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教育における人間的なもの [下]

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教育における人間的なもの [下]
奈良教育入学幕Ll要 第45巻第1号(人文・社会)平成8年
lull. Nara Univ. Educ,, Vol.45, No. 1 (Cult.&Soc,) , 1996
教育における人間的なもの[下]
-「教育愛」の学説的成立とその今日的位置-
岡 本 定 男
(奈良教育大学教育学教室)
(平成8年4月30日受理)
前巻において筆者は、明治期以降にあって、教授目的の効果的達成の便法としての子どもへの
愛の意義づけの段階(第1段階)に始まり、教育と愛の或いは教育の本質的規定をめぐる我が国
独自の「教育愛」の学説的構築の準備期(第2段階第1期)迄の経緯を概観した。本巻では、我
が国にあっての相対的に独自な「教育愛」の規定が、その一層の系統性や普及性を得ていった経
緯を明らかにし、併せて、その今日的位置と促進要因を提示することを目指している。
因に本論文の全体構成を示しておく。
課題意識と対象
第I章「教育愛」の学説的成立前史
1.教育学説の移入性と戦後の「教育愛」
2. 「教育愛」の学説的成立の第1段階
3.ペスタロッチ評価の質的変化
4.第2段階第1期の位置と性格
一以上前巻、以下本巻
第Ⅱ章「教育愛」の学説的成立
1.第2段階第2期設定のメルクマール
2.第2段階第2期の内容
3.第3段階の特質と展開
第Ⅲ章「教育愛」の今日的位置と促進要因
1. 「教育愛」の歴史的理論的位置
2. 「教育愛」の新たな規定とその促進要因
第II章「教育愛」の学説的成立
1.第2段階第2期設定のメルクマール
こゝに第2段階第2期が設定される根拠がある。こゝに至って初めて、我が国の教育と愛との
関連や教育にあっての愛の位置とその性格づけをめぐる考察が、実質的な統一的呼称としての
「教育愛」の概念づけや構造化をめぐる考察へと集約的に高められることになる、と言って良い。
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56
岡 本 定 男
長井和雄は、かつて教育学上の概念に触れて以下のように述べたことがある。
「私達が教育について語る際に使用する概念はたしかに哩味であり、多義的である。そのため
に論議がすれ違い、徒に紛糾することにもなっている。『教育者』や『教育愛』という教育学
の主要概念でさえそうであるし、『学力』という概念もそうである。『学校』という概念も例外
ではない。学校が何をするところであるのか、また何をすることができるのか、ということも
それほど明確であるとはいえない。しかし、何にもまして、『教育』という概念の内容こそ明
碓に規定されていなければならない。」(35)
戦後の教育の学的論議にあって、「教育愛」は「主要概念」として客観的に認知され、たとえ
ば教育の哲学的構築に意欲を示している村井実によって、「それを頁く優先的関心が『教育愛』
である限りにおいて、その思想は教育思想たりうる」(36)とさえ位置づけられている。しかし、
これまでの概観において既に述べた如く、「教育学の主要概念」とも「教育思想の決定的な特徴
」(37)とも規定されるこの「教育愛」は、その用語としても概念としても大正末期、即ち本論文
における第2段階第1期までは、全く登場してこないのである。主要かつ決定的な教育学上の概
念、即ち教育学上の中心的かつ根本的とみなされるべき概念が、これまでの学説史研究において、
いっどのように成立したのか殆ど触れられてこなかったと見られる事実は、教育学そのものの学
問的自律性の根本要件と関わる重大な欠陥状況と言うべきであろう。「教育愛」や教育にあって
の愛の理論的ないし解説的言及のどこにも、この用語と概念がいっ、どのように我が国で用いら
れ定着したのかという点には触れられていない。これはまた、前巻で述べたこの語への辞書的言
及の有無への驚きに続く驚きと言わねばならない。
さて、第2段階第2期の決定的メルクマールは、他でもない。この戦後教育の学的展開にあっ
ての主要概念とみなされることとなるいわゆる「教育愛」の用語・概念両者ともの登場に置くべ
きであろう(38)既に筆者が別の機会に触れた如く(39)、「教育愛」という用語そのものは、結論的
に言って全くの移入語・翻訳語と言って良い。即ち、この用語を直接間接に基として、これ以後
構築されることとなる我が国戦前にあっての教育と愛、或いは「教育愛」における愛の理論的学
問的考察や論議は、この移入語と関わって導入された概念との直接的間接的関連において歴史的
に展開したものとみて良いのである。
では、この決定的メルクマールとしての移入語及び翻訳概念は、何によって与えられたのか?
それは、我が国の戦前教育学説の構築に多大な影響を与えたエデュアルト・シュプランガー
(1882年-1963年)の主著『生の諸形式』(Lebensformen、1921年)によってである、と言え
よう。(40)
知られるように、シュプランガーはこの著作において、人間存在の理念的基礎を理論的・経済
的・美的・社会的・権力的・宗教的の6類型に帰着させ、愛が基礎的力として作用しているとこ
ろの教育者をして「社会的人間」として位置づけたのである。この時点以後、当のドイツにあっ
ても、「教育愛J(DieP云dagogischeLiebe)の用語と概念がそれへの批判を含め戦後まで続く
継承論議の対象として援用されてきた(41)そして、我が国の教育と愛をめぐる考察もまた、こ
の「教育愛」の用語それ自体の移入とともに質的飛躍的に高められることとなった。シュプラン
ガー自身この著作において、恐らく初めて、愛を本質とする教育者のいだくべき愛を「教育愛」
と名付け、その「教育愛」のもつ愛としての特殊性を分析抽出しようとした(42)
。
その仕方は極めて特徴的であった。即ち、シュプランガーは、この特殊な「教育愛」を愛一般
から区別して、この愛が、「生長過程にある心、およびその未発達の価値可能性」に向けられ、
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そこから純粋かつ豊かに「生命の客観的意義および価値」(43)を生み出そうとする愛であること
を性格づけたのである。
翻って、当時の我が国の教育(学)関係者にあって、この著作の中でシュプランガーが、 「社
会的類型が他に類例を見ないほど純粋に現れているところの人、ペスタロッチー」(44)と指摘し
たこと自体には、もはやさしたる新味はなかった。しかし、我が国の教育と愛をめぐる考察は、
先にその核心部を示したように、シュプランガーが「教育愛」なる呼称をもとに、
① 教育者の根本的あり方を愛に求め、この「教育愛」を宗教的な基礎をもっ愛とも関わる3
つの特性(受容的・付与的・価値協同的)と結びつけたこと、
② 最も決定的な問題提起とも言いうる次のような概念規定、即ち、 「教育愛」と結びっけた
教育そのものの概念規定を行ったこと、
この2点において、我が国「教育愛」の学説的成立への決定的契機が与えられることとなった。
「教育は、他者の精神に対する付与的な愛によって、その全体的価値感受能力と価値形成能力
とを内部から発達させようとする意思である。」(45)
教育の本質を定義づけたとされるシュプランガーによるこの規定は、ドイツ精神科学派の教育
定義を代表するものとして、戦前我が国にあって諸種の著作に紹介され、教育の本質に対する学
的構築に多大な影響を与えた(46)プラトンが『饗宴』において展開したイデアへの限りない憧
れとそれを追求して止まない心の働きを、少年への愛を媒介とするエロスとして描いて以来(47)、
そして、シュプランガー自身が、このプラトンによるエロスの作用を「教育愛」の本質的作用の
一側面として意識的に継承して以来、教育の本質規定の核心部分に「教育愛」が位置づけられる
こととなった、と言って良い。
何にしても、こうしてシュプランガーが『生の諸形式』で使用した「教育愛」なる名称と概念
は、これ以後の我が国の教育と愛をめぐる論議と考察を質的に飛躍させる分岐点になった、と
言って良いだろう。
従って、 「教育愛」の学説的成立の第2段階第2期は、このシュプランガーの著作が、辻幸三
郎によって『文化哲学概論「生の形式」』として全訳された昭和元年前後から昭和0年代を通じ
ての時期として設定できるものと考えられるのである。
2.第2段階第2期の内容
シュプランガーが使用した「教育愛」の呼称と概念は、その後極めて急速に我が国の教育
(学)界に浸透することとなり(48)、これ以後、教育における愛の論議や学的構築は、殆ど-貿し
て新名称「教育愛」と関わるものへと転化していくのである。 「教育は教育者の施与愛に依って
行はるゝもの」(49)といった森岡常蔵による教育の本質に対する簡潔な規定一つを取ってみても、
それがシュプランガー的な「教育愛」を基底とした定義づけであることは一目瞭然である(50)
こうしてこの第2段階第2期に入って質的飛躍をみるに至った論究考察は、こゝにいたってそ
の学説的成立の準備期を終え、教育学上の系統性、普及性、継承性を有する一つの学説としての
内容を備えることになったとみて良いだろう。従前同様、こゝでもそれを示す主だった論展開の
核心部分を時系列的に列挙しよう。
「家庭に於ける教育が親子兄弟姉妹の自然の愛情を本として施さるゝに対して、学校に於ては
被教育者の有する才能を伸ばして、その自己実現の力・社会奉仕の力を高めんとするいはば人
I.VJ も 止 りl
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材を愛し、これを社会有用の材となすことの興味からその教育が行われなければならぬ。同じ
愛によるといっても、親の愛の如く自然の愛よりは寧ろこれを合理化せる愛で導かなければな
らない。被教育者の発達そのものを図るといふ純愛に立っべきことは、家庭も学校も同一であ
るとはいへ、学校に於ける愛は合理化されたものでなくてはならない。」(51)
「ペスタロッチ-は古来教育者の典型とみられ、また教育愛の権化とも見られた。教育愛とは
なんであるか。男女の間の恋愛とは違って、教育愛は永遠なるもの、若しくは価値そのものを
予想する愛でなくてはならない。教育者の愛は具体的には児童を対象として現ほれるのである
が、併し、その愛の核心は結局価値そのものを対象とするものでなくてはならない。言換れば
価値の受容性でもあれば創造性でもあるところの児童を対象とするのが教育愛の本質であ
る。」(52)
引用の前者中島半次郎は、 「教育は愛の事業として起こった」として、教育の起源と動機を捉
える試みを為しているし(53)、後者長田新は、その後岩波書店の「続哲学叢書」の『教育学』の
中で、独立した節としての「教育愛」を設け(54)、
「シュプランガーは嘗て教育愛を論じて、人は貝体的な感覚的実体的の児童を愛すべきではな
くて、児童一般を愛すべきであると言ってゐる。此の主張も亦余りに抽象的であって、我々は
我々が接する-人々々の具体的な被教育者を愛する他はない。 -(略)-価値実現の可能性と
いふ如き実体抜きの理念は断じて教育愛の対象ではない」(55)
としてシュプランガーの教育愛規定を批判しながら(56)、まとめとしての自らの教育愛論究を
次のように結論づけた。
「以上説くところに依って教育愛の構造は明らかになった。教育愛は先づ宗教愛であって、而
も単なる宗教愛ではない。教育愛は価値愛であって、而も単なる価値愛ではない。教育愛は児
童愛であって、而も単なる児童愛ではない。教育愛は直接に児童を対象としながら其処には宗
教愛と価値愛とが一種独異な仕方で内面的に関連する特殊な一形態である」(57)
一方、この長田に公私ともに多大な影響を及ぼした小西垂直は、前巻で触れた如く、既に明治
末期(第1段階第2期)から、教育における愛の根本的重要性についての持続的論考を公にして
いたが(58)、この期に至り自らの教育愛の考察を独自の語法としての「教育的思慕」として定義
づけ、以下のようにそのエッセンスを示した。
「教育する人が教育さるゝ人に対する態度は、教育的思慕の性質を決定するに大切なものであ
る。教育する人は衆生済度の純なる人間愛を其の精神とする。人は価値を実現し得るものであ
る。此の価値実現の可能性を吾々は愛するのである。」
「結局、愛其ものは両人格の心の融合であって、教育愛も出来るだけ此れを目指すべきである。
斯くして被教育者の側に於ても、単に孤立的に理念実現へ向ふものではなく、他の人格を通し
て理念実現の途を見出さんとするのであるから、こゝに教育者の態度に対して反応を起こし、
両者の態度が融合して真実の教育的思慕となるのである。」(59)
こうして戦前我が国の教育愛と関わる学説的論議は、昭和0年代たる第2段階第2期にあって、
シ3.プランが一によって与えられた名称・概念たる教育愛をも批判的に相対化しつつ、独自の位
置と性格を伴う系統性・普及性・継承性を有していった。
中島半次郎、長田新、小西垂直はその顕著な担い手であったが、一層の考察の広さと深まりに
おいて、この期を代表する人物は、戦前我が国の教育学の学的構築の高みを築いた篠原助市であ
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る。篠原は、既に第2段階第1期にあって、 「愛に基づき、愛により、愛に迄」の教育を教育者
のあるべき姿として提示したが、この期に至って、これを自らの教育の本質的構造論の基底部に
据え、それを学説としてまとめあげようとしたのである。
「教育は被教育者の発展を助成する作用であり、自然の理性化としての発展と、助成の二つの
概念の交互関係の上に成立する。」(60)
「まとめて、助成は、理解といふ基礎の上に、理想、愛、方法の三つの一般者を介して、 -が
他の発展を助ける作用で、其の根本動機は人間愛、他を助け、他に奉仕する犠牲愛即ち
caritasであり、助成といふ社会的関係は愛の社会であると共に権威の社会であるといふこと
が出来る。要するに、助成は理解と『与える愛』の座の上に、三つの一般者を通して築かれる、
立体的な複合作用である.そして、私は、かゝる助成作用に基づく一切の活動に『教育』とい
ふ名を与へ、反対に之を欠くものを、凡て教育の範囲から除外する。」(61)
このように教育の構造の本質的基底部に愛を据えた篠原は、シュプランガー的教育愛の論究を
自らの教育構造論と結びつけ、独自の教育愛への性格づけを行った。即ち、
「教育愛は唯の愛ではなくて与へる愛schenkende, gebende Liebeである。与へるとは、他に
勝る或者を有し之によって他を導かうとする態度である。勝れる或者は権威として生徒に映ず
る。即ち教育愛は愛であると同時に権威である。 -(略)-・与へる愛に於て、愛と権威の対立
は打破される。」(62)
我が国の教育愛の学説は、こうしてこの期において、教育そのものの本質の基底部を成す「教
育学の主要概念」 (長井和雄)としての内容を整えることとなるのである。
3.第3段階の特質と展開
第3段階は、第2段階第2期においてその教育学上の系統性、普及性、継承性を有した学説と
しての内容を備えた教育愛が、一つの構造的まとまりをもっものとして示され、それぞれの論者
において独自の位置と性格づけを与えられて多様な展開をみせる時期である。
さて、この段階、即ち昭和10年代から終戦にかけての段階の教育愛に関する学的考察の特徴
は、
(1)第2段階第2期を画したシュプランガーからの移入語「教育愛」とその概念規定をほぼ
完全に消化し、それを部分的又は基本的に肯定した論展開をしていること、
(2)その上にたって、疑問ないし批判を言明する立場をとる方向とこれをもとに教育愛の概
念規定を一層精練化させる立場をとる方向とが分かれること、
(3)教育愛の規定が、その定義づけの上に立って、そこから派生する権威や敬との関連にお
いて発展的になされること、
の3点にまとめることができるだろう。このうち(1)及び(2)は、その基本的内容と方向
性が、既に前節第2段階第2期で実質的に示されているので、こゝでは主に(3)の特徴を例証
する説を取り上げておくことにしよう。
戦後間もない時点で、宗像誠也は、 「教育の再建」をかけて、以下のように述懐したことがあ
る。
「私は若い時教育学というものを教えられた。 -(略)-I (自ら愛も権威もない乾柿のような人
物が) 『教育は畢黄愛と権威である。』この真似だけは閉口であった.私は教育学なるものを憎
み、序に知識一般を憎むところまで脱線して、大いに無知を誇るようになった。」(63)
60
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「教育は畢尭愛と権威である」、戦前教育学を学んだ宗像の中に、その実態との著しい懸隔故に
苦々しいまでの感慨を引き起こさざるを得なかったこの命題こそ、教育愛の学説的普及性・継承
性を物語る有力な証左でもあった。と同時に、既に見たように、教育そのものの本質的基底部に
据えられた教育愛によって多かれ少なかれ構築された戦前我が国の教育学であってみれば、教育
における愛と権威との関わりを教育愛の学説的構築の産物として発展的に生み出したこの第3段
階の特質を再確認しておくことは、単に教育愛のみならず、戦前教育学の歴史的意義を捉える上
で不可欠の課題に属する作業であろう。
こうした第3段階の教育愛の学説的構築の典型を、第2段階第2期にあって既にその基本的把
握の全容を示しつつ、従来の批判主義的教育学の立場に立つ「理論的教育学」の立場から一層伝
統的民族的立場に立っ「実際的教育学」へと移行していた榛原助市の立論の核心部によって示し
ておこう。
「私は教育者は社会型の人であるべきといふ彼(シュプランガーのこと・.・引用者)の主張には
必ずしも同意するものではないが、愛が教育の根本動機であることについては一点の疑をも容
るゝことを許されない」(64)
自らの教育愛立論の立場をこう示しつつ、篠原は、さらに以下のように述べる。
「教育者は凡ての児童に対し平等の態度を持ち、平等の愛を有たねばならぬ。 -(略)・-平等で
あってしかも個性的でなければならぬ所に教育愛の弁証的性格が認められ、其の犠牲が自然に
は起らないで却って自由な、進んで求めた犠牲である点に教育愛の課題性は宿る。」
「纏めて、聖書のコリント書に現れているやうなパウロ的のアガペとプラトンの『饗宴』に措
かれてゐるやうなェロスとの融合こそは教育愛の本質であると言-る。 -(略)・・・教育愛は児
童に存する神聖の畏敬に於て始めて全く、教育愛の両面たるアガペとエロスは畏敬に於て合一
すると言っても宜い。」
「教育の文化形式では教育愛が前景に立ち、権威は寧ろ後退し、 -(略)-愛と権威との教育的
地位は、其の自然形式と文化形式とに於て正反対の関係に立つ。」
「学校といふ教育社会も有機的に組織せられた社会である限り、指導者たる教育者と被教育者
たる生徒との従属関係、即ち権威と従属との関係は其処に必然に前提せられる。 -(略)-だ
から藁に問題となるのは、唯如何にすれば社会の法則、秩序、規範等をより純粋に表現し得る
かといふことであり、この純粋性を求める点に於て始めて権威の課題性が現れる。」(65)
第2段階第2期にあっての長田新と同様、篠原も教育にあっての教育愛の本質を規定しつつ、
一層進んでそれと対局に立つ権威との本質的差異を、教育愛が、 「いっでも課題であるに対し、
権威は所与であり、其の課題性は二次的である」(66)と明快に論じたのである。
一方、西田幾多郎の直弟子であり、戦前我が国のフィヒテ研究に重要な貢献を成し、 「エロス
なくんばアガペなく、また逆に、アガペなくんばェロスなく、両関連はその方向を全然異にしな
がら而も弁証法的に相即し、弁証法的総合を形作る」(67)とされた独特の「表現愛」を規定し、
「表現愛が人格的個体そのものの形成的愛として発動する」(68)ところの教育愛を以下の如く、敬
と権威とに関連させたのが、木村素衛であった。
「教育の愛は何よりも敬をその一つの本質的核心とする。敬のない合一に於て教育の愛は成立
しないのである。 -(略)-教育愛に於けるアガペ的敬は、このやうな相対性と動揺性とを包
んで而もこれと相即不離に絶対的であり金剛不動でなければならないのである。敬がパイダ
ゴゥゴスに於てこのやうにエロス的有価値性を包越する敬に於て成立するとき、そこにパイ-
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スに対するパイダゴゥゴスの権威が成立するのである。」(69)
以上、篠原助市と木村素衛にその典型をみる戦前我が国の教育愛の考察は、その学説的成熟期
と言いうるこの第3段階において、敬や権威と関わる一層深まった学問的系統性を志向するもの
へと転化して行く兆しを見せる。それは、教育そのものの本質と教育学の学としての構築への努
力の-具体化の試みであったとともに、やがて国家全体の戦争遂行とその法的社会的大衆的整
備・動員体制の過程で、観念的変質の色合いを濃くしていった。ファシズムへの時局の急激な進
展とこれに呼応する教育学上の学説的構築物たる「日本教育学」や「日本精神」の民族拝外主義
的高揚は、教育愛の学説的構築にも微妙な影を落とし始めたのである。
「教育愛などといふものも日本に於ては、皇室尊崇国体に対する尊信、森厳敬度の精神より流
れ出づるものでなくてはならないO総じて日本に於ける我々臣民の愛の精神は此の意味の尊信
崇敬の精神に淵源し、夫れより自然に流麗するものでなければならない。」(70)
こうした、教育愛の「日本主義」的変質は、戦前我が国の教育愛の学説的成立の一つの到達点
であり、第3段階第2期として改めて項を立て概説すべきであろうが、ここでは割愛せざるを得
an
第III章「教育愛」の今日的位置と促進要因
1. 「教育愛」の歴史的理論的位置
既にみたように、戦前我が国の教育(学)における中心的概念の位置を獲得した教育愛は、用
語及び概念の基底部をシュプランガーに依りつつ、戦争末期に至るまでその日本主義的変容・変
質を含んで、独自な学説的展開を見せた(71)こうした教育愛の学説的彫琢は、戦後に至っても
-定の継続的成果を隼みだした(72)
戦後の教育愛は、少なくともその学説的展開において、全体として戦前のそれの再説ないし整
理の域を出ていないと考えられるが、そこには、新たな位置づけにおける教育愛の戦後的展開の
跡を見て取ることができる。 「新たな位置づけ」とは、端的に言えば、教育愛を自由主義的で人
間的な基礎の上に据え直すということであり、そうした展開の一例は、それぞれ以下のような言
説に表れている。
「信じ敬することを伴ふ生徒に対する教師の愛は、生徒の自由なる意思、神に基づく良心や理
性の自由なる活動を、単に信じ尊敬するといふ如き静的なものではない。寧ろ生徒をして自由
なる意思の所有者たらしめ、良心や理性の主体たらしめる働きが、教師の愛でなければならぬ
であろう。愛は、人々をして自由に、しかも凡ての人が正しいとうなづけるやうに、考へ行は
しめる働きなのである。」(73)
「教育愛は凡俗には及びもつかぬ天国のものではありません。それをいきなり神の愛(アガペ)
になぞらえることには、私は賛成しかねますQ教育愛は、なによりもまず私達人間の世界のも
のなのです。成長する-人々々の人間を心をこめて見まもり、人間の成長をこよなくいとおし
むときに、私達の心にきざしてくる人間的な愛だと患います。私はあえて人間的な愛といいま
す。教育愛をいきなり宗教愛や、文化愛と結びつけて説明する仕方には、私は賛成しかねるの
です。人間愛としての教育愛を、心から実感したいものだと思います。」(74)
このように、主として戦後初期の段階にあっての教育愛の自由主義的人間的規定は、戦前の教
育愛の学説的規定を基礎に展開されることとなる。
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一方、既に前巻で指摘したように、 「教育愛」への課題意識は、戦後になって大きく変化し、
教育愛の学説的規定への関心以上に、教育愛を教育者の基本的な態度論として実践的政策的に強
調する方向へと転ずることになる。こうした傾向は、概ね今日にまで連なっており、今日の学校
教師にとっても、その力量発揮の基盤であり基本的資質でもあるとされるものが従来のいわゆる
教育愛に相当するものであることに大きな異論はないであろう。教師の生徒への働きかけが、結
果において大きな教育的効果を生み出しうる前提となるもの、それが教育的愛情の存在に他なら
ないからである。
例えば、教育の学的研究と長年に亙る付属学校校長としての教育経営実践の蓄積を背景として、
こうした関連を、木川達爾は、以下のように表現する。
「教育という仕事は、子どもを望ましい方向へ変えることであるということを改めて考えると
ともに、それには、教師の一人ひとりの子どもに応ずるという配慮と、忍耐軽い努力が必要で
あるということを思いたい。しかし、この忍耐強い努力を可能にする力は、どこから生まれる
ものであろうか。それは、個々の子どもに対する教師の愛情以外にはない、と言えるであろ
う。」(75)
或いはまた、正規の学校教育から閉め出され、荒れと非行の中をさまよう全国の少年達と寝食
を共にし、幾多の着実な実践を積んでいる「北海道家庭学校」の校長谷呂恒の以下のような言葉
は、いわゆる教育愛のより今日的かつ一層深い把握の必要性を説得的に示している。
「本校における教育の第一歩は、少年たちを内側から捉えることにある。いっ、いかなる契機
で、少年の心に触れることができるのか。それはあくまでも個々の問題であって、必ずしも一
様のものではないが、深く少年の運命を気づかう教師の憂いが前提であり、けっして教師のテ
クニックというような次元で考えるべきものではないであろう。」
「教育にとって最も大切なものは、教師と生徒との一対一の結びつきなのです。子ども一人ひ
とりに注ぐ教師の熱い想い。そこからすべての教育活動がはじまるのです。」(76)
ここで谷が、 「深く少年の運命を気づかう教師の憂い」、ないし、 「子ども一人ひとりに注ぐ教
師の熱い想い」と表現しているものが、先の木川の言う「教師の愛情」と重なるそれであり、そ
れらがともに教育的愛情の一つの表れであることもほぼ容易に了解できよう。
しかも、この教育的愛情は、木川や谷のような深い人間的性格に刻印された学校経営実践者に
よって経験的に共通に力説されているばかりでなく、未来の教師たる学生たちの中にもしっかり
と根づいているものなのである。ここでは、その一つの典型とみられる調査結果の略説を捉えて
おこう。
「教育という仕事には、人間的要素(human factors)が非常に重要な意味をもっている。そ
の一つに、よくいわれる『教育愛』がある。 -(略)-『教師は教育愛がなければできない仕事
である』という調査項目を入れてみた。 -I(略)・-これによると、その肯定者が全体の74.3%
となり、かなり高い割合を示している。性差や学年差は殆んどないと言える。 -(略)-全体
的にみれば、学生の意識の中にも、 『教育愛』は教育実践に必要不可欠のものとして位置づけ
られているようである。」(77)
さて、このように戦後我が国の学校経営者たちや学生たち、そして前巻で指摘したように教員
養成における国家的施策上のいわば基本タームとして取り込まれ続けてきた教育愛である(78)が、
その戦後にあっての歴史的位置づけの方はどうであろうか。以下、その基本的輪郭に限定して触
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63
れてみることにしよう。
まずは、我が国の教員史の代表的通史であり、未来の教師たる教員養成大学・学部学生や教職
科目を履修する学生などに馴染み深いと患われる唐沢富太郎の『教師の歴史』での位置からみて
みる。ここでは、独立した項目での扱いこそないが、教職を支える社会的規範意識と関わっての
教師への実態的論究がなされている。
「戦後『教師もまた人間である』この観念のもとに、教師の近代職業人としての自覚が生じて
きた。では現代職業人としての教師-教職者はいかにあるべきか。このことを教師の生活
史からもう一度反省して見る必要がある。既に述べた如く、寺子屋の起りは多く経済的理由か
らではなく、文盲を救済しょうとする純粋の教育愛から出発したものであった。したがってこ
こにわがEgの教師の天職観、聖職観が形成された。それは経済生活からは一応切り離した立場
からのものであり、この伝統を背景に師道が構成されたのである。」(79)
ここには、近世庶民教育の中心的機関としての寺子屋の師匠を支えた基本的意識を、近代以降
のいわゆる教育愛とっなげ、それを戦前の師範教育などを通して教育関係者や一般社会に広まっ
たと考えられる「教師-聖職者」観の基本要素と位置づける見方が明確に示されている。唐沢は、
これをさらに我が国独特の意味あいをもった「師道」の母胎として捉えているのである。こうし
た見方は、教育愛の立ち入った実態や理論に基づいたものとは言えないが、一つの典型的なテキ
スト的位置づけとみなすことはできるだろう。
次に、戦後の民主的な教育科学理論の形成に貢献し、教師の自律的かつ自覚的な教育運動を主
導的に押し進める上で大きな理論的指針を提示した勝田守一による把握をみてみよう。
勝田は、戦前我が国の師範教育を支えた徳目(「順良・信愛・威垂」)と関わって、教育者に求
められているものを次のように表した。
「日本の教師の理想像が、国体の神聖に対する心からの信仰と国策に対する疑いのない信奉と
服従を要求されていると同時に子どもに対する愛情深い献身と、さらに子どもを通して、子ど
もにはいうまでもなくその父兄たちやさらに地域社会の人々に対してまでも、指導者としての
権威を要求している。」(80)
勝田は、戦前の教師が国に向かっては信奉を、子どもに向かっては指導者としての権威と一体
となった愛(-教育愛)を葺くことを事実上義務づけられていたことを端的に指摘する。ここに
は、教育愛に対する前述唐沢の肯定的位置づけとは対照的に、国策遂行の手段としての役割をも
帯びたとみられる教育愛への批判的見地が如実に読みとれる。そしてこの見地は、専門家に留ま
らず、今日の教育の示す否定的危機的現実の進行を日々目の当たりにしている教師や国民の一定
層の批判意識にも受け継がれているものとみて良いだろう。
次いで、戦前の教師に対する厳しい批判の上に憲法・教育基本法の平和的・民主的理念に裏打
ちされた新しい戦後教師像を典型的に論じた宮原誠一も、両者に一貫して刻印されている歴史的
特質をこう認めていた。
「教師という職業には、教育愛とか人間愛とかいう言葉でよくしめされるように特殊な職業倫
理があり、そこには近代的な等価交換的な賃金の原則でかんたんに割りきれないものがあると
いうことは、みとめられなければならない事実である。」(81)
宮原もまた、建前的で押しつけ的な教師のあり方への批判をなしつつ、教職固有の職業倫理の
中核に教育愛という言糞で表現されうる中味が一貫して流れている経緯を確認しているのである。
さて、こうした三様の教育愛への歴史的位置づけを教師の理念的類型として包括的に位置づける
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M も`蝣a in
とすればどうなるのか。代表的一例として、以下のような把握を取りあげておこう。
「日本古来より『よき教育者』と考えられてきた教師のすがたを考察すると、おおよそ次の三
種の教師像があげられるようである。
□ 愛の教師-特にすぐれた教育愛の力によって教育的影響力を与えた教師たちをさして
いる
□ 理性の教師-すぐれた理性をもって門人の教育に尽くした教育者に対し与えられた呼
称である
□ 意志の教師-とよばれるのは、その強固な意志の力によって、強烈な教育的影響を与
えた教育者の一群である
もちろん、このように三分したからとて、これらがまったく異なった性格の教師像を示してい
るというのではない。それぞれの特質、個性的な活動のなかに、ひとしく、教育に対しての、
学習者の人間的成長に対しての情熱が潜んでいることをみとめざるをえないのである。すなわ
ち、教育愛というべきものが、これら三者のいずれにも存在しているのであって、それは『愛
の教師』とよばれる教師たちのみの独占するところではない。」(82)
さらに、この観点をひきとるならば、理想の教師像や良さ教育者の基底部には、とりわけ教育
愛が歴史的に不可欠の本質要素として位置づいてきたことを認めることができるだろう。換言す
れば、教育実践の主体である教師の活動が、固有の意味での教育的価値をもち得るか否かの決定
的位置にあるものが教育的愛情ないし教育愛に他ならないと言って良いのである。
一方、教育愛の教育恩想上の位置についてはどういった把握がなされているのであろうか。こ
こでは、そのもっとも先鋭的かつ特徴的な把握とみられるものとして、先にも紹介した村井実の
それを再びみてみたい。
「『変革』と『児童』へのパトス、あるいは『教育愛』という要素は、人間の多様な思想的状況
の中で教育思想とよびうるものを私たちが創出する原液、あるいはそれを検出する試験液と考
えてよいであろう。これらの要素に鋭く反応してくるかぎり、その思想は優先的に教育思想の
名に値するのである。」
「私たちはただ、それぞれの思想を葺いている優先的関心が何であったかによって、ある思想
を教育の恩想と呼び、他のある思想を政治あるいは経済の思想と呼びうるにすぎないのである。
そしてこの場合、教育の思想にかぎっていえば、それを貫く優先的関心が『教育愛』であるか
ぎりにおいて、その思想は教育思想たりうるのだということになる。」(83)
この視点ないし規定の是非や検討は措くとして、教育愛についての今日までの代表的な位置づ
けにあって、教育の教育としての概念的内包と本質的に関わらせた把握として、この村井の把握
が、極めて踏み込んだそれの一つであることは間違いのないところであろう。こうして、教育愛
の教育思想における位置もまた、戦後にあって確固たるものとして認められてきたことが了解さ
れるであろうO
2. 「教育愛」の新たな規定とその促進要因
とはいえ、改めてこうした姿勢に立ったとき、教育愛の従来の規定やイメージでは、いかにも
説得性を欠いているという感じを拭うことができない。
それは、何故なのか。一つの明らかな理由は、この教育愛という言葉で示されイメージされる
ものへの理解が、著しく明瞭性や統一性を欠いたままで放置されている現状にあるものと恩われ
教育における人間的なもの[下]
65
る。即ち、教育愛の理想性や不可欠性に関する歴史的な承認は広く存在するものの、一歩立ち
入って、その新たな規定や促進要因に関する実態的かつ理論的な解明や検討が著しく立ち遅れて
いるからである。
翻って、この実態的かつ理論的な解明の立ち遅れには、既に本稿で試みた一定の跡づけを含む
以下のような諸要因が絡んでいると考えられる。
① 教育愛という用語は、我が国国有の教育実践や理論化の過程で生み出された呼称ではない
ということ(84)
② 教育愛という語法には、余りに心情的で観念的な響きやイメージがしみつき過ぎているこ
と。
③ 愛一般にあって、教育愛は、余りに特殊な愛であること。(85)
④ 教育愛そのものの規定が、実践的・理論的・学問的・科学的深化や検証になじみにくい派
生的属性的規定であること。
⑤ 以上の難点をひきづった用語である教育愛が、無批判的かつ無媒介的なままに、主として
国家レベルの教員養成上の基本タームとして戦後も援用され続けてきたこと。
⑥ 教育愛が、教員の職能成長や能力向上の2大区分としての資質・力量の中で、殆ど専ら資
質に属する能力ないし与件とみなされ、結果として、その深化・具体化・形成への探求の
必要性をそいできた、と考えられること。
以上6項目の要因は、どれもその内実を例示実証することが可能であり必要であるが、ここで
は極めて限定的な要点のみに絞り、項目に対応させながら順次指摘しておくこととする。
①' 「教育愛」という用語は、既に詳しく触れた如く、ドイツの精神科学派の教育哲学者とし
て戦前我が国の教育学説や教育理論の形成に大きな影響を及ぼしたエデュアルト・シュプラン
ガーが、主著『生の諸形式(Lebensformen)』で意味づけた人間の6類型のうちの「社会的
類型」が愛の人間として説かれ、それが教師のよってたっ根拠を性格づけたことに端を発して
いる。そして、より直接的には、この類型をそのまま下敷きとしてより実際的かつ異体的な教
師像として肉づけし理論化したゲオルク・ケルシェンシュタイナー(1854年1932年)の著
書『教育者の心(Die Seele des Erziehers)』 (1921年)で使用された用語(Die
P且dagogische Liebe)の翻訳語だと思われるO
因に、或用語が社会的に流布したことを確認するものと言える辞典類への記載という点から
これを見てみる。 「教育愛」の辞典への最初の採用とみられるものは、 1936年(昭和11年)
5月刊行の城戸幡太郎編『教育学辞典』 (岩波書店)である。この中で、 「教育愛」の項目を担
当した小西垂直は、この語をシュプランガーの規定に即して批評的に記述している(86)これ
以前、この語に相当する用語としては、 「慈愛」 「仁愛」 「思慕」といった表現が使用されてい
た。しかし、教育(学)的にこれ程重要な根本用語が、語そのものとしては翻訳語であったこ
とは、この語によって説明される教育実践や理論そのものの借り物的な宿命を引きづらざるを
得ないであろう。こうしたところにも、この語の規定や語義にその後の統一性や明瞭性を希薄
化させることになった原因が潜んでいるとみられるのである。
②'教育愛を一つの根底的核心にすえて教育学の学的形成を試み、国家レベルにおける教員養
成施策にも直接間接の理論的影響を与えてきたと思われる高山岩男は、今日的な教育愛解釈の
I.V.I も r>J
66
傾向を代表するかのように次のように言う。
「神の愛、仏の慈非の面影を宿しているのが教育愛である。私は教育愛はまことに尊いものだ
と思う。人間にして神仏に最も近く近づき得るのは教師なのではあるまいかと思う。」(87)
また、戦後にあって教育の語義や構造を最も意識的包括的にきわめようとした新堀通也は、
かつてこの愛の特質を次のような表現で叙述した。
「教育に於いて汝が我を愛し返すことはあるにしても、教育愛はそれが汝のイデアへの愛とな
る限りに於いて喜ぶのであり、汝の愛が我を超えていくことをこそ望むのである。」(88)
さらには、戦前にあってこの愛を独自な表現愛として位置づけ、教育愛の学的深化に顕著な
貢献を果たした木村素衛は、教育愛の重要性一義性を以下のように述べていた。
「教師の真の誕生は師範学校を卒業することでなく、教育愛に目が開けた時である。そこから
真の先生が出来て来る。」
「技術は表現としての教育愛の技術的展開である。ここに技術と教育愛の関係の本質が把握さ
れなくてはならない。教育愛が教育の根本で、その根本の愛を忘れて技術の末に走ることは深
く戒められなければならない。」(89)
以上3人の代表的な戦前戦後の教育愛論者の論調には、この愛が多分に心情的情緒的なそれ
として解釈把握されやすい余地を残していると同時に、検証性や具体性に欠ける観念的色彩に
包まれた概念であることを示していると言えるだろう。
③'及び④'この愛は、シュプランガーが説くように「全く独自な種類の精神的愛情」(90)であ
り、ケルシェンシュタイナーが述べるように、 「ある独特な法則」(91)に従っているという。我
が国でも、先述の長田新が、この点に触れて、 「教育愛は児童を直接の対象としながら、そこ
には宗教愛と価値愛とが、一種特異な仕方で関連する、特殊な愛の一形態である」(92)と指摘
していた。しかし、教育愛の愛としての特殊性をより際だたせてみせてくれるのは、本論第2
段階第2期でもとりあげた篠原助市の以下のような把握である。
「教育愛は愛と言っても、ただの愛ではなくて人間性に対する敬を裏づけとする、寧ろ敬にお
いて成る愛であり、 -(略)-現実の価値よりも寧ろ価値可能性に対する、巳に成ったものよ
りも寧ろ成りつつあるものに対する愛」(93)
「教育愛は愛であると同時に権威である。教育者の愛は生徒の教師に対する愛を惹き起す。社
会的関係は凡て相互関係であるから。与へる愛は、教師への愛を惹き起すと同時に、服従、依
存の情をも惹き起す。与へる愛は、愛であると同時に権威であるから。与へる愛に於て、愛と
権威の対立は打破られる。」(94)
即ち、教育愛には敬とか権威といったいわば対立的で異なる感情や心の構えを惹き起こした
り派生させる、愛としては極めて特異な性質が秘められている、というのである。しかし、こ
こには、敬や権威が教育愛に満ちた教師の生徒への働きかけによって、どのような条件のもと
に如何にどの程度にまで生まれるのか、といった視点や論展開をみいだすことはできない。そ
うであってみれば、このような特異な性質をもった教育愛を、学問的・科学的に検証探化させ
る可能性は、殆ど与えられないことになってしまう。
⑤'我が国の教師たちの固有な実践の積み重ねとその理論化への努力は別にあったとしても、
既にたびたび指摘してきたように、教育愛の用語と意味あいには、理念的思弁的な翻訳概念と
教育における人間的なもの[下]
67
しての意味あいが色濃く染みついている。そして、その解釈は、この語の移入当初にあっても
多義的かつ熟さないままに推移してきた。仮に、それが、抽象的理念的な用語であっても、
個々の教師が、自らの具体的教育実践の立脚点や信条として依拠する分には、さして障害とは
ならない。しかし、そのような特異性と多義性をもったまま推移してきたこの教育愛を、国家
的な教育施策や方針と関わる規定や文書にそのまま援用するとなると問題が異なってくる。何
故なら、政策的指針として明示されることで、あたかもこの言葉の内包が、統一性をもって定
着した既定の用語として受け入れられる感を与えるからである。このような、いわば不用意な
援用が教育愛をめぐって何故起こり得たのかを究明することは、それ自体重要な研究課題であ
る。
例えば、こうした一連の養成施策上の指針と関わって、答申文書ではないが、1952年の時
点では以下のように言及されていた。
「よい小学校の教師とはどのような資質をもつ人であろうか1.-(略)-教師の最も基本的
な資質はなんといっても児童を愛し、児童を尊敬することであり、児童に関心をもち、深い理
解をもつことにある。」(95)
注目すべきことは、1950年代初頭のこの時点では、戦前にあって、学界のみならず、師範
教育や教育実践上の既に通用語となっていたとみられる「教育愛」という用語が使われていな
い、という点である。このように語義が不統一で唆味な用語としての「教育愛」が、50年代
後半あたりから再び無批判かつ無媒介的に、今度は国家的な指針や文書に採用され続けること
になったのである。このことで、「教育愛」は、その語義や内包の不分明性を一層深める結果
となっていると言えるのではないか。この語が、一連の我が回教員(養成上)の資質向上策の
前提として今日まで採用され続けてきた事実には、改めてもっと注意が払われて良いだろう。
(㊧'資質という語の辞書的意味は、「生まれっきの性質」とか「天性」ということになってい
る(96)即ち、「資質」に属する職業職務上の能力(職能)とは、その職務を果たしたり深めた
りする際に予め行為者・実践者の中に備わっていると考えられる能力である。逆に言えば、職
務の遂行過程や経験の蓄積によって強化向上されることがあったとしても、もともとの前提と
なりうる性質や能力でなければ、それを「資質」と呼ぶことは妥当ではない。ところが、こと
「教育愛」に関しては、その定義や語義さえ明確でないことは、これまでの本論述においても
明らかである。あるのは、「教育愛」についての様々な性質や属性への言及に過ぎない、と言
える。(97)子どもを育て高めようとする意志は意図的教育の-前提ではある。しかしそれは、
「資質」の語義である「生まれつきの性質」とか「天性」などではない。つまり、全ての教育
活動の根底に存在する第一義的要素としての教育愛を、職能としての「資質」としてのみ位置
づけることは誤りだ、と言わねばならない。
しかるに、日常的な実際的用法も含め、「教育愛」という語は殆ど専ら前提的素質としての
「資質」の方に位置づけられているのである(98)
。もちろん、資質も、経験や実践の深化の過程
で向上強化はされる。逆に言えば、そうならないものは、もはや「資質」でさえない、とさえ
言えるかもしれない。しかし、「教育愛」は、前提的素質的能力、即ち「資質」である以上に
「自らを変化させ、高みへと純化させていかねばならない」(99)ところの力量なのである。
以上6点に亙って概略指摘した背景が原因となって、教育愛の内包を立ち入って検討したり、
岡 本 定 男
68
その実践的向上深化のための方策を練り上げることには少なからぬ困難がつきまとってきた。こ
れらの点を踏まえた上で、教師の力量形成上の基本的領域に属する教育愛の新たな規定を以下に
提起し、今日の教育実践にあって、それを促進する要因をも併せて仮説的に提示することにした
い。
その際、筆者は、職能としての教育愛を、形成可能な、即ち養成可能な力量に属する一つの能
力だとする立場に立っ。子どもを「純粋」 「素朴」 「未熟」などとして主観的一面的に捉えたり、
体験的生活実感や独自の対象へのアプローチを無視ないし欠落させたまま、 「学問」 「文化」 「真
理」 「教養」の成果を効率的に伝えようとする姿勢や能力は、今日にあっての教育者(教師)に
求められる愛情などとは言えないであろう。また、子ども一般を性分的に好む心情は、教育実践
の一つの前提とはなっても、その本質的条件とはなり得ないO こういう意味での子ども愛(児童
愛)は、子ども一般ないしそれと対照的な目前の子どもの今にとらわれ、子どもを人間的個性的
に育み高める教育本来の営みの方途を失ったものと言わねばなるまい。そうではなくて、目前の
個々の子どものなかに潜在的に秘められている能力や個性を感受し、より自覚的・意識的・相互
発展的なそれへと顕在化させる手だてや力量こそ、教師たるものに等しく形成・向上・発展させ
られるべき能力だと考えることができる。
そうとすれば、少なくとも戦前に少なからずなされた教育愛の解釈や規定もまた、より今日的
かつ現実的なそれへと更新されることが必要となるだろう。
「子どもを人間的に価値ある存在へと共感的に励まし導く技量と意志」
筆者は、教育愛を新たにこのように規定したい。この「技量と意志」という力量こそは、全て
の教育実践の根底を貫くいわば能力中の能力とみなされるべきだろう。そうすれば、こう規定さ
れた教育愛は、教師にとって決して生得的な資質などではなく、紛れもなく深化発展させられる
べき、獲得・形成可能な能力として位置づけられることになるだろう(100)
先に引用した高山岩男が、 「教育愛は、十年、二十年と教職の経験を積んで行けば、たとえ、
資質・天分に恵まれない教師といえども、必ず身につけることができるというのが、私の偽らざ
る信念」(101)だと述べているのも、ただ長年の経験の蓄積の結果を指すのみでなく、それを条件
としつつ意識的に身につけうる点をも含意しているとみるべきであろう。
ところで、斉藤喜博は、学級経営の背後にある精神としての「教室愛」と関わって、かつてこ
う述べたことがある。
「熱、意気、愛は、すべての技巧にまさるということばは真理である。されど、それは決して
盲目的、感情的な愛であってはならない。熱、意気、愛の背後には、つねに教育的、知的、科学
的な態度が、厳然とひそみ、基本となっていなければならない。それが真の教育愛である。」(102)
教師の形成可能、即ち養成可能な力量としての教育愛を深化発展させるためには、 「知的、科
学的な態度」の保有が基本となる、というのである。教師の一般的イメージ、ないしは資質偏重
的な教育愛の見方からすれば、斉藤の言う「熱、意気」は、知的・科学的な態度とは距離のある
精神性とみられるであろう。しかし、熱・意気といえども、その恒常的発揮のためには、当然、
知的科学的裏付けがなければならないと言う斉藤の見地は、教育愛を形成・深化可能な教育者の
力量とする筆者の立場と共通の視点に立つものとみて良い。
それでは、こうした知的科学的裏付けを背景として、今日的な教育愛を深め発展させる促進要
因となるものは何なのか、以下その要因を列挙しておこう(103)
教育における人間的なもの[下]
69
① 学校内外での子ども達との接触の全局面にあって、彼らを人間的価値主体へと高める営み
の組織者である、という教育者の自覚。
② 子どもの個性的魅力を探りあて支える知識・情報・教材などの獲得とそれを学力として実
体化させる広義の教授能力の練磨。
③ 子どもが人間的文化的価値の協同の探求者・創造者であることを実感できる諸活動の組織。
④ 学校教育や教育そのものを相対化客観化しうる広い学問的・文化的・社会的興味や関心の
不断の覚醒。
⑤ 学校内外のグループや集団での自主的研修機会-の積極的参加の姿勢。
⑥ 社会や地域の固有な教育的文化的価値を広義の教材へと高めることを支え励ます学校全体
の組織的保障。
これら6つの促進要因は、互いに補い合い複合要因となることによって、一層効果的に教育愛
の力量を高め純化させる新たな要因となるだろう。その際、あえて促進要因の眼目となるものを
端的に表現するとすれば、子どもの個性を文化的価値へと転化しうる教育者(教師)の意欲・知
識・技術・活動の個人的集団的保障、ということになるだろう。
教育活動の根底を薫く第一義的要素としての教育愛が、こうした促進要因に支えられて、個々
の教師のうちに着実な力量として蓄えられていくことで、教師は、子どもから学ぶことが可能と
なり、そのことによっていわゆる「子ども愛(児童愛)」がより実体的な内実をもって芽生える
ことになるだろう。その時、こうして芽生えた子ども愛は、改めて教育愛の深化を促す諸要因の
前提として機能していくことになるに相違ない。
註
(35)長井和雄編『教育原論』、福村出版、 1977年、 p.15
(36)村井実「教育思想」海後・村上・細谷監修『教育経営事典』第2巻、帝国地方行政学会、 1973年、 p.
122
(37)村井実「教育思想とは何か」 『教育学全集2』、小学館、 1967年、 p. 5
(38)以下の論述では、 「教育愛」の学説的成立を歴史的に概観することをめざす関係上、この用語や概念の
詳細な定着過程への言及は、割愛することとする。
(39)拙稿「教師の資質・力量としての教育愛」吉本二郎編『教師の資質・力量』、ぎょうせい、 1989年、 p.
117参照
(40)余り注目されていないことだが、この著作は、その普及本の初版出版年の1921年以前の1914年に、
既に草稿本として出版されていた。そうでなければ、この著作に盛られた方法を基礎に公刊されたと
されるケルシェンシュタイナーの『教育者の道』 (Die Seele des Erziehers)も1921年に出版された
ことの前後関係が了解しにくい。
(41)ドイツでもこのシュプランガーの概念は、主にエーリッヒ・シュテルン、ケルシェンシュタイナー、
ヘルマン・ノール、ウィルへルム・フリットナ-、そして0-Fォポルノ一等によって継承深化させら
れ今日に至っている。
(42)とりわけ、 Lebensformen. 1921. S. 379ff
(43)シュプランガー、伊勢田耀子訳『文化と性格の諸類型2』 (Lebensformenの邦訳題名)、明治図書、
1961年、 p.148
(44)シュプランガー、伊勢田輝子訳『文化と性格の諸類型1』、明治図書、 1961年、 p.210
(45) Eduard Spranger, Lebensformen. 4 Aufl. S. 338
70 岡 本 定 男
(46)主なものだけを取り上げてみても、入揮宗寿『文化教育学と新教育』、乙竹岩造『文化教育学の新研
究』、小林修平『純粋教育学原論』、市川一郎『シュプランガー文化哲学の本質』等がある。
(47)プラトン、鈴木照訳「饗宴」 『世界文学大系3』、筑摩書房、 1959年、 p.116及びp.130
(48)この浸透と学的認知の非常な速さは、例えば、既に昭和7年(1932年)に、入得宗寿著『教育辞典』
が、正規の見出し項目として「教育愛」を掲げたことによっても容易に了解されるだろう。こゝで既
に、 「この愛は献身的の愛であり、スプランガーがいふ如く『蹴与する愛』である」 (p.278)と解説さ
れている。
(49)森岡常蔵『学校組織』、岩波書店、 1941年、 p.24
(50)これまでの論述によって、いわゆる「教育愛」が、シュプランガーの使用した名称と概念を直接間接
の下敷きとしてのものであることがほぼ論証されたと恩われるので、以下の展開では、原則として
「教育愛」の括弧をはずし、単に教育愛と記述する。
(51)中島半次郎『教育の本質』、教育研究会、 1927年、 pp. 123-124
(52)長田新『ペスタロッチーの教育思想』、金港堂、 1927年、 pp.73-74
(53)中島半次郎、前掲書、 「第一章 教育の起源とその動機」、 pp. 1-16
(54)公刊された戦前我が国の著作の中で、最も早くに「教育愛」の独立項目を設けて論を展開したのは、
辻幸三郎『教育哲学』 (内外出版、 1924年)であるとみられるが、この内容の全体は、そのままシュプ
ランガーの『生の諸形式』であって、独立した学説的深まりはみられない。
(55)長田新『教育学』、岩波書店、 1933年、 p.203
(56)後で例示する小西垂直も、直弟子である長田のこのシュプランガーの教育愛規定批判を一つの論拠と
して、当時少なからぬ学問的影響をもち得たと推測される岩波書店『教育学辞典』 (城戸幡太郎他編、
1936年)の中で、明確な形で疑念を表明している。しかし、私見によれば、この批判や疑念は、 『生の
諸形式』を注意深く読めば、出て来ようのない性質のものであったと思われる。この背景を探るのも、
一つの意義ある研究課題であろう。
(57)長田新『教育学』、前掲、 p.205
(58)主なものは、 1908年(明治41年)の『学校教育』 (博文館)と1923年(大正12年)の『教育思想の
研究』 (虞文堂書店)
(59)引用は、ともに、小西垂直『教育の本質観』、玉川学園出版部、 1930年、 p.25及びpp.30-31
(60)篠原助市『理論的教育学』、教育研究会、 1929年。但し、引用は、同文社版、 1933年、 p.25
(61)篠原助市『教育の本質と教育学』、教育研究会、 1930年、 pp. 122-123
(62)同上、 p.115
(63)宗像誠也『教育の再建』、河出書房、 1948年、 p. 8
(64)篠原助市『教育学』、岩波書店、 1939年、 p.129
(65)引用はすべて、同前、 pp.131-138
(66)同前、 p.137
(67)木村素衛『表現愛』岩波書店、 1939年。但し、引用は南窓社版、 1968年、 p.101
(68) (69)ともに、木村素衛『国家に於ける文化と教育』、岩波書店、 1946年、 p.199
(70)小西垂直『広瀬談窓』、文教書院、 1943年、 pp.63-64
(71)佐々木正昭「教育愛の概念と受容・変容過程についての考察」 (教育史学会『第37回大会発表要綱集
録』、 1993年、 pp.66-67)もこうした立場をとっている。
(72)それらのうちの主なものに、稲富栄次郎『教育作用の本質』 (福村書店、 1949年)、鯵坂二夫『教育学
汎論』 (玉川大学出版、 1949年)、新堀通也『教育愛の問題』 (福村書店、 1954年)等がある。
(73)山田栄『新教育の原理』、教育科学社、 1948年、 p.109
(74)森昭『教育とは何か』、繋明書房、 1951年、 p.42
(75)木川遠爾『教育愛 その表現』、ぎょうせい、 1978年、 p.54
(76)ともに、谷呂恒『教育の理想』、評論社、 1984年、 p.75及びp.16
(77)名越活家「教員養成大学・学部(学科)の学生にみられる教職観の構造」東京学芸大学大学院「教育
教育における人間的なもの[下]
71
学研究集録 第5号」、 1975年、 pp.40-41
(78)拙稿「教育における人間的なもの[上]」 (前巻所収)、 p.153及びp.158の註(12)参照。
(79)唐沢富太郎『教師の歴史』、創文社、 1955年、 p.245
(80)勝田守一「変革される教師像」教育科学研究会編『教育』、国土社、 1953年3月号、 p.33
(81)宮原誠一『教師論』、要書房、 1950年、 p.77
(82)海後宗臣・高坂正顕監修『学校教育』、全国教育図書、 1965年、 p. 113
(83)村井実「教育思想とは何か」 『教育学全集 2』、小学館、 1967年、 p. 6及び村井実「教育思想」海
後・村上・細谷監修『教育経営事典』第2巻、前掲、 p.122
(84)もっとも、教育愛に限らず、教育実践や教育研究で今日通常用語として使用されている言葉のル-ツ
を探れば、その相当部分が翻訳・移入語ということになるだろう0 (例えば、江川・高橋・葉養・望月
編『教育キーワード' 88』、時事通信社、 1988年、 p.108など参照)しかし、その中でも、歴史的変遷
に耐えて尚基本的統一用語として流布している用語のルーツともなれば、事情はやや異なる。 (例えば、
「教育」 「教授」 「生活指導」など)
(85) 「愛」の辞書的規定をみると、例えば『広辞苑』では、
「(D 或るものにひきつけられ、それを慕い、あるいはいっくしみ、かわいがる気持。
② とくに男女間の相手を慕う気持。恋愛。
③ 愛玩すること。
④ 愛撫すること。
⑤ キリスト教で、神が人類に幸福を与えること。他の人問を兄弟と思ってかわいがること。
⑥ 仏教では、師や目上を敬い、真理を尊ぶ感情は清らかな愛で、これを万人に及ぼすことが理想で
ある。自己と自分の所有とにこだわるのが汚れた愛で、迷いの根本原因となる。
⑦ 愛蘭(アイルランド)の略。」
とあり、金田一京助監『明解国語辞典』では、
「① いっくしみ。かわいがること。
(塾 こい(悲)
③ [地] -アイルランド」
などとなっている。しかし、例え人格的なものを本体としていたとしても、教育愛とか教育的愛情は、
「いっくしみ」でも「恋」でもなく、キリスト教的愛とも仏教的愛とも大いに異なっている。
(86)城戸幡太郎編『教育学辞典』、岩波書店、 1921年、 pp.416-417
(87)高山岩男『教育哲学』、玉川大学出版部、 1976年、 p.334
(88)新堀通也『教育愛の問題』、福村出版、 1954年、 p.205
(89)木村素衛『国家に於ける文化と教育』、岩波書店、前掲。こゝでは、 1967年版、 p.121及びp.122。因
に、この著作の原稿は、 1945年夏の脱稿である。
(90) Eduard Spranger, Der geborene Eezieher, Quelle & Meyer, 1958, S. 85.
(91) Georg Kerschensteiner, Die Seele des Erziehers und das Problem der Lehlerbildung, Verlag von
R. OLDENBOURG, 1949, S. 115.
(92)長田新「教育愛」 『教育学事典』、平凡社、 1955年、 p. 4
(93)篠原助市『改訂理論的教育学』協同出版、 1949年、 p.27
(94)同『教育の本質と教育学』、教育研究会、前掲、 p.115
(95)文部省『小学校教師のために』 1952年、 p.175
(96)例えば、新村出編『広辞苑』 (岩波書店、 1955年)では、 「うまれっき。資性。天性。」 (p.965)となっ
ているし、西尾実地編『国語辞典 第4版』 (岩波書店、 1986年)では、 「生まれつきの性質。生まれ
つき。天性。」 (p.464)となっている。
(97)例えば先述の長田新の「教育愛は児童愛であって、而も単なる児童愛ではない。教育愛は直接に児童
を対象としながら其処には宗教愛と価値愛とが一種独異な仕方で内面的に関連する一形態である」
(『教育学』岩波書店、前掲、 p.205)という把握や、新堀通也の「エロス的、価値愛的な性格を有する
72
岡 本 定 男
と共に、 -(略)-アガペー的、宗教愛的であり、 -(略)-フイリア的、人格愛的である、教育愛は実
に之等三愛の総合形態として理解されねばならぬ」 (『教育愛の問題』、福村出版、前掲、 p.181)など
という言及が、よくまとまった定義に近いものとみなせるが、いずれにしろそれは、第一義的な規定
などとは言えないであろう。
(98)臨教審などの各種行政上の答申や規定も含めこうした性格づけは、専門研究上の分析に際しても殆ど
通例的解釈となっており、いちいち例証する必要もないくらいに多い。こうした中で、例えば、津布
楽喜代治「求められる教師像」 (「日本教育行政学会年報 No.13」 1987年)は、教育愛でなく「子ど
もへの愛」を資質として扱っているし、岸本幸次郎・久高善行『教師の力量形成』 (ぎょうせい、 1986
年)も専ら「子ども愛」を「人格性」の因子として挙げ、いわゆる教育愛を資質としてみる通説的立
場に一定の距離を置いているかにみえる点は注目に値する。
(99) Eduard Spranger, Der geborene Eezieher, a. a. 0., S. 106.
(100)拙稿「教師の資質・力量としての教育愛」吉本二郎編『教師の資質・力量』、ぎょうせい、前掲、 pp.
109-114参照
(101)高山岩男『教育愛と教師の権威』、玉川大学出版部、 1982年、 p.37
(102)斉藤喜博「教室愛」 『斉藤喜博全集』、国土社、 1969年、 p. 152
(103)拙稿「教師の資質・力量としての教育愛」吉本二郎編『教師の資質・力量』、ぎょうせい、前掲、 pp.
109-114参照。但し、本稿では、 8要Eqを6要因に約めて示した。
73
A Human Affair in the Education [H]
- The Theoretical Achievement of Pedagogical Love and its Position Today -
Sadao Okamoto
{Department of Pedagogy, Nara University of Education, Nara 630, Japan)
(Received April 30, 1996)
I will summarize the so-called "pedagogical love" in the prewar days of Japan in this
volume. It begins from the second period of the second stage in my classification. It is
the days from the biggmmg of Showa till about the ninth year of Showa era.
The outstanding characteristic of this period is the introduction of the term
"pedagogical love" that the educational philosopher EDUARD SPRANGER (1882 - 1963)
of Germany demonstrated in his mam work firstly. The reference and the academic
consideration about "love in education of our country advanced from this time
evidently.
Then SHIGENAO KONISHI (1875- 1947), ARATA OSADA (1887- 1961), SUKEICHI
SINOHARA (1876- 1957) et al., the typical pedagogists of Japan before World War n,
elaborated their theory by the acceptance of the term "pedagogical love". They criticized
this SPRANGER's term "pedagogical love in the third stage of my classification in the
course of time. Consequently the discussion and the achievement about "love in
education developped into the unique form in this third stage relatively.
I will locate the todays "pedagogical love in the historical and the theoretical
position in the latter half of this paper. And I will propose a new definition of the
"pedagogical love hypothetically.
I want to regard the "pedagogical love as an ability of school teacher or educator.
Finally I will suggest the six factors in order to stimulate today's "pedagogical love".
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