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2015 年9月 24 日(木) 糸魚川中学校 《広島で被爆したピアノ》

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2015 年9月 24 日(木) 糸魚川中学校 《広島で被爆したピアノ》
2015 年9月 24 日(木)
糸魚川中学校
《広島で被爆したピアノ》
あらすじ(案1)
第1稿 2015.06.20
(No.01 タイトル)
◇広島に原爆が投下された
・ 1945 年8月6日、朝8時 15 分、広島に原子爆弾が投下されました。(No.02 原爆きのこ雲)
・テニアン島を飛び立ったB29 爆撃機「エノラ・ゲイ」は、世界で始めてのウラン型原子爆弾を
投下しました。(No.03 エノラ・ゲイ)原子爆弾とは、原子の核分裂反応によるエネルギーを利
用した大量破壊兵器です。
・この時、広島に落とされた1発の爆弾が、およそ 14 万の人命を奪いました。
(No.04 原爆)原子
爆弾の破壊力は凄まじいものです。瞬間的に受ける熱線は、太陽照射エネルギーの数千倍。爆心
で 3000℃~6000℃、屋根瓦の表面が溶けて泡立つ温度、木造家屋は自然発火します。広島は一
瞬にして火の海となりました。(No.05 広島の地図A)
・爆風は、台風のおよそ 10 倍の風速。爆心から半径1Km の鉄筋コンクリート以外の建物と、半
径2Km 内の木造家屋は全壊しました。(No.06 市内の写真1)ガラスや建材の破片が突き刺さ
り重症を負ったり、爆風で吹き飛ばされ打撲を負ったりしています。
・原子爆弾特有の深刻な被害は、放射線によるものです。致死量の放射線を浴びた人たちは、大半
が1ヶ月以内に死亡しています。(No.07 市内の写真2)また原子爆弾の高熱によるキノコ雲が
降らせた黒い雨による被曝、救援活動のために市内に入った人たちの被曝など、二次被爆者も大
勢います。
・皆さんは国際人道法という条約を知っていますか?
文民、つまり戦闘に関わらない一般市民や
医療や救護にあたる人たちへの攻撃を禁止した条約です 。(No.08 市内の写真3)では、原子爆
弾のように、無差別に多くの人が被害を受ける兵器の使用は、認められているのでしょうか?
この答えは、皆さんが世の中の平和のために調べてみて下さい。
◇ミサコさんのピアノ
・今日のコンサートのテーマは「平和について考える」です。世界には、原子爆弾を含む核兵器を
持っている国があります。(No.09 市内の写真4)実際に核兵器が使われたのは、広島と長崎の
2ヶ所だけです。それから 70 年後の今、広島型の原子爆弾の 3300 倍の威力を持つ水素爆弾も開
発されています。数にして1万6400発の核兵器があると言われています。こうした核兵器が
実際に使用されないようにする方法はあるのでしょうか?(No.10 広島の地図B)
・今日は、70 年前に広島で被爆した貴重な資料であるピアノが、糸魚川中学校に運ばれてきました。
皆さんから向かって左側のピアノは、所有者の名前から「ミサコのピアノ」と呼ばれています。
広島市中区千田町(爆心からおよそ 1.8Km)で被爆しました。周りのほとんどの家が壊れた中で、
みさこさんの家は鉄筋コンクリートだったため、損傷はひどかったものの破壊はまぬがれました。
ピアノも傷だらけになりましたが燃えずに残りました。(No.11 ピアノA1)
・その日、みさこさんは軍需工場に働きに出ていたため無事でした。終戦をむかえ、親戚の子にね
だられてピアノを弾いたミサコさん。ピアノの音色はミサコさんの心にしみこんでいきました。
しかし、ピアノの音を聞いた外の人たちが、窓の外から大きな石を投げ込みました。それ以来、
ミサコさんは鍵盤の蓋を開けることはありませんでした。(No.12 ピアノA2)
・それから 60 年、ミサコさんは「私の命は長くないけれども、もしもピアノが歌えるのなら、こ
れからもずっとずっと、平和の音色を響かせて欲しい」と、市内で平和活動を続けているピアノ
調律師の矢川光則さんに、このピアノを託しました。(No.13 広島の地図C)
◇岩田さんのピアノ
・岩田守雄さんは当時 10 歳でした。この日は足を骨折していて学校に行けず自宅にいました。
広島市中区舟入町(爆心からおよそ 1.5Km)。閃光の後、家が崩れ落ち、ピアノと共に瓦礫に埋
まってしまいました。しばらくして、自分が生きていることに気付き、無我夢中で外に飛び出た
そうです。(No.14 市内の写真5)お母さんとは、その日の朝見送ったまま生き別れです。
・岩田さんのお父さん(=正雄さん)は、音楽の先生です。大正9年頃に作られたこのピアノは、
大事な宝物です。当時、ピアノはとても高価なもので、家が1軒建つほどの値段でした。被爆し
てから 10 日ほどして、6Km ほど離れた避難先まで、大八車に乗せてピアノを大事に運びまし
た。(No.15 ピアノ B1)皆さんから見て右側のピアノです。
・戦争が終り、当時小学生だった岩田守雄さんも音楽の先生になりました。このピアノには思い出
がたくさん詰まっています。瓦礫に埋もれたことが幸いして、岩田さんは怪我や火傷はまぬがれ
ました。何日も母を捜しまわりましたが、原爆の翌朝亡くなったことを人伝に聞きました。今も
守雄さんの頭に浮かぶのは、原爆直後の救援所に運ばれてくる人々の痛ましい姿です。もし行き
会っても、
「自分からは母を認識出来なかっただろう」とおっしゃられた言葉に、胸が痛みます。
(No.16 岩田さんと平和の鐘)
◇矢川さんと被爆ピアノ
・人間であれば、被爆と認定され被爆者手帳が交付されるエリアで壊れずに残ったピアノは、数が
少なく、
(広島では)およそ 10 台ていどです。平和記念館にも被爆資料として保存されています
が、実際に演奏可能なピアノはごく僅かです。調律師の矢川光則さんは、楽器は音を奏でてこそ
メッセージが届けられると言います。(No.17 矢川さんのピアノ工房)
・ピアノには消耗部品がたくさんありますが、例えば切れてしまった弦は取り替えないと音が出ま
せん。矢川さんは、被爆ピアノの部品を必要最小限の交換だけで、演奏可能な状態に修復してき
ました。岩田さんのピアノも、大正時代に作られた時の部品がほとんどそのまま残っています 。
(No.18 各地の被爆ピアノコンサート)
・平和を考えるコンサート。私たちには想像することも出来ない、原子爆弾の戦禍をくぐりぬけて
きたピアノの音色を聞いて下さい。
第2稿 2015.07.04
※被爆資料における放射線の影響について
・広島市の広報によりますと「放出された残留放射線は、爆発後 24 時間で約 80%減少しています。
爆心地での残留放射線を受ける量は、爆発直後 24 時間後には千分の一になり、一週間後には百
万分の一になったという研究報告があります。現在の広島・長崎における放射線量は、他地域の
自然放射線と変わりありません。」とのことです。どうぞ、ご安心ください。
映像に使用する写真
広島で被爆したピアノによるコンサート
2015年9月24日
糸魚川中学校
(No.01 タイトル)
(No.05 広島の地図A)
(No.02 原爆きのこ雲)
(No.06 市内の写真1)
(No.03 エノラ・ゲイ)
(No.07 市内の写真2)
(No.04 原爆)
(No.08 市内の写真3)
×
(No.09 市内の写真4)
(No.13 広島の地図C)
×
(No.10 広島の地図B)
(No.14 市内の写真5)
(No.11 ピアノA1)
(No.15 ピアノ B1)
(No.16 岩田さんと平和の鐘)
(No.12 ピアノA2)
(No.17 矢川さんのピアノ工房)
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