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坂の上の雲ミュージアム 案内文 24年度版
作成:四電ビジネス㈱ 坂の上の雲ミュージアム 案内文(24 年度版) ガイド用 小説『坂の上の雲』は昭和 43 年より 4 年半 1296 回、サンケイ新聞に連載された司馬遼太郎氏の小 説です。松山出身の軍人秋山好古・真之兄弟と俳句の革新者として知られる正岡子規の 3 人の生き方や、 近代国家として成長していく明治日本の姿を描きながら、明治という激動の時代を青雲の志と共に歩ん だ若者たちの青春群像として現代を生きる私たちに多くのメッセージを伝えています。平成21年から 3年間に渡ってNHKのスペシャルドラマにもなりました。 松山市では以前より「 『坂の上の雲』のまちづくり」に取り組んでいます。これは、3 人の主人公たち の生き方に学びながら、主人公ゆかりの史跡や松山固有の地域資源を再発見・再活用しようとするもの であり、まち全体を屋根のない博物館=フィールドミュージアムに見立て、市内各地で行政、市民が一 体となってまちづくりに取り組んでいます。この建物はその中核施設としての役割もになっています。 建物の設計は世界的に有名な安藤忠雄氏。建設に際し、城山と市街地の境目であり、松山城、萬翠荘の 立地を考慮したことによる周辺環境との調和、そして『坂の上の雲』を目指して坂を上っていった主人 公たちに思いを馳せ設計されたものです。各階は一本のスロープで結ばれ、建物全体は空に向かって 5 度傾いた逆三角錐の建物です。 ミュージアムでは毎年展示物を入れ替えながら、テーマを新たにした企画展を行っております。日露 戦争というと今から 100 年以上も前、日本は明治維新により武士の時代が終わり、鎖国を解いて外国と の交流をはじめ、世の中の仕組みも人々の生活も目まぐるしく変わっていった時代でした。当時のロシ アはヨーロッパの大国の一つであり、国土の大きさや軍事力から比べても日本がロシアと戦うというこ とは大変なことでした。日本は日本海海戦や奉天での戦いに勝利しますが、国力から考えてこれ以上戦 争を続けることは困難でした。そこでアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介を得て、ロシアと 講和条約を結びます。しかし、それは簡単なことではありませんでした。アメリカのポーツマスで27 日間に及ぶ日露全権団による講和会議が行われましたが、その結果定められた講和条件は、日本国民が 期待したものではありませんでした。この結果、日比谷焼き討ち事件がおこります。国民は戦争を続け ることの困難さを伝えられてはいなかったのです。ポーツマスでの日露の交渉はどのようにして行われ たのか、そして世界はどのように報道したのか、その後の世界情勢にどんな影響をおよぼしていったの かを探っていきます。そのほかの展示では 3 人の主人公や、彼らが駆け抜けた明治という時代の時代背 景を紹介しています。 『坂の上の雲』の世界をどうぞお楽しみください。 ミュージアムの近くには、大正 11 年に建てられた久松定謨公の別邸「萬翠荘」 、秋山兄弟の生家を復 元した「秋山兄弟生誕地」 、そして「松山城」。市内には重要文化財「道後温泉本館」「子規記念博物館」 「子規堂」をはじめ主人公ゆかりの施設もございます。坂の上の雲ミュージアムを中心に広がる「『坂の 上の雲』のまち松山」をどうぞお楽しみください。