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第4節 (2)家称語彙
㈹ 家称語彙 家称語は、屋号ともいう。当地では、﹁ヤゴー﹂の名称が一般的である。 当町には、いろいろな特徴を持った屋号が存する。それらを命名の観点に従って、その 利ケ︵山の際にある家︶ 一部を整理してみると、次のようになる。 タナカ可︵田中産︶ ︵山の迫っている所にある家︶ 地形に基づくもの サコ 列ナカ︵田中︶ 位置に基づくもの ⇒シ︵本家の西にある家一般称アクセントは﹁ニ可﹂︶ シ可キト︵城木︶ 刈ラ︵本家よりも高い台地にある家一般称アクセントも﹁パーヱ︶ 目標物を言うもの イズミヤ︵泉屋︶ デー︵店の分家︶ 本家・分家を言う名称による屋号 家に注目した屋号 C b a 居住場所に注目した家号 屋号語彙の命名構造 l 2 a 、、、セノ 熊野町におけることばの生治−方言− ヘヤ︵部堅︶ 第一撃 5∂ Ⅰ シ可列列︵新宅︶ 生活誌編 ミサ︵店︶ ︵古家︶ 家の新古に注目した屋号 フルヤ ︵新家︶ ︵新しい家︶ ニーヤ アクラシヤ ︵茸家︶ 家の形状に注目した屋号 フキヤ キジヤ︵木地屋︶ 職業生業に注目した屋号 可−ヤ︵紺屋︶ 刺ジヤ︵鍛冶臣一般称としては﹁カジ刊﹂のアクセント︶ イモジ刊︵鍛冶犀︶ 家の格に注目した屋号 〓、,、ヤ︵富匿︶ 縁起をになう名をもっている屋号 カネミツ刊︵金満星︶ めでたい呼称を取り入れたもの ○タマリ刊︵溜星︶ ヤマガーチ︵山垣内︶ フク列−チ︵福垣内︶ 御大家の領域内にあったという意の﹁垣内﹂︵カーチ︶を用いたもの マエガーチ︵前垣内︶ 54 Ⅴ 故事などによるもの ポーコ畑〓〓︵岱古生︶ ︵一休園︶ ︵正米韮=名﹁正三郎﹂を︶ ︵古城園=姓﹁成木﹂を︶ 姓、名の一部を利用したもの イヅ割斗〓エソ 商業のためにつけられた屋号 a b コヨエソ ショー皿〓ド1 ヨーショ1日︵与正堂=名﹁与三郎﹂を︶ これらⅤの顆は、すべて、毛筆業の発達に伴ってつけられた匿号である。そのため、家によっては、別の古く からの匿号を別にもっていることも多い。たとえば、﹁庄栄堂﹂の在来の屋号は、﹁叫ヤ﹂であるといったもの である。蜃た、毛筆問屋として命名されている屋号にほ、﹁∼園﹂﹁∼堂﹂の文字が多く用いられていることも、 一つの特徴である。 なお、当地には、その人の出身地やあるいはその人たちが一時住んでいた地名を屋号としている例は、見られ なかった。また、﹁人名﹂そのものを屋号としたものもないようであった。 屋号の使用状況 て、見ていくことにする。この十日講は、四七戸をもって形成されている。この隣保が十日 ここでは、屋号が生きて使用されている状況を熊野町呉地区の十日講という隣保組織につい 講という、講中名をもっていることほ、かつては、当地の中心的宗旨である浄土真宗本願寺派の講中の一形態か ら形成されて来たものであることを示しているといってよかろう。ところが、現在では、﹁り山イ﹂についてこ 熊野町におけることばの生活−方言− の講が働いていると、説明されている。すなわち、葬式とか火事とかの悲しいこと、辛いことについて校能する 第一章 55 農ヤ【森吉崖ヤ l l 重;【仁ニ【前三 図1−4−4 下言太子重石 野ノ 本7【田ク【屋ヤ 川 太 伊 上 田 藤 光与森吉岡芸 井イ 伊 仁 前 藤 井 中 \J 本 ) 56 互助組織であると説明されて いるものである。 十日講には、番板が用意さ れ、一月ごとに組織構成員の 家庭に継承されている。この 番板には、各戸の屋号若しく は名字が記されている︵図1 −4−3。1−44︶。この 名字の順に月番が継承されて いくことになり、月番は十日 講の成員に不幸が生じた場合 にほ、講中の人々の代表とし 岡富【岡言金ま ‘ 森 森 谷 ■ 光三本号■同書 堂 堂 金 国1−4−3 て、不幸の生じた家に扶助の手をさしのべる仕事の代表になるわけである。 田夕 岡富 香坂に記されている名を書き、各家の名字︵括弧内の名︶との対比ができるように整理してみると、次のように なる。 桑言前三l任そ タ■一 谷︵金谷︶ オカ 岡︵荒谷︶ 仁井本順吾︵氏名︶ 勉︵氏名︶ ツ† 土 ド 島 仁井本 マエ 前 マ可 前 監︵前中︶ 井︵前中︶ 加ヵ】池‡.池手池‡j池夏】辻;l弛‡1池‡r前三r 田ダ 中 ︵前中︶ ナカ 内 ︵辻田︶ ︵花木︶ ︵荒谷︶ ウチ 酉 − 田 キト 本︵荒谷︶ 刊 屋 ︵荒谷︶ シロ 奴︵荒谷︶ 1 広︵荒谷︶ 登︵荒谷︶ ︵荒谷︶ ︵小川︶ 前三前三広喜【広喜.広≡■池壬■官主■中吉【池‡】 田ダ宏≡ 野 ザキ 崎 ナガ 永 の屋号をもつ ﹁仁井本﹂ ︵荒谷︶ ︵中野︶ ︵早田︶ ︵荒谷︶ ︵広田︶ ︵広田︶ 、 には、氏名で表記 木・紳本﹂の家では、近隣の地域内に同姓が存在するとかというような状況から屋号を有していると思われる。 されている二家がある。分家が新しいために、屋号をもっていないといえる。一戸しか講中には存在しない﹁経 そのため、姓をもって呼ばれることも多いかと思われる。﹁仁井森﹂ 小川、実森、中野﹂の五戸がある。これらの家は、この講の中に若しくは近隣の講に同姓をもたない家である。 から、あるいは屋号を必要としない時期もあったのではなかろうか。そのほか、姓のみの家が、﹁太田、川上、 一般化していないためかとも考えられる。辻田家は、幕末ごろ功労によって藩主より辻田姓を与えられたという の屋号が見せ消ちにされている。辻光の屋号が、なお 谷︵荒谷︶ 福︵荒谷︶ 森︵実森︶ り 屋︵荒谷︶ ︵氏名︶ 、 郎 屋ヤ川ぎ■道rl の二家がある。十日講の組内より酉の方に離れた所に、﹁前西﹂ このように、屋号は各戸を明確に識別するための方法として使用されたものと言える。 熊野町におけることばの生活−方言− 屋号と姓とが一致する家に、﹁前中、広田﹂ 第一華 57 l、 野ノ ヤ 荒 早 金 これらのうち、﹁辻田隆太郎﹂家については、﹁辻光﹂ 前 前 広 中 中 田 辻 富7【小オ平㌻ 池‡池‡r実字池‡ 屋ヤ1屋ヤ沢苦 ヤ ツ〆 重 産ヤl屋ヤ川招 池‡■金宝l平≡久夕金字l 1 生活誌編 の臣号を有していた家が、かつては存していた。﹁前中﹂ の屋号はこのような時期の命名を反映しているかと思 われる。﹁広田﹂は、屋号が姓となったものか。田の形状に由来する命名であることは、いうまでもない。そし て、これらの二家の一族は、前者ほ﹁前﹂の文字を有し、後者ほ﹁広﹂の文字を有する屋号を派生させている状 況がよくわかる。 ﹁重﹂ の字の場合にも認められる。また、﹁荒谷﹂一族のうち﹁池﹂の字のつく一族は、中でも多くの屋号を 一族関係にある家々が、同一文字を有していることは、﹁金谷﹂一族の﹁金﹂、﹁堂森﹂一族の﹁岡﹂、﹁伊藤﹂一 族の 派生させている状況を見せてくれる。また、同t妹の﹁加重﹂の分家にほ、﹁平田匿﹂﹁平道﹂のように﹁平﹂の 字が用いられている。これらの﹁岡、池、平﹂の字には、それぞれの屋号が形成された当時、それぞれの家の所 在した土地の形状なり目標物なりを取り込んだ意味を利用した文字を用いているのではないかとも考えられる。 の字を有する荒谷一族もある。これらが、系譜上の血縁を有するものかどうかは、にわかにはわからな 荒谷姓を名乗る人々は、いずれも西条三永から呉市大積に移った、荒谷一族の子孫だと言っている。当町内に ﹁亀﹂ い。しかし、現存するそれぞれの屋号をたどって行くと、﹁池﹂も﹁亀﹂も﹁加登﹂も七、八代前まで明らかに することができる。こうしてみると屋号の成立は、約二百年前くらいから一般化したものと考えることもできる のでほなかろうか。 屋号を、昭和二十年︵一九四五︶以降に付けたという例は、ほとんどない。それ以後に命名されたものは、すべ て毛筆実に新たに参画した家であった。一般の家庭で屋号を付し、それが一般化したと見られるものは、ほぼ昭 和四・五年︵一九二九二ニ○︶ごろまでのものである。口座号が家称として生きづいていたのは、このころまでであ るといってよかろうか。 58