伝承作品を書き直した作品を再話という。原話を現代語に再現するような忠実な再話と,原話の モチーフを素材に物語化した創造的再話がある。ペローやグリムの童話は,伝承に属する話の正確 な理解に基づき,時代のモラルや価値観を反映して書きなおした再話である。 ) ) ) ) ) ) 《 》, ) ) ラ・ブリュイエール『カラクテール』関根秀雄訳,岩波文庫上巻, 年。 ページ。 ) ) ラ・フォンテーヌ『寓話』今野一雄訳,岩波文庫上巻, )『イソップ寓話集』中務哲朗訳,岩波文庫, 年。 年。 ページ。 ページ。 ) オウィディウス『変身物語』中村善也訳,岩波文庫上巻, 年。 ページ。 ) ポール・アザールは,フランス人の論理への情熱を指摘し,昔話にもそれが反映し,ペローの描 く仙女もデカルト的であるとして,「サンドリヨン」における魔法の表現を例に挙げている。黄色 い丸いカボチャが丸味を帯びた金色の馬車に,小ねずみはねずみ色の馬に,ひげのある大ねずみは ひげをたくわえた御者に変身するが,形や色や大きさに応じた合理的変身だとする。 アザール『本・子ども・大人』矢崎源九朗他訳,紀伊国屋書店, 年。 ポール・ ページ。 ) ジャン ポール・クレベール『動物シンボル事典』竹内信夫他訳,大修館書店, 年。カエル の項参照。 ) 阪南大学学会『阪南論集』,人文・自然科学編,第 巻,第3号, 年。 ページ。 藤 倉 恵 子 ) ) ウラジーミル・プロップ『魔法昔話の起源』斉藤君子訳,せりか書房, )『完訳グリム童話集』金田鬼一訳,岩波文庫第1巻, 年。第 章参照。 年,所収。 ) ) 《 》,《 》,《 バジーレ『ペンタメローネ(五日物語) 』杉田洋子訳,大修館, 「ふたつの小さなピザ」は, 》 年。 訳では「ふたつのケーキ」として翻訳されている。 ) ) ) ) アファナーシェフ『ロシア民話集』中村喜和訳,岩波文庫上巻, 年。 訳タイトル「鵞鳥白鳥」は,原典通りの訳語となっている。すなわち,ロシア語でガチョウと 白鳥の語をならべたタイトルである。フランス語訳で,《 》( 「野生のガチョウ」 雁)と訳しているのは正確ではない。ロシア民話にはケルト伝承が流れ込んでおり,ケルト伝承 では,語彙的にガチョウと白鳥を区別しないからである。物語の中で,「ガチョウ白鳥」と言った り, 「ガチョウ」と言い換えたりしているのはそのためである。 ) ) ) バルシロンは,作品が互いに似ることをペローは懸念していたのだと考える。そこで,「仙女た ち」の主人公の境遇について, 年の手書き原稿のままだと「サンドリヨン」と同じになってし まうので,父親が亡くなったことにして,継母から実母に変更したのだとの説を述べている。 ) ルース・ボティックハイマー『グリム童話の悪い少女と勇敢な少年』,鈴木昌他訳,紀伊国屋書 店, 年。 ボテイックハイマーは,ペローとグリムが描くところのシンデレラ像を比較し,ドイツにおいて は,グリムがペロー版の翻訳から再話したことで,以降,そのイメージが大きく変質したとする。 サンドリヨンは,みずから王子の遣いの者が持参した靴をはこうとするが,灰かぶり(グリム童 話)は,呼ばれるまで姿を現さないのである。 サンドリヨンは,魔法を行使する仙女が何を変身させて御者をつくろうかと思案していると,み ずからネズミを見てくると言い,仙女に,その自発性を「おまえの言うとおりだね。行ってみてお いで」とほめられさえするのである。 またさらには,シンデレラの父親の描写においても,ペローとグリムは対照的である。「サンド リヨン」では,父親は,妻におさえつけられている存在であること以外,いっさい父親に対する情 報がない。一方,「灰かぶり」では,父親は灰かぶりを追ってきた王子と2晩にわたって応対し, しかも,灰かぶりがそこにいるかもしれないと思いつつ,鳩小屋を斧でまっぷたつに割ったり,あ るいは木を切り倒したりする行為におよぶ。また,靴をもって訪れた王子が姉たち以外に娘はいな ペローの「仙女たち」 いのかとたずねても,むさくるしくてとてもおよめさまなどになれるわけがないと断ろうとするな ど,灰かぶりの幸福に妨害的な行為をするかのように描かれている。 ) アラン・ダンダス『シンデレラ』,池上嘉彦他訳,紀伊国屋書店, 年。 )『フロイド選集』,第七巻,「芸術論」,高橋義孝他訳,日本教文社, ) 新倉俊一『ヨーロッパ中世人の世界』ちくま学芸文庫, 年。 ) ウラジーミル・プロップ『魔法昔話』 ,斉藤君子,せりか書房, ページ参照。 年。 ページ参照。 ページ参照。 年。 ページ参照。 ) ロバは,キリスト教においては,罰と結びつかず,通過儀礼の場に導くものである。イエスの生 と死にかかわっていることが,その最大の象徴と思われる。幼子イエスが生まれた馬小屋にはロバ がいた。また,十字架にはりつけられるべく,エルサレムに入城した際,ロパに乗って登場する。 あるいは,有名な「バラームの牝ロバ」という宗教説話では,予言者バラームは,彼を乗せた牝ロ バの非難の言葉によって,回心する。 ) ) ) 以下を参照した。ラプランシュ他『精神分析用語辞典』,村上仁監訳,みすず書房, ナシオ『精神分析七つのキーワード』,榎本譲訳,新曜社, 年。 年。 ) ブルーノ・ベッテルハイム『昔話の魔力』波多野完治他訳,評論社, 年。 ページ参 照。 )《 》 「ルイ金貨を排泄するロバ」と「真珠や花」などを吐く( )娘との対比に注目できるとの 言及があるが(おそらく最初の言及ではないだろうか) ,残念ながら,テキスト相互性を起こすフ ァクターだと述べるにとどまって,具体的分析をおこなっていない。 ) ) ) ) ) 《 》,《 》,《 》 藤 倉 恵 子 ― ― ( ( ) )