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スクールソーシャルワーク発展の経緯 ― 子どもの教育と労働をめぐって ― 中 典 子 〔抄 録〕 スクールソーシャルワークは、1900年代初期のアメリカにおける3都市で始まった。 この活動は互いの申し合わせなく独自的なものであったが、これが後のスクールソー シャルワークの発展に多大な影響を及ぼしたということができる。これまで論者はス クールソーシャルワークの研究をしてきたが、なぜこの活動を始める必要性があった のかについて理解することが不十分であった。そこで本小論では子どもの教育と就労 の両面から、スクールソーシャルワークが出現するにいたったいきさつについて考え ることにする。研究方法については、当時の児童労働法と義務教育法の不十分さにつ いて示し、その関係を考察する。そしてスクールソーシャルワークの必要性について 述べることにする。 キーワード:ビジティングティーチャー(訪問教師),義務教育法,児童労働法,セツ ルメント はじめに 近年の日本においてスクールソーシャルワーク分野が市民権を得るために、徐々にアメリカ におけるスクールソーシャルワークに関する研究が紹介されつつある。主なものとしては、『ス クールソーシャルワークとは何か』1)という文献があるが、そこではスクールソーシャルワー クの歴史をはじめとしてその役割などさまざまな内容が示されている。我が国の最近の児童・ 生徒に関連する問題の深刻化、複雑化に伴いこの分野の必要性は明らかであろう。この分野は、 我が国において多くの人々に知られつつあるが、関連研究は数が少ない状況にある。 スクールソーシャルワークは、アメリカにおいて1900年代初期にはじまり、今日に至るまで 普及してきたが、この活動は始まった当初以上に専門性を増してきている。しかしスクールソ ーシャルワークを知るにはこの活動がどのような影響を受けて発達し、ビジティングティーチ ― 367 ― スクールソーシャルワーク発展の経緯 (中 典子) ャーと呼ばれた当初においてどのように活動してきたかを改めてとらえなおす必要がある。 本小論では、スクールソーシャルワーク発展のきっかけとなった子どもの未就学とそれに関 連する労働問題に触れながらスクールソーシャルワーク出現について考察することにしたい。 1.児童労働 19世紀半ばごろから「児童労働に対する法律」2)はコネチカット州、マサチューセッツ州を はじめとする各州において制定されてきたけれども、そこで生活している人々は法律の網の目 をかいくぐり、また工場調査官の不足もあって、その法の効力はないに等しかった。法には政 策が含まれていなかったのである。 下村は、 「1916年になってもニューヨークのかんづめ工場には6−7歳の子どもが作業の準備 に使われていたし、南部では7歳の子どもが多数紡績工場に雇われていた。新聞売子には5歳 の子どもさえまれではなかった。農業が児童労働法の適用を除外されたのはいうまでもないが、 果物、野菜、糖果、かき等を扱うかんづめ業、腐敗防止業も、農業に類似しているというので 適用を除外されている場合があった。小売業を適用除外とする州も多い。」3)とし、当時の児童 労働法の不十分さを示している。 スプリングフィールド市学校調査においては『児童の教育程度や身体的条件は雇用証明書の 交付の条件とされたが、実際にはあまり厳しく守られなかった。教育程度の認定は困難で、就 労のすぐ前まで在学していることを要求しても、第何年次まで在学したかが正確に把握できな かったり、14歳で第8学年終了と教育程度をしぼっても、能力の不足で進級できない者には例 外を認めなければならなかったりした。児童の全部に要求される程度の教育を与えることは、 現行の初等学校のコース・オブ・スタディでは至難のわざであるという批判さえあった。 身体的条件の検査もかなりずさんであった。一定の基準のもとに全員に身体検査を実施して いるのはニューヨークなどごくわずかで、大多数の州では証明書の交付の際に、とくに健康や 体力の疑わしい者についてだけ実施していた。ボストンで全員に身体検査を実施したが、合否 の判定に一定の基準を置かず、一見した児童の外観から判断した。そのため1911年には身体検 査を実施した2,445人のうち、363人に以上が認められたのにかかわらず、証明書を交付されな かったのはわずか30人にとどまっていたという。 その上雇用証明書の交付にも不正がつきまとった。年齢の証明が両親の申告に任されている 場合は、どんな小さな子どもも係員の前では14歳と答えたし、そんな証明さえ必要ない場合も あった。年齢の証明はやがて学校当局にたよることになって正確に記されたが、証明書自体の 融通は後を絶たなかった。 法律の実施を監督する職員の不足も著しい。監督にあたったのは労働局、工場監督局、警察 部衛生課等であるがいずれも陣容はきわめて手薄であった。ニューヨーク州では1912年に135人 ― 368 ― 佛教大学大学院紀要 第29号(2001年3月) の職員が配置され、例外的に強力な陣容といわれたが、実際にはこれも不足だったという。ペ ンシルバニア州では41人、オハイオ州では32人、イリノイ州では18人の職員しか配置されず、 他の州でも大同小異である。』4)としている。 このようにそれぞれの州における規定は不十分なものばかりであったために、子どもが働く ことを願う親たち、彼らを雇うことを願う工場主によって抜け道を見いだされたのである。こ のような児童労働法を補足する規定として義務教育法が考えられるが、実際にはその法の規定 を補うことはできなかった。 また児童労働に対する規制が、それぞれの州において独自的なものであったので困難をもた らした。規制の内容については各州の産業の利害関係が繁栄し、規制が厳しくなれば雇用主は 規制のゆるやかな他の州に工場を移転した。これにより、州当局は資本の流出を恐れて規制を ためらいがちになったのである。児童労働に対する連邦規制の必要性は20世紀に入ってしばし ば強調されたが、こうした規制は、本来は州の警察権能に属すると考えられていたので連邦政 府の介入には根強い反対があった。児童労働に対する連邦規制がはじめて取り上げられた時期 は、1916年の9月であった5)。 2.義務教育 アメリカにおいて初めて教育法を制定したのは、植民地時代のマサチューセッツ州(1642年) である。当時の法令は、親や親方などの保護者が子どもに対して読み書き、職業訓練、宗教の 教授をすることを義務づけられていた。そして1647年11月11日に制定された教育法は、その方 針を実現するために、教師の雇用とグラマースクール6)の設置を世帯数に応じてタウンに求め た。そこでは、徒弟制度以外に組織的な教育機関としての学校が構想されており、しかもタウ ンが設置主体である。この公的教育制度としての学校教育構想は、宗教と政治の一致のもとで 考えられた聖書共和国の実現に寄せるピューリタンの強い熱意を示すものである7)。 その後、このマサチューセッツ州においては、1852年にアメリカで初めての義務教育法が制 定された。この法令はすべての子どもに学校教育を保障することをめざしたものであった。こ の法令に制定により、産業革命中における子どもの教育機会が実質的に保障されたということ ができる。しかし、この法令は不十分なものであったので、子どもの義務的な就学は徹底しな かったという問題点が残る。しかしこの法令は、他の州に多大な影響を及ぼした。このマサチ ューセッツ州における義務教育法が施行された後、北部の他の州でも同様の法令が制定され、 南部ではおおむね南北戦争以後の再建期に制定されることになった8)。 1852年のマサチューセッツ州の義務教育法の影響を受け、他州もその法律を制定したが、W WⅠ終結時の1918年において、ミシシッピー州がその法律を制定することにより、アメリカ全 州で義務教育法が施行されることになったと記したが、アレンーミヤーズ(P.Allen-Meares) ― 369 ― スクールソーシャルワーク発展の経緯 (中 典子) は、このことについて、 「州ごとに独自の義務教育法が制定されたのであるが、それぞれの州の 意図は共通していたようである。それは、子どもたちが、学校側が提供できうる恩恵を受ける ことができるようにするということと、学校側が提供しなければならないものを確保できるよ うに仕向けるということであり、義務教育法の制定は、それらを事実上宣言するものであった。 親は、この法令によって子どもを学校に行かせることを義務づけられ、義務教育法は、教育の 新時代をつくりあげたのである。」9)と称賛している。 けれども義務教育法制定の効果について考えて見ると、マサチューセッツ州では就学義務が 立法化されてからも公立学校の平均出席者数は、あまり増えず、5歳から15歳までの生徒の出 席率は50%から60%代であった。 『州の教育委員会は、それから20年間は、全然この義務制のこ とに触れていない』10)し『民衆の大部分は、そんな法律のあることを知らない』11)といった状 態が続いた12)。 義務教育法の制定は進んだけれども人々は法律の抜け道を度々見いだした。 下村は「1852年のマサチューセッツ州の規定では、居住地区に学校のない場合、『コモン・ス クール』13)で学ぶ学科をすでに履修している場合のほか、生徒の身体的、知的条件が通学ある いは学齢期間中の学習の修得を妨げる場合、保護者が貧困のために生徒を就学させることがで きない場合に就学義務を免除しているし、1905年のテネシー州の規定は、生徒の身体的、知的 条件が通学あるいは、学習の修得を妨げる場合、生徒の収入が家計の維持に不可欠である場合 に就学義務を免除している。また1918年のミシシッピー州の規定では、生徒がコモン・スクー ルで学ぶ教科をすでに履修している場合、住居から2・5マイル以内に公立学校のない場合のほか、 緊急時あるいは家庭の都合のつかない場合は、教師の自由裁量で臨時欠席を認めることになっ ている。こうした例外規定が、就学義務の抜け穴として、時には拡大解釈されて利用されたで あろうことは想像に難くない。」14)と述べている。 1889年に義務教育法の実態を調査した連邦教育局長官は、『この法律の適用の不十分なことの 理由として、1行政当局者の側に関心の欠けていること、2学校の施設が貧弱で、学齢児童・ 生徒全部を収容しきれないこと、3法律が用語の正確さを欠き、もしくは強制に不可欠の職員 及び罰則規定を欠いていること』15)を示している。また義務教育が履行される場合も、私立学 校での就学は当然認められ、州はこれに対して就学期間以上の規制を加えることはできなかっ た。都市に多い私立学校では、州の定めた資格を持たない教師がかなりルーズな教育過程で教 育をしていた16)。 このことからも、法令は成果を挙げていないことがわかる。 3.児童労働と義務教育との関係 竹市と鈴木は、「義務教育法は、一般に初めのうちは就学を督促しながらも、就学しなかった ― 370 ― 佛教大学大学院紀要 第29号(2001年3月) 場合、罰則や逮捕などは実施されず、良心に訴える道義的な勧告の域を出なかった。そして、 義務就学を達成するのに必要な児童労働の制限も初めのうちは、両親の宣誓にもとづく雇用を 認めるなど、抜け道があったため効を奏さなかった。しかしやがて、不就学を法廷に告発して でも義務教育法の実現を進める権限を教育委員会が得るようになった。」17)と述べている。 アボット(E.Abott)とブレッキンリッジ(S.P.Breckinridge)は、「児童労働が実際に禁止さ れまたは規制さえされるべきだとしたら、過不足なく施行される義務教育法は、児童労働法に 先立つまたは同時に生じるものでなければならない。すぐれた義務教育法が満足のいくように 施行されたならば、事実上は児童労働を予防するであろうが、義務教育法に伴わない児童労働 法は、子どもを大小工場から取り出して、結果的に彼らを町に投げ込むことになってしまう。 」18) と懸念している。 またケリー(F.Kelly)は「法律が14歳未満のどの子どもも製造会社において働くことを完全 に禁止するけれども、14歳未満の子どもたちは、彼らが通学させられるまで、大小の工場から 完全に締め出すというわけにはいかない。その当時の学校教育法は少なくともシカゴにおいて は、大多数の子どもたちが働いているのを発見されてきたのでほとんど役に立っていない。シ カゴ教育委員会が、長欠指導員を雇うにもかかわらず、子どもたちは新聞を売るために、店で 現金を、通りで電報と通信を運ぶために、靴を売りに歩くために、赤ん坊の世話をする、また 単に怠けているだけのために、学校を退学する。言うことを聞かない子どもは、教師が仕事を 行い易いように放校される。学校長は、扱いにくい子どもがある場合には、子どもが働くこと (これは工場法に違反するが)ができることを可能にするために許可証を出してもらいたいとい う文書上の要求を添えて、調査官に11歳の子どもを送り付けてきた。いかなる工場も、11歳の 子どもにとってある程度望ましい学校と比べてよい場所ではあり得ないので、この要望書は、 交渉が子どもに面倒をかけられることから解放されたいということを表す。』19)とし、当時の状 況を痛烈に批判している。 義務教育法と児童労働法は、子どもたちの生活環境改善のためになかなか効力を発揮しなか ったこと、また教育委員会が長欠指導員を任命することを義務づけられたがこれらの職員では 対応しきれなかったことなど、当時の不十分な対策に取り組んでいくために、民間団体によっ てスクールソーシャルワークという分野が生まれることになったのである。 4.スクールソーシャルワークの出現 教育は、子どもたちが、日常生活を送るうえで、多大な影響力をもっているということが認 識されるようになる。それは、教師及び学校職員以外の分野における専門家によってより強い 関心が示されるようになってきたからである。特に教育の重要性に関心を示したのは、近隣の 子どもたちの状況を知り得ているセツルメントハウスのソーシャルワーカーであろう。彼らは、 ― 371 ― スクールソーシャルワーク発展の経緯 (中 典子) 地域の学校に行かない、または行くことができない子どもたちに、教育を受けさせようとした のである。その意味では、これらの人物は、学校に関連するソーシャルワークを発展させるう えで重要な役割を担っているということができるだろう。 ワルド(L.D.Wald)は、『理知的なソーシャルワーカーは観察に機会を見いだす。そしてニーズ を満たす方法をほとんど無意識的に考え出す。彼らはあるがままの状況を見る。そして学校に 関連するソーシャルワーカーは、学校が子どもたちに影響を及ぼしたり及ぼされたりするとき、 また少しも子どもたちに関係のない制度があるときに批判する。ソーシャルワーカーは、学校 がうまく行かない場合は、学校が教育というものは子どもと直接関係があるわけではないとし てしまったり、学校での仕事を学校外の子どもの生活を更生するためのものと切り離してしま っているような場合だと考えている。』20)と述べている。 オッペンハイマー(J.J.Oppenheimer)は、「20世紀初頭において、ソーシャルセツルメント が当時訪問教師事業といわれたスクールソーシャルワークの発展に与えた影響は、用いられた 援助技法の形態に関して、学校におけるソーシャルセンター発展に関してとても強かった。け れども学校と家庭を密接にするためのソーシャルワーカーが不足していることに心配してい る。」21)と述べた。 セツルメントハウスのソーシャルワーカーは、教育が子どもの今後の生活に密接な関わりも つことに対して、教師及び学校職員が関心をもつことが必要であると考えたのである。 このことからも、スクールソーシャルワークを発展させたきっかけは、教師や学校職員では なくセツルメントのソーシャルワーカー、すなわち第三者であったということができる。彼ら が、教育というものは、子どもの生活に多大な影響を及ぼすと考えたゆえに、訪問教師と呼ば れるスクールソーシャルワーカーが登場することになるのである。子どもと学校とを結び付け る専門家である当時訪問教師と呼ばれたスクールソーシャルワーカーは、主として彼らの影響 を受けて発展したのである。 おわりに この研究においては、早くから児童労働と子どもの未就学について憂慮されてきたが、児童 労働が収まりをみせず、また義務教育の発展の不十分さもあいまってスクールソーシャルワー クが出現したことを明らかにした。それぞれの州が改訂を重ねても、雇用主や親はその抜け道 を見いだしてしまう。当時の貧困階層の子ども労働による苦痛を強いられていたのである。こ のような状況を打開するために3つの州において初めてその取り組みがなされたのである。 ― 372 ― 佛教大学大学院紀要 第29号(2001年3月) 〔注〕 1)全米ソーシャルワーカー協会編、『スクールソーシャルワークとは何か』、山下英三郎編、現代書館、 1998年 2)この点については詳しくは、George B.Mangold(1916), Problems of Child Welfare, New York,(時局に関する教育資料33 大正9年 77-80)参照、下村哲夫、『世界教育史体系17 アメ リカ教育史』、梅根悟監、世界教育史研究会編、講談社、昭和50年2月20日、222-223から引用 3)下村哲夫、『世界教育史体系17 アメリカ教育史』、梅根悟監、世界教育史研究会編講談社、昭和 50年2月20日、221 4)Samuel T.Dutton & David Snedden, The Administration of Public Education in the United States, 1913, 508-509 とスプリングフィールド市学校調査(時局に関する教育資 料33)、83-105をもとにして示 されている。同上、224 5)同上、225-226 6)グラマースクールは、アメリカにおいては初等中等学校のことであり、Primary schoolとhigh school の中間である。(ジーニアス英和辞典、大修館書店、1998年より抜粋) 7)佐野正周、『西洋教育史』、池端次郎、福村出版、1994年、207 8)同上、217 9)Paula Allen-Meares Robert O.Washington & Betty L Welsh(1986)., Social Work Services in Schools, Prentice-Hall, inc., 23 10)W.S.Monrow(ed.)(1950), Encyclopedia of Educational Research、下村哲夫、前掲書、211 11)W.S.Monrow(ed.)(1950), Encyclopedia of Educational Research、下村哲夫、前掲書、211 12)下村哲夫、前掲書、211 13)コモンスクールとは公立初等中等学校のことである。(ジーニアス英和辞典、大修館書店、1998年よ り抜粋) 14)下村哲夫、前掲書、212 15)Annual Report of the Commissioner of Education, 1888-89, Vol.1, Washington:U.S.Government Printing Offoce, 1891, Ch, ⅩⅧ (august W. Steinhilber & Carol J.Sokolowski, State Law on Compulsory Attendance, 1966, 3 より引用)、下村哲夫、前掲 書、212 16)下村哲夫、前掲書、212 17)竹市良成他、鈴木清稔、『子どもの教育の歴史』、江藤恭二、篠田弘、鈴木政幸編、名古屋大学出版 会、1992年、85 18)Edith Abott and Sophonisba P.Breckinridge(1917), Truancy and Non-Attendance in the Chicago Schools: A Study of the Social Aspects of the Compulsory Education and Child Labor Legislation of Illinois, University of Chicago Press, 74. 19)Ibid., 77 20)Lillian D. Wald, 106, cit.,Lela B.Costin(1969), “A Historical Review of School Social Work” Social Casework, 442 21)Julius Oppenheimer, The Visiting Teacher Movement, with Special Reference to Administrative ― 373 ―