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慕容鮮卑人
慕容鮮卑人 Ver100 目 次 はしがき 2 1 漢代:匈奴が勢力を広げる 3 2 五胡十六国時代:慕容鮮卑族の活躍する時代 5 3 吐谷渾人の興亡:青海地方で活躍する 10 4 流浪の慕容世家:広東省高要市金鶏村に到着 15 5 南燕の慕容氏:海南島に移住する 19 あとがき 24 写真 01 鮮卑人が居住していた霍林(huolin)河周辺の風景 1 はしがき 春秋戦国時代:東胡は燕国に敗れ北に退く 中原では戦国七雄(秦、斎、楚、燕、韓、趙、魏)が活躍していた。東胡の居住地域は 燕国の東北、即ち現在の内蒙古赤峰と遼寧省朝陽とその周辺であった。 東胡の後裔である民族には次の5族が良く知られている。烏桓(うがん、Wūhuán) 、鮮 卑(せんぴ、Xiānbēi)、柔然(じゅうぜん、Róurán)、奚(けい、Xī)、契丹(きったん、 Qìdān)である。 南に位置する燕の昭襄王(前 335 年生、在位;紀元前 312 年~紀元前 279 年)は将軍秦 開に東胡を討つよう命じる。東胡は大敗し北に逃げる。 “秦開却胡”( 秦は開き、胡を退却 させる)と言われている。燕国は東胡の居住地区に上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東五郡 を設置し、さらに長城を築いて防衛線を敷く。朝陽地区は右北平郡と遼西郡に組み入れら れる。東胡の活躍はしばらくお預けとなった。 鮮卑(せんぴ)族の起源:鮮卑山とは何処か? 当時鮮卑族は三つの部族に分かれていた。東部、北部および西部鮮卑と呼ばれた。北部 鮮卑は主に拓跋(たくばつ)氏が有力であった。西部鮮卑には禿発(禿髪とくはつ) 、乞伏 (きつぶく)が知られている。 東部鮮卑は発展し三つに区分されている。慕容氏、段氏、宇文氏である。発源地は現在 の内蒙の鮮卑山である。 《慕容氏大宗族譜》によると、慕容氏の祖先の起源は内蒙古東部の 鮮卑山で、西哈勒古(ハレコ)河の両岸だと言う。しかし、西哈勒古河は現在の地図には 無い。 この地区を流れる河は北方民族史と密接な関係を持つ河流であったようだ。北魏時代に 初めて史籍に見える。吸水と呼ばれた。唐時代には吸河(俗称燕支河と呼ばれた)、また遼 代には郝里河、金代には鶴五河、元代以後は哈勒古河、また和尔河、篙尔河、沙河等と呼 ばれた。現在は霍勒(huoli)河あるいは霍林(huolin)河と呼ばれている。鮮卑語で「美 食の河」の意味である。そして鮮卑山は現在の科尔沁(ホルチン)右翼旗の霍林(huolin) 河附近の大罕(ハン)山である。ページ 7 の地図 01 を参照ください。 慕容氏の《慕容氏大宗族譜》は元代以降に書かれ、その当時の名称を現在に伝えている ことになる。鮮卑山即ち罕山は現在の科尔沁右翼中旗の西 130km 一帯に位置している。烏 桓山も罕山の一角である。鮮卑族および烏桓族の呼称は子孫が住んでいた山の呼び名に由 来すると言う。すなわち鮮卑人も烏桓人も源は同族であろう。 2 1 漢代:匈奴が勢力を広げる:匈奴国(BC209~AC93) 全盛時:BC209~BC128:匈奴国の全盛時期は前 209 年から前 128 年。冒頓、老上、軍 臣三単于の時期である。中原は秦二世元年から漢武帝元朔元年頃まで。伊稚斜単于時期に は国力は漢軍に打撃を被り衰亡に転じた。 BC56 年 匈奴東西に分裂:分裂まで 14 代 150 年 西匈奴はゴビ砂漠へ、2代続いたが、後更に西のスキタイに同化する。 東匈奴は6代続く、 AC46 年 東匈奴南北に分裂 南匈奴は鮮卑拓跋部に吸収され、独孤部や鉄弗部として北魏時代に活躍する。しかし、 次第に個性を無くし、5世紀には周囲の民族に融合した。 北匈奴、鮮卑が併合 東漢の時代に入ると、匈奴国は自然災害に見舞われ、さらに内部抗争が始まり漸次衰退 する。周囲の鮮卑、烏孫、漢朝、丁零、烏桓は熱火の如く反撃に転じる。その先鋒を鮮卑 族が担った。紀元 46 年,北匈奴は燕然山(今蒙古国杭愛山)と阿尔泰山地带に退く。その 後も北匈奴は負け戦が続く。一方鮮卑国は勢力を伸ばす。そして 60 万を超える北匈奴の住 民は鮮卑族に取り込まれる。 慕容(むろん) :呼び名の始まり 慕容鮮卑の酋長莫護跋は魏国(三国時代の魏)の司馬懿に従い、遼東燕国の公孫渊(こ うそん えん)を討ち取り、戦功を認められ率義王に封じられる。景初二年(238 年)八月 である。莫護跋は一躍時の人となる。この時が慕容の名称の始まりともされ、諸説が語ら れているので紹介しよう。 《晋書·慕容廆載記》 (魏初)によると、 当時北方の漢人の間に步揺冠(一种の装飾用の帽子)を頭に乗せるのが流行っていた。 莫護跋はこれを見て大喜び。毎日毎日頭に載せて歩いた。鮮卑人はこれを見て莫護跋を“步 揺”と呼んだ。当地の言語では“步揺”と“慕容”は発音がよく似ており、以後“慕容”と名乗るよ うになった。 これには補足説があり、莫護跋の孫の慕容涉帰(?—283 年)は“慕容”を部落と姓氏の名 称にした。西晋時,慕容涉帰の子慕容廆が燕北、遼東一带を占領した。この時鮮卑大単于 と自称し、その後の子孫は慕容を姓とするようになった。 3 步揺の実物は慕容鮮卑遺跡から発掘されている。ほとんどは冠上あるいは頭上の装飾で ある。前燕早期の墓葬中から2件の金枝花飾が見つかっているのが最初である。他に北燕 馮素弗墓(紀元 415 年)から一件、六枝步揺金花が出土している。 写真 02 步揺冠 高さ(左)18.5cm 高さ(右)19.5cm また、別説では、日本語の発音とよく似ており、北方民族は日本人の起源である証拠で ある、という愉快な説がある。 “慕容”(MuRong)と“步揺”(BuYao)の発音は日本語で bo you で言語学的に非常に近い発音だと言うのである。そして、その結論は鮮卑人が日本に来て いた証である、という。 また別説に、莫護跋が魏国から率義王に封じられた時、 「慕两儀之德 象三光之容」と称 賛された。これを訳すると、 两儀(二つの儀;天、地)の德を慕(した)い、 三光(日、月、星)の容(器、入れ物)を象(かた)どる。 もう少し柔らかく言うと、 「徳が高く、包容力が大きい、立派な人物である。」と褒めら れたのである。これから“慕容”を姓とし、部族の名称とした、と言うのである。 さて、どの説が本説であるか? 判断は読者にお任せしよう。 4 2 五胡十六国時代:慕容鮮卑族の活躍する時代 匈奴が衰亡し、草原地帯から姿を消すと北の興安嶺周辺にいた部族が南下を始め、新し い秩序の創造時代に入る。五胡十六国時代である。304 年の漢(前趙)の興起から、439 年 の北魏による華北統一までを指す。慕容鮮卑族の活躍する時代が来た。 五胡とは匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五族のことである。匈奴は前趙・夏・北涼を、鮮卑 は前燕・後燕・南燕・南涼・西秦を、羯は後趙を、氐は前秦・後涼・成漢を、羌は後秦を、 漢族が前涼・西涼・冉魏・北燕をそれぞれ建てた。この他にも小さな国がいくつも建国さ れ世は大乱となった。 慕容鮮卑が隆盛する:三燕文化、朝陽市龍城 慕容廆は 238 年部族を率いて遼西に入り、徒河の青山に居住する。紀元 2 94 年都を棘城 (今遼寧義県西北)に定める。遼西地区は戦国以来漢文化が入り、東北と華北の喉元であり、 大、小凌河流域は肥沃で豊富な資源に恵まれた地域であった。農業、牧畜ともに可能で慕 容鮮卑族が根据地とし、政権を立て、中原を狙う重要な位置であった。 慕容鮮卑人は遼西に入って以降、漢文化の吸収に意を注ぎ、漸次遊牧経済を定居農業経 済に移行してゆく。中原の先進思想文化、農業生産技術および貨幣、日用雑物、生産工具、 兵器など大量に取り入れ、慕容鮮卑人の漢化が進んだ。当時、中原では生活が困難な流民 や漢族知識人が戦乱をさけ、続々と遼西に入り、慕容廆に受け入れられた。慕容廆は彼ら を受け入れるに当たって典章制度を造り、学校を建て、前燕国を建立する基礎を築いた。 (1)前燕(紀元 337-370 年) 紀元 333 年,慕容廆が死亡すると、第三子の慕容皝が平北将軍(官位三品)となり、平 州(遼寧省)刺史統帥となる。紀元 3 3 7 年,慕容皝は王を称し,国号を燕,都を棘城に定 める。歴史上前燕と呼ぶ。 紀元 341 年,慕容皝は陽裕を派遣し、柳城の北、龍山の西に龍城(現在の遼寧省朝陽市) を築く。紀元 342 年,慕容皝は棘城から龍城に移る。東晋成帝は正式に慕容皝を燕王とし て認める。 その後、戦乱が続き、慕容皝は段氏鮮卑と宇文鮮卑を滅ぼす。又扶余と高句麗に大軍を 送りこみ、前燕政権の勢力を広げ、東北地区の霸主となる。 紀元 348 年,慕容皝が病死すると、子の儁が跡を継ぐ。慕容儁は冉闵が后趙を滅ぼすの に乗じて、南伐を行い、薊城(現北京の西南角)を占拠する。そして薊城に移る。 紀元 352 年,冉闵の都城鄴城は慕容儁に攻められ、冉魏は滅亡する。慕容儁は薊城で皇帝 を名乗り、百官を置く。 紀元 357 年,慕容儁は薊城から鄴城に移る。紀元 360 年,慕容儁死亡、子慕容暐(生 350 年、在位 360 年 - 370 年)が継承する。 5 前燕と東晋が対峙している時、その隙を狙って、前秦が勢力を増し、華北の強大政権と 成って行く。 紀元 370 年,前秦の苻堅、王猛は大軍で鄴城を囲む。慕容暐はびっくりして、文武百官 打ち揃って投降、あっさり前燕は滅亡する。皇帝慕容暐以下鮮卑人 4 万戸は長安に連行さ れる。これに端を発し、連行を逃れた多くの慕容人は南へ東へ移動、四散が始まる。慕容 人第一次移動である。 (2)后燕(紀元 386-407 年) 紀元 383 年,前秦苻堅が淝水之戦に負けると、慕容鮮卑貴族はすぐさま起兵し復国する。 紀元 386 年,慕容垂は帝を称し、百官を置き、太子を立て、都を中山(河北定州、河北省 保定市)に定め、幽、冀、平三州(今河北、遼西)地区を支配下に置く。 紀元 397 年,后燕慕容宝は中原で拓跋魏に大敗する。都城を龍城に戻す。后燕は南北に 分断される。 その後、慕容熙は后燕の皇帝に座るが、荒淫无道,窮奢極欲、・・・トンデモナイ皇帝で あった。 紀元 407 年,馮跋(胡化した漢人)と高雲(慕容雲)は皇后の葬儀に乗じて慕容熙を殺 す。后燕滅亡する。 (3)北燕(紀元 407-436 年) 紀元 409 年,高雲が殺害されたあと、馮跋が王となる。龍城を都城とする。 馮跋は王位を継承後、后燕亡国の教訓を取り入れ、社会稳定、発展を目指す。北燕の国力 の回復と政権の安定を目指す。 馮跋の死后その弟馮弘は太子馮翼を殺し、王となる。この後、暫らく安定した時代が続 く。 紀元 436 年四月,北魏の大将古弼、鹅青が攻めて来た。北魏軍の前に馮弘は成すすべが なく城門を開いて北魏軍を招き入れる。この直後、高句麗の援兵が龍城に到着する。馮弘 と龍城住民は高句麗軍隊と共に龍城を捨て、東の高句麗に向けて移動する。龍城宮殿は北 魏軍の放つ炎に焼き尽くされる。北燕滅亡する。馮弘は遼東に到着後、平郭に住まわされ る。二年後、暗殺された。 342 年慕容皝が棘城から龍城に移ってから、紀元 436 年北燕が北魏に滅ぼされるまで、 三燕王朝は龍城を都として前后共計約 90 年のあいだ栄えた。三燕文化と呼ばれている。 その後、龍城は二度破壊され、二度放棄されたが、清代末期まで交通の要所であり続けた。 現在も朝陽市は東北へ向かう重要なターミナル都市である。 6 地図 01 三燕の位置と移動 三燕文化:燕都龍城考古的重大発掘 近年三燕の故都龍城の発掘が進んでいる。北塔の下面から三燕和龍宮殿基址が、及び上 面から北魏馮太后が造った思燕佛図、また北塔東南面の三燕宮城城門遺址、龍城北面と東 面城門、西面和東、北面的城壁など三燕時期龍城の重要遺跡が発掘され、同時に大量の遺 物が発掘された。そして三燕文化は朝鮮、日本にも大きな文化的影響を与えていることが 判明した。 この外、北票市大板鎮金岭寺村西北の魏晋建筑群址からは曹魏初年慕容鮮卑先祖莫護跋 が遼西に入ったとき、“始建国于棘城之北”「 棘城の北で建国を始めた」とされる建筑遺跡 が発掘されている。 后燕の慕容熙が紀元 402 年(一说 403 年)建造した龍腾苑が現在の朝陽市北 7 公里にある 木頭营子村の“東团山子"と“西团山子”遺址の中から龍腾苑中の景雲山と宮殿建筑が発見さ れた。この遺跡は面積約1平方キロに及ぶ人工土台の上に築かれていた。鄴城を参考にし たのではなかろうか? ページ 9 写真 04 鄴城三台を参照ください。 慕容氏馬具 三燕文化が東伝したことを示す例として、慕容氏馬具が学術上重要な症例であると言 う。 慕容氏馬具は紀元 3 世紀末から 4 世紀中半に利用され、紀元 4 世紀中半に高句麗に、 7 紀元 5 世紀に朝鮮半島へ、紀元 6 世紀には日本列島に入ったとされている。 写真 03 慕容氏馬具:あぶみ 三燕の地方王朝が東西方文化交流史の面で重要な位置を占めていたのである。民族の大 融合と文化の発展に寄与したことは大きな貢献であった。 慕容鮮卑は三つに分裂:三燕を後にした吐谷渾と南燕 南燕国:398 年~410 年 397 年 后燕の慕容宝が在位時、叔父の慕容德は鄴城を守っていた。 397 年 北魏は后燕都城中山(定州、現在の河北省保定市)を攻める。慕容宝は北に逃れ 龍城(今遼寧省朝陽市)に入る。 十月 北魏は中山を平定し、后燕は两部分に分断される。后燕の項でも述べた。 398 年 鄴城を守っていた慕容德は北魏が攻めて来たが、鄴城の防衛が困難と見て、住民 4 万を率いて南に移動し、滑台(現在の河南省安陽県滑県東)に移る。南燕の始まりである。 399 年 滑台に北魏が攻め占拠する。慕容德は住民を率いて更に東に向かい、青、兖,を 取り、広固城(山東益都)に入る。 400 年 德は皇帝を名乗り、その勢力は隆盛し山東、河南に及ぶ。 405 年,德が病死すると、慕容超が跡を継ぐ。超好游猎,委政宠幸,诛殺功臣,赋役繁多, 百姓患苦、 ・・この人もトンデモナイ皇帝であった。 409 年 東晋の劉裕は広固を攻める。 410 年 超は囚われ、殺される。南燕滅亡する。ページ 7 地図 01 を参照ください。 鄴城三台 三国時期曹操により建造が始まった。その中で鄴城三台が絢爛豪華な宮殿であった。三 台の一が金鳳台である。原名金虎台、他に銅雀台と冰井台、合わせて鄴城三台と呼ばれて いる。鄴城の西北角に建てられた曹操の別荘であり、接客殿であり、戦略作戦室であった。 十六国時,金鳳台に装飾が加わり、その後、金鳳台は隋、唐、宋代に渡って大きな改変 8 は無かった。明代中期以后,銅雀台と冰井台が水没したが、金鳳台は残った。現在その威 容の一端を遺跡の姿で今に伝えている。 写真 04 鄴城三台衛星写真と復元図 中央:金鳳台原名金虎台 右:銅雀台 左:冰井台 復元図出典: 邯郸市人民政府网 南燕の統治方法 南燕の政権は短命であったが、その統治方法は時代を先取りする優れた制度を作ったと されている。鮮卑貴族と漢族士大夫を共に重用し、共同統治とした。旧士族特権を認め、 学官を建立し、公卿を選んで二品以下の子弟を入学させた。士族は勢力を拡大し発展する。 鮮卑貴族と漢族貴族は人口が拮抗する。“百室合户”、“千丁共籍” と言われた。鮮卑人と漢 人を共に徴兵したので軍事力の強化に繋がった。また人口調査も行い、総人口 5.8 万户に達 する。更に鉄と塩を官制化し、国庫は潤った。 慕容鮮卑人第二次移動:唐宋時期 前燕が崩壊後、慕容鮮卑人には恵まれた機会が少なかった。唐末 874 年の黄巣の乱は回 避すべき大乱であった。事実上唐朝は崩壊しており、頼る鮮卑族の力は衰えている。続く 5代10国の時代を迎えていた。 慕容鮮卑人は華南への移住を余儀なくされた。慕容鮮卑人第二次移動の始まりである。 彼らが具体的にどの経路を取って、何時どこにたどり着いたか、詳細は分かっていない。 20世紀末になって広東で名をあげるのを待とう。 9 3 吐谷渾人の興亡 青海地方で活躍する 吐谷渾(とよくこん、tǔyùhún) 吐谷渾は鮮卑慕容部から分かれた。4 世紀から 7 世紀まで(329 年 - 663 年) 、330 年 19 代に亘って青海一帯を支配し栄えた。 伏俟城遺跡:吐谷渾が王城を築く 伏俟(フス:fu1si4 伏せて時期を待つ)城遺跡は青海湖の西 7.5km の地にある。鉄卜加 古城とも呼ばれる。青海省海南藏族自治州共和県石乃亥郷の北部で菜済(切吉)河の南にあた る。周囲は草原で開けた土地である。土地の人たちは “切吉加夸日”と呼んでいる。チベッ ト語で夸日とは城で、加は漢人である。即ち切吉地方の「漢人城」の意味である。この地 方は古くから遊牧民族たちの土地であり、城を築く習慣がなかった。長い年月の間誰も城 の経緯を知らず、漢人が築いたものと考えられていた。 これには別説がある。“伏俟”は鮮卑語の発音を漢字に当てたのであり、王者の意味だと言 う。即ち、伏俟城とは王者の城と言う意味である。どちらを採用するかは読者に任せよう。 吐谷渾は五世紀中半(540 年頃)に城を築き始め、六世紀中ばにその王夸吕は“可汗”と呼 び、“伏俟城”に住んだ。しかし、彼らの習俗から “虽有城廓而不居”, 城郭はあっても住まず、 “犹以毡庐百子帐为行屋”。 絨毯で作ったテントで暮らしていた。 地図 02 伏俟城遺跡と霊州の位置 隋煬帝大業 5 年(紀元 609 年)は吐谷渾を破り、西海、河源の 2 郡を設置した。西海郡 が伏俟城を統治した。その後、隋末中原は大乱となり、隋王朝が衰亡に向かったので、吐 10 谷渾人は再度根据地を確保し、伏俟城を王都とした。 唐高宗龍朔三年(紀元 663 年)になり吐谷渾がチベット高原の吐蕃に滅ぼされるまで、 伏俟城はずっと約 120 年の間、吐谷渾王都であった。建設後 1470 年になる古城である。 城壁は東西 220m,南北 200m,城壁の幅 17m,高さ 12m。東面の城壁の一か所に幅 10m ほど開いており、城門の跡である。城内の西側に長さ 70m、南北幅 68m の小さな方城があ り、城西壁と結合されている。城外には砾石筑成の外城があり、長さ 15m,高 9m,台上に 房屋遺跡がある。城壁の南北に城壁があったが、北壁は既に水没しており、南壁は長さ 1400m が残っている。この城郭の建造構造は漢式城郭の基本的な特徴を見て取ることが出 来る。この事は民族文化の多元性を示している。 吐谷渾人の商隊:5世紀頃 紀元四世紀から六世紀まで河西走廊が一度閉塞状態だったとき、東西の商人が祁連山の 南側を通過して、青海西から南疆に至ったのである。伏俟城から東に進めば西平(今青海 西寧) 、金城(今甘粛蘭州)に通じ、その後南下すると益州(今四川成都)に至る。西に進 めば鄯善(今新疆婼羌)に通じる、シルクロード上の重要な位置を占めていたのである。 吐谷渾人は商業にも長けていた。彼らの商隊は益州や黄河中下流域に出かけた。紀元 553 年,東魏(都鄴城,今河南安陽附近) から帰った一隊は駱駝、驢馬 600 頭、人员 240 人の 大商隊であったと言う。 1956 年、西寧の隍庙街の一次発掘で百枚近い波斯(ペルシャ)薩珊(Sassanid Empire ササーン)王朝(226 年~651 年)後期の俾路斯王朝(Pirooz:紀元 457-483 年、ササーン 王朝の後期の君主 Yazdgerd III の息子) 時代の銀貨が発掘された。これは吐谷渾人が東西 貿易に深く関わっていたことを示すものとされている。 吐蕃に攻められる:亡国の始まり 663 年、吐谷渾は突如吐蕃の攻撃を受けて壊滅した。多くの部衆は唐に逃れ、青海に残っ た者は吐蕃の支配下に置かれた。 唐の高宗は吐谷渾を復国させるため、670 年に将軍の薛仁貴に 5 万の大軍を授けて青海に 出撃させたが、大非川の戦いで吐蕃軍に包囲され大敗した。 現在、大非川は沙珠玉河と名を変え、青海省共和県西南(青海湖南)の切吉広原一帯を 流れている。この周辺は海抜 3250 米~4000 米であり、中原から来た兵士の多くは高山病 にかかって体力が弱っていたとの説がある。チベット族は高原地帯特有のこの症状を上手 く利用して戦に勝って来た経緯がある。 11 これ以降、青海地方はチベットの領域に組み込まれ、唐に亡命した吐谷渾人は霊州に居 住を始める。名目上は霊州に亡命政権を立てたのである。亡命政権は青海国を名乗ること を許され、黄河の東岸に居城を築く。霊州城である。666 年~798 年、6代 132 年続いた が、政権は「大臣争権,国中大乱」の状態だったと言われる。大臣たちが権力争いをし、 青海国内は乱れに乱れたのである。亡国の方程式の第一章である。 青海国の初代王は慕容順である。634 年~635 年,唐が吐谷渾を攻めた時、慕容順は唐朝 に投降したので唐太宗は慕容順を西平郡王に封じた。しかし、慕容順は国内の乱れに乗じ た部下に殺される。唐朝は再度慕容順の子の諾曷钵を国王に任命するが、国内の乱れは収 まらなかった。諾曷钵(?-688 年)の四分の一は漢族の血統であったと言われている。 霊(霊)州は 526 年(孝昌 2 年) 、北魏により薄骨律鎮から霊(霊)州に昇格している。 現在は寧夏回族自治区霊武市であり、霊州城遺跡が残っている。ページ 10 地図 02 を参照 ください。 8 世紀中葉、吐蕃軍は再度唐に攻め込む。同時に霊州も攻められ吐蕃軍の前になすすべも 無かった。多くの吐谷渾人はさらに各地に逃れ四散する。青海国は滅亡した。 その後吐谷渾人は唐に従い、甘(今甘粛省张掖市)、瓜(今甘粛省瓜州県)、粛(今甘粛 省酒泉市粛州区) 、凉(現在の武威市)州など現在の甘粛省一帯に留まった。位置から見れ ば、シルクロードの警備役に付いたことになる。 吐谷渾人はその後も逞しい生命力を発揮する。周囲の民族と同化しても自らの民族色を 維持し続けた。そして 20 世紀後半、少数民族の土族として現代社会に蘇るのである。 写真 06 土族の衣装 帽子の飾りは步揺の名残と見られている。 12 現在の吐谷渾:土族の文化芸術 土族人は歌と舞の文化に長けている。また豊富な民間文学を残しているが、文字を持た なかったので、口承で残している。叙事詩の《拉仁布与且門索》が良く上演される。 土族の高级喇嘛や僧侣は文字で著書を残している。土族の活佛の著書と言われる《宗教 流派镜史》は英語、ドイツ語に訳され海外に伝わっている。 歌曲の種類は多く、“安昭”、“花儿”などが良く知られている。曲調は都有衬句,而且尾音 拖長而下滑,深沉,回味无窮。家曲には赞歌、問答歌、婚礼曲、円舞曲等が知られている。 土族居民が婚礼を行うとき、常に歌舞や娯楽活動が伴っている。 その外、土族人の民間刺繍工芸は大変有名である。 “五瓣梅”、“石榴花”、“雲紋花”、“寒 雀探梅”、“孔雀戯牡丹”、“獅子球”等等の模様が古典的な姿で残っており、土族女性の伝統文 化として人目を引いている。 於菟(wutu 、ウタ) 古い漢語で意味は虎である。青海省同仁県热贡地区で每年農歴腊月(師走、12月)二 十日を"黑日"と定め、この日は妖魔鬼怪が出没するので於菟踊りの祭りを行う。虎に模した 舞いを踊り妖魔を追い出し、太平を願うのである。 写真 07 於菟祭りの様子 土族は中国の少数民族の一つに数えられており、2000 年第五次全国人口普查統計による と、土族の人口数は 241198 人。現在人口約 29 万と推定されている。 主に農業に従事しているが、牧畜を兼業している。土族語を話しており、阿尔泰語系蒙 古語とされている。通常漢文字を用いているが、近年アルファベットを用いた土族文字を 創造し、現在試行している。 13 主要な居住地は1青海省互助土族自治県、2民和回族土族自治県(青海省 海東市 民和 回族トゥ族自治県) 、3大通回族土族自治県、4黄南藏族自治州的同仁県(青海省 黄南チ ベット族自治州 同仁県) 、5楽都県に分布している。いずれも西寧市近郊である。 2011 年 8 月、都蘭県香加郷科学図村で盛大な文化祭が行われた。正式には青海省海西州 第九回柴达木牧民“孟赫嘎拉(モンヘガラ) ”文化祭りと都蘭県第二回吐谷渾文化旅游祭り が合同で開催された。当日、都蘭太陽鳥芸術団が舞蹈《万馬奔腾》を披露した。大変盛大 な祭りであったようで、舞踏に参加した者は盛装して写真に納まった。下の写真を参考く ださい。孟赫嘎拉とは蒙古語で「永久不滅の火炎」の意味である。 写真 08 吐谷渾文化旅游節 多くの歴史学者によると、今日の土族は原地に遺留した吐谷渾人が主体で、蒙古、藏、 羌、漢维吾尔等の民族を吸収融合して新しい共同体を形成していると言う。 14 4 流浪の慕容世家 広東省高要市金鶏村に到着 三次移動:元末明初:明 1368 年 - 1644 年 元朝末年、天下は大いに乱れる。紅巾の乱(1351 年 - 1366 年)と呼ばれている。慕 容氏の中には農民起義軍に参加した者が多い。朱元璋と並んで作戦に加わる。そして朱元 璋は明朝を開き皇帝に君臨する。その後、朱元璋は起義軍の将領たちを排除、殺害する行 動に出る。胡藍の獄と呼ばれている。朱元璋による建国の功臣たちの粛清(14 世紀末頃) 事件の総称である。この粛清事件は波状的に繰り返され、次の6件が知られている。空印 の案(1376 年) 、胡惟庸の獄(1380 年) 、郭桓の案(1385 年) 、林賢事件(1386 年) 、李善 長の獄(1390 年) 、藍玉の獄(1393 年)。その最大の事件が藍玉の獄(1393 年)である。 総数 45000 人を殺害し、逃避し各地に散会した者その数を知らず、とされている。 慕容氏の一部は殺害を恐れ、いち早く逃避を始める。そして名を替え、姓を改める。慕、 容の一字姓に替えた者が多い。漢族の習慣に倣ったのである。 《慕容氏大宗族譜》によると、明朝洪武五年(紀元 1372 年)、慕容紹奕は一族郎党を引 き連れ移動を開始し、広東省高要市蛟塘鎮金鶏村に到着する。粛清事件が荒れ狂う直前に 逃避したことになる。慕容紹奕の有能性を物語っている。慕容紹奕を始祖とした族譜を書 き残している。現在まで二十四世孫が書かれている。 写真 09 慕容鮮卑人の子供たち 村の老人の話によると、慕容氏族人が幕村に到着した時、村中に閻、梁姓の人が多かっ た。数十年後、慕容姓の者が多くなり、他の姓の者が減少したと言う。 15 閻、梁姓の人とは 閻:在五胡十六国の時代に閻世の胡族が多く居た。また、唐朝時代、閻姓は山西地区に 多く、太原郡の十大氏族之一とされている。 唐宋以後、閻姓は江南に移動し、現在の湖北省大冶一带に定住し、閻家村の名が残って いる。その後、高要金鶏村に移動した者や、台湾に移動した。 梁:古代鮮卑族が梁姓に改めた者が多い。 《魏書.官氏志》によると、南北朝時代、北魏 代北に三字姓の “拔列蘭” 氏が居た。魏孝文帝が洛陽に移ったとき、中原に入り、姓を梁に 改めている。 即ち、閻、梁姓の人と慕容氏の人は同じ鮮卑族の末裔なのである。 四次移動: 明中期 1472 年頃 金鶏村に到着して約 100 多年後、白土鎮幕村や大旗村に移住する者が出る。狭い土地に 人口が増えたことや、土地の者との通婚が進んだことがその動機であった。 老人の話によると、幕村の慕容氏人は漢人と通婚し、雑居し、生活習慣をほとんど漢化 した。そして民族の衣物、風俗習慣の特徴が無くなった。さらに身分証を漢族と書き換え た。 《高要県志》によると、慕村の慕容氏は明清時代数百人,晚清時期 1000 人程度であった という。 挙人になった慕容宇 慕容氏族譜序によると、清嘉慶年間、慕容宇が挙人に合格したことを記載している。挙 人は科挙試験の第一次試験に合格したことを示す。科挙の最終試験に合格するにはこの後 多くの関門がある。慕容宇がどこまで上り詰めたかは不明であるが、この村では飛びぬけ た秀才であったのだろう。しかし、彼のその後の活躍の記載がない。 生活習慣 学者によると、今日の土族が継承して来た習俗と慕容鮮卑人の習俗には一定の関連がみ られると言う。 特に婚姻習俗に特徴がみられる。慕容鮮卑人が嫁ぐとき、男方は女方の同意を得る。そ してまず女方家で1,2年間労働する。その後、男方の家庭で男女共同生活をする。家計 が苦しい場合は婚礼の儀式は行わない。 その外、父が死にその後妻が子供を生んだ場合、兄がその妻を娶り子供を育てる習慣が ある。土族の婚嫁習俗と慕容鮮卑人の習俗と類似な部分が多い。 16 步揺の名残 慕容鮮卑婦人は頭に步揺の冠を付けていたことは既に述べた。現在、白土鎮地区の慕容 氏族の婦人、および甘粛省の土族女子も同様の花飾りを頭に付けている。 写真 10 老婆の頭飾り 特に白土鎮地区では 60 歳以上の老婆がこの飾りを頭に付けている。この飾りは步揺の名 残りと見られている。吐谷渾・土族にも類似の飾りを持っている。写真 06 を参照されたい。 村の老人の話によると、子供のころから百年以上の歴史をもつ慕容氏祖祠がある。幕村 人は代々伝えて来た。祖先は南へ移動して来た。自然と慕容の先祖たちはその物証として、 祠堂の前面に一幅の牌匾を掲げ、垂裕堂と呼んだ。これは慕容垂裕と呼ぶ素封家が創建し たのであろう。春節には幕村人が集い祖祠を祀っている。 写真 11 宗廟の䂫土建筑 中に入ると直ぐ、日本で言う土間になっている。 17 この地方の古い住居は䂫土建筑と呼ばれており、南方地域には無い方法だと言う。地面 を突き固めて建築の基礎とするのである。三燕故都龍城遺跡で発見される建築の方法とそ っくりだと言う。その代表として白土鎮幕村の宗廟の上の写真 11 を参考されたい。 広東省高要の現在の鮮卑人 現在肇慶市(広州市西 75km)の端州地区、高要市、広寧県、懷集県等に計約 6000 人 の慕容氏族が住んでいる。 人口が増えて高要白土鎮幕村、 大旗村に約 3000 人が住んでいる。 その内大旗村には約 2000 人である。その他高要市蓮塘鎮の波河、石脚村,馬安鎮の馬安村 にも住んでいるが人数は多くない。波河、石脚村は確認出来ない。名称が変更されたので あろうか。 18 5 南燕の慕容氏:海南島に移住する 移住の開始と経緯 :東晋による強制移動と逃避 東晋時期,南燕は東晋に滅ぼされた。東晋朝廷は諸侯国が再起する可能性を絶つため、 南燕境内の数千人を江南に強制移動させた。勿論その中には慕容宗族もいた。その外、山 東沿海に逃避した者の一部は舟に乗り南部沿海各地に渡った。 海南省崖州(現在の三亜市)の慕容氏は南燕の后代である。しかし、当時南燕の慕容氏 が崖州に到着した経緯は何も伝わっていない。 最近《崖州慕容氏族譜》が改修された。これによると、現在三亜市崖城鎮、育才鎮, 及び楽東黎族自治県黄流鎮黄流村に住んでいる“容氏”族人は“慕容氏”の家族后人達である。 1400 年前のこととされている。その 600 年後(800 年前、西暦 1200 年頃)崖州に慕容居 中、居正の兄弟が移動して来た。彼らは海南島の南端で学校を建て、義学を創設し、そし て三亜文化の華を開かせた。 崖州慕容氏族譜の《原本譜序》によると、 「南燕滅亡後六百年が過ぎた。居仁から居中、居正の時代になる。慕容居中は正直から宋 朝散郎となり、奉郎に昇格する。吉陽軍知軍(軍の長官)となる。現在の崖県である。」 地図 03 南海島の水南村 慕容居正、字仲直,宋に仕え奉訓大夫,光州の知となる。宋末の混乱で父子兄弟力をあ わせ吉陽軍に参軍する。慕容族は居正の子孫としている。慕容居中と慕容居正は琼州(現 在の海南省)慕容氏の始祖である。 19 南宋初年,水南村慕容居中は朝廷から“征辟”を受けた。 “征辟”とは朝廷が特別の計らい で有識者を招聘する制度である。学に長じ、政に通じているとして朝廷の顧問と成ったの である。この名誉を受けて故郷に帰った彼は学校を建て郷里の新興に努力した。 《崖州志》 にはこれを“卓行”と記している。 有識者の選抜試験 秦及び漢時代に入り、中国は封建集権時代に入り、統治者は多くの人材を必要とするよ うになる。優秀な人材の登用方法には “纳赀”,“任子”,“察举”,“征辟”が設けられた。 “纳赀”は金銭で官を売り、官を買ったのである。一番容易な方法である。 “任子”は“世卿世禄制”とも言われ、家柄に応じて、高級官吏に登用し、二千石以上 の官吏に任じ、通常三年の任期であった。古い同僚の子供たちに名誉を与えたのである。 勿論膨大な金銭が動いた。 “察举”と“征辟”は上の二件と異なり、公卿、列侯および地方郡守等の高級官吏を通 して品德高尚者を選び、試験を行い、人才を朝廷に推挙する。そして合格者に官職を与え る制度である。この試験は金銭や家柄は関係なく(と言っても、実際は金銭家柄を抜きに は考えられない) 、試験内容もなかなか難しかったようである。言わば国家公務員の登用試 験である。この二つの制度は古い貴族階級制度を打破する機能を持っていた。 征辟と言えど、この難しい国家公務員登用試験に合格したのだから、慕容氏家は大騒動 を起こしたに違いない。慕容居中は南燕国の再興と大いに盛り上がったであろう。 慕容氏の活躍:中原文化が崖州に伝播する 彼の業績は第一に農地を開墾し、植物を育てた。農業の奨励である。第二に教育の奨 励である。 教育の奨励は大きな成果を生んだ。明代、当時の崖州地区の慕容氏は科挙の試験に参加 した。合格した者 32 人。この内、官に出仕したもの 18 人に及んでいる。このことは慕容 氏が崖州に持ち込んだ文化繁荣が如何に大きかったかを示している。族譜中に明代は崖州 慕容氏の全盛時期であると明確に記載している。 大出世をした人物に慕容舟琼がいる。慕容舟琼は吉安(今江西吉安)府理刑、後に漳州 太守に任じられる。 二千石の扶持とは現在どのくらいの価値があるのだろうか? 色々な計算方法があるよ うだが、答えは「一石は一人一年の食費代に相当する」 。すると、2000 人の部下を養えたこ とになる。この額は海南島という中原からはるか離れた郷にとっては非常に大きな収入で 20 あったはずだ。舟琼は年 93 歳で没する。 明代の繁栄は明朝の凋落と共に衰亡する運命にある。明末清初、崖州は南明義軍(明の 亡命政権軍)と清軍による争奪戦の地となった。清順治四年(1647 年)から順治十六年ま で前后 12 年間、現在慕容氏の居住が多い水南村は幾度も戦場となり慕容宗族のおおくが殺 害され、宗祠、房屋が破壊された。 戦乱が収まった康熙六年(1667 年)、慕容氏民は慕容宗祠を改修し、族譜を書き改めた。 この時慕容氏民は百人に過ぎなかった。 この後、清朝の数百年間、慕容氏の出仕する人数が減少するなか、慕容琨、慕容義、慕 容瀚章、慕容天佑の四人が知られているのみである。 清康熙年間、州人王瑞瑄が重修した《慕容氏族譜》序中に水南村慕容家族について感想 を述べている。 「呜呼!古帝王迭兴,其子孫支庶或存或没。乃慕容氏起自鮮卑,中原逐鹿,阅今千余年, 而其后裔不绝如线,蕃硕有嘉焉。 」 「ああ! 古帝王が盛興して,その子孫は栄え或は没する。慕容氏は鮮卑に起き,中原で 活躍し、千余年が過ぎた。その後裔は線のように途絶えることなく,大きく茂って、喜ば しいことだ。 」 その後、慕容氏は姓を容に変えた。追跡者から身を守り、同族の保身を狙ったのである。 しかし、どの容氏も昔から自分の姓が慕容であることを知っているという。また、移民が 次々と四面八方から押し寄せ、一村に雑居状態となった。水南村の中で比較的多いのは慕 容、盧、裴、黎の四姓だという。 盧、裴、黎の三姓の出身を検討しよう。 盧姓は慕容姓の一支である。慕容>容>盧と呼び名を変えたと考えられる。 また裴姓は唐代に多く、宰相などの高官の出身である。唐朝が鮮卑族の出身者が多い事か ら裴姓も鮮卑族出身者であっただろう。 黎姓は南北朝五胡乱華(五胡16国)の時代、北方より中原に入った鮮卑人が漢化後、 姓を黎と改めた者が多い。例えば《魏書官氏志》によると:“素黎氏は後に黎氏と改めた” という記載がある。 水南村の慕容、盧、裴、黎の四姓の者はみんな鮮卑族の末裔なのだ。水南村に来た経緯 については良く判らないが、雑居状態で過ごしても何ら大きな衝突は起きないはずだ。 21 現在の慕容氏 現在、慕容氏后人が住んでいるのは三亜市崖城鎮水南村、三亜市育才鎮雅林村、楽東黎 族自治県黄流鎮黄流村である。この内、水南村の慕容氏后人の人数が多く、約千人である。 写真 12 慕容氏后人が崖城鎮で開設した農業資材店 55 歳の容显伟さんは自分の畑 100 多亩で冬季瓜菜を栽培する傍ら、族譜を改修したり、 宗祠を再建したりで忙しい。容显伟さんの話によると、20 世紀 40 年代、水南村の慕容氏族 人は瓦業を始めた。黄流村の慕容氏族人は大工業を始め、雅林村の慕容氏族は木料業を始 めた。農機具の販売修理をする者も出て来た。そして、1950 年代になり、村人は宗祠を改 修し、水南村第一小学校を建てた。 写真 12 水南村の入り口 22 崖州古城 三亜は古くは“崖州”と呼ばれ、現在の三亜市の西 40km に位置している。秦始皇帝の 時期南方三郡が置かれた。その時の一つである。宋以前は土城であり、南宋慶元四年(1198 年)レンガ造りの城壁となり、その後元、明、清三代に亘って拡充されてきた。現存する のは文明門、北門小段城壁および崖城学宮、迎旺塔、盛德堂、広済橋、還金寮序碑、万代 橋等の古跡が残っている。 写真 13 崖城文明門 崖城学宮は崖州の最高学府であった。元、明、清代に渡って名士を育てた。唐代名相 李德裕、韦执谊,宋代名臣趙鼎、胡铨などが知られている。 また、唐朝著名な鑑真和尚が日本へ渡海の途中、台風で流されこの海南島に流れ着いた。 そして一時滞在したことは日本でも良く知られている。元代「紡織之母」と呼ばれた黄道 婆は崖城水南村に学芸を伝えた。 23 あとがき 高要市慕容氏、三亜市水南村の慕容氏、甘粛省の土族を主に紹介した。三氏とも同じ慕 容氏で出身が同じだが、それぞれ現在までの経過が大きく異なっている。そして当然だが 現在の状況も大きく異なり、社会の様子も雰囲気も異なっている。社会と民族の関係を見 るのに大きなテーマを提供してくれそうだ。 彼らの共通点の一つは移動を繰り返した事だ。その移動のトリガーと成ったのは社会の 混乱である。戦乱の結果、負け組が移動する。自然の猛威で生活が出来なくなる。市民の 起義や政権の交代で世情が不安定になる。特に粛清事件が頻繁に発生する。 無差別的な虐殺事件が人口減少に発展した例もある。赤壁大战之后の混乱、五胡乱华の 大混乱、五代十国の社会不安定、蒙古兵南下による大虐殺、满清の入関などは大虐殺を事 件を伴っており、人口の大減少に繋がったとされている。これらが重なると、民族の大移 動とも言える社会変動が起きている。慕容鮮卑人の移動はその一例に過ぎない。 現在の鮮卑人は全国に分布しており、土族を除けば、55の少数民族また未識別民族に も含まれていない。行政上は漢民族とされていて、少数民族の特典を受けていない。 完 24