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Title 経営判断における道徳的構想力の理論
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経営判断における道徳的構想力の理論 : その認識論的基礎と企業倫理学的含意
梅津, 光弘(Umezu, Mitsuhiro)
慶應義塾大学出版会
三田商学研究 (Mita business review). Vol.50, No.3 (2007. 8) ,p.229- 237
本稿では経営判断における構想力の役割について理論的考察を行なう。まず,P. ワーヘインの著
作から道徳的構想力のもつ経営判断上の意味と役割を概観したあと,イマヌエル・カントの批判
期著作の中で構想力がどのような認識論的位置づけになっているかを確認する。さらに道徳的構
想力あるいは構想力一般が企業経営において事実を越えた理念やビジョン策定,あるいは道徳的
予測と不祥事の予防,さらには他者理解と共感といった観点から重要であり,それはCSR経営にお
ける立場を異にする様々なステイクホルダーの要求を理解し先取的にこれに対応していく上で特
に重要となることが指摘される。
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00234698-20070800
-0229
三田商学研究
2007年 5 月18日掲載承認
第50巻第 3 号
2007 年 8 月
経営判断における道徳的構想力の理論:
その認識論的基礎と企業倫理学的含意
梅
要
津
光
弘
約
本稿では経営判断における構想力の役割について理論的考察を行なう。まず,P. ワーヘインの
著作から道徳的構想力のもつ経営判断上の意味と役割を概観したあと,イマヌエル・カントの批
判期著作の中で構想力がどのような認識論的位置づけになっているかを確認する。さらに道徳的
構想力あるいは構想力一般が企業経営において事実を越えた理念やビジョン策定,あるいは道徳
的予測と不祥事の予防,さらには他者理解と共感といった観点から重要であり,それは CSR 経
営における立場を異にする様々なステイクホルダーの要求を理解し先取的にこれに対応していく
上で特に重要となることが指摘される。
キーワード
企業倫理,構想力,道徳的構想力,カント認識論,P. ワーヘイン,羅生門効果,ステイクホ
ルダー,CSR 経営,グッドウィル
1 はじめに
近年日本の企業社会で続発しているいわゆる不祥事の原因には様々なものが考えられる。これ
は単に個人の倫理意識の欠如といった問題としてかたづけることのできない,複雑な奥行きを持
った問題であり,その要因は大きく経営における倫理的課題事項や問題認識の欠如,企業倫理制
度化の欠如,倫理的行動を阻害する組織的要因,現実との乖離が著しい規制の存在,内外からの
政治的・政策的要因,報道機関の選択的世論形成,日本社会の文化的背景,個人の倫理意識の薄
弱などとしてあげられる。しかし,それらはどれをとってみても不祥事が顕在化する単一の決定
的要因とは言いがたく,結論的にはそれらが複合的に積み重なって起った出来事であるといえる。
さらに言えば,不祥事を分析していくと必ずといって良いほど,常識や合理性では説明のつか
ない行為や意思決定をする人物が登場する。場合によってはこうした不合理な判断をくだす部署
やグループが存在し,そして時には企業全体がそうした不合理かつ非倫理的な体質に染まってし
まっているのではとさえ思われることがある。ある意思決定をなし,その決定に従った行為をと
れば,一定の帰結が発生することが容易に予想ができるはずだ,と第三者的な観点からは予測さ
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れる事が,不祥事を起こす人物や組織のなかでは全く認識できなくなってしまうかの様である。
本稿はこうした状況の中で,これまであまり論じられることのなかった個々人の能力としての
道徳的構想力(Moral Imagination)に着目し,企業不祥事あるいは企業経営をこの観点からとら
えなおしてみようという試みである。これまで人間の行動を説明する際,マネジメント研究の文
脈では,人間を経済合理的に行動する存在とみなす経済人モデル(F. W. Taylor など),帰属組織
や人間関係を重視する社会人モデル(E. Mayo, F. J. Roethlisberger など)
,自己実現欲求の満足から
説明する自己実現人モデル(C. Argyris, D. McGregor など)などが提唱され,さらにはこうした要
因の複雑な組み合わせによる説明をする複雑人モデル(E. H. Schein)も用いられてきた。マネジ
メント研究の文脈では概して環境への合理的適応,様々な欲求の充足といった社会的・心理的な
要素から観察可能な事実に基づく経験主義的な行動の説明が行われて来たといえよう。一方,規
範倫理学の伝統からは倫理的利己主義,功利主義,義務論などの理論が提示され,現実の行動の
説明というより,あるべき行為の正当化根拠が論じられて来た。こちらはどちらかと言えば,ア
プリオリな議論が先行する傾向にある。
人間の行動はもちろんこうした学問的説明の範疇外でも説明可能なものであるが,現在,企業
倫理学的に問題となっている企業組織における規範的不正行為とその防止といったことがらを論
じようとすると,マネジメント研究の行動分析にも規範倫理学の議論にも欠けている要素がある
ことを筆者は認めざるを得ない。それは経験的事実と先験的当為を関係付ける認識論上の(これ
は認識能力の分析であると同時に,事実と価値をつなぐ知識論および方法論の探求ということ)問題で
あり,学問の方法論に関わる大きな課題に行き着く事柄でもある。このような大きな課題は本稿
のスコープや筆者の能力を大きく越えるものでもある。そこで本稿では最近の道徳的構想力に関
する議論を概観した後,伝統的な認識論,とくにイマヌエル・カントの議論との関連を考察した
後,経営判断における構想力一般および道徳的構想力との関係から不祥事との関連性,さらには
最近の様々な議論をふまえた,構想力の位置づけについて一応の整理をしておくことを当面の目
的としておきたい。
2 道徳的構想力再考の背景
道徳的構想力がアメリカ経営学界で論じられるようになったのは,筆者の把握している限りで
は80年代後半からである。企業倫理学という学問分野が興隆したことと関係していることはもち
ろんであるが,それ以前からもいわゆるポストモダニズムの影響をうけた知識の根本構造に関す
る見直しのトレンドがその背後にあるとみることができる。西欧の学問は永らく科学的,合理的
な知識の探求をその学的知識論の大前提としてきており,16世紀のデカルトから20世紀初頭の論
理実証主義に至るまで,こまかい論点に異論はあったものの,真なる知識のメルクマールとして
「明晰,判明な合理性」が支配してきたと言って過言ではない。
「理性の優位」とでも総括できる
この傾向は,ある意味で古代ギリシャ以来のプラトン哲学の呪縛であり,大陸合理論と英国経験
論など近代の知識論争の妥協点でもあり,さらには科学的方法論が暗黙の内に前提としてきた西
経営判断における道徳的構想力の理論:その認識論的基礎と企業倫理学的含意
洋知識論におけるスパンの長い歴史的通奏低音である。
一般的に認識論が論じられる歴史的背景には,それまで蓄積してきた知識が何らかの限界点に
達し,知的探求がいきづまりを示したり,根本的な疑義が生じたりすることがあった。デカルト
が『方法序説』で方法論的懐疑主義を提示した時代も,後述するカントが『純粋理性批判』を著
した時代もそれまでの知の枠組みが疑われ,根本から見直された時代であった。20世紀の後半か
ら現在にいたる時代も,近代の科学的方法論および,その知識の体系が大きな挑戦を受け,対象
への接近方法やそれを支える人間能力の見直しと再構築が試みられた時代であったといえよう。
経営諸学においても事情は同じであり,20世紀後半も70年代に入ってからの企業倫理学をはじ
めとした,それまでになかったアプローチや,方法論に関する議論が興隆してきた背景には認識
論的,方法論的,知識論的な地殻変動があったといえよう。
3 道徳的構想力とは何か:P. ワーヘインの理論
こうした中,道徳的構想力に企業倫理学の立場から本格的考察を加えたのは,パトリシア
H. ワーヘイン(Patricia H. Werhane)であり,その論点は『道徳的構想力と経営意思決定(Moral
Imagination and Management Decision-Making)
』の中にまとめられている。
ワーヘインは「なぜ一部の経営者や企業は,善い行動の基準を保つ事ができるのに,他は疑惑
1
をもたれる行為に関わってしまうのか?」という問題意識からスタートし,さまざまな不祥事の
事例を研究したのち,
「多くの経営者は個人としての道徳的感受性や道徳的価値観を持ちあわせ
ていないのではなく,また単に強欲や利己心に動機付けられて不祥事に及ぶのでもない。」こと
2
を論じようとした。それはさまざまな社会的,文化的,組織的なフレームワークに知らず知らず
のうちに規定された個人が,視野狭窄におちいり,現実がもっている多様な可能性や道徳的な帰
結を見失ってしまうことによってもたらされる。その結果,経営判断をする際に,広範な課題事
項や帰結,解決策などを想像してみることを欠いてしまったために起るとの仮説的結論を導き出
している。
この著書の中でワーヘインは道徳的構想力を「個別特殊な文脈の様々な次元の意識であり,そ
の操作上のフレームワークやナラティブ(解釈的ナレーション)を含むものである。」としている。
また「道徳的構想力はいくつかの異なった視点から文脈や個々の活動を理解する能力であり,文
脈依存的ではない新たな可能性を現実化させる能力でもある。そして道徳的と称される構想力は,
3
この新たな可能性を現実化させるにあたりそれを道徳的観点から評価するプロセスをさす。
」と定
義づけている。
別言すると道徳的構想力は個人の認知能力の一部でありながら,その認知そのものを形成する
1) Patricia H. Werhane, Moral Imagination and Management Decision Making, New York, Oxford University
Press, 1999. p.7
2) ibid, p.11
3) ibid, p.5
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フレームワークを越える能力である。そしてこの能力なしでは自己が行おうとしている行為を鳥
瞰したり,未だ現実化していない帰結を予測したり,また自己ではない別の視点から行為や意思
決定を認知し評価したりすることは不可能であるとされる。
道徳的構想力の原語は Moral Imagination であるから,道徳的想像力と訳してもよい言葉であ
るが,ワーヘインの理論の中では通常の想像力の意味を越えたものを指し示している。それはた
だ単に非現実のイメージを創出する能力ではなく,現前する現実を認知しながらも,それを他の
文脈から解釈し,評価し直す能力である。あるいは現前する事象を単一の概念枠から解釈するの
ではなく,それ以外の視点から解釈しなおし,さらにその視点を新たな概念枠へ導く働きをする
能力でもある。
このような能力が人間に備わっていることは,経験的に明らかであるといえる。それは,スコ
ラ哲学においては直接対象に向けられた意識(第一志向)Intentio prima とそれを反省的にとら
える意識(第二志向)Intentio secunda あるいは Intentio reflexiva として区別されてきた意識であ
る。この第二志向意識は,自意識とも呼ばれ,自己自身を客観的あるいは他人の視点から捉える
意識といわれてきた。そしてこの意識が人間を他の動物と区別する罪や恥の意識の根元とも考え
られてきた。罪や恥の意識はそれが道徳や倫理と同一であるとは言えないものの,様々な宗教と
も結びついて古来から規範意識の根幹を形成する源泉としてとらえられてきた意識形態である。
ワーヘインはこうした反省志向的な意識を構想力の働きの一部としてとらえ,そこから現実の
多文脈性を推論する。その例として取り上げられているのが黒澤明の「羅生門」である。この映
画は芥川龍之助の「やぶのなか」という小説を原作とし,戦後はじめてアカデミー賞を受賞した
作品であるが,一つの殺人事件をさまざまな登場人物が全く異なったナラティブ(語り)で証言
するというストーリーである。ワーヘインはそこから現実は様々なステイクホルダーが多様な語
りをつけ,それぞれの文脈から解釈されうるものとしてとらえ,これを構想力のひとつの効果で
あると考えている。「羅生門効果」と命名されたこの現象は,多元主義的な今日の知識状況がす
でに戦後の日本でも萌芽していたことを示していると同時に,おそらくは洋の東西を問わず普遍
的にこのような構想力の効果が認知されてきたことを示している。
人間は一つの現実あるいは唯一の真実を確定しようと,理性的な事実探求を行ってきたが,実
際の現実把握には構成的主観の概念的枠組みが必要とされ,それらは社会,言語,文化,歴史的
時代状況といった価値的構成要素を含まざるを得ないものである。もし,事実認識がこうした主
観による相対性を離れられないとすれば,人間の学的知の探求も相対主義の呪縛から解き放たれ
る事はなくなってしまう。ところが,人間の認識過程はそれほどリジッドなものではなく,構想
力という能力のゆえに人間の認識は一定の枠組みを超越して,常にあらたな視点を切り開き,共
感していく事ができることをこの「羅生門効果」は示唆している。
ワーヘインは人間の認識が一定の枠組みの中で論理的な一貫性を持った分析やナラティブを可
能にするものであることを認めながら,一つの解釈枠にとどまった説明や正当化のみでは限定的
な合理性しか得られないことを指摘し,そうした認識枠組みの多様な可能性を反省的,超越論的
に比較検討したり,通時的に帰結を予測したり,さらには他者の観点から洞察したりする能力を
経営判断における道徳的構想力の理論:その認識論的基礎と企業倫理学的含意
道徳的構想力とよび,そうした多元的な検討の視野が持ち得なくなる認識論的状況を倫理的に問
題視していると考えられる。別言すると,倫理的判断を求められる状況は常に個別具体的な問題,
誘惑,ジレンマなど多元的な現実から発生するにもかかわらず,論理的で一貫性をもった分析,
ナラティブあるいは規則に支配された判断を下そうとする中で倫理的な意味での「具体者置き違
4
5
いの誤謬」が生じてしまうということを指摘しているように思われる。
4 カント認識論における構想力の位置付け
こうしたワーヘインによる構想力の把握は,カントにおける構想力の把握を基礎にしている。
ここではカントの認識論にたちかえり,より詳細な構想力の見解を把握しておきたい。カントの
認識論における構想力の位置づけは主にその主著である『純粋理性批判』の中でその基礎が語ら
れ,それに続く『プロレゴーメナ』および『実践理性批判』の中でも微修正展開され,最終的に
は『判断力批判』の中で新たな展開をみるとされている。ここでは最も基礎的な『純粋理性批判』
における構想力の位置づけをまとめておくこととする。
カントにとって構想力とは,感性と悟性をつなぐ図式の発生装置である。カントによれば,私
たちが認識する外界の情報は,人間の認識能力にアプリオリに備わる様々なチャンネルやフィル
ターを通じて加工され認識される。それゆえに,認識可能な対象は人間の認識能力の範囲に入っ
てくる情報のみであって,認識能力の媒介を経ない世界そのもの=物自体は不可知であり,何か
がそこにあるという表現しかできない。外界に存在する「何か」を感性が,個別具体的な情報の
結晶=表象として受け取る時には,感性の直感形式である時間,空間というフィルターによって
規定されることになる。感覚器官から受容された個別具体的な対象の情報にはつねに「いつ」
「ど
こで」という時空の座標軸の直感がつきまとう。対象を見たり,聞いたり,触ったり,味わった
りするその経験には常に「いつ」
「どこで」という情報がなければならない(図 1 参照)。
感性が受容する表象は時間,空間の直感を伴った個別具体的な個物の表象であり,それはつね
に「現前」するという性質をもつ。わかりやすいので視覚対象の例で話をすると,目の前にある
電気スタンドをわたしが見ているとき,わたしの前に現前するのは形や色を伴った電気スタンド
の表象であり,それは「いま」
「ここ」にあるという時間,空間の直感をともなった表象である。
そしてそれは目の前に現前しているものとして直接わたしの視覚に入ってくる表象でもある。感
性が受像する表象は時間,空間というチャンネルを通して入ってきた情報であり,それには「現
前性」と「直接性」という特徴もあることがわかる。
それに対してわたしが,
「電気スタンドは目に良い。
」という判断を下した場合はどうか。この
判断は言語を媒介とした命題の形をしており,カントによればこの判断は12のカテゴリーと呼ば
4) Fallacy of Misplaced Concreteness の訳語で Alfred N. Whitehead が著書 Science and the Modern World の
中で述べた言葉。もともとは具体的事象を時間―空間の Simple location に位置づけようとする機械論的,物
質主義的な世界観への批判として導入した概念である。
5) Werhane, ibid, p.95
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図1
感性
カント認識論の構成
構想力
悟性
12のカテゴリー
時間
物自体
表象
図式
概念
空間
れるアプリオリな判断形式を当てはめた結果として出てくる。その背後にはアプリオリな純粋悟
性概念がある。ところで悟性による判断,およびそこからもたらされる概念の特徴は何か。感性
による表象が「現前性」と「直接性」によって特徴づけられていたのに対して,概念は「非現前
性」,
「間接性」といった特徴を有する。概念としての「電気スタンド」は言語を媒介として抽象
化された概念であり,言語のみならず,カテゴリーの形式にも媒介されて「電気スタンドは目に
良い」といった判断となる。
ここで問題となるのが,
「現前性」
「直接性」によって特徴づけられる個物としての表象がどの
ようにして,「非現前性」「間接性」という全く性格を異にする概念に包摂されていくかという点
である。ここに登場するのが,感性と悟性とを結びつける機能としての構想力である。
構想力はドイツ語では Einbildungskraft であるが,ここでは英語の訳語であるイマジネーショ
ンがわかりやすい。イマジネーションによってもたらされるイメージはまさに表象と概念をつな
ぐための共通性格をもっている。すなわちイメージ(心像)は現前する対象のイメージではない
がゆえに,必ずしも実在するものの表象ではないが,概念とは違って,必ずそれはなんらかの個
物のイメージであり,また言語といった媒介をともなわずに直接,認識主体の内面に現れ出るも
のである。このあたりの関係を図示すると図 2 のようである。
カントによれば構想力はスキーム(図式)とよばれるイメージを媒介として感性的表象と悟性
概念を結びつける能力としてとらえられている。感性と悟性をつなぐものとしての構想力には,
受動的にはセンスデータの把持機能,また積極的には図式の産出機能がある。『純粋理性批判』
におけるカントの構想力理解は主にこの 2 つの機能であったが,後年のカントは『判断力批判』
においてより自由で自発的な産出能力としての構想力を論じる様になる。この機能は構想力の芸
術的なあそびとも称される。すなわちここでの構想力は想像力により近い意味での能力であり,
自然界には存在しない対象をも創造することになるのだが,構想力と悟性とがこのあそびにおい
6) カント認識論の過程については,さまざまな『純粋理性批判』の邦訳や『プロレゴーメナ』の邦訳を参照
のこと。またこの図は中山浩二郎氏の慶應義塾大学における講義で用いられていたものを参考にして,一部
を改変して作成したものである。
経営判断における道徳的構想力の理論:その認識論的基礎と企業倫理学的含意
図2
構想力の媒介機能
感 性
構想力
悟 性
表 象
図 式
概 念
現前性
非現前性
非現前性
直接性
直接性
間接性
て一致し,そこに快の感情が生じるならばそこには合目的性(Zweckmassigkeit)が存するともい
われる。
『判断力批判』におけるこの構想力と悟性の自由な一致が,芸術をはじめとする人間の
創造性や趣味判断などの基礎ととらえられている。
5 経営判断における構想力とその働き
カントにより認識論的地位があたえられ,ワーヘインによって道徳的な機能が認められた構想
力は経営判断とどのように関係し,またその意義はどこにあるのだろうか。本節では両者の議論
を踏まえて,さらにその機能と意義を敷衍する考察を展開しておきたいと思う。
まず考えられることは構想力とヴィジョン策定能力との関係である。経営者に求められること
の一つに,組織を方向付けるリーダーシップの能力があるが,構想力はそうした組織を先導する
ための目標,理念,ヴィジョンを策定する能力であるといえる。カントが指摘するように,個別
具体的な事象の認知は「いま」「ここ」で起っている現実であるが,それを概念的判断に媒介す
るのが構想力のはたらきであった。構想力は現前する事象を見ながら,それを越える非現前の事
象を思い描かせ,いまだ現実態になってはいない可能性を目標や理念のかたちに結像させる。こ
のヴィジョン策定能力は,現実の認知の能力だけでは説明がつかず,同時に分析,演繹といった
論理的推論の能力だけでも説明がつかない問題である。強いて述べれば,様々な経験的事象を積
み重ねた上で帰納的にもたらされるものがヴィジョンであるとの説明は可能であろうが,その際
にもいわゆる「帰納法のリープ」とよばれる現象についてこれを純粋な論理的過程として説明す
ることはできなかったのである。Abduction という発見法的な知的プロセスを論ずる論者もいる
が,未来に向けての創造的ヴィジョン策定を純粋に論理的なプロセスとしてとらえることに無理
があると筆者は考える。感性と悟性をつなぐ能力としてカントが同定した構想力を見直して,こ
れを経営に関する能力の一部としてモデル化することが重要であろう。
上記のヴィジョン策定能力を他の観点からみると,これは「いま」
「ここ」という時空の枠組
みに規定された表象を無時間化,非空間化する能力である。イメージの非現前性が,個別具体的
に認知される表象を抽象普遍的な概念へと媒介する機能をもつのはこのためであった。『純粋理
性批判』における構想力は非現前のイメージを産出したが,カントは『判断力批判』において非
現実のイメージ産出にまで構想力の機能を拡大している。ここでの非現実は,実現可能性のない
空想としてのイメージも含まれるが,未だ現実化していない実現可能な非現実をもふくむもので
ある。そこから未来において実現可能な対象の想定,あるいは未来における代替案や可能な選択
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肢の想定といった機能が構想力に付与されることとなる。ワーヘインが論じている道徳的構想力
の欠如とは,このような今は現実化していないが,将来において実現されうる帰結の想定能力の
欠如を意味していると考えられる。
ワーヘインはさらに道徳的構想力の欠如を,多様な概念的な思考枠組みに対する選択能力の欠
如という意味でも用いている。これはカント認識論の文脈でのべると,感性と悟性を媒介する構
想力が一定の概念的枠組みにのみとらわれてしまい,他の思考枠組みを想定できなくなってしま
う状態を意味している。
『純粋理性批判』におけるカントの場合は,純粋悟性概念の体系は12の
アプリオリなカテゴリーにしたがって表象が包摂された場合に生ずるものであって,思考枠組み
は一つしか考えられていなかったといえる。ワーヘインの思考枠組みの考え方は,その個人が所
属する社会,文化,組織などといった経験的に生ずる多元的なフレームワークが想定されている
といえる。ここから多様な思考枠組みのスイッチングの可能性が考えられ,それを司る能力とし
ての構想力が考えられている。
思考枠組みのコード・スイッチングを可能にさせる能力としての構想力は,多様なステイクホ
ルダー経営を可能とさせる前提となる。なぜなら,多様な経験と立場が企業を取り巻くステイク
ホルダーの多元的視点を形成するものであり,もし経営者がその意思決定において,株主など特
定のステイクホルダーの関心事のみを代表するものでしかないと捉えるなら,すべてのステイク
ホルダーの関心事をバランスさせることをめざすことは,そもそも認識論的に不可能となってし
まうからである。構想力は相手の立場に立って事象を観察し論じることを可能とさせる能力であ
り,人間関係を成り立たせる共感の可能根拠であるともいえるであろう。その意味でステイクホ
ルダー間の関心を理解し,時には対立する利害を調整する経営者の役割をはたしていくためにも,
構想力が経営能力の中核に位置づけられている必要がある。
構想力が共感や他者の立場に立って考えることの可能根拠と捉える事の影響は大きい。古くは,
アダム・スミスが『道徳感情論』において論じた共感も構想力の働きによるということになるし,
現代的な科学方法論において語られてきたパラダイム間の共役不可能性の問題も構想力の働きを
人間の能力に位置づければ,それはパラダイム間の共役可能性の根拠にもなりうるものである。
さらに今日の CSR 論との関係で構想力の意義をのべると,それはステイクホルダー間の相互
容認を可能とする能力であるといえる。企業は真空状態に存在するのではなく,社会=多様なス
テイクホルダーとのインタラクションの中に存在するのであり,そこは異なった視点,関心,利
害が交錯する場でもある。経営者の役割の一つは,そうしたステイクホルダー間の利害や関心の
対立を上手に調整し,利害対立をあらたな価値創造の場に転換していくことである。経営者がス
テイクホルダーの関心事を共感的に察知して,事が表面化する前に対応するところにイシュー・
マネジメントやリスク・マネジメントの領域が派生し,企業社会責任や企業社会即応性の概念も
生ずると考えられるが,こうしたことが可能となるのは他者への共感という能力が存在していな
ければならない。ステイクホルダー間の対立すなわち「羅生門」状態を作り出すのも構想力の機
能であり,同時に他者の視点から事態を共感的に見直して,利害対立を調整するのも構想力の働
きである。「のれん」とも訳される「グッドウィル」の概念はこうした利害対立を調整して新た
経営判断における道徳的構想力の理論:その認識論的基礎と企業倫理学的含意
な価値を内外のステイクホルダーと共有するところに生まれる恒常的な社会と企業との信頼関係,
7
あるいは企業に対する一定の社会的評価であると考えられる。
6 まとめと今後の課題
未だ論じきれない点を多々残した論考になってしまったが,約束の時間も紙数も尽きたので,
まとめと今後の展望を述べて小論の結語としたい。冒頭でも延べたように,経営における構想力
の位置づけについては,その重要性が一般的な文献では語られていたものの,認識論的な位置づ
けの論考は不十分であり,しかも企業倫理学との関係から道徳的構想力が論議されはじめたのも,
比較的近年のことである。本稿では P. ワーヘインの近著を手がかりとして,カントの認識論と
の関係からその主要な機能についてまとめをした。
構想力および道徳的構想力の働きは基本的には具体的事象と概念的論理を媒介する機能であ
るが,硬直的な概念枠を自由に転換するあそびの機能ももっている能力でもある。おそらくはそ
の事の故に,境界の定まらない不分明な能力として理論的な議論からは警戒されてきた事が考え
られる。今回あえてさまざまな経営における課題事項との関係を考察してみると,そこには構想
力一般が担う大きな役割が多々存在している事がみてとれる。そしてこれは単に企業倫理上の問
題点に限らず,経営一般から経営社会責任,あるいはステイクホルダー経営などを実践していく
うえでも必要不可欠な経営者の能力の一部であるように思われる。ただし,上述したように構想
力のあそびの機能に全てを担わせて,過大評価するのも問題であり今後さらなる課題の焦点化が
必要とされているといえよう。
参
考
文
献
D. ステュアート『企業倫理』白桃書房,2001年
十川廣國『CSR の本質;企業と市場・社会』中央経済社,2005年
Ewing, A. C. A Short Commentary on Kant s Critique of Pure Reason. The University of Chicago Press, 1938.
Johnson, Mark, Moral Imagination: Implication of Cognitive Science for Ethics. The University of Chicago Press, 1993.
Macintyre, Alasdair. After Virtue. University of Notre Dame Press, 1981.
Werhane, Patricia H. Moral Imagination and Management Decision Making. Oxford University Press, 1999.
Whitehead, Alfred North. Science and the Modern World. The Free Press, 1925.
7) 十川廣國『CSR の本質;企業と市場・社会』中央経済社,2005年 p.213以下を参照のこと。ここでの「グ
ッドウィル」概念は J. R. コモンズの Industrial Goodwill の中で述べられた集団的意見を意味している。カン
ト義務論の中でも guter Wille(日本語では善意志,英語では Good Will と訳される言葉)が出てくるが,こ
ちらは義務にもとづいて行為する意志をあらわすものであって直接的な関連性はない。今回は構想力とグッ
ドウィルとの関係について述べる中で,間接的に両者の関係を論じたが,さらなる考察を深める必要がある。
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