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第一回研修会 Ⅰ.真宗門徒の心得 (ビデオの表題)

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第一回研修会 Ⅰ.真宗門徒の心得 (ビデオの表題)
第一回研修会
Ⅰ.真
Ⅰ. 真 宗 門 徒 の心 得 (ビデオの表
(ビデオ の表 題 )
(参 照 )日 常 勤 行 聖 典 p133~134 荘 厳 と作 法
(ビデオの表 題 )
お仏 壇 の安 置 場 所 は
(資 料 の関 連 部 分 )
第 一 回 研 修 会 Ⅱ仏 壇 とお荘 厳
1. 仏 壇 を安 置 する意 義
お仏 壇 のご本 尊 は
第 一 回 研 修 会 Ⅱ仏 壇 とお荘 厳
わ き が
4. ご本 尊 とお脇 掛 け
ご本 尊 をお迎 えするには
と ら
3. 先 祖 の捉 え方
p15
p15
第 一 回 研 修 会 Ⅱ仏 壇 とお荘 厳
10. 灯 明 の意 味
お花 をお供 えする意 義
p5
第 一 回 研 修 会 Ⅱ仏 壇 とお荘 厳
8. 位 牌 について
ローソクに灯 をつける意 義
p4
第 一 回 研 修 会 Ⅱ仏 壇 とお荘 厳
8. 位 牌 について
過 去 帳 を置 く場 所 は
p10
第 一 回 研 修 会 Ⅱ仏 壇 とお荘 厳
2. 仏 壇 を購 入 する時 期
法 名 を掛 ける場 所 は
p7
第 一 回 研 修 会 Ⅱ仏 壇 とお荘 厳
5.仏 壇 を購 入 する時 の心 得
お先 祖 をお祭 りする所 は
p3
p20
第 一 回 研 修 会 Ⅱ仏 壇 とお荘 厳
11. 仏 花 の意 味
(裏 に続 く)
1
p22
線 香 を焚 く意 義
第 一 回 研 修 会 Ⅱ仏 壇 とお荘 厳
12. お香 の意 味
お焼 香 の仕 方
お仏 飯 の盛 り方 ・供 え方
p24
第 三 回 研 修 会 Ⅱ門 徒 の心 得
7. 合 掌 の作 法
p101
8. 焼 香 の作 法
p102
第 一 回 研 修 会 Ⅱ仏 壇 とお荘 厳
13. 仏 飯 と供 物 について
お仏 壇 の解 説
p26
第 一 回 研 修 会 Ⅱ仏 壇 とお荘 厳
5. 仏 壇 を購 入 する時 の心 得
け びょう
14. 華 瓶 とお水
日 常 時 のお仏 具 の飾 り方
p27
しょうごん
第 一 回 研 修 会 Ⅱ仏 壇 とお荘 厳
9. 仏 壇 の荘 厳
15. 仏 壇 の整 理 と修 理
法 事 のお仏 具 の飾 り方
p10
p17
p15
第 三 回 研 修 会 Ⅰ法 事 と行 事
9. 法 事 の荘 厳
2
p70
第 一回 研 修 会
ぶつだん
Ⅱ.お仏 壇と荘 厳
あ ん ち
い
ぎ
1. 仏 壇 を 安 置 する意
する 意 義
りゅうどうか
か く か ぞ く か
人 口 の流 動 化 や核 家 族 化 などの社 会 情 勢 の変 化 によって、最 近 では、何 世 代
にもわたって同 じ家 に住 むことがめっきり減 り、次 々と新 しい家 が建 ち、また引 っ
ひんぱん
越 しも頻 繁 に行 われています。そうして移 り住 んだ家 には、特 に若 い世 代 を中 心
あ ん ち
に、昔 はどの家 にも必 ずあったお仏 壇 が、安 置 されていないケースが増 えてきま
した。
たず
「なぜ、お仏 壇 がないのですか」と尋 ねてみると、けげんそうな顔 で「まだ誰 も死 ん
こ と ば
でいませんから…」とか「仏 壇 はいなかにありますから…」といった言 葉 が返 ってき
みょう
かず か ぎ
ます。 “誰 も死 んでいない”とは、考 えてみれば 妙 な話 で“私 ”につながる数 限 り
せ ん ぞ
ないご先 祖 の方 がたが死 んでいったはずです。
う ら
それはさておき、こうした言 葉 の裏 には、お仏 壇 が、いま生 きている家 族 の誰 かが
し そ ん
死 んで初 めて必 要 になるものであり、ご先 祖 にしても、子 孫 の誰 か一 人 (多 くの場
めんどう
にんしき
合 、長 男 )が“面 倒 を見 れば”事 足 れり、といった認 識 があるようです。さらに言 え
し し ゃ
せ ん ぞ
ば、お仏 壇 は“死 者 や先 祖 をおまつりするためのもの”と思 っているのです。
しかし、はたしてそうでしょうか。お仏 壇 というのは、文 字 通 り“仏 さまをご安 置 する
だん
ほんぞん
あ み だ ぶ つ
にょらい
壇 ”のことです。仏 さまとは、言 うまでもなくご本 尊 である阿 弥 陀 仏 (如 来 )のこと。
なや
じ
こ
だ
ちょっとしたことにこだわり、悩 み、自 己 を見 失 いがちになる私 をしっかりと抱 きとめ
くず
あ
み
だ
て、けっして崩 れることのない安 らぎを与 えて下 さる阿 弥 陀 さまです。お仏 壇 は、
せいしんてき き ば ん
そうした私 の心 の依 り所 となり、家 庭 の精 神 的 基 盤 となって下 さる阿 弥 陀 さまをご
あ ん ち
安 置 するために設 けるのです。
か て い ほうかい
いじめ、家 庭 崩 壊 など心 の問 題 が山 積 している昨 今 、家 族 そろって阿 弥 陀 さま
ゆた
に手 を合 わせることが、どれほど心 豊 かな家 庭 生 活 につながるかわかりません。
ですから「いなかにあるから…」とか「長 男 だけでよい」とか言 わず、独 立 した家 庭
3
あ ん ち
であれば、必 ずお仏 壇 を安 置 するようにして下 さい。
ほんぞん
あ み だ ぶ つ
お仏 壇 はご本
はご 本 尊 ・ 阿 弥 陀 仏 をご安 置 する所 。
し し ゃ
お仏 壇 は死
は 死 者 のためでなく、生 きている私 のためにある。
あ ん ち
家 ごとにお仏 壇 を安
を 安 置 しよう。
こうにゅう
2. 仏 壇 を購
を 購 入 する時 期 (死 んでからでは手 遅 れ)
めいしん
「何 もないのにお仏 壇 を買 うと、死 人 が出 る」という迷 信 があり、気 にする方 がいる
ぜんこう
ようです。“何 もない”とは、前 項 の「誰 も死 んでいないのに」という意 味 です。これ
あやま
も、お仏 壇 が“死 者 をまつる所 ”という 誤 った認 識 から生 まれたものです。すなわ
あ ん ち
ち、死 者 をまつるためのお仏 壇 を安 置 するのですから、死 者 がいなければ困 るわ
たんらくてき
けです。そこで「お仏 壇 を先 に買 うと、入 るべき死 人 が出 る」という短 絡 的 な発 想
が生 まれてきたのでしょう。
めいしん
有 る人 のお話 ですが、「先 日 もお寺 の集 まりでこの迷 信 について尋 ねてみたとこ
と し よ
ろ、お年 寄 りはたいていの人 が知 っていて、あるおばあさんなど“やめときって言
ぶつだん
っているのにお仏 壇 を買 うもんだから、買 ったとたん誰 それが死 んでしまって…”と
ま が お
真 顔 で話 し出 したものですから、こちらもひとこと「死 ぬ前 に買 えて、間 に合 ってよ
かったですね」と言 っておきました、ということです。
実 際 、お仏 壇 を買 わなかったばっかりに、今 も後 悔 されている門 徒 さんもいるの
です。その奥 さんは、ご主 人 が「お仏 壇 を安 置 したい」と願 われていたにもかかわ
らず“死 人 が出 る”との迷 信 を気 にして、お仏 壇 を買 うことに反 対 されました。とこ
ろが、ほどなくして“買 っていない”のにご主 人 が亡 くなられてしまったのです。奥
よ
さんは涙 ながらに「主 人 はきっと如 来 さまを身 近 に仰 ぎ、心 の依 り所 としたかった
めいしん
のでしょう。そんな主 人 の願 いも解 せず、 迷 信 を気 にした私 が悪 か ったのです。
4
し
まえ
せめて死 ぬ 前 に買 って、安 心 させてあげたかった…」と語 っていました。
じんせい
むじょう
まさに人 生 は無 常 です。老 いも若 きもいつ死 が訪 れるかわからないのです。お仏
げんいん
い ん が
壇 を買 ったからといって、それが原因 で死 ぬわけではありません(そういう因果
かんけい
えん
関 係 はない)。買 うか買 わないにかかわらず、縁 が尽 きれば誰 でもが死 んでゆくの
よ
です。お仏 壇 は、そうしたはかない人 生 を精 いっぱい生 きぬく依 り所 になるもので
こうにゅう
じ
き
す。“死 人 が出 る”などと気 にせず、1日 も早 く安 置 して下 さい。なお、購 入 の時 期
きっきょう
や日 の吉 凶 も気 にしてはいけません。
い ん が かんけい
お仏 壇 の購 入 と“死 ”に因
”に 因 果 関 係 はない。
き
購 入 する日 も気
も 気 にせず。
とら
3. 先 祖 の捉
の 捉 え方 (お仏 壇 にご先 祖 が?)
ほんぞん
先 の項 で「お仏 壇 は、ご本 尊 である阿 弥 陀 仏 を安 置 する所 で、先 祖 をおまつりす
るためのものではない」というようなことを述 べましたが、このことについて、ある
も ん と
門 徒 さんからこんな質 問 を受 けました。
せ ん ぞ
かんしゃ
「これまで、お 仏 壇 にはご先 祖 が入 っておら れるとばかり思 い、ご先 祖 に 感 謝 の
ねん
あ
み
だ
念 を込 めて手 を合 わせていました。たしかに阿 弥 陀 さまも大 事 ですが、ご先 祖 も
大 切 に思 っています。お仏 壇 が“ご先 祖 をまつる所 でない”としたら、いったいご
先 祖 はどこにおられるのですか?」と。
たいりつてき
先 祖 思 いの 門 徒 さん なのですが、 どう も阿 弥 陀 さまとご 先 祖 を対 立 的 に別 々 の
とら
存 在 として捉 えてしまっているようです。「先 祖 をまつる所 でない」と言 ったのは、
じったいてき
れいこん
ご先 祖 を実 体 的 に捉 え、例 えば霊 魂 のようなものがお仏 壇 の中 に入 っていて、し
がしゅう
いだ
かもその霊 魂 は生 前 の我 執 に基 づく意 思 や感 情 を抱 いたまま存 在 し、生 きてい
い け い
なぐ
る者 がそうしたご先 祖 の霊 を畏 敬 し慰 めるためにまつる、というのではないというこ
れいこん
ひ て い
とです。そもそも、固 定 的 な実 体 としての霊 魂 を否 定 するのが仏 教 なのです。
5
じょうど
かえ
それでは、ご先 祖 はどうなったかというと、阿 弥 陀 さまのお浄 土 に還 られ、阿 弥 陀
しんじつ
さまと同 じ仏 さまになられたと味 わうのです。お浄 土 は本 来 、色 も形 もない真 実 そ
こ
え
た せ か い
のものの世 界 であり、我 々のはからいを超 えた 世 界 でありますが、それを何 とか形
あらわ
つく
に 表 そうとしたのがお仏 壇 の造 りだと言 われています。したがってお仏 壇 では、ご
かえ
しの
先 祖 を拝 むというよりは、ご先 祖 が還 られたお浄 土 を偲 び、ご先 祖 をお救 い下 さ
こころ
あじ
った阿 弥 陀 如 来 のご本 願 のお心 を味 わわせていただくのです。
さらに、ご先 祖 の願 いを聞 くと、何 も「自 分 に手 を合 わせてくれ」とは思 っておられ
ほんがん
ないでしょう。むしろ「真 実 の親 である如 来 さまのご本 願 を信 じ、力 強 い人 生 を歩
ねが
んでくれ」と願 われています。そうしたご先 祖 の願 いを聞 き、阿 弥 陀 さまに心 から
うやま
手 を合 わすことが、すなわちご先 祖 を 敬 い、感 謝 することになるのです。
せ ん ぞ
お仏 壇 の中 にご先
にご 先 祖 が入 っているのではない。
かえ
しの
ご先 祖 が還
を 偲 ぶ。
が 還 ったお浄 土 を偲
6
わきがけ
4.ご本 尊 とお脇
とお 脇 掛 (お仏 壇 の主 人 はご先 祖 さま)
しんこうじょう
お仏 壇 でもっとも大 切 なのはご本 尊 です。ご本 尊 とは“信 仰 上 、もっとも尊 ぶべき
らいはい
礼 拝 の対 象 ”であり、浄 土 真 宗 では、阿 弥 陀 如 来 がそれに当 たります。いわば、
ほんぞん
ご本 尊 ・阿 弥 陀 如 来 がお仏 壇 の“ご主 人 ”と言 えましょう。お仏 壇 には、正 面 に区
だん
切 られた3つの壇 が設 けられています。その中 央 にご安 置 するのがご本 尊 です。
わきがけ
左 右 の両 壇 には、お脇 懸 をご安 置 することになっています。
これらを整 理 しますと-、
え ぞ う
ほ う べ ん ほ っ し ん そんぎょう
中 央 =阿 弥 陀 如 来 のお姿 を描 いた「ご絵 像 ご本 尊 」(方 便 法 身 尊 形 )ある
ろ く じ みょうごう
いは「六 字 名 号 ご本 尊 」(南 無 阿 弥 陀 仏 )
しゅうそ
えい
き み ょ うじんじっぽう む げ こ う にょらい
じゅう じ み ょ う ご う
右 脇 =宗 祖 「親 鸞 聖 人 」のご影 か、帰 命 尽 十 方 無 碍 光 如 来 」(十 字 名 号 )
ちゅうこう
れんにょ
な
む
ふ
か
し
ぎ
こ
う にょらい
左 脇 =本 願 寺 中 興 の「蓮 如 上 人 」のご影 か、「南 無 不 可 思 議 光 如 来 」(九
字名号)
となります。
最 も一 般 的 なご本 尊 とお脇 掛 の組 み合 わせ
え ぞ う
中 央 のご絵 像 をご覧 になると、阿 弥 陀 如 来 は立 っておいでです。これは、私 たち
凡 夫 をい つ で も た だ ちに 救 お う とい う お 心 を表 し てい ま す 。 ま た、 私 た ちの 方 へ
てのひら
しょ う かん
掌 を向 けられている右 手 は“招 喚 ”のお心 、つまり「真 実 の世 界 にかえってこい
7
せっしゅ
よ」という意 味 を表 し、左 手 の方 は“摂 取 ”のお心 、つまり「どんなことがあっても必
すく
ず救 いとるぞ」との願 いが込 められています。
さらに如 来 さまのお身 体 からは48本 の金 の光 が放 たれています。これは阿 弥 陀
し じ ゅ う は ち がん
如 来 の“四 十 八 願 ”を象 徴 しています。すなわち、迷 いさまよう私 たち一 人 ひとり
よ
を真 実 の世 界 (お浄 土 )に救 いとろうと、四 十 八 に選 りすぐって誓 われ、そして
じょうじゅ
成 就 された願 いが光 明 と なって、私 に届 けられているのです(また、その光 明 は
と く
じゅうにこう
如 来 さまのお徳 の“十 二 光 ”でもあります)。
え ぞ う
このように見 てくると、ご絵 像 は単 なるお姿 、形 を表 しているのではなく、私 に向 け
わきがけ
ての如 来 さまの願 いとおはたらきを表 していることがおわかりでしょう。お脇 懸 のお
みょうごう
きみょう
な
も
名 号 についても同 様 です。「帰 命 」も「南 無 」も「まかせよ」という意 味 です。
じんじっぽう む げ こ う
また「尽 十 方 無 碍 光 如 来 」とは「あらゆる世 界 に届 いて、けっしてさまたげられるこ
ふ
か
し
ぎ
こ
う
とのない光 明 をお持 ちの仏 さま」であり、「不 可 思 議 光 如 来 」は「人 が思 いはかる
かぎ
ことのできない限 りなき光 明 をお持 ちの仏 さま」という意 味 で、いずれも阿 弥 陀 さま
のことです。
したがって、両 お名 号 とも「南 無 阿 弥 陀 仏 」と同 じことであり「この私 にまかせよ、
おさ
光 明 の中 に摂 めとって必 ず救 うから…」という阿 弥 陀 さまの尊 いお心 を表 していま
わきがけ
す。こうしたご本 尊 、お脇 懸 を通 して、私 たちはお徳 のすべてを込 めて届 けて下
さる如 来 さまのお名 前 “お名 号 ”のおいわれを聞 かせていただくのです。
お仏 壇 でもっとも大 切 なのはご本 尊 ・阿 弥 陀 如 来 。
ご本 尊 を通 して、私 に向 けられた如 来 さまの願 いを聞 く。
(用 語 解 説 )
ほ う べ ん ほ っ し ん そんぎょう
方便法身尊形
真 如 その もの で ある 法 性 法 身 が 、 衆 生 救 済 の た めに 名 を示 し 形 を
現 した仏 身 のことを方 便 法 身 という
8
四十八願
仏 説 無 量 寿 経 上 巻 にでてくる四 十 八 の誓 願 のことです。有 名 な
のは
第一願
設我得仏 国有地獄 鬼畜生者 不取正覚
第十八願
設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国
乃至十念 若不生者 不取正覚
唯 除 五 逆 。誹 謗 正 法
です。
し ん じ ん ぎゃくとく
特 に 第 十 八 願 に つ い ては 、 蓮 如 上 人 の ご 文 章 「 信 心 獲 得 の 章 」 、
まつだい む
ち
「末 代 無 知 の章 」に参 照 されています。
じゅうにこう
十二光
しょうさん
阿 弥 陀 仏 の光 明 (仏 の智 慧 )の徳 を十 二 種 に分 かって称 讃 したもの。
ぶっせつ む り ょ う じ ゅ き ょ う
また十 二 光 仏 ともいい『仏 説 無 量 寿 経 』上 巻 に述 べられている。
むりょう
1.無 量 光
量 をはかることのできない光 。
2.無 辺 光
際 限 のない光 。
む
げ
3.無 碍 光
なにものにもさえぎられることのない光 。
4.無 対 光
くらべるもののない光 。
えんの う
5.炎 王 光
最 高 の輝 きをもつ光 。
6.清 浄 光
衆 生 のむさぼりを除 く清 らかな光 。
か ん ぎ
7.歓 喜 光
衆 生 の怒 りを除 き喜 びを与 える光 。
8.智 慧 光
衆 生 のまどいを除 き智 慧 を与 える光 。
9.不 断 光
常 に照 らす光 。
な ん じ
10.難 思 光
おもいはかることができない光 。
9
11. 無 称 光
説 き尽 くすことができず言 葉 も及 ばない光 。
ちょうにちがっ
12.超 日 月 光 日 月 に超 えすぐれた光 。
十 二 光 については、正 信 偈 に
ふ ほうむりょう む へ ん こ う
む
げ む た いこ う え んのう
しょうじょう か ん ぎ ち え こ う
普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光
ふ だ ん な ん じ む し ょ う こ う
ちょうにちがっこうしょうじんせつ
不断難思無称光 超日月光照塵刹
と引 用 されています
5. 仏 壇 を購 入 する時 の心 得 (ご本 尊 は本 山 で)
で)
お仏 壇 を求 められる時 に、前 もってこの項 をぜひ読 んでいただきたいと思 います。
あ ん ち ば し ょ
お仏 壇 を求 める時 には、まず「どの部 屋 のどの場 所 に置 くか」という安 置 場 所 〈次
項 参 照 〉と、だいたいの予 算 を頭 に入 れておく必 要 がありましょう。
次に、
ぶつだんてん
仏 壇 店 に行 くわけですが、その前 にお手 次 ぎのお寺 で、お仏 壇 を購 入 する際 の
注 意 点 なり、どの仏 壇 店 に行 けばよいかなどを聞 かれるとよいでしょう。
仏 壇 店 では、必 ず宗 派 名 (浄 土 真 宗 本 願 寺 派 または西 本 願 寺 )をはっきり告 げ
て下 さい。というのも、お仏 壇 は自 らの信 奉 する宗 派 のご本 尊 に入 っていただく
“家 ”であるわけですから、お迎 えするご本 尊 にふさわしいお仏 壇 でなければなら
ないからです。お飾 りの仏 具 等 もきちんと定 められていますので、宗 派 名 を告 げ
る必 要 があるわけです。
お仏 壇 にはおよそ、次 の3種 類 があります。
きん
うるし
きんぱく
1. 金 仏 壇 =木 地 に漆 をぬり、さらに金 箔 を押 したもの。
か ら き
こくたん
し た ん
さくら
2. 唐 木 仏 壇 =黒 檀 や紫 檀 、桜 などの木 地 をそのまま生 かしたもの。
3. 新 仏 壇 =プラスチックなどの新 素 材 で造 ったもの。
宗 派 によって構 造 が大 きく異 なるのは金 仏 壇 の場 合 で、同 じ浄 土 真 宗 でも本 願
10
くうでん
寺 派 (本 派 ・西 本 願 寺 )と大 谷 派 (大 派 ・東 本 願 寺 )とは、宮 殿 の屋 根 (本 派 は単
うるし
層 、大 派 は重 層 )や柱 (本 派 は金 箔 、大 派 は漆 のまま)などの違 いが数 多 くありま
す。
き む ぶつだん
なお、お浄 土 を表 現 するところから、浄 土 真 宗 では金 仏 壇 が伝 統 的 に用 いられ
てきました。予 算 が合 えば金 仏 壇 をおすすめします。
唐 木 仏 壇 や新 仏 壇 の場 合 は各 宗 派 共 通 のものが多 いのですが、それでも浄 土
真 宗 のご本 尊 は縦 長 ですので、ご安 置 するスペースもそれに合 った縦 長 のもの
みつ ぐ そ く
か へ い
を選 ばなければなりません。また三 具 足 (ローソク立 て、香 炉 、花 瓶 )などの仏 具
い は い
も本 派 のものを使 い、必 要 のない茶 湯 器 や位 牌 は購 入 しないようにします。 こう
してお仏 壇 が決 まれば、いよいよご本 尊 をお迎 えします。
左 より 金 仏 壇 (本 願 寺 派 ) 金 仏 壇 (大 谷 派 ) 唐 木 仏 壇
新仏壇
ぶつだんてん
ご本 尊 は仏 壇 店 で求 めるのではなく、本 山 からお受 けします。その旨 を仏 壇 店 に
ほんぞん
告 げ、同 時 に購 入 したお仏 壇 に合 うご本 尊 の大 きさを尋 ねます。ご本 尊 の大 きさ
だい
は「三 十 代 」とか「五 十 代 」というように代 で表 します。実 は、お仏 壇 は元 来 、ご本
尊 のこうした大 きさに合 わせて造 られてあるもので「三 十 代 のお仏 壇 」というように
言 い、これは「三 十 代 のご本 尊 」用 のお仏 壇 だということです。
本 尊 ・脇 掛 の大 きさ
種 別
たて
20 代
20 代
特小桐
11
よこ
19.7cm
9.1cm
17.0
8.5
30 代
27.3
10.1
50 代
34.8
12.1
70 代
42.4
15.2
100 代
51.5
18.2
150 代
66.7
24.2
200 代
79.2
29.4
300 代
100.0
36.4
もくぶつ
なお、木 仏 のご本 尊 の場 合 は「木 仏 点 検 」があり、市 販 のものではほとんど合 格
しません。本 山 で仏 師 を紹 介 してもらいましょう。
ご本 尊 の大 きさがわかれば、お手 次 ぎのお寺 を通 して、本 山 ・式 務 参 拝 局 の法
みょうがきん
物 係 に冥 加 金 をそえて申 し出 るとご本 尊 が交 付 されます。冥 加 金 など詳 しいこと
はご住 職 にお尋 ね下 さい。
お仏 壇 を求 める時 は宗 派 名 (浄 土 真 宗 本 願 寺 派 )をはっきり。
ご本 尊 はお手 次 ぎのお寺 を通 して本 山 から受 ける。
6. 仏 壇 を安 置 する場 所
先 日 、ある信 徒 の方 が訪 ねてきて「“お仏 壇 の位 置 が悪 い”と人 から言 われました。
す ま い
やはり移 動 させた方 がよいのでしょうか」と質 問 されました。その方 の住 居 は文 化
住 宅 で、2階 の和 室 にお仏 壇 が安 置 されています。何 度 かお参 りさせてもらいま
い んし ょう
したが、とりわけ“悪 い場 所 ”という印 象 はありませんでした。
い
ち
そこで「なぜ位 置 が悪 いと言 われたのですか」と聞 くと「北 向 きだから」とのこと。し
かべ
かし、部 屋 の構 造 は北 側 に窓 があり、南 側 が壁 になっています。その壁 を背 に安
置 してある今 の位 置 が一 番 ふさわしく思 いましたので「このままでよろしいですよ」
と申 しました。
12
よく「北 向 きは避 けた方 がよい」と言 われるのは、風 通 しや日 当 りの具 合 からで、
ひ か げ
他 に理 由 はありません。さらに、今 日 の住 宅 事 情 からすれば“北 向 き=日 陰 ”とは
必 ずしもならなくなったようです。
わけ
問 題 は“向 き”ではなく、むしろ、訳 もわからず人 から何 か言 われれば気 になりだ
まよ
す“私 の心 ”の方 でしょう。ちょっとしたことで不 安 になり、迷 ってしまう頼 りない心
しんじつ
-。そんな私 たちをしっかりと支 え、真 実 へ導 いて下 さる方 こそが、ご仏 壇 の“ご
主 人 ”である阿 弥 陀 如 来 なのです。
ねんとう
お仏 壇 の安 置 場 所 を考 える場 合 、まず念 頭 に置 かなければならないのが、この
よ
どころ
阿 弥 陀 如 来 のお心 と、それが家 族 みんなの心 の依 り 所 であるということでしょう。
つまり、家 族 揃 って心 静 かにお参 りできる場 所 に安 置 する必 要 があります。特 定
の人 しか使 わない、例 えば“おばあさんの部 屋 ”では、他 の家 族 がつい知 らん顔
になりがちですし、同 じ部 屋 でも入 り口 近 くとか、通 路 に当 たる所 では落 ち着 きま
せん。
なお、小 型 のお仏 壇 の場 合 の注 意 をひとこと。タンスの上 などあまり高 い所 に置 く
かんじん
ゆか
と、肝 心 の阿 弥 陀 さまが見 えず、逆 に床 に直 接 置 くと、見 おろすことになってしま
します。 目 よ り少 し 上 に 如 来 さまが拝 せるよう、イスや 台 を置 く など 工 夫 し て下 さ
い。
“北 向 き”の方 角 は気 にせず。
家 族 が心 静 かに礼 拝 できる所 。
目 より少 し上 にご本 尊 を拝 す。
13
7. 仏 壇 を購 入 (修 理 )した時 の法 要
たましい
「仏 壇 を買 いましたから 魂 を入 れて下 さい」-こんな依 頼 を受 けることがあります。
たま
しょうね
俗 に「お魂 入 れ」とか「お性 根 入 れ」とか言 われるものです。また、古 くなったお仏
たま
しょうね
壇 を修 理 (お洗 濯 )に出 す時 や処 分 する時 にも同 様 に「お魂 ぬき」「お性 根 ぬき」
ひょうげん
という表 現 がよく使 われます。
い ら い
そ う り ょ
しかし、依 頼 された僧 侶 の方 は、実 はこういう表 現 にはいつもひっかかるものがあ
たましい
るのです。だいいち、お仏 壇 自 体 に 魂 を入 れたり出 したり、そんな器 用 なまねは
できるはずもないのですから…。 浄 土 真 宗 では、お仏 壇 に新 しくご本 尊 をお迎
にゅう ぶ つ ほ う よ う
えする時 の法 要 を「 入 仏 法 要 (式 )」と言 います。“入 仏 ”といっても、仏 さまに魂 を
まよ
ぼ ん ぶ
入 れるのではありません。迷 いや欲 に満 ちた我 々凡 夫 を救 おうと、形 に表 れて下
さった阿 弥 陀 仏 にお仏 壇 へ入 っていただくのです。
「お仏 壇 を買 った」というのは、どういうことでしょうか。それは、何 よりもご本 尊 であ
る阿 弥 陀 さまをご安 置 するためです。つまり、お仏 壇 という“家 ”は、ご本 尊 である
にゅう ぶ つ ほ う よ う
“ご主 人 ”をお迎 えするために用 意 されるということです。したがって「 入 仏 法 要 」と
たた
は仏 さま(ご本 尊 )をお迎 えしたことを慶 び、そのお徳 を讃 える法 要 です。また「お
ひも と き
じ く
紐 解 き」という言 い方 もあります。これは、本 山 からお受 けしたご本 尊 のお軸 の紐
か
を解 いて、お仏 壇 にお懸 けするところからきています。
一 方 、すでにご本 尊 があって、古 いお仏 壇 から新 しいお仏 壇 にお移 しする場 合
せ ん ざ
やお仏 壇 を修 理 に出 す時 など、ご本 尊 を別 の場 所 にお移 しする場 合 は「遷 座 ざ)
せんぶつ
わた ま し
法 要 」「遷 仏 法 要 」と言 い ます。また、お移 りいただくのですから「お移 徒 」とも呼
ばれます。
せっかく新 しいお仏 壇 を求 めても、出 発 点 から“心 違 い”をしていてはいけません。
ごうまん
「仏 さまに魂 を入 れよう」としかねない傲 慢 な私 だからこそ、仏 さまをお迎 えし、真
実 のお心 をつねに仰 がねばならないのです。
14
新 しくご本 尊 を迎 えるときは「入 仏 法 要 」 × お魂 入 れ × お性 根 入 れ
ご本 尊 を移 すとき
す ときは「遷
とき は「遷 座 (遷 仏 )法 要 」 ×お魂 ぬき
× お性 根 ぬき
い は い
8. 位 牌 について(真 宗 では用 いません)
い は い
故 人 の法 名 を刻 んだ位 牌 をお仏 壇 の中 に入 れているお宅 がけっこうあります。そ
ぶっ ぱん
かく
の位 牌 の前 にはお仏 飯 やお水 が供 えられていたりひどい場 合 には、ご本 尊 が隠
い は い
れてしまう位 置 に位 牌 が置 かれていたりします。これでは何 のためにお仏 壇 を求
め、ご本 尊 をお迎 えしたのかわかりません。どうもこの位 牌 が「お仏 壇 は死 者 をま
ご か い
つる所 」という誤 解 を助 長 しているように思 われます。この際 、浄 土 真 宗 では“位
牌 を用 いない”ということをしっかりおさえておいて下 さい。
じ ゅ か
そもそも位 牌 というのは、中 国 の儒 家 で用 いられていたもので、故 人 の生 存 中 の
か ん い
せいめい
ふだ
しんれい
官 位 と姓 名 を書 き記 した牌 が位 牌 で、そこには神 霊 が宿 ると信 じられていまし た。
せ ん ぞ すうはい
やがて日 本 の先 祖 崇 拝 と結 びつき、仏 教 にも転 用 されるようになったのですが、
れい
やど
根 底 には仏 教 の教 えとかけ離 れた「霊 の宿 る所 」という意 識 が、なお色 濃 く残 っ
ていると言 わ ねば なりません。 位 牌 を故 人 と 見 た てて、 生 前 好 きだった食 物 を
そ
うるお
供 なえたり、またのどを 潤 すためにとお水 を供 えるのも、こうした意 識 の表 れで
す。
れ いこん かん
浄 土 真 宗 で位 牌 を用 いないのは、そうした仏 教 にそぐわない霊 魂 観 に基 づいた
しの
ものだからです。 それでは、故 人 を偲 ぶよすがは何 もないのかと言 うと、そうでは
きろくちょう
ほうみょう
ぞくみょう
ありません。過 去 帳 は、先 祖 の記 録 帳 のようなもので、故 人 の法 名 、俗 名 、死 亡
年 月 日 などを記 しておきます。命 日 や法 事 の時 に過 去 帳 を置 く場 合 は台 に載 せ
ちゅうだん わ き
げ だ ん
て開 け、ご本 尊 の妨 げとならないようにお仏 壇 の中 段 脇 か、下 段 に置 きます。も
ほうみょうじく
ちろん、過 去 帳 の前 にはお水 や食 物 などは供 えません。また、法 名 軸 はお仏 壇
そくばん
の側 板 にかけるようにします。
15
位 牌 は用 いず、法 名 は過 去 帳 に
平 たく言 えば、位 牌 は故 人 が“さまよう”宗 教 に必 要 とされるものです。あなたの
な
故 人 はさまよっておられるのでしょうか? いや、違 いますね。仏 と成 ってお浄 土
ゆ
に往 かれたはずです。
過 去 帳 の記 し方 (例 )
法 名 、死 亡 年 月 日 、俗 名 、年 齢 、関 係 などを記 します。
上 の例 では3行 を使 っていますが、1行 に全 てをおさめても構 いません。
俗 名 は戸 籍 の名 前 を使 った方 が後 々の子 孫 にわかりやすいでしょう。
なお、すでに位 牌 がある場 合 は、お手 次 ぎのお寺 のご住 職 にご相 談 下 さい。
真 宗 では位 牌 を用 いない。
故 人 の法 名 は過 去 帳 に…。
過 去 帳 の前 に供 物 はいらない。
16
しょうごん
9. 仏 壇 の荘
の 荘 厳 (お飾 り)
しょうごん
し か た
お仏 壇 の中 の仏 具 をどう配 置 するか、つまりお荘 厳 の仕 方 ですが、このことがあ
じ こ り ゅ う
しょうごん
いまいなまま自 己 流 で配 置 されている方 が意 外 に多 いようです。正 しいお荘 厳 を
ととの
知 ることによって、すっきり整 ったお仏 壇 にして下 さい。
しょうごん
そこで、“お荘 厳 ”ということですが、これはご本 尊 ・阿 弥 陀 如 来 を美 しくお飾 りす
ふ
ることです。心 を込 めてお飾 りすることにより、如 来 さまのお心 に触 れさせていただ
くのです。お荘 厳 する対 象 をくれぐれも間 違 わないように…。
具 体 的 に仏 具 の配 置 を述 べますと-、
上段
うわじょく
し
ぐ そ く
け びょう
上 卓 に四 具 足 のお荘 厳 をします 。四 具 足 は 左 右 対 称 に華 瓶 一 対 〈 華 瓶
か し ゃ
はこの項 参 照 〉・正 面 手 前 に火 舎 ・その後 ろにローソク立 てを置 きます。さ
ぶっ ぱんだい
らに、お仏 飯 をお供 えする場 合 は、仏 飯 台 を用 いず、お仏 飯 一 対 を火 舎
の両 側 やや奥 に供 えます。
し
ぐ そ く
四 具 足 とお仏 飯 (上 卓 上 )
一 般 には華 瓶 と仏 飯 器 が一 直 線 に並 ぶように図 示 されますが、実 際 には
仏 飯 器 をやや奥 に、華 瓶 をやや手 前 に配 置 します。ローソク立 てには常 に
17
も くろ う
朱 色 の木 蝋 を立 てておきます。このローソク立 てにローソクを立 てて点 火 す
ることはありません。
ふでがえ
うわじょく
写 真 の上 卓 には左 右 の辺 に筆 返 しが付 いていますが、上 卓 には筆 返 しが
ご ま だ ん
無 いのが正 式 と聞 いていま す。上 卓 は、真 言 宗 の護 摩 壇 を横 に半 分 にし
か し ゃ
け びょう
たもので、火 舎 や華 瓶 も護 摩 壇 の具 足 だったそうです。筆 返 しがないのも
このためです。
うわじょく
け びょう
※上 卓 が小 型 の場 合 は、上 卓 に華 瓶 一 対 と火 舎 を置 き、火 舎 の奥 正 面
にお仏 飯 を供 えます。上 卓 に華 瓶 と火 舎 を置 くことによって、仏 飯 器 を
載 せるスペースがなくなる場 合 は、ご本 尊 のすぐ前 に仏 飯 台 を置 いてお
供 えすればよいでしょう。
※上 卓 がない場 合 ご本 尊 のすぐ前 に仏 飯 台 を置 き、お仏 飯 をお供 えしま
す。
し ゅ み だん
く
げ
たかつき
さ ゆ う つ い
※須 弥 壇 上 に、お供 物 を盛 る供 笥 あるいは高 杯 を左 右 対 に置 きますが、
そこ
まえじょく
スペースがなければ、お荘 厳 の損 なわれない程 度 に、前 卓 の両 隣 に置
いてもかまいません。
供 笥 (くげ)
高 杯 (たかつき)
ほ う だて
供 笥 の方 立 は、向 かって右 側 が上 に乗 るように立 てる
高 杯 は、正 式 の仏 具 ではないが、供 笥 の代 用 として用 いられる
中段
18
まえじょく
つくえ
ひ
みつ ぐ そ く
前 卓 と呼 ばれる 卓 に、香 ・花 ・灯 を供 えるための三 具 足 を置 きます。
か ひ ん
三 具 足 とは、中 央 の香 炉 、向 かって右 側 のローソク立 て、左 側 の花 瓶 の3
つの仏 具 をいいます。
こ う ろ
ど
ご う ろ
かな ご う ろ
このうち香 炉 は、通 常 、手 前 に土 香 炉 、その奥 に香 炉 台 を置 いて 金 香 炉
の
を載 せておきます。
。
土 香 炉 と金 香 炉 を前 後 に並 べておけないような場 合 は、通 常 、どちらか1
つを置 いておきます。
みつ ぐ そ く
まえじょく
三 具 足 (前 卓 上 )
うちしき
前 卓 には筆 返 しがついています。寺 院 では法 要 時 に打 敷 をつけますが、
この時 は筆 返 しを取 り外 すと聞 いています。そういえば、本 山 の荘 厳 を見 る
と筆 返 しがありませんね。
土 香 炉 と金 香 炉
香 炉 台 の奥 を広 く空 けるのは、元 禄 以 前 はお仏 飯 を香 炉 台 の後 ろに供 え
たからとか。ここで焼 香 する場 合 は、金 香 炉 と土 香 炉 を転 置 します。
19
この三 具 足 の位 置 がきちんと定 まると、お仏 壇 もすっきりしてくるでしょう。
みつ ぐ そ く
か
また、お仏 壇 が小 型 の場 合 、中 段 に三 具 足 を置 くとご本 尊 が隠 くれたり、
ローソクの灯 が他 に燃 え移 る恐 れがあるものもあります。そんな場 合 、前 卓
ごと下 段 に置 くか、前 卓 が固 定 式 ならば、直 接 、下 段 に置 くのもやむをえ
ないでしょう。
けびょう
なお、報 恩 講 や年 忌 などの法 要 時 には、花 瓶 とローソク立 てをそれぞれ一
ご
ぐ そ く
みつ ぐ そ く
対 にした五 具 足 でお荘 厳 します(なければ三 具 足 でもよい)〈五 具 足 につ
いてはこの項 〉。
下段
ご わ さ ん じょく
御 和 讃 卓 に御 和 讃 箱 を載 せ、左 側 には御 文 章 箱 、右 側 には過 去 帳 台 や
ごんぎょう
リンを置 きます(勤 行 の時 、リンは右 膝 の斜 め前 あたりに降 ろす)。
かな と う ろ う
りん と う
よ う ら く
うちしき
この他 のお飾 りとして金 灯 篭 や輪 灯 、瓔 珞 、打 敷 などがありますが、要 はそ
れぞれのお仏 壇 に合 った大 きさの仏 具 を用 い、不 要 なものをお仏 壇 の中
に入 れないことです。
仏 具 は定 められた位 置 に。
10. 灯 明 の意 味 (ローソクの火 はなぜつける?)
しょうごん
みつ ぐ そ く
お荘 厳 の基 本 となるのが三 具 足 であることは前 項 で述 べましたが、それでは、こ
てんしょく
れらの仏 具 を用 いてローソクに火 をつけ(点 燭 )、お花 を立 て、お香 をくべるのは
いったいどんな意 味 があるのでしょうか。
まずは、ローソクの火 について味 わってみましょう。ローソクに火 をつけるのはなぜ
か。ある人 は「単 にお仏 壇 の中 を明 るくするため」と思 っているかもしれません。ま
た、もっと現 実 的 に「お経 を読 む時 のあかり」と考 えているかもしれません。 しか
20
かんじん
し、それでは肝 心 なことが抜 けてしまっています。というのも、お荘 厳 とはご本 尊 の
如 来 さまを美 しくお飾 りすることでした。しかも、単 なる飾 りつけではありません。如
来 さまが私 に向 けて下 さっているお心 を深 く味 わう上 でのお飾 りなのです。です
から、ローソクの火 も、確 かに私 がつけるのですが、ついた火 は如 来 さまのお徳 と
して味 わうことが大 切 になってきます。
お灯 明
ローソクの火 には二 つの面 があります。
一 つは“光 ”です。
ち
え
しょうちょう
周 囲 を明 るく照 らすその光 は、如 来 さまの智 慧 を象 徴 すると言 われています。
くま
心 の奥 底 までも知 り尽 くし、どろどろとした迷 いの闇 を隈 なく照 らして真 実 に
ち
え
こうみょう
向 かわしめる智 慧 の光 明 です。
もう一 面 は“熱 ”です。
これは如 来 さまの慈 悲 を表 すと言 われています。熱 が氷 を解 かすように、お
ぬく
慈 悲 の“温 もり”が私 の固 く閉 ざした心 を解 きほぐして下 さいます。またその炎
じ
ひ
からも、休 むことなくはたらきかけて下 さっている如 来 さまのお慈 悲 の心 が伝
わってくるでしょう。
このように味 わってきますと、ローソクの火 がこれまで以 上 に輝 いてくるのではあり
ませんか。
21
よろこ
ローソクの色 は、一 般 に平 常 や悲 しみの時 は白 、 慶 びの時 は赤 を用 います。
すす
お仏 壇 のためには洋 ローソクよりは和 ローソクの方 が、煤 の性 質 上 、よいとのこと
です。
ローソクの火 から、如 来 さまの智 慧 と慈 悲 のお心 を味 わおう。
慶 びの法 要 には赤 いローソク。
11.仏 花 の意 味 (花 びらはなぜこちら向 き?)
うるお
ご承 知 のように、花 は万 人 が愛 すると同 時 に、生 活 に 潤 いをもたらせてくれます。
床 の間 の生 花 に心 が和 み、野 の草 花 に心 洗 われる方 も多 いことでしょう。また、
か れ ん
その可 憐 な美 しさは病 人 の沈 みがちな心 を慰 め、結 婚 式 では文 字 通 り“花 嫁 ”に
花 を添 えます。
けいあい
かんしゃ
このように誰 からも喜 ばれる花 ですから、敬 愛 や感 謝 の代 弁 者 ともなります。表 彰
式 や発 表 会 で花 束 が贈 られたり、西 洋 の若 者 たちが求 愛 のしるしに贈 ったり-と
いった調 子 です。 こうして見 てきますと、心 からお敬 いする如 来 さまに花 をお供
えするのも、ごく自 然 な行 為 だと言 える のではないでしょうか。すなわち、仏 花 を
たた
供 えるのは如 来 さまのお徳 を讃 え、そのご恩 に感 謝 する気 持 ちの表 れなのです。
しょうごん
しかし、ただ単 にこちらの気 持 ちを表 すだけではないのがお荘 厳 です。
もしそれだけなら、自 分 が供 えた花 にもかかわらず、花 びらが如 来 さまのほうを向
かずに、私 の方 に向 けられている説 明 がつきません。これは前 項 の「ローソクの火 」
と同 じことで、私 が供 えた花 はそのまま私 に注 がれている如 来 さまのお心 を表 し
ていると味 わっていくのです。
むりょうじゅ
はか
阿 弥 陀 如 来 は無 量 寿 如 来 とも申 され、量 りなきいのちの仏 さまです。短 い一 生 に
もかかわらず、そのいのちを精 いっぱい輝 かせて咲 いている花 を通 して、すべて
22
を生 かし育 んで下 さる如 来 さまのいのちに触 れさせていただきましょう。 まだ、み
ずみずしく清 らかな花 からお浄 土 を想 い、素 直 な気 持 ちになって如 来 さまのお慈
悲 を味 わわせていただきたいものです。なお、仏 花 の種 類 ですが、以 上 のことか
ら言 えば、造 花 はふさわしくないことがわかりましょう。庭 先 の花 でもけっこうです
から、四 季 おりおりの生 花 を心 を込 めてお供 えして下 さい。ただし、毒 花 やトゲの
ある花 、悪 臭 を放 つ花 などは避 け、悲 しみの時 は通 常 、赤 い花 は遠 慮 します
花 は敬 愛 、感 謝 のしるし。
いきいきと咲 く花 から、如 来 さまのいのちを感 じよう。
トゲや悪 臭 、毒 花 は避 ける。
悲 しみの時 は赤 い花 を避 ける。
23
12. お香 の意 味 (線 香 と焼 香 の使 いわけは?)
たいしゅう
お香 は体 臭 などの悪 臭 を除 き、心 身 ともに落 ちつかせてくれるところから、これを
かぐわ
かお
仏 前 にお供 えすることが早 くから行 われてきました。 芳 しい薫 りで、すがすがしく
なり、心 からお敬 いする如 来 さまに接 してきたのです。また、そうしたお香 をかぐこ
とによって清 らかなお浄 土 を想 い、さらには、誰 かれと差 別 することなくゆきわたる
じ
ひ
お香 の薫 りから、如 来 さまのわけへだてなく注 いで下 さるお慈 悲 の心 にも触 れさ
せていただきましょう。
せんこう
しょうこう
ところで、そのお香 の種 類 は、一 般 家 庭 では線 香 と焼 香 用 のお 香 ぐ らいではな
いかと思 います。いずれも香 炉 にくべるのは言 うまでもありませんが、香 炉 にも種
類 があり、使 い分 けられています。
土 香 炉 (左 )と 金 香 炉 (右 )
ど
ご う ろ
と う じ き せ い
まず、 日 常 的 に 使 われる 線 香 の 方 は 、 土 香 炉 と 呼 ば れる 口 の 広 い 陶 磁 器 製 の
香 炉 で燃 やします。この際 、線 香 は立 てずに短 く数 本 に折 って横 に寝 かせます。
ふた
かな ご う ろ
次 に、法 事 などの改 まった時 に行 う焼 香 は、蓋 のついた金 属 製 の金 香 炉 を用 い
ひ だ ね
かな ご う ろ
ます。つまり、火 種 を入 れて使 用 するのが金 香 炉 なのです。時 々、金 香 炉 で線 香
を燃 やす 方 がいますが、金 香 炉 では口 が狭 く、形 の上 からも線 香 を寝 かせるに
ど
ご う ろ
は適 していません。どうぞ土 香 炉 を用 いて下 さい。
ふた
こ う ご う
中 央 に香 炉 、左 右 に蓋 と香 盒 を置 く
24
ただ、いわゆる“回 し焼 香 ”などおおぜいの方 が焼 香 する場 合 、お仏 壇 の金 香 炉
では小 さすぎることがあります。そんな時 は土 香 炉 を代 用 されてもよいでしょう。な
お、回 し焼 香 される場 合 、お盆 を用 意 し、その左 側 に香 炉 を、また右 側 には刻 ん
こ う ご う
だお香 を入 れた香 盒 といわれる容 器 を置 きます。
じんこう
焼 香 に使 うお香 には沈 香 、十 種 香 、五 種 香 などがあります。なるべく薫 りよいお
香 をお使 い下 さい〈焼 香 の作 法 はこの項 〉。
みつ ぐ そ く
香 炉 の配 置 については先 にも少 し触 れましたが、三 具 足 として、ローソク立 て、花
瓶 とともに前 卓 に置 くのは金 香 炉 か土 香 炉 のどちらか1つになるでしょう。というの
まえじょく
も、家 庭 のお仏 壇 の前 卓 では、両 香 炉 を前 後 に並 べて置 けるだけのスペースが
かな ご う ろ
ないからです。そこで焼 香 する場 合 のみ金 香 炉 を前 卓 に置 き、それ以 外 は土 香
炉 を置 いておきます(使 用 しない香 炉 は上 段 の香 炉 台 あるいは上 卓 に載 せてお
く)。
お香 によって清 らかなお浄 土 と如 来 さまのお慈 悲 を味 わう。
線 香 は土 香 炉 。焼 香 は金 香 炉 。
線 香 は立 てずに寝 かせる。
25
ぶ っぱん
く も つ
13. 仏 飯 と 供 物 について
ほ う じ
法 事 でお参 りしますと、時 たま、お仏 壇 の中 が何 種 類 もの果 物 やお菓 子 、酒 など
せんりょう
い は い
で“占 領 ”されているお宅 に出 くわします。また、ごていねいにも位 牌 (浄 土 真 宗
では用 いない)の 前 に同 様 の 食 物 や お 茶 、お 水 を置 いてい るところも あります 。
そんな場 合 、必 ずと言 ってよいほど、肝 心 のローソク立 てや香 炉 、花 瓶 が“のけ物 ”
きょう じょく
にされ、経 卓 の上 などに載 せられていたりするものです。お供 えはなにもたくさん
ちつじょ
すればよいというものではありません。それよりもお仏 壇 の中 は秩 序 よく、調 和 のと
かざ
れたお飾 りにすることの方 が大 切 でしょう。
そこでお供 え物 の心 得 について述 べてみましょう。実 は、これまでに触 れたローソ
クの火 (灯 )やお花 (華 )、お香 (香 )もお供 えする重 要 な物 だったのですが、ここ
ぶっぱん
く も つ
では食 物 のお供 えについて述 べます。すなわち、お仏 飯 と、一 般 にお供 物 といわ
もち
れる餅 、菓 子 、果 物 などです。
た
お仏 飯 は、他 のお供 物 とは別 に、特 に大 事 にされている物 で、毎 朝 ご飯 が炊 け
はす
れば一 番 にお供 えすることになってい ます。仏 飯 器 と呼 ばれる専 用 の器 に蓮 の
うわじゃく
わきがけ
つぼみ形 に盛 り、ご本 尊 前 の上 卓 、あるいは仏 飯 台 に置 きます。もし、両 お脇 懸
か こ ち ょ う
い は い
が御 影 像 なら、その前 にもお供 えすることもありますが、過 去 帳 や位 牌 の前 には
供 えるものではありません。
朝 、お供 えしたお仏 飯 は、午 前 中 にお下 げすることになっていますが、最 近 はパ
ン食 も増 え、必 ずしも朝 ご飯 を炊 くとは限 らなくなりました。そんな場 合 、朝 でなく
ても、ご飯 を炊 けば 必 ず真 っ先 にお仏 飯 としてお供 えするよう心 がけて下 さい 。
また、法 事 の時 など、他 のお供 物 はあるのに、お仏 飯 が供 えられていない場 合 が
あります。せっかくの法 事 ですから、ご飯 を炊 いてお供 えしていただきたいもので
す。
く も つ
次 に お 供 物 で す が 、 法 事 の 時 な ど に お 供 え し 、 作 法 の 上 か ら (1) 餅 (2) 菓 子
26
く
げ
たかつき
(3)果 物 の順 に重 んじられています。供 笥 や高 杯 に相 応 の量 を載 せてお供 えす
つい
るわけですが、同 じ物 を対 にして供 えるのが原 則 です。その場 合 、買 ってきたお
ふくろ
菓 子 を袋 ごとそのまま供 えるというのではなく、 袋 から適 当 に取 りだし、形 よく盛 り
つけて下 さい。
お供 物 の量 が多 ければお仏 壇 の中 ではなく、横 か斜 め前 あたりに台 やお盆 を用
かざ
意 してみてはいかがでしょう。要 はお仏 壇 の中 のお飾 りを乱 さないようにすること
しんじょうてき
です。 お供 え物 というのは、心 情 的 には如 来 さまやご先 祖 に「食 べていただく」
しゅしょく
ようにお供 えするわけですが、むしろ、主 食 となっているご飯 をはじめとして、“私
うるお
たち自 身 ”が生 きていく上 で欠 かせない物 であり、 潤 いを与 えてくれる「食 物 の代
にょらい
表 」であるわけです。そうしたいのちの恵 みを、如 来 さまのお恵 みとして心 から慶
び、感 謝 する気 持 ちが大 切 なのです。
よそ
その意 味 からまた、他 からいただいた物 も如 来 さまにお供 えする習 慣 をつけましょ
さ
あ り が た さ
う。そして如 来 さまからの“お下 がり”としていただくところに、物 の有 り難 さ も染 み
なまぐさい
付 いてくるというものです。なお生 臭 い物 は避 けます。
お仏 飯 はお供 え物 の第 一 。できれば毎 朝 供 えましょう。
お供 物 は供 笥 にきちんと盛 る。
量 が多 ければ横 に台 を設 ける。
お供 え物 は如 来 さまの恵 み。
14. 華 瓶 とお水 (茶 湯 器 で水 やお茶 は供 えない)
お仏 壇 に、茶 湯 器 や一 般 のコップを使 って水 を供 えている方 がいます。これはほ
しゅうかんてき
ほこ
とんど習 慣 的 なもののようで「毎 日 欠 かしたことがありません」と、誇 らしげにおっし
ゃるおばあさんもいます。「なぜ水 を供 えるの?」と聞 くと「仏 さまものどが渇 かれる
でしょう」との返 事 。
27
また、ある雑 誌 の仏 事 に関 する記 事 に「仏 さまが飲 めるように、茶 湯 器 のフタは取
うるお
って供 えます…」とありました。どうも、水 を供 えるのは「仏 さまや故 人 ののどを 潤
すため」と思 っているようです。
おうじょう
は っ く ど く すい
しかしながら、故 人 が往 生 された如 来 さまのお浄 土 には「八 功 徳 水 」という“特 上 ”
のお水 がふんだんにたたえられてあり、わざわざ私 たちが“水 道 ”の水 を差 し上 げ
る必 要 はないわけです。
ついぜん
さらに、こうした「のどの渇 きをいやすため」という行 為 は“追 善 ”の意 味 合 いが濃 く、
如 来 さまのお心 にはそいません。ですから、浄 土 真 宗 では茶 湯 器 やコップを使 っ
て「仏 さまに飲 んでいただく」というような水 の供 え方 はしないのです。
と言 っても「水 そのものがいけない」というのではありません。水 は、私 たちの生 活
に欠 かせない貴 重 な自 然 の恵 みです。この尊 い水 を如 来 さまのお恵 みと味 わい、
ほ う お ん ぎょう
生 かされていることへの感 謝 から仏 前 にお供 えするなら、それはりっぱな報 恩 行
け びょう
でしょう。 そういう報 恩 の思 いからお水 を供 えるために、浄 土 真 宗 では華 瓶 とい
う仏 具 を用 います。仏 事 には一 定 の作 法 があり、ご飯 (お仏 飯 )を供 えるにはお
け びょう
茶 碗 でなく、仏 飯 器 を用 いるように、お水 を供 えるには茶 湯 器 でなく、華 瓶 を用
いるというわけです。
華 瓶 (けびょう)
しきみ
さ
うわじゃく
すなわち、華 瓶 一 対 に水 を入 れ、 樒 または青 木 を挿 し(色 花 は用 いない)、上 卓
しきみ
こうずい
に置 きます。 樒 を入 れるのは香 木 だからで、つまり香 水 として供 えるのです。仏 さ
まのお恵 みを浄 らかな香 水 にして供 えるところに敬 いと感 謝 の心 が込 められてい
28
ると言 えましょう。
なお、華 瓶 がなければあえて供 える必 要 はなく、お茶 も供 えません。
茶 湯 器 で水 やお茶 は供 えない。
け びょう
しきみ
お水 は華
は 華 瓶 に入 れ、 樒 を挿 して供 える。
15. 仏 壇 の整 理 と修 理
よ
お仏 壇 はご本 尊 を安 置 し、家 族 一 人 ひとりの心 の依 り所 となる所 ですから、つね
が っ き
に清 潔 で気 持 ちよく整 えておかなければなりません。ところが、月 忌 参 りをしてい
はんざつ
ますと、お仏 壇 の中 に不 要 なものも交 じって仏 具 が煩 雑 に置 かれていたり、ほこり
がたまっていたりするお宅 があります。 こうした光 景 に出 会 うと、改 めて「お仏 壇
は心 の鏡 だな」と思 います。つまり、お仏 壇 を見 れば、その家 庭 の日 ごろの心 の
状 態 が想 像 できるというものです。
お仏 壇 の中 を整 える第 一 歩 は、それぞれの仏 具 を定 められた所 にきちんと置 くと
きょう じゃく
いうことでしょう。よく経 卓 の上 にローソク立 てや香 炉 を置 いている方 がいますが、
経 卓 には経 本 (聖 典 )のみを置 き、ローソクや線 香 の箱 、マッチなどは置 かないよ
うにします。また、ローソク立 てと香 炉 は三 本 足 になっているのが多 く、この場 合 は
一 本 を正 面 にくるように置 きます。
次 に 、 不 要 な も の を 置 か な い と い う の も 大 切 で す 。 例 え ば 、 (1) 他 宗 の 仏 像 や
そ し ぞ う
祖 師 像 (2)お守 りの札 (3)茶 湯 器 やコップ (4)故 人 の写 真 (5)位 牌 -などです。
これらは浄 土 真 宗 のお仏 壇 にはふさわしくありませんので、お手 次 ぎのお寺 に相
談 され、取 り除 いて下 さい。
うるし
から
きんぱく
最 後 に掃 除 ですが、漆 塗 りの部 分 はやわらかい布 で乾 ぶきし、金 箔 の部 分 は毛
はら
きら
ぼうきや乾 いた筆 で軽 く払 います。ともに塩 分 や水 分 を嫌 いますので、手 で直 接
しんちゅう
ふれないことです。真 鍮 製 の仏 具 は金 属 磨 きで磨 きます。
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また、マッチの燃 え かすを香 炉 やおリンの中 に入 れる方 がいますが、マッチ消 し
や灰 皿 へ入 れるようにして下 さい。
せんたく
お仏 壇 自 体 が傷 んでくれば、“お洗 濯 ”(修 理 )すると新 品 同 様 になります。
仏 具 は定 められた位 置 に-。
三 本 足 の仏 具 は正 面 に一 本 。
お札 、写 真 はお仏 壇 に入 れない。
お仏 壇 が傷 めば“お洗 濯 ”
16. 偲 ぶ先 祖 に、我 が家 も他 家 もない
「お仏 壇 に“他 人 が入 る”と先 祖 が気 を悪 くする」と思 っている方 はいませんか?
ある日 、こんな相 談 を受 けました。
「妻 の両 親 が亡 くなり、誰 もおまつりする者 がいません。宗 派 も違 う他 家 の故 人 に
なるわけですが、はたして我 が家 のお仏 壇 でおまつりしてもよろしいものでしょうか」
と。
まず、「おまつりする」ということと、お仏 壇 の意 義 は先 の項 で述 べましたので、よく
そうだんごと
味 わっていただきたいと思 います。 この相 談 事 について結 論 から言 えば、ご先
” しの
祖 が気 を悪 くすることはありませんし、他 家 のご先 祖 を “偲 ぶ”のも一 向 にさしつか
な わ ば
えありません。それどころか、お仏 壇 に“縄 張 り”があるかのように我 が家 と他 家 を
しの
区 別 してご先 祖 を偲 ぶことの方 がよほど問 題 です。
へ い さ て き
せ ん ぞ かん
こうした閉 鎖 的 な先 祖 観 は、世 俗 的 な感 覚 をそのままを来 世 にも当 てはめようと
ひんじゃく
する貧 弱 な発 想 から生 まれたものです。「先 祖 をおまつりする」という言 葉 の裏 に
は、実 はこのような自 己 中 心 的 な発 想 があるようです。 そのこだわりの心 、殻 を
打 ち破 り、すべてのいのちの尊 さに目 覚 めさせて下 さる方 こそが、ご本 尊 ・阿 弥
陀 如 来 なのです。生 前 お世 話 になり、育 てていただいた縁 ある方 を偲 びつつ、如
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来 さまのお慈 悲 の心 を慶 ぶのに「我 が家 の先 祖 か否 か」と、何 のわけへだてが必
要 でしょうか。
ですから、過 去 帳 が あれば、“我 が家 ”の先 祖 とともに、そうした縁 ある方 々の法
名 等 を記 されて一 向 にかまいません。ただしその際 、後 々のためにも続 き柄 (関
係 )も書 いておきましょう。 くりかえしになりますが、「先 祖 を偲 ぶ」ということは、我
と他 との間 に垣 根 を作 るのではなく、身 近 な縁 ある方 々を通 して、はかりないいの
く え い っ し ょ
ちに支 えられている“私 ”に気 づき、感 謝 することでしょう。お浄 土 が倶 会 一 処 と言
われるゆえんを味 わって下 さい。
他 家 の先 祖 もお仏 壇 で偲 べばよい。
身 近 な先 祖 を通 して、はかりなきいのちに支 えられている“私 ”に気 づくことが
大切。
17. 1軒 に2つのお仏 壇 が……
い ど う
昔 ならば、何 代 にもわたって住 んでいた家 も、近 ごろでは人 びとの移 動 が激 しく、
か く か ぞ く
どうきょ
一 人 住 まいであったり、核 家 族 であったり、時 には三 世 代 同 居 であったりと、形 が
さまざまに変 わってきています。 そんな状 況 ですから、お仏 壇 のない家 も多 く、
また逆 に、1軒 の家 でお仏 壇 が2つになってしまうケースもでてきます。
わか ふ う ふ
あるご門 徒 の家 でも、はじめ若 夫 婦 が住 んでいて、お仏 壇 があったのですが、そ
こへおばあさんが同 居 することになり、おばあさんもお仏 壇 を持 って若 夫 婦 の家
にやってきました。1軒 に2つのお仏 壇 が安 置 されることになったわけです。が、そ
れがもとでいざこざが起 きてしまいました。 というのは、ご主 人 がどこからか「1軒
に2つのお仏 壇 があるのはよくない」と聞 いてきて、おばあさんの持 ってきたお仏
壇 を処 分 しようとしたからです。おばあさんは怒 って「私 のお仏 壇 ですよ。勝 手 な
まねはさせません。処 分 するなら、あなたのお仏 壇 を…」となった次 第 です。 家
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よ
族 みんなの心 の依 り所 として、また心 の安 らぎを与 えて下 さるはずのお仏 壇 が、こ
れでは台 なしです。
せ ん ゆ う か
問 題 は2つあって、1つは“私 のお仏 壇 ”と、お仏 壇 を専 有 化 していることです。お
ほんぞん
仏 壇 を安 置 するのは、ご本 尊 ・阿 弥 陀 如 来 をお迎 えするためです。その如 来 さま
ほうべん
は、元 来 「色 もなく形 もましまさぬ」のを、我 々凡 夫 に真 実 を知 らせるために“方 便 ”
として形 を表 されているのです。ですから「このお仏 壇 の如 来 さま」とか「あちらの
如 来 さま」とか分 けるべきでなく、家 族 が心 を一 つにして礼 拝 するものなのです。
その意 味 から「一 家 にお仏 壇 は一 つ」でよいわけです。
しかし「お仏 壇 が2つあってはよくない」と、何 か悪 いことでも起 こるように考 えるの
も間 違 いです。それにこだわって、人 の心 を傷 つけては何 もなりません。要 は家
族 の一 人 ひとりが如 来 さまの真 実 の心 を仰 ぎ、心 安 らかに手 を合 わせる所 がお
仏 壇 であるということを忘 れないことです。
お仏 壇 は1軒 に1つでよい。
しかし「2つあってはいけない」とこだわるのも問 題 。
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