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おっさんがびじょ。 - タテ書き小説ネット

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おっさんがびじょ。 - タテ書き小説ネット
おっさんがびじょ。
山田まる
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
おっさんがびじょ。
︻Nコード︼
N5848BZ
︻作者名︼
山田まる
︻あらすじ︼
とおの あきら
至って普通のMMO﹁レトロ・ファンタジア・クロニクル﹂をい
つものように相棒のおっさんとプレイしていた大学生、遠野秋良は、
誤ってレアドロップを使ってしまったことにより、レトロ・ファン
タジア・クロニクルの世界へとトリップしてしまう。それはそれで
仕方ないので相棒のおっさんと乗り切ろうと思ったら⋮、おっさん
はおっさんじゃなかった⋮!?
1
アーススターノベル様より書籍化。
2月15日に四巻発売しました。
書籍化に伴ったダイジェスト化などはありません。
2
魔の転送石とおっさん︵前書き︶
0831修正
0916修正
3
魔の転送石とおっさん
とおの あき ら
その日は、俺、遠野秋良にとって特別な日になった。
ほぼサービス開始当初からプレイしていたMMO、レトロ・ファ
ンタジア・クロニクル︱︱略称RFC︱︱の最新かつ最深MAP踏
破へと手をかけたのだ。
今この瞬間、RFC内の攻略最先端に自分がいるのかと思うと、
マウスを握る手にも力が入るというものだ。
世にはVRMMOなどという仮想現実にダイブしてプレイするタ
イプのMMOを題材にしたファンタジー小説が多くあるが、今のと
ころその技術はまだ実現していない。
視界だけ、ならばある程度実現できているゲームも一部あるよう
なのだが、五感や、脳の神経系統への命令をアバターに反映させて
動かすレベルとなると、まだまだその技術は実用されるには至って
いない。
なので俺が今プレイしているRFCも、至って普通のネットゲー
ムだ。
PCの前に座って、画面を見ながらキーボードやマウスを使って
キャラクターを操作する。
そして⋮⋮、今その画面には洞窟内の少し開けた空間にて、二人
の男性キャラクターがモンスターと戦う様子が表示されていた。
一人はロングソードをふるういかにも騎士といった態のキャラク
4
ター。
こちらが俺のキャラである。
見た目通りの前衛型の騎士だ。
そしてそんな俺のキャラより一歩ほど後ろで、獣を指揮して戦う
ダークエルフの男性キャラの名は、イサト。
通称おっさん、である。
見た目はたいそう美麗なダークエルフの青年ながら、発言が老成
しきったおっさんめいているため、ついたあだ名がそれだ。
本人もそれを否定しないので、そのまま定着してしまった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イサト:あ、やばい。しぬ。
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ぴこん、とログに新たな発言が追加された。
﹁ちょ、ま⋮⋮っ!?﹂
確認すると同時に思わず呻く。
ちらりと画面の左隅に表示されるパーティーメンバー欄でおっさ
5
んのHPを見たところ、それはすでに鮮やかなスカーレット。
残りHPがかなりまずいところまで減少している証拠だ。
この辺りのモンスターを相手にした場合、後一発でもくらったらお
っさんは死ぬ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
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アキ:おっさん回復薬は!?
イサト:使いきっちゃったてへぺろ。
アキ:おっさんんんんん⋮⋮!!!!!
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−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
おっさんにてへぺろされたところで可愛げのかけらもない。
特に前人未到のダンジョンの最深部、もしかしたらクリア寸前か
もしれない、といったところならばなおさらだ。むしろ殺意がわく。
ちなみに言うまでもないが、﹁アキ﹂というのはRFCにおける
俺のキャラの名前だ。秋良だからアキ。安直なネーミングだとは言
わないでくれ。俺が一番よくわかっている。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
6
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イサト:アキ青年、回復薬余ってないか。
アキ:渡すからまずは死なないように頑張れ⋮⋮!!
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−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
お前はマンボウか、とツッコミたくなるほどに死にやすいおっさ
んだが、その攻撃力は異常に高い。このあたりに湧くモンスターは、
前衛職である俺ですら一撃必殺出来ないHPと耐久値を誇るという
のに、それをおっさんの使役する獣はやすやすと一撃で引き裂いて
しまう。
なので、ここでおっさんに死なれてしまうと、おっさんの使役す
る獣も消えてしまうわけで、そうなると今までそちらに向かってた
モンスターが全部一息に俺の元へと押し寄せるわけで。
まあ、死ぬ。普通に死ぬ。
死んだところで周囲にいる誰から復活系の回復アイテムを使って
くれれば、デスペナも発生せず、その場で蘇生することもできるの
だが⋮⋮。
現状、どっちかが死んだらそのまま戦線を崩されて全滅するコース
が濃厚だ。
といっても二人しかいないわけだが。
⋮⋮よく二人でここまで潜れたよな。
7
公式から追加マップが発表されてからすでに一週間。
数々の廃人どもが挑んでは、﹁なにあの苦行﹂と言わしめた魔の
洞窟。
経験値もそんなに美味しくない、モンスターは異様に強い上に異
常に湧いてる、ボスは取り巻き二匹から常に回復をかけられている
ときた。
取り巻きを先に倒そうとしても、取り巻きはボスから延々とHP
ドレインをするという厄介な仕様だ。取り巻きAにダメージを与え
ても、取り巻きAはボスからHPを吸い上げ、そのボスを取り巻き
Bが回復する。
ならばと取り巻きAと取り巻きBに同時に攻撃をかけると今度は
別の問題が出てくる。取り巻きABは、こちらから攻撃しない限り
はこちらに攻撃を仕掛けてこないのだ。つまり、取り巻きABに同
時に攻撃してしまうと、こちらもまたボスと取り巻きABの合計三
体の敵からタゲられることになる。ボス一匹の火力ですら、一発で
重装備のこちらのHPの半分をあっさり削るのだ。そこに取り巻き
の攻撃が加われば⋮⋮どうなるかはわかるな?
そんな大惨事状態であるため、正直公式が何を考えてこんなMA
Pを追加したのか全くもって理解に苦しむ。
ただのドエスなんじゃないのか。
噂によると、そろそろ公式がパッチをあててボスのステータスに
調整をいれる、という話もすでに出ているらしい。
最新マップでありながら俺らの他に人がいないのは、皆そのパッ
チ待ちであるせいだろう。
8
逆に俺やおっさんのような物好きは、パッチがあてられる前に運
営のドエスっぷりを堪能してやろうじゃまいか、なんて思いつきで
こうして平日の昼からダンジョンに潜っているわけなのである。
おっさんは謎の自由業、俺は時間に余裕のある大学生だからこそ
実行できた成り行き任せの企画だ。
俺は大きく剣を振り回し、当たった敵をノックバックさせる効果
のあるスキルを発動。それと同時におっさんをクリックしてアイテ
ムの譲渡を試みる。
俺が所持している回復アイテムの約七割をおっさんに渡す。
無事に受け渡しが済んで、ほっと息を吐いた。前回おっさんと二
人で別のボス戦に特攻した時のことを思い出す。アイテムを譲渡し
ようとしてお互いに立ち止った瞬間、目の前でボスキャラの放つレ
ーザービームの直撃を喰らっておっさんに死なれた時の虚無感とい
ったらなかった。アイテムを渡す相手がいません、という無慈悲な
システムメッセージを見て呆然としている間に、俺もまたレーザー
ビームの犠牲となったのだ。南無い。
そんな感じで毎回回復アイテム切れを起こしがちのおっさんでは
あるが、それは別段おっさんの準備不足というわけではない。もし
そうだったらとっくに俺がきゅっと首をしめている。そうではない
のだ。単純に、俺とおっさんでは回復アイテム使用の頻度が約三倍
∼五倍ほど違う。
もちろん頻度が高いのはおっさんの方だ。
9
おっさんはおそらく今回も所持限界まで回復アイテムを積んでき
ていたはずだ。それでも、足りなくなったのである。
リアルなら腹がたぽたぽなんていうレベルじゃすまない。
美麗なダークエルフの青年が、股間をおさえて尿意を訴える様を
思い浮かべると思わず口元が笑みに緩んだ。
﹁まったくおっさんはしょうがねぇなぁ﹂
おっさんとつるむようになって以来の口癖だ。
何せおっさんは自分より20∼30以上レベルの高い敵ですら一
撃必殺するだけの火力と、自分より10以上レベル下のモンスター
相手にも一撃必殺される紙装甲を持ち合わせる御仁なのだ。
そんな厄介な特性を持ち合わせているわりに、俺を含め何かとパ
ーティーに誘う声が絶えないのはおっさんの人徳だろう。なんだか
んだ面白いおっさんなので、戦力として役に立たなくとも、一緒に
遊ぶだけで楽しいのだ。
見ている側から、さっそく俺が渡した回復アイテムを使ったのか、
ぐんぐんとおっさんのHPが回復していくのがわかる。
後は消耗戦だ。
こちらの回復アイテムがきれるか、何か致命的なミスを犯して全
滅するのが先か相手のHPを削りきるのが先か。
現在俺らのとっている戦法というのはひたすら愚直な正攻法だ。
俺とおっさんで取り巻きに同時に攻撃を仕掛け、ボス+取り巻き
10
×2の攻撃ダメにひたすら耐える、という。
ショートカットキーに回復アイテムを使用する指は止まらない。
俺ですらこうなので、おっさんなんぞそれこそひたすらショート
カット回復を連打しながら、攻撃指示を出しているという状態だろ
う。
そんな作戦もへったくれもない正攻法でもここまでねばれている
のは、俺もおっさんもそれなりに高レベルに分類されるところまで
キャラを育てているからだ。
後もしかしたら、本気で攻略する気がなかったことも良かったのか
もしれない。
あくまで俺もおっさんも物見遊山気分、いけるところまでいって
みよう、としか思っていなかったのである。
なんとしてでも攻略してやる、という気負いがなかったことが、
良いように作用した可能性も捨てきれない。
︱︱それか、神様の悪戯か。
後から思い返せば、それはそういう風に呼べるタイミングだった。
延々と、いっそ眠くなるような単純作業の繰り返し。
HPが尽きる前に回復薬を登録したショートカットをたたき、同
じくショートカットに登録してあるスキルの発動を実行。
スキルには一度発動させた後にいくらかのクールタイムが設定さ
れている。
11
その間はひたすら通常攻撃を叩き込む。
そしてクールタイム終了と同時に再びスキル攻撃。
どれぐらいその作業を続けていただろうか。
そろそろ俺がトイレに行きたくなってきた。
もちろんキャラで、ではない。リアルでだ。
が、ネトゲをプレイしたことのある方ならばおわかりだろうが、
ネトゲにはポーズ機能というものがない。
おっさん風に言うならば時を止めることなど誰にも出来ないのだ
よ青年、というところだ。
いや、漏れる。
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アキ:しょんべん
イサト:もらせ
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しょんべん、なんて名詞だけで意図が通じたのはありがたいもの
の、返事はさらに短く、そしてさらに酷かった。
MMO中毒といえるほどまでのめりこんだヘビーユーザーの中に
はボトラーと呼ばれるツワモノもいるらしいが、俺はそこまでの領
域にはまだまだ達していない。
12
達したくもない。人間としての尊厳はまだまだ大事にしたい。もち
ろん部屋の中で豪快に垂れ流すなんていうのは問題外だ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イサト:まあきりないし、あとちょっとでひだりがしぬからそいつ
だけたおさないか
アキ:りょ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
いよいよ余裕がなくなってきているのか、おっさんが漢字変換を
諦め出した。
チャットに気を取られると死ぬ、というのはおっさんの定番だ。
俺の膀胱的にも、回復アイテムの残量的にも、それは妥当な提案
に思えた。
あの運営の狂気ともいえるラスボス、その取り巻きの一つを破壊
できただけでも土産話には十分だ。
そうと決めたら後はもう勿体ぶらずに持ちうる限りの力を使って
取り巻き︵左︶に全力で攻撃を叩き込む。おっさんは回復防止のた
めに取り巻き︵右︶へとちまちま精霊魔法を仕掛けている。
おっさんのメインスキルはペットの使役なので、エルフといえど
精霊魔法の火力はそれほど高くはない。だが今回は攻撃して回復を
13
邪魔さえ出来ればいいので、火力についてはさほど問題にはならな
い。
高ければ高いに越したことはないのだが。
そしておっさんの使役するグリフォンがボス本体から俺と同じく
取り巻き︵左︶へとターゲットを変更した。メイン火力の総攻撃を
浴びて、取り巻き︵左︶のHPがぐんぐんと減っていく。
見た目はただの浮かぶ石柱であるせいで、見た目からはあまりダ
メージの通り具合が分からないのが物寂しい。
そしてやがて、ついに取り巻き︵左︶の残りHPを示していた赤
いラインがゲージの中から消滅した。
びし、と罅の入った石柱が派手に砕け散る。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
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アキ:おっさん死ぬ前に転移すっぞ!
イサト:おー!
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−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
敵のドロップしたアイテムは自動的にインベントリに収納される
ので、後は脱出するだけだ。
14
おっさんが俺の使うアイテムの効果範囲内に接近したのを確認し
て、俺はインベントリを開いて転移用のアイテムをクリックする。
エメラルドグリーンに煌めく転移ジェムをダブルクリック。
これが発動すれば、俺たちは最後に寄った安全圏へと転送される。
﹁⋮⋮って、エメラルドグリーン?﹂
思わず声に出して眉間に皺を寄せる。
俺の記憶が確かならば、転移ジェムはライトブルーのアイコンを
していたはずだ。
これはちょっとやらかしてしまったかもしれない。
あわただしくアイテムを使用する際に、見た目の似ているアイテ
ムを誤使用するのはありがちなミスだ。
この場合問題となるのは、転移ジェムと見た目が似ていて、間違え
そうなアイテムに俺が心当たりがない、ということだろうか。
そうなると、たった今手に入れたばかりのアイテムということに
なるわけで。
15
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
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アキ:おっさんごめん。なんか今ドロップしたばっかのレアアイテ
ムうっかり使ったかもしらん。
イサト:ぶっころ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁ですよねー﹂
おっさんのもっともなリアクションに笑いつつ、俺は改めてアイ
テムインベントリを開いて転移ジェムをダブルクリックする。
﹁⋮⋮あれ?﹂
おかしい。
普段なら、ダブルクリックしてすぐに﹃転移します﹄というシス
テムメッセージが出るはずなのだ。
それが出てこない。
カチ。カチカチ。カチ。
何度かクリックを繰り返す。
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﹃転送します﹄
あ、出た。
いや、何か違う⋮⋮?
﹁⋮⋮っ!?﹂
突如、PC画面がホワイトアウトした。
ブルースクリーンなら何度か経験あるが、真っ白になるというの
は初体験だ。どっちにしろ心臓に悪い。すわPCの買い替えか、な
んて嫌な予感がし始めるわけだが⋮⋮。
状況は俺が思っていたよりもカオスな方向に振り切っていた。
白々とした光が画面越しにあふれて部屋を満たし始める。
閃光弾を目の前で破裂させられたらこんな感じなのかもしれない。
これ、画面焼き切れないか?
そんな疑問と共に俺の視界は真っ白に染めあげられて︱︱⋮、暗
転した。
17
魔の転送石とおっさん︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
pt、お気に入り、感想、励みになっています。
18
懐かしい思い出のおっさん︵前書き︶
0831修正
0916修正
1117修正
19
懐かしい思い出のおっさん
懐かしい夢を見ていた。
俺とおっさんが初めて会ったときのことだ。
その時俺はまだ高校生で、わりと調子に乗っていた。
RFCのサービス開始当初からいた俺は、その頃すで高レベル帯
に属していて、自覚はなかったがそれを鼻にかけた嫌な奴になりか
けていたのだ。
いわゆる厨二病だ。
言い訳をするならば、俺は決して低レベル帯のプレイヤーを馬鹿
にしていたわけではない。
ただ単に、強さを求める以外の遊び方が目に入らなくなっている
時期だった。
より強く、より強く。ひたすらモンスターのポップしやすいエリ
アに陣取って、事務的にモンスターを狩りまくる。
そしてレベルをあげて、より性能のよい装備を身につける。
もはやそれは作業だった。
レベルを上がることにやり甲斐を感じてはいたし、仲間と合流し
た際の賞賛の声は気持ち良かった。だが、ゲーム自体を楽しんでい
たかといわれると今考えても首を傾げる。
20
パーティーを組むのは同レベル帯のみ。それ以外は足手まといに
しかならないと思っていた。そしてパーティーを組んでも、考える
のは効率のことだけだった。だから、俺はパーティーにおける自分
の役割を確実に全うした。前衛に立ち、より多くの敵を引きつけ、
倒す。
その方針を相手にまで押しつける気はなかったが、自然と俺と組
む相手はそのやり方に慣れた﹃いつものメンツ﹄になりがちだった。
お互いパーティーを組んだら軽い挨拶を交わし、その日の狩り場
を決める。そして狩り場に決めたら、延々とお互いに狩りを続ける
のだ。会話は連絡事項のみ、というシンプルさだった。シンプルと
いうか、下手したらそれは殺伐、とも言えたのかもしれない。
作業のように淡々と続く狩りに飽きることもあった。
けれど、そうして俺が狩りを休んでいる間に他の連中がどんどん
レベルを上げてくるのかもしれないと思うと、その遊び方から離れ
られなかった。
そんな俺の元に、一通のフレンドメールが届いたのは、いつもの
ようにただひたすら経験値をためるためだけの狩りに赴こうとして
いた時のことだった。
送り主の名前はリモネ。
﹃いつものメンツ﹄の一人で、俺が知る中では一番の高レベルの
プレイヤーだ。
俺が我武者羅にレベル上げにいそしんでいたのも、リモネに追いつ
きたいという気持ちが大きかったからだった。何があったのか、最
21
近あまり狩りパーティーに参加することがなくなっていたリモネか
らのメールに、俺は一瞬パーティーの誘いかと期待したのだが⋮⋮。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
To:アキ
From:リモネ
アキ、エルリアの街の近くにいた
ら、ちょっと俺の友達助けにいっ
てきてくんね?
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
期待に反して、その内容は全く別のものだった。
﹁友達を助けに行ってきてくんね?﹂
そのフレーズに、当時俺の胸に湧きおこったのは嫉妬にも似た感
情だった。
直感的に、その﹁友達﹂こそが、最近リモネが俺を誘わない理由
だとわかってしまったからだ。
リモネは高レベル故に、気軽に誰かを﹁助け﹂たりはしない。
下手な相手に情けをかけると、その行為が﹁高レベルは低レベル
22
を助けて当たり前﹂という思い込みを増長し、クレクレ厨と呼ばれ
るようなタカリにしてしまうことが少なくないからだ。善意が報わ
れない、悲しい現実である。
散々そういった経験をしてきたからか、リモネは普段低レベルの
プレイヤーが困っていても、見て見ぬふりをすることが多い。
頼られれば、アドバイスぐらいはするだろう。
けれど、相手のために何かをする、ことは俺の知る限りはほとん
どなかった。
相手が﹁助け合う﹂ことのできる同レベル帯であればやぶさかで
はないが。
そのリモネが、わざわざ俺に依頼してまで助けようとしている相
手。
俺よりも優先して共に狩る相手。
そんな相手に、興味が湧いた。
そしてそんな相手を俺が﹁助けに行く﹂とは一体どういうことな
のか。
嫉妬と混ぜこぜの好奇心を抱いて、俺はリモネへと了解したとの
返事を飛ばす。
返事はすぐに来た。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
23
To:アキ
From:リモネ
ありがとな、マジ感謝。
ちょっと今こっち手を離せなくて
なー。お前が助けにいってくれる
と本当助かるわ。
あ、費用とかは後で俺に請求して
くれたらいいから。
俺の友人の名前は﹁イサト﹂な。
たぶんエルリアの店の前で立ちつ
くしてると思う。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
⋮店の前で立ち尽くす。
一体それはどういう状況なのか。
何か高難度クエストを受けたものの、パーティーメンバーが集ま
らずに途方にくれていたりするのだろうか。
そんなことを思いつつ、訪れた先のエルリアの店前。
はたしてその男は、﹁たっけて﹂と書かれた看板を掲げて所在な
さげに立ちつくしていた。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
24
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
アキ:こん。
イサト:やあ、こんにちは。
アキ:あんた、リモネの友達?
イサト:!
イサト:君がリモネの言ってた助っ人だろうか。
アキ:そうそう。俺アキな。
イサト:俺はイサトだ。
アキ:で、何をどう助けたらいいんだ?
イサト:初対面の相手にこんなことを言うのもなんなんだが⋮。
イサト:100エシル貸して貰えないだろうか。
アキ:⋮⋮は?
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁は?﹂
俺はリアルでもそう声をあげてしまっていた。
エシルというのはRFC内で使われる通貨単位だ。
モンスターを倒したり、そのドロップ品をNPCに店売りしたり、
他のプレイヤーに露店で売ったりすることで比較的簡単に手に入る。
俺のレベル帯であれば、モンスター一匹から1000エシルほど
ドロップしたりもする。つまり、100エシルなんていうのは端金
もいいところなのだ。
25
そんな金額を貸してくれとは⋮⋮。
一体どういうことなのかと聞き返そうとして、俺は気づいた。
こいつ、初心者だ。
身につけている装備からして、レベルはまだ二桁にも届いていな
いのではないだろうか。
そんな俺の﹁は?﹂を、その男はどうやら﹁何故貸さなければな
らないのか﹂という意味で受け取ったらしかった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イサト:その⋮⋮。
イサト:レベル8で、召喚スキルが手に入るだろう?
イサト:レベル8になったし、そのスキルロールを買うための金も
ためたので張り切って買ったわけなんだが⋮⋮。
アキ:皆まで言うな。察した。
イサト:︵´・ω・`︶
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
26
察した。察してしまった。
目の前にいる男は種族ダークエルフだ。
エルフ系の特性として﹁召喚﹂スキルがある。
ペットとして飼いならしたモンスターを指揮して敵に攻撃するス
キルだ。
RFCでは、スキルは基本的にスキルロールと呼ばれるものを購
入することで使えるようになる。
といっても金さえあれば買えるわけではなく、レベルや、その他
の条件を満たさないと購入は出来ない。
この男はその条件を満たしたところで、喜んで召喚のスキルロー
ルを購入したのだろう。
そしてスキルを覚えて⋮⋮、気付いたのだ。
ス キ ル 購 入 条 件 と ス キ ル 使 用 条 件 が 違 う こ と に 。
27
そう。
召喚スキルは確かにレベル8からスキルロールを購入できるよう
になる。
だが、実際に召喚スキルが使えるようになるのは、レベル10か
らなのだ。
孔明の罠だ。多くの初心者がそこでひっかかり、地団太を踏むこ
とになる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イサト:早く召喚使えるようになりたくてなー。
イサト:召喚スキルさえあればもういいかなーと思って
イサト:初期装備売って金にしたのが敗因だったよな。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
もう言葉もなかった。
この男は、最初のチュートリアルで貰う装備全てをうっぱらい、
召喚スキルロールを買うための元手にし︱︱⋮、スキルの使えない
丸腰になったのだ。
28
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
アキ:あんた馬鹿か。
イサト:うう⋮⋮耳に痛い。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
初期装備すらなくしてしまえば、攻撃手段は素手しかない。
他の頑強な種族ならともかく、もともと体力や防御力が低めに設
定されているエルフともなれば、素手でぺちぺち攻撃している間に
反撃されればあっという間にHPが尽きるだろう。
本当に一番最初のモンスター、レベル2、3ぐらいのモンスター
なら相手に出来るかもしれないが、そいつらのドロップするエシル
なんてたかがしれている。1∼3エシル、良くて6エシル程度。
男が必要としている100エシルはなかなか遠い。
そしてその間に死にまくればデスペナは食らうし、回復アイテム
を使えばますます経済的に困窮すること間違いない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
アキ:100エシルでいいのか?
29
イサト:100エシルあれば木刀が買える︵`・ω・´︶
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
この男、ちょっと面白いな、と思ったのはそのときのことだった。
木刀、というのはこの街で売っている店売りの武器の中で最低ラ
ンクの武器だ。当然、一番安い。
いくら初心者といえど、俺が高レベルなのは見てわかるだろうし、
この男の友人であるリモネはこの界隈でも有名な高レベルプレイヤ
ーだ。
この男のレベルでも装備出来る武器で、木刀より良いものぐらい
いくらでも知っているし、持っているし、いくらでも買えるだけの
エシルを持っている。それがわかっているはずなのに、この男は当
たり前のように木刀を買うだけのエシルだけを貸してほしいと口に
した。
画面を操作して、男へと取引を持ちかける。
取引ウィンドウのエシル枠に、きっかり100エシルを入力。
取引はスムーズだった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
30
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イサト:ありがとう、助かったよ。
イサト:この恩はきっとリモネが立て替える。
アキ:いや、100エシルぐらい別にいいけど。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
確かにリモネからも、費用は後で請求してくれと言われていたが
⋮⋮100エシル程度、わざわざ請求するほどでもない。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イサト:それじゃあ長期的な借金ということで︱︱⋮、
イサト:俺が返せるようになったら返させてくれ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
この申し出だって、別に断ったって良かった。
ただ、これで木刀装備出来る、また冒険が出来ると喜んでいる姿
31
に、なんとなく俺自身がRFCを始めたばかりの頃の気持ちを思い
出したような気がした。
新しいマップに行けるようになるたび、ドキドキした。
新しい装備が身につけられるようになるのが嬉しかった。
見知らぬモンスターに追いかけられて逃げまどい、そいつを倒せ
るようになるのが楽しかった。
こいつにはそんな楽しみがこれからたくさん待っているのか、と
思うと、それが羨ましいと思ってしまったのだ。
﹁リモネの気持ちがわかるかも﹂
思わず、そう呟いていた。
それが、俺とおっさんの出会い。
それから何度も、俺はおっさんの話をリモネから聞くことになる。
曰く、﹁あの阿呆回復アイテムの消費があんまりにも激しいから
自作するとかいって旅立って帰ってこなくなった﹂
曰く、﹁あの阿呆ペットのレベル上げすぎて使役できなくなったっ
て言い出したからちょっとレベル上げ手伝ってくる﹂
大体、おっさんの話題は﹁あの阿呆﹂から始まる。
そうしているうちに俺はイサトのことを﹁おっさん﹂と呼び始め
⋮。
なんだかんだつるんで狩りをするようになったのだ。
32
じりじりじり。
露出している肌が焼けつくような熱感に、俺はがばちょっと勢い
よく起き上がった。
とたん、白々とした光が目の裏を刺して一瞬眩暈にも似た感覚を
味わう。
健康優良児である俺にしては珍しいことだ。
何か、とても懐かしい夢を見ていたような気がする。
ぽり、と寝起きの頭をかくと、さら、と砂がこぼれた。
⋮って、砂?
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺は周囲を見渡して、呆然とした。
33
これはきっと夢だ。夢に違いない。
砂漠のど真ん中に立ちつくしているなんて、夢以外の何物でもな
い。むしろ夢じゃなきゃ困る。俺はつい先ほどまで、自宅でPCに
向かってネトゲを楽しんでいたはずなのだ。それが突然砂漠で遭難
なんて、あまりに荒唐無稽だ。
ああ、でも。
じりじりと首裏を焦がす日差しは、なんだか妙にリアルで。
すごくすごく、嫌な予感がした。
﹁いやいや、しっかりしろ俺﹂
そういえばRFCのチュートリアル終了後のワープ先は砂漠都市
だったな、なんて。
そんなことを思い出してしまったのは、きっと気を失う直前まで
ゲームをしていたせいだ。そういえば夢の中でもゲームをしていた
ような気がする。きっと授業のない日だからといって、平日からの
んきにネトゲ祭りなんてしていたせいでこんなリアルな夢を見るの
だ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
34
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮いくら現実逃避したところで、目の前の現実は全く変わらな
かった。
どこまでも続く砂丘。
遠くに揺らぐ蜃気楼の向こうに見えるのはピラミッドだろうか。
そして、砂の中に半分埋まるようにうつ伏せに倒れているクリー
ム色の塊。
﹁⋮⋮おっさん、なんだろうなあ﹂
装備に見覚えがありすぎる。
そしておっさんを見て気づいたが、俺もゲーム内の自キャラと同
じ装備を身につけていた。
実際に着たら窮屈そうだな、なんて思っていたが、わりとそうで
もない。
夢だからだろうか。それならありがたいんだが。
とりあえずおっさんを起こそう。俺一人で砂漠で途方にくれると
いうのは理不尽だ。これがリアルな夢にしろ、夢みたいなリアルに
しろ、おっさんも巻き込んでしまうにこしたことはない。
そうでもなければ、どうしたら元の世界に戻れるのか、パニック
になってしまいそうだ。
俺はずかずかとおっさんへと歩みよると、やんわりとその背中を
踏んでみた。
35
ふにゃ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
踏み応えがおかしい。
部活の合宿などでよく野郎どもを踏んで起こしていたが⋮⋮、こ
んなに心もとなく柔らかい感触が帰ってきたことはなかったような
気がする。
おっさん、メタボか。
ゲーム内ではよくHPの少なさをいじられていたおっさんが、そ
の度にか弱いインドア派を主張していたのを思い出す。
﹁おっさん、起きろって﹂
ふみふみ。
ワイン葡萄踏みのようにその背中を万遍なく踏んでみる。
どう考えても背中の面積が小さすぎた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そろそろ、一抹の予感を否定するのが辛くなってきた。
ふにゃふにゃとした最初の一踏みから、ちょっと嫌な予感がして
はいるのだ。
しゃがむ。
そして、突っ伏すおっさんの首根っこを捕まえる。
手の中にすぽりとおさまる華奢な首筋に、ますます嫌な予感が募
った。
36
ずるっと砂の中から引き出して、俺は文字通り頭を抱えた。
おっさんだと思っていた相手は︱︱⋮、砂に汚れてはいたものの、
びっくりするほど綺麗な妙齢の美女だったのだ。
︱︱おっさんが、美女。
37
懐かしい思い出のおっさん︵後書き︶
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38
おっさんがびじょ︵前書き︶
0831修正
0916修正
1117修正
39
おっさんがびじょ
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺は自らが砂の中から掘り起こしてしまったものを見下ろして呆
然とする。
踏んだ時点で若干覚悟していたとはいえ︱︱⋮、まさか本当にロ
ーブの下から女性が出てくるとは思わなかった。おっさんの中身、
ということで、俺はもっとインテリ然としたおされなおっさんが出
てくると思っていたのだ。
それがまさか女の人、だったなんて。
そっとフードをめくると、さらりと長く艶やかな銀髪がこぼれ
た。閉ざされた瞼を縁どる睫毛も同じ色で、やたら長い。目を閉じ
ているのではっきりとは断言できないが、異国情緒あふれる美人だ
と言いきれる程度には顔立ちは整っている。街を歩けば、十人中八
人は振り返るだろう。
なめらかな、ミルクたっぷりのコーヒー牛乳のような色合いをし
た褐色の肌と、淡くピンクがかった唇の色の対比がエロい。
仰向けに横たわっているせいか、胸部の主張はささやかだ。が、
決してぺたんこというわけではないので、身を起こしたらそれなり
のサイズがあるのではないだろうか。そのあたり豊満すぎないのが
なんともエルフらしいといったところだが︱︱⋮はたしてそれは現
実のおっさんの中身を反映しているのか、あくまでキャラメイクに
40
よるもの、なのか。
と、そこまで考えてようやく俺は自分自身の外見について思い至
った。
服装が自キャラの装備していたのと同じ格好になっているのは察
していたが、外見はどうなのだろう。ゲーム内の俺は、黒髪のイケ
メン硬派騎士だったわけだが。
﹁鏡、鏡⋮⋮﹂
そんなもの、持っているわけがなかった。
そもそも持ち物はどうなっているのだろう。ゲーム内であれば画
面のUIから持ち物を収納したインベントリを開けたのだが⋮⋮。
さすがに装備だけで砂漠に放り出されたとは思いたくない。いろい
ろと常備しておきたい高価かつ有用なアイテムがしまってあったの
だ。
俺はダメ元で腰に下げていた革の袋を開いてみる。
見た目はただの小さな革袋だが、ゲーム内の設定としては所持量
はレベル次第という便利アイテムである。
RFCでは、通貨以外の全てのアイテムに重量が設定されており、
キャラが装備しているバックパック系アイテムの許容重量によって
アイテムの持てる量が変動するのだ。
アイテムの数ではなくあくまで重さでしか制限がかからないのは
便利なのだが、レベルが低いうちはなかなか許容重量が低くて苦労
する。
41
ちなみにバックパック系は見た目を変えるために別のアイテムに
取りかえることはできるが、取り外すことはできない。
そんな革袋の中身をのぞいて⋮⋮。
﹁うわっ﹂
俺は思わず声をあげていた。
革袋の口を開いたとたん、慣れたインタフェースが視界に飛び込
んでくる。
淡いラインで、ホログラムのように浮かび上がったのだ。試しに
革袋の口を閉じてみると、それは何事もなかったかのように消えた。
もう一度開いてみる。やっぱり目の前にホログラム状のインター
フェースが浮かび上がった。横5マスにきっちりとアイテムが整然
と並んでいる。
﹁おおお⋮⋮﹂
つい感嘆の声が漏れる。よくVRMMOもののアニメでしている
ように、中空に手を滑らせ、適当なマスに触れる。続いて、引き出
す数を決めようとして少し困った。ある程度の数までだったら、﹁
→﹂と﹁←﹂をタッチし続けることで数を調整することができるの
だが、例えば回復アイテムを300個取り出したい場合、300回
﹁→﹂をクリックしないといけないのかと思うと非常にめんどうく
さい。押しっぱなしが出来るとしても、だ。
42
﹁キーボード操作はできないのか⋮⋮?﹂
今のところ﹁1﹂と出ている数字に直接触れてみる。と、そこで
所持アイテムインベントリの隣に、電卓状に数字の配列された別の
インターフェースが浮かびあがった。これで直接入力することがで
きるらしい。便利だ。操作の仕方が分かったところで、操作をキャ
ンセル。今は別段上位ポーションに用はない。
つつ、と指を滑らせて持ち物を確認してみるが、鏡や、そのい代
用が出来そうなアイテムの持ち合わせはなかった。
そうなると次に頭に浮かぶのは水鏡だが⋮⋮、ここは砂漠である。
哀しいぐらいに何もない。
見渡す限りがただただ砂で埋まっている。
この砂漠のどこかにはオアシスがあるかもしれないが、今はその
可能性を追求するのはやめておく。
となると⋮⋮。
﹁あ﹂
いいことを思いついた。
ずらり、と腰に下げていた得物を引き抜く。
俺の武器は騎士職にありがちな大剣である。わりと幅広の刃はき
んと澄み渡って鏡面のように周囲の景色を映し返す。
そう。俺の思いついた良いことというのは、この大剣の刃を鏡代
わりに使ってやろうということなのである。さすがはヅァールイ山
43
脈の中腹に住まうクリスタルドラゴンのドロップ武器である。澄ん
だ刃に俺は姿を映し⋮⋮。
無造作に切りそろえた黒のショートに、若干人相悪めの三白眼気
味の男と目があった。
俺だ。誰がなんと言おうと、俺だ。この生来の目つきの良くなさ
は俺だ。
味気ない結果に、かくりと肩を落とした。髪は黒いし、肌色や顔
つきにも変化はない。剣に映した範囲だと少々怪しい部分も残るが、
感覚的に身長や体格に関しても差はないように思う。
こんなことになるのなら、もっと突飛な色でキャラメイクをして
おけば良かった。
というか、つい最近装備を黒で揃えたのに合わせて、髪と目の色
を黒で染め直していたのだ。それまでは、金髪碧眼の王子様風騎士
だった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺は、未だ意識を取り戻す気配のないおっさんへと視線を流す。
色はともかく、俺がこうして生身の俺と変わらない体格や顔立ち
をこの世界で継承しているということは。
ということは。
おっさんは美女。
44
やっぱりおっさんの中身は女性だった、という結論にたどりつい
てしまう。
異世界トリップものの中には、その際に神様の悪戯的な何かで性
別を変えられてしまうパターンもあったりするのだが⋮⋮、俺がこ
うして普通に俺として来ている以上、おっさんもおっさんとして来
ていると考えた方がつじつまがあう。
つじつまはあうのだが⋮⋮。
﹁⋮⋮納得しかねる﹂
普段あれだけ悪ふざけをし、共にシモネタに走り回ったおっさん
の中身がこんな綺麗な女性だったなんて実際目にしている今も信じ
られない。
おっさんだけたまたま部屋にいた別の相手が召喚されてしまった、
とかだったりしないだろうか。おっさんの妹とか。おっさんの恋人
かもしれないという可能性はガン無視である。おっさんの癖にこん
な美人の彼女がいるわけがない︵ラノベタイトル風︶。
﹁⋮ん、ぅ﹂
小さく、おっさんが呻いた。いや、おっさんじゃないが。おっさ
んじゃないが。大事なことなので二回言いました。
45
ゆっくりと、そのやたら長い睫毛が震えて持ち上がる。
瞼の奥に隠されていた双眸は、とろりと蜂蜜めいた琥珀色。
正直肌色からしてどんな色をしていてもおかしくないと思ってい
た。
身体を起こしたおっさん︱︱⋮、もとい彼女は、ゆる、と瞬いた
のちに俺をぼんやりと見上げる。
そこで俺は大事なことに気付いた。
俺、大剣抜いたままじゃね?
砂漠に倒れるたおやかな美女と、その傍らに立つ抜き身の大剣を
ぶら下げた人相の悪い男。
どう考えても俺、悪役である。
﹁ち、違う!﹂
とりあえず凶器をなんとかせねば、と焦ってしまったせいか、否
定のために振った手から大剣がすっぽ抜けた。
﹁あ⋮⋮っ!?﹂
すっぽ抜けた大剣はひゅんひゅんひゅんと回転して、ざんッと阿
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呆のような切れ味を発揮してぼんやりと瞬く褐色の美女の頬を掠め
るようにして砂の上に突き立った。
剣圧に煽られたように、長い銀髪が一房ふわりと揺れる。
髪がさらりと落ちて頬にかかる感触に促されたように、彼女が緩
やかに瞬く。
やらかした。これ以上ないほどにやらかした。
これでマジで彼女がおっさんじゃなかった場合、俺はただの凶悪
犯である。
だらだらだら、と冷や汗が滲む中、彼女はすっと顏をあげて。
﹁⋮⋮なに面白い舞を舞ってるんだ、アキ青年﹂
なんて口を開いた。
嗚呼、︱︱おっさんが美女、確定。
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おっさんは、目覚めても美女だった。
ぱっちりとした二重の双眸は、長い睫毛に縁どられているせいか
常に伏し目がちでいるような印象を対峙した相手に与える。別段垂
れ目というわけじゃないのに、とろんとどこか眠たげな風情に見え
るのも、そのせいだろう。
年の頃は俺と同じか、それより少し上ぐらい、だろうか。
男の俺には女性の年齢を当てるのはどうも難しい。
そんなおっさんと言えば、先ほどの俺と同じように大剣を鏡がわ
りにまじまじと自分の姿を確認している。
﹁⋮⋮黒いし、どうにも派手だな﹂
﹁あ、それやっぱり自前じゃなかったのか﹂
﹁俺は一応日本人だぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
妙齢の美女から飛び出した﹁俺﹂なんていう男らしい一人称に、
思わず動きが止まる。
男を装う、というようなわざとらしさもなく、いかにも自然にそ
の一人称は飛び出した。日ごろから使い慣れていなければ、そんな
にも自然に口にしたりは出来ないだろう。
⋮⋮俺女?
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女性でありながら一人称俺を好むグループがサブカル属性には存
在するらしいが⋮⋮。そんな俺の疑問に気づいたのか、彼女は、ひ
らり、と片手を振って見せた。
﹁や、すまない、驚かせたな。
普段ネトゲ仲間と会話するときは、一人称﹃俺﹄を使うことが多
かったんだ。
ほら、私普段ネトゲだと一人称俺を使ってるだろう。音声会話で
いきなり一人称を切り替えると誰だかわからなくなって混乱が起き
やすかったんだ。
君とはRFCの外では付き合いがなかったので肉声で会話したこ
となかったのを忘れていた﹂
﹁は、はあ﹂
正直それ以外の反応が思いつかなかった。
いつもの通り﹁おっさん﹂として対応すべきなのか、初対面の女
性を相手に対する対応をすべきなのか。
﹁む。反応がよろしくないな。私が女だったのがそんなに意外だっ
たのか?﹂
﹁⋮⋮ものすごく﹂
﹁それは我ながら完璧なネナベっぷり、と悦に入るべきなのか、女
子力のなさを嘆くべきなのか⋮⋮﹂
彼女は彼女で思うところがあるのか、ふっと視線が遠のく。
そうなのだ。
彼女が言うように、ネトゲだけでなく、ネット界隈では己の性別
を偽るネナベやネカマという存在が数多くいる。
49
が、わりとそういうのは注意深く観察すれば結構わかるものなの
だ。
特に自分と同性を偽ってる相手の場合、話しているうちに小さな
違和感を覚え、その違和感故にもしかしたら、という疑惑を覚える
ものなのである。
それがこのおっさんには全くなかった。
俺は本当に、おっさんはおっさんだと信じ切っていたのだ。
﹁アルティとか知ってるだろう?﹂
﹁アルティって⋮⋮、あの弓使いの?﹂
﹁そうそう、あのアルティ。
あのアルティとは音声チャットで会話したことがあるんだが⋮⋮。
あらかじめ中身は女だと言ってあったのに、﹃本当に女の人だ!
?﹄と叫ばれたしな。さらに言うなら、その後アルティとはリアル
でもお茶をしたんだが、あいつ待ち合わせ場所で会うまで声を聞い
ておきながら私が本当に女かどうか疑っていたらしい。あいつまじ
ぶっころ﹂
﹁ぶはっ﹂
共通の友人である、エルフの弓使いの少女を話題に出されて、笑
ってしまった。
RFCに出てくるビリベアという黄色いクマの着ぐるみ風装備を
愛用している、マスコット的な少女だ。
俺にとっては﹁おっさんの友達﹂といった感じでしか知らない相
手だが、よくおっさんにまとわりついているのを見ていた。実はち
ょっと、俺は一時期おっさんがネット恋愛しているのではないかと
50
疑ったこともある。
おっさんは男友達も多かったが、それと同じぐらい女の子たちに
人気があったのだ。柔らかな物腰に、さらっと気障なことを言って
のけるところが女の子に大受けする所以だろう。
だが、その恋愛疑惑はおっさんの中の人が女性だとわかるずっと
前に俺の中では消えていた。
おっさんは線引きがうまかったのだ。
恋愛的な意味で近づいてくる女の子に対しては、こちらが見事だ
と思うほどにずっぱりと線を引く。線を引くどころか、ものすごい
逃げ足の速さでさりげなく逃げる。おっさんが甘やかすのは、おっ
さんを絶対に恋愛対象とみない子だけだった。
俺はそれをリア充︱︱おそらくは既婚者︱︱故の余裕だとばかり
思っていたのだが⋮⋮、なるほど、中の人が女性だったからなのか、
と今さらながら納得した。
﹁でも⋮、なんでまたネナベなんか﹂
﹁以前やっていたネトゲで下半身直結厨に絡まれることが多くてな﹂
﹁あー⋮﹂
下半身直結厨。
ネトゲという媒介で何としてでもヤれる女を捕まえようと頭の中
がまっぴんくに染まった厄介な男のことである。
同性としてもなんとも見苦しい、恥ずかしい存在だ。
おっさんは人間として魅力的な人物だった。
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それで女性だということがわかっていれば、きっとさぞかしそい
ういった方面の面倒ごとに巻き込まれていただろう。それはあんま
りにも簡単に想像がついた。
﹁なんつーか⋮、リモネあたりが知ったら腰抜かしそうだよな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺の言葉に、うろり、と彼女は視線をそらした。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
リモネは知ってんのか。
そう思ったが、アルティが知ってることをしれっと白状したこの
おっさんが今さらそれぐらいで視線をそらすとは思えない。
それじゃあなんだ?
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮あ﹂
一つ恐ろしいことに思い当った。
﹁おいまさか﹂
﹁たぶんそのまさかだ﹂
﹁嘘だろおおおおおおおお!?﹂
あのリモネまで実は中身が女性だったというのか。
俺以上に口が悪く、俺よりもレベルが高い廃人仕様の装備で楽し
げに俺TUEEEEで高レべ御用達エリアを蹂躙しまくっていたあ
のリモネが!!
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﹁私がバラしたことはリモネには内緒だぞ?﹂
﹁⋮っていうか、チクりようがないです﹂
﹁デスヨネー﹂
そんな身内の暴露トークに花を咲かせていた俺たちだが、このあ
たりでようやく我に返って周囲を見渡した。
相変わらず周囲には砂しかない。
﹁というわけで私の一人称のせいでだいぶ話がズレてしまったんだ
が⋮⋮、顔立ちや体型に関してはリアルの私に準拠しているみたい
だが、色はゲーム仕様だな。あと耳も﹂
﹁あ、本当ですね﹂
身に纏う色に気を取られすぎて気づいていなかったが、さらりと
髪をかきあげた先に露出の耳朶はアニメでよく見るエルフのように
ツンととがっていた。それでも基本的な外見はリアルが反映されて
いる、ということは種族特性だけがミックスされているのかもしれ
ない。
俺も種族がヒューマンでなく、獣人的な亜人種を選んでいたなら
ば、今頃は俺の外見に犬耳やしっぽがついた状態でこちらにいた可
能性が高い。
あんまりぞっとしない想像だ。
と、そんなことを考えていたところで、俺は何やら目の前にいる
彼女が御機嫌ナナメであられるのに気付いた。
あからさまに拗ねた目で俺を見ている。
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﹁⋮⋮何か﹂
﹁アキ青年がつれない。私が女だとわかった瞬間になんかめっちゃ
壁作られてる﹂
﹁えー⋮⋮﹂
そんなことを言われましても。
俺の中では相棒はあくまでおっさんだったのである。
彼女からして見れば俺は俺だろうが、俺にとってみればおっさん
が美女に化けたのだ。対応が少しばかり余所余所しくなるのは仕方
のないことだと思う。
仕方のないことだとは思うのだが⋮⋮、おっさんは拗ねている。
このあたりの大人げのなさは、俺の知るおっさんのままだ。
﹁⋮⋮わかったよ。なるべくいつも通りな﹂
﹁ん﹂
満足そうに彼女は双眸をほっそりと細めて笑った。
ああくそ、可愛い。
﹁とりあえずいつまでもここにいても干からびるだけだし⋮⋮、移
動しようか?﹂
﹁そうだな﹂
彼女が、何気ない仕草で俺へと手を差し出す。
意味はすなわち、起こしてくれ、ということだろう。
はあ、と俺はわざとらしくため息をついた。
俺に比べると小さくて華奢な手を握り、ぐい、と引き上げる。
﹁甘えんな、︱︱⋮イサトさん﹂
54
さすがにこの外見の彼女をおっさんと呼ぶ気にはならなかった。
彼女はぱちり、と俺の呼びかけに瞬いて。
いつも通りの俺の対応と、新しい呼び名に満足したように、やっ
ぱり双眸を細めて笑ってくれた。
そして。
立ち上がった瞬間、彼女のズボンが落ちた。
55
おっさんがびじょ︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
PT、お気に入り、感想、励みになっています。
56
ズルズルオバケとおっさん︵前書き︶
0831修正
0916修正
1117修正
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ズルズルオバケとおっさん
﹁⋮⋮なんたる罠だ。性別によって装備が別な弊害か。くそう﹂
もそもそと呻きながら、だいぶサイズの合わない召喚士装備と戦
っているイサトさん。
先ほどは彼女が立ち上がった瞬間ズボンが落ちる、というド○フ
的ラッキースケベに遭遇してしまった。
といっても、上着もかなりサイズが合わなくなってしまっている
こともあり、下半身もろ出しというよりも彼シャツ的な感じだった
のだけれども。
淡いクリーム色のだぶだぶとした下衣の下から現れたすんなりと
伸びた華奢なおみ足に、俺が思わず熱視線を注いでしまったのは仕
方のないことだと思う。
上着の裾からにゅ、と伸びる太ももはむっちりと肉が乗り、それ
が次第にきゅっと細くなっていく。女性の曲線とは良いものだ。
まじまじと鑑賞していたら、呆れ顔で睨まれた。無念。
身長は160センチ程度だろうか。
女性としては背が高い方に分類されるのかもしれないが、180
超えてる上に、部活で剣道やバスケをやってきた体格の良い俺と並
ぶと小柄に見える。
58
そんなイサトさんを踏んづけて起こそうとしたことは、そっと忘
れておく。
俺の方は着ている装備のサイズが合わない、なんていう事態に見
舞われなかったあたり、イサトさんが言っているように性別が変わ
った弊害である可能性が高い。
RFCでは、服や装備にサイズは設定されていない。あるのは女
性用か男性用か男女兼用か、といった分類ぐらいだ。それでも、体
格も様々ないろんな種族が条件さえ満たせば同じ装備を身に着ける
ことが出来ていたあたり、魔法的な何かで自動的に調整されていた
のだと思われる。が、イサトさんの場合は本来の性別に戻ってしま
ったため、その魔法的な何かのフォロー範囲外になってしまったの
だろう。
なんとか着れないか、と裾をまくってみたりしているものの、柔
らかなローブ仕立ての召喚士装備はしばらく歩くとすぐにへろへろ
と落ちてきてしまう。
﹁⋮⋮よし、良いこと思いついた﹂
ぴこん、と何か思いついたような顔でイサトさんが顔をあげた。
その顔は要注意だ。大体ゲーム中おっさんが﹁良いことを思いつ
いた﹂と言い出した時は残念な結果に終わるフラグである。
﹁⋮⋮なんだアキ青年その顔は﹂
﹁いや、別に﹂
むー、とイサトさんが唇を尖らせる。拗ねられても面倒なので、
﹁で、何を思いついたんだ?﹂とさっさと水を向けておく。
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﹁君のその剣で、いっそ裾を切って貰った方が早いと思ったんだ﹂
﹁ああ、なるほど﹂
ずべずべと裾が落ちてくるたびに巻いていてはキリがない。どう
せ街についたらイサトさん用の女性装備を何かしら用意しなければ
いけないのだ。多少の不格好さよりは利便性をとりたい、というこ
とか。思ったより普通の提案だ。
ちなみに現在俺たちはとりあえず歩いていればいつかはどこかし
らにつく、というイサトさんの主張により、ひたすら延々と歩いて
いる。
ゲーム内ステータスが影響しているのか、暑さを感じてはいるも
ののそれによって致命的に体調に負担がかかる、ということがない
からこそ出来ることである。
現実の砂漠だったら、とっくに熱中症か脱水で倒れている。
まあ、それで倒れなくとも、服と同じくぶかぶかの靴を履いてい
るイサトさんはよく転んでいるが。
そのたびに何か恨めしげな目で俺を見るが、俺としては何もして
やれることがないので、そっと目をそらしている。転んでやんの、
と笑わないあたりが武士の情けである。
服の裾を切り落とすことで、イサトさんがリアル七転び八起き状
態から脱せられるというのなら、俺としてもその手間を惜しむ理由
はない。
60
﹁それじゃあ﹂
俺はずらり、と腰から大剣を引き抜く。それに合わせてイサトさ
んは、上着の裾をぐいぐいと引っ張ってなるべく足を隠そうと無駄
な努力をしつつ、一度ズボンを脱いで砂の上に広げた。
﹁どれぐらい?﹂
﹁えーっと、このあたり、かな﹂
イサトさんが指で示したラインを目測で図り、彼女が安全圏まで
身を引いたのを確認してから俺は剣を振り下ろす。
正直に言うと、その時ちょっと何か忘れてるような気がするなー
とは思っていたのだ。
ものすごく、言い訳だが。
俺の振り下ろした刃は恐ろしいほどの切れ味で召喚士装備︵下︶
の裾を目的通りに切り落とし⋮⋮、次の瞬間、召喚士装備︵下︶は
きらきらした光をはじきながら爆散した。
ぱしゃーん!
繊細なガラス細工を砕いたような音が響く。
﹁あああああああああああああ!?﹂
﹁ああああああああああああああ!!﹂
俺とイサトさん、二人分の声がハモった。
61
なんでどうしてこうなった、というようなイサトさんの声と、何
を忘れていたのかを思い出して俺があげた納得の声。
俺はこの現象を知っている。
否。イサトさんだってこの現象を知っているはずだ。
︱︱服の耐久値だ。
RFCにおけるたいていの物には、物自体のHPといった感じで
﹁耐久値﹂というものが設定されている。
どれだけすごいマジックアイテムであろうと、どれだけ防御力に
優れた装備品であろうと、使えば使うほど耐久値はじわじわと下が
っていくのだ。
そして、耐久値が0になった物は﹃壊れる﹄。
それが先ほどイサトさんの召喚士装備︵下︶に起こった現象だ。
裾を切り落とすために俺の加えた一撃が、ダメージとして計算さ
れた結果、見事召喚士装備︵下︶の耐久値を削りきってしまったの
である。
﹁⋮⋮、﹂
思わず、小さく息を吐いた。
62
目の前で起こった不思議現象に説明がついたのは良いのだが、逆
に説明がついてしまったことに困惑を覚える。この理屈が通じると
いうことは、本当にここはゲームの中の世界だということになって
しまうからだ。インベントリの件だったり、俺らの装備や外見のこ
とだったり、じわじわと現実逃避の余地が失われていく。その外堀
が埋められていく感に、若干の息苦しさを感じた。逃げ場が、なく
なる。どうしたらこの世界から元の自分の部屋に戻れるのか、なん
て現実的な疑問や恐怖が胸の中にこみ上げてきてしまいそうになる。
そんな息苦しさを打ち消したのは、わざとらしいほどに非難めい
たイサトさんの呟きだった。
﹁あ、アキ青年が私のパンツ見たさにズボンを剥ぎとって壊した⋮
⋮﹂
﹁おいやめろください﹂
人聞きが悪すぎる。
見たくないかと言われれば非常に見たいが、そんな現世に戻った
瞬間御縄になるような酷いことはしていない。
第一、やれといったのはイサトさんである。
﹁ってことちゃんとした道具を使わないと服飾品の加工は出来ない
てことなのか。面倒くさいな﹂
むぅ、と眉間を寄せてイサトさんが呻く。
加工のために手を入れることすらダメージ換算で耐久値が減ると
考えると、確かに面倒くさい。RFCでは、加工には﹃材料﹄と﹃
63
道具﹄と﹃スキル﹄が必要だったわけだが⋮⋮。
その﹃道具﹄の部分をおろそかにするとこうなりますよ、という
良い見本が出来てしまった。
﹁アキ青年、予備の服持ってないか?﹂
﹁出てくる前に耐久値MAXまで回復してきたからな⋮⋮、予備は
持ってない﹂
﹁そうか⋮⋮、私も回復アイテム積むのに邪魔なものは全部倉庫に
ぶっこんできちゃったからなぁ﹂
﹁ダンジョンに潜るだけだと思ってたもんなー﹂
重さでアイテムの所持出来る量が決まることもあり、ダンジョン
などに戦闘目的で潜る際には、できるだけ要らないものは倉庫に預
け、回復系のアイテムを詰め込むというのが定番だ。
俺のようある程度防御力があり、回復アイテムの消費量に予想が
つく場合は、主にドロップ品を集めるためになるべくインベントリ
を軽くしておく、ということになる。
そのため、俺もイサトさんもダンジョンアタック仕様、といった
感じで、必要最低限の品目しか現在所持していない。
まあ、イサトさんはだいぶ回復アイテムを使いまくっていたので、
現在のインベントリは結構ガラガラだろう。
﹁私も不精しないで装備の耐久値MAXにしておけばよかった﹂
﹁イサトさんは普段そんなに耐久値食らわないもんな﹂
﹁基本的に一撃必殺されるからな⋮⋮﹂
64
ふっと視線が遠のく。
装備の耐久値は敵の攻撃を受けることでじわじわと減る。
一発食らうごとに1減る、というほどわかりやすくすぐさま減っ
ていくわけではないが⋮⋮。
低レベルのアクティブモンスターがいるエリアで、どれだけたか
られようとダメージは通らないからいいやと離席すると、戻ってき
たときにはパンツ一本だったりするのが良い例だ。
そうなると、基本的に後衛で前線に出ないイサトさんの装備は、
前衛の俺に比べると耐久値が減りにくい、ということになるのであ
る。攻撃をくらったとしても何発も耐える、という仕様でもない。
イサトさんの戦術は一撃で仕留めるか一撃で仕留められるか、とい
うギャンブルだ。
ちなみに耐久値は﹃道具﹄を揃えてNPCの職人に頼むことでも
回復できるし、自分でそのスキルをとれば、自分でも修繕すること
ができるようになる。俺はその辺の生産関係はNPC任せだが、確
かイサトさんはそういったスキルも持っていたはずだ。
この人はそういう意味で器用貧乏なのである。
﹁うーん、裸族的にはもういいかな、って気がしているが、うら若
き乙女としてはどうなんだという内なる声が聞こえる﹂
﹁内なる声に従ってくれ﹂
先ほどまでは一応恥じらうように上着の裾を引っ張っていたイサ
トさんは、もうすでに足を隠すことを諦め始めている。おい諦める
なよ。諦めたらそこで試合終了です。
65
この人はもしかすると今でも自分がおっさんだとでも思っている
んだろうか。だとしたら大間違いだ。
今のあんたはとびきり魅力的な美人エルフで、俺はわりとヤりた
い盛りの御年頃なんだぞ。
その辺一度真面目に釘を刺しておきたいような気もするが、ふと
見た元おっさん今美女なイサトさんが楽しそうに笑っていたので、
気が殺がれてしまった。
﹁覚えてるか、アキ青年﹂
﹁⋮⋮覚えてる。アルティと初めて会ったときのことだろ?﹂
﹁そうそう﹂
くくく、と喉を鳴らしてイサトさんが笑う。
先ほども説明したとおり、RFCの世界観では、ほぼ全てのもの
に耐久値が設定されている。
壊れたら新しいのを買うか、それが嫌ならば壊れる前に修理して
耐久値を回復させなければならない。
が、ゲームを始めたばかりのプレイヤーというのは、そこをつい
失念してしまうのだ。
その代償は︱︱⋮⋮、戦闘中の突然のキャストオフ、である。
街から離れたひとけのない森の中でレベル上げにいそしんでいた
彼女は、そこで着ていた装備の耐久値を0にしてしまったのだ。
66
俺とイサトさんが通りかかったとき、アルティは木陰で座りこん
で茂みの中に隠れて途方にくれているようだった。
そして俺が声をかけるべきかで迷っている間に︱︱、おっさんは
自分の着ていた男女兼用のネタ装備、黄色いクマさんの着ぐるみを
アルティに譲渡したのだ。
ビリベアのアルティ、誕生の瞬間である。
RFCの設定だと、装備が脱げても、中のインナーだけは残る。
男だとトランクス、女だとブラとパンツ。
色違いのブラッディベア︱︱名前通り赤い︱︱の着ぐるみを着た
俺と、黄色いビリベア着ぐるみのアルティと、トランクス一枚のお
っさん。
かなりよくわからない光景だった。
しかもそのあと着替えるために街に戻るかと思いきや、おっさん
はもうパンツでいいんじゃないか、とか言い出し、結局そのままの
格好で狩りに赴いたのだ。
薄暗いダンジョンを駆け抜けるクマ︵赤︶とパン一のおっさんと
いう図は、その後しばらくネタにされた。
﹁おっさん超イキイキしてたよな﹂
﹁美味しいじゃないか、パン一ダンジョン特攻なんて﹂
﹁ただでさえ紙装甲な癖に﹂
﹁あの時は素材集めがメインだったから、あんまり強い敵もいなか
ったからいいかなって﹂
﹁その素材集めの雑魚相手に死にまくったのはどこの誰だ﹂
67
﹁私です﹂
﹁分かっていればよろしい﹂
そんな会話を交わしつつ、俺はがちゃがちゃ、と扱いなれぬ金具
をいじって肩からマントを外した。
ゲームであればクリック一つで着脱できるのだが、こうなるとさ
すがにそういうわけにもいかない。
﹁ほら。これ巻いてればちょっとはマシだろ﹂
﹁いいのか?﹂
﹁おう﹂
﹁ありがとう、助かる﹂
イサトさんは俺が差し出したマントを受け取ると、ひらりと華麗
にそれを靡かせ︱︱⋮⋮、羽織った。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮つっこんでくれ、沈黙が痛い﹂
﹁何でも突っ込んでもらえると思うなよ﹂
﹁ひん﹂
無言に勝る突っ込みはない、こともある。
イサトさんはくっくっく、と鳩みたいに喉を鳴らしながら笑いつ
つ、マントを腰回りに巻きなおした。
68
腰の片側で端をきゅっと結んでいるため、ひらひらと斜めに足首
に向かう布のラインは、ロングドレスの裾を思わせるドレッシーな
状態だ。
イサトさんはドヤァとでもいう風にこちらを見ている。
たぶん、上が普通の服だったなら、ファッショナブルに見えた⋮
⋮、のかもしれない。が、クリーム色のずるずるの下にダークレッ
ドのマントを巻いているので、なんかこう全体的にずるずるしてい
る。
新種のゴースト系モンスターのようだ。
﹁どっかついたらまともな服買おうな﹂
﹁⋮⋮はい﹂
かくり、と項垂れたイサトさんの肩を軽く慰めるよう叩いて、俺
たちは再び砂漠を歩きだす。
そして。
そろそろ日が暮れようという頃に︱︱⋮⋮、ようやく小さな村に
たどりついたのだった。
69
ズルズルオバケとおっさん︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
PT、感想、お気に入り、励みになっています。
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キレる若者とおっさん︵前書き︶
流血描写、グロ︵微︶描写あるのでご注意。
0901修正。
0916修正
1117修正
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キレる若者とおっさん
日暮れ前に俺たちがたどりついたのは、砂漠の東端にあるカラッ
トという村だった。
辺境の村らしく、俺たちのような冒険者が訪れるのは珍しいのだ
といってわいわいと俺たちを物珍しそうに囲んでくれた。
それをキリの良いところで振り切って、俺とイサトさんは宿屋へ
と引き上げていた。部屋は当然二つ。隣同士並んで二部屋借りた。
一泊200エシルで、朝食つきだ。たまに行商の商人が訪れる他
は、わざわざこんなところまで来る冒険者もいないため、宿といっ
ても万年休業状態なのが常だからこそのこの値段なのだそうだ。
ゲーム的な感覚で言うと、初心者エリア故の安価といったところ
だろう。
自分の部屋に荷物を置いたイサトさんが、俺の部屋へとやってき
たところで作戦会議だ。
﹁⋮⋮イサトさん、カラットって村知ってる?﹂
﹁知らないな⋮⋮。砂漠エリアといったら始まりの街エルリアとあ
と砂漠のダンジョンぐらいしか知らない﹂
﹁俺も同じく﹂
﹁でも言葉が通じたのはありがたかったな﹂
﹁本当に﹂
何気なく笑顔でしれっと対応していた俺とイサトさんだが、二人
72
とも村に入るまでははたして言葉が通じるか、と結構ハラハラして
いたのは内緒である。
いざとなったら私が頑張って言葉を覚えてみせる、と言い切った
男前なイサトさんの覚悟は次回に使いまわしたい。
﹁一瞬RFCの世界じゃないのかとも思ったけど⋮⋮、エルリアの
こと知ってたよな?﹂
﹁うんうん﹂
エルリア。
砂漠のオアシス、灼熱の砂漠都市、始まりの街。
RFCを始めたプレイヤーは、最初エルリア近くの砂漠へと転送
される。
そこからチュートリアルが始まり、その指示に従ってモンスター
を倒す中で武器や回復アイテムの使い方や武器や防具の装備の仕方
を学び、ワープポータルの使い方を覚え、実践しているうちにエル
リアにつく、という流れなのだ。
だから俺は、砂漠をさまよった結果にたどりつくのはエルリアか、
ピラミッドのどちらかだと思っていた。ピラミッドというのはこの
砂漠エリアにおける現時点では高レベルダンジョンである。
RFCでは、中央都市セントラリアを中心に、東西南北にそれぞ
れ都市国家が発達している。北のノースガリア、東のエスタイース
ト、南のサウスガリアン、西のトゥーラウェスト。
エルリアはトゥーラウェストに属している。そしてそこからエリ
アにわかれていくわけだ。エリアは大体特徴の似ているフィールド
73
3つと、ダンジョン一つと、プレイヤーが休むことができる休息ポ
イントの5つから構成されている。
俺たちがいる砂漠エリアも、初心者向けのフィールドが3つと、
ある程度レベルが上がったプレイヤー向けのピラミッドダンジョン、
そして始まりの街エルリアから構成されていた⋮⋮はず、なのだ。
カラット、という俺もイサトさんも知らない村にたどりついてし
まった時、俺は地味にショックを受けていた。
RFCの中に入ってしまった、のだったらまだ救いがあると思っ
ていたからだ。
俺はRFCならばサービス開始時から遊んできた古参だ。レベル
だって、ほぼカンストに近い。たとえそれが現実になったとしても、
俺にはこの世界に対する知識がある。ステータスが反映されている
ならば、それなりに戦うことも可能だろう。
少なくとも、﹃生き抜く﹄ことぐらいは出来るはずだ。
だが、ここがRFCとは異なる世界だったなら。
俺の知識は頼りにならない。ステータスもどこまで信じられるか
わからない。
そう考えたとき、急に立っている大地が底なしの泥沼に変わった
かのような恐怖を感じてしまったのだ。己の知識や常識が全く通じ
ない異世界に、寄る辺なく放り出されてしまった心細さは尋常じゃ
ない。
エルリアに行きたかったんだけどな、と呟いた俺の声は、きっと
74
乾いて震えていた。それに対して、俺たちを案内してくれた宿屋の
娘は顔をくしゃくしゃにして笑ったのだ。
﹁お客さん、エルリアの街なら正反対の方向ですよ﹂
と。
﹁レトロ・ファンタジア・クロニクルの世界観に良く似た異世界⋮
⋮、ってことなんだろうかなあ﹂
﹁いろいろ確かめないとまずいよな。そもそも俺、まだこれが現実
かどうかも実感が正直わいてない﹂
﹁それは私もだよ。まだどこかで⋮⋮、そのうち目が覚めるんじゃ
ないか、って思ってる﹂
﹁⋮⋮だよな﹂
俺やイサトさんが二人とも妙に冷静に適応していられるのは、ま
だこれが現実だという実感がわかないから、なのかもしれない。
﹁ダメだな、俺。もっとしっかりしないと﹂
現実を認めなければ。
目の前の現実をしっかりと認めなければ。
こんなにのんびりとしていては、何かあったときに動けないかも
しれない。
・・・
ここはもうゲームではない⋮⋮、かもしれないのだ。
それに、リアルの方の問題だってある。
俺たちは今こうして、MMORFCによく似た見知らぬ世界にい
るわけだが、今この瞬間俺たちがもともといたはずの世界では何が
起きているのだろう。
75
これがただの、恐ろしいほどにリアルな夢だというのなら、それは
それで構わない。
けれど、もし本当に異世界に来てしまっているとしたら。
ここにいる俺は肉体を伴った俺なのか、それとも肉体を置き去り
に魂だけでここに迷い込んでしまっているのか。それによって、危
険度は変わる。もし肉体ごとここに来てしまっているのならば、俺
が覚悟すべきは家族によって失踪届あたりが出されてしまうことだ。
一人暮らしの大学生であり、実家への連絡がそれほどマメでない俺
なので、俺がリアルから姿を消してしまっていることに家族が気づ
くまでは猶予がある。その間に元の世界に戻ることが出来れば、現
実復帰へのリカバリーは可能だ。だが、もし魂だけでこちらに来て
しまっている場合。家族が俺の異変に気付くまでの時間が今度は命
取りになりかねない。
そんな状況だと言うのに、俺には実感がない。
漠然とした正体不明の焦りは感じているものの、死ぬかもしれな
い環境に追いこまれているという危機感に欠けている。
こんなザマでは⋮⋮。
﹁⋮⋮あんまり気負うものではないよ、アキ青年﹂
眉間に皺を寄せて考え込んでいた俺の肩を、イサトさんがぽんと
叩いた。
﹁イサトさん﹂
﹁人間なんてな、放っておいても目の前の環境にはなんだかんだ適
応できるんだ。皆が呆れるブラック企業で気づいたら一年耐久した
私が言うんだから間違いない﹂
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﹁⋮⋮ブラック企業勤めだったんです?﹂
﹁だったんです。一年で根をあげてフリーになったけれど、私以外
で一週間以上持った人はいなかったので⋮⋮、まあ酷い環境だった
んだろうな﹂
他人事のように何かすさまじいことを言ってるぞこの人。
俺とイサトさんはゲームの中での付き合いしかなかったこともあ
り、俺はイサトさんのリアルの話をほとんど知らない。
そういえばリモネがよく﹁あいつは規格外﹂と言っていたっけか。
﹁昔なー、私がまだ大学生だった頃なんだが﹂
﹁はあ﹂
﹁私はその日ゼミが終わったらもう授業がなくてね。私の友達連中
は皆次に授業が入ってたんだ。そういうことって、あるだろ﹂
﹁あるな﹂
同じゼミにいれば大体似たような講義をとっているが、それでも
そういった差異は出てくる。
﹁それで私は一人で帰ることにしたんだ。授業を行っている建物の
ヘビ?﹂
小脇にある雑木林の中の小道をてくてく歩いていて⋮⋮、そこでヘ
ビを踏んだ﹂
﹁は?﹂
え?
﹁ヘビ﹂
﹁え?
﹁そう、ヘビ﹂
重々しく繰り返して、イサトさんはこっくりとうなずく。
77
﹁大丈夫だったのか?﹂
﹁普通に考えてヘビ踏んだら反撃されるよな﹂
﹁さ、されるだろうなあ﹂
嫌な予感しかしない。
﹁見事かまれました﹂
﹁うわあ﹂
﹁私な、その時驚きすぎてなー﹂
﹁そりゃ驚くよな﹂
﹁悲鳴をあげ損ねたんだ﹂
﹁悲鳴を上げ損ねる?﹂
﹁なんというか、タイミングを外した、というか。
すぐ隣の建物は授業中で、他の友達は皆授業に出てて、私だけ小道
でヘビに咬まれてる、っていう。超シュールだろ﹂
絵面で想像すると相当シュールだ。
﹁私はなんだかものすごく冷静でな。
自分の脛のあたりに咬みついてるヘビを見下ろして、この色と形な
らたぶんアオダイショウだなー、毒はないだろうから平気だなーっ
て考えてて。
でもヘビはものすごい私の足に絡みついててな。もうなんなの。
最新ファッションなの、っていう﹂
叫ぶタイミングを逃し、一人呆然と小道にたたずむイサトさん。
その足にしっかりと絡みつくアオダイショウ。
﹁結局どうしたんだ﹂
﹁仕方ないから咬みついてるアオダイショウの頭を掴んで、ひっぺ
78
がして、そしたら今度は腕にからみついてくるから、ものすごい勢
いで腕を振ってぶんなげたよな﹂
﹁ぶんなげたんだ﹂
﹁ぶんなげました﹂
ヘビの方から襲ってきたわけではなく、先にうっかり踏んづける、
という形ででも攻撃をしかけてしまったのは私だったからな、なん
てイサトさんはしみじみ思い出を語っている。
﹁その日は私、ジーンズだったんだ。だからヘビの牙も肌に届いて
なくて、何事もなかったんだが⋮⋮、とにかくあっけにとられる出
来事だった﹂
﹁そりゃ驚くよ﹂
﹁だから﹂
﹁だから?﹂
そういえばなんでこんな話になったんだっけか。
﹁人間、予想もつかない出来事に直面したときってな、意外とパニ
ックにならないんだ。たぶん脳みそがブレーキをかけてるんだと思
う。私たちが今妙に冷静に淡々と対応していて、異世界トリップの
実感がわかないのも、そういう防衛機構だと思っておくといい。君
がのんきで頼りないわけじゃない﹂
﹁イサトさん⋮⋮﹂
そう繋がるわけなのか。
﹁そのうち嫌でも実感がわいて、どんよりする時がくる。それか、
もしくは向こうのおふとんで目覚めてああやっぱり夢だったんだ、
って思う時が﹂
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﹁⋮⋮後者だと嬉しいんだけどな﹂
﹁確かに。そんなわけだから⋮⋮、あんまり今はあまり落ち込まず、
やれることからやっていこう。いつもと変わらず﹂
﹁⋮⋮そう、だな﹂
実際にはここは俺たちにとっては現実で、画面越しに見てきたR
FCとはいろいろと勝手が違う部分だって多い。でも、それでも。
いつもと同じように、二人で話し合って、やれることから片づけて
いこう。
この世界のことも、俺たちの元の世界のことも、考えなくて良い
わけではない。けれど、今はヒントが少なすぎるし、考えたところ
で解決法に至る可能性は少ないような気がした。それなら、悩んで
危機感や絶望に追い詰められるよりも、多少は鈍感でも、今出来る
ことだけを考えるようにした方が良い。
﹁それじゃあまず、自己紹介していいか?﹂
﹁え?﹂
﹁こんなことになったわけだし、やっぱり一緒にいる相手のことは
知っておきたいもんじゃない?﹂
あきら
あきら
俺の言葉に、イサトさんは意外そうに目をぱちくりとさせている。
とおの
﹁俺は遠野秋良。季節の秋に、良い悪いの良いって字で秋良だ。大
学二年の二十一歳。改めてよろしくな、イサトさん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮。⋮⋮私は﹂
﹁無理しなくてもいいよ﹂
﹁え?﹂
﹁俺は、俺のことを知ってて欲しかったから名乗っただけだからな。
イサトさんがリアルの情報を俺に知られたくないって思うならその
80
気持ちだって尊重する﹂
そりゃちょっとは寂しいけどな!
残念だけどな!!
﹁や、そうじゃないんだ。ちょっといろいろ事情があって﹂
﹁うん﹂
くが
いさと
﹁これで自意識過剰だったらクソ恥ずかしい﹂
﹁何が﹂
﹁⋮⋮私は、玖珂伊里﹂
ここで、一度イサトさんは言葉を切って俺をちろ、と上目遣いに
見やった。
可愛い。
﹁イサトさん、まさかの本名プレイだったのか﹂
﹁逆に本名だと思う人もいなかろうと思って﹂
﹁確かに﹂
﹁いさと﹂という音自体、名前としてはそう多いものではないよ
うな気がする。
本名、というよりもペンネームやハンドルネーム、芸名にありそ
うだ。
って。あれ。ちょっと待て。待てよ。玖珂伊里、って名前を俺は
知っている。
﹁玖珂伊里って、あの玖珂伊里!?﹂
﹁⋮⋮たぶん、その玖珂伊里だ﹂
玖珂伊里。最近ちまたで話題になっていた少女漫画の原作担当の
名前だ。女性の心をときめかせ、様々な年代の女性のハートをがっ
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つり掴んだ結果、今年の暮れには実写映画化も決まっていたはず。
今目の前にいるダークエルフ美女がその玖珂伊里!?
﹁玖珂伊里ってアレだろ、マスコミに絶対出てこなくて最近だと実
在しないんじゃないか、とまで言われてる⋮⋮﹂
﹁はっはっはー﹂
いました。実在しました。
﹁そんなわけで、私は玖珂伊里。まあ、ネトゲの時と変わらず気軽
にイサトと呼んでくれ。⋮⋮といっても君はずっと私のことをおっ
さんと呼んでいたわけだが。おっさん、でも構わないよ﹂
﹁呼べるか﹂
拗ねた調子で言葉を返す俺に、イサトさんはくつくつと楽しそう
に喉を鳴らして笑っている。
﹁職業は文字書きだ。で、年齢は25。君より4つ上なわけだな﹂
﹁はー⋮⋮﹂
言葉が出ない。
ネトゲでつるんでいたおっさんが美女だったあげくに、そんな時
の人だったなんて。
でも少し納得した。おっさんは暇な時はちょこちょこネトゲにイ
ンしているが、忙しい時は本当に出てこない。死んだんじゃないか、
なんて不謹慎な噂が流れるほどに音信不通になる。きっとああいう
ときはいわゆる修羅場に突入していたんだろう。
﹁改めてよろしく、秋良﹂
82
﹁⋮⋮よろしく、イサトさん﹂
そうして、俺たちは改めて握手をかわしたのだった。
その日は、そんな自己紹介と、インベントリの使い方をお互いに
確認する感じで終わった。お互いざっと現在のインベントリ内にあ
るものを報告しあったが、予想通りイサトさんのインベントリはほ
とんど空だった。ただ、例外を言うならば召喚アイテムだろうか。
イサトさんは本人の戦闘力よりも、召喚対象を育てることに全力
を注いでしまった系残念ダークエルフだ。何が残念って、ダークエ
ルフは﹁召喚﹂こそ出来るものの﹁召喚﹂向きではないあたりが、
残念極まりない。
RFCでは召喚という特殊スキルが使える種族としてエルフとダ
ークエルフという二種類が用意されている。どちらも召喚スキルを
使えはするのだが⋮⋮、種族特性がエルフとダークエルフでは異な
っているのだ。
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エルフは召喚をメインに、本人の覚える魔法は大地や自然の力を
借りて召喚モンスターを癒したり、自身を回復するようなサポート
系の能力を覚える。
一方のダークエルフは、同じ精霊魔法でもより攻撃的な魔法スキ
ルを覚えることができる。結果、召喚士としてモンスターを相棒に
戦いたい人はエルフを、強力な広範囲精霊魔法を使いたい人はダー
クエルフを、といった形で使い分けが行われていた。
そこでイサトさんである。ダークエルフで、召喚士。
無理ではないが、いろいろと残念である。
何故とめなかったのか、とリモネに聞いたところ、止めても聞か
なかったんだ、と遠い目をされた。
そんなわけで、イサトさんは残念な召喚士なのである。
ちなみに、召喚スキルはエルフしか使えないとはいえ、召喚する
だけなら俺もできる。騎乗も、出来る。なので俺も、それなりに育
てた騎乗用のモンスターが手持ちにいたりもする。
では、召喚士というジョブが俺と何が違うかというと、モンスタ
ーのレベルが上がりやすいということと、あとはモンスターに命令
出来るということだ。召喚士ではない俺がペットとしてモンスター
を連れている場合、俺が戦闘に入ったとしてもモンスターが攻撃に
参加する割合は一割から二割程度だ。
騎乗している場合に限り、反撃だけはオートで行ってくれる。
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が、召喚士の場合、連れているモンスターにターゲットを与え、
攻撃をさせることができるのだ。ちなみにペットは自らが攻撃して
モンスターを倒した場合でないと経験値を獲得しない。連れ歩くだ
けではダメなのだ。なので、騎乗型のモンスターの場合は、アクテ
ィブモンスターが大量に湧くポイントに突撃することでレベルあげ
することもできるが⋮⋮、それ以外のモンスターの場合は召喚士以
外だとなかなかレベルを上げることが難しい。
イサトさんが現在手元に持っているのはグリフォンとフェンリル、
それと朱雀だった。西洋風の世界観でいきなり和の要素が入ってく
ることに違和感を覚えるかもしれないが、そのあたりRFCはわり
とチャンポンである。日本人プレイヤーの心をがっつり掴むという
目的と、クールジャパン的な何かを狙っていたのかもしれない。
グリフォンとフェンリルは物理攻撃に特化しており、朱雀はフェ
ニックスと要素をだぶらせているのか回復や復活といったサポート
系のスキルを持っている。戦闘目的でどこかに出かけるときの、イ
サトさんの定番だ。
ここが本当にRFCの世界ならば、どうしたらスキルが発動する
のかといった仕様面についての確認をいろいろしたいところではあ
ったのだが⋮⋮。
さすがに村の中でモンスターを召喚したり、俺の大剣スキルを実
践するわけにはいかない。
そのあたりはおいおいこの村を拠点にして、砂漠の方でモンスタ
ーを相手に実践してみよう、という話になった。
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そこで、今日はおしまい。
お互いそれぞれの部屋に戻って、眠りにつく。
次目覚めたら自分の部屋だったら良いな、なんて夢を抱きつつ。
そして。
そんな夢が打ち砕かれるのは、きっとある種の御約束なんだろう。
起きて!!﹂
夜中、俺を目を覚ましたのは目ざまし時計のせいでもなければ、
日本の自分の部屋でもなかった。
﹁お客さん、起きてください!!
だんだんだん、と激しくドアが鳴る。
甲高い悲鳴じみた声は、俺たちを部屋に案内してくれた宿屋の娘
さんのものだろうか。
身を起こすと、窓の外が異様に明るいのに気付く。
﹁⋮⋮なんだよ﹂
嫌な予感を打ち消すように、呟きながら寝具から抜け出してドア
へと向かう。ちなみにベッドではなく、布団⋮⋮、というよりも寝
袋に近いタイプのものがこのあたりでは一般的らしい。
盗賊です⋮⋮!!﹂
鍵をあけると同時に、バタンとすごい勢いで外からドアを開けら
れた。
﹁お客さん逃げてください⋮⋮!
﹁おうふ﹂
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これが現実だと認識したがらない脳は、御約束キタコレこのタイ
ミングでかよ、などというリアクションを俺にとらせる。実際には
もっと緊張感にあふれていなければならない状況であるはずなのだ
が。
﹁イサトさん⋮⋮、俺のツレは?﹂
﹁お母さんが呼びに行っています!﹂
﹁よし﹂
それだけ確認すると、俺はベッドの傍らに置いてあった大剣だけ
を手に取った。
さすがに寝るときは邪魔だからと防具関係は外してしまっていた
のだが、きっと今それを身につけるだけの時間はないだろう。着る
ことを諦めて、それらはぽいぽい、っとインベントリの中にしまっ
ておく。ふと思いついて、普段ゲームの中でやってるようにインベ
ントリ画面で防具をダブルクリックしてみた。
﹁おお﹂
早着替えだ。
いかにも最初から着てましたよ、という態で俺は防具を装備して
いた。脱ぐのも同じように一発で出来たら便利なんだが。
﹁お客さん、急いで!﹂
﹁あ、ごめん﹂
ついこんな時に仕様を確認してしまっていた。剣を腰にさして部
屋から出ると、同じように宿屋の女将さんに起こされ、腕をひかれ
て部屋を出てきたイサトさんと合流することができた。
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イサトさんは寝起きをそのまま引っ張り出されてきたのか、まだ
ぼんやりと眠そうな顔をしている。問題は着ているのが召喚士装備
︵上︶だけだということぐらいか。例の彼シャツ状態だ。俺のマン
トはどこいった。
﹁イサトさん、俺のマントは?﹂
﹁いんべんとりー﹂
眠たげに間延びした声で応えられた。普段よりもふにゃふにゃと
した喋り方が可愛い。が、今はそれどころではない。俺たちは宿屋
の母娘に先導されて階段を降りながら、小声で言葉を交わす。
﹁起きろって、イサトさん。盗賊だって、盗賊﹂
﹁とうぞく⋮⋮、どろぼう?﹂
﹁そうそう、泥棒。でもどっちかっていうと強盗みたいだ﹂
逃げろ、ということは盗むだけでなく、こちらに危害を加えられ
る可能性が高いということなのだろう。
﹁そんなイベント、やったことないぞ⋮⋮﹂
﹁俺もないよ。ほら起きろって﹂
少しずつイサトさんの喋りがはっきりしてくる。
﹁⋮⋮起きた﹂
﹁それなら良かった。で、どうする?﹂
﹁王道的展開ならここで私たちが本気出して無双﹂
﹁そうじゃないなら?﹂
﹁小市民的にそそっと村人にまぎれて避難﹂
88
﹁俺らは?﹂
﹁小市民コースじゃないか﹂
﹁⋮⋮だな﹂
まだスキルが使えるのか、自分たちにどれほどの戦闘力があるの
かもはっきりしていないのだ。その状態で盗賊相手に喧嘩売るほど
俺もイサトさんも神経がずぶとくはなかった。
先導する二人の後について、俺たちは避難する。村のあちこちに
が赤々と照らされているのは火を放たれたからなのだろう。
そう。そこは主張したい。俺たちはちっとも暴れる気なんてなか
った。村人たちには悪いが⋮⋮、命さえ助かればそれで良いと思っ
ていたのだ。
こっちに⋮⋮!﹂
命さえ、助かれば。
﹁こっちです⋮⋮!
そう言って俺たちを先導して走り出した宿屋の娘さん。
たたっとかろやかに足音を響かせ、通りに出ようとしたとたん。
俺たちから見えぬ物陰から突き出された白銀の刃が、さくりとそ
の顔から臍の下あたりまでを一刀のもとに切り捨てていた。
﹁⋮⋮っ!?﹂
89
﹁アーミット!!﹂
女将さんの絶叫が響く。
ああ、あの娘の名前はアーミットというのか、だとか。
﹃お客さん、エルリアの街なら正反対の方向ですよ﹄
と言ったくしゃくしゃな笑顔だとか。
そんな彼女に纏わる記憶が一気に鮮明に眼裏に蘇って。
ぐしゃりと割れて血を溢れさせる彼女の顔と重なる。
むせかえるように立ち込める濃厚な血の香り。金臭い。
くらり、と少女の身体がバランスを失って揺れるのと、赤黒い鮮
血を滴らせるシミターをぶら下げた男が物陰からのそりと姿を現す
のはほぼ同時だった。
恐れよりも、まず最初に感じたのは怒りだった。
ああでも、この怒りを俺はどうぶつけたらいい?
どうしたら、どうしたら。
殺す?
その選択肢は驚くほどするりと俺の脳裏に浮かび上がった。
殺す。命を奪う。可愛いあの子を殺したこの男を殺し返す。命の
贖いは命で賄ってもらおう。殺そう。こいつ、殺そう。
大剣を握る手に力がこもる。
す、とすり足で相手に向かって踏みだしかけ︱︱⋮。
﹁秋良援護!﹂
90
﹁⋮⋮ッ!?﹂
俺より先にそう叫んで飛び出したのはイサトさんだった。
砂をけり散らす豪快なスライディングで、イサトさんは男の足元
に崩れかけていたアーミットの身体を抱きとめる。血まみれのアー
ミットの身体を抱いたイサトさんは、すぐさま空中に手を滑らせ⋮
⋮そんなイサトさんに向かって、傍らに立っていた男が再びシミタ
ーを振り上げる。びちゃりとシミターから散った鮮血がイサトさん
の顔を汚す。その血に汚れた顔が、俺を振り返る。強い色を浮かべ
た金色の眸。
﹁⋮⋮ぁ﹂
小さく、息が零れた。
まっすぐに俺を見つめるイサトさんへと、男の持つシミターが振
り下ろされる。
目の前が赤くなる。
体が熱くなる。
熟した果実のように肌の内側に詰まっていたいのちを散らして崩
れ落ちたアーミットの姿が、俺を見つめるイサトさんに重なる。
イサトさんが、死ぬ?
そんなことは認められない。
許せない。
イサトさんが、顏を伏せる。
ただしそれは、己へと振り下ろされる凶器に怯えたからではない。
その証拠にイサトさんの指先は虚空を滑っている。インベントリか
ら何かを取りだそうとしているのだ。今にも自分に向かって振り下
91
ろそうとされているシミターのことなど、考えもしていないとでも
言うように。
いや、違う。
イサトさんはなんと言った?
﹃秋良援護!﹄
イサトさんは、俺に援護を頼んだのだ。
俺は何だ?
騎士だ。
前衛だ。
前衛の務めは︱︱⋮⋮。
﹁させるかよ!!﹂
今度こそ俺は大きく踏み込み、腰の大剣を引き抜きがてらその抜
刀の勢いでイサトさんに向かって振り下ろされたシミターをはじく。
否、はじこうと思ったのだ。
そのつもりで俺は大剣をシミターに当てに行ったのだが⋮⋮、結
果どうなったのかというと、俺の大剣はいともやすやすと男のシミ
ターをすっぱりと切断してしまっていた。
ほとんど腕には感触すら伝わらなかった。そのまま俺は返す刀で
男を男がアーミットにしたように脳天から袈裟斬りにしてやろうと
大剣を振り下ろす。
92
恐怖にひきつった男が助けてくれと叫ぶ。
頭の中がふつふつと煮えたぎっているのに、その一方で俺は妙に
冷静だった。
お前はアーミットに命乞いを許したか、というのが、必死の命乞
いに対して抱いた感想だった。
人を一人殺そうとしているのに、そんなことしか俺は思わなかっ
た。思えなかった。俺の振り下ろした刃が、男の顔面に、肉に沈み
かけ。
﹁殺すなよ!﹂
背後からかかったイサトさんの声に、俺はぴたりとその手を止め
た。男の顔がどろりと血で汚れていくのが見えたので、おそらく2
ミリくらいはイってしまったような気がする。恐怖で意識を失った
のか、男がどしゃりと膝から崩れて地面に倒れた。それを見届けて
から、剣を引く。
﹁なんで﹂
﹁ひとごろしは、なるべくしない方向で﹂
﹁あいつは殺したのに?﹂
﹁殺してない﹂
﹁助かった?﹂
﹁ああ﹂
振り返る。
イサトさんの腕に抱かれた血塗れのアーミットが、何が起こった
のかわからない、といった様子で緩く瞬いている。血塗れではあっ
93
たものの、無残に断ち斬られた傷跡は微かにも残っていない。その
代わり、何故かアーミットの顔は液体に濡れていた。
⋮⋮ポーション、飲ませたんじゃなくてかけたのか?
そんなことを思いつつ、俺は﹁はー⋮⋮﹂と深く息を吐いた。
良かった。本当に良かった。アーミットは助かった。死んでいな
い。傷跡も残らなくて良かった。女の子の顔に傷が残るのはよろし
くない。
強張っていた体の力が緩むのに合わせて、俺は持っていた大剣を
地面に突き立てて、深々と息を吐いた。それから顔をあげて、女将
さんへと振り返る。
﹁女将さん、アーミットを連れて避難してください﹂
﹁あ、あなたたちは⋮⋮っ!?﹂
﹁無双モードです﹂
きっぱりとイサトさんが言い切った。
でもそれ、おかみさんには間違いなく絶対通じない。
﹁ここは俺らがなんとかします。女将さんは早く逃げてください。
安全なところまでは、俺といさとさんで援護しますから﹂
﹁いや、ちょっと待った﹂
﹁イサトさん?﹂
﹁護衛ならちょうど良いのがいる﹂
こんなすぐに試すことになるとは思わなかった、とぼやきながら、
イサトさんがすっと中に手を滑らせる。それと同時にその手の中に
現れたのは、妙に禍々しいスタッフだった。
94
確かあれは南の方のエリアボスドラゴン、ダークロードのドロッ
プ品だ。この禍々しさがたまらん、とおっさんが愛用していた。見
ないと思っていたら、インベントリにしまっていたらしい。
イサトさんは、トーン、と軽やかにスタッフの柄を地面に打ち付
けた。そして、ゆるくスタッフを一閃。それはいつも、ゲーム画面
で見ていた動作だった。
﹁︱︱⋮フェンリル﹂
呼ぶ声に応じるように咆哮が響きわたる。
魂を揺さぶるような、人間の本能に根差した恐怖や警戒心をかき
たてる声だ。
ふっと一陣の風が吹き抜けると同時に、だしん、とその図体にし
ては軽やかな音をたてて白銀の毛並を持った巨大な狼がどこからと
もなく俺たちの目の前に降り立った。月明かりをはじく銀の毛並み
も美しい、イサトさんお気に入りの魔狼だ。ゲームの中ではおなじ
みの存在だったが、こうして現実として目の前に立たれるとものす
ごい威圧感を感じる。喰われる心配はないとわかっていても、身構
えてしまいそうになった。大きさとしては日本で一番有名な山犬サ
イズ、といったところだろうか。ちなみに息子たちの方ではなく母
親の方だ。これだけ大きいのだから、獣臭さを感じるかと思いきや、
意外なことに生きている動物めいた匂いは感じなかった。流石は召
喚モンスターだ。
﹁⋮⋮これだけ格好つけて、失敗したらどうしようかと思った﹂
なんて言いつつ、イサトさんはすり寄ってくるフェンリルの首筋
をわしゃわしゃと撫でてやっている。ふかふかと柔らかそうな毛並
に、つい目が吸い寄せられるが今はそんな場合ではない。
95
﹁フェンリル、ちょっとこの二人を護衛してやってくれないか。目
的地までついたら、戻っておいで﹂
﹁くふん﹂
返事はちょっとかわいらしい鼻鳴きだった。
驚愕を通り越して呆然自失としている女将さんとアーミットを二
人がかりで、大人しく伏せたフェンリルの背に乗せる。
﹁よし﹂
GO、と軽くその首筋をイサトさんが叩くと同時に、フェンリル
は二人を乗せて走りだす。
それを見送って、ふとイサトさんが俺をなんともいえない目で見
ていることに気がついた。
﹁⋮⋮何﹂
﹁君は⋮⋮意外とキレやすい男なんだな﹂
﹁む﹂
キレやすい、といわれるとなんだか触るもの皆傷つけちゃう系男
子のようだ。
そんなつもりはないんだが。
﹁あんなナチュラルに相手を殺す覚悟を決められる人を、私は初め
て見たぞ﹂
﹁ええー﹂
うーむ。もしかしなくとも、イサトさんにどん引かれてしまった
96
だろうか。
怖がらせてしまったか?
少しだけ、ひやりと指先から体温が逃げたような気がした。
そんな俺の腕を、ぽんとゆるくイサトさんが叩く。
きっと、それが俺の抱いた疑問に対する返事なのだろう。
触れられたところから、じんわりとイサトさんの体温が伝わって
くるような気がする。落ち着く。人の体温。命のぬくもりだ。
﹁イサトさん、フェンリル戻ってないけど大丈夫なの?﹂
﹁ふっふっふ、こう見えて私は一応ダークエルフなのだ﹂
﹁こう見えてというかダークエルフにしか見えないけどな﹂
﹁うるさいな﹂
イサトさんが、すちゃりとスタッフを構える。
先ほどの俺と盗賊Aの戦闘からわかるとおり、おそらく俺らはこ
いつらよりはるかに強い。こいつら相手にならば、イサトさんの精
霊魔法もむしろやりすぎなレベルで効果があることだろう。
⋮⋮と。
﹁秋良青年は木の棒な﹂
﹁えええええ﹂
ぽい、と無造作にイサトさんが拾った木の棒を俺に向かって放り
投げてきた。
いろいろ不満はあるものの、確かにあの大剣を振り回して相手を
殺さずにすむ気がしない。打ち合ったところからそのまま相手を剣
ごと切り捨ててしまいそうなのだ。
97
仕方ないので、大剣をインベントリにしまい、木の棒を握る。ま
さかこんなところで﹁ひのきのぼう﹂を装備することになるとは思
わなかった。
ワンピースのように召喚士装備︵上︶を靡かせ、禍々しいスタッ
フを構えるイサトさん。
丈がぎりぎりなのが、余計にもともとそういうコスチュームであ
るかのようで、それなりにハマっている。月光を織りあげたような
銀髪を靡かせ、金色の双眸で索敵にいそしむ様はいわゆる悪墜ちし
たヒロインのようだ。
一方その傍らの俺ときたら、木の棒を握っているだけだというの
だからどうにも格好がつかない。
﹁くっそう⋮⋮﹂
唸っていると、傍らのイサトさんがそっと手を伸ばして俺の頭を
ぐしゃぐしゃと撫でてくれた。
﹁今度は私が君に木刀を買ってあげよう﹂
﹁100エシルの?﹂
﹁そう、100エシルの﹂
﹁仕方ない、それで手を打つか﹂
そんな会話をのんびりとして。
俺とイサトさんは盗賊殲滅戦に赴くのだった。
98
盗賊殲滅戦は、限りなく順調に進んでいた。
﹁イサトさん、そっちに一匹いった!﹂
﹁盗賊のカウントは匹でいいのか﹂
﹁畜生にも劣る、的な?﹂
﹁なるほど?﹂
ぶんっと何気なく振るわれたイサトさんのスタッフが、したたか
に正面から盗賊の横っ面を殴り倒した。それほど威力があるように
見えない一撃だが、喰らった盗賊は立ち上がれなくなっている。効
果は抜群だ。
この世界に迷いこんで初の戦闘ということもあり、最初はお互い
気を配っていたものの、盗賊どもの戦闘力がわかるにつれて次第に
緊張は程よく緩んでいた。今ではお互いに雑談を交わしながら、ひ
ょいひょいと盗賊の無力化を続けている。
精霊魔法使いであり、召喚士であり、物理戦力としてはカウント
外になりがちなイサトさんの物理攻撃が十分通用しているあたりで、
盗賊どものレベルはお察しである。あえて試そうとは思わないもの
の、攻撃を喰らったところでもダメージは皆無だろう。
99
そんな中、ふとイサトさんが顏をあげた。
﹁秋良青年、盗賊は君に任せても良いか﹂
﹁イサトさんは?﹂
﹁私は火消しに走ろうかと﹂
火消し、なんて言われると何の不祥事が炎上しているのかと思っ
てしまうものの、俺も顔をあげてすぐに納得する。
暗い夜空に、再びぱちぱちと火花が細かく踊っていた。
盗賊らは最初、混乱に乗じて攻め入るつもりで村に火を放った。
そちらは戦闘が始まってすぐに、イサトさんによって消火済みだ。
そして、今再び上がり始めた火の手。きっと、盗賊らが逃げる隙を
作るために悪あがきをしているに違いない。
﹁一人で大丈夫そう?﹂
﹁危なくなったら君を呼ぶよ﹂
﹁そうしてくれ﹂
イサトさんの物理攻撃で倒せる相手とはいえ、何があるかはわか
らないのだ。
くれぐれも危ないことはしてくれるなよ、と念を押した後、俺と
イサトさんは二手に分かれて行動を開始した。
イサトさんがいる所を中心に、その周辺から盗賊連中を狩って行
く。
どれくらいそうしていただろうか。
﹁⋮⋮?﹂
100
視界の端を、何かが動いた気がしてそちらへと目を向ける。
そこにいたのは、黒衣のローブを目深に被った男だった。
﹁あんたも盗賊の一味か﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
男は答えない。
⋮⋮なんだろう。
特に武器を構えているというわけでもないのに、目の前にいる男
からは得体のしれない気持ち悪さを感じた。威圧されている、とい
うのとは違う。怯まされているわけではない。ただ、なんとなく近
寄りたくないと感じる。生理的な不快感とでも言えば良いのだろう
か。特に何が原因というわけでもないのに、その黒ローブ姿の男を
薄気味悪いと思ってしまうのだ。
さっさと他の盗賊連中のように気絶させて、捕まえてしまおう。
考えるのは後に回して、俺はさっさと行動に出ることにした。
一息に男の元へと踏み込み、手にしていた木の棒で意識を刈り取
るべく打ち込んで⋮⋮、
﹁⋮⋮っ﹂
俺は息を飲んだ。
男は、俺の振り下ろした木の棒を苦痛の呻き一つなく、腕で受け
止めていた。
木の棒を握る手には、生木を殴ったような反動が伝わってきてい
る。
101
こちらも殺してしまわないようにとある程度力加減はしていたが、
それでも当たれば意識がトぶ程度の力はこめている。それを生身の
腕で受け止めて、声一つあげないなんてことがありえるだろうか。
こいつ、やっぱり気持ち悪い。
俺は、素早く一歩退いて男から間合いを取る。
ローブの下から覗く口元は、ただただに無感情だ。苦痛に呻くど
ころか、表情一つ変わっていない。
﹁⋮⋮気持ち悪ィ﹂
声に出して呟いて、俺は再び木の棒を構えた。
本当ならば大剣に持ち替えたいところではあるのだが、さすがに
いくら不気味な相手だとはいえ、丸腰の相手にあの大剣は使えない。
かくなる上は木の棒で死なない程度にうまく無力化して、捕まえる
のみだ。
ふ、と短く息を吐いて俺が踏み込むのと、男が身を翻すのはほぼ
同時だった。
﹁この⋮ッ!﹂
逃がしてたまるか、と俺は追いすがり、その背へと向けて木の棒
を振り下ろす。
逃げる相手を背後から攻撃するなんて如何なものか、なんてちら
りと思ったが、背に腹はかえられない。
が、そこで俺は再び度胆を抜かれた。
振り下ろした木の棒が背中に当たる寸前、男がこちらを振り返っ
102
たのだ。
それだけなら別に問題はなかった。逃げることよりも迎撃を優先
したのか、で終わる。
では何が問題なのかと言うと、男は足を止めなかったのだ。つま
り、下半身は変わらず前方に向かって逃げながら、上半身だけがぐ
りんと回転して俺を振り返った︱︱⋮ように見えた。
それぐらい、上半身と下半身の動きが不自然だった。
後ろを振り返りながら走ることも不可能ではないだろう。
だが、全く影響を受けずに走り続けることが出来るか、と言われ
ればノーなのではないだろうか。
少なくとも、俺にはそんな動きは無理だし、出来る人間がいると
も思えない。
男は目を瞠っている俺に向かって、ニタリと嗤った。
口が裂けたかのように吊り上る。
そして、腕が一閃。
﹁く⋮⋮ッ!?﹂
長くしなる、鞭のようなものが伸びてきた。
慌てて木の棒でその攻撃を浮けようとしたものの、相手のトリッ
キーな動きに惑わされたこともあってガードが間に合わない。がつ、
と木の棒に掠めるような衝撃を感じた次の瞬間には、頬に熱が生ま
れていた。 ︱︱︱届いた。
103
俺は目を瞠る。 相手の攻撃が、俺に、届いた。
微かに肌を切ったのか、頬にはチリとしたあえかな痛みが残って
いる。
ダメージとしては無視しても構わないほどの微量。
けれど、﹃俺に攻撃が届いた﹄という事実は無視出来なかった。
RFCにおける俺は、前衛として攻撃力はもちろん防御力にも力
を入れたキャラメイクを行っていた。敵の攻撃から味方を護る壁も
やりつつ、先頭に立って敵を殲滅する。それが、俺の役割だった。
だから、俺はそれなりに硬いし、この辺りのモンスターが俺の防御
力を超えた攻撃力を持っているわけなどないとたかをくくっていた。
︱︱︱でも、届いた。
この世界で初めて感じた攻撃される痛みに、俺の感情がぐらりと
揺れる。
ありえないはずの出来事に対する怒りなのか、自らの命を脅かさ
れることに対する恐怖なのか。
例えもし本当に異世界に飛ばされたのだとしても、ゲーム内のス
テータスをそのまま引き継いでいるのならば、なんとかなると思お
うとしていた。元の世界よりも死ににくく、強くなったぐらいなの
できっと大丈夫だ、と。
けれど、その前提が崩れる。
104
こんな初心者向けのエリアに、俺に攻撃を通すことの出来るモノ
がいる。
不用意に手を出して良い相手ではない。
そう判断して俺は深追いはしないでおこうと思いかけるものの⋮⋮
﹁⋮⋮あ﹂
小さく、声を上げた。
俺相手にダメージを与えられるということは、こいつの攻撃はイ
サトさんには確実に通る。
あの人は紙装甲極まりないのだ。
こいつは、イサトさんを殺す可能性を秘めている。
ここで仕留めよう。
俺はぽいと木の棒を捨てると、インベントリから大剣を取り出し
て腰だめに構えたまま男を追う。
男が逃げる先にあるのは燃え盛る家だ。目くらましに使うつもり
なのか。そこに逃げ込まれてしまえば、俺は後を追えなくなってし
まう。一瞬脳裏にポーション連打のゴリ押し戦法もよぎったわけだ
が、追跡で通り抜けるだけならまだしも、万が一敵と燃え盛る家の
中で戦闘になった場合を考えると、その手は使えなかった。どう考
えてもポーションが途中で尽きる可能性の方が高い。
だから、相手が火に紛れる前に決着をつけたい。
﹁⋮⋮ッ逃げんな!﹂
105
唸るように低く吼えて、その背に向けて一太刀浴びせる。
その寸前、微かにイサトさんの﹁殺すな﹂と言った言葉を思い出
したような気もしたが、俺は迷わなかった。躊躇いなく、男の背に
大剣を打ち込む。
俺の振るった大剣はやすやすと相手の胴体をぶった切り︱︱⋮と
いうわけにはいかなかった。ち、と舌打ちを一つ。盗賊の剣を切り
飛ばすだけの切れ味を誇るこの剣ですら、斬り伏せられないあたり、
やはりこの男は油断ならない。男の身体が衝撃にのけぞり、よろけ
⋮⋮そのまま崩れかけた燃え盛る家の中へと転がり込んでしまった。
くそ。俺が相手を火の中にぶちこんでどうする。
せめて男をこちら側に引き戻すことぐらいは出来ないかと思うも
のの、近づいた俺を威嚇するように、ばちりと炎が爆ぜた。そして、
思わず身を引いた俺の目の前でぽっかりと口を開けていた入口が焼
け落ちる。ぶわっと舞った熱気と火の粉に、俺は腕で顔を庇いつつ
一歩後退った。この炎の中に飛び込んで、生身の人間が生きていら
れるとは思えなかった。それ以前に、俺が最後に浴びせた一撃のダ
メージもある。普通の人間ならそこで死んでる。
そう思うのに⋮⋮何故か俺の眼裏には、黒ローブの男が無表情の
ままむくりと身体を起こして歩きだす姿が鮮明に浮かんでいた。
ああ。
きもちわるい。
106
キレる若者とおっさん︵後書き︶
いさとさんは本当に変な人だよなあ、と思ってる秋良も、わりとア
レな人でした。
107
厨二病とおっさん︵前書き︶
0903修正
0916修正
1117修正
108
厨二病とおっさん
騒乱の夜から一夜あけて。
﹁⋮⋮ん﹂
瞼の向こうが白々と明るくなったのに気付いて、俺は小さく唸り
ながら数度瞬いた。砂漠の強烈な日差しは、まぶしいを通り越して
目が痛い。
﹁ま、ぶし﹂
ごろ、と寝がえりを打って日差しから逃げようとしたものの、右
の腕の付け根を押さえ込まれているせいで、左側に転がることはで
きなかった。仕方がないので、押さえ込まれている方向にむかって
ごろり。
まだ明るいではあるが、日差しの直接攻撃を食らうよりはよっぽ
どマシである。ふー、と息を吐いて人心地。
そして、鼻先を妙に良い匂いが掠めることに気付いた。
なんだろう。花の匂いに似ている。って、砂漠に花?
ぱち、と瞬いてみれば、まず最初に目に入ったのは艶々とした銀
髪の頭頂部だった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
109
当然俺には人の生首を抱えて眠る趣味はない。
﹁⋮⋮イサトさん?﹂
そう。俺の腕を枕にすいよすいよと気持ちよさそうな寝息をたて
ているのはイサトさんだった。どうしてこうなった。
﹁えーと⋮⋮?﹂
昨夜、気持ちよく寝ているところを盗賊の襲撃で叩き起こされ⋮
⋮、アーミットのことがあった、ところまでの記憶は確かだ。
そのあと何がどうなったんだったか。
﹁あー⋮⋮、そうか、駆除だ駆除﹂
﹃ひのきのぼう﹄もとい落ちてた木の棒にて盗賊を片っ端からぶ
ちのめしてまわり、イサトさんは精霊魔法にて消火活動にいそしん
でいたのだ。
途中得体の知れない気持ち悪い男と一戦を交えたりもしたが、盗
賊自体は数はせいぜい20∼30程度の数しかいなかったので、制
圧にはそれほど時間がかからなかった。
問題はその騒動や、盗賊が放火した明かりにつられて集まってき
たモンスターだった。
砂漠はRFCにおいては初心者エリアなのでそれほど強いモンス
ターはいない。そのほとんどが非アクティブで、こちらが手を出さ
ない限りは襲ってくるようなことはないのだが⋮⋮その中に初期プ
110
レイヤー泣かせのヤツが一種いるのである。
その名もそのままデザートリザード。
プレイヤーの間では砂トカゲ、という呼び名で定着している。
俺たちの世界でいうコモドドラゴン的なフォルムで、のさのさのさ
っとしたその見た目のわりに意外と素早く接近しては咬みつき攻撃
を仕掛けてくるという厄介なモンスターだ。さらに、通常咬みつき
攻撃に二割程度の確率で毒が発生するあたりがますます憎たらしい。
ここまでとんとん拍子でモンスターを倒してレベルを上げてきた
初心者プレイヤーの最初の壁となる憎まれ役である。
ちなみにドロップ品はフルーツパフェだ。そのあたりは二次元の
ネトゲだったので違和感はなかったが⋮⋮。こうして三次元のリア
ルになったらどうなるのかと思っていたら、こっちでも真面目にフ
ルーツパフェだった。大の男ほどの大きさもある砂トカゲをしばき
倒したら出てくる可愛らしく盛りつけされたフルーツパフェのシュ
ールさといったらなんとも言い難い。
逆にゲームと違っていたのは、モンスタードロップからエシルが
なくなっていたことだった。最初はたまたま俺のドロップ運が悪い
だけなのかとも思っていたが、イサトさんに聞いてもエシルのドロ
ップは一切なかったらしいので、この世界においてはドロップ品は
アイテムだけに限られているらしい。
まあ、通貨の流通量を国が管理できない、というのは国家として
大変困った事態なので、その辺りは仕方ないのかもしれない。
その砂トカゲが騒ぎに便乗して村に入り込んで家畜を襲ったりノ
111
ビてる盗賊を齧ったりし始めていたので、そいつらを駆除するのに
結局朝方までてんやわんやしていたのだ。
村に攻め込んできた盗賊どもを制圧した後は、村の男たちも一緒
になって対策を練っていたのだが⋮⋮、なにぶん砂トカゲを倒せる
のが俺とイサトさんぐらいしかいない。砂トカゲのレベルが確か1
7∼18。プレイヤーであればレベル13以上ぐらいからならなん
とか狩れるといったところだろうか。安定して狩るなら15は欲し
い。
聞いてみたところ、村で一番の腕自慢、とやらがなんとか1対1
で砂トカゲを倒せるか、といったところらしいので、村の男の平均
レベルは大体10前後といった感じで考えれば良いようだ。複数で
囲めば倒せない敵ではないが、それでも昼ならまだしも夜で視界が
悪くなると勝率は下がる。
砂トカゲというだけあって、奴らの表面は砂に色と質感を似せた
保護色なのだ。背後から接近されて毒でも喰らってしまえば、死に
至りかねない。
そんなわけで村人たちには砂トカゲを探す任務にあたってもらい、
見つかったら俺たちのどっちかを呼んでもらって始末する、という
パターンで朝までかかって村の中に侵入した砂トカゲを駆除するこ
とに成功したのである。
あの薄気味悪い男のこともあるので、出来るだけ単独行動は避け
たいところではあったのだが⋮そこはそんなに広くはない村の中に
限ったことであったし、効率を重視する方向で話がついた。
たまに村人が砂トカゲの不意打ちアタックを食らって負傷したり
112
毒が発生するというアクシデントもあったが、その辺はイサトさん
の呼びだした朱雀に対処して貰った。
その後もうダメ眠い、とすでに半分夢の世界に片足突っ込んでる
イサトさんをひきずって、なんとか形を保っていた納屋にもぐりこ
み︱︱⋮。
今に至るというわけだ。
雑魚寝、という形で藁に倒れこむように撃沈したところまでは覚
えているが、いつの間に懐に潜り込まれたのだろうか。腕枕にされ
ている方の指先をちょいちょいと動かしてみる。痺れて動かない、
なんていう情けないことにはなってないので、そんなに時間はたっ
ていないのかもしれない。
というか、この状況はいろいろよろしくない気がする。これでも
俺は健全な若い男なのである。健全な精神は健全な肉体に宿るわけ
なので、俺の俺も非常に健全なのである。もう健全過ぎるぐらいに
超健全。それでもってこの状況。
藁の上とはいえ、腕の中には年上の褐色美女が気持ちよさそうに
寝息をたてているこの状況はなんというか我慢値というか忍耐値的
なものに対する挑戦としか思えない。角度的には天使の輪の浮かぶ
銀髪ぐらいしか見えないのがちょっと残念だったりもするわけなの
だが⋮⋮、鼻先をかすめる甘い香りだったり、腕に感じる重みはな
かなかに贅沢だ。
時折﹁ん⋮⋮﹂だとか悩ましげに唸っては、ぐりぐりと俺の胸元
に額を擦り付けてくるのがたまらない。
113
そのままいろいろやらかしそうになるぐらいには可愛い。
というかこの状況で俺が何かしてしまったとしても、情状酌量で
無罪を勝ち取れる気がする。俺の中の内なる陪審員はすでに満員一
致で無罪判決を掲げている。
どさくさまぎれに抱きしめてみても良いだろうか。
おっぱい揉むのは我慢するから。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ごくり、と喉を鳴らして俺はそろそろとローブに隠れた華奢な腰
へと腕をまわし⋮⋮。
︱︱︱コンコン、とノックの音がした。
﹁ご、ごめんなさい⋮⋮!!私ってばお二人の時間を邪魔してしま
114
って⋮⋮!!﹂
﹁いやいや、全然﹂
そのまま前屈運動でもするのか、というほどに頭を下げているア
ーミットに対して、イサトさんはひらひらと手を振ってみせる。
イサトさん的にはアーミットが俺たちを起こしてしまったことで
慌てているのだと思っているのだろうが⋮⋮。
実際にはアーミットが見たのは、腕枕で寝ているイサトさんに向
かって覆いかぶさるように腕を伸ばしかけた俺の姿である。
まあ何を誤解したかは推して知るべし。ちなみに俺は﹁うわっひ
ょい!﹂と奇声をあげて飛び起きた。
どうしよう、と助けを求めるように俺へとアイコンタクトを飛ば
してくるアーミットに、俺は笑って顔を横に振る。イサトさんは知
らなくていいことである。むしろ知られたらまずい。
﹁というか⋮⋮、身体平気か?﹂
話を変えるべく、俺はアーミットに体調を聞いてみる。
イサトさんの持っていた上級ポーションのおかげで綺麗に治った
とはいえ、彼女は盗賊に切り捨てられたのだ。
あれは死んでもおかしくない重傷だった。
﹁おかげさまでぴんぴんしています!
母さんが、私が今こうして生きているのはお二人のおかげだって
⋮⋮、助けてくれて本当にありがとうございました﹂
115
﹁いやいや、俺は何もしてないよ。ポーション使ったのはイサトさ
んだし﹂
﹁盗賊ぶちのめして仇をとったのは君じゃあないか﹂
実際にはぶちのめすというよりイサトさんに止められるまでは完
全に殺す気だったが。
﹁そういや⋮⋮、あのときイサトさんアーミットにポーションぶっ
かけてなかったか?ポーションってかけても効果があるもんなんだ
な﹂
﹁よくファンタジー小説でかけても効果あるっていう設定を見てい
たからな。それで試してみたんだよ。アーミットがポーションを飲
み下す余裕があるかわからなかったから﹂
﹁ああ、確かに﹂
盗賊に斬り捨てられたアーミットは、死に瀕しているように見え
た。
あの瞬間まだ死んでいなかったとしても、数秒の内には命を失っ
てもおかしくないほどにアーミットの身体は壊されていた。
口にポーションを含ませたとしても、果たして飲みこむことが出
来たかどうかは確かに怪しい。
﹁RPGゲームなんかで、メンバーのHPがやばいときに、他のや
つが回復アイテム使って回復させてやったりするじゃないか。あれ、
戦闘中にどうやって飲ませてるんだろうって思ったことないか?﹂
﹁あまり気にしたことなかったけど⋮⋮、言われてみればそうだな﹂
﹁だからかけても効果がある、って形でつじつまを合わせてる話が
多いんだよ。そんなわけでまずは即効性を狙ってかけて、それから
飲ませてみたんだ﹂
﹁あ、飲ませてもいたんだ?﹂
116
﹁一応な﹂
口移しで飲ませたんだろうか。
そんな余裕がなかったのは重々承知だが、是非見ておきたかった
光景である。
それはさておき、俺ももしイサトさんに何かあったときにはまず
はぶっかけよう。
﹁傷は残ってない?﹂
﹁はい、母さんが見てなかったら、たぶん私悪い夢だったと思っち
ゃってたと思います﹂
﹁あんなの悪い夢で良いんだよ﹂
﹁だね﹂
自分たちの暮らしている平和な村に盗賊が攻め込んできて、命ま
で奪われそうになる、なんていうのは悪夢だけで十分だ。
それにしても、傷が残らなかったというのは本当に良かった。
アーミットは年齢としては12、13歳ぐらいだろうか。イサト
さんとはまた種類の違う、健康的に焼けた小麦色の肌をした愛嬌の
ある少女だ。まだ少し子供らしさが残っていて、笑うととても可愛
いらしい。こんな妹がいたら良いな、と思うタイプだ。
そんな未来が楽しみな女の子の顔や体に傷が残らなくて本当に良
かった。
﹁あ、あの⋮⋮っ!﹂
﹁ん?﹂
117
そんな笑顔が可愛いアーミットがへにゃりと眉を八の字にした。
なんだなんだ。どうした。
﹁母さんがきっとものすごく高価な回復ポーションだったんじゃな
いかって。
あのっ、私、出来ることなら何だってして恩返ししますから⋮⋮!
!﹂
泣きだしそうな顔でそんなことを言い出したアーミットに、俺と
イサトさんは顔を見合わせた。
確かにあれは上級ポーションであり、店で買えばそれなりの値段
はするものだ。
一本でHPが5000も回復する優れ物。お値段は一本で1000
0エシルだったか。
単品で考えると目の玉が飛び出るほど高い、というわけではない
が⋮⋮、大量に買い貯めることを考えると、ちょっと考えものなお
値段ではある。イサトさんみたいな紙装甲がショートカットキー連
打で使うにはちょっと辛い価格だ。実際ゲーム内のイサトさんは一
時期それでポーション破産しそうになっていたぐらいだ。
RFCでは店売りの回復アイテムが比較的高価に設定されている
のである。効果が高くなれば高くなるほど、それは顕著だ。
その理由としては、デザートリザードがドロップするパフェのよ
うに、モンスターが食べ物をドロップする確率がかなり高く設定さ
れていることがあるだろう。ああいった食べ物アイテムは、プレイ
ヤーが使うことでHPを回復することができるのだ。
118
Q:
初心者です。
チュートリアルで貰ったポーションを使いきってしまいましたが、
店で売ってるポーションは高すぎて買えません。どうしたらいいで
すか?
A:
砂でも食ってろ。
そんな会話がRFCの攻略サイトのQ&Aコーナーにあったぐら
いだ。
砂、というのは砂漠のノンアクティブモンスター、デザートフィ
ッシュがドロップする﹁砂にぎり﹂などという胡散臭い寿司の略称
である。つまりデザートフィッシュを狩りつつ、被ダメはデザート
フィッシュがドロップする﹁砂にぎり﹂食って乗り切れば、基本的
には店売りの回復アイテムに頼らなくても経験値を稼ぐことができ
るのだ。
それなら高い店売りの回復アイテムなんて買わなくてもいいんじ
ゃないか、と思うだろう?
︱︱⋮⋮俺にもそう思ってる時期がありました。
っていうかたぶんRFCのプレイヤーは皆同じ道を通ってる。
問題があるとしたらただ一つ。
食べ物系アイテムは、ポーションなど薬品系アイテムに比べて重
いのだ。
119
前も話したような気がするが、RFCにおいて一人が持てるアイ
テムの量はその重さで決まる。アイテムの一つあたりの重さが軽け
れば軽いほど、量が持てるのだ。
モンスタードロップの食品アイテムでも、HPを5000回復し
てくれるものはあるが⋮⋮、そういったものは一つあたりの重さが
﹁5∼7﹂だったりする。それに比べて店売りの回復ポーションは、
全て重さが﹁1∼2﹂で設定されているため、量を持ちたいならポ
ーションの方が使い勝手が良いのだ。
回復アイテムが尽きるために補充で街に戻らないといけない手間
を考えると、できるだけ多くの回復アイテムを持っておいて街を出
た方が効率は良い。そんなわけで、お財布事情に優しくないと分か
っていつつも店売りのポーションを買うユーザーは多いのである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イサト:金がない。
アキ:どうしたよ。
イサト:ポーション破産した
リモネ:wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
なんて会話が何度繰り返されたことか。
120
おっさん︱︱というかイサトさん︱︱はものぐさなんである。
ただそのものぐさを斜め上の方向で発揮するのがいつものことで
もあるのだが。
﹁それな、私が作ったやつだから気にしなくて大丈夫だよ﹂
﹁え⋮⋮っ!?﹂
そう。
店でポーションを買っていると破産する、と悟ったイサトさんは、
いきなり薬師に転職してスキルを入手し始めたのだ。
買うと高いから自分で作れるようにスキルを手に入れる。
それは考え方としては大きく間違っていないのだろう。
だが、RFCの中ではそれを実行しているプレイヤーはそう多く
はなかった。
理由は簡単である。
面倒くさいのだ。
スキルを入手するまでキャラを育てるのが、本当に面倒くさい。
RFCにおいては、レベルによってスキルが制限されている。
スキルロールを購入し、それを使うためには求められる条件をク
リアしなければいけないのだ。
俺はメインジョブは﹃騎士﹄だが、実はサブで﹃商人﹄というジ
ョブも持っている。
﹃商人﹄がレベル10で覚える﹁話術﹂というスキルがあると、
NPCから商品を買うときにいくらか割引されたり、逆に自分がN
PCに何かを売るときには同じだけ割り増して買って貰えるように
なるのだ。
121
一度覚えたスキルはメインジョブがなんであれ使うことができる
ので、持っていると非常に便利だと言える。
だが。だが。
その使えるようになるまで、がめちゃくちゃ面倒くさいのである。
﹃商人﹄のレベルが10にならなければ、スキルを手に入れること
はできない。なので、まずは﹃商人﹄としてのレベルをあげないと
いけないのだが⋮⋮。
RFCでは戦闘時の経験値等は基本的にはメインジョブのものと
なる。サブジョブに分配されたりはしないのだ。﹃商人﹄としてレ
ベルをあげたげれば、﹃商人﹄としてレベル1からまたキャラを育
てなおさないといけないのである。
他の習得済みのスキルに関してはメインジョブが変わっても使え
るので、俺も最初は周りが言うほど面倒というわけでもないんじゃ
ないのかと思っていた。何故なら俺はもうそのとき既にメインジョ
ブの﹃騎士﹄はレベル40を超えていたし、その強力な剣技スキル
さえ使えればレベル10ぐらいあっという間だと思っていたからだ。
が、現実はそう甘くなかった。
レベル1に戻るということは、HPやMPの量もレベル1程度に
戻るということだ。そうなると、せっかく覚えてる強力な騎士スキ
ルも、MPが足りずに発動させることができない。そんなわけで、
俺は地道に弱小モンスターをぺちぺちと殴り、﹃商人﹄で﹁話術﹂
スキルを覚えた瞬間﹃騎士﹄にメインジョブを戻した。
122
あれは結構なフラストレーションがたまった。
そんなわけなので、イサトさんのやったメインジョブを育てたい
が回復ポーションを店で買うと破産するから自分でスキル覚えて作
れるようにする、というのは、真っ当なことを言っているようで相
当な遠回りになる道なのだ。
何せ店で買うことを負担に思うぐらい高品質のポーションを作れ
るようになるまでには、スキルの熟練度をあげるのはもちろん、﹃
薬師﹄としてのレベルを結構なところまであげる必要もある。
そんな寄り道をするぐらいなら、食材アイテムをガン積みしてク
エに挑み、こまめに街に戻った方がまだマシだというものだ。
それをイサトさんは実際に上級ポーションを作れるところまで﹃
薬師﹄のレベルあげたのだから、この人の﹁面倒くさい﹂の基準が
わからない。
そういうことばっかりやってるから、なかなかメインジョブのレ
ベルが上がらないんだぞ、本当。
⋮⋮まあ、その恩恵にあずかってる俺の言う言葉ではないが。
閑話休題。
﹁あんなすごい薬が作れるなんて、すごい冒険者様なんですね⋮⋮
!﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
アーミットのきらきらした瞳に見つめられて、イサトさんは居心
123
地悪そうにもぞもぞしている。
普段無駄にドヤ顔しているのだから、褒められている時ぐらい堂
々としていればいいのに。
﹁あの⋮⋮、お二人の名前を聞かせてもらえませんか?﹂
断る理由もない。
﹁俺は秋良だよ。遠野秋良﹂
﹁アキラ様ですね。トーノ・アキラ様。トーノがお名前ですか?﹂
﹁や、違う違う。トーノ、が名字だよ。ファミリーネーム﹂
﹁不思議な響きの名前ですね⋮⋮、異国から来られたんですか?﹂
﹁異国って言えば異国、かなあ﹂
ちょろ、と視線をイサトさんへとやる。
そんなもんでいいんじゃないか、とでも言うようにイサトさんは
ひょいと肩をすくめた。
﹁私はいさとだ。玖珂いさと。いさと、が名前だよ﹂
﹁イサト様ですね。イサト様は⋮⋮、その、失礼なことを聞いても
良いですか?﹂
﹁失礼なこと?
一体何を聞きたいんだろう。年齢なら25で、体重は最近測ってな
いので不明だが前回は⋮⋮﹂
﹁イサトさんストップストップ﹂
出鼻をくじかれたアーミットが困ったように瞬いるのを見て、俺
はひらひらと手をふってイサトさんにストップをかけた。
124
しれっとこの人は何を自白しようといしているんだか。
﹁まあ、そんな感じであんまり気にしないタチなので、聞きたいこ
とがあればどうぞ﹂
﹁バストサイズは?﹂
﹁ぐーで殴んぞ﹂
ちッ、ダメか。
しれっと便乗しようと思ったのに。
年齢と体重を言えるならば胸囲ぐらい教えてくれてもいいのにな。
イサトさんと俺の馬鹿な会話に勇気づけられたのか、おそるおそ
るといった風にアーミットが口を開いた。
﹁イサト様は⋮⋮、﹃黒き伝承の民﹄なんですか⋮⋮!?﹂
﹁いいえ、ただのおっさんです﹂
なんだかものすごく身も蓋もない返事を聞いた気がする。
思わず、べちりとイサトさんの頭を軽くはたく。ツッコミ程度に
軽やかに。
125
﹁⋮⋮だってなんか黒き伝承の民とかどう聞いてもアレじゃないか、
完全に厨二病を患ってらっしゃるじゃないか⋮⋮﹂
ぶつぶつとぼやきながら、イサトさんは恨めしげな視線を俺に向
けてくる。
それをしれっと黙殺して、俺はアーミットへと向き直った。
﹁ダークエルフのことをそう呼んでるのか?﹂
﹁ダークエルフ⋮⋮?﹂
逆にこの名称の方が、アーミットにはピンとこなかったようだ。
⋮⋮ふむ。どういうことだろう。
RFCの世界においては、エルフ、ダークエルフといった種族名
は一般的に使われていたはずなのだが。
﹁その⋮⋮、黒き伝承の民、というのはどういう特徴があるんだ?﹂
﹁えっと⋮⋮、褐色の肌に尖った耳をしていて、強力な精霊魔法を
駆使するんだそうです。人よりも、精霊に愛されているんだって﹂
﹁⋮⋮ダークエルフ、だよな?﹂
﹁⋮⋮だなあ﹂
アーミットの口にした黒き伝承の民、というのは俺たちの知るダ
ークエルフの特徴に合致している。
﹁エルフはいないのか?﹂
﹁エルフ?﹂
﹁えっと、色違い的な﹂
ものすごく雑な説明だ。
が、それでもアーミットには通じたらしい。
126
﹁﹃白き森の民﹄ですか?﹂
﹁⋮⋮これまたこうなんというかかんというか﹂
うろり、とイサトさんの目が泳いだ。
厨二病的なセンスはあまりお好みではないらしい。
﹁﹃白き森の民﹄は、精霊の力を借りた浄化や、守りの力に優れた
種族だったらしい、って聞いたことがあります﹂
⋮⋮ん?
何かひっかかったぞ。
同じところにひっかかったのか、イサトさんも何とも言えない顔
をしている。
﹁ちょっとまってくれ。だったらしい、ってのはどういうことなん
だ?﹂
そうだ。アーミットは今エルフについてを過去形で語った。
まるで︱︱⋮⋮、神代の時代の物語を語るかの口調で。
俺の疑問に対して、アーミットはそれこそ不思議そうに瞬いた。
﹁﹃白き森の民﹄も﹃黒き伝承の民﹄も、大昔に途絶えた古の種族
じゃないですか﹂
127
あうち。
どうやら俺の隣にいるおっさんは︱︱⋮⋮、美女なだけでなく絶
滅危惧種でもあったらしい。
128
厨二病とおっさん︵後書き︶
少し間が空いてしまいました⋮⋮。
評価や感想、お気に入りなどありがとうございます。励みになりま
す。
129
時を超えるおっさん。︵前書き︶
0904修正。
0916修正。
1117修正
130
時を超えるおっさん。
エルフやダークエルフが絶滅危惧種であるという新事実に愕然と
する。
RFCにおいてはかなり人気のある種族で、街や村といったプレ
イヤーが多く集まる場所を訪れて石を投げればどっちかには当たる、
というほどの人口を誇っていたはずなのに⋮⋮、一体何があったの
だろうか。
ますますここが、RFCの世界観に良く似た異世界であるという
可能性が大きくなってきた。
と、そこへ。
﹁アーミット? 何してるの? 冒険者様たちを呼んできてちょう
だいと言ったでしょう?﹂
そんな声がして、アーミットの背後にあった戸口から一人の女性
が顔をのぞかせた。
アーミットの母親で、俺らがもともと泊っていた宿の女将さんだ。
どうやらアーミットは彼女の言いつけで、俺らを呼びに来たとこ
ろだったらしい。
﹁ごめんなさい、母さん﹂
﹁もう、すみません、アーミットが。
お二人ともお腹がすいたんじゃありませんか? 何もない⋮⋮、い
131
え、何もなくなってしまった村ですが、朝食をご用意しましたので
召し上がってください﹂
何もなくなってしまった、と少し悲しげに視線を伏せながらも、
女将さんが柔らかな声で俺らを招く。
言われてみれば、どこからともなく良い匂いがしている。
イサトさんが希少種だとか、ここがRFCの世界ではないのか、
といったようなややこしい話は後にして、今は朝食にしよう。意識
したら急に腹が減ってきた。
ちら、と見やると目のあったイサトさんがこっくりとうなずく。
花より団子。とりあえず何か食べたいのは俺だけじゃなかったらし
い。
﹁では︱︱⋮﹂
﹁あ、ちょっとまった﹂
女将さんの元へと歩みよりかけたイサトさんの襟首をひょいとひ
っつかんだ。
抗議するように、ぬぁ、と短い謎の鳴き声があがる。
軽く持ち上げるようにすると、イサトさんは首根っこをぶらさげ
られた猫の仔のようにぷらーんとおとなしくなった。
俺はわりと自分が体格に恵まれた方であるという自覚がある上に、
家族内に女性がいないため、どうもその扱いがわからない部分が大
きいのだが︱︱⋮。
132
ある程度イサトさんなら雑に扱っても良いと思い始めているのは
我ながらどうなのだろうか。
まあそれはイサトさん自身が俺に対してそういう扱いを求めてい
るというフシもあると思っている。
イサトさんは﹁女性﹂として俺に節度を持って対応されるよりも、
ネトゲ時代と同じように﹁おっさんに対する気やすい扱い﹂の方を
望んでいるように思えてならないのだ。
今だって、イサトさんが本気で嫌がればいくらでも逃げられる程
度の力でしか俺はその首根っこを捕獲していない。
﹁あの、もしできれば、で良いんですが⋮⋮。
この人に何か服を売ってやってくれません?﹂
﹁服、ですか?﹂
﹁この人、ここにつくまでに下ダメにしちゃってて﹂
﹁まあ﹂
言われて今気付いたとでもいうように、女将さんが声をあげる。
今の今までイサトさんは彼シャツ状態で歩き回る痴女だとでも思
われていたのだろうか。
﹁そういうお服なのだとばかり﹂
﹁⋮⋮私はどれだけ見せたがりだと思われていたのか﹂
女将さんの言葉に、悩ましげにイサトさんが呻いた。
フォローするならば、イサトさんが身につけていたのが召喚士装
備だということもそう思われてしまった理由の一つにあげられるだ
ろう。
たっぷりとしたクリーム色の布地を使ったいかにも儀式服といっ
た印象のある上着は、少々短すぎるワンピースのようにも見えるの
133
だ。
実際俺だって、悪の女幹部とかそういうものをイメージした。
﹁冒険者様のお目にかなうかどうかわかりませんが⋮⋮﹂
﹁ある程度着られればなんでも良いよ。エルリアに言って倉庫にア
クセスさえできれば着るものはあるはずだから﹂
﹁あれ。イサトさん女ものの服持ってんの?﹂
﹁自分の装備としては男物しか持ってなかったが、ドロップ品でい
くつか。あと友達に頼まれて作ったけど渡し損ねてたやつとか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そういえばイサトさん服飾スキルも持ってるんだっけか﹂
﹁持ってる﹂
えへん、とイサトさんが胸を張って自慢した。
俺にぶら下げられたままなのでそれほど格好はついていないが。
﹁⋮⋮前にリモネがおっさんが服を作るといって旅立って帰ってこ
なくなったと愚痴ってたのを思いだした﹂
﹁だって欲しい服がドロップしなかったんだもんよ﹂
呆れた口調でぼやいた俺に、イサトさんはぷい、と唇を尖らせる。
なければ自分で作ればいいじゃない、を地で行くイサトさんなの
である。
最初知りあったばかりの頃は、欲しいものを手に入れるために努
力するなんて勤勉な人だなあ、と思ったものだが、最近は単にこの
おっさん我慢できねーな、という結論に落ち着いていた。
例えば俺自身なら、欲しい服があったとして、それが自力で手に
入れられなかった場合、まず金の力に頼る。ドロップアイテムとい
うのは、基本的にどんな珍しいものであれ必ずどこかしらで出回っ
ている。需要があれば、必ず供給が生まれるのだ。次に、金の力を
134
持ってしても手が届かなかったり、タイミング悪く市場に出回って
なかったりした場合。そうした場合に次に頼るのは、身内だ。大体
同じレベル帯でつるんでいる身内ならば、自分が欲しいと思うアイ
テムならば入手している可能性が高い。彼らはまず市場に流す前に、
身内で欲しい人間がいれば、と考えてストックしておくことがある
のだ。俺自身も、レア度の高いドロップ品を手に入れたりしたとき
には、まず身内に欲しい人間がいないかどうかを確認する。相互扶
助は美しい。そして、それでも手に入らなかった場合において、作
ることを考えだすだろう。ただ、それにしたって俺ならばあくまで
材料を用意して、親しくしている生産スキル持ちに依頼する、とい
う形になるだろう。間違っても自分で生産スキルを手に入れてなん
とかしようとは思わない。
が、そこをおっさんは我慢できないのだ。
仲間に聞いて返事が戻ってくるまでの間の﹁待ち時間﹂が、おっ
さんには我慢できない。
欲しいものはすぐ欲しい。
欲しいものがあるのに、そのために何もしないでただ待つことし
かできないというのがダメらしい。
実際にかかる時間で考えたら、身内からレスが戻ってくるまでと、
自分でスキルを手に入れて作れるようになるまで、なら間違いなく
スキルを自力で入手して作れるようになるまでの方が時間がかかる。
当たり前だ。レベル1からやり直して、そこそこのレベルまで育て
るだけの時間がいるのだから。だが、それでもイサトさんの中では、
﹁スキルを入手して欲しいものを作れるようになるまでのウン十時
間﹂よりも﹁レス待ちの何もできない数時間﹂の方が耐えられない
135
ものらしい。
ここまで物欲に正直だといっそ清々しいレベルだ。
﹁だから道具と材料さえあれば⋮⋮それなり高レべ装備も自力で作
れるぞ﹂
﹁⋮⋮もう本当何でもありだよな、イサトさん﹂
﹁もっと褒めるが良い﹂
﹁褒めてねぇよ﹂
そうやって寄り道ばっかりしてるから、メインジョブのレベルが
なかなか育たないのである。
正直イサトさんのメインジョブを本来の﹁精霊魔法使い﹂で仮定
した場合の戦闘力は俺と比べたらカスである。
そもそも﹁精霊魔法使い﹂としてのイサトさんのレベルはそんな
に高くないのだ。
メインジョブを﹁精霊魔法使い﹂に切り替えたら、おそらくRF
Cのシステムでは俺とパーティーを組むことすら難しい域だ。ちな
みにRFCでは互いのレベル差が30以上開くと、パーティーが組
めなくなる。養殖、と呼ばれるチート行為をなるべく防ぎたいとい
う運営の措置だろう。パーティーを組むと、通常であれば互いに経
験値がプールにされた上に、1.1か1.2ほどかけられるのだ。
なので、同じレベル帯で組んで狩ると、単独で狩るよりも効率よく
経験値を手に入れることができる。まあ、それにも﹁吸う﹂﹁吸わ
れる﹂というようなもめごとの種があったりもするのだが。
それはともかくとして、しばらくこの世界にいなければいけない
136
のだと考えた場合、俺はイサトさんの﹁精霊魔法使い﹂としてのレ
ベルをあげることを考えなくてはいけないだろう。
理由としては、﹁召喚士﹂はいくらレベルをあげても、なかなか
イサトさん自身の肉体や戦闘力の強化にはつながらないことがあげ
られる。
召喚士としてのレベルは、召喚士が召喚したモンスターに指示して
倒すことで得た経験値によって上がっていくのだが⋮⋮、倒したモ
ンスターの経験値がそのままイサトさんに入るわけではないのだ。
そのほとんどは、召喚士が召喚したモンスターのものになる。そ
の代わり敵を仕留めずとも、モンスターを召喚し、何かしらの命令
をしただけでも召喚士には経験値が入るようになっているのだ。
そう考えると、召喚士というのはジョブというよりもそれ自体が
一つのスキルであると考えた方が概念的には近いのだと思われる。
召喚士のレベルがあがれば上がるほど、召喚対象であるモンスタ
ーの覚えるスキルは増えていく。召喚対象であるモンスターは強く
なっていく。
だが、その代償であるかのように、召喚士自体の成長はわずかだ。
イサトさんが自分より10以上レベル上のモンスターですら一撃必
殺できるのに、自分より10以上レベル下のモンスターにすら一撃
必殺されるのはそれ所以だ。
それでも一応イサトさんだって高レべルの召喚士だ。
このあたりに生息するモンスター相手に一撃必殺されてしまう可
能性はない。
137
だが⋮⋮、昨夜俺が遭遇したあの男。
あの男の攻撃は、俺にすら通った。
俺の知っているゲーム内の知識には合致しないあの男のような存
在が、他にも紛れ込んでいないとは限らないのだ。
それに、装備だって問題だ。
早いところきちんとした装備を手に入れない限り、マジモノの﹁
紙装甲﹂だ。
召喚士装備というのは、そいういった召喚士の弱点を補うために
それなりに防御力を上乗せするタイプのものが多いのだ。
それが身につけられず、本当にただの﹁服﹂を来ていた場合、イ
サトさんの防御力はがくりと下がっていると考えて良いだろう。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
眼裏に、昨夜の惨劇がよみがえる。
目の前で切り捨てられたアーミット。
何が起こったのかわからないというように見開かれた双眸に宿る
絶望と昏い死の影。
溢れる赤。
もしもあれがイサトさんの身に起きたのなら⋮⋮、俺は今度こそ
冷静でいられる自信はない。
﹁⋮⋮おーい、秋良青年﹂
﹁んあ?﹂
﹁人の襟首つまんだまま難しい顔で考え込むのはやめてくれないか﹂
﹁ああ、ごめんごめん﹂
138
イサトさんに呼びかけられて、俺はぱっとその襟首をつまんでい
た手をといた。
俺がぼんやり考え込んでいる間にも、イサトさんは女将さんとの
間で話を成立させていたものらしい。
﹁じゃあ私はちょっと着替えてくるので⋮⋮、君は先にアーミット
に案内してもらって飯でも食っててくれ﹂
﹁了解﹂
﹁アキラ様、こちらです!﹂
﹁おおっと!﹂
さっそく俺の手を引いて、食事の場へと案内しようとするアーミ
ットに苦笑しつつ、俺は納屋を後にした。
朝の日差しの下で見る村は、夜の闇の中で見て思っていたよりも
酷い有様だった。砂レンガで作られた建物が多いのだが、そのあち
こちが煤けて崩れている。
その責任の一端は俺たちにもあるだろう。
昨夜消火のために、イサトさんは精霊魔法で水を使った。
139
もともと雨の少ない地域の建物だ。水に弱かった可能性もあるし、
水と放火による熱によるダブルパンチが良くなかった可能性も高い。
そんなあちこちガタが来た家々の中央、広場のような場所に食事
は用意されていた。
というか、食事というよりも雰囲気としては炊き出しに近い。
おそらく村のあちこちから無事な食糧をかき集めたのだろう。
俺だけでなく、あちこちに力なく座り込んだ村人たちが、黙々と
どろりとしたスープをすすっている。
なんとも言えない空気だ。
イサトさんが来るまではここにいるしかないが、あまり長居した
い空気ではない。
アキラ様の分をよそってきますね、と駆け出していったアーミッ
トを見送って、そんなことを考えていると⋮⋮。
﹁ああ、貴方が昨夜村を救ってくれた冒険者の方ですね。私はこの
村で村長をやっとりますアマールと申します﹂
﹁こんにちは、冒険者のアキラです﹂
冒険者、と名乗ることに少々の違和感はあるものの、ここはそう
名乗るしかないだろう。
異世界からやってきました、なんて言ってもたぶん話がややこし
くなるだけで何の解決にもならない。
俺の前にやってきて村長と名乗ったのは、50代後半から60代
前半といった程度の、よく日に焼けた人の良さそうなおじさんだっ
た。
140
﹁貴方とその連れの魔法使い様のおかげで、この村はあのならず共
の手に落ちずにすみました。それだけでなく、惜しみなく高価なポ
ーションを使いアーミットの命を救ってくれたとか⋮⋮。この礼を
なんといたらいいのか﹂
﹁いや、俺らも成り行きだったから気にしないでくれ。それにポー
ションも俺のツレのものだしな。たぶんそれは服でチャラにするん
じゃねーかな﹂
俺はちょっとぼんやり別のことを考えていたので、イサトさんが
どういう商談を成立させたのかは知らないが。
落とし所としてはそんなところだと思う。
が、そう思ったのは俺だけだったらしい。
﹁は⋮⋮?﹂
村長さんはぽかんと目を丸くしている。
﹁そんな⋮⋮、高級な上位ポーションに見合うような服などこの村
には⋮っ﹂
﹁いやー、脱痴女できればなんでも良いと思うぞあのひと﹂
服の装備としての防御力よりも、今のイサトさんにとって大事な
のは面積である。
他に選択肢があるならともかく、ここでまともな服を手に入れら
れなければ、エルリアまでイサトさんはずっと彼シャツ状態でなけ
ればいけないのだ。
俺としてはそのままでもいい気がしてきた。
﹁あのポーション一つで、王族が参加する夜会でも着られるドレス
141
が買えるでしょうに⋮⋮﹂
呆然と呟いている村長さんの視線は、衝撃のあまりにかどこか遠
いところを見ている。
それを是非こちらに引き戻すためにも、俺は話題を変えることに
した。
﹁それで⋮⋮、ああいう盗賊の襲撃はよくあることなのか?﹂
﹁⋮⋮最近増えてきていて、困っているところでした﹂
ふと思い出したように沈鬱な表情に戻った村長さんがため息をつ
く。
何でもあそこまで派手な襲撃はこれまでにはなかったらしい。
砂漠を舞台にいきがったごろつきが、たまに村にやってきて、食
べ物や目についた物品をせびりとっていく程度の迷惑行為で済んで
いたという。
俺らの感覚でいうと、ゲーセンでたむろって恐喝する程度だった
不良が、いきなり強盗殺人未遂事件を起こしたようなものだろうか。
﹁どうして急にあんな⋮⋮﹂
村長さんの声は、どこか途方にくれたように響く。
もしかしたら、それなりに面識があったのかもしれない。
困った連中だと思いつつも、いつかは目を覚ましてまともになる
とでも思っていたのだろうか。
﹁徒党を組んでるうちに気が気が大きくなったのかもな﹂
一人一人はそう悪意を持っていなくても、集団心理が暴走した結
果とんでもないことをやらかすという例は俺たちの世界でもちょく
142
ちょく見られたものだ。
﹁それで、盗賊どもは?﹂
﹁今は全員繋いで外から鍵のかけられる納屋に閉じ込めております。
エルリアに使いのものを出しておりますので、そのうち憲兵が身柄
を引き取りに来るでしょう﹂
﹁なるほど﹂
そこまで話して、昨夜炎の中に消えた気持ちの悪い男の姿を思い
出した。
﹁⋮⋮全員捕まえることが出来たなら良かったんだが﹂
火事の現場から死体は見つかっていない、という話は昨日のうち
で聞いている。
本音を言うのなら、﹁全員捕まえられなくて残念﹂というよりも
﹁あの男を仕留め損って残念﹂といった感じだ。。両断こそできな
かったものの、手ごたえはそれなり感じていたのに、やはり逃げら
れていたとは。
逃げた盗賊の一味が、返り討ちにあったことをきっかけに更生で
もしてくれたならまだ良いのだが⋮⋮あの男の不気味な佇まいが頭
の中にひっかかっていた。
普通ならば仲間が捕まったことを逆恨みしての復讐を怖れなけれ
ばいけないところなのだろうが、そんな人間らしい感情があの男に
あるようには思えなかった。だからこそ、取り逃してしまったこと
が悔やまれる。あの男は何故、盗賊の一味の中に紛れていたのだろ
う。
143
思わずそんなことを考えていた俺の意識を引き戻したのは、心底
戸惑った村長の声だった。
﹁盗賊なら、全員捕縛しているはずなのですが⋮⋮﹂
﹁︱︱⋮え?﹂
間の抜けた声が出てしまった。
盗賊は、全員捕まってる?
﹁その中に黒いローブを被った気持ち悪い男、もしくは背中に怪我
を負ってる奴はいなかったか?﹂
﹁いえ⋮、そんな男はいなかったと思いますが。なんなら、確かめ
に行きますか?﹂
﹁ああ、確かめさせてくれ﹂
どうして、あの男のことがこんなにも気になるのかはわからない。
だが、何故だか放っておいてはいけないような気がするのだ。
あの男を目にした時から感じている不快感が、まるで抜けない棘
のように引っかかっている。
144
盗賊が捕縛されているという納屋に村長に案内してもらって確認
したが⋮⋮。
やはりそこにあの男の姿はなかった。
というか、俺の姿を見るなり﹁ひッ﹂とか言うのは如何なものな
のか。
人を殺して物を奪う覚悟をしたのなら、その逆も然りだと俺など
は思ってしまうのだが。
そして、半ば脅すように確認したところ盗賊たちは口を揃えて、
納屋にいるのが盗賊団のメンバー全員だと言うのだ。
じゃあ、あの男は一体なんだったというのか。
謎である。
まさか俺にしか見えていない幻覚的な何かだったのだろうか。
そんなわけはない。あの時頬に感じた痛みは、確かなリアルだっ
た。
今はもうすでに癒えて傷すら残っていない頬を、そっと指先でな
ぞる。
首をひねりつつ、村の広場に戻ったところで、深皿によそわれた
スープを持ってアーミットが戻ってきた。
はいどうぞ、とスープを差し出される。
ありがとな、というと、嬉しそうに笑って⋮⋮、そのお腹がぐぅ、
と鳴るのが聞こえた。
﹁なんだ、アーミット、食べてないのか?﹂
﹁い、いえ、食べました!アキラ様たちより先に食べました!﹂
145
﹁食べたのにまだ腹が減ってるのか?﹂
﹁違いますし!﹂
顔を恥じらいの赤に染めて、アーミットが頭をぶんぶんと横に振
る。
食いしんぼさんか、とからかいかけたものの⋮⋮、そんな言葉は、
村長さんがアーミットを見る不憫そうな視線に喉につかえた。
もしかしなくても⋮⋮。
﹁食糧が足りてないのか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
疑問形というには確信が強すぎる俺の問いに、村長さんとアーミ
ットは二人して黙り込む。
その沈黙こそが答えだった。
﹁大丈夫ですよ、アキラ様!私は朝食べさせてもらえました!﹂
﹁私は、ってことは食糧が回らなかった村人もいるってことだな?﹂
﹁あ⋮⋮っ﹂
失敗した、というように口に手を当てるアーミットから村長へと
視線を戻す。村長は言おうか言わまいか少し迷い、結局打ち明ける
ことにしたようだった。
﹁お恥ずかしい話⋮⋮、この村はもうダメなんですよ﹂
諦念の滲んだ声音に苦笑が混じる。
いっそそう口にしたことで、村長さんは少し気が楽になったように
見えた。
146
﹁ダメ、とは?﹂
﹁カラット村は砂漠の村です。オアシスの水源を頼りに生活をして
いますが、食糧のほとんどは月に一度エルリアでまとめて仕入れて
います。ですが昨夜の襲撃で、その食糧のほとんどが焼かれてしま
ったのです﹂
﹁新しく買う余裕はないのか﹂
﹁買っても無駄なのです﹂
﹁無駄?﹂
﹁見て分かる通り、この村に無事な家は少ないのです。砂レンガは
作るのに一カ月以上かかります。この状態では⋮⋮、一か月持ちこ
たえられないでしょう﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
あちこちガタがきている現状、風がふけば砂は入りこみ、夜にな
れば極寒の冷気が忍びよることになる。
夜風さえしのげないのでは、このままここで村を存続するのは確
かに難しいだろう。
﹁それに、そもそもの食糧を買う余力がこの村にはありません﹂
静かに首を左右にする村長さん。
衣食住のうちの食と住が壊されてしまえば、なるほど、これ以上
村にとどまることは不可能だろう。
だが、俺には疑問がある。
﹁砂は食わないのか﹂
﹁は?﹂
お前何言ってんだ、という目で見られてしまった。
147
いかんいかん。砂はあくまでプレイヤー間のスラングのようなも
のだ。
﹁確かこのあたりだとデザートフィッシュがいるじゃないか﹂
﹁ええ、いますが⋮⋮﹂
﹁あいつら、倒すと﹃砂にぎり﹄をドロップするだろ?﹂
砂にぎり、という名称ではあるが、見た目は立派な寿司である。
大トロっぽい謎の物体がシャリの上に乗っている。
毎食同じ砂にぎりを食うというのはちょっと辛いかもしれないが、
ここは非常時なので我慢して欲しいところだ。
この村の男衆の平均レベルが10程度。
デザートフィッシュのレベルはせいぜい2∼3程度だ。
倒せないということはないと思うんだが⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何故俺は村長さんとアーミットの両方に﹁こいつ頭おかしいんじ
ゃねーの?﹂的目で見られているのか。解せぬ。
﹁冒険者様⋮⋮、お言葉を返すようですがいいですか⋮⋮?﹂
﹁うん。俺何か変なこと言ったか?﹂
﹁モンスターを倒せば﹃女神の恵み﹄を得られることもありましょ
う。ですが、そのような幸運に頼って生活するわけには⋮⋮﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
今度は俺が﹁こいつ何言ってんだ﹂って顔をすることになってし
まった。
﹃女神の恵み﹄?
148
﹁きっと冒険者様は遠く、まだ神々の恵みが色濃い地よりこの地に
やってきたのでしょうな﹂
そんなものはなかったぞ、現代日本。
﹁モンスターを倒した際、稀にその死体が別のものに変わる⋮⋮、
その現象をこの地では﹃女神の恵み﹄というのですよ﹂
ふむふむ。
ゲームの中では﹁ドロップ﹂なんていう一言で終わらせている部
分が、この世界ではそういう風に説明されているわけか。
﹁もともと、モンスター自体が女神の余った力が形を持ったものだ
という風に言われておりますからな。そういうこともあるのでしょ
う﹂
﹁そういうこともある、ということは、その﹃女神の恵み﹄という
のは滅多に起こらないのか﹂
﹁そうですね⋮⋮、とても珍しいことだといわれています。神代の
時代、はるか遠い昔には当たり前のように人々はその恩恵を受けて
いたといわれていますが﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
その言葉を聞いて、一つの疑念が俺の胸に湧く。
﹁⋮⋮それは、﹃黒き伝承の民﹄や﹃白き森の民﹄がいた頃のよう
な?﹂
はたして︱︱⋮⋮、カマをかけるような俺の言葉に、村長さんは
こっくりとうなずいたのだった。
149
どうやら俺ら。
異世界トリップと同時にタイムスリップも経験している模様。
150
時を超えるおっさん。︵後書き︶
ここまで読んでくださってありがとうございます。
読みやすい形式を模索中です。
151
わるものとおっさん︵前書き︶
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152
わるものとおっさん
ここは︱︱⋮⋮、俺たちが知るレトロ・ファンタジア・クロニク
ルの世界じゃない。
最初から、いろいろと違和感はあった。
砂漠の中に俺たちの知らない村があったこと。
アーミットから聞いたエルフとダークエルフがすでに滅んでしま
った種族だという話。
そして、決定的なのが村長の言葉だ。
俺たちは、俺たちの知ってるレトロ・ファンタジア・クロニクル
のその後の世界に紛れ込んでしまっているのだ。
ここはある意味において未来だ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁冒険者様?﹂
﹁いや、なんでもない﹂
訝しげに俺を呼ぶ村長さんに、なんでもないというようにひらり
と小さく手を振ってみる。
が、実際のところはなんでもないどころではない。
ここがレトロ・ファンタジア・クロニクルの世界ならまだなんと
かなるかもしれないと思っていた。ゲームのプレイヤーだった俺た
ちは、ゲームとしてこの世界を理解している。その知識を上手く使
153
えば、この世界でもやっていけるかもしれないと思っていたのだ。
幸い、俺もイサトさんも高レベルプレイヤーに属している。知識と、
その力さえあればなんとかなると、そう思っていたのだ。
でもここが俺たちのレトロ・ファンタジア・クロニクルとは違う
異世界だとなると⋮⋮、そうも言っていられない。
ここは俺たちの暮らしていた現代日本と違い、モンスターがいて、
冒険が当たり前で、見知らぬ文化の息づく異世界だ。
どこにどんな落とし穴が待ち構えているのか、俺たちにはわから
ない。
とてもくだらない、どうしてそんなことで、と思うようなことが
理由で死ぬかもしれない。
自分が薄氷の上に立ち尽くしているような錯覚に、眉間に皺が寄
る。
と、そこに。
﹁どうした秋良青年。感動するほどアレな味だったりするのか﹂
さりげなく失礼なことをのたまいながら、イサトさんが現れた。
俺はイサトさんにも状況を説明するべく振り返り⋮⋮、息を呑ん
だ。
たっぷりと布地を使った下衣の色は白。だぼっと裾は膨らんでい
るものの、足首できゅっと細くなる様がいかにもアラビアンだ。上
着は黒の、わりとぴったりとした袖の短いTシャツのようなものを
着ている。その上から斜めに羽織っているダークレッドの布はおそ
らく俺のマントだろう。そして右の手首では落ち着いたオリーブ色
の飾り布がふんわりと大きくリボン結びにされている。何かの装備
品だろうか。アクセサリーというには大きすぎる。
154
思わず三秒以上まじまじと見つめてしまった俺に、イサトさんは
嬉しそうにくるりとその場で回って見せてくれた。
﹁どう? 似合う?﹂
ひらり、とリボンの裾がイサトさんの動きを後追いするように舞
う。
その異国情緒溢れる装束は、イサトさんの褐色の肌にはとてもよ
く似合っていた。砂漠を背景に写真をとったなら、そのままポスタ
ーか何かに使えそうだ。
先ほどまでの悲壮なまでの未来予想が、一気にどうでもよくなっ
た。
美人に弱いのは男の常だ。
﹁うん、よく似合ってる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
褒めたのに、イサトさんはなんだか少し変な顔をした。
そして、少しだけその目元が赤くなる。
﹁⋮⋮ガチのトーンで褒められると照れる﹂
とことん芸人属性なイサトさんだった。
この世界にやってきた俺たち、というのは基本的に元の世界にい
たときと姿は変わっていない。
イサトさんにはダークエルフとしての特徴や、ゲームのキャラの
155
色を引き継いでいるらしいが、それは身に纏う色味と、とがった長
い耳ぐらいだろう。
そう考えるとイサトさんの美女っぷりはもともとのものというこ
となので⋮⋮、褒められ慣れてそうなものだが。
イサトさんは本当に座りが悪い、といったようにもぞもぞしてい
る。
と。
﹁イサト様もどうぞ!﹂
﹁ああ、ありがとう﹂
そんなイサトさんに助け舟をいれるかのようなタイミングで、ア
ーミットがどろりとしたスープの入ったお椀を渡した。
それをイサトさんが受け取るのを待ってから、俺はイサトさんが
来るまでに村長から聞いた話を共有する。
砂レンガの予備がなく、また新しく砂レンガを造る時間もないた
めこの村を破棄しなければいけなくなったこと。
既に食糧が不足し始めていること。
この世界が俺たちの知るRFCの時間軸から、かなりズレてしま
っていること。
そして、昨夜遭遇したはずなのに、すっかり痕跡もなく姿を消し
た男の話を。
⋮⋮なんとなく、今更ながらの罪悪感があったため、男を背中か
ら斬り捨てたことはそっと省略しておく。斬り捨てた事実がなくと
も俺の木の棒での一撃を素手で受け止め、俺に微かなりともダメー
ジを与えたということさえ伝えておけば主旨は伝わるはずだ。
156
俺がそれなりに衝撃を受けたその情報に、イサトさんはスープを
啜りつつ﹁そっかあ﹂と軽めの相槌だけで終わらせた。
﹁⋮⋮普通もうちょっと動揺したりしないか?﹂
﹁うーん、異世界に飛ぶだけでもだいぶトんでもな話だろ? 予備
知識が少しあるだけでもまだマシかな、と思ってしまって﹂
﹁予備知識、ねぇ﹂
﹁秋良はそういう冒険系の、いわゆるライトノベルってあんまり読
んだりしない方?﹂
﹁んー⋮⋮、そんながっつりと読んでるわけではないかな。でも異
世界召喚モノが王道、ってのは知ってるぞ﹂
﹁その異世界召喚モノだとな、見知らぬ世界にいきなり飛ばされて
苦労する主人公ってのも多いんだ。着の身着のまま現代服のままで
行くから、得体のしれない魔物として討伐されてしまいそうになっ
たり、良い服を着てるってことで盗賊に狙われたりだとか。その世
界の常識を何も知らない温室培養の日本人だから、その世界の悪人
に騙されて奴隷にされてしまったりとかな﹂
聞けば聞くほど、気が重くなる設定である。
﹁そこから這い上がっていく、というところに読者はロマンを感じ
るんだろうが⋮⋮、まあ、それに比べたら私はだいぶ恵まれてる方
だと思うんだよな﹂
﹁RFCの未来という少しは予備知識のある世界だったからか?﹂
﹁それもそうだし⋮⋮、何より秋良がいる﹂
﹁⋮⋮、﹂
イサトさんの言葉に思わず息を飲んでしまった。
気負いも照れもなく、イサトさんがさらりと口にしたその言葉。
157
もしもここにイサトさんがおらず、俺一人だったら。
それは、先ほどイサトさんが口にした異世界召喚モノの主人公ら
の苦労を想像するよりもはるかに気が重くなるものだった。
それに何より、イサトさんの言葉からは俺に対する全幅の信頼が
感じられた。
イサトさんは、俺を信じ、俺を頼ってくれている。
一人の男として、異性にそう言って貰えるのが嬉しいというのは
当然の反応ではないだろうか。
いいか相手はおっさんだぞ、と言い聞かせたくもなるが、それが
間違っているというのは重々承知だ。
イサトさんは美女のふりをしていたおっさん、なのではなくおっ
さんのふりをしていた美女、なので俺がうっかり異性としてときめ
く分には何も問題はない。
問題はない⋮⋮はず、なのだがそれでも﹁相手はおっさんだぞ﹂
と自分に言い聞かせたくなるのは、相手が今まで気の置けない同性
の友人として共に馬鹿をやってきたイサトさんだからだ。
ああクソ、ややこしい。
﹁その気持ち悪い男とやらは、私も気をつけるとして⋮⋮二人でな
んとか元の世界に戻る術を探さないとなぁ﹂
﹁そうだな﹂
イサトさんの口調に、それほど危機感がないのはあの男に直接遭
遇していないからもあるのだろう。俺だって、実際に会っていなけ
れば、火事場泥棒か何かだったんじゃないのか、と聞き流してしま
いそうな話ではある。
158
塩気の薄いスープを、大事そうにちびちびと啜りながら、俺たち
はこれからのことについてを話し合う。
﹁元の世界に戻ることがゴールだとして、これからどうする?﹂
﹁ここが私たちの知るRFCからどれくらい後の世界なのかもよく
わからないからな。とりあえず大きな街で情報を集めたいところ。
あと、どれくらいこの世界にいることになるのかわからないってい
うのもあるし、生活基盤も確保したいな﹂
﹁生活基盤なら俺ら2人の財産をあわせればなんとかなるんじゃな
いか?﹂
二人とも結構な量のエシルを所有しているはずだ。俺だけでも、
億に届くか届かないかくらいの額は確実に持っている。
﹁んん。幸い私たちの持ってるお金はこっちでも使えるみたいだか
ら、そこはあんまり心配してないんだけど⋮⋮、ただ二人で生きて
いくだけじゃなくて、情報を集めたりするためにはここの社会生活
に溶け込まないといけないだろ?﹂
﹁あ、確かに﹂
誰にも関わらず、2人だけで生きていくなら金さえあればなんと
かなるだろう。乱暴な話、俺とイサトさんなら金がなくとも自力で
なんとか暮らしていけるだけの力はあると思っている。
だが、それではきっと思うように情報を集めることは出来ないだ
ろう。
この世界に住んでいる人々から情報を集めるためには、彼らの生
活の中に溶け込む必要がある。
また、変に悪目立ちすると、要らぬトラブルを呼びこんでしまい
そうだ。
159
﹁一番わかりやすいのは﹃遠い異国から来た冒険者﹄ってところか
な﹂
﹁だな。そうなるとやっぱり冒険者ギルドで登録とかするべきか?﹂
﹁たぶん。もともとRFCのプレイヤーの設定も冒険者だったわけ
だけど⋮⋮、ここでは使えないような気がする﹂
﹁証明できるものが何もないもんな﹂
﹁うん﹂
RFCにおいては、プレイヤーはチュートリアルの中で冒険者と
して登録することになる。
が、登録したからといって何か証明書のようなものが貰えるわけ
ではないのだ。単に、肩書きとして﹁冒険者﹂という名前がプレイ
ヤー情報の欄に加わるだけに過ぎない。
その後ジョブを選択することで肩書きは﹁冒険者﹂から俺のよう
な﹁騎士﹂やイサトさんのような﹁召喚士﹂のようなものへと変わ
っていくことになる。
一番の基本であり、プレイヤーの初期設定の肩書きが﹁冒険者﹂
なのだ。
ゲームの中であったなら、UIから相手の情報を開けば相手の名
前と肩書きぐらいは確認できたものだが⋮⋮、ここでは無理だろう。
何度か村人相手にステータス画面が開けないか試してみたが駄目
だった。
イサトさんが相手でもそれは同じく、である。
そもそも俺自身のステータスですら開けないのだから、他人のが
見えなくてもさもありなん。
160
⋮⋮ステータス画面から肩書きを変更することで、ジョブ変更が
出来たわけなんだが、そのあたりの処理がこの世界ではどうなって
いるのだろうか。
そのうち時間が出来たら、イサトさんに試してもらおう。
いや、俺が自分で試しても良いのだが、俺が商人にジョブを変更
した場合、今着ている騎士装備がキャストオフしかねない。いきな
りパン一で放り出される事態は避けたいので、ここは職業制限のな
い装備を身に着けているイサトさんにお願いするしかない。ああで
もそれだと、ジョブの切り替えが成功したかどうかがわからないの
か。今度時間の有る時にでも、部屋でひっそりと試してみるとしよ
う。
そんなことを頭の端で考えつつ、俺は話題を元に戻した。
﹁それじゃあまずはエルリアの街を目指して、そこで冒険者として
登録できるかどうか試してみるか﹂
﹁それが一番、かな。エルリアの街にも冒険者ギルドはあったはず
だし﹂
﹁うむ﹂
とりあえずこれで当初の行動指針は決まった。
俺とイサトさんの手の中には空っぽになったお椀がそれぞれ。
スープだけではどうにも腹が膨れたという実感は薄いものの⋮⋮
朝ごはんも食べ終わった。
もう、俺たちはエルリアに向かって出発することが出来る。
が、俺もイサトさんもそれを口に出そうとはしなかった。
顔をあげると、煤けて崩れた砂レンガで造られた家々が目に入る。
食べたりないのか、眉尻を下げて薄い腹を撫でては溜息をついて
161
いるアーミットがぼんやりと空を眺めているのが見える。
昨夜の騒動でくたびれたのか、力尽きたよう座りこんでいる村人
たちが、見える。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何も言わずとも、言葉にしなくともイサトさんが考えていること
は手に取るようにわかった。
きっとそれは逆もしかりだろう。
イサトさんにも、きっと俺の考えていることは筒抜けになってる。
﹁⋮⋮最後まで面倒みきれないのに中途半端に手を出すのってどう
なんだ﹂
﹁目先の偽善は自己満足に過ぎない⋮⋮ってよく言うよな﹂
二人して、自分自身に言い聞かせるように呟く。
俺やイサトさんの力や、持ち物を使えば今目の前の困窮している
人々を助けることは出来るだろう。
だがそれは、今回はたまたま俺たちがいたからだ。
でも次は?
今回の盗賊は捕まえた。彼らはやがてエルリアから送られてくる
憲兵にとらわれ、この世界なりの処罰を受けることになるだろう。
だが、砂漠に次の盗賊が潜んでいないとは限らない。
いつまた襲撃され、同じ目にあうのかわからない。
それどころか、盗賊とは違った種類の災難により、再び食糧難に
悩むことがあるかもしれない。
それならば無駄に踏ん張るよりも、さっさとこの村を諦めてエル
162
リアに向かった方が、彼らにとっても良いのではないだろうか。
異邦人である俺たちがこの村の現状を改善したところで、長い目
で見たときにそれが良い干渉だったのかを今の俺らには判断できな
い。
だから、躊躇う。
だから、怖い。
何気なく人助けのつもりでしたことが、逆に悪い結果をもたらし
てしまうのではないかと、ただそれが怖い。
怖いことを認めることさえ怖いから、やらない理由を探す。
俺たちは異世界トリップしたての、この世界のことなんて何も知
らない通りすがりでしかないのだ。
自分たちの起こした行動がこの世界にどれだけの余波を残すのか
もわからなければ、それを背負いきれるかどうかもわからない。
ああ、でも。
怖がっていつまでもじっとしたままなんて、きっとつまらない。
﹁なあ、イサトさん﹂
﹁⋮⋮なんだ秋良青年﹂
﹁悪者になんない?﹂
﹁⋮⋮わるもの﹂
俺の言葉に、にぃ、とイサトさんの口角がつりあがった。
俺が提案した通りの、悪役にふさわしい笑みだ。
163
﹁いいな、わるもの﹂
﹁いいだろ、わるもの﹂
俺とイサトさんは交互に呟く。
こういう単語だけで、お互いのやりたいことがある程度通じ合え
るというのはいいものだ。
伊達に長年おっさんとつるんではいない。
俺とイサトさんは悪い笑みを浮かべたまま、ちょいちょい、と近く
で俺たちの様子をうかがっていたアーミットを呼び寄せた。
﹁俺たちはわるものです﹂
﹁わるものだぞ﹂
アーミットに頼んで呼んできてもらった村長のアマールさんを相
手に、俺とイサトさんはえへんと胸を張ったまま宣言した。
164
﹁⋮⋮は?﹂
村長さんは俺たちが何を言っているのか全くわからないといった
風にぽかんとしている。
それから次にその表情に浮かんだのは、隠しきれない怒りの色だ
った。
村長として村民らの生活を守るためにやらなければならないこと
が山積みの現状で、呼び出されたあげくに言われた内容が、そんな
くだらないことだったのだから、まあ村長さんが暴れたくなる気持
ちもわからなくもない。
表情をひきつらせながらも、俺たちに対して一応怒りを隠そうと
したあたり、村長さんは人間が出来ている。
﹁すみませんが、滅びゆく村の長として私は事後処理で忙しいんで
すよ﹂
それでも、声には苛立ちの色が目立った。皮肉げな言い回しも、
先ほどの俺と二人きりの会話のときにはなかったものだ。
これ以上怒らせて話を聞いて貰えないというのも困るので、俺と
イサトさんは二人して苦笑を浮かべて村長さんへと謝った。
﹁すみません、ただ村長さんには俺たちの立場を一番よくわかって
いて欲しかったもんで﹂
﹁⋮⋮どういうことです?﹂
﹁私たちがこれからすることは、善意から行うものじゃないってこ
165
とをわかってて欲しかったんだ﹂
﹁これから行う⋮⋮?﹂
俺たちの言い回しに、次第に村長さんの表情に警戒が浮かぶ。
﹁⋮⋮貴方がたが何をするつもりなのかはわかりませんが⋮⋮、こ
の村からはもう奪えるものなど残されていませんよ。⋮⋮ッまさか﹂
﹁いやいやいやいやいやいや﹂
村長さんが、近くで俺たちの会話を聞いていたアーミットをちら
りと見て血相を変えたのに、慌てて俺は手を振る。
人攫い、もしくは奴隷商人とでも言うのか、そういうものに間違
えられるなんていうのは冗談じゃない。
﹁えっとこの村が駄目になりそうな原因は、砂レンガが足りなくて
家が修理できない、っていうのと、食糧がない、っていう二点なん
だよな?﹂
﹁ええ⋮⋮﹂
﹁それ、私たちがたぶんなんとかできると思う﹂
﹁⋮⋮は?﹂
ぽかん、と再び村長さんの目が丸くなった。
﹁まだ試してないから絶対、とは言い切れないけどな﹂
﹁おそらくイケる可能性の方が高いと私たちは思ってる﹂
﹁それでどうして⋮⋮、悪者という話に?﹂
﹁俺たちに責任を取るつもりがないからだよ﹂
﹁私たちは現状貴方達が抱えている問題を解決するだけの力を持っ
てる。でも、それは人助けだから、とか私たちが正義の味方だから、
ってわけじゃないのをわかってて欲しい。私たちはたまたま貴方た
166
ちを助けるための手段を持っていて、その気になっただけなんだ﹂
﹁だから、また何か困ったことが起きたときに次も同じように助け
てやれるかどうかはわからない﹂
﹁私たちはしたいことをするだけなんだ﹂
そう。
それが、俺とイサトさんの思いついた﹃わるものの道理﹄だった。
俺たちは正義のために村を救うわけではない。
善行をつむために、村を救うわけではない。
ただ単に、俺たちがしたいと思ったことをするだけなのだ。
欲望のままに行動する。
それが、俺たちの﹃わるものとしての道理﹄だった。
俺たちがしたことで、何か不都合が発生しても、しらない。
だって、もともと俺たちは﹁善行﹂のつもりでしていないからだ。
なるべくフォローはするつもりだが、それでももしかしたら俺た
ちではどうしようもないことになってしまうかもしれない。
それに対する保険が、﹁わるもの宣言﹂だったのだ。
﹁つまり⋮⋮貴方たちはこのカラット村を救ってくださるのですが
⋮⋮?﹂
俺たちの言いたいことを理解したらしい村長さんが震えた声で聞
き返してくる。
どことなく漂っていた倦怠感がその表情からは消え、代わりにな
んとかなるかもしれないという希望が見えたことに対する興奮に瞼
がぴくぴくと震えていた。
﹁あくまで趣味でな﹂
167
﹁あくまで趣味の範疇で、だぞ﹂
そんな村長さんへと俺とイサトさんは釘を刺す。
村の危機を救うのが﹃趣味﹄扱いされたことにも気を悪くした様
子を見せず、村長さんはがしっと俺の手を取った。
﹁趣味であろうと構いません⋮⋮!それで、私は何をしたら!?﹂
男に手を握られて喜ぶ趣味は持ち合わせていないのだが、だから
といって村長さんがイサトさんにすがりついてもそれはそれでたぶ
ん面白くないだろうので、俺はおとなしく村長さんのしたいように
させておく。
そんな俺の横から、イサトさんが村長さんを覗き込んで。
﹁わるものにわるさをする許可をくれないか?﹂
さあ、俺とおっさんのわるさ開始である。
168
わるものとおっさん︵後書き︶
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169
おっさん、エルリアに行く︵前書き︶
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おっさん、エルリアに行く
﹁ひょえあああああああああああああ﹂
からりと晴れた砂漠の青空に、間の抜けた悲鳴が木霊する。
悲鳴の主はアーミットだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
それに対して、沈黙を守っているのは俺とイサトさん。
ただし、それぞれの沈黙の持つ意味合いは結構違っている。
イサトさんはいわゆる﹁悲鳴をあげ損ねた﹂という以前本人が言
っていたような状況だろう。
ちらっと覗いた表情はそれなりに取りつくろっているが、身体は
がちごちに強張っている。
そして、俺が黙っているのはそんなイサトさんの様子を窺ってい
るからだ。
﹁⋮⋮大丈夫かよ、イサトさん﹂
まだアーミットのように叫んだ方が、精神衛生上よろしいような
気がする。
なんというか、俺はゲーム時代のイサトさんに対して有事にも動
揺しないのらくらした喰えないおっさん、という認識でいたのだが
171
⋮⋮。
もしかすると単純に思ったよりもどんくさいだけなのかもしれな
い。
何かあったときに冷静なように見えるのは、うっかり叫んだり驚
いたりするタイミングを逃し続けているだけで。実は地味にパニく
り、周囲が盛大に慌てているのを見ているうちに落ち着き、しれっ
と対処しているだけなのではなかろうか。それならば外から見てる
分には冷静で何事にも動じない、という態を保てるだろう。
﹁⋮⋮だいじょうぶだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺の想像はあたっていたらしい。
イサトさんの返事は、まるで時間稼ぎするかのようにいつもよりゆ
ったりと間延びしていた。
普段のイサトさんを知らなければ、この状況にも物怖じしない豪
傑、として周囲からは思ってもらえることだろう。
そして﹁この状況﹂というのはずばり︱︱⋮⋮、イサトさんの召
喚したグリフォンの背にアーミット、イサトさん、俺という順で騎
乗して高速で砂漠の空をかっとばしている、という状況である。グ
リフォンというのは猛禽の頭と翼を盛った獅子という伝説の獣の一
種で、大きさとしては三人乗っても大丈夫、というあたりで察して
いただきたい。昨夜見たフェンリルと同様に、それだけ大きい獣だ
というのに、リアルな獣臭さは全く感じなかった。だからといって
生き物としての気配がないというわけではないあたり、やはり﹁召
喚モンスター﹂として普通の生き物とは一線を隔しているというの
172
がよくわかる。毛並は短毛ながら滑らかで、つい撫でてしまいがち
だ。うなじ、というか首の付け根のあたりだけもっふりと毛足が長
くなっているところが獅子っぽい。
そんなグリフォンの上で、一番小柄なアーミットを先頭に、一番
でかい俺が背後を固めて二人を腕内に収めるような形で手綱を握っ
ている。そのおかげで、俺はイサトさんの身体ががちがちに強張っ
ているのを感じ取れたのだ。そうでもなければ、俺もイサトさんの
外面に騙されていたかもしれない。覚えておくことにしよう。
ちなみに、本来なら召喚士であるイサトさんの命令しか聞かない
はずのグリフォンなのだが、今回は例外的に使役権を俺に譲渡され
ている。とはいっても、単に手綱を任されているだけで、イサトさ
んの監督のもと、という条件で例外的に俺の指示を聞いているだけ
にすぎない。
時をさかのぼること三十分ほど。
村長さんからわるさをする許可を得た俺とイサトさんは、まずは
エルリアを目指すことにしたのだ。
わるさをするためにはいろいろと材料がいる。
そのためにはまず、エルリアの街に行き、俺たちがゲーム時代に
貯めたもろもろの資材を使うことが出来るかどうかを確かめるのが
一番だからな。
なければないで、あるものでなんとかするなり、素材を集めるとこ
ろから始めればいいだけの話だ。
アーミットはその道案内として自ら立候補してくれたため、今回
俺たちに同行することになった。得体のしれない旅人である俺らに
まだ子供でもあるアーミットを預けるというのは、村長としてはか
173
なり悩んだ末の決断なのではないだろうか。
・
そして実際にエルリアに向けて出発するぞ、という時になってイ
サトさんが足として提案してきたのが、イサトさんの召喚モンスタ
ーであるグリフォンだったのである。
ゲーム内では一人乗りの騎獣扱いのグリフォンだったが、異世界
であるこの世界ではグリフォンを納得さえさせれば騎乗する人数に
制限はかからないらしい。確かに昨夜召喚していたフェンリルも、
グリフォン同様にゲームの中では一人乗りの騎獣扱いだったが、ア
ーミットとその母親を同時に乗せていた。物理的に可能な積載量で
あれば⋮⋮、召喚モンスターの気持ち次第では乗せてくれないこと
もない、というような感じだろうか。その辺の微妙な兼ね合いは、
今後探っていくことになるだろう。
イサトさんが召喚したグリフォンは、俺やアーミットに対して﹁
こいつらも乗せんのかよ﹂とあからさまに嫌な顔をした︱︱ように
見えた︱︱が、主であるイサトさんにお願いね、と軽くぽんと首筋
を叩かれるとおとなしく頭を垂れて言うことを聞いた。
そんなわけでさっそくグリフォンの背にのって砂漠飛行となった
わけだが⋮⋮。
いやあ、これがなかなかすさまじい。
超はやい。ちょっぱやである。
現代人的な感覚から言わせてもらえれば、時速60km∼80k
mぐらいは出てるんじゃなかろうか。
俺はまだバイクを乗り回していたこともあり、生身でのこの速度
に対する慣れがあるが、慣れていない人間にとってはなかなかに怖
いものだろう。
174
それにバイクがまだ地上を走っているのに比べて、グリフォンは
飛んでいる。
下を見てしまうと、スピードには慣れている俺ですらぎょっとし
てしまうのだから、イサトさんやアーミットにとっては安全ベルト
のついてないジェットコースターに乗ってるようなものだ。
少しでも安定感を、と俺は二人を抱えて手綱を握る腕に力をこめ
る。
﹁二人とも大丈夫か?﹂
﹁わたしはへいきだ﹂
﹁アキラ様ぁああああああああああ!﹂
⋮⋮あんまり大丈夫じゃないな、これ。
そんなことを思いつつ、俺たちの初グリフォン騎乗の旅は続くの
だった。
175
エルリアの街が見え始めたところで、俺たちは砂漠に降りてそこ
からは徒歩に切り替えることにした。
まあ、グリフォンのような高位のモンスターが街の人たちに見つ
かったら間違いなくパニックに陥るだろう。
アーミットに聞いたところ、旅の冒険者や商人が稀にモンスター
を使役していることがあるらしいが、せいぜい比較的気性の穏やか
な、動物とほとんど区別がつかないようなものに限るらしい。
イサトさんが使役して見せたようなフェンリルやグリフォンは、
神話や伝説にしか出てこないのだそうだ。
﹁イサト様もアキラ様も、まるで物語に出てくる冒険者様たちみた
いです⋮⋮!﹂
グリフォンから降りたアーミットは、くりくりとした瞳を輝かせ
て俺たちを見ている。
﹁伝説の冒険者、ねぇ﹂
﹁伝説の冒険者ってどんなものなんだ?﹂
﹁知らないんですか?﹂
﹁私たちは遠いところから来たもので、その辺のことはよく知らな
いんだよな﹂
﹁伝説の冒険者っていうのは⋮⋮、あ、その前にイサト様ちょっと﹂
アーミットは上機嫌に話しだそうとして、それから何かに気づい
たようにイサトさんを呼び止めた。
不思議そうにしているイサトさんの手首に巻かれていた飾り布を
176
ふわり、と解いて広げる。そしてそれをイサトさんにかぶせると、
器用に布の余りを結んでフードにした。
⋮⋮なるほど、あの飾り布はこうして砂漠に出た先に日差しや砂
をよけるのに使うためのものだったのか。アーミット本人は、ごそ
ごそと肩からかけていた小さなポシェットから同じような布を取り
出して羽織る。
﹁なあ、それ俺にはないのか?﹂
﹁え?アキラ様は男なのにルーシェを使うんですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
あの飾り布は﹁ルーシェ﹂というらしい。
まるで﹁スカート穿くんですか?﹂というようなノリで言われた
言葉に、俺はがっくりと肩を落とした。
どうやら、このあたりの風習では砂漠で布をかぶるのは女性だけ
のようだ。
男だって暑いものは暑いし、砂が目に入ったら痛いと思うのだが。
﹁⋮⋮行くか﹂
ステータスのおかげでそれほど砂漠の日差しでダメージを食らう
ということはないものの、それでも暑いし、白く乾いた砂がはじく
日光が目に入ると痛い。いつまでもこんなところで立ち話をする気
にはなれなかった。
ざくざく、と砂を踏んで街へと向かいながら、俺とイサトさんは
アーミットから﹃伝説の冒険者﹄の物語を聞く。
177
﹁ずっとずっと昔、私たちが生まれる前に、この世界は女神さまに
よってつくられたんだそうです。それでも力が余っていたので、女
神さまは動物や植物をこの世界におつくりになりました。それでも
まだまだ力が余っていたので、女神さまは次に自分に良く似た生き
物、私たち人間を作り出しました。ですが、それでも女神の力は有
り余っていました。それで女神は、この世界に女神の試練を課した
のです﹂
﹁女神の試練?﹂
﹁すなわち︱︱⋮⋮、モンスターだな?﹂
﹁はい﹂
﹁イサトさんなんで知ってんの?﹂
﹁むしろ私は秋良が何故知らないのか聞きたい﹂
﹁え﹂
﹁⋮⋮RFCの設定だぞ﹂
﹁えー⋮⋮﹂
言われてみれば、そんな話をチュートリアルの時に聞いたような
気がする。
が、俺がチュートリアルをやったのは今から3、4年も前の話だ。
そんな細かいところまで覚えていない。普段モンスターを狩ってレ
ベルをあげたりスキルを覚えたりして遊ぶ分にはそんなに関わって
こない設定だしな。
あ、でもなんかシナリオイベントで﹃女神﹄がどうのこうの、と
いうのは毎回見ていたような気がする。
﹁モンスターたちは、私たちの間では﹃女神の恵み﹄とも﹃女神の
試練﹄とも呼ばれています﹂
178
﹁﹃女神の試練﹄はまだしも⋮⋮、なんで恵み?﹂
﹁モンスターは女神の余剰な力が淀み、形となった存在なんだそう
です。そのモンスターを倒すことで、女神の余剰な力の恩恵を受け
ることが出来るんですよ﹂
﹁それってもしかして⋮⋮﹂
俺はちらり、とイサトさんを見る。
イサトさんはその通り、というように頷いた。
﹁ドロップ品のことだな。女神の余剰な力がモンスターとなり、そ
のモンスターを倒すことで、人々はその力の恩恵を手に入れる﹂
﹁なるほどな、そういう理屈なわけか﹂
﹁そういうことだ。強いモンスターほど良いアイテムをドロップす
るのも、その理屈に基づいてる﹂
﹁ほー⋮⋮﹂
貯めこんだ女神の余剰エネルギーが多ければ多いほど強力なモン
スターとして形になり、当然そのモンスターを倒すことで得られる
恩恵も大きくなる、というわけか。MMOとして定番の設定に、こ
んな理屈があったとは知らなかった。いや、たぶんチュートリアル
で一度は聞いたと思うんだが。
﹁ですが⋮⋮﹂
アーミットの声が沈んだ。
﹁ん?﹂
﹁私が生まれるずっとずっと前に、私たちは女神の恵みを得ること
が出来なくなってしまいました﹂
﹁ああ、村長が言っていたやつだな﹂
179
食べ物がなければドロップ品で食いつなげばいいじゃない、と言
った俺に対し、村長はそんな確率の低い賭けには頼れないと言って
いた。つまり、この世界の人々にとって、モンスターを倒してドロ
ップ品を得る、というのは滅多にないことだということになる。
﹁モンスターを倒しても、それだけです。血肉も、恵みも、何も残
らないようになってしまったんです﹂
﹁そりゃあ⋮⋮、冒険者上がったり、だなあ﹂
モンスターを倒す旨みが何もない。
﹁物語の中に出てくる冒険者は、アキラ様やイサト様のみたいにと
ても格好良いんですけど⋮⋮、実際の冒険者は、村や町の護衛とし
て近辺のモンスターを駆除するだけの人になってしまいました﹂
﹁モンスターを倒しても、身入りがないわけか﹂
﹁それはロマンに欠けるな﹂
俺とイサトさんはお互いに顔を見合わせる。
街や村を守る、というとそれはそれで別種のロマンがあるような
気がしないでもないが、それは国を守る騎士や兵士の領分だ。
冒険者といったら、やはりお宝を求めて未開の地を切り開き、モ
ンスターを相手に戦いを繰り広げていただきたい。
そして、俺やイサトさんの装備のほとんどはドロップ品そのもの
だったり、それらを素材に作られたものだったりする。その大本で
あるドロップという供給がなくなってしまえば、俺らが当たり前の
ように使っているアイテムのほとんどは再現不可能だろう。
180
⋮⋮そりゃあ冒険者が地味になるわけだ。
しょっぱい顔をしている俺に、イサトさんがさらに追い打ちをか
けてくる。
﹁ドロップアイテムがないというだけでそんな顔をするのは早いぞ、
秋良青年﹂
﹁ん?﹂
﹁﹃女神の恵み﹄が発動しないということは、下手するとドロップ
品が手に入らないどころか、経験値すら入らない可能性が﹂
﹁まじか﹂
悲惨極まりない。
モンスターを倒すことで、概念的な経験値は手に入るかもしれな
いが、それが強さにつながらないRPGというのはなんともえげつ
ない。実装されたゲームだったらユーザーがサジを投げる。モンス
ターを倒しても、プレイヤースキルが上がるだけでご褒美もなけれ
ばステータスの成長もないなんて、なんの苦行だ。ひたすらプレイ
ヤーのスキルが求められるFPSあたりならまだしも、RPGの世
界でそれはない。
﹁なんで﹃女神の恵み﹄が発動しなくなっちゃったんだろうな﹂
﹁イサト様のような特別な民だけ⋮⋮、ってわけじゃないんですよ
ね?﹂
﹁違うだろうな。俺は人間だが、アイテムドロップ手に入れられる
し﹂
俺は手をわきわき、と動かしてみる。
181
そのあたりは、昨夜の盗賊討伐および砂トカゲ駆除戦からも確認
済みだ。
俺が倒した砂トカゲからも、ゲーム時とほぼ変わらない確率でパ
フェはドロップしていた。少なくとも、俺は違いがあるようには感
じられなかった。
経験値の方はゲーム時と違って、数値でわかるわけじゃないので
実感がないが。
﹁エルフやダークエルフが姿を消したのと、﹃女神の恵み﹄が発動
しなくなった時期っていうのはどうなってるんだろうな﹂
むぅ、と悩ましげにイサトさんが呟く。
つい忘れがちだったが、この世界においてはエルフやダークエル
フはもう滅んだ古の種族ということになっているのだ。
アーミットの口ぶりからして、それら一連の物事つい最近のこと、
といったわけではなさそうだ。
﹁わからんことだらけだ﹂
﹁まあ、異世界だしな﹂
それを言っちゃおしまいです。
なんとなく見知ったゲーム内にトリップしたつもりでいるので危
機感が薄いが⋮⋮一応これでも異世界トリップなのだ。
まだこの世界に到着して二日。
わからないことが多いも当然か。
182
﹁アキラ様!イサト様!﹂
アーミットに呼ばれて顔をあげる。
思えばこの短時間で、名前を様付けで呼ばれるのにもだいぶ慣れ
た。
⋮⋮癖にならないといいな。
﹁つきました、エルリアです!﹂
そして︱︱⋮⋮、俺たちはようやく、はじまりの街エルリアに着
いたのだった。
183
おっさん、エルリアに行く︵後書き︶
本業が多忙極まりないうちに間が空いてしまいました。
楽しみにして下さる方がいたら、申し訳ないです。
評価、pt、励みになってます。
184
おっさんにセクハラ︵前書き︶
0916修正
1121修正
185
おっさんにセクハラ
﹁⋮⋮寂れてるな﹂
﹁⋮⋮妙な情緒が﹂
はじまりの街エルリアは、俺たちの記憶の中にある姿と比べると
ずいぶんともの寂しいことになってしまっていた。
一瞬何かあったのか、と思ってしまったが、すぐに自己完結で納
得した。
エルリアは﹁はじまりの街﹂だ。
ログインした冒険者が一番最初に訪れる街として栄えていたのだ。
だが、この世界からプレイヤーは姿を消した。
残されたのは⋮⋮、というか現在そこに迷い込んでしまっている
のは、わかっている限りでは俺とイサトさんの二人だけだ。
そうなればこの﹁はじまりの街﹂が寂れるのも仕方のないことだ
ろう。
設備としては特に変化がない分、余計にゴーストタウン的な雰囲
気を醸し出してしまっている。もともとの栄えた状態をゲームの画
面越しとはいえ知っているだけに、かなりものさびしい。
﹁えっと、この辺か?﹂
﹁たぶんその辺?﹂
﹁お二人は、エルリアの街は初めてじゃないんですか?﹂
﹁あー⋮⋮、初めてではないというかなんというか﹂
このエルリアに来るのは初めてだ。
186
が、街としての仕組みはゲーム時代に何度も訪れていたこともあ
って把握できている。周囲の建物と記憶をてらしあわせれば、大体
どこにどんな施設があるのかなどの位置関係は掴める。
⋮⋮イサトさんはふらふらと危なっかしくきょろきょろしている
が。
そういえばゲームの中でも方向音痴だったっけか、この人。
倉庫があるのは街のほぼ中央にある広場だ。
ゲーム時代はプレイヤーによる露店がひしめきあっていたものだ。
そんな広場も、今はがらんと寂れて人影はほとんど見当たらなか
った。
﹁この街は、いつもこんな感じなのか?﹂
﹁珍しい特産物がとれるわけでもありませんから⋮⋮。市の日なら
もう少し賑やかですけど、普段はこんな感じです﹂
アーミットの回答を聞いて、少しだけ安心した。完全なゴースト
タウンになってしまったわけではないらしい。
﹁それにしても、ここで何をするつもりなんですか?﹂
﹁倉庫の確認﹂
端的に答えて、イサトさんが広場の前方に設置された石碑へと進
み出る。
黒曜石をストンとそのまま直方体に切り出したような、シンプル
な石碑だ。高さは90㎝ほど。その表面には、何やら紋様が刻まれ
ている。
﹁倉庫?﹂
187
ピンとこないのか、アーミットは首をかしげている。その頭上に
出ている﹁?﹂が目に見えるようだ。
﹁ちなみにアーミット、あの石が何か知ってるか?﹂
﹁広場のモニュメントじゃないんですか?﹂
﹁あー⋮⋮、やっぱりそういう回答になるか﹂
倉庫という概念も、この世界ではすたれてしまっているらしい。
この世界、モンスターはいるのに魔法の概念が忘れさられてしま
っているというのがなんとも惜しい。普通ならそこで魔法に代わる
新たな概念、いわゆる科学が発展していてもおかしくないのだが、
そう上手く魔法から科学への方向転換もいっていないようだ。
まあ、それも仕方ない。
科学が発展したから魔法が廃れたのではなく、魔法を中心に栄え
ていた世界でその魔法が原因もわからないまま消えてしまったわけ
なのだから。
それを考えると、乱世に突入していないだけまだマシなのかもし
れない。
現代で言うとある日いきなり電気エネルギーが消失して文明が崩
壊するようなものだ。
映画やマンガ、ドラマなどにもそういった世界を描いたものは多
くあったが、ここのように緩やかな衰退を受け入れている例は少な
かった。
どちらかというと某世紀末救世主的な、悪党がヒャッハーしちゃう
系が多かったような気がする。
188
いくらゲーム内のステータスを引き継いでいるらしい、とはいえ、
生身で世紀末覇者と戦うようなことにならなくて心底良かった。
﹁イサトさん、どうだ?﹂
﹁うん、普通にアクセスできるっぽい。ただちょっと生身での操作
に慣れてないからちょっと手間取ってる﹂
﹁どんな感じ?﹂
﹁んー⋮⋮、スマホ的というか、ノーパソのタッチパッド的な感覚
というか⋮⋮、
その辺は君が自分で体験してみた方が早いかも﹂
﹁同時に操作できそう?﹂
﹁んー⋮⋮、出来ないことはないんだろうが、お互い相手が邪魔に
なるだけな気がするので、私が終わるまでもうちょっと待っててく
れ﹂
﹁あいよ﹂
ゲーム時代は大人数が同時にアクセスしても平気な倉庫だったが、
リアルともなればそうもいかないのだろう。石碑に向かって何やら
難しい顔をしてごにゃごにゃ操作をしているイサトさんの後ろに並
んでいると、ATMに並んでいるような気持ちになる。
﹁取り出すのは食材系と⋮⋮砂系素材と箪笥か﹂
﹁そうだな﹂
空中を睨むようにして操作しているイサトさんの声に、俺は自分
の倉庫の中身を思いだそうとしながら返事をする。
俺とイサトさんの考えた悪だくみなんていうのはどこまでもシン
プルだ。
﹁箪笥﹂と呼ばれるアイテムに、みっちりと村人らがしばらくの
189
生活には困らない程度の食糧を詰めてカラットに置いてく。
ずばり、それだけだ。
ははははは、シンプルイズベスト。
据え置き型の大型インベントリ、だと考えて貰えれば﹁箪笥﹂の
便利さをわかって貰えるだろうか。ただ、俺たちが所持している基
本のインベントリとはちょっと仕様が異なっており、一長一短だ。
通常のインベントリは、限界の重量を超えなければいくらでも種
類に関しては所持できるのに対して、箪笥は重量に制限がかからな
い代わりに、アイテムを収納できる種類が限られる。
ちなみに箪笥は、インベントリに収納しようと思うとその中にし
まわれているものの重さまでカウントされてしまうので、インベン
トリに箪笥を詰めまくって無限インベントリ、なんていうズルは出
来ないようになっている。箪笥の存在を知ってすぐに試して、重量
オーバーでその場から動けなくなったのは俺だけではないと信じて
いる。
⋮⋮絶対イサトさんもやったよな。
﹁なあなあ、秋良﹂
﹁ん?﹂
﹁君、食材どれくらいある?﹂
﹁んー⋮⋮、俺ポーション派だったから食材はあんまり持ってない
んだよな。ドロップ品は、ある程度数がたまるとまとめて売っぱら
ってたし﹂
﹁なるほど。それじゃあ引き出し三つの小型箪笥でいいかな﹂
﹁そうだな。それにしても、イサトさんよく箪笥なんか持ってたな﹂
190
先ほども説明した通り、箪笥とは据え置き型の収納アイテムだ。
倉庫と違ってあちこちからアクセス可能、というようなこともない。
そういう意味において、箪笥は便利に使おうと思うと使い道を限り
なく限定されるアイテムだ。
そんなものをよく、というつもりで呟いた言葉に、イサトさんは
いともあっさりと頭を左右に振った。
﹁持ってないよ﹂
﹁⋮⋮ぅん?﹂
思わず、動きが止まった。
まてまて。
何かものすごく嫌な予感がするぞ
﹁もうなんていうか秋良青年にはドン引きされる気しかしていない
が︱︱⋮﹂
ふいっとイサトさんは視線を遠いところにさまよわせつつ、モニ
ュメントでの操作を終えて俺たちへと向き直る。ぽいぽい、と無造
作に放り出されるのは、レアドロップの木材や、カンナ、釘、とい
った日曜大工品めいた素材だ。
まさか。まさかまさか。
イサトさんは俺が見ている前で、それらの材料に向けて手をかざ
すと︱︱⋮⋮、家具作成スキルを発動させた。
191
をい。
﹁こらあんたなんで家具職人スキルなんて持ってんだゴルァ!!!
!﹂
﹁つい! 出来心で!!!﹂
ぺっかり、と完成した箪笥を目の前に俺は思わずイサトさんへと
吠えた。
またこの人はメインジョブ育てる苦行から逃げて新しい職人スキ
ルゲットしにいってやがったな⋮⋮!!!!!!
﹁火力あげたいからしばらくはメインジョブの精霊魔法使いのレベ
ル上げに専念するって言ってたのはどこの誰だ⋮⋮!!!﹂
﹁私だけど!! だって!!! レベル上げるために狩りに行くと
アイテム補充のために街にちょこちょこ戻るの面倒くさいじゃない
か! だから箪笥があった方がレベル上げが捗るかなって!!!﹂
﹁箪笥を設置するための﹃家﹄はどうする気だったんだあんた!﹂
﹁そ、それはその⋮⋮、事後承諾で秋良とリモネに許可を貰おうか
なー⋮とかそのえっと﹂
ごにょごにょ、と後半イサトさんがトーンダウンした。
192
そう。
箪笥を便利に活用するためには﹁家﹂が必要なのだ。
基本的にその日暮らしをしている俺ら冒険者にとって、家という
概念はそれほど重要視はされない。冒険していない時間、すなわち
遊んでいない時間はログアウトしているからだ。どこでログアウト
しようが、基本的に差はない。
では何故家が重要視されるのか。
答えは、家の立地条件にある。
﹁家﹂は、﹃妖精王オベロンの頼み﹄というクエストをクリアし
た際に、妖精王より与えられた領地に存在する。どこでもあり、ど
こにもない妖精王の領域の端っこを切り取って与えられたその領地。
それはすなわち︱︱⋮⋮、どこからでもアクセス可能な﹁便利な
我が家﹂の実現だ。
そうなれば、その家に箪笥を設置すれば、わざわざ倉庫のある大
きな街に戻らずとも、アイテムを補充することが出来るようになる。
イサトさんが言っている利点というのはずばりそれだ。
狩り場が街から離れている場合、ドロップ品がたまって荷物が重
くなったり、回復アイテムが切れる度に街に戻るのは非常に面倒く
さくなる。だからイサトさんが便利な狩りのために家を欲しがる気
持ちは非常にわかるのだが⋮⋮。
俺の記憶が確かなら、おっさん︵イサトさん︶はまだ妖精王オベ
ロンのクエストを受けてなかったような気がする。というか正確に
193
言うとオベロンクエを受ける許可をリモネから貰えてなかった、よ
うな。
それで何故箪笥が作れるんだこの人は。
ゲームとしてのRFCでは、箪笥を手に入れるためには三つの方
法がある。一つは、自分で材料を集めた上で、家具職人としてのス
キルを手に入れ、自分で箪笥を作る方法。もう一つは、材料を自力
で集めた上で、ぼったくりともいえるような金額で家具職人スキル
を所持しているNPCに依頼する、というものだ。
基本的には、NPCに依頼するのが一般的だ。高額でぼったくら
れようと、たまにうっかり失敗されてせっかく集めたレアドロップ
含む材料をオシャカにされようと⋮⋮、自力で箪笥が作れるところ
まで家具職人スキルをあげる手間を考えたらその方が楽だ。
一番よくあるのが三つ目の方法、酔狂で生産系のスキルを選んで
取得しているプレイヤーに頼んで作ってもらう、というパターンだ。
俺も、俺の家においてある箪笥はリモネに頼んで作ってもらった。
正確にはリモネのサブキャラに、だが。
﹁もう、おっさん︵イサトさん︶は一回リモネにぶっ殺されると良
いと思う﹂
﹁⋮⋮ううう﹂
イサトさんが俺らに内緒でこっそり家具職人のスキルを手に入れ
ていたこと︱︱しかも箪笥が作れるほどなので結構な高レべルだ︱
︱を知ったらリモネは草を生やしまくりながらおっさんを貶しまく
るだろう。
194
﹃もうwwwwwwwお前wwwwwwwww死ねばwwwwww
wwwwwいwっうぃwwwwwwのwwwwwwにwwwwww
wwww﹄
大草原が目裏に浮かんだ。
同じ光景が簡単に想像できたのか、ふっとイサトさんの視線が遠
くなっている。
ちなみにリモネがイサトさんに家取得クエを受けることを許さな
かったのは、これ以上イサトさんを迷走させてたまるか、という親
心故である。切ない。
⋮⋮だって家取得すると家具を設置したりできる上に、庭で野菜
や薬草などの栽培も出来るようになるんだもんよ⋮⋮。
そんな場所をイサトさんに与えたら、間違いなく数カ月、下手し
たら半年から一年は家にこもりかねない。イサトさんのことなので、
間違いなく農家スキルと家具職人スキルをある程度マスターするま
で出てこなくなる。
﹁あのなあ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮はい﹂
俺が疲れたトーンで口を開けば、イサトさんは殊勝にうつむいて
小さくなりつつ俺のお小言を聞く体勢になった。
﹁イサトさんだって、自分のスキルや能力が偏ってるって自覚はあ
るだろ?﹂
195
﹁⋮⋮はい﹂
﹁イサトさん、防御力紙なんだからさ。普通に戦ったら死にまくり
じゃん?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁だから、防御力あげるためにも、精霊魔法使いとしてのレベルを
あげよう、って決めたよな?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
いつの間にかイサトさんは箪笥の隣でちんまりと正座している。
アーミットは目が点だ。
それもそうだろう。
モニュメントの前で立ち尽くしてたと思っていたイサトさんが、
いきなりどこからかたくさんの木工道具を取りだしたかと思ったら、
謎の技術であっという間に箪笥を作り上げ︱︱⋮、それを目にした
俺がひたすら説教モードに突入しているのだから。
﹁⋮⋮はー⋮⋮﹂
深々とため息が漏れる。
ゲームの中でなら、﹁あのおっさんがまたやりおった﹂で済むの
かもしれないが⋮⋮、ここは異世界である。
イサトさんの防御力が、俺が思っているより随分低いのかもしれ
ない、というのはなかなかにショックだった。
﹁これからはちゃんと防御力あげる?﹂
﹁⋮⋮善処します﹂
﹁じゃあはい、立って。次俺もいろいろ出しとくから﹂
﹁はあい﹂
196
イサトさんは立ち上がると、逃げるようにちょろっと俺の背後へ
と回った。
逃げるように、というか事実逃げたな。
本当に俺より年上だろうか、と思う瞬間である。
イサトさんに続いて、俺もモニュメントの表に手で触れ、倉庫へ
とアクセスしてみた。⋮⋮なるほど。タッチパッド、とイサトさん
が言った意味がわかった気がする。
モニュメントに触れた瞬間、俺の目の前には淡いホログラムのよ
うにして、ゲームの中で見ていたような倉庫の画面が浮かび上がっ
たのだ。
そして、そのカーソルを動かすのは、モニュメントに触れたまま
の手だ。モニュメントに触れた手の動きに連動して、カーソルが動
くのである。これは確かにタッチパッドを彷彿とする。
﹁イサトさん、箪笥の空きはいくつ?﹂
﹁三つあるうちの二つはパフェと握り、最後の一つに芋を入れよう
と思ってる﹂
﹁芋何個持ってるんだ?﹂
﹁348個あった﹂
﹁ああ、それなら俺の方が良いもん持ってる﹂
﹁何持ってんだ?﹂
﹁米872個﹂
﹁よしそっちにしとこう﹂
﹁おう﹂
イサトさんが今回作ったのは、インベントリが三つしかない小型
197
箪笥だ。
三種類のものしか収められないが、逆に言うとその三種類のものに
関しては質量を問わずほぼ無限に突っ込むことが出来る。
﹁あー⋮⋮イサトさん、その芋戻したら重量に空き出来る?﹂
さすがに一度に米872袋はキツかった。
倉庫から取り出した瞬間、ずしりとその重量を感じて足が縫い止
められたかのように動かなくなる。
﹁限界超えた分はそこに積んでおいてくれ。私が持てるか試す﹂
﹁任せた﹂
本当なら、一歩下がって倉庫前をイサトさんに譲りたいところだ
が、今はそれもかなわない。
イサトさんは、するりとモニュメントと俺の間に、狭いところに
入りたがる小動物のような所作で潜りこむと、手際良く操作を始め
た。
さらさらと両肩に流れた銀髪の合間から、褐色の滑らかなうなじ
が無防備に俺の目の前にさらされる。
舐めたい。
いや、しないけど。
198
実行はしないが、目の前に綺麗なうなじが見えたら、本能的にそ
う思ってしまうのは男として仕方のないことではないだろうか。
こつ、と細いうなじの中央に浮いた頸椎の陰影を指でたどりたい。
というか⋮⋮。
ちょっと腹が立ってきた。
改めて思うが、イサトさんは俺のことを異性にカウントしなさす
ぎである。
なんだこの距離感。
﹁イサトさん﹂
﹁なんだい秋良青年﹂
﹁セクハラしていいですか﹂
﹁は?﹂
イサトさんが振り返るより先に、がぷ、とそのうなじに咬みつい
てやった。
﹁びゃ!!!?﹂
未だかつて聞いたことのない声が響いた。
199
おっさんにセクハラ︵後書き︶
まったりのんびりと悪さをする二人。
まだ﹁はじまりの街﹂すら出発出来てない件。
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ありがとうございます!
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200
おっさんとの関係︵前書き︶
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201
おっさんとの関係
﹁な、ななな、ななななな!?﹂
俺にうなじを咬まれたイサトさんは、謎の鳴き声を発しつつとり
あえず俺と距離を置こうと試みる。良い判断だ。だが遅すぎる。
逃げ出そうとしたところに、のしりと体重をかけてプレス。
荷物の持ちすぎで身動きはとれないものの、重心の移動ぐらいは
出来る。倉庫にアクセスするためのモニュメントと俺の間でのっし
りとプレスしてやる。
﹁ちょ⋮⋮っ、落ち着け秋良青年ッ!﹂
﹁落ち着いておりますが何か﹂
﹁青少年の目の前、青少年の目の前!﹂
じたばたと逃げ出そうとしながら、イサトさんが叫ぶ。俺の歯型
がうっすらとついたうなじが羞恥にか朱色に染まっているのが見え
る。絶景だ。
っていうかイサトさん、たぶんパニくって何言っているのかわか
っていないのだと思うが、それだと青少年の目がなければ良い、と
言っているように聞こえるわけなんだが大丈夫か。本気にするぞ。
そんなことを思いつつ、ちらり、とアーミットへと目をやれば、
アーミットは顏を真っ赤にしつつその大きな双眸を瞠っていた。視
線のやり場に困る、というように視線を時折おろおろと彷徨わせつ
つも、顏自体はこちらに向けたままなあたり、デバガメなのか動揺
しているのか。
202
﹁ッ⋮⋮!﹂
イサトさんは今も必死に俺の腕の中から逃げ出そうともがいてい
る。モニュメントに手をついて踏ん張り、なんとか隙間を作りだそ
うと頑張っている。が、RFC内のステータス的にも、俺とイサト
さんの実際の腕力的にも、イサトさんが逃げられるわけがない。捕
まった時点で終わりだと思ってもらわないと。
﹁おわかりいただけただろうか﹂
﹁何が!﹂
﹁俺がケダモノになるとイサトさん的には結構なピンチになるぞ、
ということが﹂
﹁⋮⋮っ!﹂
うーッ、と手負いの獣めいた唸り声が聞こえた。が、それが続い
たのもおそらく数秒程度だ。踏ん張っていたイサトさんの身体から
力が抜ける。
﹁降参?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁で?﹂
﹁⋮⋮わかった!わかった!私が悪かったごめんなさい!﹂
﹁⋮⋮よし﹂
素直にごめんなさいされたので、そろそろ許してやることにする。
俺は重心をゆっくりと背後に戻して、イサトさんをプレスから解放
してやった。調度良いタイミングだ。これ以上やっていたら俺の自
制心の方が先に限界を迎えていた。
イサトさんはわたわたと俺とモニュメントの間から抜け出すと、
203
うなじを手で抑えつつ俺を睨みつける。涙目なのが可愛い。
褐色の肌の目元から、銀髪の間からツンと尖って見える耳までが
綺麗に朱色にそまっている。そんな状態で睨まれても、わりとご褒
美だ。
とりあえず、何発かぐらいなら殴られる心の準備は出来ている。
だらりと腕を下ろして、無抵抗の態でイサトさんを見やれば、イ
サトさんは悔しそうに唸りながらも、ふいっと俺から視線をそらし
た。
﹁さっさと米をその辺において、そこからどきやがれ馬鹿秋良ッ!﹂
なんだ、殴らないのか。
さすがだ。
そんなことを思いつつ、俺はこみ上げる笑いを殺しきれず、くつ
くつと喉を鳴らしながら動けるようになるまで米をその場に落して
いく。
白い米粒のままで広場に散らばったらどうしよう、と少し心配し
ていたのだが、取り出した米はアイテム欄で見るときと同じくよく
わからない銘柄のパッケージに入った状態だった。おそらく一袋1.
5kg程度だろうか。米単体で使用しても回復量は大したことには
ならないが、料理スキルを使って他の材料と合わせて料理すると、
回復量の高いアイテムを作り出すことが出来るのだ。一番人気はカ
レーだった。俺は料理スキルはもっていないので、ある程度素材が
たまったところでイサトさんかリモネに作ってもらうようにしてい
た。
ゲーム時代は特に何も感じてはいなかったが⋮⋮、よくよく考え
ると米一袋とジャガイモと人参とスパイスを各一つずつ集めて料理
して出来るのがカレー一皿、というのはなかなかに謎である。主に
米が消えている。どこいった。
204
俺が米を吐き出し終わり、場所を開けると、ようやくイサトさん
がやってきて再びモニュメントへと向かう。つつつ、と華奢な指先
がモニュメントを撫でるように滑る様を眺める。
﹁⋮⋮アキラ様﹂
くい、っとアーミットが俺の服の裾を引っ張った。
﹁何?どうした?﹂
アーミットは不思議そうに、少しだけ躊躇いつつも口を開く。
﹁どうして、イサト様はアキラ様に謝ったんですか?﹂
言外に、悪いのはアキラ様の方じゃないんですか、なんて問いを
聞いたような気がして、俺はぽりと頭をかく。
﹁うーん。なんつーか難しいんだけどさ﹂
﹁はい﹂
イサトさんから少し離れたところで米の番をしつつ、アーミット
と話す。
﹁イサトさんは俺のことを異性として意識してないし、たぶんイサ
トさん自身、自分のことも女だと思ってないんだよな。いや、思っ
てない、っていうのとは違うかな。意識してない、っていうか﹂
たぶん、だからこそ俺はゲーム時代においてもおっさんがネナベ
だと気づくことができなかったんだろう。おっさんはいつも自然体
でそこにいた。おっさんというキャラで、皆と交流していた。皆深
205
く考えず、おっさんはおっさんだと、そう思っていたように思う。
画面ごしの交流だからこそ、そういう付き合い方が出来ていたのだ。
﹁でもな、いくらイサトさんが意識してなくても、イサトさんは女
だし、俺は男なんだよ。だから、イサトさんの﹃私は気にしないか
らお前も気にするな﹄っていうのはある意味イサトさんの考え方の
押し付けなんだよ﹂
ゲーム時代にしろ、今にしろイサトさんはイサトさんだ。話して
いて楽しいし、気だって合う。一緒にいて楽だ。それでも、イサト
さんは生身の女性で、俺は生身の男だ。変に意識し合う必要はない
かもしれないが⋮⋮そこで俺だけが我慢するのは理不尽だろう。
﹁俺は、イサトさんに対してヘンな気を起こさないようにする。イ
サトさんも、俺がヘンな気を起こさないようにする。お互いにそう
いった気遣いがないと、今の関係を保つのって難しいんじゃないか
なって俺は思うわけだ﹂
﹁⋮⋮なんか、難しいです﹂
﹁だよなあ﹂
俺だって難しい。
おっさんは、俺にとっては良い悪友だった。なんだかんだこれか
らも長く付き合っていける相手だと思っていた。いつかお互いにR
FCに飽きてネトゲを離れる時がきても、気が向けば話をしたりす
るような仲になれると思っていた。
そのおっさんの中身が、女性だった。しかも、魅力的な。
目の前にいるのは同じ人であるはずなのに、俺の知ってるおっさ
んがいなくなってしまったような気がした。でも、おっさんはおっ
206
さんだった。イサトさんは見た目は変わっても、やっぱり俺の知っ
てるおっさんだった。こんなことを言うとこっ恥ずかしいが、俺の
友人のおっさんのままだった。
だから俺は、友達を失いたくはないのだ。
俺自身のエロイ衝動に負けて、一時の勢いでイサトさんとの関係
を拗れさせたくない。
﹁イサトさんも、それがわかってるから俺を殴らなかったし、俺に
謝ったんだと思うよ﹂
イサトさんだって、わかっていないはずがないのだ。
先ほどから俺はイサトさんが自分が女であることを自覚していな
い、と言っていたが、たぶん本当は一番イサトさん自身がその事実
をわかっている。わかった上でイサトさんはその事実から目を背け
て、自覚しないようにして、過ごしている。
俺はイサトさんのリアルを知らない。どんな事情があって、イサ
トさんがそういう風になったのかは知らないが、きっとその方がイ
サトさんにとっては楽だったんだろう。
﹁イサト様のことを、よく知ってるんですね﹂
﹁うーん、付き合いがそれなりに長いから、人となりはな。でも、
知らないことばっかりだよ﹂
なんせ、リアルで出会ったのはつい昨日のことだ。
そんなことをアーミットと話していると、倉庫での操作を終わら
せたらしいイサトさんが俺らの元へとやってくる。まだ少し顏は赤
いものの、いつも通りに振る舞う気でいてくれるらしい。
﹁インベントリに空きを作ってきたので︱︱⋮⋮後はこれでどれく
らい入るか、だな﹂
207
難しげに言いつつ、ひょいひょいとその辺に積まれている米袋を
インベントリの中へとしまっていく。そして、七割近くを収納した
あたりで力尽きた。
﹁これ以上は無理だな。なにこれ重い﹂
動けなくなったらしいイサトさんが、ぼやきながら米を一袋地面
へと戻す。
勿体ないが、持てなかった分は倉庫に戻すしかないだろう。
﹁なあ、秋良﹂
﹁なに、どうした?﹂
﹁帰り道急がないなら、私がケンタウロスを出しても良いんだが⋮
⋮﹂
ケンタウロスは、商人御用達の騎乗型モンスターだ。ケンタウロ
スを連れていると、その間だけはアイテムの所持量が大幅に引き上
げられる。ただし移動速度はグリフォンほど速くはない。
﹁ふと疑問に思ったんだが⋮⋮、君の﹃家﹄は使えないのか?﹂
イサトさんの声に、俺はポンと手を打った。
確かにその手がある。
﹁箪笥の空きがないから、無理⋮⋮だと思ってたけどイサトさんが
作ったヤツがあるから問題ないのか﹂
普段していたのと同じように、﹃家﹄を一時的な倉庫代わりに使
えば良いのだ。
208
俺が普段使いしていた箪笥は、俺の入れたアイテムでぱんっぱん
になっているので、﹃家﹄を活用するというアイディアが出てこな
かったが、箪笥なら今すでに新品の空っぽのものが目の前にある。
﹁﹃家﹄が使えるかどうか試してみる価値はあると思うんだけれど
も﹂
﹁そうだな﹂
駄目元で試してみるか、と俺はアイテムボックスを操作して、そ
の中から鍵を取り出した。掌に収まる程度の、それでも家の鍵とし
ては大きめのアンティーク風の鍵。これが、妖精王から授けられた
俺の﹃家﹄の鍵である。
俺はその鍵を小さく振ってみる。
鈴がついているわけでもないのに、シャン、と澄んだ音が響いて
︱︱⋮⋮、一陣の清涼な風がその場に吹き抜けた。砂漠の街に不似
合いな、木陰で感じるような、適度な湿気を含んだふくよかな森の
匂い。そんな風に包まれるようにして、やがて俺の目の前に一枚の
扉が浮かび上がった。
﹁扉⋮⋮?﹂
アーミットが困惑したように眉根を寄せている。
イサトさんはひたすら羨ましそうである。
浮かび上がった扉の鍵穴に、鍵を差し込んで回す。
カチャリと小気味良い音が響いたのを確認して、俺は扉を開いた。
扉の向こうに広がるのは、木造の小さな家の内部だ。
艶々とした木の床に、質素ではあるものの飽きのこない壁紙。ど
こかノスタルジックを感じる木枠の窓と、部屋の中央にでん、と置
かれた箪笥︵大︶。
209
﹁な、な、な、な⋮⋮﹂
イサトさんが絶句している。
うん。その反応は想像通りだ。
﹁秋良青年は箪笥の角に小指ぶつけて悶絶したらいいのに﹂
地味な呪詛をくらった。
まあ、それもそうだろう。俺は﹃家﹄を本当に倉庫代わりにしか
使っていなかったのだ。壁も床も窓も、初期設定のままで、何一つ
弄っていないし、家具も何も置いていない。あるのは本当にアイテ
ムを収めるための箪笥だけだ。
RFCのプレイヤーの中には、様々な家具を買い求め、室内を飾
り、拡張している者も多い。そういった渾身のセンスが炸裂した﹃
家﹄に仲間を招き、そこでチャットをして楽しむのだ。公式でも、
家のスクリーンショットを募集してのコンテスト企画なんかもあっ
たような気がする。
﹃家﹄を手に入れてあれこれしたい、と野望を燃やすイサトさん
にとっては、俺の﹃家﹄は宝の持ち腐れに見えて仕方がないことだ
ろう。
俺はイサトさんの呪詛をスルーしつつ、広場に置いたままの箪笥
を持ち上げると室内へと運び込んだ。そして、まずは俺が持ってい
るだけの米を全部しまう。そして、今度は広間に積んだままだった
残りの米を拾って回収だ。同じように、箪笥の中にしまう。
﹁よし﹂
これで帰りも問題なくイサトさんのグリフォンに乗って帰ること
が出来る。
本来ならば、﹃家﹄は移動の際のショートカットポイントにもな
210
る便利な空間なのだが⋮⋮事前に登録した場所にしか移動できない
という制限がある。
﹁後は⋮⋮、村に戻ってひたすら砂トカゲと魚を狩るかー﹂
﹁ああ、そういえば⋮⋮エルリアで冒険者としての登録をしたり、
装備を揃える、っていう話もあったけどそれはどうする?﹂
﹁それは後にしてもいいんじゃないか? どうせまた来るだろ?﹂
﹁そうだね﹂
その辺の手続きにどれくらい時間がかかるのかわからないが、今
日はアーミットもつれている。俺らの用事は、村の問題を解決して
からゆっくり取りかかったとしても問題ないだろう。
﹁装備は倉庫になかったのか?﹂
女性用の装備もいくつか持っている、と確か言っていたような気
がするが。
俺の声に、イサトさんはふっと視線を遠くに彷徨わせた。
﹁⋮⋮ミニスカ赤ずきんとナース服しかなかった﹂
﹁着替えよう?﹂
蹴られた。
211
おっさんとの関係︵後書き︶
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Pt、感想、お気に入り、励みになっています。
212
放浪のおっさん︵前書き︶
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213
放浪のおっさん
﹁ああいうのは非日常の一瞬、ネタとして着るのは愉しいが長時間
の着用には向いてない︱︱⋮というか25過ぎたのでさすがに生足
でミニスカ穿く勇気はない﹂
﹁着よう?﹂
﹁私自身は別に足ぐらいいくら見せても良いとは思ってるんだ。た
だ、美しい女性の足に対して世の男性陣が並々ならぬ関心を寄せて
いることも知っているわけでだな﹂
﹁着よう?﹂
﹁つまり美しい足には見る価値がある、という概念がこの世にはあ
る一定存在していて、いくら私が無頓着であったとしてもその概念
を知った上で足を晒すということは、自らの足に鑑賞するだけの価
値があるという自負の表れとして世間的には受け止められるわけで﹂
﹁着よう?﹂
﹁私は自分の足について特になんらかの感慨を抱いているわけでは
ないので晒すのは構わないが、逆に何も特別に思っているわけでは
ないので自分のスタイルに自信がありますという態で見られるのは
避けたいわけで﹂
﹁着よう?﹂
﹁そもそも、アレはもともとアルティに着せて辱めようと思って用
意してたんであってだな﹂
﹁着よう?﹂
﹁絶妙な角度でパンチラスクショを撮ってやろうと思っていてだな﹂
﹁着よう?﹂
﹁そのために縞パンのレシピまで手に入れた私に隙はない﹂
﹁着よう?﹂
﹁︱︱⋮そろそろぐーで殴んぞ﹂
214
そんな全くかみ合わない会話を交わしながら、俺たちはカラット
村への帰路を来たときと同じようにグリフォンの背に揺られていた。
全自動﹁着よう?﹂ロボットと化していた俺なのだが、そろそろ
本気でイサトさんにドツかれそうなので、渋々ながら一旦諦める。
あくまで一旦、だ。機会があれば、全力でイサトさんのコスプレも
とい、装備強化を推していきたい。
イサトさん本人は何やら小難しいことを言っているが、シンプル
に翻訳すれば﹁自意識過剰女に見られるのは恥ずかしい﹂というこ
とだろう。
確かに、自分で好き好んで短い丈のスカートやショートパンツを
はいておきながら、ちょっと見ただけで人を痴漢のような目で見る
女性に対しては俺もあまり好印象はない。いや、好きな相手にだけ
見せたい、という乙女心もわからなくはないのだ。だが、それなら
二人きりの室内で脱いでやれよと思ってしまうし、綺麗なおみ脚が
衆目に晒されていれば﹁お﹂とつい視線をやってしまうのが男の性
なのだ。もちろん、失礼なほどに凝視してしまうのもどうかとは思
うが。
そんなわけで、是非ともイサトさんには積極的にミニスカを穿く
方向で突き進んで欲しいのだが、そこを邪魔するのが社会概念的な
羞恥心であるらしい。
いいじゃん綺麗な脚してるんだから。
男の俺としてはそんな一言で片づけてしまいたくもなるが、なる
ほど、女心は難しい。
そんな話をしているうちに、カラット村に到着。
なんとなく、アーミットからほんのり距離を感じるわけだが、き
っと気のせいに違いない⋮⋮ということにしておく。
215
⋮⋮イサトさん相手だと、この辺りまでのセクハラ発言なら大丈
夫、という線引きがある程度わかっているので平気だが、アーミッ
トにとってはもしかしたら許容範囲外の変態発言だったのかもしれ
ない。次から気を付けよう。
村の近くでグリフォンの背から降り、イサトさんがグリフォンを
還すのを見届けてから三人で村に入る。
﹁﹁お帰りなさいませ⋮⋮!﹂﹂
﹁おわっ﹂
﹁!﹂
村に足を踏み入れると同時に、村長さんと宿屋の女将さん、つま
りはアーミットのお母さんに声をかけられた。
もしかしなくても、俺たちが出発してからずっとここで待ってい
てくれたのだろうか。
﹁まあ⋮⋮私ら命の恩人とはいえ、たまたま昨日現れただけの旅人
だからなァ﹂
俺にしか聞こえないぐらいの小さな声で、イサトさんがぼやく。
俺らのことを信じて、アーミットを道案内として託してはくれた
ものの、それでもきっと心配でならなかったのだろう。そんな親心
はわからないではないので、俺とイサトさんは二人だけで苦笑交じ
りのアイコンタクトを交わした。
﹁ただいま、おかーさん、村長!
イサト様の使うモンスターって本当凄くてね、空を飛んでエルリア
まであっという間だったんだよ!﹂
アーミット自身は、自分がどれだけ心配されていたのかあまり実
216
感がないのか、無邪気に母親へと今回のエルリアへの道行を報告し
ている。
エルリアの話を聞きつつ、女将さんがちらりと俺らへと目礼を寄
越した。
俺も、小さく頭を下げて返しておく。
﹁さて、話した通り食糧を確保してきたので︱︱⋮⋮、どこに置い
たら良いのか案内して貰えないか?﹂
﹁確保⋮⋮、ですか?﹂
一方イサトさんは、食糧関係の話を村長との間で進めている。
村長が訝しげなのは、俺やイサトさんが出て行ったときと同じよ
うに手ぶらに見えるからだろう。
﹁えっと⋮⋮、これぐらいの箪笥を置ける場所を用意して欲しいん
だ﹂
これぐらいの、とイサトさんは箪笥を空中に描いて見せる。
村長はますます訝しげな顏になった。
こればっかりは実際に見せて説明するしかないだろう。
﹁とりあえず、場所を用意してくれたら説明するよ﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
村長は首を捻りながらも、俺らを村のほぼ中央に位置する立派な
倉庫へと案内してくれた。
﹁ここは、村の皆が供用で使っている倉庫です。昨夜の襲撃で、中
にあった穀物はすっかり燃えてしまいましたが⋮⋮﹂
﹁片付けててくれたのか、助かる﹂
217
倉庫の中は、ところどころ煤けた痕跡は残っているものの、燃え
カスのようなごみはすっかり片付けられた後だった。ところどころ
壁に開いていた穴も、綺麗に修復されている。
俺らが村を留守にしている間に、本当に食糧を提供して貰えるな
ら、と他より優先して準備をしてくれていたのだろう。倉庫の片付
けを手伝ったのだと思われる村人たちも、俺たちが何をするのか気
になるようで、こちらを遠巻きに取り囲んでいる。
﹁それじゃあ秋良青年、箪笥をとってきてくれるか?﹂
﹁あいよ。持てない分は出しちゃうから、イサトさん拾って持って
きてくれ﹂
﹁了解﹂
エルリアでやったのと同じように、俺は鍵を取り出すと﹃家﹄へ
とアクセスして箪笥を引っ張り出してくる。手順としては先ほどと
は逆だ。俺が持ち切れず、家の中の床に置いてきた米袋をイサトさ
んが拾い集める。
その箪笥を、広々とした倉庫の片隅にちんまりと設置した。
倉庫が広い分、余計に箪笥は小さく見えた。
⋮⋮まあ、引き出しは一段、仕切りが三つあるだけの小型箪笥な
ので、実際小さいのだが。
村長どころか、周囲にいる村人たちからの疑惑の眼差しが肌に刺
さるように感じられる。彼らにとっては死活問題なので、真剣にな
るのも当然だ。
これ以上やきもきさせてしまう前に、俺はインベントリにしまっ
ていた米袋を周囲に積み上げるように放出した。
218
﹁⋮⋮!?﹂
﹁⋮⋮!!﹂
どさどさどさどさどさどさどさ。
周囲を取り囲んでいた村人たちが息を呑むのがわかるが、気にせ
ずの大放出。
一袋2キロ程度の米袋が、どんどんと俺の周囲に積みあがって行
く。
﹁そういや、この辺で米って喰うか?﹂
﹁はい、この辺では育てられないので少々割高にはなってしまいま
すがエルリアの市で手に入れることは⋮⋮﹂
﹁じゃあ食べ方を教える必要はなさそうだな﹂
村長さんは呆然としつつも、俺の問いに答える。
わざと周囲に積んでみせた米袋を、次々と箪笥の中へと収納して、
俺とイサトさんは村長へと向き直った。
﹁というわけで、この箪笥の中には今見ただけ⋮⋮、というかそれ
以上の米が入っているので、それだけでもしばらくは食いつなげる
と思う﹂
﹁まあ⋮⋮あくまで主食だけなので、調味料とかおかずとか、そう
いうものは自力で用意して貰うことにはなると思うんだけども⋮⋮
それは大丈夫そう?﹂
﹁だ、大丈夫です、それぐらいならなんとか⋮⋮!﹂
心配げに首をかしげたイサトさんに、村長はこくこくと勢いよく
頭を縦にふる。
本当ならば、おかずになりそうなものも一緒に用意出来たなら良
かったのだが、残念ながら量の持ち合わせがなかったのだ。
219
箪笥に入れられるのは三種類と限られているので、量がないもの
をいれるわけにはいかない。
﹁私が大型箪笥を作れたら良かったんだけどなあ﹂
﹁スキル的には?﹂
﹁作れる。が、素材がなかなか揃わなくて﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
スキル的には大型箪笥を制作可能なレベルに達していたらしい。
コノヤロウ。
思わずジト目で見やれば、イサトさんは﹁やべっ﹂という顏をし
て俺からふいっと視線をそらした。そして、そのまま誤魔化すよう
おっさん
に村長へと説明を始める。いろいろと問い詰めてやりたいが、今は
邪魔しないでおくとしよう。命拾いしたな、イサトさん。
﹁この箪笥には三種類のものであればほぼ無限にいれることができ
るよ。今は米がそのうちの一つを占めているので、あと二種だな。
私たちとしては、残りの二つに砂トカゲのドロップするパフェと、
デザートフィッシュのドロップする砂握りを入れるつもりだ。他に
何か入れたいものがあれば、そっちを優先してくれてもいいけれど。
どうする?﹂
﹁そ、そうしていただけると助かりますが⋮⋮ですが本当に女神の
恵みを手に入れることが出来るのですか⋮⋮?﹂
﹁っていうか、その米もドロップ品だからな﹂
﹁⋮⋮ひ!?﹂
村長から変な悲鳴が出た。
本当にこの世界においては、モンスターからのドロップが珍しい
ものであるらしい。ゲームの時と変わらず普通にドロップ品を手に
入れることが出来る俺らからするとそれはなんだか不思議な感覚で、
220
イサトさんと二人で顔を見合わせる。
﹁そんな貴重なものを、こんなにたくさんいただいてしまっても、
本当によろしいのですか⋮⋮?﹂
﹁構わないよ﹂
﹁ああ﹂
﹁使い方はそこの引き出し開けば普通に取り出せると思う。何度か
実際に出し入れして試してみてくれ﹂
そう言って、イサトさんは一歩下がって村長へと箪笥の前を譲る。
村長はおそるおそる箪笥へと手をかけ、その引き出しの中から米の
袋を一つ取り出した。ずっしりと手に伝わる米の重みで、それが紛
い物や幻の類いのものではないと実感したのか、村長はそのまま米
の袋を胸に押し抱くようにして小さく肩を震わせ始めた。
きっと⋮⋮、自分の代でこの村を終わらせてしまうことに対して、
責任を感じていたんだろうな。
﹁お二人にはどれほどの感謝をしたら良いのか⋮⋮きっと貴方がた
は女神の遣わした救世主に違いありません⋮⋮!﹂
﹁いやいやそんな大したものでは﹂
﹁本当、出来ることをしただけだからな﹂
ぎゅっと俺の手を掴んで、涙ながらに感謝の言葉を繰り返す村長
に、なんだか背中がくすぐったくなる。俺たちを取り囲む村人の中
には、手を擦り合わせて拝むような仕草を見せている人までいる。
やめれ。拝むのはやめれ。
が、これだけ喜んで貰えると、やって良かったという充足感が胸
に満ちる。
﹁俺らはこのまま狩りに出るから、村長さんらは炊き出しを始めて
221
てくれ。朝は、食事にありつけなかった人もいるんだろ?﹂
﹁はい⋮⋮!﹂
村長さんは勢いよくうなずくと、早速周囲にいた村人らに指示を
出して米を運ばせ始めた。米を手に取り、歓声をあげながら外に運
んでいく村人の姿に、俺は目を細める。朝に見た、悲壮な光景とは
段違いの活気に満ちた姿だ。きっと、それこそがこの村の本来のも
のなんだろう。
﹁それじゃあ俺らは狩りに行くか﹂
﹁ン。基本は砂トカゲとデザートフィッシュ、後はまあ、適当に倒
して良いものドロップしたら食糧として提供する感じで行こうか﹂
﹁そうだな﹂
この辺りのエリアで一番多く沸くのが砂トカゲとデザートフィッ
シュだ。それ故に量を集めるならば効率重視でこの二種のドロップ
品にターゲットを絞ってはいるがその他にもモンスターはいる。
さて、この世界に来て初めての狩りに行くとしようか。
222
狩りはいろんな意味で散々だった。
いや、成果としては問題なかったのだ。
ちゃんと目的通り、持ちきれないだけの砂握りや砂パフェ、それ
と砂系素材を確保することは出来た。
ただ問題は。
﹁⋮⋮なんで迷子になるかな、あんた﹂
﹁いやだってエリア感覚でいたから⋮⋮﹂
次々とスキルを発動させて手に入れた砂系素材で砂レンガを作り
ながら、イサトさんがしょんぼりと肩を落とす。
この砂レンガ、生産系スキルのチュートリアルで造ることになる
ため、RFCのプレイヤーならチュートリアルをスルーしていない
限りは造ることが出来る。
スキルで造るので、実際に砂レンガを造るとなれば必要な日干し
の手間を省くことが可能だ。チュートリアルの中で急遽砂レンガが
必要になった際には大層お役立ちだぞ、とNPCに言われた時には、
そんなマニアックな機会なんてあるわけねーだろ、と思っていたの
だが。
あった。
炊き出しの良い匂いが漂う中、村の片隅で砂レンガを量産しなが
ら、俺はじとりとイサトさんを見やる。
本来なら楽勝であったはずの食糧集め。
イサトさんがうっかり砂漠で遭難したため、途中からはモンスタ
ーを探しているのかイサトさんを探しているのか、という有様だっ
た。
223
敗因は、ゲーム時代の感覚を今も引きずっているせいだ。
ゲーム時代であれば、各エリアはワープポータルで区切られてい
るため、一つのエリアはそんなに広くないのだ。特にこの辺りは初
心者向けだけあって、一つ一つのエリアは小さく区切られていた。
その感覚であったため、俺は説得に負けてイサトさんを砂漠に放流
することにしたのだ。
昨夜遭遇した得体の知れない男のこともあって、俺としては出来
るだけイサトさんを一人にすることは避けたかったのだが⋮⋮効率
を主張されると、確かに二人で狩るのは時間がかかり過ぎた。お互
い一撃必殺なのに、モンスターはそう固まって現れるわけでもない
ため、常にどちらかの手が空いている、というような状態になって
しまっていたのだ。それよりは二手に分かれた方が、確かに効率は
良かった。
周囲に気を配り、見慣れぬ人、見慣れぬモンスターを見かけたら
速攻帰還、を約束させて別れて。
もしかしたら、迷うんじゃないか、と俺が気づいたのは、モンス
ターの姿を追って村からある程度離れてからのことだった。
ふと振り返った先に村が見えなくなっていたことに、漠然とした
恐怖を感じたのだ。辺り一面に果てしなく広がる︱︱⋮ように見え
る砂漠。村が見えなくなってしまえば、俺に土地勘はない。一度目
を閉じてぐるりとまわりでもしたら、きっと自分がどこから来たの
かすらわからなくなってしまうだろう。
それで俺は慌ててまだかすかに残っていた足跡をたどって村が見
える位置まで戻ったのだ。
ちなみにイサトさんは、目の前のモンスターを倒しまくり、遭難
していることにすら気づかずひたすら砂漠を彷徨っていた。
224
まだイサトさんがグリフォンを連れていたのならそう心配もしな
かったのだが、残念ながら少しでもアイテムを持てるようにと、イ
サトさんは俺の﹁家﹂にグリフォンを置いていっていた。
おかげで俺は、慌てて村で地図とコンパスを借りてイサトさんを
探すことになったのである。
﹁ステータス的に砂漠で放置しても死にはしないとは思ってたけど
さ﹂
﹁はい﹂
﹁昨夜のこともあるし⋮⋮心配しました﹂
﹁ごめんなさい﹂
次々と砂レンガを量産しつつ、俺はさもイサトさんの失踪に心を
痛めていましたという風な顔を装ってイサトさんを見やる。いや、
実際死ぬほど心配したわけなんだが。
無自覚に砂漠で失踪していたイサトさんは、さすがに反省したの
かすまなさそうな顔をしている。
実際のところ、エリアという概念が現実となったこの世界ではな
くなっていることを失念していたのは俺も同じだ。たまたま俺の方
が気づくのが早かった、というだけで、決してイサトさんが一方的
に悪いというわけではない。
が、それでも俺が心配したのだと訴えれば、イサトさんが反省す
るであろうということは俺は長年の付き合いからわかっていた。
﹁反省しましたか﹂
﹁反省しました﹂
﹁じゃあイサトさんに罰を与えます﹂
﹁⋮⋮はい﹂
よし。
225
﹁じゃあ明日一日ナース服ね﹂
﹁うえええええええ!?﹂
俺、ぐっじょぶ。
226
放浪のおっさん︵後書き︶
ナース服と赤ずきん、数えた結果ナース服に反応した方の方が多か
ったので。
仕事が忙しくなければ平日更新もあり得るのですが、基本的に新作
に関しては週末更新だと思っていただけると嬉しいです。
とは言いつつ、四月末までに十万字超える、というのが一つの目標
ではあるので、しばらく不定期ながら連続的にこちらを書いていけ
ればと思っております。
没ネタは活動報告に。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
感想、pt、お気に入り、励みになっています。
227
ナース服とおっさん︵前書き︶
0906修正
0916修正
1121修正
228
ナース服とおっさん
そしてナース服である。
それからのナース服である。
﹁⋮⋮どうよ、これ﹂
半眼で睨まれてはいるものの、それすらも今はご褒美だ。
褐色肌のイサトさんに、白のナース服はとてもよく似合っていた。
対比がとても色鮮やかだ。あくまでコスプレ用のなんちゃってナー
ス服であるため、そのデザインはナース服である、というニュアン
スこそ伝わってくるものの、実在するナース服とは明らかにかけ離
れていた。形として近いのは、襟ぐりの大きく開いた丈の短い白の
トレンチコート、といったところだろうか。おかげでスカート部分
はタイトなラインを演出しつつも、巻きスカートに近い形状をして
いるために動きを邪魔するということはない。イサトさんが動く度
に布の合わせがちらちらと動くのがなんとも艶めかしい。もうちょ
っと動いたら下着が見えてしまうんじゃないのか、と思うのだが、
それがなかなか、重ねられた布はイサトさんの動きに合わせて柔軟
に形を変えて下着の露出を防いでいる。
大きく開いた胸元からは、形の良い鎖骨と、その下の谷間が下品
にならない程度に覗いていて、なんとも言い難い婀娜っぽさだ。巨
乳、というわけではないイサトさんだが、胸元を留めるボタンがち
ょうど胸の真下にあるせいで、その形の良い膨らみを強調すると同
時、ウェストの華奢なくびれを鮮やかに描き出しているのが良い。
⋮⋮たまらん。
229
長い銀髪の上に、きちんとナースキャップが乗ってるのもまた良
い。あまり衛生的ではない、ということで実際の病院では廃止され
つつあるが、やはりナースといったらナースキャップである。
﹁良い﹂
しみじみと悦に入ったように言えば、イサトさんの半眼はますま
す細くなった。
﹁もう脱いで﹂
﹁駄目﹂
最後まで言わせず却下する。
罰ゲームはあくまで﹁今日一日ナース服﹂である。
着て見せてはいおしまい、では味気なさすぎる。
﹁くっそ⋮⋮、今度君が何かしたら、お花ビキニ着せてやると今こ
こに誓った﹂
﹁やめれ﹂
お花ビキニ、というのは宴会用ネタ装備として公式がバラまいた
男女兼用の衣装である。胸と股間で花が咲く、というカオスな形状
をしていて、言うまでもなく男女兼用だったせいか装着率は男の方
が高かった。ゲーム内のおっさんも確か一度着てたような気がする。
﹁⋮⋮でも、アレだ、約束はナース服を着るというだけで、他は何
の制約もなかったはずだ。だよな?﹂
﹁うん?﹂
230
イサトさんの確認に、俺は首を傾げつつも頷く。
どうするつもりなのだろうか。
ナース服の上から、何か重ねて着るつもりなのか?
俺が首を傾げている間にも、イサトさんはごそごそとインベント
リを操作するように指を空中に滑らせ︱︱⋮⋮。
﹁︱︱⋮﹂
俺は思わず、黙りこんでしまった。
ナース装備は、それはそれはイサトさんにとても良く似合ってい
たのだが。
足元がナースサンダルで、なんとなく寂しいな、と思ってはいた
のだ。
生足が惜し気もなく晒されている当たりは評価したのだが、なん
となく違和感を感じてしまって。
それが今。
イサトさんの脚は太腿のあたりまでぴっちりと黒の編み上げブー
ツで覆われている。いわゆる編み上げニーハイブーツ、というやつ
だ。やばい。これヤバい。
﹁い、いいいい、イサトさん?﹂
﹁ふっふっふ、これで生足は晒さずに済む﹂
そんなに生足晒すの嫌だったのか。
なんてのはさておき。
黒く、てらりと艶めかしく輝く革の質感が綺麗なイサトさんの脚
のラインをこれでもかというほどに強調していて、正直生足よりこ
231
っちの方が相当エロいと思うのは俺だけか。
おそらく若干特殊な性癖を持ち合わせる御仁ならば、間違いなく
踏まれたがる。
俺ですらちょっと踏んでみない?なんて軽い調子で口走りそうに
なった。
﹁ちなみにそのブーツはどこから?﹂
﹁ミニスカ赤ずきんに合わせようと思って持ってたんだ。アルティ
ならナース服とミニスカ赤ずきんのどちらかで選択を迫ったら間違
いなく赤ずきんを選ぶだろうと思っていたからな﹂
﹁なるほど﹂
確かにアルティならナースか赤ずきんかで迫られれば赤ずきんを
選びそうだ。本来ならどっちも突っぱねてもいいだろうに、二択で
迫られると人間マシな方を選んでしまいそうになるものなのである。
そこにつけ込む気だったらしいイサトさんもなかなかにロクでもな
い。
﹁さらにこうすれば、っと﹂
イサトさんがふわり、と広げたのはこの世界に来てからイサトさ
んの元で大活躍している俺のマントだ。
斜めに肩で留めるようにしてしまえば、ほとんどナース服は見え
なくなってしまった。惜しい。
232
と、思っていたのだが。
隠れたら隠れたで、イサトさんが歩く度にちらりとマントのスリ
ットから覗く黒革のブーツだったり、褐色の絶対領域だったりがエ
ロくて俺の目を愉しませてくれた。やっぱり拝んでおこう。
予定として、エルリアの街で、やろうと思っていたのは装備の調
達と冒険者としての登録だったのだが⋮⋮。
そのうち、目的を果たせたのは冒険者としての登録だけだった。
女神の恵みがなくなってしまったこの世界において、装備品とし
て取り扱われているのは、真っ当に木や鉄、動物の革で作られたも
のがメインで、俺らが使うようなモンスター素材を使っているよう
なものはなかったのだ。
見た目だけなら装備としてしっかりしているようにも見えるが、
実際の防御力でいったらイサトさんのナース装備の方がまだ高い。
そんなわけで、エルリアの街で装備を整えるのは諦めた。
というか、この世界においては装備品は自作するしかないかもし
233
れない。
イサトさんが服飾スキル持ってて良かった、としみじみ思った瞬
間である。
ちなみに、イサトさんは有言実行で俺に木刀を買ってくれた。
出会った時のことを思い出すな、なんてチェシャ猫のように口元
をにんまりさせて差し出された木刀に、なんだかとてつもなく嬉し
くなってしまったのは秘密だ。
武器の性能としてはカスとしか言いようがないのだが、俺のステ
ータスならこれぐらいのハンデがあってもいいだろう。まだ手加減
できるほど戦闘を重ねていないので、これでうっかり誰かを殺す、
なんてことは避けられそうだ。
本当なら、回復薬も購入しておきたかったのだが⋮⋮。
﹁こ、こんな下級ポーションに大金は出したくない⋮⋮っ﹂
というイサトさんの一言で、しばらくは食糧で回復を間に合わせ
ることにした。
女神の恵みが失われたことと関係しているのか、下級ポーション
ですら0を一つか二つつけ間違えたんじゃないのか、という価格で
販売されていたのだ。
そりゃ上級ポーションを二本も使って助けられたアーミットや女
将さんがガクブルするわけだ。
幸い金には困っていないので、どうしても必要ともなれば買うこ
ともできたのだが⋮⋮今のところポーションが必要となるような戦
闘を行う予定はない。しばらくはお互いの手持ちの分だけでも何と
か間に合わせられるだろう。
そもそも初心者の街エルリアには、俺らが普段戦闘で使う上級ポ
ーションは売られていない。もともと保険のつもりだったので、イ
サトさんと話しあった結果今回はスルーすることにした。
234
そして、冒険者登録。
女神の恵みがなくなり、モンスターを倒しても何の旨みもなくな
ってしまったが故に、冒険者という概念がすっかり廃れたとアーミ
ットが言っていたのは本当のことだった。
かつて俺らが﹁冒険者ギルド﹂と呼んでいた場所は、今ではすっ
かり酒場になってしまっていた。確かにゲーム内でも、ギルドの横
合いは酒場になっていて、そこで様々なクエストを受けることが出
来るようになっていたのだが⋮⋮。今はもう、かつてのギルドの面
影すらなくなってしまっている。
隅っこに小さくギルドのカウンターがありはしたのだが、その中
に人はおらず、何年前から放置されているのか、黄ばんだ書類が乱
雑に重ねられていた。
駄目元で声をかけてみたところ、なんと酒場の主人が冒険者ギル
ドのマスターを兼ねていた。
﹁あんたら、冒険者になりたいの?珍しいね﹂
最初は限りなく胡散臭い相手を見る目で俺らを見ていた酒場の主
人だったが、俺らが遠くからやってきた旅人だという話をすると少
しその目つきを和らげた。
﹁すまないな。この辺りだと冒険者になりたがるのは正規の職にあ
ぶれたならずもんばっかりなもんでな﹂
なんでも、モンスターを倒して街を守るならば街務めの兵士にな
るし、商人の護衛のような荒事交じりの仕事ともなれば傭兵になる
のが今は一般的なのだそうだ。
結果、冒険者というのは﹁何でも屋﹂に近い扱いになってしまっ
ており、職業として他よりも低く見られているらしい。
235
それでも冒険者になりたいと主張してみたところ、半ば呆れたよ
うな顔をしつつも、冒険者カードを作ってくれることになった。
﹁んじゃ、この石版に手を置いてくれるか?﹂
言われるままに、俺は石版の上に手を乗せる。
何らかのマジックアイテムであろうそれは、俺が手を乗せたとた
んうっすらと発光して⋮⋮何も起きなかった。
﹁⋮⋮あれ?﹂
﹁ん?﹂
酒場の主人が訝しげに首を傾げる。
﹁おっかしいな。これであんたらの情報が読み取れるはずなんだが﹂
﹁情報?﹂
﹁ああ。この石版は使用者の記憶を読み取る魔法がかけられてるん
だよ﹂
﹁記憶を読み取る⋮⋮?﹂
﹁そうそう。あんたらの国にはなかったか?﹂
﹁なかったな﹂
イサトさんも知らないようなので、きっとRFC内では出てこな
かった設定なのだろう。
﹁記憶を読み取るといってもそんなに警戒することはないぜ。これ
は設定された事柄に対する記憶を読み取って、数値に置き換えてく
れるんだよ﹂
そういって、酒場の主人は実際に自分で実演して俺たちにその様
236
子を見せてくれた。酒場の主人が石版に手を置くと、石版はうっす
らと発光し︱︱⋮⋮、虚空へとホログラムを浮かべた。そこに表示
されているのは、いわゆるステータス画面だ。
酒場の主人の姿と、その隣には冒険者としてのレベルや、その他
彼が持っているジョブのレベル、それと装備品などが書かれている。
﹁俺の場合はこうして商いもやってるもんだから、冒険者よりも商
人としてのレベルが高いってわけだ﹂
﹁なるほど﹂
文字通りの﹁経験値﹂だ。
それぞれのジョブに関する記憶のみを読み取り、数値に置き換え、
レベルとして表示してくれるのだろう。
﹁ここに書かれている数値が高ければ高いほど熟練、ってことだな﹂
﹁熟練ってことは⋮⋮、そのレベルの数値が高いからといって強い
わけではない、ってことかな﹂
﹁お、よく気づいたな﹂
酒場の主人曰く、経験値はあくまでどれだけの経験があるのかを
数値にしただけのものであるので、レベルが高くても具体的に何に
熟練しているのかはこの数値だけでは判断がつかないこともあるら
しい。
簡単な例え話にすると、ドラゴン一匹倒してレベル30なのか、
それともレベル2のトカゲを15匹倒してのレベル30なのか、数
字からはわからない、ということだ。
﹁後はそうだな⋮⋮、人を殺してしまった場合もひっかかるな﹂
﹁犯罪防止に?﹂
﹁そういうこった。人を殺した﹃経験﹄のある人間は、この石版で
237
記憶を読み取った際にアラートが鳴るようになってるんだ。そうな
ったら兵士を呼ぶのが決まりになってる﹂
酒場の主人の言葉に、少しだけどきりとした。
一昨日の夜、勢いで盗賊の男を殺しかけたのはまだ記憶に新しい。
ついでにあの得体の知れない男も思いきっり殺すつもりで斬り倒
している。
イサトさんが止めてくれたのと、アーミットが助かったこともあ
って、盗賊の方はどうにか寸止めすることが出来たが⋮⋮これ、下
手すると俺はひっかかるんじゃなかろうか。
同じく盗賊退治の夜のことを考えていたのか、少しの間考えこん
でいたイサトさんが口を開いた。
﹁正当防衛の場合はどうなるんだろう??﹂
﹁﹃人を殺した﹄という記憶に反応してアラートは鳴るようになっ
てるから、正当防衛だろうが何だろうが反応するようになってるな。
だから、もしもやむなく誰かを殺すようなことになった場合は、正
式に届け出を出してアラートを解除することになってるよ﹂
治安を守るための工夫、ということだろう。
盗賊にしろ、あの得体の知れない男にしろ、トドメは刺していな
いのでセーフ、ということにならないだろうか。
まあ、実際のところ、記憶の読み込みの段階で詰んでいるわけな
のだが。
﹁なんで駄目なんだろうな﹂
﹁私はどうだろう﹂
イサトさんが横合いから手を伸ばして、石版に触れてみる。
石版は俺の時と同じようにうっすらと光を放ち⋮⋮、やっぱりそ
238
れだけだった。
﹁この国の人間にしか発動しないってことはないんだよな?﹂
﹁や、そういう縛りはないはずだが﹂
酒場の主人も難しい顔をしている。
そのうち何か思い当ることがあったのか、酒場の主人がぽんと手
を鳴らした。
﹁あんたら、何か魔法に対抗するアイテム持ってねーか?﹂
﹁魔法に対抗?﹂
﹁たまに、そういうアイテムに反応して作動しないことがあるんだ
よ﹂
﹁ああ、なるほど﹂
イサトさんは納得したように頷いて、もう一度石版に触れた。
先ほどの繰り返しかと思いきや⋮⋮、石版はうっすらと光った後、
虚空にイサトさんのステータスを映しだした。
﹁あ、すげー。イサトさんどうやったんだ?﹂
﹁たぶん私ら、魔法防御が高すぎて、自動的にレジストしちゃって
るんだと思う﹂
﹁ああ﹂
納得。
RFC内ではレベルが上がれば、キャラのステータスも成長して
いた。俺らほどの高レベルともなればベースとなるステータスもそ
れなり高くなっている。
﹁なので、跳ね返さないで甘んじて受けるイメージで行くとイケた﹂
239
﹁了解﹂
石版に触れることで発動する魔法を、意識的に受け入れる。
ただし、あの薄気味悪い男を斬りつけたことだけは隠すイメージ
は残しておく。
万が一ひっかかったとしても、正当防衛を主張するつもりではい
るが⋮、出来るだけ面倒は避けたい。それに、アーミットを殺した
相手に対してですら﹁殺すな﹂と口にしたイサトさんに対して、逃
げる相手を殺すつもりで背中から斬り倒した、ということはやはり
言いにくかった。
ビビリと呼びたくば呼べ。これでも真人間を目指して生きている
のだ。
引っかかりませんように、と念じながら石版に触れれば、うっす
らと光を放った石版は無事に俺の記憶を読み取ってステータスを表
示してくれた。
⋮⋮隠蔽が上手くいったのか、そもそもあの記憶が犯罪コードに
接触しなかったのかが悩ましい。
﹁よし、あんたら二人ともアラートは出なかったし大丈夫そうだな。
今カード発行してやるからちょっと待てよ﹂
酒場の主人は、カウンターの下からごそごそと無地のカードを取
り出す。
そして、そのカードを石版の上に重ねて何やら呪文を唱えた。
石版が強い光を放つのは一瞬。
﹁あいよ、これで出来た﹂
酒場の主人から渡されたカードには、先ほどホログラムで表示さ
240
れたのと同じ俺のステータスが書き込まれている。なるほど、あの
石版でデータを読み込み、それを端末であるカードに複写する形で
個人の身分証明を作成する、という手順であるらしい。続いて、酒
場の主人がイサトさんのカードを作る。
﹁そのカードは自動的にお前らの記憶と同期してレベルに合わせて
書き変わっていくからな。何かヤバいことをしたら、そっちでもア
ラートが発生するから気をつけろよ﹂
石版で読み込みが必要なのは、カードを作る最初の一回だけで、
後は端末であるカードだけでも個人の記録は日々重ねられていくら
しい。なかなか便利だ。
身分証であるカードを手に入れた俺たちは、酒場の主人に礼を言
って酒場を後にした。
そして、広場に戻り。
そこで俺たちは、互いのカードを突き合わせた。
﹁⋮⋮なんか、レベルものすごく低くないか?﹂
﹁⋮⋮うむ﹂
241
俺たちのカードには、どれも低レベルとしか言いようがない数字
ばかりが並んでいる。全ジョブのレベルを詳細に覚えているわけで
はないが、それでも低すぎる。
﹁たぶん⋮⋮私たちが把握している﹃強さ﹄の値であるレベルと、
ここで使われてる﹃熟練度﹄のレベルは別物なんだろうな﹂
﹁でも、それでも俺らは結構な量のモンスターを倒してきてるぞ?﹂
﹁ゲームの中、でね﹂
﹁あー⋮⋮﹂
確かに言われてみれば、実際に戦闘を行ったのは一昨日の盗賊戦
が初めてだ。
ステータス自体はゲーム時代のものをそのまま引き継いではいる
ものの、それら全てに実戦としての記憶があるかと言われれば答え
はノーなので、そう考えるとこのレベルの数値は妥当なのかもしれ
ない。
﹁身分証で異様な数値が出ちゃって面倒なことになるよりは、いろ
いろ誤魔化せて便利だよ﹂
﹁確かに﹂
きっと俺らのレベルやステータスは、この世界においては規格外
だ。
あまり喧伝したいものではない。
﹁というわけで、エルリアでの目的は果たしたわけだけど⋮⋮これ
からどうしようか﹂
﹁とりあえず元の世界に戻りたいが︱︱⋮⋮、やっぱりアレって秋
良青年が使ってしまった謎のアイテムが原因なんだろうか﹂
242
﹁⋮⋮たぶん﹂
俺のうっかりミスが現状を招いたのかと思うと、ちょっとだけ罪
悪感が疼く。
イサトさんはそれに気づいたのか、ちらりと俺を横目に見上げる
と、ぽん、と軽く俺の腕を叩いた。気にするな、と言葉にされるよ
りもわかりやすい所作だ。
﹁あの洞窟のラスボスのドロップ品、なんだよな?﹂
﹁ああ。見た目は普段使ってる転移ジェムと変わらない。ただ、色
が青じゃなくて緑だった﹂
﹁紛らわしいな﹂
﹁だから間違えたんだよな。すまん﹂
﹁たぶん拾ったのが私でも同じミスをしかねないので、正直責めら
れない﹂
ぽんぽん。
宥めるように、イサトさんの手が柔らかなリズムで俺の腕を叩く。
﹁その謎のジェムで私たちがこちらに来てしまったということは︱
︱⋮、シンプルに考えて、同じアイテムで戻ることが出来るんじゃ
ないだろうか﹂
﹁それはあり得るな﹂
あの謎のアイテムに、世界を移動する力があるのなら。
もう一度あのアイテムを使えば、元の世界に戻ることが出来る可
能性は高い。
⋮⋮まあ、まったく別の世界に転移させられてしまう可能性もな
きにしもあらずだが。
243
﹁でも⋮⋮、正直この状態であのダンジョンに挑むのはキツいよな﹂
﹁キツいな﹂
あの時、ラスボスの一部を撃破できたことが奇跡だし、ラスボス
の元までたどり着けたこと自体が偶然の産物なのだ。もう一度やれ
と言われても確実に倒せる自信なんてどこにもない。
それに、ゲームだった時と違って、ここは現実の世界だ。
回復が間に合わなければ、死ぬ。
ゲームの時のようにデスペナを喰らって死に戻りをするわけでは
なく︱︱⋮⋮、そこにあるのは正真正銘の死だ。
そんな状態で、いくら元の世界に戻るためとはいえ、死ぬ確率の
方が高いダンジョンに挑む気にはなれなかった。
﹁だからと言って、諦め良くこの世界に永住する、と決める気にも
なれないよな﹂
﹁同感。元の世界に戻るための努力は続けたいところ﹂
﹁それなら⋮⋮、これからしばらくの行動方針としては、ダンジョ
ン攻略の準備といったところか﹂
﹁そうだね﹂
﹁俺は⋮⋮装備はこれで良いとして、やっぱり回復アイテムとイサ
トさんの装備を整えたいな﹂
﹁そうだなあ。装備品を作るためには、それなり高レベルのモンス
ターのドロップアイテムが必要になるから、まずはポーションを作
るってのが妥当じゃないか?﹂
﹁うむ﹂
二人で話しているうちに、次々と今後の方針が決まっていく。
まずはポーションを安定して供給できるようにするのが先決だろ
う。
低レベル帯をうろうろするならば必要ないが、高レベルのエリア
244
に足を踏み入れるならばやはり回復アイテムは必須だ。
イサトさんには強力な回復魔法を使うことの出来る召喚モンスタ
ー、朱雀がいるが、朱雀は攻撃力はそれほど高くない。朱雀を出し
ている間、イサトさんの攻撃力がアテにならなくなる、というのは
痛手だ。
それに、モンスターに戦闘を任せつつイサトさんには精霊魔法で
援護もしてもらわなくてはならない。そうなると、MPを回復する
ためのアイテムも必要になる。
﹁それじゃあ、しばらくの間はポーション類を作ることを目標にし
て行動するか﹂
﹁それならまずはエスタイーストかな。エスタイーストにアンデッ
トの城があるだろう?あそこの薔薇姫がドロップする花の蜜が必要
なんだ﹂
﹁他には?﹂
﹁後はノースガリアの最北端にある神秘の泉の水。あと、ポーショ
ンを入れるための瓶を作るためにガラスのかけらがいるな。ガラス
の欠片はサウスガリアンの火山地帯にいるゴーレムがよくドロップ
する﹂
﹁⋮⋮イサトさん、一言言っていいか﹂
﹁どうぞ﹂
﹁すこぶる面倒くさい﹂
﹁⋮⋮言うな﹂
ポーションを作るために材料から揃えようと思うとこんなにも手
間がかかるものなのか。面倒くさいことこの上ない。
が、俺らには﹁家﹂という便利アイテムがある。
﹁家﹂の扉は一定の条件を満たす場所であれば、そこへのショー
245
トカットを登録することが出来る。Aという場所から﹁家﹂に入っ
たとしても、登録さえしてあればBという場所に出ることが出来る
のだ。その条件はずばり、NPCの家がある非戦闘エリアであるこ
とだ。
その条件を満たしてさえいれば、ある程度どこでもいいわけなの
だが、ほとんどの﹁家﹂持ちの冒険者は各大都市のギルドの扉と、
後は自分がよく行く狩場の近くの街や村に設定している。
俺もそうなので、各大都市までの道のりは﹁家﹂を使ってショー
トカットすることが出来る︱︱⋮はずだった。
﹁な、なんで移動先がありません、なんてことになるんだ﹂
﹁⋮⋮扉が朽ちたか、登録先が﹃ゲーム内の大都市﹄で設定されて
しまっていたかのどっちかかな﹂
﹁うわああああああああ﹂
俺は頭を抱えた。
イサトさんは遠い目をしていた。
つらい。
246
ナース服とおっさん︵後書き︶
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
感想は全て目を通しているのですが、レスが間に合ってません。
ごめんなさいOTL
Pt、お気に入り、感想、評価、全て励みになっています。
ありがとうございます。
247
おっさん、破壊神になる︵前書き︶
途中一部第三者目線が入ります。
0906大幅修正
0916大幅修正
1121修正
248
おっさん、破壊神になる
﹁家﹂が使えなくたって、俺らには移動手段ぐらいいくらでもあ
る︵強がり︶
そう自分に言い聞かせている俺と違って、イサトさんはなんだか
そんなにダメージを受けているようではなかった。慣れたように、
雑貨屋で購入したマップを広げてここからならどの順番で巡るのが
一番効率が良いかを考えている。
何故そんなに心が強くあれるのかを考えて、もともとイサトさん
は﹁家﹂をまだ持っていなかったので、その便利さの恩恵を知らな
いからなのだと気づいた。
騎乗できるタイプのモンスターにまたがり、RFCの世界を縦横
無尽に駆け巡って素材を集めまくっていたイサトさんに死角はない。
﹁そういえば⋮なんでエスタイーストから先に行こうって言いだし
たんだ?
距離的には、サウスガリアンからまわった方が楽じゃないのか?﹂
ここ、エルリアはトゥーラウェストに属している。
﹁西↓東↓南↓北﹂よりも、右回りに﹁西↓北↓東↓西﹂で行く
か、逆に左回りで﹁西↓南↓東↓西﹂で移動した方が効率的なよう
な気がしてならない。
それに対してイサトさんは、確かにそうなんだけどな、と前置き
してからその辺の事情を教えてくれた。
﹁私、結構倉庫がぱんぱんなんだよ﹂
﹁あー⋮⋮﹂
249
ある程度ゲーム暦が長くなってくると、どうしても持ち物は増え
る。二束三文の簡単に手に入るアイテムであればどんどん売り払う
なりなんなりすることも出来るのだが、中にはなかなか出ないちょ
っとレア、ぐらいのアイテムもある。そういうアイテムは、出ない
時の苦しみがわかっているため、なかなか売り払うことが出来ない
のだ。そして、そういう﹁ちょっとレア﹂なアイテムというのは意
外と種類が多いのである。
いつか使う時に困らないように、とストックはしておきたいのだ
が、そうやってストックしていくうちにどんどん倉庫は圧迫されて
いく。重量に関係なく一つのマスに何個でも詰め込めるというのが
倉庫の特徴なのだが、マスの数は課金でもしない限り増やすことは
出来ない。
俺の方も大体イサトさんと似たりよったりで、﹁家﹂の倉庫があ
ってもわりと倉庫や箪笥はギリギリだ。
﹁だから、あんまり不良在庫を残したくてなくてな。上位ポーショ
ンを作るのに必要なのは薔薇姫の落とす花の蜜と、ゴーレムが落と
すガラスの欠片と、神秘の泉の水なんだけども⋮⋮、そのうち一番
ドロップ率が低いのが薔薇姫の花の蜜なんだ。
神秘の泉はただ水を汲むだけなので、確実に手に入るしな﹂
﹁それでイサトさんは、いつも最初に花の蜜を集めて、花の蜜の数
だけガラスの欠片を用意して、ポーションを生成しに北に向かうわ
けか﹂
﹁そういうことだ﹂
移動の労力よりも、出来るだけ倉庫の空きを作ることを優先した
結果、そういう順路になるらしい。
﹁﹃家﹄があれば話はまた別なんだけどな⋮⋮﹂
250
ちらり、と羨ましそうにイサトさんが俺を見る。
﹁イサトさんが精霊魔法使いとしてが俺とパーティー組めるように
なったらな﹂
﹁何十年後の話だ﹂
﹁何十年引っ張る気だ﹂
そんなにメインジョブのレベルあげたくないのかこの人は。
ふす、とイサトさんは不満そうに鼻を鳴らしているが、俺として
は何十年もかけてメインジョブ放置で何をしたいのかイサトさんを
問い詰めたい。生産マスターにでもなる気なのか。というかそれで
もウン十年あればそろそろメインジョブ育ててくれたっていいんじ
ゃないのか。
﹁そういえば⋮⋮箪笥の素材も基本は東だっけか?﹂
﹁そうだな。植物系の素材は大体東で手に入った気がする﹂
イサトさんに箪笥さえ作ってもらえば、俺の﹁家﹂におけるアイ
テム量を増やすことができる。それならば、イサトさんが言うよう
に先に中央のセントラリアを経由して東に向かっても良いかもしれ
ない。
﹁んじゃ、先に東から向かうか。途中、中央のセントラリアで﹃家﹄
の登録をしておけば、東から南に行くときにはセントラリアまでシ
ョートカットしてから南に向かうことも出来るし﹂
﹁そうだな。まずは東で箪笥の素材を集めて⋮⋮それからあのアン
デッドの城行って薔薇姫ドロップ集めようか﹂
そうと決まれば早速東に向かおう。
251
俺は、広げていたマップを畳んで懐へとしまいかけ⋮⋮何か妙に
うずうずしているイサトさんと目があった。
﹁⋮⋮なに﹂
聞くのも怖いが、聞かないともっとアレなので一応聞いておく。
﹁東って植物系ドロップ多いじゃないか﹂
﹁多いな﹂
﹁花の種とか薬草の種ドロップしたら君んちに畑作ってもいいk﹂
﹁全力で却下﹂
なに人んちを魔改造しようとしてやがる。
大まかにエルリアからセントラリアを経由してエスタイーストに
行く、とは決めたものの、その途中にはトゥーラウェストがある。
252
そこで小休憩を挟み、トゥーラウェストの冒険者ギルドの扉をそっ
と﹁家﹂に登録した。
こうして登録しておけば、﹁家﹂の扉がそのまま登録先の扉にな
る、というど◎でもドア的な使い方が出来るのだ。ただ、ど◎でも
ドアと違って必ず行先は事前に自力で登録しなければならないし、
登録できる数も七つと限られている。
ゲーム時代の俺は、主要都市五つと、その時の狩場から一番近い
非戦闘エリアを登録していたものだが⋮⋮現在そのログが消えてし
まっているため、いちいち現地にいって登録しなおさなければいけ
ないのが非常に面倒だ。
トゥーラウェストは、エルリアよりも規模の大きい街だ。
何せRFCの舞台となるアスラール大陸にある五つの都市国家の
うちの一つである。
主要都市ならば⋮⋮、と期待を込めてのぞいたトゥーラウェスト
の武器屋や雑貨屋では、エルリアとほとんど変わらない品揃えしか
並んではいなかった。一応、エルリアより良い道具や装備が取り扱
われてはいるのだが⋮⋮いわゆるゲーム内でいう店売り装備だ。大
した性能ではない。しかもそれが、ゼロを付け間違えたんじゃない
のか、という値段なのである。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ないわー。
俺とイサトさんは二人で緩く首を左右に振って、それらの店を後
にした。
店員が若干予算もないのに高い品に手を出そうとした身の程知ら
ずを見るような目で見ていたような気がするが、それすらも逆に哀
れに思えてしまった。
253
俺らが知らない間に、この世界では何が起こってしまったのだろ
う。
いや、俺らが知らない間に、というのは語弊がある。ここは俺ら
が﹁ゲームとして﹂知っている世界によく似た異世界なのだから。
だが、見知った世界によく似ているからこそ、その差異が目立つ。
この世界はこんなにも色あせていたものだろうか。
この世界はこんなにもつまらないものだっただろうか。
なんだか、溜息が零れてしまった。
移動は、今回もイサトさんのグリフォンを使った。
俺も一応騎乗用のモンスターはもっているので、陸路を行くこと
も考えたのだが⋮⋮アーミットの言っていたように、モンスターの
254
使役がレアであるのならば、多くの人が使う街道でモンスターに乗
って移動というのは悪目立ちしてしまう可能性が高い。それならば
グリフォンに乗って空を行き、都市が近くなったところで人目につ
かないところに降りる、というのが一番楽で穏便な方法なのではな
いかという話に落ち着いたのだ。
空の上なら、地上から例え見つかったとしても背に乗っている俺
らの姿まで見えるかどうかは怪しいし、万が一人が乗っているよう
に見えたとしても俺らの顔までは判別することは出来ないだろう。
トゥーラウェストで一泊した次の日、俺らはのんびりと再びグリ
フォンの背に乗り、セントラリアを目指す。
最初はグリフォンの速度や高さに硬直していたイサトさんだが、
少しずつ慣れてきたのか、腕の中に抱えた身体からも緊張が程よく
解けている。
こてんと、俺の胸を背もたれ替わりに、すっかり寛いでいるよう
だ。
どれくらい飛んでいただろうか。
ふと、眼下に広がる景色が少しずつ種類を変えてきたのに俺は気
づいた。
﹁イサトさん、そろそろセントラリアが近いかも﹂
﹁ん?﹂
﹁ほら、下﹂
﹁どれどれ﹂
下を見るのはまだ少し怖いのか、イサトさんは手綱を取る俺の腕
を握りつつ、そろっと身を横に乗り出して下を見下ろす。
先ほどまではひたすら砂しかなかった世界に、ぽつぽつと植物の
彩が加わり始めている。視線を持ち上げると、次第にその緑は色合
いを濃くしていき、最終的には草原地帯が遠くに広がっているのが
255
見えた。
﹁こういうの見ると⋮⋮ファンタジーっていうか、随分と遠くに来
たなって感じるよなあ﹂
﹁本当に。日本じゃ見れない光景だ﹂
二人、双眸を細めて眼下の景色を眺める。
日本にいた頃はリアルの情報など何も知らず、ネトゲでしか接点
を持っていなかった俺とイサトさんが、今こうして異世界で二人よ
り添い合って空の上から景色を眺めているなんて、本当に不思議だ。
と。
まるで、そんな緩みきった俺らに警告するようにグリフォンが鋭
い鳴き声をあげた。見れば、ぶわりと首元の毛が逆立っている。警
告するように、ではない。明らかにグリフォンは何かに警戒してい
る。
﹁⋮⋮なんだ?﹂
﹁周囲には何も見えないけども﹂
左右前後には、ただただ抜けるように青い空が広がっているだけ
だ。
そして眼下には、牧草地帯へと姿を変えつつある大地が続いてい
る。
左右前後、そして下に異常がないならば⋮⋮答えはきっと。
﹁秋良青年、ちょっと手綱を貸してくれ﹂
﹁ん﹂
256
貸してくれ、と言いつつ、イサトさんは俺の手の上から重ねるよ
うにして手綱を握った。そして、ぐいと軽く引いてグリフォンの高
度をあげる。
ぐんぐんと地上が遠くなり、うっすらと周囲が白くぼやける。
まだ呼吸が苦しいというほどではないが、結構な高度だ。
それとも、こんな場所でも息苦しさを感じないのはゲーム内のス
テータスが反映されているおかげなんだろうか。
大きく羽ばたいたグリフォンが低くたなびく雲を突き抜け︱︱⋮
上空へと躍り出る。
そこで見たものに、俺とイサトさんは揃って絶句した。
﹁おいおい、嘘だろ﹂
嘘であってくれ、という願いをこめて呟いた俺の声が圧倒的な現
実を目の前に虚しく響く。
そこに浮かんでいたのは、巨大な飛空艇だった。
ごぉんごぉんと低く空気を震わせているのは、エンジンなのかそ
れかもっと魔法的な何かなのかはわからないがとりあえずその飛空
艇の動力源だろう。
が、俺たちが絶句したのはそのせいではなかった。
飛空艇なら、ゲームの中でも見たことがある。
高額ではあったが、各主要都市を結んでいて、俺らプレイヤーも
利用することが出来た。といっても、乗り込んだところでワープポ
ータルが発動して、次の画面ではもう目的地についている、という
ショートカット的なものでしかないのだが。
だから、飛空艇だけならばこんなにも驚かなかった。
飛空艇だけならば。
257
︱︱飛空艇は、大量のモンスターに襲われていた。
地の船体が見えないほど、びっちりと飛空艇の表面に張り付いた
無数のモンスター。うごうごと蠢き、まるで飛空艇自体が巨大な一
匹のモンスターであるかのような異様な光景だ。
時折、火花のようなものが散るのは、張り付いたモンスターが飛
空艇の装甲をこじ開けようとしているからなのか。
こういうシーンを、子供の頃アニメ映画のワンシーンで見たこと
があったような気がする。すれ違いざまに、大量のモンスターに覆
われた機体の窓から、こちらにすがるような目を向ける少女と、主
人公は目があってしまうのだ。
そう。
まさに︱︱⋮こんな感じに。
本来なら景色を眺めるために、遊覧飛行を愉しむために作られた
はずの大きな窓の向こう、恐怖に青ざめた家族が立ち尽くしている
のが見えた。
見えて、しまった。
﹁イサトさん、つけてくれ﹂
﹁⋮⋮了解﹂
そんな短いやりとりで、俺らは行動を起こした。
イサトさんが鋭く手綱を鳴らしてグリフォンを操る。
身を翻し、グリフォンがさらなる高みへと翔けあがった。
258
それを、俺たちがこの飛空艇を見捨てたと判断したのか、窓の向
こうに見える家族の顔にますます絶望の色が濃くなったのがちらり
と見えた。
﹁もう少し、まってろ﹂
届かないとわかっていてもそう呟いて。
俺は手綱から手を離すと、グリフォンの上に身を起こした。
インベントリを操り、装備をイサトさんの買ってくれた木刀から
本来の大剣へと切り替える。
﹁甲板⋮っていうかとりあえず上のところに君が降りられそうなス
ペースを作る。が、おそらく降りると同時に囲まれるから心の準備
はしておけよ﹂
﹁了解﹂
イサトさんの口調が硬く、荒い。
何時の間にか取りだされた禍々しいスタッフが、雷撃を孕んでバ
チバチと唸る。
グリフォンが飛空艇へと急襲をかけるのと、イサトさんの広範囲
雷撃呪文が炸裂するのはほぼ同時だった。
雷撃は飛空艇の表面に群がるモンスターの中心に突き立ち、その
周囲にいたモンスターを巻き込んで炸裂する。弾かれるように、モ
ンスターの群れが表面から引き剥され、地上へと落ちていった。そ
の空いたスペースへと、グリフォンが最も接近したタイミングで俺
は︱︱⋮⋮、跳ぶ。
内臓が浮くような独特な浮遊感を経て、ずだん、と飛空艇の上へ
と着地。空いたスペースを埋めるように押しかけたモンスターに対
して、俺が剣を抜くよりも早くグリフォンの鋭い前脚の爪がそれら
を豪快に蹴散らした。右の前脚でモンスターを薙ぎ払い、左の前脚
259
が飛空艇を蹴ってグリフォンが一旦飛空艇から距離を置く。その数
瞬が、俺が体勢を立て直すまでに必要な時間の全てだった。
﹁秋良、死ぬなよ!﹂
﹁そっちこそ!﹂
遠のきながら叫ばれたイサトさんの言葉に叫び返したものの、聞
こえたかどうかは怪しい。俺は大剣を構え、こちらに押し寄せるモ
ンスターを睨み据えた。
甲板で蠢くモンスターのほとんどを、俺はゲーム内で見知ってい
る。
どれもレベルは俺よりもはるかに格下で、恐れるような相手では
ない。
︱︱⋮⋮ゲームならば。
でもこれはもうゲームではない。
実戦だ。
カラットの村を救うために倒しまくったモンスターよりは図体も
でかく︱︱⋮、いかにも凶悪なモンスターといった風情に満ち溢れ
ている。
見渡した中、何種類ものモンスターが混じって押し合いへし合い
している甲板上特に目立つ二種が目に入った。この二種が一番数が
多い。
一種は本来ならば妖精樹と呼ばれるエリアに棲息するドラゴンフ
ライ。通称トンボ。ほとんど昆虫のような外見をしているが、名前
にドラゴンとつくだけあって実際はドラゴンの一種だ。全長が2メ
ートル前後と大きめなあたり、なるほど、確かにドラゴンの系譜に
連なるモンスターだけある、と実感してしまった。ゲームの中では
妖精樹フィールドのいたるところに出てくる雑魚扱いで、もうちょ
260
っと小さ目に見えたものだが。百足のような体躯に、トンボのよう
な細長い羽が三対。ぎちぎち、と聞こえるのはこいつの歯が鳴る音
だ。
もう一種は、エルリア砂漠エリアの地下にあるピラミッドダンジ
ョンに棲息するスカラベ。大きさはサッカーボールほど。不思議な
光沢のある外殻はどれも同じように見えるが、青みがかっているの
がオスで、赤みがかっているのがメスだ。オスは物理攻撃に強く、
魔法攻撃に弱い。そして逆にメスは物理には弱いが魔法攻撃に強い。
あと、その他に目がつくものといったら小型のワイバーンぐらい
だろうか。こいつもヅァールイ山脈の麓に棲息していたはずなのだ
が。大きさはドラゴンフライとほぼ変わらないが、見た目はより竜
らしい。皮膜で出来た翼を持つトカゲというか、鱗の生えたプテラ
ノドンというか。
﹁⋮⋮いろいろおかしいだろう、がッ﹂
ぼやきつつ、飛びかかってきたスカラベを一刀両断。
フルスイングで殴り飛ばして、俺に向かって威嚇音を放っている
ドラゴンフライにぶつけてやろうと思ったのだが、切れ味が良すぎ
た。真っ二つになったスカラベは、ぼとぼとと甲板に落ちて動かな
くなる。
この飛空艇は、航路からしておそらくトゥーラウェストを出発し
てセントラリアを目指していたはずだ。
だから、スカラベがいるのはまだわかる。
本来はスカラベもエルリア近郊の地下ダンジョンに棲息するモン
スターで、普通ならそのエリアから出てくるはずがないのだが⋮⋮、
まあそれはまだ大目に見よう。他の連中に比べたらまだスカラベの
方が納得できる。
261
だが、ドラゴンフライやワイバーンはおかしい。
妖精樹があるのはセントラリアを中心に考えたときの南東のあた
りだし、ヅァールイ山脈があるのは北の、ノースガリアのあたりだ。
スカラベだけなら、地下で異常繁殖したモンスターが地上に迷い
出て異常行動に走ってるのかとも思うが、ドラゴンフライやワイバ
ーンまでいるのではそうと考えるのも難しい。この辺り一帯の⋮⋮
ここ、RFCの舞台となっているアスラール大陸中のモンスターの
行動パターンが、俺の知るものとはかけ離れている、ということな
のだろうか。
俺の知る限り、この三種は全てリンク系の非アクティブモンスタ
ーだ。こちらが攻撃を仕掛けない限りは、襲ってくることはない。
ただし、一匹に攻撃を仕掛けると、その周辺にいる同種が全てこち
らを敵と認識して襲ってくることになる。
そんなモンスターらが、何故群れで飛空艇を襲っている?
この飛空艇が軍属だとかなら、まだ納得もできる。
演習か何かで迂闊にモンスターを倒し、それにリンクしたモンス
ターが深追いでもしてしまっているのかと思うことが出来る。
いや、それでも何故大陸各地のリンクモンスターがこの飛空艇に
群がっているのか、という理由を説明するのは難しいか。トゥーラ
ウェストを出発した飛空艇に、何故ヅァールイ山脈のワイバーンに
追われる人間が乗りこめるのか。何故、妖精樹のドラゴンフライに
追われる人間が乗りこめるのか。この数に追われていたならば、飛
空艇が飛び立つより先に発見されて大騒ぎになっているはずだ。
そんなことを考えつつも、俺は次々と大剣を振るってモンスター
を斬り捨てていく。が、斬り捨てても斬り捨てても、無限に沸き続
けているのではないだろうかという勢いで、次々とモンスターは俺
へと押し寄せくる。
262
一匹一匹の強さは大したことないものの、集団で囲まれると厄介
だ。
何せ、俺は空が飛べないのである。
体当たりでも喰らって吹っ飛ばされれば、HP的には問題なくと
も、重力的な問題でアウトだ。この高さから落ちたら、さすがの俺
でも死ぬような気がする。あんまり試したくはない。
足場に気を遣いつつも、俺は次々と目の前に押し寄せてくるモン
スターどもを斬り捨てていき⋮︱⋮、やがて、モンスターの向こう
に何か異様な物体が存在していることに気付いた。
﹁⋮っ、なんだよ、あれ﹂
思わず声に出して呟く。
それは、一応形としては人間に近いフォルムをしていた。
頭部と、それに繋がる二足歩行型の四肢。
だが、それは明らかに人ではなかった。
なんせそいつの表面はねっとりとした黒色で覆われているのだ。
特殊な性癖の方々が好む全身ラバースーツを着た人間を想像して
もらうと、今俺の目の前にいるモノに近くなるかもしれない。顏ま
でもぴっちり覆った全身ラバースーツだ。その表面から艶を消して
ヌメッと泥っぽくしたらば、大体あっていると思う。そしてそのだ
らりと下げられた四肢はそれぞれが甲板に沈み込んでいる。どう考
えても妖怪か何かだ。生半可に人間に近い形状をしているせいで余
計に気持ちが悪い。リアルはもちろん、RFCのゲーム内でも見た
ことないタイプのモンスター⋮?だ。
それなのに。
そのはずなのに。
何故か俺には、そいつに既視感があった。
263
初めて見るはずの存在なのに、受ける印象に覚えがある。
見た目以上に感じる、得体のしれない薄気味悪さ。気持ち悪さ。
不快感。
﹁⋮ッ、カラットのアレか!﹂
アレだ。
俺が燃え盛るカラットの村で目撃した気持ちの悪い男。
盗賊団の中に紛れ込んでいたはずなのに、誰にも覚えられていな
かった男。
俺の防御力を通してダメージを与えるだけの攻撃力を持ち合わせ、
燃え盛る焔の中に消えて︱︱⋮、それきり消息を絶っていたあの男
だ。
何か、関連があるのか?
印象は非常によく似ているとはいえ、カラットの村で遭遇した男
は一応ちゃんとした人間だった。ちゃんとした人間の形をしている
のに、ちぐはぐな違和感が気持ち悪かった。それに比べるとこちら
は見た目からして気持ち悪いので、素直に気持ち悪い。
⋮⋮﹁気持ち悪い﹂がゲシュタルト崩壊してしまいそうだ。
その気持ち悪いヌメっとした人型は、俺が見据える先でゆらり、
と揺らめいて。
じゅぶるッ
﹁!?﹂
264
いきなりそいつの四肢から伸びた黒い触手がこちらに向かって伸
びてきた。
気持ち悪い!
気持ち悪い!
チョー気持ち悪い!
俺は慌てて手にしていた大剣を一閃、それらの触手が俺の身体に
触れる前に切り落とす。
特に抵抗もなく簡単に切り落とせたものの、逆にその一撃は相手
にとっても痛手にはなっていないようだった。黒い人型は気にした
様子もなく、ゆらゆらと揺れている。
もしかしなくとも、カラットの村で喰らった攻撃もこれだったの
だろうか。
何か鞭のようなもので攻撃されたと思っていたが⋮⋮身体の一部
が変形して飛んできたのだと思うと、ますます気色悪くなった。
その一方で、人を殺す、という一線を越えてなかったことに少し
安堵もする。
人の形をしていようが、変形したあたりで人外とみなしても良い
気がしてならない。っていうかアレは人外だ。そう決めた。
そんな他愛もない自己暗示で、ささやかな罪悪感すらさらっとな
かったことにしてしまえる俺は、やっぱりちょっとロクでもない。
思わず口の端が自嘲めいて吊り上る。 それはまあさておき。
とりあえず。
今の攻撃により、アレが敵であることだけはわかった。
正体は不明ながら、こちらに対する敵意はアリ。
265
それならば、ただ斃すのみだ。
ぶっころ。
俺は大剣を構えると鋭く踏み込み、黒の人型へと接近を試みる。
黒い触手がのたうち、俺を捕まえようとするものの、片っ端から
斬り捨て⋮⋮後一歩で人型が間合いに入る、というところで横合い
からスカラベの体当たりを喰らった。
﹁ち⋮ッ!﹂
ダメージとしてはそれほど大きくはない。が、体勢が崩れる。そ
こを逃さず殺到する黒い触手。アレに捕まったらどうなるのかは不
明ながら、それを自らの身体で試したいとは全く思わない。空中で
体を捻り、背面跳びめいた体勢で無理くりに大剣を振るって迫りく
る触手を斬り落とす。次の瞬間背中から甲板に落ちて、痛みに息が
詰まった。が、そのまま転がっているわけにはいかない。触手はも
ちろん、この甲板上にはドラゴンフライやワイバーン、スカラベと
いったモンスターどもも大量にひしめいているのだ。即座に跳ね起
きて大剣を構える。
﹁⋮⋮⋮﹂
黒い人型は、俺を仕留め損ったことに対しても特に残念そうには
見えない。ただ、ゆらゆらと揺れている。甲板に沈み込むように伸
ばされた四肢が、本来硬い物質であるはずの甲板が水面であるかの
ようにゆらゆらと見え隠れしながらのたうっている。あの触手に物
質を潜り抜ける能力があるとした場合、いきなり足元から突き出て
きた触手から不意打ちを食らう可能性を考えておいた方が良い。
串刺し公
百舌鳥の早贄、もしくはヴラド・ツェペシュの犠牲者風になるの
266
は避けたい。
ますます信用ならなくなった足場に顔をしかめつつ、俺は敵であ
る人型を睨み据える。
先ほどのスカラベは、まるであの人型を助けるようなタイミング
で俺に攻撃を仕掛けてきた。もしかすると、あの人型がこの事態の
下手人なのだろうか。あの人型が、モンスターを集めてこの飛空艇
を襲わせている?
だとしたなら、あの人型を斃さない限り、この飛空艇はどうにも
ならない。
﹁くっそ、﹂
呻いて、俺はしっかりと大剣を握りなおした。
ゲーム時代のステータスを引き継いでいるのなら、無茶なフィー
ルドに突撃しない限りは楽勝だと思っていた少し前までの俺の頭を
どつきたい。
実戦は思っていたよりも過酷である。
不安定な足場、得体のしれない敵、そして何より、自分が死ぬか
もしれないという恐怖。
せめて、実感が欲しかった。
己の振るう一撃一撃が、あの黒い人型にダメージを与えているの
だという実感が。
こちらに向かって伸ばされる黒い触手をいくら切り落としても、
すぐにまた新しく再生してしまうのだ。例え微量ながらも、それで
ダメージが与えられているのならば、持久戦だって辞さないが、そ
れが無為な行為に過ぎないならば、何か違う手を考えなければいけ
ない。
ヌメっと知らん顏しやがって腹立つ。
267
苦痛に呻く声も、勝ち誇る笑みも、何もないヌメっとした顏に殺
意が沸く。
その殺意をモチベーションに大剣を振るうものの、キリがない。
焦れた俺は、先ほどの繰り返しになることも覚悟しつつ、接近戦
に挑む。
俺を絡め取ろうと伸ばされる触手をかいくぐり、避けきれなかっ
た分は切落とし、人型へと肉薄する。案の定モンスターが邪魔する
ように俺の動線に乱入してくるものの、その辺りは計算済みだ。不
意打ちはもう喰らわない。素早く大剣を振るい、目の前に立ちふさ
がったドラゴンフライを斬り捨て、その横をバックロールターンで
擦り抜ける。元バスケ部舐めんな。
そして、ようやく目の前にたどり着いた人型に大剣を振り下ろし
た。
ずぷりと水をたっぷりと含んだズタ袋でも斬り捨てたかのような
感触が俺の手に伝わる。最後まで振り下ろした俺の大剣は、確実に
その人型を袈裟斬りに両断したはずだった。
だが⋮。
ず、と人型は少し斜めに断面でズレただけで、すぐにヌメヌメと
糸を引くようにして元の形に留まった。黒い人型が撓む。それが俺
への反撃の予備動作であることはあまりにも明らかで︱︱⋮
避けきれるか。
俺は少しでも距離をとろうと背後へと飛び退り、そこを追撃する
ように触手が突き出される。
それはもう俺を絡め取ろうとするというような曲線を描くもので
はなく、そのまま触手で俺を貫こうという意思が感じられるような
268
鋭い直線での攻撃だった。
大剣で弾こうとするものの、身体の中心、急所を狙ったものを防
ぐだけで精いっぱいだ。
触手が手足を掠めて熱感にも似た痛みが生まれる。
このやろう。
カラットの村と同様に、いともあっさりと人型の攻撃は俺のガー
ドを潜り抜けた。
俺の攻撃は効いているかどうかも不明だというのに、相手の攻撃
は己に届く、なんて。
なんたる理不尽。腹立たしい。
ざすッ、と多少体勢を崩しながらも人型から距離を取ることに成
功した俺が顏を上げたところに、次の触手が迫りくる。スローモー
ションのよう、ゆっくり触手の先端が俺の身体に喰らいつこうとす
る様を眺めながら、俺は己が得るであろうダメージと、即座に可能
な反撃を脳内でシミュレートする。
そして。
﹁させるか⋮ッ!!﹂
高らかにイサトさんの声が響き渡った。
﹁イサトさん⋮!?﹂
悪手だとわかっていても、触手から目をそらして顔をあげてしま
う。
そこでは、ワイバーンの襲撃をかいくぐって接近したイサトさん
269
が、白いマントを鮮やかに靡かせながら黒い人型の上に飛び降りる
ところだった。その手には、逆光でよく見えないものの先ほどと変
わらずスタッフが握られているように見える。
﹁ば⋮⋮ッ!﹂
おっさん
馬鹿野郎、と叫びかけた声すら喉奥で潰れた。
何考えてんだあの人。
あの人型の攻撃は、俺にすら通るのだ。
俺などよりもはるかに紙装甲のイサトさんがあの攻撃を喰らった
ならば、いったいどれほどのダメージを喰らうことになってしまう
のか。自分が触手に刺し貫かれようとしていた時よりも、よほど血
の気が引いた。
どれほど引き留めたくとも、すでに遅い。
イサトさんが落ちる。
スタッフを携え、重力を味方につけて、一直線に落ちる。
頭上から響いた風切り音に、はっとしたように黒い人型が顔をあ
げて頭上をふり仰ぐ。
その胸を、イサトさんは全体重と、落下の勢い、その全てを乗せ
て、スタッフで貫いた。
でも、まずい。
あの人型に物理攻撃は効かないのだ。
さっき俺が斬りつけた時の二の舞だ。
﹁逃げろイサトさん⋮!!﹂
270
そう叫んで、イサトさんを援護すべく駆け寄ろうとして気づいた。
俺を刺し貫こうと伸ばされていた触手の追撃が、未だ俺に届いて
いないことに。
﹁え⋮?﹂
人型が、悶えていた。
まるで悲鳴でもあげるように虚空をふり仰いだまま、四肢をのた
うたせる。
⋮⋮攻撃が、効いてる?
びくん、びくんとわななくように震える人型。俺に向かって突き
だされていたはずの触手が、力を失ってぐにゃりと甲板に落ちてい
る。
なんで。
どうして。
イサトさんは何をした?
俺は再びイサトさんへと視線を向けて︱︱⋮、思わず噴きそうに
なった。
イサトさんが手にしていたのは、確かにスタッフだった。
だが、それはあの禍々しいものではなく。
鮮やかな、それでいてドリーミィにマイルドなピンク色に、可愛
らしいハートをモチーフにした装飾。きらきらと輝く大粒の宝石で
彩られたそれは、どこからどう見ても可憐な魔法少女ステッキだっ
た。
﹁何やってんだあんた!!!!﹂
何故この状況でネタに走ったのか。
271
全力で突っ込みたい。
というか、何故俺の大剣では駄目で、イサトさんの魔法少女ステ
ッキでダメージが通るのか。
いや、今は考えている暇はない。早く、イサトさんを援護しなけ
れば。
﹁イサトさん、退け!﹂
ダメージは与えたが、まだ仕留めたわけではない。
甲板をのたうっていた触手が、ぞわりと鎌首をもたげる。
獲物に狙いを定めた蛇のよう、ゆらゆらと揺れたそれが、一息に
イサトさんの足元へと押し寄せる。
﹁ち⋮ッ﹂
イサトさんの得物である魔法少女ステッキは人型の胸に突き立っ
たままだ。
魔法攻撃を補助するスタッフ抜きで魔法が使えるのかどうかを、
俺は知らない。
下手をすると、イサトさんは今反撃、防御、そのどちらもが出来
ないことになってしまう。
﹁この⋮ッ!﹂
イサトさんは何とか人型の胸に突き立った魔法少女ステッキを引
き抜こうと試みていたものの、それより先に這い寄った触手によっ
てその足を絡め取られてしまった。ぐらり、と体勢を崩しながらも、
イサトさんは意地のようにステッキから手を離そうとはしない。片
足を捕まえた触手が、勢いよくイサトさんの身体を持ち上げ、その
勢いでずるりとようやくステッキが人型の胸から抜けた。しなやか
272
な細身が、ぶらりと逆さまに宙に浮く。
﹁あ⋮ッ!﹂
﹁イサトさん⋮!﹂
小さな悲鳴に、ふつりと体温が上がる。
何とかしなければ。
早く、イサトさんを助けなければ。
あの人は紙装甲なのだ。
触手の攻撃に晒されれば、俺とは比にならないほどのダメージを
受けかねない。それに、スカラベはまだしも、ワイバーンやドラゴ
ンフライの物理攻撃なら下手をしたらイサトさんには通る。
イサトさんがずっと上空からの援護に徹していたのは、それがわ
かっていたからだ。不確定な人型の攻撃を警戒していただけでなく、
イサトさんは俺にとっては雑魚も同然のそれらの物理攻撃を恐れて
近づこうとしていなかったのだ。
自分が、接近戦の物理攻撃にはとことん弱いとわかっていたから、
イサトさんは自分の身が危険に晒される可能性を鑑みた結果、上空
からの援護に徹していた。
だが、今イサトさんは触手に掴まってしまった。
このまま甲板に叩きつけられ、動きがとれないでいるうちにワイ
バーンやドラゴンフライにたかられれば︱︱⋮、最悪、死ぬ。
死ぬ。
273
この、世界で。
まだ何もわからないまま、イサトさんは死んでしまう。
誰よりも本人がその事実をわかっていたはずなのに、イサトさん
は黒い人型に頭上からの接近戦を仕掛けた。それは、俺のせいだ。
俺を助けようとして、イサトさんはそんな無茶をやらかしたのだ。
だから、今ここで俺が何かしなければ、イサトさんは俺のせいで死
んでしまう。
俺は、俺のせいでたった一人の道連れを失ってしまう。
駄目だ。助けなければ。でもどうやって。人型までは距離がある。
俺が距離を詰めている隙に、イサトさんをあらぬ方向にぶん投げら
れでもしたら、間に合わない。だからといってこのまま見ているわ
けにもいかない。俺に、何が出来る?
こんな滅茶苦茶なわけのわからないゲームの世界で、俺に何が。
ああ、そうだ。
俺
こんな滅茶苦茶なわけのわからないゲームの世界だからこそ。
出来ることが。
﹁︱︱︱﹂
息を吸う。
人型への距離は詰めない。
脳内に思い描くのは、いつもゲームの中で見ていたキャラの動き。
それをトレースするように勢いよく、俺は剣を振り抜く⋮!!
﹁⋮っし!﹂
274
気合い一閃、虚空を切るだけで終わるはずだった俺の剣から放た
れた見えない風の刃が、イサトさんを捕まえていた触手をすっぱり
と断ち斬った。そう。スキルだ。俺自身が剣道経験者で、今までノ
ーマルの物理攻撃だけで倒せる敵しかいなかったせいですっかり失
念していたが、俺にも大剣スキルが本来ならあるのだ。
が、まだ安心は出来ない。支えを失って落ちるイサトさんの落下
予測地点まで、ダッシュ。途中風に煽られてひやりとしたものの、
なんとか滑り込みのスライディングでその華奢な身体を受け止める
ことに成功した。それなりの衝撃に呻くものの、喪う痛みに比べれ
ななんのその、である。
﹁⋮⋮ッ、イサトさん無事か!?﹂
﹁君のマントとナース服のおかげでどうにか⋮⋮!﹂
装備のおかげで、少しなりとも防御力が上がっていたようだ。良
かった。
安堵にぐにゃりと膝から力が抜けそうになるが、まだだ。
無事の再会を喜ぶ余裕もなく、俺たちはすぐさま体勢を立て直し
て黒い人型へと対峙する。
その背後に、音もなくグリフォンが降りたち、俺らへと迫りくる
モンスターを打ち払い始めた。イサトさんが援護を命じたのだろう。
﹁助かったよ、イサトさん﹂
﹁いや、助かったのは私の方だよ。ありがとう。そしてそれより、
これを﹂
真剣な顏で、そっとイサトさんが俺へと武器を託す。
あの黒い人型にダメージを与えることに成功した、武器を。
275
﹁⋮⋮⋮⋮イサトさん﹂
﹁はい﹂
﹁しれっと何気なく当たり前にように渡されましたが﹂
﹁はい﹂
﹁これは一体﹂
﹁マジ狩る★しゃらんら★ステッキです﹂
﹁待って。ねえ待って﹂
いかに有効な武器だからといって、身長180超えのわりとガチ
ムチ系男子である俺に魔法少女ステッキはどうかと思う。というか
思い出したがそれ、公式が魔法少女ブームに乗っかって出したネタ
装備じゃなかったっけか。何故そんなネタ装備があの黒い人型にダ
メージを与えられるのか、謎は深まるばかりだ。というか、緊張感。
緊張感返せ。
﹁なんでそんなもん持ってるの﹂
﹁ナース服の仕返しに、そのうち君に押し付けようと思って﹂
おっさん
ドヤ顔だよこの人。
﹁あのヌメっとした人、どう見ても邪悪だからな。聖属性の武器が
効きそうだと思ったんだ﹂
﹁これ、聖属性なんです?﹂
﹁女神の加護のこめられたマジ狩る★しゃらんら★ステッキで変身
することによって︱︱⋮、乙女は女神の使徒として生まれ変わる、
とかなんとか﹂
変身?
ものすごく聞き捨てならない単語を聞いてしまったような気がす
る。
276
﹁さあ、秋良青年。女神の使徒として、ヌメっとした人に鉄槌を﹂
めっちゃいい笑顔しやがって。
﹁でもほら、俺騎士ですし﹂
ステッキなんて渡されてもちょっと使えませんし。
﹁大丈夫。ほら、スタッフ系の武器は全部物理攻撃の際にはメイス
扱いだから﹂
﹁⋮⋮ぐぬ﹂
逃げ道を綺麗に塞がれて、良い笑顔でしゃらんら★ステッキを押
し付けられる。
メイス扱いの長物なので、確かに使えないことはないんだろうが
⋮⋮。
マジ狩る★しゃらんら★ステッキを構えた俺は、未だかつてない
悲壮感を背負っているような気がする。つらい。まじつらい。
﹁私は上空から援護するから﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
たぶん今の俺は死んだ魚のような目をしている気がする。
イサトさんは楽しそうにそう言うと、再びグリフォンに跨って上
空へと駆け上がっていく。その際にちらりと、あの禍々しいスタッ
フを取りだしているのが見えた気がした。
せめて、あっちが良かった。
諦め悪く、未練がましい視線を向けてみるが、もうどうにもなら
ない。
277
もはやさっさとやるべきことを片付けるのみである。
﹁くっそ、八つ当たりだ、思い知れ⋮っ﹂
インベントリに大剣を片付けて、代わりにしゃらんら★を構える。
そして、一息に黒の人型の懐へと飛び込んだ。
援護の言葉に嘘はなかったのか、俺の周囲では上空から降り注い
だ焔の矢にモンスターが次々と撃ち抜かれて燃え上がっている。そ
れは触手であっても同様で、俺に触れようとするはしから、上空か
ら降り注ぐ攻撃魔法に撃墜されていく。
そして近づいた眼前、俺は思い切りふりかぶって︱︱⋮、可憐な
ドリーミィピンクなしゃらんら★で薄気味悪い黒い人型をフルスイ
ングで殴打する。
殴打である。
魔法少女ステッキで、殴打。
人間であればこめかみに該当するであろう位置に向かって、容赦
なくしゃらんら★を叩きつける。ぼしゅんッ、と鈍い音をたてて頭
部が弾ける。血の代わりに、黒い靄めいたものが微かにしぶいた。
苦鳴を上げつつ黒の人型が蠢くが、それを気にすることもなく、そ
のままの勢いで今度は頭頂からまっすぐにしゃらんら★を叩きつけ
る。想像してほしい。人相のよろしくないガチムチ体型の長躯が、
魔法少女ステッキで黒いヌメっとした人型をたこ殴り。何の地獄絵
図だ。
いっそ折れてくれねえかな、なんて思いつつ、容赦なく原型をと
どめなくなるまで黒い人型をぶん殴る。時折反撃されたような気が
しないでもないが、もう気にならなかった。致命傷さえ避けられれ
ばオールオッケーである。ただひたすら早く終わらせたい。
278
やがて、ぐずぐずに崩れた人型は、スライムのような塊に成り果
てた。
もはや触手攻撃も止んでいる。
俺はトドメを刺すべく、その中心にしゃらんら★を突き立てる。
声にならない悲鳴のような、呪詛のような音を放ちながら、黒い
塊がぶるぶると震えた。
そのまま滅ぶが良い。滅んでしまえ。
そんな俺の願いとは裏腹に、ぐずぐずと蠢いていた黒い塊は、溶
けるように甲板へと染み込んでいく。
ちょっとまて。
まさか、逃げた?
半眼になる。
﹁手間かけさせてんじゃねえよさっさと死んでくれよまじで﹂
陰々滅々と呻きつつ、肩の上でガラ悪くしゃらんら★を軽く弾ま
せた。
こうなったらあの黒いドロドロ野郎が完全に動きを止めるまでぼ
こり倒す。ミンチにしてくれる。
足場である飛空艇がゴゥンと急に揺れたのは、そんな俺が殺意を
新たにしているタイミングだった。
﹁うおっと⋮!?﹂
大きく斜めにぐらつき、俺は慌ててその場に膝をついた。ざざっ
とそのままの体勢で体ごと横に滑り、さすがに血の気が退く。手に
279
していた魔法少女ステッキをインベントリにしまい、代わりに取り
出した大剣を甲板に突き立て、体を支えようとするが⋮⋮。
﹁だから切れ味自重⋮⋮っ!!﹂
俺のとっておきの武器は、飛空艇の甲板をあっさりと切り裂いて
しまった。これでは体を支えるどころではない。そこに、高速で回
転するスカラベが体当たりなんてのをしてきたもので、俺の身体は
ふわりと宙に浮いた。
﹁秋良ッ!!﹂
がし、と急降下してきたグリフォンの爪に身体を鷲掴みにされた。
気分は鷹に狩られた哀れなネズミか兎、といったところだ。
だが、おかげで自由落下は避けられた。
﹁イサトさん、助かった!状況は!?﹂
﹁君が撲殺しかけた黒いヌメっとした人が、諦め悪く人質を取った
っぽいな﹂
﹁人質?﹂
言われるままに眼下を見下ろして、俺は息を飲む。
イサトさんの掃討戦の成果か、モンスターのだいぶ減った飛空艇
の表面に、まるで血脈のようにぼんやりと黒い触手が浮いていた。
確かにこれでは、手の出しようがない。
ヌメッとした物体にダメージを与えれば、それは同時に船体ダメ
ージとなって本来助けたかったはずの乗客らを危険に晒すことにな
る。
280
﹁⋮⋮イサトさん、何か良い考えは?﹂
﹁︱︱⋮ないことも、ない﹂
微妙な返事が返ってきた。
黒く脈動する触手に包まれた飛空艇に並んで飛びながら、イサト
さんは言葉を続ける。
﹁ただ⋮⋮下手したら、お尋ね者になるやも﹂
﹁それで乗客が助けられるなら、仕方ない﹂
﹁ものすごい借金背負うことになるかも﹂
﹁いいよ﹂
﹁⋮⋮わりと最後は君任せな作戦だぞ﹂
﹁任せろよ﹂
やれというならやってやろうじゃないか。
俺はイサトさんを信じる。
イサトさんの判断を、信じる。
﹁︱︱⋮ありがとう﹂
そして、イサトさんが口を開く。
281
★☆★
ぎちぎち、ぎちぎち。
鋭い鎌を左右に合わせたような牙を鳴らして、ドラゴンフライが
こじ開けた穴から頭を突っ込み、飛空艇へと体をねじ入れようと無
数の足を蠢かせる。
その視線の先には、へたり込んだ少女の姿があった。
魔の森に住む恐ろしいドラゴンの話は、これまで彼女にとっては
御伽話に過ぎなかった。モンスターの入ってこれない街で暮らして
いる限りは、出会うことのない怪物。そう、思っていたのだ。
この空の旅にしたって、本来ならば危険などどこにもないはずだ
った。
街と違って絶対にモンスターと遭遇しない、という保証はどこに
もないが、これまで飛空艇がモンスターの襲撃にあったことなどな
い。
街道沿いには、好んで人を襲う上に、飛空艇の装甲を破ることが
出来るほど強力なモンスターなど存在しないはずだったのだ。
それなのに、今彼女の乗った飛空艇は無数のモンスターに襲われ、
今にも墜落しそうにがたがたと揺れている。
282
まるで悪い夢のようだ。
装甲を喰い破った醜悪なドラゴンフライが、柔らかな肉を求めて
ぎちぎちと牙を打ち鳴らす。ぞろぞろと穴の縁を蠢く脚がひっかく
度に、少しずつ穴は大きくなっていっているようだった。
このままでは︱︱⋮⋮、船の中にモンスターが入ってくる。
﹁ひ⋮⋮っ﹂
そう理解したとたん、彼女の喉の奥で悲鳴が潰れた。
ぼろり、と壁がまた少し剥がれて、ドラゴンフライの頭が彼女へ
の距離を削る。
逃げなくては、と思う一方で、この狭い飛空艇の中で、いったい
どこに逃げたら助かるのかという絶望が胸をひたひたと黒く染め上
げていた。
どうあがこうと、助からない。
それならば、もういっそ。
諦めかけたそのとたん⋮⋮、ごがんッ、と大きな音がした。
壁が崩れる。
ついにドラゴンフライが外壁を打ちこわし、飛空艇の中に入って
きたのかと、彼女はそう思った。強く吹きすさぶ風が彼女の金髪を
乱し、一瞬視界を奪う。
このまま何もわからないまま食い殺されて死ぬのかと思ったら、
嗚咽がこみあげた。
怖い。こんなところで死にたくない。ドラゴンフライに喰われて
死ぬなんて、そんな最期は厭だ。誰か。誰か。
283
﹁誰、か⋮⋮っ、たすけ⋮⋮っ、たすけて⋮⋮っ!﹂
しゃくりあげながら、悲鳴をあげる。
﹁もう大丈夫だよ﹂
そう聞こえたのは、そんな時だった。
﹁⋮⋮え?﹂
乱れた髪を手で抑え、ゆっくりと顔をあげる。
先ほどまでドラゴンフライが頭を突っ込み、もがいていたはずの
壁は、綺麗に吹き飛んでいた。壁の向こうには抜けるような、こん
な時ですら見惚れてしまいそうなほどに綺麗な青空が広がっていた。
そして、そこに立つ一人の男。
いかにも騎士といった態の格好をしているものの、そのどこにも
所属している騎士団らしき紋章は描かれていない。無造作に手にぶ
らさげているのは、彼女がこれまでに見たどんな剣よりも美しい、
幅広の大剣だった。
黒髪黒目、少々人相が悪めに見えるほかは、特に特徴があるよう
には見えない相手。だが、彼が彼女を救ってくれたのは明白だった。
先ほどまでぎちぎちと嫌な音をたてていたドラゴンフライはもうい
ない。
この通路には、彼女の他には誰もいなかった。
そして壁に空いた大穴。
彼は︱︱⋮⋮いかなる魔法を使ってか、そこからやってきたに違
いなかった。
﹁あなたは⋮⋮﹂
﹁ちょっとまってくれる?﹂
284
﹁あ、はい﹂
彼は壁に空いた大穴から顔を出すと、外に向かって叫んだ。
﹁イサトさん!無事中には入れたけど穴開けちゃったからこっから
モンスター入るかも!足止めできる!?﹂
ばさり、と羽音が響く。
またドラゴンフライか、と思った彼女の視界に飛び込んできたの
は、まるで神話から抜け出してきたかのように美しい獣だった。猛
禽の上半身に、獅子の下肢を持つ獣。
その背には、見たこともない衣装に身を包んだ女性が跨っている。
﹁あんまり長くはもたないが、罠系の魔法を仕込んでおく!しばら
くは時間稼ぎ出来るはずだ!﹂
﹁了解、それじゃあ避難が済んだら合図を出すよ!﹂
﹁派手に頼む!﹂
﹁あいよ!﹂
呆然とする彼女の前で、そんな会話を交わして、男が再び彼女へ
と振り返った。
﹁君らを助けたいんだけど、他の人はどこにいる?﹂
★☆★
285
乗り込んだ飛空艇内、ちょうどドラゴンに襲われそうになってい
た金髪の少女を助けて、その子に案内を頼んでみた。
この非常時だ、怯えて駄目かもしれないと思っていたものの、彼
女は気丈にも頷くと、俺を案内して小走りに走りだした。
身なりはかなり良い。
普段着ドレス、と言えばいいのか。
ある程度動きやすいように簡略化されているとはいえ、ワンピー
スと言ってしまうにはクラシックで凝ったつくりのその服は、いか
にも上流階級のお嬢様、といった風だ。
﹁皆、あちこちにいるの?﹂
﹁いいえ、皆怯えてラウンジに集まっています﹂
﹁君は?﹂
﹁⋮⋮その、何もせずにじっと飛空艇が落ちるのを待っていられな
くて﹂
﹁なるほど﹂
なかなか勝気な少女だ。
286
彼女に案内されて足を踏み入れたラウンジには、最初に見かけた
家族や、飛空艇を操縦していたであろう船員たちも皆集まっていた。
絶望しきった昏い表情で、ただただ呆然と窓の外を眺めている。
﹁みなさん、話を聞いてください!﹂
彼女が大声で呼びかけると、のろのろとした動作で皆がこちらを
振り返った。
﹁この方が、私たちを助けてくださるそうです!﹂
おおふ。
彼女の言葉に、俺に集中した視線はほとんどが逆ギレっぽい殺意
の籠った眼差しだった。適当なこと言ってんじゃねえぞ、と脅すよ
うな、というか。
その気持ちはわからなくもないが、そんな殺気だった目で見られ
ると怖い。
﹁あんた、どうやって俺たちを助ける気なんだ。この状況で⋮⋮ど
うしろってんだよ﹂
若い船員が、集団を代表するように口を開く。
他の皆は押し黙ってこそいるものの、同じ気持ちなのだろう。こ
こまで絶望してしまうと、簡単に希望に飛びつくわけにはいかない
のだ。期待して、裏切られてしまえば簡単に心が死ぬ。それほどに
彼らは追い詰められている。
﹁時間がないので詳細はおいといて⋮⋮、ここにいるのが全員です
か?﹂
﹁ああ。モンスターの襲撃があって、すぐに船内の人間はここに集
287
めた﹂
この人が船長だろうか。
貫禄ある初老の男性の言葉に、俺はラウンジにいる人間を見渡す。
﹁本当にこれで全員?﹂
﹁くどい。それでどうしようっていうんだ﹂
それだけ確認したら十分だ。
俺は、全員を見渡して︱︱⋮口を開いた。
﹁今から、あなたたちには全員異界に渡ってもらいます﹂
288
そう。
それがイサトさんの考えた作戦の第一段階だった。
俺が飛空艇に乗り込み、中にいる人間を﹁家﹂へと避難させる。
﹁家﹂の外には畑に出来るほどの土地が広がっているし、飛空艇
に乗り合わせている百名ちょっとぐらいなら一時的に収容すること
も可能だ。
﹁い、異界⋮⋮?﹂
﹁ああ﹂
俺は、集団の中からあがった戸惑うような言葉にうなずいて、懐
から﹁家﹂の鍵を取り出す。
しゃん、と軽やかな音とともに一振りすれば、清涼な風が吹き抜
け、すぐに扉が召喚された。
﹁この扉は、安全な場所に繋がってる。あなたたちには、そこに避
難してほしいんです﹂
俺が扉を開くと、その先には部屋の中央に箪笥しかない、殺風景
な部屋が広がっている。
﹁今はこっちに繋がっているから室内のみなんだが、一度こちらか
らドアを閉じれば、その部屋の扉は外に繋がっている。狭苦しいの
はちょっとの間だけだから、そこは我慢してくれ﹂
﹁﹁﹁⋮⋮⋮⋮﹂﹂﹂
289
誰も、何も言わない。
きっと、皆疑っている。
俺を信じて本当に助かるのか、これが何かの罠なのではないかと
疑っている。
まずい。時間がない。
セントラリアの上空に突入する前には、終わらせたいのだ。
最悪、力づくで全員無理矢理扉の中に突っ込むしか、と俺が焦り
始めた時、すっと一歩扉に向かって一歩を踏み出したのは、先ほど
俺が助けた金髪の少女だった。
﹁この先は、安全なのですね?﹂
﹁ああ、約束する。こっちが片付いたら、すぐに出してもやれる﹂
﹁では︱︱⋮⋮、私は行きます﹂
彼女は、ラウンジに集まっている人々を見渡し、そう宣言した。
﹁この方は先ほど、私を助けてくださいました。それに︱︱⋮⋮、
何か恐ろしいことを企んでいるのだとしても、ここに残ってもその
まま死ぬだけです﹂
彼女の言葉に、皆の間にざわめきが広がる。
そのざわめきに背を押されたように、おずおずと前に出たのは、
最初に窓越しに目があった一家だった。
﹁私たちも、あなたを信じます。あなたは、助けにきてくれた。そ
うでしょう?﹂
﹁ああ、もちろん﹂
家族の肩を抱いた父親の問いに、俺はしっかりと頷く。
290
﹁なら、私たちはあなたを信じます﹂
最初に扉をくぐったのは、その一家だった。
続いて、金髪の彼女。
それが切っ掛けとなり、ラウンジにいた人々は顔を見合わせると
次々と扉をくぐっていった。
﹁なるべく奥につめてください!苦しいかもしれませんが一時の辛
抱です!﹂
金髪の彼女の指示で、皆が身を寄せあい、なんとかラウンジにい
た全員の﹁家﹂への避難が完了した。
﹁俺が扉をしめたら、すぐに開けても大丈夫。その時には、安全な
外に繋がってるから。ああ、でも、異界には違いないからあんまり
遠くにはいかないように。探すのが大変だから﹂
そんな注意事項を述べて、扉を閉める。
ばたんと閉じた扉はすぐに虚空へと溶け込んで見えなくなった。
これで、この船に乗っているのは俺だけになった。
次は、イサトさんに合図をする番だ。
俺は、ふ、と浅く息を吐き、大剣を構える。
﹃ゲームの時は、飛空艇って攻撃できなかったし、ダメージ判定出
なかったじゃないか﹄
イサトさんとの会話を思い出す。
291
ゲームの中では、街の中にあるオブジェクトはいくら攻撃しても
破壊することはできなかった。それは飛空艇も同様で、いくら強力
なスキルを浴びせたところで、壊れるようなことはなかった。
だが、それもゲームの中での話。
﹃さっき、君の剣が甲板を切り裂いたってことは︱︱⋮⋮、この船、
私たちにも壊せるってことだ﹄
脳裏に思い描くのは、ゲーム時代に散々使ってきたスキル。
﹁⋮⋮ッ喰らえ!﹂
俺が剣を振り下ろすと同時に、見えない風の刃が放たれる。 っどォんッ、と腹に響く音がスキル発動と同時に響き、目の前の
壁、天井部分がそこに群がっていたモンスターごと見事に吹っ飛ん
だ。
びょうびょうと吹きすさぶ風が煩い。
これだけ派手に合図を送ったのだから、イサトさんも気づいてく
れるだろう。
ああほら、すぐにグリフォンの羽ばたきが聞こえてきた。
﹁確かに派手に頼むとは言ったが、ここまで派手だとは思わなかっ
た﹂
呆れたように言いながら、すっかり寒々しくなったラウンジにイ
サトさんがグリフォンの背に跨ったまま降り立つ。
﹁イサトさんの仕事を少し手伝おうと思って﹂
292
﹁なるほど、親切だ﹂
くつ、と喉を鳴らして笑い、イサトさんが俺へと手を差し伸べる。
腕力的にイサトさんが俺をグリフォンの上に引き上げるというの
は無理な気がしてならないのだが、せっかくなのでその手をとり⋮
⋮、体重はほとんどかけないようにしつつ、とんと床を蹴ってグリ
フォンの背へと跨った。
﹁大取りは君に任せるが︱︱⋮、その前に私も一仕事するとしよう﹂
そう言って、イサトさんは獰猛な肉食の獣のような、それでいて
どこか艶やかな笑みを浮かべた。
俺たちの作戦は、シンプルだった。
﹁家﹂を使って乗客を逃し、人質を解放した後にイサトさんが攻
293
撃魔法で飛空艇を吹っ飛ばす。
通常の魔法攻撃では触手にダメージを与えられないことは織り込
み済みだ。
その攻撃の目的は、触手の殻めいた飛空艇を破壊し尽くすことに
ある。
そして、逃げ場をなくして剥き出しになった黒い触手を今度こそ
俺が始末する。
公共の交通手段を撃墜してしまうことに関しては流石に躊躇いも
あったが、黒煙とモンスターを機体にまとわりつかせつつ、セント
ラリアへとまっすぐ高度を下げ行く飛空艇の姿に、そんな躊躇いも
吹き飛んだ。
このままでは例え乗客が助かったとしても、今度はセントラリア
の住民が犠牲になる。
大惨事は避けられない。
やるしかないのだ。
そう、覚悟を決めるところまでは良かった。
そこまでは。
乗客を救助して地上に降りるまでは、俺とイサトさんの思惑は完
全に一致していた。
我ながら感動してしまうほどに以心伝心の、鮮やかで華麗な作戦
展開だった。
が︱︱⋮問題は一度地上に降りて、﹁家﹂に避難させていた人々
を外に出してやった後に起こった。
イサトさんはさも当然のように、
294
﹁じゃあちょっと行ってくる﹂
と、単身グリフォンで舞い上がろうとしたのだ。
﹁まてまてまてまてまて﹂
﹁ぐぇっ﹂
慌てて襟首を引っ掴む。
なんだかカエルの潰れたような声がしたが、気にしないことにす
る。
それよりも大事なことがある。
﹁何あんた一人で行こうとしてんだ﹂
﹁え﹂
グリフォンの背からずり落ちかけつつ俺を振り返ったイサトさん
が、不思議そうに瞬いた。
このやろう、思ってもなかったことを言われたみたいな顏しやが
って。
﹁俺も、つれてけ﹂
この状況で、イサトさんを単身で接敵させる気など俺にはない。
だというのに、イサトさんは困ったような、困惑したような表情
で眉尻を下げた。
まるで聞き分けなく駄々をこねるガキを相手にする年長者のよう
な顏だ。
295
﹁秋良青年が乗ってると重くて回避がしにくいんだ﹂
ぐぬ。
だが俺だって折れる気はない。
﹁回避しなくてもいいぐらい援護してやる﹂
﹁えー⋮﹂
ぶー、と謎のブーイングを喰らった。
﹁詠唱してる間に攻撃を仕掛けられたらどうするんだよ﹂
高位の、破壊力の大きい攻撃魔法ほど、発動までの待機時間は長
くなる。
今イサトさんが使おうとしているような、高破壊力広範囲攻撃魔
法ならなおさらだ。
実際に呪文を唱えているわけではないが、ゲーム内において詠唱
タイムと呼ばれていたその時間の中では、魔法使いはそれ以外のこ
とが出来なくなる。
途中で攻撃されたり、もしくは魔法使いが回避行動などに出ると、
発動されようとしていた魔法は自動でキャンセル扱いになってしま
う。それ故に、高位の魔法ほど使いどころが難しく、前衛とのコン
ビネーションが大事になるのだ。
だというのに、イサトさんは一人で行くと言う。
﹁紙装甲が無茶すんな!﹂
﹁当たらなければよかろうなのだ﹂
﹁それフラグだからな!﹂
296
フラグをたてて見事当たって落ちるところまでがおっさんの様式
美だ。
全く安心できない。むしろ安心できる要素がない。
﹁︱︱⋮今回はイケる気がする﹂
根拠!
そのドヤ顔の根拠を言ってみろ!
引っ捕まえた襟首を、全力でガクガクと揺さぶりかけたところで
ー︱⋮、イサトさんは仕方ないなあ、というように眉尻を下げた笑
みと共に口を開いた。
﹁君はほら、最終兵器だから﹂
﹁︱︱⋮、﹂
それだけで、意図がわかってしまったことが腹立たしい。
イサトさんは、万が一に備えるつもりなのだ。
もしもイサトさんの作戦が失敗した時に、俺が一緒にグリフォン
に乗っていた場合、俺はイサトさんと共倒れる。イサトさんに何か
あって召喚が続かなくなった場合、俺は足場を失い、落ちて死ぬ。
イサトさんは、それを避けたいのだ。
ああくそ。
なんで俺は飛べないんだ。
俺に単独での飛行手段があったのなら、イサトさんについていけ
ただろうに。
297
ぐ、と置いて行かれる悔しさに口元を引き結んだ俺に、イサトさ
んがくつりと喉を鳴らして楽しそうに笑った。
﹁だから、地上からの援護を頼むよ。
︱︱私が、落ちないように﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮任せとけ﹂
もう、それしか言えなかった。
それはなんだか、ちょっと夢みたいな光景だった。
グリフォンに跨ったイサトさんが、黒い触手に覆われた飛空艇へ
と迫る。
モンスターどもはすでにその中に誰もいないとも知らず、相変わ
らず群がっては装甲を破り、破れた穴から飛空艇の中に潜り込んで
は破壊の限りを尽くしている。
298
飛空艇はだいぶ高度を下げたとはいえ、まだまだ高さは保ってい
る。
この調子で進めば、墜落地点はセントラリアのど真ん中、という
ところだ。
︱︱⋮この調子で進めれば、だ。
俺が見つめる先で、イサトさん例の禍々しいスタッフを一閃する
のが見えた。
その動きに合わせて、飛空艇を圏内に収めて紫がかった光が複雑
な魔方陣を虚空へと描き出す。イサトさんがそこへ魔力を流し込む
につれ、魔法陣を形作る紫電はますます色濃く光を弾き、ところど
ころで魔法陣が生き物のように蠢き始める。まるで歯車の一つであ
ったかのように、一つ、また一つと魔法陣の動きが伝播していき、
最終的には飛空艇を包み込むように展開された魔法陣全体が轟々と
渦巻くような光に包まれた。
異変に気付いたのか、何匹かのワイバーンが術者であるイサトさ
んに向かっていくが、その攻撃をグリフォンが素早く回避する。
⋮⋮確かにあの動きは、俺が乗っていては難しかったかもしれな
い。
さらに悪あがきめいてイサトさんへと伸ばされる黒い触手に向
かっては、地上から容赦なくスキルを発動させて風の刃でぶった切
ってやった。ごう、と渦巻く風にブレそうになる太刀筋を腕力で抑
えて、イサトさんに近づくものを撃墜する。対触手なので、しゃら
んら★を使ってやりたいところだが、メイス扱いであるしゃらんら
★では俺の大剣スキルが発動しないのだ。
299
早く、墜ちて来い。
今度こそトドメを刺してやる。
じりじりと殺意を燻らせながら、俺は地上からの援護を続け⋮⋮。
そして、イサトさんの術が完成する。
イサトさんの持つスキルの中で、最強の攻撃力を誇る魔法攻撃。
ただ、発動まで時間がかかるのと、一発でイサトさんのMPを空
にするほどの燃費の悪さで、実戦ではほとんど死蔵されていた。
カッと紫電が煌めき、魔法陣の外周が光の壁となり、対象である
飛空艇とそこに群がるモンスターを纏めて閉じ込めた。飛空艇の先
が、光の壁にぶつかってめきりとへしゃげる。どれほどの圧がかか
っているのか。それを、光の壁はびくともせずに押し返す。
そこに、耳を劈く雷鳴と共に雲を割って幾筋もの稲光が降り注ぎ
︱︱⋮、荒れ狂う紫電の奔流が魔法陣の中に取り込んだもの全てを
灼き尽くし、蹂躙する。周囲に、物が焼ける焦げた匂いがたちこめ
た。その匂いが、見ている光景が嘘ではないということを証明して
いるかのようだった。それほどに、幻想じみた光景だったのだ。グ
リフォンに跨り、圧倒的な攻撃魔法で人の生み出した叡智の結晶た
る飛空艇を破壊するイサトさんは、驚くほど神々しく見えた。
︱︱⋮着てるのはナース服だけども。
イサトさんの攻撃により、次々と誘爆を起こして爆発炎上する飛
空艇を、先ほどまでそれに乗っていた人々が信じられないといった
顏で呆然と見上げている。
勢いを失った飛空艇は、ばらばらと細かく崩れながら地上へと降
300
り注ぐ。
そんな中に、どろりとアメーバのように蠢く黒い影が見えた。
取り付く寄る辺を失い、ひらひらどろどろと風に翻弄されながら
落ちてくる。
お前も一人じゃ飛べないのか。
く、と獰猛な笑みに口角が吊り上る。
手にする武器を、大剣からしゃらんら★へと持ち替えた。
格好はつかないが、まあ、この物体Xを仕留められれば文句はな
い。
俺は、しゃらんら★を下段に構えてタイミングを見計らう。
そして⋮、風を孕んで膜のように広がる黒のスライムが、俺に向
かって突っ込んできた瞬間。
﹁⋮⋮ッ!﹂
俺は右足から踏み込みながら、左下から右上に向けてしゃらんら
★を振り抜いていた。
ぼひゅっと水面を叩いたような感触が手に伝わり、しゃらんら★
のクリーミィピンクが漆黒の粘体を突き抜ける。だがまだ終わらな
い。振り上げた腕を勢いのまま円の軌道で元の位置に戻して再び逆
袈裟に斬りあげる。そして二度目の斬撃の終わりで刃先を返して右
上から左下への袈裟斬り。
スキルほど派手でもなければ、鎌鼬が発生するわけでもない、シ
ンプルだが生身でも実戦可能な三連斬。剣道の道場で、居合もやっ
ているという先輩から面白半分に習った﹁空蝉﹂という技だ。
301
刃がついていれば、俺の生半可な太刀筋ではうまいこと決まらな
かったかもしれないが⋮⋮しゃらんら★には元より刃はない。ただ、
素早く連続で薙ぐための型として使ったがために、かえって上手く
いったようだった。
斜めにずぱんずぱんと打ち抜かれ、きりきりと舞った黒スライム
は、今度こそ断末魔めいた音を発しながら、ぶわりと霞むように塵
と化していく。細かく、細かく砕けて、最後には黒い霞のような粒
子となって風に散らされた。後には何も残らない。
⋮⋮終わった、か?
しゃらんら★を地面について、俺は息をつく。
﹁手強い敵だった︱︱⋮﹂
いろんな意味で。
主に俺の絵面的な意味で。
ふっと溜息をつきつつ、俺は額の汗をぬぐう。
飛空艇を一隻丸ごとぶっ壊す、という非常に乱暴な、下手したら
犯罪者で、下手したら莫大な借金を背負わされるかもしれない悪手
ではあったかもしれないが、どうにか誰も死なずに解決できた⋮⋮、
と思う。
と、そこへばさりと羽音を響かせてグリフォンが俺の目の前に降
り立った。
ちょんと座ったグリフォンの背から、ずずずず、とイサトさんが
滑り落ちる。
302
﹁イサトさん!?﹂
まさか援護が及ばず怪我でもさせたか、と慌てて俺はポーション
をぶっかけようとインベントリへと手を滑らせかけるものの⋮⋮ぺ
たりと地面にへたり込んだイサトさんが、ゆる、と俺を見上げて口
を開いた。
﹁︱︱⋮腰が抜けた﹂
﹁今この瞬間俺の腰も砕けかけたわコノヤロウ﹂ ぐたり、と全体重をしゃらんら★に預ける勢いで脱力する。
この世界で俺が死ぬことがあるとしたら、たぶん心配死だと思う。
死因はイサトさんだ。間違いない。
﹁秋良青年、セントラリアから人が来る前に逃げよう。ここで捕ま
ったら厄介なことになる﹂
﹁逃げよう、たってイサトさん立てるのか? 腰、抜けてんだろ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
良いえがおだった。
デジャヴ
良いえがおで、イサトさんは俺に向かって手を差し出した。
なんだかちょっと既視感。
ああ、そうだ。
最初、この世界に飛ばされてきた時にも、イサトさんはこうやっ
て手を差し出して俺に起こしてくれとせがんだのだ。
﹁⋮⋮甘えんな、イサトさん﹂
あの時と同じ言葉を返しつつ、俺はひょいとイサトさんを引き起
こして︱︱⋮
303
﹁秋良青年おんぶ﹂
﹁いや本当甘えんな?﹂
全く。困ったイサトさんである。
が、それでも置いて行くなんて選択肢はないので渋々背負う。
のしり、と背中にかかる重みが、驚くほどに軽やかだ。
柔らかな黒革に包まれた脚を両手でそれぞれホールド。直接肌に
触れているわけでもないのに、妙にドギマギとした。
その背後で、ひらりとグリフォンがあらぬ方向へと飛び立ってい
く。
﹁目くらまし?﹂
﹁そう。適当なところまで飛んで帰還するように命じてある﹂
﹁なるほど﹂
あえて地上から見える程度に低空を飛ぶグリフォンの姿に、少し
離れたところから歓声のようなものがあがるのが聞こえた。この隙
に、俺はイサトさんをかついで逃げれば良いというわけか。
﹁行け、秋良!﹂
﹁イサトさん、俺のこと新手の騎乗モンスターか何かだと思ってる
だろ﹂
﹁わはははは﹂
半眼で呻きつつ、言われた通りにさっさと走り出す。
別段本気で気を悪くしたわけではないが、良いようにあしらわれ
っぱなしなのも悔しい。
304
俺は、イサトさんが逃げられないようにがっちりと腕のホールド
を強化した。
たったった、と走りながらさりげなさを装って口火をきる。
﹁イサトさん﹂
﹁ん?﹂
﹁胸、当たってる﹂
﹁な⋮⋮ッ!!﹂
びくッとあからさまにイサトさんが身を引こうとして、後ろにひっ
くり返りかけた。
見事に予想通りである。
なので、慌てず騒がず、右腕の肘のあたりでイサトさんの腿裏を
支えつつ、俺の首元からするっとすっぽ抜けかけたイサトさんの手
首を捕えてぐいと引き戻す。
﹁えっ、ちょっ、まっ、⋮⋮えっ﹂
﹁ほらほらちゃんと乗ってないと落ちるぞ、イサトさん﹂
﹁落とせ、ここはむしろ落とせ!﹂
﹁いやいや騎獣たるもの主を落とすわけには﹂
﹁ごめん私が悪かった!!!!﹂
そんな賑やかな会話に口元を緩ませ。
柔らかな体温を背中に感じながら、俺はセントラリアに向かって
走るのだった。
イサトさんは反省してください。
305
おっさん、破壊神になる︵後書き︶
十万字まであと一万ちょいか、と思いつつ書いていたら本当にその
長さになってしまった十四話。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
pt、お気に入り、感想等励みになっています。
306
おっさんとスキル︵前書き︶
0917加筆修正
307
おっさんとスキル
飛空艇を撃墜などというテロリストも真っ青な所業をやり遂げた
後︱︱⋮。
俺はセントラリアの南門が近くなり始めたあたりで、ようやくイ
サトさんを背から降ろしてやることにした。
セントラリアの西に位置するトゥーラウェストからやってきたの
で、本来ならば西門から入るのが最短だったのだが、今ごろ飛空艇
の撃墜騒ぎで西門はごった返しているだろう。
あれだけセントラリアから目と鼻の先で起きた大事件だ。事情を
調べるために騎士団も派遣されているだろうし、うっかり下手人と
して捕まっても面倒くさい。
いざとなったら力押しで逃げられないこともないだろうが、ここ
で指名手配でもされてしまったら今後動きにくくなること間違いな
い。
そんなわけで、一旦西門を離れ、そそくさと南門側へと回ったの
である。
さりげなくうっかり道をそれてしまっていた旅人を装って南から
の街道に戻る。
﹁︱︱⋮君、たまに容赦ないよな﹂
﹁そう?﹂
308
疲れたように呻くイサトさんに、俺はしらばっくれた笑みを返し
た。
普段わりとしてやられているので、俺にだってたまには仕返しが
許されてしかるべきだ。ぽかぽか背中を軽やかに殴られたりもした
が、ご褒美です。
そうして並んで歩き始めたところで、ふとイサトさんが呟いた。
﹁⋮⋮アレ、なんだったんだろうな﹂
アレ、というのはあの人型の存在だろう。
﹁たぶん、俺がカラットで見たのと同じヤツだと思うんだけど﹂
あんな薄気味悪い存在を、俺は長年RFCをプレイして来た中で
一度たりとも見たことはない。あんな奴が出てくるイベントなんて、
なかったはずだ。覚えがないのはイサトさんも同じなのか、やはり
難しい顏で首を捻っている。
うまく説明のつかないモンスターによる飛空艇の襲撃。
それを操っていたように見える謎の人型。
俺らが知らないところで、この世界では一体何が起きているのだ
ろうか。
﹁⋮⋮まあ、何かが起きてる、ってことがわかっただけ良いのかも
な﹂
俺は小さくつぶやく。
何の心の準備も出来ないままに巻き込まれるよりは、おかしなこ
とが起こっている、とわかっていた方がまだ対処のしようもある。
309
ここは俺たちの知るRFCの流れを汲んだ未来の異世界で、俺た
ちが知らない何かが起きている。
それがわかっただけでも、心の準備ぐらいは出来そうだ。
それに、今回のことであのヌメッとした人型への対抗手段もはっ
きりした。
⋮⋮かなり不本意だが。
って。
俺はふと気づいたことがあって、足を止めた。
﹁なあ、イサトさん﹂
﹁ん?﹂
﹁あのマジ狩る★ステッキだけどさ﹂
﹁マジ狩る★しゃらんら★ステッキな﹂
正式名称に訂正された。
﹁そう、そのマジ狩る★しゃらんら★ステッキだけど﹂
﹁それがどうかしたか?﹂
﹁アレ、聖属性のスタッフなら普通にイサトさんが使っても良かっ
たんじゃ?﹂
﹁︱︱⋮﹂
俺につられたように足を止めたイサトさんの表情が、ひくりと引
き攣った。
それからゆっくりと、取り繕うような笑みがその口元に広がる。
﹁ナンノハナシカナ﹂
310
﹁おいカタコト﹂
やっぱりか! やっぱりか!!
属性武器というのは、その武器を使った攻撃に自動的に属性を付
与することが出来る便利武器のことだ。例えば火属性の大剣であれ
ば、普通に剣として使っても相手に火属性ダメージを与えることが
出来る。
先ほど俺がしゃらんら★でヌメっとした人型を撲殺出来たのも、
その仕組みによるものだ。物理ダメージに聖属性が付与された結果、
俺はあの人型をたこ殴りにすることで討伐に成功したわけだ。
が、それは何も物理攻撃に限った話ではなく、属性を帯びた魔法
武器の場合、その属性の攻撃魔法の威力を上げたり、属性が反目し
ていない限りはその属性が上乗せすることが出来る⋮⋮、はずなの
だ。
つまり。
聖属性のしゃらんら★で闇系の攻撃魔法を使わない限りは、普通
にイサトさんもあの人型に魔法でダメージを与えられていたのでは
ないだろうか。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ジト目で見つめていたところ、イサトさんはそっと良心の呵責に
耐えかねたかのように目をそらした。
311
﹁イサトさん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい﹂
﹁先ほどの地獄絵図について何か言い訳があるならどうぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮25にもなって魔法少女は辛いかな、って﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁普通に考えてガチムチ男の魔法少女ステッキ装備の方が辛いわ!
!!!﹂
﹁年齢的には君のがセーフだ!!!!﹂
﹁年齢じゃなくて性別で考えて!!!!!!﹂
﹁私の場合君より酷いことになるんだぞ!!!!﹂
お互い吼えるようにぎゃんぎゃん言い合いながら睨みあう。
傍を通り過ぎる旅人の集団が、ぎょっとしたように俺らに目を向
けていった。
ご迷惑をおかけしております。
っていうか、俺よりひどいことになるとはどういうことだ。
俺のようなむさくるしい男が持つよりも、イサトさんが持った方
が絶対に会うと思うんだ、しゃらんら★。
俺のそんな疑問の滲んだ眼差しに、イサトさんは嫌そうに顔をそ
むけながら言葉を続けた。
﹁それ、基本的には運営の遊び装備だったじゃないか﹂
﹁そうだな﹂
312
﹁属性武器って魔法使い的にはなかなか使いにくいアイテムなんだ
よ。火属性武器だと水や氷属性の魔法は威力が半減するし﹂
﹁その辺のことはリモネから聞いたことがあるな﹂
様々な属性魔法を駆使して敵モンスターを倒す魔法使いの場合、
結局メインウェポンは無属性に限る、とかなんとか。属性武器は狩
り場に合わせて選ぶ必要があるため、狙って属性ごとに武器を用意
するのはあまり現実的ではないらしい。
確かにもともと属性武器なんていうのは、魔法の使えない前衛職
が、少しでも戦闘を有利に行うために用意された救済武器のような
ものだ。最初から魔法を使って敵モンスターの弱点を突くことがで
きる魔法使いにとっては、それほど美味しい装備ではないのかもし
れない。
﹁そんな中で、唯一の例外は聖属性武器なんだよな﹂
﹁例外?﹂
﹁聖属性と反目するのは闇属性のみで、基本的にその他の火や風、
水、氷、土っていった属性とは相性がいいから。例えば火属性の魔
法を使う時に、聖属性のスタッフを使った場合、聖・火の両方の属
性がつくわけなんだ﹂
﹁便利じゃないか﹂
﹁うん。まあその代わり他の性能は一切ないけどな。私の普段使っ
てるスタッフは、無属性だがHP30%増と、MP10%増、あと
防御力10%増、あと魔法攻撃力に30%増がついてる﹂
﹁イサトさんのステータスをかなり底上げしてくれてるわけか﹂
﹁そういうこと﹂
それなら、まあ確かにイサトさんがしゃらんら★を使うのを躊躇
う理由には一応なるか。いくら相手への有効打を放つことが出来る
313
ようになるとは言っても、武器を持ち変えることで防御力やHPが
落ちるのは怖いものがある。
が、イサトさんがしゃらんら★を使いたくないのにはまだ他にも
理由があるようだった。嫌そうな顏で、言葉を続ける。
﹁だが、それでも聖属性追加武器、というのは非常に美味しい。ア
ンデッド系モンスターの出てくるエリアで経験値をがんがん稼げる
からな。だが︱︱⋮、君はこのしゃらんら★を使っているものを見
たことがあるか?﹂
﹁そういえば⋮⋮あんまりないような?﹂
公式がまたネタ装備を出したぞ、と話題になっていたのは覚えて
いる。街中で実際に装備して笑っている人を見かけたのも、覚えて
いる。
だが、実際にフィールドで使っている人間はあまり見たことがな
い、ような。
イサトさんは首をかしげている俺に向かって、重々しく口を開い
た。
﹁しゃらんら★で魔法使うと、強制的に魔法少女に変身します﹂
﹁ぶッ﹂
噴いた。
﹁へ、変身⋮⋮??﹂
﹁魔法に限らずMPを使うタイプのスキルを使うと変身します。男
女関係なく﹂
﹁おいちょっとまて﹂
それは俺がもしメイス系のスキルを持っていて、それを先ほどの
314
戦闘で使ってしまっていた場合、俺も魔法少女に変身してしまって
いた可能性がある、ということか。何それ怖い。
﹁ぴんくいふあっふあの甘ロリ系魔法少女に変身します。問答無用
で﹂
﹁うわァ﹂
それは確かに、使う者を選びそうだ。
でも⋮⋮外見よりも性能でものを考える人間なら使いそうなもの
だし、そもそも可愛い服をキャラに着せることに躊躇いを覚えない
プレイヤーは多そうだ。
強制変身だけで、ありがたい聖属性追加武器をお蔵入りするだろ
うか。
俺のそんな疑問に、イサトさんはふっと視線を遠くにやった。
﹁ただのネタ装備なら、ゲームとしてアバターが使う分には喜んで
使ったよ。女装仮装何でもござれだったしな﹂
﹁確かに、おっさんしれっとネタ装備してること多かったな﹂
ビリベアの着ぐるみもそうだし、例の宴会装備のお花ビキニもそ
うだ。
﹁ただこれ、光るんだよな⋮⋮﹂
﹁光る⋮⋮﹂
﹁魔法少女に変身すると、全身からずっと淡いピンクの光を放つこ
とになるんだ。それが結構邪魔なんだよ﹂
﹁あー⋮⋮﹂
アンデッド系モンスターのいるエリアとなると、基本的には暗い。
そんなエリアでずっとピンクに発光され続けると、確かに邪魔だ
315
ろう。
﹁変身してる自分でも操作しづらくなるし、同じエリアで狩ってて
画面に入るだけでも結構邪魔だし⋮⋮、ってことで実戦で使う人は
少なかったんだ﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
さすがRFC運営。
ネタ装備として性能は良いながら実戦での使い道を制限するあた
りのバランス感覚がうまいというかえげつないというか。
なるほどなァ。
しみじみイサトさんの言葉に納得しつつ、俺はそっとインベント
リを操って先ほど託されたしゃらんら★を取り出す。
そして、そっとイサトさんへと差し出した。
﹁変身しよう?﹂
ぴんくで甘ロリで光るイサトさんが見たい。
そんな切実な思いをこめた俺の言葉に、イサトさんは黙って耳を
塞いだ。
ちッ。
316
しばらくはそんなしゃらんら★を互いに押し付けあうという攻防
戦を繰り広げていたところ、ふと話題を変えるかのようにイサトさ
んがポンと手を打った。
﹁あ、そうだ﹂
﹁ん?﹂
﹁ちょっと、君に話しておきたいことがある﹂
﹁何?﹂
﹁しばらく、戦闘の際にはなるべく私の側にいてくれないか?
ぷぎ
相手が雑魚なら問題ないが、ある程度こちらの被ダメが増えそうな
時は特に﹂
﹁それはもちろんそのつもりだけど﹂
ゃー
ゲームの中でなら、﹁おっさんまた死んでやんのwww﹂と小馬
317
鹿に出来たものの、こうしてモンスターとの戦闘がリアルになった
世界ではそういうわけにはいかない。俺と比べて物理的な防御力や、
戦闘力に欠けるイサトさんのことを俺が援護するのは当然のことだ。
﹁さっき飛空艇を撃墜した時に気づいたんだけども⋮、どうもMP
の概念が感覚としてよく理解できてないんだ﹂
﹁それってどういう?﹂
﹁うーん、どういったらいいのかわからないんだけども、私たちこ
れまでMP使うような生活してきてないじゃないか﹂
﹁うむ﹂
現代日本において、﹁MP﹂という概念は存在しなかった。
冗談で精神的に疲れた時などに、﹁MPが尽きそう﹂なんていう
表現を使うようなことはあったが、それはあくまでネタである。
﹁ああ、そうか﹂
俺は、ぽんと手を打った。
﹁MP使ってる、って感覚がないのか﹂
﹁そうなんだ。だから下手すると自覚なく唐突にMP切れを起こす
可能性がある﹂
﹁それは⋮⋮厄介だな﹂
﹁うん﹂
ゲーム内であれば、画面の左上に常に自分のHPやMPのバーが
見えていたのでプレイヤーである俺たちは、それを基準に戦略を立
てることが出来ていた。だが、こうしてこの世界が現実となった今、
俺たちにステータス画面はない。自分の状態を客観的に見ることが
出来ないのだ。
318
﹁よくアニメとかであるみたいな、めっちゃ疲れる、とかそういう
のは?﹂
﹁集中力が落ちたかな、ちょっとだるいな、ぐらいはあるような気
がするんだけれども⋮⋮さっき実際大魔法を発動させた感触として、
それほど劇的な変化ではない⋮、かな。なんというか、戦闘中のア
ドレナリンでまくった状態で冷静にそれに気づけるか、っていった
ら危ういと思う﹂
﹁なるほど﹂
よくライトノベルやアニメなどでは、MPを使い過ぎると意識を
失ったり、下手をすると命にかかわる、というような描写があるが、
どうやらこの世界ではそういうわけではないらしい。
﹁まあ、MPが切れると意識を失う、とか死に至る、ってペナルテ
ィが発生するわけじゃないのは俺としては安心かな。イサトさん、
そういう無茶平気でやらかしそうだし﹂
いざという時、イサトさんはそういう無茶を平気でやるタイプだ
と思っている。
﹁⋮⋮否定はしない﹂
﹁してくれよ﹂
うろり、とイサトさんが遠いところへと視線を彷徨わせた。
そして、誤魔化すような咳払いが一つ。
﹁が、逆にそういうペナルティがない分危険な気もするんだよな﹂
﹁またそうやって誤魔化す。⋮って、逆に危険?﹂
﹁だって、自分がMP切れしてるって自覚がないまま戦闘が続行す
319
るんだぞ。その勘違いって結構命取りだと思わないか?﹂
﹁⋮⋮あ﹂
確かにそうだ。
敵の攻撃を魔法であしらうつもりでいて、その魔法が発動しなか
ったら?
仕留められると思っていたはずの敵を仕留め損なって反撃を食ら
ったら?
俺らはそれなりにゲーム内での高ステータスを引き継いだ状態で
この世界に迷い込んでいるため、基本的にはよほど無茶なエリアに
無謀な特攻をしない限りは戦闘で死ぬ可能性は低いだろう。
だが、先ほどの人型の件もある。
カラットで見かけたように、あの人型に類するようなモノがあち
こちに潜んでいると考えた場合、これからも俺たちがあのような騒
動に巻き込まれる、というのは決して考えられない話ではない。
そんな人型との戦闘の中で、もし自覚なくMPが切れるようなこ
とが起きてしまったら。
脳裏に、無残に切り倒されたアーミットの姿がよみがえる。
あの時の、しんしんと身体が冷えるような恐怖と、腸から煮えく
りかえるような怒りを思い出すと、足元から沈み行くような不安を
感じた。
﹁イサトさん、頼むから危ないことはしないでくれよ﹂
イサトさんに何かあった時、自分がどうなるのかがわからなくて
怖い。
320
あの時の俺は、目の前で会ったばかりの少女が斬り殺されたこと
にぶちキレて、比較的冷静なまま相手を殺そうとした。
じゃあ、付き合いの長いイサトさんが目の前で殺されたら?
﹁っ⋮⋮﹂
厭な想像に、眉間に深い皺を寄せる。
そして⋮
﹁わかってるよ。だから、先に君に相談しているんだ﹂
そんな俺を安心させるように、隣を歩くイサトさんがぽん、と軽
く俺の腕を叩いた。イサトさんの癖なのだろうか。俺を宥めたり、
励まそうとするとき、イサトさんは軽やかに俺の腕に触れる。
手を握るほど近くはなく、それでいて言葉だけほどの距離もなく。
ちょうど良い距離感を感じる触れ合いに、俺はゆっくりと深呼吸
をして落ち着きを取り戻す。
﹁最初から私がこの世界の住人なら⋮、経験からどのスキルをどれ
だけ使ったら自分のMPが尽きるのか、っていうのが感覚としてわ
かってるんだろうけどな﹂
﹁ゲーム時代の感覚はアテにならない感じ?﹂
ゲーム時代であっても、MP回復薬を飲むタイミング等である程
度MPの消費率は把握できていたような気がするが。
﹁大技に関しては覚えてるんだ。さっき飛空艇を墜とすのに使った
スキルなんかは一発でMPが尽きる大技だ。その他にもわりと大型
なスキルに関しては大体五発連発したらMPヤバい、って認識はあ
321
る。でも⋮﹂
イサトさんは、そこで一度言葉を切ると、いつの間にか右に手に
していたスタッフを何気ない仕草で一閃した。そこから放たれた空
気の刃が、道沿いに転がっていた大岩をすっぱりと切断する。
﹁普段の戦闘で使う攻撃魔法なんてこの程度の小技だろ?そうなる
と、小技をどれだけ連発したら自分のMPが尽きるのか、なんての
は私も把握してないんだ﹂
﹁⋮⋮なるほどなぁ﹂
しみじみと納得した。
浴槽から水を汲みだすのに、大きなバケツを使えば五回で空にな
るとわかっていても、スプーンで組み出したら何回になるのかはわ
からない、といった感覚だろうか。それにMPやHPは緩やかでは
あるが時間経過とともに回復する。そうなるとますます回数は曖昧
になってしまうだろう。
﹁ってことは⋮⋮、やっぱり戦闘中はなるべく俺がフォローするよ
うにするしかないか﹂
﹁戦闘が想定以上に長引いたり、苦戦するほどの強敵、あのヌメっ
とした人が出てきたときには、そのあたりのことを念頭に置いてて
くれると助かるよ。
できれば⋮、そういう事態が起きる前に、MPの感覚に慣れておき
たいけども﹂
﹁おお、イサトさんにしては珍しく戦闘に乗り気な﹂
﹁私だって死にたくはないし⋮、君を危険に晒したいわけでもない
からな﹂
﹁⋮⋮っ﹂
322
さらりと言われたイサトさんの言葉に、少しだけどきりとしてし
まった。
俺を、危険にさらしたくない。
あの面倒くさがりで、自分の戦闘レベルをあげることよりも趣味
的な技能レベルをあげることを優先しがちなイサトさんが、俺のた
めにまともに戦闘訓練をしようなんて。ちょっと、嬉しいかもしれ
ない。
思わず緩んでしまいそうになる口元を、手で押さえて隠す。
イサトさんはそんな俺の様子には気づいていないのか、難しい顔
で言葉を続けていく。
﹁それに⋮⋮、実は課題がもう幾つかあるんだ﹂
﹁ん?MPの他にも?﹂
﹁うん。なんていうか、かなり初歩的なことなんだけど﹂
﹁なに?﹂
﹁実はスキル名覚えてない﹂
﹁ぶふッ﹂
想像以上に初歩的なことだった。
﹁秋良青年だって覚えてなくないか。普段略称だし操作するときは
ショートカットキー押すだけだし﹂
﹁⋮⋮そう言われるとそんな気もする﹂
確かに俺も、自分の所持していたスキルを全部正式名称で言える
かと言ったら非常に怪しい。普段使うことが多かった﹁風刃三連斬﹂
だとか、﹁焔魔光刃﹂だとかはなんとなく字面は覚えているが。
323
ちなみに﹁風刃三連斬﹂は﹁h3﹂、﹁焔魔光刃﹂は﹁援交﹂な
んていう通称でゲーム内では呼ばれていた。
﹁アキは洞窟のボスを最終的に援交で倒した﹂なんて言われた時の
人聞きの悪さ、プライスレス。
﹁魔法系はほら、スキル名がやたら仰々しくて長いの多かったし⋮
⋮﹂
言い訳のようにごにょごにょ呟きながら、イサトさんは肩を竦め
て息を吐く。
﹁でも、スキル名を覚えてないと何か困ることってあるっけか?今
のところ普通にスキル使えてたよな?﹂
俺もイサトさんも、この世界にやってきてから当たり前のように
スキル名を唱えたりすることなくスキルを行使してきている。
今更スキルの正式名称がわからないからといって困ることはない
ように思うのだが⋮⋮。
﹁普通に使う分にはそんなに困らないんだけど⋮⋮、切り替えがス
ムーズじゃないな﹂
﹁切り替え?﹂
﹁たぶん、こっちの世界におけるスキルだったり魔法っていうのは
﹃どのスキルを発動させるか﹄っていうイメージが重要になってる
んだと思う﹂
﹁ふむふむ﹂
﹁スキルカードを使うことで、スキルの使い方を頭の中に叩きこみ、
その発動イメージをトリガーにMPと引き換えにスキルが実際に発
動する︱︱⋮と言ったら伝わる?﹂
﹁大体わかる気はする﹂
324
当たり前のようにそうしていたが、言われてみれば確かにスキル
を使うときにはそのプロセスを経ていたように思う。
﹁スキルに名前がついてるのは、その発動イメージを浮かびやすく
するため、なんじゃないかな。条件反射的に、スキル名を口にする
ことで、そのスキルのイメージが湧きやすくなる、っていうか﹂
﹁ふんふん、なるほど﹂
﹁普通にスキルを使う分にはそんなに不便を感じてなかったんだけ
ど⋮、さっきの戦闘の時にいくつかのスキルを使い分けようとした
ら、スキルの切り替えがうまくいかなかったんだ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
俺はふと思いついたことがあって、つっと道をそれた。
イサトさんは俺がしようとしていることがわかるのか、特に追う
ことはせず街道に立ったまま俺の動向を見守っている。
手頃な岩は⋮⋮、っと。あった。
俺は背丈の三倍ほどはある岩の前にたつと、腰に下げた剣に手を
かけて二種類のスキルを連続して放つ⋮!
﹁⋮⋮だっ!﹂
素早く三度振り抜いた先から放たれた風の刃が交差、重なりあう
ような軌跡で岩をすっぱりと切断。返す刀で発動したスキルにより、
手にした剣が紅蓮の焔を纏って斬りつけた岩塊を溶断する。
﹁って⋮⋮あれ?﹂
325
特に違和感や、不具合を感じることなく二種類のスキルの連続発
動に成功してしまった。ぽりぽり、と頭をかきつつイサトさんを振
り返る。
﹁⋮⋮何故だ﹂
解せぬ、と不満そうにイサトさんが唇を尖らせる。
﹁私もスキル試したいから、秋良青年ちょっと的にならないか﹂
﹁おいこら待てこら﹂
物騒なことをぼやくイサトさんにツッコミをいれつつ、俺は街道
に戻ると、再びイサトさんと並んで歩き始める。
イサトさんはむっつりと眉間に皺を寄せつつ考え込み⋮、ぽん、
と手を打った。
﹁わかった﹂
﹁何が﹂
﹁秋良青年のスキルの場合、動作がスキルのイメージを手伝ってる
んだ﹂
﹁動作が?﹂
﹁最初のスキルの発動には、三連撃を放つっていう動作が伴ってる
だろう?﹂
﹁そういやそうだな﹂
無意識のうちに、ゲーム内のキャラのアクションを真似ていた。
﹁︱︱あ﹂
俺も、ぽん、と手を打った。
326
イサトさんの言いたいことがわかったような気がする。
﹁そっか、イサトさんの魔法スキルの場合、発動するスキルの種類
は違っても動作としては﹃スタッフを振る﹄って行動は同じなのか﹂
﹁そういうこと。杖を振るとエアリアルカッターが出る、というイ
メージを一度発動させると、﹃杖を振る=エアリアルカッター﹄で
イメージが固定されて﹃杖を振る=ヘルフレイム﹄に切り替えるの
が上手くいかないんだ﹂
﹁なるほどな。杖の振り方をスキルごとに変える⋮にしてもその認
識から作らないといけないわけか﹂
﹁そういうこと。あー⋮面倒くさくなってきた﹂
歩きながら、かくりとイサトさんがうなだれる。
スキルを発動させるのに、スキルの正式名称を叫ぶ必要はない。
だが、それに代わる起動イメージを呼び起こす﹁スイッチ﹂はど
やはりあった方が良いのだ。そしてその﹁スイッチ﹂と﹁結果﹂で
あるスキルが結び付くには、これまたやっぱり地道な実戦を重ねる
しかないのだろう。
﹁しばらく戦闘のメインにイサトさんを据えて⋮、俺は援護に徹す
る、とかにした方が良いかもしれないな﹂
﹁うう⋮﹂
イサトさんにはひたすらスキルの使い分けや、MPの消耗感覚に
慣れてもらう必要がある。
呻きつつも抵抗はしないあたり、イサトさんも実戦の必要性はわ
かっているらしいかった。
そして︱︱⋮、セントリアの城壁が見え始めた頃。
ふと俺はあることに思い当って口を開いた。
327
﹁そういや、イサトさん、さっき課題は他に幾つかある、って言っ
てなかったっけか﹂
﹁言ったな﹂
﹁他にも何かあるのか?﹂
﹁ええと、さっき私は必要に迫られて飛空艇を撃墜しちゃったわけ
なんだけれども︱︱⋮、それが犯罪だと認識された場合、街の入口
でとっつかまる可能性が少々﹂
﹁あ﹂
失念していた。
俺たちの冒険者カードを発行してくれた酒場の主人の言葉が本当
ならば、このカードは﹁犯行の記憶﹂に反応してアラートを鳴らす
ことになっている。
街の入口で身分証としてカードを石版にかざした瞬間鳴り響く警
告音︱︱なんていうのはなかなかに洒落にならない。
まあ、俺とイサトさんであれば、街の騎士ぐらいなら楽々蹴散ら
せるような気もしないではないが。
気もしないではないが⋮それはあくまで最終手段にしておきたい。
お尋ねものになるのは、他に選択肢がなくなってからで十分であ
る。
﹁カードは常に私たちの記憶に同期するようになっている、、と言
っていたわけだし、今現在アラートが鳴ってないあたり、ギリセー
フで犯罪者にならずにすんだと思いたいところ﹂
﹁そうだな﹂
今のところ、突き合わせて覗きこんだ二人分の冒険者カードには
警告らしきものは一切浮かんでいない。あるのは、嘘のように跳ね
あがった経験値とレベルぐらいである。
328
﹁もし入口でアラートが鳴ったら︱︱⋮、とりあえず全力﹂
﹁全力﹂
その次に来る言葉が﹁殲滅﹂でないことだけを祈る。
﹁そんなもんか﹂
﹁あと、最後に一番大事な相談が残っているかもしれない﹂
﹁一番大事な?﹂
今話していたこと以上に大事な話題、なんてあっただろうか。
﹁MPの消費について﹂や﹁スキルの切り替え﹂以上の大事。
一体何をイサトさんが言おうとしているのかが予想もつかず、黙
ってその続きを待つ。
イサトさんは神妙な顔ですっと息を吸い⋮
﹁ぱんつ栽培したい﹂
全力で何言ってんだこのひと。
329
おっさんとスキル︵後書き︶
仕事が多忙を極めた結果、久しぶりの投稿に。
隙を見てはちまちま投稿したいです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
Pt,お気に入り、感想、励みになっています。
あと生存確認用ツイッター始めました。
@maru︳yamada
あまりマメではありませんが良ければどうぞ。
330
おっさんとぱんつ
﹁この世界が現代日本とは違うことはよくわかっているんだ﹂
﹁うん﹂
﹁だから日本の常識を押し付ける気はないし、押し付けてはいけな
いこともわかっている。郷に入れば郷に従えという言葉のある通り
だ。自分たちの常識とは異なる文化を野蛮だとか劣っている、遅れ
ているというつもりもない﹂
﹁うん﹂
﹁だから毎日お風呂に入れないことは仕方ないと思う。それでもま
あスキルを活用したならば、タオルで身体を拭くぐらいのことは出
来るからな﹂
﹁うん﹂
﹁でもぱんつは毎日換えたい﹂
イサトさん
おっさんは切実だった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
妙齢の女性の口から﹁ぱんつ﹂なんてエロワードが出てきている
のに、ときめきを感じないのはイサトさんがどこまでも大真面目か
つ切実だからかもしれない。
それでも、ちろりと視線を隣を歩くイサトさんの腰のあたりまで
降ろすと、ぴっちりとタイトなナース服の奥に潜む神秘についてを
真剣に考察してしまいそうになった。
いかん。それは考えたらあかんやつや。
331
俺は頭を左右に振って、そっと視線を隣から歩くイサトさんから
反らした。
そうなると自然に目に入るのは、セントラリアの街並みである。
そう。
俺たちはあの後、無事にセントラリアに入ることが出来ていた。
心配していたような、入国審査でひっかかるようなことはなかっ
た。
それはありがたいのだが⋮⋮飛空艇なんていう重要な交通機関を
破壊して堕とすなんていうテロリストさながらのことをやらかして
おいて鳴らないアラートというのは本当に大丈夫なのだろうか。お
かげで助かった俺らが言えた言葉ではないのだが。
﹁こら、聞いてるか﹂
﹁ごめんちょっと現実逃避してた﹂
﹁私は大真面目なんだぞ﹂
﹁いや、それはわかるんだけどさ。大真面目にぱんつの話をされて
も俺としては困るというかなんというか﹂
イサトさんの気持ちはわかるのだ。
わかるのだが、その話題に真面目に取り組むとたぶん俺の脳みそ
が大変なことになる。イサトさんのぱんつ事情が気になって夜も眠
れなくなる。そんなわけで、ぱんつについての話題を聞き流すよう
に現実逃避に走っては、イサトさんに引き戻される、というような
ことを繰り返してしまっていた。
﹁と、いうわけでぱんつ栽培がしたいわけです﹂
﹁ぱんつって栽培するものなんです?﹂
﹁正確に言うとぱんつ専用綿花栽培﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
332
俺がぱんつの話題に怯んでいるのに気付きつつも、イサトさんが
退かない理由がわかった。イサトさんは俺の﹁家﹂を使って綿花の
栽培をしたいのだ。家主である俺の許可が欲しいがために、こうし
て切々と訴えているのだろう。
﹁君が恐れていることはわかるぞ。私が元の世界に戻るための努力
も忘れ、農家ライフを満喫する可能性を警戒してるんだろう?﹂
﹁あー⋮、うん﹂
さすがのイサトさんも、元の世界に帰ることよりも農業を優先す
ることはないだろう、とは思っている。それでも⋮、出来ればしば
らくはメインジョブの強化に専念して欲しいと思ってしまうのだ。
﹁だから、ぱんつ栽培﹂
﹁だから、なのか﹂
﹁だから、だ﹂
イサトさんの順接の使い方に疑問を呈してみたが、さも当然のよ
うにこっくりと頷かれてしまった。
﹁君の監督の範囲で、基本はぱんつの素材としての綿花栽培を許し
てもらえないだろうか﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁当然君のぱんつも作るから﹂
﹁⋮⋮ますます悩ましいわ﹂
イサトさんとしては後押しのつもりだったのだろうが、余計に躊
躇してしまう。
が、その一方でイサトさんの言う﹁せめてぱんつは換えたい﹂と
333
いう意見には俺としても心底同意したい。元の世界に戻るまで、俺
とイサトさんは嫌でも基本的には共同生活を強いられる。お互い気
持ち良く関係を保つために、最低限の身だしなみには気を遣いたい
ところだ。特に俺らは男女のコンビなのだから。
﹁街で既製品を買っておいておくというのは?﹂
﹁不可能ではないと思うが、下着のためだけに箪笥のスペースを三
つも消費するのは辛くないか?﹂
﹁あー⋮あれセットじゃないんです?﹂
﹁ない﹂
きっぱり断言されてしまった。
そうかセットじゃなかったのか。
﹁一番最初の初期装備のデフォルト下着はセットな気がしないでも
ないが⋮、RFC的には下着なんて基本的には﹃見えない﹄部分の
装備だろ?だからあんまりレシピにも種類がないんだよ。あるのは
一部に大人気すぎてネタで実装された縞パンとアウターと合わせる
見せブラぐらいかな﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
確かに現実と異なり、ゲーム内では下着というのはそれほど重要
視されない。露出度で言うならばビキニなど水着類で代用できるか
らだ。実際RFCのプレイヤーは水着が下着と同じレイヤーで着用
されることを生かし、装備の下からお気に入りの水着を着る者が多
かった。そうしておけば、万が一装備の耐久値が振り切って戦闘中
にフィールドでキャストオフしても﹁下着じゃないから恥ずかしく
ないもん﹂が出来るわけだ。眼福眼福。
が、実生活で水着を下着として代用できるかといったら無理だ。
334
子供の頃、プールや海に遊びに行く際に、家から水着を着せられた
時の違和感を思い出して、俺はもぞりと背中を揺らした。
そしてそれからちらり、と視線をイサトさんの胸のあたりに流し
てみる。男と違って女性の場合上半身にも下着が必要であり、それ
がセットになっていないことを考えると、確かに下着だけで箪笥の
スペースを三つも占められてしまうのはかなり痛い。
﹁綿花ならある程度まとめて作って各自インベントリに保管、箪笥
には綿花をごっそり詰めておく、という補充形式がとれる﹂
﹁うーん⋮﹂
それならばインベントリにパンツを、とも思ったが⋮⋮重量制限
のある荷物に替えの下着を詰めて戦闘用の資源が圧迫されるという
のはあまり賢くない。
﹁ぱんつ栽培、許可するしかないのか⋮﹂
ぐぬぬ、と唸る。
イサトさんにぱんつ専用綿花とはいえ、農家になる許可を与えて
しまうのはなんとなく不安だが、背に腹はかえられない。
﹁本当なら着替えだってしたいが︱︱⋮、そこはまあ我慢するしか
ないからせめてぱんつ﹂
﹁うーん、着替えまで持ち歩く、着替えまで毎日生産するのはさす
がにいくらイサトさんだって厳しいもんな?﹂
﹁材料さえあれば⋮、と言いたいところだが、私たちのレベル帯に
なってくるとわりと素材もレアだからな﹂
毎日日替わりでレア素材を駆使した装備を作るというのは不可能
335
だ。
幾つか着回し出来るだけの装備を用意して、着替えて洗濯して⋮、
ならまだ可能性はあるだろうか。ただ、それでもどこに干すのかと
いう問題は出てきてしまう。人類が発展と共に遊牧スタイルから定
住スタイルに変わっていった進化の流れを垣間見てしまう瞬間だ。
人は快適さを求めて財をなし、その財を保管するために定住を求め
たのだ。
﹁生活するって厳しいのな⋮﹂
﹁⋮うむ﹂
しみじみと二人して項垂れる。
一体他の冒険者たちはその辺の部分をどうしているのだろうか。
もしくは、そういった不快さに目を閉じることが出来る者のみが
冒険者たりえるのだろうか。
﹁⋮⋮わかった。ぱんつ栽培承認しよう。けど、あくまでぱんつ栽
培だからな。ぱんつのための綿花栽培なので、謎の凝り性を発揮し
てえらいもん作ろうとしたりはしないように﹂
﹁ぐぬ⋮﹂
念入りに釘を刺しつつ許可を出せば、イサトさんは一度小さく唸
った。やっぱりなし崩しで何かする気だったのか。綿オンリーだか
ら!!とか言って、素材を綿だけでどこまでやれるか的なチャレン
ジでもするつもりだったのだろうか。⋮⋮やりそうだ。
﹁イサトさん?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
ジト目で名前を呼べば、イサトさんは名残惜しそうにしつつも頷
336
いてくれた。
後は俺がしっかり監督しておけば、いくらイサトさんの職人魂が
疼いたとしてもなんとか手綱を取ることが出来るだろう。
﹁イサトさん、綿花ってどれぐらいで育つの?﹂
﹁とりあえずまずは畑を作って⋮、種をまくところから始めるから
⋮⋮﹂
視線をちょろりと上空に彷徨わせてイサトさんが思案する。
﹁畑を作るのに数時間、綿花が育つまで一日、ってところかな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮イサトさん﹂
﹁なんだ?﹂
﹁それ、農家スキルあること前提で話してない?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮あ﹂
ぎぎぃっと軋むような動きで隣を見やれば、イサトさんは﹁てへ
ぺろ﹂の概念を具現化したらこんな顏になるよね、というような大
層可愛らしい笑顔で笑って見せた。
⋮⋮コノヤロウ。
﹁あんた農家スキルも持ってたのか⋮⋮!!!!!!!!﹂
﹁ごめん!!!!!!つい!!!!!出来心で!!!!!!!!﹂
そのうちこの人には、持ってるスキルあらいざらい白状させたい。
本気で。
337
その日は、その日分の着替えや、日常生活で必要になるこまごま
としたものを購入した後に宿を取って休むことにした。
イサトさんは隣の部屋だ。
カラット村で過ごした晩のように、何かあったら困ると一応備え
て眠りについたものの、特に何事もなく無事に次の日の朝を迎える
ことが出来た。
翌日の朝。
宿屋の下にある食堂で朝食を済ませた後、﹁家﹂の扉に宿屋の扉
338
を設定する。
これで﹁家﹂を仲介することで、エルリア、トゥーラウェスト、
セントラリアにはいつでも行けるようになった。
その後、イサトさんはわくわくと楽しそうにしつつ畑を作りに行
った。
ちなみに、罰ゲーム期間が終わったので、本日はアーミットのお
母さんより貰った服に戻っていた。ちっ。ちょっとばかりミニスカ
赤ずきんに期待したのはきっと俺だけではないはずだ。
そして︱︱⋮、イサトさんが農家スキルを駆使して﹁家﹂の周り
を開拓しまくった後、俺たちは街に買い出しに出かけることにした。
観光も兼ねて、ふらふらと街の中を見てまわる。
﹁ふと思ったんだけど﹂
﹁ん?﹂
﹁﹃家﹄を整えませんか﹂
﹁却下﹂
﹁違うんだ聞いてくれ﹂
じわじわと俺の﹁家﹂を改造しようとしている節のあるイサトさ
んを速攻で却下してみたわけだが、どうやらイサトさんの提案は職
人魂に突き動かされた結果のものというわけでもなかったらしい。
﹁﹃家﹂ってダンジョンや特殊な区域以外からならアクセスできる
じゃないか﹂
﹁そうだな﹂
﹁そうなると、これからしばらくは君の﹃家﹂が私たちの拠点にな
ることも多いと思うんだ﹂
﹁あー⋮、確かに。フィールドで長期狩りとかすることになったら、
339
いちいち街に戻るのも面倒くさくなるもんな﹂
﹁そうそう。ゲームの時は消耗品の補充のために﹃家﹄を使ってい
たけれど、今の状況的には休息を取るための場所としても必要にな
ると思うんだ﹂
﹁そうだな。そうなると⋮、今の箪笥しかない状態だと確かにキツ
いな﹂
﹁うん﹂
﹁家﹂はフィールドや街中、基本的にはダンジョン以外の場所か
らならば自由にアクセスすることが出来る。それ故に俺はアイテム
倉庫として活用してきていたのだが⋮、イサトさんが言うようにこ
れからは本当の意味で﹁家﹂としても使うことが増えていくだろう。
これから俺たちはポーションの素材を確保するためにあちこちで
狩りをおこなうつもりなのだが、その途中で夜になる度に街に戻っ
ていては時間のロスだ。
﹁私が改造費を出してもいいので⋮、風呂とトイレとベッドが欲し
い﹂
イサトさんはやっぱり切実だった。
こういう生活面の不便に事前に気付くあたり、やっぱりイサトさ
んは女性なんだな、と改めて思う。
俺だけならば、必要な場面が来るまで気づかなそうだ。
そんなことを思いつつ、まじまじとイサトさんを見つめていると、
イサトさんが不思議そうに首をかしげる。
﹁なんだ、どうかしたか?﹂
﹁いや、イサトさんがいてくれて良かったなと思って﹂
﹁⋮ぬ?﹂
340
﹁こういうところ、男の俺だけだったら後回しにして後悔しそうだ
ったから﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
じんわりと、イサトさんの目元に薄い朱色が浮かんだ。
どうやら照れたらしい。可愛い。照れ隠しなのか、やんわりと足
を踏まれた。痛くも痒くもない、本当に乗る程度の圧であるあたり
に謎の気遣いを感じる。
﹁それで、君に相談があるんだ﹂
﹁なんだ?﹂
うっすらと頬を赤らめたまま、イサトさんはもじもじと合わせた
両手を弄りだした。上目遣いに俺を見上げる視線と合わせて、なん
だか非常に心ときめく甘いシチュエーションを思わせて鼓動が早く
なる。
﹃私は、君のことが︱︱⋮﹄
そんな言葉の続きをうっかり期待してしまいそうになって⋮⋮︱
﹁実は私には一押しの家具レシピがあってだn﹂
﹁はい却下﹂
最後まで言わせてたまるか。
﹁聞こう!せめて最後まで聞こう!﹂
﹁いやだって聞かなくてもわかるもん。イサトさんの一押し家具な
んて素材もえらいことになってるに決まってるし﹂
﹁ぐっ⋮⋮!﹂
341
図星だったか。
家具が必要なことには同意しよう。
だが、その家具をイサトさんに作らせるかといったらそれは別問
題だ。
﹁自分で手の入れられる﹃家﹄が手に入ったら、やりたい夢がいろ
いろあったんだよー⋮﹂
﹁イサトさんイサトさん、これ、俺の﹃家﹄だからね?﹂
﹁もう秋良青年、結婚しよう﹂
﹁何言ってんだあんた﹂
これほどまでに爽快に財産目当てなプロポーズが未だかつてあっ
ただろうか。
うぐうぐ言ってるイサトさんを放置して、俺は話を続ける。
﹁ベッドぐらいならすぐに買える気もするが、風呂やトイレって簡
単に作れるものなんだろうか﹂
﹁その辺りは職人に相談、って感じになりそうだよな﹂
﹁そもそもシステム周りが不明すぎる﹂
﹁どこに行けば買えるのかすらわからない﹂
﹁金はあるのにな﹂
水道とか下水システムとかその辺りはどうなっているのだろうか。
魔法でさくっと解決してくれるのならば、それが一番なのだが。
と。
そんなことを俺とイサトさんがやいのやいのと話しながら歩いて
いるところで、街中の喧噪を割って響く怒声が耳に届いた。
342
﹁返せよ⋮!!それはオレが稼いだものだ!!﹂
子供、だろうか。まだ、声変わり前の、少女のようにも聞こえる
声。怒りに満ちてはいるものの、それはどこか悲鳴のようにも響く。
それに絡んでいるのは数人のゴロツキだった。
ゴロツキの影に隠れて、絡まれている少年の姿は見えない。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
俺とイサトさんは、ちょろ、と視線を合わせる。
つい昨日派手に飛空艇を撃墜してしまった手前、あまり目立つの
はよろしくない。
﹁巻き込まれないようにしとくか﹂
﹁それが一番﹂
揉め事からは距離を置くに限る。
俺らの知識が通用するのならば、セントラリアは通称﹃王都﹄と
も呼ばれるだけあって治安は良い。何か騒ぎを起こしたらば、すぐ
にでも騎士が駆けつけるようになっていたはずだ。俺たちが介入せ
ずとも、騎士が仲裁に入って解決してくれるだろう。
﹁⋮⋮秋良青年﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
そう思って素通りしようと思っていたはずなのに。
イサトさんの低い囁き声に注意を促されて見た先では、騒ぎに気
付いているはずなのに、やる気のないそぶりで見ないふりをしよう
としている騎士がいた。その白を基調とした鎧にも見覚えはあった
343
し、そこに刻まれた紋章もセントラリアの守護騎士団のものだ。目
の前でカツアゲ、もしくが強盗めいたことが起きているというのに、
その騎士は気づかなかった態でその場から歩み去ろうとしている。
﹁あのやろう、職務放棄か﹂
﹁仕事しろ公務員﹂
ぼやいてから、俺は騎士を呼びとめるべく大きく声をあげた。
﹁すいませーん、なんか揉めてるみたいなんですけど、仲裁お願い
してもいいっすかー﹂
﹁⋮⋮﹂
空気読まないDQNスタイルであげた声に反応して、騎士が面倒
くさそうに振り返る。そして一言、小馬鹿にした顏で言った。
﹁管轄外だ﹂
﹁は?﹂
思わず間の抜けた声が出る。
セントラリア内の揉め事にどんな管轄外があるというのか。
それも、絡まれているのはまだ年端もいかないような子供だ。
騎士はそれだけ言うと、面倒臭そうにフンと鼻を鳴らして人ごみ
の中に混ざるように歩き去ってしまった。
ポカンと立ちつくす俺たちの後ろで、カツアゲはますます盛り上
がっている。
﹁お姉ちゃん、もう渡しちゃおうよ⋮⋮﹂
﹁馬鹿、これ渡したらこれからどう生活するってんだ!﹂
﹁怪我する前に渡した方が賢いと思うけどなァ?﹂
344
怯えた幼い子供の声と、それに応える張りつめた怒声。
年端もいかない少年かと思いきや、先ほどの声の主は少女であっ
たらしい。
そしてそれに対して凄む、下卑た声。
⋮⋮なんなんだろうな。
カラット村の盗賊襲撃は、辺境の小さな村だからだと思った。
だが、王都と呼ばれるセントラリアの街中でこんなことが横行す
るのはどういうことなのか。
どうして誰も助けようとしないのか。
何故、見てはいけないものから目をそらすようにして、皆早足に
この場から立ち去ろうとしているのか。
一般市民が﹁自分にまで害が及ぶのを恐れているから﹂ならまだ
わかる。
だが市民を護る役目を負ったはずの騎士までが見て見ぬふりをす
るのは何事だ。
﹁ごめんイサトさん﹂
﹁いいってことよ﹂
大人しく出来そうもない、との意味を込めての謝罪に対する返事
は、腑抜け騎士の数千倍男前だった。
というわけで。
﹁よっと⋮!﹂
するりとゴロツキの背後に忍び寄ると同時に、膝の裏を狙っての
ローキック。
膝かっくん気味に決まり、﹁うお!?﹂と声をあげつつよろけた
345
襟首を引っ掴んで地面へと引き倒した。受け身を取ることもできず、
背中を強打して咽せる男に代わり、ツレの2人が俺を振り返ると同
時に凄んだ。
﹁なんだテメェっ、俺らが誰だかわかってんのかアアン!?﹂
﹁知らねェよひっこめ屑が﹂
﹁ひ⋮ッ!?﹂
眉間に皺を寄せ、心底蔑む調子で言い捨てたところ、相手が怯ん
だように息を飲んだ。そりゃそうだろう。自分で言うのもなんだが、
俺は人相がそんなに良くはない。その上でかい。そんな男に見下ろ
され凄まれたらさぞかし怖いだろう。
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁ひっこめ﹂と要求はすでに一度告げている。
後は暴力に訴えるなり、撤退するなりの相手のアクション待つ。
しばらく睨みあった後、ゴロツキどもは舌打ちとともに俺の脇を
すり抜けて撤退していった。﹁起きろよ!﹂だとか、地面に倒れて
いた仲間を起こして引きずるようにして路地裏へと消えていく。
ルーター
﹁⋮ッ、略奪者が!﹂
そんな罵声を残して。
﹁?﹂
﹁?﹂
俺は思わずイサトさんと目を合わせて首をかしげる。
346
ルーター。
ゲーム時代には聞いたことのない単語だ。
スラングか何かだろうか。
﹁あ﹂
﹁え?﹂
イサトさんが小さくあげた声に反応して、視線を前に戻す。そこ
では、ゴロツキに絡まれていた少女が、ちびっこの手を引いて俺の
横を素早くすり抜けようとしているところだった。思わずその行く
手を阻むような形で重心を移動してしまう。
﹁あっ﹂
﹁ッ⋮!﹂
少女が俺の脚にぶつかってよろける。その拍子に、ばさりと少女
が目深にかぶっていたキャスケット帽子が落ちた。
﹁ごめん⋮!悪かった!﹂
別に彼女らに用があるわけではないのだ。そのまま逃げられたと
しても何も問題はなかった。俺は条件反射のように動いてしまった
ことに謝りつつ、落ちた帽子を拾って差し出して⋮
﹁なんの魂胆があるのか知らねえし、礼なんか言わねえからな!﹂
威嚇するように俺を睨みつけた少女の頭上にぴょこりと揺れる耳
に、思わず目を奪われてしまった。
そう。
燃えるように赤い癖っ毛をなびかせ、爛々と光るつり目で俺を睨
347
む少女は、いわゆる﹁けもみみっ娘﹂だったのだ。髪と同じ色をし
た▲がその頭上で後ろにねるように伏せられている。
﹁耳触りたい﹂
イサトさん、自重。
348
おっさんとぱんつ︵後書き︶
ここまで読んでいただきありがとうございます。
Pt,感想、お気に入り、励みになっています。
349
おっさんと蜂蜜大根︵前書き︶
0917修正
350
おっさんと蜂蜜大根
獣人。
それは、俺やイサトさんにとってある意味ではわりと馴染のある
存在であり、ある意味でおいてはこれまで無縁の存在だった。
イサトさん
何故馴染深いのかと言えば、俺とおっさんの共通の友人であるリ
モーネはずばり獣人だった。RFCというMMORPGの世界にお
いて、獣人はプレイヤーが初期から選ぶことが出来る種族の一つな
のだ。プレイヤーが集まれば、四人に一人ぐらいは獣人がいる。
が⋮⋮、当然ながらこうしてナマの獣人に遭遇するのは初めての
ことだ。
俺やイサトさんが生きていた現代日本には獣人などという亜人種
は存在しなかった。それ故に目を奪われる。
おそらくは猫系の獣人なのだろう。燃えるような紅蓮の波打つ髪
は肩のあたりまで。同じ色をした▲が、警戒するようにひくひくと
震えては油断なく周囲の様子をうかがっている。俺を睨みつける双
眸は髪よりも暗い濃赤だ。ほとんど黒みがかったその中に、縦長の
明るい虹彩がきらりと光をはじいている。年の頃は14、15とい
ったところだろうか。アーミットより少し年上だろう。
が、アーミットが幼いながらも﹁女の子﹂であったのとは違って、
この子は身に纏う空気がとても尖っている。しなやかを通り越して
若干細身に過ぎる体つきは、女性らしい柔らかな曲線とは無縁で、
それ故に痩せぎすの少年のように見えた。
彼女は親の仇でも見るような目で俺を睨み据えると、俺の差し出
351
した帽子を乱暴に奪い取った。
﹁行くぞ﹂
﹁う、うん﹂
気弱そうに、彼女と同じようキャスケット帽を目深にかぶった少
年が頷く。
こちらは7、8歳ぐらいだろうか。帽子の影から、気弱そうなく
りんとした双眸が時折見える。彼女よりも、少し明るい茜色の瞳に
は、不安が色濃く滲んでいる。
二人は俺の隣をすり抜けようとして︱︱⋮
﹁けほっ﹂
年少の子が、小さく咳き込んだ。
﹁けほっ、げほっ、げほげほげほっ﹂
一度その小さな口から零れた咳は、一度始まるとなかなか止まら
なかった。
げほりと今した咳が、次の咳の原因になる。苦しげに息を吸いこ
んでは、何度かの咳で吐き出して、また苦しげに息を継ぐ。隣に立
つ少女が慌ててが宥めるようにその背を撫でているものの、咳は止
まらなかった。そろそろ黙って見ていられなくなり、俺はイサトさ
んと顔を見合わせる。
﹁なあ、水でも⋮⋮﹂
﹁うるさい、どっかいけよ⋮⋮!﹂
352
少女は苦しむ弟を前にしても、俺たちに助けを求めようとはしな
かった。いや、俺たちだけではない。周りにいる誰に対しても、そ
うだった。まるで、自分たち以外誰も信じていないとでもいうよう
に、頑なに少女は咳き込む弟の背を撫でる。いつまでも引かない咳
に、不安と焦燥に泣きそうになりながらも、それでも彼女は助けを
求めない。
ああ、そういえば。
先ほどゴロツキに絡まれている時もそうだった。
彼女は誰にも助けを求めなかった。
そして。
誰も、騒ぎに気付きつつも彼女たち姉弟を助けようとはしなかっ
た。
なんだか、とてもやりきれない気持ちになる。
俺が手を出しあぐねているうちに、少年の咳はどんどんひどくな
っていった。ついには呼吸が咳に追いつかなくなり、顔を赤くして
咳き込み続ける子供は、やがて立ってもいられなくなったのか力な
く蹲った。その背中だけが、咳に合わせてガクガクと揺れている。
﹁⋮⋮っ﹂
﹁寄るな⋮!﹂
どうしていいかわからないながら、ただ黙って見ていることもで
きず、足を踏み出しかけた俺を射抜いたのは咳き込み、苦しむ子供
の姉の双眸だった。まるで手負いの獣のように、彼女は俺を睨み据
え、華奢な背中に弟を庇う。でも、それが弟にとって何の助けにも
なっていないことは明白だ。
353
強制的に手を出すかどうか。
迷った結果、頭をよぎったのはカラットでのわるもの宣言だった。
俺たちはわるものだ。
したいことをすればいい。
﹁⋮⋮イサトさん、わるものになりたいんだけどどうしたらいい?﹂
そんな俺の意図は阿吽の呼吸で伝わったのか、イサトさんが口を
開く。
﹁あの子を抱きあげてやってくれ。このままじゃ土埃が刺激を誘発
し続けて咳がますます止まらない﹂
﹁了解﹂
それでこの子が楽になるなら、お安い御用だ。
俺は大股に一歩を踏み出すと、全力で抵抗する少女を無視して、
蹲る子供を抱きあげた。土埃が良くないらしいので、なるべく頭が
高い位置に来るように抱き、咳に震える背を撫でる。
﹁っ放せ⋮!ライザに触るな⋮!!﹂
ダガー
怒鳴った少女が、腰裏に下げていた短剣を引き抜いた。
彼女は弟を護るためなら、俺を刺すぐらいのことは平気でやるだ
ろう。
それはわかってはいたが、大した恐怖は感じなかった。
刺されどころさえ間違えなければ大した怪我は負わないだろう。
特に、今の俺はゲーム内のステータスを引き継いだおかげで防御
力が高い。並み大抵の攻撃は届かない。
もしかしたらそれなりに痛みは感じるかもしれないが。
354
﹁放せって言ってるだろ⋮!!﹂
ダガー
癇癪を起したように少女が叫び、短剣を構えて俺へと突っ込んで
くる。俺は好きにさせてやるつもりで、ふいと彼女から視線を切ろ
うとするが⋮⋮。
イサトさんがするりと、俺と少女の間に入るのが目に入った。
﹁ちょ⋮っ、イサトさん!?﹂
焦る。
イサトさんの本日の装備はカラット村で手に入れた至って普通の
服だ。
防御力などないに等しい。
相手は獣人の少女。
レベルは不明。
もしかしたら、イサトさんに攻撃が通るかもしれない。
そう判断したとたん、俺はナチュラルにインベントリへと手を滑
らせていた。
ちなみに抱いていた子供は肩にひっかけている。落したらすまん。
ダガー
左腕でイサトさんの腰裏を攫うように強く抱き寄せ、同時に利き
手の右で引きだした大剣を少女の手にした短剣に当てに行く。
抵抗する気を失わせたい。
ダガー
そのために武器を弾こうと思っていたわけなのだが、思ったより
力が入ったのか短剣は何か凄い音をたてて砕け散った。
﹁⋮⋮oh﹂
﹁⋮⋮oh﹂
355
何故か俺とイサトさん、揃ってリアクションが外人になった。
直接攻撃は加えていないものの、結構な衝撃が手にも伝わったの
だろう。
痛みに呻きながら、顔を上げた少女と俺の視線が重なる。
何が違う理に生きるモノを見る目、だった。
畏れと、恐怖が滲んだような目。
︱︱⋮あ、やらかした。
急速に後悔が胸を覆った。
ダガー
敵味方のスイッチの切り替えが早いのは、俺の良くない性質だ。
彼女が俺に対して短剣を向けている間、彼女は俺にとっては敵で
もなんでもなかった。
それは、彼女が俺に対して害を与え得る存在ではないと思ってい
たからだ。
だが。
イサトさんが間に入ったとたん、彼女は俺にとり﹁害をなす者﹂
になった。
彼女の攻撃はイサトさんにはダメージを与え得るかもしれない。
俺の﹁身内﹂に手を出すものはすなわち﹁敵﹂だ。
そう、ナチュラルにスイッチを切り替えてしまった。
うまく力加減が出来なかったのは、そのせいだ。
ああ、やらかした。
俺はやっぱりどうも。
356
相変わらずちょっとおかしいらしい。
ちょっとは真人間に近づけたと思っていたんだが。
うそりと自嘲めいた嗤いが口の端に浮かぶ。
と、そこで。
﹁秋良青年、秋良青年﹂
ぺしぺし、と腕をタップされた。
視線を下ろす。
がっちりと俺に腰をホールドされたイサトさんが、どこか呆れた
ような顏で俺を見上げていた。
﹁もう大丈夫だから、その子、見ててやってくれ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
そっと、イサトさんの腰に回していた手を解く。
それから、大剣をインベントリにしまった後は肩に乗せてた子供
の背を撫でつつ様子を見守ることにした。イサトさんの﹁大丈夫﹂
は基本的に当てにならないが、こういうところでは嘘をつかないと
いうのはわかっている。
イサトさんは怯えの滲んだ目で俺たちを睨みながらも、決して一
人で逃げようとはしない獣人の少女へと向き直った。
﹁君の、弟を守りたいという気持ちはよくわかるよ。でも、本当に
弟を守りたいなら状況をよく見てやってくれ。私たちに悪意はない。
ただ、君の弟を助けたいと思っただけなんだ﹂
イサトさんが、柔らかい声音で語る。
357
その言葉に、少女は俺の腕に抱かれた少年を見やり、その呼吸が
先ほどよりも落ち着き始めていることに気づくと、憑き物でも落ち
たかのように脱力してだらりと腕を落とした。じわり、とその濃赤
の双眸に涙が浮かび上がる。その様子にイサトさんはふ、と小さく
息を吐いた。
﹁泣かなくても︱︱⋮だいじょうぶ﹂
優しく言いながら、イサトさんはそっと手を伸ばして少女の背を
抱きよせる。呆然とイサトさんの肩に顔を埋める形になった少女の、
硬くへの字に引き結ばれていた唇がわななくように震えた。ぽたぽ
た、とイサトさんの肩に涙が落ちて、それから彼女はわんわんと子
供のように泣いた。
ああ、そうだ。
気を張っていても、彼女だって、まだ子供なのだ。
弱った弟を抱えて俺らと対峙して、どれだけ怖かっただろう。
ますます罪悪感に視線が遠のきそうになる。
そして。
俺の腕の中に抱かれた子供が﹁うぇろろろろ﹂とゲロった。
限界だったらしい。
﹁わあ﹂
イサトさんが他人事のように間の抜けた声をあげた。
半眼でみやれば、いやいや、と誤魔化すように何がいやいやなの
かわからないことをのたまった。それから、小さく首を傾げて提案
する。
358
﹁とりあえず、宿に戻らないか﹂
﹁そうだな﹂
﹁ほら、君もおいで﹂
俺は泣きじゃくりながら謝る子供を抱いて。
イサトさんはわんわん泣く少女の手を引いて。
傍から見たら誘拐犯にしか見えない態で、俺らは宿へと戻ること
になった。
宿に戻った俺らは、周囲から向けられる好奇や非難の目をものと
もせず二階に取った部屋へと向かった。イサトさんがこっちへ、と
いうので、少年を運びこんだのはイサトさんの部屋だ。
柔らかなベッドに降ろして、寝かせてやる。咳はだいぶ収まった
ものの、まだ少し息苦しそうにしている。イサトさんはそんな少年
の上に身を乗り出すと、そっとその胸のあたりに耳を押し当てた。
﹁君、この子は息が出来なくなるような発作を起こしたりしたこと
359
があるか?﹂
﹁な、ない⋮っ﹂
ぶんぶんと少女は首がもげそうな勢いで首を左右に振った。
﹁じゃあ風邪をひいた時に、咳がしばらく止まらなくなったりとか
するようなことは?﹂
﹁それは、ある。今もそうだ﹂
﹁なるほど﹂
﹁イサトさん、何かわかるのか?﹂
俺は少年のゲロで汚れた服を脱ぎつつイサトさんへと問いかける。
イサトさんは何気なく俺の方へと視線を向けて⋮、ふお、と謎の
声をあげて視線をついっとそらした。微妙に目元が赤くなっている。
﹁おいやめろそのリアクション、俺までいたたまれなくなる﹂
﹁いや、秋良青年が予想以上に良い身体をなさっていて﹂
﹁オヤジか﹂
セクハラされた気分だ。
﹁今度腹筋撫でまわさせてくれ﹂
﹁イサトさんが胸もませてくれたらな﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
﹁悩むな﹂
そのうち交換条件を飲まれてしまったらどうすべきだろうか。
揉むだけで止まれる気がしないわけだが。
そんなことをつらつらと考えていると、馬鹿な応酬をしていた俺
らを少女が戸惑ったように見つめているのに気付いた。
360
﹁イサトさんイサトさん、で、その子は大丈夫なの?﹂
﹁たぶん?私も医者じゃないのではっきりしたことは言えないが⋮、
小児喘息なんじゃないだろうかな。喉の喘鳴はほとんどないが、咳
にたまに変な音が混じってたみたいだったからな﹂
﹁ああ、確かに﹂
げほげほ、と咳き込む音に、時折﹁がひゅ﹂とでも言えばいいの
か、空気が漏れるような変な音が混じり、その音がする度に咳が酷
くなっていた。
﹁イサトさん、詳しいな﹂
﹁私も小児喘息持ちだからな﹂
﹁あ、そうなんだ?﹂
﹁彼と同じく、風邪を引くと咳が止まらなくなるぐらいの、喘息と
しては軽度なので吸入薬とか使ったことはないんだけどな﹂
イサトさんは軽くそう言って、ひょいと肩を竦める。
そして、ふと考えるように視線を彷徨わせた後、口を開いた。
﹁秋良青年、一つ頼んでも良いか?﹂
﹁ん、何?﹂
﹁ちょっとお使いに行ってきて欲しい﹂
﹁いいよ﹂
俺とイサトさんの会話を、少女は変な顔をして見つめている。
そんな少女へと、イサトさんはちらりと視線を向ける。
﹁君にも頼みたいことが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮エリサ﹂
361
﹁ん?﹂
﹁オレの⋮⋮名前﹂
﹁エリサか。可愛くて良い名前だな﹂
﹁⋮⋮っ﹂
イサトさんの言葉に、かっと少女、エリサの頬が赤くなった。
ネトゲ時代にも見てきたが、イサトさんは本当ナチュラルに乙女
心をがっつり掴んでいく。何度もげろと思ったことか。実際にはも
げるべきものはついていなかったわけだが。
﹁私は伊里だよ。イサト、と呼んでくれ﹂
﹁⋮⋮イサト﹂
﹁そう。で、あっちが秋良だ﹂
﹁⋮⋮アキラ﹂
﹁うん。で、弟くんの名前も聞いても?﹂
﹁ライザ﹂
﹁教えてくれてありがとう、エリサ﹂
ますます、エリサの顔が赤くなった。
﹁君にも買い物を頼みたいんだが良いか?﹂
﹁いい。でも、お金あんまり持ってない﹂
﹁ああ、代金については気にしないでくれ。私が買い物を頼むわけ
だしな。ちゃんと持たせるよ﹂
そう言ってイサトさんは腰に下げた皮袋の中から、1000エシ
ル硬貨を取り出してエリサへと渡した。
﹁たぶんこれで足りると思うんだが︱︱⋮、大根を買ってきてほし
いんだ。秋良青年は、倉庫にアクセスして蜂蜜がないかどうか探し
362
てきてくれ﹂
﹁たぶん⋮、あったような気はしている。なかったら、ちょっと狩
ってくるよ﹂
﹁そうしてくれると助かる﹂
セントラリア近くには、蜂の巣と呼ばれるダンジョンがある。文
字通りそこはハチに良く似たモンスターの巣穴になっており、そい
つらのドロップ品の一つが蜂蜜なのだ。加工せずにそのまま使って
も回復量が他の食材よりも大きいため、セントラリア周辺で狩りを
するレベルのユーザーにとっては美味しい敵だ。また、MPポーシ
ョン替わりに使える蜂蜜酒の素材になることもあって、手に入った
時には店売りせず、倉庫に溜めるようにしていた。
﹁でも、蜂蜜と大根でどうするつもりなんだ?﹂
﹁蜂蜜大根を作るに決まっているじゃあないか﹂
ドヤァとイサトさんは胸を張って言い切った。
ひとまずは俺らを信用する気になったらしいエリサは、イサトさ
363
んにライザを任せると、俺と共に宿を出た。着替えがないため、俺
は上半身裸というワイルド極まりないスタイルである。まあ、この
世界においてはそんなに目立たないのがありがたい。倉庫までお使
いにいくついでに、露店で着れそうなものを買うとしよう。
﹁⋮⋮なあ、アキラ﹂
﹁ん?﹂
宿屋を出たところで、エリサがおずおずと俺を呼びとめる。
足を止めて、その顔を覗き込む。
まだ怖がられていたら、と思ったが、その瞳に滲んでいるのは困
惑だけで、そのことに少しだけ安心した。
﹁どうした?﹂
﹁アキラは、人間だろ?﹂
﹁うん﹂
まだ人間を辞めた覚えはない。
ルーター
﹁なんで⋮⋮人間なのに、アキラは略奪者の言うことを聞くんだ⋮
⋮?﹂
﹁ルーター?﹂
そういえば、先ほどのゴロツキも去り際にそんなことを言ってい
たような気がする。そして、この場合ルーター、という音が差して
いるのはイサトさんのことだろうか。
﹁イサトさんのことか?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
364
こくり、とエリサが頷く。
﹁ルーターが何なのかはよくわかんないけど⋮、なんで俺がイサト
さんの言うことを聞くのかって言ったら、イサトさんのことを信じ
ているから、じゃないかな﹂
信じるだとか、信頼だとか、言葉にするとなんだかこっ恥ずかし
いが。
きっとそういうことだ。
俺は、いざという時のイサトさんの判断を信じている。
﹁⋮⋮そっか﹂
エリサは、奇妙な顔で笑った。
泣きそうな、羨ましそうな、ほっとしたような、いろんな感情が
混ざった、不思議な笑顔だった。
﹁んじゃオレ、大根買ってくる!﹂
﹁あいよ。俺は蜂蜜探してくるか﹂
﹁なあ、アキラ!﹂
﹁ん?﹂
﹁大根買うのに1000シエルもあったばかりの奴に渡すイサトは
危なっかしいから、オマエ、ちゃんと見てやれよ!﹂
﹁⋮⋮おう﹂
目元を赤らめつつそう言ったエリサは、照れを誤魔化すように走
って人ごみの中に消えていく。
﹁⋮⋮そっか、子供から見てもやっぱりイサトさんは危なっかしい
のか﹂
365
くくく、とこみ上げるままに笑いながら、俺は上機嫌に倉庫に向
かって歩き出した。
とりあえず、倉庫にあっただけの蜂蜜をインベントリに移し、露
店で購入したTシャツを着て宿に戻ると、エリサもすでに戻ってい
た。イサトさんは、宿から借りてきたらしい包丁で器用に大根をサ
イコロサイズに切っている。
﹁ただいま。とりあえず蜂蜜あるだけ持ってきてみた﹂
﹁ありがとう。一個出してくれるか?﹂
﹁あいよ﹂
インベントリの中から、蜂蜜の瓶を一つ取り出す。
とろりとした甘そうな琥珀色が、透明な瓶の中で小さく揺れた。
イサトさんは宿から借りてきたらしい木匙で蜂蜜を掬うと、白湯
の注がれていた湯呑の中へと落とした。かきまぜるお湯が、微かに
とろりと粘度を帯びる。
366
﹁本当は蜂蜜大根のシロップをお湯で溶かして飲むのが一番なんだ
が⋮、まだ出来ていないのでまずは蜂蜜湯でも飲んでおいてくれ。
甘さが足りないようだったら言ってくれ、追加するから﹂
身体を起こしたライザへと、イサトさんが湯呑を差し出す。戸惑
いがちに姉の姿を探したライザに、エリサが小さく頷く。姉からの
OKが出たことで少しは安心したのか、ライザはおずおずとイサト
さんから湯呑を受け取ると、口元へと運んだ。
﹁わあ、甘くて美味しい⋮!﹂
﹁良かった。すぐに飲みこむんじゃなくて、喉で溜めるようなイメ
ージで少しずつ飲むと良い﹂
﹁はぁい﹂
良い子の返事で、こくこくとライザが蜂蜜湯を飲み始める。
その間に、イサトさんは瓶の中に残った蜂蜜の中へと、サイコロ
サイズに切った大根をざーっと流し込んだ。
﹁エリサ、これの作り方を覚えておくと良いよ。蜂蜜大根は喉に良
いんだ。たぶんライザの咳が酷くなるのは夜になってからだろ?﹂
﹁なんでわかんだよ?﹂
﹁私も同じだったからな。そういう時は、寝る前に蜂蜜大根のシロ
ップをお湯で割ったものを飲ませてやるようにすると良い。嘘みた
いに咳が止まるから﹂
﹁大根や蜂蜜の量は決まってるのか?﹂
﹁適当で大丈夫。蜂蜜に大根をいれて二時間ぐらいおいておくと、
とろみが薄れて蜂蜜が水っぽくなるから、そうなったら出来たと思
っていい﹂
﹁わかった﹂
367
エリサはイサトさんの言うことを真剣な面持ちで聞いている。
と、そこで蜂蜜湯を飲み終えたライザが小さく欠伸をした。
イサトさんが、優しく目を細めてライザの頭を撫でる。
﹁ここしばらく咳のせいで眠れてなかったんだろうな、可哀想に。
今日は少し楽になるだろうから、ゆっくりおやすみ。ああ⋮、でも
家の人が心配するなら送った方が良いか?﹂
﹁家の人⋮﹂
くっとエリサが唇を噛んだ。
﹁⋮⋮いない。今は、オレとライザ、二人だけだ﹂
﹁⋮そうか。それなら今日は泊まっていくと良い﹂
﹁いいのか?﹂
﹁私は構わないよ﹂
﹁俺も別に﹂
袖擦りあうも他生の縁だ。
そもそも助けるつもりで手を出したのだから、異論はない。
それに、エリサからはもっといろいろと話を聞きたい。
俺らの知る頃とはだいぶ変わってしまっているように感じられる
セントラリアのこと。そして、イサトさんをルーターと呼んだ理由。
あのゴロツキどもは、明らかな悪意をこめて、蔑むように﹃ルー
ター﹄という言葉を使った。放っておくには、いろいろと気になる。
﹁だけどよ、オレとライザがここで寝ちまったら、イサトはどこで
寝るんだ?
ここ、イサトの部屋なんだろ?﹂
368
それはもちろん、後一つ部屋を取るに決まっている。
そう、俺が返事をするより先に。
さも当たり前のようにイサトさんが言った。
﹁秋良の部屋で寝るから大丈夫だよ﹂
﹁え?﹂
︱︱え?
369
おっさんと蜂蜜大根︵後書き︶
ここまでお読みいただいて、ありがとうございます。
お気に入り、pt、感想、励みになっております。
370
おっさんの献身︵前書き︶
0917修正
0922修正
1121修正
371
おっさんの献身
俺はびっくりするほどに追い詰められていた。
俺の煩悩
大ピンチである。
敵はイサトさんだ。
⋮⋮ちょいちょいセクハラしているというのに、どうにも学ばな
いお人である。
ちなみに、御金に困ってるわけでもないんだしもう一部屋借りよ
うという紳士的な申し出は、物理的にすでに宿の他の部屋が借りら
れている状況の前に完封されてしまった。
このタイミングで満員御礼になりやがった宿屋が憎たらしくて仕
方ない。
駄目元で別の宿をとるというアイディアも提案してみたが、﹁そこ
までして別の部屋に泊まる意味があるか?﹂と小首をかしげるポー
ズつきの疑問で粉砕された。
据え膳喰い散らかすぞこのやろー。
俺の煩悶など無視して、隣の部屋の姉弟に食事を差し入れたイサ
トさんは、現在優雅なお風呂タイムである。もう一度言う。お風呂
タイムだ。イサトさんはお風呂タイム。メーデーメーデー。
俺が頭を抱えるすぐ隣、壁を一枚隔てた場所で、イサトさんは一
糸まとわぬ裸身を晒して風呂に入っているのだ。脳裏に思い浮かぶ
のは、ぴっちりと身体のラインも露わにナース服を着こなしていた
イサトさんのシルエットだ。拘束具めいた布から解放されたまろや
かな褐色の身体の破壊力はいかほどだろうか。想像だけでいろいろ
372
まずい。いやほんと。マジで。
﹁寝よう。寝るしかない﹂
俺は呻くように呟いて、宿の主から無理いって借りてきたソファ
に身体を押しこんだ。身長180㎝を超える俺にはかなり窮屈だが、
このソファが俺にとっての生命線である。風呂から出てきたイサト
さんが、どっちがベッドを使うか、なんて話をし始めたら俺の寿命
が縮みかねない。もうすでに雑魚寝した仲なんだし、納屋の床で寝
るのもベッドで寝るのも変わらないだろう、なんて言われたら死ぬ。
主に俺の理性が。
ここは寝たふりで乗り切るしかない。いくらイサトさんでも、ソ
ファにみっちり詰まって寝る俺を無理やり起こしてベッド談義を始
めようとは思わないだろう。俺は目をつぶって、無になるべく宇宙
の真理について思いを馳せる。
373
そんな最中、どうして俺がこんな風に苦しまなければならないの
か、なんて考えてはいけないことをふと思ってしまった。
この我慢は必要なことなのだろうか。理性なんて放り出して、本
能の赴くままにあの柔らかそうな肢体を貪って何が悪いのだろう。
間違いなく裁判に持ち込まれたとしても、強姦は成立しない。イサ
トさんは自分から俺と同じ部屋で寝る、と言ったのだ。その時点で、
その意思があると受け取られても仕方ないのだ。俺に罪はない。そ
れにイサトさんにその意思がないというのはどこの筋の話だ。ソー
スは?もしかしたらイサトさんだってそういうことを期待して俺と
同じ部屋で寝るなんて言い出したのかもしれないじゃないか。それ
ならばいっそ手を出さない方が失礼なんじゃないのか。そうだ。そ
うに決まっている。イサトさんだって、
﹁だああああああああああッ﹂
がごん。
全力でソファの手すりの角に頭を打ちつけて、俺は脳みその暴走
をを強制終了した。ものすごくあたまがいたい︵物理︶。
もしかしたら、イサトさんだってまるっきりその気がないという
わけではないのかもしれない。少なくとも、嫌われてはいないと思
う。
でも。
俺は。
374
イサトさんを泣かしてしまうことがこわい。
肉欲が満たされて冷静になった時、イサトさんが泣いていたら俺
はどうしたらいいのだろう。きっと、俺は俺が許せなくなる。
だから。
﹁イサトさんまじじちょう﹂
そんな呪詛めいた呻きを残して、俺はフテ寝するしかないのだ。
375
念ずればなんとやら。
どうやら俺は、本当に寝てしまっていたらしい。
うっすらと目を開けて、窮屈なソファの中で身じろぐ。みしみし、
とソファの肘置きが不穏な音を立てるのが聞こえた。部屋の中はす
でにすっかり暗い。イサトさんも眠ったのだろうか。くわぁ、と小
さく欠伸をして、俺ももう一度眠りなおそうと試みる。このまま起
きていても、良からぬことを考えてしまうだけに決まっている。そ
れならさっさと眠って、この生殺しの地獄のような夜を乗り越えて
しまいたい。
そこで。
俺は失念していた。
目を覚ましたには、目を覚ますだけの理由があるのだ、というこ
とを。
ふわり、と鼻先を甘い香りが掠めた。
誘われるように、首をひねって顔をあげる。
無理な体勢で持ち上げたせいで、首の筋がぴきりと引き攣って痛
んだ。
けれど、そんな痛みは大したことなかった。
ああ。
これが俺の目の覚めた理由か。
そこには、イサトさんが立っていた。
こちらの世界にやってきて以来、パジャマとして愛用されている
節のある召喚師装備︵上︶。太腿までを申し訳程度に隠すその上着
376
の下からは、形の良いむっちりとした長い脚がにゅっと伸びている。
寝起きで目にするには、とてつもなく心臓に悪い光景だった。
﹁イサト、さん⋮?﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
イサトさんは俺の呼びかけには答えないまま、ぺたりと裸足で踏
み出して俺へとの距離を削った。
﹁なあ、秋良青年﹂
﹁な、なに⋮?﹂
﹁私と話をしようか﹂
﹁え﹂
おいイサトさん。
あんた言ってることとやってることが違う。
話をしよう、なんて理知的なことを言いながら、イサトさんはと
んでもない暴挙に出た。ソファにみっちりと詰まる俺の上に、載っ
たのだ。跨りやがった。ブランケット一枚を隔てて、イサトさんの
体温が俺の上に乗る。とんでもない光景だ。窓から差しこむ月明か
りに照らされて、イサトさんはなんだか恐ろしいまでに美しい淫魔
のようだった。
ああくそ。この人は、なんで。俺の我慢やら気遣いをこうしてぶ
ち壊すような真似をするんだ。
﹁⋮⋮イサトさん、どけよ﹂
﹁嫌だ﹂
﹁⋮⋮あのさ。エルリアの街でも言っただろ。俺は男で、あんたは
女なんだから、俺がその気になったらあんた抵抗できないんだぞ﹂
377
声が苛立ちに尖る。
イサトさんは、不思議なほどに無表情だ。
何を考えているのか読めない金色の双眸が、まっすぐに俺を見下
ろす。
あんたは一体何を考えてるんだ。
今の居心地の良い関係を保つためには、お互い不可侵の壁を築く
必要があるという話をしたばかりじゃないか。俺が不用意に壁を乗
り越えてしまわないようにと、あんたにも下手にその気もないのに
挑発すんなと警告したじゃないか。
﹁やれるかどうか、試してみたら良い﹂
﹁⋮⋮ッ﹂
心底こちらを煽ろうとしているとしか思えない言葉に、かっと目
の前が赤く染まった。ばきり、とソファの腕置き部分がついに折れ
る音が聞こえた。
次の瞬間には、俺はイサトさんの華奢な腕を捕まえて、体勢を入れ
替えていた。
ソファに組み敷かれたイサトさんは、ほんの一瞬だけ驚いたよう
に目を瞠って、その後はすぐにまた何を考えているのかわからない
静かな金色が俺を見上げた。長く艶やかな銀髪が、ソファの上に蛇
のようにのたうって広がる。その顔の脇に手をつき、脚の間に己の
膝を割りいれて押さえ込んだ。
﹁ほら、あんたは逃げられない﹂
わら
顔を近づけて、威嚇するように口角を持ち上げて哂う。
378
怖がればいいと思った。
俺を押しのけようと、暴れてくれればいいと思った。
そしたらきっと俺は︱︱⋮
﹁君が、本当にしたいことをしたらいい﹂
なんで。
なんで、そんな静かな声で受け入れるみたいなことを言うんだ。
駄目だろ。こんなの、駄目だろ。
ぐぅ、と喉の奥が鳴る。
まるで獣だ。
﹁なあ﹂
イサトさんは静かに語る。
ここに来て、あやすような柔らかな声音で話し出す。
﹁どうして君は、我慢するんだ﹂
﹁してない﹂
この状況で、何をどう我慢しているというのか。
俺は俺が恐れていた通り、理性の手綱を放してこうしてイサトさ
379
んに酷いことをしようとしてしまっている。いや、むしろもうすで
にしている。
我慢できていたら、こんなことにはなっていない。
そう思ったら、腹の中でとぐろを巻いていた性欲だか怒りだかよ
くわからない熱が急速に引いていくのを感じた。いわゆる、心が折
れた。ああしにたい。
がくりと項垂れる。
顏を上げられない。
イサトさんの顔が見れない。
﹁⋮⋮ごめん、イサトさん﹂
押し出すようにして謝って、のろのろとイサトさんの上から身体
を引く。
それを何故か引き留めたのは、やっぱりイサトさんだった。
﹁⋮⋮何﹂
なんで、止めるんだこの人。
﹁私は、君のその顏が嫌いだ﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
嫌われた。
イサトさんに、嫌われた。
涙が出そうになった。
でかい図体の良い年した男が、泣きそうになった。
﹁その、自分のことが嫌いで仕方ないって顔﹂
380
﹁⋮⋮へ﹂
顔をあげる。
俺を見上げるイサトさんは、やっぱり何を考えているのかわから
ない顔をしていた。でも、なんだかとても優しいことを言われたよ
うな気がした。
﹁最初にひっかかったのは、カラットの村だ。アーミットが斬られ
たとき﹂
﹁⋮っ﹂
小さく息を飲む。
あの時、目の前でアーミットが斬られるのを見た俺は、極々自然
に相手を殺し返そうと思った。アーミットの命を奪った男の命を、
俺がこの手で奪ってやろうと思った。即座にそう決めて、実行しよ
うとした。怒りにとち狂ったわけじゃない。俺は冷静にそう考えて、
殺すと決めたのだ。
⋮⋮我ながらどん引きだ。
平和な日本で安穏と暮らしてきた大学生の発想じゃない。
イサトさんにも言われたじゃないか。
﹃あんなにナチュラルに相手を殺す覚悟を決められる人を、初め
て見た﹄と。
﹁それから君は、たまに嫌な顔をするようになった﹂
﹁嫌な、顏⋮?﹂
﹁自分自身を毛嫌いするような、それでいて何かを恐れているよう
な曖昧な顔﹂
381
﹁⋮⋮あ﹂
思い当る。
カラットの村でしたことを、俺はイサトさんに隠し続けている。
俺たちに対して危害を加え得る敵だと判断した男を、俺はこの手
にかけようとした。イサトさんが口にした﹁殺すな﹂という人道的
な判断に悖ることを、俺はあっさりと行動に起こした。あの男が、
俺たちに害を成す﹁敵﹂だと判断したから。
﹁最初は、この状況や、未来に対する不安なのかとも思った。いき
なり戦闘に巻き込まれたり、目の前で人が殺されかけたり、衝撃的
なことが続いたしな。そして、その不安を形にすることを、口にす
ることを恐れているのかと思ってた﹂
イサトさんの澄んだ金色の双眸が、俺を見上げる。
俺を見透かす鏡面のように、その瞳に俺が移っている。
イサトさんは、静かに告げる。
﹁君は一体、何を怖がってるんだ﹂
俺が、怖いもの。
イサトさんの静かな問いかけに、ふと心の中に浮かんだ答えは二
つあった。
一つは俺自身であり︱︱⋮、もう一つはイサトさんだ。
382
俺は、自分が怖い。
俺は、どうにも人間として淡泊だ。
だから、己と関係ない人間がどうなろうと関係ないと思ってしま
うし、自分の敵だと認識した相手の命を奪うことに躊躇いを感じな
い。感じられない。
﹁俺さ﹂
懺悔のように、口を開く。
﹁ちょっとおかしいんだ﹂
﹁おかしい、って?﹂
﹁例えばなんだけど、イサトさんホラー映画だとかで、殺人鬼に追
われるようなシチュエーションがあるじゃないか﹂
﹁あるな﹂
﹁倒した、と思って逃げてたら、実は生きてた相手にまた襲われて
⋮、っていうのはそういうのじゃわりとよくある展開だろ?﹂
﹁そうだな﹂
﹁俺はそういうのを見るたびに、何でトドメを刺さないんだろうっ
て不思議に思っちゃうんだ﹂
どうして、映画の主人公たちは殺人鬼が動かなくなった時点でそ
の場を離れてしまうのだろう。何故、気絶で許してしまえるのだろ
う。俺ならそこできっと殺してしまう。動かなくなった相手が、本
当にもう動かないかどうかを確かにする。そうでなければ、安心で
きない。
深く、息を吐く。
383
﹁俺、大学二年って言っただろ﹂
﹁うん﹂
﹁でも、21だ﹂
ストレートで進学していたならば、21ならば大学三年生である
はずなのだ。
俺は、一年遅れている。
﹁誕生日が早いか、浪人でもしたのかと﹂
﹁浪人︱︱⋮、というか留年、というか﹂
﹁ゥん?﹂
﹁中二の時にさ、ちょっとした事件に巻き込まれたんだ﹂
﹁事件﹂
イサトさんが、復唱する。
﹁近所のコンビニで買い物をしてる時に、運悪く強盗にかちあった﹂
﹁それは︱︱⋮﹂
﹁スキーマスクかぶって、包丁振り回して、金を出せって暴れてた
よ﹂
極度の興奮状態で、誰を傷つけてもおかしくなかった。
後から聞いた話によると、よろしくないオクスリを服用していた
らしい。
﹁だから、俺はそいつを店の中にあった脚立でぶん殴った﹂
フルスイングで容赦なくこめかみのあたりを殴り飛ばした。
そうしなければ、俺はもちろん、同じ店の中にいる他の客や、店
員が助からないと思ったから。そして。
384
﹁俺は当たり前のように、そいつが追いかけてこられないように︱
︱⋮、そいつの足を折った﹂
興奮して、恐怖に我を失っていたわけではない。
俺は落ちついて、冷静に、追われたら困るな、と思ったから、追
えないようにしたのだ。結果、犯人以外の怪我人を出さずに、事件
は解決した。
﹁過剰防衛だとも言われたけど、俺は中二のガキだったからさ。特
にお咎めもなかったよ。ただ、カウンセリングには通わされた。で
もさ﹂
はあ、と深く息を吐く。
﹁俺、全然気にならなかったんだ。家族は俺のことを滅茶苦茶心配
して、学校も休学させてくれたし、家族ぐるみでカウンセリングも
受けてくれた。でも、俺は平気だったんだ。人ひとり脚立でぶん殴
って足をへし折っておきながら、俺は何のトラウマにもならなかっ
たし、罪の意識で苦しむようなこともなかった﹂
俺は、何とも思わなかったのだ。
あの男は俺にとって、日常を脅かす敵だった。
それに相手は犯罪者だ。
だから、排除した。
俺の中では、そこには罪悪感が発生する余地はない。
いや。
罪悪感があるとしたら、何も感じないことにこそ、罪悪感を感じ
た。
385
﹁最終的にカウンセリングで、俺はソシオパスの傾向があると言わ
れたよ﹂
ソシオパス。
社会病質的傾向。
良心と共感力に欠ける、欠陥のある人間。
﹁親はすごいショックを受けてた。そして、今まで以上に俺を﹃ま
とも﹄に育てるために気を遣ってくれた。だから、俺はずっと﹃ま
とも﹄になりたかった﹂
まともな人ならどう感じるのか。
どう行動するのか。
本を読んだり、人を観察することで、俺はそれを模倣した。
﹁自分だったらそうする﹂という行動よりも、﹁普通の人ならそう
するだろう﹂という行動を優先して選ぶようにしてきた。
それでも、やっぱり俺はおかしかった。
アーミットを斬った盗賊、カラット村での薄気味悪い男、先ほど
のエリサ。
俺は、相手が自分にとっての敵だと判断したならば、一切の躊躇
いなく排除に動くことが出来る。
俺の中では優先順位があんまりにも明確で、迷いが発生する余地
が少ないのだ。
俺はそんな自分が怖い。
﹁カラットの村でさ﹂
﹁うん﹂
386
﹁イサトさんは、殺すな、って言ったじゃないか﹂
﹁そうだな﹂
﹁でも、あの後に俺、薄気味悪い男に会ったって言っただろ?﹂
﹁うん﹂
﹁俺、本当はそこでその男を殺そうとした﹂
静かに、告白する。
イサトさんは、例えアーミットを殺した敵であっても﹁殺すな﹂
と口にした。
それがどうしてなのか、俺にはよく理解できない。
あれは結果的にイサトさんの使ったポーションが間に合ったから、
アーミットが助かっただけで、あの男がアーミットに対して殺意を
向けて行動を起こしたことがチャラになるわけではないと、思う。
だから別段俺としては殺してしまっても構わなかった。
﹁絶対殺す﹂から﹁殺しても殺さなくてもどっちでもいい﹂にな
っただけに過ぎない。
殺さなかったのは、イサトさんが止めたからだ。
イサトさんと揉めてまで殺すほどのことはないと思ったからだ。
ただ、それだけだ。
敵の命を奪う、ということに対しての躊躇が、俺にはない。
普通の人ならば、あの状況でも﹁命を奪うのは良くないこと﹂と
いう常識に乗っ取って行動することが出来るのだろうか。
イサトさんが俺を止めたように。
普通の、人なら。
俺は、俺の感覚が普通でないことをイサトさんに知られることが
怖かった。
まともで、人道的な感覚を持ち合わせるイサトさんに、恐ろしい
387
バケモノであるかのような眼差しを向けられてしまうのが怖かった。
だから、言わなかった。
言えなかった。
﹁逃げようとしたところ、背中から斬り捨てた。まあ結局燃えてる
家に逃げ込まれて見失ったけども﹂
殺すつもりで、斬りつけた事実は変わらない。
俺は自分に敵対する存在を倒すことに躊躇いを覚えない。
もちろん、無暗矢鱈に敵を殲滅したい、というわけではない。
話し合いで解決できるのならそれが一番だ。
けれど、いざというときに俺は迷わないし、そのことに関しては
罪悪感を抱かない。罪悪感を抱かないことに関しては罪悪感を抱い
てしまうが。
﹁俺は、それをイサトさんに知られるのが怖かったんだ。
あの場で俺に﹃殺すな﹄と言えるような、真っ当な感覚を持ってる
イサトさんに、俺のおかしいところを知られたくなかった﹂
懺悔のような俺の告白を聞いて、イサトさんは静かに息を吐いた。
少し、怖くてイサトさんの顔を見ることが出来ない。
視線を伏せていると、そっと伸びてきた手が、優しく俺の頬に触
れた。
﹁イサト、さん⋮⋮?﹂
﹁なんだか、随分悩ませてしまったみたいだなぁ﹂
ゆっくりと視線を持ち上げた先で、ふわりとイサトさんが柔らか
な微笑みを浮かべる。その瞳には、俺に対する嫌悪や、恐怖の色は
なかった。
388
そのことに、心の底から安堵する。
﹁私が、あの時殺すな、って言ったのは︱︱⋮、別段あの男のこと
を庇ったわけじゃないよ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
それなら、どうして?
イサトさんはあの時俺を止めた?
﹁だったら、人を殺すのは良くないこと、だから?﹂
﹁それは大きな意味ではあるかもしれない﹂
現代社会において、殺人は許されない罪だ。
ぎりぎりで正当防衛が認められているが、それだって正当防衛と
して認められるのは難しいという話を聞く。
復讐や、仇討による殺人も認められてはいない。
そんな社会でこれまで生活してきた故に、イサトさんがその常識
を捨てられないというのも当然だろう。
そう納得しかけた俺を見上げて、イサトさんは言葉を続ける。
﹁人を殺すのが良くない、というよりも︱︱⋮﹂
イサトさんがまっすぐに俺を見つめる。
深い金色の瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。
﹁君に、そんなことで傷をつけたくないと思った﹂
389
息が、詰まった。
俺を、傷つけたくない?
﹁私も現代日本育ちで基本平和ボケしてるから、トンチンカンなこ
とを言ってるかもしれないけど、さ。人を殺すことでトラウマを背
負うとかってよく聞くだろう﹂
﹁⋮⋮ああ、確か、に?﹂
日常的にそういった出来事が身の回りで起きているかといったら
そんなことはないが、確かに映画やドラマ、伝え聞くエピソードと
してそういった話は珍しくない。むしろ、俺はそういったエピソー
ドに触れるたびに、罪悪感を抱かない自分自身への嫌悪を深めてい
たような気がする。
﹁私は結構海外ドラマの刑事ものが好きでよく見るんだけど⋮⋮、
犯罪者から市民を護るためにいざというときに躊躇うな、と彼らは
訓練されているのに、それでも現場で犯人を射殺することに躊躇っ
たり、する﹂
﹁うん﹂
﹁それだけじゃなくて、犯人を射殺してしまった後にはカウンセリ
ングにかかったりも、する﹂
﹁うん﹂
﹁ドラマは創作で、本当の話ではないかもしれないけれど⋮⋮きっ
と、そう間違ってるってわけではないと思うんだ﹂
﹁うん﹂
﹁人の命を奪う、っていう決断や、行動の生むストレスっていうの
はさ。きっとあるんじゃないかって私は思ってる﹂
﹁⋮⋮だから、止めた?﹂
﹁そう。だから、止めた。
390
君に、そんな負荷を背負って欲しくなかったから﹂
ここは異世界だ。
俺たちが暮らしていた世界とは異なる理で動く世界。
それでも、現代日本で育った俺たちの中には、﹁人の命を尊重す
る﹂という概念が根強く存在している。
イサトさんは、その概念が俺を苦しめる可能性を考えて、あの時
止めてくれたのだ。あの男に対する同情でも、常識に乗っ取った判
断としてでもなく、あくまでも俺のために。
﹁あんな男のために、君が傷つく必要はない。君がストレスを抱え
てまで手を下す必要はないと思ったから、止めた﹂
﹁︱︱⋮、﹂
深く息を吐き出しながら、俺は力尽きたようにイサトさんの肩口
に額を押し付けて突っ伏した。いろいろいたたまれない。イサトさ
んは、そんな俺の頭をもしゃもしゃと華奢な指先でかき撫でた。
﹁私は、君を信じてるよ﹂
﹁⋮⋮俺の、何を?﹂
﹁君の、判断を。だから、私は君を怖がらない﹂
﹁⋮⋮いきなり飛ばされた異世界でナチュラルに殺す覚悟を決めら
れる男、なのに?﹂
﹁⋮⋮嫌味だな﹂
つん、と髪を引っ張られた。
今までと変わらない甘やかなじゃれあいに、くつ、と喉を笑みに
鳴らす。
﹁これはあくまで私の意見なのだけれども。根っからの良き人であ
391
るよりも、良き人であろうと努力して良くあることの方が凄いと思
うんだ﹂
﹁︱︱︱、﹂
静かに息を飲んだ。
そんな風には、考えたことがなかった。
努力しなければ、普通であれないことがコンプレックスだった。
考えなければ、普通の人の考え方がトレースできない自分が厭だ
った。
﹁優しくあろうと努力してるから、君は他の誰よりも優しい﹂
﹁⋮⋮そうか?﹂
﹁そうじゃなかったら、私はとっくに犯されてる﹂
﹁ぶ﹂
イサトさん、自覚あったのか。
﹁だから、秋良。君は︱︱⋮、自分を誇って良いよ﹂
﹁イサト、さん﹂
﹁あんな風に、自分を嗤うな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
柔らかく、それでいてどこか拗ねたような声で言われて、ふと思
い当った。
﹁⋮⋮イサトさん、もしかしてお怒りでした?﹂
﹁うん。お怒りです﹂
しれっと認められた。
392
﹁⋮⋮だから、わざと俺を挑発した?﹂
﹁⋮⋮⋮﹂
イサトさんは無言でやんわりと微笑んだ。
このやろう。本当。このやろう。
俺が悶えることを織り込み済みで、イサトさんは俺の部屋に泊ま
るなんて言い出したのだ。
﹁俺が悪かったから、もうそんな自分を人質にするような嫌がらせ
はやめてくれ、本当。俺がもたない﹂
﹁知ってる﹂
﹁⋮⋮タチ悪ィ﹂
深々と溜息をついた。
本当、この人には敵わない。
﹁それじゃあ、秋良青年、そろそろどいてくれ。重い﹂
﹁へいへい﹂
のっそりと、俺は今度こそ邪魔されることなくイサトさんの上か
ら身体を起こした。それから、何気なく手を取ってイサトさんを引
き起こしてやろうとして。
﹁⋮⋮、﹂
イサトさんの手が、酷く冷えていることに気付いた。
ああ、そうだよな。
いくらイサトさんがタチの悪いおっさんだとしても。
ガタイの良い男に組み敷かれ、凄まれて、怖くなかったわけがな
393
いのだ。
ごめん、なんて言葉が喉奥まで出てきたのを、飲みこんだ。
謝っても、イサトさんはしらばっくれるだろう。
だから。
﹁ありがとう、イサトさん﹂
﹁いいってことよ﹂
返事はやっぱり男前だった。
394
おっさんの献身︵後書き︶
真面目回。
ここまでらお読みいただき、ありがとうございます。
pt、感想、ツッコミ、全て栄養になっております。
395
犯人はおっさん︵前書き︶
ちょっといろいろ改稿しているので、前の話から読み直していただ
いた方が良いかもしれません。
1121修正
396
犯人はおっさん
翌日。
どうにか奇跡的にいつもの時間に目が覚めた。
といっても、時計があるわけではないので、あくまで感覚の問題
だ。窓から差し込む朝の光が白々しく、まだ早い時間だということ
を教えてくれる。
ソファから身を起こすと、ぎしぎしと体が軋むように痛んだ。
片方の肘部分を破壊してしまったとはいえ、窮屈なソファで寝た
せいでどうも全身が強張っている。ぐっと大きく伸びをすると、ぺ
きぺきと身体のあちこちが鳴った。
⋮⋮っていうかソファのこと、後で宿の主人に謝りにいかないと。
ぼーっとしがちな頭をわしわしとかいて、ベッドへと視線をやる。
どうやらイサトさんはまだ寝ているらしい。相変わらず朝に弱い
⋮⋮というか寝起きに弱い人である。
﹁イサトさん、朝だぞ﹂
声をかけてみる。
反応はない。
すっぽりと頭までシーツにくるまっていて、俺から見えるのはこ
んもりと丸くなったシーツの塊の中からはみ出た銀髪ぐらいだ。
﹁イサトさん、朝だってば。まだ寝る?﹂
昨夜はいろいろあって遅かったので、イサトさんが寝たいという
397
のなら起きるまで寝かせてやっても構わない、とは思う。ただ、隣
の部屋にいるエリサとライザの姉弟を放っておくわけにもいかない
ので、その場合一旦イサトさんを一人で部屋に置いていくことにな
るだろう。
ぎしりと音をたてて、ベッドに腰を下ろす。
﹁イサトさん﹂
そっと名前を呼んでみる。
なんとなしに、シーツからはみ出た銀髪を指先に絡めとってみた。
同じ髪でも、俺の硬い黒髪とは全然違う感触に驚く。しなやかで
柔らかで、つるつるすべすべとしている。これが美容室と散髪屋の
違いというものか。
﹁イサトさんってば﹂
軽く肩のあたりを揺らすと、ごろんとイサトさんが寝返りをうっ
てこちらを振り返った。が、まだ目は開かない。そしてそのままイ
サトさんはにじにじと俺の方へと芋虫のような動きでにじり寄ると、
膝に頭を乗せようとして⋮⋮力尽きた。
﹁あきらせいねん﹂
﹁なんだ﹂
﹁にくあつ⋮⋮﹂
何やらシーツの中から哀しげなうめき声が聞こえた。
どうやら俺の太腿の厚みに負けたらしい。
それなりに鍛えているので、確かに膝枕するのには若干高さがあ
るのかもしれない。今まであまりそんな機会に恵まれてないのでよ
398
くわからないが。
俺はどちらかというとイサトさんに膝枕していただきたい。
﹁で、朝だけどどうする?俺は適当に朝ごはん見繕って隣に顔出そ
うと思ってるけど﹂
﹁ん、ん⋮⋮﹂
唸って、イサトさんがもぞもぞとシーツの中で身じろぐ。
起きるんだろうか。っていうか起きれるんだろうか。
﹁起きれそう?﹂
﹁おき、る﹂
どう考えても途中で力尽きそうだぞコレ。
﹁秋良青年は、先に行っててくれ⋮⋮、私は、着替えてから、行く、
から⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮期待しないで待ってる﹂
二度寝フラグがびんびんに立ちまくっている。
俺はぐしゃぐしゃ、と一度イサトさんの頭を撫でてから、隣の部
屋に顔を出してみることにした。
399
こんこん、とドアをノックしてから、一声。
﹁起きてるかー?﹂
すぐにばたばたと物音がして、ドアが開くと中へと招き入れられ
た。
感心なことに、エリサもライザも二人ともとっくに起きて新しい
一日を始める準備が出来ていたらしい。
﹁おはよ、よく眠れたか?﹂
﹁うん。ライザの方も昨日はほとんど咳もなくて助かったぜ﹂
﹁そりゃ良かった﹂
そんなやりとりをしていると、エリサがきょろきょろと俺の背後
を伺うようなそぶりを見せた。
﹁イサトは?﹂
﹁まだ寝てる。昨日ちょっといろいろあって遅かったから﹂
俺の方はイサトさんが風呂に入ってる間に一度は寝ているので、
まだマシなのだが⋮⋮って。あれ?
俺が無理矢理寝入ってからイサトさんに起こされるまでの間に、
結構なラグがないか?
四人での夕食を終えて、それぞれ部屋に戻って。俺が先に風呂に
入って。そして俺はイサトさんが風呂から上がるのを待たずに強制
終了的にフテ寝して⋮⋮、そして深夜に起こされた。
400
俺が寝てる間、イサトさんは一体何をしてたのだろう?
話があるのなら、風呂から上がってすぐに急襲しててもおかしく
はないのだが。
そんなことを考えていると、何やらちょっとじとりとした目でエ
リサに見つめられてしまった。何故か、その目元がほんのり赤い。
﹁⋮⋮⋮⋮オマエ、手加減してやれよな﹂
﹁ぶふッ﹂
噴いた。
え。まって。ちょっと待って。それってどういう意味だ。いやな
んていうか意味はわかるが盛大に誤解だ。未遂だ。
エリサは気まずそうにちょろりと頬を赤らめたまま視線をそらし
ている。
まてまて。この誤解を放置しているといろいろとアレだ。アレが
コレでソレがアレだ。
﹁落ち着け﹂
﹁オマエが落ち着け﹂
至極もっともなツッコミを喰らった。
このけもみみ娘、やりおる。
﹁誤解だ﹂
俺は両手をエリサの肩におき、じっと真摯な視線を向けてはっき
りと言う。
401
人間話し合えばわかりあえるはずだ。
﹁別に⋮⋮隠さなくてもいーだろ。オマエら恋人同士なんだし﹂
﹁違う﹂
被せ気味に速攻で否定した。
もじもじとこういった話題を口にすることすら気恥しいのか、目
元を赤く染めて視線をさまよわせがちなエリサの様子はいかにも思
春期っぽくて微笑ましいと思うが、今はそれを堪能している余裕は
ない。
﹁は? でもイサト昨日オマエの部屋で寝たんだろ﹂
﹁ああ﹂
﹁ならやっぱりそういうことじゃねーか。普通恋人でもねー男の部
屋に泊まる女なんていねーし﹂
﹁その言葉イサトさんに言ってやってくれ頼む﹂
魂の訴えだった。
俺の大真面目な反応に、だんだんエリサの表情が胡乱になってい
く。
そうだろうそうだろう。
まさか恋人でもない男の部屋に、年頃の女性が泊まるなんて普通
は考えられないだろう。ほれ見ろ。やっぱりイサトさんは反省すべ
きだ。
俺の理性があとほんの少しでもパァンとなっていたら、いろいろ
取り返しのつかない事態になっていたに違いないのだ。
いくら俺の口を割らせてちゃんと吐き出させたかったからにして
も、もっと自分の身の安全を考えた作戦に出るべきなのだ。あんな
の、自爆覚悟の特攻技すぎる。
402
﹁⋮⋮なんか、イサトさんが俺と話したいことがあったらしくて。
まあ、それで昨日遅くまでいろいろ話してたんだよ﹂
前半わりと肉体言語よりだったが。
馬乗りになられたときには死ぬかと思った。主に俺の理性が。
﹁あー⋮、それで、なのか?﹂
もう少し誤解を解くには時間がかかるかと思いきや、ふとエリサ
は困惑したように小さく呟いた。
﹁何がだ?﹂
﹁昨日イサト、めっちゃ長風呂してただろ﹂
﹁あー⋮俺、イサトさんが風呂から上がってくる前に一回寝ちまっ
たからな。音、聞こえてたのか?﹂
﹁うん。なんか三時間ぐらいずっと水の音が聞こえてた気がする﹂
流石に長い。
ふやけるぞイサトさん。
女の人は風呂が長いというのは定説ではあるが、それにしても長
すぎやしないか。一体どこを洗ってるんだ。っていうか何をしてる
んだ。
﹁で、なんかブツブツ言ってるのが聞こえた﹂
﹁え﹂
﹁水の音で全部聞こえたわけじゃねーけど。隣の部屋だし﹂
どくん、と。
鼓動が跳ねた。
403
﹁なあ﹂
﹁ん?﹂
﹁なんて言ってたか、わかる範囲で教えてくれないか?﹂
﹁えーっと確か⋮﹂
エリサは思い出すように小さく首を傾げて、それから昨夜イサト
さんが風呂場に長時間こもって繰り返し唱えていたという言葉を教
えてくれた。
それは。
その言葉は。
﹃やれるいける怖くない信じろ大丈夫﹄
あんな、何考えているかわからないポーカーフェイスだったくせ
に。
本当はビビってて、一生懸命自分を奮い立たせて、俺が最終的に
は踏みとどまるに違いないと信じて挑発しに来たのかと思うと。
嗚呼。
本当、たまらない。
404
﹁おーい、アキラ、アキラってば。おい﹂
はっ。
どうやら俺は、しばらくエリサの肩をがっちりホールドして見つ
めたままフリーズしてしまっていたらしい。
脳が無事に再起動してくれたので、こほんと咳払いして、何事も
なかったかのようにエリサを解放する。
﹁おいアキラ﹂
﹁ん?﹂
﹁オマエ、顏真っ赤だぞ﹂
﹁そっとしておいてくれ﹂
青少年もいろいろ大変なのだ。
こん、と二度目の咳払い。
﹁まあそんなわけで、イサトさんはまだしばらく起きてこない気が
するから、先に朝飯にするか?﹂
﹁御馳走になっていいのか?﹂
﹁良くなかったら誘ってない﹂
俺がそういうと、エリサは部屋の奥の方でこちらの様子をうかが
405
っていたライザを振り返って、視線を交わした。それから、何か覚
悟を決めたようにお互い小さく頷きあう。
﹁あのさ、アキラ﹂
﹁なんだ?﹂
﹁オマエら、オレたちに何かしてほしいこととか、ねーのか﹂
﹁え?﹂
エリサの横に、ライザも並んで俺を見上げる。
﹁僕たち、お礼がしたいんです。何か、役に立てることはありませ
んか?﹂
﹁ライザはまだ小さいから無理だけど、オレならモンスターだって
狩れる。オレは獣人だから、その⋮⋮っ﹂
なんだか、ちょっと胸がじんわりとあったかくなった。
あんなに警戒心の強かったエリサが、俺たちに向かって何かお礼
がしたい、と口にしてくれた。何をしてやる、と具体的な内容を言
うのではなく、﹁何か出来ることはないか﹂と俺たちに選択権を委
ねている。
きっと、この言葉を言うために姉弟二人で話し合ったのだろう。
話しあった結論として、俺たちを信じて、その言葉を口にしたの
だろう。
そう思うと、嬉しくてつい二人の頭をぐしゃぐしゃと撫でてしま
っていた。
﹁わっ、何すんだよ!﹂
﹁わあっ﹂
柔らかな獣耳も巻き込んで、わしゃわしゃと撫でたくる。
406
﹁ありがとな。イサトさんが起きたらイサトさんの意見も聞いてみ
ることにはなると思うけど⋮⋮とりあえず、俺からも二人に頼みた
いことがあったんだ﹂
俺の言葉に、エリサとライザは二人してきゅっと手を握って表情
を引き締める。
⋮⋮む。そんな覚悟をされてしまうような無茶ブリをするつもり
はないんだが。
﹁俺とイサトさんはものすごく遠いところから、ここに来たばかり
なんだ。冒険者の資格もつい先日とったばっかだ﹂
どれくらい遠いのか想像も出来ない、遙か彼方の異世界よりこの
世界にやってきた。
﹁だから、この街の事情や、文化とかが全然わからない。もし、エ
リサやライザが大丈夫ならでいいんだが、俺らがここにいる間、い
ろいろと教えてくれないか?﹂
﹁⋮⋮そんなことで、いいのか?﹂
エリサが、どこか不安そうに瞳を揺らしながら聞き返す。
そんなこと、とエリサは言うが、俺やイサトさんにとっては結構
な大問題だ。
﹁家﹂を整えようにも、どこまでが実現可能で、どこにいけばそ
ういったことが出来るのかすらわかっていない。それどころか、昨
日から違和感ばかり覚えるこの街の情勢のことだってわからないの
だ。
そんな俺たちにとって、もしもこの姉弟が情報源となってくれた
なら、非常に心強いことこの上ない。
407
﹁たぶんイサトさんも同じことを言うと思うので、ちょっと考えて
おいてくれ﹂
﹁いや、考える間もなくそんなことでいいなら全然やるよ﹂
﹁うん、僕も街の案内ぐらいなら出来るから!﹂
﹁そっか、ありがとな﹂
わっしゃわっしゃわっしゃ。
二人の頭を撫で繰り回す。
どこか拍子抜けしたような、ほっとしたような表情で二人は気恥
ずかしそうに笑った。
﹁それじゃあまずは、朝めしをどうするか、だな。このままここで
喰ってもいいけど、お前らどっかおすすめとかあるか?﹂
俺の質問に、エリサとライザが顔を見合わせる。
﹁中央通りのパン屋のサンドイッチは?﹂
﹁この時間だと混んでない?﹂
﹁朝の屋台ならそう並ばず買えると思うぜ﹂
﹁そしたらそのまま噴水のベンチで食べるとかどうかな﹂
﹁いいな﹂
二人して目をきらきらさせながら話しあっている。
これは期待できそうだ。
そして、外に食べにいくつもりならばイサトさんを起こす必要が
おっさん
ありそうだ。ちなみに、こうして俺らが話している間隣から物音は
一切しない。間違いなく二度寝に突入しているぞ、あの人。
﹁二人はもう外に出る準備はばっちりか?﹂
408
﹁おう!﹂
﹁うん!﹂
﹁じゃあちょっと俺はイサトさんを起こしてくるとするか﹂
﹁あ⋮⋮でも、イサト昨日夜遅かったんだろ? 寝かしてやった方
がいいんじゃねーのか?﹂
﹁や、この状況で起こさない方が後で面倒だと思う﹂
別に俺とエリサ、ライザと三人で買い物に出掛けても良いのだが、
たぶん事後報告でそれを聞いたら、イサトさんは間違いなくなんで
起こしてくれんかったんだ、と拗ねるだろう。一度起こして、それ
でも駄目なら置いて行けば良い。
﹁んじゃちょっと待っててくれ。イサトさんに声かけてくる﹂
俺はそういうと、二人の元を後にした。
丸くなって二度寝に突入していたイサトさんに声をかけてみたと
ころ、案の定のろのろとではあるものの動きださせることに成功し
409
た。
﹁あきらせいねん﹂
﹁なんだ﹂
﹁あっちむいてほい﹂
﹁へ?﹂
突然のあっちむいてほいに、とりあえず釣られておく。
一度あらぬ方向に視線をやってから、イサトさんへと視線を戻し、
今のは何だったのかと聞きかけて︱︱⋮、息を飲んだ。
イサトさんが、着替えていた。
おそらくインベントリに用意してあった服をクリックすることで
着替えをすませたのだろう。まだ少しぼーっとした様子で、服の裾
を軽く引っ張って整えたりなどしている。
その仕組み自体は俺も把握しているので、特に驚くようなことで
はないのだが⋮⋮、俺が息を飲んだのは、その着替えた後の格好の
せいだった。
本日のイサトさんは、まさかの赤ずきんである。
﹁⋮⋮どういった心境の変化で?﹂
まさかイサトさんが好き好んでコスプレシリーズに走るとは思っ
ていなかった俺である。もちろんそのうちなんやかんや理由をつけ
て着てもらおうとは思っていたが。
﹁心境の変化っていうか⋮⋮、手持ちの服がこれしかないんだ。ナ
ース服は君の﹃家﹄に干したままだし﹂
﹁あ、なるほど﹂
410
少しずつ目が覚めて来たのか、しっかりとした口調でイサトさん
が欠伸交じりに俺の疑問に答えてくれた。
イサトさんとしてはカラットの村で手に入れた服が一番無難で気
に入っているらしいのだが、あちらは昨日着たばかりだ。おそらく
本日洗濯のターンである。そして本人が言ったように、ナース服は
俺の﹃家﹄に干されている。これからしばらくは砂漠服↓ナース↓
赤ずきんのローテーションで着回すことになるのだろう。
個人的には、ナースと赤ずきんのローテでお願いしたいところだ。
なんせカラットで手に入れた服は防御力という面ではあまりにも頼
りにならない。あのヌルっとした人型のような存在がどこに潜んで
いるかわからない今、あまり油断はしたくないのだ。
まあ、そういう真っ当な理屈だけでもないけど。
八割ぐらい下心だけど。
⋮⋮ほら。なあ。ほら。やっぱり綺麗な脚は見たいじゃないか。
そっとさりげない様子を装って、イサトさんへと視線を流す。
ダークレッドのフード付きマントの下には白のふわっとしたシフ
ォンブラウス。その上から重ねられたのは黒のコルセットだ。胸を
張りだすように強調しているのが何ともたまらない。薄着とは逆に
布を重ねているというのに、それによって胸の膨らみだったり、ウ
ェストの華奢な細さをこれでもかと言わんばかりに強調している。
コルセットとは良いものだ、としみじみ思ってしまう。そんなコル
セットの中心には白い細紐が丁寧に編み込まれており、その思わず
ちょいとつまんで引っ張りたくなる感じといったらもう言葉になら
ない。はらりと解けた瞬間の、張りつめていた身体のラインがたゆ
ん、と柔らかく弛緩する様を想像するだけでごくりと喉が鳴った。
411
ゆめ
妄想はどこまでも広がりまくりんぐ。
下はダークレッドのフレアスカートで、その下にパニエを重ねて
いるのか、ふわっと広がったスカートの下からちらちらと白のフリ
ルが見え隠れするのが可愛い。そして、例によって例のごとく、そ
の形良い脚を隠すのは黒の編み上げニーハイブーツである。
先日のナースがスタイリッシュなエロティシズムだとしたら、こ
ちらは可愛らしさの中にエロさが潜んだ感じで、これまた趣きが変
わってなんとも良い。
﹁⋮⋮良い﹂
﹁ん?﹂
﹁や、こっちの話﹂
しれっと誤魔化しておく。
それから、エリサとライザと合流し、階下へと降りる。
﹁あ、俺鍵預けてくるから、イサトさんたち先外に出ておいてくれ﹂
﹁わかった﹂
この宿では、出掛ける時に鍵を預けることになっているらしい。
俺は床をモップで拭いていた女将さんへと鍵を預ける。そして三人
の待つ外へと出ようとしたところで、ふとソファの件を思い出した。
﹁あ、そうだ。俺の部屋なんですけど、昨日ソファの肘置きの部分
を片方壊してしまって﹂
﹁あら、まあ﹂
﹁ちゃんと弁償するんで、宿代と一緒に請求して貰ってもいいです
か?﹂
﹁もともと古いソファでしたからねえ⋮⋮、わかりました。主人に
412
そう伝えておきますよぉ。でも、昨夜は随分とお静かでしたねぇ?﹂
﹁え?﹂
﹁部屋を貸し切るから、きっと騒ぐおつもりなのかと思ったのに﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
思わずひくりと笑顔が引き攣った。
部屋を貸し切る。
何の話だ。
﹁ちょっとそれ詳しく﹂
﹁え?お連れさんが他の部屋も全部貸し切っちゃったんですよぉ。
おかげで久しぶりに満室なんてことになりました。聞いてないんで
すか?﹂
聞いてない。
そんな話は聞いてない。
どうやら、俺は完全にイサトさんの掌の上で転がされまくってい
たらしい。
犯人は、イサトさん。
413
ちょっと恥ずかしいぐらいに顏が赤くなっている自覚はある。
414
犯人はおっさん︵後書き︶
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
Pt、感想、お気に入り、励みになっております。
また、活動報告にてご報告いたしましたが、現在書籍化のお話をい
ただいております。書籍化に向けて前向きにお話を進めております
ので、また何かご報告出来次第、発表させていただきたいと思いま
す。
これからもよろしくお願い致します。
415
おっさんとドナドナの危機︵前書き︶
1121修正
416
おっさんとドナドナの危機
俺がどうにか平静を装って三人と合流した後は、のんびりとセン
トラリアを見て回りながら、目的の屋台を目指すことにした。
エリサとライザと一緒に見てまわるセントラリアは、俺とイサト
さんが二人だけで回るよりももっと興味深い。
なんせ、地元っ子の二人が競うようにしていろいろなことを教え
てくれる。
そんな中で一番度胆を抜かれたのは、俺たちの知らない﹃生活魔
法﹄なんていうスキルの存在だった。
イサトさんの、旅の間も着回すことが出来るぐらいちゃんとした
服が欲しい、というぼやきに反応して、ライザがきょとんと﹁生活
魔法じゃ駄目なの?﹂と言い出したのだ。
なんでも、この世界では旅や冒険をする上で便利なちょっとした
魔法が、﹃生活魔法﹄というスキルによって補われているらしい。
・・・・
例えばその中の一つである﹁クリーン﹂と呼ばれる対象物をきれ
・・・・
いにする魔法を使えば、泥水を人間が飲める程度の真水にきれいに
したり、着ている服ごと身体をさっときれいにすることが出来るら
しい。
その他にも﹁ウォーター﹂といって何もないところから水を生成
する魔法などもあって、それらの﹁生活魔法﹂はこの世界で生活す
る上では必須スキルなんだそうだ。二人の話しぶりを聞いた感じだ
と、どうやら俺たちの世界で言う家電感覚でそういったスキルが便
利に使われているようだ。
417
﹁さすがだなー⋮﹂
﹁うん、リアルだ﹂
イサトさんと思わず顔を見合わせる。
魔法、という俺たちにとっての不思議概念が、生活に紐付いて存
在しているというのが新鮮なのだ。
ゲームとしてのRFCにおいては、魔法スキルというのは主に戦
闘において使われるものだった。援護系、直接攻撃系といろんな種
類はあったが、どれも共通するのは﹁戦闘﹂という限られた場面で
使うことしか想定されていない、ということだろう。ゲームという
薄っぺらい世界において、魔法の使い道なんて、いかに敵を倒すか、
ぐらいしかなかったのだ。
が、実際に魔法という概念が存在する世界で生活していれば、そ
の生活の中に魔法を便利な形で取り入れようと考えるのは極々自然
な発想だ。
実際エリサとライザの二人もそういった﹁生活魔法﹂のスキルを
持っていて、お互いに役割分担でスキルを使って暮らしているんだ
そうだ。
﹁⋮⋮オマエら、よく生活魔法知らないでここまで旅して来れたよ
な⋮⋮﹂
﹁⋮⋮セントラリアに着くまで、どうやって生活してたんですか⋮
⋮?﹂
エリサとライザの姉弟にドン引きされてしまった。
二人は俺らが野営に野営を重ね、原始的な旅の果てにセントラリ
アに辿りついた図を想像したようだ。実際には、あのヌメっとした
418
人型に遭遇するまでは、わりと快適な空路を楽しんでいたわけなの
だが。
﹁なあ、どっかで生活魔法のスキルロールって買えるか?﹂
﹁朝飯が済んだら案内してやるよ﹂
﹁助かる﹂
生活を楽にするための﹁生活魔法﹂のスキルが存在するのなら、
同じように生活を楽にするためのマジックアイテムもあるだろう。
家の整備にも期待が出来る。
朝食が済んだら、その辺りのこともエリサに相談してみるか、な
んて思いつつ歩いていたところ︱︱⋮ふと、目の前に影が差した。
﹁ん?﹂
顔をあげる。
俺たちの行く手を阻んでいたのは、やたら綺麗な鎧に身を包んだ
騎士と、その他もろもろの御一行様だった。見覚えのある白を基調
にした鎧と、盾の中に聖杯が描かれた紋章からして、おそらくセン
トラリアの守護騎士だろう。
だがその他もろもろ、の部分がよくわからない。
良く言えば恰幅の良い、悪く言えばよく肥えた金持ちそうなおっ
さんと、その護衛というか取り巻きというか、といった男たち。
何を共通点に集まった御一行なのかがわからない。
用件はなんだ。
俺が訝しげに眉間に皺を寄せている間にも、太った男と騎士を中
心に、御一行はぞろりと俺らの行く手を阻むように展開する。そし
て、すっかり俺たちを取り囲んだところで、正面に立っていた騎士
が一歩前に出た。
419
﹁私はセントラリア守護騎士団に所属するライオネル・ガルデンス
である﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
そのライオネル・ガルデンスが俺たちに何の用だ。
俺も、連れの三人を庇うようにして一歩前に出た。
イサトさんはいつもと変わらぬ様子で目の前の男たちを眺めてい
るものの、エリサとライザの反応は顕著だ。明らかに警戒している
のがわかる。
﹁⋮⋮⋮⋮飛空艇のことがバレたかな﹂
ぽそりと、小さくイサトさんが呟くのが聞こえた。
だろうな、と俺も小声で返す。
それ以外、セントラリアの守護騎士に囲まれる覚えはない。
だが、どうにもそれにしては様子がおかしいような気もした。
飛空艇を墜とした下手人に事情聴取、もしくは逮捕に来るには、
ちょっとメンツが不自然ではなかろうか。
何故騎士団ではなく、騎士と、その他もろもろなんていう組み合
わせでやってきたのか。
俺を見据えて、ライオネル・ガルデンスと名乗った騎士が口を開
く。
﹁貴様らに罰金の徴収に来た﹂
やはりそう来たか。
俺はちらり、とイサトさんを見る。
イサトさんも、覚悟したようにこくりと頷きを返す。
420
俺とイサトさんの財産でなんとかカバーできる程度の額だとあり
がたいわけだが⋮、何せ墜としてしまったのは公共の交通手段であ
る飛空艇である。
ゲーム内でも価格が設定されていなかったため、どんな天文学的
な数字をぶつけられるかわからないあたりが若干怖い。
ごくり、と覚悟を決めて俺とイサトさんは騎士の言葉を待ち︱︱
⋮。
﹁貴様らは先日、公共の場で剣を抜くという危険行為に及んだ﹂
ん?
﹁よって、罰金は一人あたり一万エシルである。可及的速やかに納
付するように﹂
おおおおお???
思わずぽかんとイサトさんと顔を見合わせてしまった。
公共の場で剣を抜く?
1万エシル?
飛空艇を墜としたことは関係ない⋮⋮、のか?
﹁ちょっと待てよ、オレが先に剣を抜いたんだ!アキラはあくまで
オレに応戦しただけなんだよ!だから罰金ならオレだけに﹂
﹁ならん。街中で剣を抜いたことに変わりはない﹂
横からすり抜けるように飛び出したエリサが、騎士へと抗議の声
をあげる。
が、それに対する騎士の返事はあくまで冷やかだった。
なるほど。
421
どうやらここ、セントラリアにおいては、公共の場で剣を抜くこ
とは危険行為として禁じられているらしい。いわゆる銃刀法違反と
いうことになるのだろう。 法律としてそう決まっている、というのなら、特に逆らうつもり
はない。
実際、周囲に一般の人間がいる中で大剣を抜いたのは事実なのだ
から。
﹁いいよ、エリサ﹂
俺はふしゃーっと毛を逆立てた猫のようになってるエリサの肩に
ポン、と手を置いて後へと引き戻す。
下手に官憲に逆らって問題を起こすつもりはない。
﹁剣を抜いたことに対する罰金、なら対象は俺とエリサの2名、合
計2万エシルで良いんだな?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺の確認に、騎士は少し考えるような間を置いた。
それから、何故かちらりと隣の太った男へと視線を走らせる。
男がにやりと口元を笑ませ、それに対して騎士が頷く。
そんな謎のアイコンタクトを経て、騎士が再び口を開いた。
﹁いや、その騒ぎに関係した全員につき1万エシルだ。つまり、そ
この2人も入れて4万エシルになる﹂
﹁⋮⋮ッ、そんな話聞いたこともねえ!!﹂
エリサが俺の腕を振りほどかん勢いで怒鳴る。
これは⋮⋮どうも、よろしくない。
422
俺ぼんやりとそんなことを思いつつイサトさんを見た。
イサトさんも、眉間に緩く皺を寄せ、苦虫をかみつぶしたような
顔をしている。
それを要求された金額に対する反応だと思ったのか、先ほどから
黙って様子を窺っていた太った男が一歩前に出た。
年は40代後半といったところだろうか。
でっぷりと脂ののった男だ。にこにこ、と顏は笑っているものの、
どこか油断のならない印象を受ける。
やたら愛想の良い訪問販売員のような印象、と言ったら伝わるだ
ろうか。
﹁いやいや、しばらく様子を見させていただいていましたが⋮⋮随
分とお困りの様子。手元が不如意なようでしたら、ギルロイ商会が
ご用立て致しますが﹂
﹁アキラ駄目だ、こいつらそうやって借金させていいようにするん
だ!﹂
﹁おや、人聞きが悪いですな、エリサさん。うちは世間的に働き口
が少ない亜人種たちに職を紹介し、生活の糧を与える良心的な商会
ですよ﹂
﹁⋮⋮ッ、嘘つけ!﹂
興奮しているのかエリサの緋色の髪が、ぶわりと膨らんでいる。
ふしゃーと毛を逆立てて威嚇する猫のようだ。
が、その一方で喧々と咬み付くように太った男に対して怒鳴って
はいるものの、その耳はどこか怯えたように寝ている。
本当は装っているほど強くはなく、エリサだって子供なのだ。
﹁イサトさん﹂
423
﹁エリサ、こっちにおいで。大丈夫だ﹂
イサトさんの名を呼ぶと、イサトさんは俺の意図を汲んでエリサ
を背後へと引き寄せた。﹁でもアキラが⋮っ﹂なんて不安そうな声
が聞こえるが、ここは心配せずに見守っていて欲しいところだ。
﹁用立て、とは?﹂
﹁はい、こちらのギルロイ商会が、あなた方の罰金を肩代わり致し
ます。その代わりの労働力を後程提供していただくことにはなりま
すが⋮⋮悪い話ではないかと﹂
そう言って、ギルロイ商会の男はにこりと営業スマイルを浮かべ
た。
タイミングを見計らっていたかのように、騎士が言葉を続ける。
﹁もしも罰金が払えないなら、罰金が納付されるまで牢で拘留する
ことになる﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
俺たちのような、代わりに罰金を用立ててくれるようなものがい
ない流れ者にとっては、無期限の拘留になりかねない対応である。
いやまあ、だからこそ、白々しくこのギルロイ商会の男が出てく
るのだろうけれども。
﹁どうでしょう? あなたの場合、直接労働をしていただくという
よりも、お連れ様の身柄を斡旋していただくだけでも結構ですが⋮
⋮﹂
そう言って、ギルロイ商会の男は好色そうな眼差しをイサトさん
へと向けた。
424
つまり、イサトさんの身柄を引き渡せば俺の財布は痛まないぞ、
ということが言いたいらしい。
﹁なるほど﹂
俺はそう言って頷く。
背後で、エリサとライザが怯えた様子でイサトさんにくっつくの
がちらりと見えた。
⋮⋮まさかお前ら、俺がイサトさんを売っ払うとでも思っている
んじゃないだろうな。
二人の俺への認識に多少の不安が募った。
﹁罰金の件と、それを肩代わりしてくれるというギルロイ商会の申
し出についてはわかったんだが⋮﹂
俺は、すいと双眸を細めて目の前の二人を見据える。
﹁どうして罰金の取り立てに来る騎士様と、ギルロイ商会の人間が
わざわざ一緒に手下をつれてやってきたんだ?﹂
﹁誤解なきよう申し上げますと、我々ギルロイ商会がセントラリア
における福祉に力を入れているからでして﹂
﹁ほう﹂
俺に人売りめいた真似をしろと申し出ておきながら、言うに事欠
いて福祉か。
ルーター
﹁セントラリアにおいては、悲しいことに亜人種の方々を略奪者と
呼び、差別するような風潮がはびこっております。差別の憂き目に
425
あい、なかなか仕事にも恵まれないそういった方々を援助する活動
を、ギルロイ商会は行っておりまして⋮⋮こうして、亜人種の方が
関わった揉め事のうち、罰金で解決できるようなものであればうち
で処理をすることも多いのです﹂
﹁その通りだ。よって、亜人種に罰金の徴収を行う際には、ギルロ
イ商会の人間をつけるのが慣習となっている﹂
なんとももっともらしい説明だ。
﹁じゃあ⋮⋮、これはなんだ?﹂
くい、と俺は俺たちの逃げ場を塞ぐように、ぐるりと囲む男たち
を顎で示す。
騎士団の鎧を着ていないということは、ギルロイ商会の部下、い
や、皆腰に剣を下げているあたり、私兵という方が近いのかもしれ
ない。
﹁騎士の方々のお仕事が少しでも楽になるようにと、協力させてい
ただいております。もちろん、私どもは何の権限もないただの一般
市民ではありますが﹂
﹁ふぅん﹂
と、いうことらしい。
全力で建て前を並べられた、といったところか。
完全にこれが現代日本だったらば、汚職警官と悪徳金融の癒着行
為としてすっぱ抜かれているところだ。
それに、何が﹁協力させていただいております﹂だ。
力関係はおそらく逆。ギルロイ商会に、そこの騎士が協力してい
る、というのが本当のところだろう。その証拠に、先ほど罰金の額
426
を釣り上げたとき、騎士はこのギルロイ商会の男の顔色を窺った。
ああ、良くない。
この流れは非常によくない。
騎士が、罰金の額を釣り上げたときに俺とイサトさんが苦い顏を
したのは、別段その額がお財布に痛かったわけではない。一万エシ
ルなんていうのは、上級ポーション一本の店売り価格である。それ
を所持量の限界まで積んで狩りに出ていた俺たちである。今さら4
万エシルぐらいの出費など、痛くも痒くもない。
では何がまずいのか。
単純に、気に入らない。
この連中のやり口が気に入らなくて、思い通りになってやりたく
ないと思ってしまうのだ。おとなしく金を払い、何事もなくこの場
から立ち去るのが一番だとわかってはいるのに。
﹁秋良青年﹂
ふと、背後から名を呼ばれた。
﹁ん?﹂
﹁もし⋮⋮、君が4万エシル払いきれないというのなら、私が⋮⋮﹂
﹁イサト、駄目だ⋮!﹂
悲壮な感じに目を伏せて、儚く微笑んだイサトさんを止めるよう
に、エリサがぎゅっとイサトさんの腕を捕まえる。
安心するといいぞ、エリサ。
427
それ、絶対続きは﹁この身体を売っても⋮⋮﹂みたいなことには
ならないから。
よくポーション破産していたイサトさんでも、4万エシルぐらい
はした金だと言い切る程度の財産はあるはずだ。
ある⋮⋮よな?
微妙に不安になった。
が、まあそれはともかく。
﹁もし⋮⋮、君が4万エシル払いきれないというのなら、私が⋮
⋮﹂の続きをイサトさんに言わせたなら。
それはきっと。
﹃暴れるけど構わないか?﹄
とか、たぶんその辺りだと思う。
なので、俺は小さく溜息混じりに、口元に笑みを浮かべた。
そして、利き手を腰に下げている大剣へと滑らせ、一息に引き抜
き︱︱⋮、抜刀すると見せかけて途中で手を放した。
かちん、と間の抜けた音をたてて、大剣が鞘に戻る。
428
たった、それだけ。
俺がしたのはたったそれだけのことだった。
が、周囲の反応はそれどころではない。
俺たちを囲んでいた全員が、ずらりと反射的に腰の剣を抜いて俺
たちへと向けて構えている。
﹁何のつもりだ⋮⋮!?﹂
騎士の理由を問う声に、俺は敵意を見せないままホールドアップ。
イサトさんが地味にスタッフを用意していつでも援護に入れるよ
うにしてくれてはいるが、一応こちらから戦闘を仕掛けるつもりは
ない。
ただ、ちょっと嫌がらせがしたいだけだ。
﹁いやあ、すみません。財布を取るつもりが、どうも袖が柄に引っ
かかってしまったみたいで。ああ、でも今のも街中での抜刀に入る
よな﹂
白々しく笑いながら、俺はインベントリから8万エシルを取りだ
した。内訳は一万エシル硬貨を8枚。エシルには紙幣がない代わり
に、単位ごとで硬貨の色や形、大きさが違っている。ゲームの中で
はモンスターからドロップする時ぐらいにしか意識しなかったが、
こうして実際に使ってみるとありがたい。特にゲームと違ってデー
タでやりとりするわけではないのだ。1エシル硬貨で8万枚分取り
出すのを想像しただけで頭痛がする。
俺があっさりと罰金を払ってしまったことに面喰いながらも、騎
士としては受け取らないわけにはいかないのだろう。ちらちらとギ
ルロイ商会の男の顔色を窺うように視線を揺らしながらも、騎士は
俺の支払った8万エシルを受け取った。
429
それを見届けてから、俺はにっこりと笑う。
﹁ああそうだ。せっかくだし、俺もギルロイ商会の方を見習って騎
士様に協力するとしようかな﹂
﹁⋮⋮は?﹂
騎士が胡乱げな視線を俺に向ける。
まだわかってないのか。
一方、ギルロイ商会の男の方は、俺の言葉に薄く眉間に皺を寄せ
た。
流石だ。俺の目論みに感づいたらしい。
﹁ほら、この人たち﹂
俺たちを囲んで、剣を抜いて警戒する男たちを手で示す。
﹁街の中で剣を抜くのは、罰金に値する危険行為、なんだろ?﹂
﹁だ、だがそれは貴様が先に⋮⋮﹂
﹁どちらが先に抜いた、というのは関係なく、街中で危険な行為に
及んだことが咎められているんだよな﹂
これはさっき、エリサに対してこの騎士本人が言った言葉だ。
俺たちを囲んで剣を抜いている私兵は十数人はいる。全員に対し
て1万シエルの罰金を請求したのならばギルロイ商会としてもなか
なかに痛い出費となることだろう。
﹁いやあ、俺が勘違いさせたせいで悪いな。そちらも﹃何の権限も
ない一般市民﹄だそうだし、そうなると罰金刑からの免除も難しい
よな。どうする?この場で払えるか?それとも払えないようなら、
牢への連行を手伝うけど。これぐらいしか出来なくて心苦しいな﹂
430
相手が、俺らをハメるために用意した設定をそっくりそのまま返
してやる。
悪意なんてカケラもありませんよ、って顏でにこにこしながら、
騎士の言葉を待つ。
﹁あ⋮⋮﹂
騎士は困ったようにおろおろと視線をさまよわせ⋮⋮そんな膠着
状態から脱するきっかけをくれたのは、やはりギルロイ商会の男だ
った。
﹁それには及びませんよ。私どもは騎士に協力する善良な市民です
から。そちらの手を煩わせる必要はありません。ライオネル様、私
どもの罰金については詰所にてお話させていただけますか?﹂
﹁あ、ああ⋮⋮﹂
ギルロイ商会の男は、﹁行きますよ﹂と短く取り巻きの私兵へと
告げる。ドジを踏んだ自覚はあるのか、剣を収める私兵連中の顏は
うっすらと青ざめていた。
ざまあ。
ぞろぞろと引き上げていくその姿を見送って、俺はべ、と舌を出
しておく。
﹁ギルロイ商会の連中を引き上げさせるなんて⋮⋮﹂
﹁すごい⋮⋮﹂
ぽかん、としているエリサとライザの頭をぐしゃぐしゃと撫でて
431
やる。
なんとなく、この二人の置かれている状況が少し見えたような気
がした。
そして、再び歩き出しつつ、そっと隣のイサトさんに聞いてみる。
﹁ところでイサトさん﹂
﹁なんだ?﹂
﹁さっきの、﹃もし⋮⋮、君が4万エシル払いきれないというのな
ら、私が⋮⋮﹄の続きって何だった?﹂
ちらり、とイサトさんが俺を見る。
楽しそうに、たっぷりと面白がるような笑みを含んだ金色の眼差
し。
﹁君の良い身体を人には言えないようなところでセリにかけてでも
4万エシルを用意するから大丈夫だ﹂
﹁大丈夫じゃねえ﹂
まさかの売られる前に売れ精神だった。
432
おっさんとドナドナの危機︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
Pt、感想、お気に入り、励みになっております。
433
おっさんのお怒り
先ほどの騒ぎですっかり人目を引いてしまった俺たちは、エリサ
とライザおすすめの屋台とやらでサンドイッチを購入した後、少し
離れた広場で食事にすることにした。そちらの方が人通りが少ない
から、というエリサとライザの言葉に案内は任せる。
その道すがら、エリサとライザは無言だ。
二人とも、悄然と項垂れて地面を見つめてしまっている。
いや、二人とも、というよりも主に原因はエリサだ。
まだ付き合いは短いものの、こんな風に落ち込んでいるエリサと
いうのは珍しい⋮⋮気がする。エリサは嫌なことがあっても、それ
を﹁哀﹂ではなく﹁怒﹂にもっていくタイプに俺には見えていた。
なにくそーっと発奮して、その怒りでさえトラブルを乗り越えるた
めの原動力にするタイプだ。昨日俺が泣かしてしまった時だって、
わんわんと泣いた後はわりとけろりとしていた。
そのエリサが、沈んでいる。
ぼんやりと視線を伏せ、黙りこくり、思い詰めている。
ライザはおろおろと、姉の様子を心配そうに窺うばかりだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺とイサトさんもそんなライザと同じくで、二人視線を交わすも
のの、何と声をかけたらいいのかがわからず結局無言のままになっ
てしまう。
下手に突くとパァンと弾けてしまいそうな不安定さを感じる静け
さに、今はとりあえずそっとしておこう、と俺は周囲へと視線を流
す。
434
中央の噴水広場に多くの屋台が集まっていたのと引き換えに、こ
の辺りは人どおりもまばらで静かだ。広さも、噴水広場の半分程度
だろうか。
どこか寂しげな広場を見渡して、俺は気になるものを発見した。
広場のほぼ中央に飾られた、小鳥を呼ぶ少女の像。
どこかで見た覚えがあるような気がする。
﹁秋良青年、どうした?﹂
﹁いや、あの像見覚えがあるような気がして﹂
﹁そりゃそうだろうな﹂
﹁へ?﹂
﹁ここ、買います広場だぞ﹂
﹁あ﹂
俺はポンと手を打った。
﹁ここ、買います広場か﹂
﹁うん﹂
イサトさんの言葉に、俺は納得したような声をあげる。
ゲームの中で見ていた二次元の街並みと、実際に目でみている三
次元の街並みとがイコールで結ばれるアハ体験に、俺は物珍しげに
周囲へと視線をやる。
言われてみれば、確かにこの広場も俺は知っている。
セントラリアには街のほぼ中央に三つの広場が横に並んでいる。
中央の噴水広場を挟んで、左右対称にある広場のことを、ゲーム
内では左を﹁売ります広場﹂、右を買います広場と呼んでいた。
別に公式が定めたわけではないのだが、いつ頃からかユーザーの
間でそういう風に呼ばれ、特定のものが欲しいユーザーは﹁買いま
す広場﹂で欲しいものと買い取り価格を提示して売り手を待ち、ア
435
イテムを売りしたいユーザーは﹁売ります広場﹂で店を開設して看
板を掲げていた。
もともとはごっちゃだったのだが、同じ商品名を書いていても、
﹁売りたい﹂のか﹁買いたい﹂のかがわかりにくくて揉め事になる
ことが多く、その結果広場が三つあるなら分ければいいじゃん、と
いうことになったらしい。
ちなみに中央の噴水広場は、もっぱらPTメンバーを探したり、
待ち合わせに使われることが多かった。
﹁よく気づいたな、イサトさん﹂
俺は言われるまで気づかなかった。
少女の像に見覚えがあるな、と思った程度だった。
感心した俺に、イサトさんはふっと視線を遠のかせる。
そしてしみじみと呟いた。
﹁ほら、私右と左をよく間違えるから﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
悲しい沈黙が落ちた。
﹁だからまあ、左が﹃売ります広場﹄で右が﹃買います広場﹄だと
わかっていても逆に行って首をかしげることが多かったので、像で
今自分がどっちにいるかを判別つけていたんだ。ちなみに﹃売りま
す広場﹄の方には弓を背負った狩人風少年の像があるぞ﹂
﹁なるほどな﹂
流石は方向音痴だ。
﹁男の人はアレだろ。土地感覚が俯瞰図でイメージ出来るんだろ?﹂
436
﹁まあ、大体イメージ出来るな﹂
今も、俺は実際に歩きながら脳内にあるゲームの中でのセントラ
リアの地図と、実際の感覚とを一致させている最中だ。
﹁女はそれが苦手なんだよな。私も地理感覚が苦手な人代表だ﹂
﹁存じ上げております﹂
﹁存じられてた。まあだから目で道を覚えがちだ﹂
﹁それはそれで凄いと思うけどな。地図を覚えるんじゃなくて、経
路を覚える分記憶力が試されそうだ﹂
一枚絵で地図を覚えて脳内で運用するよりも、経路を目で覚える
方が大変そうだとごくごく自然に思える俺はやっぱり男なのだろう。
イサトさんは、俺の言葉に少し困ったように目を伏せる。
﹁目で覚えるから、ちょっとでも様子が変わるとわからなくなるぞ。
看板が変わっても困るし、最悪昼か夜かでも迷いかねない﹂
﹁おおう⋮﹂
思わぬところで迷子の仕組みを知ってしまった。
そんな少しの変化で道がわからなくなってしまうとは⋮道理でよ
く迷子になっているわけである。
そんな会話を交わしつつ、広場の端っこの方に無造作に並べてあ
った丸テーブルと椅子の方へと皆を誘導した。
ゲーム時代だと、こういった席にもプレイヤーが座って、﹁買い
ひとけ
取ります﹂の看板を出して賑わっていたものなのだけれども⋮⋮こ
こもまたがらんとすっかり人気がなくなってしまっている。
﹁あそこで座って食べるか﹂
437
﹁そうしよう。ほら、二人もおいで﹂
イサトさんはエリサとライザを招いて、椅子に座らせる。
そして丸テーブルを4人で囲んで、買ってきたサンドイッチの包
みを開いた。
塩漬けされたハムと野菜と、ちょっとよくわからないソースのか
かったサンドイッチである。ツンとする香りがほのかに漂っている
ので、おそらくビネガーの類いだろう。
﹁んじゃ、いただきます﹂
﹁いただきます﹂
俺とイサトさんは手を合わせて、がぶりとサンドイッチにかぶり
ついた。
塩漬けされたハムはそれなりに厚く、歯ごたえがある。その肉汁
が、しゃきしゃきと新鮮な野菜と合わさってなかなかに美味しい。
ソースは予想通りのビネガーで、ツンとした味わいが良いアクセン
トだ。シンプルなサンドイッチだが、そのシンプルさが素直に嬉し
い。惜しむべくは、ここまでの道のりの間に野菜の水分を吸ってパ
ンが少しべしょっとしてしまっていることだろうか。
焼き立て、作り立てだったらきっともっと美味しかったことだろ
う。
﹁んん、なかなか美味いな﹂
﹁本当本当。オリーブが欲しくなる﹂
﹁え、イサトさんオリーブ平気なの?﹂
﹁私は平気。もしかして君、駄目か﹂
﹁あんまり得意じゃないなー﹂
﹁じゃあ君の分のオリーブは私が担当しよう﹂
﹁まかせた﹂
438
俺とイサトさんはそんな会話をのんびりと交わしながらサンドイ
ッチを頬張る。
その一方で、エリサがのろのろと緩慢な仕草でサンドイッチに手
を伸ばした。それを見て、ライザもサンドイッチを手にとる。そし
て、エリサはサンドイッチを一口食べて⋮⋮。
ぽたり、と涙が一雫、テーブルに落ちた。
﹁お姉ちゃん⋮⋮?﹂
ライザの気遣わしげな声が響く。
俺とイサトさんは、二人で顔を見合わせる。
エリサが、何か思い詰めているのはわかっていた。
けれど、どう水を向けていいのかがわからなくて、ここまで俺と
イサトさんはエリサに声をかけることが出来なかった。
そして今、エリサは泣いている。
静かに、悔しそうに、ひくひくと喉を震わせて。
昨日出会った時のような、耐えて耐えて糸がぷつりと切れてしま
ったような号泣ではなく、まるで涙が内側からしんしんと湧いては
零れるといったような、静かな涙だった。
﹁エリサ⋮﹂
名を呼ぶ。
エリサは顔を上げず、俯いたまま小さく呟いた。
﹁本当は、もっと、美味しいんだ﹂
嗚咽に震えた声だ。
ぽた、ぽた、とテーブルの上に水滴が落ちる。
439
﹁焼き立ては、パンがほかほかで、ぱりってしてて、野菜がしゃき
しゃきで、本当に、美味しいんだ⋮っ﹂
﹁うん﹂
﹁だから、オマエらにも、食べさせたかった⋮っ﹂
﹁そうか、ありがとうな﹂
﹁なのに、なのに、そんなこともオレ、できなくて⋮っ﹂
うぇえええ、と感極まったように嗚咽が大きくなる。
大丈夫だよ、サンドイッチ美味いよ、と言いかけて気づいた。
きっと、エリサはサンドイッチがふやけてしまったことが悲しく
て泣いてるわけじゃないのだ。エリサの心の中に溜まっていた辛い
ことや、苦しいことが、ふやけたサンドイッチが最後の一滴となっ
て溢れ出してしまった。
﹁もう、やだよ、オレ、がんばってるのに全然、うまくできない⋮
っ、父さんも母さんも帰ってこないし、ライザのこと、まもらない
といけないのに、ぜんぜんなにもできないし、ぜんぜん、アキラや、
イサトみたいにうまくできない⋮っ﹂
じわじわとエリサの目から滲んだ涙が、ぽたぽたとテーブルに染
みを落とす。
エリサの震える声には、哀しみや悔しさを通りこして絶望めいた
怒りが静かに籠っていた。
理不尽なことで罰金を取り立てようとする悪徳騎士への怒り。
獣人を蔑みながらも利用しようとする狡賢い商人への怒り。
自分たち兄弟を置いて行って留守にしている両親への怒り。
病弱で足手まといな弟への怒り。
エリサがどうしても解決できなかった困難を、いともあっさりと
440
モノ
解決して見せた俺やイサトさんへの怒り。
それらは理性では制御できない感情だ。
けれど、エリサは幼子のようにそれをそのまま表に出すことが出
来ない。
ずいぶんと早く大人にならざるを得なかった彼女は、それが八つ
当たりに過ぎないことを知っている。
わかって、しまっている。
だからエリサは、そんなことに怒りを覚えてしまう自分自身に絶
望してしまっているように見えた。
轟々と渦巻く怒り、恨み、辛みを、ひたすらその小さな身体の中
に押し留めようとしている。
まだ、子供だろうに。
本当なら、まだ親に甘えて、駄々をこねるのが許される年だろう
に。
エリサは大人であることを求められ、本人をそれを望むが故に、
己の子供じみた癇癪を扱いかねて、ただただ抑えて、そんな自分へ
と無力感を膨らませている。
両親から留守を任されたはずなのに、弱い弟を理不尽な騎士や狡
賢い商人から守ってやれない自分自身が、姉として不甲斐なくて情
けなくて嫌いで腹が立って仕方ないのだ。
﹁アキラやイサトみたいにうまくできない﹂という言葉がつきり
とささやかな痛みを伴って俺の胸に突き刺さった。
それは俺の抱える無力感にとても良く似てる。
441
﹃普通の人が出来るあたり前のことが俺には出来ない﹄
人に出来ることが自分には出来ない無力感に苦しむ気持ちは、昨
日の今日だけあって痛いほどによくわかった。
﹁なあ、エリサ﹂
俺は、そっとエリサに声をかけた。
エリサが、怯えたように小さく肩を震わせる。
﹁手、出してみ﹂
﹁手⋮⋮?﹂
エリサは迷うように、逡巡しながらもおずおずと俺に向かって手
を差し出した。
その手に、俺は自分自身の手を重ねる。
手首を揃えると、エリサの手の先は俺の指の第二関節に届くか届
かないかというほどの大きさしかなかった。小さな手だ。子供の手
だ。
﹁俺の手、でかいだろ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁俺は、男で、大人で、お前より年上だ﹂
442
﹁⋮⋮うん﹂
﹁だから、お前より出来ることが多くたっていいんだよ。むしろ、
そうじゃない方が困る﹂
少し、冗談めかして肩を竦める。
エリサは困惑したように瞳を揺らしながらも、顔をあげて俺と重
ねた手を見る。
男と女。
大人と子供。
そんな差異に、手を重ねることで改めて気づかされる。
﹁でも﹂
エリサは悔しげにくしゃりと眉を寄せて、重ねた俺の手のひらを
カリと爪でひっかいた。比較を拒むように、拳を固める。
﹁オレは、ライザを守らないといけないんだ﹂
大人とか子どもとか男とか女とか関係なく。
エリサは弟のために、強くなくてはならないと自分に責任を課し
ている。
﹁⋮⋮うん、知ってるよ。偉いよな﹂
俺は、そのままぎゅっとエリサの手を掌の中に包み込んだ。
﹁お前は、頑張ってる。お前がライザより年上で、お姉ちゃんだか
らだろう?﹂
﹁そうだ。オレはライザより大きいし、ライザより年上だから、オ
レがライザを守ってやらないといけないんだ﹂
443
それなのに、とエリサが言葉を続けるより先に、俺は口を開いた。
﹁じゃあ、エリサより年上で、エリサより大きい俺がエリサを守っ
てやりたいって言うのは駄目か?﹂
﹁⋮⋮っ﹂
エリサの、暗紅色の瞳がぽかんと丸くなる。
﹁なん、で﹂
﹁守ってやりたい、助けてやりたいって思った﹂
﹁なんで、なんで、なんで、だって、関係ない、だろ﹂
﹁そうだな、関係ないな﹂
俺はただの通りすがりだ。
通りすがりに首を突っ込んでいるだけの無関係な他人に過ぎない。
でも。それでも。
﹁俺はわるものだから、したいことをしたいようにする﹂
﹁なんだよ、それ﹂
﹁俺とイサトさんのモットーだな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮悪いことなんか、できねー癖に﹂
ちょっと拗ねたようなエリサの言葉に、思わず小さく笑ってしま
った。
悪意故の悪いこと、は確かに出来ないかもしれない。
けれど、俺やイサトさんのいた元の世界には﹁小さな親切余計な
お世話﹂なんていう名言が存在するのだ。
その余計なお世話を、俺たちがそうしたいからという理由だけで
押し付ける俺たちはきっと﹁わるもの﹂でいいのだ。
444
ちらり、とイサトさんを見ると、イサトさんは穏やかな笑みを含
んだ眼差しで俺とエリサのことを見守っていた。なんだか無性に恥
ずかしくなる。
俺は気恥ずかしさにぽり、と頭をかきつつ、エリサへと問いかけ
た。
﹁俺とイサトさんは、お前たちのことを放っておけない。だから、
お前が嫌がってもたぶん何とかしようとする。それはまあ、﹃俺た
ちがそうしたい﹄からだ。
でも⋮⋮﹂
へにゃ、と俺は眉尻を下げて笑う。
﹁お前が、助けて、って言ってくれたら⋮⋮お前が望んだ上で助け
られたら一番良いとは思う﹂
善意を押し付ける気は満々ではあるが。
どうせなら望まれた上で応じたい。
そんな俺の言葉に、エリサは小さく息を呑んだ。
﹁ぁ⋮⋮﹂
小さく、唇が震える。
本当にその言葉を言っていいのか、俺たちを信用しても良いのか
迷うように、何度も唇を開きかけては、こくりと喉が鳴る。
泣きごとを言わないようにしていたのであろうエリサにとって、
その言葉を口にするのがいかに難しいのかが、見ている俺にも伝わ
ってくる。
エリサは一度視線を下に向け、涙を振り切るように顔をあげた。
つ、っと涙が頬を滑る。
445
そして。
﹁助けて、ほしい﹂
涙を浮かべたエリサの言葉に。
﹁まかせとけ﹂
俺は力強く言い切った。
446
その後、イサトさんが濡らしたハンカチで泣いたエリサの目元を
そっと拭って冷やしてやったり。
ライザが、お姉ちゃん昨日から泣いてばかりだね、なんて余計な
ことを言ってエリサに足を踏まれたり。
そんな賑やかな諸々があってから、俺たちは再び落ち着いてテー
ブルを囲んでいた。四人で、先ほどよりもさらにべしょっとしたサ
ンドイッチを齧る。ふよふよになったパンが若干気持ち悪いが、ま
あサンドイッチに罪はない。
そうしてサンドイッチを齧りながら、改めて俺たちはエリサやラ
イザの置かれている状況について話を聞く。
﹁あー⋮、ものすごーく素朴な疑問から始めてもいいかな﹂
﹁うん。何?﹂
﹁昨日からやたら聞くんだが、﹃ルーター﹄って何なんだろう﹂
﹁実は俺も気になってた﹂
昨日からやたら街中で聞くし、気になってはいたのだが、あまり
にも知ってて当然という空気で使われるせいで、タイミングを逃し
て意味を聞けずにいたのだ。
一応どうやら、それが獣人や、エルフといった人間以外の種族を
差しているようだぞ、というところまでは検討がついているのだが。
俺たちのの疑問に、エリサとライザは二人して顔を見合わせてる。
﹁イサトも、アキラも、本当に知らないのか?﹂
﹁知らないな。私たち、セントラリアにはつい先日着いたばかりだ
から﹂
447
﹁⋮そっか。知らないなら、そのまま知らねーままでいられた方が
良かったんだけどな﹂
そう悲しげに呟きつつも、エリサは俺たちにルーターの意味を教
えてくれた。
﹁ルーターっていうのは、略奪者って書くんだ﹂
﹁略奪者?﹂
エリサの口にした物騒な言葉に、思わず眉間に皺が寄る。
﹁人間以外の種族=略奪者﹂というのは一体どういうことなのだ
ろうか。
﹁なんでまたそんな風に呼ばれるようになったんだ?﹂
﹁⋮⋮女神の恵みが、手に入りにくなったのはオマエたちでも知っ
てるだろ?﹂
﹁ああ、それは知ってる﹂
カラットの村でも聞いた話だ。
この世界では、モンスターを倒してもドロップアイテムが手に入
らない。
最初からそうだったのではなく、いつからか手に入らないように
なったのだとカラットの村長は言っていた。
﹁オレたちは、それが今でも手に入れられるんだ﹂
﹁﹁へ?﹂﹂
エリサの声に、思わず俺とイサトさんの間の抜けた声がハモる。
﹁それって、エリサとライザだけが特別ってわけじゃなく⋮⋮﹂
448
﹁違う。獣人は、今でも女神の恵みを手に入れることが出来るんだ。
イサトも、そうなんじゃねーのか? イサトは、黒き伝承の民の先
祖帰りだろ?﹂
﹁うーん⋮⋮まあ、私が先祖がえりかどうかはさておき、まあ女神
の恵みが手に入れられるかどうか、ってことに関しては否定しない﹂
実際のところイサトさんは先祖がえり、というか黒き伝承の民そ
のものである。
どこに出しても恥ずかしくない立派なダークエルフそのものだ。
﹁女神の恵みを手に入れられなくなってから⋮⋮最初のうち人は、
何か女神を怒らせるようなことをしてしまったんじゃないか、って
皆教会で懺悔して、祈ったそうなんです﹂
﹁でも、それでも人は女神の恵みを取り返せなかった﹂
﹁だから、人は獣人から女神の恵みを高額で買い取るようになりま
した﹂
﹁おかげで獣人は儲かったみてーだな﹂
エリサとライザが交互に語る。
﹁確かに⋮需要と供給のバランスが一気に崩れたんなら、儲かりそ
うだな﹂
荒稼ぎしようと思えば、いくらでも出来ただろう。
だが、そのイメージが今目の前にいるエリサやライザに繋がらな
い。
それなら獣人は特権階級になっていてもおかしくないはずなのに、
現状はむしろ逆だ。エリサもライザも、裕福なようには見えない。
﹁⋮⋮人は、団結することで、獣人に対抗したんです﹂
449
﹁団結?﹂
﹁⋮⋮談合か﹂
イサトさんが、ぽつりと呟く。
﹁人は協定を結び、女神の恵みを定額でしか買い上げないようにす
ることで、力が獣人に集中することを避けようとしたんじゃないの
か?﹂
﹁なんでわかったんですか?﹂
﹁それぐらいしか、人の対抗手段はなさそうだからな﹂
いくら獣人しか女神の恵みを手に入れられなくなったからと言っ
て、人々がそのために金を積み続ければ、富が獣人に集中すること
になってしまう。それを避けるために、人は決まった額でしか女神
の恵みを買い上げてはいけない、というルールを作ったらしい。
﹁そのルールにより、獣人の生活も一旦は落ち着きました﹂
﹁⋮⋮問題はその後だよ。オレらが生まれたぐらいの頃から、だん
だん人の間でヘンな話が出回るようになったんだ﹂
﹁変な話って?﹂
﹁獣人どもだけが女神の恵みを手に入れられるのは、本来人にもあ
ルーター
ったはずの女神の恵みを略奪してるからだ、⋮⋮そう、言われ始め
たんだ﹂
﹁それで⋮⋮略奪者か﹂
エリサとライザが、こくりと苦々しい顏で頷いた。
﹁最初は陰口だった。でも、どんどん差別は広がっていって、獣人
どもは人から搾取しているのだからそれを取り返して何が悪いって
言われるようになった﹂
450
﹁どんどん、女神の恵みを買い取る価格は下がっていきました。女
神の恵みを売るだけでは生活できない獣人が増えて、冒険者を辞め
ようとするひとも多かったみたいです﹂
﹁⋮⋮でも、人はそれを許さなかった﹂
﹁⋮⋮だろうな﹂
ルーター
人にとって、獣人種は女神の恵みを手に入れるための唯一のツテ
だ。
相手が略奪者であるということを理由に、不当に搾取することを
正当化できる美味しい労働力だ。
そんな存在を簡単に手放すわけがない。
﹁冒険者を辞めた獣人をまっとうな仕事で雇うようなとこはなかっ
た。人に恵みを還元する役目を放棄した裏切り者として、爪弾きに
されるんだ﹂
﹁⋮⋮多くの獣人たちが、それを理由にセントラリアを離れました。
他のところはまだマシだって聞いてたから﹂
﹁でも、オレらは⋮﹂
ちらり、とエリサがライザを見る。
ライザは悔しそうに視線を伏せた。
﹁僕が⋮、僕の身体が弱かったから。他の街までの移動に耐えられ
ないかもしれないから、父さんも母さんも、エリサも、この街に残
ることにしてくれたんです﹂
﹁⋮⋮オレたちだけじゃねえ。この街に残ってる獣人のほとんどが、
そうやって街を離れられねえ理由があるんだ。⋮ギルロイ商会の連
中は、そんなオレたちを良いように使ってる﹂
﹁⋮⋮本人は差別対象である獣人種の保護をしてるとか言ってたけ
どな﹂
451
﹁保護なもんか⋮!オレらがどこにも行けないのも、他の仕事がで
きねーのも、全部ギルロイ商会が裏から手を回してんだ⋮!﹂
﹁あー⋮、なるほどな﹂
ギルロイ商会は、獣人種を囲い込んでいるわけか。
他で稼ぎを得ることの出来ない獣人たちは、買い叩かれているの
がわかっていてもギルロイ商会の下で働き続けることしか出来ない。
﹁僕の、父さんと母さんも⋮⋮ギルロイ商会の下で働かされてます。
僕のせいで、ギルロイ商会に借金が出来てしまったから﹂
﹁⋮⋮オマエのせいじゃない﹂
﹁僕の、薬代のせいでしょ?﹂
﹁それはそうだけど⋮っ!﹂
﹁父さんや母さんは、その借金を返すために⋮⋮ギルロイ商会の言
いなりになってるんです﹂
﹁具体的には何をさせられてるんだ?﹂
﹁⋮⋮商会の連中に率いられて、狩りをしてる﹂
﹁女神の恵みを手に入れるために、か﹂
二人の話を聞いた上で、ギルロイ商会の男の言い分を思い出す。
ルーター
﹃セントラリアにおいては、悲しいことに亜人種の方々を略奪者と
呼び、差別するような風潮がはびこっております。差別の憂き目に
あい、なかなか仕事にも恵まれないそういった方々を援助する活動
を、ギルロイ商会は行っておりまして⋮⋮こうして、亜人種の方が
関わった揉め事のうち、罰金で解決できるようなものであればうち
452
で処理をすることも多いのです﹄
滅茶苦茶イラッとした。
何が援助だ。
ただの搾取じゃないか。
それに騎士を使って俺たちに絡んだ手口にしても、今思えばそう
やって借金を作らせることでエリサやライザの両親を絡め取ろうと
していたようにしか思えない。俺に対しても、イサトさんの身柄を
寄越せば借金を肩代わりしてやる、と申し出たのは、ただのスケベ
心ではなかったのだろう。イサトさんはダークエルフだ。ギルロイ
商会からすれば、女神の恵みを手に入れることのできる金の卵に違
いない。
ああ、滅茶苦茶腹が立つ。
﹁イサトさん、俺ものすげームカついてるんだけど﹂
﹁同感だ﹂
イサトさんの声も、心なしかワントーン低い。
﹁どうしてくれよう、か﹂
﹁なんとかしてギルロイ商会の連中に一泡吹かせたいよな﹂
﹁︱︱⋮﹂
イサトさんが、少し意外そうにはちりと瞬いた。
453
長い睫毛が優雅にそよぐ。
﹁イサトさん?﹂
﹁秋良青年、君は⋮一泡でいいのか﹂
﹁え?﹂
﹁私は⋮私怨をこめて容赦なくぶっ潰す気満々だぞ﹂
﹁ぶ﹂
優雅さの欠片もない物騒な言葉が飛び出した。
そういえば。
イサトさんはもともとブラック会社務めだったとかなんとか言っ
ていたっけか。
ギルロイ商会の行いや、エリサやライザの境遇に過去の自分の姿
でも重ねているのかもしれない。
そりゃ私怨も籠るというものだ。
﹁ふふふふふふふ、ぶっ潰す︵物理︶でもいっそ構わない﹂
﹁構ってあげて。そこは構ってあげて﹂
俺はイサトさんが犯罪者として指名手配されるのは流石に避けた
いぞ。
⋮⋮ギルロイ商会は首を洗ってイサトさんをお出迎えする準備を
した方が良い気がしてきた。
454
おっさんのお怒り︵後書き︶
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
PT,お気に入り、感想、励みになっております!
455
おっさんがテロリスト
﹁作戦その1:謎のテロリスト﹂
﹁詳細は?﹂
﹁深夜にいきなり攻撃魔法を叩きこんで吹っ飛ばす﹂
﹁却下﹂
﹁作戦その2:謎のテロリストもうちょっと進化版﹂
﹁詳細は?﹂
﹁変装して深夜にいきなり攻撃魔法を叩きこんで吹っ飛ばす﹂
﹁なんで却下されないと思ったんだ﹂
﹁変装したらまだ良いかなと思って﹂
﹁良くねえよ﹂
イサトさんが真顔で語るギルロイ商会ぶっ潰す︵物理︶作戦を片
っ端から却下しつつ、俺は小さく溜息をついた。
ちなみに作戦は他にも﹁謎の魔獣の襲撃編﹂﹁泣いた赤鬼編﹂が
あったが、どれも基本は物理的に潰すという結果の部分に変わりは
おっさん
なかったので、やっぱり却下した。
⋮⋮なんでこんな時だけこの人は過激なのか。
やはり個人的にブラック会社に恨みがあるからなのだろうか。
エリサとライザは、イサトさんが冗談を言ってるのだと思ってい
るのか、楽しそうに﹁そうしてやれたらいいのにな﹂なんて相槌を
打っている。
が。
いいか子供たち。
456
そこでのんびりと危険極まりない作戦をたてている赤ずきんモド
キは今口にした作戦をノリと勢いだけで実行することが出来るだけ
の実力を兼ね備えた危険人物だからな。
すでに飛空艇墜としという前科があるぐらいだ。
ここで俺まで﹁良いな﹂なんてのーてんきな返事をしてしまった
ら、間違いなくこの人は実行する。
人的被害は出さない程度に気を使いつつ、ドカンと一発派手にぶ
ちかますだろう。飛空艇を落としたせいで、大量破壊の快感に目覚
めたとかそんな厄介な性癖に目覚めていないことを祈る。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺は半眼でイサトさんを見つめた。
イサトさんは俺の視線に気づきつつも、しれっと微笑んでいる。
唇の端だけがくっと上がった、いわゆるアルカイックスマイルだ。
くそう、楽しそうにしやがって。
﹁⋮⋮俺のことは、止めた癖に﹂
ぼそりと呟く。
目の前でアーミットが斬られた時、相手の男を殺そうとした俺を
止めたのはイサトさんだ。そのイサトさんが、今はテロリストに進
化しようとしている。
俺だって、手っ取り早くムカつく連中に私刑を下してしまえばす
っきりするとは思っている。だが、そこまで無責任なことをしては
おっさん
さすがにまずいだろう、と一生懸命自制しているのだ。
だというのに、この人ときたらやたらと俺を煽って愉しんでいる。
拗ねた響きでぼやいた俺に、イサトさんがくくりと喉を鳴らして
笑った。
457
明るい琥珀色の瞳が、悪戯っぽく煌めく。
﹁だから、私のことは君が止めてくれるだろう?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮それはズルくないか﹂
ズルいだろう。
そんな風に言われてしまったら、ツッコミを放棄出来なくなる。
俺のツッコミをアテにするんじゃない、なんて言えなくなる。
ぐむ、と口をへの字にした俺を見て、イサトさんはにんまりと満
腹の猫のような顏で笑った。
﹁私ばかりが君のストッパーになるのはどうかと思いまして﹂
﹁それを言うなら、俺ばかりにツッコミをさせるのもどうかと思う
ぞ﹂
コノヤロウ。
喰えない大人が、未熟な青少年を手玉にとりやがって。
﹁まあ、実際のところギルロイ商会を潰してもそれで終わりってわ
けには行かないだろうしなあ。どうせすぐに次が出る﹂
﹁だろうな﹂
俺の拗ねた視線に、くつくつと楽しそうに笑いつつも、イサトさ
んはようやくまともな作戦会議をしてくれる気になったようだった。
俺はイサトさんの言葉に同意して、うーむ、と唸る。
エリサの話によれば、﹁獣人は定価でのみ女神の恵みを売ること
が出来る﹂というのは、セントラリアで正式に定められたルールだ。
そのルール自体は、女神の恵みを手に入れることが出来なくなった
人間と、女神の恵みを手に入れることが出来るそれ以外の種族との
458
均衡を守るために必要なルールだろう。
問題は、そのルールを元にギルロイ商会が低価格で獣人から女神
の恵みを買い叩き、本来強者になりうるはずだった獣人たちを酷使
するシステムを成立させてしまったことにある。
獣人は本来ならば﹁生物としての強さ﹂で言うのならば、人間よ
りもよほど恵まれている。動物の要素は外見だけでなく、身体的な
能力としても受け継がれているのだ。例えばエリサなら、猫系の獣
人なので人間よりも身軽だし、夜目に優れていることだろう。また、
それだけではなく、基本的に獣人というだけで人間よりも身体能力
が強化されている。その分魔法を扱う才能には欠けるが、身体能力
だけでも人間種に対する十分なアドバンテージとなりうる。
﹁⋮⋮獣人が﹃女神の恵み﹄を独占できちゃったのは正直人間にと
っては相当な脅威だよな﹂
﹁現状は窮鼠猫を噛む、といったところなんだろうが⋮⋮﹂
﹁問題は鼠が思ってるほど猫も強くない、というところだろうな﹂
現在セントラリアがおかしくなっている諸悪の根源は、確かに獣
人を良いようにこきつかっているギルロイ商会だろう。だが、一番
良くないのはそれを容認してしまっているセントラリア全体の空気
だ。何が良くないって、彼らに悪意があるわけではない、というと
ころだ。悪意故の攻撃じゃないだけに、タチが悪い。
本当、イサトさんの言うとおり、彼らは猫に追い詰められた鼠の
ように怯えているだけなのだ。
自分たちが何とか優位に立っていなければ安心できないのだ。彼
らを追い詰める猫など、実際には存在しないというのに。ギルロイ
459
商会は、人々のそんな不安を煽ることで、セントラリアでの実権を
握ることに成功したのだ。鼠を追い詰めるいもしない猫の幻を生み
出してしまった。
﹁いっそ猫が実際それぐらい強かったら良かったんだけどな﹂
﹁強い猫ならとっくにセントラリアを見放してるだろう﹂
﹁ああ⋮⋮そういうことか﹂
エリサが言っていた。
ギルロイ商会のやり方に不満を持った多くの獣人がセントラリア
を後にしたのだと。
﹁今セントラリアに残っているのは、人間社会から弾かれることを
恐れる程度には弱い獣人だ﹂
﹁⋮⋮弱くねーし﹂
イサトさんの言葉に、むっと眉を寄せ、唇をとがらせて口を挟ん
だのはエリサだった。ここまでおとなしく聞き役に徹していたもの
の、さすがに﹁弱い﹂発言は聞き流せなかったらしい。
イサトさんが、可愛いなあ、と言わんばかりに目を細めて、エリ
サの頭をくしゃくしゃと撫でた。
﹁弱いことは悪いことじゃあないよ﹂
﹁⋮⋮でも、強い方がいいだろ。実際、オレたちだって弱いからこ
んな目にあうんだ﹂
エリサの言葉に、イサトさんが小さく笑った。
﹁エリサ、君、今すごく矛盾したことを言ったのに気付いているか
?﹂
460
﹁え?﹂
﹁私が今セントラリアに残っている獣人は弱い、と言ったときに、
君は﹃弱くない﹄と否定した﹂
﹁うん﹂
﹁でも、続けて私が弱いことは悪くはない、と言ったら、今度は﹃
弱いからこんな目にあう﹄と言った﹂
﹁あ⋮⋮﹂
自分が口に出したちぐはぐな言葉に、エリサはかっと頬を染めて
恥ずかしそうに視線を伏せる。先生に過ちを指摘された生徒のよう
な仕草と表情に、俺の頬まで緩みそうになった。微笑ましい。
﹁でも、エリサの言ったことは間違いじゃない﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁どういうことなの?﹂
エリサとライザが不思議そうに顔を見合わせる。
俺とイサトさんの話は、二人には少し難しかったらしい。
というか、俺とイサトさんがお互いに相手に知識があることを前
提に、説明を省略しまくった会話をしていたのが悪い。
﹁んー⋮⋮例えばだけど、ドラゴンが君んちの隣に越してきたらど
う思う?﹂
﹁は?﹂
﹁ド、ドラゴン⋮⋮?﹂
﹁そう、ドラゴン﹂
﹁滅茶苦茶強くてでっかいドラゴンな。ただし、言葉が喋れるし、
お前たちを襲う気配もない。ただ、隣で暮らしたいって言ってる﹂
俺がそう付け足すと、エリサとライザも困ったように眉根を寄せ
461
た。
上手くイメージ出来ないのだろう。
ドラゴン、と言えば二人にとっては﹁恐ろしいモンスター﹂の代
名詞のようなものだろう。
﹁ドラゴンは、ちゃんとセントラリアのルールに従って生きてる。
決まった日にゴミを出すし、暴れたりもしない﹂
決まった日にゴミを出す、という俺の言葉に、そんなドラゴンの
姿を想像してしまったのかエリサとライザが小さくくすくすと笑っ
た。
﹁それどころか、爪が伸びたら切ったドラゴンの爪をくれるかもし
れない。鱗が生え変わったら、古い鱗は素材としてくれるかもしれ
ない﹂
﹁すげーな、それ﹂
エリサの目がきらきらと輝く。
本来であれば、ドラゴンを倒さなければ手に入らないドラゴン素
材が、ドラゴンを街に受け入れるだけでドラゴンの方から進んで提
供して貰えるのだ。
それはきっと、街の発展にとって大きな利益になる。
﹁うーん⋮⋮それならいいんじゃねー?﹂
﹁じゃあ、そんなドラゴンが奥さんも呼びたいって言ったらどうす
る?﹂
﹁奥さん? いいんじゃね?﹂
﹁じゃあ子供が生まれたら?﹂
﹁別に⋮⋮それに何の問題があるの?﹂
﹁ドラゴンは、君らの街で増えていくぞ?﹂
462
ほっそりと、少しだけ意地悪な笑みを含んでイサトさんの目が細
くなった。
﹁ドラゴンが増える⋮⋮﹂
﹁一応数としては、君たちの方が多い。でも、ドラゴンが少しずつ
増え始めるんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
しばらく黙ったまま考えていたライザが、小声でぽつりと呟いた。
﹁それはちょっと⋮⋮怖い、かもしれない﹂
﹁何が、怖い?﹂
イサトさんは、簡単に答えを言うのではなく、二人に自分で答え
を見つけられるように問いを重ねていく。
﹁だって、ドラゴンが増えるんでしょ? それって⋮⋮なんか、怖
いよ﹂
﹁もうちょっと考えてみてごらん。﹃何﹄が怖いんだろう?﹂
﹁うーん⋮⋮なん、だろう。なんか、こう、怖いんだ﹂
喉元までこみ上げた感情を、どう言葉にしたらいいのかわからな
い、と言った風にライザは﹁怖い﹂という言葉を繰り返す。
そんな弟を見つめていたエリサが、ぽつりと目を伏せたまま口を
開いた。
﹁⋮⋮⋮⋮乗っ取られるような、気がするのかもしれねー﹂
﹁あ⋮⋮﹂
463
エリサの言葉に、ライザも納得がいった、というように小さく声
をあげる。
﹁ドラゴンが増えて⋮⋮もしそこでドラゴンが街で好き勝手するよ
うになったら、オレらって抵抗できないんじゃねーかな﹂
﹁確かに⋮⋮もともと僕たちが戦って勝てる相手じゃないもん﹂
﹁そんなドラゴンが街に住むようになって、好き勝手するようにな
ったら⋮⋮﹂
﹁みんな、食べられちゃうよ﹂
﹁街が、ドラゴンの餌箱みたいになっちまう﹂
少しずつ、エリサとライザは﹁何が﹂怖いのかを言葉にしていく。
﹁それじゃあ、怖くないようにするにはどうしたらいいと思う?﹂
﹁ドラゴンを最初から街に入れないとか⋮⋮﹂
﹁でも、ドラゴン相手にそんなこと言えないよ。駄目、と言った瞬
間に食べられちゃうかも﹂
うーんうーん、と二人は悩む。
俺は、ヒントを出してやることにした。
﹁ドラゴンがそんなにも街に住みたいって言うなら、条件を出して
やればいいんじゃないか?﹂
﹁条件? 人間を食べちゃ駄目、とか?﹂
﹁そうだなあ、でもそれは街にもともとある﹃人を殺してはいけな
い﹄っていうルールと同じことだろう?﹂
﹁そっか。それにドラゴンは街のルールには従って生活してるんだ
よね?﹂
﹁ああ、そうだな﹂
﹁ドラゴンが街のルールに従って生きるって言うなら⋮⋮ドラゴン
464
が好き勝手出来ないようなルールをたくさん作ればいいんじゃねー
?﹂
﹁街では剣を抜いちゃ駄目って決まりがあるんだから⋮⋮それと同
じぐらい鋭いドラゴンの爪や牙も街中では見せちゃ駄目、とか?﹂
﹁ブレスも危険だし、それならもう街中ではドラゴンは口を大きく
開くの禁止、にすりゃいいんじゃねーか?﹂
﹁うん、大きなドラゴン用の口が開けなくなるようなマスクを用意
して、ドラゴンは街にいる限りそれを着けてもらえばいいんだよ。
そしたら、悪いドラゴンが出てきても、マスクをつけてたら簡単に
は暴れられないし、マスクをつけてないドラゴンがいたら逃げれば
いいもん﹂
﹁でも︱︱﹂
俺はそこで口を挟むと、エリサやライザへと視線をやった。
﹁そうなると街の中でドラゴンは話せなくなっちゃうな﹂
﹁あ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
イサトさんも、言葉を続けた。
﹁きっと、今私たちがしてたように、美味しいものを屋台で食べ歩
くことも出来ないな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮っ﹂
俺たちの口調から責められていると感じたのか、きっとエリサが
顔をあげた。
﹁それなら⋮⋮っ、街のルールに従えねーなら、街から出ていけば
465
いいじゃねーかっ!﹂
﹁あ⋮⋮っ﹂
自棄になったようなエリサの言葉に、はっとしたようにライザが
瞬く。
そして、しょんぼりと耳と尻尾を垂らして、エリサの言葉に静か
に頭を横に振った。
﹁駄目だよ、お姉ちゃん﹂
﹁ライザ⋮⋮?﹂
﹁それじゃあ、駄目だよ﹂
﹁なんでだよ﹂
﹁だって、それじゃあセントラリアの人たちと同じだもん﹂
﹁あ⋮⋮﹂
ライザの言葉に、エリサははっと驚いたように息を呑んで︱︱⋮
それからがっくりと肩を落とした。
﹁なんか⋮⋮イサトが言ってた意味がわかったような気がする﹂
﹁うん⋮⋮僕たち獣人は、人間より強い﹂
﹁だから、人間は僕たちが怖いんだ﹂
﹁怖いから、なんとか押さえつけようとしてんだな﹂
﹁そして、僕たちは街の中での力が弱いから、そんな人間たちに何
も言えないままこうなっちゃったんだ﹂
﹁そういうことだ。人は、弱い生き物だ。弱いからこそ、﹃社会﹄
というシステムを構築して、群れで生きる。セントラリアに残らな
ければいけなかった君たちも、その﹃社会﹄というシステムを必要
としているだろう?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
466
例えばそれは病気になったら医者がいて。
お腹が空いたら自分で作らずとも食堂や屋台で食べ物を買うこと
が出来て。
欲しいものがあったら自分で作らずとも、お金で買うことが出来
る。
そういうものだ。
ドラゴンが街に棲まないのは、ドラゴンが街のシステムを、﹃人
間の作り上げた社会﹄というシステムを必要としていないからだ。
だからドラゴンには人の生活を、﹁社会﹂を気遣う必要がない。
そして、俺たちもそうだ。
俺たちが﹁わるもの﹂と称して好き勝手なことが出来るのは、俺
たちにとってこの世界の﹁社会﹂がそれほど大きな意味を持たない
からだ。この世界における俺とイサトさんの存在はとても特異で、
俺たちは俺たちだけで完結して生きていくことが出来る。
﹁君たち獣人は、もともと人間よりも強い種だ。そこでさらに、君
たちだけが今となっては﹃女神の恵み﹄を手に入れられるようにな
ってしまった。人間としては⋮⋮とても怖いと思わないか?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁それじゃあ、どうしたらいいんだ? オレ達は、セントラリアか
ら出て行くしかねーのか?﹂
﹁そこが難しいな﹂
ふむ、と俺とイサトさんは腕を組んで首をかしげる。
﹁さっきの例え話に戻ると︱︱⋮、街に住むドラゴンは爪や鱗、ド
ラゴン素材を街に提供することになっていただろう?﹂
467
﹁うん﹂
﹁もしも、その素材を使って街が栄えていたらどうする?﹂
﹁この街にきたら、ドラゴン素材が安く手に入る、なんて宣伝出来
たら、きっと街は有名になるだろうな﹂
﹁それなら⋮⋮ドラゴンがいなくなったら、街の人も困るんじゃな
い?﹂
﹁そう、困るだろうな﹂
セントラリアだって、同じだ。
獣人がいなくなってしまえば、セントラリアは﹁女神の恵み﹂を
手に入れる術を失うことになる。
﹁女神の恵み﹂を失ったからといって、セントラリアが即駄目に
なる、とまではいかなくとも、今まで得ていた利益の損失は大きな
痛手となるだろう。特に、その利権を独占していたギルロイ商会に
とっては壊滅的な損害となるはずだ。
﹁なんか⋮⋮おかしくない?﹂
﹁おかしいだろ。いなくなられたら困るのに、嫌がらせみてーなこ
とばっかりして、それが受け入れられないなら出ていけばいい、な
んて﹂
﹁ああ、おかしいな﹂
大きな矛盾が発生している。
でも、エリサやライザは知っているはずだ。
そんな大きな矛盾を抱えたまま、セントラリアの街が何年も、下
手したら何十年もそれが当たり前のように機能してきたことを。
﹁人間はずるいからな。お前らが、セントラリアを出ていけないこ
とを知ってるんだよ。お前らがセントラリアを必要としてることを、
468
知ってるんだ﹂
﹁⋮⋮それなら、なんで人は僕たちのことを怖がるんだろう。必要
としてるものを、壊したりするわけないのに﹂
﹁壊したりはしねーかもしれねーけどよ。もしかしたら、逆の未来
もあったかもしれねーだろ﹂
﹁逆?﹂
エリサの言葉にライザが首を傾げる。
﹁たとえば、﹃女神の恵み﹄を手に入れることが出来るオレらが威
張りまくって、人間を奴隷みたいに扱う未来だ﹂
﹁そんなこと、僕たちはしないよっ﹂
﹁ああ、しなかった。だからこうなったんだろ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ライザはしょんぼりと項垂れて、テーブルを見つめる。
そして、腿の上で小さく震える手をぎゅっと握り固めると、きっ
と顔をあげた。
﹁僕は、嫌だ﹂
頑是ない子供の我儘のように、ライザは言う。
﹁僕はそんなの、嫌だ﹂
﹁ライザ⋮⋮﹂
﹁どっちかがどっちかに酷いことをしないと一緒に暮らせないなん
て、そんなのおかしいし、僕は嫌だ﹂
悔しそうに、唸るようにライザは繰り返す。
いろいろな大人の思惑が絡みあい、利権を奪い合う中において、
469
それは子供の他愛のない戯言かもしれない。
けれど俺にはそれがとても尊いように思えた。
ライザの立場であれば、逆転を願ったとしてもおかしくないのだ
から。
そっと手を伸ばして、くしゃくしゃとライザの頭を撫でる。
﹁なあ、さっき、お前らは﹃難しい﹄って言っただろ?﹂
﹁ああ﹂
﹁オレたちがセントラリアから出ていかなくてもいいような方法が、
例え難しくても何かあんのか?﹂
﹁あることには、ある。私がさっきから提案しているような簡単な
方法じゃあないけどな﹂
﹁テロ行為は自重してください﹂
人種間闘争
ヘルター・スケルターでも起こす気なのか、この人は。
俺のツッコミにくつくつと喉を鳴らしながら、イサトさんは言葉
を続ける。
﹁君たちは、人間の﹃社会﹄を必要としている﹂
﹁うん﹂
﹁人間は、君たちしか手に入れられない﹃女神の恵み﹄を必要とし
ている﹂
﹁ああ﹂
﹁それなら、取引が出来るはずだと思わないか?﹂
﹁取引⋮⋮﹂
﹁お互いに対等な立場で、堂々と取引をしたら良い。お互いの条件
がかみ合わなければ、交渉するんだ﹂
470
人間は﹁女神の恵み﹂がなくなると、困る。
獣人は人間社会から弾かれてしまうと、困る。
﹁もしセントラリアの人間側が折れないのであれば、取引の相手を
変えればいい﹂
﹁取引の、相手?﹂
﹁セントラリアから逃げた獣人は、皆他の街に行ったんだろ? ﹃
女神の恵み﹄を必要にしている人間はセントラリアにしかいないわ
けじゃない。どこの街でも、﹃女神の恵み﹄は必要なはずだ﹂
﹁君たちに必要なのは、セントラリアの人間と交渉するだけの組織
と︱︱⋮、その交渉のノウハウだろうな﹂
﹁まあ、それで交渉決裂、ってな具合なら、その時はセントラリア
を見放しちまえ﹂
しれっとそそのかしておく。
ギルロイ商会の連中がしているのは、そういうことだ。
目先の欲に釣られて、自分たちの首を絞めている。
俺たちの言った言葉の意味をかみしめるように、必死に考えてい
るエリサとライザを眺めつつ、俺はちらり、とイサトさんに視線を
流す。
﹁俺たちに、出来ると思うか?﹂
獣人と、人間とが対等に交渉できるテーブルを、用意することが
出来るだろうか。
﹁少なくとも、その手伝いは出来るだろうな。ただ、気を付けない
といけないのは︱︱⋮私たち抜きでは成立しないようなのは駄目だ﹂
﹁それは確かに﹂
471
俺たちはこの世界における特異点だ。
いつまでもいるわけではないし、いるつもりもない。
そんな俺たちに依存した関係では、遅かれ早かれ破綻する。
さて。
やるべきことは大体わかってきたわけだが。
どこから手をつけようか。
472
おっさんがテロリスト︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
Pt、感想、お気に入り、励みになっております。
こちら︵http://ncode.syosetu.com/n
5827cj/︶にて、本編とは関係ない季節ネタ、今回はハロウ
ィンをしたりもしています。
御隙な時にでもどうぞ。
473
彼女とおっさんと俺の再会︵前書き︶
途中第三者目線が入ります。
474
彼女とおっさんと俺の再会
行動に出る上で、一番大事なのは敵を知ることだろう。
﹁彼を知り、己を知れば百戦危うからず﹂と孫子大先生も言って
いる。
なので、俺たちはあの日以来、この世界において自分たち自身の
ことを知る努力と並行して、ギルロイ商会の仕組みについても調べ
ていた。
たとえ国が抜け駆け禁止、とお触れを出したところで、その目を
くぐって悪いことをする者がいるのが世の中の常だ。ギルロイ商会
が﹃女神の恵み﹄を独占することをよく思わない商人がいるならば、
そこからギルロイ商会の天下を崩せないかと思いったのだが⋮⋮ど
うも難しい。
ギルロイ商会は、決められた定額で買い取った﹃女神の恵み﹄を
市場で販売することで利益をあげている。エリサやライザから聞い
た買い取り価格と、市場での流通価格はおよそ二倍にも至ろうかと
いうほどに隔たりがあった。
他に比べてレア度があがるアイテムに至っては買い取り額の十倍
近い値段がついているものすらある。
調べれば調べるほど、阿漕な商売してやがる、と思わずにはいら
れないわけだが⋮⋮不思議なことに、ギルロイ商会にはライバルが
存在しない。
エリサやライザは、これまでにも巷の店に直接﹃女神の恵み﹄を
持ち込んだことが何度かあるらしい。が⋮⋮その度に、正規の価格
でしか買い取りは行えないといけんもほろろに断られてしまうのだ
475
と言う。
ギルロイ商会が買い上げる価格よりは高いものの、市場で流通す
るよりも安く。
そんな裏取引に、どこの商人も応じなかったというのだ。
それが果たして、法を遵守しようという清らかな心の表れだと言
えるだろうか。
俺にはとてもそうだとは思えない。
かつてアメリカでは禁酒法なる法律が成立していた時期がある。
その結果何が起きたかといえば、アルコールの密造・密売を潤沢
な資金源としたマフィアの台頭だ。いかに法律といえど、人の欲望
に蓋が出きないという良い例だと思う。
しかし、セントラリアではアンダーグラウンドですら、﹃女神の
恵み﹄が出回る仕組みがない。そういったことを目論んだものがい
なかったこともないらしいが、現れる度に商人ギルド側に通報され、
騎士団が摘発に動いたらしい。
なるほど。
以前俺たちの前に姿を現したセントラリアの騎士の姿を思い出す。
ギルロイ商会の人間におもねり、その意図を汲むように動いてい
たっけか。
こうして考えてみると、セントラリアの人間側はとことん徹底し
て獣人への窓口をギルロイ商会一本に絞ってきている。いや、人間
側にそういった明白な自覚はないだろう。すべてそうなるように、
ギルロイ商会が強かに操っているのだ。
476
﹁その辺の事情がもうちょい詳しく知りたいよなあ﹂
﹁うむ﹂
そんなことをぼやきながら、俺はコーヒーを啜る。
現在腰を落ち着けているのは、商人ギルドの斜め向かいにあるカ
フェだ。
商人ギルドの様子がよく見えるのと、コーヒーが美味いので、最
近のお気に入りだ。イサトさんとエリサはミルクをたっぷり入れた
カフェオレ、ライザはコーヒーミルクだ。
顔馴染みになった店員からそれとなく話を聞き出したところ、な
んとここのコーヒーは﹁女神の恵み﹂の豆を使って淹れているもの
らしい。
道理で美味いわけだ。
確かコーヒー豆はセントラリアの南側の草原に生息するマンドラ
ゴラのドロップアイテムだったはずだ。HPやMPを回復するとい
うわけでもなく、特に加工して使い道があるというわけでもないド
ロップアイテムだったので、ゲームの中ではクエスト品としてNP
Cに収めるか、適当に店売りするしかないアイテムだった。
それがこうして美味しいコーヒーになるのだから、﹁女神の恵み﹂
の有難味を改めて思い知るところだ。
ちなみに、仕入れ額やら何やらについても聞き出せないかと試み
てみたのだが、やんわりとした笑顔で誤魔化されてしまった。
﹁エリサやライザは何かわかったか?﹂
﹁今わかってること以上の情報はねーな﹂
﹁やっぱり獣人ってだけで警戒されちゃうみたい﹂
477
﹁そうだよなあ﹂
俺たちは余所者、エリサとライザは獣人。
人間側の情報を探るには、思い切り不向きなメンツである。
﹁そういえば⋮⋮午前中の地震、大丈夫でしたか?﹂
﹁地震?﹂
﹁オマエたち、気づかなかったのか? 午前中に、でっかいのがあ
っただろ﹂
﹁あー⋮⋮﹂
俺はちろり、とイサトさんへと視線を流す。
イサトさんは、すすっとテーブルに置いてあったメニューを立て
て俺の視線を物理的に遮った。
﹁?﹂
﹁?﹂
エリサとライザが不思議そうに俺とイサトさんのそんな無言の攻
防を見詰めている。
﹁⋮⋮まあ、その。大丈夫、だった﹂
イサトさんがごにょごにょと小声でつぶやく。
一体メニューガードの向こうでどんな顔をしてるんだか。
ここまで言えばもうわかると思うのだが、エリサやライザがいう
﹁午前中にあった大きな地震﹂の犯人は、イサトさんなのである。
セントラリア近くにある蜂の巣ダンジョンにて、スキルの使い分
478
けや、使い勝手についてを確認するための実戦を重ねる中で、不幸
な事故が起きてしまったのだ。
﹃秋良青年、ちょっと大技試してみるので下がっててくれるか?﹄
﹃おう﹄
﹃このレベルのスキルを何発連続で使ったらMPが尽きるのか試し
たい﹄
そんな会話を交わして、俺が下がり。
イサトさんがダンジョンの奥に向けて中級魔法スキルをぶっぱな
したわけだったのだが︱︱⋮イサトさんの疑問への答えはダンジョ
ンの崩落だったりした。イサトさんのMPが尽きる前にダンジョン
にガタがきてしまったのだ。まあ狭い閉じた空間で、あれだけ派手
な爆発を起こせば、そりゃ地盤も崩れるだろう。どしゃどしゃと崩
れる土くれの中を、必死こいて駆け抜けたのはなかなかにスリルが
あった。というか死ぬかと思った。
外でやると目立つから、という理由でダンジョンに籠って実験し
ていたのだが、それで死にかけるとは思わなかった。死亡フラグと
いうのは、かくもなちゅらるに日常に潜んでいるものなのである︱
︱⋮。
479
﹁セントラリアでも感じられたんだな﹂
﹁うん。ずぅん、って鈍い地響きがしたと思ったらごごごごごごっ
て地面が揺れ始めて⋮⋮みんな通りに出てきて大騒ぎだったよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そうか﹂
イサトさんはメニューガードの向こうで遠い目をしている。
怪我人が出なかったのが、不幸中の幸いだ。
巣を埋立てられてしまったビーセクト︵ハチによく似たモンスタ
ー︶らには悪いが、頑張って再建していただきたい。イサトさんの
実験の産物ですでに大量の蜂蜜は手に入れているが、そのうちまた
必要になるかもしれないので。
と、そんなことを考えていると。
ふとカフェの斜め向かい、商人ギルドの方で揉めるような声が聞
こえた。
大声で言い争う、というほどではないものの、尖った声というの
は案外耳に届きやすいものだ。
﹁⋮⋮なんだ?﹂
﹁なんだか、揉めてるみたいだね﹂
エリサとライザの頭上で、▲がひくひくと音を集めるように揺れ
ている。
俺たちには聞き取れない会話も、この二人には聞こえているのか
もしれない。
﹁⋮⋮っ、⋮て、⋮いっ!﹂
﹁⋮⋮て⋮⋮れ!﹂
480
何かを言い募る女性の声と、それに対する男の声。
男は短く何事かを告げると、さっさと商人ギルドの中へと戻って
いく。
あとに残されたのは、悄然とうなだれ、立ち尽くす一人の少女の
み。
柔らかそうな金髪に、上品なドレスのような出で立ち⋮⋮って、
彼女の姿に既視感を覚えて俺は目を眇める。
どこかで、俺は彼女を見たことがある。
どこで、だっけか。
首をひねりひねり考えて︱︱⋮
﹁あ﹂
俺は隣のイサトさんを習って、そっとメニューをテーブルに立て
て防御壁を作成した。
﹁秋良青年?﹂
﹁イサトさん、彼女、飛空艇に乗ってた子だ﹂
﹁おおふ﹂
心なしかイサトさんの背が、体を縮こめるように丸くなった。
俺たちは確かに乗客を救いをしたものの、その一方で飛空艇を破
壊した犯人御一行でもあるのだ。話の流れによっては、いろいろと
面倒臭いことになる。
ああでも。
ちょっと俺の中のあくどい部分が声をあげる。
商人ギルドから出てきた、ということは、何らかの形で商人ギル
ドにつながりがあるということだろう。そして、今の様子を見た感
481
じでは、彼女がギルロイ商会側とうまくやっている、ということは
なさそうだ。
それなら。
飛空艇で助けたことを恩に着せれば、何かしら情報を引き出すこ
とができるのではないだろうか。
﹁イサトさん﹂
﹁ん?﹂
﹁ちょっとあくどいことを言ってもいい?﹂
﹁⋮⋮たぶん、同じことを私も考えてた﹂
すすっとメニューガードの上から目だけを覗かせて、俺とイサト
さんは見詰めあう。どうやらずるい大人は同じことを考えていたら
しい。
﹁エリサ、ライザ、集合﹂
テーブルの真ん中に顔を寄せ合い、悪だくみ開始である。
★☆★
482
レティシアは、無情にも閉じてしまった扉を前に小さくため息を
ついた。
セントラリアの市場を牛耳るギルロイ商会が、そう簡単に話を聞
いてくれるとは思わなかったものの⋮⋮やはりこうして門前払いを
実際にされてしまうと、どんよりと心が重くなる。
が、かといっていつまでもこうして商人ギルド前に立ち尽くして
いるわけにもいかない。レティシアは、もう一度息を深く吐き出す
と、のろのろと踵を返そうとして⋮⋮そこに、鮮やかな緋色の髪を
持つ獣人の姉弟が立っていることに気付いた。
﹁ああ、ごめんなさい﹂
商人ギルドに用があるのに、邪魔をしてしまったかと一歩横に退
いて場所を譲ろうとするものの、獣人の姉弟は首を小さく横に振っ
ただけだった。
﹁おねーさんに会いたいって人がいるんだけど、ついてきてくれる
?﹂
﹁オレたち、アンタを呼んできてほしいって頼まれたんだ﹂
483
ぽん、と姉らしき少女がコインを手の中で弾ませる。
大きさからして、1000エシル硬貨だろうか。
﹁私に会いたい、という人ですか⋮⋮?﹂
レティシアの頭のどこかで警鐘が鳴る。
直接自分で会いにくることはせず、子供を使いに寄越すような相
手だ。
おそらくは、白昼堂々とは表を歩けないような輩ではないのだろ
うか。
これは、セントラリアの裏社会からの誘いなのか︱︱
レティシアの背中を、冷たいものが這う。
セントラリアに来てからのレティシアの動きを、良くは思ってい
ないものがギルロイ商会の他にもいたのかもしれない。否、もしか
すると、たった今別れたばかりのギルロイ商会の人間が、面倒はさ
っさと片付けてしまえとばかりに狼藉者を手配した可能性だって否
定はできない。
﹁大丈夫、だよ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
年少の男の子が、レティシアの不安を感じ取ったかのように、優
しい声で口を開いた。その瞳に、どきりとする。濃い紅の瞳には、
強い意志の力を感じさせる光が宿っていた。
ああ。
きっとこの子たちはお金で使わせられたわけじゃない。
484
直観的に、レティシアはそう察していた。
この姉弟は、何らかの目的があり、その目的のためにレティシア
にこうして声をかけてきたのだ。
それはもしかすると、レティシアがセントラリアにやって来る前
から地道に動かし続けていた目論みに関係していることなのかもし
れない。
それならば⋮⋮レティシアは逃げるわけにはいかない。
﹁⋮⋮わかりました。案内を頼めますか?﹂
﹁いいのか?﹂
少し驚いたように、姉が目を瞠る。
こうしてレティシアに声をかけておきながら、レティシアが乗る
とは思ってもいなかったというような様子に少しだけ溜飲が下がっ
た。
今日は今朝から、ギルロイ商会の人間に良いようにあしらわれて
鬱憤がたまっていたところなのだ。
﹁私に用があるのでしょう?﹂
それがこの姉弟たち自身なのか、それとも本当にこの二人を使い
に出した相手なのかはわからない。けれど、レティシアの商売人と
しての勘が、ここが勝負どころなのだと告げていた。
しゃんと背筋を伸ばして、姉弟をしっかりと正面から見つめ返す。
﹁私は、セントラリアに貴方たちのような獣人の方と取引をするた
めにやってきました。そちらから話があるというのならば、願って
もない話です﹂
485
レティシアの言葉に、姉弟が顔を見合わせる。
そして、一言、獣人の少女が短くぶっきらぼうに告げた。
﹁ついてこい﹂
﹁はい⋮⋮っ﹂
二人の後ろ姿を追いかける。
鮮やかな緋色の髪と尻尾を揺らして、二人は駆けていく。
レティシアがすぐに見失わないようにある程度は気を使ってくれ
てはいるようだが、それでも日頃あまり運動とは縁がないレティシ
アには十分速い。
すぐに息があがって、胸が苦しくなる。
それでも視線の先で揺れる緋色を見失うわけにはいかなくて、レ
ティシアは根性で追いかける。
いくつもの薄暗い路地をくぐった。
いくつもの明るい大通りを横切った。
いくつものぐねぐねまがった細い小路を抜けた。
そして、息苦しさにくらくらしたレティシアが自分がセントラリ
アのどこにいるのかもよく分からなくなった頃、目の前を軽やかに
駆けていた姉弟がようやく足をとめた。
ここは、どこだろう。
薄暗い。
人の声が、街の喧騒が遠い。
486
生活感のない、寂れた道でありながら、嫌な印象はなかった。
人に忌避される場所、というよりも、ただただ人に忘れられただ
けの道、といった雰囲気が漂っているからだろうか。
﹁ここ⋮⋮なんですか⋮⋮?﹂
荒く弾む息を整えながら問いかけると、赤毛の姉弟はこくりと頷
いて、通りの先にある石造りの廃墟へと向かって歩を進めていった。
古い建物なのだろう。
門扉が風化したようにところどころ崩れかけており、人の立ち入
りを禁止するためか、それとも壊れた扉のつもりなのか、これまた
古びた生成色の大きな布がかけられている。二人は、その布の傍ら
で立ち止まる。
その布の向こうに、ここまでレティシアを導いた相手がいるのだ
ろうか。
ぐっとレティシアは拳を握り固める。
勇気を振り絞って口を開こうとした瞬間、悪戯な風が通りを吹き
抜けた。
ぶわりっと、布が風を孕んで大きく揺れる。
布の向こう。
最初に見えたのは黒。
続いて目をひいたのは、月明かりを織り上げたような繊細な銀。
それは布の奥に隠されていた一幅の絵画のようだった。
名前を付けるのならば、妖精妃とそれに仕える騎士、だろうか。
黒は、騎士が纏う色。
銀は、うつくしい妖精妃の髪の色。
487
そこにいたのは、あの飛空艇でレティシアらを魔法のように救い
出し、おぞましいモンスターに取り付かれた飛空艇を天罰のように
墜とし︱︱気づいたときには姿を消してしまっていたはずの二人組
だった。
488
彼女とおっさんと俺の再会︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがというございます。
Pt、感想、お気に入り、励みになっております。
489
おっさんは真人間に弱い
★☆★
いろいろ、考えてはいたのだ。
俺たちは彼女に飛空艇を墜とす姿を見られている。
命の恩人ではあるものの、怖がられてしまう可能性も決して少な
くはない。
それでまずは一枚の布を隔てて姿を隠しつつ、言葉を重ねてこち
らに彼女に対する害意がないことをわかってもらってから姿を表す。
それと同時に万が一彼女が聞く耳を持たず、人を呼ぼうとしたり、
さらに万が一というか億が一ぐらいの確率で彼女がこちらへと攻撃
を仕掛けてくるようなことがあった場合には、エリサとライザは回
れ右、俺とイサトさんは廃墟を突っ切って逃げる、というような退
路までも考えてあった。
考えてあったのだ、が。
そういった諸々が、悪戯な風のせいで一気に無駄になった感。
思わず目がテンになる俺とイサトさん。
ぽかんと目を丸くする彼女。
エリサとライザも彼女の背後で﹁!?﹂という顏をしている。
当事者でなければちょっと面白く思ってしまうような状況ではあ
るのだが⋮⋮。
さて、どうするか。
490
逃げるか?
それとも何もなかったかのように平然と話を続けるか?
迷いつつ俺は彼女の反応を窺い、ちょっとばかりびくっとしてし
まった。
どうも、目の前の彼女の反応は俺たちの予想から大きく外れてい
たのだ。逃げられる、叫ばれる、あたりは想定していたが、彼女は
まるで白昼夢でも見ているかのようにぼんやりとしてしまっている。
そんな反応に対する対処法はさすがに考えていなかった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
微かに潤んでいるように見える濃い碧の瞳や、うっすらと赤く染
まった頬、はたまた恥らうように伏せられた視線だったりに、なん
だか妙な気まずさを感じてしまうのは俺だけだろうか。
なんかこう。
おしゃべりな友人に、﹁隣のクラスの誰それがお前のこと好きら
しいぜ﹂と聞かされた直後に、その隣のクラスの誰それと放課後の
教室でうっかり二人きりになってしまった時に感じる気まずさ、と
いうか。
照れくさいような、どうしていいのかわからなくて逃げ出したく
なるようなあの感じ。
⋮⋮まあ、自意識過剰なのがいけないのはわかってるんだが。
俺はびす、と軽く隣のイサトさんの脇腹を肘でつつく。
ここはイサトさんが行くべきだろう。
なんて言ったって同性だし。
491
だというのに、何故かやんわりと足を踏むことで応戦された。
何故だ。
ちらっと隣を見やれば、イサトさんがもっともらしい顏でこそり
と俺へと囁く。
﹁私は面識がないからな。君が仕切ってくれないと﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
なるほど。
もっともだ。
﹁で、本音は?﹂
﹁君がどぎまぎしているのが面白い﹂
﹁コノヤロウ﹂
完全にただの愉快犯じゃねえか。
俺はちょっぴり荒んだ気持ちで小さく息を吐く。
まったく、青少年をからかって楽しむ悪い大人には困ったもので
ある。
が、いつまでももじもじと恥じらいあっていても話は進まない。
ここは俺が男を見せるしかないだろう。
﹁ええと⋮⋮その﹂
ものすごい掠れた声が出た。
イサトさんが変なこと言いやがったせいで、余計に意識して心拍
数が上がっている。なんだこれ。どういう状況なんだ。
492
﹁は、はい。なんでしょう⋮⋮?﹂
ぎこちない俺の声に、彼女も緊張に上擦った声で言葉を返す。
隣でイサトさんがニヤニヤしているのがわかる。
この仕返しはいつか絶対してやるからな、と心の中で呟きつつ、
俺はこの状況を打破すべく︱︱⋮覚悟を決めて口を開いた。
﹁ちょっとお茶でもどうです?﹂
﹁ナンパか﹂
ちょっぱや
イサトさんのツッコミが高速だった。
彼女を連れて、宿に戻る。
本当ならばもっと人目のあるカフェなどの方が彼女にとっては安
心できるのだろうが、これから話そうとしている諸々の内容を考え
ると、そういうわけにもいかない。三部屋とっているうちの、イサ
トさんの部屋に案内したのがせめてもの良心である。
493
ちなみに三部屋の内訳は、俺、イサトさん、エリサ&ライザ姉弟、
だ。
エリサ達は、ちゃんと帰る場所があるから良い、と最初は遠慮し
ていたのだけれども、そこは俺らが雇っているのだからという雇い
主特権で押し切った。
それこそまさに小さな親切大きなお世話だったかもしれないが、
ギルロイ商会側の動きがわからない上に、獣人の対してのあたりの
キツいこの街で、エリサやライザを二人だけにしたくない、と思っ
てしまったのだ。
戸惑ったように立ちつくしている彼女へと、ベッドサイドのテー
ブルを勧めようとしてふと気づいた。椅子が足りてない。
﹁しまったな﹂
もともと一人∼二人で泊まることを前提としているので、この部
屋には椅子が二つしか備えつけられていないのだ。普段四人で話す
時は、わりと行儀悪くベッドに座って済ましてしまうことが多かっ
たせいで、こうして部屋に来るまで椅子の数のことが頭から抜けて
いた。
﹁アレか﹂
﹁ん?﹂
﹁親ガメ子ガメ作戦﹂
同じことに気付いたらしきイサトさんが、ロクでもない作戦を提
案する。
親ガメ子ガメというのはアレだろう。
俺の上にイサトさん、その上にエリサ、ライザが乗るという。
494
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
数瞬の沈思黙考。
悪くない。悪くはない。
俺はにこーっと無害そうに微笑みつつ、両手をわきわきと動かし
てイサトさんへと視線を投げかけた。
﹁俺はそれでもいいけど?﹂
﹁え﹂
がたりと椅子を引いて、どっかりと腰掛ける。
そして笑顔でさあ来いと促してみた。
やれるものならやってみやがれ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮秋良青年が可愛くない返しを﹂
﹁俺だって学ぶわ﹂
﹁くそう⋮⋮﹂
悔しそうにイサトさんが肩を落とす。
それを見届けてから、俺はふん、と小さく勝ち誇るように息を吐
いて立ち上がった。実際に親ガメ子ガメ作戦をしてもいいが、そん
な得体のしれないブツと対話しなくてはならない彼女が可哀そうで
ある。
﹁秋良青年?﹂
﹁隣の部屋から椅子取ってくる﹂
後で元に戻せば、特に問題はないだろう。
俺は部屋から出ようとして、ついでにベッドの上に座っているエ
495
リサとライザへと声をかけた。
﹁お前たちはどうする? お前たちの分の椅子も持ってくるか?﹂
﹁オレらはベッドの上にでもいるよ﹂
﹁了解﹂
基本的に彼女と話をするのは俺とイサトさんになるだろうし、テ
ーブルはベッドサイドに設置されているため、二人が会話する俺た
ちから遠すぎる、ということもない。二人がそれで良いと言うのな
らそれはそれで良いだろう。
俺はそのまま部屋を出かけて、ふと振り返った。
お茶でも、とナンパの常套句を口走ってしまったというのに、飲
み物一つ出さないのもどうかと思ったのだ。
﹁エリサ、ライザ、もし手が空いてたら下で紅茶でも淹れてきてく
れないか?﹂
﹁いいぜ、わかった﹂
﹁僕も手伝う!﹂
二人が張り切った様子で俺の横をすり抜けて、下へと向かう。
ここの女将さんは、エリサやライザが獣人だからといって冷たい
対応をするというようなことがない。きっと人間か獣人か、という
よりも客かどうかの方が女将さんにとっては大事な問題なのだろう。
二人が仲良く階段を下りて行くのを見届けてから、俺は隣の部屋へ
と向かった。
椅子を担いで部屋に戻ると、俺は持ってきた椅子をテーブルの傍
に降ろしてそのまま腰を下ろした。やや俺側にイサトさん、その向
かいに彼女が座る、という位置関係だ。
496
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
お互いに、会話のきっかけを探しあぐねる、といったような沈黙。
さて、何から切りだそうかと俺が考えていると⋮⋮。
﹁あ、あの⋮⋮っ﹂
緊張に声を震わせながらも、先制攻撃︵何か違う︶に出たのは彼
女の方だった。
彼女はがたりと音をたてて立ち上がると、テーブルに額を打ちつ
ける気なのではと思ってしまうような勢いで俺たちに向かって頭を
深々と下げた。
﹁先日は、助けていただき本当にありがとうございました⋮⋮!﹂
﹁﹁えっ﹂﹂
俺とイサトさんの声がハモる。
そしてほぼ同時に二人してがたたっ、と音を立てつつ立ち上がる。
こう、なんというか、カラットの村でも感じたことだが、こんな
にも大袈裟に感謝を示されてしまうと、どうにも座りが悪くなる。
﹁いや、その俺はほとんど何もしてないし。感謝ならイサトさんに
してくれ﹂
﹁いやいや何を言っているんだ秋良青年、モンスターの大部分を倒
したのは秋良青年じゃないか。そこのお嬢さん、感謝ならば彼にす
べきだよ﹂
﹁いやいやいや、飛空艇墜としたのはイサトさんじゃないか﹂
497
﹁いやいやいやいや、ヌメっとしたのを倒したのは秋良青年だろう﹂
びす。
びすびす。
お互いに肘で小突きあいながら、感謝の矛先を押し付けあう。
別段感謝されるのが嫌、というわけではないのだが⋮⋮喉元過ぎ
れば熱さを忘れるというか、変なところで謙虚な日本人特性が遺憾
なく発揮されてしまうというべきか、その感謝と自分のしたことが
釣りあうのかどうかと考えると妙に気恥しくなってしまうのだ。
﹁あー⋮⋮﹂
﹁うー⋮⋮﹂
俺たちが言葉に困り、ゾンビのような声をあげている辺りで、紅
茶を淹れに行っていたエリサとライザが戻ってきた。二人はテーブ
ルを挟んで向かい合い、お互いに立ったまま困ったようにしている
俺たちに訝しげな視線を向けてくる。
﹁紅茶、淹れてきたけど⋮⋮オマエたち何やってんの?﹂
﹁あの、タイミング悪かったですか⋮⋮?﹂
紅茶の乗ったお盆を手にしたエリサとライザが戻ってきた。
タイミングが悪い、というかある意味ベストタイミングというか。
エリサは立ちつくしてしまっていた俺たちに向かって、呆れたよ
うな溜息を一つついて、それからさっさと紅茶をそれぞれの前へと
置いた。ライザが、軽く眉尻を下げた笑みを浮かべつつ、そっとミ
ルクと砂糖のツボをテーブルの真ん中に置く。
﹁で?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
498
軽く砂糖をティースプーンに一杯紅茶にいれて、くるくると回し
ながらエリサは俺たちに向かってものすごく端的に問いかけた。
何がどう﹁で?﹂なのかがわからなくて、俺は目を丸くする。
﹁だから、なんでオマエらそんな立ったまま見つめあってんだよ。
座れば?﹂
﹁ああ、うん﹂
﹁うん﹂
﹁はい﹂
三人して年下の女の子に仕切って貰って、ようやく再びテーブル
を囲むことが出来るという残念な感じである。そんな残念な大人を
ちらりと見て、全くしょうがねえな、という顏で再び小さく息を吐
くエリサ。
なんというか、不甲斐なくて申し訳ない。
俺もイサトさんも、揃ってこういう空気が不得手なのである。
真っ当な人を相手にするとペースが狂う、というあたり、俺とイ
サトさんはつくづく駄目かもしれない。
﹁あー⋮⋮その﹂
﹁はい、何でしょう﹂
彼女が、俺の声にぴくっと肩を震わせて顔を上げる。
そんなに身構えられると、俺としてもそれだけの反応に見合った
大事なことを言わないといけないような気になってしまって困る。
ぐぬぬ。なんとかならないのか、この空気。
経験したことはないが、なんだかお見合い会場っぽい。
なんだかトチ狂ってご趣味は、とか聞きたくなってしまう。
499
﹁ええと、まあ、みんな無事で良かった、です﹂
結局何か小学生の作文のようなコメントになった。
いや、本当気になってはいたのだ。
俺とイサトさんは、飛空艇を墜としてすぐにそのままトンズラぶ
っこいたので、﹃家﹄から出した後の乗客たちがどうなったのかを
見届けていない。
あの段階で既に飛空艇撃墜に気付いたらしきセントラリアの方が
騒がしくなっていたし、そもそも街の周辺には自分から人を襲うよ
うなアクティブなモンスターはいない。そんなわけで、特に心配は
していなかったのだが⋮⋮やはりこうして無事な姿を見るとほっと
する部分はある。
﹁いえ⋮⋮私たちが無事に助かったのは、全て貴方たちのおかげで
す。だというのに、きちんとお礼を差し上げることもできず⋮⋮本
当に失礼いたしました﹂
﹁いやいやいやいや、逃げたのは私たちだから﹂
イサトさんがひらひらと手を振る。
と、そこで俺たちのぎこちない会話を聞いていたエリサとライザ
がふと話に混じってきた。
﹁アキラとイサトはやっぱり人助けばっかしてんじゃねーか﹂
﹁わるもの、なんて言ってるのにね﹂
﹁⋮⋮ぬ﹂
﹁ぐぬ﹂
エリサとライザのもっともな言葉に、俺とイサトさんが揃って言
葉に詰まる。
イサトさんは、ちみっと誤魔化すように紅茶を啜った後、ちろり、
500
とエリサとライザへと拗ねたような視線を向けた。
あ。これはちょっと止めた方が良いかもしれん。
そう思って俺がイサトさんの口を塞ぐよりも先に、イサトさんは
ぽそりと口を開いてしまっていた。
﹁飛空艇の撃墜は、たぶん﹃わるいこと﹄だぞ﹂
﹁︱︱は?﹂
エリサの目がぽかんと丸くなる。
イサトさんの言葉を理解するまでに時間がかかっているのか、完
全にフリーズしてしまっている。隣のライザも同様にピシッと石の
ように硬直している。
その反応に、イサトさんははちり、と瞬いた。
それからこそっと、隣に座っていた俺の耳元に顔を寄せる。
﹁⋮⋮秋良青年、そう言えばエリサたちには飛空艇を墜としたこと
は話してなかったのだっけか﹂
﹁話してない話してない﹂
だから止めようと思ったのに。
きっとエリサやライザの中での俺たちは、正体不明ながらもそれ
なりに腕の立つ冒険者、といった感じでしか認識されていなかった
はずだ。
それがいきなり、飛空艇撃墜の犯人である。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
501
エリサとライザは呆然としている。
俺は椅子の前脚二本を浮かして傾けるようにしながら腕を伸ばし、
俺は二人の眼前でひらひらっと手を振って見せた。
﹁!﹂
﹁!﹂
びくっと二人の肩が揺れる。
どうやら俺はエリザとライザの再起動に成功した模様。
﹁いやいやいや、確かに飛空艇墜落の話はオレたちも聞いてるけど
!﹂
﹁確かトゥーラウェスト発の飛空艇が途中でモンスターに襲われて
⋮⋮﹂
﹁でも、たまたま落ちた雷のおかげでモンスターが死んで、助かっ
たんじゃねーのか?﹂
ほう。
一般的にはそういう話になっているのか。
俺たちの関与がなかったことにされているなら、それはそれであ
りがたい。
﹁じゃあそういうことd︱︱﹂
﹁︱︱でも﹂
エリサがふと真剣な顏で言葉を続ける。
﹁飛空艇に乗ってた連中が、女神の遣いに助けられたって言ってる
って話も聞いた。漆黒の騎士がどこからともなく飛空艇に現れて、
502
乗客を救いだしたんだって﹂
﹁⋮⋮僕も、聞いた。空を飛ぶモンスターを従えた黒き伝承の民が、
雷を呼んでセントラリアを救ったんだって﹂
二人の視線が、俺とイサトさんの上で止まる。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
漆黒の騎士と、黒き伝承の民。
その組み合わせは、俺の装備とイサトさんの外見特徴とぴったり
一致する。
まあ、一致するも何も張本人なのだが。
﹁い、い⋮⋮﹂
ふるふる、とエリサが小刻みに震えはじめた。
が、果たして﹁い﹂とは何なのか。
半ば俺が現実逃避気味に﹁い﹂から始まる言葉を考え始めたあた
りで、どかーんとエリサが爆発した。再起動に成功したと思ってい
たが、そのまま回線がショートしたくさい。
﹁意味わかんねー!!!!﹂
﹁おおおおねーちゃんしっかりー!!!﹂
涙目で叫びつつ、エリサがベッドの上にあった枕を俺らに向かっ
てぶん投げる。
﹁おわっと!?﹂
503
俺は思わず反射的に頭をかがめてそれを避け︱︱⋮その結果、エ
リサのぶん投げた枕は見事にイサトさんの顔面にクリーンヒットし
た。
﹁おうっ﹂
︱︱これ、俺は何も悪くないと主張したい。
504
おっさんは真人間に弱い︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
Pt、感想、お気に入り登録、励みになっております。
年内にあと1、2話は投稿出来ると良いな、と思いつつ。
505
おっさんの尋問
一時は俺とイサトさんが飛空艇を撃墜した犯人であるということ
を知って錯乱したエリサであったが、ぶん投げた枕によりイサトさ
んをKOしたあたりで我に返ってくれたらしい。ちなみに枕の直撃
を受けたイサトさんは、不意打ちの勢いを殺せずそのままびたんと
椅子から転げ落ちた。
戦闘の際にはグリフォンの手綱を駆って遊撃に勤しんだり、はた
またそのグリフォンの背から敵に向かって飛び降りてその胸を貫い
たりとそれほど運動神経が悪いようには見えないイサトさんなのだ
が⋮⋮どうも、普段はのたーん、としている。
非常時に分泌される脳内麻薬的な何かがないと、その運動神経は
活性化されないものなのかもしれない。
﹁い、イサト、本当ごめん﹂
﹁いや、私たちの方こそ驚かしてしまって悪かったな。あと、一番
悪いのはあそこで避けた秋良青年だ﹂
しょんもりと項垂れたエリサが気づかわしげにイサトさんを覗き
込み、それに柔らかく微笑んだイサトさんが応じていたりするわけ
なのだが。
何かしれっと全部悪いのは俺のせいにされた感。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
物言いをつけるほどのことではないので、おとなしく俺のせいに
506
されておく。
それから落ち着いたエリサがベッドの上に戻ったところで、改め
て俺たちは彼女へと向き直った。
エリサのおかげで、妙な気まずさが粉砕されたような気がしない
でもない。
ここはこのまま、彼女を俺たちのペースに巻き込んでしまうこと
にしよう。
﹁えーっと、なんかいろいろあったがとりあえず自己紹介から始め
るか﹂
﹁そうだな、それが良い﹂
もともと隠す気もなく、彼女の前でも平気で呼び合ってしまって
いたので、彼女はある程度俺たちの名前を把握しているだろうが、
俺たちは彼女のことをまだ何も知らないのだ。自己紹介は大事だ。
﹁わりと今更な感じだけど、俺はアキラだ。アキラ・トーノ。アキ
ラって呼んでくれ。冒険者をやってる﹂
﹁私はイサトだ。イサト・クガ。イサトと呼んでくれると良い。秋
良青年と同様冒険者をしている﹂
﹁⋮⋮、﹂
俺とイサトさんの自己紹介に、彼女は少しだけ驚いたように息を
吐いた。
何か物言いたげな様子だが、ひとまずは俺たちの自己紹介を最後
まで聞くことにしたらしい。そんな彼女へと、エリサとライザがベ
ッドの上から名乗りを上げる。
﹁オレはエリサ。こっちが弟のライザだ﹂
﹁ライザです﹂
507
エリサとライザは、まだ少し警戒しているのか名乗りが短めだ。
こちらの自己紹介が終わると、彼女はそっと自分の胸の手のあた
りに手をあて、俺たちを順番に見詰めながら口を開いた。
﹁私は、レティシア・レスタロイド。トゥーラウェストのレスタロ
イド商会の末娘です﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
よほどギルロイ商会の連中のことがトラウマになっているのか、
エリサやライザは彼女の口から﹁商会﹂という言葉が出ただけで苦
虫を噛み潰したような顔をした。それに、彼女、レティシアが困っ
たように眉尻を下げる。俺はそれをとりなすように言葉を続けた。
﹁だから君はこちらの商人ギルドにも出入りしていたわけなんだな﹂
﹁はい﹂
レスタロイド商会、か。
この世界のことをよく知らない俺たちにとっては、初めて聞く名
前だ。
トゥーラウェストの商会だということで、エリサやライザも彼女
の実家については知らないようだ。
セントラリアのギルロイ商会は獣人を利用して相当あくどいこと
をしているわけだが、果たしてレスタロイド商会はどうなのだろう
か。
また、トゥーラウェストの商会であるレスタロイド家の末娘であ
る彼女が、いったい何の用があってセントラリアの商人ギルドを訪
ねていたのかも気になるところだ。先ほど見た感じだと、あまり和
508
気藹々としているようには見えなかったわけだが⋮⋮。
聞きたいことは、たくさんある。
けれど、それらを聞く前に一番の前提として最初に聞いておかな
ければいけないことがある。俺は、ちらりと一度視線をベッドの上
のエリサやライザへと向けてから、彼女に視線を戻して口を開いた。
﹁最初に確認しておきたいんだけど、君は⋮⋮﹂
﹁レティシア、と呼んでください﹂
﹁じゃあレティシアは、獣人のことをどう思ってる?﹂
まっすぐに彼女を見据えて、俺は直球で問いかける。
エリサやライザの前でこんなことを聞いてしまうのは、無神経に
も過ぎるかもしれないが、今回の話をする上では一番大事なことだ。
ルーター
レティシアがセントラリアにいる多くの人たちのように、獣人を
略奪者と差別するようなことがあるのならば、彼女は俺たちの情報
提供者として相応しくない。気持ち的な問題としてもそうだし、獣
人側に対して偏見を持っている人間がその偏見をなくそうとしてい
る俺たちに有用な情報を提供してくれるとは思えないからだ。
レティシアは俺の問いに答える前に、一度視線をエリサやライザ
へと向けた。
別に何の期待もしていない、といった顔で俺たちを見ている二人
に対して、少しだけ悲し気に彼女は顔を曇らせた。それから、自分
の中にある言葉を手探りで掬い上げるように、ゆっくりと言葉を紡
いでいく。
﹁素晴らしい取引相手だと思っています。⋮⋮それと同時に、手ご
わいライバルであるとも﹂
509
ふむ。
今のところ彼女の答えは、俺たちの抱く理想に限りなく近い。
俺とイサトさんはちらりと視線を交わしたのち、今度はイサトさ
んの方から詳細を訪ねてみる。
﹁もう少し詳しく聞いても?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
俺たちがその答えからレティシアを見定めようとしていることが
わかっているのか、彼女の声には微かに緊張の色が滲んでいた。そ
れでも、レティシアは俺やイサトさんから視線をそらさない。
﹁現在、この世界では私たち人間は﹃女神の恵み﹄を手に入れるこ
とができなくなってしまいました。そんな中で、﹃女神の恵み﹄を
未だ手に入れることができる獣人種の方々が、我々と取引をしてそ
れを流通させてくれるのならば、彼らは私にとっては素晴らしい取
引相手だと思います﹂
﹁では、手ごわいライバルである、というのは?﹂
﹁彼らが取引してでもほしい、と思うものを人間側が供給できなく
なれば、取引は一方的になり、バランスは崩れます。そう考えると、
商人としては手ごわい、と感じてしまうのです﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
彼女には、獣人種と人間の抱える問題が俺たちと同程度には見え
ている。
﹁それじゃあ、少し意地悪なことを聞いてもいいか?﹂
﹁はい、何でしょう﹂
﹁君の目から見て、セントラリアはどう見える? 人間側にとって
非常に有利な状況だと言えると思うんだが﹂
510
すっと目を細めつつ、聞いてみる。
同じ人間である俺からの問い故に、彼女は少し迷うように瞳を揺
らした。
﹁これはあくまで私の私見ということで構わないでしょうか﹂
﹁ああ、構わない﹂
﹁⋮⋮うまくない、と思います﹂
﹁うまくない?﹂
彼女は﹁良い﹂﹁悪い﹂ではない判断基準でもって、セントラリ
アの現状についてを表してみせた。
﹁私は、商人です。場合によっては情よりも利益で物事を判断する
ことも厭わない身です﹂
彼女はそんな風に、自分自身の立場を語る。
それはきっと、彼女の行動基準が﹁正しいかどうか﹂というだけ
ではないということなのだろう。この場合、問題となるのは彼女の
﹁うまくやる﹂の基準がどこにあるか、だ。ギルロイ商会が今して
いることだって、見方を変えれば十分﹁うまくやっている﹂と言え
なくもないのだから。
続きを促すような視線を向けると、彼女はゆっくりと自分の考え
をまとめながら言葉を続けた。
﹁セントラリアでは、商会が﹃セントラリアから離れられない﹄理
由のある獣人の方々から﹃女神の恵み﹄を安く仕入れています。こ
れは一見我々人間側にとても有利であるように見えますが⋮⋮短い
スパンでしかこの優位性は保たれません﹂
511
﹁⋮⋮どういうことだよ﹂
レティシアの言葉は、エリサとしてもスルーしきれなかったらし
い。
彼女は、エリサに対して申し訳なさそうに眉尻を下げつつも、言
葉を止めようとはしなかった。きちんと自分の意見を口にしなけれ
ば、信用を勝ち取ることができないということを分かっているのだ。
﹁失礼なことをお聞きしても良いですか?﹂
﹁⋮⋮なんだよ﹂
警戒した風のエリサに対して、レティシアは静かに問いかける。
﹁エリサさん達は、どうしてセントラリアを離れないのですか?﹂
﹁ギルロイ商会の連中に借金があるからだ﹂
﹁では、どうして借金を踏み倒して逃げようとはしないのでしょう
?﹂
﹁⋮⋮っ﹂
レティシアの言葉に、思わずと言ったようにエリサが息を呑んだ。
まさか商会側の人間に、ここまで単刀直入な質問をぶつけられる
とは思っていなかったのだろう。エリサは口をへの字にして黙り込
む。それをエリサが気を悪くした故の沈黙だと思ったのか、レティ
シアは申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にしようとして⋮⋮それに
重ねるように答えたのはライザだった。
﹁それは、僕の体が弱いからだよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
エリサは口が悪かったり、素直じゃない部分はあるものの、基本
512
的にはライザの良い姉であろうと努力している。そんなエリサにと
って、ライザの存在が家族の足枷になってしまっている、というよ
うなことは、口に出したくなかったのだろう。
﹁そう、ですか⋮⋮﹂
レティシアは一度痛ましげに目を伏せたものの、そっと再び質問
を口にする。
﹁もしも⋮⋮もしも、ライザさんの身体の心配をしないでもすむよ
うになったなら、どうですか?﹂
﹁出ていく、かもしれないね、お姉ちゃん﹂
﹁ああ、そうだな﹂
そうだろう。
エリサやライザの両親が人の社会に見切りをつけられない一番の
理由は、ライザのための薬を手に入れるためだろう。その必要さえ
なければ、きっと借金を踏み倒し、人の社会から外れて生きること
を選んでいたのではないだろうか。
レティシアはエリサやライザの言葉に、ふっと息を吐き出した。
﹁それでは、うまくないと私は思うのです。ギルロイ商会は、獣人
の方々を利用して安く﹃女神の恵み﹄を手に入れることで利益を上
げていますが、今聞いた通り獣人の方々は機会さえあれば街を離れ
たいと思ってしまっています。獣人の方々は、取引を続ける意思が
ないのです﹂
﹁そんなの、当たり前だろ。こんな状態、続けたいって思う獣人が
いるわけねー﹂
﹁ですが、人間側はそれを望んでいます﹂
513
﹁それ、いつまでもオレらにずっと良いように利用されてろってこ
とかよ⋮⋮っ﹂
﹁違います﹂
きっと視線を強めて睨むエリサにも怯まず、レティシアはまっす
ぐとその怒りに燃える暗紅の瞳を見詰め返した。
﹁獣人と人間側で比べれば、人間側の方が獣人の方々との取引に依
存した生活をしているのです。エリサさんやライザさんは、必要さ
えなくなれば街での生活を捨てても良い、という覚悟を持っていま
す。ですが、人間側はどうでしょう? セントラリアで生活する人
々のうち、﹃女神の恵み﹄が手に入らなくなった後の生活に備えて
いる人がどれくらいいるでしょうか﹂
それはきっと、彼女が最初に言った﹃獣人側が取引してでもほし
いもの﹄に﹃街での生活﹄が値するか、ということなのだろう。
確かに、通りすがりの俺の目から見てもそのバランスはすでに危
ういと思う。
だからこそ、いざとなったら逃げちまえ、とそそのかしているぐ
らいなのだ。
現状のセントラリアに、獣人が耐えてまで残る価値はないように
見える。
﹁そういう意味で、私はセントラリアの現状はうまくない、と思っ
ています。自分たちが供給できるものの価値を、自分たちで壊して
しまっているように見えるのです。それに⋮⋮﹂
レティシアは苦々しげに眉根を寄せる。
﹁セントラリアでの人間側の暴挙が、人間と獣人全体の関係にも影
514
響していると思うと、やはりギルロイ商会のやり方がうまい、とは
私には思えません﹂
﹁それはそう、だろうな。セントラリアでギルロイ商会に良いよう
に使われて苦渋を舐めた獣人が、他の街でまた同じように人間と取
引をするつもりになるか、と言われたら難しいだろう﹂
﹁⋮⋮はい。実際、何人かの獣人の方から、セントラリアを離れて
トゥーラウェストに来たい、というお話をこちらでも受けていたの
ですが⋮⋮結局来てはいただけませんでした﹂
﹁⋮⋮え?﹂
イサトさんへと相槌を打ったレティシアの残念そうな声に、はっ
としたようにエリサとライザが顔をあげた。その顔に浮かんでいる
のは、レティシアの言葉に対する疑念と⋮⋮不安、だろうか。
﹁待てよ、そんなはずねーぞ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
強い調子で言われたエリサの言葉に、今度はレティシアが戸惑っ
たように瞳を揺らす。
﹁くだらない嘘ついてんじゃねー﹂
エリサはそう吐き捨てるように言うと、苛立ったように身体ごと
横を向いてしまった。珍しく、ライザもそんな姉の頑なな態度を諌
めたり、レティシアに対してフォローしようとはしていない。ただ、
不安そうに顔を俯けている。
一度軽く俺に視線をやってから、イサトさんは席を立つとそっぽ
を向いて黙り込んでしまったエリサの隣に腰かけた。
﹁エリサ﹂
515
﹁⋮⋮なんだよ﹂
﹁どうして、レティシアの言葉が嘘だと思ったんだ?﹂
﹁だって⋮⋮っ﹂
エリサが顔をあげる。
その瞳には、うっすらと涙すら浮かんでいた。
エリサは何かを訴えかけるようにイサトさんを見つめるものの、
なかなかそれを言葉にしようとはしない。まるで、自分の中にある
疑念を確かめてしまうことを怖がっているかのようだった。
俺は、深く息を吐き出した。
これまでの会話の流れで、ここまでエリサが拒絶反応を示す理由。
そんなのは簡単に想像がついた。
そして、それをエリサとライザが認めたくないと思ってしまう理
由も。
﹁⋮⋮誰か、お前たちの知り合いがトゥーラウェストに向かったは
ず、なんだな?﹂
﹁⋮⋮っ﹂
﹁⋮⋮っ﹂
俺の言葉に、エリサとライザの肩が小さく跳ねる。
そう。
エリサとライザがレティシアの言葉にここまで強い拒絶反応を示
したのは、きっと誰か実際にセントラリアを見捨て、トゥーラウェ
ストに向かった獣人らに心当たりがあるからに違いない。
﹁レティシア﹂
﹁は、はいっ﹂
516
﹁レスタロイド商会に繋ぎをとっていた獣人の名前はわかるか?﹂
﹁はい、それならすぐに﹂
そう言うと、レティシアは足元に置いていた大振りの鞄から手帳
を取り出してぱらぱらとめくっていく。
﹁ありました。ロッゾ・ルレッタ夫妻とその娘カネリ、それとシー
カス・タニア夫妻とその息子、レンとミーシャ。それから⋮⋮﹂
レティシアは次々と名前を挙げていく。
そして、その朗読が続くにつれて、エリサとライザの顔色はどん
どん悪くなっていった。
﹁︱︱以上になります﹂
四組の家族と、未婚の男女が数人。
レティシアの読み上げた名前は20人ほどにも及ぶ。
そして︱︱⋮⋮
﹁その全員が、トゥーラウェストには到着していないんだな?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
事情が呑み込めてきたのか、レティシアの顔色も青褪めている。
﹁レスタロイド商会ではないところに身を寄せた可能性は?﹂
﹁ゼロではないとは思いますが⋮⋮可能性は低いと思います。もし
そのようなことがあれば、商人ギルドで話題にならないはずがあり
ませんから﹂
﹁レスタロイド商会を出し抜いてしまった、ということでどこかの
商会がほとぼりがさめるまで匿ってる⋮⋮っていうのは?﹂
517
﹁こちらも可能性は低いと思います。トゥーラウェストはセントラ
リアと違って獣人の方が少ないので⋮⋮。街に出ず、屋内でのみ生
活している、というのならそれもあるかもしれませんが⋮⋮﹂
あまり、現実味はない。
そもそも、セントラリアでの不自由な生活を嫌って出奔したはず
の人々が、自由に外に出ることも儘ならない隠遁生活を選ぶとは思
えない。商会にしても、いくら﹃女神の恵み﹄を手に入れることが
できる獣人とはいえ、外に出せないのではただの不良債権だ。そん
な存在を好き好んで何人も抱え込む商会はないだろう。
では︱︱⋮セントラリアを出発したはずの獣人たちはどこへ消え
た?
嫌な予感に、背筋がぞわぞわと毛羽立つ。
﹁エリサ、ライザ、辛いかもしれないが答えてくれ。さっきレティ
シアが名前を挙げた人たちは、皆本当にセントラリアを出発したの
か?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
こくり、とエリサが小さくうなずく。
﹁僕たち、見送ったんです﹂
震える声で、ライザがぽつりと呟いた。
﹁いってらっしゃい、て西門から出ていくみんなを、見送ったんで
す⋮⋮っ﹂
﹁みんな、落ち着いたら連絡するって言ってた。あっちでガンガン
518
稼いで、まとまった金ができたらセントラリアに残ってるオレたち
のことも呼んでやる、って﹂
ぽろぽろ、とエリサの頬を大粒の涙が零れ落ちていった。
ああ、本当に。
俺たちと出会ってから、エリサは泣いてばかりだ。
俺たちは、エリサを泣かしてしまってばかりいる。
﹁⋮⋮なあ、アキラ、みんな、どこに行っちゃったんだよ。ずっと、
オレらは待ってたんだ。なあ、アキラ、どうしたらいいんだよ、オ
レ、あいつらのことちょっと怒ってたんだ⋮⋮っ﹂
セントラリアを先に見放して、出ていってしまった仲間たち。
準備ができて、用意が整ったら連絡する、いつか助けてやるから、
なんて言葉を残して旅立っていきながら⋮⋮やがて連絡は途絶える。
もしも、セントラリアからトゥーラウェエストへの道のりが危険
なものであり、命がけの旅であったのならば、きっと残されたもの
は旅立ったものたちの安否を気遣っただろう。けれど、そうではな
い。セントラリアからトゥーラウェストへの道のりは、時間さえか
ければ誰でも徒歩で踏破できる程度のものだ。だからこそ連絡を待
ち続けた残されたものたちは、きっとセントラリアごと見捨てられ
たかのような気落ちを味わったのだろう。エリサが言ったように、
自分たちだけが助かれば、かつての仲間のことはどうでもよくなっ
てしまったのかとやりきれない怒りを感じたりもしただろう。その
怒りや、それでも先に旅立ったものの助けがなければセントラリア
を脱出することもできないという引け目が、きっと彼らの失踪の発
覚をここまで遅れさせてしまった。
﹁まさか、こんなことになっていたなんて⋮⋮﹂
519
レティシアが茫然と呟く。
﹁私は⋮⋮私たちレスタロイド商会側は、獣人の方々が私たちを信
用してくださっていないから、土壇場でセントラリアを出ることを
やめたか、もしくは別の都市に行ってしまったのだとばかり思って
いました。だから⋮⋮私がセントラリアに来て、直接獣人の方々と
交渉するつもりでいたのです﹂
エリサやライザは、セントラリアに残されている獣人はもうそう
多くはないと言っていたはずだ。セントラリアを見放すだけの強さ
を持った獣人のほとんどはセントラリアを出ていった、と。
エリサの隣に座り、その背をなだめるように優しく撫でてやって
いたイサトさんがすっくと立ち上がった。
﹁秋良青年、確かめよう﹂
﹁ああ。レティシア、ちょっと力を貸してくれるか﹂
﹁はい⋮⋮っ!﹂
俺は、ベッドの上で悄然と項垂れているエリサとライザへと向き
直る。
そんな二人の姿は、見ていて痛ましく、一回りも二回りも小さく
なってしまったように見えた。
これから、俺たちが暴こうとしている事実は、ますます二人を傷
つけることになるかもしれない。知らなければ、エリサとライザは
これまで同様の日常を送ることができるのかもしれない。
﹁エリサ、ライザ﹂
520
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺の呼びかけに応えるように、エリサとライザが顔をあげる。
涙に滲み、赤くなった二対の双眸が俺を見る。
﹁俺は、お前たちを助ける。それは約束した通りだ。でも⋮⋮もし
辛いなら、お前たちは俺たちに付き合わなくてもいい﹂
何も知らないまま、助かる道を選んだとしてもいいのだ。
よくわからないけど解決したっぽい、ぐらいのふわふわした認識
でいたって構わない。辛い現実になど、直面する必要はない。
﹁ちょっと行ってくる﹂
俺は、ぽんぽんと二人の頭を撫でた。
柔らかな緋色の癖ッ毛をくしゃくしゃとかき混ぜる。
俺は、二人がどんな決断を下したとしてもその意思を尊重するし、
その決断によって二人への態度が変わることはない。
そんな気持ちを込めて二人の頭を撫でて︱︱⋮俺はイサトさんと
レティシアとともに部屋を後にした。
521
おっさんの尋問︵後書き︶
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
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522
おっさんの棚上げ
宿を出たところで、俺は腹の底にわだかまった嫌な感じを散らす
ようにほう、と一息ついた。
なんとも、予想外の展開である。
陰険な商人に一泡吹かせてやろうと思っていただけだったはずな
のだが⋮⋮どうも事態が思わぬ方向に転がり出している。
﹁イサトさん、どう思う?﹂
﹁⋮⋮うーん﹂
難しそうにイサトさんが唸る。
どうも納得がいっていない、という顔だ。
が、俺から話を振ってしまったとはいえ、ここでこのまま話をす
るのもアレだ。どこでギルロイ商会の息のかかった者に話を聞かれ
ているかわかったものではない。とりあえず、先に街を出ることに
した方が良いだろう。
﹁まあ、そのあたりはおいおい話していくとして⋮⋮どこから行く
?﹂
﹁どのみち全部確認するつもりなら、私はどこからでも構わないよ﹂
﹁それじゃあ⋮⋮﹂
俺は、思いつめた表情をしているレティシアへと目を向けた。
﹁レティシア、セントラリアから脱出した獣人たちが選びそうな都
市ってトゥーラウェスト以外だとどこが多そうかわかるか?﹂
﹁⋮⋮トゥーラウェストを除くとなると、一番可能性が高いのはエ
523
スタイーストだと思います。次に、サウスガリアンでしょうか﹂
﹁へえ、ノースガリアは人気がないのか﹂
そんな風に言いつつ、俺はとりあえず南門へと足を向ける。
本命をラストに残す、というよりも単に俺たちの宿から一番近い
門が南というだけなのだが、二人が何も言わずについてきたあたり、
特に異論はない、ということでいいのだろう。
﹁ノースガリア、綺麗なのにな﹂
﹁なー﹂
ノースガリアは、セントラリアの北、極寒の地に作られた都市国
家である。
俺もゲーム時代にはちょいちょいお世話になったが、﹁白亜の城﹂
なんて言葉が似合う、どこか静謐な空気に包まれた美しい国だった。
氷を思わせるクリスタルをふんだんに使った街並みは、ゲーム内で
はスクリーンショットを撮る撮影場所として人気が高かった。街の
奥にある大神殿などは、プレイヤーが行う結婚式︱︱プレイヤー同
士でやるごっこ遊びのようなもの︱︱の開催場所としても賑わって
いたはずだ。俺も、何度かそんな光景を見たことがある。
そんなノースガリアが、セントラリアから逃げ出そうとする獣人
たちの受け皿として人気がない、というのは少しだけ意外な気がし
た。
確かに極寒地域ということもあり、エリアによってはあらかじめ
準備をしないと状態異常扱いでエリア内にいるだけでHPが減少す
る、というデメリットもあったが⋮⋮それはサウスガリアンも同じ
だ。南は南で、暑さによる状態異常エリアが広がっていたりするの
である。
524
それでノースガリアを避けるあたり、獣人というのはもしかする
と人間以上に寒さに弱かったりするんだろうか。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
と、そこでレティシアが何かもの言いたげな視線をちらちらと向
けているのに気づいた。何か聞きたいことがあるものの、それを口
にしてもいいのかどうかを迷っている、というような顔だ。
聞かれて困るようなことならばこちらで適当に誤魔化せばいいだ
けの話なので、俺は何気なく首を傾げてレティシアへと話を向けて
みることにした。
﹁どうかしたか?﹂
﹁いえ⋮⋮その、ノースガリアの人気がないことを不思議そうにし
てたので﹂
﹁ああ、俺たちは最近このあたりに来たばかりの旅人でなー﹂
﹁まだあまりこのあたりのことをよく知らないんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺の隣から、イサトさんも援護のように口を開く。
この世界に来てから出会った人々には、基本﹁物を知らない田舎
者﹂という設定で誤魔化してきているので、レティシアに対しても
そのつもりである。
﹁そうなんですね。お二人はノースガリアには行ったことがあるん
ですが? ものすごく寒いけれど⋮⋮建物なんかはとても綺麗だと
聞いたことがあります﹂
﹁そうだなあ、建物は凄く綺麗だよ。街全体がエルフの女王の張っ
た結界に包まれててな﹂
525
﹁空から差し込む淡い光に、水晶の街並みがきらきら光ってるんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
お?
俺たちの言葉を聞いたとたん、レティシアは雑踏の中でぴたりと
足を止めてしまった。
何かまずいことを言ってしまっただろうか。
俺はちらりとイサトさんを見てみる。
イサトさんも、今のやりとりで何が不味かったのかを測りかねて
いるのか、やっぱり不思議そうに瞬くばかりだ。
それに対して、レティシアは俺たちへと緊張のこもった眼差しを
向けた。
そして、静かに口を開く。
・・・
﹁イサト様とアキラ様は︱︱⋮どちらから来られたのですか?﹂
﹁﹁え﹂﹂
俺とイサトさんは思わず顔を見合わせる。
カラット村やエルリアにおいては﹁どこか遠く﹂という適当な誤
魔化しが通用していたのだが、こうして正面から﹁どこ﹂と聞かれ
ると困る。
﹁ええっと⋮⋮カラットのあたりだよ﹂
嘘はついてない。
セントラリアに来る前は、確かに俺たちはカラットにいた。
トゥーラウェストや、エルリアではなく、カラットという辺境の
小さな村の名前を出したのは、その響きから適当にレティシアが﹁
どこか遠く﹂だと認識してくれれば良いと思ったからだ。
が、俺のそんな誤魔化しは通用しなかったらしい。
526
﹁アキラ様とイサト様が、自らの存在を隠しておきたいのなら、そ
れはそれで構いません。ですが⋮⋮﹂
困ったように、眉尻を小さく下げてレティシアは笑った。
﹁それなら、もっと気を付けた方がいいです﹂
﹁⋮⋮う﹂
どうやら俺とイサトさんは、うまく誤魔化したつもりで、何か墓
穴を掘ってしまっていたらしい。
こうなったら下手に隠し立てするよりも、開き直った方がいいだ
ろう。
レティシアも、俺たちに対して無理に追及するような気はないよ
うだし。
俺はぽりぽりと頭をかきつつ、レティシアへと聞き返した。
﹁えっと⋮⋮今のやりとりのどこがまずかった?﹂
﹁ノースガリアです。ノースガリアは⋮⋮すでに滅んだ国なんです﹂
﹁⋮⋮っ﹂
イサトさんと二人、息を飲んで思わず顔を見合せた。
﹁かつてはエルフの女王によって結界が張られ、美しいクリスタル
の都市が栄えていたとは言われているのですが⋮⋮結界がなくなっ
た今、廃墟が雪に埋まるばかりだと聞いています﹂
ああ、そうか。
俺たちは知っているはずだ。
エルフが、﹁白き森の民﹂と呼ばれた存在が、もうとうにこの世
527
界からは途絶えてしまっていたことを。
エルフがいなくなれば、ノースガリアを降りやまぬ雪から守る存
在もなくなるのは当然だ。
雪と氷に閉ざされ、白に呑まれて滅んだ美しい国。
ゲーム内でしか知らないとはいえ、馴染み深い場所が今ではもう
なくなってしまったのだと思うと、喪失感に心がわずかに重くなる。
が、そのおかげで俺たちがとんでもない墓穴を掘ったのは理解し
た。
そりゃそうだ。
俺とイサトさんは、未だに﹁ノースガリア﹂という国があるつも
りで話をしてしまっていたのだから。
﹁ノースガリアで何があったんだ?﹂
﹁⋮⋮わかりません。ただ、﹃セントラリアの大消失﹄と関係して
いる、という話は伝わっています﹂
﹁セントラリアの大消失⋮⋮?﹂
また、俺たちの知らない言葉が出てきた。
おそらく、きっとこのあたりのことも、この世界においては﹁当
たり前の歴史﹂の話なのだろう。
俺たちが知るゲームとしてのこの世界の形と、今俺たちがいるこ
の世界に至るまでの空白。
レティシアは俺たちへと説明を続けながら、再びゆっくりと歩き
出す。
﹁今から何百年も前に、セントラリアは一度滅んだらしいんです﹂
528
﹁セントラリアも滅んだって⋮⋮﹂
あちこち滅びすぎである。
﹁ある朝、いつものようにセントラリア近郊に暮らす農夫が朝市に
出すつもりの野菜を荷馬車に乗せてやってきたところ、門に騎士の
姿が見当たらず⋮⋮首を傾げながらも足を踏み入れた先にあったの
は、誰もいないセントラリアだったんだそうです﹂
﹁街の住人が⋮⋮一晩で消えた、ということか?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁マリーセレスト号事件めいているな﹂
﹁確かに﹂
マリーセレスト号。
それは、大海原を彷徨う幽霊船の一種だ。
つい先ほどまで人々がいた気配だけは残っているのに、乗組員は
誰一人として見つからない幽霊船。
世界七不思議に入ってるんだったか入っていないんだったか。
思わずそんな怪談を思い出してしまうエピソードである。
﹁何があったのかは、今でもわかっていません。目撃者はおろか、
朝になるまで近隣の人間は誰もそんなことが起きているなんて気づ
いていなかったのですから﹂
﹁なるほどな⋮⋮ノースガリアでも同じことがあったのか?﹂
﹁そのよう、です。ノースガリアは白き森の民の国だったと言われ
ているのですが⋮⋮やはりある日旅人が訪れたときには、もうもぬ
けの殻だったのだと言われています﹂
﹁⋮⋮サウスガリアンはどうだったんだ? サウスガリアンにはダ
ークエルフが、黒き伝承の民がいたはずだ﹂
529
そう。
ノースガリアとサウスガリアン、名前が似ているのには理由があ
る。
どちらも、エルフ種族が中心となって栄えている国なのだ。
北はエルフ、南はダークエルフ。
自然環境の厳しいエリアだからこそ、精霊たちに愛された種族で
あるエルフとダークエルフが繁栄していたのだろう。
﹁サウスガリアンも⋮⋮知らせを聞いた人々が黒き伝承の民が直接
治める遺跡に訪れたときには、もうそこには誰も⋮⋮﹂
俺たちの間に、沈黙が降りる。
セントラリアの大消失。
消えたエルフとダークエルフ。
﹃女神の恵み﹄が手に入らなくなった人間種。
セントラリアに飛空艇を墜とそうとした謎のぬめっとした黒い人
型。
俺らの知らないところで、何かが起きている。
もしかしたら、﹁異世界人である俺たちの召喚﹂もこの世界に起
きている異変の一つであるのかもしれない。
もしそうだとしたのならば⋮⋮この世界のどこかに、俺たちと同
様に迷い込んでしまったお仲間がいる可能性だってある。
もし本格的にレティシアと協力関係が結べるのならば⋮⋮そのあ
たりの情報収集であったりも、頼みたいところだ。
俺は、ちらりとレティシアへと目を向ける。
﹁なあ﹂
﹁はい?﹂
530
少し、緊張したような声と眼差し。
けれど、警戒はない。
﹁レティシアは、俺たちが怖くはないのか?﹂
思えば、先ほど路地裏で俺たちに再会したときだって、彼女の目
に怯えの色はなかった。そんな彼女は、俺たちが﹁ただの凄腕の冒
険者﹂ではないことも知った上で、どうしてこうして俺たちと一緒
に行動を共にしてくれているのだろう。
我ながら、逃げられてもおかしくないとも思うのだが。
﹁怖くなんか、ありません﹂
俺の問いかけに、そう言ってレティシアはふわりと微笑みを浮か
べた。
柔らかいのに、どこか強かさを感じる笑みだ。
綺麗だな、となんとなく思った。
﹁⋮⋮自分でいうのもなんだが、私たち、結構得体が知れないぞ?﹂
﹁はい﹂
きっぱりと頷かれてしまった。
これはこれで、なんだか微妙な気がしてちょっと目が泳ぐ。
﹁きっと⋮⋮イサト様とアキラ様が、私を助けてくれたからだと思
います。あの時飛空艇で、私は死を覚悟してました。そんなとき、
お二人が颯爽と現れて私たちを助けてくださったんです﹂
少し、照れくさそうにレティシアが微笑む。
531
﹁私には︱︱⋮お二人が、まるで女神から遣わされた古の英雄のよ
うに見えたんです。だから⋮⋮お二人が普通の人じゃないことなん
て、最初からわかってたようなものなんです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
真正面から讃えられて、俺とイサトさんは揃ってぎくしゃくと顔
を伏せた。
耳がじんわり熱い。
どうも、こういうのは慣れない。
イサトさんの、銀髪からツンと飛び出したエルフ耳の先っちょも
ほんのりと朱色に染まっている。
﹁まあ、あれだ。うん﹂
﹁うん。あれだ﹂
何だろう。
とりあえずイサトさんに相槌を打ってはみたものの、謎である。
そうこうしているうちに、先に立ち直ったのはイサトさんだった。
まだ少し目元を赤くしつつも、ふん、と顔をあげてレティシアを
見る。
﹁だが良かったよ。君が怖くない、というなら安心して︱︱⋮巻き
込むことが出来る﹂
﹁え﹂
ぴし、とぎこちなくレティシアの動きが固まる。
可哀そうに。
おっさんに迂闊なことを言うから、振り回されることになるので
532
ある。
まあ、俺も人のことは言えないが。
﹁⋮⋮そういう意味じゃないと思うけどなー﹂
謎の負け惜しみめいたイサトさんの言葉に小声でつっこみつつ。
俺たちはセントラリアの南門を潜ったのだった。
そして。
大空にレティシアの物悲しげな悲鳴がこだまする。
﹁ひーーーーーーあーーーーーーーーーー!﹂
もちろん、グリフォンに騎乗してのことである。
今回の騎乗順はイサトさん、レティシア、俺、だ。
やっぱり俺が手綱を握り、バックシートも兼ねているわけなのだ
が⋮⋮体勢上背後からレティシアを抱きしめるような形になってし
まうことに戸惑いを感じずにはいられない。これまでは気心の知れ
533
たイサトさんが相手だったから、俺だってまあいいか、と思えてい
たのだ。まだ出会って間もない女の子に、命綱を兼ねているとはい
えこうして腕を回すのはなんとなく躊躇ってしまう。
身長的には﹁イサトさん>レティシア﹂だったので、アーミット
の時と同じでいいじゃないか、と思っていたのだが⋮⋮途中で本気
で怖がったレティシアに泣きを入れられてしまったのである。ジェ
ットコースターなんかでも、一番怖いのは先頭だと言う話を聞いた
ことがあるので、レティシアが怖がるのも仕方のないことなのかも
しれない。
そんなわけで、イサトさんとレティシアの位置を入れ替え、何と
か俺たちはサウスガリアンを目指しているのだが⋮⋮。
﹁う、ぐぐぐぐ⋮⋮﹂
イサトさんが時折うめいているのが聞こえるのは、レティシアが
力任せにぎゅうぎゅうイサトさんに抱き付いているせいだろう。
締め技めいているが大丈夫かアレ。
時折ギブアップのタップめいて、イサトさんがぺしぺしとレティ
シアの腕を叩いているわけなのだが、余裕のないレティシアはそん
なイサトさんのコールを綺麗にスル︱し続けている。
﹁も、モツが⋮⋮モツが⋮⋮﹂
そんな呻き声を聞きながら、俺はイサトさんのモツの無事を祈り
つつ、サウスガリアンへと急ぐのだった。
534
サウスガリアンの街につながる門が見え始めたところで、俺たち
は人目につかない岩陰に降りることにした。
サウスガリアンの目の前だけあって、こうして地上に降りるとむ
っとするような熱気とともに、鼻先を微かに硫黄の香りが漂う。R
FCにおけるサウスガリアンは火山に囲まれた工業国で、人よりも
ドアーフのような亜人種が多く、質の良い武器や防具を店売りで手
に入れることができた。RFCプレイヤーの多くは、サウスガリア
ンでレベルに応じた武器を買ったり、必要な材料を集めた上でNP
Cのドアーフ職人に依頼して武器や防具を作ってもらったことがあ
るはずだ。俺も今のドロップ武器に落ち着くまでは、さまざまな剣
を鍛えてもらったものだ。
もしかすると、ノースガリアとサウスガリアンの違いはそこにあ
ったのかもしれない。ノースガリアは、エルフの女王を司祭として
祀る神殿を中心とした本当にエルフによるエルフのための国、とい
った感じだったのだ。
それに比べると、サウスガリアンは少し様子が違う。
ダークエルフの女王が司祭として祀られる神殿があるのはノース
535
ガリアと変わらないのだが、サウスガリアンはその一方でドアーフ
や獣人、人間による工業地帯としても栄えている。その結果、サウ
スガリアンはダークエルフが姿を消しても都市国家としての形を残
すことに成功し、一方のノースガリアは国ごと滅んでしまうことに
なったのだろう。
周囲をひとしきり観察して、それから俺はちらりと視線を連れの
二人へと戻した。なんというか、二人して疲労困憊、といった態で
ある。
﹁⋮⋮大丈夫か?﹂
﹁だ、大丈夫、です⋮⋮﹂
俺の問いかけに、顔面蒼白のレティシアが答える。
それはいいとして、無言でおなか回りを撫でているイサトさんの
安否が気になるところである。
モツは無事か。
何気なく隣に並んで様子をうかがうと、イサトさんは小声で﹁内
臓の配置が微妙に変わったような気がする⋮⋮﹂などと謎のコメン
トをのたまった。
それから俺の視線にふと気付いたように瞬いて⋮⋮、にまーとタ
チの悪い笑みがその口元に浮かんだ。
意外と元気だな、おっさん!
なんだか嫌な予感しかしない顔である。
イサトさんはうりうり、と肘で俺の脇腹のあたりを小突きながら
言う。
﹁役得だったな、秋良青年﹂
536
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何が、なんてわざわざ聞くまでもない。
グリフォンでの移動の間、俺とレティシアが密着していたことを
からかっているのだろう。
イサトさん
おっさんか。
おっさんだ。
俺は﹁はあ﹂と深々と溜息をついた。
半眼で溜息をついた俺に、イサトさんは満足そうにふっふっふっ
ふ、と笑いながら赤茶けた大地を歩いていく。
おっさん
役得なら普段から存分に味わっているわけなのだが、どうしてこ
の人はこうも華麗に自分のことを棚上げしやがるのか。
一度とことん問い詰めてみたい。
小一時間正座で問い詰めたい。
﹁⋮⋮まったく﹂
俺は小声でぼやいて、少しだけ足を速めてイサトさんへと追いつ
いた。
そして、そろそろ良いか、とばかりにセントラリアでは口にする
のがはばかられた疑問についてを口にしてみる。
﹁なあ、イサトさん﹂
﹁なんだ?﹂
﹁本当にギルロイ商会がそこまでやったと思うか?﹂
﹁うーん⋮⋮やっぱりそこだよな﹂
537
そう。
問題はそこだ。
イサトさんも同じところで引っかかっていたらしい。
セントラリアから脱出した獣人、というのがギルロイ商会にとっ
て厄介なものなのはわかる。純粋にギルロイ商会の労働力が減る、
というだけでなく、その獣人たちが別の商会に属することにでもな
れば、ライバルの強化にすら繋がるからだ。味方になるどころか敵
の戦力になりうる相手ならば消してしまった方が都合が良い︱︱⋮
というのは、考え方としてはアリといえばアリなのだが⋮⋮。
﹁レティシア、ギルロイ商会のやり口について聞いてもいいか?﹂
﹁はい﹂
俺は頭の中でこれまでに知りえたギルロイ商会についての情報を
整理する。
ルーター
何十年か前より、﹁獣人が﹃女神の恵み﹄を独占する略奪者﹂で
あるという差別意識をセントラリアに広め、獣人から富を奪い返し
ても構わないという風潮を作りあげたギルロイ商会。
その一方で、セントラリアの街の中に居場所を失った獣人たちに
金を貸すことで援助し、﹃女神の恵み﹄を手に入れるための労働力
を確保した。
﹁﹃女神の恵み﹄は一律の価格で買い取られなければならない﹂
という法律を悪用して低価格で買いたたき、獣人たちから財力を奪
い、街で暮らすためにはギルロイ商会に従属するしかない環境を作
りあげた。
えげつない手腕ではあるが、ある意味見事だとも言える。
538
﹁ギルロイ商会にライバルはいなかったのか?﹂
﹁ライバル、ですか?﹂
﹁﹃女神の恵み﹄を独占したりしたら、他の商会はいい顔をしたり
はしないんじゃないか、と思って﹂
普通なら、利益の独占は同業者からも嫌われる。
獣人との取引をギルロイ商会を窓口に一本に絞るなどと、他の商
会が素直に認めるとは思えないのだが⋮⋮。
﹁ギルロイ商会は⋮⋮﹃女神の恵み﹄は独占しましたが、どうやら
その利益は独占しなかったようなんです﹂
﹁独占しなかった?﹂
﹁ギルロイ商会は、﹃女神の恵み﹄の売買で得た利益の4割程度を
セントラリアの商人ギルドを通して、分配してるんです。また、加
工が必要な原料としての﹃女神の恵み﹄に関しては、市場を通すよ
りも安価で提供しています﹂
﹁おお⋮⋮﹂
そこまでしていれば、確かに競合他社からの文句も出にくいだろ
う。
というか競合してない。
ある程度利益を共有することで、ギルロイ商会はセントラリアの
商人ギルドを一つにまとめあげているのだ。
﹁でも、そんなことして肝心の利益は出せるのか? 文句も出ませ
んが儲かりもしません、じゃ困るだろう?﹂
﹁そうですね。そこをギルロイ商会は外貨を稼ぐことで解決してい
るんです﹂
﹁外貨? ああ、セントラリア以外の国の商会との取引、か﹂
﹁はい。例えば私の実家のあるトゥーラウェストでは、砂漠のピラ
539
ミッドから取れる宝石系の﹃女神の恵み﹄が特産品になります。エ
スタイーストでは、体力の回復などに役立つ薬草、植物系の﹃女神
の恵み﹄が。サウスガリアンでは、鉱物系の﹃女神の恵み﹄が特産
です。そしてセントラリアは︱︱⋮その全ての特産品を手に入れる
ことが出来るんです﹂
﹁あー⋮⋮なるほどな﹂
セントラリアの南門を出たあたりのフィールドに出没するのは確
かにサウスガリアン系のモンスターだし、東門を出た先のフィール
ドにはエスタイースト系のモンスターがいる。街に近いエリアには
基本的に低レベルモンスターしかいないが、それでも倒せばアイテ
ムはドロップするのだ。
そういった恵まれた立地にあるため、セントラリアは﹃女神の恵
み﹄に関しては、他の周辺都市国家に比べると非常にアドバンテー
ジを持っていることになる。それならば、セントラリア内で争うよ
りも、獣人から﹃女神の恵み﹄を買いたたく窓口を上手く絞り、安
く手に入れた原材料を元に加工品を高く周辺都市国家に売った方が
確かに他の商人や商会にとっても都合が良い。
つくづく下種いが上手いやり口である。
だが、上手いが故にやっぱりちぐはぐな印象を受ける。
そこまで上手くやっている連中が、いくらブラック企業だからと
いって、優秀な人材が他社に引き抜かれるぐらいなら殺す、なんて
極論には飛びつくだろうか。
そのあたりが、俺とイサトさんの現代人的感覚に違和感を訴えて
いる。
果たして、セントラリアを後にしたはずの獣人たちの失踪にギル
ロイ商会以外の何かが関与しているのか。
それとも、最初から俺たちがギルロイ商会を見誤っていたのか。
540
そんなことを考えている間にも、無事にサウスガリアンに到着す
る。
門を抜ける際には冒険者カードを見せて身分を証明。
三人とも問題なく通り抜けることができた。
向かうのは、サウスガリアンの商人ギルドだ。
石畳の街並みを、レティシアの案内で歩いていく。
セントラリアや、トゥーラウェストとはまた趣の異なる街並みが
目に新鮮だ。
セントラリアは、いかにも中世の西洋都市といったイメージをか
きたてる三角屋根が多かったのだが⋮⋮サウスガリアンの入り組ん
だ街並みにはどこかスチームパンクっぽい雰囲気がある。無骨なパ
イプや、歯車といったものが無造作に組み込まれているのが男心を
くすぐる。
ふと顔をあげると、イサトさんが楽しそうにきょろきょろと周囲
を眺めているのが目に入った。完全に油断した観光モードである。
子供のように瞳をきらきらさせて、何か物珍しい建物を見かけるた
びに、こっそりと小さく﹁ほー﹂と感心するような声をあげている。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そんな姿が微笑ましくて、ちょっとだけからかってやりたくなっ
た。
俺はイサトさんの隣にすすっと並ぶ。
﹁イサトさん﹂
﹁ん? どうかしたか?﹂
俺に振り返ったとたん、イサトさんはいかにもはしゃいでません
541
よ、といった顔を取り繕った。そんなイサトさんへと俺はすっと目
を細め。
﹁ここで俺が今から別行動な、サウスガリアンの門前で一時間後に
待ち合わせしようぜ、って言ったらどうする?﹂
俺の意地悪な問いかけに、イサトさんはぱちりと瞬いた。
そして。
﹁二度と再会できなくなる﹂
﹁ぶ﹂
即答だった。
開き直りやがった。
ここで別に大丈夫ですし、なんて意地を張ってくれたりなどした
ならば、それをネタにからかってやろうと思っていたのに。
さすがはイサトさん、一筋縄ではいかなかった。
﹁だから秋良青年、私とはぐれたら終わりだと思ってくれ﹂
﹁そんな大げさな⋮⋮﹂
とは言いつつイサトさんならあり得そうなので、目を離さないよ
うにしようと改めて決意する。そういえばイサトさんには砂漠で迷
子という前科があるのである。しかも、俺が見つけるまで迷子にな
ったことにすら気づいてなかった。
﹁つきましたよ﹂
﹁お﹂
ふと、俺たちを先導していたレティシアが一軒の建物の前で足を
542
止めた。
俺たちが馬鹿なやりとりをしている間にも、目的地についていた
らしい。
どうやらここがサウスガリアンの商人ギルドのようだ。
﹁ちょっと、話を聞いてきてみます。こちらにセントラリアから越
してきた獣人の方たちがいるかどうかを確認したら良いんですよね
?﹂
﹁ああ、頼めるか?﹂
﹁大丈夫だと思います。ちょっと行ってきますね﹂
きりっと表情を引き締めて、レティシアはサウスガリアンの商人
ギルドへと乗り込んでいった。
結果。
サウスガリアンでもトゥーラウェストと同様のことが起きていた
ことがわかった。
543
獣人たちは、どこにもたどりついていない。
サウスガリアンの商人たちも、レティシアらと同様に獣人が途中
で気を変えたか、もしくはセントラリアの商人ギルドに引き抜き行
為を見咎められたかのどちらかだろうと判断し、これ以上の手出し
を控えているところだったのだそうだ。
レティシアが、セントラリアを旅立った獣人たちが消えているこ
とを告げたところ、サウスガリアンの商人たちは酷く驚いていたの
だと言う。
サウスガリアンを後にして、向かったエスタイーストでも同じこ
とを繰り返しただけだった。
希望を胸にセントラリアを旅立った獣人たちは、忽然と姿を消し
てしまっている。
受け入れる側の商人たちは、引き抜き行為を咎められることを恐
れて騒ぐことをせず、送り出した獣人たちは旅立った者の幸福を祈
るがために連絡が途絶えたことを追求しようとはしなかった。
それ故に︱︱⋮発覚がこんなにも遅くなってしまったのだ。
﹁⋮⋮エリサとライザにどう説明したもんだろうな﹂
﹁説明を望むなら、本当のことを打ち明けるしかないだろう﹂
﹁⋮⋮まさか、こんなことになっていたなんて⋮⋮﹂
レティシアの顔色が紙のように白いのは、グリフォンの背に揺ら
れているから、だけではないだろう。
俺たちは夜の帳が下りてきた群青の空を飛びながら、沈鬱な息を
吐く。
また、エリサを泣かしてしまうことになるのだろうかと思うと気
が重いながらも、セントラリアの南門近くでグリフォンから降り、
544
宿へと戻る。
そして、二人が待つ部屋の扉を開こうとして︱︱⋮
﹁アキラ、イサト⋮⋮っ!!﹂
俺たちの足音を聞きつけたのか、えらい勢いで部屋の扉が開いた。
がん、と凄い音がした。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁∼∼∼ッ﹂
どうしようもない沈黙。
誰も何も言えなくなってしまったので、仕方なく俺が犠牲になる
ことにする。
﹁⋮⋮⋮⋮イサトさん、無事か﹂
﹁し、しんだ﹂
扉の直撃を受けたイサトさん、轟沈。
額を抑えてうずくまり、無言で悶えている。
今のは痛かったろうなあ。
合掌。
と、それはいいとして。
出鼻をくじかれて呆然としているエリサとライザに水を向けてみ
る。
545
﹁どうしたエリサ、ライザ、そんな血相を変えて﹂
﹁!﹂
﹁!﹂
どうしよう、と困惑していた二人が、必死な面持ちで顔をあげて
︱︱
﹁ギルロイ商会のやつら、狩りチームを全滅させる気だ⋮⋮!!!﹂
546
おっさんの棚上げ︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
Pt、感想、お気に入り、励みになっております。
また、本日﹁おっさんがびじょ。1﹂が無事に発売されました!
応援して下さった皆様のおかげです。
これからも、﹁おっさんがびじょ。﹂を宜しくお願い致します。
547
おっさんと、﹃自分のために張る意地﹄
﹁ギルロイ商会のやつら、狩りチームを全滅させる気だ⋮⋮!!!﹂
その言葉に対するイサトさんの行動は早かった。
獣人たちを安くこき使うことで、利益をあげているはずのギルロ
イ商会が、大事な手駒である獣人を全滅させることに何の意味があ
るのか。
金の卵を産む鶏を今ここで殺したとして、何の得がある?
ついそんなことを考えてしまった俺の傍らをすり抜けて室内に足
を踏み入れると、インベントリから取り出した謎の球体をどちゃー
っとベッドの上にぶちまける。大きさとしてはピンポン玉をもう一
回りほど大きくした程度、だろうか。色は単色だが、赤色のものと
緑色のものと二種類ある。無造作にぶちまけられたそれらのうちの
幾つかは、ころころとベッドから転がり落ちてしまっている。
﹁おっと﹂
俺は自分の足元にも転がってきたそれを、足で軽く踏むようにし
て止めた。
そんな俺にちらりと一瞥を投げかけて、イサトさんが一言。
﹁秋良青年、それ衝撃を加えると爆発するぞ﹂
﹁ぶ﹂
なんという危険物。
548
ホウセンジュ
そろっと足を持ち上げて、足元にあったそれを拾いあげる。
﹁イサトさん、これ何?﹂
﹁ん? 使ったことないか?砲閃珠だよ﹂
﹁ああ、あの投擲用の?﹂
﹁そうそう﹂
ホウセンジュ
砲閃珠。
今の会話からわかるとおり、前衛でがしがし敵とやりあう戦闘ス
タイルの俺には馴染が薄い、中距離攻撃用の使い捨て投擲武器であ
ホウセンジュ
る。その中でも、植物の種をベースに、生産スキルで生成するのが
確か砲閃珠シリーズだったはずだ。
﹁⋮⋮あ﹂
そうか、このためだったのか。
俺は今さらながら納得した。
以前、エリサとライザが俺たちへの恩返しのために何か出来るこ
とはないか、と申し出てくれたことがあった。その時俺は、セント
ラリアの案内をしてくれればそれで十分だという話をしたのだが︱
︱⋮その後で二人がイサトさんにも同じ申し出をした時に、イサト
さんは少し考えた後に、﹃それじゃあ、二人で植物の種を集めてく
れないか?﹄なんて頼んでいたのだ。
その時はまた俺の﹃家﹄の庭に何か植える気か、としか思ってい
なかったのだが⋮⋮なるほど、このためだったのか。ようやく合点
がいった。
投擲武器というのは、他の武器と違って敵に与えるダメージ量が
使用する人間のステータスに依存しない。ダメージ500と設定さ
れた投擲武器は、誰が使ってもどんな敵にでも必ずダメージを50
549
0与えるのだ。その分、高ダメージを叩き出す投擲武器ほど乱用を
躊躇う程度には高額になるのだが⋮⋮イサトさんなら材料さえ集め
てしまえばある程度は自作が出来る。エリサやライザの戦力を強化
する、という意味では、一番手っ取り早い方法だろう。
﹁ライザ、これを君に託す﹂
﹁ぼ、僕?﹂
﹁え?﹂
イサトさんの言葉に、ライザとエリサが二人して驚いたように声
をあげる。
﹁今から私たちは狩りチームの方を助けに行くつもりだが、ギルロ
イ商会が動いたということは街に残った獣人側に対しても何らかの
攻撃があるかもしれない。君はそれに備えて、私たちが行った後、
他の獣人たちを集めて何とか凌いでほしい﹂
﹁⋮⋮っ、お姉ちゃんは?﹂
﹁エリサには私たちの方についてきてもらおうと思ってる。私たち
だけで助けに行ったところで、信用して貰えるかどうかわからない
からな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
エリサが一緒ではない、と聞いて、ライザが、少しだけ怯えたよ
うに息を呑む。
エリサはそんな弟の様子に、唇を噛んで迷うかのように瞳を揺ら
した。
両親を助けるために俺らと一緒に行くことを選ぶのが正解なのか、
それとも、幼い弟の傍について共に戦いに備えるべきなのか。
﹁ライザ、もしオマエが⋮⋮﹂
550
﹁⋮⋮ううん﹂
躊躇いながらも口を開きかけたエリサに、ライザはゆっくりと首
を横に振った。
まだ手は小さく震えてはいたものの、ライザはしっかりと両足を
踏ん張ってエリサを見つめる。
﹁僕、やるよ。こっちは僕が頑張るから、お姉ちゃんはお母さんた
ちを助けに行ってあげて﹂
﹁⋮⋮⋮⋮わかった﹂
そう言い切るのに、ライザがどれだけの勇気を振り絞り、覚悟を
決めたのかがわかるからこそ、それ以上はエリサも何も言えないよ
うだった。そもそも、エリサもライザも﹃両親を助けたい﹄という
想いは一緒なのだ。
ライザの覚悟を見届けたイサトさんは、続いて視線をレティシア
へと流す。
﹁レティシア、君にはライザのサポートを頼みたい。君も、ギルロ
イ商会とは対立してる側の人間だ。街で何か動きがあった時には、
いっしょくたに狙われる可能性も高い。それなら最初からライザた
ち獣人グループと一緒に行動していた方が良いと思うんだが、どう
だろう?﹂
﹁わかりました。ライザさんも⋮⋮構いませんか?﹂
﹁うん、よろしくお願いします﹂
﹁はい、こちらこそ﹂
そう言って、二人はお互いに会釈しあう。
なんとなくだが、この二人はわりとウマが合いそうだ。
まだ出会って間もないこともあり、どこか少しぎこちなさもある
551
が、きっと何とかなるだろう。
ホウセンジュネン
﹁それじゃあ、このボールみたいなヤツの使い方を説明しよう。二
人ともよく聞いておいてくれ。この緑色ものは砲閃珠粘といって、
ホウセンジュゼツ
弾けるとべたべたした液体を撒き散らして敵の動きを止める。赤い
のは砲閃珠絶だ。こっちは弾けると同時に当てた相手を一定の確率
で気絶させることが出来る。緑で動きを止めて、赤で仕留めると思
えばいい﹂
﹁緑で動きを止めて⋮⋮赤で仕留める﹂
﹁万が一ギルロイ商会の方々が攻めてきたら⋮⋮これで応戦すれば
いいんですね﹂
イサトさんの、いつもよりもやや低めの硬い声音で語られる説明
に、二人は気圧されたかのように神妙な顏つきで耳を傾けている。
その様子を見つつ、俺はこそっとイサトさんの耳元に顔を寄せて
聞いてみ
た。
﹁イサトさん、アレ威力はどうなの﹂
店売りの投擲武器はダメージが固定だが、プレイヤーが生成した
場合そのプレイヤーの生産スキルのレベルに合わせて投擲武器の出
来は変動する。正直イサトさんのレベルで生成した投擲武器なんて
いうのはかなり怖いものがあるわけなのだが。
﹁たぶん死なない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そうか。
﹁たぶん﹂か。
552
ネン
ゼツ
﹁ダメージよりもサブ効果の確率を上げるように調整したからな。
粘だったらべたべた度UPだし、絶の方は気絶させる確率の方が上
がってる﹂
﹁なるほど﹂
﹁まあ、ちょっとは威力も強化されちゃってるが︱︱⋮、たぶん死
なないとおもう。たぶん﹂
何故﹁たぶん﹂が二度ついたのか。
いまいち不安が残る。
が、今のところ使用を想定しているのはあくまで攻撃を受けた際
の反撃として、というシチュエーションだ。万が一のことがあった
としても、自業自得で諦めてもらうしかないだろう。俺としても別
に襲撃者の生死を心配しているわけではない。ただ⋮⋮
﹁⋮⋮直撃した瞬間人体が爆発四散とかしないよな?﹂
﹁さすがにそれはない﹂
良かった。
そんなことになったらレティシアやライザにトラウマが出来てし
まうところだった。
﹁それじゃあ俺らも行くか﹂
﹁そうだな。ライザ、レティシア、後は任せた﹂
﹁うん!﹂
﹁はい⋮⋮!﹂
そう言って俺は足早に部屋を出ようとして。
﹁どこに行くんだ、秋良﹂
553
そんな風にイサトさんに呼び止められた。
どこってそりゃあもちろん外に⋮⋮、と思いつつ振り返った先、
イサトさんは宿の出窓に足をかけ、半分身体を持ち上げた状態で俺
を振り返っていた。片手にはすでに例の禍々しいスタッフが握られ
ており、窓の外からはばさりばさりとグリフォンの羽ばたく音まで
聞こえてきている。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
無言でUターン。
どうやらイサトさんは、もう人目を忍ぶ気もないらしい。
確かに緊急事態だし、後のことは後で考えることにしよう。
﹁イサトさん、落ちるなよ﹂
﹁ん﹂
イサトさんがグリフォンに乗り移るのを待って、俺もどっこらせ、
と出窓に足をかける。かなり窮屈だが、そもそも人が出入りするた
めの窓ではないので仕方がない。目測を誤ると頭をぶつけそうだ。
﹁よっと﹂
いつものようにイサトさんの背後を陣取り、グリフォンに跨って
︱︱⋮部屋の中から呆然と目を見開いてこちらを見つめるエリサへ
と手を差し出した。
﹁行こう、エリサ﹂
﹁っ⋮⋮﹂
554
俺を見上げるエリサの瞳が、ほんの少しだけ不安の色に翳った。
俺に向かって伸ばされかけた手が、微かに躊躇するように震える。
その様子に、エリサが今試されていることがわかった。
エリサは、これまで﹁姉﹂であることを自分に強いてきた女の子
だ。
留守がちな両親に代わって身体の弱い弟の面倒を見て、守ってき
た。それが、エリサが自分に課した役割であり、仮面だ。その仮面
をかぶることでエリサはある意味自分の弱い心︱︱実際には年相応
の子供の部分︱︱を押し殺し、強くてしっかり者の頼りになる姉を
演じていたのだ。
だが、エリサはもうすでに、俺たちになら素の自分を見せられる
ことを知っている。そして、ライザとの別行動。これは、エリサに
とっては大きいだろう。エリサが強い姉を演じていたのだとしたな
らば、その場合の観客はライザに他ならない。エリサはライザのた
めにその役を演じていたのだ。それなら、観客がいない舞台でエリ
サはどうする?
﹁オレ、は⋮⋮﹂
迷うように小さく呟いて、エリサが俺を見上げる。
迷子の子供のようなその瞳をしっかりと見つめ返して、俺は言う。
﹁エリサが、決めていいぞ﹂
ライザのことは考えなくていい。
両親のことだって、エリサが行けないというのなら俺とイサトさ
んだけででも絶対に何とかしてやる。
だから、エリサが決めろ。
555
それが俺の素直な気持ちだった。
﹁来なくても良いぞ﹂とも﹁来てくれなきゃ困る﹂ともどっちも
言ってあげることはしなかった。これまでエリサは、﹁姉としてし
なければいけないこと﹂﹁姉としてした方が良いであろうこと﹂を
意図的に選んでばかりきたのだ。それだってそうすると決めたのは
エリサの意志には違いないだろうが⋮⋮たまには難しかろうが我儘
だって言わせたい。
それはきっと、エリサにとって楽なことではないはずだ。
自分のために自分の意志で決断するということは、時に誰かのた
めに何かを決めることよりも難しい。
エリサが迷ったのは、ほんの少しの間だけだった。
ゆっくりと暗い紅の瞳が伏せられ、強い光を帯びて再び持ち上が
る。
﹁行くに決まってんだろ!﹂
そう啖呵でも切るように言って、エリサは勢いよく俺の手を取っ
た。
乗り移りやすいように軽く支えてやったその手は、微かに震えて
いる。
けれど、それには気づかないふりをすることにした
エリサ本人が隠そうといているのなら、知らないふりをするのが
武士の情けというものだ。俺もエリサも武士じゃないが。
俺とイサトさんの間に滑りこんだエリサの腰に緩く手を回して、
固定する。
556
﹁エリサ、目的地は!﹂
シャトー・ノワール
﹁東だ! 狩りチームは黒の城に向かったって言ってた!﹂
﹁了解! いつもよりかっとばすから秋良、しっかり捕まえててく
れ!﹂
﹁了解ッ!﹂
ぐ、っと手綱を強く握る。
いつもは俺に任される手綱だが、今回に限ってはイサトさんが握
った余りの部分で身体を支えている、といった程度だ。それだけ、
本気で飛ばす気なのだろう。
グリフォンが羽ばたき、窓辺を離れてみるみるうちに高度をあげ
︱︱⋮
﹁エリサ、よく決めたな﹂
高速移動に入る前に、俺はこっそりとエリサに耳打ちするように
言った。
﹁⋮⋮別にいつもと変わんねーよ、ただの意地だ﹂
そんな風に、エリサは照れたように言う。
だが、誰かのためでなく自分のために張った意地は、きっとエリ
サに良い変化をもたらすことだろう。実際、何かを吹っ切ったよう
に、エリサの横顔は気持ちの良い清々しさに満ちている。
﹁行けッ!﹂
イサトさんの鋭い指示と同時に、頭部を低めに構えたグリフォン
が、羽で空気を押しだすように羽ばたいて一気に加速した。俺は手
綱を握る手にわずかに力を込める。バイクやその他地球上の乗り物
557
ほど正直に風の影響やGを感じる、というわけではないが、それで
もいつもよりもキツい。だというのに、対するイサトさんは、バラ
ンスを取るようグリフォンの背をしっかりと太腿で挟んで腰を浮か
し、馬を駆るジョッキーのような姿勢で前のめりだ。まっすぐに前
を見つめる金の瞳が爛々と楽しげに燃えていて、最初の頃のビビり
ようが嘘のようである。
⋮⋮本当、スイッチ入ると強いよなぁ。
いつもはわりとへっぽこなのだが、非常時には本当頼りになる人
なのだ。
普段からこうであって欲しい、と思わなくもないが、手間のかか
らないデキるイサトさんはそれはそれで物足りない、なんて思って
しまった俺は、たぶん相当毒されている。
﹁エリサ、大丈夫か?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁エリサ?﹂
反応がない。
まさか気絶したか、と慌てて覗きこめば、呆然と見開かれたエリ
サの瞳と目があった。俺と視線があったところで、エリサがはっと
思い出したかのようにぱちぱちと数度瞬いた。
﹁大丈夫か?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮なんつーか、オマエらって本当規格外だなって改めて思
ってた﹂
﹁⋮⋮主にイサトさんが、ってことにしておいてくれ﹂
イサトさんに比べたら、俺はまだ真っ当な方だと思う。
558
何故かエリサからは心底疑念に満ちた眼差しを向けられてしまっ
たような気がするが、それは気にしないことにしておく。きっと気
のせいだ。話題を変えるべく、エリサへと話を振る。
﹁それよりも、今のうちに俺たちが街にいない間に何があったのか
教えて貰えるか?﹂
﹁⋮⋮実は、狩りに出かけてるみんなから連絡があったんだ﹂
﹁連絡?﹂
俺は首を傾げる。
ゲーム時代においてはその他MMOと同じようにチャット機能が
充実していたRFCであるが、そもそもゲームの機能としてチャッ
トが備わっていたために、逆に遠くにいるキャラと会話をするため
のアイテム、というのは俺の知る限りでは存在していない。ケータ
イに慣れっことなった現代人な俺たちにとっては、なかなかに痛い
現実である。常々ケータイが普及する前の人間はどんな風に待ち合
わせをしたり、連絡を取り合っていたのかと思いを巡らせたりして
いたものだが、それを自らこんな形で体験することになるとは思っ
てもいなかった。
﹁狩りチームの方には鳥系獣人のデレクさんがいて、街にはその奥
さんで同じく鳥系獣人のルーナさんが残ってるんだよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮む﹂
当たり前の理由であるかのようにエリサはそう言うが、それでど
うして連絡が取れるのかが謎だ。鳥系の獣人、というのはRFC時
代にはキャラメイクの選択肢として存在しなかったので、どういっ
た種族特徴を持つのかが俺にはわからない。ちらりと前方のイサト
さんの様子を窺ってみるが、イサトさんの後ろ頭も微妙に傾いでい
る。俺たちの頭上からクエスチョンマークが消えていないことを察
559
したらしく、エリサが改めて説明を追加してくれた。
﹁鳥系の獣人は、戦闘向きじゃなない代わりに眷属である鳥を使っ
て連絡を取り合うことが出来るんだよ。と言っても誰にでも伝えら
れるってわけじゃねーけど。普段は連絡係としてギルロイ商会の連
中のところにいるんだけど、内容が内容だったからって連中の目を
盗んで知らせに来てくれたんだ﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
同族の、繋がりが深い相手にのみメッセージを飛ばすことが出来
る、ということなのだろう。それを利用して、ギルロイ商会は狩り
チームと連絡を取り合っていたらしい。
シャトー・ノワール
﹁で、あっちからはなんて?﹂
シャトー・ノワール
﹁⋮⋮今から、黒の城に行くことになった、って﹂
﹁黒の城、か﹂
思わず眉間に皺が寄った。
RFCの世界においては、人間の暮らす場所から離れれば離れる
ほど強いモンスターに遭遇しやすくなる、という傾向がある。当然
ゲームとして考えた時には、初心者も多い街付近にやたら強力なモ
ンスターがいても困る、というゲームデザイン的な理由もあるのだ
ろうが、RFCという一つの創作世界として見た場合でも同様だ。
それには、RFCにおけるモンスターの設定が関係してきている。
RFCのモンスターは、女神の余剰な力が澱んだ結果生まれてく
る、ということになっている。そして、生まれたモンスターは少し
ずつ女神の余剰な力を溜めこみ、強力なモンスターへと育っていく。
が、人間の生活圏で誕生した場合、少しでも危険だと認知されると、
その段階で討伐対象に認定されてしまうのである。そうなると、当
560
然なかなか強力なモンスターは育たない。それ故に、大きな街の周
辺にはそれほど強くない、危険度の低いモンスターばかりが徘徊す
ることになるのである。その一方で、ドラゴンやら何やら世間一般
的に高レベルだと言われる強力なモンスターほど人里離れたダンジ
ョンの奥などに潜んでいることが多い。
シャトー・ノワール
エリサが口にした、黒の城もそんな強力なモンスターが潜むダン
ジョンの一つである。
見た目はヨーロッパ辺りにありそうな、鋭い尖塔も洒落たゴシッ
クデザインの城なのだが⋮⋮その実態は立派なダンジョンMAPだ。
その敷地内は昼でもなお薄暗く闇に包まれ、ゾンビやらヴァンパイ
アやら闇属性のアンデッドどもがうようよと蠢いている。見た目が
ダンジョンダンジョンしていないのと、比較的街道沿いにあること
もあって、わりと初見殺しのエリアだと話題に事欠かなかった。街
道での狩りにも困らなくなってきたし、ちょっと背伸びして狩場を
変えてみるか、なんて思って迷い込んだプレイヤーを容赦なく死に
戻りさせてくれる。
シャトー・ノワール
なんせ、セントラリアから各都市への街道沿いに出てくるモンス
ターのレベルが平均12∼15前後であるのに対し、黒の城に出て
くるモンスターの平均レベルは40∼50という跳ねあがり具合で
ある。城の中にいるボスモンスターに至っては、単独で狩るなら6
シャトー・ノワール
0∼70は欲しいところだ。
ちなみに、この黒の城こそが、以前より俺とイサトさんの会話に
登場していた﹃アンデッド城﹄の正式名称だったりする。
﹁エリサ、あの辺りのモンスターを、君たちの御両親達は狩れるの
か?﹂
﹁⋮⋮狩れないこともない、とは思う。でも⋮⋮﹂
561
エリサはそこで言葉を切って視線を伏せる。
﹁ギルロイ商会の連中、勘違いしてんだと思う﹂
﹁勘違い?﹂
シャトー・ノワール
﹁前に一度、父さんと母さんはライザの薬代のために、黒の城で手
シャトー・ノワール
に入れた女神の恵みをギルロイ商会に売ったことがあるんだよ。だ
からきっと、連中は父さんたちが黒の城でも狩りが出来るって思っ
てる﹂
﹁実際のところはどうなんだ?﹂
﹁難しい、と思う。父さんと母さん、その時は二人がかりで一匹ず
つMAPの外におびきだして倒したって言ってたから﹂
﹁あー⋮⋮﹂
エリサの言葉に思わず視線が遠のいた。
それはどうにもよろしくない。
狩場の適正レベルというのは、そこにいるモンスターを倒せるか
どうか、だけで決まるわけではないのだ。例え適正レベルに達して
いなかったとしても、モンスターを倒すだけならある程度何とかな
ることも多い。だが、狩りというのは経験値が狙いにしてもアイテ
ム狙いにしても、連続して大量に狩らなければ美味しくない。命か
らがら一匹ずつ時間をかけて撃破しても、効率が悪いだけなのだ。
それに、効率の問題だけでなく、危険度だって高くつく。モンスタ
ーは必ずしも一匹ずつ襲ってくるとは限らない。1対1、2対1で
は倒せるモンスターであっても、そいつらに囲まれてしまえば詰む、
ということだってありうる。ゲームの中であれば、せいぜい死んで
もデスペナルティを喰らうだけで済むが、こちらではそうもいかな
い。死ねばそこで終りだ。
それがわかっているからこそ、普通ならば慎重になるところなの
562
シャトー・ノワール
だろうが⋮⋮ギルロイ商会の連中の場合、賭けているのは自らの命
ではない。それに、一度、黒の城で手に入れた女神の恵みを売った
ことがある、というのもまずかった。それでは、エリサの両親が何
を言ったとしても、連中はサボる口実としかみなさないだろう。
﹁狩りに参加してる他の人達はどれくらい戦えるんだ?﹂
﹁⋮⋮同じぐらいか、父さんや母さんより少し弱い、ぐらいだと思
う﹂
﹁そうか。ますます急いだ方が良さそうだな﹂
﹁そうみたいだ﹂
俺の言葉に、しばらく聞き専に回っていたイサトさんも小さく頷
く。
飛ぶ。
闇を切り裂くように、力強い羽ばたきを響かせグリフォンが空を
翔ける。
︱︱果たして、間に合うか。
563
おっさんと、﹃自分のために張る意地﹄︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
Pt、感想、お気に入り登録、励みになっております。
先週発売された﹃おっさんがびじょ。1﹄の方も、無事好調なよう
で、作者としても嬉しい限りです。
これからもよろしくお願い致します。
564
魔法少女おっさん
シャトー・ノワール
いつもよりはるかにトばしている甲斐もあって、やがて俺たちの
向かう先に黒の城の影がぼんやりと浮かび上がった。月明かりの下、
黒々と浮かび上がる城影はまさにヴァンパイアキャッスルといった
シャトー・ノ
風情だ。ゲーム内だと、飛行タイプの騎獣に乗ってもここまで実際
ワール
に高く飛べるわけではなかったこともあり、こうして上空から黒の
城を臨む、というのは随分と新鮮だ。そもそも、日本から出たこと
のない俺にとっては、洋風の城そのものが珍しいということもある。
俺が思わずその光景に目を奪われていると、腕の中でぽつりとエリ
サが口を開いた。
﹁⋮⋮なあ、アキラ、イサト﹂
﹁ん?﹂
城影がぐんぐんと近くなる中、エリサの声には緊張と同時に何故
か申し訳なさそうな苦い響きが含まれていた。俺はゆるりと首を傾
げて、エリサの様子を窺う。俯き加減のエリサの表情は、背後にい
る俺からは隠れてしまっているものの、エリサが何か大事なことを
言おうとしていることはわかった。
﹁どうした、エリサ﹂
なるべく優しく聞こえるように、続きを促す。
﹁⋮⋮オレ、オマエたちが助けてくれるって言った言葉がすげー嬉
565
しくて、ここまで甘えちゃったけどさ﹂
﹁うん﹂
エリサはぽつぽつと言葉を続ける。
﹁⋮⋮⋮⋮ごめんな、こんなことに巻き込んで﹂
﹁おい﹂
これは俺たちが望んだことだ。
エリサに巻き込まれたわけではない。
俺たちが、首を突っ込んだのだ。
勘違いしてほしくなくて訂正の声をあげかけた俺を遮るようにし
て、エリサが言葉を続ける。
シャトー・ノワール
﹁わかってる。オマエらはこんな風に謝られたくねーってこと、ち
ゃんとわかってる。けど、やっぱり、さ。黒の城なんて洒落になん
ねーだろ。いくらオマエらがすげー冒険者でも⋮⋮怪我、とか﹂
ひくり、とエリサの喉が震える。
本当は、﹁怪我﹂ではなく﹁死﹂についてを言及したかったのだ
ろう。
けれど、きっとエリサはこの状況で﹁死﹂についてを口にするこ
とが怖くて、避けた。口にすることで、本当になってしまうかもし
れないという可能性を、きっとちらりと考えて、少しでも俺たちか
ら死を遠ざけたかったのだ。だから、﹁死﹂を飲みこんだ。
俺はエリサを安心させてやろうと口を開きかけて⋮⋮、それより
早く、それまで超特急でグリフォンを駆ることに専念していたイサ
トさんがふっと振り返った。
﹁エリサ﹂
566
そう呼びかける声音は柔らかく。
けれど、その底には確かな決意があった。
﹁私たちは、君や、君のご両親、そしてその仲間たちを助け出して
見せる。そして︱︱⋮そのためには犠牲を払うことも、覚悟してい
る﹂
エリサを見つめるイサトさんの瞳は静かに澄み渡っている。
ふと、イサトさんの口元に笑みが浮かんだ。
それは、とても儚くて。
まるでその身を犠牲にすることを、すでに決意した聖女のようで
すらあった。
﹁イサト⋮⋮?﹂
エリサの声に不安が滲む。
﹁大丈夫だ﹂
イサトさんの言葉には、エリサを安心させるためにというよりも、
むしろ自分自身に言い聞かせるような響きが秘められていた。
そして、それから視線をエリサから俺へと移す。
夜空に輝く月と同じ色をした瞳が、どこか助けを求めるような色
を帯びている。
けれど、イサトさんにはわかっているのだ。
俺がどうこう出来る問題ではないのだと。
だから、先ほどまできらきらと輝かせていた金色を諦念に昏く染
めて、イサトさんは目を伏せる。伏せられた睫毛の下の双眸は、ど
こか遠いところを見ているような、それでいて何も映していないか
567
のような︱︱⋮簡単にぶっちゃけると死んだ魚の眼だった。どんよ
り曇っていて、目を合わせるのが躊躇われる。ふっと口元に浮かん
だ笑みも儚さを通り過ぎて虚ろだ。怖い。
そんなイサトさんは、嫌そうに、本当に心底厭そうに、のろのろ
と俺へと手を差し出した。
﹁⋮⋮アレを﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
アレってなんだ、と考えたのは一瞬だった。
この状況で、死んだ魚の眼をしたイサトさんが俺によこせと要求
するようなものなんて一つしかない。
俺は、インベントリから取り出したソレをそっとイサトさんへと
渡す。
イサトさんは心底厭そうな顏で︱︱⋮それでもソレをぐっと握り
しめる。
シャトー・ノワール
︱︱その間にもグリフォンの力強い羽ばたきが夜の静寂を切り裂
き、黒の城がぐんぐん近くなる。
イサトさんは覚悟を決めるようにふー⋮⋮と息を吐いた。
それから、未だかつて聞いたことがないようなこの世全てを呪う
かのごとく鬱々とした声で重々しく口を開く。
﹁笑ったらぶちころがす﹂
とんでもない重圧を感じた。
いや本当。
下手なこと言ったらこの場でブチ殺されそうである。
はあ、ともう一度深い溜息。
568
シャトー・ノワール
こくこく、と黙ったまま頭を上下に振った俺とエリサに、イサト
シャトー・ノワール
さんはとりあえず満足したように視線を前に戻した。
すでにグリフォンは黒の城MAP内上空に侵入している。黒の城
MAPは、ダンジョンMAPの第一階層にあたる部分が地上に露出
しているという珍しいタイプのMAPだ。通常ダンジョンであれば、
シャトー・ノワール
深くに潜れば潜るほど遭遇するモンスターが強くなり、ダンジョン
シャトー・ノワール
ボスは最深部で待ち構えているものなのだが⋮⋮黒の城の場合、ダ
ンジョンの本体部分めいた黒の城を取り囲む庭園が第一階層に該当
シャトー・ノワール
している。黒薔薇の咲き誇る生垣で造りこまれた迷路を突破して足
シャトー・ノワール
を踏み入れる黒の城の一階が第二階層、そして上に上がれば上がる
ノーライフキング
ほど強力なモンスターが出てくるという仕様である。黒の城のダン
ジョンボスである不死王は城の最上階にある謁見の間にてプレイヤ
ーを待ち構えている。
が、今回はどうやら城の内部には入らなくても済みそうだ。
庭の片隅にて、ちらちらと灯りが揺れているのが見える。
おそらく、それがギルロイ商会に率いられた狩りチームなのだろ
う。
庭の一番端っこ、隅を背にすることで背中を守り、群がるモンス
ターを撃破しようとしているように見える。
﹁秋良﹂
﹁おう﹂
﹁先に行く。手綱は任せた。場合によっては君らが到着と同時に召
喚モンスターを入れ替えるので、心の準備はしておいてくれ﹂
﹁お、おお?﹂
先に行く、なんて不穏な言葉の意味を俺が理解するよりも先に、
イサトさんはひらりとグリフォンの背から飛び降りていった。
569
﹁おいこらちょっと!!!!!!﹂
﹁ちょっ⋮⋮!? イサトー!!!!?﹂
いくらなんでもアグレッシブにもほどがあるってもんだろう。
あの人、目スワってた気がしてならない。
⋮⋮⋮⋮まあ、その気持ちはわからなくもないが。
それだけ見られたくなかった、ということなんだろう。相当嫌が
ってたし。
﹁⋮⋮⋮⋮しゃらんら★だしな﹂
そう。
イサトさんが俺から受け取ったのは、飛空艇を撃墜させたあの日
シャトー・ノワール
以降俺に押し付けられていた﹁まじ狩る★しゃらんら★ステッキ﹂
である。その選択は間違っていない。黒の城はアンデッド系のモン
スターが多く存在するMAPだ。闇属性のアンデッド系のモンスタ
ーには、聖属性の攻撃が一番効果がある。もちろん、あのヌメっと
した人型を相手にした時のように俺が振り回してもダメージは十分
与えらられるだろうが、その場合どうしたって攻撃範囲は俺の手が
届く距離に絞られてしまう。その点イサトさんの場合、広範囲の攻
撃魔法に聖属性のダメージを上乗せすることで、一息に広範囲のモ
ンスターにダメージを与えることが出来るのだ。護衛対象の範囲が
大きいことを考えた場合、イサトさんのその選択は大正解だ。ただ、
イサトさんがメンタル的に大火傷するだけで。
イサトさん、あなたの犠牲は忘れない。
っていうか俺が超見たい。
570
﹁急ぐぞエリサ!﹂
﹁う、うん⋮⋮!﹂
俺はグリフォンの手綱をぐっと強く握りしめると、先に飛び降り
たイサトさんの後を追うようにして急降下していく。
そして︱︱⋮視線の先でドリーミィピンクの閃光が炸裂した。
シャトー・ノワール
★☆★
黒の城の裾野に広がる黒薔薇の庭園に足を踏み入れてからのこと
は、まさしく悪夢のようだった。
571
一行の連絡役でもある鳥系獣人のデレクは、暗い空を見上げて深
い息を吐く。
獣人に獣にちなんだ特性が備わるというのなら、今こそ空を飛ぶ
能力が欲しいとしみじみ思う。もしも空が飛べたならば、逃げるこ
とも出来ただろうし、もう少し戦力になることも出来ただろう。鳥
系獣人の戦闘能力は人と比べても大差ない。こうして一向に加えら
れているのも、戦闘能力を期待されてというよりも、単純に連絡役
としての役割を果たすためだ。鳥系獣人は、恋人間や夫婦間という
限られたパートナー間で、という制約こそつくものの、互いの眷属
である鳥を使って連絡を取ることが出来るのだ。例え相手がどこに
いたとしても、鳥系獣人が使う鳥は決して迷わない。それが、鳥系
獣人の持つ唯一の特殊能力だった。
その能力を頼りに、最後にセントラリアから連絡が飛んできたの
は、日差しが少しずつ赤みを帯び始めた午後過ぎのことだった。そ
の連絡を受け取った直後、ギルロイ商会の人間は、街道からそれた
シャトー・ノワール
草原で狩りを行っていた獣人たちを一か所に集めて、新たな指示を
出した。
今から黒の城に行く、と。
最初は、冗談でも言っているのかと思った。
強力なモンスターを倒すことで、より良い女神の恵みが手に入れ
られるというのは、この世界に住む者なら誰でも知っていることだ。
だからこそ、獣人の中でも一攫千金を夢見る者がハイリスクハイリ
シャトー・ノワール
ターンを狙って自分の実力以上のモンスターを狙うことはままある。
それでも、黒の城は危険すぎた。人間より身体能力に優れた獣人と
はいえ、この狩りメンバーに参加している者が全員モンスターとの
戦闘に慣れているか、といったらそうではないのだ。むしろ、デレ
572
クのようにもともとは街で普通に生活していた者の方が多い。それ
でもこれまで狩りが成立していたのは、セントラリア周辺の比較的
レベルの低い、格下のモンスターを相手にしていたからだ。
その辺のことは、当然ギルロイ商会もわかっているのだと、これ
までデレクは思っていた。
ギルロイ商会がデレクらに無理をさせて得をすることはない。怪
我でもされて狩りに参加できる獣人が減れば、それはすなわち手に
入る女神の恵みの減少に直結するし、それを避けるために回復アイ
テムを使えばそれはそれで余計な出費となる。だから実際にギルロ
イ商会はこれまで、獣人の狩りチームに決して無茶をさせ過ぎるこ
とはなかった。手に入れられる女神の恵みの種類だけでなく、﹁い
シャトー・ノワール
かに安定して狩れるか﹂も狩場を選ぶ上での重要な要素だったはず
なのだ。
それなのに、今回ギルロイ商会の連中は黒の城行きを命じてきた。
デレクら獣人たちを、全滅させようとしているとしか思えない。
だから⋮⋮デレクはこっそりと鳥を飛ばした。
何かがおかしい。
シャトー・ノ
自分たちが知らないところで、何か状況が変わり始めていること
ワール
を察したから、街に残した妻へと連絡を飛ばした。自分たちが黒の
城に向かうことになったこととを街に残っている他の獣人たちにも
伝えるように、頼んだ。自分たちに何かあったとしても、せめて街
に残った女子供だけでも難を逃れて欲しいと思ったから。
返事は期待していなかった。
きっと、時間切れだ。
573
デレクの放った鳥がセントラリアにいる妻にメッセージを伝える
のは日暮れギリギリになったことだろう。それからでは、もう鳥は
飛ばせられない。
あれが最期になるのなら。
多少気恥しくても、愛してるの一言ぐらい書けば良かった。
そんなことを、暗い空を見上げてデレクは思う。
漆黒に塗りつぶされたような夜空に、金色のお月様がぽっかりと
浮かんでデレクらの悪あがきを見下ろしている。
月のまわりをたなびく雲が煌々と明るくて、真っ暗なはずなのに
不思議と明るいような気すらしてくるから不思議だ。
﹁ああクソ﹂
毒付きながらも、手元に伸びてきた蔦をダガーでぶった切る。
夜が深まるにつれ、闇が濃くなるにつれ、一行を取り囲むモンス
ターの数は増えていくばかりだ。戦闘慣れしたメンツが前衛を務め
なんとか侵入を防いではいるが、その死角をついては音もなく植物
の蔦が獲物を絡めとろうと伸ばされて来ている。獣人側のリーダー
でもあるクロードの判断で、早めに黒薔薇の庭園を囲む壁の角を背
に陣取ったのが良かった。おかげで今のところは前方にだけ注意を
向ければ済んでいる。これで四方を囲まれていたら、もっと早く詰
んでいただろう。いや、今でも充分﹁詰み﹂と言ってもおかしくな
い状況ではあるのだが。
﹁お、おいッ、早くなんとかしろ!!﹂
﹁手を抜くな⋮⋮!!﹂
﹁うるせェ、なんとか出来たらとっととやってるっつーの!!﹂
574
動揺しきった声で叫ぶギルロイ商会の男に、デレクは口汚く怒鳴
りつける。
夜になればモンスターがより活性化するから危険度が増す、せめ
て朝まで待ってはどうかと進言したクロードの言葉を無視して、暗
くなり始めた黒薔薇の庭園に突っ込むように指示を出したのはこい
つらなのだ。出来ることならば、さっさと放り出してモンスターの
餌なり囮なりに使ってやりたい気持ちは満々だ。
﹁あんまりうるせェと俺がぶっ殺すぞ!﹂
﹁ひ⋮⋮ッ﹂
﹁貴様私たちにそんな口をきいて⋮⋮ッ﹂
﹁だからうるせえつってんだろうが!﹂
こいつらは本当にわかっているのだろうか。
あくまでデレクらのお目付け役として同行している彼らには、戦
闘能力はないに等しい。基本的にはデレクらが狩りを行う様を監督
しているだけなのだ。つまり、デレクらがモンスターにやられれば、
彼らも同様に死ぬ。どうもこのウスラトンカチどもはその辺のこと
を理解していないようにデレクには思えて仕方ない。
⋮⋮わかってなかったんだろうな。
情けなく震えあがりながら、早くなんとかしろと怒鳴り続ける商
人に、デレクはふっと呆れたように目を細めた。戦うのは獣人の仕
事で、自分たちはただ獣人どもがサボらないように見張っているだ
けで良い、とそう思っていたのだろう。だから、戦っていた獣人た
ちが万が一にでも全滅した場合、自分たちがどうなるかなんて当た
り前のことにも考えが及んでいなかったのだ。
﹁デレク! 怪我人を後方に!﹂
575
﹁ッ、了解した!﹂
前衛から響いた鋭い声に、デレクはそんな思考を振り切るように
声をあげて前に出る。鋭い刃物で斬りつけられでもしたのか、腕を
押さえてよろよろと下がってきた仲間に肩を貸してやりながら、後
方へと運んでやる。そこにはすでに何人かの先客がいて、それぞれ
痛みに耐えるように蹲っていた。傷口に障らないように、そっと運
んできた男を座らせてやる。
﹁大丈夫か?﹂
﹁⋮⋮今んとこはな。でももう戦力にはなれそうにない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そう言った男の利き腕からは、今も鮮血が滴り落ちている。顔色
も悪い。戦力にならないどころか、このまま放っておけば命すら危
ないだろう。
﹁とりあえず止血しよう﹂
鼻先を掠める濃厚な血の香りに顔を顰めながら、デレクは自分の
着ていた服の裾を豪快に引き裂くと、それを怪我人の腕にきつく巻
きつけていく。どこまでも簡単な応急手当でしかないが、それでも
しないよりはマシだろう。
ノーライフキング
﹁ったく、一体何にやられたらこんな怪我するんだよ﹂
﹁﹃庭師﹄、だな﹂
﹁あー⋮⋮﹂
シャトー・ノワール
デレクは顔を顰めつつ納得する。
﹃庭師﹄というのは黒の城の城主である不死王が黒薔薇の庭園を
576
美しく保つために創りだしたと言われている存在だ。見た目は青白
い肌をした華奢な青年の姿をした人形で、手には巨大な剪定鋏を携
えている。普段は薔薇の生垣の手入れをしているらしいのだが、人
の気配を感じるとシャキンシャキンと鋏を鳴らして追いかけてくる
厄介なモンスターだ。今も耳を澄ませると、シャキンシャキンと鋏
を鳴らす音が、暗闇のあちこちから響いている。
﹁ああクソ﹂
﹁本当に、クソ、だな﹂
はは、と小さく笑いあう。
もう笑うことぐらいしか出来なかった。
笑っていなければ、恐怖から叫びだしてしまいそうだった。
周囲に立ち込める仲間の血の匂い。
暗闇から響くシャキンシャキンと鋏を鳴らす音。
そして︱︱⋮
はら、り。
デレクの目の前に、ビロードのような手触りの布が落ちてきた。
大きさは掌ほどだろうか。
誰かが怪我人の手当てに使えと放ってくれたのか、なんて思いな
がらデレクはそれを手に取る。しっとりとすべらかなそれは、手に
取るとふわりと場違いなほどに甘く上品に香った。まるで貴婦人の
ハンカチのようだ。夜に香る鮮やかな薔薇の︱︱⋮⋮
﹁︱︱︱﹂
ごくりとデレクは息を呑んだ。
そんなはずがない。
577
そんなはずはない。
薔薇の香り。貴婦人。
それらのキーワードから思いつくモノがこの黒薔薇の庭園には存
在している。
だが、そいつが前衛をすり抜けてこんな場所まで侵入してきてい
るはずがない。
だからきっとこれはデレクの妄想だ。
闇に怯えてそんな怖い思いつきを閃いてしまっただけだ。
頭の中で必死に否定しながら、ぎこちない仕草でデレクは顔をあ
げる。
﹁ひ﹂
悲鳴は喉の奥で潰れた。
顏をあげたデレクの眼前数㎝の距離に、能面のように整った女の
顏があった。
綺麗に結い上げられた栗色の髪に、美しく化粧の施された表情の
ない顏。
その女は、壁に直角に貼りついたまま無表情にデレクを見つめて
いた。
前衛をすり抜けてここまで到達したのではない。
この女は、壁を伝ってデレクらの背後に回ったのだ。
﹁う、うわああああああ!!﹂
叫ぶ。
叫びながら、我武者羅に腰から引き抜いたダガーをその顔面に叩
きつける。
578
刃は通らず、何か硬い陶器でもぶん殴ったような感触がデレクの
腕に伝わった。
したたかに顔面を斬りつけられたというのに、女の表情は変わら
ない。
いや。
表情が変わらないどころか、女は瞬きすらしていなかった。
その代わりといったように、壁に垂直に立つ女の足元を重力に逆
らい慎ましく覆い隠すドレスの裾がふわりと持ち上がる。美しくも
巨大な薔薇の花びらを幾重にも重ねたようなドレスの内側に、ぬめ
ぬめと肉色に光る口が裂けるのが見えた。ぎざぎざと波打つ白は柔
らかなレースなどではなく、獲物を引き裂くための牙だ。
︱︱﹃薔薇姫﹄。
美しいお姫様めいた姿をしたいるが、その正体は巨大な薔薇のバ
ケモノだ。ドレスに見えている部分が本体で、お姫様めいた人型の
上半身は獲物を油断させるためのデコイに過ぎない。
かぱあ、と大きく開かれた巨大な口がデレクを捕食しようと大き
く開かれる。
生暖かい湿った風が、デレクの頬を撫で︱︱⋮終りを意識した時、
どこか遠くで鋭い猛禽の鳴き声が響くのを聞いた。
妻の愛鳥の声に、少し似ていたような気がした。
でも、きっと違うだろう。
あの子は夜目が利かない。
こんな暗くなってしまっては、飛べない。
でも最期に聞くのがそれで良かった。
死を迎える瞬間、想うのが恐怖でも憎悪でもなく、妻のことであ
って良かった。
579
刹那の間に、そんなことを思ったデレクの目の前を︱︱薄桃色の
雷が、貫いた。
★☆★
﹁うわあ﹂
俺は思わずそんな声をあげてしまっていた。
魔法少女なのに初手がいきなり物理攻撃というのは如何なものな
のか。
グリフォンの背から飛び降りたイサトさんは、ドリーミィピンク
の光に包まれたまま眼下の獲物へと特攻をかけ︱︱⋮城壁から生え
た薔薇姫の細いウェストにはるか上空からドロップキックをぶちか
580
ましたのである。そのまま薔薇姫を地面に叩きつける形で、華麗に
着地。
それはなんだか、いっそ神々しさすら感じる光景だった。
いつか言っていたように、イサトさんの全身はうっすらとした桃
色の光に覆われている。グリフォンの背から飛び降りたところで何
らかの魔法を使ったのか、イサトさんはあれだけ嫌がっていた魔法
少女仕様だ。しゃらんら★と同じ色合いの、ドリーミィピンクのふ
あふあドレスは、意外にも思えるほどイサトさんによく似合ってい
た。ふぅわりと風を孕んだように揺らぐスカートのデザインは、前
面から背面に向かって次第に裾が長くなるという不思議なデザイン
で、見る角度によって雰囲気が変わる。背面が長くたなびく様は、
二股に分かれていない燕尾服の裾に似ているかもしれない。たっぷ
りと布を使っているように見えて、前面は意外と短く、形の良い脚
が惜し気もなく晒されている。ナース服や赤ずきんの時にはぴった
りとした黒革のブーツに覆われている脚が、今は薄手の白のニーハ
イソックスに覆われている。透け気味の生地を通して褐色肌がぼん
やりと見えるのもたまらなければ、何より特筆すべきなのは太腿の
ガーターベルトだろう。白のレースと、小ぶりなパールで飾られた
ガーターベルトの魅力といったらない。アレだ。そっと恭しく脱が
してさしあげたくなる。
﹁イサトさん﹂
﹁何か余計なこと言ったらまじ狩る★直葬﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
似合ってる、と褒めようと思ったのに。
が、命は惜しいので大人しくお口にチャック。
そんなイサトさんの足元で、びくりとわななくように薔薇姫が蠢
581
いた。
ダメージとインパクトは与えられたとしても、イサトさんの物理
攻撃レベルでは薔薇姫を一撃では倒せないだろう。薔薇姫とイサト
さんの間にはそれなりのレベル差が存在するが、イサトさんの専門
は召喚であり、そしてその次に精霊魔法だ。物理攻撃ではそれほど
のダメージは出せまい。
実際、イサトさんの足元でのたうつ薔薇姫が本体であるドレス部
分を擡げてイサトさんへと喰らいつこうとする。それがわかってい
るはずなのにイサトさんが動こうとしないのは⋮⋮まあ、俺が動く
ことを知っているからなのだろう。この横着者め。
グリフォンの手綱を操り、イサトさんへと襲いかかろうとした薔
薇姫の本体部分を鋭い蹴爪で上空からぐしゃりと踏み潰させた。ぶ
わりっと濃厚な薔薇の香りが周囲へと立ち込め、巨大な花びらをは
らはらと散らしながら薔薇姫が消えていく。最後まで残った花びら
も、そのうち消えることだろう。
﹁エリサ、行くぞ﹂
﹁う⋮⋮うん﹂
俺はぎくしゃくと頷いたエリサの腰に腕を回し、ひょいと抱える
ようにしてグリフォンの背から降りた。エリサが微妙に呆然として
いる⋮⋮というかドン引いているように見えるのはイサトさんの蛮
行︱︱グリフォンからの飛び降りドロップキック︱︱のせいなのか、
それとも一撃で薔薇姫を倒して見せたグリフォンのせいなのか。
⋮⋮両方か。
﹁エ、エリサ⋮⋮?﹂
呆然とイサトさんを見つめていた青年が、俺たちの方へとのろの
582
ろと視線を這わせ、ようやく我に返ったといったように声を上げた。
その声に、エリサもはっとしたようにそちらへと駆け寄る。
﹁デレクさん! あ、⋮⋮ギグさん、怪我⋮⋮っ﹂
エリサが泣きそうな顏で俺たちを振り返る。
どうやらこの後方には怪我人が集められているらしい。 周囲からは、薔薇の匂いに混じって濃い血の匂いが漂っている。
青年の傍らに蹲っている男性の腕は真っ赤に染まり、布地がたっ
ぷりと血を吸って重そうに肌に貼りついていた。
﹁イサトさん!﹂
﹁まかせろ﹂
俺の声に応じるように、イサトさんがしゃらんら★を優雅に振る
う。
ケェン、と高く鳴いたグリフォンの姿が霞むように溶け、代わり
に紅蓮の焔が夜闇を赤々と照らすように燃え盛る。その焔は生き物
のように形を変えていき、やがて一羽の巨大な鳥のシルエットを形
作る。イサトさんの召喚モンスターの一つで、回復に特化した朱雀
だ。
﹁朱雀、エリアヒールを!﹂
イサトさんの指示に合わせて、朱雀がグリフォンに比べてもどこ
か優美な印象を受ける翼をはためかせる。焔の翼から散った燐光が、
前線を含む獣人一行を囲むように広がり、円を描いた。何が起こっ
ているのかが掴めていない前線の方でも、戸惑ったようなざわめき
が起きている。エリアヒールは、そのサークル内にいる人間をまと
めて回復してくれるという便利なスキルだ。その分瞬間的な回復量
583
では通常のヒールに劣るが、怪我人が複数いる状態で、さらに戦闘
が続行しているようなシチュエーションでは非常に心強い。
﹁お、おい、嘘だろ、怪我が⋮⋮!﹂
﹁手が、動く⋮⋮!﹂
﹁痛みが引いていく⋮⋮!﹂
イサトさんの周囲で痛みに耐えるように蹲っていた男たちが、自
身の身に起きていることを信じられないといったように声をあげた。
もう少しすれば、彼らの傷が完全に癒えるのも時間の問題だろう。
痛みから解放された彼らは、まるで女神でも見るかのような眼差し
を、朱雀を従えるイサトさんへと向けている。こうなるとうっすら
とイサトさんの全身を包む薄桃色の光でさえ、神々しい演出のよう
に見えるのだから不思議だ。
﹁さて﹂
俺はそんな風に呟いて、イサトさんへと手を差し出した。
別段エスコートが必要なほど足場が悪いというわけではないが、
なんとなくそんな気分だったのだ。
﹁行くか?﹂
に、と口角を釣り上げてイサトさんへと問いかける。
わざわざ色んなものを犠牲にして魔法少女に変身までしたのだ。
ここで大暴れしなければ、イサトさんの犠牲はまるっと無駄にな
ってしまう。
﹁当然﹂
584
くそ、と毒づきながらイサトさんが俺の差し出した手の上に、言
葉とは裏腹に淑女めいた仕草でそっと手を乗せた。
﹁エリサ、前線は俺とイサトさんで引き受ける。とりあえずこの辺
り一体のモンスターは狩り尽くすので、それまで皆には休んでもら
いつつ事情の説明を任せた﹂
﹁わ、わかった﹂
イサトさんの手を取ったのとは逆の手に、インベントリからずる
りと幅広の大剣を引き出す。イサトさんも、自由な方の手にはしっ
かりとしゃらんら★を構えている。
﹁ではでは﹂
﹁参りましょうか﹂
イサトさんの金色の双眸が、獰猛な獣のように爛々と燃えている。
たぶん、俺も似たような顔をしている。
これまでにたまった鬱憤、しっかり晴らさせてもらうとしよう。
ついでに薔薇姫は、上位ポーションの材料をたんまり落としてく
れると良い。
そして前線に突っ込む寸前、俺はさり気なさを装って口を開いた。
﹁イサトさん﹂
﹁ん?﹂
﹁それ、すごくいい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
やっぱり言わずにはいられなかった。
返事は、わりと本気気味の俺の首を落とす勢いで振り抜かれたし
585
ゃらんら★スウィングだった。
586
魔法少女おっさん︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございました。
PT、お気に入り、感想、励みになっております。
おかげ様で、ブクマが10000を超えました!
ありがとうございます。
これからもよろしくお願い致します。
587
殺意の波動に目覚めしおっさん︵前書き︶
第三者目線が入ります。
588
殺意の波動に目覚めしおっさん
★☆★
﹁あー、もう﹂
エリサは、泣きたいような、笑い出したいような気持ちで小さく
呟いた。
何なんだろうか、この光景は。
今までだって、散々アキラとイサトが規格外なのは思い知らされ
てきたつもりだった。あの二人が何かする度に、エリサは驚かされ
てきたのだ。
あの二人が飛空艇を墜とした犯人だと知らされたとき、もうこれ
以上驚くようなことはないと思っていた。
おもり
けれど、それはエリサの勘違いだった。
エリサの驚きの原因は、アキラだ。
エリサはずっと、アキラはイサトの保護者だと思っていたのだ。
イサトはわかりやすく﹃普通﹄ではない。
銀髪金瞳、褐色肌に尖った耳。
それらの特徴は、明らかにイサトが﹃ただびと﹄ではない証拠じ
みている。
イサトの外見は、今ではもう御伽話にしか登場しないような、黒
き伝承の民にとてもよく似ている。エリサらと同じ亜人種でありな
がら、より女神に近く、魔法に優れていたという既に滅んで久しい
民。たまに先祖がえりのように、そういった特徴を持って生まれる
者がいる、ということはエリサも知っていた。だが、イサトのよう
589
に強力な魔法を使える者はいない。少なくとも、イサトが使うよう
な魔法をエリサはこれまで見たことも聞いたこともない。だから今
ではエリサは、イサトはもしかすると先祖がえりなんかではなく、
滅んだと言われている黒き伝承の民の生き残りなんじゃ⋮⋮、と疑
っている。
その予想が当たっているにしろ、外れているにしろ、だからこそ
イサトが﹃特別﹄だというのはエリサにとってもわかりやすかった。
イサトが何か凄いことをしたとしても、そこにある驚きはある種﹃
やっぱりイサトは黒き伝承の民だったんだ﹄という確信に繋がるも
のでしかなかった。イサトが空翔ける騎獣を召喚したり、変身した
ことには確かにエリサは驚いたけれど、イサトなら仕方ない、とも
思ったのだ。
でも、アキラは違う。
黒髪黒眼に、陽に焼けた黄色い肌。
体格は優れている方だろうが、アキラの外見はそれほど珍しいも
のではない。
どこにでもいそうな、普通の人間だ。
それに、言動にしたってアキラはイサトほど突拍子のないことを
言ったりやらかしたりはしなかった。どちらかというと、そういっ
たイサトを諌めたり、宥めたりしていることの方が多かったような
気がする。
おもり
だから、エリサは勘違いをしてしまったのだ。
アキラはイサトにつけられた優秀な保護者なのだと、そう思って
しまった。
強大な力を操る古代種の生き残りの姫と、そんな浮世離れした姫
に振り回される苦労性の騎士。
590
エリサがイサトとアキラから想像したのはそんな物語だ。
ギルロイ商会の連中に絡まれた時の対応からして、アキラがタダ
モノではないのはわかっていた。でも、それでもエリサはとびきり
優秀な、という意味合いでしか認識していなかったのだ。
実際本人だって、
﹃⋮⋮規格外なのは主にイサトさんが、ってことにしておいてくれ﹄
なんて言っていたじゃないか。
それなのに。
ああ、それなのに。
アレのどこが真っ当だと言うのか。
頭を抱えたいような気持でエリサが見つめる先には、前線にてエ
リサの身長とほとんど変わらないような馬鹿でかい剣を容赦なく振
るって敵を屠るアキラの姿があった。体を低く構えた前傾姿勢、腰
だめに大剣を構えて敵に接近しては、一息に振り抜く。庭師は受け
とめようと鋏を構えるものの、アキラの大剣はそんな鋏ごと易々と
引き裂いて庭師を無に還した。庭師の形を崩され、解放された女神
の力がきらきらと光の粒子となって闇に溶けて行く。
こんな光景は、あんまりに想定外だ。
アキラの武器が幅広の大剣なのは、エリサだって見て知っていた。
そんな大剣を見ていたからこそ、エリサはアキラの本分は護ること
にあるのだと思っていたのだ。あんな馬鹿でかい大剣をがんがん振
り回して戦う姿なんて、誰が想像するだろう。普通ああいった大剣
というのはいわゆるロマン武器だ。趣味で持ち歩く者はいても、実
際の戦闘で使う者は限られるし、使いどころもかなり限定的だ。重
591
さがある分威力は十分だし、上手く当てることができれば一撃で大
抵の獲物は仕留めることが出来るだろう。けれど、その一撃が外れ
た時が怖いのが重量武器なのだ。その重さ故に、連続して攻撃する
ことが出来ない。一度振り降ろすか振り抜くかした武器を、再び攻
撃できる体勢にまで戻すのに通常の武器よりも時間がかかり、大き
な隙が出来てしまう。
それ故に、エリサはアキラの役目は、イサトが魔法詠唱している
間の護衛であり、あの大剣は盾を兼ねているのだと思っていた。
⋮⋮ある意味、それは間違ってはいなかったのかもしれない。
確かにアキラはイサトを護っている。ただしその方法は、﹁攻撃は
最大の防御なり﹂なんて言葉を実践する形で、だ。イサトの魔法が
敵を滅ぼすよりも先に、重さすら感じていないかのように軽々と振
り回されたアキラの大剣が敵をぶった斬っていく。大剣を振り抜い
た勢いで身体が振りまわされるような危うさは欠片もない。易々と
モンスターを引き裂いた大剣は、致命傷を与えモンスターが光の粒
子に分解されたのを見てとるや否や、くんと跳ね上がって次の獲物
に向けて振り抜かれる。
イサトのサポートなんて、とんでもなかった。
アキラこそが、主力だ。
唯一の弱点は、イサトに比べると間合いが狭いことかとも思った
けれど、それすらも勘違いに過ぎないことは、アキラの大剣の届く
範囲外からイサトに向かって薔薇姫の蔦が伸ばされた瞬間にわかっ
てしまった。呪文の詠唱のためにか、伏せ目がちにスタッフを構え
るイサトは、きっと自らに忍び寄る薔薇姫の蔦の存在に気付いても
いなかっただろう。しゅるるるる、と地を這う蛇のように音もなく
イサトに忍びよる蔦に気付いたエリサが、危ない、と声を上げるよ
592
りも早く、アキラがその蔦へと一瞥をくれる。そして、薔薇姫に向
かって大剣の一閃。その視線はすぐに己の前に迫る庭師へと戻され
る。ただそれだけ。ただそれだけの一振りで、本来ならば刃が届く
はずもない距離にいた薔薇姫は真っ二つに両断されて光の粒子へと
分解された。
おもり
アキラは、イサトの保護者などではない。
アキラは、イサトの守護者だ。
イサトへと不用意に近づくモンスターがいれば、イサトの影から
湧いたからのように、ぬぅと闇より出でたアキラがあっさりとその
哀れな獲物を斬り捨てる。イサトの姿が薄桃色の光に包まれている
分、返ってその明るさがアキラの身に纏う闇を色濃く見せていた。
アキラの大剣がイサトの放つ光を弾き、闇の中を閃く度にモンス
ターが粒子となって砕け散る。きらりと煌めいたモンスターの残滓
に浮かび上がったアキラの横顔に、エリサはぞくりと小さく背を震
わせた。
どうしてだろう。
無感情に淡々と敵を屠る黒の双眸を、怖いと思ってしまった。怖
がる必要なんてないと頭では理解しているのに、手が勝手に震えて
しまいそうになる。一度、その眼を向けられたことがあるからだろ
うか。
﹁︱︱⋮﹂
視線に気づいたように、アキラの視線がちろりと揺らめいてエリ
サを見る。
冷徹な殺意の滲む鋭い眼差しがエリサを映す。
593
﹁⋮⋮ッ﹂
エリサがぎくりと身体を強張らせて息を呑んだのと、アキラがぱ
ち、と瞬きをするのはほぼ同時だった。振り抜きかけていた大剣が
ぴたりと止まる。困ったように眉尻を下げて、言い訳を探すように
口をぱくぱくさせる姿は、とてもじゃないがついほんの一瞬前まで
殺気を漲らせていた人物と同一人物のようには見えない。
と、いうか。
﹁馬鹿アキラ!! ちゃんと前見ろ馬鹿!!!!﹂
エリサは思わず叫んでいた。
本来ならばアキラの振るうはずだった大剣の先にいた庭師が、鋏
を開いてアキラへと飛びかかる。そこに滑り込むように間に入った
のはイサトだった。
がきん、と鈍い音がする。
鋏の間に、桃色のスタッフを咬ませてぎりぎりと鬩ぎ合う。
なんだかその様子に、アキラに対して怖い、と思ったのがとてつ
もなく馬鹿げたことのように感じてしまった。
薔薇園のモンスターを一撃で易々と引き裂いて倒せるような男が、
エリサの表情一つに動揺して戸惑っている。
それだけ、エリサのことを気にかけてくれている。
﹁ああもう。アキラの馬鹿。オレがちょっと怖がったぐらいで、固
まってんじゃねーよ。ばか。ばか。ばか﹂
ばか、と呟く度にじんわりと目元が熱くなる。
ぎゅっと握り固めた拳に、いつかのぬくもりが甦ったような気が
594
した。
﹃じゃあ、エリサより年上で、エリサより大きい俺がエリサを守っ
てやりたいって言うのは駄目か?﹄
何でも一人でやらなければ、と思い詰めていたエリサの手を、優
しく包んでくれたアキラの大きな掌。
本当は、あの時エリサはとんでもなく安心したのだ。
もう一人で頑張らなくてもいいんだ、って。
もうきっと大丈夫だ、って。
だから。
エリアはぎゅっと拳を強く握りしめる。
あの時の嬉しかった気持ちと、ぬくもりを逃さないようにしっか
りと。
﹁アキラ!! さっさとそんな奴ら蹴散らしちまえ!!﹂
エリサの声に、ぐぬぬぬぬ、と庭師と鬩ぎあってるイサトを背景
に、アキラがほっとしたように小さく口元に笑みを浮かべた。それ
から再び視線を庭師へと向ける。鋭く細められた黒の双眸に、ぎら
りと凶悪な光が煌めく。けれど、それはもう怖くはない。アキラは
軽く上体を傾がせると、よっと、なんて軽い声が聞こえそうな調子
で庭師の腹に蹴りをぶち込んだ。ごしゃあと鈍い音がして、アキラ
の蹴りがめり込んだところから庭師の身体がひび割れて光となって
消えていく。
﹁⋮⋮蹴散らせっていうのは⋮⋮ああもういいや、うん﹂
595
もうなんだかアキラとイサトに常識を求める方が間違っているよ
うな気がしてきた。あれほど恐れ、苦戦していた薔薇園のモンスタ
ーどもを、アキラとイサトはまるで紙でも引き裂くようにあっさり
と倒していく。
それは先ほどまで薔薇園に満ちていた絶望が冗談か何かに思えて
しまうほど、圧倒的な掃討戦だった。
﹃前線は俺とイサトさんで引き受ける。とりあえずこの辺り一帯の
モンスターは狩り尽くすので、それまでは皆に休んでもらいつつ事
情の説明を任せた﹄
アキラの言葉に、嘘はなかったのだ。
ならば、エリサも自分の役割を果たさなければいけない。
エリサたちを守るように翼を広げた炎の鳥に照らされた薔薇園の
片隅で、エリサは両親の姿を探す。怪我人の中に、二人の姿はなか
った。セントラリアに残っている獣人の中では比較的戦闘に秀でて
いるエリサの両親ならば、きっと前衛にいたはずだ。うろうろと視
線を彷徨わせていたエリサの視界に、信じられないものを見るよう
な目でアキラとイサトを眺めて茫然と立ち尽くす男女の姿が目に入
った。
﹁父さん母さん⋮⋮!!﹂
﹁え、エリサ!?﹂
﹁どうしてこんなところにあなたがいるの⋮⋮!﹂
驚愕に振り返る二人の元へと、エリサは全力で駆け出した。
何日かぶりかに聞く両親の声。
生きてた。無事だった。また、会えた。
﹁⋮⋮っ﹂
596
子供みたいでみっともないと思うのに、ひくりと喉が震えるのを
止められなかった。迎えるように両手を広げた父親の胸の中に、思
い切り飛び込む。ぎゅっと抱きしめると、汗や埃と一緒に懐かしい
父親の匂いがする。父親の腕の中にすっぽりと抱きしめられたエリ
サの背を包みこむように、母親のぬくもりが寄り添った。
﹁ぅ、え⋮⋮っ﹂
ちゃんと話さなければ、と思うのに。
アキラとイサトに説明を任されたのだから、ちゃんと役割を果た
シャトー・ノワール
そうと思うのに、喉の奥から溢れる嗚咽を呑み込めない。
悪名高き黒の城の片隅。
エリサは両親の腕の中で、どこよりも守られている安心感に包ま
れていた。
★☆★
途中エリサにドン引かれていることに気付いて俺の心が折れかけ
たことを除いては、比較的順調に薔薇園の掃討戦は上手くいってい
た。薔薇姫と庭師の属性の違いに、イサトさんが少々手こずっては
597
いたものの、その辺りは俺が十分フォローできる範囲のことだ。
薔薇姫と庭師は、どちらも聖属性に弱いという点では共通してい
るのだが、サブの属性がそれぞれ異なっているのだ。薔薇姫は見た
目の通りサブが植物属性なので、聖属性を乗せた火系の魔法に弱く、
サブ属性が水である庭師には聖属性を乗せた土系の魔法が効く。ス
キルの切り替えに難があるイサトさんにとっては、この二種類のモ
ンスターを同時に相手にするのがなかなか骨が折れるようだった。
それ故に一種類ずつ、一度薔薇姫をターゲットと定めたら、一息に
周辺にいる薔薇姫を殲滅し、その後スキルを切り替えて今度は庭師
を殲滅して回る、というスタイルを取らざるを得ないのだ。
その間、上手く対応できないモンスターを始末するのは俺の仕事
である。
﹁秋良﹂
﹁ん?﹂
ふと、名前を呼ばれた。
目の前に迫ってきていた薔薇姫をずばん、と斬り捨ててイサトさ
んへと振り返る。
﹁どうした?﹂
﹁ちょっと、良いことを思いついた。試したいので、フォロー頼ん
でも良いか?﹂
﹁⋮⋮了解﹂
イサトさんの﹁良いこと思いついた﹂は大概ロクでもないことが
起きる前振りなので、あまり了解はしたくないのだが⋮⋮。先ほど
エリサに心を折られかけた際にフォローして貰った恩があるので無
碍に出来ない。
598
﹁あんまり無茶はするなよ﹂
﹁まかせろたぶん大丈夫だ﹂
たぶんて。たぶんて。
微妙に不安が残る。
疑惑に満ちた半眼を向けつつも、俺は一歩下がってイサトさんの
様子を見守ることにした。一応何かあった時にはすぐさま援護に入
れる距離は保つ。
イサトさんはそんな俺へと視線を流して小さく笑うと、は、と短
く息を吐いた。それから、ドリーミィピンクのスタッフを体の前で
縦に構えて、精神を集中させるように長い銀色の睫毛をやわりと伏
せる。吹き抜ける風に煽られ、優雅にドレスの裾が波打つ。そんな
イサトさんの姿は、着ているドレスの効果もあってどこまでも神秘
的だ。不可思議を操る魔法少女に相応しい。
やがて、俺が見守る中イサトさんの唇が小さく開かれる。
スキル名を思い出したのか?
ファンクション ファンクション
そう思った俺の耳に届いたのは︱︱⋮
コントロール
﹁スキルショートカットCtrl1、F3! F6!﹂
まさかのキーボード配列だった。
が、イサトさんの作戦は成功したのか、スキル名を唱えたわけで
もないのに、二種類のスキルが未だかつてない切り替えの早さで発
動して庭師と薔薇姫のそれぞれに着弾する。
普段ゲームとしてRFCをプレイしている折にはスキルをショー
599
トカットキーに登録していたことが原因でスキル名を覚えていない
のなら。いっそ記憶に残っているショートカットキーの配列をその
ままスキルに当てはめてしまえ、という豪快極まりない解決法だっ
た。
RFCでは1から10までのショートカット画面があり、それぞ
れのショートカット画面にそれぞれF1からF9までのキーを対応
させて登録することが出来た。今のイサトさんの言葉をわかりやす
く説明すると、スキルショートカット画面の1において、F3キー
とF6キーに対応するスキルを発動させた、ということになる。
﹁これで勝つる﹂
ふふんとイサトさんが得意そうに胸を張る。
確かにこれで、庭師と薔薇姫の属性の違いに手間取ることもなく
なるだろう。
⋮⋮魔法少女の呪文にしては若干味気なさすぎるような気がしな
いでもないが。
﹁さてさて、狩り尽くしてしまうとしよう﹂
にんまりと笑って、イサトさんがちろりと唇を舐めた。
600
﹁さてと、こんなもんか﹂
﹁だな﹂
それから数十分の間に、次々と集まってきた薔薇姫と庭師をこと
ごとく退けた俺たちは、小さく息を吐きつつ顔を見合わせた。手を
休めて様子を窺ってみるが、こちらに向かって近づいてくる敵影は
見当たらない。
皆を避難させるなら今がチャンスだろう。
俺たちはエリサが事情を説明してくれているであろう狩りチーム
の方へと戻る。
エリサは、と探したところ、どこかエリサやライザと面差しの似
た二人の獣人と一緒にいるエリサの姿が目に入った。きっとあれが
エリサの両親なのだろう。保護者と一緒にいるからなのか、こんな
状況だというのにエリサの表情がどこか柔らかく、いつもよりも幼
げに見える。
﹁エリサのご両親もご無事なようで何よりだ﹂
﹁そうだな﹂
同じことを思っていたのか、隣でそう呟いたイサトさんの声には
安堵が滲んでいる。間に合って本当に良かった。
﹁アキラ! イサト!﹂
俺たちが戻ってきたことに気付いたのか、エリサが両親から離れ
601
て駆け寄ってくる。エリサは俺と目が合うと少しだけ気恥ずかしそ
うに目元を赤く染めた。なんだろう。怖がられるのは辛いが、そう
いう反応は反応でなんだか妙に俺まで照れる。
俺は﹁あー⋮﹂と誤魔化すように間を置いて、エリサへと問いかけ
た。
﹁怪我人の具合はどうだ?﹂
﹁イサトの火の鳥のおかげで、みんな治ったみたいだ。みんな二人
にすごく感謝してる﹂
﹁それは良かった﹂
イサトさんがほっとしたように呟いて朱雀を見上げると、その眼
差しに応じるように朱雀がイサトさんの背後に寄りそうように舞い
降りた。全身が赤々と焔に彩られているのに、こうして近くにいて
も熱を感じることはない。イサトさんがぽんぽん、と労り、褒める
ようにその首筋を軽く叩くと、くるるるる、と小鳥じみた可愛らし
い鳴き声が響いた。グリフォンとはまた違った、柔らかそうなもふ
もふとした羽毛につい目が引き寄せられる。触れて火傷する心配が
ないのなら、是非俺も触らせていただきたい。そろーっと手を伸ば
しかけたところで、まるでその気配を察知したかのようにイサトさ
んが俺へと振り返った。別に悪いことをしようとしていたわけでも
ないのに、思わず手を引く。
﹁秋良青年?﹂
﹁⋮⋮なんでもない。どうした?﹂
﹁いや、﹃家﹄を出してもらおうかと思って。ここから徒歩でセン
トラリアまで戻るのもアレだろう?﹂
﹁ん。そうだな﹂
脱出経路は、飛空艇の時と同じで良いだろう。
602
狩りチームの皆さんには一度﹃家﹄に入っていただき、そこから
一息にセントラリアにドアを繋げてしまえば良い。
俺はインベントリから﹃鍵﹄を取り出すと、しゃらりと音を立て
て一振りした。
ふっと高原を吹き抜けるような爽やかな風が吹き抜けて、うっす
らと光に包まれた扉が召喚される。魔法のような光景に、狩りチー
ムの皆さんが息を呑む気配が伝わってきた。
﹁えーと、この扉の向こうは安全地帯に繋がってる。そこを通り抜
けたらセントラリアはすぐだ。なので、皆さんには一度この扉の向
こうに避難してほしい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺の説明に、少し不安そうな顔を見合わせる狩りチームの人々。
そんな彼らを説得するように声を上げたのはエリサだった。
﹁みんなの信じられねー気持ちもわかるけど、アキラとイサトはみ
んなを助けに来てくれたんだ。オレは、二人を信じてる。だから、
みんなにも信じて欲しい﹂
﹁⋮⋮っつーかあんな戦い見せられたら抵抗できねえっての﹂
くつ、と苦笑いめいて喉を鳴らして、一番最初にイサトさんがド
ロップキックで助けた鳥の獣人が口を開いた。彼の言葉に、さざめ
きのように小さな笑い声が狩りチームの中に広がっていく。
﹁確かにあれだけ強けりゃ、騙し討ちなんかしなくても俺たちなん
て瞬殺だわな﹂
﹁そうね、そのとおりね﹂
603
エリサの両親らしき男女の声に、狩りチームの獣人たちも笑い交
じりに納得したように頷いている。なんだか微妙に嫌な納得のされ
方をしているような気がしないでもないが、皆がおとなしく﹃家﹄
に向かってくれるなら無問題である。
俺はがちゃりと﹃扉﹄を開き、その向こうに広がる﹃家﹄へと皆
を誘導しようとして⋮⋮そこで待ったの声が響いた。
﹁待て⋮⋮っ、お前らどこへ行くつもりだ!﹂
﹁まだノルマは達成していないぞ!!﹂
そんなことをがなり立てたのは、身なりの良い商人風の男二人だ
った。
というか、商人だ。
﹁⋮⋮ギルロイ商会か?﹂
﹁ああ。見張りだ﹂
﹁なるほど﹂
ぼそりと問いかけた俺の声に、エリサの父親だと思われる男性が
低く答える。
狩りチームに指示を出し、その仕事ぶりを監視するのが彼らの役
割なのだろう。
つまり︱︱⋮エリサの両親やその仲間たちを死地に追い込んだ張
本人だとも言える。こうなったら物理的に黙っていただこうかと俺
が一歩前に出るよりも先に、ひらりと可憐な桃色が揺れた。
するりと前に出たイサトさんが、鋭くドリーミィピンクのスタッ
フを彼らの首元に突きつけたのだ。
﹁⋮⋮っ!﹂
604
﹁な、なんのつもりだ!﹂
見た目は大層可愛らしいスタッフであっても、そのスタッフから
ほとばしる魔法がいかに強力なのかは、彼らは見て知っているはず
だ。怯んだように声を震わせながらも、それでもなんとかイサトさ
んを威圧しようと男が声を張り上げる。大声を出せば主張が通ると
でも思っているのだろうか。
⋮⋮俺ですら怖いというのに。
それほどに、イサトさんの身に纏う空気が冷え切っている。
こわい。ちょうこわい。
﹁︱︱⋮残りたければ君らだけでいくらでも残ると良いよ﹂
低く、柔らかなイサトさんの声が響く。
いつもと変わらず、優しげですらあるというのに、何故か冷たい
ものが背筋を走った。ごくりと思わず喉が鳴る。
が、そんな空気を読まずに、男たちは一度顔を見合わせると、大
声で言葉を続けた。
ルーター
﹁これだから略奪者は! 仕事を投げ出すなんてな!﹂
﹁全く、仕方がないな!﹂
こいつらの心臓には毛が生えているのだろうか。
俺や、エリサを筆頭にした狩りチームのみなさんの方がよっぽど
イサトさんにビビっている。
男たちはいかにも獣人たちの我儘を許し、付き合ってやるのだと
誇張するように恩着せがましくがなりながらイサトさんの突きつけ
たスタッフを手で跳ねのけた。そしてずんずんと獣人たちを押しの
けて、俺が開いた﹃扉﹄の方へとやって来る。それから胡散臭そう
な顔つきで、品定めするような視線を﹃扉﹄の先へと送る。
605
﹁本当に安全なのだろうな?﹂
﹁何かあったら責任は取ってもらうぞ﹂
そんな勝手なことを言いながらも、本当はこの先が安全圏だとい
うことは確信しているのだろう。男たちは、狩りチームに先んじて
﹃扉﹄の向こうへとさっさと足を踏み出そうとして︱︱⋮そんな背
中に向かって、イサトさんが何気ない様子で声をかけた。
﹁後一歩でもその先に進んだならば、燃す﹂
﹁⋮⋮っ﹂
﹁⋮⋮!?﹂
シンプル極まりない脅迫に、びくりと男たちの身体が揺れる。
背後から吹き付けるような殺気に、まるで足から根でも生えてし
まったかのようにその動きが止まった。
﹁なあ、貴方がたは何を勘違いしているんだ?﹂
﹁かん、ちがい⋮⋮?﹂
﹁ああ、勘違いだ﹂
﹁勘違い、って何がだ⋮⋮!﹂
ふっとイサトさんが呆れたように小さく息を吐いて、それから心
底不思議で仕方ないといった口調で、可愛らしく小首を傾げて問い
かけた。
﹁どうして私たちが君らを助けると思っているんだ?﹂
﹁﹁!﹂﹂
男二人が、絶句する。
606
そしてようやく、自分たちの前にいる魔女がお怒りであることに
気付いたようだった。
﹁わ、私たちを見捨てるつもり、なのか⋮⋮?﹂
﹁見捨てる? 最初から助ける人数の勘定にも入っていないのに?﹂
イサトさんの口元に艶やかな笑みが浮かぶ。
﹁私たちは、そこにいるエリサ嬢の依頼で獣人の皆さまを助けにや
って来たんだ。貴方たちのことなど、知らないな﹂
﹁あ、あ⋮⋮﹂
おろおろ、と男たちの視線が揺れる。
ルーター
助けを求めるように周囲を見渡し、周囲にいるのが自分たちが散
々虐げてきた略奪者でしかないことに絶望したように小さく声をあ
げる。
﹁だ、だが私たちに何かあれば商会が黙ってない⋮⋮!﹂
﹁そう?﹂
イサトさんはおかしくて仕方ないというように、くすくすと小さ
く笑った。
無垢で可憐な少女のように微笑んで、口を開く。
﹁証拠も、ないのに?﹂
﹁っ⋮⋮!﹂
﹁私たちが薔薇の園にたどりついた時には、一行の中でも身を護る
力を持たない監視役の商人たちは残念ながら事切れており︱︱⋮、
助けられたのは獣人の皆さまたちだけだった、なんて言っても十分
通じると思うのだけれども﹂
607
ざっと男たちの顏から血の気が引く。
ここに置き去りにされれば、彼らは遅かれ早かれ、薔薇姫や庭師
の犠牲になるだろう。それが俺たちが助けに来るより先に起きたの
か、後に起きたのかを判別する方法はない。
周囲が固唾を飲んで見守る中、商人たちはがくりとその場で崩れ
落ちた。
がたがたとその背中が小刻みに震えている。
﹁た、助けてくれ⋮⋮お願いだから、助けてくれ⋮⋮っ﹂
﹁金ならいくらでも出す⋮⋮!﹂
﹁残念ながら金には困っていない﹂
男たちの命乞いをさっくりと斬り捨てて、イサトさんはふっとエ
リサへと視線を流した。毒気の強い艶やかな眼差しにアテられたよ
うに、びくっとエリサの肩が跳ねる。
﹁さて、どうする?﹂
﹁ど、どうするって⋮⋮﹂
﹁私たちは君の依頼で助けに来たわけだからな。君がこいつらの命
も助けてやって欲しい、というのならまあ、助けてやっても構わな
い﹂
イサトさんの言葉に、男たちは弾かれたようにエリサへと向き直
った。
イサトさんを説得するよりも、エリサの方がまだマシだと思った
のだろう。
その判断はたぶん間違ってない。
﹁頼む、助けてくれ⋮⋮!﹂
608
﹁助けてくれるなら何でもする⋮⋮!﹂
男たちは額を地面に擦り付けるようにして、エリサへと懇願を繰
り返す。
﹁そんなこと、オレに言われても⋮⋮﹂
困惑しきった声音で呟いて、エリサが瞳を揺らした。
そりゃそうだろう。こんな状況で、いくら嫌な相手だからといっ
て生殺与奪の権利を与えられても持て余す。助けを求めるような視
線を向けられて、俺は小さく息を吐いた。口を挟んだだけで首を刎
ねられそうな雰囲気だが、仕方ない。
﹁イサトさん、エリサに決めさせるのも酷だと思うぞ﹂
俺の言葉に、イサトさんがちらりと俺を見た。
﹁そうか。それなら⋮⋮どうする?﹂
﹁んー⋮⋮﹂
俺は、ちょいと這いつくばる男たちの前に座り込んだ。
怯みながらも、助かるチャンスを嗅ぎ取ったのか男たちがそろそ
ろと顔を上げて俺を見上げる。
﹁何でもすると言った言葉に嘘はないな?﹂
﹁ない! 誓う!﹂
﹁私もだ!﹂
﹁じゃあ、街に戻っても決して俺たちの邪魔はしないと約束しろ。
もしその約束を違えるようなことがあれば︱︱⋮﹂
609
どん、と俺は男たちの顔面すれすれに大剣を突き立てる。
ひっと悲鳴が上がったが気にしない。
﹁今度は置き去りなんて生ぬるいことはしない。俺がこの手でぶち
殺す﹂
どれだけ防御を固めようと、どれだけ逃げようと、必ずそれを成
し遂げるだけの力があることは、流石のこの男どもも思い知ったは
ずだ。水飲み人形のようにがくがく頭を縦に振る男たちを横目に、
俺はよいせ、と立ち上がってイサトさんへと目を向けた。
﹁こんなところでどうよ﹂
﹁充分じゃないか? ギルロイ商会を内側から崩すコマになってい
ただこう﹂
そう言ったイサトさんは、すっかりいつもの様子に戻っている。
俺が助け舟を出すことまで、織り込み済みだったのだろう。
全く、心臓によろしくない。
﹁んじゃ、皆さんはどうぞ﹃家﹄に移動してくれ﹂
俺の促した声に、ぞろぞろと今度こそ皆が移動しかけて︱︱⋮
﹁ああ、困りますねえ﹂
そんな、この場にいないはずの第三者の声が響いたのはそんな時
610
だった。
611
殺意の波動に目覚めしおっさん︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
PT、お気に入り、感想、励みになっております。
⋮⋮今回で終わると思っていたのに一万字を超えたので一旦ここで
切ってたぶん次で決着がつきます。
次もまたよろしくお願い致します。
612
おっさんを泣かす
イサトさんのドエスっぷりに商人二人が死を覚悟し、何故かその怒
りの矛先ではないはずの俺やエリサが恐怖のどん底に叩きこまれた
りした後︱︱⋮
いざ避難を始めようか、というところでその声は響いた。
﹁ああ、困りますねえ﹂
﹁⋮⋮っ﹂
いるはずのない第三者の声に、俺は素早く大剣を構えてそちらへ
と向き直る。
そこに立っていたのは、見覚えのある太った中年オヤジだった。
にこにこと愛想の良い笑みを浮かべているものの、その双眸には
ぬとりとした油断のならない光が浮かんでいる。
あの男だ。
セントラリアで、騎士を引き連れ絡んできたギルロイ商会の男。
﹁マルクトさん⋮⋮!?﹂
﹁なんであんたがここに⋮⋮!﹂
マルクト、というのがこの男の名前らしい。
俺は傍らで同じく身構えていたイサトさんへとちらりと視線を流
す。
﹁イサトさん、気付いてたか?﹂
﹁いいや、君は?﹂
﹁俺もだ﹂
613
ぐ、と大剣の柄を握る手に力が入る。
俺も、イサトさんも、この場にこの男がいることに気付いていな
かった。
いくら薔薇の庭園が戦場となっていたとはいえ、保護すべき狩り
チームは一か所に固まっていたし、そもそも純粋な人間種は先程ま
でイサトさんがいびり倒していた商人二人しかいなかったはずだ。
俺はゆっくりと大剣を持ちあげると、男へと突き付けた。
﹁あんた、何者だ﹂
﹁おや、まだ名乗っていませんでしたか? それは大変失礼致しま
した﹂
男は、商品の不備を指摘された商人めいた態度で上っ面の詫びを
口にする。それから、恭しく片手を胸に当てて頭を下げて見せた。
﹁私の名前はマルクト・ギルロイ。ギルロイ商会の代表でございま
す﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
この男がギルロイ商会の親玉だったというわけか。
セントラリアで絡まれた際、騎士相手に目で指示を出す様からお
偉いさんだろうとは思っていたが⋮⋮、どうやらこの男が諸悪の根
源らしい。
﹁だが、それだけじゃないだろう﹂
イサトさんが横合いから口を開いた。
その金色の双眸は、油断なく男を見据えている。
そんなイサトさんへと、男はやはり愛想よく微笑んで、それでい
614
てイサトさんの問い掛けには答えないまま言葉を続けた。
﹁皆さんに、私の息子を紹介しましょう。おいで、坊や﹂
男は、そっと自分の隣を覗きこむようにして声をかける。
子供が⋮⋮いるのか?
俺は目を凝らす。
俺たちのいる辺りは朱雀のおかげで明るいが、男の立っている辺
りはぼんやりと闇に沈んでいる。男の腰のあたりまではかろうじて
朱雀の光が届いているが、それより下に関してはどうにか形が判別
出来るか出来ないか、といった程度だ。
男は、優しい父親といった声音でその薄暗がりへと声をかける。
ぺた、と小さな足音がした。
薄暗がりから、小さな人影が一歩前に出る。
父親である男と手を繋いだその子は、父親の膝を少し超える程度
の背丈しかない、本当に小さな子供だった。三、四歳といったとこ
ろだろうか。
けれど。
けれど。
﹁⋮⋮、﹂
俺とイサトさんは、その子を直視することが出来なかった。
アレは、生きていない。
それは直感だった。
その子の見た目に何か異様なところがあったというわけではない。
あえて言うならその子は、若干表情に乏しいだけの普通の子供の
ようだった。
615
けれど、違うのだ。
存在感があまりにも異質だ。
冷たいやすりでざりざりと神経を擦りあげられているような違和
感。
ただ父親に寄りそうようにして立っているだけの子供の姿から、
まるであのヌメっとした人型から受けたのと同じような気色悪さを
感じる。人ではないものが、巧妙に人を真似ているからこその気持
ち悪さ。不気味の谷、なんていう言葉を思いだす。
﹁おい、マルクトさん⋮⋮なあ、おい、嘘だろ⋮⋮﹂
﹁あ、⋮⋮あ⋮⋮﹂
俺たちの背後で、商人二人が呻く声が聞こえた。
悲しそうにも、怯えているようにも、憤っているようにも聞こえ
る、不思議な声だった。
﹁なあ、おい⋮⋮マルクトさん、その子はあんたの﹂
﹁ええ、うちの坊やですよ﹂
﹁ありえない!﹂
商人の声にも、男は表情を変えなかった。
にこやかな愛想笑いを浮かべたまま、首をすこぅしだけ傾けた。
﹁何を言ってるんですか、ディーゲンさん。ありえない、なんて失
礼ですねえ﹂
﹁マルクトさん⋮⋮!!!﹂
男の名前を呼ぶ商人の声は、悲鳴のようだった。
﹁あんた⋮⋮、何したんだよ⋮⋮、その子に何を⋮⋮っ﹂
616
﹁おかしなディーゲンさんですね? あなたはうちの坊やのことは
可愛がってくれていたと思うんですが﹂
動揺し、声を引き攣らせている商人とは対照的に、男はどこまで
も穏やかに、のんびりと、まるで世間話でもしているかのような態
で言葉を紡ぐ。時折手を繋いだ先にいる子供に対して愛しげな眼差
しを注ぐ様などは、場所さえ違えば子煩悩な父親にしか見えなかっ
ただろう。
ここが薔薇の庭園である、ということが。
その子の黒々とした昆虫のような無機質な眼差しが。
ありふれた幸せな光景を、おぞましい何かに見せていた。
﹁マルクトさん、あんたも本当はわかってんだろ⋮⋮!﹂
﹁何が、です?﹂
﹁あんたの息子は十年前に流行病で死んだ!﹂
﹁⋮⋮っ、﹂
商人の声に、俺は小さく息を呑む。
そうか。
だからか。
あの男が連れた子供から感じる違和感はそれか。
一目見た瞬間から﹁生きていない﹂と感じてしまった理由は。
事実、あの子は生ある存在ではないのだ。
何らかの方法でもって、理を歪めた存在。
﹁私の可愛い坊やはね、蘇ったんですよ。おかげさまで。だから、
こうして父子揃って幸せな毎日を送らせて頂いています﹂
にこにこ、と微笑みながら男は語る。
人外の虚ろな目をした子供の手を引いて、父親は楽しそうに語る。
617
﹁ただ⋮⋮この子が生きるのは女神の恵みが必要なんですよ﹂
父親の声に応じるように、その子は小さく顔を上げた。
父親の様子を窺うようなあどけない仕草。
が、そこから続いて起こったことは、決して微笑ましいなんて言
葉で済むものではなかった。
かぱあ。
幼子の顎が落ちる。
喉奥からせぐりあげるようにこみあげてくるのはヌトリとした汚
泥めいた漆黒だった。俺はこの色を知っている。飛空艇で戦ったヌ
メっとした人型だ。嫌悪感に、ぞわりと全身の毛が逆立つ。
アレが、人の中に潜んでいる?
カラットの村で見たのも、そんな存在だったのだろうか。
裏表が入れ換わるように、幼子の中から溢れた漆黒がその身体を
包みこみ、やがてどぷんと溶けるように消えた。
いや、消えたように見えるだけだ。
きっと、アレはスライムか何かのように地面に広がっているのだ
ろう。
闇が濃い地表に溶け込むように、じりじりと地面に広がる黒の粘
体の姿を幻視して俺は顔をしかめた。いきなり足元を掬われて喰わ
れるなんて、たまったもんじゃない。
﹁イサトさん、光を﹂
﹁わかった﹂
イサトさんが、手を掲げる。
その指示に従って、優雅に羽ばたいた朱雀が舞いあがる。
618
光源が高くなったことにより、辺りに昼のような明るさが満ちた。
光に照らされた地上は明るく。
そして、光に照らされて闇色はなお暗く。
俺が脳裏に思い描いた通り、黒の粘体は地表に薄く広がっていた。
光から逃れるように、ひたひたと俺たちとは逆の方向へと広がっ
ていく。
﹁うちの坊やは不器用でしてね﹂
にこにこと親馬鹿のようにマルクト・ギルロイは語る。
﹁見本がないと、どうも上手に工作が出来ないんですよ。私もそう
いった方面には全くなので⋮⋮父親に似てしまったんですかねえ。
家内はわりと器用な方だったはずなんですけど﹂
場違いな言葉が空々しく響く中、びゅ、っと何かが風を切る音が
聞こえた。
俺は咄嗟に身構えるものの、黒の粘体から伸びた触手が向かった
のは俺たちの居る明るい方ではなく、闇の向こう側に潜むモンスタ
ーの方だった。薔薇姫が黒い触手に捕まり、ずるずると引きずり寄
せられる様が黒々とした闇の向こうに微かにシルエットで浮かびあ
がる。朱雀の光の範囲外、闇の中でぐちゃりごりばきりと不気味な
音と微かな影絵だけがおぞましい惨劇を物語る。見えないからこそ、
より恐怖を掻きたてられる。
そして、闇が震えた。
うぞぞぞ、と地面に広がっていた黒の粘体が蠢き、膨れ上がって
新たな輪郭を形作る。それは、見た目だけなら薔薇姫の形状にとて
もよく似ていた。下向きの薔薇の花を象ったような球状の下半身に、
619
その上にちょこんとついた上半身。薔薇姫であればその名の通り、
可憐なお姫様の上半身がついていたものだが、今そこにあるのはの
っぺりとした黒の無貌だ。これだけの質量がよくもまあ小さな幼子
の身体に収まっていたものだと、変なところに感心してしまいそう
になる。
呆然自失と目の前の光景を見つめることしかできない一同の前で、
マルクト・ギルロイだけが愛息子のお遊戯を眺める親馬鹿のような
顔でにこにこと変わらずに微笑んでいた。
﹁⋮⋮コレが、あんたの息子なのか﹂
﹁ええ、私の自慢の坊やです﹂
即答だった。
迷いはなかった。
モンスターを捕食してその形を真似た異形の黒の粘体を、この男
は変わらずに﹃坊や﹄と呼んだ。
病んでいる。
いや、それは姿形を超えた父子の愛なのかもしれない。
俺のような若造には、父親が子供に注ぐ愛の深さを推し量ること
は出来ない。もしかしたら、マルクト・ギルロイとその﹃息子﹄で
ある異形との間には俺らには理解できないような深い愛の物語があ
るのかもしれない。けれど、それは俺にとっては途轍もなく異質な
ものだった。
そしてその異質さを、マルクト・ギルロイは歯牙にもかけていな
い。
彼にとって目の前の息子は愛しい自慢の坊やでしかなく。
周囲から向けられる恐怖の眼差しに意味はない。
620
あんまりにも完結した父子の関係を見せつけられて、俺はどうし
たものかと反応に困ってしまう。
そんな俺に代わって、横合いから口を開いたのはやっぱりイサト
さんだった。
﹁︱︱彼が、あなたの息子だと言うのなら、それはそれでいいだろ
う﹂
良いのか。
本当にそれで良いのか。
いろいろ良くない気もする。
﹁だが︱︱⋮その息子さん連れで私たちに何の用だ?﹂
﹁あ﹂
そうだ。
間の抜けた話だ。
衝撃的な息子さん紹介に度肝を抜かれて、そこで思考がフリーズ
してしまっていた。問題はマルクト・ギルロイの息子が薄気味悪い
異形である、ということではなく。マルクト・ギルロイがここに何
をしに現れたのか、ということだ。たとえマルクト・ギルロイの息
子があのヌメっとした人型だったとして、彼らが俺らに害を成す存
在でさえなければ別にそれで良いのだ。個性は尊重しよう。それは
例えその息子が黒い粘体と化してモンスターを捕食するような存在
であったとしても、だ。
イサトさんの問い掛けに、マルクト・ギルロイはにこやかに笑っ
た。
621
・・・
﹁あなた方には︱︱⋮坊やのご飯になってもらおうかと﹂
その言葉と同時に、ぶびゅるッと粘質な音が迸る。
それがヌメっとした人型の背が破裂した音だと気付いた時には、
すでに弾けるような勢いで射出された黒の触手が俺たちに向かって
降り注ごうとしているところだった。
俺やイサトさんどころか、その背後にいるエリサ達までをも取り
込もうと広げられた触手は、いつかテレビで見たクリオネの捕食光
景じみている。
﹁ちッ﹂
悪寒を振り切るように、俺は舌打ちを一つ。
先程からの戦闘で学んだのだが、俺の攻撃というのは基本的に一
点豪華主義である。スキルを使うことである程度離れたところにい
るモンスターを狙い撃ちにしたり、直線上にいるモンスターをまと
めてぶった切る、というような手段も持ち合わせてはいるのだが⋮
⋮それでも基本的に俺の攻撃は一点に収束する傾向にある。つまり、
相手が手数で攻めてきた場合、なおかつそれが広範囲に及ぶ場合、
迎撃が間に合わない。自分一人の身を守る程度ならわりとどうにで
もなるのだが、守るべき対象が複数になるとどうにも弱い。
そもそもRFCというゲーム自体が、そういった状況を前提にし
ていなかったということもある。だからこそ、リアルとなったこの
世界において、﹁守るもの﹂が複数存在する戦闘に、俺のこれまで
のスキルやスタイルがうまく咬みあわない。
そんなわけで。
﹁イサトさん⋮⋮!!﹂
622
ファンクション
﹁F8!﹂
あっさりとこの場をイサトさんに譲ることにした。
イサトさん大きく広がって迫りくる触手に向けて手をかざし、高
らかにスキルの実行を宣言する。その手の先に、ごうっと渦巻く焔
が花開くように展開し俺たちを護る焔の壁となった。一応警戒しつ
つ様子を窺ったものの、触手が焔の壁を突き抜ける様子はない。
﹁エリサ、今のうちに皆を逃がせ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁エリサ!﹂
﹁わ、わかった!﹂
あまりの展開に呆然としていたエリサが、俺の声にびくりと小さ
く肩を揺らし、両親らと共に狩りチームのメンバーを扉の向こうへ
と押し込んでいく。その様子をちらりと目の端で見届けて︱︱⋮
﹁先に行く!﹂
﹁ん﹂
俺はイサトさんにそう一声かけると、大剣を携えて焔の壁へと突
っ込んだ。
ゲーム時代であれば俯瞰で画面を見ていたので気にならなかった
のだが、イサトさんが防御のために展開したこの壁魔法の欠点をあ
げるとしたら視界が遮られる点だ。まあ、それは逆に相手からも俺
らの姿が見えないということになるので⋮⋮こんな風に不意打ちも
可能になる。
身体にまとわりつくような熱気を感じたのは一瞬。
ぼひゅっと焔の壁を突き抜けて、俺は大股に一息にヌメっとした
モンスターへと接近した。腰だめに構えていた大剣を一閃、その膨
623
れあがった球体を薙ごうと試みる。飛空艇で遭遇したヌメっとした
人型と同類だとした場合、通常武器でダメージを与えることが出来
ないのは予想できるが、時間稼ぎぐらいにはなるだろう。
そう思っていたのだが⋮⋮大剣が黒くヌメる球の表面に触れるか
触れないか、というところで急にすぅっとその色が抜けた。最初は
溶けた飴のように濁りがあるそれが見る見るうちに硝子細工のよう
に澄み渡る。そして、その中にあるものを視認して俺は息を呑んだ。
﹁⋮⋮ッ!﹂
振り抜きかけた大剣だったり、前のめりに突っ込みかけていた脚
に急ブレーキ。
ざりりりりッ、と足元で砂利が鳴る。
重心を一気に反転させての方向転換。
バスケ部時代に慣れたターンとはいえ、重量級の武器を振り抜き
かけたところでのこととなると流石に足腰が軋むように鈍く痛む。
が、振り返った先でやっぱり、というか案の定、というか待ち構え
ていた光景にそれどころではなくなった。
焔の壁は、もう役目を終えたかのように消えていた。
名残のように、ちろりと熾火めいた光がイサトさんの足元を彩る。
その背後にいた怯える狩りチームの人々の姿はもうない。
コントロール
ファンクション ファンクション ファンクション
﹁イサトさんスト﹂
﹁Ctrl2、F1! F2! F3⋮⋮!!﹂
ップ、と最後まで言うより先に、イサトさんの放った攻撃魔法が
次々とヌメっとしたモンスターめがけて飛来する。俺の援護なのだ
としたら完璧なタイミングでの追撃だった。ヌメッとした黒の人型
が取り込んだモンスターが薔薇姫だったことを鑑みてのチョイスな
624
のだろう。その全てが焔系の魔法である。地を蔦のように走りなが
ら迫るもの、複数の火矢となって降り注ぐもの、そしてサッカーボ
ールほどのサイズの焔の塊が縦横無尽に突っ込んでくる。
だから。
もう一度言うが。
俺は複数迎撃には向いていないのである。
﹁⋮⋮ッ!﹂
ぐっと強く奥歯をかみしめて、ヌメっとしたモンスターに直撃し
そうな魔法攻撃を幅広の大剣を振りまわして薙ぎ払った。接触した
地点で爆発するタイプの攻撃魔法が次々と誘爆してイサトさんの魔
法を絡め取る。轟々と渦巻く爆炎に息が詰まる。燃え盛る焔に焙ら
れ、露出した肌がちりちりと痛んだ。が、まだ怯むわけにはいかな
い。俺は素早く足元を確認。そして地表を走る焔の蔦を、顔を顰め
つつ思い切り踏みつけた。腹に響く音とともに足元で焔が炸裂する。
﹁っ、﹂
足裏から膝の辺りまでを灼熱の焔に焼かれる痛みに、一瞬頭の中
が真っ白になった。これは痛い。いくら高レベル装備で身を固めて
いようと、さすがにイサトさんの魔法攻撃を受けてノーダメという
わけにはいかないらしい。装備がなかったら間違いなく足を吹っ飛
ばされていた。
﹁秋良!?﹂
イサトさんが驚いたように俺の名を呼ぶが、それに返事をする余
裕はない。イサトさんの魔法攻撃を迎撃している俺の無防備な背中
625
を敵が見逃すわけもないのだ。ああクソ、と口汚く罵りながら、俺
は目の前を渦巻く焔の中に自ら突っ込んだ。だん、と叩きつけるよ
うに左手で身体を押しやり、転がって距離を稼ぐ。あちこちの皮膚
がひきつるように痛むのは間違いなく火傷のせいだろう。そんな俺
の背後で、ざすざすざすッと空を切った触手が地面に刺さる音が聞
こえた。
ファンクション
﹁触手⋮だけ、狙え⋮⋮!﹂
﹁F2!﹂
がさがさに掠れた声で叫ぶ。
状況もわかっていないだろうに、イサトさんはすぐさま再びスキ
ルを発動させると、俺を追って伸ばされた触手を迎撃してくれたよ
うだった。イサトさんと同じ位置まで一旦下がって、俺はげふごふ
と咳き込んだ。熱気を吸いこんだせいで、喉が焼けたように痛む。
というか、実際焼けている。息をする度に金臭いのは、熱に爛れた
粘膜が出血しているせいだろう。口の中も血の味でいっぱいだ。や
ばい死ぬ。ざん、と大剣を地面に突き立て、それで身体を支えつつ
ぜいぜいと喉を鳴らして息を継いだ。吸っても吸っても肺に酸素が
行き届いてないような感覚に、目の奥がチカチカと瞬く。
﹁朱雀!﹂
イサトさんの声をきっかけに、少しずつ呼吸が楽になり、喉やら
全身やらの痛みが薄れていった。朱雀の回復魔法の恩恵だろう。は、
は、とまだ荒い息を整えながら、ようやく顔をあげてぼそりと呟い
た。
﹁⋮⋮し、死ぬかと思った﹂
﹁殺すかと思ったぞこっちは!!!﹂
626
イサトさんに間髪入れず怒鳴られた。イサトさんにしては珍しい
ぐらい動揺が声に現れていて、なんだかちょっと泣きそうに震えて
いるようにも聞こえる。顔をあげようとしたところ、べちりと顔面
に手を押しあてられた。アイアンクローじみているものの、その指
に力はこもっていない。
もしかして、顔を見られたくない、とか?
﹁イサトさん?﹂
﹁⋮⋮後で覚えてろ﹂
非常に恐ろしい宣言をされた。
イサトさんはふいっと手を俺の顔面から離すと、インベントリへ
と手を滑らせる。そこから取り出したのは、先程の狩りで手に入れ
たばかりの小瓶だった。薔薇姫ドロップの蜜だ。手のひらサイズの
小瓶に入ったとろりとした蜜は、朱雀に照らされてとろりとした光
を放っている。
﹁念のため、こっちも飲んでおくといい。というか、飲め﹂
﹁はい﹂ 逆らうと後が怖い。
きっと俺を睨む金色が、ちょっとばかり潤んでいるように見える
のは見間違いだろうか。これはアレだ。全部終わったら本気で謝ら
ないといけない奴だ。
きゅぽ、と瓶の蓋を落して、中身を一息にあおった。薔薇の香り
を濃く纏った甘ったるい蜜がとろとろと喉を過ぎていく。精製前と
はいえ、高級ポーションの材料となるぐらいなので、薔薇姫の蜜だ
けでも回復アイテムとして優秀なのである。
俺は回復具合を確かめるように首を回して手首を振りつつ、ヌメ
627
っとしたモンスターへと向き直った。その球体部分は、すでに元の
のっぺりとした黒に戻っている。
﹁秋良、説明してくれ﹂
﹁イサトさん﹂
俺は、重々しい声音でイサトさんの名を呼ぶ。
そして、俺を見やった金色をしっかりと見据えて口を開いた。
﹁ライザとレティシアが人質に取られてる﹂
628
おっさんを泣かす︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
キリが良かったのでここで一度切らせて頂きます。
PT、感想、お気に入り、励みになっております。
629
おっさんと一つの終焉
そう。
接敵して斬りつけようとした瞬間、硝子のように透けたモンスタ
ーの腹部に囚われていたのはセントラリアに残してきたはずの二人
だった。
あのまま俺が大剣を振り抜いていたならば、間違いなく内部に囚
われていた二人ごとぶった切る軌跡だった。それ故のクイックター
ンである。
﹁ライザとレティシアが捕まってるって⋮⋮﹂
信じられないといったようにイサトさんは、俺とヌメっとしたモ
ンスターの球状に膨れた下半身とを交互に見やる。が、それ以外に
俺がイサトさんの攻撃から身を挺してあのモンスターを庇う理由が
思いあたらなかったのか、嫌そうに顔を顰めつつも納得したように
深く息を吐いた。
﹁⋮⋮もっと強力なアイテムを渡しておけば良かった﹂
﹁いやいやヌメっとシリーズを倒せるだけの破壊力を秘めたアイテ
ムは流石に駄目だろ﹂
下手したらセントラリアの一角が吹っ飛ぶ。
イサトさんは冗談めかしながらも、悔しそうに唇をきゅっと咬ん
でいる。
﹁イサトさん、仕方ない﹂
﹁⋮⋮でも﹂
630
﹁ヌメっとしたのが潜んでるなんて知らなかったんだから﹂
﹁それはそうだけれども﹂
イサトさんは、敵の戦力を見誤ったことを悔やんでいる。
セントラリアに残してきたライザやレティシアに敵の手が及ぶ可
能性に気付いていながら、こんな事態になってしまったことを自分
の責任だと思っている。
あそこで自分がもっと適したアイテムを渡すことが出来ていたな
らば、こんなことにならずに⋮⋮、俺を痛い目に合わせずに済んだ
のではないかとありもしない可能性を思い描いている。
﹁イサトさん﹂
﹁⋮⋮なんだ﹂
﹁いいことを教えてあげよう﹂
俺は、悔しそうに唇をへの字にして敵を見据えているイサトさん
の肩をぐいと引き寄せた。本来ならば敵を目の前にして目をそらす
なんて良くないんだろうが、この流れを引っ張るよりはマシだ。そ
れに、頭上を旋回するように舞う朱雀がある程度は応戦してくれる
だろうという見込みもあった。
イサトさんを正面からまっすぐに見つめる。
応戦するように、イサトさんもぐっと俺を見つめ返してくる。
年頃の男女が向かい合って見つめ合っているというのに、なんだ
かカケラもロマンチックなシチュエーションを掠らないのが残念極
まりない。
が、今は言うべきことがある。
俺はしっかりとイサトさんを見据えて口を開いた。
﹁試合の最中に悔やんでると、後でもっと悔やむことになるぞ﹂
﹁⋮⋮う﹂
631
俺の言葉に、イサトさんは小さく唸った。
これは俺がバスケやら剣道やらの試合の中で学んだことである。
反省は大事だし、同じ間違いを繰り返さないために対策を考える
ことは大事だ。
けれどそのせいで集中できなかったために一つのミスからがたが
たと崩れていった試合を俺は腐るほど見てきているし、嫌というほ
ど体験もしてきている。
ヌメっとシリーズが潜んでいることを予見できなかったのは、こ
ちらのミスかもしれない。だが、人質は取られているとはいっても、
俺たちは一度飛空艇で同シリーズのヌメっとした人型を見事倒すこ
とに成功しているのだ。
撲殺、なんていうシンプル極まりない手段で。
なので、今すべきことは反省でも後悔でもない。
どうしたらライザとレティシアを取り戻し、あのヌメっとしたモ
ンスターを無事に撲殺することが出来るかという手段を考えること
だ。
﹁︱︱⋮﹂
イサトさんは、ふっと目を閉じて深呼吸を一つした。
次に目を開けた時、イサトさんの瞳から動揺の色はだいぶ薄くな
っていた。
そう。それでいい。
ミスは取り返せばいい。
俺たちにはそれが出来るだけの力がある。
俺はイサトさんの肩から手を離し、再びヌメっとしたモンスター
へと向き直ろうとして⋮⋮
632
﹁秋良青年﹂
ふと、イサトさんに呼び止められた。
﹁ん?﹂
﹁その﹂
イサトさんは、少しだけ気恥しそうにほんのりと目元を淡く染め
て、ぽつりとつぶやいた。
﹁ありがとう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
思わず言葉を失った。
まだまだ戦場だとか、これからライザとレティシアの奪還戦が待
っているとか、そういうことが一瞬頭からトぶ程度には可愛らしい
お礼だった。
くそう。
普段年上ぶっている︱︱⋮というか実際に年上なわけなのだが、
そんなイサトさんにしおらしくお礼なんて言われてしまうと、予想
外に心臓が跳ねる。
そんな動揺を誤魔化すように俺はぼり、と頭を掻く。
鎮まれ俺の心臓。
﹁︱︱⋮さて﹂
イサトさんが敵に向き直って改めて口を開いた。
﹁幾つかわからないことがあるんだが⋮⋮、質問しても?﹂
633
﹁ええ、構いませんよ﹂
イサトさんの言葉に、マルクト・ギルロイが一歩前に出る。
二人のやりとりは、商品について聞こうとしている客とそれに愛
想良く応じる販売員といった風にさりげなく響いた。
﹁まず一つ。せっかく囲っていた獣人たちを始末しようとしたのは
どうして?﹂
﹁それはアレですよ。セントラリアを出た獣人たちがそのまま消え
ているということに、貴方がたが気づいてしまったからです﹂
﹁なるほど﹂
会話の間、手慰みというようにイサトさんはトン、トン、としゃ
らんら★で地面を叩く。
﹁いくら愚鈍な動物でも、さすがにそこまで状況が明らかになって
しまえば恩も忘れて逃げ出すだろうと思いましたので﹂
﹁そもそもそんな恩があったのかどうかも疑問だけどな﹂
﹁そう、ですか?﹂
横合いから口を挟んだ俺に、マルクト・ギルロイは心底不思議そ
うに首を傾げた。あれだけ境遇に街に住む獣人たちを追いこんでお
きながら、本人は恩を売っているつもりだったというのが何とも恐
ろしい。
﹁だって、ここまで生かしておいてあげたでしょう?﹂
おおう。
俺とイサトさんは思わずちら、っと視線を交わしてしまった。
この男にとって、きっと獣人というのは同じ﹁人間﹂のカテゴリ
634
には存在しない、自分よりももっと遙か下位に存在しているものな
のだろう。
同じ言葉を話し、相互理解を深めることが出来る相手に対してど
うしてそこまで残酷になれるのかが、俺にはよくわからない。それ
は俺がほぼ単一種族のみで成立する日本という国で育ったからなの
か。
誰それが嫌い、∼∼という考え方が合わないからその団体を避け
る、というような感覚は俺にもわかる。だが、肌の色や種族の違う
というだけで、意志の疎通が可能な相手を自分よりも劣る動物のよ
うに扱う感覚はどうもピンと来ないのだ。
﹁それでも、﹃女神の恵み﹄が手に入らなくなったら困るんじゃな
いのか?﹂
商売という意味でも、生活という意味でも、獣人側にそっぽを向
かれたら本当に困るのは人間の方だというのが俺たちの結論だった。
だからこそ、そこの利害関係をうまく交渉することが出来れば獣人
の立場を向上させることも出来るのではないか、などと考えていた
わけなのだが⋮⋮どうやら、このマルクト・ギルロイなるおっさん
の発言を聞いているとどうにも難しそうだ。
商売上の利益のために獣人の立場を弱めて利用していた、という
よりもこの言いようでは、心の底から獣人を蔑み、嫌っているから
こそ利用してついでのように利益を上げていた、というように聞こ
える。
それを確かめるための疑問に、マルクト・ギルロイはにっこりと
笑った。
ルーター
﹁ああ、そこが心配だったんですね。大丈夫ですよ。女神の恵みを
独占する薄汚い略奪者を駆逐することが出来れば、その心配はなく
なりますから﹂
635
﹁⋮⋮っ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
これは、駄目だ。駄目な奴だ。
相互理解とかそういう生ぬるい言葉が届かない域にイってしまわ
れている。
セントラリアにはびこる獣人蔑視の思想をとことん突き詰めたら
そこまでいってしまうのかという暴論が、マルクト・ギルロイの中
では成立してしまっていた。
獣人
獣人が﹁女神の恵み﹂を独占しているが故に、人にその恩恵が行
き渡らないというのなら、略奪者を殺せばいい。
それが、マルクト・ギルロイの辿りついた歪な結論だった。
声高に主張するわけでもなく、さも当然のように語られたその言
葉に背筋がぞくぞくと冷える。主張しないのは、それが主張するま
でもなく皆にも受け入れられる﹁正論﹂だと確信しているからだと
わかってしまったからだ。
このマルクト・ギルロイという男は根っ子の部分から狂っている。
極悪非道な商人というわけではなかったのだ。
ただ、理屈が狂っている。
﹁⋮⋮それが、本当じゃなかったらどうするんだ?﹂
﹁とは?﹂
イサトさんの疑問に、マルクト・ギルロイが首を傾げる。
636
﹁いや、ほら。貴方は獣人を殺せば人間も女神の恵みを手に入れら
れるようになると思っているみたいだけれども⋮⋮もしそうならな
かったら? 誰も﹃女神の恵み﹄を手に入れられない、なんてこと
になったらどうするつもりなんだ?﹂
﹁試しに獣人全滅させてみたけど駄目でした、じゃ済まないだろ?﹂
﹁はは、大丈夫ですよ﹂
俺たちの声に、マルクト・ギルロイはにっこりと明るく微笑んだ。
そんな仕草はまるで、疑り深い客を相手にする深夜の通販ショーの
販売員のようである。
こん。こん。こん。
そんなやりとりの間も、イサトさんは手慰みのようにスタッフで
地面を小突いている。
﹁実際に坊やは救われましたから﹂
﹁救われた?﹂
﹁ええ、ええ。今から十年ほど前のことになりますか。うちの坊や
は流行り病で酷い熱を出してしまったんです。坊やを救うためには、
ある﹃女神の恵み﹄が必要でした﹂
昔を懐かしむように、マルクト・ギルロイは薔薇の庭を見渡した。
﹁それなのに、街の獣人たちは誰も力を貸してはくれなかった﹂
ぴしり、と。
愛想の良い販売員風の顏に罅が入ったように見えた。
顏は笑っていたものの、マルクト・ギルロイの目の奥に滾るのは
637
明らかな憎悪だった。
﹁怖気づいたんですよ。普段威張り腐って﹃女神の恵み﹄を高値で
売りつけてきた獣人どもは、いくら金を積んでも私が本当に必要な
ものは売ってくれなかった﹂
ふとマルクト・ギルロイが目を伏せる。
﹁坊やは、死にました。獣人どもに見殺しにされたんです﹂
次に顏を上げたとき、マルクト・ギルロイはやっぱり笑っていた。
にこにこと笑いながら、その眦からつっと唯一の人らしさのよう
に涙が頬を滑り落ちて行った。
﹁でもね、ある人が坊やを助けてくれたんです。獣人どもを殺せば、
﹃女神の恵み﹄を取り戻すことが出来るって。坊やを生き返らせる
ことが出来るって教えてくれたんです。だから、殺しました。商談
があると呼び寄せて、何度も何度もその腹を刺して、動かなくなる
まで頭を殴って、殺しました﹂
マルクト・ギルロイは嬉しそうに語った。
その独白に、俺はなんだか憂鬱になってしまった。
人を殺したことを嬉しそうに語るから、ではない。
それが、マルクト・ギルロイという男が息子のためにしてやれる
唯一だったということに、なんとも言えない気持ちにさせられてし
まったのだ。
獣人でなければ、﹃女神の恵み﹄を手に入れることが出来ない。
638
だからこの男は、息子の病のための特効薬があると知りながらも、
自らそれを手に入れるために危険を冒すことは出来なかった。それ
が無駄であるということを知っていたから。
そして、何も出来ないまま息子はやがて死に至る。
きっと、心が擦り減るほどに自分を責めたことだろう。
何もしてくれなかった周囲を憎み、呪い、そして誰よりも何も出
・・・
来なかった自分自身を憎み、呪ったことだろう。
だからきっと、この男は飛びついたのだ。
﹁獣人を殺せば息子を救ってやる﹂という何者かの妄言に。
﹁私は人間ですから、息子のために﹃女神の恵み﹄を手に入れてや
ることは出来なかった。けれど、私にも獣人を殺すことは出来た。
そして︱︱⋮坊やは甦ったんです﹂
愛しげに瞳を細めて、マルクト・ギルロイは傍らに控えるバケモ
ノを見る。
そして無貌に成り果て、黒くヌメる人外のバケモノをこの男は﹁
可愛い坊や﹂と呼ぶのだ。
は、とイサトさんがやりきれないといったように息を零すのが聞
こえた。
﹁⋮⋮きっと、無駄なんだろうな﹂
﹁⋮⋮うん﹂
イサトさんの呟きに、俺は頷く。
きっと、無駄だ。
あなたの隣にいるのはただのヌメっとしたバケモノで、あなたの
639
息子などではないのだと言う言葉は、彼には届かない。
﹁時間稼ぎのつもりだったんだけども︱︱⋮﹂
聞かなきゃ良かった、と言うようにイサトさんがやわりと目を伏
せる。
銀色の睫毛がその目元に濃く影を落す。
物憂げなその横顔に、俺も短く息を吐き出した。
﹁さて、随分と無駄話をしてしまいましたが⋮⋮そろそろ坊やがお
腹を空かせている頃です。質問はもう良いですか?﹂
その問いかけに言葉で答える代わりに、俺とイサトさんはそれぞ
れ得物を構えることで応じた。
そして、再び戦闘が始まる。
﹁秋良、これを!﹂
﹁うえええええ⋮⋮﹂
640
ぶびゅるっと伸ばされた黒の触手を迎撃するためにイサトさんが
俺に放ったのは、ドリーミィピンクが暗がりでも輝くようなまじ狩
る★しゃらんらだった。それを手にするのは心底嫌で嫌で仕方ない
のだが、それしか手がないのもわかっているためおとなしく受け取
る。
それと同時にイサトさんの身体を包んでいた薄い桃色の光が闇に
溶けるように消えていき、その衣装も変身前の赤ずきんへと戻る。
握ることで、俺の身体を薄桃の光が包んだりなんかした日には舌
噛んで死んでやる、とやさぐれた気持ちで思っていたりもしたのだ
が⋮⋮、そんなことは起こらないまましゃらんら★の柄はしっくり
と俺の手に馴染んだ。
鈍器として。
﹁どうりゃ⋮⋮っ!!﹂
俺とイサトさんを絡め取ろうと伸ばされる触手を、ぱしんぱしん
と叩き払うようにしてしゃらんら★を振るう。
打撃ダメージはそれほど与えられていないはずだが、聖属性のし
ゃらんら★に触れられることを嫌がるようにしゃらんら★に払われ
た触手はしおしおと萎れて地に落ちる。
﹁イサトさん、ライザやレティシアの居場所はわかったか?﹂
﹁何度か試したが駄目だった⋮⋮!﹂
﹁ぐぬぅ﹂
いつもの禍々しいスタッフに持ち替えたイサトさんの返事に、俺
は渋面で呻いた。先ほどマルクト・ギルロイとの会話の間に何度も
イサトさんがさりげなくしゃらんら★で地面を叩いていたのはおそ
641
らくスキルの発動のためだと見て聞いてみたわけなのだが、スキル
を使ってもあのヌメっとした身体のどこにあの二人が囚われている
のかを見届けることは出来なかったらしい。
﹁まあ、もともとスキャンスキルは条件が厳しいから難しいとは思
っていたんだけど﹂
﹁ちなみに発動した結果としては?﹂
﹁聖属性が弱点ってことしかわからなかった﹂
﹁やっぱりそうなるか﹂
スキャンスキルというのは、モンスターの弱点を見抜くことが出
来るという便利スキルだ。前衛、後衛、ジョブに関係なく身につけ
られるスキルなので、RFCプレイヤーの中にはこのスキルを持っ
ている者も多い。が、その発動条件がなかなか厳しいため、俺は数
少ないスキャンスキルを最初から諦めたクチの一人である。
まず一番基本的な条件として、スキャンして出る情報は、一度自
らの手で判明させたものに限られる。つまり、未知のモンスターに
対しては通用しない。また、高レベルのモンスターに関しては魔力
防御の値が高く、スキャンスキルに対してレジストしてくるのも多
いのだ。
それならば二窓で攻略サイトでも開いておけば十分代用出来るし、
そもそも俺はガチガチの前衛ステ振りで魔力系のステータスはとこ
とん低い。
そんなわけで、俺は最初からスキャンスキルを持ってすらいなか
ったりするのである。
﹁ってことは、ライザやレティシアの状況も不明なままか?﹂
﹁とりあえず朱雀にはライザとレティシアの回復を命じていて、そ
れが失敗してないってことは確実に生きてはいる﹂
﹁了解⋮⋮ッ、っと!﹂
642
そんな会話の合間にも、次々と伸ばされてくる触手を俺はしゃら
んら★で叩き落していく。これで、俺たちが手を出しこまねいて戦
っている間にモンスターの中でライザとレティシアが命を落とす、
なんていう最悪な事態は回避することが出来たはずだ。後は、どう
にかしてライザとレティシアを助けだすことさえ出来れば⋮︱︱
そう、思い続けてどれくらいの時間が経っただろうか。
相変わらず状況は膠着している。
お互いに決め手がないままに睨みあっている。
ヌメっとしたモンスターには俺たちをどうこう出来るだけの決め
手がなく、俺たちにはヌメっとしたモンスターをぶち殺す手段はあ
っても、人質のためにそれを実行できずにいる。
ふつふつと額に浮いた汗を、ぐいと手の甲で乱暴に拭った。
体力的にはまだ余裕はあるものの、精神的になかなか追い込まれ
ている。
﹁秋良青年﹂
643
そんな中、ふと神妙な声でイサトさんが俺の背中に声をかけた。
﹁何﹂
返事がそっけなくなるのは、それだけ余裕がないからだと思って
見逃していただきたい。
﹁イチかバチかの作戦がある。聞いてほしい﹂
ほんの少しだけ、違和感を感じる。
けれど、この状況ではそんな違和感を気にしていられるわけもな
く、俺はそのまま触手を打ち払いながら頷くことでイサトさんを促
した。
正直に言おう。
俺はイサトさんを庇いながらひたすら触手を打ち払うという作業
にプレッシャーを感じていたのだ。少しでも俺がミスれば、イサト
さんに危険が及ぶというこの状況は、想像以上にキツかった。なの
で、そんな状況を打破するための作戦があるというのなら、何でも
良いから飛びつきたかった。
﹁作戦自体は、とんでもなくシンプルなんだ。いつも通り、君は敵
に突っ込んで一撃を加えればいい。ただ、インパクトの面を一点に
絞って突き立ててほしい﹂
イサトさんが言った通り、それはどこまでもシンプルな作戦だっ
た。
けれど、その意味を察したとたん口の中に苦いものが広がった。
﹁おいイサトさん﹂
644
﹁私がここで全力で回復に回る﹂
﹁⋮⋮ッ﹂
息を呑む。
思わず振り返ってしまいそうになるのを、なんとか自制した。
唸るように言葉を吐く。
﹁それは、犠牲が出ること覚悟ってことかよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
イサトさんは、言葉にしては答えなかった。
けれど、決して否定の言葉を言おうともしなかった。
全力で突っ込んで、あのヌメっとしたモンスターの膨れ上がった
腹にしゃらんら★を突き立てる。
それはこの戦いが始まって以来ずっと俺がしたいと思っていたこ
とだ。
だが、その体内のどこにライザとレティシアがいるのかがわから
ないからといって、実行に移せなかったことだ。
万が一俺が突き立てたしゃらんら★がライザやレティシアにまで
及べば、二人を命の危険に晒すことになる。
イサトさんが今言っているのは、その危険をあえて冒すというこ
とだ。
確かに、大剣の薙ぐような攻撃と違って杖で刺し貫くような攻撃
であれば⋮⋮攻撃の面積を最大限に絞れば、二人に危害が及ぶ可能
性はそれだけ減るだろう。
そしてそれと同時に、その一撃が当たったとしても二人が即死す
る可能性も同様に減る。むしろイサトさんは、二人を巻き込む前提
の貫通攻撃でかたを付けようと言っているのだ。もちろん、イサト
645
さんがその間全力でライザとレティシアの回復に回ることで、最大
限二人の安全を確保しようとはしているのだが。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
そんな作戦に乗れるか、と怒鳴ってしまいたかった。
この手で、ライザやレティシアを傷つけることが前提として組み
込まれている作戦になんて、顔をそむけてしまいたかった。
けれど、それしか方法がないこともわかっていた。
このままではいつまでもキリがない。
俺の集中力が尽きれば、その後に待つのは全滅だ。
それよりは悲惨な作戦だろうが⋮⋮、まだ助かる可能性に賭けた
い。
﹁⋮⋮⋮⋮わかった﹂
俺は呻くような苦味を帯びた声音で頷いた。
そして、しゃらんら★を携えて一息にヌメっとしたモンスターに
向かって鋭く踏み込む。
﹁おや、人質のことはもう良いのですか?﹂
うるせえ。
からかうようなマルクト・ギルロイの声に、心の中だけで怒鳴る。
今はそんな呼気すら勿体ない。
俺を絡め取ろうと伸びてくる触手のことごとくを避け、しゃらん
ら★で叩き落しながら体を低くして3、4メートル程度の距離を駆
け抜ける。
俺の背後を舞う朱雀が、スキルの発動を予兆するようにめらめら
とより明るく燃えた。
646
大丈夫だ。
イサトさんを信じろ。
﹁う、らァアアアアアア!!!!﹂
自身を鼓舞するように吼えながら、俺はまっすぐにしゃらんら★
の石突をヌメッとした球体へと突き立てる。
初撃の繰り返しのように、黒々とした球が透けて、中に囚われた
ライザとレティシアの姿が浮かび上がっていく。
二人の姿は、まるで水の中を揺蕩っているかのようだった。
力を失った四肢や、取りこまれた時に二人が手にしていたのであ
ろう物がゆらゆらと揺れている。
そんな中で、水流に流されるかのようにして球の中を漂うレティ
シアの身体が、俺の攻撃に対する盾のようしゃらんら★の接触面に
向かって押し出されてくる。
綺麗な金髪が、ゆらりと揺れて。
うっすらと閉ざされた瞼の奥の瞳が、俺を見たような気がした。
意識もないはずのその唇が、小さく戦慄いて俺の名を呼んだよう
な気がした。
それでも俺は手を止めない。
ず、としゃらんら★の石突がヌメっとしたバケモノの腹にめりこ
む。
まだ腹は破れない。
でも後少しだ。
後ほんの少し力をこめれば、しゃらんらの石突はぶつりとバケモ
ノの表面を突き破り︱︱⋮そしてそのままレティシアの胸を貫くこ
とになるだろう。
これで本当にいいのか。
647
なあ。イサトさん。
こんなやり方で。
﹁ァアアアアアアアア!!!﹂
吼えながら、俺はしゃらんら★をなおも押し込もうとして。
唐突に、周囲に闇が落ちた。
真っ黒にブラックアウトしたように見えたのは、俺の目が光に慣
れていたせいだと気づいたのは、急速に闇に慣れようと瞬きを繰り
返した俺の目に、うっすらとレティシアの姿が浮かんだからだった。
俺が失明したわけでないなら。
俺の視覚が失われたわけでないのなら。
答えはシンプルだ。
︱︱︱光源が失われた。
壮絶に厭な予感がした。
俺は突き立てようとしていたしゃらんらを死にもの狂いで引き戻
しつつ、背後を振り返る。
﹁︱︱ッ﹂
648
冴え冴えとした月明かりの下、呆然と立ち尽くすイサトさんと目
があった。
その顔色が不思議と色を失って見えるのは、月明かりのせいだけ
じゃないのだとようやく俺は気づいた。
俺はあの時の違和感を無視すべきではなかった。
﹃イチかバチかの作戦がある。聞いてほしい﹄
あの時イサトさんは、﹁聞いてくれ﹂ではなく﹁聞いてほしい﹂
と強い調子で言い切った。そして口にした作戦だって、いくら追い
詰められているとはいえあまりにもイサトさんらしくなさすぎた。
あれはきっと、これ以上戦闘が長引けば自らのMPが持たないこと
に気付いていたからこそだったのだ。
そして、その作戦の実行を待たずにして、イサトさんのMPは尽
きた。
だから、維持出来なくなった朱雀が消えた。
イサトさんのいつかの言葉が頭の中に甦る。
﹃だって、自分がMP切れしてるって自覚がないまま戦闘が続行す
るんだぞ。その勘違いって結構命取りだと思わないか?﹄
俺の横合いから、ぶびゅると粘着質な音が響いて、次々と黒の触
手がイサトさんに向かって伸ばされる。
息が詰まる。
まずい。
本当にまずい。
ぞわぞわと悪寒に背筋が冷える。
﹁やめろッ!!﹂
649
叫びながら、しゃらんら★を振り抜いて触手を薙ぎ払う。
けれど、全ては落とせない。
上空を弧を描き撓った触手がイサトさんの腕を絡めとる。
それをきっかけに次々と触手がイサトさんの四肢に絡みついてい
くのが見えた。
﹁やめろっつってんだろ⋮⋮!!﹂
我武者羅にしゃらんら★を振りまわすが、俺はヌメっとしたモン
スターに近すぎた。イサトさんから、離れ過ぎた。
漆黒の繭に包まれてその姿すら見えなくなったイサトさんの身体
がそのまま地面に呑まれるようにして消える。
からん、と後に残された禍々しいスタッフが地面に倒れる音だけ
が、空々しく響いた。
嘘だ。
嘘だ。
こんなのは嘘だ。
そして。
ごぷりと。
俺を嗤うよう、透けたモンスターの腹の中にイサトさんの姿が浮
かんだ。
﹁あ⋮⋮⋮⋮﹂
絶望の声が漏れる。
﹁イサト、さん﹂
650
硝子のように透けていたヌメっとしたモンスターの球体がどろど
ろと黒く濁り、やがてイサトさんの姿が見えなくなる。
手脚が、ぞっとするほどに冷たく感じた。
しゃらんら★を握る指先の感覚がない。
それなのに、頭の芯だけがぐらぐらと煮立つように熱く、痺れる。
息が出来ない。
イサトさんを奪われた。
イサトさんを取り込まれた。
どうしたら取り返せる?
どうしたら。
不安と焦燥が脳髄を焦げ付かせる。
そんな俺に向かって、ヌメっとした無貌が触手を伸ばし︱︱⋮
ど ぱ ァ ん !
その腹が内側から爆ぜた。
﹁え﹂
651
びちゃびちゃびちゃ、と周囲に黒い泥が飛び散る。
その爆心地にいたのは、当然のようにイサトさんだった。
﹁げっほ⋮⋮ッ、げほッ﹂
片腕を血の赤で彩り、喉をひゅうひゅう鳴らして咳き込みながら
も、イサトさんは無事な方の手を泥の中に突っ込みバケモノの腹を
掻き混ぜる。そんなイサトさんを再び包み込むように黒の泥が球を
象って再生しようとするが⋮⋮
﹁させるかッ!!﹂
俺はびちゃりと泥を踏みしだいて踏み込むと同時に、しゃらんら
★をぐずぐずと滑る漆黒の泥の中に突き立てた。そこを中心に、漆
黒の泥が粘度を失ってどろどろと溶解していく。
﹁秋良、ここにライザとレティシアもいるか﹂
ら、と最後までイサトさんが言うより先に、身体が勝手に動いて
いた。
黒い泥に塗れてびちゃびちゃになってるイサトさんの上身を、手
加減も忘れて強引に抱き寄せる。どうしても、そこにイサトさんが
ちゃんといるのだと確認せずにはいられなかった。じっとりと濡れ
た服の生地を通して、イサトさんの柔らかな肉感と共に体温が伝わ
ってくる。
良かった。
ちゃんと、生きてる。
とっとっと、と早いリズムを刻む鼓動が伝わってきて、ようやく
652
俺は安堵したように深い息を吐き出した。
﹁え、っと。あの。その。⋮⋮秋良、青年?﹂
﹁死ぬかと、思った﹂
イサトさんが。
そしてある意味でおいては俺が。
﹁︱︱⋮﹂
イサトさんの手が、ゆっくりと俺の背に回った。
愚図る子供を宥めるかのように、ぽんぽん、と優しく俺の背を叩
く。
﹁色んな意味で私も今死にそうだが、大丈夫。ちゃんと生きてるよ。
なので︱︱⋮とりあえず引き抜いて貰えるとありがたい﹂
﹁おう﹂
いろいろ言いたいことは胸の中に渦巻いていたものの、場所も場
所である。俺はそのまま頭の位置を下げ、イサトさんの腹に肩を押
し当てるようにしてずぶずぶと黒の汚泥の中からイサトさんの身体
を引き上げた。そのままイサトさんはかついだまま、俺はイサトさ
んが埋まってたあたりの泥の塊に腕を突っ込む。ぐちゅぐちゅと滑
る泥をかきわけていると、ふにゃりと柔らかい体温を感じた。服を
手繰るようにして引き上げ、ずぶりと泥の中から引きずりだしたの
はライザだった。次に、レティシア。
﹁私はもう大丈夫なので、ライザとレティシアを頼む﹂
﹁やだ﹂
﹁え﹂
653
俺の肩から降りようと身じろいだイサトさんを、一言で却下。信
用ならん。というか、怪我人は大人しくしてろ。
﹁え、でもさすがに三人担ぐのは﹂
﹁うるさい﹂
﹁うるさいって﹂
ごちゃごちゃ言ってるのは聞こえないふりして、俺はライザとレ
ティシアを何とか抱えあげると、最後にしゃらんら★を引き抜いて
その腹の中からとっとと脱出する。ちら、と横目に振り返った背後、
そんな俺に向かって獲物を奪い帰そうと触手がうねうねと迫ってく
るのが見えた。
﹁しつけえ!﹂
怒鳴りつつ、なんとか回避しようと試みる。
そんな俺の背でがっくんがっくんと揺られながら、イサトさんが
ファンクション ファンクション ファンクション
身を乗り出してしゃらんら★を握る俺の手の上から掌を重ねた。
コントロール
﹁Ctrl2、F1! F2! F3!﹂
肩の上に抱いた体が薄桃の光に包まれると同時に、まるで魔法の
ように衣装が変わってスキルが発動した。しゃらんら★から放たれ
た聖属性を帯びた火焔攻撃が次々と追いすがる触手を打ち滅ぼし、
黒のヌメっとしたモンスター本体へと着弾しては轟々と明るく燃え
盛る。その熱気を背中に感じながら、俺は自然と半眼になっていた。
MP、尽きてねえでやんの。
654
ということは、俺はここまでイサトさんの掌の上で転がされてい
たことになる。
どこからだ。
決まってる。
あの、イサトさんらしからぬ犠牲を前提にした作戦からだ。
﹁⋮⋮⋮⋮イサトさん﹂
我ながら凶悪な低音が出たもんだと思う。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮、﹂
いろいろと言い訳をしようと試みるような沈黙。
その後、何を言っても駄目だと判断したのか、イサトさんはぐん
にゃりと俺の肩の上で身体を弛緩させて、ぽそりと口を開いた。
﹁私が悪かった。ごめん。心配させた。でも細かく作戦を伝えるタ
イミングがなくて﹂
﹁ほうほう﹂
そうか。
確かにその言い分にも一理ある。
俺は三人分の体重に軽く息を弾ませつつ、俺はにこやかに言葉を
続けた。
﹁なら結婚しようか、これ終わったら﹂
﹁え﹂
肩の上でイサトさんがびくりと硬直する。
655
﹁結婚て。あの。結婚。ですか﹂
﹁はい。あの、結婚です﹂
イサトさんは何故かカタコトである。
はっはっは。
自分の撒いた種は責任とって刈り取るが良い。
RFCには、﹃結婚﹄というシステムがあった。
お互いの同意の元に教会で申請し、女神による祝福を持って成立
するシステムで︱︱⋮その﹃結婚﹄したキャラ同士はお互いの﹃家﹄
の合鍵を交換することが可能になる他、専用の回線で二人きりの会
話を登録なしで行うことが出来るようになるのだ。
1:1チャットやPTチャットなど、オープンではない会話を行
う方法は幾つかあるが、どれも事前に相手のIDを調べて1:1チ
ャットに招いたりPTを組むといった手間が必要だった。が、この
﹃結婚﹄システムを利用した場合、チャット画面に直接﹁パートナ
ー﹂というタブが新たに増え、そこから直接会話することが可能に
なるのである。
こちらの世界に来て、PTや1:1チャットといったゲームなら
ではの機能は使えなくなったわけだが⋮⋮もしかしたら﹃結婚﹄制
度による通信の追加なら、アイテムの恩恵として実現する可能性が
ある。
少なくともそれが駄目だったとしても、俺にはそれでも良いと思
えるだけの利点がこの﹃結婚﹄システムにはあった。
それはずばり。
自分のパートナーがどこにいるのかが常に把握できる、というこ
とである。
656
イサトさんの首輪代わりにはちょうど良いと思うのだが如何だろ
うか。
﹁わ、私は嫌だぞ、あんなストーカー御用達システム!﹂
﹁自業自得です﹂
﹁どこで何してるのかバレるじゃないか!﹂
﹁そのためのシステムです﹂
断じて違う。
本来なら愛し合うカップルをサポートするためのシステムである。
が、ほんの少しとは言えお互いの得た経験値がプールされるとい
う旨みもあったため、カップル外でこのシステムを利用するものも
多かった。
実際、油断するとすぐにレベル上げを放り出してスキル獲得やら
に精を出すイサトさん捕獲のために、リモネが﹁結婚しろやゴルァ﹂
と迫りまくっていたこともあったぐらいだ。目的のレベルまでイサ
トさんが達したら離婚してやる、という謎の制度である。
俺はヌメっとしたモンスターから充分に距離を取った辺りで、ゆ
っくりとイサトさんとレティシア、ライザを地面に降ろした。地面
に寝かせた後、そっと首に手をあてて脈を確認する。良かった。二
人とも、意識はないものの脈は安定している。
﹁イサトさん、怪我は?﹂
﹁ものすごく痛い﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何したんだ一体﹂
腹の中から引きずりだしたとき、イサトさんはスタッフを手にし
てはいなかったはずだ。
657
俺の問いかけに、イサトさんはインベントリから取り出した薔薇
姫の蜜をばしゃばしゃと腕全体にぶっかけつつバツの悪そうな顏を
した。
﹁ほら、ライザに私、アイテムを幾つか渡してあっただろう?﹂
その言葉だけでピンと来た。
確か、あの時。
モンスターの腹の中に浮かび上がった二人の周囲には、二人の持
ち物も一緒に漂っていた。きっとイサトさんはそれを確認させるた
めに、俺を突っ込ませたのだろう。そして、その存在を確認したか
ホウセンシュ
らこそ、作戦を実行に移した。MP切れを装い、自らモンスターに
取り込まれつつその腹の中で砲閃珠を発動させたのだ。
思わず深い溜息が出た。
わざわざ調節して破壊力を上げてあった投擲武器を至近距離で発
動させたのなら腕を痛めて当然だ。むしろ腕がふっとばなくて本当
に良かった。
﹁お願いだから、後は俺に任せて大人しくしといてくれ﹂
﹁そんな心底呆れた風に言わなくても﹂
イサトさんはちょっと拗ねたようにぷ、と唇を尖らせつつも、す
ぐに口元に柔らかな笑みを浮かべて俺を見た。
﹁⋮⋮ん。ちょっと無茶をしたもんで、さすがに私も疲れた。後は
君に任せるよ﹂
﹁おう﹂
658
これ以上イサトさんに無茶をされたら、俺の心臓が止まる。
イサトさんはそっとしゃらんら★に添えていた手をするりと降ろ
した。
魔法少女のドレスと、イサトさんの身体を包んでいた薄桃の光と
が蕩け合うように変身が解けていく。
イサトさんの魔法が解ける様を見届けた後、俺はゆっくりとしゃ
らんら★を構えてヌメっとしたモンスターへと向き直った。
イサトさんの放った聖属性を帯びた火焔魔法に包まれて、黒の無
貌はうねうねと悶え苦しむように揺れていた。ぱちぱちと爆ぜる焔
の中で、少しずつ黒の泥が粘度を失ってさらさらと崩れていく。
そんな姿を、マルクト・ギルロイは呆然と眺めているようだった。
燃え盛る焔の中で踊るように揺らめく漆黒の異形と、その傍らで
立ちつくす父親のシルエットは不思議なほど俺の目には印象的に映
った。焔による逆光で、マルクト・ギルロイの表情は窺えない。
俺は、しゃらんら★を片手にゆっくりと距離を詰めていく。
時折思いだしたように焔に包まれた触手が俺に向かって伸ばされ
るものの、軽く打ち払うだけでそれはぱしゅりと軽やかな音を上げ
て霧散した。
やっと終わらせられる。
やっと終わらせてやれる。
そんな想いが、胸の中で混ざりあう。
ぐずぐずと焔に焙られて溶けたヌメッとしたモンスターは、随分
と縮んでしまっていた。ライザ、レティシア、そしてイサトさんを
呑みこむほどに大きかった下半身の球は、もう三分の二ほどがぐず
659
ぐずに溶けて崩壊してしまっている。おかげで、球の上部に乗って
いた無貌の子供の顏がちょうど俺の目の高さにあった。
ヌメっとした黒の人型に顏はない。
人を象っただけのマネキンのような黒が、無感情に俺を見る。
﹁もう、いいだろ﹂
気づいたら、そんな言葉が俺の口から零れていた。
それは誰に向けたものだったのか。
俺は静かに、しゃらんら★の石突で黒の人型の胸を貫いた。
焔にまかれ弱っていたからなのか、それともそれ以外の理由が何
かあったのか、まるで吸い込まれるかのようにしゃらんら★の先端
が黒に呑まれていく。
おおおおおお、と慟哭めいた声にならない声が空気を震わせる。
焔の中、ぐずぐず、ぼろぼろと人型が崩れていく。
そこへ、ふとマルクト・ギルロイが一歩を踏みだした。
﹁っ、おい﹂
俺が腕を伸ばして引き戻そうとするよりも早く、その下半身がど
ろりと黒い泥に呑みこまれる。それはヌメっとしたモンスターが生
き延びるために力を得ようと人を取り込もうとしてのことだったの
か、それともそのモンスターの中に残ったその男の息子だった部分
が最期の最期で父親を求めてのことだったのか、俺にはわからない。
ずぶずぶと黒に呑まれながらも、マルクト・ギルロイは焔に包まれ
ぼろぼろと崩れゆく我が子を、幸せそうに抱きしめた。
どろどろ、ぼろぼろ。
それはどこまでも奇妙な抱擁のようで。
660
焔に照らされたマルクト・ギルロイは黒の泥に呑みこまれながら
も、どこか安堵したような笑みを浮かべているようにも見えた。
やがて静かに焔が消えた後︱︱⋮、そこにはもうヌメっとしたモ
ンスターの姿も、マルクト・ギルロイの姿も残ってはいなかった。
微かに残った灰すらも、風に攫われてすぐに見えなくなる。
﹁なんだか、なあ﹂
小声で呟いた。
これがゲームであれば、強敵を倒した喜びに興奮を覚えるところ
なのだろう。
イサトさんと二人協力して、味方に犠牲を出さずになんとかボス
を倒すことが出来たことを祝うべきシーンだ。
けれど、どうにもそんな気にはなれなかった。
ただただ、疲労と虚脱感だけを感じる。
小さく溜息をついて踵を返そうとして、何も残らなかったと思っ
ていた燃え後に何か小さな白い欠片が落ちていることに気づいた。
屈んで拾おうとしかけて、それが何であるのかを察した。
骨だ。
661
おそらくは子供の⋮⋮、マルクト・ギルロイが何としてでも救い
たくて、最後には異形として甦らせることを選んだ坊やのものだろ
う。
未発達な小さな骨が、ぱらぱらと燃え後に落ちていた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
はあ、と深い溜息が零れる。
どこで、何を間違えてこうなってしまったのだろう。
俺はそっとその小さな骨を手の上に拾い上げた。
せめて、骨だけでもきちんと供養して貰えるように手配したい。
からりと乾いたかつて人だったものはあまりにも脆く儚くて、そ
の軽やかさが余計に空しさを掻きたてた。
そんな俺の肩を、いつの間にか傍らにいたイサトさんがぽんと軽
く叩く。
﹁イサトさん﹂
﹁︱︱⋮帰ろう、秋良﹂
﹁⋮⋮うん﹂
隣に寄りそうように立つイサトさんから伝わる柔らかな体温に、
ほっと吐息が緩んだ。それと同時に、これで良かったのだとも強く
思う。俺はちゃんと、俺の護りたいものを護れた。だから、これで
良いのだ。
﹁あっついシャワー浴びたいなー﹂
﹁いいな、その後は清潔なお布団にくるまって死んだように眠りた
い﹂
﹁最高だ﹂
﹁だろう﹂
662
ちらりと二人視線を交わした後、ふっと口元に笑みを浮かべて俺
たちは歩きだした。
﹁イサトさん﹂
﹁ん?﹂
﹁薬指を洗って待ってろよ﹂
﹁︱︱⋮プロポーズがこんなにも恐ろしいものだったなんて﹂
俺はわりと本気なので、覚悟しておくと良い。
663
おっさんと一つの終焉︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
Pt、感想、お気に入り登録、励みになっております。
664
おっさんへの仕返し︵前書き︶
0720修正
665
おっさんへの仕返し
﹁く、くたびれた﹂
﹁⋮⋮同感だ﹂
そんなことを呟きながら、俺とイサトさんはくたびれきった様子
でよろよろと古びた教会の信徒席へと腰を下ろした。
ここはセントラリアの片隅にある、古びた教会だ。
というか、俺とイサトさんにとってはゲーム内で教会と言われれ
ばここになるのだが︱︱⋮、どうやらここはもうセントラリアの人
々に使われなくなって久しいらしい。なんでも街の中心地に新しく
もっと広くて綺麗な教会が出来た結果、信徒のほとんどがそちらに
移り、今ではこの教会を使うのは獣人たちだけなのだという。俺た
ちを見下ろす女神像も、俺たちがゲームの中でよく見知った教会と
何も変わらないように見えるのにと思うとなんとも言えない気持ち
にもなる。
が、おかげでこうして避難場所として活用できるだと思えばあり
がたい。
黒薔薇の庭園での戦闘を終えた後、何よりも熱いシャワーと清潔
なお布団を欲していた俺とイサトさんであったわけなのだが。
さすがに飛空艇を墜とした時と違って敵を倒してはいお終い、と
いうわけにはいかなかった。俺の﹃家﹄に避難させた獣人の狩りチ
ームをセントラリアまで連れ帰って出してやる必要があったし、ラ
イザとレティシアが人質に取られていた以上、セントラリアに残し
てきた獣人たちの安否も早急に確認する必要があった。
666
なんやかんやと駆けずりまわって、結局俺たちがこうして腰を落
ち着けることが出来た今、窓の外ではうっすらと夜が明け始めてい
る。
隣のイサトさんは、眠たげにすでに半眼だ。
ぼんやりと後頭部まで背もたれに預けるように喉をそらして、美
しいレリーフの掘り込まれた天井を眺めている。
なんとなく、俺の視線も同様に天井へと向かった。
セントラリアに残してきた獣人たちの行方を探すの手伝ってくれ
たのは、意外なことに狩りチームのオマケとして助けただけだった
人間の商人二人だった。
マルクト・ギルロイの狂気を実際にその眼にしただけあって、見
限るのも早かった、というか。いや、そこは流石商人、立ち回りが
上手い、というべきところなのだろう。
彼らは街に戻るとすぐにギルロイ商会のメンバーや騎士の詰所に
連絡し、獣人たちの捜索に当たってくれたのだ。
それは間違いなく、マルクト・ギルロイの暴走を彼個人に背負わ
せるための保身でもあったのだろう。けれど、そのおかげで随分と
助かったのは事実だ。土地勘のない俺たちでは、マルクト・ギルロ
イが獣人を捕えておけるような場所に心あたりが全くなかった。
捜索の結果、セントラリアに残っていた獣人の家族たちはマルク
ト・ギルロイの屋敷の地下に囚われているところを発見された。商
会の他の人間には、獣人たちに逃亡の危険性があるため身柄を拘束
する、と説明していたらしい。埃っぽく、淀んだ空気の溜まった地
下はただただ暗く、その空間の半分以上を占める檻の中に、獣人た
ちは閉じ込められていた。そして、部屋の片隅にはこれまで犠牲に
667
なった獣人たちの持ち物だと思われるアクセサリーや装備品、服の
一部などが、これまた無造作に放り出されていた。
最初は半信半疑だった騎士団の連中も、その光景にようやくただ
事ではないことを把握したらしく、この当りから急に騒がしくなっ
た。明日になれば、もっと大騒ぎになることだろう。
聞いてみたところによると、マルクト・ギルロイは独りになって
以来、誰もこの屋敷に入れておらず、商会の人間も、騎士団の連中
も、誰もこんな地下があることも知らなかったらしい。
もし、マルクト・ギルロイが何をしているかを知っていたら止め
てたか?
そう喉まで出かかった質問は、結局口にすることは出来なかった。
どう答えるのかなんてわかりきっていたし、もしもそれが嘘だと
気づいてしまったらと思うとどうにも薄ら寒いからだ。
檻の中から救出した獣人たちは、皆疲れきってはいたものの、怪
我もなく無事だった。おそらく、マルクト・ギルロイは一番抵抗し
たライザとレティシアを無力化し、他を捕まえた後はすぐに薔薇園
の方に向かったのだろう。
少し視線を下ろすと、教会の前方、本来ならありがたいお話を神
父がするのであろうスペースで幾つかの獣人の家族が再会を喜んで
いるのが見える。
その中に、エリサや、目を覚ましたライザも混ざっているのを見
て、ふっと疲れた顏の口元にも笑みが滲んだ。
何気なく隣を見れば、イサトさんも似たような表情を浮かべてい
る。
668
﹁まあ⋮⋮良かったのか、な﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そう、だな﹂
ゆっくりと息を吐く。
まだまだ気がかりなことは残っているが、今はもういいだろう。
俺達は十分よくやったと思う。
後のことは、一回寝て目が覚めた後の俺たちに任せてしまおう。
少し休むつもりでゆっくりと目を閉じかけたところで、ふと人の
気配を感じた。
﹁なあ、アキラ、イサト﹂
﹁ん?﹂
﹁どうした?﹂
いつの間にか目の前にやってきていたのはエリサだった。
エリサは少し言いよどむようにしながら、口を開く。
﹁その⋮⋮、オマエら、もう宿に戻る、のか?﹂
﹁ああ、うん。少し休んだらそうするつもり、だけど﹂
今はもう動きたくない。
宿に戻っても風呂に入るだけの気力があるかどうか。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮そう、かよ﹂
﹁エリサ?﹂
エリサはなんだか何か言いたさそうな顔をしている。
喉元までこみあげた言葉を、懸命にこらえている、ような。
﹁⋮⋮秋良青年﹂
669
横から、まるで助け舟を出すかのように口を挟んだのはイサトさ
んだった。
﹁どうした?﹂
﹁私は、今ものすごく眠い﹂
﹁うん?﹂
﹁なので、もしエリサたちが大丈夫なようなら、今日はもうこの辺
で適当に寝かせてもらう、というのはどうだろう﹂
﹁っ﹂
イサトさんの言葉に、ぱあ、とエリサの表情が明るくなる。
なるほど。
そこまで見て、ようやく俺にもわかった。
エリサは、俺たちに帰ってほしくなかったのだ。
俺はなんでもないような顔で、イサトさんに話を合わせる。
﹁そうだな。俺ももう宿屋まで戻るのが面倒になってきた﹂
﹁わかった、それならオマエらが使えるブランケットとかないか聞
いてくる!﹂
エリサはそれだけ言うと、すぐに飛んでいってしまった。
﹁⋮⋮ありがと、イサトさん﹂
きっと、俺だけなら﹁何か言いたさそうにしてる﹂ところまでは
わかっても、その気持ちは上手に汲み取ってやることは出来なかっ
た気がする。
﹁きっと、まだ安心できないんだろうな﹂
670
﹁そう、だな﹂
諸悪の根源であったマルクト・ギルロイはもういないとはいえ、
ライザとレティシアが街中で襲われ、人質にされた記憶は新し過ぎ
る。また何かあったら、と不安に思うエリサの気持ちも、言われて
みればわかる気がした。
﹁アキラ、イサト、これ、使ってくれ﹂
﹁ありがと、助かる﹂
軽く息を弾ませ、エリサがどこからか持ってきてくれたブランケ
ットを受け取ってそのうちの一つをイサトさんへとパスする。この
季節、被るものがなくても風邪をひくようなことはなさそうだが、
せっかくの気遣いだ。
﹁それじゃあ、俺たちも寝るか﹂
﹁そうしよう。おやすみ、エリサ﹂
﹁おやすみ﹂
挨拶を交わして、エリサが家族の元に戻るのを見送った。
それからイサトさんが欠伸混じりに俺の一つ前の信徒席へと移る
のを見届けて、俺もごろん、と硬い椅子の上に横になる。寝心地が
良いとは決して言えないが、宿屋の長椅子と違って俺が横になって
もまだ余裕があるのがありがたい。
ちら、と前の席に視線を向けてみるが、イサトさんももう横にな
ったのか背もたれに隠れて姿は見えない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ほう、と息を吐く。
671
本当に、いろんなことのあった夜だった。
今後のことを話しあってでもいるのか、遠く微かに聞こえる獣人
たちの声を聞きながら、俺はあっという間に眠りに落ちて︱︱
ふ、と身近で人の気配が動くのを察知して意識が浮上した。
一人の部屋で寝ているならともかく、前提として他にも人がいる
ような場所で寝ているのにそんなことで目が覚めるのは珍しい。戦
闘の名残を引きずって、未だ神経が昂ぶっているのだろうか。
そういえば部活でも大きな試合の後はなかなか寝付けなかったっ
けか、なんてことを思い出した。
うっすらと目を開けて周囲を見渡してみる。
辺りはまだ薄暗く、夜は明けきっていない。
そんな中を、そろりと聖堂の入口に向かって歩いていく銀色の後
ろ姿を見た。
イサト、さん⋮⋮?
風にでもあたりに行くのだろうか。
きっとすぐに戻ってくるだろう、と見当をつけて、俺は再び目を
閉じる。
しばらくうつらうつらと微睡んで、次に意識が浮上した時にもイ
672
サトさんが戻ってきた気配はなかった。
俺が気づかないうちに戻ってきたのか。
それともまさか外でまた何か厄介ごとにでも巻き込まれているの
か。
﹁⋮⋮ったく﹂
未だ疲れが抜けず、重い手足を引きずるように身体を起こした。
俺は俺で安眠を貪りたいところではあるのだが、放っておけない
のがイサトさんなのである。そっと前の席を覗いてみるものの、や
はりそこにイサトさんの姿はなかった。戻ってきていないのだ。
俺達が寝入った頃にはまだ話をしている獣人たちも多かったが、
今はもうすっかり静かになっていた。耳を澄ますと、教会のあちこ
ちから微かな寝息が聞こえてくる。彼らを起こしてしまわないよう
にそっと足音を殺して、俺は静かに教会の入り口を抜ける。
季節で言うと初夏、といった頃だろうか。
日中は日差しが温かく、過ごしやすいではあるのだが、明け方は
少し冷える。
ひやりとした外の空気に俺は小さく身体を震わせた。
白々とした明かりに包まれた町並みはまだ静かで、少し離れたと
ころから朝市の支度をしているのであろう物音が聞こえてくる。
さて、イサトさんはどこだと周囲を見渡して⋮⋮俺は小さく息を
呑んだ。
イサトさんは、教会の入り口へと続く階段の隅っこに腰掛けて、
ぼんやりと街を眺めているようだった。
俺が息を呑んだのは、その背中が随分と小さく見えてしまったか
らだった。
赤ずきんの衣装のままで、鮮やかな赤を纏っているはずなのにイ
673
サトさんの背中はどこか存在感が希薄で、そのまま見失ってしまい
そうなほどに小さく見えた。
なんだか、そこにいるのに誰にも気づいてもらえない迷子のよう
だ。
﹁⋮⋮⋮⋮、﹂
声をかけようと思ったのに上手く言葉が出てこない。
だから、俺は結局何も言わないままイサトさんの隣に腰を下ろし
た。
ひやりと朝露に湿ったイサトさんの服が腕を掠める。
﹁風邪、引くぞ﹂
﹁⋮⋮秋良﹂
どこかぼんやりとした調子でイサトさんが俺の名前を呼んで、少
しだけ顔をあげた。イサトさんらしくない、迂闊な仕草だな、と思
った。普段のイサトさんならば、きっとさりげなく俺から顔を隠す
ように顔を伏せる。この人は格好つけで、弱みを人に見せるのを良
しとしない人だから。
︱︱︱こっそり泣いていたなら特に、だ。
イサトさんの目元は濡れていて、頬にも涙が零れた痕がまだ残っ
ていた。
ぼんやりと俺を見上げた双眸も、どこか熱っぽく潤んでいる。
674
なるべく自然にしようと思っていたのに、やっぱり俺の動揺はイ
サトさんにはすぐに伝わったようだった。
﹁あー⋮⋮﹂
失敗した、というようにイサトさんが呻く。
自分がどんな顔を俺に見せてしまったのかに気付いたらしい。
どう取り繕うか迷うような沈黙が流れる。
イサトさんが何を言ったとしても、その言い訳を鵜呑みにして頷
くぐらいの紳士っぷりは見せようと思っていたのだが、結局イサト
さんは諦めたようにかくりと肩を落とした。
﹁私は今、ものすごく恥ずかしい﹂
﹁俺は今、たぶんものすごくレアなもの見たなーと思ってる﹂
﹁今すぐ君の記憶を抹消したい﹂
いつもの調子で呟かれた言葉に合わせて軽口を返せば、ごん、と
若干強めの頭突きを肩口に喰らった。そのままイサトさんはぐんに
ゃりと脱力して俺に体重をかけてくる。甘えるような仕草ではある
顏を見られ
が油断してはならない。これはイサトさんの作戦である。いわゆる
ボクシングでいうクリンチだ。近さ故に攻撃されずに済む。
﹁寝ないのか、君。疲れてるだろ﹂
案の定、しれりといつもの調子で気遣われた。
イサトさんの顔を見ていなければ、もしかしたら俺はイサトさん
の声が少し鼻声なのに気づかなかったかもしれず、そうしたらおと
なしく﹁寝直してくる﹂なんて言っていたかもしれない。
けれど、今となっては手遅れだ。
675
﹁イサトさんは?﹂
﹁私は︱︱⋮﹂
逆に聞き返すと、イサトさんは言葉に迷うようにほんの少しだけ
間を置いた。
﹁⋮⋮ちょっと、いろいろ考えたいことがあって﹂
そう言ったイサトさんが、わずかに目を伏せたようだった。
さら、と揺れた銀色が腕を掠めてくすぐったい。
その視線の先を追って、俺はイサトさんが手にした一冊の本に気
付いた。
革張りの装丁が施された、手帳サイズの本だ。
ぱっと見た感じ、題名らしきものは描かれていない。
日記か何かだろうか。
﹁イサトさん、それは?﹂
﹁︱︱なんでもない﹂
俺の視線から隠すように、膝を抱えるようにして座っていたイサ
トさんはその本を胸と膝との間に押し込んだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
こほん。
﹁イサトさん﹂
﹁なんだ﹂
﹁それはそこに腕を突っ込んで良い、という前振りだったりする?﹂
676
﹁悲鳴をあげるぞ﹂
﹁⋮⋮む﹂
ずるい。
とんでもなくずるい隠し場所だと思う。
どこにあるのかわかっているし、取ろうと思えば強引に取り上げ
ることだって出来る位置なのに俺には手出しすることが出来ない。
俺は溜息をつきつつ、片膝に肘を乗せて頭を支え、イサトさんの
顏を覗きこむように距離をとった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
じーっと見つめていると、イサトさんが警戒するような上目遣い
で俺を見る。
﹁なんだ﹂
﹁別に? 俺もちょっと考え事﹂
﹁悩んでいるのか、青少年﹂
からかうようでありつつ、どこか気遣わしげなイサトさんの言葉
にふっと口元に笑みが浮かぶ。
悩んでるのは俺ではなく、イサトさんの方な癖。
﹁夜這いに匹敵する口の割らせ方についてを、考えてる﹂
﹁⋮⋮っ!﹂
かあっっとイサトさんの目元が一気に赤く染まった。
恥ずかしさを誤魔化すように小突かれて、思わず笑いが声に出る。
﹁笑うな、このやろう﹂
677
﹁いや、からかう側ってのはいいな、と思って﹂
くっくっく、と笑いに肩を震わせつつ、俺は一応それを隠すよう
に手で口元を覆った。まあ、バレバレなわけだが。
いつも俺がからかわれるだけだと思っていたら大間違いだ。
たまには逆襲だってする。
それに。
﹁それと同じぐらい、たまには支える側でもいいなって思うんだけ
どどうよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
む、とイサトさんの唇がへの字になった。
対照的に、眉がへにゃりと八の字になる。
泣きそうなところを、ぎりぎりで堪えているような。
喉元までこみ上げた感情を、一生懸命抑えつけているような顏だ
った。
ごん、と再び腕に頭突きを喰らう。
﹁⋮⋮君にだけは、言いたくないのに﹂
﹁ひでえ。俺の弱みは強引に聞きだした癖に﹂
﹁酷いのは君の方だ。こんな仕返し、酷すぎる﹂
ぐりぐりぐり。
額を押し付ける攻撃が続く。
それから、イサトさんは深々と溜息をついた。
熱のこもった、熱い吐息。
まるで言葉に出来ない想いまで溶けていそうなほどに熱い。
﹁なあ。何考えてんの﹂
678
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮言いたくない﹂
﹁なんで﹂
﹁⋮⋮君まで、迷わせてしまいそうだから﹂
微かに震えた小さな声が、それがイサトさんの本心なのだと告げ
ていた。
そして、なんとなく。
俺はイサトさんが何を一人で抱え混んでいるのかがわかったよう
な気がした。
ふっと小さく息を吐く。
﹁イサトさん、それ、マルクト・ギルロイのだろ﹂
﹁⋮⋮っ、なんで﹂
顔を隠したがっていた癖に、思わずといったようにイサトさんが
顔を上げる。
驚いたように瞠られた金色の双眸から、その拍子にぽろりと雫が
零れ落ちた。
つっと頬を滑っていく涙を、指先でくいと拭う。
﹁イサトさんが俺に見せたくなくて、俺が見たら迷うかもしれない
ようなもので、イサトさんは俺に迷わせたくないんだろ﹂
それなら、それは。
俺たちが戦い、最終的に助けられなかった男が遺したものに決ま
っている。
それに、イサトさん自身が言っていたことだ。
679
﹃私は結構海外ドラマの刑事ものが好きでよく見るんだけど⋮⋮、
犯罪者から市民を護るためにいざというときに躊躇うな、と彼らは
訓練されているのに、それでも現場で犯人を射殺することに躊躇っ
たり、する﹄
﹃それだけじゃなくて、犯人を射殺してしまった後にはカウンセリ
ングにかかったりも、する﹄
﹃ドラマは創作で、本当の話ではないかもしれないけれど⋮⋮きっ
と、そう間違ってるってわけではないと思うんだ﹄
﹃人の命を奪う、っていう決断や、行動の生むストレスっていうの
はさ。きっとあるんじゃないかって私は思ってる﹄
あの日の夜、イサトさんが話してくれた言葉を思い出す。
だからイサトさんは俺にこの異世界でも人を殺して欲しくないと
思った、とそう話してくれた。
俺に、傷をつけたくないから︱︱、と。
それなら今、イサトさんが泣いているのは、その傷の痛みのせい
ではないのだろうか。この人は、俺なんかよりよっぽど優しい人だ
から。
﹁イサトさんはさ、俺のこと心配してんだろ。俺が気にするんじゃ
ないかって﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
680
返事がないこと自体が、肯定だった。
この世界では、お互いの主張のために命を賭けなければならない
ことがある。
俺たちが圧倒的な強者であり、手加減して勝つことが出来る状況
であるのならば、勝者の余裕として殺さずに主張を通すことも出来
るだろう。
けれど、先ほどのような状況に追い込まれれば、相手の命まで守
る余裕はどうしたってなくなってしまう。
きっとそんな状況は、この世界にいる限り今後も避けられない。
イサトさんはその状態に追い込まれた際に、俺が迷うことを恐れ
たのだ。
だから、傷を打ち明けられなかった。
⋮⋮なんだか、少し悔しいような、もどかしいような想いが胸を
渦巻いた。
前衛
信じてほしい、と思う。
俺はイサトさんの剣としての役割はいつだってちゃんと果たす。
そこで揺らいだりはしない。
そう言おうと俺は口を開きかけ⋮⋮、それより先にイサトさんが
ぽつりと呟いた言葉が耳を打った。
﹁⋮⋮ごめん﹂
﹁へ﹂
突然の謝罪に、俺は目を丸くする。
﹁なんでイサトさんが謝るんだ?﹂
﹁だって、酷い話じゃないか﹂
681
﹁酷いって何が﹂
謝る、ということは俺がその酷いことをされた対象であるような
気がするのだが、俺自身にはそんな覚えが全くない。
イサトさんは、罪悪感に震える声で、ぽつぽつと言葉を続けた。
﹁君は、いつも私を護るために戦ってくれてるのに。それなのに、
私が戦うことに迷うなんて、君に対して、すごく、失礼だ﹂
﹁︱︱︱﹂
思わず言葉を失った。
正直、その発想はなかった。
ああ、でも。
俺が迷うような性質タチであれば、そう思ったのかもしれない。
前衛を任されている以上、敵対する相手と直接刃を交わすのはど
うしたって俺の方が多くなる。俺の振るう大剣が敵を薙ぎ、傷つけ、
もしかしたらその命を奪うかもしれないのだ。
俺がそのことに罪悪感を抱くような人間であったなら、イサトさ
んの迷いはプレッシャーになったかもしれない。
後衛であるイサトさんに対して、厭な仕事を俺に押し付けておき
ながら自分だけ綺麗ごとを言ってやがるというような感情を抱いた
かもしれない。
が、幸いながらというか残念ながら、というか。
俺はそういった迷いとは無縁の人間だ。
殺される前に逃げることも出来たのにそうしなかった。
引き返すチャンスは何度もあったはずなのにそうしなかった。
それは相手が自分の命と引き換えにしてでも俺たちを殺したいと
682
思っている、という決意表明のようなものだ。
それならばその殺意に応えた結果、俺が相手を殺してしまったと
しても。
それはもう相手が望み、選んだ末路なのだから仕方ないとしか思
えないのだ。
俺がそんなことを考えている間にも、イサトさんは懺悔のように
言葉を続ける。
﹁それに⋮⋮、君まで迷わせてしまったせいで、もし⋮⋮、君が怪
我をするようなことがあったら⋮⋮っ﹂
イサトさんの声が、身体が、小さく震えていた。
その姿に、薔薇園でのことを思い出す。
イサトさんの放った攻撃魔法を自らの身体でブロックする、なん
て無茶をやらかした時、イサトさんは同じような顔をしていた。
﹁あー⋮⋮﹂
いろいろと、わかってしまった。
俺があの時薔薇園でイサトさんを失うかもしれないと思った時に
感じたのと同じだけの恐怖を、きっと俺はイサトさんにも味わわせ
てしまったのだ。
しかもそれが自分の手によるものともなれば、イサトさんのショ
ックはどれほどだっただろう。
俺が、イサトさんを殺しかける。
俺の振るった刃が、イサトさんの柔らかな肌に吸い込まれるよう
にめりこんで、
683
﹁⋮⋮ッ﹂
やばい。
ものすごく怖い。
もし一度でもそんなことをやらかしてしまったら、きっと二度目
は耐えられない。だからだ。だからこそイサトさんは一人で抱え込
んでいたのだ。
敵対する相手の命を奪ってしまうことへの躊躇いや戸惑い。
けれど、その迷いから仲間を失うことへの恐怖。
そういった感情になんとか整理をつけようと、一人座りこんでい
た。
俺はおそるおそる腕を持ち上げて、そっとイサトさんの背中に触
れた。
華奢で、細い背中だ。
ちょっと力を入れ過ぎたら、へしゃげてしまいそうな気がする。
それなのに、イサトさんはいつだって踏ん張ってこれまで俺を支
えてくれた。
﹁イサトさん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
イサトさんが、涙で濡れた瞳で俺を見上げる。
不安げに揺れる金色を、まっすぐに見つめて言い切った。
﹁大丈夫、だから﹂
ぽんぽん。
宥めるように緩く、その背を叩く。
俺が不安を感じた時、いつもイサトさんがしてくれたのを真似る
ように。
684
そして願わくば。
俺の腕や背に触れたイサトさんの体温が俺の不安を追いやってく
れたように、少しでもイサトさんが安心出来たなら良いと思う。
﹁前にさ。ちょっと話したと思うけど﹂
﹁⋮⋮ぅん﹂
﹁俺は、迷わない。っていうか、迷えない﹂
敵と、味方。
その区別は俺の中ではあんまりにも明確に線引きされすぎる。
マルクト・ギルロイの最期に思うところはある。
あの男を哀れに思わないこともない。
だが、それは全てあの男自身の選択だ。
あの男は数々のチャンスがあったにも関わらず、あの最期を自ら
選んで、迎えたのだ。
だから何度あの戦いを繰り返したとしても、俺は迷わずに剣を抜
き、あの男を迎え撃つだろう。
﹁だから、まあ﹂
ぽん、とイサトさんの背を緩く叩いた。
﹁俺が迷えない分、イサトさんは迷ってもいいんじゃないか﹂
二人して敵対した相手は全部ぶっ殺す、と殲滅モードにならなく
たって良いと思うのである。
﹁⋮⋮でも、そのせいで、君を危険に晒したら﹂
﹁イサトさん﹂
685
名を呼んだ俺の声に応えるように、イサトさんが顔をあげる。
俺はそんなイサトさんを真っ直ぐに見つめて、ふっと口を開いた。
﹁俺は、イサトさんを信じてるよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮、﹂
俺の言葉に、はく、とイサトさんが息を呑む。
そして、そのまま脱力するように、ぽす、と俺の胸元に額を押し
付けた。
はー⋮⋮と熱っぽい吐息を深々と吐き出しているのを感じる。
普段飄々としているイサトさんのどこにそんな熱を秘めていたの
か、なんて思ってしまった。
﹁⋮⋮あきらせいねん﹂
﹁はい﹂
﹁それは仕返しだろうか﹂
﹁ええ、まあ﹂
しれりと応えつつ、つい口元が緩みそうになる。
いつかの俺の気恥ずかしさだったり。
それと同時に、丸ごと受け入れてもらえたことに対する安心感だ
ったり。
そういうのをイサトさんも味わえば良いのである。
﹁実際さ﹂
﹁ぅん?﹂
﹁今回は逆だったけど、イサトさんはライザやレティシアを助ける
ために無茶をしたことを後悔してるか?﹂
﹁まさか﹂
686
返事は即答だった。
俺としてはあんな無茶は二度とやって欲しくないし、俺の心臓が
持たないと思わないでもないのだが⋮⋮まあ、お互い様だ。
もしあそこで俺が剣を止めずに、中に取り込まれた二人ごとあの
モンスターを斬り捨てていたのなら、話はもっと簡単だった。俺も
イサトさんも痛い目なんか見ることなく、余裕で戦闘を終わらせる
ことが出来ていただろう。
それでも、俺はイサトさんの攻撃を受けることを選んだし。
イサトさんは人質を助けるために自ら敵に取り込まれる作戦を選
んだ。
それはある意味で、イサトさんが言うように﹁俺が攻撃を躊躇っ
たことで招いた危険﹂だ。
でも、俺はそれで間違ってなかったと思っている。
そして、イサトさんもその判断を後悔していないのならば、俺た
ちはこのままで良いんじゃないだろうか。
﹁⋮⋮イサトさんは少しは反省すべきだとは思うけども﹂
﹁きこえない﹂
しらばっくれられた。
コノヤロウ。
つんつん、と背中を撫でていた手でイサトさんの髪を軽く引っ張
ってやる。
ふ、っと胸元でイサトさんの吐息が笑みに緩むのが聞こえた。
﹁⋮⋮安心したら眠くなってきた﹂
﹁俺も眠い﹂
ゆっくりとイサトさんが顔を起こす。
687
泣いたせいか、濡れた目元が赤く染まっている。
長い睫毛の先に溜まった雫が朝日を弾いてきらりと光る様に思わ
ず目を奪われていると、ぐいと掌底気味に頬に掌を押し当てられ無
理矢理顔をそらされた。
﹁見るな、今不細工な顏してるから﹂
﹁⋮⋮そんなことないと思うけど﹂
﹁いたたまれない﹂
ふす、とイサトさんが息を吐く。
立ちあがって、イサトさんはぐんと腕を伸ばして大きく伸びをし
た。
それから俺に向かって手を差し出した。
﹁寝よう﹂
﹁もう朝だけどな﹂
すっかり辺りは明るくなっている。
イサトさんの手をとり、ぐっと軽く引きつつ反動をつけて立ち上
がる。
出てきた時と違って、あちこちから朝の支度をする賑やかな物音
や声が響き始めていた。
﹁秋良﹂
﹁ん?﹂
﹁︱︱ありがとう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
朝日を背に、イサトさんが照れくさそうにはにかみながら礼を言
う。
688
目元を赤く染め、頬にはまだ涙の痕も残っているのに、それがな
んだか不思議なほどに綺麗で、眩しくて、謎の気恥ずかしさに襲わ
れて俺はそそくさと目をそらしてしまった。
ああくそ、勿体ない。
ここでこそ、﹁いいってことよ﹂なんてイサトさんの男前なセリ
フをそのまま返してやろうと思っていたのに。
﹁ええと、あと、それと﹂
﹁なに?﹂
﹁先に言っておくけれども﹂
﹁うん﹂
嫌な予感がした。
ちょっとだけ身構える。
﹁たぶん﹂
﹁たぶん?﹂
﹁私この後寝込む﹂
﹁なんで!?﹂
﹁いや、知恵熱が﹂
知恵熱ってなんだ。
あれ子供が出すもんじゃないのか。
﹁久しぶりに脳みそ煮詰まるほど悩んだせいで、熱が出る気がする﹂
﹁まじか﹂
﹁まじだ﹂
確かに顏は赤いし、体温高いようにも感じていたわけだが。
泣いているせいだけじゃなかったのか。
689
﹁というわけで︱︱⋮、言いだしっぺなのに申し訳ないが、私は先
に宿の方に戻っていてもいいか。ここで寝込んでも邪魔になるだけ
だろうし﹂
﹁わかった。俺はエリサが起きるのを待って、一声かけてからそっ
ちに戻るよ﹂
﹁了解、助かる﹂
イサトさんはゆらゆらと揺れるような足取りで宿に向かって歩き
出す。その背を見ていると、なんだか途中で行き倒れそうで不安に
なった。
﹁イサトさん﹂
呼びかけつつ、小走りでその背に追いつく。
﹁ん? どうした?﹂
﹁宿まで送る﹂
﹁近いのに﹂
イサトさんがくつりと喉を鳴らして笑って、俺をちらりと見上げ
た。
さっきまで泣いていたのが嘘のように、いつも通りどこか面白が
るような色が金色をちらついている。
﹁心配性﹂
﹁⋮⋮⋮⋮自覚はある﹂
誰のせいでこうなったのか、少しは反省していただきたいもので
ある。
690
そんないつもの掛け合いを交わしつつ。
俺たちはのんびりと歩いて宿に向かったのだった。
691
おっさんへの仕返し︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
Pt,感想、お気に入り、いつも励みになっております。
また、﹁おっさんがびじょ。﹂二巻が5月15日に発売が決まりま
したので、よろしければ御手にとってくだされば嬉しいです!
これからも宜しくお願い致します
692
おっさんの霍乱︵前書き︶
途中第三者目線があります。
693
おっさんの霍乱
★☆★
何か、怖いものに追いかけられていた。
私は、懸命に走っていた。
右手の先には、誰かがいる。
手の中に、小さな手を感じる。
誰かの手を、引いている。
子供だ。
幼い子供。
嗚呼、守らないと。
きゅ、と唇を噛みしめる。
零れそうな嗚咽を飲みこむ。
怖い。
すごく怖い。
けれどここで私が怖がったら、私が揺れたら、私が迷ったら、こ
の繋いだ手の先にいる子供はきっともっと怯えてしまう。
だから私は強いふりをしていなければ。
凛と、こんなことなんてことはないのだというふりを。
例えそれが真実でなかったとしても、その子の目に映る真実とし
て、強き保護者であってやりたい。
身体より先に心が折れては、逃げられるものも逃げられない。
694
だから怖がるな。
だから怯えるな。
だから迷うな。
自分に言い聞かせて、子供の手を引いて走る。
胸が苦しい。
ふつふつと浮いた汗が額を滑って目に入って染みた。
ちりちりと目が痛むのはそのせいだ。
眦が熱いのはそのせいだ。
決して泣きそうだからなどではない。
﹁大丈夫だ﹂
言い聞かせるように呟いた言葉は誰に向けたものなのか。
ひたひたと背後に迫る異形の気配に神経が摩耗していく。
泣き叫んでしまえたらどんなに気が楽になることだろう。
感情を素直に表すことが出来たなら。
繋いだ手を振りほどいて、私に頼らないで私だって怖いんだから
と泣き叫んでしまえたらどんなに楽だろう。
﹁っ⋮⋮﹂
きゅ、とますます唇を強く咬む。
背後に迫る気配が濃くなる。
追いつかれる。
そう思ったとたん、土壇場で私に出来たのは振り子の要領で強く
手を繋いでいた子供を前にぶん投げることだけだった。
反動で、自分の身体は背後に倒れる。
このまま背後に追い迫った﹁何か﹂に襲われてしまうにしても、
695
繋いだ手の先にいる子供より後に死ぬわけにはいかない。
それは意地だ。
年長者の、意地だ。
わら
声にならない声で、ざまあ、と己を背後より捕える闇に嘲笑う。
やけに清々しい気持ちで、どっぷりと背中から闇に沈む。
少しずつ身体の縁が溶かされているのかじりじりと肌が熱に痛む。
のっぺりとした闇色に閉ざされた世界の中で、息が苦しくないこ
とだけが救いだと思った。
きっと窒息は苦しい。
真っ暗な世界で、そっと膝を抱えた。
誰もいない、ひとりぼっちの闇の中。
身体は重く、熱っぽく、このまま独り終わるのだと思うととんで
もなく心細さを感じた。
﹁⋮⋮は、﹂
小さく息を吐く。
その拍子に、先ほどまで我慢していた雫がほろりと眦を滑り落ち
ていった。
そうだ。
もう、我慢しなくていいのだ。
もう、ひとりだから。
自分のために泣ける。
本当は怖かったのだと、辛かったのだと、やっと泣くことが出来
る。
そう思うと、独りで逝くのも悪くないと思えた。
696
ほう、とどこか安堵じみた息が零れた。
このまま闇に融けて見えなくなってしまおうか。
誰にも見つからないこの場所で。
誰にも気兼ねせずにすむこの場所で。
ゆっくりと、体が闇に沈んでいく。
ゆっくりと、融けていく。
どろり、どろどろ。
闇と自分の境界がわからなくなる。
よすが
感じる重苦しい熱だけが、自分の身体とそれ以外とを区別する縁
だった。皮肉な話だ。きっと、この熱から解放されるとき、私は﹃
自分﹄を見失う。それが、御終いだ。
★☆★
イサトさんを宿屋まで送った後、一度教会に戻って起き出してき
たエリサに一声かけ、それから俺自身もまた宿に戻って仮眠を取っ
た。
⋮⋮というか、仮眠のつもり、だった。
が、ばたりとベッドに倒れ込んだ後はまるで切り取ったように時
間が吹っ飛び︱︱⋮次に目を覚ました時にはもう窓の外がすっかり
暗くなった頃だった。
697
﹁⋮⋮おおう﹂
ベッドの上でむくりと身体を起こし、窓の外を見やって呻く。
自分で思っていたよりも、よっぽど疲れていたらしい。
昼過ぎには起きて、一度イサトさんの様子を覗こう、とか考えて
いたはずだったのに。
俺は伸びをしてから起き上がると、隣の部屋を訪ねてみることに
する。
ノックを数度。
﹁イサトさん?﹂
呼びかけても返事はない。
預かっていた鍵でそっと扉を開けて中の様子を窺ってみる。
部屋の中には、どこか気怠い熱がこもっていた。
ベッドの上には、まん丸い塊が一つ。
頭まですっぽり布団の中に隠れてしまっている。
⋮⋮これ、中で息出来るんだろうか。
そんなことを思いつつ、俺は傍らまで歩み寄る。
ただ眠っているだけならばこのままそっとしておいてやりたいと
ころなのだが、具合が悪くて寝込んでいるようなら様子を見ておき
たい。
﹁おーい﹂
そっと声をかけながら、ぺろり、と布団の端を捲る。
シーツの上をのたうつ銀色が見えて、それから胎児のように身体
を丸めるイサトさんの横顔が覗いた。
熱があるせいなのか、布団に籠っていたせいなのか、その両方の
698
せいか、イサトさんの頬は熱っぽく火照っていて、非常に寝苦しそ
うだ。
息苦しいならせめて布団から顏を出せば良いのに、なんて思いつ
つ額にそっと手で触れた。
★☆★
ぺり、っと。
闇が裂けた。
﹁え﹂
小さく間の抜けた声が出る。
そこから差し入れられたのは、小さな子供の手だった。
﹁馬鹿、逃げなさい、危ないから﹂
せっかく逃がしたのに、どうして戻ってきてしまったのか。
そんな危ないことなんて望んではいなかったのに。
一緒に闇に囚われてなんて欲しくないのに。
699
ここには私ひとりだけでいいのに。
吐き出した弱音も、こぼれた涙も、見られたくなんてないのに。
見ないまま行って欲しかったのに。
なんで。
﹁大丈夫、だから﹂
そんな声に、どこか聞き覚えがあった。
ぎゅっと手を握る掌は、いつの間にか自分のものよりも随分と大
きくて。
掌の厚い、男の手だ。
あれ。
あれ。
戸惑っているうちに、ぐいと強く引かれて︱︱⋮
★☆★
﹁イサトさん?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
触れた額から伝わるじっとりとした熱に俺が顔をしかめたのと同
時に、その手の上からそっと手を重ねられた。
700
重ねられたその手も、熱い。
どうやら俺はイサトさんを起こしてしまったようだった。
銀色の睫毛が小さく震えて、瞼が持ち上がる。
ゆらりと上身ごと捻るようにして俺を見上げて、不思議そうな瞬
きを数度。
夢と現実の境界を揺蕩うようなとろりとした金色が、ぼんやりと
俺を映している。
﹁ごめん、起こした﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
イサトさんは無言のまま、自分の額の上に載っていた俺の手を取
った。
いつまでも触れられているのが嫌だったのかと手を引きかけたも
のの、ぎゅっと手を握る力が強くなって引き留められた。
なんぞ。
普段わりと饒舌なイサトさんが黙っているせいで、意図がわから
なくて戸惑う。
何がしたいんだ。
どうしたイサトさん。
﹁手、どうかした?﹂
﹁⋮⋮大きいなあ、と思って﹂
ようやく返事が返ってきたと思ったら謎の感想だった。
その声も気だるげに掠れていて、やっぱり具合は良くなさそうで
ある。
イサトさんは俺の手の作りを確かめでもしているかのように、指
を握ってみたり、厚みを測るようにつまんでみたりとした後、力尽
きたようにぽとりと手を落とした。
701
そして。
﹁きみ、男だったんだなあ﹂
﹁ちょっと待て﹂
しみじみ、と呟かれたイサトさんの言葉に、俺は思わず半眼にな
った。
この人は今まで俺を何だと思っていたのか。
イサトさんは楽しげにくくくと喉を鳴らしながら、俺の方へと寝
返りを打つ。
ようやく目が覚めたのか、いつもと変わらないどこか面白がるよ
うな光を浮かべた金色と視線が合ってどきりとした。
こちらに向かって寝返りをうって乱れた布団。
イサトさんが着ているのは、いつも寝間着替わりに使っている召
喚士装備︵上︶だ。横向きにこちらを向いているせいで、大きく開
いた襟ぐりからいつもより深く胸の谷間が覗いている。そんな胸元
や、汗ばんだ首筋に銀色の髪が絡みつく様など、何か見てはいけな
いものを見てしまったような気がして落ち着かない。
が、イサトさんは俺の様子を気にすることなく、言葉を続けた。
﹁あれだ。バスケットボール、片手で持てるだろう﹂
﹁それはまあ。元々バスケやってたし﹂
基本である。
﹁イサトさんは?﹂
﹁⋮⋮じっとしてれば﹂
﹁なんだそれ﹂
﹁動くとぽろっと落ちる﹂
702
﹁駄目じゃん﹂
﹁駄目なんだ﹂
イサトさんも女性にしては長身の方なので、手の大きさは問題な
いような気がする。そうなると問題は握力か。
⋮⋮イサトさん、腕力、体力ともに無さそうだもんなあ。
﹁メロン潰せる?﹂
﹁それは無理﹂
リンゴならともかく、メロンて。メロンて。
俺はプロレスラーか何かか。
そんな益体のない会話を交わしつつ、俺はベッドサイドに椅子を
引き寄せて腰掛けた。それから、イサトさんの顔を覗き込む。
﹁具合、どう?﹂
﹁んー⋮⋮熱ぽい﹂
﹁だろうな。医者、呼んだ方が良いか?﹂
﹁や、それは大丈夫﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
イサトさんの大丈夫、は若干信用ならない。
じっ、と疑わしげな眼差しを向けてやれば、イサトさんは諸々の
前科に心当たりがあるのか、ごにゃごにゃと言い訳するように口を
開いた。
﹁風邪とか病気で熱が出てるってわけじゃないからな。本当、知恵
熱⋮⋮というかこう、口にするのも恥ずかしいんだけど﹂
もそもそ、と実際恥ずかしがるようにイサトさんは布団を引き上
703
げてもすりと顔半分を埋めるようにして隠す。
体調不良が恥ずかしい、というのは一体どういうことなのか。
俺はその言葉の続きを待つ。
﹁⋮⋮ストレス、です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
消え入りそうな声が、心底恥ずかしそうに自白した。
イサトさんに、ストレス。
なんだか、とても不似合いな言葉を聞いたような気がした。
けれど、その一方ですとんと納得している俺もいた。
前に本人が言っていたはずだ。
﹁悲鳴を上げ損ねることがある﹂と。
この人はきっと、何か怖いことや恐ろしいことがあっても、それ
に対する感情を咄嗟に上手く表現することが出来ないのだ。
冷静に、物事を認識しようとしてしまう。
そして、実際にそれが出来る。
酷く、理性的なのだ。
ある意味我儘な感情を抑えることが出来る。
出来て、しまう。
俺を気遣い、不安や迷いを打ち明けず一人で抱えていたように。
だから、イサトさんはすごく飄々とした大人のように見えるのだ。
それはもちろんただイサトさんがそういう人である、というだけ
でなく、イサトさん自身もそうであろうと思ってしていることなの
だろう。
だからこそ、こうして処理しきれない負荷で体調を崩してしまう
ことを、こんなにも恥ずかしそうにしている。
704
﹁⋮⋮格好つけ﹂
﹁うるさいやい﹂
もすもす、とますます深くイサトさんが布団の中に潜り込んでい
く。
意地っ張り、というか見栄っ張り、というか。
不思議な感慨を感じてしまった。
きっとこの世界に来なければ、俺はイサトさんが女性であること
はおろか、こんな人だということを知ることはなかっただろう。
俺にとりイサトさんはいつまでも手のかかる、大人の悪友で。
ひと
こんな風に弱さを抱えていることなんて知らないままでいたのだ
ろう。
⋮⋮こんな、可愛いところがある女性だってことも、きっと知ら
ないままだった。
﹁あのおっさんにこんな可愛げがあったなんて﹂
﹁秋良青年、そろそろ黙らないと後で三十倍にして返すぞ﹂
﹁何それ怖い﹂
布団からはみ出た銀色を、くしゃくしゃと撫でて機嫌をとってみ
る。
﹁じゃあ、何か欲しいものは?﹂
﹁冷たいもの食べたい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮砂パフェとか?﹂
カラットで大量にゲットした砂トカゲドロップのパフェなら、い
くつかインベントリに入ったままになっていたような気がする。
705
﹁⋮⋮今はちょっとコテコテの生クリームを食べる気力はない、か
な﹂
﹁じゃあ何か果物でもないか聞いてみるか﹂
﹁そうしてくれると助かる。基本、寝てれば熱は下がるから﹂
﹁了解﹂
俺はそう言って、階下に物色に行くべく立ち上がりかける。
そして、ふと何気なくイサトさんへと問いかけた。
﹁もう、大丈夫そう?﹂
﹁︱︱⋮⋮﹂
そろ、と布団から覗いていたイサトさんの双眸が、ほっそりと細
くなる。
まだ少し具合は悪そうではあるものの、どこか吹っ切れたように
も見えるその顏にほっとした。
﹁ん。私の中で︱︱⋮面倒なことは全部君に丸投げしてしまえばな
んとかなるんじゃないかな、という結論に達した﹂
﹁その論理はおかしい﹂
何故そうなった。
思わず半眼で見やれば、イサトさんは楽しそうに喉をくくくと鳴
らす。
﹁だって、君の手が大きかったから﹂
﹁意味がわからない﹂
ちょっとぐらいイサトさんのことがわかったかな、と思ってもこ
706
うしてすぐに煙に巻かれてしまうのが少し悔しい。
いや本当何がどうしてその結論に達したのか。
問い詰めてやりたいところなのだけれども、なんだかイサトさん
頼られ
が満足そうに笑っているので、まあ良いか、という気になった。
ちょっとぐらいなら、丸投げされるのも悪くはない。
俺自身朝から食べてないので、階下の酒場で食事を用意してもら
ってから二階に戻った。
本日の献立は、肉団子がメインである。
マッシュポテトにトマトベースのソースで煮込んだ子供の拳ほど
はありそうな肉団子が添えられている。後は野菜がごろごろ入った
スープとパンだ。くず野菜のスープ、と献立には書かれているわけ
なのだが、とてもそうは思えないボリュームである。ぷかりと浮い
たベーコンの切れ端から程よく滲んだ肉汁が、食欲をそそる良い匂
いを漂わせている。主食が米ではない、というのがなかなか慣れな
いが、味に不満はない。
707
イサトさんには、ご希望の果物と、もし食べれそうなら、という
ことでスープを少々。
それらをベッドサイドのテーブルに並べたところで、もそもそと
イサトさんも布団から這い出てきての食事タイムとなった。
ついでに、今後のことも話し合う。
﹁とりあえず明日からは、いろいろと後始末って感じだろうかな﹂
﹁そうなるな。あ、この肉団子美味い﹂
﹁ひとくち﹂
﹁イサトさんの分も貰って来ようか?﹂
﹁一つは食べきれないのでちょっとだけ欲しい。貰っても?﹂
﹁どーぞ﹂
そろーっと伸びてきたフォークが、俺の皿の上の肉団子を割って
持っていく。
﹁あ、本当だタマネギ甘い﹂
﹁美味いよな。明日から動けそう?﹂
﹁たぶん? 明日の朝には熱も下がってそうだ﹂
﹁なら良かった。でもまあ無理せず﹂
﹁了解。まずはこの街における獣人の待遇がどうなるかってところ
だな。その辺は一応レティシアが介入することになってるんだっけ
?﹂
﹁そうだな。獣人側がうんと言いさえすれば、身柄をレスタロイド
商会に移籍して待遇の改善を、という話だったと思う。その話し合
いに、出来れば俺たちにも参加してほしいって言ってたぞ﹂
﹁ギルロイ商会への抑えとして、ってことか。⋮⋮この林檎、甘酸
っぱくて美味しい﹂
﹁女将さんがあんまり甘くないかもって心配してたけど美味しいな
ら良かった。イサトさん体調良くなさそうなら俺一人で顏出すけど﹂
708
﹁や、大丈夫だろう。たぶん一緒に行けると思う。どうぞ、さっき
の肉団子のお礼に林檎を一切れさしあげようじゃないか﹂
﹁あんがと。⋮⋮結構酸っぱくない?﹂
﹁この酸味が良いんじゃないか﹂
﹁俺はもっと甘い方が好きだ﹂
﹁贅沢モノめ﹂
今後のことよりご飯で盛り上がっているような気がするのは気の
せいである。
綺麗に皿の上を空っぽにして、俺はほう、と一息。
充分に休んで、腹も満たされ、ようやく人心地ついた、といった
ところだ。
それから、お互いのインベントリの中にある、薔薇姫ドロップの
蜜の数を確認する。俺が36個で、イサトさんが48個。微妙に負
けたのが若干悔しい。
まあ、イサトさんの方が攻撃範囲が広いので、同じ制限時間内で
競えばこういう結果になって仕方ないではあるのだが。MP消費無
しで狩りが続けられる分、持久戦になると俺の方が勝つ。⋮⋮断じ
て負け惜しみではない。
﹁合計84個か。まだまだ、だよな?﹂
﹁うーん、そうだな。この五倍ぐらいは欲しい﹂
﹁イサトさん、この前あのダンジョン行った時はポーション幾つ持
ってた?﹂
﹁んー⋮⋮、確か200ちょいは持ってたと思う﹂
あのダンジョン、というのは俺とイサトさんがこの世界にやって
くる切っ掛けとなった場所のことである。あのダンジョンボスの取
り巻きがドロップした謎のアイテムを発動させてしまったことによ
709
り、俺たちはこの世界にやってきた。それならば同じアイテムを使
えば、元の世界に戻ることが出来るのではないか、というのが現状
もっとも有力な仮説だ。それを試すためにも、再びあのダンジョン
に潜る必要があるのだが⋮⋮そのためには念入りな準備が欠かせな
い。
ゲームであれば例え死んでも死に戻りするだけで済んだが、こち
らの世界ではおそらく、そうはいかない。死は、死だ。それ以外の
何物でもない。
﹁200ちょい、か﹂
それを使い切っていたことを考えると、確かに俺の分を含めて少
なくとも500は確保しておきたいところである。俺が100、イ
サトさんが200∼300。残りの100は予備だ。あの洞窟攻略
だけで400は必要になると考えて、今後またあのヌメっとしたイ
キモノと戦う可能性を考えると、やっぱり500が最低ラインだろ
う。
シャトー・ノワール
﹁そうなると、しばらく黒の城に通うことになりそうだな﹂
﹁その間に君の﹃家﹄の整備も進めようか﹂
﹁そうだな﹂
なし崩し的に、セントラリアの商人ギルドとことを構えてしまっ
ていたこともあり、その辺の情報が今までは手に入れられていなか
ったのだが⋮⋮今後はもしかしたら良い方向に話を進めることが出
来るかもしれない。万が一駄目でも、その時はその時でレティシア
に頼めばトゥーラウェストの商人ギルドに話を通してもらうことも
出来るだろう。
﹁薔薇姫の蜜を確保したらサウスガリアンでガラスの欠片集めて⋮
710
⋮、そしたら今度はノースガリアでポーション作成、ってことでい
いのか?﹂
﹁そうだな。ああ、その前にサウスガリアンで私は精霊魔法使い装
備も作らないといけない気がしている﹂
﹁確かに﹂
ナース服や赤ずきん、魔法少女も普通に比べたら防御力の面で優
れているが基本的には見た目装備である。あの洞窟に再び潜ること
を考えたら、イサトさんにも職業にちなんだちゃんとした装備を作
っておきたいところだ。
﹁作れそう?﹂
﹁うーん⋮⋮ゲームだとダークエルフの里でレシピを買えたんだが、
ここだとどうなっているんだろうな﹂
﹁あー⋮⋮﹂
レティシアの話によると、ダークエルフの暮らしていた遺跡も、
エルフの国、ノースガリアも今ではもう誰もいない廃墟になってし
まっているのだと言う。果たして、そこに伝わっていたレシピやス
キルロールは、どうなってしまっているのだろうか。
﹁消えたエルフとダークエルフ、それとセントラリアの大消失、だ
っけか。なんかいろいろあるな⋮⋮ふあ﹂
ぼやくように呟いたイサトさんの語尾が、小さく欠伸に消えた。
見れば、イサトさんの双眸はどこか目元がとろんと下がって眠た
げだ。
﹁ま、その辺のことはおいおい考えるとしようか。俺、そろそろ部
屋に戻るよ。イサトさん、眠そうだし﹂
711
﹁⋮⋮ん。実際、眠い﹂
ふわあ、とイサトさんがまた欠伸をかみ殺す。
眠そうにはしているものの、顔色はだいぶ良くなっているので、
先ほど本人が言っていたように、明日には体調も落ち着いていそう
だ。
俺は手早く食べ終えた後の食器を片づけて、イサトさんの部屋を
後にしようとして⋮⋮
﹁秋良﹂
﹁ん?﹂
呼び止められて、振り返ったところで一冊の本を差し出された。
今朝、イサトさんが俺の目から隠そうとした本だ。
﹁これ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮マルクト・ギルロイの日記だ。屋敷の地下で見つけて⋮⋮ま
あ、こそっと﹂
﹁こそっと﹂
ちょろまかしてきたらしい。
﹁ヌメっとしたイキモノのことだとか⋮⋮、誰がマルクト・ギルロ
イをそそのかしたのか、だとかのヒントがないかを探すつもりだっ
たんだけども﹂
そこで一度言葉を切って、イサトさんは少しだけ困ったように眉
尻を下げた。
﹁なんというか︱︱⋮、マルクト・ギルロイも一人の人間で、悩ん
712
で、苦しんでその果てにどこか麻痺して壊れてしまったんだな、っ
て事実ばかりが伝わってきちゃって。そんなわけなので、それ、結
構クる﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
俺はそう頷きながらも、イサトさんの差し出したその本を受け取
る。
逆にイサトさんは、自分から差し出しておきながら、なかなか思
い切りがつかないというように本から手を離せないでいるようだっ
た。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮本当に、読むのか?﹂
﹁うん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ぬぅ、と唸ってイサトさんの眉尻が下がる。
イサトさんは俺のことを心配性、と笑うが、こういうところ、イ
サトさんにも全く同じ言葉を返したくなる。
﹁なんていうか、うまく言うのは難しいけどさ﹂
﹁うん﹂
﹁知っときたいんだ、ちゃんと﹂
俺が。
俺たちが、倒した相手のことを。
罪悪感から忘れてしまうよりも、ちゃんと覚えておきたいと思う
のは考えが甘いだろうか。
713
﹁⋮⋮強情モノ﹂
﹁心配性﹂
そんな言葉を言い交わして、イサトさんはようやく諦めたように
本から手を離した。
﹁夜中でも朝でも、なんかこう、辛くなったら起こしていいからな﹂
﹁はいはい、わかったよ。イサトさんの方こそ、具合悪くなったら
いつでも起こせよ﹂
﹁ん。それじゃあ、おやすみ、秋良﹂
﹁おやすみ、イサトさん﹂
まとめた二人分の食器と、一冊の本を片手にイサトさんの部屋を
後にする。
階下の酒場に食器を返して、部屋に戻ろうとしてついでに酒を一
杯頼むことにした。酒なんて普段一人では飲まないのだが、今日は
特別だ。
タチ
血のように赤いワインを、一杯。
俺はわりとアルコールにも強い性質なので、これっぽっちでは酔
うことはないだろう。
ただ、少しだけ。
マルクト・ギルロイという男に杯を献じるのも悪くない、と思っ
たのだ。
そして俺は部屋に戻ると、安い赤ワインで唇を湿らせつつ、その
本のページをめくっていった︱︱⋮
714
おっさんの霍乱︵後書き︶
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
Pt、お気に入り、感想、励みになっております。
715
マルクト・ギルロイの日記︵前書き︶
若干気持ち悪い描写があります。
716
マルクト・ギルロイの日記
ぱらり、ぱらぱら。
ページをめくる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−
今日から、日記を書こうと思う。
ロザンヌが言うには、息子の成長を記録するのは私の方が相応し
いらしい。
あれだけ細かい帳面がつけられるなら、貴方の方が向いてるわ、
とのこと。
何か押し付けられたような気がしないでもないが、こうして日記
まで贈られてしまっては仕方がない。
いつか■■■[名前は塗りつぶされている]が大人になった時に、
717
この日記を見せてやることが出来れば、良い酒の肴になるかもしれ
ない。
隣で見ているロザンヌが書けと煩いので仕方なく書くよ。
ロザンヌ、■■■、愛しているよ。
⋮⋮恥ずかしいな、これ。
⋮⋮中略⋮⋮
﹃女神の恵み﹄が手に入らなくなり始めている。
長年商いを続けているが、こんなことは初めてだ。
獣人の冒険者は比較的安定した商品の供給をしてくれている。
これからは獣人の冒険者との取引をメインに置くべきかもしれな
い。
だが、彼らは彼らなりのルールで動いている部分も多いと聞く。
私のような商人と組んで貰えるだろうか。
誠意を見せれば、話し合いのテーブルぐらいにはついて貰えると
信じたい。
一体何が起きているのか⋮⋮。
不安は募る。
ロザンヌはいざとなれば田舎に引っ込めば良い、なんて笑ってい
る。
どうしてそんな呑気でいられるのか私にはわからない。
だが⋮⋮■■■と遊ぶロザンヌの姿を見ていると、どうにでもな
ると私まで思えてくるのだから不思議だ。
718
家族のためにも頑張らなければ。
■■■がお休みのお歌を強請っている。
まったく、今日は何回歌わせられるのやら。
■■■が風邪を引いたらしい。
昼ごろから熱っぽいとロザンヌが言っていた。
今日は早めに寝かしつけるとしよう。
⋮⋮いつもならまだ眠くないと愚図るのに、今日はさっさと眠っ
てしまった。
やはり具合が悪いんだろうか。
何度もせがまれると面倒臭くもあるが、こうも聞き分けが良くて
も拍子抜けしてしまう。
早く良くなると良い。
■■■は未だ風邪引きさんのままだ。
昼間は元気にしているのだが、夜になると熱が高くなる。
医者に見せたところによると、流行り病かもしれないと言われた。
この病には特効薬がないと言われた時には焦ったが、安静にして
いれば自然と良くなるとのこと。
719
ほっとした。
栄養をつける必要があると言われたので、今日は﹃女神の恵み﹄
の林檎を闇市で購入してきた。
⋮⋮本当は良くないんだが、可愛い息子のためだ。
商人ギルドの連中に見つかったら口うるさく叱られてしまうな。
■■■の熱が下がらない。
夜のうちだけだった熱が、朝になっても下がらなくなった。
再び医者に診せるものの、やはりどうすることも出来ないと言わ
れてしまった。
栄養をつけ、病が癒えるのを待つしかないらしい。
だが、年寄りや子供の中にはそれまで体が持たない者もいる⋮⋮、
と。
■■■⋮⋮
ロザンヌが泣いている。
どうしたら、■■■を助けられるだろう。
今日も闇市に寄って林檎を買った。
阿呆のように高いが、■■■のためなら仕方がない。
早く﹃女神の恵み﹄の供給が安定してくれると良いんだが。
720
■■■がご飯を食べなくなってしまった。
食べられるのはおかゆが少しと、擦り下ろした林檎ぐらいだ。
せめて少しでも栄養価の高いものを、と今日も闇市に寄った。
あまり金のことは考えたくないが、最近毎日のように﹃女神の恵
み﹄を買っているせいか生活費が心もとなくなってきている。
だが■■■に少しでも栄養のあるものを、と思うとそれしか方法
はない。
いくら街全体で獣人から﹃女神の恵み﹄を買い上げる額を定めた
としても、供給量が需要に追い付かなければ今度は我々が札束で殴
りあうだけだ。
獣人から直接買おうと思えば闇市しかない。
すっかり闇市の常連になってしまった。
シャトー・ノワール
エスタイーストから来た商人から、良い話を聞いた。
黒の城にいる薔薇姫から得られる﹃女神の恵み﹄はとても栄養価
が高く、同じ病に倒れた子供がその﹃女神の恵み﹄のおかげで持ち
こたえたことがあるらしい。
薔薇姫の蜜、か。
セントラリアは広いんだ。
手を尽くせば、一つぐらい手に入るかもしれない。
商人ギルドの連中にも声をかけてみよう。
■■■、もう少しの辛抱だ。
721
もう少しだけ、待ってておくれ。
薔薇姫の蜜が手に入らない。
なんでだ。どうしてだ。
金ならいくらでも出す。
この屋敷を売ったっていい。何でもするから誰か■■■を助けて
くれ。
シャトー・ノワール
■■■はもうベッドから出ることすら出来なくなってしまった。
早く。
早く。
誰か。
獣人の冒険者たちに金を積んだものの、誰一人として黒の城に行
こうと言うものは現れなかった。
このままでは■■■が。
いっそ私が行くか⋮⋮?
いや駄目だ。人間の私では﹃女神の恵み﹄は手に入れられない。
どうしてこんなことに。どうして。
722
ロザンヌがいなくなった。
ロザンヌ。ロザンヌ。
近所の人が、東門から出ていくロザンヌの姿を見たと言っていた。
ああロザンヌ、なんて無謀なことを。
無事に戻ってくれ。
ロザンヌは帰らない。
私は最低の人間だ。
ロザンヌが思い詰めているのは知っていたのに。
私は息子と妻を天秤にかけた。
少しでも可能性があるならとロザンヌを止めなかった。
商人の妻でしかないロザンヌにモンスターと戦って﹃女神の恵み﹄
を得る術などないとわかっていたはずなのに。
私はロザンヌを止めなかった。
すまないロザンヌ。
すまない。
723
■■■が、水しかうけつけなくなってしまった。
どんどん細く、小さくなっていく■■■を見ていることしか出来
ない。
私は■■■の父親だというのに、何もしてやれない。
ぼんやりとベッドに横たわる■■■の傍にいてやることしか出来
ない。
ああ女神よ、私の命と引き換えで構わない。
どうか■■■を救ってくれ。
お願いだ。
もう何日も寝ていない。
■■■。
逝かないでくれ。
私を独りにしないでくれ。
724
■■■が、小さな声でねだった。
おうたをうたって、とねだった。
泣きながら歌った。
お前が望むなら何度でも。
何度でも歌ってやる。
だからお願いだ。
逝くな。
どうか、
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■[何度も同じ言葉を重ね
た結果真っ黒になって読めなくなったページが続く]
725
■■■の傍らで呆然としているところに、一人の男が現れた。
見覚えのない男だ。
黒いローブを着たその男は言った。
■■■を救えると。
男は教えてくれた。
獣人が全て悪いのだと。
獣人が﹃女神の恵み﹄を独占しているからこのような悲劇が起き
るのだと。
獣人から﹃女神の恵み﹄を解放することで、■■■を甦らせるこ
とが出来るのだと言っていた。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮馬鹿らしい。
私はまだ正気だ。
そんな馬鹿な話が信じられるはずもない。
■■■は逝ってしまった。
726
ロザンヌもきっと逝ったのだろう。
私も、同じところに逝きたい。
今はただそれを望むだけだ。
そう告げると、男は何か黒い種のようなものを、■■■の口に含
ませた。
獣人を殺し、その血を与えることにより、これまで独占されてい
た﹃女神の恵み﹄が■■■の身体を巡り、生気となって甦らせるこ
とになるらしい。
胡散臭い話だ。
胡散臭い男だ。
そんな話、誰が[この後はべったりと赤黒い血に汚れている]
どうしてこんなことに。
どうして、ああ女神よ、私を助けてください。
罪深い私を許してください。
先日、借金取りが屋敷までやってきた。
■■■に食べさせたくて、﹃女神の恵み﹄を無理に買い漁った結
727
果だ。
待って欲しいと言ったものの奴らは容赦なかった。
しこたま殴られて殺されると思った。
そのうちボロ雑巾のようになった私を、そいつらは思い切り突き
飛ばした。
そして嘲笑った。
金も力もないから子供を死なせるようなことになるのだと、そい
つらは私を嘲った。殺してやりたい。目の前が真っ赤に染まった。
ただ、死ねばいいと思った。
生まれて初めて、殺人衝動に限りなく似た憎悪を抱いた。
気づいたら火かき棒を握っていた。
後は、覚えていない。
ぐしゃり。ぐしゃり。
何度も何か硬いものを叩き潰したような気がする。
手が痺れて、腕が重くて、へたりこんだ時にはもう周囲はひたす
らべったりと赤に塗れていた。ぐずぐずとしたぬかるみの中、私は
呆然と座り込んでいた。
■■■
■■■
どうせ殺してしまったのならあの男の言った言葉を試してみても
良いだろうか。
こんな愚かな父をお前は嗤うだろうか。
■■■。■■■。
もう一度お前に逢えるなら。
﹁⋮⋮、﹂
火かき棒から滴る血を口に含ませた■■■は、ほっそりと息を吐
728
いた。
アレは本当に■■■なのだろうか。
■■■と同じ姿をしたアレは動きもせずただじっとこちらを見つ
めている。
まるで■■■の姿を借りたバケモノのようだ。
私はとんでもないことをしてしまったのではないだろうか。
ロザンヌ、私は間違っていたのだろうか。
私は、どうしたら良い⋮⋮?
死体からの腐臭が日に日に強くなる。
どこかに埋めるなり捨てるなりしなければならないとわかってい
るのに、人に見つかることを恐れて何もできずにいる。
729
リビングデッド
ベッドの中の■■■は、またしても少しずつ弱っているように見
えた。
喋らず、動かず、ただそこにあるだけの生きた死体。
それでも、少しずつその身体から生気が抜けていっているような
気がした。
このまま■■■の姿を借りたバケモノと共に、ここで共に朽ちて
しまおうか。
ベッドに横たわったままの■■■をそっと抱き上げて、腕の中に
抱きしめた。
このまま。
このまま二人で。
その時だった。
何時の間にか部屋に、あの男がいた。
男は言った。
﹁また失うつもりなのか﹂と。
何を言っているというのか。
■■■は失われたままだ。
ここにいるのは、■■■の姿を真似たバケモノだ。
似てるのは形だけ。
・・・・・・
そう言った私に、男は笑った。
﹁足りないからだよ﹂
足りない⋮⋮?
男は楽しそうに教えてくれた。
私が言う通り、今の■■■はまだ完全な命ではないのだと。
獣人どもに奪われた命を、取り戻す必要がある、と。
男が懐から赤黒い液体の満ちた小瓶を取り出す。
730
鉄錆びにも似た生臭い匂いに、腕の中に抱いた■■■が反応した。
まるで、ジュースを欲しがった時のように懸命に腕を伸ばして小
瓶を欲しがる。
男が与えると、■■■は口のまわりをべたべたに汚しながらも、
美味しそうに飲み干した。
﹁美味しいかい、■■■﹂ そっと声をかけてみる。
ロザンヌがミルクを与えた後によくそう聞いていたように。
﹁⋮⋮、⋮⋮﹂
小さく、空気が震えた。
もしかしたら幻聴だったのかもしれない。
けれど、私には聞こえた。
聞こえたんだ。
■■■が、﹁ぱぱ﹂と呼ぶ声が。
涙があふれた。
もう尽きたと思っていたのに。
もう私の身体はカラカラに乾いてしまって、どれだけ絞っても涙
なんか出てきやしないと思っていたのに。
腕の中に抱いた小さな身体が、﹁ぱぱ﹂と私を呼んだ。
ならばこの子は私の坊やだ。
可愛い可愛い、大切な私の坊や。
そうか。
きっとそうなのだ。
坊やが動けないのは、栄養が足りていないせいだ。
坊やが喋れないのは、栄養が足りていないせいだ。
坊やにご飯を与えなければ。
731
お腹いっぱい食べさせてやらなければ。
まずは屋敷に転がるあの汚らしい肉でも良いだろうか。
いつの間にか男の姿はなくなっていた。
けれど、そんなことは私にはもう気にならなかった。
坊やのお腹を満たしてあげることの方が大事だ。
幸い屋敷には坊やの食糧となりうる獣人の肉が二体分ほどある。
問題は肉が傷んでいることで坊やがお腹を壊してしまわないかと
いうところだが⋮⋮どうやら坊やにとっては些細な問題だったらし
い。
坊やは好き嫌いすることなくぺろりと平らげてしまった。
流石は私の坊や。
ロザンヌの躾けが良いからかもしれない。
好き嫌いしない良い子に育っている。
﹁ぱぱ﹂
甘えるようにそう呼ぶ声が聞こえたような気がした。
さあ坊や、もっとたくさん美味しいものを食べさせてあげよう。
坊やのために生きよう。
坊やが食べ物に困らないように、私は力を尽くそう。
坊や坊や、私の可愛い坊や。
もう二度とお前を失ったりはしない。
だからお願いだ。
いつかまた、私を抱きしめておくれ。
732
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−
マルクト・ギルロイの日記はそこで終わっていた。
ぱたり、と俺は本を閉じて、深々と息を吐く。
これはクる。
イサトさんが熱を出すのも頷ける。
マルクト・ギルロイは人間が﹁女神の恵み﹂を手に入れられなく
・・
なり始めた頃に、それを原因として家族を失った。
そこに謎の男が現れ⋮⋮息子の死体に何かした。
それがきっかけで、あの子は無貌のバケモノへと成り果てたのだ。
⋮⋮マルクト・ギルロイはその現実から目をそらし続けた。
いや、本当にそうだろうか。
ふと気づいて、俺はもう一度日記のページをめくった。
最初から最期まで、マルクト・ギルロイは執念を感じずにはいら
733
れないような丁寧さで息子の名前を塗りつぶしている。
そして、ある一時からその名前は出てこなくなった。
それ以降マルクト・ギルロイは、徹底して息子のことを﹁坊や﹂
と呼び続けている。思えば、薔薇園で対峙した時も、マルクト・ギ
ルロイは愛情深い父親のようではあったものの、決して子供の名前
を呼ぼうとはしなかった。
﹁⋮⋮わかって、いたのか﹂
アレが自分の息子ではないと。
マルクト・ギルロイは本当はわかっていたのではないだろうか。
それでも家族を失った悲しみを受け入れられず。
彼は心と現実を歪めてしまった。
それでも彼の心のどこかで、あの無貌のバケモノを息子の名前で
呼び続けることに対しての抵抗を最後まで抱き続けていたのではな
いだろうか。
﹁⋮⋮なんだか、なあ﹂
グラスの中に、少しだけ残った赤ワインへと視線を落とす。
もう最後の一口分ぐらいしか残ってはいないのだが、なんだかす
っかり飲む気が失せてしまった。今口に含むと、そんなはずもない
のに血の味がしそうである。
俺はベッドサイドのテーブルにグラスと一緒にマルクト・ギルロ
イの日記を置いて、べふりとベッドに倒れ込んだ。
ごろりと転がって天井を眺める。
マルクト・ギルロイを唆した﹃黒いローブの男﹄とは一体何もの
なのだろう。
その男が、カラットの村や飛空艇で見たヌメっとした人型を造り
出している元凶なのだろうか。
734
カラットの村を盗賊と一緒に襲ったり、飛空艇を襲ったり、マル
クト・ギルロイを使って獣人を追いこんだり、一体何が目的なのだ
ろう。
セントラリアに混乱を招きたい⋮⋮のか?
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
情報が足りていない。
俺は深々と溜息をついて、目を閉じる。
別段、イサトさんが心配してくれていたようなショックを受けた
わけではない。
確かに読んでいて愉快な話ではなかったが、それに引きずられて
しまうほど俺の感受性は豊かではない。
むしろ、納得、という感覚の方が近いかもしれない。
何故、マルクト・ギルロイが坊やと一緒に逝くことにしたのか。
何故、あそこまで容赦なく獣人を追い詰めることが出来たのか。
マルクト・ギルロイという男の生き様を、少しは理解することが
出来たように思う。だからこそ⋮⋮あまり後悔はなかった。
彼は、全てを坊やに賭けた。
俺は、それを止めたかった。
そして、止めた。
それだけの話だ。
ただ、それだけ。
ごろん、と寝返りを打つ。
﹁⋮⋮早く朝になんねえかな﹂
735
なんとなく。
無性に、イサトさんの顏が見たいと思った。
736
マルクト・ギルロイの日記︵後書き︶
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
Pt,お気に入り登録、感想、いつも励みになっております。
前回は誤字指摘ありがとうございました!
そそっと直させていただきました!
これからもよろしくお願い致します。
737
おっさんの手料理
なんだかふと、良い匂いがして目が覚めた。
香ばしく、食欲をそそる匂いだ。
もぞりと布団の中で身じろぐ。
良い匂いだ。
焼き立てのトーストと、ベーコンだろうか。
まるですぐ近くから漂ってくるようなその匂いに負けて、俺はむ
くりと身体を起こし⋮⋮ちょうど何やらグラスを片手に部屋に入っ
てきたイサトさんと目があった。
﹁おはよう、秋良青年﹂
﹁おは、よう?﹂
思わず疑問形になった。
当たり前のように声をかけられたわけだが、ここは俺の部屋であ
るわけで。
もちろん寝る前にはきちんと戸締りをしているわけで。
⋮⋮鍵をかけ忘れた?
寝る前の記憶を確認してみるが、鍵をかけた記憶はしっかりある。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
解せぬ。
戸締りをしていたはずの部屋の中に突如イサトさんが湧いて出て
きたのも謎だし、そのイサトさんが当たり前のように朝食の用意を
してくれているのも謎だ。
738
普段なら寝汚いイサトさんは俺が起こすぎりぎりまで部屋で惰眠
を貪っていることが多い。そんなイサトさんが俺より早く起きて朝
食の用意をしてくれているなんてことがあるだろうか。いやない。
︵反語表現︶
ということは、これは夢なんだろうか。
起きているつもりで寝ている、いわゆる明晰夢的な何かか。
夢であるならば何でも俺が望む通りの展開になるはずだ。
俺は、ぼやーとイサトさんを見つめたまま呟いた。
﹁どうせなら︱︱⋮はだかえぷろんをしていただきたかった﹂
﹁何を言ってるんだ君は﹂
夢のはずなのに、何故か白々とした冷たい眼差しを向けられた。
ということは、俺はイサトさんにそういう目で見られたいという
隠れた欲望でも持っていたのだろうか。
そんなことをつらつらと考えていると、ベッドサイドまでやって
きたイサトさんに目の前で手をひらひらと振られてしまった。
﹁朝だぞ、秋良。まだ寝惚けてるのか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮寝惚けてる、ような?﹂
﹁なんで疑問形なんだ。君、意外と寝起き良くないんだな﹂
﹁イサトさんには言われたくない﹂
ふわあ、と欠伸をしつつ頭をかく。
指の間を抜ける硬い黒髪の感触やら、発声の感覚がどうにもリア
ルで、これ以上この状態が夢だと思い込むのに無理が出てきた。
そうなるとこれは現実である、ということになってしまうわけな
のだが。
﹁⋮⋮イサトさん、鍵、かかってなかった?﹂
739
﹁それはまあ、ほら﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ははっ、とイサトさんは笑って流そうとする。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
じぃ、と見つめていると、イサトさんはふいっと視線をそらしつ
つ自白した。
﹁私、鍵開けスキル持ってるので﹂
﹁そんなものまで持ってやがったか﹂
思わず呻いた。
鍵開けスキル、というのはイサトさんが薔薇園でヌメっとしたモ
ンスター相手に使ったスキャンスキルと似たような、あると便利だ
がなくても別に困らない系のスキルの一つである。鍵開けという言
葉からはどちらかというと閉ざされた扉を開くのに必要、というイ
メージが先立つが、RFCにおいての鍵開けスキルは、もっぱら宝
箱を開くために使われることが多かった。
モンスターがドロップしたり、特殊なオブジェクトを破壊するこ
とで手に入る宝箱は、そのままの状態では中に入っているアイテム
を確認することも、使用することも出来ない。そこで必要になるの
がこの鍵開けのスキルなのだ。が、別段自分でスキルを持っていな
くとも、街に戻れば手数料次第で鍵開けを引き受けてくれるNPC
がいるので、そう困ることはない。
なので俺なんかは、ある程度宝箱が溜まったところでまとめてN
PCに依頼して箱を開けてもらうようにしていた。
740
その場で開けたいという気持ちもわかるし、宝箱のままだと重量
がかさばるというデメリットもある。が、多少お金はかかるとはい
えNPCという代案が確保されている中で、貴重なスキルポイント
を注ぎこんでまで取るほどのスキルではない、というのが俺の判断
だった。
その鍵開けスキルを、どうやらイサトさんは習得していたらしい。
⋮⋮まあ、イサトさんらしいと言えば非常にイサトさんらしい。
俺はぽりぽりと頭を掻きつつベッドから降りる。
﹁で、イサトさんはどうしてここに?﹂
﹁君と一緒に朝ごはんでも食べようかと思って﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
イサトさんはしれっとそう応えて、口元をきゅっと笑みの形に吊
り上げた。
いろいろ問い詰めたいところではあるが、普段でさえわりと勝ち
目がないのに寝起きの俺では勝てるわけもない。
﹁顏、洗ってくる﹂
﹁いってらっしゃい﹂
イサトさんに見送られて、一旦洗面所へと撤退。
冷たい水で顔を洗って眠気を散らす。
ごしごし、と備え付けのタオルで顔を拭き、鏡の中の自分の顔を
見つめ返す。
いつも通り人相のよろしくない三白眼と視線が重なった。
昨夜あんなものを読んで寝たわりに憂鬱そうな顔をしていないな、
なんてふと思って、それこそがイサトさんが朝っぱらから襲撃をか
741
けてきた理由なのだと気づいて少しだけ悔しくなった。
そうか。
だからイサトさんはわざわざ早起きしてくれたのか。
まったく。
心配性なのはどっちなのだか。
俺は小さく口元に苦笑を浮かべて、身支度を整えると部屋に戻る。
その間にもイサトさんは着々と朝食の支度を進めていたのか、部
屋の中にはほろ苦い珈琲の匂いが広がっていた。珈琲を飲まないイ
サトさんの前には、紅茶のカップが置かれている。
﹁コーヒーまで淹れてくれたのか。あんがと﹂
﹁どういたしまして。君、トーストは二枚で足りる?﹂
﹁十分﹂
皿の上には、目玉焼きが乗ったト︱ストが二枚と、無地のトース
トが一枚。その隣には端っこがカリっとしたベーコンが何切れか乗
せられている。シンプルだが、嬉しい朝ごはんだ。
﹁美味しそうだな。今までこんなメニューあったっけ?﹂
ここでの朝ごはんといったら、大体が昨日の夜の残りになる。
昨日の今日なら、くず野菜のスープとパン、といったところだと
思うのだが。
﹁せっかく早起きしたので、軽くこしらえてみた﹂
﹁え﹂
﹁⋮⋮なんだ、その驚きようは﹂
﹁いや、ってことはこれ、イサトさんの手料理?﹂
742
﹁手料理、というにはシンプルすぎるような気がするけれども⋮⋮
まあ、私が作ったので手料理と言えないこともないとは思う﹂
﹁おおおお⋮⋮﹂
女性の手料理をいただくのはどれくらいぶりだろう。
家庭科の調理実習ぶりではないかと思うと、謎の感慨がこみ上げ
てきた。
いや、手作りのお菓子ぐらいならば差し入れで貰ったりしたこと
もあったのだが、こういうさりげない生活の一コマに出てきそうな
料理ともなると逆にレア度が高い。
﹁イサトさんの手料理⋮⋮﹂
ほーと息を吐きつつ矯めつ眇めつ眺めていたら、阿呆なことして
ないで冷める前に食べなさい、とやんわりとテーブルの下で足を踏
まれた。
ぱらぱら、と塩コショウの振られた目玉焼きにトーストごとかぶ
りつく。ぷるんとした白身の触感と、とろりとした濃厚な黄身の味
が小麦の味に混ざり合って口の中に広がった。
﹁⋮⋮ンまい﹂
﹁かの有名な天空の城トーストだからなあ﹂
﹁確かに﹂
子供の頃見たアニメ映画の内容を思い出すように、とろとろと零
れそうな黄身を慌ててちゅるんと頬張った。見ればイサトさんも同
じように、先に黄身をやっつけているところだったりした。てろり
と光る口元に思わず視線が吸い寄せられる。が、イサトさんはと言
えばそんな俺の不埒な視線に気づいた気配もなく、口元から滴りそ
うになった黄身を、指先ではっしと押さえている。そのまま、指先
743
をぺろり。人が飯を食う姿はエロい、という説をなんとなく思い出
す瞬間だった。
﹁なんかこういうの、久しぶり⋮⋮っていうか逆に珍しいのか﹂
﹁へ?﹂
イサトさんの食べる姿に気をとられていた俺は、思わず間の抜け
た声を返す。
なんだ。何の話だ。
誤魔化すように口の中身を咀嚼して呑みこみ、首を傾げた俺にイ
サトさんは言葉を続ける。
﹁なんだかんだ、二人だけでご飯食べるのって珍しい気がしないか
?﹂
﹁そう言えば⋮⋮﹂
カラットの村にいる時はアーミットや村人が一緒だったし、セン
トラリアに来てからはエリサやライザが一緒だった。
こうして二人きりの食事、というのは珍しい。
いつもより静かで、どことなく時間の流れが緩く感じられる。
しばし、お互い無言でパンを齧る沈黙。
そんな静けさも、相手がイサトさんならばそう気にならなかった。
﹁⋮⋮で﹂
こくり、と食後の紅茶を一口飲んでから、イサトさんが何気ない
調子で口を開いた。
﹁どうですか﹂
744
何故か敬語だった。
さりげない導入が思いっきり無駄になった。
なんだかめっきり会話がなくなった子供に向かって、ぎこちなく
声をかける休日の父親のようである。
﹁どうですか、って何が﹂
﹁⋮⋮アレ、読んだんだろう?﹂
ちらり、とイサトさんがベッドサイドに置いたままのマルクト・
ギルロイの日記を見やる。その眼差しに含まれた苦い色に、俺はあ
あ、と小さく声をあげた。
﹁うん。昨日の夜、あの後目を通したよ﹂
﹁で、その。⋮⋮平気?﹂
転んだ後の傷口をそっと覗きこまれるような擽ったさに、軽く首
を竦める。
﹁まあ、いろいろ感じることはあるけども⋮⋮、まあ、平気﹂
あえて言うのなら、黒ローブの男出て来い、といったところであ
る。
あの男さえ余計なことをしなければ、言い方は悪いがマルクト・
ギルロイの身に起きたことは普通の悲劇であれたのだ。
あの男が介入したことにより、マルクト・ギルロイの悲劇は多く
の犠牲者の血肉で彩られた生臭い惨劇へと変わってしまった。
だから俺の感想を素直に告げるとしたならば、マルクト・ギルロ
イへの同情よりも余計なことをした黒ローブの男に対する怒り、の
方が近いのかもしれない。
745
﹁あの男⋮⋮何者なんだろうな﹂
﹁君がカラットで遭遇した男は?﹂
﹁⋮⋮あいつか﹂
唸る。
焔の中に消えていった、得体の知れない不気味な男。
俺個人としては諸悪の根源というよりも、ヌメっとした人型の擬
態であったような印象の方が強いではある。だが、それがマルクト・
ギルロイの日記に登場した男ではないという証拠はどこにもない。
ヌメっとした人型それ自体が、仲間を増やすべく暗躍しているの
か。
それとも、何者かが何らかの目的を達成するためにヌメっとした
人型を増やして回っているのか。
今の俺たちにはそれを判断するだけの情報が揃っていない。
﹁⋮⋮何にしろ、相手の目的が見えないのが不気味だよなあ﹂
﹁カラットでは盗賊を煽って小さな村を襲って、飛空艇では機体を
モンスターに襲わせて⋮⋮セントラリアでは獣人を差別対象として
追いこんで﹂
﹁どうも共通の目的が見えないよな﹂
﹁何なんだろう﹂
二人揃って首をひねる。
俺たちの目的は、別にあのヌメっとした人型との対立ではない。
ただ自分たちの世界に戻るための術を探しているだけだ。
だが、こうも行く先々でぶつかることが続くと、放っておくわけ
にもいかなくなる。後手を取って追い詰められる、なんていうのは
避けたい以上、どうしても気にかける必要が出てくるのだ。
746
﹁まあ、わからないことを考えても仕方がない﹂
イサトさんはあっさりとそういうと、こくりと喉を鳴らして紅茶
を飲みほした。
﹁とりあえず、今はやるべきことから片づけて行くとしようじゃな
いか﹂
﹁そう、だな﹂
わかっていることから。
出来ることから片づけて行こう。
この場合はまずは今回の騒動の後始末だ。
獣人たちがセントラリアに残るにしろ、旅立つにしろ、最後まで
見届けたい。
﹁んじゃ、教会に顏出してみるとするか﹂
﹁そうしよう﹂
そう言って、俺は珈琲を飲み干した。
747
俺たちが教会についたのは、ほとんどもうお昼前と言っても良い
時間だった。
﹁あ!﹂
﹁アキラ! イサト!﹂
教会の入り口をくぐった俺達の姿に気付いたのか、すぐにライザ
とエリサが駆けてくる。
﹁オマエら、もう身体は大丈夫なのかよ﹂
﹁十分休んだからな﹂
﹁イサトさんも大丈夫ですか?﹂
﹁心配かけちゃったか。ちょっと疲れが出ただけで、もう大丈夫だ
よ﹂
心配そうなライザの頭を、くしゃくしゃとイサトさんの指先がか
き撫でる。
それに対して気持ち良さそうに瞳を細めるライザにも、その隣で
﹁ちゃんと朝飯は喰ったのか﹂なんて世話焼きっぷりを発揮してい
るエリサの表情にも、以前までのような不安げな色はなかった。両
親がすぐ傍にいてくれるという安心感からだろう。そう思うと、な
んだか俺までほっとする。
これまで頑張った分、十分に甘えさせてもらえよ、なんて言葉が
喉元までこみ上げた。言わないけど。言ったらたぶん、意地っ張り
極まりないエリサに教育的指導︵物理︶を喰らうのは間違いない。
748
﹁そういうライザの方こそ、体はもう何ともないか?﹂
﹁はい、僕の方も大丈夫です! でも⋮⋮﹂
元気よく答えていたライザが、しゅんと項垂れる。
何かあったのだろうか。
俺とイサトさんは思わず顔を見合わせた。
﹁どうした? 何かあったのか?﹂
ライザに目線を合わせるように屈んで、イサトさんが首を傾げる。
そんなイサトさんに、ライザは申し訳なさそうに言葉を続けた。
﹁僕、街に残ってみんなを護れ、ってイサトさんに頼まれたのに出
来なくて⋮⋮﹂
その言葉に、ライザには悪いものの俺はついほっとしてしまって
いた。
何かまた良くないことが起こったのかと思ってしまったのだ。
見れば、イサトさんも似たような顏をしている。
ライザにしてみれば、敵に捕まって助け出されるなんていうのは
悔しく、情けなく思ってしまうような出来事だったかもしれないが
⋮⋮アレは仕方ないと思う。
俺らだって、まさか敵にヌメっとした人型がいるだなんて考えて
もいなかったのだ。
﹁役に立てなくて、ごめんなさい﹂
﹁ライザ⋮⋮﹂
しょんぼりと顔を伏せたライザは、ぎゅっと口をへの字にしてい
る。
749
元々体が弱い自分のせいで家族に迷惑をかけてしまっている、と
の思いの強いライザだけに、余計に自分を責めてしまうのかもしれ
なかった。
どう慰めたものか、と俺が言葉に迷っていると⋮⋮そこで口を開
いたのはやはりイサトさんだった。
﹁ええと、エリサ﹂
﹁へ?﹂
いきなり話をフられるとは思ってなかったらしいエリサの耳が、
ぴく、と小さく震えた。つまみたい。
シャトー・ノワール
﹁私たち、黒の城でめっちゃ強かったよな﹂
﹁え、うん。凄かった。薔薇姫も庭師も、あっという間に倒してた﹂
﹁秋良青年なんてもう、一撃必殺の勢いだった﹂
﹁うん。一回普通に蹴り倒しててビビった﹂
身に覚えは十分にある。
なんだか妙な照れくささを感じて、ぽりと額をかく。
﹁まあ、そんな滅茶苦茶強い私たちなんだが﹂
﹁⋮⋮うん﹂
ライザは、項垂れたまま頷く。
﹁あの、マルクト・ギルロイの連れていたモンスター相手には死ぬ
ほど苦戦しました﹂
﹁﹁え﹂﹂
イサトさんの言葉に、ライザだけでなくエリサまで意外そうな声
750
をあげた。
そういえば、あのヌメっとしたモンスターとの戦闘が始まってす
ぐにエリサたちには﹃家﹄へと避難して貰っていたのだ。
﹁な、秋良青年﹂
﹁⋮⋮いろんな意味で死ぬかと思った﹂
嘘はついていない。
いろいろな要因が重なった結果とはいえ、この世界にやってきて
以来の苦戦だったと認識している。
イサトさんは、苦戦した一番の原因が人質を取られていたことで
あることを上手く触れないようにしながら、二人へとあの夜の戦い
を話して聞かせる。
﹁私はあの時、モンスターを内側から攻撃する方法を考えていたわ
・・・・・
けなんだけれども⋮⋮その時一番問題になったのはなんだと思う?﹂
﹁えっと、息が出来るか、とか⋮⋮?﹂
・・・・・
﹁そうだな、それもあった。でも、一番不安だったのはどうやって
攻撃するかだったんだ﹂
﹁どうやって、攻撃するか⋮⋮﹂
ぴんと来ていない様子のライザに、イサトさんはすっとインベン
トリからいつもの禍々しいスタッフを取り出して見せる。
﹁攻撃魔法を使うには、その媒介となるスタッフが必要だ。でもそ
れは冒険者なら⋮⋮冒険者でなくても、ちょっとモンスターとの戦
闘についてを齧った人間なら誰でも知ってることだろう? だから、
奪われてしまう可能性があった﹂
﹁実際、奪われたよな﹂
﹁うん﹂
751
あの時の、からん、とスタッフだけが地面に転がる寒々しい音を
俺は未だに覚えている。今思い出しても、ぞくりと背筋が冷える。
﹁魔法が使えなければ、私は非力だ。でも︱︱﹂
イサトさんは、にんまりと笑みを浮かべてライザの瞳を覗きこん
だ。
﹁君が、砲閃珠を持っていてくれた﹂
﹁え⋮⋮?﹂
ぱちり、とライザの目が丸くなる。
﹁君の回りに、私が渡した砲閃珠が漂っているのが見えたから︱︱
⋮万が一スタッフを奪われて魔法が使えなくなっても、内側からあ
のモンスターを吹っ飛ばしてやることが出来る、って思ったんだ﹂
﹁あ⋮⋮﹂
﹁ライザが、諦めなかったからだ﹂
ぽん、ぽん。
優しいリズムでイサトさんがライザの頭を撫でる。
﹁君は、砲閃珠を手にしたままだった。逃げなかったんだろう? 最後まで抵抗してやろうとしたんだろう?﹂
﹁⋮⋮っ、う、うん。僕、ちゃんとみんなを護ろうと、して⋮⋮っ﹂
﹁おかげで、助かった﹂
﹁っ⋮⋮﹂
びえー、とライザの涙腺が決壊した。
752
柔らかな笑みを浮かべたイサトさんが、そんなライザを抱きしめ
るように腕を回してその背中を優しく撫でる。
それはもしかするとライザにとって誰にも話したくない敗北の物
語が、胸をときめかせる冒険譚に変わった瞬間だったのかもしれな
い。
イサトさんは、こういうところが上手い。
本人も気づかないでいるような物事の良い面を、そっと優しく差
し出してくれるのだ。
そんなイサトさんが、ちら、と俺を見上げた。
ん?
なんだ?
軽く、顎でライザを示される。
何か言ってやれ、ということで良いのだろうか。
イサトさんがこれだけ良い感じに話をまとめてくれているという
のに、これ以上俺から何か言う必要があるというのか。
ぐぬぬ。
何か良いことを言ってやらなければ、と思ったものの、結局俺の
口から出たのはシンプル極まりない言葉だった。
﹁ありがとな、助かった﹂
﹁アキラ、さん⋮⋮!﹂
感極まったように、ぎゅむっとライザが俺にくっついてくる。
今までこんな風に子供に懐かれたことがなかったもので、どうし
たものかと困惑してしまった。思わず助けを求めるような眼差しを
向けると、イサトさんはおろか、エリサまでもがどこか面白がるよ
753
うな、微笑ましいものを見るような目で俺とライザを見つめていた。
どうにも、いたたまれない。
﹁⋮⋮イサトさん﹂
こそり、と小声で呼ぶ。
﹁なんだ?﹂
﹁⋮⋮この状況がわからない﹂
イサトさんに懐くならわかる。
イサトさんはライザのコンプレックス、というか悩んでいた自責
の念を解決してくれた張本人だ。
だが、俺はただ横から一言声をかけただけだ。
それなのに、どうしてライザはこんなにも嬉しそうに俺にくっつ
いているのか。
﹁なんだ、本当にわかってないのか﹂
﹁わかってない、って何が﹂
﹁ライザにとって、君は憧れなんだよ﹂
﹁へ?﹂
俺が、憧れ?
﹁強くて、優しくて、格好良いお兄ちゃん、だ﹂
﹁⋮⋮っ﹂
イサトさんの言葉にからかうような色がなかったからか、余計に
気恥ずかしさが増した。じわじわと顔面に熱が集う。
754
うわあ。
思わず片手で口元を覆う。
俺自身にも、覚えがある感情だ。
テレビの中で悪と戦い正義を貫くライダー的な存在や、はたまた
身近な父親や部活の先輩に対して抱いたような憧れ。
あんなふうになりたい、ああありたい、と思って眺めた存在。
ライザにとって、俺がそうなのだと思うとただただに照れる。
そんな良いもんじゃないと言いたくなる。
俺はいろいろアレな欠陥も抱えている、ただの大学生だ。
たまたまちょっとこのRFCというネトゲをやりこんでいただけ
で。
そんな言い訳が喉元までこみ上げる。
でも、まあ。
気恥ずかしさを堪えて、そんなのを飲みこむ男気ぐらいは見せて
おこうと思った。
せっかくライザが憧れてくれているのなら。
俺の言葉でそんなに喜んでくれるのなら。
その気持ちを受け止めるだけの度量は見せたい、と思ったのだ。
﹁君のそういうところ、私は本当男前だと思うよ﹂
ぽん、とイサトさんが軽やかに俺の肩を叩いていった。
ひとごとだとおもいやがって。
︱︱︱ものすごく、照れる。
755
おっさんの手料理︵後書き︶
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756
おっさんの毒りんご
少し鼻の頭を赤くしたライザが、照れくさそうに顔を上げた後。
俺とイサトさんは、エリサに現状を確認してみることにした。
﹁んー⋮⋮大人連中が昨日からずっと話し合いを続けてるみたいだ
けど、なんかあんまりうまくいってねーみたいだな﹂
﹁そうかー﹂
やはり黒幕のマルクト・ギルロイがいなくなったからといって、
いきなり話がスムーズに進み出すということはないらしい。
﹁その話し合いにはギルロイ商会側の人間も着てるのか?﹂
﹁ん? ああ、まだ誰が継ぐのかとかその辺あっちも混乱してるみ
てーだけど﹂
﹁ふむ﹂
うまくいっていない、と言う言葉を聞いていたはずなのに、イサ
トさんは何故か満足そうに頷いている。訝しげに首を傾げた俺に、
イサトさんはちろっと視線を持ち上げて笑った。
﹁話し合いがうまくいってないみたい、ということは現在進行形で
話し合いが続いている、ということだろう? ギルロイ商会側の人
間も来ているこの状態で、速攻話し合いが決裂してない分マシだと
思って﹂
﹁あ、確かに﹂
あれだけ散々獣人のことを虐げ、暴利をむさぼっていたギルロイ
757
商会である。
そのギルロイ商会と獣人が、間にレティシアが入ったからといっ
て話し合いが続いていること自体が、お互いに和解の意志がある証
明なのかもしれない。
⋮⋮とは言っても、落としどころがなかなか見つかってないよう
だが。
﹁どうする、イサトさん。顏、出してみるか?﹂
﹁何か出来ることがあるかもしれないしな。それに、状況だけでも
知っておきたいところ﹂
と、いうわけで俺とイサトさんは議題の踊る会議室に足を踏み入
れることにしたのだった。
そこは教会の奥にある談話室だった。
広さとしては、学校の教室程度だろうか。
ギルロイ商会側を代表して参加してるのは、40代前半と思われ
758
る身なりと恰幅の良い男性と、その腰巾着じみたひょろりとした男。
そして、あの日の晩、獣人チームを率いていた商人二人の合計四人
だった。
それに相対する獣人側は、狩りチームを含めたこの街にいる成人
獣人全てといった感じだ。ざっと数えた感じ、30人から40人と
いったところだろうか。
それだけの人数がいると、わりと広々としていたはずの談話室が
手狭に感じられてくる。その二つの陣営が、向かい合う形でまんじ
りともせずに睨みあっている様は、テレビの画面越しに見た企業の
謝罪会見だったり政治家の謝罪会見のようだ。まあ、実際意味合い
としては似ているのだろうけれども。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
エリサが細く開いた扉の隙間から覗いた光景に、俺とイサトさん
はちらっと顔を見合わせた。言葉にせずとも、お互い顔に﹁うわあ、
行きたくない﹂と書いてあるのがわかる。扉の隙間から、カゲアミ
効果を背負った重苦しい空気がうねうねと這い出て来ているのが見
えるようだ。一歩中に足を踏み入れれば、半ば固形化しかけた空気
によって酸欠になるのは必至、というような惨状に見える。
こんな泥沼修羅場に足を踏み入れるぐらいなら、まだヌメっとし
た人型と対峙していた方がまだマシなように思えてくるのは、俺が
戦闘脳の前衛だからだろうか。
が、ここまで来てやっぱりやめときます、とも言えるはずもない。
俺はごくりと喉を鳴らして覚悟を決めると、そっとその部屋の中
へと滑り込んだ。まずはしばらく壁際でこっそり話し合いの様子を
見守り、何でつまずき、どこで折り合いがつかなくなっているのか
759
を確認したい。口を挟むならそこからだ。話し合いの進展具合によ
っては、特に口を挟まず様子を見るだけでも良いかもしれない。そ
んなことを思っていたはずなのだが⋮⋮そんな俺の目論みは談話室
に入って数秒で潰えた。
その場にいた全員の視線が、まるで吸い寄せられでもしたかのよ
うにザッと俺たちに集中したからである。
痛い。
視線が痛い。
視線に物理的な圧力が伴っていたならば潰れるのではないかとい
うほどの圧を感じる。
﹁アキラ様、イサト様⋮⋮!﹂
ほっとしたような声でレティシアが俺たちの名を呼び、睨み合う
両陣営の間をすり抜けて俺たちの元へとやってきた。
その白い顏にも、疲労の色が色濃く浮かんでいる。
﹁⋮⋮まずアレだ。空気だ。空気を入れ替えよう。窓開いてるはず
なのに滅茶苦茶空気澱んでないかここ﹂
イサトさんがげんなりした顔で呻きつつ、エリサを振り返った。
﹁エリサ、何かタライとかバケツとかあったら持ってきてくれない
か﹂
﹁わかった、幾つぐらい必要なんだ?﹂
﹁3、4つあれば。なければあるだけ持ってきてくれ﹂
﹁お姉ちゃん、僕も手伝う!﹂
エリサとライザがたったかと駆けだしていくのを見送る。
760
二人はすぐに、それぞれバケツとタライを持って戻ってきた。
バケツが2個、タライが一つだ。
イサトさんはそれらをそれぞれ窓辺に設置すると、﹁氷結﹂の魔
法スキルを発動させる。これは最近手に入れた生活魔法の一つで、
空気中にある水分を凍らせる魔法、であるらしい。バケツやタライ
の中に、どん、とでかい氷の塊が生まれる。湿度が減った分、少し
だけ空気の澱みが取れたような気がする。
そこにさらに続けて、イサトさんは﹁空流調整﹂の魔法スキルを
追加する。こちらも生活魔法の一種で、空気の流れを操ることが出
来るスキルだ。本来ならば地下ダンジョンや、密室、空気が薄い山
頂などで呼吸をサポートするためのスキルだ。
今は窓から風を呼び込むのに使ったのか、氷の冷気を含んだ風が
さあっと部屋の中に吹きわたっていく。
まるで人間家電だ。
一家に一台イサトさん。
息苦しさを感じていたのは途中参加の俺たちだけではなかったの
か、獣人たちやギルロイ商会側の人間も、ほっと人心地ついたよう
に息を吐いている。
﹁これで少しは呼吸がしやすくなった﹂
﹁さんきゅ、助かった﹂
空気が澱んだ中でいくら話し合ったって、良い考えなど出ないの
である。
いや本当。
環境が不快であればあるほど、本来折衷案に向けて発揮されなけ
ればいけないはずの我慢度や寛容度がそっちで浪費されてしまうの
だ。そうなれば、当然折りあいなどつくはずもない。
761
﹁ええと⋮⋮なんぞ話し合いが難航しているという話を聞いて顔を
出してみたんだが。でもアレだ、お前らは引っ込んでろ、という話
なら私らは退くけれども﹂
﹁いえ、そんなことは!﹂
イサトさんの言葉に喰いつくレティシアが必死だった。
きっとこれまで相当困っていたに違いない。
俺はぽりと頭を掻きつつ一歩前に踏み出し、周囲を見渡して口を
開いた。
﹁それならちょっと聞かせてもらいはするけど⋮⋮基本的に俺とイ
サトさんが部外者だってことは忘れないで欲しい﹂
﹁そうだな。私たちはあくまで部外者だ。意見を言うことはあって
も、その取捨選択をするのは君たち自身だ。そこだけは間違えない
でくれ﹂
俺たちに言われたからそうしました、ではダメなのだ。
自分たちで考え、自分たちでより良い生活を勝ち取るための努力
をしなければ意味がない。そうでなければ、俺たちがいなくなった
後、再びまた立ちいかなくなってしまいかねない。
全員が頷いたのを見た後、俺はレティシアを促した。
﹁それじゃあ話を聞かせてくれるか?﹂
﹁は、はいっ﹂
762
レティシアから話を聞き終えた俺は、思わず息を吐いてしまった。
別段レティシアの話が下手だったり、わかりにくかったわけでは
ない。
むしろ逆だ。何故折り合いがつかないのか、およびその難易度が
があんまりにもわかりやすかったために、かえって溜息が漏れてし
まったのである。
﹁イサトさん、どう思う?﹂
﹁どっちも泥をかぶりたくない、って話だからな。そりゃあまあ、
折り合いは付きづらいだろう﹂
﹁⋮⋮だよな﹂
お互いに﹁和解したい﹂という目的に関しての同意はほぼ取れて
いるのだ。
問題は、そこで誰がどれだけ痛みを抱えるか、という傷の押し付
けあいだ。
獣人側としては、ギルロイ商会から解放されたい。
それに関してはギルロイ商会側も納得している。ただ、そこで問
題になるのはこれまでに獣人側がギルロイ商会からしている借金に
763
ついてだ。それらの借金を全部なかったことにした上に獣人を手放
したのでは、ギルロイ商会が立ちいかなくなる。これがギルロイ商
会が潰れてそれでおしまい、という話ならばその方向で話を通して
も良かったのだが⋮⋮獣人と人間の﹃女神の恵み﹄の流通を束ね、
管理していたギルロイ商会が潰れたともなると、セントラリア全体
に混乱が広がりかねないのだ。そうなれば、混乱の原因として獣人
に対するアタリがますますキツくなる可能性が否定しきれない。
感情論としては、これまで痛みを獣人に押し付けた結果の繁栄で
あるのならば、痛みのしっぺ返しでセントラリアが混乱するぐらい
受け入れろと言ってしまいたくはなる。だが、それでは結局獣人と
人間側の距離は開くばかりだ。
だからといって、いくら労働条件を見直すからといっても獣人側
に借金を盾に今後もギルロイ商会の下で働けと言うのは酷すぎる。
妄執に取り憑かれたマルクト・ギルロイの犯行とはいえ、今この部
屋の中にいる獣人の中には、親族や家族、友人を失ったものも決し
て少なくはないのだ。
そういったところで、話し合いは暗礁に乗り上げていたらしい。
レティシアが提案した仲裁案としては、一度レスタロイド商会が
ギルロイ商会から獣人の債権を買い取り、獣人の身柄を引き取ると
いうものがあったらしいのだが⋮⋮。こちらも条件が上手くかみ合
わず、話し合いが進んでいないようだ。何でもギルロイ商会側とし
ては債権を買い取るのならば、分割ではなく綺麗に全額買い取った
後の引き抜きにして欲しいと主張しており、レスタロイド商会とし
ては全員分の債権を全額まとめて買い取るのは額の大きさとして難
しく、獣人側的にはギルロイ商会からレスタロイド商会に乗り換え
るにしても全員一緒でなければ嫌だ、ということらしい。
764
これまたどちらの言い分もわかるだけに難しい。
トゥーラウェストのレスタロイド商会に獣人が引き抜かれるとい
うことは、それだけ今後ギルロイ商会を含めセントラリアの商人ギ
ルドが苦戦することになるのだ。それならば、せめて先立つものが
ない限り手放せない、と主張したくなる気持ちはわかる。一方レス
タロイド商会としても、何度かに分けてなら債権を買い取るだけの
力はあるものの、さすがに全額をまとめて最初で払うというのは厳
しい。こちらも、言っていることはおかしくない。獣人側の方の言
い分だって、これまで街を出た獣人が実は皆殺されていたなんてい
う衝撃的事実が明らかになった直後であることを考えれば、団結を
第一にしたいというのは当然だ。
まさに三竦み。
あちらを通せばこちらが通らない。
お互いに妥協点を探り合うこと一日ちょっと、ということである
ようだ。
﹁うーん、こういうとき俺らのとこだと国が出てきたりするんだが
⋮⋮そういうことってないのか?﹂
こそっとレティシアに聞いてみる。
俺もそんなに経済に詳しいわけではないが、確か日本では国の管
理する銀行がそういったトラブルのフォローに回ったりしていたは
ずだ。
﹁⋮⋮はい。それで、今あそこにギルロイ商会側の方にいるのが、
貴族院から派遣されてきたカネア侯爵とネパード侯爵子息です﹂
﹁貴族院から?﹂
765
聞き慣れない響きを口の中で繰り返しながら、俺はレティシアが
流した視線の先を追いかける。そこにいたのは、ギルロイ商人側の
人間だと思っていた恰幅の良い中年男性と、その御付きっぽいひょ
ろ長い男の二人組だった。おそらく中年男性の方がカネア侯爵、ひ
ょろ長く若い方がネパード侯爵子息だろう。
﹁ギルロイ商会の人間じゃなかったのか﹂
﹁っていうか⋮⋮ちゃんと国だったんだな﹂
﹁⋮⋮確かに﹂
イサトさんの今更すぎる呟きに、つい同意してしまった。
RFCというゲームの中において、国というのは五つの都市国家
は特色の違う東西南北に位置するエリアについた名前といった感覚
でしかなかったのだ。俺たちは冒険者としてギルドに属し、モンス
ターを討伐し、ダンジョンを探索し、冒険や物語を楽しんでいく。
ゲームの中においても、俺たち冒険者というのは、国家の枠組みの
外側にいた。
だから、今回のギルロイ商会の騒動でも国に改善を訴える、とい
う手順がすっかり頭から抜けてしまっていた。
﹁⋮⋮もしかして、国に訴えていたらもっと違ってたのか?﹂
﹁いや、どうだろう。見事に巻き込まれた感があるからな﹂
﹁それもそうか﹂
俺達の方から何か仕掛けた、というよりも、降りかかってきた火
の粉を打ち払っているうちにああなった、というのが正しい。
﹁でも⋮⋮その辺どうなんだ? ギルロイ商会のやってたことにつ
いて、国に訴えたりはしてたのか?﹂
766
こそっと耳打ちするようにエリサへと聞いてみる。
エリサはくすぐったさそうにぴる、と一度▲耳を小さく震わせて
から教えてくれた。
﹁何度か大人たちが状況を訴えてたみてーだけど⋮⋮貴族院といえ
ど、そう何でもかんでも口出しできるわけじゃねーからな。街全体
に獣人に対する差別はするべきではない、ぐらいの法令はちょくち
ょく出してたみてーだぜ﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
それがギルロイ商会の抱える問題を把握した上でのポーズとして
行われたものにしても、実際それだけの力しか持っていないにしろ、
どちらにしろあまり頼りにはならなさそうである。
﹁で、貴族院は問題に介入してくれそうなのか?﹂
﹁⋮⋮難しい、ですね。きっと最終的にはお金を出さざるを得ない
ところまで持っていくことにはなると思います。ですが、彼らが貴
族院に話を持ち帰り、結論が出るまでは現状維持ということになり
かねません﹂
﹁それは獣人側としては納得がいかないだろうな﹂
﹁⋮⋮はい﹂
貴族院が結論と共に金を出し、ギルロイ商会から正式に解放され
るまで待つか。それとも今レスタロイド商会に移籍する順番を獣人
内で決めてしまうか。それともこれまでの苦痛と引き換えに債権の
帳消しを訴えて徹底抗戦するか。
そんな考えが、ぐるりぐるりと頭を巡っているのだろう。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
767
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺とイサトさんは顔を見合わせる。
﹁イサトさん﹂
﹁はい﹂
﹁俺はなんだか面倒くさくなってきました﹂
﹁奇遇だな、私もだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
じっと見つめ合う。
そんな俺たちの様子に、少し慌てたようにレティシアが口を開く。
﹁あ、あの、でも大丈夫です。私の方でも、貴族院に手回し出来な
いか実家に話をしてみますし、その⋮⋮っ、ですからっ﹂
﹁?﹂
焦ったようなレティシアの言葉に首を傾げる。
覗きこんだ碧の瞳には、置いて行かれることを怖がるような焦燥
の色が浮かんでいる。
﹁レティシア?﹂
﹁あの、ですからどうか見捨てないでください⋮⋮っ﹂
﹁えっ﹂
見捨てる?
ぎゅっと腕に抱きつくようにすがられてますます慌てた。
胸。胸当たってる。
何かこうふよりと柔らかな感触が当たってる。
768
﹁っ、レティシア落ち着け、見捨てたりしないから!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁イサトさんはによによしてないで助けるべき!﹂
こういう時のイサトさんは本当に意地が悪い。
俺が困っているのを見て、心底楽しそうにによりによりとしてい
る。
イサトさん
タチの悪いおっさんのようだ。
実際おっさんなのだが。
﹁でも、面倒臭くなったって⋮⋮﹂
じわっと明るい碧に涙が潤む。
普段は楚々しつつも折れないレティシアにとっても、昨日からの
殺伐とした泥沼のような話し合いの仲裁役はだいぶ荷が重かったら
しい。
そりゃそうだ。
俺なら逃げている。
﹁あのな、レティシア﹂
そっとレティシアの肩に手を置いて、さりげなく距離を置いた。
ふわふわとした胸の感触に心惹かれないといったら嘘になるが、
後でイサトさんにからかわれるだけだと思うと素直に堪能している
わけにもいかない。
﹁ギルロイ商会の獣人に対して持っている債権は総額いくらになる
?﹂
﹁えっと⋮⋮おおよそ一億エシルだったかと⋮⋮﹂
769
﹁⋮⋮いちおく﹂
レティシアの言葉を、胡乱げにイサトさんが復唱した。
眉間にうっそりと皺が寄っている。
﹁す、すみません。何年にもわたって少しずつ借金が嵩んでそれだ
けの総額になってしまっているみたいなんです。今すぐにレスタロ
イド商会が動かせる額となると、その三分の一、三千万エシル程度
になってしまいます⋮⋮﹂
申し訳なさそうにレティシアは言葉を続けるが、イサトさんのそ
のリアクションは金額の大きさに驚いたり、戸惑ったからではない。
イサトさんがちらり、と俺を見る。
﹁秋良青年、一億って幾らだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
この人は何を言っているのだろう。
ついイサトさんに向けるまなざしが可哀想なイキモノを見る目に
なった。
イサトさんにはゲーム時代、﹁火曜日って何曜日だっけ﹂と口走
った前科もある。
﹁違う、そうじゃない、こら、そういう目で私を見るんじゃないっ﹂
﹁いや、だってほら﹂
﹁私が言いたかったのはアレだ、ほら、一億って何Kになるのか、
という話だっ﹂
あ、なるほど。
ゲーム内では﹁1000=1K﹂、﹁1000000=1M﹂で
770
カウントして財産を管理していることが多い。そのため、一億、と
言われてもそれがどれくらいのゲーム内通貨価値にあたるのかが咄
嗟に換算できないのだ。確かに言われてみれば俺も自分の所持金額
が通常計算で幾らになるのかは把握していない。
﹁ええと、ちょっと待てイサトさん、今俺も計算してるから﹂
1000↓1K
1000000↓1M
100000000↓100M
なので。
﹁ええと一億っていったら100Mだな﹂
﹁100Mか。私の手持ちは⋮⋮ぬ。60Mちょっとしかなかった﹂
﹁イサトさんは堪え性がないから⋮⋮﹂
変なアイテムや、スキルに散財しすぎなのである。
﹁私にしては貯めた方だと思う。秋良青年は?﹂
﹁ふっふっふ、700M近くある﹂
﹁金持ちだ!﹂
前衛職はあまり金を使わないのである。
プレイヤーの中にはレア装備に金をかける者も多かったが、俺は
欲しいものは自分で手に入れる主義である。ドロップするまで狩り
続ければいつかは出るものなのだ。おかげで経験値も入ってレベル
もあがるしな。ゲーム時代はアイテムと一緒にエシルもドロップし
ていたため、お金は溜まる一方だった。
﹁というわけで、レティシア、皆が納得するようなら俺が獣人の債
771
権を纏めて買い上げるよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁おい、レティシア?﹂
何か、レティシアの焦点が限りなく遠くで結ばれているような気
がする。
気絶しているんじゃなかろうな。
﹁おーい、レティシア。レティシアー?﹂
ぱたぱた、とその眼前で手を振っていると、はっとしたようにレ
ティシアが瞬いた。
﹁⋮⋮す、すみません。一瞬気が遠くなってました﹂
気絶しかけていたらしい。
まあ元の世界の感覚で、いきなりポケットマネーで7億持ってま
す、なんて言われたら俺でもビビるだろう。
ゲーム内のステータスを持ちこしているからこそ出来る真似であ
る。
ちなみにエリサとライザに関しては何故か﹁もう何にも驚きマセ
ン﹂というような諦念の滲んだ顏で俺たちを見ている。
⋮⋮解せぬ。
俺は、一歩前に踏み出すとその場にいた全員に聞こえるように声
を張った。
﹁と、いうわけで俺からの提案だ。獣人側の借金は俺が全部引き受
ける。全額耳を揃えてきっちりギルロイ商会に払う。その後につい
てだが、別段金には困ってないので獣人から取り立てようとも思っ
772
てない。つまり⋮⋮自由、ってことだな。このままセントラリアに
残って新たに商人ギルドと交渉するも良し、レスタロイド商会と契
約するのも良い。好きにしたら良いと思う﹂
金銭面に関する痛みを、俺が一手に引き受ける形になる。
といっても、100M払っても600Mは手元に残るので俺にし
てみれば全く痛くもかゆくもないのだが。
﹁その金があれば⋮⋮﹂
﹁自由になれる⋮⋮!﹂
ギルロイ商会や貴族院の人間、獣人たちの間にざわめきが広がっ
ていく。
自分たちが痛みを払わずに問題が解決できそうな案が出てきたの
だ。
それに飛びつきたくなると同時に、警戒するのも当然だ。
俺の隣に、次いで前に出たのはイサトさんだった。
﹁ただ︱︱⋮君たちも覚悟はすべきだ﹂
低く、柔らかに通ったその声に、はっとしたように視線が集中す
る。
イサトさんは、そんな視線の持ち主たちに向かって嫣然とした笑
みを浮かべて見せた。白雪姫に林檎を差し出す魔女や、人魚姫に取
引を持ちかける魔女はきっとこんな顔をしていたに違いない、とい
うような、どこか毒を含んだ華やかな笑みだ。
﹁私たちに頼ることで、この場は乗り切れるかもしれない。けれど
⋮⋮私たちは決して正義の味方なんかじゃない。それだけは忘れな
いように﹂
773
﹁それって⋮⋮﹂
獣人の中から、掠れた声があがる。
何か代償があるのかと怯えた声が問いかける。
﹁さっき、秋良青年がいったように私たちは借金を取り立てること
はないし、それを盾に君たちを良いように操ろうというような思惑
もない﹂
﹁なら⋮⋮﹂
﹁逆を言うと、何もないんだよ﹂
俺は途中から口を挟んで肩をすくめた。
﹁最初に言った通り、俺たちは部外者だ。何か思惑があるわけでも
ない。ただしたいことをするだけの﹃わるもの﹄だ﹂
﹁だから、私たちがしたいと思ったら、君らに求められるままに一
億の金を出すことだって出来る。けれど、その結果に責任は取れな
いぞ﹂
そうなのだ。
俺たちの吐き出す一億という金は、本来この世界にはなかったは
ずのものだ。
セントラリアや、この大陸に存在するその他の都市国家がどのよ
うに流通する金額を調整しているのかはわからない。が、普通に考
えればそこに一億もの金額が突如加われば、多少の混乱は避けられ
ないだろう。
もしかすると、インフレやら何やら経済的な問題が起きる可能性
だってある。
レティシアやギルロイ商会、そして貴族院の男たちは俺たちが言
わんとしていることを薄々把握したのかその表情に緊張の色を浮か
774
べている。
俺たちの差し出した甘すぎる果実を受け取るか、断るべきか。
甘やかな、それでいてどこか脅すような笑みを浮かべて一同を見
渡すイサトさんに、周囲は完全に怯んでいる。
⋮⋮イサトさん、悪役がハマりすぎである。
まあ、ここであまり怖がらせすぎても、せっかく助け舟を出した
意味がなくなってしまう。
﹁まあ。俺たちは正義の味方じゃあないから、助けてもらって当然、
みたいに﹃お前らのせいなんだから何とかしろ﹄なんて言われても
スルーかもしれないけど﹂
ちろり、とイサトさんを見る。
﹁なんだかんだ困ってる人を見捨てられるほど薄情でもないからな。
ね、イサトさん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ぐむ、とイサトさんが少し御馳走を丸呑みした猫のような顏をし
た。
それから悪ぶっているのを見透かさのが気恥ずかしいのか、やん
わりと八つ当たりのように俺の足を踏みつつ口を開いた。
﹁貴族院︱︱⋮というかこの場合は国か。国単位で市場を流通する
金額の調整がしたい、というなら取引の用意はある。君らが金を積
んででも欲しいと思えるような商品を提供できるはずだ。例えば︱
775
︱⋮⋮飛空艇の再建に必要な素材とか﹂
﹁⋮⋮!!﹂
イサトさんのその言葉に、貴族院から来た二人が目の色を変える。
やはりセントラリアとしては、飛空艇を喪った損害は大きいのだ
ろう。
わいわいがやがやと話し合う声が再び大きくなる。
だが、今度の議題は誰に痛みを押し付けるのかではなく、俺が出
す一億という金額をどう運用すれば獣人の犠牲なしにセントラリア
を立て直すことが出来るか、という非常に前向きなものになってい
る。
これならばあとは放っておいてもどうにかなるだろう。
﹁後は当事者に任せて、俺たちわるものは引き上げるとしますか﹂
﹁そうだな。薔薇姫の蜜も集めにいかないといけないし﹂
そんなことを話しつつ、俺とイサトさんはそれぞれポン、と﹁後
は任せた﹂と言う意味をこめてレティシアの肩を叩いてその場を引
き上げたのだった。
776
おっさんの毒りんご︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
Pt、感想、お気に入り、励みになっております。
また、本日﹁おっさんがびじょ。2﹂が発売となりました。
機会がありましたら、御手にとっていただけると幸いです。
777
おっさんの逃げ足は速い
教会の談話室での話し合い以来、俺たちの周辺はわりと平和だっ
た。
俺たちのスタンスとしては、﹁あくまで余所者、部外者﹂である。
なので言うべき申し出を済ませた以上は、これ以上は深くは首を
突っ込む気はない。もちろん、俺たちが見ていられないような状況
シャトー・ノワール
になったならば、容赦なく口を挟む気ではいたのだが。
そんなわけで俺とイサトさんは黒の城に入りびたり、薔薇姫を乱
獲しては着実に薔薇姫の蜜を確保していた。これ、薔薇姫からして
シャトー・ノワール
みたら完全に招かれざる客である。そのうち出禁を喰らいそうだ。
今日も、日が沈み始めるころまで黒の城で粘った帰りである。赤
々と夕日の名残に照らされたセントラリアの街並みからは、夕食時
の良い香りがあちこちに漂っている。
﹁イサトさん、途中で飽きてただろ﹂
﹁いやいや外より中の方が敵のレベルが上がる分、薔薇姫もいっぱ
い出てくるかなーという好奇心だよ﹂
﹁⋮⋮それでなんでそのまま敵を蹴散らしながら最上階目指すこと
になるんだ﹂
気が付いたらイサトさんが周囲に見当たらず、何故か城の中から
シャトー・ノワール
ノーライフキング
爆音轟音響き渡っていたときの﹁oh⋮⋮﹂感といったら言葉にな
らない。結局そのまま黒の城のエリアボス、不死王まで撃破するこ
とになってしまった。
778
﹁楽しかったから良いじゃないか﹂
﹁俺は面白くなかったぞ﹂
﹁あいつ、物理攻撃効きにくいもんな﹂
﹁そうだよ、だからあんまり相手にしたくないんだよ﹂
勝てないわけではない。
時間をかければダメージを積み上げて倒すことも出来るのだが、
コウモリになって分散するわ、こちらの攻撃のインパクトの瞬間に
黒い霧に姿を変えて逃げ回るわ、フラストレーションがたまるので
ある。俺はもっとこうガシガシ近接で殴りあうぐらいの戦闘が好き
なのだ。今回はイサトさんがいたので、イサトさんの攻撃魔法がガ
ンガン炸裂するのを横から見ているだけでほぼ終わってしまった。
﹁よくぞ来たな、冒険sy﹂とセリフの途中で炸裂した攻撃魔法の
えげつなさよ。いや、俺もゲーム時代ではクリック連打で開幕セリ
フはスキップしていた口ではあるのだが。
﹁ずっと同じモンスターばっかり狩ってると流れ作業みたいになる
からなあ。たまにはちょっと毛色を変えて運動しないと﹂
﹁まあな﹂
ノーライフキング
そんな箸休め感覚で襲われる不死王に少しだけ同情したくなる瞬
間だ。しないけども。
﹁さて、今日の夕飯はどうする?﹂
﹁角の店のシチューが食べたい。チキンの﹂
﹁イサトさんあの店好きだよな﹂
﹁他に君が何か食べたいものがあればそっちでも良いが﹂
﹁うーん﹂
あえていうなら和食が食べたい。
779
焼き魚と大根おろしに白米だとか。
生姜焼きと白米だとか。
が、残念ながらセントラリアの食生活は完全に西洋文化寄りであ
り、今のところ米食の文化には出会えていない。カラットの人達は
米の調理法を知っていたので、そのあたりの文化も街によって違う
のだろう。カラットに提供した米は確かエスタイーストあたりのモ
ンスターがドロップしたものだったはずだ。そう考えると、エスタ
イーストでは米食の文化もあるかもしれない。和食への夢が広がる。
﹁秋良?﹂
﹁いや、シチューで良いよ。行こう﹂
そう言って俺たちはてくてくと最近ではすっかり顔なじみになっ
た食事処へと向けて歩きかけ⋮⋮
﹁アキラ様、イサト様!﹂
﹁ん?﹂
﹁お?﹂
名を呼ばれて足を止める。
振り返った先にいたのは、レティシアだった。
その顔にはやはり少し疲れの色が見えるものの、碧の瞳はきらき
らと輝いて活気に満ちている。トゥーラウェストからわざわざ単身
乗り込んできたこの少女は、きっと絶賛楽しく目的を遂げるために
活躍している最中なのだろう。
や、と俺とイサトさん、揃って手をあげて軽く挨拶を交わす。
﹁どうしたんだ? 今帰りか?﹂
﹁いえ、お二人を探していたんです。日没の頃には戻ってくると聞
いていたので、この辺りで待ってたら会えるかと思って﹂
780
﹁私たちに?﹂
﹁また何か面倒事でもあったのか?﹂
気遣わしげに問いかけた俺に、レティシアが小さく笑って首を横
に振った。
﹁ようやく、今後のことがまとまり始めたので⋮⋮そのご報告と、
その、ちょっとご相談に﹂
ご相談。
また何か面倒そうな匂いがする。
﹁まあ、その辺は食事しながらどうだ?﹂
﹁私たち、今からそこの店で夕飯にするつもりだったんだけれども﹂
﹁いいんですか?﹂
﹁もちろん。な、イサトさん﹂
﹁良くなかったら誘ってないよ﹂
﹁では、失礼させていただいて⋮⋮﹂
というわけで、レティシアも巻き込んでの夕食となったのだった。
781
イサトさんとレティシアはシチューとサラダ、そしてパン。
俺はさらにそこに本日の肉料理を追加する。
一皿一皿になかなかの量が乗っているのだが、どうもやはりパン
では腹にたまらない気がしてしまうのである。
﹁⋮⋮秋良青年、よく食べるなあ﹂
﹁育ちざかりだからな﹂
﹁まだ伸びる気か!﹂
愕然とされた。
実際さすがに成長期は終わっているので、これ以上伸びるとは思
っていない。まあ伸びれば良いな、とは思っているが。
食事が届いて最初のうちは、お互い今日あった出来事などを軽く
雑談して、それから本題に入った。
﹁まず、ご報告なのですが⋮⋮ギルロイ商会の処分が決まりそうで
す﹂
﹁ああ、そうなのか﹂
﹁はい。先日から騎士団による調査も入っていましたから﹂
俺たちがマルクト・ギルロイと刃を交えてから一週間以上経って
いる。
それが早いのか遅いのか、この世界における判断基準を知らない
俺たちには判断が出来かねる。
﹁結局どうなるんだ?﹂
﹁そうですね⋮⋮獣人を殺していたのはマルクト・ギルロイ単独の
782
犯行ということになりそうです﹂
﹁⋮⋮だろうな﹂
あの時黒薔薇の庭にいた二人の商人も、マルクト・ギルロイの連
れていた息子の存在には驚いていた。彼らも、マルクト・ギルロイ
が何のために獣人を追いこんでいたのかは知らないまま、ただその
利益に追従する形で従っていただけにすぎなかったのだろう。
﹁それじゃあ結局ギルロイ商会自体にはお咎めは無し?﹂
﹁いえ、流石にそういうわけには。すぐに、というわけにはいかな
いんですが、ギルロイ商会の果たしていた役割等の引き継ぎが各商
会に済んだら、速やかにギルロイ商会を解散させることが決まりま
した。
マルクト・ギルロイ名義の財産や、ギルロイ商会の名前で管理さ
れていた利益分に関しては一度国が没収した後、国からの援助とし
て獣人の方々に分配されることになっています﹂
﹁ギルロイ商会に、何らかの罪状は出たのか?﹂
﹁⋮⋮名目は、街を騒がせた罪、ということになっています﹂
俺の問いかけに、レティシアはふっと目を伏せる。
﹁まあ、仕方ない。獣人に対する圧政は国ぐるみみたいなものだか
らな﹂
﹁⋮⋮だよな﹂
急に口の中が苦くなったように感じて、俺はコップを手に取ると
水でその苦味を流し込むように喉を潤した。
そう、なのだ。
783
長い間セントラリアという国は、己の民の一部である獣人を利用
し、酷使することで利益を上げるシステムに目を瞑ってきた。乱暴
な話、共犯なのだ。国が本気で止めようとしていれば、マルクト・
ギルロイもあそこまで暴走することはなかったんじゃないだろうか。
逆にいえば、システムから乗っ取って獣人に対する暴挙を堂々とや
ってのけたマルクト・ギルロイの妄執がそれだけ凄かったのかもし
れないが。
﹁結局罪に問うことが出来たのは、マルクト・ギルロイが街を出た
獣人を殺していたことに関してだけ、か﹂
呟くイサトさんの声にも、苦い色が混じっている。
ここまで騒ぎになった上に、トゥーラウェストで有力なレスタロ
イド商会の末娘であるレティシアが関わった以上セントラリアとし
ても見て見ぬふりが出来なくなった、というのが本当のところだろ
う。それでも、名目上は﹁騒乱罪﹂ぐらいでも、ギルロイ商会が解
散され、それなりの補填が獣人に行くというのならまだマシな顛末
と言うべきなのかもしれない。
﹁獣人たちは、それに対してどうしてる?﹂
﹁やはり、そのまま街を出てしまう人達も何人かはいたようです。
当然ですね、自分たちを縛るしがらみがなくなったわけですから﹂
﹁そう、だな﹂
﹁残りの人達は?﹂
﹁ありがたいことに、セントラリアに残ることを選んだ人達のほと
んどがレスタロイド商会との取引を前向きに考えてくださっている
ようです﹂
﹁へえ﹂
784
少し意外だった。
獣人からしたら、人間の商会なんて信用できない、となるのでは
ないかとばかり思っていたのだ。
そんな俺の考えは顔に出てしまっていたらしく、レティシアの口
元に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
﹁実は、最初はみなさんそんなに乗り気じゃなかったんです﹂
﹁それはそうだろうな﹂
﹁でも⋮⋮ちょっとお話したらすぐ協力的になってくださいました﹂
なんだ。
なんだその﹁お話﹂って。
なんとなくマインドコントロールとかその辺のコワイ匂いがする。
大人しく淑女然としたレティシアの口から出たからこその、謎の
迫力かもしれない。
﹁今までギルロイ商会や、セントラリアの商人たちは獣人の方々に
苦労を押し付けて、競い合うこともせずぬくぬくと利益を上げてき
ました。ですが、これからはもう違います。うちの商会だけでなく、
きっと外からもっと別の大手も参入しようとするでしょう﹂
それは今まで、ギルロイ商会が獣人という限りある資源を独占す
ることで防波堤になり防いできたものだ。それが崩れた今、セント
ラリアの商人たちは十何年かぶりに資本主義の経済戦争に巻き込ま
れることになる、というわけか。
﹁獣人の方々のご協力があれば、とことんきりきり舞いさせて差し
上げられそうなのですが、とお話しした結果、わりと皆さま乗り気
で﹂
785
お上品に微笑んでいるはずのレティシアの口元に、獲物をしとめ
る獣の牙を見たような気がした。
もちろん、多くの獣人がセントラリアに残り、レティシアに協力
することを選んだのはそれだけではないだろう。どんな辛い目にあ
ったとしても、彼らにとってもセントラリアは故郷だ。そのセント
ラリアでの生活が改善され、希望が持てるならば⋮⋮きっと街に残
りたいと思ったとしてもおかしくはない。
﹁それが報告だとして⋮⋮、相談っていうのは?﹂
﹁あ、そうだ、相談があるって言っていたな﹂
今の話を聞いた感じだと、これ以上俺らが力になれるようなこと
はないように思えるのだが。
俺とイサトさんの問いかけに、うろり、とレティシアの視線が微
かに泳いだ。
地味に、嫌な予感がする。
﹁ええと、ですね﹂
﹁はい﹂
﹁はい﹂
身構える。
心の準備、大事だ。
﹁お二人のことが、セントラリアの王城および貴族たちにバレまし
た﹂
﹁げ﹂
﹁うげ﹂
786
思わず呻き声がハモった。
あまりそれが何を意味しているのかはよくわかっていないのだが、
どう考えても面倒臭そうである。そもそも、獣人らの待遇に対して
何も動いてこなかった、というだけでセントラリアの国としての有
り方に対してあまり良い印象がない、というのもある。
﹁バレたっていうのは⋮⋮どの程度?﹂
﹁ええと⋮⋮その、飛空艇を堕としたということと﹂
がたり。
レティシアの言葉が終わる前に、イサトさんが口元を布ナプキン
で拭いつつ立ち上がった。
﹁秋良青年、逃げるぞ﹂
﹁まってっ、まってっっ!﹂
がしーとそのウェストのあたりにレティシアが抱きつく。
俺は骨つきの謎の肉を食しつつ、そんな二人にちらっと視線を向
けるだけにしておいた。鳥肉っぽいような気もするのだが、鳥にし
ては脂がこってりとノっている。若干得体は知れないが美味い。も
ぐもぐ。
﹁あ、アキラ様も止めてくださいっ﹂
﹁何君一人落ち着いて肉なんか食べてるんだっ﹂
﹁いやだって逃げようと思ったら、俺らを止められる奴なんてそう
そういないだろうし。それならご飯食べてからでもいけると思って﹂
﹁︱︱⋮確かに﹂
ぽん、と手を打ってイサトさんがすとんと腰を下ろした。
レティシアがほっとしたように息を吐いている。それでもなんと
787
なく油断しきれないのか、テーブルの下でそっとイサトさんの服の
裾を左手で確保しているのが微笑ましい。
というか、イサトさんのその鮮やかなまでの逃げっぷりが慣れて
いるようなのは気のせいか。
ちろ、と胡散臭そうに横目で窺ってみたところ⋮⋮。
﹁社畜はな、危険を察知したら速やかに逃げるスキルが育つんだ﹂
非常に物悲しいコメントが返ってきた。
心底社会に出たくなくなる瞬間である。
﹁まあ、それはともかく。他には?﹂
﹁後は今回の顛末が貴族院や王城でも話題になったようです。お二
人が援助を申し出てくれたおかげで、セントラリアの経済にさほど
混乱を生まずに済みましたから﹂
﹁なるほどなあ﹂
確かにあそこで俺が金を出していなければ、こうまで早く立て直
すことは出来なかっただろう。もともと女神の恵みの流通はそれほ
ど派手ではなかったとはいえ、その加工商品を取り扱っている店も
少なくはないという話は聞いていた。一週間以上、下手すれば数週
間にもわたって商品の供給が止まってしまっていれば、もっと混乱
は大きくなっていたはずだ。
そういうことを鑑みると、セントラリアに恩を売ることが出来た、
ということで良いんだろうか。
﹁飛空艇に関しても、私や、その他の方の証言からむしろ飛空艇の
墜落という大惨事からセントラリアを救ってくれた救世主、という
形で受け止めてられていますから⋮⋮本当、逃げないでください﹂
788
レティシアの言葉が切実だった。
救世主、なんて言われたら言われたらで背中がムズ痒くてやっぱ
り逃げたくなるのは言わないでおこう。
﹁そうだ、せっかくなので、ちょっとレティシアに聞いておきたい
ことがある﹂
﹁はい、なんでしょう?﹂
﹁私たち、この辺りの国の仕組みがよくわかっていない﹂
少し声を落として、イサトさんが言う。
言われてみれば、俺もその辺りのことはよくわかっていない。
RFC時代にも、ゲームをプレイする上ではあまりその辺のこと
はストーリーに関わってきていなかったのだ。ただわかっているこ
とがあるとしたら、王城があるのはセントラリアとノースガリアぐ
らい、というざっくりとしたものでしかない。
﹁ええと⋮⋮では五つの都市国家の関係もご存知ない感じでしょう
か﹂
﹁はい﹂
﹁はい﹂
﹁ええとええと﹂
どこから説明したものか、と困ったように眉尻を下げつつ、レテ
ィシアが口を開く。
﹁基本的に、五つの都市国家のうち、王を戴いているのはセントラ
リアだけです。他のノースガリアを除く三つの都市国家には王とい
うものはいません﹂
﹁ノースガリアはエルフの国だったから、だよな﹂
﹁はい、その通りです。人間が興した国で王がいるのはセントラリ
789
アだけ、と言ったらわかりやすいですか?﹂
﹁ふむふむ﹂
それで他の都市国家には王城にあたる建築物がなかったわけか。
﹁もともと最初はセントラリアしか国はなかったのだと言われてい
ます。ですが女神の加護の下、人が栄えるに連れ、人々は新たなる
世界を求めてセントラリアを後にしていきました。そして、セント
ラリアの東西南北にそれぞれ新たな居留地を発展させていったので
す。それが、トゥーラウェスト、サウスガリアン、エスタイースト
の原型です﹂
﹁なるほど。それじゃあ最初のうちは他三つの都市に関してはセン
トラリアの下についている感じだったのかな﹂
﹁そうですね、そうだったという風に言われています。それが長い
年月のうちに自治権を勝ち取り、今の都市国家という形になったそ
うです﹂
俺達の世界における世界史でもよく聞く流れだ。
﹁私の国、トゥーラウェストでは議席の数が決まった議会によって
国は運営されています﹂
﹁議席の数が決まっている、っていうと?﹂
﹁大体村や街の数に、各ギルドの代表者といった構成ですね﹂
﹁へえ﹂
﹁サウスガリアンやエスタイーストも似たような仕組みだというこ
とを聞いたことがありますね。それに比べるとセントラリアはちょ
っと特殊で﹂
﹁貴族院、だっけか﹂
﹁はい﹂
790
話し合いの時に、顔を出していた二人組の顔を思い出す。
あの二人が確か貴族だったはずだ。
﹁セントラリアは一応古く良き伝統を一番残す国、ということにな
っているので⋮⋮﹂
﹁一応、て﹂
小馬鹿にでもしてるのかと思いきや、俺のツッコミにレティシア
は苦笑しつつ言葉を続けた。
﹁セントラリアの大消失、がありましたから。一度セントラリアの
伝統は完全に途絶えてしまっているんです﹂
﹁あ⋮⋮﹂
﹁そうか、それがあったんだった﹂
セントラリアの大消失。
建物や街の外観には何の変化もなく、ただその街にいたはずの人
だけがまるっと消えてしまったという怪事件だ。
一体何があったのかは、今でもわかっていないらしい。
﹁じゃあ今のセントラリアって⋮⋮﹂
﹁言葉は悪くなってしまいますが、各都市からの寄せ集め、といっ
た感じでしょうか。だからこそ、歪が出やすい街でもあるんだと思
います﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
本来なら一番歴史があり、一番安定していなければいけない中央
都市でありながら、歴史がリセットされてしまったが故に揺らぎや
すい。それが今のセントラリアという国のあり方であるらしかった。
791
﹁セントラリアでは、貴族院と王と教会の三つの柱が中心となって
政治を行っています。お互いに相手のしていることを監視して釘が
刺せる感じ、といったらわかりますか?﹂
﹁いわゆる三権分立って感じだろうか﹂
﹁たぶん?﹂
俺らの知る三権分立とは随分形は違うものの、お互いがお互いの
仕事ぶりを監視するような構造はそれに似ているとも言える。
﹁貴族の意見をとりまとめるのが貴族院、王が王族代表だとして⋮
⋮、教会は?﹂
﹁教会が代表するのは民衆の声、となります﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
どおりでその自浄作用の中で獣人が漏れてしまうわけだ。
民衆の中でも、数の少ない獣人の声は、多くの民衆の利益の前に
かき消されてしまっていたのだ。
数の暴力怖い。
﹁で、その貴族院や王族が今回のことで私たちの存在を認知した、
ということで良いんだろうか﹂
﹁そういうことですね﹂
﹁で、その相談っていうのは? 流石に飛空艇造って返せというの
は無理だぞ。レシピがないからな﹂
﹁レシピがあったら造ってたのか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮もくひ﹂
やってたな、これ。
レシピが無くて良かった。
そんな俺たちのやりとりを聞きつつ、レティシアは覚悟を決める
792
ように居住まいを正した。ぴし、と背筋を伸ばして、まっすぐに俺
とイサトさんを見つめる。
そして︱︱⋮
﹁王城での舞踏会に、お二人をお招きしたいそうなんです﹂
なんですと。
ぽかん、と俺とイサトさんの目が丸くなる。
舞踏会。
武闘会の方ならまだかろうじて馴染があるような気がしないでも
ないが、これは聞き返すまでもなく舞踏会、踊ったり王子様がシン
デレラと出会ったりしちゃう方のアレだろう。
﹁うえええ⋮⋮、私も秋良青年もそういった上流階級の嗜みとはほ
ど遠いしがない冒険者なので⋮⋮⋮⋮﹂
﹁うんうん、無理だって。マナーとか全然知らないし﹂
全力で断る方向に走る俺とイサトさん。
さくっと王城見学ツアーぐらいなら参加してみたい気もするが、
そんな王城での舞踏会なんていったら貴族同士のしがらみやら何や
ら、非常に面倒くさい匂いしかない。
﹁それが⋮⋮その、もう招待状が届いてまして﹂
﹁なんという﹂
﹁逃がすかという心意気を感じる﹂
そそっとレティシアが懐から大事そうに二通の白い封筒を取り出
す。
シンプルながら上質な紙に蜜蝋で封の施されたその封筒は、大衆
793
料理屋のテーブルには大層不似合いだった。
﹁⋮⋮これ、受け取っちゃったらもう拒否は出来ないのか﹂
﹁招待状という名の参加要請ですから⋮⋮﹂
﹁うわあ﹂
それを託されてしまったレティシアとしても責任重大といったと
ころだろう。
だからこそあんなに必死になってイサトさんを捕獲していたわけ
なのか。
納得。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺とイサトさんは、顔を見合わせる。
別に示し合わせたというわけではないのだが、心の奥底からこみ
あげたというような溜息がハモった。
﹁﹁⋮⋮レティシア﹂﹂
二人、ぽん、とレティシアの肩に手を置く。
俺とイサトさんに左右それぞれの肩を掴まれたレティシアが、び
くっと背を揺らした。
﹁なななななんでしょうっっ﹂
あわあわと焦ったように俺とイサトさんを交互に見やるレティシ
アは、とても可愛らしく見えるほどに可哀想だった。まさしく悪の
手に落ちた姫君といった風情である。でも、逃がさない。
794
﹁死なばもろともという言葉を知ってるだろうか﹂
﹁責任もっていろいろ教えてくれ﹂
付け刃焼き刃だろうが、黒歴史を造り上げて泣きながらセントラ
リアから夜逃げするような未来だけは避けたい。
切実に。
795
おっさんの逃げ足は速い︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます!
PT、感想、お気に入り登録、励みになっております。
おっさん2巻も好評なようでありがたい限りです︵*´д`*︶
796
おっさんとダンスの練習を
と、いうわけで。
早速次の日から舞踏会の支度に取り掛かることになった俺たちは、
レティシアに連れられて仕立て屋を訪れていた。
なんでも、舞踏会までそんなに時間がないため、急いで衣装を仕
立てなければならないらしい。いっそ衣装が間に合いませんでした
ので、なんて理由で欠席できないのかと主張してみたわけなのだが、
レティシアにあっさり却下された。
一週間という期間は生地から選ぶような完全オーダーメイドには
足りないものの、既製品からのリサイズ程度なら十分に間に合う時
間であるらしい。
レティシアは若干申し訳なさそうにしていたものの、俺にしろイ
サトさんにしろ衣装を生地から選ぶような知識はない。むしろそこ
から選べと言われた方が頭を抱えていた。
顔見知りの仕立て屋を呼びに行く、とレティシアが奥の部屋に入
っていくのを見送って、俺は小さく息を吐く。
なし崩しでここまで来てしまったわけだが。
それにしても、イサトさんがドレスなのはまだ想像がつくが⋮⋮
俺はスーツ?
スーツなんて大学の入学式で着て以来だし、その時にだって散々
周囲にはザワザワされたものである。人相がよろしくない上にガタ
イも良いため、スーツなんぞ着てしまうと、なんかこう研ぎ澄まさ
れたチンピラ感が発揮されてしまうらしい。高校から一緒だった友
人ら曰く、﹁どこぞの鉄砲玉かと思った﹂﹁なんかどっかの若頭っ
797
ぼん
ぽい﹂﹁坊って呼ばれてそう﹂などなど。つらい。
ちなみに、童話で見るようなカボチャパンツだったならば全力で
拒絶する。
アレはアレでちゃんとした伝統的な衣装なのだろうが、俺があん
なものを着た日にはイサトさんが笑い死ぬ。俺も死ぬ。たぶん割腹
する。
なのでお互いの命を守るためにもカボチャパンツだけは絶対に避
けたい。
俺が真剣にそんなことを思い悩んでいる間にも、イサトさんは﹁
ふんふん﹂と左右にちょっと揺れつつ周囲に並んだマネキンや、作
業途中だったのか大きなテーブルに広げられた布や型紙を興味深げ
に眺めていた。この世界にやってきて、こうして一緒に過ごす時間
が増えて知ったのだが、イサトさんは珍しいものが好きだ。今まで
自分の知らなかったものを眺めるのが楽しくて仕方ないらしい。好
奇心に瞳をきらっきらさせて、視界から得られる情報を分析してい
るように見える。そういう時のイサトさんは好奇心を満たすことし
か考えていないため、ものすごく隙が多い。この人が初めての場所
でやたら迷子になるのはたぶんそのせいだし、その結果好奇心が満
たされて満足しちゃうからいつまでも懲りないのである。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮!﹂
じーっと見られていることに気付いたのか、イサトさんははっと
したように表情を取り繕った。ふんふん、と楽しそうに揺れていた
のもぴたりと止まる。
﹁︱︱⋮何か﹂
798
﹁何も?﹂
しれっとしらばっくれると、言い訳の機会すら得られなかったこ
とに悔しそうにイサトさんがぐぬぬと呻いた。
﹁あれだ。ほら。こういう店普段来たことないから珍しいんだ﹂
﹁うん﹂
見ていればわかる。
﹁イサトさんさ﹂
﹁ん?﹂
﹁気づいてないかもしれないけど﹂
﹁何が﹂
﹁耳﹂
﹁耳?﹂
イサトさんがかくりと首を傾げる。
本当に自覚してないんだろうな。
﹁たまーに何かに夢中になってると耳動いてる﹂
﹁え﹂
ぴこり。
また揺れた。
﹁え、耳って動くの?﹂
﹁実際動いてるけど﹂
﹁ええええ⋮⋮﹂
799
イサトさんは半信半疑というように髪の間からにゅっと飛び出し
た耳の先端を指先で抑えてみる。が、そうして意識してしまうとか
えって動かないものらしい。しばらくそのままでいたものの、動く
気配が感じられなかったのか、イサトさんは訝しげな視線を俺へと
向けた。
﹁動かないぞ﹂
﹁それ、自分では動かせないのか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
眉間に皺を寄せ、集中することしばし。
結局自分の意志で動かせなかった模様。
まあ、もともとはイサトさんだっておそらくきっと普通の人類な
ので、エルフ耳の取り扱い方など感覚として身についていなくても
仕方ないだろう。本人の意図しないところで勝手に動いていると考
えるとなかなか面白い。
﹁エリサやライザはあれ、自分で動かせるんだろうか。今度聞いて
みよう﹂
名残惜しそうに、イサトさんは指先でむにむにと長い耳の先をつ
まんでいる。
と、そこへレティシアが仕立て屋の主人と共に戻ってきた。
なんとなく女性のイメージがあったのだが、意外なことに仕立て
屋の主人は老齢の男性だった。鼻頭にひっかけられた眼鏡や、気難
しげにへの字になっている口元が、いかにも熟練の職人といった雰
囲気を漂わせている。
﹁まったく、レスタロイド家の末娘ともあろう人が無茶を言う﹂
﹁すみません⋮⋮こんな急にお願いしてしまって﹂
800
奥から出てくるまでに少し時間がかかったのは、もしかしたらレ
ティシアが彼を説得するのに時間がかかっていたからなのかもしれ
ない。
﹁私の服は一人一人のために仕立てるものだということを貴女なら
ご存知だと思っていたんだが﹂
﹁はい⋮⋮﹂
レティシアの様子は、厳格な祖父に叱られる孫娘といった風だ。
それは同時に、お互いがそれだけ気心が知れた仲であるという風
にも取れる。苦い口調で小言を漏らしながらも、仕立て屋の主人が
レティシアに向ける目はどこか優しい。
﹁えっと⋮⋮その、アキラ様、イサト様、こちらは私が子供の頃か
らお世話になっている仕立て屋のレブラン氏です﹂
﹁子供の頃からって⋮⋮﹂
俺は思わず首を傾げてしまった。
レティシアはトゥーラウェスト出身で、ここはセントラリアの店
だ。
﹁元々はトゥーラウェストで店をやっていたのですよ。そこを息子
夫婦に任せて、私はセントラリアにやってきました﹂
﹁ああ、なるほど﹂
﹁その時も、レティシア嬢の御父上にはだいぶ力添えを戴いて﹂
﹁父が、レブランさんにまた外套を仕立てて欲しいと言ってました﹂
﹁おや、息子では力不足かな﹂
﹁いえ、たぶんレブランさんが懐かしいんだと思います﹂
801
わざとらしく皮肉げを装ったレブラン氏の言葉に、レティシアは
ひょいと肩を竦めて言い返す。それにしても、普通なら店を増やす
にしても息子の方に新店舗を任せそうなものだが、本店を息子に譲
って自ら新天地開拓に来てしまうあたり、このレブラン氏もなかな
かにアグレッシブだ。
﹁それで⋮⋮私に頼みたいというのはこちらのお二人の舞踏会用の
ドレスということで良いのかね?﹂
﹁あ、はい。急なお話で申しわけないのですが⋮⋮リサイズで間に
合わせられそうでしょうか﹂
﹁⋮⋮ふむ﹂
レブラン氏は双眸を細めると、改めて俺とイサトさんへと視線を
流した。
﹁失礼、立っていただけますか﹂
﹁あ、はい﹂
俺とイサトさんが揃って立ち上がると、レブラン氏は視線だけで
寸法を測るように、俺たちの周囲をぐるりと一周した。妙に緊張す
る。
﹁まあ、それほど規格外のサイズというわけでもないようですから
な。見本で仕立てた服のリサイズでも充分に見栄えは誤魔化せるで
しょう﹂
﹁良かった⋮⋮﹂
どこか不満げなレブラン氏と対照的に、レティシアはほっとした
ように息を吐き出した。どうやらこのレブラン氏という職人さんは、
普段はあまり既製品のリサイズは行っていないらしい。本人が最初
802
に言っていたように、きちんと客の寸法をとり、一人一人のために
型紙を起こし、布を選んで、という拘りの強い人物なのだろう。
﹁すみません、急な依頼になってしまって﹂
﹁いえいえ、お客様のためにこの腕を存分に振るえないのは残念で
すが⋮⋮しっかり仕上げさせていただきますので﹂
そう言いつつレブラン氏は大きな本棚へと向かう。﹁現在倉庫に
見本のあるのは⋮⋮﹂などと呟きながら、一冊のスクラップブック
に手をかけようとしたところで、ふと何気なく口を開いた。
﹁そういえば⋮⋮事情を聞いたら絶対引き受けたくなる、と言って
いたがその事情をまだ聞いていないな。いや、なんにしろレティ嬢
の頼みとあらば引き受けるしかないが﹂
﹁ふふ﹂
レブラン氏のその問いかけに、レティシアはちいさく楽しそうに
微笑んだ。まるで、悪戯を目論む子供のような笑みだ。俺達の前で
は淑女然としているレティシアにしては、少し珍しい。
﹁実はですね、レブランさん。こちらのお二人が、飛空艇から私た
ちを助け出してくれた方なんですよ﹂
﹁な﹂
レティシアのその言葉に、レブラン氏の動きが見事に止まった。
その手元から滑り落ちた本が、ガン、と重そうな音をたてて床に
落ちる。本というよりもスクラップブックに近かったのか、どぱさ
ーっとその拍子に幾枚ものスケッチの描かれた紙が床へと広がって
いく。
803
﹁うわあ﹂
﹁あわわ﹂
慌ててそれを拾い集めようと屈む俺とイサトさん。
その肩にがしっとレブラン氏の骨ばった手がかけられた。
﹁レティ、その舞踏会まであと何日だ?﹂
レブラン氏、目がスワっている。
というか口調が変わっている。
レティシアに対する呼びかけも、先ほどまでは客である俺たちの
手前一応﹁嬢﹂がついていたというのに、それすらすっとんで愛称
に変わってしまっている。
﹁後七日ですね﹂
﹁七日か⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮よし、間に合うな﹂
何らかの計算が目まぐるしくレブラン氏の脳内で行われた模様。
﹁レティ、通りの向こうの宿に息子夫婦が泊まってるはずだ、今す
ぐ呼んで来い﹂
﹁はいっ﹂
﹁その間に寸法を測る。まずはあんたからだ、ちょっとこっちに来
い﹂
﹁えっ﹂
がしっと襟首を引っ掴まれて、そのまま引きずられかけた。
何が起きているのかが全くわからない。
﹁ちょ、ちょっと待った! ちょっと待って! 何がどうなった!
804
?﹂
イサトさんも床に広がったスケッチを拾いかけた姿勢のままポカ
ンと固まっている。そんな俺に向かって、レブラン氏がええいまど
ろっこしいっとばかりに怒鳴った。
﹁息子一家の命の恩人相手に既製品なんて着せられるわけがないだ
ろうが!﹂
﹁え﹂
息子一家の命の恩人?
どういうことだ。
助けを求めるようにレティシアを見る。
言われた通り息子夫婦を呼びにいくつもりなのか、店を出掛けて
いたレティシアが俺達を振り返ってにっこりと笑みを浮かべた。
﹁あの時、あの飛空艇にレブランさんの息子さんご一家も乗ってた
んです﹂
﹁あ⋮⋮﹂
﹁もしかして﹂
ぱ、っと頭の中に思い浮かぶ映像がある。
たくさんのモンスターに襲われ、高度を下げつつあった飛空艇の
窓から助けを求めるような視線をこちらに向かって投げかけていた
一家がいやしなかったか。
俺が飛空艇に乗りこみ、扉を通して﹃家﹄に入って欲しいと乗客
たちを説得していた際に、怯え、立ち竦む人々の中でレティシアに
続いて耳を傾けてくれた家族が。
あの家族が⋮⋮レブラン氏の息子一家?
805
﹁⋮⋮私の様子が気になるというんで、服飾の勉強も兼ねてしばら
くこっちに滞在することになっていたんですよ。貴方達がいなかっ
たら、私は家族を失うところだった﹂
俺の襟首を引っ掴んだまま、レブラン氏が俯いたまま呟く。
その声が少し震えているのは、きっと気のせいではないだろう。
﹁︱︱ありがとう﹂
﹁⋮⋮はい﹂
と、しんみりした空気が流れたのは一瞬のことだった。
﹁というわけで行くぞ、さっさと寸法をとって型紙書いて布地を選
ばないと﹂
﹁ええええええだからちょっと待ったっ、オーダーメイドじゃ間に
合わないって言ってなかったか!?﹂
﹁間に合わせる﹂
超強引だなこのおっさん!!
俺は襟首を引きずって連行されながら、最後の頼みの綱としてイ
サトさんへと視線を投げかける。
﹁ドナドナドーナー﹂
歌われた。
全くもって頼りになりゃしねえ。
806
その後。
息子夫婦到着後、解放された俺と入れ違いにイサトさんがレティ
シアと奥さんの二人に両脇を固められて奥の部屋へと連行されてい
った。
﹁やめてっ、ちょっ、そこのサイズはやめっ⋮⋮ええええそんなと
こまで測るのか! いや数字は聞きたくない! ひーあー!﹂
珍しく翻弄されるイサトさんの悲鳴を聞きつつ、俺は仕返しのよ
うにドナドナドーナーを口ずさむのであった。
ちなみに戻ってきたイサトさんは、真っ白に燃え尽きていた。
﹁わたしはもうもうおよめにいけない﹂
何があったし。 807
そして寸法が出たあたりで、ドレスやら礼服のデザインを決める
ことになったわけなのだが。俺もイサトさんも、その辺に関しては
全くの門外漢である。フルレングスやらウェストコートやらプリン
セスラインがどうこう、と謎の単語が飛び交うあたりになると、完
全に傍観者だった。レブラン氏およびその息子夫妻とレティシアが
白熱しているのをぐったりと椅子に腰かけたまま眺める。
もはやどうにでもしてくれ、とばかりに俎板の上の鯉状態である。
ただしカボチャパンツだけは絶対にお断りだ。
﹁そういえば、秋良﹂
﹁ん?﹂
﹁君、踊れるのか?﹂
﹁え。踊らなきゃ駄目か﹂
﹁舞踏会だからさすがに踊らないわけにはいかないんじゃないのか﹂
二人で顔を見合わせる。
舞踏会に参加するのも初めてならば、当然ダンスなんてものとも
縁のない生活をこれまで送ってきている。
﹁イサトさんは踊れるのか?﹂
﹁ワルツぐらいならなんとか﹂
﹁何故﹂
808
意外と芸達者なイサトさんだった。
リアルでも謎なスキルを持ち合わせているとは、なかなか油断な
らない。
﹁職業柄。昔ダンスシーンを書かないといけないことがあってね。
それでちょっとだけ齧ったことがあるんだ﹂
﹁なるほど﹂
﹁本当基本の足型だけだけども﹂
﹁あしがた?﹂
﹁ええとダンスのステップ的な動きのことを、足型って言うんだよ﹂
そこまで言って、イサトさんがちょろっと俺を見上げた。
﹁アレだ。良かったら教えようか。私も復習しておきたいし﹂
﹁え、いいのか?﹂
﹁君が私のパートナーだろう?﹂
﹁あ﹂
そうか。
舞踏会に参加することになった、というところで頭が止まってし
まっていたものの、イサトさんと舞踏会に参加するということはそ
ういうことだ。
俺が、イサトさんをエスコートしなければならないのである。
これはなかなかに責任重大だ。
﹁そうか、そうなるならちゃんと練習しておかないと。イサトさん
に恥をかかせるわけにはいかないし﹂
﹁やめろ、プレッシャーをかけるな﹂
809
イサトさんがぎゅっと耳を抑えて聞こえないふりを試みる。
ちらっとレティシアを見る。
絶賛プリンセスラインとベルラインの狭間で白熱した議論が行わ
れているところだった。こっちに意識が戻るまで、もうしばらく時
間がかかりそうだ。
﹁イサトさん、ちょっと脱け出さないか﹂
﹁そうだな。このままここにいてもやることなさそうだし﹂
やろうと思えばやることはたくさんあるのだろうが、正直あのプ
ロ集団の中に首を突っ込んでいく勇気がない。それよりはまだイサ
トさんにダンスを習った方が有意義というものだろう。
というわけで、俺とイサトさんは一応レティシアに一声かけた後、
レブラン氏の仕立て屋を後にした。
イサトさんと俺がやって来たのは、レティシアと再会するのに使
810
った廃墟だった。入口を抜けた先には回廊があり、その内側には石
畳の中庭が広がっているのだ。中央には、元は噴水であったのだろ
う瓦礫の山が残っている。
ここならばダンスの練習をしていても人々に奇異の目で見られる
心配はなさそうだ。
⋮⋮とは言っても、今まで手をつけたことがない類いのモノであ
るため、その練習ともなると妙な気恥ずかしさを伴う。
﹁⋮⋮上手く出来なくても笑わないでくれよ﹂
﹁君を笑えるほど私も上手いというわけじゃないからな。君の方こ
そ笑うなよ﹂
﹁心得ております﹂
最初にそんなことを言い合って、それから石畳の上へと歩を進め
た。
﹁ええと、まず最初に足型の前にポイズだな﹂
﹁ポイズ?﹂
﹁姿勢のことだよ。はい、秋良青年、気を付け!﹂
﹁おう﹂
イサトさんの言葉に合わせて、びしりと背を伸ばす。
剣道をやっていたので、それほど姿勢が悪い、ということはない
と思うのだが。
﹁ここからちょっと特殊な感じになるんだけれども。親指の付け根
あたりに体重をかけて、踵を浮かせられる?﹂
﹁⋮⋮こう?﹂
811
イサトさんに言われた通りに、重心を前に持っていく。
﹁そうそう。でも体はまっすぐな。前のめりにならないように。私
がよく言われたのは、頭のてっぺんに紐を通されてぶら下げられて
いる感じ、らしい﹂
﹁なるほど?﹂
言われた通りにまっすぐ、を心掛けてみる。
普段使わない筋肉を使っている感。
﹁後はそうだな。意識するなら足の内側の筋肉をきゅっと引寄せる
感じだ﹂
﹁こんな⋮⋮、感じ?﹂
﹁そうそう。流石だなあ。私なんて最初超ぷるぷるして全然ダメだ
ったぞ﹂
そんなことを言いながら、イサトさんも俺の目の前で同じように
すっと姿勢を正して見せる。本日ナース服だったイサトさんは、俺
から見るとすでに十分高さのあるヒールを履いて持ち上がっていた
踵が、さらに浮いた。
イサトさんが言ったように、踵が浮いているにも関わらず体のラ
インはまっすぐだ。頭がつま先より前に来るようなことにはなって
いない。
﹁すごいな﹂
﹁問題はあまり長続きしないことだなあ。私はあまり体力及び筋力
がないので﹂
その言葉通り、イサトさんはすぐにトン、と踵を下す。
812
﹁基本的に踊っている間は、その姿勢を保つイメージかな﹂
﹁へえ。結構キツそうだ﹂
﹁結構どころじゃないぞ、ダンスはスポーツだ。あれ超体力使う﹂
しみじみと力説された。
﹁次にホールドだな﹂
﹁ホールド?﹂
﹁ええとポイズが姿勢なので⋮⋮ホールドはいわゆる構え的な?
ポイズを保ったまま、両腕を真っ直ぐ横に伸ばせる?﹂
腕を左右に突きだす。
﹁そうそう。それで左腕は肘から先を軽く持ち上げて⋮⋮、右腕は
肘から先を軽く下げる﹂
よいしょ、とイサトさんが実際に俺の腕に触れて角度をつけてい
く。
なんだかマネキンにでもなったような気がしてくる。
イサトさんはそうやって俺にホールド、とやらの構えを取らせる
と⋮⋮その具合を確認するように、するっと正面から俺への距離を
削った。いきなり懐に入って来られて思わず後ずさる。
﹁あ、こら。ポイズを崩さない﹂
﹁ご、ごめん﹂
謝りつつ、もう一度ポイズからホールド、へと姿勢を取り直す。
そんな俺の様子をじーっと観察しながら、イサトさんが改めてす
るりと正面から俺に接近した。持ち上げている左手の、緩く開いて
いた掌の中にそっとイサトさんの右手が重ねられる。そして俺の右
813
手はイサトさんの腰へと導かれた。イサトさんの左手は俺の肩の上
に添えられている。
うわあ。
どうしよう。
これなんかものすごい近い。
正面から目が合わせられない。
が、イサトさんはそんな俺のドギマギなど素知らぬ風に説明を続
ける。
﹁これが組むときの基本の体勢だな。あ、あんまり力をいれてガチ
ガチになっても駄目だぞ。肩、あがってる﹂
﹁え、あ、肩?﹂
イサトさんは一度ホールドを解くものの、そのまま俺から離れる
代わりに、軽く背伸びで俺の肩にぽんと両手を置いた。なんかこう。
やばい。この体勢はいろいろやばい。なんというか。こう。キスシ
ーン、ぽい。
そんなことを考えると、思わず視線が説明を続けるイサトさんの
唇に吸い寄せられてしまう。
﹁腕は上げるけれども、肩は上げないんだ。あくまで腕はまっすぐ
横に出して、肘から先だけを持ち上げるイメージ。わかる?﹂
﹁わかる、気はする⋮⋮けど、ちょっとタンマ﹂
﹁?﹂
不思議そうに首を傾げるイサトさんから、そそっと距離を取って
深呼吸。
ダンス、恐るべし。
814
求む、平常心。
﹁疲れちゃった?﹂
﹁いや、そういうわけじゃないんだけど。ちょっといろいろ﹂
﹁あ、恥ずかしいんだろ﹂
﹁っ﹂
いきなり図星を刺された。
と言っても、恥ずかしさだけ、というわけでもないのだが。
﹁最初はちょっと照れくさいかもしれないが、そのうち慣れるよ﹂
﹁⋮⋮そう、か?﹂
﹁慣れる慣れる﹂
イサトさんは気軽に同意してくれるが、果たしてどうだろう。
慣れるのかこれ。
確かにイサトさんは全く気にしている様子はないわけだが。
ここまで意識されていないと、なんとなくもやっとしてしまった
りもする。
もう少し。もう少しぐらい異性として意識してくれたりなんかし
ても、別に罰は当たらないと思うんだが如何か。
﹁ほら、練習するぞ秋良青年﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ふと、気づいた。
今、イサトさん、俺のことを﹁秋良青年﹂と呼ばなかったか。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁秋良青年?﹂
815
﹁いや、何でもない﹂
レブラン氏が、俺達の前で﹁レティシア嬢﹂﹁レティ嬢﹂﹁レテ
ィ﹂と三種類の呼び名を使い分けていたように。
イサトさんも、俺のことを﹁秋良﹂と名前で呼び捨てにしたり﹁
秋良青年﹂と呼んだり場面によって呼び名を使い分けている。
イサトさんは、気づいているのだろうか。
秋良、と名前で呼ぶ時と秋良青年、と呼ぶときの使い分けの癖に。
俺も、最初は全然気づいていなかった。
単に気分で呼び分けているのだとばかり思っていた。
けれど、違うのだ。
イサトさんの呼び分けには基本的なルールが三つある。
一つは、俺の注意を惹きたい時だ。
何か大事な話を切りだしたり、俺をからかう時なんかにわざとら
しくにんまり笑って、﹁秋良青年﹂と俺を呼ぶ。
二つ目は、第三者が一緒にいる時だ。
少しだけかしこまって、イサトさんは俺を﹁秋良青年﹂と呼ぶ。
そして三つ目。
三つ目は、イサトさんがちょっと俺と距離を置きたい時だ。
内心照れたり、恥ずかしがったりしてるのを隠そうとするかのよ
うに、もしくは物理的な距離を自分から削る代わりに、精神的に少
し逃げ道を作るかのように、イサトさんは俺を﹁秋良青年﹂と呼ぶ。
﹁イサトさんさ﹂
﹁ん?﹂
﹁地味に照れてる時俺のこと﹃秋良青年﹄って呼ぶよな﹂
しれっと、顔には出さない癖に。
816
﹁そう、だっけ﹂
﹁うん﹂
頷くと、イサトさんはかくりと首を傾げる。
そしてこれまでの行動を思い返すような間が少々。
どうやら心当たりがいろいろあったのか、ぶわっと一息に滑らか
な褐色の頬に朱色が浮かんだ。
﹁そ、そういうの言うのいくないと思う!﹂
﹁いや、つい﹂
﹁これ、私まで照れたら全然練習にならないじゃないかっ﹂
﹁だってイサトさんだけしれっとしてるから﹂
﹁しれっとさせておいてくれ!﹂
恥ずかしそうにイサトさんが地団太を踏む。
だむだむ。
可愛い。
きっと赤らんだ目元で睨まれた。
﹁覚えてろ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい﹂
やり返すことが出来てわりと満足した俺だったが、その後の練習
がかなりスパルタ気味になったことは特筆しておこうと思う。
隣に立っての足型の練習までは良かったのだが、開き直りまくっ
たイサトさんに、実際ホールドを組んだまま耳元でカウントを囁か
れながら足型を踏むのは何か新手の精神修養のようだった。
いーち・にーい・さーん、の掛け声が耳から離れなくなりそうだ。
817
818
おっさんとダンスの練習を︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
Pt、お気に入り、感想等励みになっております。
そういえばおっさんがついに累計の端っこに入ることが出来ました。
いつも応援してくださっている皆様のおかげです。
ありがとうございます。
これからもよろしくお願い致します。
819
おっさん、変質者に迫られる
それからの数日間、俺とイサトさんは時間を見つけては例の廃墟
でダンスを練習する日々が続いていた。
万が一違っていたらということでレティシアにも見てもらったの
だが、おおむね問題はないようだった。こちらでも舞踏会といった
ら、円を描くように動きながら踊る三拍子のダンス、という認識で
間違っていないらしい。ただ、細かい足型が少し異なるようなので、
セントラリア風のワルツの足型をそれぞれ俺は男性パート、イサト
さんは女性パートをレティシアから習った。
最初はそれぞれ足型を覚えるために別々に練習し、それから実際
に組んで踊ってみる。
﹁秋良青年、目線﹂
﹁ああ、うん﹂
油断するとつい足元を確認してしまいそうになる。
﹁足元を見ようとすると顎が下がるから、背も丸くなっちゃうんだ。
せっかく君は上背があるのに、それじゃあ勿体ない。右手の先を見
る感じだとちょうど良いよ﹂
﹁右手?﹂
﹁そうそう、右手﹂
俺の右手は絶賛イサトさんの腰に添えられている。
その先、というとどこだ。
820
地面しかない気がするぞ。
﹁どこ見てるんだ、ほら、こっち﹂
少し呆れたように笑いながら、ぎゅっぎゅ、とイサトさんが俺に
示すように手を握る。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮なんだ﹂
﹁イサトさん、それは俺の左手だ﹂
﹁あれ?﹂
﹁あれって﹂
不思議そうに瞬いたイサトさんに、思わず小さく笑ってしまった。
二人手を取り合って向かい合っているのだから、そりゃ逆にもな
る。
イサトさんにとっては右手の先なんだろうが、俺にとっては左手
であるわけで。
﹁⋮⋮ただでさえ左右の区別がつかない私に、私にとっての右だと
か君にとっての右だとか難易度が高すぎる。右は右でいいじゃない
か﹂
間違えた照れくささを誤魔化すようにイサトさんがぼやく。
それにはいはい、と頷きながら、俺はイサトさんに言われた通り
視線をイサトさんにとっての右手の先へと流した。
こうして視線を進行方向に向けておくと、あまりイサトさんとの
近さを意識せずに済む。それに、実際こうして組んで踊ってみてわ
かったのだが、ホールドの段階ではものすごく近く感じたイサトさ
んの顔が今は意外に思ってしまうほど距離を感じる。腰のあたりは
821
互いに触れるほど近いのに、そこを抱く俺の手を支点にするかのよ
うにイサトさんはくうと背を優雅にしならせた姿勢をキープしてい
るからだろう。それでいて、腰を抱く俺の腕に体重がかかっている
かといえばそうでもないのだから凄い。
ダンス超体力使う、とこぼしていたイサトさんの言葉を改めて実
感する。
﹁いーち、にーい、さーん﹂
リズムを刻むイサトさんの声に合わせて、足型を踏む。
最初はなかなかかみ合わず、お互いの足を踏んだりよろけたりす
ることの多かった俺たちだが、ようやく少しずつ合うようになって
きている。実際自分で体験する前は、ダンスの何が楽しいのかがよ
くわからなかったが、なるほど。こうして少しずつパートナーとの
動きがかみ合い、ダンスとしての完成度が高まっていくのはなかな
かに面白いかもしれない。
﹁秋良、もうちょっと大股でも大丈夫だぞ﹂
﹁イサトさん辛くない?﹂
﹁そりゃあついていくのは大変だが﹂
もともと俺とイサトさんには身長差がある。
そうなると当然コンパスの差がある上に、このワルツというダン
ス、女性は常に後ろ向きに進んでいくような状態が続く。高いヒー
ルを履いて上身をしなやかにそらしたまま大股に後ろ向きに進む、
なんてなかなかに大変なのではないだろうか。⋮⋮いや、落とした
り転ばせてしまったりしないようにしっかり支えているつもりでは
あるのだが。
﹁その方が見栄えが良いんだ。せっかくなら、セントラリアの貴族
822
連中を驚かしてやりたいだろう?﹂
くぅ、と胸をそらして進行方向を見ていたイサトさんが、ちらり
と俺に向けて悪戯っぽい視線を投げかける。
﹁⋮⋮確かに﹂
相手は、わざわざ俺たちを舞踏会に招くような連中である。
深読みしすぎかもしれないが、冒険者風情である俺たちを場違い
な舞踏会の場に引っ張り出して威圧しようとしている、という風に
も受け取れる。もしそうだとした場合、俺たちが隅っこで小さくな
っていては相手に隙を与えるだけだろう。
﹁じゃあ、ちょっと大きめに動いてみる﹂
﹁よしきた﹂
足型が一周して最初に戻ったところで、意識して次の一歩を先ほ
どよりも深く踏み込んだ。その分深く体が沈む。合わせて後退する
イサトさんの身体にもぐっと力が張るのがウエストに添えた掌から
も伝わってきた。結構キツそうである。
﹁もうちょい抑えた方が良い?﹂
﹁いや、大丈夫。根性で、合わせる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
この負けず嫌いめ。
言われた通り、一歩一歩ストライドを広げて、廃墟の中庭をくる
くると足型を踏んで進む。歩幅が広がった分勢いがついているのか、
ターンの度に本日赤ずきんなイサトさんのスカートがより華やかに
ふわりと広がった。
823
そのまま足型を踏み続けること数分。
イサトさんの体力が持続したのは、ちょうど中庭を一周するとこ
ろまでだった。がく、と膝が抜けるようにそのまま崩れかけるのを、
慌てて腰にかけた手で引き戻す。先ほどまでぴんとしなやかに伸び
ていた背が柔らかに弛緩するのが伝わってきた。
﹁大丈夫かイサトさん﹂
﹁しぬ﹂
﹁死ぬな﹂
﹁ちょっと、たいむ﹂
﹁はいはい﹂
ホールドを解くと、イサトさんはへろへろとした動きで中庭の端
っこに腰を下ろした。踊っているときは優雅そのものなのだが、や
はり体力の消費は激しい模様。体育座りの膝小僧に額を乗せて、ぜ
ーはー言っている。
﹁イサトさん、それで一曲持つのか﹂
﹁三分から四分ぐらいならなんとか﹂
﹁え、ワルツってもっと長くないか?﹂
俺の記憶が確かならば、クラシックのなんとかのワルツ、的曲は
大体10分前後あったような気がしている。
イサトさんは弾んだ息を整えながら、俺をじろりと見上げた。
﹁そんな長時間あのペースで踊ってたまるか⋮⋮しんでしまう﹂
切実だった。
﹁舞踏会なんかで演奏されるワルツには前奏なんかもあるし⋮⋮あ
824
と無理なく踊れるように短縮されてたりするんだよ。私たちの知っ
てるワルツ曲が流れるようなことはないだろうけれども︱︱⋮まあ
10分耐久ワルツなんてことにはならないだろうな﹂
﹁なるほど﹂
﹁それにがっつり、これだけ魅せることをメインに全力で踊るのは
最初だけだよ。後はまあ、パートナーも変わるだろうし、ゆるーく﹂
﹁え﹂
イサトさんの言葉に俺は思わず声をあげていた。
パートナーが変わる?
﹁ん?﹂
イサトさんは緩く首を傾げている。
それから何か思い出したかのようにポンと手を打った。
﹁ああそうだ、実際舞踏会が近くなったら言おうと思ってたんだっ
た。たぶん他の人にダンスに誘われるようなこともあるだろうから、
心の準備はしておいた方が良いぞ﹂
﹁え、他の人とも踊らないといけないのか?﹂
﹁まあ誘われたらあまり無碍にはしない方が良いだろうなあ。ただ
その時はかるーく一周回る程度で良いと思う﹂
そうか。
そういうこともあるのか。
⋮⋮というか、イサトさんも他の奴と踊るのか。
なんとなく、面白くない。
﹁そんな難しい顔しなくとも、あれだけ足型踏めてれば大丈夫だよ﹂
825
ゆっくりと立ちあがったイサトさんが、ぽん、と軽く俺の腕に触
れる。
いつもと変わらない、俺を安心させるような仕草。
が、実際のところ俺は別に他の相手と踊ることに対して不安を感
じていたわけではないわけで。いや不安といえば不安ではある。イ
サトさんのような隙の塊を貴族の男どもの中に放流して大丈夫なの
か、とか。
適当に言いくるめられて部屋に連れ込まれたりしそうで、心底不
安である。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮なんだろう、その信用のならないイキモノを見るような目は﹂
﹁いや、別に﹂
⋮⋮舞踏会当日はなるべくイサトさんから目を離さないようにし
よう、と心の中で固く決意。
と、そこでイサトさんがゆっくりと伸びをした。
﹁ちょっと喉が渇いたので飲み物をとってくるが、君も飲む?﹂
﹁あ、頼めると嬉しい﹂
﹁わかった﹂
ひらりと手を振って、イサトさんがカツカツとブーツのヒールを
鳴らして廃墟を出ていく。時折腰のあたりに手をやってポンポン、
としているあたり、筋肉痛に悩まされているのかもしれない。イサ
トさんほどではないが、俺も体の節々が痛い。いつも使ってるのと
は違う筋肉を使っている感。
イサトさんをを見送って、俺も軽く身体を解すことにした。
部活の後にいつもしていたクールダウンのためのストレッチを思
い出しながらこなしていく。一度やり始めると意外と覚えているも
826
ので、淡々と10分程度のストレッチを終えた。
﹁こんなもんか﹂
腕を伸ばして腰を捻りつつ、ふう、と息を吐く。
と、そこでそんな俺をまじまじと観察している人影︱︱イサトさ
んに気付いた。
﹁あれ、戻ってきてたのか﹂
こくん、とイサトさんが頷く。
飲み物を取りにいってくれる、と言っていたわりに手ぶらだ。
﹁イサトさん、飲み物は?﹂
﹁あ、ごめん﹂
﹁なんだ、自分だけ飲んできたのか﹂
申し訳なさそうに眉尻を下げたイサトさんに、俺はひょいと肩を
すくめた。
別段そこまで気にすることではない。
が、わりと俺のことをいつも気にかけてくれがちなイサトさんに
しては珍しいポカだ。やっぱり疲れが溜まっているのだろうか。
﹁今日はこれぐらいにして、ゆっくりした方が良さそうだな。イサ
トさん、疲れてそうだし﹂
﹁ううん、そんなことない。ねえ、もうちょっと練習しない?﹂
﹁いいけど﹂
なんだか様子がおかしい、ような?
827
﹁なあ⋮⋮って、⋮⋮ッ﹂
俺が口を開きかけたところで、イサトさんにぴたりと距離を詰め
られた。ホールドというよりも、まるで俺に抱きついて身を寄せる
ような距離感に息が詰まる。服越しに触れる柔らかな体温に、言い
かけたはずの言葉がどこかにかっとんでいった。じりじりと頭の芯
が熱くなる。
﹁い、いいい、イサトさん!?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
Q:イサトさんはどうしたのですか?
①何かあった
②何かやらかしたのを誤魔化そうとしてる
③おかしくなった
脳裏に謎の三択が思い浮かぶ。
一番疑わしいのは②ではあるのだが、それにしてはイサトさん、
いろいろと賭けすぎである。何をしたらここまでするというのか。
それを考えるとそれはそれで聞くのが怖い。
﹁ええと、その﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
イサトさんが俺の胸元に埋めるようにしていた顔を上げる。
828
じっと金色の双眸が俺を見つめる。
﹁何か、あった⋮⋮?﹂
﹁踊ろう?﹂
会話になってない。
いつもならそうツッコミを入れるところなのだが、ちょっと今は
それどころじゃない。当たってる。柔らかく、それでいて弾力のあ
る感触がものすごく当たっている。イサトさんの表情を見ようと下
した視線がそれより先に、俺に押し当てられて撓んだ胸の盛り上が
りだとかに吸い寄せられたので本当にマズい。
﹁ほら﹂
イサトさんが俺の手を取る。
条件反射のように、その腰に手を回した。
だというのに、イサトさんはいつものポイズを取ろうとはしない。
変わらず俺に寄りそうような形で、すっと自分から身体を引くよう
にしてワルツのステップを踏み始めた。もはやポイズがどうとかホ
ールドがどうとか言ってられる状態ではなさすぎる。何だこれ。何
が起きてる?
﹁ねえ﹂
低めの柔らかな声音が、ぞっとするほど甘く響く。
ふわりと鼻先を覚えのある香りが漂った。
甘く、それでいてどこかほろ苦さを感じる⋮⋮これはチョコレー
ト?
違和感を頭の片隅に覚えるものの、その小さな棘のような違和感
の正体を追うところまで頭が回らない。
829
﹁イサト、さん﹂
﹁聞きたいことが、あるの﹂
﹁聞きたいこと、って⋮⋮﹂
いつの間にかホールドが解け、イサトさんの右手が俺の頬に触れ
る。
﹁どこから、来たの?﹂
ヤバい。
これは本当にヤバい。
ヤバいとわかっているのにぴたりと貼りつくように寄り添うイサ
トさんを引っぺがすこともできず、その質問に答えようとしてしま
っていることが何よりヤバい。
﹁俺は⋮⋮﹂
甘いチョコレートの香りに思考が痺れる。
マズいことになっていると頭のどこかでは認識しているのに、自
分の行動に歯止めがかけられない。
蠱惑的な笑みを浮かべて俺を見上げるイサトさんから視線が逸ら
せない。
俺はゆっくりと口を開きかけて⋮⋮
﹁︱︱⋮何を、しているんだ﹂
そんな声と共に、カツン、と澄んだ音が響いた。
﹁っ⋮⋮!﹂
830
とたん、まるで俺を閉じ込めていた見えないシャボン玉がぱちん
と弾けたかのように、濃厚なチョコレートの匂いが遠くなった。
爽やかな風がぶわりと廃墟を吹き抜けていく。
その新鮮な風の匂いに、俺はは、と息を吐き出した。
少しずつ、頭の奥を侵していた甘い痺れが抜けていく。
緩く頭を振って、その声の主へと視線をやる。
そこにいたのは︱︱半ばわかっていたことだが︱︱イサトさんだ
った。
どことなく厳しい顔つきで、片手には禍々しいスタッフを携えて
いる。
先ほどの音はスタッフの石突で地面を叩いた音だったらしい。
その傍らには、取ってきてくれたらしい飲み物のグラスが二つ地
面に並べられている。
﹁イサトさん﹂
俺が名前を呼ぶと、イサトさんの視線がちらりと俺を向く。
・・・
どこか呆れたような、それでいて少し安心したような色がその金
色には浮かんでいた。というか。そこに立っているのが本物のイサ
トさんだとしたならば、俺に今もぴたりと寄り添っているこの人物
はいったい誰だというのか。俺はごくりと喉を鳴らしつつ視線を下
して⋮⋮
﹁うわ!?﹂
思わずそんな声と共に一気に後ずさってしまった。
そこにいたのは︱︱、銀とも見紛うプラチナブロンドに白い肌、
灰がかった蒼の瞳を楽しそうに笑みに撓ませた 男 だった。繰り
返す。男である。男。まだ女だったなら救われたような気がするが、
831
男である。
イサトさんだと思っていた相手がいきなりそんな似ても似つかぬ
男に化け、さらに言うならそんな男と密着していたことに気付いた
のだ。胸元に感じる感触も、いつの間にやら固く平たい男の胸板に
変わっている。咄嗟に悲鳴じみた声をあげて後退ったからと言って、
誰も俺を責められないと思う。
﹁酷いな、さっきまでは優しく抱きしめてくれていたのに﹂
﹁おいやめろ、本当やめろ死にたくなるから﹂
くっくっく、と喉を鳴らして面白がるように笑っている男に、俺
は死にそうな声で呻いた。この男相手にあんなに至近距離でワルツ
を踊って惑わされていたのかと思うと死にたくなる。というか世界
を滅ぼしてでも全てをなかったことにしたくなる。わりと本気で。
背丈は俺とそう変わらない。
ただ、全体的に俺よりも細身である分一回りほど小柄なようにも
見える。
長い、銀にも見えるプラチナブロンドを顔の片側に寄せて編み、
長く体の前にたらしている。そんな風貌や整った顔立ちもどちらか
というと柔らかで女性的ではあるかもしれないが、だが男だ。どう
見ても男だ。
なんでこんな男をイサトさんだと思ってしまったのか。
唯一その男の外見の中でイサトさんに似ている点があるとしたの
なら、それは淡いプラチナブロンドの間からにゅっと付きだした細
長い耳だった。
エルフ⋮⋮?
832
この世界において大昔にすでに滅んだと呼ばれている、古の種族。
ダークエルフであるイサトさんの対。
細く長い耳や、濃い肌の色ならば先祖がえりのようにその形質を
継いだ者もいる、という話を以前レティシアから聞いたことがあっ
た。
だが。
目の前にいる男は、どうもただ見た目だけのエルフだとは思えな
い雰囲気を漂わせている。
滅んだはずのエルフ、というだけならまだ良い。
もしかしたら。
現代日本
もしかしたらこの男は、イサトさんと同様にゲーム時代の設定に
引きずられてエルフとしてこちらにやってきた同郷の人間である可
能性だってあるのではないのか。
﹁お前、目的はなんだ﹂
自然と声が厳しくなる。
俺たちと同じ身の上であるのなら特に対立する必要はないと思う
一方で、俺たちと同程度の戦闘能力を持っている可能性があると思
うととても油断する気にはなれなかった。
﹁怖い顏しないでよ。あ、それとも幻術で惑わせたことを怒ってる
? ごめんね?
ちょっと情報収集ついでにからかってみようかなーって思っただけ
なんだけど﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
良い性格をしてやがる。
833
とりあえず思いっきりぶん殴ってやりたい衝動をこらえて、すっ
とインベントリから大剣を取り出して腰に携えた。何か妙な動きが
あれば、すぐに応戦できる準備だけはしておきたい。俺のその様子
に、その男はひょいと肩を竦めた。そしてくるりと踵を返すと、な
んでもないような動きでイサトさんに向かって歩を進めようとする。
﹁ッおい!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
背後から即座に引き留めようとした俺に向かって、イサトさんが
軽く手を上げて制した。
﹁何か妙なことを企んでいるのなら︱︱⋮辞めた方が良い。君が何
か武器を取り出すようなことがあれば、こちらはすぐにでも敵対行
動と見做すぞ﹂
イサトさんの手には、禍々しいスタッフ。
何か切っ掛けとなる所作を行えば、すぐにでも攻撃魔法が発動す
る用意はしてあるのだろう。相手が見た目どおりのエルフであるの
なら、ゲーム内の設定に従えば得意な魔法は支援系、主な攻撃手段
は召喚魔法になる。今のところこの男は手ぶらであり、魔法を発動
させるのに必要な武器を携えている気配はない。徒手空拳で襲うに
しろ、攻撃が届く間合いに飛び込むより先にイサトさんの魔法が炸
裂するだろうし、そもそも俺にしたって黙って見守る気はこれっぽ
っちもない。イサトさんと俺との距離は2メートル程度。一息に踏
み込んで大剣を振るえば、即座に斬り捨てられる。
﹁やあやあ怖いなあ、二人とも。そんなに警戒しなくてもいいじゃ
ない?﹂
834
軽い調子で笑いながら、男は無害っぷりをアピールするかのよう
に両手をひらひらと振ってみせた。確かにその手には何の武器も持
たれていなければ、ピアニストのように細く整った指先は何か素手
による格闘技を嗜んでいるようにも見えない。
男はイサトさんまであと一歩、という距離まで歩み寄ると︱︱⋮
ふっとその足元に跪いた。まるで童話の中の姫君に忠誠を誓う騎士
のように、片膝をついてイサトさんを見上げる。そして悪意がない
ことを示すかのようにゆっくりとした所作で手を伸ばし、イサトさ
んのスタッフを握るのとは逆の手を取った。白い指先がイサトさん
の褐色の指を絡め取った瞬間、ぴくり、とスタッフが微かに震える。
﹁イサトさん﹂
﹁大丈夫﹂
少しでも、イサトさんが嫌がったならぶちのめす。
そんなつもりで呼びかけた声に、イサトさんも声だけで応じた。
金色の視線は、油断なく目の前で恭しく跪く男に据えられたまま
だ。
今は、男の意図を探ることを優先したいのだというイサトさんの
意図はわかっていても、あまり良い気はしない。べたべた触ってん
じゃねえ。
﹁もし、君が俺を不快に思うならそのスタッフを振るうが良いよ。
君なら、俺を殺すだけの力がある﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
イサトさんは答えない。
男はイサトさんを見上げたまま、ゆっくりとイサトさんの手を口
元に引寄せ、その手の甲に恭しく口づけた。
835
そして。
﹁︱︱俺の子を産んでくれないか﹂
あんまりにもあんまりなセリフが飛びだした。
何言ってんだこいつ、と俺が呆気にとられている間にも、イサト
さんの行動は早かった。渾身の力を込めて振り抜かれたのであろう
スタッフが、強かに男の側頭部を引っぱたく。ガヅン、と何やらと
んでもなく痛そうな音がした。
﹁いったい!!! 何これ超いったい!!!﹂
836
男が悲鳴をあげる。
や
攻撃魔法が炸裂しなかったのは、イサトさんの理性のおかげだろ
う。
俺としてはいっそ不幸な事故に見せかけて殺ってしまっても良か
ったのではないかなんて思うわけなんだが。
イサトさんが、ささっと悶絶する男の脇を回り込むような動きで
俺の元まで逃げてきた。さすがのイサトさんも変態は怖いらしい。
これもう、慈悲など要らないのではないだろうか。
﹁なあ﹂
ぽん、と寝かせた大剣を肩の上で弾ませながら、俺は頭を抱えて
いる男の脇に屈みこんだ。いわゆるヤンキー座りである。
﹁お前、何考えてんの﹂
口元は笑っているものの目は笑っていない自覚はある。
さぞかし凶悪な顔をしていることだろう。
﹁はは、君顔怖いな﹂
﹁うるせえ怖いのは顔だけかどうか実地で教えてやろうか﹂
﹁それは遠慮したい﹂
あー痛い痛い、と呻きながら、それほど痛みを感じているとも思
えない所作で男はすっと立ち上がる。その視線を遮るよう、即座に
イサトさんとの間に入るように立った俺に、男はにこーっと悪意の
なさそうな笑みを口元に浮かべた。
﹁突然の申し出に戸惑う気持ちはわかるよ。でも考えてくれるぐら
いは⋮⋮﹂
837
﹁駄目に決まってんだろ﹂
﹁えー﹂
不満そうにブーイングされた。
駄目だこいつ。
なんかまともに相手しちゃいけないタイプの奴だ。
﹁あ、もしかして君、彼女の恋人だったりする?﹂
﹁ッ⋮⋮﹂
言葉に詰まった。
不覚にもじわっと頬に熱が昇るのを感じる。
くっそ。
違う、と俺が否定するより先に、男は饒舌に言葉を続けた。
はら
﹁まあ君が彼女の恋人でも構わないよ。彼女の心は君のものでも、
その愛の寛容さでもって胎を貸してもらえればぐげふ!?﹂
最後まで言わせずアイアンクローをかます。
ぎりぎりぎりぎり。
イサトさんにメロン潰せるかと聞かれた時には無理だと答えたが、
今なら出来る気がする。
﹁痛い痛い俺の顔がますます小顔に!﹂
﹁微妙にポジティブなのが余計に腹立つな﹂
めりめりめりめりめりめり。
﹁あっあっ、なんかミシって言ってる!﹂
﹁このまま潰したい﹂
838
﹁何それこわい!﹂
痛い痛いと悲鳴をあげているわりに、楽しそうなのは気のせいか。
わたわたと踊るように手足を動かしている男を半眼で見やりつつ、
俺はイサトさんへと声をかける。
﹁コレ、どうする?﹂
﹁⋮⋮生ごみとして処理したい﹂
﹁同感﹂
﹁まって俺まだ死んでないよ!?﹂
﹁安心しろ、今からコロス﹂
﹁安心できない!﹂
﹁って﹂
ますますギリギリと力をこめようとしたところで、まるで本当の
意味で魔法でも使ったかのように、男はするりと俺の手から逃げお
おせた。
﹁⋮⋮?﹂
今、何をされた?
思わず男の顔面にかけていたはずの手に視線を落とす。
痺れがあるわけでも、何か衝撃を受けたわけでもない。
それなのに、気づいた時にはもう逃げられていた。
やはりこの男、得体が知れなさすぎる。
大剣に手をかけて身構える俺に、男はやっぱりどこか人懐こく笑
った。
灰がかった蒼の瞳が、硝子玉のように俺を映している。
﹁まったく、君の護衛超怖い﹂
839
そんなことを嘯きながら、男はひょいと見えない何かを拾い上げ
るような所作をした。それから、ちらりと俺へと視線を投げかける。
にたりと揶揄する笑みがその口元に浮かんだ。
﹁ダンス、楽しかったよ。それじゃあね﹂
﹁逃がすか!﹂
﹁逃げるよ﹂
しれっとそう答えた男の姿がすぅっと風に溶けるように見えなく
なる。
幻か何かのように、その姿が消え失せる。
﹁イサトさん!﹂
なんとかならないかと思って声をあげたものの、イサトさんは諦
めたように首を横に振った。
﹁逃げられた﹂
﹁ちッ﹂
ついガラの悪い舌打ちが漏れる。
﹁あれはたぶん支援系魔法スキルの一種だな。ほら、敵から見えな
くなるのがあっただろう?﹂
﹁そういえばそんなのもあったな。ってことは、もしかしてあそこ
にスタッフがあったのか﹂
﹁おそらく。幻術で隠してたんだと思う﹂
もしもあの男が攻撃系の魔法スキルを使っていたら、と考えると
840
ぞわりと背筋が冷えた。エルフだけあってあまり戦闘向きの魔法ス
キルは持っていない、ということも考えられるが、ここにいるイサ
トさんはダークエルフでありながら召喚魔法の取得を選んだ変人で
ある。それを考えるとあの男が攻撃魔法を不得手にしていると決め
つけるわけにもいかない。
逃げるのに使った魔法スキルにしてもそうだ。ゲーム時代は、ア
クティブモンスターの索敵に引っかからなくなるスキルとして低レ
ベル帯に重宝していたものだが、発動にはいくつかの条件があった。
敵の目に映らなくなるのは良いのだが一発でも敵に攻撃を加えてし
まったらその効果がなくなってしまう上に、すでに見つかった状態
から使っても、成功率は低い︱︱⋮ということになっていた。
つまり、あの男はそれでも俺たちの前から姿を消すことに成功す
る程度には、腕の立つ魔法使いであるということになるのだ。
﹁なんなんだ、アレは﹂
﹁⋮⋮さあ。でもなんか、こう。油断ならない﹂
﹁それは同感だ﹂
結局、あの男がエルフの末裔なのか、俺達と同じくゲームを通し
てこの世界に迷い込んだ人間なのかはわからないままだ。
﹁あとなんか新ジャンルの変態だと思う﹂
﹁それも同感だ﹂
俺とイサトさんの疲れたような溜息がハモる。
まさか本当にイサトさんに求愛︵と言っていいのかわからない︶
することが目的だったとはあまり思いたくはない。しれっと笑顔で
はら
言っているせいであまりその非道さが引き立たないが、子供さえ生
んでくれればいいだの胎だけ貸してくれだの、男の俺が聞いても酷
841
い言い草だ。
ちらり、とイサトさんを見やる。
﹁ん?﹂
﹁いや、なんか大丈夫かなと思って﹂
﹁私は別に平気だが。
それより︱︱⋮君の方がダメージは大きそうな気がするけども﹂
﹁え﹂
ふっとイサトさんの口元が笑みに緩む。
にんまりと愉しそうな、それでいて少し意地悪げな笑み。
﹁戻ってきて驚いたぞ、君が男相手に寄り添ってワルツ踊ってるも
んだから﹂
﹁やめろ思い出させるな﹂
げんなりと項垂れる。
幻術で騙されたとはいえ、不覚すぎる。
って。
﹁イサトさんには、最初からあの男に見えてたのか﹂
﹁うむ﹂
つまりそれってどういうことだ。
あの男が最初から俺だけに幻術をかけていたのか、それともイサ
トさんには幻術が通用しなかったのか。
⋮⋮イサトさんにはかかりにくい、ということは多いにありうる。
召喚魔法や精霊魔法スキルを多く取得しているイサトさんは、俺に
比べると魔法防御も高い。
ふむ、と俺が考えこんでいると、イサトさんがかくりと小首を傾
842
げて俺を見た。
﹁そういえば、いったいどんな幻を見せられてたんだ?﹂
﹁︱︱え﹂
﹁なんかもの凄く、少女漫画の見開きのような雰囲気が漂っていた
けれども﹂
﹁・・・・・・﹂
言えない。
言えなさすぎる。
﹁⋮⋮⋮⋮黙秘﹂
﹁ケチ﹂
﹁ケチじゃありません﹂
﹁別に笑ったりしないのに﹂
逆に笑えないから言えないのである。
あんな、触感つきの幻なんて実によろしくない。
いや、本当に。
843
おっさん、変質者に迫られる︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
Pt,お気に入り、感想等いつも励みになっています。
844
おっさんと出陣
あの変質者に遭遇してから、数日。
俺たちは幸いなことに二度目のエンカウントのないまま舞踏会の
当日を迎えていた。いきなりイサトさん相手に子供を産んでくれな
どという衝撃的な口説き文句︱︱なのかどうかも不明な戯言︱︱を
のたまった変質者なので、もっとしつこく付き纏ってくるかと覚悟
していたのだが。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
次第に慣れつつある二人きりの朝食の席で、俺はちらりと視線を
あげてイサトさんの様子を窺った。
本日ナース服のイサトさんは、まだ少し眠そうな顔でトーストを
齧っている。あの変質者の登場以来、特に変わった様子もなくいつ
シャトー・ノワール
も通りだ。変わらずマイペースに俺のダンスの練習に付き合ってく
れたり、黒の城で薔薇姫からドロップアイテムのカツアゲに勤しん
でいる。
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮いろいろと悶々としているのは俺だけ、なんだろうか。
こう。
なんというか、初めて、なのだ。
イサトさんのことを女性として認識した上で口説くような男が現
れるのは。
845
ゲーム時代、俺にとってイサトさんは気心の知れた同性の悪友だ
った。
この世界にやってきて、イサトさんが女性であることを知ってか
らも、俺の中でイサトさんはなんとなく﹁相棒﹂の位置にいた。も
ちろん、イサトさんが魅力的な女性であることは重々わかっていた
し、俺自身一緒にいる中で何度もその事実は意識している。
けれど、だからといって恋愛対象である﹁女性﹂として見ていた
かと言われるとそうではないような気もするのだ。
だから、今こうしてイサトさんのことを女性として、恋愛対象と
して見る男が現れたことに対して、俺は結構地味に動揺している。
この世界にやってきて、今まで当たり前のようにこの世界で俺と
イサトさんは二人だった。俺にとってはイサトさんが相棒だったし、
イサトさんにとってもそうだったと思う。二人で一緒にいるのが当
たり前で、そうじゃなくなる可能性なんてものを俺はこれまで一度
も考えたことがなかった。
俺は、イサトさんの隣に誰か他の男が立つ可能性なんていうもの
を、これまでちっとも考えて来ていなかったのだ。
とはいっても、あの変質者にイサトさんがころっと参るなんてい
うことはないと思っている。いくら、﹁イケメン無罪﹂﹁ただしイ
ケメンに限る﹂なんて言葉がまかり通っているとはいえ、アレはな
い。⋮⋮ないと思う。
⋮⋮⋮⋮ない、よな???
﹁⋮⋮私の顔に何か、ついてる?﹂
﹁あ、ううん、なんでもない﹂
思わずイサトさんを凝視してしまっていた。
846
怪訝そうに首を傾げるイサトさんから、口元を手で覆って隠すよ
うにしつつそっと視線をそらす。なんだか、今追及されるととんで
もない自爆をしそうだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮なん、でしょう﹂
じぃ、とイサトさんの金色が俺を見つめてくる。
神秘的な色合いと相まって、俺ですら見ないようにしている本心
を見透かしてしまいそうに見える。
﹁君、なんか最近難しい顔をして考えこんでいること多いよな、と
思って﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
うぐ、と息を呑む。
こういう時のイサトさんは妙に鋭い︱︱
﹁やっぱりまだ舞踏会のことが不安なのか?﹂
︱︱わけでもなかった。
﹁ん、まあ、うん﹂
なんとも微妙な返事を返す。
そんな俺の反応に、イサトさんはくくくと楽しそうに小さく喉を
鳴らして笑いながら、ポンポンと励ますように俺の肩を叩いた。
﹁大丈夫だよ、あれだけ練習したんだから﹂
847
﹁⋮⋮だといいんだけど﹂
そう答える一方で、この距離感だよなあ、ともしみじみ思った。
今、イサトさんが座っているのは四角いテーブルの俺の隣の辺だ。
真正面から見つめ合うほどの緊張感はなく、だからといってすぐ
真横というほど無造作に近いわけではない。角を一つ挟んだ、隣。
お互いの顔が見える角度であり、手を伸ばせば何気なく届く距離。
近すぎず、遠すぎない。
﹁あー⋮⋮、そっか﹂
口元を隠す手の中で、ぽつりと小さく呟いた。
俺はこの今の距離感を、崩すのも崩されるのも嫌なのだ。
だから自分から下手に踏み込むような真似もしたくないし、同様
に他の男に踏み込まれたくもない。
我ながら、身勝手な独占欲だとは思う。
今は、まだ良い。
でももし、今度真っ当な男がイサトさんに対してアプローチをか
けてくるような事があったのなら、俺はどうするのだろう。
そして、イサトさんはどうするのだろう。
少しは、考えるのだろうか。
それとも、やはりいずれ去るはずのこの世界においての恋愛は有
りえないと、ゲーム時代同性の女の子たちにしていたように上手に
距離を取るのだろうか。
もしくは、相手が男であっても恋愛そのものに興味を示さないの
か。
なんとなく、それはそれでやっぱり悩ましい。
︱︱⋮と。
848
﹁また、眉間に皺が寄っている﹂
びす、と隣から眉間をつつかれた。
そのまま指先が、物理的に俺の眉間の皺を伸ばそうと試みる。
そんな仕草に、ふと口元が緩んだ。
﹁イサトさんは、逆に本番近づくにつれて元気になったよな﹂
﹁ここまできたらもう開き直るしかないからな﹂
わざとらしく拗ねた口調でぼやけば、ふふん、とイサトさんは勝
ち誇ったように楽しげな笑みを浮かべる。
ドレスのサイズ合わせで何度も繰り返される試着だの、ドレスに
合わせたアクセサリー選びだのでレティシアとレブラン氏に振り回
されている時のイサトさんは本当に大変そうだった。顔に死相が出
ていた。あんなにも精根尽き果てたといった状態のイサトさんは初
めて見たかもしれない。
女性というのは皆着飾ったり、買い物で試着を繰り返したりとい
うようなことが好きなのだと思っていた俺にとってはちょっとした
驚きだった。今まで回りにいた女性が皆そういうタイプだったので、
女性というものはそういうものだとばかり思っていたのだ。子供の
頃なんかは、母親の買い物に付き合わされるのが苦痛で仕方なかっ
た。何故、欲しいものをさくっと買って終れないのか!
と、そんなことを考えていてふと思い出した。
そうだ。俺も欲しいものがあったんだった。
本日の予定は、舞踏会の支度が始まる午後まで空いている。
それまで、自由時間ということにさせてもらっても大丈夫だろう
か。
849
﹁なあ、イサトさんはこの後どうするかとか考えてる?﹂
﹁私は特には。ああ、少しスキル関係で試したいことがありはする
が、そっちは一人でも出来ることだからな。君に何か予定があるな
らつきあうよ﹂
﹁いや、イサトさんが構わないならちょっと一人で出掛けてこよう
かと思って﹂
俺の言葉に、イサトさんが少し驚いたように瞬いた。
⋮⋮⋮⋮まあ、その気持ちはよくわかる。
これまで心配性と半ば呆れられつつも、なるべく別行動を避ける
ようにしていたのは俺の方である。そんな俺が急に一人で出掛けた
いなんて言い出せば、不審がられるのも当然だし⋮⋮イサトさんに
対して隠しごとがしたい、と言ってるようなものだろう。じ、と意
図を探るように向けられるイサトさんの眼差しから、そろっと目を
そらす。目的はバレていないはずだか、妙に照れくさい。ここで深
くつっこんでこられたならば、果たして俺は上手く誤魔化せるだろ
うか。
内心焦る俺に向かって、イサトさんはふっと小さく笑ったようだ
った。
﹁そんな顔しなくとも、問い詰めたりはしないよ。いくら私たちが
運命共同体とはいえ、多少のプライバシーは必要だ﹂
﹁⋮⋮そんな大げさなもんでもないけど﹂
ただちょっと、イサトさんを驚かせたいだけなのである。
いわゆるサプライズ的な何かだ。
﹁俺がいない間にあの変態がちょっかいを出してくるようなことが
あったら⋮⋮﹂
﹁すぐにグリフォンでも召喚してさっさと逃げ出すよ﹂
850
﹁⋮⋮よし﹂
幻術のような厄介な魔法スキルを使ってくるあの変態でも、さす
がに日中堂々と襲撃してくるようなことはないだろう。もしそれを
やらかすぐらい歯止めの効かない変態だったとしても、逃げること
ぐらいならなんとかなる︱︱⋮よ、な?
﹁⋮⋮やっぱり別行動はまずいような気がしてきた﹂
﹁君はどこまで過保護なんだ﹂
真顔でしみじみとツッコミを喰らった。
が、誰のせいでこうなったと思ってやがる。
イサトさんは一度自分の胸に手を当ててこれまでの行動を考えて
みるべきだ。
俺の半眼からそんな言葉を自ら読み取ってくれたのか、今度は逃
げるようにイサトさんがうろりと俺から目をそらした。
﹁まあ、あれだ。ほら﹂
﹁どれだ﹂
﹁とにかく、大丈夫だからこちらは気にせず﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁気にせず﹂
﹁あ、こら、ちょっと、イサトさん!?﹂
最終的に、何故か背中をぐいぐい押され、物理的に宿屋から追い
出されることになった俺だった。
解せぬ。
851
それから数時間後。
西に傾きかけた陽に赤みが混じり始めた頃、俺は慌ただしくレブ
ラン氏の店に向かっていた。イサトさんはとっくに宿を出ているは
ずの時間なので、宿に戻ることはせずレブラン氏の店に直行する。
レブラン氏には、日暮れまでには店に来るように言われていたの
で、ぎりぎりといったところだ。
最初それを聞いたとき、イサトさんは秋良青年だけずるいだのな
んだのと呻いていたが、そこは男と女の差だと思って諦めていただ
きたい。女性ともなれば、俺のよう着替えて終わりというわけには
いかないのである。特に、今回はレティシアやレブラン氏に相当力
が入っている。あの二人にとってイサトさんは、相当磨き甲斐のあ
る素材なのだろう。
普段のさりげない装いですらああも見事な美女っぷりを見せつけ
ているイサトさんなので、着飾ったりなんかしたらどうなるのかは
俺も楽しみで仕方ない。
﹁すみません、遅れました﹂
852
そんな声をかけつつ、本日閉店の看板のかかった店へと足を踏み
入れた。
レティシアはイサトさんへの着付けで奥の部屋にいるのか、店に
いたのはレブラン氏だけだ。レブラン氏は俺の声にふと顔をあげて、
何故かとんでもなく呆れた顔をした。
﹁⋮⋮?﹂
﹁君たちは本当そっくりなコンビだな﹂
﹁え?﹂
目を丸くするしかない俺へと、レブラン氏がぽい、と無造作に何
かを投げてよこす。受け止めたそれは、下級ポーションの小さな瓶
だった。
﹁ポーション?﹂
﹁レティに見つかる前にさっさと怪我を治しなさい﹂
﹁︱︱あ﹂
レブラン氏の言葉にはっとする。
そういえば、先ほど狩りに勤しんでいる間直撃こそしなかったも
のの敵の攻撃が掠る、ぐらいはあったような気がする。跳んだり跳
ねたり転がったり、わりと好き放題暴れてきたような記憶も、少々。
いやほら、普段はわりとイサトさんのフォローを常に頭に置いた
上で戦闘を行っている俺であるからして。自分の好き放題暴れられ
る戦闘の新鮮さについはしゃぎすぎてしまったような気がしないで
もないのだ。もちろん、それは普段のイサトさん連れの戦闘スタイ
ルに不満がある、ということではない。ただ上質な食事が続けばジ
ャンクが恋しくなるように、接近してくるモンスターの前線、後衛
まで及ばないようどこから潰すのが最適か、なんて計算高く考える
こともなく手当たり次第でたらめに、ただひたすら目に映る敵を屠
853
りまくるような戦闘が楽しくて仕方なかったのである。いかん。何
かこうものすごく戦闘狂みたいなことを言っている。
﹁これ、飲めばいいんですかね﹂
﹁先ほど君の連れのお嬢さんは塗っていたが﹂
﹁︱︱⋮﹂
連れのお嬢さん、というのは間違いなくイサトさんのことだろう。
そのイサトさんが下級ポーションとはいえ、回復アイテムが必要
になるような怪我をしていたというのは非常に聞き捨てならない。
俺がいない間に一体何があったというのか。
﹁イサトさんは?﹂
﹁レティとカーヤと一緒に奥にいる。怪我といっても君と似たよう
な掠り傷だ。ほら、君もさっさとそれを飲んで風呂に入ってきなさ
い﹂
カーヤ、というのはレブラン氏の息子さんの奥さんだ。
トゥーラウェストの店では女性向けの衣服のデザインや着付けを
手伝っているというだけあって、今回の戦力のメインといっても過
言ではない。ちら、と奥の様子を窺うと、いったい何をしているの
かわからない謎の悲鳴がか細く聞こえてきた。
﹁無理無理無理無理無理、入らない!﹂
﹁入ります!﹂
﹁はいはい締めますよう﹂
﹁ぎゃっ﹂
イサトさんは元気そうだ。
というか絶賛元気じゃなくされてそうだが、まあ無事そうなので
854
良いとしよう。
まったく、俺がいない間に何をしていたのだか。
レブラン氏に言われて風呂に向かいかけて、俺ははたと思い出し
た。
そうだ。忘れる前にレブラン氏に渡すものがあったんだった。
このためにわざわざイサトさんと別行動して狩りに明け暮れてき
たのである。
﹁これ、お願いします﹂
俺はインベントリから取り出したブツを、レブラン氏へと渡した。
相応しい形への加工は、レブラン氏が行ってくれるだろう。
受け取ったレブラン氏が絶句しているようなのに、俺は小さく笑
いを噛み殺す。期待通りの反応だ。
俺はポーションの小瓶を片手に、悠々と風呂へと向かった。
855
風呂から上がって着替えを行う。
俺が着るのはいわゆるタキシードである。
白のシャツに光沢のある濃いグレイのウェストコート、同じ色の
タイに黒のジャケット。ジャケットは少し長めのフロックコートス
タイルだ。俺自身が選んだ、というよりも、周囲の女性陣がわあわ
あ盛り上がっているうちにその路線で確定していた、と言った方が
正しい。俺の主張で通ったのは、蝶ネクタイはちょっと、という部
分ぐらいだ。
鏡をのぞきこみながら、タイを締める。
こんなものでいいのか。
もしかしたら舞踏会用に何か華やかな結び方があるのかもしれな
いが、その辺何かおかしければレティシアがレブラン氏が直してく
れるだろう。
と、そこでドアが鳴った。
﹁秋良青年、そっちもう支度出来てたら匿ってくれ﹂
﹁匿うって﹂
おそらくレティシアやカーヤさんから逃げているのだろうが、そ
もそも何故逃げているのか。ここはイサトさんならここにいるぞー、
と大声を出すべきなのかどうかを迷いつつ、ドアを開ける。
で。
見事に言葉を失った。
﹁これ以上もういいって言ってるのにあの二人ときたらまだ物足り
ないといって私を追いかけまわすんだ﹂
856
疲れたようにぼやくイサトさんの唇は淡いパール。
普段は無造作に流れる銀髪は、サイドの一房を残して丁寧に編み
込まれたシニヨンで結われている。前髪の生え際を縁どるような小
粒のパールをあしらった繊細な銀細工の髪飾りが、ティアラのよう
に煌めいていた。わかってくれるだろう、と言うように俺を見上げ
る双眸がいつもよりも華やかに見えるのは、普段けぶるようその瞳
を隠す長い睫がくるんとカールしているからだろう。たったそれだ
けの差で、ずいぶんと表情が違って見える。
わずかにクリームがかった白のドレスも、イサトさんにはとても
よく似合っていた。ドレスは一見シンプルに見えるほど装飾は少な
い。胸元や袖口などを縁どるように銀の花が彩る程度。けれど、よ
く見ると裾に向かって薄く重ねられた白のベールの下に淡くピンク
がかった花が散っているのがわかる。清楚にして可憐、それでいて
子供っぽい可愛らしさとは無縁だ。
なんていうか、すごい。
すごいよく似合ってる。
たとえ本人が一生懸命ドアに挟んだドレスの裾を引き抜こうと一
生懸命になっていようと、だ。 ﹁⋮⋮⋮⋮﹂
無言でそっとドレスの裾を引き抜いてやる。
﹁ありがとう、助かった⋮⋮?﹂
お礼を言いつつ顔をあげて、今度はイサトさんが固まった。
金色の双眸がぽかんと丸くなっている。
人のことを言えた義理ではないが、こういう反応をされると妙に
857
照れる。
﹁⋮⋮馬子にも衣装?﹂
﹁いやいやまさかそんな﹂
﹁七五三?﹂
﹁そんなヤクザな迫力背負った七五三は嫌だ﹂
﹁ヤクザっておい﹂
さりげなく酷いことを言われたような気がする。
前回のスーツよりもこちらの方がよりフォーマルな分、真人間感
は増し増しだと思うのだが。
﹁冗談だよ、いやでも君、前髪あげるといつにも増してアレだな﹂
﹁アレってなんだ﹂
﹁迫力があるというか凄みがあるというか﹂
﹁褒められている気がしない﹂
﹁褒めてる褒めてる、すごく似合っているし、恰好良いよ﹂
﹁イサトさんも⋮⋮、その、よく似合ってる﹂
さすがにイサトさんのようにさらっと﹁綺麗だよ﹂なんてことは
言えなかった。
﹁ん、ありがとう。白を着るにはちょっとトウが立ちすぎてる気が
するんだけどなあ﹂
気恥ずかしそうにイサトさんが唇をむにりと軽く尖らせる。
なんでもこの辺りには初めて参加する舞踏会では白のドレスを着
るという風習があるらしい。そのためレティシアやカーラさんはイ
サトさんにも純白のドレスを勧めていたのだけれども、イサトさん
としては本来その白のドレスを着るのが16∼18歳の貴族令嬢た
858
ちであると聞いてなかなか首を縦に振らなかったのだ。
結果として純白ではなくクリームがかったパールカラー、そして
スカート部分半ばからわずかに透ける淡い花のモチーフという形で
お互い妥協したようなのだけれども。淡い色合いのドレスは、イサ
トさんの褐色の肌にとてもよく映えている。
レティシア、カーラさん、ぐっじょぶ。
ぐっじょぶついで、これ以上まだ磨きようがあるというのならば
是非お願いしたい。俺はちょろ、と廊下に顔を出すとすーっと息を
吸った。
﹁レティシア、イサトさんならここにいるぞー!﹂
﹁あっ、裏切りもの!!!!﹂
ふ。
別にヤクザだのなんだの言われたのを根に持っていたわけではな
い。
根に持っていたわけではない。
大事なことなので二回言いました。
859
再びレティシアとカーラさんに捕獲されたイサトさんが、逃げな
いでくださいと叱られつつ連行されてからしばらく。
無事支度の済んだ俺たちは、店の方に集まっていた。
今回舞踏会に参加するのは、俺、イサトさん、そしてレティシア
の三名だ。
が、レティシアの方は今回あくまで付添い人ということでその装
いはイサトさんに比べるとだいぶ大人しい。なんでもレティシアは
正式に舞踏会に招待されたわけではなく、あくまで俺たちのフォロ
ーをするための付き添い、ということでの参加なのだそうだ。レテ
ィシアの舞踏会仕様も見れるのかと思っていたので、少しばかり残
念だ。
そろそろ王城に向かう馬車が迎えに来るという頃になって、よう
やくレブラン氏が奥の作業部屋から出て来る。
その手の中にあるのは︱︱⋮青白い燐光をこぼす、世にも美しい
花飾りだ。
ブルークォーツローズ
レティシアやカーラさん、そしてイサトさんまでが驚いたように
息を飲む。
﹁それは⋮⋮﹂
﹁彼が用意したんだ。まさかこの年で蒼水晶薔薇を見ることが叶う
なんて思ってもいなかったよ﹂
レブラン氏が苦笑交じりに呟く。
そう。
ブルークォーツローズ
俺がイサトさんと別行動してまで狩りに出かけていたのは、この
蒼水晶薔薇のためなのである。
860
この花は水晶宮と呼ばれるダンジョンマップのボスドロップ素材
の一つだ。蒼く煌めく水晶で出来た薔薇の花で、ゲーム時代もアク
ブルークォーツローズ
セサリーとして人気が高かった。本当なら当日ではなく事前に用意
しておきたかったのだが⋮⋮この蒼水晶薔薇、永遠に枯れない水晶
ブルーク
の薔薇ではあるのだが、光を放つのはドロップしてから24時間の
ォーツローズ
み、という制限がある。プレイヤー間の取引でも、光っている蒼水
晶薔薇は光り終えたものに比べて二倍ほどの値がついていたものだ。
﹁それで別行動なんて言い出したのか﹂
﹁おう﹂
舞踏会で女性をエスコートする際に、男性は女性に花飾りを贈る
という話をレティシアに聞いて以来、ずっと企んでいたのである。
イサトさんの驚く顔が見られて良かった。
いつもどちらかというと驚かされてばかりなので、たまには俺だ
ってサプライズを仕掛けたい。
ブルークォーツローズ
まあ、それに。
蒼水晶薔薇の花飾りならば、周囲に対する立派な牽制になるだろ
う、なんて目論見があるのはイサトさんには内緒だ。
レティシアから聞いたのだが、男性が女性に贈る舞踏会の花飾り
には、﹁この女性にはエスコートしてくれるパートナーがいる﹂と
いうアピールの意味合いがあるらしい。
女性は手首に。男性は胸に。
揃いの花飾りを身に着けることで、お互いに相手がいることを示
すのだ。
逆にいうと、花飾りをつけていない女性に対しては、積極的に声
をかけてダンスに誘うのが舞踏会のマナーなんだとか。
861
ブルークォーツローズ
青白くほのかに輝く蒼水晶薔薇の花飾りは、きっとよく目立つ。
と。
﹁ほら、何をぼーっとしているんだ。早くつけてあげなさい﹂
﹁え﹂
レブラン氏に促されて、俺は思わず間の抜けた声をあげてしまっ
た。
つけてあげなさいって。
俺が、イサトさんに?
わざわざ口に出さずとも、俺のそんな疑問は伝わったのか、レブ
ラン氏に当たり前だろう、と返されてしまった。その隣で、やたら
良い笑顔をしたレティシアとカーヤさんもうんうんと顔を縦に振っ
ている。
ものすごく、楽しんでやがりませんか。
﹁舞踏会の花飾りはお互いにつけてあげるものなんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
レブラン氏から渡された花飾りを受け取る。
女性用の花飾りは指輪つきのブレスレットのような形をしている。
手首と中指の付け根で固定することで、手の甲に花が咲いたよう
な形になるのだ。
﹁ええと、その﹂
﹁はい﹂
なんだこの妙な気恥ずかしさと緊張は。
見れば、イサトさんも微妙に動揺しているのか金色の双眸がうろ
862
うろと彷徨っている。
﹁じゃあ、手、貸して﹂
イサトさんが、おずおずと俺に向かって手を差し出す。
いつもは薄い桃色の爪が、今日は銀色に塗られてきらきらと輝い
ている。
爪の先まで舞踏会仕様でまったくもって隙がない。
そんなイサトさんの手を取って、まずはブレスレット部分をそっ
と手首に通した。こうして改めて触れると、手首の華奢な細さに驚
かされる。それから、指輪のようになっている留め具を、爪にひっ
ブルークォーツローズ
かけてしまわないように気を付けながら指に通した。
蒼水晶薔薇を中心に添えて、似た色調の小花でまとめられた花飾
りはイサトさんとも、そのドレスともよく合っていた。イサトさん
が腕を動かす度に、青白い燐光がはらはらと零れる。そんな姿はド
レス姿とあいまって、可憐な妖精めいている。
﹁次はイサト様ですね!﹂
きゃあ、と歓声をあげるレティシアとカーヤさん。
外野は自由だ。
俺も外野になりたい。
なんだこれ。
死ぬほど恥ずかしい。
﹁俺は自分で﹂
﹁何を言っているんだ﹂
レブラン氏から残りの花飾りを受け取ろうとしたら、しらっと冷
たい目を向けられた。俺の差し出した手を綺麗に無視して、レブラ
863
ン氏がイサトさんへと花飾りを渡す。
﹁なんだかこれ、すごく照れる﹂
﹁⋮⋮同感﹂
気持ちが通じ合っているようで何よりだ。
花飾りを手にしたイサトさんが、軽く背を伸ばして俺の胸元に触
れる。
ジャケットの胸ポケットに花飾りをさして、留め具で固定しよう
ともだもだ。
真剣な顔をして花飾りと格闘しているイサトさんの顔が思った以
上に近くて、じわじわと体温が上がる。絶対これ、俺赤くなってい
る。
周囲でによによとしている外野が心底憎たらしい。
﹁よし、できた﹂
そう言ってイサトさんが少し、身を引いて。
花飾りの出来を確認するように俺を見る。
これはきっとイサトさんにもからかわれるに違いないと覚悟した
ものの、イサトさんの反応はちょっと予想外だった。
﹁っ⋮⋮!﹂
釣られたように、一気にその顔が真っ赤になったのだ。
そして、そこからの流れるような八つ当たり。
﹁君にそんな顔されたら私まで恥ずかしくなるだろう!!﹂
﹁仕方ないだろ照れるわあんなん!!﹂
864
おそらく俺がおろしたての革靴でなければ、足をやんわりと踏ま
れていたところだと思う。
わあわあ。
ぎゃあぎゃあ。
王城
見た目をどれだけ取り繕うと、やっぱり残念な俺たちであった。
正装
そして。
完全武装が済んだ俺たちは、戦場へと向けて馬車に乗り込み︱︱
⋮いざ出陣。
865
おっさんと出陣︵後書き︶
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866
かろうじて致命傷。︵前書き︶
0725修正
867
かろうじて致命傷。
ところで。
別に実体験から学んだ話、というわけではないのだが。
喧嘩において、実際に強いのと同じぐらい﹁強そうに見える﹂と
いうのが大事だということをご存知だろうか。
いかに突っ張った悪ガキだとしても、実際に殴り合うような喧嘩
に発展することは意外と少ない。どちらかというと﹁痛い目にあわ
せんぞ﹂という脅しでもってお互いに牽制しあいながら要求を通そ
うとすることの方が多いのだ。実力行使はわりと最終手段だ。まあ、
それまでに軽く小突いたりする程度のことはあるが、それにしたっ
て、その一発で相手を従えようとしての行為というよりも、これか
ら先に待つであろう暴力を相手に想像させるための演出、といった
意味合いの方が強かったりする。つまり何が言いたいかというと、
喧嘩においては先に相手を威圧したもん勝ち、といった部分が大き
いということだ。だからこそ﹁どこどこ高校で一番強い誰それ﹂だ
とか、﹁その誰それに勝った誰それ﹂なんていう噂が語り継がれて
いるのだろう。
もう一度言っておこう。
実体験から学んだ話、というわけではない。
別に俺が喧嘩に明け暮れるやさぐれた青春を過ごしたわけではな
いったらない。念のため。ただちょっとばかり、巻き込まれたこと
が二、三度ぐらいあったかなーというぐらいだ。
まあ何が言いたいかというと。
王城に乗り込んだ俺たちは、その装いからセントラリアの貴族た
ちに先制攻撃をキメることに無事成功した、ということである。
868
俺とイサトさんがレティシアを伴って広間に足を踏み入れたとた
ん、会場から漏れたのはほう、と息を呑む感嘆の声だった。
もともとモンスターに襲われた飛空艇を救った実力の持ち主であ
ることや、マルクト・ギルロイの引き起こしたトラブルの尻拭いを
アウェイ
財力面でも引き受けたことは知られている。それに対してセントラ
リアの貴族は俺たちを不慣れな場である舞踏会に呼び出すことで有
利な立場を作り出そうとした。
が。
そんな彼らの目論見を、イサトさんはいともあっさりとぶち壊し
てしまった。
それこそ喧嘩における﹁相手を威圧したもん勝ち﹂の理屈だ。
銀の髪に金の瞳、なめらかな褐色の肌を繊細な白のドレスに包ん
だイサトさんは、その場にいる誰よりもわかりやすく綺麗だった。
美しいものには力がある、という言葉通り、イサトさんはその美で
もってその場の空気を呑んでしまったのだ。俺にはとても真似でき
ない。大剣ぶんまわして庭の噴水あたりを一刀両断したならば似た
ような空気を作ることはできるかもしれないが、あまりにも似て非
なるアレすぎる。
ゆっくりとわざとらしく泰然とした様子で周囲の様子を窺う。
会場となっているのは、天井が高く作られた吹き抜けのホールだ
った。
緩やかな弧を描く階段がホールの正面から二階へと伸びていて、
その階段脇には管弦楽団が控えている。セオリー通りに事が進むの
ならば、おそらくあの階段の上から王様が現れるのだろう。
まだ音楽は始まっておらず、すでにホールに集まっていた貴族た
ちはシャンパングラスを片手に壁際で思い思いの相手と会話を楽し
869
んでいたようだ。俺たちも一度壁側に下がるべきだろうか。
そんな思惑を確認すべく、レティシアに視線を向けかけたところ
で︱︱⋮まるで見計らっていたかのようなタイミングで管弦楽の最
初の一音が滑り出した。澄んだ旋律がホールの中で反響しながら広
がっていく。ちらちら、と貴族たちが楽団の方へと視線をやり、ど
うしようか迷うようにお互いのパートナーと視線を交わしあってい
る。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ちら、とイサトさんを見やる。
イサトさんは、微かに口元に不敵な笑みを浮かべたようだった。
どうやら、考えていることは同じらしい。
﹁レティシア、ちょっと行ってくる﹂
﹁はい⋮⋮!﹂
俺は一言レティシアに声をかけると、イサトさんの腰を抱くよう
にしてホールの中ほどまでエスコートした。これまた先制がうまく
決まったのか、俺たちの後を追うようにしてホールに出てくるカッ
プルはいない。良かった。ダンス自体は練習のおかげである程度こ
なせるようになっているのだが、自分たち以外に踊るカップルがい
る場合での練習はほとんど出来ていないのだ。踊りながら進行方向
にいる別のカップルを避けたり、万が一ぶつかったりぶつかられた
りした際のリカバリーなどにはいまいち不安が残る。そんなわけな
ので、まさに攻撃は最大の防御との先人の言葉を実践する形での先
制だ。
シャンデリアのきらきらとした光の下で見るイサトさんは、先ほ
870
どまでとはまた少し違ったように見えた。すっきりとした綺麗なデ
コルテ、鎖骨の上に乗るように上品なパールのネックレスが輝いて
いる。イサトさんの肌が褐色だからなのか、澄んだ石よりも艶やか
なパール系の石が良く似合っている。
右手はイサトさんの腰に添えたまま、左手を持ち上げるとイサト
さんが慣れたように手を重ねてくる。そう。慣れている。いつも通
りだ。練習のときと、何ら変わらない。落ち着け、俺。すう、と深
呼吸を一度して、口を開いた。
﹁いち﹂
﹁にい﹂
流れる音楽の拍を数える。
﹁さん﹂
3、をカウントする俺の声に合わせて、イサトさんの上身がすぅ
としなやかに反る。そして。
﹁﹁いち﹂﹂
次の﹁1﹂のカウントで、俺とイサトさんは大きく一歩を踏み出
して流れる旋律に乗った。ホール内を反響するメロディは、こうし
て聞くとまるで頭上から光とともに降り注いでいるかのようだ。踊
り始めるまで頭の中にあった足型のことだとか、今現在俺たちをガ
ン見しているであろう貴族連中のことだとかが頭の中から抜けてい
く。ただ、音楽に合わせて体が勝手に動く。くるり、ひらりとター
ンを決めるたびに、イサトさんのドレスの裾が華麗にたなびく。そ
れがとんでもなく綺麗で、もっと見ていたくて、それだけで頭の中
871
が満たされる踊っている自分と、それを見ている自分とがまるで別
々に存在しているかのような感覚に襲われる。
やがて︱︱⋮くるりひらりとステップを踏んでいるうちにいつの
間にか音楽は終わっていた。あっと言う間の五分間だった。まだ終
わった、という実感がわかず、なかなか動く気になれない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ホールの中央、寄り添ったままゆっくりと視線を重ねる。
余韻を吐き出すように、は、と小さく吐きだした息までが、重な
りあった。
﹁秋良青年﹂
しめ
﹁ん?﹂
﹁〆よう﹂
﹁へ?﹂
しめ
〆、とは。
俺が聞き返すより先に、イサトさんは繋いでいた左手を軸にくる
りと優雅なターンで俺の横に並んだ。そして、反対側の手でドレス
の裾を軽く持ち上げ、すっと膝を曲げての辞儀。
絶対それ練習してただろ、と言いたくなるほど見事な貴婦人の礼
だった。
一方の俺はといえばイサトさんのお辞儀に合わせて軽く目を伏せ
る目礼がやっとである。呼応するように鳴り響きだした拍手の音の
中、俺たちはゆっくりとレティシアの待つ壁側へと下がったのだっ
た。
872
それからも休憩を挟みつつ、何曲か踊った。
二曲目からは俺たち以外の貴族たちも交じってきたので、最初の
一曲ほど本気は出さず、軽く流す程度だ。ゆらゆらと揺れるように
ステップを踏み、音楽に合わせて穏やかに流れる。
﹁結構見られているわりに、声、かけられないな﹂
﹁様子見、って感じなのかもな﹂
こそり、と踊りながらイサトさんと言葉を交わす。
好奇心混じりの視線を肌で感じはするものの、今のところ俺たち
に直接声をかけてくるような挑戦者はいない。
まあ、これもレティシア曰く﹁本当の意味でまだ舞踏会は始まっ
ていない﹂からなのかもしれない。何せ、主催者がまだ姿を現して
いない。
と、そこで。
873
穏やかに流れていたワルツの曲が、キリの良いところでふっと止
んだ。
その代わり、勇壮なラッパが鳴り響く。
その音にはっとしたように周囲の貴族たちが階段を正面に次々と
膝をついて頭を下げて行く。世界観が全く違うというのに、思わず
水戸のご老公が印籠をかざすシーンを思い出してしまった。
いよいよ、王様のお出ましらしい。
確か名前は、シェイマス・なんとか・かんとか・セントラリア。
舞踏会に臨む上で事前にレティシアから懇々と説明を受けてはい
たのだが、間に挟まるこまこまとしたミドルネームが記憶から抜け
落ちている。基本的にフルネームで呼ぶような機会はないと言われ
ているので、問題ない⋮⋮とは思う。
俺とイサトさんはちらっと視線を合わせて、周囲の貴族たち同様
に膝をついて顔を伏せた。
頭上からかつん、かつん、と緩やかな足音が階段を下って降りて
くるのが聞こえる。踊り場まで到達したところでその足音が止まり、
穏やかな声が響いた。
﹁良い、皆の者楽に﹂
その声に、周囲の貴族たちが立ち上がる。
一拍遅れて、俺とイサトさんもそれに倣って身体を起こす。
この時気を付けなければいけないのは、立ち上がることは許され
てもやはり高貴な身分の相手に直接視線を向けてはいけないという
ことだ。正面から視線を交わすのは、相手の身分によっては失礼に
あたる行為らしい。
不躾にならないよう顔は伏せたまま、ちらりと様子を窺う。
874
ちょうど俺たちの正面、階段の踊り場に一目見て王様だろう、と
わかる豪奢な身なりの男性が立っているのが見えた。金茶の髪に、
形よく整えられた同じ色の髭。一段高いところから俺たちを見渡す
双眸は鮮やかなブルーだ。年の頃は、40代後半といったところだ
ろうか。アニメ映画で見る王子様がそのまま年を取ったような風貌
だ。
少し、肩透かしを食らったような気がした。
一国の王というだけあって、俺はもっと只者ではない感じの人物
が出てくるのではないかと思っていたのだ。確かに気品はある。だ
が、それだけだ。勝手ながら、こう王様というだけあってきっと何
かただ人とは違うオーラを背負った人物が現れるのだろうと身構え
てしまっていたのだが、どうやら期待しすぎてしまっていたらしい。
シェイマス陛下は、ゆっくりと俺たちの前までやってくるとそこ
で足を止めた。
﹁そなたらが、先日セントラリアを救ってくれたという冒険者らか﹂
﹁はい﹂
失礼のないよう、顔は伏せたまま返事を返す。
いかに身分の枠組みの外側にいがちな俺らとはいえ、さすがに王
様相手に失礼を働くのはまずい。この辺りの作法は、事前にレティ
シアに習っておいたので致命的な失敗をやらかす心配はたぶんない
⋮⋮はず。きっと今頃レティシアもヤキモキしながら後ろの方から
俺たちを見守ってくれていることだろう。
﹁セントラリアの民に代わり、そなたらに礼を言おう﹂
﹁いえ、身に余るお言葉です。我々はやるべきことを果たしたまで﹂
875
﹁この度も、獣人と人の間の不和を解決すべく尽力してくれたとか。
先の飛空艇のことといい、何か褒美を与えなければなるまい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺はそこで、ようやく顔をあげた。
一段高いところから俺たちを見下ろすシェイマス陛下の表情は穏
やかだ。
薄く笑みを浮かべたその顔から、思惑を読み取るのは難しい。こ
ういう腹芸が上手そうなところは、ちょっと王族らしいと思う。
﹁では陛下、一つだけ私の願いを聞いてはいただけないでしょうか﹂
﹁申せ﹂
﹁陛下もご存知の通り、今回の一件では獣人たちが苦境に追い込ま
れております。どうか、彼らにこれまで以上の心配りをお願いでき
ませんでしょうか﹂
﹁⋮⋮わかった、約束しよう﹂
俺の言葉に、陛下が重々しく頷く。
この当たりのやりとりは、先にイサトさんやレティシアと相談済
みだ。
特に陛下に申し出てまで欲しいものはないし、だからといって﹁
お前がくれるもんで欲しいもんなんてねーし﹂とはっきり言ってし
まってもカドが立つ。それで話し合った結果がこれである。
﹁だが、私が臣下の民に気を配るのは当然のこと。何か他に望むも
のはないのか﹂
﹁いえ、陛下のお心配りだけで十分です﹂
ここまでは打ち合わせ通りだ。
俺はそのまま視線を伏せたまま陛下の視線がそれるのを待ってい
876
たわけなのだが⋮⋮ふっと、陛下はそんな俺の様子に少しだけ面白
がるような笑みを浮かべたようだった。
ん?
﹁そなたたちはしばらくセントラリアに滞在しているのだろう?
では、その間に褒美を考えると良い﹂
﹁ええとそれ、は﹂
逆を言うと、褒美を貰うまでセントラリアから離れられない、と
いうことになるのではないだろうか。
俺が慌てて言葉を続けるよりも先に、シェイマス陛下は話はそこ
までというようにばさりとマントをなびかせた。
その音に、再び貴族たちの視線が陛下へと集まる。
それが合図だったように、音もなく控えていた給仕たちが陛下や
俺たちの元へと淡い金色の液体が満ちたグラスを運んできた。見れ
ば、俺たちの後ろに控えていた貴族たちは皆すでにさりげなくグラ
スを手にしている。
陛下はすっと手にしたグラスを掲げて口を開いた。
﹁新たなる客人を迎え、皆今宵は存分にセントラリアの華やかな夜
を楽しむが良い!﹂
そして︱︱⋮宴が本格的な始まりを迎える。
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予想外だ。
これはちょっと予想外だ。
舞踏会において、イサトさんが貴族の男どもに囲まれる事態とい
うのは予想していたわけなのだが、まさか俺までその対象になると
は思わなかった。
と、言っても俺まで貴族の男に囲まれているわけではない。
﹁どうか私と一曲おつきあいいただけませんか?﹂
﹁うちの娘と一曲どうです?﹂
﹁あら、私の方が先に声をかけましたのよ?﹂
﹁ダンスよりも飲み物でもいかがです? あちらに美味しいシャン
パンがありますの。エスコートしてくださいます?﹂
俺の周囲に包囲網を完成させているのは、手首に花飾りのついて
ない女性陣である。それが口々に誘いの言葉を口にしているのだか
ら、もうわけがわからない。皆競うようにきらきらしているせいで、
だんだん目が痛くなってくる始末だ。本当なんだこれ。人間、人生
で三度モテ期が訪れるというが、俺は一生における三回分を今ここ
で使い果たしているような気がする。
﹁レティシア、レティシア﹂
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華やかな囲いを何とか突破して、すみっこで苦笑しているレティ
シアへと声をかけた。
﹁アキラ様﹂
﹁なんだこれ、どういうことなんだ﹂
﹁どういうことも何も⋮⋮、アキラ様もイサト様も、現在セントラ
リアでは時の人ですから﹂
﹁俺も、なのか﹂
思わずそんな風に呟くと、何故かレティシアに心底呆れたといっ
た顔で見られてしまった。
いや、イサトさんが持て囃されるのはわかっていたのだ。綺麗だ
し、美人だし、それでいて人柄もよく、冒険者としての腕も良い上
にこの世界では珍しいダークエルフだ。そんなイサトさんに近づき
たがる男は多いだろう。
だがその一方で俺は、確かに冒険者としての強さは飛び抜けてい
るかもしれないが、それだけである。こういった世界では重要視さ
れそうな家柄や血筋が良いわけでもなく、むしろこの世界において
はどこの馬の骨とも知れない不審者ぎりぎりだ。それでいて金だけ
は持っている、という状態なので、得体が知れないことこの上ない。
俺が親だったらそんな胡散臭い男を娘に近づけたくないと思うし、
俺が女であっても警戒する。
だというのに、そんな俺の常識はどうやらこの世界の貴族たちに
は通用しないようだった。
レティシアは小さく周囲に聞こえない程度に声を落として口を開
いた。
879
﹁アキラ様はご自分を過小評価しすぎです。アキラ様はセントラリ
アを二度に渡って救った英雄なんですから﹂
﹁って言っても、バックボーンが何もない男とか得体が知れなさす
ぎないか?﹂
﹁そうですか?﹂
レティシアは俺の言葉がピンと来ていないのか、ゆるく首を傾げ
ている。
﹁でも⋮⋮偉業を達成することで王族の目にとまり、取り立てられ
る方もいますから﹂
そんなことを言いつつ、レティシアはちらりと視線を階段近くで
歓談している人垣の方へと視線を向けた。俺も、釣られたようにそ
ちらへと目を向ける。人垣の中心にいるのは、他とは少し変わった
身なりの壮年の男性だった。俺や、その他の貴族のようなタキシー
ドではなく、詰襟にも似た黒衣の上から鮮やかなショールを首にか
けている。
﹁あそこにいらっしゃるのは、司祭長様です。教会と王族の承認が
あれば爵位の授与もありえますし︱︱⋮たぶんそう考えているのは
私だけじゃないと思いますよ﹂
﹁まじか﹂
﹁はい﹂
どうやら、俺が思っていたよりもこの世界は﹁成り上がり﹂とい
う言葉に現実感が伴う実力主義で成り立っている模様。そう考える
と、貴族の女性たちが俺を放っておかないのも理屈としては理解は
できる⋮⋮ような気がする。いわゆる青田買いみたいなものだろう。
自分がその対象になっているという実感はわかないが。
880
﹁私⋮⋮アキラ様がイサト様の心配ばかりしていたので、ご自分は
上手に立ち回るつもりなのかと思っていました﹂
﹁いや、この事態は想定外だった﹂
隣でレティシアが小さく笑う。
そういえばイサトさんは、と見やればイサトさんもしっかり貴族
の男性陣に囲まれているようだった。が、思ったより酷いことには
なっていない。貴族たちはお互いに牽制するように一定の距離を保
って、和かに談笑しているように見える。
ある意味女性陣の方が遠慮がないような気がするのは、俺が男で
イサトさんが女性だからだろうか。
と、そんな風会話を交わしていた俺たちの元へとすっと影が差し
た。
﹁先ほどから世話役の方とばかりお話しているようですけれど、何
かお困りなのかしら?﹂
うわ。
豪奢な金髪を結いあげた美女が、妖艶な笑みを浮かべて俺を見て
いる。
他の女性陣が遠巻きに見つめるだけでとどまっていた中、こうし
て自ら距離を詰めて声をかけてくるなんて、かなりアグレッシブだ。
身に纏うドレスも深々とした胸の谷間を強調するかのようなデザ
インが、これまたアグレッシブ極まりない。
つい、助けを求めるような視線をレティシアに向ける。
﹁すみません、アキラ様はこういった場に不慣れでして⋮⋮﹂
﹁では、私がご案内いたしますわ﹂
﹁え﹂
881
レティシアが俺を庇うように言葉を挟んでくれたものの、金髪美
女のにこやかな言葉でもって蹴散らされた。彼女はすッと扇を開い
て口元を隠して笑みながら、レティシアへと一瞥を流して口を開く。
﹁貴女はご遠慮してくださる?﹂
﹁⋮⋮では失礼いたします﹂
レティシアは申しわけなさそうな顔をしながら壁際へと下がって
いった。
少し離れたところから、気遣わしげに俺の様子をうかがっている。
助けを求めたい気持ちはやまやまだが、こうなったら俺一人でな
んとかするしかないだろう。よし。頑張れ俺。
﹁それで⋮⋮何かお困りなことでも?﹂
ぴしゃりと扇を畳んで、彼女が艶やかな笑みを俺へと向ける。そ
んな笑みからもいかにも貴族令嬢といった傲慢さがその滲んでいる
ようだ。ただ、その一方で悪い印象はないのは、彼女に俺に対する
悪意がないからだろう。彼女の在り方はきっと貴族の女性の振る舞
いとして正しく、それを傲慢であるかのように感じてしまうのは俺
の価値観の問題だ。
⋮⋮そうわかっていても、コワいものはコワいのだが。
﹁いや、どうもこういう場には慣れてなくて﹂
﹁そうでしょうね。私がいろいろと教えて差し上げます﹂
ぞわぞわぞわ。
教えて差し上げます、との言葉と同時に絡みつくように腕をとら
れて、背筋に謎の悪寒が走った。こんなことを言うと非常に失礼だ
882
が、頭から喰われそうというか、蛇に睨まれた蛙というか。ものす
ごく居たたまれない。叶うことならどうにかして逃げたい。
俺がそんなことを考えている間にも、彼女は俺の腕を引いてホー
ルの中央に向かって歩き出した。どうやら踊る気であるらしい。そ
れはそれで構わないのだが、教えてくれる云々はどうなった。
と、そこで。
とん、と軽い衝撃が肩に。
﹁あ⋮⋮﹂
か細い声が耳を打つ。
そちらに視線をやると、ぶつかった衝撃で零してしまったのか、
淡い桃色のドレスに真っ赤なワインで染みを作って立ち尽くす女性
がいた。
しまった。
﹁ご、ごめん、大丈夫か? って、大丈夫じゃないよな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
茫然と視線を落とす彼女の姿に、周囲にいた貴族たちの間にもざ
わめきが広がっていく。周囲を見渡すものの、彼女のために前に出
てくるような人間はいないようだった。素早く彼女の手首を確認。
パートナーの存在を示す花飾りはついていない。
﹁誰か、呼んだ方が良い相手は?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
彼女は、俯いたまま静かに首を横に振る。
世話役のような付き添いもいないのだろうか。
腕を引いていた令嬢には悪いが、彼女をこのまま放っておくわけ
883
にもいかない。
﹁悪い、エスコートは他の人に頼んでくれるか?﹂
﹁⋮⋮仕方のない方﹂
もっとゴネられるかと思った、なんて言ったら怒られそうだが、
俺の手を引いていた令嬢はそう言うと意外なほどあっさりと俺を解
放してくれた。そんな彼女へと頭を下げて、俺は赤く染まったドレ
スに茫然と立ち尽くす女性の手を引いてホールを後にする。どこか
人目につかないところに連れて行ってから、誰かクリーンの生活魔
法を使える人間を探そう。イサトさんがスタッフさえ持っていたの
なら頼むところなのだが、さすがに王城での舞踏会に武器を持ち込
むことはできなかったのだ。
誰か声をかけられる相手を探してきょろきょろしていると、逆に
そちらの方から声をかけられた。
﹁どうかなさいましたか?﹂
﹁ああ、すまない。俺が彼女のドレスを汚してしまったんだ。どこ
か、人目につかない部屋はないかな﹂
﹁ああ、それではこちらに﹂
声をかけてくれた給仕の青年に案内を頼む。
彼が案内してくれたのは、舞踏会の会場から離れた塔にある部屋
だった。客室の一つなのか、綺麗に整えられた部屋はまるでホテル
の一室のようだ。
﹁すみません、本日お客様に解放している部屋がこちらしかなくて﹂
﹁いや、助かった﹂
俺がそんなやり取りを給仕の青年と交わしている間にも、彼女は
884
顔を蒼褪めた顔色で瞳を伏せたままだ。罪悪感に胸がキリキリと痛
む。
﹁では、クリーンの心得のある人間を探して参ります﹂
﹁助かる﹂
すぐに人が来るから、と彼女に声をかけようと振り向きかけたと
ころで︱︱⋮ぱさり、と音がした。
﹁?﹂
何の音だ。
音は、彼女の方からした。
音の正体を確認するためにも振り返って。
﹁⋮⋮!?﹂
目玉が飛び出るかと思った。
な、ななな、なんで脱いでんのこの人⋮⋮!!?
蒼白といっても過言ではない顔色で立ち尽くす彼女の足元に、薄
桃色のドレスが蟠っている。背後の窓から差し込む月明かりに冴え
冴えと照らされる華奢な白い体躯の陰影が妙に艶めかしくて、ごく
りと喉が鳴った。
﹁ちょ、え⋮⋮!?﹂
慌てて手でも目を覆いつつ俺は体の向きごと変えて彼女から目を
そらす。
なんだこれ。
今日何度目になるのかもわからない﹁なんだこれ﹂で頭の中がい
885
っぱいになる。
これはいったいどういう状況なのか。
﹁え、ええと着替えるなら俺は外に⋮⋮!!﹂
そんなことを裏返った声で言いつつドアノブに手をかけて、俺は
ドアノブがぴくりとも動かないことに気付いた。状況は全く掴めな
いものの、ものすごくマズい状況に追い込まれていることだけはわ
かる。
ドアを壊す勢いでドアノブを揺するものの、不自然なまでにドア
ノブは動かない。ならば蹴り破るか、と思ったところで、ドアの外
から面白がるような声が聞こえた。
・・・
﹁彼女はさ、ネパード侯爵家のご令嬢だよ。どうしても君と仲良く
なりたいって言うから力を貸してあげることにしたんだ﹂
﹁お前⋮⋮ッ﹂
ドアの向こうから聞こえる声に、聞き覚えがあった。
変質者だ。
イサトさんに子供を産んでくれないか、などと血迷ったことをの
たまった男だ。まさかこんな形で接触してくるとは思わなかった。
と、いうか。
﹁もしかしてさっきの給仕は⋮⋮﹂
﹁うん。いやー気づかれなくて良かったよ﹂
頭を抱えたくなった。
いくら早く彼女を人目につかない場所へと焦っていたからといっ
て、自分に声をかけてきた給仕があの男であることに気付かないと
は思えない。と、いうことはまたも俺はこの男の幻術に引っかかっ
886
たということになる。魔力関係のステータスを育ててこなかった報
いをこんな形で受けるとは。くっそ。
﹁お前、何企んでやがる⋮⋮!﹂
﹁怖い声出さないでよ。ただのキューピットだよ﹂
﹁嘘つけ!﹂
・・・・・
﹁いや本当だって。あ、大声を出しても無駄だよ。ここはホールか
らは離れてるし⋮⋮それに何より、この部屋のことは皆知ってるか
ら。いやあ、君をここに縛ろうと皆なりふり構わないみたいだね﹂
感心したような、嘲るような調子で男はペラペラと語る。
﹁それじゃあ、楽しんでー﹂
﹁おいコラ、ちょっと待て⋮⋮!!﹂
そんな言葉を残して、扉の外から人の気配が遠くなる。
駄目元で肩から扉に体当たりをしてみたものの、びくともしなか
った。これは物理的に閉じ込められているというよりも、何か魔法
によって部屋ごと封じられていると見た方が良いだろう。マズった。
本当にマズった。
唯一安心できることがあるとしたら、イサトさんは大勢の人に囲
まれたホールにいて、イサトさんに対してはあの男の幻術も通じな
い可能性が高い、ということぐらいだ。いくらあの男でも、王城の
中、衆人環視の元イサトさんを襲うようなことはしないだろう。さ
すがにそうなれば城付きの騎士団が黙ってはいない。
その一方で、当然不安はある。
あの男は何のために今日この日、この場に現れたのか。
俺への嫌がらせのためだけとは思えない。
﹁なあ、あいつは何者だ?﹂
887
そう問いただそうと思わず振り返り、彼女の裸体が目に入って慌
てて俺は再び彼女へと背を向けた。そうだ。こっちはこっちで大変
なことになっているんだった。
﹁ええと、その。とりあえず服を着てくれないか﹂
このままじゃ話も出来やしない。
扉を向いたままそういう俺の背に向かって、静かに彼女が距離を
詰めてくる。
どうやら俺の言葉は届いていないらしい。
密室で下着姿の女性に迫られる、なんて他人事なら美味しいシチ
ュエーションですね、とニヤニヤできるかもしれないが、実際自分
がされてみるととでもじゃないがそんな余裕はない。据え膳喰わぬ
は男の恥、なんて言葉が通用するのも据え膳の内容次第だというこ
とを思い知る。どんなご馳走であろうと、見ず知らずの相手からい
きなり手づかみで差し出されては食べる気になるわけがない。むし
ろ超怖い。
﹁⋮⋮私では、ご不満ですか﹂
ぽつり、と小さく声が聞こえた。
感情の抜け落ちたような、か細い声だ。
同時に、背中に寄り添う柔らかな感触が伝わってくる。
うわー。
うわー。
うわー。
ご不満ではないが、大混乱だ。
888
﹁いや、そういうのじゃなくて⋮⋮!!﹂
俺は慌てて飛び退くように彼女から距離をとった。
相手がモンスターか何かであれば、たとえ素手であっても嬉々と
して挑みにかかれるのだがさすがに下着姿の女性だとどうしたらい
いのか。
情けないと笑われてもいい。
助けてイサトさん!!!!
叫んで声が届くなら、叫んでる。
そんな俺に向かって、彼女が淡々と口を開いた。
﹁私を哀れに思うなら、情けをかけてはくれませんか﹂
静かに、か細い声音が告げる。
何の感情も読めない声だ。
からからに乾いた、砂のような声。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
その声に、なかなかないシチュエーションに昂ぶりがちなテンシ
ョンに水を差されたような気がした。どうもこれは、そんな甘酸っ
ぱいイベントではないらしい。
俺は一度視線を伏せたまま深呼吸すると、ゆっくりと顔を上げて
正面から彼女を見据えた。俺をまっすぐに見つめる蒼の瞳に光はな
く、ただただに無機質だ。それに気づくと、急に冷静になったよう
な気がした。
なだらかに隆起した胸、くびれたウェスト、柔らかく張った腰、
そのどれもが女性性の象徴めいているのに不思議とそれが熱に繋が
らない。
889
彼女自身が俺を見ていないから、だろう。
綺麗だとは思う。
けれど、それだけだ。
触れたいというような慾を煽られない。
ただ綺麗な人形を見せられているような気持ちになる。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
小さく、息を吐く。
それから俺はそっとジャケットを脱ぐと、なるべく彼女を正視し
てしまわないようにしつつ、彼女の肩を包むように羽織らせた。触
れてしまわないように気を付けたつもりではあったのだけれども、
それでも微かに指先が肩を掠める。そのときだけ、彼女はひくりと
人間らしく小さく震えた。
俺の体格に合わせて作られたジャケットは、彼女が着ると膝のあ
たりまでをすっぽりとカバーする。これで少し話しやすくなった。
興奮を煽られないとはいえ、さすがに下着姿の女性相手に会話を成
立させるのは気まずい。前をしっかりとかきあわせてやれば、なん
とか話をできる程度にはその肌を隠すことに成功した。彼女は視線
を伏せたまま、俺の顔を見ようともしない。
﹁⋮⋮なんていうか、さ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁誘惑したいならもっと開き直るべきだし、したくないことはしな
い方が良いと思うぞ﹂
思わずそんなことを口にしてしまっていた。
正直に言うのなら、少し気に障ったのだ。
たとえば先ほど舞踏会の会場で俺に声をかけてきた令嬢が良い見
本だ。
890
彼女は自分の意思で俺に声をかけてきた。
彼女自身がどういう思惑であれ、俺を籠絡してやろうと意気込ん
で声をかけてきたように見えた。
けれど、今目の前にいる彼女は違う。
蒼褪めた顔に、硝子玉のように虚ろな双眸。
まるで、生贄に捧げられた乙女だ。
嫌々俺に体を差し出そうとしているのがあんまりにもわかりやす
すぎる。
俺は生娘を求めて暴れる怪物か何かか。
﹁そっちの事情は全然わかんないから、好き勝手なこと言うけど。
そんな嫌々迫られても嬉しくない﹂
女さえ当てがっておけば言うことを聞くだろ、なんて扱いは非常
に俺を馬鹿にしているとしか思えないし、そんな嫌々体を差し出し
てくる女性に手を出したいとも思えない。いや、半ば自棄のよう、
そっちがその気なら本当に酷い扱いをしてやろうか、なんて嗜虐心
が牙を剥きそうになったりもするのだが。その辺を自重するだけの
自制心はちゃんと持ち合わせている。俺にだってプライドというも
のはあるのだ。
﹁だったら、どうしろと言うのですか﹂
彼女の声が、少しだけひび割れて震えていた。
俺の声に交じる冷めた色に気付いたからだろう。
き、と顔をあげて俺を見据える瞳に、怒りにも似た色が浮かんで
いる。
それに対して、俺はあっさりと肩を竦めた。
﹁さあ﹂
891
﹁⋮⋮!﹂
俺の無責任な言葉に、彼女が息を飲む。
でも、そういうものだろう。
どうするかを決めるのは彼女自身だ。
俺の決めることではない。
﹁俺は、こっちの世界⋮⋮っていうか、アレだ、貴族のしがらみだ
とか全然知らないから好き勝手なこと言うけど﹂
きっと、彼女にもいろいろと事情があるのだろうとは思う。
いろいろと止むに止まれぬ事情に絡めとられて、こんな状況に追
い込まれているのだろうとは思う。
けれど、俺をホールから誘い出したのは彼女だし、ドレスを脱い
だのも、俺を誘惑することを選んだのも彼女だ。
それでいて被害者のような顔で俺を見るのは如何なものなのか。
﹁決めたのは、あんただろ﹂
﹁好きで決めたわけではありません!﹂
彼女の声は、半ば悲鳴のように響く。
なんだか俺が苛めているような気がしてきた。
ぽり、と頭をかく。
﹁⋮⋮私にも、選択肢はあったというのですか﹂
彼女が、憎々しげに俺を見る。
刺々しい表情を向けられているとはいえ、こっちの方が先ほどま
でよりよっぽど人間らしい顔をしている。
892
﹁私は⋮⋮っ、貴族の父が下働きの母に手をつけて生まれた子です
⋮⋮! いつか役に立つかもしれないと、ここまで生かされてきま
した。そして、今こそ家のために役立てと言われてこんな生き恥を
晒しているのです⋮⋮! そんな私にも、選択肢があったとでもい
うのですか!﹂
﹁あったんじゃないか﹂
俺はあっさりと頷いた。
彼女の蒼の瞳が、ぽかんと丸くなる。
なるべく、柔らかな口調を心がけて俺は口を開いた。
﹁あのさ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
彼女は俺から顔をそむけたまま、こちらを見ようとはしない。
それでも、俺の言葉を聞こうとしているのがわかったのでそのま
ま言葉を続ける。
﹁俺の好きな人なら、自分の選んだ道には胸を張ると思う﹂
さらっと、そんな言葉が口から出た。
イサトさんならきっと、苦渋の決断をしたとしても、自ら選んだ
道なのだからとぐっと前を見据えて突き進むはずだ。あの人は、そ
ういう人だ。
﹁その人なら、家を捨てて自由に生きるか、家のために生きるかで
まず考えて、そこで家を捨てない選択をしたならたぶん今頃俺を全
力で押し倒してると思う﹂
間違いなく最終手段は物理だ。
893
あの思い切りの良さは尊敬できる。
だからこそ、よく考えてから決めような!!!?と横から見てい
てツッコミたくなることは多々あるのだけれども。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺の言葉に、彼女は静かに瞳を伏せた。
ぽたり、とその蒼の瞳から雫が落ちる。
ひい。
好き勝手なことを言うぞ、と先に宣言した上でいろいろ言ったわ
けだが、やはり女性に泣かれると罪悪感がすごい。こう。﹁先生!
遠野くんが○○ちゃん泣かしました!!﹂の呪詛が未だ生きてい
るというか。あの泣いたもん勝ちの理屈はどうにかならんものなの
か。どれだけこちらの主張が正しいものであろうと、相手が泣き出
したあたりで一気にこっちがアウェイになるあの感じ、本当きつい。
﹁⋮⋮あなたの好きな女性は、とても強い方なのですね﹂
﹁へ﹂
好きな、女性?
改めて彼女にそう言われて。
あれ。
俺。
さっきなんて口走った?
﹃俺の好きな人なら﹄
894
﹁ま、待った⋮⋮!!!!! 今のなし!!!! なしで!!!!
!!!﹂
﹁え⋮⋮?﹂
彼女があっけにとられたように首を傾げる。
いや、本当俺、何言ってんだ。
顔面に熱が上る。
﹁うあ、ああああああ⋮⋮﹂
ゾンビのような呻き声をあげながら、俺は思わず蹲ってしまった。
頭を抱える。
あまり深くは考えないようにしようだとか。
今の距離感を壊したくないだとか。
そんなこと考えていたのはどこのどいつだ。俺だ。
なかなかに死にたくなる自爆だった。
唯一の救いとしては、この場にイサトさんがいなかったことぐら
いだ。良かった。そう考えたらセーフだ。よし。セーフセーフ。か
ろうじて致命傷で済んだ。
﹁あ、あの⋮⋮?﹂
﹁いや、おかまいなく﹂
俺はハハ、と乾いた笑いをあげながら立ち上がった。
今はこんなことをしている場合ではない。
あの変質者だ。
イサトさんを狙うあの変質者が、この城の中にいる。
895
﹁悪い、あんたの話を聞いてやりたい気もするんだけど、こっちも
こっちで厄介なことになってる。質問してもいいか?﹂
﹁は、はい﹂
よし。
﹁なあ、あの男は何者だ?﹂
﹁私にも、よくわからないのです。兄上が連れてきた幻術師だと聞
いていましたが⋮⋮﹂
﹁兄上?﹂
ふと思い出した。
そういえば、ギルロイ商会の尻拭いをするために集まった教会に、
貴族院代表としてネパード侯爵子息とやらが参加していたはずだ。
アレがおそらくは彼女の兄なのだろう。自分の妹を、道具のように
使うなど兄の風上にも置けない男である。
と、そこで厭な予感がした。
そこまで手段を選ばず俺の身柄を手に入れようとした男が、俺だ
けで満足するということがあるだろうか。
﹁っ、もしかしてあんたの兄貴、イサトさんは自分で手に入れるつ
もりじゃないだろうな⋮⋮!﹂
﹁ごめんなさい、私、兄上が何を考えているのか知らなくて⋮⋮で
も、兄上ならあり得ると思います﹂
俺には妹をあてがい、イサトさんは自分で手中に収める。
ネパード侯爵子息がそう考えたとしてもおかしくはない。
896
普通に考えれば、イサトさんがそんな貴族の男に簡単にどうこう
されるなんてことはないと思うが⋮⋮あの変質者はこうも言ってい
た。
・・・・・
﹃あ、大声を出しても無駄だよ。ここはホールからは離れてるし⋮
⋮それに何より、この部屋のことは皆知ってるから。いやあ、君を
ここに縛ろうと皆なりふり構わないみたいだね﹄
先ほど広間で、シェイマス陛下も言っていたじゃないか。
セントラリアにいる間に褒美を考えろ、と。
その時に俺は、逆に言うと褒美を貰うまではセントラリアから出
られないのでは、なんていう風に考えたはずだ。
もし、王族を含めたこの城にいる連中が全員グルで、俺たちをこ
のままセントラリアに引き留めようとしているのなら。
衆人環視のホールだから間違いは起こらないだろう、なんて甘い
ことは言っていられない。それに、ネパード侯爵子息にはあの変質
者がついている。
あの変質者自体もイサトさん狙いだと考えると、手を組んだ理由
がいまいちわからなくなるが、今はそれを悠長に考えている場合で
はない。
あの変態が何を企んでいようと、イサトさんに無用なちょっかい
を出してくるというのならば迎撃するまでだ。
今度こそ︱︱⋮、ぶちのめす。
897
かろうじて致命傷。︵後書き︶
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
Pt,お気に入り、感想、励みになっています。
898
おっさんのダンスに見せかけた地味な戦い︵前書き︶
前話もちょこちょこ弄って修正してあります。
899
おっさんのダンスに見せかけた地味な戦い
さて。
あの変態をぶちのめすためにも、まずはここから脱出する必要が
ある。
俺は懐へと手を伸ばしかけて⋮⋮って、そうだ上着は彼女に貸し
たままだった。
﹁なあ、その上着の中に鍵があると思うんだけど取ってくれないか
?﹂
﹁あ、はい﹂
ごそごそ、と彼女が上着の内ポケットを探って鍵を取り出す。
古めかしいアンティーク調の鍵は、彼女の手の中ではいつもより
大きく見える。 受け取ったその鍵を、俺は掌でポンと一度弾ませ
た。
俺たちが王城での舞踏会に招かれた中で、一番ネックとなったの
が武器の携帯が許されないという部分だった。それは王城に招かれ
た人間全員共通する条件だとはいえ、例外がどこに潜んでいるのか
わかったものではない。最悪、俺たちは王城の内部にもあのヌメっ
とした人型が潜んでいる可能性も疑っていたのだ。
武器の類はインベントリにしまって、というのも考えたのだが⋮
⋮正装というのは鞄の類を持ち歩くのには本当適していない。レテ
ィシアだけでなく、レブラン氏の知恵も借りていろいろどうにかイ
ンベントリを持ち歩けないか工夫はしてみたのだが、正装にはイン
ベントリへのアクセス口になるようなポーチはそぐわなかったのだ。
隠し持つことは出来そうだったのだが、王城に足を踏み入れる際の
900
身体検査で見つかって取り上げられてしまえばそこで終わりだ。
そこで、最低限の小細工だけをすることにしたのである。
例えば俺ならこの鍵だ。
﹃家﹄の鍵であれば正装の、タキシード内ポケットに持っている
のを見つかったとしても誰も物言いはつけない。
しゃん、と小さな音とともに鍵を揺らすと、ふぅっと清涼な風が
吹き抜ける気配とともに﹃家﹄へと繋がる扉が姿を現す。
﹁⋮⋮!?﹂
彼女が驚いたように息を呑むが、今は説明している暇はない。
扉を開けて、玄関すぐのところに立てかけておいた大剣を手に取
った。
ずらりと鞘から引き抜き、がつがつと扉の隣の石壁へと突き立て
た。
飛空艇のときと同じだ。
ゲーム時代、俺たちの概念として建物や飛空艇のような乗り物と
いったオブジェクトを破壊することは出来なかった。だから、密室
を作りたいと思ったときには扉にロックの魔法をかけてしまうだけ
で良かった。出入口を魔法でふさいでしまえば、密室を作り上げる
ことが出来るのだ。
けれど、この世界では違う。
俺たちは飛空艇を墜とせたし︱︱⋮こうして壁も易々と切り裂け
る。
あの変態が壁にも何らかの俺の知らない魔法を使って強化してい
る可能性も頭の隅においてはいたのだが、岩壁はあっさりとバター
901
のよう簡単に裂けた。ちょうど人ひとり通り抜けられるぐらいのス
ペースを、本来の扉の横に切り抜く。最後にごん、と蹴り飛ばすと、
刳り貫かれた壁が廊下にずん、と音をたてて沈んだ。
﹁よし。というわけで俺は広間に戻るけど⋮⋮あんたはどうする?﹂
﹁⋮⋮っ﹂
﹁あ、ごめん﹂
ちら、と振り返った先では、彼女が汚れたままのドレスを着なお
しているところだった。今更恥ずかしそうに頬を染められて、どき
りとする。下着姿で抱きつかれた最初よりも、今の方がよほど魅力
的に見えて俺まで気恥ずかしくなる。
彼女は気恥ずかしそうにドレスを着終えると、俺に向かってジャ
ケットを返そうとする。一度受け取りかけて、やっぱりやめておく
ことにした。
﹁そのまま着てて良いよ、前、隠せるだろ﹂
﹁⋮⋮あ、ありがとうございます﹂
結局、あの変態に騙されたせいで彼女のドレスについたワインの
染みを消すことは出来ていないのだ。それに、一度脱いでしまった
からだろう。彼女のドレスはよく見ると少々着崩れてしまっている。
﹁あ、でもこれだけは﹂
俺はジャケットの胸についていた花飾りを、ウェストコートの胸
につけなおす。
少々無理矢理だが、せっかく用意した花飾りだ。
最後までつけていたい。
902
﹁俺、広間に戻ったら誰かこっちに人を寄越すようにも言えるけど﹂
﹁いえ、私も行きます。⋮⋮その、ちゃんと知りたくて﹂
﹁え?﹂
﹁⋮⋮私も、ちゃんと自分で決めたいんです﹂
﹁そっか﹂
彼女がそう言うのなら、俺としては止める理由もない。
よっこらせ、と刳り貫いた岩壁を乗り越えて外に出て、足場が悪
かろうと彼女へと手を差し出した。そこでふと、なんだかんだまだ
名前を聞いていなかったことを思い出す。
﹁名前、聞いてなかったな。俺はアキラだよ。アキラ・トーノ﹂
﹁アキラ、様﹂
﹁様は別につけなくてもいいけど。あんた⋮⋮、じゃなくて君は?﹂
最初が最初だったので、反発感からついあんた呼ばわりしてしま
っていたが、彼女はネパード侯爵家のご令嬢なのだ。
﹁私はニレイナ、いいえ、ニーナです﹂
﹁了解、それじゃあ行くか﹂
﹁⋮⋮はい﹂
そっと、彼女が俺の差し出した手を取る。
その手はじんわりと暖かく、それが彼女が人形ではなく人なのだ
という証めいていた。
903
ニーナを連れて広間へと速足で向かう。
大剣は一応﹃家﹄に戻したものの、鍵は手の中に握ったままだ。
何か異変があった折りにはすぐにでも引き抜く準備は出来ている。
広間が近づくにつれて、優雅な弦楽器の音色と、ざわざわとざわ
めく人の声がさざなみのように聞こえてきた。
何かおかしなことが起きている気配はない。
が、まだ油断はできない。
イサトさんはどこだ。
レティシアは。
俺はぐるりと広間を見渡して︱︱⋮
﹁ひ﹂
俺の顔を見ていたらしいニーナに怯えたように喉を鳴らされた。
相当凶悪な顔をしていたらしい。
あ の 野 郎 。
広間の中央、他の貴族たちの視線を集めてイサトさんが踊ってい
た。
904
そのイサトさんの腰を抱き、エスコートしているのはあの変態だ。
俺の知らないステップを踏む二人がくるりくるりとターンを決め
るたびに、イサトさんのドレスの裾が優雅にたなびく。何がむかつ
くって、その二人の姿が妙にしっくりくることだ。白いドレスを纏
ったイサトさんをエスコートする黒のタキシード姿の変態エルフの
姿は、悔しいぐらい絵になって見えた。着替えたのか、給仕の恰好
自体も幻覚の一部だったのか。
時折、変態エルフがイサトさんに何か囁きかけるように顔を寄せ、
まるでそれに応じるようにイサトさんが変態エルフの胸元へと顔を
埋める。
苦虫を、全力で噛み潰した。
イサトさんが決めたことなら、俺は何も言えない。
ああ、でも。
﹁︱︱、﹂
ちらり、と。
変態エルフの肩越しに目があったイサトさんが、﹁助けろ﹂とア
イコンタクトをしてきたように見えたから。
人ごみをすり抜けて、俺はずんずんと踊る二人に向かって突き進
む。
もしかしたら、俺の都合の良い勘違いかもしれない。
後でイサトさんには嫌な顔をされてしまうかもしれない。
それでも。
﹁︱︱俺の、連れだ﹂
きっぱりそう言い切って、俺は変態エルフの肩に手をかけた。
905
★☆★
話は、少し前に戻る。
気づいたら、連れである秋良青年の姿が広間から見当たらなくな
っていた。
つい先ほどまでは、すぐ近くで女性陣に囲まれていたはずなのに。
何かあったのかとレティシアに視線を送ってみたのだけれども、
レティシアも秋良の行方に心当たりがないのか、壁際で小さく首を
横に振る。
トイレにでも言っているのだろうか。
それなら、すぐに戻りそうなものなのだけれども。
周囲に集まり、様々な話題を投げてくる貴族たちに卒なく答えつ
つ視線は広間の入り口あたりを探す。貴族たちの中にいてもちっと
906
も引けを取らない迫力ある長躯はこんな人ごみの中でも目立つはず
なのに、いつまで立っても見つけることが出来ない。
そろそろ、探しに行った方が良いかもしれない。
私がそう思って、貴族の男性陣の囲いから抜け出そうとしたとき
のことだった。
﹁美しいお姫様、どうか私と一曲踊ってくれませんか?﹂
わざとらしい、演技がかったセリフを向けられた。
連れを探しているので、と断りかけた唇が、﹁つ﹂の形で止まる。
目の前にいたのは、以前廃墟で秋良に迫っていた変態だった。
わざわざ幻覚で騙し打ちまでして、彼とワルツを踊っていた。
あの時は私相手に子供を産んでくれなんぞとのたまっていたけれ
ど、私本人にコナをかける前に彼をひっかけにいったあたり、本意
が別にあるような気がしてならない。
﹁⋮⋮あ、くそ﹂
周囲には聞こえない程度、低く小さく呟いた。
この男の登場と、彼の姿が見当たらないことが頭の中で繋がる。
おそらく無関係ではないだろう。
﹁⋮⋮秋良青年に何かしたのか﹂
﹁美しいお姫様、どうか私と一曲踊ってくれませんか?﹂
同じセリフを繰り返して、男がにこりと笑う。
灰がかった蒼の瞳には、挑発するような色。
ノるか、ソるか。
考えたのはほんの一瞬。
この男がここにいる以上、秋良が再びこの男による幻惑にひっか
907
けられてしまった可能性は高い。
そう思うと、変な照れに邪魔されてやるべきことをしそこねた自
分をどつきたくなる。込み上げた悔しさに、一度視線を伏せて、そ
れからぎゅっと手を握りしめた。私のミスで彼を危険に晒したのな
らば、その責任は私が取るべきだ。
この男にしても、こんな衆人環視の場所では仕掛けてこないだろ
う。
それに⋮⋮、ちらり、とレティシアを見る。
レティシアは私の様子がおかしいことに気づいてくれているのか、
いつでもこちらに駆け寄れる位置をキープしてくれている。
これなら、イケる。
たぶん、大丈夫だ。
うむ。
私は、きっと挑むように男を見据えた。
﹁では、エスコートをお願いしても?﹂
そっと、手を差し出す。
男は口角を持ち上げて笑うと、私の手を恭しくとった。
私たちのやり取りが聞こえていなかったのか、周囲の貴族はにこ
やかにわあと歓声をあげる。
﹁さすがエレニ君は女性の扱いがお上手だ﹂
﹁宝石だけでなく、美しいもの全般の取り扱いに慣れているらしい﹂
エレニ。
この男は、エレニ、というのか。
ちらりと視線を投げかけると、男は愛想の良い笑みを口元に浮か
べる。
908
﹁ご紹介が遅れて失礼。私、宝石商をしておりますエレニ・サマラ
スと申します﹂
﹁それはご丁寧に。私は、冒険者のイサト・クガだ﹂
いつか廃墟でして見せたように、男は私の手の甲へと唇を寄せる。
﹁エレニ君はね、珍しい石を扱っていてね。私のつけているカフス
も、エレニ君の用意した石を加工して作ったものなのだよ﹂
﹁それは素敵ですね﹂
おざなりな返事と共にそう言って、近くにいた貴族が差し出した
袖口に輝くカフスへと視線を流す。蒼みがかった玉は、石、という
よりも綺麗に磨かれた骨のようにも見える。
﹁クガ様にも、いつか私の贈った石を身に着けていただきたいもの
ですね﹂
そういいながらも、エレニと名乗った男は私の手を引いてフロア
へと進み出る。
すっと手を挙げるホールドは悔しいぐらい様になっていて、男が
こういった状況に慣れていることを知らしめた。
軽く眉根を寄せつつも、私もホールドを作って男へと体を寄せる。
﹁随分と、ネコを被ってるな﹂
﹁それは君もだろう?﹂
苦味を帯びた私の声に、男の返事は人を食ったように明るい。
踊り出しは、これまた腹立たしいほどにスムーズだった。
く、と軽く手に重みがかかったかと思うと、沈みこむように腰を
抱かれて後ろへの一歩を踏み出させられる。完璧なエスコート。
909
彼とは違う。一緒に視線を重ねて、リズムをカウントして、﹁ど
や!﹂で踏み出すようなダンスとは違う。
だから、面白くない。
何も考えなくとも、完璧なエスコートに勝手に体を動かされる。
ある意味それはエスコートとしては正解なのかもしれないけれども、
私が求めているものとは違う。多少ぎこちなくても、彼の方が良い。
﹁秋良青年を、どうした﹂
﹁俺が何かしたとは限らないじゃない﹂
﹁とぼけるな﹂
が、と事故に見せかけて思い切り足を踏んでやろうとしたのに、
無理矢理のターンでかわされた。本来ターンなんて入らないはずの
ステップに挿入された鮮やかなターンに、周囲がざわめくのがわか
る。ますますムカつく。
﹁足癖が悪いな﹂
﹁悪いのは足癖だけかどうか試させてやろうか﹂
踊りながら、毒づく。
﹁試してよ﹂
﹁⋮⋮ッ﹂
そう囁いた男の唇が、驚くほどに近くてハッと息を呑んだ。
これは、良くない。
ダンスのエスコートのふりをして、気づいたら顔の距離を削られ
ている。
910
油断したら、唇を奪われかねない間合いだ。
しかもそれがごくごく自然で、リードに任せていると触れ合いそ
うになるのだ。
なにこれ。
何か仕掛けられるかもしれないとは思っていたものの、こんなロ
クでもないちょっかいを出されるとは思っていなかった。
﹁⋮⋮このッ﹂
足を踏もうとする。
また、派手なターン。
ふわりと身体が振り回される。
負担はない。
負担はないけれど、この男の思うがままに勝手に操られていると
思うととんでもなく屈辱的だ。
また、顔の距離が近くなる。
この男とキスするぐらいならば緊急回避としてまだタイミングを
外して自ら突っ込んだほうがよほどマシだ。自分から、寄り添うよ
うに男の胸元に顔を寄せる。
﹁わあ、積極的﹂
﹁殺す、⋮⋮ッ﹂
また、ターン。
﹁キスぐらいいいじゃない。俺、君には子供産んで欲しいんだし﹂
﹁誰が生むか⋮⋮ッ﹂
ターン。
911
﹁ここで派手なキスシーンぶちかまして、君が俺のものだって既成
事実作っておきたいんだけどな﹂
﹁嫌、だ⋮⋮このッ﹂
ターン。
秋良の居場所を聞き出したかったはずなのに、すっかり相手のリ
ードに呑まれてしまった。くっそう。悔しい。腹立たしい。そして、
少しだけ怖い。
この世界に来て、戦う力を手に入れて、強くなったと思っていた。
実際、並大抵の相手になら負けないだけの戦力は持っている。
けれど。
こうして純粋な腕力やら何やらの問題に持ち込まれると、こんな
にも簡単に言いようにされてしまう。
﹁もう諦めたら? キスしたら俺のこと好きになるかもよ?﹂
﹁なるかッ﹂
即答で、再びタイミングを外して男の胸元に顔を寄せる。
そして、そこでずっと探していた人物と目があった。
﹁あ﹂
肩ごしの一瞬のアイコンタクト。
ブルークォーツローズ
何故かジャケットを脱いだ彼は、ウェストコートに花飾りをさし
ている。
彼が用意してくれた、お揃いの蒼水晶薔薇。
前髪を上げているせいでいつもより迫力のある人相が、今は目つ
きも相まってまさに凶相といった態だ。本来なら怖がるべきなのか
もしれない。
912
けれど、それが何より心強い。
﹁︱︱俺の、連れだ﹂
そんな言葉とともに。
私の身体を良いように振り回していたターンが、ようやく止まっ
た。
★☆★
変態エルフの肩に手をかけて、握りつぶす心意気で力をこめた。
みしみしみし、と言ってるのはたぶん気のせいじゃない。
﹁痛い痛い痛い痛い、あのさあ前も言ったけど君の番犬超怖い!﹂
﹁うるさい、この変態!﹂
わざとらしく悲鳴をあげる男の足を、イサトさんがヒールの踵で
913
力強く踏み抜く。なんだか、ものすごく鬱憤の籠った一撃だった。
ギャッ、とあがった悲鳴に、イサトさんは満足そうにしている。そ
の姿に、少し安心した。良かった。助けて良いシチュエーションだ
った。万が一にでも、邪魔に入ったことをイサトさんに鬱陶しがら
れるようなことがあったらどうしようと、地味に身構えていたのだ。
﹁秋良青年、ありがとう助かった﹂
﹁や、こっちこそ離れてごめん﹂
俺が一緒にいたならば、そもそもこの男と踊るようなことは許さ
なかった。
周囲の貴族たちの好奇の眼差しが注がれる中、俺たちはホールの
中ほどで睨みあう。イサトさんへの求愛が目的だったとしても、ネ
パード侯爵を唆してニーナを俺に宛がおうとしたりなどタチが悪す
ぎる。
﹁お前⋮⋮﹂
﹁ねえ﹂
何の目的があって、と俺が言葉を続けるより先に男が口を開いた。
﹁君たち正義の味方なんでしょう?
セントラリアに墜落しようとした飛空艇をその手前で撃墜して街を
救った。
街に来てからも、搾取され、虐げられていた獣人たちをマルクト・
ギルロイから救った﹂ 男は、ゆっくりと首を傾げた。
そして、無邪気に問う。
914
﹁なのに、どうして俺のことは助けてくれないの?﹂
異様な空気を感じ取ったのか、管弦楽の旋律が止まる。
ざわざわと不穏なざわめきが俺たちの周囲を取り囲む。
その中心で、男は朗々と語る。
﹁エルフも、ダークエルフも、もうこの世界にはいない。たぶん、
エルフは俺だけだ。俺しか、残ってない。そして、君も、おそらく
最後のダークエルフだ﹂
﹃白き森の民﹄でも﹃黒き伝承の民﹄でもなく、男はエルフとダ
ークエルフというこの世界においては使われていなかった名称で種
族を呼ぶ。
やはり、この男は俺たちと同じように、現代日本から迷い込んだ
存在なのだろうか。それとも、何か他に理由があるのか。
﹁俺には、どうしてエルフやダークエルフが滅ばなければいけなか
・・・・・
ったのかがわからない。でも、きっと誰かがそれを望んだんだろう
ってことはわかるよ。誰かが、エルフとダークエルフを滅ぼしたん
だ。
それが誰にしろ⋮⋮俺はそいつの思惑通りにだけは絶対なりたくな
い。
・・
そいつの目的がエルフとダークエルフを滅ぼすことだったなら、俺
は死んでも繁栄してやる﹂
その言葉に、ようやく男の意図がわかった気がした。
この男がイサトさんに子供を産んで欲しいと拘る理由。
それはその言葉通り、子供だけが欲しいのだ。
妻が欲しいのではない。
イサトさんを一人の魅力的な女性として望んでいるわけではない。
915
エルフとダークエルフを終わらせないための母体が、必要なのだ。
﹁君が、胎を貸してくれれば少なくともあと一代はエルフとダーク
エルフが生き延びる。君の頑張り次第ではもっと。
ねえ、君たちは困っている獣人を助けた。
なら、俺のことも助けてくれていいんんじゃないかな。エルフとダ
ークエルフという種を、救ってくれてもいいんじゃないか﹂
それはなんだか、呪詛のようだった。
ある種、俺たちが一番恐れていた言葉だった。
まるで善意を義務のように求められる。
﹁できる﹂ならば﹁やらなければいけない﹂と。
けれど﹁できる﹂ことと﹁やりたいこと﹂は違う。
それを非難される痛みを俺とイサトさんは知っている。
だから最初から俺たちは﹁正義の味方﹂を名乗らなかった。
だから俺たちは、最初から﹁したいこと﹂しかしてこなかった。
俺は、イサトさんを見る。
イサトさんは小さく顎を引いて、それからまっすぐに男を見据え
て口を開いた。
﹁断る﹂
きっぱりとした言葉に、対峙する男だけでなく周囲にいた貴族ま
でもが驚いたように小さくざわめいたようだった。
﹁セントラリアは救ったのに?﹂
﹁うん﹂
﹁獣人は救ったのに?﹂
﹁うん﹂
916
淡々としたやり取りが繰り返される。
﹁どうして﹂
問いかけは短かった。
﹁私が、したくないから﹂
解答も、短かった。
けれど、それがすべてだ。
例えイサトさんになら出来て、イサトさんにしか出来ないことが
あったとしても。
どれだけたくさんの人が﹁そうすべき﹂だと言ったとしても。
やるのがイサトさんである以上、決めるのもイサトさんだ。
その代わり決めたことの責任を取るのも、イサトさんだ。
﹁私たちはわるもの、だ。正義の味方なんかじゃない。したいこと
をしてる。だから、したくないことはしない﹂
そう言い切るイサトさんは、決して罪悪感に瞳を揺らすようなこ
となく、まっすぐに男を見つめたまま言葉を続けた。
﹁だから君には申し訳ないと思うけど。私は︱︱⋮君の子を産むつ
もりはない﹂
﹁⋮⋮そっか﹂
イサトさんの言葉に、男は小さく息を吐いた。
どこか最初からイサトさんの答えを知っていたような顔で、柔ら
かな苦笑がその口元に浮かぶ。
917
﹁君はきっと最後のダークエルフだから︱︱⋮君だけは助けたかっ
たんだけどな﹂
﹁え﹂
﹁え﹂
男の不穏な言葉に、俺とイサトさんの声がハモる。
そして。
それと同時に。
ぱきん、と何かが砕けるような音が、静まり返った広間のあちこ
ちから響いた。
918
おっさんのダンスに見せかけた地味な戦い︵後書き︶
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919
銀環
ぱきぱきぱき、と広間のあちこちから、何かに罅が入るような音
が響く。
﹁カフスが⋮⋮ッ﹂
﹁イヤリングが!﹂
﹁私のネックレス⋮⋮!﹂
続いて響いたのは、悲鳴まじりの動揺の声。
貴族の大多数が、装飾品を押さえて困惑の表情を浮かべている。
そしてその手の下から、黒い靄のようなものがすぅと立ち上り、
やがてそれが凝って実体を得ていく。
大型犬ほどの大きさで、ずんぐりむっくりしたラプトルのような
形状をしたリルドラコ。大型のワニとコモドドラゴンを足して2で
割ったような凶悪な外見のデスゲイル。百足のような体に三対のト
ンボの羽をもつドラゴンフライ。その他にも様々な種類のモンスタ
ーが、次々とホールの中に現れる。
まただ。
飛空艇と同じだ。
リルドラコはサウスガリアンの火山周辺に出没するモンスターだ
し、デスゲイルは同じサウスガリアンでも海に近い川沿いの湿地に
出没するフィールドモンスターだ。ドラゴンフライは前にも言った
通りエスタイーストにある妖精樹エリアのモンスターで、俺の記憶
が正しければこいつらに共通する出没エリアなど存在しない。そも
そも、女神の加護に守られた街中にモンスターは入り込めないはず
920
だ。
街に入れるのは、召喚モンスターだけのはず。
﹁︱︱あ﹂
街に入れるのは、召喚モンスターだけ。
次々と砕ける装飾品。
それらのヒントが、一つにつながる。
俺たちは、その現象を知っている。
否、正確にはその現象を齎すアイテムの存在を知っている。
﹁﹃竜の牙﹄か⋮⋮!﹂
イサトさんが呻く。
﹁ご名答﹂
男が笑う。
﹃竜の牙﹄というのは、ドラゴン系モンスターを倒した際にドロ
ップするアイテムのことだ。使用すると、﹃竜の牙﹄が砕けるエフ
ェクトと同時に黒い靄が発生し、そこからランダムで何匹かのモン
スターが召喚扱いで発生する。この時厄介なのは、どんなモンスタ
ーが何匹出現するのか、をアイテム使用者が一切指定できないとい
うことだ。しかも、召喚されたモンスターを操ることも出来ない。
﹃竜の牙﹄によって召喚されたモンスターは、ただそこで目に映っ
たものすべてを襲う。アイテムの使用主を含めた全てだ。
さらに恐ろしいのは、アイテム説明においては﹁そのドラゴンが
生前喰らった獲物をランダムで召喚する﹂なんて書かれていながら、
実際には完全にランダム召喚であることだ。レベル5のドラゴン系
921
モンスターからドロップした﹃竜の牙﹄を使ってみたらレベル90
イサトさん
のドラゴンが出てきてさっくり全滅、なんて話も珍しくなかった。
まあ俺の話である。⋮⋮おっさんがレベル5のモンスターから獲れ
た奴だしそんな大したもの出ないよ、なんて言うから。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イサト:じゃあ使うぞ。
アキ :おう
▼イサトが竜の牙を使用しました!
リモネ:wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwレベル
90wwwwwwwwwwwまってwwwwwwww
イサト:あ
リモネ:死ぬのはえーよ!!!!!!
イサト:俺はここで君らの活躍を見守ろうと思う
リモネ:www蘇生するwwww余裕がねえwwwwww
イサト:二人ともファイト。
リモネ:死wwwんwwwwだwwwww
アキ :えっ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
当時まだ仲間内で一番レベルの高いリモネですらレベル90に届
いていなかった俺たちは見事なまでに全滅した。今では良い笑い話
922
である。
が、中にはこのアイテムを悪質な悪戯に使うユーザーもいた。
プレイヤーキル
低レベルの初心者エリアに、場違いな高レベルモンスターを呼び
出してPKを狙ったり、本来安全圏であるはずの街中に大量のモン
スターを呼び出して逃げ惑う他プレイヤーを見て面白がるのだ。
この男がやろうとしているのはそれだ。
そしておそらくは、同じことを飛空艇でもやった。
﹃竜の牙﹄を装飾品ととして加工して持ち込み、同じタイミング
で発動させる。
それがその地域にいないはずのモンスターが飛空艇を襲っていた
謎の真相だ。
ヌメっとした人型の存在や、ゲーム内での経験とこちらのリアル
としての情報とがなかなか合致しなかったことに惑わされて、知っ
ていたはずの﹃竜の牙﹄に思い至らなかったのが悔しい。今回のよ
う、﹃本来モンスターが現れることのないはずの場所で﹄という条
件があれば、もっと早く正解に辿りつけたと思うのだが。
先ほどまで華やかかつ優雅な舞踏会が開かれていたはずの広間に、
次々とモンスターが姿を現していく。キシャア、とイサトさんの足
もとで威嚇するような声を上げたデスゲイルを、俺は大股で素早く
歩み寄ってぐしゃりと踏み抜いた。頭を踏み抜かれたデスゲイルが、
びくりと尻尾をのたうたせながら動かなくなる。
﹁イサトさん!﹂
﹁わかってる、レティシア!﹂
﹁はい!﹂
923
俺の声に反応するように、イサトさんがレティシアへと手を差し
出した。
何が起きているのか状況がつかめないといったよう茫然としてい
たレティシアが、鋭いイサトさんの声にはっと我に返ったように身
体を小さく跳ねさせる。レティシアが手にしていた小さなパースを
イサトさんに向かって放るのと、俺が手の中に握ったままだった鍵
を振るのはほぼ同じタイミングだった。
右手で扉を開けて、左手で掬うように床に置いてあった皮袋をひ
っかけつつ大剣の柄を握って身体を引きながら扉を閉める。
扉の影に隠れるようにイサトさんの姿が一度見えなくなって、扉
を閉めたときにはもうまるで魔法のようにイサトさんの早着替えが
終わっていた。
俺が﹃家﹄に武器を置き、﹃家﹄にアクセスする鍵を持ち歩くこ
とで完全な丸腰になることを避けたのと同様に。イサトさんは、イ
ンベントリへのアクセスするポイントになるポーチを、今回付き人
として同行してくれていたレティシアに持たせていたのだ。舞踏会
に参加するカップルが、付添人やメイドにちょっとした荷物を持た
せるのは珍しくない。それ故に、レティシアに対してはノーチェッ
クだったのである。そもそも、ポーチ自体は何の変哲もない普通の
ものだ。あくまで、俺やイサトさんが所持することでインベントリ
へのアクセス口にすることが出来るだけ、なのだから所持品を確認
されたところで引っかかるようなものは入っていない。
俺が﹃家﹄から大剣を引き抜いている間に装備の変更を終わらせ
ていたイサトさんは、ドレス姿から一転、ナース服へと姿を変えて
ブルークォーツローズ
いる。ただいつもと違うのは、イサトさんの髪がドレス姿のときと
変わらず結われたままで、その手首を未だ蒼薔薇水晶の花飾りが彩
っていることだろう。
924
コントロール
ファンクションファンクション ファンクション
﹁セット Ctrl3、F1、F2! F3!﹂
素早くイサトさんが手にした禍々しいスタッフを一閃すると同時
に、蒼白い光が冷気を伴って俺の視界を彩る。礫のように飛んだ氷
が今にも空中から貴族へと襲いかかろうとしていたドラゴンフライ
の羽を撃ち抜き凍てつかせ、床を走った氷の蔦が周囲にいたデスゲ
イルやリルドラコを絡めとって足止め︱︱⋮どころかそのまま氷結
粉砕。きぃん、と澄んだ音をたてて砕け散った氷に、周囲の気温が
数度下がったような気がする。
一方俺もそんなイサトさんの活躍をただぼんやり眺めていたわけ
ブルークォーツロ
ではない。革袋からインベントリにアクセス、手早く装備を切り替
ーズ
える。イサトさんと違って、ウェストコートに差していた蒼薔薇水
晶の花飾りは流石にそのまま残すことは出来なかった。
それを、少し惜しいと思ってしまったあたりなんというかかんと
いうか。
と、そこで。
がし、とイサトさんに腕を取られた。
ファンクション
﹁イサトさん!?﹂
﹁F1!﹂
﹁わあ!?﹂
イサトさんがスタッフを振り抜くと同時に、氷の蔦が床を走り変
態エルフへと迫る。が、それでおとなしくやられる変態エルフでも
なかった。バックステップで背後に飛ぶと同時に、貴族の紳士より
奪い取ったステッキを足もとに迫っていた氷の蔦へと突き立て、
﹁ディネーション!﹂
925
その声と同時にぱりん、とステッキの足もとから這い上がってい
た氷の蔦が砕け散った。
﹁ちッ﹂
イサトさんが忌々しげに舌打ちする。
俺は逆に、少し感心したように息を吐いた。
ディネーション、というのはエルフが得意とするサポート魔法の
一つだ。その効力は﹁中和﹂。本来の使い方としては、睡眠や石化
といった状態異常を治療するために使われることが多い。が、この
魔法、タイミングさえ上手く合せられれば、敵の放った攻撃魔法を
カウンターで打ち消すことも可能なのだ。
ただし、かなりタイミングを合わせるのが難しい上に、間違えれ
ばただMPを無駄に消費した上に敵の攻撃を直で受けるだけになる
ので、なかなか使いどころが難しい。それをこの変態エルフは、本
来スタッフではないステッキで発動させた上に、上手くタイミング
を合わせてイサトさんの攻撃魔法を打ち消して見せた。まあ、その
反動でステッキ自体も中ほどから折れてしまってはいるのだが。
﹁ああびっくりした﹂
変態エルフが大げさな仕草で胸を撫で下ろす。
﹁お前、何のつもりだ﹂
低く、問う。
俺の問いに、その男は気持ちの良い昼下がりにどこに行くのかを
訪ねられたかのような気軽さで、口を開いた。
926
﹁ちょっと、セントラリアを終わらせようと思って﹂
﹁っ⋮⋮﹂
何を馬鹿なことを、とは笑えなかった。
今俺の目の前では、それを笑い話に出来ないだけのことが起きて
しまっている。 本来ならモンスターが存在出来ないはずの、安全
圏であるはずの場所に現れたモンスターの群れ。﹃女神の恵み﹄を
手に入れることが出来なくなって久しいこの世界の人々は、これま
で街を生活の場にすることで守られてきた。モンスターと対峙せず
とも生きていく術に縋ってこれまでやってきてしまった。そんな中
に今、モンスターの群れが解き放たれたのだ。
広間の外からも、声がする。
悲鳴が。
怒声が。
街のあちこちから響く。
強く奥歯をかみしめる。
この男が﹃竜の牙﹄を持ち込んだのは、この広間だけではなかっ
たのだ。
宝石のよう加工された﹃竜の牙﹄はセントラリア中にバラまかれ
ていた。
﹁⋮⋮何でだよ。なんで、セントラリアを終わらせようとする﹂
﹁世界を、救うために﹂
軽やかに、男は答えて笑った。
﹁どこにも正義の味方がいないのなら、俺がやるしかないじゃない
?﹂
﹁ふざけんな﹂
927
﹁俺を止める?﹂
﹁止めてやる﹂
﹁まあ、仕方ないかもね。俺は正義の味方で、君たちはわるものな
のだから﹂
すう、と幻覚魔法を使ってのカモフラージュを解いたのか、男の
手の中にすらりとした細身のスタッフが現れた。うっすらと銀の光
を纏う優美なラインは、イサトさんの手にする禍々しいスタッフと
は清々しいほどに対照的だった。
﹁イサトさんは、街にでてモンスターの駆除を頼めるか? 俺は⋮
⋮﹂
こいつを止める、と大剣を腰だめに携えて変態エルフに向かって
踏み込もうとする。エルフにしろダークエルフにしろ、魔法職が物
理攻撃に弱いのは定説だ。ここは俺が変態エルフを担当し、イサト
さんには街の人たちの保護と、モンスターの駆除を頼みたい。
﹁って⋮⋮ッ﹂
ファンクション
ずずずずず、と俺の腕を捕まえたままのイサトさんを引きずりか
けて慌ててストップ。
﹁ちょ、イサトさん何!?﹂
﹁いいからちょっと待って、あとお前もそこから動くな! F4!﹂
イサトさんが早口にスキルを発動させると同時に、馬鹿でかい氷
柱が床を突き破って出現した。しかし残念、変態エルフには当たら
ない。いや、違う。最初から当てる気がないのか?
928
ファンクション ファンクションファンクションファンクション
﹁F5! F4!F5、F4!﹂
スキルのクールダウンタイムを計算に入れて、イサトさんは上下
のコンビネーションで次々と変態エルフを囲い込むような形で氷柱
を突き立て、突き上げ、その逃げ場を奪って行く。直接当てにいっ
ているわけではないため、変態エルフとしても接触のタイミングで
のディネーションという手を封じられている形だ。
﹁ウォーター!﹂
イサトさんは続いて生活魔法のウォーターを発動。
氷柱の隙間を埋めるようしとどに水が滴ったところにブリザード
をぶつければ、キンキンに凍った氷の檻が完成する。
それを横目に、イサトさんは俺の手を引いて正面の踊り場へと突
き進んだ。
そこには、逃げようとした姿勢のまま固まっているシェイマス陛
下と、先ほどちらりとレティシアに紹介された司祭長、そしてそん
な二人を庇うように立ちはだかる騎士が数人剣を構えている。騎士
たちはずんずんと歩み寄るイサトさんに対しても身構えるものの、
イサトさんは一切気にした様子を見せない。
ファンクションファンクション ファンクションファンクションファンクション ファンクションファンクションファンクション ファンクション
﹁イサトさん⋮⋮!﹂
﹁F1、F2! F3!F1、F2! F3!F1、F2! F3
!﹂
イサトさんは俺の問いかけに答えないまま、広間を振り返って貴
族たちに襲いかかろうとしていたモンスターたちに向かって弾幕の
ような氷雪系攻撃魔法を浴びせた。間断なく飛び交う蒼白いエフェ
クトが、次々とモンスターを撃破していく。これ、俺の出番なくな
いか。
929
仕方ないので、貴族の誘導を引き受けることにした。と言っても
片腕はイサトさんに取られたままなので、せいぜい出来るのは声を
あげることぐらいである。
﹁ここは俺たちが引き受ける! 今のうちに早く逃げろ!﹂
﹁っ⋮⋮!﹂
﹁外だ! 外に逃げろ!﹂
おそらく外にもモンスターはいるだろうが、多少広いとはいえ逃
げ場のない密室でモンスターとともに閉じ込められているよりはマ
シだ。
弾かれたように、わあわあきゃあきゃあと悲鳴をあげながら貴族
たちが広間から逃げ出していく。イサトさんの攻撃を警戒している
のか、モンスターたちは逃げる貴族連中を追うよりも、こちらに気
を取られている。
と、そんな中で。
﹁陛下、こちらです!﹂
騎士が誘導の声をあげ、先陣をきってシェイマス陛下を安全な二
階へと誘導しようとした。ああ、と頷いた陛下が、司祭長とともに
よろよろと体を支え合いながらそれを追おうとして︱︱⋮たぁん、
と澄んだ音が響く。
イサトさんがスタッフの石突にて、シェイマス陛下のマントを床
に縫い留めたのだ。がくん、とのけぞるようにして陛下の動きが止
まる。
ああもう、何考えてるんだこの人!
﹁陛下、お願いがあります﹂
930
﹁な、なんだ﹂
﹁今すぐ、褒美をいただけますか﹂
﹁こんな時に何を言っておるのだ!﹂
﹁陛下のお力が必要なのです﹂
﹁なんだ、申してみよ!﹂
癇癪を起したような陛下の声に、イサトさんはずいと俺を隣へと
引き寄せた。
なんだ。なんなんだ。
イサトさんは何をしようとしている?
それに、どことなくイサトさんの目がスワってるようなには気の
せいか。
イサトさんはひたりと陛下を見据えて、口を開いた。
﹁この場で、今すぐ、彼と私の婚姻を認めていただきたい﹂
﹁は!?﹂
完全に予想外だった。
素っ頓狂な裏返った声が出る。
﹁こ、ここここ、こここ﹂
﹁鶏か君は﹂
﹁だ、だだだってイサトさん婚姻って!﹂
﹁薬指洗って待ってろって言ったのは君だろうが!﹂
﹁俺だけど!!﹂
なんだこの超展開。
見れば、陛下もポカーンと口を開けたまま動きを止めている。
﹁陛下!﹂
931
﹁わかった認める!﹂
﹁よし。では司祭長も承認いただけますか﹂
﹁わ、わかった﹂
陛下の許しを得た今、司祭長が首を横に振る道理もない。
ごにょごにょと早口に祝福の言葉を司祭長が口にするのを見届け
ると、イサトさんはようやくスタッフを持ち上げて陛下を解放した。
﹁では、陛下も司祭長もどうぞご無事で﹂
﹁⋮⋮ッ!﹂
もはや、陛下と司祭長のイサトさんを見る目は狂人を見るそれで
ある。
が、イサトさんはやっぱりそんな眼差しをも華麗にスルー。
俺の左腕を捕まえていた手を、そのまま滑らせて俺の手を取り。
インベントリから取り出した光る銀の環を、さも当然のような流
れで、俺の薬指へと潜らせた。
﹁⋮⋮ッ﹂
かあと顔面に熱が上る。
左腕を捕まえていたのは俺が利き手の右に大剣を持っていたから、
というだけじゃなかったんだな、とか。普通そういうのは男の俺か
らやるもんじゃないのか、とか。そんなよくわからない感想がぐだ
ぐだと頭の片隅で煮えていく。
そんな中、ふと。
﹁︵秋良青年︶﹂
﹁︱︱へ﹂
932
イサトさんの声が、耳元で響いた。
けれど、まっすぐに俺を見つめるイサトさんの口元は動いていな
い。
これ、って。
﹁︵聞こえてるか? おーい。やっぱりダメか︶﹂
﹁︵や、ダメじゃない。聞こえてる︶﹂
﹁!﹂
応答するよう脳内で呟いた言葉が届いたのか、イサトさんの肩が
びくりと小さく揺れた。
これはもしかしなくとも。
RFCの結婚システムに乗っ取ったチャットツール特典、という
ことで良いのだろうか。
﹁︵え、でもなんで︶﹂
俺はイサトさんに指輪を贈っていない。
﹃結婚﹄に必要な条件は互いの指輪の交換と司祭による祝福だ。
どうして、条件が満たされていないはずなのに結婚が成立した?
ブルークォー
全力で戸惑う俺の目の前で、イサトさんの口角がくう、と持ち上
がる。
にんまりと、悪役めいた︱︱⋮悪戯っぽい笑み。
ツローズ
そして、イサトさんが翳してみせた左手首には俺が贈った蒼水晶
薔薇の花飾りが揺れている。その花飾りを止める銀の金具はイサト
さんの左手の薬指に︱︱⋮⋮って。
﹁それか⋮⋮!!!﹂
933
ブルークォーツローズ
思わず声をあげた。
俺が、贈った蒼水晶薔薇の花飾りが﹃結婚﹄システムに不可欠な
指輪として認識されたが故の、﹃結婚﹄の成立だった。
﹁︵その指輪、君の魔法防御の底上げと幻惑魔法への耐性効果つけ
てある︶﹂
﹁︵そんな指輪一体どこで︶﹂
﹁︵⋮⋮作った︶﹂
﹁は!?﹂
やっぱり声が出た。
作ったってどういうことだ。
イサトさん、アクセサリ制作スキルなんて持ってたっけ?
﹁⋮⋮君が、あの野郎の幻惑にほいほい引っかかったりするから。
突貫でスキル鍛えて作ったんだよ﹂
言い訳のよう、ぼそりとイサトさんが言う。
また余計なスキルを育てて、と俺に怒られることを覚悟したよう
にふいっとその金色の視線が泳いでいる。
﹁︵でも⋮⋮何か気恥ずかしくて渡せなかった︶﹂
﹁︵でも、それで秋良を危ない目に合わせるくらいなら︶﹂
頭の中に響く恥ずかしそうな声は、きっとおそらく、本来ならイ
サトさんが心の中で呟いただけのものだ。それが、指輪を通じて頭
の中に声として伝わってくる。
﹃なあ、イサトさんはこの後どうするかとか考えてる?﹄
934
﹃私は特には。ああ、少しスキル関係で試したいことがありはする
が、そっちは一人でも出来ることだからな。君に何か予定があるな
らつきあうよ﹄
舞踏会の支度をする直前、イサトさんの言っていた言葉を思い出
す。
続いて、レブラン氏との会話も。
﹃君たちは本当そっくりなコンビだな﹄
﹃先ほど君の連れのお嬢さんは塗っていたが﹄
これ、だったのか。
イサトさんが俺に隠れて何かこそこそしているな、と思っていた
のは。
俺に内緒で。
こっそり。
こんなものを。
︱︱左手の薬指に、きらりと光る銀の環。
するりと、イサトさんの手が俺の腕から離れていく。
﹁︵これで、君にあの変態を任せられる︶﹂
﹁︵おう︶﹂
ぐ、っと大剣の柄を強く握りしめて、振り返る。
貴族たちが逃げた後、広間にはところどころ割れたグラスが転が
935
り、料理の皿は散り、モンスターは未だ唸りをあげてこちらを睨ん
でいる。
そしてその中央に、氷の檻。
みしり、ぴしりぴしりと内側からの圧に爆ぜそうに揺らいでいる。
がきりと一際大きな音が響いて、氷の檻の内側から俺の腕ほどは
あろうかという鋭い爪が飛び出してきた。
おいおい。
中にいるのはなんなんだ。
閉じ込めたときには変態エルフだったはずなのだが。
ずる、と爪が内側に引っ込む。
穿たれた孔の隙間から、黄金に燃える瞳孔の細く尖った爬虫類の
眸が覗く。
そして再び、がきんと耳を劈く轟音が響いて鋭い爪が突き出る。
びきり、ばきり、氷の檻が割れる。
﹁︵秋良青年︶﹂
少しだけ、イサトさんの声が少しだけ不安そうに響く。
俺はちらりとイサトさんへと視線をやって、フンとわざと強気に
鼻を鳴らした。
この氷の檻から何が飛び出してくるとしたとして。
後は。 ﹁ぶちのめすだけだ﹂
にぃ、と悪い笑みに口角を釣り上げて。
俺は、ゆっくりと大剣を担いで前に一歩踏み出した。
936
銀環︵後書き︶
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937
セントラリアの竜退治
﹁ッし!﹂
鋭い呼気と共にがたりみしりと内側から爆ぜそうに暴れる氷の檻
へと、思い切り振りかぶった大剣を叩きつける。
ばきん、と澄んだ音がして分厚い氷が砕け、細かく散った氷の欠
片がぴしぴしと腕を掠めていった。既に内側から崩壊寸前だった氷
の檻が、大剣の一撃でボロボロと崩壊していく。
叶うことならば中身ごと叩き斬る気は満々だったのだが、残念な
がらそう上手くはいかなかった。ぎぃん、と硬い感触が手に返る。
飛空艇やら壁やらモンスターやら、大概の相手をさっくり両断して
きたこの大剣を弾くとは大した硬さだ。
まるで繭の中から蝶が羽化するように、崩れた氷の檻の中から、
抑えつけられ拘束されていた白銀の皮膜翼がばさりと伸ばされる。
すらりと長い首が天を仰いで、耳を劈くような咆哮を上げる。
氷の檻の中から姿を現したのは、吹き抜けのホールの中にギリギ
リ納まるような巨大なドラゴンだった。
西洋型ドラゴンによくあるような下肢がでっぷりしたフォルムと
は異なり、どちらかというと瑞獣麒麟によく似た形だ。馬に似たど
ちらかというと細身の体に、鬣のような鰭がその後頭部から尾まで
をうねり、背からは巨大な皮膜翼が伸びている。馬と違うのはその
全身が真珠のような煌めきを帯びた鱗で覆われていることと、鬣が
毛ではなく鰭だということぐらいだ。あと、大きさ。
﹁﹃竜化﹄スキルか⋮⋮!﹂
938
隣でイサトさんがつぶやく。
その声にどこか羨ましそうな響きが混じっているのは、たぶん俺
の気のせいではない。
﹃竜化﹄というのは、いわゆる最強技の一つだ。
RFCにおいて、専門職には各自最強スキルが設定されている。
ある種の魅せ技だ。イサトさんが飛空艇を墜とすのに使った大魔法
のよう、MP大量消費必須で連発が難しい上、中には一日の使用回
数に制限がかかっていたりすることすらあるものの、いざ使えば最
強の必殺技として炸裂するようなスキルだ。
そういった最強スキルは各ジョブごとに設定されているのだが︱
︱⋮その中で少し特別なのが、﹃竜化﹄だ。
この﹃竜化﹄スキル。
自らをドラゴン化させて戦うというかなり他ジョブから見るとイ
ンチキだろうと言いたくなるような強力スキルなのだが︱︱⋮、な
んとエルフの召喚士しか手に入れられないスキルなのである。
元々召喚魔法と精霊魔法はエルフとダークエルフにしか使えない
スキルで、エルフが召喚魔法向き、ダークエルフが精霊魔法向きと
いうステータスの差はあったものの、この﹁最強スキル﹂が導入さ
れるまではそこまではっきりとした種族特性の差はなかったのだ。
イサトさんのようなダークエルフで召喚士も少数派ではあったもの
の幾らかいたし、その逆にエルフの精霊魔法使いだっていた。
おかげで、この﹁最強スキル﹂の詳細情報が判明したときのそう
いった捻くれたキャラメイクをして楽しんでいたある種の縛りプレ
イサトさん
イ組の阿鼻叫喚っぷりときたらそれはもう凄かった。
おっさんもその中の一人である。
939
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イサト:⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
リモネ:だから召喚士やるなら素直にエルフにしとけとあれほど。
イサト:だが召喚魔法特性持ってるのはエルフとダークエルフの
イサト:両方だったじゃないか!!!!!! 何故!!!!!
イサト:今更!!!! ここで!!!!
イサト:エルフとダークエルフの種族特性に差をつける必要が!?
アキ :どうどう落ち着けおっさん
イサト:これが落ち着いていられるかこんちきしょう
イサト:俺はダークエルフを辞めるぞォオオオオ!!!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イサトさん
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
あの頃のおっさんはかなり本気でキャラを作り直すかどうかを悩
んでいた。実際、ダークエルフで召喚士をやっていた人の多くが、
イサトさん
そのタイミングでキャラを作り直していたように思う。
そんな中で、おっさんは悩みに悩み、結局ダークエルフで召喚士
を貫くことにしたのだ。
そんな経緯があったからだろう。
おっさんの変態エルフが﹃竜化﹄したドラゴンを見る目には、ど
こか羨望の色が滲んでいる。 ﹁竜化したエルフが相手なら、私もここに残ろう﹂
940
イサトさんが、スタッフを携えて俺に肩を並べる。
が、俺はそれに首を横に振った。
﹁大丈夫、ここは俺一人でなんとかなる﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁任せろって﹂
広間の外から響く混乱の喧騒は、未だ止まない。
きっと街の中も、酷いことになっているのだろう。
俺だって、出来ることならイサトさんとの別行動はなるべく避け
たい。
出来ることなら、俺の守れる範囲にいつだっていて欲しいとは思
っている。
けれど、脳裏に浮かぶのは俺たちがこの街にやってきてから関わ
ってきたセントラリアの人々の顔だ。
エリサ、ライザ、レティシア、レブラン氏やその家族、宿屋の女
将にいつも食べにいく食堂の主人。
そんな彼らの身に、今危険が迫っている。
それを助ける力が俺たちにはある。
それに︱︱⋮⋮、ちらりと俺は左手の薬指に嵌る銀環に視線を落
とす。
別行動をフォローするための手段も手に入れた。
﹁何か危ないことがあったら、すぐ連絡くれ﹂
長くなりそうな追加事項は、指輪越しに伝える。
﹁︵イサトさん、自分が紙装甲なの忘れるなよ。基本は敵の攻撃範
囲に入る前に撃ち落とす方向で。ちょっとでもダメージ喰らったら
941
すぐに戦線を離脱して小まめに回復するように。ポーション使い惜
しんだりもするなよ。また集めに行けばいいだけなんだから。無理
厳禁。イサトさんの手に負えないようなのがいたり、万が一ヌメっ
としたのが出てきたらすぐに連絡くれ。こっちの戦況がどうだろう
がすぐ駆けつける︶﹂
﹁︵⋮⋮⋮⋮︶﹂
何故か、微妙に呆れたような気配が伝わってきた。
﹁⋮⋮君本当、過保護だよなあ﹂
﹁だから誰のせいでこうなったと﹂
イサトさんがこれまでやらかしてきた前科の数々を思い起こして
いただきたい。
本当なら、本気で別行動なんて不安で仕方ないのだ。
﹁君の方こそ、無理はしないように﹂
﹁了解﹂
イサトさんがたっと身体を翻す。
それに反応したようにドラゴンが鋭く踏み込み前足を振り上げる
ものの、その鋭い爪がイサトさんに届くより先に導線に飛び込んで
大剣で爪を弾いた。ぎぃん、と鈍い音が広間に響く。
﹁お前の相手は俺だっての⋮⋮!﹂
そんなことを言いつつ、前脚を弾いた大剣の返す刀でその足の付
け根へと斬撃を叩きこんだ。が、当たりは浅い。巨躯が嘘のように
身軽に飛び退る。と言っても、俺にとっては広々としたホールもド
ラゴンにとってみれば手狭だ。逃げ場が少ないという意味ではお互
942
い様だが、小回りが利く分俺の方が有利だ。
お互いの距離は2メートル前後。
その距離で、ドラゴンが身を低く伏せて天を仰ぐ。
﹁ッ⋮⋮!﹂
その体勢には見覚えがある。
ブレスか、咆哮か。
﹁グァアアアアアオオオオオオオオオオウ!!﹂
耳を劈く咆哮。
音、であるはずなのにそれがまるで物理的な衝撃を伴っているか
のように体が斜めに傾ぎそうになる。キィンと頭の奥が痺れて、眩
暈を感じる。身体が動かない。咆哮に状態異常系の効果を乗せてい
るらしい、と気づいたときには、もう目の前にドラゴンの牙が迫っ
ていた。避けるタイミングは外した。爛と燃える灰蒼の眸に浮かぶ
のは、血に飢えた獣の嗜虐性。大きく開いた顎が俺を捕えようと迫
る。ぶわりと熱い息が肌に届く。そして、その鋭い牙が俺の身体に
届かん、というところで。
﹁︱︱⋮う、らァ!!﹂
気合一閃、くん、と跳ねあげた大剣でもってその上顎を下から薙
ぎあげる。
硬い鱗に覆われた表皮とは異なり、ぞぶりと大剣の先が肉にめり
込む感触が柄を握る腕にも伝わってくる。このまま深々と貫いてや
りたいところだが、そこで相手が身を引けば大剣を奪われかねない。
ドラゴンにダメージを与えられるレベルの武器に他にも持ち合わせ
があればそうしてやっても良かったのだが。
943
先ほどの咆哮とは違い、純粋に苦悶の声をあげながらのけぞるド
ラゴンに向かって、にんまりと口角が持ち上がった。
﹁残念だったな﹂
俺はこれまで二度、あの変態エルフの幻惑魔法にひっかかってい
る。
だからこそ、こいつはきっと俺にその牙が届くと確信していたは
ずだ。
実際これまでの俺なら、竜化した変態エルフのステータスで繰り
出される状態異常に抵抗することは出来なかっただろう。
状態異常で動きを止めてからの咬みつき。
これがきっと、あの変態エルフの必勝パターンだ。
けれど、俺にはイサトさんから貰った指輪があった。
俺自身の魔法防御の底上げと、幻惑魔法への耐性を付加するこの
指輪のおかげで、動きを止められたのは一瞬。すぐに体勢を立て直
して反撃に出ることが出来た。
﹁︵ありがとな、イサトさん︶﹂
﹁︵へ?︶﹂
おっと。
今は伝えるつもりのなかった言葉まで、うっかり伝わってしまっ
た模様。
これ、連絡を取り合うのには便利だが、上手く調整しないと考え
ていることがダダ漏れになりかねない。
﹁︵大丈夫か?︶﹂
﹁︵おう︶﹂
944
気遣わしそうなイサトさんの声に頷いて。
俺はのけぞり、苦鳴の声をあげるドラゴンへと鋭く踏み、前脚を
薙ぐように大剣を振り抜いた。ぎぃん、と弾かれるのは初撃と変わ
らないものの、打撃のダメージに白銀の鱗が白く濁ったように曇っ
ているのが見てとれる。こちらの攻撃が全く通っていないというわ
けではないのだ。
﹁っと⋮⋮!﹂
鋭いターンと同時に、振り回された白銀の尾が眼前に迫る。
慌ててバックステップと同時にのけぞって避けるものの、たなび
く尾鰭の掠めた頬に熱感が生じた。触れた指先に、ぬるりとした感
触。痛みを感じるのはそこでようやくという切れ味の良さに、思わ
ず口元が引き攣った。
尾鰭が掠めただけでこの有様だ。
流石はドラゴン、一発でもまともに喰らえばこちらが細切れにさ
れかねない。
ああでも、そのスリルにぞくぞくと背骨が熱くなる。
喰うか喰われるか。
たぶん、今俺は笑ってる。
尾鰭が過ぎた後、前のめりに身を低く構えての疾駆。
足もとに飛び込んで、ドラゴンの軸足を強かに薙ぎ払う。
﹁ギャォオオオオオオオオオオオロウ!!﹂
悲鳴にも似た雄叫びに空気がビリビリと震える。
苛立ちのままに踏み鳴らすようなスタンピングが来ると同時に飛
び退って足元からの退避。鋭い爪に踏みしだかれた床はすでにボロ
ボロだ。
まずは、あの爪から貰おう。
945
★☆★
夜、目が覚めたら街がとんでもないことになっていた。
どこもかしこも煩くて、窓から見える夜空がぼんやりと赤く染ま
っている。
何かが焼ける嫌な臭いがする。
﹁お姉ちゃん⋮⋮?﹂
﹁ライザ、起きたのか﹂
﹁うん﹂
まだ少し眠い目をこすりながら、僕は身体を起こす。
お姉ちゃんや、大人たちは最初からまだ眠っていなかったのかバ
タバタと慌ただしげにしている。部屋の隅では、小さい子供を抱い
たおばさんたちがうずくまっている。何か怖いことが起きたのだと
946
いうことだけが、わかった。
﹁お姉ちゃん、何があったの?﹂
﹁⋮⋮、﹂
言葉にするかどうかを迷うようにお姉ちゃんの瞳が揺れる。
﹁お姉ちゃん﹂
きっと、知るのは怖い。
何か怖いことが起きている。
けれど、僕も強くなりたい。
お姉ちゃんに守られているだけじゃなくて、お姉ちゃんを守って
あげられるぐらい、強くなりたい。
お姉ちゃんはなおも迷うように少しの間黙っていたけれど、やが
て覚悟を決めたように口を開いた。
﹁街の中にモンスターが入ってきてる﹂
﹁え⋮⋮なんで、女神様に護られてるから、街の中にモンスターは
入ってこれないって⋮⋮!﹂
﹁わかんねえよ、そんなこと!﹂
街の外にさえ出なければ安全だって、ずっとお父さんやお母さん
にも言われてきた。街の外には恐ろしいモンスターがいるから、街
の中にいなさい、って。でも、その恐ろしいモンスターが街の中に
まで入ってきてしまったのなら、僕たちはどうしたら良いのだろう。
どこに隠れたらいいのだろう。
﹁みんなは?﹂
﹁父さんと母さんたちは教会の方で万が一に備えてる。オレたちは
947
危ないから奥にいろって﹂
﹁大丈夫なの?﹂
﹁ここまでは入ってこれねえみたいだ﹂
﹁そっか﹂
ほっと、胸を撫で下ろす。
お父さんとお母さんがついてるなら大丈夫だと、そう思うことが
出来た。
お父さんもお母さんも、この街では一番の狩人だ。
誰よりもモンスターのことをよく知っていて、その戦い方を知っ
ている。
街を守る騎士たちなんかよりも、ずっとずっと。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
窓の外から、怖がって、怯えて、泣く子供の声が聞こえた。
なんだかじっとしていられなくて、僕は立ち上がる。
窓辺から覗いた先に、逃げる途中で両親とはぐれたのか泣きじゃ
くる小さな女の子の姿が見えた。僕よりも、小さな子だ。わんわん
と泣きじゃくっている人間の女の子。見てるだけで、ぎゅうと胸が
苦しくなる。
ふらふらとした歩みで、廊下に出る。
教会では、大人たちが緊迫した顔でいつでも手が届くところに武
器を置いて待機しているのが見えた。教会の扉は、硬く閉ざされ、
その前にがバリケードが積み上げられているのが見えた。
外で、泣いているあの子がいるのに。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ライザ?﹂
948
どうしよう。
どうしよう。
これでいいんだろうか。
こうして、外で恐ろしいことが起きている中、僕はこうしてみん
なに守ってもらうだけで良いんだろうか。
僕は身体も強くないし、お姉ちゃんみたいに素早く動けるわけで
もない。
でも。
それでも。
だからって、何もしなくて良いんだろうか。
じりじりと胸が熱くなる。
何か、したい。
出来ることを、したい。
﹁っ⋮⋮!﹂
﹁おいライザ!?﹂
僕はお姉ちゃんの声を振り切って駆け出した。
﹁お父さん、お母さん⋮⋮!﹂
﹁ライザ!?﹂
﹁子供は奥の部屋でおとなしくしていなさい⋮⋮!!﹂
叱り飛ばす声に、びくりと身体が竦みそうになる。
お父さんやお母さんだけでなく、その場にいた大人たちの視線が
一斉に僕に集中する。きっとこんなことを言ったら怒られるだろう
って思う。もしかしたらお父さんやお母さんは、僕に呆れてしまう
かもしれない。自分では何も出来ない癖に、と思われてしまうかも
しれない。
震えそうになる足を踏ん張って、僕はきっと顔をあげてお父さん
949
とお母さんを見つめ返した。
﹁あの、ね﹂
﹁ライザ、ここは危ないから﹂
﹁エリサ、ライザを連れて奥の部屋に﹂
肩に、促すようにお姉ちゃんの手がかかる。
でも、動かない。
震える声で、口を開いた。
﹁⋮⋮外に!﹂
﹁ライザ⋮⋮?﹂
﹁外に、モンスターがいるんだよね?﹂
﹁⋮⋮ああ。でも大丈夫だ、父さんたちがここにいるから﹂
﹁⋮⋮うん。でもね、でもね﹂
僕は泣きそうになりながら言葉を続けた。
﹁お父さんたちがここにいたら、誰が外にいるあの子を助けてあげ
られるんだろ﹂
﹁⋮⋮っ!﹂
周囲の大人たちが息を呑む。
この街で一番強いのは、騎士たちなんかじゃないって僕は知って
いる。
僕たちを守るために、ずっと街の外でモンスターを相手に戦い続
けてくれた、本当に強い人たちを僕は知っている。
﹁ごめん、なさい﹂
950
ひくり、と喉が鳴る。
ちゃんと話そうと思うのに、声が震える。
凄く、勝手なことを言ってると思う。
お父さんやお母さんに危ないことをさせようとしてる。
ここにいたら皆無事に助かるかもしれないのに、わざわざ僕はみ
んなを危険に晒すようなことを言っている。
でも、僕には出来ないことでも。
お父さんやお母さんになら出来るかもしれない、って思ってしま
ったから。
﹁みんなに、危ないことしてほしくないって思うけど⋮⋮っ、でも
僕、何も出来ないのがすごく、悔しくて﹂
僕の声に応えるように、誰か大人の声が苦く呟くのが聞こえた。
﹁⋮⋮⋮⋮街の連中も、助けるべきだってお前は思うのか?﹂
誰の声なのかはわからない。
あんまりにも苦くて、掠れていて、薄闇の中から響くその声は、
僕の知っている誰の声でもないような気がした。
﹁⋮⋮もし、助けられるなら﹂
僕は、うなずく。
﹁アキラさんや、イサトさんが言ってた。
街の人たちが僕たちに意地悪をするのは、僕たちが怖いからだっ
て。僕たちが強くて、僕たちが怖いから、抑えつけて安心したいん
だって﹂
951
あの日、サンドイッチを食べながら二人が教えてくれたことを思
い出す。
あの時、僕はあの繰り返しは嫌だと思った。
僕たちが抑えつけられるのも、僕たちが抑えつけるのも。
﹁僕たちには、爪があって、牙もあるけど⋮⋮でも、手だって繋げ
るし仲よくなれるって言いたい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ぬ、と僕の前に影が差す。
お姉ちゃんがぎゅっと僕を庇うように強く肩を抱く。
おそるおそる顔をあげる。
僕を見下ろすお父さんの顔は影になって、どんな顔をしているの
かがよくわからない。それが、すごく怖かった。
﹁街の連中に良いようにされてる間、ずっといつか思い知らせてや
るからな、なんて思ってた。この爪が、この牙が、お前らが恐れる
それがどれほどのものなのか、いつか思い知らせてやるぞ、ってな﹂
低く唸るような声だ。
周囲の大人たちの影が、無言で同意するように頭を垂れる。
僕は目を伏せる。
やっぱり、駄目なのだろうか
今更街の人たちを助けたいなんて思うのは、みんなの気持ちを裏
切るようなことだったんだろうか。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ふ、っと笑うような気配がした。
お父さんの手が、僕の頭の上にぽんと乗った。
952
﹁お父、さん?﹂
﹁今こそ、その時かもしれないな﹂
そう言ったお父さんは、にんまりと強い笑みを浮かべた。
それから、﹁強くなったなあ﹂と笑って、くしゃくしゃと僕の髪
をかき撫でた。
﹁⋮⋮っ!﹂
それだけで、泣いてしまいそうなほどに嗚咽がこみ上げる。
でも、今は泣いてる場合じゃない。
僕はぐっと口をへの字にして、目元を腕で擦った。
﹁おい、希望者だけ俺について来い。モンスターを倒そうとは思わ
なくていい。ただ、逃げそびれてる連中をこっちに誘導するぞ﹂
﹁でもそれでこっちにまでモンスターが入ってきたら﹂
﹁そうならないように出入りは最小限に抑えるしかないだろうな﹂
﹁それなら奥の窓から出入りしたらどうだ﹂
﹁ああ、それなら⋮⋮﹂
大人たちが、わいわいと言葉を交わし始める。
なんだか、嬉しくなった。
僕はばたばたと走って奥の部屋に戻ると、イサトさんから貰った
ままになっていたアイテムを抱えて皆の元へと戻った。僕たちがギ
ルロイ商会の連中と戦えるようにとイサトさんが渡してくれたもの
だ。あの時は、ほとんど使うことが出来なかったけれど。
﹁お父さん、これも使って!﹂
﹁⋮⋮!﹂
953
僕は僕のやれることをしよう。
アキラさんや、イサトさんに胸を張って報告できるように。
★☆★
それはいきなりのことだった。
いつも通りの夜だったはずなのに、いきなり街のあちこちでモン
スターが阿呆のように発生したのだ。
﹁くそ、くそ、くそ⋮⋮!﹂
954
毒づきながら男は走る。
異変に気づいて、家族を教会に避難させようとしたところまでは
良かった。
だが、どうしても四つになる息子が見つけられなかった。
屋敷の中に秘密基地を作って遊ぶことに夢中になっていた息子は、
その日も母親が寝かしつけた後に部屋を抜け出してその秘密基地と
やらに隠れてしまっていたのだ。何も起きなければ、笑い話で済む
話だった。次の日の朝、母親が起こしにいって、あなた、あの子が
またいなくなってしまったの、なんてわざとらしい声で嘆いて。そ
れからみんなで探して、見つけて。そんな子供のころの思い出の一
つで終わるはずだった。何も、起きなければ。
妻に長女を託して先に逃がした後、ようやく空き部屋のベッドの
下で眠る息子を見つけたときにはもう手遅れだった。
街のいたるところでモンスターが蠢き、行く手を阻む。
モンスターはどうも、彼の目指す教会のあたりに多く集まってい
るようだった。
それもそうだろう。
街中の人間が女神の加護を求めて教会に集まっている。
餌になる獲物を求めて、モンスターが教会に集中するのも当然だ。
教会までたどり着ければ、神殿騎士に守ってもらえる。
街の騎士たちのほとんども、神殿こそを要として防衛ラインを敷
いている。
教会にさえ、辿りつければ。
腕の中に怯えた息子を抱きかかえて、男は走る。
こんなところで死にたくなかった。
特に、息子を抱いたままでは死んでも死にきれない。
せめて息子だけでも、助けたい。
﹁おとーさん、こわいよ⋮⋮っ﹂
955
﹁大丈夫だ、大丈夫だからな﹂
怖いものなど何も見えないように、己の肩口に息子の顔を押し当
てるようにして男は走る。
そうして走りながら、罰が当たったのかもしれないと思った。
男は、ギルロイ商会の商人だった。
あの夜、薔薇園にもいた。
長いことボスだと思ってついていった男が、とっくに正気を喪っ
ていたことにも気づかない自分の見る目の無さをあの夜思い知らさ
れた。
そして、自分たちが目先の欲に踊らされていた結果何が起きてい
たのかも。
暗く淀んだ地下室に閉じ込められ、昏い目をした獣人たち。
部屋の隅に無造作に積み上げられた遺品。
自分たちの犯した罪を、見せつけられた。
自分たちが何をしてしまったのかを、ようやく理解した。
ああ、けれど。
もしも女神が罪に値する罰を与えるというのなら、それは自分だ
けで良いはずだ。罪を犯したのは自分なのだから。どうか、罪のな
いこの子を巻き込む痛みを罪の対価にすることだけはやめて欲しい。
この子だけはどうか。
そんな思いを抱えて男は走る。
いつしか、背後を追う足音が近く聞こえていた。
がしゃりがしゃりと舗装された道を鋭い爪がひっかく音が男を追
い立てる。
生臭い吐息が首の裏にかかるのすら、感じられるような気がする。
心臓がガンガンと熱を吐き、耳の奥が痺れるように鳴る。
縺れる舌で、大丈夫だから大丈夫だからと繰り返しながら走る。
956
いや、もう走れているのすか危うい。
ただ、のたのたと追い立てられて前に進む。
ぜひゅ、と喉を鳴らして呼吸に喘いで見上げた先に、人影を見た。
両手に銀の刃を構えた細身の人影。
誰だ。
いや、何だ。
その人物の輪郭は、歪だった。
頭部にぴょこりと揺れるのは獣の耳だ。
その腰からにょろりと伸びるのは獣の尾だ。
﹁じゅう、じん⋮⋮?﹂
そこでようやく気付いた。
追われて逃げ惑っているうちに、男はいつの間にか獣人たちが暮
らす区域に迷い込んでしまっていた。普段なら決して一人では足を
踏み入れない場所だ。自分たちがいかに彼らに恨まれているのかは
わかっているつもりだった。ずっと心のどこかで、いつか復讐され
てもおかしくないと思っていた。だからこそ、余計に厳しく辛く獣
人たちに当たっていたのかもしれない。
背後のモンスター、前方の獣人。
どちらに命を奪われたとしてもおかしくない。
男はいつも獣人たちを率いて狩りに出かけては、彼らを虐げてい
たのだから。
この騒動のに乗じて、獣人たちに復讐されるならばそれは己の罰
として受け入れようと思った。
﹁でも⋮⋮、むすこ、だけは﹂
息子を抱いた腕を空に捧げる。
頭上から己を見下ろす獣人の男に向かって、子供だけは助けてく
957
れと乞う。
背後から自分に喰らいつこうとしているモンスターに引き裂かれ
ても構わない。己を睥睨する獣人の男に刺し殺されたとしても、そ
れだけのことをしたという自覚もある。
﹁むすこ、だけは⋮⋮!!﹂
その声に弾かれたように、獣人が軽やかに跳躍した。
鋭い銀の刃が見上げる男の眼前に迫る。
縦に裂けた細い瞳孔が、ぎらりと男を見据える。
そして。
﹁ぼさっとしてんじゃねえ、走れこのウスノロ!﹂
口汚く、罵られた。
﹁⋮⋮え﹂
獣人の着地点は、男の背後だった。
たん、と着地すると同時に振るわれた刃が、男の背に喰らいつこ
うとしていたモンスターの牙を弾く。
﹁その先にある教会が避難所になってる! 急げ!﹂
﹁あ、ああ﹂
助けられた?
獣人に?
頭の中に多くの疑問符を浮かべながらも男は言われた通りに走る。
確かこの辺りに今ではもう使われなくなった古い教会があったは
ずだ。
958
心臓が破れても良い。
この子を安全なところに。
そんな一心で男は走る。
﹁こっち⋮⋮! 急いで!!﹂
高い子供の声がした。
見やれば古びた教会の小窓から身を乗り出した獣人の少年が男に
向かって手を差し伸べている。
﹁この子を⋮⋮!﹂
腕に抱いていた子を差し出す。
﹁いや⋮⋮っ、おとーさんいや⋮⋮!!﹂
ぐずり、離れてたまるかとばかりにむしゃぶりつく細い手足を乱
暴に引き剥がして、目の前の少年へと託す。ずるりと息子の身体が
小窓の奥に引き込まれるのを見届けて、ようやくほっと息を吐くこ
とが出来た。
良かった。
息子は助かった。
﹁おじさんも早く!!﹂
鮮やかな赤毛の少年が、男へとも手を差し出す。
その手を取る。
小さな、子供の手だ。
人に比べれば幾分か鋭い爪を備えてはいるものの、未だ幼げな小
さな子供の手だった。それが懸命に男の腕を掴み、部屋の中へと引
959
き込もうとしている。
﹁あッ!﹂
ずるりと少年の身体が滑る。
男の重さに負けて、逆に少年の身体が教会の中から滑り出てしま
いそうになる。
そして、その背に向けて急降下する影とぎちぎちと鳴る不快な牙
の音に気付いた瞬間、男は力いっぱいその少年の腕を強く引き寄せ
ていた。
﹁ライザ⋮⋮!!﹂
窓の奥から悲鳴が聞こえる。
自分の息子でもない、しかも人間ですらない獣人の子を背に庇う
よう胸に抱きこんで男は蹲り︱︱⋮カッと蒼光が炸裂した。モンス
ターの牙が突き立てられることを覚悟した背に降りかかるのは、冷
気。
﹁⋮⋮⋮⋮?﹂
おそるおそる顔をあげた先に、美しい魔女がいた。
鷲の頭と翼に獅子の身体を持つ獣に跨った白を纏う魔女。
薔薇園でも彼の命を救うと同時に、妖しく冷たく艶やかに笑って、
彼の命に何の価値などないのだというように見捨てようとした。
冴え冴えつ煌めく銀の髪を結いあげ、手首に咲くのは薄ら燐光を
放つ淡い蒼の薔薇。その魔女が彼を見下ろして⋮⋮ふっと口元に笑
みを浮かべた。
﹁良かった、間に合って﹂
960
﹁イサトさん⋮⋮!﹂
﹁ライザも無事か?﹂
﹁うん⋮⋮!﹂
男の腕の中で、赤毛の少年が嬉しそうに笑う。
とん、と騎獣の背から降り立った魔女が彼の肩をいたわるように
叩いた。
﹁ありがとう、ライザを助けようとしてくれて﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ぽかん、と目が丸くなる。
憎まれているのだと思った。
恥ずべき人間だと思われているのだと思っていた。
じ、っと男は手を見下ろす。
﹁おじさん、早くこっちに﹂
﹁あ、ああ﹂
先に窓を身軽に上って教会の中へと戻った少年が、再びなんでも
ないように彼へと手を差し出す。その手をしっかりと握り返して、
男はようやく安全な空間へと逃げ込むことが出来た。
961
★☆★
イサトさんから連絡が来たのは、そろそろドラゴンとの戦闘も佳
境に入ろうかという頃だった。
爪は合計八本ぐらいはへし折ってやった。
ほとんど原型をとどめないぐらいに破壊尽くされた広間のあちこ
ちに、真珠色の爪が無残にも転がっているのが見える。
皮膜翼の片方も根本のあたりから折れている。アレではもう、飛
べないだろう。
⋮⋮といっても、俺も全くの無傷というわけにはいかないのだけ
れども。
先ほど爪が掠めた左腕は感覚がない。
だらだらと滴る鮮血が、床に赤い染みを作っている。
⋮⋮いや、ポーションを使えば良いのはわかっていたのだけれど
も。
なんとなく、意地になってしまったのだ。
タイマン勝負、というか。
ポーションやイサトさんの力を借りずに、俺の力だけであの変質
者を叩きのめしたかった。
962
﹁︵秋良? おーい︶﹂
﹁︵⋮⋮あ?︶﹂
﹁︵おいこら、秋良青年無事か︶﹂
﹁︵あー⋮⋮無事無事︶﹂
嘘である。
ドラゴンも俺も満身創痍もいいところだ。
今はお互い睨み合いつつも、次の手を考えている。
﹁︵そっちはどうなってる?︶﹂
﹁︵街の方のモンスターはほとんどは駆除できたと思う。今は騎士
たちがモンスターを炙り出して集団で叩いてる︶﹂
﹁︵⋮⋮了解︶﹂
どうやら、外の方はそろそろ始末がつきそうだ。
﹁おい、残念だったな。セントラリアはまだまだ、終わりそうにな
いぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
忌々しそうにドラゴンが低く唸った。
折れた皮膜翼を無理矢理にはためかせる。
ぶわりと吹き付ける強風に、顔をしかめた。
まだ飛びやがるかコノヤロウ。
逃げられないように、もっと丁寧に完膚なきまでにへし折ってく
れる。
俺はぐっと右手に力を入れて大剣を引き寄せて構えて︱︱⋮
じゃッ、と。
963
奇妙な音がしたのはその時だった。
﹁!?﹂
﹁⋮⋮ッ!?﹂
それは完全に不意打ちだった。
罅割れ、あちこちが陥没した床を滑るように漆黒の蛇が白銀の竜
へと襲いかかる。俺に集中していたドラゴンの傷ついた背や足に、
ヌメっとした質感の蛇が次々と喰らいつき、みちみちとその肉を噛
み裂いて行く。
﹁グルゥウウウウオオオオッ!!﹂
竜が、咆哮をあげる。
狂ったように暴れ、咬みついた蛇を振り落とそうとするものの、
黒い蛇はちっとも剥がれる気配がない。暴れ狂うドラゴンの背が壁
をぶち破り、のたうちながら庭へと墜ちて行く。なんだこれ。状況
が分からないまま、腹の底でぐるりと渦を巻くのは真剣勝負に水を
差された凶暴な怒りめいた感情だ。
﹁くっそ、邪魔しやがって﹂
﹁︵イサトさん︶﹂
﹁︵どうした?︶﹂
﹁︵ヌメっとしたのが出てきた。こっち、来れるか︶﹂
返事は、ばさりと頭上で響いた羽ばたきだった。
﹁︱︱もう、来た﹂
964
セントラリアの竜退治︵後書き︶
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965
おっさんの目標:生け捕り
﹁別れ際に私に言ったお小言はなんだったのか!﹂
﹁いやそれはなんていうかってかイサトさん前見て前!﹂
拾いにきてくれたイサトさんのグリフォンに乗せてもらったとこ
ろまでは良かったのだが︱︱⋮イサトさんがおこである。
⋮⋮見つかる前にポーション飲んでおこうと思ったのに、まさか
あそこまでタイミングよく迎えに来てくれるとは思っていなかった
のだ。イサトさんと来たらグリフォンにドラゴンの追跡を命じつつ、
ほとんど身体ごと俺を振り返って首を絞めそうな勢いだ。
﹁いやちょっと夢中になっちゃって﹂
﹁人にはポーションこまめに飲めとか言ってた癖に!﹂
﹁イサトさんはな。俺とイサトさんの防御力とかHPとか比較した
ら駄目だろ﹂
﹁そこ、冷静に言い返すんじゃありません!﹂
怒られた。
﹁迎えに来てみたらわりと君が血まみれでズタボロだったときの私
の気持ちも考えてくれ﹂
﹁それは⋮⋮、その。あー⋮⋮ごめん﹂
それに関しては悪かった、と思う。
確かに連れがそんな状態になっているのを発見したら動転するし、
俺だってイサトさんがそんな状態だったら大慌てだしガチで説教す
る。小一時間は固い。
966
インベントリから取り出した上位ポーションを取り出して飲み干
して、左腕がまともに動くようなるのを確認してからイサトさんの
持つ手綱へと手を伸ばした。じろり、と半眼のイサトさんと目が合
う。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁もう大丈夫だって﹂
﹁全く﹂
ぷんすかしつつも、イサトさんはようやく俺に手綱を任せる気に
なってくれたらしい。イサトさんは手綱から手を離すと、グリフォ
ンの首根に手をつくようにして身を乗り出した。
﹁どうなってると思う?﹂
﹁⋮⋮よくわからないな﹂
イサトさんの視線の先には、身体のあちこちに黒い蛇を張り付け
た白銀のドラゴンがよたよたと飛行する姿がある。なんとか黒い蛇
を剥ぎ落とそうと空中でもがいているものの、俺に痛めつけられた
分もあってなかなか上手くはいっていないようだ。
﹁あの変態エルフと、ヌメっとシリーズは別勢力ってことなのか?﹂
﹁仲間割れ、の可能性もあるよな﹂
うーむ、と二人そろって眉間に皺を寄せる。
俺たちは最初、あのヌメっとした黒い人型が飛空艇にモンスター
をおびき寄せ、襲わせたのだとばかり思っていた。だが、違った。
飛空艇を﹃竜の牙﹄でもってモンスターに襲わせ、墜とそうとした
のはあの変態エルフだ。だが、そうなると⋮⋮あの時俺たちが戦っ
たあのヌメっとした人型は、飛空艇をモンスターから守ろうとして
967
いたのか?
いや、違う。
それならあそこで、俺たちに仕掛けてくる必要はなかったはずだ
し、飛空艇をセントラリアに墜とそうとしたりなどする必要はなか
ったはずだ。いや⋮⋮待てよ? もしかすると、あのヌメっとした
人型がセントラリアに飛空艇を落とそうとしていた、という前提す
ら違っているのかもしれない。
今俺たちに見えているのは、セントラリアを滅ぼしたい変態エル
フと、そのエルフを襲う黒いヌメっとシリーズという構図だけだ。
それだけを見ると、ヌメっとシリーズはセントラリアを守ろうとし
ているようにも思えるが⋮⋮マルクト・ギルロイのことを考えれば
それはあり得ない。全体図に何が描かれているのかを把握するには
ピースが足りなすぎる。
考えれば考えるほどに、知らず眉間に皺が寄って行く。
﹁イサトさん、どうする?﹂
﹁うーん⋮⋮セントラリアの住民に被害が出ないなら、勝手にやり
あってろ、と言いたいところではあるな﹂
﹁確かに﹂
どちらの言い分もわからないまま、手を貸すのは危険だ。
自覚のないままに、何か取り返しのつかないことをしてしまいか
ねない。
それならば、このままあの白と黒の殺し合いを見届けるか。
﹁でも﹂
イサトさんが苦い口調で、俺をちょろっと窺うように口を開いた。
﹁あの変態エルフを生かしてとっ捕まえたいと思っている私がいる﹂
968
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
思わずしょっぱい顔になる。
﹁傷だらけになってまであのドラゴンを追い詰めた君からすると面
白くない話かもしれないけど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮や、逆だ。逆だからこそ思わずこんな顔してる﹂
イサトさんの口からあの変態エルフを助けたい、というような言
葉が出たことに対するあいつを助けたいのかよ、なんていう拗れた
思いは当然あった。だがそれ以上に、渡りに船だと思う自分に気づ
かされてしまったのだ。どうやら俺は、自分で思っていた以上にこ
のままあのエルフがヌメっとした生き物にやられるのを見殺しにし
たくないと考えていたらしい。
あの男は、確かに気に入らない。
イサトさんにちょっかいを出してきただけでも気に入らないし、
何度もおちょくるようにハメられているのも気に入らない。
だけれども、あの男は嘘はつかなかった。
イサトさんに対して、﹁好き﹂だの﹁愛してる﹂だの、そんな偽
りで絆そうとはしなかった。
﹃︱︱俺の子を産んでくれないか﹄
最初から清々しいほどの直球だった。
それはもしかするとただ単純に理詰めでエルフを救ってくれと訴
えた方が勝算があると判断した故のことだったのかもしれないが⋮
⋮それでも、情に訴えてイサトさんを騙そうとしなかったことに、
俺はなんとなく、あの男の矜持のようなものを感じてしまっている。
もちろんだからと言って、セントラリアを滅ぼそうとすることを
認められるわけもない。けれど、そこにも何か理由があるのではな
969
いかと思うのだ。あの男の中ではセントラリアを滅ぼすことが﹁正
義﹂に値するような理由が何か。
﹁まあ、事情を聞き出せるとしたらあいつぐらいしかいないもんな﹂
﹁おとなしく吐くかはわからないけどな﹂
﹁そこは吐かせよう﹂
吐かぬなら、吐かせてみせよう変態エルフ。
ヌメっとしたシリーズとはこれまで二度にわたって遭遇している
が、今のところ会話が成立した試しがない。それに比べたらセント
ラリアを滅ぼそうとしている危険人物とはいえ、まだあの変態エル
フの方が情報を聞き出せる可能性は高い。
﹁目標:生け捕り、で﹂
﹁了解﹂
ぱしりと手綱を軽く引いて、空中をのたうちまわる白銀のドラゴ
あぎと
ンへと接近する。苛立ちのこもった苦鳴の咆哮をあげながらドラゴ
ンは緩くその顎を開き⋮⋮
﹁ちょ⋮⋮ッ、あいつ何する気だ!﹂
﹁イサトさん、なんとか打ち消せるか!?﹂
﹁⋮⋮ッ!﹂
ドラゴンが見据える先にあるのは、石造りながらもデザイン性に
富んだ美しい建物︱︱⋮セントラリアの大聖堂がある。イサトさん
はスタッフを振り上げ早口にスキルを解き放とうとするものの、間
に合わない!
ドラゴンの喉奥から白々とした熱塊がせぐりあげ、高温のブレス
が大聖堂に向かって吐き出される。いくら堅牢な岩壁といえど、ド
970
ラゴンのブレスに耐え得るわけもない。俺は派手に崩壊する大聖堂
を脳裏に浮かべて唇を咬むものの⋮⋮ブレスが届いた瞬間、カッと
白い光が炸裂した。
﹁⋮⋮結界?﹂
﹁みたい、だな﹂
ドラゴンのブレスは大聖堂の岩壁に届くより先に、その表面に浮
かんだ光の膜によって弾かれ、虚空へと拡散していく。これはいわ
ゆる女神の加護、というやつなのだろうか。目を眇めた先、大聖堂
の出窓の奥に法杖を携え、こちらを見据える白く華奢な人影を見た
ような気がした。
﹁グゥルルルルルルォオオオオオオ!!!﹂
怒りに満ちた咆哮とともに、ドラゴンは幾度となく空中で身を捩
ってはブレスを吐く。が、その全てが危うげなく結界に弾かれ、虚
空に溶けていく。それでも、ドラゴンはブレスを浴びせ続ける。そ
の喉元から、しゅうしゅうと細く煙が上がっているのが見えた。
﹁アレ、持たないぞ﹂
﹁⋮⋮何考えてんだ、あいつ﹂
ドラゴンのブレスというのは、とんでもなく高温のビームだ。
とてもじゃないが生体が耐えられる温度ではない。
それは実はブレスを吐き出すドラゴンにしても同じだ。ドラゴン
だからこそ使えるとはいえ、連発すれば喉が灼けてダメージは自身
へと還る。RFC時代に戦ったドラゴンの多くは追い詰められると
オウンダメージ覚悟のブレスを連発してきたものだ。それ故に、サ
ポート系の魔法を得意とするエルフの中には、まずドラゴンを狂化
971
魔法をかけ、ブレス連発で自滅させるような戦い方をするものだっ
ていた。
だというのに、白銀のドラゴンはまるで己の身よりも大聖堂の破
壊を優先するかのように、苦しげに身を捩りながらもブレスを吐き
続ける。
喉が灼けてドラゴンが自滅するのが先か、その決死のブレスが大
聖堂に届くのが先か。⋮⋮おそらく、前者といったところか。
どうしたものかと考えあぐねる俺らの目の前で、状況に変化があ
った。
ドラゴンの右の後ろ足と尾に絡みついていた黒蛇の一部が、まる
で触手のように伸びあがってドラゴンの喉元に喰らいついたのだ。
﹁ゥグルゥ⋮!!﹂
黒の触手はブレスに灼かれることも恐れず、うねうねとドラゴン
の咥内にも滑り込んでいく。噛み千切ろうとドラゴンは暴れている
ものの、無理だ。あのヌメっとした物質は聖属性でなければダメー
ジを与えることが出来ない。
﹁ッ⋮⋮!﹂
考えるより先に叫んでいた。
﹁イサトさん、しゃらんら★貸してくれ!﹂
﹁君、何する気だ!﹂
振り返ったイサトさんと目が合う。
おそらくそれは刹那。
﹁ああもう、あまり無茶はしないように﹂
972
イサトさんは少し呆れたように息を吐きながらも、やけくそ半分
インベントリに手を滑らせ、しゃらんら★を寄越してくれた。なん
だかんだ言いつつも、俺の意図を組んでやりたいようにやらせてく
れるイサトさんはやっぱり度量が広いと思う。もし逆の立場だった
ら、俺はきっとイサトさんを行かせられない。
﹁︵あんがと︶﹂
﹁︵フォローはする︶﹂
そんなやり取りは指輪を通して。
しゃらんら★を受け取ると同時に、俺はグリフォンを駆ってドラ
ゴンの真上と接近した。そして、限界まで近づいたところで。
﹁派手な雷、準備しといてくれ!﹂
それだけ言って、グリフォンの背から飛び降りた。
浮遊感は短い。
狙い過たず、俺はドラゴンの首根のあたりに着地すると同時にし
ゃらんら★の石突をその喉元を浸食するヌメっとした黒に向かって
突き立てる。
﹁ギャゥ!﹂
何すんだテメエ、と言いたげな咆哮が短くあがるがスルーだ。
気にしてられるか。
ファンクション
﹁︵今だ!︶﹂
﹁セット3 F1!!﹂
973
俺の合図に合わせてイサトさんの放った雷撃がしゃらんら★に落
ちた。
ばちばちと荒れ狂う雷がしゃらんら★を媒体に滑りを帯びた黒に
走る。
ドラゴンの喉元を浸食していた黒がぼろぼろとそこから罅割れる
ように崩れて剥がれていくのに、思わず口角がにっと吊り上った。
一か八かではあったものの、しゃらんら★を通すことで聖属性を付
加出来ないか、という試みはどうにか上手くいった模様。が、未だ
ドラゴンの後ろ右足と尾を浸食する黒はそのままだ。細い蛇のよう
な黒が隆起しては、白銀の鱗に咬みついては潜り込み、じわじわと
範囲を広げていくのが見える。近くで見ると、よりおぞましい光景
だ。
﹁︵次は!︶﹂
﹁︵取りに来てくれ!︶﹂
﹁︵⋮⋮⋮⋮︶﹂
魔法少女な予感を察知したのか、少し厭そうな気配が伝わってく
る。
く、と俺は笑みを咬み殺しつつ、しゃらんら★をドラゴンの首か
ら引き抜いた。しゃらんら★が突き刺さった深度としては浅いので、
直接のダメージはそれほど与えていない⋮⋮はずだ。
﹁おい、聞こえてるか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ドラゴンの眸が俺を見る。
灰がかった蒼に縦に裂けた金の瞳孔。
獣の眸でありながら、確かな知性を感じさせる。
974
﹁お前を助けてやる。だから︱︱⋮おとなしく俺にぶった斬られろ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
グゥと鳴る喉の音が、おそらくは同意だった。
俺がイサトさんに向かってしゃらんら★を放り投げるのとほぼ同
じタイミングで、ばさりと羽ばたいてドラゴンが上昇を開始する。
傷つき、折れた皮膜翼でよくも、という勢いだ。風圧に息が出来
なくなりそうで、俺はドラゴンの首根に腕を回して身体を伏せた。
ば、と翼を大きく広げての安定は一瞬。
豆粒のように小さなセントラリアの街並みが眼下に広がる。
今更だが、何かとんでもないことをしようとしているような気が
してきた。
まあ、イサトさんのフォローを信じてはいるのだけれども。
ドラゴンがぐぅ、と大きく息を吸う。
そして︱︱⋮⋮、ド派手なサマーソルト。
身体にかかる遠心力に逆らわず、俺は腕を離す。
ポーンと高く虚空に放り出された先で俺はインベントリよりずら
りと大剣を引き抜いて携えた。こちとら空を飛ぶなんて器用な真似
は出来ないため、後はひたすら落ちるだけだ。自由落下に身を任せ、
轟々と唸るような冷たい風の中前のめり、こちらに向かって突っ込
んでくるドラゴンに向かって大剣を振りかぶる。
少しでもタイミングを間違えれば俺の一振りはドラゴンの首を刎
ね飛ばすし、万が一にでもあの野郎が裏切ってブレスでも吐いたな
らば、俺が消し炭となる。
ギリギリの綱渡りのような交錯の瞬間、俺を睨み据える竜の双眸
が笑ったような気がした。
﹁グルォオオオオオオオオオウ!﹂
ドラゴンが吠える。
975
鋭い牙が眼前で閃いて︱︱⋮その牙が俺を掠める寸前、ドラゴン
が無理矢理に身体をうねらせた。それは背面飛びのフォームにも似
た横回転。勢いのついたまま俺の振り下ろす大剣の先に差し出され
るのは、黒に浸食された右足と、尾だ。
﹁ゥ、ラァアアアアア!!!!﹂
俺も、吠える。
落下の勢いと、ドラゴンの特攻の勢いとをぶつけあった結果、ぎ
ちぎちばきばきと白銀の鱗を引き裂いて大剣がずぶりと肉にめり込
む。これだけ勢いをつけてもすっぱり両断といかないあたりが流石
ドラゴン。下手をすると逆に腕を持っていかれて肩がはずれそうだ。
ぎりぎりと音がするほどに奥歯を噛みしめ、大剣を持つ腕に力を込
める。
鬩ぎあいの果て、やがてぶつんと大剣が振り切った。
切断された右足と尾がくるくると舞いながら飛ぶのが見える。
﹁︵イサトさん⋮⋮!!︶﹂
﹁︵任せろ!︶﹂
応える声は、力強く。
仰向けに落ち続ける俺の視線の先で、ドリーミィピンクの光が二
度炸裂した。
ヌメっとした黒が声もなく塵に還る。
よし、上手くいった。
ほっと息を吐いて身体の力を抜く俺の耳に、迎えであろうグリフ
ォンの羽ばたきが聞こえる。
そして。
そんな俺の眼前にドラゴンの爪が迫った。
976
﹁この野郎﹂
﹁いや、だって君ら格好よすぎて。俺も何かしとこうと思ったんだ
よ﹂
﹁私、咄嗟に撃墜するところだったぞこのやろう﹂
場所は、セントラリアの北に広がる草原の片隅。
俺とイサトさんは、血まみれでへらりと笑う変態エルフを全力で
睨みつけていた。この男ときたら、イサトさんがグリフォンを駆っ
て俺を拾おうとする寸前に割り込んできたのだ。ドラゴンの右前足
で身体を鷲掴みにされたときには流石にここまでかと思った。が、
そのまま俺を握り潰すこともなく、ドラゴンはよろよろふらふらと
セントラリアからある程度離れたところで着地したのである。
自由落下から救ってもらったといえば感謝しなければいけないよ
うな気もするが、あの酷い着地を考えると恨み言の一つや二つ言っ
たところで罰は当たらない。尾と後ろ足の片方を失ってバランスが
977
取れなくなっていたのか、本当に酷い着地だったのだ。巻き込まれ
た俺は死を覚悟した。
ほとんど地面に突っ込むような着地を決めたまま動かなくなった
変態エルフの口にポーションをねじ込んだのがつい先ほどのこと。
どうにか失った部位を再生することには成功したものの、血を失い
すぎたのか未だ地面にへたりこんだままだ。
そんな有様でも、口元に緩く笑みを浮かべているあたりがこの男
らしい。
その眼前で仁王立ちして、イサトさんが口を開いた。
﹁君には全て吐いてもらうぞ﹂
﹁その前に、一ついいかな﹂
﹁⋮⋮なんだ﹂
﹁もう一歩ぐらい前に出てくれるとパンツが見える﹂
思わず相手が怪我人だということも忘れて全力で拳を振る下ろし
ていた。
ぎゃ、と悲鳴をあげて変態エルフが倒れる。そのままごろごろと
悶絶する暫し。やっぱりあそこで殺しておいた方が良かったかもし
れない。
﹁だからさ、君本当怖いからね。怪我人相手に容赦なさすぎだから
ね!﹂
﹁いいからさっさと全部吐けオラ﹂
我ながら荒んだ声が出たものだと思う。
俺とイサトさんの追求に、へらへらと笑っていた変態エルフは小
さく息を吐いた。それから、よろよろと身体を起こして口を開く。
﹁俺も使いっ走りだから、許可なく全てを打ち明けることは出来な
978
いんだけど﹂
﹁⋮⋮使いっ走り? 誰のだ﹂
さりげなくナース服の裾を抑えつつ、イサトさんが問う。
それに残念そうにしつつ、変態エルフは言葉を続けた。
﹁北の山脈に御座すお方﹂
冗談めかした言葉ながら、その灰がかった蒼に浮かぶ色がそれが
嘘ではないことを告げている。
北の山脈、と言えばヅァールイ山脈だ。
そこに御座すのは︱︱⋮
﹁黒竜王か﹂
イサトさんの言葉にエルフが頷く。
ヅァールイ山脈は高レベルのドラゴン系モンスターの巣窟だ。
そのエリアダンジョンの最奥に、黒竜王はいる。
それだけならただのエリアボスだが、実際のところヅァールイ山
脈のエリアボスはそのダンジョンを守護するクリスタルドラゴンだ。
黒竜王というのはモンスターでありながら、ゲーム内では人の言葉
を解し、冒険者に試練としてクエストを与える竜種を束ねる王とい
う設定のNPCだったのだ。確か、召喚士に竜化のスキルや、ドラ
ゴンを使役するための資格を与えるのがその役割だったはずだ。そ
う考えると、竜化スキルを使いこなすこの男が黒竜王に仕えるとい
うのもそれほどおかしな話ではないような気がする。だが、俺たち
が知る限り、黒竜王が人間を目の敵にしている、ということはなか
った。
﹁でもなんで黒竜王がどうしてセントラリアを滅ぼそうとしたりな
979
んかするんだ﹂
俺の言葉に、エルフが笑う。
そして、以前王城の広間でも言った言葉を再び繰り返した。
﹁︱︱世界を、救うために﹂
980
おっさんの目標:生け捕り︵後書き︶
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981
おっさんの離婚と再婚
﹁︱︱世界を、救うために﹂
そんなエルフの言葉に、俺とイサトさんは思わず顔を見合わせた。
俺たちの問いかけは﹁何故黒竜王がセントラリアを滅ぼそうとす
るのか﹂、だ。
それに対する答えが、﹁世界を救うため﹂?
意味がわからない。
どこでどういう因果関係が見当もつかない。
そもそも、一体世界を何から救おうというのか。
俺たちのいろいろと聞きたいことはあるものの、どこから手をつ
けたら良いのかわからないといった顔に、エルフは小さく喉で笑っ
て言葉を続けた。
﹁俺の口からはこれ以上は言えないかな。あとは直接本人、という
か︱︱⋮本ドラゴンの口から聞くと良いよ﹂
﹁ヅァールイ山脈まで来いってことか﹂
﹁来なくても別にいいよ?﹂
﹁その場合は?﹂
﹁セントラリアへの攻撃が続くね﹂
ぐ、と俺は半眼でエルフを睨む。
出来ればヅァールイ山脈には行きたくない、というのが本音だ。
ヅァールイ山脈というのは、ノースガリアのあたりにある高レベ
ルのドラゴン系モンスターによって構成されるMAPだ。その強さ
は、俺とイサトさんが二人で挑んだ新規MAPが導入されるまでは
982
RFCの最高難易度を誇っていた。
白く雪が積もったような山岳マップは、何の備えもせずに足を踏
み入れれば、ただそこにいるだけで吹雪による冷えでHPが削られ
ていくし、凍り付いた足場は酷く滑りやすい。
イサトさん
ゲーム時代、走ると滑るぞ、と言っているそばからモンスターに
追いかけられたおっさんが走って逃げようとしたあげく止まれなく
なって崖から落ちてご臨終なされた記憶はまだ新しい。
イサトさん
雪山に響きわたるおっさんの悲鳴とリモネの罵声⋮⋮。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
イサト:あっ
リモネ:だからwwwwww走るなつってんだろうが!
!!!
アキ:へ
リモネ:アキ、戻るぞ、馬鹿がまた死んだwwwwww
アキ:なんで!?
リモネ:雑魚に追われて身投げした
アキ:
イサト:大丈夫だ、そこで待っててくれ。
イサト:蘇生次第戻る。
五分後
イサト:あっ
983
リモネ:⋮⋮⋮⋮
アキ:⋮⋮⋮⋮⋮もしかしてだけどまた死んだ?
リモネ:HAHAHA★
リモネ:そんなまさかwwwwww一人でも戻ってこれ
るって言って五回目だぜwwwwwww
イサト:ごめんしんだ︵五回目︶
リモネ:なんでだよ!!!!!!!!!!
アキ:もういい。おっさん動くな。動くな。
イサト:はい
イサトさん
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
正直、ヅァールイ山脈のモンスターよりもおっさんを生かしたま
ま目的地であるダンジョン入口まで連れていく方が厄介だったよう
な気がしないでもない。
同じことを思い出しているのか、イサトさんの顔にもしょっぱい
色が浮かんでいる。
﹁あそこ、めっちゃ死ぬ⋮⋮﹂
﹁イサトさん実はゲーム下手だよな﹂
﹁⋮⋮ごり押しできないと詰むんだ﹂
前衛以上に脳筋なイサトさんである。
基本イサトさんの高レべルモンスター攻略はレベルを上げて火力
で押す、だ。
弱点を突いて、とか敵の行動パターンを解析して罠を仕掛けて、
なんて手の込んだことはせず、ひたすらレベルをあげて高火力での
984
一撃必殺でケリをつける。
RFCは基本進行方向をクリックするだけで自キャラがその方向
に進むというシンプルなタイプのゲームだったのだけれども、たま
イサトさん
にヅァールイ山脈のようなプレイヤースキルが試される系のMAP
やイベントが発生してはおっさんを苦しめていたのである。
﹁⋮⋮でも、行かないわけにはいかないよな﹂
﹁だろうなあ﹂
黒竜王の話を聞かないことには、どうしようもない。
何故、黒竜王はセントラリアを滅ぼそうとしているのか。
それによって世界を救う、というのは一体どういうことなのか。
ゲーム時代の黒竜王は、決して人間に対して敵対的なNPCでは
なかった。むしろ、冒険者に試練を与え、試練を乗り越えたものに
対しては新たな力を授けるサポート系NPCだったはずだ。
それがどうして、この世界において人と対立してしまっているの
だろう。
それを知るためにも、やはりヅァールイ山脈へ行かないわけには
いかない。
問題はイサトさんだが⋮⋮
﹁リアル雪山どうですか﹂
﹁滑って転ぶ未来しか見えない﹂
断言された。
滑って転んでリアルで崖から転落でもされたら洒落にならない。
﹁こうなったら俺が負ぶるとか﹂
985
﹁人ひとり背負って登山とか、それどんな罰ゲームだ。秋良青年、
遭難するぞ﹂
﹁でもその方が安全だろ?﹂
﹁⋮⋮否定できない﹂
俺にしたって、いつイサトさんが滑って転んで崖からフェードア
ウトしていくかとハラハラしているよりも、いっそ背に負ぶってし
まった方がよほど気が楽だ。
そんなことを大真面目に考えていると、ふと、なんでもないこと
のようにエルフが口を開いた。
﹁まあ、来ても話が聞けるとは限らないけどね﹂
﹁おい﹂
いつものように、茶々を入れているのかと思った。
わざと不安になるようなことを口にして、俺たちの反応を伺って
いるのだと。
けれど、そんな先行き不安な言葉をのたまったエルフが、どこか
切ないような顔をしていたものだから。
俺といイサトさんは、思わず視線を交わしてそれ以上は何も言え
なくなってしまった。
こういうとき、美形はずるいと思う。
普段人を喰ったような、揶揄い気味の笑みがデフォルトとなりつ
つある男が、どこか痛みに耐えるような顔をすると急に儚げで、こ
ちらが何か悪いことをしたのではないかという気になってしまう。
﹁⋮⋮、﹂
呼びかけようとして、俺はこの男の名前すら知らないことを思い
出す。
986
﹁お前、名前は?﹂
﹁エレ﹂
﹁エレなんとか﹂
エルフが最後まで言うより先に、横合いから教えてくれたのはイ
サトさんだった。そうか、エレなんとかか。
﹁よし、エレなんとか﹂
﹁ねえせめてあと一文字頑張って﹂
エレなんとかの切実な突っ込みに笑う。
これまで体力回復に努めるよう座りこんだままだったエレなんと
かは、このタイミングでひょいと立ち上がると並んだ俺とイサトさ
んに向かってまるで貴族のようなお辞儀をして見せた。
いかにも伊達男といった所作だが、これがまたボロボロの癖によ
く似合っていて腹立たしい。薄笑いを浮かべたその顔に、先ほど一
瞬浮かんだような痛みはもう見当たらない。
﹁改めまして。エレニ・サマラスだ﹂
﹁偽名じゃなかったのか﹂
﹁偽名考えるのも面倒で。どうせ、長く付き合うつもりもなかった
し﹂
酷くあっさり言い放ってやがるが、この﹁長く付き合うつもりも
なかった﹂というのはセントラリアを滅ぼすから、という意味であ
る。
エレニ・サマラスという名前で貴族に近づき、持ち前の喰えない
懐こさで懐柔し、﹃竜の牙﹄なんて物騒極まりないアイテムでこし
らえたアクセサリーの数々を流通させてセントラリアを蹂躙しよう
987
とした。
やっぱり助けるべきじゃなかったんじゃ、なんて考えが改めて頭
の中をよぎる。
と、そこで。
少し離れたところで、何か人の声のようなものが聞こえたような
気がした。
﹁今、人の声﹂
﹁聞こえた、ような?﹂
俺の声を引き継ぐように、イサトさんも少し顔をあげて周囲に耳
を澄ませる。
ひくりひくりと音を拾うように、長いエルフ耳が動いている。
つまみたい、と少し片手が浮きかけたのを理性がなんとか押しと
どめる。
﹁⋮⋮騎士団が探しに来たみたいだね。君たちを探しているみたい
だ﹂
同じよう、ひく、と耳を震わせたエルフ、ことエレなんとか、も
といエレニが言う。なるほど。セントラリアの住民からしてみれば、
俺たちはセントラリアを襲ったドラゴンと一緒に郊外に墜ちたよう
に見えたはずだ。助けに、というか生死を確かめるべく騎士団が派
遣されてきてもおかしくはない。
﹁さて﹂
さも当たり前のようにエレニがどこからかスタッフを取り出した
ところで、俺は慌ててその腕を捕まえた。幻術で消えられては面倒
988
だ。
﹁ん?﹂
﹁何どうかしましたか、みたいな顔してやがる﹂
﹁だって俺、このままだと普通に幽閉されて処刑だよ? っていう
かたぶんこの場で処刑だよ?﹂
﹁あー⋮⋮王城襲ってるもんなあ﹂
イサトさんが頭が痛い、と言いたげな口調で言う。
貴族が多く集まり、それどころかシェイマス陛下すらいる場でこ
の男は<竜化>のスキルを用いて大暴れしたのだ。その前には大量
のモンスターを王城内に発生させるところだって、ばっちり見られ
ている。
あれだけやらかせば立派なテロリストだ。
今さら誤魔化せるとは思えない。
その保身のしなさっぷりに、今更頭を抱えたくなる。
﹁なんでお前あんな衆人環視の前でやらかすんだよ⋮⋮﹂
フォローの入れようがない。
﹁だって失敗するなんて思ってなかったんだもん﹂
﹁もんとか言うなもんとか﹂
可愛くもない。
が、実際エレニが言っていることは間違ってはいない。
俺やイサトさんさえいなければ、エレニはおそらく目的を達成す
ることが出来ていたはずだ。
﹁︱︱⋮はい﹂
989
そっと、これまで俺とエレニのやりとりを聞く側に回っていたイ
サトさんがそっと発言権を求めるように挙手をした。
﹁どうぞ、イサトさん﹂
﹁えっと。エレニ死んで何か困る?﹂
直球だった。
ものすごい直球だった。
﹁まって! 俺困る! 超困る!﹂
必死な声をあげているエレニはあえてのスルー。
確かにあのヌメっとした物体にエレニが殺されるのは厭だと思っ
たのは事実だ。
だが、エレニが罰を受けなくても良いというわけではない。
エレニが正当に人の手によって裁かれるのなら、それはそれで良
いのではないだろうか。話は、黒竜王に聞けばいいんだし。
﹁よし、こいつ騎士団につきだそう﹂
﹁まって! ねえ待って! 俺死んだら黒竜王陛下に話聞けないぞ
!?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
イサトさんが、それはどうだか、って顔をする。
その冷たい眼差しに、慌てたようにエレニは言葉をつづけた。
俺が黒竜
﹁俺、エルフの最後の生き残りだって言ったけど、なんで生き残っ
たか知ってる!? 陛下が匿ってくれたからなんだよ!
王陛下の命で動いているのもそのせい! だから俺を見殺しにした
990
ら陛下は君たちを敵として認識するぞ!﹂
﹁︱︱⋮なるほど、それでエルフの君が黒竜王の使いっぱしりをし
ていたわけか﹂
すぅ、と金の双眸を細めてイサトさんが満足そうに笑った。
騎士団に突きだすことを脅しに、エレニから情報が引き出したか
ったらしい。
さすがである。
ち。
﹁⋮⋮ん?﹂
そこでふと気づいた。
﹁エルフやダークエルフってもう随分昔に滅んだって言ってなかっ
たか?﹂
何百年も前に、というような話を聞いたような気がする。
そうなると今のエレニの言葉と、つじつまが合わない、ような。
こいつはどう見ても俺と同年代か少し上といった程度だ。
俺のそんな疑問に、エレニはああ、と小さく声を零した。
﹁そうだよ? 今から300年くらい前かな。俺がまだ子供の頃の
話だ。俺は黒竜王陛下付きの神官見習いで、たまたまその日陛下の
御許にいたから助かったんだよ。一緒にいた大人たちは、城を確か
めにいくと言ってそのまま戻らなかった﹂
﹁⋮⋮いや、だからさ。さらって言ってるけど2、300年前って
おかしくないか? お前、今一体いくつなんだ﹂
﹁え? 俺? 四捨五入したらそろそろ300とちょっとかな﹂
﹁は!?﹂
991
馬鹿正直に驚きを露わにした俺に、エレニは愉しそうに喉を鳴ら
して笑った。
﹁それこそが、俺が黒竜王陛下の加護を得ている証みたいなものだ
よ。陛下は、俺に呪いをかけてくれたんだ。黒竜王陛下は俺の時を
喰らっている。本来ならこの身を蝕むはずの老いを、陛下がとどめ
てくださっている﹂
﹁それは︱︱⋮﹂
﹁エルフを、復興させるために?﹂
イサトさんの問に、エレニは静かにうなずく。
﹁俺が成人してしばらくたった頃に、陛下が俺に聞いたんだ。時を
止めたくはないか、と。普通に生き、平凡に死を得る一生と、死を
遠ざけてでもエルフに何があったのかを突き止める一生とどちらが
良いか、と。俺は、真実が知りたかった。だから︱︱⋮<竜化>の
スキルを手に入れると同時に、陛下と契約を交わして俺は時を止め
た﹂
灰がかった蒼の双眸が、俺とイサトさんを映して笑う。
それは人の形をしていてもなお、先ほど王城で対峙した白いドラ
ゴンの双眸によく似ているような気がした。
きっと、この男はもう半分ぐらいエルフではなくなっているのだ
ろう。
エルフ、という種族にこだわり、その復興を誰よりも願っていな
がら、この男自体はもうすでに異形へと片足を踏み入れている。
﹁と、いうわけで俺は一度陛下の元に戻って報告したいと思うんだ
けど﹂
992
﹁報告って、今回の顛末をか?﹂
﹁そう。失敗しましたよーってのと、君たちのことを﹂
﹁それをしなかった場合どうなる?﹂
﹁たぶん、ドラゴンが攻めてくることになるね﹂
憂鬱そうに、吐き出すようにエレニが言う。
エレニにしても、ドラゴンによるセントラリアの一斉攻撃という
のはあまり望ましい選択肢ではないらしい。もちろん、それは俺た
ちにとってもそうだ。
﹁⋮⋮そうなると、俺たちはこいつを 野 放 し にしないとい
けないわけか﹂
﹁⋮⋮ 放 牧 は不安が残るな﹂
﹁何その酷い言われよう﹂
突っ込みは聞こえない。
このままエレニを連れて俺たちも一緒にヅァールイ山脈に行く、
ということも考えてはみたのだが、何の準備もなく特攻をかけられ
るほどエレニのことを信用することはできない。そもそも、黒竜王
の目的からして、この世界を救うためにセントラリアを滅ぼす、と
いうものなのだ。その意思と対立した場合、今の装備では若干心も
とない。せめて、上位ポーションだけでも確保しておきたい。
それを考えると、やはりここで一度エレニを解放するしかないの
だが⋮⋮。
﹁﹃家﹄に突っ込んでおく、というのも不安が残るよなあ﹂
﹁⋮ううん﹂
唸る。
騎士団の目を誤魔化すためにいったんエレニを﹃家﹄にぶっこん
993
でやり過ごす、というのも考えてはみた。だが、俺たちにとって、
﹃家﹄は大事なホームである。持ち歩けない分のアイテムの置き場
所としてはもちろん、これまでにも﹃家﹄のシステムを使って多く
の窮地を潜り抜けてきた。
そんな場所に、今だ信用しきれないこの男を招きたくはない。
俺たちの目が届かないところで何かされて、﹃家﹄を乗っ取られ
でもしたら最悪だ。ゲーム上のシステムでは﹃家﹄の乗っ取りなん
てことはあり得ないことだったものの、ここではどうなのかなんて
保障はどこにもない。
﹁離れていても、居場所がわかるシステムがない、こともない、け
ども﹂
﹁却下。超却下﹂
イサトさんが何を言おうとしているのかを察して、俺は高速で却
下する。
ふと落ちた視線が、左手の薬指を辿る。
イサトさんが作ってくれた、銀の環。
確かに、結婚システムを使えば相手の居場所がおおまかに把握で
きる、という特典はあるが。
だからといって! 俺が! イサトさんと! 変態エルフの!
結婚を! 認めるわけが! あるか!!!!!
というわけでそのアイディアは超却下である。
﹁イサトさんにこいつと結婚させるぐらいならまだ俺がした方がマ
シだ﹂
994
﹁えっ、何それ厭だ﹂
﹁俺だって厭だわ!﹂
横から聞いていたエレニが死にそうな顔で拒否るのが目に入って、
思わずぶん殴りたいような衝動にかられた。俺だって厭だ。
何が悲しくてイサトさんと離婚までしてエレニの野郎と再婚しな
ければならないのか。この世は地獄か。
﹁でも、それ以外にエレニを首輪つきで放牧する方法ってある?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
眉間に皺が寄る。
俺はきっと今、とんでもなく酷い顔をしていることだろう。
このままエレニを逃がして、今聞いたことがすべて嘘っぱちで黒
竜王にも話が聞けなかった場合、俺たちが手にする手がかりはゼロ
になる。
それならば何としてでもエレニを確保しておくべきだろう、とは
思う。
思うのだが、エレニと結婚なんて考えるだけでも怖気が走る。
しかも結婚には指輪の交換だけでなく、結婚には聖職者による承
認が必要だ。
どこか小さな村の教会で、俺とエレニが並んで神父あたりから祝
福を受ける姿を想像しただけで死にたくなった。
﹁秋良青年が、未だかつて見たことがないほどに顔色がよろしくな
い﹂
﹁そりゃな﹂
﹁⋮⋮だったらやっぱり私が﹂
﹁却下﹂
995
否定はちょっぱやで。
それだけは絶対に認められない。
イサトさんのためならば、仕方がない。
この身を犠牲にするしか。
﹁まって。まって。君目つきヤバい。もうこれ俺殺される気しかし
ない﹂
﹁はは﹂
乾いた笑いが口をついて零れる。
感情のない乾いたっぷりに、隣のイサトさんまでがギョっとした
ような顔で俺を見た。大丈夫。まだ大丈夫。まだセーフ。SAN値
はかろうじて残っている。
が、こうなったらもう覚悟を決めるしかない。
俺はエレニの襟首をひっつかみ、最寄りの村を探して突き進みか
け︱︱
﹁わかった! わかったからちょっと待って!﹂
ギブアップじみたエレニからのストップがかかったのはそのタイ
ミングでのことだった。
﹁あ?﹂
﹁だから君目つき怖いってば!! ああもう!﹂
俺に襟首をひっつかまれたままの姿勢で、エレニがしゃらりとス
タッフを振るう。とたん、淡く零れた光の粉がうっすらと俺とイサ
トさん、そしてエレニとを繋ぐように煌めいた。それはすぐに、夜
の暗がりの中に消えて見えなくなる。
996
﹁今の、は?﹂
イサトさんにも効果がわからなかったのか、首をかしげている。
﹁マッピングスキルだよ﹂
﹁マッピング?﹂
﹁俺の存在を知覚しようとしてみてくれる?﹂
﹁ええと⋮⋮﹂
﹁目で見るんじゃなくて、感覚として知る感じ、かな﹂
そう言われても、難しい。
逃げられないようしっかりとその襟首をつかんだまま目を閉じて
みる。
存在を知覚⋮⋮、と意識したとたん、じんわりとエレニのいる側
が温かいように感じられた。驚いて、目を開ける。
見れば、イサトさんも驚いたように瞬いている。
﹁すごいな、これ。君がどこにいるのかわかる﹂
﹁え、本当に? 俺、近くにいるな、ってぐらいしかわからなかっ
たんだけど﹂
﹁それは魔法系スキルの熟練度によるんだと思う﹂
﹁なるほど﹂
それならイサトさんには、きっともっと具体的にエレニの居場所
がわかるようになっているのだろう。
﹁試練でダンジョンに挑む冒険者が、どこにいるのかを察知するた
めのスキルだって陛下は言ってたんだけど⋮⋮まさかこんな形で使
うことになるなんて﹂
997
はあ、とエレニがため息をついている。
どうやらこのスキル、一般的に冒険者が覚えるスキルではなかっ
たらしい。
イサトさんが羨ましがるような視線をちらりちらりとエレニに向
けている。
やめなさい。
それたぶん俺らには必要ないから実装されてないんだって。
実際ゲームの中においては、PTさえ組んでしまえば仲間の居場
所はマップで確認することができるのだ。こうして現実となったこ
の世界でしか、使い道のないスキルである。それに、今では結婚シ
ステムのおかげで俺とイサトさんは大まかにだがお互いの居場所が
わかるようになっている。
﹁これ、一週間ぐらいは持つから﹂
﹁わかった。それまでにはそっちに行くから首洗ってまってろ﹂
﹁おかしくない?﹂
やっぱり突っ込みは黙殺。
エレニは小さく息を吐くと、一度周囲の様子をうかがうように遠
くへと視線をやった。俺たちには夜闇が広がるようにしか見えない
この草原も、エレニの目には何か違うように見えているのだろうか。
﹁じゃあ、陛下のところで待ってるよ﹂
﹁それまで、黒竜王に話をつけておいてくれ﹂
﹁報告はする、つもりだ﹂
そんな言葉を最後に残して。
998
エレニが、片手にしていたスタッフを振る。
目を閉じるとそこにまだその存在を淡く感じることができるのに、
相変わらず見事な幻術でエレニは消え失せて見せた。
そのまま、少しずつエレニの気配が遠のいていく。
それを見送ってから。
﹁戻るか﹂
﹁そうだな﹂
俺とイサトさんは、肩を並べて騎士団がいるのだと思われる方向
に向かって、ゆっくりと歩きだしたのだった。
999
おっさんの離婚と再婚︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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1000
おっさんと喰えない大人たち
エレニの姿が完全に見えなくなったのを確認した後、俺とイサト
さんは何食わぬ顔で俺たちを探す騎士団の一行と合流した。
エレニについては、墜落のどさくさで逃がしてしまった、という
ことにする。
もう少し俺たちの不手際を責める声が上がるかと思っていたもの
の、意外なことに騎士たちは少し不安そうに周囲を見渡すだけにと
どまった。
もうこのあたりにはいないだろう、とイサトさんが口にすると、
わかりやすく安堵したように息を吐く。
ああ、そうか。
彼らにとっても、ドラゴンというのは恐ろしいモンスターなのだ。
空を飛ぶ術も、ドラゴンの堅い表皮を打ち破る力も持たない彼ら
にとっては、ドラゴンを街から遠ざけることができただけでも偉業
なのだろう。
﹁⋮⋮ドラゴンは、また来るでしょうか﹂
﹁どうだろうな。相当な深手を負わせたし、すぐには戻ってこれな
いと思うけど﹂
﹁最悪、そのまま死んでもおかしくないだけの傷を負わせているか
ら︱︱⋮心配することはない﹂
俺の言葉を補足するように、イサトさんが傍らでひょいと肩をす
くめる。
1001
あれだけボロボロにして、なおかつ片足と尾を失っているのだ。
いくらドラゴンといえど、あれだけのダメージを与えれば普通に
考えれば出血多量で死ぬだろう。
⋮⋮まあ、実際のところは上位ポーションを飲ませて回復した後、
首輪つきの放牧に至っているわけなのだけれども。
﹁しばらく街の出入りに気を付けるようにした方が良いだろうな。
また潜りこまれたら厄介だろう?﹂
﹁それは徹底するつもりです﹂
﹁なら良かった﹂
今回、エレニは人の身でセントラリアの街に入り、内側から﹃竜
の牙﹄を使ってモンスターを召還、さらには自身が<竜化>のスキ
ルを使うという形でセントラリアを滅ぼそうとした。
街の中ではモンスターに襲われる心配がない、という常識の盲点
を突く形での攻撃だ。その衝撃はきっと騎士たちの心に深いトラウ
マを刻み付けることになっただろう。これまで以上に街の出入りや、
出回る品に対する監視が厳しくなるだろうが、セントラリアにとっ
てそれは悪いことではないはずだ。
﹁何か様子のおかしい奴を見かけたら、俺たちにも知らせてもらっ
てもいいか?﹂
﹁もちろんです﹂
あのヌメっとした人型のこともある。
マルクト・ギルロイの異変には誰も気づくことが出来なかったが
⋮⋮あのヌメっとした人型そのものだったらどうだろう。
俺がカラットで出会ったような。
1002
マルクト・ギルロイの坊やに擬態していたような。
人ではないものが人を真似た不自然さになら、騎士団の人間でも
気づけるのではないだろうか。
﹁知らせるといってもどうしたら?﹂
﹁俺たちはセントラリアにいる間は下町の方にある、蒼のクレン亭
に滞在してるから、そこに連絡をくれれば。もし俺たちがセントラ
リアを離れてたら︱︱⋮そうだな﹂
俺は考える間を一拍挟んでから口を開いた。
﹁レティシア・レスタロイドを知ってるか? レスタロイド商会の
娘なんだが。彼女がしばらくセントラリアに滞在してるはずだ。彼
女に伝えてくれれば、俺たちにも情報が入るようにしておくよ﹂
﹁わかりました﹂
本人のいないところで勝手に話を進めて悪いが、レティシアを連
絡役にしてしまう。エリサでも良かったのだが、獣人と騎士団との
間の溝は深いだろうと思ってのことだ。そういえば、と周囲を見渡
した。今ここにいる騎士団のメンツの中に、以前マルクト・ギルロ
イと共に俺らに絡んできた騎士の顔は見つからなかった。
名乗られた覚えはあるのだが、なんだったか。
まったくもって覚えてない。
そうこうしているうちに、セントラリアの北門に到着した。
門は固く閉ざされている。
見張りの兵士相手に騎士団の一人が何事か言葉を交わし、それか
らゆっくりと重そうな扉が押し開けられていく。
1003
﹁セントラリアの人たちは?﹂
﹁避難したものは引き続き大聖堂にいますが、中には自宅に戻った
者もいます。その場合、戸締りをしっかりとして日が出るまで外に
出ないようにと指示を出しておきました﹂
それで良かったか、というような意味合いの籠った眼差しに、イ
サトさんが小さく頷く。いくら大聖堂が広いとはいえ、セントラリ
アの住民すべてが避難できるほどの収容力はないはずだ。こんな夜
更けに無理に大聖堂に詰めかけるよりも、自宅に籠っていてもらっ
た方がよほど安全だろう。
﹁アクティブなモンスターから先に潰しておいた。漏れがあったと
しても︱︱⋮それほど大きな被害にはならないと思う﹂
﹁了解﹂
アクティブ、つまり自分から人を襲うような好戦的なモンスター
はその大部分がイサトさんにより殲滅されているとみても良さそう
だ。
﹁被害、どれくらい出てる?﹂
﹁怪我人はいますが、今のところ死者が出たという報告は受けてい
ません﹂
﹁良かった⋮⋮!﹂
﹁いや本当に﹂
思わずイサトさんと顔を見合わせて、二人して声をあげてしまっ
た。
見るもの全てを守れるとは最初から思ってはいないが、それでも
人的被害は最小限にとどめたいと思うのが人情というものだろう。
1004
﹁イサトさんのおかげだな﹂
﹁君がエレ⋮もとい、ドラゴンを引き留めていたからだよ﹂
一度名前で呼びかけて、わざわざドラゴン、と言い直したのは俺
たちがエレニと繋がっていることを騎士団に気づかれたくないから
だろう。まあ、エレニの野郎は王城のど真ん中で堂々と<竜化>し
やがったので、﹁エレニ=ドラゴン﹂というのはあの場にいたもの
なら皆知っていることだ。
改めてわざわざ言い直したイサトさんを見る騎士団の眼差しが同
情的なあたり、おそらく舞踏会で知り合った紳士の本当の顔を知っ
てショックを受けているから、だとでも思っていそうだ。
門をくぐって、セントラリアへと足を踏み入れる。
まだ騒動が完全に終わりを迎えたわけではないことが、静かなが
らもどこかそわついた空気からも伝わってくる。
時間帯としては深夜を回った頃、といったところだろうか。
石畳の道は街灯の薄明りに照らされ、ところどころにさまざまな
ものが投げかける影を黒々と浮かび上がらせている。
|人気≪ひとけ≫のない静まり帰った街並み。
けれど、どこか息を潜めたかのような緊迫感が漂っている。
﹁これからお二人は﹂
﹁俺とイサトさんは街の様子を見に行くつもりだよ﹂
﹁知り合いも多いからな﹂
レティシアは舞踏会に参加していた他の貴族たち同様に大聖堂に
避難しているだろうが、エリサやライザ、レブラン氏一家や宿屋の
女将さんなどの安否が気になる。
そこまで考えて、セントラリアにやってきて随分と知り合いが増
1005
えたものだな、とちょっとしみじみしてしまった。
この世界とは無関係な異邦人でしかない、余所者のつもりだった
のに、いつの間にか関わりが増えている。
﹁では、私たちも巡回に戻ります。何かあった際には呼子を鳴らす
ことになっているので︱︱﹂
﹁わかった、その音が聞こえたら俺たちも手を貸すよ﹂
﹁ありがたい﹂
騎士たちに頭を下げられる。
あの名前を覚えてない騎士のように喧嘩を売られても困るが、こ
んな風正面から感謝されてしまうのもなんだか尻の座りが悪くなる。
そもそも先ほどから当たり前のように敬語で話かけられているが、
こうして街灯の薄明りの下で見れば彼らは俺よりも年上だ。二十代
後半から三十代中ほどまで、といったところだろうか。浮ついた空
気のない、いかにも実力派といった雰囲気を纏っている。おそらく
騎士団の中でも腕の良いものだけを集めて、ドラゴンがまだいるか
もしれない北の草原へと出発したのだろう。
本来彼らは俺のような青二才に頭を下げて良いような人たちでは
ないはずだ。
今更ながらの気まずさに言葉を噤んだ俺を促してくれたのは、イ
サトさんだった。
﹁行こうか﹂
﹁あ、うん﹂
イサトさんにさりげなく腕を引かれて、頭を下げる騎士たちの前
から何故だか逃げるように撤退する俺だった。
1006
﹁君、相変わらず照れ屋だなあ﹂
﹁⋮⋮照れ屋、っていうか。なんか、なあ﹂
二人、静かなセントラリアの道を歩きながら言葉を交わす。
この一種罪悪感にも似た落ち着かなさが一体どこからくるのかを
考えてみる。
﹁⋮⋮なんか、ずるいような気がするんだと、思う﹂
﹁ずるい?﹂
イサトさんが首を傾げる。
まだポニーテールに結われたままの銀髪が、重たげに傾いた。
気づかわし気な金色が、ちらりと俺の様子を伺う。
﹁なんていうかさ﹂
﹁うん﹂
1007
﹁あの人たちって騎士として生きてきて、ずっと騎士として鍛錬し
てきた人たちだろ?﹂
﹁そうだな﹂
ある程度は生まれもあるかもしれないが、それでも彼らはこの街
を守る騎士として志願し、そのための鍛錬を積んできたはずだ。
﹁でも、俺は違う﹂
﹁︱︱ああ﹂
納得したように、イサトさんは声を上げた。
俺たちがこの世界で持つ力は、仮物だ。
彼らのよう生身の鍛錬によって手に入れたものではない。
あくまでRFCというゲームで遊んで、その中で手に入れたステ
ータスを引き継いだだけに過ぎないのだ。もちろんゲーム内でそれ
なり苦労したからこそのステータスではある。
けれど、それが彼らの生身の努力に適うものか、と言われたらど
うしても違うとしか思えないのだ。
だから、きっと俺はこの世界の人々に尊敬の眼差しを向けられる
度に戸惑ってしまうのだろう。
﹁そんなことを考えると、なんか申しわけないっていうか﹂
﹁秋良は良い子だなあ﹂
﹁子!?﹂
なんだかしみじみと言われた言葉に思わず立ち止まる。
まさかの子供扱いだった。
1008
先日教会で﹁男前﹂なんて言ってもらったのに比べるとものすご
く退化した感。
褒められているはずなのに、なんだか物言いをつけたくなる。
そんな俺の不本意さが伝わったのか、イサトさんはくつくつと喉
を鳴らして笑いながら言葉を続けた。
﹁や、ごめん。子供扱いしてるっていうか︱︱⋮人として良いなあ、
と思って﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁わかった、言い直す。秋良は良い人だなあ。これで良い?﹂
﹁それはそれで何かひっかかる﹂
なんだろう。
﹁良い人なんだけどねえ﹂というような微妙なお断り文句の定番
が頭をよぎっていくせいか、素直に喜べない。
唇をへの字にした俺に、﹁君は文句が多いな﹂なんて言いながら
も相変わらずイサトさんは楽しそうに笑っている。
﹁でも、逆に考えたら私たち、結構偉いと思うぞ﹂
﹁ん?﹂
﹁だって、秋良の言葉をひっくり返したら︱︱⋮この世界は私たち
にとっては遊びのようなもの、ってことだろう?﹂
﹁あー⋮うん、そうなる、かな﹂
ここは、ゲームの世界。
ゲームのステータスがそのまま反映された世界だ。
それを遊びのようなもの、といえば確かにそうなのだろう。
イサトさんの金色が、悪戯っぽい色を浮かべて俺をちょろりと見
上げた。
1009
﹁私たち、その遊びの世界のために今命賭けてる﹂
﹁︱︱あ﹂
そうだ。
この世界は確かに俺たちにとっては異世界で、馴染みのゲームに
よく似た世界ではあるけれど︱︱⋮とうの昔に俺たちにとっては現
実になってしまっているのだ。怪我をすれば痛いし、致命傷を負え
ばきっと死ぬことだってあるのだろう。
ゲーム内のステータスを引き継いでいるとはいえ、今は俺たちも
この世界の理の中で生きている。
﹁死ぬかもしれないのにドラゴンと一騎打ちをして﹂
イサトさんが、一歩前に出る。
﹁おまけにあんな危険な空中バトルまでやらかした﹂
くるりと華麗なターンをきめて、俺を見上げる。
澄んだ月のような色をした金色が、どこか途方にくれたような顔
をしている俺の間抜け面を映している。
﹁その勇気は、彼らの敬意に値すると思うんだけどな﹂
﹁︱︱、﹂
息が、詰まった
そうか。
そう、なのか。
たとえ、俺がこの世界で持つ力が仮初に過ぎなくても。
その力を行使することを選んだことは、彼らに認めてもらっても、
良いのだろうか。
1010
﹁もし誰かがそれで私に文句つけてきたら、どう思う?﹂
﹁張り倒す﹂
﹁即答だった﹂
当たり前だ。
﹁私が使うのは召還獣であり、精霊魔法だ。それがもともとの私の
力じゃないから、私がしたことは大したことじゃない、とは思わな
いだろう?﹂
﹁思わない﹂
思うものか。
思うわけがない。
思っていたら、毎度イサトさんが危ないことをしでかす度に心臓
を痛めているわけもないのだ。
﹁同じだよ﹂
﹁そっか﹂
﹁そう﹂
﹁まあ、あんなの心臓に悪いので、今後は控えて欲しいけども﹂
﹁イサトさんには言われたくない﹂
照れ隠しのように言う。
けれど、そんなぶっきらぼうな言葉が照れ隠しでしかないのはイ
サトさんにはバレバレだったらしい。
イサトさんは満腹の猫のように金の瞳を細めると、ふふりと満足
そうに笑って再び歩きだした。
本当、かなわない。
1011
俺たちのセントラリアにおける常宿、蒼のクレン亭にて。
無事を確認しに立ち寄った俺たちに対して、女将さんはいつもの
ようにころころと喉を鳴らして笑った。
﹁無事ですよう。いつもの酔っ払いがいつものように酔っぱらって
るだけですからねえ﹂
﹁おうよー、外に出なけりゃ家も酒場も変わらねーだろーうぇはは
はは!﹂
﹁女将、もう一杯!﹂
通常運転だった。
むしろいつもより人が多い。
大丈夫かこの酔っ払いども。
あれだけ外が騒がしい中、よく飲んでられたもんだ。
1012
このあたりにはモンスターも来なかったのだろうか。
そんな風に思った俺の目に、ふとごくごく自然、当たり前のよう
酒場で飲むおっさんどもの傍らに武器が携えられているのが入った。
いつもなら、おっさんどもは手ぶらだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
あくまでいつものように、まるで何事もなかったかのように、酔
っ払いどもは今日も楽しそうに酒を呷っている。
と、そこでバン、と喧ましく扉が開いた。
﹁おい! 角っこにまだモンスターがいたぞ!﹂
﹁っ⋮⋮﹂
俺とイサトさんは慌ててその男に詳しい場所を聞こうとするもの
の︱︱⋮それより早くどやどやと酔っ払いどもが立ち上がった。
﹁どこだどこだ﹂
﹁いくぞいくぞ﹂
﹁かこめかこめ﹂
﹁つぶせつぶせ﹂
物騒なことをのたまいながら、赤ら顔も上機嫌に得物を片手に携
え店からぞろぞろと出ていく。
なんとなく、出ていくタイミングをなくす俺とイサトさん。
思わず顔を見合わせていると、酔っ払いたちはすぐに戻ってきた。
﹁くっそ俺は一発しか殴ってねえぞ﹂
﹁次出たら多めに殴れよ﹂
1013
﹁誰か数えろ﹂
﹁面倒くせえ﹂
﹁酒おごれ﹂
再び酔っ払いどもは酒場の椅子に足を投げ出して座ると、空にな
ったグラスを掲げて大声でわめく。
﹁﹁﹁﹁女将、もう一杯!﹂﹂﹂﹂
外に出なければ家も酒場も変わらない、と言っていたのは何だっ
たのか。
積極的に外に出てるぞ大丈夫かこの酔っ払いども。
﹁大丈夫ですよう﹂
俺の無言の問いかけに答えるよう、空のグラスに酒を注いで回り
ながら女将さんがにこにこと笑ってそう繰り返した。
1014
蒼のクレン亭にて、また外に出ると告げた俺たちに女将さんは夜
食だといってパンを持たせてくれた。
思えば、舞踏会でもほとんど食事には手をつけていない。
こんがりと焼けたパンを目の前にして、今更のように腹が減って
くる。
行儀悪くむしゃむしゃとパンを齧りながらイサトさんと次に向か
ったのはレブラン氏の店だ。もしかしたらどこかに避難しているか
もしれないが、それならそれで良いのである。どうせ、大聖堂やそ
の他の避難所のあたりにも顔は出すつもりなのだ。
静まり返った店の前までやってきて、顔をしかめた。
ショーウィンドウの一部が割れてしまっている。
そこに飾られていたはずのドレスもなくなっている。
もしかしたらモンスターだけでなく、その混乱に乗じた火事場泥
棒でも発生していたのだろうか。
店の中は暗く、静かだ。
人がいるような気配は感じられず、それ以上の異変も外からでは
伺い知れない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺とイサトさんは顔を見合わせて、割れたショーウィンドウを乗
り越えて店の中へと足を踏み入れた。じゃりじゃりと割れたガラス
が足元で耳障りな音を立てる。
そして店の中に入った瞬間︱︱⋮
1015
﹁この泥棒めが!﹂
﹁うわっとお!?﹂
思い切り振り降ろされた棒状の何かを、俺は危ういところでなん
とかはっしと手で挟みとることに成功した。
いわゆる真剣白刃取り、という奴だ。
良かった。
これ、イサトさんが先頭だったら間違いなく一撃喰らっていたと
思う。
﹁⋮⋮何か、失礼なことを考えてるだろ、君﹂
﹁黙秘﹂
短くそんなやり取りを交わしてから、俺はレブラン氏へと向き直
った。
﹁俺です俺! 秋良です!﹂
﹁⋮⋮ん? なんだ、君か﹂
﹁なんだじゃないですよ﹂
レブラン氏が手にしていた得物を下す。
何かと思えば、それは店の片隅に置かれていたモップだった。
周囲を見渡せば、店の様子がすっかり様変わりしている。
戸棚の中に納められていた布地やドレスの見本、分厚いスクラッ
プブックはすべてなくなっており、店の奥に続く扉の前にはバリケ
ードよろしく机や椅子が固められている。
﹁店のものは﹂
﹁全部奥に片づけた﹂
1016
﹁カーヤさんたちは﹂
﹁避難させたに決まっている﹂
﹁⋮⋮で、レブランさんは﹂
﹁私の店だ、私が守って当然だろう﹂
さも当然のように言われて、頭が痛くなった。
この老人は、一人でモップ片手に店に陣取り、モンスターに備え
ていたのだ。
血気盛んにもほどがある。
﹁あのショーウィンドウは?﹂
イサトさんの問いに、レブラン氏はなんでもないことのように肩
を竦めた。
﹁でかいトカゲのようなモンスターが入ってこようとしてね﹂
﹁大丈夫だったんですか?﹂
﹁叩き出した﹂
﹁レブランさんつよい﹂
いろんな意味で。
そのでかいトカゲのようなもの、というのは王城でも出現したデ
スゲイルなのではなかろうか。
俺たちにとってみれば雑魚だが、冒険者でもない一介の服飾関係
のご老体が対峙するには無茶が過ぎる。
それをモップで叩き出したというのだから何というかかんという
か。
﹁⋮⋮あんまり無茶すると、息子さんに泣かれますよ﹂
﹁レティシアにも﹂
1017
﹁⋮⋮む、ぐ﹂
それを言われると弱いのか、レブラン氏が苦虫でも噛み潰したよ
うな顔をする。
本当、あまり無茶をしないで欲しいものだ。
﹁それより君たち﹂
﹁はい?﹂
真剣にずい、とレブラン氏に詰め寄られて思わず腰が引ける。
﹁ドレスはどうした﹂
そっちか!
俺たちの夜会服を手掛けた仕立て屋としてのサガが疼いたのだろ
うか。
ものすごい真顔である。
これ、もし服を駄目にしたなんて言ったらばどんな目に遭わされ
るのか知れたものではない。
大丈夫ですよ、着替えただけです、と答えかけて。
少しだけ、意地悪い気持ちが俺の中に芽生えた。
いくら職人だからといって、レティシアの安否よりも先にドレス
のことを気にかけたレブラン氏に、少しだけ意趣返ししてやりたい
ような気になったのだ。
﹁レティシアのことはいいんですか、レティシアのことは﹂
俺たちと一緒に出掛けたはずのレティシアが、俺たちと行動を共
にしていないのだ。あれだけ親しくしているのだから、心配ぐらい
1018
したって罰は当たらない。
俺のそんな言葉に、レブラン氏はこの若造は何を言っているのか、
というような顔でフン、と息を吐いた。
﹁君たちと一緒にいてレティに何かあるとは思っていない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁﹁参りました﹂﹂
俺とイサトさんの、降参宣言がハモった。
どうも、俺たちの周囲には喰えない大人が多い気がする。
1019
おっさんと喰えない大人たち︵後書き︶
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1020
セントラリアの未来
レブラン氏の店の破れたショーウィンドーを応急手当でざっくり
塞いだ後。
くれぐれも無茶はしないようにと言い置いて、俺たちは教会へと
向かっていた。
教会といっても、レティシアや貴族たちが避難している大聖堂の
方ではなく、マルクト・ギルロイの一件以来、獣人たちの集団生活
の場となっている教会だ。
大聖堂の方は、王族やら貴族の避難場所となっていることからも
おそらく騎士団が詰めているはずだ。だが、城下の、それも獣人が
多く集まる教会ともなれば後回しにされていたとしてもおかしくは
ない。
最近は少しずつ獣人への偏見も緩和されてきたとはいっても、俺
とイサトさんがこの街にきた当初、街の騎士団は獣人のエリサやラ
イザがチンピラに絡まれているところを見て見ぬふりをしたという
前科がある。その現場を見ているだけに、大聖堂よりも、教会の方
が気がかりだったのだ。
イサトさんが混乱の中様子を見に行ったときには、大人たちが力
シャト
を合わせて周辺住人の避難を行っていたとも聞いているのだが⋮⋮。
無茶をして怪我などをしてはいないだろうか。
ー・ノワール
俺やイサトさんからしてみれば雑魚と呼べるモンスターでも、黒
の城で手こずっていていた彼らからしてみたら十分強敵だろう。
1021
自然速足になった道行き、辿りついた先の教会は静まり帰り、そ
の入り口を固く閉ざしていた。
ただ、内側からはどこか緊張した気配が漏れでてきている。
大勢の人間が、息を殺してその﹁静けさ﹂を意識して作っている
ような不自然な沈黙、といったらいいのか。
扉近くに吊るされたランタンの投げかける明かりの下へと足を踏
み入れ、ドアをノックしようとしたところで。
﹁あ、アキラ!﹂
﹁お?﹂
何やら高いところからエリサの声が降ってきた。
見上げる。
玄関横の高い小窓から身を乗り出したエリサがこちらに向かって
手を振っているのが見えた。
﹁ごめん、そっちのドア今使えねーんだ、裏っ側の窓に回ってくれ
!﹂
﹁おう、わかった﹂
返事を返すと同時に、ひょこりとエリサの頭が小窓から引っ込む。
代わりに顔を出したのはエリサに比べるとまだ少し幼い少年だ。少
し緊張した面持ちで、俺たちに向かって小さく頭を下げて見せる。
﹁見張りかな?﹂
﹁そうみたいだな﹂
玄関先にやってくるものを、小窓より確認して誘導するなり大人
を呼ぶなりするのがきっと彼ら年長者組の役割なのだろう。
1022
言われた通り教会の裏に回ると、先回りしていたらしいエリサが
薄明りの灯った窓を開けて手を振っているのが見えた。どうやらモ
ンスターの侵入を防ぐために、教会への出入りを一か所に絞ってい
るらしい。明かりが漏れているのはその窓だけで、それ以外の窓は、
ぴったりと固く鎧戸が閉ざされている。
その唯一薄明りの灯った窓に向けて、俺は窓の下で中腰の姿勢に
なると膝を壁に押し当て、地面と腿とが平行になるような体勢をと
った。この窓、女性が腕力だけで身体を引き上げるには少々高すぎ
るのだ。
﹁イサトさん、俺が足場になるから先にどうぞ﹂
﹁ありがと、助かる﹂
まずはイサトさんに手を貸して先に窓枠を乗り越えて貰うとしよ
う。
それ自体は純粋な好意に過ぎなかったわけなのだが。
﹁よっと⋮⋮!﹂
ヒールを避けたブーツのつま先部分が、ぎゅ、っと俺の腿を踏ん
でイサトさんの身体がぐいと持ち上がる。そのままイサトさんは前
のめりに上身をひとまず先に窓枠の向こうへとやって︱︱⋮そうな
ると、こちらに残されたのはイサトさんの下半身である。
俺の目の高さに残された、くびれたウェストからよく張った腰ま
での艶やかなライン。ぱつんと張った生地が、むっちりとした太腿
の付け根の辺りまでをかろうじて覆っている。
1023
イサトさん、見えそう。
何が、とは言わない。言えない。
ナース服のスカートはただでさえ短いのだ。窓枠を乗り越えよう
とイサトさんが身じろぐ度に、持ち上がったスカートの裾がかなり
のぎりぎりのラインで小さく揺れる。あと数ミリ持ち上がれば。あ
と少し角度がつけば。なんてけしからん。いいぞもっとやれ。あと
少し。あとほんの少し︱︱⋮⋮
﹁おいアキラ﹂
﹁はい﹂
思わず身体が傾ぎかけたところで、やたらドスの利いた声でエリ
サに名前を呼ばれた。ただそれだけだというのに、条件反射のよう
やたら素直な返事と同時にびしりと姿勢を正して視線を逸らす。
﹁?﹂
﹁ナンデモナイデス﹂
不思議そうに振り返ったイサトさんにはカタコトでしらばっくれ
つつ、エリサにも口止めめいた視線を送る。エリサは心底呆れたよ
うな半眼をこちらに向けつつも、密告は勘弁して貰えたようだ。も
のすごい勢いでエリサの中で俺の株が暴落したような気がしないで
もないが、男なのだから仕方ない。仕方ないったら仕方ない。
最後にもうひと押し、というよう足場として差し出していた腿を
ぎゅむと黒革のブーツが軽やかに踏んで窓枠を乗り越えて行く。イ
1024
サトさんがとん、と室内に降りるのを見届けてから、俺もようやく
立ち上がってひょいと窓枠を乗り越えた。
外からモンスターを惹きつけてしまうことを恐れてか、部屋の明
かりは最小限だった。暗くて見えにくいが、どうやら以前話し合い
に使った部屋であるようだ。薄暗い影に溶けるよう、何人かの人影
がぼんやりと浮かんでいる。万が一モンスターが窓からの侵入して
きた場合に備えて控えているのだろう。暗さに慣れても、俺にはぼ
んやりと物の形がわかる程度なのだが⋮⋮、夜目の利く獣人にはこ
れぐらいの明るさでも十分なのかもしれない。
﹁他の人たちは?﹂
﹁聖堂の方にいる。こっちだ﹂
エリサに案内されて、聖堂の方へと向かう。
直接外に明かりが漏れない聖堂に向かうにつれて、光源が増えて
明るくなっていった。
シャトー・ノワール
揺れる蝋燭の明かりに照らされた聖堂の中には、多くの人が避難
してきているようだった。いつかの、黒の城から帰ってきた直後の
光景を思い出す。あの時も、大勢の獣人たちが疲れたように聖堂の
あちこちに固まって座っていた。
あの時と違うのは、未だ臨戦態勢が解かれていない、ということ
だろうか。
ここでもやはり、窓の近くには武器を持った男たちが控えており、
そこから離れたちょうど聖堂の中心にあたる場所に子供や女性、老
人といった戦う力を持たない弱い立場の人たちが固まって座ってい
た。その中に混じって座り込んでいる男性陣は怪我をしているのか
1025
もしれない。
﹁エリサ、怪我人がいるのか?﹂
﹁逃げる途中で転んだり、ちょっとモンスターに引っかかれたり咬
まれた人がいるぐらいだ。あんまり酷い怪我をした奴はいねーよ﹂
﹁そっか﹂
少し安心する。
重傷者がいないのは何よりだ。
そう思いつつ周囲を見渡して、ふと気づいた。
人、多くないか。
記憶の中にある獣人たちの数よりも、今ここに集まっている人数
は随分と多いように思える。それに気づいてから改めて周囲を見渡
して、俺は驚くことになった。
﹁人が、いる﹂
そう。
人だ。
人間だ。
獣人ではなく、人間。
武装した獣人の男たちに囲まれ、聖堂の中心で不安そうな顔をし
ている者の大多数が爪や牙、獣の特徴を持たない人間だった。獣人
の女性は、そんな中をテキパキと動きまわり、怪我人の手当をした
り、ちょっとした食事や飲み物を配ったりと忙しく歩き回っている。
子どもは、とその姿を探してみれば、ライザやライザと同年代の
獣人の子どもたちが、彼らよりももっと幼い人間の子どもたちをあ
やすように遊び相手を務めているのが目に入った。ただ遊んでいる
だけのように見えるものの、きっとそうすることで小さな子供たち
1026
がパニックに陥るのを防いでいるのだろう。そんな風、子どもたち
の相手をしているライザの横顔は、エリサや俺たちと一緒にいると
きと違って随分と﹁お兄ちゃん﹂をしているように見える。
﹁秋良?﹂
﹁いや、ちょっと驚いた﹂
イサトさんから、大人たちが周辺住民の避難を手伝っていたとは
聞いていた。
だが、それはあくまで教会周辺に暮す獣人たちに限ったことなの
ルーター
だとばかり俺は思ってしまっていたのだ。まさか、セントラリアで
略奪者として迫害されていた彼らが、人間を助けるとは思っていな
かった。
﹁俺たちが街の連中を助けるなんて、思ってなかっただろう﹂
﹁あ⋮⋮﹂
横合いから響いた声にそちらへと視線を投げかける。
苦笑交じりに俺の傍らにやってきたのは燃えるような赤髪に黒い
▲耳を持つ獣耳の男性だった。狩りチームのリーダー格にして、エ
リサとライザの父親、クロードさんだ。野性味溢れる凛々しい顔立
ちの、ツンと尖った眦のあたりがエリサにとてもよく似ている。
図星を指されてバツの悪そうな顔をした俺に、クロードさんはく
く、と喉を鳴らすように笑って言葉を続けた。
﹁俺らも、最初はそんなつもりはなかったんだ。ここにいる仲間だ
け、身内だけ護れりゃそれでいいって思ってた﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁でも、ライザがなあ﹂
1027
﹁ライザが?﹂
﹁ライザが、街の連中も守ってやれねえかって言い出したんだよ﹂
そう語るクロードさんの横顔には、息子の我儘に困らされる父親
の困惑と、それでいてどこか誇らしげな色が滲んでいる。
﹁それだけならただの子どもの正義感かもしれねえけどな。アイツ
はちゃんと、俺たちが街の連中に何をされたのかもわかってた。自
分じゃあ何も出来ねえのもな。全部わかった上で、申し訳なさそう
に、謝りながら、それでもアイツは街の連中を助けられねえかって
言い出したんだ﹂
﹁︱︱、﹂
俺は短く息を吐く。
・・
正しいことをただ正しいと主張することは簡単だ。
俺たちは人に優しく、正しい行いをして生きるべきなのだろう。
けれど人には情がある。
優しくしてくれた人に対しては正しく優しくあれても、自分に酷
い仕打ちをした相手に対して同じことをするのは難しい。
だからこそ、俺やイサトさんも決して正義の味方を名乗ろうとは
思わないのだ。
俺たちは、俺たちのしたいことをする。
誰に対しても公平に優しく正しくあることが出来るわけじゃない。
そうあろうとも思わない。
そして、ライザは全てわかっていた。
自分たちが虐げられたことも、皆の中に、もしかしたら自分自身
の中にも積極的に復讐するほどではないとしても、消すことの出来
ない人間たちへの怒りが燻っていることも。
1028
そして、自分自身には行動を起こすだけの力がないことも。
わかった上で、ライザはその状況で声を上げたのだ。
﹁強いな﹂
思わず、そんな言葉が零れていた。
俺がライザの立場だったら、果たして街の人たちも助けてほしい、
なんて言えただろうか。
⋮⋮難しい気がする。
自分一人で行動を起こした方がよほど気が楽だし、もしそれだけ
の力がなかったならば、諦めて口を噤んでしまいがちだと思う。
それでも、ライザは大人たちを動かそうと声を上げた。
﹁強いよ、アイツは﹂
短く、クロードさんが応える。
その言葉には、息子の成長を喜ぶ父親の嬉しげが隠し切れていな
い。
﹁そんな風に言われて気づいちまったんだよな﹂
﹁何にですか?﹂
﹁俺らの中にある、復讐心っつーか﹂
﹁ああ﹂
﹁本当に助けられねえのか、助けたくねえのかがわからなくなった﹂
自分たちのことだけで手いっぱいで、他の人々を助ける余裕がな
いから仕方なく見捨てようとしているのか。
それとも、人間への復讐心から見殺しにしたのか。
1029
きっと、その違いが分からなくなってしまったのだ。
﹁復讐するにしてもよ、そんなの格好悪すぎるだろ﹂
苦い声が、呟く。
﹁⋮⋮あんまり格好悪いとこ、息子には見せらんねえよな﹂
しみじみとしたその短い言葉の中に、クロードさんの複雑な気持
ちが全部詰まっているような気がした。けれど、その横顔はどこか
晴れやかで、街の人々を守ったことを後悔しているようには見えな
い。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺は再び周囲へと視線をやる。
武器を携え、警護に回る獣人の男たちは皆クロードさんと同じ顔
をしている。
忙しそうに動きまわって避難してきた人たちの世話を焼く獣人の
女性たちも同様だ。よくよく見れば不安そうに、どこか所在なさげ
な顔をして座り込んでいるのは人間たちばかりだ。
きっと今頃彼らは、どうして獣人が自分たちを助けてくれたのか
を考えているのだろう。自分たちが迫害した獣人たちが、どうして
自分たちを助けてくれたのかがわからないからこそ、不安で、身の
置き場がないように感じているのだろう。 彼らは、その理由をよくよく考えるべきだ。
そして、その切っ掛けとなった勇気ある小さな子どもに感謝する
べきだ。
1030
俺は子ども達の相手をするライザの方へと一歩を踏み出した。
﹁ライザ﹂
﹁アキラさん⋮⋮!﹂
顔をあげたライザの顔に、ぱあ、と喜色が滲む。
﹁外、もう大丈夫なんですか?﹂
﹁大体はな。それでこっちは大丈夫なのかと思って様子を見に来た
んだ﹂
﹁お父さんたちが頑張ってくれたおかげで、みんな無事です! ⋮
⋮ちょっと、怪我をしちゃった人もいるけど⋮⋮﹂
﹁そっちは私に任せろ﹂
横合いからひょこ、と顔を出したイサトさんが力強く言う。
﹁イサトさん!﹂
﹁少々狭いが、我慢してもらうとしよう﹂
なんて冗談めかした声で言いながら、イサトさんは片手に携えた
スタッフをトーン、と高らかに床に打ち付けた。スタッフの周囲に
波紋のよう赤々とした焔が走り︱︱⋮その中央から美しい紅蓮の翼
をなびかせた朱雀が生じる。
﹁⋮⋮っ!﹂
﹁ひ!?﹂
驚いたような声が周囲から上がるものの、すぐにそれは見惚れる
ような感嘆の息に変わった。
1031
一般的な建物よりは多少天井が高く造られてはいるものの、ほぼ
グリフォンとサイズの変わらない朱雀が顕現するには室内は手狭だ。
シャトー・ノワール
それでも朱雀が窮屈そうに羽ばたくと同時に、仄明るい朱色の光が
座り込む人々を包むようにサークルを描き出した。黒の城でも活躍
したエリアヒールだ。
怪我人の傷が見る間に癒えていく。
﹁傷が治っていく⋮⋮﹂
﹁女神の奇跡、なのか⋮⋮?﹂
﹁違うよ、あの人が治してくれたんだ﹂
﹁まああたしたちにとっちゃ女神みたいな人だけどね﹂
戸惑ったような声を上げる人々に対して、その世話を焼いていた
獣人の女性たちが誇らしげに言う。
実際、聖堂の中ほどに立って傍らに降りた朱雀の喉元を撫でやる
イサトさんは、朱雀の放つ紅蓮の薄明りに照らされて神々しい女神
のようだ。
そんな女神のようなイサトさんのパンツを覗こうとしていたなん
て、改めて罪深い。
﹁良かった、みんな助かって﹂
ほっとしたように、ライザが呟く。
きっと、誰よりも怪我人の心配をしていたのはライザだろう。
おそらくライザが言い出さなければ、獣人の男衆たちが街の人た
ちを助けるために危険を冒すようなことはなかったはずなのだから。
﹁あのな、お前の父さんから全部聞いた﹂
1032
﹁っ⋮⋮!﹂
俺の言葉に、ライザがびくりと肩を竦ませる。
余計なことをしてしまったのだろうかと不安そうに揺れた濃い赤
の瞳が俺を見上げる。なんだかそれがおかしくて、俺は思わず小さ
く笑ってしまった。
﹁あ、あの⋮⋮アキラ、さん?﹂
﹁よくやったな﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁すごいと思う﹂
女神に守られているはずの街の中で突如発生した大量のモンスタ
ー。
そんな非常事態の中で、ライザは優しさを発揮するだけの強さを
見せた。
ライザの言葉が、獣人の大人たちを動かした。
もしかしたら、この夜を切っ掛けにセントラリアにおける獣人と
人の関係は、もっともっと良いものになるかもしれない。
それだけのことをやり遂げたライザが、俺を相手にあんまりにも
不安そうにしているものだから、そんな顔をしなくても良いのだと
告げる代わりにライザの紅い髪をくしゃくしゃと撫でてやる。
﹁⋮⋮っうん!﹂
嬉しげに頷いて、ライザの顔に笑みが広がった。
まだ目元に涙こそ浮いているものの、それは随分と男らしい笑顔
だった。
最初出会った頃、姉であるエリサの影に隠れて涙ぐんでいただけ
の子どもとはもう違う。顔立ちはまだ幼げで、姉であるエリサより
1033
も柔和さが目立つのに、その瞳にはどこか父親と良く似た強い色が
浮かんでいる。
子どもの成長は早い、と言う大人の言葉を聞いてはいたけれど、
一月もしないうちにこんなにも変わるのかと思うと、改めてなんだ
かとても眩しいような気がした。
と、そこで。
ガンガンガン、と聖堂内の空気をぶち壊すような音が鳴り響いた。
﹁!?﹂
﹁なんだ、モンスターか!?﹂
慌てたように獣人の男性陣が武器に手をかける。
音の発生源は、長い信徒席をたてかけて作ったバリケードの向こ
うにある正面扉だ。すわ討ち漏らしたモンスターが人の気配に惹か
れて突っ込んできたのかと聖堂内に緊張が走るものの︱︱⋮
﹁違うよ、守護騎士だよ!﹂
それに異を唱えたのは、玄関脇の物置から顔を出した獣人の少年
だった。先ほど小窓から俺たちに会釈して見せた子だ。おそらく、
物置にある小窓から外の様子を見張っていたのだろう。
﹁騎士だと?﹂
﹁騎士がこんなとこに何しに来たんだよ﹂
﹁仕方ねえ、開けるか﹂
訝しげに眉根を寄せつつも、クロードさんの出した指示に従って
何人かの男たちがバリケードをどかして玄関の扉を開ける。
1034
もう夜明けが近いのか、縁が薄明るくなりつつある紺色の空を背
負って教会へと足を踏み入れてきたのは、見覚えのある男を先頭に
した数人の騎士たちだった。先頭に立つ男は横柄な態度で﹁この当
たり一帯の被害を報告しろ﹂などとクロードさんへと命じている。
なんだこいつ。
この腹の立つ感じ、覚えがあるぞ。
少し考えてすぐに思い当った。
あの男だ。
セントラリアについてすぐの頃、マルクト・ギルロイと組んで俺
たちに嫌がらせに来た騎士だ。
何やら名乗られた記憶はあるものの、名前は欠片も覚えていない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺とイサトさんは、ちらっと顔を合わせた後、そろそろっとなる
べく騎士の視界に入らないように引っ込もうと試みた。別段後ろ暗
いことがあるわけではないのだが、あの時俺は彼らをハメている。
ここで因縁をつけられても面白くないし面倒なだけだ。
そう思っていたのだが⋮⋮
﹁怪我人なら、あちらの方に治していただきましたから﹂
あっさりとクロードさんが騎士へと報告してしまった。
﹁あちらの方、だと?﹂
1035
騎士が俺たちの方を見る。
そして、あからさまに苦虫を噛み潰したような顔をした。
おそらくクロードさん的にもさっさと騎士を追い返してしまいた
いが故の言葉だったのだろうが、それが思いっきり裏目に出てしま
ったような気がしてならない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁おい、あれ⋮⋮、竜を追い払ったっていう冒険者じゃないのか?﹂
﹁じゃあ一緒にいるのは飛空艇を墜としという魔女か?﹂
ざわざわと顰め面をした騎士の背後で他の騎士たちがざわざわと
言葉を交わす。
どこか畏怖が滲んだその声も、逆効果なんじゃないのか。
どんどん先頭に立つ騎士の眉間の皺が深くなってる気がするぞ。
﹁ふん﹂
ほら、やっぱり。
一際偉そうな騎士は、忌々しそうに鼻を鳴らした。
それから、ずかずかと俺たちの前までやってくるとにやりと口元
を引き上げて口を開く。その笑みが多少引き攣っているように見え
るのは、気づかないふりしてやるのが優しさというものだろう。
﹁セントラリアの守護騎士として、街の防衛への助力は感謝しよう。
だが⋮⋮所詮は旅の冒険者、優先順位がわかっていないと見える﹂
﹁⋮⋮ぁア?﹂
まてまてまてまてまて。
メンチ切るの待ってクロードさん⋮⋮!
1036
緩く弧を描いた前傾姿勢、下から睨みつけるようにして騎士への
距離を詰めるその姿はまさにYA☆KU☆ZA。
このままではせっかくライザが繋いだ人と獣人の間の絆をクロー
ドさんがその騎士の顔面ごと拳で粉砕しかねない。俺は慌ててクロ
ードさんの視線を遮るように斜め前へと一歩足を踏み出した。
そんな様子にもフンと鼻で笑って騎士は言葉を続ける。
﹁回復魔法が使えるのならば、高貴な方の多い大聖堂から先に行く
べきではないのか。尊きお方をお守りすることこそが、力あるもの
の義務だろう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
・・
ぐる、と唸る不穏な喉音は周囲から響いた。
やばい。
クロードさんだけじゃない。
周囲にいる獣人たちが皆して臨戦状態だ。
見ればエリサやライザまで鼻梁に皺を寄せ、顔を顰めて騎士を睨
みつけている。
ここにいる獣人たちは、セントラリアの街の人を守るために戦っ
た英雄だ。
それを後回しにして当然だなんて言われれば当然腹も立つだろう。
なんて俺は考えていたのだが。
そんなのは、あっさりクロードさんの言葉で裏切られた。
﹁この人たちにケチつけるようなことは許さねぇぞ﹂
﹁⋮⋮っ﹂
思わず、え、と声が漏れてしまいそうになった。
﹁⋮⋮そこ、なのか﹂
1037
隣でイサトさんも驚いたように小さく呟いている。
どうやら、俺とイサトさんは同じ勘違いをしていたらしい。
彼らは、獣人が軽んじられたことに対して怒っているのではない。
あのクソ偉そうな騎士が、俺たちに難癖をつけ始めたからこそこ
んなにもあからさまに敵意をむき出しにして、怒ってくれているの
だ。
正直、嬉しい。
が、この状況を放っておくわけにもいかない。
この騎士はいけ好かないし、クロードさんたちがこの騎士を袋叩
きにしたいというのなら加勢に入りたいぐらいには俺だってこの騎
士が嫌いだ。
俺たちにしたように、きっとこの男はマルクト・ギルロイの手先
となって大勢の獣人を陥れてきたはずだ。その中には、もしかする
と地下に残されていた遺品の持ち主だっていたのかもしれない。
けれど、それでも、今獣人たちは再び街の人たちと寄り添って生
きる道を選ぼうとし始めている。
それを、俺たちと騎士との因縁によって駄目にしてしまいたくは
なかった。
俺はばちばちと一触即発な空気を漂わせている獣人たちと騎士の
間の空気を変えようと口を開こうとして︱︱⋮
﹁それは尊いものの前には我ら市民の安全など気に掛ける価値もな
1038
い、という意味ですかな、ライオネル・ガルデンス殿﹂
﹁⋮⋮ッ!?﹂
それより先に、そんな声が響いた。
俺でも、クロードさんでも、そして騎士でもない。
それは、聖堂の中心で座り込んでいた一人の男の上げた声だった。
ゆっくりと立ち上がった男が、騎士を取り囲むようにしていた獣
人たちをかき分けて騎士と対峙する。
﹁⋮⋮あ﹂
思わず、小さく声が漏れた。
その尊大に踏ん反り帰り、騎士を睨みつける恰幅の良い姿には見
シャトー・ノワール
覚えがある。
黒の城で獣人たちを率いていた、ギルロイ商会の商人だ。獣人た
ちより先に﹃家﹄へと避難しようとして、イサトさんの怒りを買っ
た男の一人。セントラリアに戻り、マルクト・ギルロイの所業を知
って以降は比較的協力的だったのだが⋮⋮なんだってその彼がこん
なところにいるのだろう。こういった非常事態の際には、真っ先に
大聖堂に避難していそうなタイプだと思っていたのだが。
﹁⋮⋮、お前はギルロイ商会の﹂
﹁まだ私の顔を覚えてくれていたとはありがたいですね﹂
苦虫を噛み潰したような声で、騎士︱︱ライオネル・ガルデンス
が言う。
そういや、そんな名前だった。
俺の知る限り、このライオネル・ガルデンスという騎士はギルロ
1039
イ商会の私設騎士団が如き振る舞いをしていたものだが⋮⋮、今の
やり取りを見た感じ、その蜜月っぷりは既に過去のものになってい
るようだ。
マルクト・ギルロイの所業が明らかになった今、今後ギルロイ商
会と通じていたところでこのライオネル・ガルデンスに旨味はない。
むしろ、さっさと手を切ってしまいたい相手、というところなのだ
ろう。
商人を見やるライオネル・ガルデンスの双眸には明らかに厄介者
を見る色が浮かんでいる。
が、それに気づいていないわけでもないだろうに、商人の方は飄
々と言葉を続けた。
﹁⋮⋮それで、どうなんですかな。セントラリアの守護騎士である
ライオネル・ガルデンス殿は、尊き方の安全のためなら市民はいく
らでも犠牲になっても良いとお考えだと?﹂
﹁そうは言っておらん!﹂
﹁では、どうして私があの恐ろしいモンスターに襲われているとこ
ろを助けてくださらなかったのです?﹂
﹁⋮⋮!﹂
言いよどむ騎士に向かって、商人は滔々と言葉を続ける。
﹁いえ、わかっているのです。守護騎士であるあなた方には、大聖
堂の護衛という任務があったということは﹂
﹁そ、そのとおりだ⋮⋮!﹂
﹁では、決してセントラリアの街に取り残された住人を見捨てたと
いうわけではないのですね?﹂
﹁当然だろう!﹂
大声でそう言い切ったライオネル・ガルデンスに向かって商人は
1040
にっこりと笑って見せた。
﹁それなら良かった。では、ライオネル・ガルデンス殿は彼らに感
謝なさるべきなのでは?﹂
﹁感謝、だと?﹂
訝しげに、ライオネル・ガルデンスの視線が俺とイサトさんを見
る。
が、それに対する商人の反応は首を横に振るという大げさな仕草
だった。
・・
﹁違いますよ、感謝すべきは彼らです﹂
そう言って、商人が示したのは商人と、騎士とのやり取りを見守
る大勢の獣人たちだった。
﹁先ほどの混乱の中、逃げ遅れた我々を助けてくれたのは、ここに
いる獣人の方々です﹂
・・
ルーター
獣人の方々なんていう丁寧な言い回しに、周囲の獣人たちも戸惑
ったように顔を見合わせる。
それもそうだろう。
この商人は、ギルロイ商会の人間として散々獣人を略奪者と呼び、
差別対象としてこき使っていた男だ。
それが、今まるで彼ら獣人を庇うよう、騎士の前に出て、彼らと
の間に立っている。
騎士、そして獣人たちと、戸惑う両者に挟まれた中、そんな空気
を気にした様子もなく商人はつらつらと言葉を続けていく。
まさに独壇場だった。
1041
﹁本来の役目である住人の守護を、彼らは手が回らなかった守護騎
士に変わってしてくださったのです。どうか、守護騎士であるライ
オネル・ガルデンス殿からも感謝の言葉を述べては如何でしょう﹂
﹁⋮⋮っぐ﹂
﹁さらに言わせていただくのならば︱︱⋮⋮、こちらのお二方につ
いても同様です。守護騎士の方々が大聖堂に詰めていらっしゃるの
なら、旅の冒険者の二人ぐらい、こちらに回ったとしても何も問題
はないでしょう﹂
ああ、それとも、と商人はにこやかな外面の下に滴るような毒気
を添えて言葉を続けた。
﹁まさか、守護騎士団だけでは大聖堂の護りに不安がある、なんて
ことはおっしゃらないですよね?﹂
﹁な⋮⋮、失礼な!﹂
﹁ああ、良かった! では何も問題ないではないですか!﹂
﹁ぐ⋮⋮っ﹂
騎士が喉奥で潰れたような唸り声を上げる。
おお。
見事だ。
流石商人、と言うべきか。
シャトー・ノワール
すっかり反論を封じ込めてしまった。
獣人相手に偉ぶってみたり、黒の城での醜態からロクでもない男
だとばかり思っていたものの、商人としては有能だったようだ。い
や、そうか。そうでもなければセントラリアを牛耳っていたギルロ
イ商会の中で、その稼ぎ頭でもある獣人の狩りチームの管理を任さ
れていたはずもないのだ。
1042
﹁まだ他に何か御用が?﹂
﹁⋮⋮もう良い!﹂
吐き捨てるようにそう言うと、ライオネル・ガルデンスは騎士た
ちをぞろぞろと引き連れて教会から引き揚げて行った。
それを見送って、教会の扉が閉まるのを見届けたところで︱︱わ
っと歓声が上がった。
﹁あの野郎、何も言えなくなってやがった!﹂
﹁ざまあ!﹂
﹁やるじゃねえか﹂
などなど、静まり返っていた教会の中に再び活気が満ちる。
さすがにこれまでのこともあってか、正面から商人に声をかける
者はいない。
だが、獣人たちはどこか嬉しそうに言葉を交わしながらちらちら
と商人に視線を送っている。
相手はこれまでさんざん自分たちを苦しめてきた、獣人たちにと
ってはマルクト・ギルロイ以上にギルロイ商会の代表めいた商人だ。
それ自体は不本意であっても、自分たちが今夜行った行動がこのよ
うな形で報われたこと自体はきっと嬉しいのだろう。
そんな獣人たちの中から一歩商人に向かって踏み出したのは、ク
ロードさんだった。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮良かったのか﹂
そう、ぽつりと商人へと問いかける。
複雑そうな視線を商人へと向けつつも、視線は決して合わないよ
1043
うにしたぶっきらぼうな問いかけだった。
﹁⋮⋮いいんだよ﹂
さっきまでの毒気が滴るような愛想はなんだったのかと思うほど、
商人も愛想なく応える。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
二人の間に、沈黙が落ちる。
周囲の獣人や、人間たちは皆何気なくそれぞれのことをしている
ように見せつつも、二人の様子が気になって仕方がないというよう
に時折ちらりちらりと視線を送っている。当然、俺たちもだ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮礼は言わねえからな﹂
﹁言われた方が、困る﹂
それは、そんな短い会話だった。
それだけ言うと、クロードさんはすたすたを商人の元から歩み去
る。
クロードさんを皮切りに、教会の入り口近くに集まっていた獣人
たちもそれぞれの元居た場所へと戻っていく。
その後ろ姿を見送って、商人はどこか悄然とした様子で視線を落
とした。
ぐっと拳を握りしめて、喉元まで出かけた言葉を呑みこむような
背中に何と声をかけたら良いのかがわからない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1044
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
しばらく沈黙が続いた後、イサトさんが静かに口を開いた。
﹁謝らないんだな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮謝って、済むことじゃないからな﹂
またしばらく、沈黙が続く。
﹁貴方は、もっと厭な男だと思っていた﹂
﹁厭な男だよ、あんたに軽蔑されて当然だ﹂
﹁でも⋮⋮、それに気づいたのなら私が思っていたより随分と上等
だ﹂
﹁そんな男だったよ、今夜までは﹂
商人はふと、聖堂の方へと視線をやる。
見張りを続ける獣人の男性陣、その間を忙しげにこまこまと動き
まわる獣人の女性陣、そしてその中ほどで幼い人間の子供をあやす
獣人の子供たち。
それから商人の視線は正面に掲げられた女神像を見上げた。
﹁私は、今になっても獣人は私たちとは違うのだと思ってた﹂
懺悔のように、淡々とした声音は続く。
﹁マルクトさんがしたことは許されることじゃない。そうは思う。
それはわかってる。だが、私にとって獣人はやっぱり﹃私たちと似
てはいても違うモノ﹄だった。だから、きっと私は彼らに対してあ
んな仕打ちが出来たんだ﹂
1045
自分たちとは、違うモノ。
違うからこそ共感することなく、相手を追い込むことが出来る。
家族、友人、隣人には出来ないことが出来てしまう。
﹁違うからこそ、私たちは﹃女神の恵み﹄を手に入れる術を持つ獣
人を恐れ、その力を抑えこもうとしたんだ。で、あんなことになっ
た﹂
自嘲するような笑いが、微かにその呼気に滲む。
﹁あの夜以降も、私は力関係が変わるだけだと思っていた﹂
﹁力、関係?﹂
﹁﹃人﹄と﹃獣人﹄、あくまで違うモノ同士の関係が変わるだけだ
と﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
なんだか、わかる気がした。
彼にとって、﹃獣人﹄はあくまで異邦者なのだ。
理解の及ばぬ違うイキモノ。
今まで下に見て抑えつけていたけれど、その方法が過ちであった
ことこそ理解した。けれど、それはなんというか⋮⋮言い方は悪い
ものの、俺たちが元の世界で虐待された動物に抱く憐憫のような感
覚に近いのではないだろうか。
なんと、いうか。
サーカスを娯楽として愉しんでいたいたセレブが、一部のサーカ
スにおける動物の虐待すれすれの仕込みを知って、動物愛護に目覚
めるような。
象牙製品を愛好していた金持ちが、残酷な方法で殺され象牙を奪
われる象の姿を見て反省するような。
1046
彼の中でやっぱり﹃獣人﹄は﹃人﹄である自分たちとは全く異な
る存在でしかなかった。
﹁それが、あんたの中で変わったのか﹂
俺の問いかけに、商人はゆっくりと視線を女神像から俺へと戻し
た。
笑っているような、泣いているような、それは奇妙な顔だった。
男の視線が、自分の掌へと落ちる。
﹁手が﹂
﹁⋮⋮手?﹂
﹁手が、温かかったんだ﹂
ぐ、とその掌を男は強く握りしめる。
その手に未だ残るぬくもりを引きとどめるかのように。
きっと。
彼は﹃手が温かい﹄なんて些細なことを切っ掛けに、獣人と人と
の間にそれほどの違いがないのかもしれない、と気づいたのだ。
その姿に、なんとなく、本当になんとなく、きっとセントラリア
は大丈夫なんじゃないか、と思った。
ライザのように、酷い目に遭ってもなお、人に対して手を差し伸
べようとする優しい獣人の子供がいて、その想いに応える立派な獣
人の大人たちがいる。そして、そんな彼らに触れることで、こうし
て変わり始めた人の男もいる。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1047
イサトさんが、とん、と俺の横に寄り添った。
肩口に、わずかに預けられる頭の重み。
﹁⋮⋮変わると、良いな﹂
﹁⋮⋮うん﹂
しみじみとした言葉に頷く。
変わると、良い。
人と獣人の関係が。
セントラリアの街が。
もっともっと良い方向に。
彼らには、きっとそれだけの力がある。
朝焼けの光が少しずつ差し込みつつある聖堂を見つめて、そんな
ことを強く思った。
1048
セントラリアの未来︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
PT、感想、お気に入り等、励みになっております⋮⋮!
1049
おっさんとぷんくな思い出
俺たちが大聖堂に向けて出発したのは、教会の方で炊き出しの朝
食までいただいた後のことだった。
いつもならとっくに朝市で賑わっているはずの通りも、今日はし
んと静まり返っている。そんな中を、俺とイサトさんはとぼとぼと
大聖堂に向かって歩いていた。
本当なら、気持ち的には行きたくない気持ちの方が強い。
どうせ大聖堂にはライオネルなんとかがいるのだ。
それならライオネルなんとかへの当て付け半分、﹁守護騎士がい
るなら大聖堂にはもう十分な手があると思ったので∼﹂とかヌケヌ
ケと言ってこのまま宿屋に帰って寝てしまいたい気持ちは満々だっ
た。
何せ、王城での舞踏会から流れるようなドラゴン討伐戦で貫徹状
態なのだ。
体力的にも、なかなかキツい。
﹁⋮⋮イサトさん、生きてるか﹂
﹁そろそろやばい。テンション切れたら寝そう﹂
﹁もうちょい、もうちょい﹂
王城での舞踏会も、ドラゴン討伐も、その後の諸々も、緊張感が
続いている間は良かったのだ。が、あらかたセントラリアにいる友
人知人の無事は確認し、街中に放たれたモンスターのほとんどが駆
1050
除済みだという現状、油断すると容赦なく睡魔に意識を持っていか
れてしまいそうになる。
どうやらそれはイサトさんも同じであるらしい。
二人してやや前傾姿勢、だらりと腕を落として大聖堂を目指して
歩く。
﹁なんで戦闘って一回始まったら毎回徹夜になりがちなんだ⋮⋮﹂
﹁本当にな⋮⋮﹂
言われてみれば、初っ端のカラットの村からしてわりとそうであ
る。
シャトー・ノワール
盗賊の襲撃に寝込みを襲われ︱︱⋮ああ、でも、飛空艇での戦闘
は昼日中だったか。その後の黒の城の一件がやっぱり夜通しの戦闘
で、今回の騒動もまた同じく。四回中三回が夜戦というのは、なか
なかの頻度だと言えるのではないだろうか。
﹁秋良青年、しりとりしよう﹂
脈絡なくイサトさんが提案してきた。
おそらく、ただ歩いているだけだと眠くて力尽きそうなのだろう。
﹁いいよ。じゃあイサトさんからどうぞ﹂
﹁しりとりの﹃り﹄﹂
﹁りんご﹂
﹁ごりら﹂
﹁ラッパ﹂
﹁パインアップル﹂
﹁ルビー﹂
1051
眠くならないように、と始めたはずのしりとりなのだが。
考えなくても続けられるような定番のやりとりに余計眠くなって
きてしまうような︱︱︱
﹁天鵞絨扁埋葬虫﹂
﹁!?﹂
いきなりなんかすごいキラーパス来た。
﹁天鵞絨扁埋葬虫⋮⋮?﹂
﹁天鵞絨扁埋葬虫。﹂
イサトさんが真面目ぶった声音で復唱する。
その癖、ちらりと横目で見やった横顔、その金色の双眸はどこか
笑みを含んで愉しげに瞬いている。
単語自体は﹁シ﹂で終わっているので、別段続けるのが難しいと
いうわけではないのだが⋮⋮唐突に出てきた天鵞絨扁埋葬虫の破壊
力ときたら。
一体どこからそんな言葉を仕入れてきたのか聞こうと口を開きか
けて、ふと、なんとなく。以前にもこんなことがあったような気が
した。
なんだったか。
疲労と睡魔にぼんやりしがちの脳みそでは、なかなか答えに辿り
着けない。
﹁なんだ、ギブアップか﹂
﹁や、そうじゃないんだけど⋮⋮なんか前にもこんなことなかった
?﹂
1052
シャトー・ノワール
﹁前って⋮⋮黒の城から戻ってきたとき?﹂
﹁いや、もっとなんか、こう﹂
シリアスな空気ではなく。
徹夜の延長戦、けれどもっと軽やかにだらだらと、イサトさんと
くだらない話をしていたことがあったような。
どこで、だったか。
確かあれは。
﹁︱︱夏の悪霊封印イベント﹂
﹁⋮⋮うっ、頭が⋮⋮!﹂
俺がふと呟いた言葉に、イサトさんが大袈裟なうめき声をあげた。
イサトさんにとっては若干トラウマになっている模様。
でもまあ、それもそうだろう。
夏の悪霊封印イベント、というのは何年か前の夏にRFCで行わ
れた納涼イベントの一つだ。
フィールド中にあふれたゴーストモンスターを倒し、そのモンス
ターがドロップするお札を集めてNPCに納品するとお礼としてア
イテムやら装備やらが貰える、というのがそのイベントの概要だ。
これだけ聞くと、よくあるイベントのように思えるのだが⋮⋮。
いざ蓋を開けてみると、周囲はプレイヤーの阿鼻叫喚に満ち溢れ
た。
どのレベル帯のプレイヤーも平等に楽しめるように、との運営の
心遣いにより、レベル帯ごとに用意されたゴーストモンスターから
・・・
等しくドロップするはずの札は、すべてのゴーストモンスターから
等しく極々稀にドロップした。
1053
しかも、お札は全部で五色あり、納品のためには五色ワンセット
でなければならないという鬼畜仕様ときた。丸一日狩り続け、よう
やく札が五枚ドロップしたと思っても全部同じ色、だなんて惨劇も
イサトさん
当然起きたわけで。
まあ、おっさんのことなんだが。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
アキ:おっさん何枚集まった?
イサト:ピンクが三枚。死にたい。
イサト:たぶんこれピンクしかないんじゃないか。
リモネ:諦めんなwwwwwwwwww
アキ:まあ、身内でダブってんのトレードしたらいけるんじゃ
ないか。
イサト:アキ青年ピンクと何か交換しよう
アキ:間に合ってます
リモネ:間に合ってます
イサト:リモネに至っては聞く前に⋮⋮!!!!
イサト:ピンク以外なんてなかったんや⋮⋮はいはい未実装未実装
アキ:イキロ
リモネ:イキロ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1054
イサトさん
哀れなり、おっさん。
もちろん、イベントを通して要求されるのが五枚一組だけで済む
わけもない。
イ
揃えた札のセット数に応じてお礼の品は豪華になっていき、最終
サトさん
的にはそのイベント限定召喚獣が手に入るということもあって、お
イサトさん
っさんの目標は当然イベントの完走だった。
おっさんは燃えていた。
イサトさん
それはもう、寝食削る勢いで札を集め続けていた。
イサトさん
が、まるでそんなおっさんの物欲に反応するセンサーでもついて
いるのかと思いたくなるほどに、おっさんのドロップ運は最低だっ
た。三時間に一枚ドロップするかしないかの札、ドロップしても何
イサトさん
故か集まるのはピンク札のみという大惨事。
イベント後半に至っては、おっさんから届くチャットメッセージ
が、モンスターを倒して札がドロップした際の報告のみというかな
り摩耗した感じになっていたぐらいだ。最終的に﹁ぷんく﹂の三文
字が届いたときにはもうあの人駄目なんじゃないかと本気で思った。
イサトさん
確かあの時にも、眠気覚ましにしりとりしようと脈絡なくゾンビ
めいたおっさんに要請されたのだ。
﹁⋮⋮思い出した﹂
﹁ん?﹂
﹁あの時私、君にしりとりで負けたんだ﹂
﹁そうだっけ﹂
﹁そうだよ。頭が死んでたからか何故か﹃ビ﹄で始まる言葉が思い
つけなくて﹂
1055
﹁ビール、ビーム、あたりを使うと確かに咄嗟には出てこないよな﹂
﹁そうそう。それで次やるときに困らないように、って調べておい
たんだった﹂
﹁それで天鵞絨扁埋葬虫⋮⋮?﹂
﹁そう﹂
イサトさんのチョイスがおかしい。
もうちょっと普通の言葉もあっただろうに、何故天鵞絨扁埋葬虫
だったのか。
そもそももう天鵞絨で良くないか。
思わず半眼を向けた俺に、イサトさんは悪戯が成功した子供のよ
うに笑う。だいぶ時間差をおいてのリベンジマッチをされてしまっ
た感に、結局俺もつられて笑ってしまった。
ひとしきり笑ったところで、イサトさんがぐんと両腕持ち上げて
ノビをしながらぼやいた。
﹁ネトゲだったら二徹ぐらいなら平気でイケるのになあ﹂
﹁こちとら実際に体力、精神力消費しまくってるからな⋮⋮﹂
指先のクリック一つで戦闘が進み、死んでも失うのはこれまでに
溜めた経験値の何パーセントか、であったゲームとは異なり、この
世界においての戦闘はどこまでも本物だ。
敵の攻撃はこちらの肉体を傷つけ、傷を負えば当然のように痛み
があり、おそらく死ねば全てが終わる。
﹁なんだかゲームでゲームしてたのが懐かしい﹂
﹁⋮⋮秋良青年の日本語が残念なことに﹂
1056
疲れのせいだと言い張りたい。
今俺たちがいる世界が、ただのゲームだった頃が随分と昔のよう
に思えるのはどうしてだろう。やっぱり疲れているからだろうか。
自分たちの命はおろか、他人の命を肩に背負っての戦い、なんて
のからは無縁だった世界。
気心の知れた仲間たちと、他愛もない軽口を叩きあいながらあく
イサトさん
までゲームを楽しんでいた頃が、なんだかとんでもなく恋しくなっ
てしまった。今なら、延々と無限に続きそうなおっさんのアイテム
−⋮⋮帰りたい﹂
堀りにも喜んで付き合える気がする。
﹁あ
おっさんのような声が出た。
三日ぐらい会社に泊まりこみ、四日目の朝にようやく始発で家に
帰るおっさんのような声だ。まだまだ若いと思っていたが、俺の中
にも確実におっさんは潜んでいる。
﹁帰りたい。布団で寝たい。目が覚めるまで寝ていたい﹂
﹁同感だ。共に全日本もう帰りたい協会に駆け込もう﹂
﹁全日本、じゃここまでは網羅していないのでは﹂
﹁︱︱なんと。設立から始めなければいけないのか。私がセントラ
リア支局の支局長するから君、副長な﹂
﹁それ、なんだか結局仕事してないか?﹂
﹁何言ってるんだ、全日本もう帰りたい協会セントラリア支局だぞ。
仕事内容は速やかな帰宅に決まってる﹂
﹁あゝ全力で﹂
1057
﹁帰りたい﹂
帰りたいのは宿屋になのか、元の世界に、なのか。
それすらも曖昧に軽口を叩きあい、帰りたい帰りたいと言いなが
らも俺とイサトさんは大聖堂に向けて歩き続ける。
それは意地であり、見栄だ。
教会にて、﹁これからアキラさんとイサトさんはどうするんです
か?﹂と無邪気に問いかけるライザを前に、俺とイサトさんは二人
揃って顔を見合わせてしまったのだ。
その時俺の頭によぎったのは、ほんの少し前に聞いた、クロード
さんの言葉だった。
﹃本当に助けられねえのか、助けたくねえのかがわからなくなった﹄
今、宿屋に戻ってしまったら。
﹁本当に疲れていたから﹂なのか、﹁ライオネルなんとかへのア
テツケ﹂なのかがわからなくなってしまいそうな、そんな気がして
しまった。
きっと、イサトさんも同じことを考えてしまったのだろう。
だから、俺とイサトさんは疲れた顔を見合わせて、小さく覚悟を
決めるための息を吐いて、それからライザへと言い切ったのだ。
﹁﹁ちょっと大聖堂見てくる﹂﹂
1058
若干台風の日に田んぼを見に行く感が醸し出されているのは気の
せいだ。
︱︱そんなカッコツケから今に至るわけなのである。
ライザや、クロードさん、そしてあの商人ばかりに格好つけさせ
てたまるか。
と。
そんな話をしている間に、大聖堂の前まで辿りついた。
俺たちが先ほどまでいた古い教会とは比べものにならないほど大
きな扉は硬く閉ざされており、その前には幾人もの騎士が詰めてい
る。見覚えのある白銀の鎧はセントラリアの守護騎士のものだ。
出来ることならば、ライオネル何とかご一行ではない騎士であっ
てほしいのだが⋮⋮。
俺とイサトさんはちら、と視線を交わして覚悟を決めた後一歩を
踏み出した。
もしもここでも俺たちなど用なしなのだと喧嘩を売られるような
ら、その時こそ心置きなく宿に戻って惰眠を貪れば良い。
こちらも徹夜なのだろう疲れた顔をした騎士たちが、俺たちの存
在に気づいてわずかに警戒の色を滲ませる。
﹁なんだお前たちは⋮⋮って、あんたたちは﹂
﹁⋮⋮なんだよ、何をしにきたんだ﹂
俺とイサトさんの顔に見覚えがあったのか、騎士たちが顔を見合
わせる。
ざっと見た感じ、ライオネルなんとかの姿はこの場にはない。そ
のおかげなのか、あまり敵対的な空気は感じなかった。友好的、と
まではいかなくとも、どちらかというとバツが悪そうな空気、に近
1059
い。
﹁あっちの方が落ち着いたからな。こっちの様子も見に来てみたん
だが⋮⋮特に手助けは必要なさそうか?﹂
﹁⋮⋮っ!﹂
俺の声に、驚いたように騎士たちの顔に動揺めいた色が走る。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
しばしの沈黙。
お互いの顔色を窺いあうような間をおいて、騎士の中の一人が口
を開いた。
﹁⋮⋮その。ライオネルがあんなことを言ったあとに、あんたたち
に頼るのは随分と調子が良いのはわかってる﹂
どうやら彼は、ライオネル何とかと共に教会を訪れた騎士の一人
であったらしい。断られても当然、というような面持で、苦々しく
言葉を押し出す。
﹁怪我人がいるんだ。その⋮⋮怪我が酷い奴だけでもいい、看ても
らえないか﹂
﹁そのために来たんだ、案内してくれ﹂
﹁⋮⋮! ありがとう、助かる。こっちだ﹂
間髪入れずに応じたイサトさんに驚いたように、騎士は目を丸く
しつつもすぐに俺たちを先導して歩き始めた。
1060
彼が俺たちを案内したのは、大聖堂の横にある塔のような建物だ
った。
おそらくは守護騎士の詰所なのだろう。
奥へと足を踏み入れるに連れ、血の淀んだ匂いが漂い出す。
﹁重傷者がいるのか?﹂
﹁命にかかわるほどではない。だが、決して軽くもない﹂
そうして案内された先の奥の部屋は、さながら野戦病院のような
有様だった。
怪我をした男たちが何人もベッドに寝かされており、そのベッド
の数も足りていないのか、壁にもたれるよう布を敷いただけの床に
座りこんでいる者も多い。
ここまで案内してくれた騎士の言ったように、今すぐにでも死ん
でしまいそうなほど大怪我をしている者は確かにいないようだが、
ピンピンしてるとも言い難い。
モンスターに酷く噛まれでもしたのか、傷口に巻き付けられた包
帯の輪郭が痛々しく歪んでいる者すらいる。
普通に治療しただけでは、傷は治ったとしてもこれまで通り戦え
なくなる者もいるのではないだろうか。
﹁秋良青年、まずは空気を入れ替えよう。窓、開けてもらっても?﹂
﹁了解﹂
おそらくは血の匂いに惹かれてモンスターが集まることを警戒し
ていたのだろうが、締め切られた部屋の中は薄暗く、空気が澱んで
いる。
次々と鎧戸を開け放っていくにつれ、部屋の中に清廉な朝の光と
空気とが流れこんできた。
1061
﹁⋮⋮なんだ、もう朝が、きてたのか﹂
窓際のベッドに寝かされていた男が、ぼんやりとつぶやく。
夜が明けたことにすら気づいていなかったのかと思うと、なんだ
かたまらない気持ちになった。
﹁⋮⋮ぐぬぅ﹂
明るくなった室内を見渡したイサトさんが呻く。
まあ、その気持ちはわからなくもない。
日の光の下で見ると、ますます惨状と呼ぶに相応しい状況だ。
その声を聞きつけたのか、周囲に横たわる怪我人たちが口々に怪
我の重い誰それから癒してやってくれ、いや誰それこそを頼む、と
口を開き始めた。
﹁俺は大丈夫だから、アイザールの奴の怪我を治してもらえないか﹂
﹁何言ってんだ、あんたの方こそ若い奥さんもらったばっかりだろ﹂
﹁それなら赤ん坊が生まればかりのテオドアを先に﹂
ちょっとした愁嘆場だ。
っていうか騎士団の皆さまフラグ立てすぎじゃないか。
何かそういうルールでもあるのか。
﹁イサトさん、もしかして気持ち悪くなった?﹂
﹁いや、それは大丈夫﹂
﹁じゃあMPが足りない、とか?﹂
﹁そっちもたぶん大丈夫、だと思う。万が一足りなくなっても、M
P回復用のアイテムも持ってるから﹂
﹁? じゃあどうしたんだ?﹂
﹁⋮⋮これ、みっちみちになるぞ﹂
1062
みっちみち。
イサトさんの言葉に、ふと思い出した。
単体の回復スキルを持ち合わせていないイサトさんは、あくまで
回復スキルを持つ召喚獣を行使する、という形をとることになる。
つまり、この場にいる怪我人を癒すためにはここに回復スキル持
ちの召喚獣、すなわち朱雀を呼び出さないといけないわけで。
先ほどの教会以上に、この部屋は狭く、天井も低い。
これは確かに間違いなく、みっちみちになる。
﹁⋮⋮⋮⋮イサトさん、朱雀ってイサトさん以外が触ると火傷する、
みたいな縛りってあったっけ﹂
﹁たぶんなかった、はず﹂
﹁じゃあ、いいんじゃないか?﹂
﹁⋮⋮よし﹂
かくして。
俺はいいからあいつは先に、と美しい友情を発揮しあう怪我人た
ちの元に、艶やかな毛並みも美しい朱雀がもっふりみっちりと降臨
した。
1063
﹁やー⋮⋮なんかこう、すごい光景だな﹂
﹁新手のテロ画像みたいだ﹂
騎士、ということもあって、そこにいた怪我人たちは皆体格の良
い、顔だちもどちらかというと凛々しく、いかつい男性陣が多かっ
た。
そんな彼らが、鳥の雛よろしく、もっふり丸くなった朱雀の羽の
下に収まっているのである。朱雀のエリアヒールのおかげで痛みが
なくなったこともあり、皆して温泉に浸かったがごとく蕩けた顔を
しているものだから、余計に面白おかしいことになってしまってい
た。
最初は深刻そうに怪我人の様子を見に来ていた他の騎士たちも、
最後は笑いを耐えるのに必死になって逃げだしていくという有様だ。
﹁それにしても⋮⋮これだけの怪我人がいるのに、よくあのライオ
ネル何とかは俺たちを呼ぼうとしなかったな﹂
売り言葉に買い言葉とはいえ、大聖堂の方は十分手が足りている、
と言っていなかったかあの野郎。
﹁⋮⋮ライオネルは、あなた方の力がこれほどまでだとは思ってい
なかったのでしょう﹂
ぼやくような俺の言葉に応えたのは、俺たちを詰所まで案内して
1064
くれた騎士だった。心なし、口調が畏まっているようなのは気のせ
いか。なんだか急に扱いが変わったことに、背中がむずがゆくなる。
が、これも感謝故だと思うと気持ち悪いからやめてくれとも言い
づらい。
﹁これほどまで、って?﹂
﹁あの教会でも怪我人の手当てをしたとは聞いていましたが⋮⋮こ
れほどの怪我を癒すだけの力をお持ちだとは思っていなかったので
す﹂
﹁回復スキルを持つ人間は少ないのか?﹂
﹁聖堂勤めの巫女や、司祭様なら可能ですが⋮⋮あまり数をこなす
ことができないため、こういった事態では騎士は後回しになります﹂
なるほど。
﹃女神の恵み﹄が手に入りにくくなっていることもある。
MPに限りがある上に、その回復が見込めないともなれば、いざ
王族や貴族などに怪我人が出た際に備えて軽々しく回復魔法を連発
することもできない、ということなのだろう。
ここにいた怪我人たちは幸い、というか運悪く、というか、命に
関わるほどの重傷ではなかったことから、後回しにされてしまって
いたらしい。
それを恨めしく思うわけでもなく、騎士は当然だという顔で語る。
イサトさんのように一回のスキル行使で大勢を一度に癒せる方が
規格外なのだ。
それ故に、ライオネルなんとかの﹁大聖堂は手が足りている発言﹂
につながるというわけか。
﹁⋮⋮でも、どうして助けてくれたのですか?﹂
﹁ん?﹂
﹁あなたたちは、獣人側なのだと思っていました﹂
1065
彼の言葉に、俺とイサトさんは顔を見合わせる。
なんだか苦い笑みが口元に浮かんでしまった。
獣人側だから、人間側の騎士を見殺しにしてもおかしくないと思
われていたことが、というか。それが彼らにとって当たり前の発想
であることが、ある意味平和ボケした俺たちからすると随分と苦く
思えてしまったのだ。
﹁俺たちはさ、余所者なんだよ﹂
﹁余所者、ですか﹂
彼はきっと、俺たちが旅の冒険者であり、セントラリアに根差し
ていないということでこの言葉を受け取っただろう。が、実際のと
ころ、俺とイサトさんはこの世界にとっての余所者だ。この世界に
おける常識を知らないし、必要とあらばその常識をいともあっさり
とスルーしてしまうこともできる。
﹁人間がどうこう、とか。獣人がどうこう、ってのじゃなく。単に
俺たちはしたいことをしてるだけだ﹂
目の前で惨事が起きるのが厭だと思ったから、飛空艇を街の手前
で墜とした。
目の前で虐げられてる子供を何とかしたいと思ったから、ギルロ
イ商会の連中とやりあった。
﹁すごく、綺麗ごとに響くだろうけれど︱︱⋮君たちを癒したのも、
私が痛そうで見てられないなと思ったからだ。助けたいと思ったか
ら、助けた。ただ、それだけなんだ﹂
しがらみがないのを良いことに、その場その場でしたいことをし
1066
ているだけだ。
正義の味方どころか、誰の味方ですらない。
やりたいことをやりたいようにしているだけの︱︱︱わるもの。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
騎士の青年は、俺たちの言葉に何か考え込むように目を伏せる。
そんなやり取りの合間にも、朱雀のエリアヒールは部屋にいた怪
我人たちをしっかり癒し終えていたようだった。気が付けば、朱雀
を中心にあたりを満たしていた薄い朱色の光が役目を終えたように
消えている。
そのわりに、先ほどまで怪我に苦しんでいた騎士たちが、未だど
こか夢見心地でもふもふと朱雀を撫でたくっているのが見えている
わけなのだが。
彼らには悪いが、他に何か用がないようならそろそろ切り上げて
も良さそうだ。
﹁他にもう、怪我人はいないんだよな?﹂
﹁はい。大聖堂に避難してきた人々の中に怪我人はいません﹂
﹁よし。じゃあ﹂
俺たちは帰るか。
そう言い終えるより先に、慌ただしく扉を開いて一人の身なりの
良い男性が飛び込んできた。
﹁こちらに旅の冒険者、アキラ様とイサト様はいらっしゃるでしょ
うか!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1067
どうやらまだまだ帰れそうにない。
1068
おっさんとぷんくな思い出︵後書き︶
お読みいただきありがとうございます。
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1069
おっさんと巫女
騎士の詰所に飛び込んできた人物は、シェイマス陛下付きの近衛
兵を名乗った。
なんでも、俺たちがここを訪れていることを知ったシェイマス陛
下が、俺たちに会いたがっているらしい。
陛下自ら謁見を求められる、というのはきっと大変光栄なことで
はあるのだが⋮⋮叶うことなら機を改めたいというのが正直なとこ
ろだ。
何せ、俺とイサトさんは草臥れ果ててそろそろ寝落ちしそうな有
様である。こんな状態で陛下に会って、何か失礼なことをやらかし
ても困る。
﹁このような小汚い格好で陛下にお目通りするのも申しわけが⋮⋮﹂
﹁何をおっしゃいます、我々のために力を尽くしてくださったお二
人のその様子を嘲ることなど、陛下もお許しありますまい﹂
違う、そうじゃない。
日本人らしい遠回しなお断りはどうにも通用しなかった。
文化格差と見るべきか、あえてのスルーだと思うべきなのかが悩
ましい。
彼には少し待っていてもらうように伝え、少し距離を置いてイサ
トさんと顔を突き合わせての密談を試みる。
﹁⋮⋮イサトさん、どうする?﹂
﹁毒を喰らわば皿まで、皿を喰うならもういっそテーブルごと喰お
う﹂
1070
﹁すごい開き直ったな﹂
﹁ここまで来たら皿もテーブルも変わらないだろう﹂
﹁変わる。だいぶ変わるぞ、容量的に﹂
皿もテーブルも、どちらも食用には適していない無機物であると
いう共通点はあるものの、それを一緒にするのはどうにも乱暴な話
である。イサトさんはこういうところで、時々妙に思い切りが良い。
﹁なんかもう面倒臭くなってきたんだ⋮⋮﹂
﹁何が﹂
﹁一回宿屋に戻って、寝て、休んで、それから身支度を整えて、改
めて謁見を申し出て︱︱⋮みたいな流れが﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
確かに、その気持ちも分からなくもない。
今は勢いで陛下の前にこの格好で出られるかもしれないが、改め
ての謁見ともなると王城に上がるのに相応しい格好だとか、マナー
だとか、取次だとか、そういうものが発生しかねない。
考えるだけで思わず半眼になってしまった。
それなら、イサトさんの言うようにこのままの勢いでテーブルま
で食べてしまった方が、後々面倒くさくないような気もする。
﹁じゃあ、陛下の呼び出しに応じる方向で?﹂
﹁ンむ。物理的に耐えられなくなったら、合図してくれ。私がこう、
儚く倒れるから﹂
﹁何故﹂
﹁そしたらほら、ツレが倒れたので帰ります、って言えるじゃない
か﹂
﹁何故普通に疲れたから帰ります、という発想がないのか聞いても
良い?﹂
1071
﹁⋮⋮疲れたから、なんて理由で帰してもらえると思うのか﹂
﹁えっ﹂
何それこわい。
イサトさんの視線がふッと遠くに彷徨った。
﹁秋良青年の夢や希望を打ち砕くつもりはないものの︱︱⋮良いか、
上に立つ人間というものは、﹃やればできる﹄を間違った方向で信
じているからな? 疲れなんて甘えだし、やるべきことが残ってい
るのに眠りたいなんていうのは怠惰だと思っているからな?﹂
﹁まって。まって。イサトさん目がスワってる﹂
徹夜明けのテンションで、イサトさんの何か押してはいけないト
ラウマスイッチが入ってしまった感。
﹁倒れて診断書が出てようやく休みが取れるレベルだからな。私、
仕事休みたい一心で何度階段から落ちようと思ったことか﹂
﹁病んでる。イサトさんそれ病んでる﹂
﹁リモネに言ったら、お前の会社なら両腕が動く限り病院にもノー
パソ持って押しかけてくるぞ、と言われたから自重したけども﹂
﹁自重の方向がおかしいな?﹂
ブラック会社出身の社畜の発想が怖い。
﹁と、いうわけでいざとなったら私が儚く倒れるので、君はその介
抱をする、という態で速やかに逃げよう﹂
﹁いろいろと理解はしかねるけれども、まあ了解した﹂
﹁まあ、おそらくは昨夜からの私たちの働きに対しての労い、だと
は思うんだけどなあ。一国の王としては、ここらで対外的なデモン
ストレーションもしておかないといけないだろうし﹂
1072
セントラリアを救うために尽力した俺たちに対して、セントラリ
アの王として謝辞を述べる、という形式的な意味合いと。ドラゴン
を倒すほどの力を持つ旅の冒険者であっても、王の威光の前では頭
を垂れるのだという周囲に対するアピールの、その両方の意味合い
がある、ということだろう。
俺たちとしても変に勘繰られるよりは、その思惑に乗っかった方
が楽なので、それは問題ない。
﹁ただ︱︱⋮、考えられる中で一番面倒くさいパターンが一つ、あ
って﹂
﹁面倒くさいパターン?﹂
﹁私たちが草臥れているうちに丸め込もうぜ作戦が繰り広げられた
場合、だな﹂
﹁うわあ﹂
俺たちが昨夜よりセントラリアを救うべく働きづめなのは、おそ
らくシェイマス陛下も知っていることだ。その上で、恩を仇で返す
がごとき真似をするとは思えないが⋮⋮相手は食えない王族である。
あえて俺たちが弱っているところ突いてくる可能性がないことも、
ない。
﹁徹夜明けってちょっとテンションおかしくなりがちだからな⋮⋮
あとから考えると、なんであんなことしたんだろう、ってことをし
がちだ﹂
﹁ああ、うん。それはわかる気が︱︱﹂
﹁私、徹夜明けの勢いで荒巻鮭を丸で購入していたことあるからな。
一人暮らしなのに﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
1073
しなかった。
わからない。
イサトさんがわからない。
その言いようからして、数量を間違えた、というわけでもないの
だろう。
何故食えると思った。
そもそも荒巻鮭を丸ごと一つなんて、冷蔵庫に入るのか。
﹁だから、徹夜明けテンションで押し切られて、無理難題を押し付
けられないように、っていうのは気をつけたい﹂
﹁力いっぱい同意する﹂
イサトさんが奇行に走りかけたら全力で阻止する方向でいこう。
腕力にまかせればだいたい勝てる。
と、いうわけで。
ざというときの脱出プラン︵?︶をざっくりとまとめた上で、俺
とイサトさんはシェイマス陛下の要請に応じることにしたのだった。
1074
して、案内された大聖堂は、獣人たちが集会に使っているのとは
比べものにならないほどに広く、豪奢な建物だった。
中は四つのそれぞれ大きさの異なるホールを連結したような造り
になっており、シェイマス陛下は一番奥のホールにて俺たちを待っ
ていた。
こちらは祈りを捧げるための場所というよりも豪華な会議室とい
った趣が強く、部屋の中央には大きな円卓が据えられている。
そんな円卓の入口の正面に、シェイマス陛下は腰かけていた。
その背後には近衛兵と思わしき男性と、質素ながらもどこか優美
な印象のある白いドレスを纏った女性が控えている。
神殿勤めの巫女、だろうか。
RFCのNPCの巫女が、こんな格好をしていたような気がする。
そこまで考えて、そういえばこの世界にやってきていわゆる聖職
者と呼ばれる人に会うのはこれが初めてだと思い至った。
教会にはわりとよく出入りしているものの、あそこはもう正式な
意味合いでは教会として機能していない。
座っていた陛下は、近衛兵に案内されてやってきた俺たちに気づ
くと、すぐさま立ち上がって俺たちの方へと出迎えるようやってき
1075
てくれた。
相手が一国の王だとすると、破格の対応だといえる。
﹁よくぞ来てくれたな。一度とならず二度までもセントラリアを救
ってくれたそなたらをこうして呼び出すのも気が引ける話なのだが
⋮⋮﹂
﹁いえ、こちらこそ光栄です﹂
あたりさわりなく応じながら、周囲の様子を窺う。
最初に見た通り、部屋の中には陛下と護衛の兵士が一名、それと
巫女と思われる女性が一人いるだけだ。イサトさんが先に言ってい
たような、周囲へのアピールのために呼んだという路線ではなさそ
うである。
むしろ、どちらかというと人目を避けている印象すらある。
と、なると何か厄介ごとを押し付けようとしているのかと身構え
たくもなるのだが⋮⋮。
﹁そなたらも疲れているだろう。面倒な前置きは省くが良いか?﹂
﹁その方が、こちらとしてもありがたく﹂
何しろこちらは無作法な異世界トラベラーだ。
仰々しい前置きなどおかれてしまっては、主旨を見失いかねない。
陛下は俺の言葉に鷹揚に頷いて見せると、さっくりと本題を口に
した。
﹁実は︱︱⋮、セントラリアの聖女がそなたらと話がしたいと言っ
ておるのだ﹂
1076
せい、じょ。
思いがけない言葉に、一瞬咄嗟に耳で聞いた音を意味を持つ漢字
に変換することに失敗した。聖女というとあれか。聖なる女性、略
して聖女、だろうか。
俺の記憶している限りでは、ゲームとしてのRFCにはそんな肩
書を持つNPCは存在していなかったはずだ。
思わず、視線が陛下の傍らに控える女性へと流れる。
彼女が、そのセントラリアの聖女なのだろうか。
視線に込められた疑問はあまりにもわかりやすかったのか、陛下
の背後でその女性が静かに目を伏せた。どうやら違うらしい。
セントラリアの聖女とはいったい何なのかを聞いてみたいものの、
それがこの世界において﹃知っていて当たり前の存在﹄であるのな
らば藪をつつくのはまずい。さも聖女のことは知っているものの、
その聖女からお呼びがかかるとは思ってなくて戸惑っている、とい
う風を装う。
﹁聖女が、私たちに何の御用なのでしょうか﹂
﹁⋮⋮わからぬ﹂
イサトさんの問に、陛下は重々しく首を左右に振る。
﹁聖女は教会の意思を束ねる者とはいえ、俗世のことには関わらぬ
尊きお方だ。私も儀式の際に顔を合わせることがある、という程度。
女神の言葉を聴くという聖女の御心は私にもわかりかねる﹂
ふむ。
1077
確かに、舞踏会でも陛下の傍らにいたのは司祭長だった。
俗世に関わらない、ということは民の声を聴き、民衆の声を代表
するという政治的な役割を果たすのは司祭長、聖女は教会の中にお
ける信仰上のトップ、というような認識で良いのだろうか。
ふと、脳裏に竜化したエレニと一戦を交えていた際に見かけた人
影が過る。
法杖を構え、ドラゴンのブレスを防いで見せた華奢な白い人影。
あの人影の主こそが、セントラリアの聖女、よ呼ばれる人物なの
か。
﹁陛下、そのお話、受けても構いませんが︱︱⋮一つ、よろしいで
しょうか﹂
イサトさんが、陛下に向けて口を開いた。
﹁申してみよ﹂
﹁お会いすることは構いません。ですが、その内容によっては、聖
女の意向に添いかねることもあるかと思うのです。それでも、陛下
はよろしいのでしょうか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
シェイマス陛下は、少しだけ戸惑ったような沈黙を挟んだ。
﹁女神の言葉を代弁すると言われる聖女にすら、添わぬと言うのか﹂
﹁はい﹂
まっすぐに陛下を見据えて、はっきりと、言い切る。
女神の加護の下に生きるこの世界の人にとっては、理解できない
ことなのかもしれない。だが、俺とイサトさんのスタンスについて
1078
は昨夜、エレニが王城を襲撃してきた際にも、陛下の前で宣言して
いる。
陛下もそれを思い出したのか、難しい顔をしながらも頷いた。
﹁許す﹂
﹁ありがとうございます﹂
よし。
これで話を聞いたからには言うことを聞け、なんていう事態は避
けられる。
イサトさんが気づいてくれて良かった。
﹁ウレキス、この者たちを聖女の元へ案内せよ﹂
﹁承知致しました﹂
ウレキス、と名を呼ばれた女性が恭しく陛下へと腰を折る。
どうやらこの女性は、俺たちを聖女のもとへ案内するために控え
ていたらしい。
だがその口ぶりに一つひっかかることがあった。
﹁陛下はいらっしゃらないのですか?﹂
﹁聖女様は俗世より離れた清らかなるお方。たとえ陛下といえど、
儀式を超えて交わるわけにはいかないのです﹂
陛下へと向けた疑問に、物腰柔らかながらもはっきりとした声音
で答えてくれたのは、そのウレキスという巫女だった。
どうやら聖女という存在は、俺が思う以上に神聖で不可侵な存在
であるらしい。
陛下ですら易々とは会うこと叶わぬような聖女からの呼び出しだ
と思うと、ますます厄介ごとの匂いがしてくる。
1079
が、一応内容によっては意に添いかねる、とは先に宣言してある
のだ。
とりあえず、まずは話だけでも聞いてみるとしよう。
﹁では、私は失礼しよう。ウレキス、あとは任せたぞ﹂
﹁はい、女神の御心のままに﹂
恭しく頭を下げるウレキスさんに見送られて、陛下は護衛の兵士
とともにその場をあとにする。
その姿が見えなくなるまで頭を垂れていたウレキスさんは、扉が
閉まる重々しい音に合わせて再び顔を上げた。
改めて見るに、顔だちの整った綺麗な女性だ。
豊かにうねる黒髪に、白い肌、色素の淡い灰色の双眸。ほとんど
肌に溶け込むような柔らかな色合いの唇はまるで端正こめて彫り込
まれた彫像のようだ。
それなのに、不思議と見る人の心を波立てない静けさがある。
確かに綺麗な人だと思うのに、目を閉じて思い返そうとするとそ
の静謐な身に纏う雰囲気は思い出せるのに、顔の造作が出てこない。
﹁では︱︱⋮こちらについてきていただけますか? 聖女様の下ま
で、ご案内させていただきます﹂
静かに礼をして、ウレキスさんが歩きだす。
堅い石造りの床の上を歩いているはずなのに、足音が一切しない。
実は幽霊か何かなのではないかと思うほどに、動きの一つ一つが
静かだ。
かといって、お化けか何かのような違和感があるわけでもない。
きっと、この女性はあんまりにも自然体なのだ。そこに在るのがあ
1080
んまりにも当たり前で、この場に溶け込みすぎているが故に、その
人となりが、印象がぽろぽろと零れ落ちていってしまう。そんな超
然とした様が、いかにも巫女らしいと思ってしまった。
ウレキスさんは、陛下が退出したのとは反対方向にある小さな扉
へと手をかける。壁に彫り込まれた精緻なレリーフに溶け込むよう
な、扉だと言われなければ気が付かないような扉だ。
その奥には、ひたすらまっすぐに続く道が続いていた。
両サイドには柱が並び、左右には美しい庭園が広がっている。
清廉な緑と、淡い色使いの花々、そして青く澄んだ池。
楽園と言われても納得できてしまいそうな、美しい中庭を突っ切
るようにしてその白い道は続いている。
延々と続くようにも見える渡り廊下を歩く中、ふとウレキスさん
が口を開いた。
﹁︱︱⋮聖女様にお会いになられる前に、何かお聞きになりたいこ
となどはございませんでしょうか。お二人は旅のお方だとお聞きし
ています。私で良ければ、ご説明できることもあるかと﹂
確かに、聞きたいことはある。
聖女、とはいったい何なのか。
が、それを聞いても良いものなのかは悩ましい。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ふ、とそんな俺の様子に、ウレキスさんが小さく笑ったようだっ
た。
﹁緊張、させてしまいましたか。私どもにとっては尊き教え、けれ
1081
ど一般の方々にとってはまだ少し縁遠いものであることも存じてい
ます。どうか、ご遠慮なさらずに﹂
それはどこか、一度聞いたはずの授業の内容について、聞きたい
ことがあるのになかなか切り出せずにいる生徒を促す教師の言葉に
も似ていた。その感じからして、知っているつもりで実は詳しくな
い者も少なくはない、ということで良さそうだ。 ﹁⋮⋮じゃあ、すごく基本的なことから改めて説明して貰っても良
いですか?﹂
そっと聞いてみると、ウレキスさんは嬉しそうに頷いた。
知らないことを責めるのではなく、むしろ知らないものに教えを
伝えることを喜びにしているのだということがその姿からもよくわ
かる。
﹁聖女様は、女神の依代であり、その声を聴くことのできる尊きお
方です。ですがそれ故に、聖女様は俗世に触れることが叶いません。
人と関わることで穢れを受けてしまえば、女神の声を聴くことが出
来なくなってしまうからです。そんな聖女様と、皆さまとの間を繋
ぐのが、我々のような巫女の勤めとなっております﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
﹁今回のように、聖女様から俗世の方にお逢いしたいとおっしゃる
ようなことは今までにないことです。きっと、あなた方は女神から
の加護が厚くていらっしゃるのでしょう﹂
柔らかなウレキスさんの言葉に、俺はやんわりとした笑みで肯定
とも否定ともつかぬ相槌を打つ。ゲームシステムの恩恵を受けてい
る、という意味においては確かに女神の加護が厚い、のかもしれな
いが、そのあたりはどうにも説明が難しい。
1082
﹁私も⋮⋮、いつか聖女様にお会いできるよう、これまで以上に勤
めを全うしようと、励みになりました﹂
ん?
﹁ウレキスさんは、聖女様にお会いすることが出来ないんですか?﹂
俗世の人間と直接関わることができないために巫女がいる、とい
う風に聞こえていたのだが。
﹁ああ、すみません。聖女様におお目通り叶うのは、陛下のみなの
です。司祭長を含め、身の回りのお世話をさせていただく我々巫女
も、普段はお声を聞かせていただくのみです﹂
そう言ったウレキスさんの横顔は、どこか少し寂し気に見える。
それは、信仰の対象を純粋に慕う、というよりも、もっと何か違
う意味合いを持っているように見えた。
﹁あの﹂
﹁はい、なんでしょう?﹂
﹁ウレキスさんは、聖女様とお知り合い、なのですか?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
嬉しそうに頬を染め、ウレキスさんは頷く。
存在感のない透明な表情が綻んで、柔らかな笑みになる。
巫女としての在り方としては修行が足りない、ということになる
のかもしれないが、俺としてはそちらの表情の方が好きだなとなん
となく思った。
1083
﹁今代の聖女様は、私が姉と慕っていた方なのです﹂
﹁今代、というと?﹂
﹁何十年かに一度、聖女様は代替わりを行うのです。巫女の中で一
番優秀で、信仰に秀でたものが、前の代の聖女により選ばれるので
す﹂
﹁それで選ばれたのが、ウレキスさんのお姉さん、なんですね﹂
﹁はい。今ではもう、おこがましくて姉と呼ぶことも叶いませんが﹂
懐かしそうに、ウレキスさんの灰色の瞳が細くなる。
﹁こんなことを言ってはいけないのはわかっているのですが︱︱⋮
私は一度、聖女になる前の姉に命を救われたことすらあるのですよ﹂
﹁へえ、何があったんですか?﹂
軽い調子で、話を振る。
きっと、普段のウレキスさんならば聖堂の中で聖女の身内である
ことを自慢するようなことはないのだろう。俺たちが部外者だから
こそ、ウレキスさんは純粋にただ姉を慕うかのようにこうして話を
聞かせてくれているのだ。
﹁まだ、私が子供だった時のことです。水を汲みに泉に赴いたとこ
ろ、迷い込んだ野犬に襲われたのです。まだ幼かった私など、きっ
と簡単に殺されてしまったでしょう。そこを、姉が救ってくれたの
です﹂
﹁勇敢なお姉さんだったんですね﹂
﹁はい。今となっては想像もできないぐらい、お転婆な姉でした。
その際にできた傷も、妹を守った名誉の傷だから、なんて言って﹂
ふふ、と楽しそうにウレキスさんが笑った。
そうしている間にも、やがて渡り廊下は終点にたどり着く。
1084
ウレキスさんが足を止めたのは、瀟洒な造りの東屋の手前、数メ
ートルというところだった。
﹁ウレキスさん?﹂
﹁これより先に、私は足を踏み入れることを許されていません﹂
寂しげに、ウレキスさんが灰色の双眸を伏せる。
そのほんの数メートル先に、あれだけ嬉しそうに語った姉がいる
というのに、その姉が聖女として選ばれたことによりウレキスさん
は姉を姉として慕うことすら許されていないのだ。
ウレキスさんも、ウレキスさんのお姉さんも、そうなることをわ
かった上で聖女としての役割を受け継いだのだろうとは思う。部外
者である俺が、簡単に同情してそんな決まりに従うことはないと言
ってしまえる問題ではないことも、わかる。
けれど、その数メートルの距離が、なんだかとてももどかしく思
えた。
﹁︱︱⋮ウレキス、さん﹂
と、そこでふとイサトさんが口を開いた。
ここまで会話を全部俺に任せていたものだから、実は正直歩いた
まま寝てるんじゃないかと疑っていたのは内緒だ。
﹁何か、お姉さんに伝えたいことがあれば私が伝えよう﹂
﹁⋮⋮!﹂
イサトさんの言葉に、ウレキスさんが驚いたように息をのむ。
それから、ウレキスさんはどこか幼い少女のように、ほろりと内
側から咲き零れるような、恥じらいを含んだ笑みを浮かべた。
1085
﹁心はいつも傍に。そう、お伝えいただけますか﹂
﹁⋮⋮わかった。必ず伝えるよ。案内してくれて、ありがとう﹂
﹁ああ、ありがとう﹂
﹁こちらこそ︱︱⋮ありがとうございます﹂
深々と頭を下げるウレキスさんに見送られて、俺とイサトさんは
聖女が待つという東屋に向けて歩を進める。
充分にウレキスさんから距離が開いたのを確認して、ちょろ、と
横に視線を流した。
﹁⋮⋮⋮⋮イサトさん、寝てるかと思った﹂
﹁⋮⋮実はちょっと寝てた﹂
やっぱりか、コノヤロウ。
1086
おっさんと巫女︵後書き︶
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1087
おっさんと聖女
しっかりとイサトさんが起きているのを確認した後、俺とイサト
さんは二人して東屋の中へと足を踏み入れた。
渡り廊下側の方からはさりげなく植え込みが邪魔して中が見えな
いような造りになっていたものの、一歩足を踏み入れればそこは室
内というには随分と開けた空間となっていた。庭に面した前方には
ほとんど壁や柱がなく、目の前の美しい庭の光景が満喫できるよう
な造りになっている。適度に日差しを遮るよう屋根から枝垂れてい
るのは、藤に似た植物の蔓だ。小さな白い花の房が、ほろほろと咲
きこぼれては風にのって散らされていく。
大理石でできた白いローテブルを正面に、庭を見渡すよう配置さ
れたソファは植物の蔓で編まれている。濃い茶と白の色彩で整えら
れた室内は、派手すぎず、自然と調和のとれた優しい雰囲気に満ち
ている。居心地が良さそうだ。
そして、そんな部屋の中央にその少女は佇んでいた。
随分と小柄な少女だ。
イサトさんよりも、頭一つほどは小さいように見える。
ただ、それでいて幼いような印象はうけなかった。
俺たちを見つめる淡い灰色の双眸が随分と大人びた色合いを浮か
べていたからだろうか。
彼女が、ウレキスさんの姉であり、セントラリアの聖女と呼ばれ
る人物だろう。
1088
艶やかな長い真っすぐな黒髪に、雪花肌とでもいえば良いのか、
白く、透けそうな肌。俺たちを見つめる灰色は、ウレキスさんのそ
れよりも随分と淡い。そのせいか少し蒼みがかっているようにすら
見えた。彫像めいた静謐な佇まいも、ウレキスさんとよく似ている。
ただ、ウレキスさんの雰囲気がひやりと冷たい石膏像めいたものだ
としたら、彼女のその硬さはどこか硝子めいた危うさを含んでいる
かのようだ。触れたら、砕けてしまいそうな錯覚。
﹁ようこそ、セントラリア大聖堂の奥の間へ。こんなところまで呼
びつけてしまい︱︱⋮⋮申しわけありません﹂
涼やかな声音が謝罪を告げる。
﹁私は、7代目のクローリア、女神の声を民に伝える役目を受け継
ぎし者です﹂
﹁⋮⋮?﹂
クローリア?
7代目のクローリア、という言葉の意味がわかりかねて一瞬間が
空いてしまう。
その間を埋めるように口を開いたのはイサトさんだった。
﹁こちらこそ、お招きいただきありがとう。私は旅の冒険者、イサ
ト・クガ。こちらが、﹂
ぽん、と促すように軽く腕を叩かれる。
﹁同じく旅の冒険者、アキラ・トーノ、だ﹂
1089
イサトさんの言葉を継いで、自己紹介を口にする。
最初のうちは違和感のあった名乗りも、ここまでくると慣れてき
た感がある。
﹁どうぞ、こちらに腰かけて楽にしてください﹂
クローリアと名乗った少女が、俺たちに席を勧めてくれる。
その言葉に甘えて、柔らかなクッションの敷かれた蔓製のソファ
へと腰を下ろした。ぎ、と小さな軋みをあげつつも、ソファはしっ
かりと俺の体重を支える。柔らか過ぎず硬すぎず、随分と座り心地
が良い。
聖女は俺たちの前に手ずから淹れたお茶らしき飲み物に満ちたグ
ラスを置くと、それから並んで座った俺とイサトさんとは少し席を
空けた位置に腰を下ろした。ソファが庭に面して弧を描くように配
置されているため、正面というわけにはいかないものの、無理に首
をひねらずとも自然に相手の姿が視界に入る位置取りだ。
﹁︱︱⋮随分と、不思議そうな顔をされているのですね﹂
﹁あ、ああ⋮⋮すみません。その、いろいろ気になってしまって﹂
涼やかな聖女の声音に、俺は誤魔化すように笑いながら頭をかく。
﹁何が、気になるのですか?﹂
﹁聞いても良いのですか?﹂
﹁ええ、もちろん。なんでもお聞きになってください﹂
﹁その⋮⋮、﹂
俺は、会話のとっかかりを探すように手元に置かれたグラスを手
に取る。
よく冷えたお茶に、グラスはうっすらと汗をかいて指先に濡れた
1090
感触が伝わってきた。疲労と寝不足の両方で熱を持ちがちの身体に
心地良い。
﹁聖女様自ら、こうしてお茶を淹れてもらえるとは思っていなくて﹂
小さく笑い交じりに言いつつ、お茶に口をつける。
ふわりと爽やかな花の香りが、喉元を過ぎていった。
﹁ここは、巫女も神官も足を踏み入れることの赦されていない神域
ですから。身の回りのことは、すべて自分でしているのですよ﹂
﹁あ⋮⋮、そうか﹂
聖女だと敬われている様子からして、大事に傅かれているのだと
ばかり思っていたが⋮⋮、言われてみれば確かにそうだ。俗世の影
響を受けて穢れてはいけないと、彼女は巫女でもあり、実の妹であ
るウレキスさんからすら隔離されているのだ。
﹁他にも何かありますか?﹂
﹁では、七代目クローリア、というのは?﹂
﹁私の名前でもあり︱︱⋮偉大なる救済の聖女様の御名です﹂
﹁救済の聖女?﹂
﹁ええ。少し、お話してもよろしいですか?﹂
﹁是非﹂
そのあたりに関して、俺たちはほとんど知識がないと言っても良
い。
俺たちが知っているのは、この世界における宗教が、女神信仰で
ある、ということぐらいだ。
﹁教会には、古より聖女と呼ばれる存在がいました。ただ、古い文
1091
献によるとそれは王家に連なる家柄から選ばれた女性が代々継ぐ役
職だったようです﹂
﹁王族の女性がつく名誉職、のような?﹂
口にしてから失礼だっただろうかと思うが、彼女は小さく苦笑の
ような色を浮かべて頷いた。
﹁はい。それが変わったのは、今から三百年ほど前に起きた﹃セン
トラリアの大消失﹄のあとだと言われています。セントラリアの大
消失では、その頃の教会にいた聖職者もすべて消えてしまいました。
聖女も、含めて﹂
そこで一度、言葉を切って彼女は痛ましげに双眸を伏せる。
膝の上で組まれた華奢な指先にも、少し力が入っているように窺
える。
それはまるで、300年前の犠牲を悼むようにも、街を護ことが
出来なかった教会の力不足を嘆くようにも見えた。
﹁初代のクローリア様が現れたのは、その後のことだと言われてい
ます。クローリア様は、地方において様々な奇跡を起こして人々を
救いました。人々の病を癒し、怪我を癒し、失われた命を呼び戻す
奇跡すら起こしたと伝承には残っています。
そして、そんなクローリア様を、セントラリアを復興させようと
していた人々は聖女としてセントラリアに招いたのです﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
三百年ほど前、セントラリアの大消失という悲劇が起きるまでは
﹁聖女﹂というのはあくまで王族の女性に与えられる肩書に過ぎな
かった。それが変わったのは、クローリアという実際の﹁力﹂を持
った女性が﹁聖女﹂として復興の最中にあったセントラリアに招か
1092
れてから、ということか。
﹁初代のクローリア様は、お歳を召して身体が衰えるようになると、
儀式を通して自らの力を後継者へと託しました。そうまでして、自
らの命亡きあともセントラリアが守られるようにと願ったのでしょ
う。私は、そうして脈々と受け継がれてきたクローリア様の力を受
け継いだ七代目のクローリアなのです﹂
﹁⋮⋮その外見もその力によっての影響が?﹂
・
イサトさんの問いかけに、少しばかり恥じらいの色を浮かべて彼
女が頷く。
彼女は、ウレキスさんの姉であるはずだ。
が、そんな彼女は二十代の中ほどに見えたウレキスさんよりも随
分と若く見えるのだ。子供じみた幼げとは異なるものの、その肉体
は女性として成熟したものというよりも、危うくも未完成な少女の
ような印象を受ける。
﹁私たち﹃聖女﹄は、クローリア様の力を継いだ時点で肉体の時間
を止めてしまうのです。私の先代、四十余年の間聖女としてセント
ラリアを守っていた六代目のクローリア様も大変綺麗な︱︱⋮少女
のような方でした﹂
きっと、その六代目のクローリアも、今俺たちの目の前にいる彼
女のように、儚く可憐な少女の姿をしていながらも、どこか大人び
た眼差しをしていたに違いない。聖女として、他の人々との関係を
絶ち、清らかな楽園のような聖堂の奥に囲われて彼女は一生を終え
た。
時を止めた少女たちによって守られる王国。
1093
それがなんだか歪なように感じられるのは、俺が現代日本から来
た異邦人だからなのだろう。彼女は別に、無理やりセントラリアを
守るための犠牲にされたわけではない。自ら望んで巫女としての修
養を重ね、偉大なる先代の後を継いだ。それは、先代を語る彼女の
誇らし気な口調からもよく伝わってくる。
それでも、俺はつい口を開いてしまっていた。
﹁ウレキスさんが︱︱⋮⋮心はいつもそばに、と﹂
﹁⋮⋮⋮⋮、﹂
少し、驚いたように彼女が柔らかな瞬きを挟む。
一拍ほどの間をおいて、彼女はふわりと小さな笑みを唇に浮かべ
た。
﹁そう、ですか。ありがとうございます﹂
微かな、笑み。
失われた時を慈しむように伏せられる淡い澄んだ灰の双眸。
それから彼女は、再び視線を持ち上げた。
砂地に水が吸われて消えるような自然さで、その口元の笑みは失
せ、その顔は聖女としてのものに戻る。彼女は白い指先でグラスを
持ち上げると、花の香りのするお茶を一口飲みこんだ。
その間が、俺たちに次の質問がないかどうかを待つ間だったのだ
ろう。
黙ったままその様子を見ていた俺たちへと、すぅ、と彼女の視線
が戻る。
感情の読めない、硝子のような淡い灰色だ。
﹁本題に、入りましょう。
私は︱︱⋮セントラリアを護る聖女として、貴方がたに頼みがあ
1094
ってこの場へと招きました﹂
黙ったまま、俺とイサトさんは聖女の次の言葉を待つ。
ドラゴンのブレスですら防ぐだけの﹃力﹄を持つ聖女が、俺たち
に頼みたいことというのは一体何なのか。
彼女は、しっかりと俺たちを見据えて口を開いた。
﹁︱︱北の狂える竜王を、貴方がたの手で斃してほしいのです﹂
俺とイサトさんは、揃って息を呑む。
北の狂える竜王。
それはすなわち、北の山脈に御座すお方、ではないのか。
ヅァールイ山脈に棲まう、竜を束ねる者。
俺たちが黒竜王、として認識している存在。
1095
エレニの背後にいる存在でも、ある。
﹁⋮⋮⋮⋮理由を、聞いても?﹂
イサトさんが、戸惑いを押し隠した声音で問う。
その声に、聖女は哀しげにその双眸を伏せた。
﹁かの竜王が、人を滅ぼそうとしているからです﹂
どうしてそれを、と言う言葉を何とか飲み込む。
それを言っては、俺たちが黒竜王側の思惑を知っているというこ
とになる。
俺が動揺を顔に出さないよう努めるそばで、イサトさんが淡々と
問を重ねた。
﹁どうして、そう思うのだろう。昨夜、セントラリアを襲った者が
ドラゴンの姿をしていたから、だろうか﹂
俺たちは、エレニから聞き出したが故にエレニが黒竜王の命を受
けて行動していることを知っている。
世界を救うために、という理由でもってして、黒竜王がセントラ
リアを滅ぼそうとしていることを知っている。
だが、彼女は何をもってして昨夜の襲撃が、いや、人を滅ぼそう
としているのが黒竜王であると認識しているのだろうか。昨夜の襲
撃がドラゴンの形をしたものによるものだったからといって、それ
がドラゴンを束ねる黒竜王の差し金とするのはなかなかに乱暴なよ
うに思える。
﹁それも、あります。ですが、一番の理由はこれまでにも、ドラゴ
ンによる襲撃が幾度となくあったからです﹂
1096
﹁⋮⋮っ﹂
これまでにも、何度も?
そんな話は、これまで聞いたことがない。
エリサやレティシアも、何も言っていなかったはずだ。
﹁貴方がたが動揺するのも、無理はありません。これまで、ドラゴ
ンによるセントラリアへの襲撃は代々聖女の間にしか伝わっていま
せん。女神の加護と、代々の聖女の尽力により、セントラリアは人
知れず護られていたのです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
彼女は、静かに言葉を続ける。
﹁女神の加護により、街が護られているのはご存知でしょう?﹂
﹁ああ。モンスターは、街の中には入れない﹂
﹁ええ、その通りです。また同様に︱︱⋮街の外からの攻撃も、女
神の加護は通しません。多くのドラゴンが、その加護の前に自壊す
るよう敗れていきました﹂
脳裏に、大聖堂へとブレスを吐くエレニの姿がよみがえる。
聖女の結界によって守られた大聖堂に向けて、エレニもまた自ら
のダメージを無視したようにブレスを吐き続けてはいなかっただろ
うか。
これまでにも︱︱⋮街の外からセントラリアを攻撃しようとブレ
スを吐き続け、自滅していったドラゴンが何匹もいた、ということ
なのか。
﹁そういった意味では︱︱⋮狂ってしまったのは黒竜王だけではな
1097
いのかもしれません。竜が⋮⋮⋮⋮、いえ、狂っているのは、︱︱
⋮﹂
口にするのも躊躇うように、聖女が言葉を噤む。
迷子のように心もとなげな灰色が、俺たちを映す。
俺たちが信用に足るのかどうかを改めて慮るような間をおいて、
彼女は喉に詰まった煩悶をそのまま吐き出すかのよう苦しげに言葉
を続けた。
﹁⋮⋮女神、なのかもしれません﹂
女神が、狂っている。
それは、俺たちが考えたこともないような事態だった。
この世界を作り上げた創造神であり、この世界の守護神でもある
女神。
今目の前でその正気を疑う言葉を吐きだした彼女は、その女神を
信仰する教会の巫女であり、その声を聴くと言われる聖女だ。
いや、その声を聴く聖女だからこそ︱︱わかるのか?
﹁貴方がたも、私たち人が女神の加護を得られなくなったことは知
っているはずです。﹃セントラリアの大消失﹄以降、少しずつ私た
ちに向けられる女神の加護は減少していきました。本当のところ︱
︱⋮もう、随分と昔から、我々聖女にも女神の声は聴こえなくなっ
ているのです﹂
まるで懺悔のようだった。
小さな身体に抱えてきた秘密を、洗いざらい吐き出すように彼女
は言葉を続ける。
﹁この世界は女神により創られ、その加護の元巡り続けてきました。
1098
女神の余剰な力が野山で凝り、モンスターと呼ばれる存在になりま
す。何故、彼らは人を襲うのでしょうか。人を慈しむ女神の余剰な
力が、何故人を傷つけるのでしょう。
それを私たち教会の人間は、これまで女神が人を試すためだと説
いてきました。モンスターを倒し、その力を証明した者には﹃女神
の加護﹄が与えられます。女神はそうして我々人の力を試し、高め
るためにモンスターを使わしているのだと。
けれど︱︱⋮その﹃女神の加護﹄は得られなくなりました。あと
に残ったのは、人を害する意思を持つモンスターだけです﹂
つまり、何だ。
どういうことだ。
思いがけない言葉の連続に、頭の中で情報が飽和する。
意味のある仮説を導きだすことが出来ない。
いや、もしかするとすでに思いつきつつある答えを、俺は認めた
くないだけなのかもしれない。
﹁私は、思ってしまったのです﹂
小さく、彼女の言葉が響く。
ぽたり、と雫の落ちる音がした。
はっと顔をあげた先で、顔を伏せ、小さく身体を震わせる彼女の
頬を滑り落ちた透明な雫がその手の甲にぱたり、ぱたりと落ちる。
﹁女神は、人を滅ぼされる気なのではないでしょうか。
その女神の意思を受けて︱︱⋮黒竜王は、人を滅ぼそうとしてい
るのでは、ないのでしょうか﹂
半ばわかっていたとはいえ、そう改めて言葉にされると、横合い
から頭をぶん殴られるような衝撃があった。
1099
この世界の人を滅ぼそうとしているのが、この世界を作った創造
主でもある女神そのものなのかもしれないという仮説。仮説でしか
ないとはいえ、これまでわかっている情報を繋ぎ合わせたそれは充
分な説得力があるように響く。
﹁女神の御心を疑うことが、どれだけ罪深いことなのかはわかって
います。ですが⋮⋮どうしても、その疑念を打ち消すことができな
いのです﹂
だから、か。
・・・
彼女は、﹁女神が狂っている﹂と思いたいのだ。
そうじゃなければ、女神は本気で人間をこの世界から滅ぼそうと
していることになってしまう。もしそれが女神の正常な意思による
決断ならば、人の身ではその意思に逆らうことは叶わないだろう。
何せ、相手はこの世界を創造した女神なのだ。芸術家が自分の作品
・・・・・・
に手を入れるよう、女神がこの世界において人間の存在が不必要だ
と正気において判断したのならば、人間に待つのは滅びだけだ。
だが、狂っているならば。
何らかの方法で女神を正気に返すことが出来たならば、女神はま
た慈悲深く人を守護する存在に戻りうるかもしれない。
彼女はそれに賭けたいのだ。
﹁直接的な攻撃であれば、古の女神の加護によりセントラリアは護
られています。ですが⋮⋮今回や、前回のような方法を取られてし
まえば、私の力だけではセントラリアを護ることが出来ません﹂
﹁前回、というのは⋮⋮﹂
﹁飛空艇への襲撃です﹂
ああ、そういう、ことか。
ようやく、エレニがしたかったことがわかったような気がした。
1100
あいつは飛空艇を墜落させる、という間接的な手段でもってセン
トラリアに攻撃を加えるつもりだったのだ。ドラゴンの身では、セ
ントラリアの街に入ることも、外側から攻撃を加えることも出来な
いから。
そして本当ならきっと、飛空艇の墜落に混乱した街の中でこそ、
昨夜の襲撃が行われるはずだったのだろう。飛空艇の墜落でダメー
ジを負った街中に溢れる大量のモンスターと、﹃竜化﹄したエレニ
による襲撃はトドメだ。もしこれらの作戦が成功していたのなら、
確かにセントラリアは滅んでいただろう。
聖女の力によって大聖堂と、大聖堂に避難した人々は助かったか
もしれない。けれどそれでも、生活の場となる街が破壊されてしま
えば人々はそれ以上セントラリアで暮らしていくことは叶わなくな
る。
そう思うと、今更のように冷たいものが背に走った。
俺たちがいなければ、この街は本当に滅んでいたのかもしれない
のだ。
窓の外に広がるこの美しく、長閑な光景も潰えていたのかもしれ
ない。
ああ、それとも。
それこそが。
俺たちが、この世界にやってきた理由だったり、するのだろうか。
﹁すでに、白き森の民が、黒き伝承の民が、この世界から姿を消し
ました。次が人ではないと誰が言えるでしょうか﹂
ぽつりと小さく呟いて、彼女が顔を上げる。
涙に濡れた淡い灰色の瞳に浮かぶのは強い決意の色だ。
1101
生き抜くために、戦うことを決めた目だ。
﹁大聖堂の外で、ドラゴンを相手に決して怯まず戦い抜いた貴方が
たを見て、私は思ったのです。貴方がたなら、滅びに向かいつつあ
る私たちを、この世界を救うことが出来るのではないか、と﹂
そして、聖女は俺たちへの願いをもう一度口にした。
﹁お願いです。
どうか私に協力して、︱︱北の竜王を斃してはもらえませんか﹂
1102
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
聖女のもとを後にした俺たちは、その後宿に向かう道すがら二人
とも黙りこくったままだった。
そっと隣の様子を窺う。
黙々と歩き続けるイサトさんの視線は物憂げに伏せられている。
聖女の元で得た情報をいろいろ整理しているのだろうか。
結局。
俺たちは聖女からの要請に対して、黒竜王を倒すとの確約はしな
いままあの楽園を辞去することになった。
何せ、まだ情報が足りていない。
黒竜王が本当にセントラリアを滅ぼし、人間を滅ぼすつもりであ
るのならば止める必要があるとは思う。たとえ女神がそれを望んだ
としても、俺は俺の知己であるエリサやライザ、レティシアの暮ら
すセントラリアが滅ばされる様を黙って見過ごすことはできない。
だが、まだどうして黒竜王がセントラリアを滅ぼそうとしている
のかはわからないままだ。エレニを介してその辺の事情を聞くこと
が出来たのならば、もしかしたら武力衝突以外の方法で解決するこ
とが出来るかもしれない。
1103
ただ、そう思う一方で妙な予感がしているのも事実だった。
聖女と話している中で、閃きのように俺の中に生まれた一つの考
え。
どうして、俺たちがこの世界に迷い込んだのか。
この世界では規格外の力を持つ俺とイサトさんが、喚ばれた理由。
黒竜王ないし、女神を止めるためだと考えたならば、辻褄が合わ
ないだろうか。
それを成し遂げ、この世界における俺たちの役割を果たし終えた
時こそ、俺たちは元の世界に帰ることが出来るのでは︱︱?
そんな考えが、ぐるぐると頭の中で渦巻き続けている。
疲れ切っているはずなのに、頭の中でそんな閃きが燻って神経が
休まらない。目を閉じても、眠れるかどうか。
悶々とそんなことを考え続けている間にも、どうやら足だけは真
っすぐに宿に向かって進み続けていてくれたものらしい。いつの間
にか目の前には自室として借りている宿の一室の扉があった。
俺の隣を過ぎて、イサトさんが自室へと向かおうとする。
考えるより先に、その背を呼び止めてしまっていた。
﹁なあ、イサトさん﹂
﹁︱︱ぅ、ん?﹂
イサトさんが立ち止まる。
﹁どう、思う﹂
1104
振り返って俺を見つめ返す金色に、つい、そんな漠然とした疑問
を問いかけてしまった。
﹁んー⋮まあ、考えるべきことは多いだろうな。ただ私としては、
現段階において彼女の言葉だけを鵜呑みにすることは出来ないと思
ってる﹂
﹁それはどうして?﹂
﹁ええとそれはだって、私がまだ中国語をマスターしてないから﹂
﹁︱︱⋮⋮⋮﹂
ん?
﹁エレニ側の話をちゃんと聞いていないからというのもあるし︱︱
⋮彼女の話にはいくつかの穴があるようにも思える。その辺の穴を
ちゃんとうめないことには、生涯を通しての言語教育の可能性は否
定できない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
しばしの、沈黙。
﹁イサトさん﹂
﹁ん?﹂
﹁ええとその、俺が疲れてるからかもしれないんだけど﹂
﹁うん﹂
﹁イサトさんの言ってることがちょっとよくわからない﹂
イサトさんが何かわけのわからないことを言ったような気がする。
いや、俺の頭が過労で死んでいるせいでイサトさんの文脈を追え
てないだけか。
1105
﹁︱︱⋮⋮﹂
イサトさん自身も、困惑したように少し首を傾げる。
俺の物分かりが悪いせいで、疲れているところにさらに説明の手
間をかけさせてしまって申しわけないが、本当にイサトさんが言っ
てる言葉の脈絡がわからない。
こんなのは初めてだ。
申しわけなさそうに眉尻を下げた俺に、イサトさんが口を開いて
︱︱
﹁ごめん、私も自分が何言ってるのかわからない﹂
﹁イサトさん、寝よう﹂
頭が死んでるのはどうやら俺だけじゃなかった。
ごくご当たり前のようにさらっと混線してるぞイサトさん。
寝よう。
これは寝た方が良い。
ちょっとでもイサトさんの方がまともで、俺の方が脈絡を追えな
くなっているのではないかと考えてしまったあたり、俺の方も正常
な判断がついてない。
﹁おやすみ、イサトさん﹂
﹁ん、おやすみ秋良﹂
眠そうな声で応えて、ふらふらとイサトさんの背中が室内に消え
ていく。
それを見届けて、俺も自室のドアをくぐった。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮なんで、中国語マスターしようとしてるんだあのひ
1106
と﹂
遅ればせながら、突っ込みをひとりごちる。
くく、と小さく笑いを漏らしながらばたりとベッドに倒れこんだ。
なんだか、不思議と爆睡できそうな気がした。
1107
おっさんと聖女︵後書き︶
あけましておめでとうございます。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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1108
おっさんと作戦会議
目が覚めた時、周囲は真っ暗だった。
一瞬状況がわからなくて緩い瞬きを挟む。
﹁ええと⋮⋮?﹂
ゆっくりと身体を起こす。
窓の外に広がるのは夜景だ。つまり夜だ。が、それがいつの夜な
のかがよくわからない。確か聖女のもとを後にして、宿屋に戻って
きたのが昼過ぎだった⋮⋮、はず。それからベッドに倒れるように
爆睡して今に至るわけなのだが、今はいったいいつの夜なのか。
いや、さすがに次の日の夜まで寝倒したという可能性はないと思
いたい。
寝すぎた後の、若干腫れぼったいような気のする重い瞼を何度か
擦って、身体を起こす。腹時計に聞いてみれば何かわかるかとも思
ったわけだが、回答はシンプルに﹁めっちゃ腹減った﹂なんていう
一言に尽きた。
思えば最後に食事をとったのは、大聖堂に向かう前の朝食だ。単
純に考えても、昼と夜の二食分をすっとばしている気がするし、そ
の最後の朝食にしたって寝不足と疲れが祟って普段ほどの量も食べ
きれていなかった。疲れているうちは食欲もマヒしていたのか、そ
れほど空腹も感じていなかったのだが⋮⋮こうして十分な休息をと
った後だと、とたんに腹の虫が騒ぎ出す。
1109
立ち上がって、ぐうと大きくノビをする。
それから軽く身支度を整え、下の食堂兼酒屋を覗きにいってみる
ことにした。女将さんさえいれば、何かしら食べ物にありつけるだ
ろう。
廊下に出てみると、階下から響く賑やかな喧噪が耳を打った。ほ
っと一息つく。酒場に客が入っているということは、まだそれほど
夜も深くない時間帯ということだ。女将さんもまだ厨房にいるだろ
うし、頼めば何か簡単な食事を作ってもらうこともできるだろう。
そこまで考えて、ふと隣のイサトさんの部屋へと視線をやる。
まだ寝ているようなら、疲れているのだし寝かせておいてやりた
いとは思う。
だが、ここは便利なコンビニのある現代日本とは違う。ある程度
夜が遅くなり、一番遅くまで開いている酒場がしまるような時間帯
になると、どこもかしこもしまってしまって、食事をとれるような
場所が一切なくなってしまうのだ。24時間いつでも気軽に買い物
ができる環境に慣れ親しんでいる現代っ子にはなかなかに不便だ。
﹁イサトさん、起きてるか?﹂
こんこん、とノックをしてみる。
もし反応がないようなら、何か時間が経った後でも食べられるよ
うなものを女将さんに作ってもらえないか声をかけておこう、なん
て頭の中で段取りをつけていると︱︱⋮⋮
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
がちゃりとドアが開いて、何か妖怪じみたオーラを纏ったイサト
さんがぬぼーっと姿を現した。目が半分ぐらい開いてない。日ごろ
1110
からどこか眠たげに見えるイサトさんだが、今は三割増し、という
かほとんど寝ているように見える。
﹁あきら、せいねん﹂
﹁はい﹂
﹁ねむい﹂
﹁見てわかる﹂
そんなツッコミを口にしつつ、俺は眠たげの塊めいたイサトさん
から、そっとさりげなく視線を逸らした。
寝起きのイサトさんは、別れ際と同じ格好をしていた。きっと、
イサトさんも俺と同様ベッドに倒れこむなり死んだように睡眠を貪
ったのだろう。その結果、ナース服が着乱れてわりと大変なことに
なってしまっている。普段はぴっちりと太腿のあたりまでを隠す黒
革のブーツもキャストオフしてしまっているし、もともと深めの襟
ぐりは、第一ボタンが外れているせいで余計に胸元のチラリズムが
チラリじゃすまなくなりつつある。ポロリだ。
﹁ええと﹂
﹁ぅん?﹂
﹁︱︱⋮⋮なんでもない﹂
お胸がポロリしかけてますとはさすがに言えない俺を、へたれと
呼びたければ呼ぶが良い。
﹁俺、飯食いにいくけどイサトさんどうする?﹂
﹁たべる﹂
即答だった。
1111
普段わりと寝汚く、起こしてもなかなか起きないイサトさんがド
アの外から声をかけたぐらいで起きてきたあたり、空腹で眠りが浅
くなっていたのかもしれない。
イサトさんは口元を隠した手からはみ出そうなほど大きな欠伸を
しながら、もそもそと部屋の中へと戻っていく。
﹁ちょっと、支度して降りるので。君は先、行っててくれ﹂
﹁了解﹂
良かった。
そのままの格好で出てこられたら、全力で部屋に押し戻すところ
だった。
﹁先、イサトさんの分も頼んでおく?﹂
﹁ん、お願いする﹂
﹁俺と同じので良い?﹂
﹁んん、それで頼める?﹂
﹁おけ﹂
短く頷いて、俺は先に階下の酒場へと向かう。
適当に空いている席を確保して、女将さんへと手をあげて二人分
の食事を注文する。本日のスープに、パン。それと、本日の肉料理
をつけてもらう。一応他にも献立があることもないのだが、基本夕
食はここで取ることが多い俺たちは、たいていの場合は﹁本日の﹂
メニューを選ぶことにしている。
ぼんやりと、周囲の会話を聞くともなしに聞く。
その内容からしてどうやらまる一日爆睡していた、というわけで
はないようだ。皆、ドラゴンの襲撃や、それに伴ったモンスターの
大量発生を昨夜のこととして話している。酒の肴になっているのは、
1112
いかに恐ろしい目にあったかという話だったり、逆にいかに勇敢に
モンスターを追い払ったかなどだ。襲撃のあった昨日の今日で、こ
うして盛り上がれるあたり、結構図太い。
やがて俺の目の前に女将さんが料理を運んでくる。運ばれてきた
のは、ミネストローネを彷彿とするトマトを使った真っ赤なスープ
と、厚切りのパン、そして美味しそうな鳥の香草焼きだった。二人
分を一皿にまとめたのか、二枚の皿にパンと鳥肉とが結構な量が乗
っている。ふわりと鼻先を掠める香辛料の香りが食欲をそそる。す
ぐにでも齧り付いてしまいたくなるのだが、ここはイサトさんを待
ちたい。
⋮⋮って。
ふと、気づいた。
日本のファミレスと違って、この世界においての肉料理は特別に
部位を指定していない限り、わりと当たりはずれがある。あまり偏
りすぎないように店側で調整もするのだが、おいしそうな腿肉の塊
があれば、その隣にはほとんど骨しかないような手羽の先が転がっ
ていたりするものなのだ。
それなのに、今俺の目の前にある二人分の肉料理を乗せた皿には、
そんなハズレが全く見当たらない。ぶつ切りにされた肉はどれも脂
ののった柔らかな部位ばかりだ。
俺の視線に気づいたのか、女将さんは楽しそうにその双眸を笑み
に細め、口元に人差し指をあてた。内緒、のポーズだ。
﹁お客さんにはお世話になっていますから。たくさん食べてくださ
いねえ﹂
﹁ありがとう、ございます﹂
1113
なんだか、胸の内が温かくなった。
俺たちがしたくてしたことだから、誰に感謝されなくても良いと
は思っていても、やはり感謝されて嫌な気などしないのだ。
にこにこ笑いながら去っていった女将さんとほとんど入れ違いの
ようにしてイサトさんが席までやってくる。
ナース装備からゆったりとしたカラット村でもらった服に着替え
たイサトさんは、ラフではあるもののしっかりと余所行きの顔をし
ていた。ポロリの名残などどこにも見当たらない。つい先ほどまで
寝癖にほつれていた銀髪にも綺麗に櫛が入れられ、多少結んでいた
名残のうねりは見られるものの、それがまるで計算づくの緩いパー
マのように見える。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ん? どうした秋良?﹂
﹁⋮⋮⋮いや、別に﹂
なんだか、キツネにでも化かされたような心地がするから不思議
だ。
イサトさんは俺の正面に腰を下ろすと、さっそくイタダキマスと
手を合わせた。一拍遅れて、俺もそれに倣う。
﹁なんだか今日の肉料理、豪華だな﹂
﹁女将さんからのサービスみたいだ﹂
﹁サービス?﹂
﹁俺らが昨日頑張ったから﹂
﹁ああ、なるほど﹂
俺とイサトさんが、セントラリアを襲ったドラゴンを撃退したと
1114
いう話はきっともう出回っているだろうし、あの直後にはこの宿の
無事を確認しにきたりもしている。そういったことに対しての、女
将さんなりの感謝の示し方がこの美味しそうな本日の肉料理、とい
うことなのだろう。
ありがたく、そんな料理をいただくことにする。
トマトを一緒に煮込んだ少しピリ辛のスープと、レモンと香草の
香りに誘われてパンが進む。もぎゅもぎゅと歯ごたえのあるみっち
りとしたパンを頬張って、最初の一切れを食べきったあたりでよう
やく人心地がついた。
見やれば、イサトさんも同様のようだった。
ほう、と幸せそうに緩んだ息を吐きだしている。
美味しいものを、一緒に美味しそうに食べてくれる連れというの
は良いものだ。
腹具合が少し落ち着いたところで、二枚目のパンはもう少し味わ
って食べることにする。
﹁イサトさん、疲れはとれた?﹂
﹁ああ、おかげさまで。若干寝すぎたような気がして腰が痛いけれ
ども﹂
﹁わかる﹂
人間疲れすぎると寝返りすら儘ならないのか、同じ体勢で寝すぎ
て腰が痛くなるのだ。俺も先ほど目を覚ましたとき、ベッドに倒れ
こんだままのうつ伏せの姿勢そのままだった。
﹁君は?﹂
﹁俺の方も似たようなもん。けど今日はもう何もないし、これ食べ
たらまた休むだろ?﹂
1115
シャトー・ノワール
﹁さすがに今から黒の城やらどこやら押しかける気にはなれない﹂
﹁同じく﹂
イサトさんの冗談めかした言葉にうなずく。
明日からに備えて、今日はもうゆっくりと休みたい。
﹁明日には疲れも抜けてるだろうし⋮⋮動くとしたら明日から、だ
な﹂
﹁そうなると問題はどう動くか、ということになるよなあ﹂
ぼやいたイサトさんが、時間稼ぎのようにもぎゅりとパンを齧る。
つられたように、俺もパンを齧る。
もぐもぐとお互いにパンを咀嚼する間の沈黙。
その間に明日からの方向性についてを少し脳内で検討してみるが、
どうにも考えがまとまらない。
﹁⋮⋮とりあえず、北に向かうことにはなる⋮⋮よな?﹂
﹁そうなる、な﹂
エレニは、事情を聞きに黒竜王に会いにいけと言っていた。
聖女は、セントラリアを救うためにも黒竜王を斃してほしいと言
っていた。
方向性は真逆であるものの、二者に共通しているのは黒竜王が鍵
となっているという点だ。どちらに転ぶともしれないとはいえ、両
者の事情をはっきりさせるためにも、とりあえず北に向かうのは確
定といっても良いだろう。問題は、その後のことだ。黒竜王の立ち
位置が、もし本当に聖女の言っていた通りだった場合︱︱⋮黒竜王
の言う﹁世界を救う﹂という言葉と、俺たちの思い描くそれは相反
してしまっている可能性がある。
1116
そうなった場合、どうするのが俺たちにとっての正解なのだろう。
そもそも、俺たちは何のためにこの世界にやってきたのだろう。
ただの事故、弾みによるものなのか。
それとも、女神によって何か思惑があってこの世界に導かれたの
か。
もし後者であったのなら、俺たちは女神により課せられた役目を
果たさない限り元の世界に戻ることが出来ないのかもしれない。
その現実と直面したとき、俺たちはどうするのだろう。
黒竜王とともに、この世界の人類を終わらせてでも元の世界に戻
る?
それとも、黒竜王を倒してこの世界で人とともに生きる道を選ぶ?
﹁もし、聖女の話が本当だったら⋮⋮イサトさんは、どうしたい?﹂
聞いてみる。
イサトさんは、この世界において唯一俺と境遇を同じくするパー
トナーだ。
そのイサトさんが現状をどのように考えているのかが知りたかっ
た。
﹁︱︱⋮⋮﹂
俺の問に、イサトさんがゆっくりと視線を持ち上げる。
思案の淵に沈むような金色が、俺を映して瞬いた。
﹁寝る前に少し話していたのだけれど︱︱⋮覚えてる?﹂
﹁えっ、中国語?﹂
1117
﹁何を言ってるんだ君は﹂
変人を見るような目で見られた。
覚えてないのかコノヤロウ。
いろいろとツッコミを入れてやりたくはあるものの、それでは話
が進まないような気がしてならないもので。今は仕方なくツッコミ
を飲み込んでイサトさんの言葉の続きを待つ。
﹁私の個人的な意見としては聖女の理屈には穴があると感じている
のだよな﹂
﹁そういえば、そんなこと言ってたな﹂
中国語云々の発言の破壊力にうっかりさておいてしまっていたが。
﹁俺は、仮説としては十分説得力があるように聞こえていたんだけ
ど﹂
﹁まあ、ある程度はな。ただ、彼女の話には﹃ヌメっとした連中﹄
の要素が抜け落ちているんだ﹂
﹁︱︱あ﹂
そういえば、そうだ。
飛空艇の一件や、今回の騒動に関していえば確かに主犯はエレニ
だが、そこに絡んできたヌメっとした連中の存在は決して無視して
良い存在ではない。飛空艇に現れたヌメっとした人影は、セントラ
リアにて獣人を排斥しようと暗躍しつつも、セントラリアを襲撃し
たエレニへと襲い掛かった。
そのことからも、あのヌメっとした連中がエレニと同じ派閥に属
しているとは今は考えられないし、だからといってエレニと対立す
るヌメっとした連中がセントラリアを守る正義の味方側だと思うこ
ともできない。奴らがマルクト・ギルロイを使ってセントラリアで
1118
やらかしたことを俺は忘れてはいないし、忘れることもできない。
﹁それに、彼女がエルフやダークエルフの次は人かもしれない、と
言っていたの覚えてる?﹂
﹁ああ、言ってたな﹂
﹁それって、おかしいと思わないか?﹂
﹁⋮⋮おかしい?﹂
首をかしげる。
エルフやダークエルフといった種族が姿を消し、一度はセントラ
リアの大消失などという原因不明の災害も体験しているのだ。
次は自分たちが消える番かもしれないと怯えるのは自然な流れで
あるようにも思えるのだが⋮⋮。
﹁だって、エレニはエルフの復興を願う側だろう﹂
﹁⋮⋮あ、そうか﹂
聖女の言いようだと、女神の意思に添って動く黒竜王により、エ
ルフやダークエルフが滅ぼされ、さらに今その粛清の対象に人間が
選ばれた、というように聞こえていたが︱︱⋮その黒竜王の陣営に
は、エルフの唯一の生き残りであると思われるエレニがいるのだ。
黒竜王が女神の意思を受けてエルフやダークエルフを滅ぼしたの
ならば、エルフの復興こそを望むエレニがその陣営に加担するわけ
もない。
﹁ただ、エレニが騙されているパターンや、人間を滅ぼせばエルフ
を復興させてやる、なんて甘言に踊らされている可能性も無視はで
きないけれども﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
1119
聖女は、ことを﹁人とドラゴン/人と女神﹂の対立構造なのでは
ないかと俺たちへと語って聞かせた。けれど、もしそこに見落とさ
れている第三勢力がいるのならば︱︱⋮そのヌメっとした連中こそ
が、諸悪の根源である可能性だってある。
というか、俺からするとそうであってほしいと思いたい。
女神の味方をして人を滅ぼす未来も、人を守るために元の世界に
戻る可能性ごとドラゴンを葬る未来も、どちらもぞっとしない。
﹁まあ、これだけ話をしても、結局は北に向かわないといけないん
だけどな﹂
﹁デスヨネ﹂
今ここで話したのは、すべて今ある情報を元に組み立てた推論に
過ぎない。
幾つかある可能性を並べてみただけ。
実際にどうするのかを決めるためには、やはり北に向かうしかな
いだろう。
﹁ただ、最悪黒竜王との戦闘が発生すると考えると、備えてはおき
たいよな﹂
﹁ポーションはもちろん、装備もそろえたいな。イサトさん、クリ
スタルドラゴンは倒せたっけ?﹂
﹁君と組んでなら討伐経験あり。単独では無理だったな。リモネの
サポートありなら、何度か死につつなんとかといったところ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ふむ。
ヅァールイ山脈のボスであるクリスタルドラゴンを基準に考える
のならば、前衛の俺、後衛のイサトさんという組み合わせで挑めば
1120
勝てる可能性は高い。が、相手はゲーム時代のNPCであり、戦闘
能力は未知数だ。ドラゴンを束ねる竜王としてクリスタルドラゴン
よりも高位とされている以上、クリスタルドラゴンより強いと考え
ておいた方が良いだろう。そんな黒竜王相手に、ポーションの備え
がある、というぐらいではかなえり心もとない。
﹁どっちみち、ポーションの素材のためにもサウスとノース、両方
めぐるつもりだったわけだし、ついでにイサトさんの装備揃えられ
ないか?﹂
﹁召喚士装備は入手イベントのトリガーが女王との謁見だったから、
女王がいない現状手に入れるのは難しそうなのだけれども︱︱⋮精
霊魔法使い装備なら、精霊の加護で作れたはずなので何とかなる可
能性が高いな﹂
﹁よし。それじゃあ、明日からはとりあえず北に向かう支度をする
ということでいいかな﹂
﹁それで良いと思う﹂
元より、ポーションやイサトさんの装備を揃えたら、俺たちがこ
の世界にやってくる切っ掛けとなったダンジョンに挑むつもりでも
あったのだ。黒竜王に備えて用意したとしても、無駄にはならない。
そんなわけで今後の方向性を決めた俺たちは、本日は十分に身体
を休めるべく、食事を済ませた後はおとなしく解散して部屋に戻っ
たのだった。
1121
おっさんと作戦会議︵後書き︶
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1122
おっさんと旅立ち
イサトさんとの作戦会議から数日が経過した。
俺とイサトさんは、そこで決めたとおり、この数日を北へ出発す
るための準備に費やしていた。
以前今後のことを相談した際に、上位ポーションは500を目標
シャトー・ノワール
に揃えたいと話していたのだが⋮⋮諸々の支度を整える中で、暇を
見つけては黒の城に殴りこんで薔薇姫を乱獲して過ごした結果、俺
とイサトさんがそれぞれ持っている薔薇姫の蜜の合計は見事700
を超えるほどとなった。
これだけあれば、勝つことはできなくても負けることもないだろ
う。
それに平行して進めていたのが、俺の﹃家﹄の改装だ。
これまではただの通り道、もしくは避難場所としてしか使われて
いなかった俺の﹃家﹄なのだが、イサトさんを含めいろんな人の尽
力によりすっかり人が住める環境として整備された。
というか、結構な勢いでいわゆる魔改造を施された感がある。
当初俺の﹃家﹄はそれなりの広さはあるものの、仕切りもなくた
だただぶち抜きの平屋だった。それに精霊石と呼ばれるアイテムを
つぎ込み、間取りを拡張して二階を作った犯人は言うまでもなくイ
サトさんである。
1123
﹁いややはりプライベートルームは二階に限るだろう。それにせっ
かくならちゃんと身体を休められる部屋でなければ﹂
と言ってはいたが、間違いなくただの詭弁だ。
凝りに凝ったさまざまな家具を作成してはいそいそと運びこむ姿
は、ただの生産マニアだった。
その一方で、その他生活に必要な設備を整えてくれたのは、あの
元ギルロイ商会の商人が手配してくれた職人たちだった。
もともとレティシアに再会した当初から﹃家﹄の改装は考えてい
たのだが、これまではあの摩訶不思議空間に対応できる職人に渡り
が付かずに苦戦していたのだ。そこで活躍したのが彼なのである。
試しに話を振ってみたところ、あっという間に腕の良い職人をそろ
えてくれた。さすがはセントラリアに根差して活躍していた商人だ。
そしてそんな職人たちが必要とする資材の数々を入手する手助け
をしてくれたのは獣人たちだった。入手自体は難しくないものの、
ただひたすらに量がいるようなアイテムを彼らは鍛えられた統率力
を遺憾なく発揮して揃えていってくれたのだ。
とは言っても、最初から上手くいったわけではない。
あの商人の指揮のもとでは獣人たちが良い思いをしないのではな
いかと思った俺たちの心配を他所に、意外なほど改築の作業はスム
ーズに進み行き︱︱⋮それに対してスムーズすぎて気持ち悪いわ、
とクロードさんがキレたのが最初の修羅場だった。
商人とクロードさんの打ち合わせの際には万が一に備えてストッ
パーとして必ず依頼主との建前で俺とイサトさんが同席するように
していたのだが。そんなある日の晩、商人が打ち出したスケジュー
ルに対して、クロードさんが物言いをつけ、それを商人が呑んだ瞬
1124
間クロードさんがバァンとえらい勢いで机を叩いて立ち上がったの
である。
﹁ふざけんなテメエ、物分かりが良すぎて気持ち悪いわ!!﹂
俺、イサトさん、商人、ポカーンである。
それに対して、ズバァンと机を叩いて応戦したのは商人の方だっ
た。
﹁だったらどうしろって言うんだ!!﹂
﹁商人なら商人らしく仕事しやがれや!!﹂
﹁それはどういう意味だ!!!﹂
俺とイサトさんは何故か二人そろってホールドアップの図。
さすがにどちらかが手を出したら止めようと思っていたのだが⋮⋮
﹁計算もできねえ商人となんざ組んでられるか!!!﹂
そう言い放たれたクロードさんの言葉に、まるで憑き物でも落ち
たかのように、商人の顔から戦意がすとんと抜けた。むしろ、気ま
ずそうに視線をテーブルへと落とす。それに対して言うべきことは
言ったとばかりにクロードさんは部屋を出て行き、続いて商人の方
も考えたいことがあるからと言って部屋を出て行ってしまった。後
に残された俺とイサトさんは、顔を見合わせるばかりだ。
正直、やっぱりあんなことがあったばかりだし、あの商人と獣人
たちとで組んで仕事をするのは難しいのかもしれないと思った。
両者の関係は少しずつ改善されているとはいえ、この二人は直接
の加害者と被害者の関係だ。クロードさんもそう簡単にはこれまで
のことをなかったことにはできないだろうし、上手くいかないよう
なら商人の立場をレティシアに代わってもらうか、という風にもイ
1125
サトさんとも相談した。
けれど、その次の日。
獣人たちの元に現れた商人は、昨夜提案してスケジュールはやは
り変更できないとクロードさんへと告げた。
周囲の空気はピリピリと張りつめ、すわ一触即発かと思われたと
ころでクロードさんは静かに商人へとその理由を問うた。商人は、
いっそ太々しいほどに堂々とその理由を答える。確か、職人の作業
ペースを考えたらそれがベストだとかそういう理由だったように思
う。
その理由を聞いて、クロードさんはフンと鼻を鳴らした。
それだけだった。
﹁んじゃ今日のノルマ果たしにいくぞ!﹂
そう声をかけて、獣人たちを連れてクロードさんは出ていった。
商人は、複雑な顔でその背中を見送っていた。
後から、商人が利益や効率を無視して獣人の主張を取り入れてば
かりいたことをクロードさんから聞かされた。罪悪感からなんだろ
うが、そんな一方が我慢し続けるような真っ当じゃない商売が長続
きするはずもねえ、と。
それからは幾度となく衝突しながらも、商人とクロードさんはお
互いにうまくやりあっているようだった。
商人が職人たちとも相談し、スケジュールを引き、それに従って
獣人たちが資材を調達していく。その姿は以前の狩りの図と似てい
るようで大違いで、あの夜を切っ掛けに獣人と人の関係が変わるだ
ろうとの予感は決して間違ってはいなかったのだと確信させてくれ
た。
1126
それでも完全に仲良く、とはまだまだ言えない。
二人が角を突き合わせ、大声で言い争い、周囲が肝を冷やす場面
だって少なくはなかった。けれど、それもお互いが対等の立場で、
お互いの仕事に真摯な結果の言い争いならば、きっと無駄ではない
のだ。
﹁主寝室のベッドはキングサイズがいいに決まってるだろうが! ラグジュアリーな余裕が適度な距離感を保つんだよ!!﹂
﹁馬ッ鹿、ここは自然と肌が触れ合うクイーンサイズに決まってん
だよ!! その方がいろんな意味で仲良くなれるだろうが!?﹂
︱︱思いっきり無駄な言い争いしてやがった。
何故俺がイサトさんと同衾すること前提で話しているのか。
寝室は別だつってんだろとの俺の言葉に何故二人して半笑いで﹁
またまた﹂なんてハモりやがるのか。
おっさんども、まじぶっ飛ばすぞ。
何がベッドは広い方が夢が広がるだ。
何がベッドは狭い方が密着度が増してより良いだ。
おっさんどもまじぶっ飛ばすぞ︵二度目︶
1127
そんなわけでいろいろあったものの、とりあえずセントラリアを
出発するのに必要だと思われる準備も着実に整っていき。
そろそろ良いだろう、というある日の朝。
﹁よし、行くか﹂
﹁おう﹂
俺とイサトさんはそんな風何気なく出立を決めた。
朝食の注文と一緒に、女将さんに、出立の旨を告げてこれまでの
宿泊代を精算してもらう。それからしばらくは食べ納めになるだろ
うこの宿での朝食をしっかりいただいて、それほど多くもない荷物
をまとめて部屋を出た。セントラリアにやってきて以来ずっと自室
として使っていた部屋だと思うと、それなりに感慨も深い。
同じよう降りてきたイサトさんと階下で落ち合って、女将さんへ
と挨拶をする。
﹁お世話になりました﹂
﹁また、使ってくださいねえ。お二人の部屋なら、いつでもとって
おきますから﹂
﹁是非また泊まりに来ます﹂
なんてにこにこ顔の女将さんに頭を下げて宿を出て、
﹁え﹂
俺は思わず立ち尽くしてしまった。
1128
﹁ぶ﹂
後を追って宿から出てきたイサトさんが、俺の背中に顔面から追
突する。
何かあったのかと背後から顔を出したイサトさんも、目の前に広
がる光景に俺同様に驚いたように言葉を失ったようだった。
宿の前は、大勢の人たちでごった返していた。
何かイベントでもあるのかと思うような盛況ぶりだ。
一体何事なのかとイサトさんと顔を見合わせたところで、その一
団の中に見覚えのある顔が多いことに気付いた。クロードさんや、
エリサ、ライザ、獣人たちに、商人のおっさんや、﹃家﹄の改装で
お世話になった職人たち、レブラン氏やその息子一家までがいる。
見覚えのある白い鎧の一行は、セントラリアの守護騎士たちだろう。
﹁えっと⋮⋮?﹂
﹁オマエら、黙っていくとか水くせえだろーが!!﹂
そんな声の持ち主はエリサだった。
肩幅に開いた足、ぐっと握り拳を作って俺たちを睨みつけている。
﹁や、ちゃんと出る前に声はかけていくつもり、だったぞ?﹂
悪いことはしていないはずなのに、つい語調が言い訳めいて弱く
なる。
実際、出立の前にレティシアのいるであろう商人ギルドと教会に
は顔を出すつもりだったのだ。俺たちがいきなり姿を消したのでは
いろいろと不便もあるだろうし。﹃家﹄を通して、連絡の手段も用
1129
意するつもりではあった。
なのだが、どうやらそういうことではないらしい。
エリサはじわりと目元に涙を浮かせて、唇をぎゅっとへの字に引
き結ぶ。
代わりに言葉を続けたのは、その隣にいたライザだった。
﹁アキラさんと、イサトさん、王様に頼まれてドラゴンを追って北
に向かうって聞きました﹂
﹁う、うん?﹂
どこからそんな話が漏れたのだろう。
正確には黒竜王討伐だし、依頼主はシェイマス陛下ではなく聖女
だ。
その依頼を果たすかどうかはさておき、ドラゴンを追って北に向
かう、というのはまあ間違ってはいない。
﹁ちゃんと、帰ってくるんだろうな!﹂
﹁まあ、そのつもりだけども﹂
もし元の世界に戻る方法が見つかったとしても、よほど状況が切
迫してない限りはちゃんと皆に別れを告げるつもりでいる。なので、
当たり前のようにエリサの言葉にうなずいたわけなのだけれども。
﹁馬鹿ァ⋮⋮!﹂
何故か罵られた。
ぐすぐす鼻を啜りながら睨みつけられると、こっちの方が悪いこ
とをしたような気になる。何か理由はわからないけれども、とりあ
えず俺が悪かった、と謝りたくなる。俺が困りきっていると、隣で
イサトさんが小さく笑ったようだった。
1130
﹁そっか、心配させちゃったか﹂
﹁心配?﹂
一歩前に出たイサトさんが、愚図るエリサの頭を撫でたとたん、
エリサははじかれたようにぎゅうっとイサトさんに抱き着いた。ま
るで今生の別れだ。
⋮⋮って、そうか。
これはまさしく、彼らにとっては今生の別れなのだ。
俺とイサトさんは当然死ぬつもりなどないし、そんな万が一の状
況に追い込まれないための準備を着々と整えているが、エリサやラ
イザたちにはそんなことはわからない。彼らが知っているのは、俺
やイサトさんがドラゴンを追って北に向かうということだけだ。
﹁⋮⋮シェイマス陛下に呼ばれた後、あなた達が深刻そうな顔で帰
るのを見たんです。その後旅立ちの支度を整えてると聞いて、ピン
ときました。あのドラゴンにとどめを刺すために北に向かうんでし
ょう﹂
そう口を開いたのは、騎士の鎧に身を包んだ青年だった。
あの時、俺たちを騎士の詰所に案内してくれた彼だ。
俺たちはあの時、騎士団の詰所からシェイマス陛下の遣わした使
者に呼ばれてあの場を去っている。どうやらそこからその推論が成
立したらしい。まあ、おおよそ間違ってはいない。
特に誰かに相談することもなく、淡々と支度を整えて旅立とうと
していた俺たちは、傍から見たら重すぎる使命を受け入れ、人知れ
ず命を賭した旅に赴こうとしている冒険者︱︱⋮のように見えたの
かも、しれない。
1131
俺たちにそんなつもりは全くないのだが。
それほど大げさにあいさつ回りをしていなかったのは、単にそれ
ほど大事だと考えていなかっただけだ。﹃家﹄を使えばいつでもセ
ントラリアに戻ることが出来るし、なんならグリフォンの背に揺ら
れてもそれほど時間はかからないで行き来することができる。
そんな俺らの気軽さが異質だからこそ、彼らはこうしてわざわざ
見送るために集まってくれた。
﹁どうか、無事に戻ってきてくださいね﹂
﹁あんたたちにはまだ恩を返し切れてないんだ﹂
﹁これ、持って行ってくれないか﹂
口々にそんな言葉を言いながら、心づくしのものを差し出される。
それはお守りだったり、薬草だったり、食料だったり。
見送る彼らの、俺らの安否を願う気持ちがしっかりと詰まってい
る。
俺たちがこれまでしてきたことは、どれも俺たちが﹁したくて﹂
したことだ。誰かに褒められたり、感謝されたくてしたことではな
い。けれど⋮⋮それでもやっぱり、こうして気持ちで持って応えて
もらえることは照れくさくも嬉しかった。
と、そこに一人の少女がおずおずとやってきた。
﹁あ、あの⋮⋮﹂
﹁?﹂
声をかけられて、そちらへと目をやる。
1132
清潔感のあるロングスカートに、濃い茶の髪を背に下ろした大人
しそうな女の子だ。こう、イメージ的には将来の夢は花屋さんかケ
ーキ屋さんと答える教室の中でも目立たない内気なクラスメイト枠、
というかなんというか。
なんとなく見覚えはあるのに、どこで会ったのかが思い出せない。
その伏しがちの蒼の瞳は、確かに知っているような気がするのに。
﹁私、ニーナです﹂
﹁ニーナって⋮⋮え、あの?﹂
驚いた。
ニーナ、といえば舞踏会で俺にとんでもない色仕掛けアタックを
仕掛けてきた少女だ。確か、ネパード侯爵家のご令嬢。忘れように
も忘れられない強烈な印象を俺に残していったはずの彼女なのだが、
それでも気づけなかったのは彼女の雰囲気が随分と変わっていたか
らだった。
以前舞踏会で会ったときの彼女は、意に添わぬ色仕掛け作戦に身
を投じていたせいか、生気のない悲愴感に満ちた投げやりな雰囲気
を漂わせていた。
それが今は、どこか落ち着いた様子で俺の前に立っている。
﹁こんな格好で、失礼しますね﹂
そう言って彼女はやんわりと眉尻を下げて微笑むものの⋮⋮俺の
個人的な意見を言わせてもらえば、舞踏会で見たような華やかな貴
族の子女めいたドレスよりも、今目の前にいる自然体の彼女の方が、
例え質素なスカートしか着ていなくともよほど魅力的であるように
見えた。
﹁家、出たのか?﹂
1133
﹁正確にはまだ、ですけれど⋮⋮きっと、そうなると思います。あ
の時は、本当にご迷惑をおかけしました⋮⋮﹂
気恥ずかしそうに、うっすらとニーナの白い頬に朱色がさす。
あの時は追い詰められて投げやりになっていたからこそ、あんな
大胆なことができたのだろう。
﹁初めて、父上や兄上に逆らってしまいました﹂
そう語る彼女の眉尻は困ったように下がったままではあったもの
の、口元はどこか柔らかに微笑んでいる。
﹁それじゃあ大変なんじゃないか?﹂
﹁それが⋮⋮兄上のことで、それどころじゃないみたいで﹂
﹁何かあったのか?﹂
﹁あの、幻術師のことをを覚えてらっしゃいますか? あの方が、
兄上に術をかけていたようなのです﹂
﹁術?﹂
あの幻術師、というのは彼女の兄に雇われたエレニのことだ。
彼女を使って俺をイサトさんから引き離し、その隙にエレニはイ
サトさんへとの接触を図ったのだ。言われてみれば、確かに最初エ
レニを雇ったのが彼女の兄だと聞いたとき、俺は彼がイサトさんに
何かしているのではないか、と焦ったのだ。けれど、実際のところ
イサトさんに接触していたのはエレニ自身だった。
彼女の兄を使って堂々と王城に乗り込み、用済みになった後は適
当に騙くらかした、ということなのだろうか。あの夜、舞踏会の会
場で俺は彼女の兄を見かけた覚えがない。
﹁どうやら、兄上を狙う女性のうちの一人を、あなたの連れだと勘
1134
違いさせられたみたいで﹂
彼女がそっと手で口元を隠す。
兄の失態を大っぴらに笑うのがは忍びないという彼女なりの配慮
なのだろうが、くすくすと小さく揺れる肩は誤魔化せていない。
﹁その女性相手に結婚の約束まで取り付けてしまって、今ネパード
家は大混乱なのです﹂ ﹁ぶは﹂
つまり、なんだ。
彼女の兄は、玉の輿狙いで彼を狙うどこぞの娘さんをイサトさん
だと思って口説き倒し、お持ち帰り、プロポーズにまで成功してし
まったというわけなのか。
エレニもよくやる。
俺はつい噴き出してしまった。
実の妹を政略結婚の駒として使おうとしたような男なのだ。そん
な話を聞いても、ざまあ、としか感想が出てこない。
ああでも、気にかかるとしたら相手の女性か。
﹁相手の女性の方はどうなんだ?﹂
﹁非常に乗り気なようですよ。兄上との結婚話も、あちらの女性の
方が主導となって進めていて。兄上の方は誤解だと、騙されたのだ
と打ち明け、賠償金を積んででも結婚話をなかったことにしようと
したようなのですが⋮⋮例え誤解がきっかけでも情をかわし、夫婦
になろうと誓い合ったことは事実、と主張していらっしゃるようで﹂
ふくく、と悪戯ぽい笑みが彼女の口元からついには隠しきれずに
零れた。
それはまた随分と逞しいことだ。
1135
﹁彼女のその様子を見ていて、私はあなたの言葉を思い出しました﹂
﹁俺の?﹂
何を言ったのだったか。
何か偉そうなことを言ってしまったような気がする。
﹁自分で決めろ、と。そして自分で決めたからには胸を張ってその
道を進め、と。彼女は自ら政略結婚の駒となることを決めて、その
覚悟でもってして動いています。それに比べて私は⋮⋮﹂
彼女がやわりと、過去の己を恥じるように目を伏せる。
﹁今は、ちゃんと自分で選んだ道を胸張って進めそうなんだろ?﹂
﹁はい。まだ、ちゃんと一歩を踏み出せたわけではないのですが﹂
ふわり、と花が綻ぶように彼女が笑みを浮かべた。
﹁母はずっと、いつか父が迎えにくるのだと言っていました。父に
迎えられさえすれば幸せになれるのだと。いつしか私も、それを信
じ込んでしまったのですね。父に迎えられさえすれば幸せになれる
のだと思っていました。だから、ちっとも幸せでもないのに、ネパ
ード家の娘の肩書にしがみついてしまった﹂
ずっと前に手放してしまえば、こんなにも身軽だったのに。
そう呟いた彼女はとても晴れやかな笑みを浮かべていた。
とは言っても、家を出た彼女が女一人で身を立てて生きていくの
も、きっと楽な道ではないはずだ。
けれど、それでも。
それが彼女自身で選んだ道ならば、なんとかやっていけるのでは
1136
ないだろうか。
そう、思いたい。
﹁あの、すみません﹂
﹁お?﹂
と、そこで俺たちに声をかけてきたのはレティシアだった。
俺に何か用事かと思いきや、レティシアの目線はまっすぐにニー
ナへと向いている。
﹁失礼ですが、ネパード侯爵家のニレイナ様では?﹂
﹁⋮⋮はい。ですが、近々ニーナに戻るつもりです。ニレイナ、と
いうのはネパード侯爵家に呼び寄せられた際にニーナでは格好がつ
かない、とつけられた名前ですので﹂
柔らかな苦笑交じりに、ニーナが答える。
なるほど、ニーナとニレイナ、ただの愛称だと思っていたものの
そういう理由があったのか。
﹁その⋮⋮そのお話ですが、少しお待ちいただけませんか?﹂
﹁え?﹂
﹁へ?﹂
レティシアの提案に、ニーナの目が丸くなる。
そんな俺たちに、レティシアは申しわけなさそうに頭を下げつつ、
俺たちの話をつい聞いてしまったのだと言う。
﹁ニーナ様は、家を出られた後のことは考えていらっしゃるのでし
ょうか﹂
﹁いえ、まだ具体的には。どこか住み込みで働かせてくれる店を探
1137
すつもりでいますが⋮⋮﹂
﹁それなら、私と手を組んではいただけないでしょうか﹂
﹁あなたと⋮⋮?﹂
﹁はい。実は、これからセントラリアで商いを続けていく中で、信
用のおける貴族の方とご縁を結べればと考えていたのです。多少名
の売れた家の娘とはいえど、私はただの商人ですから﹂
確かに今後セントラリアでレティシアが活動していく中で、貴族
とのパイプがあるのとないのでは仕事のしやすさが異なるだろう。
﹁私のような身に、そのような利用価値を見出していただけたのは
嬉しいのですが⋮⋮﹂
申しわけなさそうにそう言って、ニーナは静かに首を横に振った。
﹁私にはそのような力はありません。ネパード侯爵家の娘として名
前こそ連ねていますが、あなたに力添えできるような力は何も持っ
ていないのです。父上や、兄上の言葉に逆らうことすら出来ない無
力な身です﹂
だからこそ、彼女は父や兄の言うままに、俺を色仕掛けで篭絡す
るために送り込まれるようなことになったのだ。
が、その言葉にもレティシアは退こうとはしなかった。
むしろ、さらに一歩前に出る。
﹁私が、ニーナ様の力になります﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁セントラリアに存在する獣人の八割以上が、レスタロイド商会と
協力関係にあります。つまり、セントラリアにおける﹃女神の恵み﹄
の供給源を握っているのは私ども、レスタロイド商会になるのです。
1138
私どもが、ニーナ様を通してでなければ商談には応じないといえば、
ネパード侯爵家の方々もあなたの力を認めざるを得ないのではない
でしょうか﹂
そう、来たか。
レティシアはニーナをセントラリアにおける貴族連中への後ろ盾
として利用するつもりなのだ。ただの新興商会なのではなく、バッ
クにはネパード侯爵家がついている、という風に。その一方で、レ
ティシアはニーナにレスタロイド商会という実際の力を与える。そ
うなればネパード侯爵家の連中も、ニーナを軽んじることは出来な
くなるだろう。
﹁そんな、上手くいくものでしょうか﹂
﹁上手くいかなかったら、その時はその時です﹂
悪戯っぽくレティシアがくすりと笑う。
﹁うちはいつでも人手が足りていないんです。ニーナ様さえよろし
ければ、いつでも住み込みで来ていただいても結構です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
まだ少し、迷うようにニーナの蒼い瞳が揺れる。
けれど、本人の柔らかな薔薇色に上気した頬が言葉以上に素直に
レティシアの提案に乗り気なのだと告げていた。
しばらくの逡巡を経て、ニーナが頷く。
﹁私で良ければ、皆さまの仲間に入れてください﹂
1139
そうして、大勢の人たちに見送られて。
思いがけない縁が結ばれるのを見届けて。
俺とイサトさんは、随分と長居したような気のする街、セントラ
リアを後にしたのだった。
1140
おっさんと旅立ち︵後書き︶
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1141
おっさんの憂鬱
セントラリアを出発し、グリフォンの背に揺られること暫し。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
なんだろう。
セントラリアを出発してからしばらく、なんとなくだけれどもイ
サトさんの様子がおかしいような気がする。
別段沈黙に気疲れしてしまう、というわけではないのだけれども
⋮⋮こう、心ここに非ず、という風に見えるのだ。
﹁イサトさん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁イサトさん!﹂
﹁!﹂
少し強めに背後から声をかけると、ようやくハッとしたようにそ
の背中が小さく身じろいだ。ちらりとこちらを振り返るようにして、
イサトさんが首を傾げる。
﹁どうかしたか?﹂
﹁や、なんかイサトさんがぼんやりしているみたいだったから﹂
﹁ああ、ごめん、ちょっと考えたいことがあって﹂
そこでふと、言葉が途切れる。
1142
前にイサトさんがその言葉を口にしたのは、マルクト・ギルロイ
が残した日記を俺に隠しているときだった。
イサトさんは、なかなか自分から弱みを晒そうとしない。
晒そうと、してくれない。
そんな心当たりがあるせいか、どうにも心配になって俺はそろり
とイサトさんの横顔をうかがう。銀の髪が風になびき、ゆらゆらと
揺れる向こうに見える整った横顔はどこかぼんやりとしているよう
に見えた。イサトさんの銀の長い睫毛に縁取られた金色の双眸は物
憂げにも、眠たげにも見えて判断がつけづらい。
何か、あったのだろうか。
宿を出るところまでは、いつも通りだったはずだ。
エリサやライザと話しているときも、特におかしなことはなかっ
た︱︱ように、思う。あそこに集まってくれた人たちの中で、イサ
トさんに何か変なことをしたり、言ったりするような者がいるとも
思えない。
﹁なあ﹂
﹁ん?﹂
ふと、イサトさんが口を開いた。
考えていたことがまとまり、打ち明けてくれる気にでもなったの
だろうか。
何気なく、さりげなく相槌を重ねてイサトさんの言葉の続きを待
つ。
﹁秋良は、﹂
﹁うん﹂
﹁︱︱⋮⋮やっぱり、いい﹂
1143
﹁ちょっと待てイサトさんそれはない。そんな生殺しはない!﹂
中途半端に言いかけてやめるなんて、どんな拷問だ。
そこまで言ったならちゃんと最後まで言え。言いなさい。
﹁⋮⋮ぅーん﹂
﹁なんだよ、そんな言えないようなこと聞こうとしてたのか?﹂
﹁まあ、そのような?﹂
﹁そのような、ってどのような、だ。ほら、もうここまで言ったん
だから吐いて楽になってしまえ﹂
﹁んー⋮⋮﹂
イサトさんは時間稼ぎのように喉奥で唸る。
それから、ぽつりと小さく口を開いた。
﹁別れって、寂しいものだなあ、と思って﹂
﹁︱︱、﹂
寂しい、なんて感傷的な言葉がイサトさんの口から出てくるとは
思っていなかったもので、少しばかり驚いてしまった。
でも、そうか。
あんな風に、見送られてしまったから。
まるで今生の別れのように、もう会えないかもしれないような予
感を滲ませた別れを経験してしまったから。
もしかしたら、それはそのうち来るかもしれないこの冒険譚の﹁
終わり﹂をイサトさんにイメージさせてしまったのかもしれない。
いつか、俺とイサトさんは元の世界に戻る。
それを目的に動いているのだから、それは最初から頭の中になけ
ればならないゴールだ。だけれども、元の世界に帰れることをただ
1144
純粋に喜ぶには、俺もイサトさんもこの世界に居すぎた。
大勢の人に出会った。
たくさんのことを経験した。
﹁こんな風に、永遠の別れになるかもしれない出会いって、考えて
みたら元の世界ではあまりなかったと思わないか?﹂
﹁確かに、な﹂
元の世界でだって、俺はさまざまな別れを経験してきている。
小学校のときの友達、中学校での友達、高校での友達。
成長するにつれ交友範囲が広がっていき、そして自然疎遠となっ
ていった友達の数はそう少なくはない。ずっと友達でいような、な
んて話したはずの相手と、いつの間にか距離があるのが当たり前に
なり、そのうち言葉を交わさなくなった。
けれど、それは永遠の別れとは違う。
会わない、会おうと思わないだけで、会えないわけではない。
そんな甘えにも似た感情が、どこかにあるような気がする。
けれど、この世界で知り合った人々に関しては話が別だ。
俺たちが元の世界に戻ってしまえば、もう二度と会うことはない。
そう思うと、エリサやライザ、レティシアの顔が脳裏をちらつい
てなんだか胸が締め付けられるような心地がした。
﹁いつか、思い出になるのかな﹂
まだ元の世界に戻るための方法がわかったわけでもないのに、こ
んなことを考えるのは時期尚早だというのはよくわかっている。
それでも、つい考えてしまうのだ。
この世界で出会った人々を思い返して、懐かしく思うような日を
いつか迎えることができるのだろうか。元の世界の日常に帰って、
1145
グリフォンに跨り空を翔けた日々を懐かしく思うような時が。そし
て同様に、銀の髪に金の瞳、滑らかな褐色の肌をした綺麗なひとと
共にあった時間を想うような時が。
﹁︱︱︱︱﹂
つられたように物思いに沈みかけた耳に、ふと小さく、イサトさ
んが何かを呟くのが聞こえたような気がした。
﹁イサトさん?﹂
﹁ぅん?﹂
﹁今何か﹂
﹁ううん、なんでもないよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ああ、それより秋良、そろそろサウスガリアンに到着するぞ﹂
意識してテンションを上げた、というようなイサトさんの声が耳
を打つ。
イサトさんの様子が気にかかるものの、イサトさんがそうやって
誤魔化そうとしているうちはなかなか切り込めそうにない。
ぐぅ、とイサトさんがグリフォンの手綱を駆る。
グリフォンの旋回にあわせて、地平線がぐらりと斜めに傾いで、
サウスガリアンの赤茶けた大地が視界いっぱいに飛び込んできた。
1146
サウスガリアンでのアイテム集めは、酷く順調だった。
今回対象となるのはサウスガリアン周辺の荒野に大量に生息して
いる鉱物系ゴーレムだ。レベル帯によって種類や特性の異なるゴー
レムが存在するのだが、そのどれもが俺たちにとっては格下だ。
さくさくと狩りを続ける中、目的のブツである﹃ガラスの欠片﹄
はあっというまに貯まっていく。この﹃ガラスの欠片﹄は、集める
のが比較的簡単な上に、上位ポーションを含むポーション系の精製
に欠かせないアイテムということで初心者向けの金策にも挙げられ
るアイテムだったりする。もちろん集めようと思えば簡単に集めら
れるアイテムなので一つあたりの単価は決して高くはない。が、常
に買い手がおり、また一度に大量購入が見込めるだけに、安定して
稼ぐことができるのだ。
ゲーム時代はレベル上げを兼ねた新人冒険者たちが、荒野でゴー
レムを追いかけまわす姿が日常と化していたものなのだが⋮⋮。﹃
女神の恵み﹄が手に入りにくくなってから久しいこともあり、俺た
ちの他に荒野で狩りを行う人影はない。
1147
途中セントラリアで持たせてもらったお弁当を食べて休憩を挟み
つつも、2、3時間狩りを続けた結果二人で合計300個ほどの﹃
ガラスの欠片﹄を手に入れることができた。
﹁イサトさん、後もうちょっと頑張ったら今日はもう切り上げよう
か﹂
﹁そうだな、さすがにゴーレム追いかけるのも飽きてきた﹂
一撃必殺の雑魚が相手だからこそ、狩りが単調になってしまって
飽きるのも早い。俺に比べたら格段に物理攻撃の低いイサトさんで
すら、ちょっと強めに殴るぐらいで仕留められる相手なのだ。
そんなわけでその日は夕方前には狩りを切り上げ、前回それほど
長居することができなかったサウスガリアンの街並みを観光して過
ごす。
セントラリアと比べると、サウスガリアンの街並みは見た目の美
しさよりも機能面を重視した感があってどこか無骨だ。けれど、そ
の無骨さがどこかスチームパンクな世界観につながっていて見てい
て飽きない。
﹁このあたりはやっぱり鉱石系の生産が盛んなんだな﹂
﹁確かに店の品揃えもそんな感じだ﹂
セントラリアに比べると、武器屋の品揃えがぐんと良くなる。
単にいろんな種類の武器があるだけでなく、同じ種類の武器でも、
素材やら特徴別にさらに何種類か並んでいたりするのだ。
モンスタードロップの武器はさすがにないものの、人の力だけで
も安定して生産することができる武器としては価格も手頃で、性能
もセントラリアで見たものよりも段違いに良さそうだ。おそらく、
鍛冶師の腕が良いのだろう。
1148
﹁私も時間さえあれば、ちょっと弟子入りしてその辺のスキルを拾
っていきたいところなんだけれども﹂
﹁イサトさんやめて﹂
周囲をあちこち見て回るイサトさんにストップをかける。
物珍し気に周囲を見渡すイサトさんの横顔には、先ほどまでの物
憂げな様子はない。狩りを経て、少し気分を切り替えることが出来
たのなら良いのだが。
﹁私、鉱物系の生産スキルはほとんど手をつけてなかったからな﹂
﹁そういえば⋮⋮確かにその辺はリモネに任せてたよな﹂
﹁エルフ自体が、あまり金属と相性が良くないからその辺は後回し
になりがちなんだよ﹂
そういえば、そんな設定もあったような気がする。
自然に親しみ、自然とともに生きるエルフ種族は、自然に関係す
る生産スキルでは成長に少しボーナスがかかり、逆に金属を鍛える
ような生産スキルでは人よりも一度に手に入る経験値が少ない、と
いう補正があったような。
﹁ちょっと、意外だ﹂
﹁何が?﹂
﹁イサトさんって、装備とかこだわるじゃないか。だから武器も、
自分で生産したがるかと思ってた﹂
イサトさん
おっさんの行動の根底にあるのは基本的には物欲だ。
あのアイテムが欲しい、もしくはあの装備が欲しいから、自分で
作れるようになる、というような。それで言うと、武器を生産する
鍛冶スキルも当然持っていそうなものだと思っていた。
1149
﹁スタッフ系は自然素材が多いからな。使うのは錬金スキルなんだ
よ﹂
﹁あ、なるほど。そっか、俺自分の武器が大剣だからそれ基準に考
えてた﹂
﹁うむ。剣士武器の場合は鍛冶スキルで生産、魔法職系武器は錬金
スキルで生産、っていうパターンが多いかな。まあ、鍛冶スキルで
生産されるスタッフもないことにはないけれど、あれはどっちかと
いうと物理攻撃に特化したただの鈍器だ﹂
いわゆる殴り精霊魔法使いだとか、殴り召喚士といわれるような
類だ。
逆に剣士系の武器で自然素材由来の場合、属性がつく代わりに純
粋な切れ味といった方面での攻撃力が鍛冶スキルで生産される武器
よりも落ちることが多い。
﹁それなら、イサトさん別に無理に鍛冶スキル身につけなくてもい
いんじゃないのか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何故か、イサトさんに半眼を向けられた。
なんだ。
何かまずいことを言ったか。
﹁⋮⋮私が鍛冶スキルを持っていたら、君の大剣の手入れをしてや
れるだろう﹂
﹁あ﹂
﹁それとも君、自分で今から生産スキル取ってみるか?﹂
﹁ゴメンナサイ﹂
1150
くぅと少し意地悪く口角を釣り上げたイサトさんの問に、俺は速
やかに降参する。
﹁そっか⋮⋮そうだよな、武器にも耐久値があるんだよな﹂
﹁うむ。その辺がちょっと悩ましい﹂
困った。
ゲーム時代であれば、武器の詳細ウィンドウを開けば、そこで現
在の耐久値を確認することが出来た。なのでこまめに確認して、耐
久値がある程度下がったところで鍛冶スキルを持ったフレンドか、
もしくは街のNPCに依頼して耐久値を回復してもらうようにする
のが一般的だった。それほどレア度の高くない武器であれば、うっ
かり壊しても惜しくないのだが⋮⋮、俺が愛用しているような大剣
のようレア度が高くなると、折ったからといってそう簡単に二本目
が手に入るようなものではない。
﹁折れる可能性を考えてなかったな﹂
情けなく眉尻を下げてつぶやく。
切れ味が良いのを良いことに、この世界に来てからわりとその辺
に無頓着に振り回してここまで来てしまった。飛空艇をぶった斬っ
てみたり、ドラゴンの鱗をガンガン殴り、その爪を切り飛ばしたり
と、確実に耐久値に影響がありそうなことばかりして来たような気
がする。
﹁クリスタルドラゴンのドロップ武器だけあってそう簡単に折れた
りするようなものではないと思いはするのだけれど︱︱⋮、これか
ら大勝負が待ってるかもしれないだろう? そうなると、できれば
耐久値を回復させておきたいな﹂
﹁ゲームだと、街のNPCに依頼でも回復できたよな?﹂
1151
﹁⋮⋮問題は、それほど腕の良い鍛冶師が残っているかだな﹂
﹁う﹂
思わず言葉に詰まる。
上位ポーションに嘘のような値段がつくような、﹃女神の恵み﹄
が手に入りにくくなって久しいこの世界だ。
果たして、レア中のレアでもあるクリスタルドラゴンのドロップ
武器を手入れできる鍛冶師は存在するのだろうか。
﹁まだ夕飯まで時間もあるし、ちょっとその辺探してみようか﹂
﹁街の探索かねて、そんな感じで﹂
適当に街並みを見て歩く中、作りは地味ながらも、年季の入った
看板を構える工房を発見した。店への入り口からして、無骨な金属
を四角く枠にしただけ、といった佇まいなのだが、そんな外観に不
思議と迫力がある。知る人ぞ知る、といった雰囲気なのだ。
足を踏み入れて最初に感じたのは熱気だった。
店の奥には、火の入った炉が轟々と燃え盛っており、室内を全体
的に薄赤く染めている。カンガンカンと聞こえるのは、熱された金
属を打つ音だ。
見慣れぬそんな﹃鍛冶場﹄の風景に思わず俺とイサトさんが目を
奪われていると、そんな中一人の老人が顔を上げた。
他の鋼を鍛える男たちがまだ年若い︱︱といっても20代∼30
代と俺と同年代か俺より年上ぐらいなのだが︱︱中、その老人だけ
が厳めしく髭を蓄え、何か作業を行うというわけでもなく工房の中
を歩きまわっている。
1152
﹁なんだ、何の用だ﹂
偏屈そうながら、眼力も鋭く老人が俺たちを睨みつける。
レブランさんとはまた違った方向で偏屈な老職人、といった趣の
ある人物だ。
だいぶ後退し薄くなった髪と、その代わりのようもじゃりと生え
た髭は白く、かなりの高齢のように見えると言うのにその足腰はし
ゃんとしていて、小柄ながらもずんぐりむっくりとした体にはしっ
かりとした筋肉がついている。
﹁武器の手入れを頼みたんだが﹂
﹁見せてみろ﹂
客商売とはとても思えない不愛想な顔と言葉ながら、頑固一徹と
いった感じであまり悪い印象はない。俺はインベントリより大剣を
抜きだすと、それを老人へと差し出した。身の丈ほどある大剣の外
見に、ぴくりと老職人の眉が跳ねあがる。
﹁抜け﹂
﹁はいはい﹂
ずらり、と大剣を抜き放ち︱︱⋮⋮とたん飛びつくように接近し
てきた老人に、俺は慌てて身を引いた。
﹁ちょ⋮⋮っ、じいさん危ない!!﹂
飛空艇やら岩壁やらさっくり斬りぬく自慢の愛剣なのである。
人の一人や二人、飛び込んできた勢いそのままに真っ二つなんて
洒落にならないことがないとは言えない。慌てて大剣を老人から遠
ざけようとするものの、その突進の勢いときたらイノシシもかくや、
1153
といった具合だ。
﹁ええい、邪魔をするな! 見せろと言っているんだ!!﹂
﹁落ちつけ! 危ないから!!!!﹂
﹁ご老体落ち着いて!﹂
必死に体をひねって老人から剣を遠ざけようとする俺と、それに
突っ込む老人、そんな老人をなんとか止めようと試みるイサトさん。
結局老人に駈け寄らない飛びつかない持ち逃げない、の三つを約
束させて大剣を渡すまでには、軽く十分がかかってしまった。最後
の﹁持ち逃げない﹂というのは思わず追加した文言である。何せこ
のじいさん、目の色変わってた。
じいさんは大事そうに大剣を抱えると、重いだろうから俺が運ぼ
うか、という声を綺麗に無視していそいそと大剣を台座へと運ぶ。
騒動を聞きつけて、手の空いた若い職人さんたちも大剣を乗せた
台座を囲むようにして集まってきた。
﹁なんてでかい剣なんだ、こんなの振り回せる奴がいんのか﹂
﹁材質はなんで出来てんだ、めちゃくちゃ硬ぇな﹂
﹁おいおい切れ味マジか﹂
わいわいがやがや、クリスマスツリーの下に群がる子供のような
テンションで、大の男たちが大いに盛り上がっている。
そんな中、じいさんは一人真剣な面持ちで小さなハンマーのよう
なもので、こんこんと大剣の表面を叩いては大剣の腹に耳を押し当
てたりしていた。その様子は無骨な武器職人や鍛冶師というよりも、
繊細な楽器でも扱っているかのようだ。
そしてしばらくそんな吟味を続けた後、じいさんは難しい顔で口
を開いた。
1154
﹁この剣は﹃女神の恵み﹄、だな? どのモンスターから手に入れ
たもんだ﹂
﹁ヅァールイ山脈のクリスタルドラゴンだよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
半ば予想していたようにじいさんはわずかに息を呑むだけに留め
たものの、台座を囲う他の人々はみなザワリと顔を見合わせた。
﹁これが﹃女神の恵み﹄だっていうのか? しかもドラゴンの?﹂
﹁そんなの嘘に決まってるだろ﹂
﹁いやでもこれは⋮⋮﹂
彼らが信じられないのは、これが﹃女神の恵み﹄であることなの
か、それともドラゴンを倒して手に入れたというところなのか。お
そらくは両方か。
あまり大事にするつもりもなかったのだが、手入れを依頼するつ
もりでいることもあって適当に誤魔化すわけにもいかない。武器や
装備の耐久値を回復するためには、その武器や装備を作った元の素
材が再び必要となることが多いのだ。そのため、今回この大剣の手
入れを依頼をするならば、彼らにはクリスタルドラゴン由来の素材
を取り扱う技術が必要になる。
果たして、彼らはクリスタルドラゴンの素材を扱うことができる
のだろうか。
ゲーム時代であれば、鍛冶スキルのレベルによって取り扱える材
料が変わるのはプレイヤーだけで、街のNPCにはお金と素材さえ
渡せば手入れしてもらえていたのだが⋮⋮。
﹁素材は、あんのか﹂
﹁ああ﹂
1155
ありがたいことに、クリスタルドラゴンのドロップアイテムには
困っていない。この大剣がドロップするまで、クリスタルドラゴン
を延々と乱獲しまくったおかげである。
俺の言葉にふむ、と頷いたじいさんは気難しげに口をへの字にし
て、舐めるようにじっくりと大剣に顔をよせて観察し⋮⋮結局、苛
立たしげに息を吐きながら首を横に振った。
﹁儂らではどうにもならん﹂
﹁じゃあ、他に誰か手入れできそうな心当たりは?﹂
﹁ない﹂
どきっぱりとじいさんが言う。
﹁この街で一番腕が良いのはこの工房だ。ここにこの剣を持ち込ん
だあんたらの目は間違ってはおらん。だが、その儂らでも無理なも
んは無理だ﹂
﹁でも師匠、やってみれば﹂
﹁たわけ、こちらの商売道具が壊れるわ﹂
周囲の若い衆の言葉に一喝して、やっぱりじいさんは首を横に振
った。
﹁あんたの剣を手入れできるような人間は、この世界にはいないだ
ろうな﹂
﹁この世界には、とまで言うか﹂
﹁儂より腕の良い鍛冶屋なんぞおらん﹂
堂々と言い切られた言葉は、不思議と嘘ではないような気がした。
1156
少なくとも、この工房を後にした後、他を探してみようという気
にはならなかった。きっと、このじいさんが見得だのプライドだけ
で、出来もしない仕事を引き受けようとしなかっただろう。出来な
いものは出来ない、と見極めることができるのも、見る目のある職
人だからこそ、だ。
﹁やっぱり駄目か﹂
﹁そうみたいだな﹂
やはり、これだけレア度の高いモンスタードロップの武器はもう
この世界にはほとんど残っておらず、それを手入れするための技術
も今では途絶えてしまっているようだ。無念。俺は小さく肩を落と
す。
そんな俺以上に悔し気にしているのはそのじいさんを筆頭にした
鍛冶職人たちだった。目の色を変えて群がるほどの逸品が目の前に
あるのに、それを手入れするだけの技術が廃れてしまっているのだ。
悔しそうに項垂れる姿には、何か俺まで悪いことをしたような気に
なってしまうほどだ。
が、何の成果も得られなかったわけでもない。
残念そうに大剣をしまいかけた俺に、じいさんが顰め面はそのま
まに口を開いたのだ。
﹁儂の見立てだが⋮⋮もうしばらくは大丈夫だろう。目立った傷は
ついておらんようだしな﹂
﹁それは良かった﹂
ほっとする。
手入れをすることは叶わなかったものの、この大剣が危ない状況
1157
ではないと知れたのは良いことだ。
俺とイサトさんは鍛冶職人たちに礼をして、その工房を後にする。
﹁まだイケそう、ってわかっただけでも収穫か﹂
﹁こうなったらやはり私が鍛冶スキルを鍛えるしかないのでは?﹂
﹁どれだけの長期戦で挑む気なんだ﹂
﹁君の協力さえあれば、一週間でまあそれなりには﹂
﹁協力、て﹂
鍛冶スキルのレベル上げに、俺がどう協力できるのかがよくわか
らない。
首を傾げた俺に、イサトさんはにんまりと笑って世にも恐ろしい
計画をつらつらと語りだした。
﹁まず、君と私で手分けして鍛冶の初期スキルで使える資材と、M
Pポーションの素材を集めに行くだろう? で、私はMPが尽きる
まで集めた資材で鍛冶スキルを鍛える。で、MPが尽きたらMPポ
ーションでドーピングしながら鍛冶スキルを使い続ける。武器を作
成するのと同様に解体でも経験値は得られるから、次のレベル帯に
進むまで延々と作成、解体を繰り返す。で、私がそれをやっている
間に君は次のレベル帯で必要になる資材を揃えにいく。これを一週
間ほどぶっ続けたらたぶん君の大剣の手入れに手が届く﹂
﹁このひとこわい﹂
そんなことない、とイサトさんは可愛らしく唇を尖らせるわけだ
が。
なんだその地獄のブートキャンプ。生産廃怖い。いやまあ、俺の
レベリングだってHPが尽きそうになればポーション飲んで、ひた
すらレベル帯にあった狩場で狩りをして⋮⋮というものになるので、
実際にやっていることとしてはそう変わらないような気もしないで
1158
はないのだが。
その熱意を、どうして今まで本来の精霊魔法使いのレベル上げに
向けていただけなかったのか。
﹁⋮⋮する?﹂
﹁そんな可愛らしく小首をかしげても却下﹂
﹁ち﹂
﹁おい舌打ち﹂
イサトさんはくくく、と喉を鳴らして笑って、ひょいと肩を竦め
た。
﹁まあ冗談だよ。今はなるべく早めに黒竜王の元に行くのが先決だ
からなあ﹂
﹁⋮⋮時間に余裕があったらやったのか﹂
やんわりとしたえがお。
やったのか。
やったんだな。
﹁さーて、サウスガリアンの名物料理でも食べにいくかー﹂
﹁誤魔化すな﹂
などと軽口を叩きあいながら、俺とイサトさんのサウスガリアン
での一日は過ぎていったのだった。
1159
おっさんの憂鬱︵後書き︶
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1160
おっさんの空間把握能力は死んでいる。
次の日の朝。
俺たちは宿での朝食を済ませた後、一度サウスガリアンの広場に
一度寄ってから狩場へと向かった。
よいせ、と俺が引き抜いた武器を見て、イサトさんが金の双眸を
瞬かせる。
﹁それ、随分と久しぶりに見るような気がする﹂
﹁あの大剣手に入れてからは、そっちに切り替えてたからな﹂
そう言いながら、軽く振るう俺の右手に握られているのは、いつ
もの大剣ではない。同じ﹁大剣﹂のカテゴライズに含まれるので、
長さは同じほど。だが、形は随分と細身で、剣というよりも﹁刀﹂
に近い。俺があの大剣を手に入れるまで愛用していた、一つ前の武
器だ。
一つ前、といっても、あの大剣を手に入れるまではこの長刀を使
っていたのだ。つまり、クリスタルドラゴンの乱獲の際に使ってい
たのもこちらの長刀の方だ。大剣の方が攻撃力で少々上回っていた
のであの幅広の大剣に持ち替えていたが、攻撃力で少々見劣りする
分こちらは斬れ味が良い。斬りつけた敵に、確率成功とはいえ流血
の状態異常を負わせることが出来るのだ。
﹁しばらくそっちに切り替えるのか?﹂
﹁黒竜王に備えておこうと思って﹂
1161
RFCに存在していたクリスタルドラゴンまでのモンスターであ
るのならば、この刀でも十分対応できる。こちらの刀もモンスター
ドロップには違いないので耐久値は回復することできないが、こち
らは予備もいくつか倉庫に眠っている。
あの大剣が必要となるとしたならば、それは間違いなく黒竜王戦
だ。
それまでは、温存しておきたい。
﹁もうちょっと時間に余裕があれば、私が鍛冶スキルとれたのに﹂
悔しそうなイサトさんの言葉に小さく笑う。
エレニの居場所がわかるのは、エレニの魔法の効果が続く﹁一週
間ちょっと﹂の間だけだ。その期間が過ぎてしまえば、俺たちはエ
レニの行方を見失ってしまうことになる。もし、エレニの言葉に嘘
があった場合、最悪北のヅァールイ山脈に着いた時にはもぬけの空
で、黒竜王率いるドラゴンの大群がセントラリアに向かって出撃済
みなんてことにもなりかねない。
エレニと別れて、今日が五日目だ。
今日の夜にはノースガリアに着いていたい。
そんなことを考えながら、俺は視界の端でひょこりと動いたゴー
レムに向かって長刀を振り下ろした。
久しぶりに振るう長刀は、あの幅広の大剣に比べると幾分か軽く
て物足りないような気もするが、こんなものだろう。大剣を手に入
れるまでは随分長く世話になっていたのだ。きっとすぐに勘を取り
戻せる。
すぱり、と真っ二つに断たれたゴーレムが、光の粒子に分解され
て消えていく。
まずは、これで﹃ガラスの欠片﹄を一つ、ゲット。
1162
久しぶりに使う長刀の肩慣らしも兼ねたゴーレム狩りは本日も順
調で、昼前には目標の数を達成することが出来た。
これで、ポーション作成に必要なアイテムの大部分が揃ったこと
になる。残るはノースガリアで手に入る﹃神秘の泉の水﹄だけだが、
そちらは現地に行けば汲むだけで終わる。予定通り、午後にはノー
スガリアに移動することが出来そうだ。
後は⋮⋮
﹁精霊魔法使い装備を手に入れに行くんだっけか﹂
﹁そうだな。ひとまず、ダークエルフが守護する遺跡に向かおう﹂
﹁了解﹂
荒野のど真中でピクニックよろしく昼食を終えた俺たちは、イサ
トさんの召喚したグリフォンの背に乗り、ダークエルフの遺跡へと
1163
向かった。
﹁︱︱⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
覚悟は、していた。
エルフも、ダークエルフも、随分と昔に滅んでしまったとはこの
世界にやってきてすぐに聞かされていたはずだった。
だけれども、こうしていざ人のいない寂れた遺跡を目の前にする
と、初めて来る場所であるはずなのに、不思議と寂寥感に胸を締め
付けられる。
ダークエルフの遺跡は、サウスガリアンの奥地にあった。
1164
赤茶けた荒野の果て、取ってつけたように生い茂る大森林。
目に鮮やかな緑が生い茂り、うねり横這いに絡み合うような木々
に守られてその遺跡は静かに眠っていた。
ゲーム時代であれば、遺跡の入り口には色鮮やかな装束を身に纏
ったダークエルフの青年が立っていた。彼に誰何を問われ、旅の冒
険者だというと、軽く遺跡の案内をしてくれるのだ。遺跡を取り囲
むように、テントのような集落が立ち並び、アイテムの販売してく
れたり、クエストを受け付けてくれる村人がいる他、立ち話をする
女性たちや、その近くで遊ぶ子供たち、糸をつむぐ老人といった光
景が長閑に広がっていた。
それはすべて、ゲーム時代に見知った光景だ。
村人たちはすべて二次元のドットで表現され、決して血肉の通っ
たリアルな人として俺たちの前に存在していたわけではない。
それでも、ゲームで見たままの遺跡を中心に、崩れ、廃墟と化し、
かつて何かがあったのだろうと申し訳程度の痕跡を残す村の風景に
は随分と胸に来るものがあった。
﹁⋮⋮こういうの見ると、なんだか切なくなるなあ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
ここにいた村人たちは、一体どうして姿を消してしまったのだろ
う。
エルフやダークエルフに、一体何があったのだろう。
そう思う一方で、もし同じことがセントラリアにも起きようとし
ているのなら、なんとしてでも止めたいと思う。
俺は沈みがちな気分を切り替えるよう、努めてなんでもない風に
イサトさんへと声をかけた。
1165
﹁で、精霊魔法使い装備ってどうやって手に入れるんだ?﹂
﹁ええと⋮⋮確か遺跡に近くに、ストーンサークルがあるんだ。そ
ちらで、精霊の加護を受けるのに相応しいかどうかの試練を受けら
れたはずだ﹂
﹁案内してくれるか?﹂
﹁こっちだよ﹂
俺を案内すべく、イサトさんは廃墟と化した遺跡を突っ切って歩
きだす。
周囲はひたすらに静かだ。
木々の揺れる音と、俺たちの足音と。
虫や鳥の声が、驚くほど豊かに聞こえる静けさだ。
人の営みの気配だけが、この場所からは消えてしまっていた。
自然の奏でる音が豊かに響くが故に、かえってそれがこの空間に
満ちる静寂を際立たせている。
﹁さて。じゃあ少し、待っていてくれ﹂
そう言って、イサトさんがストーンサークルの中に足を踏み入れ
る。
とたんに、ごう、と周囲に旋毛風めいたものが吹き荒れた。
何の変哲もない石をただ地面に突き立てただけ、という風だった
ストーンサークルを中心に、周囲に何かきらきらとした気配が満ち
る。それは、精霊なんていう存在とは馴染みの薄い俺にも、わかり
やすいほどに濃厚な気配だった。
濃く香る花のような、雨上がりの土のような、吹き抜ける風のよ
うな︱︱⋮自然の中で感じることの出来る匂いを雑多に取り混ぜて
濃縮したような気配だ。それが、サークルの中にいるイサトさんを
取り囲むようにめぐるましく瞬きながら、ごう、と壁のように吹き
1166
荒れたのだ。
﹁⋮⋮っ、イサトさん、平気か!?﹂
軽い爆発めいた衝撃を受けてたたらを踏みつつ、風の向こうにい
るイサトさんへと声をかける。
﹁平気、だけども︱︱⋮これは驚いたな﹂
多少驚いてはいるようだが、イサトさんの声はいつもと変わらな
い。
どうやら何か俺の助けを必要とするような緊急事態が起きている
わけではないらしい。咄嗟に腰の長刀に伸ばしかけていた手を戻す。
﹁随分と精霊たちが騒いでる。長い間、誰も来なくて寂しかったら
しい﹂
﹁大歓迎、ってことか﹂
エルフやダークエルフがこの世界から姿を消してからの数百年。
密林の奥に眠る密やかな遺跡は、その長い年月の中、人々の記憶
の中から抜け落ちていってしまったのだろう。
訪れるものを試し、加護を与えていたはずの精霊も、きっとさぞ
退屈していたに違いない。
少しずつ、吹き荒れていた風が鎮まっていく。
その中心に立つイサトさんは、イサトさん自身が精霊そのもので
あるかのようにも見えた。
なめらかな褐色の肌に、美しい銀の髪。
1167
柔らかに伏せがちの双眸は、甘い蜜のような金の色をしている。
共に行動するようになって久しいはずなのに、未だにイサトさん
の容姿には慣れることが出来ない。口を開けば、わりと残念なのは
十分わかっているはずなのだけれども。
﹁私は、冒険者のイサト・クガ。精霊の加護を得るためにやってき
た。試練を受けさせて欲しい﹂
イサトさんに応えるように、ちかちか、とストーンサークルの上
を光が踊る。
そして︱︱⋮⋮
﹁おい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮正直私が悪かった﹂
イサトさんは見事に精霊の試練に大失敗した。
もう、それはもう見事な失敗ぶりだった。
口を開けばわりと残念、言ったな。アレは嘘だ。口を開かなくて
もわりと残念だった。
1168
精霊から課される試練、というのは端的に説明すると、全方位キ
ャッチボールといったものだった。RFC内で言うのなら、プレイ
ヤースキルを試されるミニゲーム、といったところだろうか。周囲
を取り囲むストーンサークルから次々と打ち出される様々な色を纏
った光の珠を、プレイヤーは一定数以上キャッチしなければいけな
いのだ。
イサトさんはといえば、もう最初から駄目だった。
後方からのびやかにぽぉんと射出された光の珠は、見事にイサト
さんの後頭部にぽこん、と間抜けな音を立ててヒットした。それに
慌てたように振り返ったところで、今度は真横からきた光の珠が側
頭部にヒット。それにまた慌てて体勢を変えようとして、斜め右か
らやってきたボールに顔面を討ち取られる。
ぽこんぽこん、と一打一打のダメージはクッションがぶつかる程
度にしかないようなのだが、もうなんていうかきりきり舞いだった。
ふるぼっこだった。
﹁イサトさん⋮⋮⋮⋮﹂
目頭が熱い。
この人、こんなに反射神経死んでるひとだっただろうか。
﹁殺気が! 殺気がないから!﹂
﹁あったら困るだろ﹂
真顔で突っ込む。
装備を手に入れるための試練で死んでたまるか。
騎士ですらせいぜいが模擬戦だ。
1169
職業ごとに適した装備を手に入れるためには、どの職でも試練が
それぞれ用意されているのだが⋮⋮騎士装備のための試練では、モ
ンスターとの模擬戦が用意されているのだ。基本は通常の戦闘と変
わらなずに進むのだが、戦闘終了後にはステータスがすべて戦闘開
始前の状態に戻される。モンスターを倒しても経験値は手に入らな
い代わりに、例えその戦闘中に死んでも戦闘前の状態に戻されるだ
けで、死に戻り、と呼ばれるような現象は発生しないのだ。
精霊魔法使いの試練はどんなものだろう、と物見高い気持ちでい
たのだが⋮⋮
それにしても、困った。
イサトさんはストーンサークルの中心でぺたりとへたりこみ、ぜ
い、と荒い息を整えている。この様子と、先ほどのふるぼっこっぷ
りを見た感じだと、数をこなせばやれるようになる、という感じで
もないだろう。
﹁イサトさん、ゲームの時はどうやってこれクリアしたんだ?﹂
﹁ゲームのときはほら、画面が俯瞰だろう﹂
﹁ああ、なるほど﹂
確かに、ゲーム画面として見るとき、プレイヤーの視点は上空辺
りから自分のキャラクターを見下ろすような感じだった。アレなら、
例えキャラクターの真後ろから発射された光の珠でもプレイヤーと
しては完全な不意打ちにはならないだろう。
ふむ。
つまり、見えてさえいればイサトさんはあの光の珠を捕まえるこ
とが出来るのだろうか。
1170
﹁イサトさん、それ何個以上捕まえたら合格なの?﹂
﹁ええと、20中15個だな﹂
﹁⋮⋮前だけ見てろ作戦は駄目か﹂
見えないところ、後方から飛んでくる分に関してはもう見なかっ
たことにして、目の届く範囲だけに集中してみてはどうかとも思っ
たのだが。
⋮⋮って。
ストーンの数を数える。
イサトさんを取り囲むように、全部で石の数は12。それが、等
間隔に整然と土に埋められている。
﹁よし、イサトさんもう一回やってみよう。俺も手伝うから﹂
﹁手伝うって⋮⋮﹂
﹁イサトさんはさ、後ろから飛んできた光の珠に気づかないで当た
って、それから振り返っている間に次の光の珠が出て、って感じじ
ゃないか﹂
﹁う、うん﹂
﹁だから、光の珠が出ると同時に俺が指示を出せばどうにかなるん
じゃないかと思って﹂
ストーンサークルの石から射出される光の珠は、決して剛速球と
いうわけではない。どちらかというと、ぽぉんと弧を描く柔らかな
アンダースローに近い。それならば、俺の指示で振り返ってからで
も受け止められる可能性は高いのではないだろうか。
﹁なんとかなりそうな気がしてきた!﹂
﹁よし!﹂
そしてイサトさんの二回目の挑戦が始まり︱︱⋮⋮
1171
やっぱり惨敗した。
﹁イサトさん﹂
﹁はい﹂
﹁なんで三時の方向との指示で正面を向きやがりましたか﹂
﹁長い方の針かなって﹂
まさかの長針だった。
何故長針だと思ったのか。
それ正面しか指示出せないよな???
﹁イサトさん﹂
﹁はい﹂
﹁そこ、正座﹂
﹁はい﹂
膝を詰めての反省会。
ついでにその辺で拾った木の枝でガリガリと地面に時計の図を書
いてやる。
何故そこでようやく合点がいったという顔をしやがりますか。
﹁私は自慢じゃないけど空間把握能力が死んでるんだ﹂
﹁本当に自慢にならないからな、それ﹂
半眼で睨めつけつつ、短針だからな、短針と念を押す。
神妙な顔でイサトさんも頷く。
よし。
﹁これで今度失敗したら、イサトさん罰ゲームな﹂
﹁えっ﹂
1172
﹁罰ゲーム﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何をしたら?﹂
何故やる前から敗北覚悟なのか。
俺はうーん、と考えるように視線を上に向け。
﹁⋮⋮セーラー服装備ってあったっけ?﹂
﹁よーし気合込めていくぞー! っしゃおらー!﹂
イサトさんの答えは非常にわかりやすかった。
俺としてはわりと本気でセーラー服装備が愉しみだったりしたの
だが、イサトさんとしては断固拒否したいところであるらしい。
どれぐらい拒否したいのかというと、見事次の一発で精霊からの
試練を乗り越えるほどに、といったらきっとどれだけイサトさんが
必死だったのかわかっていただけると思う。
﹁やったー!!!!!!﹂
既に役目を終え、光を失ったストーンサークルの中心でイサトさ
んが雄々しくもたくましいガッツポーズを決めている。そんなにセ
ーラー服装備が厭か。
先ほどまでは赤ずきん装備だったのだけれども、今その身に纏っ
ているのは精霊魔法使い装備だ。
緑からオレンジへの色鮮やかなグラデーションを多く使われたそ
の見た目は、異国の踊り子のようでもあり、見知らぬ神に仕える巫
女のようでもある。
濃い茶の上着は首元で止めて後は前開き。その内側から覗くのは、
インナーのダークグリーンだ。開かれた胸元は襟ぐりが丸く開き、
1173
下品ではない程度に胸元が露わになっている。上着の袖は手首に向
かって円錐形に大きく広がり、そのだぼりと下がる袖が、着物の袖
を彷彿として巫女のような印象になっているのかもしれなかった。
その大きく広がった袖から伸びる手首から手の甲までをこれまたイ
ンナーのダークグリーンが彩っている。
下の方も、基本はタイツのようにぴったりとしたダークグリーン
が隙なく足もとまでを包みこみ、基本的に肌の露出は少ない。ただ、
ぴたりと肌に馴染むようなインナーが身体のラインを強調している
のがなんともエロやかだ。
そしてそんな艶から人の目を逸らすかのよう、腰より伸びたパレ
オのような布が優雅に右の足首までを隠すように揺れている。鮮や
かなグリーンからオレンジへとのグラデーションのかかったそれは、
布というよりも南国の色鮮やかな鳥の翼のようにも見える。
これはこれでとても素晴らしいのだが。
セーラー服も見たかった、なんて言ったら殴られるだろうか。
⋮⋮殴られるだろうなあ。
﹁それじゃあ、これでノースガリアに出発して平気か?﹂
﹁ンむ、もうやり残したことはないと思う﹂
最後にもう一度だけ、緑の中に微睡むような遺跡を振り返って。
俺とイサトさんは、かつてのダークエルフの里を去ったのだった。
1174
グリフォンが、一面の白の中に静かに着陸する。
ぶわりっと雪の粉が煽られて宙を舞う。
まだ昼だというのに空は昏く澄んだ紺色だ。
一年を通して、ノースガリアの空はこの色をしている。
かつてはエルフの女王によって維持されていた国は、今はもう亡
い。
もふりと雪に沈みそうになる足を踏み出して、かつてはクリスタ
ルパレスと呼ばれたエルフの国があった場所へと踏み込む。
そこは、水晶で出来た巨大な温室のような国だった。
透明な澄んだクリスタルで街一つが覆われており、大理石とクリ
スタルとを基調に建てられた世にも美しい国だった。
ゲーム時代、初めて足を踏み入れた時にも思わず息が零れたのを
覚えている。
そこは、今は完全に雪に沈んでいた。
空を覆うクリスタルは、今はもうない。
破れ、中途半端に雪の中から尖った先端を見せる残骸だけが、か
1175
つてそこに雪から街を守るが存在した外壁の名残のように残ってい
る。
﹁︱︱⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
二人して、小さく息を吐く。
もこもこの耳宛つきの帽子をかぶったイサトさんが、ほう、と同
じく暖かそうなミトンに包まれた両手に向かって息を吐いた。
地味に、俺もイサトさんとほぼ似たような格好である。
︱︱︱今から遡ること数時間前。
北に向かって飛び始めてからしばらく。
俺たちがノースガリアを舐めていたことに気づいたのは、足もと
に広がる大地にちらほらと白いものが混じり始めたころだった。
寒いのだ。
まだイケる。
まだたぶん大丈夫。
そんな風に思っているうちに身体がガタガタと壊れた玩具のよう
に震え出し、歯の根が合わなくなった。
おそらく、きっと、俺たちはこの寒さの中でも凍死することはな
いだろう。
確かノースガリアの寒さの中では、防寒装備を用意しない限り緩
1176
やかにHPが減り続けるというステージ効果が発生していたが、俺
たちのHPからすれば微々たるものだ。ゲーム時代、ノースガリア
に向かうだけではわざわざそんな装備を用意したりはしなかった。
どうせすぐに、街につくのだ。街についてしまえば、そんなわずか
なダメージなどあっと言う間に自然回復してしまう。
だから、たぶん死にはしない。
でも、ものすごく寒かった。
﹁アアアアあきらせいねん、くま、くま、狩ろ﹂
﹁くま 狩る おけ﹂
何かもうカタコトだった。
そんなわけで急遽緊急着陸。
一面真っ白な雪原に降り立ち、そこをのそのそと動きまわるクマ
の姿を探す。
いた。
雪原に溶け込むような白の保護色、ほわほわとした毛並が非常に
暖かそうだ。
このモンスターの正式名称は、グゥインベア。
ぽわぽわとした毛玉のような姿は、実際のところは熊というより
もペンギンに近い。ただ、ペンギンであれば可愛らしい平たいヒレ
めいた前足の先には鋭い爪がしっかり生えている。
白熊とペンギンを足して2で割ったような生き物だ。
そして何よりも。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
1177
−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ︻グゥインベア︼
白くふわふわとした獣毛に被われたモンスター。
全長は2∼4メートルほど。
全体的なフォルムはペンギンにも似るが、
RFCモンスター辞典より
クマのような鋭い爪と、強い腕力を持ち合わせるため
・・・・・・・
接近戦には要注意。
毛皮は暖かい。
抜粋
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
そう。
こいつの毛皮は暖かく、防寒装備の素材となるのだ。
﹁け、毛皮寄越せええええええええ!!!!﹂
﹁ぬくもりを! ください!!!!﹂
俺たちが錯乱しまくった叫びを上げつつ、可哀想な通りすがりの
グゥインベアから追い剥ぎしたのは言うまでもない。
︱︱回想、ここまで。
1178
その後、速攻でイサトさんに防寒スキルのついた外套を仕立てて
貰い、身に着けて今に至る。
完全に着替えるのでなく、今着ている装備の上から羽織る形だ。
もっふりとしたファーをあしらったロングコートが死ぬほど暖か
い。
ちらり、と横目にイサトさんを見やる。
お揃いのグゥインベア装備ではあるのだが、俺のはトレンチコー
ト仕立て、イサトさんのは裾がスカートのようにふわりと広がって
いる。可愛い。
﹁⋮⋮よし。とりあえずポーション作ろう、ポーション﹂
﹁そうだな﹂
上位ポーションを作るための最後の材料は、神秘の泉の水だ。
神秘の泉自体はここからそう遠くはない。かつてはエルフの女王
が御座した玉座のある水晶宮を抜けた森の中だ。俺はわっさわっさ
と雪を蹴散らしながら、水晶宮を目指して進み始める︱︱と。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁イサトさん?﹂
イサトさんが立ち止まったままだ。
俺は訝しげにしつつ振り返る。
振り返った先、イサトさんはどこか哀しげな顔をしているように
見えた。
どきり、とする。
セントラリアを出発した時にイサトさんが見せた顔に、少し似て
いたような気がして。
﹁イサト、さん﹂
1179
もう一度呼ぶ。
イサトさんは物憂げに銀の睫毛を伏せて、口を開く。
﹁足が、埋まった﹂
視線をイサトさんの足もとに下ろす。
ブーツに包まれた足が、膝のあたりまでずっぽり雪に埋まってい
る。
グリフォンの背から降り立って、そのままめり込んでいた模様。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
よし、担ごう。
1180
わっしわっしとイサトさんを俵担ぎで運搬し、神秘の泉でこれま
でに集めた素材を片っ端から材料に投入して上位ポーションを作成
した後。
俺たちは、かつて宮殿だった場所でたき火を囲んでいた。
室内であれば、底冷えはするものの雪や風は防げる。
しんしんと冷え込む空気の中、炎に手をかざして暖を取る。
休むのであれば、﹃家﹄に引き上げた方が快適なのはわかってい
た。
﹃家﹄の中の季節は不変だ。
俺がそう設定しない限り、暖房も冷房も必要ない過ごしやしすい
気温で保たれている。
お互いそれがわかっているのに、なんとなく﹃家﹄に入る気にな
れなかった。
気になっていることが、あるのだ。
︱︱最果ての、洞窟。
俺とイサトさんが、ゲーム時代最後に挑んでいた新規マップ。
その前人未到の洞窟にて、俺とイサトさんは偶然に偶然が重なっ
た結果たった二人で最深部まで辿りついてしまった。
そして、これまた偶然を重ねるような戦闘の果てに、ボスの取り
巻きのうちの一体を倒すことに成功した。
今まで誰も成し遂げたことのない、快挙だった。
1181
もしかしたら、運営の狂気とまで言われたダンジョンボスを倒す
ためのヒントを掴んだ瞬間だったかもしれない。
けれど、そこでドロップしたエメラルドグリーンのジェムが俺と
イサトさんの運命を変えてしまった。
・・
俺がうっかり転移ジェムと間違えてクリックしたそのアイテムは、
・・
俺とイサトさんをゲーム内の安全圏へと転移ではなく、この世界へ
と転送してしまった。
ずっと、この世界に来て以来思っていた。
あのアイテムが原因でこの世界にやってきたのならば、同じアイ
テムをもう一度使えば、元の世界に戻ることが出来るのではないか、
と。
そんな洞窟が、すぐそばにある。
そわそわと、落ち着かない。
元の世界に戻るための唯一の手がかりめいた場所が、すぐ近くに
ある。
グリフォンに乗って飛べば、おそらく30分もかからないだろう。
装備が揃っていないから。
準備が出来ていないから。
これまでそう理由をつけて遠ざけてきたゴールが、今は手の届く
位置にある。
上位ポーションならば、大量に用意した。
イサトさんの装備も、整った。
今なら、挑めないこともない。
1182
ぎゅ、と強く手を握る。
今はまだ帰れないとわかってはいるのだ。
セントラリアのことが片付いていない。
俺たちが今ここですべてを投げ出して元の世界に帰ってしまえば、
セントラリアで出来た友人と呼べる人たちが不幸になる可能性が高
い。だから、今は帰れない。彼らを見捨てられない。
それでも一目見に行きたいと思う気持ちを抑えることはなかなか
に難しかった。そしてそれと同じだけ、俺には見に行くだけで終わ
れる自信もなかった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ちょろりと視線を持ち上げてイサトさんの様子を窺う。
ゆらゆらと揺れる焚火の陰影に照らされたその顔は、何時にも増
して表情が読みにくい。
今、イサトさんは何を考えているのだろう。
﹁なあ、秋良﹂
﹁ン?﹂
俺の視線に気づいたように、ふとイサトさんが口を開いた。
﹁見に、行ってみるか﹂
どこに、とは言わなかった。
1183
それだけの短い問いで、イサトさんが長いこと俺と同じことを考
えていたのだとわかってしまった。
だから、俺も短く問う。
﹁見に行くだけ、で止まれると思うか?﹂
﹁︱︱⋮⋮﹂
イサトさんは、少しの沈黙を挟んで。
それから、勢いよく迷いを断ち切るかのように立ち上がった。
俺に向かって、手を差し出す。
﹁私は、君と一緒なら正しい選択が出来るって信じてる。だから、
行こう﹂
俺と、一緒なら。
そう言って、イサトさんが向けてくれる信頼が随分と心強かった。
イサトさんが信じてくれるのなら、俺はきっと選択を間違えない。
﹁行こう﹂
ゆっくりと手を伸ばしてイサトさんの差し出してくれた手を取っ
た。
1184
おっさんの空間把握能力は死んでいる。︵後書き︶
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
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1185
トラウマメイカー☆おっさん
グリフォンの背に乗って、しばらくは不思議と気が急いていた。
それはイサトさんも同様だったようで、もっふもふの外套を着た
背中も前のめり気味に、いつもより幾分かスピードを出して空を駆
る。
向かうは、﹃最果ての洞窟﹄だ。
北の果てに浮かぶ孤島より深く地底に潜るダンジョン。
この世界において、唯一俺たちの元いた世界へと繋がっている可
能性を残した場所だ。
北に向かって飛ぶにつれて、次第に空が明るくなっていく。
別段俺たちが徹夜して一夜を明かしてしまったというわけではな
い。
ノースガリアのあたりが明けぬ夜に包まれているのと同じように、
そこからさらに北上したこの当たりは逆に陽が沈まないのだ。
かといって燦々と陽の光が注ぐ大地、というわけではない。
むしろ、受ける印象としては薄らぼんやりしている、という一言
に尽きるかもしれない。空はただひたすらに白く、のっぺりと雲に
覆われてる。
白い空と、白い雪原。
そんなぼやけた白に塗り潰された世界を切り裂くように、唯一色
を纏ったグリフォンが空を翔けて行く。
どれくらいの間、そうして白の世界を翔けていただろう。
ようやく、見下ろす景色に果てが見えてきた。
1186
ぶつりとそこで誰かが巨大な包丁を振り下ろしでもしたかのよう
に、ぷつりと大地が途切れる。その先に広がるのはどこか重たげな
群青の海だ。
﹃最果ての洞窟﹄を抱く島はこの先にある。
はやる気持ちを抑えて、前を向く。
前にもこんなことがあったな、と既視感を覚えて、思い出した。
﹃最果ての洞窟﹄が実装された時だ。
以前より、そろそろ新規マップの投入が近いと言われていたのを
知っていたもので、俺たちはメンテが明ける度にわくてかしながら
RFCのログインページにアクセスしたものだ。
そして、待ちに待った﹁新規マップ︵最果ての洞窟︶実装﹂の文
字をメンテ内容の中に見つけたその日。俺たちは期待と興奮を抱え
てもうどこもかしこも知り尽くしたはずのRFCの中を改めて探索
してまわった。新規マップへのトリガーを探してしらみつぶしにN
PCに声をかけるものもいれば、実際にあちこちを見てまわって、
それらしいワープポータルが出現していないかを探しているものも
いた。
俺とイサトさんは、後者だった。 イサトさんはグリフォン、俺はワイバーンに乗って二人であちこ
ちを探索していた。そして、北のあたりでそれらしい島を見つけた
という情報を聞きつけて、二人して北へと向かったのだ。
北へ向かう間、どうしようもなくわくわくしていた。
どんなモンスターがいるのか、どんなマップが増えたのか、手持
ちの武器で、手持ちのアイテムで攻略可能なのか。
1187
今と、よく似ている。
二人して、どきどきわくわくと高鳴る鼓動を重ねて、俺とイサト
さんは飛ぶ。
グリフォンの背に乗って、﹃最果ての島﹄を目指して飛ぶ。
何かおかしい、と俺が気づいたのは飛び始めてしばらくしてから
だった。
おかしい。
こんなにも、﹃最果ての島﹄は遠かっただろうか。
イサトさんも同じことを感じたのか、少しずつグリフォンを減速
させる。
﹁おかしいな、途中で逸れたかな﹂
﹁かもな。ちょっと戻ってみる?﹂
﹁うん、そうした方が良さそうだ﹂
﹃最果ての島﹄は何もない海の中にぽっかりと浮く島だ。l
それ故に、ゲームの中でも見つけるのは少し難しかった。慣れれ
ば、ゲーム画面の端に表示される経度と緯度を頼りに辿りつけるの
だが。残念ながら、現在の俺たちには経度や緯度を知る術はない。
そんなわけで、俺とイサトさんは一度陸地に戻って、もう一度最
初から見当をつけて飛びなおすことにする。ゲーム内では何度も往
復したこともあり、目で覚えている部分もある。確か、陸と海との
境界でぼこりと凹んだ部分から、ほぼ垂直に海に向かって突き進め
ば、多少のズレはあっても、﹃最果ての島﹄を視認できる位置には
出るのだ。
念入りに出発地点を確かめて、俺とイサトさんは再び海へと向か
う。
1188
何も、見つけられずにまた陸に戻る。
それからまた海へと向かう。
陸に戻る。
海へ向かう。
陸に戻る。
海に向かう。
陸に戻る。
海に向かう。
⋮⋮
⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮
もう、何度繰り返しただろう。
何度目かに陸地に戻ったとき、イサトさんはもう何も言わなかっ
た。
ただ、無言でグリフォンの向きを変えて、再び海へと向かおうと
する。
その肩に、手をかけた。
1189
イサトさんが何を恐れて口に出せないでいるのかは、痛いほどに
わかっていた。
俺が止めなければ、イサトさんが何度でも繰り返すだろうという
のも、わかっていた。
﹁もういいよ、イサトさん﹂
﹁でも﹂
﹁もう、いいんだ﹂
とぼけた白い空の下、俺は静かに首を横に振る。
もう、わかってた。
この世界に、俺たちが探す﹃最果ての島﹄は︱︱ない。
ないのだ。
俺たちが元の世界に戻るための手がかりになると思っていた場所
は、そもそもこの世界には存在していなかった。
正直、頭を横合いからブン殴られたのかと思うぐらいに、ショッ
クだ。
じりじりと腹の底で得体のしれない重苦しい感情がぐるぐると渦
をまいている。
﹃そのうち嫌でも実感がわいて、どんよりする時がくる﹄
いつか、イサトさんが言っていた言葉を思い出した。
砂漠で目を覚まして、カラットに村に着いた直後。
1190
こうして異世界に飛ばされてしまったというのに全然実感もわか
なければ危機感がないと焦った俺に、イサトさんはそう言って慰め
てくれたのだ。いつか、異世界に来てしまったのだと実感して落ち
込むときがくるのだと。 今が、その時だ。
俺たちは、異世界にいる。
﹃最果ての洞窟﹄で、もう一度同じドロップアイテムを手に入れ
れば元の世界に戻ることが出来ると思っていた。それを目標に動く
中で、場当たり的にいろんなトラブルに巻き込まれてきた。
なんだかんだ人を助ける余裕があったのは、明確なゴールがあっ
たからだ。
﹃最果ての洞窟﹄でボス、もしくはボスの取り巻きを倒し、あの
エメラルドグリーンに煌めく﹃転送ジェム﹄をもう一度手に入れる
ことが出来れば、元の世界に戻れると信じていたからだ。
けれど、そうじゃなかった。
俺たちは、帰れない。
帰る術がない。
元の世界から遠く、切り離された異世界にたった二人で放り出さ
れてしまった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
悄然と項垂れたイサトさんの後ろ姿が痛々しい。
陸の淵に立ち、海を見据えるイサトさんは、そのまま儚く白い世
界に溶けていってしまいそうにも見える。
あの時、俺を助けてくれたのはイサトさんだった。
1191
焦燥にかられて、途方くれつつあった俺の肩を軽やかに叩き、あ
まり気負うなと言ってくれたのはイサトさんだった。
だから、今度は。
﹁あんまり落ち込むなよ、イサトさん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮秋良﹂
俺の声に、イサトさんがのろりと振り返る。
泣いているかとも思ったものの、イサトさんの頬は乾いていた。
﹁⋮⋮その。なんて言ったらよくわかんないけどさ。俺らなら、何
とかなるよ。こっちでも、俺たちは今までやってこれた。これから
も、何とかなるよ﹂
﹁︱︱⋮、﹂
俺の拙い言葉に、はっとしたようにイサトさんの金色の双眸が瞬
く。
﹁⋮⋮⋮⋮そう、だよな。私たちなら、何とかなる、よな﹂
﹁何とかなるし、何とかする﹂
きっぱりと、言い切る。
ゲーム時代のステータスや所持品を引き継いでいる俺たちは、普
通に暮らそうと思ったら十分この世界でも暮していける。ある程度
なら、無理を通すだけの力を持ち合わせているのだ。
元の世界に戻ることを諦める、とは言うつもりはないし、言いた
くもない。
しかし、それがこれまで考えていたよりも長期戦になるのは確実
だ。
それでも、俺たちならきっとやっていける。
1192
俺とイサトさんなら、大丈夫。
﹁大丈夫だよ、イサトさん﹂
﹁⋮⋮うん、そうだな﹂
そう言って、イサトさんはようやく小さく笑ってくれた。
けれど︱︱⋮その笑顔がどこか、傷ついているように見えたのは
俺の気のせい、なのだろうか。
1193
翌日の朝。
俺が起き出す頃には、階下から良い匂いが漂ってきていた。
宿と違って、﹃家﹄では食事は勝手に用意されたりはしない。イ
サトさんだ。
俺が下に降りると、キッチンのあたりで忙しそうに朝食を用意し
ていたイサトさんがこちらを振り返ってにっこりと笑った。
﹁おはよう、秋良﹂
﹁おはよう、イサトさん﹂
イサトさんは、いつも通りだ。
特に、変わった様子はない。
昨日の出来事を、引きずっているようには見えない。
一晩の間に、気持ちの整理を付けることが出来たのだろうか。
﹁喜べ秋良青年﹂
﹁ん?﹂
﹁今日の朝ごはんは︱︱⋮ずばり、卵ごはんだ﹂
﹁!﹂
なんと。
憧れの和食だ。
いや、卵ごはんを和食だなんて言ったら、怒られてしまうような
気はしないでもないが、俺にとっては十分和食だ。そもそも米を食
べること自体が随分と久しぶりなのだ。
1194
﹁え、米はどこから?﹂
﹁カラットに置いてきた時の、残り。一袋だけ、残しておいてたん
だ。ほら、錬金術で加工したら種に出来るから﹂
﹁栽培する気だったのか﹂
﹁当然﹂
ドきっぱりと言い切られた。
その残しておいた米を調理に使った、というのは何か心境の変化
があったのだろうか。
﹁というか、した﹂
﹁へ?﹂
した、って。
何をだ。
何を、って。
そりゃあ、この会話の流れからして。
﹁え、米栽培!?﹂
﹁そう﹂
ドヤ、と胸を張られた。
だだだと足音も慌ただしく響かせて、俺は玄関の扉を開けて外に
飛び出す。
そして畑チェック。
ぱんつ栽培だけ、とお願いされて許可した綿畑の傍らに、見覚え
のない水田が燦然と輝いていた。
というか、水田だけじゃない。
なんかいろいろ植わってる。
1195
﹁ちょ、え、うええええええ!?﹂
﹁すごかろ﹂
イサトさんはドヤ顔である。
元気になってくれたのは良いものの、何がどうしていきなり農業
に目覚めてしまったのか。茫然とする俺に、イサトさんは微かに眉
尻を下げた。
﹁⋮⋮まあ、その。家主の寝てる隙に勝手に弄ったのは悪いと思っ
てる﹂
﹁いやそれは良い、っていうか、いや良くないけど﹂
俺は困ったように頭を掻く。
イサトさんに農業の許可を出さなかったのは、余計なスキル育成
に気をとられて本来の精霊魔法使いのレベル上げがおろそかになる
のを防ぎたかっただけなのである。いつもの軽口の延長でしかなか
ったものだから、こんな風に正面から謝られてしまうとどうして良
いのかわからなくなる。
﹁どうしてまた、急に﹂
﹁んー⋮⋮何か、していたくて。ほら、この世界でもうしばらくい
ることになるなら、食糧も自力で安定して確保できた方が良いだろ
う?﹂
そうか。
イサトさんは、この世界に留まる可能性を考えた結果、何かせず
にはいられなくなってしまったのか。
元の世界に帰れないかもしれないという不安を誤魔化すように、
この人はせめてこの世界での生活が安定するようにと一人で畑を作
1196
ってしまったのだ。
﹁⋮⋮秋良、怒ってる?﹂
イサトさんのそろっと窺うような声に、俺はわざとらしく顰め面
を作って見せた。いつもの軽口の応酬の延長であるかのように。
﹁そりゃ、怒る。人が寝てる間に魔改造しやがって﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
しゅん、とイサトさんが視線を落とす。
心なしか、ツンと尖ったエルフ耳まで萎れてしまったように見え
て罪悪感がパない。なので、口早に言葉を続ける。
﹁でも、卵ごはん、美味しそうだったから許す。あったかいうちに
飯にしよう。冷めたら勿体ない﹂
ぱ、と顔をあげたイサトさんの表情に、安心したような色が広が
る。
くそう。
こんな顏されたら、怒ろうにも怒れない。
口元綻ばせて、誇らしげに頷いたイサトさんに内心苦笑しつつ、
俺は﹃家﹄の中へと戻ると再び食卓についた。目の前には、ほかほ
かとおいしそうな卵ごはん。
つやつやと白く輝くようなふっくらと炊きあがった白米に、これ
また艶めかしく煌めく黄色の濃い卵黄がぷりんと乗っている。
﹁どうやって炊いたんだ?﹂
﹁炊飯器はさすがになかったから、鍋。なかなか上手に炊けて満足
してる﹂
1197
﹁へええ、鍋で米って炊けるんだな﹂
﹁はじめちょちょろ中ぱっぱ、じゅうじゅう吹いたら火を引いて、
赤子泣くとも蓋取るな、を唱えながら頑張ったらなんとかなった﹂
学校の自然教室などで飯盒炊飯は経験しているもので、炊飯器が
なくとも米は炊けると知識はあるのだが。現在日本の家庭において
は、基本米を炊くのは炊飯器の仕事となっているもので、鍋で炊い
たなどと言われるとやはり感心してしまう。
﹁お醤油はどこから?﹂
﹁倉庫に入ってた大豆から錬成した﹂
ちー、と円を描くように醤油を回しいれ、イサトさんが卵を崩し
出す。
差し出された醤油差しをうけとって、俺もちー、と醤油をかける。
ほかほかとただよう白米の香りに、醤油のしょっぱいような香り
が混じって実に食欲をそそる。
ちゃっちゃっちゃ、と豪快に白米と黄身とを混ぜ合わせ、口の中
へとかっこむ。
﹁⋮⋮⋮⋮、﹂
感動する。
懐かしい、当たり前で変哲もない、それでいてここからは限りな
く遠い日常の味がした。
﹁ンまい﹂
﹁私天才かもしれない﹂
﹁天才天才。お代わりある?﹂
﹁ある﹂
1198
﹁よし﹂
しばらくお互い無心に卵ごはんを貪る。
俺は予告通りお代わりをして、二杯分の卵ごはんを腹に収め、よ
うやく腹と心が満たされたところでようやく人心地ついた。
食後のお茶を飲みつつ、ふと口を開く。
﹁今日の予定、だけど﹂
﹁うん﹂
﹁予定通りで、イサトさん、平気か?﹂
今日は、黒竜王に会うために、エレニの待つヅァールイ山脈に向
かうつもりだった。が、ヅァールイ山脈は純粋に地理的にも難所で
ある。それに、マップ上に散在するモンスターもこれまでよりは手
強くなる。その上最終的に俺たちを待ち受けているのはエレニと黒
竜王だ。
最悪の場合エレニと黒竜王を纏めて相手しないといけないと考え
ると⋮⋮、余計なことを考えている余裕はない。逆に言うと、エレ
ニと黒竜王の攻略に集中できないのならば、挑むべきではない。
俺の問いに、イサトさんは一度軽く双眸を伏せた。
それから静かな、それでいて力の満ちた金色がまっすぐに俺を見
据えた。
﹁大丈夫だよ、ごめん。心配かけた﹂
﹁⋮⋮⋮⋮本当に?﹂
﹁本当。疑り深いな君﹂
﹁自分の胸に手を当てて思い当ることがないか考えてみろ﹂
﹁︱︱⋮⋮﹂
右手を胸の上に押し当て、イサトさんは﹁はて﹂といった顔でし
1199
らばっくれて首を傾げる。
コノヤロウ。
思いっきり渋面になった俺を見上げて、イサトさんがくくくと喉
を鳴らして笑いだした。それに釣られるようにして、俺も笑う。
そうして一頻り笑いあった後、俺とイサトさんは気持ちも新たに、
ヅァールイ山脈に向けて出発したのだった。
1200
ヅァールイ山脈は、ノースガリアの北東のあたりに聳える険しい
山脈だ。
ドラゴン系のモンスターが多く生息するマップで構成されている
他、地形としても攻略にプレイヤースキルのいる高難易度エリアと
して知られている。
今回俺たちが目指すのは、クリスタルドラゴンのいる頂上ではな
く、山脈の中腹あたりから入ることが出来る黒竜王のダンジョンだ。
前にも話した通り、ゲーム時代はそのダンジョンの入り口まで、
イサトさんを生かしたまま連れていくのに随分と苦労したものだっ
た。
モンスターに不意をつかれて、モンスターにうっかり囲まれて、
逃げようとして足を滑らせ崖から落ちて、いろんな理由でイサトさ
んは雪山に散っていった。
当時は笑い話で済んだが、今となってはそういうわけにもいかな
い。
そんなわけで、俺は大真面目にイサトさんへと切り出した。
﹁イサトさん、俵担ぎとおんぶとどっちが良い?﹂
﹁君はなぜ極々当たり前のようにその二択を言い出した﹂
山の麓にて、解せぬ、という顔をしているイサトさんとまじまじ
と見つめ合う。
﹁肩車という手もあるけれど、安定性から考えてあまりお勧めはし
ない。前抱きは両手がふさがるから却下な﹂
肩車はイサトさんが風の抵抗に負けてしまいそうな気がひしひし
としている。
1201
﹁いや、そうじゃなくて。何故私が自力歩行するという一番基本的
な選択肢がないことにされているのか﹂
﹁イサトさんを死なせるわけにはいかないから﹂
﹁そう簡単に死んでたまるか!﹂
﹁うっかりで死ぬだろあんた!﹂
﹁否定しないけど!﹂
﹁否定してくれ!﹂
こうなったら力技でいくしかないだろうか。
俺がイサトさんに向けて腕を伸ばそうとすると、イサトさんはそ
れに対して謎のファイティングポーズをとる。じり。俺が一歩距離
を詰めると、イサトさんも一歩じり、と後ろに下がる。じり。じり
り。
﹁おとなしく運ばれろ!﹂
﹁嫌だ!﹂
が、哀れイサトさん。
妙齢の女性のいたいけな腕力では、男子大学生︵元運動部所属︶
に叶うわけもなかったのだった。よっこらせ、と腕に力を入れてイ
サトさんの身体を肩の上に抱き上げてしまう。じたばたと脚を揺ら
して抵抗されるものの、そんなことで俺がイサトさんを落とすわけ
もない。
﹁人攫いー!!﹂
﹁やめろ、人聞きの悪い!﹂
こんな雪山の麓で他に誰か人がいるとも思えないが、俺は不名誉
な誘拐犯の肩書きを否定しておく。そしてそのままがっしがっしと
雪の山道を突き進みかけたところで︱︱ふと、涼しげな、どこか小
1202
馬鹿にするような声が響いた。
﹁愉しそうなところ悪いんだけど︱︱⋮君たち何やってるのか聞い
てもいい?﹂
﹁え﹂
﹁へ﹂
向き直った先では、俺たち同様足首までありそうな純白のロング
コートに全身を包んだエレニが、呆れきった面持で立っていた。こ
の男に逢いに来たとはいえ、こんな山の麓で会うことになるとは思
っていなかった俺たちである。
﹁お前、なんでこんなとこに﹂
﹁陛下の使いで、君たちを迎えに来たんだよ﹂
なんで、俺たちがここにいるのかわかったのかと聞きかけて、そ
んな疑問はすぐに自己解決した。
俺たちはセントラリアで別れる前に、エレニの使ったスキルによ
ってお互いの居場所がわかるようになっている。俺には上手く使え
ないが、イサトさんにエレニの居場所がわかるように、エレニの方
からもイサトさんの居場所がわかるのだろう。
﹁ほら、こっちだよ。ついてきて﹂
エレニは俺たちを先導するように歩き始めるが⋮⋮それはダンジ
ョンの入り口があるはずの中腹に向かうのとは別の道だった。細い
獣道と見紛うような脇道へと足を踏み入れていく。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1203
肩に抱えたままのイサトさんと、顔を見合わせる。
﹁黒竜王はダンジョンの奥にいるのでは?﹂
﹁そうだよ﹂
﹁それなら道が違うんじゃないのか?﹂
﹁いいからついておいでよ。君たちだって余計な戦闘は回避したい
だろ?﹂
﹁まあ、それは﹂
頷いて、大人しくエレニの後をついていく。
エレニが俺たちを案内したのは、岩壁にぽかりと空いた洞窟の入
り口だった。
ゲーム内では見覚えのない場所だ。そもそも、ゲーム内ではここ
まで自由にヅァールイ山脈を探索することも出来なかった。グラフ
ィックで描かれない場所は存在しない、というのがゲームだ。
﹁ここからなら、道中モンスターに遭遇することなく陛下の元まで
辿りつけるんだ。まあ、近道だね﹂
﹁こんな便利な抜け道があったとはなあ﹂
延々とダンジョン攻略して黒竜王の元まで到達する気満々だった
俺としては、少し拍子抜けしてしまう部分もあるが、確かに黒竜王
に会う前に余計な体力を使わないで済むのはありがたい。
エレニの案内で抜け道を歩く。
岩をくりぬいて作ったようなシンプルな細い道ではあるものの、
岩壁にはぼんやりとした灯りを放つクリスタルが埋め込まれていた。
薄く曇った結晶の中に灯る光は、どこか幻想的にも見える。
充分に視界が確保されているのと、足もとが特に滑るということ
1204
もなさそうなのを確認してから、俺はイサトさんを肩からおろした。
ここなら万が一転んでも、それが即死に繋がるなんてことはなさそ
うだ。
﹁全く、年頃の女性をいきなり担ぎあげるなんて﹂
ぶつぶつぼやきながらイサトさんがびすびすと俺の脇腹を小突い
ているが、聞こえないふりを貫く。エレニはそんな俺たちの様子に、
口元に呆れたような笑みを淡く浮かべながらすたすたと前方を歩い
ていく。その横顔に、隠そうとはしているものどこか疲労の色が見
えた気がした。
﹁おい、エレニ﹂
﹁どうかした?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
大丈夫か、と聞くのも何かおかしな気がして、俺は言葉に迷う。
そうこうしているうちに、長く続いていたような抜け道にも終わ
りが訪れた。
入口は質素なただの岩壁を刳り貫いただけの洞穴だったというの
に、その終点には随分と重々しい扉が待ち構えていた。薄らと蒼白
い光を放つその扉は、きっと純粋な腕力だけでは開けること叶わな
いのだろう。
エレニは、俺たちを振り返る。
﹁この先に、陛下がいる。覚悟は出来ているかい?﹂
それは軽い調子の問いかけだった。
けれど、エレニのただでさえ白いその顔はどこか蒼白く。
その声も、少し震えているように響いた。
1205
この男が、平素を装えぬようなことがこの先には待ち構えている
のだろう。
俺は、ちらりと隣に立つイサトさんへと視線をやる。
俺の一瞥を受けて、イサトさんもまた力強く頷いた。
﹁行こう、秋良﹂
﹁おう。エレニ、開けてくれ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮わかった﹂
エレニが掌を扉に押し当てて、何事かを呟く。
そして扉が開かれ︱︱⋮その瞬間、何か金属質な音が響いた。
堅いものを擦れ合わせるような、耳障りな音だ。何だ、と思うよ
りも先に身体が動いて、俺はイサトさんとエレニを庇うようにして
地面に身体を投げ出していた。その頭上を、俺たちの上半身があっ
た場所を、黒くうねる何かがとんでもない勢いで過ぎていく。
﹁⋮⋮ッ、おいエレニ!﹂
﹁陛下! どうぞお心を鎮めください⋮⋮!!﹂
俺の腕の下から這い出たエレニが引き攣った声をあげつつ、いつ
の間にか手にしていたスタッフを構えて扉の向こうにいるモノへと
必死に訴えかける。
俺とイサトさんも慌てて体勢を整えつつ、扉の奥にいるモノと対
峙する。
﹁⋮⋮っ、﹂
﹁︱︱⋮、﹂
二人そろって、言葉を失う。
1206
それは闇を凝らせたようなイキモノだった。
漆黒の鱗は滑らかに美しく、ここでも明かりとして使われている
クリスタルの光を弾いて艶めかしく煌めいている。その一方で影と
なる部分はどこまでも昏く、光を通さぬ闇そのものであるかのよう
だ。
爛、と燃える双眸は燭を灯したような金。
爬虫類の縦に尖った瞳孔の奥で、まるで炎のように金の色合いが
揺れている。
全体のフォルムは、竜王の名に相応しい翼竜に似た姿をしていた。
しかし畳まれた皮膜翼を支える四肢もたくましく、鋭い爪が大地
を捕らえる様は地上戦においてもさぞ手強そうに見える。身体に添
うように回された太い尻尾の先には鋭い剣ほどもあろうかという棘
が幾つもの重なりあっている。大きさは竜化したエレニをはるかに
しのぎ、ちょっとした小山ほどはありそうだ。
これが︱︱⋮⋮、ヅァールイ山脈を治める竜種の長、黒竜王。
その姿は、ゲーム時代にもNPCとして見たことがあった。
ある意味そこまでは想定済みだった。
だから、俺とイサトさんから言葉を奪ったのは、黒竜王のその姿
のせいではなかった。
黒竜王の全身には、まるで雁字搦めに縛り上げるように太い鎖が
かけられていた。
こんなものは、知らない。
先ほど俺たちの頭めがけて振り抜かれたのも、その腕からじゃら
りと伸びた太い鎖であったらしい。ふー、ふー、と黒竜王が息を継
ぐ度にその美しい鱗の上を無粋な鋼が滑るじゃらじゃらという耳障
りな音が響く。
1207
﹁おい、エレニ﹂
﹁これはどういうことだ﹂
自然と声が厳しくなる。
こんなのは想定外だ。
黒竜王の金の眼は敵意と害意に燃えて俺たちを見据えている。
﹁⋮⋮⋮⋮陛下は、気がふれかけている﹂
﹁ちょっとまて、それどういう﹂
﹁話している場合じゃない、君たちは下がっていろ!﹂
鋭く言い捨てて、エレニがスタッフを携えて呪文を唱える。
低く柔らかな声音と同時に、柔らかな燐光が黒竜王の鼻先を掠め
るものの⋮⋮それはもう、獰猛な獣性を取り憑かれた黒竜王には届
かないようだった。ぎらりと滑る金の眼に宿るのは、目の前にある
ものを壊したい、殺したい、という凄惨な欲望だ。
いつしか、エレニの言っていた言葉を思い出す。
﹃まあ、来ても話が聞けるとは限らないけどね﹄
この野郎。
こういう意味なら最初からそう言っておけって言うんだ。
﹁俺がなんとか陛下を鎮める!﹂
繰り返し、繰り返し、エレニは呪文を紡ぐ。
抜け道を下る間、エレニの顔に疲労が見えた理由がわかったよう
な気がした。
1208
この男は、俺たちがここに訪れるまでの一週間、この状態の黒竜
王とともに過ごしてきたのだ。こうして何度も、荒れ狂う竜王の狂
気を抑えてきたのだろう。
けれど、その術はもう届かなくなり始めている。
﹁イサトさん、エレニのサポートできるか?﹂
﹁おそらくエレニが使っているのは鎮静の効果のある魔法だと思う
のだけど⋮⋮私、サポート魔法はほとんどとってないからな﹂
﹁イサトさんのレベルで重ねがけしたら効果があるかと思ったんだ
が﹂
駄目か。
こうなったら、力で押すしかないのだろうか。
俺は、大剣へと手を滑らせかけ︱︱
﹁!﹂
そんな俺の隣で、イサトさんが何か閃いたという顔をしてインベ
ントリへと手をつっこんだ。もどかしげに中をごそりと中を掻き混
ぜた手が引き抜くのは、ドリーミィピンクのスタッフ、しゃらんら
☆である。
ここで魔法少女に変身してどうしようというのだろう。
攻撃魔法に聖属性を付加するだけで、錯乱する黒竜王をどうにか
できるとは思えないのだが⋮⋮
﹁エレニ! これを使え!﹂
イサトさんは、そのドリーミィピンクの可憐なスタッフを。
エレニに向かって、放り投げた。
1209
﹁え゛﹂
なんだろう。
壮絶に厭な予感がする。
イサトさんはかつて言っていなかっただろうか。
あのスタッフを使ったものは男女関係なく魔法少女に︱︱
﹁エレ﹂
二、と最後まで呼ぶより先に、ぱしりとイサトさんの放ったしゃ
らんら☆を受け取ったエレニがそれを携えて呪を紡ぐ。
おそらく、藁にもすがる思いで自分が手にしたスタッフの形状に
も気を留めてなかったのだろう。
そして。
ドリーミィピンクの光が、炸裂した。
なにこれ。
なにこれうぼあー。
1210
トラウマメイカー☆おっさん︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
PT、感想、お気に入り、励みになっております!
1211
おっさんとモザイク
なんというか、それは人の姿をした悪夢だった。
狂気だった。
薄桃色の光を纏った白い肌。
銀とも見紛う長いプラチナブロンドは可愛らしいツインテール。
前面は短かく、背面に向かって長くたなびくようなピンクのドレ
ス、惜しみなくフリルを重ねた内側のパニエから伸びるむきりとし
た太腿。
あー、エレニの野郎意外と身体鍛えてんだなー。
そんなことを考えて、うっかり死にそうになった。
なんだあの見たものの精神絶対殺すマン。
俺の脳のどこかに存在するかもしれない検閲および精神衛生倫理
委員会的なものは、今こそ仕事をすべきだ。奴の存在にモザイクを
かけろ。今すぐだ。
まだ脅威が去ったとは言えないというのに、俺は武器に手をかけ
たまま動けずにいる。これがエレニの身体を張った罠だったりした
ならば、きっと今なら俺はいともあっさりと仕留められてしまった
だろう。その代わりにエレニも何か大事なものを凄い勢いで犠牲に
しているような気がしないでもないが。
呆然と立ち尽くす俺。
崩れ落ち、腹を抱えてひいひい言ってるイサトさん。
とりあえず鎮静魔法を使ったピンクがかったモザイクの塊︵よく
1212
やった俺の脳内精神衛生倫理委員会的な何か︶。
そして、それと正面から見つめあう黒竜王。
なんというか、控えめに言って地獄絵図だ。
黒竜王の金色の双眸が、ぽかんと猫騙しを喰らった猫のように丸
くなっている。
もうこれ、鎮静魔法が効力を発揮したのだか、あまりの視界への
暴力に一周回って正気に返ったのかわかりゃしねえ。
﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹄
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
あぎと
じ、と見つめ合う黒竜王と桃色モザイク。
そして、黒竜王の顎がゆるゆると開いた。
一本一本が剣ほどもある鋭い牙も恐ろしいが、それよりも警戒し
なくてはならないのは竜種特有のブレス攻撃だ。こんな狭いところ
でブレスを吐かれては、避けるスペースもあるかどうか。
わりと、笑い死んでる場合なんかではないのである。
わかってるのかイサトさん。
シリアスな緊張感を綺麗にクラッシュしてくれた犯人を俺は半眼
で睨みつける。
イサトさんは未だ地面にうずくまってひくひく肩を震わせている。
桃色モザイクエレニは、イサトさんの腹筋にかなりのダメージを
与えることに成功している模様である。これで、笑って済んでいる
のだから、イサトさんは俺に比べるとまだ逞しいのかもしれない。
俺なんて、もはや正視を諦めたレベルだ。脳内の精神衛生倫理委員
会的な部位が頑張って仕事をしてくれた結果、エレニの姿には丸ご
1213
とモザイクがかかっている。
いざとなったらイサトさんを担いで戦略的撤退を決め込もう、な
んて思っていたわけなのだが。
それよりも早く、固い岩を擦り合わせるような、隙間を風が吹き
抜けるような、そんな不思議な響きを伴った音が黒竜王の喉奥より
生じた。
﹃失礼したな、客人らよ﹄
それは、少し聞き取りにくくはあったものの、確かに俺たちにも
理解可能な人の言葉、だった。
驚いたように顔をあげる俺とイサトさん。
ただし、桃色モザイクは視界に入らないように念入りに角度に微
調整をかける。
その桃色モザイクは、黒竜王の様子が落ち着いたのを確認すると
モザイク
すぐに何やら蠢いたようだった。おそらく、手にしていたしゃらん
ら☆を動かしたのだろう。
ぐにゃり、とモザイクの輪郭が歪んで︱︱⋮その姿から脳内規制
が解けた。そこに立っているのは、いつものいけすかない優男然と
したエレニである。ただ、うっすらと桃色の光をその輪郭に帯びて
いるあたり、しゃらんら☆の影響下から完全に脱したというわけで
はなさそうだ。
まじまじとエレニの様子を窺う俺の視線に釣られたように、イサ
トさんの視線が持ち上がり、ぶぷふッ、と再び噴きだす声が響いた。
⋮⋮⋮⋮あれ。
﹁もしかして、イサトさんにはエレニ、あの格好のまま?﹂
﹁ふく、ふは、⋮⋮、おなかいたい⋮⋮、ん、⋮⋮ん、魔法少女、
1214
してるぞ﹂
声も絶え絶えにイサトさんが応える。
なるほど。
エレニはどうやら幻惑魔法で己の姿を誤魔化している、というこ
とか。
俺のよう、それほど魔法抵抗が高くない相手の目は誤魔化せても、
イサトさんの目は欺けないらしい。
良かった、幻惑魔法への抵抗値低くて。
そのままずっと魔法少女姿のエレニを視界に入れ続けていたのな
らば、いつか俺はエレニに斬りかかってしまっていたかもしれない。
﹁陛下⋮⋮﹂
﹃また世話をかけたな、愛い子よ﹄
﹁いえ﹂
﹃だが、どうやって私を正気に返したのだ? 今度こそ、もう戻れ
まいと思っていたのだがな﹄
黒竜王の言葉に、エレニが説明を求めるような視線をこちらに向
ける。
それに応じて、イサトさんが一歩前に出た。
﹁我々魔法職が使うスタッフには、使い手の力を増幅させる力があ
ります。ですので、単純に彼が普段使っているスタッフよりもその
増幅力の大きなスタッフを使って貰いました﹂
﹃なるほど⋮⋮エレニから聞かされていた通り、そなたらは偉大な
る女神の愛を多いに受けた存在であるらしい﹄
納得したように呟いて、黒竜王は鎖を鳴らしながらもゆっくりと
した動作で身体を低く丸めた。翼を畳み、前足を身体の下にしまい
1215
こむようなその姿は、どこか猫の香箱座りに似て微笑ましい。
⋮⋮大きさや、迫力は段違いだが。
その姿を横目に、俺はぼそりとイサトさんへと問う。
﹁⋮⋮それなら別にしゃらんら☆じゃなくても良かったんじゃ﹂
﹁舞踏会での仕返しがまだだったからな﹂
﹁えげつねえ﹂
舞踏会で良いように翻弄された恨みは根深かった。
イサトさんをうっかり怒らせると何をされるかわからないので、
俺も気を付けようとしみじみ心に誓う。
それから、改めて黒竜王へと向き直った。
纏う気配が凪いでいるせいか、黒竜王の巨躯は先ほどと全く変わ
らないはずなのに、不思議と威圧感はなかった。大きさのわりに、
その姿から受ける存在感はそれほど大きくない。大きくも、優しい
気配、とでも言えば良いのか。子供のころ、動物園で見た年老いた
ゾウの姿を思い出す。静かに草を食む姿は驚くほどに静かで、その
大きさから怪獣めいたイメージを抱いていた子供の俺は、勝手なが
ら随分とがっかりしたものだ。
エレニはといえば、そんな黒竜王の傍らで、何重にも鎖で戒めら
れたその喉元を労わるように撫でている。そんな姿は、臣下という
よりも年老いた養父をいたわる息子のようにも、孫のようにも見え
た。
﹁陛下、我々はあなたにお聞きしたいことがあって、ここまで参り
ました﹂
﹃何が、聞きたいのだ。我に答えられる内容であれば、なんなりと
答えよう﹄
1216
﹁陛下は︱︱⋮人を滅ぼそうとお考えなのですか﹂
直球で切りこむ。
俺の問いに、静かに黒竜王が瞼を下ろす。
ゆっくりと瞼の下から再びその金色の眼が現れ、静かに俺を見つ
め返す。
酷く凪いだ眼だと、思った。
静謐を固めて嵌め込んだなら、そんな眼になるのかもしれない。
人を滅ぼそうなどという凶暴なことを考えているモノの眼には見
えない。
﹃︱︱⋮必要があれば、といったところだろうか﹄
﹁否定は、しないのですか?﹂
﹃世界を救うためであれば、人の滅びは耐えねばならぬ痛みとなろ
うて﹄
世界を、救う。
それはセントラリアを襲ったエレニの主張でもある。
俺たちにはその理屈がわからない。
どうして、世界を救うためにセントラリアが犠牲にならなければ
いけないのか。
﹁何故、人を滅ぼさなければいけないのですか?﹂
俺の問いに、初めて陛下の顏に不快感が滲む。
竜の顔つきなど俺にはわからない。
だが、苛立ちにも似た殺気めいた色がその金色の双眸の奥で揺ら
いだように見えて、ぞくりと背が震える。いかに穏やかで静かなイ
キモノに見えても、その鋭い爪は俺の身体をいとも容易く引き裂き、
喰らうことが出来るのだと改めて思い知らされたような心地だ。
1217
﹃混ざりモノが、おる﹄
﹁混ざり、もの?﹂
コトワリ
﹃人であって、人でないもの。女神の理から外れたモノが、人の中
に紛れておるのだ﹄
人であって、人でないもの。
混ざりモノ。
そんな言葉から俺が連想したのは、あの黒くヌメっとした人型だ
った。
人の形をして、人のように振る舞いながらも気色悪い違和感の塊
めいた存在だ。
黒竜王の言っているのは、あいつらのことなのだろうか。
コトワリ
﹃混ざりモノは、この世界に敷かれた女神の理を歪ませ、力の循環
を滞らせておる。それだけではない。奴らは、女神の力を吸いあげ、
この世界の形を歪め続けておるのだ﹄
﹁力の循環⋮⋮、ああ、だから人は、﹃女神の恵み﹄を得られなく
なった、ということですか?﹂
イサトさんの問いに、黒竜王が頷く。
﹃それだけでもない。人は、女神への信仰すら失いつつあるのだ。
巡る力を奪われ、信仰を奪われ、女神の力は弱まるばかり﹄
⋮⋮⋮⋮ん?
黒竜王の言葉に引っかかりを覚える。
俺とイサトさんはここしばらくセントラリアに滞在していたが、
人々の信仰心が薄いとは感じなかった。むしろ、エレニがセントラ
1218
リアを襲撃した際には、多くの人々が加護を求めて教会や聖堂に逃
げ込んでいた。
単純にそこが一番安全だと判断しただけなのかもしれないが⋮⋮
そもそも信仰がなければ、聖堂の警護を優先したりもしないだろう。
それなのに、黒竜王は人の信仰心が失われつつある、と言うのだ
ろうか。
そう思う一方で、俺はセントラリアを発つ直前の聖女との会話を
思い出してもいた。
﹃本当のところ︱︱⋮もう、随分と昔から、我々聖女にも女神の声
は聴こえなくなっているのです﹄
﹃人を慈しむ女神の余剰な力が、何故人を傷つけるのでしょう﹄
﹃女神は、人を滅ぼされる気なのではないでしょうか﹄
セントラリアにおける信仰の象徴であるはずの聖女が、抱いてい
た疑念。
彼女が女神を信じきれなくなりつつあるように、﹃女神の恵み﹄
というわかりやすい恩恵を得られなくなった人の心は、少しずつ女
神の元から離れていってしまっているのかもしれない。
まるで卵が先か鶏が先か、だ。
人々の信仰心が減っていったが故に﹃女神の恵み﹄が減少したの
か。
それとも﹃女神の恵み﹄が得られなくなったからこそ、人々の信
仰心が衰えていってしまったのか。
﹃歪みは、正さねば︱︱ナラナイ﹄
ギシリ、と黒竜王の声が引き攣った。
1219
﹃ゆがミを正サネばユガみはタダさネばナラなイゆガみはタダサネ
ばならナイ歪みはユガミはゆがみハゆがミハ﹄
﹁っ⋮⋮!?﹂
機械的に淡々と繰り返される言葉に俺とイサトさんは息を呑む。
言葉を繰り返す度に、黒竜王の眼の奥でどろりと濃い狂気が噴き
出し、殺気が膨れあがっていく。ぎちりぎちり、と黒竜王を戒める
鎖が、今にも弾けそうな不穏な音をたてる。
﹁⋮⋮っ、陛下!﹂
慌ててエレニが再びしゃらんら☆を持ち上げ、鎮静効果のある呪
を唱えた。
何度も何度も、その瞳に宿る狂気の色合いが完全に抜けるまで、
エレニは呪文を唱え続ける。
やがて、身体を起こしかけていた巨躯から再び力が抜けて黒竜王
は静かに頭を垂れた。ほう、と息を吐いてエレニがしゃらんら☆を
下ろす。
俺も、インベントリに滑らせかけていた手を、ゆっくりと下ろし
た。
背筋のあたりを厭な汗が滑り落ちていく。
まだ話を全て聞き終えてもいないのだ。戦闘に縺れ込むわけには
いかないと頭ではわかっているのに、吹きつける殺気に煽られて血
迷ってこちらから斬りかかりそうになるのを堪えるのにわりと必死
だった。それはイサトさんも同じなのか、平然を装う立ち姿はいつ
もと変わらないものの、手にしたスタッフを握りしめる手の甲には
うっすらと筋が浮いている。
1220
コトワリ
﹃︱︱⋮すまないね、客人よ。私はもう、理に呑まれかけているの
コトワリ
だよ﹄
﹁理に、呑まれかける⋮⋮?﹂
それは一体どういう意味なのだろう。
聖女は、黒竜王は狂っていると言っていた。
エレニもまた、黒竜王は気が触れかけているといっていた。
今こうして対峙していても、その言葉が決して嘘ではない危うさ
を俺はひしひしと感じている。
﹃そなたらは、我々モンスターと呼ばれる存在が何で出来ておるの
かを知っておるかの﹄
﹁この世界に満ちる女神の余剰な力、だったかと﹂
﹃その通りだ。御嬢さんは物知りだの﹄
笑うように、黒竜王の双眸がまろやかに細くなる。
先ほど一瞬の内に膨れ上がった狂気の色が嘘のように穏やかな声
と、瞳だ。
一体何が、黒竜王を突き動かしているのだというのか。
﹃この世界を巡る女神の余剰な力が凝って、我らになる。その中で
も最も強力な部類に入るのが、我だろうな﹄
﹁そう、でしょうね﹂
何せ、目の前にいるのは竜種の王だ。
この世界におけるモンスターの王と言っても過言ではない。
﹃そなたら人と違い、この身は純粋に女神の力によって構築されて
コトワリ
おる。それ故、我らは女神の意思の影響を受けやすいのだよ﹄
﹁それが、女神の理⋮⋮?﹂
1221
頷く代わりに、黒竜王はゆっくりと一度瞼を閉じた。
﹃女神は世界が正されることを、望んでおる。その意思が、我らを
コトワリ
突き動かすのだ。混ざりモノを排除せよ、混ざりモノを破壊せよと
女神の声が響くのだ。我らのよう、より強きものほど、女神の理に
呑まれやすい﹄
だから、か。
だから、竜がセントラリアを襲うのか。
その混ざりモノがセントラリアにいるから。
コトワリ
コトワリ
﹃多くの仲間が、女神の理に呑まれ、人の国を目指して戻らなかっ
たよ﹄
﹁多くのドラゴンが、理に呑まれてセントラリアを目指し、自滅し
た﹂
エレニが、苦い声で呟く。
聖女も、言っていた。
何匹ものドラゴンが、セントラリアを護る女神の加護を超えるこ
とができず、ただひたすらにブレスを吐き続け、高温により内側よ
り灼けて斃れていったのだと。
﹁だからお前は、飛空艇を落とそうとしたり、あの夜みたいに内側
からセントラリアを破壊しようとしたのか﹂
モンスターは原則街を襲えない。
そのルールの範囲内で街を落とすために、エレニは飛空艇を落と
そうとし、竜の牙をセントラリアに持ち込んだということなのか。
1222
﹁その通り。境界さえ壊してしまえば、陛下自らセントラリアに潜
む混ざりモノを引きずりだし、滅びを与えることも出来る﹂
﹁⋮⋮境界?﹂
エレニの言う仕組みがピンと来なくて、俺は首を傾げる。
境界=女神の加護、なのか?
﹁人が住まなくなった村が、やがて自然に呑まれてモンスターが沸
くようになるのを見たことがない?﹂
﹁︱︱⋮⋮﹂
脳裏に過るのは、森の中に沈むサウスガリアンの遺跡と、氷雪に
閉ざされたノースガリアの水晶宮だった。
こちらに気づいたからといって襲いかかってくるほどアクティブ
なモンスターはいなかったものの、その両方でかつては人の生活圏
だったはずの場所をのんびりと行くモンスターの姿を俺は見ていた。
それと、心当たりはもう一つ。
カラットの村だ。
あの夜、盗賊に襲われ、壊滅的なダメージを負ったカラットの村
の中には、本来人の生活圏の中には入ることの出来ないはずの砂ト
カゲが何匹も侵入してきていたはずだ。
﹁つまり﹃人の生活圏﹄と﹃外﹄の境界が危うくなると、女神の加
護は発動しなくなる?﹂
﹁そういうことだ。だからこそ、セントラリアのような大きな都市
は城壁を築き、より明確なラインを敷きたがる﹂
これより先は人の領域だと、はっきりと線を引くことで女神の加
護を得ているのか。
1223
そして、エレニはそんな境界を壊したがった。
黒竜王をセントラリアの中に入れるために。
人の街に潜む混ざりモノを滅ぼすために。
﹁陛下、陛下はその混ざりモノの正体をご存知なのですか?﹂
﹃︱︱⋮⋮﹄
イサトさんの問いかけに、黒竜王の金の双眸が忌々しげに細まっ
た。
﹃不浄なる影、ひとを模る汚泥、そういった類の存在だよ。⋮⋮ア
レは、女神の力を掠めるために生き物を喰らう﹄
﹁生き物を、喰らう?﹂
その意味合いは、俺たちは生き物として食事をするのとは違うよ
うに響いた。
﹃この世界におけるすべての生き物は大なり小なり、女神の力をそ
の身体に宿しておる。そなたらは⋮⋮随分と、溜めこんでおるよう
だの﹄
く、と笑うように黒竜王の金が細くなる。
俺とイサトさんは、この世界の生き物ではないはずなのだが⋮⋮
そんな俺たちにも、その女神の力というものは宿るものなのだろう
か。
黒竜王の口ぶりでは、俺やイサトさんは普通の人より多めに持ち
合わせているかのようだ。
﹁あ﹂
﹁ん?﹂
1224
隣で小さく、イサトさんが思いついた、というような声を上げる。
﹁秋良青年、もしかしたら女神の力というのは、いわゆる経験値の
ことなのかもしれない﹂
﹁ああ﹂
ぽん、と手を打つ。
大なり小なり、この世界の生き物すべてが身に宿している女神の
力。
それを大量に宿せば宿すほど強力なモンスターになるというのな
らば、それはすなわちゲーム時代の知識と重ねれば経験値、なんて
言葉に言い換えることが出来るはずだ。
そう考えたならば、俺やイサトさんが大量に溜めこんでいる、な
んていう黒竜王の言葉にも納得がいく。
﹃女神の力は、流れ、巡るものだ。女神の力を多く蓄えたそなたら
であろうとも、人の身である限りいずれは死ぬ。そして、そなたら
の内にあった女神の力は再び世界に還り、めぐり、また新たなるも
のを生かすだろう﹄
それは、少し変わった命の循環図であるようだった。
草を虫が食み、その虫を小動物が食み、その小動物を大型の動物
が食み、それらが死んで地に還ったならばその土壌から養分を吸い
上げて植物が生い茂るように。
この世界においては、生き物から生き物へと女神の力は流れてゆ
くのだ。
俺らがモンスターを狩り、凝った余剰な女神の力を散らし、﹃女
神の恵み﹄を得る際に、そのモンスターに宿っていた女神の力の幾
らかはきっと俺らのモノになるのだ。
1225
﹃それを、あの汚泥は掠め取る。アレに喰らわれた女神の力は、淀
む﹄
﹁それは⋮⋮アレが死なないから、ですか?﹂
でも、それはピンと来ない。
ただモンスターを狩り、女神の力を蓄えるだけならあのヌメっと
したシリーズも俺たちもそう変わらないはずだ。
﹃⋮⋮否。アレは、女神を呪うモノだ。女神の力を取り込み、その
力を変容させている。アレは女神を呪い、この世界を蝕む毒なのだ。
そもそも、あの汚泥は︱︱⋮禁忌をおかして力を手に入れた。アレ
が喰らったのは、ひとだ。我が盟友である女王の民を喰らい、遺跡
の守護者を喰らい、アレは力をつけた﹄
﹁ッ⋮⋮!﹂
この世界の生き物すべてが大なり小なり女神の力を蓄えているの
ならば。
女神の余剰な力が凝って生まれるモンスターではなく、血肉の通
った人を殺し、喰らったとしても︱︱⋮⋮力は、得られる、のか?
俺とイサトさんは、視線を交わし合う。
プレイヤーキル
ゲーム内において、RFCではPKという概念があった。
プレイヤー同士で殺し合い、やはり相手から経験値を奪うことが
出来るのだ。殺された相手は、その段階でインベントリに所持して
いるアイテムの何割かをランダムでその場に落とし、また同様に次
のレベルアップに向けてため込んでいた経験値の十分の一を殺した
相手に奪われることになる。高レベルのプレイヤーになると、十分
の一といっても馬鹿にならない。ただ、同じプレイヤー同士ともな
1226
るとモンスターのよう容易く狩れるわけもなく。よって、PKとい
うのは、主にプレイヤースキルを磨くために行われる決闘的な意味
合いが強かった。
中には、PKが可能なゾーンに迷い込んだ初心者を殺して遊ぶ性
格の悪いものもいたが⋮⋮そんな初心者から奪える経験値なんてた
かがしれている。そんなものは経験値が欲しくてやるというよりも、
ただの悪意による嫌がらせだ。
けれど、そんな行為でもって力をつけたモノがいたとしたら?
セントラリアの大消失。
滅び、消えたエルフとダークエルフ。
誰もいない遺跡に、空っぽの宮殿。
それらの事件が、すべてその存在に繋がって行く。
モンスターではなく、人を、エルフを、ダークエルフを、喰らっ
て女神を、世界を呪う力を得たモノ。
ぞわりと肌が粟立つ。
あの人の形を模したヌメっとした存在から受ける気色悪さ、得体
のしれなさの正体に触れてしまったような気がして、吐き気がこみ
上げる。
そして、さらに駄目押しのように気づいてしまった。
﹁人、なのか﹂
﹁⋮⋮ッ﹂
俺の言葉にイサトさんが息を呑む。
あのヌメっとしたモノは、人の生活圏に入りこむことが出来る。
カラットの村には盗賊らと共に押し寄せたし、セントラリアでも
マルクト・ギルロイの息子として地下で暮らし続けていた。
1227
すなわち、アレは人の成れの果てではないのか。
人だったものが、同じ人を殺し、女神の力を奪い、成ったモノ。
混じりモノ。
女神の意思
人の中に混ざるかつて人であったはずのバケモノ。
ドラゴンの届かぬ人の街にて栄え、蔓延ってはこの世界を蝕み続
けている。
﹁でも、だとしたら目的は一体何なんだ﹂
この世界には、おかしくはなりつつあっても、やりたい放題の魔
王による圧政というようなわかりやすい倒すべき敵は存在していな
い。
あのヌメっとした人型は、何のために力を手に入れ、何を目的に
しているというのだろう。
﹃わからんよ、羽蟻は人の家に棲む。しゃくりしゃくりと家の柱を
喰らう。けれど羽蟻にこのままじゃあ家が倒壊すると言っても意味
はなかろう﹄
﹁その混ざりモノに、世界を滅ぼすという明確な意図はない、と?﹂
﹃⋮⋮わからぬ。ただ、喰らうことだけを目的にしているのか︱︱
何か、他に目的があるのか﹄
黒竜王の言葉が確かならば、あのヌメっとした存在はこれまでに
多くの命を喰らって力をつけている。けれど、今現在この世界に現
れているわかりやすい異変というのは女神の弱体化ぐらいだ。人が、
﹃女神の恵み﹄を手に入れられなくなっている。それだけ、と言っ
てしまうには大きな異変ではあるかもしれないが、逆に大きすぎて
漠然としている。
唯一判っているのは、あのマルクト・ギルロイを使って獣人を迫
1228
害に追い込んだことぐらいだが︱︱⋮って、ああ、そうか。
脳裏に暗い地下の光景が蘇る。
捕らえられた人々、隅に転がる抜け殻じみた装飾品や衣服。
迫害から逃れるべくセントラリアを発ったと思われていた獣人た
ちのほとんどが、誰に気づかれることなくあのヌメっとしたモノに
呑まれていた。
もしかすると、あのヌメっとしたものはある一定の種族、団体を
孤立させることにより、それらが消えても誰も気づかない環境を作
ろうとしたのだろうか。
エルフはノースガリアに、ダークエルフはサウスガリアンに、そ
れぞれ単一種族の集落を構えて暮していた。
それ故に、人々は彼らが襲われたことに気づかなかった。
だが、獣人は人の街に溶け込み、人とともに生きている。
そんな彼らが姿を消すようなことがあれば、異変に気づく者がい
たとしてもおかしくない。
そう考えると⋮⋮獣人への迫害もまた、人の興味や関心を獣人か
らそらし、彼らがいなくなったことに誰も気づかない環境をつくる
ための布石だったのではないかという気がしてくる。
﹁⋮⋮⋮⋮気持ち、悪い﹂
改めて呟く。
力を得る手段も、力を得た後にしていることも。
手に入れた力に姑息な臆病さが、何より気持ち悪い。
ただ、良かったと言えることがあるとしたならば、黒竜王が人を
滅ぼそうとしているというわけではないということだ。
1229
黒竜王が排除したいのは、混ざりモノであるあのヌメっとしたモ
ノだけだ。
それなら、俺とイサトさんでセントラリアに巣食うあのヌメっと
したものを倒すことが出来たのならば、黒竜王と人がぶつかる必要
はない。
だから、ここで言うべきは、俺たちがあのヌメっとしたものを引
き受けるから、セントラリアへの攻撃を待ってくれ、という言葉だ
とわかっているのに⋮⋮俺は、一瞬口を開くのを、躊躇ってしまっ
た。
﹁⋮⋮、﹂
﹃⋮⋮どうか、したかの﹄
黒竜王が、緩く問いかける。
イサトさんが、俺を振り返る。
俺は、今一瞬思ってしまった。
そんなことをしても、俺たちは帰れないのに︱︱、と。
そんな、不貞腐れたことを考えてしまった。
我ながら、最低だと思う。
俺たちが元の世界に戻れないことと、セントラリアに迫る禍は無
関係だ。並べて考えることですらない。
それなのに。
﹁︵秋良︶﹂
1230
ふと、胸内にイサトさんの声が響いた。
左手の薬指の付け根に嵌る銀の環へと視線が落ちる。
﹁︵イサト、さん︶﹂
﹁︵君は、どうしたい?︶﹂
﹁︵イサトさんは? イサトさんは、どうしたい?︶﹂
そう聞き返したのは、イサトさんの考えを指標を据えてしまいた
いという俺の狡さだった。俺は、迷っている。だから、イサトさん
に決めて欲しい。そんな、甘えにも似た狡さ。
﹁︵⋮⋮⋮⋮、正直、迷うよなあ︶﹂
だから、イサトさんからそんな返事が返ってきて戸惑った。
イサトさんなら、きっともう何か答えが胸にあるのかと思ってい
た。
イサトさんは、迷ったりしないのだと、思っていた。
﹁︵本当は、途方にくれてたい。元の世界に帰りたいって駄々をこ
ねて、悲嘆にくれて、自分を憐れんでいたい︶﹂
そうだ。
せめて、哀しむ時間が欲しかった。
呆然と、立ち尽くす時間が欲しかった。
これからどうするのかを考える時間が、欲しかった。
俺たちは、今まで﹁したいこと﹂を貫いてきた。
今初めて、俺とイサトさんは﹁したいこと﹂に迷っている。
﹁︵⋮⋮⋮⋮でも、さ。きっと、後で後悔するよな︶﹂
1231
後悔、するだろうか。
荒廃したセントラリア、知ってる人たちのいなくなった瓦礫の山
のようなセントラリアを後から訪れた時俺は何を想うだろう。
決まってる。
どうして、あの時決断しなかったのかと後悔するに決まってる。
エリサを、ライザを、獣人の人たちを、俺たちに良くしてくれた
セントラリアの人々を助けることが出来なかったことを、きっと俺
は後悔する。
﹁︵イサトさん、決めても、良いかな︶﹂
﹁︵良いと、思う。今は少し、しんどくても。私は後悔したくない︶
﹂
﹁︵⋮⋮⋮⋮俺も、だ︶﹂
だから。
セントラリアを守ろう。
セントラリアを救おう。
この世界に留まることになるのか、いつか元の世界に帰ることが
出来るのか、今はまだわからない。
けれど、その時に後悔を胸に抱えないためにも、今決めるしかな
い。
これが、俺たちの﹁したいこと﹂だ。
﹁陛下、その混ざりモノの討伐は、俺たちが引き受けましょう﹂
黒竜王の金の眼を見据えて、俺はそう言い切った。
1232
おっさんとモザイク︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます!
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1233
おっさんと竜
セントラリアに潜むヌメっとしたイキモノの始末を引き受ける。
それは、声に出して宣言すると今後の指針としては随分としっく
りきた。
今まで俺たちは、﹁元の世界に戻る﹂ことが一番の目的だった。
そのために動く中、偶然にも行き遭ってきたヌメっとした連中を
ぶちのめして、ここまでやってきたのだ。
今度は、その順番が少し逆転するだけだ。
ヌメっとした連中をぶちのめしながら、元の世界に戻るための方
法を探す。
今までと、そう変わらない。
俺の宣言に、黒竜王はゆったりと笑みを浮かべたようだった。
﹃そう、か。そなたらにならば︱︱⋮⋮、任せられそう、だの﹄
それは、好好爺じみた声音だった。
穏やかな凪いだ金の双眸が、俺たちから外されてエレニを見やる。
﹁陛下、﹂
﹃︱︱︱﹄
視線の交わりは一瞬。
名を呼びかけたエレニの声を振り切るように、黒竜王は突如身体
を起こした。
ジャラララララララッ、と激しく金属の擦れる音がする。
黒竜王の身体を戒める無数の鎖が、その艶やかに煌めく鱗の上を
1234
滑る音だ。幾重にも重なり、不協和音を響かせる金属音を上書きす
るように、ぐんと身体を伸び上げた黒竜王が咆哮をあげる。
﹁っ⋮⋮!!﹂
﹁な⋮⋮ッ!﹂
﹁陛下!!﹂
それはもはや生き物の声、と認識できる音の範囲を超えていた。
轟音。雷鳴。むしろ、振動。
びりびりと身体を揺すられて、平衡感覚すら危うくなる。
そんな中、見上げた先で黒竜王の身体を戒めていた太い鎖が玩具
のように爆ぜるのを見た。ばちん。ばちん。ばちん。ただ伸びあが
って吠えるというだけの所作で、厳めしい鎖が弾け飛んでいく。
﹁く⋮⋮ッ、﹂
じゃ、と滑った黒蛇のような鎖が勢いよく撓ってイサトさんに迫
るのを見てとった瞬間、俺は大きく踏み込んで片腕でイサトさんの
華奢なウェストをぐいと腕内に攫った。同時に、今度こそインベン
トリより引き抜いた大剣の腹で、飛来したぶっとい鎖を弾く。固く、
重いものがぶつかる衝撃にぎぃん、と柄を握る手に痺れが走った。
見れば、鎖は一つの輪が子供の頭ほどもある。こんなもの、生身の
人間が当たれば普通に死ぬ。
﹁イサトさん、俺から離れんな!﹂
﹁わかった⋮⋮!﹂
﹁エレニ!﹂
﹁︱︱︱﹂
俺はエレニの名を呼ぶ。
1235
エレニが簡単に死ぬとは思えないが、あの野郎もイサトさんと同
じ魔法職だ。身体を使っての戦闘を不得意としていたっておかしく
はない。
だから、呼び寄せようと思った。
俺の手が届く範囲であれば、ある程度は守ってやれる。
それなのに、エレニは俺の声など聞こえないというかのように、
ただ茫然と立ち尽くしていた。何が起きたのかわからないといった
顔で、猛る黒竜王を見上げている。その視線の先で、煌、と眩い光
源が生まれるのを捕らえた。
﹁ちょ、嘘だろ⋮⋮!﹂
﹁そんなッ!﹂
悲鳴のようなイサトさんの声が耳を打つ。
こんな狭いところでブレスなぞ吐かれた日には、避けようがない。
﹃家﹄に逃げ込めば、と慌てて懐に手を突っ込んだときにはもう、
視界が眩く真白に包まれて︱︱︱
ごぉん、と世界が砕けるような轟音が、響いた。
1236
﹁⋮⋮っ、⋮⋮!﹂
短い間、俺はどうやら意識を失っていたようだった。
目の前には、泣きだしそうに顔をくしゃくしゃにしたイサトさん
の顔。
あ、れ。
何が、どうなっている。
イサトさんが口をぱくぱくと動かしているのが見えるものの、そ
の声が聞き取れない。嘘のように、俺の世界は静謐に包まれている。
遅れて、身体のあちこちに鈍い痛みが走った。
黒竜王のブレスが炸裂した瞬間、俺はどうしたのだったか。
﹁⋮⋮、⋮⋮!﹂
あ、き、ら、と俺の名前を呼ぶようにイサトさんの口が動く。
キィイイイインと耳の奥で軋むような音がして、俺の世界に次第
に音が戻るのと同時に俺は状況を把握していた。
あの瞬間、俺はイサトさんを押し倒したのだ。
1237
咄嗟に己の身体の下に庇うようにして、身を伏せた。
﹁イサト、さん。無事か?﹂
﹁⋮⋮っ、良かった、もう、君はまた無茶をして!﹂
﹁適材、適所﹂
ぽたり、と滴った赤が、組み敷いたイサトさんの頬に落ちる。
あ、汚してしまったと手を伸ばして、その頬を指先で拭うと、ま
すますイサトさんが泣き出しそうな顔をした。
﹁君、怪我してる﹂
﹁ん。でも、そんな酷くない﹂
おそらく、岩か何かが掠めたといったところだろう。
肌の表面を浅く切ったというところだ。
俺は様子を窺いながら、ゆっくりと顔をあげて︱︱︱⋮⋮そのま
ま固まった。
周囲の風景はすっかり変わってしまっていた。
俺たちはエレニに案内されて、ダンジョンの抜け道を通って黒竜
王の待つ洞窟へと足を踏み入れたはずだ。
だが、今俺たちがいるのは外だった。
びょう、と吹きすさぶ風が、足もとにちらほらと舞う雪を舞いあ
がらせる。
ぼんやりとした一面白い空の向こう、地平線のあたりにうっすら
と赤く沈みゆく夕日が見える。一瞬、ワープでもしたのかと思った。
けれど、違う。相変わらずふわふわと粉雪が降り続けているという
のに、俺たちの足もとの地面は未だ雪に覆われていない。つまり。
黒竜王の放ったブレスが洞窟の岩壁を、天井を、何もかもを吹き飛
1238
ばしてしまったのだ。
山の形が変わった、なんてものじゃない。
俺の身体の下で、同じく身体を起こして身を捻ったイサトさんも
俺と同じものを見ているのか、茫然としたようにその金の双眸を瞬
かせている。
そして、そんな俺たちから少し離れたところに黒竜王が佇んでい
た。
黒々とした鱗が薄朱の光を弾き、まるでその身体が淡く光を纏っ
ているかのようにも見える。その傍らに立つのは、同じく淡い桃色
の光を纏ったエレニだ。
黒竜王は長い首を垂れてエレニの腕内へと頭を寄せ、エレニは、
その鼻先に顔を寄せ、慈しむように黒竜王の横顔を撫でている。
なんだかその姿は竜と人の絆を象徴する一幅の絵画のようだった。
優しく、美しい光景であるはずなのに、何故か胸が締め付けられ
る。
何のつもりなのか、と問いたださなければいけないはずなのに、
上手く声を出すことが出来ずにただただその光景を見つめることし
か出来ない。
そのうち、エレニと黒竜王の方が、俺たちの様子に気づいたよう
だった。
﹃手荒なことをして、すまなかったの﹄
黒竜王が、笑う。
岩がすれ合うような、風が吹き抜けるような、そんな声が確かに
1239
笑う。
その声を切っ掛けに、俺とイサトさんはようやく立ち上がった。
身体にダメージの名残はない。
黒竜王のブレスは俺たちに向けられたものなのではなく、その身
を閉じ込める牢極めいた岩壁をぶち抜くために振るわれたものだっ
たのだろう。
とは言っても、うっかり死んでいたっておかしくない所業だ。
俺は黒竜王を睨み据えて、口を開く。
﹁どういう、つもりですか﹂
﹃我は、もう長くは持つまいよ﹄
それは、酷く凪いだ声だった。
柔らかな夕日の色に包まれた竜種の王は、穏やかに語る。
コトワリ
﹃あの陽が沈む頃には理に呑まれ、この地を飛び立つだろうな﹄
﹁⋮⋮っ﹂
それが意味するのは、黒竜王によるセントラリア襲撃だ。
女神の加護は、果たして黒竜王のブレスからも街を守ってくれる
だろうか。
それとも。
﹁陛下﹂
なんと言ったらいいのだろう。
やめてください、というのは何か違う気がした。
そうじゃない。
誰も、そんなことは望んでいない。
黒竜王は、俺とイサトさんをその双眸に映してやはり小さく笑っ
1240
たようだった。
﹃勇ましき人の子らよ、我は、我が我であるうちにそなたらへと挑
もう﹄
頭のどこかでは、それしかないのだとわかっていた。
黒竜王は、俺たちの目の前でもすでに二度、正気を失いかけてい
る。
この短い間に二度、だ。
イサトさんの貸したしゃらんら☆の力を借りてエレニが無理矢理
コトワリ
その狂気を抑え込んではいるものの、おそらくそれも長くはもたな
いだろう。
そのうち黒竜王は、完全に理に呑まれてセントラリアに向けて飛
び立つだろう。一度飛び立ってしまえば、黒竜王を止める術はない。
だから、そうなる前に止めなければいけないというのはわかって
いた。
けれど、それでも。
じゃあ殺します、と斬りかかれるほどには割り切れなかった。
﹁陛下、何か他に方法が⋮⋮!﹂
﹃なんだ、そちらからは仕掛けてこないのか﹄
拍子抜けしたように言いながら、黒竜王が俺たちに向かって距離
を削る。
小山のような巨躯が相手ともなると、遠近感がどうにも狂いがち
で、どこからが黒竜王の間合いなのかがよくわからない。
1241
どうしたものかと迷っているうちにも、黒竜王の巨躯は意外なほ
ど軽やかに俺たちへと距離を詰め︱︱⋮最初の一撃は様子見のよう
な前足の振り下ろしだった。
つい呆然とそれを見上げてしまっていた俺をそのままぐしゃりと
潰しかけたその一打を、危ういところでバックステップで避ける。
けれど当然ながらそれで終わりではなかった。踏み込んだ前足を軸
に、黒竜王がぐんと身体を回転させる。太く長い尾が鞭のように撓
り俺とイサトさんをまとめて薙ぎ払おうと迫る。それを地面へと転
がるように身を投げてなんとか避けた。尾の先端に生えた鋭い剣の
ような棘が、易々と地面を抉る。深々と地面に刻まれた痕こそが、
黒竜王が本気なのだということを告げていた。
﹁⋮⋮っくっそ、イサトさん、下がってろ!﹂
﹁わかった!﹂
今の二発をイサトさんが避けられたのは、運が良かったからだ。
元より接近戦に向いていないイサトさんをいつまでも俺と並んで
前に出しておくわけにはいかない。
慌ててイサトさんが後方に飛び退るのを横目に、俺はその時間を
稼ぐように黒竜王と対峙する。
長い首が一度後ろに撓むよう下がったかと思いきや、次の瞬間バ
ネが爆ぜるような直線で俺へと向かう咬みつき。それを、これまた
ギリギリで回避。がちん、と耳のすぐ横で聞こえる牙と牙がぶつか
りあう音にぞくぞくと背筋が冷えた。ほんの少しでも判断を誤れば、
俺は死ぬ。ここで、死ぬ。
﹃どうした、反撃はせぬのか﹄
1242
愉しげにそう言いながら、黒竜王はゆったりと俺との距離を保っ
たまま円を描くように歩む。四足のその姿は理知的な竜種の王とい
うよりも、獰猛な獣そのものだ。少しでもその姿から目を離したら、
きっとあっと言う間に引き裂かれる。
﹁秋良﹂
迷うように、イサトさんが俺の名を呼ぶ。
俺も、まだ迷っている。
本当に、戦うべきなのか。
他に、道はないのか。
﹁︱︱⋮戦って、くれ﹂
その声は、祈るように響いた。
しゃらんら☆の桃色の光を纏った冗談のように美しい男が、懇願
の色を乗せて言葉を続ける。
﹁頼む。陛下に︱︱⋮俺の、養父に、英雄に敗れる栄誉を与えてく
れないか﹂
いいのか。
本当に、それで良いのか。
﹁このまま時間がたてば、陛下に待つのは自滅だ。なんの意味もな
い終わりだ。それどころか︱︱⋮最悪あの忌々しい汚泥に囚われる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
コトワリ
そうだ。
理に呑まれセントラリアを襲撃したとしても、女神がそうしろと
1243
望むようにヌメっとしたイキモノを滅ぼせる可能性は限りなく低い。
セントラリアを守る女神の加護を、黒竜王はそう簡単には超えられ
ないだろう。
そうなれば待つのは、ブレスによる自壊だ。
何も為すことも出来ぬまま、セントラリアを目の前に黒竜王は滅
ぶ。
そしてきっとブレスの連打により弱った黒竜王をあのヌメっとし
たイキモノは逃さないだろう。黒竜王の身体は、命は、その身に蓄
えた女神の力は、あのヌメっとしたイキモノに奪われる。
そんな終わりを厭う気持ちは、酷く理解できるような気がした。
ここで俺たちに斃されれば、黒竜王は不本意な終わりを避けられ
るだけでなく︱︱⋮その身に溜めた女神の力を俺たちに繋ぐことが
出来る。
俺が黒竜王でも、きっと同じ道を選ぶ。
ぐ、と大剣を握る手に力を込めた。
﹁︵イサトさん、援護、してくれるか︶﹂
一拍、間が開く。
それから、イサトさんは覚悟を決めたように頷いたようだった。
﹁︵わかった︶﹂
戦おう。
それが、黒竜王の選んだ道だというのなら俺たちに出来るのは、
その気持ちに応えることだ。全力でもって黒竜王を打倒し、その意
思と力を継ぐ。
そうと、決めたならば。
1244
﹁エレニ⋮⋮! お前も手伝え!!﹂
﹁もう手伝ってるよ! 誰が陛下の正気を繋ぎとめてると思ってる
んだ⋮⋮!﹂
﹁ち!﹂
﹁おい舌打ち!﹂
残念ながら、エレニは戦力外だ。
イサトさんの援護に期待するとしよう。
大剣を腰だめに携え、俺は黒竜王の足もとへと接近する。
まずは様子見をかねての一撃をその前足へと横薙ぎに浴びせかけ
る。
﹁ッづ、﹂
ぎぃん、とひたすらに固いものをぶん殴ったような衝撃に手が痺
れた。竜化したエレニもなかなかに堅かったが、黒竜王はそれ以上
だ。簡単には、歯が立たない。
これはもしかすると、まずいかもしれない。
この大剣が最後まで持ってくれれば良いのだが。
﹃グルァアアアアア!!﹂
ダメージこそそれほど通っているようにも思えない癖に、黒竜王
が苛立ったように後ろ脚で立ち上がる。ずお、と俺の上に影が差す。
まずい。近すぎて、挙動が読めない。何だ? 何が来る? おそら
くは前足によるスタンピングだ。けれど、どっちの? 右か、左か。
黒竜王の巨躯故に、攻撃の届く範囲は広い。タイミングを合わせて
避けなければ、こちらの動きを呼んでカウンターを浴びせられかね
1245
ない。
﹁くそ、﹂
短く毒づいて大剣の柄を握る手に力をこめる。
いざとなったら大剣で受けるしかないわけだが︱︱⋮⋮、はたし
てこの巨躯から繰り出される打ち下ろしを流せるかどうか。
まあ。
上位ポーションがある以上、死ななきゃ安い。
そんな覚悟を決めたところで、声が響いた。
﹁︵右!︶﹂
﹁⋮⋮!﹂
咄嗟にその声の指示通り右に飛んで、目の前に黒竜王の爪が迫っ
てきた瞬間には死んだ、と思った。これは直撃コースだ。
﹁ッ、﹂
ファンクション
やべえ、と息を呑むのと、イサトさんの呪文が響くのはほぼ同時。
コントロール
﹁セット Ctrl2、F1!!!﹂
早口に縺れそうな声が引き攣り気味に呪を紡ぎ、黒竜王の顔面に
て紅蓮の炎が炸裂する。それによって黒竜王が仰け反ったおかげで、
その隙に俺は黒竜王の前足の下を潜って打ち下ろしの直撃コースか
ら逃れる。
1246
﹁イサトさんなんで今右って言った!?﹂
﹁君こそなんで右に飛ぶんだ!!!﹂
叫びあったところで、黒竜王から見て斜め後方にいる俺に向かっ
て鋭い棘の生えた尾が振り抜かれる。タイミングをずらして自らそ
の尾に向かって飛び込み、一度地面に肩から着地して一回転。その
頭上をぶおんと鋭い風切り音をたてて鞭のように撓る尾が過ぎてゆ
く。すぐさま身体を起こして大剣を構え、その尾の付け根に思い切
り大剣を振り下ろした。がいん。ぶっとい金属の塊でも叩いたよう
な反動に手が震える。
﹁右からくるって言いたかったんだ!!!﹂
﹁なるほど!!!??﹂
危うく大事故だった。
﹁君たち何やってんの!!!?﹂
エレニの呆れたような声が響くが、俺たちだって好きで漫才やっ
ているわけではないのである。
鋭く振り返り、横薙ぎに振るわれる黒竜王の前足から背後にバッ
クステップで飛び退る。
どうも、やりにくい。
ゲーム時代にやりこみ、倒したことのあるモンスターなら、攻撃
のパターンを知っている。モンスターの持つ攻撃のパターンという
ものは、その動物の持つ固有の必勝パターンともいえる。それを理
解し、覚えてしまえば攻撃を避けることもだいぶ楽になるし、攻撃
の隙を見つけることも容易くなる。
1247
そうでなくても、相手の全貌が視界に収まってさえいれば、その
挙動から次にどんな動きが来るのかを読んで合わせることもできる
ものなのだが⋮⋮行動のパターンが把握できていない上に、馬鹿で
かい黒竜王は挙動を読むのも難しい。
ああ、そうだ。
俺に、見えないのならやはり、頼れるのはイサトさんしかいない。
﹁︵イサトさん、指示頼む!︶﹂
﹁︵ええええ、また事故るぞ!?︶﹂
﹁︵次は、大丈夫だから⋮⋮!︶﹂
遺跡のときの逆だ。
あの時俺は、イサトさんには見えていないボールがどこからくる
のかを、時計に例えて指示を出した。
今度は、イサトさんにそれをして貰えばいい。
イサトさんが俺に教えてくれるのは、どこに逃げるかではなく、
コントロール
ファンクション
どこから攻撃が来るか、だ。
﹁セット Ctrl1、F1!﹂
イサトさんの声と同時に、今度は天空より落ちた雷属性の矢が黒
竜王の翼へと降り注ぐ。ばちばちと荒れ狂う雷鳴に、グオオオ、と
苦鳴の声を上げて黒竜王が前足を上げて仰け反った隙に俺はざりと
雪化粧の施されつつある地面を蹴って、黒竜王の足もとへと接近。
身体を支える後ろ足に向かって下から斜めに斬りあげるような斬撃
を浴びせる。
もちろん、一撃でダメージが通るとは思っていない。
だが、軸足を掬いあげるような一撃に黒竜王の身体が揺らめく。
その隙をついたように続いて響いたのはエレニの声だ。
1248
﹁ダァトフィールド⋮⋮!﹂
ばしゃりと黒竜王の足もとが急に水気を帯びてぬかるむ。
しかもただの泥たまりじゃない。
どろりと粘度の高い泥は、黒竜王の足を絡め取ろうとじりじりと
這い上がる。使いどころは難しいものの、見事獲物をハメることに
成功すれば効果がデカいのがサポート魔法だ。
鎮静魔法だけで手いっぱいかと思っていたが、やってくれる。
煩わしげに黒竜王がもがくものの、そう簡単には泥の沼からは脱
することが出来ない。その間もイサトさんの放つ攻撃魔法が次々と
頭上より降り注ぎ︱︱⋮その足元では、俺も大剣のスキルを発動さ
せてその軸足へと斬りつける。
左下から跳ね上げて∞の字を描くよう、何度も重ねられる斬撃。
スキルの発動が終了すると同時に、俺は一旦黒竜王の間合いから
離脱する。
⋮⋮⋮つもりだったのだが。
﹃ウルグァアアア!!!﹄
黒竜王の咆哮と同時に生まれた鎌鼬が、しぱぱぱぱッ、と身体の
あちこちに深い切り傷を刻んでいった。
くっそ、魔法まで使えるのか。
﹁秋良⋮⋮!﹂
﹁大丈夫だ!﹂
動けないほどではない。
俺が負傷したのを見てとるや否や、イサトさんが朱雀を召喚する。
今回はエリア回復でなく、ピンポイントで俺単体への回復魔法で
1249
あるもので効きも早い。あっという間に手足に刻まれていた裂傷が
癒えていく。
﹁さぁて、まだまだ行くぜ﹂
ちろりと唇を舐めて、再び大剣を構える。
下手に使えば折れかねないが、相手にとって不足はない。
出し惜しみなく、とことんやってやる。
ひたひたと夜の帳が迫りくる中、俺は強く地を蹴って再び黒竜王
の間合いへと飛び込んだ。
どれくらいの間、俺たちは戦っていただろう。
それはなんだか、不思議な戦いだった。
お互い相手を殺すつもりで武器を振るい。爪を振るい、攻撃魔法
の花を咲かせているというのに、そこに憎悪はなかった。
鋭い前足の打ち下ろし、スタンピングを掻い潜って浴びせる斬撃。
回避が間に合わず、大剣で受けた薙ぎ払いでそのまま吹っ飛ばさ
れたりもした。
1250
たぶん、肋骨の何本かは折れたと思う。
それを朱雀の回復魔法で無理くり癒し、それだけで足りなければ
ポーションでもドーピングを重ね、すぐにまた戦線に復帰して前衛
をこなす。
無傷で済んでいないのは俺だけではない。
後方支援に努めてはいても、黒竜王が魔法まで駆使する以上イサ
トさんやエレニにも攻撃は及ぶ。後方に向かって雷撃が放たれたと
思ったその後、振り返った先でイサトさんの腕が焼け爛れていたと
きには卒倒するかと思ったし、黒竜王の放った炎にエレニの姿が包
まれたときは死んだと思った。
それでも、なんとか死なずにここまでやってきた。
お互いに満身創痍だ。
といっても、物理的な傷を負っているのは黒竜王だけだ。
何せ俺たちは黒竜王の攻撃を二回喰らったら死ぬ。
一度でも傷を負わせられたならば、速攻で回復しておかなければ
次は持ちこたえられないのがわかっている。
それ故に、ぱっと見は無傷ながら、俺たちの方のダメージも決し
て軽くはない。
すぐに癒えるといっても、怪我を負ったときの痛みは変わらなけ
れば、失った血まで補えているわけでもないのだ。
それに、イサトさんとエレニのMP消費も激しい。
イサトさんは攻撃魔法と、朱雀を通しての回復魔法、エレニは鎮
静魔法とサポート魔法との両方を使い続けている。
荒い息を整えながら睨み据える先で、黒竜王がばさりと皮膜翼を
広げる。
よろしくない兆候だ。
1251
ぼんやりと薄赤く染まって遠くの地平線も、今は紺色に包まれつ
つある。
夜が、迫ってきているのだ。
そう。
もう、時間がない。
俺たちと戦いながらも、黒竜王はこれまでにも何度も空に逃れよ
うとしていた。
しゃらんら☆で強化した鎮静魔法で持ってしても、もうその衝動
を抑えることが出来ていない。
﹁行かせて、たまるか⋮⋮!﹂
飛び立とうとする身体を最後まで支える後ろ脚に向かって一息に
駆け寄り、斬りつけようと試みる。ここで引きずり落とさなければ、
逃げられる。セントラリアに向かわれてしまう。
﹁落ちろ⋮⋮!﹂
掠れた声を上げつつ、大剣を振るう。
が、当たりは浅い。
バランスを崩すには至らず、逆にばさりと黒竜王が羽ばたく度に
吹き付ける強風に身動きが取れなくなる。
﹁イサト、さん⋮⋮!!﹂
叫ぶ。
指輪で繋がっているのだから、いちいち声に出して叫ばなくても
届くとわかっているはずなのに、咄嗟の時にはつい声が出る。
1252
コントロール
ファンクション ファンクション ファンクション
﹁セット Ctrl1 F1! F2! F3!!﹂
間髪入れずに炸裂するイサトさんの攻撃魔法。
麻痺効果があることを期待してか、イサトさんのチョイスは雷撃
系の魔法ばかりだ。ばちばちと火花のように薄青い光が黒竜王の傷
だらけの鱗の上を跳ねまわる。けれど、それすらを振り切るように
黒竜王はさらに羽ばたきを重ねる。地を蹴った後ろ足がそのまま宙
に浮き、ゆるやかに、しかし確実に地面から遠ざかっていく。
﹁グリフォンで追う!﹂
﹁乗せてくれ⋮⋮!﹂
イサトさんが召喚獣を朱雀からグリフォンに入れ替える間に、俺
はイサトさんの元へと走る。その間にも、黒竜王の姿はますます高
度をあげており︱︱⋮⋮
﹁グルゥラアアアアアアアアアアアア!!!!!!﹂
その声が響いたのは、俺とイサトさんがグリフォンの背にのって
飛び立った直後のことだった。吠えたのは黒竜王、ではない。黒竜
王に比べると随分と小柄に見える白銀のドラゴンが、遥か上空より
一条の矢のよう黒竜王へと接近し、そのままの勢いでその喉笛に喰
らいつく。
﹁エレニ!?﹂
﹁竜化か⋮⋮!﹂
1253
俺とイサトさんが黒竜王を引きずり落とそうと躍起になっている
間に、竜化を済ませ空に昇って待ち構えていたのだろう。
黒の竜と白の竜、体格に大きな差があるとはいえ、それを補うよ
うエレニは自重と勢いを乗せての体当たりだ。これにはさすがの黒
竜王もバランスを崩し、二匹の竜は縺れあうようにぐらりとバラン
スを崩して地面へと落ちていく。
﹁⋮⋮!﹂
その姿を追うようにイサトさんがグリフォンの手綱を駆って地表
へと向かおうとするが、俺は背後から手綱を取ることでそれを阻止
した。
﹁イサトさん、黒竜王の真上に向かって!﹂
﹁ッ、⋮⋮了解!﹂
高度は維持したまま、イサトさんがグリフォンの手綱を引いて旋
回する。
ぐら、と傾いた身体が絡みあう白と黒のドラゴンの真上にきたあ
たりで、俺は大剣を携えてグリフォンの背から飛び降りる。
高さとしては数三、四メートル。
落ちて死ぬ高さではない。
たぶん、きっと。
﹁エレニ、どけ!!﹂
叫ぶ。
狙いは、黒竜王の首元。
だが、このままではエレニが邪魔だ。
白銀のドラゴンが、俺を微かに振り仰ぐ。
1254
黒竜王とよく似た黄金の目に、剣を携えまっすぐに迫る俺の姿が
映る。
﹁︱︱⋮、﹂
その黄金の目に宿る、逡巡は一瞬。
大剣の切っ先が白銀のドラゴンの眼を貫く寸前、エレニが竜化の
スキルを解く。
軽くなる拘束に黒竜王が身体を起こそうとするものの︱︱遅い。
ガキィン、と耳を劈く金属音が響いて、大剣の切っ先が黒竜王の
喉首の鱗に突きあたる。拮抗の瞬間は、随分と長く続いたような気
がした。ぎち、と固い鱗を切り裂いて大剣の刀身が黒竜王の体内へ
と滑り込む。
﹁うらぁあああああああ!﹂
﹃グガァアアアアアアアアアア!!!﹄
苦悶の咆哮がビリビリと空気を震わせる。 のたうち、もがく黒竜王の喉首へと俺は大剣をなおも強く黒竜王
の中へと捻じ込む。肉を切り裂き、骨に当たる感触。びきりと響い
た厭な音は、骨を断つ音か、それとも別の何かか。
﹃ア、ア、⋮⋮⋮⋮ッ、﹄
次第に、黒竜王の上げる咆哮が小さく、弱弱しくなっていく。
代わりにその口元からごぷりと溢れたのは喉を貫いた傷からの出
血だった。
地面を引っ掻き、なんとか立ち上がろうとしていた四肢からも力
が抜けていく。
1255
﹃⋮⋮、ハ、﹄
吐きだした呼気はあえか。
ぐったりと大地に身体を横たえた黒竜王の身体から、生気が抜け
ていく。
黒竜王は、ゆっくりと瞬く。
喉元に跨る俺や、傍らに立ち尽くすイサトさんやエレニを順に移
して、その金の双眸は最期に酷く凪いだ笑みを浮かべたように、見
えた。
﹃エレ、ニ﹄
しわがれた声が、エレニの名を呼ぶ。
﹁はい、陛下。ここに﹂
﹃⋮⋮エルフの再建を、見届けてやれんですまなんだなあ﹄
優しい、声だった。
﹁本当、ですよ﹂
エレニがぼやく調子で言う。
﹁孫、ひ孫の顔まで、陛下には見て欲しかったのに﹂
﹃︱︱、﹄
黒竜王は、小さく笑ったようだった。
それが、彼の最期の言葉だった。
穏やかな色を浮かべた金の眼から光が失せ、中途半端に降りた瞼
1256
がその曇りを帯びた金を隠す。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
エレニは、そっと手を伸ばすと慈しむように黒竜王の横顏を撫で
た。
それから、その瞼を下ろしてやる。
﹁⋮⋮、陛下﹂
もう、返事はない。
﹁⋮⋮エレニ﹂
呼びかけて、何を言おうとしたのかが自分でもわからなかった。
謝ろうとしたのか、慰めようとしたのか。
深く項垂れていたエレニが、ゆっくりと顔を上げる。
﹁⋮⋮ありがとう。君たちのおかげで、父は無為な死を迎えずに済
んだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺は、まだ手をかけたままだった大剣の柄に額を預けるようにし
て顔を伏せる。
俺がしたことは、エレニの感謝に値するようなこと、なのだろう
か。
確かに、命がけではあった、けれど。
ふ、と。
1257
何か、光るものが顔をの脇を過ぎたような気がした。
それに誘われてのろりと顔を上げる。
最初は、風に巻き上げられた雪の粉だとばかり思った。
けれど、違う。
雪のように、冷たくはない。
仄淡く金色を帯びた燐光は、どこか陽の光を想わせて暖かだ。
一体、どこから。
出所を探して再び見下ろした視線、その柔らかな燐光は黒竜王の
喉を貫く傷口からふわふわと溢れだしていた。それはやがて、その
全身へと広がっていく。
﹁これ、は⋮⋮﹂
﹁陛下を模っていた女神の力が、還ってるんだ。また巡り、そのう
ち新たな黒竜王が誕生する﹂
少しずつ、少しずつ、黒竜王の身体が崩れてゆく。
幻想的な光景に見惚れているところで、からん、と乾いた音がし
た。
﹁⋮⋮げ﹂
﹁わあ﹂
そちらへと視線をやった俺とイサトさんの声がハモる。
俺たちの視線の先には︱︱⋮⋮、中ほどからべっきり折れた大剣
の先端部分が転がっていた。俺の手の中に残されているのは、柄か
らの半分までだ。すっかり軽くなってしまった手ごたえに、眉尻が
下がる。
﹁⋮⋮さっき、感触おかしかったんだよなあ﹂
1258
戦闘の途中で折れてしまわなかっただけ、随分マシ、ではあるの
だが。
随分と長いこと己の相棒として活躍してくれていた大剣であるだ
けに、なかなかショックが大きい。
しばらくは予備の長刀を代わりに使いつつ、余裕があれば隙を見
てクリスタルドラゴン狩り、といった感じになるだろうか。
きらきらと光りの粒子に分解された黒竜王の身体が世界に還る様
を見送りながら、そんなことを考える。
︱︱と。
﹁秋良青年!﹂
俺の注意を惹くように、イサトさんが声をあげた。
何事かとそちらへと視線をやる。
もうほとんど、形を残さず光の粒へと姿を変えた黒竜王の骸の中
心に、何かが突き立っているのが見えた。
﹁⋮⋮⋮⋮?﹂
そちらへと、歩みを進める。
そこに突き立っていたのは、一振りの大剣だった。
大きさは、折れてしまったクリスタルドラゴンの大剣とそう変わ
らない。
ただ、あの幅広の大剣が直線的なラインで構成されていたのに対
し、こちらはシャープな曲線が多く使われており、背の部分は炎の
ように揺らぐラインが描かれている。何より印象的なのは、その刀
身の色合いだ。まるで黒竜王の鱗の色合いを彷彿とするような漆黒
に、呪でも刻むように鮮やかな紅でラインが描かれていることだ。
1259
﹁⋮⋮イサトさん﹂
﹁はい﹂
﹁これはもしかして、いわゆるドロップ品、というものなのでは?
??﹂
﹁はい﹂
自分の目にしている光景が信じられなくて、思わず疑惑に満ちた
口ぶりになる。
確かに、ドロップアイテムというのはこの世界の多くの人に比べ
たら俺たちにはまだ馴染みのあるものだ。だが、己のほしいもの、
己にとって必要なものが一発で出るなんていうのは俺らにとっても
充分レアな事象である。しかも、今回のように愛用の武器が壊れた
タイミングでそれと同じ分類の武器が出るなんて幸運には滅多に恵
まれるものではない。 そろっと手を伸ばして、その大剣の柄を握る。
それはまるで俺のために誂えられたかのように、しっくりと手の
ひらに馴染んだ。持ち上げてみる。腕にかかる程よい重さが心地良
い。
﹁おい、エレニ﹂
﹁どうかした?﹂
﹁これ、俺が貰っても良いか﹂
﹁そんな殺してでも奪い取る、みたいな顔をして聞くの辞めない?﹂
大真面目にそんな風聞き返された。
が、俺としても三人がかりで倒すことに成功した黒竜王の遺した
ものを、独り占めするつもりはないのだ。そもそも、もしかしたら
これは黒竜王がエレニのために残したものであるのかもしれない。
エレニと黒竜王の間にある絆を思うと、断りなくこの大剣を自分
のものにしてしまうのには抵抗がある。
1260
物欲と、人間としての道理の狭間で揺れつつも道理を取った俺の
苦渋の問いかけに、エレニはふ、と軽い調子で肩を竦めた。
﹁それは、君たちに遺されたものだと思う。セントラリアに巣食う
混ざりモノを君たちに託さざるを得なかった陛下からの︱︱⋮贈り
物だ﹂
﹁そう、か﹂
それなら、ありがたく受け取ろう。
この大剣でもって、俺は黒竜王の遺志を継ぐ。
セントラリアを救おうと決めたのは俺たち自身の望みでもあるが
⋮⋮こうして託されたものがある以上、これはもう、俺たちだけの
﹁我儘﹂でもない。
﹁あ﹂
﹁ん?﹂
﹁大剣だけじゃ、ないみたいだ﹂
イサトさんが屈んで、黒竜王の骸のあった場所から何か別のもの
を取り上げた。
それは、大剣のデザインととてもよく似たブレスレットだった。
炎のような曲線のラインを組み合わせたもので、漆黒の色合いや、
そこに走る朱色のラインが大剣と良く似ている。
﹁これは⋮⋮ただの防御力や攻撃力を上げるアクセサリーってだけ
じゃなく、召喚アイテムにもなってるみたいだな﹂
ブレスレットを手にとり、まじまじと眺めながらイサトさんが呟
く。
召喚アイテム、というのは、召喚獣を呼ぶためのトリガーとなる
1261
アイテムのことだ。特に身に着けている必要はなく、基本的には所
持していることが召喚の条件となることが多い。たとえば朱雀であ
れば朱雀の羽が。グリフォンであれば太陽石と呼ばれる石がその召
喚アイテムとなっている。イサトさんは常に、召喚する確率の高い
召喚獣の召喚アイテムをインベントリに入れて持ち運んでいるのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺とイサトさんは、じ、とそのブレスレットに視線を注いだ後、
二人そろってエレニへと視線をやった。無言の訴え。
﹁⋮⋮⋮⋮わかった。わかったから。そんな目で見るのやめて。そ
っちのブレスレットも君らで使って良いから!﹂
ぐ、とガッツポーズ。
エレニが何かヒネた猫のような半眼で俺たちを見ているわけだが、
ここは気にしなくても良いところだろう。
俺は、ぽん、とエレニの肩を叩いた。
イサトさんが、俺の反対側からエレニの腕を取る。
﹁⋮⋮⋮⋮なに﹂
﹁いいや、なんか美味いもん食いたくないか﹂
﹁私は鍋が食べたい﹂
﹁あ、鍋良いな﹂
わかりやすく、慰められるのは嫌う男だろう。
だから、せめて。
せめて今夜は、暖かくて美味いもんでも一緒に食べようと、そう
思った。
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おっさんと竜︵後書き︶
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1263
竜と仔
黒竜王の最期を見届けた後。
俺たちはそのままその日はそこで過ごすことにした。
黒竜王が屋根をふっ飛ばしてしまったせいで、洞窟に戻れない、
というのももちろんある。だがそれ以上に、エレニの眼差しに気づ
いてしまったというのが理由としては一番大きかった。
エレニは、ぼんやりとそこからの景色を眺めていた。
すでに夜の藍に染まった世界の、地平線を彩るようにわずかに明
かりが見える。
その明かりこそが、黒竜王が守ろうとした人の営みであり、これ
まで長い年月にもわたって黒竜王が見守り続けてきたもの、なのだ
ろう。
そして、黒竜王が最期に見た景色でもある。
黒竜王との戦闘は、避けようがなかった。
黒竜王の死は、避けられなかった。
だから、そのことで自分自身を責める、というような気持はない。
俺たちは、やれることをやった。
あの戦いの後に残ったのは憎しみでも、恨みでもなく、柔らかな
悼みだ。
ただ︱︱⋮そう頭ではわかっていても、気持ちを切り替えるのに
少しだけ時間が欲しかった。
きっとイサトさんも同じように感じていたのだろう。
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﹁今日はここで野営にしようか﹂
﹁そうだな、そうしよう。エレニ、お前もそれでいいだろ?﹂
エレニが俺を見る。
﹁君たちは⋮⋮﹂
何か言いかけたものの、エレニは結局その続きを口にはしなかっ
た。
屋根を吹き飛ばしてしまった洞窟にしろ、俺たちが力を合わせれ
ば一晩を過ごせる程度には場を整えることもできることはエレニだ
ってわかっているはずだ。
だからエレニは、言葉を続ける代わりにどこか気恥ずかしそうな、
柔らかな苦味を帯びた笑みを浮かべて頷いたのだった。
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俺とエレニが野営の準備を整えていく中、イサトさんは張り切っ
て鍋の支度を始める。
簡易的な竈を作ったのはエレニだ。
残念ながら俺にはそこまでちゃんとした野営の知識はない。
その辺の石を組み合わせて器用なものだ。
見て覚えれば元の世界に戻ってもキャンプなどで使えるかもしれ
ない、と興味津々で眺めていればエレニがいろいろとコツを教えて
くれた。意外だ。
鍋や調理道具、調味料の類は﹃家﹄の中から調達する。
何もないはずの虚空に浮かんだ扉の向こうに整えられた居住空間
がちらりと覗けたのか、エレニが面白がるように笑った。
﹁⋮⋮本当、君らはお人よしだよね﹂
﹁うるさい﹂
﹁今日はキャンプな気分だったんだ﹂
﹁こんな極寒の地で?﹂
﹁滅多にない経験だからな﹂
開き直った俺たちの言葉に、くくく、と喉を鳴らして笑う。
一方で、そんなエレニにしろ﹃家﹄の方に入れろとは言わなかっ
たのだから同罪だ。
イサトさんは、鍋ではぐつぐつと湯を沸かしつつ、その上にまな
板を置いて鍋の材料となる食材を切り揃えている。
食材となるのは、﹃家﹄の庭でイサトさんが栽培していた野菜や、
1266
そのうち使うかもしれないとインベントリに突っ込んだままになっ
ていた魚や肉だ。惜しげもなく提供される食材が、若干闇鍋めいた
気配を発し始めていたのはおそらく俺の気のせいだろう。気のせい
だと、思いたい。
﹁⋮⋮イサトさん、それ、食べられるっけか﹂
イサトさんの手には、どことなく怪しげなキノコ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
何故そこで首を傾げる。
・・
・・
﹁⋮⋮⋮⋮使用することで一定期間無敵タイムに突入する﹂
・・
﹁⋮⋮⋮⋮使用﹂
﹁使用﹂
思わず復唱した俺に向かって、イサトさんが重々しく頷く。
調理アイテムではなく、使用アイテムであるあたりがミソだと思
う。
俺はそっとイサトさんのキノコを握る手を下ろさせた。
何故か少しだけ残念そうな顔をしつつ、イサトさんがキノコをイ
ンベントリへとしまう。
こんなところで無敵タイムに突入してどうしろというのか。
ゲーム時代と違って、アイテムの説明を見ることができないのが
怖いところだ。RFCにおいて、調理用のアイテム︵食材︶だと思
っていたら、錬金術用アイテム︵素材︶だった、というのはあるあ
るネタの一つだ。調合で作れそうな料理は錬金術扱い、というフィ
ーリングで分類されているが故のミスだ。
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確実に食材だと判明しているものだけを吟味して、イサトさんは
下ごしらえを済ましていく。その手つきは意外なことに危うげなく、
料理をし慣れていることが伺い知れる。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺がじっと見ていることに気付いたのか、イサトさんが首を傾げ
た。
﹁どうかしたか?﹂
﹁や、上手いものだなーって﹂
﹁⋮⋮む。これまでにも何度か作ってあげているじゃないか﹂
﹁や、それはそうなんだけど。実際に作ってるところを見るのは初
めてだから﹂
﹁そういえばそうか﹂
ひょいと肩を竦めて、イサトさんがざらりと鍋へと具材を投入し
ていく。
そんな慣れた仕草を眺めながら、ふと俺はまだまだイサトさんに
ついて知らないことばかりなのだということに改めて気づかされる。
ゲームの中で知り合って、こうして二人して異世界に飛ばされて。
イサトさんがどういう人なのか、ということについてはある程度
知ることが出来たと思っている。
どんな人なのか、どういう考え方をする人なのか。
けれど、俺が知っているのはそれだけだ。
俺は元の世界でのイサトさんのことを、何も知らない。
唯一知っているのは、イサトさんの本名と、仕事のことだけだ。
家族のことも知らなければ、元の世界におけるイサトさんの人間
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関係も知らない。
例えば、好きな人がいるだとか、いないだとか。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁秋良?﹂
﹁⋮⋮や、俺、イサトさんのこと何も知らないな、って思って﹂
﹁へ?﹂
﹁や、ごめん、何でもない﹂
俺は慌ててぱたぱたと手を振ってイサトさんを誤魔化した。
イサトさんはそうやって、女性であることを理由にリアルへと干
渉されることを嫌ってゲーム内で男を騙っていたのだ。そんなイサ
トさんに対して、本人が望まない形でリアルを聞き出そうとするの
はなんというか⋮⋮酷い裏切りであるような気がしてしまったのだ。
﹁秋良青年、﹂
﹁ねえ、これも鍋に使える?﹂
イサトさんが口を開いたのと、エレニが声をかけてきたのはほぼ
同時だった。
振り返った先で、エレニが手にぶら下げた肉を俺たちに向かって
掲げて見せる。
洞窟の中にも食料がいくらかあるからと言って、エレニはそちら
の様子を見に行っていたのだ。どうやら何か鍋に使えそうな食材を
見つけてきたらしい。話を変える意味でも、俺はいかにも興味津々
といった顔でエレニの手元をのぞき込む。
﹁これは?﹂
﹁アズァリスの肉だよ。二、三日前に狩ったやつだから、ちょうど
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熟成が進んで食べ頃だと思う﹂
﹁へえ﹂
アザァリスというのは、ヅァールイ山脈に住むリスとアザラシを
足して2で割ったような姿をしたモンスターだ。通称山アザラシ。
ノンアクティブである上に数がそう多くなく、群れで湧かないこと
からあまり気に留めたことはなかった。効率の良いレベル上げを前
提に考えた場合、狩りの対象はドロップが美味しく、群れで湧きが
ちなモンスターになりがちだ。そうか。喰えたのか、アザァリス。
﹁そういえば、アズァリスの肉は美味しいという話を聞いたことが
あるな﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁高レベルの料理クエでアズァリスのステーキを作れ、みたいなの
があったんだ。アザァリスを狩るのは難しくないけれど、まず見つ
けるのが大変だし、探している間もアクティブモンスターには絡ま
れるし、肉のドロップ率も低いしで本当面倒くさくてなー﹂
﹁なるほど﹂
料理スキルを持たない俺が知らないわけだ。
って。
さらっと聞き流したけれども。
ぎぎい、と軋むような動きでイサトさんを見る。
イサトさんは﹁何か?﹂というような顔をしていたものの、俺の
向ける冷たいジト目にようやく己が自爆したことに気付いたらしく
﹁!﹂と肩を揺らした。
﹁⋮⋮ほほう。高レベルの料理クエ、ねえ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1270
イサトさんがそっと目をそらす。
通常であれば、モンスターから料理アイテムのドロップ率の高い
RFCにおいて、料理スキルというのはそれほど重要視されるスキ
ルではない。そもそも重さを理由に、いくら回復効果があろうとも
料理は大量に持ち運ぶ回復アイテムとしてはあまり有効ではないか
らだ。
そうなると、料理スキルを手に入れる理由としては金策か補助効
果狙いぐらいだろう。料理は基本的にその材料を材料のままで売る
価格よりも割高で売れる。その中でも、食べた人間に取得経験値上
昇や防御力アップというようなバフが発生するものはより高く売れ
る。
なので、どうしても必要とまでは言わないけれど、あればあった
で使いみちがないこともない、というのがRFCにおける料理スキ
ルなのだ。
それを、イサトさんは持っているという。
まあ、持っているだろうな、とは思っていた。
思っていたが。
まさか高難易度クエにも挑戦済みだとは。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
リアルどころか、わりとゲーム内においても俺の知らないことを
たんまり隠し持ってやがりそうだな、この人。
﹁やあアズァリスの肉楽しみだなあ!﹂
はっはっはー、と空笑いをあげつつ、イサトさんがエレニからア
1271
ズァリスの肉を受け取った。明らかに誤魔化す気満々だ。
エレニがある程度捌いて肉として保存しておいてくれたおかげで、
処理に悩むことなくイサトさんはアズァリスの肉も食べやすい一口
サイズに切り分けていく。そのまま鍋に入れてしまうのではなく、
下味をつけているのは肉の臭みを抜くためだろう。
そんな光景を眺めながら、ふとエレニが口を開いた。
﹁そういえば︱︱⋮竜ってさ﹂
﹁ぅん?﹂
﹁ほとんど食事をとらないんだよね﹂
﹁そうなのか﹂
﹁うん﹂
﹁へえ﹂
確かに、あれだけでかいドラゴンが、物理的な食事であの巨体を
維持しようとしたならば、すごい量の食料が必要になりそうだ。い
くらレベル上げのメッカ、モンスターが豊富なヅァールイ山脈と言
っても、何匹もの竜を含んだ生態系を保てるほどではないだろう。
﹁だから、陛下も俺を引き取るまでは食事、て概念があんまりなか
ったみたいで﹂
懐かしそうに語っていたエレニが、わざとらしく沈鬱な表情を作
って見せる。
﹁毎日一日三食ひたすらただ焼いた肉を食べさせられるのは辛かっ
た﹂
﹁うわあ﹂
1272
﹁うわあ﹂
俺とイサトさんの悲鳴がハモった。
エレニが黒竜王の元に匿われていた結果、エルフやダークエルフ
を襲った悲劇から逃れた、という話は前にも聞いていたのだが⋮⋮。
﹁引き取られたって、それ、幾つぐらいのときだったんだ?﹂
﹁俺が、3、4歳ぐらいのときだったと思う﹂
﹁⋮⋮3、4歳児にひたすら焼いた肉⋮⋮﹂
俺たちの世界だったなら、十分虐待で騒ぎになるレベルだ。
栄養的にもかなり問題があるだろうし、そもそも|ただ≪ただ≫
焼いた肉、ということはおそらく味付けも何もなく、素材のママの
味を活かしました、という状態だろう。それを何日もひたすら食事
として与えられ続ける⋮⋮。
苦行である。
アズァリスの肉に下味をつけるイサトさんの手つきが、心なしか
念入りになったようだった。
﹁それ、どれぐらい続いたんだ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮2、3か月ぐらいかな﹂
エレニの視線が当時を思い出したのか、ふッと果てしなく遠くを
彷徨った。
俺とイサトさんは言葉を失う。
せめて、ヅァールイ山脈が険しい雪山でなければ、黒竜王ももう
少し果物だとか木の実だとかまだ子供が喜びそうな食材の存在にも
1273
思い至っただろう。が、残念だからヅァールイ山脈において人の子
が食べられそうなのは肉、ぐらいしかなかったわけで。
﹁まあ、異種族だものなあ﹂
眉尻を下げて呟いたイサトさんの言葉に、エレニはくくく、と当
時を思い出したかのように喉を鳴らして笑った。
﹁俺に服を着せようとして、ぐずぐずの襤褸切れを量産したことも
あった﹂
﹁ぶは﹂
竜の鋭い爪では、人間の子供に服を着せてやるなんてさぞ難しか
ったことだろう。可愛らしい小さな子どもと、その世話を焼こうと
四苦八苦する竜の厳めしい巨体を想像するとなんだか微笑ましくて、
口端に笑みが乗る。
だが、それもエレニが家族を失い、同族を失ったからこその状況
なのだと思えば、素直に笑ってばかりもいられない。
そっとエレニの表情を窺えば、エレニ自身がそんな俺たちの気遣
いを散らすように柔らかな笑みを口元に浮かべた。
﹁もう、昔の話だ﹂
ぱちり、とエレニは火の中に薪を差し入れる。
﹁鍋が煮えるまで、俺と陛下の昔話でもしようか﹂
そう語るエレニの横顔は優しく、穏やかで。
1274
俺とイサトさんは、ぐつぐつと煮える鍋の音をBGMに、静かに
その声音へと耳を傾けた。
エレニが、初めて黒竜王に引き合わされたのは、両親が死んでし
ばらくしてからのことだった。
山での事故で両親を失ったエレニは、引き取られた先の水晶宮に
て、女王によって神官としての素質を見出された。
このまま水晶宮で孤児として暮らすのと、神官見習いとして山で
暮らすのと、どちらが良いかと聞かれたとき、エレニは山に向かう
ことを決めた。
別に、神官に対して何か憧れがあったわけでも、水晶宮で暮らす
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ことが嫌だったわけでもない。ただ、同じく神官の見習いとして候
補に挙がっていた少年には、家族がいた。エレニよりもう少し年上
のその子どもは、神官見習いとして家族のもとを離れ、竜の住まう
山に向かわされることを酷く恐れていたのだ。
神官としての素質を見出されることは、エルフにとっての誉れだ。
けれど、そんなことは子どもにはわからない。
何かよくわからないものに選ばれ、家族と引き離されて竜の住む
という山へと連れていかれる。
意地悪な年長の子供たちは、大人たちの見えないところで山に連
れていかれた子どもは竜に食べられてしまうのだとおどろおどろし
く語った。
エレニもそんな話を聞かなかったわけではない。
むしろだからこそ、エレニは神官見習いになることを決めたのだ。
エレニには、家族がいなかったから。
両親を事故で失い、引き取ってくれるような親族を持たなかった
エレニは孤独だった。
そして、自分が孤独だということをその頃のエレニはすでに理解
していた。
家族と離れる不安は、ない。もし本当に山に連れていかれた子供
が竜に食べられてしまうのだとしても、エレニならば誰も悲しまな
い。
家族を失う悲しみを知っているエレニだからこその、選択だった。
竜神官に手を引かれ、険しい山道を超え、ダンジョンを経て竜の
間へとたどりついて。
エレニはそこで初めて、竜、という生き物を見た。
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竜は、偉大だった。
黒く艶やかな鱗を氷雪の煌きに包み、エレニを見据える陽の色を
閉じ込めたような金の眼には年月を超えた叡智が宿っているかのよ
うだった。
強くて、たくましく、賢く、美しい完璧ないきもの。
かみさまを見た、と幼いエレニは思った。
﹃だいすきよ、エレニ。ずっと一緒﹄
優しい言葉を思い出す。
暗闇が怖くて泣いたエレニを抱きしめて、そう囁いたのは母親だ。
﹃父さんがついてるからな。父さんが守ってやる﹄
びょうびょうと吹きすさぶ雪風が怖いと泣いたエレニを、そう言
って力強く抱きしめてくれたのは父親だ。
だけど、二人ともエレニをおいて逝ってしまった。
エレニはずっと、両親の言葉を信じていた。
エレニは両親のことが好きで、両親もエレニのことが好きだった。
だから、ずっと一緒にいるのだと当たり前のようにそう信じてい
た。
だけど、二人は逝ってしまった。
好きなのに、想いは繋がっているのに、それでも逝ってしまった。
ひとは弱い生き物で、信じていても、裏切るつもりなどなくても、
守られない約束があって、叶えられない願いがあるということをエ
レニはその年で知ってしまった。
自分の命を含め、人やモノへの執着が薄くなってしまったのは、
1277
きっとそのせいなのだろう、と今では他人事のように思う。
両親の死で傷ついた幼い子どもは、同じ傷を二度と負わないよう
にと存在の永遠を、約束を、無条件に信じることをやめてしまった
のだ。
ああ、けれど。
エレニの前にいたのはかみさまだった。
竜の固く、艶やかな黒い鱗はどれだけ雪が降ろうとも、その白に
塗りつぶされてしまうようなことはないだろう。竜の鋭い爪はどん
な獣にも負けないだろうし、竜の夏の日差しを固めたような金の双
眸は、どんなに寒い夜でも凍てつくことはないだろう。
エレニは、竜の姿に永遠を見た。
竜のことなら、信じられると思った。
ぽかんと竜を見上げるエレニに、竜は僅かに困惑を滲ませたよう
だった。
竜は、エレニが幼すぎることが気にかかっているようだった。
竜は、エレニに家族がいないことを慮っているようだった。
エレニは、竜の傍にいたかった。
どうしたなら、その気持ちを竜に伝えられるだろうか。
それとも、口を開いたら竜の不興を買ってしまうだろうか。
いや、そんなことを考えるだけの余裕すらエレニにはなかったの
かもしれない。
美しく、強く、賢く、そして優しい生き物にエレニはただただ見
蕩れていた。
竜と、神官の間で何事かやりとりがあったのをエレニは微かに覚
えている。そして、その結果竜がエレニを受け入れてくれたことも。
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﹃人の子よ。そなたの名はなんという﹄
ごうごう、と降り注ぐ声音は厳かに。
﹁エレニです。エレニ・サマラスです、へいか﹂
神官を見習って、恭しく答える。
そんなエレニに、竜は小さく笑ったように見えた。
それからしばらく、エレニは竜の住む山と、ノースガリアとの間
を往復して暮らした。山での生活は幼子には過酷すぎるということ
で、少しずつ体を慣らしていくことになっていたのだ。
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そして、異変はそんな日々の中で起きた。
その日も、エレニは山での生活を終えて街に戻るところだった。
本当は、帰りたくなかった。
ずっと、竜の傍にいたかった。
けれど、良い神官見習いでなければ竜のそばには留めてもらえな
いということもわかっていたから、エレニはおとなしく神官たちに
連れられて街へと戻ることにした。
いつもなら、街についたら水晶宮にて女王に挨拶をして、それか
ら数日の休みを与えられる。普通の子どもらしく過ごして良いのだ、
と他の子どもたちとともに過ごす時間を与えられるのだ。
しかし、その日は違った。
足を踏み入れた街並みはただただ静かで。
決して破られるはずのない女王の護りが消えうせて、びようびよ
うと雪風が街に吹き込んでいた。白く、積もる雪が街並みを密やか
に埋めていく。
ただごとではないと判断した神官たちは、すぐに山に戻った。
そして、エレニを竜に預けると︱︱⋮街を捜索するために山を後
にして、そのまま二度と山には戻ってこなかった。
最初の何日か、エレニは山に備蓄されていた食料を食べて過ごし
た。
山で暮らすようになれば一人で何でも出来るようにならなければ
ならないのだと、竜の洞穴の片隅に作られた小部屋での過ごし方に
ついてはこれまでにも聞かされていたし、実際に神官たちがどう過
ごしているのかはこれまでに見てきていた。だからエレニは、おと
1280
なしく神官たちに言われた通りに過ごした。
竜は、神官たちが戻らないことをそれほど気にかけてはいないよ
うだった。
むしろ、竜の元に戻れなくなる程度の、人の国における問題が何
か起こったのだろうと悠然と構えているように見えた。
エレニは、竜とは逆だった。
雪に埋まり始めた街を見ていた。
両親と、同じだ。
人は、突然にいなくなる。
なんの予兆もなく、漠然と明日に繋がっていて明日もまた当たり
前のように隣にいると思っていた人たちが、忽然と姿を消してしま
うことがあるのだと、エレニは知っていた。
だからエレニが動揺したのは、竜が洞窟から飛び立っていってし
まうのを見たときだった。部屋の外で、竜が吠えるの聞いた。エレ
ニが部屋から出ていったときには、もう洞窟に竜の姿はなかった。
きらきらと砕けた氷が洞窟の中へと粉のように降り注ぎ、空になっ
た洞窟がやたら広く見えて急にエレニは心細くなった。
竜まで、いなくなってしまったらどうしよう。
エレニにとって、竜は唯一確かな存在だった。
その竜までがいなくなってしまうことを考えると、怖くて怖くて
仕方がなかった。
天井が破られた洞窟は、雪や風が吹き込みいつもよりも冷える。
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だからエレニは部屋の奥で、たくさんの残された服を纏って丸く
なった。
微かに人の気配の残る服にくるまって丸くなって、ふと空から聞
こえる竜の声に気付いた。
いなくなった街の人々を探す声だ。
古い友を探す声だ。
悲しげに風に掠れた声を聴きながら、エレニはたくさんの服に顔
をうずめるようにして少し泣いた。あれだけ強くたくましく美しく
賢い竜が、人の喪失に耐えかねて慟哭の声を上げるのが、ただただ
悲しかった。
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次の日の朝。
エレニが目を覚ますと、すぐ傍に竜がいた。
竜はまるで大事なものを守るようにエレニをその前足の間に抱い
ていた。
ひやりと固い鱗の向こうに、暖かな体温を感じたような気がした。
竜は、言いにくそうに語った。
エレニの故郷の人々が姿を消してしまった、と。
女王の護りが消えてしまったため、ノースガリアに戻ることもで
きない、と。
﹃⋮⋮心配するな。そなたのことは我が守ってやる﹄
そう言う竜の声は酷く優しくて。
優しすぎて、あんまりにも哀しそうで、エレニはつい手を伸ばし
てしまっていた。
今までは触れることも躊躇うほどに、強く美しく、たくましく、
賢いかみさまの鱗に。
ひんやりと、それでいてどこか暖かな感触に、ああかみさまも生
きているんだなあ、とそんなことを思った。
守ってやる、という言葉の後ろに、だからそなただけは消えてく
れるな、と。
かつてエレニが竜に願ったのと同じ想いを見た気がした。
﹁はい、へいか﹂
だから、エレニは頷いた。
かみさまと、神官見習いの小さな子ども。
ふたりぼっちの生活の始まりだった。
1283
竜とふたりぼっちでの生活が始まって。
エレニは、あれだけ完璧だと思っていた竜にも苦手なことがある
のだということを知った。
竜は、エレニにややこしい神官装束を着せることが出来なかった。
竜は、小さな子どものための食事を用意することが出来なかった。
だから、そんな日常の難関をエレニと竜は二人で乗り越えた。
難しい服は、着るのを辞めた。
どうせ、エレニが何を着ているのかなんて見るのは竜だけなのだ。
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竜が許すのだから、エレニの普段着は一人でも着られる簡素な服
になった。
食事は、エレニが作るようになった。
本来ならば竜には食事など必要ないということはわかっていたけ
れど、最初に作った食事を竜があんまりにも美味しそうに食べてく
れたものだから、三食そろって二人で食べるのが日課になった。
竜とともに暮らし始めて、何年もの年月が過ぎていった。
竜から与えられる知識をぐんぐんと吸収して、エレニは竜の御許
ですくすくと育っていった。
1285
完成した鍋を食べながらも、エレニは懐かしそうに思い出話を俺
たちへと語って聞かせた。
それはなんだか、俺に初めての肉親の死を思い起こさせた。
俺が初めて葬式に参列したのは、俺が中学にあがってしばらくし
てからのことだった。亡くなったのは、父方の祖父。もうずっと前
から体調を崩して入院していて、両親からももう長くはないかもし
れないと聞かされていた。
そんな心構えがあったからか、不思議と俺はそれほど悲しくはな
かった。
その頃には俺は自分がほんの少しばかり他人と心の作りが違うら
しい、ということに気付き始めていたものだから、そのせいなのか
もしれない、と漠然と考えていた。
その一方で、少しだけそんな自分が怖いとも感じていた。
俺は家族が好きだ。
両親との仲も良好で、同級生の中でもうまくやっていた方だと思
う。
こう、特に意味もなく両親と喧嘩をしてみたり、盗んだバイクで
走り出した挙句に校舎のガラスを割って歩くようなこともなく、俺
は淡々と﹁親には親の考え方があり、俺には俺の考えがある﹂と気
づいて反抗期を乗り越えていたのだ。
親が過干渉ということもなかったため、クラスの連中と違って親
と一緒に出掛けたりすることも別段嫌ではなかった。
遠野は親と仲良いよな、と言われることだって多かった。
けれど、ふとそのとき思ったのだ。
1286
もしかしたら、俺が他の同級生たちと同じように親と喧嘩をした
り、親と過ごすことに抵抗を覚えないのは、それだけ親に対しての
思い入れがないからなのでは、と。
もしかしたら俺は自分の両親が死んでも、こんな風淡泊に感じて
しまうのだろうかと、そう思ってしまったのだ。
・・・・・・・・・・
肉親の死は悲しいもの。
悲しいと思わなければいけないもの。
そんな固定概念が俺の中にはあって、祖父が死んだというのにち
っとも涙が出てこないことに対して気まずいような罪悪感があった。
けれど︱︱⋮そんな重苦しい感情を抱えて初めて参加した通夜は、
俺が想像していたものとはだいぶ違っていた。
駆け付けた親戚は、最初こそ目に涙を浮かべていたものの⋮⋮、
そのうち穏やかな顔で思い出話に花を咲かせ始めた。
生前の祖父がどんな人であったのか、どんな思い出があるのかを
それぞれ語って、時折どっと笑う声すら響いた。俺の父親も、その
兄弟と語らっては楽しそうに笑っていた。そして時折祭壇に飾られ
た遺影へと視線を流し、寂しそうに、切なげに、柔らかに目を伏せ
るのだ。
ああ、それで良いのか、と子どもながらに思った。
悲しい、と涙をこぼすだけでなく。
居なくなった人の思い出を語り、その人ともう新しい思い出を増
やすことができなくなってしまったことを惜しむ。
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そんな悼み方でも、送り方でも良いのだと、思うことが出来た。
黒竜王との日々についてを語るエレニは、あの夜の父親と同じ顔
をしていた。
だから、俺とイサトさんも笑うべきところでは笑った。
そして、三人でいなくなってしまったひとを惜しんだ。
次々と語られる昔話がやがて途切れ、しばらくの間俺たちの間に
はぱちぱちとたき火の爆ぜる音だけが響く。
﹁⋮⋮お前、さ﹂
﹁なんだい﹂
﹁これから、どうする気なんだ?﹂
エレニが飛空艇を墜落させようとしたのも、セントラリアで﹃竜
の牙﹄をバラまいて騒動を起こしたのも、すべては黒竜王のためだ
った。その黒竜王がいなくなってしまった今、こいつはどうするつ
もりなのだろう。
何か動くつもりであるのならば知っておきたい、という気持ち半
分、燃え尽き症候群めいて抜け殻になってしまうのでは、というよ
うな懸念もあった。
﹁ん︱⋮しばらく、時間が欲しいかな﹂
﹁そうか﹂
﹁でも︱︱⋮何かあったら、呼んでほしい﹂
ふ、と顔をあげたエレニの双眸には強い色が浮かんでいた。
﹁すぐに駆け付ける。この世界を歪めた元凶に出会って、決着をつ
1288
けるようなことになったのなら、俺を呼んでくれ﹂
﹁頼りにしても、いいのか﹂
戦力にカウントしても。
そう問うた俺に、エレニは艶やかに笑って見せた。
くぅ、と吊り上がった口角、焔を映して煌く灰がかった蒼の双眸
の中で、獰猛な竜に似た瞳孔が鋭く尖る。
﹁そいつは、俺の|同胞≪・・≫を二度奪った﹂
一度目は、ノースガリア。
二度目は︱︱⋮黒竜王、か。
﹁だから、そいつと決着をつけるときには、俺も呼んでくれ﹂
﹁⋮⋮わかった。でも、どうやって連絡をつける?﹂
﹁俺はしばらくはここにいる。陛下が女神の元に還ったなら、その
うち新しい黒竜王が産まれるだろうしね﹂
﹁なら何かあったらすぐにここに来られるよう︱︱⋮⋮、どっかに
ドアを作って、秋良青年の﹃家﹄につないでおこう﹂
﹁そうだな﹂
そうしておけば、よほどの非常事態でもない限りエレニに声をか
けることが出来るだろう。
そうして︱︱⋮黒竜王の死を悼む夜は静かに更けていく。
1289
ぱちり、と火の爆ぜる音で意識が覚醒した。
そろそろ寝るか、なんて言葉を皮切りに、たき火の周りにそれぞ
れ寝床をこしらえて眠りについた後のことだ。
防寒具を何枚にも重ねて作った寝床は、たき火の近くではそれな
りに暖かく、疲れた身体が眠りに落ちる迄にそれほどの時間はいら
なかった。
どれくらいの間、俺は眠っていたのだろう。
もぞりと寝返りを打ちかけて、うっすらと持ち上げた瞼の向こう、
一人たき火を覗き込むようにして座るエレニの姿に気づいた。
そして、気づいた瞬間俺は咄嗟に目をそらしてしまっていた。
それは、随分と寂しげな姿だった。
肩は悄然と落ち、ぼんやりとした双眸は虚が宿ったかのようにす
1290
ら見える。
俺たちに向かって飄々と笑ういつものエレニとはまったく違った
姿だった。
なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして、俺
は寝たふりを続ける。
エレニは、そんな風に傷ついた姿を俺には見せたくないだろう。
黒竜王を見送った直後ですら、動揺を呑み込んだ男だ。
今さらながら、俺はこの男が未だ涙を見せていないことを思い出
した。
俺たちがいなくなった後、一人で泣くつもりなのだろうか。
そのまま一人にしてしまいたくないような、その意地を尊重した
いような、複雑な気持ちが胸の内でぐるぐると渦を巻く。どうした
ものか、と動けずにいる中、ふと静かな声が響いた。
﹁⋮⋮眠れないのか﹂
ごそりと衣擦れの音が響いて、ゆっくりと寝床を抜け出した影が
エレニの隣に座る。イサトさんだ。
﹁⋮⋮⋮⋮起こした?﹂
﹁いいや、なんとなく︱︱⋮ふと、目が覚めて﹂
﹁そっか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ぱちり、ぱちり、と火が爆ぜる音だけが響く。
イサトさんは、特に聞き出そうとはしなかった。
ただ、エレニの隣に寄り添うでもなく、座っているだけだった。
ふと、その柔らかな沈黙に背を押されたかのように口を開いたの
1291
はエレニだった。
﹁俺がね、どうしてエルフを再建しようと思ったのかわかる?﹂
﹁えっと⋮⋮、エルフやダークエルフを滅ぼした奴の思惑通りにな
りたくないから、って言ってなかった?﹂
そう言って、エレニはイサトさんに子どもを産んでくれと迫った
はずだ。
それを思い出すと、今でもつい口元がへの字に歪んでしまいそう
になる。 ﹁⋮⋮うん﹂
﹁でも⋮⋮、それ、本気じゃなかっただろう﹂
え。
﹁バレてたか﹂
えええ。
イサトさんの言葉に、エレニはあっさりと同意する。
何か、憑き物が落ちでもしたかのような穏やかさだ。
﹁さっきも話した通り、俺はあんまりエルフ、っていう種族に対し
て愛着がもてなかったんだ。子どものときに両親を亡くしてるし、
その後は陛下のところで過ごす時間の方が長かったし﹂
﹁うん﹂
﹁だから︱︱⋮陛下のため、だったのかなあ﹂
エレニはぽつりと小さくつぶやいた。
1292
﹁陛下はさ。俺に同族がいないことを、すごく気にしてたんだよ。
陛下は竜で、竜だからこそ人の親のようにはできないことも多かっ
た。陛下は俺に服を着せられなかったし、料理だって出来なかった。
それが、陛下にとっては負い目だったんだ﹂
﹁そう、なのか﹂
﹁そうなんだ﹂
同族ではないから。
竜だから、良い親代わりになってやることが出来ない、と。
黒竜王は、最期までそう思っていたのだろうか。
﹁俺は、陛下が申し訳なさそうに、痛ましそうに俺を見るのが厭だ
ったんだ。だから︱︱⋮陛下が安心できるように、家族を持ちたか
った﹂
はー、と息を吐いてエレニが視線を持ち上げる。
熱のこもった吐息は、きっと火に当たっているせいだけではない
だろう。
﹃⋮⋮エルフの再建を、見届けてやれんですまなかったなあ﹄
﹃本当、ですよ。孫、ひ孫の顔まで、陛下には見て欲しかったのに﹄
黒竜王とエレニの、最期の会話を思い出す。
﹁俺が、陛下と契約して時を止めたのだって、本当はきっとエルフ
に何があったのかを突き止めたかったからじゃあない。俺は⋮⋮、
俺はただ、あのひとをひとりぼっちにしたくなかったんだ﹂
伏せたエレニの目元から、ぽたりと雫が落ちるのを見た。
1293
エレニが、初めて見せた涙だった。
両親の死によって、置いていかれる痛みを味わったエレニは、エ
ルフの消失で同じ痛みを味わい、苦しむ黒竜王を置いて逝くことが
出来なかったのだろう。
だからエレニは、黒竜王と契約して時を止めた。
エルフの再興を口にしながら、エレニ本人はエルフであることを
辞めた。
﹁⋮⋮なんで、俺が本気じゃない、てわかったの?﹂
﹁君は私に無理強いをしなかったし︱︱⋮⋮、私を騙して丸めこも
うとはしなかっただろう。好き、愛してる、とは言わなかった﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁もし君が本気でエルフ同士の純血の子がほしいのなら、私は絶対
に逃がせない相手だったはずだ。なんとしてでも、手に入れたかっ
たはずだ。それなら、色仕掛けで落とすのが一番手っ取り早いだろ
う?﹂
﹁君、そんな色仕掛けに引っかかりそうないけど﹂
﹁ひっかかるよ﹂
ひっかかるのか。
イサトさんはひょいと肩を竦めて笑う。
﹁基本的にお人よしだから︱︱⋮相手の好意を疑ったら悪い、なん
て思ってしまいがちだ。もし、君が私を恋愛対象として見ていて、
まっすぐに好意を騙ったなら、きっと惑わされていた﹂
﹁しくじったなあ﹂
わざとらしく、エレニは悔し気にいう。
けれど、それが本心でないことはもう、こうして狸寝入りをしつ
1294
つ二人の会話を聞いているだけの俺にも十分伝わっていた。
﹁それに、もし本当にエルフを再興したいなら、君とっくにしてる
だろ﹂
﹁それはどういう意味で﹂
﹁文字通りの意味で﹂
﹁つまり?﹂
﹁ハーレム作成﹂
イサトさんの身も蓋もない発言に、ふ、とエレニが小さく噴き出
した。
﹁まあ、確かにそうだよねえ﹂
﹁君の見目で300年かけて女一人落とせてないっておかしいだろ
う﹂
﹁それ褒めてる?﹂
﹁褒めてる褒めてる﹂
イサトさんの返事が若干雑である。
深夜の内緒話、という態であるせいか、二人ともどこか口が軽い、
というか口ぶりがざっくばらんだ。
﹁本当にエルフを復興したいなら、とりあえず子供をたくさん作ら
ないといけないし︱︱⋮君男で良かったな﹂
﹁⋮⋮まあ、女だったら難易度高かったね﹂
﹁女は頑張っても十人産めるかどうか、だものなあ﹂
やたらリアルである。
そういう意味でも、イサトさんはエレニの﹃エルフ復興﹄という
言葉に本人がいうほどの切実さを感じてはいなかったらしい。
1295
が、それだけ読まれているというのも面白かったのか、エレニは
どこか挑むような妖しげな流し目をイサトさんへと流した。そっと、
片手をイサトさんの方へとついて身を乗り出して。もう片方の手が、
そっとイサトさんの頬へと触れる。
﹁今改めて︱︱⋮君のことが好きだから、どうか俺を一人にしない
でくれ、て縋ったら少しは考えてくれる⋮⋮?﹂
吐息の蕩ける、甘い声音。
誘惑、という言葉を音にしたならそんな声だろう、と言わんばか
りに甘たるい毒が滴っている。
が、イサトさんはそんなエレニに向かって半眼で一言。
﹁秋良青年起こすぞ﹂
﹁起きるぞゴルァ﹂
思わず、口が滑った。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ねえそれ脅し? ねえ脅し? もうそれ口走ってる時点で君起き
てるよね???﹂
﹁スヤァ﹂
﹁何そのバレバレな寝たふり!!!﹂
﹁もう、エレニが騒ぐと秋良青年が起きちゃうじゃないか﹂
﹁いや起きてるよね??? 彼起きてたよね???﹂
﹁ぐう﹂
﹁ほら寝てる﹂
1296
﹁わあ豪快な嘘!﹂
ぎゃあぎゃあとうるさいエレニの抗議は聞こえないふりで俺は狸
寝入りを決め込む。
エレニの野郎が阿呆なことさえしなければ、俺は寝ている、のだ。
俺は何も聞いてないし、何も見てはいない。
そういうことに、なる。
﹁ほら、エレニ、君もそろそろ寝たらどうだ。私は寝るぞ﹂
﹁ものすごく納得がいってないけどなんかもうつっこんだら負けな
気がしてきた⋮⋮﹂
ごそごそと二人が衣擦れの音を響かせて寝床に戻ってゆく。
ぱちぱちと爆ぜる火を囲んで、こんもりと盛り上がった寝床が三
つ。
戻る静けさに、再びゆっくりと戻ってきた睡魔に思考を蝕まれて
いく最中、小さく﹁ありがとう﹂と響く声を聴いたような気がした。
1297
竜と仔︵後書き︶
かなり久しぶりの更新に!!
その間に書き溜め、ストックを作ってきたので今後は二∼三日に一
回は更新できるかとー!
1298
おっさんのおたけび
次の日の朝。
昨夜の会話がすべて夢だったかのように、エレニはいつも通りの
エレニだった。
俺も、イサトさんも、それに合わせていつものように過ごす。
昨夜の鍋の残りを温めて、ごはんを投入して作ったおじやで腹拵
えを済ませた後、俺とイサトさんはエレニと別れてヅァールイ山脈
を発った。
まっすぐに向かうのは、セントラリアだ。
ただセントラリアに向かうだけならば﹃家﹄を使えば一瞬で到着
するのだが、今後のことを話し合う時間が欲しくて、俺たちはあえ
てグリフォンの背に揺られている。
﹁セントラリアに戻ったら、どうする?﹂
﹁とりあえず⋮⋮聖女に報告するしかないんじゃないか?﹂
﹁そう、だよな。ヌメっと探しはそこからか﹂
聖女は、ドラゴンがセントラリアを襲うことについていろいろ考
えを巡らせて心を痛めていた。成り行きこそ彼女が思っているもの
とは違うが、俺たちが黒竜王を倒したのは事実だ。それを伝えれば、
少しは安心できるだろう。
セントラリアが竜の襲撃に晒される心配をせずに済む。
その報告が済んだら、早速ヌメっとした連中についての情報を探
1299
すところから手をつけていくか、なんて。
俺が頭の中で算段を付け始めたところで、ふとイサトさんが口を
開いた。
﹁あのヌメっとした奴らを倒して、この世界を救うことが出来たな
ら︱︱⋮私たちは、元の世界に戻れるんだろうかな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
イサトさんは、まっすぐに前を向いている。
びょうびょうと吹き抜ける風に、銀の髪がなびく。
今、この人はどんな顔をしているのだろう、と思った。
グリフォンの手綱をとり、空を駆ける背中はとても凛々しい。
しゃんと伸びた背筋からは前に進もうという強い意志が感じられ
る。
だけど、俺からは見えないその顔は、心細さに揺らいでいるよう
な気がした。
﹁イサトさん﹂
イサトさんの華奢な指先が握る手綱を、背後からそっと握る。
わかりやすく手を重ねるわけではない。
それでも、イサトさんが一人ではないことを思い出してくれたら
良いと思った。
これからセントラリアに戻れば、俺たちはヌメっとしたモノと全
面対決を行うことになる。これまで、この世界にやってきてヌメっ
としたイキモノとは四回やりあってきた。初めはカラット。次に飛
空艇。次に薔薇園。そして、王城。
そしてその四回とも、俺たちはあの泥のようなシロモノを下して
1300
きた。
だから、きっと今回も何とかなるだろう、とは思う。
油断はできないが、俺とイサトさんならあの紛いモノを倒すこと
が出来るだろう、とは思っている。
ただ怖いのは、その先に元の世界に戻るための手段が何もなかっ
たら、と考えることだ。
この世界に紛れ込んだ紛いモノを倒し、この世界を救った後、そ
れでも元の世界に戻れなければ、俺たちは完全に手詰まりだ。
﹁怖い?﹂
小さく聞いてみる。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
イサトさんは、答えなかった。
ただ、く、と唇をかみしめた気配だけが伝わってくる。
そのままイサトさんはしばらくまっすぐに前だけを見つめて︱︱
⋮⋮唐突に、叫んだ。
﹁ふんにゃらぺっぽー!!!﹂
﹁ふんにゃら!?﹂
なんだ。
何事だ。
突然のイサトさんの奇行に目を白黒させているしかない俺の目の
前で、ピンと張りつめていたイサトさんの背中がゆっくりと緩んで
いく。
1301
﹁イ、イサトさん⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮すっきりした﹂
﹁お、おう﹂
ちょろ、と俺を振り返るイサトさんの褐色の目元が、微かに朱色
に染まっている。さすがに、本人も恥ずかしかったらしい。
﹁今のは一体﹂
﹁ちょっと、喝を入れようと思って﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ふんにゃらぺっぽーで?﹂
﹁なんかよくわからない言葉を大声で叫ぶとすっきりするんだよ。
秋良も試してみると良い。⋮⋮普段は、カラオケルームだとかでマ
イクなしで叫んですっきりするんだけどな﹂
﹁ふんにゃらぽっぽーは遠慮しておく。でも、大声を出すとすっき
りする、てのはわかる気がするな﹂
﹁秋良もどこかで叫んだりするのか﹂
﹁⋮⋮俺がやったら捕まる。っていうかイサトさんでも道端でふん
にゃらぺっぽーだとか叫びだしたら職質されると思う﹂
﹁⋮⋮確かに﹂
自覚はあったらしい。
﹁だから、俺の場合は剣道だな﹂
﹁ああ、あれ結構声出すものな﹂
大学に進学してからは部活などでやっているわけではないのだが、
たまにストレスが溜まっているな、と感じた時には地元の体育館で
活動している剣道クラブにOBとして混ぜてもらうことにしている。
身体を動かす、というだけならばストリートバスケだとかでも十分
なのだが、剣道に参加して思い切り声を出した方がすっきり度が高
1302
い、ような気がする。
﹁なんか、いろいろ悩ましいけれど︱︱⋮、考えてたってしょうが
ない、よな﹂
﹁今はとりあえず、動くしかないんじゃないか?﹂
﹁うん﹂
もしかしたら、今回のことが何もかも終わったとしても、俺たち
の冒険は終わらないかもしれない。手がかりをすべて失って、ぽか
んと立ち尽くすときがくるのかもしれない。
けれど、だからと言って立ち止まっているわけにもいられないし、
立ち止まっていたくもない。
結果を見るのが怖いからといって立ち止まってしまったら、次の
一歩はどんどんと重くなるばかりだ。
﹁行くか﹂
﹁行こう﹂
何が待つのかもまだわからないセントラリアに向かって、俺とイ
サトさんを載せたグリフォンはまっすぐに飛んでいく。
1303
いつものように、門の手前でグリフォンから降りてセントラリア
へと足を踏み入れた。とりあえずは拠点の確保だろう、と定宿であ
る青のクレン亭へと向かう。
部屋を確保したのち、レティシアやエリサ・ライザ、クロードさ
んたちの様子を見に行こうと思っていたのだが⋮⋮。
﹁えっ、アキラ様!?﹂
こちらから会いに行くより先に、いともあっさりと発見されてし
まった。
レティシアの声に反応して、一緒に行動していたらしいエリサや
ライザまでがこちらをざッと振り返る。何対もの眼差しに凝視され
て、俺とイサトさんは何とも言えないバツの悪さを感じつつひょい
と手を挙げて挨拶する。
﹁よ﹂
﹁や﹂
二人そろって、気の抜けた声である。
﹁えっ、なんでオマエら、えっ!?﹂
﹁お二人ともどうしてここに⋮⋮!﹂
面食らったような顔をしていた三人は、はっと我に返ると同時に
わらわらと俺たちを囲う。
1304
﹁どうして⋮⋮って言われると﹂
俺とイサトさんは顔を見合わせた。
こうなるような気がしていたからこそ、最初セントラリアを発つ
ときにあまり大げさに出立の挨拶をするつもりがなかった俺たちで
ある。
竜を倒しに行く、なんていえば大げさな旅のように思えるかもし
れないが、グリフォンに乗れば移動時間も短縮されるし、実際の戦
闘にしたって何日も続くようなものではない。ゲーム内なら下手す
れば数時間で終わるクエストだ。
が、そんなことを知らないエリサとライザ、そしてレティシアは
俺たちに向かって気づかわしげな視線を向ける。三人はちらりちら
りと目くばせしあった後にそれぞれ一度頷いて︱︱⋮最初に口を開
いたのはエリサだった。
﹁オマエら、とりあえず人目を避けられる場所で休んだ方がよくな
いか?﹂
﹁あ、それなら教会⋮⋮よりも、廃墟の方がよいかな?﹂
﹁それなら私の借りている家に︱︱⋮﹂
﹁待て待て待て﹂
思わずストップをかける。
何故だか人目を忍ぶ方向に話が進んでいるが、こちとら大手を振
って町中を歩けないようなことをしでかした覚えはない。
﹁どうしたんだ、三人とも﹂
1305
イサトさんも訝しげに首をかしげている。
そんなイサトさんに向かって、ライザが言いにくそうに問う。
﹁だって⋮⋮、二人とも、北に向かうのを辞めて戻ってきたんでし
ょう?﹂
﹁へ?﹂
﹁いや、別にいいんだって! いくらオマエらだって、黒竜王が住
む北の御山にドラゴンを追いかけていくなんて無茶だと思うし!﹂
﹁そうですよ! すべてお二人だけで解決しようとしなくたって良
いんです!﹂
何やら、俺とイサトさんは三人がかりで慰められてしまっている、
らしい。
おそらく三人は、俺とイサトさんがあれだけ皆に応援されながら
旅立ちはしたものの、やはりドラゴンを追って北に向かうのは危険
が多いと判断したか何かでセントラリアに戻ってきたのだと思って
いるようだった。
あのドラゴン、黒竜王のいる御山に逃げ込んだんだろ、なんてエ
リサが憤慨するように唇を尖らせている。
まあ、それも間違ってはいない。
実際俺たちはエレニに誘われて北のヅァールイ山脈へと脚を踏み
入れてきたのだから。
ただ、誤解があるとしたならば。
﹁あのな、三人とも﹂
﹁はい﹂
﹁はい﹂
﹁おう﹂
1306
レティシアとライザとエリサが、まっすぐに俺を見る。
その瞳には俺の口からどんな言葉が出たとしても、その言葉を信
じ、擁護しようという強い意志が感じられた。
余計にいたたまれないようなのは気のせいか。
﹁ドラゴン、っていうか黒竜王なら倒してきたぞ﹂
﹁﹁﹁﹂﹂﹂
三人が絶句する。
きっと三人が想像するであろう流れとは少しばかり違ってはいる
だろうが、黒竜王と命を賭して戦ってきた、というのは真実だ。
﹁えっ﹂
﹁えっ﹂
﹁ええええ!?﹂
三人がイサトさんを凝視する。
そんな三人に向かって、イサトさんは重々しく一つ頷いた。
﹁うん﹂
﹁うんってそんな⋮⋮っ、黒竜王を本当に倒してしまったんですか
!?﹂
﹁成り行きで﹂
﹁成り行きで!?﹂
ライザの目がいまにも零れ落ちてしまいそうなほどにまん丸にな
っている。
その一方で、いつの間にかレティシアとエリサはどちらかという
1307
と半眼である。
苦笑交じりのレティシア、完全にまたか、と言いたげなじっとりと
した眼差しをこちらに向けるエリサ。
⋮⋮そういえば、この二人にはいろいろと見られてしまっている
のだっけか。
レティシアは飛空艇にて実際に俺が戦うところも、イサトさんが
飛空艇を墜とすところも見ているし、エリサは薔薇園での俺とイサ
トさんの暴れっぷりを見届けている。それだけに、もしかすると想
像がついてしまったのかもしれなかった。
﹁⋮⋮⋮⋮オマエら相手に心配したオレが馬鹿だった﹂
はあ、とエリサがため息をつく。
そんな呆れたといったような仕草も、実際には安堵の裏返しであ
ることがわかっていると逆に可愛らしくて、つい口元が緩んでしま
うわけなのだが。
﹁⋮⋮何笑ってんだよ﹂
﹁や、なんでもない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁イサトまで笑うな!﹂
﹁ごめんごめん、やあエリサは可愛いなあ﹂
イサトさんがくっくっく、と喉を鳴らして笑いながらエリサの癖
ッ毛をくしゃくしゃと撫でる。撫でられる手の下で、エリサが緩み
そうになる口元を一生懸命への字に引き締めようとしているのがち
らりと見えて、ますます笑みが深くなってしまった。
1308
﹁まあ、そんなわけでとりあえず報告に戻ってきた、ってとこだ﹂
﹁黒竜王を倒した⋮⋮、ということは、もうセントラリアがドラゴ
ンによって襲われるようなことはないと思って良いのでしょうか﹂
﹁ドラゴンに襲われる、ってことはないと思う﹂
﹁ドラゴン、には⋮⋮?﹂
俺の言外に秘めた意味合いに気付いたのか、訝し気にライザが顔
をあげる。
﹁んー⋮⋮、まあその辺の事情はまた後で説明しにいくよ﹂
﹁わかった。それじゃあ父さんたちにもオマエらが帰ってきてるっ
て連絡しとく﹂
﹁ちょうど僕たち、仕事の話でレティシアさんと一緒に教会に行く
ところだったんです﹂
﹁それじゃあ、頼んだ﹂
﹁はい。では、私たちはこれで﹂
小さく会釈をしたレティシアがエリサとライザを促して人込みの
中へと消えていくのを見送る。
レティシアを挟んでエリサとライザがじゃれあうように言葉を交
わし、時折宥めるようにレティシアの手がエリサの肩をぽん、と叩
く仕草はまるで仲睦まじい姉妹のようにも見える。
﹁レティシアたち、うまくやってるみたいだな﹂
﹁良かった﹂
ほっとしたように口元緩めて三人の背中が見えなくなるまで見送
って、俺たちは一度蒼のクラン亭に顔を出し、宿を確保した後大聖
堂へと向かうことにした。
1309
ちなみに、宿でも女将さんとの間に﹁お客さん⋮⋮いいんですよ
お、何も言わなくて﹂的な会話があったということをここに記して
おく。
皆の気遣いが胸に痛い。
昼下がりの大聖堂は、大勢の人々で賑わっていた。
俺たちは聖女への謁見を申し出るため、ウレキスさんを呼んでく
れるように頼んで入り口入ってすぐのホールにて待つ。
そうして待っている間のほんの数分の間でも、大勢の人々が俺た
ちの隣を通り過ぎていった。
1310
﹁この奥にあるのって⋮⋮、聖堂、だよな?﹂
﹁だと、思う﹂
俺たちは未だ足を踏み入れていないが、おそらくは女神に祈りを
捧げたり、司祭長がありがたいお話をしてくれる、というような場
所なのだろう。
そうだとしたなら。
﹁⋮⋮なんか、信仰が薄くなってるって感じしない、よな?﹂
﹁むしろ︱︱⋮皆熱心に参っているように見える、な﹂
﹁うん﹂
俺とイサトさんは、周囲の人間に聞こえないよう小さく抑えた声
でそんな言葉を交わしあう。
黒竜王は、人々が女神への信仰心を失い、それ故に女神が弱体化
してしまったのだと俺たちに語った。だが、こうして俺たちの目に
映る景色は、黒竜王のその言葉を否定しているように見える。
﹁因果関係が間違えているのかもしれないな﹂
﹁因果関係?﹂
﹁たぶん、女神の力が弱っている︱︱⋮⋮、というのは本当のこと
なのだと思う。けれど、その原因は黒竜王が思っていたのとは違う、
とか﹂
﹁ああ、なるほどな﹂
コトワリ
黒竜王は随分と長い間、理に呑まれて暴走することを恐れてあの
洞窟に閉じこもっていたという。それに、そもそもモンスターは人
の生活圏には足を踏み入れることはできない。故に、セントラリア
の内情に関しては、黒竜王の推測が間違っている、という可能性も
1311
あるわけか。
今のところ、そう考えた方が自然だ。
そうなると、その辺りから調べていっても何かわかるかもしれな
い。
と、そこへ少し息をきらせたウレキスさんが、足早に姿を現した。
急いではいるのに、ちっともバタついた雰囲気を感じさせないと
ころが流石だ。
﹁お待たせしてしまい、申し訳ありません﹂
﹁いえ、こっちこそいきなり押しかけてしまって﹂
本来なら聖女どころか、ウレキスさんだって当日いきなり押しか
けてすぐに会えるような立場の人ではないはずだ。こうして、俺た
ちに会うために都合をつけてくれているだけでも十分ありがたい。
﹁聖女に、報告したいことがあるんだ。聖女への取次を頼めるだろ
うか﹂
﹁ええ、もちろんです。お二人に関しては、最優先でご案内するよ
うにと聖女様より仰せつかっております﹂
ふ、と美しく整った彫像のような顔の口元を柔らかに緩めて、こ
ちらへ、とウレキスさんが歩き出す。
前回同様壁のレリーフから開いた隠し通路を抜けて、回廊へと足
を踏み入れる。
麗らかな庭の中心をまっすぐに伸びる白い小道。以前と変わらず
淡い色調の花々が咲き乱れ、柔らかな緑が俺たちを出迎える。そん
なわけはないとわかっていても、まるで外界と隔ててこの空間だけ
1312
時が止まってしまっているような不思議な錯覚に襲われた。
﹁何か、聞いておきたいことはありますか?﹂
ふと、前を歩いていたウレキスさんが口を開いた。
もしかしたらウレキスさんもまた、前回聖女について何も知らな
かった俺たちのことを思い出していたのかもしれない。
ひたひたと石造りの廊下を進むウレキスさんの背に向かって問い
かける。
﹁待っている間に、たくさんの人が聖堂を訪れているのを見ました﹂
﹁ええ。皆さん先日のこともあって心に不安を抱えていらっしゃる
のか、よく聖堂に祈りを捧げに参られています。それが、どうかな
さいましたか?﹂
﹁その⋮⋮、言いにくいことをお聞きしても良いですか?﹂
﹁ええ、構いませんが⋮⋮﹂
本来なら、女神を信仰する教会の人間であるウレキスさんに聞く
のは躊躇われる質問だ。それでも、前置きを置いた上で聞こうと思
ったのは、ウレキスさんが旅の冒険者である︵ということにしてい
る︶俺たちが、女神の教えについてそれほど詳しくないということ
を知った上で、興味をもってくれたのならば喜んで説明しましょう、
というスタンスをとってくれるありがたい女性だということを前回
の経験から知っているからだ。
宗教の押し売りのように押し付けがましいわけでもなく、俺たち
が知りたい、と思ったことを過不足なく教えてくれる。
﹁ウレキスさんは︱︱⋮、人々の女神への信仰心が薄れた、と感じ
るようなことがありますか?﹂
1313
﹁︱︱⋮信仰心が薄れる、ですか?﹂
不快、とまではいかずとも、少なからず心外そうにウレキスさん
の声に困惑が滲む。ウレキスさんは真剣に思案するような間を挟ん
だ後、答えてくれた。
﹁いつを基準にするか、にもよるのではないでしょうか。私のわか
る範囲で言わせていただくと︱︱⋮私は幼少より神殿に仕える身で
すが、人々の信仰が薄れた、と特に感じるようなことはございませ
ん。むしろ、最近は大きな事件が続いたこともあり、聖堂に救いを
求めて訪ねてこられる信徒も多くなっているのではないか、と﹂
﹁なるほど。比較の基準値がわからない、という可能性か﹂
ウレキスさんの言葉に、イサトさんが納得の声をあげる。
﹁お役にたてましたでしょうか﹂
﹁ええ、もちろんです。ありがとうございました﹂
知りたいことは教えてもらったし、それどころかもう一つの可能
性すら示唆してくれた。
先ほどイサトさんが立てた仮設では、黒竜王の因果関係の推察が
間違えているのではないか、という話になっていたが⋮⋮、そもそ
も何時に比べて女神への信仰心が薄れたのか、という基準が俺たち
にはわかっていなかったのだ。
ウレキスさんが言うように、俺たちが知りえぬ昔、もっと濃厚な
儀式が行われているような時代があったのならば、それに比べて今
の人々の信仰心が弱まった、と言われるのも不自然ではない。
黒竜王は随分と長生きをしていたようだし、その可能性も濃厚だ。
1314
そんなことを考えている間にも、いつの間にか俺たちは渡り廊下
の終点にやってきていた。
静かに足を止めたウレキスさんが、深々と俺たちに向かって頭を
下げる。
﹁私の案内はここまでとなります﹂
﹁ありがとう、ウレキスさん﹂
彼女は、ここより先に足を踏み入れることを許されていない。
会釈とともに礼を告げて、それから俺たちは聖女が待っているだ
ろう東屋へ向かって足を踏み入れた。
自然な色合いで整えられた室内、目の前に広がるのは美しく整え
られた庭だ。
藤に似た花が、可憐にはらりはらりと花びらを散らす様子までが
前回とまったく同じように見える。
そんな時を止めたような部屋の中で、実際に時を止めた少女が俺
たちを静かに出迎えてくれた。
﹁よくぞご無事に戻られました。さ、どうぞ座ってください﹂
促されるまま、柔らかなクッションの敷かれた蔓製の椅子へと腰
を下ろす。
聖女は手ずからお茶を淹れると、それを俺たちの前へと差し出し
てくれた。お礼を言って口に運んだお茶からは、ふわりと甘い花の
香が薫る。
どこから切り出すかを迷うように、お互いに茶に口をつけるしば
しの沈黙。
話を切り出したのは、イサトさんだった。
1315
﹁黒竜王と、話をしてきた﹂
﹁話を、ですか⋮⋮?﹂
聖女の声に困惑が滲む。
思いがけない言葉を聞いた、というように視線を持ち上げた聖女
をまっすぐに見据えて、イサトさんがはっきりと告げる。
﹁黒竜王は、狂ってはなかったよ﹂
﹁︱︱⋮⋮﹂
聖女が、言葉を失う。
それも当然だろう。
・・・
モンスターとは、この世界をめぐる女神の力の余剰部分が凝って
・・
できたものだ。つまり、モンスターというのは、基本的には女神の
一部なのだ。
その女神の一部がモンスターとして存在し、時には人を害するこ
ともあることを、この世界の人々は﹃女神の試練﹄として受け入れ
ている。実際モンスターを倒せば女神の恵み、と呼ばれる特別なア
イテムを手に入れることができるからこそ、その理屈は信じられて
きていたのだ。
だが︱︱⋮⋮、何百年か前に起きたといわれている﹃セントラリ
アの大消失﹄以来、人々は女神の恵みを手に入れることが難しくな
った。
そして、それと同じようなタイミングでモンスターの中でも力の
強い一部のドラゴンたちが、セントラリアを襲うようになっていっ
た。
1316
モンスターは、その凝った女神の力をそのまま留めておくことで
どんどんと力をつけて強大な存在へと成長していく。強いモンスタ
ーほど、それだけ大量の女神の力で構成されており、それ故に強け
れば強いほど、モンスターは女神の影響を受けやすくなる。
そういった意味で、黒竜王は、この世界で最も女神の影響を受け
やすい存在だった。
だからこそ前回会った際、聖女は黒竜王が狂ったのではなく、正
気でもってしてセントラリアを襲っているという可能性を何よりも
恐れていた。
それはすなわち、女神がセントラリアの襲撃を、しいては人とい
う種族をこの世界から根絶させようとしていることになるのではな
いか、と彼女は考えていたのだ。
さあ、と聖女のもともと白い顔から血の気が失せていく様子に、
俺は慌てて横合いから口を挟んだ。
﹁だからといって、女神が人に害をなそうってしているわけでもな
いからな﹂
﹁⋮⋮? では、一体どういう⋮⋮﹂
状況がわからなくなったのか、聖女は戸惑いの色濃く滲んだ顔で
俺たちを見る。
幼げな少女の姿でそんな顔をされると、こちらが何か酷いことを
してしまったのではないかというような気になって困る。
実際には見た目よりも長く時を過ごした、おそらくは俺よりも年
上の女性だということはわかっているのだが。
1317
﹁黒竜王と話したことで、わかったことがあるんだ﹂
俺たちは黒竜王から聞いた話を聖女へと語りだす。
コトワリ
紛いモノ、と竜たちが呼ぶものが存在しており、そのせいでこの
世界の理がおかしくなっていったこと。
それはおそらくもともとは人間であり、セントラリアの大消失や、
エルフ、ダークエルフの全滅も、紛いモノが力を手に入れるために
したことである可能性が高いということ。
そして、今はセントラリアのどこかに潜み、獣人と人との対立を
煽ることにより獣人を孤立させ、今度は獣人を狙っていたかもしれ
ないこと。
黒竜王や、その他の竜がセントラリアを襲撃してきていたのは確
かに女神の意思によるものではあったが⋮⋮人を滅ぼすためではな
く、その紛いモノを討ち滅ぼし、正しく女神の力が循環するように
であった、ということ。
それらの話を聞き終えると、聖女は深々と息を吐きだした。
﹁そんなことが、起きていたのですね⋮⋮。セントラリアを⋮⋮ひ
いてはこの世界を守る聖女の座にありながら、そのような恐ろしい
ことが起きていることに気付かなかったなんて⋮⋮﹂
顔を伏せて、悲痛な声音で聖女が呟く。
俺たちから隠そうとはしているものの、聖女の顔は痛々しいほど
に青ざめ、その声には微かな震えが滲んでいる。
・・・・
﹁俺たちは、セントラリアに潜むというその紛いモノを倒したい。
協力、してくれないか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮私に、何ができるでしょうか﹂
1318
・・・・
長い間、自分たちの暮らすセントラリアにおいて紛いモノの暗躍
を許してしまっていたと知った聖女は、すっかり無力感に囚われて
しまっているようだった。
﹁聖女﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何、でしょう﹂
﹁私たちはこれまでに何度かその紛いモノと戦ってきているのだけ
れども︱︱⋮⋮、それが正体を現すまで私たちも自分たちが相手に
しているのがそいつだとは気づかなかった。気付けなかった。だか
ら、君が自分を責める必要はないと思う﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁イサトさんの、いう通りだよ。紛いモノは、マルクト・ギルロイ
という普通の人間の商人を自分のコマとして動かしてた。自分はず
っと、地下に隠れてな﹂
俺たちだってずっと、マルクト・ギルロイは私欲のために獣人を
・・
追いつめているのだとそう思っていた。あの、マルクト・ギルロイ
が坊やと呼ぶヌメっとしたイキモノ︱︱、紛いモノが表れるそのと
きまでずっと。
俺たちの言葉に、ゆっくりと聖女が顔を上げる。
未だその双眸には、誇りを傷つけられた悔しさと怒りと、悲しみ
に似た色が滲んではいる。けれど、それでも。
﹁私に協力できることがありましたら、何なりと申し付けください﹂
そうはっきりと言い切る聖女の双眸には、強い意志の色が浮かん
でいた。
1319
おっさんのおたけび︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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次回の更新は20日を予定しています。
1320
おっさん、鍛冶スキルに手を出す
俺たちから聖女にお願いしたことは、主に情報の収集だ。
ヌメっとしたイキモノは、セントラリアのどこかに潜んでいる。
俺たちもそれを捜すつもりではあるが、セントラリアはなかなか
に広い街だ。
それをしらみつぶしに捜してまわるともなれば、時間がいくらあ
っても足りないだろう。そこで、大聖堂を訪れる人々から何かそれ
らしきことを聞いた際にはすぐに俺たちに知らせてくれるように頼
んだのが一つ。
もう一つは、騎士団や街の人たちから協力してもらえるように聖
女に後ろ盾になってもらう、ということだった。
一応セントラリアを二度にわたって救った英雄、ということには
なっているが、俺もイサトさんも流れの冒険者であることには違い
ない。そんな身元不明の旅の冒険者に、騎士や貴族がすんなりと情
報を提供してくれるとは限らないからだ。
その件については聖女が一筆認めてくれた。
その書状を見せれば、俺とイサトさんの活動が聖女の承認を得て
いる、ということで、王族でもない限り協力を拒否することはでき
ない、とのことらしい。
いわゆる、水戸のご隠居が持つ印籠だ。
この紋所が目に入らぬか、と口走る機会が待ち遠しい。
どこか厳かな静けさに包まれた大聖堂の入り口ホールを抜けたと
1321
ころで、俺はふとイサトさんへと声をかけた。
﹁イサトさん、この後どうする?﹂
﹁せっかく聖女からお墨付きをいただいたのだし︱︱⋮⋮、騎士団
の詰め所に寄って話を聞くのはどうだろう?﹂
﹁良いな。騎士団は確かにパトロールで街中を歩き回ることも多い
し、何かしら情報を持ってそうだ﹂
﹁もし話をすることを抵抗されたら、秋良は﹃控えおろう、控えお
ろう!﹄って言う役な﹂
﹁イサトさんは?﹂
﹁この紋所が目に入らぬか、って言う﹂
⋮⋮⋮⋮どうやら考えていることは同じだったらしい。
時代劇のあの鉄板シーンは、日本人なら誰しもがきっと一度は憧
れる。
﹁俺もそっちがいい﹂
﹁じゃあ交替制で﹂
﹁よし﹂
あちこちで情報収集することを考えれば、紋所、もとい聖女の書
状が効力を発揮する機会も少なくはないだろう。
︱︱⋮そう思っていた時期が俺にもありました。
﹁どうぞ、こちらにおかけください⋮⋮!﹂
﹁ドラゴンを追って旅に出たと聞いていましたが、戻られていたの
ですね⋮⋮!﹂
﹁粗茶ですがこちらをどうぞ⋮⋮!﹂
1322
控えおろう、という気満々で足を踏み入れた騎士団の詰め所にお
いて、俺たちは聖女の書状を出す暇もないほどの歓待を受けていた。
至れりつくせりである。
木で作られた大きなテーブルの上座に座るように勧められ、そん
な俺たちを囲んで騎士たちは直立不動といった有様だ。逆に落ち着
かない。
﹁ええと⋮⋮、その、ちょっと話を聞きたいんだが﹂
﹁はい、何でもお聞きください!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
なんだろう。
すんなりと協力を得られて非常にありがたいはずなのに、一抹の
物足りなさと、何がどうしてこうなった、という困惑がこみ上げて
くる。
ちら、と視線を彷徨わせたところで、エレニによる襲撃事件の直
後に出会った青年騎士と目が合った。他の騎士に比べればまだ馴染
みがあるもので、俺はそっと身を乗り出す。﹁?﹂と首を傾げつつ
も、顔を寄せてきてくれた彼へとこそっと問いかける。
﹁なあ、あの⋮⋮なんか態度がヘンじゃないか?﹂
前回騎士たちをイサトさんが治療したときだって、ここまで歓待
よそもの
はされていなかったような気がする。むしろ、あのライオネル何と
かのように、敵対心、というか余所者に対する警戒心めいた反応を
向けられていたような気がしないでもない。
1323
俺の問いに、青年騎士ははっとしたように頭を下げた。
﹁これまで、十分にお礼を言うことが出来なくて申し訳ありません
でした﹂
﹁えっ﹂
﹁えっ﹂
思いがけない謝罪に、俺とイサトさんの声がハモる。
それどころか、俺と彼の会話を聞いていたのか、その場にいた他
の騎士たちも次々と頭を下げてゆく。頭を下げる角度はほぼほぼ9
0度。綺麗な直角だ。俺とイサトさんの目の前に、騎士団の頭頂部
が並ぶ。
﹁ええええ⋮⋮﹂
この対応は予想していなかった。
前回怪我人を治療する、という形で恩を売ることはできたはずな
ので、少しは態度を軟化させることが出来ただろう、ぐらいにしか
思っていなかったのだ。
よろい
と、そこに鎧のカチャつく音を響かせながら、飛び込んできた人
がいた。
﹁お待たせして申し訳ない⋮⋮!﹂
﹁えっ﹂
﹁えっ﹂
再び俺とイサトさんの声がハモる。
これまた待たされた覚えがないわけなのだが。
その人物は、部屋に飛び込んでくるなり、騎士たちが頭を下げて
1324
いる光景にさっと青ざめたようだった。未だ弾む息を整える間もお
かず、他の騎士たち同様に頭を直角に下げる。俺とイサトさんに向
けられる頭頂部が増えた。
なんだこれ。
未だかつてこんな大勢の人間に頭を下げられたことがあっただろ
うか。いやない︵反語表現︶。
﹁うちの者が何か失礼をしたようで、申し訳ない⋮⋮!﹂
﹁いやいやいやいやいやいやいや!!﹂
何も失礼なことなどされていないので、俺は慌てて首を横に振る。
見れば隣で、イサトさんも両手を﹁ちょっとまって﹂のポーズで
差し出しつつ頭をぶんぶん左右に振っている。
わ
﹁⋮⋮? では何故お前たちは頭を下げている?﹂
﹁救国の英雄殿に対する失礼を詫びておりましたッ!﹂
飛び込んできた騎士の問いに、青年騎士がびしりと背を伸ばした
直立の姿勢で答える。どうやら、この後からやってきた騎士が彼ら
のリーダー的な存在であるらしい。って。その、今ここにいる騎士
たちよりも年齢のいった落ち着いた佇まいに見覚えがあった。
﹁もしかして、街の外に落ちたドラゴンを探しに来てた⋮⋮?﹂
﹁ああ、覚えていてくださいましたか。名乗るのが遅くなってしま
い申し訳ありません。私は、セントラリア守護騎士団団長、セドリ
ック・ヘンツェと申します﹂
改めての挨拶に慌てて俺とイサトさんも立ち上がって団長さんへ
と頭を下げる。
1325
てだ
あの時感じた﹁騎士団の中でも手練れなのだろうな﹂という見込
みはどうやら間違っていなかったらしい。
﹁俺は旅の冒険者、アキラ・トーノです﹂
﹁私は彼の連れ、イサト・クガだ﹂
﹁ご丁寧にありがとうございます。それで、何か私どもに御用でし
ょうか﹂
﹁用もあったんだが⋮⋮正直、この歓迎ぶりに戸惑ってる﹂
俺の隣で、イサトさんもこくこくと頷いている。
そんな俺たちの戸惑う気持ちを察してくれたのか、団長さんの口
元に小さく苦笑が浮かんだ。今まで俺たちに向けていたのが畏敬だ
としたなら、それがようやく年相応の年少者を見る眼差しになった、
というか。
﹁あの夜、あなた方が私どものために何をしてくださったのかをよ
うやく我々は正しく認識したのです﹂
﹁正しく、って言うと⋮⋮﹂
﹁私は、あの日あなた方がいかに勇ましくドラゴンと戦ったのかを
語りました。あのドラゴンを追い詰めた空中戦、本当にお見事でし
た。いかにお二方が死線を潜り抜けてきたのかがよくわかる戦いぶ
りでした﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
イサトさんと死線を潜るようになったのはこの世界に来てからの
ことなので、実際のところは片手の指で足りる程度だ。というか、
まあ俺たちの世界で考えた場合それでも十分多すぎるほどの死線︵
物理︶ではあるのだが。
なりわい
﹁職業:騎士﹂として命を懸けて戦うことを生業としている人に褒
1326
めてもらえるほどのものではない⋮⋮はずだ。
﹁私は、魔女殿がいかに鮮やかに街に潜むモンスターを狩ったのか
を﹂
﹁そして私は魔女殿がどれだけ慈悲深く我々を癒したのかを﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
褒められっぷりに困惑したように、イサトさんがおろおろと視線
を揺らしている。見やれば、それらの言葉にうんうん、と頷くよう
に騎士のみなさんがきらきらとした双眸をまっすぐにこちらに向け
ている。
﹁⋮⋮う﹂
﹁ひええ⋮⋮﹂
こうも真っ当に感謝の念を向けられると、なんだか逃げ出したく
なるのは何故なのだろう。妙に尻の座りが悪くなる。その、きらき
らビームから逃げるように、俺は本来の用件を持ち出すことにした。
﹁えっと⋮⋮そのな、ちょっと聞きたいことがあって﹂
﹁私どもで答えられるようなことであれば何でもおっしゃってくだ
さい﹂
﹁ええと、その前に皆も座らないか﹂
﹁良いのですか?﹂
﹁良い﹂
﹁良い﹂
俺とイサトさんは二人そろってはっきりと言い切る。
大勢の騎士を立たせたまま、自分たちだけ座って話が出来るほど
1327
俺もイサトさんも図太くはない。ではお言葉に甘えて、と騎士たち
はそれぞれ丸椅子を引き寄せて腰を下ろした。俺たちの正面にずら
りと並んで直立していた騎士たちが座ってくれたことで、威圧感が
だいぶ緩和された感。
俺は皆が座り終わるのを待ってから口を開いた。
とど
﹁ええとまず、今後セントラリアがドラゴンに襲われることはない﹂
﹁ドラゴンに止めを刺してきたのですか?﹂
﹁あー⋮⋮、それはある意味正解で、ある意味で違う、かな﹂
騎士たちが不思議そうに首を傾げる。
﹁正確に言うと︱︱⋮、あのセントラリアを襲ってきたドラゴンは
倒してない。でも、そのドラゴンのボスである黒竜王と話をつけて
きたし、倒してきた﹂
﹁な⋮⋮ッ!﹂
おわ
黒竜王、という言葉に騎士たちが顔色を変えて息を呑む。
北の御山に御坐すという黒竜王。
エレニが﹃竜化﹄スキルで転じたドラゴン相手にすら歯が立たな
かった騎士団だ。彼らにしてみれば、黒竜王との戦闘、なんていう
のはもはや悪夢にしか過ぎないのだろう。
﹁まあ、結果として黒竜王を倒す形にはなったんだが、別段殺し合
った、っていうわけじゃなくてな﹂
﹁こう︱︱⋮⋮﹂
ぴ、とイサトさんが指を立てる。
﹁殴り合って分かり合った感じ、と言えば伝わるだろうか﹂
1328
﹁﹁ああ﹂﹂
さすが騎士団、体育会系だった。
イサトさんの言葉に俺たちを囲む騎士たちがこくこくと頷いてい
る。
﹁それで、黒竜王に話を聞いた結果、セントラリアに世界を歪めて
いるモノがいる、ってことがわかったんだ﹂
﹁黒竜王たちドラゴンは、世界を正すためにそいつを倒そうとして
たんだ﹂
﹁つまり、人に害をなすつもりだったわけではなく⋮⋮人を巻き込
んででもそいつを倒そうとしようとしていた、ということでしょう
か﹂
﹁そういうことだな﹂
俺たちの言葉に、騎士たちの間にもざわめきが広がる。
声高に俺たちを疑うものはいないものの、すぐには信じられない
のだろう。
﹁世界を正す⋮⋮、とは?﹂
﹁あー⋮⋮、簡単に言うと、今この世界では女神の恵みが得にくく
なっているだろ?﹂
﹁はい﹂
﹁それが、世界の歪みなんだそうだ。この世界を廻る女神の力を掠
めとるものがいるせいで、女神の恵みが手に入れられない、という
ことらしい。女神はその歪みを正そうとしていて、それで女神の意
志に従ったドラゴンがセントラリアを襲う、っていう形になってい
たんだ﹂
﹁なるほど⋮⋮つまり、そのお探しのモノを倒すことが出来れば、
我々もかつてのように女神の恵みを手に入れることが出来るように
1329
なるのですか⋮⋮?﹂
﹁そういうこと、らしいぞ﹂
ざわ、と今度は先ほどとは違う意味合いで騎士たちの間にざわめ
きが起こる。
女神の恵みが理由もわからないまま人の手から失われて久しいこ
の世界において、その原因と、希望の光が見えたことはきっと大き
な意味を持つ。
団長さんが俺たちを見る目にも、先ほどまで以上に強い色が浮か
んでいる。
﹁それで、私どもに何ができますでしょうか﹂
﹁話が早くて助かる。普段騎士団は、セントラリアをパトロールし
てるだろ? そのパトロールの経路だとかを教えてほしいし、その
パトロールする中で様子がおかしい、と思うような場所があったら
教えてほしいんだ﹂
﹁エラルド!﹂
﹁は!﹂
団長さんが名前を呼ぶと同時に、青年騎士が立ち上がって一度部
屋の隅の棚へと向かう。そうか、彼の名前はエラルドか。
﹁こちらが、セントラリアの地図になります﹂
そう言ってエラルドがテーブルの上に広げたのは大きな地図だっ
た。大きい分、随分と細かくセントラリアの街並みが描かれており、
その地図の中にはそれぞれ色の異なるラインがぐねぐねと通りに引
かれている。
﹁色が違うのは⋮⋮、パトロールのコースの違い?﹂
1330
﹁はい﹂
なるほど。
地図の中で使われているのは四色。
四チームに手分けしてパトロールを行っている、ということらし
い。
セントラリアの街並みを四分割して、それぞれのチームがパトロ
ールしている、と考えるとわかりやすい。
いつの間にか俺やイサトさんを含め、周囲にいた騎士たちも腰を
浮かせてテーブルの上の地図を囲むような体勢になっている。
﹁それで、様子がおかしい、というのは具体的にはどのようなこと
なのでしょう﹂
﹁例えば︱︱⋮⋮なんとなく、厭な気配がする、とか﹂
漠然とした問いではあるのだが、あのヌメっとしたイキモノに遭
遇して俺が真っ先に感じたのは﹁人でないものが人のフリをしてい
る違和感﹂であり、その違和感故の薄気味悪さだった。何が違う、
と具体的にあげるのは難しい。ただ、そっくりだからこそ不気味で、
気持ち悪いのだ。これがいわゆる不気味の谷、と呼ばれる現象なの
だろう。そっくりだからこそ、些細な違和感が劇的に大きく感じら
れてしまう。
俺の説明に、騎士たちが顔を見合わせてそれぞれの心当たりにつ
いてを相談し始めた。
﹁西区の幽霊屋敷はどうだ? 近所の子どもたちの間じゃ話題だろ
う﹂
﹁だが実際に見回りに行くとただの廃墟だぞ﹂
1331
﹁じゃあ、南区の火事跡はどうだ?﹂
﹁あそこはまあ、焼け跡がそのまま残っているだけあって確かに不
気味、ではあるな﹂
ふむふむ。
土地勘のない俺たちにとっては、どれも興味深い。
騎士たちがそれぞれの心当たりのある場所を地図へと書き込んで
いくのを見守っていると、ふと団長さんが静かに口を開いた。
﹁⋮⋮本来、セントラリアを守護するのは我ら騎士団の役目。だと
いうのに、このようなことでしか協力できず、本当に申し訳ありま
せん﹂
﹁⋮⋮、﹂
本当なら、すぐにでもそんなことはない、と否定すべきところな
のだろう。
けれど、団長さんの声があまりにも悔しげに響いたために、俺は
何も言えなくなってしまった。
俺が何と言ったところで、俺とイサトさんがこの世界において規
格外の力を持ち、あのヌメっとした連中とやりあえるのが俺たちし
かな
かいないという事実を変えることは出来ない。彼らがいくら望んだ
としても、彼らでは敵わないことを俺も、そして彼ら自身もわかっ
ている。
俺はそのまま気まずげに目を伏せかけて、隣のイサトさんが団長
さんから目をそらさずにいることに気付いた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1332
ふと、思った。
こういうとき、イサトさんなら何と言うだろう。
前にライザが無力感に落ち込んでいるとき、イサトさんは落ち込
すく
むライザとは違う角度からの見方をライザに伝えることでその気持
ちをそっと掬い上げて見せた。
俺が落ち込んでいるときだってそうだ。
イサトさんはいつだって、少しだけ物事の見方を変えて、良いと
ころを見ようとしてくれる。きっと今だって、俺が何も言わなけれ
ば、何も言えなければ、イサトさんが柔らかな気遣いでもってして
団長の気持ちを少しだけでも楽な方へと導くのだろう。
役割分担だ、と言うのは簡単だ。
だけど、そういったフォローをいつもイサトさんに任せっぱなし
なのは、なんだか少し悔しい気がした。
イサトさんなら、何と言うだろう。
どんな風に、物事を違う角度から見るだろう。
﹁⋮⋮うまく言えてるかわからないけど。こうやって、俺たちに情
報を出せるのも、普段団長さんたちがしっかりセントラリアを守っ
てきたから、なんじゃないのか﹂
団長さんと、イサトさんがそれぞれ少し驚いたような視線を俺へ
と向ける。
⋮⋮あんまり見ないでほしい。照れるから。
﹁普段から街のパトロールをして、ちゃんと街にしっかり関わって、
1333
いろんな人の話を聞いたり、自分の目で見たりしてきているからこ
そ、今こうして俺たちにいろいろ教えることも出来るわけじゃない
か﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁セントラリアがドラゴンに襲われたあの夜、騎士団が街の人の避
難を請け負ってくれたからこそ、俺はドラゴンとの戦闘に専念でき
た。正直、あいつとやりあってる間、あまり周囲に気を遣う余裕は
なかった﹂
ひょいと肩を竦める。
騎士団のおかげで王族、貴族の退避が速やかに終わり、城の中が
空っぽになったのがわかっていたからこそ、俺は﹃竜化﹄したエレ
ニ相手に好き放題戦うことが出来たのだ。
﹁これだって、俺とイサトさんだけだったらこんな情報は手に入れ
られなかった﹂
とん、とテーブルに広げられた地図を指先で叩く。
大きな地図のあちこちには、たった今騎士たちによって書きこま
れた不気味な場所情報が色鮮やかに記されている。
﹁こういうのだって、セントラリアを、セントラリアに暮らす人を
十分守ってるって言えるんじゃないのか﹂
すべ
戦って、敵を倒すだけが街を守る術ではないはずだ。
実際騎士団だって、戦闘にのみ特化した集団というわけではない
だろう。
ないがし
前線で剣を振るう役割のものがいれば、後方支援に徹するものだ
っているんじゃないのか。それを団長ともあろう人が蔑ろにしてい
るとは思えない。
1334
﹁そう、だなあ。もし、こういった情報を私たちだけで調べようと
思ったら、きっと時間がかかっただろうな。わからないでいるうち
に良いようにやられてしまっていたかもしれないし、街にも大きな
被害が出ていたかもしれない﹂
イサトさんが、のんびりと俺を支援するように口を開く。
それらの言葉に、団長さんは静かに目を伏せた。
﹁⋮⋮⋮⋮ありがとう﹂
静かに告げられる感謝の言葉。
街を救ったことに対して大仰に並べられる美辞麗句と違って、こ
の言葉はすんなりと受け入れられるような気がした。
﹁団長、地図への書き込みが終わりました。確認していただけます
でしょうか!﹂
﹁ああ﹂
ちょうど良いタイミングで、エラルドが声をかける。
もしかしたらこちらの会話が一段落つくまで、様子を窺っていた
のかもしれない。エラルドに促されて、改めて俺たちはテーブルに
広げられた地図へと視線を落とす。
﹁不審な場所、として名前が挙がった場所は十数件になりました。
その中でも一番声が多かったのは⋮⋮ここです﹂
エラルドの手が、トン、と地図の上を叩く。
その言葉通り、多くの騎士たちの口からその場所の名前が出たの
だろう。一際色濃く、何重にもその場所を線が囲んでいる。
1335
﹁そこは?﹂
﹁マルクト・ギルロイの屋敷です﹂
﹁ああ⋮⋮、あそこか﹂
騎士たちの言葉に、団長さんも覚えがあったのか、どことなく不
快そうに眉根が寄る。
﹁確かに⋮⋮、あの場所は不気味なものがあるな﹂
団長さんの言葉に、騎士団のほとんどの人間が頷く。
屋敷の主でもあったマルクト・ギルロイが病死した息子を生き返
らせるために、多くの人間の命を犠牲にしていた事件の記憶はまだ
新しい。
多くの騎士たちがあの事件に実際に立ち会い、地下牢に囚われた
獣人たちと、その傍らに無造作に積まれた、これまでの事件の被害
者の遺品である衣服の山を見ている。
俺たちがマルクト・ギルロイの凶行に気づくまでの間に︱︱否、
彼ら騎士団が獣人への迫害を見ないふりをしているうちに、どれだ
けの獣人が犠牲になったのかを彼らは理解してしまっているのだ。
その罪悪感故に、その犯行現場であるマルクト・ギルロイの屋敷
に、より不穏な空気を感じてしまっている可能性もあるが⋮⋮、そ
れでも調べる価値はある。
第一、捕らえられていた獣人たちを解放した後の処理は騎士団に
任せっぱなしになってしまっていて、俺たちはまだ詳しく調べても
いない。
1336
﹁マルクト・ギルロイの屋敷の扱いって、今はどうなっているんだ
?﹂
﹁今のところ我々騎士団の管理下に置かれています。もう少し落ち
着いたらおそらく競売にかけられることになると思いますが﹂
﹁俺たちが中を調べたい、って言ったら入れてもらえるか?﹂
﹁民間人は中に入れるな、と上から言われていますが⋮⋮﹂
お。ここぞ聖女の紋所の使いどころか。
俺とイサトさんが二人してそわっとする。
が。
﹁あなた方なら誰も文句は言わないでしょう。万が一文句を言う人
間がいたならば、こちらで抑えます。見張りについている部下たち
にも、あなた方が訪れた際には最大限の配慮をするように申し伝え
ておきます﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁?﹂
なんとなく肩透かしを食ったような顔になった俺とイサトさんに、
団長さんが訝しげに首を傾げる。気にしないでほしい。団長さんは
悪くない。ただちょっと、俺とイサトさん、二人して水戸のご老公
なシチュエーションに憧れがあった、というだけで。
俺たちはその後、その他に名前が挙がった場所についても詳しい
情報を騎士たちから聞いていく。ほとんどが元病院の廃墟だったり、
何か事件があってから人が住まなくなった廃墟だったり墓地だった
りだ。なんというか、セントラリア七不思議、というか、ミステリ
ーツアーでもしているかのような気になってくる。
1337
いとま
そうして話を聞き終えて、騎士団の詰め所をお暇しようとしかけ
たところで、ふと俺たちの背中に向かって声をかけてくる者があっ
た。
﹁あ、あの! すみません!﹂
﹁ん?﹂
なんだか、酷く緊張した声だ。
振り返れば、まだ若い青年騎士が顔を真っ赤にして俺を見つめて
いる。
周囲の他の騎士たちの反応としては、それをどこか面白がるよう
な風だ。
﹁じ、自分はセントラリア守護騎士団第三部隊所属のアルテオ・ノ
ークスと申します! その、アキラ様に個人的な質問があるのです
が良いでありましょうか!﹂
﹁愛の告白だろうか﹂
﹁おいやめろ﹂
大真面目にロクでもないことを言っているイサトさんに、じとり
と半眼を向ける。アルテオと名乗った青年は、イサトさんの茶々入
れに余計に死にそうな顔になっている。なんというか、否定したい
けれど否定するのは失礼にあたるのではないだろうか、とかそんな
ことを考えていそうな顔だ。まったく、イサトさんのいたいけな青
少年を弄ぶ趣味はいただけない。
﹁イサトさんのことは気にしなくてもいいよ。あと、そんなに緊張
しなくてもいい。俺に聞きたいことって何だ?﹂
1338
ひらひらと手をふりつつ、なるべく威圧的にならないように返事
を返せば、彼は少しだけ安心した様子で言葉を続けた。
﹁じ、実は⋮⋮その、自分は今回の事件でモンスターと戦っている
際に剣を折ってしまったんです﹂
﹁剣を? それは災難だったな﹂
俺も、黒竜王との戦闘で愛剣を折っている。
どうにも他人事じゃない。
﹁それで、新しい剣を用意しなくてはいけないのですが⋮⋮、その、
アキラ様のおすすめの剣、などがあれば参考までに教えていただけ
ないでしょうか!﹂
あ、なるほど。
アルテオは大体16、17歳ぐらいだろうか。
まっすぐに俺を見つめる、緊張と、期待の籠もった眼差しが、元
の世界で顔見知りの後輩たちと重なった。
俺は地元の剣道部にとってはたまに気まぐれで顔を出すOB、と
いう扱いになるのだが、そこで試合をした後などに、同じような顔
で道具や、試合で見せた技についてを聞きに来る子どもたちがいる
のだ。
見知らぬ大人に質問をするのは怖い。怒られるかもしれない。そ
れでも、何か教えてもらえたらもっと強くなれるかもしれない。そ
んな迷いと緊張を滲ませつつ質問に来る子どもと、アルテオはとて
も良く似た表情を浮かべていた。
が、困った。
1339
これが剣道やバスケであれば、俺は俺のわかる範囲でアドバイス
も出来る。
だが、異世界で戦闘するための剣の選び方、ともなるとなかなか
難しい。
そろ
﹁RFCなら︱︱⋮とりあえずそのレベル帯のドロップ装備を揃え
ろ、と言うところなんだけどなァ﹂
RFCにおける装備、というのは様々な種類があるようでいて、
レベルや職種を合わせて考えてみると意外なほどに選択肢は少ない。
大体それぞれのレベル帯における最善の武器、というのが決まって
しまっているのだ。
具体的に説明すると、RFCの武器や防具は、大体使用者の条件
レベルが10刻みで設定されている。プレイヤーがレベル1以上で
あること、プレイヤーのレベルが11以上であること、といった形
だ。そうなると、レベルが1∼10の間であるときの最善の武器と
いうのは、﹁レベル1から装備できる武器の中で一番強い奴﹂とい
うことになる。
ゲーム内であれば、それこそ目的の武器がドロップするまで狩り
を手伝ってやるのもやぶさかではないし、何なら俺の手持ちにある
武器を譲ってやるのもアリなのだが⋮⋮ここは残念ながらRFCに
よく似た異世界、なのである。
人や武器、アイテムのステータスを見ることはできないし、そも
そも人の手では女神の恵み、すなわちドロップアイテムを手に入れ
ることが難しくなっている。アルテオのレベルに合わせたドロップ
武器のおすすめ、というわけにはいかないのだ。そして、ガチの戦
闘における剣選び、ともなると俺にはその知識がない。剣道の竹刀
1340
選びならまだしも、西洋剣ともなると選び方の基準すらさっぱりだ。
﹁あー⋮⋮、悪い。俺はずっと、女神の恵みの武器を使い続けてき
てるんだ。だからこう、どの剣が良い、とか、そういうアドバイス
が出来ない﹂
﹁⋮⋮そう、ですか﹂
うなだ
しょんぼり、とアルテオが項垂れる。
何も悪いことはしていないはずなのに、とんでもない罪悪感。
助けを求めるように、ちら、とイサトさんへと視線を流す。
す
イサトさんが意外そうにひょい、と片眉を跳ね上げる。
なんだかその顔が少しばかり拗ねているように見えたのは気のせ
いだろうか。
こそりと俺に身を寄せたイサトさんが小声で囁く。
﹁⋮⋮助けてほしい?﹂
﹁是非に﹂
こくこく頷けば、イサトさんは満足そうに笑った。
なんだ、なんでそんな嬉しそうなんだイサトさん。
﹁それじゃあ、ちょっと待っていてくれ。すぐに戻る﹂
﹁え、イサトさん!?﹂
イサトさんはそう言い置くと小走りに詰め所を出ていってしまっ
た。
戻ってきたのは、十分ぐらいしてからのことだ。
﹁セドリックさん、この辺りで真剣を抜いても大丈夫な場所がある
1341
だろうか﹂
﹁それなら、うちの演習場が近くにありますが﹂
﹁お借りしても?﹂
﹁ええ、もちろん﹂
﹁では︱︱⋮⋮、アルテオくん、演習場まで案内してくれるだろう
か﹂
﹁は、はい!﹂
﹁ああ、興味があるようなら是非皆さんもご一緒に﹂
にっこり、とイサトさんが笑顔で騎士の皆様へと声をかける。
大変良い笑顔だ。
間違いなく何か企んでます、という顔だ。
放っておくのも怖いし、そもそも助けを求めたのは俺だ。当然、
俺も一緒についていく。
演習場、というのは普段騎士たちが鍛錬をするのに使っているス
ペースなのだろう。詰め所の裏手の方に、体育館の半面ほどの敷地
が広々と広がっている。ここなら建物の陰になって、大聖堂を訪れ
る人々の目にもすぐには留まらない。
﹁えっと、今から刃物を取り出すのでちょっと離れていてくれ﹂
そんな風に周囲へと声をかけてから、イサトさんはインベントリ
より次々と長剣を取り出していった。どれも少しずつデザインは異
なっているが、俺の持つ大剣よりも小型且つ細身で、彼らが腰に下
げているのと同じタイプのものだ。
だが、それにしてもどこかで見たことがあるような。
イサトさんはそれらを無造作に地面に並べると、アルテオへと声
1342
をかけた。
﹁アルテオくん、まずはこれを振ってみてくれ﹂
﹁は、はい﹂
イサトさんに促されるまま、アルテオはイサトさんが指で示した
長剣を手に取る。そして、騎士団で学ぶ型、なのだろうか。びゅ、
と風切り音を響かせて何度か剣を振って見せた。
﹁どうだろう﹂
﹁とても使いやすいです!﹂
﹁それならこれはどうだ?﹂
イサトさんが二本目の剣を差し出す。
そちらも同じように受け取って、再び型を繰り返す。
﹁こちらは少し重い、気がします⋮⋮﹂
﹁なるほど。アルテオくんはレベルとしては11∼20の間という
ことか﹂
ふむ、と頷いたイサトさんの言葉に、俺はそれらの剣に見覚えが
ある理由にようやく思い至った。なるほど。これは低レベル帯のド
ロップ武器だ。
レベル1∼10までで持てる長剣、レベル11∼20までで持て
る長剣、といった風に、おそらくレベル50辺りまでが並んでいる。
お世話になったのがあまりにも遠い昔だったもので、すぐには思い
出せなかった。
﹁イサトさん、長剣なんかよく持ってたな﹂
1343
﹁そのうち売ろうと思って倉庫にぶっこんだままだったんだ﹂
あるあるだ。
低レベル帯のドロップ武器というのは、ドロップ率が高めに設定
されていることもあり、気がつくと溜まっているのである。俺もお
そらく倉庫を探せば何本かその辺りの剣が出てくるのではないだろ
うか。
﹁その剣で重い、ということはこっちの剣はもう振れないだろうな﹂
まま
念のため、といった風にイサトさんが差し出した三本目の剣は、
予想通りアルテオは振るどころか構えることも儘ならなかった。
れんが
﹁一本目か二本目、といったところかな。アルテオくん、もう一度
こっちの剣を持ってくれるか。ところで、君、煉瓦は切れるか﹂
﹁は、はい⋮⋮?﹂
﹁煉瓦﹂
イサトさんが復唱する。
アルテオは滅相もない、という風に首を左右にぶんぶんと振った。
はこぼ
﹁すみません無理です自分の技量では煉瓦など切れません! 剣が
刃毀れしてしまいます⋮⋮!﹂
﹁それじゃあ、試してみよう。刃毀れについては気にしなくていい﹂
﹁き、気にしなくていいと言われましても⋮⋮!!﹂
言っている傍から、イサトさんはその辺に落ちていた煉瓦を拾う
とひょーいとアルテオに向かって放った。いくら刃毀れは気にしな
くてもいいと言われているとしても、実際に吹っ切るのは難しかっ
1344
たのだろう。見てわかるぐらいのへっぴり腰でアルテオは剣を遠慮
がちに煉瓦に当てにいき︱︱⋮その刃はいともあっさりと煉瓦を両
断した。
﹁⋮⋮へ?﹂
アルテオの呆然とした声に重なるようにして、二つに分かれた煉
瓦がとすとす、と地面に落ちる音が響く。アルテオだけでなく、二
人のやりとりを見守っていた騎士団の人々も、同じく目がテンにな
っている。
﹁ふむ。切れ味もなかなか強化されてるみたいだな。今君が振った
のは、ダークバットからドロップ、もといダークバットから手に入
れられる女神の恵みだ。切れ味強化と、稀に敵のHPを吸収︱︱⋮
⋮つまり、使っていると体力が回復することもある、という剣だ﹂
俺も、初心者時代にお世話になりました。
﹁で、次に君が重いと言ったのが、ビーセクトから手に入る女神の
恵みだな。そっちはダークバットの剣よりもさらに切れ味が強化さ
れているし、あと稀に斬った相手に毒、麻痺の効果が発生したりす
る。ただ、君が重い、と感じたあたり、こっちを使うのはもしかす
るとキツいかもしれないな﹂
つらつらと語るイサトさんの話についていけていないのか、アル
テオはぽかーんとしたままだ。
﹁で、この剣なんだが﹂
イサトさんがにんまりと笑う。
1345
獲物を目の前にしたチェシャ猫の笑みだ。
﹁材料さえあれば、私が作ってあげられるぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮へ?﹂
かぽん、とアルテオの顎が落ちた。
まったくイサトさんめ。
秋良青年が助けてくれと言ったから助け船を出しただけですし、
もくろみ
という建前で堂々と鍛冶スキルを育てるつもりだな。
その目論見に渋い顔をしつつも、助けられたのは事実だ。
﹁女神の恵みとして手に入れられる武器の一部は、鉱石とその他の
材料で再現できるんだ。さすがに秋良青年が持ってるレベルの武器
ともなると、女神の恵みでしか手に入れられないものも多いが﹂
﹁ざ、材料は何ですか!?﹂
﹁まず第一に鉱石。それと、あとは女神の恵みだな。例えばダーク
バットの剣の場合、鉱石とダークバットの翼、それとダークバット
の牙。それぞれ個数も決まってたはずなんだがそっちはちょっと覚
えてないな。ビーセクトの方は、同じく鉱石とビーセクトの毒針だ
な。各五個もあれば確実に作れるとは思うんだけども﹂
﹁ま、魔女殿⋮⋮!﹂
つらつらと語るイサトさんに、ずさあああッと滑り込む勢いで口
を挟んだのは団長さんだ。がし、と縋る勢いでイサトさんの肩に手
をかけている。こら。こら。
﹁それはアルテオだけ、なのでしょうか⋮⋮!﹂
放っておけば、がくがくとイサトさんの肩を揺さぶり始めそうだ。
そんな団長さんに向かってにっこり、とイサトさんは鮮やかに微
1346
笑んだ。
﹁材料さえ揃えてくれれば、何本でも﹂
うおおおおおおおお、と騎士団の間から鬨の声めいた雄たけびが
上がる。
腹までびりびりと響くドスの利いた声である。
俺は思わず片手で耳を押さえつつ、呟いた。
﹁でも、材料が女神の恵みじゃ手に入れにくいことには変わりなく
ないか? それなのに、なんでそんなに喜べるんだ?﹂
解せぬ。
武器もアイテムも同様に女神の恵みであるので、材料を集めるか
本体を集めるか、の間にはそう違いはないような気がするのだが。
そんな俺の疑問に答えてくれたのは、エラルドだった。
興奮してイサトさんの肩を揺さぶってる団長さんを、ちょっと苦
い笑みで見守っている。
﹁女神の恵みとして武器が手に入ることは少なく、そういった武器
はとても私ども騎士では手の出ないような高額がつくのです。それ
に比べ、今魔女殿が口にした女神の恵みは、高額ではありますが、
まだ入手可能な価格ですから﹂
﹁へえ﹂
なんでも、ダークバットの翼や牙、ビーセクトの毒針、といった
とうてき
ものは女神の恵みの中でも、特に利用価値のない部類、に分類され
るらしい。確かに毒針なんて、ゲームの中でも投擲武器ぐらいしか
使い道がなかった。
1347
﹁⋮⋮で、セドリックさんのあの興奮しっぷりは一体﹂
﹁⋮⋮団長、ずっと憧れてたんです。団長の子どもの頃までは、守
護騎士団団長になると国から女神の恵みである宝剣を授けられてい
たらしいんですけど⋮⋮ちょうど団長の時から、女神の恵みが手に
入らなくなったから、って理由で普通の剣になってしまって﹂
﹁⋮⋮⋮⋮なるほど﹂
それは確かにイサトさんの肩をがっくんがっくん揺さぶりたくも
なるだろう。
﹁でも、鍛冶師はいないのか?﹂
イサトさんも言っていたように、ドロップ武器は、材料を集める
ことで自ら作れるようになるものも多い。﹁武器ドロップ率<その
他のアイテムドロップ率﹂なので、場合によっては武器ドロップを
狙うよりも、その材料となるアイテムのドロップを狙った方が良い
場合もあるのだ。そうやって素材を集めた後は、自分で鍛冶スキル
を取って作製するか、もしくは鍛冶スキルを持っている友人に頼む
か、街の鍛冶師NPCに依頼すれば剣を作ってもらえるはずなのだ
が⋮⋮。
﹁女神の恵みを打つことが出来るような鍛冶師は依頼料が法外な値
段になりますし⋮⋮それでも、失敗する可能性の方が高いんです。
だから、全然手が届かなくて﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
失敗する可能性、なんて言葉に思わず視線が遠くなった。
俺にも、覚えがある。
鍛冶師NPCには作製依頼を出す武器によって依頼料が設定され
1348
ており、高レベルな武器ほどその依頼料はバカ高く跳ね上がってい
ばくち
く。その癖に、成功率は反比例して下がっていきやがるのだ。もち
ろん、失敗した場合には依頼料も素材も返ってはこない。博打であ
る。必死に素材アイテムを集め、金策し、依頼料をかき集めて依頼
して、﹁HA☆HA☆HA☆ やあ、すまんな﹂の一言で失敗され
たときの殺意ときたらもう筆舌に尽くしがたい。
素材を集めることで少しでも楽をしようと思ったのに作製失敗が
続き、結局材料を集めているうちに武器がドロップしました、なん
て話も珍しくはなかった。
懐かしい悪夢だ。
それを、イサトさんが依頼料なしで、材料さえ集めてきてくれれ
ば強力な女神の恵み武器を打ってくれると言っているのだから、そ
りゃ騎士たちも飛びつくだろう。
イサトさんは次々と騎士たちに剣を振らせてみては、彼らに適切
な剣の材料を教えている。
⋮⋮ふと、思ったのだが。
これって、ビジネスチャンスではないだろうか。
﹁なあ、材料となる女神の恵みって、どうやって集めるつもりなん
だ?﹂
﹁自らの可能性に賭けてモンスターを倒しに行こうかと思っており
ますが﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
団長さんの目がスワっている。
確かに人の身であっても、﹁手に入れられる確率が極端に低下し
1349
ている﹂だけで全く手に入らない、というわけではないのだろうが。
そんな確率で、剣を作るのに必要な数だけアイテムを揃える、なん
て考えるだけで気が遠くなる。
﹁それなら、獣人に依頼したらどうなんだ?﹂
﹁獣人に、ですか⋮⋮?﹂
﹁ああ﹂
今、剣の素材となるアイテムが市場に出回っていないのは、需要
がないからだ。
だが、需要があるとわかれば獣人たちは積極的に狩りを行い、そ
れらのアイテムを集めてきてくれるんじゃないだろうか。
そうなればレティシアや獣人たちにとっては騎士という新たな客
層をGETすることになるわけだし、騎士たちは金と引き換えに自
まず
分たちでは手に入れるのが難しいアイテムを手に入れることが出来
る。不味い話でないと思うのだが⋮⋮。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
騎士たちは気まずげに黙り込む。
﹁ですが、我々の依頼を獣人たちは受け入れてくれるでしょうか⋮
⋮﹂
先ほどまでの勢いはどこにいったのか、というほどに沈んだ声で
団長さんがぽつりと呟いた。
騎士たちはこれまで、積極的に獣人を迫害するようなことはしな
くとも、それと同じように獣人たちへの迫害を止めるようなことだ
1350
って、してきてはこなかった。俺たちは、チンピラに絡まれている
エリサとライザに対して管轄外だと冷たくのたまった騎士を知って
いる。マルクト・ギルロイと共にエリサとライザに対して嫌がらせ
をしにきたライオネル何とかという騎士のことを、知っている。
けれど同様に︱︱⋮⋮、獣人たちをこき使い、死地に率いておき
ながらも、今は何とか獣人たちとの共存をやり直そうと努力してい
る商人のことも知っている。
﹁俺たちの口から、大丈夫だ、なんてことは軽々しく言えない﹂
許す、許さないを決めるのは獣人たちだ。
﹁でも﹂
イサトさんが俺の言葉を継ぐ。
﹁罪悪感から見て見ぬふりをし続けるよりも、やり直したいなら今
こそ歩み寄るべきなんじゃないのか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
騎士たちは視線を伏せたまま、黙り込んでいる。
気まずいから、関わらないようにすることは簡単だ。
これまでと同じように、獣人たちのことを無視し続ければ良いの
だ。
気持ち的には、そちらの方が楽だろう。
しんらつ
行っても、受け入れられる保証はない。
お前たちになど力を貸すものかと辛辣な言葉で追い返される可能
性だってゼロではない。
1351
⋮⋮と。
そんな重苦しい沈黙の中、エラルドが、絞り出すような掠れ声で
口を開いた。
あふ
﹁街にモンスターが溢れた夜、獣人たちは、逃げ遅れたセントラリ
アの人々を護って、いました﹂
ざわっと騎士たちがどよめく。
そうか。
つい忘れていたが、エラルドは最初ライオネル何とかと一緒に行
動していたのだ。あのいけ好かない野郎が教会にイチャモンをつけ
にやってきたときにも、確か一緒にいたはずだ。
﹁獣人たちにしてみれば、無視をしても、良かったはずです。でも、
獣人たちは見過ごさなかった。本来なら、俺たちが守らなければい
けなかったはずの街の人を、助けてくれた。上手く、言えないんで
すが⋮⋮それって、獣人たちがまだ、俺たちを見放していないから
ではないでしょうか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
うつむ
エラルドの言葉に、俯いていた団長さんが顔を上げる。
﹁⋮⋮獣人たちの下に、案内していただけないでしょうか﹂
﹁いいよ。だが、さっきも言った通り、俺たちは何の保証も出来な
いからな﹂
﹁構いません﹂
そんなわけで。
俺たちは、団長率いる騎士たちと共に獣人たちのいる教会へと向
かうことになった。
1352
おっさん、鍛冶スキルに手を出す︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます!
20日には更新、と言いつつ日付が変わるころにしか帰宅できず、
結局21日になってしまいました、ごめんなさい!
Pt,感想、お気に入り登録、励みになっております。
次の更新は23日になるかと思われます⋮⋮!
1353
おっさんと騎士の懺悔
さすがに騎士団全員を率いて行くのは大所帯に過ぎるので、一緒
についてくるのは団長さんと、エラルド、そして言い出しっぺであ
るアルテオの三人となった。
並んで歩く俺とイサトさん。
その後ろ、数歩離れたところを三人の騎士、といった形だ。
俺はふと視線を背後へと流すと、騎士たちへと声をかけた。
﹁騎士団の人たちって、獣人たちのことをどう思ってるんだ?﹂
﹁えっ⋮⋮その、すみません﹂
﹁それは⋮⋮本当に申し訳のないことをしたと﹂
﹁申し訳ありません⋮⋮!﹂
﹁や、そうじゃなくてだな﹂
どうも俺たちに責められていると受け取ってしまったのか、獣人
たちへの迫害を見過ごしていたことに対する反省と謝罪めいた言葉
ばかり口にする三人である。それでも根気強く聞き続けた結果、や
がてぽつぽつと本音を語り始めてくれた。
﹁⋮⋮セントラリアを守る守護騎士団といえど、お恥ずかしい話、
実は一枚岩ではないのです﹂
﹁と、言うと?﹂
﹁守護騎士には、大まかに二種類の者がいます。貴族出か、庶民出
か。私は後者です。私が騎士団長に任命された時、団長候補がもう
一人いたのですが⋮⋮その時の相手は貴族出身でした﹂
﹁あー⋮⋮、もしかしなくても派閥争い、だろうか﹂
1354
しょっぱい顔をしたイサトさんの問いに、苦笑を浮かべた団長さ
んが頷く。
﹁⋮⋮イサトさんも経験あんの?﹂
﹁あるある。上司とさらにその上司の指示が食い違ってたりなんか
すると部下としては死にたくなることこの上ないぞ﹂
﹁うわあ﹂
想像するだけで胃が痛くなる。
﹁私ともう一人の対立候補、どちらが騎士団長になるかで、騎士団
内部は二つに分かれました。数として多いのは庶民派です。ですが、
貴族派は数は少なくとも上層部に大きな影響力を持っています﹂
﹁まあ、そうだろうな﹂
騎士団を動かすのはその上に立つ貴族たちだ。
貴族出身の騎士ともなれば、影響は当然大きいだろう。
﹁当時私のライバルはまだ年若く、経験も浅かったことから私が騎
士団長に任命されることになりました。ですが⋮⋮﹂
つか
苦い笑みを浮かべて、団長さんはそっと自分の腰に差した剣の柄
を撫でる。
﹁これまで、歴代の騎士団長は皆団長の栄誉と共に王から女神の恵
みである剣を授けられてきました。しかし私には、それがなかった。
そのことから、私のことを正当な騎士団長として認めない向きが貴
族派の中には強くあったのです。その結果、貴族出身の騎士たちの
多くは今でも私の対立候補こそを自分たちのリーダーとして仰いで
1355
います。そして、マルクト・ギルロイが渡りをつけたのはその貴族
出身の騎士たちでした﹂
あ、何か厭な予感がしてきたぞ。
俺はちらりと、団長の後ろをついて歩くエラルドへと視線を流す。
そんな俺の視線に気付いたのか、エラルドが気まずそうに目を泳
がせる。
﹁もしかして、その貴族代表の騎士ってのはライオネル何とかか﹂
﹁ご存知でしたか﹂
やっぱりな!
あのやたら偉そうに取り巻きを引き連れた男には、そんな事情が
あったらしい。
﹁ライオネル・ガルデンスを筆頭に、貴族出の騎士たちがマルクト・
ギルロイへと便宜を図っていました。私は、彼らを抑えることが出
来なかった。反目を恐れ、見て見ぬふりを続けたのです﹂
﹁なるほどなあ﹂
いかにも、大人の事情、といった感じである。
騎士団が本格的に二派に分裂してしまうことを恐れ、ライオネル・
ガルデンスの迷走を見て見ぬふりをした団長さん。その結末として
突き付けられたのが、獣人の大量殺戮だったのだから、後悔も大き
いのだろう。
﹁じゃあ、団長さんや、庶民出身の騎士は獣人に対してそんな悪感
情はない、ってことか﹂
﹁はい。私が把握している限り、積極的に悪意を持つ者はいないか
と﹂
1356
たた
ただ、彼らは見ないふりをした。
つぶ
触らぬ神に祟りなしと、面倒ごとに発展することを嫌って、目を
瞑った。
﹁貴族出身の騎士側はどうなんだ? エラルド、お前はライオネル
側の騎士だろ?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
苦い顔で、エラルドが頷く。
ライオネル何とかと共に教会を訪れたエラルドは、貴族側の騎士
と見るべきだろう。だが、そんなエラルドがどうして今は団長と行
動を共にしているのだろうか。不思議そうな顔をしている俺たちに
向かって、今度はエラルドがぽつぽつと語る。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮、私たちの方も、ほとんど団長たちと変わりません﹂
﹁っていうと?﹂
﹁家の繋がりでライオネルと行動を共にしてはいましたが、特別獣
人に対して悪意があるわけではなかった、ということです。私たち
は、ただ利益があったからライオネルの側についていただけなので
す﹂
﹁⋮⋮なんだか、なあ﹂
俺はぼんやりと呟く。
なんだか、酷く虚無感めいたものを感じた。
獣人を迫害した側も、それを見過ごした者も、獣人に対しての悪
意は薄いという事実が、妙に心にずしん、と来たのだ。
両者ともに、ただただ無関心だっただけだ。
好きでも嫌いでもなく、ただ己の利益を優先して積極的に関わろ
1357
うとしなかっただけ。誰も、マルクト・ギルロイを止めなかった。
ただ、何もしなかった。それだけのことで、たくさんの獣人の命が
奪われた。
﹁それで、どうして君は今団長さんの側に?﹂
﹁⋮⋮あの時、教会で、私たちは商人に追い払われたでしょう﹂
﹁そうだな﹂
﹁あの時⋮⋮獣人たちが逃げ遅れたセントラリアの人々を守ってい
たのを見て、自分は何をやっているんだろう、と思ったのが一つで
した。私は、セントラリアを守る守護騎士になったはずなのに、ど
うしてこんな時にまでせこせこと嫌がらせをしてるんだろう、と﹂
エラルドの語る声音は静かだ。
かつりかつりと教会までの道を歩きながら、まるで懺悔のように
その声は響く。
﹁少し、腹も立ちました﹂
﹁何に?﹂
﹁あの、商人にです。あの男は、獣人を虐げていた代表みたいな男
でしょう。それが、まるで獣人を庇うように私たちを追い払った。
なんだか︱︱⋮⋮、裏切られたような気がしたのです。だから、詰
め所への帰り道、私たちは延々とあの男を罵っていました。今更良
い人ぶろうとしたって、我々と同罪だ、むしろマルクト・ギルロイ
の仲間だった分あいつのほうが罪深い、って。そうして、気付いた
のです。それが、私たちの罪悪感だということに﹂
﹁そうか﹂
彼の語る感情は、理解できるような気がした。
今更良い人ぶろうとしたって駄目だ、との言葉は彼ら自身に向け
られたものでもあったのだろう。許されないことは、わかっている。
1358
だから、許しを請うことが怖い。だから、自分たちを裏切って自ら
の振る舞いを正そうとした商人に腹が立つ。許されないはずなのに、
一人だけ許されようとしているように見えたから。
マルクト・ギルロイの大量殺戮を見過ごしたという罪悪感を、彼
らは今更獣人側について媚びを売るように見える商人に怒りという
形でぶつけることで誤魔化そうとした。
﹁その後⋮⋮、貴方たちが詰め所を訪れました。詰め所には、たく
さんの傷ついた仲間がいた。彼らが命を落とすのは、耐えられない
と思いました。彼らは、セントラリアを守るものとして役割を果た
した上で傷ついた騎士たちです。そんな彼らが命を落としかけてい
て⋮⋮私は、無傷だった。私はその夜も、ライオネルに追従するも
のとしての恩恵を受けていました。比較的危険の少ない大聖堂近く
の警護を︱︱⋮⋮、いえ、あれはもうほとんど避難、だった﹂
ライオネル何とかも言っていたっけか。
貴き方々の守護を優先すべきだとかなんとか。
彼らは貴族の警護を名目に、大聖堂の中にてあの夜を過ごしたら
しい。
﹁だから、貴方たちに助けを乞いました。そして⋮⋮、獣人側だと
か、そういうことに関係なく﹃自分たちがしたいと思ったから﹄と
いう理由で彼らを助けてくれた貴方たちを見て⋮⋮その。憧れたん
です。﹃自分たちがしたいと思った﹄という理由で、正しいことが
出来る貴方たちに。正しいことをしなければならない、のではなく
て⋮⋮正しいことを﹃したい﹄と思えることに、と言ったらいいの
でしょうか﹂
そう言って、過去の己を恥じるように苦笑を浮かべてみせるエラ
1359
ルドはどこか清々しい顔をしているように思えた。
俺とイサトさんは、互いにちらりと視線を交わす。
俺たちは、誰かのために何かをしてきたわけではない。
エラルドが今言ったように、その場その場において沸き起こる欲
求のままに、﹁したいこと﹂をしてきただけだ。
それが、いろんなところに少しずつ影響を及ぼしていることがな
んだか不思議で、くすぐったいような気がした。
願わくば、それらの影響がそれぞれの人生に、この世界に、少し
でも良いものであればいいと思う。
そうして歩いているうちに、次第に獣人たちが拠点に使っている
教会が近くなってきた。微かに漏れ聞こえるのは、讃美歌だろうか。
静かで、厳かで、それでいてどこか懐かしい。不思議と胸が締め付
けられて、脳が理由を理解するよりも先に目頭が熱くなる、ような。
﹁あれ、なんだ、これ﹂
さりげない素振りで、しぱしぱと瞬く。
見れば、イサトさんも不思議そうに瞬きながらもその金の瞳を潤
ませていた。
ふと耳にしたこのメロディが、一体俺とイサトさんの何を刺激し
たというのか。首を傾げていた俺の隣で、ああ、と納得したように
イサトさんが声を上げた。
﹁秋良青年、これ、RFCのBGMだ。教会の﹂
﹁ああ︱︱﹂
すとん、と納得した。
1360
この曲は、まだRFCが俺たちにとってただのゲームだった頃、
セントラリアの教会で流れていたBGMだ。ゲーム内ではパイプオ
ルガン調のメロディだけで、人の声で歌われているのを聞いたこと
がなかったからすぐには気付かなかった。
俺たちのよく知るRFCと酷似したこの世界にやってきて、逆に
縁遠くなったのがBGMだ。当たり前だが、現実世界ではBGMは
自動では流れない。
だから、なのだろう。
これはきっと郷愁だ。
RFCがまだゲームだった頃、PC画面越しに聞いていたメロデ
ィ。
﹁この曲、好きだったなあ﹂
﹁俺も﹂
わざと画面でRFCを開きっぱなしにして、そのBGMを聞きな
がら他の作業をしたりしていた日々を思い出す。
音楽にも結構凝っている、と言われていたRFCだったが、その
中でもセントラリアの教会BGMはベスト5に入るぐらいには人気
があった。わざわざセントラリアの教会までやってきて離席する人
たちもいたぐらいだ。
俺もその中の一人だ。
BGMだけでなく、教会の雰囲気自体も好きだった。
天窓のステンドグラスから差し込む柔らかな光。セピア調の薄暗
い室内、そんな聖堂の正面中央に佇む神父のNPC。そして、その
周囲に立ち尽くす人影たち。
1361
本当は単にリアルで何かあって離席しているだけなのだろうが、
そんな人影たちはまるで真摯な祈りを捧げているようにも見えて、
どこか本当に厳かな空気が流れているような雰囲気があったのだ。
﹁懐かしいな﹂
﹁はい。久しぶりに聞きました﹂
﹁自分も子どもの頃以来です﹂
くちずさ
団長さんたちまでもが、懐かしそうにそんな話をしている。
﹁この歌って、何の歌なんだ?﹂
﹁女神を讃える古い聖歌です。年寄りなどは今でも口遊んだりはし
おとし
ていますが⋮⋮歌による信仰は今ではあまり一般的ではなくなって
います﹂
﹁へえ、綺麗な歌なのにな﹂
﹁なんでも、一部からあまりに大衆的で、女神の権威を貶める、と
いう声が上がったのだとか﹂
﹁ああ、確かに︱︱⋮キリスト教なんかでも、聖歌を歌ったり踊っ
たりする宗派と、それを不真面目だと批判する宗派があったりする
ものな﹂
イサトさんの納得した、というような声に、俺は心の中で﹁へえ﹂
ボタンを押す。純日本人として育ち、あまりそういった宗教に触れ
る機会がなかった俺としてはそういった宗派ごとの違い、というの
があまりピンと来ない。
﹁君も映画で見たことがないか? 歌って踊るシスターとか﹂
﹁あ、あるある。ゴスペル、って言うんだっけか。でもあれって映
画の脚色だと思ってた﹂
1362
﹁あそこまで派手じゃないけれど、あんな感じに歌って踊る宗派は
実際にあるんだ。でも、やっぱり祈りは神聖なものであるべきだか
ら、そういうのは不真面目だ、って言う人たちもいたりするんだよ﹂
﹁なるほどなあ﹂
それでこちらでも、今までこの歌を聞く機会がなかったのか。
信仰のことはよくわからないながら、単純にこの曲が好きな俺と
しては勿体ないような気がしてしまう。
ちょうど俺たちが教会の入り口に差し掛かった頃には、ミサが終
わったのかぞろぞろと聖堂の辺りから人が出てくるところだった。
お、と思ったのは、それが獣人だけではなかったことだ。
まばらにではあるものの、人込みの中には人も交じっている。
そんな中に、クロードさんとあの商人の姿もあった。
最初の頃はまだ少しあった緊張感も今ではなく、近所のおっちゃ
ん同士が話しているような気やすい空気が二人からは漂っている。
そのことに団長さんが驚いたように目を丸くしているところで、
二人が俺たちに気付いたようだった。
﹁ああ、本当に戻ってきてたのか。エリサとライザから事情は聞い
てる﹂
﹁無事に戻ったようだな﹂
口々に声をかけつつ、二人がこちらへと歩み寄る。
その途中で俺たちの傍らにいる騎士たちの姿にも気付いたのか、
今度はその二人が訝しげに眉を跳ね上げて見せる。
﹁何かあったのか?﹂
1363
﹁⋮⋮揉めているのか﹂
いかが
二人して、すぐさま臨戦態勢に入ろうとするのは如何なものかと
思う。
クロードさんは戦闘態勢︵物理︶だし、商人の方は戦闘態勢︵理
屈︶だ。
その息の合いっぷりもなんだか感慨が深い。
俺たちがノースガリアに向けて出発した後も、どうやらこの二人
は上手くやっていたようだ。
困惑する騎士たちのためにも、俺とイサトさんは手をぱたぱた振
りつつ二人へと事情を説明することにしたのだった。
﹁なるほど、剣を作るための材料が欲しい、か﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺とイサトさんの話を聞き終えた二人は、何やら難しげな視線を
1364
交わしあった後むっつりと眉間に皺を寄せて黙り込んだ。
やはり簡単には騎士たちを許して協力する気にはなれないのだろ
うか。
それにしては、商人と交わした視線の意味がわからない。
俺が内心首を捻っているところで、一歩前に出たのは団長さんだ
った。
﹁⋮⋮私は、セントラリアの守護騎士団団長を務めるセドリック・
ヘンツェだ﹂
団長さんは、まっすぐにクロードさんを見据えて口を開く。
すが
威圧感すら漂うその佇まいに、クロードさんはやや警戒したよう
に耳を寝かせて双眸を眇める。
それに対して団長さんは︱︱
﹁︱︱すまなかった﹂
深々と、直角と言っても良い角度で頭を下げて見せた。
その姿に慌てたように、背後に控えていたエラルドとアルテオも
頭を下げる。
頭を下げてそのままの姿勢を保ったまま、団長さんは言葉を続け
た。
﹁同じ護るべきセントラリアの民であるあなた方に対する不当な扱
いは、我々の過ちだ。それをまずは謝罪させてほしい。そして、そ
の上でどうか私の話を聞いてほしい。今更あなた方に仕事を依頼し
たいなどと言うのが虫の良い願いでしかないことはよくわかってい
る。責任をとれと言うのなら、私は守護騎士団団長の職を辞しても
構わない。だが⋮⋮どうか次世代の騎士たちとの交流を考えてはも
1365
らえないだろうか﹂
﹁おいおい⋮⋮﹂
さすがにこれにはクロードさんも驚いたのか、先ほどまで寝てい
せわ
た耳が、ぴょ、と頭上で立ち上がっている。動揺具合を示すように、
くるくると忙しなく揺れる仕草がエリサやライザとよく似ている。
助けを求めるような眼差しを向けられて、俺は小さく肩を竦めた。
何度でも言うが、これは獣人たちと騎士たちの問題だ。
俺たちが横から許せだの、許すなだの言えることではない。
助け船がどこからも出ないと悟ったのか、クロードさんはわしわ
しとその赤い髪をかき混ぜながら一度溜息をついた。
﹁⋮⋮あのな。アンタが大真面目に謝ってくれたからこっちも真面
目に言うぞ﹂
﹁ああ、言ってくれ﹂
﹁アンタが騎士団長を辞めようがどうしようが、許せるかって言わ
れたら許せねえ﹂
きびす
それは、聞いている俺たちまではっとしてしまうようなきっぱり
とした断言だった。
﹁⋮⋮そう、か﹂
﹁ああ﹂
団長さんが、ゆっくりと上身を起こす。
そして、﹁邪魔をして悪かった﹂と静かに踵を返そうとしたとこ
ろで、クロードさんは苦い声でぼやいた。
それはどこか苦笑めいた、どこか柔らかな苦味だ。
1366
﹁だがな、関わらねェわけにもいかねェだろ﹂
団長さんの動きが止まる。
﹁⋮⋮⋮⋮?﹂
てなぐさ
不思議そうに視線を戻す団長さんへと、クロードさんはわしわし
と手慰みのようにその真っ赤な髪を掻き乱しながら言葉を続けた。
﹁オレたちはセントラリアを離れる気はない。これからもセントラ
リアで生きていきたい。アンタらとしっかり関わって、セントラリ
アの住人の一員として。だから、今はまだアンタらに許してくれっ
て言われたからってはい許しますなんて簡単には言えねェが、その
努力はしたいって思ってる。アンタの言う次の世代の子どもたちが、
手をとって暮らしていけるように。⋮⋮あー、ンな真面目なことオ
レはあんまり言いたくないンだ、ガラでもねェ。わかれよ﹂
わからない。
それは言わなきゃわからないぞクロードさん。
そんなツッコミを心の中で入れつつも、その複雑な心境を思う。
やられたことをすぐに許すことは難しいだろう。
それでも、クロードさんは再び寄り添おうとしている。
憎んだままでは、拒絶したままではセントラリアで暮らしていけ
ないということがわかっているから。
クロードさんの隣で、あの商人も複雑そうな顔をしている。
お互いに、ちょっとした会話を交わし、笑いあうこともあるだろ
う。
だけどこの二人はお互いが許したわけでも、許されたわけでもな
いことをわかっている。そんな隔たりがあることを承知した上で、
1367
お互いが共に暮らしていけるように努力して、協力しあっているの
だ。
好きだから一緒にいる関係が一番良いのだとは思う。
けれど、いつか自然体で傍にいられるように、努力して傍にあろ
うとする関係も悪くないのではないかと、クロードさんと商人を見
ていて思った。
﹁⋮⋮では、我々の依頼を受けて﹂
くれるのか、と団長さんが言いかけたところで、ずいっと二人の
間に分け入ったのはあの商人だ。
﹁ちょっと待った﹂
﹁なんだ⋮⋮?﹂
﹁もう既に仕入れの予定は立てているんですよ。横から別口の依頼
をねじ込まれては困りますなァ、団長殿﹂
﹁ぐ!?﹂
﹁っつーわけなんだよな。アンタらが客として依頼するってなら、
条件次第では受けてもいい。だが、もう結構予定が決まってンだよ。
その辺の調整は、こいつとつけてくれ﹂
﹁私が詳しい条件等のお話を伺いましょう﹂
すすっと前に出る商人は、完全に獣人たちのマネージャーといっ
た態だ。
確か俺たちの﹃家﹄を整備している間は、職人たちを商人のツテ
で紹介してもらったことから自然と商人が素材を集める獣人たちと
職人たちの仲介を務めていたが⋮⋮。
﹁クロードさん、クロードさん﹂
1368
﹁お? なんだ?﹂
こそっと声をかけると、クロードさんが俺の隣にやってくる。
﹁⋮⋮なんでクロードさんたちのスケジュールをあのおっさんが管
理してんだ?﹂
﹁あー、それな﹂
はは、とクロードさんが笑う。
﹁あいつ、レティ嬢んとこの商会に入ったんだよ﹂
﹁マジか﹂
﹁マジマジ﹂
つまり、あの商人は元ギルロイ商会現レスタロイド商会というこ
となのか。
レティシアが彼を受け入れたことも驚きだし、その後彼が引き続
き獣人たちと組んでいることも驚きだ。
﹁いいのか、あいつで﹂
﹁いいんじゃないか、商人としては有能だろ﹂
いいらしい。
俺たちの視線の先では、つらつらと語る商人に押される騎士たち
がいる。
すっかり商人のペースに呑まれている。
やがて商談が落ち着いたのか、ほくほく顔で商人が戻ってきた。
﹁騎士が欲しがってるモノに関しては優先的に騎士に売る。その代
わり狩りには騎士が同行し、護衛する。無料で。護衛に付き合った
1369
騎士は購入が二割引き、でどうだ﹂
﹁いいんじゃねェか﹂
本当に有能だった。
騎士の護衛がつくようになれば、獣人たちは狙った獲物にだけ集
中して狩りが出来るようになるし、騎士が欲しがっているのは一般
的にはそれほど需要のないアイテムのはずだ。そうなると狩りの効
率が上がる上に、本来なら商品として価値の低かったアイテムに高
値がつくわけなのだから、獣人たちとしても万々歳だろう。
商人はこのことについてをレティシアに、騎士たちは詰め所で待
つ仲間たちへと報告するために、それぞれこちらに向かって頭を下
げると去っていく。
それを見送ってから、俺とイサトさんはクロードさんにも先ほど
騎士たちに説明したのと同じことを話して聞かせた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
しか
ヌメっとしたものがまだ街に潜んでいる可能性が高い、と聞かさ
れたクロードさんがこれ以上ないというほどの顰め面をする。
﹁⋮⋮アレがまだこの街のどっかにいるってのか﹂
﹁おそらく﹂
﹁わかった。こっちでも何か気付いたことがあったらすぐにアンタ
らに連絡するようにする﹂
﹁そうしてくれると助かる﹂
クロードさんを筆頭に、かつてギルロイ商会の狩りチームに入っ
ていた獣人たちは実際の変わり果てたマルクト・ギルロイの坊やを
1370
見ている。あのヌメっとした異形の持つ違和感や、薄気味悪さを経
験済みな分、きっとどこかで接触したらすぐに気付くことが出来る
だろう。
その後、俺たちがセントラリアを離れていた間の様子を聞いたり
などしてから、俺たちは宿へと戻った。
1371
おっさんと騎士の懺悔︵後書き︶
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次の更新は、26日になります。
1372
もしかして:
その翌日、さっそく俺たちは騎士たちからもらった情報を元に作
成した﹁セントラリアのここが不気味だMAP﹂を片手に探索に出
ることにした。
いわ
ほとんどの場所はただの廃墟や曰くありの場所、というだけで特
に何か怪しげなものが見つかるわけでもなく終わってしまったのだ
が。
﹁⋮⋮秋良青年も少しは怖がればいいのに﹂
﹁そう言われてもな﹂
不満げに半眼でぼやくイサトさんに、俺はふくくと笑いをかみ殺
す。
ツンととがった褐色のエルフ耳の先っちょがほのかに薄赤く染ま
っている。
最後に訪れた廃墟も例に漏れずなんの異変もなかったのだが⋮⋮。
ちょっと様子を見てくる、とイサトさんが二階に上がってから数
分後。
﹁きゃあああ!?﹂
なんて悲鳴が上がったのである。
これまでいろんな危ない目には遭っていたものの、イサトさんの
悲鳴なんて初めて聞いたような気がする。本人が自己申告していた
ように、イサトさんはそういう悲鳴を上げるような場面でも息を呑
みがちなのだ。
1373
そのイサトさんが、悲鳴。
よぎ
即座に脳裏を過ったのは強い後悔だった。
今まで訪れた場所がすべてハズレだったからといって、ここにも
ヌメっとした奴がいないとは限らなかった。それなのに俺は何故イ
サトさんを一人で行かせてしまったのか︱︱、なんて苦い焦燥を噛
み殺し、黒竜王の大剣を半ば抜きつつ駆け上がった先の二階、イサ
トさんはぺたんと座りこんで﹁ひえええ⋮⋮﹂なんて間の抜けた声
を上げていた。その顔面にぺたりとぷくぷくに肥えたコウモリを貼
りつけて。
どうやらこの廃墟、二階の窓は内側から板を打ち付けて閉ざされ
ており、その暗がりにコウモリが巣食っていたらしい。
﹁あ、あきらせいねん、何か顔面にもふもふした生暖かいものがが
が﹂
﹁あ、うん﹂
一人焦っていたのが気恥ずかしくなりつつ、ちゃきりと大剣を鞘
に納めてインベントリへとしまう。それからイサトさんの顔に傷を
つけないように気を付けつつ、びたりとその顔面に貼りついていた
まるまるとしたコウモリをひっぺがした。
得体のしれない生暖かいもふもふに襲われたイサトさんはちょっ
ぴり涙目になっていたものの、その正体がコウモリだとわかったと
たん、その目元にじんわりと赤い色が滲んでいき︱︱⋮⋮今に至る
のである。
﹁⋮⋮⋮⋮別に怖かったわけじゃないですし?﹂
1374
﹁はい﹂
﹁ちょっと驚いただけ、ですし?﹂
﹁はい﹂
イサトさんは﹁きゃあ﹂なんて悲鳴らしい悲鳴を上げてしまった
ことが恥ずかしくて仕方ないらしい。気恥ずかしげに唇をへの字に
して、目元から耳元までをうっすら赤く染めているイサトさんは大
変可愛らしい。
そんなイサトさんがこほん、と咳払いをヒトツ。
﹁ええと︱︱⋮⋮、その。結局成果がなかったわけだけども﹂
﹁イサトさんの悲鳴という成果が﹂
﹁足踏むぞ﹂
す、とさりげなく速足に隣を歩くイサトさんから距離をとる。
これ以上からかうと、本格的にヘソを曲げられてしまいそうであ
る。
﹁まあ、確かにヌメっとした奴らが潜んでいそうな場所はなかった
な﹂
ひとけ
確かにどこも薄暗く、人気のない寂れた廃墟が多かったものの、
それだけだ。
﹁⋮⋮そろそろ、マルクト・ギルロイの屋敷に行ってみる?﹂
﹁そうだな、そうするか﹂
俺たちの本命はマルクト・ギルロイの屋敷だ。
そこに行けば、何かしら見つかるだろう、という予感はしている。
1375
それ故にオオトリに残しておいたわけなのだが、順当に他がハズ
レだった現状残されているのはマルクト・ギルロイの屋敷だけだ。
俺たちは、前に獣人たちを解放するために訪れたマルクト・ギル
ロイの屋敷へと向かう。
マルクト・ギルロイの屋敷の前には、団長さんが言っていたよう
に見張りらしき騎士たちが控えていた。彼らは俺たちの話をすでに
聞かされていたのか、どうぞ、と門を開けて通してくれようとした
のだが⋮⋮。
まばゆ
﹁おい、そこのお前たち! 誰の許可を得て騎士団が管理を任され
た敷地に足を踏み入れようとしている!﹂
厭になるほど朗々と響いた声には聞き覚えがあった。
半眼で振り返った先には、予想通り白銀の鎧もピカピカと眩いラ
イオネル何とかが仁王立ちしていた。ただ、先日と違うのはその取
り巻きの数がわかりやすく減っている、という点だ。エラルド同様
に、今回のいざこざを通してライオネル派から離脱した騎士は少な
くなかったようだ。
﹁誰の、って⋮⋮団長さんの許可はもらっているぞ﹂
﹁その通りです。団長より、この方たちを通すように言いつけられ
ています﹂
﹁団長の許可が出ている、だと? フン、私はそんな話は聞いてい
ないぞ!﹂
見張りについていた騎士たちも俺たちの援護をしてくれるものの、
ライオネル何とかはうざったげに手を払って彼らに黙れと命じた。
ぐ、と困ったように彼らが黙りこんだあたり、どうやら力関係とし
ては彼らよりもライオネル何とかの方が上であるらしい。
1376
俺とイサトさんはそろっと視線を交わす。
もしかしなくとも、今こそ黄門様の印籠、もとい聖女より預かっ
た書状を使う絶好のチャンスではないのか。
俺はす、とインベントリへと手を滑らせ、聖女の書状を取り出す。
﹁控えおろう、この書状を何と心得る!﹂
そう宣言したのはイサトさんだ。
くそう。
美味しいところをもっていかれた。
うそぶ
﹁聖女様の書状だと⋮⋮!? 聖女にまで取り入るとはこの詐欺師
どもめ⋮⋮! 黒竜王を倒したなどと嘯いているようだが、この私
は騙せんぞ!﹂
﹁あ、そのパターンなのか。聖女の名を騙る不届きものめ、成敗し
てくれる、ってくると思ったのに﹂
﹁っ⋮⋮﹂
危ない。
思わず噴き出すところだった。
確かにそれが時代劇の定番ではあるが。
﹁ええい笑うな、何がおかしい!﹂
げきこう
案の定、ライオネル何とかを余計に激昂させてしまった。
﹁黒竜王を倒したと言うのなら、その証を見せてみろ!﹂
1377
﹁⋮⋮証なあ﹂
俺はインベントリよりずらりと黒竜王の大剣を抜き出して見せる。
あか
黒くうねる焔のような曲線を多く使った背のラインに、黒々とし
た漆黒の刃。そのなかほどには一条の赫がすぅ、と鮮やかに走って
いる。
けお
大剣から放たれる空気に気圧されるように、見張りの騎士たちが
ごくりと喉を鳴らしながらじり、と後ずさった。
﹁黒竜王より授かった女神の恵みだ。これで、証明になるか?﹂
﹁こんなもの⋮⋮!!﹂
﹁あ、おい!﹂
ライオネル何とかが俺の手から黒竜王の大剣を奪い取る。
本気で抵抗すれば阻止することもできたのだろうが、どうせライ
オネル何とかには持つことも出来ないだろうと甘く見たのがマズか
った。
﹁ぐ、が!?﹂
うめ
まるで首でも絞められたように、ライオネル何とかが突如呻いた。
にら
ぶわッ、と大剣を握るライオネル何とかの金髪が、うねうねとう
よだれ
ねりながら逆立つ。俺たちを睨んでいた双眸は血走り、瞳孔がかっ
ぴらき、口端からはだらだらと涎が零れている。
正直怖い。
なにこれ怖い。
﹁秋良青年、手⋮⋮!﹂
1378
﹁!?﹂
イサトさんの声に、ライオネル何とかの手へと視線を走らせて俺
も息を呑む。
黒竜王の大剣を握るライオネルの手が、大剣に触れている手のひ
は
らから侵食されるようにびっちりと黒い鱗に覆われていた。その鱗
は、ぞぞぞ、と音を立ててライオネルの腕を這い上がっていく。
﹁ライオネル、その剣を離せ!!﹂
﹁マガイモノ⋮⋮、コロス⋮⋮!﹂
俺の呼びかけに返るのは、獣じみた唸り声の混ざるしゃがれた声
だけだ。
先ほどまでの嫌味ではあったものの無駄に朗々としていたライオ
ネル何とかの声は面影もない。
﹁ちッ!﹂
イサトさんは舌打ちをすると、素早くインベントリより禍々︵ま
がまが︶しいスタッフを取り出すとライオネル何とかに向かって見
えない衝撃波を放った。みぞおちのあたりに決まってぐぅ、とライ
オネル何とかの体がくの字に折れた瞬間を狙って、俺は鋭く踏み込
んで、その手の中から黒竜王の大剣を奪取する。
﹁ぐ⋮⋮、ぅ、あ⋮⋮﹂
大剣を奪われたとたんに、ライオネル何とかの身体はまるで糸の
切れたマリオネットのように地面に崩れ落ちた。慌てたように騎士
たちが駆け寄る。口元は涎で汚れ、意識は失ったままではあるもの
の、腕は何とか元通り人の形をした状態に戻っているし、うねうね
1379
と逆立っていた金髪も今はおとなしく重力に従っている。
﹁あ、あの⋮⋮これは一体⋮⋮?﹂
﹁うーん⋮⋮、私たちにもよくわからないけれど、たぶんもう危険
はないと思う。とはいえ、どんな影響が出ているかわからないから、
とりあえずどこかに運んで休ませた方が良いと思う﹂
﹁は⋮⋮!﹂
イサトさんの指示に、騎士たちは敬礼でもしそうな勢いで頷くと、
ライオネルを二人がかりで担ぎ上げるとそそくさとその場を立ち去
っていってしまった。微妙に、俺とは一定の距離を保っていたのが
なんとも物悲しい。
取り残された俺たちの間に、ひゅるりと一陣の風が吹き抜けてい
く。
そんな中で、ぽそりとイサトさんが口を開いた。
﹁大変申し上げにくいのですが﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮その剣呪われているのでは???﹂
﹁やめろ怖いこと言うな!!!﹂
幽霊話の類はそんなに怖いと思わない俺だが、実際それを目の前
で見せつけられるとそうも言っていられない。
1380
なんだあれ。
完全にライオネル何とかの身体を乗っ取る気だったぞ。
しかもあれ、完全に黒竜王の怨念だ。
マガイモノへの殺意を口にしていたしな。
﹁秋良はなんでもない、ンだよな?﹂
﹁微妙に距離とるのやめてくれ﹂
さりげなく一歩分ほどの距離を保っているイサトさんへと半眼を
向けつつ、俺は手にしていた黒竜王の大剣を、ぐっと持ち上げて構
えてみる。
なま
漆黒の刀身はぬらりとどこか艶めかしく、赫く抜けるラインは煌
々︵こうこう︶と鮮やかでその対比が美しい。が、ライオネル何と
かの身に起きたことを考えると、どうにも禍々しく見えるのは気の
せいか。
剣の柄を握る俺の手には何の異変も見られない。
﹁もしかしたら︱︱⋮⋮、レベルが足りない、黒竜王の剣に相応し
くない人間が手にすると、ああいう拒絶反応が出るのかもしれない
な﹂
﹁⋮⋮⋮⋮拒絶反応って言っていいのかアレ﹂
﹁正確には黒竜王の怨念に飲み込まれてマガイモノ絶対殺すマンに
なる﹂
﹁こわい﹂
本当に怖い。
1381
普段はインベントリにしまっているからまだ良いものの、うっか
りどこかに置き忘れでもしたら速攻で地獄絵図が生まれてしまう。
そこでふと気付いた。
黒竜王の遺したドロップアイテムはこの大剣だけではないのだ。
﹁⋮⋮イサトさん﹂
﹁ん?﹂
﹁まるっきり他人事みたいに面白がってるけど、イサトさんのブレ
スレットにも似たような呪いがかかってるのに300ペソ﹂
﹁呪いって言うな!﹂
言い出しっぺはイサトさんである。
俺の持つ大剣とよく似たデザインのブレスレットは、イサトさん
さまよ
の華奢な手首を彩っている。それを指先で弄りながら、イサトさん
がうろりと視線を彷徨わせた。
﹁⋮⋮⋮⋮これ、何が召喚されるんだろうな﹂
﹁ドラゴンゾンビ、とか⋮⋮?﹂
ゾンビ
完全に黒竜王を想定している俺である。
﹁ドラゴンサイズのゾンビとかもうなんか臭いとか辛そうじゃない
か⋮⋮?﹂
もろ
﹁そこで気にするところは臭いなのか。じゃあ、スケルトンとか?﹂
﹁ドラゴンスケルトン⋮⋮、強いのか脆いのか⋮⋮﹂
﹁エレニが見たら泣くぞ﹂
﹁泣くな、間違いなく﹂
育ての親が自らの意志でゾンビとして召喚されたあげく、マガイ
1382
モノ絶対殺すマンとして大暴れする図など見せつけられたら俺でも
泣く気がする。
﹁⋮⋮これ、実戦で使う前に確かめた方が良い気がしてきた﹂
﹁そうだな﹂
マルクト・ギルロイの屋敷を探索した結果、万が一ヌメっとした
ものに遭遇して戦闘になった時のことを考えると自分たちの戦力は
把握しておきたい。
そんなわけで、俺たちはマルクト・ギルロイの屋敷の探索は一旦
後に回すことにして、人気のないセントラリアの街の外へと赴く。
北方面を選んだのは、万が一のことがあっても誰も巻き込まなくて
すむ場所を選んだためだ。ノースガリアが滅んでいる現状、北の街
道を使う者はいない。
うっすらと風花が舞う平野にて、俺とイサトさんは黒竜王のブレ
スレットを試すことにした。
禍々しいスタッフを構えるイサトさんから少し離れたところで、
俺は黒竜王の剣を携えて待機する。万が一暴走したときには、俺が
止めるつもりである。もしかすると黒竜王の剣ではダメージを与え
ることができない可能性もあるので、前に少し使っていた長刀も念
のため用意しておく。
﹁秋良、用意はいいか?﹂
﹁おう、任せろ!﹂
﹁よし﹂
すぅ、とイサトさんが息を吸う。
1383
伏せがちの金色が神秘的に煌めく。
イサトさんがスタッフを空にかざし、トーン、と高らかに地面へ
と打ちつける。
とたん、空に暗紫の雷光がばちばちと厳めしく煌めいて︱︱⋮⋮
ドォオオンと腹に響く落雷めいた音と共にその場に姿を現したのは、
柴犬ほどの大きさの仔ドラゴンを抱いたエレニwith哺乳瓶だっ
た。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
なんともいえない沈黙。
ちゅっぱちゅっぱちゅっぱ、と仔ドラゴンが懸命に哺乳瓶を吸う
音だけが響いている。
﹁⋮⋮⋮⋮何しに来たのお前﹂
﹁それこっちのセリフだからね!? 何!? 何の用!? 俺の力
が必要になったときは呼んでとは言ったけどこんな強制的に呼ばれ
るとは思ってなかったよ!?﹂
俺たちだって、まさかエレニが来るとは思わなかった。
かくかくしかじか、と俺はエレニへと事情を話す。
その間、ミルクを飲み終えた仔ドラゴンはうごうごとエレニの足
元を這いまわっている。時折ごろんとあおむけに転がり、パンダの
ような姿勢でもぐもぐとエレニの下衣の裾を食んだりもしている。
平和だ。
﹁︱︱なるほどね。そのブレスレットはおそらく、次の黒竜王を召
喚するものなんだろうな﹂
1384
﹁次の﹂
﹁黒竜王﹂
俺とイサトさんの視線が、地面でのたのた転がる仔ドラゴンへと
降りる。
確かに鱗は黒いが、黒竜王のような知性や威厳を感じることはで
きない。
ちょっとおばかな大型犬、といった雰囲気だ。
この仔ドラゴンが大きくなったら新たな黒竜王となるのだろうか。
﹁⋮⋮わかるよ、君たちが何を考えているのか。でも仕方ないだろ
う、御山で新たに生じた竜はこの子だけなんだよ! 将来的にはち
ゃんと凛々しくて恰好良くて威厳のある黒竜王になるはずなんだか
ら⋮⋮!﹂
親バカめいて主張するエレニの足元で、仔ドラゴンはもぐもぐも
ぐもぐ、とエレニの下衣の裾を食み続けている。
かがんだイサトさんがその鼻頭を撫でると、きゅう、と大変可愛
らしい鳴き声が響いた。かわいい。すごくかわいい。
だがどう考えてもこれは戦力にカウントしてはいけない。
エレニ
ヌメっとしたイキモノとの戦闘真っ只中にこんな愛らしい生き物
を召喚したならば、保護者に俺たちがしばき倒される。
呼び出して早々申し訳ないが、目論見が外れた以上エレニと仔ド
まどろ
ラゴンには帰ってもらうことにしよう。仔ドラゴン、エレニの足を
のしりと踏んだままうとうと微睡み始めているぞ。
﹁急に呼び出して悪かったな。山までは俺が送るよ﹂
1385
すみか
﹃家﹄の扉の行き先には黒竜王の住処も登録してある。
俺は懐から取り出した古めかしいデザインの鍵をしゃらんと鳴ら
す。ふぅ、っと風が吹きぬけて、空中に扉が浮かび上がった。
﹁イサトさん、俺はエレニを送ってくるけどイサトさんは⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁イサトさん?﹂
﹁あ、ごめん。そうだな。私はここで待っている。それと秋良青年、
向こうについたら連絡をくれないか﹂
﹁ぅん? いいよ﹂
俺はエレニを連れて﹃家﹄に入る。
これまで存在は見ていても、実際に足を踏み入れるのは初めての
エレニは興味津々といった顔をしていたものの、残念ながら素通り
である。﹃家﹄に入って扉を閉めて、もう一度開ける。そうすると、
扉の先にあるのは薄暗い黒竜王の洞窟だ。
﹁わあ、これは便利だ。妖精の領域を通り抜けることで空間をショ
ートカットしているのか﹂
腕の良い魔法職だけあって、その辺のことは感じとれるらしい。
俺はエレニに対して曖昧に頷きつつ、指輪を通してイサトさんへ
と連絡する。
﹃イサトさん、ついたぞ﹄
﹃それじゃあ、エレニに一度仔ドラゴンから離れてもらってくれる
か?﹄
﹃わかった﹄
1386
﹁エレニ、その子を下ろして少し離れてくれるか?﹂
﹁何を試す気なんだい。せっかく寝付いたのだから、起こすような
ことは⋮⋮﹂
ものすごく子育てママな苦情を言われてしまった。
それでも、エレニは仔ドラゴンを柔らかな布を集めて作った寝床
へと下ろすと、俺の頼んだ通りに仔ドラゴンから離れてくれる。
﹃イサトさん、離れたぞ﹄
﹃それじゃあ秋良青年、エレニと手をつないでくれ﹄
﹃え﹄
﹃ん?﹄
﹃マジで?﹄
﹃マジで﹄
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
﹁エレニ、手ェ貸せ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
エレニにも心底厭そうな顔をされた。
俺だって厭だよ。俺だって厭だよ。大事なことなので二度言いま
した。
﹃手、繋いだ?﹄
﹃⋮⋮⋮⋮繋いだ﹄
はた
良い年をした野郎同士が顰めッ面で手を繋いでいるという図は、
傍から見てもなかなか珍妙なものだったと思われる。
﹃それじゃあ、もう一度召喚を試す﹄
1387
﹃わかった﹄
俺は一応エレニへと、万が一仔ドラゴンだけが召喚されてしまっ
た場合は、すぐにでも俺が責任をとってエレニの下に届けると約束
して、イサトさんへと合図を送る。そのとたん、俺とエレニを中心
に暗紫の雷光がバチバチと閃いて︱︱⋮⋮ピシャァアアアン、と稲
妻の走る音と同時に、周囲の景色が綺麗に変わっていた。
目の前には﹁うわぁ﹂という顔をしたイサトさんがいる。
﹁えっ⋮⋮、どういうことなのこれ!?﹂
目を白黒させているエレニに向かって、イサトさんはふっと良い
笑顔を浮かべて見せた。
﹁大変申し上げにくいのですが﹂
本日二度目だ。
﹁はい﹂
﹁もしかして:君が黒竜王﹂
﹁!!!??﹂
先ほどは未来の黒竜王が召喚されてしまったのかと思ったものの、
黒竜王の後継者という言葉に一番ふさわしいのはエレニなのでは、
との可能性が閃いたもので、俺に確かめてもらったということらし
い。
﹁⋮⋮そうだよなあ。俺やイサトさんだけに黒竜王が遺品を残すと
は思えないもんな⋮⋮﹂
1388
﹁うむ⋮⋮﹂
神妙な顔で頷きあう俺とイサトさんの隣で、エレニがぶんぶんと
頭を左右に振っている。
﹁いやいやいや俺エルフだからね!? 半分ぐらいエルフ止めてる
自覚はあるけども、一応エルフだからね!?﹂
だんだんエレニの定義が﹁自称エルフ﹂になりつつあるが大丈夫
か。
﹁ちょっとエレニ、竜化してみないか?﹂
﹁え⋮⋮、わかった⋮⋮﹂
戸惑いつつも、イサトさんの提案にノるエレニ。
本人としても何がどうなっているのか、状況を把握したい気持ち
が強いのだろう。
エレニが瞼を下ろし、何事かを口の中で呟くと同時に、こうッ、
と風がその体を包みこむように発生した。もともと白い肌が内側か
ら艶めかしく煌めくように光りだし、やがてうっすらと透けるよう
にその肌に白銀の鱗が滲み出る。その輪郭が光に溶けるように歪ん
で形を変えて行き︱︱⋮⋮やがて、そこには一匹の白銀のドラゴン
が姿を現した。
が。
が。
が。
﹁⋮⋮明らかに黒竜王の影響が出てるな﹂
1389
﹁ええ﹂
イサトさんと頷きあう。
ずいじゅう
ドラゴンと化したエレニは、前回セントラリアを襲ったときより
も一回り以上大きくなっていた。そのフォルムも、華奢な瑞獣めい
ていたものからがっしりとした、どこか黒竜王を思わせる姿へと変
わっている。そして何より、前回は染み一つない真白だったはずの
鱗に黒銀の色合いを乗せていた。
﹁おめでとうございます。どう見ても、立派な黒竜王︵若︶です﹂
﹃ひ。ひえええええ⋮⋮﹄
ブレスの代わりに、か細い悲鳴がドラゴンの口から漏れる。
﹃あの日以来竜化なんて使ってなかったから⋮⋮っ﹄
本人は全く気付いていなかったらしい。
黒竜王は最後の最後に、自分のすべてを息子であるエレニに託し
ていったのだなあ、と良い話風にまとめてはみたものの、エレニは
予想外の展開に真っ白に燃え尽きていたのだった。合掌。
1390
もしかして:︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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おっさん五巻、8月15日に発売が決定しました!
次の更新は、29日になります。
1391
動き出せないウサギと動き出す世界
それから日を改めてマルクト・ギルロイの屋敷を探索した俺たち
であったのだが、そこで見つけたのは地下道へと繋がる穴だった。
かび
壁の向こうにぽっかりと開く、まるで奈落にでも繋がっていそう
な地下通路だ。湿った黴のような、ほのかに甘い腐臭のような臭い
が混ざりあって穴の奥から香る。
イサトさんの生活魔法で光を灯して、少し中に足を踏み入れても
みたのだが⋮⋮どうもよろしくない。少し進んだところで分かれ道
に出くわした。どうやら、この地下道はあちこちに分岐しながら、
ぐにゃぐにゃと曲がりくねって続いているらしい。喩えるならばア
リの巣だ。下手に進むと、自分たちがどこにいるのか、方向感覚を
失いかねない。
最悪、俺たちならひたすら垂直に地上に向けて穴を掘りながら脱
出する、という手も使えなくもないが、そんな穴ばかり開けまくっ
ていては地下の探索が済むより先に地上が崩落する危険性が高いし、
いきなり地面から俺たちにコンニチハされてしまう善良なセントラ
リアの市民の心臓にも悪い。
ありったけの食材をインベントリに詰め、力技で強引に地下ダン
ジョンを踏破するという作戦も浮かびはしたものの、薄暗く劣悪な
環境に何日間も閉じ込められるというのはぞっとしない。
﹁アリアドネの糸作戦はどうだ﹂
﹁アリアドネ?﹂
1392
﹁ミノタウロスの迷宮に挑んだ英雄が使った手だ。でっかい糸巻き
を用意して、糸の端を入り口に結んでから洞窟探索。糸をたどれば
入り口には帰れる﹂
﹁それ、地下からは確実に出られるようにはなるけど、どこをどう
調べたかがわからなくなりそうじゃないか?﹂
﹁⋮⋮確かに﹂
一度の分岐ぐらいならなんとかなるが、分岐した道がさらに分岐、
その先でさらに分岐、なんてことになっていた場合、糸をたどって
戻ったりしたらどこまで調べたかがわからなくなりそうだ。
今度は俺から提案してみる。
﹁右手法は? 右手法ならある程度しらみつぶしに探せるような気
が﹂
右手法、というのは、迷路における壁の切れ目は入り口かゴール
だ、という理屈に基づき、ひたすら右手で壁を触って進めばゴール
か入り口のどちらかにはたどり着く、という方法である。
﹁でもそれ途中では戻れなくないか﹂
﹁⋮⋮確かに﹂
右手法で挑む場合、ゴールか入り口のどちらかにたどり着くまで
ずっと地下通路にいなければいけない。さらに自分で提案しておい
てなんだが、この右手法には壁の切れ目を探す、という理屈である
以上、迷路が立体になるとあっさりと詰む。
どうしたものか、と思い悩んだ末に、俺たちはこの世界における
冒険者経験の豊富なクロードさんに意見を聞いてみることにした。
1393
クロードさんたちが狩りを終え、教会に戻ってくる夜を狙って訪
ねてみる。
俺たちの話を聞き終えると、クロードさんは悩ましげに視線を彷
徨わせつつ、口を開いた。
﹁あー⋮⋮そういうことなら、うちにぴったりの奴がいることは、
いる﹂
﹁ぴったり?﹂
﹁いることはいる?﹂
なんだか複雑な言い回しだ。
言葉に迷うように、クロードさんはわしゃわしゃとその赤い髪を
掻き混ぜる。
それが、何か悩んでいたり戸惑っているときの癖だということは
この短い間にも俺は学んでいた。
﹁何か、問題があるのか?﹂
﹁や、問題、というか⋮⋮⋮⋮そいつは腕の良いマッパーなんだが﹂
﹁マッパー!﹂
﹁まっぱ?﹂
まっぱ
まっぱ、との響きで俺の中で思い浮かぶのは真ッ裸であるわけな
のだが、﹁うちに腕の良い全裸がいる﹂とクロードさんにこのタイ
ミングでカミングアウトされるのはさすがにわけがわからないし、
それにイサトさんが嬉しそうにしているのもよくわからない。
けげん
怪訝そうな顔をしていた俺に、イサトさんが小さく笑って教えて
くれた。
1394
﹁マッパーっていうのは冒険者の中でも地図を作る技能がある人の
ことを言うんだ。ちなみに地図を作る技能そのもののことはマッピ
ング、って言ったりするよ﹂
﹁なるほど﹂
マッピングをする人、でマッパーか。
良かった。
全裸の技術者を薦められたわけではなかった。
﹁ただどうも⋮⋮、少しだけ問題を抱えていてな﹂
﹁問題?﹂
﹁腕の良いマッパーなんだが⋮⋮若干アイツ自身が現状人生の迷子
と言うかなんつーか﹂
人生の迷子。
思わず俺とイサトさんは顔を見合わせる。
クロードさんは少し言いにくそうに口ごもって、それからそっと
その詳細を口にした。
﹁⋮⋮マルクト・ギルロイの件で家族を失ってるんだよ。そのせい
で、どうもまだ自分がどうしたいのかがわからねェみたいでな﹂
﹁︱︱︱、﹂
なんと言っていいのか、言葉を失う。
﹁オレたちを助けようとしなかったセントラリアの連中にも、アイ
ツは怒ってる。でも、家族との思い出が残る街を離れる気にもなれ
ねェ。それで、どうしようもなくなっちまってるんだろうな﹂
﹁⋮⋮亡くしたのは?﹂
﹁両親と小せェ妹が一人だ。アイツ、借金は全部自分が背負うから、
1395
って言ってセントラリアに一人残って、両親と妹をエスタイースト
に逃がした︱︱⋮⋮つもりだったんだよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮遺品は?﹂
﹁あのくそったれな地下で見つかったよ﹂
﹁そっか﹂
⋮⋮辛い。
助けたと思っていたはずの家族が、己の知らないところで犠牲に
なっていたと知ったときの胸の痛みはいかほどだっただろうか。
想像するだけで、俺まで苦しくなる。
﹁俺としては、その人が仕事を受けてくれるなら是非頼みたいとは
思ってる。でも、そういう事情なら無理強いはしたくないな。イサ
トさんは?﹂
﹁同感だ。まだ、家族を失って間もないのだし︱︱⋮⋮、別段もう
しばらく悲しみに浸っていても問題はないのでは?﹂
﹁ああ、こっちとしては問題はねェ。ただ⋮⋮、アイツが一人で孤
立していくのが見てられなくてな﹂
﹁孤立⋮⋮?﹂
何か意外な言葉を聞いたような気がした。
獣人たちはそれ以外のセントラリアの人々に迫害されていたこと
もあり、俺たちから見ていても結束力の強い種族だ。家族や親族と
いった枠を超えて、獣人同士で身を寄せあい、力を合わせて生活し
ているように見える。
﹁アイツがオレたちから距離を置きたがるんだよ。⋮⋮⋮⋮アイツ
からすると、商人や騎士となれ合ってることが裏切りに見えるのか
もしれねェな﹂
﹁⋮⋮そう、か﹂
1396
つい眉尻が下がる。
クロードさんは、団長さんにはっきり宣言したように﹁許しては
いない﹂。
﹁許してはいない﹂し、きっと﹁許せない﹂のだ。
それでも、クロードさんは獣人たちがセントラリアの民として不
自由なく生活できる未来のために努力して共存の道を選ぼうとして
いる。
それが、同じ獣人の目から見て裏切りに見える、というのはなん
だか酷く苦い現実だった。
﹁変な話だがな﹂
ぐしゃ、とクロードさんが鮮やかな緋色の髪を掻き混ぜる。
﹁オレや、オレの仲間のほとんどはあんまり怒る気持ちがねェんだ。
や、ねェ、っていうわけでもねェか。許せねェとは思うし、きっと
今でもマルクト・ギルロイの野郎が目の前にいたらぶん殴ってやり
たいとは思う。でも⋮⋮、殺してやりたいとは思わないんじゃねェ
かって思う﹂
どこか溜息交じりに語るその声は、俺たちに向かって話して聞か
せるというよりもどこか独り言のようにも響く。
﹁⋮⋮アレを見ちまってるからだろうなあ。あの、真っ黒なバケモ
ノ﹂
1397
︱︱どろり、とヌメりを帯びた黒い人型。
シャトー・ノワール
マルクト・ギルロイに﹁坊や﹂と呼ばれたおぞましい異形。
あの夜、黒の城にて追い詰められていた獣人たちが目にした、マ
ルクト・ギルロイを狂わせたモノだ。
﹁あんなモノに魅入られたら、誰だって狂っちまう。あんなモンに
憑かれたら︱︱⋮自分だって何をするかわからねェな、って思っち
まったからなんだろう﹂
そう、か。
クロードさんや、クロードさんと共にアレを見た獣人たちの中で
は、もう怒りの対象がマルクト・ギルロイではなくなっているのか
もしれない。
あのヌメっとした人型こそが、マルクト・ギルロイを狂気へと誘
い、個人的な悲劇を大勢の獣人たちをも巻き込む惨劇へと変えてし
まった真犯人だ。
クロードさんはそれをわかってしまったからこそ、マルクト・ギ
ルロイの扇動に乗せられて獣人たちを迫害した人々に対する﹁許せ
ない﹂という気持ちはあっても、復讐しようというような激しい怒
りに心を支配されることがないのかもしれない。
ふ、と重く沈みがちな空気を切り替えるようにクロードさんが息
を吐く。
﹁んじゃ、そいつにちょっと声かけてみる。もし断られたらアレだ、
あの商人のツテで誰かいねェが聞いてみとく﹂
﹁ああ、わかった﹂
﹁ありがとう、助かる﹂
1398
クロードさんに礼を言って、俺とイサトさんは教会を後にする。
てくてくと宿に向かう道すがら、しばらくの間、俺とイサトさん
は無言だった。
やがて、イサトさんがぼんやりと空を仰いで呟いた。
﹁難しいなあ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
しみじみと頷く。
悪いヤツをぶちのめしました。
めでたし、めでたし。
そう終わることが出来たのなら、どれだけ楽だろう。
けれど、現実はそこで終わらずに続いていく。
人々の営みは続いていく。
だからこその難しさだ。
︱︱⋮⋮俺と、イサトさんにも続きがあるんだろうか。
ふと、そんなことを思った。
物語であれば、元の世界に戻ることが俺たちの結末だろう。
元の世界に戻った後、俺とイサトさんにはどんな続きが待ってい
るのだろう。
ちらりと窺ったイサトさんの横顔は、どこか物憂げに見えた。
1399
クロードさんの紹介で力を貸すことにした、と言って一人の青年
が俺たちに会いにきたのはその次の日のことだった。
﹁⋮⋮マッピングでご協力させていただくことになったシオンです﹂
そう言って軽く下げられた青年の頭には、柔らかそうな蜂蜜色の
髪からにゅっと白いウサギの耳が生えていた。
ウサギ系の獣人であるらしい。
﹁俺はアキラだ。手伝ってくれてありがとな﹂
﹁私はイサトだよ。これからよろしく﹂
﹁よろしくお願いします﹂
淡々とそう挨拶をした彼は、俺より少し若い程度の年齢に見える。
1400
さ
二十歳前後、といったところだろうか。淡い水色の双眸は酷く醒め
た色を宿していて、挨拶をした後はただ静かに伏せられている。
﹁クロードさんから、話は聞いてるか?﹂
﹁ええ。⋮⋮マルクト・ギルロイの屋敷を探索すると聞いています﹂
﹁正確にはそこから繋がる地下通路、だな。迷路みたいに入り組ん
でいて、俺たちだけじゃどうしようもなかったんだ﹂
﹁改めて言っておくと、何が待ち構えているかわからないし、もし
かしたら危険な目にも遭わせてしまうかもしれない。それでも大丈
夫か?﹂
﹁はい﹂
返事は即答だった。
すさ
迷いもなく、彼は頷く。
自棄というほど荒んではいないものの、どこか投げやりな空気を
感じる。
本当なら、こんな状態の彼をどんな危険が潜んでいるとも知れな
い地下に連れていくのは避けた方が良いのだろう。
けれど、昨日のクロードさんの言葉を思い出す。
クロードさんは、マルクト・ギルロイの真実を知ったことで、己
のうちにある怒りをコントロールすることが出来たのだと言ってい
た。
それならば、俺たちと行動を共にすることで⋮⋮もしかしたら、
彼もまた、何か自分の中にある胸のつかえを整理することが出来る
かもしれない。
﹁それじゃあ、行くか﹂
﹁よし!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1401
努めて明るく上げた声にも、彼はただ静かに双眸を伏せるだけだ
った。
彼とともに地下を探索するようになって数日が過ぎた。
クロードさんが俺たちに紹介するだけあって、彼は実際に優秀な
マッパーだった。細かくマス目の描かれた方眼用紙には、俺たちが
歩んだ道のりが次々と描かれていく。
おかげで俺たちの探索は迷うことなく着実に進んで行っていたの
だが⋮⋮まあ、問題があるとしたら、すこぶる気まずいことぐらい
だろうか。
彼は、俺たちと会話をする気がないようだった。
最初はマッピングに神経を使っているのだろうと思って俺たちも
なるべく静かにしていたのだけれども、昼食などで挟む休憩の間も
1402
彼は俺たちと会話を楽しもうとはしなかった。
声をかければ、必要最低限の返事は返ってくる。
だが、それだけだ。
会話のキャッチボールが成立しない。
ただただ静かに、淡々と、黙々と、彼は自分に課せられた仕事を
こなし続ける。
その一方で、セントラリアの人々と獣人との関係はわかりやすい
形で変化が見え始めていた。
俺たちは地下の探索を終えると、彼を教会まで送っていくのだが
⋮⋮。
最初は獣人たちしかいなかった教会に、ちらちら騎士たちの姿が
交ざるようになっていたのだ。
どうやら、獣人と騎士と商人の間では正式に契約が結ばれたらし
い。
毎日三人一組の騎士が教会に派遣され、狩りチームに同行して護
衛を務めるようになったのだそうだ。
その効果はなかなか良好らしく、狩りの効率がよくなったと獣人
たちはもちろん、レティシアや商人もほくほく顔をしていたし、騎
士たちはより良い剣を作製するための素材を手に入れられて嬉しそ
うにしている。
最初はまだ少しぎこちなかった彼らだが、最近では俺たちが教会
を訪ねる頃には騎士と獣人が交ざって酒を飲んでいる、というよう
な光景を見かけることも増えてきた。
そんな光景に、彼、シオンは酷く複雑そうな顔をしていたのだが
⋮⋮。
ある日のことだ。
1403
俺たちがいつものように探索を終えて教会を訪れると、そこでは
何か大騒ぎが起きていた。
教会の中から、男たちの野太いどよめきが聞こえている。
﹁⋮⋮何かあったのか?﹂
﹁何か悪いことが起きた、というような感じではないけれど﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
イサトさんの言うとおり、どよどよとざわめきは賑わっているが、
怒鳴り声や悲鳴といった風ではない。あえて近いものをあげるとし
たら、スポーツバーの喧騒に似ているかもしれない。
首を傾げつつ教会の中に足を踏み入れれば、騒ぎの大本はすぐに
目に飛び込んできた。アルテオだ。目が爛々と輝き、興奮しきった
ように頬が紅潮している。彼は俺たちに気付くと、まるで飛びかか
るかのような勢いで駆け寄ってきた。
﹁アキラ様!!!!!﹂
﹁お、おう?﹂
﹁これ、見ていただけますか!!!!﹂
そう言って突き出された手の中には、ころん、と白い牙のような
ものが転がっている。
﹁これは⋮⋮、ダークバットの牙、か?﹂
確か、アルテオが作りたがっている剣の素材の一つがそれだった
はずだ。
俺の問いに、アルテオは首がもげるんじゃないかという勢いでぶ
1404
んぶんと頭を縦に振る。
さて、それがどうしたのだろう。
剣の素材が手に入ったから、というのには興奮しすぎだ。
﹁これ⋮⋮ッ、自分が手に入れたんです!!﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁え?﹂
イサトさんと声がハモる。
自分が、手に入れた。
その言葉と、アルテオのこの興奮しっぷりから考えてそれが意味
するのは⋮⋮
﹁まさか、アルテオが倒したダークバットが落とした、ってことか
?﹂
﹁はい!!!!﹂
すごい勢いで肯定された。
アルテオの耳を確認する。
俺と同じ、至って普通の人間の形をした耳だ。
念のために、本人にも問う。
﹁アルテオ、お前、人間だよな?﹂
﹁はい!! 自分、人間です!! 両親、祖父、曾祖父の代から人
間です!!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
思わずイサトさんと目を合わせる。
1405
つまり。
それは。
人間であるアルテオに、女神の恵みが与えられた、ということで
いいのか?
それでようやく、周囲の大騒ぎっぷりに納得した。
これまで人間にはほとんど女神の恵みが手に入れられない、と言
われてきていたのだ。そんな中で、偶然とはいえ女神の恵みが手に
入ったともなればここまで大騒ぎになるのもわかる。
﹁良かったな、アルテオ﹂
﹁はい!! きっと獣人の皆さんが力を貸してくださったおかげだ
と思います! あ、女神にも感謝をしなくては!!﹂
嬉しそうにそう言って、アルテオは聖堂へとすっ飛んでいく。
有言実行、さっそく女神へと感謝を祈るのだろう。
そして︱︱⋮⋮それが、きっかけだった。
アルテオを皮切りに、狩りに同行する騎士たちが女神の恵みを手
に入れることがぽつぽつと増えてきたのだ。
増えた、とは言っても量としてはわずかなものだ。
一日狩りに同行して、騎士のうちの一人が一つ手に入れられるか
どうか。
だがそれでも、これまで﹁人の身では女神の恵みは得られない﹂
と言われるほどだった確率に比べれば驚くほどの獲得率だ。
﹁もしかしたら︱︱⋮⋮、黒竜王の魂が世界に還元されたから、な
のかもしれないな﹂
1406
めぐ
﹁ああそっか。女神の恵みが手に入らなくなったのは世界を廻る女
神の力が失われたからだって言っていたもんな﹂
黒竜王がその身にため込んでいた女神の恵みが世界に還ったため、
人である騎士たちにも女神の恵みが再び与えられるようになった、
というのは筋の通った仮説だ。
そんなことをイサトさんと話す傍らで、俺たちが気にかけていた
のは獣人たちの反応だった。
これまで、﹁獣人しか女神の恵みを手に入れることができない﹂
ということが獣人たちにとっては迫害の理由でもあり、それと同時
に強みでもあった。
その優位性を失うことについての、危機感はないのだろうか。
教会の片隅で、仕事あがりのビールを美味しそうに傾けているク
ロードさんと商人へと聞いてみる。
⋮⋮というか、お前ら教会で酒飲んでいいのか。
﹁まあ、確かにライバルが増える可能性がある、というのは問題だ
な。だが、そういったことにも対処してこそ商人だろう。レスタロ
イドの末娘だって、その辺はしっかり考えている﹂
商人のおっさんは、ほろ良い気分でうっすら頬を赤く染めつつも
強気だ。
その傍らでクロードさんも、
﹁別にいいんじゃねェか。もともとオレらしか手に入れられない、
ルーター
ってのがおかしかったんだ。これで他の連中も狩れるようになりゃ
あ略奪者なんて呼ばれずにすむしな﹂
1407
なんて満足げだ。
クロードさんにとっては、女神の恵みの独占、なんていう歪んだ
利点よりも、いかにセントラリアに溶け込み、共存を成立させるか、
の方が大事なのだな、としみじみ思う。
そんな連日のお祭り騒ぎの中で、シオンだけが思いつめたような
色をその表情に滲ませていた。
1408
動き出せないウサギと動き出す世界︵後書き︶
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1409
おっさんと守りたいもの
シオンの焦りは、日に日に色濃くなっていた。
探索の間黙りこみ、俺たちと話そうとしないのは今までと変わら
ないのだが、気もそぞろに難しい顔で何か考え込んでいるのが伝わ
ってくる。
それでも、マッピングの腕には影響がないあたり、流石クロード
さんがおすすめするマッパーだけはある、というところだろうか。
その日もしばらく歩き続けていると、延々と続くかのように見え
た細い道の先に、広く開けた空間があった。天井、というか地上ま
での空間が高く取られており、ちょっとしたホールのようになって
いる。
﹁ここって⋮⋮﹂
何か理由があって、こんな空間が作られているのだろうか。
これまで特に罠らしい罠もなく、モンスターに襲われることもな
く順調にここまでやってきていた俺たちには明らかに油断があった。
シオンがふと何かに気付いたように顔を上げ、今まで広げていた
マッピング用の方眼用紙とは別に地図を懐から取り出して広げる。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
思いついた内容を確認するように、彼は俺たちより数歩先行して
1410
その広間へと足を踏み入れていく。ずるッ、と何かに滑ったように
その身体が傾いたときにも、俺は最初シオンがぬかるんだ地面を踏
んだのだとばかり思っていた。おそらく、シオン自身もそう思って
いただろう。
最初に異変に気付いたのはイサトさんだ。
﹁秋良青年⋮⋮ッ!﹂
﹁⋮⋮ッ!?﹂
名前を呼ばれて、気付く。
シオンの足元にはぬるりとぬかるむ黒があった。
その黒はシオンの足を絡めとるようにじわりと裾から這い上がっ
ていく。
﹁なんだ、これ⋮⋮っ!?﹂
ほど
振り解こうとシオンが足を振るものの、びたびたと波打つ黒は糸
を引くように滴るだけでシオンの足を離そうとはしない。
それに合わせて、広間の地面にうっすらと厭な光沢を帯びた黒が
複雑な魔法陣を描いているのが浮かび上がった。
ちり、と首裏の毛が逆立つようなおぞましさを感じる。
﹁シオン!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
絡みつく黒を振り解こうとしていたシオンの動きが止まっている。
かく、と脱力したように緩くその顔が虚空を見上げる。
淡い色をした金髪の陰から微かに見えるその顔は、虚ろだ。ただ
その唇だけがブツブツと何かを呟いている。
1411
﹁⋮⋮殺す。全部殺す。マルクト・ギルロイを殺す。マルクト・ギ
ルロイに協力した商人を殺す。僕たちを守ってくれなかった騎士も
殺す。見て見ぬふりをし続けてきた街の連中も殺す。今更商人や騎
士たちと慣れあう獣人も殺す。皆死ねばいい。皆僕が殺してやる。
殺す。殺す。殺す。殺す。殺す﹂
どう考えても普通じゃない。
双眸に力はなく、淡い水色の絵の具をそのまま塗りたくったかの
ように光がない。その癖、ぶつぶつとその唇から零れる殺意だけが
じりじりと熱を帯びていく様が異様だった。
このままではシオンがヌメっとした何かに取り込まれる。
助けに行きたいものの、俺まで取り込まれるのも御免だ。
どうしたら魔法陣に触れずにそのシオンまでの数歩の距離を削る
ことができるかと考えていたところで、イサトさんがターン、と高
らかな音を立ててしゃらんら☆を地面へと突き立てた。
ばぶしゅ、と奇妙な音と共に地面に描かれていた魔法陣が、一つ
の生き物のように波打つ。
﹁今だ⋮⋮!﹂
﹁おう!﹂
黒くさざめく魔法陣を蹴散らして一歩踏み込み、俺はシオンの襟
首をひっつかむとそのままぐいと強く引く。火事場の馬鹿力と言う
べきか、勢いをつけすぎたと言うべきか、脱力しきって棒立ちにな
っていたシオンの細身の身体が地面から浮いて弧を描くようにして
1412
俺の胸へと飛び込んでくる。それを受け止めた勢いで、背後に倒れ
ながらも、シオンの足に執念深く絡みつく汚泥めいた黒が糸を引く
のが目に入った。
﹁イサトさん!﹂
﹁任せろ!﹂
横合いから一閃されたドリーミィピンクの軌跡が、しつこい黒を
ぶつりと断ち切る。シオンの体重ごと背を地面に打ち付けて若干息
が詰まりつつも、すぐさま上身を起こす俺を庇うように仁王立ちす
るイサトさん。だが、ヌメっとする魔法陣はそれ以上の追撃を試み
るつもりはないようだった。
生き物のようにざわめいていた魔法陣の表面がゆっくりと凪いで
いき、やがて俺たちが最初見たとき同様に厭なヌメりを失って闇へ
と沈んでいく。
よくよく見れば地面に何か描かれているな、という程度にはわか
るものの、これは初見で気付くのは無理だろう。
ほう、とイサトさんと共に安堵の息を吐きつつ、腕の中のシオン
を見下ろした。
意識を失っているのか、ぐったりと目を閉じた顔色は非常に悪い。
念のためにポーションを唇に含ませたところで、うっすらとその
瞼が開いた。
まだ多少ぼんやりとはしているものの、その瞳には光が戻ってい
る。
良かった。
﹁あ⋮⋮、僕、は⋮⋮⋮⋮﹂
1413
﹁大丈夫か? 起きられるようなら、これ、飲んでくれ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
襲われたショックもあってか、いつにもなく素直に頷く。
普段なら俺やイサトさんが食事を差し入れしようとしても、そこ
までしていただく理由がありませんから、なんて固辞されてしまう
ところなのだが。
﹁具合はどうだろう。どこか、身体におかしなところは残っていな
いだろうか﹂
﹁⋮⋮大丈夫、です﹂
そう、イサトさんに答える声音もどこか頼りなげな、年相応の響
きを帯びている。いつもはしゃっきりと伸びる白いウサ耳までが、
今はへにゃりと垂れていた。
俺たちは、彼が回復するまで休憩のつもりで一緒になって腰を下
ろす。
ちびちびと少しずつポーションを飲みながら、シオンはぽつりと
口を開いた。
﹁⋮⋮アレが、マルクト・ギルロイを狂わせたもの、なんですか﹂
その語尾の上がらない、どこか確信めいた問いかけに俺は頷く。
﹁⋮⋮そう、ですか﹂
それきり、シオンは再び黙り込んだ。
だがその沈黙は、今までのように俺たちを拒絶しようとしてのも
のではなく、なんだか彼自身が言葉に迷っているかのようなものだ
った。
1414
シオンの回復を待って、俺たちは本日の探索を切り上げることに
する。
このまま探索を続けるにしても、あの魔法陣をどうにかしない限
りは先に進めないだろうし、シオンを連れたまま挑むわけにもいか
ない。
そんなわけで、今日のところは切り上げることにした俺たちだっ
た。
シオンには、あの魔法陣をどうにかしたらまたマッパーとして協
力してほしいと頼んである。
1415
黴の臭いの立ち込める地下道を抜けて、マルクト・ギルロイの屋
敷の地下に出ようとしたところでふと気付いた。
地下室に、誰かいる。
ゆら、ゆら、と小さく揺れる明かり。
場所は、獣人たちの閉じ込められていた檻のあたりだ。
イサトさんとシオンを庇うように、俺はわざと足音を立てつつ一
歩前に踏み出して⋮⋮その足音に、はっとしたように振り返ったの
は、燭台を手にした二人の騎士だった。
﹁ああ、探索からお戻りになったんですね﹂
﹁探索、お疲れさまです﹂
二人は闇から抜け出して姿を現したのが俺であったことに安心し
たように、ほうと息を吐く。その声を聞いて地下通路からイサトさ
んとシオンも姿を現した。
﹁そっちは何をしてるんだ?﹂
ここは立ち入り禁止のはずだ。
騎士たちの見張りはあくまでマルクト・ギルロイの屋敷への部外
者の侵入を防ぐためのものだ。なので、その職務に屋敷内の見回り
などは含まれていない、はずだ。
だというのに、彼らはこんな地下室で何をしているというのか。
俺の怪訝そうな眼差しに少し怯んだように彼らは顔を見合わせる
と、へにゃりと眉尻を下げつつ、燭台を持つのとは逆の手を差し出
した。
1416
その手の中にあったのは︱︱⋮少し、元気を失ってくにゃりと項
垂れた野花だ。
彼らはちらちらとシオンへと気遣うような視線を向けながら言葉
を続ける。
﹁その⋮⋮勝手なことをして気を悪くさせてしまったら申し訳ない
のですが、俺たちはいつもこうしてここに花を供えさせてもらって
いるのです﹂
﹁朝、最初の当番と、夜番が花を供えているんです。私たちも、任
務を引き継ぐ前に花を代えようと思って﹂
言われて見やれば、確かに檻の傍らに、小さく慎ましやかな祭壇
が作られ、そこに色とりどりの花が供えられているのがわかった。
ここで虐げられ、マルクト・ギルロイの坊やに喰われていった人々
を弔うための花だ。
﹁⋮⋮どうして、花を﹂
ぽつり、と小さくシオンが問う。
言葉に迷うように視線を彷徨わせながらも、騎士たちはその問い
に真剣に答える。
﹁⋮⋮謝って、許されることじゃないことはわかっています﹂
﹁ですが、せめて亡くなった人たちの魂が安らかであるようにと、
祈らせてほしいと思ったんです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
シオンは、少しの間黙ったままだった。
1417
﹁⋮⋮僕も、祈らせてもらっても良いですか﹂
﹁っ⋮⋮!﹂
﹁もちろん、です!﹂
騎士二人が、シオンを招くように二手に分かれて道を作る。
そこへシオンはおずおずと、それでも歩み寄っていった。
手を合わせ、頭を垂れて犠牲になった人たちの冥福を祈る。
シオンの背後で、俺たちもそれに倣った。
ヌメっとした人型に喰われ、命を落としてもなお女神の下に還る
ことも敵わなかった彼らの魂は、今頃女神の力として再びこの世界
を廻っているのだろうか。
祈りを終えて、俺たちは騎士たちと共に地上へと上がる。
見張りの騎士たちとも会釈を交わしてから、帰路についた。
教会に向かって歩きながらも、しばらくの間シオンは黙り込んだ
ままだった。
それが、ふと小さく口を開いたのは周囲の人通りがまばらになり
始める通りに差し掛かってからのことだ。
﹁⋮⋮⋮⋮僕は、ずっと動くことができませんでした﹂
俺たちに聞かせるための言葉、というよりも、それは小さな独白
だった。
﹁家族の思い出の残るセントラリアを捨てたくはありませんでした。
その一方で、僕はセントラリアの人々を許すことも、出来なかった。
クロードさんたちが商人や騎士たちと共に生きようとすることが許
せなかった﹂
1418
俺とイサトさんは、その独り言のような言葉を静かに聞く。
﹁街を離れられず、けれど新しく生活を始めることも出来なくて、
皆が進み始めた中僕だけが取り残されているような気がして、焦り
ました﹂
クロードさんたちは、レティシアと一緒に仕事を始めた。
その仕事に、元ギルロイ商会の、もともとは獣人たちを苦しめて
いたあの商人も参加した。騎士たちとも、取引が始まった。そして、
騎士たちが狩りに同行するようになり、騎士たちまでが女神の恵み
を得られるようになった。
家族を失い、自分がどうしたいのか、セントラリアでどう生きて
いきたいのかがわからなくなってしまっていたシオンの焦りは理解
できるような気がした。
﹁進みたい方向は、見えたのか?﹂
﹁⋮⋮正確には進みたくない方向、ですけど﹂
小さく苦笑して、シオンが肩を竦める。
﹁さっき、あの魔法陣に捕まったとき⋮⋮、頭の中が真っ赤になり
ました。ぐつぐつと煮えたぎって、怒りや憎しみ以外のことが考え
られなくなった。僕にとって面白くない連中は全部殺してやろう、
て思いました。それはきっと、僕の中にある恨みで、憎しみで、間
違ってはいないんです。僕自身、その憎悪の感情が強すぎるからこ
そ動きだせないのかとも思ってました﹂
かつて、もしかしたら家族の復讐をしたならば少しは気持ちが楽
1419
になるのかと考えていたこともあるのだ、と。
まるで、なんでもないことのようにシオンは言う。
もしかすると、そんな不安から解放されたからこその気軽さだっ
たのかもしれない。小さく、困ったように眉尻を下げてシオンは笑
う。
﹁⋮⋮でもね、さっきのことがあって思ったんです。僕は、殺した
くない。新しく始まりかけているクロードさんたちの生活を、ぶち
壊したくない、て思ったんです。だから、貴方たちに止めてもらえ
て良かった﹂
﹁そう、か﹂
なんだか、息が詰まるような気がした。
脳裏に、マルクト・ギルロイの最期が過る。
最期の瞬間、崩れゆく坊やを抱きしめたマルクト・ギルロイの顔
に浮かんでいたのは、どこか安堵めいた微笑みだった。
彼があんな顔をして逝ったのは、最後の最後に自分の暴走を止め
てくれる者が現れたから、だったのだろうか。
﹁君は、これからどうしたいのかがわかったんだろうか﹂
ひと
﹁⋮⋮少しは、わかったように思います。さっき、騎士の人たちが
死んだ獣人たちのために祈ってくれていたでしょう?﹂
﹁ああ、そうだな﹂
﹁それを見て、僕が欲しかったのはこれなのかもしれない、て思っ
たんです﹂
﹁これ?﹂
﹁僕が、クロードさんたちと一緒になって動きだせなかった一番の
理由って、あの人たちがなくしたものをなるべく見ないようにして
1420
いることが厭だったからなんだな、って思って﹂
﹁なくしたものを⋮⋮、見ないように﹂
﹁はい。クロードさんたちも騎士も、商人も、街の人たちも、努力
して共に歩き出そうとはしています。でも、だからこそ死んだ人た
ちのことをなかったことにしているような、気がして﹂
ああ、そうか。
クロードさんは﹁許せない﹂とはっきりと言った。
商人もまた﹁許されるつもりもない﹂とはっきり口にした。
彼らはお互いに許すつもりも、許されるつもりもないまま、ちょ
っと言い方を変えると表面を取り繕うことで共存を目指している。
クロードさんたちが亡くなった人たちの死を悼んでいない、とい
うことはないだろう。けれどそれでも、クロードさんたちは﹁なん
でもない日常を装い表面を取り繕う﹂ためにその死には触れない。
商人も、許されるつもりがないからこそ、あえてその死に触れよう
とはしない。
団長さんがクロードさんに謝ったときのことを、思い出す。
正面から謝罪した団長さんに、クロードさんは戸惑っていた。
そして渋々口にしたのが﹁許す気はない﹂という本音だった。
きっとあれは、本当ならクロードさんが騎士や商人のようなかつ
て加害者の立場であったセントラリアの住人たちと共存を試みる中
では、決して言いたくなかった本音だろう。けれど、団長さんがあ
まりにも真っ直ぐに正面から謝罪を口にしたため、隠しておけなく
なったのだ。
許すための努力はしている。
新しくやり直すための努力を、している。
1421
そのためにクロードさんたちは痛みや、憎しみを忘れたふりをし
て、なるべく見ないように、している。
シオンが受け入れられなかったのは、きっとそれなのだ。
﹁僕は⋮⋮僕の亡くした家族のことを、忘れたくない。忘れて、ほ
しくない。そう、思うんです。だから⋮⋮僕は、僕なりに進もうと
思います﹂
そう言って、へんにゃりと耳を下げて笑うシオンは、どこか憑き
物が落ちたような優しい顔をしていた。
1422
シオンを教会まで送り届けた後、イサトさんと共にのんびり歩く。
お互いに言葉はなかった。
教会が近いせいか、周囲には人の姿もあれば獣人の姿もある。
いつもよりも早い時間だからだろう。
きゃっきゃとはしゃぐ子どもの声が聞こえる。
ぱたぱたと軽やかに視界の端を駆け抜けていく子どもたちの中に
も、獣耳のついた子どもと、人の子どもとがさりげなく交ざってい
るように見えた。
平和だ。
平和な光景だ。
そんなのをなんとなしに眺めながら歩いている中で、ふと、イサ
トさんの手が持ち上がってトン、と俺の背を柔らかに撫でた。
﹁イサトさん?﹂
﹁⋮⋮ん。なんとなく﹂
﹁そっか、なんとなくか﹂
俺も、なんとなくイサトさんの方へと身体を傾ける。
触れ合う肩と肩。
イサトさんの柔らかな体温が伝わってくる。
﹁⋮⋮俺さ﹂
﹁うん﹂
﹁マルクト・ギルロイを倒したことを後悔はしてない﹂
﹁うん﹂
マルクト・ギルロイは俺たちを殺すつもりで襲ってきた相手だ。
1423
俺は俺の大切な、死んでほしくない人々を守るために戦った。
その結果、マルクト・ギルロイが斃れた。
だから俺は、マルクト・ギルロイを斃したことを後悔はしていな
い。
けれど︱︱⋮⋮
﹁⋮⋮助けて、やれたら良かったとは思う﹂
それは小さく零れた本音だった。
マルクト・ギルロイの日記に触れて、俺たちは彼の身に何が起き
たのかを一部ではあれ知ることができた。
マルクト・ギルロイが暴走していたのは事実だし、彼が大勢の獣
人たちを犠牲にしたのも事実だ。
それでも、あの日記に綴られていた悲しみは善良な父親のもので、
マルクト・ギルロイの心が少しずつ壊れていくのが、壊されていく
のが切実に伝わってきた。
もし何かやり方を変えていたら、マルクト・ギルロイをも救う手
立てがあったのではないか、とは俺の頭のどこかに常にある蟠りの
一つだった。
そろり、とイサトさんの手が俺の背を撫でる。
﹁君は、マルクト・ギルロイを救ったんだ﹂
﹁⋮⋮俺が、じゃなくて俺たちが、だ﹂
﹁⋮⋮ぅん﹂
最期、息子と共に逝く瞬間。
マルクト・ギルロイは安らかな、穏やかな顔をしていた。
1424
シオンが言うように。
あの表情が、﹃止めてもらえた﹄ことへのものだとしたならば。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
俺とイサトさんは、肩を並べて穏やかな喧騒の中を歩く。
夕暮れ時の、赤みを帯びた日差しが柔らかに周囲を照らし出して
いる。
そんな中、見慣れた顔が屋台を覗いている姿が目に入った。
レティシアと、エリサとライザだ。
エリサとライザがレティシアの両脇を挟んで、三人で夕食時に向
けて並び始めた屋台を冷やかしては楽しそうに笑みを浮かべている。
﹁⋮⋮守りたいよな﹂
﹁守りたいなあ﹂
視線を交わしあって、頷く。
するりとイサトさんの手が俺の背から離れていった。
俺も、イサトさんの方に傾いでいた身体をしゃんと立て直す。
それから俺たちは片手をあげると、三人に向かって声をかけた。
1425
おっさんと守りたいもの︵後書き︶
ここまでお読みいただいてありがとうございます。
Pt、感想、お気に入り登録、励みになっております!
今回短めだったため、次回の更新は8/3日を予定しています!
次はおそらく戦闘回。
1426
おっさんと虚ろの王
その次の日。
俺とイサトさんは、シオンがこれまでに作成してくれたマップを
片手に昨日見つけた魔法陣の下へと再び戻っていた。
地下の広場には、昨日から変化は見られない。
相変わらず薄闇に溶けるように、広場の地面には黒々とした魔法
陣が描かれている。それを通路から眺めつつ、俺はもう一枚の地図
を広げた。
こちらは、地上のセントラリアを描いた地図だ。
昨日、シオンが気付いたのだ。
シオンはこれ気付いて、地図を広げたところで襲われた。
二枚の地図を、地下通路の起点であるマルクト・ギルロイの屋敷が
揃うようにして重ねる。
﹁⋮⋮⋮⋮大聖堂の真下、か﹂
﹁怪しいな。おそらくだが︱︱⋮⋮、この魔法陣こそが、女神の力
を掠めとるための仕組みなのではないだろうか﹂
﹁その可能性は高い、よな﹂
俺たちが目にした範囲では、セントラリアの人々の信仰心が衰え
ているようには感じなかった。むしろ、人々は困難を目の前にして
助けを求めるべく大聖堂へと足しげく通うようにすらなっていたぐ
らいだ。
1427
それなのに、女神の力が衰えていっていたのはこの魔法陣のせい
ではないのか。
﹁イサトさん、これどうにかできるか?﹂
﹁うーん﹂
﹁難しい?﹂
﹁真っ当な方法では難しいな。スキルとして魔法を使うことはでき
るけれど、学問として魔法の知識があるわけじゃあないからな。こ
う、魔法陣を描き換えて、とかそういう方法で効果をキャンセルす
るのは無理だ﹂
﹁⋮⋮聞くのがちょっと怖いけど、真っ当じゃない方法っていうの
は?﹂
﹁物理破壊なら任せろ﹂
きっぱりと言い切られた。
また何かテロリストのようなことを言い出すイサトさんである。
﹁物理って⋮⋮それ大丈夫なのか?﹂
﹁間違いなく大丈夫じゃない。ある程度強力な攻撃魔法を叩きこめ
ば、地盤ごと魔法陣を破壊し尽くすことはできるだろうけれど︱︱
⋮⋮まあ、大聖堂は崩落するだろうし、私たちは生き埋めになる﹂
﹁却下。超却下﹂
何故許可が出ると思ったのか。
俺の却下に、イサトさんはわざとらしく残念そうに唇を尖らせる。
﹁他に方法は?﹂
﹁ん︱⋮⋮、あとは地味に魔法陣そのものを倒す、ぐらいだろうな﹂
﹁魔法陣って倒せるのか?﹂
1428
﹁普通は倒すようなものじゃないだろうが、この魔法陣ってヌメっ
と製だろう﹂
﹁ああ、なるほど﹂
ぽん、と手を打った。
この魔法陣を描いているのは、ヌメっとした物質だ。
だからこそ足を踏み入れたシオンに反応し、襲いかかりもした。
魔法陣そのものを破壊するのではなく、魔法陣を描くヌメっとし
た物質を倒してしまえば良いというわけか。
と、そこでまるでそれが極々自然の流れであるかのようにイサト
さんがしゃらんら☆を俺に向かって差し出した。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
無言の攻防。
そっとイサトさんが俺の手を取ろうとする。
その手をやんわりと押し返す。
﹁⋮⋮?﹂
﹁その顔やめろ﹂
﹁ひどい﹂
﹁ひどいのはイサトさんです﹂
なんだその、思いがけず善意を断られて呆然としつつ傷つきまし
た、的な顔は。
芸達者すぎるだろう、イサトさん。
﹁そもそもなんで俺なんだ、イサトさんがやれば良いじゃないか﹂
1429
可愛らしく可憐にピンクな魔法少女に変身してくれたら良いと思
う。
俺はしっかり見ているから。
そんな俺に対して、イサトさんはふう、と息を吐く。
まるで聞き分けのない子どもに対して言い聞かせるような仕草だ。
﹁私がやったら、大聖堂崩落コースだぞ?﹂
﹁﹂
思わず言葉を失った。
イサトさん、それはあくどすぎやしないか。
俺の眼差しからそんな抗議を感じ取ったのか、イサトさんがぷい
と唇を尖らせる。
﹁だってほら、神職じゃないから聖属性の魔法攻撃使えないじゃな
いか。だから、私が浄化しようと思うと攻撃魔法にしゃらんら☆で
聖属性を追加させる︱︱⋮⋮、という形になるわけなのだけども。
地面に描かれた魔法陣に攻撃魔法を叩き込み続けるのってどう考え
ても地盤崩落すると思わないか﹂
﹁ぐぬ﹂
確かに、言われてみればそう、ではある。
いかに手加減していたとしても、魔法陣の描かれている地面ごと
攻撃魔法を打ち込み続ければ、崩落の危険性がないとは言えなくな
る。
だが。
だがそれでも。
1430
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁はい、どうぞ﹂
そっとしゃらんら☆を押し付けられる。
仕方なく、渋々それを受け取った。
脳裏に浮かぶのは、エレニの身に起きた悲劇だ。惨劇だ。
あれを繰り返してはならない。
もともと魔法スキルなんて持ってはいないが、絶対に使ってたま
るかの心意気で俺はしゃらんら☆を受け取ると魔法陣の描かれた広
間へと足を踏み入れた。とたん、足元で直接踏んではいないものの
魔法陣の表面がざわりとさざめくのがわかる。
そんな魔法陣の表面に、これでもかとばかりにしゃらんら☆を叩
き込んだ。
びちゃり、と黒い泥が跳ねる。
跳ねて、飛び散って、しゅおおおお⋮⋮、と細く煙を吐きながら
消えていく。
﹁良い感じだ﹂
﹁本気かイサトさん﹂
むしろ正気か。
イサトさんは上機嫌にそんなことを言っているが、今イサトさん
の目の前で繰り広げられているのは、黒ずくめのごつい男がドリー
ミィピンクのマジカルステッキを禍々しい魔法陣に叩きつけてまわ
るというおぞましい絵面だ。地獄絵図だ。
1431
時折波打ち、俺を死角から捕らえようと伸びる触手じみたヌメっ
とした魔法陣の一部は、少し離れたところから攻撃魔法を放つイサ
トさんの援護のおかげで俺には届かない。
ばしゅん、と風の刃で切り刻まれた触手が地に落ちて再び魔法陣
に同化する前にしゃらんら☆でぶん殴る。吹っ飛んだ黒泥はべちゃ
りと壁に貼りつき、そこでしぅうう、と細い煙を吐いて消えた。
俺の足元を中心に、次々と魔法陣の紋様が破壊されていく。
魔法陣のおよそ二割程度が俺の自棄っぱちな破壊活動の犠牲にな
った頃だろうか。急に、生ぬるい風がぞわりと広間を吹き抜けた。
足元の魔法陣にも、まるで音叉を水に近付けたときのような波紋
が浮かんでいる。
﹁イサトさん﹂
﹁秋良、魔法陣の中心だ﹂
イサトさんも気付いていたらしい。
注意を呼びかけるつもりで名前を呼ぶが、逆にその異変の発生源
を教えられる。
視線を向けた先には、いつの間にか黒い人影が三つ並んでいた。
がっしりとした長躯の影が二つと、それに挟まれるようにして、
枯れ木のように細い影が一つ。
細くやつれた影が手を持ち上げると同時に、びゅぼッと音がして
一気に広間が明るくなった。広間の壁に沿って、魔法で生じたのだ
と思われる火の玉がゆらゆらと揺らめき、あたりを明々と照らし出
す。
1432
白茶けた地面に描かれる、禍々しい黒の魔法陣。
そしてその中央に立つ人影たちは、こんな地下で見るには不釣り
合いな恰好をしていた。なんというか、王族、貴族、といった風貌
だ。特に中央に立つ病的なまでに痩せこけた男が纏っているのは、
王城での舞踏会にて陛下が羽織っていた豪奢なガウンにとてもよく
似ている。
ただ、それを纏う男自身が華奢を通り越して枯れ木のように痩せ
細っているせいで、そんなガウンすらずっしりと重い拘束具のよう
に見える。
そんな細い男の右に控えていた長躯が、ずいと一歩前に踏み出し
た。
左に控える男が初老と言って良い年齢なのに比べて、こちらは俺
と同じぐらいか、少し上、といったぐらいだろうか。その男は朗々
と響きわたる声でもって俺たちに向かって喝、と怒鳴った。
﹁陛下の城に無断で足を踏み入れるとは無礼にもほどがあるぞ!﹂
﹁城﹂
﹁城﹂
思わず俺とイサトさんは顔を見合わせて復唱する。
どう見たって、ここは城と呼べるような状態ではない。
それを城、と呼ぶだけでも異様だというのに、やがて明かりに慣
れてきた俺たちは対峙する三人組のおかしさをより強く認識し始め
ていた。
男たちの身なりは、確かに貴族、王族めいて整っている。
1433
だが、よくよく見るとその服は古く色あせ、ところどころ傷み、
ほつれていた。
何かが、おかしい。
貴族としての男たちの立ち振る舞いがおかしい、というわけでは
ない。
俺は別に貴族の作法に詳しいわけではないが、この三人の振る舞
いは陛下や、聖女、団長さんのそれと印象が重なる。おそらく、実
際高貴な立場にある者として間違ってはいないのだろう。
だが、着ているものや場所が、その違和感のなさを裏切る。
狂人が高貴な立場を騙っている、のではなく。
実際その立場の人間が狂っている、というような。
右の男に続いて、左の男が一歩前に出る。
﹁ええい、頭が高いぞ! セントラリアの正当なる最期の王に対し
て不敬な!﹂
﹁⋮⋮正当なる最期の、王?﹂
何か、とんでもなく不穏な言葉を聞いたような気がする。
﹁叔父上、敬愛する陛下のためにもこの不敬者をさっさと排除して
しまいましょう﹂
﹁ああそうだな、我が誇らしき息子、素晴らしき王のためにも愚か
なるものどもに思い知らさねばなるまいな。近衛兵!!﹂
年老いた左の男がそう声を張り上げるとともに、ざっざっざっと
俺たちがまだ調べていない広間の奥から、無数の足音が重なって響
いてきた。
1434
会話の合間にも距離を詰めていたイサトさんへとしゃらんら☆を
預け、俺はインベントリより黒竜王の大剣を取り出して構える。
やがて足音が近くなるにつれて、大量の兵士が広間へと雪崩こん
できた。
⋮⋮いや、これは兵士、なのか?
一糸乱れぬ統率で姿を現した大勢の人影たちは、その振る舞いだ
けを見るのなら確かに近衛兵のようでもあった。隊列を組み、三人
の背後に控え、俺たちを捕らえよという指示を待っている。
だが、貴族めいた二人とは異なり騎士の鎧を身に纏っているのは
極々少数だ。
ほとんどの者は襤褸切れを纏い、鎧どころか剣すら持っておらず、
棒切れを握っているだけの者も多い。中には、女性や、子供すら交
じっている。
そこまできて、ようやく俺は彼らに対して抱く薄気味悪さの正体
に気付いた。
これは︱︱⋮⋮マルクト・ギルロイの坊やと同じモノだ。
ぞわぞわと怖気が走る。
死んだ人間の身体を使って行われる、壮絶に薄気味悪い人形遊び、
なんて言葉が頭に過った。
でも、だとしたならば、操っているのは誰だ?
この狂った人形劇の中心にいるのは。
1435
︱︱︱二人の側近に守られて、傅かれて、大勢の兵士の人垣の奥
に隠された枯れ木のように細い男がゆらりと顔を上げる。
青白い顔だ。
血の気の失せた、死体のような肌色。
かさつき、痩せこけた身体は男を取り囲む誰よりも死者じみてい
る。
だが間違いなく、その男の落ち窪んだ眼窩の中にこそ妄執の光が
あった。
この男が、この地下の王だ。
﹁イサトさん、操ってるのはあいつだ!﹂
そう叫ぶと同時に、枯れ木男が細い腕を振りかざす。
無手だったはずのその手の中に、豪奢な杖が現れた。
きらきらと過剰に飾り立てられたそれは、いわゆる王や教皇が持
つという宝杖と呼ばれるものに良く似ている。
だが、この場面でそれを持ち出すということは⋮⋮この男、魔法
使いか!
男の周囲にうっすらと光る魔法陣が現れ、力場が渦を巻き始める。
﹁アレの相手は私に任せろ、君は周囲の雑魚を!﹂
﹁わかった⋮⋮!﹂
羞恥心を捻じ伏せ、イサトさんがしゃらんら☆を携え男の魔法に
対抗すべくスペルを唱え始める。
煌々と明かりに照らされる地下の広間に、ドリーミィピンクの光
が炸裂して魔法少女☆イサトさんが爆誕する。銀のツインテールを
靡かせ、しゃらんら☆を翳す横顔はひどく凛々しい。
1436
男と、イサトさんの魔法が放たれるのは同時。
二つの魔力が空中にてぶつかり、かき消しあい、わずかな余波を
残して消滅する。良かった。このあたりの仕組みは、RFCと変わ
らないらしい。
RFCにおいて魔法スキルにはランクが設定されており、同ラン
クの魔法をぶつけあった際には魔法の種類に関係なく互いにかき消
しあうのだ。例えば炎系Aランクの魔法にAランクの雷系魔法をぶ
つければ相殺することが出来るし、炎系のAランクの魔法に同じ炎
系のAランクの魔法で対抗しても良い。ただ、一応弱点属性は設定
されているので、炎系のAランクの魔法であればBランクの水魔法
で相殺することも可能ではある。
相手が魔法攻撃系のモンスターであればその予めわかっている弱
点属性で相殺、というのも可能だが、相手がどんな魔法を繰り出す
のかがわからないプレイヤー同士のバトルにおいてはとりあえず相
手と同じランクの魔法をぶつけあって互いに相殺しあう、というの
が魔法職同士の戦闘だ。
高レベル且つ高威力の攻撃魔法は攻撃範囲が広く、純粋な身体能
力では回避できないが故の設定だろう。いわば互いに打ち消しあう
固定砲台だ。
パーティー
お互いに魔法職を含むPT同士でプレイヤーバトルとなった場合
には、魔法職には相手の魔法攻撃を相殺し続ける、という役割が与
えられるし、前衛には己がチームの魔法職を守りつつ、相手陣営の
パーティ
魔法職を先に潰す、というのが戦略のセオリーとなる。高威力広範
囲の魔法攻撃は、一撃でも食らえばPTが全滅したっておかしくは
ないのだ。
1437
なのでこの場合もその戦略はほとんど変わらない。
俺はイサトさんを守りつつ、あの枯れ木男を守る人形どもをぶち
のめす。
ただ少し違うのは、あの枯れ木男を倒したからといってその他の
人形どもをイサトさんの攻撃魔法で一掃するわけにはいかない、と
いう点だ。
そんなことをしたら、間違いなく大聖堂が崩落する。
枯れ木男には魔法を使わせず。
こちらも魔法は使わず物理で制圧する必要がある。
俺はぎり、と黒竜王の大剣を握りしめる。
一方枯れ木男の方は、魔法攻撃で片がつくと思っていたらしい。
呼び出した近衛兵たちに己を守らせながら何度か攻撃魔法を放ち、
そのことごとくをイサトさんに相殺されるに至って、枯れ木男が魔
法の詠唱を止める。
さ
ゆるり、と首を傾げて、零れたのは掠れた笑い声だ。
長い間声を発していなかったような、錆び付いた声帯が軋るよう
に笑う。
﹁ふ、は⋮⋮はは、ダークエルフの娘、か。それだけの力量があれ
ば、私の花嫁に相応しい⋮⋮﹂
﹁お・こ・と・わ・り・だ!!﹂
思わず、プロポーズされた当人より先に俺が咬みつくように吠え
ていた。
﹁えっ﹂
1438
イサトさんが思わず素に戻りました、というような間の抜けた声
を上げる。
﹁えっ﹂
俺もイサトさんの反応に似たような声をあげる。
えっ。えっ。
﹁えっ、イサトさん、まさかその気があるのか。受けるつもりがあ
るなら﹂
﹁えっ、まさか応援してくれるのか﹂
﹁いや思いとどまるように必死に説得する﹂
﹁あ、良かった安心した﹂
俺も安心した。
それにしても、この世界の人々は何故ことあるごとに﹁嫁になれ﹂
やら﹁子を生せ﹂などと迫ってくるのか。
いや、より優秀な血を己の血脈に取り入れたいのだろう、とは思
うのだが。
自由恋愛が広まって久しい現代日本出身の俺には共感しかねる感
覚だ。
と、そこでいきなり。
唐突に、枯れ木男が破裂した。
1439
わめ
いや、破裂したかの勢いで喚き出した。
あに
た
﹁何故だ!!! 何故お前も私を選ばない!!? 私の身体が弱い
えんさ
からか!!? 従兄上や父上のように武に長けていないからか!!﹂
手にした宝杖を振り回し、地団駄を踏み鳴らして喚く。
ひび割れた声音は酷く聞き取りにくいものの、滴るような怨嗟が
籠っていることだけは俺たちの方にまでひしひしと伝わってくる。
あに
﹁私には魔力がある!! 従兄上の武にも劣らぬ魔力が!! それ
なのにどうして私を認めない!!!﹂
ぜひぜひと喉を枯らして絶叫しながら、枯れ木男は腕を振り回し
ている。
ひいきめ
どう見ても、狂人だった。
どう贔屓目に見ても、会話による平和的交渉が出来る相手ではな
い。
それを慰めるのは、枯れ木男の両脇に控えていた男たちだ。
﹁何を言う、私はお前を誰よりも認めているぞ、愛しく誇らしい息
子よ﹂
﹁ええ、陛下は私などよりも優れていらっしゃいます﹂
二人は大仰な言い回しで、枯れ木男を褒め称える。 その言葉に、ぞわッと背中が粟立った。
身なりこそ良いものの、あの二人も周囲にぞろぞろといる近衛兵
たちと変わらず枯れ木男が黒い汚泥を元に作りあげた人形だろう。
何か、おぞましい物語が俺の中で形を成していく。
1440
枯れ木男を認めなかったという﹁兄上﹂と﹁父上﹂。
やたらわざとらしいまでに枯れ木男を褒め称える、その彼らと同
じ役柄を務める二体の死体人形たち。しかも、他の近衛兵と違って
こちらはちゃんと服装も役柄に合わせて整えられているときた。
それだけ、思い入れが深いだけとも言える。
だが。
もしかしなくとも。
その二人だけは、︱︱本物、なのではないのか。
本物の兄と、父の死体を元に作り上げたものではないのか。
二人がどうして命を落としたのかは、あまり想像したくはない。
﹁イ、イサトさん、アレ、言葉が通じないタイプのイってしまわれ
ている方だぞ⋮⋮!﹂
﹁あかん﹂
﹁あかん﹂
俺はとりあえず黒竜王の大剣を携え、イサトさんの前に出る。
迎撃担当だ。
ただし、この人形たちがマルクト・ギルロイの坊やと同じもので
あるのならその中に潜んでいるのはヌメっとした泥だ。俺の振るう
通常攻撃では倒すことはできないだろう。俺が斬り捨て足止めし、
1441
イサトさんに隙を見て止めを刺してもらうしかない。
⋮⋮キツいな。
枯れ木男が魔法攻撃を繰り出してきた場合、イサトさんはその相
こうちゃく
殺に力を割かれる。そうなると、周囲の雑魚を倒しきれない、とい
うのはなかなかに痛い。枯れ木男のMPが切れるまでの、膠着戦に
なる。
﹁我が敬愛する陛下を馬鹿にした報いを受けよ、愚かものめ!﹂
罵声をあげながら、俺の目の前にやってきたのは﹁兄上﹂だ。
﹁父上﹂が枯れ木男の傍に控えているのと違って、こちらは積極
的に枯れ木の敵を倒すために前に出るタイプであるらしい。
こんなのも、生前の性格を真似ているからなのだろうか。
そんな風に考えると、余計に胸糞が悪くなる。
﹁とっとと、成仏しやがれ⋮⋮ッ!﹂
く、と奥歯をかみしめつつ、俺は目の前にやってきた﹁兄上﹂の
胴を思い切り薙ぐ。兄上の武が云々、と言うほどなので手ごわいか
と思いきや、俺の大剣はいともあっさりと﹁兄上﹂の胴に吸い込ま
こだわ
れていった。人の形をしているものを斬り捨てる不快感はあるが、
そんなことに今は拘っていられない。
ずぶりと水の塊を叩いたような感触が腕に伝わり、眼前に迫って
いた﹁兄上﹂の身体が両断されてずるりと滑る。
そのまま地に落ちたところで、どうせまた黒い泥から人の形に再
生するのだろうと時間稼ぎでしかないことを覚悟していたのだが⋮
1442
⋮。
かすみ
思いがけないことに、俺に斬り捨てられた﹁兄上﹂はそのまま断
あに
ち切られた断面からぼろぼろと黒い霞のように崩れていった。
あに
﹁⋮⋮!﹂
﹁従兄上⋮⋮!? 従兄上!!﹂
でく
枯れ木男が叫ぶ。
その動揺が他の木偶にも伝わったのか、こちらに迫っていた近衛
兵たちも立ち尽くし、ざわめくように揺れる。
だが、驚いているのはこちらも同じだ。
﹁なんで⋮⋮﹂
﹁⋮⋮もしかして﹂
﹁ん?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮即死効果がついているのでは﹂
﹁あッ﹂
即死属性武器であるのなら、斬った相手に再生の余地を与えず殺
しきるのもわかる︱︱⋮いやわからねえよこんな効果抜群の即死属
性武器があってたまるか。凶悪過ぎるわ。
即死効果、というのはRFC内に存在する状態異常の一種だ。
即死効果のついた武器で敵を攻撃すると、稀にその効力が発揮さ
れて本来なら死には至らないはずのダメージでも敵を倒すことがで
きるのだ。
ただし、その発動は極々稀だ。
1443
狙って発動させられるものでもない故に、それほど重要視もされ
ない。
それが即死効果だ。
それが即死効果であるはずだった。
が、この黒竜王の大剣ときたら︱︱
俺は、すぐ傍らに迫っていた近衛兵もどきに向かって大剣を振る
う。
ちり
あっさりと斬り捨てられた男の身体は、大剣に薙がれた傷口から
さらさらと塵に還るように崩れて消えていく。
︱︱この有様だ。
しの
﹁ますます呪われた武器じゃねえか!!﹂
﹁黒竜王陛下の執念が偲ばれる⋮⋮﹂
執念籠もりまくりである。 ヌメっとした連中にのみ発生する即死効果なのかもしれないが、
もしこの剣をライオネル何とかとの小競り合いで使っていたら、な
んて思うと今更ながらに怖くなる。手加減したつもりの峰打ちでも
即死効果発動、なんてことになっていたら洒落にならなさすぎる。
枯れ木男の動揺がそのまま反映されているのか、ぎくしゃくとし
た動きで襲いかかってくる近衛兵たちを、俺は次々と斬り捨ててい
く。
1444
近づいてくる傍から、斬り払い、薙ぎ、突き、消滅させる。
﹁なんだ、なんなのだその剣は! 厭だ怖い! 近寄るな! 私に
それを近づけるな!!﹂
枯れ木男は子どものような悲鳴を上げ、傍らの﹁父上﹂へとしが
みつく。
その背を、慈しむような仕草で撫でる﹁父上﹂。
もはや枯れ木男はイサトさんと攻撃魔法を打ち合うような余力も
なく、他の人形を操ることもできなくなったのか近衛兵モドキたち
の動きも止まった。
がらんと広い広間に、虚ろな目をした人々が呆然と立ち尽くす。
こうして動きを止めると、ますます彼らは精巧に作られた人そっ
くりの人形のようにしか見えなくなった。
﹁なんで、なんで、なんで⋮⋮! 私はただ認めてほしかっただけ
なのに、なんでなんで、何も悪いことなんてしてないのになんでこ
んな怖いことが起きるんだ!﹂
怯えた悲鳴が周囲に響く。
追い詰められた故の悪あがき、というわけでもなく、その悲鳴に
はただただ切実な怯えだけが籠もっている。
この男は、本当にそう思っているのだ。
誰かにアピールするためだとか、言い訳をしているのでもなく。
本当に、どうしてこんなことになったのかがわかっていない。
﹁怖い、怖い、来るな! 私に近づくな! 来ないでよお!! 父
1445
上助けて、父上えええ⋮⋮!!﹂
そう泣き叫びながら﹁父上﹂に縋りつく枯れ木男の姿に、俺とイ
サトさんはどうしたものかと顔を見合わせる。
﹁何かこれ、俺の方が悪役っぽくないか﹂
﹁非常に﹂
片や怯えて泣きながら父親に縋る、枯れ木のような男。
片や抜き身の呪われた大剣︵絶対殺すマン︶を携えた人相の悪い
黒尽くめ。
ここだけ切り取ったならば、どう考えても俺が極悪非道の悪役だ。
ほうふつ
何より、そうやって泣き叫びながら﹁父上﹂に縋りつく枯れ木男
の姿は、あの夜のマルクト・ギルロイの姿を彷彿とさせてげんなり
とする。
だが、だからといってこの男をこのまま放置しておくわけにもい
かない。
殺すかどうかはさておき、何とかして無力化してこの魔法陣を破
壊する必要がある。
﹁おとなしくしていてくれたら、ひとまず怖いことはしない。とに
かく、落ち着いてくれないか﹂
優しく言い聞かせるようなイサトさんの言葉に重なるように、ぎ
ちぎちずべずべと奇妙な音が響いた。
﹁なん⋮⋮﹂
1446
﹁⋮⋮っ!﹂
そしてその音の正体を知って、俺とイサトさんは息を呑む。
﹁怖いよお、助けてよお⋮⋮父上ぇ⋮⋮﹂
そう、べそべそぐずぐずと泣きながら、枯れ木男がその腕をずぶ
りと﹁父上﹂の背中に突き立てたのだ。びくん、と﹁父上﹂の身体
が声もなくのけぞる。
父親を慕い、助けてと乞いながらも枯れ木男は﹁父上﹂の身体を
ぞぶぞぶと喰らい、取り込んでいく。
所詮は枯れ木男によって作られた木偶、だ。
﹁父上﹂は悲鳴を上げるでもなく、抵抗するわけでもなく、ただ
ただおとなしく枯れ木男の中へと取り込まれていった。
﹁父上﹂を取り込み終えた枯れ木男の背が、ぐぅ、と膨らむ。
色あせた豪奢なガウンに包まれた背がみちみちと膨らみ、がくん、
と枯れ木男が項垂れる。だらりと力なく垂れ下がる腕が、それこそ
人形のように見える。
そして⋮⋮その背がばびゅると弾けた。
うみ
膿のように飛び出したのは黒い汚泥だ。
枯れ木男の背から生じた黒い触手は、うねりながら伸びては手あ
たり次第にその場にいる者、つまりは近衛兵だったものを取り込ん
でいく。
1447
えげつない。
あまりにも、えげつない。
クトゥルフであったなら間違いなくSAN値チェックタイムだ。
しかもこれ、ダイス判定でセーフだったとしても1D10ぐらい
減るヤツだ。
判定に失敗したら即死が待っている。
﹃邪魔は⋮⋮させな、⋮⋮いいい⋮⋮﹄
ひゅうひゅう、と掠れた声音が呻く。
年老いた老人のように体を丸めた姿勢のまま、枯れ木男は背から
生じた触手を翼のように広げて何かスペルを唱え出す。
ぶつぶつ、と掠れた音が響くにつれて足元に広がる魔法陣。
﹁く⋮⋮ッ、相殺する! 秋良はアイツを!﹂
﹁わかった⋮⋮!﹂
ごう
イサトさんがしゃらんら☆を構えて応戦する。
轟、と渦巻く魔力の奔流がちりちりと肌を焼くような感覚。
先ほどまでの打ち合いとはレベルが異なる。
言うならば、これはイサトさんが飛空艇を墜とすのに使ったのと
同じレベルの魔法のぶつけあいだ。
MPポーションでドーピングを試みれば何度かは相殺出来るだろ
う。
だが、少しでもタイミングがズレたら。
間に合わなければ、俺たちだけでなくセントラリアごと吹っ飛び
1448
かねない。
俺はまっすぐに前だけを見据えて、大剣を携え踏み込む。
枯れ木男までの距離は、軽く見積もって10メートルあるかない
か。
その距離を詰めて、魔法を発動する前に斬り伏せる。
定石通りの戦略だ。
前衛が、魔法職を潰す。
よ
走る俺に降り注ぐのは、男の背から生える黒い触手だ。
俺を貫き、串刺しにしようと降り注ぐそれをサイドに避けて、逆
に薙ぎ払う。
ばつり、と斬り落とされた触手がそこから黒い霞となって消えて
いく。だが、すぐにまた代わりが生える。
再生しているのではない。
斬り落とされた触手は死ぬ。
だがまた新しいものが生えてくる。
この触手の一本一本が、一つのヌメっとした人型と同じものだと
いうことなのだろうか。この男が、黒い汚泥を吐いては人型をこし
らえ、カラットに、マルクト・ギルロイの屋敷に、この世界のあち
こちに、送り続けていたのだろうか。
﹁⋮⋮ッ、お前が、マルクト・ギルロイに﹃種﹄をやったのか⋮⋮
!!﹂
低く唸る。
妻と息子を失い、呆然と立ち尽くすマルクト・ギルロイの下に忍
1449
び寄り、﹃種﹄を与えた黒いローブの男。
お前か。お前がやったのか。
時折身体を掠める黒い触手に肌が裂け、鋭い痛みが走るが今はそ
れを気にする余裕もない。ただ、前へ前へと走る。
ドォン、と空気が爆ぜるような音を立てて男とイサトさんの間で
魔力がぶつかりあうのがわかった。互いに相殺されて不発に終わっ
たはずなのに、その余波だけで身体が大きく煽られる。足元が、ぐ
らつく。
これが、一発目。
何とか踏ん張って体勢を立て直した視界の先で、男の周囲にはす
でに次弾である魔法陣が展開されている。
イサトさんは、大丈夫だろうか。
振り返りたい。
あの触手が、イサトさんにも襲いかかってはいないだろうか。
振り返って無事を確認したい。
けれど、そんな間すら惜しんで俺は前へと進む。
俺はイサトさんを信じる。
イサトさんが、相殺する、と言ったのだ。
それが後衛であるイサトさんの役割であるならば、俺は俺の務め
を果たさなければいけない。
俺の行く手を阻むように伸びる黒い触手を避け、斬り払い、突き
進み︱︱⋮俺はついには男の前に躍り出た。
1450
﹃⋮⋮あ﹄
自身の身体を抱くようにうずくまっていた男が顔を上げる。
不思議そうな顔だった。
何が起きているのか、この期に及んで状況をわかっていないよう
な、どうして俺が目の前にいるのかわかっていなさそうな顔だった。
﹃どうし﹄
て、と最後まで言わせずに、俺は大剣を振り下ろす。
黒竜王の大剣が、うねる触手の発生源である男の背を貫いた。
手ごたえは、悲しくなるほどに薄い。
はら
何か、かさかさに乾燥しきった干し草にでも突き刺したような。
ばひゅり、と古びたガウンが空気を孕んで膨らみ、その下から黒
々とした塵がぼろぼろと零れて地面に落ちていく。
その塵すら、すぐに見えなくなっていく。
何も、残らない。
黒竜王の大剣の下に残るのは、ボロボロに色あせた豪奢なガウン
だけだ。
それを見届けて、俺はイサトさんへと声を上げる。
﹁イサトさん、もういい!﹂
﹁︱︱、﹂
振り返った先で、イサトさんががくりと膝をつくのが見えた。
それと同時に、ふッと広間が闇に沈む。
1451
﹁イサトさん!﹂
焦る。まだあの男が生きていて、何か仕掛けてきたのか。
大剣を構えて油断なく周囲を警戒していると、ほう、と小さく、
淡く瞬く光がイサトさんの姿があった辺りに灯った。
慌てて駆け戻る。
﹁大丈夫か!?﹂
﹁ん、平気だ。ちょっと、疲れた﹂
﹁この明かりは⋮⋮って、そうか、さっきまでのはあの男がつけた
んだもんな﹂
壁のあたりで煌々と周囲を照らし出していた光は、あの男が魔法
で生み出したものだった。あの男が死ねば、当然その光も消える。
へたりこんだイサトさんは、顔色こそ疲労を滲ませてあまり良く
ないものの、怪我をしている様子はない。おそらく、MPを消費し
すぎたのだろう。
顔を上げたイサトさんは、俺の姿を見ると眉尻を下げる。
﹁秋良、君、怪我をしてる﹂
﹁掠り傷だ﹂
じくじくと痛むが、それだけだ。
ポーションを飲めばすぐに治るし、ポーションを使わずに普通に
手当てしたとしても、数日で治る程度だ。
いたわ
労るように、イサトさんがそろりと俺の肩を撫でる。
そして、ぽつりと呟いた。
1452
﹁私には、君がいてくれて良かった﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁あの男と私、力量としては大して違いはなかったと思う。あれだ
まさ
けの大型の魔法をポンポン重ねられるあたり、もしかしたらMP量
でいったらあっちの方が優っていたかもしれない﹂
﹁うん﹂
﹁でも︱︱⋮⋮、勝ったのは私たちだ﹂
﹁⋮⋮そう、だな﹂
あの男は叫んでいた。
魔力でなら誰にも負けない、と叫んでいた。
実際、俺たちを倒すためにあの男が選んだ手段も、高威力広範囲
の殲滅魔法の叩きつけ合いだった。
純粋に魔法使い同士の戦いとして挑んでいたのならば、イサトさ
んが言うようにあの男が勝つ未来もあったのかもしれない。
もしくは、純粋な前衛職である俺とあの男だけで戦ったのなら。
けれど、俺にはイサトさんがいて、イサトさんには俺がいた。
あの男は、最期まで一人だった。
もしあの男が、他の木偶を取り込まずにいたのなら、結果はまた
違ったのだろうか。あの男が、前衛を信じて役割を任せるようなこ
とがあったのなら。
﹁⋮⋮無理、だろうなあ。自分以外誰も信じられないみたいだった
もんな﹂
﹁自分一人だけの王国、か﹂
1453
かつて自分を認めなかった者たちに似せて作った木偶に囲まれて。
かつて自分を認めなかった者たちによく似た死体に美辞麗句を囁
かせて。
たった一人の王国を作りあげた死者の王。
彼はそのために女神の力を欲したのだろうか。
自分に優しい、自分だけの世界を作り上げるためだけに多くの犠
むな
牲を出し、こんな地下に巣食っていたのだろうか。
ひど
だとしたならば︱︱⋮⋮酷く、空しい。
﹁これで、終わったのかな﹂
﹁どうだろう。とりあえず、少し休んだらあたりを調べてみよう。
あと、この魔法陣も壊さないといけないしな﹂
﹁それじゃあイサトさんは休んでてくれ。俺はちょっと魔法陣壊し
てくる﹂
﹁ん、ん。わかった。お願いする﹂
おとなしく頷いたあたり、イサトさんはよほど疲れていたらしい。
よろよろと立ち上がり、一度安全な通路側まで下がってまた座り
こんでいる。
俺はイサトさんから魔法の光源を借りて、その辺りに未だ部分部
分が残る魔法陣へとざくざくと大剣の切っ先を突き立てていく。ヌ
メっと製であるからか、効果は抜群だ。大剣に断たれた部分から、
黒々と地面に描かれていた魔法陣もさらさらと塵と化していく。
それが済んで俺が通路に戻るころには、イサトさんの体調もだい
1454
ぶ回復したようだった。MPポーションの空瓶が傍らに置かれてい
る。
﹁具合はどう?﹂
﹁もう大丈夫だ。君の方こそ、ポーション使ったらどうだ﹂
﹁なんかこれぐらいで使うのもったいないような気がして﹂
﹁⋮⋮⋮⋮口に無理やり突っ込むぞ﹂
﹁飲みます﹂
インベントリからポーションを取り出して口に運ぶ。
黒竜王と戦う前には三桁作っておいたはずのポーションがこの短
期間でずいぶんと目減りしているのがわかるだけに、つい貧乏性に
なってしまうのである。
それから、回復したイサトさんがいくつかの光源を魔法で生み出
し、広間を明るく照らし出した。白茶けた地面に、もうあの禍々し
い魔法陣が残っていないことを確認してから、その辺りを二人で見
て行く。
広間の奥につながる通路の先は、行き止まりの小さな空間になっ
ていた。
人が生活していたような痕跡は何もない。
ただ、その空間の片隅に、ガラクタで作った椅子のようなものだ
けが置かれていた。
﹁これ、って⋮⋮﹂
﹁⋮⋮玉座のつもり、だったのかもしれないな﹂
﹁っ⋮⋮﹂
イサトさんの言葉に、胸が苦しくなる。
1455
わいしょう
それは玉座と呼ぶには、あんまりにも貧相だった。
粗末で、矮小で、他愛もないただの椅子だった。
こんなものを守るために、こんなものを作るために、あの男は大
勢の人々を犠牲にしたのだろうか。
黒竜王は、こんな男を斃すために命を賭したのだろうか。
最期まで何が悪いのかも理解することなく、不思議そうな顔をし
たまま逝った男のことを想う。
俺たちは、彼の名前すら知らない。
1456
おっさんと虚ろの王︵後書き︶
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次の更新は8/6日を予定しています。
1457
砕ける絆
俺たちが地上に上がると、屋敷の前には見張りの騎士たちだけで
なく、団長さんやクロードさん、シオンまでが集まっていた。
どうやら、俺たちが地下でどんぱちやらかしている間、地上では
地鳴りと地震が続き、セントラリアの市民は皆怯えて大変だったの
だそうだ。
まあ、前回エレニことドラゴンやらモンスターやらに襲撃されて
いるセントラリアだ。また何か恐ろしいことが起きるのではないか
と怖がらせてしまったのだろう。
きっと騎士団は大忙しだったに違いない。
俺たちは集まっていた三人に簡単な事情の説明を行うと、すぐに
大聖堂へと向かうことにした。まずは、聖女に報告する必要がある。
それに、あの枯れ木のような男の発言も気になっている。
あの男は、﹁セントラリア正当な最期の王﹂を名乗っていた。
確か、レティシアから聞いた話によると今のシェイマス陛下は、
よそ
﹃セントラリアの大消失﹄以降に、傍流とはいえセントラリア王家
の血筋であることを理由に他所から招かれた王の血筋だったはずだ。
ゆかり
あの男は﹁正当な﹂と名乗った以上、﹃セントラリアの大消失﹄
以前の王家縁の者であった可能性が高いのではないだろうか。
もちろん、ただの﹁正当な王家の血が流れているという妄想を抱
いているだけ﹂という可能性も捨てきれはしないのだが。
﹁陛下に聞けばわかるかな﹂
1458
﹁﹃セントラリアの大消失﹄で失われたのは人だけで、建物や生活
用品などはそのまま残っていた、と言っていたからな。その辺の書
物も残っているんじゃないか?﹂
﹁見せてもらえるといいな﹂
﹁そういう時こそ聖女の書状の出番だろう﹂
﹁あ、それじゃあ次は俺が控えおろう、って言いたい﹂
そんなことを話しあいながら大聖堂へと訪れる。
大聖堂の周辺には多くの人が集まっていた。
続く地鳴りや地震を不安に思った人々が少しでも心の平穏を求め
て訪れていたのだろう。つくづく、あの枯れ木男を止められてよか
ったと思う。あの男の攻撃魔法をイサトさんが相殺できなかった場
合、真っ先に犠牲になっていたのは真上にいた大聖堂の人々だ。
いつものように聖堂までは入らず、入り口のホールで聖女、もし
くはウレキスさんへの取り次ぎを頼む。
少しの時間をおいて、取り次ぎを頼んだ巫女が戻ってきた。
もくよく
﹁お待たせして申し訳ありません。ただいま聖女は沐浴をしており
まして⋮⋮お二人もお疲れの様子、聖女にお会いになる前にお身体
を清め、休まれてはいかがでしょうか﹂
巫女の言葉に、俺とイサトさんは顔を見合わせる。
気遣いなのかダメ出しなのかが微妙に悩ましい。
が、言われてみれば枯れ木男との戦闘直後にそのまま押しかけて
しまっているのである。
聖女の暮らすあの俗世から切り離された世界に、汗臭い状態で立
ち入るのはなるほど、確かに多少気が引ける。イサトさんも同じこ
とを考えていたのか、多少居心地悪そうにもぞりと身体を揺らした。
1459
イサトさんは女性なのだし、聖女に会うことを思えば身だしなみ
を整えておきたい、ということもあるだろう。
ほこり
﹁それじゃあ︱︱⋮⋮、シャワー借りるか﹂
﹁そうだな。ちょっと埃っぽい﹂
何せ地下でどったんばったん暴れてきたばかりだ。
俺とイサトさんが頷けば、巫女はすぐにもう一人案内のための人
間を呼び寄せた。流石に混浴ということもないだろうし、俺とイサ
トさんをそれぞれ案内してくれるのだろう。
﹁ではアキラ様、こちらです﹂
﹁じゃあまた後でな、イサトさん﹂
﹁先に上がったら待っていてくれ﹂
﹁わかった﹂
俺は巫女に先導されて歩き出す。
向かうのは、いつもとは違う通路の先だ。
おそらくこの辺りは大聖堂に仕える巫女や神官たちの生活空間な
のだろう。
その中の、客室だと思われる部屋の前で巫女は足を止めた。
﹁こちらでございます。部屋の中にあるものは、ご自由にお使いく
ださいませ﹂
﹁ありがとうな﹂
礼を告げて部屋へと足を踏み入れる。
そういえば、風呂から上がったらどこに行けばいいのかを聞くの
を忘れていた。
1460
まあ、玄関ホールからここまでの道なら覚えているし、迷ったと
しても誰かに聞けば案内してもらえるだろう。
俺はしゅるりと首に巻いているマフラーを外し、グローブを脱ぐ。
イサトさんの言っていた通り、多少髪がじゃりじゃりするような
気がする。
地面を転がり回ったような覚えはないが、何せ先ほどまでいたの
つちくれ
は地下である。地鳴りやら地震があったと言っていたぐらいだし、
きっと震動で天井⋮⋮もとい、頭上の地面から崩れた土塊だとかを
気づかないうちに被っていたのだろう。
俺はぐしゃぐしゃと何か粉っぽい気がする髪を掻き混ぜながら、
浴室へと向かう。
そして、思い切りドアを引き開けて。
﹁!!!??﹂
混乱した。
そして悟る。
人間驚きすぎると固まるものだ。
うっすらと湯気の立ち込める浴室には、先客がいた。
ぬばたま
水に濡れた、射干玉色とはこのことだろうと思うような長く艶や
かな黒髪。その黒髪が絡みつく肌は雪のように白く、水気を多く含
んだ肌は触れればしっとりと手肌に吸い付きそうだ。ささやかに膨
1461
あし
らんだ胸に、きゅ、とくびれたウェスト。肉付きの薄い腰からはす
んなりと細い肢に繋がっている。
そんな美女が、俺の目の前に一糸纏わぬ裸体を晒していた。
﹁ご、ごごごごめん!?﹂
とりあえず謝りながら回れ右。
何がどうしてこうなった?
ここはあの巫女が俺のために用意してくれた部屋ではなかったの
か。
案内すべき部屋を間違えたのだろうか。
きっとそうだ。そうに違いない。
﹁へっ、部屋を間違えた、みたいで!﹂
裏返りそうになる声でそれだけ言うと、俺はそそくさと浴室から
逃げ出そうとして︱︱
﹁間違えておりませんよ、アキラ様﹂
ころり、と鈴を転がすような涼やかな声音が俺の名前を呼んだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
すぐにでも部屋を出ていこうとしていた足が止まる。
部屋を間違えたわけではない、ということはこの出会いは仕組ま
れたものだということになる。
もしかしなくとも、舞踏会の夜の焼き直しだろうか。
1462
どこぞの貴族が俺を取り込むために、色仕掛けで落とそうとして
いる?
ニーナといい、この人といい、セントラリアの女性は脱ぎたがり
なのだろうか。
いくら色仕掛けとはいえ、いきなり全裸はないと思う。
全裸から始まる出会いなんて、普通に考えてそうそうないぞ。
﹁あー⋮⋮、その。悪いが、俺にそんなつもりはないので服を着て
くれないか﹂
﹁ふふ、そんなつもり、とはどういうつもり、ですか?﹂
﹁だからその⋮⋮、あんたの目論見に付き合う気、だよ﹂
﹁それが、セントラリアの人々を鼓舞し、勇気づける結果となって
も、ですか?﹂
﹁⋮⋮?﹂
この人は何を言っている?
それにどうしてだろう。
初対面であるはずなのに、何故かその涼しげに響く声に聞き覚え
があるような気がする。
が、まあいい。
彼女が誰であれ、俺はこの部屋を出ていくまでだ。
浴室から出て行こうとしたところで、ふと背後で人の動く気配が
した。
全裸の女性に何かされる、という発想がなかったせいか、完全に
油断していた。
するりと細く白い腕が背後から俺の胸に回る。
背中にぺたりと押し当てられる柔らかな胸の膨らみ。
1463
せっけん
ふわりと鼻先を清涼な水の気配と混ざる甘い石鹸の香りが掠めて
いった。
おいおいおいおいおいおいおいおいおい。
セントラリア流の色仕掛け、力技過ぎやしないか!
﹁⋮⋮あのな、だから俺にその気はないんだって。離してくれ﹂
﹁ですが、離したらアキラ様は行ってしまうのでしょう⋮⋮?﹂
﹁当たり前だ、得体のしれない相手に裸で迫られて長居出来るか﹂
そう半ば毒づいたところで、俺の背にくっついていた女性がくす
りと小さく笑った。背伸びでもしたのか、背に押し当てられていた
身体が伸びあがる。そして、彼女は俺の耳元で甘く囁いた。
﹁私のことはご存知でしょう、アキラ様﹂
﹁いや、知らないと思う﹂
こんな、突然全裸で迫ってくるような相手に心当たりはない。
いやあるけど一人だけだ。
そして彼女にしたって更生済み、というか、俺に迫ったこと自体
が心の迷いというか自棄っぱちだったというかなんというか。
半ば現実逃避気味にそう、思っていたはずだったのだが。
﹁︱︱⋮⋮私はアキラ様のために書状だって書いてさしあげました
し、今だって、アキラ様は私に会いに来てくださったのでしょう?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮は?﹂
1464
一人だけ、その条件に当てはまる女性を知っている。
正確には女性、というよりも少女だ。
大聖堂の聖域に隔離されるようにして暮らし、女神の加護により
時を止めた少女。聖女だ。
俺は思わず振り返る。
ぴたりとくっつかれているおかげで、逆に彼女の裸体の全体像が
こわく
視界に収まらなくて済む。そうして振り返って確認した先、どこか
蠱惑的に誘う色を瞳に浮かべた女性には、確かに聖女の面影があっ
た。
聖女の面影、というよりもウレキスさんの面影、といった方が近
いかもしれない。
年のころは17、18といったところだろうか。
少し蒼みがかって見える灰色の双眸に、淡く色づいた唇。
せいひつ
端整な顔立ちは確かにウレキスさんや聖女によく似ているものの、
りん
彼女たちの両方が持っていたような静謐さや、触れがたく思うほど
の清らかさ、どこか凜と張りつめるような硬質さが今俺の目の前に
いる彼女にはなかった。
﹁⋮⋮違う。お前は聖女じゃない﹂
﹁聖女です、アキラ様。貴方のために、こうして私は大人になった
のです﹂
﹁⋮⋮俺の、ために?﹂
﹁ええ。女神から、新たな啓示を受けたのです。人々は今回のこと
で女神の加護を疑い、自分たちの平穏がまやかしだったのではない
はら
のかと不安に心を痛めています。そんな彼らの心を慰めるべく︱︱
⋮竜を討ち、セントラリアの地下に潜む邪を祓いし英雄であるアキ
1465
ラ様と、救済の聖女である私が結ばれるべきだ、と﹂
彼女、自称聖女はそううっとりと語る。
滔々︵とうとう︶と流れる声音には、確かに聞き覚えがあった。
覚えているそれよりも、少しばかり低くなってはいるものの⋮⋮
確かに聖女の声だ。だが、聖女が何故こんなことをする?
︱︱⋮操られている?
もしくは、聖女に似せて化けた何か違うモノ、なのか。
魔法に関する能力の低い俺にはそれを感知することが出来ない。
イサトさんであれば、聖女の身に何が起きているのかを気付くこ
とが出来るのだろうか。それならば、俺に出来るのはなるべく時間
を稼ぎ、イサトさんと無事に合流することぐらいだ。
﹃イサトさん﹄
左手薬指の銀環を通してイサトさんへと声をかける。
﹃イサトさん﹄
返事はない。
イサトさんの方にも何かあったのだろうか。
不安が強まるが、あえて平静を装う。
今ここで下手を打った場合、イサトさんの方にも影響が出るかも
しれない。
何か聖女の気をそらすことが出来ないかと思ったところで、ふと
ウレキスさんの言葉を思い出していた。
1466
﹁⋮⋮傷痕﹂
ぽつりと呟く。
聖女になる以前、ウレキスさんの姉である彼女は、まだ幼かった
ころにウレキスさんを庇って野犬に怪我を負わされたのだという。
その傷痕が今も残っているかどうかはわからないが、今目の前に
いるものが聖女の名を騙るものであるのなら、そのことを知らない
可能性はある。
﹁⋮⋮お前が本当に聖女だというのなら、幼少のころにウレキスさ
んを庇って負った傷痕があるはずなんじゃないのか﹂
先ほど見た︱︱見てしまった︱︱彼女の裸体には傷一つ、なかっ
た。
柔らかで滑らかな真白の肌は未だ俺の脳裏に焼き付いている。
もし今見ている彼女が、エレニが俺を騙したような幻覚だったと
して、話に合わせて今からその傷痕を作って見せたとしても違和感
はあるだろうし、その傷の詳細を知らなければ化けの皮を剥がすこ
とが出来るかもしれない。
試すような眼差しを注ぐ俺に、聖女を名乗る女性は楽しそうにく、
と口角を持ち上げて笑った。
﹁︱︱犬に咬まれた傷痕、ですね﹂
す
彼女はどこか懐かしむような仕草で、右の腕を擦る。
知って、いたのか。
それとも、本当に彼女は︱︱
1467
﹁⋮⋮あんな醜い傷痕、とっくの昔に消してしまいました﹂
︱︱違う。
今俺の目の前にいる女性は、聖女ではない。
ウレキスさんの姉である彼女は、その傷を妹を庇って負った名誉
の負傷だと言っていたのだ。
俗世から隔離され、もう二度と妹に会うことが出来なくなった彼
女が、果たして妹との繋がりであり、思い出でもある傷痕を消して
しまうなんてことがあるだろうか。
だが。
そう思う一方で俺の中では違和感が大きくなり続けていた。
彼女が偽聖女だとしたならば、何故ウレキスさんと聖女の思い出
を知っている?
﹁⋮⋮あんたは、聖女じゃない﹂
﹁聖女です。またお茶を淹れてさしあげたら、わかっていただけま
すか? ふふ。貴方は私に、聖女がお茶を淹れるのか、と驚いてい
ましたね﹂
﹁︱︱︱、﹂
はく、と喉が鳴る。
俺とイサトさんと、聖女しか知らないはずのあの聖域での会話ま
で、何故彼女が知っているのか。
彼女は、本当に聖女なのか。
1468
いや、まさか。
ぞわりと首の裏がチリつくような感覚を覚えた。
こわば
その不吉な感覚はもしかすると、恐怖、であったのかもしれない。
俺は顔を強張らせたまま彼女を見つめ返す。
成長した分、ウレキスさんによく似た印象が強まっている。
こんなのは荒唐無稽だ。
だがもし、彼女が本当に俺たちが知る聖女であるのなら。
それはすなわち︱︱俺たちが出会った聖女は、最初からウレキス
さんの姉ではなかったの、では?
ふと浮かんだその考えにぞわぞわと背筋が冷える。
目の前にいる﹃聖女﹄が何か得体のしれない生き物であるような
気がしてくる。
この薄気味悪さはなんだ。
思いついたその可能性を追及するための思考が追い付かない。
ただ頭のどこかでガンガンと警告音が鳴り響いている。
する、と目の前の女の手が俺の左手に触れる。
柔らかで小さな手のひらが、まるで蛇にでも這われているかのよ
うに感じる。
1469
そして︱︱⋮ぱきん、と。
左手の薬指から、何か取返しのつかない音が、響いた。
ぼんやりとする。
意識がゆらゆらとふやけていて、身体が動かない。
目の前の景色が、まるで水の中で目を開けているかのようにふに
ゃふにゃしている。音もそうだ。まるで全てが別世界で進行してい
るかのよう。
俺は今何をしている?
立っているのか?
しゃべ
歩いてる?
喋ってる?
1470
﹁俺は、セントラリアの人たちを安心させるためにも彼女と結婚す
ることにした﹂
何を言ってるんだろう。
誰が結婚するって?
俺が? まさか。
ぼんやりと歪んだ視界で、ぼんやりとくぐもった声で、イサトさ
んが短く﹁そうか﹂と頷くのが見えた。
たった一言。
その一言だけを残して、イサトさんは俺へと背を向ける。
置いていかれてしまった。
そんな実感も湧かないゆらゆらとぼやけた世界の中で、俺はどう
せ最期になるならイサトさんの顔をちゃんと見たかった、なんて寝
ぼけたことを考えていた。
俺に結婚を告げられたイサトさんは、どんな顔をしたのだろう。
1471
砕ける絆︵後書き︶
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次回の更新は8/7日になります。
そろそろクライマックス、頑張っていきたいと思います!
1472
汚泥の見る夢
夢を見る。
夢を見る。
誰かの悪夢を覗き見る。
夢の中の俺は、小さな子どもだった。
鏡に映る俺は細く華奢な、顔色の良くない少年だった。
いらだ
顔立ちは整っているものの、常に下がり気味の眉尻と、おどおど
とした上目遣いが自覚のないまま人を苛立たせてしまうような、そ
んな子どもだった。
夢の中の俺は、どうやら王族であるらしかった。
かす
母親も父親も、お前には王位継承権があるのだからしっかりと努
力して誰からも認められる男になれと俺に言い聞かせた。
けれど︱︱⋮俺はどうにも運動がダメだった。
ほんの少し走っただけで、ぜひぜひと息が切れて目の前が霞む。
心臓がばくばくと暴れて胸が痛くなる。
そして何より、俺は武器を手に取ることが怖くて仕方なかった。
ぎらりと光る刃物が、それが彷彿とさせる暴力が、俺には怖くて
仕方なかった。
俺が成長するにつれ、そういった性質ばかりが目立っていくこと
に父親は随分と失望したようだった。
両親の喧嘩が増えた。
父親は母親が甘やかすからいけないのだと母親を責めた。
母親はお前がちゃんとしていないから、と俺を責めた。
1473
俺の父親は、王弟であるらしかった。
兄がいたことで王にはなれなかった父親は、その夢を俺に託した
かったものらしい。だが、よくよく考えると彼の兄であり、現国王
でもある男には一人息子がいた。しかも俺より年上だ。
俺が王位を継げる可能性は、限りなく低い。
それこそ現国王の息子が不慮の事故でぽっくり逝きでもしない限
り、俺に王位が回ってくることはないだろう。
それは誰にでもわかる現実だった。
けれど、父親だけは息子が優秀でさえあればチャンスがあると信
じていた。
そう、信じたがっていた。
父親は俺に理想の息子であることを求めた。
父親の要求に応えられなければ、時には殴られることもあった。
俺が男らしくないことが最大の問題だと思っている父親であった
もので、父親は俺を鍛えるのだと言ってよく剣の訓練へと連れだし
た。
そして、まともに剣を手にすることすらできない俺を軟弱だと罵
った。
剣の鍛錬やら格闘術やらで痛い目に遭う度に、ますます俺は戦う
ことを恐れるようになった。怒鳴る声、冷たい眼差し、振り上げら
れる拳、何もかもが怖かった。
父親が相手でもこれほど怖いのだ。
モンスターなど、どんなに恐ろしいかわからない。
もし、兄弟でもいたのなら俺の環境は少しでも良くなったのかも
1474
しれない。
両親が望みを託すことが出来る兄弟が他にいでもしたのならば、
俺の肩に寄せられる重すぎる期待も少しはマシになったのかもしれ
ない。
けれど、母親は俺以外の子を孕むことはできなかった。
母親にとって俺は父親の気を惹くための道具にしかすぎず、その
役目を果たすことのできない俺は要らない子だった。
父親にとって俺は自分の果たせなかった夢をかなえるためのコマ
に過ぎず、その役割を果たすことのできない俺はやはり要らない子
だった。
俺を見て。
俺を愛して。
俺を認めて。
助けて女神さま。
お願いです。
誰かひとりで良いから、俺を見てくれる人を与えてください。
俺の存在を許してくれる人を、お恵みください。
少しでも親に愛されたくて、認められたくて、俺は魔法の研究に
没頭した。
静かな図書室に籠って本を読んでいる間だけは安心することが出
来た。
1475
怒鳴り声も響かず、冷たい眼差しを向けられることもない。
もともと魔法の方面に才能があったのだろう。
俺の知識は城付きの魔法使いにも匹敵するほどになったし、扱え
る術もあっというまに誰にも負けなくなった。
これで認めてもらえると思った。
これでようやく息子として認めてもらえると思った。
けれど︱︱⋮それだけ魔法が使いこなせるなら大丈夫だろうと連
れていかれた初めての狩りで、俺はモンスターを前に身体が硬直し
て動けなくなった。
呪文を一つ唱えれば、そんなモンスターを消し炭にしてしまえる
ことがわかっていたのに、杖を握る手が震えて、喉がカラカラにな
った。
怖い。
ただひたすらに怖い。
つた
植物型のモンスターのうねる蔦が、ぱちんと頬を叩く痛みにすら
泣いてしまいそうになった。
初めての狩りを見届けるために同行していた父親の﹁何をしてい
る、さっさと殺せ﹂と怒鳴る声が響けば響くほどに俺は委縮して動
けなくなった。何もできない。呪文を唱えさえすれば軽く瞬殺でき
るような相手を前に、俺の喉はひくひくと震えるだけで、声らしい
声を発することすらできなかった。
あに
結局見かねたように助けてくれたのは、現国王の息子、従兄上だ
1476
った。
情けないと父親に殴られる俺を庇い、初陣なら動けなくなっても
あに
当然だと言ってくれた。
俺を庇う従兄上の背は高く、広く、俺とは比べものにならないほ
どにたくましかった。
格好良い、と憧れた。
初めて、優しくしてくれたひとだった。
父親は、ライバルである現王の息子に憐れまれるなんてと余計に
荒れたけれど、そんなことはもう俺にはどうでもよかった。
あに
従兄上こそが次代の国王には相応しい。
俺は国王になんてならなくても良い。
あに
あに
従兄上に必要とされたい。
従兄上を助けたい。
あに
戦うことが怖いのなら、戦う従兄上をサポートすることはできな
あに
いだろうか。
俺は、従兄上をサポートするための魔法を次々と覚えた。
あに
相変わらず武器を持つことは怖かったし、戦うことも怖かったけ
れど、それでも従兄上と狩りにいくことは楽しかった。
あに
共に馬を並べ、自然の中を走らせ、木漏れ日の下で笑いあった。
剣に優れる従兄上は、国王の命令でモンスターの討伐を任される
1477
あに
こともあった。その度に父親には﹁それに比べてお前は﹂と罵られ
たけれど、従兄上はそれを知ってか知らずか、いつも俺を必要とし
てくれた。
﹁︲︲︲がいると助かるのです。︲︲︲を連れていっても構わない
でしょうか﹂
あに
あに
そう言って、従兄上は俺を窮屈な城から連れ出してくれた。
あに
実際に俺は従兄上にとっては良いパートナーだったと思う。
従兄上が無理をして怪我をするようなことがあればすぐに俺が癒
したし、護りの結界を張って人々を助けることだって出来た。
あに
従兄上の行くところにはいつだって俺がいた。
初めて出来た居場所だった。
あに
女神さま、ありがとうございます。
どうか、従兄上とずっと一緒にいられますように。
そのうち、父親は俺を殴らなくなった。
あに
その代わりのように﹁お前が女だったならば﹂というのが口癖に
なった。
俺が女であれば、聖女として従兄上の伴侶になれたのだと言う。
今代の聖女はすでに高齢で、だが王家の中に未婚の女性は少なく、
聖女の後継者を国王は吟味し始めていた。
女神の代理人として教会に籍を置く聖女の言葉は、たとえ国王で
1478
あっても無視することはできない。
もし俺が何の力も持たない臆病な子どものままであったのなら、
父親も俺に何も期待を寄せることはなかっただろう。
だが、俺は魔法に秀でていた。
戦うことは相変わらず苦手だったものの、人々を癒し、守る力に
おいてはすでに王城の誰よりも優れていた。
聖女になれば、父親は俺を認めてくれるだろうか。
俺を愛してくれるだろうか。
よくやったな、といつも俺を殴るあの手で撫でてくれるだろうか。
聖女、というのは女神の声を聞く女神の代理人だ。
いくつもの文献を読み漁ったものの、女性でなければならない、
という条件はなかった。
ただ、これまでの慣習で女性が選ばれてきたというだけだ。
ならば他に相応しい女性がおらず、誰よりも聖女に相応しい能力
を備えた俺がいたならば、俺が聖女として選ばれることもあるので
はないだろうか。
女神よ、お願いです。
どうか俺を選んでください。
誠心誠意貴方に御仕え致します。
俺は貴方に選ばれたい。
日々聖堂に通ってはそう祈り続けた。
いつか女神が祈りを聞き届けてくれるのだと、そう信じて祈り続
1479
あに
けた。
あに
従兄上は今もずっと俺に優しかった。
あに
優しい従兄上なら、俺の願いを聞いてくれるのではないかと思っ
た。
あに
俺は、ある日従兄上に口添えを頼むことにした。
従兄上が言えば、陛下も俺を聖女の座につけることを考えてくれ
あに
るかもしれない。
従兄上は王城の前で誰かを待っているようだった。
あに
﹁従兄上、﹂
﹁ああ︲︲︲か。ちょうど良いところに来た﹂
﹁ちょうど良いところ、ですか?﹂
﹁ああ﹂
城の前についた豪奢な馬車の扉が開く。
あに
従兄上が恭しく差し出した手を、白く華奢な手が取る。
馬車から降りてきたのは、雪のように白い髪に白い肌、冬の空の
ように澄んだ淡蒼の瞳をした美しい女性だった。
彼女は俺に対しても、礼儀正しくしずしずと頭を下げて見せる。
あに
さらり、と揺れた長い白髪の間から、ツン、と尖った白い耳が覗
いた。
そして、従兄上は言ったのだ。
﹁︲︲︲、こちらノースガリア女王の姪であり、次代の聖女につか
れるセフィリア様だ。俺の、花嫁でもある﹂
目の前が真っ暗になった。
1480
女神よ。
女神よ。
どうして貴方は俺を選ばない。
どうして貴方は俺を苦しめる。
あに
あに
従兄上は、狩りに彼女を連れていくようになった。
あに
従兄上は、遠乗りに彼女を誘うようになった。
従兄上は、彼女と過ごす時間が増えていった。
あに
そこは俺の居場所だった。
あに
従兄上の隣は俺の居場所だった。
従兄上だけが俺を認めてくれたのに。
どうしたら俺は愛されるのだろう。
どうしたら俺は認めてもらえるのだろう。
そんなある日だ。
いつものように俺を罵り、拳を振り上げる父親がすっかり年老い
ていることにふと気付いた。たくましく太かった腕はいつの間にか
ほそりと枯れ木のようになっていた。俺を殴る拳にも、かつてのよ
うな力はもうなかった。
よど
俺を蔑む冷たい眼差しの目元には幾重にも皺が刻まれ、老化によ
る澱みが浮かんでいた。
痛くない。
怖くない。
1481
俺は、ゆっくりと腕を伸ばした。
手のひらにかさついた年寄りの肌が触れる。
薄気味悪くたるんだ喉。
とくとく、と脈を打つ音が聞こえる。
だけれども、それだけだ。
﹁な⋮⋮ッ!?﹂
驚いたように父親が目を見張る。
ああ、これなら。
これなら、怖くない。
俺はぎりぎりと父親の喉に食い込む腕に力を込めた。
おもちゃ
ばたりばたりと父親の腕が振り回される。
水に浮かべたら走る玩具のようだ。
父親の顔が次第に赤く染まる。
ねえ、お父様。
上手に殺せたら褒めてくれますか。
貴方の息子は、男らしく敵を殺せるようになりました。
褒める言葉は聞こえない。
あっけないほど簡単に、父親は動かなくなった。
1482
人を殺すというのは、こんなにも簡単なことだったのか。
俺はいったい何を怖がっていたのだろう。
こんなに簡単なら、恐ろしいモンスターを狩るよりも人を狩った
方がよほど強くなれる。
待っていてね、お父様。
俺は強くなります。
お父様がそうあれと望んでくれたように。
あに
人の命から、女神の恵みを吸い上げる仕組みを構築する。
女神は俺に何もしてくれなかった。
助けてくれなかった。
俺の願いを何一つ聞き届けてはくれなかった。
今度は俺がやり返す番だ。
﹁あはは、あははははは﹂
屈託なく笑いながら、俺はたくさんの人を平らげた。
あに
まずは城にいる人たちから。
従兄上を食べてしまうのはとても悲しかったけれど、従兄上があ
んまりにも必死に聖女を守ろうとするものだから、腹が立って食べ
てしまった。
城にいる人たちを全部食べてしまったら、なんでもできるような
気がしてきた。
何が出来るだろう。
1483
くず
何も出来ないどうしようもない屑と言われ続けた俺に何が出来る
だろう。
術をどんどん最適化していく。
コンパクトに、スマートに、より少ない魔力で最高のパフォーマ
ンスを求める。
何が出来るだろう。
俺に何が出来るだろう。
術を発動してみる。
その結果、ごっそりと誰もいなくなったセントラリアの街を見下
ろして思わず笑いが零れた。
誰もいない。
誰もいなくなってしまった。
俺を認めない人間は皆消えてしまった。
ふらふらと空っぽの街を歩いて教会の中へと足を踏み入れる。
ひざまず
一段高いところに飾られた女神像を見上げる。
ここで跪いて助けてほしいと祈ったことがあった。
ここで跪いて選んでほしいと願ったことがあった。
だけど、もう祈らない。
願わない。
じわり、と女神像の足元から黒くヌメる何かが染みだしていった。
不思議なことにその黒い何かは俺の意思に従うようだった。
足元から這い上がった黒くヌメる何かが女神像を包みこみ、やが
てヌメる黒い虚の中でごりんばりんばきん、と石像の砕ける音が響
1484
いた。
そうだ。
良いことを思いついた。
﹁﹁﹁私が女神になってやる﹂﹂﹂
俺と、聖女と、枯れ木男の声が重なって響いて︱︱⋮⋮
1485
その声に、はッとしたように目が覚めた。
ぱち、と目を開けたところで眩い光が眼奥に刺さってしぱしぱと
瞬く。
一瞬自分がどこにいるのかがわからなくて、その次にその自分と
はいったい誰なのかがわからなくなって、腹の底からぞッと冷える
ような感覚を味わった。
﹁⋮⋮ッ﹂
深く、深呼吸をする。
大丈夫だ。
俺は秋良だ。遠野秋良。
現代日本で暮らす大学生で、現在うっかりプレイしていたネトゲ
そっくりの異世界にやってきてしまっている。
眩しい光に白んでいた視界がようやくはっきりしてきた。
俺はどうやら、木漏れ日の下にいるようだった。
そして、誰かに膝枕されている。
身体の下には、ちくちくとした下生えの感触がある。
そっと、俺に膝枕をしてくれている人物が優しく俺の頬を撫でた。
あに
﹁⋮⋮従兄上⋮⋮﹂
1486
細い声音が、うっとりと俺に向かって呼びかける。
その声にはっとして飛び起きようとして、俺は自分の身体が思い
通りに動かないことに気が付いた。身体が動かない、というか、動
かす気にならない、というか。
何かをしなくちゃいけない、と思いつつもなかなか動き出せない
感覚を何十倍にも増幅されているような感じ、と言えば伝わるだろ
うか。
動くな、という外部からの命令が、都合よく﹁その気にならない﹂
という自主的な感覚であるかのように変換されて、俺の身体が勝手
に従ってしまっているかのような感覚だ。
ゆっくりと瞬く。
どうやら瞬きや呼吸、といった普段意識せずに行っている生命活
動に結び付く自然反射的な行動に関しては制約がかけられていない
らしい。
少しずつ光に慣れた視界に、俺を膝枕する女の顔が映る。
聖女だ。
正確には、成長して大人の女性となった聖女。
今はきちんと巫女服に身を包んでいる。
そうだ。あの時、あの部屋で、俺は聖女に捕らわれてしまったの
だ。
はま
白く、たおやかな指先が俺の左手に絡みつき、つ、と俺の左手の
薬指の根元に嵌った銀環をなぞった瞬間、ぱきん、と悲しいほど軽
やかな音を立てて指輪は砕け散ってしまった。
⋮⋮くっそ。
1487
イサトさんが、俺のために作ってくれた指輪だった。
イサトさんとの連絡手段を失ってしまった焦りと同じぐらい、せ
っかくの贈り物を壊されたことへの怒りがぐるぐると動くことので
きない俺の腹の底で渦を巻く。
エレニ対策、としてイサトさんが作ってくれたあの指輪には、俺
の魔法攻撃への抵抗値を上げる効果があった。その指輪を壊され、
精神に干渉するような魔法を使われたことにより、俺の意識や身体
は、しばらくの間は聖女に完全に支配されてしまっていたようだっ
た。
あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
随分長い間、夢を見ていたような気がする。
そして、限りなく薄ぼんやりとだが、何かイサトさんに取り返し
のつかないことを言ってしまったような気がする。
ぼやけた視界の中、眉尻を下げて悲しげに、それでも口元だけは
柔らかに微笑んだイサトさんが俺に背を向けて去っていくのを俺は
見送った。見送ってしまった。
俺は緩く、深く、息を吐く。
﹁⋮⋮これから、どうするつもりだ﹂
駄目元で口を開いてみたところ、普通に話すことが出来た。
俺の顔を見下ろして、聖女がふふ、と小さく笑う。
﹁今度こそ、ずっと一緒にいましょうね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1488
渋面。
あに
あに
俺のことを従兄上、と呼んだあたり完全に聖女はヤンデレている。
あに
先ほどまでの夢でも見たし、実際地下でも枯れ木男が操る﹁従兄
上﹂と対峙しているからこそ言うが、俺は﹁従兄上﹂とは似ても似
つかない。
あに
﹁従兄上﹂は濃い茶色の髪に緑の眼をしていたし、なんといった
って完全に西洋人の顔立ちだった。顎が割れていた。どう考えても
俺には似ていない。あえて共通点をあげるとしたら同じ人類で、性
別が同じで、どちらかというと体育会系、ということぐらいだ。
あに
そのくくりで探すなら、騎士団の八割が﹁従兄上﹂だ。
あれだけ執着していた癖に、そんなざっくりでいいのか。
と、いうか。
﹁⋮⋮お前が、本当の黒幕なのか?﹂
夢の中の俺は、ひ弱な少年だった。
あに
あの少年の面影はどちらかというと、地下で対峙したあの枯れ木
男に近い。
はべ
実際あの枯れ木男は﹁従兄上﹂と﹁父上﹂を特に大事そうに傍に
侍らせていた。
だが、そうなると今俺の目の前にいるのはいったい誰なのだろう。
聖女は、俺の問いかけにどこかぼんやりとした様子で首を傾げて
見せた。
﹁どう、なのでしょう。
女の身体を持つこの私も、私。
貴方がたに滅ぼされた男の身体を持っていたのも、私。
1489
どちらも、私でした﹂
﹁⋮⋮どっちかが本体、というわけじゃあないのか?﹂
﹁さあ⋮⋮、もう、わからなくなってしまいました。元は男の身体
を持つ方が、主体であったような気がしますけど⋮⋮どちらも結局
は私、ですし。目的のために生まれた私が私なら、私こそが私なん
だとも思います﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
よくわからない。
夢の内容からすると⋮⋮一番の大本は、きっとあの枯れ木男だ。
王弟の嫡男として生まれながらも、武器を持って戦うことが苦手
で、図書室で本を読んでいることを好むようなおとなしい少年。
いびつ
それが成長の形で歪んだ型を押し付けられ、生まれ持った性質を
否定され、歪められ続けた結果歪な何かへと変わってしまった。
﹁⋮⋮さっき、夢を見た。お前の夢だと、思う﹂
﹁そう、ですか。アキラ様の身体と心を縛るのに、ずいぶんと魔力
を注ぎましたから⋮⋮そのせいかもしれませんね﹂
﹁お前が、﹃セントラリアの大消失﹄を起こすところまでは見た。
あに
その後、お前は何をしたんだ。どうして、エルフやダークエルフま
でを襲ったんだ﹂
エルフ、まではまだわからなくもない。
夢の中で、彼の心が壊れる最後の一押しをしたのは従兄上が連れ
てきたエルフの女性の存在だった。ノースガリアを治める女王の姪
であり、新しくセントラリアの聖女となるはずだった女性。
だから、まだ彼がエルフを襲うのはわかる気がした。
1490
白い肌に尖った白い耳を持つ美しい種族は、きっと彼のコンプレ
ックスを刺激する存在だ。だが、どうしてダークエルフまで。
﹁私ね、女神になろう、って思ったんです。だって、女神は私を救
ってはくれませんでしたから。私が女神になって、私を救おうと思
ったんです。それには力が必要でしたし⋮⋮何より、怖かったんで
す﹂
﹁怖い⋮⋮?﹂
﹁だって、私はエルフの聖女を食べてしまったから。きっとエルフ
の女王は怒ると思ったんです。だから、怖いからエルフもみんな食
べてしまいました。でも、エルフを食べてしまったら、ダークエル
フが怒るかもしれなくて、それも怖かったのでダークエルフも皆殺
しにしました﹂
ふわ、と聖女が笑う。
それで安心しました、と柔らかに。
心が壊れ果てて空っぽであるからなのか、その笑みはどこまでも
無垢だった。
思えば、夢の中の彼はいろんなものを怖がっていた。
父を、母を、暴力を、モンスターを。
だから彼は、怖いものに酷いことをされる前に自分を守ることを
覚えたのだ。
のどかな木漏れ日の下、その身に巣食う虚ろな闇さえ知らなけれ
ば聖女の浮かべる笑みはどこか子どものように幼げで透き通ってい
る。そんな美女に膝枕をされながらも、俺の背筋はぞくぞくと冷え
っぱなしだ。
﹁私はただ認めてほしかった。褒めて欲しかった。愛されたかった。
1491
だから、私を認めてくれない人たちは消してしまいました。誰にも
認められず褒められず愛されない私自身を変えてしまいました。私
を愛してくれない世界を否定しました。嫌いです。こんな恐ろしい
世界は嫌いです。女神なんて、死んでしまえばいい。私が女神にな
った方が、きっと上手くやれます。ね、私は上手にできていたでし
ょう?﹂
蒼みを帯びた淡い灰色が俺を覗きこむ。
その双眸は空っぽだ。
ただただ虚ろだ。
聖女は俺の手を取ると、そっと持ち上げて大事そうに頬を寄せる。
手のひらに柔らかな体温が伝わってきたことが、なんだか意外だ
った。
彼女があの枯れ木男と同じ存在ならば、きっとその身体は死体の
ように冷たいのだろうと思っていたのだ。
﹁みんな私を聖女だと信じてくれました。私を認めてくれた。だか
ら、私もみんなを護るために頑張りました。頑張ってるんです。な
のに、どうして邪魔をするんです? どうして、私の世界を壊そう
とするんですか﹂
上手くいっていたのに、と聖女は繰り返す。
どうだろう。
本当に上手くいっていたんだろうか。
⋮⋮⋮⋮まあ、女神が弱って世界が丸ごと滅びそうになってたこ
とを除けば、比較的上手くいっていた、のかもしれない。
1492
彼は聖女として空っぽになったセントラリアに戻ってくることに
成功した。
それから長い間、彼は聖女としてセントラリアに君臨し続けたの
だ。
聖女は世俗に触れることが出来ない、として誰にも会わず、何十
年かに一度代替わりとして教会に所属する巫女の中から一人を選ん
だ。
そして、代替わりした振りをする。
誰も聖女の顔を知らない。
人々を騙し続けるのは簡単なことだっただろう。
祈りの場も、かつての教会から新しくあの魔法陣の上に建てた大
聖堂へと変えた。セントラリアの人々は女神に祈りを捧げていると
ささ
心より信じながら、この世界で誰よりも女神を憎むものへと祈りを
捧げ続けた。
かたき
﹁⋮⋮獣人を目の敵にしたのも、だからか﹂
﹁あの人たちは、私を敬ってくれなかったんです。古い教会で、女
神ばかりに祈っていました。私が、新しい女神なのに﹂
たた
獣人たちは、伝統を捨てなかった。
女神を称えるための古い聖歌を歌い、古い教会で祈り続けた。
だから、彼らだけが﹃女神の恵み﹄を得ることが出来たのだ。
だから、彼女はマルクト・ギルロイを操ってセントラリアから獣
人を消してしまおうとしたのだ。
彼女を必要としないから。
彼女を認めず、彼女を愛さず、彼女を称えない獣人たちは彼女の
セントラリアには相応しくなかった。
獣人たちと行動を共にするようになった騎士たちが﹃女神の恵み﹄
1493
を手に入れられるようになったのも、同じ仕組みだ。彼らは獣人た
ちと合流するために教会を訪れ、狩りに出る前に教会で祈るように
なっていた。
実際に﹃女神の恵み﹄が手に入るようになってからは、ますます
女神への感謝の祈りを捧げる者が増えていた。
今までわからなかった部分の謎がするすると解けていく。
聖女は、頬を寄せていた俺の手の甲へとそっと優しく口づける。
﹁近いうちに、儀式があります﹂
﹁⋮⋮儀式?﹂
厭な予感しかしない。
彼女が執り行う儀式なんて、もはやサバトのイメージしかない。
﹁ええ。貴方と、私が正式に結ばれるんです。貴方は聖女である私
あに
に、セントラリアを救った英雄として剣を捧げ︱︱⋮⋮私のものに
なるんです。今度こそ、一緒になりましょうね、従兄上﹂
あに
※従兄上ではありません。
心の中でツッコミを入れるものの、語る聖女の眼が明らかに深淵
を覗きすぎていたので声に出すことは控えてしまった。
うふふ、と幸せそうに笑う彼女は、まさしく結婚式を目前に控え
た幸せなカップルの片割れ、といったような雰囲気だ。
が、そんな事実がカケラも存在しないことが何より怖い。超怖い。
﹁今度こそ、私を選んでくださいね﹂
1494
甘い言葉をねだる幸せな花嫁のように、彼女が言う。
あに
︱︱きっと、彼女はやり直すつもりだ。
俺を従兄上に見立てて、英雄である俺にエルフ︱︱実際のところ
イサトさんはダークエルフだが︱︱のパートナーではなく、彼女を
選ばせるつもりなのだ。そしてそれを、セントラリアの民に、かつ
て彼女を認めなかった者たちに見せつけようとしている。
﹁︱︱⋮⋮、﹂
イサトさんは、今頃どうしているのだろう。
俺たちは仮定として、女神がこの世界を救うために俺たちを呼ん
だのではないか、と考えていた。だからこそ、セントラリアに巣食
う﹁この世界を歪める者﹂を倒す道を選んだ。だが、今こうしてそ
の片割れである聖女が存在している限り、その仮定の正しさは確認
できない。
ノースガリアの先の世界の果て、元の世界に戻るための手がかり
を失ったときのイサトさんの落胆ぶりを思い出す。
はかな
傷ついたように小さく笑って見せたイサトさんが、随分と儚げに
見えて心がざわめいた。
今も、地下の枯れ木男を倒しても元の世界に戻るための術が見つ
からなかったことにイサトさんは一人で落ち込んだりなどしてはい
ないだろうか。
イサトさんが一人で泣いていなければ良い。
囚われの身でありながら、俺が思うのはそのことばかりだった。 1495
汚泥の見る夢︵後書き︶
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1496
壮大な誤解
それから数日が過ぎて。
俺は、いよいよその﹃セントラリアを救った英雄と聖女が結ばれ
る儀式﹄とやらを迎えていた。
例によって例のごとく、俺の身体に自由はない。
大聖堂の奥にて軟禁されている間はまだ喋ることも許されていた
ものの、儀式当日である今日に至っては当然のように口すら利けな
いレベルでぎちぎちに精神干渉で縛り上げられている。
本当、これが終わったら俺、真面目に魔法防御のステータスを育
てようと思う。
そんなことを現実逃避気味に考えている間にも、儀式は着々と進
んでいく。
会場となる大聖堂には、大勢の人たちが詰めかけていた。
何列にも並ぶ信徒席の前列には王族や貴族、そして有力者たちが
座り、その次からはセントラリアの街の人たちの中でも席をとるこ
とができた幸運な人々が並んでいる。
赤い絨毯の上を聖女と腕を組んで入場した際に、自然に目に入る
範囲で知った顔がいないかを探してみたが、どうやら俺の知る人々
はいないようだった。
⋮⋮まあ、そうだろう。
俺の知り合い、ということはすなわち俺とイサトさんの知り合い、
1497
だ。
くら
彼らからしてみれば、俺は聖女との婚姻に目が眩み、大事なパー
トナーを捨てた男、ということになる。そんな男の結婚式に、好き
好んで参列したがるような物好きはいないだろう。
知り合いに見られずに済む方が、俺としても精神的に楽、ではあ
るのだが。
そうも言っていられないのがシェイマス陛下である。
なんといっても、この儀式を進める司祭の役を務めている。
俺たちの婚姻は陛下により承認され、陛下の目の前で俺は婚姻の
証として黒竜王の大剣を聖女へと捧げるのだ。
よどみなく仰々しい祝詞をあげ、朗々と神事を進めるシェイマス
陛下。
﹁セントラリアを救いし英雄よ、剣を﹂
﹁⋮⋮はい﹂
陛下に促されて、俺はインベントリより取り出した黒竜王の大剣
を白い花々の敷き詰められた祭壇の上に置く。遠目から見ても十分
な威容があったのか、ざわりと背後で参列者たちが小さくどよめく
のが聞こえた。
もしここで俺の身体が少しでも動いたならば、すぐさまあの大剣
へと手を伸ばし、隣に立つ幸せそうな花嫁と一戦交えてでも逃げ出
したいところだ。
大剣を前に、陛下は俺たちへと結婚の意思を確認する。
全力で首を横に振りたいのに、俺の身体は勝手に隣の聖女を伴侶
として一生愛することを誓っている。死にたい。
1498
俺と聖女が、祭壇の手前で向かいあう。
せいそ
本日の聖女はいつもの巫女服ではなく、いかにも結婚式というよ
うな純白のドレスだ。あまり華美ではないものの、清楚なドレスは
見た目だけならとてもよく似合っている。長い黒髪をシニヨン風に
まとめ、その上には白い薔薇をあしらった髪飾りが添えてある。首
から腕にかけては肌色を微かに透けさせつつもレースのボレロが巫
女らしい慎ましやかさを演出している。
中身がアレだと知らなければ、そのはっとするような美しさに見
惚れるようなこともあったかもしれない。
うっすらと頬を紅潮させ、俺を見つめる彼女は傍から見たら、英
雄と結ばれる幸せな花嫁そのものだろう。
﹁この婚姻に異議を唱えるものがいるのなら、今この場で前に出よ﹂
形式上のセリフを陛下が参列客へと問う。
当然、物言いをつけるものなどいない。
では、と陛下が儀式を続行し、誓いの口づけを、などと恐ろしい
ことを言い出そうとしたところで。
﹁異議ありィ!!﹂
高らかに叫ぶ声と共に、
ガシャンパリーン!!
1499
と、何か、すごい音が響いた。
キラキラと、細かく砕けた天井のステンドグラスがまるで光の雨
のように参列客へと降り注ぐ。
ばりばりとなおも天井を破る音が響く中、その下にいた参列客た
ちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
俺はその破壊音の主を見上げて、息を呑んだ。
まず目に入ったのは、黒銀を帯びた鱗を美しく煌めかせるドラゴ
ンだ。そしてそのすらりと伸びた優美な首の後ろにまたがる、凛々
しくも美しい竜騎士のような︱︱イサトさん。
長い銀の髪を靡かせて俺たちを見下ろすその姿は、あんまりにも
格好が良すぎた。このシチュエーション、つくづく逆が良かった。
普通囚われのお姫様を助けに行くのは騎士の役目ではなかろうか。
自分が囚われポジションであることに、盛大な不服を訴えたい。
﹁っ⋮⋮、あのものを捕らえなさい!﹂
聖女が叫ぶ。
警備の騎士たちが何事かと駆けつけるものの、竜と共に乗り込ん
できたのがイサトさんであることに気付くと、彼らはその場で動き
を止めた。
陛下も、セントラリアを救った英雄の片割れでもあるイサトさん
が相手では頭ごなしに命令するわけにもいかず、困惑を隠しきれて
いない。
それでも、イサトさんへと問い返したあたりが流石だった。
1500
﹁そなたは何故に異議を唱える﹂
﹁何故なら彼が本当に聖女を愛しているとは思えないからだ。
婚姻とは神聖なもの。虚偽をもって成立してはならないはず﹂
イサトさんは一度そこで言葉を切ると、聖女の隣に立ち尽くす俺
をまっすぐに見つめた。
﹁彼には、他に好きな女性がいる﹂
︵⋮⋮っ︶
自由が利かないせいで表立っての反応は乏しいものの、俺は内心
息を呑む。
イサトさんに、俺の気持ちがバレていた?
死にたいほどに恥ずかしい。
だけど、同じぐらいにこうして俺の気持ちを信じて助けにきてく
れたことが嬉しくて仕方がない。
イサトさんは、立ち尽くす俺に向かって全てちゃんとわかってい
るのだというような、包容力に溢れた優しい笑みを浮かべて見せた。
﹁秋良青年、そんな呪縛はさっさと振り切ってしまってくれ。
君が心から愛する︱︱⋮⋮レティシアのためにも!﹂
⋮⋮⋮⋮。
1501
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
﹁はあ!!!!????﹂
思わず渾身のツッコミが炸裂した。
同時に、それまで身体を縛めていた不可視の束縛が解けて、ガク
ン、と体がつんのめるような衝撃とともに四肢が自由になった。
﹁な、何故⋮⋮!﹂
聖女が動揺したよう声を上げる。
俺だって聞きたい。
意外性の勝利というところだろうか。
問題は、イサトさんが本気だということだ。
イサトさんは本気で、何故か俺がレティシアに想いを寄せている
と思い込んでいる。何故だ。どうしてそうなった。
﹁秋良!﹂
イサトさんがするりとエレニの首から飛び降りてこちらへと駆け
寄ってくる。
1502
つか
俺は祭壇の上に置かれていた黒竜王の大剣を掴み取って、聖女か
ら距離を取ろうとするものの⋮⋮それよりも早く、聖女がまるで全
身で飛びつくようにして大剣を抱きかかえた。
﹁アッ⋮⋮!?﹂
ごて
まるで焼き鏝を押し当てられたかのように身をよじって聖女が悲
鳴を上げる。
さいな
手のひらはもちろん、腕や、抱きかかえた大剣に触れる首筋など
にまでぶわりと黒い鱗が浮かんでは聖女を苛む。
黒竜王の呪いは健在だ。
それでも聖女は大剣を手放さない。
地下の枯れ木男と、今目の前にいる聖女が同一人物であるという
のなら、もしかしたら聖女は地下での戦闘を通してこの大剣の危険
性を認識しているが故なのかもしれなかった。
﹁あ、あ⋮⋮っ、あああッ!﹂
細い悲鳴を上げながらも、聖女はきつく大剣を抱きしめる。
たおやかなドレス姿に押し付けられる大剣が、柔らかな布地に食
く
い込み︱︱⋮やがてそのままずぶずぶと聖女の身体へとめりこみ始
めた。
﹁な⋮⋮ッ!﹂
息を呑む。
大剣を抱きしめて前のめりに身を折る聖女の姿は、奇しくも地下
で戦った枯れ木男の最期によく似ていた。
1503
ぶびゅりッ、と白いドレスの背が爆ぜて、どろりとヌメる黒が現
れる。
それすらも枯れ木男の触手によく似ていたものの⋮⋮そのヌメり
を帯びた黒は、そのままじわじわと聖女の身体を包みこみながら形
を変えていく。
やがてそこに現れたのは、聖女の姿など原型すら止めぬ漆黒の禍
々しいドラゴンだった。黒竜王にどこか似ているような気がしない
でもないものの、その表面はヌルリとした不気味な光沢に覆われて
いる。
ギャアアアウウウウアアアアオオオオッ!!!
威嚇するように、苦悶の声を上げるように、ドラゴンが吠える。
一拍遅れて、これまで呆然とことの成り行きを見守っていた参列
客の間から悲鳴が上がった。
﹁みんな逃げろ⋮⋮! セントラリアから出るんだ! 団長さん、
街の人たちの誘導を頼む!﹂
﹁ッ、わかりました!﹂
イサトさんの乱入、聖女のドラゴン化と一連の流れに呆然として
いた団長さんが、俺の声にハッとしたように参列客を大聖堂の外へ
と追い立てていく。周囲の騎士たちも団長さんに倣い、慌てて参列
客の誘導を始めた。
隣にやってきていたイサトさんが、ヌメっとしたドラゴンを牽制
するようにスタッフを構えつつ気遣わしげに俺へと声をかける。
1504
﹁秋良青年、平気か?﹂
﹁うん、なんとか。助けに来てくれてありがとう、助かった﹂
身体の自由を奪われ、良いように操られたりもしたが逆を言うと
それだけだ。
何も身体的な危害は加えられていない。
SAN値的には結構削られたような気がしないでもないが。
とんとん、と身体の調子を確かめるように軽くその場で跳んでみ
る。
うん。何もおかしなところはなさそうだ。
﹁そうか、それなら良かった﹂
そう言って、イサトさんは口元に満足そうな、嬉しそうな笑みを
浮かべる。
﹁︱︱⋮⋮信じてた﹂
ぽつり、と小さく呟かれた言葉に、かあ、と胸の中が熱くなる。
操られていたとはいえ、俺自身の口から聖女との結婚を決めた、
と告げられたはずなのに、それでも俺のことを信じてイサトさんは
こうして助けてくれたのだ。
もしイサトさんが、俺が口にした別れの言葉を本気にしてしまっ
あに
ていたら、と考えると背筋がぞっと冷える。きっと俺はあのまま身
体の自由を奪われ、ときには意思すらも奪われ、﹁従兄上﹂の代理
をさせられ続けていたのだろう。
1505
﹁ありがとうな、イサトさん﹂
俺を信じてくれて。
ただ、何がどうして俺がレティシアのことを好きだなんて誤解が
生じているかについては小一時間ほど膝を詰めて話し合いたいとこ
ろではあるが。マジで。
﹁それで秋良青年、これが黒幕か?﹂
イサトさんが、ふ、と視線をヌメっとしたドラゴンへと向ける。
そうだ。今はイサトさんの誤解についてを問い詰めている場合で
はない。
まずはこの聖女の成れの果てをどうにかしなければ。
﹁⋮⋮黒幕っていうか、地下にいたのと同一人物だよ。元はあの枯
れ木男だったのが分裂して、一人は地下に。一人は地上で聖女やっ
てたらしい。目的は女神に成り代わることらしい﹂
﹁おお⋮⋮﹂
俺のざっくりとした説明に、イサトさんが呻く。
女神に成り代わる、という目的が壮大すぎてピンと来ないのだろ
う。
だが、困惑したように視線を彷徨わせたイサトさんは、とある一
点で目を留めると﹁なんとなく、わかったような⋮⋮?﹂と頷いた。
﹁へ?﹂
俺もそちらへと目をやる。
そこにあったのは、大聖堂に飾られていたなんの変哲もない女神
像だ。
1506
いや、違う。
その顔が、俺たちの知る女神とは異なっていた。
聖女だ。
聖女と、同じ顔をしている。
﹁⋮⋮どうりで大聖堂で祈っても女神に祈りが届かないわけだ﹂
思わずそんな言葉が口をついて出た。
これまで俺たちは、大聖堂に何度か足を踏み入れているが、実際
にセントラリアの人々が祈りを捧げる場まで訪れたことはなかった。
だから、これまで気付かなかった。
す
この大聖堂において、信仰の対象になっていたのは女神ではなく
聖女。
地下の魔法陣、そして長い年月をかけて行われた信仰対象の摩り
替えが、じわじわと女神に寄せられる信仰の力を奪っていったのだ。
ギャウウルゥウウアアアアア!!
かつては聖女だったドラゴンが、ぬらりと光る灰色の双眸で天を
仰いで苦悶の咆哮をあげる。
最初は黒竜王にも似たフォルムを保っていたはずのドラゴンは、
今や不自然なまでにその形を歪めていた。まるで内側から何かが生
まれようとしているかのように、ぼこりぼこりと煮立った湯のよう
にその表皮が粟立つ。
やがてぶつりとその肌を喰い破り、ずるりとその体内から生えて
きたのは二本目の竜の首だった。ただし、こちらの竜の双眸は、燃
1507
え盛る燭のような鮮やかな金の色をしている。
︱︱︱黒竜王だ。
め
黒竜王と同じ色の眸を持つ竜の首は、先にあった灰眸の首へと容
赦なく喰らいついた。ぎちり、と牙の食い込む音がこちらにまで聞
こえてくる。
ギャゥン!!
悲鳴のような咆哮が響き、それに応じるように、新たな灰の眸を
した竜の首がぬぷりぬぷりと生じては、金眸の首へと襲い掛かって
いった。
しぶ
何本もの竜の首が生じては喰らい合い、引き千切られては汚泥へ
と変わり果ててぼたりぼたりと周囲へと飛沫く。
﹁イサトさん⋮⋮!﹂
俺は慌ててイサトさんの身体を庇うように引き寄せる。
しぶ
アレがどんなものだかわからないが、人体に触れて良いものだと
はとても思えない。実際、こちらまで飛沫いた汚泥はびちゃりと白
く滑らかな石で作られた床に落ちると、しぅうう、と細い煙をあげ
てその個所を腐食していった。 床だけではない。
汚泥の塊めいたドラゴンの身体から立ち込める瘴気は、じりじり
しお
と周囲を汚染していっている。祭壇の上で慎ましやかに咲いていた
白い花々は、とっくに萎れ、腐り落ちている。
1508
俺たちだからまだなんとか正気を保っていられるものの、一般の
参列客が残っていたらきっとアテられてしまっていただろう。
なび
と、そんな中でふらり、と動く人影があった。
白く靡く巫女服。
ウレキスさんだ。
﹁ッ、⋮⋮ウレキスさん!﹂
慌てて呼びかけるものの、ウレキスさんはふらふらと取り込んだ
黒竜王の大剣の力を制御できずに悶え苦しむ聖女の成れの果てへと
近づいていく。
なんで避難してないんだあの人⋮⋮!
慌てて駆け寄ろうとした俺の耳に、ドラゴンへと必死に呼びかけ
るウレキスさんの声が響いた。
﹁姉さま⋮⋮! 今助けます! 今、助けますから⋮⋮!!﹂
︱︱⋮⋮ああ、そうか。そうだった。
ウレキスさんにとって、聖女は大事な姉なのだ。
いおり
苦しむ姉を、かつては自分の命を救ってくれた姉を、ウレキスさ
んが見捨てられるはずがなかった。
だが、アレはもうウレキスさんの姉ではない。
いや、最初から違うのだ。
次代の聖女として大聖堂の奥、周囲から隔絶されたあの庵に足を
踏み入れた時にもう、彼女は亡くなっている。
1509
ギュグルァアアアア!!
さかさつらら
灰眸の竜が吠えると同時に、ばきばきと床をへし割って黒くヌメ
る触手が逆氷柱のように伸びあがってウレキスさんへと襲いかかる。
さら
その身体が貫かれる寸前、といったところでウレキスさんの身体
を地上より攫ったのはエレニだ
った。歯牙の切っ先にウレキスさんの襟首をひっかけて、空高く引
き上げる。
﹁グッジョブ、エレニ!!﹂
﹁離してください⋮⋮! 私は姉さまを⋮⋮! 姉さまを助けなけ
れば!!﹂
﹁ウレキスさん、残念だけど本物のウレキスさんのお姉さんはもう
亡くなってる!! アレはその姿を借りただけのバケモノだ!!﹂
﹁ッ、そん、な⋮⋮!!﹂
空中で身をよじり、エレニから逃れようと抵抗していたウレキス
さんの身体からがくりと力が抜ける。
﹁エレニ、ウレキスさんを連れて逃げてくれ!!﹂
﹃君らは二人で大丈夫なわけ⋮⋮!?﹄
﹁なんとかする⋮⋮!!﹂
大丈夫、とは言えなかった。
だが、ここまできたらなんとかするしかない。
なんとかしなければ、ここで世界が終わる。
とは言いつつ、愛用していたクリスタルドラゴンの大剣は折れた。
代わりに手に入れた黒竜王の大剣は、聖女の腹の中だ。
1510
じゅそ
今は黒竜王の呪詛がヌメっとしたドラゴンもとい、腐竜を蝕んで
いるが⋮⋮アレもどれぐらい持つことか。おそらく、黒竜王の呪詛
だけでは腐竜を殺しきることはできないだろう。
俺はインベントリにしまってあった長刀を引き抜こうとして︱︱⋮
そ、と。
イサトさんが、そんな俺を制止するように腕に触れた。
そして差し出されるのは、そろそろ見慣れた可憐なドリーミィピ
ンク。
しゃらんら☆だ。
﹁ええー⋮⋮﹂
﹁聖属性で直接ぶん殴らないと駄目だろう、アレ﹂
﹁⋮⋮それはそうなんだけども﹂
渋い顔をする。
ここまで来て、俺はまじかる☆しゃらんらで戦わなければならな
いのか。
﹁ッたくしまらねェな!!﹂
景気付けのように低く唸って、俺は瘴気の塊めいた腐竜へと走る。
行く手を阻むように床を突き破って生える触手を避け、蹴散らし、
ファンクション
腐竜の巨躯を横合いからぶん殴る。
コントロール
﹁セット Ctrl1、F2!﹂
かいじん
頭上から俺を襲うように降り注ぐ汚泥は、イサトさんの放った雷
がバチバチと弾いて灰塵へと帰した。
1511
黒竜王戦と同じだ。
俺が至近距離からしゃらんら☆を振るって腐竜へと直接ダメージ
を叩き込む。
イサトさんはその援護をしつつ、俺に指示を出す。
違うのは、俺への指示が肉声だということぐらいだろうが。
たった小さな指輪だというのに、左手の薬指にそれがないという
だけで妙に寒々しい気がする。
﹁秋良ッ、私が道を作る!!﹂
ファンクション ファンクション ファンクション
﹁了解!!﹂
﹁F1! F2! F3!!﹂
目の前が白むほどの至近距離で炸裂する雷光。
その光は俺の露払いだ。
ほんの数瞬の間をおいて、俺はその光に飛び込むようにして腐竜
の懐へと接近して、しゃらんら☆で殴りつける。
グガァアアアアアア!!
咆哮が鼓膜をびりびりと震わせる。
ぬとりと光る一対の灰の眸が俺を見下ろし、喰らいつこうとして
︱︱⋮⋮横合いから伸びる金眸の竜の首がその喉首を喰い破った。
ファンクション ファンクション ファンクション
びちゃびちゃと降り注ぐ汚泥からの逃げ道を確保するのもイサト
さんだ。
コントロール
﹁セット Ctrl1、F1! F2! F3!!﹂
カッと周囲を照らす白光が触手を散らし、汚泥を灼き払ったのを
目で確認するよりも先に身体を動かす。
1512
イサトさんが道を作る、と言うのなら俺はそれを信じるまで。
イサトさんの魔法こそが俺の道標だ。
思い切り振りぬいたしゃらんら☆で汚泥のぱんぱんに詰まった水
袋めいた腐竜の身体をぶん殴る。
その最中、頭上でぬぷりぬぷりといくつもの灰眸の首が生じるの
が見えた。
金眸の首はすでに満身創痍だ。
きっと、これ以上長くは持たない。
﹁ウルァアアアア!!﹂
込み上げる焦燥を散らすように、俺は声を上げる。
一方その頃。
はばた
エレニは巫女を背に乗せ、セントラリアの上空を舞っていた。
ばさりと羽搏いて、大聖堂の上を旋回する。
1513
大聖堂の周囲にはもうほとんど人の姿はなかった。
大勢の人の群れは、この非常事態だというのに比較的速やかに避
難が進んでいるようだった。そんな人々の最後尾を守るのは、白銀
の鎧を纏う騎士たちだ。
そして、人のいなくなった街中を素早く駆け回る影には獣のよう
な耳と尾がついていた。おそらくは逃げ遅れた人々がいないかを確
認して回っているのだろう。
そんな街の様子を見下ろして、エレニは己もまた街の外へと向か
う。
エスタイーストへと向かう街道沿いのなだらかな草原に、セント
ラリアから脱出した人々が集まっているのを見つけた。
己が一度セントラリアを襲撃しているのを見られているもので、
あまり人込みには近づきたくないのだが⋮⋮背中に乗せている巫女
のことを考えればそんなことも言っていられない。
エレニは少しだけ離れた場所へと、静かに降り立つ。
それでも、人々の合間には恐れをなしたような悲鳴交じりのざわ
めきが広がった。
背に乗せていた巫女の襟元をそっと咥えて、エレニは彼女を大地
へと下ろしてやる。エレニの口に女性の姿があることに、ますます
人々の間の動揺は大きくなり、やがて抜き身の剣を構えた騎士たち
がエレニの眼前へと飛び出してきた。
面倒くさい。
その一言に尽きる。
人の騎士など相手にしている場合ではない。
1514
エレニは、早くあの場に戻らなければいけない。
養父である黒竜王を死に追い込んだ責任を、あの竜の形をしてい
ることすら許せない汚泥の塊に取らせなければならないのだ。
とりあえず手っ取り早く威嚇して追い払おうと牙を剥きかけたエ
レニの前で、騎士たちからエレニを庇うように腕を広げたのは巫女
だった。
﹁おやめください⋮⋮! この竜は私を助けてくれました! 害意
のある者ではありません!﹂
﹁⋮⋮ッ!﹂
彼女の言葉に、今にも斬りかからんとしていた騎士たちの動きが
止まる。
よし。それで良い。
エレニは、巫女が十分に距離を取ったところで再び空に舞い上が
ろうと翼を広げかけるが⋮⋮そこで再び何者かが、止めようとする
騎士たちの腕を擦りぬけて飛び出してくるのを見た。
きょうだい
燃えるような紅蓮の髪に、同じ色をした獣の耳を持つ子どもたち
だ。
おそらくは姉弟だ。
そして、エレニにはその姉の方に見覚えがあった。
いつか、イサトとアキラにちょっかいを出すために廃墟に訪れた
際に、気まぐれを起こして言葉を交わした獣人の少女だ。
彼女には、目の前にいるドラゴンがあの時の男だとはわからない
だろう。
だが、それでもその少女は、獣人など爪の一振り、ブレスの一吹
1515
きで殺してしまえるであろう竜を相手に怯まずに叫んだ。
﹁アンタ!! イサトとアキラのところに戻るんだろう!!﹂
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
そのあまりにも必死さの滲む声に、エレニは小さく顎を引いて頷
く。
﹁なあ、オレたちに出来ることはねえのかよ!! いっつも、イサ
トとアキラに護ってもらってばっかりでさ!!﹂
それは悔し気な叫びだった。
小さな獣人の少女に、出来ることなどないのだと、きっと本人が
誰よりもよくわかっている。それでも、彼女は叫ばずにはいられな
かったのだろう。
何もできないことへのもどかしさの滲む赤い双眸の目元が、薄っ
すらと濡れているのがわかる。
その少女の言葉に同調するように、騎士たちがぐ、と剣の柄を固
く握りしめた。
﹁ドラゴンよ、私も知りたい。私たちでは彼らのために何もできな
いのだろうか﹂
騎士の一人が声を上げる。
﹁オレも同感だ。何か出来ることはねェのか﹂
﹁私に出来ることはないのか﹂
﹁私にも、何かさせてください﹂
獣人姉弟の身内だと思われる長躯の獣人が。
1516
その傍らで同様に声を上げたのは、どう見ても戦闘要員には見え
ない商人風の男と、いかにも両家の子女というような少女だった。
わらわらと彼らに囲まれて、エレニはぐるりと喉を唸らせる。
さっさとこの場を飛び立って大聖堂に戻りたい気持ちはある。
だが、何か手はないのだろうか。
こうして力になりたがる彼らを使った起死回生の案が。
アキラは言っていた。
あのバケモノは、﹃女神に成り代わりたい﹄のだと。
事実、エレニはセントラリアを守護する聖女が黒竜王の大剣を取
り込み、見るに耐えない醜いバケモノへと姿を変える様を見ている。
女神の力を掠めとっていた紛いモノ。
女神に成り代わりたいバケモノ。
そいつに対抗するために有効な手はなんだ?
そこで、ふと口を開いたのはエレニを庇った巫女だった。
﹁私たちは⋮⋮、恐ろしい過ちを犯しました。
女神へと捧げるべき祈りを、おぞましい魔物に捧げ、その結果自
らこの世界を歪めてしまったのです。ならば、今私たちに出来るの
は、正しく祈ることではないのでしょうか。我々に代わり、魔を討
たんとする英雄のために。彼らに女神の加護があらんことを﹂
﹃︱︱⋮⋮ああ、それだ﹄
ニィ、とエレニの口角が裂けるように持ち上がった。
竜が人の言葉を話したことに、驚いたように人々がざわめく。
エレニは、ゆっくりとその双眸を閉ざすと、竜化のスキルを解い
た。
1517
﹁お、お前はエレニ・サマラス!?﹂
﹁そうそう、エレニ・サマラスだよ﹂
以前セントラリアを潰そうと潜入していた時の顔見知りがいたら
しい。
ひらひら、とエレニは気のない様子でそちらへと手を振る。
﹁俺を疑うならば疑えばいい。だが、今も大聖堂でこの世界のため
に戦う彼らのために何かしたいと思うのならば、俺に協力するとい
い。もしくは、せめて邪魔はするな﹂
人の形はしていても、エレニはエルフであり、竜だ。
誇り高き黒竜王の息子だ。
つぐ
薄く灰がかった蒼の双眸に射竦められたように、エレニを警戒す
るように声を上げた何人かの人間が口を噤んだ。
果たして、どれぐらいの人間が乗ってくれるだろうか。
エレニは、青ざめた顔で、それでも気丈に己を見据える巫女の下
へと歩み寄る。
﹁俺には、ドラゴンに化ける他にも手に職があってね﹂
自分でも、もうほとんど忘れていた。
祖国が滅んで以来、その役割を果たすことはもうないのだと思っ
ていた。
そんなエレニの本来の役職は︱︱竜神官。
1518
女神の威光の象徴である竜に仕える神職だ。
﹁随分と久しぶりだから⋮⋮、まあ、少々音を外しても大目に見て
くれよ﹂
の
ふ、と小さく一度苦笑交じりに呼気を逃がしてから、すぅ、と息
を吸った。
そして、エレニの口から漏れたのは低い旋律だ。
セントラリアではもう、歌われなくなって久しい女神へと捧げる
聖歌。
くちずさ
その調べに、あ、と気づいたように声を上げたのは獣人たちだっ
た。
紅蓮の髪の姉弟が。
その父が。
商人が。
そして騎士たちが。
さざなみ
次々とその旋律を追いかけるように歌を口遊む。
最初のうちは小さな漣のような声だった。
旋律も危うげに揺れている。
けれど、同じ旋律を何度も繰り返すうちに、少しずつ声は大きく
なる。
聖歌を口にする人々が増えていく。
寄せては返す波が、次第に大きくなっていくように。
歌声は次第に大きなうねりとなって、セントラリアの郊外に広が
っていく。
女神の加護を願い、女神を称える歌はまさしく女神への祈りだ。
1519
レティシアは歌う。
さっそう
モンスターに襲われた飛空艇、死を覚悟したその時、颯爽と現れ
て助けてくれた二人の英雄のために。
エリサとライザは歌う。
獣人への迫害のもと、両親から引き離されて辛く苦しい思いをし
ていた自分たちを救い、対等に接してくれた二人の友人のために。
今もまたセントラリアのために戦う二人を知るものたちは、歌う。
二人に命を救われた獣人たちが。
宿屋の女将が、宿屋の常連たちが。
仕立屋の老主人が、その息子家族が。
ニレイナであることを捨て、ニーナとして新しく歩み始めた少女
が。
迷いながらも少しずつ答えを見つけて歩きだそうと決めたウサギ
の青年が。
深い悔恨を抱く商人が。騎士たちが。
声を一つに朗々と歌う。
女神よ、どうか。
この地を守るべく戦う彼らに祝福を︱︱
1520
壮大な誤解︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございます!
Pt、感想、お気に入り登録、ありがとうございます!
感想でいただいた、﹁ラスボス属性盛りすぎ﹂とのコメントにもの
すごい笑いました。
ありがとうございます!
次回の更新は8月9日になります。
そしておそらくそれでおっさんは大団円を迎えます!
最後まで応援していただけますとうれしいです!
1521
おっさんと大団円
﹁⋮⋮ッ、は、﹂
俺は荒い息をつく。
酸素を求めてこめかみの辺りが熱くガンガンと痛む。
心臓が阿呆のように熱を吐き、調子っぱずれのビートを刻んで苦
しくて仕方がない。チリチリ、ぢりぢりと肌を焼く瘴気。
床下から突き上げる触手を蹴散らしていた足先は、分厚いブーツ
に守られてはいてもすでに瘴気に蝕まれてボロボロた。
痛みと紙一重の熱感に気を散らされる。
すでに、黒竜王の首は落ちた。
残る腐竜の首は七本。
まるでヤマタノオロチの出来損ないだ。
次々と噛みつきに伸びてくる七本の首をしゃらんら☆でぶん殴る。
これで一体どれほどのダメージを与えられているのか。
しゃらんら☆の間合いが狭いこともあり、殴り飛ばされた腐竜の
頭から爆ぜるように散る汚泥を避ける術がない。自分もダメージを
受けること前提でインファイトを繰り広げるしかないあたり、ジリ
貧だ。
はか
上空にはイサトさんの召喚した朱雀が舞っており、俺やイサトさ
んの回復を図ってはいるのだが、正直間に合っていない。おそらく、
実質ダメージというよりも状態異常めいた腐食に心と身体の両方が
1522
摩耗しているのだ。
ポーションも追加して少しでも回復しようと距離をとれば、今度
は床下を突き破って現れる触手から逃げ惑うことになる。
ぎりぎり直撃を避けられているのは、イサトさんの援護があるか
らこそだ。
そうじゃなければ、俺はとっくに喰われている。
そのイサトさんにしても、腐竜に蝕まれ、瘴気の立ち込めるこの
おぞましい空間での戦闘に神経をすり減らしているのか、その顔に
は疲れの色が濃い。
少しでも気を抜いたら、倒れる。
何よりもしんどいのは、絶え間なく聞こえ続ける怨嗟の声だ。
﹃こんな世界滅んでしまえばいい﹄
﹃そうだ全部壊してやり直そう﹄
﹃みんな私。私がみんな﹄
﹃そしたら誰も私を否定しない!﹄
枯れ木男とも、聖女ともつかぬ声が、この調子で延々と喚き続け
ているのである。
これがなかなかにクる。
無視している、つもりなのにいつの間にかその声に絡めとられて
動きが鈍る。
1523
イサトさんが道を作り、そこに俺が飛び込んで攻撃を加える。
それが俺たちの戦略だというのに、気付くとリズムが狂わせられ
るのだ。
避けたはずの攻撃が身体を掠め、ぶちのめすはずのしゃらんら☆
が空を切る。
﹁⋮⋮くッ、そ﹂
身体と思考が切り離されたかのようなチグハグ感。
微妙なズレが気持ち悪く、そちらに気をとられるとまたズレてし
まう。
それは、イサトさんも同じだったらしかった。
その微妙なズレを修正すべく、少しでも正確な援護を行おうと半
ば無意識の判断でイサトさんが距離を削る。
駄目だ。いけない。それは、腐竜の間合いだ。
﹁イサトさん⋮⋮!!﹂
退いてくれ!
そう叫ぶより先に、厭らしい歓喜に満ちた声を上げて腐竜の首が
伸びた。
﹁あッ﹂
そこでようやく己が下手を打ったことに気付いたらしいイサトさ
ふともも
んが小さく声を上げる。
身体をひねる。
急な方向転換に、太腿のあたりで厭な音がしたような気がした。
1524
だがそんなもん気にしていられるか!
俺はイサトさんへと迫る腐竜の首へと追い縋る。
ほふ
イサトさんの前に庇うように降りた朱雀が、腐竜により屠られる。
もともと朱雀は回復を得意とする召喚獣だ。防御力は低い。
蛇に呑まれる小鳥のように、朱雀は腐竜に侵食されて朱色の光を
散らしながら消えていった。
朱雀の回復が途切れたせいで余計に身体が重くなる。
それでも、ほんの少しでも朱雀が稼いでくれた時間だ。
間に合え。
間に合え。
間に合え!!!
俺はしゃらんら☆を必死になって伸ばす。
後少し、ほんの少しが届かない。
後一歩だ。
あぎと
後一歩踏み出せれば手が届くのに。
腐竜の顎がギチギチミチミチと開く。
ぞぶりとイサトさんの柔らかな身体に、その牙を食い込ませよう
として︱︱
目の前でイサトさんを失うかもしれないという恐怖に、摩耗した
俺の精神が耐えきれず叫びだしそうになったところで、ふと、耳元
で小さな声が響いたような気がした。
1525
﹁︱︱⋮⋮、﹂
なんだ。
そう ま とう
人は死を目前にすると走馬燈を見るという。
死にそうな目に遭った時、まるで時の流れがスローモーションの
ように感じられることがあるとも。
俺は目の前の現実を認めたくないあまりに、その時の流れを引き
延ばしてしまっているのだろうか。
間延びした世界の中、俺の耳元で響く音が少しずつ大きくなる。
それは旋律だった。
懐かしい、ゲーム内のセントラリアの教会で耳にしたメロディ。
イサトさんを喰らおうとする腐竜に向かって突き出したしゃらん
ら☆を握る俺の手の下に、もう一つ小さな手が添えられているのが
見えた気がした。
白く小さな手の先には、白と赤の清らかな装束に身を包んだ少女
がいた。
まだ人の姿をしていた頃の聖女によく似ているような気がするが
⋮⋮それよりももっと幼くてあどけない。それでいて、きり、とつ
りあがった眉はどこか凛々しく、自分の意志を貫きとおすような︱
︱ちょっと言い方を変えるとどこかじゃじゃ馬っぽい︱︱強さがあ
った。そう。それはきっと、妹を襲った野犬に一人で立ち向かい、
怪我を負いながらも妹を守り通してみせるよう、な。
﹁︱︱︱あ﹂
それは、ほんの一瞬のことだった。
1526
すぅとその少女の姿が消えると同時に、俺の手の中にあったしゃ
らんら☆が姿を変える。可愛らしいドリーミィピンクの色合いがす
ぅと薄れて、代わりに滲むのは眩いほどの清浄な銀の煌めき。
手に吸い付くように馴染むその感触は、使い慣れた愛用の大剣に
とてもよく似ていた。
﹁ウルァアアアアアアアアアアアア!!﹂
吠える。
イサトさんを、奪われてたまるか。
振るう。
全力で、渾身の力を込めて、届かないはずの一撃を俺は振るう。
そして︱︱⋮⋮ずぱんッ、と腐竜の首が舞った。
グギャァアアアアアア!?
首を斬り落とされた腐竜が戸惑ったような悲鳴を上げてのけぞる。
﹁ッ、⋮⋮、は、⋮⋮、あ、は、⋮⋮!﹂
息が苦しい。
それでも止まれない。
まだ、止まらない。
俺はそのままの勢いでイサトさんの下まで駆け寄ると、その身体
を腕の中にしっかりと抱きこんだ。絶対に、獲られてなるものか。
それしか考えられなかった。
1527
左腕でしっかりイサトさんの身体を胸内に抱き込み、右手で持つ
ものを悶絶する腐竜に突きつける形で構える。
左腕に伝わるイサトさんの体温と、柔らかな身体の感触に泣きそ
うなほどの安堵が込み上げた。
﹁⋮⋮よか、った﹂
肩越しに抱いたイサトさんの首筋に、額を落とすようにして呟く。
良かった。
ちゃんと生きている。
間に合った。
イサトさんの手が、宥めるように俺の左腕をぽんぽんと撫でる。
﹁ごめん、助かった﹂
﹁いい﹂
どんな状況であろうと、イサトさんを護るのが俺の役割だ。
だから、イサトさんを助けられたならそれで良いのだ。
が。
さすがに、しゃらんら☆だったはずの右手の得物が、神々しく煌
めく一振りの大剣に変わっていたことに関しては無視できなかった。
﹁ええと、これは一体﹂
﹁しゃらんら☆が、剣に化けている﹂
﹁うん﹂
1528
化けている。
剣の柄と、幅広に伸びる大剣の中央には薄く蒼の乗る装飾が繊細
に彩っている。細部の装飾はどこか繊細でありながら、作りは豪胆
で力強さを感じさせる大剣だ。
何より特徴的なのは、その大剣の周囲では呼吸が楽になることだ。
まるで、大聖堂内に立ち込めていた瘴気を浄化しているかのよう
だ。
﹃女神め、女神め、また私の邪魔をするのかァアアアアア!!﹄
腐竜が怨嗟の声を上げる。
不思議なことに、腐竜は斬り落とされた首を再生させることが出
しな
来ないようだった。先ほどまでとは逆で、俺に斬り落とされた首の
断面はまるで光に侵食されたかのように萎びて乾いている。
﹁聖属性⋮⋮?﹂
﹁みたいだな﹂
﹁だが、その剣は一体どこから﹂
﹁なんか、歌声が聞こえたんだ﹂
﹁歌、声?﹂
この声が、イサトさんには聞こえていないのだろうか。
﹁︱︱⋮⋮本当だ。聞こえる。って、⋮⋮あ﹂
イサトさんが微かに身を竦ませる。
その視線の先にいたのは先ほどの少女だ。
彼女は、イサトさんが手にしていたスタッフにも、そっと触れた。
神々しい光がスタッフに纏わりつき、ゆっくりとその形を変えて
1529
いく。
しゃくじょう
黒く、どこか禍々しい形をしていたスタッフは、纏う銀光をその
まま色に変えたような優美な錫杖へと変化していた。すらりと伸び
た長さは、イサトさんの身の丈ほどもある。
その変化を見届けると、白い光を纏った少女は小さく笑ったよう
だった。
そして、俺とイサトさんに向けて頭を下げて︱︱消えていく。
﹁⋮⋮アレ、は﹂
﹁たぶん、聖女だよ。本物の﹂
女神に仕えるために徳を積み、優秀な巫女であったがために偽の
聖女に目をつけられ、誰にも知られずに屠られてきた何人もの聖女
たち。
きっと、女神がその姿を借りて俺たちに力を貸しに来てくれたの
だ。
﹁⋮⋮よし﹂
﹁行くか﹂
俺とイサトさんは、視線を交わして笑いあう。
先ほどまでの追い詰められた焦燥感はもうなかった。
腐竜の上げる怨嗟の声も今は遠い。
俺たちの耳元で響くのは、懐かしい祈りの歌だ。
たくさんの声が重なるその歌声の中には、どこか聞いたことのあ
る声たちが溶け込んでいるような気がした。
俺はイサトさんを抱き込んでいた腕を解いて、大剣を携えて再び
腐竜へと踏み込んでいく。
1530
﹃死ね! 死ね! 死んでしまえ!!﹄
呪詛めいた罵声とともに黒い逆氷柱が床下から突き上がってくる。
それに向かって俺は大剣を一薙ぎ。
斬り落とされた触手は、そのまま黒い塵となって消えていく。触
れれば肌を焼く汚泥が散ることもない。
﹃厭だッ、来るな! 来ないで!﹄
叫ぶ声も気にせず、俺は一息に距離を詰める。迎撃しようと迫っ
てきた腐竜の頭へと駆ける勢いもそのままに左下から右上へと斬り
上げた。ずばんッ、と大剣の刃がまるで吸い込まれるように腐竜の
首を断ち切る。先ほどは夢中で見届けられなかったものの、今回は
斬り落とされた腐竜の首が先ほどの触手と同じようにばしゅりと黒
い塵に変わるのを見た。追撃のつもりで迫っていた二本目の首が怯
んだように逃げようとするが、遅い。返す刀で斬り伏せて、三つめ
の首が飛ぶ。
これで残りは四つだ。全部、斬り落としてくれる。
俺が腐竜へと接近するタイミングを見計らって、イサトさんが攻
撃魔法を放つ。
ファンクション ファンクション
﹁F1! F2!﹂
ピシャァンとピンポイントで生じた雷撃が、腐竜の頭の一つをバ
ヂンッと弾き飛ばした。雷光の中で、腐竜の頭が消し炭と変わり果
は
てて消え失せる。雷撃に痺れたのか、それとも怯えに身体を竦ませ
たのか、その隙にさらに迫って首を刎ね飛ばす。これで五つ。残る
首は後二つだ。
1531
と、そこで腐竜の様子が変わった。
ぶるぶると巨躯が揺れて、まるで空気が抜けるように萎れていく。
もともと七本もの首を支えるための土台としてしか機能していな
かった胴体が、重力に負けたかのように潰れてゆく。へしゃげたプ
リンのようにぐずぐずになった胴から生えた二本の首だけがゆらゆ
らと揺れ︱︱⋮やがてその腐竜の頭からそれぞれずるりと人の上半
身が生えた。
聖女と、枯れ木男だ。
まるで人の死体が黒くヌメる腐竜の頭から生えたかのようで、酷
くアンバランスな光景だ。見ていて、心が不安定になる、というか。
さらに様子がおかしいことに、その二人は俺たちには目を向ける
こともせずお互いを憎々しげに睨みあっている。
﹃どうして私を認めてくれない!﹄
﹃どうして私を認めてくれない!﹄
二人が同時に叫ぶ。
﹃女神よ! あなたは私に男として頑健な身体も、勇ましい魂も授
けてはくれなかった!﹄
﹃女神よ! あなたは私に清らかな乙女の身体を授けてはくれなか
った!﹄
﹃私にあったのは女のようにひ弱な身体と怯え惑う弱い心のみ!﹄
﹃私にあったのは女にもなれず聖女としての役にもつけぬ役立たず
の男の身体のみ!﹄
﹃厭だ厭だこんなものは欲しくはなかった!﹄
1532
﹃厭だ厭だこんなものは欲しくはなかった!﹄
ユニゾンを奏でる声で二人は嘆く。
そして、互いを罵りながら首を絡め、お互いを喰らい合う。
なんだか、そんな光景に俺はすっかり空しくなってしまった。
イサトさんも、同じ気持ちなのだろう。
痛ましげに金色の双眸を伏せている。
﹁哀れだなあ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮結局、最後の最後まで自分を否定してるのは自分自身じ
ゃねぇか﹂
囚われている間に見た夢の中の少年を思い出す。
可哀想な子どもだった。
ただ愛されたいだけの子どもだった。
環境が彼を歪めてしまった。
そして皮肉なことに、彼の父親がさんざん無能だと罵り続けた彼
には、歪んだ才能があった。彼は確かに、彼の父親が望んだ通り、
類稀な才能を持つ優秀な子どもだったのだ。
彼は、何百年もかけてそれを証明した。
そして今も、それを証明しようとし続けている。
﹁⋮⋮もう、頑張んなくていいんだよ﹂
ちゃんと、終わった方が楽になる。
この世界の明日のためにも。
1533
いつかの夢の中でひとりぼっちで泣いていた子どものためにも。
俺とイサトさんは静かに殺し合う二人へと距離を詰めた。
白銀の光が、煌めく。
腐竜の最後に残された二本の首がすぱん、と落ちて。
妄執の塊めいた二人の姿は、他の汚泥と同じくばしゅりと微かな
音を響かせ黒い塵へと化して消えていった。
それが、セントラリアを、ひいては一つの世界を終わらせようと
していたモノの最期だった。
1534
全ての頭を落とされた腐竜の身体は、後はもうぐずぐずと崩れて
いくだけだった。今はもう、命の脈動はなく、ただただその場に蟠
る汚泥と化している。
﹁⋮⋮これ、浄化した方が良いんだろうか﹂
﹁イサトさん、浄化ってできる?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
イサトさんが難しそうな顔をする。
俺やイサトさんはこれまでもヌメっとしたイキモノと戦い、浄化
めいたことをしてきているがそれは全部浄化︵物理︶である。聖属
性のついた鈍器でぶん殴って消滅させることで、浄化︵物理︶して
いたのだ。
この一面に広がる黒い泥を、くまなく大剣と錫杖でぶすぶす刺し
て歩いて回る必要があるのだろうか。
イサトさんは悩ましげに眉根を寄せつつ、まるで試してみるかの
ように長い錫杖の先でちょん、と汚泥をつついた。
果たして、それが何か効果をもたらしたのか。
ふわっ、とイサトさんがつついた先から、蛍のような小さな光の
粒が一つ零れ落ちた。それはふわふわと、空へと舞い上がっていく。
﹁これって⋮⋮﹂
﹁うわった!?﹂
その最初の一粒を皮切りに、ぶわあああッと黒い汚泥の中から無
数の光の粒が立ち上って空へと昇っていく。
1535
﹁⋮⋮⋮⋮今まで、喰われた人たち、なのかな﹂
﹁やっと、還れるんだな﹂
コトワリ
これまで汚泥の中に囚われ、この世界の理から外れていた魂たち
が、今ようやく女神の下へと還っていくのだ。
めぐ
きっと、これでこの世界は正しく廻りだすだろう。
そうして、ふわふわと細かい光の粒が空へと舞い上がっていく中、
逆に何かきらきらしたものが俺とイサトさんの目の前にゆっくりと
降ってきた。
手のひらで受け止める。
ひやり、とした石の感触。
それは︱︱⋮⋮色鮮やかなエメラルドグリーンのジェム。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何か込み上げるものが大きすぎて、言葉にならない。
これで、帰れる。
俺たちは、元の世界に帰ることが出来るのだ。
いざ帰れると思うと、なんだかどうしていいのかわからなくて俺
とイサトさんは顔を見合わせた。
﹁どう、しようか﹂
それは、帰るかどうかを聞いたつもりではなかった。
もちろん帰る。
1536
だが、その前に何かやり残したことはないか、それを聞いたつも
りだった。
だというのに、イサトさんはわかりやすくへにゃりと眉尻を下げ
た。
﹁⋮⋮⋮⋮秋良、⋮⋮君はやっぱり帰りたくはない、か?﹂
﹁まってなんでそうなった﹂
﹁だって﹂
イサトさんは悲しげに双眸を伏せながらも、口元だけは小さく拗
ねたように尖らせた。
﹁⋮⋮君、レティシアが好きなんだろう﹂
それ今来る???
思わず真顔になった。
﹁待って。ねえ待って。イサトさん、ちょっと落ち着こう﹂
﹁ぅん?﹂
なんだその、恥ずかしがる気持ちもわかるから大丈夫だよ、的な
大人の包容力に溢れた顔は!
﹁なんで! そうなった!?﹂
﹁え⋮⋮、だって﹂
1537
今度は何故か、イサトさんが照れたようにうっすら目元を染めた。
なんだこれ。
どういう状況だ。
﹁⋮⋮黒竜王のところに出発する前に、皆が見送りに来てくれたこ
とがあっただろう?﹂
﹁あった﹂
そういえば、イサトさんの様子がおかしくなったのはあの時から
だ。
何か一人で物憂げに考えこむことが増えた。
﹁⋮⋮あの時に、ニーナが言ってたんだ﹂
﹁ニーナが? なんて﹂
厭な予感がする。
イサトさんは、ちろ、と上目遣いに俺を見る。
﹁⋮⋮⋮⋮秋良青年に、好きな人がいる、って﹂
﹁ぐげふ﹂
血を吐きそうになった。
﹁ニーナが、親の言う通りに政略結婚のために君に近づいたときに、
自分の好きな人は自分で自分の進む道を選んで、そうと決めたなら
その結果どんなことが起きても自分の選んだことだと受け入れて前
に進める強い人だ、って言って諭したって聞いた﹂
﹁ぶげふ﹂
1538
俺のHPはもうゼロよ。
のろけ
うっかり第三者へと漏らした惚気というか好きな人のどこが好き
か、という話が回り回って本人の口から語られるというこのいたた
まれなさ、プライスレス。
やばい。死ぬ。うっかり死ぬ。
元の世界へと戻る手立てを手に入れたはずの今、俺はイサトさん
に殺されそうになっている。俺のメンタルが殺される。
﹁⋮⋮それって、レティシアのことだろう?﹂
﹁違う﹂
即答で否定した。
﹁え﹂
ぱちくり、とイサトさんが瞬く。
確かにレティシアだって、トゥーラウェストから単身セントラリ
アに乗り込んできた気丈な少女だ。飛空艇を襲われたり、俺たちと
一緒に参加した城での舞踏会ではエレニの襲撃に巻き込まれたりも
しているが、それでもレティシアは一言だって親元に帰るとは言い
出さなった。セントラリアのため、獣人のために今もレスタロイド
商会のセントラリア支部の代表として頑張っている。
うん。
確かに、当てはまる。
当てはまりはするが、違うんだイサトさん。
と、いうか。
1539
﹁⋮⋮あの後セントラリアを出てからイサトさんの様子がおかしか
ったのってさ﹂
﹁⋮⋮っ!﹂
ぶわあ、と。
今までも赤かったイサトさんの目元が真っ赤に染まった。
ツンと尖ったエルフ耳の先まで赤い。
﹁⋮⋮もしかして、俺がこっちに残るって言い出すかもしれないと
か思ってた?﹂
﹁ッ、⋮⋮あの時は! 元の世界に戻る方法なんて全然わからなか
ったし、こっちの世界で生きていかなければいけなくなる可能性だ
ってなくはなかっただろう!﹂
﹁うん﹂
﹁だからこっちで好きな人が出来たなら、ここの世界で暮らすこと
を選ぶ可能性だってないわけじゃないって思ったんだ! それに⋮
⋮っ﹂
イサトさんがき、と俺を睨みつける。
なんだなんだ。
そんな真っ赤な顔で睨まれても可愛いだけだぞイサトさん。
﹁最果ての洞窟が見つからなかったときだって!﹂
﹁うん﹂
﹁私はもう元の世界に戻れないかもしれない、って落ち込んでるの
に、秋良はなんかわりと平気そうな顔してた!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
あの時やたらイサトさんがしょんぼりしているように見えたのは、
そのせい、だったのか?
1540
俺が、この世界に好きな人が出来たが故に、元の世界に戻れなく
ても良いと思っている、なんて考えて。
﹁⋮⋮⋮⋮違う﹂
俺は呻くように口を開いた。
﹁⋮⋮へ?﹂
﹁俺が! 平気そうな顔をしてたのは! 俺まで落ち込んだらイサ
トさんがもっと不安になると思ったからです!﹂
あーくそ、なんだこれ恥ずかしい。
何かいろんなことの符号があっていく。
セントラリアから出た後にイサトさんが口にした別れへの寂しさ
は、いつか来るであろう俺との別れを覚悟して漏れた言葉だったの
か。
なんだそれ。なんだそれ。
壮絶なすれ違いに頭を抱えたくなる。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
イサトさんが、ちょろ、と俺の顔を窺う。
俺も、じんわり顔が赤くなっている自覚はある。
﹁それじゃあ、君も一緒に帰る?﹂
﹁当たり前だ﹂
1541
むっすりと口元をへの字にしつつ宣言。
﹁⋮⋮そ、っか﹂
よかった、と呟くイサトさんはなんだか心底安堵したように見え
た。
可愛い。ああくそ。このヤロウ。襲うぞ。
なんて思っているところで、ばさりと羽音が響いた。
お、と顔を上げると、破れた大聖堂の屋根の隙間からにゅ、と竜
化したエレニが顔を出す。
﹃終わった?﹄
﹁ああ、終わった。全部終わったぞ﹂
﹃︱︱⋮そうか﹄
エレニの声にも、全てが終わったのだという感慨が滲んでいた。
まだわずかに舞う光の粒を、エレニはそうと見上げる。
そしてそんなエレニの背からやたらにぎやかな声が響いた。
﹁アキラ! イサト! オマエら無事なんだろうな!﹂
﹁︱︱⋮⋮﹂
思わず俺は黙りこむ。
エリサだ。
だがエリサよ。
お前が乗ってるの、馬でもなんでもなく、今代の黒竜王だぞ。
エレニもエレニだ。
1542
良いのか、獣人の少女の足にされて。
俺の眼差しに、言いたいことは伝わったのかエレニがふい、と目
をそらす。
これ、きっと乗せていけと騒ぐエリサを断りきれなくなったパタ
ーンだな。
今頃、残されたライザは涙目に違いない。
けれど、ちょうど良かった。
俺はエリサに渡すものがあったのだ。
﹁エリサ! セントラリアに巣食ってた紛いモノは俺とイサトさん
が倒したから、もう全部大丈夫だ! で! 俺とイサトさんは故郷
に帰ることになった!﹂
﹁ッ⋮⋮! そんな、早すぎるだろ! オマエら、セントラリアを
救った英雄なんだぞ! それなのにいなくなるなんて勝手だろ!!﹂
口ではそんな風に怒りながらも、エリサの双眸からはぼろぼろと
涙がこぼれ始めた。しゃくりあげるようにひくりと喉が鳴る。
﹁まだ⋮⋮ッ、ちゃんと、お礼も、言ってないのに!!﹂
﹁今聞いた!﹂
﹁ばか!!﹂
エレニがそっと大聖堂の中に降り立ち、エリサのために身体を伏
せてやる。
エリサはほとんど滑り落ちるかのような勢いで地面に降り立つと、
そのまま俺たちへと飛びついた。
﹁ありがとな、本当に、ありがとう⋮⋮!!﹂
1543
感謝の念をその身の丈で伝えようとしているかのように、エリサ
は小さな身体で力いっぱい俺たちを抱きしめる。ぎゅうぎゅうとく
っつくその一生懸命な腕の強さに愛しさがこみあげた。
﹁エリサ、﹂
俺はインベントリへと手を滑らせると、その中から一本の短剣を
取り出した。
地下を探索している間、イサトさんは夜になると刀鍛冶に転職し
て騎士たちのために剣を打ちまくっていた。おかげでそれなりに鍛
冶スキルのレベルの上がったイサトさんに、密かに頼んでいたのだ。
﹁それ⋮⋮、アキラの﹂
﹁おう。俺の大剣が黒竜王とやりあったときに折れちゃってさ。そ
の破片で、イサトさんに打ってもらったんだ﹂
クリスタルドラゴンの短剣である。
かなりレアなことは間違いない。
ただ、今のエリサのレベルではたぶん、振れない。
﹁⋮⋮俺、最初に出会ったときにお前の短剣へし折っちゃっただろ﹂
パニクったエリサがイサトさんに刃を向けたことに対して、過剰
反応した俺がつい迎撃してしまったのだ。あの時のエリサの呆然と
した怯えを含んだ眼差しを思い出すと、今でも心が折れる。
ずっと、気にかかっていたのだ。
だから、この短剣はエリサに渡したい。
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﹁お守りだと思って、持っててくれ﹂
﹁⋮⋮っ、ばか⋮⋮っ、ばか!﹂
顔をくしゃくしゃにして泣きながら、エリサが短剣ごと抱きしめ
て俺にしがみつく。その背を宥めるようにぽんぽんと撫でながら、
俺はもしかしたらライザが一緒じゃないのは、ライザがエレニを怖
がったからではなく、泣いているところを見られるのを嫌がったエ
リサがわざとおいてきたんじゃないのか、なんて考えていた。
﹁⋮⋮もう、会えないのか﹂
すす
ぐず、と鼻を啜りながらエリサが問う。
﹁まあ、そうだろうな。だいぶ遠いところに帰るつもりだから﹂
﹁今まで、ありがとうな﹂
イサトさんの指先が、柔らかにエリサの髪をかき撫でる。
そのついでのように、さりげなくぺたん、と寝たエリサの▲耳を
つまんでいったのを俺は見たぞ。ずるい。俺も、イサトさんを真似
て宥めるふりでエリサの耳をふにりとつまむ。柔らかい。素晴らし
い触り心地である。
心なしかエレニが俺たちに生ぬるい目を向けている感。
﹁⋮⋮他の皆には、何も言わないで行く気なのかよ﹂
﹁あー⋮⋮﹂
﹁引き止められても大変、だしな﹂
きっと、皆俺たちのことを引き止めてくれるだろう。
だが、きっと一度足を止めてしまったらずるずると出発を先延ば
1545
しにしてしまいそうな自分たちがいることを、俺たちはわかってい
た。
﹁軽ーく挨拶してから、行くことにするよ﹂
﹁ん﹂
イサトさんの言葉に頷く。
またが
そして︱︱⋮⋮俺たちは、再び羽音を響かせて空へと舞い上がっ
た。
俺とイサトさんが跨るのはいつものようにグリフォンだ。
エリサはエレニの背に乗って、セントラリアの人々が避難してい
るのだというエスタイーストへと続く街道のあたりへと向かう。
エレニの巨躯は、地上からでも見つけやすいらしい。
大勢の人が集まる上空にさしかかると、さっそく眼下で賑やかな
歓声が上がった。俺たちが共にいる、ということで、すべてが無事
に終わったことをきっと把握したのだろう。
抱き合っているのは団長さんとエラルドだろうか。
手を取ってぴょんぴょん跳ねているのは⋮⋮まさかあれ、シオン
とアルテオか?
肩を組んで互いの背をばしばし叩きあっているのはクロードさん
と商人だ。
そして、一番手前で俺たちに向かって一生懸命手を振っているの
は、レティシアとライザだった。
﹁俺たちはもう帰るけど!!﹂
﹁セントラリア、頑張って立て直してくれ!!﹂
1546
大聖堂に関しては、おそらく物理的に建て直す必要がある。
だが、きっとそれもセントラリアに暮らす人々が手をとりあい、
力を合わせたならばきっと難しいことではないはずだ。
イサトさんが、す、っと錫杖を構える。
なんだ、何をする気だ。
ひゅん、と風切り音とともに錫杖が振るわれ、それと同時に青空
に咲いたのは鮮やかな花火だった。
何かのイベントの記念でもらったお遊びスキルだ。
戦闘にはなんの役にも立たない、ただ花火があがるだけのスキル。
だが、お祝いごとには相応しい。
セントラリアと、俺たちの門出によく似合う。
俺とイサトさんはいくつもの花を空に咲かせて︱︱⋮⋮やがてそ
のまま俺たちは自然と北を目指して駆けだしていた。
1547
俺たちがやってきたのは、北の最果て。
この前訪れたときには何もなかったはずの海に、今はぽっかりと
浮かぶ小さな島がある。
女神が、気を利かせてくれたのだろうか。
ただし、あの魔窟めいた恐ろしい洞窟はない。
今からあの新規マップボスとリアルで一戦交えてから帰れ、なん
て言われていたら俺は全力で女神に文句をつけていた。良かった。
とん、とグリフォンの背から降りて、最果ての小さな島で俺とイ
サトさんは向かい合う。
俺の手の中には、エメラルドグリーンのジェム。
これを発動させれば、俺とイサトさんは元の世界に帰ることが出
来る︱︱⋮はずだ。
俺は、そっとイサトさんへとジェムを握るのとは逆の手を差し出
した。
イサトさんも、当たり前のように俺の手を握り返す。
﹁⋮⋮帰るか﹂
﹁うん﹂
1548
まっすぐに向かい合う。
元の世界に帰れば、こうしてイサトさんと過ごす日々は終わる。
銀の髪に金の瞳、なめらかな褐色の肌のダークエルフなイサトさ
んは見納めだ。
なんだか今更になって、少しばかり惜しいような気にもなる。
そんな感傷を振り切るように、俺はエメラルドグリーンの転送ジ
ェムを発動した。
いつかあの洞窟で炸裂したような真白の光が、カッと俺たちの視
界を灼く。
そんな中、俺はぎゅ、とイサトさんの手を握って。
﹁イサトさん﹂
﹁ん?﹂
﹁俺の好きな人って、イサトさんのことだから﹂
﹁ッ!? !!!??﹂
イサトさんの手が、かっと熱くなる。
きっと、今頃顔を真っ赤にして、わたわたしているのだろう。
そんな顔を見られないのが心底残念だ。
最後の最後。
いつも俺を手玉にとって転がしていたイサトさんの度肝を、とっ
ておきの内緒話で抜いてやることに成功した喜びを咬みしめて喉を
鳴らして笑う。
ぎりぎりと痛いぐらいに握られる手のひら。
繋いだ手の先にイサトさんの体温を感じながら︱︱⋮俺の意識は
静かに暗転した。
1549
ふと、目を開くとそこは俺の部屋だった。
﹁︱︱⋮⋮、﹂
手を見る。
当然のように空っぽだ。
その手の先に、銀髪金瞳、褐色肌のエルフはいない。
目の前には、完全にブラックアウトした俺のPC。
1550
ふと、自分の身体を見下ろす。
いつもの部屋着だ。
まるで、あの世界に飛ぶ前と何も変わらない。
PCデスクの上に置かれていたスマホを手に取る。
時刻は、昼下がり。
ちょうど、俺たちがあの追加マップを攻略していた時間帯だ。
日付を見る。
あの日だ。
俺とイサトさん、もといおっさんが、お互い暇ならぶらっと追加
マップにでも攻め込んでみるか、なんて軽いノリで約束していた日。
俺たちがあの世界で過ごした時間は、夢か幻のように消え失せた。
きっと、自分の世界を救うために俺たちを利用した女神のせめて
もの心遣いなのだろう。
全ては、なかったことになった。
けれど、あの世界で経験したことが全て夢だったのではないかと
疑う気持ちは不思議と湧かなかった。俺は確かに、あの世界にいた。
大剣を振るい、ヌメっとしたバケモノを倒し、世界を救って帰って
きたのだ。
だから、その日は、きっと俺、遠野秋良にとっては特別な日にな
った。
ほぼサービス開始当初からプレイしていたMMO、レトロ・ファ
ンタジア・クロニクル︱︱略称RFC︱︱の最新かつ最深マップの
踏破に手をかけた。
1551
そして︱︱⋮無事に異世界を救って帰還した日でもあるのだから。
俺たちが、異世界を救ってからどれくらいの時間が過ぎただろう。
ざわざわと人どおりの多い駅の片隅、改札前でぼんやりと人の流
1552
れを眺めながらそんなことを思う。
あの日以降、いろんなことがあった。
イサトさんがしばらく音信不通になって俺がヤキモキしたり。
結局待ちきれなくなって突撃したりだとかのなんやかんやがあっ
たり。
そんなあれこれを経て、俺と伊里さんは元の世界に戻った今も、
相変わらずつるんでいる。
﹁秋良、待ったか?﹂
﹁や、俺も今来たとこ﹂
俺はひょいと背を預けていた壁から背を浮かせて、目の前にやっ
てきた女性へと視線を向けた。
そこにいるのは、女神の力でなかったことになった異世界での日
々、隣にいるのが当たり前だったひと。
俺の肩ほどまでの背丈は変わらない。
ただ、腰のあたりまでありそうな長く艶やかな髪の色は黒だし、
俺を見上げる双眸も同じく黒だ。肌の色は本人が主張する通りイン
ドア派であるせいか、やや白めだ。あの世界にいた頃とは逆に、こ
ちらでは俺の方が肌の色が濃い。
そんな色味を除けば、顔立ちはあの世界で共に過ごした彼女と何
も変わらない。
俺を見上げる角度も、柔らかに笑いかける表情も、あの頃と同じ。
﹁秋良はどこか行きたいところあるか?﹂
﹁とりあえず腹減った﹂
﹁それじゃあ⋮⋮、駅近くの洋食屋さんは?﹂
1553
﹁伊里さんあそこのシチュー好きだよな﹂
﹁ロールキャベツも好きで今迷ってる﹂
﹁その店に行くことは決定してるのか﹂
﹁他どっか行きたいところあった?﹂
﹁や、ない﹂
﹁なら決定で﹂
こことは異なる世界で交わしていたのと、そう変わらないいつも
のやり取り。
﹁ん﹂
当たり前のように、どうぞ、と伊里さんへと手を差し出す。
当たり前のように、伊里さんが手を握り返す。
それでも、ちょっと唇を尖らせて口を開く。
﹁⋮⋮秋良青年、さすがにはぐれないと思うのだけれども﹂
﹁やだ。第一、そう言って気づいたらはぐれてるのが伊里さんだろ﹂
﹁迷子放送で呼ぶから﹂
﹁普通に電話してくれ迎えに行くから﹂
﹁はい﹂
おっさん﹁が﹂美女だった、というところから始まった俺たちの
物語。
それはきっと、おっさん﹁と﹂美女、になるまでの腐れ縁に違い
ないのだ。
1554
おっさんと大団円︵後書き︶
ここまでお読みいただきありがとうございました!
なかなか感想に返信することができていませんでしたが、すべて目
を通させていただいています。
ここまで書くことができたのは、読んでくださった皆様の応援のお
かげです。
本当にありがとうございました!
﹁おっさんがびじょ﹂五巻は8月15日発売です!
詳しくは活動報告にまとめようと思うので、そちらもどうぞよろし
くお願いいたします!
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n5848bz/
おっさんがびじょ。
2016年8月9日20時18分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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