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かたやき

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かたやき
かたやき
チーム モリゾー
寺田
素子
伊藤
真琴
森岡 孝太郎
1
はじめに
私たちが、三重のお宝としてこの「かたやき」を選んだのは、三重として思い
浮かんだのが、「伊賀」だったからだ。やはり、伊賀といえば、「伊賀忍者」が有
名だ。しかし、
「忍者」は前年度までにお宝として報告されていた。他に何かない
ものか、と思案していると、ふと「忍者の携帯食のかたやきが、現在でも残って
いる」ことにグループの一人が気付いた。そこから、
「忍者がいなくなった現代で
も残っているかたやきには、きっと何かあるはずだ」ということで、かたやきを
調べることにした。
上野城
かたやきを調べる前に、少しだけ「上野城」について触れておく。
上野城は、かたやきが生まれるための条件のひとつとも言えるのではないか。
上野城は白鳳城とも呼ばれる白の
映えるお城であるが、城の周りの濠
が深く、濠からそびえ立つ石垣の高
さは約 30m もあり簡単に攻め込まれ
ないようになっている。現在の上野
城は改築された新しい物であるが、
家康の時代には藤堂高虎という築城
の名手ととばれた人が城主となって
おり、そのときに家康の命により守
備固めの城に増改築され現在のよう
な城があったとされている。高虎は「津は平城なり、当座の休息所と思うべし。伊賀は
秘蔵の国、上野は要害の地、根拠とすべし」という言葉を残しており、伊賀を重要視し
ていた事がよくわかる。それにともなって伊賀の忍者が活動を広げ「伊賀者」として恐れ
られたのも納得がいく。重要であった上野城を守るために日夜忍者の修行や研究が盛ん
に行われた結果として、保存食や加工技術の研究がなされた事が、かたやき発祥の理由
である。
2
かたやき
かたやきは、その名の通り、固いお菓子だ。三重県伊賀地方に伝わる珍菓である。
そして、かたやきは伊賀忍者の携帯食(保存食)だったといわれている。
かたやきが生まれたのは、今から数百年前。伊賀忍者の存在が大きく影響しています。
かたやきは、伊賀忍者が敵の屋敷などに忍び込んだ時、量が少なく、また栄養価が高い
ため、携帯食として生まれました。そこから材料を厳選し、手焼きはそのままで現在に受
け継がれています。当時、それは「かたやき」とは呼ばれていませんでした。元祖山本さ
んは、かたやきの由来を次のように語っています。
「伊賀の国は、古来より武勇の誉れ高く、刀槍の達人、弓術の名手があまた現れ、殊に
間牒の術最もその妙を極め伊賀忍として慕われる。我が先祖は当、上野市街の北方三田の
郷に永く住んでいたが常に武の国にふさわしき名物がないものかと思っていたところ、忍
者の携帯食(保存食)に暗示を得てたまたま秘蔵の刀の鍔より発想してつば焼きなるもの
を発売した。此の珍菓たるや堅いこと鉄の如く、よく伊賀武士の剛胆を表わし、その味、
甘味またよく伊賀侍の人情味を表わす。幸い世の好評を得てその堅きが故に(かた焼き)
と呼ばれ人々に親しまれるようになった。後の世に至り上野市の中心部に移り住みいっそ
うその製法に改良を加えたればかた焼きの名はいっそう高く遂に全国津々浦々までも(伊
賀のかた焼き)ともてはやされ当国名物の覇をなすにいたれり。」
これからも伺えるように、名もない忍者の携帯食をヒントに、刀の鍔の形を参考にして
できたものが、かたやきの前身ともいえるだろう。
日本人が現代、世界に誇る忍者(NINJA)の携帯(保存)食は、お菓子となって現在で
も受け継がれている。江戸時代に入り、世の中が安定し、忍者を必要としなくなり、忍者
がいなくなった現代でも、形を変えて受け継がれているものなのだ。
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取材をして
*鎌田製菓
10月29日、上野へ取材に行った。
近鉄江戸橋駅から伊勢中川で乗り換え、また、伊賀神戸で乗り換えて、上野市駅に着
いた。
事前にいくつかのかたやき屋さんを調べておいたが、詳しい場所を知るために、観光
案内所を訪ねた。そこで、かたやきの実演を見せてくれるという鎌田屋さんに連絡を入
れてくれた。そして地図を貰って、鎌田屋さんに向かった。
上野の街並みは静かで、道路も広くな
く、古そうな家が並んでいた。しかし、
地図にあるあたりに来ても、かたやき
屋さんは見つからない。看板もない。
ふと、どこからか、香ばしい匂いがし
てきて、ガラス張りの窓の向こうで、
人の気配がした。そこが鎌田屋さんだ
った。道路に面した土間が工場になっ
ていて、ほんの店先に袋詰めされたか
たやきが並んでいた。工場ではご主人と奥さんがそれぞれ鉄板の前でかたやきを焼いて
いた。
*焼き方(取材・編集の都合上、写真は割愛しました)
かたやきは棒状にした生地を小さく切って鉄板の上に乗せ、一枚一枚押しつぶして薄
く広げ、一枚一枚裏返しながら焦げないように焼いていく。この焼き方が特徴的だった。
まず、右の端に乗せ、押しつぶす。ある程度焼けたら、順に左にずらしていく。鉄板
の火は何列もあって、それぞれ微妙に火加減が調節されている。その上をかたやきは手
作業で流れていき、最後は一番左の端で焼きあがり、ちょっと冷まされて完成する。
この焼きの作業は本当に手作業である。聞いてみると、鉄板も押しつぶすための道具
も手作りだという。
ご主人と奥さんにいろいろお話を伺った。はじめ、店の場所がわかりませんでした、
というと、
「看板を出すほどの店でもない」そして、
「においでわかる」という。確かに、
店というより、工場だし、ほとんどはモクモクファームなどにお土産としておろしてい
るそうだ。
そして、におい。これはこのふるい街並みとぴったりだと感じた。このあたりは空襲
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もなかったため、戦前からの家がたくさん残っているそうだ。この鎌田屋さんもその一
つで、天井なんかもはりが見えていて、木も深い色をしている。かたやきを作る前は普
通のお菓子を作っていたそうだが、40年前にかたやきの作り方を教えてもらい、そこ
からかたやき専門になったという。
小学校の社会見学など、見学に訪れる人も多いという。帰りに焼きたてのかたやきを
一枚ずつ戴いた。やきたてのかたやきは温かく、やわらかかった。これは、ここでしか
食べられないものであることをしみじみと感じた。
*伊賀菓庵山本
伊賀上野マップを片手に、もう一軒、かたやき屋さんを訪ねた。本家本元とされる山
本屋さんである。山本屋さんは広くて新しい大通り沿いにお店があった。鎌田屋さんと
は、随分異なる店構えである。しかも、中に入ると、半分はベーカリーで、奥の工場で
はパンを焼いているようだ。かたやきは袋詰めされたものが並んでおり、ピーナッツ、
ごまなど、種類も多い。パンを買ってお店の方にお話を伺ったところでは、この大通り
の工事をする前はお店でかたやきを焼いていたそうだ。道路を拡張したのがきっかけで、
かたやきの工場をやめて、その代わりにパンを作ることにし、かたやきは別の場所にあ
る工場で作ることにしたそうだ。「焼きたてパンを売ったほうが人も来やすい」とおっ
しゃっていた。確かに焼きたてパンは大通りからの見栄えも良いし、おいしかった。
*比較
この二つのかたやき屋さんの例を比較してみると、片方は民家ひしめく細い道にあり、
昔からの店構えで、家内制手工業で作っている。もう片方は一番古くから作っていたそ
うだが、道路の拡張に伴い、店を新築し、それ以来かたやきは他の場所で作られるよう
になった。山本屋さんでは、工場で、多くの種類のかたやきを作ることができ、上野城
や駅の売店などに卸している。伊賀上野の銘菓として、かたやきを広めるには、たくさ
んのお店に置かなくてはいかないだろう。一枚一枚手で焼いている鎌田屋さんでは、大
量に出荷することは出来ない。しかし、鎌田屋さんが手焼きのかたやきを作り続けてい
られるのは、古い街並みが残っているからこそではないかと思った。道が残ったから、
家も工場もかたやきを作るための道具も今日まで受け継がれてきたのではないか。
かたやきが伝えるもの
かたやきが現代に伝える物は忍者の話だけではない。食そのものについての見直しを現
代に投げかけているのでは無いだろうか。
調べていくうちに、かたやきそのものは、実際に忍者が食したものとは言えないこと
が分かった。しかし、保存食としての価値は十分あるだろう。また、独特の堅さで伊賀
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のお土産品としてポピュラーな物となっている。一般的にはこの堅さに目がいってしま
うが、本当に注目すべきは保存性の高さでは無いだろうか。
現代の食生活は残り物があっても棄ててしまったり、冷蔵庫の中にしまっておいてそ
のままだったりと、保存に関しての意識がとても薄いように思う。しかし、このかたや
きは保存料を使わずとも、火であぶるだけで高い保存性、かつ高い栄養性を生み出して
いるのである。この点を、飽食の時代に生きる我々は見習うべきである。
日本では古くから梅干しや干し柿、そして忍者も使っていた干し飯や兵糧丸など食料
の長期保存出来る形にし、さらに味を良くするという事を頻繁に行っていた。これは生
活の知恵でもあり生きていく上で大切なことであった。しかし、今の子どもたちはなぜ
梅を干すのかということや、干し柿にする前の渋柿の味なんかを知らない。こうして食
の根本的な部分を見ないで育つことにより、ご飯を平気で残したり子どもの食事をファ
ーストフードで済ませたりしてしまうようになるのでは無いか。
かたやきには伊賀の名産という看板だけでなく、非常食にもなるお菓子としての側面
もある。最初は「堅いお菓子」として興味を持ってもらうのでよい。名産品でお菓子なら
ば子どもでも取りかかりやすいだろう。そこから「なぜこんなに堅いのか」「どうして非
常食なんてものがあるのか」という疑問を生み出し、調べることによって、少しでも食
に対するイメージを変えていけるのではないかと思った。かたやきにそんな大きな仕事
をさせる訳ではないが、かたやきのパッケージの中に一文書き添えてみるのもおもしろ
いのでは無いかと思う。
かたやきをたくさんのお店に置いて、伊賀上野の PR をすると同時に、城下町として発
展し、今でも古い街並みを随所に残してきた伊賀上野、その産物としてのかたやきこそ、
歴史溢れる三重のお宝といえるのではないだろうか。かた焼きは、郷土の歴史を今に伝
えてくれるものなのである。かた焼きから昔の人々の知恵、暮らしを私たちは学ぶことが
出来るのではないか。
最後に
このルポを作成した3人に、感想を書いてもらい、締めくくりたいと思う。
* 寺田
素子
私は三重大に来て初めて知った三重の特産品がたくさんあるが、かた焼きもその一つで
す。取材で上野に行ってみて、いっぺんにこの町が好きになりました。実はメンバーがか
た焼きを買ってきてくれるまで、かた焼きを知らなかったのですが、もっとかた焼きを広
めたいと思います。かた焼きには、上野市の良いところが表れていると感じたからです。
こんな街並みが残っていて、そこで手作りで作られるかた焼きは、まさに地域に根ざした
銘菓で、スローフードといえるでしょう。実際ものすごく堅くてびっくりしましたが、こ
んな堅いお菓子は今時そうそうないと思います。この堅さこそこのお菓子の味わいであり、
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堅くなくてはかた焼きといえません。この堅さを守って、ずっと受け継がれていけばいい
と思いました。取材を受けてくださったかた焼きやさん、ありがとうございました。
* 伊藤
真琴
かたやきを食べて、歯が折れるかと思った。実際に伊賀上野へ行って、焼きたてのか
たやきを食べて、やわらかいと思った。じっくり焼かずに途中で焼くことを投げ出した
ら、やわらかく、芯のないものになってしまう。しかし、じっくり焼き、耐えることで、
強固なものになる。現代人は速さを求め、忍耐、待つことをしない。それをしなければ
得られないもの、それは多く存在すると思う。それも少なからず私たちに教えてくれて
いるのでは、と思った。
かたやきは、最初はかたいお菓子、としか認識していなかった。上野にも行き、かた
やきだけでなく、城下町としての上野を見て、落ち着くことができた。ごちゃごちゃし
たところがなかった。かたやきだけでなく、上野には残すべきものがたくさんあるなぁ、
と感じた。
* 森岡
孝太郎
僕は伊賀に住んでいて、通っていた高校も取材した店のすぐ近くだったが、かたやきに
ついては詳しい知識がほとんど無かった。
しかし、改めて詳しく調べてみると長い歴史と手作りで受け継がれてきた古くからの知
恵を発見することができ、伊賀の誇れる名産品だと再認識することができた。町並みと
ともに受け継がれてきたこの味と、特徴である堅さをこれからも守っていかなければな
らないと思った。
私たちは普段から身近にあるものに対し関心を抱かなくなっているのかも知れない。小
さい頃から知っていたかたやきにもこんなに興味深いことがあるとは思いもよらなか
った。こうした発見もこのルポで学んだ事の一つである。
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