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ゲッセマネの祈り
ゲッセマネの祈り マルコによる福音 54 ゲッセマネの祈り 14:32-42 映画の画面の流れなどを見ていましても、次の場面やできごとを暗示する 言葉や動作がちょっと出て、しばらくすると、それと全く同じセリフや演技 が反復されて、「ああ、そうだったのか」と思わせる手法があります。マル コは 13 章の終わりでイエスの口から、「目を覚ましていなさい」という言葉 を語らせます。務めを割り当てられた僕たちの所へ、家の主人が突然帰って 来る。その時に眠り込んでいて、醜態を暴露するな……という趣旨です。そ のあと 14 章に入ると、何人かの弟子たちの短いシーンを連続して映し出した あと、もう一度このゲッセマネの場面の初めで、「目を覚ましていなさい」 とイエスが念を押して、それでいて最終的には、弟子たちが眠り込んでいる のが大写しになる(:37)のです。 「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったの か。」そのシモン・ペトロが、この一つ前の話では、自信たっぷりで大見得 を切るのですから、かないません。「たとえ、みんなが躓いても、わたしは 躓きません。」そんな弟子たちの醜態を背景に、イエスのゲッセマネの祈り が描かれます。一昔前の研究者は、マルコの福音書は非常に素朴で、事実だ けを書き並べてある……ように受け取ったものですが、どうしてどうして、 これは文学的にもかなり細工が緻密で、手が込んでいます。一つの目的で統 一されているのです。 ただ、そんなお粗末な弟子と対照的に、イエスのお姿が文句無しに堂々と しているかというと、これがまた、不思議な矛盾を見せています。次の頁で は逮捕されて、間もなく処刑されるイエスが、臆することもなく従容として 死に就く……かと思うと、そうじゃないのです。 - 1 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. ゲッセマネの祈り 1.イエス自身の動揺と不安 :32-34. 32.一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが 祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 33.そして、ペトロ、 ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、 34.彼ら に言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚まして いなさい。」 この時のイエスのお姿は、謎にみちています。特に「私の魂は死ぬほど悲 しみに呑まれている」( )とい うお言葉は読者を驚かせます。その前の行の「ひどく恐れてもだえ始め」に 至ってはなおさらです。御存じのように、私は武士道が嫌いで、関東武士よ り堺商人の方がずっと正直で立派だと思っているへそ曲りです。武士道の中 に見え隠れする、ウソと良い格好が我慢ならないのです。でも、こういう所 はやはり、「私は死を恐れない。十字架なにするものぞ」位のことを、イエ スなら、良い格好ではなく本気で断言してくれるのではないか……と期待し ても不思議はないでしょう。 新共同訳が「ひどく恐れて」と訳した は「胆を潰す」か「震 え上がる」くらいの響きを持つ言葉です。また、「もだえ」始めと訳した という動詞は、通常、「先が分からなくて不安」また、「自分の いる場所が見当つかなくてオロオロしている」時に使う言葉です。どうして、 こんな言葉をマルコはイエスの姿に適用したのでしょう? 私たちなら無理 はないのですが、正にこれは普通なら人が信頼を失って、不安と動揺の状態 にいる時の姿です。 人によってはここで、イエスの人間としての正直さに感激する人もいます。 でも、それでは、私の命を預けて、不安も悲哀も委ねて安心できるイエス様 のイメージに合わない、と言う人も出てきます。昔の大名のお城で、キリシ - 2 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. ゲッセマネの祈り タンの宣教師の説教をここまで聞いていたある奥方が、ここで席を蹴って立 ち去った、という話も聞いたことがあります。私たちの疑問はそのままにし て、次の場面に移ることにします。 2.イエスの祈りに見る矛盾 :35-36. 35.少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が 自分から過ぎ去るようにと祈り、 36.こう言われた。「アッバ、父よ、あな たは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。し かし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 「この苦しみの時」と訳しているので、この時の祈りの苦悩を指すのかと 思わせますが、実は「その時が」― the hour というのはイエスの死の時 のことです。「この杯を」― this cup も同じ意味です。とすれば、正にそ の「時」のために(ヨハネ 12:27b)来られたイエスが、その「杯」を飲む (マルコ 10:38)直前になって、どうしてこれをためらわれたのでしょう。 「この杯をわたしから取りのけてください」とまで祈られたとマルコは伝え ます。これは解けない謎です。 私に福音書を教えた宣教師の推測は、イエスは決して死を恐れてはいなか ったが、私たちの罪を引き受けて十字架上で、天の父と断絶する苦悩に耐え なかったのだと説明しました。一瞬たりとも父から離れることのなかったイ エスが、すべての人の罪のためとはいえ、あそこで聖なる神の怒りと呪いを 受けて、天の父と完全に断絶する瞬間を味わったのだと言います。確かにこ れで、イエスの動揺は、死の恐怖より一つ高級な苦悩だと言うことで、イエ スを弁護はしていますが、何かスッキリしません。 人によっては、そんな理屈はつけないで、あれだけ、人間としての弱さと 悲しさも、もろに出して、「胆を潰して不安丸出し」のイエスが良いと言う - 3 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. ゲッセマネの祈り 人もいます。「神様、十字架で死ぬ以外の道がありましたら、そっちの方で 民族の救済をさせてください。でも、どうしても十字架が必要でしたら嫌と は申しません」と未練たっぷりにおっしゃるイエスが好きだ、というファン もいる訳です。これもどうかとは思いますが、それでも、中世以来の教会が 描いた完全無欠のイエスを持ち上げるのよりは、また一分の隙もない、非の 打ちどころの無いイエス像に心酔するのよりは、正直で良いのかも知れませ ん。いずれにせよ、イエスのゲッセマネの祈りは、スッキリはしないのです。 この祈りで大切な点はやはり、祈りというものの本当の、最終的な願いを、 祈りの後半が示してくれていることです。「しかし、わたしが願うことでは なく、御心に適うことが行われますように。」原文は昔の電報みたいで、 “Not what I will but what you will”(私が欲しいことをではなく、神様が欲され ることを) です。そして、もしこれが真の祈 りの原型であるとすれば、私たちの祈りは数秒の簡潔なものになります。で も、イエスが祈られた時でも、あれだけの余分な前置きがあったことに、私 は慰めを覚えるのです。 これでもまだ、ゲッセマネの祈りの謎は解けませんけれど、結論に入る前 に、弟子たちの姿を一瞥してみましょう。 3.弟子たちの悲しさをカバーするイエス :37-42. 13 行ほどありますが、二つの部分に分けて読みます。 37.それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに 言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられな かったのか。 38.誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃 えても、肉体は弱い。」 39.更に向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。 40. 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。 - 4 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. ゲッセマネの祈り 彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。 これだけ見ていますと、イエスが弟子たちにガッカリして、叱っていらっ しゃるような印象も受けるかと思います。でも、次の 4 行を読むと、イエス のやさしさと同時に、そんな弟子たちのことも引き受けて、全部カバーして、 一人で十字架に向かわれる姿が浮き上がります。 41.イエスは三度目に戻って来て言われた。 「あなたがたはまだ眠っている。 休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡さ れる。 42.立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 引用符の中の最初の 1 行半は、フランシスコ会訳のように「終わった」と も訳せるのですが、今はこの新共同訳の訳文のまま読んでおきます。「裏切 る者」はユダのことですが、 はむしろ、「私を引き渡そう としている者」という意味で、その前の「罪人たちに」は「イスラエルの信 仰と無縁のローマ人たちに」という意味、つまり、「私を処刑する異邦人の 手に」という意味の「罪人たちに」です。次の 43 節からその逮捕の場面が始 るのですが、すでにそのユダに先導される機動隊の松明が、闇の中に現れた のでしょう。 《 結 び 》 イエスのゲッセマネの祈りは、スッキリしないと申しました。これは多分、 無理に尤もらしい理屈をつけない方が良いのでしょう。人間的に感動なさる 方もいていいし、神学的に説明をつける向きもあって宜しいが、スッキリし ない部分はやはり残るのです。でも、二つのことははっきりしていて、激し いショックのように私の心に残ります。 一つは、私たちの最も重い苦悩は、すでにイエスがお一人で引き受けてく - 5 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. ゲッセマネの祈り ださった……ということです。この私の罪と呪いを引き受けて、天の怒りに 打たれるということが、イエスをどれほど打ちひしぐ経験であったのか、イ エスにとって「胆を潰すくらい動揺する」ことであったのか、「魂が悲しみ で押し潰されて死ぬくらい」であったのか、よくは分かりません。しかし、 私たちの罪と死の呪いは、すでにイエスがお独りで引き受けて、あそこで祈 ってしまわれたのです。 もし私たちがそれを忘れて「私ほど惨めなものはありません。この杯を取 り除いてください!」と目を剥いて、鼻を剥いて大仰に祈るとすれば、それ は既に主が済ませてくださったことを、やり直してさし上げるくらいに、場 違いなことでありましょう。使徒パウロの言葉で言うなら、「心の中で『だ れが天に上るか』と言うな。『だれが淵の底に下るか』と言うな」(ローマ 10:6,7)です。 もし私たちが、死から引き上げられて、葬式の先まで突き破って続くよう な命を受けたのなら、その後の苦しみと痛みはイエスの祈りに委ね、イエス に引き受けていただくことです。私が「ゲッセマネの祈り」を再演するので なく、イエスの初演で済ませていただくのです。 もう一つは、実はこれは本当はマルコの趣旨であったかどうか、確かでは ないので、単に私自身が受け止めた意味、私にとっての霊的ショックという だけのことですから、もし御参考になるなら……という程度にお取りくださ い。それは、このイエスの“スッキリしない”祈りの中に、人間の祈りとい うものの原型が含まれていることです。 病気が治らない時は、「主よ、癒しを与えてください」と祈ります。事業 が行き詰まりそうな時には、「主よ、どうか道を開いてください」と祈るで しょう。人とうまく行かない時だって、そうです。「そんなのまで祈るのは 下等だ」とは言えません。受験の時でも祈るかも知れません。私どもの場合 - 6 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. ゲッセマネの祈り は「子供が病気で実力を出せなかったりしませんように」その準備のために 祈ったことはありますけれど、「今回の試験に受かりますように」という祈 りはしたことがありません。でも、それだって、しても悪くはないのです。 それが人間です。 神社に掲げられた絵馬は、人間の切なる願いと強烈な我が侭とを形に表わ したようなものです。お願いの絵馬も、お礼の絵馬もそうです。西洋の教会 へ行くと、あれと似たような額がいくつも上がっている聖堂があちこちにあ ります。海難避けの聖人を記念する教会などでは、昔危険な航海に出た人の 献げた額とか、安全に守られて入港した船の感謝の額などが無数に掲げられ ています。ある冷静な知識人が、「では、嵐の中で祈ったのに海難に遭って 亡くなった人の額はどこに上がっているのか」と言った話が伝わっています が、こういう祈りがまことに人間的で、無理のないものでありながら、本当 は祈りも信仰も、そういうものではないと気づいた人もいたことを示してい ます。 私たちはやはり、そういういじらしいお願いを主に献げても許されるので しょう。「父よ、この時が私から過ぎ去るようにしてください。どうか、こ の杯を私から取り除けてください!」天の父は決して、「何と下等な不信仰 な祈りよ」とはおっしゃいません。笑顔で見ていてくださって、ある時はそ の杯を取り除き、ある時はそのままにして、私たちが信仰で大人になるかど うか、見守っていてくださいます。人間とはそういうもの、祈りとは哀しく もそういうものなのです。 しかし私たちは、そういう祈りに耽ることに慣れて「べた甘え」になるべ きではありません。信仰に入った時から死ぬ時まで、そういう“絵馬―お みくじ的”な祈りで終われば、寂しいことです。教会によってはそんな祈り を熱心に献げて「聞き入れられた」人の“信仰”を賞揚する向きもあります が、私はあまり感動しません。私たちの祈りは、どんな我が侭な願いをこめ - 7 - Copyright えりにか社 2008 All Rights Reserved. ゲッセマネの祈り た時も、またどんな“無理のない”切ない祈りを献げた時も、もし本当にイ エス・キリストへの信仰に戻ってくるのであれば、「しかし、私が欲しいこ とをではなく、あなたが欲されることを」で結ばれる祈りでありたいもので す。祈りとは、煎じ詰めれば“私の願いを天の父の意志に服させるための対 話”なのです。 私は、「このことを教えるためにイエスが、あの矛盾した、スッキリしな い祈りをなさった」とまでは申しません。ただ、私はそういうショックと慰 めをも、ここから受けるのです。 (1997/11/23) 《研究者のための注》 1. 「もだえ」始め(:33) の語源は うなるか分からないための不安」, + + (知っている)であれば「ど (自分の町)であれば「自分の町を離 れてどこにいるのか見当がつかない不安」と解釈しました。 2. アッバは現代ヘブライ語でも「お父さん」の意味で使う名詞です。本来はアラム語源。 本来のヘブライ語の「父」は「アーヴ」。初代教会の祈りの用語として「アッバ」と ギリシャ語の「父」 を重ねて「アッバ、父よ」という呼びかけが使われた ことは、ローマ書(8:15)からも知られます。 3. 最後にあるイエスのお言葉に「もうこれでいい」(:41)と訳される言葉 は 「領収済み」を現す非人称動詞で、「それで充分だ」という意味にも、また、「終わ った」、「ことは決した」という意味にも解釈できる言葉です。フランシスコ会訳は 後者を取っています。 - 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