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NIKKA
mono NIKKA VOL.69 スコットランドと聞いて 思い浮かぶもの。 バグパイプにタータンチェックの キルト、 マンチェスターユナイテッドの 元監督サー・アレックス・ファーガソン、 セント・アンドリュース、 そしてスコッチウイスキー。 イギリスで産業革命が起きる前から、 スコットランドは科学や テクノロジーの中心だった。 大学における教授制が始まった のもそうだし、 歴史に名を残す 多くの発明家や技術者を 輩出した国でもある。 大正7年︵1918年︶に一人の日本人 青年がこの地を踏んだ。 青年の名は竹鶴政孝。 スコッチウイスキーの本場で その製造法を学びに来たのだ。 そこから約2年間、 苦難の修業を経て 竹鶴は母国日本へ スコッチの製造法と、 妻となったスコットランド人女性を 連れ帰ることになる。 国際結婚など 想像だにできなかった 大正末期から昭和初期。 そんな時代に素晴らしくモダンな 夫妻は周囲から好奇の視線を 集めながらウイスキー作りに励み、 1934年に北海道余市で 産声を上げた。 ﹁ニッカウヰスキー﹂の 始まりである。 108 109 北海道余市に工場を設立した竹鶴政孝は 当初、 リンゴジュースなどを製造しながら ウイスキーの原酒を作り続けた。 当時の社名は 「大日本果汁株式会社」 。 その社名の省略呼称 “日果 (ニッカ) ” が そのままブランド名となり やがて 「ニッカウヰスキー」 という社名になる。 SINCE1934~ ● [ニッカ] Photo / Tomoaki Tsuruda (WPP) Nikka Whisky Text / Teruhiko Doi (WPP) mono 日本におけるウイスキーの父、 竹鶴政孝。 しかしその出生は広島県の造り酒屋だった。 長じて勤め始めたのも、 最初は酒造メーカー。 しかしそこでの働きを認められて スコットランド留学を果たすことになる。 留学期間は約 2 年間だったが 政孝はそこから多くのものを持ち帰った。 その歴史の重さを表現するボトルのラベル。 ニッカのウイスキーは一つ一つの樽の管理を厳密に行っており、 眠っていた17年以上の時間 はグラスに注がれた瞬間から、 芳醇な香り、 目を奪われるほど見事な琥珀色、 そしてまろやかな舌触りとなって開花していくのである。 日本のウイスキーは旨い。 いまや世界の共通認識である。 創業者の竹鶴政孝はとにかく、 ブレンドの 重要性を説き続けていたという。 日本人の真面目なモノ作りと、 繊細な味覚、 そして創業者の 情熱を引き継ぐ社風が 最高のウイスキーを生み続けている。 余市蒸溜所で生まれる石炭直火蒸溜から 作られる力強いモルトと 宮城峡蒸溜所のやわらかく華やかな モルトをヴァッティング︵混和︶させて 誕生する﹁竹鶴ピュアモルト﹂。 同社のブレンダーの技がいきた この至高の味こそが、 竹鶴政孝が 追い求めていた理想なのである。 ウイスキーは、 地球という有限の資産を借りて作る英知の液体である。 英知ということは科学であり、 哲学でもあるということなのだ。 政孝は常々 「ウイスキー作りにトリックはない」 と語っていた。 品質を維持するための手間ひまは、 必ずその味に反映されていくのである。 111 110 渡りに船の話だったという。 こうして大正7年︵1918 社命とはいえ、その申し出は 酒屋の息子だった彼は誰より も知っていたのである。 してつくれないことを、造り 日本はスコットランドから 2つの宝物を盗んでいった。 ひとつはスコッチの製造法、もうひとつは美しい女性だ で生まれた政孝は、当時の社 英国人はジョークが好きだ。 ﹁ニッカウヰスキー﹂の創始者、 豊かな人生を送るための文化 竹鶴政孝。明治 年︵189 でもある。パブでジョークを 4年︶ 、広島県竹原市の醸造家 つまみにビールを飲む、など 年︶に、彼はアメリカ経由で 昔も今も、日本人の職業理 スコットランドへの旅に出る。 念は世界の人から称賛される。 明治生まれの日本人である政 ピュアモルトとは 単一の蒸溜所のモルト原酒の みで作られるのが﹁シングルモ ルト﹂ 。穀物を原料としたグレー ン原酒とピュアモルトをブレン ドするのが﹁ブレンデッドウイ スキー﹂ 。スコッチの多くはこの ブレンデッドだ。ピュアモルト は、性格の違う複数の蒸溜所の モルト原酒をヴァッティング ︵混和︶して作るウイスキーで、 力強い余市と、やわらかで華やか な宮城峡という複数の蒸溜所を 持つニッカだからこそ生み出す ことができる。ヴァッティングの 加減で、モルトの個性を活かした さまざまな味わいが楽しめる。 29 孝は、そうした仕事への真摯 な姿勢を黙々とこなす昔気質 の日本人だった。彼は白衣の 操作を手ほどきしてくれたの ポケットにノートをしのばせ、 である。バルブの操作から、 目 毎日朝から夜中まで現場を歩 だけでは確認できない蒸溜液 き、学び、人の嫌がる仕事も の動きや様子を体感する技ま 勉強だと率先して行ったとい で熱心に学び、やがて彼の記 う。だが、外国人の彼は蒸溜 したノートはびっしりとウイ 器だけには触らせてもらえな スキーつくりのノウハウが書 かった。しかし、毎晩遅くま き込まれるようになった。た で蒸溜所内で熱心に勉強する だ、彼が学んだのはそうした 政孝の熱意を目にしたひとり ハード面の知識だけではなく、 の年老いた職工が、蒸溜器の 〝大切なのは大麦や水などの 1919年8月、 ビッグベンを背にして。 スコットランド在留中、 ロンドンにて。 ウイスキーは寝かせて熟成するもの。 寝床とな る樽の重要性を表す一枚 とリタのストーリーは、平成 年度後期放送予定のNHK 朝の連続テレビ小説﹃マッサ ン﹄の脚本のモデルとなって いる。登場人物も社名も違う ものになっているが、9月 日からスタートする全150 回のドラマに期待したい。 26 会通念どおり、両親からは家 業を継ぐように育てられてい 近隣の農家から山と買い付けたリンゴ。 余市工 場はここから始まる 呼称﹁日果﹂をカタカナ表記 にして﹃ニッカ﹄というブラ ンド名で発売。直後に戦争が 始まって、ウイスキーは統制 品となり、終戦まで配給用の ウイスキー製造を続けた。高 度経済成長期、ニッカのウイ スキーは日本を代表するブラ ンドとして認知されていく。 この創業史にまつわる政孝 にした。会社名は﹁大日本果 汁株式会社﹂ 。翌1935年か らは出荷を開始したが、品質 にこだわる政孝は100%果 汁の高級品にこだわり、あま り業績を伸ばすことはできな かった。いよいよ、余市産の ウイスキーが発売されたのは 昭和 年︵1940年︶のこ とだった。大日本果汁の省略 15 と揶揄されたりもする。それ は一般の労働者でも政治家で 摂津酒造と政孝が目的とし たのは、グラスゴーの大学で ウイスキー醸造に関する専門 講座を受けて、知識を高める ことだった。ところが、そん な授業や講座は存在せず、政 孝はしばらく路頭に迷う時期 を過ごす。そこで彼は、ハイ ランド地方にある蒸溜所に片 っ端から実習願いの手紙を投 函し、ようやくロングモーン 蒸溜所から実習許可の通知を もらうことになる。大学での 座学だけではウイスキーは決 40 28 た。現在の大阪大学の前身で ある大阪高等工業学校醸造科 を卒業後、摂津酒造に入社し た。摂津酒造の社長は進取の 気性に富んだ人物で、同じア ルコール飲料でも、これから はウイスキーの時代が来ると 予測し、そのブームが来たと きに乗り遅れたくないとの理 由から、政孝にスコットラン ド研修の命を出した。実は政 孝自身も早くからウイスキー の魅力に取りつかれており、 10 も同じで、1962年に来日 したイギリスのヒューム氏 ︵後の英国首相︶は、日本に対 する飛び切りのジョークを用 意していた。もしかしたらそ れはジョークではなかったか もしれないが。 ﹁かつて日本から来た一人の 若者が、わが国から2つの大 切な宝物を盗んでいきました。 ひとつは1本の万年筆とノー トを使って門外不出とされて いるウイスキー作りの秘密を、 もうひとつはその青年の奥さ んとなった美しいスコットラ ンド人女性です。 ﹂ その話題の主となったのは 余市のミュージアムに展示さ れているさまざまな歴史。 そ の内容の濃さは驚き。 素晴ら しい歴史の証言書でもある 112 113 スコットランドの蒸溜所で実習をしていた頃の竹鶴政孝 政孝とリタ。 余市のミュージアムには二人の 写真が多数展示してある 自然であり、その自然を敬っ て作り上げる精神性、そして 熟成させる時間である〟とい う、生涯守り続けた思想を手 に入れたのである。 政孝はこのスコットランド 滞在時に、一人の少年に柔術 を教えて欲しいと頼まれた。 断る理由もなくその依頼を受 けた彼はやがて、その少年ラ ムゼイの姉であるジェシー・ ロベールタ・カウン、通称リ タという女性と恋に落ちる。 身を焦がすような恋をした二 人はやがて周囲の反対を押し 切り結婚。政孝自身は彼女の ためにスコットランドに留ま ることも決意したというが、 東洋の小さな国でウイスキ ーづくりを実践する、と いう政孝の 夢を尊重し 24 政孝のノートに描かれている手描きのスコッ トランド地図 海道に工場を作るべきだ、と 1920年、新妻リタを連 いう考えは受け入れられなか れて帰国した政孝は、摂津酒 った。また、政孝はスコット 造に戻ったが、ほどなくして ランドのスコッチにこだわり 一人の男の訪問を受けた。男 を持っていたため、スコッチ の名は鳥井信治郎。サントリ に似た味わいが、当時の日本 ーの創始者にして前身の寿屋 人には受けなかったという。 の社長であった。鳥井は早く やがて販売が伸びずに、政孝 から本格ウイスキー時代の到 は横浜のビール工場へ転勤を 来を予見し、政孝の技術と知 命ぜられ、その後独立を目指 識で国産ウイスキーをつくる して寿屋を退社。 歳になっ ために好条件で彼を寿屋に引 き抜いた。そして1929年、 た政孝は北海道余市町でウイ スキー製造を開始する。昭和 ロングモーン蒸留所研修から 9年︵1934年︶のことだ 年目に日本初の本格ウイス った。 キー﹁サントリー白札﹂を発 ウイスキーは製造開始から 売することになる。 出荷までに時間がかかる。政 しかし、鳥井は消費地に近 孝は最初に仕込んだ樽を寝か いという理由で工場を大阪近 せるために、その間、工場で 辺の山崎に決めた。政孝のス はリンゴジュースを作ること コットランドの気候に近い北 竹鶴17年ピュアモルト 約束の地、 余市は日本中を歩き回った 政孝がついに発見した場所。 スコットランド、 スペイサイドと同じ清流、 同じような気候はまさに、 政孝が イメージしたとおりの場所だった。 現在は余市工場内にミュージアムがあり 政孝とリタの思い出が多数展示されている。 たリタの方 が、日本行き を決意するこ とになる。政孝 歳、リタ 歳 のことだった。 26 門外不出の技術で守られていた蒸溜器 ←ニッカウヰスキー創業者の 竹鶴政孝とリタの肖像。 余市のミュージアムに展示。 mono 竹鶴に関する詳細は下記 Webへ。 http://www.nikka.com/ 竹鶴21年ピュアモルト/豊かで濃厚な香りと コク。 至高の味わい。 オープン価格 竹鶴17年ピュアモルト/円熟の深い味わいと 重厚感で人気。 オープン価格 竹鶴ピュアモルト/複雑にして華麗な味、 なめらかな口当たりで人気。 オープン価格 115 竹鶴25年ピュアモルト/深く、 美しく、 煌く。 まさに秀麗。 数量限定品。 オープン価格 114