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ザミーンダール・ライーヤット関係の原型: インド社会史への試論

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ザミーンダール・ライーヤット関係の原型: インド社会史への試論
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ザミーンダール・ライーヤット関係の原型 : インド社会
史への試論
高畠, 稔
北海道大學文學部紀要 = The annual reports on cultural
science, 18(1): 103-147
1970-03-30
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/33339
Right
Type
bulletin
Additional
Information
File
Information
18(1)_PR103-147.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
畠
稔
ザ ミl ンダl ル・ライl ヤット関係の原型
ll イ ン ド 社 会 史 へ の 試 論 │ │
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のひとつは、
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の論説会}発表し
これらはとも
の態様を明らかにし、 その発膝段階を確定することにあ
の社会経済史研究において、
ロ
の現状からみて必、ずしも無意味ではない。
うになっている。また、粗野なものでも全体像講成への
への展望を欠くものであった。そして変た悲が稚拙な作業会蛤め
の自己批部刊を迫る
して二十年にふたない日本の南アジア
既誌の
すれば個別的事態の詮索に終始しがちで
てから後の
試みなしておくことは、
I
可
105-
山
ザ ミi ンダ i ル・ ザ
ブ
イ1 ヤット関係の原型
植民地・
三
一
一
義
の
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る。怠はこの問題、役十八紀後議から十九世紀初調のイン
それら
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ザミ lγ ダ lル・ライ lヤット関係の原型
小稿は私の見解のうち表題に関する部分を、近年の語研究やその後に求めえた資料にもとづいて再検討し、併せて
若干の仮説の提示を意図するものである。
植民地支配成立期におけるインド東部地方の社会構成研究において、 まず私自身の採用した資料と方法から略述
しておきたい。
十八世紀後期の同地方は、経済的には主に自家需要充足を目的とする農業生産が優勢であり、 それゆえ土地をめぐ
る諸権益を軸として政治的・社会的諸関係が形成・展開されるという状態にあった。棉花やタバコのような商品作物
の栽培が広汎にみられ(拙稿三)、 いわゆる閉鎖的・自給自足的な ﹁村落共同体﹂ が支配的な社会経済のあり方であ
ったと考えることはできないが、商品生産を基軸とする諸関係が優勢であったというのではない。後者の関係が前者
の関係を解体せしめつつあ一る途上にあったのである。
この状態の分析結果を、土地所有関係、権力構造のそ他の視角から整序し、 ひとつの社会構成体の像を提示するた
めには、資料とその然るべき操作が必要である o インド植民地時代初期の農制史資料として既往の研究が依拠してき
たのは、 植民地政府による土地所有権者 1地 租 納 入 義 務 者 の 確 定 と そ の 地 租 額 決 定 の た め の 作 業 こ れ を HZ 己
o そして植民地行政官の学問として始まったイγド植民地時代の土
丘
四BSべというl の過程で書かれた行政文書が主であり、従って記述内容はもっぱら租税
FEEMmE¥ 扇町︿25ω 叩
法的観点からする土地諸権益の説明を中心とする
地制度研究が、総体としては、以上の観点を克服し新たな展望を拓く論理を見出さずに今日に至っていることは改め
て説くまでもない。
-106
私の従来の資料分析の手法は以下のごとくである
o つまり行政資料あるいはそれに類する他の資料の記述内容を、
付直接生産者に関係する事象ーーーその土地に対する権益、生産労働のための諸条件との関係などーーと、同直接
生産者の剰余生産物収取者に関係する事象││﹄その土地・生産物に対する権益、収取様式、直接生産者に対する支配
しかしかかる手法は結局の所、異なった資料に同一の操作を繰り返し与えることによって、研究を量的
(もちろんこれは、社会階層が二つに裁然と区別されることを意味しない。資料の読み方の問
諸制度とにいちおう分けて、それぞれについて確認される諸事実を、極めて初歩的な論理操作で関連づけて考える、
o)
ということであった。
題である
に拡大させるだけに終る危険がある。幼稚な資料操作によって確かめられた諸事実を整序し理論化するのではない限
り、質的な発展は期待できるものではない。
次に前記のような単純な資料操作からひき出された結果i l既発表論文の論点i ーを、先のハ?凸の視点にあわ
せて要約しておく。
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E 二百戸三号)と総称されや)かれらはインドの他地域におけると同様に、
直接生産者は一フイ
ほんらいは自治体的内部統治組織と共同体内分業とをもっ村落をなして生産に従事していた、と想定されるが、ベン
ガルに関しては不便なことにこの後者の側面を具体的に示す資料は残されていない。従ってわれわれはこの点を不確
bqhH)と、他村の土地を耕作する者(バ
町)
Iイ 1 1カI シ ュ ト 、 s b良
実な推測を委ねるほかない。ただ農民についてはかなりのことがわかる。かれらは大別して自己の居村で農業に従事
する者(グドーヵ l シ ュ ト ﹄ 答 申 主 君 -hF骨
申
告
九
o つまり大多数の農民は自立再生産者の外見を呈し、しかもかれらの間にある階級分解が生じて
とに分けられ、前者は他の侵犯を許さないほどに強度な土地占有の権利を有し、かつ自己の計算において農業に従事
していたといわれる
北大文学部紀要
-107-
ザミ lγ ダlル・ライ lヤット関係の原型
いたこと、そしてその分解の一現象形態として、村落聞の出作・入作がひろく行なわれていたこと、村落内部におい
て 地 主 ・ 小 作 関 係 が 形 成 さ れ つ つ あ っ た こ と を 知 り う る の で あ る o 土 地 保 有 者 ・ 農 民 諸 カ l ストと職人諸カ I ストと
の聞には、 おそらくジヤジマ I γ uカミ lγ 関 係 が 存 在 し た と 推 測 さ れ る が 明 証 を え な い 。 自 治 団 体 的 構 成 と カ l ス
ト分業体制とを特徴とする﹁村落共同体﹂は、それがかつて存在したにしても、十八世紀後期から十九世紀初期にか
志向丸九州司)
フズ l リ l
ザミ lγ ダ I ルのライ lヤットからの収取峠
によって行なわれた。ピハ l ルではザミ l ンダ l ルの所領が狭小なため、
刊
誌
に
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けては、以上にのベたごとく土地保有者・農民諸カ I スト内部の階級分解によって、実際にはより富裕な農民層によ
るより貧困な農民層の収奪機構としての性格をも内包していたと考えられる。
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ライ lヤ ッ ト か ら の 貢 租 収 取 と 収 取 分 の 一 定 部 分 の 国 家 へ の 輸 納 と は 、 ザ ミ lγ ダ I ル
ぬ
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(バ刊さミ)がおかれた。
-108-
日夕アルグダ l ル
諸ザミ I ンダ l ルの上に国家の収租官ア l ミル
土地貢租に限られず、荒廃地・湖沼・河川など領内非耕地部分の用益科や臨時的諸課徴をふくむものであり、ザミ I
ンダ l ルは自己の領内で聞かれる市場、領内を通過する商人または商品に対しても上納金や通関料を納入させた。ザミ
l ンダ l ル は ま た 領 内 で 一 定 の 裁 判 権 ・ 警 察 権 を 行 使 し た こ と が 明 ら か で あ る 。 そ し て タ ア ル グ ダ l ルもまたより小
さな規模でこれらの権力を行使し(問。これらのことはず、、 lγ ダ I ル・タアルクダ l ル が 一 定 の 領 主 的 権 益 を も っ た
ことを示すものである o ム ガ ル 国 家 は か か る 領 主 的 階 層 を 媒 介 と し て 貢 租 を 徴 収 し た 。
概略以上のごとき根拠、つまり直接生活者における自立再生産と領主的権益の支配とをもって、私は植民地支配成
間分業体制があり、 ザミ I ンダ l ル の 著 し い 国 家 へ の 従 属 性 は あ っ た 。 ま た 日 本 ・ 西 欧 中 世 の 特 色 た る 封 建 家 臣 団 の
立 期 の ベ シ ガ ル を ﹁ 封 建 的 ﹂ 社 会 と し て 把 握 し う る と 考 え た o も と よ り こ こ に は 、 イ ン ド 的 特 殊 性 と し て の カ I スト
四
存在は指摘されていない。しかし以上の根拠は当時のベンガルがともかくも現象的には﹁封建的﹂土地所有と規定し
うるものを内包していたことを示すものである。
但しこの﹁封建的﹂社会は十八世紀後期には変容過程にあった。棉花のごとき基本的生活資料は既に商品作物とし
て栽培されており、暗唱好品たるタバコも同様であった。かかる商品経済の拾頭の中でベシガルでは貢租金納化が実現
さ れ て お り 、 ザ ミ l γ ダ lリ 1売買のような事態やザミlンダlルの負債状態を生じていた。
以 上 が 私 の 今 ま で の 研 究 の 大 筋 で あ る が 、 そ こ に は 方 法 ・ 観 点 の 上 で の 大 き な 欠 落 が あ る o第一は﹁封建的﹂諸
特徴が十八世紀後期という一時代の断面に水平的に配列されたのみに終り、諸関係の歴史的展望を与えなかった点で
ある o 第二は資料に一記載された租税法上の諸関係によって蔽われている農村社会内部の││前者をかりに公法的諸関
係とよぶならばその内付たる私法的諸関係を、 ほとんど明らかにしなかった点である o かかる欠落が生じた原因は、
いちおうは歴史的展望なり私法的諸関係なりを端的にこの時代について示す研究や資料がほとんどない、という事情
によっても弁解できるが、根本的には私自身が素朴実証主義以外のいかなる論理をももちあわせていなかったこと、
判断の枠組みが脆弱であったこと、 のためでしかない。
たとえば、 イ γド社会について﹁封建的﹂性格を云々するのであれば、 その﹁封建﹂の中にいわゆる﹁アジア的﹂
特質がいかなるかたちで貫徹しているかを読みとることを、私は自らに課すべきであったし、その点については継承
o
すべき理論的著述を無視してはならなかった o またその﹁封建﹂が現代における﹁反帝・反封建﹂といかなる歴史的
脈絡を有するかについても、思索を怠るべきではなかった。再検討の眼目はここにある
北大文学部紀要
-109一
五
ザミ l ンダ l ル・ライ l ヤ ッ ト 関 係 の 原 型
(1﹀ 拙 稿 一 ﹁ 十 八 世 紀 後 期 に お け る べ ン ガ ル 地 方 の 農 民 層
O)、 二 ﹁ 永 代 定
(問由民間百円)について﹂(﹁史学雑誌﹂六八i 一
額 地 租 査 定 以 前 の ザ ミ i ンダ I ルについて﹂(﹁東洋学報﹂四二
とよぶ用語法もあったらしい(同第二節七﹀ので、私はライ l
何回民間百円の階層構成 F ・ ブ キ ヤ ナ ン 報 告 の 研 究 一 ﹂ ( ﹁ 北 大
両者の人口比を三対一ないしことした指摘は、概数としては差
例はあったものと思う。なおこれと関係して拙稿四第八節末の
村 に 入 作 す れ ば そ こ で は パ l イ l Hカ 1 シ ュ ト と な る 、 と い う
拙 稿 一 第 二 ・ 三 節 。 実 際 に はA 村 の ク ド H カ l シ ュ ト がB
拙稿一第六節、同五第四節で主に村落の首長について述べ
ヤットを直接生産者一般と解する。
(4)
争れ
。
一
文学部紀要﹂一一一一ーl 一 ) 、 五 ﹁ 十 九 世 紀 初 期 の ビ ハ l ル 州 に お
支 え な い が 、 職 人 カ l ス ト の 農 業 労 働 者 を も パ lイ ! 日 カ I シ
(5)
け る 地 代 と 農 民 の 土 地 保 有 と に つ い てl 同二﹂(同一四一一)、
ュトにふくめるよう誤解されるおそれがあり、記述が正確では
覚書﹂(同四七l 一 口 、 四 ﹁ 十 九 世 紀 初 期 の ピ ハ l ル 州 に お け る
│二・一二)、一二﹁ベンガル棉・タバコ栽培史料(一七八九年)
六﹁植民地支配成立期におけるインド農村社会の一動向│プル
なし。
(5) 土 地 保 有 農 民 カ l ス } に お け る 階 級 分 解 の 状 況 に つ い て は
﹄守﹄
2・民・
-110-
ニア県の富農層についての覚書﹂(同一五│一一)、七﹁コiγ ウ
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ひとつの反省として拙稿五第一節、最近の学界動向として
オリス日システム批判論の形成﹂(同一七│一
ビハ l ル の そ れ に つ い て は 同 五 第 四 ・ 六 節 を 参 照 。 拙 稿 五 の ﹁ 郷
地域的に限定されるが、拙稿六第二・二一節を二八一 O 年 ご ろ の
(2)
主として最近のインド人の業績をめぐって﹂(﹁一橋論叢﹂五五
た支配層と考えられるが、今はその点を問う必要はない。十八
紳層﹂は相重なる征服の過程で既存農業社会の上方に累積され
桶 舎 典 男 ﹁ イ ン ド 近 代 経 済 史 に お け る イ ギ リ ス の 植 民 地 支 配l
一般に﹁農民﹂と理解され、私もしばしばそのように書くが
l 五﹀参照。
(3)
原義は﹁帥断続群﹂、転じて﹁保護を受ける者﹂・﹁臣民﹂を意味
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∞・参照。
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ンダ l ル に つ い て ﹂ ( ﹁ ア ジ ア 経 済 ﹂ 五 │ 一 ・ 一 二 ) 、
(7) 拙 稿 二 第 一 ・ 四 ・ 五 節 、 松 谷 賢 次 郎 つ ヘ ン ガ ル の ザ ミ l
い
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串・参照。
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世紀後期ベンガルの農民諸階層については、 Z
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し 、 イ ン ド で は 租 税 法 上 の 用 語 と し て ザ ミ l ンダ l ルに貢租を
h弘、ご.hwdぜ出向同
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支払う者をさす。ライlヤットの語義を公法上の貢租負担農民
H土地保有農民に限定する用法もあるが、手工業職人もライ l
、問、白 JH
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ミとよび刈分小作農を
ヤットでありうるし(拙稿五第三節註部)、貢租負担農民を特
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(8)
拙稿一第四・五節参照。
(9) 拙稿二第六節参照。
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(叩)拙稿二第二・三節、
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注 目 三 宮 口 R E口o
mmH-NWGUlNMVMUFN ﹀ ω叶己(同同 chH70ZF
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印寸品
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(お)拙稿一第八節、同一一第七節参照。但し私が実証しえた範囲
は、非常に狭いので構成も粗雑である。﹁封建的﹂と括弧した
ザミ l ン ク ー ル に 従 属 す る 軍 事 要 員 に つ い て は そ れ が ム カ
のはそのような限界を考えてである。
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ル国家によって直接掌握されたものでなく、会社政府によって
解体されたものでもあったため、従来本格的に検討されていな
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(URE凶間)のザミlンタール、マハlラlジャlHFりシュナ
い。管見の範囲では、一七九二年九月一日受信の、ダラング
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73・HN∞15H・参照。これらの権
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芯可)・ジャムタール
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力 を 通 し て ザ ミ ー ン ダ l ルがカ l ス ト 的 身 分 秩 序 や 分 業 体 系 を
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ミーミミ hN-bshS由らと.)たちから会社政府宛の
白
、
訴状の一節が、かれらの性格を一示す唯一のものである。訴状の
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s£SJKSHbS同国、)、バルクリア
維持し、支配の一支柱としたと考えられる。なお上掲拙稿では
主回日は、かれらが会社政府の名をかたってアッサムを却捺した
ザミ l ン タ ー ル が 兵 力 を も つ こ と を 指 摘 し た が 、 こ れ に つ い て
はベンガルの例ではないが、同・出向rHY吋﹃刊﹀開門阻止山口ω355
という問罪に抗議したものであるが、その一節が次である。こ
0同 ζロmym]同ロ岳P(同日出lH叶O寸)出OBrqnHF 巴 gwhub- 思ωl
g
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w・をも参照。
れによれば、かれらは在地人口外から徴募されている。
私どもマハlラlジャlの従士は、さまざまな地方から来て
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(日﹀拙稿二第四節参照。
( ロ ) ヒ ン ド ゥ l王 朝 期 お よ び ム カ ル 支 配 以 前 の ム ス リ ム 王 朝 期
その側に仕え、日を送り門私どものい]家族などの生活を支
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えておりました。私どもの塩の法(忠節の道﹀はかくのごと
戸
山
ムルータ
パリジヤナ 1 ド
のベンガルの事情は審かでないが、ムガル支配の波及した時代
カ山戸ム
には領主的階層は既に形成されており、ムガル支配者はかれら
くであります。ある人に仕える時にはその人の命令どおりに
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の既得権益を容認するかわりに貢租を納入させるという関係を
1
ません。一政府に仕えながら他政府をなのる理由がありまし
行動するのです。会社となのってアッサム国を却掠してはい
サ Wカ1 戸 サ 戸 カ
ル国家によるザミIンダlルの任免、ザミlンタlリlの売買
ょうか。
結んだものであろう。拙稿二第二・四節でふれたごとく、ムガ
などの事態が、この後発生している。
北大文学部紀要
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それらの上位に立つ統一体(政府)の事業として営まれるごと
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で 認 識 さ れ て く る の は 、 一 九 二0 年 代 末 か ら 三0年 代 に か け て
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ロ巳E・
5 日町wbhv-H llNON-参照)。われわれがインドについ︿
て
叩
∞
歴史的範臨時としての﹁封建的﹂諸関係を問題にしようとすれば
き関係、として考えておく。ただし、この﹁統一体(政府)﹂
するものではなく、大小の﹁統一体(政府)﹂の階統的関係の
出 発 点 は こ こ に 求 め ら れ ね ば な ら な い 。 中 世 西 ヨ l ロヅパとは
を王朝国家権力と直接同一視して、﹁一君万民﹂的体制を構想
存在を仮定したい。付言すれば、私の関心はいわゆる﹁アジア
﹁前近代社会﹂とよぶことで、問題が解決されるわけでなく、
違うというだけの理由で、植民地支配成立期のインド社会を
仏
巳
)
﹂
して斥けることによって、かれらのいう﹁反封建(白ZFF戸
共産主義者のいう﹁封建﹂は政治的標語であって学問的でないと
的﹂段階にはなく、インド﹁封建﹂社会の﹁アジア的﹂特質の
めにこの概念を用いるにとどめたい。
解明にあり、実証的に確認しうる史実を整序して仮説を立てる
(幻)学界における﹁封建制﹂概念の混乱ともいえる多様性は既
経済外的強制力をもってする直接生産者の収奪を基礎におく社
私自身の概念規定はさしあたって、非生産者的土地所有者の
の内容が理解されるわけでない。
専禄﹁歴史学序説﹂大明堂一九六一年所収﹃封建制度概念の多
めのカテゴリーとして利用するにとどまり、西欧中世との類推
会構成を﹁封建的﹂なものとするが、これもまた史実整序のた
ス封建社会経済史﹂日本評論社一九四九年第一章第一節、上原
に指摘されてきた所であるが(たとえば、矢口孝次郎﹁イギリ
様性﹄参照)、日本を除くアジア諸地域の歴史研究においても、
や資本主義への移行を直ちに演鐸するのではない。むしろ経過
同じくこの概念の検討は充分とはいえない。積極的な概念規定
・家族村落法﹂(東大出版会一九六二年)所収﹃中国社会の
としてみられるのは、仁井田陸﹁中国法制史研究奴隷農奴法
な お 後 に 参 考 す る D - D コl サンピ i氏 の 著 で は 、 ヨ ー ロ ッ
的な用語法であり、﹁アジア的﹂と同じく究極概念ではない。
限したい。
私は全体制的比較を意図するものでなく、生産関係に視点を局
z
m
B
) に指標を求めているが、
パ特にイギリスの封建制(旬。戸門r
﹁封建﹂とフュ 1ダ リ ズ ム ﹄ ぐ ら い の も の と い っ て よ い 。 ア ジ
ア史において﹁封建﹂を歴史的に問題にするとすれば、それは
資本主義に移行する前提条件としてではなく、帝国主義支配の
一支柱としての、それゆえに相共に被抑圧階級の歴史的実践を
ないと私は考える。そのような意味での﹁封建﹂がインド史上
通じて克服されるべきものとしての、﹁封建﹂でなければなら
北大文学部紀要
-11
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S
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7
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)
20
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(ザミーンダールあるいはその従者の徴する私税〕
計
5
3,
3
1
9 6 1
3
7,
3
977 6 1
その他
4
0
1,
4
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2 3 2
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4,
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1
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私有地収入
1,
434 6 1
6 2
N
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;
;
a
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9
0
2
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1
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宗教行事用費
5
3
3 O 6
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) として徴収される Ba'r
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2
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計
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) はノミラモンの扶持料をいみする。当領のザミ
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3,
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慈善事業
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うち宗教行事費
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も、当詰地域社会lilこの持容の規定は後にゆずるi iの住民の共待行事として営なまれたもので、ザミ 1γ ダ:ル
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γ〆 !iN家の純然たる怒川挙として営まれたのか、それと
の行惑が、こんにちわれわれの考えるごとき意味で、ザミ ;
たこと合示践する。第二表は上機家計謂警の支出裁のう、ち宗教行事鶴係の費告のみを摘録したものであるが、これら
かたちをとっていた。これはザミ iγ ダ i ルが農村社会における祭儀・地判事の執行となんらかのかかわりをもってい
として、後者は、祭詑斜地たずミ lγ ・ダ l 札げが所有するか、あるいは祭問料をライ iヤヅトから徴収する、という
この種の公法外的な権益としては、私有地の存在と祭犠・神事を名良とする収入の受得とがある。前者はともかく
のつかない、土地支組以外の収入諜があったことが知られるのである。
たことが明らかである。換言すれば、地秘輪納という公法的義務の視角からのみザミ 1γ ダ;ル会抱えるのでは説明
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納義務を停止されていたのであるが、そのような状態であるにもかかわらず、各自の所領においてはなお、
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一表のムシャ l ハ ラ 支 給 が う に 、 当 時 こ の 六 人 の ザ ミ : ン ダ 11
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の、ないしは公法的な諮問問係によっては規定怒れない所の、いくつかの権益を享受し慣習にもとづく機能
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はその共同一行事のなかマ所定の役割を持ったのかは熟考を饗ナるひとつの問題℃あるが、収入のあり方からすれば後
の土地貢租遠足以外の藷貢租・
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の場合を考えるガが妥当であるう
八
ザミ lソダ lル・ライ lヤット関係の原型
一 方 で は 、 そ れ ら を さ ミ と 合 算 し て 新 た な 地 租 額 の 査 定 基 準 と す る と と も に 、 ザ ミ lγ ダ l ルに対しては、ライ 1 ヤ
﹁非合法的とりたて
ットに借地面積と地代額とを明記した地券を発給することを義務づけ、地券面記載以外のいかなるとりたてをするこ
とをも、罰則をもって禁じたのである o しかしこの規定は周知のように空文化したのであり、
(山口問問己負田口氏。ロ由)﹂は跡を絶たなかった。
九﹁非合法的とりたて﹂の実態をかなり明瞭に一不す資料として、以下に掲げるのはラングプルの裁判所に勤めたトマ
パルガナ
ス Hシッソ γ判 事 の 報 告 の 一 節 で あ り 、 時 代 は 一 八 一 0 年 代 前 半 ご ろ の こ と で あ る o
6
4え片山刊の例。家屋購入費二、一 O Oル ピ ! と そ れ を 祝 う デ Iヴ ア Hプ l ジ ャ Iの
付 の 。 。 ロ ミ 郡 の 列 企 各 自 己 向 。}
000ルピ!とをまかなうため、ライlヤットから一一、 000ル ピ ー を 礼 ミ さ ま ミ 号 の 名 目 で と り
費用二、
000ル ピ ー を 徴 収 し た o
lヤ ッ ト に 課 し 、 峻 工 後 も 依
た て た ほ か 、 孫 の 誕 生 式 の 費 用 一 、 二O Oルピlの調達のため、ライlヤヅトから五、
ロ
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家刻
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新例築
2の の
σECえ た と の 祭 の 費 用 二O 、000ルピーをライ iヤットからとりたてた。
然 こ れ を 徴 収 し た 。 ま た 冨 田E
ghS(sghS) お
同 ︼ 可 同 出 回 目 白 ゲ 00 の 例 。 全 所 有 地 を 請 負 人 に 委 ね た 後 も 毎 冬 象 や 馬 を 従 え て 村 々 を ま わ り 、 ミ
よ び 切}
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E
(
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V
) の 名 目 で 貢 納 を 徴 収 し た o これはライ lヤヅト各人に強制的に割当てられるもので、
の 例 。 か れ は 植 民 地 政 府 裁 判 所 の サ リ シ ュ タ ダ I ルと収税官署のディ l ワlγ と を
般的に行なわれた私税徴収の様式である o
r
r
帥冨。。ロ岳2 日自宅ロ件。。
勤めた。土地を購入したがその費用の半分を新たに借地人となった一フイlヤットから徴収し、さらに象の購入費用
五OO│六O Oル ピ ー を も ラ イ lヤ ッ ト に 負 担 さ せ た 。 ザ ミ l ンダ l ルが馬などでなく象に乗るのは、 か れ の ラ イ
ーヤットたちの名誉でもあるという理由で、 かんたんにかれらを説得したという。
"
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"118-
(8)(9)
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S巾口出巳岳自己E Z X巾
2 5三 の 例 。 毎 年 ラ イ i ヤ ッ ト か ら 地 代 一 ル ピ l あ た り 一 ア l ナ を 余 分 に 徴 収 し 、 自 分
与
。E m。
の家の守護神(﹁05
仏
)
回52RS の祭の費用の一部にあてる o
これらの事例をもって、 ザミ lγ ダ l ル の ﹁ 経 済 外 的 強 制 ﹂ 力 の 強 固 な 残 存 を 結 論 し 、 植 民 地 政 府 の 威 令 貫 徹
せずと説くのは、 い ち お う 正 当 で あ っ て も 充 分 と は い え な い 。 ザ ミ l ンダ l ルが家屋や象台}購入する費用とか普請の
費用とかを、虚構によらず事柄そのものを名目としてライ l ヤットから徴収しえたのは、 いかなる根拠にもとづくか。
L なこれらの私税が、虚構を用いずに行なわれたこ
ザ ミ lシダ I ル 家 の 私 事 で あ る べ き 神 事 や 誕 生 式 の 費 用 を 、 同 じ く そ れ 自 体 の 名 目 に よ っ て 、 ラ イ l ヤ ッ ト に 負 担 せ
しめうる生活上の根拠は何であるか。公法上は疑もなく﹁非合法
とを、 わ れ わ れ は 単 純 に 法 律 の 無 知 と し て 片 付 け る わ け に い か な い 。 ま た こ の 現 象 の 背 後 に は 、 伝 統 的 な 生 活 上 の 必
要や、それによって生み出された慣習的な規範意識があるものと考えなければならない。何となれば、上例のうち少
く と も 祭 儀 ・ 神 事 の 費 用 に つ い て は 、 そ れ が ザ ミ l ンダ l リ l永 代 定 租 制 以 前 の 在 地 の 伝 統 な い し 慣 習 に 脈 絡 を も っ
ことが、前掲一七八三年の資料によって明らかであるからである。祭儀・神事料以外についても、それらが事柄自体
を名目として徴収されたことは、その徴収が正当と観念されたことを示すから、同じく在地の伝統・慣習・生活意識
に根ざしたものとしてよい。
予 断 を お そ れ ず に い う な ら ば 、 ザ ミ lンダ lル家の私事であるかにみえる祭儀・神事・誕生式・並日請などが、実は純
h
一定の社会経済生活の基礎の上に形
然、たる私事ではなく、ライlヤットもこれになんらかのかたちで参与することを正当視するごとき観念が、当時のベ γ
ガ ル 農 村 社 会 に あ っ た も の と 仮 定 す る こ と が で き る o そしてそのような観念が、
成されたものであろうことを、その基礎自体の存続如何は別としても、推測することは決して誤っていないであろ
北大文学部紀要
-119-
同
O
ザミ lγ ダ Iル・ライ lヤット関係の原型
一一以上﹁雑税﹂の再検討を通して明らかにされつつあることはは、租税法上﹁雑税﹂として一括されるものの中
に、祭儀・神事を名目としてザミ iγ ダ l ルがライ lヤットから徴収するものがふくまれており、そのような﹁雑税﹂
の徴収を正当視する観念が、十九世紀初期まで確実に見出されること、および、そのような﹁雑税﹂を通して、ザミ
1γ ダ l ルが農村社会の祭儀・神事にある役割を演じたものであり、ザミ lγ ダ l ル家の私事とみえる祭儀・神事に
bN awNFbawd円 は ﹁ 家 屋 の
上 掲 抄 録 中 の 術 語 を 説 明 す るo
M
N
h白誌の語
費用﹂ohps、雪道凶刊は﹁家屋建築︹の費用︺﹂。菩h
(8)
もライ lヤットの参与が期待されていたと考えられる、 ということである o 従ってこれはを﹁非合法﹂とよぶのは、
拙稿一第四・五節参照。
植民地政府の立法のみに依拠した判断にすぎない。
(1)
p白骨吻遣の音写とすれば語義は
N
.
p
)は v
義は﹁要求﹂orErr-同
相続・売買・贈与などによる土地財産の分割部分は、二ハ
を分母とする分数の分子で一不された。一ア l ナ (hE
白)は一﹂ハ
(2)
た。サリシュタダ l ル (hS﹁ミとミ Hl
九品、.批って片町、よ紅白九向、は
拙稿七参照。
これについては拙稿二第三節参照。
シ ツ ソ ン は 続 け て 、 こ れ ら は ラ γ グ プ ル の ヲ イ I ヤットの
ルが、依然としていわば私法的な権利を享受している例であり、
務を請負人に委ねた、つまり公法的義務を免れたザミlンター
(日)この分析では上掲帥を積筏的に評価しないが、伺も収租業
b-80・)。
お い て 行 な わ れ る 、 と 指 摘 し て い る ( 同 忠 弘-whubEωcuqbsr
ダlル家の誕生、結婚、剃髪式が、ライ I ャットの費用負担に
状態を示す実例の一部にすぎず、あらゆる祭儀・神事・ザミ l ン
(9)
ン(忠霊品お)はここでは同じく収税官署の現地人官吏。
植民地政府裁判所の現地人官吏で﹁記録保管人﹂。ディ I ワI
﹁食物﹂。神と祭とについては私のてもとでは調べられなかっ
転載に当つては適当な簡略化を施した。なおここでは、家
分の一ルピーマ草、白いお)にあたる。
(4)
A片山・
N
ω ∞N
( 3 ) Z・同・ ωErpqEV 門 戸 匂 ℃-
(5)
計収支それ自体の分析を意図しない。
(6)
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(7)Hh22hHCS 叫,FOBEω28PFZFME 豆mmEszoh
印
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uHCJξ ・ 回
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一﹃戸︽凶互にロ
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W3・ωmF25ロ口町可品。同田町HOBFmHNROH舟 巳 任 。
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以 下 は 上 掲 個 所 の 抄 録 でw
ある。
-120
f
一七八一二年の資料と同様の側面 を示すものとしてよい。
ことを否定しない。上掲付は徴収の実額が徴収名目の必要額を
(日﹀なお私はこの祭儀・神事料が浴意的収奪の名目でもあった
ダ l ルのラ lジャ lH ミトラジットの祖父が導入したものとい
出
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ー で は ﹁ 村 神 ﹂ を ロF口苫司令pwhSHh芯)のさmoJpr(hpw
hS遣いてと白ミ)と称し、貢租台帳に古くから記録されている村
超えていたことを示している。
(ロ﹀ビハ l ル 地 方 で は 祭 儀 ・ 神 事 料 の 徴 収 に つ い て は 明 証 を 得
にはその土地の﹁村神﹂の礼拝堂 (
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曲)がみられたという
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いわゆる﹁村神(句、む苦EhNSミむ ) L の中にザミ l ンタ
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ないが
ール家に関係する神格を見出す。パウグルプルの関白rmBESH
神を除けばそれぞれの地域の全住民の礼拝の対象となったもの
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PHEWSωデ町、.NElN5・)。﹁村神﹂はカ l スト神や部族
﹃任命口町丹江口円。﹃
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口付。同 poUEHZ2
のといわれるし(司・出Ermgmp ﹀ロ﹀口口 CC
女神はス l ルヤガルのザミ l ンダ l ルの祖父を戦勝に導いたも
る
。
。
らしく、歴史的にも重要な問題を含むが、詳考は他日にゆず
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hyhv-M寸凶・)、カナウジ
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g豆 、 を ﹁ 地 代 ﹂ と 訳 し 、 ザ ミ lγ ダ lリ l制 に み る ザ ミ
のバラモン月間百吋ymrミ の 霊 を 神 格 と し て 拝 む の は ザ ミ l ン
﹁地代﹂形態について
次に﹁地代﹂の再検討に移るo私は従来行政史料の
lに 依 存 し て 、 ﹁ 地 代 ﹂ と い う 表 現 を あ 与 え て 疑 わ な か っ た 。 し か し ﹁ 地 代 ﹂ は ﹁ 土 地 所 有 ﹂ な く し て は 成 立 し
1γ ダ l ル
1 地 主 ・ ラ イ l ヤ ッ ト U 借 地 人 と い う 法 的 擬 制i l 一 説 で は 一 八 一 五 年 ま で に は こ れ ら は 擬 制 で な く 実 体
と な るi
ないものであるから、前者は後者の形成過程をも展望に収めないでは使用しえない用語というべきであろう。そして
s
h誌 を も 二 義 的 に ﹁ 地 代 ﹂ と
一見﹁地代﹂とみえるさ史がなお宮︿問冶ミと併存していた事実に注意するならば、
北大文学部紀要
-121-
│1i
これは
zdNKQSR
ザミ lγ ダlル・ライ lヤット関係の原型
して把握すること
﹁封建的﹂特権収入や ﹁私税﹂ として把握することと一対をなすll}
は、現実のある側面のみを他の同等に重要な側面からきりはなして抽象化する危険を伴うものといいうる。
﹁地代﹂形態転化の問題も以上二つの問題と密接に関連する。私は十九世紀初期のピハ l ル州諸県の実態をてがか
りに、生産物﹁地代﹂から貨幣﹁地代﹂への推転を図式的に整理したことがあるが、そこでは右の諸点に留意するこ
と甚だ乏しかった。私の作業はいうなれば、同時代的に併存する地代﹁諸形態﹂を、 カール 1 マルクスの地代形態の
発展に関するシェーマを先験的・教条的に適用することによって、時間的系列におきかえして理解しようとしたにと
どまる o 私は異なった貢租諸形態の併存という事実そのものを掘り下げて考えるべきであったし、 またマルクスを参
照するのであれば、労働地代が明確な形ではイシド史上に現われてこないという事実についても、配慮を怠るべきで
﹁地代﹂形態l 地券の有無と受給主体l 耕地の性状、 という対応関係で要約すると、ハ円
はなかったのである。ここに第三一・第四の問題がある。
その際の私の図式を、
生産物﹁地代﹂[無地券│一般耕地、同生産物を基礎として換算された貨幣﹁地代﹂ l 農 民 集 団 に 対 し て 発 給 さ れ る
耕種別地代率のみを記載した地券!一般耕地、日開土壌の一定の性質を基準にした耕種と無関係の貨幣﹁地代﹂│個人
に対して発給される面積@ ﹁地代﹂額記載の地券│河岸台地・褒落近傍の井水溶概地など、 となる。そしてかかる転
態過程が共同体的土地所有からの私的土地所有の分出過程とほぼ一致することも、併せて指摘しておいた。以下この
理解の当否を、その際の資料とした FHブ キ ャ ナ γの報告によってより仔細に点検したレと思う。
﹁地代﹂形態と濯甑条件との聞には、ある
﹁一般耕地﹂もなんらかの濯慨を必要としたのは当然であるから、問題は
-122-
を
ここで注意すべきは、地理的に特殊条件をなす河岸台地を除けば、
関連が存在するらしい、 という点である。
四
ご 般 耕 地 ﹂ の 濯 甑 施 設 と 緊 落 近 傍 地 の そ れ と の 差 に か か っ て い る 、 とみてよい。
右報告は十九世紀初期ピハ l ル の 濯 概 諸 施 設 に つ い て の 重 要 な 資 料 を ふ く む が 、 概 括 し て 要 点 を の べ れ ば 次 の と お
りである o 人 工 濯 慨 は 当 時 の こ の 地 方 で は 主 に 稲 作 に 必 要 と さ れ た も の で あ り 、 雨 期 の 降 雨 不 順 に 対 処 す る の が 主 な
目 的 で あ っ た 。 施 設 設 備 の 小 規 模 な も の は カ ヌ l状 あ る い は か ご 状 の 器 具 で 河 川 か ら 水 を 採 取 す る て い ど の も の で あ
SF3邑)が、大規模のものに運河(口自己)・貯水池 (H2240昨)がみら
ったが、中規模のものとして井戸・溜池(同
れた o 各種施設設備の地域的分布には当然偏差があったであろうが、 その点はあまり明瞭には書かれていない。
かれらはその運河・貯水地からの給
以上のうちもっとも機能の高いものはいうまでもなく運河・貯水池であるが、これらの設営に当ったのはもっぱら
(F00452∞え FoFロ仏)﹂であって、
(ZE14)﹂ の 中 か ら 任 命 す る 権 限 を も っ て い た 。 ラ イ lヤットは各自に、運河
ザ ミ lンダ l ル あ る い は ﹁ 土 地 所 有 者
配水管理のための要員を﹁借地人層
や貯水地の通水溝に接して堰・水門を設け、耕地に水をひいたようであるが、所定量の給水を受けた後にはその堰を
こわすとか、あるいは貯水池至近の耕地に導入された水がそのまま以遠の耕地にも流入するように仕組まれていると
か 、 配 水 の 公 平 を 期 す る 措 置 が あ っ た と み ら れ る o バ ウ グ ル プ ル の 一 部 で は 、 ザ ミ I シダ l ルが貯水池造営費用の半
とかこいのな
か か る 場 合 の ﹁ 地 代 ﹂ は 定 額 ( 昨 包 ) であり作物分割によらなかった。
額 の み を 負 担 し て 残 り の 半 額 は ラ イ I ヤ ッ ト に 負 担 さ せ る と か 、 あ る い は 造 営 費 全 額 を 負 担 し て 修 理 の み を ラ イ 1ヤ
γトに委ねるとかの慣行があったが、
FPE(hp)
の二種にわかれ、前者は通常ザミ l ンダ l ルにより、後者は常にライ Iヤ ッ ト に よ っ て 設 け ら れ る
運河・貯水池と並ぶ一般的な濯概設備は井戸であったが、 これは煉瓦でかこいをした
い同ハロ一可白(切符
ものであった o 井水濯慨は大麦・小麦などの冬時きの作物とか、疏菜類や甘庶のような商業作物の栽培に用いられた。
北大文学部紀要
-123-
ザミ l ン、タlル・ライ lヤット関係の原型
こうした事実から考えるならば、 われわれは﹁一般耕地﹂の濯甑源をザミ I ンダ I ルの造営する運河・貯水池
に求めることができる。これに対する﹁緊落近傍の井水濯甑池﹂の井戸が、﹃缶詰(たとかそれとも穴ロヨ(之内・)
については疑問が残るが、前述のごとく、ライlヤットが運河・貯水池の造営費をザミlγ ダ lルと折半し、あるいは
修理費を負担する場合には﹁地代﹂が定額となる、という慣行からみるならば、大半は後者であったと判断してよい。
このようにみてくると、共同体的土地所有からの私的土地所有の分出という問題の一環として、ザミ I ンダ l ルの
水利権支配からの自己の井戸をもつことによる部分的離脱という現象のあったことが、 おぼろげながら推定される o
もちろん個々のライ lヤットの経営に立ち入るならばーーーそのための文献資料はみあたらないが││自己の井戸によ
って濯概する土地と、 それにもまして多量のザミlγ ダ I ルの水利権支配に服する土地との混在がみられたであろう
が、部分的・相対的にせよ水の支配が土地所有と農業経営の自立性を保証することは、おそらく想定して誤りないで
b4Ho 少くともそのような傾向が、バウグルプルの水利慣行のなかには看取されるo
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(5)
て表記の地方・年代に限って考察したものである。
橋論叢﹂四八一二﹀があるが、これは賦役そのもののみについ
﹁一八世紀マラ l タ l王 国 の 夫 役
H) について﹂(﹁一
地 目 ・ 耕 種 の 別 に 対 応 す る 地 主 的 水 利 体 系 と 農 民 的 水 利 体 系 と の 併 存 は 明 ら か で あ る o しかし両者の関係は完全に
H口四角川口岡山f (リ回一口口同Hmr]5N斗wvkv-hp∞1品申・
﹃子∞
q 巴HL 開口D口OBH口ω D
対抗的ではなく、後者は前者の存在を前提とするものであり、 その成長には限界があった。
∞可凹同巾B
穴・。・(リrgLrRr 吋 ﹃ 何 回 目g
ι
戸田口
(1)
ぎない。
(2) 拙 稿 五 で い く ぶ ん 注 意 し た が 、 租 税 法 的 次 元 で の こ と に す
中世インドの賦役に関する邦文の研究としては、深沢宏
(3) 拙稿五第二・一ニ節参照、
(4)
-124-
カ
ミ
五
bv-Eω呂町・にかなり詳しい叙述がある。﹀口﹀口口OロロHD﹃岳町
り、改めて後にとりあげる。井水港概が以上のように経費のか
たとは思えない。少数の財力ある者に限られたであろう。そし
きむものとすれば、すべてのライlャットにこれが可能であっ
wNhwINωWEEP52w﹄守、・ωNClωNω・をも参照。
口百円円一口門D﹃司戸門口巾一向 口同∞門vhulN門VW同 μ
巳ロPH申N∞、も-AFHH一 bb・
てまた井水利用をめぐってライlヤット相互間にあるていどの
同巴戸Er邑EN
0
以 下 前 二 書 の み 要 約 す る 。 な お の ・ ﹀ ・ C ロ 2 8 p 回FrRHVSEE
支配被支配関係があったと考えられるが、明証を姐けない。
HU己同一MM1miw﹀︿ニ一ωmoHロハリ喜一cp(リ白Brロ仏mP52w﹄守、-同町{)1
(7) 配水系統の図解がないので明瞭ではないが、肘-HFFORY
18Z28)
額 貨 幣 地 代 形 態 、 私 人 が 特 に 施 す 濯 減 に よ る 植 栽 地(
地もさ同町mkwιミ︹四百円口︺﹃ロチ)には耕種別・単位面積あたりの定
分割による現物地代形態、天水や小規模の井水濯減にたよる土
港紙地 (米作地osSRhk・英語で君。門︹mgE︺F邑)には作物
ら ば 、 南 イ γド で は 、 貯 水 地 ・ 遊 水 溝 な ど に よ る 大 規 模 の 人 工
南インドの農制が検討されなくてはなるまい。概括的にいうな
(9) 地 代 形 態 と 水 利 権 の あ り 方 と を 相 関 的 に 把 え る た め に は 、
毛町民H-whub-2∞12由・の記事も参考になる。
な お 現 代 の ピ ハ l ル 地 方 の 濯 慨 に 関 す る 0・出・民・ω宮 F
rruN冶九司札誌-w]Mmg問、][也N由wbv・NOHlNHN・が濯概を考えるの
要員の名称はパウグルプルについてのみ記されているが、
に有益である。
(6)
凶
それらはω戸吋52 (hR-w師号、守臼可)u∞Rrcr同(印公-wh晶、lLV白I、hpv)w
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刊
5印・の説明と図解とは、上記の問題にある照明を与えるかも知
・園周(mRFロ)には定額貨幣地代形態が、それぞれ対応して
とである。
れない。もちろん私は現代のセイロンと百六十年前のピハlル
って充当され、いわゆるミlラlス権(選対中向。)はこの範鴎の
いた。貯水池や神事・祭儀の費用は第一の範鳴からの収入をも
とを顛倒等置しているのではない。
地理学者の所見に従えば、煉瓦で困った井戸は造営費がか
さむものであり、またどのような井戸にせよ多大の人力・畜力の
(8)
二・第二一の範鳴に属する私人の井水港滅地であった(巧・同E司BE岡市♂四円叫-w
土地において成立していた。処分権を認められていたのは、第
5∞wNHPNNωuN品AFlN品印wNaNNE-参照)。大規模濯減の設営主体
稼働なしには用いえないので、井水濯減は運河端惜減に較べて六
という (
0・国・州内・ω宮芯 wH口岳山田口仏司回目氏ωEPKFC32ω-mHML
倍から七倍の費用を要し、園芸的農業に用いられる傾向にある
MNmwmHDロω-O巾D四円回目)}MMJhwwRN町民WNJ勾由也、JFDロLD口、shHA山、、・NO由・)。
は、大小の王朝国家・地方的土豪層・ミIラlスダlルの団体
叫
,rm司FrrHN何}
HFhH円-w ぐD--rs回、刊、﹄守、・
回D
井水濯紙技術についてはブキャナンの報告にも詳しい記事があ
北大文学部紀要
-125
ザ ミ lンダ lル・ライ lヤット関係の原型
以上に検討した二つの問題は租税法外的な、 つまり公法的制度としては認められなかった分野に属するから、
村落の原初形態をめぐる試論
などであったと思うが、正確には後考にまつ。
一六
少くとも現状ではより以上の文献資料による証明が困難であるが、そのような不備を留保した上で、これらが従来の私
なりの問題展開の中にどのように位置づけられるかを考え℃みたい。もとより上の検討では、﹁雑税﹂の問題はピハ l
ルについては然るべき資料的証拠のないままに不聞に付されており、濯甑の問題も同様の事情からベンガルについて
は言及するに至っていない。従って以下に説く所は実証的には相当に粗雑な、思弁に多くを委ねるような性質のもの
となるが、私としてはその点を熟知の上であえて一仮説を提示したい。これはもとより性急な体系化を意図するもの
でなく、細密な実証を今後に期待する準備作業としてである。
ま ず 濯 甑 施 設 に つ い て の 前 節 の 検 討 か ら 出 発 し よ う 。 イ γド の 農 業 に お い て 濯 慨 が 基 本 的 な 生 産 手 段 で あ る こ
造 営 ・ 所 有 し 水 利 権 を 掌 握 す る 私 人 に 、 そ の 規 模 に 従 っ て 大 き な 権 力│
i他人の労働と労働生産物とに対する支配ーーー
一定の権力の前提があってのみ、 そ の よ う な 事 業 が 可 能 な っ た と い う べ き で あ ろ う o ブ キ ャ
を付与した、と考えるのが当然であろう。
しかしより正確には、
ナンによれば、バウグルプルでは運河の長さは一ないし一二コス(ぎ的)つまり約三・こないし九・七キロメートルに達す
-126-
四
とは現代においても指摘される所であるが、国家的濯甑事業のごときものを欠く時代においては、濯甑施設がそれを
七
(hQN)幅 ・ 深 さ 各 一 ガ ズ つ ま り 約 八 五
るのがふつうであり、長いものは六コスつまり約一九・三キロメートルに及ぶが、幅・深さはともに四ないし五キユ
ー ビ ッ ト つ ま り 約 一 ・ 七 な い し 二 ・ 七 メ ー ト ル で あ る o 工費は長さ一 O Oガズ
U約 九 立 方 メ ー
(0 ・九ないし一・
メートルの長さで幅・深さ八五センチメートルについて二・二五ルピーを要し、=一四六立方フィート
l四フィート
トルの土を近くに捨てるのに一ルピーを用いたという。貯水池は高さ・幅ともにコ一l
一一メートル)の堤をなすもので(バウグルプル)その長さはパトナ・ガヤ地域では一マイル(一・六キロメートル)
hbN)つまり約六
一六・ 八 な い し 三 二 ・ 一 ル ピ lと 概 算 さ れ る 当 時
目
以 上 に 及 ぶ も の が 全 貯 水 地 の 一 割 ほ ど を し め 、 こ の よ う な 規 模 の も の の 工 費 は お よ そ 五O Oルピーにもなるが、ふつ
う の 大 き さ の 貯 水 池 は 二 五 な い し 一 O Oルピ l でできる o 人 夫 賃 は 池 の 深 さ と 堤 の 高 さ と に 応 じ て 、 一 O Oシカシダ
O 立方メートルあたり二・五ないし四ルピーであった。雇農(立。己mrl255v
リ l uガズ(的芯む誌にむ三
mrB戸ロ) 一人あたりの年収が、 現物給与をも貨幣換算して、
HLO
ロ
にあっては、濯甑施設造営に投下される資本だけでも、怠大なものといわざるをえない。
起きミ守二塁凡なる用語が東インド会社政府文書に瀕出することからも明白であし句、)それは
ベンガルの主に氾濫防止のために設ける堰堤(宮言問) については、 そ の 設 営 が 伝 統 的 に ザ ミ l γ ダ 1 ルの手に委ね
られていたことは、
十八世紀末のイギリス人行政官によって確認されたことでもあった。それら堰堤の規模については、地域ごとにさま
一一堰堤の長さは短かドもので一五メートルから長いものでは八0 0メートル、
ざまであったであろうし、 工 費 も 異 っ た で あ ろ う が 、 会 社 政 府 の 土 木 担 当 官 が ム ル シ ダ l バ l ド 県 の 堰 堤 修 築 ・ 新 設
について報告している所から推すと、
(日)
極端な例では一 0 キ ロ メ ー ト ル を 越 え る も の も あ っ た ら し い 。 幅 は 一 な い し 八 メ ー ト ル 、 高 さ は 平 均 的 に は 一 ・ 五 な
いし二メートルとみてよい。
北大文学部紀要
-127ー
むき吉弘知-三宮突出と並んで国家機関の造営雄持する堰堤も当然あったものと考えるが、
N
ザミ lソダ iル・ライ 1ヤット関係の原型
なお私は、
を示す証拠を得るに至っていない。
積極的にこれ
しかし問題はそれにとどまらない。当時のインドにおいて、白由な労働力市場の存在はもとより想定しえない
のであり、ブキャナンの工費計算は数字によって社会関係を隠蔽している。当時の社会状態をもとに考える限り、ザ
ミlγ ダ 1 ルは領内ライ Iヤットの労働力に主として依操しなければ、運河・貯水池・堰堤の造営・維持をなしえな
かったはずであり、ライ Iヤット側にしてもザミ lγ ダ I ルの統率下に水利・治水建設に従事することなしには、自
らの農業生産が不可能になったであろう。この場合に水利・治水建設のための労働力支出を、 わ れ わ れ は 単 純 に 賦 役
(労働地代) として把えてはならない。 何となればそれはザミ lγ ダ l ル所有地をライ lヤットが耕作する代償とし
て支出されるのではなく、ライ 1ヤット自らの農業生産条件を確保することが第一義をなたしと考えられるからであ
る。結論を先取りした表現が許されるとするならば、 ザミ lγ ダ l ルーーより厳密にいうならばそのようなことばで
総称された土豪的な人びとl lの家父長的権力によって統結される地域集団ないし農業経営体の内部における自給的
生産労働の一部として、 まず右の水利・治水建設を考えるべきであり、そのための労働は何よりも当該集団ないし経
営体の全成員の事業であって、 ザミ I ンダlルはその事業の全体的な企画執行の責に任ずるものであっに叩)水利・治
水労働を賦役(労働地代)として把えることが誤まっていないとしても、これを外部から現象的に把えるだけでは不
、
(HSHNQhg
日開勅任(むや言さ) のコ一種があることは前に述べたが、発生の順序からいえば開発がもっとも古
右の推論を敷街しつつ一つの構想を示す。 ザミlンダlルの起源とされるものに、 付 開 発 ( 豆 諸bS
納
豆
、
完全であろう o そ の 発 生 の 内 的 要 因 を 了 解 し な け れ ば な ら な い の で あ る o
ロ移譲
-128-
八
九
い形態のものであることは、論理的に充分明らかであろう。その場合、開発者はおそらく決して単独でなく、 かれを
首長とする集団を統率して事に当ったものと考えなければならない。開発者集団の移住定着による農耕村落形成の歴
史はおそらく極めて古いものと推測されるふ叫)かれらがその際まずもっとも必要としたものは農業生産の前提たる治
水・濯甑であったに相違なく、持続的な生産活動を営なむには大規模の水利・治水施設を要したであろうから、その
ための事業は個々のな成員家族によってでなく全集団の共同事業として行なわれたものであり、その成果たる水の利
用も全成員がなんらかの意味で平等に享受できるような規則に服するものとなったであろい)かかる集団的規模にお
ける共同労働の実行・指揮、水利・治水調整などは、首長の威令により実現可能となったに違いない。特に治水・濯
一般に移動・土地選定・定着・開墾という一連の事業は、個別分散的な私人ではなく、強力な統
-129-
慨に限定せずとも、
率者を持つ一定規模以上の集団にしてはじめて可能であったと想定するのが妥当であろ埼 o
これと並んで私はつぎの事態をも推測する o 開 発 者 集 団 は 農 耕 民 と し て お そ ら く な ん ら か の か た ち の 農 事 予 祝 行 事
や収穫祭などを行なっていたはずであり、首長はかかる農耕上の祭儀・神事の主宰者たる資格をも付与されていたの
t
︽
ιム
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、 というのがそれである o つ ま り 水 と 労 働 と を 掌 ど る 者 が 祭 杷 を も 司 ど る の で あ る 。 以 上 の ほ か 、 先 任 者
﹂キ
f、
L込
カ
や征服者などに対する防禦・戦闘において、首長が軍事統率の機能をもったことは充分察知しうるし、集団内部の秩
、
マ
序を維持するために、 かれが一定の司法的・警察的機能をも持ったであろうこともやはり推定しうる。
このような開発者集団の性格を私は家父長的農業共同体ないし経営体とよんでおこう。このような構成体は濯
北大文学部紀要
充足の保障が成員の共同労働と共同規律の遵守とにある限りは、この構成体は容易に崩壊せず、歴史的な諸変動を経
概・治水施設の造営・維持、水の配分・調整を必要とする。その必要が首長の家父長的権力を通して充足され、その
O
ザミ l ンダ lル・ライ
1ヤット関係の原型
過しつつもなお社会の基層構造として存在しつづけるであろう。かかる社会では首長と成員との関係も明確な階級的
対立としては意識されず、首長の収入は生産労働における一定の共同性││成員の個別保有地性を許すにせよーーーを
前提とする生産物の中の一定の﹁分け前﹂として現われ、首長の﹁土地所有﹂を前提とする﹁地代﹂とは考えられな
ぃ。その収入には首長自身の所得となる部分のほか集団全体のために支出される部分、たとえば潅概・治水施設の修
理や祭儀・神事の費用もふくまれていたであろう。しかし同時にまた、首長は成員に対する労働指揮、水の配分・調
整、軍事的統率などの権限をもつことによって、成員に対する支配を強化し、生産的労働から離れた土地所有者、共
同体領域の支配者に転化する可能性をも潜在させていたとみることができる o
QSS)
ン 宏 司 令Sl 凡N
として認識された社会層は、おそらく右に推察したごとき開発首長となんら
守泊三)によるザミ1γ ダ I ル、あるいはムスリム征服者によってザミlγ ダ lル、マ I レク(さミお)、
開発(宮司NhQNl
サ 1 へベ 1ザミ l
か の 歴 史 的 脈 絡 を も つ も の で あ っ て 、 か か る も の を 前 提 と し て は じ め て 移 譲 や 勅 任 に よ る ザ ミ lダ Iルの発生は可能
であり、かかるものの中から国家貢租収納請負人としてのザミ l ンダ l ル(告さ吉丸守よさ q lhHAq
ミ)の任命も可能
であったと判断できる。商税や非耕地部分(山林・原野・河川・沼沢)の使用料、つまりサlイル(的向ギ)の徴収権
は、首長の共同体領域管理の権能に由来するものであろう。
ニ 一 上 述 の 歴 史 的 脈 絡 は し か し な が ら 決 し て 単 線 的 な も の で な く 、 多 く の 変 動 を 伴 っ た は ず で あ る o 例えば井水濯
甑地をもっ農民の出現は、農村社会の性格の原生的開発者集団の域からの脱却、商業的農業のある程度の発展、首長
(お)
Ld大な領域をもっザミ 1 ンダ lリl形成は、移譲
以外の成員聞における階層分化の進行、を前提とするものであり
(包)
や 勅 任 以 外 の 、 一 ザ ミ lンダ lルによる他ザミlγ ダ IリIの兼併という事態を推定させる o 先住部族を服属させ使
役するに至ったことも考えられる。王朝権力による行政制度がもたらした変革もあったであろう。
-130-
しかし先に想定した基層構造とそれにもとづく観念形態とが強固に生き続けていたことは、 ザミlγ
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ー ヤ ゲ ト か ら の 祭 儀 ・ 神 事 料 徴 収 、 費 用 負 担 と い う か た ち で の ラ イ l ヤ ッ ト の ザ ミ lンダ lル家の普請や諸儀式への
参与に明らかに認められる。あるいはラlジュシ十Iヒ!のザミlγ ダ l ル 、 ラ l ニl u バ ヴ ァ l
社政府にあてた周知の訴状もこれを弁明するであろう。﹁地代(遠足)﹂・﹁商税・非耕地使用料(払ギ)﹂と﹁雑税 (
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なされ)﹂との併存は、右の基層構造との関連においてこれを把えることができ杭﹁
基層構造の持続については次のことも注意されなければならない。首長ないしザミ Iγ ダ lルの家系が変っても後
来の者は在来の者の機能を継承したであろうということと、原生的な村落ないし村落群をこえた首長領またはザミ l
γダ l リ lの成立においては、後者の首長ないしザミlγ ダ lルによる前者の共同体的事業の少くとも一部分の吸収
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が生じたであろうということである o 九所引帥ははじめの推定の一論拠であり、堤防費(、足 lS
可能性をも考えさせる。﹁村神﹂祭把のあり方も、基層にある文化とその上に政治的変動によってもたらされた文化
との重畳を示すものかも知れない。
以上のように考えてくるならば、賦役つまり労働地代が明確なかたちでは検出されないことについてもある程
度まで解釈が下せる。私はこれを、まず共同体内部においては、水利・治水関係労働のごときが農業労働の一環とし
て表象され、その労働の成果が労働する者自身に少くとも全面的には対立するものとしては現われなかったこと、次
に王朝国家権力との関係においては、賦役的労働が行なわれたにせよそれは国家権力によって直接的に把握される公
(却)
法 的 関 係 に お い て で な く 、 い わ ば 私 法 的 な ザ ミ l γ ダ 1 ルとライlヤットとの聞の内付の関係において営なまれたこ
と、に求めてよいのではないかと思う。
そしてこの内付関係を秩序づけたものは、両者の聞の原生的ともいえる家父長的関係であったのではなかろうか。
北大文学部紀要
-131-
ザミ lγ ダ lル・ライ Iヤット関係の原型
ライ Iヤヅトが窮迫すればザミlγ ダ lルはこれをみすてておけないという発想は、﹁非合法的とりたて﹂を容認す
るごとき思考慣習とは表裏の関係にある o そ し て 社 会 の 基 層 構 造 と し て の 家 父 長 的 関 係 の 持 続 の 条 件 は 、 前 に 論 じ た
ような地主的水利体系に規制されかつ依存する農業生産のあり方にかかってくるのである o
そしてこの農業生産条件が基本的に変化しない限り、井戸をもつことによる共同体的土地所有からの私的土地所有
のか山山は相対的・部分的たるにとどまり、前者の全面的解恥には至りがたいであろう o 井戸をもっ農民を小家父長と
するより小規模の二次的集団が在来のより大きな共同体に付着しつつ形成されるのみ、 とみてよい。あるいはまた、
井戸をもたずとも、在来のより大きな共同体の水利事業を前提とした上で形成される、農民の局地的な水利共同組織
を考えることも、不可能ではない。治水体系については明証をえないが、基本的には水利体系と同じ傾向を予想でき
るであろう。このような家父長的権力の重畳・凝滞の相を、その基盤たる農業生産力の諸条件の持続とともに、イソ
ド東部社会のいわゆる﹁アジア的﹂特質と私は考えるが、見逃しえないことは、この﹁アジア的﹂社会内部にも微弱・
綬慢ながらも、一定の生産力発展と社会変動とが見られたことである o
二三以上のように考察してくるならば、われわれは槌民地支配成立期において検出される﹁封建的﹂なるものが、
いかなる内部構造に貫かれているかについて、あるいはいかなる歴史的経緯のうちに成立したものであるかについて
仮説的ながら一定の展望をもつことができる。私はその始原を開発者集団の形成した原生的村落にひとまず求めるの
である、が、その後の発展については次のように推測しておきたい。
まず﹁封建的し土地所有の形成については、開発者集団の家父長的首長が自己の首長権と集団の占取する領域を家
産化するに至った場合が想定される o そのほか、その領域、が、あるいは王朝的国家権力の支配下に入って、王の官僚
・寧人・収租請負人などの管理下に委ねられ、それらが在地化してその領域を家産化した場合や、あるいは隣接地域の首
-132-
長をふくむ外来征服者によってそうされた場合も想定でき勺この過程において本来の集団の成員は後の二つの
場合には首長をもふくめて│││、﹁封建的﹂隷農の性格を帯びるに至るが、かかる規定を与えうる規準となる居住強制・
耕種強制は、家産所有者つまり領主の側から定められるのでなく、前述のような農業労働における一定の共同性から第
一次的には由来するものであり、またそれゆえにこそ村落の中核的農民層における強度の土地占取権も保持されえた
も の と 考 え ら れ る 。 ム ガ ル 朝 期 の 国 家 貢 租 徴 収 請 負 人 と し て の ザ ミ l γ ダ 1 ルは、まずかかる領主層を任命したもの
で あ り 、 国 家 権 力 の 浸 透 に 伴 っ て 勅 命 を も っ て ザ ミ l γ ダ lルに任命された者とか、領主聞の貨幣経済の進展に伴っ
て購入・移譲によってザミlγ ダ l ル と な っ た 者 と か が 、 そ れ に 続 い た で あ ろ う o 後 来 の 者 も 遂 に は そ の ザ ミ l γ ダ
1リーを自己の家産として世襲するに至るのである。一方ライlヤットの自立再生産については、共同体への帰属に
よってそれが可能であった反面をも考慮に入れる必要がある o
開発者集団起源のある村落は形成期あるいはその後の発展途上において、周辺の先住者を吸収し支配して行なった
であろうこと、および、他の村落はより強力な後来の征服者・移住者の支配下におかれたであろうことも想定される。
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これらの場合にはいずれも、より強い者とより弱い者との関係はカlストとして固定されるのであるが、これが一面
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では共同体内部の世襲的分業関係の基盤を構成するとともに、他国では下級カlストにも一定の R
正吉田-Pロロ昨日 O口、を与えることによって、祭杷集団としての村落の一体性をともかく維持したのであろう。
社会的諸関係のかかる局面は、軍事的支配と貢租徴収とを事とするムガル国家体制の公法的秩序の関知する所では
なかった。にもかかわらず、かかる実体を基底にもつことによってのみ、ムガル国家はある時期までは自己を維持し
えたのである o 帝 国 の 収 租 体 系 の 末 端 に は 家 父 長 制 的 基 層 構 造 に 貫 か れ た 農 村 の 私 法 的 秩 序 が 展 開 し て い た 。 こ の 点
ではイギリス支配も一定の共通面をもつものであった。
北大文学部紀要
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ザミ l ソ、タール・ライ lヤット関係の原型
かかる構図を設定した上で、植民地支配成立期のベンガル・ピハ l ル地方の土地所有関係を要説するならば、
以下のごとくである o 土地に対する権益は基本的には、王朝国家とその代理者たちの収租権と開発者集団つまり農民
の 共 同 体 に よ る 事 実 的 占 取 と か ら な る も の で あ っ た が 、 こ の 時 代 以 前 に 後 者 は 分 裂 し て 、 首 長 つ ま り ザ ミ lγ ダ l ル
によって部分的に吸収される関係にあった。この過程は複雑な様相を呈したであろうが、重要な一側面としては首長の
の領有権と構成員つまりライ lヤ ッ ト の 占 取 権 と が 不 完 全 な が ら も 対 抗 す る よ う に な り 、 領 有 権 は よ り 上 位 の 収 租 権
生産活動からの遊離と、成員の一般的な生産力土井と一定程度の経営自立化とを想定しておきたい。そして最後の占
取権は生産力の一定の発展とその担体たる基幹的共同体農民層の分解を通して、富農層による農民的土地所有ーーー先
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もちながらも対抗しつつあったと考えられる。
ベンガルでも古くは河川から運河・堰堤・溜池をひいて濯
慨することが行なわれたが、植民地時代にはこれらは放置され
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への土地の寄進との聞につながりをみようとしているのは、示
拙稿二第二節参照。邦訳語を小稿では改める。
となった地域としてベンカルを考え、また植民政策とバラモン
(日)コ l サンピ l氏 が グ プ タ 初 期 の 辺 境 開 発 ・ 植 民 政 策 の 対 象
動様式にもとづくものとするならば、ここから国家による民間
唆的である (
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- ロ・同DEEr--DMV 町民?"﹄守、・ N8・MENS-)。 な お
前世紀末にベイデンHパウエルの考えた所では、村落形成の契
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民地時代以前からのかかる問題を処理する際の、慣例化した行
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∞u g r g∞・)。これを農民などが植
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F寸
水利・治水事業の調整・統制・監督ないし統合補完機能などの
機としての移住・開発はかれのいわゆる﹁合同所有型村落﹂に
ジョイントリグイνジ
は、これ以上の立論をはばかりたい。
蓋然性を推定しうるかと考える。史料による明誌をえない今
Z
つ い て 殊 に 指 摘 さ れ る の で あ り ( 出 ・ 凶 ・ 国 包 21HVC
君。]﹁叶,
定住なくして形成されえないのは明白であろう。定住農耕の生
円
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・ 5N・ ) の で あ る が 、 ﹁ 個 別 所 有 型 村 落 ﹂ と て 人 間 の 開 発
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因 み に ブ キ ヤ ナ γ の 調 査 旅 行 区 域 の 中 で 、 ベ γ ガル州デイ
ζ ・富民門戸口、同件、叫がゆ司王 D司、﹀三五戸 E5MMH,
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ナ lジ ュ プ ル で は 港 紙 は 溜 池 を 利 用 し て 行 な わ れ て い た ( 戸
( 刊M )
こ の 地 方 は 広 大 な ザ ミ l ンダ lリ l領 の あ っ た 所 で あ る が 、 溜
ではない。
治 形 態 に し て も 前 ア lリ ア 的 な も の が そ の ま ま 維 持 さ れ る わ け
(日)、フキヤナンは貯水池にふれつつ、ある地方では稲作地一、
ライ 1ヤツトワ 1リ1hクイνジ
池の設営・管理の主体については記録されていない。しかしこ
F岳山口︿二一品。 (UCE自己EqwHLDロ
門
円DPH∞申F H刊
号
、
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由
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盟、 - M缶、・)、定住農耕の生活形態を前ア lリア的とする(也、
れらが個々の農民家族にかかるものとは考えがたい。またいま
の ウ ッ タ ル H プ ラ デ 1 シュ州ゴ lラ ク プ ル 県 で は 、 雨 量 も 多 く
ていた。綱で吊した欝形の容器二個ごとに四人がついて一つの
巾ZHub-印
(円四ロロrgEWHU巳口白田口 L 出
ω仏・)。この玄問。r は明ら
lガ の 土 地 し か 給 水 で き な い と い わ れ て い る 、 と 記 し て い る
で あ り 、 他 の 地 方 で は ﹁ 長 さ に し て 五O ピ lカ﹂では一 O Oピ
Z 5 F 口開門﹃)﹂が必要
の 堤 官 官 口 町 え 片DBHESHOOEm同
送水中継点を作り、いくつかの中継点を河川等と耕地との間に
000ピ l ガ に つ い て ﹁ 長 さ に し て 一 五O ないし一 O Oピ l ガ
設 け て 給 水 す る も の で 、 そ の 間 隔 が 八 百 メ l メルに及ぶものも
かに 司令﹄ミ(約0 ・一一一一一メートル﹀の誤写と思う。貯水池・通
降雨も規則的であるため貯水池は設けられておらず運河も発達
み ら れ た と い う ( 毛 SF-bv・日お印包)。これも一定の労働統
水溝と耕地との位置関係、水量を推定するための貯水池の水深
していなかったが、農民が共同労働によって人工濯慨を行なっ
制力なくしては考えられない事態であろう。
北大文学部紀要
-137-
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ザ ミI ンダ l ル ・ ラ イ l ヤ ッ ト 関 係 の 原 型
いことは知りえなかった。
ω
H
∞
lEH・ 参 照 。 な お こ れ ら の こ と
怠ゲの予祝行事、収穫祭に関する用語解説以上の詳し
・8ui
や通水再開のほば・深さを一示す数字がなく、この記事だけでは何
( 却 ) 戸 出 与F
ruqkwnpw﹄
守
、
・
事も論じえないが、参考のため付記する。
拙稿一第二節、同五第三節で述べた耕種規制の問題は、か
(吉富山口門)がマ l レ夕、ザミ l ン タ ー ル と よ ば れ る 例 も あ っ た
ばの指示する実体は甚だ不確定的であって、土地所有小農民
(
η
)
かる農業技術的条件との関連で把握さるべきであろう。水利に
ルの成立以前から存続していた権力が、叙任状によって公権力
さ れ え な い 。 叙 任 状 以 前 、 租 税 法 的 制 度 と し て の ザ ミ l ンダ l
地と人民を支配した、という拙稿二第二節の見解はもはや支持
b HJbb・HHHlH5・参照)。
町
ロ
( 民
(幻)ザミ!ンタールが叙任状の規定をこえあるいは無視して土
おける共向性のある土地については﹁勝手作﹂はありえない。
土地保有者が同時に水利権の主体となる井水港滅地や小規模の
濯概施設をもってしでも充分と思われる河川縁辺地について、
耕種と無関係な貨幣﹁地代﹂と個人名儀の地券がみられること
の意味は、極めて大きいというべきであろう。
唱。一戸、吋}凶作門出血芯ロ
の 支 持 を 受 け た の で あ る 。 回 ・ 国 民 包 gl]UO
(日)ベイデン H パ ウ エ ル は か れ の 構 想 す る 村 落 類 型 区 分 の 一 指
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H自己ロユツ OHhc卒、同町∞由て河町、始、・u
豪的勢力をムスリム王朝国家の体制に編入したものといわれて
ま た デ カ γ の郷主(弘司 hbw)も 、 ヒ ン F ウ l諸 王 朝 時 代 の 土
b-NNN 芯・をも参照せよ。
標として、﹁個別所有型村落﹂ーーーかれはこれを﹁合同所有型
円凡
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村 落 ﹂ に 先 行 す る も の と 考 え るl iに お け る 原 生 的 な 首 長 権 の
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﹁ア l デ ィ ル ・ シ ャ l ヒl 主 国 ( 西 暦 一 四 八 九 年i 一六八六年
いる。この点はり・ロ・同DEBEuqV3F畑、.ωou・ と 、 深 沢 宏
門
ロ
ロ
こ れ は わ れ わ れ に と っ て も 一 示 唆 的 で あ るハ
。もっともかれ
叶roFS
仏∞万円巾日
は法律的意味の所有のみを関心事とし、生産力的・生産関係的
を否定するが、これはかれの人種主義的村落史観とと
である。
いうのではなく、後者が前者の主要な要素であったというだけ
なお私は制度上のザミンダiルがすべて開発首長であったと
八)第四章第二節を参照。
の地方支配に関する一研究﹂(﹁一橋大学研究年報経済学研究﹂
視点を欠くため、首長権下の村落における﹁耕地の利益共同体
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(8525HFQえ 5Z525po口三己︿巳EZZ)﹂(︿ニ・ (
斗・州内・出EF--d巾図。口問戸一司AMPEEH円。目、叶=出。門C
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もに克服さるべきものであろう。
(mm)
H己、.の収穫祭の記述、。・﹀・のご28P 色、三子
JSSW主-
同町内
-138-
(辺)バウグルプルについてみると、一九世紀初期には米がもっ
と波み上げた水をあけることとをするばあいもあるが、ふつう
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b・怠叶l主申・)。井戸港慨は水を入れる皮袋
培にも用いられた (
人が日昇時から午前九時までと、午後三時から日没時あるいは
が行なう、という方法もとられた。通常はラタ一基について二
をおき、汲みあげられた水を水槽や水路にあけるのは別の一人
一基に二、三基のラタを設けてそれぞれにてこの操作をする者
に綱をつけ、'綱をローラーにわたして二頭の牡牛にかけ、牛の
暗くなるまで、作業した (
8 日i呂町)。
UD・3HEEL回目﹁同吋wbb・
はラタ一基について二人でこの作業を交互にくりかえす。井戸
動作によって汲みあげられた水を水槽にあけて流す、という方
コIイリ i、 多 数 の タ ル ミ l (尚喜三同町)、少数のカンジヤル
濯慨は小麦・きび‘ (bS悼凡門誌司抽選 NN白
R 尽き時)・甘煎・疏菜類の栽
法 で 行 な わ れ た 。 こ の 道 具 立 て を そ i ト (SDC と い う が 、 一
(
同
町
民
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﹂S、)諸カ l ス ト の 農 民 が 同 線 い わ ゆ る 閤 芸 農 業 に 従 事 し
凶2
mm一宮♂﹄V
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とも重要な作物であったが(司・回R E E F H7
従 っ て い く つ も の 井 戸 を も ち 数 基 の モ I 卜を用いてい
-hFmw)0
モl卜に牛追いと水袋投入とのため一一人分の人手が必要である
ていたなも・ ωωω"gJ1・) 0 パ ウ グ ル プ ル に つ い て 推 察 し た の と 同
な
わゆる園芸農業を蛍なむ者の中には、家族労働力だけでなく他
じことがいえると思う。
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ミ切 bb・NgINE- 参照。
った。さしあたり拙稿二第三節、
(お)ザミ l ンダ l ル と 称 さ れ る 階 級 は 決 し て 一 様 均 質 で は な か
の雇傭労働力に依拠する者があったことは当然想定されてよ
い。上記の事実は特にム 1 ン ゲ ル 地 方 に つ い て 述 べ ら れ て い る
トの農民‘かいて、もとはケシを、アヘン禁止後は小麦や涜菜類
ぷ) Hカ l ス
が 、 こ こ に は 園 芸 農 業 に 従 事 す る コ lイリ 1 3 3
一・一一一ヘクタール)
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( 討 ﹀ イ ン ド 東 部 で は サ ン タ l ル族が好適の例であろう。
を栽培していた。かれらは多少の蓄財をもち、農耕・給水用の
A肝心。これらが
の 土 地 と を 各 人 が も っ て い た 、 と い わ れ る な ・ 串N
牛 二 頭 と 七 ・ 五 な い し 九 ・ 五 ビ lカ(一
ro 開
口 C口
OBK 回目門oqchHロ門口問戸口LRHWR
(お)同・ロE F H,
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他人労働を収奪していた可能性は大きいとみてよい。
富﹂(﹁世界史講座﹂四東洋経済新報社一九五五年)を参照。
bbミHJJ3--Mwbb・3 l叶日・所引。邦文では松井透﹁ベンガルの
とでは引用の仕方がやや異なるが、後者の方
パトナ・ガヤ地域では井水濯減が米・小麦・大麦・甘皮・疏
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が資料として読むにはよい。私が問題とするのは以下の文言で
口三件と
菜類の栽培には用いられるが、ガンガl河近傍の平野地帯では
一人でてこの操作
殊に、手 l トではなくラタ(之内二三ym
下│﹄てこの先端に水くみ
用のっぽな♀)を下げたものーーーを用いる。
北大文学部紀要
一139-
ザミlンダlル・ライlヤット関係の原型
υ主
由
ミ 白"(NEPNF一
z
r と綴るのが通例)は︿区例﹀、︿地域﹀。
ったかは不明である。
吉良﹄日申立の原義は(人頭税)であるがふつうには臨時の課徴
ベンガル暦一一七九年(一七七二七三年)、政府のイギリス
ある。
人 の お 役 人 が た は 私 の 土 地 の 古 く か ら の 諸 地 代 (DEH22) 長
ンダ l ル な ど ﹀ の 徴 収 す る 臨 時 の 課 徴 で 、 守 、 念 ﹂
をさす。九凡な︿向、のぎはぎミは、ニ疋地域の首長(ザミ l
.
Sへ の 一
を ひ と ま と め に し 、 ジ ラ ダ lリ I H マ l F ウト(弘之失礼臼ふ
構成要素である。
さ と ぎ ミ ) 立 と そ の ほ か の 臨 時 の 諸 地 代 ( 門 巾535ミ足口昨日)
とを永代のものにし、︹しかも︺一フイ l ヤ ッ ト た ち の 大 規 模
(国家と農民との間の﹁中間者﹂)としては規定されえないこと
を、明瞭に示す。かかる発想をザミ l ンタールがしている点に
以 上 傍 点 の 部 分 は 、 ザ ミ l ンタ l ル が 単 純 に 国 家 の 収 租 請 負 人
つまり地租契約書をさしだしました。私は古
な逃散に対する︹地租の︺控除をしませんでした。私はお役
(HhNKHMhN)
gロロ可同)を受け、タフ
ード
人がたからこういう条件で土地(岳巾
問題がある。但しこの文言からザミ l ンタールを寛大な営農家
L
と 結 論 し え ぬ こ と は 、 拙 橘二第五節(日)註で述べた。
(部)市場設置料・通関料と漁場使用料・放牧料などをふくむ
s
uマ(おして町、)は、拙稿二第六節に述べたごとく、ザミ l ンダ
2ロロ可三をと
く か ら の ザ ミ ン ダ i ル で 、 私 の ラ イ l ヤットたちの嘆きをみ
て は い ら れ ま せ ん の で 請 負 人 と し て 土 地 ( 己5
旬、と芸品目
l ル の 領 主 的 権 益 の 内 容 と し て 理 解 さ れ る か ら 、 匂 bwm
ることに同意致しました。:::(傍点筆者)
EF) の 高 地 は 水 が な い た め 何 も 産 出 し ま せ
:ラ l ル(問
( 幻 ) ( お ) 訳 文 参 照 。 こ れ に よ る と ザ ミ l ンダ l ル は 治 水 工 事
との併存する理由は自明であろう。
の費用を農民から徴発しており、それがいかなる形態をとっ
んでした。非常な低地である、ハトリア(∞﹁三日広)では会社
に収め堰堤を作りましたが、パドラ月(一七七一二年八月)に
たかは明瞭でないが、いずれにせよ治水がムカル国家の直接的
︹政府の︺お役人がたが築堤費志向﹃吉芯丸山)をご自分たちの手
堰堤がこわれ、ライ l ヤッーたちの土地と作物とは水浸しで
事業でなかったことは確かである。しかも
・に明らかなように、ラージュシャl
、
。
Z・関・ ωErp
ライ l ヤ ッ ト た ち を 破 滅 か ら 守 ら ぬ わ け に は ま い り ま せ ん で
だ め に な っ て し ま い ま し た 。 私 は ザ ミ i ン、タールですので、
-w
を想定する所以である。
︿o--M-bb-HNOiHNH
ヒl の ザ ミ l ン ダ l ル は 開 発 首 長 の 出 自 で は な い 。 継 承 ・ 吸 収
及
川
γガ リ ー ま た は ベ ル シ ア 語 が 何 で あ
した。支払いをすませるために時間の余裕を与え、私にできる
irJO
口元と英訳されたベ
かぎりかれらを気楽にさせました:::(同前)
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なお治水工事はビハlル州ではみるべきものがなかった。必
要度が低かったのであろう(司・回ロロ
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町-w ﹄
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・
印
一
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公租を免ぜられたいわゆるザミ l ン タ ー ル の 私 的 保 有 地
(却)(お)訳文参照。
因みにプキヤナンの土地利用推計表から、米作地(夏・冬・
ポロアマン
春収穫、単・混・輪作、二期作通算﹀、そのうち殊に重要な冬収
る割合を算出すると、別掲のようになる。もちろん原資料は推
米作地と小麦作地(単・混・輪作通算)の総耕地面積中に占め
計にすぎないから、完全に精確とはいえないが、これから次の
ンガルから現在のウッタルHプラデ l シュに移るに従って減じ
推定を下すことができるであろう。つまり、米作地の比重はベ
ているにせよ、また米作地の全部が相当規模の人工潅概下に必
u
(拙稿二第三節参照)の少くとも一部分では、賦役(労働地代)
(mU)
が行なわれていたとみるべきであろう。岡山・ ocrmb ﹀・冨肝片岡山
(訂)この点と関連して羽仁氏が、インド社会発展の特質をより
HくiHM35
凶
己
注
垣
内
凶 PFZHOHmH
自己包 jwNS司d
F
・参照。
同門叫 J H
、h
也
、 k・
v -
よぶが、礼拝しないわけではない。﹁村神﹂は神像になってお
古い諸関係が完全に解体されないままそれと融合したかたちで
(bp阻む九時せ白 Hh) と
らず、自然のままの石や土塊のかたちで礼拝され、忍祝・祈祷
(部)バラモンたちは﹁村神﹂を邪神・悪霊
師的な神職を伴っていた。﹁村神﹂はすべての身分・階層の人
が(同氏前掲書三三│四二頁)、融合H停滞の契機の指摘に急
H∞
SIg.-Mωgpg皆、﹄守・同∞∞・
アウスアマン
新たな諸関係が形成されることに求めたのは非常な卓見である
古
で解体H発展の契機への考察が不足している。
びとによって、厄除け神として杷られていたらしい。﹁村神﹂
祖
の中にはヴィシュヌの化身やシヴアの配偶に付会された地母神
も あ る が 、 そ れ 以 外 の 部 族 神 的 な も の も 多 い ( 円 切 戸 口rEE
m
m
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q戸ア﹄守、・ MglN410uUD--HVωgp ミpbv・ω2Iω 毘・)。石や
国﹃白
土 塊 の 神 々 が い わ ゆ る ヒ ン ド ウ l のパンテオンの神々や、第二
節 註 ( ロ ) に 記 し た ザ ミ i ンダ l ル 家 の 守 護 神 と と も に 礼 拝 さ
れるということは、いくつかの重要な問題を示唆するが、他日
考察したい。なおムスリノムの問題も当然考察の対象とならねば
ならないが、私は農村社会の次元では過大視の必要はないと思
D片岡 ν
ロ
52
ub-- ﹀ロ﹀口向。自民
う。この点については回﹁担問巳百戸 ? ? N O∞
円子。ロ EH
吋
目
立
0
体系の下にある人工濯減への依存度が高く、その設営と稼動に
いし四分の一一一と推定されることは、間接的ながら地主的水利
ずしもおかれていなかったとしても、米作地率が三一分の一な
冨邑HS2rgみ︽rnogBB仏丘、同V22.58旬
Sis- が参
、
、-
関連したなんらかの労働組織の形成・展開を推測せしめるもの
参照。﹁村神﹂については地域・時代を異にするが﹄・ロ戸沼E♂
考になる。具体的には社会人類学資料からの追求が必要である。
北大文学部紀要
-141-
米作冬収穫小麦
名総耕地地米作地作地
HNOH)012MHrσωgzch 切戸円門日唱∞口出口出仏国 σ同﹄・司ωユ寸一子
FPHmuh子同町民仏耳SF2gH白河叩
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0・)によると、河川
刊の巳23PS缶、、・5
久ノ。
れざるをえないであろ
規模も自ずから限定さ
派生する二次的な集団の
その不完全な解体から
解体不全は不可避であり
成長による先行諸関係の
限り、農民的水利体系の
条件への依存が存続する
になるが、かかる基本的
といってよい。繰り返し
ザ ミ lγ ダ l ル ・ ラ イ lヤット関係の原型
,
(出所)F
.Buchanan,PatnaandBehar,
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App.48-49,
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0年 前 後 の 土 地 利 用 状 況 推 計
口
包
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が氾濫する時に農民が自然に形成された河岸をこわして、水を
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85ω ・回-Rrr三口同D 同﹁刊のD-F20円。﹃
あ る 。 ま た FZRH 同
ζocgraortw 円目白件。門同司・﹄己・可申 m・
v と、これに添付した前日
V2RHhgBHHURF可Sω ・呂田口付﹃5ロ ・同・出口回目除
ω
(
号、町民同 - b J 品位・)によると、月
フラックパ l ン
付の
55uミ
﹀
・
(インデイゴ H プ ラ ン タ i) 経 営 の 工 場 の 前 に あ る ザ ミ l ンダ
lリ!日バンドを、かれと契約中の農民たちに修築させるつも
て工事をしなければならない、と述べてある。これも局地的水
りだったが、かれらが工事を遅滞するので、かれが自費を投じ
利工事と運営の組織が、非契約者をもふくむ全体としての農民
側にあったことを示すものではなかろうか。
ユCH仏)﹂とよび、﹁上級領主権 (
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H
L由主唱)﹂成立をもっ
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(お)ベイデン H パ ウ エ ル が こ れ ら の 外 来 者 を ﹁ 上 級 領 主
て﹁共同所有型村落﹂形成の契機とみたことは、周知の所であ
るが、私にはむしろ﹁上級領主﹂が在来の農業生産といかにか
かわりあうに至ったかが関心の的である、この点の解明は容易
でないであろうが。
ちによる一定の水管理組織なり慣行なりが存在し、他方ではか
のようなことが行なわれうるためには、一方では近隣の農民た
ける首長の下級共同経営者ともいうべき性格をもっており、そ
ットの原型は、開発者集団の構成した家父長的農業経営体にお
(出)拙稿一第二節、同五第三節参照。農民たるクド日ライ l ヤ
参照。
(引叫)拙稿一第二・七節、同二第五・七節、同五第三節註(お)
かる水採取が大きな水害の原因になるのを未然に防止するよう
れゆえに家産首長や﹁上級領主﹂によっても折除されえない土
稲作地にとり入れることがひろく行なわれていたというが、こ
な、より大きな規模での治水工事がなければならないはずで
-142-
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Rangpur
Purniya
Bhagalpur
Patna,Gaya
Shahabad
Gorakhpur 北部
仏
国
件
。L N由・富山門-H42(﹀
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(日記﹀
県
農民の規定性を右のごとく扱って誤たないと思う。農民は家父
ι55H) に よ る も の で あ る 、 と 論 じ て い る が 、 私 は そ の 場 合 の
agの体系を要述して、それらの施設・設備が農民の労役(﹀吋r
か。同・の 02NWb-a
・0・ は イ ン ド 諸 地 域 の 多 様 か つ 複 雑 な 濯 滅
地占取権を享受するに至ったものと、考えられないであろう
ったのではなかろうか。
って﹁総体的奴隷制﹂的支配を受ける、という傾向を免れなか
ダ l ルのごとき地域的首長に替ったにせよ、なおその首長によ
民といえども、労役賦課主体が王朝国家の君主でなくザミ lン
は潜勢的には﹁﹃封建的﹄隷農﹂であり、﹁封建的﹂段階の農
るのであり、かかる状態をもし﹁総体的奴隷制﹂と称しうると
長的集団に属するものとして、王侯等の労役賦課の対象とされ
、1 ンダ l ル の 属 す る 部 族 ま た は カ l ス ト の 領 域 と 一 致 す る こ
、
サ
(お)ムガル国家の地方行政単位たるパルガナ(官民岡田EZ が
隷農﹂の域に至るのである。しかも﹁総体的奴隷制﹂下の農民
社会と考えたものに内在する﹁アジア的﹂特質を素描して
5?gN・参照。
とを想起せよ。戸国岳山子 qb 円凡Hwbb
・
L
-143-
すれば、それからたぶんいくつかの中間段階を経て、﹁﹃封建的﹄
むすびにかえて
以上私は、旧稿の所説を再検討しつつ、﹁封建的
北大文学部紀要
生産関係として生産力の体系として把えるとすれば、われわれはその政策をいかに評価しうるであろうか。また法制
a
らしたものであり、それは﹁革 命的﹂意義を担ったことがらではあったが、土地所有を単なる法律的範障としてでなく、
世上しばしばいわれるように、植民地政府の土地 H地租政策は確かにイシド史上はじめて﹁私的土地所有﹂をもた
めぐる農制とであった。問題はここを出発点として次にどこに研究の照準を定めるかであろう。本節ではむすびにか
えて、十九世紀初期のベシガル・ピハlル地方社会史の問題点を略述する o
くは経営体の構成が、社会の基層構造として持続してきたことであり、それを一不すものが祭儀・神事料の徴収と水を
きた。それを概括するならば、ザミIシダlルとライlヤットとの関係の原型とみなれる家父長的な農業共同体もし
二五
五
ザミ l ソダlル・ライ lヤット関係の原型
措置を通して創出された﹁私的土地所有者﹂は、はたして近代的な、たとえば政治組織や身分的秩序などとはいちお
旧来のザミ l ンダ l ル 層 が 没 落 し 替 っ て 商 人 層 が 土 地 を 購 入 し て
断絶・遊離した所の、所有者であったろうか。これらの点について十九世紀初頭までの問題点をふりかえってみよう。
植民地政府の土地川地租政策の結果として、
o
シヤ l ハーバード県で
この問題と植民地支配の農業への影響とを関連づけて考える上で、 極 め て 重 要 な 素 材 を
ていることが、十八世紀末期には既に確認できるのであるが、これまた高額地租収取のもたらした所とみて疑いあるま
ベンガルのガンガ l河デルタ地域では、古くからの堰堤の損壊甚だしく、ザミ l シダ l ルはこれが補修・新設を怠つ
的効果・影響として主要作物の転換が起ったとみることができるかもしれない。
のがふつうであるが、以上の状況から考えるならば速断はできないにせよ、 植 民 地 支 配 時 代 の 土 地 H地 租 政 策 の 間 接
て重大といわなければならない。こんにちの常識ではピハ l ル州はむしろ小麦作地帯とされ、米作地帯には数えない
地売却にまで至ったことはつとに指摘されているが、 そ れ が 農 業 生 産 の 上 に ま で か か る 影 響 を 及 ぼ し た こ と は 、 至 っ
摘 し て い る 。 ザ ミ I ン ダ l リ 1永 代 定 租 制 下 の 地 租 賦 課 額 が 過 重 な た め 、 ザ ミ lγ ダ 1 ル 層 の 債 務 が 増 大 し 遂 に は 土
め に 米 作 が 減 退 し つ つ あ る こ と 、 そ し て 濯 概 の 縮 少 な い し 放 棄 の 一 因 が ザ ミ I ンダ l ル の 負 債 状 態 に あ る こ と 、 を 指
提 供 す る も の で あ る o すなわちかれは、 かれの調査旅行の時点において、 ザミ l ンダ l ルが濯慨をおろそかにし、た
のF川ブキヤナ γの所見は、
ピハlルのザミ Iγ ダlルが農業水利において主導的な役割をはたしたことは先述したが、
れまでほとんど検討されていない。本節で提示することはかかる問題の研究のための一端緒である
ザミ lγ ダ l ル と な っ た こ と は 、 周 知 の 事 実 で あ る が 、 政 策 の 影 響 ・ 効 果 が 農 業 生 産 の 上 に い か に あ ら わ れ た か は こ
J
川v
同 時 に こ こ に は 別 個 の や は り 重 大 な 問 題 が 伏 在 す る 。 ザ ミ lγ ダ l ルが濯甑・治水事業放棄によって農業生産にお
-144
、
.
.
.
ける一定の主導的役割をも失うに至ることは、 ザミlソダlルとライ Iヤットの関係がもはや家父長的農業共同体の
首長と従属成員日下級共同経営者という色彩を稀薄にし、両者の聞の階級的矛盾・敵対の相をより顕在化させて行くも
農業生産か広完全に遊離した寄
﹁アジア的﹂特質なるものが植民地支配の展開の中でいかなる役割をはたし、 、
、
したこと、白地租の支払い不能におちいったザミlγダ 1 ルに対しては、滞納額相当の土地の差抑え・競売による回収
を強制したこと、日開少くとも法律上はザミIンダlルの地代収取に一定の制限を課したこと、制グド Hカlシユト川ラ
イlヤットの慣習的土地占取権は法制化の対象とならず、 かれらは小作契約を結ぶ借地人に擬せられたこと、 の四点
が重要である o すなわち付帥はともにザミlンダ I ルの土地所有権を近代的かつ私的なものとして確定したかにみえ
LV
yト の 守 護 者 た る 自 覚 を も っ た こ と は 、 ラ l ニ l
のと予想されるからである。ザミーγダlルの農業生産からの遊離は植民地時代以前から既にみられた所ではあった。
しかしなおそのようなザミlγダlルが治水の責に任じ、ライlヤ
Hバヴアlニ!の証言に明らかであった。 ザミlンダlルが植民地支配期を通じて、
生的地代収取者に転化して行ったことは、もはや賢一=日を要しない所であるが、今後に考察を要するのは、然らば殊に
るて
るが、白に明らかなごとくそれは所有者の地租納入義務の対抗を受けかつ後者が優位に立つのであり、伺は一八一二
北大文学部紀要
-145-
治水や濯甑の設備施設を設営・掌握することによって農業生産の主導権をとるに至った階層は何であったか、という
か予
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次 に 植 民 地 政 府 の 土 地 H地租政策l │こ こ で は ザ ミ ! γ ダ lリ l 永 代 定 租 制 の み を と り あ げ る が ー を 制 度 面
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質問
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問題である。商品作物栽培の浸透や農民反乱の問題とも関連させつつ、今後の検討解明にまたなければならないが
な論
について要説するならば、付ザミlシダlルの裁判権・警察権を法制的に否定し、これらを植民地政府の機構に吸収
二七
か理
ザミ i yダlル・ライ lヤット関係の原型
年に解除されはするものの、そしてそれ以前とても実効はなかったものの、やはり土地所有権の制限には相違なかっ
た。このようにみるならば植民地政府による法定土地所有権は、地租納入義務をいわば担保とする制限された内容の
権利であって、絶対性をその内容とする近代的所有権からは程遠いものであったといいうる。
か か る 擬 制 的 近 代 性 に 加 え て 、 植 民 地 政 府 は ザ ミ I ンダ l ル 層 を 統 治 機 構 の 末 端 に 動 員 し 、 裁 判 所 や 警 察 署 の 属 僚
一八一三年以後のことである││の基礎を固めたものである。
に任用し涜換言すれば在来の﹁アジア的﹂・﹁封建的﹂社会構造を再編して、イギリス資本主義のイシド農民支配│
このことがことばの完全な意味で実現するのは、
従って私は、 ザ ミ lンダ I リ l 永 代 定 租 制 を も っ て 、 土 地 制 度 の 近 代 化 と は み な し え ず 、 む し ろ 植 民 地 支 配 の た め
の﹁アジア的﹂・ ﹁封建的﹂秩序の再編成と考えたい。
イギリス資本主義の植民地支配の下での﹁封建的﹂諸関係の推移を、 そ の ﹁ 封 建 的 ﹂ 諸 関 係 の 基 層 構 造 を な す ﹁ ア
ジア的﹂特質の変動とともに解明することが、植民地時代史の中心をなすひとつの問題ではないかと、私は考える。
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とも高いのはピハ lル川であるが、これは束パキスタンを除外
しての数値であり、しかも小麦作池には言及していない。
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gH・によると、分離独立後のインド連邦で米作地率、がもっ
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その試みの中に、 い わ ゆ る 近 代 か ら 現 代 へ の 社 会 史 上 の 問 題 の つ な が り を 求 め て み た い 。
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・同・図。回目除﹄・。・
一
拙稿二第五節参照。但し領地狭小なばあいには、当然事情
(ミ・)"口伝巾凹
75 -Nwbb-HHωlH5・参照。
(4)
羽仁五郎氏はインドの資本主義化を必然なるものとし、﹁か
を異にしたであろう。
の特殊なる村落共同体乃至カスト制度の全アジア的構造のいわ
(5)
(6)
拙稿七第二節参照。
ージ)。
ゆる﹃特殊性﹄﹂は、所詮近代においては﹁資本主義帝国主義
の階級的搾取機構﹂によって利用されるものにすぎず、結局は
ω
(
ωO出向口g
℃u ミ wq mHJVV- 品HN
・J・参照。他にも多くの資料が
あるが、これらはいずれもザミ l γ F Iルが水利事業を実行し
っ、といういわば普遍史的理解を示した(前掲書六四│六六ペ
インド H プロレタリアート形成の前提条件としてのみ意味をも
凹
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r丘、内宮内向門凶 5 ・KFUH-H4可申由・
D町 宮 COHr
えなくなっている状況を認めている。会社政府は必要に応じて
﹄守口
はザミ l ンダiリ IHRハンドの修築費を支出しているが、原則
はあくまでザミ 1 yダ I ルに領地内の堰堤工事の責任を負わせ
ることであった。法律上の規定については、︼・開・(リ orzoor
巾
付記脱稿後に、福富正実・編訳﹁アジア的生産様式論争の復活﹂(一九六九年未来社)と、松井透・山崎利男・共編著﹁インド史
における土地制度と権力構造﹂(同東大出版会)が出版された。ともに本稿の所論と関わり深い論考を収めてあるが、本稿の論旨展開
に利用する暇のなかったことを、ことわっておきたい。
北大文学部紀要
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