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EDUARD SPR州GER. Sein Leben

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EDUARD SPR州GER. Sein Leben
滋 賀 大 学 教 育 学 部 紀 要 人 文 科 学 ・社 会 科 学 ・教 育 科 学
No.41 pp.21-51, 21
1991
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
村 田
EDUARD の生 涯
昇
SPRANGER. Noboru Sein Leben
エ ド ゥ ア ル ト ・シ ュ プ ラ ン ガ ー(Eduard
Spranger,1882-1963)は
、 ドイ ツ精 神 史 、 と
MURATA
りわ け ゲ ー テ 時 代 の偉 大 な る思 想 家 の 解釈 者 と
想 の考 察 は、 そ の 生 涯 との 関 わ りに お い て な さ
れ る必 要 が あ る と考 え る。
して 高 名 で あ る。彼 の フ ンボ ル ト、 ゲ ー テ 、 シ
本 論 は、 これ まで に入 手 しえ た文 献 に よ って 、
シ ュプ ラ ン ガー の 全生 涯 を五 期 に分 け、 そ れ ぞ
ラー 、 ヘ ル ダー リ ン、フ リー ド リ ッヒ大王 、ペ
れ につ い て 時 代 や社 会 との 関 連 にお い て 考 察 し
ス タロ ッチ ー 、 フ レーベ ル ら に関 す る諸 研 究 は 、
よ うとす る もの で あ る。 そ こで は、 特 に教 育学
今 な お 、最 高 峰 を誇 る もので あ る。精 神 科 学 的
思 想 との 関 連 が考 慮 さ れ る筈 で あ る。
心 理 学 と文 化 哲 学 の創 設 に寄 与 した功 績 も大 き
い。 そ う して 「人 間 とは、 本 来 、何 か 、 ま た、
1.第
何 で あ るべ きか 、人 間 は人 間 と して いか に生 き
一 期(1900-1920)プ
ロ イ セ ン精 神 に培
われて ・
るべ きか 」 につ い て厳 し く問 い か け、 この 人 間
の 本 質 な ら び に使 命 に関 す るあ くな き探 究 は、
エ ド ゥ ア ル ト ・シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、1882年6
人 間陶 冶 の 問 題 、つ ま り教 育学 の 問題 に帰 着 す
月27日
る。 文 化 教 育 学(Kulturpadagogik)と
タ ー フ ェ ル デ に 、 フ ラ ン ツ ・シ ュ プ ラ ン ガ ー
い えば
に、 ベ ル リ ン市 中 南 端 グ ロ ー ス ・リ ヒ ・
た だ ち にシ ュ プ ラ ンガ ーの 名 が冠 され るほ ど、
(Franz Spranger,1839.7.15-1922.6.4)の
そ の創 建 に 努 め たの で あ る。
と り息 子 と して 生 を享 け た 。 父 は ベ ル リ ン の 中
しか し、 シ ュ プ ラ ン ガー は単 な る講 壇 哲学 者
心 街 で あ り、 ベ ル リ ン大 学 及 び 王 宮 の 近 隣 、 ブ
な い しは講 壇 教 育 学 者 で は な か った 。彼 はつ ね
リ ー ド リ ッ ヒ ・シ ュ トラ ッセ79番 地 で 大 き玩 具
に現 実 に鋭 い 眼 を向 け、 そ こ に存 す る諸 問題 を
店 を 経 営 して い た 。 ち な み に そ の 祖 先 は 、18世
本 質 的 に究 明 し続 け る と と もに、 時 代 に対 して
紀 以 来 、 ベ ル リ ン市 で 手 工 業 や 音 楽 並 び に 美 術
警 鐘 を打 ち 鳴 ら した の で あ る。 彼 はい っ て い る。
関 係 の 製 本 業 を営 ん で い た 。 母 ヘ ン リ ー テ ・シ
ひ
「私 が 若 い と き に描 い て い た 人 生 設 計 は、 学 者
ュ プ ラ ン ガ ー(Henriete Spranger,1847
と して の 生 活 を営 み 、 同時 に、 ドイ ツ の全 体 的
1909.5.9)は
立 場 に形 成 的 な 影響 を及 ぼす こ とで あ っ た。 後
水 車 業 者 の 娘 で あ る 。 シ ェ ー ネ ンベ ッ ク に 生 ま
に な って 私 の 世代 の運 命 か ら、 私 は他 の ドイ ツ
れ 、 ウ ェ ス トフ ァ ー レ ン か らベ ル リ ン に 移 住 し
の 教 授 た ち よ り も強 く、 政 治 的 連 関 に巻 き込 ま
て 来 た ①。
れ る結 果 と な っ た 」①と。 彼 の 全 思 想 は、 ま さ
エ ド ゥ ア ル トは16歳
に祖 国 の 運 命 との対 決 か ら生 み 出 さ れた とい っ
ター フ ェ ルデ で過 ご したの で あ るが 、彼 は 晩年
て も、過 言 で は なか ろ う。 した が って 、 彼 の思
に 幼 少 期 を 感 慨 深 く 回 顧 して 、 想 像 を駆 り立 て
.5.12-
、 ア ル テ ナ 区 ノ イ エ ミュ ー レの
まで こ の グ ロ ー ス ・リ ヒ
22
村 田 昇
る店 の玩 具 、商 品 の荷 、 芸 術 的 な ベ ル リ ンの街 、
生 徒 の 個 人 的 な事 柄 につ い て 問 題 に され る こ と
マ ル ク ・ブ ラ ン デ ン ブ ル ク の 風 景 、 馬 車:に乗 っ
は ま った くな く、 精神 的 な苦 痛 もほ とん ど感 じ
た ヴ ィル ヘ ル ム 一 世 とア ウ グ ス タ皇 后 、 ビス マ
る こ と な く、 きわ め で 快適 な学 校 生 活 を過 ごす
ル ク 、 近 衛 兵 の パ レ ー ド、 老 皇 帝 の 死 去 と ブ
こ とが で きた の で あ る。
リ ー ド リ ッ ヒ 新 皇 帝 の 相 続 、 産 業 ・技 術 に よ る
とこ ろで シ ュ プ ラ ン ガー は 、8歳 頃か らピ ア
急 激 な 変 化 な ど の 思 い 出 と と も に 、 「私 は 古 く
ノ と作 曲 を学 んで い た 。 す で に12歳 の と きに は、
さ い 義 務 の 履 行 とい う プ ロ イ セ ン精 神 に よ っ て
ピア ノの技 巧 に も秀 で 、 か な りの作 品 を も試 み
教 育 さ れ た 」 と述 べ て い る②。
て い た 。彼 は芸 術 的世 界 観 と現 実 の生 活 理 想 と
一 地 方 都 市 にす ぎなか った ベ ル リ ンが 国際 都
の 矛 盾 に 苦 しみ なが ら、14歳 頃 には音 楽 家 を志
市 に 大 き く発 展 し て い っ た の は 、1896年
に、 ト
す の で あ る が 、多 くの 人 た ちの 諌 め に よ って こ
レ ップ 公 園 で 産 業 博 覧 会 が 開 催 さ れ て か ら で あ
れ を断 念 し、 哲学 の道 に進 んで い く。 彼 は晩 年
る と い わ れ て い る 。 し か し他 方 、 ド イ ツ 帝 国 の
に語 って い る。 「(音楽 家 に な る とい う)思 春 期
成 立 を 達 成 さ せ ドイ ツ皇 帝 に 即 位 した ヴ ィ ル ヘ
の願 望 を、 私 は、 芸術 的世 界 観 と 同様 に、厳 し
ル ム 一 世(Friedrich 1888)が1888年3月9日
く突 き離 さ ざ る をえ な か った。 今 日な お 、そ の
Ludwig Wilhelm,1797に91歳 で 死 去 し、 皇 位
こ とが 私 の 脳 裏 に刻 み 込 まれ て い る。 ・・
… ・フ ィ
を 継 い だ フ リ ー ド リ ッ ヒ 三 世(Friedrich[[[,
ヒテ の直 接 の 後 裔 で あ った 人 の 堅信 礼 準 備 授 業
1731-88)は
と英語 の時 間が 、 私 の 哲 学 へ の 愛着 を抱 かせ た。
す で に57歳 に な っ て お り 、 しか も
病 弱 で あ っ た 。 即 位 後 わ ず か99日 で 世 を 去 り、
私 の うち に教 育 学 的 情 熱 が 目覚 め た の は 、寡 黙
そ の 長 子 ヴ ィ ル ヘ ル ム 二 世(F.W.V.A.
な 思 春期 の戦 い と自己 の 学 校 生 活 か らで あ る と
Wilhelm,1859-1941)が29歳
思 って い る 。 とい うの は、 人 間 を陶 冶 す る こ と
の若 さ を もって
第 三 代 ドイ ツ 皇 帝 の 座 に 就 く。 しか し 、 彼 は 血
が 、 い つ も私 自身 の情 熱 とな って い た し、 また 、
気 盛 ん で 思 い付 き も豊 かで あ った と はい え 、 そ
哲 学 と は、 と りわ け私 に とって も、 自己 形 成 す
れ ま で 宰 相 ビ ス マ ル ク(Otto る人 格 と世 界 との対 決 を意 味 す る もの なの で あ
1815-98)が
von Bismark,
演 じて きた役 割 をす べ て 自分 で 引
き受 け よ う と し、 こ と ご と く に 対 立 し、1890年
3月20日
、 つ い に ビス マ ル クは退 陣す る。 内 政 、
外 政 と も に 、 若 い 皇 帝 に は 荷 が 重 す ぎ も し た ③。
一 つ の 時 代 の 終 わ りで あ っ た と い え よ う 。
シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 こ の 頃 、 ドロ ー テ ン シ ュ
テ ッ ト実 科 ギ ム ナ ジ ウ ム の 準 備 学 校 へ 入 学 し た
が 、94年
、12歳
の 時、 恩 師 ボ ル ハ ル
(Siegfried Borchardt,1851-1939)の
る か ら」④と。
1897年3月16日(15歳)、
家 族 が 所 属 す るベ
ル リ ンの プ ロ テ ス タ ン ト教 会 「ノ イエ ・キ ル
へ 」 で 、 敬 慕 す る キ ム ル ス(Kirmus)牧
師の
も とで 堅信 礼 を受 け た。 なお 一 家 は 、復 活 祭 の ・
日、 ベ ル リ ン市 東 北 部 の シ ャ ロ ッテ ンブ ル ク街
(カ ン ト ・シ ュ トラ ッセ140)へ
転 居 した 。
ト
助言 に よ
っ て 、 グ ラ ウ エ ン ・ク ロ ー ス タ ー ・ギ ム ナ ジ ウ
①E.Spranger:Gesammelte ム の 上 級 部 に 転 校 した 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は こ の
fe 1901-1963.978. 師 を い つ い つ ま で も敬 慕 し 、 書 簡 を 交 わ し、 自
②E.Spranger:Ein 宅 を 訪 問 して い る 。 そ う し て 、 こ の 「ユ ダ ヤ 人
dert, In:Gesammelte 教 師 は 、1939年
E.Spranger:Bilder の 悲 惨 な死 に 至 る ま で 、 私 の 進
路 を 見 守 っ て くれ た 」④ と い う の で あ る 。
グ ラ ウ エ ン ・ク ロ ー ス タ ー ・ギ ム ナ ジ ウ ム は 、
③ 成 瀬 治
・黒 川 康
④E.Spranger=Ein ビ ス マ ル ク'も こ の 上 級 部 で 学 ん で い る 。 そ の 校
dert. S.343.
定 され た要 件 を一挙 に片 付 け、 午 後 に は課 業 は
な く、 だ れ も が 自 分 の 好 き な こ と に 関 わ っ た 。
Schriften. Bd. W. Brie-
S.409.
Professorenleben Schriften. aus meinem ・伊 東 孝 之
im 20. JahrhunBd.8.1973。
Leben.1960. S.343.
S.25.
「ド イ ツ 現 代 史 」 山 川
出 版.1987.P.144.
当 時 で す で に320年 の 歴 史 を もつ 名 門 校 で あ り 、
風 は 独 自の もの で あ り、午 前 中 に 出席 して、 規
〔注 〕
Professorenleben im 20. Jahrhun-
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
の生涯
23
著 『学 者 教 育 の 歴 史 」(.Geschichte des gelehrten
∬.第
二 期(1900-1920) 修 学 と基 盤 の 確 立
Unterricht auf den deutschen Schulen and Universitat vom Ausgang des Mittelalters bis zur
1.パ
ウル ゼ ン とデ ィル タ イ に師 事
Gegenwart."2Bde,1885-1895)は
、古典 語教
授 に 重 き を 置 く ドイ ツ の 高 等 教 育 を 、 文 化 史 、
シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、1900年(18歳)の
復活祭
精 神 史 、社 会 史 との 関 連 にお い て考 察 し、教 育
の 日 に 、 ベ ル リ ン 大 学(die Friedrich Wilchelms-
制 度 の 形 成 が 時 代 の 構造 と 関 連 し て い る こ と、
Universitat)に
教 育 制 度 が 一 般 文化 運動 の大 な る推 移 に よ って
入 学 す る。 ベ ル リ ン大 学 は、 周
知 の よ う に 、 ヴ ィ ル ヘ ル ム 三 世 の 下 で 、1810年
規 定 さ れ る こ と、教 育制 度 の なか にそ の 民 族 の
に 、 フ ン ボ ル ト(Wilhelm 文 化 が 縮 小 して い る こ と な ど を 明 ら か に した こ
1835)の
von Humboldt.1767-
理 念 に基 づ い て創 設 さ れ た。 フ ィ ヒテ
(1.G. Fichte,1762-1814)、
ハ ー(F
シ ュ ラ イエ ルマ ッ
.D. E. Sch!eiermacher,1768-1834)の
とに よって 、 不朽 の名 著 とされ て い る。
パ ウル ゼ ンは この 卓越 した歴 史 観 に 基 づ き、
教 育 学 を 「人 間 の 社 会 生 活 の 正 し い 状 態 並 び に
尽 力 に よ っ て 、 学 問 の 自 由 を 理 念 と し、 諸 学 の
機 能 の 学 」 と し て 、 他 の 文 化 関 係 に 内 的 ・必 然
統 一 を求 め 、 哲 学 部 を筆 頭 学 部 とす る近代 大学
的 に 随 伴 す る も の と し、 倫 理 学 、 人 間 学 、 生 理
の 典 型 と して 発 展 し、1900年
当 時 に は、 い ず れ
学 、心 理学 、社 会 学 、 政 治 学 、 国 家 学 な ど、全
の 学 部 に も 錚 錚 た る教 授 が 活 躍 し、 世 界 の 学 会
文 化 科 学 の広 範 な基 盤 の 上 に樹 立 す る こ とに努
を 風 靡 して い た 。
め 、 「文 化 教 育 学 」 の 祖 と な っ た ③。
と り わ け 哲 学 部 に は、 哲 学 の デ ィ ル タ イ
彼 の眼 はつ ね に教 育 現 実 に 開 か れ て お り、 そ
(Wilhelm Dilthey,1833-1911)、
パ ウ ル ゼ ン
の 哲 学 的 考 察 の 下 に 方 向 付 け を行 っ た 。 当 時 の
(Friedrich Paulsen,1846-1908)、
文学 史の シュ
激 烈 な学 校 闘争 の 中 にあ って 、献 身 的 に実 学 的
ミ ッ ト(Erich Schmidt,1853-1913)、
歴史学の
な 学校 形 態 の樹 立 と推 進 の た め の指 導 的 な理 論
ヒ ン ツ ェ(Otto Hintze,1861-1940)、
経 済学の
を 構 築 し、 特 に 従 来 の 古 典 的 陶 冶 に 重 点 を 置 く
シ ュ モ ラ ー(Gustav von Schmoller,1838-1917)
人 文 主 義 的 ギ ム ナ ジ ウ ム と実 学 的 陶 冶 に 重 点 を
と ウ ァ ー グ ナ ー(Adolf Heinrich Wagner,1835-
置 く実 科 系 の 中 等 学 校 と の 等 価 値 を 主 張 し、 そ
1917)ら
の 実 現 に 努 力 し た の で あ る ④。
が い て 、彼 らの名 声 は きわ め て高 か っ
た 。 シ ュ プ ラ ンガ ー は これ らの教 授 た ちの 講 義
シ ュ プ ラ ンガ ー は このパ ウル ゼ ンか ら大 きな
と演 習 に 出 席 した の で あ るが 、 シ ュモ ラ ー と ヒ
影 響 を 受 け た の で あ り、 彼 は そ の 「人 格 性 が 私
ン ツ ェ は 共 に プ ロ セ イ ン ・ ドイ ツ 的 歴 史 記 述 の
に とって 模 範 とな った よ うに、教 育学 的 関心 は
伝 統 に 忠 実 で あ り、 ま た 、 世 紀 の 転 換 期 に お け
パ ウ ル ゼ ン の 下 で 豊 か な 糧 を得 た 」⑤ と い っ て い
る代 表 的 な 政 治 的発 言 者 で あ った。 彼 らの 印 象
る 。 彼 は す で に 、1902年
の 下 に 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー の プ ロ イ セ ン的 エ ー ト
("Gedanken zur Padagogik")と
ス や 政 治 的 立 場 と構 想 の輪 郭 が 養 われ た とい え
文 を 書 き⑥、 未 公 刊 で あ る が 、 「記 述 的 教 育 学 に
よ う。 し か し、 シ ュ プ ラ ン ガ ー が 特 に 師 事 し た
お け る 形 而 上 学 的 な も の 」("Metaphysisches の は 、 パ ウ ル ゼ ン とデ ィ ル タ イ で あ っ た 。
der desk,iti。,n Pad、g。gik."1904.)⑦ や 「教 育 に つ
パ ウ ルゼ ン は、 シ ュプ ラ ンガ ーが み ず か らい
い て 」("Ober die Erziehung" , Disposition der 1.
っ て い る よ うに、 彼 に とって
に は
「教 育 学 」
題 す る長 文 の 論
in
「最 初 の 学 問 的 指
bis 4. Rede:1. Rede ausgearbeitet.1906.)⑧ 、 「哲
導 者 で あ り 、 ま た 人 間 的 な 模 範 」①で あ っ た 。 パ
学 的 教 育 学 の 根 本 問 題 」("Grudfragen der philo-
ウ ル ゼ ン は 広 義 で の カ ン ト学 派 に 属 す る 哲 学 者 、
sophischen Padagogik")「
倫 理 学 者 で あ っ た が 、1877年
("Philosophie and Padagogik",1907.)の
の 夏学 期 の始 め に、
哲 学
と 教
育 学 」
論 文 もあ
当 時 の 哲 学 部 長 で あ ったハ ル ム ス教 授 か ら、 ベ
る ⑨。 な お 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 後 年(1912)、
ル リ ン 大 学 の 教 授 計 画 の 不 備 を補 う た め に 、 冬
パ ウ ル ゼ ン の
学 期 か ら教 育 学 の 講 義 を 開 く こ と を依 頼 さ れ 、
Paulsen:Gesammelte 長 い た め ら い の 後 、 こ れ を 受 諾 し た ②。 彼 の 大
gen.1912.")を
『教 育 学 論 文 集 」( 。Fridrich
padagogische Abhandlun-
編 集 し、 長 文 の 序 文 を 加 え て 刊
村 田 昇
24
行 したの で あ る。
「(デ ィ ル タ イ の)方
法 は … … もち ろ ん、 実
次 に 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー が 後 に み ず か ら 「意 味
証 的 個 別 研 究 で あ り ま す 。 しか し、 まず 全 生 活
に 関 係 し た 体 験 の 心 理 学 」(Psychologie des
の あ ら ゆ る 現 象 を 生 き生 き と理 解 す る こ と を 自
sinnbezogenen Erlebens)と
呼 ぶ 精 神 科 学 的心 理
分 の な か に 訓 練 す る こ と の 方 が 、 私 に は よ り重
学 が 、 デ ィル タ イの大 きな影 響 の下 にあ る こ と
要 で あ る と思 わ れ ま す 。 そ れ の み が 今 日 の 哲 学
は 周 知 の と ころ で あ る。 シ ュプ ラ ンガ ー 自身 、
の 内 容 を つ く り出 し、 生 き た 活 動 を 通 じて の み 、
「私 の 歴 史 的 並 び に 心 理 学 的 な 基 本 的 立 場 は 、
再 び み ず か ら 獲 得 さ れ う る の で す 。 そ う して 、
師 デ ィル タ イに よ って形 づ く られ深 め られ た 」
も し私 が こ の 意 味 に お い て 、 哲 学 は 生(Leben)
と い っ て い る の で あ る が ⑲、 彼 は デ ィ ル タ イ の
で あ り教 え(Lehre)で
「理 解 」(Verstehen)の
支 え な い と した ら 、 か か る 現 存 在 は 講 義 さ れ う
概 念 を 継 承 し発 展 させ な
は な い 、 とい って 差 し
が ら も、 そ の 欠 陥 を 克 服 し て 、 彼 独 自 の 精 神 科
る もの で は な く、 わ れ わ れ に 生 き方 の 範 が 示 さ
学 と文 化 哲 学 を 創 設 し た の で あ る 。
れ な けれ ばな らな い こ とに な ります 。 これ に代
し か し シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 最 初 、 ベ ル リ ン大
わ って 、 私 の ゲ ー テ に対 す る理 想 主 義 的 な信 仰
学 で デ ィ ル タ イ の 講 義 を 聴 き、 そ の 「体 験 の 哲
が 根 づ くの で す 。 しか しそ の 信 仰 は 、 歴 史 的 意
学 」 と 「精 神 的 心 理 学 」 に は 強 く惹 きつ け ら れ
識 の 帰結 な の です 。 私 はデ ィル タイ か らけ っ し
な が ら も、 そ の 歴 史 的 方 法 に は な じ む こ とが で
て 離 れ て い る の で は な く、 も し 実 践 的 な 生 の 形
き ず 、 特 に 第 三 学 期 、19歳 の 時 に 、 デ ィ ル タ イ
成 に対 す る歴 史 的 意 識 の 実 際 的 活 用 を追 って い
か ら ゲ ー テ の 友 人 で あ る ヤ コ ビ(Friedrich
る と した ら 、 彼 の 思 想 の た だ ひ と つ だ け を特 に
Heinrich Jocobi,1743-1819)の
発 達 史が 歴 史研
強調 して い る ので す 。 私 に もまた 、全 体 系 の歴
究 の 課 題 と して与 え られ た 時 に 、す べ て が挫 折
史 的相 対 性 の確 信 はゆ る ぎな い もの で す。 しか
し、 ノ イ ロ ー ゼ に 陥 っ た 。 彼 は 、 当 時 、 恩 師 ボ
し、 わ れ わ れ の 哲 学 が 、 単 な る 懐 疑 論 以 上 の も
ル ハ ル ト に、 次 の よ う な 助 言 を 求 め て い る
の た る べ きで あ る な ら ば 、 そ の こ と は 、 わ れ わ
(1901.10.31.仕
書 簡)⑪ 。
れ が 包 括 的 な 歴 史 分 析 を 通 じて 、 わ れ わ れ 固 有
「… … デ ィ ル タ イ は 、 ヤ コ ビ の 発 展 史 を仕 上
の地 位 に 関す る思 念 に まで 、 わ れ わ れが い か な
げ る よ う勧 め ま し た 。 も ち ろ ん 、 こ の 思 想 家 は 、
る所 与 の 歴 史 的 基 底 の 上 に 、 また 、 い か な る手
こ れ ま で 私 に は ま っ た く縁 遠 い 存 在 で した 。 し
段 を も っ て 働 くべ き か と い う意 識 に ま で 到 達 す
か し、特 に ス ピ ノザ 、 レシ ング、 ゲ ーテ 、 カ ン
る こ と に よ っ て の み 可 能 な の で す 」。
ト、 シ ェ リ ン グ 、 フ ィ ヒ テ ら の 偉 大 な精 神 的 潮
そ こ か ら 彼 は 、 「わ れ わ れ は 本 来 、 歴 史 か ら
流 お よび 人格 性 との 関係 の 多様 性 が 、私 をこ の
何 を 受 け とめ る の か 」 と い う 問 題 意 識 を も ち 、
課 題 に 惹 きつ け る の で す 。 私 は ヤ コ ビ を 研 究 の
デ ィル タ イ に対 す る ひ そ か な 反 発 の な か で 、
中 心 にす る こ と は ま っ た く考 え て い ませ ん が 、
1905年
彼 が 明 らか に特 に宗 教 的 労 作 と関係 して求 め ら
学 的 一 研 究 』("Die Grundlagen der Geschich-
に 、r歴 史 学 の 基 礎 一
認 識 論 的 ・心 理
れ る と い う、 ざ っ と し た 方 向 付 け か ら見 て い ま
tswissenschaft. Eine erkenntnistheoritisch-psycho-
す 。 あ な たが 古 い資 料 に よ って 新 しい課 題 に対
logische Untersuchung.")と
し て も強 め る よ う な 機 縁 を 与 え て い た だ け れ ば 、
ル ゼ ン と 心 理 学 の シ ュ ト ゥ ン プ(Carl Stumpf,
幸 甚 で す 」。
1848-1936)に
題 す る論 文 を、 パ ゥ
提 出 し、 哲 学 博 士 の 学 位 を 得 た 。
こ れ に 関 係 し た 「宗 教 の 哲 学 と心 理 学 に 寄 せ
シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 こ の と き か らす で に 、 「歴
て 」(。Zur Philosophie und Psychologie der翠eli・
史 の 問 題 は歴 史 主 義 の 基 盤 か らは 留 保 され て い
題 す る論 考 が な され て い るに せ
る 」 と い う こ と を 洞 察 して い た の で あ り、 そ の
よ 、 デ ィ ル タ イ か ら 出 さ れ た 課 題 は 、19歳 の シ
点 か ら 自 主 的 に 選 択 した テ ー マ に 基 づ い て な さ
ュ プ ラ ン ガ ー に と っ て あ ま り に も難 しか っ た 。
れ た 学 位 論 文 を 、 「け っ し て 完 成 さ れ る こ と の
学 問 観 か ら 生 ず る 悩 み は 、 よ り大 き か っ た 。 彼
な い 歴 史 的 知 識 一 般 は 、 生 け る者 に 対 し て ど の
は 再 び ボ ル ハ ル トに こ の こ と を 訴 え て い る
よ う な 価 値 を もつ の か 」 と い う こ と を 求 め て い
(1902.8.23.付.書
た パ ウ ル ゼ ン に 提 出 した の は 、 背 け る 。 こ の 学
gion,"1901.)と
簡)⑫ 。
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
の生 涯
25
位 論 文 は 、 歴 史 とは何 か とい うこ と に対 す る、
題(女
彼 の 深 刻 な 苦悩 か ら生 み 出 され た もの で あ る、
書 き記 す こ との で き な い 幸 福 が 、 私 に 私 の 教 育
と告 白 して い る ので あ る。
学 的 使 命 を確 証 させ た 」⑮ とい う の で あ る 。
な お 、 こ の 頃(1903)か
ら、 医 師 の 娘 、 ケ ー
学 校 教 師 と して の 課 題)の
も とに感 じた
高 等 女 学 校 の 教 師 と して働 きな が ら、彼 は、
テ ・ハ ー ト リ ヒ(Kathe Hadlich,1872-1960)
前 述 し た よ う な1900年
との文 通 が 始 まっ て い る。 彼 女 はベ ル リ ン人 の
の 経 験 か ら心 を 動 か さ れ 、 古 典 的 な 人 間 性 の 思
家 系 で あ った が 、 パ ンコ フ に生 まれ 、 ハ イ デ ル
ベ ル ク に住 む女 流 画 家 で あ っ た⑬。 こ の10歳 年
想 に立 ち返 って 思念 す る こ とに よ って 、 自分 自
上 の女 性 との文 通 は彼 女 の死 去 に至 る まで頻 繁
た フ ン ボ ル ト研 究 が 、 い よ い よ 人 間 陶 冶 の 問 題
に な され て お り、彼 の学 問 的 展 開 を取 り組 み や 、
に 立 ち 向 か わ せ る の で あ る 。1909年
哲 学 、教 育 学 、心 理 学 に お け るそ の 位 置 と労 作 、
ィ ル ヘ ル ム ・フ ォ ン ・フ ンボ ル ト と人 間 性 の 理
こ の 世紀 の精 神 史並 び に時 代 史 の 包括 的 な叙 述
念 』("Wilchelm が な され て い る。 この書 簡 は、 特 に シ ュプ ラ ン
nit5tsidee.")を 、 教 授 資 格 論 文 と し て パ ウ ル ゼ
ガ ー の初 期 思 想 を研 究 す る ため の 貴重 な資 料 と
ン に 提 出 す る 。 彼 は 「私 を テ ー マ に 惹 き つ け た
い え よ う。
の は、 人 間 の 内面 的 理 想 性 に対 す る信 仰 か らな
頃 の 政 治 的 ・精 神 的 危 機
身 の 時 代 に 方 向 づ け を 与 え よ う と して 始 め ら れ
von Humboldt に は 、rヴ
and die Huma・
る 生 で あ る 」⑯ と い っ て い る が 、 こ こ に は 「古 典
2.ベ
ル リン大 学 私 講師 と高 等女 学 校教 師
的 な もの 、 審 美 的 な も の 、 教 育 学 的 な もの 、 マ
ル ク ブ ラ ン デ ン ブ ル ク 的 な も の な ど 」、 彼 が 愛
学 位 論 文 を提 出 す る 頃 か ら、 父 の 商売 が 不 況
し た 一 切 の もの が 、 綿 密 に ま とめ ら れ て い る。
に 陥 り、 ま た 、 母 も重 病 に 罹 り、 シ ュ プ ラ ン
彼 は 晩 年 に 「こ の(人
ガ ー はみ ず か ら収 入 の途 を求 め ざ る をえ な くな
に 中 心 的 で あ り、 い か な る 問 題 性 が そ れ と結 び
る。 こ のた め彼 は 、サ ンク ト ・クナ ウア ー高 等
つ い て い るか を、 まず 私 に教 えた の は 、 反 人 間
女 学 校(1906.5.1-08.9.30)と
的 精 神 の 時 代 で あ っ た 」、 そ う し て
等 女 学 校(1908.10.1-11.9.30)で
べ ー メ ン高
週 の うち
発 刊 後45年
間 性 と い う)主
題 がいか
「こ の 書 の
た って 、 人 間 性 の 理 念 が 普 遍 的 な
若 干 時 間、 ドイ ツ 語 を教 え る こ と にな る。 プ ロ
ヨ ー ロ ッパ 的 討 論 の テ ー マ と な っ て き た の は 、
イ セ ンで 初 め て女 子 教 育 の改 革 が行 わ れ た の は、
私 に と っ て 幸 せ で あ る 。 こ こ か ら何 か 救 い を も
1908年 で あ る。 当時 の ベ ル リ ン大 学 に は女 子 学
た ら す も の が 生 ず る こ と を 、 私 は 期 待 した い 」⑯
生 が 皆 無 で あ り、哲 学 部 にだ け例 外 と して か な
と い うの で あ る 。
り年 長 の女 性 が 三 人 い た にす ぎな い。 学 生 た ち
こ の 書 は 母 が 亡 く な っ た 年(1909年5月9日
は女 性 と交 際 す る機 会 もな く、学 業 の余 暇 に は
62歳)に
、
刊 行 され た の で あ る が 、 そ の評 価 は き
大 学 の 裏 に あ った栗 の小 森 を逍 遥 す る しが なか
わ め て 高 く、 デ ィル タ イ と の 和 解 を も た ら す 機
っ た時 代 で あ る。 この 時 に、24歳 の若 者 が 女 生
縁 と も な っ て い る 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、1908年
徒 を教 え る こ とに な った ので あ る。 しか し、 こ
12月20日
れ まで ひ と りっ子 と して きわ め て孤 独 に過 ご し
か で 、 彼 が デ ィ ル タ イ の75歳 の 誕 生 日 に 贈 っ た
付 け の ハ ー ト リ ヒ に 宛 て た 書 簡 ⑰の な
て きた シ ュ プ ラ ン ガー に と って は、女 生 徒 た ち
こ の 書 物 と手 紙 が 受 取 ら れ 、 数 日後 に グ リー ネ
は ま るで 自 分 の妹 の よ う に感 じ られ た ので あ り、
ヴ ァ ル トの デ ィ ル タ イ 宅 に お 茶 の 招 待 を 受 け 、
ま た 、 そ こ か ら 「永 遠 に 女 性 的 な も の」(das
そ の 失 人 と二 人 の 子 息 か ら も歓 迎 さ れ た こ と を 、
Ewig・Weibliche)を
嬉 し げ に 述 べ て い る 。 さ ら に1909年2月10日
見 出 し た とい え る。 彼 は
付
「た とえ 当 時 だ れ よれ も愛 した母 を失 った と し
け の 書 簡 ⑱で は 、 デ ィ ル タ イ が そ の 初 期 の 著 書
て も、 私 は 学 校 に い る こ の時 間が 、実 際 、 私 の
rシ ュ ラ イ エ ル マ ッ ハ ー 伝 」(.Das Leben Sch・
も っ と も幸 福 な時 で あ った とい っ て は ばか らな
leiermachers")の
い」
⑭ とい っ て い る。 そ う して これ が 、彼 を教 育
た こ とを述 べ て い る。 この 改 訂 作 業 が早 速着 手
学 の方 向 に よ り強 く引 き入 れ る きっか け と な っ
さ れ た こ とは、 デ ィル タ イ に宛 て た シ ュプ ラ ン
た こ とは 明 らか で あ り、彼 自身 、 「私 が こ の課
ガ ーの 書 簡 か ら も理 解 され る ので あ るが 、彼 の
改 訂 に協 力 す る よ う依 頼 さ れ
村 田 昇
26
ラ イ プ チ ッ ヒ大 学 へ の 就 任 な ど の 事 情 に よ っ て 、
た っ て危 機 で あ った 」
⑫ とい うの で あ る 。
第 二 版 と して発 行 され たの は、 デ ィル タイ の死
しか し、1911年 、29歳 の 誕生 日の す ぐ後 に、
後10年
予 期 せ ざ る救 い の手 が彼 に差 し伸 べ られ た。 そ
を経 た1922年 で あ っ た 。
1909年 の8月(27歳)か
ら、 シ ュプ ラ ンガ ー
れ は ライ プチ ッヒ大 学へ の招 聘 で あ った 。
は ベ ル リ ン 大 学 の 私 講 師 と な り、 哲 学 と教 育 学
の 講 義 を 委 嘱 さ れ る 。1910年
の 夏 学 期 に は、
3.ラ
イ プチ ッヒ大 学 へ の招 聘
「カ ン トか ら ヘ ー ゲ ル に 至 る ド イ ツ 理 想 主 義 」
と 「近 代 教 育 学 入 門 」 の 講 義 が な さ れ た こ と が
1911年10月
記 録 さ れ て い る ⑲。 す で に 第 二 学 期 の 彼 の 講 義
(Ernst Meumann,1862-1915)の
に は 聴 講 生 が 溢 れ 、 大 講 堂(Auditorium
ラ イ プチ ッヒ大 学 の哲 学及 び教 育 学 の員 外 教 授
Maximum)に
と して 招 聘 さ れ た。 こ れ は フ ォ ル ケ ル ト
教 室 を変 更 せ ざる を え な くな った
、 シ ュ プ ラ ン ガー は、 モ イマ ン
後 任 と して、
と い う。
(Johannes Volkert,1948-1930)に
こ の 私 講 師 と して の 関 わ りの な か で 、 デ ィル
と に あ る と さ れ て い る。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、
タ イ の 後 継 者 、 ア ロ イ ス ・ リ ー ル(Alois Riel,
「教 育 学 の 哲 学 的 基 礎 」 と 題 す る 就 任 講 演 を 行
1844-1924)と
い 、 明晰 な思 想 家 で 公 正 な 人 物 で あ った この フ
の きわ め て 深 い親 交 が 結 ば れ、
シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 「こ こ(リ
ー ル の 家)で
は
息 子 の よ う に 思 わ れ 、 生 の 高 等 教 育 を受 け た 。
評 価 され た こ
ォ ル ケ ル トや 、 高 名 な 心 理 学 者 で あ り博 識 で も
あ っ た ヴ ン ト(Wilhelm Wundt,1832-1920)ら
ゾ フ ィ ー ・ リー ル 失 人 は き わ め て 精 神 的 な 、 思
との 親 交 を深 め な が ら、研 究 に専 念 す る。彼 の
い や り の 深 い 女 性 の 一 人 で あ り、 彼 女 は 、 自 己
住 居 で あ る グ ラ ッシ シ ュ トラ ッ セ は 、 ニ キ ッ シ
の 深 み か ら こ の 若 者 の 心 を 開 き、 彼 自 身 の 本 性
ュ(Artur へ と発 展 させ て い く こ と を 理 解 して い た 。 ア ロ
ヴ ァ ン トハ ウ ス 管 弦 楽 団 演 奏 会 場 の す ぐ前 に あ
イ ス ・リ ー ル は 、 私 が 知 り合 い に な っ た 人 た ち
っ た が 、 彼 は そ こ を ご く ま れ に しか 訪 れ る こ と
の な か で も っ と も高 貴 な 人物 で あ っ た」 と、 ま
も な く、 「了 解 」 の 方 法 を 用 い た 青 年 心 理 学 の
た 「グ リ ー プ ニ ッッ ゼ ー の.修 道 院"の よ う な雰
基 礎 づ く りと 「
生 の 形 式 」(Lebensformen)の
囲 気 の な か で 、私 の 人 間 性 の 意 識 が 深 め られ
想 設 定 に 没 頭 した の で あ る 。
た 」 と い う の で あ る ⑳。
当 時 、 ラ イ プ チ ッ ヒ 大 学 に は 、 ザ ク セ ン州 の
1910年 に は 、 第 二 の フ ン ボ ル ト研 究 書
『ヴ ィ
Nikisch,1855-1922)が
指揮 す るゲ
構
国民 学 校 教 師が 試 験 で 選 ば れ て教 育 学 研 究 の た
ル ヘ ル ム ・ラ ォ ン ・フ ン ボ ル ト と教 育 制 度 の 改
め に 派 遣 さ れ て お り、 そ の 指 導 が シ ュ プ ラ ン ・
革 』(.Wilhelm von Humboldt and die Reform des
ガ ー に委 任 され た。 彼 ら は一 定 条 件 の 下 で学 位
Bildungswesen.")が
刊 行 さ れ る。 彼 は 「こ れ は
を授 与 さ れ る こ と も で き た 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、
プ ロ イ セ ン枢 密 公 文 書 保 管 所 で の 研 究 と発 見 に
「彼 ら の 教 育 学 的 知 識 は 、 最 初 私 よ り も広 か っ
基 づ い て い る。 保 管 所 の 雰 囲 気 に精 通 す る こ と
た の で あ る が 、 私 は まず 、 自 分 の 哲 学 ・教 育 学
が 、 私 を 豊 か に し た 。 一 方 の 政 治 と行 政 か ら他
演 習 の か な りの 蔵 書 を 一 つ の 新 しい 体 系 に 従 っ
方 の 学 校 制 度 に 導 く橋 を 架 け る こ と が 、 そ れ 以
て 編 成 し直 す こ と に よ っ て 切 り抜 け た 。 そ の 際 、
来 、 た えず 私 の 関 心 事 と な っ た 」
⑳ と い って い る 。
私 は す べ て の 書 物 を外 か ら知 り、 しだ い に 内 か
シ ュ プ ラ ンガ ー の私 講 師時 代 は、 あ ま りに も
ら 知 っ た 」⑮ と い っ て い る 。 「軽 視 さ れ て い た 教
忙 しす ぎ た 。 研 究 と 講 義 、 女 学 校 教 師 、 し か も、
育 学 を 完 全 に 大 学 に 遭 っ た 学 問 に す る とい う ひ
重 病 の 母 を抱 え 家 計 を担 い 、 お 金 を か き集 め な
そ か な 計 画 」 を 、 彼 は 自分 の 立 場 に お い て 促 進
け れ ば な らな か った か らで あ る。 彼 は 疲労 の た
し よ う と した ので あ る。 そ う して彼 は 、教 育 学
め に 病 に 陥 り、 学 期 の 途 中 で 講 義 を 中 断 せ ざ る
を 、 体 系 的 な 面 か ら 、 ま た 、 歴 史 的 な 面 か ら構
を え な く な る 。 間 もな く病 は い え 、 ベ ル リ ン大
築 す る こ とに努 め たの で あ る。
学 創 立 百 周 年 祭 を 、 そ の 創 立 者 フ ン ボ ル トに 関
ち なみ に 、当 時 の講 義 題 目を あげ て お こう⑳。
.す る 二 冊 の 書 物 の 著 者 と し て 、 感 慨 深 く祝 う の
で あ る が 、 彼 は 「当 時 は 私 に と っ て 、 全 般 に わ
1912年 夏 学 期
講 義:「 現 代 の 哲 学 」、 「19世紀 に お け る教 育
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
の生涯
27
し た の で あ る 」⑮ と 。
学 理 論 と教 育制 度 」
演 習:「 児 童 心 理 学 の 課 題 と方 法 」
や が て 大 学 か ら は 、 しだ い に 男 た ち が 姿 を消
し て い く。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 「1848年 ま で の
1919/20年
講 義:「 初 期 プ ラ ト ン」、 「教 育 学1」(教
育史、
古 代 か ら ル ソ ー ま で)
ドイ ツ に お け る 国 家 と 教 育 と の 関 係 に 関 す る 歴
史研 究 」 を完 成 させ 、公 刊 す る仕 事 を続 行 す る
演 習:「 国 民 学 校 教 師 に 対 す る 演 習 」、 「青 年
こ と は で き た と は い え(。Der Zusammenhang
心 理 学 に関 す る演 習 」
von Politik and Padagogik in der Neuzeit"と
シ ュ プ ラ ン ガ ー は 翌12年
雑誌
に正 教 授 に昇 任 す る。
14年 に は 、rリ ー ル70歳 祝 賀 記 念 論 集 』に 『生 の
形 式 」(.Lebensformen")を
ラ ー 年 報 、(38巻)に
して 、
「ドイ ツ 学 校 』(Deutsche Schule)に14年
ら16年 に か け て14回
か
に わ た り連 載)、 深 刻 な 心
寄 稿 し、 ま た 、
rシ ュ モ
的 圧 迫 が 彼 に 重 くの し か か っ て く る こ と を 痛 感
「国 家 経 済 学 に お け る 価 値
せ ざ る を え なか った 。 た とえ兵 役 免 除 を 申請 で
判 断 の 位 置 」(.Die Stellung der Werturteile in
き る と し て も、 年 長 の 同 僚 と 同 様 に 、 武 器 を も
den Nationa16konomie.")を
っ て 勤 務 す る 義 務 を 有 す る こ と を 感 じ る 。 しか
発 表 して 、 価 値 論 争
に 加 わ っ て い る 。 さ ら に18年 に は 、 『フ ォ ル ケ
し、そ の た め に は肉 体 的状 態 が十 分 で な い。 し
ル ト70歳 祝 賀 記 念 論 集 』 に 「了 解 理 論 と 精 神 科
か も彼 は 、 プ ロ セ イ ン精 神 に よ っ て 養 わ れ た 愛
学 的 心 理 学 」(.Zur Theorie des Verstehens und
国 心 を 抱 き な が ら も、 人 間 性 の 理 念 の 探 究 者 と
zur geisteswissenschaftlichen Psychologie .")を
し て 戦 争 に は 反 対 で あ り、 超 国 民 的 思 想 に 生 き
寄 稿 して い る 。
て い た 。 こ の よ う な 内 面 的 葛 藤 。 しか も、 栄 養
彼 の学 者 と して の勢 力 的 な活 動 が 始 ま った の
で あ る が 、 し か し 、 ドイ ツ の 政 治 面 で は 一 つ の
不 良。 シ ュ プ ラ ン ガー はつ い に重 い肋 膜 炎 に罹
'り
、 まる一 年 、講 壇 を離 れ ざ る をえ なか った 。
時 期 の 終 焉 に 近 付 い て い た 。1913年
冬 に な り、 彼 は 主 治 医 で あ る 友 人 の ア ドル
に は 、 ドイ
ツ 民 族 が ナ ポ レ オ ン の あ の 範 か ら 脱 した ラ イ プ
フ ・ シ ュ ト リ ユ ン ペ ル(Adolf チ ッ ヒ 戦 の100年
1853-1925)の
祭 に当 た り、祝 福 さ れ た の で
von StrOmpell,
勧 め に 従 っ て 、1916年
末 か ら翌
あ る が 、 そ れ は ドイ ツ 帝 国 の 栄 光 を 讃 え る 最 後
年4月
とな った の で あ る 。
で 療 養 生 活 を送 った。 こ こで の 滞 在 は 、 人情 を
翌1914年
の8月3日
に は、 第 一 次 世 界大 戦が
に至 るあ い だ 、南 独 の パ ル テ ンキ ル ヘ ン
知 る 意 味 で も彼 に 幸 い を もた ら した 。 特 に ケ ル
勃 発 す る。 シ ュプ ラ ンガ ー は この 日の こ とを 明
シ ェ ン シ ュ タ イ ナ ー(Georg 白 に 記 憶 し て い る 。 「私 は ち ょ う ど 、 ニ ー チ ェ
1854-1923)は
(F.W. Nietzsche,1844-1900)と
Rilke,1875-1926)の
ド レ ア ス ・ザ ロ メ(Lou -1937)の
リ ル ケ(R. M.
女 友 だ ちで あ った ア ン
訪 問 を受 け た
Andreas-Salom6,1861
。 彼 女 は も と も と リル
Kerschensteiner,
彼 を た び た び訪 れ 、見 舞 の 品 を
も贈 っ た の で あ る 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー と ケ ル シ ェ
ンシ ュ タイナー とは、その著
『労 作 学 校 の 概
念 』(。Der Begriff der Arbeitsschule,"1912.)を
通 じて 旧 知 の 間 柄 で あ り、 文 通 も な さ れ て い た
ケ を 訪 ね て き た の で あ る が 、 しか し 私 も ま た 、
と は い え 、 こ の 時 か ら友 情 が さ ら に 深 ま り 、 学
何 日か は彼 女 と同席 した。 ま さ にそ の 時 、戦 宣
問 上 に互 い に影 響 され 合 う こ と とな る。 シ ュ プ
布 告 が な さ れ た の で あ る。 われ わ れ が 同 日、 ど
ラ ン ガ ー は 、 当 時 の 病 気 休 暇 か ら次 の よ う な 感
の よ うな無 分 別 な 熱狂 を もって この事 実 を受 け
情 を 抱 く の で あ る 。 「そ れ が 私 に と っ て い い よ
止 め てい た か を、私 は は っ き りと思 い 出す 。 人
う も な く 困 難 と な っ た と して も 、 次 の こ と が 私
は 攻 撃 さ れ た 兄 弟 国 オ ー ス トリ ア と の 共 感 を 表
の 内面 に決 定 的 に促 進 され た 。す な わ ち、 人 間
明 す る た め に 、 群 を な して オ ー ス ト リ ア 領 事 館
の 生 全 体 を 客 観 的 な 業 績 の 観 点 で しか 観 な い こ
に赴 いた 。 もち ろ ん、 近 代 戦 争 が どの よ うな も
と は 、 い か な る 事 情 の も と に あ っ て も、 人 間 に
の で あ る か は 、 だ れ も知 ら な か っ た 。1870/71
と っ て 良 く な い 、 と 」⑳。
年 の 戦 争 と 同 様 な確 乎 た る勝 利 を再 び得 る もの
1917年 の 春 に 、 ま る 一 年 に わ た る 休 暇 を 終 え
と 、 だ れ も が 確 信 し た 。 しか し 、 ま っ た く異 な
て 大 学 に 復 帰 した と は い う も の の 、 講 義 は な さ
っ た こ と が 始 ま り 、 ま っ た く異 な る こ と が 進 行
れ えず 、待 機 す るば か りの苦 悩 に満 ち た 月 日が
村 田 昇
28
続 き、 しだ い に 国 の瓦 壊 も深 ま って い く。
な シ ュ ヴ ァー ベ ン 人 で あ っ た キ ッ テ ル 学 長
何 しろ 戦争 は 、 最後 に は塹 壕 戦 争 の 形 態 を と
(Gerhard Kittel,1888-1948)は
、 あ る時、す
る に至 った。 大 進 撃 が行 わ れ た と き とは異 な り、
ぐ に で も射 撃 す る こ と の 可 能 な 三 人 の 赤 軍 を ロ
年 が ら年 中 、 冬 か ら夏 に か け て 、 ま た夏 か ら冬
ビ ー か ら押 し 出 した と い う ⑳。 街 で は 波 状 的 に
にか けて 、 塹 壕 内 で待 機 す る ば か りで は、 苛 酷
な さ れ る ゼ ネ ス ト、 そ れ に 対 す る 反 ス ト。1918
な忍 耐 が 要 求 され る。 しだ い に 軍隊 の力 も麻 痺
年11月11日
状 態 に陥 って い く。 封 鎖 に よ って食 糧 も途 絶 え
争 は 終結 した とはい え、 戦 後 の 混 乱 は、 この よ
て くる。 そ こ にあ った の は、飢 餓 だ けで あ っ た
う に ま す ます 激 化 して い っ た の で あ る 。 街 に 秩
とい って よい 。
序 が 回 復 した の は 、 数 カ 月 後 、 社 会 民 主 主 義 者
つ い に 、1918年11月3日
に は、 キ ー ル軍 港 で
の ノ ス ケ(Gustav 。
Noske,1868-1946)の
宣 言
に よ って 進 入 した義 勇 軍 に よ って で あ る。
水兵 の反 乱 が 生 じる。 その 水 兵 が 赤 旗 を先 頭 に
して ラ イ プチ ッ ヒに進 入 したの が 、11月9日
休 戦 条 約 が 締 結 され 、 第 一 次 世 界 戦
シ ュ プ ラ ン.ガー が 、1918年11月16日
に、 父 フ
そ の 日 に、 シ ャ イデ マ ン(Philipp Scheidemann,
ラ ン ツ に 宛 て た 書 簡 も⑳、 こ の 時 期 の 状 況 を 知
1865-1939)が
る上 に興 味 深 い 。
ドイ ツ共 和 国 を宣言 す る 。翌10
日 には 、皇 帝 ヴ ィルヘ ル ム三 世 は オ ラ ン ダに亡
「あ な た が 大 き な 変 革 に も か か わ らず 、 無 事
命 し、 人 民代 表委 員政 府 が 樹 立 され る。 この よ
で あ り続 け ら れ て い る こ と で 、 私 の 心 は 安 ま り
う に して 、 ビス マ ル ク に よっ て創 立 され た ドイ
ます 。 ベ ル リ ン で の 戦 争 は 、 こ こ よ り も激 し か
ツ帝 国 は、 わ ず か47年 で そ の姿 を消 した の で あ
った で し ょう。 こ こで は、街 頭 で は な ん らの抵
る。
抗 も な し に 行 わ れ ま した 。 しか し そ の 代 わ りに 、
シ ュ プ ラ ン ガ ーは 、 当 時 の状 況 を次 の よ う に
今 、 ドイ ツ の 他 の 部 分 よ り も も っ と 悪 い こ と が
語 って い る。 「1918年11,月9日 に、 私 は悪 質 な
起 こ っ て い ます 。 す な わ ち 生 粋 の ボ ル シ ェ ヴ ィ
海 兵 団 の 群 れ を見 た 。 革 命 の前 兆 で あ っ た。 革
ズ ム 、 よ り独 立 し た 最 左 翼 の 社 会 主 義 者 た ち で
命 が ひ とた び起 こ った 後 には 、 街 に は一 年 半 ば
す 。 そ の 綱 領 には 、土 地 、資 本 に お け る一 切 の
か りの あい だ、 街 に平 穏 は もた ら され な か っ た。
私 有 財 産 の 廃 除 、 銀 行 の 押 収 、.労 働 者 階 級 の 意
ス トラ イ キが 、 また その 反 ス トが 続 く。 やが て
志 の 絶 対 的 支 配"と
水 は な くな り、電 気 も停 ま る。 つ い に街 の無 秩
任 を 受 け た 者"と
序 は大 き くな り、軍 隊 が 干 渉 せ ぜ る をえ な くな
支 配 さ れ て い る の で す 。 こ の あ ま り重 要 で な い
った 。 い ま や事 実 上 は武 装 はす で に解 除 され て
少 数 が 、 機 関 銃 、 拘 留 、 追 放 に よ っ て そ れ 以 外`
い た 。 しか しな お 、義 勇 軍 が 、 主 と して 学生 の
の人 た ち を恐 怖 に陥 れ て い る ので す 。 …… 」
そ れ が 見 出 され た の で あ る。 私 が け っ して忘 れ
あ りま す 。 実 際 、 。
民 衆 の委
自称 す る こ の よ う な 人 び と に
シ ュ プ ラ ン ガー は、 この よ うな状 況 の な か で、
二 本 の ろ う そ く に よ る 貧 し い 明 り の 下 に 「ヘ ル
られ な い し、 また 、 な ん とか してで き るだ け生
き生 き とあ な た 方 に述 べ て お きた い印 象 は、 ど
ダ ー リ ン と ド イ ツ 国 民 意 識 」(.H61derlin und
くろ軽 騎 兵(Totenkopfhusaren)の
das deutsche NationalbewuBtsein."In:Neue 列が、馬上
Jahr-
高 く、 きわ め て 真 剣 な 、 悲劇 的 に深 刻 な表 情 を
biicher fur das klassische Altertum, Geschichte
もって 、 街 に進 入 して い く姿 で あ る。 この 青 年
and deutsche Literatur and fur Padagogik. Bd.44.
た ち は、 多 年 、 戦 場 にあ って あ らゆ る犠 牲 を払
Leipzig, Berlin 1919)を
い 、 い ま もう一 度 兵 役 に就 か ざ る をえ なか った
他 方 、 大 学 か ら委 任 さ れ 、 労 働 組 合 と 協 力 し て
'
書 い た とい って い る が 、
の で あ る。 … … ドイ ツ人 と は何 か を知 る ため に
民 衆 大 学(Volkshochschule)を
は 、 こ の若 者 の真 剣 な表 情 を見 な けれ ば な らな
育 に 関 わ る。 そ う して そ こ で、 マ ル ク ス 主 義
い の で あ る」⑳と。
的 ・政 治 的 な 科 学 と 大 学 的 な 科 学 と の 差 異 を 、
大学 の講 堂 に は しだ い に学 生 が 復 員 して きた
と はい え 、彼 らは個 々 に難 しい問 題 を抱 え て い
組 織 し、 成 人 教
身 を も っ て 体 験 す る ⑳。
さ て 、 第 一 次 世 界 大 戦 に 破 れ た ドイ ツ が な ん
た 。 しか し、 この講 堂 に も、 しば しば赤化 した
と し て も取 り組 ま な け れ ば な ら な か っ た 問 題 は 、
侵 入 者 に よっ て解 放 せ ざる を え な か った 。勇 敢
平 和 条 約 で あ った 。 従 来 の慣 行 に よれ ば 、戦 勝
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
29
の生涯
国 と敗 戦 国 、 この 両 当 時 者 間 の 折衝 の結 果 締 結
学 期 の 途 中 で あ る こ とか ら、 しば しの延 期 を乞
さ れ る べ き もの で あ っ た 。 に も か か わ らず 、 敗
い 、 同年10月 に ライ プ チ ッ ヒ を後 にす る ので あ
戦 国 は ま っ た く除 外 さ れ 、 戦 勝 国 の あ い だ だ け
る。 ラ イ プチ ッヒ を去 る に 当 た り、別 れ の挨 拶
で 講 和 の条 件 が 決 定 され 、 この 条約 で設 立 され
に ヴ ン トの 家 を訪 問 した 際 に は 、 「家 家 の 壁 づ
た 国 際 連 盟 に も、 ドイ ツ は 加 入 を 許 さ れ な か っ
た い に、 バ リケ ー ドを通 り抜 け て進 ま ざ る を え
た 。 当 然 、 全 ドイ ツ 人 は こ の 条 約 の 苛 酷 さ を 唱
な か っ た。 さ ま ざ まな片 隅 か ら、 身 を さす よ う
な射 撃 が な され て い た」 とい って い る。 途 次 も、
え 、連 合 軍 を非 難 した。
シ ュ プ ラ ン ガ ー も ま た 、1919年3月22日
、全
遠 くか らの 砲 撃 を耳 に しなが ら、 ク ラ イ ル シ ャ
ドイ ツ 学 生 連 盟 の 要 請 に よ っ て 、 暖 房 も な い ラ
イ ム越 えの 廻 り道 を と り、 ハ イ デ ルベ ル ク を経
イ プ チ ッ ヒ 大 学 の ロ ビ ー で 、 約2000人
て ベ ル リン に帰 着 した⑭。
の聴 衆 に
対 し て 「国 際 連 盟 と 法 思 想 」(.Vδlkerbund und
Rechtsgedanke")と
題 す る講 演 を行 い 、 こ れ に
対 す る 自 己 の 見 解 を 明 ら か に し て い る⑳。 彼 は
①E.Spranger:Ein こ こで
「国 際 法 的 共 同 体 」(Vδlkerrechtsgeme-
inschaft)の
理 念 を 描 く と と も に 、 ドイ ツ の 正 当
〔注 〕
Professorenleben im 20. Jahrhun・
dert. S.343.
②F.Paulsen:Aus meinem Leben.1909. S.209。
な理 由 を掲 げ て 、 連合 国 に よ って 押 しつ け られ
③ 参 照 、 村 田 昇
た 苛 酷 な 要 求 を 取 り下 げ さ せ 、 当 然 の 義 務 を果
の 基 礎 付 け の 問 題 」 「滋 賀 大 学 学 芸 学 部 研 究 論 集 」
た し、 世 界 平 和 の た め に 尽 力 し よ う と提 唱 し た
第2集
、1953。
の で あ る 。 ま た こ の 年 に 、 教 育 学 論 文 集 、 『文
④ 参 照 、 皇 至 道
化 と 教 育 」(.Kultur und Erziehung. Gesammelte
p5dagogische Aufsate.")の
第 一 版 を刊 行 して い
る。
の春 に は、 不 幸 で急 進 的 な カ
ップ暴 動 の 影 響 に よっ て 、再 び街 の 平穏 は破 ら
303頁
「独 逸 教 育 制 度 史 」 柳 原 書 店 、1943.'
以 降 。
⑤E.Spranger:Gesammelte し か し、1920年
「パ ウ ル ゼ ン に お け る 科 学 的 教 育 学
⑥E.Spranger:Gesammelte Schriften. S.190-221.
sophische ⑦Vgl. わ け 医 師が 反 ス トを実行 す る。 そ う して 最 後 に
Padagogik.1973. P. A. Paffrath:Eduard ⑧E.Spranger:Gesammelte キ を行 っ て い るの か が 、 だ れ に もわか らな い ほ
⑨E.Spranger:Gesammelt 208-221.Vgl. Schriften. ⑩E.Spranger:[ROckblick]o。
住 居 の 隣 家 の 三 軒 を 破 壊 し た の で あ る ⑫。
こ の 頃 、 シ ュ プ ラ ンガ ー は 、後 に ワ イマ ー ル
⑪E.Spranger:Gesam皿elt 共 和 国 の 文 相 と な っ た ベ ッ カ ー(Carl Heinrich
⑫a.a.0. S.1.
Becker,1876-1933)か
⑬a。a.0. S.406.
Schriften, 内 閣 の 常 置 顧 問 に な る こ と を 求 め ら れ た(1919
⑭E.Spranger:Ein 年8月19日
付書
⑮E.Spranger:Kurze を 求 め ら れ 、r教 員 養 成 論 』(.Gedanken ⑯a.a.0. fiber
ま とめて い る。
H. S.
J. In:Gesammelte
Schriften. Bd. W. S.1.
Professorenleben im 20. Jahrhun・
dert. S.345.
簡)⑬ 。 彼 は ま ず 、 教 員 養 成 の 構 想 に つ い て 意 見
Lehrerbildung")を
Bd. Bd. X.S.428.
年8月15日
ラ ン ガ ー も 快 諾 し て い る(同
Bd.1. Geist der
S.409.
に迫 って た き。 最 初 の砲 撃が シ ュ プ ラ ンガ ー の
簡)。 こ れ に 対 して 、 シ ュ プ
and die Volk-
S,420-429.
ドイ ツ 国 防 軍(Raterepublik 付.書
Spranger Schriften, Erziehung.1969. ど に 、 大 混 乱 を 招 くの で あ る 。 こ の と き に は 、
ら、大 学 教 授 と併任 で新
Bd. n. Philo-
sschule,1971.
は 、何 の た め に、 また 、 だ れ の ため にス トライ
裏 ごし
Bd. X.Hoch・
S.428。
れ た 。 反 ス トが 呼 び か け ら れ 、 中 産 階 級 、 と り
Taucha)が
Schriften. schule und Gesellschaft.1973. ger. Sein Werke Selbstdarstel且ungen. and Leben.1964. In:Spran・
S.13.
S.15.
⑰E.Spranger:Gesammelte こ の 三 カ 月 後 に ベ ル リ ン大 学 へ の 招 聘 が 決 定
⑱a.a. さ れ 、 着任 後 に た だ ち に 内 閣 顧 問 に も 就 任 す べ
⑲E.Spranger:Kurze く、早 急 の 着 任 を懇 請 され る ので あ るが 、彼 は
Schritten. Bd. W. S.40.
O. S.42.
Professorenleben. Selbstdarstel且ungen. S.344.
S.15. Ein
村田 昇
30
⑳E.Spranger:Ein Professorenleben 私 に い った こ とが あ る」①と。 満 席 で 椅 子 に 座
im 20。 Jahrhun・
りえ なか った の で あ る 。彼 の1932年 の50歳 の 誕
dert. S.344,
⑳a。a.0. S,344.
生 日 に は、 お よ そ200通 の賀 状 が 寄 せ られ た と
⑫a.a.0. S.345.
い う。
⑬a.a.0. S.345.
彼 が ベ ル リ ン大 学 で行 っ た講 義 に は、 次 の よ
⑳W.Sacher:Eduard Spranger.1902-1933.1988. aus meinem ⑳E.Spranger:Ein aus meinem Leben. Professorenleben 初級 ゼ ミナ ー ル:「 教 育心 理 学 演 習 」
講 義:「 歴 史 哲 学 」 「教 育 史 」2(ル
Schriften。
Professorenleben と教 育 一
治 教 育 思 想 の 研 究 」
以 降 。
in 20. Jahrhun.
シ ュ プ ラ ン ガ ー 政
講義:「 体 系 的教 育 学 」
ゼ ミナ ー ル:「 上 級 学 校 教 師 の基 本 問 題 に
関 す る演 習 」、 「上 級 者 の た め の マ ッ クス ・シ
ェー ラー倫 理 学 演 習 」
ミ ネ ル ヴ ァ 書 房.1969.41頁
Professorenleben 初級 ゼ ミナ ー ル:「 児 童 心 理 学 演 習 」
1930/31年 冬学 期
Bd.、 π. S.96.
dert.
「国 家
ソー か
ら現 代 まで)
im 20. Jahrhun-
⑳E.Spranger:Ein ⑫E.Spranger:Ein 講 義:「 体 系 的 教 育学 」
S.9.
dert. S.346.
⑳ 参 照 、 村 田 昇
1925/26年 冬 学 期
⑳E.Spranger=Gesammelte S.85.
im 20. Jahrhun・
dert. S.346.
⑱E.Spranger:Ein Leben. Professorenleben ⑳E.Spranger:Bilder うな もの が あ る②。
1923年 夏学 期
⑳E。Spranger:Bilder S.
21.
2.行
im 20. Jahrhun-
政 、社 会 活 動 等 との関 わ り
dert. S.347,
⑳E.Spranger:Gesammelte ⑭E.Spranger:Bilder 皿.第
Schriften. aus meinem 三 期(1920-1933)ワ
Bd. W. S、347.
Leben. S.10.
イマ ー ル体 制下 の
ベ ル リン で
1919年6月19日
に ヴ ェ ルサ イユ 条 約 が 調 印 さ
れ 、 同 年8月11日
に ワイ マ ー ル憲 法 が 成 立 す る。
さ ら に20年1月
に 国 際 連 盟 が 成 立 し、11月 に 第
一 回総 会 が 開 か れ る
。4月 に は 「ドイ ツ 基 礎 学
校 法 」 が 成 立 した 。
シ ュ プ ラ ン ガ ー は1920年5月19日
1.ベ
ル リン 大学 教 授 に就 任
に 、 「ベ ル
リ ン 教 育 ・教 授 中 央 研 究 所 」(Gesellschaft der
Freunde des Zentralinstituts fur Erziehung and
シ ュプ ラ ンガ ー は 、1920年4月(38歳)に
母
Unterricht)の
設 立 総 会 で 、 「国 民 生 活 に対 す る
校 の ベ ル リ ン大 学 に着 任 した 。 我 が 父 の よ うに
科 学 的 教 育 学 の 意 義 」(.Die Bedeutung der wis.
敬 慕 して い た リー ル教 授 の 後 任 とLて で あ っ た
senschaftlichen Padagogik fur das Volksleben.")
が 、 従 来 の哲 学 講 座 で は な く、 「哲 学 及 び教 育
と 題 す る 講 演 を行 い 、 戦 後 の 復 興 は 「教 育 に よ
学 」 とい う新 しい名 称 を も った 講座 で あ った 。
っ て の み な し と げ ら れ る 」 と い う確 信 か ら 、 国
彼 は ベ ル リ ンW62・
ク ル フ ェ ス テ ン ダム262に
民 生 活 と科 学 的 教 育 学 と の 関 連 を 明 ら か に し て
居 を構 えた 。 彼 の 本 格 的 な 活動 が始 まるの で あ
い る 。 そ う して、 新 政 府 の教 育政 策 に顧 問 と し
る。
て 協 力 す る こ とが 、 ベ ル リ ン 大 学 に 招 聘 さ れ る
受 講 生 は、 ラ イ プチ ッヒ時代 よ り もは るか に
.多 く、 大 講 堂 に は、 お よそ800人 か ら1,000人
際 に 、 ベ ッカ ー との あ い だ に交 わ され た約 束事
で あ った。 まず 彼 に は、 学校 改 革 、特 に教 員 養
の 人 た ちが 集 ま って い た 。彼 は次 の よ う なエ ピ
成 の 問 題 に 関す る見 解 の 提 出 が 求 め られ て い た。
ソー ドを語 って い る。 「多 くの 受 講 者 の な か に、
す で に 友 人 の ト レ ル チ 教 授(Erns亡Troeltsch,
旧 皇 帝 の 孫 が い た 。 この皇 太 子 はあ る時 、 自分
1865-1923)は
か ら、 私 の 大 講 義 室 で の講 義 を 、 ガ レリ ーに 通
勤 め て い た。
じる 階段 に座 り、.た だ聴 き"し た こ とが ある と、
し か し、 シ ュ プ ラ ン ガ ー の 政 府 へ の 協 力 は 、
、 プ ロ イ セ ン政 府 の 文 部 局 長 を
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
の生涯
31
順 調 に 進 捗 しな か っ た 。 新 し く文 部 大 臣 に 就 任
ガ ル トの ビ ン ダ ー(Henmann し た ベ ッカ ー と彼 とが 政 治 的 に 合 わ な く な っ た
ラ ー(Eugen か らで あ る 。 シ ュプ ラ ンガ ー は いず れの 政 党 に
大論 争 に発 展 す る。 この 両者 の調 停 は難 航 を極
も所 属 しな か っ た の で あ る が 、 当 時 は 「昔 の 政
め 、極 月 、そ の 妥 協 案 と して 、全 国 学 校 会 議 は、
治 的 エ ー トス の 勢 力 か ら、 と り わ け 職 業 官 吏 に
総 合 大 学 に 「教 育 研 究 所 」(Padagogische よ って 国 を更新 す る こ とが 可 能 で あ る」 とい う
tut.一 般 学 部 組 織 と は 別 機 関 で 、 教 職 教 育 や 技
考 え を 抱 い て い た の で 、 「ド イ ツ 国 民 党 」
術 的 ・芸 術 的 教 育 を担 当 す る)を
(Deutchnational)を
支 持 して い た 。 小 党 分裂 と
に よ っ て 、 総 合 大 学 で の 養 成 の 途 を 開 く決 定 を
そ の 対 立 は 、 ワ イ マ ー ル 国 家 の 重 大 な特 色 で あ
行 っ た 。 しか し、 共 和 国 は 戦 後 の 財 政 難 の た め
る と され て い る が 、 そ れ は大 学 にあ って も同様
に、 この 基 本 方針 を国全 体 に及 ぼす 改 革 とす る
で あ り、 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 当 時 の 哲 学 部 の 状
こ とが で き ず 、 そ れ を 各 州 の 自 主 性 に 委 ね る こ
態 を 次 の よ う に 述 べ て い る ③。
と とな った 。 そ の結 果 、全 国学 校 会 議 の 趣 旨 に
応 え た の は 、 チ ュ ー リ ンゲ ン、 ザ ク セ ン 、 ハ ン
「哲 学 部 に は 深 い 政 治 的 分 裂 が 進 ん だ 。 歴 史
L6fner)ら
Binder)や
レッフ
の 激 し い 反 論 が あ り、
Insti-
附設す ること
家 マ イ ネ ッ ケ(Friedrich Meinecke,1862-1945)
ブ ル ク 、 ヘ ッセ ン な ど に 限 られ 、 プ ロ イ セ ン で
は 、 私 が 学 問 的 に つ ね に親 密 に結 ば れ て お り、
は シ ュ プ ラ ン ガ ー 構 想 と は 別 個 の 「教 育 ア カ デ
年 月 の 流 れ の な か で も っ と も密 接 な 心 情 的 ・信
ミ ー 」(Padagogische 念 的 な 交 際 を し続 け た 同 僚 で あ る が 、 彼 は デ ル
設 立 さ れ 、 ま た 、 バ イ エ ル ンや ヴ ェ ル テ ジ ベ ル
ブ リ ュ ッ ク(Hans ク で は 、 旧 来 の 教 育 演 習 所(跨dagogisches
Delbr芭ck,1842-1829)や
恩
師 ヒ ンッ ェ と と もに 、違 っ た側 にあ った 。 当時
Seminare)が
ひ と は 、 政 治 的 な 事 柄 に つ い て 互 い に腹 蔵 な く
1922年6月4日
語 り合 っ た が 、 情 熱 か ら 反 対 側 と衝 突 し合 い 、
一 つ の 観 念 を作 り う る こ と は 困 難 で あ っ た 」④
。
こ の 年 、 前 述 した
1920年6月
、 そ れ は シ ュ プ ラ ンガ ー の ベ ル リ
Akademie,2年
課 程)が
温 存 さ れ た の で あ る ⑥。
に は父 フ ラ ン ツが死 去 す る 。
「ベ ル リ ン 教 育 ・教 授 研 究
所 」 の 設 立 に 努 め 、27年
まで そ の所 長 とな っ た 。
こ の 研 究 所 の 意 義 と課 題 に つ い て は 、 先 の 創 立
ン大 学 教 授 と し て の 最 初 の 学 期 で あ っ た が 、 史
総 会 の席 上 で の講 演 の なか で 述 べ られ て い る が 、
上 最 大 の 教 育 論 争 と さ れ る 「全 国 学 校 会 議 」
そ れ は 大 学 の 研 究 と教 育 実 践 と の 橋 渡 し を行 い 、
(Reichsschulkonferenz)が
内 外 の教 育資 料 を収 集 す る と と もに 、教 員 の現
開催 され た 。 社 会 民
主 党 政 府 内 務 局 長 シ ュ ル ツ(Heinrich Schultz)
職 教 育 と成 人 教 育 を も行 お う と す る も の で あ っ
は 、 こ れ に 約700人
た。
を 招 待 し た ⑤。 こ れ だ け の 大
人 数 が お の お の の 意見 を主 張 す るの で あ るか ら、
こ こ で 、1923年4月21日
幹線 が 失 わ れ た の は 当然 で あ ろ う。 シュ プ ラ ン
研 究 会 を記 念 して 行 わ れ た 講 演 「郷 土 科 の 陶 冶
ガ ー は こ の 会 議 に 出 席 し、 教 員 養 成 につ い て 講
価 値 」("Der Bildungswert der Heimatkunde")に
演 し 、 あ の 有 名 な 「教 育 大 学 構 想 」 を公 表 し た 。
つ い て一 言 す る必 要 が あ ろ う。前 世 紀 末 か ら各
こ の提 案 は す で に ライ プチ ッヒ時代 に ま とめ ら
地 で 「郷 土 科 」 が 、 さ ま ざ ま な 根 か ら さ ま ざ ま
れ 、 ベ ッ カ ー に 送 ら れ て い た もの で あ っ た が 、
な 形 態 で 行 わ れ つ つ あ り、 プ ロ イ セ ン で は 、
「陶 冶 」 の 内 的 構 造 、 と り わ け 科 学 お よ び 技 術
1921年 に 教 育 綱 領 で そ の 設 置 を う た っ て い る 。
と 陶 冶 と の 対 比 か ら 、 総 合 大 学 は純 理 論 的 ・学
シ ュプ ラ ンガ ーが この 郷 土科 に教 育 学 的 承 認 を
術 的研 究 を 目的 と し、特 定 の学 問 的 な専 門家 を
与 え 、 そ の 理 論 的 基 礎 付 け と方 向 付 け を 行 い 、
養 成 す る と い う役 割 を もつ もの で あ り 、 人 格 の
大 き な 影 響 を 及 ぼ した こ と は 、 よ く知 ら れ て い
に、科 学 的 郷 土 教 育
全 面 的 陶 冶 の 追 求 と い う初 等 学 校 教 員 の 養 成 機
る。
関 と して は適 当 で な い と し、そ の た め の独 自 な
1923年 、 友 人 ト レ ル チ の 急 死 に よ っ て 、 そ の
「教 育 大 学 」(Padagogische Hochschule)の
設置
を求 め る もの で あ っ た 。
後 を継 ぎ 、41歳 の 若 さ で 哲 学 部 学 部 長 の 重 責 を
担 う こ とに な る。 当 時 の哲 学 部 は、 まだ 数 学 、
し か し他 方 に 、 教 育 養 成 を 総 合 大 学 内 で 行 う
自然 科 学 、 法 律 学 、 政 治 学 、 経 済 学 な ど の 諸 講
べ きで あ る とす る 陣営 、す な わ ち、 シ ュ トッ ト
座 を含 ん で お り、 正 教 授 だ け で も66名 が い た 。
村 田 昇
32
大 戦 後 の 困 窮 の な か で 、 そ の仕 事 が 並 大 抵 で な
的 な精 神 的 関連 との 織 り合 わせ を追 求 し、精 神
か っ た こ と は 予 想 で き る 。 彼 は 「私 が ベ ッ カ ー
生 活 に属 す る ものが 、「了 解 」 の方 法 に よ っ て
の 大 学 改革 を実 行 す るの は 、容 易 で な か っ た。
意 味深 く 「理 解 され う る」 もの と した の で あ る 。
わ れ わ れ は イ ン フ レー シ ョ ンの真 っ只 中 にあ っ
前 者 に 関 して は、1926年 の リー ル に捧 げ た 論
た か らで あ る。 私 が 学 部 長 の終 わ りに清 算 しな
文 にそ の輪 郭 が 発 表 され て い た 。後 者 に つ い て
け れ ば な ら な くな った 時 、金 庫 に は確 か に何 百
は 、 ほ ぼ14歳 か ら18歳 まで の 青 年 を対 象 と し、
万 マ ル クが あ っ たが 、 そ れ は 、用 務 員 を二 度 ば
彼 が 当 時 の 「青 年 運 動 」(Jugendbewegung)、
か り市 電 で 行 か せ る た め に 用 立 て う る も の で し
特 に 「新 開 拓 者 」(Neupfadfinder)と
か な か っ た 」 と い っ て い る⑦。
な 交 際 か らの 印象 に も基 づ い て い る、 とい って
1925年
以 来 、 雑 誌r教
育 』(.Die Erziehung.
の多面 的
い るの は興 味深 い⑩。
Die Monatsschrift fur der Zusammenhang von
彼 は 晩 年 に書 か れ た 「小 自伝 」(Kurze Selb-
Kultur and Erziehung and
stdarstellungen.1961.)の
Leben.")の
in Wissenschaft 同 人 と し て 、 「一 切 の 教 育 現 実 の 、
な か で 、 この 両 者 に
つ い て 次 ぎの よ うに述 べ て い る。
も っ と も新 し い 、 も っ と も 広 い 、 も っ と も高 い
「私 は学 生 時代 か ら、 デ ィル タ イ にお い て も
観 点 を際 立 た せ る」 こ と を 目 ざ し、 フ ィ ッシ
っ と も実 りあ る 萌芽 を見 出 した一 種 の 新 しい 心
ャ ー (Alois Fischer,1880-1937)、
理 学 の 基 礎 付 け を得 よ う と努 力 した。 や が て し
'
(Theodor Litt,1880-1962)、
Nohl.1879-1960)と
リ ッ ト
ノ ー ル(Hermann
と もに 編 集 に携 わ る。 主
筆 に は ブ リ ッ トナ ー(W.Flitner.)が
当 た っ た。
だ い に次 ぎの こ とが 結 晶 して い った 。 す な わ ち、
身 体 的 な もの(das Physische)と
の(das Psychische)と
心理的な も
い う、 二 つ の 思 考 上 か
シ ュプ ラ ンガ ー は 、 この 雑 誌 を通 じて教 育学 の
ら構 成 され る存 在 の方 式 と並 んで 、 第 三 の もの 、
水 準 を 高 め る た め に 努 力 し、 み ず か ら も こ れ に
つ ま り、精 神 的 な もの(das Geistige)(客 観 的
続 々 と 論 文 を発 表 し て い.く。
Buche-
精 神 ない しは客 観化 され た精 神)が 存 在 す る と
い うこ とで あ る。体 験 を客 観 的 ・精 神 的 内 実 に
Stettba-
従 属 させ る心 理 学 が 、 は じめ て生 の意 味 連 関 に
と も に 、 『ペ ス タ ロ ッチ ー 全 集 」(批 判
近 づ くの で あ る。 『生 の 形 式 」 と 「青 年 期 の 心
ま た 、1927年
nau)、
以 来 、 ブ ヘ ナ ウ(Artur シ ュ テ ッ ト バ ッ ヒ ャ ー(Aans cher)と
版)(Johann Werke")を
Heinrich Pestalozzi:Samtliche
理 学 」 とい う著 書 は、本 来 、意 味 に 関係 した体
験 の心 理 学 に到 達 しよ う とす る実 例 的 な試 み に
編 集 して い く。
す ぎな い。 前 者 は一 個 の 類型 心 理 学 で あ る。 私
3.『 生 の 形 式 』 と 『
青 年 期 の 心理 学』
は主 と して 意 味 関 係 に従 って 、理 論 的 人 間 と経
済 的 人 間 と審 美 的 人 間 と を区 別 し、 さ らに 、政
上 述 した 多 忙 な 公 的 ・社 会 的 活 動 の な か で 、
治 的 人 間 と社 会 的 人 間 と宗教 的 人 間 と を区別 し
シ ュ プ ラ ン ガ ー の 名 を不 滅 の も の た ら しめ た 大
た 。後 者 は発 達 心 理 学 に属 す る。私 は 、 同 時代
著 が 刊 行 さ れ る 。 す な わ ち 、 『生 の 形 式 」
の青 年 世 代 の モ デ ル に則 して 、 思 春期 の心 意 の
(.Lebensformen. Geisteswissenschafliche Psycho・
本 質 的特 性 を指 摘 した 」⑪と。
logie and Ethik der Personlichkeit."2. v611ig neu
この書 の反 響 は きわめ て お お き く、彼 の 名 を
bearb. u. erw. Aufl.1921.)と
不 動 の もの と した ので あ る。 事 実 、発 刊 以 来 、
『青 年 期 の 心 理
学 』(.Psychologie des Jugendalters..〔1. and〕
今 日 まで版 を重 ね 、『生 の形 式 」 は三 万 部 、r青
2.Aufl.1924.)で
年 期 の心 理 学 」 は十 万 部 を数 えて い る。 とは い
あ る。 彼 は ライ プチ ッヒ時 代
か ら 「ひ そ か に 継 続 して 努 力 し 続 け て き た 心 理
う も の の 、 シ ュ プ ラ ン ガー 自身 、「この 両 著 に
学 」⑧で あ る 。 彼 に よ れlx,「 心 理 学 は 、 古 来 、
お い て と られ た方 法 につ いて は、 今 日で もな お 、
一 般 に 理 解 され て い な い よ う に 思 わ れ る」⑫と
も っ ぱ ら心 意 的 事 象 と 身 体 の 関 係 だ け を 研 究 し
て きた。 そ こで は 、心 意 的 機 能 に よ って担 われ
い って い る 。確 か に そ うで あ ろ う。 そ れ だ け独
た 意 味 内 容 は 無 視 さ れ て い た 」⑨ の で あ る 。 こ
創 的 な研 究 法 とい え る ので あ る。
れ に 対 し て 彼 は 、 個 人 的 な 心 意 的 生 活 と超 個 人
この 著書 の刊 行後 に は 、主 観 的 精 神 と客 観 的
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
精 神 と の 相 即 的 連 関 を あ く ま で も前 著 の 優 位 の
の生 涯
33
ン ク (Max Karl Ernst Ludwig Planck ,1885-
下 に捉 え、 客 観 的 精神 の 具体 的表 現 と して の文
1960.理 論 物 理 学 者)が 、 また 、彼 と並 ん で 、
化 、 と りわ け現 代 文 化 、 科 学 、 政 治 、 国 家 な ど
私 と同 時 に迎 え ら れ た ラ ウ エ(Max von Laue,
の う ち に孕 む 諸 問 題 を探
1879-1960.理
在
り出 し 、 そ の 本 質 的 な
り方 を究 明 し よ う と し て い る こ とが 注 目 さ れ
る 。 「文 化 循 環 論 と 文 化 崩 壊 の 問 題 」(.Die turzyklentheorie and das Problem verfalls,"1926)、
た 現 代 の
「歴 史 哲 学 的 照 明 の も と で 見
ド イ ツ 陶 治 理 想 』(。Das deutsche dungsideal sophischer Kul・
des Kultur・
der Gegerwart Bil-
r学 校 法 規 論
と 学 校 政 策 の 科 学 的 基 礎 」(。Die Wisserschaftlichen Grundlagen 精 神 科 学 に お け る 無
前 提 性 の 意 味 」(.Der 人 間 的 に も学 問 的 に も、 最 高 の 人 物 の 集 ま り
で あ った こ とが 理 解 され る。
シ ュプ ラ ンガ ーが1925年7月2日
、プロ
イ セ ン科 学 ア カデ ミー 正 会 員 に 就任 した 際 に行
的 に 語 られて い る。
「私 が 心 理 学 者 な らび に 歴 史 家 と して 、無 限
に充 実 して諸 現 象 の な か に支 配 して い る陶 冶 の
der Schulverfassungslehre
and Schulpolitik."1928.)、
ハ ー ン(Otto
理 化 学 者)を あ げ た い 」⑬と。
った 講演 は、 彼 の 教 育 学 に対 す る立 場 設 定 が 端
in geschichtsphilo-
Beleuchtung,"1928.)、
論 物 理 学 者)と
Hahn,1879-1968.物
Sinn der Voraussetzung-
法則 を、 個 人 の心 意 と客 観 的精 神 との形 態 にお
い て求 め た とす る な らば 、 この努 力 は、 疑 い も
slosigkeit in der Geisteswissenschaft."1929.)、
な く、始 め か ら、私 の研 究 と思 惟 の 中心 的 な 事
教 育 学 論 文 集
柄 、す な わち 、 陶 冶 の 問題 と関 係 した 。 ギ リ シ
「民 族
Staat・Erziehung. fsatze."1932.)等
・国 家
・教 育 』(.Volk・
Gesammelte Reden and Au・
ア ・ロ ーマ 世界 が 、発 生 的 な意 味 だ けで な く、
理 想 的 な意 味 に お いて も、 われ われ に と って も、
が あ る。
ま た 同様 にフ ンボ ル ト時 代 に と って も、』決定 的
4.プ
ロ イセ ン科 学 ア カデ ミー 正会 員
な意 義 を もつ こ とを、 私 は強 く認 め て い る。 し
か し同時 に、 わ れ われ が 、 われ わ れ の時 代 の意
上 述 した よ う な 輝 か しい 業 績 が 高 く評 価 さ れ 、
味 と背 景 に基 づ い て しか 獲 得 す る こ とが で きな
シ ュ プ ラ ン ガ ー は1925年(43歳)に
い とい う こ と も確 信 して い る。 … … いっ か は書
、 伝 統 と名
誉 を 誇 る 「プ ロ イ セ ン 科 学 ア カ デ ミ ー 」(die
か れ るべ き西 欧 文 化 の 陶 冶 の 歴 史 に 、若 干 の 準
Preussische Akademie 備 作 業 を提 供 す るの が 、私 の 希 望で あ る。 そ れ
der Wisserschaft)の
正
会 員 に推 挙 さ れ た。 この こ とに つ い て、 彼 は次
は、 源 泉 そ の もの に帰 る文 化 史 の枠 内 にお い て
の よ う にい っ て い る。
の み 可 能 で あ ろ う。 陶 冶 の 理想 が文 化 哲 学 の な
「私 は 、 フ リ ー ド リ ヒ 大 帝 ア カ デ ミ ー の 科 学
か に の み築 き入 れ られ るの と、 同様 にで あ る。
的 意 義 につ い て は、 こ こで 流布 す る こ と はで き
と りわ け教 育 の 精 神 と国家 との あい だ に支 配 し
な い 。 そ れ は 、 超 大 な ベ ル リ ン大 学 よ り も、 さ
て い る密 接 な関 わ り合 いが 、私 に プ ロ イセ ン国
ま ざ ま な 人 物 と人 間 的 に は る か に 密 接 に 接 し合
家 とそ の教 育 政 策 との生 成 過 程 にお い て 開 か れ
え る と い う利 点 が あ っ た 。 多 く の 人 は 、 公 式 の
て い た。 私 は今 まで まれ に しか 取 り扱 わ れ な か
席 よ り も 、 非 公 式 な 喫 茶 の 時 間 を 重 視 した 。 哲
った教 育 学 の 領域 を、私 の主 要 課 題 で あ る哲 学
学 ・歴 史 部 門 で は 、 ハ ル ナ ッ ク(Adolf nack,1851-1930.神
学 者)一
来結 ば れ て い た一
Har・
波 の 家 と は20年
、 ヴ ィラ モー ヴ ィ ッツ
1930.歴
マ イ ヤ ー(Eduard 史 家)、 レ ー テ(Gustav で 行 われ て い る よ うな共 同 作 業 に お い ての み有
Meyer,1855Roethe.言
もので な く、 本来 、一 切 の 科 学 の 交点 に存 す る
ので あ るか ら、 こ の問 題 が こ こ(ア カ デ ミー)
(Ulrich von Wilamowitz-Moellendorf,1848-1931.
古 典 学 者)、
と並 んで 有 効 に した い と意 図 して い る。 … … し
か し、 人 間 陶 冶 の 問題 は、 科 学 の 彼岸 に存 す る
語
効 に討 究 され うる と確 信 して い る 。… … 一 切 の
学 者)、 偉 大 な 地 理 学 者 ペ ン ク(Albrecht
科 学 は、結 局 、人 間 の 人 格 性 の構 成 に作 用 す る。
Penck,1858-1945)が
抜 きん じて い た 。 他 部 門
そ う して 、 こ の人 間 の 人 格 性 は 、厳 密 な、 偏 見
で は 、 人 間 的 に は あ ま り 口 出 しせ ず 控 え 目で あ
の な い 、認 識 の精 神 に よ って 純化 され 、 文 化 と
り な が ら 、 学 問 的 に は 世 紀 を しの い で い た プ ラ
国 家 との全 体 組 織 を と もに担 うこ と を使 命 づ け
村 田 昇
34
ら れ て い る 。 し か し な が ら、 哲 学 と 陶 冶 の 理 論
た」⑯とい うの で あ る。
を、 そ の 本 質 に従 っ て包 括 す る全 体 性 の 要 求 は 、
「警 報 」 の 音 は、 「1931年か ら33年 に か け て
も し こ の 両 者 が か な らず し も入 念 な 個 別 研 究 の
支 配 し、 ドイ ツの イ ンテ リゲ ンチ ャの 広 い層 を
真 撃 な 訓 練 に 従 わ ず 、 ま た そ こ か ら真 の 科 学 性
プ ロ レ タ リア化 した破 局 的 な失 業 」 と と もに 、
の 王 国 に 支 配 す る 尺 度 を 取 り出 さ な い と し た ら 、
大 学 に も高 ま り、非 常 事 態 が 及 ん で くる。 そ の
不 徹 底 と単 な る思 弁 に陥 る危 険 性 に 導 くで あ ろ
なか で 、 シ ュプ ラ ンガ ーが ベ ル リ ン大 学 教 育 学
う 。 哲 学 す る と い う 厳 密 な 科 学 と真 正 な 人 間 陶
講座 の責 任 者 と してな しえ た の は、 年 長 学 生 が
冶 と は、 偉 大 な伝 統 の 基 礎 に 立 っ て の み 、最 大
そ の 生存 の空 しさや惨 め さか ら免 れ る た め に援
の 巨 匠 が わ れ わ れ に義 務 づ け て い る高 所 に到 達
助 す る こ とで しか なか った 。彼 は 「そ れが 最 後
す る こ とが で き る とい う、 共通 な法 則 に従 う も
の もの で あ っ た」 とい うの で あ る⑰。 そ う して
の で あ る 」⑭ と 。
間 もな く、彼 の栄 光 は も と よ り、そ の影 響 力 は
シ ュ プ ラ ン ガ ー の 令 名 は い よ い よ 高 く、 プ ロ
零 点 に まで 沈 下 す る。
イ セ ン(ベ
ル リ ン)だ
け で な く、ハ イデ ルベ ル
ク 、 ラ イ プ チ ッヒ、 ウ ィー ンの 各 大 学 ア カ デ
〔注 〕
ミー は 、彼 を会 員 に推 挙 し、 ア テ ネ、 ブ ダベ ス
①E.Spranger:Bilder aus meinem ト、 パ デ ュ ア の 各 大 学 は 、 彼 を 名 誉 教 授 に推 す
②W.Sacher:Eduard Spranger のである。
③E.Spranger:Ein と こ ろ で シ ュ プ ラ ン ガ ー は、 同 じ くア カ デ
ミ ー 会 員 で あ っ た ア イ ン シ ュ タ イ ン(Albert
Einstein,1879-1955)と
ヴ ェ ー リ ッへ へ 旅 に 出
Professorenleben dert. In:Gesamme且to ④a.a.0. S.347.
⑤a.a.0. S.347.
て 、 「き わ め て 奇 妙 な 一 日 を 過 ご し た こ と が あ
⑥ 村 田 昇
る 。 そ れ は 偶 然 に も、1931年
の不 吉 な銀 行 破 産
の 日 で あ っ た 」 こ と を 述 べ て い る ⑬。 周 知 の ご
ク
と く、1930年
改 善 の 研 究 」(文
及 し、 経 済 は 困 窮 の 極 み に あ っ た 。31年7月6
1980.
日 に は 、 米 ・仏 両 国 は 、 ド イ ツ の 賠 償 支 払 い を
一 年 停 止 す る こ と に同 意せ ざる を えず
、 同 年7
⑦E.Spranger;Gesammelte ⑧a.a.0. S.348.
月6日
⑨a.a.0. S.348,
頃1ま世 界 恐 慌 の 波 が ドイ ツ に も波
に は 、 ダ ナ ー ト銀 行 が 破 産 し た 。 ま さ に
Leben。 S.11.
1902-1933. 「西
Schriften. im 20. Jahnhun・
Bd. Wl. S.347.
ドイ ツ に お け る 教 育 養 成 課 程 編 成 の 試
み 」 滋 賀 大 学 教 育 学 部 カ リ キ ュ ラ ム 改 善 プ ロ ジ ェ
ト
「教 員 養 成 大 学
・学 部 に お け る カ リ キ ュ ラ ム
部 省 教 育 方 法 改 善 研 究 報 告 書)、
Schriften. ⑩E.Spranger:Bilder aus meinem い う 「奇 妙 な 一 日 」 と は こ の 日で あ っ た の だ ろ
⑪E.Spranger:Kurze SeIbstdarstellurgen. う 。 彼 は 「こ の 日 は新 た に 進 出 して きた 危 機 に
Bd.稠. 金 融 恐 慌 の 始 ま りで あ っ た 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー の
対 す る警 報 で あ っ た 」 と い うの で あ る 。
し か し 彼 は 、 「1921年 か ら1931年
まで は、 経
Spranger. Sein Werke ⑫E.Spranger:Gesammelte ⑬a.a.0. ⑭E.Spranger:Antrittsrede 学 問 に は 妨 げ ら れ る こ と な く従 事 す る こ とが で
Akademie き た 。 こ の10年 間 が 、 ドイ ツ の 精 神 生 活 に お い
1925.In:Eduard て特 に生 産 的 で あ っ た こ とが 、 今 、認 め始 め ら
Leben. S.23f.
れ て い る。 軽 薄 さにそ そ られ る こ とは少 な か っ
⑮E.Spranger:Gesammelte た 。 国 民 の 運 命 は 、 深 遠 で は な い と して も、 あ
⑯a.a.0. S.349.
ち こ ち で 深 い 思 念 の き っ か け を作 っ た の で あ る 。
⑰a.a.0. S.349.
Weber,1864-1920)の
よ う な反 対 意 見 の 持 ち主
も 活 動 し た し、 マ ッ ク ス ・ シ ュ ー ラ ー(Max
Scheller,1874-1928)は
非 常 に実 り豊 か で あ っ
Leben. S.348.
S.11.
In:Eduard
and Sein Leben.1964、
S.17
Schriften。 Bd.田. S.343.
S.349.
済 面 で の あ ら ゆ る 困 窮 が あ っ た に も か か わ らず 、
哲 学 の 領 域 で は 、 マ ッ ク ス ・ウ ェ ー バ ー(Max
S.21.
in der der Wissenschaften Spranger. PreuBischen
zu Berlin Sein Werke Schriften. Bd.皿. 2. Juli
and Sein
S.349.
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
35
の生 涯
も、 シ ュ プ ラ ン ガ ー が 時 代 の 問 題 に 対 して,勇
!〉.第 四 期(1933-1945)ヒ
トラ ー 体 制 下 で
敢 に取 り組 み 、学 的 基 盤 の 上 に 判断 を下 して い
っ た こ とが 理 解 され る 。 そ して実 際 、 シ ュプ ラ
の葛 藤
ンガ ー の予 言 は適 中 し、 この 仏 軍 の ル ー ル 占領
、 フ ラ ンス はベ ル ギー を誘 っ
が 、 後 日、 「ヒ トラー の 水 車 を動 かす 水 に対 し
て 、 ドイツ の賠 償 支 払 い の不 履 行 を理 由 に、 ド
て水 門 を開 くの を助 け る」 こ とに な る の で あ る
1923年1月11日
イ ツ工 業 の 心臓 部 で あ る ル ー ル 地方 を 占領 した 。
が 、 こ の動 き に よ って 、 シ ュプ ラ ンガ ー の教 授
こ の 日、「体 系 的 教 育 学 」 の講 義 の た め に ベ ル
生 活 は翻 弄 さ れ るの で あ る。
リ ン大 学 の 大 講 堂 に現 わ れ た シ ュ プ ラ ン ガー教
授 は 、約500人 の 聴 講 学 生 の 異 常 に 激 しい 、 い
つ まで も鳴 りや まぬ足 踏 み の挨 拶 に よ って 迎 え
1.ベ
ル リン大 学 教 授 辞職 事件
られ た。 こ の歴 史 的 情 況 にお い て 、 日頃 尊 敬 す
1930年 頃 の ド イ ツ の 状 況 に つ い て 、 シ ュ プ ラ
る 師か ら指 針 を求 め よ う とす る 学生 た ち の意 志
ンガ ー は次 の よう に述 べ て い る 。
表 示 で あ っ た ろ う。 教 授 は静 か に そ れ に応 え た。
「当 時 ドイ ツ が ヴ ェ ル サ イ ユ の 強 制 命 令 と賠
「フ ラ ンス軍 の 進 駐 と共 に 、 い か が わ しい 権
償 の 負 担 に ど れ だ け 苦 労 して 耐 え な け れ ば な ら
利 の要 求 を取 立 て る ため の 暴 力 に訴 え る政 治 を 、
な か っ た か と い う こ と は 、 お そ ら くわ れ わ れ の
私 は是 認 しな い。 私 は、 進 駐 す る軍 靴 の結 果 と
す べ て が 、 い く ら 明 瞭 に 思 い 出 して も思 い 出 し
して起 こ りが ち で あ る、 心 的 並 び に政 治 的 な危
す ぎ る こ とは 、 お そ ら くない で あ ろ う。 すべ て
険 を警 戒 す る よ うに戒 め る。 外 国 軍 隊 の こ の進
に 万 策 尽 き た こ とが 明 白 に 現 れ た の は 、 経 済 の
駐 に対 す る 答 え は 、今 日まで は弱 者 の 消 極 的抵
停 滞 にお い て で あ る。 失 業 者 の 数 は 、 た ぶ ん わ
抗 で あ る。 しか し、 明 日に は、 この 消極 的抵 抗
れ われ が 今 日す で に忘 れて しま った で あ ろ う よ
は 積極 的抵 抗 に い ち じる し く変 じ易 い し、 そ れ
う な 範 囲 に 及 ん だ 。1932年
か ら報 復 と憎 悪 の連 鎖 が 若 干 の新 橋減 員 をめ ぐ
か ら700万 人 の 数 が 公 示 さ れ た 。 生 活 の 完 全 な
って 引 延 ば され るで あ ろ う。 真 の権 力 は常 に権
零 落 であ った 。 勤 労青 年 が もっ と も困 難 な 目に
利 の 上 に義 務 を含 む もの で あ る。 それ を強者 の
あ っ た。 大 人 と同様 、左 右 両 派 の 青 年集 団 も ま
権 利 と解 す る者 は、 しか し他 日、 よ りい っそ う
の 弱 者 が そ れ を 自己 の手 中 に取 り入 れ る こ とを
た 、罪 を境 遇 の せ い に した。 血 な ま ぐさい 衝 突
が しば しば起 こ った。 ハ イ キ ン グ用 ナ イ フが帯
心 に とめ て い な けれ ば な らな い。 歴 史 か ら学 ぼ
の な か に生 身 で 入 って い た。 あ らゆ る政 治 的対
う とす る歴 史 家 と して 、 また 、心 理 学 者 と して 、
立 に もか か わ ら ず 、 … … 政 党 に 対 す る憎 悪 は い
こ こ に現 わ れ た政 治 的 洞 察 の 欠如 を嘆 く し、 し
ま や 沸 騰 点 に 達 した 。 両 派 と も に 血 の 犠 牲 者 が
か も、 哲 学 者 お よ び教 育 学 者 と して 、か か る政
あ り、 そ の犠 牲 者 はそ の 関係 者 か らや が て 殉 教
治 の道 徳 的 基 礎 を是 認 しない の で あ る」。
者 に まで高 め られ 、 新 しい敵 に対 す る起 爆 剤 と
に、 国 民 社 会 主 義 側
学 生 た ち の 同感 の 意 を表 す る足 踏 み の響 。 や
さ れ た 。 実 際 、 当 時 ドイ ツ を統 一 し た そ の 男 が 、
が て 講 義 が 始 ま る。 テ ー マ は 「陶 冶 の 概 念 」
極 度 の 奇 跡 を な し遂 げ た と い っ て よ か ろ う②」
こ の数 分 間 の 、即 興 的 な、 しか も予 言 的 な意 義
と。
を お び た真 に 巨 匠 ら しい演 説 。己 れ は、 「絶 対
的 な権 威 を も って政 治 的 事 件 一 般 に対 して 態 度
1889-1945)の
決 定 が な さ れ 、 しか も評 価 さ れ、 判 断 、す なわ
働 者 党(Nationalsozialistische 「そ の 男 」 つ ま り ヒ ト ラ ー(Adolf Hitler,
率 い る 「国 民 社 会 主 義 ド イ ツ 労
Deutsche Arbei-
ち 、教 授 が 要 求 され た対 象 に対 して た じろ ぐこ
terpartei. NSDAP. Nazis)は
との な い判 断 を下 され た こ とに対 して 」学 生 か
中 道 ・保 守 勢 力 を 支 え た 中 間 層 、 さ ら に 労 働 者 、
らは感 謝 を も って受 け とれ たの で あ る。
、1930年
頃 か ら、
と りわ け 未 組 織 労 働 者 や 失 業 者 を 吸 収 し急 激 に
これ は 、 シ ュ プ ラ ンガ ー の弟 子 で ス トック ホ
勢 力 を拡 大 し 、1932年7月31日
ル ム 大 学 の リ ッ トマ ソ(Arnold Littmann)博
第 一 党 に 躍 り 出 た 。 そ う し て 遂 に 、1933年1月
士 の 語 るエ ピ ソー ドで あ るが ①、 こ れ に よ って
30日 に は ヒ トラ ー 政 権 が 成 立 し 、3月24日
の国 会 選 挙 に は
には
村 田 昇
36
「全 権 委 任 法 」 が 議 決 さ れた 。
が あ った 限 り、両 党 分 立 が あ った 。 私 は事 態 が
この ナ チ ス の 進 出 と と もに 、 大学 に お い て も、
い か に純 政 治 的 に 関 係 して い る か を 、 私 の 立 地
1932年 の 夏 頃 か ら、 ナ チ ス の学 生集 団 が新 しい
点 か ら確 信 を も っ て 展 望 す る こ と が で き な か っ
権 利 を要 求 して 、 ユ ダヤ系 の教 官 を追 求 した り、
た 。 だ か ら私 の 処 置 が 始 め か ら 否 定 的 に 解 釈 さ
共 産 主 義 は も と よ り、社 会 主義 的 、 自由主 義 的 、
れ な い よ うにす る ため には 、 私 は わ ざ と、 大学
平 和 主 義 的 な 教 官 の 思 想 評 定 を した り、 スパ イ
と大 学教 師 の領 域 に制 限 す る こ とが 必 要 で あ っ
的 告 発 行 為 を働 くな ど、不 穏 な空 気 が み な ぎ り
た 」⑤ と い っ て い る 。 そ う し て 当 時 、 雑 誌
つ つ あ った。
育 」 に 掲 載 さ れ た 「蹶 起 と 変 革 」(.Aufbruch
シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、後 年 、 「今 日の 暗 冥 の な
and U皿bruch."1933.)と
か に生 き る世 代 が 、現 代 の意 味 につ いて 明 らか
(.Marz 1933."1933.)は
に し、 お そ ら くは,現 代 批 判"へ
「1933年3月
『教
」
、 と もに 前 半 に は 新 体
と進 むべ き必
制 の前 向 きな面 を評 価 しな が ら も、広 範 で は学
要 性 を痛 感 して 」、 み ず か ら 「ヒ トラ ー の異 種
問 と 良 心 の 自 由 を 強 調 し、 ブ レ ッ ト ナ ー
的 支 配 」 と称 す る当時 の 自 己 の態 度 につ い て 語
(Fritz Blattner,1891一)の
って い る③。 そ れ に よ る と、 彼 もそ の役 員 の 一
え ば 、 「新 政 権 に 教 育 的 良 心 を を 目 覚 め さ せ よ
こ とば を借 りて い
人 で あ った 「ドイ ツ大 学 連 合 」(Verbund der
う と し た も の 」⑥ と い え る 。 し か し、 同 年 に
deutschen Hochschule)の
『ロ ゴ ス 」 に 発 表 さ れ た 「良 心 の 個 人 性 と 国 家 」
会 議 が 、1932年10月
に ダ ンチ ッ ヒで 開催 さ れ た際 に、 ラ イプ チ ッ ヒ
("Die Individualitat des Gewissens 大学 の リ ッ ト教 授 か ら学 生 の 不 穏 な 動 向 につ い
Staat."1933)は
て 自己 の体 験 を もって 語 られ 、 会 議 の名 に お い
脱 稿 す る と末尾 に記 され、 明 らか に良 心 の 自由
て警 告 す べ きこ とが 提 案 され た 。 しか しシ ュ プ
を擁 護 す るた め に警 鐘 を打 ち鳴 ら した もの で あ
、1月8日
and der
に 起 稿3月17日
に
ラ ンガ ー は、 こ の リ ッ トの 提 案 には 反対 して い
る。
る。 彼 は この 時 点 で は まだ 、 国 民 的学 生 の運 動
シ ュ プ ラ ン ガ ー が か な り早 くか ら 、 ナ チ ズ ム
は 中核 にお い て は正 し く、 形式 にお い て訓 練 さ
の 運 動 を批 判 し て い た こ と は 、 事 実 で あ る 。 彼
れ て い な い もの と思 って い た し、 また 、 国民 的
は 、1932年12月2日
、 ケ ー テ ・八 一 ト リ ヒ に 宛
な波 動 は当 時 なお 多 くの健 康 な もの を もち合 わ
て た 書 簡 で も 、 「も し プ ロ イ セ ン に 、 本 当 に 国
せ て お り、 しか も、一 般 か ら熱 狂 的 な期 待 を も
民 社 会 主 義 政 権 が もた ら さ れ た な ら 、 そ れ は 私
っ て歓 迎 され て い たの で 、 そ れ に対 して学 校 教
に は 公 職 か ら の 辞 職 を 意 味 して い ま す 。 問 題 は
師 的 な意 見 だ けで 反対 の意 を表 明す る こ と は、
た だ 、 人 が 私 を 力 で 免 職 させ る か 、 あ る い は 、
大 学 に と って きわ め て有 害 な影 響 を及 ぼ す か も
道 徳 的 に強 い るか で す 。 この 運動 は 、 当然 の こ
しれ ない とい う危 惧 の 念 を抱 い て い たか らで あ
と な が ら 、 自 分 の 方 針 を も っ た 人 間 を受 け つ け
る。
な い の です 。 ・
…・
・
」 と 述 べ て い る ⑦。
山 本 尤 は 「ベ ル リ ンの場 合 は いさ さか 違 った
し か し、 や が て そ の 大 き な 波 は ベ ル リ ン に も
傾 向 にあ る。35年 夏学 期 まで は、 … …(講 義 題
波 及 し、 シ ュ プ ラ ン ガ ー も新 政 権 に 対 す る 危 惧
目等 にお い て)… … 目立 っ た変 化 が ない の は 、
の 念 を ま す ま す 深 め て い く 。 彼 は1933年2月26
プ ロ イセ ン以 来 の伝 統 が あ ま りに も強 く、 ヒ ト
日 に 、 ゼ ー ベ ル ク(Erich Seeberg)、
ラー の お膝 元 とは い え 、一 朝 に はナ チ 革 命 が浸
(Rudorf Smend)、
透 しなか っ た の だ ろ うか 」 とい って い る④、 シ
Fischer)ら
ズメ ン ト
フ ィ ッ シ ャ ー(Heinrich
の 同 僚 と と も に 、 パ ー ペ ン(Franz
ュプ ラ ンガ ー の こ の判 断 も、 ベ ル リ ン と地 方 と
von Papen)副
の 違 い か ら生 じた もの か も しれ ない 。
発 主 義 と下 僕 的志 操 か ら国民 全 体 に生 じざ る を
事 実 、彼 も 「当時 ヒ ッ トラ ー主 義 固 有 の様 相
え な い 危 惧 」 に つ い て 抗 議 し て い る ③。
が まだ完 全 に現 わ れて い なか った し、 大 多 数 の
ま た 、 先 の 「ドイ ツ 大 学 連 合 」 は 自 主 的 に 組
人 た ち は政 治 的救 世 主 が 出 現 した と確 信 して い
織 され た 大 学幹 部 会 で は あ っ たが 、 当 時 は教 師
た 。 そ う して 、政 府 に は まだ 、 ヒ ンデ ンブ ル ク
ー パー ペ ンー フ ーゲ ンブ ル クの 側 の発 言 権
職 に あ る 身 分 上 の 事 柄 だ け で な く、 そ の 精 神 的
首 相 と面 談 し、 「大 学 に お け る 告
な 舵 取 り に も配 慮 し 、 大 学 と い う 基 盤 か ら 文 化
シ ュ プ ラ ン ガ ー,そ
の生 涯
37
政 策 を も協 議 す る もの で あ った 。 す で に33年4
だ に も、 事 態 は 、 官 吏 法(Beamtgesetz)に
月 に 開か れ た レー ン ドル フの 会 議 で は、議 長 は
っ て さ ら に 恐 ろ し く悪 化 し て し ま っ て い ま し た 。
「私 は何 をな す べ きか が も は や分 か ら な い。 大 ・
内外 にお い て この 法 が 、 どの よ うな結 果 を もた
学 は他 に続 き手 に負 え な くな り、 国 民社 会 主 義
らす の か 、 ま だ ま っ た く見 通 す こ と が で き ま せ
よ
的 な学 長 が ます ます 簡 単 に選 挙 な しに任 命 さ れ
ん 。 私 た ち の 審 議 は む な し く宙 に 浮 い て 消 え た
るで あ ろ う」 と宣 言 した 。
の で す 。 そ れ は も は や な ん の 正 義 の 基 盤 も存 在
シ ュ プ ラ ンガ ー は 、 そ の 時 に は、 「世 論 も わ
しな い か ら で す 。 幹 事 会 の 辞 任 は 、 今 の と こ ろ
れ わ れ か らな ん らか の声 明 が な され る こ とを期
で は 見合 せ られ ま した。 そ の 他 の 決定 事 項 は秘
待 して い た 」 とい うの で あ るが 、 そ の直 後 、 ヴ
密 で す 。 私 は ま っ た く落 胆 して し ま い 、 マ イ ン
ュル ツブ ル クで 開催 され た会 議 で は、 困 惑 が ま
ツ や ビ ー プ リ ヒ 行 き を 取 り止 め る こ と に し ま し
す ます 深 ま る の を痛 感 し、 「私 は宗 教 上 の 理 由
た 。 明 日ケ ル ン に行 って 、 金 曜 日に は で きる だ
か ら新 しい 政 策 と一致 す る こ とが で きな い 。 そ
け 早 くベ ル リ ン に 帰 り ま す が 、 そ こで は き っ と 、
こに は民 族 の偶 象 化 が 見 ら れ る。 私 はそ れ に与
ま っ た く見 通 し不 可 能 な 人 間 的 カ タス トロ フ ィ
す る こ とが で きな い」 と、 反 対 の 意 を表 明 し、
が 、 私 を 待 ち う け て い る こ と で し ょ う 」 と。
声 明 を出す こ とを提 案 して 、 み ず か ら もそ の起
こ の大 連 連 合 幹事 会 が発 表 した声 明 文 は、 シ
草 に 当 た っ て い る。 彼 は 「私 は控 室 で声 明 文 を
ュ プ ラ ン ガ ー の 意 図 と は ま っ た く異 な っ て お り、
起 草 した。 そ れ は新 体 制 の 国 民 的 傾 向 は肯 定す
そ れ は 「来 た る べ き ドイ ツ の 大 学 は 、 政 治 的 で
る が 、 しか し、"虚 言 と志 操 の抑 圧"に
対 して
あ らね ばな らぬ 。 … … そ れ は、 共 通 の 国 民 意志
厳 しい異 議 を 申 し立 て る もの で あ った 。 こ れが
を強 化 し、 したが っ て知 的教 育 を通 じて 意 思教
大 切 な言 葉 で あ っ た。 この 草 案 は 若干 の修 正 の
育 を実 現 す る政 治 化 を肯 定 す る もの で あ る 」 と
後 、 全 会 一 致 で採 択 され 、 全 員 が 署 名 して.ヴ
さ れ て い た ⑪。 ま さ に 「大 学 の 政 治 化 」 の 承 認
ュル ツブ ル ク宣 言"と
で あ った。
して 印刷 に付 され た」 と
い っ て い る⑨。 こ の趣 旨 の根 本 は 、 「わ れ わ れ
進 行 す る ナ チ 化 の な か で 危 惧 の 念 を ます ます
の 民 族 的 結 合 の内 的 な 力 か らわ れ わ れが わ れわ
強 め た シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、1933年4月25日
れ の 民 族 と国 家 の た め に 戦 うの は 、単 に外 部 か
前10時
らの圧 迫 に 対 して だ け で な く、虚 言 と良 心 の圧
Kohlrausch,1874-1948)と
迫 と非 精神 的 行 為 に よる民 族 の損 傷 に対 して で
45分 頃 に 第 三 帝 国 文 部 省 官 房 長 官 ラ ン マ ー ズ と
の午
頃 に コ ー ル ラ ウ シ ュ 大 学 総 長(Eduard
会 い 、 さ ら に11時
あ る 」 とい う こ とで あ った。
会 い 、 「私 が 現 行 法 の 形 式 で の ベ ル リ ン 大 学 哲 ・
しか し、 この 宣 言 は全 会 一 致 で 採 択 され なが
学 ・教 育 学 正 教 授 の 義 務 か ら解 任 さ れ る こ と を 、
ら も、 数名 の 反 対 派 に よる妨 害 に よ って公 表 さ
文 部 大 臣閣 下 に 願 う もの で あ る。 プロ イ セ ンの
れ な か っ た ば か りか 、後 に は シ ュ プ ラ ンガ ー攻
大 学 に お い て 進 行 し つ つ あ る も ろ もろ の 事 情 が 、
撃 の材 料 と して 悪 用 され る こ と に な る。
将 来 、 私 の 良 心 と一 致 させ る こ と の で き る 活 動
シ ュ プ ラ ン ガ ー は、1933年4月12日
、 ケー
を 私 に 許 さ な い の あ る 」 とい う 文 面 で 始 ま る 辞
テ ・八 一 トリ ヒに 宛 て て 、そ の 会 議 の様 子 を伝
表 を 直 接 手 渡 し た 。 そ の す ぐ後 に 『ドイ ツ 一 般
え て い る⑩。
新 聞 』(,Deutsche Allgemeine Zeitung")の
「会 議 は 終 わ り ま した。 私 はた だ一 人 、 ホ テ
ル に帰 って 来 ま した。 … … 最 初 に 立 ち上 が った
者 と も イ ン タ ヴ ュ ー した 。 しか し 、 そ の 辞 表 は
の は テ ィル マ ン(Fritz Tillmann)で
な か っ た 。 そ こ で 彼 は 新 聞 付 録 と して み ず か ら
した 。彼
協力
公 開 さ れ ず 、 彼 の 意 図 は 世 論 を喚 起 す る に 至 ら
に は これ ま で に ま っ た く見 た こ とが な い絶 望状
の 所 信 を 表 明 す る の で あ る⑫。
態 に あ る よ う に思 わ れ ま した。 彼 は,事 態 はあ
これ に よ る と、 シ ュプ ラ ンガ ーの 辞職 の 直接
ま りに も ひ どい。 わ れわ れ が何 をなす べ きか は
の動 機 は、
ま った く分 か らない 。 わ れ わ れ に は権 限 も なけ
れ ば 力 もな い"と い った の で す。 全 体 的 に 、パ
ニ ッ ク状 態 、不 安 定 で した。 そ うこ うす る あ い
(1)シ
ンパ学 生 に よる教 授 の 思想 評 定 や ス
パ イ 的 告発 行 為
(2)政
治 教 育 学(Politische Padagogik)
村 田 昇
38
講 座 が 突 如 開 設 され 、 そ の担 当教 授 と し
の 大 多 数 の教 官 が 後 に続 くで あ ろ う とす る彼 の
て ベ ー ム ラ ー(Alfred 予 想 は外 れ た ば か りか 、 シ ンパ の 教 官 ・学 生
の 相 談 も な く任 命 さ れ た こ と
Baemler)が
一言
(1933年4月
神 に よっ
ベ ル リ ン 大 学 で も 、 「ド イ ツ 学 生 団 体 」
は も と よ り、 日和 見 的 ない しは便 乗 主 義 的 な教
(Deutsche Studentenschaft)の
官 や 大学 当局 か ら は、 か え って 反 感 を買 う結 果
名 で 、 「非 ド イ
ツ 的 精 神 に 反 す る12カ 条 」 と い う ポ ス タ ー が 貼
とな った 。 しか も、 フ ラ ン クフ ル トで 開 催 され
ら れ た 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 「私 は そ れ を 見 て 、
た 大 学 連 合 会 議 は、 あ の 「ヴ ェ ル ツ ブ ル ク 宣
と り わ け そ の 第5条"ユ
言 」 はシ ュプ ラ ンガ ーの 個 人 的 見 解 で あ った と、
ダ ヤ 人 はユ ダ ヤ 的 に し
か 考 え る こ とが で き な い 。 彼 が ドイ ツ 語 で 書 い
公 的 な表 明 を行 い 、署 名 を撤 回 した 。 今 や シ ュ
て い る と した ら 、 そ れ は 嘘 を つ い て い る の で あ
プ ラ ンガ ー は孤 立 し、 非 国 民 的 思 想 家 、 祖 国 に
る 。"を 見 て 、 ゾ ッ と し た 。 こ の ポ ス タ ー は 、
敵対 す る者 と見 な され る に至 るの で あ る。
大 学 、 大 学 の 保 証 す べ き科 学 的 精神 の 品位 を汚
す もので あ る よ うに思 われ た 」 とい って い る。
しか も大 学 当 局 は 、 彼 が そ の ポ ス タ ー を 剥 が す
よ う に 指 示 し た に もか か わ ら ず 、 そ れ さ え も な
彼 は6月4日
、 後 にゲ ー テ協 会 会 長 と な った
キ ッベ ンベ ル グ(Anton Kippenberg)に
宛てて、
所 信 を述 べ て い る⑭。
「私 は 危機 に迫 る ドイ ツ大 学 を救 お う と しま
しえ なか った 。 今 や ナ チ ス の独 裁 的 支配 は大 学
した が 、 あ ま りに もナ イー ブす ぎ ま した 。 この
の 内 部 に ま で 達 し 、 学 生 は 研 究 は従 事 す る こ と
試 み は前 面 的 に失 敗 しま した 。 だ れ ひ と り私 と
を や め 、 党 の 命 令 に よ っ て 教 官 を裁 く裁 判 官 な
共 に歩 も う と しな か っ た こ と は、 そ れ も ひ とつ
い し は 告 発 人 と な り下 が っ て い た 。4月25日
の
の 鋭 い抗 議表 明 な ので し ょうが 、 私 は 心 底 で は
朝 刊 に は 、 キ ー ル 大 学 で24名 の 教 官 が 教 唆 煽 動
あ ま り驚 き ませ んで した。 私 に もっ と も近 い 職
'業 仲 間一 つ ま り大 学 連 合 の 幹 事 た ち が 私 に 反
の か どで 罷 免 さ れ 、ハ レ大 学 で も同様 な事 実 の
あ っ た こ とが 報 道 さ れ たの で あ る。
対 し、前 代 見 聞 の声 明 で 私 を裏 切 った こ とが 、
し か も、 講 座 の 責 任 者 で あ る 自分 の 関 知 す る
私 に 死 の 一撃 を与 え ま した 。一
こ とな しに講 座 が 新 設 され 、教 授 の任 命 が な さ
い わ ば一 人 で すべ ての 人 に反 対 して い るの で す 。
れ た こ と は、 ま さ に大 学 に対 す る国 家権 力 の 介
そ の 場 合 の勝 利 も得 られ な い こ とは 明 らか で し
入で あ り、学 問 の 自 由 の侵 害 を意 味 す る もの以
}
に ベ ル リ ン大 学 でSA精
て教 授 して い た教 官 は、22名 で あ っ た とい う)
の 二 つ で あ る。
私の立場は、
ょう。 ・
・
・
…」
外 の 何 もの で も な か っ た 。 彼 は 「終 わ り だ 、 と
内 閣 は彼 に対 して消 耗 戦 術 を と った 。 シ ュ プ
い う意 識 が 電 光 の よ う に 流 れ る 。 こ こ に 型 に は
ラ ン ガー はパ ーペ ンに面 会 を求 め 、 また 、 彼 を
め ら れ た(い
通 じて ヒ トラー と話 し合 う機 会 を得 よ う と した
い か え る と 政 治 化 さ れ た)大
学が
始 ま る 」 と 、 当 時 の メ モ に 記 して い る。
が 、 すべ て黙 殺 さ れ た。 パ ーペ ンか ら面 談 の 日
彼 の 辞 職 は 、 み ず か ら一 人 の 犠 牲 者 と な っ て 、
時 を知 らせ る通知 を受 け取 りなが ら も、 そ れ は
学 内 の 同僚 は も とよ り、全 国 の 大 学教 官 の決 起
官 房 長 官 に よ って妨 害 され た 。 大 臣 は、 シ ュプ
を促 そ う と し た も の で あ っ た 。 「別 離 、 共 通 な
ラ ン ガ ーが 辞 職 を撤 回 しなか っ たな らば 、 年 金
確 信 、私 の決 定 は正 しい。 私 の 決 定 は一
な しに免 職 させ る こ とに決 した とい う声 も聞 こ
二人
の 犠 牲 者 と し て 一一 他 の 同 僚 に 役 立 つ こ とが で
えて 来 た 。 シ ュプ ラ ンガ ーの 初 め の 勢 力 も、 し
き る か ら だ 。 他 の 人 た ち も続 くで あ ろ う と」 と、
だ い に消 耗 して い く。 彼 に きわ め て 好 意 的 で あ
彼 は メ モ に記 して い る。
った 某 教 授 が忠 言 した よ う に、 一 人 の 個 人 の 行
し か し、 そ れ は 空 し か っ た 。 リ ッ ト、 ペ 一
動 は 「ま さ し く自殺 」 に等 しい こ と を知 る と と
夕 ー セ ン(Peter Petersen,1884-1962)、
ル ト(Heinrich Rickert,1863-1936)、
ン(Ernst Bertran)、
リ ッケ
もに、 この 自殺 行 為 の道 を選 ぶ よ りは、 む しろ
ベ ル トラ
多 くの友 人 や 学生 た ち の勧 奨 や 請 願 に応 えて 、
プ ラ ン ク ら の 励 ま しの 手
「大 学 に留 まる こ と に よ っ て 、学 問 と大 学 の 理
紙 は あ っ た と は い え 、 こ れ ら は す べ て 、 「職 に
念 に仕 え る」 こ とに積 極 的 な意 義 を見 出 す こ と
留 ま れ 」 と い う 内 容 で あ っ た ⑬。 ド イ ツ の 大 学
を決 意 す る。
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
彼 は1933年6月
の生涯
39
初 旬 に 、 ル ー ス ト文 部 大 臣 と
ら く 身 を 傾 け て い た が 、 や が て 静 か に 、 そ して
面 接 し 、 ベ ー ム ラ ー 教 授 の 任 命 に 関 して は 他 意
沈 黙 の ま ま 、 ベ ー ト ヴ ェ ン の ピ ア ノ ・ソ ナ タ
が ま っ た く な か っ た し、 学 生 団 体 の 行 動 に 関 し
.ワ ル ト シ ュ タ イ ン"を
て は 今 後 十 分 に 注 意 す る と の 弁 明 を聴 き 、 辞 表
われ を忘 れ て聴 きい っ た。 そ う して この 夜 、権
を 撤 回 し て 、 再 び 講 座 に立 つ 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー
力 所 有 者 の こ と は 、 そ れ 以 上 語 ら れ な か っ た 」。
は こ れ を 後 年 に
Kompromiss)と
「逃 げ の 妥 協 」(ein fauler
称 して い る 。 こ れ は ま た 、 「逃
げ の 平 穏 」(ein fauler Friede)で
もあ っ た ⑮。
と はい え 、 以前 に は大 講 堂 で 満 席 で あ った彼
の 講 義 に は 受 講 生 も少 な く な り、1934年
演 奏 した 。 学 生 た ち は
シ ュ プ ラ ン ガ ー が 、12,月21日
に、 ブ リ ッ ト
ナ ー に 宛 て た書 簡 に は、 当 時 の彼 の心 境 が端 的
に 語 ら れ て い る ⑰。
「毎 日の よ う に 、 苦 し い 自 己 吟 味 を 行 っ て い
の夏 学
ま す 。 しか し 、 私 は ま だ 、 わ れ わ れ が ま っ た く
期 に は、彼 の演 習 に妨 害 行 為 が 生 ず るな ど、学
誤 っ た と い う結 論 に は 達 して い ま せ ん 。 わ れ わ
生 との あ い だ に大 小 さ ま ざ まな 衝 突 が あ っ た よ
れ が 正 義 を保 持 し て い る 場 は 、 ど こ か 宗 教 的 な
う で あ る 。 彼 は 「教 育 学 的 に 、 ま た 世 界 観 的 に
もの の な か に あ り ま す 。 ス ロ ー ガ ン や イ ズ ム に
強 調 され た講 義 」 を避 け、 歴 史 的 領域 の研 究 に
よ っ て 、 わ れ わ れ を 殺 す こ と は で き ま す 。 しか
帰 っ て い く。 当 時 の シ ュ プ ラ ン ガ ー の 研 究 の 公
し、極 端 な 国粋 主 義 は、 い つ の 日か限 界 に達 す
刊 は 、 お そ ら く認 め ら れ な か っ た で あ ろ う 。 し
る に違 い あ りませ ん 。 … …」
か し、 科 学 ア カ デ ミー の 著 作 と し て 発 表 す る道
が 残 さ れ て い た 。 彼 は1935年
あ い だ に 、8編
か ら1944年
まで の
の学 術 論 文 を そ こ に発 表 して い
る。
1934年 に は 、 チ ュ ー リ ッ ヒ大 学 か ら の 招 聘 が
あ り、 シ ュ プ ラ ンガ ー もそれ を真 剣 に考 え るが 、
し か し、 ス イ ス 人 が 政 治 的 葛 藤 を 避 け た い 気 持
の 強 い こ とか ら、 そ の話 は立 ち消 え とな って し
こ の 頃 の シ ュ プ ラ ン ガ ー に つ い て 、 シ ュ トゥ
ま っ た ⑱。
ッ ト ガ ル ト上 級 参 事 官 工 一 ル リ ヒ(Waldmar
Oelrich)は
、 次 の よ うな エ ピ ソ ー ドを語 って
2.ス
ザ ン ネ との 結 婚
い る ⑯。
「1933年4月
末一
工 一ル リ ヒはそ の 頃 シ ュ
プ ラ ンガ ー の講 義 を受 け て い たが 一
、 シ ュプ
し か し、 こ の よ う な シ ュ プ ラ ン ガ ー の 苦 難 を
心 中 か ら支 え た 一 人 の 女 性 が い た 。 こ の 女 性 が
ラ ン ガー は、 突 如 大 学 に辞 表 を提 出 した 。 。
発
ス ザ ン ネ ・コ ン ラ ー ト(Susanne 端 に 抵 抗 せ よ"(Principiis obsta)と
2.19-1963.4.5.)で
い う意 味
Konrad
,1890.
あ る 。 彼 女 は 東 プ ロ イ セ ン`
で 、 そ の 時 緊 急 に必 要 とす る こ と を 、 大 学 の 同
の 素 封 家 の 令 嬢 と して 生 ま れ 、1915年
僚 た ち に勇 気 を も って示 した こ と に よ って、 同
チ ッヒ大 学 で シ ュ プ ラ ンガ ーの教 え を受 け、 後 、
僚 た ち の感 情 を害 し、 当局 か ら も迫害 され た こ
ベ ル リ ンで教 職 に就 い た 。 シ ュプ ラ ンガ ー とは
と が 、 そ の 理 由 で あ っ た ら しい 。 そ の 後 、 学 生
学 生 時 代 か ら文 通 を も 交 わ し て い る 。 彼 は ケ ー
た ち の 激 し い 請 願 運 動 の た め に、 シ ュ プ ラ ン
テ ・ヘ ー ト リ ヒ に 宛 て た 書 簡 で 次 の よ う に述 べ
ガ ーの 復 職 は実 現 さ れた が 、彼 は もはや 大 学 の
て い る(1933年5月10日
講 壇 に は立 たず 、 自宅 で 演 習 の み を行 った 。演
習(テ
キ ス トは プ ラ ト ン のrフ
に ライ プ
付)⑲ 。
「こ の 困 窮 と孤 独 の 毎 日 に 、 私 に 支 え を与 え
ァ イ ド ロ ス 』)
て くれ る唯 一 の人 が 、 スザ ンネ な の です 。 彼 女
が 終 わ っ て も、 学 生 は去 りや らず 、 こ の 敬 愛 す
の 明 晰 な 判 断 、私 の決 断 に対 す る確 固た る肯 定
る教 授 を囲 み 、 深夜 まで談 を交 えた 。 こ の、 心
が 私 を保 持 さ せ て くれ ます 。 彼 女 は 今 、 学 校 が
の つ な が り合 っ た 、 心 お き な い 仲 間 た ち の 話 題
始 ま っ た ば か りで す の に 、 毎 日、 私 を 訪 ね て く
が 、 す で に 教 授 を苦 境 に 陥 れ 、 さ ら に 全 ヨ ー ロ
れ ま す 。 そ う して 冷 静 さ を 保 た せ て くれ ま す 。
ッパ を 破 滅 に 導 きつ つ あ っ た 、 不 敵 な 権 力 所 有
私 は こ の 結 び つ き と誠 実 さ に 対 して 、 全 生 涯 、
者 に対 す る辛 辣 な批 判 や 憤 怒 の 叫 び と な って い
彼 女 に 感 謝 し な け れ ば な ら な い で し ょ う」 と 。
った こ とは 、 当然 で あ る。 あ る夜 、 議 論 が激 し、
大 騒 ぎ とな っ た。 シ ュプ ラ ンガ ー はそ れ に しば
そ う して 二 人 は 、1934年9月24日
に結 婚 す る。
エ ド ゥア ル ト、52歳 、 ス ザ ン ネ44歳 。 彼 は こ の
村 田 昇
40
晩 婚 に対 して 、 後 年 、 「私 の生 涯 を通 しで行 っ
の1936年7月2日
て きた こ との な か で もっ とも賢 明 な こ と を行 っ
り、 「私 た ちが 土 台 と して い る世 界 が ど う して
に、 ブ リ ッ トナ ー に手 紙 を送
た」⑳と い っ て い る。 ま さ に 「シ ュ プ ラ ンガ ー
も外 に見 出 され えな い の は 、 まっ た く嘆 か わ し
に ふ さ わ し き妻 スザ ンネ」 で あ った とい え よ う
い こ とで す 。 しか し、私 た ち の心 の なか で は、
が 、彼 女 の内 助 の功 の う ち最 高 の もの が 、後 に
ハ ン プル ター
述 べ られ るで あ ろ う。
か ち合 わ ない よ うに 、共 通 の根 が 、 しっか りと
東 京 間 の距 離 さ え も私 た ち が 分
根 づ いて い ます 。 … … ノー ル、 フ ィ ッシ ャー 、
3.雑
誌r教 育 』 の 難 行
リ ッ トに 続 い て 、私 まで もが お し黙 って し ま う
とい う印 象 を人 び とに与 え ない た め に も、次 の
こ の よ う な時 代 の流 れの なか で 、 シ ュプ ラ ン
年 の 雑 誌 『教 育 」 は続 け られ な けれ ばな らな い
ガ ー が 中心 とな っ て 刊 行 さ れ 続 け て 来 た 雑 誌
で し ょう」⑳ と述 べ て い る の で あ る爪
『
教 育 」 も、 独 裁 者 の 力 が い よ い よ 強 ま る に つ
学 問 の 自由 を擁 護 す る ため に、 意 外 と も思 え る
れ 、 刊 行 が 困 難 に な っ て くる こ と は 当 然 で あ ろ
編 集顧 問 まで 置 い て 『教 育 』 を刊 行 し続 け よ う
う 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、1934年4月9日
とす る執 念が 見 られ る ので あ る。
付の主
こ こ に、
筆 ブ リ ッ トナ ー に 宛 て た 書 簡 の 中 で 、 雑 誌 の 内
しか し、つ い に 、1942年 、 同 法 は廃 刊 に 追 い
容 を 「興 味 が あ り、 か つ 直 接 に は 危 険 の な い 領
込 まれ る 。 もち ろ ん、 紙 の 途 切 れ た こ と もあ る
域 」⑳ に し よ う と提 案 し て い る し、 ま た 、 同 年
の だ ろ う。
8月9日
付 け の 書 簡 で も、 「わ れ わ れ の6冊
の
雑 誌 をい まだ 価 値 あ ら しめ る た め に、 あ らゆ る
4.交
換 教 授 と して 来 日
努 力 を しな け れ ば な り ませ ん 。 再 び 自 由 な 学 問
的 研 究 が 不 可 能 に な れ ば な る ほ ど、 短 剣 が 編 集
1936年
者 を 打 ち の め し た こ と は 、 よ く ご 存 じで し ょ う。
・
…・
・
私 は現 在
、praesensの
証 を一 つ 一 つ 集 め
た シ ュプ ラ ン ガー は、 突 然 、 ワ イ マ ー ル共 和 国
の春 に、 悶 々 と した 毎 日を過 ご して い
て 、 ひ と ま とめ に して み ま した。 か な りは っ き
在 し て い た ゾ ル フ(Wilhelm 日本 大 使 と して 、1920年
か ら28年 まで 東 京 に 滞
Solf)か
ら、 交 換
り見 え て い ま す 力乳 暗 黒 で す 」 ⑫ と 述 べ て い る 。
教 授 と して 訪 日 し な い か と い う誘 い を 受 け た 。
ナ チ ス か ら の 批 判 の 矛 先 を か わ し、 な ん と か カ
彼 か ら の 日 本 派 遣 の 申 し出 は 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー
モ フ ラ ー ジ ュ し て 、 こ の 雑 誌 を 守 り続 け よ う と
に 好 感 を も っ て い た 人 た ち か ら勧 め ら れ た も の
した の で あ る 。
で あ っ た が 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー に と っ て は 、 「ま'
や が て 、1937年
に は共 同 編 集 者 で あ った り ッ
つ た く予 期 し な い 出 来 事 」 で あ っ た 。 こ の こ と
トが ウ ィ ー ン で 講 演 停 止 を 受 け 、 退 官 を願 い 出
を 文 部 大 臣 ル ス トが 認 め た の は 、 シ ュ プ ラ ン
る 。 ノ ー ル と フ ィ ッ シ ャ ー も退 官 に 追 い 込 ま れ
ガ ー 自 身 、 「し ば ら くの あ い だ 、 私 を 厄 介 払 い
る(フ
す る た め 」 で あ る と考 え ざ る を え な か っ た 。 ち
ィ ッ シ ャ ー は 同 年 に 死 去)。 編 集 陣 の 総
くず れ で あ る 。
1938年
な み に 、1936年11月23日
の 第13巻
か らは、 シ ュプ ラ ンガ ーが 単
独 に 編 集 し 、 ヴ ェ ン ケ(Hans 1971)が
Wenke,1903-
主 筆 と して 協 力 し て 、 廃 刊 を免 れ た も
の の 、1940年
授(Karl の 第15巻 か ら は 、 ア ル ン ホ ル ト教
Arnhold)、
ゼ ン(Friedrich 授(Oswald 砲 兵 隊 将 軍 コ ー ヘ ンハ ウ
von Cochenhausen)、
Kroh,1887一)、
ク ロー 教
内閣参 事官 レ ッ
に 日独 防 共 協 定 が 締 結
され た 。
彼 は 、 同 じ くア カ デ ミ ー 会 員 で あ っ た 友 人 の
ヘ ー フ テ ン 将 軍 に 、 こ の 時 期 に ドイ ツ に留 ま る
べ き 否 か を 判 断 す る た め に 、 「近 い 将 来 」 に 、
政 治 体 制 の 変化 が期 待 で き るか ど うか 」 を問 い
合 わせ 、彼 の答 えが
「断 固 と した 否 定 」 で あ っ
た た め に 、 「日 本 文 化 に つ い て ま っ た 準 備 の な
フ ラ ー 博 士(Eugen Lδffler)、 オ ッ トー(Ennst
い 」 こ と に た め ら い な が ら も、 こ の 申 し 出 を受
Otto,1877-1959)が
顧 問 と な り、 シ ュ プ ラ ン
諾 した 。
ガ ー とヴ ェ ンケ ーの 二 人 で編 集 に 当 た って い る。
彼 は 、 ケ ー テ ・八 一 トリ ヒ に 宛 て た1936年4
シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 日本 に 向 け て 出 発 す る 直 前
月20日 付 け の 書 簡 に 、 次 の よ う に 述 べ て い る ⑳。
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
の生 涯
41
「大 き な 問 い 合 わせ に対 して 、Jaで 答 え ま
の奮 闘振 りに は全 く感 激 して しま った と、 とて
した 。(お よそ 一 年 半 にわ た り、 日本 で 講 義 及
も御 機 嫌 が 良 い。 次 いで ヒ ッ トラ ー総 統 が 末 広
び 講 演 を して ほ しい と の依 頼 に対 して で す)。
博 士 との 会 見 の み ぎ りに村 社 選 手 の 例 を引 い て 、
もち ろ ん大 きな時 間 の 問 題 もあ ります。 もっ と
日本 精神 を激 賞 したの を傍 で 聞 い て 、 益 々そ の
も重 要 な こ とが 書 けい な の は 、 非常 に心 苦 しい
感 を深 め た と語 り、 「次 の オ リ ン ピ ック に は 少
で す 。 しか し、 お 互 い に 黙 っ てd'accordで
きま し ょう。 … … 今 、 複 雑 な心 の 人 た ち の空 間
な くと も千 人 の応 援 団 が 東 京 に く り込 ん で 来 る。
… … 』 とナ チ ス ば りの 大 使 の言 葉 だ った 。 … …
は あ る ので し ょ うか? しか し この 世 の少 しで
第一 回 の 派遣 教 授 に任 命 さ れた シ ュ プ ラ ンゲ ル
い
も高 貴 な こ とが 失 われ な い た め に も、複 雑 な人
博 士 は将 軍 とい っ た態 度 の 人 。 有 名 な哲 学者 だ
間 た ち も我 慢 しな くて も よい の で は な い で し ょ
とい う。 ベ ル リ ン生 ま れ、 ベ ル リン大 学 で教 鞭
う か? ドイ ツ 的 世 界 で の 他 の 場 所 で も?
一 民 族 と い っ て もま った く家 畜群 同様 です 。
を取 る こ と25年 。 日本 で も哲 学 方 面 の 講 演 に 当
全 体 に 、で きな い、 欲 しない 、 して は な らな い
定 され る とい う。」
とは。 で す か ら一
また 、 同 月14日 同紙 面 に は、 三段 抜 きの写 真
東洋、それは一瞬的な自由
た るが 、 総 ての こ とは 、 日独 文 化協 会 の 手 で 決
意 志 の 亡 命 な の で す 。 何 と い う時 に で し ょう
入 りで 、 次 の よ うに あ る。
か?… …」
「お 土 産 を封 切 り一
祖 国 の危 機 の な かで の 亡 命 の よ うな行 為 。 し
らゲ ルマ ニ ア文 化 の粋 一
か も、政 府 の派 遣 した交 換 教 授 と して の役 割 。
の使 命 を託 され て来 朝 したエ ド ゥア ル ト ・シ ュ
そ れ は ま さ に 、 リア王 の よ うな 気持 で あ っ た ろ
プ ラ ン ガー博 士 の 日本 へ の 賜 物 が13日 正 午 麹 町
う。 しか し彼 は後 に 、 「交 換 教 授 と して 日本 に
区永 田町 の ドイ ツ大 使 館 に とどい た 。 こ れ は ド
シ ュ プ ラ ン ガー の箱 か
ヒ ッ トラー総 統 か ら
滞 在 した年 月 は 、 ドイ ツか らの 逃 避 で も、追 放
イ ツ政 府 が特 に 日本 国民 に贈 る 『ゲ ル マ ニ ア文
で もな か っ た 。私 に とって は、 途 方 もな く拡 大
化 」 の 精 粋 ・16世紀 前 半 の 貴 重 な木 版書 千 六 百
され た 比 較 の 可 能 性 を もっ た 幸 福 を もた ら し
枚 の 精 巧 な複 製 コ レク シ ョ ンだ 。 中 世 ドイ ツ の
た 」⑳とい っ て い る 。
歴 史 、風 景 、風 俗 ・宗 教 ・習 慣 等 を描 い た もの
そ れ か ら数 カ 月後 、 シ ュ プ ラ ン ガー が 、新 婚
で あ る。 近 く公 開展 覧 した上 、 外務 ・文 部 当局
の スザ ンネ夫 人 と と もに、 イ タ リ アの ジ ェ ノー
と協 議 し、 日独 文 化 協 会 の 文 庫 又 は適 当 な大 学
ヴ ァか ら乗 船 し、 ス ウエ ズ運 河 、 紅 海 、 イ ン ド
図書 館 に修収 され る筈 であ る」。
洋 を、10日 間 、 一度 の上 陸 もな く通 過 し、 コ ロ
シ ュ プ ラ ンガ ー は上 陸 した途 端 、 ジ ャー ナ リ ・
ンボ 、 シ ンガ ポ ー ル 、マ ニ ラ、 香 港 、上 海 を経
ス トた ち か ら、"Mister Spranger, how do you
て 、横 浜 港 に 上 陸 した の は、 昭 和11(1936)年
think about Japan"と 問 わ れ 、「私 た ち は ま だ 日
11月9日 午 後7時 で あ っ た。
本 の片 隅 さえ 見 て い な いの に、 す で に一 つ の判
翌10日 付 『朝 日新 聞 』 は 、 この シ ュ プ ラ ン
ガ ー の 来 日 を二 段抜 きの写 真 入 りで 次 の よ うに
断 を述 べ な け れ ば な らなか った 」 と面 食 らっ て
い るの で て あ るが 、 同時 に、 東 京 で は公 式 の接
報 じて い る 。
待 が 盛 大 にな され 、 ま た、 人 び とは 「ヒ トラ ー
「一 ナ チ の 豪 華 船入 港 」一 珍 客 シ ュ博 士
一 総 統 推 薦 の 学術 使節 一
ドイ ツの持 つ豪 華
か ら派 遣 され た者 」 と見 な して い た とい って い
急 航 船 グ ナ イセ ナ ウ号 は午 後7時 上 海 よ り横 浜
か な るプ ロパ ガ ン ダを も しなか った 」 こ とか ら、
へ 入 港 した 。 同 船 には賜 暇 帰 国 中だ った ドイ ツ
雰 囲 気 が 変 わ り、 多 くの新 しい 友 人 を得 た と い
る。 しか し、彼 が 「純 客 観 的 に講義 を行 い、 い
大 使 ヘ ルベ ル ・フ ォ ン ・デ ィル クセ ン大 使美 妻 、
うの で あ る⑳。
ヒ ッ トラー 総 統 自 ら選 出 した とい わ れ る第 一 回
この こ と を証 明 す る一 つ の例 が 、昭 和12年1
独 学 術 交 換 派 遣 ベ ル リ ン大 学 哲 学 教 授 エ ドゥア
月5日 付 け 「大 阪 毎 日新 聞 』 に お け る戸 坂 潤 の
ル ド ・シ ュ プ ラ ンゲ ル夫 妻 。 … … 等 々 が に ぎに
論 稿 「シ ュプ ラ ンガ ー博 士 と対 談一
フマ ニ ス
ぎ し く乗 船 して い た 。 … … デ ィクセ ン大 使 は オ
トの風 貌 、.生"に
リ ン ピ ック 当 時 親 し くベ ル リ ンに在 り、村 社 君
戸 坂 は唯物 論 者 と して シ ュ プ ラ ンガ ー と は ま つ
よ る文 化 哲 学 」 で あ ろ う。
村 田 昇
42
た く違 った 思想 的 立場 に あ り、 ま た、 彼 を 「ヒ
解 し う る 言 葉 を 語 っ て くれ た 」 と い う の で あ る 。
ッ トラー の 文化 使 節 と して 、 日独 防 共 協 定 の 潮
と は い え 、 彼 は 日本 に 関 す る 多 く の 論 稿 を ドイ
に樟 さす ナ チ の バ リバ リの教 授 」 と見 な して い
ツ の 雑 誌 や 新 聞 に 掲 載 して い る 。 す な わ ち 、
た の で あ るが 、彼 との 出会 い に よ って 、 「淡 青
の 瞳 を も った 温 容 そ の もの と静 か な低 温 とが 、
Erziehungswesen. 物 静 か に端 坐 して い る教 授 の全 貌 と、 よ く調 和
1936)、
「日 本
の
教
育
題 」(。Kulturprobleme 観 を捨 て て 、 彼 の なか に、 高 貴 な 人格 とヒ ュ ー
and Deutschland."In マ ニズ ムの 精 神 を見 出だ し、 自由 な学 究 者 、真
1941.)、
の哲 学 者 と して 、温 かい 共 感 をお ぼ え た の で あ
:Hannovesche る。
の 日 本 」(Japan シ ュ プ ラ ンガ ー は 、滞 日期 間中 に、全 国 の大
u.Fortschr. 学 や研 究 所 等 で75の 講 義 や講 演 を行 った 。京 城
("Japan を行 っ て い る。 そ の 講 義 ・講 演 の 一 部 は、r文
化 哲 学 の 諸 問 題 』(1937)及
び 『
現 代 文 化 と国
japanische
Erziehung.戸Jg.11.
im gegenwartigen :Die Japan
Erziehung. J魯 16.
「永 劫 な る 日 本 」(。Das ewige Japan."In
Kurier. Jg.90.1938.)、
zwischen 「時 代 の 間
den Zeit."ln:Forsch.
Jg.14.1938.)、
「日 本 の
heilige Stadte." In :Berliner Zeitung."Jg.84.19.39.)、
聖 地 」
和
魂 」
Das Japanische Geist and
seine Grundlagen. Die gestaltende Macht heldischen 「大
Borsen・
("Yamatodamashi. まで 足 を運 び 、京 城 にお け る 日
独 文化 協 会 開所 式 に 出席 し、 京 城 大 学 で も講演
度 」(.Das 「現 代 の 日 本 と ド イ ツ に お け る 文 化 問
して い るの に気 づ い た」 と し、 みず か らの先 入
(現 ソ ウ ル)に
制
In:Die Geistes. Nationale des
Selbstbesinnung
民 教 育 」(1938)と
して 、 共 に小 塚 新 一 郎 の 訳
で 岩 波 書店 か ら刊 行 され た。 な お 、私 の 手 許 に
and Abendland."In:Deutscher cer Dienst. Nr.16.1946,)、
「日 本 の 一 古 典 的 教
は、 『日 本 青 年 へ 』(,Gruss an die japanische
育 学 者 」(。Ein Japanische Klassiker Jugend."白 根 孝 之 訳 、 大 学 書 林 、 昭 和12年)や
gogik. Kaibara 「日本 文 化 の 印象 」(舟 木 重信 訳 、早 稲 田大 学 、
chen Geistesgeschichte 昭 和12年)、 「一 欧 羅 巴 人 の 宗教 哲 学 上 の疑 問 」
chinesischen (雪 山 後 矢 口 訳 、密 教 研 究 会 、 昭 和13年)、 「現
Jg.18.1942.)、
代 日本 及 び独 逸 に於 け る文 化 問 題 」(小 塚 新 一
("Begegnung 郎 訳 、 国 際 文 化 振 興 会 、 昭 和13年)な
K61nische ど の小 冊
子 が あ る。
Wissenschafli-
der Pada・
Ekiken. Ein Beitrag zur japanis・
des 17. Jahrhundert Sung・Philosophie."In:Die 「日 本 の 哲 学 者
mit japanischen and
Erziehung.
と の 出 逢 い 」
Philosophen."In:
Zeitung. Jg.1943. Nr.246.)。
シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 昭 和12年10月16日
、神 戸
彼 は、 奈 良 、 鎌 倉 、 京 都 等 を 訪 れ 、 古 い 神
港 か ら 、 ド イ ツ 客 船 ポ ツ ダ ム に 乗 り、 帰 国 の 途
社 ・仏 閣 、文 化 ・芸 術 に接 し、 そ の夢 幻 的 な美
につ い た 。
に 感 歎 して い る。 「私 た ち は ヨー ロ ッパ 中 に支
配 して い る ギ リシ ア 的芸 術 様 式 の 遺 産 を非 常 に
5.逮
捕 と拘 置
尊敬 して い る が 、東 洋 の芸 術 は よ り大 きな深 さ
を も って お り、 そ れ は生 の形 而 上 学 的 根拠 と よ
シ ュ プ ラ ン ガ ーの 帰 国 を待 って い たか の よ う
り密 接 に結 び つ い て い る」 とい うの で あ る⑳。
に 、1939年3月12日
には 、 ドイ ツ軍 は オ ー ス ト
そ れ らは 、彼 が 「東京 で はつ ね に国 民 社 会 主義
リア に進 駐 し、5月
には ヒ トラ ー は対 チ ェ コ ス
者 か ら尾 行 され て い た 時 」 だ け に、 い っそ う彼
ロ ヴ ァキ ア侵 略 作 戦 を指 示す る。 さ らにユ ダ ヤ
の 心 を惹 きつ け た の で あ ろ う。 また 彼 は、 「日
人 に対 す る組 織 的 な迫 害 が行 わ れ て い く。39年
本 民 族 は教 育 者 に模 範 的 な教 育 の像 を示 して い
3月15日 に は プ ラハ を 占領 、9月 に は ポ ー ラ ン
る。 そ の 秘 密 は儒 教 と昔 の 武士 道 に あ る。 しか
ドへ の進 撃 を 開始 し、 同 月3日 に は英 ・仏 両 国
し、 哲 学 者 に とって は、 多様 に分 岐 した仏 教 が
が ドイ ツ に対 して宣 戦 を布 告 した 。 第 二次 世界
もっ と も興 味 の あ る現 象 で あ った」 と もい って
い る 。 しか し、彼 に あ っ て は、 「一 年 は 、 そ の
大 戦 の勃 発 で あ る。
秘 密 の背 後 に迫 る ため に は、 あ ま りに も短 か す
け る。 病 気 の た め に一 年 間の 休 暇 が 求 め られ て
い た た め に もか か わ らず 、57歳 の 身 で 招 集 を受
ぎた。 その す ば ら しい芸 術 だ けが 、 だ れ もが 理
そ の 初 日に 、 シ ュ プ ラ ン ガー は 軍事 招 集 を受
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
の生 涯
43
け た こ と の 驚 き は 、 い か ば か りで あ っ た ろ う か 。
タ イ ン ・ハ ル デ ン ベ ル ク 学 校 改 革 で 有 名 な ハ ル
し か し、 兵 隊 と し て で は な く 、 軍 事 心 理 学 者
デ ン ベ ル ク 伯 爵(Karl (Heerespsychologe)と
して の 勤 務 と な っ た 。
彼 は 他 の 心 理 学 者 と と も に 、 将 校 候 補 者 と して
空 軍 に移 され た 。 そ こ に は りっ ぱ に整 え られ た
方 法 が あ っ た し、採 用 予 定 者 もい た。彼 に とっ
August denberg.1750-1822)の
Furst von Har-
末 裔 で あ る。
あ る 日 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー が こ こ で 過 ご した と
き、 シ ュ タ ウ フ ェ
Schenck ン ベ ル ク 伯 爵(Berthold・
Graf von Stauffenberg.1905-44)が
訪
て は 興 味 あ る 仕 事 と も思 わ れ た の で あ る が 、 数
問 し、彼 はそ の 人 が どの よ うな 人物 で あ る か を
カ 月後 に 除 隊 とな り、大 学 に復 帰 す る 。彼 は 、
知 らな い ま ま に、 祖 国 の 困 窮 につ い て徹 底 的 に
こ の 軍 隊 勤 務 中 に は 、 軍 服 を ま っ た く着 用 し な
語 り合 う こ と に な っ た 。 こ の シ ュ タ ウ フ ェ ンベ
か っ た と い う。 す で に 大 学 に は ご くわ ず か の 女
ル ク 伯 爵 は 、 後 で 述 べ る7月20日
子 学 生 が い る だ け で あ り、 ロ シ ア 出 兵 が 悲 劇 的
プ ロ イセ ンの ヒ トラー総 統 大 本 営 の 作 戦 会 議 室
な 結 果 と な る こ と に も気 づ き 始 め ら れ て い た 。
で 爆 弾 を しか け た 陸 軍 大 佐 で あ っ た が 、 当 時 す
1940年11月
に は 、 彼 が 堅 信 礼 を受 け た ベ ル リ
ン の ノ イ エ ・キ ル へ で 、200人
の聴 衆 を 前 に し
て 、 「現 世 的 教 慶 」(,Weltfrδmmigkeit")と
題す
る 講 演 を 行 い 、 大 き な 感 動 を与 え て い る 。 祖 国
事 件 の 際 、 東
で に、 ヒ トラー を暗殺 す る こ と に よ って
ドイ ツ
民 族 の冒 漬 と子孫 の喪 失 に終 焉 を与 え る ため に、
仲 間 と 共 に計 画 を 練 っ て い た の で あ る⑱。
さ て 、 ベ ル リ ン に は 、1863年
に創 ら れ た 研 究
の 危 機 に 面 して 、 人 び と に 良 心 の 絶 対 的 優 位 を
者 や 高 級 官 僚 た ち の 小 グ ル ー プ が あ り、 そ れ は
目 覚 ま し、 神 の 前 で の 決 断 の 重 要 性 を 訴 え る た
「水 曜 会 」(Mittwochsgesellschaft)と
め に 、 彼 は さ ら に42年 に は 「信 仰 の 心 理 学 の た
い
め に 」(.Zur Psychologie des Glauben.")を
ベ
た ⑳。1940年
(Ludwig Diels)、
文 学 者
ル リ ン の 精 神 医 の 集 会 で 講 演 し 、43年 に は 、 水
Fechter,1880-1958)、
曜 会 の 席 上 で 「近 代 の 世 界 に お け る キ リ ス ト教
(Eugen の 運 命 」(.Die Schicksale des Christentums in
セ ン(Jens modernen Welt")を
Lietzmann,1875-1942)、
文 は 、1947年
に
Magie der Seele")と
発 表 して い る。 こ の 三 論
『た ま し い の 魔 術 』(.Die
して ま とめ られ 、 刊 行 さ
フ ェ
Fischer,1874-1967)、
(Hermann Jessen)、
ィー ル
ス
ヒ タ ー(Paul
経 済 学 者 イ ェー
歴
史
Oncken,1869-1946)、
ク(Albrecht デ
神 学 者 リ ー ツ マ ン(Hans
家
に あ っ て 、最 後 の支 え を信 仰 に見 出 し、 それ を
美 術 史 家
深 化 して い っ た も の と して 注 目 さ れ る 。 そ う し
1947)、
て 、 こ の 態 度 は 晩 年 に な る に つ れ 、 ます ま す 深
医 サ
ま っ て い く。
1875-1951)、
オ
ン
ケ
ン
地 理 学 者 ペ ン
Penck,1858-1945.幹
家 ペ ー テ ル セ ン(Julius oux)、
は 、
優 生 学 者 フ ィ ッ シ ャ ー
れ 、非 常 な反 響 を呼ぶ ので あ るが 、 苦難 な時 代
な お 、 こ の 時 期 に 、 『シ ラ ー の 精 神 様 式 』
称 さ れ て
頃 の 会 員
事)、
文 学 史
Petersen,1878-1941)、
ピ ン ダ ー(Wilhelm Pinder,1878-
蔵 相 ポ ピ ッ ツ(Johannes Popitz)、
ウ エ ル ブ ル フ(Ferdinand 外 科
Sauerbruch,
シ ュ ト ロ ウ ク ス(Johannes ヴ ィ ル ケ ン(Ulrich Str・
Wilcken)、
陸 軍 大,
("Schmers Geistesart, gespiegelt in seiner philo-
将 ペ ッ ク(Ludwig sophischer Schriften."1941.)、 rサ ン ス ー シ ー の
シ ュ プ ラ ン ガ ー の15名
哲 人 』(,Der ュ ヴ ァー ベ ン人 の 友 人 で あ る哲 学 者 マ イ アー
Philosoph Sanssouci."1942.)、.
『ゲ ー テ の 世 界 観 」(.Goethes Weltanschaung."
(Heinrich 1943.)が
1934年
発 表 さ れ て い る の も、 彼 が ひ そ か に
Beck,1880-1949)、
そ して、
で あ る 。 彼 は 死 去 した シ
Maier,1867-1933)の
後 を受 け て 、
以 来 、 会 員 に選 ば れて い た 。 会員 が 死去
真 の ドイ ツ 精 神 の 蘇 り を 求 め て い た こ と の 現 れ
す る と、 そ の 補 充 が な さ れ 、 後 に は 、 外 交 官
で もあ ろ う。
ハ ー セ ル(Ulrich 1943年 に 至 り、 ベ ル リ ン の 空 襲 が 集 中 的 に 行
論 物 理 学 者 ハ イ ゼ ン ベ ル グ(Werner von Hassell
わ れ た 。 ゲ ッベ ル ス は ベ ル リ ンか ら の 避 難 を 勧
berg,1901-76)、
告 し た 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー ら は 、 ハ ル デ ン伯 爵 の
(Hans-Heinrich 所 有 し た マ ル ク ブ ラ ン デ ン城 に 疎 開 す る 可 能 性
デ ヴ ァ ル ト(Wolfgang を 求 め た 。 ハ ル デ ンベ ル ク 伯 爵 と は 、 あ の シ ュ
た 。 か つ て
,1881-1947)、
理
Heisen.
中 央 ア ジ ア 史 家 シ ェー ダー
Schaeder,1896-1957)、
は 国 防 相
Schadewaldt)が
プ
シ ャー
加 わ っ
レ ー ナ ー(Wilhelm
村 田 昇
44
Groener,1867-1939)、
考 古 学 者 ヴ ィー ガ ン ト
(Theodor Wiegand,1884-1936)ら
も会 員 で あ
て い た。 ラ ーゼ ナ ウ将 軍 、 ハ ル ナ ッ ク とプ ラ ン
クの 令息 、 シ ュ テ ー ル ッ ァー大 統 領 、教 育学 者
の ラ イ ヒ ウ ァ イ ン(Adolf Reichwein,1898一)
っ た。
本 来 、水 曜 会 は純 社 交 的 、 非政 治 的 な集 ま り
ら も、 同棟 の独 房 にい た。 シ ュ プ ラ ンガ ーは 、
で あ っ た 。 「学 問 的 懇 話 会 」(Gesellschaft fur
「私 が 経 験 し た 処 置 は 、 始 め は 粗 暴 的 で あ っ た
wissennschaftlichen も称 さ れ
が 、 しが い に 緩 和 さ れ た 。 外 的 な 苦 悩 は 、 特 に
て い た 。 毎 月14日 に 、 各 会 員 の 家 庭 を順 番 に 回
Unterhaltung)と
夜 ご と の 空 襲 の 下 で は 軽 か っ た 。 しか し、 ま っ
り、 そ こ で そ の 家 の 主 人 が 講 演 、 簡 単 な 食 事 が
た く獣 的 な 雰 囲 気 に 耐 え る こ と は 、 口 で は い え
出 さ れ 、 そ の 家 の 夫 人 を も交 え て 談 笑 した の で
な か っ た 」 と い う の で あ る ⑳。
あ り、 公 的 な こ と は 一 切 話 さ れ な か っ た 。 した
不 安 の な か で い く週 間 待 た さ れ た 後 、 初 め て 、
が っ て 、1939年
頃 には 、会 員 は種 々 な政 治 的 傾
プ リ ン ツ ・ア ル プ レ ヒ ト ・シ ュ トラ ッ セ で 二 回
向 を 抱 い て お り、 ヒ ト ラ ー の 方 針 を 正 しい と 信
の訊 問 の第 「 回 が な され た 。 そ れ は 、結 局 、ペ
じ て い た 者 も い た と い う 。1942年2月15日
に
ッ ク将 軍 と の 関 係 に 関 して だ っ た 。 そ れ か ら10
ケ ー テ ・八 一 トリ ヒ に 宛 て た 書 簡 で 、 シ ュ プ ラ
週 間 、 か れ は 政 治 犯 と して 外 部 の 空 気 に 一 切 触
ンガ ー は、 水 曜 日に彼 の 家 で 水曜 会 が もた れ、
れ る こ とな く、拘 置 の 日々 を過 ごす の で あ る 。
フ ェ ヒナ ー 、 イ ェ ーセ ン、 ポ ピ ッツ 、 フ ィ ッシ
そ う し て 、 こ の 期 間 に 、 コ ミ ュ ニ ス トか ら も励
ャ ー 、 ピ ン ダ ー 、 八 一 セ ル 候 、 シ ュ トロ ウ ク ス 、
ま しの 言 葉 を贈 ら れ 、 慰 め ら れ 、 励 ま さ れ た こ
ヴ ィ ル ケ ン ・サ ウ エ ル ブ ル フ 、 マ イ ネ ッ ケ が 集
と を 、 い つ い つ ま で も忘 れ な い 。 彼 は 「私 は そ
ま り 、 そ こ で 「サ ン ス ー シ ー の 哲 人 」 に つ い て
う 多 くの こ と を学 ん で 来 な か っ た が 、 こ の 十 週
講 演 した こ と を述べ て い る。
間 ほ ど に生 の 深 奥 の な か に眺 め入 っ た こ と はな
し か し 、 戦 争 が 熾 烈 化 し、 敗 戦 の 色 が 濃 く な
い 」⑳ と い っ て い る 。
る につ れ 、 ペ ック将 軍 は軍 事 専 門 家 と して対 話
彼 は 、 「7月20日
の な か で 戦 争 の こ とが語 られ 、そ れ以 上 に、 高
律 的 ・国 家 的 法 廷 の 前 で 、 ま た 、 倫 理 的 法 廷 の
の 事 件 の 意 味 す る の は、 法
度 な 政 治 の 問 題 に 質 問 が な さ れ て い くの を 避 け
前 で 決 断 さ れ た の で は な く、 神 の 直 前 で し か な
る こ とが で き な い 。 や が て 水 曜 会 は 抵 抗 運 動 の
い と い う こ とで あ る 。 水 曜 会 の 面 々 も ま た 、 そ
担 い 手 と な っ て い く。 ドイ ツ の 不 幸 を 終 わ ら せ
の 日に 、 あ る い はそ の 後 に、 み ず か らの生 命 を
る のが 、 将 官 の義 務 で はな い の か とい う問 題 が 、
捧 げ な け れ ば な ら な い こ と を 理 解 して い た 」⑫
し ば し ば ひ そ か に 話 し合 わ れ た の で あ る 。 そ う
と い っ て い る 。 そ う して 、 こ の 収 監 中 に 、 「信
し て 、 ペ ッ ク は 後 に 「毅 然 と し た ドイ ツ 勇 士 の
仰 、 歴 史 過 程 、 意 識 」(。Glaube, Geschich-
尊厳 」 を具 現 化 す る こ とにな る。
tsproaess and BewuBtsein."In つ い に 、 あ の1944年7月20日
の 事 件 が起 こ る 。
Schriften. Bd. D(.)と
:Gesammelte
題 す る論 述 を行 っ た 。 こ
しか し、 シ ュ タ ウ フ ェ ンベ ル ク 大 佐 に よ っ て 試
れ は 、9月8日
み ら れ た ヒ ト ラ ー の 暗 殺 は 失 敗 し、 ペ ッ ク も 自
に書 か れ、 記 述 の 日が示 され て い る。
殺 す る 。 多 くの 水 曜 会 員 も捕 ら え ら れ る 。 サ ウ
エ ル ブ ル フ も逮 捕 さ れ た が 、 や が て 釈 放 と な る 。
か ら11月14日
まで の 間 に 継 続 的
こ の 時 、 ス ザ ン ネ 夫 人 は 、 日本 大 使 館 に シ ュ
プ ラ ン ガ ー の 救 出 を 必 死 に 嘆 願 し続 け た 。 こ れ
や が て シ ュ プ ラ ン ガ ー の 家 に も二 人 の 刑 事 が 現
を ヒ トラ ー に 取 り次 ぎ 、 救 出 に 努 力 し た の は 、
れ 、 ラ イ プ チ ッ ヒ 市 長 ゲ ル デ ラ ー(Carl Fried-
大 島 浩 大 使 で あ っ た と い わ れ て い る 。 彼 は11月
rich Goerdeler,1884-1945)と
手紙 の や りと り
16日 よ う や く釈 放 さ れ た 。 彼 は 、 日 本 大 使 館 に
が な か っ た か を執 拗 に 迫 り、 家 宅 捜 索 す る 。 そ
満 腔 の 感謝 の念 を捧 げ る と とも に、 この ス ザ ン
う して、 ゲ ル デ ラ ー との 関係 は全 然 な か っ た に
ネ 夫 人 を 、 あ の ベ ー トヴ ェ ン の 歌 劇
も か か わ らず 、 そ の ま ま 逮 捕 さ れ 、 モ ア ビ ー ト
オ 」 の 主 人 公 レ オ ノ ー レ に な ぞ ら え た と して も
刑 務 所 に拘 置 され た。
不 思 議 で は な か ろ う⑱。
こ の 刑 務 所 に は 、 高 級 士 官 や 多 くの 貴 族 た ち 、
そ う し て 、 右 派 ・左 派 の 反 戦 著 た ち が 拘 置 さ れ
『フ ィ デ リ
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
の生涯
45
ピア ノ を見 て 、 演 奏 す る よ うに求 め た 。彼 は 長
6.敗
い あ い だ、 ま った く注 意 深 く耳 を傾 け て い た 。
戦
次 の 日に も彼 はや って 来 た 。 そ れ か ら三 日 して 、
大 学 に復 帰 した シ ュ プ ラ ンガ ー は、 講 義 に ソ
い く らか ドイ ツ語 を話 す 、好 感 の もて る若 い将
ク ラ テ ス と プ ラ ト ン を 取 り扱 う 。 彼 は 「善 と正
校 が 、沢 山の 兵 士 を引率 して や っ て来 た。 私 は 、
義 と 真 実 の 政 治 家 に つ い て 取 り扱 う 対 話 の 内 容
チ ャイ コ フ スキ ー 、 ドイ ツ軍 隊行 進 曲 、ベ ー ト
を 、 だ れ に も妨 げ ら れ る こ と な く述 べ る こ と が
ヴ ェ ンの一 楽 章 、 民 謡 、 ワル ツ な ど、 まさ し く
で きた 」 とい って い る。
望 ま れ たす べ て の 曲 をこ ち ゃ まぜ に弾 か な け れ
に、 か ろ う じて 残 っ
ば な らなか った 。古 代 ギ リシ ア の名 歌 手 ア リア
て い た 大 講堂 が空 襲 に よっ て壊 滅 す る。 この 日
ンの よ う に演 奏 した とは 、私 は む ろ ん思 っ て い
を も っ て 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー の フ リ ー ド リ ヒ ・ヴ
な い。 な ん とい って も、私 の家 人 と共 に起 こ っ
し か し 、1945年1月31日
ィ ル ヘ ル ム 大 学 に お け る25年 に 及 ぶ 活 動 は 事 実
て来 るで あ ろ う不 安 に満 た さ れて いた ので 、 私
上 幕 を 閉 じ た 。 た だ ベ ル リ ン科 学 ア カ デ ミー の
の手 は しば しば い う こ と を きか なか っ た。 そ れ
会 合 は、 防空 壕 の な か で行 わ れ た。 壊 滅 の寸 前
は 、私 が 望 んで い る よ う な意 味 で の.家 庭 音 楽"
で あ る が 、 彼 の 「ドイ ツ 国 民 学 校 の 成 立 史 に 寄
で は け っ して な か った 。 しか し、 そ の 家 庭 音 楽
せ て 」(.Zur が 家 を救 った の で あ る。 とい うの は、 その 将 校
Entstehungsgeschichte schen Volksschule.")の
der deut・
は感 謝 して 、 終 わ りに 、戸 口 に貼 るべ き一 枚 の
発 表 も、44年1月6日
に 、 ウ ン タ ー ・デ ン ・リ ン デ ン に あ る 建 物 の 防
空 壕 の な か で 、7人
の会 員 の前 で な され た の で
紙 切 れ を書 い て くれ た か らで あ る。 そ れ に は ロ
シ ア 語 で 、.こ こ に シ ュ プ ラ ンガ ー教 授 が 住 ん
で い る。 ど うか 訪 問 しな いで ほ しい"と い う言
あ る。
ソ ヴ ィ エ ト軍 は 、4月20日
にベ ル リン を完全
に 包 囲 し 、30日 に は ヒ トラ ー は 瓦 礫 と 化 した ベ
葉 が 入 って い た 。 そ れ以 来 、 ロ シ ア人 が 私 た ち
を煩 わす こ とは 、全 然 な か っ たの で あ る」⑭
ル リ ン の 地 下 壕 で 自殺 し た 。 ヒ トラ ー の 後 継 者
デ ー ニ ッ ツ(Karl D6nitz,1891-1980)の
で 、 ドイ ツ軍 は 、5月7日
か ら9日
も と
にか けて 、
um ein Bildungserlebnis.
ア メ リ カ 軍 と ソ ヴ ィ エ ト軍 に そ れ ぞ れ 降 伏 し 、
In:Eduard ヨ ー ロ ッパ に お け る 第 二 次 戦 界 大 戦 は よ う や く
schen unserer 終 結 した 。
②E.Spranger:Padagogische シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 こ の 占 領 が 始 ま る 前 の60
42f.
夜 を 家 の 隣 の 防 空 壕 で 過 ご し た 。 そ う して 、4
③E.Spranger:Mein 月17日 か ら21日 ま で の 日 中 に 、 ザ ウ エ ル ブ ル フ
1933。Als に捧 げ る小 瞑 想
:Universitas.1g.10.1955。
hrung,"1947.)をU 「生 活 経 験 』("Lebenserfaした 。
〔注 〕
①A.Littmann:Impression Spranger, Bildnis eines geistigen Zeit.1957. Perspektiven.1951. Konflikt Manuskript 参 照 、 村 田 昇
「シ ュ プ ラ ン ガ ー と 日 本(皿)一
一(1)訪
街 の 征服 は 、 私 の 人生 の な かで もっ と も恐 怖 に
要 」 第11号
日 前 を 中 心
そ の 意 識
と現 実
と し て 」 「橘 女 子 大 学 研 究 紀
、1984。
満 ち た も の で あ る 」 と し な が ら も、 そ れ に は 沈
④ 山 本 尤
黙 して お きた い とい う。 た だ、 ピア ノ を演 奏 で
由 」 中 公 新 書 、1985,P.103.
きた こ とが 、 多 分 、私 の生 命 を救 った の で あ ろ
⑤Universitas, う と し 、 次 の エ ピ ソ ー ドを 語 っ て い る 。
⑥Fr. 「ベ ル リ ン は ロ シ ア 人 に 占 領 さ れ た 。 い と も
1945.)In
「国 家 と 教 育 」 第 三 章 。 佐 藤 令 子
始 め た 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 「ロ シ ア 人 に よ る
さ ま ざ まな 階 級 の ロシ ア兵 が家 の中 に侵 入 し、
S.
mit der Hitlerregierung
gedr.(Geschreiben や が て ソ ヴ ィエ ト軍 が ブ ル リ ン市 内 に 侵 入 し
Men-
S.484ff.
「ナ チ ズ ム と 大 学 一
国 家 権 力
と学 問 の 自
Jg.10. S.458.
Blittner"Die Erziehung."In:Eduard Spranger.
1951.S.406f.
⑦E.Spranger:Gesammelte 彼 ら の 多 くが 暴 行 を働 い た 。 あ る 日 、 善 良 そ う
⑧Universitas. な年 とっ た曹 長 が 、私 の家 に や って 来 た 。彼 は
⑨a.a.0. J9.10. S.458.
S.694。
Schriften. Bd. W. S.147,
村 田 昇
46
⑩E。Spranger:Gesammelte ⑪ 四 宮
恭 二
Schriften. 「ヒ
ト ラ ー
Bd. W【. S.151.
かで 、市 民 た ちは まず 、街 頭 の瓦 礫 の 山 を 除去
す る こ と を 必 要 と した の で あ る 。
・1932-34」(下),1981.
こ の 時(4月24日)、
P.53.
⑫[Schreiben且ber Lehramt di6 GrOnde an der Berliner des RUcktritts Universitat.] tritt Sprangers. In:Deutsche Reichs-Ausgabe. Js.72。1933. vom
Der Ruck・
Allgemaine Zeitung.
Nr。195/19628. April.
シ ュプ ラ ンガ ー は、 エ
ジ プ ト学 者 の グ ラ ポ フ 教 授(Hermann 1855-1967)か
Grapow,
ら、 急 に 面 会 を 求 め ら れ た 。 彼
は 科 学 ア カ デ ミー の 副 会 長 で 、 哲 学 ・歴 史 部 門
の 部 会 長 を 勤 め 、 大 学 の 哲 学 部 部 長 で あ り、 事
Beiblatt.
実 上 、 学 長 代 理 の 役 割 を果 た して い た 。 ル ス ト
⑬ 参 照 、 佐 藤 令 子 、 前 掲 論 文 。
文 相(Berhard Rust,1883-1945)が
失 踪 した
こ と に よ っ て 、 官 職 の 任 命 の 権 限 も彼 の 手 に 移
⑭ 同 上.
⑮E.Spranger:Gesammelte Schriften. ⑯W.Oelrich:Den Protest. Bd,珊1. S.351.
In:Eduard Spranger.
ら ざ る を え な か っ た 。 グ ラ ポ フ は 敗 戦 の 少 し前
か ら、 シ ュ プ ラ ンガ ー に科 学 ア カデ ミーの 会 長
業 務 を シ ュ プ ラ ンガ ー の手 に移 そ う と したの で
1957.S.93ff.
⑰E.Spranger:Gesammelte Schriften. Bilder aus meinem Bd. W. S.156.
あ る が 、 グ ラ ポ フ は 二 人 の 同 僚 と共 に 、 こ の 探
りを入 れ よ う と した の で あ る。 シ ュ プ ラ ンガ ー
Leben. S.12.
⑱E.Spranger:Gesammelte Schriften. Bd. X.S.351.
は、 自分 に は組 織 能 力 が な い と、 辞 退 した。
⑲E.Spranger:Gesammelte Schriften. Bd. X.S.153.
5月23日
⑳E.Spranger:Bilder aus meinem Leben, ギ ー セ ケ 教 授(Paul S。13.
㊧a.a.0. S.171.
⑳a.a.0. S.170.
Schritten. 皿.S.159.
今
Bd. X.S.429.
aus meinem Leben, 「大 学 の 自 治 」 が い く ら か で も救 わ れ る べ き
任 を 懇 願 した 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー が 、1944年9月
S.14.
8日 か ら11月14日
S.15.
⑳E.Spranger:Die Beck 共 に、 シ ュ プ ラ ンガ ー 宅 を 訪 問
で あ る と した ら 、 だ れ が い る の か 」 と 、 そ の 就
S.354.
ra且oberst 1882-1952)と
大 学 の 再 建 を図 る こ との必 要 」 を諄 々 と訴 え、
Schriften. ⑳E.Spranger:Bilder ⑱a.a.0. Bd.∼
Rorig,
し、 「学 長 代 行 と して 、 民 主 主 義 的 基 盤 の 上 に
⑳E.Spranger:Gesammelte ⑳a.a.0. Gieseke,1888-1967)と
中 ・ 近 世 史 の レー リ ヒ 教 授(Fritz ⑳ 佐 藤 令 子 、 前 掲 論 文 。
⑫E。Spranger:Gesammelte の 夕 方 、 グ ラ ポ フ は再 び、 法 律 学 の
Mittwochsgesellschaft and Gene-
(1939-1944).Im:Berliner Geist.
まで の 間、 収 監 され た こ と に
よ っ て 反 ナ チ ス 者 と見 な さ れ て い る こ と 、 ソ ヴ
ィ エ ト占 領 軍 は こ の よ う な 人 物 に 頼 ろ う と し て
い る こ と も、 そ の理 由で あ っ た。
1966.
⑳E.Spranger:Gesamme且to ⑳a.a.0. S.355.
⑫a.a.0. S.354.
Schriften. 当 時 、 正 常 な 形式 で の学 長 選 挙 は不 可 能 で あ
った 。 郵 便 は機 能せ ず 、交 通 機 関 も途 絶 えて い
た 。 同 僚 た ち は 四 散 し 、 市 内 に い る 人 と も接 触
⑳E.Spranger:Bilder ⑭E.Spranger:Rede Bd. X.S.355。
aus meinem Leben, はな か った 。 政 治 的 に罪 を負 わせ られ 、 辞 職 し
S。16.
uber die Hausmusik.1955. S.6f.
た 人 も い た 。 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 つ い に 、 「私
の 昔 か らの 大 学 」 に対 す る義 務 の 意 識 か ら、 そ
V.第5期(1945-1963)チ
ュ ー ビ ンゲ ン 大 学
へ の 転 出 と晩 年
の 大 任 を 受 諾 す る 。 そ う して 、 交 通 手 段 も な い
市 内 を 徒 歩 で 一 軒 一 軒 訪 ね 回 り、 再 建 の た め の
会 議 を開 くこ とに努 力 す る と と もに、 復 興 に着
1.ベ
ル リン大 学 総 長 に就 任
戦 後 のベ ル リ ンは、 交 通 機 関 は途 絶 え 、鉄 道
手 す るの で あ る 。
こ の 経 緯 に つ い て は 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー が1953
-55年 に 執 筆 し た 「1945年 終 戦 後 の ベ ル リ ン 大
も 、 市 内 バ ス も 、・電 車 も走 っ て お ら ず 、 郵 便 局
学 」(.Die Universit5t Berlin 1945")① に 、 当 時
も機 能 し て い な か っ た 。 停 電 が 続 き 、 水 道 の 水
の ベ ル リ ン 大 学 の 状 況 と と も に 詳 し く語 ら れ て
が 出 た の は 、5月26日
い る が 、 ここ で は要 点 に留 め た い 。
で あ っ た と い う。 こ の な
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
ベ ル リ ン で は す で に 、 新 しい 市 政 が 始 め ら れ
つ つ あ った が 、 シ ュプ ラ ンガ ー は、 学 長 代 行 を
受 諾 した 少 し 前 に 、 共 産 主 義 人 民 市 教 育 参 事 員
ヴ ィ ン ッ ァ ー(Otto Wintzer,1945-46)の
の生涯
47
彼 は 、45年8月22日
付 け で 、 ケ ー テ ・ヘ ー ト
リ ヒ に次 の よ う に 書 い て い る ③。
「… … 五 月 末 に 、 私 は 大 学 の 学 長 を 引 き 受 け
訪 問
ま した 。 そ れ以 来 、 大 変 な 重 荷 で す 。 も う書物
を受 け、 ベ ル リ ン学校 制度 顧 問 に就 任 す る こ と
に は 近 づ け ま せ ん 。 面 会 、 会 議 、 書 類 、:重大 事
を要 請 され て い た 。彼 は そ れ を引 き受 け る意 志
件 で す。 三 カ月 来 こ う なの で す 。 しか し、 進 み
は な か っ た の で あ る が 、 学 長 代 行 を 受 諾 した 以
ませ ん 。6月
上 は 、 ヴ ィ ン ッ ァ ー は 、 大 学 と ア カ デ ミー の い
赤 痢 に 罹 り ま した 。 そ の た め に 仕 事 に も苦 し ん
わ ば 担 当 大 臣 と な っ た こ と を 意 味 した 。 ベ ル リ
で い ます 。 次 に 、 わ れ わ れ の 地 区 の 占 領 軍 が 変
ンの 行 政体 は独 立 して お り、大 学 の 莫 大 な財 政
わ り ま し た 。 〔こ の 市 管 轄 区 域 に は 、 ソ 連 軍 の
負 担 も す べ て 市 が 行 っ て い た 。7月5日
後 に ア メ リカ 占領 軍 が 進駐 し ま した。 最 初 に出
、 ヴィ
末 、 私 の 誕 生 日な の です が 、私 も
ン ツ ァ ー は シ ュ プ ラ ン ガ ー を 市 庁 舎 に招 き 、 五
会 っ た の は 、 エ リ カ ・ マ ン(Erika 人 か らな る
1905-1969)で
「科 学 ・大 学 委 員 会 」(AusschuB
fur Wissenschaft and Hochschulen)の
し た 。 さ ら に 、8月5日
Mann,
に、わ
委員 に任
れ わ れ の 家 が 接 収 さ れ ま し た 。(比 較 的 よ く維
命 し、学 長代 理 と した 。 こ の行 政 的 行為 に よっ
持 さ れ て い た か ら で す)。 わ れ わ れ は24時 間 以
て 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 学 長 と して の 地 位 を法 律
内 に 立 ち 退 か な け れ ば な り ませ ん で し た 。 こ の
的 に 認 め られ た だ け で な く、一 時 は 、 ベ ル リ ン
た め 、 私 の 学 長 事 務 室 を も失 い 、 ま た 、 書 籍 へ
市 の 全科 学 制 度 に対 す る最 高 顧 問 とな っ た ので
の通 常 の 通 路 もな くな りま した。 われ われ は法
あ る 。5月
律 学 者 テ ィ ッ ツ(Heinrich か ら6月
に か け て 、 ソ連 軍 の ベ ル リ
ン進 駐 が 行 わ れ た の で あ る が 、 す べ て の 委 員 会
に 移 り ま した … … 」
Titz)の
未 亡 人 の家
に は この ロ シ ア 人 、特 にペ テル ス ベ ル ク大 学 の
エ リカ ・マ ン は 、 拘 置 所 内 で シ ュ プ ラ ン ガ ー
学 長 が 同席 し、決 定 的 な指 会 を行 った。 学 長 と
に最 初 に イ ン タヴ ュー した女 流 ジ ャー ナ リス ト
し て の シ ュ プ ラ ン ガ ー の 苦 難 は並 み た い て い で
で あ り、 真 剣 に 事 情 に つ い て 聞 い た と い う 。 な
は な か っ たの で あ る。
お 、 テ ィ ッツ 未 亡 人 の 家 と は い っ て も 、 そ れ は
彼 の 活 動 は 、 市 内 に 蔓 延 して い た 赤 痢 に 罹 っ
地 下 室 で あ り、 そ こが い わ ば 学 長室 と もな っ た
た こ とや 、突 如 、 ア メ リカ駐 留 軍 に捕 らえ られ 、
の で あ る 。 彼 が 自 宅 に 帰 れ た の は 、46年5月25
八 日 間 、 ヴ ァ ン ゼ ー の シ ュ タ ッ トヘ ル ト ・コ ム
日で あ っ た 。
パ ウ ン ドに 拘 置 さ れ た こ と 、 さ ら に 彼 の 家 屋 が
シ ュ プ ラ ン ガ ー は 、 少 な く と も六 学 部 の 機 能
ア メ リカ駐 留 軍 に よっ て接 収 され た こ とに よ っ
を 回 復 す る こ と を 先 決 と 考 え た 。 ソ連 の 干 渉 は
て 、 著 し く妨 げ ら れ る こ と と な る 。
厳 し く、14日
ア メ リカ駐 留 軍 に よ る シ ュ プ ラ ンガ ー の拘 置
や 講 義 内 容 の 提 出 を 求 め た り、 人 事 問 題 に も 口
は 、 ま っ た く い わ れ な き こ とで あ ρ た 。 彼 は 拘
出 し した 。 病 院 で は 、 ナ チ ス 党 に 所 属 して い た
置 所 内 で 、 も ち ろ ん か つ て の ナ チ ス 党 員 もい た
全 看 護 婦 を突 如 回 顧 す る と い う こ と さ え 行 っ た
が 、 そ れ と ほ と ん ど 、 あ る い は ま っ た く無 関 係
の で あ る。 シ ュ プ ラ ン ガー は 、 こ れ らの人 たち
とい う期 限 を決 め て 自己性 格 描 写
な 人 た ち も見 た 。 大 学 の 同 僚 も い た 。 結 局 、 戦
に個 人 的 な 援 助 を 行 わ な け れ ば な ら な か っ た 。
時 中 に 「長 」(President)の
職 に あ った 人 を、
そ う し て 、 政 治 的 ・ロ シ ア 的 波 動 を 追 い や り、
す べ て 拘 置 し た の で あ る 。 もち ろ ん 、 シ ュ プ ラ
研 究 施 設 を 異 国 干 渉 か ら守 る た め に は 、 無 意 味
ンガ ー は、 第 一 回 の訊 問 にお い て 、 ナチ スへ の
な 指 令 に 「サ ボ タ ー ジ ュ 」 す る こ と 以 外 に 途 は
抵 抗 や 拘 置 に つ い て 述 べ た こ と か ら無 罪 と は な
な い と考 え た の で あ る 。 も ち ろ ん 、 ソ ヴ ィ エ ト
る が 、 固 い 金 属 製 の ベ ッ トに寝 させ られ 、 大 変
で は フ ラ ンス的 なサ ボ ー ター ジ ュが どの よ うな
な 目 に あ っ た こ と に な る 。 しか も 当 局 は 、 フ ラ
結 果 と な る こ と を 知 らず に で あ る 。
ン ク フ ル トの 総 司 令 部 の 了 承 を受 け る た め 、 八
壊 滅 した大 学 の校 舎 を再 建 す る こ とが必 要 で
日間 もの 拘 置 と な っ た の で あ る。 シ ュ プ ラ ン
あ っ たが 、 シ ュプ ラ ンガ ー に は、 ウエ ス テ ン ト
ガ ー は 「恐 ろ し い 官 僚 主 義 」 と驚 い て い る②。
の ス ポ ー ツ 大 学 の あ る オ リ ン ピ ア ・デ ィ ー ム が
村田 昇
48
最 適 と 思 わ れ た 。 しか し 、 共 産 党 市 長 は 、 大 学
そ の 直後 に 、 同僚 の ロ シ ア生 まれ の哲 学者 、
の 中心 を東 ベ ル リ ンの 荒 廃 した ケ ー テ ニ ック城
ハ ル トマ ソ(Nicolei Hartmann,1822-1950)は
に 移 そ う と し た 。 そ こ は風 景 の よ い と こ ろ で は
無 言 の ま ま リ ュ ックサ ック を背 負 い 、 ゲ ッチ ン
あ っ た が 、 教 育 大 学 だ け で も狭 す ぎ た 。 こ れ に
ゲ ンに 脱 出 した。 シ ュ プ ラ ン ガー は 、哲 学教 授
反 対 して 、 オ リ ン ピ ア ・デ ィ ー ム で の 建 設 に 奔
と して の 席 は 残 さ れ て い た と は い え 、 哲 学 を学
走 す る。 ま た、 ベ ル リ ン大 学 は三 つ の 占領 地 区
ぼ う と す る 学 生 も い な か っ た し、 思 想 的 な 立 場
に 多 く の 研 究 施 設 が あ っ た の で 、 ソ違 例 は そ れ
の 相 違 に 適 応 す る こ と は 堪 え 難 い もの で あ っ た 。
らを こ と ご と く自 国支 配 の 下 に置 こ う と して い
彼 は1946年1月
た。 大 学 の全 内部 的構 造 も、 す べ て 自由 の な い
(Taler)を
ロ シ ア 的 模 範 に 従 っ て 作 り替 え よ う と し た の で
あ るが 、 ひそ か にベ ル リ ンを去 る決 心 を固 め た
あ る 。 シ ュプ ラ ンガ ー は、 これ に手 を貸 さな い
の で あ る ⑦。
、
に、 イ エ ナ 大 学 か ら長 衣
借 用 して 、 開 学 祭 を 盛 大 に 祝 う の で
こ とが 、 自分 の 第 一 の倫 理 的 ・ドイ ツ的 義 務 で
2.チ
あ る と考 え ざ る を え な か っ た ④。
ュー ビ ンゲ ン大学 か らの招 聘
シ ュプ ラ ンガ ー は 、 こ の た め に は、 大 学 を四
占 領 軍 支 配 の 下 に 置 く以 外 は な い と い う 見 解 を
シ ュ プ ラ ンガ ー は、西 ドイ ツ の 四つ の大 学 や
抱 く よ う に な り、 集 中 的 に ア メ リ カ 管 轄 の 教 育
教 育 大 学 か ら招 聘 を受 けた 。 そ の 第一 が ハ ンブ
局 と 、 次 に は 、 イ ギ リ ス の そ れ と交 渉 した 。 当
ル ク大 学 で あ り、 そ こ に は友 人 の ブ リ ッ トナ ー
時 ベ ル リ ン に初 め て 連合 国指 令 部 が 設 け られ 、
や 愛 弟 子 の ヴ ェ ンケ(H.Wenke,1903-1971)
小 教 区 の あ る市 庁 は、 まだ徹 底 的 に ロ シ ア に所
が い た。 即 刻 に受 諾 した もの の 、 そ こへ 所 帯 を
属 す る もの で はな か った の で 、 そ れが 可 能 で あ
移 す こ とが 不 可 能 で あ った 。 単 身 で赴 任 す る た
っ た 。 しか し、 シ ュ プ ラ ン ガ ー の 考 え に 理 解 を
め に 、 イ ギ リス 占領 軍 は彼 を好 意 的 に 軍用 自動
もち 、 行 動 に 移 そ う と す る 者 は い な か っ た 。 ア
車 を出 し、三 日間続 いて ダ ー レ ンか らガ トフ飛
メ リ カ 占 領 地 区 に 新 しい 大 学 を 創 立 す る こ と は 、
行 場 まで送 っ た ので あ るが 、 飛 行機 の故 障 でハ
ま だ 必 要 と さ れ て い な か っ た し 、 イ ギ リ ス 軍 も、
ンブ ル クに 向 か うこ とが で き なか った 。 や む を
シ ャ ール ロ ッテ ブ ル ク にあ る技 術 単 科 大 学 を技
え ず 、彼 は ハ ンブ ル ク を断 念 す る。
術 総 合 大 学 に移 管 す る よ うな こ とを考 え て い な
次 に 、 か つ て ダ ー レ ンで 隣 家 に い た ホ イ ス
か っ た。 フ ラ ンス軍 は、 当 地 まだ ベ ル リ ンに進
(Theodor Heuss,1884-1963)は
駐 して い な か っ た。 こ う な る と、 や は りサ ボ
邦 共和 国 の 大統 領 とな っ た人 で あ るが 、彼 が チ
後 に ドイ ツ連
タ ー ジ ュ す る しか な か っ た の で あ る ⑤。 し か し 、
ュ ー ビ ンゲ ン大 学 か らの招 聘 を 口答 で 伝 えて く
共産 系 の 同僚 か らの排 斥 の 動 きが 高 まっ て い っ
れ た。 当 地 チ ュー ビ ンゲ ン地 方 を 占領 して い た
た こ とは否 定 で きな い。 そ の 頂 点 に あ っ た の は 、
の は フ ラ ンス 軍 で あ った が 、ベ ル リン に駐 留 し
内 科 医 ブ ル ク シ ュ(Theodor て い た フ ラ ンス 軍 は きわ め て好 意 的 で あ り、 軍
1963)で
Burgsch,1878-
用 列 車 で シ ュプ ラ ンガ ー夫 妻 をチ ュ ー ビ ンゲ ン
あ った 。
初 頭 に 、ベ ル リン大 学 は、市 の 管
まで 送 り届 けた 。 しか も、莫 大 な蔵 書 や 必 要 な
理 か ら東 占 領 区 、 つ ま り ソ ヴ ィ エ トの 支 配 に 移
家 具 類 まで も、 二 台 の 貨 車 で 直 ち に運 ばれ たの
さ れ た 。 人 民 教 育 省 大 臣 ヴ ナ ン デ ル(Paul
で あ る。 こ の よ う に して 、 シ ュ プ ラ ンガ ー に
Wandel,1905一
の 初 代 学 長 と して 、 ラ テ ン語 学 者 の シ ュ ト ロ ウ
「多 くの 近 代 哲 学 の な か で 最 大 の 人 と思 わ れ る
ヘ ー ゲ ルが 学 ん だ街 で 、 新 しい 自由 と新 た な義
ク ス(Johannes 務 を負 っ た活 動 を可 能 に した 」 の で あ るが 、 そ
1945年10月
10月12日
)は
、 新 しい ベ ル リ ン大 学
Stroux,1880-1954)を
任 命 し、
に、 シ ュ プ ラ ンガ ー に この こ と を知 ら
れ は まっ た くフ ラ ン ス 占領 軍 の 力 に よ って だ っ
せ た 。 こ の よ う に して 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー の ソ ヴ
た の で あ る。
ィエ ト支 配 に 対 す る 抵 抗 も 虚 し く、 伝 統 あ る ブ
1946年7月(64歳)、
リ ー ドリ ヒ ・ヴ ィ ル ヘ ル ム 大 学 を再 建 し よ う と
チ ュー ビ ンゲ ンの人 と な り、 こ こで 終 生 を全 う
す る 夢 もつ い え た の で あ る⑥。
する。
シ ュ プ ラ ンガ ー 夫 妻 は
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
の生 涯
49
シ ュ プ ラ ンガ ーが チ ュー ビ ンゲ ンで行 っ た講
な ぜ な ら そ れ は 、 再 建 の も っ と も緊 急 を 要 す る
義 に は 、 次 の よ う な もの が あ る⑧。
部 分 で あ った か らで あ る。 近年 書 い た数 多 くの
1948年 夏 学 期
も の の な か で 、 そ の 理 由 か ら も っ と も重 要 な 書
講 義:「 文 化 の 自 己 批 判 と して の 歴 史 哲 学 」
物 は 、 『国 民 学 校 の 固 有 精 神 』(.Eigengeist der
ゼ ミ ナ ー ル:「 シ ラ 」 の 哲 学 的 著 作 に 関 す
Volksschule."1955.)と
る 演 習 」
者 』("Der 講 義:「 教 育 学 の 哲 学 的 基 礎 」
る 」⑨ と 、 い っ て い る 。
、 『生 ま れ な が ら の 教 育
geborene Erzieher."1956.)で
1952年 夏 学 期
こ の 間 、 彼 は 、1951年9月12日
ゼ ミ ナ ー ル:「 知 識 社 会 学 の 進 歩 に 関 す る
共 和 国2周
演 習 」
で 講i演(Festrede 講 義:「 精 神 科 学 的 心 理 学 の 特 徴(古
the Bundesrepublik.)し
代 か ら
あ
の ドイ ツ連 邦
年 記 念 日に は、 ボ ンの連 邦議 会議 場
zur 2. Jahresfeier der Deuts.
、1951年
か ら55年 ま で
近 代 に 至 る 人 間 像 の 変 化 を 導 入 と し
は 、 ドイ ツ 研 究 協 会 副 会 長 、 連 邦 政 府 内 務 省 政
て)」
党 法 準 備 委 員 会 委 員 、 バ ー ゲ ン ・ヴ ュ ル テ ンベ
1947年4月23日
に行 わ れ た夏 学 期 開 講 式 には 、
ル ク 州 九 学 年 制 審 議 会 委 員 等 と し て 、 ドイ ツ の
シ ュプ ラ ンガ ー はシ ュ タイ ビ ッフ ェル 学 長 に 代
文 化 と教 育 の 再 建 に尽 く し た 。
っ て 、 「文 化 病 理 学?」(Kulturpathologie?)
51年9月30日
と題 す る 名 講 演 を行 い 、 世 の 注 目 を 浴 び た こ と
か ら10月1日
ま で 行 わ れ た 「チ
ュ ー ビ ン会 議 」 に 出 席 し 、 こ こ で 問 題 と な っ た
は 、 あ ま りに も有名 で あ る。 これ 以 来 、 シ ュプ
「範 例 教 授 ・学 習 」(exemplarisches ラ ンガ ー の論 文 に は 、現 代 文 化 の 直 面 す る危 機
Lernen)に
につ い て論 じ、 そ の 内面 的 純 化 を訴 え た もの が
る 。 ま た55年3月12日
多 い 。 そ こ で は 、 他 人 と周 囲 に 歩 調 を合 わ せ る
ヒ ス ・ヴ ィ ン テ ル で 行 わ れ た 第 二 回 英 独 教 育 学
にす ぎな い
者 会 議 に 出 席 し 、 問 題 を提 起 して い る ⑩。52年
「群 衆 的 人 間 」(Massenmensch)や
集 団 に埋没 す るだけの
「組 織 に し ば ら れ た 人
間 」(der systemgebundene Mensch)は
、西 欧
Lehren and
つ い て も 、 指 導 的 役 割 を 果 た して い
か ら17日 に か け て ケ ー ニ
に は 、ベ ス タ ロ ッチ ー世 界 賞 、 星 十 字 大 切労 賞 、
ハ ンザ 同 盟 都 市 ゲ ー テ 賞 等 を 受 賞 した 。
文 化 の 墓 掘 人 と さ れ 、 西 欧 的 精 神 を擁 護 し、 個
1952年(70歳)に
人 人 の 良 心 に よる決 断 が 重 視 され て い る 。 シ ュ
で 退 官 す る が 、 さ ら に54年 ま で 講 義 は 続 け ら れ
チ ュ ー ビ ン ゲ ン 大 学 を停 年
プ ラ ン ガ ー 思 想 の 特 質 は 、 主 観 的 精 神 と客 観 的
た 。55年 頃 か ら老 眼 が 進 み 、 研 究 生 活 に も支 障
精 神 との 相 即 的連 関 にお け る主 観 的精 神 の優 位
を生 じた とい わ れ てい るが 、 最 後 まで研 究 成 果
にあ るが 、 第 三 期 で はそ れ が 客 観 的精 神 の面 に
は 公 刊 さ れ た 。1960年
に は永 遠 の女 性 の友 人 と
対 す る考 察 の方 が強 か った の に対 し、第 五 期 の
して 文 通 を交 わ し た ケ ー テ ・八 一 ト リ ヒ が ハ イ
著 書 ・論 文 で は 、 主 観 的 精 神 の 面 が よ り強 調 さ
デ ル ベ ル ク で 死 去(88歳)。63年9月5日
れ て い る よ う に 考 え ら れ る 。 し か ,し、 こ の 思 想
妻 ス ザ ン ネ 夫 人 が 没 す る(73歳)。
の 特 質 は 、 微 動 だ に して い な い の で あ る 。 論 文
う か の よ う に 、 シ ュ プ ラ ン ガ ー は 同 年9月18日
集r教
育 学 的 展 望 』(.Padagogische tiven. Beitrage zu Erziehungsfragen wart."1951.3. erw. Aufl.1955.)'とr現
Perspekder Gegen代 の文
は愛
そ の 後 を追
老 衰 の た め に81歳 の 生 涯 を 終 え た 。
葬 儀 は 、9月21日
、 チ ュ ー ビ ンゲ ン 大 学 新 講
堂 で 、 キ ー ジ ン ガー西 独 連 邦 議 会 議 長 、 シ ュ ト
化 問 題 」(。Krulurfragen der Gegenwart."1953.
ル ツ 文 部 大 臣 を は じめ 、 各 界 の 名 士 参 列 の も と
3.erw. Aufl.1961.)は
に と り行 わ れ た 。 遺 骨 は 、 チ ュ ー ビ ン ゲ ン 大 学
、 多 くの 版 を 重 ね 、 特 に
、
影 響 を 与 え た もの で あ る 。
裏 側 の 、 ヘ ル ダ ー リ ン 、 ウ ー ラ ン ト,ジ
しか し、 シ ュ プ ラ ンガ ー がチ ュ ー ビ ンゲ ン時
ャ ー らの 眠 る 墓 地 に 埋 葬 さ れ て い る 。 チ ュ ー ビ
ル ヒ
代 に特 に努 力 した大 きな 問題 の 一 つ が 、 国民 学
ン ゲ ン大 学 は 、 附 属 図 書 館 内 に 「シ ュ プ ラ ン
校 教 育 の再 建 で あ る。彼 は この こ と につ い て 、
ガ ー 文 庫 」 を設 け 、 彼 の 全 著 書 を 莫 大 な 蔵 書 と
「(第二 次 大 戦 後)私
の心 の なか を占 め て い た最
と もに整 理保 管 してい る。 また 、 チ ュ ー ビン ゲ
大 の もの は 、 国 民 学 校 に つ い て の 心 配 で あ る 。
ン市 は 、 そ の 市 街 地 の 一 角 に 「エ ド ゥ ア ル ト ・
村田 昇
50
シ ュ プ ラ ン ガ ー 通 り」 の 名 を 付 し て 、 こ の 偉 大
る。 しか し彼 は、 挫 折 を繰 り返 しな が ら、永 遠
な 学 者 を 記 念 し て い る 。 な お 、 ミ ュ ンヘ ン市 の
な る途 を求 め続 けて い った 。 そ れ だ け に 、彼 の
エ ン グ ラ ー ト(Ludwig 何 げ な い 言葉 の な か に も、 珠玉 の意 味 を捉 え る
Englert)博
士 の 宅 内 に、
「シ ュ プ ラ ン ガ ー 文 庫 」 が 創 設 さ れ て い る 。 ド
こ とが で きる。 汲 め ど も尽 きな い知 恵 を学 ぶ こ
イ ツQuelle&Meyer社
とが で きる。 しか しこの こ とは 、彼 の苦 悩 に満
ら 、 全11巻
とMax Niemeyer社
か
の 全 集 が 刊行 され て い る。
ち た 生涯 を知 る こ とな しに は 、 な さ れ え な いで
あ ろ う。 そ のた め の 一助 とな れ ば と念 じ、本 稿
①ln:Spranger ②a.a.0. を草 した ので あ る。
〔注 〕
Gesammelte 終 わ りに、 紙 数 の 関係 か ら、 第 五 期 の 叙 述 が
Schriften. Bd. X.
Schriften. Bd. W. S.236.
簡 略 さ れ た こ と をお詫 び しな けれ ば な ら ない 。
S.292.
③E.Spranger:Gesamme且to ④E.Spranger:Gesammelte 358.・Bilder Schriften. aus meinem Leben. Bd. X.S.
1981.)の
巻 末 に は 、 綿 密 に調 べ ら れ た 「シ ュ
プ ラ ン ガ ー略 年譜 」が 掲 載 され て い る。 佐 藤 令
S.18.
子 女 史 の 論 文 「シ ュプ ラ ンガ ー と 日本 」 と共 に、
⑤ditto.
⑥E.Spranger:Gesammelte ⑦a。a.0, Schriften. 参 考 に させ て頂 い た。 感 謝 した い 。
Bd. X.S.314.
S.358五
⑧W.Sacher:Eduard ⑨E.Spranger. ⑩Vgl. ま た 、岩 間浩 訳 「小 学 校 の 固有 精神 』(棋 書 房 、
Bildung 主 要文献
Spranger Sein Werk 1902-1933.S.22.
・E
and Sein Lebeu. S.20。
and Erziehung. J9.8Doppelheft 8/9.
1955.
.Spranger:Gesammelte W.1970. ・ Eduard Spranger tiven. お わ りに
Beitrage 1951.(村
田 昇
一 現 代
以 上 見 て きた よ う に、81年 に お よ ぼ シ ュプ ラ
ンガ ー の 生 涯 は 、 ま さに祖 国 と運 命 を共 に した
tung.1954.(村
悪 戦 苦 闘 の ドキ ュメ ン トとい っ て よ い。 彼 は 時
て の 在
代 の 挑 戦 に勇 敢 に 挑 戦 し、深 い思 案 を通 じて 問
・Eduard 題 の 本 質 に 迫 り、在 るべ き方 向 を示 して い った
1955.
の で あ る 。純 学 問 的 な論 文 に あ って も、 そ の基
・Eduard 盤 に 具体 的現 実 か らの 問題 設 定 が あ る こ とを 見
1960.
逃 して は な らな い 。 そ う して、 人 間 は人 間 と し
・Eduard て い か に在 る べ きか 、 い か に生 き るべ きか を示
・Eduard 唆 して くれ て い る 。 そ こ に は、 なん の飾 り立 て
Werk や 隠 し立 て もな い 、誤 魔 か しもな い 。真 摯 で あ
。Eduard 粋 で あ り、 善 意 の人 で あ りす ぎた。 手 練 手 管 を
弄 す る政 治 家 か らす れ ば、彼 の 身 を捨 て た 行為
も、 赤 子 の よ う に見 な され た の か も しれ な い 。
そ の ため に騙 れ 、 欺 か れ 、 翻弄 もさ れた の で あ
『教 育
堂
田 昇
学
-
的 展 望
。1987.)
zur Daseinsgestal・
・山 崎 英 則 訳
『人 間
と
し
を 求 め て 」 東 僧 堂 、1990.)
fiber die Hausmusik
aus meinem Spranger and Sein 1957.
しか し、 彼 は あ ま りに もナ イー ブ であ り、 純
der Gegenwart.
山 光 宏 訳
Spranger:Berliner Menschen 囲 の読 者 を得 た の も、 当然 で あ ろ う。
zu Erziehung Spranger:Bilder る。 誠 実 で あ る 。厳 しさの なか に、 温 か い愛 の
Perspek
・片
Spranger:Rede 心 が 涯 っ て い る。 そ こ に 「現 実 を哲 学 す る」 真
に多 くの 人 た ちか ら信 頼 され 、敬 愛 され 、 広 範
:P…idagogische =Gedanken り 方
Bd.粗.
Bd, X.1973.
の 教 育 問 題 」 東 信
・E .Spranger の哲 学 者 像 を見 る こ とが で き る。彼 が 国 の内 外
Schriften. 1978.Bd. :Eduard Leben
.
.1966.
Spranger
. Sein
Leben.1964.
Spranger
. Bildnis unserer ・Bibliographie Geist
.
Zeit. Eduard eines hrsg. Spranger
geistigen
v. H. Wenke.
. bearb. v. T.
Neu.1958.
・Eduard Spranger
Jni 1982, ・F
.H. . Zum 100 Geburtstag hrsg. v. G. Brauer, Paffrath :Eduard am 27.
F. Kehrer.1983.
Spranger and die
Volksschule.1971.
・M
.Loeffeholz:Philosophie Fruhwerk Eduard and Spranger Padagogik 1900-1918.
im
シ ュ プ ラ ン ガ ー.そ
1977.
・W
.Eisermann, :Massstabe. Eduard des Denkens von
Spranger.1983.
Spranger and
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・G .Meyer-Willner:Eduard ・W
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H.」. Meyer, H. Roehrs(hrsg.)
Perspektiven の生 涯
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『ヒ ト ラ ー と
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国 編 、1.ア
『教 育 学 群 像 』1
カ デ ミ ア 出 版 。1990.
.外
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