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かなであん No.280

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かなであん No.280
浄土真宗本願寺派 慈雲山龍溪寺 奏庵
ざい
2016.9.21.発行
kanadean
No. 280
249-0002 逗子市山の根1-7-24
Tel : 046-871-1863 Fax : 046-872-3485
http:// kanadean.net mail: [email protected]
いのちのふれあう世界に往き
あることを忘れてはならない
「さばき」のない世界 生まれ、無量のいのちとして
のです。
生き続けるお互いであり、そ
浄土真宗のお念仏(他力)
『弥陀の本願には老少善悪の
のために何の条件もないと知
の教えは、自分の中にある悪
ひとをえらばれず、ただ信心を
らされ、ありがとうございま
の部分への気づきに導いてく
要とすとしるべし。そのゆへ
す、という心が起こった瞬間、
れるものです。それは、善悪
は罪業深重、煩悩熾盛の衆生
悪人であれ善人であれ、健康
ともに無意味であるとする虚
をたすけんがための願にまし
であれ病気であれ、どんな状
無主義ではありません。善も
ます。しかれば本願を信ぜんに
態にあっても万人が味わえる
悪も、一様に摂取されていく
は他の善も要にはあらず、念仏
幸に気づかされるのです。 仏の大慈悲の中に生かされて
にまさるべき善なきゆへに、
* * * いるお互いを気づかされる世
悪をもおそるべからず、弥陀の
殺人ですら、戦争での大量
界です。それは、善悪ともに
本願をさまたぐるほどの悪な
殺戮は英雄になったりします。
おさめとる平等の功徳を知ら
きゆへに(歎異抄)』
もともと人間には真の善悪を
され、かりそめの善を誇る自
* * * 知り抜く知恵はないのです。
分を恥じ、その業への悲しみ
上の歎異抄第一章は、これ
なぜなら、賢善であるのは自
と同時に、他の人々の行いに
が心から自然に頷ければ、真
分であり愚者や悪人は自分以
対してもいたわりと同じ悲し
宗の他力の教えをよく聴聞し
外の人であると思い、また、
みへの思いやりが生まれてく
たことになると味われてきた
時代による善悪(利害の偏っ
る気づきです。そこにはじめ
親鸞聖人のお言葉です。
た価値観)にとらわれてしま
て、晴れ晴れと懺悔し、共々
私たちは日々、善い(役立
い、そのことが憎しみや争い
に和みあって生かされる「さ
つ)人、悪い(役立たない)
を繰り返し招いています。そ
ばきのない世界」が開けてく
人、などと判定しながら生き
こにあるのは、他人だけでな
ると説かれています。
ています。それは、心の中だ
く自分をも欺き続けている煩
世界や社会には、謝罪ばか
けではなく公のメディアでも
悩にまみれた人間の姿であり、
り求める思い上がり、他への
連日繰り返されています。
常に自分を誇り、他を責め、
無理解と独善的な価値判断、
しかし、親鸞聖人がよろこ
嫉妬、傲慢、卑下、絶望、恐
一方にはそれ(善)を逆手に
ばれた世界は、阿弥陀仏が、
怖などの煩悩に苛まれる人間
取って社会へごり押しをする
すべての凡夫を救うことがで
の愚かさです。 甘えが溢れています。 きなければ私は仏にはならな
人間が構成している社会で
親鸞聖人のおっしゃる「悪
いとまで誓われた大慈悲の世
ある以上、何かで是非や善悪
人」とは他人ではなく、いつ
界、私たちには思いもつかな
のけじめはつけなければなり
もご自身のことでした。だか
い深い願い(救い)の世界で
ませんが、法律も道徳も絶対
らこそ、阿弥陀如来の慈悲を
した。それを知らされ気づか
ではなく、それの判断を下す
よろこぶお念仏のご生涯だっ
されるとき、私たちは共々に
人間には常に身勝手な煩悩が
たのです。 合掌
編 集 後 記
永代経 奏庵法座
昨夏に判った癌との共存から一年が過
今月21日、秋の永代経
ぎた。たとえ発覚以前に戻れたとして
秋のお彼岸 法要を勤めさせていただき
も、すでに若さも健康も衰えつつあっ
ました。永代経とは、お経
た年代だから、こうして何とか日常が
日 時
の種類ではなく、「永代読
送れている今を無事と言わずにいつを
9月26日(月)
経」の略で、「末長く(永
無事と言うのかと、「とりあえずの無
事」を「有難い」こととは思えども、
午前11時より 代に)お経が読まれ、仏法
もたついたりして、不安そうな目を向
が途切れることがないよう
けられたり、かといって労られないの
「みほとけに抱かれて」
に」という意味を持ってい
も不本意で、そんな身のほど知らずを
阿弥陀経 ます。その願いを持って、 恥じつつ達観できずにいる。■それを
法 話 納めるのが「永代経懇志」
思うとき、天皇の「生前退位」の中に、
同じ老いゆく者の老いきれずにいる半
ご文章拝読
であり、その報恩の思いを
生(なま)な悲しみを思う。そして、
「恩徳讃」
受けてお寺が開く法座が永
戦後急に人間であるとされた、あの昭
∼*∼
代経法要です。 和天皇のぎこちなさにこそ、身の上を
おとき 龍溪寺では、春秋のお彼
背負った無私の姿があったなと思い出
岸に合わせて年2回、永代
す。■一昔前までは寺の世界でも、音
痴でお経が酷くても、年輪を経た老住
台風、大雨の被害が懸念さ
経懇志、またはそれに準じ
職が葬儀のあとの席でもご機嫌で、い
れている日本列島ですが、北
たお布施を上げられた施主
つまでも腰を上げなくても、親に死な
海道のお彼岸を勤めた帰路、
様に案内を差し上げお勤め
れ小学生で寺を継いでも、共々にかけ
飛行機から見下ろす平野には、
しています。故人の、永代
がえのないものとして長いスパンで世
黄金のグラデーションの実り
にみ教えが伝わって後々の
代が移っていったものだ。そしてそれ
が、世襲を背負わせ辛い宿命を乗り越
の秋が広がっていて、思わず
人たちが仏法にふれてくれ
えさせていたのかもしれない。■今で
頬がほころび、改めて尊い恵
るようにとの思いの継承を
は寺も定年のような継承が主流となっ
みが失われてしまわないよう、
させていただく法縁です。 ているが、一方で多くの寺が後継者と
周りのものに対して無理強い
彼岸中には、故人の法名
護持の問題を抱えているし、安泰だと
をしていないか、傲慢になっ
を記した法名軸をお掛けし
喜んでいても、若い方が先に亡くなる
ことも珍しくない。命に順番はないこ
てはいないか、省みなければ
て顕彰させていただいき、
とを説く僧が、住職という立ち位置を
ならないとの思いをしました。
み教えを伝えて下さった遺
指すだけのものを、仰々しく「ありが
お彼岸もその尊いご縁です。
徳を懐かしく偲び、何より
たい」とするのは、現実問題の解決に
どうぞお参り下さい。
私自身の聞法の姿勢を次世
遠いと思わされる。■大仰な言葉「ア
代に伝えていく法要は、同
スリートファースト」や「都民ファー
スト」などの裏には「我」が隠されて
じ願いのお念仏の仲間が集
いるように、天皇の「国民と共に」も、
いいつも和やかに勤められ
ご自身の憂いを薄めてはいないだろう
ています。当日お参りでき
か。ご自分の血を受け継いだ皇室の永
ず、お送りいただきました
遠を願い、それが現代のモラルとの両
法要懇志、お供物はご仏前
立の間で既に限界にきているとはっき
りおっしゃればいい。その上で、なさ
にお供えさせていただきま
れるようになさって勤め終えられ、あ
した。ありがとうございま
とは「よきにはからえ」がいい。それ
した。 もまた潔い。それこそが、のちに続く
永代経や仏事、宗教への
皇族のみならず、常に思うようになら
ご質問、疑問は、ご遠慮な
ない人生を歩む国民へのお手本ではな
いだろうか。 Norimaru
くお尋ねください。 
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