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カメルーン

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カメルーン
カメルーン 提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 カメルーン共和国 Republic of Cameroon (英語) République du Cameroun (フランス語) カメルーン共和国(カメルーンきょうわこく)、通称カメルーンは、中部アフリカに位置する共和制国家。西にナイジ
ェリア、北東にチャド、東に中央アフリカ共和国、南東にコンゴ共和国、南にガボン、南西に赤道ギニアに隣接し、南西
部が大西洋のギニア湾に面する。首都はヤウンデ。
旧ドイツ植民地から、イギリスとフランスの植民地に分かれた経緯がある。非同盟路線を歩むが、経済、文化、軍事面で
フランスとの関係が深い。1995 年にイギリス連邦に加盟した。
国名 正式名称は英語で、Republic of Cameroon(リパブリック・オブ・カメルーン)。フランス語で、République du Cameroun
(レピュブリク・デュ・カムルン)。
日本語の表記は、カメルーン共和国。通称、カメルーン。
国名は、1470 年にカメルーンを最初に訪れたポルトガル人がエビの多いことからカマラウン(camarão,ポルトガル語で「小
エビ」)と名付けたことに由来する。
•
1960 年 - 1961 年:カメルーン共和国
•
1961 年 - 1972 年:カメルーン連邦共和国
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1972 年 - 1984 年:カメルーン連合共和国
•
1984 年 - :カメルーン共和国
歴史 カメルーン内の遺跡からたどれる歴史は約 8000 年前まで遡ることができる。カメルーンの先住民はピグミーのバカ族で
ある。バントゥー語族はカメルーン高地に起源をもつが、侵入者が現れる前に他地域へ移動してしまった。
エンリケ航海王子の死から 10 年後、1470 年 12 月にポルトガル人がカメルーンに到達。ただし、拠点を築くことはなかっ
た。
1806 年にイスラム系王国の支配下におかれた。1870 年代になると、ドイツがヨーロッパ内の強国となり、併せて沿岸部
の都市ドゥアラを中心に入植が始まる。1884 年にはドイツ保護領カメルーンとなる(ドイツ植民地帝国)。1911 年、ド
イツが全土を掌握。
第一次世界大戦でドイツが敗れた後、1918 年のヴェルサイユ条約の規定により、1922 年には西部がイギリスの「西カメ
ルーン」、東部がフランスの「東カメルーン」として委任統治領となる。第二次世界大戦中には、ドゴールの自由フラン
スの拠点の一つとなった。戦後、1946 年には信託統治領となり、1957 年、東カメルーンには自治が認められた。
アフリカの年でもある 1960 年、フランス領カメルーンが独立した。大統領は北部出身のイスラム教徒アマドゥ・アヒジ
ョである。
イギリス領カメルーンは北部と南部で別々に住民投票を実施した結果、
1961 年には北部がナイジェリアと合併、
南部はカメルーンとの連邦制となった。1972 年、連邦制を廃止し、国名をカメルーン連合共和国に変更した。アヒジョ大
統領は 1965 年、1970 年、1975 年、1980 年の大統領選挙で再選されたが、彼のカメルーン人民民主連合の一党支配が嫌わ
れ、1981 年に政党を合法化、1982 年には辞任した。南部出身の現大統領ポール・ビヤは就任後、何度も選挙に勝ち残っ
たが、選挙自体の公正さに疑問もある。1984 年には国名を現在のカメルーン共和国に変更した。
政治 •
カメルーン憲法は 1972 年に制定された。1996 年の憲法改正によってカメルーン大統領は、カメルーン政府内で
行政執行権を行使できるようになった。大統領は広範囲な権力を与えられており、一院制の議会に図ることなく
行使できる。議会の議席は 180 人。年 3 回開催される。議会の目的は法案を通過させることである。実際、議会
が法案を変更すること、成立を阻むことはめったにない。
•
司法部は行政部門である法務省の下に置かれている。最高裁判所は、大統領が要求した場合に限り、違憲立法審
査に着手できる。
•
主要政党は、与党カメルーン人民民主連合のほか、カメルーン国民民主連合、社会民主戦線など。
•
1998 年最西端に位置するバカシ半島の帰属をめぐって、隣国のナイジェリアとの間でバカシ半島領有権問題が発
生した。現在、この地域では二つの反政府武装組織「ニジェールデルタ防衛治安評議会」と「バカシ自由闘
士」が広範な自治を求めて活動している。
•
南カメルーン国民会議(SCNC)は 1999 年に、もとイギリス委任統治領だった、英語話者が多い北西州と南西州
の 2 州で南カメルーン連邦共和国(アンバゾニア共和国)の名で分離独立を求めている。
南カメルーンの分離独立運動の背景にはフランス語話者の方が政治など中心的に支配して有利にある事や経済格差への
不満が原因である。南カメルーン政府のサイト
地理 カメルーンの地図
5 つの地理区に分けられる。海岸平野はギニア湾から 15km∼150km まで広がり、森林で覆われ、平均標高 90m、非常に
暑く、世界で最も湿度が 高い所がある。南部カメルーン高地は熱帯降雨林で覆われるが、乾季と雨季が海岸平野より区
別されるため湿度はやや低い。平均標高 650m。カメルーン山脈 は最高峰カメルーン山のある海岸から北部で国を東西に
横断する形で連なる。気候は、とくに西部高地は温暖で雨が多く、土地は肥沃である。
サバナ地帯である中部のアダマワ高地を境に、ステップが広がる北部と熱帯林に覆われた南部とに分かれる。平均標高は
1100m で、気温 22∼25 度 C、雨が多い。アダマワ高地は分水嶺でもあり、主要河川は北部のベヌエ川、ロゴーヌ川と南
部のサナガ川。
サナガ川は国土中央部のムバカウ湖を水源としてドゥアラ市の南方でギニア湾に注ぐ全長 890km の最大河
川である。ケッペンの気候区分ではほぼ全域が熱帯 (A) に属す。北部 (ステップ気候、BS、サバナ気候、Aw)から南
部(熱帯雨林気候、Af)に移動するに従い、気候が湿潤となる。このような気候分布をアフリカ大陸の縮図ととらえ、「ミ
ニアフリカ」と呼ぶことがある。北部低地の標高は 300∼350m で、気温は高いが、雨が少ない。
北部の乾季は 7 月と 8 月だが、南部はこの時期に雨季となる。アフリカ大陸で 7 番目に高いギニア湾岸のカメルーン山
(4095m)の南西斜面は多雨で有名であり、年降水量 1 万 680mm に達する。
気温の年較差は全国で5度∼10度。
首都ヤウンデ
(北緯3度50分、
標高730m)
の年平均気温は23.2度。
年降水量は1560mm。
なお、北西州にあるオク火山の火口湖の一つであるニオス湖では 1986 年に、最大規模の火山ガス災害が起こった。湖底
に溶け込んでいた二酸化炭素の噴出により、1700 人以上が死亡した。
経済 詳細は「カメルーンの経済」、「en:Economy of Cameroon」をそれぞれ参照
カメルーンを含む旧フランス領中央アフリカ諸国で用いられている通貨 CFA フランは、フランス・フランとの交換レー
トが固定されており、安定した経済運営の下地となった。一方、フランの為替レートに引きずられる弊害もあった。経済
圏としては、フランス経済ブロックに組み込まれていたと言える。
独立後四半世紀はカカオ、コーヒー、バナナなどの農産物、ついで 1970 年代後半採掘が始まった原油など第一次産品の
輸出によって、アフリカ諸国のなかでも最も経済的に成功していた。その後、1980 年代後半から石油と農産物の価格が同
時に下がり始め、経済運営にも成功しなかった。このため、10 年間の長期不況に陥り、一人当たりの GDP が 1986 年から
1994 年までに 60%以上低下した。しかしながら、電力をほぼ水力でまかなえるようになったこと、石油増産に成功した
こと、農地として適した地勢になどの条件が重なり、2000 年時点ではサハラ以南としては経済的に成功している。
アフリカには 2 つの経済共同体が存在する。西アフリカ諸国経済共同体と南部アフリカ開発共同体で ある。カメルーン
は両共同体にはさまれた位置にあるが、いずれにも加盟していない。これは、一人当たりの国内総生産が、1800 ドルとサ
ハラ以北のアフリカや南アフリカを中心とする地域に匹敵しており、他国と共同しなくても自立できることによる。二国
間経済援助ではフランスの出資が最も多い。1 人当りの援 助受け取り額は 30 米ドル(1998 年)であり、アフリカ諸国と
しては平均的である。
貿易相手国はフランス、ドイツ、日本の順である。対日貿易ではコーヒーの輸出が際立つ。ついで木材と綿花である。輸
入ではトラック、乗用車、ついで機械である。
主な輸出用の農産物は北部の綿花、南西部のコーヒーとカカオである。南部は熱帯雨林であるため、農業に適さない。耕
地はベヌエ川北部に集中している。主食となるバナナ、イモ、モロコシなどはほぼ自給できている。イモ、特にキャッサ
バの収穫量が多い。大部分の農業は簡単な道具による自給自足レベルで、余剰生産物が都市部の重要な食料となっている。
農業人口は 1990 年時点の 74%から 2000 年時点の 42%まで減少し、第一次産品の加工を中心とする工業やサービス部門が
成長している。
家畜放牧は全土で見られる。漁業には 5 千人ほどが従事し、年間 2 万トンの漁獲量がある。国土の 37%を占める南部熱帯
雨林は木材の供給源だが、大部分の土地は入るのが困難である。木材伐採は外国企業により行われ、政府に毎年 6 千万ド
ルの収入をもたらす。安全で持続可能な伐採を義務付けているが林業へ の規制は最も緩い。
石油以外の鉱業資源には恵まれておらず、わずかな量の石炭、金、スズが 見られるだけである。エネルギーの大部分は
水力発電により、残りは石油である。国土の大部分で電力不足である。産業活動はドウアラとボナベリの 2 都市に集中し
ている。主要ラジオ・テレビ局は国営で、電信電話局もほとんど政府の管理下にあるが、最近インターネットが普及し、
規制を受けないプロバイダーが増え ている。
道路は 1 割のみの舗装で、悪天候も重なり、国内輸送を困難にしている。また、各地で警官等による旅行者への賄賂要求
や強盗が発生し問題である。鉄道は東西と北を結んでいる。国際空港はドウアラとガロウアにあり、ヤウンデの規模はや
や小さい。ドウアラ港が主要な港で、南へ約 150km のクリビ港には チャドのドバから原油パイプラインが伸びており、
原油積出基地がある。
国民 詳細は「カメルーンの人口統計」、「en:Demography of Cameroon」をそれぞれ参照
住民は、南部と西部はバンツー系のファン族、バミレケ族、バカ族、北部はスーダン系のドゥル族、フラニ族などに分か
れる。民族集団は 275 以上に分かれている。
言語は、公用語が英語とフランス語である。他にファン語、フラニ語などが使われている。
宗教は、現地固有の宗教が 40%(主に南部)、キリスト教が 40%(主に南部)、イスラム教が 20%(主に北部)である。
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