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静岡県高校野球史Ⅰ-3545 36 P245 全国高等学校野球選手権大会
静岡県高校野球史Ⅰ-3545 36 P245 全国高等学校野球選手権大会 昭和 21 年 沼津中学校(沼津東) (鷲巣英治)私達沼中野球部が復活したのは 20 年の暮れ、動員中の海軍工廠で終戦を迎えたが帰るべき母校は戦火 で消失、仮校舎の海軍工廠庁舎で授業が始まり、やっと落ち着きを取り戻した頃、誰とはなしに野球好きの連中が 集まりチームを作ろうと提案し衆議一決野球部の復活を見たのだが、まさか翌年全国大会が開催されるなぞ夢にも 思わず唯野球をしたいため皆で力をあわせて難関をひとつづつ乗り越えていったのだ。 まず第一の難関は用具、今のようにスポーツ店で売ってはおらず、昔使っていたグローブやバット、古いユニフォ ームを持ち合ってなんとか練習は出来るようになったが、試合球なぞ手に入らず、復活第 1 戦、第 2 戦とも軟球で の試合、そのうち OB や学校の援助により用具もおいおいそろい、翌 21 年の 4 月頃になると他校にも続々野球部が 復活してやっと硬式による対抗試合ができるようになったが、練習ボールは古いものを利用しているので縫い目の 補修は手先の器用な露木君の役目。 しかし用具はなんとかなったが着るものまで手が回らず、スパイクは靴に足を合わせ、ユニフォームはただ白と いうだけで布地はばらばら、マークは左胸に N 一文字。ストッキングなぞ揃わず内野手と外野手と色違い。 次はグラウンドの問題、仮校舎なのでもちろんグラウンドは無く草ぼうぼうの沼農跡地。右翼へ打てばすぐ柵越え で田んぼへ。そのうち校舎の東側空き地にグラウンドを作る事となり野球部員が先頭となり防空壕を壊し溝を埋め 出来上がったのが現市営球場一帯。 しかし素人の整地ではとても平坦にはほど遠く外野手は足をとられ内野手はイレギュラー続出で、平出兄がノック して弟が顔面で受けて怪我をしたり、毎日のように負傷者が出るしまつ。 そして最後に食糧難と交通難。伸び盛りくい盛りの頃で何もしなくても食いたい年頃、まして運動すれば腹が減る、 食べ物不足のために体を壊すものも多く、最初の捕手も体を悪くしてプレーを断念してマネージャーに。 私も原因不明の高熱で 3 ヶ月も病床へ。またきつい練習ではないが腹ペコの為退部したもの多数。 山静大会の為と待った宿舎の床の間に一杯のかぼちゃ、それを食べて優勝して全国大会へ。その時上甲子園の宿舎 で地元先輩からの差し入れの肉の味は今でも忘れられない。 また交通事情も悪く列車はいつも満員。全国大会に行く時なぞ列車の通路に新聞紙を敷いて座っていき、試合当日 の応援は先輩、父兄合わせて 20 名くらいではなかったか?今の華やかな高校野球を見て感無量である。 37 P247 全国高等学校野球選手権大会 昭和 23 年 あわや没収、食料米! 静岡第一高等学校 物資不足の甲子園行き<BR> 16 年ぶり、戦後初の甲子園行きと言う事で静岡駅では大変な見送りである。当時は物資の不足でユニフォー ムを入れるバッグも無く、リュックサックを背負うもの、皮のトランクを持つもの、全くチンドン屋風景である。 食糧事情が悪い為米の持参である。旅館で出すものでは足りず毎日大阪、神戸に買出しに何人かの先生が専門にあ たった。その買出しのときに闇屋と間違えられずいぶん咎めを受けた時もあった。 又交通機関は各駅停車の夜行列車であり、座る席も無く通路に新聞紙を敷いてその上に横になって寝て大阪に行っ たものである。京都駅近くで、当時経済警察の一斉手入れにあい持参した米を一箇所に集められ、もう少しのとこ ろで米を没収されるところだったが、当時部長であった北川先生の説明で危うく難を逃れたものだった。 静岡の森山投手は身長 157cmと出場高中 1 番身長の低い投手であったが、2 回戦の岐阜一高との試合では左投 手でありながら再度にわたって巧妙なスクイズをはずしてその投球術に絶賛の拍手を浴びた。 38 P254 全国高等学校野球選手権大会 昭和 31 年 静岡高等学校 大会 38 回史を飾る初ナイター。 1-1 の 8 回裏、午後 6 時 28 分だった。今大会からナイターが採用される事になりどこのチームがこの高校野球史 に残る初ナイターになるか参加高全選手の興味の的であった。くしくも静高がそれに出くわし、懐かしい思い出を 作る事ができた。外野手はボールの裏面が陰になるので見にくいと初体験を話していた。 故佐伯達夫大会副会長は「高校野球でもナイターが出来るという前例を認めたことになる。照明に不慣れな為、失 策や事故を起こしはしないかと心配していたが両チームとも、昼間とかわらず活発な行動をしてくれたのでホッと した。もちろんナイターを行うのは望ましくない。 」と話していた。 試合前夜、復活した静岡商業との第 1 回定期戦のときに講演に来てくださった関係もあって飛田穂洲先生が陣中 見舞いにお見えになり長い話があった。監督も選手も正座して聞き汗いっぱい、先生が帰られたとき、いっせいに 倒れてしまった事もあった。 いずれにしても甲子園に出場するという事は野球とは別に「食事の良い事」 「特急 はと の展望車」に乗れるこ とがみんなの関心事であった事は事実である。 (野島 39 P256 全国高等学校野球選手権大会 昭和 32 年 譲) 清水東高等学校 初出場の甲子園で得た教訓。 甲子園出場を決めた山静大会では。甲府工、掛川西を一方的に破った。県予選からチーム打率が 3 割をはるかに超 えていた。 スポーツ紙では「東海のあばれん坊清水東高」と初出場ながら優勝候補と大きく報道した。<BR> 私達は甲子園で勝ち進もうなどと考えてもいなかった。悲願 10 年にして勝ち取った甲子園出場だけに感激 していたのである。 開会式に選手が堂々と入場しただけで満足していたように思う。 甲子園出場思い続けて、5 年ほど前から優勝候補といわれながら出場を果たせなかった。その後での、この初出場 だけにその感激だけで満足してしまったのである。 しかし、この敗戦が教えてくれたものは、出場するだけが目的であってはならないという当たり前の事であった。 (稲毛森之助) 40 P256 全国高等学校野球選手権大会 昭和 35 年 静岡高等学校 準優勝。決勝は柴田 勲投手(元巨人)法政二高に 3-0 で負けました。 決勝戦には大正 15 年以来の夢よもう一度と地元より大応援団がかけつけた。斉藤知事、松永市長も行きました。 静岡市の商店街は九分通り休業、静まり返りテレビに釘付け。 準優勝の静高ナインは福山校長に引率されて 23 日午後 3 時 20 分、静岡駅に急行雲仙で帰ってきた。 駅前広場は 3 万人に近い人並みで交通はストップ。ブラスバンドが選手団の到着を知らせると市民達は大変 な熱狂振り。 朝日新聞社機が飛来してお祝いの花束とメッセージを投下し、低く、大きく旋回。<BR> 朝日新聞のニュースカーと中央署のパトカーを先頭に静高のブラスバンド、応援団の車に続いて準優勝の盾 を持った石山主将、選手と続いて乗り込む。 車が御幸町の通りにかかると歩道、車道、ビルの上から拍手が沸き小旗が振られる。 最初予定されていた県庁、市役所訪問は人並みに押されてできず、七間町、呉服町、紺屋町の目抜き通りを回った。 一行は 5 時前人並みの少なくなった県庁前で斉藤知事に、市役所前で松永市長に挨拶。その後浅間神社から長谷通 りを通って、6 時前に「バンザイ」の声の中を半月ぶりに母校の門をくぐった。(野島 譲) 登録選手に 山田幸司選手がいます。あの山田さんですか? 41 P265 全国高等学校野球選手権大会 昭和 37 年 静岡市立高等学校 試合繰上げで途中応援。八木沢投手(作新学院)の赤痢。試合は 3 日目の第 4 試合であった。第 4 試合だと照明等 がつく、選手はナイターができると素直に喜んだ。ところが作新学院の八木沢投手が赤痢であることが分かり、急 遽隔離されてしまった。そのために作新の試合は後に回され、本稿の試合は第 3 試合に繰り上がった。 応援団はすでに第 4 試合の時間に合わせて静岡を出発しており、開始には間に合わず、途中から応援する事になっ てしまった。 *コレラ大阪に上陸 県大会で念願の初優勝をしたものの、意外な心配が待ち受けていたのである。それは大阪でのコレラ発生である。 このまま蔓延すると甲子園大会は中止になると真剣に心配したものである。じっさい、チームは大阪入りするとす ぐに西宮の保健所に出頭させられ予防注射を受けた。元来 2 回に分けて行うものを 1 回にしたため、その晩は腕が 発熱で腫れ、徹夜でアルコール湿布をして冷やした。 双生児選手の兄弟愛 S 一塁手には一卵性双生児の弟がいた。二人は仲良く練習に励み甲子園を目指した。ところが 2 年の秋父親が病気 で倒れ、家業を手伝う必要に迫られた。この時、弟は自分より野球センスの良い兄にプレーを続けさせる為。自ら 退部して家業を手伝い、兄は野球に専念する事ができた。甲子園に出場できて二人の兄弟愛は見事に実を結んだの である。 (加藤恒夫) 42 P266 全国高等学校野球選手権大会 昭和 38 年 3 番 捕手 静岡高等学校 長倉春生選手、9 番 遊撃手 山口英雄選手。 43 P268 全国高等学校野球選手権大会 昭和 39 年(1964) 掛川西高等学校 1 回戦 八代東と延長 18 回 0-0 の引き分け。再試合 2-6 で勝利。 2 回戦 平安には 4 番 捕手 衣笠選手(元広島)がしました。3 打数 2 安打。2 塁打 2。 44 P271 全国高等学校野球選手権大会 昭和 40 年 東海大第一高等学校 県内私学では初出場。県大会の決勝戦に進出する事 3 度目であった。東海大一は昭和 30 年代には言ってすぐ強くな ったが、どうしても優勝をする事ができなかった。若月監督が着任以来甲子園出場を果たすまで 10 年の歳月があっ た。若槻監督の指導方針はスパルタ式指導であり、想像を絶する練習であったという。 45 P274 全国高等学校野球選手権大会 昭和 43 年 静岡商業高等学校 準優勝。1 年生投手 新浦寿夫投手。とありますが、昭和 41 年甲子園出場登録メンバーに名前があります。間違い かな?藤波行雄選手もいます(中央大-中日) 。 電球の下バントの猛練習。決勝戦でこそ見せる事ができなかったが、静岡商業を準優勝をさせた原動力は的確なバ ント戦法だった。指導してきたのは望月教治コーチだ。コーチが始めたのは県大会 1、2 ヶ月前からだが、その頃の 静岡商業は新浦が好投しても打線が沈滞して敗れる試合が多かった。何とか走者を本塁に返す為に徹底したバント の練習をやらせた。夜グラウンドに電球をつけてでも毎日 40∼50 分欠かさなかった。 まず守る野球と、そして足とバントを屈指して得点するインサイドベースボールを説く望月コーチであった。 (静岡 新聞)