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「春琴抄」における 谷崎潤一郎の美意識の世界 劉暘瑒 日語語言文学
「春琴抄」における 谷崎潤一郎の美意識の世界 劉暘瑒 日語語言文学 2009 年 5 月 1 【 摘 要 】日本唯美派代表作家谷崎润一郎(1886 年—1965 年), 以独具风格的小说创作获得突出成就并享有世界声 誉。他小说中体现的“美”在日本文坛造成了前所未 有的轰动。大正期的作品中完全没有涉及的“强者之 美”,转入昭和期后遂随着尝试东洋回归再度将“一 切美者即是强者”的世界刻画渲染。《春琴抄》则极 致地体现了这一思想。谷崎通过塑造“春琴”女主人 公的形象,不断融入“以美为强”的观念,试图实现 他的东洋回归。本文将围绕《春琴抄》,从人物描写 内容、故事背景以及语言等方面试图解释谷崎润一郎 的美意识世界。此外,本文还将就谷崎作品中显现的 西洋美的特性着手,试图说明谷崎文学骨子里依旧隐 藏着对西方美的崇拜。 【 关 键 词 】东洋回归 阴影美 关西移住 视觉丧失 2 【 要 旨 】谷崎は新人作家として華やかに文壇にデビューし た。彼の作品の中に現れている「美」の世界は文壇 に鮮やかな衝撃を与え、従来の日本文学にはあまり 見られなかった異質な主題であった。谷崎は、大正 期の作品では「強者としての美」に全く触れなかっ たが、昭和期になると日本回帰とともに「美しいも のは強者である」という世界を再び描いている。そ の世界がよくわかる作品は「春琴抄」である。谷崎 は、春琴という女性を造形し、「強者」としての女 性美を描きながら、日本回帰を試みた。「春琴抄」 をめぐり、そうした美意識の顕現を人物の描写の内 容、物語の背景及び言語から把握する。また、谷崎 にとっての日本回帰と作品の中の西洋的なものと 比べながら谷崎文学の根底について述べていく。 【キーワード】日本回帰 陰翳美 関西移住 視覚喪失 3 1、はじめに……………………………………………………………………5 2、先行研究……………………………………………………………………6 2.1 作品創作背景説明……………………………………………………„6 2.2 先行研究の谷崎潤一郎の「春琴抄」までの作品における美意識……6 2.3 問題点の提出 …………………………………………………………… 7 3、 「春琴抄」を巡る…………………………………………………………„8 3.1「春琴抄」の主題…………………………………………………………8 3.2「春琴」という永遠なる女性像…………………………………………9 4、 「春琴抄」における「美」の顕現…………………………………………11 4.1 谷崎にとっての「日本回帰」……………………………………………12 4.1.1 谷崎の「美」の誕生…………………………………………………12 4.1.2「日本回帰」と谷崎の作品の中の西洋的なもの…………………12 4.2 佐助と春琴の主従関係…………………………………………………13 4.3 関西風の女性のイメージ………………………………………………17 4.4「陰翳美」の顕現 ………………………………………………………19 4.5 ままごと遊びの枠組み…………………………………………………20 4.6 視覚喪失による触覚の世界……………………………………………25 5、終わりに …………………………………………………………………27 <参考文献> ………………………………………………………………29 4 1、はじめに 西洋の頽廃美の要素を崇拝した谷崎は「蓼喰ふ虫」をきっかけとして、 西洋からはなれ、本格的に日本の伝統的な古典世界の中にその文学を展開 して「日本回帰」を試みるが、これが失敗に終わる。谷崎は、昭和期にな ると日本回帰とともに「美しいものは強者である」という世界を再び描い ている。その世界がよくわかる作品は「春琴抄」である。谷崎は、春琴と いう女性を造形し、 「強者」としての女性美を描きながら、日本回帰を試み た。したがって、本文では、鮮烈な色彩に輝き、強烈な刺激をもたらす西 洋的芸術の世界を称賛していた谷崎が、日本回帰の際に西洋的な要素を完 全に排除したのかという疑問を「春琴抄」(「中央公論」1933.8)において 究明しようとする。谷崎の日本美への転向は関西移住がきっかけになって いる。谷崎は「関西風のもの」に魅了され、 「春琴抄」にその雰囲気を反映 させたが、実際は完全に日本的なものに回帰したとは言えず、基本的には やはり西洋的なものへの嗜好が潜在していることが伺える。谷崎は、日本 的な美、あるいは「陰翳美」をこの作品で表そうとするが、完全に払拭し 切れなかった。それはままごと遊びの枠組みによるサデイズムとマゾヒズ ムの世界には西洋的な要素が伺えるからである。谷崎の「春琴抄」におい ての日本回帰がどのように行われ、また「強者としての美」がどのように 再現されるのかについて述べていく。 5 2、先行研究 2.1 作品創作背景説明 谷崎は新人作家として華やかに文壇にデビューした。彼の作品の中に現れ ている「美」の世界は文壇に鮮やかな衝撃を与え、従来の日本文学にはあま り見られなかった異質な主題であった。それは、自然主義全盛期の文壇や、 一般文学愛好者の目を見張らせるのに十分であった。その背景には、永五荷 風が谷崎の処女作「刺青」(第二次「新思潮」第三号、1910.11)について、 「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄」、 「全く都会的たる事」、最後に、 「文章の 完全なる事」と、谷崎文学を称賛したことが谷崎の文壇デビューへの大きな 後押しになったという事情もあった。明治・大正・昭和の三代にわたる谷崎 の長い文学活動の要諦を簡潔にまとめるのは困難である。しかし、谷崎文学 は、或る一面から見れば、同じ主題が展開されている。それは、「美しいも のは強者であり、醜いものは弱者である」という美意識である。 2.2 先行研究の谷崎潤一郎の「春琴抄」までの作品におけ る美意識 谷崎の女性美に対する認識は、日本の作家の中では、まず尾崎紅葉や山田 美妙などからヒントを得たと考えられる。さらに、外国の作家から影響を受 けたことも谷崎の作品の中によく現れている。特に、谷崎が文学活動を開始 した時点から外国文学の影響が見えると思われる。 谷崎の作品の中で、「強者」としての美が始めて現れたのは明治期作品の 「刺青」である。尾崎紅葉、山田美妙、永五荷風などの作品から影響を受け ながら、谷崎は自分なりの独特な美の世界を作り上げる。ここで、「美しい 6 ものは強者であり、醜いものは弱者である」という思想が谷崎文学に定着し たと言われる。 その後、谷崎は大正期において、男性の身体から女性美を抽出して、中性 美と両性具有の美の具現を試みた。代表的な作品は「金色の死」である。 そして、谷崎は昭和期の作品「春琴抄」において日本回帰に関係する美意 識が変化した。 「谷崎潤一郎論ー伏流する物語」永栄啓伸 1992 は、作品の背景となる昭 和初年代の谷崎が、あえて曖昧な語りを使用し、読者に多様な読みを許す物 語を構築した原因や、物語の構造とその枠組からはみだそうとする言葉のせ めぎあいを述べている。 「谷崎潤一郎ー母性への視点」永栄啓伸 1988 は母性 の視点を取り、母性思慕が作品での女性上位の男女関係を構築する根となっ ていることが論じされる。 「谷崎潤一郎」秦恒平 1989 は谷崎の私生活に深く 探り込む作業、そして鋭い想像力を駆使した執拗な追求によって、巨大なる 谷崎の世界を明らかにしている。 2.3 問題点の提出 本文では、鮮烈な色彩に輝き、強烈な刺激をもたらす西洋的芸術の世界を 称賛していた谷崎が、日本回帰の際に西洋的な要素を完全に排除したのかと いう疑問を「春琴抄」(「中央公論」1933.8)において究明しようとする。谷 崎の日本美への転向は関西移住がきっかけになっている。谷崎は「関西風の もの」に魅了され、「春琴抄」にその雰囲気を反映させたが、実際は完全に 日本的なものに回帰したとは言えず、基本的にはやはり西洋的なものへの嗜 好が潜在していることが伺える。谷崎は、日本的な美、あるいは「陰翳美」 をこの作品で表そうとするが、完全に払拭し切れなかった。それはままごと 遊びの枠組みによるサデイズムとマゾヒズムの世界には西洋的な要素が伺 えるからである。谷崎の「春琴抄」においての日本回帰がどのように行われ、 また「強者としての美」がどのように再現されるのかについて述べていく。 7 3、「春琴抄」を巡る 3.1「春琴抄」の主題 『春琴抄』は昭和八年『中央公論』六月号に発表され、一代の傑作として 世評が非常に高かった。谷崎文学の最盛期の最高峰と言われている.その頃 は日本の国が戦争に向かって進んでゆく時代であったので、このような小説 は多くの文学者の絶賛を受けた。正宗白鳥は、「春琴抄を読んだ瞬間は、聖 人出ずると雖も,一語も挿むこと能はざるべしと言った感に打たれた。」と いい、川端康成は、「ただ嘆息するばかりの名作で、言葉がない」と称賛す る。なぜそんな高い称賛を受けるか、一体何の物語であるか。以下の内容が この名作の筋を紹介しておく。 大阪道修町の薬種商鵙屋安左衛門の次女琴は音曲の天才で容姿が優れ、幼 時から舞踏に才能を見せていたが、九歳の時失明し、四つ年上の丁稚佐助の 「手曳き」で三味線の稽古に通うようになる。十亓歳ですでに天才の誉高く、 師匠の春松検校から春琴の名を許される。奉公人の佐助はその美貌と気韻に 打たれ、崇拝の念を胸に潜めながら一心に仕えるが、やがて彼女と志を同じ したいとの思いから音曲の道に入り、彼女と子弟の契りを結ぶ。春琴の指導 は厳酷を極めるが、佐助は奉公人としても、弟子としても益益献身的に仕え る。春琴は十七歳の時、春琴が妊娠したが、佐助との関係を強く否定し、両 親に佐助との結婚も断り、生まれた佐助にそっくりの赤子は里子に出された。 師匠の死後、春琴は独立して一戸を構える。驕慢な春琴は内実の夫である佐 助に対し、あくまでも使用人、弟子としての待遇しか与えないが、佐助に献 身が変わらない。一緒に暮らし始めた佐助とは事実上夫婦であるにもかかわ らず、「主従の礼儀師弟の差別」には厳格であった。ある夜、彼女は何者か に熱湯を浴びせられ、端麗な顔は無惨にも醜く変わってしまう。自尊心の強 い春琴の気持ちを察した佐助は、美しい春琴の顔を永遠に脳裏に留めるため、 8 自分で自分の両眼を針で突き刺し、盲人となる。春琴は三十七歳、佐助は四 十一歳の時である。盲目となった佐助は春琴と境涯を共にし得ようになった 事を喜び、彼女が亓十八歳で亡くなるまで、すべてを捧げて尽し,変えると ころがなかった。 判断を留保する「私」の曖昧な語り口は、読者の事実確認への通路を遮断 する。この巧妙な語りを駆使し、会話と地の文の境目も句読点もなくした文 体を用いて、現実と虚構の境目を曖昧にして読者を物語世界に誘う谷崎の朦 朧化法は完成の域に達している。女優「春琴」は演出家佐助によって作り出 された「傲慢」という人工の美の極致である。谷崎は佐助と語り手「私」と に仮託して、自ら理想とする永劫不変の観念の美(人工の美)を想像したの である。 3.2「春琴」という永遠なる女性像 日本的風土にあって、永遠なる女性像の造形はいかに可能なのか。これが 谷崎芸術の第一条件であり、宿願であった。谷崎は小説「春琴抄」において、 どんな主人公を作ったのかいかに概観してみよう。 永遠なる女性像にふさわしい身体的特徴から述べよう。 「春琴抄」の容貌については第二節に「容姿端麗にして高雅なることと譬 へんに物なし」とある。つづいて、「身の丈が亓尺に充たず顔や手足の道具 が非常に小作り」「輪郭の整つた瓜実顔に、一つ一つ可愛い指で摘まみ上げ たやうな小柄な今にも消えてなくなりさうな柔らかな目鼻」「盲目といふよ りは眼をつぶつてゐるといふ風」「古い絵像の観世音を拝んだやうなほのか な慈悲を感ずる」(第二節)などと「盲目」から喚起される沈思黙考敵な印 象が述べられていく。 「円満具足した顔」 「四人姉妹のうちで春琴が最も器量 よし」(第亓節)と容貌についての抽象的な描写が多くとられているが、一 方「化粧」「顔や手足がつるつる」「地肌の荒れるのを最も忌んだ」「三日目 毎に爪を切らせ」(第十四節)「皮膚が世にも滑らかで四肢が柔軟」「裸の時 9 は肉付きが思ひの外豊かに色が抜けるほど白く」「頭髪も又非常に多量で真 綿の如く柔くふわふわしていた手は華車(きやしや)」「指先に力」「頗るの ぼせ性の癖に又すこぶる冷え性」(第十亓節)などと相当の細部まで彼女の 身体的特徴が描かれる。 以上述べた文から、春琴は永遠なる女性像にふさわしい身体的な特徴を付 与されているということがわかる。 その他に、「白」が豊かに添えられていることもうかがえる。谷崎の小説 の成熟度において、 「痴人の愛」以降いよいよ「白」を豊かに描く。でも、 「痴 人の愛」以降の「白」が、 「白」自体ではなく、 「白」自体がカタチを変えた 化身でもなく、 「白」自体から派生した分身なのだということ。ところで、 「春 琴抄」における「白」は「非衛生的な奥深い部屋に垂れ籠めて育つた娘たち の透き徹るやうな白さと青さとはどれほどであつたか」(第亓節)というよ うに、まず「春琴」の色白イメージであらわされる。「色が抜けるほど白く 幾つになつても肌に若若しいつやがあつた」とあるのは第十亓節。「春琴」 が「白」自体の分身としてあざやかにえがかれるのは、何といっても第二十 節における「梅見の宴」。 三十七歳の春琴は実際よりもたしかに十は若く見え色飽く迄白 くして襟元などは見てゐる者がぞくぞくと寒気がするやうに覚 えた甲の色のつやつやとした小さな手をつつましく膝に置いて 俯向き加減にしてゐる盲目のかおのあでやかさは一座の瞳を悉 く引き寄せて恍惚たらしめたのであつた。 しかもこの場に添えられているのが「姥桜の艶姿と気韻」。 「白」の絶唱で はある。 このように、谷崎は美貌と肌の白さを強調し、永遠なる女性像を春琴とい う女性に与えられた。 10 4、「春琴抄」における「美」の顕現 4.1 谷崎にとっての「日本回帰」 4.1.1 谷崎の「美」の誕生 「春琴抄」における「美」の検討に入る前に、谷崎の作品における「美」 の誕生と原因から検討してみよう。 谷崎にとって文壇的な処女作であり、出世作であった「刺青」 (第二次「新 思潮」第三号、1910.11)と「麒麟」 (第二次「新思潮」第四号、1910.12)は、 作家谷崎固有の論理「美しいものは強者であり、醜いものは弱者である」こ とを賞揚し追求した。谷崎はその「強者」としての美を、官能的な女体で表 出した。谷崎以外の作家から探してみると、「美しいものは強者」であると いう認識は、あまり窺えない。谷崎の文学形成の源はいろいろあるが、その 中で一つとしては幼い時から歌舞伎に関心を持っており、よく触れていたこ とである。それが「幼小時代」(「文芸春秋」1995.4-1956.3)の中に書かれ ている。貧しい生活の中でも歌舞伎を見られるようにしてくれた母と祖父の おかげで、子ども心にも歌舞伎を理解した。谷崎は、歌舞伎芝居の中で一番 記憶に残っているのは、「明治二十年四歳の時浅草鳥越の中村座で六月十三 日から七月へかけて興行された団十郎の「那智滝誓文覚」である」 1と回想 している。その歌舞伎芝居には悪魔的な女性美の具現者つまり、さらに男性 を滅ぼす女性が登場する。そこから谷崎は「悪」のイメージを把握し、その 「悪」と「女性の美」の間に関連性を見出したのである。そうして、 「強者」 と「悪魔的な女」と「女性の美」の三者に深いつながりを感じたと考えられ る。つまり、 「強者」=「悪魔的な女」=「女性の美」という図式によって、 「刺青」の主題「美しいものは強者である」という概念が誕生する。 11 4.1.2「日本回帰」と谷崎の作品の中の西洋的なもの 谷崎の昭和期は、日本回帰の時期であったといえる。ところが、谷崎が西 洋から遠くの兆しは、大正期の作品である「痴人の愛」(「大阪朝日新聞」 1924.3.20-1925.6.14)にすでに窺える。だが、この作品の中で譲治は愛して いる女性を神格化するために、結局西洋的な雰囲気へ傾いていく。谷崎の昭 和期の出発は「国文学」の「共同討議」の中では、「痴人の愛」が日本回帰 を試みた作品とはみなされていないが、なんらかの転換期の作品であったの は確かであるとされている。秦恒平は「昭和期移行」の要因として「外から の条件」と「内的な条件」が作用したことを挙げている。ここで外部的な条 件とは、関東大震災によって関西へ移住したことを指していると思われるが、 外部の状況だけで谷崎の文学がかわったとは考えにくい。外的状況の変化と 内的状況の相互作用によって、昭和期へと移行したと考えるのが自然であろ う。このような転換期以前の「饒太郎」 (「中央公論」1914.9) 「独探」 (「新小 説」1915.11)「金色の死」(「東京朝日新聞」1914.12-17)「恐怖時代」(「中 央公論」1918.3)の作品からは、彼が「肉感的な」西洋を求めたことがわか る。つまり、谷崎は西洋から感覚的な部分だけを取り入れたといえる。 谷崎の主人公たちは、作家自身の「美」に対する観念を西洋に求めている 姿が投影されている。さらに、彼らの言う西洋は鮮烈な色彩と強烈な刺激を もたらす世界として認識された。谷崎の西洋への傾倒は「現実の西洋そのも のと同一視する粗雑さは、主人公たちに留まらず作家自身のものでも」あっ た。実生活においても、西洋風の生活を模倣するところがあり、西洋的な感 覚を身に着けて「色彩の強烈な、陰翳のない華麗な文学を志して」いた。こ のような西洋的なるものの極致が「痴人の愛」である。ところが、この作品 には同時に谷崎の日本回帰の萌芽を見ることができる。谷崎が「痴人の愛」 を通して、日本回帰を試みた理由について、「観念的な美への天下を困難に し、生身のナオミと譲治の心内に成立した「ナオミ」に決定的に背反する結 12 果を招く」からであるという意見もある。ナオミは外国のスターの服装や容 貌を真似し、娼婦的な生活をしているので、譲治は耐えられなくなる。その 結果、譲治は日本風の家に住みながらも、ナオミを「観念的な」タイプに仕 立て上げようとするが失敗し、結局ナオミのために横浜へ引越し、ナオミの 要求を受け入れて、西洋的な生活を始める。谷崎は、譲治を通して日本回帰 を試みるが、結局失敗に終わるのである。 谷崎は西洋の影を捨てて、完全な日本回帰を遂げることができなかった。 やはり谷崎の文学の根底には西洋が流れていたといえる。また、谷崎は日本 回帰を追求しながら、作品傾向を変容させようとするが、 「強者としての美」 という根本は初期と尐しも変わっていない。 4.2 佐助と春琴の主従関係 「春琴抄」中では、驕慢の春琴と、そのような女を崇拝し、彼女に服従 する佐助との二人の主従関係が描かれ、春琴が強者としての地位を確立して いく様が見て取れる。そして、二人の主従関係を通して描かれるもう一つの 要素がマゾヒズムである。この作品では、主従関係による「美意識」の世界 が展開されている。 「春琴抄」は春琴の法名、生地、二人の墓の位置関係の变述から始まって いる。 春琴、ほんとうの名は鵙屋春、大阪道修町の薬種商の生れで歿 年は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土寺の某寺に ある。―(中略)―今日の大阪は検校が在りし日の俤をとどめ ぬ迄に変つてしまつたが、此の二つの墓石のみは今も浅からぬ 師弟の契りを語り合つているやうに見える。元来温五検校の家 は日蓮宗であつて検校を除く温五一家の墓は検校の故郷江州 13 日野町の某寺にある。然るに検校が父祖代々の宗旨をすてて浄 土宗に換へたのは墓になつても春琴女の側を離れまいといふ 殉情から出たもので、春琴女の存命中、早く既に師弟の法名、 此の二つの墓石の位置、釣り合ひ等が定められてあつたといふ。 春琴と佐助は夫婦として生活をともにしたにもかかわらず、佐助の墓は春 琴の墓とは別のところにある。その墓には「鵙屋琴門入」という言葉と「行 年八拾ふ三歳」とかかれている。墓の位置と名前の表記からもわかるように、 佐助は「鵙屋琴の人ではない」こと、二人は身分差のある男女であったこと がわかる。二人の対照的な墓についてことさら詳しく語られているのは、二 人の主従関係から発生する恋やマゾヒズムを読者に想像させるためであろ う。さらに二人の死んだ年齢に注目すると、春琴は亓八歳で死んだが、佐助 は八三歳まで生きている。この二人の年の差は四歳に過ぎないので、つまり 佐助は一人暮らしが長かったのである。「痴人の愛」に見られる「世間に類 例」のない世界が、「春琴抄」の中でも主従関係を通して展開されている。 二人の関係は、上で見たような墓の描写から想像されるよりもより深い主 従関係であった。佐助が春琴の家にやってきたのは、春琴の「美しい瞳が永 久に鎖された」後だった。つまり、佐助は春琴の失明以前の容貌は知らず、 現在の春琴の容貌が完全なるものだと考えた。この容貌に佐助は打たれたた めか、最初から「崇拝の念」を持ち、それを胸の奥に潜めていた。作者は、 その点について確認することを忘れていない。これは佐助が春琴に服従する という伏線になっている。 佐助は、春琴の手引きの役割だったのであるが、春琴の指名で手引きだけ ではなく、春琴のあらゆる面倒を見ている。このような役割をしていても、 春琴にとって佐助は単なる「一つの掌に過ぎないやうで」あった。佐助は「刺 青」 (第二次「新思潮」1910.11)の清吉とはすこしも変わらない存在である。 なぜなら、二人とも「強者としての女性」を作り出す黒子のような存在に過 ぎないからである。「一つの掌に過ぎない」というのはそれを意味している 14 のだろう。 佐助は、彼女が用を済ませるときでさえ、油断することができなかった。 彼女はいつも神経質であったが、佐助は、それでも春琴の顔や行動を観察し ながら、彼女が気分を害さないように、常に緊張し、注意を払う。佐助の春 琴に対する服従は、佐助の性格だけではなく、外部的な要因からも来ている。 服従に伴うマゾヒズム的快楽は、春琴の外貌や両者の身分差から発生してい る。佐助はこれらの外的要因をうまく利用して自分のマゾヒズム的嗜好を満 足させているのである。佐助は、春琴からどんなに叱責を受けても我慢する。 主従関係から始まる二人の関係の結び付き合いは、結局、夫婦の関係に発展 し、子供をもうける。ところが、主従関係そのものは、夫婦の関係になって も変わらないのである。 服従によるマゾヒズム的快楽は、春琴の火傷の後、絶頂に至る。火傷のた め、春琴の美しい外貌が醜くなり、彼女は家の奥の部屋に人形のように座っ たまま毎日を過ごすようになる。そのような空間の中で、佐助のマゾヒズム の世界は、最高潮に達する。佐助自身は顔を見られることを嫌がる春琴の気 持ちを察して、佐助は自らの目をつぶす。佐助は主従関係を維持するため、 「対等の関係になること」をさけ、前よりもっと「主従の礼儀を守つ」て、 自分を「卑下した奉公の誠を尽くして尐しでも早く春琴が不幸を忘れ去り昔 の自信を取り戻すやうに努め」たのである。結婚も佐助の方はあまり望んで いなかった。それは、「過去の驕慢な春琴」、「美貌の春琴」が破壊されない ようにするためである。呼称を見てもわかるように、佐助は春琴を「お師匠 様」と春琴は佐助を「佐助さん」と呼んだ。主導権は佐助が持っているよう にも見えるが、佐助は最後まで主従関係を崩さないように努めるのである。 語り手は、二人の主従関係に貫かれたライフスタイルの純粋さを堅持する ために、徹底的に二人を視覚的にまた空間的に外部から遮断している。主従 関係の二人の関係のあり方は、遮断された空間の中で「極楽浄土」と評され るにまで至る。 15 4.3 関西風の女性のイメージ 「春琴抄」は谷崎が関西に移住してから十年後に書かれた作品であり、関 西の情趣と風景がよく反映している。また、この作品からは、谷崎が関西の 風土に同化していたことがよく伺える。 一九二三年九月一日の関東大震災の際、谷崎は箱根で震災に逢い、そのま ま大阪へ移った。その後一時的に家族を連れて東京へ戻っただけで、そのつ きのうちに京都に定住するようになった。関東大震災直後、多くの芸術家が 関西に移ったが、谷崎だけがずっと関西に住みつき「卍」、 「蓼喰ふ虫」、 「春 琴抄」、「細雪」などの名作を書いた。 谷崎の作家としての成熟は関西移住後からであるといわれるが、これにつ いてはいろいろな解釈がある。しかし、確かなことは、谷崎の関西移住が彼 の文学に大きな影響を与えたということである。つまり、谷崎は関西に来て から、新しい創作活動を始めた。谷崎は、自分自身も「なぜもつと早く来な かつたか」というほど、関西に好感と好奇心を覚えた。このように、谷崎に とって関西は「自己再発見」の場所であったといえる。中年まで西洋に心酔 していた谷崎が、 「古い日本」の美に触れて目醒めたと抽象的に考えるのは、 問題があり、このように図式化して考えると、谷崎の「精神の生きた実態」 を逸する可能性がある。そして中村光夫は、幸田露伴や志賀直哉の例を挙げ、 作家の生活環境から受ける影響はあまりなく、谷崎は文学のために関西に住 む必要がないといっていると指摘している。しかし、谷崎の昭和期の文学作 品を理解するためには、生活と芸術の両面における「自己改革」であったか らである。谷崎の関西移住は、移住という言葉だけで理解するのではなく、 彼が関西で何を求めたのかを把握しなければならないと思われる。 谷崎は関西を受け入れ、関西において「エキゾティシズム」2や「『忘れた 故郷』へのノスタルジア等」3を発見したのである。谷崎が関西の風土全般 に故郷を再発見してゆく過程の中で、大事な役割を果たしたのは「大正十亓 16