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台湾の国際法的な地位に関する説明
台湾の国際法的な地位に関する説明 一、 前言 「台湾は中華民国の一部」であることは歴史或いは国 際法から見ても、非常に単純で明確な事実である。194 5年9月9日、中華民国政府は南京で日本の降伏文書を受 領し、同年10月25日、台北の中山堂で日本台湾総督の 降伏を受領した。法律上において、また、事実上において、 台湾に対する領土の主権を回復した。この主権を回復した 事実は、1952年4月28日、中華民国と日本の『中日 平和条約』が調印された後、再度確認された。 二、 台湾の主権が中華民国に返還された法律的根拠と事 実 1894年、清王朝は日清戦争で敗戦を喫した。翌年 (1895)の4月17日、中日両国は日本の下関で『下 関条約』を締結し、その第2条に中国が遼東半島や台湾、 及びその付属島嶼と澎湖列島を日本に割譲すると規定さ れた。同年の6月2日、中日双方の代表、李経芳氏と樺山 1 資紀氏が基隆沖にある日本軍艦で台湾、澎湖とその付属島 嶼の割譲と接収の手続きを行い、日本は台湾全島の5ヶ月 あまりに及んだ抗日運動を制圧した後、50年にわたった 植民地統治を展開した。 第二次世界大戦終結後、台湾の主権は日本から中華民 国に返還された。この変化は日本が中国に侵略戦争を発動 したものによるのである。1937年7月7日、盧溝橋事 件が発生した10日後、蒋介石委員長は演説を発表し、徹 底的に抗戦すると宣言し、その時から中華民国は不屈の精 神で粘り強く独自に4年間も抗戦をした。1941年12 月8日、日本が真珠湾攻撃を繰り広げ、米国が対日戦争を 宣言し、中華民国政府も直ちに日本、ドイツ、イタリアな どの枢軸国に対して宣戦を布告し、そして中日間の『下関 条約』を含むあらゆる条約や協定はすべて無効にすると公 表した。 1943年12月1日、中、米、英三カ国が『カイロ 宣言』を発表し、日本に戦後東北 4 省と台湾、澎湖などを 中華民国に返還しなければならないと具体的に要求した。 1945 年 7 月 26 日、中、米、英の首脳が『ポツダム宣言』 2 を発表し、その第 8 条で改めて『カイロ宣言』の条件は必 ず履行しなければならないと求めた。 1945 年 8 月 14日、日本が『ポツダム宣言』を受け入 れ、無条件降伏を宣言した。また、同年の 9 月 2 日、米国 の戦艦ミズーリで「日本降伏文書」に調印した。その文書 の第 1 条には、 「米、中、英、ソ連など四ヶ国政府の首脳 が 1945 年 7 月 26 日にポツダムで発表されたもの及び列挙 された条項を受け入れる」と記載された。言い換えれば、 『ポツダム宣言』第 8 条の『カイロ宣言』に関する条件は 日本が「降伏文書」に承諾した諸事項を構成するため履行 されなければならず、日本が義務を履行し、東北 4 省や台 湾、澎湖などを中華民国に返還しなければならないという ことである。 『カイロ宣言』に関しても、 『ポツダム宣言』或いは「日 本降伏文書」に関しても、中華民国はそれらのものを条約 的拘束力のある法律文書と見なしている。米国政府も『カ イロ宣言』と『ポツダム宣言』を条約或いは国際協定と認 識し、 『米国条約とその他の国際協定編纂』に盛り込んだ。 一方、 「日本降伏文書」に対して、米国がそれを条約と見 3 なした結果、 『米国法規大全』に収録された。そのため、 国際法から言えば、 『カイロ宣言』と『ポツダム宣言』と 「日本降伏文書」はいずれも拘束力のある法律文書だと言 える。 1945 年 10 月 25 日、日本台湾総督が台北で中華民国政 府に降伏した。同じ日、中華民国は台湾、澎湖列島に対す る主権を回復すると宣布した。その後、中華民国政府は有 効的に台湾、澎湖とその付属島嶼を統治管理したほか、民 主主義制度をも推進した。例えば、1946 年に台湾で省、県 レベルの参議会選挙を行い、翌年に、台湾省行政長官公署 を台湾省政府に改め、中華民国政府のこの地域における主 権行使と統治権を開始した事実を作った。1946 年 1 月 12 日、中華民国政府は台湾、澎湖住民の中華民国国籍の回復 を 1945 年 10 月 25 日に遡って発効すると命じた。 1949 年、中華民国政府は台湾に移り、その間、中華民 国は台湾で有効的に主権を行使したことは国際社会にお いても異存はなかった。例えば、1950 年 1 月 5 日、米国の トルーマン大統領が声明を発表し、 「1943 年 12 月 1 日カイ ロ共同コミュニケにおいて、アメリカ大統領、イギリス首 4 相と中国主席が、彼らの目的は日本が中国から占拠した領 土、例えば台湾を中華民国に返還することにあると言明し た。米国政府は 1945 年 7 月 26 日にポツダム宣言に調印し、 カイロ宣言の条件を必ず履行させなければならないと宣 告した。この宣言の条項は日本が降伏した際にも受け入れ た。前述の宣言に基づき、台湾は蒋介石委員長に引き渡さ れることになった。これまでの 4 年間、米国とその他の同 盟国は中国の台湾における権力行使という事実を認めた」 と指摘した。 台湾が中華民国に復帰されて 7 年後、1952 年、中華民 国と日本が締結した「中日平和条約」は、単に条約の形式 で再度台湾の領土及び主権が中華民国に返還された事実 を確認しただけである。実際には、当該平和条約が締結さ れたかどうかは中華民国の台湾に対する主権行使に影響 はない。影響されたのは中華民国と日本との正常関係の発 展だけである。 「中日平和条約」が調印された時、台湾住 民は既に中華民国の国民であり、もう 7 回も光復節を祝っ たのである。 5 三、「サンフランシスコ平和条約」、 「中日平和条約」と台 湾主権の帰属 第二次世界大戦後、中国では内戦が発生し、1948 年に 戦局が逆転して中共が次第に優勢を占め、1949 年 10 月 1 日に中共が建国を宣布し、同年の 12 月、中華民国政府が 台湾に移った。 1950 年 6 月 25 日には朝鮮戦争が勃発し、国際情勢が急 転換した。米国のトルーマン大統領はその三日後に台湾海 峡の中立化を宣言し、 「すでに米国の第 7 艦隊に台湾に対 する如何なる攻撃も阻止するよう命じた。それと同時に、 台湾にある中国政府に大陸に対する一切の海、空軍の活動 をも停止するようと求めた、 、、 。台湾のこれからの地位に 関しては、太平洋地域の安全が回復されてから日本との平 和条約が締結された時、改めて討論する」という声明を発 表した。米国が当時、台湾の地位に対してこのような主張 を提出したのは、その行動が中国の内政に干渉していると いう嫌疑を避けるためである。しかしながら、結局、いわ ゆる「台湾の法律的地位が未確定」という論説を生み出し てしまったのである。トルーマン大統領のこの声明が発表 6 された翌日、中華民国の葉公超外交部長が台湾の地位に関 して、 「台湾は中国領土の一部である」という正式な声明 を直ちに発表した。 1954 年 12 月 2 日、中華民国と米国の間に「中米共同防 衛条約」が調印され、その第 6 条には、 「第 2 条と第 5 条 の目的に適用させるため、あらゆる『領土』に関する表現 は、中華民国にとって、それは台湾と澎湖のことを指して いる、 、 、 」と明記されている。米国は「中米共同防衛条約」 の中で、台湾と澎湖は中華民国の領土に属すという宣言を 繰り返しており、米国による先の「台湾の法律的地位未確 定論」という観点がすでに修正し始めたことを意味してい るため、意義が重大である。 1951 年 9 月 8 日、戦時の各同盟国と日本がアメリカの サンフランシスコにおいて平和会議を行い、 『対日平和条 約』(即ち、サンフランシスコ平和条約)が調印され、正 式に戦争の状態を終結させ、また日本領土などに関連する 諸問題の処理にも取り掛かった。当時、中国は内戦がまだ 収束しておらず、朝鮮戦争も勃発したばかりで、国際情勢 が極めて複雑であったことが、中華民国政府が要請されず、 7 サンフランシスコ平和条約に参加できなかったわけであ る。参加した各締約国はコンセンサスに達したが、それは 『サンフランシスコ平和条約』第 2 条の日本が領土を放棄 した部分に関しては、台湾、澎湖、千島列島、樺太島、南 氷洋と南沙諸島などを含め、いずれも日本がどの国に返還 すべきかの言明をしない形をとり、当事国に日本と個別に 条約を締結し、領土の問題解決にするという権利を与えた に過ぎなかった。 日本はその条約の規定により、1952 年 4 月 28 日に、台 北で我が国と『中華民国と日本国との和平条約』 (一般に は中日平和条約と呼ぶ)を締結した。その主な目的は、第 一に、正式に戦争状態を終結させること(戦争行為が実際 に終了し、日本も「降伏文書」に調印した。しかし、形式 上では条約を結んで戦争状態の終結を証明する必要があ る)であり、第二に、戦後双方の関係を確認するためであ った(例えば、領土の処理、戦争賠償、財産、人民の国籍 などの問題) 。 『中日平和条約』の第 2 条には、 「西暦 1952 年 9 月 8 日、アメリカのサンフランシスコにおいて対日平和条約が 8 調印され、その第 2 条には、日本国がすでに台湾と澎湖列 島に関するあらゆる権利と名義を放棄したことを認める」 と書かれている。この条項は台湾と澎湖を中華民国に返還 すると明確に規定してはいないが、中華民国政府はこの平 和条約を締結する当事国であり、また条約の中に日本が台 湾、澎湖を放棄すると明確に定められている。この条約の 文面と内容(例えば、第 3 条の日本の台湾における財産の 処理、第 4 条の中日間のこれまでの条約(「下関条約を含 む」の廃棄、第 10 条の台湾、澎湖住民は中華民国の国民 であることに関する認定など)から見れば、日本が台湾を 中華民国に返還する意思が明らかなものであり、さもなけ れば条文はこのように定められるわけはない。このように 定められていても、実施ができなければ、何の意味もない からである。 そのほかに、日本が放棄した領土は、調印した当時、 既に中華民国が統治しており、調印の所在地でもあった。 国際法において普遍的に受け入れられる「占有保持主義」 (principle of uti possidetis)、即ち「平和条約の効果 は平和条約が締結された当初の状態を完全に保つことで 9 ある」から、いずれも台湾の主権が中華民国政府に返還さ れた法律的根拠と事実を再確認したものである。 四、結論 中華民国政府は 1945 年から台湾、澎湖列島に対する主 権を回復し、並びに有効的に管轄権を行使して以来、すで に 60 年あまりの歳月を超え、中華民国の運命は台湾の運 命と切っても切れない関係となった。わが政府は憲法の規 定により憲政を実施し、民主法治を推進して 1950 年から 県知事や市長、県と市議会議員、省議会議員などの選挙を 行い、1970 年から中央民意代表の増員選挙を行い、1996 年に総統の直接選挙を行い、憲法の「主権在民」の概念を 具現させ、自由、民主、法治、人権など人類の共通理念を 実現する上での斬新な里程標となる発展を推し進めたの である。 中華民国を保護し、「麗しの台湾」を建設することは、 台湾のあらゆる国民の神聖なる責任である。台湾は中華民 国の領土であり、台湾の法律的な地位は疑われる余地はな い。いわゆる「台湾の法律的地位が未確定」云々は、冷戦 10 時代一部の国の一時逃れの策に過ぎない。それは歴史的事 実に矛盾しているだけではなく、国際的な法理も軽視して いる。今後、どの国であっても、もし以上のような主張を 提出した場合、中華民国政府は厳重に抗議し、それらの行 為を攻撃的で挑発的行為だと見なすことになろう。 外交部 条約法律局 11