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平成23、24年度版 一般社団法人 薩摩士魂の会
一般社団法人 薩摩士魂の会 平成23、24年度版 「薩摩武士道は鹿児島から」鹿児島支部設立披露会 目 次 代表理事挨拶、理念・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ P2 目的、行動規範、基本的な活動方針、役員構成・・・・・・・・・・・・・・・・・ P3 活動報告(平成23、24年度) [Ⅰ]鹿児島支部の開設・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ P4 [Ⅱ]「薩摩武士道」書関連・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ P5 ・教材化の推進・市販の開始・1000部増刷 [Ⅲ]講演会 (1)「『薩摩武士道』書の英訳」講師:浜岡勤・当会会員 ・・・・ P6 (2)「海の武士道」講師:森園安男・代表理事・・・・・・・・・・・・・・ P7 (3)「万葉集~日本のこころ」 講師:植木昭夫・元旺文社専務・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 〃 (4)「会津武士道とは何か」 講師:鈴木荘一・幕末史を見直す会代表・・・・・・・・・ P8~9 [Ⅳ]研究発表 (1)「会津武士道」 (崎山 猛理事)・・・・・P10 (2)「郷中教育」 (野田正興理事)・・・・・P11 (3)「薩摩武士道と日新公いろは歌」(野田正興理事)・・・・・P12 [Ⅴ]史蹟研修・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P13 「西郷先生の遺徳を訪ねる旅」~森園安男代表理事 [Ⅵ]顕彰・慰霊・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P14 ①南洲墓地、南洲神社 ②竹田神社 ③荘内南洲神社 ④治水神社 [Ⅶ]交流・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・P14 ①「第11回全国藩校サミット鹿児島大会」 ②明治神宮春の大祭 ③日本伝統文化国際交流会 ④赤穂山鹿素行研究会 ⑤西郷南洲顕彰館 <追憶のことば>小野寺時雄・荘内南洲会前理事長・・・・・・・・・・・・P15 薩摩の教え・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 裏表紙 活動計画(平成25年度)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〃 事務局(発行者)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〃 摩士魂の会 平成23、24年度版 代表理事 挨拶 摩武士道・郷中(ごじゅう)の精神を以て、この頽廃せる世の人の心の建て直 摩士魂の炎を燃やして、日本のために更には世界の人の心の愛と平和に向けて しをなさんとして 摩士魂の志を同じくする人達で平成 15 年に発足しました。 活動して参りました。 新渡戸稲造の「武士道」 、李登輝、ラストサムライ、藤原正彦等による武士道作 興の嵐は澎湃(ほうはい)として胎動して来ました。 代表理事 森園 安男 また有識者による NPO 法人武士道協会も設立発足しました。 まさに天の時の到来を感ぜずにはおられません。 言葉だけの掛け声では、今の世の人の心には素通りして徒労に終ってしまう現 状であります。 摩士魂の会は歴史伝統の研究、教学、顕彰、慰霊は勿論であるが、最重要のモットーとするところは、 具体的な活動の実践に依って精神作興の実を揚げることにある。世界人類の哲理として愛されている敬天 愛人の西郷「南洲翁遺訓」と島津「日新公いろは歌」を英仏語に翻訳して、世界の 4,000 名の有識者に 無償贈呈する運動を平成 23 年 4 月(2011 年)より実施して来ました。 20 世紀に新渡戸稲造の「武士道」や内村鑑三の「代表的日本人」の英文書が日本人の自覚と誇りの覚 醒に大いなる影響を及ぼした歴史に鑑み、21 世紀に再び奇しくも東北大震災と機を同じくして、被災地 の日本人の立派な対応の姿に武士道精神との連関を感じられた節もあり、イギリスのバッキンガム宮殿(エ リザベス女王) 、アメリカのブッシュ前大統領夫妻をはじめ、女王、大統領、有識者らから 戴きました。聊か本意が世界に伝わったと思っております。 重な礼状を 現在の課題は、次のとおりです。 ① 「 摩武士道」の英語版を全国の高校、大学で語学を教習しながら武士道精神を同時に修得する教科 方法を実施し、これを 5 年 10 年 20 年と積み重ねて行くことにより、武士道を理解する日本人の大 きな層が団塊となり、その内的エネルギーが自然に日本人全体の心を 復し、再生するであろうと確 信して、近く全国の高校、大学への教材採用のアンケートを発信する予定であります。 ② 世界への啓蒙として日英版の国内外での販売を実施中で、徐々に成果が現れつつあります。長期的運 動を目指しています。 ③ 平成 25 年 3 月 9 日鹿児島支部を設立しました。 摩武士道はまず鹿児島からの念願を達成すべく、現在個々バラバラに活動している県下文化団体と 連携、連合して大きなパワー団体として郷中教育、 動を展開したいと思っております。 摩武士道の刷新作興に官民一体で実を掲げる運 大きく志を同じくする誠意ある方のご協力ご参加を期待しております。 理 念 「 摩士魂」とは、遠く島津日新斎以来の武士、近くは西郷南洲をはじめとする 理 念 た正義感、質実剛健の気概、自立・自尊・自戒の精神などいわゆる 摩の志士達が身を して示してき 摩武士道であり、それらはかつての 摩人 の誇りであった。 われわれ 摩士魂の会はこの伝統ある 摩士魂を、現代に生きる自らの心に蘇らせ、日頃の行動指針にすべく自奮・ 自励し、 以て郷土鹿児島および日本人の精神作興に寄与し、以て世界人類の愛 と平和に波及貢献することを念願する。 2 目 的 本会は、以上の理念を基に次の行動規範を定め、自らの日常生活においてその実践に努めるとともに、相互研鑽を重 ねることによって、薩摩士魂の真髄の理解と浸透をはかり、その一層の社会化および社会の倫理観の向上に寄与するこ とを目的とする。 目的について 本会の理念はすぐれて「心」の問題である。そこで会員がどのような「目的」に向かって行動するかを定めておかな ければならない。 目的は会員の行動の方向を示している。すなわち会員が自ら律し、行動し、実践するのであって、文部科学省の指導 要領のように、 教師が生徒を指導してやらせるようなものではない。「ウソを言わない、他人に頼らない、恥を知る」 など、 人間として自己完結できる徳目ばかりである。伝統ある明治の薩摩は、この精神がしっかりしていたから、維新の大業 に貢献できたのである。 現在の鹿児島には、この伝統が消散してしまっている。この事実を嘆くばかりでなく、一隅から日常生活で実践しよ うとするもので、だれでも実践できることばかりである。 目的を達成するための行動については、理念・行動規範の主旨に沿った会員の自主的活動にまかせ、活動状況などの 発表の場を持ち、一般社会に訴える手段も考える。 ――――薩摩士魂の具体的活動の実践―――― 行動規範 われわれは、日常、次の行動規範に即して自奮自励し、現実の実践と問題点を直視し、その解決に勇気をもって取り組む。 1. 毎日きちんと挨拶をする 2. ウソを言わない 3. 正しく生きる 4. お年寄りを敬い、弱い者をいたわる 5. 他人に頼らない 6. 自ら考え自立する 7. 誠実に生きる 8. 礼節を重んじる 9. 恥を知り、プライドを持つ 10. 忍耐と我慢する心を身に付ける 11. 知識偏重を排し、行動を優先する 12. 父・母の役割を自覚する 13. 一日一善(省)を実行する 14. 知恵と経験を後進に伝える 15. 公の精神を重視し、社会に貢献する 基本的な活動方針 1. 幕末明治維新期の人物や史実の研究を深める。 2. 研究の成果を、総会や催しなどを通じて広く国内外に発表する。 3. 志を共有する全国の方々と連携し、相互に研究会や訪問などを行なう。 〈役員構成〉 名誉顧問 島津修久(島津家第三十二代当主) 顧 問 春成幸男(元三州倶楽部会長) 谷村昭一(元経済企画庁事務次官) 豊蔵 一 (セントラル野球連盟会長) 代表理事 森園安男 副代表理事 前囿利治 理 事 飯田昌之、上村哲夫、黒肱節郎、 山猛、宿利義和、野口重信、野田正興 監 事 有馬純幸、川畑満洲夫 3 摩士魂の会 平成23、24年度版 活動報告(平成 23、24 年度) [Ⅰ]鹿児島支部の開設 10 年前の創立以来の念願であった鹿児島支部が皆さんの熱意によって発足しました。 101 名の出席 一般社団法人薩摩士魂の会は、平成 25 年 1 月の第 9 回理事会で「薩摩武士道は鹿児島から」を実践するための鹿児島支部設 立を決定したのを受けて、3 月 9 日(土)午後 6 時半から城山観光ホテル(鹿児島市) 「飛天の間」において、 鹿児島支部設立披露・ 懇親会を開催しました。ご当地鹿児島からの出席者に、東京からの本部役員、会員をはじめとする関係者、さらに遠くは山形県、 愛知県、兵庫県、種子島などからの参加者も含めた計 101 名で、鹿児島支部の設立を盛大に祝いました。 支部長に内宮孝雄氏、副支部長に大園正陽氏、越場義廣氏、事務局長に橋本龍次郎氏、事務局長代理に岩元拓夫氏(090-79842797) 、安川あかね氏がそれぞれ就任されました。支部は南洲館(〒 892-0842 東千石町 19-17)内に置き、新会員と鹿児島在 住の既会員で発足しました。 丁重かつ心のこもった祝辞と祝電 設立披露会では、森園安男代表理事による鹿児島支部設立の趣旨と経過説明を踏まえた開会挨拶に続き友清貴和・鹿児島大学 副学長、水野貞吉・荘内南洲会(山形県酒田市)理事長、大西洋逸・鹿児島商工会議所名誉顧問からご祝辞を戴きました。 祝電は島津修久・島津家当主、本田勝彦・三州倶楽部会長、伊藤祐一郎・鹿児島県知事、森博幸・鹿児島市長ら 7 名の方々か ら届き、それぞれ披露されました。次いで役員紹介を経て、薩摩士魂の会が取り組む諸活動の一端である調査研究活動の一例「薩 摩武士道と日新公いろは歌」を紹介して、設立披露会を終了しました。 詩吟と民謡で祝う 懇親会では、高 毅・西郷南洲顕彰館館長の音頭で乾杯した後、金丸錦央先生を中心とする錦城会鹿児島県本部(本村錦香本 部長)9 名の方々が詩吟、西郷南洲作「偶感」、「獄中作」と「日新公いろは歌」を朗詠されました。日本民謡協会鹿児島県連合 会北辰会(藤本香玄氏、藤本幸彩氏、下園翔風氏)の方々は「知覧節」 、 「串木野さのさ」 「鹿児島浜節」を披露され、和やかな 雰囲気のなかも盛大に、鹿児島支部の門出に華を添えていただきました。 当日は午前中から同じ城山観光ホテルで「第 11 回全国藩校サミット鹿児島大会」が開かれていた関係で、同サミットにご参 加の本田勝彦・三州倶楽部(東京)会長や平原一雄・東洋学林理事長をはじめとする鹿児島県関係者、さらには徳川家廣氏らの 徳川家、旧藩関係の方々も数多く途中参加され、お祝辞などを頂戴して懇親会の雰 囲気を盛り上げていただきました。 鹿児島の諸文化団体と連携へ 翌日は朝方、加世田の竹田神社(御祭神島津日新公忠良)に参拝した後、事務局 が置かれた南洲館で鹿児島在住の新規会員と東京組が合流して西郷南洲顕彰館を訪 問、続いて隣接の南洲墓地にお参りした後、南洲神社に参拝しました。 鹿児島支部は今後、東京本部と歩調を合わせ、鹿児島在住の精神諸文化団体と協 調しながら薩摩武士道の普遍的な精神性を継承し、作興へ向けた精力的な活動を展 開していく予定です。 【鹿児島支部設立趣意書】 一般社団法人薩摩士魂の会は、設立から早や 10 年目を迎えます。その間、各機 関への改善提言や、高野山にある高麗陣敵味方戦死者供養碑の県指定から国指定へ の昇格問題の解決、 「南洲翁遺訓」並びに「日新公いろは歌」の日英仏三か国語版「薩 摩武士道」書を内外の元首はじめ有識者約四千人に無償贈呈して丁重な礼状をいた だくなどの実績を挙げて参りました。 現在は、同書の学校教材活用へ向けた運動を展開中で、すでに東北公益文科大学 が本年4月よりの正式採用を決定されました。鹿児島県でも教育長が県下 63 の県 立高校に採用方をご推奨いただきましたことを受けまして、学生が容易に取得でき る廉価版の作成に取り組んでいる最中です。全国的な青少年の語学力向上と精神文 化の普及に資し、やがて5年、10 年先には、武士道精神を理解する若い人材の登 場によって、日本人の心を再生する原動力にしたいと願っております。さらに国内 外の一般者向けの日英版販売を通じて、薩摩武士道の啓発に努めて参る所存であり ます。 この時に当り、藩校サミットの鹿児島での開催と機を同じくして、かねて構想中 の「薩摩武士道は鹿児島から」を実践するため、下記により一般社団法人薩摩士魂 の会の鹿児島支部設立総会を開催致しますので、ご出席を賜りたくお願い申し上げ ます。また鹿児島支部にて会員になられます方々を、ひとりでも多くご推薦いただ き、同封ハガキにてお教えいただければ誠に幸甚に存じます。 4 鹿児島支部世話人会 平成 25 年3月9日城山観光ホテル(鹿児島市)で設立披露懇親会を開催。 5月 25 日(土)鹿児島支部第1回世話人会を鹿児島市東千石町の南洲館で開催しました。 内宮支部長を中心に鹿児島にある精神文化団体の実態調査など、今後の活動方針を熱心に討議しました。 森園代表理事挨拶(2013年3月9日) 南日本放送 MBCニュース (2013年3月11日) 詩吟 錦城会鹿児島県本部 鹿児島支部世話人会(於 南洲館) (2013年5月25日) 南日本放送 MBCニュース (2013年3月11日) 日本民謡協会鹿児島県連合会北辰会 [Ⅱ] 「 摩武士道」書関連 ①教材化の推進 薩摩武士道の代表的な二書である「南洲翁遺訓」と島津「日新公いろは歌」の英仏語訳を合わせた「薩摩武士道」書 を、平成 23、24 年度にわたって内外各界の指導者ら約 4000 人に無償 配布してきたのに続き、わが国の青少年にもその普遍的かつ 21 世紀的 な精神についての理解、継承をしてもらうことを願って、学校教材化の 活動を加速させました。 その結果、鹿児島県の教育長と教育委員会委員長から、県下の県立高校 に対して教材採用方を推奨する旨の文書が送られました。東北公益文科 大学(山形県酒田市)ではこの 4 月から、 授業での使用を開始されました。 ②簡易版の作成準備 教材化への動きを受けて、簡易な装丁の廉価版作成へ向けた編集作業を進めました。 ③海外での販売開始 先の無償贈呈で内外から大きな反響があったため、広く一般の読者に購入の機会を与えることを目的に、書籍販売会 社のトーハンが海外の書店とネット書店を通じての販売を開始し、米国を中心に着々と販売実績を挙げつつあります。 ④日英版 1000 部増刷 海外での販売開始などに備えて、日英版 1000 部を増刷しました。 5 摩士魂の会 平成23、24年度版 [Ⅲ]講演会(要旨) (1)「『南洲翁遺訓』『日新公いろは歌』英訳について」 講師:浜岡勤氏 きっかけは自顕流 アメリカ大統領オバマ氏のデビュー は、2004 年の民主党全国大会。全く 無名であったオバマ氏の演説の一節 を、私は度々引用する。今日、この席 浜岡 勤氏 で講演の機会をいただいた感想も同じ である。 Tonight is a particular honor for me because, let s face it, my presence on this stage is pretty unlikely. (今夜は私にとってこの上なく名誉な夜であります。という のも、正直なところ、私が今この壇上に立っているというこ とは、とても考えられないことであるからです。) 今日たまたまこの席で、『南洲翁遺訓』『日新公いろは歌』英 訳を終えて講演する機会をいただいたことは、言葉を代えれば 『奇跡』とも言える。 もし、薩摩士魂の会の幹事長 野田正興さんとの出会いが無 かったら、この講演はあり得なかった。英訳依頼を受けた当時、 薬丸野太刀自顕流東京道場の指導者だった野田さんへの巡り逢 いを可能にした一冊の本とは、数年前に読んだ島津義秀著『薩 摩の秘剣−野太刀自顕流−』である。 高校の東京地区同窓会は、歴代同じ数字の期が一緒になって 幹事グループを作り運営されてきた。私は 8 期卒。18 期、 28 期、 38 期、48 期、58 期と一緒になり、無事終了、平成 21 年(2009 年)5 月 23 日、神田駅北口の居酒屋 みなみ で合同の打上 げをやった。 入口近くに大きなポスターが貼ってあった。確か、 示現流 と書いてあった。それを眺めながら考えた。薩摩に生まれあの 新撰組され恐れたという じげんりゅう を体験しないで一生 を終えるのは耐えられない。 石油公団の理事長を務めた級友の齋藤眞人さんに相談した。 後輩の牧之内敏朗さんを紹介された。 示現流 と 自顕流 の違い、前者は上級武士が後者は下級武士たちが稽古に励んだ こと、明治維新を成し遂げた薩摩の武士たちの多くが 自顕流 の使い手だったことを初めて知った。これこそ求めていた武道 だと思い、入門を決めた。 指導者の野田さんは以前時々同窓会であったことのある一年 先輩。当時とは違う役割を書いた名刺を渡した。その名刺に翻 訳家とあるのに氣づいて 「実は翻訳できる人を探していた。今までどんな翻訳をやった の?」 「種類は問わず、医薬から神道・伊勢神宮のホームページまで やりましたよ」 「それじゃ、『南洲翁遺訓』を英訳してほしい」 もし断ったらせっかく習い始めたばかりの 自顕流 を教え てもらえなくなる、と一瞬考えた。しかし、快く引き受けた。 元々 『頼まれたら断らない』を自分の生き方の柱としてきたので。 この原典は、明治 23 年西郷南洲恩赦の直後、庄内藩士によ り刊行された有名な書物。文語体の難しい内容をどう英訳する か、チャレンジする価値のある課題だ、と思った。 『遺訓』をどう英訳するか 平成 23 年 7 月 どうすべきか? この本は、西郷さんになりきらねば英訳できない、と考えた。 国会図書館の近くにある憲政記念館で催されていた明治維新の 展示会で西郷さんが使っていたという硯と筆、多くの揮毫に感 動した。鹿児島に帰省し、城山の岩崎谷にある最後の場所、洞 窟にも行った。終焉の場所、南洲神社に参拝、お墓にもお参り した。 荘内南洲神社にも行き荘内南洲会の方々にもお会いし、英訳 にあたり小野寺時雄理事長から激励の言葉をいただいた。平成 の今学ぶ南洲翁の信条。敬天愛人の道。未来に伝える己を修め 人を治める鉄則。これらを理解でき、やっと、手をつけようと 思った。 『遺訓』とは何か?どう英語に訳すか?最初から簡単ではな かった。当初、西郷さんの行動の基盤でありその基盤の上に庄 内藩士に語られた言葉だ、と解釈した。英語訳は、 The Words and Principles of SaigoNashu 刊行するにあたり、日本経済新聞出版社専属の翻訳担当者の 修正が入り、簡略化された。 The Instructions of SaigoNanshu どちらを採るか?裁断は私に任された。根底にあるのは、西 郷さんの Principles であるが、表現されたものは『教え』 、 『指 示』と解釈、また、翻訳は長ったらしい表現を避けるべき、と 考え、後者に落ち着いた。 『日新公いろは歌』の英訳 和歌の英訳は初めてではない。伊勢神宮のホームページにも いくつか和歌はあった。有名な西行法師の作品『なにごとかお わしますかはしらねども かたじけなさに涙こぼるる』もそれ なりの英訳をした経験があった。云わば、自由詩の形式英訳で あった。 『日新公いろは歌』を英訳するにあたって、神田・三省堂の 英語コーナーで参考書を探した。一冊だけあった。明治新政 府のお抱え英語教師だったイギリス人 William N.Porter 著 A Hundred Verses from Old Japan 百人一首の英語版、初版は 1907 年 ( 明治 30 年 )。云わば、定型詩の形の英訳版である。 『日新公いろは歌』は時代背景から、定型詩の形で英訳すべ きと判断した。これが難解であった。和歌は 5,7,5,7,7。 英語定型詩は 8,6,8,6,6 韻律 (meter) 。発音記号の母音 に相当する。しかも、第 2 行、第 4 行、第 5 行の 6,6,6 の 最後の単語は韻を踏む(rhyming)原則であることが分かった。 自由詩にすれば、47 の短歌から成る『日新公いろは歌』は 一週間あれば英訳は完了すると考えた。しかし、そう簡単では なかった。定型詩にしたために、一日 1 和歌がやっとだった。 結局、一ヶ月半を要した。こうして、『日新公いろは歌』の最 初の『い』は原則に従い次のように英語訳された。 「いにしへの道を聞きても唱へても わが行ひにせずばかひなし」 Though you have heard and recited The Way taken for granted It is of no value in life Unless it is mastered And let it be practiced 渡された本は、 南洲翁遺訓に学ぶ 財団法人荘内南洲会 敬天愛人の『天』はキリスト教の『ゴッド』に相当する。そ 第二版、著作者は小野寺時雄理事長。一読して英訳は難解だ、 の『天』の導きであったことに深く感謝したい。もっともっと と思った。しかし、引き受けたからにはやり遂げねばならない、 世の役に立て、という激励をいただいている、と思う。 6 講演会(要旨) (2)「海の武士道」 講師:森園安男代表理事 平成 24 年 7 月 15 日/三洲倶楽部 日本の歴史 森園安男・代表理事 日本、イギリス、アメリカのテレビ、新聞などで紹介 され、大きな感動を呼んだ、太平洋戦争における日本海 軍の奇跡的「海の武士道」の義挙。平成 24 年 7 月 15 日薩摩士魂の会の総会において DVD BOOK になった「海 の武士道」を上映し、その後、森 園が講釈を行った。上映中、感動 の涙があちこち満場に溢れた感じ で、また森園の海軍体験からくる 実感的講釈にさらに感動を深め、 かつての日本海軍が、いかに立派 であったかを理解していただけた のではないかと思いました。 あらまし 太平洋戦争の 1942 年(昭和 17 年)スラバヤ沖海域で、 日本海軍に撃破され停止した英軍艦エンカウンターの乗組員 は 8 隻のボートで脱出、他に撃沈され漂流していた者合わ せて 422 名と共にボートや漂流物にしがみつきながら漸く 一夜を明かした朝に軍艦が近づいて来たのを見て、味方の救 助艦と喜んだところが、日本の軍艦であることが判って、最 早全滅の地獄に蹴落とされた感じになりました。 まだ戦場の真っ只中で飛行機の来襲、潜水艦の攻撃、一時 も油断ならない状況下で誰しも予想もしなかった「敵兵を 1 人残らず救助せよ」の号令を発した駆逐艦の艦長、工藤俊作 少佐の行動に誰もが「艦長は正気なのか」と思いましたが、 工藤艦長は海軍兵学校の頃から教育された「敵とて人間、 弱っ ている敵を助けることこそ武士道である」との信念を貫かれ たのです。 そして全員が救助に向かい、自分たちより多勢の 422 名 を無事に救助し、自分たちの命の食糧を与え、更に艦自体の 油もギリギリ迄使い、漸く、日本管轄下のオランダの病院船 まで送り届けました。 この信じられない人間の義挙で救われた若き将校のフオー ル卿は、このことを一度として忘れたことがなく、生きてい るうちに是非工藤少佐にどうしても御礼を言いたいと日本を 訪れ、探し探し求めて墓前にお参りされた事実が世の感動を 呼び、「海の武士道」として世界に称賛されました。 翻って、世界の歴史の中での敵・味方の惨劇・義挙を列挙 すると、日本人の人間愛、武士道の精神が如何に際立って立 派であったか、しかもそれが自然に実践されていることに対 して、外国は反対に如何に獣的に残酷なものであるかが歴然 としています。 ① 楠木正行が酷寒の中、溺れ流れている敵兵を救助して送 り届ける。 ② 島津義弘公が高麗陣敵味方戦死者供養塔を建立する。こ れが日本赤十字設立に寄与する。 ③ 上杉謙信の武田信玄への塩の贈り物。 ④ 日露戦争の際、上村彦之丞艦隊が蔚山沖でロシア海軍の ウラジオストク艦隊を撃沈、その漂流するロシア兵 627 名を全員救助した。 ⑤ 日露戦争水師営の会見の時に明治天皇は敗軍の将ステッ セル将軍に軍人の名誉を尊重して、帯剣を許可した。武 士道の精神である。 ⑥ 工藤艦長の海軍兵学校時代の鈴木貫太郎校長(終戦時の 総理大臣)は明治天皇の御製「四方の海、みなはらから と思う世になど学究のたちさわぐらん」四海同胞の精神 で敵をも尊重する精神を教えられた。その鈴木貫太郎総 理の昭和 20 年 4 月、敵国であるアメリカの大統領ルー ズベルトが急死、鈴木首相はその死を悼む談話を発表し た。ノーベル賞作家のトーマス・マンはこの行為に「東 洋の騎士道を見よ」と称賛。鈴木首相は「敵を愛すると いう武士道本来の行為をしたまでです」と、ノーブレス オブリージェの真髄である。 欧米の歴史 ① 第一次世界作戦 1915 年(大正4年) 。イギリス巡洋艦が オランダ沖で、ドイツ潜水艦によって撃沈、漂流するイ ギリス乗員を別の2隻の巡洋艦が救助の為停止、ところ がドイツ潜水艦の魚雷攻撃で 2 隻とも撃沈。1500 名全 員戦死。 ② レイテ沖で 1944 年(昭和 19 年)日本の巡洋艦筑摩の生 存者約 100 名を救助しようとした駆逐艦野分はアメリカ の攻撃を受け乗員漂流者とも 273 名、筑摩の生存者一人 を除き全員戦死。 ③ 1943 年ニューギニア地方海域で貨物船「関西丸」がアメ リカ潜水艦の攻撃で航行不能に。乗組員は救命ボートで 脱出したが、アメリカ潜水艦は、今度は浮上して、漂流 中の乗員に機銃弾を浴びせる。 ④ 1943 年 12 月、ニューアイルランド島沖で救命ボートで 漂流中の日本の病院船の乗員がアメリカの B29 の爆撃で 患者、看護師 158 名死亡。 以上の様に民族の人間愛の精神の違いが性善性悪の両極が 底流にあることを真摯に洞察し、自覚して世界に対処してい くことを日本人は肝に銘じなければならないと思う。 講演のあと、出水市(鹿児島県)出身の武道家、前田 瑠美さんに「女の武士道」として、極真空手全日本女子 チャンピオンの腕前を披露していただきました。 (3)「万葉集∼日本のこころ」 講師:植木昭夫氏 平成 23 年 12 月/三洲倶楽部 万葉集の研究家で竹内均・元東大名誉教授の実弟、植木昭 夫・元旺文社専務に「万葉集∼日本のこころ」と題してご講 演をいただきました。 7 摩士魂の会 平成23、24年度版 講演会(要旨) (4)「会津武士道とは何か」 講師:鈴木荘一氏 平成 24 年 12 月 8 日/主婦会館 1 武士道とは実践である 佐賀の葉隠といって、山本常朝が「武 士道とは死ぬことなりと見つけたり」と 言いました。また新渡戸稲造博士が「武 士道」という本を書いて武士道を世界に 広めたことも尊いことだと思っていま 鈴木荘一氏 す。 (幕末史を見直す会代表) しかし私は、武士道とは、このような 評論家的・第三者的に論じるべきのもで はなく、実践することだと考えています。 2 関ヶ原と鹿児島帰還 例えば、関ヶ原の合戦で西軍が敗北した時、島津義弘公は 徳川軍の敵中を突破して鹿児島へ帰還する訳ですが、このと き2∼3人一組の薩摩鉄砲隊が木の根元などに潜んでいて、 追撃して来た井伊直政を狙撃。井伊直政は腕を撃たれて落馬 し、薩摩軍本隊は井伊直政隊の追撃を振り切って、鹿児島に 帰還します。 私は、井伊直政を撃った薩摩鉄砲隊員の名前を知りません が、 おそらくは、井伊直政隊の大軍に囲まれて殺されてしまっ たでしょう。彼らは、仲間の本隊を逃がすため、自分の身を 犠牲にした訳です。 仲間のため自らの生命をかけた彼ら薩摩鉄砲隊員こそ、実 践という意味において、真の武士道であろう、と思います。 3 西南戦争 西南戦争の時、薩摩側に自重論もあったようですが、桐野 利秋から「おはんらは、臆病風に吹かれたか」というような ことを言われて、西郷軍は決起する訳です。 武士道とは、利害・損得を越えた「義」に、我が身を投じ ることだと思います。 4 征韓論でなく説韓論というべき 西南戦争は、いわゆる「征韓論」から始まるのですが、 「征 韓論」というのは大きな誤解を生む表現です。「韓国を征伐 せよ」なんてことは、西郷隆盛も誰も、言っていません。 西郷隆盛は「自分は大使として韓国へ赴き、説得する」と 言ったのです。従って「征韓論」と呼ばず、「説韓論」とい うべきです。 しかるに大久保利通が「西郷は乱暴な人物だ」とレッテル を張って排除するため、 「征韓論」という不適切な用語を使っ たのです。 今日、韓国はこのことをとらえて、「征韓論こそ日本の韓 国侵略の始まり」と喧伝しています。 大久保利通が西郷の名声に泥を塗るため「征韓論」という 誤った用語を用いたことが、今日の日本に著しい損害を与え ています。 私は「教科書書き直し運動」に取り組んでいますが、「征 韓論」を「説韓論」と変えるよう、文科省に要請したいと思 います。これは、日本の名誉に関わる重要問題です。 5 知覧 戦争末期、知覧から、毎日のように、特攻隊が飛び立って 行きました。 特攻機が出撃しても負け戦を覆して勝利に導くことは出来 ないのです。しかしそれでも、祖国防衛のために飛び立って 行った特攻機こそ、武士道の実践なのです。 戦後の民主化教育・平和教育で「特攻隊を美化してはいけ 8 ません」と教えられましたが、今や日本人は、特攻隊の方々 の「武士道の心」を再認識すべきだ、と思います。 6 白虎隊 会津戊辰戦争も負け戦でございまして、白虎隊の悲劇とい われるものが起きます。 飯盛山で切腹したのは白虎隊中 16 ∼ 17 歳の少年ですが、 上級武士階級の子弟から構成されて戦場に出れば、最早、武 士・軍人でありまして、負ければ戦死・自刃ということは 武士・軍人の習いです。 白虎隊は、武士道の実践として、誇り高い武士としての最 期を遂げたのであって、「白虎隊の悲劇」という同情の眼で みられることは不本意だろうと思います。 7 日露戦争と武士道 日露戦争で日本が大国ロシアに勝てた理由の一つとして、 日本人が武士道精神を堅持したことを挙げねばなりません。 日本のある兵隊は、上官から、 「ロシア将校が捕虜になったから、見に行ってこい」 と言われたとき、 「自分は平時においては植木屋であります。しかし今、軍服 を着て軍人である以上、 武士であります。植木屋であっても、 軍服を着た武士である自分は、捕虜となったロシア将校に礼 儀を尽くすべきであるので、見物に行ってロシア将校を蔑む ことは出来ません」 と言って断ります。 植木屋であっても、このように武士道精神を持っていたこ とが、世界の人々から尊敬され、世界の人々から有形無形の 支援を得たことが、日露戦争の勝因の一つだと思います。 8 「坂の上の雲」と日露戦争 日露戦争といえば「坂の上の雲」ということで、司馬遼太 郎ファンが数多くおられます。 しかし、武士道復活を唱える私として、一寸、物足りない のは、司馬遼太郎氏には「武士道という概念」が希薄で、 「武 士道への共感」が少ないように見えることです。 私の偏見かもしれませんが、司馬遼太郎氏は商都大阪の御 出身で、商売人的な商売功利主義の匂いを感じます。商都大 阪の大阪人は、商人道を究めておられ、武士道の対極におら れるように思います。 「坂の上の雲」は、秋山好古・真之兄弟や児玉源太郎を名 将として描いています。 しかし私は、日露戦争の本当の名将は総司令官大山巌元帥 と第四軍司令官野津道貫大将と第一軍司令官黒木為楨大将。 以上の三人が薩摩。あと第二軍司令官奥保鞏大将は北九州の 小倉です。要するに九州なんです。 秋山好古・真之の愛媛や、児玉源太郎の徳山には、名将が 生まれる土壌がありません。 正直言って、日本で一番強いには、何といっても薩摩です。 司馬遼太郎氏が秋山好古・真之や児玉源太郎を名将と描い た「坂の上の雲」は大間違いで、日露戦争の本当の名将は総 司令官大山巌元帥、第四軍司令官野津道貫大将、第一軍司令 官黒木為楨大将と第二軍司令官奥保鞏大将(小倉)なのだ、 と真実を記録するため、私は「日露戦争と日本人(かんき出 版) 」を書きました。 9 長州は武士道を否定した 会津は戊辰戦争で、家を焼かれ人が死にました。負け戦な ので仕方ないと思います。 ただ会津人が、平成の今日でも長州を許していないのは、 彼らが①会津藩戦死者の死体の埋葬を禁止し腐乱に任せたこ と、②負けた会津を津軽半島の下北地方に追いやり、飢餓に 晒して飢え死にさせようとしたことです。会津を下北地方へ 追いやり、飢餓に晒して飢え死にさせようとしたのは、長州 の木戸孝允です。 皆様の中には、会津人と関わりをお持ちになったとき、こ ういう話を聞かされ、会津の怨念の深さを感じられたと思い ます。こんな場合、会津人に、 「大変、気の毒だった。しかし戦死体の埋葬を禁止し、会津 を下北に追いやったのは、長州の木戸孝允であり、薩摩では ない」 このことをはっきり話して、身の潔白を証明されることを お勧め致します。 会津人が、かくまでも長州を嫌っているのは、長州が「会 津武士道という心」を抹殺しようとしたからなのです。 10 山県有朋は薩摩武士道を否定した 長州藩の騎兵隊とは町人・農民による軍隊で、武士・武士 道を否定した存在です。 長州藩騎兵隊出身の山県有朋は「下級武士である」という ことになっていますが、正しくは蔵元中間といって武士の使 用人であり、武士に使役される武士未満の存在でした。 そこで山県有朋は武士に対する強い憎しみを持っており、 明治の世になってからも、会津士族と会津人を迫害しました。 山県有朋は、西南戦争において、西郷軍の薩摩武士道に敵 意と憎しみを持って、西郷軍の徹底的鎮圧を出張。大山巌や 黒田清隆など、政府軍内の薩摩人をてこずらせました。 11 武士道復活の重要性 今日の日本の混迷の最大原因は、戦後のGHQによる日本 骨抜き教育=日教組教育の結果、日本人が心の拠り所を失っ たことだと思います。 日本が現在の混迷から脱却するには、武士道を再認識して、 日本人の魂である、覚悟ある精神力を取り戻すしかないと思 います。 しかし、会津武士道だけ唱えても、薩摩武士道だけ唱えて も、グルグル回るだけで前へ進みません。会津武士道と薩摩 武士道が、車の両輪のように相携えて、前へ進むのです。 12 什の誓い 最近、「什の誓い」が知られるようになりました。 什というのは、人偏に十と書いて、十人組のことです。 最後の「ならぬことは、ならぬものです」というのは、 「自 分たちで決めたルールなのだから、守らなければなりません」 という意味です。 13 会津武士道への理解を 先ほど申し上げましたが、会津武士道だけを唱えても、薩 摩武士道だけを唱えても前へ進まないので、会津武士道と薩 摩武士道が車の両輪のように相携える必要があります。 そのため、我々会津人も薩摩武士道を理解する必要があり ますし、薩摩の方々にも、会津武士道について、ご理解を深 めていただきたいと思います。 そこで私は、会津武士道を理解していただくため「勝ち組 が消した開国の真実(かんき出版)」を書きました。会津武 士道についてご理解を深めていただければ幸いです。 鶴ヶ城 14 山本八重 来年(平成 25 年)の NHK 大河ドラマ「八重の桜」の主 人公山本八重は会津藩砲術師範山本権八の娘で、幼少から鉄 砲が好きで、鳥などを撃っていました。会津籠城のときは七 連発スペンサー銃で戦います。 会津開城の後、山本八重は京都にいた兄山本覚馬を頼って 京都へ行き、新島襄と結婚して、同志社大学を設立します。 15 山本覚馬 八重の兄の山本覚馬は京都会津藩邸にいましたが、京都に も西軍が入ってきて、山本覚馬は捕まり、牢屋に入れられま す。 この牢屋で、 山本覚馬は「管見」という意見書を書きます。 その内容は、 「これからの時代は、①公議政体で行くべき、 ②上院・下院の二院制にすべき、③三権分立にすべき、④教 育制度を整えて人材を育成すべき、 ⑤女子教育も振興すべき」 等です。 この思想は、大政奉還を行った最後の将軍徳川慶喜に、 「新 しい政治体制を議会制度にすべきである」と進言した西周の 思想を踏襲したものです。 当時、西周と徳川慶喜、西周と山本覚馬は、新しい時代の 政治の在り方について、緊密に意見交換をしていました。 従って、山本覚馬の「管見」は、西周による大政奉還の思 想を踏襲したものです。 山本覚馬の「管見」を読んだ薩摩藩士が、その内容に感心 して、 「殺すには惜しい」と、山本覚馬を牢屋から出して、 自由の身にします。 この薩摩藩士が誰であったか? 知られていませんが、 「管 見」を書いた山本覚馬も偉いけれども、「管見」を読んで、 議会制度を提唱した西周の大政奉還の思想を理解し、「管見」 を評価し、山本覚馬を解放した薩摩藩士は、それ以上に偉い と思います。 話が取り留めもなくなりましたが、これを機会に、会津武 士道へのご理解を賜りますよう、お願い申し上げる次第でご ざいます。ご静聴ありがとうございました。 9 摩士魂の会 平成23、24年度版 [Ⅳ]研究発表(要旨) (1)「会津武士道」 徳川幕府の中で、第3代将軍家光の異 母兄弟の弟として 1611 年5月7日に生 誕し、以後、家光および第4代将軍家綱 以降の幕府の支え役として生涯、幕府に 忠勤し、戦国の世から文治的な世代を求 めて、頑強な集団を作り上げたのが「保 科正之」(ほしなまさゆき)でありました。 崎山猛理事 保科正之は幕府からの高い信頼を受け て、1643 年2月、会津藩初代藩主として誕生しております。そして、 300 年もの江戸幕府安寧を維持してきた9代の藩主の中で、最も 優れた藩祖だったと言われております。 では、どうして会津藩が長期間、徳川幕府を護り続けて来られた のか。当時は約 300 もの藩がひしめいており、その何れの藩でも それぞれ藩主に対して忠誠を尽くすべきことには、何の変わりのな いことでしたが、特に薩摩や会津等の雄藩では、他藩に類を見ない ほど、藩主が藩士に対して強い教育理念をもっていたことにあった と思う他あはりません。 会津藩におきましては、武士道の先駆として、藩祖保科正之が 1668 年に以後の藩主並びに藩士に対して制定した「会津藩家訓 15 箇条」にあるものと思います。 第1番目に ・将軍家には、ひたむきに忠義を尽くせ。しかも他藩と同程度 の忠義であってはならず、たとえ私の子孫であっても徳川将 軍に逆意を抱く藩主が現れたならば、私の子孫ではないから 従う必要はない 2番目には ・軍備を怠らずに、身分の上下を崩してはならない を掲げ、その他に ・兄を敬い、弟を愛すこと ・法を犯す者は許すべからず。主君を重んじ、政治は法律に沿っ て行うべきで、私意を挟んではならない ・社倉は民のために置き、飢饉が来たなら即ちこれを出して民 を救うこと 等を定めて厳しい法律を掲げ、さらに藩士に対しては、 「領主が、その志を失い遊楽を好み、士民に苦しみを与えれ ば幕府に辞表を出して蟄居(ちっきょ)する」 と戒め、会津藩は、幕府を守るためにあることが大前提にあり、 これが他藩との相違点かとも思えます。 そして会津藩は、藩祖保科正之の意思を基に、徳川幕府を護るた めに藩内の子供教育にも強く方向づけをしています。 第5代藩主松平容頌(かたのぶ)は、家老の田中玄宰(はるなか) の協力により 1803 年に藩校「日新館」を完成し、その翌年さらな る武士道の担い手を作るため「日新館童子訓」を制定しています。 この童子訓の根底は、藩士の子供のしつけ教育にあり、 ・家庭の教育 ・藩校の教育 ・地域の教育 にあって、10 歳で半成人式、13 歳で 13 詣り、15 歳で立志式 に分けられ、その過程での教えは ・家族の恩 ・師の恩 ・社会の恩の3大恩 により、恩を知る心を正しく教育するための「道徳書」ということ で、藩士の子供達が如何にあるべきかの「生活の手引き書」として 藩校で学んだそうです。 さらに藩士の子供達は、6歳から9歳までの間は、 「什」(じゅう) と呼ばれる 10 人前後の集まりを作り、その内の年長者が什長となっ て、午前中は誰かの家に集まり論語等の素読を行い、午後は1カ所 に集まり一緒に遊び、その団体行動の中で「什の誓い」を唱和し、 何よりも強烈なことは 「ならぬものはなりませぬ」 という精神の教えを幼少のころから誓い合い行動しています。 会津藩が強烈になって行く過程には、藩士の子供達の母親の子育 ての影響が大であったことを忘れてはならないと思います。男親 10 山猛理事 平成 24 年 12 月 8 日/主婦会館 が、徳川幕府の忠誠に専従する等のことから子供教育が充分にでき なく成りやすいことや、会津藩が悲劇の一途を辿るきっかけとも なった第9代藩主松平容保(かたもり)が奧羽各藩から強いられて、 1862 年にやむなく京都守護職という要職を担うようになったこと などにより、父親の何年もの留守を母親が預かり、その存在が一気 に増していきます。 母親達は、夫不在の間、母親独特の情を絡めながら「ならぬもの はなりませぬ」の精神を軸に、子供達に「武士の子は死ぬることを 恐れてはなりませぬ」と強い精神を植え付けながら育てています。 会津藩の家訓や日新館童子訓・什の誓い等の強力な教えは言葉の 違いこそあるものの、薩摩の郷中教育や島津日新公いろは歌や藩校 造士館の教えは、共に類似性を帯びており、それはお互いに負けじ 劣らずの教育理念に基ずくものではないかと思えてなりません。 元駐日大使ライシャワーの奥様であるハルさんの祖父 松方正義 さんは薩摩藩士で、のちに大蔵大臣や内閣総理大臣を歴任された偉 大なる方で、その孫のハルさんが祖父の生涯を描いた「絹と武士道」 という作品の中で、薩摩では少年のことを「稚児」と言い、6歳に なると「郷中」(ごじゅう)と言う若者組に入り毎日通って武士道 を学び精神を鍛錬しており、郷中は 33 の地区から成り、ひとつの 地区に3∼ 40 人の稚児が所属していて、6歳から 10 歳までを「小 稚児」・11 歳から 14 歳までを「長稚児」(おせちご)・15 歳から 25 歳までを「二才」(にせ)と呼ばれ、その教えは、 ・武士道の根元は誠実であること ・忠義と孝行は同一のものである ・長幼の序を重んぜよ ・日夜、文武に励むべし 等、徹底した教育を行って薩摩武士の忠誠心を植え付けさせていた ことを描いた作品とのことです。この会津魂しいの精通者でさえ、 両藩の共通性に驚きの声を呈しておられる程でとても印象的です。 両藩は、かって 1864 年7月の「蛤御門の変」迄は、お互いに徳 川幕府のなかでは他藩には見られない強烈な教育制度により、雄藩 として藩や国家のために協力しながら、活躍してきたのは間違いな いことですが、共通点が多い中でそれぞれ特色や立場上の関係によ り、おのずからその違いがあったということです。 その相違点の大きなひとつは、薩摩藩では藩主島津斎彬の祖父に 当たる島津重豪(しげひで)公が起こしたと言われる藩校「造士館」 の教えが、藩士のみならず一般町民も学べたということに対し、会 津藩の藩校「日新館」は藩士の子供達の教育に限られていたことに あるものと思います。 さらには、最も強烈 なことは、会津藩は、 藩祖保科正之が唱えた 家訓を基に「幕府や藩 に忠義を尽くすため や、同志に生き残って もらうためには、負け ることが判っている戦 いでも自らの死をもっ て望む」ことが根底 会津藩鶴ヶ城の正門 にあったということ です。 そして、その現れが、徳川幕府崩壊を最後まで守り通した会津藩 が 1868 年9月に鶴ヶ城落城までの間の、白川城の戦いから始まる 戊辰の役での白虎隊の少年藩士や彰義隊藩士の壮絶な忠誠心に如実 に現れていると思います。 西郷先生が、日本の将来を見つめ下級武士から這い上がって、地 位や財産までを放棄して、身を挺しながら、新生日本づくりに奔走 して、ついにはこれを成し遂げたにも拘わらず、最後には悲壮な死 を選ばれたことは、とりも直さず会津武士道の精神と、その類似性 を帯びているもので、このことこそが、「真の武士道は、会津と薩 摩の武士道」に尽きるものと思います。 研究発表 (2)「郷中教育」 野田正興理事 平成 24 年 12 月/主婦会館 (特異性) 「ヒーローズ・クウォーター(偉人地区)」 という言葉があります。人格高き政治家と ここで、ボーイスカウトにはない郷中教育がもつ特異性にも着目 評された米国人ブライアン氏が、明治 40 年 しなければなりません。それは「詮議(センギ)掛け」と呼ばれた 頃に日本にきて発した言葉です。彼は宗教 思考鍛錬の教育ソフトです。いずれ起こり得ると想定される事態に 道徳の真髄を端的に表現した西郷隆盛の語 対し、事前に仲間と十分に対応策を検討しておき、いざという時に 句に感銘し、その寄ってたつ精神的な基盤 を見極めようと、当時の不便な交通事情を 野田正興理事 は少しも動揺しないで行動できるように心の準備をしておく。この 詮議がけが、一瞬の判断を要求された幕末の舞台で大いに役に立ち、 ものともせず鹿児島の加治屋町にまで赴き、改めて驚嘆しました。 薩摩の人材が幕末維新期を主導する原動力となりました。 西郷だけではない。日本近代化の原動力となった偉人たちが簇(そ 詮議がけでは、ある課題が出され、グループ間で意見や情報を出 う)出しているではないか。まさに偉人地区だと、感動したのです。 し合い、解決に向けた対応策を捻り出していくプロセスが繰り返さ れます。お互いに自由に意見をいい、相手の発言は尊重してよく聞 鹿児島には、「王制復古も日清日露の両戦役も下加治屋町(した く。そして最高解へ向けてた努力が続けられていきます。討論方式 んかんじゃまっ)でやった」という言葉が残されています。甲突川 による思考鍛錬のプロセスです。 沿いにある維新ふるさと館へ行くと、江戸時代に「方限」と呼ばれ た鹿児島城下の各行政区域から出た幕末、維新、明治初期の偉人た こうした問 ちの名前が列挙してあります。その数、軽く百人を超えます。下加 答や討論によ 治屋町地区に限ってみても、確かに王制復古も日清日露の両戦役も る思考鍛錬法 自分たちがやったんだという意気込みが伝わってくる陣容です。 には、昔から 世に「薩摩の芋づる」という言葉があります。薩長閥。自分の立 いくつかの方 場を利用して身内や後輩を引き上げているのではないかという意味 式がありまし です。しかし、幕末維新の動乱期、本当の実力がなくて、単なる引 た。古くはギ きだけで立ち回れる単純な情勢下にあったでしょうか。 リシャ時代に そして、国際的に認められた現代的な青少年育成のシステム、 編み出された 「ボーイスカウト」を創設した英国軍人、デーベン・パウエル氏の ソクラテスの 言葉が登場します。 「薩摩の健児の社の制度を研究して創りました」。 対話法、宗教 明治 44 年、ロンドンでボーイスカウトの訓練風景を検閲する機会 的には禅宗の を得た乃木将軍が、当のパウエル氏に設立の経緯を聞いた質問への 公案が有名で 答えです。上野篤氏が書かれた「健児之社」に出ています。健児の す。欧米には、 社とは、明治初期まで続いた郷中教育の精神を引き継ぎ、新しく始 賛成派と反対派に分かれて対決しながらお互いに切磋琢磨するディ まった明治新政府の教育制度では足りない面を補完する考えから、 ベートという方式があります。より高い境地に立とうとする点では 鹿児島で始まった教育です。 皆同じですが、郷中教育の詮議がけでは、お互いに話し合って一旦 (類似性) 郷中教育の「詮議の場」=黒木博氏 画(黎明館) 転載「全国藩校サミット鹿児島大会」 決めた事は、必ず守ることが要求されました。実行するのです。 事実、ボーイスカウトと郷中教育との間には、大きな類似性が認 省みますと、現代社会はいろいろな課題をかかえています。大き められます。まず生徒の年齢構成ですが、世代間への十分な配慮が な問題のひとつが、教育です。学級崩壊、学校崩壊、そして教育の 認められます。 崩壊とまでいわれて久しくなりました。いじめ、非行の増大、無気 郷中教育では小稚児、長(おせ)稚児、二才(にせ)と 5、6 歳 力、体力の欠如。戦後、経済復興一途で、精神的な復興を忘れてき から妻帯する 22、23 歳までの間を 3 つのグループに分けて取り たツケが子どもだけでなく、大人たちにも確実に回ってきています。 扱われました。一方、ボーイスカウトではビーバー、カブ、ボーイ、 こうした問題解決のひとつの手法として、薩摩の郷中教育がもつ特 ベンチャー(シニア)、ローバーと細かく分かれます。郷中教育、ボー 性を活かせそうです。 イスカウトとも、年長組が年少組に模範を示し、世話や指導をする 点は同じで、兄弟以上の親和性のなかで年少者に対する年長者の指 (活用できる教育ソフト) 導が行われる異年齢集団教育の典型です。 世間で、郷中教育に対する評価が大きく分かれていることも事実 二つ目が、野外教育の重視です。チームワークの育成や身体鍛錬 です。教えられた内容が封建的なものであったとか、教え方が前近 を目的としたもので、郷中教育では「山坂達者」ということばが使 代的かつ非人間的であったとする否定的な見解があります。しか われ、ボーイスカウトではキャンプファイヤやジャンボリー大会が し、これらは表層だけをとらえた議論で、教育システムの特性にま 重視されます。 で踏み込んだ内容にまでは至っていません。長い時間をかけて育ま 三つ目は、精神的な価値の重視です。ボーイスカウトには誠実、 れ、歴史的にもその教育効果を発揮した実績をもつ薩摩の郷中教育 友情、礼儀、親切、快活、質素、勇敢、感謝の 8 つの掟がありますが、 です。21 世紀の教育課題を解決するための教育システムのひとつ これらは郷中教育が重視した道徳優先の価値観、例えば節義廉恥な として、もう一度その優れたソフト面の価値を十分に検証してみる どとほぼ同じ内容のものといってもいいでしょう。 必要があます。 11 摩士魂の会 平成23、24年度版 研究発表 (3)「薩摩武士道と日新公いろは歌」 「薩摩武士道」とかけて何と解く。「日新 公いろは歌と解く」。そのこころは、「神儒 仏三教一致の思想」です。 ひと口に「武士道」といっても、日本に はいろいろな形の武士道があります。時代 や場所によってその姿を異にし、思想的、 野田正興理事 宗教的にみても儒教的な色彩の濃い武士 道、仏教的な臭いのする武士道、神道的な武士道に大きく分かれま す。さらに儒教と仏教を重ね合わせた武士道、神道と仏教が融合し た形の武士道も当然、登場してきます。しかし、東洋の三大思想と いわれる神儒仏を一体化させた武士道となると、そう多くはありま せん。この点、薩摩武士道はこれら三つを融合させた点で、日本を 代表する武士道のひとつということがいえます。神道を胴体に、仏 教を右の翼に、儒教を左の翼にしたバランスのいい形です。 仏教思想の暗示 野田正興理事 平成 25 年 3 月 9 日/城山観光ホテル 一方、上に立つ人に対しては、「酒も水 ながれも酒となるぞかし ただ情けあれ 君がことの葉」。下の人に対して情け深くあれば、単 なる水であっても酒になるものだと言っています。また「そしるに も 二つあるべし大方は 主人のためになるものと知れ」。部下が自 分の悪口をいうのは、主人を思う余りと自分の損得のためのどちら かだが、いずれにしても上司のためになるものだから、自分の反省 材料にしなさいと、君主たるものの心がけを説きます。このほかに も五倫関係を説く歌はありますが、人間としての在り方そのものを 説く「五常」についても、幾つかの歌がみえます。 そして代表的な歌として有名なのが、冒頭の「いにしへの 道を 聞きても唱へても わが行いにせずば甲斐なし」。陽明学の先駆をな す知行合一の精神を歌い上げたものとして高く評価されています。 正道の神道思想 次が神道関係。 「ねがはずば 隔てもあらじいつはりの 世にまこと ある伊勢の神垣」。正しいことは正しく、曲がったことは曲がった ようになさる伊勢の皇太神宮は、偽りのない正道な神様だと教えま す。 「ほとけ神他にましまさず 人よりも 心に恥じよ天地よく知る」。 ここでは、ほとけと神と両方がでてきて神仏混交的、つまり神儒仏 三教一致の下地ともなる世界を表現しています。これに儒仏一体の 思想が加わると、三教一致の世界へと昇華していきます。 中身をみてみましょう。 「日新公いろは歌」という歌集名のなかに、 「いろは歌」の文字がみえます。以呂波歌は、弘法大師の作ともさ れる有名な歌です。「いろは臭えど散りぬるを、わが世誰そ常なら む」で始まるいろは歌は、仏教思想の無常観を歌いこんで有名です。 「雪仙偈」(涅槃経に入る四句の偈)の「諸行無常、是生滅法、生滅 この「日新公いろは歌」は、島津家中興の祖といわれる日新斎が、 滅已、寂滅爲楽」を和訳した歌とされていますが、こうした意味合 薩州統一に向かう戦国の世にあって、文字も読めない家臣でも、人 いをもつ「いろは歌」の語句を使ったこと自体、「日新公いろは歌」 間としての在り方を自然に口ずさんで覚えられるようにと、リズム が仏教的な思想をもつ歌集であることを暗示しています。 のいい和歌の形式をとって表現したとされています。 事実、「以呂波歌」に使われている仏教用語が、「日新公いろは 編者の島津日新斎から添削を頼まれた 歌」にも登場します。「憂いの奥山」の「憂 京都の連歌師、花の本宗養は、その内容 い」がそれです。「日新公いろは歌」の「憂 と作詩(歌)技法の高さに驚いて近衛稙 かりける 今の身こそはさきの世と おもへ 家に見せますと、「これは凡人の詠歌にあ ばいまぞ後の世ならん」の「憂かりける」 らずとて、衣冠を改めて御覧成されたる は、 「嫌な心配事が多くて辛い(現世の我 由に候」となって、稙家自身が最後に記 が身)」という、ほぼ同じ意味合いの言葉 する奥書を授けました。宗養自身は、一 として使われています。 首ごとに感想を書き入れた文書を送って また「酔へる世を さましもやらでさか きます。当代一流の人物から賞賛される づきに 無明の酒をかさぬるはうし」の「う ほどの高いレベルをもつ歌集として世に し」も変化形ですが、元は同じ言葉です。 日新様伊呂波御歌 (尚古集成館本・江戸時代写本) 残りました。 「迷いの多い世の中で、さらに迷い(無明) 薩摩武士道の基本書ともなる「日新公 の盃をかさねても、ただ迷いを重ねるだ いろは歌」は後世まで語り継がれ、薩摩藩の藩庁では「い」 「と」 「も」 けで憂うべきことだ」と、修行を積んで早く悟りを開きなさいと、 の三首を拝吟してから執務に取り掛かったとされています。薩摩の 言外に仏教の世界に入ることを奨めています。 青少年を鍛え上げた郷中教育では、稚児たちが必死で暗誦していま 「小車のわが悪業にひかれてや つとむる道をうしと見るらん」の す。明治維新後は郷中教育の伝統を引き継いだ学舎教育でも尊重さ 「うし」も、「努めなければならない道を辛いことだと思う」と、同 れました。「真理は古く、そしていつの世にも新しい」といわれて じ意味合いで使われています。 いますが、一過性的ではなく、時代を越えて成り立つ普遍的な思想 「つらしとて恨みかへすな我れ人に 報い報いてはてしなき世ぞ」 を含んでいることが、永遠の命を保つもとになっています。 は、どんな辛いことを仕向けられても、恨み返してはいけない。仕 返しは何の解決にもならないという意味で、これも堪忍が大事だと する仏教的な宗教の世界にまで踏みこまなければ実現しない、難し 外国語への翻訳 い境地を表現しています。このほかにも「回向」や「看経」、 「悪業」、 同書は、西欧と日本の精神文化の出会いを演出した歌集としても 「智恵」など仏教用語、禅語は数多く登場します。 有名です。16 世紀半ば、東洋布教を目指してマラッカに来ていた ザビエルは、事情があって薩摩から逃れてきたアンジローに出会い、 日本とはどういう国かと質問します。そこでザビエルに見せたのが、 君臣関係の儒教思想 ポルトガル語に約した「日新公いろは歌」だったとされています。 儒教に移りましょう。儒教思想でまず頭に浮かぶのが「五倫五常」。 それを読んだザビエルは、東洋の三代思想といわれる神儒仏の精神 父子、君臣、夫婦、長幼、朋友間のあり方を説く「五倫」では、 「日 を融合させている日本人の精神性の高さに驚嘆し、これほどの高い 新公いろは歌」がつくられた室町時代の身分制度を反映して、君臣 レベルをもつ国民ならば、キリスト教の精神を理解できるとして、 関係に関する歌が数多く登場します。 日本での布教を決意したとされています。 「流通(るずう)すと 貴人や君が物語 はじめて聞ける顔もちぞ その後、パリ宣教師会の会員によってフランス語に訳され、さら よき」。身分の高いひとや主君にあたる人の話は、すでに知ってい にイエズス会の会員によってスペイン語にも訳されました。日本の る話であっても、初めて聞く顔をしているのがよいと、目上の人を 書のなかでも数少ない国際的な位置づけをもつ歌集です。私たち薩 立てる礼儀を説きます。「私をすてて 君にしむかわねば うらみも 摩士魂の会は薩摩武士道の精神を世界に広めるために、史上初と目 起こり述懐もあり」。自分の身を投げ出してお仕えしなければ、恨 される「日新公いろは歌」の英訳も収容した「薩摩武士道」書を、 みが起こったり、不満が出たるするものだから、全身全霊を捧げて このほど刊行しました。 主君にお仕えしなさいといっています。 12 [Ⅴ]史蹟研修 「遠島 151 周年・財団法人荘内南洲会『第 28 次西郷先生の遺徳を訪ねる旅』に参加して」 森園安男代表理事 敬天愛人を覚醒された沖永良部島を究極に目指して、まだ 肌寒き平成 25 年 3 月 1 日朝、山形勢 22 名に首都圏 7 名が 合流して羽田を出発して鹿児島空港へ。南洲翁蘇生の家を訪 ねて、磯庭園見学、昼食、島津家当主島津修久ご夫妻の仙厳 園の昼食会場に突然のご訪問を受け、鄭重なご挨拶を頂き、 一同感謝感激。南洲神社、武屋敷を経由してホテルへ。夜、 城山観光ホテルで味園道場の方たちとの賑やかで充実した交 流会を開催。 3 月 2 日、8:15 ホテル発。福岡から鹿児島に 5 時頃到 着してまだ薄暗いうちにタクシーで吾々が前日廻った殆どの 史跡を見学。8:15 発のホテルのバスに同乗された古川文 子さんの真底西郷さんを敬愛されている姿に、一同感動させ られました。洞窟、終焉の地、味園道場、維新ふるさと館へ。 鹿児島空港 15:15 発、沖永良部空港に 16:30 着。愈々目 指す南洲翁流謫の足跡を訪ねる旅が始まりました。和泊南洲 会の方達、市の職員が観光協会と協力して一向をバスで迎え て頂きました。荒れ果てた最果ての孤島に一歩を踏みいれた 翁の気持ちがいかばかりだったか暫し、思いに耽りました。 再び歩くことはなかろうと牢まで歩かれた道すがら、感動が 込みあげてきました。和泊南洲神社、翁謫居の牢前にて一同 で遺訓と詩を朗読、更に牢の扉を開放して頂いて翁と並んで の記念撮影が出来たのは望外の感激でありました。 夜はシーワールドホテルに和泊西郷南洲顕彰会と和泊町観 光協会様との懇親会が催され、地元の色々な演芸披露を満喫 しました。特に皆さんの若々しい活発な生気に圧倒されそう な感じがしました。「薩摩武士道」の訳本を世界に贈呈した ことは皆様ご存じで、いろんな方と交流を深めることが出来 ました。 特に沖永良部に来て最大の収穫がありました。士魂の会を 代表としての挨拶の中で、荘内南洲会の南洲翁に対する敬愛、 顕彰の心はかねがね頭の下がる想いがしておりましたし、わ が鹿児島ではそれに比べて西郷熱は余りにも低調であること を実感しておりました。加えて司馬遼太郎が「長州、土佐に 行けば嘗ての古き良き伝統を感じるが、薩摩ではそれを感じ ない」と言っている。その様に浅ましい鹿児島がもう我慢で きないと思い、鹿児島の良識ある文化団体と連合結託して、 更に官民一体の再生作興運動をやろうということで、3 月 9 日沖永良部の帰りに鹿児島支部を設立する予定であるとの話 を致しました。私の話が終わるや否や前町長の泉様が来られ て、荘内南洲会創設者の長谷川信夫先生が「西郷さんの魂に 会うために鹿児島に行ったけど、西郷さんは鹿児島にはおら れなかった、この沖永良部島にいらした」と言われた話をし て下さいました。 私が感じていたことがここに来て、すべて実証された想い が致しました。長谷川先生には一度しかお会いしていません でしたが、私財を投じて荘内南洲顕彰会・南洲神社を設立さ れ、 一生を西郷先生の顕彰に捧げられた実に立派な方でした。 先生の言葉は、私は金言だと思っております。わが士魂の会 が世界に顕彰するには、先ず鹿児島からと、原点に戻って堀 り起こさねばならないと再認識したのは今回の旅の大きな収 穫であったと思っております。 3 月 3 日、平成 23 年 7 月に新設された西郷南洲記念館を 訪ねて、貴重な資料に更に感銘を深くしました。帰京して顕 彰会の本部副会長様との話し合いで、 記念館に「薩摩武士道」 の革装 3 か国語、2 か国語版計 3 冊を贈呈し、展示して頂 くと共に、日英版 1 冊は見学者が手に取って見られる様に と 1 冊を更に贈呈しました。見学者への PR になればと思っ ております。お世話になった町長、前町長、顕彰会の会長、 前会長様へも其々日英版をお贈りし、旅の御礼としました。 鹿児島県指定天然記念物で全国最大級の昇竜洞のフロース トーン、製糖工場を見学して名残惜しい感慨一入のうちに皆 さんに送られて 12 時和泊港を出港、沖縄那覇港を目指して のお別れとなりました。18:45 那覇港到着、夜は沖縄料理で 旅の疲れを静かに癒す晩餐となりました。 3 月 4 日、市内観光、首里城ワールド、玉泉洞、平和の碑、 ひめゆりの塔、山形聨隊の洞窟を見舞い、又私の海軍の長兄 の碑名を探し求めて冥福を祈り、沖縄の旅も無事終了しまし た。 私は 17:05 鹿児島空港へ。一行は 17:20 発羽田へと。 想い出深い皆さんの熱心な巡礼の姿に感動を抱きながらの別 れとなりました。 故小野寺理事長とご一緒出来なかったのは残念ではありま すが、水野理事長と親交を深めるとともに多くの荘内の人た ちと親しくなれたことは、今後の活動にとっての大きな絆が 生まれたと思っています。西郷さんの魂、永遠なれと祈りな がら遺徳を訪ねる旅を終わります。 ጊᒻ ㈬↰ 㢬ጟ ᧲੩ 㣮ఽፉ ᴒ᳗⦟ㇱፉ 沖永良部島 南洲神社前 (荘内南洲会・和泊南洲会御一同 平成 25 年 3 月2日) ᴒ✽ ᓔ〝 ᓳ〝 13 摩士魂の会 平成23、24年度版 当会の鹿児島支部設立披露会に出席のため 訪鹿した本部役員を初めとする東京在住の 南洲墓地 ①南洲墓地、南洲神社 南洲神社参拝 [Ⅵ]顕彰・慰霊 会員一同は、平成 25 年 3 月 10 日、鹿児 島在住の既会員、新規会員と同道で南洲墓 地に詣で、次いで南洲神社に参拝しました。 ②竹田神社 平 成 25 年 3 月 10 日 早 朝、 関 東在住の会員は南さつま市加世 田にある竹田神社に参拝した後、 「いろは歌の道」を上って「日新 公いろは歌」の編纂者、島津忠 良公のお墓に詣でました。 ③荘内南洲神社(山形県酒田市) 平成 24 年 9 月 24 日に執り行われた例 大祭に、今年も代表団を派遣し、荘内 南洲会のメンバーと交流を深めました。 長年にわたり荘内南洲会の発展に尽力 され、 「薩摩武士道」書の「南洲翁遺訓」 現代語訳を執筆された小野寺時雄理事 長がご逝されたため、式典の中で当会 の森園安男代表理事が心をこめた弔辞 ④治水神社 木曽三川の宝暦治水工事で犠牲となった 薩摩義士を祀る治水神社(岐阜県海津市) 恒例の春季、秋季両例大祭に 23、24 年 度も代表団を派遣し、薩摩義士の霊を弔 いました。 秋季例大祭では、崎山猛理事が玉ぐしを 奉奠しました。 を捧げました。 ①第 11 回全国藩校サミット鹿児島大会 25 年3月9日(土)城山観光ホテルで開催。薩摩士魂の会から 12 名の参加。明治維新の功 労者西郷隆盛や大久保利通などが育った江戸時代に、青少年教育を担った藩校の精神を伝える 大会で、今年は鹿児島で開かれました。 南さつま市のこどもの森保育園児が、「島津日新公いろは歌」を元気良く朗誦した(写真右) のはとても感動的で、地域の幼児教育の大切さを痛感しました。 ②明治神宮春の大祭 24 年5月3日当会森園安男代表(森園史城)が御社殿前の特設舞台で薩摩琵琶を献奏しました。 好天にも恵まれ大勢の参拝客の前での厳かな演奏はとても感動的でした。(写真右) ③日本伝統文化国際交流協会 25 年2月 19 日(火)新宿文化センター。日本伝統文化を勉強する会(第4回)で当会森園 安男代表理事(森園史城)が薩摩琵琶の演奏と講演を行いました。 ④赤穂山鹿素行研究会 「山鹿素行のはなし」「至道」などの研究資料をいただきました。(写真右) ⑤西郷南洲顕彰館 25 年 3 月 10 日、同館を訪問し、展示物を見学しました。(写真右) 14 南日本新聞 [Ⅶ]交流 追憶のことば 森園安男代表理事 (平成 24 年の荘内南洲神社例大祭で捧読) 故小野寺時雄前理事長に捧げます。 謹んで弔辞を申し上げます。 西郷南州翁を最も敬愛し、南州翁の人間と精神と哲学された様な崇高な姿で、真の西 郷ファンに心から敬慕された小野寺時雄理事長が終に逝かれました。まさに巨星落つの 感であります。深い学問を究められ、弛まざる西郷精神の研鑽に励まれ、 (財)荘内南 州会の設立にご尽力され、その精神の顕彰伝承には並々ならぬものがありました。 中でも遠い奄美大島や、沖永良部島の南州翁流謫の地へ慰霊の行脚の姿には頭が下が 財団法人荘内南州会 小野寺時雄 前理事長 平成24年10月23日 ご逝去 87歳 る思いであります。そして終に念願の「南州翁遺訓」の意訳を見事に達成され、立派な「南 州翁遺訓に学ぶ」が完成しました。まさに西郷精神の顕彰伝承に生涯を投げ打って完徹 された方でありました。 私ども薩摩士魂の会は、この「南州翁遺訓」を英語とフランス語に訳して、薩摩武士 道と銘打って、かつての新渡戸稲造の「武士道」や内村鑑三の「代表的日本人」の英文 書が外国において日本人の立派さが見出され、そのドヨメキが日本人にハレーションし て、日本人が自覚と誇りに目覚めたように、21 世紀に西郷さんの人間を世界に紹介して、 再び第二の日本人の自覚と覚醒に貢献出来たらとの願いで、小野寺理事長に趣旨をお願 い致しましたところ「是非やって欲しい」との全幅のご了解とご賛同をいただきました ので、早速会員一同一丸となって取り組み完成致しました。そして世界の国王、大統領、 有識者に贈呈致しました。 ちょうど東日本大震災において老若男女が秩序正しく、忍耐強く、協力して助け合っ ている姿に、世界から驚きと賞讃の眼を向けられていた時だけに、本書も興味を以って 受け取められたようであります。 多くの礼状がまいりました中で、特にイギリスのエリザベス女王陛下、アメリカのブッ シュ前大統領からの礼状は感動の極みでありました。西郷さんが多少なりとも世界の一 隅に灯をともしたのではなかろうかと思っております。 また現在は、地元の東北公益文科大学で来年四月より英語の教材として採用すること が、地元有力の方のご尽力に依り決定されました。これと全く機を一にして、鹿児島県 教育庁が県下 63 の高校での教材採用を決定しました。9月 22 日、二回目のお見舞い の折に、この二つの話を申し上げましたところ、即座に「それはホンモノだ」と二回繰 り返され、喜んで下さいました。 今度は全国高校の教材採用への運動と、世界での販売を推進して、国内外でさらに西 郷精神を広めていきたいと思っております。 小野寺理事長の心底願っておられた西郷精神の世界への顕彰が一歩一歩と広がりつつ あります。どうぞ天上から安らかに見守って下さい。 つい先日、雨の日に杖をついて、ご子息さんと二人でお迎えくださったあの瞬間の驚 きと感激と恐縮は、瞼に浮かんでまいります。私は小野寺理事長の肺腑に滲み入る様な 眼に見えない何ものかに何時も敬虔な心を打たれております。そして小野寺理事長のお 陰で西郷さんをより深く理解できるようになりましたのは最上の幸せであります。 大きな心棒を失った感が致してなりません。心から御礼を申し上げ、哀悼をこめてお 別れの挨拶とさせてい頂きます。ほんとうに有難うございました。 一般社団法人薩摩士魂の会 設立総会(基調講演者の小 野寺時雄理事長〈左から五 番目〉を囲んで) 15 写真提供:仙巌園 日新公いろは歌 南洲翁遺訓 二十四 道は天地自然の物にして、人はこれを行 うものなれば、天を敬するを目的とす。 天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を 愛する心を以って人を愛する也。 い 「いにしへの 道を聞きても 唱へても わが行 ひに せずばかひなし」 ほ 「ほとけ神 他にましまさず 人よりも 心に恥 ぢよ 天地よく知る」 こ 「心こそ 軍(いくさ)する身の 命なれ そろ ゆれば生き 揃わねば死す」 二十五 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を 薩摩の教え 相手にして、己を尽くし人を咎めず、我 が誠の足らざるを尋ぬ可し。 「負けるな、嘘を言うな、弱い者をいじめるな」 「泣こかい 跳ぼかい 泣こよっか ひっ跳べ」 平成25年度の活動計画 「薩摩武士道」書 平成25年8月 教材用パンフレットを作成し、全国の高校、大学向けに配布 (渡部昇一、坂東真理子両氏の推薦文入り) 内外での販売を継続 アンケート 平成25年8月 全国の主要高校長及び担当教諭に「薩摩武士道」書の採用意向を聴取 講演会 平成25年6月29日 「西郷南洲翁精神の再認識と現代に如何に活かすか」 (講師:渡部昇一・上智大学名誉教授) 史蹟研究 平成25年8月 「幕末激動の水府と会津士魂」(荘内南洲会主催に参加) 平成25年9月24日 荘内南洲神社例大祭参列 治水神社春季秋季両大祭に参列 顕彰・慰霊 平成25年 〒107-0062 東京都港区南青山 1-15-14 ㈱豊建築事務所内 Tel.Fax.03-3404-3542 e-mail: [email protected] http://www.satusmasikonnokai.or.jp