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士一 - アステラス製薬社友会

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士一 - アステラス製薬社友会
年頭所威
代表理事
石井康雄
新年あけましておめでとうござ
います。
会員の皆様には、日頃から社友
会の運営にご協力、ご指導いただ
き心より感謝申し上げます。
お蔭様で、社友会も発足叩年目
に入り新たな役員、体制のもとで
順調に運営されつつあります。会
員 総 数 も 昨 年 の 段 階 で 約3、1 5
0人 と な り 、 全 国 で 日 の 同 好 会 と
ロの教室が活発に活動されまし
た。又、支部総会におきましでも
全 国 で8 8 0人 ほ ど の 会 員 が 出 席
され、製薬トップを含め会員相互
の交流と親睦がはかられました。
この一年は、社友会の財務基盤
をより強固にするための﹁マス
タープラン検討委員会﹄提案によ
る各種施策が、皆様のご協力、ご
理解のもと、実施されてまいりま
し た 。 し か し な が ら 昨 年4月 以 降
の状況変化の中で、社友会に於け
る収支構造が大きく改善されてま
いりました。そしてそれを踏まえ、
9月 の 理 事 会 に て ﹃ マ ス タ ー プ ラ
ン検討委員会﹂から﹁新方針﹄が
提 案 さ れ 、 討 議 の 結 果 、 全 会 一致
で承認されるにいたりました。(別
途記事参照)皆様もご存じの通り、
アステラス製薬では、新薬が暫く
好調に拡大推移し、株価上昇や年
間配当の増額が続いてまいりまし
た。その結果、国内医薬品業界で
時価総額首位となりました。我々
会 員 もO Bと し て 、 大 い に こ の こ
との喜びを共有し、そして同時に、
頑張ってこられた製薬の現役の皆
さんに心より感謝の気持を表した
いものと思っております。その意
味で、今回の同好会、支部総会へ
の支援見直しは、アステラス製薬
と社友会の一体感をより醸成する
ことに繋がるものと考えておりま
す
。
アステラス社友会は、その事業
方針の中で、会員の健やかな明る
い生活を目ざすこと、そして巾広
い活動により広く社会への働きか
けに努めることを謡っておりま
す。その為にも社友会自身がより
魅力的なイベント等を企画提案し
易くすること、自発的に幹事、世
話人に名乗りをあげ易くすること
が大切と思っております。そうす
ることで新入会員の増大、各種行
事への参加率向上などが実現さ
れ、より活性化されるのではない
かと期待しています。
最後に、皆様の本年一年のご健
康とご多幸を祈念し、社友会活動
への積極的参加を、再度お願いし
まして年頭の挨拶と致します。
1
発行所
前羽民人(大阪)
小島の日の出
2
0
1
4年 1
2月2
5日 発行
友 (
N
o
.
3
5
)
社
アステラス製薬社友会会報
士
一
t_ k.
アステラス製薬杜友会
編集者中島
一
須藤友仁
干1
0
30
0
1
2東京都中央区
日本橋堀留町 1
2
・1
6
TEL (
0
3
) 3664-4628
FAX (
0
3
) 3664-4621
い為、いゐ号、
博一
しきりに思う
ことが二つあ
る。一つは平成
に入ってからの
回顧。風邪をこ
じらして名古屋
八 事 の 日 赤 に 三週 間 も 入 院 し た 。 全 身
に酷い発疹が出て、なかなか高熱が下
らず、主治医の伊藤先生から薬屋さん
薬 に 弱 い で す ネ 、 と 笑 わ れ た 。 ミノマ
イシンが体質に合わなくて間質性肺炎
に当ってしまった 。 そ れ で セ フ ア ロ 系
に替えて貰って漸く助かった 。 友 吉 郎
会長が見舞に来てくれたのが効いたよ
うで、感謝している 。
当 時 は 抗 生 物 質 が 既 に 第 三世 代 に 入
るところであった 。
この病歴から米寿どころから古稀ま
で行けるか、自信なかった 。しかし今、
社 友 会 か ら 米 寿 の 祝 を 頂 戴 し て 米寿 の
先 を 考 え る よ う に な っ た 。 この思いは
回顧でなく、余生への希望計画になろ
うか 。 こ れ が も う 一 つ の 思 い で あ る 。
聖 路 加 国 際 病 院 の 日 野 原重 明先生は
百才を越えて、いまなお現役で、何年
か先まで手帖に講演予定が詰ってると
私 達 は 一九 二 七 年 、 昭 和 二 年 の 生 ま
無 量 の思いがいたします。
丸 々 生 き て き ま し た 。 敗戦から復興へ
祝いを頂き誠に
会より米寿の御
この度、社友
吉津俊夫
軍 国 主 義 か ら 、 民主 主 義 へ と 価 値 観 ・
東京
体制の大転換をモロに体験し、平成の
調仇悲からの加味。
ら と 考 え て い る 。 東 京 、 名 古 屋 でやる
ありがとうござ
います。
昨年の
積りの個展は六回目になる 。 小品も入
今 日 に 至 っ て い ま す。
れ で す。 私 達 は あ の 大 動 乱 の 昭 和 を 、
れ て 、 五 、 六O点 の 作 品 を 揃 え る べ く
得 て 好 評。 イ ス タ ン プl ルの0 ・U-
三 ノ窓の雪渓を描いた 。 これが時宜を
昨年は﹁日本の氷河﹂と題して鋼岳
復興を成し遂げました 。
日本は、世界が驚嘆する、 素 晴らしい
めに、無我夢中働きました 。 その結果
国土の復興、平和の幸福を取り戻すた
私達は戦争で徹底的に破壊された、
定年退職を迎えるまで東京本社に勤務
大 阪 ・ 札 幌 、 そ し て 昭 和 五 十 二年 か ら
十五年に藤沢薬品に入社し、北関東・
私は、昭和 二
はじまったところ 。
ミマ 1 ル ・ シ ナ ン 芸 大 か ら 文 化 功 労 章
出 展 し て 、 パ ジ ェ ・ デ ・ロス・スエニ
交 四 百 年 記 念芸 術 祭 ( マ ド リ ッ ド ) に
二度 と 平 和 の 幸 福 を 、 失 っ て は な り
が 、 も た ら し た も の と 思 っ て い ま す。
に 競 い 合 い 一生 懸 命 働 い て き た 結 果
之内製薬と藤沢薬品の先人たちが、共
アステラス製薬の今日の盛況も、山
だきました 。
業卸組合で、十九年間勤めさせていた
を迎えるまで神田にありました東京薬
し、その後、杖をつきながらも八十才
を頂戴した 。 ま た ス ペ イ ン ・ 日 本 の 国
ヨ ス 財 団 賞 を 貰 った 。﹁ 日 本 の 氷 河 ﹄
ま せ ん 。 為政者の行き過ぎた措置が、
い を 設 け 、 年 一回 、 日 本 各 地 で 旧 交 を
て き た 同 僚 達 と ﹃ 太 原 会﹄ と 称 し た 集
在職中より、戦後中国から引き揚げ
の 騒 ぎ に 押 さ れ て 、今 百 二O号 の 油 彩
画に伸ばし描きしている 。 秋に東京展
深めておりましたが、年々参加人数も
滅り私が八十才を迎えた頃にはその集
平和を乱すモトにならぬようにと、
いもなくなり、ただただ淋しい限りで
(
都美 術 館 ) に 出 す べ く 老 骨 を 叩 い て
私自身は折角頂戴した命、余生を楽
願 っ て い ま す。
し ん で い き た い と 思 っ て い ま す。 頭の
いる 。
一
訓練として、新聞の﹁パズル﹂を解く
こ と を 、 楽 し み に し て い ま す。 今 後 何
した 生 活 を し て お り ま す が 、 そ こ で は
-m
喜
新年あけまし
のお役に立つこともできませんが、日
は歩行がままならぬ生活を強いられて
り、その後、脊椎管狭窄症を患い現在
だったバイクに乗ることもできなくな
の接触事 故 を 起 こ し て 以 来 、 足 代 わ り
か け 畑 作 り も し て い た の で す が 、 車と
八 十 才 ま で は 三輪 バ イ ク で 近 場 に 出
唯 一の 楽 し み と な っ て い ま す。
タワl に 行 く 予 定 で 、 こ う し た 外 出 が
毎月外出計画があり、一 二月 は い ち ご 狩
現 在 は 週 三一回、デイサービスを利用
ておめでと、つご
す。
ざ い ま す。 私 は
り 、 今 月 は 館 林 の 茂 林寺 、 来 月 は 東 京
繁 栄 を 祈 念 い た し ま す。
アステラス製薬と社友会の、
頃の思いを述べさせていただきまし
た。
終戦の翌年藤沢
薬品に入社しま
した 。 昨 年 の 四
月、社友会支部総会で、∞∞回目の誕生
日、米寿のお祝いを頂戴いたしました 。
誠にありがとうございました 。
今ここで∞∞年の生涯を返り見まする
に 、 夢 の よ う に 思 わ れ ま す。 まあ、こ
-2-
生
れまでよく生きてこられたものと、感
層
の
田
二
、 三年 先 の 卒 寿 記 念 に 個 展 を 出 来 た
田
美
子
聞 く。とても大先生には及ばずもがな、
村
2
0
1
4年 1
2月2
5日 発 行
友 (
N
.
o
3
5
)
社
アステラス製薬社友会会報
います。
病は気から﹂と申しますが、
昔から ﹃
私の経験から申しますと﹃病は足から﹄
の疾病と癌疾患の予防及び治療に対し
三大療法と共に済陽高穂院長の食事療
えば∞∞年1 例年
度ございまし
た。 今 に し て 思
祝いを戴き有難
会より喜寿の御
この度は社友
これからも自立した生活を心掛け、
会の麻雀大会参加等で健康管理に努め
て お り ま す。
立 て ふ せ 、 週 2 1 3日 ス ポ ー ツ セ ン
の衰えを日々感じ毎日起床時日回の腕
人生を送って来ましたが、最近は体力
返ると打年間大病もせず元気に楽しく
祈 り い た し ま す。
の台湾勤務と四年1定 年 を 迎 え る 迄 の
皆 様 共 々 お 互 い 元気 で末永くお付き合
法 を 紹 介 さ せ て 戴 い て お り ま す。 振 り
アジア 事 業 部 時 代 は や り が い の あ る 仕
杉山弘幸
私は大学卒業
事 で あ っ た と 感 慨 深 い 思 い で す。 台 湾
いの程よろしくお願い致します。
だ と 思 い ま す。
後、京都薬科大学に約十年おりまして、
では着任3年 で 単 年 黒 字5年 で 累 損 解
難く厚く御礼申
高 令 者 の 囲 碁 講 師 を 依 頼 さ れ 平 成 二十
りました。平成二年に富士市役所より
参りました 。 年 号 が 昭 和 か ら 平 成 に 変
を攻撃したのが七十年前の戦祉を見て
の翌日太平洋戦争で日本海軍が真珠湾
ソンに参加し完走して参りました。そ
に息子と一緒にハワイのホノルルマラ
ました 。 思 え ば 定 年 退 職 ( 還 暦 ) の 年
なったため物が見えにくくなり、城あ
若干弱くなり、目も加齢黄斑変性に
したが、八十も半ばを越しますと足が
る愛着が増し、城跡をよく見に行きま
に関する書物が多く出始め、城に対す
を始めました 。 ま た そ の 少 し 前 か ら 城
格的にとは言えませんが城仲間と調査
料を少しずつ集めていましたので、本
として﹁城﹂に興味をもち、童日物や資
フリーになってからは若い時に趣味
り こ の 状 況 は T V中 継 も 行 わ れ ま し
た。 悪 い 事 は 出 来 な い と 反 省 し な が ら
ンカ l に落ちました 。 腕 は 青 ア ザ と な
て前列にいた男性の腕を直撃、球はパ
学 、 河 野 プ ロ の 第 一打 が 私 の 目 前 に き
ショートホl ル左パンカl サ イ ド で 見
午 前 中 で 済 ま せ 現 地 直 行。 名 物 の 四 番
か ら 行 っ て こ い と の 事。 当 日 の 業 務 を
ゴルフの国際試合の招待券が一枚ある
いますと、読売カントリーで行われる
業 務 課 長 か ら 至急訪 問 の 要 請 が あ り 伺
カラオケ等参 加 し て 多 忙 な 日 を 送 っ て
会、地域の行事、旅行、パタlゴルフ、
五年間でした。退職後は社友会の同好
あい勉強や経験をさせて頂き充実した
があります。定年後は藤沢パリックで
寿を迎える事が出来たと感慨深いもの
ろうといつも思っていました。よく喜
亡くなり父の年を越えられる様に頑張
私の父は四十九才で私が七才の時に
し 上 げ ま す。
この度喜寿の
お祝を頂き有難
六年 三月 迄 二 十 数 年 に 亘 っ て 行 っ て 参
るきはやめて、今まで集めた資料の整
帰宅し録画を見て私は写っておらず
おりました。今は体調に合わせて少し
杉山吉
よりお祈り申し上げます。
の発展と、社友会の皆様の御健勝を心
末筆ながら、アステラス製薬の益々
この度、社友
昭和三七年に藤沢薬品工業側に入社
消が出来た事と中国事業で債権回収の
会から米寿の御
し、医薬品の開発に従事し、その後、
基 礎 が 出 来 た 事 で す。 こ の 事 は 再 就 職
どうぞ皆様、﹁趣味は歩くこと ﹂ と
学術調査室に移り自社製品のクレーム
心に決めて元気な老後を過ごしていた
処理(医薬品の副作用報告とその対応 。
で お 世 話 に な っ た 病 院 で の 経 営管 理に
タ ー 訪 問 と 月1 1 2回 の ゴ ル フ 、 社 友
. . . より米寿の御祝
.,,此の度社友会
添 付 文 書 の 文 案等 に つ き 厚 生 省 と 折
大変役立ちました 。
祝を頂き誠に有
闘関 臨 を 頂 き 熱 く 御 礼
衝 ) を 行 っ て い ま し た 。 昭 和 六O年 藤
り ま し た 。 生 徒 の 中 に は 小学校 、 中 学
理を行っている現状です。
問として週一日お世話になっておりま
ホ ッ ト し た 次 第 で す。 現在は PETC
Tを 中 心 と し た 画 像 処 理 セ ン タ ー で 顧
ゆっくりしようと思います。そして杜
うございまし
た。 今 日 ま で 私
校の校長先生を経験した方もいまし
御世話になった方々に、また城に関し
す。 こ れ 迄 親 し く し て 戴 い た 友 人 知 人
五年間お世話になり多くの人達とふれ
た皆様に心から
を支えて下さっ
た。仕事については大王製紙系統で七
ていろいろ資料を下さった方々に心か
後になりましたが、その時いろいろ
十人才迄現役として頑張って参りまし
た。 最 後 に ア ス テ ラ ス 製 薬 に 努 め た 事
ら御礼を申し上げます。
が あ り ま す 。 薬 専 却 担当時、大手卸の
旭
テラス製薬と社友会の発展を心よりお
感謝致します。
本
だ き た い と 思 い ま す。
. . . 申 上 ま す。 定 年
沢薬品を定年退職し、京都薬科大学(図
入 社5年 日 頃 の 忘 れ ら れ な い 思 い 出
. . .退職してから早
書館 ) に 五年 間 勤 務 し ま し た 。
健
. . . 二十 数 年 が た ち
田
{
を我が人生の誇りとします。益々アス
3
、
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A
2
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1
4年 1
2月2
5日 発行
友 (
N
.
o
3
5
)
社
アステラス製薬社友会会報
員 の仲間が大勢おられました 。 最後は
西日本物流センターを勤務して定年退
なった横浜支庖にはすばらしい営業部
ません。しかし、ウグイスやホトトギ
す が 、 ま だ 、 出 会う こ と は 叶 っ て お り
川にかかる小橋)、近辺で見たという
情報を得、散歩エリアを拡大していま
職で福岡市に定住しました。退職後は
スの鳴き声も増え、わが家でも耳にす
この叩年余り思い出は多々あります
が、幼少時痛めた古傷を持ちながらも
る こ と が 出 来 、 自 然 環 境 も 戻 り つつあ
致 し て い ま す。
会 社 時 代 の 友 人 (3組のグループ)と
ら、大腸ガンで妻が死亡、そして今は
町 の 薬 局 でη歳 ま で 働 い て い ま し た
友会で皆様との再会を楽しみにしてい
しょう。アステラス製薬、社友会の益々
年1 1 2回 、 有 名 ゴ ル フ 場 ( 含 む 台 湾
のサークル活動でダl ッ、グランドゴ
頂 戴 し た 時 に 、 記 念 写 真 をみますと、
いて触れます。 7年 前 の 古 希 の 祝 い を
一日、 15000歩推進の動機につ
今は、肇縮性狭心症などで薬が絶え
ルフ、麻雀、そして社友会の囲碁同好
大塚哲夫
ま す。 皆 様 ご 健 勝 で 又 お 逢 い 致 し ま
のご発展をお祈りします。
林口CC) を ラ ウ ン ド 出 来 た こ と が 何
る よ う に 感 じ て い ま す。
この度、喜寿
ない毎日ですが、広島・宮島を背に老
恵まれ4人 の 孫 に 固 ま れ て 町 の 敬 老 会
年 金 生 活4年 目 で す。3人の子どもに
のお祝いを頂き
人会の面々とパ l クゴルフ・グラウン
よ り う れ し い 懐 か し い 思 い 出 で す。
有難うございま
皆さんが均整の取れている方々ばかり
絶し中華人民共和国と国交成立するな
間、時の田中政府が中華民国と国交断
へ台北駐在 員 、台湾藤津に出向、この
業 、 数 年 後 輸 出 部 ( 後 の 海 外 事 業部)
ご ざ い ま し た。
て戴き有り難う
よりお祝いをし
を迎えて社友会
この度は 喜 寿
ψ
のごとく良いことも
a
合伺﹄甫
、
‘
,
,
関西の北摂地
沼 伸出 源 氏 発 祥 地 多 国
ンハイツ(清和
ハ川川 区
、﹁
多 国 グ リl
z骨川
唱
・
悪いことも長続きせずクあざなえる縄
の如し。です。
生は。塞翁が馬
、
歩 け る う ち が 花 二 日15000歩
レステロール
m、LDLコ
←6 ・3、 中 性 脂 肪 郷 ←
ω←防とまずまずです。
至 り ま し た 。 血 液 検 査 項 目 を7年前と
比較したところ、 HbAIC5 ・6←
5 ・2 %、G P T必←日、尿酸6 ・9
年になり、今回喜寿で表彰を、つけるに
を 受 け ま し た 。 そ こ か ら 始 め て 丁 度7
の医師に相談したところ、毎日1 5 0
0 0歩 な ら 少 し 効 果 が 現 れ る と 、指導
になっていたこともあり、掛かりつけ
が目につき、当時の私はウエストが 気
会で楽しんでおり、充実 した日々を
ど自分にとって思いもよらぬ激変に遭
私の人生は、あ
送 っ て お り ま す。 以 上 の よ う に 私 の 人
ド ゴ ル フ 等 々 を 楽 し ん で お り ま す。
遇しましたが、 幸 い再び、国内営業に
山之内鎮夫
した 。省 み ま す
と、昭和泊年に
旧藤沢薬品に入
戻り広島中心に営業担当(医家向け・
のタレントから都知事になられた青島
幸男さんがよく引用されていた 。
塞翁
ご縁が深かった大学の先輩から医薬分
と云う聞に過ぎた思いの中で、広島で
ました。この間、お年間長いようでアツ
早くも寒さが厳しくなり持病の哨息発
うでよかったのですが、日月になると
業活動です。信州は夏は避暑に行くよ
に配属され、オートバイに乗っての営
す。特 に ウ グ イ ス の 鳴 き は じ め る ( 今
通 常 、 日 を 覚 ま す と 別 分 間 ( 約7 5
0 0歩)を、この多田グリーンハイツ
内 の 散 歩 で ス タ ー ト し 、 一 日1500
0歩 を 健 康 維 持 の 目 的 で 取 組 ん で い ま
り難うございま
より喜 寿 のお祝
この度社友会
も う 少 し ガ ン バ り ま す。
業の流れが加速することを見据えて調
、
作 が で ま し た 。 そ れ で 、 あ け て 3月
した。
日 州 神 社 裏 山)﹂に
剤薬局の設立運営を託され毎年新規開
郷里に近い九州福岡支屈に転勤になり
じ・桜・木蓮・花水木 ・つつじ・五月・
年は2/4、昨年は2/8) ころから、
6月 末 ま で は 、 辛 夷 ・梅・桃・山つつ
も早いものですね 。 私は陸上自衛隊第
t AS
局に奔走した同年足らずでしたが今ま
ました。九州を 一周 り し て 温 か い 宮 崎
紫陽花・楯子と花木を中心に、花から
一空 挺 部 隊 よ り 、 昭 和 三 十 九 年 一 月 十
r‘
,
F-U
住 ん で い ま す。
でと異なった視点から貴重な経験をさ
県を担当しておりましたら、突然、東
花 へ の 移 り 香 を 楽 し ま せ て く れ ま す。
いを頂き誠に有
月日の経つの
4
社し京都・滋賀で医家向担当として営
セールス)として役割を頂き、その後、
が馬。です。
せていただきました。河過ぎまで元気
京目黒営業所に転勤、栄転と云われま
また、最近、カワセミを茄弱橋(猪名
まず、営業で入社してすぐに長野県
藤沢アストラからアストラジャパンに
に仕事をさせていただいた 多 くの方々
しかし、目黒営業所やその後転勤に
し た が 、 実 は 、 飛 ば さ れ た 感 じ で す。
上村俊昭
いたことは何より宝ものと心より感謝
と出会いがありご指導ご厚情をいただ
転 籍 し ア ス ト ラ ゼ ネ カ 設立時に退職し
勝
2
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1
4年 1
2月2
5日 発行
友 (
N
.
o
3
5
)
社
アステラス製薬社友会会報
命も延び、高齢化の中にあって、長寿
の祝いも家族の中でも見過ごされてい
ま す。 私 た ち は 自 分 の 生 れ に つ い て 、
生 を 待 ち 望 み た い と 考 え て い ま す。
その時期にふさわしい楽しみ方と生き
は、一度しかない人生を、その時期、
ています。この世の人生という意味で
世話になり、今日があることを感謝し
会社の先輩、同僚など、多くの方のお
は亡き父母、学校時代の先生方、友人、
な身体に産んでくれ、育ててくれた今
時、家族には勿論ですが、比較的健康
れまで生かされてきた人生を振り返る
その意味では私はラッキーでした 。 こ
ままでは 二 一O O年 に 四 五O O万 人 に
少子高齢社会となり日本の人口がこの
の結婚相談所を始めて十年目に入る。
テアと超多忙な日を過し今年は全仲連
幼児に絵本の読み聞かせ、傾聴ボラン
人 に 日 本 語 を 教 え 、 生 活 学 校の委員、
交流協会で外国
た。松戸市国際
明け暮れであっ
ア活動と仕事の
年間はボランテ
定年後の十六
友会東京支部総
久しぶりに社
き て 行 き た い と 思 い ま す。
人 生 を ど う 仕 舞 う か 悔 い な く 精 一杯 生
に残さない 。 老仕度をしつつ、 自 分の
は﹂今日の仕事は今日のうちに、明日
う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものか
ら 感 謝 し て お り ま す 。 ﹁明日ありと思
社に定年迄お世話になったお蔭と心か
せて頂けるのも生活の安定。それは会
た 一種 の 宿 命 感 み た い な も の を も っ て
もっと早く死ぬだろうという漠然とし
というのは、私は、若いころから、
を 願 っ て お る 次 第 で す。
を 祈 り、 社 友 会 の 皆 様 の 益 々 の ご 健 勝
既に物故者となられた方々のご冥福
ました 。 そ の 後 は 家 内 の 再 三 の 骨 折 怪
方が出来れば良いなあと考え、過ごし
なるという。それはこの仕事をしてい
かしい方々と出
会に出席し、懐
い た か ら で す。
未知の世界に魅せられて、旅行を続
て来ました 。 そ れ も 出 来 て ラ ッ キ ー で
て如実に実感する。両親はさせたいの
会え、 重 ね て 社
我などもあり、家事半分を担いつつ
した。これから先の、多分それほど長
に本人はしたがらない 。 政 府 は 今 頃 に
友会より喜寿の
つようになったのかについては、私は、
少々健康に留意しながら、﹁無為自然﹂
くない人生の生き方は頭と身体の健康
なって、いろいろ対策を考えているよ
の時に肋膜炎・結核
高 校3年 生 の 同 歳 、
けられるのも元気であればこそ、健康
を維持し、出来ればリフレッシュし、
う だ が す で に 遅 す ぎ る 気 が す る 。 そん
お祝いを頂き、誠にありがとうござい
で 過 ご し て お り ま す。
孫 た ち 、 教 会 の 子供 た ち な ど 未 来 を 背
な中、子供が生めるであろう年齢の女
ました 。
に お い て 最 も 多 感 な 時 期 に 、 隣 の 病室
を患い3年 間 入 院 し た か ら で す。 人生
に感謝である 。 ヨガとカラオケを習い
負う子供に役立つ助けをして行きたい
性 会員 が 成 婚 し て く れ た 時 は 本 当 に 嬉
ふ り か え れ ば 、 私 は 昭 和 三十 二年 に
喜寿という年も忘れて、したい事をさ
と 考 え て い ま す。 そ れ に つ け て も 、 日
しいものである 。多 忙 な 中 で も 私 の 趣
工場、本社を行き来し、有意義で思い
山之内製薬に入社し、製剤工場、原薬
長橋輝江
本の未来に影を落とそうとしている輩
味の旅行は止められず、今迄に行った
時代も環境も選ぶことが出来ません。
は何を 考 え て い る の で し ょ う。 本当の
外国旅行は二十回、昨年は外国旅行三
輩友人に恵まれ、悔い無き会社人生で
出深い業務に携わらせて頂き、良き先
くのを見ると、 考 え る こ と は い つ も 死
ベッドの人までが次々に亡くなってい
の人、同室の人、さらには自分の隣の
ざるを得なかったからです。加えて、
回と日本旅行十回であった。今年四月
定年直前、病いを患い退職致しまし
はなく、健康保険の入院期聞が切れた
退院したのも、病気が全快したからで
が り ま す 。 国 民 の た め と 言 いながら、
たが、その後病いの回復を得て、一度
自分の思い描く世界へと導こうとして
経験しておきたかった自営業を六十才
であり、次は、自分の番であると思わ
上絵、砂漠に巨大な絵を誰が何の為
から十年程営み、ほほ順調に推移、休
あ っ た と 感 謝 し て お り ま す。
しょう。私たちのこの世の人生は高々
に ?。 謎 と ロ マ ン に 先 人 達 の 思 い を 想
日返上で頑張りましたが、景気動向の
に立つマチュピチユ遺跡。ナスカの地
間年位ですが 、 そ の 先 の 世 は 誰 も 知 り
像する 。広 大 な 滝 を 上 か ら 下 か ら ず ぶ
影響もあって七十才で無事廃業となり
に は 中 南 米 十 二日 間 の 旅 に 参 加 し ま し
た。 ア ン デ ス の 山 中 二 四OOmの断崖
ま せ ん が 、 永 遠 に 続 い て い ま す。 私は
グアスの滝でした。
濡れになって眺めるスリルと感動のイ
の亡くなった必歳を超えればそれでよ
そのような訳で、若い頃は、おやじ
の で や む な く 退 院 し た か ら で す。
その未来の世界を信じ、神を怖れる生
いる自己中心的生き方は赦されるので
何故、そのような一種の宿命感を持
な 感 想 で す。
というのが正直
く生きてきたな
ば、今日までよ
い、つことになれ
喜 寿 の感想と
寛
しょうか。先の世では赦されないで
松本素明
しょうか。力による平和は争いにつな
豊かさは経済にあると思っているので
西
岡
き方で、心の豊かさを求め、永遠の人
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さらにそれを超えると、還暦までで十
えると、あと叩年生きればよいとなり、
いが、ひとつの目標になり、それを超
一度二1 三 百 人 参 加 す る 大 規 模 な 関 西
した活動に毎週参加しています。年に
碁を通じて健全な心身の養成を目的と
囲碁クラブ﹂で、小学校で子供達に囲
き、誠に有難う
のお祝いを頂
この度は喜寿
は、我自身の健康と、家族の協力があっ
年に渡り福祉関係の仕事が出来たこと
日月)で退任、ほっとする間も無く小
分と思うようになりました。そして、
こども囲碁大会があります。又、各地
ございました。
き真に有難うご
寿のお祝いを頂
この度は、喜
囲碁をして日々の生活を楽しんでいま
ず 、 週 に3 日 、 地 域 の 人 々 と 卓 球 及 び
それでも、最近は、大きな病気もせ
談をするのは楽しいものです。
した 。 同期 の 仲 間 と 苦 楽 を 共 に し 、 雑
合ったハイキングは百二十回を越えま
ち寄って企画してくれます。体力に見
の名所・時の話題地や格安ツアーを持
です。関西各地に居る同期生より季節
生十数名とのハイキングを始めたこと
胃ガン手術をした頃、高校の関西同期
③体力を鍛えることは、定年二年後に
た
。
て何とか書けるようになってきまし
ました。﹁六十の手習い﹂を十年続け
田 市 の 公 民 館 活 動 の 書 道 教 室 に 参加 し
②悪筆を何とかしなくてはと思い、吹
いっさい妻任せで色々な面で分からず
けました。それまでは地域のことは
治会長を要請されて、仕方なく引き受
六十四歳の時に突然、測所帯程の自
後の高野山参拝も済ませました。
全 部を4年 程 掛 け て 巡 礼 も 終 わ り 、 最
なのにきずき、思い切って八十八ヶ寺
所かのお寺を見てどの寺も美しく立派
が有ったわけではありませんが、何ケ
も無事終わる事ができた。お寺に興味
四国一周を五回行き、八十八ケ所巡礼
旅行に家内同伴で出かけたり、事にて
行ってきました。定年退職後は、海外
萩 工 場 で ハ ル ナl ルの原末生産などを
て、パラキシンの原末生産、最後は高
根工場に入社し
昭和お年に蓮
ちに感想を聞いたところ、﹁日本語で
した 。
だけのことだと簡単に考えて出かけま
をしていましたので、英語で講義する
琉球大学医学部などで大学院生に講義
なりました。それまでにも京都薬大や
薬物動態学の講
とに大学院生に
を受けて隔月ご
の大学から依頼
数年前、韓国
のご健勝をお祈り致します。
にアステラス製薬の益々の発展と皆様
張って行きたいと思っています。最後
目標にして健康に充分に注意して頑
てこそだと思っています。次の米寿を
てしまいました。何はともあれ、日数
員 を 受 け て と 要 請 が あ り 、 ま た 引 受け
学校長 より直接電話が有り学校評議委
この年になると、もう、目標を立てる
の先生方との研修会やプロとの指導対
ざいました。定
④犬はウエ ルシュ・コ lギ1 で、飼い
らの要請で、次期の﹁民生・児童委員﹂
苦 労 し ま し た 。 会 長2年 目 の 時 に 市 か
講義してほしい﹂との希望がありまし
健康に気を遣うというようなことも
年からもう十五
主の気持ちが良く分かる賢い犬?で
を自治会長推薦の依頼受け、歴代自治
た。講座の学生は全員が日本語検定を
の輸が拡がっています。
す
。
年経ってしまい
す。孫にせがまれでもう七年になり、
会長などと人選しましたが、引受けて
パスしており、ヒヤリングは英語より
近隣の方や指導者の方々との付き合い
ましたが、現役時代に上司の蒲田さん
朝夕と夜、
くれる人が現れず推薦期限も迫り、仕
日本語のほうがよく出来るとのことで
特にしておりません。結核を患いなが
から﹁定年になったら独りで出来る趣
にも、あと十年元気でいたいと願って
方なく自分で引受けることになってし
じる毎日です。
小野雅春
朝起きて﹁日々これ感謝!!﹂を感
う生活をもう印年も続けています。
味を持て、下半身を鍛えろ﹂と言われ
います。皆々様のご健康を心より祈念
まいました。自治会長、民生・児童委
何回目かの講義のあとで学生さんた
義をすることに
野口英世
たことが参考になったのか、囲碁、書
致します。
したので以後の講義は日本語を使うこ
れ等の平々凡々な毎日を送っていま
あるとき、学生達と食事をしながら
とにしました。
雑談をしていると、﹁先生の日本語は
した 。 自 治 会 長 は 平 成 時 年4月1平 成
担年3月まで8年 間 、 民 生 ・ 児 童 委 員
員と何かと忙しい日々を過ごしてきま
は
、 3期9年 間 、 百 歳 定 年 ( 平 成 お 年
す
。
少し変わっているのが、関西棋院が後
① 囲 碁 は 五 つ の 会 に 参 加 し て い ま す。
一日コ 一回の散歩を続ける為
道、ハイキングと犬の世話、庭の手入
らタバコを吸い始め、 1 日に2箱とい
局が毎月あり、これらの活動を通じて
久
こともありません。
堀
援 し て い る ﹁NPO法 人 ラ イ フ こ ど も
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アステラス製薬社友会会報
がある様でした。私も中学生の頃、同
おばあちゃんがいて、日本語に馴染み
どうやら身近に大阪弁を流暢に喋る
に自信が持てました﹂と言われました。
の日本語より聞き取りゃすく、日本語
あちゃんの日本語と同じなので、検定
なまりがありますね。でも、私のおば
依頼で大学病院を回るなど苦労させら
C R Oの 発 足 し て い な い 頃 、 臨 床 試 験
薬品会社への売り込み、まだ米国でも
部勤務、米国駐在で藤沢薬品の米国医
思い出します。またその後の海外事業
に日本中の病院を巡ったのを懐かしく
のセファロセファゾリンの臨床開発
ラン、合成ペニシリン、そして国産初
げ、社友会の益々の発展を祈念して
与えて下さった編集子にお礼を申上
末筆になりましたが、投稿の機会を
なども楽しみの一つです。
に一度の小学校同級生とのミニ同窓会
会社の先輩・旧友諸兄との交流・月
美味探索など、遊び呆けても居ります。
張っております。団員となって十数年、
ります。週一回コーラスの練習に頑
が、高校に入ると先生の英語は教科書
の顔を見るためにも毎年クリスマスに
国に駐在しておりますので、二人の孫
業種は異なりますが、息子家族が米
い 状態三年間。ふ
経験し、無気力
三月。震度七を
平成二十一年
思います。その
遭遇して来たと
や就職難に良く
裏(東京)
生かされている日々に感謝です。
者の大変さを思うと心が痛みます。
昭和の時代に観光地が大変で、被災
﹁祈り、そして願い﹂
=一世代に歌い継ぐ日本のうた
今年はよい思い出が出来ました。
年輩のイギリス人やアメリカ人の友だ
れました。
を目で追わないとわからなかった経験
はニューヨークを訪問し、その際未だ
圃たつの事が出来
直井トヨ子(東京)
ちがいて英語で一緒に遊んでいました
があります。近頃、英語検定が流行し
米国御在住の友人元山の内製薬武田様
おりました処、七巡りのお知らせを頂
固 なくなり悩んで
した。中学生時代は勉強よりも出征兵
を感じる事なく生きて来る事が出来ま
り不自由や不便
お陰か今迄に余
士の家に勤学奉仕に行かされ、白い銀
シャリを腹一杯頂き食べ過ぎて腹痛を
起こした生徒が居た事を覚えていま
られ体格検査で終戦と成り此れは運が
す。中学二年の時、少年兵志願をさせ
毎年思い出すこと五月一日﹁メー
職後は秩父連山、晴れた日には遠くに
しました。今では嘘の様な話です。退
良かったと思っています。私が山之内
デー﹂夏の出来事、春夏秋冬の旅等、
製薬に入社した時は初任給七千五百円
近況とて語る程のものもありません
又卓球カラオケ、山と多くの人達に若
富土山を眺め乍ら家庭菜園を楽しみ、
甥五人の成長を楽しみに生きて来て、
が、敢えて申し上げれば、ボケ防止・
思い出ばかり多く、多くの人に出逢い、
で畳一畳千円で=一畳間借りでスタート
七巡りの未年
互いに支え合い、学ばせてもらったこ
連れ出しては、一処に遊んだことも鮮
を迎えて幸いに
頭の体操の意味も兼ね、韓国語作文教
明に覚えています。
思えば十八才で叔母となり、姪五人
と思い出に花が咲きました。
北は北海道、南は沖縄と観光旅行に
きて来たと思います。
昭和の事大が時代に変貌し、長く生
き、本当にありがとうございました。
私達は食糧難
ている様ですが、外国語を操って仕事
と毎年会食を楽しんでいます。
福岡史郎(名古屋)
をするためには﹁習うより、慣れよ﹂
そ れ に し て も2年ものあいだ韓国へ
出 か け た の に 、 ハ ン グ ル が 身 につかな
明けましてお
めでとう御座居
J
は熱いうちに打て﹂と言いますからも
一 ます。投稿依頼
いのは歳のせいでしょうか:::。﹁鉄
はや手遅れの様です。改めてジヨモの
支七巡もしたの
一を受け、もう干
f
かと、感慨もひ
歌の文句の受け売りですが、想えば
も健康に恵ま
室に通い、辞書と格闘しながら小学校
、 三泊四日の夏山
一月三日の新春 登 山
さと健康を貰っています。山の会では
遠くへ来たものです。
れ 、 月2 1 3回
います。長い人生を、その時代に合っ
ています。夏山合宿は一昨年は鳥取、
合宿、秋のバーベキュ ー が 恒 例 に 成 っ
と等生かされての現在があるのだと思
た楽しみ方を覚え生きて来たと思いま
の作文よろしく駄文を綴って居りま
す。現在は足の痔れと右手首の骨折又
のゴルフや車を
また、近くに二歳違いの兄と弟が居
味覚障害と神経系統の治療に通ってお
昨年は四国、今年は世界遺産と成った
称し、ドライブ・近傍の名所旧蹟探訪、
す
。
ぬ温泉地巡りの旅行など楽しんでおり
当時チオクタンに始まり、プリンペ
ます。
りますので、=一馬鹿兄弟・ 3 B会 と 自
運転して見知ら
小西孝勇(大阪)
セ込 hyの奉与を迎えマ
流暢な大阪弁に脱帽しました
としおです。
だと改めて実感しました。
石
田
。
。
に、長年住みな
平成十九年
流し反省会と称した宴会を楽しみ盛り
の利用が多く成り、最後は温泉で汗を
界であった営業所の業務を経験させて
根工場と勤務し、最後は私の未知の世
三年に入社し生産部の小豆沢工場、蓮
ます。昭和二十
自身驚いており
たものだと自分
めて長生きをし
をと云われ、改
七巡りの所感
が翌年花を咲き揃えるのが気に入って
数年来、晩秋に男定した﹁そけい﹂
謝しています。
常無くこれは全くの幸運であったと感
ましたが、二年毎の検査で今日迄は異
んでした。その十年後に肺癌を手術し
害は大で再建は容易な事ではありませ
いよろめきながら火を消しました。被
きしストーブを付けた途端に激震が襲
当日を忘れられません。所用の為早起
大震災の被災者として人事では無く、
近年は災害が多いですが、阪神淡路
ましておめでと
乙未年、あけ
日々を過ごして居ります。
互いに欠陥だらけの身体を支え合い
制、おかげで夫婦聞の会話も多く、お
事について掃除、洗濯、炊事と分業体
現在妻と 二人、妻が 病 弱 の た め 、 家
やく平成二十二年全て解放されました。
計約二十年、妻の強い希望もありよう
地域社会との繋がりで住宅環境整備
へか ら 自 治 会 長 、 更 に 地 区 連 合 会 長 と 合
豊(東京)
ます。
れた大阪の地よ
頂き、私にとってインパクトの強い五
います。また、縁あって名大から頂く
うございます。
斉藤都子(東京)
川り 、 神 奈 川 県 の
剖茅ヶ 崎 市 に 転 居
年間を以て山之内生活を締括りまし
小誌﹁理フィロソフィア﹂は難解で読
数えの出歳
熊野古道を歩いて来ました。最近会員
上っています。
九し ま し た 。 私 の
た。忘れられない貴重な時間となりま
み切れませんが、宇宙や生命の解明に
も高令化して来たせいか旅館、山小屋
娘二人は、それぞれ長女は東京、次女
した。今は工場時代の若い仲間と一年
関し興味をそそる内容で、毎年楽しみ
す
。
寿命の仲間に
で、一応、健康
成瀬慎一郎(東京)
来年もお会い出来る事を願って居ま
は神奈川に住んでいます。マンション
に一度昼食を取りながら思い出話に花
社友会皆様の御健勝を祈ります。
にしています。
私のこの未年は、早生まれですので、
入っています。
れ、激動の終戦
昭和六年生ま
卒業する頃高等学校になり、薬専の卒
学 校 で は 戦 災 で 家 も 校 舎 も 焼 失 して、
郁(東京)
幅を広げ(リハビリの延長かも)水泳、
時より昭和二九
業の頃に大学になりました。就職先は
渡辺
私自身もマンションの管理組合の役
ピラテス、ピアノ、コーチや先生方の
年山之内製薬入
四か月で左前になり、先輩から他の会
変わり目に出会うことの連続の二十
社へ行くよう勧められる始末でした。
年
。
まり青森から静
業生活、厳しくも楽しくもあり良き上
岡、慶島、横浜まで約 三十五余年の営
原田宏吉(大阪)
還暦を過ぎて
辛うじて入社の後は、三十二年の聞
に七営業所十三回の引っ越しを経験し
申し上げます。
昭和六十三年退社、即化学品商社の
早二回も干支が
の薄い処でした。その後、出向しまし
ました。概ね、何所でも前任者の足跡
巡り、近頃何事
司、同僚、部下に恵まれたことに感謝
す。今後ともよろしく日
小学校に入って国民学校を出る、中
員や自治会の役員に選任された時に
ご理解もあり順調です。社友会のイベ
社、水戸から始
暴れ年でした。
は、できるだけ参加して、マンション
ントに参加出来ない時期もありました
て五分程の恵まれた環境の中で、健康
て運転しています。湘南海岸まで歩い
ます。今年、新車を購入して、張り切っ
市立福祉会館や勤労会館で楽しんでい
日常生活では、社交ダンスや体操を
が以後なるべく参加する様努力しま
残りの人生を楽しく送りたいと趣味の
ンスも思う様に出来なくなりましたが
にも悩まされ長い間続けて来た社交ダ
八年前に脳梗塞を患い、最近は腰痛
を咲かせております。
の別の棟に住んでいます。
てスムーズに進めることが出来まし
るので、日常の生活も、娘の援助をえ
す。次女が同じマンションに住んでい
新しい住居は四階建のマンションで
藤
な生活を送りたいと考えています。
なり、平成八年退社、会社生活四十三
小原加工に入社、医薬原料でお世話に
た
。
にも手聞が掛か
年良く勤めれたと感無量です。
るのもそのせい
か、と思ってい
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後
住民との交流につとめています。
た
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白 川初年以上付き合いしている肋とは毎
これしないとボケるよ ﹄
﹃
﹂
れ が 毎 日 の テl マ よ ﹄ ﹁ うl l lん
今日行く所と今日用事を作る事よ、こ
るところです。
ま す。 今 年 は 、 参 加 し よ う と 思 っ て お
すが、この一年は参加が出来なくて 居
カルチャーの同好会に加入しておりま
社 友 会 行 事 で 、 山 歩 き ・歴史探訪・
筆 中 で す。
激石を例にあげますと、最初の作品
週ゴルフ(夏・冬除く)に興じている
出向会社へは無配当の株を買わされ
﹃
吾輩は猫である﹄ には、主人苦沙弥
(ス コ ア 記 入 せ ず 打 つ の み ) こ の 耐 は
られました。
を超え、単行本も刊行されました 。
くしゃみ
うちに功能がなくなったからと、飲ま
近 況 を お 知 ら せ し 改 め て 教 育 ・教 養
この期間は十年間でしたが、薬業界
取りあげた作家は激石を筆頭に却人
以外の方との交流が持て、世間が大き
先生が胃弱で、やたらにタカジヤス
昭和八年生まれ剖歳、私もこの年齢ま
で元 気 にゴルフで遊びたい 。
て、再建を目標に這い上がる道を与え
く広がりましたし、極めて順調に進み
タ1 ゼ を の む 場 面 が で で き ま す 。 そ の
言ってみれば、会社生活四十年余り
ない先生と飲ませようとする細君との
十 一世紀は
ク 、 大 地 震 、巨
予言 さ れ 、 そ れ な ら ば 自 給 自 足 の 生 活
可 大台風など)と
E
. よるパンデミツ
[(鳥インフルに
置 天変地異の世紀
,二
木下孝夫(東京)
ました。
の内で、後半の二十年間は、初期の様
やりとりが、面白おかしく描かれてい
を心掛けている 。
な変動激しい事柄が幾らもありました
牧野正信(大阪)
ます。﹃坊っちゃん﹄には海に釣にで
こ@
が、まあまあ順調に過ぎたと、思って
て雑魚ばかりで、﹁鯛なんて薬にした
年 を 迎 え 、 元気
基盤を作ろうと思い、十二年前にセカ
六巡り目の未
に過ごしてこれ
小屋﹂を建てスローライフを実践する
スローライフとは多忙な会社勤務の
つもりでした。
ンドハウスのつもりで故郷浜松に﹁山
たことを感謝し
て い ま す。
退職後は、ツ
アl旅 行 で 伊 豆 ・南 房 総 ・佐 渡 島 等 に
りの干支を迎え
始 ま り ホ テ ル 等 で 昼 食 ・宴 会 ・ 入 浴 帰
ビ1 ル・酒 ・ワイン 工場 等 の 見 学 から
に入会し、日帰り旅行に参加、行程は、
時 間 で 充 分 で す。
1二
張感も半月が限度で、農作業も 一
現在は調剤薬局勤務による適度な緊
す。
ハl ド ラ イ ブ で あ る と 実 感 し て い ま
したが、加齢と共に肉体にとっては
対岸にある生活をイメージして始めま
て﹂との要望、
りは、物産庖にて買物し五時頃帰宅し
数年前からは、自治会の老人クラブ
行って来ました。
もう叩歳過にな
ます。
委員からヱハ巡
社友会の編集
進(名古屋)
の李与を攻えマ
六込 hy
す。
くもない﹂と比除として薬が登場しま
ぎ
います。
生まれ年に従って、人はそれぞれに
繰り返し同じような環境を味わうもの
ですね。
退職以来二十年が経ちました。八十
才を峠に体はガタピシの音を立ててい
ま す。 考 え て 居 る 以 上 に 乳 み は あ る も
のです。羊飼いに素直に従って、ムー
トンの援助で暖まり、この体を返上す
るまで、羊プラス大、魚プラス羊、な
ど﹁羊﹂のはいった良い文字にあやかつ
て 元 気 で い た い と 、 思 っ て い ま す。
後藤直良(東京)
るのか 。
い人・山の神?﹂﹃だって定年したら、
0 し て お い て ﹄ ﹁無 言 (偉
﹁
今 日0 0
ま し た 。 最初は戸惑っていましたが、
十坪程の畑を借りて野菜作りを始め
お 手 伝 い ( 春 ・秋 の 収 穫 祭 、 草 刈 り 、
什定年数年ある日の夫婦の会話
れづれなるまま
薪割りなど)に来てくれることが楽し
み で す。
月 一回 の ゴ ル フ と 、 年 二回 後 輩 達 が
に、医薬品産業
畑の仲間に相談しながら出来る様にな
ます。畑で楽しい事は、月一回畑の仲
りました 。 出 来 た 野 菜 は 、 子 供 夫 婦 へ
間が釣に行き、翌日は、魚料理を囲ん
扶 養 家 族 よ 、 お さ ん ど ん 何 か 出 来 る ?﹄
でビ l ル を 飲 み な が ら 談 笑 し て い ま
の現状と展望を
﹁本多さん定年後は教育と教養よ ﹂
との会話
す。
送付したり、友人に食べてもらってい
本 を 著 し ま し た 。 ま た 半 年 に 一度づっ
﹁もっと勉強しろ?もう勉強しても
・
・
・
﹂
﹁
鉦
当
日
・
・・
夏目激石をはじめとする作家と薬につ
無理だし、したくないよ ﹂ ﹁勘違いよ、
論じた﹃薬の経
いての論考を、﹁薬事日報﹂に寄稿を
口羽年来の知り合い女医(神経内科)
続けて却年以上になり、現在も継続執
済学﹂と題する
定年退職後つ
本
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田麦典房(大阪)
定年退職後は
好きなゴルフで
り目のこの頃です。
という喜びをかみしめている未年六巡
斐があった・少しは地域に貢献できた﹂
ります。
元気に年を重ねて行き度いと思ってお
たいから大いに笑って感謝して楽しく
と書いてありました。私も幸福になり
今 後 も7巡 り 目 指 し て 元 気 に 遊 び 続 け
穏やかで人に尽くす。私そのものです。
頂ければ幸いである。羊のイメージは
し て き た が 、 情 報 の 一つとして留めて
と側自治総合センターや宝塚市からの
結果、最終的には自治会の建設積立金
ろと相談し、 何 年 も 粘 り 強 く 折 衝 し た
せんでした。委員会の皆さんといろい
しましたが当初は良い返事をもらえま
とでした。まず宝塚市に助成をお願い
た。最大の課題は建設資金を集めるこ
れ、十九年には委員長に任命されまし
館建て替え検討委員会﹂が立ち上げら
な課題がありました。十七年には﹁会
化した自治会館の建て替えという大き
自 治 会 で は 諸 行 事 の 実施 の 他 に 老 朽
た
。
動にのめり込んでいくことになりまし
は自治会長に祭り上げられ、自治会活
出され、十七年には役員に、二十年に
り、秋の文化祭など諸行事に引っ張り
のがきっかけとなり、桜まつり、夏祭
自治会夏祭りを軽い気持ちで手伝った
になってしまいました。平成十六年の
の思いとはかけ離れた生活をすること
が、実際にはこ
思っていました
暮ら したいと
います。ある新聞に書いてありました
内の散策と楽しく毎日を笑って過して
ブ に 入 り カ ラ オ ケ 、 ゲ ー ト ボ l ル、都
なって一一O 一四年の十月より老連クラ
ます。お蔭様で今ではすっかり元気に
だ三年半ですがさせていただいており
番もボランテアで東日本大震災よりま
だけど、毎朝近所の前を掃いてゴミ当
に立ちたいとの思いでほんの小さな事
は出来ないけれど、少しでも人様の役
ました。それでこんな私でたいした事
病を患って初めて健康の有難さを知り
日 楽 し み に 呑 ん で お り ま す 。そ し て 大
何 を 食 べ て も美 味 し く 好 き な お 酒 も 毎
来ました。今ではすっかり元気になり
の思いで地獄の底より這い上る事が出
癌になってしまい、半年入院しやっと
少しずつ良くなったと思ったら今度は
子に長年苦しみました 。そしてやって
し 、痛い 眠 れ な い 食 べ ら れ な い の 三拍
私が体調を崩
たが元気だった
三才になりまし
りを迎えて七十
一五年一月六巡
私も今年二 O
ショ l ン ﹂ イ ギ リ ス の ク レ イ ア ニ メ で
鹿島かんなが歌う童謡、﹁ひつじの
る冒険﹂村上春樹著、﹁羊のモコモコ﹂
く羊飼いの少年が主人公、﹁羊をめぐ
ソ ッ プ 童 話 ) で 狼 が 来 た ぞlと嘘をつ
じ﹂アメリカ童謡、﹁嘘をつく子供﹂(イ
えるのは有名で、﹁メリーさんのひつ
子供を眠らせるのに羊が一匹:::と数
また、言葉、本、童謡等を調べてみた。
アリブ等の食用として消費している。
をジンギスカン鍋、ラムシャブ、スペ
称する。毛を刈り取った後、大量の肉
一年 未 満 を ラ ム 、 一 年 以 上 を マ ト ン と
の羊毛は有名であるが、日本では生後
で世界のmppm第 四 位 と な る 。 利 用
飼 育 さ れ て い な い 。 総 数 は 1万2千 頭
福島等東日本が続く。西日本では殆ど
本では北海道が断トツで秋田、岩手、
はオーストラリアが半減している。日
インド、イラン、ス lダンの順で最近
数 の ベ ス ト5 は中国、オーストラリア、
た。先ず飼育頭
ついて調べてみ
るか定かではな
いが、私は羊に
は羊と同一であ
未(ひつじ)
おります。
家内と、小旅行を楽しみたいと思って
体力作りをして、長年、苦労をかけた
その問、週に 2回の趣味のテニスで、
リンピック ﹂を見るのが第一目標です。
くつもりです。 2020年 の ﹁ 東 京 オ
せずに、身近な事を、クリアーして行
今後の目標としては、余り高望みは
にしております。
つかしい方との、再会を非常に楽しみ
限りのサークルに入会させて頂き、な
は、社友会に入会させて頂き、可能な
くの事を学ばせて頂きました。退職後
ない多くの方との、出合いが有り、多
事が、出来ました。その問、数えきれ
させて頂き、無事に、退職させて頂く
副 四十年近く勤務
f R、本社保安と、
M R、 医 家 向M
藤淳薬品に入社
昭和四十年、
たいものです。
助成金で目標の建設資金を準備するこ
が笑っているから幸福なのではなく幸
三木祥吉(大阪)
とができました。関係者皆様の協力の
福になりたいから笑っているのであ
日本では教育テレビで放送。
岩田保子(東京)
お蔭で二六年八月から会館建て替えに
る、また幸福だから感謝するのではな
もしてのんびり
着手し、十二月には完成する予定です。
く、幸福になりたいから感謝するんだ
以来、小売向け
佐田彰嗣(大阪)
苦労の連続でしたが、建ち上がってい
以上、取りとめもなく情報の羅列を
く新しい自治会館を見て﹁苦労した甲
Ei
唱
Eよ
し て い ま す。
迎 え あ れ か ら 日 年 余 り 早 い も の で す。
います。定年を
とても満足して
に慣れ親しみ、
北海道での生活
に、初年余り。
転勤して札幌
部分もありました。上司、同僚、後輩
憶があります。言い得て妙と納得する
君は駆け足だね。﹂と言われた様な記
同期もいるが、
力疾走している
のUさ ん に ﹁ 全
座っていた同期
車の中で向いに
加代後半、電
く、種々の病気の治療に貢献している
革新性のある幅広い領域の製品が多
藤沢薬品の営業中心の会社生活は、
底に有ったからかもしれない。
病気に対する恐怖や健康への願望が根
療の仕事に携わることになったのは、
えることができた。このため、薬や医
看護とペニシリンの使用等で命を長ら
り、食糧事情の悪い中、両親の懸命な
虚弱で何度も生死をさまようことがあ
僧職の長男として生を受け、生来身体
共の事を心配して下さる方の紹介で、
やっと一人前の生活が続いている。私
し て 私 も 腸 脱 癌 を 患 い 治 療。 二 人 で
する事となった。転居後も妻の再発そ
え、平成二十年、私の故郷福岡に転居
が日課であった。その後将来の事も考
ぶ廊下でその日の病状を確認し合うの
食後に病棟を結
病 院 に 入 院。 夕
の為、同じ大学
に病を得、治療
月私と妻は同時
平成十八年六
高山暢ニ (福岡)
おもえば、妻の手作りの赤いちゃん
に恵まれながら、ひるがえってみると、
実感を多々経験させていただき、また
菊池英明(仙台)
ちゃんこを着て暖かく祝ってくれた家
皆に貢献できたのかなと、怯慌たる思
数多くの尊敬できる医療従事者と知己
(札幌)
族に感謝・感激して、記念の写真は今
いに駆られます。在職中には社内の風
川原栄
も居間に飾っている。退職後、どのよ
通しの良さを感じる場面もあり、我が
昭 和 同 年 愛 知 県 知 多 半 島 の 片 田舎で
だけで楽しかった自分を思い出して
一年 に 一、二度湯布 院 健 康 増 進 ホl ム
うにエンジョイするかプランを考える
を訪れる様になった。昨年は三月と十
健康になった様である。当然、ここは
とは有意義であったと感謝していま
しかし高度成長期の過重労働と劣悪
が迫ってくる。散歩をすれば秋は稲穂
温泉掛流しで風呂からは雄大な由布岳
を得、最新の医療知識を取得できたこ
る。囲碁や水彩画教室、道内ドライブ
次の七巡り目を迎える迄の一年一年
な生活習慣は、身体を浸食し、退職後
が輝き、風に乗って、モズのするどい
家族の中でも心掛けているところで
旅 行 、 札 幌 ドl ム で の 日 ハ ム や コ ン サ
ドl レ と 北 海 道 マ ラ ソ ン の ボ ラ ン テ ィ
は、中味が益々濃くなっていくと思い
悪性リンパ腫や食道癌を発症すること
鳴き声が聞え、川には朝霧の中を白鷺
す
。
ア、農園での野菜作り、など気の向く
ます。﹁禍福は糾える縄の如し﹂とい
となった。幸い最先端医療を施してい
月に十日間程を過し、自然の中で少し
ままやってみた。それから札幌シニア
う様に、色々な事が待っていると思い
ただき完治したが、改めて健康に留意
す
。
スポーツ大学に一年間参加し各種ス
ま す。 自 分 の ベ l ス で 歩 い て 行 こ う と
あぎな
ポ ー ツ や レ ク レl シ ヨ ン 体 験 を 通 じ 参
社友会の皆さんが、健康で充実した
止の基本は歩くことが最も重要と認識
をさせていただき、健康増進、老化防
社友会で﹁歩け歩けの会﹂の世話役
健康食である。)
1600キ ロ カ ロ リ 、 塩 分7 g以下の
施設である。(尚、食事は一日三食で
所である。病後の療養には、お勧めの
が豊かで大切な命を感じさせてくれる
が、ジッと餌を狙っている。一日一日
思います。
な企画であったと回想している。最近
日々を送られますことを心からお祈り
し
、 1 日213時 間 を 目 標 に 年3千回
し た 生 活 改善を認識させられた。
加者との交流を深めた。とても有意義
は診察券が総合診療科なみに増えて活
申し上げます。
宏(東京)
動はスローダウンぎみ。囲碁は四段で
足踏み状態、社友会や知人との対局が
一番楽しい。それと現在は卓球に熱中、
年、やや老化の
の会に参加し新しい交友や懇親があ
ゴルフ、山と温泉、カルチャー、麻雀
できるよう、健康に留意しゆったりと
に迎えることが
ています。平均寿命位までは健康寿命
り、健康増進、老化防止の一助になっ
を保持したいと願っています。
出来、よくここ
まで到達出来たものだと感慨を新たに
過ごしていきたい 。
同好会は歩く会の他に、絵画の会、
と こ ろ が お も し ろ く 続 け て い る 。6年
めているが元気
兆候が出没し始
を歩破しています。
後の却年、 2度 目 の 東 京 五 輪 が ・ :
六巡りの未
尾
超高齢化軍団の一員として元気に声援
玉の回転の意外性や相手とムキになる
松
2
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4年 1
2月2
5日 発行
友 (
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3
5
)
社
アステラス製薬社友会会報
よ
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ヮ
の世に生をう
昭和同年にこ
こと、先ずは家
迎えられました
の未年、健康で
今年は六巡り
犯・交通安全のボランティアに参加し
地区の同年者との月次喫茶、地域の防
会への参加、そ し て小学・中学・高校・
早い ﹂ と 言 い つ つ 、 社 友 会 行 事 ・同 好
早や六巡り。﹁お迎えは、まだまだ
いと思います。
来が、平穏で幸せであるように願いた
いました。ただ一つ望みは次世代の将
ての心境と言っても特に機するものは
け、早六回目の
族、友人仲間の
五巡りで定年を迎えて、田舎での、
干 支 を 迎 え てη
お蔭と感謝して
ないのですが、残された時を有意義に
とし昭和、平
歳。光陰矢のご
います。私は毎日初年前に入会しまし
の 手 入 れ 、 週5 日 の 畑 で の 果 物 ( ア ケ
西川佳雄(大阪)
成の営みの中、家族や社会に支えられ
たセントラルスポ ー ツに通っていま
ビ・枇杷・キウイ 等 )野菜作りを楽しみ、
登(大阪)
て の 今 日 で あ り ま す。 中 で も 藤 沢 薬 品
す。入会当初からジョギング仲間と 国
ご近所さんに無理やり貰って頂いてま
今里
勤 務 の お 年 聞 は コ ア な 期 間 で在り、営
内外のいろんなレl スに参加しまし
す。時には健康診断で一 喜一 憂しつつ、
送ら、なくては改めて考えなければと思
業 一筋 ( 薬 専 、 特 薬 ) の 日 々 だ っ た 。
た。そしてフルマラソンにもチャレン
七巡り近くのお迎えには﹁なんのまだ
自 治 会 ・ 神 社 ・ 寺 ・ 墓 地 の役も早々お
自 分 で も こ ん な に 、 長 期 間 サ ラ リ ーマ
部分日秒のタイムで完走しました。マ
ジ 、 的 年 篠 山A B Cマラソンで4時 間
芦がかかり、何とか済ませました。
ンが続けられるとは思っていなかっ
まだ役に立つ ﹂ と 言 え る よ う に 日 々 過
ご し て 参 り た い と 思 っ て い ま す。
中山悦子(東京)
また、金魚・メダカとの戯れ、庭木
親 交 を 深 め て お り ま す。
た。偏に周囲の方々に大変恵まれて、
ラ ソ ン は 却 分 ほ ど 走 る と ﹁ ベ 1 スに乗
こで走っている自分から離れて自在に
り﹂身体が楽になります。意識も今こ
時間空間を飛び越え普段忘れていた昔
自由閲達な言動が許された事に他なら
社内、お得意様、代理屈様の皆様に
¥ごと 少 し 前 ま で は
殴唱
司
dFJ ♂堂 々 と 年 齢 を 公
表していたの
ド
とがよ に 、 七 十 を 過 ぎ
開t
j運営規約内規等
一部改定のお知らせ j
なし 。
感 謝。 日 歳 で 早 期 退 社 し 実 家 の 造 園 ・
の出来事を思い出したりします。
年令とともに体力、持久力も低下し
土木業に参画、一昨年引退現在に至っ
今は体力維持のために足、腰、筋力(肉)
倉地博満(名古屋)
過ごしたいと思います。
サークルに参加して思うにアステラス
一茶の匂ですが、小 生 も 少 し は 周 囲 の
人々や自然の営みに、心するようにな
れたかなと。諦めかけていた初孫が早
こだわるように
送っております。六巡りの干支を迎え
五十才で退職後暫くは悠々自適に過し
数 え 易 い と 言 わ れ 、 複 雑 な 心 境 で す。
なり、孫娘とは丁度六十才違いなので
Fi込
A てからは何故か
たのですが、両親の見送り、子供達の
ます。
﹄
結婚、孫の誕生等めまぐるしく二十年
のトレ ー ニ ン グ を 行 っ て い ま す。 これ
名古屋、大阪、
日年度より、左記事項が一部改定さ
れますのでよろしくお願い致します。
①運営規約岡嗣団﹃社友会社員総
会・理事会・支部総会運営内規﹄
の支部総会懇親会参加費の改定
②﹁同好会活動運営規程﹄の社友
会補助額(上限)の改定
③﹁全体行事に関する規程﹂の社
友会補助額(上限)の改定
* 右 記 ①1 ③ の 改 定 内 容 は 、 別 刷
の ﹁ 社 友 会 の マ ス タ ープ ラ ン ︻ 第
製 薬K K、 及 び 社 友 会 に は 今 後 益 々 の
富士、富山での
余りが過ぎてしまいました。今も孫の
. 諸規程の
7 回}﹂の裏面の﹁2
からも健康管理のために、バランスの
二歳 、 毎 週 顔 を 見 せ 抱 き つ い て 来 る 様
勤めで多くの方
世話や地域行事の参加等に追われる毎
発展をして頂きたい。
は誠に上々なれど、反面この国の将来
に巡り合え、今
日 で す が 、 趣 味 の 茶 花 道 、 コ ー ラスを
よい食事とジムで汗を流し日々楽しく
は大丈夫であろうか?孫の寝顔を見
も音信を続けさ
白露に 、気 の 付 く 歳 に 、 な り に け り
る度思うのである。ともあれ、当面の
楽 し み 乍 ら 忙 し い と 言 いつつ日々を
メキが少なくなった生活を堪能したい。
{改定時期︼ 2015年 度 よ り
(2015年4月1日施行)
改 定 に つ い て ﹂ をご参照下さい。
目標は東京オリンピックに単身で観戦
せて頂いており
て お り ま す。 又 社 友 会 に 入 れ て 頂 き
開思
に行くべく、現状の疾病改善と、トキ
噛量
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土
アステラス製薬社友会会報
稿
た
。
開通って制作しお茶会で使い好評でし
その後も時聞があると窯元に通って
制作し、作る楽しさを味わいました。
大 学 の 図 書 館 に は 製 薬 各 社 の P R誌
が置かれていました。
回名品の焼物の写真が表紙を飾ってお
山之内製薬側の﹁新薬と治療﹂は毎
今までを振り返ってみて僕の人生に
でしたが、磁器は白くて冷たい感じで
までは、陶器は暖かい感じがして好き
草創期の磁器(初期伊万里)を知る
ました。すごい時代でした
ての大宴会を行い、僕も招待してくれ
中洲の料亭を借り切って関係者を招い
彼は個展を次々成功させ、昼間から
9年 間 長 崎 を 担 当 い た し ま し た が 民
0
あまり好きではありませんでした。
ループの方達と親しくさせていただ
事喫茶﹃けやき﹄の庄司夫妻とそのグ
初期伊万里には古唐津の雰囲気を残
していて何とも暖か味があってすっか
き、勉強会と灯油窯での制作、窯焚き
り 好 き に な り。 陶 器 も 磁 器 も の 、 窯 跡
巡りが始まりました。
て一緒に活動を続けさせてもらってい
もいたしました。今も民璽の仲間とし
その後東大阪(営)に、富山(営)
ます。
当時、上野焼の高鶴元さんが割竹
掲載され、早速訪ねていき、古窯の陶
式の登り窯を復元したとの新聞記事が
片の話になって意気投合いたしまし
三氏の解説が書かれていました。
就 職 を 考 え た 時 、 迷 わ ず山 之 内 製 薬
勤になりました。幕張に社宅を借りま
焼物を好きになったのは、母方の曾
したが、近所で﹁陶芸教えます﹂の看
で所長、そして本社医薬営業本部に転
それから高鶴さんの個展前の多忙な
板が目につき見学し入会いたしまし
附を選んだのは表紙の焼物にぐいっと
時期になると手伝いに来てほしいと電
た
。
祖父が表千家に出入りし祖母は師範を
話が入り蹴ろくろ用の粘土ひも作りや
た
。
り、﹁もし採用になったらどの辺りに
窯焚きもお手伝いさせていただきまし
引かれたように思います。
赴任したいですか?﹂とのご質問をい
薬科大学に進み部活への入部を考え
した。
二課(佐賀・長崎担当)で長崎配属で
ました 。 結 果 は 合 格 し 、 福 岡 支 庖 営 業
面接試験で趣味の焼き物の話題にな
ただき、﹁唐津焼が一番好きですので
部の役員をしていたからだと思えま
そんな環境がいつの間にかお茶や日
た。
ていた時、祖母が﹁焼き物が好きなら
す
。
本の古いものに興味を持ち、中でも陶
その辺りで仕事をしたいです﹂と答え
お茶を習っておき﹂と勧めてくれまし
表紙の焼物は創設者の山内健二会長
が和らぎヒントが浮かんだことを覚え
京都支庖では日本電産シンポの教室
ています。
大阪支庖に転勤になり芦屋の滴翠美
に入会いたしました。
以前はプロ養成所だったのでスタッ
が大変焼き物がお好きだったとの事で
フや設備がすばらしくすごくマンモス
部活のグループ研究で焼物を勉強し
配属後、休日には古唐津の窯跡巡り
やっと入会出来ました。
を行いました。窯跡は山の中に散在し
な教室でした。
術館直営の陶芸教室に順番待ちして
ていて、近くまで訪れても全く見つけ
での待ち期聞が長かったので半年
したが、入社時、すでにお亡くなりに
られずに帰ることも多々ありましたが
ていくうちに当初は古志野・綾部や楽
それは高台回りの土味や貫入(紬薬
陶片がまだいくらか散乱していて、表
ちょっとしか活動出来ず、高松支庖に
なっていてとても残念に思いました。
の細かなひび割れ)が使うほどに味わ
転勤になりました。
くすると古唐津に魅力を感じるように
いを醸し出す古唐津の魅力でした。
面採集しては締麗に洗ってラベルを
なりました。
毎年秋には大学祭に合わせて、外部
貼って整理し窯ごとの特徴を調べてい
創期の磁器も焼いていました。
館副館長(当時)の大橋康二氏で聴講
開催され演者は佐賀県立九州陶磁文化
講 演 会 ﹁肥 前 磁 器 の 誕 生 と 展 開 ﹂ が
せっかく入会できましたが、入会ま
の茶室を借りて茶会を開催したが、副
きました。
休 日 に は 奈 良 の 赤 膚 焼 窯 元 に3 か月
にいたしました。
有国周辺では古唐津を焼いた窯で草
席の道具を自分たちで作って使うこと
焼などに興味を持ちましたが、しばら
た
。
粘土を触っていると仕事のストレス
磁器に最も愛着を持っていました。
していたり叔父が日本民事協会京都支
うに思います。
り、当時国立博物館陶磁課長の林屋晴
南森正仁
福岡支部
按
は ﹃ 焼 物 ﹂ の レl ル が 敷 か れ て い た よ
自
由
Ei
唱
4
A
いたしました。
しばらく離れていた古唐津・初期伊
万里への思いがウワッツっと吹き上げ
てきました。
現 在 古 唐 津 研 究 交 流 会 の 事 務 局2年
達の仲間入りしてきた貴重な体験をご
/ 4 6 の3 日 間 、 全 国 の 大 ベ テ ラ ン
した 。 今 年 の 主 催 県 は 隣 の 栃 木 県 で 叩
歳にして漸く初切符を獲得したもので
を 経 て 事 務 局 長3年 、 伊 万 里 古 陶 磁 研
披露する事で社友会からの参加者が増
け て 良 か っ た と 思 っ て い ま す。
究会、肥前古陶磁研究会に所属してい
備されていて水道も通っていて焼物制
500坪 買 っ て 住 居 、 工 房 と 単 窯 だ
ます。
ー
け ど 薪 窯 を 築 窯 し 週3 日 の 調 剤 薬 局 勤
九州陶磁文化館で毎年開催されていた
社代理屈を早期退職してフランスに帰
たまたま、フランスのガラス食器会
又、年齢制限で入れなかった佐賀大
行に行けたことも勉強になりました 。
国 通 度 寺 で 1週 間 ず つ 春 と 秋 に 制 作 旅
昨年は古唐津研究交流会で企画し韓
の高齢者を対象に、長年蓄えたワザの
祭﹂の略称です。正確には満日歳以上
ね ん り ん ピ ッ ク と は ﹁全 国 健 康 福 祉
作には最高の場所でした。
務と制作を開始しました。
近世陶磁学会に毎年参加するようにな
る途中に憧れの唐津を一度は訪ねたい
学の唐津焼プロジェクトに入学でき、
講演会聴講がきっかけで、佐賀県立
りました。
ン氏と知り合い、古唐津の古窯跡に案
と 来 ら れ た フ ラ ン ス 人 の F ・ヴイルマ
レクタl、 各 歴 史 民 俗 資 料 館 の 学 芸 員
古唐津の主な窯跡案内、歴史家、コ
実行委員長として十分楽しんでいた
し よ う か 。 各県 の 社 会 福 祉 協 議 会 が 選
に医療・介護費の抑制が裏メインで
手団の募集・編成・派遣実務を担当し
て ま す。 開 催 地 は 毎 年 変 わ り 来 年 は 山
口県が決定してます。第幻回栃木大会
初日の宇都宮には訂都道府県+全政令
が 盛 大 に 挙 行 さ れ ま し た 。来賓皇族(常
れ、メインスタジアムで﹁総合開会式﹂
指定都市から元気なシニア男女が溢
流を楽しみさらなる成長したいと思っ
ンも盛沢山有り若者の国民体育大会と
U字 工 事 の 栃 木 出 身 者 の ア ト ラ ク シ ョ
ガツツ石松親子の聖火点灯、森昌子-
京五輪を訪併し、東照宮流鏑馬演技や
進 は 同 年 前 の 小 学 生 の 頃T Vで 観 た 東
陸宮と華子さま)を横に見ての入場行
中島
東京支部
のお蔭と御礼申し上げます。
今まで多くの方々のご協力やご支援
ています。
年 回6 回 以 上 の 薪 窯 焼 成 を 続 け 、 交
きたいと思っています。
ま だ ま だ こ の レl ル の 上 を 走 っ て い
り楽しんだり出来てきました 。
会社人生の傍ら焼き物で助けられた
だ け る よ う に と 準 備 中 で す。
会 の 夏 期 学 校 を 唐 津 で 開 催 い た し ま す。
す
。
学会での発表演題や学芸員とのコン
とした祭典ですが厚生労働省主管だけ
交流を通じて健康長寿社会造りを目的
える一助になれば幸いと思っておりま
タクト等がさらに夢中にさせ、将来定
今 年 は7月 日 日1 日 日 に 日 本 民 塞 協
さ ら に 知 識 や 人 脈 が 拡 大 し て い ま す。
3年 ぐ ら い 経 っ た こ ろ 英 語
再度京都支庖に転勤、ブライトンホ
さんに合わせて発掘遺物(陶片)の写
津の役に立てばと協力を行いました。
唐津焼を紹介する本が無かったので唐
は抵抗を感じましたが、今まで海外に
僕のノウハウで本を出版されるのに
んど詳しくはありませんでした。
彼は古唐津好きではあったが、ほと
でと協力を依頼されました。
で古唐津を紹介する本を出版したいの
うになり、
毎 年3 日 間 フ ラ ン ス か ら 来 ら れ る よ
内することになりました。
年後には唐津近辺に行って作陶したい
と強く思うようになりました。
一 方 、 高 松 三 越 デ パ ー トで ﹁
伝統工
芸士﹂展が催されていて、=一豊の岡本
焼の宅間さんが実演されていてお話が
出来ました。
備 前 焼 と 同 じ よ う な1週 間 焼 き 締 め
を行う穴窯焼成の陶芸教室があって、
紹介していただきました。
ここでの体験で薪窯焼成の魅力には
テル直営の陽屯窯で野島信夫氏やス
真撮影等を行いました。
まってしまいます。
タッフに習い、寺町三条で初の個展を
続きや間違い箇所の校正を行い、昨年
写真掲載の為の著作権の許可等の手
開催いたしました。
しばらくして会社合併で早期退職を
決意いたします。
で す 。 詳 細 は ﹁ ね ん り ん ピ ッ ク 栃 木2
対をなす国家イベントに感嘆した次第
ワ ー ク と し て 取 り 組 ん で 来 ま し た が2
拳・サッカー・水泳・ダンス・囲碁・
グランドゴルフ・インデイアカ・太極
茨城県からはソフトテニス・卓球・
014﹂ で 者 与 検 索 下 さ い 。
度の県予選敗けの悲哀を味わい今回臼
んりんピック出場。を果たしてきまし
坂井唐津市長は海外への観光客誘致
に候補地を探しに行きました。
小 生 、 定 年 退 職 後 の1 つの目標 クね
たのでこの機会に投稿させて頂きま
ベ タ ン ク ・ マ ラ ソ ン ・ ゲl トボl ル・
弓道・ 剣 道 ・ テ ニ ス ・ソフトボ ー ル・
唐津に行って焼きたいと家族と両親
ア メ リ カ の シl ファ l杜 か ら 初 版3 0
0 0部発売されました。
ロ
﹁、吋}屈のcEmロ ﹀ 巾。問問﹀ ﹀斗ω
伺﹂(唐津焼の最盛期)一唐
ω叶024司﹀月一
で半世紀を超え現役当時からライフ
す。 小 生 の ソ フ ト テ ニ ス 競 技 歴 は 今 年
を説得し了解を取り付け、すぐに唐津
まもなく以前から知り合いだった唐
津焼が誕生して磁器が生まれてくるま
唐津焼き発祥の地で飯洞聾窯跡のす
に是非とも活用したいと喜んでいただ
HN
津陶土の坂本氏が候補地を見つけてく
での最も輝いていた時代の古唐津)
ぐそば、周辺は古窯の森公園として整
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れました。
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れない仕組みで運営されてます。
は1度 代 表 に な っ た 選 手 は4年 間 で ら
ルl ル が あ る と い う 事 で し た 。 茨 城 県
固定メンバーが連続して出られない
て違いがありますが、唯一共通なのは
た。文化的・趣味的種目は各県によっ
選 な し の 推 薦 方 式 が2 種 目 あ り ま し
を披露出来た事が最上の喜びでした。
観戦に来てくれた妻や子供達にガツツ
予選R暫 定2位 の 結 果 で し た が 小 生 は
2戦2勝 で 今 回 、 結 婚 し て 以 来 初 め て
の台風国号豪雨により大会中止決定。
ば1位 上 が り も 期 待 さ れ ま し た が 無 情
県戦②ーーで勝ち、次の京都戦に勝て
ム は 対 静 岡 市 戦1 ー ② で 敗 け 、 対 岡 山
た東京を離れ生
年前に住みなれ
ちました。十三
年後十七年も経
早いもので定
れ故郷に戻って
なく健康によいものはないかと思って
今回感じた事は、身近な市町村社会
居たところに昔の友からカラオケに誘
来ました。来たものの何もすることが
以上、ねんりんピックは競技的・文
われて通い始めました。最初は思う様
憎 き 台 風 へ の 貸 し は4年 後 若 し く は 叩
化的・趣味的を含めて、組織や団体に
に歌えずなんとか上手になりたいと努
歳 以 上 に て 晴 ら す 所 存 で あ り ま す。
んりん﹂に参加する為の情報収集は個
加入してなくても国民であれば誰でも
福祉協議会と窓口の県社会福祉協議会
人で進める必要があります。併わせて
出られるメリットがあります。
祈り申し上げます。以上、ながながあ
か。社友会皆様のご健康とご健闘をお
勉 強 を 始 め ま し た 。 そ して 二 年 後 日 本
い声をしていると云われ本格的に歌の
力致し、二年が過ぎた頃カラオケ発表
域団体に所属する事が有利と思われま
クラウン捌からデビューしました。一
会に参加し、その時の審査の先生が群
くの文化的・趣味的な種目がある事を
す。主旨的に内容的にも莫大な予算を
りがとうございました。
も し 興 味 が あ り ま し た ら 毎 年4月 初
市町村独自に設定してる報奨金を頂戴
署 を 探 し 当 て て よ う や くmEで き る 現
知りました。
掛け国を挙げた 素晴ら しいイベントで
ケ-ジョイサンドに入りました。二作
馬県作詞作曲協会の先生で、君は面白
以下クねんりんピック代表になるプ
ある事は間違いありませんので機会あ
目は同じく日本クラウンから昭和風酒
の詳細を問い合せしたら如何でしょう
ロセス。をソフトテニスを例に示しま
らばクねんりんピック出場。を目指し
参加する近道はやはり競技団体か地
状です。
す
。
て 技 を 磨 き 体 力 を 鍛 え る と い う の も1
場、橋ものがたりの二曲を出しました。
催を広報します。(対象者は県内在住
連盟は一般県民を含めた代表選考会開
競 技 用 ) が 賄 え て 個 人 出 費3万 円 程 度
費 用 と ユ ニ フ ォ ー ム 2着 ( 開 会 式 用 と
通費と3泊4 日 の 有 名 温 泉 旅 館 の 宴 会
今栃木大会の参加費用的には、全交
す。今はカラオケ発表会のゲスト出演
す。本当にありがたいと思って居りま
多勢の皆さんが唄ってくれて居りま
ω
+
以上男
きない全国のライバルや他競技の人達
でした。多くの補助金のお陰で中々で
す。今は健康と若さを保つ方法と思い
しまい、自分自身考えられない結果で
趣味で始めたことが今はプロに成って
やカラオケ庖などで唄って居ります。
歳台女ペア/河歳
ベアの6名 が 団 体 代 表 メ ン バ ー と し て
との夜の交流ができたのは大変ありが
②
選出されます。
たく貴重な体験でした。
その他、各市町村地域の老人クラブ
の予選Rをやり、我がヨロ豆ロ茨城チl
結 果 を 記 し ま す 。 大 会 初 日 に4チl ム
最後に3年 掛 り で 臨 ん だ 我 が 残 念 な
自分でありたいと頑張って居ります。
この年齢になっても元気で若さ保てる
選考方式が最も多く日種目。
や 連 合 会 の 代 表 選 考 方 式 が3種 目 。 予
このような専門競技団体による予選
歳以上女混合ペアの各優勝
ω
ω歳 台 男 ベ ア/
者 な ら ば 基 本O Kです)
昭和風酒場がダムに入り、歌の好きな
作目は霧笛ホテルで赤城山麓カラオ
①県社会福祉協議会が県ソフトテニス
つのモチベ l シヨンかと思います。
旬に各県の﹁社会福祉協会﹂に予選会
するには自身で役所に出向き、担当部
との連携が無く、一般県民の方々が﹁ね
直
連盟に代表選考会の開催を委託し、県
健 康 麻 雀 等 、 総 勢171名 と 意 外 に 多
諸
票
田
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アステラス製薬社友会会報
2
0
1
4
年1
2月2
5日 発 行
友 (
N
o
.
3
5
)
社
石垣島横田好子(大阪)
KIZUNA 下徳芳之(東京)
紫 陽 花 戸 塚 善三郎 (大阪)
友達大屋俊郎(東京)
黒川郷の棚田
井崎裕司(大阪)
台風近づく裏磐梯永島智昭(東京)
うららかな海辺磯本浩(大阪)
社友会に来たモデル
高塩芳男(東京)
ウ
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,
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晶
アステラス製薬社友会会報
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年1
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5日 発 行
友 (
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)
社
春の公園矢崎滋(仙台)
山里の春渡遷恒生(名古屋)
錦を纏う穂高岳松崎公道(大阪)
西洋あざみ
暁の霧小谷吉春(東京)
宮田満男(東京)
彼岸花樋口正之(福岡)
司
. ""、、九
~L~~
刊
ず, ~... '--:~ ;:.予
千畳敷の初冬森田武(東京)
ダンジリヘアー
1
8
神山五郎(大阪)
平成二十六年十月二十四日
平成二十六年十月二十一日
句碑ひどっ国分寺跡秋深む
友井正明
コスモスの立に影置く白き雲
除門喜柊
比叡澄む茨海を護る秋の風
河村信弘
蝕進み月のみ込まる閣の中
片岡幸八
空瓶にコスモス持して独リの飼
一橋忠行
長き友一人留守本深酒す
天瀬光雄
枚田美智
木犀や木戸をくぐれば母がゐた
畦道の鎌休ませる彼岸花
秋一昆精進料理や技行寺
大場ひさし
小谷吉春
秋冷は伊吹頁に乗ってくる
放扇歯型遺して孫帰る
川脇久穂
添水鳴り葉擦れの暫L静まれリ
小池清司
運動会後振り向き走る孫
橋本喜代美
掌に余る甘藷を掘りにけり
-百年度支部総会日程 圏
各支部の日年度支部総会日程が左表の
通り決まりました 。
支部総会案内 ・出欠葉書等は日年 3月
中旬発送予定です。
皆様お誘い合せの上、 一人でも多くの
方のご出席をお待ちしています。
7
7大阪
木曽馬のやさしさ瞳秋うらら
小林達治
落葉掃くただ黙々ピ黙々と
島村能宥
よどみなさ天空の色野今後
仲村信夫
︻第四回理事会]凶年9月4日
一. H年度第 I四半期決算報告の件
二. 第叩回マスタープラン検討委員会
報告の件
三社友会創立叩周年記念行事に関す
る件
四 H 1日年度頒布品に関する件
五 新 入 会 員 承 認 & 会 員 動 態 報告 の件
六日年度予算編成スケジュールの件
七.91ロ月主要日程に関する件
八.その他
-19
の、
目
東出恭子
爽やかに空真二つ飛行機雲
目
田中保代
雨上がり三日月冴えて夜を裂く
藤原少砂
︻第叩回理事会︼凶年ロ月4日
一. U年度第 E四半期決算報告の件
二. H年度予算実績見通しの件
三.日年度改定案、ならびに運営規約及
ぴ諸規程 一部改定(日年4月1日
施行)に関する件
四日年度予算(案)の件
五. A社株式 一部売却に関する件
六.北陸地区の同好会活動に関する件
七.推薦入会会員承認の件
八.新入会員承認&会員動態報告の件
九.日年度ホ lムベ lジ更新計画の件
十.日年度主要日程に関する件
十一.日年114月主要日程に関する件
記
平子敏雄
草々の色それ、ぞれに草紅葉
堀田建夫
後
8
2大 阪
4
月2
4日(
針 福岡支部 ホテルセントラザ博多
7
2大阪
目
目
7
7札幌
宮士眺め癒す足湯の秋・??ら
古川龍郎
皮剥きに肉刺の皮剥け栗おこわ
声出して偲ぶ西行墳の秋
集
V昨年は大 雪からはじまり、洪水・土
砂くずれ・火山の噴火 自然の怖さを
等
﹃備え
しみじみ思い知らされました 。
あれば憂い無し﹄と言われますが、ど
こまで備えたら良いやら 。幸多 い 一年
となります事を祈りたいと思います。
子
扇
7
1 大阪
目
本郷宗祥
桃井克夫
目
紅葉狩女人高野の三姉妹
目
森田一宗
雨戸聞け台風一過青い空
安谷照子
目
-
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月2日同 仙台支部 江陽グランドホテル
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月1
2日
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) 静岡支部 焼津グランドホテル
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名古屋観光ホテル
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東京支部 ホ
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開)大阪支部
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定懇
月1
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附 札幌支部
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6日開 名古屋支部
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0東京
7
0大 阪
7
5福 岡
8
2大 阪
8
3大 阪
7
6大 阪
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9大 阪
7
4 名古屋
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7
1 大阪
西
田
場
事
年 支部
•
(敬称略)
物故社員報告
お 開催日 支 部
悔 4
月1
5付
日4広島支部
9
0大 阪
9
6大 阪
9
1 東尽
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8静 岡
8
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9河 南 一 雄
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9市 橋 秀 巴
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1倉 田 裕 充
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3岸 野 好 秀
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0築 谷 康 柾
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氏名
ご逝去日
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年 支部
氏名
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2高 木 雅 利
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6西 畠 政 子
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2池本碩ニ
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9上 山 政 郎
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5八木喜一郎
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8遠藤征治
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2岩 井 里 子
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4北 野 博 康
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8岡 村 四 郎
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21
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41
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8馬 杉 峻
2
31
1
4
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1
.
1
2高 橋 兼 夫
目
円窓の斑入り尾花の明月院
森田
武
2
0
1
4年 1
2月2
5日 発 行
友 (
N
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.
3
5
)
社
アステラス製薬社友会会報
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