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通貨単位の選択が商取引に与える影響

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通貨単位の選択が商取引に与える影響
通貨単位の選択が商取引に与える影響:
イラク新通貨制度の政策評価
北村行伸∗
一橋大学経済研究所
2004 年 8 月 25 日
概 要
本稿ではイラク暫定統治機構 (Coalition Provisional Authority: CPA) が管轄しイラク中央銀行が発行した新ディナール通貨
の評価を行う。新ディナールは旧ディナールよりも通貨の単位付
けが 2 種類から 6 種類に増え、利便性が高まった。しかし、新ディ
ナールの下でも、50 ディナール以下の少額通貨が存在せず、少額
支払いが出来ない状態が続いている。このことの資源分配上の問
題は一般に想像されるものよりもはるかに大きい。具体的には一
物多価が発生するメカニズムが内包され、情報の非対称性が商取
引上の歪みをもたらすことが排除できない。この通貨問題を修正
し、純粋な限界条件に基づく経済取引が当たり前になるように経
済状態を一刻も早く正常化させることが、より広い意味での社会
の正常化にもつながる、あるいはそれを補完することになると考
えられる。残念ながら製造コストに見合わないので現状では誰も
それを製造しようとしないが少額通貨に対する潜在需要は思いの
外大きいと思われる。我が国の政策として復興支援に人材を派遣
するというだけではなく、国立印刷局が 1 ディナール、5 ディナー
ル、10 ディナール紙幣を印刷して供給してみてはどうだろうか。
製造コストが額面より高いのであれば、偽金を作るインセンティ
ブは働かないので安心して使えるし、貨幣ではなく紙幣であれば
溶解して金属として転売することもできない。制度的補完の考え
方に立てば、通貨制度を改善し、商取引をより効率化することは
イラク社会全体の再建に向けた補完として機能すると思われる。
すくなくとも今後 10 年、20 年を見通した時には決して無駄な支
援にはならないと思われる。
Key Words: Currency, Money, Small Cahnge, and
Denomination.
JEL classification: E31, E40, E51, E58
∗ 本稿におけるイラク通貨に関する情報は日本銀行金融研究所の猪野晶氏に提供していただ
いた。また図表の入力等は北村研究室の原美起氏に手伝っていただいた。また本稿は日本銀行の
岩田一政、翁邦雄、藤木裕、白塚重典、竹田憲史の各氏より有益なコメントを頂いた。この場
を借りて感謝の意を表したい。連絡先:〒 186-8603 国立市中 2 − 1 一橋大学経済研究所、
e-mail: [email protected]
1
「これ、アラブ人の兄弟、なに用あってまいったかな?」すると、相手は答
えました。
「実は太守さまにお願いがあってまいりました。旬はずれの節なり胡瓜
を持参したのでございます」「いかほどの値段じゃ?」「千ディナールでございま
す」
「それは高すぎるぞ」
「五百ディナールでよろしゅうございます」
「高すぎる!」
「では、三百ディナール」
「高すぎる!」
「二百ディナール」
「高すぎる!」
「百ディ
ナール」
「高すぎる!」
「五十ディナール」
「高すぎる!」とうとうバダウィ人は三
十ディナールまでまけましたが、マアンはそれでも「高すぎる!」と答えました。
そこで、バダウィ人は叫びました。
「いやはや、砂漠で出会った男のせいでけちが
ついたわい。それにしても、三十ディナールよりはまけられんて」
第 271 夜「ザイダーの子マアンとバダウィ人」
『バートン版
第 4 巻(大場正史
1
千夜一夜物語』、
訳)ちくま文庫、pp.500-501
はじめに
1991 年のイラクのクェート侵略に始まる湾岸戦争以来、イラクは長期にわ
たる経済制裁をうけ、外貨獲得の手段であった石油の輸出も制限された。そ
の結果、政府は財源不足に陥り、大幅な財政赤字を抱え込み、それを実質的
に通貨発行で賄い、急激なインフレを経験した。そのようなフセイン政権が
2004 年 3 月のイラク戦争によって崩壊し、暫定統治機構の下で、フセイン政
権下で流通していた旧通貨に代わって、新通貨が発行され、2003 年 10 月 15
日から 2004 年 1 月 15 日までの 3ヶ月間で新旧通貨への切り替えが行われた。
本稿はこのように急激な変化を経験したイラク経済で、通貨のはたす役割
を検討しようとするものである。とりわけ、2004 年 1 月 15 日に交換が終わっ
た新通貨についての評価を中心に論じる。
しかしながら、1991 年の湾岸戦争以来、一部の国連統計を除いて信頼でき
るマクロ経済統計が利用できる状態になく、通貨情報と物価に関する断片的
な情報のみが利用可能であるという制約がある。また、湾岸戦争、経済制裁、
イラク戦争と 10 年以上にわたって、経済が異常な状態にあり、その結果とし
て通貨価値は 10000 分の 1 以下にまで低下したと言われている。今後の通貨
制度を評価するためには、現状の低下した通貨価値に基づくのではなく、正
常化した時に適正為替レートがどれぐらいの水準になるかを考慮した上でお
こなう必要があることは容易に想像できるが、現実にはそれを評価するため
の十分なマクロ統計が集計されていないというのが現状である。本稿はその
ような制約の下で書かれたものであり、イラク経済の抱える問題のごく一部
に触れているにすぎないことは言うもでもない。
イラク経済の混乱は歴史的に見ると次のように考えることができるだろう。
すなわち、一般的には経済制度というものは未発達の状態から徐々に整備さ
れてくることが想定されているが、イラクにおいてはイギリス統治下である
程度近代的な経済制度が整備されていたものが、独立、社会主義化、サダム・
2
フセイン政権下での混乱によって徐々に機能しなくなっていったというプロ
セスをたどったということである。このように制度が徐々に機能しなくなる
ときにどのような問題が起こり、それをどのように解決すればいいだろうか
というのが現在のイラク経済の問題の本質であろう1 。すなわち、秩序のあっ
たものが、徐々に崩壊していくプロセスにある時に、それをどのように修正
すれば新しい秩序を生み出すことが出来るかという問題である。
通貨制度に限定して議論すれば、本質的な意味で政権交代があれば、新通
貨を導入して、新旧通貨の交換を行うと同時に、旧通貨の預金を封鎖したり、
旧政権下で結ばれた経済契約、とりわけ債務契約を再交渉して、償却しても
らうなり割り引いてもらうなりするのが一般的であろう。今回のイラクにお
ける通貨交換は 4ヶ月という短期間に行われたものであり、また、新政権が確
立されていないという不安定な状況で行われたものであり、通貨の交換は行
われたものの、旧政権下での経済契約については手が付けられておらず、新
旧通貨交換比率が 1 対 1 であったことも、新しい通貨制度が導入されたとい
うインパクトをもたらすには至っていないのではないかと考えられる。
例外としては、これまでクルド人の居住していたクルド地域において流通
していたスイス・ディナール2 が新ディナール通貨と 1 対 150 の比率で交換さ
れることによって、国内で 2 通貨が流通していた状況から 1 通貨に統一され
たという意義は大きいと考えられる。
しかし、現状はいまだに流動的であり、バグダッドのカドゥミヤ・モスク
周辺では両替商が乱立し、手数料2%で様々な通貨との交換が行われている。
これには米ドル、イランのトマーン、旧スイス・ディナール、旧サダム・ディ
ナールなども含まれており、しかも交換レートは外為市場で決まったレート
ではなく個々の両替商の裁量にまかされている状態が続いている。新通貨の
導入と反米感情によって、ドル化は起こっていない模様だが、正常な経済活
動が行われていない現状では、外国人相手に両替商を営むのが最も手っ取り
早い商売の一つとなっている。
今回の新通貨はその単位が 6 種類(50、250、1000、5000、10000、25000
ディナール)に分かれているが、旧サダム・ディナールでは最小単位が 250
ディナールであったことを考えれば、最小単位が 50 ディナールにまで下がっ
たことで少額支払の問題は多少は緩和されたが、それでも 50 ディナール以下
の小銭がないということは問題として残っている。本稿ではこの少額通貨が供
給されない問題、いわゆる small change 問題を検討する。この small change
問題は Sargent and Velde (2002) が論じているように中世ヨーロッパでも見
られたが3 、現代イラクでも同様の問題が生じている。そもそも中世において
は小銭を供給するインセンティブが支配者に無かったと言われているが、現
1 同様の問題は第
2 次世界大戦後独立した多くのアジア、アフリカ諸国においても見られた。
2 これはフセイン政権が導入したいわいサダム・ディナール以前にイラクで流通していた通貨
で、スイスで紙幣の原画が彫られたことにちなんでスイス・ディナールと呼ばれている。
3 日本でも中世においては幕府は小銭を鋳造することがなく、中国から輸入した小銭を額面と
は無関係に流用していた。
3
代では 50 ディナール以下の通貨を発券(鋳造)することが製造コストに見
合わないということが大きいだろう。すなわち、このような少額通貨を発行
してもシニオレッジを獲得できないし、2004 年 4 月 24 日時点での為替レー
ト(1 ドル= 1150 ディナール、100 円= 1077.43 ディナールとすると 50 ディ
ナール= 5 円)から判断すると、50 ディナール以下を切り捨てても大局から
見て大きな問題はないと判断されているのだと考えられるのである。
現状がこのまま続くのであれば、このような議論も受け入れられると思う
が、わずか 14 年前の湾岸戦争直前には 1 ディナール= 3.22 ドルであり、こ
れは当時の為替レートで 436 円に相当していた。とすれば 50 ディナールは
21800 円になり、これ以下の取引をすべて切り捨てかまわないと論じること
はあり得ない。この場合、1 ディナール以下の補助通貨である 1 フィルス(1
ディナール= 1000 フィルス)さえ導入する必要も考えられるだろう。このよ
うに考えるとイラクが着実に経済復興に専念すれば、当然湾岸戦争以前の経
済レベルに戻ることは容易に想像がつく。その意味では長期的に 50 ディナー
ル以下の少額通貨を準備しておくことはむしろ必要だと考えられるのである。
さらに、より原理的に考えると基本通貨単位 1 ディナールが無いことによっ
て、支払可能な金額が大幅に制約され、それが特に少額取引では無視できな
い非効率を生んでいることが考えられる。現在の購買力で考えても 50 ディ
ナールで紅茶 1 杯が飲めるとすれば、単価がそれ以下の財は沢山存在するだ
ろうし、事前に数量で調整できないような消費、例えば、ガス、水道、ガソ
リンなどの消費に対しては切りがいい金額にまるめることが難しい。このよ
うな状況に柔軟に対応するためには基本通貨単位1ディナールが必要となる。
むしろ、基本単位を持たないことによって生じる様々な不便やコストを考え
ると基本単位を導入することで経済取引がいかに容易になるかを考えてみれ
ばいい。この問題に関しては第 3 節で論じたい。
イラク通貨の歴史と実態
2
2.1
イラク通貨の歴史と発行単位
本節ではイラクにおける通貨の歴史を振り返ってみたい。
1831 年にバグダッドを征服したオスマン帝国下ではオスマン・ポンドが法
定通貨であったが、イギリスのスターリング・ポンドと連動していたインド・
ルピーが最も流通していた。1916 年にオスマン帝国がイギリスに植民地化さ
れると、イギリス政府はインド・ルピーを通貨として採用し、オスマン・ポ
ンドを消滅させた。これは現代的な言い方をすれば「ドル化」させたことに
なる。
第一次世界大戦後 1932 年よりハシミテ家のファイザル(1885 − 1933)を
4
国王として独立し、ファイザル 2 世(1935-58)が 1958 年のイラク革命で滅
ぼされるまでファイザル国王の肖像を描いた通貨を発行していた。ちなみに、
イラク中央銀行が設立されたのは、1947 年 11 月 16 日のことである。イラク
革命後はデザインを変えた通貨発行が行われたが、通貨の単位は同じものが
使われていた。
当時はイギリスの影響が強く、硬貨はイギリスのロイヤル・ミントで鋳造
され、紙幣は De la Rue が印刷していた。この間に鋳造された硬貨は 1 フィ
ルス、5 フィルス、10 フィルス、25 フィルス、50 フィルス、100 フィルス、
250 フィルス、500 フィルス、1 ディナール(1 ディナール= 1000 フィルス)
であった。紙幣は 1/4 ディナール、1/2 ディナール、1 ディナール、5ディ
ナール、10 ディナール、50 ディナール、100 ディナール、250 ディナールが
発行されていた。この中には記念硬貨や法定通貨として使用できなくなった
10 ディナール以下の小額紙幣も含まれている。1986 年にはフセイン大統領
の肖像を描いた 25 ディナール札が De la Rue 社によって発行されている。
1991 年の湾岸戦争以後、南部のフセイン統治地域と北部のクルド自治区に
分かれ、国連の安全保障理事会がイラクの即時無条件撤退を求める 660 号決
議を採択し、国際社会が次々と経済制裁を発動した。その影響を受けて、イ
ギリスのロイヤル・ミントや De la Rue が造幣を引き受けなくなり、フセイン
政権下では、膨大な財政赤字を自前で印刷した新紙幣(サダム・ディナール)
で賄った。この紙幣の単位は 5 デーナール、10 ディナール、25 ディナール、
50 ディナール、100 ディナールの 5 種類がオフセット印刷されが、偽造防止
策は施されていない。1992 年 5 月 5 日、イラク政府は、外国がイラクで偽札
を流布させイラク経済の破壊を画策しているとして、取引需要の大きかった
50 ディナールと 100 ディナールを廃止した。さらに 1993 年 5 月、イラクは
予告なしにヨルダン国境を封鎖し、その間に De la Rue 社印刷の 25 ディナー
ル札を廃止した。この 25 ディナール札はプレミアムがつくぐらい人気があっ
たので、ヨルダン商人たちも多額の 25 ディナール札を貯めこんでいたが,彼
らはこれを交換することができずに 15 億ディナールの損失を蒙ったと言われ
ている4 。
この新旧通貨の交換は 1993 年 5 月 5 日からわずか 3 週間であった。1991
年に通貨残高は 220 億ディナールであったが、1995 年には 5840 億ディナー
ルにまで増加した。当然ながら、インフレが年率平均 250 %に上昇した。そ
の結果、小額紙幣や硬貨はほとんど無価値となり、25 ディナールのみで現金
取引が行われることになった。
北部のクルド自治区には旧 25 ディナール紙幣 70 億枚のうち 50 億枚が残っ
ており、サダム・ディナールに交換されることなく旧ディナール(スイス・
4 この国境閉鎖の目的は外国に流通しているお札を無効にし、通貨流通量を削減し、通貨価値
を支えようということにあったとされている。
5
ディナール5 と呼ぶ)が流通していた。1989 年以後スイス・ディナールは発行
されておらず、発行主体たる中央銀行も存在せず、価値を保証するものはな
にもない不換紙幣であり、1991 年時点で残こった紙幣のみが流通していた。
これは貨幣史上稀な現象であったが、さらにその上、スイス・ディナールは
サダム・ディナールに比べて高品質で偽造も難しく、偽造に伴うリスク・プ
リミアムはサダム・ディナールに比べて低かった6 、ドルとの交換比率を介し
て見た場合、スイス・ディナールとサダム・ディナールの交換比率は 1997 年
7 月には 60 サダム・ディナール= 1 スイス・ディナールであったが、それ以
後比率は徐々に低下し、2002 年 7 月以後は 200 − 400 サダム・ディナール=
1 スイス・ディナールにまで下がった。サダム・フセイン政権崩壊時には 300
サダム・ディナール= 1 スイス・ディナールであった。この現象はサダム・フ
セイン政権下でサダム・ディナールが増発される一方、残高が固定されてい
るスイス・ディナールに対して交換比率が低下していったことを物語ってお
り、交換比率の推移が、通貨供給量の増加に対応していると考えることがで
きる。
しかし、法貨でないスイス・ディナールの対ドル為替レートが 2002 年 5 月
には 1 ドル 18 スイス・ディナールであったものが、イラク戦争終結宣言後の
2003 年 5 月には 1 ドル 6 ディナールにまで上昇したという事実をどのように
考えればいいのだろうか。King(2004,p.13) が指摘しているように、
(1)クル
ド自治区が南のフセイン統治地域から政治的にも軍事的にも分離されつづけ
るであろうという予測、(2)新政権下で交換される紙幣はスイス・ディナー
ルとサダム・ディナールの交換比率を尊重したものになるという予測、に基
づく為替レートであると考えられるが、既に述べたようにスイス・ディナー
ルを発行していた政権は無くなり、サダム・ディナールとの交換も保証され
ていないとすると、ドルとスイス・ディナールとの交換が成り立つのは通貨
法制上の枠組みでも経済政策でもなく、もっぱらクルド地域の経済は保証さ
れるという政治的な判断に依存していたということである。
2003 年 3 月に始まったイラク戦争でフセイン政権が崩壊し、それに応じて、
2003 年 7 月 7 日には、暫定統治機構のポール・ブレマー (Paul Bremer) が、
「2003 年 10 月 15 日から 2004 年 1 月 15 日までに 2 種類の旧ディナール札
(250、10000 ディナール)を新ディナール札(50、250、1000、5000、10000、
25000 ディナール)をサダム・ディナールに対しては 1 対 1 の等価交換、ス
イス・ディナールに対しては 150 新ディナールと交換する」と発表した。こ
の新札はデザインからサダム・フセインの肖像を一掃し、歴史上の建物や人
5 紙幣の印刷元はイギリスの De la Rue であたが、紙幣の原版はスイスで彫られたので、ス
イス・ディナールと呼ばれていた。
6 サダム・ディナールの印刷技術が低く、高額紙幣である 10000 ディナールについては偽札
が多く流通したため、結果としてほとんどの取引が 1990 年代半ばのインフレに対応してフセイ
ン政権によって発行された 250 ディナールで行われていたようである。
6
物を旧紙幣のデザインなどを参考に、湾岸戦争以前に通貨の印刷を引き受け
ていた De la Rue 社が短期間に印刷したものである。
すでに論じたように最低通貨単位が 50 ディナール (約 5 円)であるのは紙
幣の製造コストとも関連している。日本では一般に紙幣を製造するのに 10 −
20 円のコストがかかると言われている7 。ほぼ同じようなコストがかかると
すれば 100 ディナール(約 10 円)がちょうど採算ラインであって、それ以下
の通貨単位では製造コストが額面を上回るのである。採算割れする通貨を多
種発行することは出来ないということであろう。
サダム・ディナールとスイス・ディナールの交換比率は 2002 年 9 月頃には
1 対 150 ぐらいであったが、イラク戦争開始の 3 月 20 日以後 1 対 300 にまで
急騰し、7 月 7 日の新札発行計画発表後に 1 対 150 強の水準に収斂していっ
たという経緯がある。10 月 15 日の交換開始日まで 1 対 150 を超える交換比
率が維持されていたのは、サダム・ディナール偽札に対するリスク・プリミ
アムという意味合いと、サダム・フセインが捕獲される以前には、新政権に
対する不確実性が残っており、それもリスク・プリミアムとなっていたとい
うことであろう(King (2004, p.16))。
2.2
イラクの物価と為替レート
すでに論じたように湾岸戦争以来のイラク経済に関する統計はほとんど
存在せず、極めて不十分な断片的なデータのみが手にはいるという状況であ
る。国連の国民所得統計も名目値しか利用できないが、それによると、名目
GDP 成長率は 1990 年 10.79% 、1991 年-14.42% 、1992 年 148.04% 、1993
年 151.68% 、1994 年 395.02% 、1995 年 214.99% 、1996 年 22.58% 、1997
年 37.43% 、1998 年 39.76% 、1999 年 49.01% 、2000 年 8.65% を記録して
いる。当然ながら、この間に急激なインフレが進行し、実質 GDP 成長率は
1989 年から 1992 年の間に 57 %下落し、1970 年代のレベルにまで後退した
と言われているが、正確な数字は明らかではない。仮に実質 GDP 成長率が
0% であるとすれば、名目 GDP 成長率はインフレ率を表していると考えられ
るが、1992 年から 1995 年にかけてとりわけ大幅なインフレを経験したであ
ろうことが見てとれる。
このことは、家計所得情報をみても明らかである。ある情報によれば、上級
公務員の月給は 1993 年で 775 ディナールであったものが、1996 年には 5000
ディナールにまで急増し、さらにその後それが 50000 ディナールから 100000
ディナールにまで増えたといわれている。これを裏付ける情報として、家計
あたりの 1ヶ月の消費額については、1993 年時点で、6 人家族の月当たり平
均食料費は 5400 ディナールであったと言われている。家族のうち 2 − 3 人が
7 田中(1984、pp.40-42)を参照。
7
働いたとしても、生活はかなり厳しいものであったことが想像できる8 。
インフレは当然為替レートに反映されていると考えられる。この観点から
為替レートを概観すると、1979 年のサダム・フセイン政権樹立当時は 1 ディ
ナール= 3.39 ドル、1985 年 1 ディナール= 3.2164 ドル、1990 年 1 ディナー
ル= 3.2249 ドルであったものが、2003 年には 1 ドル= 4000 ディナール (1
ディナール= 0.00025 ドル= 0.025 セント) にまで、実に 13560 分の1に下落
したのである。1991 年の湾岸戦争直後からでも 600 分の1に下落している。
しかし、イラク戦争後の混乱が続く中、2004 年 4 月 24 日時点では 1 ドル=
1150 ディナールにまで通貨価値は 2003 年から比べてほぼ 4 倍にまで回復し
ている。
為替レートの変動は相対的なもので、一国のインフレ率の変化だけでは説
明できないが、仮にアメリカのインフレ率が 1990 年代に極めて安定してお
り、他の条件は一定であるとすると、イラクでは平均年率 100 %以上のイン
フレを経験していたことになる。別の情報によると湾岸戦争以前はインフレ
率は 45 %であったが、戦後は 500 %にまで上昇したという報告もあるので、
年率平均 100 %という数字はそれほどはずれいてるとは考えられない。
フセイン政権下あるいはフセイン政権崩壊後のイラクに滞在した人の話に
よると9 、過去 10 年以上にわたってイラクでは硬貨が使われておらず、紙幣
しかも 250 ディナール(または 10000 ディナール)のみで現金取引が行われ
てきたようである。個別の財価格の情報は断片的にしかわからないし、その
価格がどれぐらい代表的な価格なのかもわからないが、例えば、羊肉は 1 キ
ロあたりイラク戦争前で 3000 ディナール、戦後 8000 ディナール、卵 3 個は
戦前で 250 ディナール、戦後は 450 ディナール、薄焼きパン 1 枚は戦前には
25 ディナールであったものが、戦後には 50 ディナールになった。という訳
で、今回のイラク戦争以後、物価が少なくとも 2 倍になったことがわかる。
また、価格は戦前は 250 の倍数、戦後は 50 の倍数に調整されている。また最
小通貨単位以下の単価の財はそれをまとめて最小通貨単位で表示できるまで
数量調整していると考えられる。
3
イラク新通貨の利用価値と問題点
新通貨導入前のイラクの具体的な買い物の支払いのパターンは次のような
ものであった。まず、非イラク人であれば、250 ディナール札(約 25 円)を
8 イラン・イラク戦争以後は基礎物資の配給制度は廃止されていたが、湾岸戦争以後配給が再
会された。具体的な内容は小麦(9キロ)、米(3キロ)、植物油、砂糖、塩、御茶、洗剤などで
あるとされている。
9 こ の 情 報 は 酒 井(2002)や フ リ ー ジャー ナ リ ス ト の 田 中 宇 氏 の ホ ー ム ペ ー
(http://www.tanakanews.com) に 掲 載 さ れ て い る「 イ ラ ク 日 記( 6 )庶 民 生 活 」か ら
得たものである。
8
例えば、100 ドル分交換する。これによってビニール袋一杯の 250 ディナー
ル札束(100 枚一束)を受け取る。その札束で買い物をすることになる。す
でに述べたように 2004 年 1 月までは 250 ディナール以外の札はほとんど流
通しておらず、買い物の支払い時は 250 ディナール札何枚という言い方が一
般であった。高額支払いの場合は、ドルとディナールを混ぜて使うが、その
場合ディナールの札束は最初と最後の通し番号だけをみて 100 枚ということ
にしていたようである1011 。
このような買い物のパターンは高額通貨もなければ、少額通貨も不足して
いるがために、極めて大雑把なものになっている。以下ではイラクの新通貨
の利用価値と問題点について、理論的な側面から検討してみたい。
まず、第一に、財の経済的価格(生産者価格)は生産費用の限界条件によっ
て、通貨単位などの要因とは一応独立して決まっていると考える。それに対
して、貨幣的価格(消費者価格)は支払いの段階で、通貨単位などの要因も含
めて決まると考えていいだろう。消費税がなく市場が競争的であれば経済的
効率性が成り立つが、そのためには、経済的価格(生産者価格)と貨幣的価
格(消費者価格)が一致している必要がある。ところが、通貨単位に制約が
あり、支払える金額が制限されているような状態では、このような条件は満
たされない。ここでまず考えておくべき問題は所与の通貨単位で表示できる
自然数は全自然数の何% ぐらいかということである。これを知ることによっ
て生産者価格と消費者価格の乖離を認めた価格設定問題の困難さがわかって
くる。次に問題としたいのは、通貨単位を所与として、設定された価格ある
いはそれを足し合わせた合計額をいかに支払うかということである。これは
通常経験するように、消費者にとっては一定の金額を支払う方法が様々であ
るほど便利であるが、イラクの通貨単位で支払う方法は、日本の通貨単位を
用いて同じ額を支払う方法に比べて格段に少ないことがわかる。
ではこのような通貨単位の下で生産者と消費者の間に入る商人はどのよう
な価格設定をするだろうか。価格表示が通貨単位により制約されているとす
れば、次善の策として数量調整をして、支払える金額に取引量を合わせると
いうことが考えられるが、不必要な量を購入する可能性がある。これは、一
袋いくらというスーパーマーケット方式の価格付け12 に相当しているが、単
位当たりいくらという中東で広く行われているバザール方式の価格付けの場
合は、単位当たりの額を通貨単位に合わせるということも考えられる。しか
し、より深く考察すると、商人は相手を見て価格を適当に切り下げたり切り
10 この情報も前掲の田中宇氏のホームページから得た情報である。札束をいちいち数えるのが
手間であり、数えることなく一束 100 枚を想定しているという意味で、江戸時代の小判の包金、
包銀に通じるものがある。この点に関しては山口(1996)を参照。
11 鋳貨(コイン)が存在せず紙幣だけで商取引が行われている国は他にも沢山ある。例えば、
アフリカのアンゴラ共和国ではインフレのために旧 100 万クワンザが 20 米セント程度の為替
レートになっており、平均的な買い物をするのに使われる紙幣の量は相当な枚数に上り、不便極
まりないと報告されている。
12 Basu (1997) や Shy (2000) はスーパーで 99 円など 9 で終わる価格づけをする理由につい
て研究しているが、これは、スーパーも数量調整だけではなく、消費者の心理を読んだ価格調整
も行っていることを示唆している。
9
上げたりしているのではないかと思われる。これが可能になるのは相手の顔
が見える相対取引(バザール方式)に限られる。経済学的には消費量の多寡
や顧客か通りすがりの客かによって価格差別化を行う、いわゆる非線形価格
設定の問題として扱うことができる。
第二に、少額通貨の不足問題、いわゆる small change 問題に対して現実的
にどのように対処しているかを考えよう。一般的には、
(1)少額部分は切り
捨てる。
(2)通貨に代わるもので少額決済の代替とする。例えば、釣り銭を
キャンディーで払うとか、外国の小銭を額面とは無関係に使うということも
あるだろう。(3)繰り返し取引のある相手に対しては帳簿につけておいて、
一定の期間を経たら、あるいは一定の額に達したら決済するということも考
えられる。(1)は上述の商人の価格設定の問題として扱う。(2)は可能性
としてはあるし、歴史的経験もあるが、ここでは立ち入らない。
(3)は掛売
りの一種の問題として扱える。
第三に、現状のイラクは高インフレでディナール価値が低下しているので、
少額ディナール通貨を導入することの意義は小さく見えるかもしれないが、
インフレが収束し、為替レートが正常に戻れば、現在の通貨価値から湾岸戦
争以前の水準に戻ることも想定されるので、その場合は、1 ディナールの価値
は十分大きなものになることを忘れてはならない。例えば、現行の 100 倍に
まで通貨価値が上昇すれば、1 ディナール= 10 円ぐらいになることは大いに
あり得る。同様の理由から長期的な正常状態を考えることなく、現状だけか
ら判断して 50 ディナールを新 1 ディナールと交換すべきであるといったデノ
ミ論にも問題がある13 。しかし、当然ながら、現状で 50 ディナール以下の通
貨単位が発行されていないということは、発行コストが額面より高いために
シニオレッジが発生しないからであると説明できる。すなわち発券業者(中
央銀行)にとっては、少額通貨は発行すればするほど損失になるということ
である。このような状況で少額通貨を金属貨幣で発行した場合には、貨幣は
溶かされて金属として売買されてしまい、市中には金属貨幣が流通しなくな
るということが起こりうる。このようなリスクを避けるためには少額であっ
ても紙幣で発行する方が望ましい。紙幣であれば少なくとも金属として流用
されることはないし、製造コストから考えて偽札を作るインセンティブもな
いからである。14
13 日本ではデノミを通貨単位の変更であるという理解が一般的であるが本質的な誤解がある。
例えば、ハイパーインフレを経験した国で旧通貨で 10000 を新通貨で1とするのは、旧通貨で
10000 の価値が低下し、それ以下の支払を考える意味がない場合に行われることであって、現行
の 100 円を新 1 円とするという議論では、現行では 100 円以下の取引も十分無視できないもの
として考えられており、新たに銭の単位を導入する必要が出てくる。従って、現在の日本で 100
円を 1 円と単位替えしても、流通する通貨の単位が変わっただけで、支払方法も通貨の数量も
変化しない。逆に、ドルやユーロと比較した場合、最小通貨単位である1セントはほぼ 1 円に
対応しており、この意味では最小通貨単位に関する尺度はほぼ同じになっていると言える。
14 Sargent and Velde (2002) は金属貨幣の額面に対して金属そのものの価値が高ければ、貨
幣は溶解される可能性が出てくるし、逆に金属価値が低ければ、誰も受け入れたがらないという
ことが起こることを指摘した。金属貨幣が正常に流通するためには貨幣額面と金属価値が大幅に
乖離しないように設定される必要があるのだが、現実にはそれが難しかったことが歴史的に判っ
ている。
10
3.1
支払不能額比率および支払可能額の支払方法
第一の問題はこの最小通貨単位(S )で表せる数字が実際に起こり得る支払
額の何パーセント程度をカバーできるかということである。ここでは起こり
得る支払い額を全ての正の整数、すなわち全ての自然数(N )であるとする。
最小通貨単位を用いて表示できる自然数の総数は N/S であり、自然数全体に
対して最小通貨単位を用いて表示できる自然数の比率は次のように表せる。
N
S
1
=
(1)
N
S
すなわち自然数 N の上限とは関係なく支払い可能額比率は 1/S である。直
感的には明らかに S = 250 であれば、連続自然数の 250 回に 1 回しか支払
い可能な額にならないということである。この場合、支払い可能額の比率は
1/250=0.004 (0.4%) となる。最小通貨単位が 50 であれば、1/50=0.02 (2%)
となる。最小通貨単位が1であれば、1/1=1 (100%) で、当然ながら全ての
自然数に対応した支払額を払うことができる。
最小通貨単位が 250 から 50 に引き下げられたことで支払い可能額が 5 倍
増えたことになる。しかし、50 ディナールを用いて支払うことが出来る比率
はまだ 2 %にすぎないのである。
第二の問題は払うべき金額が与えられた時に、既存の通貨単位で支払う方
法は何通りあるかということである。厳密に数学的な議論は補論で与えてあ
るが、同じ 1000 という金額を支払う場合、日本の通貨単位(1 円、5 円、10
円、50 円、100 円、500 円)では 248908 通りあるのに対して、イラクの通貨
単位 (50 ディナール、250 ディナール、1000 ディナール) ではわずかに 6 通
りしかない。これは通貨単位のスケールが違うことを反映しているが、高額
支払い、例えば、10 万とか 100 万といった金額に対する支払方法でも日本の
通貨単位の方がはるかに多いことに変わりはない。一般に支払方法が多様で
あるということは手元に保有すべき通貨にあまり制約がないことになり、利
用者の自由度は高まる。イラク・ディナールの場合、最小通貨単位である 50
ディナールをかなり多量に保有していなければ支払いができないことになり、
利用者の自由度はかなり低いと思われる。
また 50 ディナールを新 1 ディナールと考えて、全ての価格を新1ディナー
ル、すなわち旧 50 ディナールの倍数のみに限定するという考え方もできる15 。
そのような価格設定は小売店では対応できるかもしれないが、基本数量に応
じて価格が決まっていて、実際に需要される数量が不確定な財、例えば、電
力、水道、ガス、ガソリンなど、あるいは金融取引、税金などでは必ずしも
15 これは一種のデノミ論であるが、前述したように通貨価値が安定化していない現状では、デ
ノミ後、急速な為替レートの切り上げが生じて、その結果、急激なデフレを生む危険性もある。
デノミを実行するのであれば、通貨価値がかなり安定している時にすべきである。また現実的な
問題として、イラクでの商取引が現在の 50 ディナール以下の単位は不要であり、経済計算上問
題がないということであればデノミの意味はあるが、50 ディナール以下の単位も使うのであれ
ば、補助通貨を発行する必要があり、実質的な商取引としては 50 ディナール以下の少額通貨を
発行するのと違いがなくなる。
11
切りのいい決済額に決まるとは限らない。またグローバル化が進み、国際的
商取引が拡大し、外国から財を大量に購入するようになれば、財価格が為替
レートを通して表示されるイラク通貨でちょうど支払える額になる保証も全
くない。
3.2
支払不可能額を所与とした時の価格設定
ここでは逆に、ある取引の支払い金額を Xi とし、それを既存の通貨を用
いて支払うとする。支払い金額は通貨単位とは無関係に決まるものとし、支
払いは原則としてできるだけ少量の通貨を用いて行うこととする。
Xi = aQ1 + bQ2 + cQ3 + dQ4 + eQ5 + f Q6 + gi
(2)
ここで Q1 > Q2 > Q3 > Q4 > Q5 > Q6 > gi ≥ 0、Qi は通貨単
位、gi は余り、すなわち支払い不能額である。
(2)式の最適な支払パターンは数論の基本的考え方である除法の原理,す
なわち、すべての数は商と余りで表現できることを表わしている。この考え
方は簡単で、最も大きな通貨単位 (Q1 ) で払えるだけ払い (a)、残りを次に大
きな通貨単位 (Q2 ) で払えるだけ払う(b)という作業を順次繰り返していく
ということである。ここでいう最適とは支払に使う通貨の数(枚数)が最小
ですむということである。また、gi = 0 であれば、Xi の正の値の最小値は
gcd(Qi ) = Q6 に等しいことが証明されている(補論参照)16 。通貨を用いた
支払を直感的に考えればこの命題はほぼ自明である。すなわち Q6 = 50 であ
り、それ以下の支払は考えないものとすれば、支払える最少額 Xi は 50 に他
ならない。
支払額に対する支払い不能額の比率 Zi は次のように表せる。
Zi =
gi
Xi
(3)
0 ≤ gi < Q6 ,0 ≤ Zi < 1
この比率 Zi は支払い額 Xi に依存しており、Xi がかなりの高額になれば Zi
は無視できるほど小さくなる。逆に Xi が少額であれば Zi は 1 に近づく。問
題は小額支払いに対しては支払い不能額比率がかなり高くなり、無視できな
いということである。例えば、299 ディナールの支払いに対して 49 ディナー
ル分が支払えないとすると、支払い不能比率は 0.16388 にまで上がる。もし、
ここで
16 最大公約数を表す
gcd は greatest common divisor の略語である。
12
この支払いに対して 49 ディナールは切り捨てて支払わなくてよいということ
になれば、消費者は 16% 引きで財を購入できたことになる17 。
299 = 1 × 250 + 49
49
= 0.16388
Zi =
299
(4)
このように小額支払いに対してはある程度の幅で消費者が実質的な値引き
や値上げ(マークアップする場合)を経験していることになる。
逆に大口支払いの場合を考えてみよう。例えば 299 ディナールの財を 400
個まとめて買う場合の支払いを考えると次のようになる。
299 × 400 = 478 × 250 + 50 × 2
0
Zi =
= 0.00
119600
(5)
(6)
この場合、支払い不能額は消滅し消費者がこの取引から得られる余剰利得
はなくなることがわかる18 。50 ディナールが最小通貨単位であるから、財の
取引を 50 個単位で行えば、すべての金額の単価に対しても余剰なく支払うこ
とができるようになる。
商人が財価格を切り上げる(マークアップする)のか、切り下げるのかに
よって、消費者にとって大口化した方が有利か、小口化した方が有利かが違っ
てくる。例えば、上の切り下げの例であれば、400 回の小口取引に分割する
と、実に 49 × 400 = 19600 ディナールの得になるのであるから、財が品不足
から市場から消えるという不確実性がなく、消費者が繰り返し取引を行うこ
とが可能であると考えれば、大口取引はできるだけ分割され小口取引化しよ
うとすることが容易に想像できる。
しかし、現実には大口取引を小口取引化するということはあまり起こって
いないようである。つまり、商人は同一人物が繰り返し買い物にくることを
察知すれば、値下げ率を下げるなり、値上げするなりして小口化に対応する
と考えられるからである19 。中東のバザール方式の相対取引の利点は、スー
パーマーケット方式のように個々人の取引が匿名になるのではなく、顔の見
える顧客との取引がすべて観察可能であり、商人は相手を見て価格設定を行
17 逆に切り上げて 300 ディナールとすれば、250 ディナール札と 50 ディナール札で丁度支払
えるが、消費者は 1/300=0.003 (0.3%) の損をしたことになる。
18 大口取引と同じ状況は、小口取引を毎回決済せずに帳簿につけて、一定期間取引が集まった
時点で決済する場合にも生じる。この点については後ほど論じる。
19 以下で説明するように、商人は繰り返し買い物に来る客は顧客として、通りすがりの客とは
違う対応をするようになると考えられる。
13
えるところにある。経済学的に考えると商人が一方的に得をしたり損をした
りということはあり得ない仕組みになっているのである。
このような商人の価格設定問題を理論的に考えると次のようになる。
常連である顧客 (α) と通りすがりの客 (β) という 2 種類の消費者がそれぞ
れ Nα 、Nβ 人おり、売り手である商人は一人で財 x も 1 財とする。ただし、
市場には同じ財を売る商人が多数おり、財 x の独占的供給者ではない。財 x
に対する顧客 (α) の需要を xα 、需要お価格弾力性を εα 通りすがりの消費者
(β) の需要を xβ 、需要の価格弾力性を εβ とする。
消費者の目的は与えられた予算制約の下での財の最大の消費にあるとする。
ここでは他財の消費との代替や他財の価格は考えない。
max Ui (x) s.t. yi = pi xi ⇔ xi = Vi (p, y) i = α, β
(7)
ここで Vi (p, y) は間接効用で表現されている需要関数である。顧客は他に
も店があるのに当該店で買い物を続けてくれており需要の価格弾力性は他の
店でも買い物をする通りすがりの消費者に比べて、低いと考えられる (εα <
εβ )。
商人の目的は利潤最大化にあるとし、個人商店で仕入原価以外の費用はか
かっていないとする。
max
(
P
i∈α,β
pi xi Ni − peX
)
(8)
ここで pe は仕入原価(生産者価格)20 であり、かつ限界費用=平均費用で
ある。X は財の総量を表す。また商人は顧客と通りすがりの客の需要関数を
知っているとする。
ここではもう一つの制約が入ってくる。それは支払い額が最小通貨単位で
ある 50 ディナールの倍数に制約されているということである。
原価 pe は少額の取引に限定して、50 ディナール部分(fi )と支払い不能
(余り)部分(gi )の2つの部分に分けられる場合のみを考える。すなわち、
fi ∈ {0, 1, 2, 3...}、gi ∈ {0, 1, 2, 3, 4, ..., 49} とすると、pe = 50fi + gi と表すこ
とができて、原価 pe を上回る支払い可能額のうち最小の金額は p = 50(fi + 1)
であり、原価 pe を下回る支払い可能額のうち最大の金額は p = 50fi となる
(図 1 参照)。
14
図1
支払可能価格のスケジュール
完全競争で通貨表示に制約がなければ、最善 (first-best) の均衡価格は限界
費用=原価 pe となり、その価格ですべての財が売れるはずである。しかし、
上述のように通貨表示の制約により均衡価格は表示できないので、商人は利
潤を負にしないために、少なくとも財の一部は p = 50(fi + 1) かそれ以上の
価格で売らなければならない。しかし、需要関数が違うことが判っている顧
客と通りすがりの客に対して同じ価格で財を売ることは消費者余剰の観点か
らも非効率であるし、競争的関係にある他の商人は、たとえ仕入価格が同じ
であったとしても、少なくとも一部の客に対しては、仕入価格以下の価格、
p = 50fi で販売することによって客を奪おうとするであろう。このような環
境では、商人の価格設定行動は消費者を需要関数によって2つのグループに
分け、それぞれのグループの人数と需要の価格弾力性 (εi ) の逆数によって価
格を決めるラムゼー・ルールに従って、仕入価格と財の総量の積である仕入
費用をすこし上回るか等しくなるように価格を設定すると考えるのがもっと
もらしい。すなわち、市場がある程度競争的であり、原価 pe が通貨表示でき
ない場合は、その原価を上下から挟んだ通貨表示できる 2 つ以上の価格で取
引を行うようになるだろう。これは、競争価格は一価に収束しないことが合
理的となる一例である。
その際、顧客に対しては限界費用より高い価格を設定するが、どれぐらい
高く設定するかは顧客の需要の価格弾力性と顧客数、通りすがりの客に限界
費用よりどれぐらい低く価格を設定するか、その客の需要弾力性と通りすが
りの客数などによって決まってくる。図2からも明らかなように、顧客の需
要曲線は vα で表されているが、これは需要の価格弾力性が低い(需要関数の
傾きが急である)ことを意味している。すなわち、価格を限界費用 pe より高
い pα に設定しても需要はそれほど減少せず、死重損失 (dead weight loss) が
比較的少ないが、通りすがりの客の需要関数 vβ に対しては同じ価格に引き上
げれば需要が大幅に減少し、死重損失がはるかに大きいことがわかる。逆に
販売価格を限界費用以下の pβ に下げた場合、顧客の需要はそれほど増加し
ないが、通りすがりの客の需要は大きく増える。このことからも明らかなよ
20 岩崎 (2004) はテヘランの繊維業の卸売市場においては競争が働き卸売価格(仕入原価)は
ほとんどの小売業者にとっては均等になっていると論じられている。バグダッドにおいても卸売
市場においては均一価格で取引されていると考えている。
15
うに、顧客に対しては pα を、通りすがりの客に対しては pβ を割り当てるの
が望ましいことがわかる。競争市場では利潤がゼロに近づくまで価格競争が
続くと想定されている。考え方としては価格を引き上げることによって得ら
れた収益の増加と需要が減ることによって失った収益を足し合わせた顧客に
対する純益(損)が、価格を引き下げることによって失った収益と需要が伸
びることで得た収益を足し合わせた通りすがりの客に対する純損(益)とほ
ぼマッチするまで競争が続くと考えられる。しかし、厳密には、価格の非連
続性のために、支払可能な価格がちょうど(8)式に基づいて計算される限界
収益をゼロにするところで決まるとは限らない。
図2
2つの需要曲線下での価格設定
以上の論点を数式を用いて表すと次のようになる。需要関数は次のような
標準的な関数型を想定している。
i
vi = xi = ki p−ε
i
(9)
ここで ki は需要の規模を表すパラメータ、εi は需要の価格弾力性である。
この需要関数に対応したラムゼー価格は次のように定義される。
pi =
εi pe
εi − λi
これを λi について解くと次のようになる。
16
(10)
λi =
一般に
pi −e
p
pi
pi − pe
εi i = α, β
pi
(11)
はマークアップ率21 として知られているが、これは(3)式で
示した支払不能比率 Zi と同じものである22 。Zi を代入して上式を書き換え
るとつぎのようになる。
λi = Zi εi
(12)
この式は支払不能比率 Zi と需要の価格弾力性 εi が与えられれば、λi は一意
的に決まることを意味している23 。また、支払可能価格 pi を 50 ディナール
の倍数として表し、限界費用 pe と価格弾力性 εi を与えても λi は一意的に決
まる。逆に言えば、λi に応じてあらゆる支払可能価格 pi を決めることができ
る。すなわち、λi を動かすことによってラムゼールールに従った全ての支払
可能価格を表示することができるということである。また、ここでは消費者
を 2 種類に分類したが、それ以上に細分化出来れば、それぞれに応じたラム
ゼー価格を設定することができる24 。直感的に理解できることであるが、支
払可能価格を pi = 50(fi + 1) と一律に設定するより、pe を挟んで pα と pβ の
二価格に設定した方が、生産者余剰の引き下げを上回る消費者余剰の拡大が
見込まれるという意味で、より効率的である。また同一の財を売る商人が多
数おり、利潤があると見ると競争に参入してくる状況にあるとすると、一物
一価ではなく一物二価(多価)を想定しなければ利潤競争に負けることを意
味する。
商人の価格設定についてはさらに別の側面から考えることもできる。一物
二価(多価)になる経済では消費者の違いを見分ける必要が出てくる。われ
われの考え方では最もその状況に合致した商取引はバザールでの相対取引だ
ということになる。アラブ・ペルシャ諸国では長い間、バザールでの取引が
中心であり、その取引形態や個々の人間の分業などが細かく規定されてきて
いる25 。
21 イスラム世界での商取引では利子所得を得ることが禁止されており、その結果として利益の
ほとんどはマークアップによって生み出されていることが知られている(Iqbal(1997))。
22 ここで注意すべきことは、(2) 式において X = f Q + g の場合に限定しているというこ
6
i
i
とである。
23 一般にラムゼー・ルールとはこの λ がすべての財に均一となるような価格設定を意味するが、
i
ここでは一財に対して異なる消費者に異なる価格設定をする場合を考えているので、λα = λβ
となることは想定していない。
24 各財の価格を 50 ディナールの倍数に設定することは、いくつかの財を購入した場合の総支
払額が 50 ディナールの倍数になるための十分条件ではあるが、必要条件ではない。しかし、単
一の財の取引が行われるケースも想定すれば、各財の単価が 50 ディナールの倍数で表示される
と考えられる。実際、イラクの財の単価はほとんどの場合、50 ディナールの倍数で表示されて
いる。
25 岩崎 (2004) はイランのテヘランにおける大バザールの役割およびそこで働く人々の分業体
制を細かく報告している。同様の仕組みは、トルコのイスタンブールから、エジプトのカイロ、
イラクのバクダットにいたるまで見出される。
17
経済学的に考えた場合、バザール方式の取引のメリットは情報が集積して
くるということにある。相対取引を継続的に行うことで、客と商人間の情報
の非対称性は大幅に消滅する。この場合の消費者のタイプに応じて非均一価
格設定ができる。これはバザールという競争市場で一律のマークアップをし
た価格で商売していると客を他の商人に取られてしまうというメカニズムを
通して価格が 2(多)分化してしまうことを意味している。バザールの存在
は、商人が顧客との取引を一方的に有利には進められないものとして働いて
いるということが重要である。すなわち、この方式は商人にとっては収益は低
く押さえられ、消費者にとっては安い平均価格で買い物が出来ることになる。
もう一つわれわれが慣れ親しんだ小売り取引はス−パーマーケット方式の
取引である。この取引では大人数の消費者に対して均一価格で大量の販売が
できる。逆に言えば、スーパーマーケット方式の商取引では消費者の区別が
できず、情報の非対称性は残っている。この場合、原価割れしないためには
商人は全ての消費者に対して、少なくとも p = 50(fi + 1) の価格を設定せざ
るを得ない。この取引は商人にとっては利益は高いが、消費者にとってはバ
ザール方式に比べて平均価格は高いことになる。この取引では数量に関わら
ず均一価格で販売するために消費者から商人への情報のフィードバックはな
いに等しい。
個々の消費者の需要情報は分からないので情報の非対称性を解消すること
は出来ないが、消費数量によって差別化できるという考え方もある。産業組
織論でよく出てくる例として、電力の大口消費者や電話の大口利用者に対し
て、一定量以上の利用数量に達すると料金を引き下げるという仕組みがある
(図 3 参照)26 。電力や電話であれば、利用料は記録され、特定の企業や個人
が特定化できるので、個人情報が無いといっても、十分差別化できる。別の
言い方をすれば、タイプのちがう消費者を数量で区別することが正当化でき
るのは、消費量とタイプが対応している場合であるが、一般の消費財に関し
ては消費者のタイプと消費量が対応しているという保証は全くない。例えば、
消費者のタイプを需要の弾力性ではなく数量で区別し、大口消費者に対して
は低い価格で取引するとすれば、簡単に想像できるように消費者は結託して
大口消費者を装い、購入したあとで、財を再分配するという戦略をとるだろ
う。購入先や購入時間が特定されない一般消費財の取引において、消費者を
相対で見ることなく、数量だけで区別することは不可能だと考えられる。
18
図3
3.3
従量による価格設定スケジュール
掛売の場合の価格設定と決済リスク
既に見たように支払額をある程度まとめると支払不可能額比率が低下し、
平均支払価格が仕入原価(限界費用)に近づく。とすれば、小口取引を一定
期間決済せずにプールすることで大口化して支払不能額比率を低下させるこ
ともできる。しかし、相手を選ばずにプール化すると、決済時期に資金不足
で決済できないリスクは高まる。すなわち、小口取引をまとめることによっ
て無駄になる額は低下するが、商人の負うリスクは確実に高まる。この時に
どのような均衡が成り立つだろうか。
一般には、商人は相手を見て決済のタイミングを微妙に調整していると考
えることができる。すなわち、商人から見た相手のリスクの度合いに応じて
掛売りの期間を決めていると考えられる。すなわち、一見の客であれば、リア
ルタイムで決済することを要求するだろう。また、常に取引のある顧客、例
えば、同じバザールの商人仲間であったり、所得が安定していることが判っ
ている客であれば、自分が仕入れに必要な資金フローのタイミングに合わせ
て決済日を決めてもリスクは低いだろう。よく来る客ではあるが、所得が安
定していないと判断されれば、顧客であってもリアルタイムの決済を要求す
るのではないだろうか。要するに、商人はすべての小口取引を大口化すると
いうことではなく、大口化してもリスクが低い人から掛売りを認めるている
と考えられるのである27 。
26 例えば、Shy(1995,chap13)
27 岩崎
参照。
(2004) では、イランでは生産者と卸売業者、卸売業者と小売業者の間では委託販売形
19
いく人かの顧客の支払価格が掛売で低下するとすれば、(8) 式の制約を満
たすためには、掛売を利用できない顧客(勤め人、無職の高齢者、寡婦など)
の払うべき価格は上昇せざるを得ない。このような状況では一物三価以上に
なる。掛売が利用できるようになり一部の顧客の支払価格は低下し、消費者
余剰は拡大することになったが、その結果として掛売を利用できない顧客に
対しては、掛売がなかった時と比べて支払価格が上昇することになる28 。す
なわち、通りすがりの一見の客が仕入原価以下の価格で取引し、経済的に安
定している顧客が次に低い価格で取引でき、経済的に一番不安定な顧客が最
も高い価格で取引するという逆説的な結果になる29 。
最後に、社会全体の決済リスクを考えてみよう。個別財の価格による支払
不能額比率ではなく、社会全体で一定期間に取引されている各種の財に対し
て様々な価格がついている場合の支払い総額全体の支払い不能総額の比率を
考えてみよう。その際の社会的支払不能額比率は次のように表せる。
P
gi
Wi = P
Xi
(13)
例えば、1 から 1000 までのすべての支払額に対して支払い不能額は下 2 桁
が 1 から 49、51 から 99 の値をとる金額の場合である。もっとも 51 から 99
の場合は、50 ディナール分は支払えるので、支払不能額は結局 1 から 49 ま
P
P
でになる。この例に基づいて計算すると、 gi = 24500、 Xi = 500500、
であり Wi = 0.04895 となる。すなわち、社会的に決済をまとめると支払不
能比率は 4.9% となる。また、取引額を大きくすれば、この比率は低下する。
これは同じ財の小口取引を大口にまとめたものではないが、社会での様々な
小口取引をまとめて大口化したものと考えることが出来る。この方法によっ
ても支払不能額比率は低下することがわかる。しかし、現実的にはこのよう
な決済は難しいと思われる。なぜならば、商取引は本来、企業や商店毎に分
散化したものであり、社会が決済を集権化するものにはなり難いからである。
これまで見てきたように、決済に余りが出るような取引においては、相対
取引で相手を見ながらいろいろと価格を決めるという一見非効率に見えるプ
式がとられ、決済も現金ではなく、数ヶ月の手形で行われていると報告されている。小売店にお
ける掛売、企業間信用では、商人と客の関係だけではなく、商人と生産者とのあいだの顧客関係
も重要になる。商人が掛売をするためには、商人と生産者の間にも掛売関係が成り立っているか
どうかが重要である。これは商人が信用を与えているという意味で銀行と似た仲介業者の役割を
担っていると考えることが出来る。ちなみに、手形や小切手はもともとイスラム商人が 10 世紀
ごろに使い出したものであり、小切手(チェック、cekk)の語源もアラビア語にある。
28 顧客間で価格がちがうということが顧客に知られると問題が生じるかもしれないが、現金決
済をする客と掛売で期末決済をする客の間の価格差は顧客間では観察できないので問題にはなら
ないだろう。
29 この結果は最適課税論で需要の価格弾力性が最も低い食料などの必需品に最も高い税率がか
けられ、弾力性の高い奢侈品に対して低い税率となる結果が得られることと似ているかもしれな
い。
20
ロセスが利益を一方向に失うリスクを抑えていると判断できる。しかし、こ
のような相対取引が行える規模には限界があり、経済が近代化し、大規模化
するためには決済に余りが出るような通貨制度自体の障害を取り除くことが
必要であろう。
4
おわりに
イラクという国が今後どのようになっていくのかは、いかに国民に受け入
れられる制度を地道に構築していくかにかかっているのではないだろうか。
金融に関しても状況は同じであろう。すなわち、いかに信認される中央銀行
を運営し、その信認に裏付けられた、通貨価値の安定と信用秩序の維持をい
かに達成するのかが最も重要な課題となろう。通貨価値が安定し、インフレ
が収束すれば、国民は金融機関への貯蓄や投資を始めるだろうし、その結果
として金融市場を整備する必要が出てくる。また、経済が正常化すれば、石
油の輸出をはじめ、様々な貿易取引が出てくるだろう。石油の収益を海外に
投資するということも考えられるだろう。そこで、どのような外国為替法を
導入し、どのような為替制度を用いるのかが問われてくる。近隣諸国との通
貨協定を結ぶのか、完全に自由化した為替制度にするのか、あるいはカレン
シー・ボードを導入するのかこれも重要な問題となろう。
本稿ではこのような大きな金融制度の設計について論じることはしなかっ
た。しかし、ある意味では、これらの制度以上に本質的な問題について考え
たつもりである。現在世界的に進行しているすべての経済サービスや財に対
して適正な価格付けをおこなうという考え方は基本的に限界費用を用いてい
るが、それに対応したあらゆる額面の通貨表示が出来るということが大前提
となっている。しかし、現行のイラク通貨では、このような価格付けが不十
分にしかできないのである。このような制度的障害に対してイラクの商取引
では、バザール方式の相対取引を通して、利益が一方向へ流れることを阻止
するメカニズムを維持しているように見受けられる。しかし、根本的には経
済が一物一価を達成するための障害になるし、あらゆる経済契約に支払不可
能な領域を事前に生じさせているという意味でも大きな問題であり、近代化
への障害となることは明らかであろう。
イラクの通貨制度の基本単位である1ディナールを供給することはささい
なことのようであるし、製造コストに見合わないので現状では誰もそれを製造
しようとしないが、少額通貨に対する潜在需要は思いの外大きいと思われる。
我が国の政策として復興支援に人材を派遣するというだけではなく、国立
印刷局が 1 ディナール、5 ディナール、10 ディナールを印刷して供給してみ
てはどうだろうか。製造コストが額面より高いのであれば、偽金を作るイン
センティブはないので安心して使える。また、貨幣でなく紙幣であれば、溶
21
解して金属として転売されることもない。制度的補完の考え方に立てば、通
貨制度を改善し、商取引をより効率化することはイラク社会全体の再建に向
けた補完として機能すると思われる。すくなくとも今後 10 年、20 年を見通
した時には決して無駄な支援にはならないと思う。
補論
不定方程式の解法とその応用
山本(2003, p.17)および北村泰一(1999, pp.35-36)によれば、整数の組
(x1 , x2 , x3 , x4 , ..xn )が Q1, Q2 , Q3 , Q4 ...Qn を変数とする整数係数の代数方
程式 f(Q1, Q2 , Q3 , Q4 ....Qn )=0 の解であるとき、その代数方程式を不
定方程式とよび、全ての整数解を見つけることを不定方程式を解くという。
この不定方程式に関しては次の定理が知られている。
定理 1 整数 Q1 > Q2 > Q3 > Q4 > .... > Qn の最大公約数を d とすると
き、不定方程式 x1 Q1 + x2 Q2 + x3 Q3 + x4 Q4 + .... + xn Qn = kd が解を持つ
ということは、Q1, Q2 , Q3 , Q4 ....Qn の最大公約数が d であることと同値で
ある。
証明. 解を持つとすれば、kd の最大公約数は d であることは明らかであ
る。逆に d が kd の最大公約数であるとすれば、不定方程式 x01 Q1 + x02 Q2 +
x03 Q3 + x04 Q4 + .... + x0n Qn = d の解の k 倍(kx01 , kx02 , kx03 , kx04 , ..kx0n )も解
である。 2
この不定方程式の一般解は次のような手続きで求めることができる。先ず、
単位の大きな方から順に 2 つの Q1 と Q2 を選ぶ。ここで Q1 と Q2 の最大
公約数を d1 (Q1 , Q2 ) とすれば、x1 Q1 + x2 Q2 = md1 = kd − x3 Q3 − x4 Q4 −
.... − xn Qn(m は整数)は解(x
c1 , x
c2 )を持ち、一般解は次のように表せる。
x1 = x
c1 + Q2 t
x2 = x
c2 − Q1 t
ここで (t = 0, ±1, ±2, ..)
x1 Q1 + x2 Q2 = md1 なので、不定方程式は次のように書き換えることがで
きる。
md1 + x3 Q3 + x4 Q4 + .... + xn Qn = kd
同様に、d1 と Q3 の最大公約数を d2 (d1 , Q3 ) とすれば、md1 +x3 Q3 = sd2 =
kd − x4 Q4 − .... − xn Qn(s は整数)は解を持ち、一般解は次のように表せる。
m=m
b + Q3 t
x3 = x
c3 − d1 t
ここで (t = 0, ±1, ±2, ..)
以下同様に議論を進めると最終的には不定方程式 zdn−2 + xn Qn = kd に
おいて dn−2 と Qn の最大公約数は d であり、一般解は次のように表せる。
z = zb + Qn t
xn = x
cn − dn−2 t
ここで (t = 0, ±1, ±2, ..)
22
こうして、x1 , x2 , x3 , x4 , ....xn の一般解を求めることができる。
実は、Q1, Q2 , Q3 , Q4 ....Qn で表される整数を通貨単位と考えて、支払額
を kd とすれば、どのような通貨をいくつ(整数個)用いて支払うかを考える
問題は不定方程式を解いていることと同じでことなのである。以下では不定
方程式の考え方を用いて通貨を用いた支払い問題を考える。
通貨単位を 6 種類とする。すなわち、Q1 = 25000, Q2 = 10000, Q3 =
5000, Q4 = 1000, Q5 = 250, Q6 = 50 である。すでに述べたようにこの通
貨単位における最大公約数は gcd(Qi ) = 50 である。
(2)式を変換すると次のようになる。
Xi − gi = aQ1 + bQ2 + cQ3 + dQ4 + eQ5 + f Q6
= gcd{Q6 }× {500a + 200b + 100c + 20d + 5e + f }
(14)
Xi の正の最小値は a = b = c = d = e = 0, f = 1 の時に Xi − gi =
gcd{Q6 } × 1 = 50 となる。この結果はあたかも経済的価格 Xi を貨幣的価格
Xi − gi に変換して既存の通貨単位で払えるように gi だけ割り引いたもので
あると解釈できる。
一般に一定金額を通貨で支払う方法は多数あることは経験から明らかであ
る。我々は日常的に財布に入っている通貨を組み合わせて、おつりをもらう
ことも含めて様々な支払方法を考えている。
つぎのような 6 元 1 次不定方程式を考えよう。
Xi − gi = 50fi + 250ei + 1000di + 5000ci + 10000bi + 25000ai
(15)
まず、貨幣的価格 Xi − gi は 50 の倍数である場合に限定し、これを 50n と
する。また簡単化のためにお釣りは考えない30 。このとき既存の通貨を使っ
て何通りの支払方法があるだろうか31 。
不定方程式の一般解の求め方とは逆に、通貨単位の小さい方から支払の仕
方を順に考えていこう。
(1)50 ディナール、250 ディナールの2種類で 250m ディナールを支払う
場合を考えよう32 。
250m = 50fi + 250ei
fi = 5m − 5ei = 5(m − ei )
(16)
30 おつりを考えるということは(8)式いおいて負の整数解を認めるということであり、解の
数は増えるが、数学的な問題は本質的に同じである。
31 この問題は山本(2003、p.22、pp.354-55)で論じられているものと基本的には同じである。
32 ここで支払額を 50n ではなく 250m としてあるのは、250 ディナール通貨で支払える可能
性があり、50 の倍数、つまり 250m = k × 50n としても表せるからである。以下支払額は最大
通貨単位の倍数として考える。
23
この e、f に関する不定方程式の 0 または正の整数解の個数を N2 (m) とす
る。fi は 5 の倍数となるから、これを fi = 5k とおく。このとき、ei = m − k
となる。ei ≥ 0、fi ≥ 0 より 0 ≤ k ≤ m となる。この場合、k の値が決まれ
ば自動的に fi , ei は決まるので、k の数を数えればそれが解の個数になる。こ
の場合は m + 1 個ある。
N2 (m) = m + 1
(17)
(2)50 ディナール、250 ディナール、1000 ディナールの 3 種類で 1000m ディ
ナールを支払う場合を考える。
1000m = 50fi + 250ei + 1000di
(18)
解の個数を N3 (m) とすると、fi + 5ei = 20(m − di ) より、
fi + 5ei = 20k
(19)
とおける。これより、di = m − k であり、2 通貨の場合と同様に 0 ≤ k ≤ m
となる。ところで上式は 2 通貨の場合 N2 (4k) 個の解を持つから、
N3 (m) =
m
P
N2 (4k) =
k=0
m
P
(4k + 1) = (2m + 1)(m + 1)
(20)
k=0
(3)50 ディナール、250 ディナール、1000 ディナール、5000 ディナール
の 4 種類で 5000m ディナールを支払う場合を考える。
5000m = 50fi + 250ei + 1000di + 5000ci
(21)
解の個数を N4 (m) とすると、3 種類の通貨の場合と同様に、
fi + 5ei + 20di = 100k
(22)
とおける。すると ci = m − k となり、これまでと同様に 0 ≤ k ≤ m と
なる。ところで、上式は 3 通貨の場合 N3 (5k) 個の解を持つことを意味して
おり、
N4 (m) =
m
P
N3 (5k) =
k=0
m
P
= 50
k=0
=
k 2 + 15
m
P
{(10k + 1)(5k + 1)}
k=o
m
P
k + (m + 1)
k=0
1
(m + 1)(100m2 + 95m + 6)
6
(23)
(4)50 ディナール、250 ディナール、1000 ディナール、5000 ディナール、
10000 ディナ−ルの 5 種類で 10000m ディナールを支払う場合を考える。
24
10000m = 50fi + 250ei + 1000di + 5000ci + 10000bi
(24)
解の個数を N5 (m) とすると、4 種類の通貨の場合と同様に、
fi + 5ei + 20di + 100ci = 200k
(25)
とおける。すると bi = m − k となり、これまでと同様に 0 ≤ k ≤ m と
なる。ところで、上式は 4 通貨の場合 N4 (2k) 個の解を持つことを意味して
おり、
m 1
P
(800k 3 + 780k 2 + 202k + 6)
6
k=0
k=0
m
m
m
P
400 P
101 P
3
=
k + 130 k 2 +
k + (m + 1)
3 k=0
3 k=0
k=0
1
= (m + 1)(200m3 + 460m2 + 231m + 6)
6
N5 (m) =
m
P
N4 (2k) =
(26)
(27)
(5)50 ディナール、250 ディナール、1000 ディナール、5000 ディナール、
10000 ディナ−ル、25000 ディナールの全 6 種類で 25000m ディナールを支
払う場合を考える。
25000m = 50fi + 250ei + 1000di + 5000ci + 10000bi + 25000ai
(28)
解の個数を N6 (m) とすると、5 種類の通貨の場合と同様に、
fi + 5ei + 20di + 100ci + 200bi = 500k
(29)
とおける。すると ai = m − k となり、これまでと同様に 0 ≤ k ≤ m と
なる。ところで、上式は 5 通貨の場合 N5 ( 52 k) 個の解を持つことを意味して
おり、
m 1 5
P
5
5
5
5
N5 ( k) =
( k + 1){200( k)3 + 460( k)2 + 231( k) + 6}
2
2
2
2
k=0 6 2
k=0
1
(m + 1){12500m4 + 39375m3 + 34225m2 + 6045m + 48}
=
48
(30)
N6 (m) =
m
P
ちなみに日本の小額通貨(硬貨)6 種類 {1 円、5 円、10 円、50 円、100 円、
500 円 } で 500n 円を支払うための方法は同様に計算して、
N6 (n) =
1
(n + 1)(12500n4 + 29375n3 + 15800n2 − 195n + 6)
6
25
(31)
と表せる。n = 1 の場合、N6 (1) = 19162、n = 2 の場合、N6 (2) = 248908
となる。
同じ6通貨でも通貨単位が違うので単純な比較は出来ないが、同じ額面、例え
ば、500 を支払おうとすると N2 (2) = 3 にすぎない。同様に 25000 を支払おうと
すると、小額通貨が沢山ある日本では n = 50 で N6 (50) = 695, 609, 104, 676、
イラク通貨では m = 1 で N6 (1) = 3841 となり、日本の通貨の方が同じ数字
を支払うのに遙かに多くの手段があることがわかる。
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