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第五編 教育と文化

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第五編 教育と文化
 欝 驚・灘・ ・,鍵 難麟
鰹難灘灘. 、 一麟.、、,懸
鑛黙 灘灘,難 、 灘
灘難難 灘 一 醗 、宴 ,饗
灘灘灘 黙. 難 灘灘,.旛,1 灘 灘 、・灘騰蹴灘 駿、
灘 懸鰯獺鑛、
繋灘饗灘灘聾繋 灘麟灘 ・ 灘..難灘灘灘麟灘灘
第一章 教育行政の変遷
第一章 教育行政の変遷
第一節 沿
学制が公布された。 ﹁学校教育ノ精神ハ、人々、各々ソノ身ヲ立
二不学ノ戸ナク家二不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス﹂と全国民に学
テ、ソノ産ヲ治メ、ソノ業ヲサヵンニスルヨウニ⋮⋮﹂﹁必ラズ邑
の教育は、農民が米を作ると同じ道理で、父兄が努力すべきこと⋮
校を解放した。山梨県は﹁学制解訳﹂を出版し、県令藤村紫朗が﹁人
うに、繰り返して学問になれさせれば、学問ということはむずかし
⋮﹂巻末には本県学務官三谷恒が﹁稚き子供が桃太郎話を覚えるよ
いことではない﹂と添えている。さらに、六年一〇月、県は﹁山梨
e 学 務 委 員
わが国において学校教育が広く一般国民にまで普及されるように
県就学告諭﹂を出して﹁人皆眼前の差支と仕来りの習いとを言わ
育の道を大事と心得、世の文明を進め、国の富強を助けて、遂に皇
ず、思はず、時運の移る所に眼を着けて御趣旨の在る所に向い、教
ことである。しかも政府文部省の施策が強い力をもって全国的に実
施されてきたので、地方の各町村各学校における教育方釧や教材や
なったのは、明治政府の中央統制による明治五年の学制頒布以降の
指導法に至るまで国の教育方策によって変遷してきた。したがって
威の海外に輝やかん時を期するを肝要とす﹂と公布の精神と就学を
普及している。
本町の教育の発展も文部省や県のとってきた教育方策による時代的
特質をもって現在に至っ て い る 。
学区にわけ一大学区を三二中学区に、各中学区を二一〇小学区にわ
けた。人口約六〇〇について小学校一校、人口約二二万に対して中
この学制は、教育行政の機構として学区制を採用し、全国を八大
学校二校を置くことになっていた。山梨県においては、明治九年学
ヲ設クル事﹂の一項を加え、従来の寺小屋を小学校に改めて、その
運営を、県に当たらせようとした。明治四年七月、廃藩置県が行な
区を制定して布達している。
政府は、明治二年二月五日の﹁府県施政順序﹂の中に、﹁小学校
われ、教育の全国統一機関として文部省が設置された。明治四年
静川小学校沿革誌稿︵明治二八年四月編写︶に当校初代および二
二一月、学制草案の起草委員二一名が学制取調掛として任命され、
明治五年八月三日、わが国において初めて国民教育制度を規定した
927
革
第五編 教育と文化
年代まで断続的に記録され多数にのぼっている。
革誌に多く記録され、各村の学務委員の氏名が大正から昭和の一〇
明治コニ年改正教育令によって﹁学務委員推薦規則﹂がつくられ
代校長と伝えられる人の辞令の写しが記録されている。
三間 全勝
区町村会の推薦した学務委員を地方長官が任命している。さらに同
一八年に改正学務委員を廃し戸長︵村長︶をもって代えた。ところ
右 切石村郷校支那学訓導申付候事
伴 右門
町村の意見を聞いて知事がこれを定めることになっていた。この学
えた市町村制に準拠したもので、尋常小学校の校数・位置とうを市
長の諮問機関であった。同⊇二年の改正は市町村に自治の権能を与
が明治二一二年の改正小学校令によって復活され、その性格は市町村
巨摩郡第三十二区切石学校訓導申付候
務委員は三名ないし五名くらいで会を構成し、村長を補佐して教育
壬申九月十八日
明治六年九月 山梨県令 藤村 紫朗
但字学担当可致事
条件整備の任にあたり各村の小学校教育の振興に努力してきた。
⇔ 教 育 委 員
た。この事実のなかで政治・経済・文化および生活全般にわたって
昭和二〇年八月一五日、日本の敗戦によって第二次大戦は終わっ
第一大学区第四十四番中学区第五十番小学切石学校
小学五等訓導 伴 図
兼第四十九番小学西島八十五番小学飯富九十七番小
荒廃から立ちあがる平和文化国家建設の道はけわしいものがあっ
学柳川百二番小学箱原学校教頭申付候事
明治十年九月二十九日 山 梨 県 團
日本の教育が、民主的な平和文化国家の建設を方針とすることを強
た。九月一五日文部省から出された﹁新日本建設の教育方針﹂は、
を、中学区に学区取締を任命し、分担して就学の督励や学校の設置
当時の学区とか校名を知ることができる。その大学区に督学官
の﹁報告書﹂は教育全般にわたったものであったが、その中で、初
等中学校の教育行政や都道府県市町村に、一般投票により選出され
調したものであった。さらに昭和二一年四月第一次米国教育使節団
の土地の名望家や区長の中から地方官が任命した。区長兼務は明治
経費など学事を担任した。この学区取締は後の県視学に当たり、そ
れ、一、教育の根本理念を教育勅語に求めず、個人の尊厳を確認す
勧告している。二一年八月一〇日、内閣に教育刷新委員会が設置さ
た教育行政機関の創設を提案し、男女共学制の義務教育九か年案を
の教育行政者として学務委員制度が設けられた。これらの係官や委
一二年廃止となり、郡書記が学区取締りを兼務するとともに、町村
員が各学校を訪問し督励したことが町内小学校に保存されている沿
928
第一章 教育行政の変遷
長・副委員長を互選し、委員のほかに教育長をおいて事務を担当し
人を議会議員中から議会が選出し、任期は四年で、委員会は委員
た。これは中富町誕生の直前であって各旧村において選出され、各
る民主主義に求めて、国会の議決による教育基本法を制定するこ
り、義務教育年限を九か年に延長するとともに、特殊教育と男女共
と。二、学校体系を六・三・三・四に組織して教育の機会均等を図
その後二九年八月中富町が誕生し、中富町教育委員会が発足し
た。昭和三一年六月三〇日﹁地方教育行政の組織及び運営に関する
村の教育行政を担当し教育民主化の堅実な歩みを続けた。
および県に設置することを建議した。
町村に合議制の教育行政機関として教育委員会を置くこと。発足以
法律﹂が公布され旧委員会が廃止された。改正点は、従来どおり市
学を奨励すること。三、教育行政は、公正な民意の尊重、自主性の
昭和二一年二月三日、日本国憲法が公布され、翌二二年三月国
確保および地方分権化のために、選挙に基づく教育委員会を市町村
会で﹁教育基本法﹂が成立し、三旦三日に公布され教育方策の根
昭和二二年には地方自治制度が発足しようとしていた。教育委員
行政に深い見識と熱意をもって尽力された人々の名が各小中学校の
継続され、第二次大戦後教育委員と名称は変わったが、重要な教育
明治一二︵一八七九︶年学務委員制度が設けられ、大正・昭和と
ることだった。
会制度も地方行政改革と並行して進められ、二一二年七月一五日公布
沿革誌に記録され保存されている。昭和三五年中富町内小中学校は
来の公選制を改め、地方公共団体の長が議会の同意を得て任命され
された。この教育委員会法の実施にはなお啓蒙準備の期間を要し、
本を示した。この法律の第十条に︵教育行政︶が規定され、同日学
二一二年度に都道府県と五大都市が設置し、市町村は二五年度までと
は区々で不明の年度や記入のない年度もある。それにしても旧村か
沿革誌の形式を一定して重要帳簿として保管しているが、それ以前
校教育法の公布とあいまって新日本の教育改革が進められた。
に投票が行なわれ六名が公選され、県議会選出の一名と委員会事務
き、村長の手から教育委員会に移された。﹁教育知事﹂、﹁教育村
笠井 健吉 二九∼三〇 神宮司 茂 二九∼三〇
重複している。 ◎印−委員長 ○印−教育長︶
︵数字は年度を表示しているが委員の改選が九月であるので
︵昭和二九年八月以降︶
中富町教育委員
っている。
ら中富町発足まで約九〇年にわたる委員は、おびただしい数にのぼ
規定された。山梨県で二三年九月五日選挙の告示があり一〇月五日
局長としての教育長が選任され一一月一日に委員会が成立した。市
町村設置についてはさらに諸種の点の研究準備のため二七年まで延
期され、一一月一日、全国の市町村に教育委員会が設置されること
になった。以後教育委員会は一種の行政委員会として、地方公共団
長﹂のことばが聞かれたこともあった。
体の教育文化・学術に関するいっさいの事務はわずかの例外を除
この教育委員会の組織は五人で、四人を一般住民から選挙し、一
929
㊧
第五編 教育と文化
熊谷 弘毅
笠井 伍作
ら、中富町教育行政の目的達成に努力している。
指導のもとに、全職員相協力して、町当局と緊密な連携をとりなが
びに全町民の教育愛と熱意ある実践にこたえて、教育委員会の企画
た。
中富町教育委員会会議規則
中富町の教育行政の明確な基本となる条例および規則を制定し
教育行政の基本
O佐野 聡彦
村松 定一
古屋
◎O神宮字文吉
◎望月
佐野
遠藤
高野
佐野
中富町教育委員会事務局は、現在役場の東に隣接した庁舎に設け
られている。教育長を中心に八名で構成されている。なおその他の
教育機関として、甲南学区給食センター六名、原小・中学校共同調
理場三名、曙小・中学校共同調理場二名。さらに中富町青少年対策
ウンセラーが一人事務局で当該の職務についている。
本部と中富町青少年のための町民会議に所属する職員である地域カ
教育委員会事務局は、中富町教育委員会事務局の組織および運営
に関する規則に基づいて、総務・学校教育・社会教育の所掌事務を
中富町教育委員会傍聴規則
中富町教育委員会公印規定
中富町教育委員会事務委任規則
中富町立小中学校管理規則
中富町立小中学校処務規定
中富町公民館使用条例
中富町公民館条例
中富町体育指導員設置条例
中富町文化財保護条例
中富町体育指導員設置規則
処務規定
中富町甲南学区給食センターおよび共同調理場設置に関する
その他
事務局職員︵昭・四六年四月現在︶
教育長依田左門
930
天野
笠井
大森
◎O星野
◎○佐野
藤森
◎星野
武正美良啓文定聡弘伍
博一一明雄作吉一彦毅作
四四四三三三三三二三二
四二一六四二一〇九〇九
∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼
四四四三三三三三三
二一二五九四二一〇
第二節教育委員会事務局
河西 義雄 四三∼
◎加賀美和三郎四二∼
◎O深沢
○依田
九五三二一九〇〇九
∼∼∼∼∼∼∼∼∼
四三四三三三三三
三六四二三一一〇
担当している。歴代の町長の教育に対する深い理解と、町議会なら
OOOOOOOOOOOO
O
左美 忠寛勝良
門雄孝雄栄之一薫晃
第一章 教育行政の変遷
総務係長 笠井 文男
総務課
栄養士佐野
望月みつ子
給食係長樋川
〃 望月
養護婦望月
社会教育課
課 長
社会教育主事
公民館主事
佐野
カウンセラー
深沢
河西
和彦
昌良
931
育委員
礁
令敏杉秀
子子江尚
茂
第二章学校教育
第一節明治 学 制 以 前 の 教 育
O 寺小屋時代の教育
ふでこ
童を﹁寺子﹂または﹁筆子﹂といった。入学することを﹁寺入り﹂
そくしゆう
といって、寺入りには親が付添って行なって﹁束脩﹂といって現
した。寺院でなくともこれを業として経営する者が出現して、寺小
金を包んで祝儀とした。学習の用具である机・文庫は家庭から持参
屋教育は普及していった。
には私学が設けられたが、これもなお一部上流の家庭の子弟に限ら
にはかな文字が発明され学芸発展に大きな役割を果たし、平安時代
が設けられたが、一部貴族官吏のためのものであった。下って中世
された。大宝律令によって学制がしかれ、京都に大学、諸国に国学
教師−一人 生徒r男二〇人女二人︵明治五年調べ︶
切石村 杏林堂i医師、依田正俊︵明治一七年三月没す︶
沿革i嘉永六︵一八五三︶年開堂・学習年限−六か年
学科−読書・習字・算術・教科書−寺小屋本・四書五経
教師−一人 生徒ー男四〇人女一〇人︵明治五年調べ︶
西島村 立道舎ー医師、荒川堤︵明治二三年一二月没す︶
⇔ 中富町旧私塾寺小屋
た。甲斐の文化は武田家の奨励とひ護によって寺院を中心に振興さ
学科−読書・習字・教科書−寺小屋本・四書五経
教師−一人 生徒−男六三人女一四人︵明治五年調べ︶
れてきた。江戸時代においては幕府の文教奨励によコー、、藩校や武
学科!読書・習字・教科書ー寺小屋本・四書五経
芸指南 所 な ど の 形 で 武 士 階 級 の 間 に 普 及 し た 。
ら、主として手習を中心に読書・珠算などの指導を受けた。私塾を
切石村 学而堂ー医師・伴 図︵明治三九年五月没す︶七四歳
含めて﹁寺子屋﹂または﹁寺﹂とよばれた。つまり寺小屋とは広く
沿革ー天保一一︵一八四〇︶年開堂・学習年限1およそ八か年
沿革−安政三︵一八五六︶年開堂。学習年限1およそ七か年
教育する場という意味に用いられた。指導者を﹁師匠﹂といい、児
寺子屋は庶民の子弟が僧侶・神官・医者・浪士その他篤学者か
れていた。その後の戦国時代は主として僧侶の手によって保たれ
遠く上代にさかのぼると日本の文化は、仏教と儒学によって振興
第五編教育と文化
932
教師−一人 生徒男三〇人女O人︵明治五年調べ︶
復手紙の意味で、通信文のいく編かを収録して初歩の教科書とした
また往来物ともいわれ、往来すなわち進状・返状といったように往
・消息往来・古状揃・庭訓往来・千字文などであった。寺小屋本は
学科ー読書・習字・算術・教科書−寺小屋本・四書
んでいた。
もののことで、この種のものを教科書の一類型として﹁往来﹂と呼
夜子沢村環翠堂ー農・望月弥宗兵衛
沿革ー文政一一︵一八二八︶年開堂。学習年限ーおよそ七か年
ように川柳を交えて、すこぶるおもしろく述べている。
と青山氏は述べている。さらに氏は寺小屋教授のようすを、次の
八 日 市 場 村 博 愛 堂 ー 医 師 ・ 樋 川 道 英
教師!叫人 生徒男二〇人女○人︵明治五年調べ︶
身にあまる恩は七ツの年にうけ
学科−読書・習字教科書ー寺小屋本・四書五経・文選
沿革ー弘化二︵一八四五︶年開堂。学習年限ーおよそ八か年
寺小屋の入学年齢は別に定まっていなかったが、普通七歳ごろ
で、学習するしあわせを身にあまる恩と感じた封建社会と現代との
飯富村 尚文堂−医師、早川貞斉︵明治四〇年六月没す︶七一歳
違いがしのばれる。また全部の児童が寺小屋に入学できたのではな
教師−一人 生徒男三〇人女三人︵明治四年調べ︶
学科−読書・習字・教科書ー寺小屋本・四書五経
かった。
寺小屋の施設に寺院なり、自宅の一部をあてたものが多かった。
師匠さま子をかきわけて客を上げ
沿革ー安政四︵一八五七︶年開堂
れていた。
師匠さまひとうねづつにねめ廻し
右は﹁甲斐志料集成﹂によるもので、明治の学制公布まで開設さ
臼教育のようす
た個別指導と反復練習の教育であった。師匠と児童らの間柄が密に
学習方法は本業の傍であったし不完全なものではあったが、徹底し
金釘を師匠真赤に焼直し
語のそれであり、男子は﹁以上﹂と書くのをさしているのである。
め、男女は座を別にした。 ﹁かしこ﹂とは手紙の末尾に書く女性用
中央に師匠が机を前にして坐り、児童は両側に左右に別れて座を占
師匠様かしこと以上別におき
結ばれ、訓育徳化の効用は高いものであったと思われる。
大不出来清書も顔も赤くなり
金釘を直すに師匠骨を折り
かなくぎ
ん﹂とあるが、読書・習字・算術といういわゆる読み書き算盤の形
て習字の個別指導を賜わる学習ぶりがしのばれる。
生徒の座を回って、または正面中央の師匠の机の前に呼びつけられ
そろばん
狂歌に﹁名がしらと江戸方角と村の名と商売往来これでたくさ
ろは名頭字・是非短歌・日用文章・実語教・国尽・郷尽・商売往来
態を端的に示したものが多かった。教科書の寺小屋本の内容は、い
933
﹃県下の寺小屋事情﹄ ︵青山 靖著︶によると寺小屋教育の内容
第二章学校教育
第五編 教育と文化
師の影を七尺去ると 人 形 書 き
は約一〇%で、四九名から二〇名というのが一四か所の三八%で最
所で三%、一〇〇名以下が七〇%、郡下では一〇〇名以上というの
ているもののみの数であるが、だいたい一塾の児童数は三〇名から
も多かったようである。正確なことは不明であるが、記録に残され
手ならい子蜂のごとくに路次から出
昼めしを外からどなる手習子
した男女別の状況については、県下全体では、男子八三%に対して
四〇名ほどの規模のものが多かったようである。次に寺小屋に就学
手習子かえると鍋をのぞいて見
いつの時代でも元気な子どものようすがほおえましくしのばれる。
女子は一七%であり、南巨摩の場合は、男子八八%に対して女子は
つきよね
一二%であった。明治九年﹁入学人名録 巨摩郡第三〇区 春米学
一七世紀以前の寺小屋経営者はいずれも僧侶・神官であったが、
経営されてきた。県下では百姓・町人が三〇%、修験者・神官が二
治後半にもおよんでいる。
校﹂によれば男女の入学は八対二程度で、女子の就学率の低さは明
時代がくだるに従がって医者・百姓・町人などの身分の者によって
二%、僧侶が一九%、医者が七%である。ところが南巨摩郡下では
たろうが江戸なり他へ出て修業した者で、そうした余裕も機会も持
第二節
前明治五年の学制頒布にさかのぽる約九〇年間の沿革誌は、様式内
式で記録し永久保存の重要書類として保管されている。それより以
富町公立学校﹂の名入れの美濃紙特別あつらえとした。以来この形
算8、施設設備の整備9、主要行事とし、用紙は﹁沿革誌中
生徒数・学級数 5、卒業児童生徒数 6、授業日数 7、教育予
も記入︶ 2、設置者 3、教育委員・PTA役員 4、在籍児童
研究協議した。様式を定めて、−、職員・校医・使丁︵中途転退者
誌がある。昭和三五年町内小中学校教頭会で沿革誌の整備について
本町内各学校に、その学校の歴史を記録して保存されている沿革
中富町内小中学校
沿革誌
医者が三二%で第一位となっている。当時の医者が家伝の者もあっ
ち合わさない百姓・町人に比して知識人であったと推察される。経
営者自らが、師匠で、県下で指導者が四人のものが二か所で最大
一九世紀後半にはいって、寺小屋の普及がいちじるしく、子弟を教
で、九〇%は一人の師匠によって行なわれていた。天保から安政の
育することが民衆の常識となった。天保六年の﹁鳩翁道話﹂に﹁人
の子を教えずとも人になると思うてござるのは大まちがい、たとえ
ば米麦をまけば米麦ができるには違いはなけれども、こやしをいれ
草をとり、さまざまに手いれをせねば実がいらぬ、人の子もこれと
同じことで、うみ離しにして教えもせず捨てそだちに育て上げて、
ぬか﹂とある。
人らしい人にならぬと小言をいうのは、無理なものではござりませ
寺小屋の数は断続があるようであるが県下で二七五、郡下で五
〇、中富町で六つ。児童数は、県下では二〇〇名以上というのは九か
934
いない年度、また散逸して不詳の年間があるなど雑多である。それ
容ともさまざまである。職員辞令の写しだけのもの、全然記録されて
にしても百年間の量は莫大なものである。ぺージ数の限定された本
誌教育編にその全部の収録を望むべくもない。各校においての沿革
誌その他重要書類とうの厳重保存を祈ること切である。
業・終業式とうが同日にならび、遠足・運動会とうが多少の前後の
各校の沿革誌をならべてみると当然のことではあるが、祝日・卒
町内小中学校の沿革誌
しても具体的の現実の中味には、またその校独自の行事とともに、
.㌧蒔
遭
日付けで記録され毎年くりかえされている。しかLそれらの行事に
り、理想を追い進歩を求め曲折し哀歓を交錯してたどったひとりひ
経営責任の方々を中心に地域の人々と学んだ人々の教育の歴史があ
とり、またその校の足跡が秘められているはずである。
を背景とした日本の教育史ともいうべき教育の変遷を推察すること
なお沿革誌を通読すると、政治・経済・文化・思潮とう時代変化
ができる。国や社会の要請を基盤に法律や規則をもって、国と県の
いる。数度の戦争の影響は最も敏感に学校にもおよんでいたことが
教育方策が各小中学校の研究・実践・諸行事の中に強力にとおって
わかる。条件整備をした人、経営した人、学んだ人、立場や年月の
は、私たちはそのどこに位置してどのようであったのか。そこにそ
れぞれの教育史が語られるであろう。
しかし日本の現在の発展の根底の一つに義務教育の普及徹底の実
践があることはたしかである。
935
長短地域の差異はあるが、時代の特質を背負って、祖父母は、父母
第二章学校教育
第五編 教育と文化
施設の状況
施
昭和44年4月現在
設
一般校舎
その他校舎i 計
1運動場
3,554
2,08gi
5,643
1,429
2,565
1,005i
3,570
933
3,167
8,162
1,736
1,829
4,982
1,885
7,011
5,061
11,329
6,867
572 793
2,648
26,235
2,915
1
23,739i
1
レ
1
i
933
1,870
1,156
6.59
6.18
678
8.69
1,659
8.30
3.46
7.34
0.59
10,602
4881
864
78
〆08
﹃Q8
り16
1,444
8
(10)
6
(8)
( )
rOQ/
﹃D/○ ∠Ql
!○一! Q/Q/
587
141
6
(8)
︶
︶
︶ ︶9
4
6
8
3
37 ︶7
13
33
48
︵ ︵
︵ ︵ ︵
368
一!Q/
857
︶
222
学級数
(教員数)
︵
7
87
OQり
9﹄!
1
117
0り1
15
37
94
79
173
22
−〆0
1
235
㊥婁茎711器196
13
7
20
4
44
2
6
11
10
1
49
3
22
5
18
rD∩∠
!OrQ
1
8
2
児童生徒数
五工1
1
計
2
11
1
162
r 8
11 22
10
11,666
昭年44年4月現在
2
1
0
0
0
1,465
1 24
11 46
1 14
32
1 50
18
1.01
2.04
2,276
678
22
8.53
11.24
1,465
報数
Q!一!
02
19
45
18
25
7
15
17
32
10
18
8
21
21
42
0
0
7.97
2,276
学年別児童生徒数
26
講堂
6.08
1,4291
178
1,171
児童生 徒数
一般校舎
198
1,365
5 年 6 年
響児童生徒数
計
978
5,563
49,974
( 1,6721
3,565
12,072
平均当り児童
生徒1人当り
舎(㎡)
校
堂内場
操
講屋体
地(㎡)
敷
50
(77)
936
第二章学校教育
第三節小・中
学
1 施設の状況
122
手打沢1,041
190
古長谷 543
41
飯富 110
65
4 0 7 3 フ4
8
756688
14。5
222
37.0
368
40.8
78
26.0
141
28.2
444
224.O
2.学年別児童生徒数
\N、
1 年
児童生徒数
西 島小学校
原
〃
937
60
0
20
男1221
男2146
女25
女9
男93187
女94
計
合
1
男712
計
1
21
35
,
14
一 3∼_年、」 4 杢年
響乏児童生徒数闇児童生徒数 饗
蜷43
14 l1125
1屋142
l l l
617
1
1
1
1
1
13
25
36 1
11
5 81152
71
3
1
16
33
17
11 24! 1
1 13 i
5
2
6
57
08
216
08
1
15 14
1 35 1 27
20 13
66
118
52
63
126
63
9R︾
原 〃
女5
6
29
3
4
6 27
1
3
22
曙 〃
1
1
男1931
1
3
2
6
5
67
122 3
55
15
38
23
95
184
89
1
5
3
14
41
27
66
140
74
1
1
﹄,﹁5
甲南中学校
1
男1118
女7
男女一
計
男614
女8
女12
男58105
女47
2g
/○﹄!
〃
男1530
女15
5Qり
曙
響
児童生徒数
5QU
静 川 〃
1
1
昭和44年度小中学校
2勾 年
∩06
大須成 〃
4
1
1 0 1 り1
伊 沼 250
24.5
87
1 1 1 1 196
41
1 1 1 08188
古長谷 542
−王校17
学
小
切 石 307
33.5
19.5
ス 97
劉
98α⋮& 88
117
4 4,5,,4﹂引i5 2
52
1 235
65
1 24 111
久 成5,005
教職員数
人
教員 _i二
男1女i計雇用数1計
rD 4 rO 4 4 3 ︻︾ 8 Qり
西 島1,288
6 0 Qり り! 6
校校校校校校校校
学学学学学学学学
西大静曙原甲曙原
須
尉劇跡小晶中中計
計
女
7
6
8
6 6
5 9350
男
一学級当り
人
小・中学校の
児童生徒数
学級数
所在地
学校名
児童生徒数
第五編 教育と文化
新校舎建築はいっ
の時代でも大事業で
て努力した血と汗の
あった。地区をあげ
多くの歴史が秘めら
れている。
六・三制の学制改
革によって本町の小
建築推進委員会を中
らにした努力。
旧校舎解体・上棟式・
地鎮祭・敷地工事。
記念誌から︶
︵西島小学校PTA
の現実の姿である。
落成式と沿革誌の記録
西島小学校上棟式
中学校はつぎつぎと
新築された。
敷地のどうづき
938
学校︵明治の沿革誌不詳︶
第四節 小・中学校教育
島
小
して内外に大きな反響を呼んだ。
〃 二万 尋常科一・二年に自然科ならびに図画科を新設し
て、科学および芸術教育を高唱。一一月二一日学校劇を実演し、図
画展覧会を開催し、芸術と教育学校劇の教育的意義について研究発
表をして新教育思潮の実践に努めた。
した南北の校舎のうち北三分の二は中央玄関の上に一教室の二階の
〃 一五〃 七月二七日校舎増築起工式。九月一日上棟式。東面
あった校舎を改増して総二階の校舎とした。校舎裏に井戸があり炊
四十九番西島学校と称した。もと水戸藩の浪士川上竣が明治五年当
の明治六年一二月二三日開校され、第十六学区第四十四番中学区第
道路・溝堀の清掃を実施。少年団の日曜活動活発化
〃 四〃 赤十字少年団創立、毎月村内の墓地・神社・仏閣・
〃 三〃 第一回部落︵八部落︶対抗陸上競技会を開催
昭和 二〃 高等科が二学級編成
事室と一教室があり、北西に西島役場が近接していた。
地に迎えられ、子弟に読み書きなどを教えていたのが、訓導試補に
三四〃
三三〃
二〇〃
農業補修学校を併設
ほぽ現在地に新校舎を嚢西島螺小学校と改称
高等科併設、四学級
西島小学校と改称
ピアノを初めて備えた。
て公開研究会を開催
〃 六〃 引き続いて﹁労作主義の教育と読方科教育﹂につい
明治 七年度校舎を円明寺に移転
三七〃
六学級編 成
〃 八〃 ﹁私達の誓﹂の道徳法典を制定して訓育に資した。
実習地を二反歩開墾
〃 九〃 校旗樹立式。校歌制定。富士川堤防外の河原に農業
少年消防隊を結成。県主催の書道展に初出品
〃 七〃 山野横断競技を実施。創立六十周年記念事業として
と算数の研究を郡下に公開発表
三九〃
四一年から尋常科が義務教育として六か年に延長
〃 四四〃 七月七学級編成
〃 一〇〃 農繁休業を初めて一週間実施、台風のため校庭二尺
一一月校舎を増築
四二〃
〃 五〃 前々から研究していた教授法の研究のうち、読方科
任ぜられ西島学校創立にあたり初代の経営者となった。
創立当初の西島小学校は、明治新政府から学制が頒布された翌年
− 沿 革
一、
大正一〇年度 職員八名、尋常科三二六名高等科八四名で八学級
939
〃〃〃〃〃〃
編成、理科機械の設備を新設して実験を主軸とする理科教育を振興
第二章学校教育
の研究記録と授業公開発表会を開催
〃 二〃 県の合同視察を受けた。 その後﹁本校の修身教育﹂
浸水、開墾地が荒された。
2 西島小学校PTA
〃 四三〃 プール脱衣場設置。全校全面塗装工事実施
〃 四二〃 屋外照明灯施設。校庭に消火栓施設
河原開墾約五反歩。食糧増産運動に参加
二四〃
学校給食に母親交代で奉仕。新教育学習会の運営
昭和二三年度 西島小中PTA連合会設立
体育公開研究会に協力。遠足・学芸会に協力
施設の充実。県実験学校社会科公開の学習と協力
PTAスクール。旧校舎解体作業奉仕
二五〃
新校舎
二六〃
二七〃
三八〃
三六〃
三四〃
三三〃
県教委・町教委指定による安全教育実験学校
校旗更新・校歌制定・鼓笛隊編成
プール工事地鎮祭︵九・二︶完成翌年七月八日
台風のため校庭に約一桝の浸水︵八・一四︶
体育器具置場の建築
ラジオ全学級へ施設
A協議会長より表彰。
〃 三二〃 県PT
TA毎月一回実施
K放送教育公開協力
ン全学級へ施設。NH
〃 三三〃 カーテ
三九〃
グランドピアノ施設。梨大書道展五年連続最優秀賞
〃 三一〃 学年P
研究会開催
研究の県教委指定公開
〃 三〇〃 PTA
充実。中庭の池完成
〃 二九〃 図書の
営について郡下に公開
環境整備協力PTA運
二八〃
〃〃〃〃〃
四一〃
送聴取を中心として郡下の学校に授業研究を公開
〃 三二〃 西島簡易水道敷設に伴ない学校水道の完成。学校放
展覧会︵一一、三︶、校内放送設備完了放送教育開始
解体のため作業場︵公民館︶へ移転、新校舎落成式ならびに記念大
〃 二七〃 新校舎地鎮祭ならびに起工式︵一二二四︶旧校舎
二集﹂をもって公開研究会を開催L盛会であった。
県教委指定実験学校とLて県下に﹁本校教育計画第
郡教育会指定の社会科公開研究会開催
新教育課程の研究﹁社会科﹂の初公開発表開催
自治会の実践公開研究会開催
学徒援農運動参加。平和音楽会開催
体操および団体訓練公開発表
学校林植樹。学校田経営。模型飛行機大会実施
五三二一〇九八五
〃〃〃〃〃〃〃〃
PTA文部大臣 表 彰 記 念 式 参 加︵一、一六︶
校
学
小
〃〃〃〃〃〃〃〃
〃
〃
〃〃〃〃
島
西
第五編 教育と文化
940
4915U534474U444
魔器誇器撃捻豪亀翫鷺別盤訟
郎巳郎太一
太 太
寿清亨東貫
井井井井井
笠笠笠笠笠
重吉憲次盛
一健 淳
井井瀬井野
之
笠笠一笠佐
望望笠佐望 野望武長笠
月月井野月 中月田田井
一男三雄明 郎郎典平長
之 太
隆美五保信 二弥正一良
5
6
7
8
09
112
81
91
02
12
223
1 ︵ / 、 34
13
14
15
16
17
11
24
25
2
川窪深篠森深渡雨石望佐樋望渡若武二依佐宮名河星保土
上田沢原長沢辺宮原月野川月辺林井宮田野沢執西野坂橋
竣郎郎節勲郎郎造助郎彦申三三雄孝平雄一則之雄俊彰定
太治 三太 太
徳繁 義豊貞弁源聡茂久武貞衡行嘉善国義一 儀
治 正 和
明 大 昭
12
〃 三四〃 道徳教育公開に協力
〃 三五〃 プール建設促進活動
〃 三 六 〃 廃 品 回 収 活 動 、 プ ー ル 建 設 の 推 進 と 着 工 協 力
〃 三七〃 プール落成行事への協力、プール管理協力
生活指導の研究と実践活動、会員手帳の作成
〃 三八〃 成人教育活動を高める。家庭学習と安全で健康的な
〃 三九〃 安全教育公開に協力。PTA公開研究会開催。県P
および県交通安全協会より表彰
〃 四〇〃 全国
大会に保健活動を発
長賞受賞
表。日本学校安全会
A文部大臣表彰。記
就任年月
名
氏
/○一!890 1
10
234115
12346
r7
O 89
112 2
笠井俊次
〃 四 一 〃 P T
3。歴代校長
4。PTA歴代会長
念祭と記念誌発行
ル前交通安全の補導
〃 四 二 〃 プ ー
〃 四三〃 交通
TAスクールの充実
安全補導の徹底。P
〃 四四〃 体育
促進活動の推進
館・公民館建設への
941
むし歯の集団治療
第二章学校教育
西島小学校旧校舎
第五編教育と文化
5。西島小学校概況
円1
6,101
(高等科
男57女27)
5,497
(〃
男38女28)
6,931
(〃
男47女27)
6,688
(〃
男46 女37)
β
639,200
658,900
432,380
565,300
255,900
445,390
!349,000
t
283,000
356,000
491,000
445,000
1582,000
974,000
927,000
※ 経常予算は、当初予算で、需用費、備品費、報償費のみ
考
備
942
11 1222222223333333333444444
正
和
大 昭
1 1111 11111 11111 11 1
63
33
84
23
33
53
33
73
13
13
23
33
63
43
53
73
2
2
6
6
03
9
9
7
8
6
43
2
5
6
9
5
4
3
3
9
0
3
2
8
6
7
1
4
6
1
0
1
5
5
1
8
6
16
18
19
11
20
29
18
18
16
14
15
16
56
17
17
19
16
15
1
3
6
9
0
8
8
7
9
8
8
7
7
7
7
8
8
0
8
8
14
18
17
20
15
19
16
16
10
15
16
12
12
11
19
14
29
17
1
8791035543222222321
8
9
3
1000000109
7
8
1
118
11
111
1 3
112
111
0550234567890123456
計
女
男
経常予算
児 童 数
年 度 学級数 職員数
校舎にもまた歴史がある。町内各学校の沿革誌のなかに必らず記
二、大須成小学校
− 沿 革
録されているのが校舎建築の経過である。時代と地区の要望をにな
って努力した、関係当局者と地域の人々の労苦と喜びをしのぶこと
た、時代とともに変遷してぎた教育史である。今はその英姿を消し
〃 一〇〃 二一月八日小学校創立。大塩学校と称し、同日県よ
〃 八〃 四月大塩寺に移転
明治 七年度本舎狭駐となったので薬王寺に教場を移した。
が発布され同氏が岩間学校に離任して切石学校の分校となった。
平塾生であった岩間村折井譲三郎が招かれて経営にあたった。学制
があり、名づけて啓蒙学校と称して教学が行なわれていた。江戸昌
ができる。ここにかよって学んだ幾千人の語る思い出ばなしもま
て人々の心のなかに残っている校舎もある。
しじまに
ひ まなびや
灯ともる学舎よ
若ぎいく日の
り係官臨場して開校式を挙行
夢 お り て
かえらぬ 心
れ、本村尋常小学校の位置は大塩と決定された。
〃 二二〃 六月二七日県令をもって小学校設置区域を定めら
〃 二〇〃 三月三〇日県令をもって大塩尋常小学校と改称
宅を借用して移転
〃 一八〃 七月三一日仙応寺は借家満期に付、当区河崎儀門氏
区内にはいった。
〃 一五〃 五月学区編成により第五学区となり、南巨摩北連学
に分校が創設された。
番地一反三畝八歩の地が敷地として認可された。九月二〇日平須区
〃 一四〃 五月三一日付県令をもって、大塩区字西村一五四〇
器械器具とう灰じんに帰した。仙応寺を仮校舎にあてた。
〃 一三〃 二一月一八日民家より出火、本校延焼し本舎事務所
さびしくもまた
なつかしき
いくとせや
またたく星の
つどい
集学びし
おもいは深き
過ぎし日の
学舎よ
さびしくもまた
なつかしき
943
ひたすらに
大須成小学校旧校舎
明治五年学制頒布以前から、地区有志の努力によって私立の学舎
第二章学校教育
第五編 教育と文化
久成分教場・平須分教場︵池の窪二畝二四歩︶の設置が許可され
〃
〃
〃
製造
供出、
〃 二三〃 一月二六日新校舎が落成し移転した。 六月二 日
た。
四年、五・六年各一学級と平須分教場一学級︶
〃 四一〃 三〇年以来の三学級が四学級編成︵一・二年、三・
〃 四四〃 樋口仁助氏持家を借用して仮校舎にあてた。
〃 四二〃 校舎狭隆のため、大塩寺を仮校舎にあてた。
大正二年度 八月運動場七〇坪五合を広め、体操機械・鉄棒を建
設した。
〃 八〃 校舎新築学校統一問題に関し協議会を開催
校地の指定を茂手木郡長に委任した。 五月県および郡係官来校
初︶
〃 三一〃
〃 三〇〃
大塩分校廃止。旧校舎取りこわし新校舎へ移転。校
〃 四二〃 グランドピアノ披露音楽会開催
944
一八〃 平須区草里内約一町歩に檜三千本を植樹
二〇〃 どんぐり六俵・藁ぞうり二〇〇足・学校田の籾七俵
終戦の詔勅。 食糧増産および食用草の採集供出活動 木炭
カリキュラムとガイダンス研究と授業を公開発表
ナトコ教育映画会。中部連合自治会発表会出席
二二〃 小中合同入学式。松葉供出の見返りに松葉菓子受
二一二〃
火鉢にかえ薪ストーブ全学級に施設
放送施設を本校・分校に完成。眼科医による検診
二四〃
二五〃
郡へき地校研究会主催の分校経営の研究発表実施
二六〃
二九〃
〃 九〃 八月七日大須成村立大塩尋常小学校は同村立大須成
〃 三三〃
一一月一六日起工式。一二月二八日上棟式
尋常小学校と校名が改称された。 ︵第三編町の行政第二章議会のあ
トラコーマ撲滅運動継続の結果二名のみとなる。
台風災害で食糧輸送のヘリコプターが校庭に着陸
五日制完全給食が実施された。
三六〃
三九〃
町教委指定実験学校となり中富町小学校社会科副読
三四〃
四〇〃
昭和四年度 一一月三日校旗樹立式。肋木・横木を施設
〃 四三〃 地区体育祭として午前に小学校の運動会を行ない午
し研究授業をして、支会・郡に公開発表研究会を開催
本﹁わたしたちの中富町﹂および教師用資料集の効果的活用を研究
〃 コニ〃 高等科複式を廃して高一・二の二学級となる。
〃 一二〃 協議案によって五月三日から大塩分校を設置
同時に高等科一、二年を収容して授業を開始
〃 一一〃 新校舎で授業開始、平須および大塩分教場を廃止
舎が倒壊した。
た。大塩区児童同盟休校。六月三〇日暴風雨のため建築中の中田校
〃 一〇〃 四月一日から本校を久成区に移し単級教授を行なっ
庭拡張工事も完了し九月一〇日落成式をあげた。
大須成村解村式に参列。校舎建築許可議決される。
新校舎建築協議会
成 実 地 調 査 開 始︵二月︶中富町立と改称。
を
結
領
ゆみ参照︶
して調査 一〇月三一日 大運動会を挙行︵当校単独運動会の最
〃〃〃〃〃
〃〃〃〃
った。校歌制定発表会︵一〇、二二︶。プール建設
きたのでPTAスクールも熱心に行なわれ、学年部会とともに部落
た。また伝統的に教育座談会や学習会が農閑期を中心に行なわれて
害復旧や通学路の修理作業出動もそのつど労をいとわず実施してき
・雪などの時の通学補導、保護も多かった。台風後の校庭校舎の災
促進委員会発足︵一・二︶
会を開催している。
後地区諸団体区民と合同体育祭に参加するようにな
〃 四四〃 大須成プール起工式︵五二二︶八月二八日から使
須区の縄文土器発掘現場を見学した。
用開始。一〇月一六日竣工式挙行、二月二四日平
力して実践しているがさらに造林部がある。本校の沿革史をみての
専門部は研修部・保体部・生活部・整備部とうが中心で全体が協
特色の一つである植林については、ながい明治時代からの伝統が推
察できる。職員児童生
2 大須成小学校PTA
大須成小学校にも古
父母の出動、また下刈
り作業に奉仕している
徒とともに植林行事に
あげて小学校の後援に
記録が多く、他のPT
くから教育後援会が結
尽くした。保護者会も
の活動は特色といって
Aにみられない造林部
いての促進運動、・てし
よい。新校舎建築につ
て落成後の校舎内外の
環境整備への誠意と努
あった大須成プールの
力、またながい宿望で
献身的な協力は多大な
建設への地区あげての
力であった。
大須成プール
成され て お り 、 地 域 を
大須成小学校
あり講演会、教育懇談
会を開催し、成人教育
は、青年の補習教育と
ともに、また青年団の
育環境の整備に熱意を
よって児童の福祉を増
もって協力することに
進し、地区発展のため
に歩 ん で き た 。 山 道 の
遠距離通学のため、雨
945
学校奉仕とあわせ、教
第二章学校教育
第五編 教育と文化
こともその特色の一つといってよい。
一/− Qノ
泰寛男
義三
二
森月月
大望望
11
42149−108,2一,
782艦79鴻乃6563
53637
〃夏の谷の風物〃
る。 ﹁カマス﹂までも動員して炎天下汗と水にぬれての奉仕作業。
毎年七月になると子どもらにせがまれて父母総動員をお願いす
やがわ
びながらはしゃぎまわる。大雨がくると鉄砲水で元の川。なにはと
が出現。両岸の緑をうつし青々とたたえられた清水。セミの声をあ
られる。魚もとれたっけ⋮⋮。旧村の谷間の風物だった。安全で衛
666666666
6
6
6
もあれ
ご注
進。
いやおうなしの再出動。またたのしい遊び場がつく
94
888888888
8
8
生的な
今日
のプ8
ールで育つ現代っ子には今は昔の物語。
現在は町内にみごとなプールが五か所。地域ぐるみと各関係者の
89
5
3
30
41
42
43
44
4
4
物
心に
わたる多大の労苦の結集のおかげ。昔をしのぶにつけ改めて
28
12
29
12
946
23456789
訓文院勇蔵雄範郎一郎吉
太
昌好 高虎常四和良輝
森野寺松野寺月山沢沢野
宮 宮
大佐神小佐神望秋深深佐
推察でぎる。役員は二年継続制で、じっくりと活動を展開している
413,000
12
校校
本分
︹044
44
44
4444
44
449
6!646
1
2233
4/○﹄/14
148
131
117
104
P T A歴代会長
全村あげての学習と奉仕活動を継承してきた伝統が沿革誌の中から
25247 92647
1 ‘1⊥
ヨヨヨ ヨヨ 234,000
418,000
27
名
39014 89473
正
大
清市三六三 雄三義郎平
虎九賢昌賢 貞賢直次甚
半
188
176
163
150
10
市川 孝雄
深沢 武
深沢 賢造
依田 左門
野田 和勇
12
r7
O
28
2
23
242
2
388,200
1
西田野月野 林野田山月
門依佐望佐 若佐依奥望
12345 67890
11111 11112
208
217
214
206
﹁われんとうも てんでえi﹂子どもらも懸命な協力で谷川プール
11897775
54
99 109
〆04
190
12
就任年月
地区全戸がPTA準会員として協力している姿の中にも、昔から
〆04
96 94
26
校校
本分
642,000
745,000
182
4
昭和
372,000
891 95
1001114
240
123
7
26
佐藤 昇1 13.12
渡辺長十郎1 29.5
佐藤 昇 30.2
佐藤 昇 31.4
島津己之三 34.7
196
104 118
伴 平太郎 8.10
房子女子計
445,900
井上 未白 9.3
佐藤 昇1 11.1
今井 太郎1 13.10
95 101
34
望月 章 明治5.
1
12345 67890
学級数i
(当初)
氏
教育予算
讐 1児童数
年度
歴代校長
3
大須成小学校概況
5
川小学校
一、切石学校︵巨摩郡第三十二区切石学校︶明治九年六月
一、〃 ︵第一大学区第四十四番中学区第五十番小学校切石学
校︶明治一〇年四月
石難小学校明治二五年育
一、切石尋常小学校 明治二〇年三月
〃 四四〃
御真影奉安所上棟式
四月一日より高等小学校年限三か年が認可された。
二月二日新校舎落成式を挙行した。
七月二二日第一回オール女子庭球大会を主催した。
五月二七日第一回峡南児童庭球大会を主催した。
〃 五〃
〃 一四〃
第一回体操科研究会公開授業を尋一∼高二まで全学
少年消防隊発会式 同隊のニュース撮影︵一二・八︶
年実施、 文部省、 県係官をまじえて成果があがった︵二・一二︶
〃 四〃
昭和二年度
大正三年度
石分校生徒を本校に引移して開校式を挙行した。
となり、従前の切石尋常小学校ならびに南巨摩郡北部高等小学校切
明治二五年 六月一日﹁本日新学令に依り切石尋常高等小学校﹂
一、
昭和一六年以来の静川国民学校を静川小学校・同中
戦時教育体制として、食糧増産運動に参加
全教科研究授業の公開発表︵二・二二︶
校旗樹立式︵二・一一︶
校庭拡張工事実施。手打沢区水害復旧に奉仕
県下第一回庭球大会に優勝、学務部長より授賞
二九五四〇九八
〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃
〃 二四〃 保護者会の活動により井戸水ポンプ新調水道施設
学校と改称新教育の研究を推進した。
〃〃〃〃〃〃〃
敬意と感謝の念が湧
く。
三、静
− 沿 革 ︵昭和二年以前の沿革誌は不詳︶
る。次の記録は唯一の沿革誌稿﹁職員辞令写﹂の記録によるもの。
校名変更。
一、切石郷校 明治五年九月
947
本校に保存されている沿革誌は昭和三年六月編集されたものであ
第二章学校教育
夜子沢川で水あそび
第五編 教育と文化
〃 二五〃 学校放送施設完成。水道工事起工式︵一・一九︶
・三︶
九月一一日竣工式。グラソドピアノ披露祝賀音楽会︵一二
〃 四一〃 郡下学校安全研究会を開催、本校が研究発表した。
〃 二六〃 健康教育公開研究会︵一一・二九︶ 進駐軍教育担
当官・文部省・県係官ほか他校職員父母多数参観︵二・二九︶
から一学級を開設した。なお中部連合PTA会長の兼任による特殊
し、三七年ごろから障害児教育の研究を継続Lてきた結果、本年度
〃 四三〃 四二年度PTA総会に特殊教育学級設置促進を決議
を推進し、二月二九日県から表彰を受けた。
ル揚水工質。校外交通安全を含め学校安全教育の計画と実施の研究
〃 四二〃 児童図書四〇五冊補充。中央ホール廊下増設、プー
〃 二九〃 二七年以来陳情と調査を重ねた新校舎建築推進で四
〃 二七〃 県教委共催による両郡の学校保健主事に公開研究
月二〇日に起工式、七月二九日に上棟式をあげるに至った。
〃 三〇〃 五月一四日新校舎に移転。県教委指定実験学校とし
て﹁小学校の道徳教育﹂の研究を進め公開研究会を開催した。新校
舎に水道施設完成︵九・一〇︶
〃 三一〃 五月二六日新校舎落成式と祝賀展覧会開催。研究主
を実施し、また郡・県の主催する泳力会に参加した。本年度から秋
教育振興協議会をも設立した。八月から九月にかけ校内泳力テスト
の運動会は午前は小学校、午後区民体育祭として実施
題﹁教科外を通して生活指導をどう行なうか﹂をもって公開
〃 三三〃 下田原が下部町から分町し、合併したため下田原地
を﹁学級会活動﹂にとり、理論と実践の研究を推進した。
の公開発表。中富町教育委員会研究指定校の第一年次として、主題
に優勝した︵九・一四︶。特殊教育研究会開催。体育科の研究授業
〃 四四〃 泳力テスト県大会二〇名参加して男子自由型リレー
〃 三五〃 既設校内水道を切石簡易水道設置にともない切替え
〃 四五〃 研究指定校の第二年次として学級会活動の研究を推
教室の増築落成式
区児童八六名転入学。一〇月二九日講堂︵音楽室︶七二坪と階上二
優良により文部大臣およびPTA全国協議会長より表彰を受けた。
消火栓三か所設置。ベルタイマー取付け。講堂暗幕施設PTA活動
〃三八〃校舎裏石垣工事。石畑区大火災による児童り災。校
2 静川小学校PTA
進して、研究紀要と実践授業をもって公開発表を開催
昭和二二年度 保護者会設立。新教育理解のための研究会開催
旗更新樹立式︵切石から静川への改名、一〇・二二︶
〃 三九〃 本校裏庭に甲南学区給食センター落成して二耳二
〃 二四〃 粉乳給食に会員交代で調理奉仕、水道修理奉仕
〃 二五〃 学校水道施設がたびたびの奉仕によって完成した
〃 二三〃 会を改めPTA発足 小中PTA合同会議
〃 二六〃 学校環境整備奉仕作業。旅行遠足とうの研究会
二日から給食実施。九月一五日プール建設委員会結成。区内外へ協
を積みあげた熱意をもとに促進をはかってきた。
力要請を重ね町当局へも陳情し、ながい年月廃品回収その他で基金
〃 四〇〃 四月二一百プール建設地鎮祭。五月二九日起工式.、
948
正を行ない専門部およ
〃 二七〃 規約改
ンター建設の促進
〃 三九〃 給食セ
び支部PTAの活発化
建設に協力し落成する
〃 四〇〃 プール
『
〃 二八〃 母親学
・プール管理人設置の
運動推進
の充実の推進活動
〃 四二〃 図書館
売 几
〃 四一〃 養護婦
〃 二九〃 校舎建
会の活 動
築に協 力 。 研 修 旅 行 を
級開設についての活動
〃 四三〃 特殊学
〃 四四〃 親子旅
理交通安全補導の実施
行の実施プール安全管
の開催と研究推進。
中部連合PTA研究会
》
轟
灘
戸
『
級。寄生虫駆除保護者
静川小学校
PTA公開研究発表会の開催︵郡PTA・中部PTAの指
、、フ
ンレ
静ノll
開始
〃 三〇〃 施設設
備充実の募金に協力
〃 三一〃 校庭植
樹。P T A 歌 制 定
〃 三二〃 防火貯
水池事業。研修会開催
〃 三三〃 親子会
議支部 学 芸
会
協 力 。 学習と懇談会の開催
もって、
定︶
プール建設促進の基金積立て事業を開始した。
文部大臣および日本PTA全国協議会長より表彰
交通安全標識をたてる。交通安全と補導の会議
〃 三五〃
中部連合PTA研究会場となり研究発表
〃 三六〃
〃 三八〃
〃 三七〃
949
〃 三四
〃
台風七号二五号災害復旧奉仕。実績の積み上げを
第二章学校教育
第五編 教育と文化
33つり4 1
44
44
44
74
4444
94444
94446
14
42
64
69
73
94
14
5
89139
6
700
93
2
2
2
2
3
112
7584456
55
6
84
34駝5548
3 4 5 6 一! 8
36164644873
950
65152565954
11
1436156留
6
1,044.63
正 和
大 昭
6.075.00
3 乙ム 5 6 7 8 9
姐菊41465441
25
10
年学数
童
1入児
6,044.28
3,467.44
1,295.02
年3
学数
718192021222
童
−入児
6,133.11
35
2,011.11
勝門図郎策義七吉祐郎康三直孝雄平武雄武夫雄俊寛
明郎男喜 毅晃光三
一喜造文 郎郎
三
政敬金一 啓一
6,558.27
2,029.62
全右 清貴忠勘米庸清利福重 貞衡 行 方幸一義
亨晃郎広
泰四楳孝弘国隆
沢沢辺越 林沢
6,041.39
2,738,90
1,276.55
一 一
作男利毅
太
野林井口 谷野野田
6,469.15
2,279.42
1,189.55
間 岡藤泉沢田泉野田山田井林宮林田沢井沢野月
保
三伴伴金伊清芦久有天仲秋長武若二若依深笠深星望
啓三満弘
沢野川月
長深渡岩 若深
大正2
5,385.55
1,467.70
昭和2
776.14
5,680.53
1,330.33
2,053。12
1,151.44
789012345
1236
45
屋田月谷
幡若笠川 熊天佐松
5,767,77
15
702.OO
70
1,224.55
73839404142
89
36
年学数
童
1入児
6,345.40
1,797.52
34
深矢樋望
81920 2122
5,840.00
14
45
33
古松望熊
9012 3456
1 1 1 1 1 1 1
5,837.62
1,771.46
655.OO
5.856.12
5,938.36
13
44
32
1。154.16
35
円銭
1,671.86
49
円銭
12
31
16
円銭
1,684.36
43
61
543.00
明治30
教育費
年度
教育 費
年度
教育費
年度
明治
名
1234 5678
5.静川小学校概況(1)
就任期
氏
17
3・歴代校長
4. P TA歴代会長
第二章学校教育
静川小学校概況(2)
5
717,300
419
654,300
399
709,443
384
555,483
362
553,000
334
756,200
326
710,000
293
811,000
264
499,000
252
526,000
222
568,000
666拓596261
特殊学級費30万円
811,000
166
877,000
6菊斑 33 29
49
5阿29 35 28
55
53035 28 18
6
円
n1212121210n
〃
36553534
6
576
03
82
16 23
364 6 5 5 2 5 4 菊
662636152肘
6756163625
6
3 29 35
50
50
44
55
35
10
9
8
7
特殊学級
7
4141414121
3
0 10 8
34
35
36
37
38
39
12
40
10
42
計
1年12 13 14 15 16
197
766M58660
445
59
4 33
397
44 45
〃ふるさとの川〃
うちわだいこ
﹁はだかん坊と舟﹂これもまた今は昔の風物。真夏の太陽にギラ
ギラ輝く川と両岸の緑、遠い山際に真白な入道雲。帆かけ船が、綱
ろ
を引く船頭の歩調にあわせて音もなくのぼり、ギーッと櫓をきしま
せて下る舟の上から身延参りのお題目と団扇太鼓の音が流れる。大
正の終わりには爆音けたたましく上下した飛行艇。抜き手で急流を
かぶり、がぶりと飲んだ水。鳥肌のならぶ甲らぼし・魚とり・石投げ・
横切り、横のしで追いこし、青空をみながら流れた背およぎ。波を
かえて逃げ帰った
水遊び。着物をか
は子どもらの楽園
夕立ち。夏の河原
と川にふるさとの
った。心に残る
子らは自然児であ
川、今は昔の富士
川である・ 驚.灘、淵、灘
951
37
85
85
67
66
78
64
13
昭和33
教育費
数
童
児
学級数
職員数
年度
四、原 小
〃 二二〃 二月一二日創立五〇周年記念。六三制改革により原
の老朽校舎改築の宿願がもりあがり、三一年新校舎建築促進委員会
を結成して、関係者と地区をあげての努力によって竣工した。
給食調理室の起工式。一月二六日に落成式をあげ待望の給食を五日
を進め、一二月六日公開研究会を開催。一〇月三〇日小中学校合同
952
し原村となり、校名を原村立原尋常高等小学校と改称した。
昭和 九年度 高等一・二年を分離して二学級とした。
〃 一六〃 原国民学校となり一年七〇名を二学級とした。
小学校となった。祝賀学芸会を開催。PTAを設立した。
学 校
明治七年一二月、飯富村前屋敷に飯富小学校、同二七年に八日市
〃 三〇〃 原村が中富町に合併。中富町立原小学校と改称
〃 二一〃 一〇月校舎の大改修をし、校門および登校道の移転
場村七面堂に八日市場小学校をそれぞれ従来の私塾のあとに開設。
1 沿 革
明治二九年五月一日飯富・八日市場の両校を合併して伊沼村字原
〃 三三〃 宮木が下部町から分町し、合併、四月一二日に挙式
して以来宮木地区は原小学校の通学区域となった。五月一五日伊沼
ぶき
葺一棟と茅草葺一棟であった。四学年と補習科で一五三名在籍。
明治二九年度 一〇月一日高等科を併置
卒業式を挙行︵昭和四四年で第七三回にあたる︶
〃 三〇〃 二月二一日開校の式典を挙行。三月二六日第一回の
一〇月全国ラジオコンクール郡代表となりさらに県中央大会に出場
〃 三四〃 理科室を特設し科学教育の振興を計画し実践した。
下増改築。消火栓施設。小鳥小屋完成
〃 三五〃 校庭南側三畝一〇歩買収、周囲に石積、側溝、渡廊
〃 三六〃 県教委より理科実験学校の指定と、NHK甲府放送
〃 三六〃 一月校舎増築工事を施工
〃 四一〃 運動場を一五〇坪から二六〇坪に拡張した。尋常科
校給食準備委員会を結成した。二月九日に実験学校公開研究会
レビ理科番組の利用﹂について研究実践を推進した。八月二五日学
局より放送教育研究委嘱を受けた。﹁実験観察の計画と実践﹂﹁テ
〃 四四〃 尋常科六学級高等科一・二年一学級となった。この
大正二二年度 一〇月校舎の二階三教室を増築
﹁科学的思考力を伸ばすにはどうしたらよいか。﹂を主題として研究
〃 三七〃 理科実験学校、第二年度は町教委より指定を受け
昭和 八年度 七月一〇日飯富・伊沼・八日市場の三か村を合併
が設置されたので八学級であった︶
年から昭和九年まで七学級であった。 ︵昭和三・四年は高等科三年
〃 四三〃 四月校舎を増改築して二階建七教室教員住宅建築
六年制となる。従来の高等科三・四年を高等科一・二年とした。
〃 三五〃 児童が増し八日市場大聖寺を借用一教室にあてた
四学年までを一学級の編成で職員四名。校長が高等科を担任した。
〃 三三〃 小学校令公布。尋常科四学年までを二学級、高等科
二五〇番地に新校舎を落成した。原中学校独立校舎新築以来小学校
の地に新校舎を建て、原尋常小学校と称した。校舎は和風平屋板
第五編教育と文化
制完全給食として小中学校とも開始した。
TA、さらに専門部の総務・学習・保健体育・生活指導四部会を基
昭和二二年七月一日原小学校PTAを創立。学校PTAと支部P
2 原小学校PTA
礎として活動を展開してきた。学校・学年・支部と多くの場をつく
〃 三八〃 水道完備、足洗場とう完成。富士川に水泳場を設け
りPTAスクールを開催し、また授業参観とうを重ねて学習を積み
安全を期した。
〃 三九〃 校庭外棚金網工事。ヤマハグランドピアノ設備
各方面よりの多数参加者を迎え成果をあげた。
と児童の実態の研究の
事への協力とう、地域
補導への協力、学校行
TA研修旅行︶、生活
力、模範校の視察︵P
ル資金︶講演会の開催、学校の一日勤労奉仕、児童の交通安全に協
考慮して事業を推進し、年間にわたり、授業参観、廃品回収︵プー
あげてきた。時に集会を低中高学年別に、また一〇支部の特殊性を
NHK全国学校音楽合唱コンクール奨励賞を受けた。 ︵一・一六︶
〃 四〇〃 校地西側石積工事︵台風災害復旧︶六〇耕施工。各
書道展および席書大会に多数の児童がたびたび入選表彰を受けた。
〃 四一〃 プール建設の願いをもって第一回廃品回収を六月五
日開始。町教委指定実験学校となり﹁給食指導計画と実際指導﹂を
主題に、給食施設を充実整備しながら、PTA給食部合同運営委員
〃 四二〃 県教委指導の給食指導実験学校となり、さらに施設
している。
上に強力な実践を継続
とうによる研究を推進して、一〇月三一日に公開研究発表会を開催
の改善整備をはかりながら、指導の実践を推進した。原プール建設
にわたる活動努力によ
新校舎建設への多年
促進委員会を七月八日に結成。一一月七日﹁給食時の効果的な指導
を行なうために調査をどのようにしたらよいか﹂を主題に公開研究
り三三年五月一五日に
小学校
原
会を開催。一月二五日学校給食優良校として県教委から表彰を受け
新校舎落成をとげ、以
来学校内外の環境整備
た。
を出展し、器楽合奏を発表した。通学路安全対策のため陳情実施
援助への努力を重ね、
理科実験学校・放送教
充実への継続的奉仕と
育公開研究会開催の学
びにプール開きを七月二八日に挙行。プール納め九月二〇日。第一
回校内強歩大会を実施
〃 四四〃 通学路校門まで舗装完成。原プール完成竣工式なら
創立以来の卒業生の数−三三一〇名︵昭和四五年三月二四日︶
953
〃 四三〃 六月三日原プール起工式。秋の原文化祭に児童作品
第二章学校教育
加、あるいは会場校としての活動も会員の協力のもと強力に推進し
明治29.5
38.11
40.2
40.7
大正 2.3
4.4
5.3
10.3
11.3
14.3
15.3
昭和 5.3
11.3
18.3
21.3
22。4
23。4
26.4
26.7
34.4
37.4
39。4
954
橋宮本月
武義朝
野松川野 松月野月
定文仙 友伴上甚
丸小小望 神内古佐 望
山林林月 田藤屋野 月
軍平 良 源公哲晴 喜
41516 17181920 21
9012
高村早佐 高望佐望
1234 5678
土一湯望
強治香光 孝一雄次吉六作丞 造郎敬雄 教雄郎彦 久
之 八
1
234567890123456
1111111111222222
遠井小長斎鈴矢鈴馬望小仲望伊松長有若若若深若保入若
宮
藤伊泉坂藤木崎木場月山田月藤木沢泉尾林尾沢尾坂倉尾
縫弥千徳徳安市安正唯利昌正良不平貞貞梅武
太三代 二
郎郎吉信蔵平作平臣吉肇康六保造誠隆造泰利武利芳栄雄
34.8
36.5
習と協力に尽くした。
一方他地区にさきがけ
て学校給食の調査研究
を進め、部落支部の懇
し、小中学校とPTA
談会をたびたび開催
一月二六日給食調理室
が合同推進して三八年
の竣工をとげるに至っ
た。さらに学校内外の
諸条件 を 充 実 し て 、 給
食運営委員会を中心に
め、県・町の指定実験
学校給食の研究を進
学校の研究発表公開開
催に協力してきた。ま
四年七月二八日宿願の原プールの竣工を完成するに至った。
動を展開した。関係機関および地区をあげての努力によって昭和四
た毎年富士川での水泳安全に労した力を、原プール建設に結集し運
原 小学校(右下は旧校舎)
もちろん創立以来中部連合PTAの協議会・研究会への積極的参
てきた。
就任年月
名
氏
9.3
13
3.歴代校長
P TA歴代会長
4
第五編教育と文化
第二章 学 校 教 育
5原小学校概況
育同
1 1 1121221222232324323243222
1111111111211111121111
9
20443655898!80002875627422
955
ヨ専
和
235384144369121547⑲1316192225283134334043姐
治 正 明 大 昭
29
計
小女
小男
計
女
卒業者数
在籍者数
職員数
学 級 数
男
等
常
計
年度
第五編 教育と文化
“二宮尊徳の像”︵各小学校の庭にあった︶
ゆが
尊徳の精神は教科書などによって歪められてきた。彼は世のい
わゆる道徳家でもなく、いたずらに道徳を説いたわけでもない。
何よりもまず荒地を開拓する熟練者だった。農事の専門家であっ
た。農の道に精通した人のおのずからあらわした実践上の徳なの
である。実際に荒地を拓き農事を改革し、その成果がはっきり眼
に見えることなしにその道徳は存在しない。同時にはたらくこと
は﹁はた﹂を﹁らく﹂にする隣人愛の実証でもある。それでこそ
おしえ
はじめて﹁教﹂となるわけだが、修身ではこれを逆に教えた。奴
隷的忍耐の説教となった所以である。内村鑑三は彼の実践力を高
く評価して、代表的日本人のひとりにあげている。実践的にしか
あらわれないその徳に、鑑三は清教徒の血統をさえみた。 ︵昭和
二九年 亀井勝一郎︶
りんせき
明治四一年曙報徳社創立式報徳社長・郡長臨席︵曙小沿革
誌より︶
二宮尊徳像
五、曙
1 沿 革
小 学 校
明治六年矢細工村・古長谷村・福原村・梨子村・江尻窪村・遅沢
谷村星野勝左衛門宅を仮校舎と定め、第一大学区第四十四番中学区
村・中山村の七か村協議のうえ学校設置を決し、一〇月一四日古長
第五十番小学公立切石学校古長谷分校と称した。
の分校を離れ、明治一〇年一〇月工を起こし、同一一年六月に新築
明治九年度 九月七か村合併して曙村と改称したので、切石学校
を終わり、六月一四日開校式をあげ以後曙学校と称した。
〃 二六年 二月一一旦口同等科併置の式典を行なった。
校の記念日と定めた。
〃 三五〃 四月三日増築校舎落成式を行ない、以後この日を本
〃 三七〃 高等科に農業科を加設した。
〃 三六〃 一学級を増加して四学級となった。
〃 三九〃 職員校長以下五名 生徒二二六名 尋常科三学級
高等科二学級として本年度から実施
瓦葺。便所とう延坪一二六坪が四五年五月落成した。
〃 四〇〃 校舎増築工事実施、建坪四間半十二間木造二階建、
〃 一一〃 学制頒布五十年記念式を挙行
大正五年度 一〇月一八日校旗調製。九月運動場拡張工事
の文字をいれた帽章を制定し着用させた。
昭和二年度 校訓を﹁至誠﹂と定め、校旗章により旭日の中に曙
956
〃 三年〃 創立五〇周年記念式典を奉安所前において挙式、
た。
講堂で大祝賀宴を開催し、村民も多数参列して空前の盛況であっ
らびに一般も初めて聴講した。
〃 四年〃 一月一日の新年拝賀式後ラジオを実験し、児童な
〃 五年〃 フットボール各級に配布その他体育施設設備を充
実して体育を振興した︹、体力検定を実施して体位の調査をした。
七︶学校建築のため各部落へ出張して授業を行なう︵一・一七∼︶
〃 三〇年〃 小学校上庭の六教室落成式︵五・二︶ 第二次校
新講堂で卒業式︵三・二四︶
舎建築地鎮祭︵一〇・二〇︶ 新講堂︵公民館︶上棟式︵二・九︶
校庭も新しく完成し第一回の小中合同大運動会を盛大に開催
〃 三一年〃 四教室増築落成︵四・二八︶。新校舎花園造成。
〃 三三年〃 運動会を毎年一〇月の第二日曜日と決定。ごみ焼
学制発布一〇周年記念学校庭園の造成をした。
〃 三二年〃 電話取付︵四九五一番︶小中連絡ベル取付け。新
〃 一〇年〃 全学年の読方、六年体操、高等科農業実習とうの
〃 八年〃 一一月三日運動場拡張工要落成式
を設置
がま完成。足洗場完成。校名旗樹立竿完成。裏校舎入口に手洗水道
〃 七年〃 少年消防隊の結成をした。
公開研 究 会 を 実 施 、 参 観 者 一 〇 六 名 盛 会 で あ っ た 。
でこの日を学校記念日と定めた。へき地学校児童健康診断︵二二
〃 三五年〃 昭和一三年四月二八日に現在の校舎が落成したの
五︶
〃 三四年〃 体育審具室設置。排水および手洗施設の完成
経営の 一 般 に つ い て 県 下 に 公 開 発 表 会 を 実 施 し た 。
〃 三六年〃 牛乳給食実施。鼓笛隊編成披露︵三・七︶
れ、二二年度に公開を命ぜられ、ニエ年五月一一日教育経営と施設
〃 一五年〃 高等科複式学級を分けて二学級となった。
〃 三七年〃 県下小中学校器楽合奏大会へ出場︵二二六︶
〃 一二年〃 施設経営優良校として県から表彰助成金を交付さ
〃 二〇年〃 校庭の半分を開墾し食糧増産を期した。
〃 一八年〃 植林を毎年一町歩ずつの予定第一回実施
〃 一二年〃 奉安所撤去作業をした︵七・一七︶。学校衛生公
り完全給食︵五日制︶を実施。給食調理婦二名と栄養士一名、小中
〃 三九年〃 校旗樹立式︵三・二四︶。六窓会、新旧役員の寄
合同して実施
〃 三八年〃 給食調理室落成。給食室施設を充実して一一月よ
一︶
〃 二六年〃 学校図書館完成︵九・二︶。全学級にストーブ施
消防記念にあたり県知事より表彰をうける。 ︵三・七︶
〃 四〇年〃 保健室完成︵一〇・一〇︶。養護婦設置運動推進
贈による。
〃 二八年〃 校歌制定発表会︵五・一︶
設
〃 二九年〃 町村合併により中富町立曙小学校と改称︵八・一
957
開研究会をし、清掃・朝礼・衛生指導授業を公開した。 ︵一二・二
第二章学校教育
第五編 教育と文化
PTA臨時総会においてプール建設の議がおきる。
を重ねながら、学校内容の充実をはかっている。三八年給食室完成
オ・鼓笛・講堂暗幕・ユニフォームとうとう多くの施設設備に協力
に至る熱意と協力、施設と給食運営の充実活動。さらに地域多年の
〃 四一年〃 講堂周囲の金網完成。養護婦一週間おきに勤務。
〃 四二年〃 多年の宿望だったプール建設を決定してその促進
完備した曙プールを完成するに至った。
宿願であった曙プールの建設運動をも強力に進めて、四三年には、
自らの学習を深めつつ、学校と家庭と部落の物心両面にわたるよ
委員会を結成、本年度工事とLて推進。裏庭の金網施設完成
い環境づくりを強力に推進しているPTAである。
〃 四三年〃 関係者の多大の努力により念願の曙プール落成し
ピアノ披露音楽会︵九・二六︶。中富町教育委員会指定の実験学校
七月一〇日挙式水泳開始。校内水泳記録会︵九・一一︶。グランド
として理科と学級会を中心に研究を推進。二月六日県郡下に公開発
表会を実施して多大の効果をあげた。
2 曙小中PTA
曙小学校沿革誌明治四五年度の記録に﹁三月
四日父兄懇話会四日母姉会開催﹂とある。六三
二二年の結成であるが、前記父兄会を古くから
曙小学校旧校舎
制実施後のPTAの結成は他の学校と同様昭和
を推進していた事実が推察できる。昭和二〇年
開催し、地域と学校が密接に協力して学校教育
代は部落懇談会、授業参観の際を中心に、給食
実施の研究と学級減の陳情とあわせ、加えて校
舎新築の運動を強力に展開してきた。台風のた
TAスクール講演会とう学習活動を展開してき
びに運動場その他の復旧作業に協力し、反面P
た。三〇年代は校舎新築とそれにともなう環境
協力をしてきた。三五年以降は、テレビ・ラジ
整備にあげて協力、さらに第二次増築に多大の
小学校
曙
958
第二章学校教育
2 1 3 8650413333449444444
4606890164生71︵ム臥翫乞6生λ軌似乞35。
1
122223334 111 223334444
治 正 和
6 5 4 5 1 2 1
4 5 2 3 3 4 2
4 rD /○ ﹃Q 3 4 3 3 rO 2 9 1 6
2 2
3 4
5
明〃〃〃〃〃〃〃〃〃大〃〃〃〃昭〃〃〃〃〃〃〃〃〃
2 8 り! 9 2 2 9
1 1 1 2 2 1
○
&,64350
3 1 2 3 4 3 2
18
− ﹄/ 8 一! 9 7 2
入学25
8024680
132
1
吉之図郎作明郎吉蔵郎作朔林三申孝造雄雄雄雄正定郎栄
治 三代太 太
桃盛 初栄常為千庸源市義楠久茂賢義孝勝恒 儀隆
柳 林田野林泉上月崎藤上月川野沢西 者本沢橋尾月
男.
320
2 1 2 2 3 1 2
46
、入学25
43
入学22
34
入学17
岩堤伴桐小佐小小井望矢近井望樋星深河原伯山中土小望
一久治治 雄栄男英
男
268
i 129
野
男詳勉郎 清光寿積
正量真利 初興徳一
藤川月月 野川野野
遠樋望望 星樋佐星
133
1
23455789D123456789012345
1111111111222222
雄孝重作
野川月美 月木西川
三
逸孝庄 英 和勝義幸
野野中月
星古望加 望松河樋
一/890
!112
45
254
275
251i
319
127
163
117
明治34
女
319
271
42
239
184
36
21
313
138
266
280
245
1 1 1 1 1 2
大正3
7
昭和2
6
賀
9012 3456
959
星星山望
1234 5678
5・児童数の変遷(1)
48
入学26
310
女
179
計
女
男
言十
就任年月
名
氏
計
高等科
尋常科
職員数
学級数
年度
3,歴代校長
4。曙小中学校P T A歴代会長
児童数の変遷(2)
壬曽口
、︹
り! Q/
l
88
595,808
325,000
401,300
21
20
241
361,758
38
01
01
202
40
84
80
64
姐
59
留 46
42
4 3
8 rO
芦D 4
26
ものは、甲府の柳・工の二校と巨摩郡の落合校ならびに帯金校と本
三月校舎増築を議決した。
体操場八二坪を拡張した。
960
たくみ
校の五校であったという.、一一月一日、一色が分離して一色支校と
なった。位置が田原組にあったので田原学校と称した。
し、下等は六歳から一〇歳、上等は一一歳から一四歳であった。
明治八年度 小学校教則が改正され、小学校課程を上下二等と
〃 二万 七月切石学校へ県係官がきて卒業試験を施行し、本
校生徒長沢信義一名受験、卒業生の初めであった。九月学制を廃し
一七〃 徒手体操および矯正術を九月学科に加えた。
て教育令発布となった。
一九〃 亜鈴および球竿体操を伝習して学科に加えた。
二〇〃 共和尋常小学校と改称した。
二二〃 校則を改正して本郡長の認可を得、五月本校内に西
三二〃 高等小学校併置。九月七日大洪水富士川はん濫して
二八〃 四月二一日、一色分校の新築落成式
二六〃 三か年の補習科を置く許可を得た。
二四〃 創立以来板葺の屋根を瓦葺に改造した。
等
小
学
校
支
教
場
を
置
き
、
学級程度は二年級までとした。
八代郡高
〃
〃
〃
〃
三四〃
八月二四日富士川大洪水。浸水床上五尺に達した。
尋常科へ唱歌を加えることを認可された。
義務教育延長に付き従前の高等一・二年を尋常五・
三五〃
四一〃
四〇〃
三三〃
を始めた
。 一〇月九日教育幻燈会を盛大に開催した。
て、住職密庵儒学を教授したという。明治五年三月若林叉右衛門宅
を、小学田原学校として開校の式をあげたのが小学校の創立といわ
れる。
田原・宮木・一色の四か村を所属とした。当時学校として新築した
明治六年五月学校新築落成、二百に開校式をあげ、下田原・上
〃〃〃〃〃
床上四尺
浸
水 し 、 損害概算八八円余となり、ようやく二二日に授業
和小学校
449,000
10
245
円1
六、共
〃〃〃〃
16
44
222
3011!5
30
259
36
3。[129
34
217
32
103
12i l IO
114
28
284
24
十
男 1女
305
昭和22
教育
予算
年度i学級数職員数 児 童 数
−沿革 ︵明治の沿革誌不詳︶
5
慶応元年深町の清安寺を﹁成達義塾﹂後に﹁君羊芳塾﹂ と称し
第五編 教育と文化
六年に、高等三・四年を一・二学年に変更した。
〃 四五〃 高等科の農業科を週六時間に増加し、女子は従前よ
りの二時間の裁縫以外に一時間の家事科を設けた。
大正一〇年度 四月学校改築のため、尋一・二年は清安寺 三・四
年は永明院 五・六と高等科は向旭院へ・宮木区一∼四年は一色分
教場へ移動。六月九日上棟式。二戸一日落成式以後この日を学校
記念日とした。
日体操科研究授業公開発表会を開催した。
〃 一一〃 学制頒布五〇周年記念式︵一〇・二八︶ 一二月四
〃 一五〃 本県教育綱領徹底施設優良校として県から助成金を
交付された。八月峡南庭球大会第二回を本校コートで開催した。
昭和二年度 学校記念日に新築奉安所落成式
集団勤労報国隊を結成援農作業に出動
全校水泳訓練を八月中二週間富士川で実施
新教育研究を推進 社会科授業公開研究会開催
運動場拡張竣工式︵二・一七︶ 感謝学芸会
五学年同学年研究授業公開 新学籍簿研究会
甲府放送局より本校児童音楽放送︵=丁二三︶
知能テストの研究と実施
小中学校合同﹁なごやか運動会﹂ ︵一〇・ニニ︶
〃 五〃 第三回体操科研究授業公開発表会︵六・三〇︶ 二
併。共和小学校区
は 上 田 原 、 一色となる。入学生本校五名分校八
またPTAスク:ルの開催と講演会開催の度数の多いこともその記
心の協力、施設設備の充実などすべて小中一体での推進であった。
小中学校併設経営だったので、校舎の増改築、運動場拡張への物
た。
をもって運営しながらまた連合体をつくり相協力するPTAであっ
援会が結成された。翌年には一色分校PTAも結成し、独自の会長
昭和二二年七月一四日 共和小中学校連合PTAおよび同教育後
2 共和小中学校PTA
学区となる。
下田原・宮木区は下部町から分町して中富町へ合
図書館改築落成︵九・八︶
校舎改築上棟式︵二二︶
一色分校新築上棟式︵二・一八︶
小中合同PTA校舎増築委員会
〃〃〃〃〃
〃
分
校
は
下
部
小
学
校
分
校
と 名。七月一日一色
な る 。 上田原ば久那土小
〃 四〃 第二回体操科研究授業公開発表会︵一〇・七︶
〃
三一〇九八七六五四三二八三
〃〃 〃〃
〃〃
加があり、研究批評会が開催された。
〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
月二百学事合同視察があり、県係官、近隣の教員と村民多数の参
〃 七〃 郷土教育研究会を開催︵五・四︶ 児童栄養改善給
〃 九〃 校章制定﹁菱形は甲斐を、割菱は四部落を、鳩は郷
積み研究授業を公開発表した︵三・四︶
社八幡神社の紋章で和を、上位の﹁共﹂とあわせて共和となる。な
お校歌を制定二月二三日記念発表会を開催
〃 一一〃 二月一一日校旗樹立式を挙行
〃 一二〃 農繁休業中十日間託児所を開設して感謝好評を得た
961
食を開始した︵一二二二︶修身科・地理科の理論と実践の研究を
第二章学校教育
旧共和小学校校舎
0 4 8 4 4 6
沢田沢口原
長依長川萩
公輝公孝
夫孝夫喜操
正 和
大 昭
3343738
3162133
94
13
349
1 4 2 0 1 4 9
962
録から知られ、郡・支
な関連のなかで活動を
会のP T A へ も 積 極 的
展開したことなど、教
育に対するながい伝統
をしのばせる学習する
PTAであったことも
学校沿 革 誌 の な か で 知
ることができる。
吉郎郎助 吉重示一
三太
秀与丑弁 文隆真政
林川林原 地岡野田
若浅小石 古赤佐上
13
PTAも町村合併に
23456789
12
ともない発展解消して
った。
それぞれに分散してい
明
2 3 4 rO /○ 、!
10
就任年月
名
氏
P TA歴代会長
明 治 24
1
宮沢栄造
若林 力
若林四郎
小林次郎
若林四郎
高野 朔
大原孝憲
1
共和小学校歴代校長
3
共和小中学校連合
4
第五編教育と文化
5
共和小学校概況
七、西島・大須成・静川中学校の沿革
数
教育予算
男
計
女
92
31
35
52
52
204 742.75
95
63
158
盈,
16
258 1,544。96.5
54
285
1,775.30
留 66
円銭厘
123 369.37
明治31
297
1,925.66
40
43
1 40
大正3「
5 7 9 11,13 15
168
昭和2
169
347
191
169
360 6,091.02
194
172
366 5,874.50
191
161
352 6.432。82
189
155
344
161
333
5,887
10 169 182
351
6,019
180
354
6.395
11 165 163
328
2,658
「
121 174
女子
1,745
1,719
計
324
25,640
161
130
291
140.873
153
151
304
358,780
135
134
269
337.700
122
139
61
336.540
129
119
2 2
33
H 13 12 10 m 6
32
9 8 7 7 訓
30
0 rO
8
男子
73
3 3
2 9
3 り1
10
6 2
高等科
74
10 232
初等科
2 2
9 9 9
18 幻 22
6,450
9 172
24
28
4,617.31
305
184 140
26
334 2,226.86
178
162 143
14
16
1,005.65
円
8 矧 12
−、西島中学校
昭和二二年四月一五日、職員六名小学校兼任三名計九名着任 二
校長 佐野忠雄︵二二・四∼二四・三︶
一日授業開始 五月二四日開校記念式と後援会発会式 一二月二一二
日社会科公開授業実施 三学年卒業生男一九名女二一名
合立中学校起工式に生徒職員参列
二三年度 五月一四日実習田の堆肥草刈五百貫 一一月二六日組
2、大須成中学校
963
童
児
学級数 職員数
︻﹂ ︻﹂
昭和二二年四月、六・三新制度による西島村立西島中学校、大須
成村立大須成中学校、静川村立静川中学校が各村立小学校に併設さ
て発足したが、二か年後の二四年四月、静川村外二か村組合立甲南
れ各独立校として平和国家・文化国家建設の新教育の理想をかかげ
中学校の誕生によって発展統合された。
第二章学校教育
48
299,550
41
34
75
173。230
校長 若林 武︵二三・四∼二四・三︶
校 長 若尾 貞利︵二二・四∼二三・三︶
をきわめた。組合長松田具重、副組合長佐野聡彦・神宮寺暁
し入れがあり、一旦三日組合会議に上程可決した。三か村全戸の
家庭科施設の充実につとめた。甲府測候所と連絡して百葉箱を設
論研究と授業実践に努力した。産業教育振興協力会を設立し、職業
運動会開催 、文部省から二か年の実験学校の指定を受け、鋭意理
〃 二七〃 一〇月二二日石積みスタンド完成、運動場拡張記念
た。理科室、職業家庭科室、講堂の充実と運動場の拡張整備
二日公開発表 学友会を生徒会と改め教科外教育の充実をはかっ
修を積み﹁中学校職業教育の実践﹂ 研究紀要第二集をもって二月
〃 二六〃 県教委指定の実験学校となり、全職員は県内外で研
二月郡教育会の指定による職業家庭科の研究公開を紀要第一で発表
七日上棟式 水不足に困難し一〇月一一目水道工事ポンプ室完成
〃 二五〃 八月三〇日第二校舎の増築地鎮祭起工式 二月一
移転した。一〇月一八日落成式︵学校記念日︶ 校歌・校章制定
昭和二四年度 校舎の建築が遅れ分村教育の後九月一日新校舎に
勤労奉仕によって敷地工事が進められていたが、粘土質のため困難
始業式実施 六月二日生徒校友会発会式、八月独立一教室増築
昭和二二年四月一六日、職員五名小学校兼任三名計八名着任式と
二三年度 七月三〇日生徒自由研究発表会 学友会総会 一二月
一〇日本校において中部支会綴方朗読大会を開催
3、静川中学校
校長 依田行雄︵二二・四∼二四・三︶
五月五日開校式 新憲法実施記念式ならびに記念体育会 九月六日
昭和二二年四月一日二宮小学校長事務取扱によって入学式挙行
PTA創立総会、会長遠藤朗 一二日社会科研究会を小学校と合同
性研究とガイダンス﹂のテーマで、お茶の水女子大牛島義友教授参
実施 二三年四月一七日学校掲示教育板完成活用 二月二四日﹁個
加の下に公開発表研究会開催
八、甲南中学校
− 沿 革
学校二年目の積みあげをし二月一〇日﹁産業教育の改善と職業指
〃 二八〃 教育目標に﹁科学的生産人の育成﹂をかかげ、実験
組合中学校設立をめざして協議したがまとまらなかった。そこで静
〃 二九〃 八月一七日中富町が発足して甲南中学校組合教育委
導﹂紀要第三集をもって公開発表 自転車置場・便所改築
組合立中学校建設の議がなり、以来数回の協議を経て両村の中央手
校の指定を受け、産業教育課程の実践研究を積みあげた。体操器具
室建設
員会は中富町教育委員会に統合。日本職業指導協会から二か年研究
挙行した。二四年一月敷地工事中、大須成村から学校組合加入の申
打沢一、〇四一番地に校地を決定し、二三年一一月二六日起工式を
川.西島の両村当局は昭和二三年八月、第一回の会議において両村
新学制発足以来中部旧五か村において教育振興協議会を中心に、
置
第五編 教育と文化
964
月一七日ブラスバンド充実披露演奏会を開催
〃 三九〃 九月二六日実験学校二年目の公開発表を開催、一〇
の改善﹂をめざし研究を続け、二月三〇日公開発表した。
補導﹂の紀要第四集をもって実験学校公開を実施した。運動会に本
〃 四〇〃 第一回校内一斉書きとりテスト︵年間十回毎年継
ヶ 三〇〃 五月二一日﹁選択職業家庭科のねらい﹂﹁就職後の
の夢−中富町﹂の野外劇を創作して伝統をつくった。
〃 四一〃 本年度から学園祭︵ひろごり祭︶を生徒の手で実施
続︶ ﹁ぼくらの中富町模擬議会﹂の開催︵二・二八︶
年度から一年﹁郷土の香﹂二年﹁生きていた日本史﹂三年﹁私たち
の暗幕施設 簡易測候所認可︵六・二八︶ 便所移転工事完成
〃 一三〃 女子制服の改善 うわっばりをセーラー服に。講堂
団の組織化﹂の研究を進め、﹁甲南教育第六集﹂をもって公開発
〃 四二〃 町教委指定研究校として、﹁自主性の啓発と学習集
表。同窓会の物心の労によって野球バックネットを新設した。
〃 三二〃 中庭に﹁ひょうたん清兵衛池﹂完成。県下産業教育
〃 四三〃 創立二十周年記念として記念式・祝賀会・慰霊祭・
実験学校教員多数の参加を得て公開研究会開催 PTA公開研究会
原区から三八名転入 本校創立十周年記念行事を一〇月一八日から
〃 四四〃 自主公開研究の第二年目﹁生徒会活動を中心にし
甲南教育第七集の研究紀要をもって自主公開研究発表会開催
同窓会行事・記念学園祭・記念誌編集を行なった。﹁学校づくり﹂
〃 三三〃 共和村が下部町から分町合併したことによって下田
一週間にわたり開催、記念式・祝賀会・展覧会・大運動会・招待庭
上野公園に京浜の同窓生参集して懇談し、後の東京支部結成の土台
球大会を行なった。同窓会を結成、名簿を編集し、一二月一日東京
に中富町で開催︵八・一〇︶された。
て﹂甲南教育第八集を編集して発表した。郡体育祭が本校を主会場
昭和二四年創立以来校訓﹁和協一致﹂をかかげて積みあげ発展し
をつくった。
と生徒により連日行なわれた。講堂は自衛隊員の宿舎となり、生徒
2 甲南中学校PTA
てきた。創立以来の卒業生三、〇五〇名︵昭和四五年三月︶
〃 三四〃 台風七号・一五号の被害のため、復旧作業がPTA
も地区の道路修理のため勤労奉仕に出動した。
増築記念に第三校舎前庭に庭園を造成した。﹁懐古園﹂
便・駆虫に毎年奉仕活動
〃 二九〃 厚生部を中心に身延保健所員と協力、全校生徒の検
〃 二八〃 運動場拡張工事に労力奉仕出動
〃 二六〃 勤労作業収益金により全教室にカーテンを施設
会の努力により学年pTA設立を経て一〇月八日学校pTA創立
昭和二四年度 西島・静川・大須成地区代表による設立準備委員
〃 三五〃 排水溝・水道・花壇の整備につとめた。
一月二二日上棟式 小梅百本植樹
〃 三八〃 保健室を充実し、宿願の養護教諭が配置された。県
〃 三七〃 四月一日第三校舎落成式 一二月八日工作室落成式
教委から実験学校の指定を受け、﹁科学的思考力を伸ばす学習指導
965
〃 三六〃 二月一日第三校舎および工作室の増築の地鎮祭
第二章学校教育
〃 三〇〃 毎学期
作業として梅園・校地・
〃 三九〃 PTA
〃 三一〃 PTA
校舎・校具の整備
個別相談の実践
PTA研修旅行を実施
〃 四〇〃 第一回
通学歩道の過半完成
〃 四五〃 宿願の
全運動の推進
〃 四四〃 交通安
十周年記念事業の推進
〃 四三〃 創立二
会、研究会の実施
研修会、地区別学年総
〃 四二〃 支部別
・静岡方面
スクール﹁本校生徒
〃 三二〃 中部連
PTAの研究校として
合PTAおよび郡連合
公開研究発表﹁子ども
の体位の向上をはかる
にはPTAは何をした
らよいか。﹂
学校創立十周年記念事
〃 三 三 〃 甲 南 中
36.4
39.4
43.3
1 2 3 4 rQ ︻﹂
雄 武 則 一 時 夫
忠 善 清 晴 方
31.4
野 林 沢 沢 山 井
佐 若 宮 深 秋 笠
27.4
業を多彩に推進した。
〃
三
四
〃
三三年度から実施した部落別︵十四支部︶の研修と
〃 三五〃 校舎校具補修作業活動 体育館・プール建設の陳情
懇談会 の 充 実 を 農 閑 期 を 期 し て 実 施 し た 。
請願運動を進めた。
〃 三六〃 増築校舎︵第三校舎︶建築推進活動
〃 三七〃 総合工作室建築推進活動
区三小学校PTAと協力して推進した。
昭和24・4
名
就任年月
氏
み﹂
の学習の実態となや
甲南中学校
〃 三八〃 甲南学区給食センター促進委員会の設置運動を、地
3.歴代校長
第五編教育と文化
甲南中学校第2・3校舎・工作室
966
第二章学校教育
4・甲南中P TA歴代会長
雄行三毅雄彦明郎
義正五弘虎美孝四
西田井谷寺藤口山
河依笠熊神伊川秋
宮
経常予算
円
632,300
455,000
851,800
399,200
892,300
835,800
818.800
591,100
729,000
661,400
462,500
501,300
699,000
675,000
748,000
845,000
887,000
1,085,000
1,232.000
63
53
82
93
03
83
62
59
88
75
39
42
15
7
3
2
2
2
2
2
2
1
1
1
1
23
2
62
92
32
02
42
52
52
72
52
81
41
92
32
5
1
3
1
1
1
1
0
7
8
62
7
2
7
14
19
16
16
17
16
16
15
14
12
12
15
17
19
1
90123456
1 1 1 1 1 ※ 経常費は需要費,備品費,報債費だけのもの
計
女
男
1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 012091009978022
1
巳一郎六郎重治久
清英四伴三具満正
井辺月月野田月中
笠渡望望佐松望野
2
4
1
9
3
1
2
3
5
7
3
1
2
45
46
45
44
45
45
45
41
49
32
38
34
42
51
5
7
18
19
10
21
223
24
26
数
生
徒
職員数
学級数
1 5・甲南中学校概況
昭和
42
52
62
72
82
93
03
13
233
43
53
63
73
8
123456782
吉太作茂亀雄郎院
代 史
文東啓 喜育文
字井屋司野 沢寺
宮 宮 神笠古神佐塙深神
1
宮
年度
967
第五編 教育と文化
九、原 中 学 校
− 沿 革
〃 二九〃 百葉箱を完成し気象観測を開始した。女子校服を制
家消防本部長から表彰された。 ︵三・二〇︶
定第一回の挙式︵二・コ︶ 校旗樹立ならびに校歌制定発表会
定︵一〇二九︶ 水道施設完成︵一二二五︶ 学校記念日を設
組織となった。足洗場完成︵五・二︶ 応援歌制定︵九・一九︶
〃 三〇〃 各学年とも二学級となり全校六学級編成職員十名の
〃 三一〃 県教委より統計教育研究の指定を受けその研究と実
昭和二二年 四月一日学制改革による新制中学校として創立され
校舎に併設され授業を開始した。二一日に職員九名の新任式が行な
月二五日、収穫感謝祭を二月二二日に実施
践を続け一二月一五日中間発表会を開催 学校田︵八畝︶田植を六
輝かしく希望に満ちた原中学校として開校式を挙行した。原小学校
われ生徒数は三学年合計二二三名であった。野球熱が盛んで村有志
〃 三二〃 自転車置場・物置工事︵七・三〇︶ 校庭拡張工事
の寄付によって用具一式を整備してはげんだ。七月から校舎新築の
て、一一月三〇日特活教育と統計教育の研究発表を県下に公開した。
三〇坪完成︵一〇・三︶ 統計教育研究の第二年次の積みあげをし
議が起こり、村議会の議決を得て一〇月七日飯富一一〇番地で起工
式を挙行した。校章を募集して二月三日制定した。
語の研究が振興された。一月二〇日英語科の研究授業を公開した。
〃 二六〃 井戸を掘る。新教育により英語科設置にともない英
〃 三五〃 有志寄付によってブラスバンド編成
調査優秀校として文部大臣より表彰を受ける。 ︵一〇・二〇︶
り、その復旧に生徒PTAの勤労奉仕の努力が連続した。学校基本
〃 三四〃 七号・十五号二度の台風のため堆土約二〇鳶とな
会ならびに少年消防隊表彰の披露式を三月四日に開催した。
には国家最高の表彰旗を授与された。統計教育第三年次の公開研究
典を一二月二五日挙行し、知事より表彰を受けた。さらに三月三日
生徒第一位に入選︵一〇・一︶ 原少年消防隊創立三〇周年記念式
統計大会に﹁生活指導と統計教育﹂を発表した。統計図表展に本校
となり生徒一西名転入 統計教育研究指定第三年次の指定を受け県
〃 三三〃 下部町宮木地区が中富町へ分町合併したため原学区
昭和二一二年度 四月二五日新校舎竣工式、県・郡の関係官臨席し
て村民多数参加のもと挙式、餅投げ・祝宴と盛大な式典であった。
創立当初から珠算教育の計画と実践に熱意をもって努力した。二月
一二目全国珠算優勝者加茂・加藤両氏を招待して、珠算教育の公開
研究会を開催し研究発表をした。
〃 二五〃 少年消防隊結成︵四・三︶ 八月二四日に独立新校
舎落成式をあげ三〇日に移転を完了した。管理者佐野真平 落成記
〃 二七〃 小中一本の子どもクラブ結成︵七・一七︶ 学校と
〃 三六〃 校舎増築技術家庭科実習室および普通教室の着工式
念珠算大会︵九・一六︶ 放送設備完成 電話の設置
を月見橋−古関i一色経由で開催︵一一・二八︶ 少年消防隊が国
村をあげての村体育祭を本校校庭で開催︵一〇・二六︶ 強歩大会
968
し、本校へ配膳戸棚運搬用具を整備し一月二六日より完全給食を開
が九月六日、上棟式が一月二三日に挙行された。
昭和二五年度 PTAの協力により少年消防隊結成
沿革
2 原中学校PTA
〃
二八〃 映画会・講演会を開催、学校林の下刈りに出動
〃
二六〃 学校林に生徒とともに杉苗二千本を植樹
〃 三七〃 本町学校給食の先駆たる小中合同の給食施設が完成
りくみ、一〇月三一日主題﹁生産技術教育と教育の全体構造﹂をも
〃 三一〃 総会・
〃 三〇〃 暗幕一式、 各室ヘカーテソを施設整備
実施
〃
二九〃 中連主催の研究会を開催、本校のPTA運営の発表
始した。増築校舎落成式を四月一日に挙行し、生産教育の研究にと
って自主公開研究発表会を開催
館建設の第一回準備委員会を開催︵一・二八︶保健室更衣室設置。
〃 三八〃 交通安全校の宣言をした︵五・一五︶ 中学校体育
〃 三九〃 体育館建設の資金募集・敷地交渉のため建設委員
懇談
米の教育状況﹂、研究
〃 三二〃 恒例の
講演会県教育長の﹁欧
の研究を推進して一二月七日公開研究発表をした。一月二一百体育
会・企画委員会をたびたび開き関係方面に陳情を重ねた。
館建設地鎮祭、二月一五日上棟式を挙行
の研究会開催
部落懇談﹁生活指導﹂
〃 四〇〃 町教委指定の研究校として教科指導と特別教育活動
〃 四一〃 六月一日体育館落成式挙行屋体物置・便所・水飲み
育と生活指導の公開研
〃 三三〃 統計教
場・足洗場・本校舎と体育館の連絡通路・体育用具室などの施設の
整備充実をした。七月三日体育館落成記念の招待バレー大会開催
〃 四三〃 町教委から二年継続の実験学校の指定を受け 教科
究に参加学習を継続し
よる生活指導﹂につい
表﹁家族の話し合いに
〃 三四〃 台風被
中学校
原
〃 四二〃 ステレオ、テ㌧フレコーダーその他放送施設の充実
を開催した。自転車置場を鉄骨とし、裏庭へ物置を増築した。
第八次県教育集会に発
〃 四四〃 町教委指定の実験学校第二年次にあたり、生徒会・
害甚大で校舎校庭の復
学級会の実践を中心に生活指導の研究を積みあげ、一二月四日主題
・グランドピアノの設置、スケート教室実施
て
﹁自主性を伸ばす指導﹂をもって公開発表をした。校庭金網・門扉
969
指導と学級会活動につき研究と研修を積み一一月二八日中間発表会
第二章学校教育
PTA研修旅行東京オリンピック施設の見学
体育館建設に物心両面から多くの協力
学年PTAスクール、授業参観と家庭学習の研究
台風二六号の被害校庭の復旧作業に連日応援
原中学校体育館
原中学校歴代校長
29.4
36.4
39.4
40.4
43.4
光進郎志
英庸喜
月宮沢林
朝仁宗
八
上武平
月橋尾
甚国信
丞秀治
定準文
野野野林
望土若
作一勇郎
橋林尾川
佐高佐小
9012 3456
1 1 1 1 1 1 1
土平若早
強一次雄
1 2 3 4 rO 6
郎甫雄孝
川野下野
望雨深若
三
樋佐山高
1234 5678
819
970
旧作業に連日出動
TA合同﹁児童生徒の
〃 三 五 〃 小 中 P
生活指 導 ﹂ 水 泳 場 設
〃 三六〃 全員出
て学校林の下刈り間伐
動で、二日間にわたっ
作業の実施
校共同給食調理場敷地
〃 三七〃 小中学
造成に勤労奉仕
に児童生徒の水泳場設
〃 三八〃 富士川
定、監視指導 給食ロ
三九〃
ッカー受場作業奉仕
四〇〃
四一〃
各部落で家庭教育、生活指導の研究懇談会実施
昭和22.4
若尾平造
深沢清一
若尾武雄
望月昌訓
笠井二郎
伊藤恵仁
就任年月
名
氏
二
営
〃
四三〃
父親学級を開設し教育懇談会を開催
四二〃
四四〃
之
17
〃〃〃〃
〃
3
P T A歴代会長
4
第五編教育と文化
第二章学校教育
原中学校概況
5
1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1
369,936
355,900
386,775
425,975
614,635
451,115
400,000
576,800
478,000
333,700
354,072
351,060
371,100
241,900
375,000
383,000
462,000
496,000
554,000
663,000
727,000
一〇、曙 中 学 校
− 沿 革
曙中学校は昭和二二年四月一日新学制によって、曙小学校と同番
地に創立され開校した。校舎は小学校の一部をもって充当し、運動
各学年一学級で計三学級であった。校章図案決定︵五・二七︶
ぜられた。二一日職員九名の新任が決定した。生徒総数一一三名で
26
97
95
45
26
16
47
68
56
94
53
62
46
9場8
8
3
6
4
8
3
2
8
1
0
3
6
5
4
4
4
は両9
校併8
用と8
した7
。校
長は
小学
校長
が二
〇日までは事務取扱を命
数
男
計
一779P10m10m9999
1 1
強歩大会 割石経由︵一二・六︶ 職安所員来校面接懇談︵一・二
〃 二六〃 六月と一一月に各﹃○日間の農繁休業を実施。校内
樹祭に全生徒が参加した。校内放送施設完成︵三・七︶
〃 二五〃 緑化推進県大会へ代表参加︵四・四︶ 九日曙村植
〃 二四〃 五月一七日新校舎落成式、翌日移転
8
1
6
0
2
6
4
5
3
ため
村民
延六
百人8
の尊7
い勤6
労奉6
仕が6
あっ7
た。
78
92
04
99
81
92
83
85
89
76
75
68
58
7の4
9
0
9
9
8
年二月二六日に上棟式をあげた。木造二階亜鉛葺四教室。敷地造成
要請、二一二年一〇月一九日曙村議会で議決、建築委員会結成 二四
47
17
76
06
37
08
29
30
09
06
97
16
19
1 9
4
2
0
4
0
1
6
4
6
7
昭和9
二一9
二年9
度 9
二二9
年一二
月か
ら部
落懇
談会を開き、校舎新築を
5
8
8
7
6
徒
妥
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
40
41
42
43
44
45
39
二︶
455555556544446666665555
会 校内辞引・珠算大会実施︵一二・二四︶
〃 二七〃 家庭科教室完成︵七・八︶ 一月一日校歌制定発表
日公開研究会を開催した。少年消防隊の防火避難訓練を毎年度実施
〃 二八〃 県教委より統計教育研究校の指定を受け、二月二二
〃 二九〃 文部省より衛生統計校として指定を受けた。文部大
971
円
9
昭和22
当初予算
生
職員数
学級数
年度
︵五・一七︶ 財産区林の下刈り実施︵七二二︶
洗場の完備 校舎金網の取付け 本年度から学校創立記念日を設定
〃 四〇〃 図書充実三か年計画第一年次による図書の充実 体
編成感謝の演奏音楽会︵二・五︶
972
臣より産業教育統計の表彰を受けた。八月一七日曙村が中富町へ合
道徳の学習をした︵五・一五︶
鎮祭を一一月二八日に挙行 一二月二九日上棟式 一月二五日に増
併によって校名変更、中富町立曙中学校となる。中学校増築校舎地
〃 三八〃 小学校と合同の学校給食施設が地域PTAの熱意と
上棟式、一二月二四日落成式。交通教室を開催して交通法規・交通
理論と実践の研究を推進して、七月一一日に公開発表会を開催
〃 三〇〃 クリタマバチの採取︵五・二五︶ 特別教育活動の
町当局の努力によって完成、一一月一一日より待望の完全給食を開
〃 三七〃 産業振興工作室の新設九月二日起工式、同二四日
〃 三一〃 四月二八日公民館︵講堂︶新築および中学校増築落
の研究を積みあげ、二月二九日公開発表研究会を開催
始した。町教委より研究校の指定を受け、技術家庭科の理論と授業
築二教 室 使 用 開 始
成式を挙行
︵五二三︶ 図書館法にもとづく図書の充実と暗幕施設 ハンド
会全員加入 鰍沢職業安定所において就職激励大会が行なわれ就職
〃 三三〃 家庭科教室の改造・塵埃焼却がまの施設 学校安全
早川橋ー飯富橋ー田原ー夜子沢に変更して実施︵一一・二一︶
育準備室・保健室・・ッカーの設備 消火施設の整備 強歩大会を
家庭科を継続研究して公開研究授業開催︵六・二︶ ブラろハンド
生全員 出 席 ︵ 三 二 〇 ︶
九︶ 生活指導・安全教育の研究公開︵九・九︶
〃 四一〃 保健体育・健康教育の研究を推進して公開︵七・一
参加︵一〇・八︶ 創立二十周年記念式挙行︵二・五︶
〃 四二〃 非常ベル配線工事 螢光灯増設 地区合同体育祭に
で、復旧工事には材料運搬は早川橋から、生徒、PTAによる足場
つくりなど誠意の奉仕が続けられ、一一月一七日には二部教授を元
〃 四四〃 柔道場ビニール畳五〇畳設備 練習に励み県下中学
望の曙プールが完成 七月一〇日竣工式を盛大に挙行
校柔道大会へ出場した。全校泳力テスト スケート教室
〃 四三〃 地区あげての熱意と努力と町当局の誠意によって待
た。
健会および郡連合PTA主催による、へき地学童健康診断を実施し
〃 四五〃 町教委より二か年の研究校の指定を受け、教育の現
〃 三五〃 西昇降口の改善増築 産業教育振興法による三〇万
〃 三六〃 家庭科室に水道・ガス設置。校庭側溝・排水溝・足
円の施設設備の充実財産区に生徒全員による植樹作業 郡学校保
にかえして復旧校舎で授業がでぎるようになった。
屋根をはがれ壁・ガラス戸・校庭土砂浸入、被害算定約七〇万円
〃 三四〃 理科振興法による器具充実 七号・一五号両台風で
ボールを中心とした体育実地の研究公開︵三・三︶
〃 三九〃 更衣室設置 ピアノ購入 ブラスバンド編成 技術
〃 三二〃 以前より継続研究してきた改善ヵリキュラムを完成
第五編 教育と文化
代化・教育機器導入の研究を推進し公開発表をした。
2 曙中学校PTA
昭和二二年度 一〇月一五日PTA結成 曙村PTAと称す
二四〃
二一二〃
講演会・教育映画会など開催 PTA学習の実践
曙中学校新校舎建築につぎ積極的に協力を続行
学芸会をかねて部落懇談会開催
家庭科調理室建設に協力奉仕
授業参観・学級懇談・家庭訪問を受けて懇談実施
統計教
二五〃
二七〃
二六〃
二八〃
育への参加と公開に協
〃 二九〃 講演会
・映画会と学級PTA
を開催
〃 三〇〃 曙村解
施設部の奉仕作業
村式中富町制祭に協力
合PTAが曙を会場に
努力
開催され研究と協力に
〃 三二〃 強歩大
会応援 運動器具整備
三四〃
三三〃
七号一五号両台風の被害校舎校庭の復旧作業に出動
奉仕作業によって国旗掲揚塔を建設
PTA保健部のほかに体育後援会を設立
調理室・側溝・水飲場の水道施設などの奉仕作業
県および郡と中連と三者共催の研究会を曙で開催
植林作業の実践 親子会議の継続実施部落懇談会
三八〃
三七〃
中連P
有志の協力を結集しブラスバンドの結成をみた。
三六〃
三九〃
三五〃
四〇〃
発表︵西島会場にて︶
研究会へ矢細工支部が
〃四一〃プール
〃 四二〃 同右陳
建設促進会結成
〃 四三〃 プール
情運動を展開継続
建設への協力完成祝
〃 四四〃 中富町
の統合中の実情視察と
中学校統合問題で県内
し合い実施
地域の意見の調査と話
曙 プ ー ノレ
力
〃〃〃〃〃〃〃〃
賀
〃〃〃〃〃〃
充実、公開発表会に協
973
中学校
曙
力
〃 三一〃 中部連
第二章学校教育
第五編 教育と文化
3・歴代校長
就任年川1
藤中木森
生 徒 数
名
仁秋甫之
之
恵英幹直
伊田松大
氏 〆○一/8Qノ
孝新門雄訓
昭和
44494
2414︻﹂
2
2333
名
左義昌
野川田西月
星古依河望
12345
氏 就任年月
昭和39。4
43.4
44.4
46.4
曙小中学校講堂
→
(曙公民館)
4,曙中学校概況
計
3
8
1
25
40
58
31
26
37
22
41
25
17
90
93
05
18
2
羊⊥1111111111 1111111
女
26
26
87
46
76
46
56
26
36
25
75
63
85
05
56
7
5
男
16
67
77
67
15
77
16
57
95
98
6
57
42
53
50
61
6
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
職員数
9789988776666666
昭和22
学級数
3355545443333333
年度
経常予算
円
325,758
336,400
358,000
449,000
336,000
354,300
301,100
264,207
292,660
219,300
193,400
283,000
283,000
327,000
392,000
437,000
511,000
616,000
974
二、共和 中学校
︵沿革誌不詳︶
ば二六・七・二七の記録﹁小中連絡協議会を開き次の項目につき協
議−、夏休みの諸計画2、校舎の管理3、事務連絡﹂小中合
﹁なごやか運動会﹂と銘うって、他団体地区をあげて盛大に行なわ
同の避難訓練・砂場つくり・農繁休業など。恒例の秋季運動会は
の自主活動をもとにして、恒例的に実践されていた。午前中は読後
れた。また中学校独自の学校行事として﹁図書館まつり﹂が生徒ら
西八代郡共和村立共和中学校は、昭和二二年四月一日独立中学校
として発足し、昭和三三年三月三一日に発展的に閉校した。
演劇など多彩な楽しい番組をもち、父母の参観も得ての特色ある学
感想文・自由と課題による作文・自由研究の発表会。午後は合唱・
第二次大戦後の学制改革による新制中学校として創立され、西八
代郡共和村の部落のうち下田原・宮木区が南巨摩郡中富町へ、上田
んで部落対抗の陸上競技・ソフトボール大会も恒例に行なわれた。
しばしば郡・県の大会に出場した。その他の運動も小規模ながら盛
輩に秀れた愛好者が多く、伝統的に普及していた・その影響もあって
校行事であった。運動クラブの中では特に庭球が盛んで、地域の先
原・一色区が西八代郡下部町へ分村合併したことによって廃校とな
った。
いた。職員は校長教頭を含めて七名、各学年一学級計三学級の経営
校舎は小学校の一部をもって充当し、運動場は小学校と併用して
であった。
り、旅行斡旋業者の少なかった時初めての方向転換で、生徒三四名
では普通となっているが、中学生の修学旅行は関東がほとんどであ
職員三名の修学旅行であった。教育会は西八代郡中部教育支会︵共
昭和二八年一〇月一八日から二泊三日の関西旅行を実施した。現在
〃 二四・二・ 八 中学校増築校舎着工
昭和二二年七月一六日 共和小中学校連合PTAおよび教育後援
〃 〃 ・四・一八 中学校増築校舎完成
間を中心に行なわれた。スポーッ・文化・その他の支会行事にも積
和・富里・古関・久那土・岩間・落居︶に属していて、久那土・岩
会を結成。
〃 〃 ・九・二七 連合PTA臨時総会を開催出席者二百名、
〃 〃 ・四・二六 共和中学校増築校舎落成式挙行
ていた。
創立後一一年にして廃校となり、共和中学校の名も消え、校舎も
極的に参加してよい成績をおさめた。職員の研修も校内外で推進し
奉仕で実施 二月一七日竣工式挙行
そびえ立ち、校歌にうたわれ誇りとしていたカシの大木もその後台
解体され現在はその敷地に地区公民館が建てられている。玄関横に
運動場拡張につき協議、実行委員会を結成して促進運動展開
〃 三 〇 ・ 七 ・ 五 中 学 校 二 教 室 完 成 落 成 式 挙 行
風で倒れてしまった。今は多少の記録と話題の中に残っている共和
小中学校併設であったので、小中学校合同職員協議会を必要に応
じ開き、行事その他の調整をはかりながら学校を運営した。たとえ
975
〃 〃 一〇月第一期 一月第二期の地ならし工事を村民の勤労
第二章学校教育
宮沢 進 二代 今村信春 三代 伊藤 渉
タル本校︵大須成農業補習学校︶モ久成区二転ジタリ。蚊二於テ、
リ。大正十年度ヨリ小学校、久成中田新校舎二移転シ、従テ附設シ
久成区・平須区ヨリモ生徒ノ入学ヲ見ルニ至レリ﹂おそらく町内各
補習学校もこれと大同小異であったろうと推察される。
⇔ 青年訓練所
大正八年第一次大戦後平和条約が結ばれ、日英米の聞で軍縮が行
︵旧制︶以上の各学校に現役軍人の将校を配属して軍事教練を実施
なわれた。しかし政府は国防力を保持しようとの考えから、中学校
し、もう一つは全国の市町村に青年訓練所を設置させた。大須成青
年訓練所教育に対して後援会を設立し、資金を集め、また寄付して
昭和六年満州事変後は時局の影響いよいよはげしく、各村民も青
976
中学校である。
校長 一 代
一二、その他の学校教育
O 農業補習学校を小学校に併設
町内各小学校沿革誌に、明治三七年から三九年にかけて﹁農業補
習学校を小学校に併設す﹂ ﹁小学校長農業補習学校長を兼任す﹂と
ある。明治二六年﹁実業補習学校規程﹂が制定された。これは富国
年学校沿革誌に﹁大正十五年六月二十八日付補習学校ヲ青年訓練規
定第六条ニョリ青年訓練所充用二認可セラレタリ﹂と記録されてい
ことで、軍事教練・公民科・普通科・職業科の四本建の教育であっ
る。満十六歳から二十歳までの青少年に四か年間の軍事教育を施す
は小学校の上席の訓導と、本町内では小学校高等科の農業科担当の
た。各小学校に併置し小学校長が青年訓練所主事を兼任した。学科
から指導員の名称で委嘱された。また教員のなかで師範学校卒業年
教員が、庶務兼任で担当した者むあった。軍事教練は在郷軍人の中
次に徴兵検査に合格し、いわゆる短期現役兵の軍事教育の経験者
︵陸軍伍長︶で指導員を兼任した者もあった。夜間の学習と軍事教
教授ス。昼間教授トシ会ノ事業トシテ毎年二週間乃至一ヵ月ノ、作
青訓旗、訓練用銃と剣、その他用具を整えた。また年一回行なわれ
練が主であった。
月等ヲ利用シテ、青年団体ト提携シ夜学会ヲ開設シテ修養セシメタ
法ト裁縫ノ講習会ヲ開設シ女子ノ修養二努メシメ、亦男子ニモ旧正
シテ、毎夜二時間ヅツ小学校二召集シ、国語・珠算・農業・修身ヲ
ス。会員六四名二補習教育トシテ、農閑期ナル十二月、一月ヲ利用
八年九月本村小学校所在地大塩区二於テ大塩処女会ナルモノヲ設立
大須成村立青年学校沿革誌には次の記録が残されている。 ﹁大正
る。
が改正された以後設置された。それが前述の沿革誌にあらわれてい
習会であった。山梨県の補習学校は、明治三五年実業補習学校規程
心に夜学会が設けられた。おもに冬の農閑期の夜間を利用しての学
がさかんとなり、青年会とか有志が中心となり、寺院や小学校を中
の学習意欲を満たすための施設でもあった。明治一〇年代青年運動
強兵の基礎は産業の振興にあると考え、また小学校卒業後の青少年
第五編 教育と文化
た査閲には専門の軍人が臨席して、訓練の徹底ぶりを査察講評し
た。これは、近隣三、四青年訓練所が合同で実施された。村長・学
この査閲の行事を盛んにした。
㊧ 青 年 学 校
昭和一〇年四月、青年学校令が公布された。明治以来の農業補習
するもので、普通科︵尋六卒者が二か年︶本科︵高卒男子五か年.
と改称された。旧制中学校に進学しない男女青年に対しての教育を
学校と新しくそこに充用された青年訓練所とが統一され、青年学校
戦時中、青年訓練所の査閲は、近隣
からの軍隊入営に続くような戦時計画であった。この青年学校令の
九歳までの男子青年はこの青年学校に在籍して訓練をうけ、二十歳
女子三か年︶その上に研究科・専修科の四科で構成されていた。十
た。
してはラッパ隊
のがそれである。しかし終戦後復員者および軍需工場からの復帰者
リ合併シテ静川村外四力村組合立峡南中部青年学校トナル﹂とある
めた。﹁昭和十八年十二月二十五日、大須成農業青年学校廃校トナ
は、その実施が困難となった。そこで県は青年学校の統合をすす
送られ、指導する指導員も召集され、単村における青年学校教育
空隊への志願者も多く募集された。在郷軍人も再三の召集で戦地へ
校となった。戦争がはげしくなるとともに、青少年の陸海軍また航
が制定になり、昭和一九年には師範教育令が改正され、青年師範学
灘青
ヅ
ラ
の
所
練
訓
年
パ
公布とともに、その教員養成を目的として、青年学校教員養成所令
査閲行進に際
青年訓練所合同で毎年一回行なわれ
隊
のラッパが吹奏
されている。
着物姿が印象懸慧
的である。
果罐幽
か。
ずれだったろう、
れ、ふたたび単村別に独立した。二一年度・二二年度と各村国民学
が多かったので、昭和二一年三月一日県の指令で、統合が解体さ
おおむ
﹁良好﹂
校に併設し、終戦後の混乱とたたかい、食糧増産に励む地域勤労大
﹁概ね良好﹂
校は併設され一か年経営されたが、昭和二一二年三旦三日をもって
衆青年の教育にあたった。二二年四月新制中学校が発足し、青年学
廃校となった。
977
校長・議員・在郷軍人・男女青年団幹部その他関係者も参列して、
第二章学校教育
日、校名変更して中富
978
同二九年一〇月二八
分校となった。
㈲ 定時制高等学校
新憲法と教育基本法にたつ教育の機会均等の精神により、定時制
日、建築委員一五名を
選任し、建築位置を静
同三〇年三月一〇
川小学校運動場西の住
高等学校が発足した。県下に中心校・分校四八校があった。
ぎ、一〇月一六日開校式ならびに入学式を挙行した。当時静川小学
昭和二三年一〇月一日に設置が認可された。以前から諸準備を急
決定した。校舎は静川
宅跡とし、約六〇坪と
小学校旧校舎片袖部を
校に併設されていた静川中学校の二教室を借用して、土曜日と日曜
解体改造とし、八月八
日の二日制で発足した。定時制主事河西義一、分校主事山中孝雄と
たわら学ぶ生徒であった。
に、独立校舎落成式を
日上棟式、九月一七日
が経営にあたった。男子一六名、女子二二名、計三六名の勤労のか
した。さらに二月二一日静川分校PTAを創立し、翌二二日には静
月二〇日、創立一〇周
挙行した。同三二年三
昭和二四年二月五日、生徒套を結成して活発な自学の組織を充実
川分校振興会を創設するなど、中部五か村︵中富町︶を範囲とした
年記念事業として、特
家庭と村当局の協力体制の確立に努力した。
同二六年四月一日に被服別科制度が発展的に、農村家庭科とな
がら、実践的の職業課程として充実を目標に、地域産物の加工、柿の
消毒講習会なども実施して、一六年間終戦後の混乱期の青年教育を
別教室調理室を増設した。常に地域社会との緊密な連けいを保ちな
担当して昭和三九年三月三一日閉校となった。学んだ生徒数四一七
り、同時に短期農業教育課程として二か年の被服専修科を置いた。
を機会として独立校舎建築の機運をもりあげ、二九年九月一五日、
生徒の手で、自主的に地域の課題を提示して盛大に行なった。これ
昭和四五年度末解体された。
名、卒業生は二三六名である。閉校後は町中央公民館に利用され、
かれたが短期間で廃止された。
なお原地区に、県立身延高等学校原分校が設置され、普通科が置
を開催して、中富町長・教育委員会・町議会に、PTA全員の署名
をもって陳情した。続いて翌一〇月五日、振興会臨時総会を開き、
中富町教育委員会の賛意を得たので、一〇月四日、PTA臨時総会
二八年三月二一日には創立五周年記念行事を、七二名に増加した
灘
独立校舎建築促進協議会を結成し、強力に運動を推進した。
校
県立峡南高等学
県立峡南農工高等学校静川分校
第五編 教育と文化
どまた遠く他郡からの生徒は切石など近くに下宿をしての勉学であ
はかま
った。男女とも着物に袴をつけ、ズックのカバンを肩にかけて、街
富町旧村の小学校から入所する生徒が多数をしめた。万沢・富河な
南巨摩・西八代の両郡からの応募が主で、切石を中心に現在の中
道を、山みちを、富士川の渡舟を労し、ながい道のりを徒歩通学し
㊨ 山梨県教育会南巨摩支会教員養成所
とばである。当時の尋常高等小学校の最終学年であった高等科第二
た姿が印象的であった。
﹁切石の養成へ行く⋮⋮﹂大正時代の後半に本町内で耳にしたこ
学年を卒業する生徒の向学心でもあった。
の 峡南実科女学校
静川小学校沿革誌に﹁大正九年四月十日、教員養成所開所式挙
行﹂とある学校がこれである。明治一六年発足した﹁山梨県教育学
養成所・実科女学校が併設された当時の切石小学校
会﹂が、同二四年に﹁山梨教育会﹂と改称、機関誌﹁山梨教育﹂発
に﹁昭和二年十月十
六日峡南実科高等女
静川小学校沿革誌
等小学校と都留中学校の二か所が設置された。
学校開校式および展
行その他の活動を展開していた。その教育会の特別の事業として、
昭和二年発行の﹁大正山梨県誌﹂によると﹁⋮師範学校が毎年多
る。前記の准教員養
覧会を開く﹂とあ
私立学校令によって認可を得て実施した学校であった。切石尋常高
る能わず、僅かに臨時教員養成所出身者を以つてその欠を補い⋮﹂
って同所切石小学校
成所が廃され、かわ
数の新教員を育成して教育界に送り込むも、その需要を満足せしむ
とあり、また同誌に教育会は各郡市に支会を設け、郡長を会長に視
に併設された学校で
成をめざした経営で
あった。良妻賢母養
︵大正一四年同所卒業生︶所蔵の卒業記念写真帳によると、顧問と
学を副会長に推挙していたことも知られる。本町寺沢の松田清子
して大野郡長・加藤視学・島津熊太郎教育支会長・秋山福三所長、
したという。しかし
あった。英語も指導
昭和四年身延実科女
氏がある。職員六名で、静川小学校沿革誌の職員録と比較すると、
ことが推察される。大正二二年度は生徒数は男子四〇女子二三計六
校長が兼務、上席専門訓導が講師となって鋭意指導にあたっていた
ともに廃校となった
学校が創立されると
る者などがあった。
三名であった。卒業後は師範学校へ進学する者、教員として就職す
979
講師として星野孝・若尾平造・仲田利康・若林福信・佐野かつの諸
第二章学校教育
第五編 教育と文化
第五節 学校給食
び奨励について﹂指示した。戦後の食糧不足による児童の体位の低
下を防ぐため、学校給食の基本構想を含んだものであった。たまた
ま米軍からかんづめ類が放出されたので都市の小学校で、とりあえ
金︶によって多量に配給された。しかし、これも完全給食でなく弁当
麦粉・脱脂粉乳・かんずめなどがガリオア資金︵占領地域救済基
ずこれを中心材料として開始された。その後学校給食用として、小
1 昭和初期の学校給食
府の財政措置がとられず、給食費の父母負担が増額した。そこで給
持参の補食給食であった。昭和二六年ガリオア資金が打ち切られ政
﹁身体検査を行ない栄養不良児に国庫補助を得、十一月一日より
れは西島小学校沿革誌昭和七年の記録である。町内各小学校の沿革
年一〇月日本pTA結成総会が東京で開かれ、その席上議題とな
食危機突破のための運動がPTAを中心に全国的に行なわれ、二七
栄養給食執行。人員二五名︵高等科八六名尋常科三八七名中︶﹂こ
誌にも、これと前後して給食実施の記録がある。昭和初期における
り、その後全国都道府県の学校給食推進協議会を中心として、政府
経済不況による貧困児童と欠食児童が、全国的に出現した。昭和三
年一〇月文部省は、﹁学齢児就学奨励規定﹂を定め、道府県に補助
3 学校給食法︵昭和二九年六月三日公布︶
と国会に対し、学校給食の法制化の運動が続けられた。
この法律は、学校給食が児童および生徒の心身の健全な発達に資
この法律の目的
金を交付してまず貧困児の就学を奨励した。欠食児童については昭
出した。昭和一五年には﹁学校給食奨励規定﹂を定め、国庫から児
和七年九月﹁学校給食臨時施設方法﹂に基づいて毎年百万円ずつ支
童栄養資金の交付があり、栄養改善をはかるようになった。一食五
み、学校給食の実施に関し必要な事項を定め、もって、学校給食の
し、かつ、国民の食生活の改善に寄与するものであることにかんが
普及充実を図ることを目的とする。
銭∼六銭の単価であった。このように欠食児童の救済から始められ
いう教育の本質に向かって運営された。しかしこれも戦時となって
学校給食については、義務教育諸学校における教育の目的を実現
学校給食の目標
た学校給食は、次第に虚弱児を対象とする偏食をなおし栄養改善と
中断した。
養うこと。
一 日常生活における食事について、正しい理解と望ましい習慣を
い。
するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならな
2 連合軍総司令部の援助と学校給食
中富町内各小学校沿革誌に、昭和二三年の八月から九月にかけて
﹁軍政部放出物資による学校給食実施のため炊事室の建築かまど施
設﹂と記録されている。昭和二一年一二月文部厚生農林の各省の通
牒で戦前の学校給食規定を廃し、新Lく﹁学校給食実施の普及およ
980
と。
四 食糧の増産、配分および消費について、正しい理解に導くこ
三 食生活の合理化、栄養の改善および健康の増進を図ること。
二 学 校 生 活 を 豊 か に し 、 明 る い 社 交 性 を 養 う こ と 。
4 学校給食の指導と研究
式、一二月二二日待望の学校給食が開始された。
負入札、九月一六日地鎮祭、一一月六日上棟式、一二月一九日竣工
様に地区からの支援を基礎に推進された。三九年九月一四日工事請
教育振興の諸法令の一つとして学校給食法が公布されたが、完全
梨県教育委員会から実験学校の指定を受け、研究主題に学校給食の
標をふまえて指導と研究を重ねた。昭和四二年四月、原小学校は山
充実強化、特に﹁給食指導計画と実際指導はどのようにしたらよい
町内全小中学校あげて完全給食の喜びのうちに学校給食の目的目
革誌に﹁昭和三三年一〇月二日、本日よりミルク給食実施国庫補助
げての研究と努力が積みあげられねばならなかった。甲南中学校沿
か﹂をかかげて研究と
給食の実現には本町でも約一〇年間にわたる町当局PTA地域をあ
四円五〇銭によるもの﹂ ﹁昭和三四年七月六日、希望者に本日より
実践を積みあげ、二
5 中富町学校給食の
果をおさめた。
会を実施して多大の成
月一日に公開研究発表
ミルク給食開始、一びん八円甲府協同乳業株式会社依託﹂とあるが
町内各校の記録に三八年ごろまで断続して、補助給食が実施されて
いた。
昭和三七年原小中学校のPTAを中心に完全給食の運動が強力に
当局の理解と努力によって、中富町に第一号として原小中学校給食
教育委員会の一部門
運営機構の大要
形態で、教育的・合理
たのしい
進められた。三八年一月二六日原小中学校地区民の熱意と努力、町
室を新築し、共同調理場が施設され、土曜日を除く毎日完全給食が
一方曙地区においても、地区をあげ、完全給食実施の推進がなさ
的・科学的な給食を実
に県教委が示している
として、文部省ならび
れた。昭和三八年曙小中学合同の給食室の建築、施設設備の充実を
施し、保護老の負担は
六六名であった。
開始された。給食代小学生二五〇円、中学生三〇〇円で、対象は五
また県下にセンター方式の給食施設が勧奨されはじめ、三七年ご
完成して一一月一日から完全給食が開始された。
る給食費とし、人件費
その他の運営費は町経
ろから研究されていた甲南学区給食センター建築委員会が三八年九
月一日に設立され、PTAを中心に当局への要請と原・曙地区と同
981
児童生徒が直接口にす
第二章学校教育
設として、施設の改善充実と運営に日々努力を傾けている。
営予算により支出している。児童生徒の保健および栄養上の厚生施
栄養士ー二名︵原・曙小中一名甲南学区一名︶が献立作成 調理
担当者ー給食業務の総括および庶務会計
1 中富町原小中学校共同調理場
O 名 称
古長谷五四二番地
伊沼 二五〇番地
位 置
調理士ー二名︵原・曙小中五名甲南学区六名︶が調理にあた
指導。
る。
2 中富町曙小中学校共同調理場
食主任・PTA会長・
教育長を長とし、 事務局長・学校教育主任・校長・教頭・学校給
甲南中学校
静川小学校
大須成小学校
西島小学校
二六五
六〇
四七三
二九六
甲南学区給食センター
O 学校給食需給人員 ︵昭四〇・四二現在︶
PTA給食専門部長・
その他職員分
O 学校給食委員会
栄養士・校医
計 一、
計 二九二
その他職員分 一九
曙中学校 一一〇
曙小学校 一六三
曙小中共同調理場
計 四九九
その他職員分 二三
原中学校 一七八
原小学校 二九八
原小中共同調理場
一六五
二七一
○管理運営
者であるが日常の実務
教育長が直接の責任
については、甲南学区
については給食事務担
曙小中給食については
当者が、原小中および
学校長に委嘱してこれ
を担当する。
○ 運営組織
の一環として最高責任
教育長ー町教育行政
者である
給食運搬車
切 石三〇七番地
甲南学区給食センター
3 中富町甲南学区給食センター
第五編教育と文化
982
甲南中
山口 久江
西島小 望月たみ子
静川小 佐野米子
原 中 依田藤江
学校使丁
曙中・小
望月みえじ
川口 光子
深沢花代
樋川令子
足立鈴子
渡辺とよ子
大須成小
河西米子
埜村勝子
佐野ハツエ
望月 正
樋川さざえ
佐野 工
山中キサ子
笠井みつえ
原 小
甲南学区
原学区
曙学区
983
給食婦
第二章学校教育
第五編 教育と文化
第三章 学校行事その他
第一節修学旅行・遠足・夏季施設
学校生活の思い出の中の一つにだれでもが持つ遠足や修学旅行、
﹁うれしくて前の夜は眠れなかった﹂と作文にしるした印象深い学
箱根・江の島・鎌倉・横浜・東京・多摩御陵が多い。戦時教育下で
終戦後六三制で小中学校に分かれて以後は、小学校がほとんど江の
官の指導と運賃特別割引の恩典のもと伊勢参宮に切り替えられた。
島・東京方面にかわったので、中学校は初めは日光の見学が多かっ
たが三〇年ころからはすべて関西方面にかわっている。
中央線が甲府まで延長されたのが明治三六年、名古屋までの全線
足も、日本平や富士五湖へのバスの遠足と変わった。
されている修学旅行も、甲府へ一泊二日の修学旅行から、三泊四日
くれつぼ
の京都大阪への旅と変わり、徒歩で小室山・樽坪発電所へ行った遠
見学場所も寺と宮の名所旧跡がほとんどであった過去にくらべ
るなど定めている。
および帰校の時刻を原則として、午前六時以降、午後七時以前とす
即応してこの種の学校行事をますます有効かつ安全にと規則の中で
旅行・遠足その他の校外行事の基準に関する規則を定めた。時代に
昭和四四年五月、中富町教育委員会は、中富町立小中学校の修学
開通は明治四四年である。一方身延線は昭和三年までは身延−富士
てもとらえてきている。
て、菓子工場とか自動車工場などの近代産業に直接触れる機会とし
校行事である。中富町各学校の沿革誌に大正の中ごろから必ず記録
間だけであった。大正一〇年高等科卒業生の修学旅行は、朝四時起
はならない。﹂ことも定めている。
の引率の教職員数は参加児童生徒数一五人に対して一人をくだって
事の日数は、二泊三日以内、目的地は県内および隣接都県とし、そ
なお右規則の第十二条に﹁修学旅行・遠足を除くその他の校外行
﹁宿泊のうち、車︵船︶中泊は原則として行なわない﹂とか、出発
きで身延まで行軍? 夢に見た待望の汽車で富士駅に運ばれ、東海
道線に乗りかえ、車窓からはじめて見た紺碧の海原、清水港で見たで
っかい鉄の船、富士川をのぽりくだりする帆かけ舟を見なれた山の
昭和二三年以降の各学校の沿革誌に必ずみられる記録に、夏季施
子にとってまさに感激の連続であったと思い出の記に記している。
では沼津・三保がほとんどであった。昭和になると全部県外にのび
その修学旅行も沿革誌によると、県内では甲府・みたけ方面、県外
984
第三章 学校行事その他
れら目的地も観光ブームと俗化のため、また安全対策などから、学
湖などの林間学校の施設である。しかし三〇年代後半になると、そ
設がある。三保・沼津・伊豆方面の臨海学校と富士五湖・四尾連
学務課員および徽典館職員その他有志が首唱して山梨教育学会を創
教育会そのものにも変遷の歴史がある。明治一六年六月三〇日県
いて惜敗三年連続優勝を逸す﹂等々。
重ね、昭和四一年四月
改組について企画討論を
って南巨摩郡では教育会
教組を離脱した。したが
校長が、次いで教頭が山
半に管理職問題からまず
てきた。昭和三〇年代後
会の活動の両面を展開し
の活動と従来からの教育
育会員として、組合本来
成されて組合員はまた教
た。終戦後教員組合が結
推戴していた時代もあっ
の会長を知事とか郡長を
は昭和二〇年の終戦まで
馨.灘.灘 継続されていた・教育会
﹁山梨教育﹂を発刊︵甲府教育百年史田中憲著抜すい︶この機関誌
〇銭とす﹂。明治二四年八月二〇日﹁山梨教育会﹂と改称、機関誌
リ併セテ教育上ノ施設ヲ翼賛スルコトヲ目的トス﹂ ﹁会費一か年一
一回総会を開催した。その会則第一条﹁本会ハ教育ノ普及改良ヲ図
立し甲府公園内仮徽典館を会場に発足した。明治一七年一月五日第
キャンプ生活、また戦時中も行なわれていた七面山登山とか、富士
校を使用しての宿泊訓練や、近くの静かな谷間や河原を利用しての
って き て い る 。
見山登山などが、子どもクラブの訓練の場の意味なども含めてめだ
これら学校行事の一つを見ても、時代を反映した変遷がよみとれ
て本校小規模ながら大量得点をもって優勝す﹂ ﹁庭球大会決勝にお
峡南児童庭球大会(旧静川小学校庭)
て興味深いものがある。
第二節教
れている。 ﹁講演に多大の感銘を受けて帰校す﹂ ﹁新教育思潮に基
形式の変遷をたどってみても、時代相と人々の感慨をもって記録さ
治二〇年代から現在まで教育会を基礎とした行事も、種類・内容・
音楽会など児童生徒を中心とした年問にわたっての行事もある。明
動競技会から席書・図画・作文朗読・読後感想文発表・自由研究・
であったが、教育会主催の連合大運動会・球技または陸上などの運
会・研究会・講習会・研修会・講演会の諸行事は教職員のみの参加
事への参加がある。支会・郡・県教育会の各主催による総会・協議
本町内各学校の沿革誌に毎年記録されているものに教育会関係行
会
づく研究発表感動を与えて盛会裡に終了﹂ ﹁支会陸上競技会におい
985
育
第五編 教育と文化
﹁南巨摩教育研究協議会﹂ ︵略称﹁南教協﹂︶が創立され現在に至
っている。教育研究部と行事推進部が組織され、教育研究部は各教
科別と問題別の分科会に分れて理論と実践の研究を推進している。
て南教協と密接な関連のなかで、春・夏・秋・冬の各教育研究集会
中富町内の小中学校八校は﹁中部教育研究協議会﹂ ︵中教協︶とし
を一つのめどとして継続的研究の積みあげとその他の諸行事を遂行
している。
第三節 植
本町内各学校の沿革誌をみての印象の一つに植樹行事の実施記録
があげられる。校庭の記念植樹から学校林の植樹記録までー。
1 1 1 1 1
34
52
55
16
11011
803647
312 1 12 1
040881
41
43
57
11
22011
∩○/0458
1
0
64
64
15
14
64
5
5
1
1
2
3
34
35
44
3
39
44
24
28
26
1
4346/○
/○/OrD31
0
2O
831
86
36
27
75
96
56
87
55
8
1
77
r
46
30
2
5
6
30
2
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1
514
4 1
44
46
48
4
4
47
44
51
59
55R9
5
5
77﹄
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8 6
123
1 1 1 1
131
ハ∠92﹁D〆○
一!﹃Q51Qノ
99
102
179
159
く
986
56
16
86
55
16
96
46
97
5
1
6
0
7
08
23
94
23
93
0
173
172
132
166
ゆるぎなく⋮⋮﹂。大正から終戦前まで毎年三月一一日の恩賜林記
122
﹁山崩え水はさかまきて、うまし田畑をおし流し、移ろいかわる
おすくに
国原や、しげる民草色あせぬ。⋮⋮青垣山の色ふかき、甲斐の食国
145
153
147
140
168
汰書、甲府市舞鶴城の謝恩塔の由来はそれとして。
29
30
31
32
33
456一!8 901234
3
3334
34444
163
138
150
150
128
生徒数人「比率%
人
念日唱歌を斉唱した思い出を持つ人々も多い。校長が奉読した御沙
年からのことである。
この恩賜林記念日は明治四〇年八月、同四三年八月の大水害の翌
曙小学校沿革誌に﹁明治三三年五月校庭にリンゴ樹の記念植樹﹂
おなじく﹁昭和十八年五月十七日本年度より植林事業計画をたて、
す。﹂とあり、
本年度分一町歩男女青年団の応援を得て初等科六年以上植樹をな
25
26
27
28
昭和24年度
家事従事
生徒数人1比率%
進
生徒数人
比率%
学
就
職
生徒数
年度
樹
甲南中学校卒業生の動向
第三章 学校行事その他
にも﹁昭和二九年四月十九日学校林へ杉苗二千本植樹﹂の記録が見
また大須成小学校の沿革誌には、﹁昭和十八年五月五日学校林平須
いく傾向がある。
合は、普通科が七割に近い率を続けているが、実業科が累年伸びて
題に、毎年苦慮する家庭・学校である。高校の普通科・実業科の割
就職については職業安定所も指導に参加して行なわれてきた。
区中草里地内約一町歩に檜苗三千本植樹﹂とある。原中学校沿革誌
え、他校の場合も同様に植樹に下刈り管理に青年団やPTAの応援
昭和二〇年代はややきびしい求職難の時代であったが、現在では
職種別をみると、工員・店員が多く次に河内の伝統である大工左官
﹁金の卵﹂のことばに象徴される求人難である。表の就職生徒数の
出動の記録が残されている。
郷の山にむかいて言うことなし 故郷の山はありがたきかな﹂と詠
では県外︵東京・神奈川・静岡︶が三分の二を占めていたが、県や
職等の縁故就職が多い傾向が続いている。就職先は昭和三〇年代ま
幼い日にかけめぐって遊んだ思い出の山の記念植樹、そこに﹁故
じた啄木の詩情にも似た愛郷心がはぐくまれてきた。﹁人、百年の
おける本町の生徒の傾向がほぼ察知できる。
事従事とも男女の比は各々相なかばである。義務教育最後の時点に
明治三〇年 尋常科 五銭 高等科 一五銭︵一か月分︶
その中に﹁授業料﹂のらんがある。抜すいしてみると
貴重な資料である。
一年まで綴られ保管されている。各年度の経営状況がうかがわれる
○ 原小学校に、創立の明治二九年以来の﹁学校一覧表﹂が昭和二
第五節 授
町村の施策と相まって県内就職が毎年増加している。
計を思わば人をつくれ、五十年の計を思わば木を植えよ﹂の諺どお
り、﹁愛林愛校﹂を校是とした小学校もあった。
第四節 中学卒業生の動向
前ぺージの表は本町の甲南中学校﹁学事報告書綴﹂からの抜すい
高校進学率は教育への理解と熱意と経済成長などに裏付けられて
大正一〇年 高等科 四十銭
昭和一〇年 高等科 三十銭 と記入してある。
〃 四〇年 尋常科 ○ 高等科 三〇銭 他村四十銭
で、高校を経て実社会へ旅立とうと、親も子も希望する姿がある。
自村児童は三〇銭、他村児︵楠甫および大塩︶は五〇銭を毎月役場
O 西島小学校沿革誌大正一一年の記録に﹁高等科は授業料として
過密の語が毎日のマスコミにあらわれたここ数年来の社会変動の中
には中学校教育の正常化や、高校の学区制と関連して進学指導の課
年々上昇し、高等学校義務制の声まで聞かれる現代である。過疎・
である。男女別生徒数は略して合計のみとしたが、進学・就職・家
料
本町でも九〇%を越える日は遠くないと推察される。一面このかげ
987
業
に納入﹂とある。
しかし原小・西小の記録にもあるように、事情によって他村から
小学校の授業料も明治三四年以降は高等科だけとなっている。
問題にくちいれを好まなかった当時の校長が全員で反対し、市民大
に右の徴収規定五二項﹂にもとづいた﹁授業料問題﹂が起き、行政
たようである。田中憲氏著﹁甲府教育百年史﹂を読むと、大正四年
入学Lていた生徒には、一〇銭・二〇銭増しのきびしさ?があっ
○ さらに共和小学校沿革誌の明治四〇年度﹁第三 経費﹂の項を
みると、﹁教育費合計一、OO五円六五銭ニシテ 授業料ヨリ金
一五九円五〇銭ヲ収入 基本財産ヨリ金五円 雑収入ヨリ金一円五
ク﹂とある。昭和一四年度のそれをみると、﹁教育経常費金六、三
〇銭収入其他ハ村費ヨリ支出ス 其他農業補習学校費四十円ヲ置
九五円内訳国庫補助金三、五五〇円授業料金二六四円﹂とある
りさげた記録がある。
会を開いて市長を動かし知事交渉の末、授業料徴収認可申請書を取
育費の父母負担の軽減が叫ばれてきた昭和二〇、三〇年代。家庭か
憲法に保証された義務教育無償九か年の現代ではあるが、義務教
そくヒゆう
寺小屋教育の時代に束脩・謝儀が金銭や酒食物品で差L出され、
の印象の一つに教育経費の問題がある。もちろん昔も今も経済の裏
ら国まで、教育費についても課題は絶えない。
第六節祝祭日および記念日
明治三〇年代から大正の一五年間、そして昭和一〇年代までに、
についてはいろいろの感想を秘めて心に残されている。
小学校教育を経験した人にとって、祝日の式典や多くの記念日など
明治五年学制頒布以来、教育費地方負担を決め、父母も税のほか直
日および式日﹂の項に次のような記録がある。
第三条 式日ヲ定ムルコト左ノ如シ
明治四四年一月制定の西島尋常小学校﹁校則第一 教授時刻・休
四月 一日 入学式
接にも教育需用費を負担して授業料を納めなければならなかった。
務就学・無償・非宗教派の三原則を確立した。この小学校令五七条
四・ 二 学年始業式
四・ 三 神武天皇祭
に授業料徴収について、﹁市町村立尋常小学校二於テハ授業料ヲ徴
ルトキハ府県知事ノ認可ヲ受ケ⋮徴収スルコトヲ得﹂と定めた。原
収スルコトヲ得ズ但シ補習科ハ此ノ限リニ在ラス﹂﹁特別ノ事情ア
明治三三年小学狡令が公布され、初等教育の特質とされている義
沿革誌の中で授業料一つとってみても、複雑な多くの背景がある。
心身を労した歴史が秘められている。
性、必要性は自他あくまでも認識しつつも教育費の捻出の苦しみに
責任当局者、課題解決へ誠意をこめての陳情の努力。教育の重要
育のものがたりがある。学校建築・施設設備の充実に労苦を重ねた
落や家庭そしてひとりひとりがこれに影響されて哀歓織りなした教
付けのない教育は考えられない。それゆえに自治体として、また部
受益者負担であった記録がみえる。本町各学校の沿革誌を通読して
第五編 教育と文化
988
第三章 学校行事その他
不三三三二一一一二一一一〇〇〇〇九九八七六五五四
定二一一一三 二二一 三一一一下 三三二二二二
八一〇一〇九一五三一三〇三七六旬一一一五八七一
明治二七 八年戦役記念日
︵共和小学校沿革誌から︶
また、大正四年一月一日の拝賀式挙行については、
海軍記念日
第一鈴 用意
式次第左の如し
君が代オルガン奏楽
オルガン合図
全員合唱
全員合唱
勅語奉答歌
校長・村長
御閉扉︵最敬礼︶
一月一日の歌
校長 講告
退 場
敬 礼
全員合唱
賀詞奉呈
教育勅語奉読︵最敬礼︶
君が代
御開扉︵最敬礼︶
一 敬 礼
第二鈴 入場
皇后陛下御誕辰日
皇太子妃殿下御誕辰日
皇太子殿下御誕辰日
第一学期終業式
第二学期始業式
明治三七 八年戦役記念日
秋季皇霊祭
神嘗祭
戊申詔書下賜記念日
天長節
教育勅語下賜記念日
学校記念日
新嘗祭
になって一一月三日の明治節を加えて四大節となった。式後一月一
日にはお祝いのみかん、その他の祝日には祝のまんじゅうをいただ
大正時代には四方拝・紀元節・天長節の三大節であったが、昭和
いた。四大節には小学校判任官待遇者は県庁に、奏任官待遇者は宮
第二学期終業式
第三学期始業式
内省へ賀状を呈出した。祭日には式典は行なわず休業日であった。
四方拝
紀元節
が公布され今日の祝日とかわった。皇室中心の祝祭日から、成人の
昭和二三年七月二〇日新憲法下における国民の祝日に関する法律
孝明天皇祭
陸軍記念日
の祝目となったのである。
日、こどもの日、敬老の日、体育の日など、それは国民自身のため
恩賜林記念日
教員新任又ハ告別式
修卒業証書授与式
989
〇九八七六五四三二
第四章社会教育
第一節概
す﹂とある。当時郷土教育の提唱や時局の背景のなかで、はじめて
地区をあげ組織的に社会教育が計画され実践されるようになった。
団体の連絡統制を図り社会教育の振興を計画実践した当時の状況を
況﹂を見ると、会則を制定し村長を会長として、全村の社会教育諸
静川村社会教育大会当日の研究発表集録﹁静川村社会教育実施状
﹁すべての国民があらゆる機会に、あらゆる場所を利用して、自
導方針に基づく実施要項・国民精神総動員に対する実施事項・切石
の長所・静川村社会教育委員会々則・同施行細則・郷土全一教育指
年及び成人に対して行われる教育活動︵体育及びレクリエーション
村銃後々援会規定﹂をあげてその後に、村の概況・静川村農会・同
小学校勤労報国隊指導精神と実施要項・同国民貯蓄組合規約・静川
詳細に知ることができる。その目次をみると﹁静川村々是・静川村
の活動を含む︶をいう﹂これは第二次大戦後の昭和二四年に施行さ
の概況が集録されている。それは昭和九年九月山梨県から﹁社会
村消防組・在郷軍人会静川分会・同村婦人会・青年団・女子青年団
教育委員会設置要項・国民更生運動要項・社会教育施設要目﹂1
また内容多様の集まりの中で生活し発展してきたといわれる。
善導の対象として、広義に考えた教育が行なわれてきた。明治の末
その巻頭に﹁国運ノ隆昌ハ国民ノ教養二侯ッ所至大ナリ⋮⋮時代ノ
山梨県訓令甲第二二号なるものが市町村長あてに指令されている。
推移ハ社会事象ヲ益々複雑多岐二導キ国民生活ヲ愈繁激多端ナラシ
は、静川小学校沿革誌で﹁昭和十三年十一月十一日、県主催社会教
ク此趣旨ヲ体シ之力設置二遺憾ナキヲ期スルト共二其ノ機能ノ発揮
リ且時局ハ⋮⋮社会教育ノ普及発達二侯タサルヘカラス村当局ハ能
メ国民教養上学校教育ノミヲ以テシテハ到底満足スル能ハサルニ至
育委員大会を本校に開き本村社会教育の状況を発表し研究討議をな
動が断片的に記録されている。社会教育の名がはじめてみえるの
中富町内小学校の沿革誌に、少年団・青年団・婦人会その他の活
なかで行なわれていた。
期から大正の中ごろまでは通俗教育と呼ばれ、多様の形式と内容の
それぞれの風俗・習慣の伝統や、政治の変遷あるいは教化や思想
れた社会教育法の条文である。しかし人間はその発生時代から大小
ら実際生活に即する文化的教養を高める⋮⋮﹂﹁学校教育法に基
況
ぎ、学校の教育課程として行われる教育活動を除き、主として青少
第五編 教育と文化
990
イ、教育後援会 ロ、育英事業 ハ、補習教育の助成 二、
不良少年少女の感化
二努メ又委嘱セラレタル該委員ハ其ノ責務ノ重大性二鑑ミ熱誠職二
尽シ以テ社会教育ノ振興ヲ図リ国家ノ進展二寄与セラレムコトヲ望
二、児童保護に関する施設
イ、児童公園の設置 ロ、貧困児童の就学奨励並保護 ハ、
ム 昭和八年五月一日 山梨県知事﹂とある。
さらにさかのぼって大正一一年七月六日県訓令﹁社会教育施設要
三、思想善導に関する施設
子守教育 二、林間学校
イ、生活改善の研究実行 ロ、図書館及巡回文庫 ハ、男女
目﹂をみると、学校教育とならび社会教育の必要や目的を述べ、社
指示をしている。
青年団其の他団体の指導 二、職工、徒弟、僕牌の修養指導
会教育普及作興を計り其の実績を挙げんことを努むべLとして次の
甲、中学校︵旧制、現在の高校︶を中心とする社会教育施設
四、体育衛生に関する施設
イ、公衆体育の普及奨励 ロ、公衆衛生思想の啓発 ハ、児
ホ、部落改善 へ、芸術趣味の修養指導
イ、運動場の開放 ・、図書館の公開 ハ、学校園・農場の
五、公衆娯楽に関する施設
童相談所 附 委托所 二、公衆運動会
乙、小学校を中心とする社会教育施設要目
公開 二、理科標本器具の縦覧及利用
一 、 校 舎 ・ 校 地 ・ 校 具 の 利 用 に 関 す る 施 設
二、知徳の養成に関する施設
の改善 ハ、通俗図書、音楽の普及 二、盆踊其の他地方的
イ、活動写真、脚本等の内容改善 ・、劇場、活動写真館等
娯楽の改善 ホ、室内娯楽の研究改善
イ、講演会︵出張講演・召集講演︶ロ、講習会︵校外教授・
年団の指導・戸主会・主婦会の援助・職業指導・男女青年読
芸会の公開・補習教育の助成・展覧会の公開・男女青年団少
であるが、時代の国策や行政的手段の教育の色彩が強かったことが
これらの訓令に基づいて各村独自の施設が計画実践されていたの
短期講習・長期講習︶ハ、読書会・通信教育・掲示教育・学
物の撰択指導
三、趣味の向上に関する施設
の高い民主社会における社会教育の主体は国民自身であり、その自
昭和二四年六月一〇日公布された﹁社会教育法﹂は、平和と文化
うかがわれる。
発性自主的教育活動によって教育を行ない、国や地方公共団体が社
四、体育衛生に関する施設
イ、運動会 ・、運動競技の連絡
国民自身が自主的に伸びていくような条件整備をすることにある、
会教育に果たす役割は、施設を整えたり、資料を作成Lたりして、
一、学校教育の助成に関する施設
丙、各種団体を中心とする社会教育施設
991
イ、音楽会の公開 ・、展覧会 ハ、芸術会 二、生花会
第四章社会教育
第五編 教育と文化
現在中富町の社会教育は、中富町教育委員会事務局組織規則︵昭
とされている。
学習実践をとおして、住民意識の高揚をはかり、明るい住みよい町
社会教育体制の整備と家庭教育の振興、公民館活動を重点として、
の困難や努力があった。自から学びとる社会教育に育つには、婦人
実践されている。終戦後の新しい社会教育の変遷のなかには、多く
会教育を推進する。
ω 社会教育関係者・関係団体が密接な連けいをもち、総合社
− 目 標
口 重点目標と事業計画
づくりのために活動を進める。
会や青年団などの学習と活動、そのかげに啓蒙指導に努力した社会
ω 学級・講座を開設し、家庭づくり社会づくりを推進する。
・三二・四・一五公布︶第四条社会教育課の所掌事務によって計画
の施策の上に、日を追って理解が深まり、活動内容も充実しつつあ
教育主事を中心とした教育委員会の力があった。社会教育は町当局
民館運営審議委員 随時
○公民館運営審議委員会 企画活動の促進連絡協調 ︵対象V公
・公民館長・公民館主事 一月
O県外研修先進地調査研究 ︵対象︶教育委員・社会教育委員
五月
館長・公民館主事・公民館分館長・体育指導委員・学級長
︵対象︶教育委員・社会教育委員・公民館運営審議委員・公民
○合同研修会 役員改選期につき社会教育推進のための合同研修
教委員 七月
○教育委員・社会教育委員合同会議 社会教育推進 教育委員社
○社会教育委員会議事業計画および促進 社教委員随時
ω 計画促進のための会議・研修会
2 事 業 計 画
㈲ 社会教育の拠点である公民館体制の充実をはかる。
スポーッをとおして人間関係を深める。
⑥ 健康づくりのために、スポーツ施設設備の充実をはかり、
社会教育の
ることはお互いの喜びとするところである。
第二節
方針と事業計画
中富町社会教育の拠点である町教育委員会の社会教育課が、毎年
の他の実態の上に、推進の方針と事業を計画し、予算の裏付けを
度当初、現代社会教育の理念と社会変化、本町過去の実績の総括そ
得、社会教育関係者関係団体に提示し中心となって推進する。なお
最近年度の方針と事業をあげてみると次のようである。
県・郡他町村の社会教育関係機関と連絡提携している。
− 中富町社会教育の方針と事業
e基本方針
・社会づくりを進めていくことが今日的課題である。そのために、
社会の変化に対処し、新たな生活適応と明るい家庭づくり、地域
992
青少年のための
町民会議
青少年育成会
青少年育成
推進委員会
カウンセラー
事
審議会委員
主事(書記)
⊥運蕃会
分館長
青少年対策本部
主
主事
灘奎
分館
体育指導委員会
長
文化隻
1
文化財審警会[
館
蓑育亘
館
公民館運営
中央公民館
体育協会
地区公民館
長
民
住
993
3・中富町社会教育のしくみ
第四章社会教育
町
教育委員会
○指定分館長会議 活動の促進情報交換 ︵対象︶公民館分館長
民館長・公民館主事 五・一〇・一二・二月
○公民館長・公民館主事会議 活動の促進情報交換 ︵対象︶公
︵昭和三四年九月一
民館
2 中富町の公
費を補助する。
り︶中央公民館︵切
日調製公民館台帳よ
随 時
○文化財審議委員会 文化財の調査研究とその指定保護 ︵対
象︶文化財審議委員 随時
石︶静川地区公民館併
大須成地区公民館︵下大塩︶
五戸︶宮下町〃︵五六戸︶下町〃︵五六戸︶ 西町〃︵五九戸︶
主事の設置が実現することはたいへん喜ばしい。引続き公民館に対
大塩部落会館一二九戸︶平須〃︵四六戸︶久成〃︵五〇戸︶
大須成連絡所・保育所に併設
静川地区公民館︵切石︶中央公民館に併設
曙地区公民館︵古長谷︶曙小中学校講堂に併設
︵三三戸︶切石〃︵一一七戸︶夜子沢〃︵九四戸︶
求にこたえられる体制づくりを推進したい。
補助する。
手打沢部落会館︵分館併設九四戸︶寺沢〃︵四七戸︶日向南沢〃
② 各地区館に一か所ずつ分館を指定し、活動の促進をはかり活動
ω 地域づくりの拠点である分館の活動を促進するための活動費を
する基本的な認識を深めるとともに施設の充実をはかり、住民の要
い。町の長期計画にもとづき昭和四六年度西島公民館建設と公民館
︵五四戸︶岡町〃︵六
〃︵四一戸︶揚檜〃
〃︵四九戸︶河原町
︵七〇戸︶上町第二
上町第一部落会館
絡所に併設
島︶中富町役場西島連
西島地区公民館︵西
設
○体育指導委員会議社会体育の振興計画とその活動促進 ︵対
象︶体育指導委員 随時
O社会教育研究発表会 年間研究発表 関係者全員 二月
第三節 公民館活動
会議が開かれる役場会議室
が多いため本来の公民館機能を果たし得るだけの施設設備は少な
場を提供する中心的な拠点である。本町における公民館は、併設館
公民館は社会教育機関として、住民が自ら学ぶ社会教育の機会と
− 事 業 計 画
第五編教育と文化
994
矢細工部落会館︵六五戸︶古長谷〃︵三七戸︶福原〃︵一八戸︶
が、中富町公民館台帳による各建物の建築沿革をみると、西島公民
右の地区公民館はいずれも昭和三四年九月一日設置したのである
原地区公民館(旧原村役場)
梨子〃︵二戸︶江尻窪〃︵五七戸︶中山〃︵七三戸︶遅沢〃
共和地区公民館
︵三 一 戸 ︶
連絡所となったもの。静川公民館は昭・三〇・四・一、峡南農工高
館は昭・二二・四・一、西島モード洋裁学校として建築それその後
四六年には解体された。大須成公民館は大正九・四・一、大須成役
等学校静川分校として建築され廃校後利用されていたもので、昭和
四・一、原村役場であったもの。共和公民館は共和保育所と併設
場としてなお大塩分校と棟続きであったもの。原公民館は大正九・
九戸︶
八日市場部落会館︵一〇九戸︶伊沼〃 ︵六四戸︶飯富〃︵二一
下田原部落会館︵一一一戸︶宮木〃︵九四戸︶
共和地区公民館︵下田原︶保育所に併設
995
大須成地区公民館(旧役場)
と保育所(旧大塩分校)
原地区公民館︵伊沼︶原連絡所・農業共済組合に併設
第四章社会教育
第五編 教育と文化
た講堂である。なお西島には戦時中共同作業場として建築した併設
︵期日︶
︵場所︶
地区の課題設定
一 般九月∼二月 地 公館
つ婦人団体が、文部省所管の﹁大日本婦人会﹂、内務省・厚生省管
記録がみえる。昭和時代にはいって日華事変当時全国的な組織をも
た。これらの団体はいずれもその構成員においてまったく重複して
下の﹁愛国婦人会﹂および陸海軍省指導の﹁国防婦人会﹂があっ
った。中富町では﹁国防婦人会﹂の名称が記録されている。
いた。対立もあったが昭和一六年に統合して﹁大日本婦人会﹂とな
﹁分会設立のため昭和一〇年七月二四日村役場内にて、第一回協議
昭和一三年度﹁国防婦人会静川村分会の概況﹂の記録をみると、
会を開き、回を重ね八月二〇日創立総会を挙行。当日の会員二五五
名。甲府聯隊区司令官代理臨席祝辞あり。会員の談話、余興あり﹂
と記されている。事業をみると、昭和一〇年九月二八・二九日手打
八日慰問袋作製五三個、内三個満洲派遣部隊に属する本村出身兵士
沢水害のため出動し、炊き出し・配分・救護に当たる。一一年一月
に発送、五十個司令部に発送。一二年一二月三一日第一回抜毛を集
め一貫八百匁、二円一六銭を得、皇軍慰問金として警察署に依頼。
996
○成人講座
一般教養
○老人学級
老 人 五月∼二月 地 公館
健康管理レク
OPTA研究会 PTAの果たす役 会員
随 時
割活動の促進
⇔ 婦
校
されていた時もあった。曙公民館は昭・二七・八・三〇、建築され
公民館があったが昭和四六年解体された。このように、古い建物を
使用したもの、また他の用途の使用と併設されたものが多かった。
社会教育の実践の拠点である重要な公民館である。本町では長期
するための独立公民館を建設する計画を樹立し実施に移った。なお
総合計画のなかで、併設公民館を廃して、順次に本来の目的を遂行
学
本町内旧村の郷土誌および学校沿革誌の大正一〇年代に﹁婦人
会
会﹂ ﹁主婦会﹂ ﹁母親会﹂の結成挙行とか、講演会や講習会開催の
人
るものが多くなった。
場
部落会館も地区住民と関係当局の努力によって改築または新築され
第四節 成 人 教 育
O 事 業 計 画
生活構造、社会構造の変化にともない、自らこれらの社会変化に
︵対象︶
適応する能力が必要とされる。このようなことから各種学級講座を
開設し、学習意欲の向上につとめる。
︵内容︶
館
︵名称︶
○家庭教育学級 家庭の果たす役割 両 親 七月∼二月
親の態度
役学公
校民
七月∼二月 地区公民館
一般教養、保体、 婦 人 九月∼二月
レクリエ:ション
〃
○中央婦人学級
O部落婦人学級
〃
一三年四月八日防空演習に会員出動配給班・救護班としての活動
家庭トノ連絡ヲ作リ児童教養上ノ改善進歩ヲ計ラシメ児
懇話会二於テ左ノ事項ヲ行フ
懇話会ハ毎年春秋二回本校二於テ之ヲ開ク
童ノ父母兄姉ヲ招キテ懇話会ヲ開催ス
第二条
第一条
第三条
など、戦時下の婦人会の多忙な事業が年間日誌のように記録されて
い出される。男手の減少する銃後を護った労苦。しかしこの事が婦
児童学芸ノ練習
児童ノ成績品ノ展覧
白エプロンに国防婦人会の字のはいった肩掛けで活躍された姿が思
人組織や活動の基をつくった。
昭和二〇年一二月婦人に参政権が与えられ、地位向上と社会的に
進出しようとする心構えが生まれ、民主的な婦人団体復活が叫ば
れ、与えられた事業から自主的活動に、また地域社会への貢献の活
動も活発に行なわれ、終戦後の社会教育の中核をなしていた。
家庭訪問二於ケル実況ノ談話
実地授業
児童訓練上改善スベキ事項ノ要求
7
懇話会ノ状況ハ之レヲ懇話会録二記載スベシ
保護者ノ要求質問等
児童訓練上改善シタル事項ノ報告
生活消費の問題など、課題を自主的に設定して、母親学級、婦人学
懇話会ニハ知名ノ士ヲ招キテ教育上ノ談話ヲ請フコトア
第四条
第五条
ルベシ
懇話会ニハ管理者並二学務委員ノ出席ヲ請フモノトス
第六条
も多く開催したことが記録されている。これが終戦まで継続されて
保存﹂のラベルが張られた珍しい帳簿が残されている。目次に二七
昭和二二年米国の日本進駐軍教育担当官らが、本県の社会教育を
② P・T・Aの発足
っているものである。
いる。児童教育に昔も今も変らぬ相互の連絡協力の必要をものがた
項目をあげ校則としている。その第七項に﹁保護老懇談会規程﹂第
してPTAが創立された。しかし保護老会や後援会があったので、
進める中でPTAの創設を助言し、各学校地区にこの年度を初期と
﹃明治四四年百製鋳西島螺小学校﹄馨表紙ξ変
兄会あるいは保護者会と銘打って、一二月から旧正月ころまでに最
ω 父兄会・保護者会
る﹂と。また明治四一年二月の欄に、﹁父兄懇話会を開き、郡書記、
一二月九日、曙村母会と設立発会式を行ない、家庭教育の改善を謀
このころから各校の沿革誌に右の規程に示された事項をもって父
㊧ P
級で学習し、また講習会など実践している婦人会である。
昭和二五年ころから生産や家庭の教育、合理化、また時局問題や
65432
曙小学校沿革誌に次のような記録が残されている。 ﹁明治四〇年
A
二六に﹁参観人二関スル規程﹂が示されている。
○ 保護者懇話会規程
997
T
原小学校長も出席して談話をなす﹂とある。なお西島小学校に、
第四章社会教育
第五編 教育と文化
PTAの奉仕作
△子どもの幸福を
勤労奉仕
願い、学校環境
仕したPTAの
の整備に努力奉
力はおおきい。
道具持参で、修
策・環境美化⋮
理作業・安全対
⋮と多彩な活動
る。
を展開してい
︵静川小学校P
新制度の教育と復興期の教育を盛りあげていくために一、二年二本
たびの台風災害復旧工事、また学校給食の推進などに、誠意と熱情
設備の整備促進、学校環境の整備、特に本町の各小中学校ではたび
に、六一二制への変革のため、各村とももれなく、新校舎建築、施設
ら︶
TA記念誌か
建てで進んだ地区もあった。子どもの幸福を念願する父母と教師
をささげて努力してきた記録が多い。
﹁PTAはこれでよいか﹂とういつも課題をもって、各単位PTA
が、相協力して教育活動を自分たちの会費で実践していく会であ
が特色ある事業を展開するとともに、中部連合PTAとしての研究
﹁PTAは何をなすべきか﹂﹁活動するPTA﹂﹁学ぶPTA﹂
て、村も家庭も困難な時期であったが、当時の村政担当者ととも
が強かった。本町の各校沿革誌をみイー、乳、すべての旧村当時におい
り、発足当時は﹁父母と教師の会﹂と和訳された名称を使用してい
灘
た地区もあった。終戦後の混乱と疲弊の時期は当分後援会的な色彩
ら︶
TA記念誌か
︵西島小学校p
をつくった。
他の整備の土台
書館充実・その
プール建設・図
で基金を積み、
ある。この努力
した奉仕作業で
校PTAで実施
町内各小・中学
△廃品回収−本
業
998
てきた。単位PTAの
と協議と活動を展開し
民主的教育文化に関する講演会講習会研究会展覧会の開催
第四条に本会は前条の目的を達成するために次の事業を行なう
視聴覚教育の開催
児童生徒及び学校を対象とする福祉保健の研究調査と協力
優良児童生徒及び校外クラブの表彰
研究公開発表から、中
その他本会の目的達成に必要な事項
と 示さ
れ
て
い
る 。 さらにその第一八条にもとづく﹁専門部細則﹂の
積みあげの発表討論、
子どもの教育の課題の
し、
西島小・大須成小・静川小・原小・曙小中・甲南中・原中の七
第三
条
に
﹁運営研究部・成人教育部・保健厚生部・補導部﹂を示
いる。
単位
P
T
A
を 連 合 し 、評議員会・総会を機関として活動を推進して
六三建築も計画が見
幹部研修の開催
前年度までの要請要望事項の事後処理
○ 本 年 度 の 運 動 方 針︵昭和四四年度︶
通され、あるいは落成
TA
⑥ 中部連合P
績を重ねている。
幹部研修など着実な実
共同解決の協議、また
位PTA年間の研究の
連方式といわれた各単
5 4 3 2 1
がみられた二五年ごろ
研究協議会の開催ー各単位P毎に研究の推進と発表
障害児教育の振興推進
児童生徒の健康と安全の確保
研究協議会︵昭・四四・二・八・於 大須成小︶
要にせまられた。高等学校進学対策で県へ陳情とかその他の問題解
川小PTA︶たくましい子どもの育成︵原小PTA︶
か︵大須成小PTA︶望ましい親子関係のあり方を求めて︵静
第一分科会−家庭における子どものテレビ視聴をどうすればよい
第三分科会ーPTAの保健活動はどうあるべきか︵甲南中PTA︶
︵原中PTA︶へき地教育の推進︵曙小中PTA︶
第二分科会ーPTA活動を活発にするには︵特に出席率の向上︶
り民主教育及び文化の発展に寄与することを目的とする﹂とある。
いる。
足し、昭和二六年度から中部連合のPTAとしての記録が残されて
あ
る 旧村別PTAだけでは解決できないものが多く
た め 、 地域を同
じくするPTAが連絡協議会を結成Lて、運動を盛りあげて行く必
から、教育の諸問題は
5 4 3 2 1
O
中部連合PTA規約の第三条﹁本会は中部各PTAの融合をはか
999
中部連合P TA研究発表会(静
決への協力のため、中部五か村の小中学校PTAの連絡協議会が発
第四章社会教育
第五編教育と文化
啓昌 淳和伴宗虎幸孝保 良五 良一徳俊
1星野 孝
2望月伴六
△運動場の砂場へ
作業〃
運び。
遠い河原から砂
木炭運びと勤労
戦時中の薪運び
た。
奉仕が続けられ
1000
講演と話し合い﹁国民のための教育﹂
孝作訓孝次郎六志雄積喜雄敬雄三勇郎文男次
三 太
野屋森野井美月林寺川口野林月井野沢越野井
賀 宮
星古大高笠加望若神樋川佐小望笠佐深岩佐笠
(中富町出身)
〃みんなで勤労
12345678910111213141516レー81920
南巨摩郡連合P TA会長
第四分科会i子どもの安全を確保するにはどのようにおしすすめ
たらよいか︵西島小PTA︶
○ 幹部研修会︵昭・四五・八・二三・於 中山宝珠院︶
講演﹁未来に生きる子どもの家庭教育﹂富士平先生
いかにあるべきか。
主題 −、PTAが現在直面している諸問題の解決と幹部研修は
か。
2、中富町の過疎問題・交通問題にPTAはどうとりくむ
〃少年団の社会
奉仕活動〃
△部落の所々に施
設した﹁危険箱﹂
のガラス・せと
って埋めた。
物などを穴を掘
日曜日の早起会
は、部落の道路
の清掃とうで、
員一致での奉仕
上級生下級生全
作業であった。
(4)歴代会長
第五節 青少年教育
O 事 業 計 画
ない、学習活動の面に困難があるが、地域課題、生活課題等の身
ω 青年教育については、青年の町外流出と通勤青年の増加にとも
近な問題をとおして、青年自ら学習する意欲の向上をはかり、併
せて仲間づくりを推進する。
ω 少年教育については、少年の自主的活動の促進と、有志、指導
︵対象︶
分連けいし、高校生も含めた活動を進める。
︵内容︶
︵期日︶
︵場所︶
者、内部リーダー育成につとめる。青少年のための町民会議と充
︵名称︶
雛効朧 臨 意 識 の
向上、体育、レクリェ
ーション
四月∼ 学校役場
二月
青年団指導者研 リーダーの教養、活動 青 年 随 時 役 場
修会
青年学級
町政に
県 外
町 内
・同校生八 月 町 内
町政を知り、若い力を 青 年
モデルキャンプ キャンプのもち方、仲
間づくり
子どもクラブリ リーダーとしての教養 小中学生 七 月 町 内
ーダi研修会 活動の促進
〃
県外青年と交流研究活 青 年
動の促進
成人式
中卒就職者激励 就職者の激励
大会
青少年育成推進 各部落の育成の活動の
促進と連絡協調
委員会
O青年団の沿革
該当者
関係者
中学生
関係者
一 月学 校
三 月 役 場
役 場
︵大塩・依田正行氏所蔵資料による︶
曙小学校沿革誌に次の記録がある。﹁明治三十六年、この年一般
に至りて、教育・衛生に付き説明する処あり﹂ ﹁明治四三年八月二
父兄の教育思想高揚の為青年団体と計り、幻燈機を購入せしめ各区
九日青年会を開く﹂ ﹁大正三年三月九日曙村青年会主催農産物品評
会開催売上金一四円八七銭本校基本財産中へ寄付﹂など。
に躍進した。大正四年九月内務・文部両省は青年団の誘披指導に関
若者組から青年会に発展してきた青年の諸団体は、明治三〇年代
て各市町村に対して青年団体の設置を奨励し指導した。大正時代に
する訓令を発し、青年団の設置に標準を示し、県はこれにもとづい
形式内容を新しくして改めて発足した青年団の創立結成の記録が多
いのはこのためである。大正二二年一月二六日山梨県連合青年団が
﹁青年団の社会的地位向上すると共に一国風教に及ぼす影響大なる
編成され発団式が舞鶴城で挙行された。その折の団長の式辞に、
と覚ゆ。而して質実剛健は実に青年修養の標語たり。今や大詔換発
の青年は起って大同団結を成し⋮⋮云々﹂とある。昭和五年九月二
せられ、国家興隆の本亦戴に在るを昭明せらる。厳に県下三万五千
七日発行の﹁伊沼村外二か村組合男女青年団発行﹂の﹁団報﹂第三
1001
︵高校生︶
青年のバス
青年議会
第四章社会教育
立自営ノ精神ヲ培ヒ本務遂行ノ念ヲ盛ンニス 2、公正寛容ノ徳ヲ
団綱領﹂が掲載されている。一、尊皇愛国 一、自治協同︵−、自
入りでかかげられその下に昭和三年六月制定した﹁山梨県連合青年
号を見ると巻頭言の次の三ぺージに、さきに記述した﹁令旨﹂が枠
全国的大事業の趣旨宣伝に特色ある活動を展開、ムシ歯デーの宣伝
日全国一斉国勢調査に、男青と協力して気のきいた国調手拭を作り
謝を捧げている﹂と。おなじく曙村女子青年団が昭和五年一〇月一
附・村への奉仕、村の人達は女子青年団の活動に対して限りない感
どの講習会・神社仏閣墓地への奉仕・小学校に上草履・雑巾などの寄
局を感心させている。大正八年創立、団員一七〇名と報じている。
・時の記念日の講演・体育デーの競技とう時宜に適した活動で県当
養ヒ楷和共栄ノ実ヲ挙グ︶一、奮闘努力︵−、心身ヲ鍛練シ質実剛
ヲ図リ能力ノ発揮二努ム︶と。なお同団報に昭和五年度の二月以降
健ノ気風ヲ養ヒ勤倹力行ノ実ヲ挙グ 2、智徳ヲ研修シ個性ノ伸展
伊沼外二か村女子青年団の事業に、補習教育の徹底・年二回の団報
発行・冬期裁縫講習会・敬老会・自転車ポンプ・安全箱の設置・危
八月までの男子青年団・女子青年団の庶務報告がある。二月一四日
とめ大車輪の活躍ぶり、協同心に富み愛郷の念に篤く服装を飾ら
険標識の設備等男子青年団と協力して思想の善導・知識の向上につ
お団員大多数出稼ぎしているので大事業ができぬのは遺憾だが、農
ず、向上心に燃え良妻賢母を目標としてひたすら修養していた。な
れている。さらに昭和五年一一月三日大須成村青年団大塩支部は同
いる。当時の報知新聞山梨版に﹁輝く青年団﹂が編集された。昭和
さきに概況に記述した県主催社会教育委員大会に発表された西島
六年七月二八日に大塩女子青年団が次のように紹介されている。
ぎ、ががたる山脈にまもられた大塩、その眠るが如き平和境には
村のそれをみると、昭和一二年一〇月一八日の日付けで﹁西島村社
る。創立大正九年、団員一五〇名と紹介されている。
ぐくまれた女子青年団は一致団結、うるはしき村の歴史を守り、軽
会教育ノ一般及時局対策並郷土全一教育ノ計画及実施ト社会教育委
閑期にはみんな集まって旅の話をしたりして仲のよいまどいであ
浮な現代世相をよそにししとして村の娘の使命を果すべく堅実な歩
員ノ活動二就イテ﹂約一五〇ぺージの研究報告書が出されている。
西島青年会が創立され、年齢を満一五歳∼三〇歳とし、大正四年九
る。その中の、男子青年団の概況をみると、明治四二年七月二二日
をととのえてしかも全村あげて連絡協調して活動した状況が知られ
み合って進む彼女らの姿こそ尊いものである、、団員八五名准団員三
月一五日の内務・文部大臣訓令に基づき大正五年八月二二日西島村
村当局を中心にすべての団体が郷土全一教育の理念のもと、各組織
五名。事業としては毎月一五日の修養月例会・修養雑誌の朗読・体
関としての団結を堅め男青と共に発刊する団報﹁真心﹂に各自の修
験談などが行なわれ、入退営兵の送迎式・裁縫・作法・料理・染物な
養と体験とを語り合って、勤労と感謝の念をもって不平なく、腕く
みを続けている。大正八年に創立されてから春風秋雨、常に修養機
〃﹁真心﹂に映ゆる修養と感謝〃の見出しで﹁霊峰富士を東に仰
女子青年団と共同して団報﹁真心﹂令旨奉戴十周記念号を発行して
名役場に集合自転車にて鰍沢粉屋に至るとう、詳細に事業が記録さ
原小学校で寒稽古納会出席五〇余名。四月九日本年度壮丁検査二五
第五編教育と文化
1002
青年団と改称、年齢を満一二歳∼二五歳とした。大正七年に郡長
・知事より優良青年団の表彰・大正一一年八月二五日消防後援隊を
団員四二名をもって組織し、西島消防組と協力して水火災盗難の社
会事業に尽くL、大正二二年一一月図書館を設置し、大正一三年六
月役場入口と若宮神社に標準時計を建設、一五年知事より後援隊表
彰を受け、昭和四年日本生活改善同盟会より、昭和五年文部大臣よ
で知事より表彰された。第三〇代佐野団長までの沿革を読むと当時
り、また青年訓練所後援で聯隊区司令官より、昭和一一年治水愛護
の青年団の活動状況が知られる。 ﹁西島村青年団団則﹂
。祭祀部 。後援隊
し、学籍を有せざる未婚の女子を以て団員とす。大正二二年には
なお西島女子青年団は、大正八年三月﹁西島村処女会﹂を組織
﹁日曜学校﹂の必要を感じ一〇月より開校し家事の学習と実習を実
る。
践した。大正一四年に西島村女子青年団と改称したと記録されてい
㊧ 青 年 学 級
た。その中に﹁大須成青年学級運営の実際について﹂の研究実践が
昭和二六年一月県教委社会教育課は﹁青年学級の栞﹂を配布し
の機会均等の徹底。真しなる人生態度の確立。文化意欲の啓培。生
六ぺージにわたって紹介されている。学級開設の理由として、教育
の実際生活に即する。2、その地方の実情に即する。3、公民館を
活技術の向上。郷土興隆の方途の研究の五つをあげ、−、勤労青年
読書会・講習会・講演会ヲ開催スル
実業補習学校二入学シ又ハ夜学会ヲ開催スル
図書閲覧所及ビ巡回文庫ヲ経営スル
を設けた。社会科︵政治・社会・経済・民法・刑法・農地法.農協
利用するの運営方針をもって、自治会の希望を中心に、講座と実習
・平須・久成の部落単位とし、家庭科等の特殊の科目以外は男女共
る講座を設け、二〇歳未満と以上の二部制とし、講座の編成は大塩
育終了者で二五歳までとした。講座の編成は、基礎教養を内容とす
設した。経営の主体を大須成村とし村費をあて、受講資格を義務教
座として村外講師を招き、一一月∼四月の農閑期夜学を主として開
養科目︵保健衛生・国語・電気・簿記・音楽・文学︶などの特別講
虫害・農政・養蚕︶、家庭科︵育児・家庭作法・茶道・生花︶、一般教
組法・時事︶、農業科︵作物・土壌・肥料・畜産・林業・園芸.病
壮丁教育ヲ行ナヒ且ツ軍隊ト連絡ヲ図ル
登山遠足及ビ視察旅行ヲナス
・娯楽部
撃剣柔道其ノ他運動競技ヲナス
村ノ警備其ノ他公共ノタメニ尽力スル
神社仏閣ノ奉仕二 努 ム ル
実業改良発達ヲ図ル
健全ナル娯楽ヲ起シ趣味ノ向上ヲ図ル
団員必行事項ヲ定メ之ヲ実行スル
経費支弁ノタメ共同作業又ハ各自勤労ヲナス
。学術部 。矯風部 。体育部 ・実業部
条
第四条ノ目的達成ノタメ左ノ部ヲ置ク
第五
1003
12 11 10 9 8 7
65432
1
第四条本団ハ第一条ノ目的ヲ達センガタメ左ノ事業ヲ行ナフ
第四章社会教育
とある。戦前のそれと比較してみる時、時代の転換を感ずる。も
達は人類愛と正義を以って世界平和に努めます
め、自治会規約をもって自発的活動を奨励していた。
学とした。運営委員会をもち講師の推せん、講座の内容時間割をき
ちろん男女別々の青年団は発展解消した。
ず、我々の祖先の刻苦勉励により今日の新しい町の基礎を築いた。
︵前文︶ 山梨県南巨摩郡中富町は風光明びなれども地形に恵まれ
中富町青年団団則
この青年学級の特色を次のようにあげて発表を結んでいる。
−、出席率のよいこと 八○%∼九〇%。2、自主的によく研究す
る。3、各自実際生活に研究を生かすこと。4、生徒の自主的活動
により青年学級の進歩発展と施設等に汗と努力を傾注している。
5、本年度の予算は一一万円である。
を昂め技術を練り平和国民として人格の完成を図らんがため、同好
相親しみ再建日本の民主化の実行者として常に相提携相励み、智徳
我々町内に在住の男女青年は郷土の地形社会を愛し近隣の町青年と
相結んで中富町青年団を設立した。町内在住の男女青年ことごとく
㊨中富町青年団
るには多くの曲折があった。戦前の上から与えられた半官制的な青
昭和二〇年以来敗戦の虚脱と混乱を経て旧村別に青年団を結成す
とを希う。
第二条 本団は青年の智徳を昂め、文化及び体位の向上を図り、
本団の趣旨に賛し入団して我等と共に青年時代を意義深く送らんこ
ならなかった。旧村別にはいろいろの集団をつくり、諸行事を実行
の発展に貢献するをもって目的とする。
産業の技術を磨き互譲親交によって団体生活の円満を期し地域社会
年団が解消して、真に自発的自主的青年団が各地に誕生するには、
し、また団を結成して活動を展開していた。また中富町発足以来の
の趣旨に賛同せるものをもって団員とする。ただし郡役員はこの限
第四条 団員は中富在住の男女で中学校卒業後九年までにし本団
青年の活動があったが、南巨摩郡青年団連絡協議会の発足にも刺激
を受け二六年ころから青年団の活動が急速に発展した。﹁昭和三八
りでない。
年四月二一日、於、静川小学校講堂中富町青年団︵第一回︶定期総
会﹂なる資料をみると最初に
達は心身を修練しよりよき個人の完成に努めます
昭和四四年度 方針と活動計画
総務局 教養部 社会部 体育部
第八条 本団第二条に基き左の部を置く。
五分団を以て組織する。
第七条 本団は、西島分団・大須成〃・静川〃・曙〃・原〃・の
達は住みよい郷土社会の建設に努めます
達は友愛と共励を信条として団結します
綱 領
一、
一、
一、
1004
一、
加えて青年の減少その他のため、有志がかげで労苦を重ねなければ
第五編 教育と文化
分前運動︵会合ほかすべて︶を守ろう。
1、町政を知ろう。2、真の仲間づくりをしよう。3、五分の五
2、明正選挙に
ロ、団員及び幹部養成の研修会を行なう。
事務局 イ、県・郡の活動を団員に流し参加手続きをおこなう。
文化局 イ、学習活動の実施 −、町政学習会
コーラス。ペン
スポーツ交流会
関する学習会 3、講演会及び懇談会の開催 4、
習字の練習 ・、機関誌の発行︵年六回︶
ハ、フォークダンス講
体育局 イ、スポーツの練習︵毎週火曜日︶ロ、
習会。
年議会
㊨ 中富町青
昭和四四年度から行
なわれた青年団の事業
に中富町青年議会があ
のもとに、町内の青年
る。町当局の支援体制
会
議
年
青
に町の行政施策の概要
るとともに、青年の英
ことをねらいとしたも
一か月間の町政全般についての事前学習の上にたって開催される。
をとっている。議員も同じ数を選出する。日曜や夜間を利用して約
町当局からは町長以下主管課長全員が出席して、道路整備・産業開
とりかわされる。町当局もそれらをできるだけ町政に反映するよう
発・町営住宅・住民福祉・公民館建設等幅広く活発な質問や意見が
にしたいと常に誠意ある回答をしている。青年団の特色ある行事と
なっている。
の 青少年総合対策
青少年の道義を高めよう 青少年に就職の世話をしよう
青少年に夢をもたせよう 青少年を温かく抱擁しよう
昭和三二年天野知事の年頭の所感が発端となり、県は重大施策の
青少年のために環境を浄化しよう
一つとして右の努力目標を示して、青少年総合対策を強力に推進す
る体制をとった。中富町においてはこれに呼応して、中富町青少年
総合対策審議会を結成し、同青少年総合対策本部を設置した。総務
課が主軸となり町長が本部長として、町のあらゆる関係機関をあげ
の促進策として町に連絡協議会をつくり、さらに青少年相談員を委
て活動を展開してきた。青少年育成会を末端の部落まで結成し、活動
嘱しその連絡協議会を発足した。活動の重点目標を示して全戸に配
布掲示されるステッカー一つをみてもその総合実践ぶりがわかる。
い遊び場や施設を与えることはおとなのつとめです。育成会
昭和四〇年度 青少年夏季生活指導重点目標
1005
知を町政に反映させる
ので あ る 。 青 年 議 会 は
中富町議会と同じ形式
一、
とビジョンを認識させ
第四章社会教育
の運営委員によって運営され、事務局は町教育委員会内にある。町
した。町民全員が会員であり、行政・団体・個人中から出た三〇名
長が会長であり、助役・教育長が副会長である。一部の非行や問題
二、子どもと話し合う機会をつくり、子どもの立場をよく理解しよ
、う〇
て、全町民が協力して積極的に活動を展開するものである。現在本
対策だけでなく﹁伸びよう、伸ばそう青少年﹂をス・ーガンとし
などが中心になって計画的に努力しましょう。
三、 青 少 年 を 水 や 交 通 の 危 険 か ら 守 り ま し ょ う 。
町内に二九の育成会が設置されて部落を基盤としての活動が期待さ
四、よその子どもでもよくない行動をみたとぎは、その場で注意し
てやるようにしまLよう。
いる。子どもクラブ幹部講習会・同指導者研修会・野外生活指導・
れ、この活動推進のための一二名の青少年育成推進員が委嘱されて
どもクラブ
多くの連絡会議を含めて活動を展開している。
・夏期冬期生活指導・家庭の日の標柱作成・同ステッカー配布とう
高校生保護者会・同生活指導・青年議会・レクリェーション研修会
五、家族そろってレクリエーションで楽しむ計画をもちましょう。
同社会福祉協議会・同民生委員協議会
㈹ 青少年のための中富町民会議
大正八年九月一二日児童の教育補助機関たる少年少女会設立︵大
ω少年団活動
﹁汝の国の青少年をしめせ﹂のことばをいつの時代も聞く。国も
家もあすを托す青少年への批判はきびしい。批判は期待であり夢で
︵西島小沿革誌︶昭和一四年六月二〇日社会奉仕活動をもって少年
須成の沿革誌︶。昭和四年五月九日赤十字少年団創立式・知事臨席
団表彰される︵静川小学校︶昭和一九年六月二〇日少年団幹部訓練
一泊二日で学校で行なう︵大須成小沿革誌︶など、少年団の記録が
て自治会が小学校でも盛んに奨励された記録もある。子ども会・少
女の会・少年団とうの名称をもち、村や部落の神社仏閣の祭典や伝
沿革誌の中にみえる。大正時代自由主義教育の教育思潮とうもあっ
少年総合対策本部に地域カウンセラーを設置し、青少年問題の相談
を開催したり、部落対抗の兵隊ごっこ・きもだめし会など、学校生
統的な部落行事に参加したり、幻灯会・お話し会・習字文芸展覧会
て連けいを密にするなかで健全育成を企図したものである。町の青
あたっている。 ﹁青少年のための中富町民会議﹂は昭和四三年発足
助言、地城青少年育成組織との連絡提けい、町民会議の活動促進に
年対策の反省から誕生した。行政と民間、県と町村が従来にも増し
﹁青少年のための山梨県民会議﹂の結成となった。これまでの青少
昭和四一年国民運動としての﹁青少年育成国民会議﹂が四二年の
すこやかな成長を希望して、人々や関係機関は施策を講ずる。
の世相の中で、青少年問題もまた複雑で課題が絶えない。心身とも
あり祈りでもあるからである。世界第二位の経済発展と元禄ムード
σD
談員連絡協議会・同青少年育成会連絡協議会・同保護司会・
中富町・中富町青少年対策本部・同教育委員会・同青少年相
第五編教育と文化
1006
今の子どもクラ
ムたのしいつどい
ゲーム フォー
クダンス
うた声がひびき
夜はキャンプフ
ァイヤーをかこ
戦前の少年団
△日曜日の早起会
神社・仏閣、部
落道路の清掃
みんなで奉仕活
活を全く離れ上級生の指導で自主的に行事や遊びをくりひろげ故郷
の勤労奉仕、慰問文慰問袋つくりとう、多様な活動が実行された。
て、ラッパの合図で朝起き会と日曜の奉仕活動、出征兵士の家庭へ
動
の部落や山野に自然児であった思い出をもつ人は今も多い。学校が
秋の運動会に少年団部落別リレーがあり、少年団の団旗をかざして
むつどいもする
指導しての少年団から大小末端組織のものまで、形式と内容は雑多
ω 子どもクラブ
軍隊式に分列行進をした思い出も聞く。
落の篤志家の愛情豊かな努力や、福祉行政からの援助指導、または
戦前の少年団や子ども会とうが子どもクラブの前身であるが、部
小中学校の校外生活指導のための部落会・校外子どもクラブの指
位とした少年団の年間にわたる諸行事と活動が記録されている。神
であったが、少年少女の活発な活動が展開されていた。昭和一二年
1轄警
社仏閣・墓地・道路の清掃奉仕から部落対抗の陸上競技、村行事へ
参加まで。満洲事変以降になるといよいよ奉仕活動が奨励指導され
1007
ブ
編集の西島村郷土全一社会教育発表要録をみると、村内八部落を単
第四章社会教育
第五編 教育と文化
結成し、指導員および子どもクラブの育成指導が行なわれ昭和三〇
性が広く認識され、各地区関係者が集まり、子どもクラブ育成会を
導、さらにPTA補導部の支援とう、この間に子どもクラブの必要
りある社会奉仕団体として県下にも知られている存在である。現在
集団の力で、多忙な職業生活の中で時間をつくり実践している。誇
も大会・球技大会・キャンプ指導・人形劇などを中心として同志的
は子どもクラブ育成会を基盤とし、子どもクラブ指導者・青年団有
もクラブの活動が展開されている。小中学生の夏休み・冬休み・部
志・青少年のための町民会議など関係行政の指導支援のもと、子ど
年代にはいった。中富町内で先鞭をつけたのが﹁白菊童愛会﹂後の
﹁ドングリクラブ﹂である。敗戦の混乱の時戦争から帰った一青年が、
落行事・日曜行事各部落それぞれ特色を持って地域に即した活動の
みじめな子どもたちの姿を見て何とか明るい健康な子どもたちを育
成しようと、青年の同志と話し合い計画をたて、幻燈や紙芝居その
形式内容である。夏休みに先がけて行なわれ恒例となっている、中
ー おどう1
おめんー、こて
ムエイーッ、ヤー
〃少年剣士〃
他の行事をした。現在も﹁どんぐりVYS﹂と改名して継続、子ど
〃峡南児童庭球
〃五校陸上競
大会〃
技〃
〃各校の運動会
の他校生リレ
︸〃
寒さ
△血湧き肉おどる
活躍
暑さもなんのそ
の
手に汗をにぎる
にぎった喜び、
応援、優勝旗を
敗れてそっと口
びるをかんだ
思い出
1008
もクラブリーダー講習会﹂がある。百名近い小中学生代表が熱心に
富町・同教育委員会・同青少年のための町民会議主催﹁中富町子ど
革
︵場所︶
学 校
〃
〃
〃 役場
町 内
諏訪神社境内において角力大会を開催 第三部優勝
小学校庭において陸上競技大会を開催 第三部優勝
小学校において剣道大会を開催 第一部優勝
柔道・剣道の寒稽古を開始
一年の静川村青年団の体育部の事業をみると、庭球・
クラブ・各旧村
道 ・ 剣 道 ・ 卓 球 ク ラブ
の
相
撲
・
柔 な
ど
。
終戦後は野
さぎ運動クラブ を つ く り 活 動 を 続 けた
。
庭球の白山クラブ・ポプラ
あげての社会体 育 の 場 で あっ
た
。
なお多忙な職業生活の間に時間を
がある。各小学
校 の 運 動 会 当 日 は 各 種 団体
も
必
ず
参
加
し
て
、
地区民
日自転車富士五 湖 め ぐ り ︶、秋季旅行︵甘利山日帰り︶などの記録
陸上・柔剣道大 会 の ほ か に 、春季遠足︵四尾連湖︶夏季旅行︵二泊三
なお昭和一
一・二六
・一工ハ
一一・三
一〇・二六 運動会に棒倒し、分列式、競争遊技、部落リレー
一〇・一八 峡南陸上大会富里村に開かれ多数出場
七⊥三
優勝
五・四 小学校庭において部落対抗庭球大会を開催 第一部
四月二三日 峡南武道大会︵鰍沢︶柔道に選手出場
るQ
昭和七年西島村青年団体育部の年間事業をみると次のようであ
を中心に多くの体育諸行事が行なわれていた。たとえば、
も愛好者を中心に行なわれてきた。青年団の興隆時にはその体育部
受講し、各学校各部落で楽しい集いの中心となって活動をくりひろ
∼ハ
た盆踊り、神社の祭典の折などの相撲などが最も古く、柔剣道など
!口
社会体育の歴史も古く、時代とともに変遷してきた。年々催され
⇔
げている。
第六節社会体育
e 事 業 計 画
住民の健康保持、体力増進をはかり健康で明るい町づくりを推進
︵対象︶
一 ∼ )
する、このため施設設備の充実をはかり、中富町体育協会・体育指
︵名称︶
八 月
一一
一 般
地区一般
専門部
婦 人
一 般
月 一
月
球技大会
地区体育祭
専門部大会
スポーッ教室
町内一周駅伝競走
壮年体力テスト
各地区
スポーッ少年団育成 少 年
郡・県体育祭参加
夜間照明施設設置
1009
〃
四年一七
月 O (
∼間月月時
導委員の強化をはかり活発な活動を進める。
第四章社会教育
第五編 教育と文化
った。各種クラブの選手はそれぞれ練習にはげみ、地区の代表とな
する。
各々四名と部長会において互選された三名、体育指導員一〇名と
なお中富町体育指導委員設置条例を定め、体育スポーッの普及振
1010
球が盛んとなり、西島・飯富・静川のクラブとうの活動が活発であ
りLばしば郡・県の大会へ出場した。庭球の白山クラブの郡・県大
町長が会長、教育長が副会長を兼ねている。理事会を中心に町の
興を図っている。
体育大会、各地区で恒例となった地区体育祭、各部で日常を通じて
いる。
会の優勝、西島野球部の関東大会出場とう輝かしい歴史も残されて
ω 中富町体育協会会則抜すい
どもを交えての球技会、青年団・婦人会・スポーツ少年団の各種の
行なっている練習会または競技大会、その他各部落で行なわれる子
体育行事など、中富町の社会体育も年を追って盛んとなり健康な町
第一条本会は中富町体育協会と称し、町内在住者をもって組織
るを目的とする。
宮木・下田原経由静川小学校を第五走老として、全距離二二・四キ。
由寺沢を第二。間遠経由中山まで第三。三つ石経由原中までを第四
コースは、西島∼手打沢経由下大塩まで第一走者。上大塩久成経
る。
め、一般と高校生のチーム各五名が各地区から選抜されて出場す
祭に続いて行なわれる。参加資格を町内在住者・高校生・一般と定
中富町制を記念しての町内一周駅伝も恒例となった。八月の町制
O町内一周駅伝
・卓球・バレー︵男青・女青・婦人会︶を午後に実施Lている。
〇歳台男子・一般女子の陸上競技を午前中に、ソフトボール・庭球
と、甲南中学校を主会場として、二九歳以下の男子・三〇歳台・四
昭和四〇年七月一八日第二回中富町体育祭のプ・グラムを見る
㊧中富町体育祭 その他
づくりの基盤をなしている。
・静川・原・曙︶より
区体 協 ︵ 西 島 ・ 大 須 成
第三条 理事は各地
施行細則
ω 中富町体育協会
する。
議は 理 事 会 、 部 長 会 と
第十 三 条 本 会 の 会
その他の部
・レ ク リ エ ー シ ョ ン ・
・ソフトボール・弓道
球・陸上・剣道・柔道
野球・庭球・排球・卓
部を置く。
第五条 本会に左の
第三条 町民体位の向上と健全なるレクリエーションの振興を図
町内体育祭における婦人バレー
式
人
からも各部門に多数の選手が出場する。
郡体育祭は従来鰍沢・身延が会場であった
が、昭和四四年には笠井清巳郡町村会長が郡
体育祭会長を兼ねていたので本町において甲
南中学校を主会場に各小中学校を会場として
八月一〇日盛大に開催された。
教材を青年学級、婦人学級その他の講座など
なお社会教育の一環として、終戦後視聴覚
に積極的に活用して学習効果を高めている。
ルがあって日常活動を続け、発表会なども開
また町内には多くの文化クラブ・文化サーク
に位置づけ町民一般の芸術文化活動の促進を
催している。中富町文化協会はこれを専門部
はかっている。原地区の地区文化祭はすでに
恒例として盛大に行なわれている。
毎年一月一五日に行なわれる成人式も、現
など、新しい時代の要望
た 企 画 で 実 施 され
に
そ
っ て
い
る
。
なお芸術
文化活動や、文化財保護活動などについては本町誌のそれぞれ関係
手渡され、第二部として 、 会食・話し合いの楽しい会をとり入れる
編に述べられている。
応援にわく盛んな体育行事である。
も参加して恒例の楽しい社会体育の場の一つであったが、近年は午
昭和三〇年代までは各小学校の秋季大運動会はその地区の諸団体
在では各団体代表の祝辞
も
前
も
っ
て
﹁黎明﹂に編集印刷されて当日
成
前中に小学校だけの運動会をPTAの後援ですませ、午後からは各
団体または部落対抗の競争遊戯その他で多彩な体育祭として、秋の
郡体育祭は八月に、県体育祭は九月に毎年実施されている。本町
農繁にはいる前の一日を盛んに実施する地区が多くなった。
1011
町内一周駅伝決勝点
麿を色分けしたたすきをバトンがわりに継走する。地区をあげての
第四章社会教育
第五編 教育と文化
において選挙そ
該団体の代表者
③ 社会教育委
る︵社教法第十六条︶
1012
会教育関係団体
の他の方法によ
3、学識経験者
第七節 社会教育委員会
社会教育委員の制度は、満洲事変勃発の翌七年文部省通牒で、全
ω沿 革
る市町村にあっては公
なお公民館を設置す
り推薦された当
国市町村に設置を勧奨したことにはじまる。当時は実践機関として
た。その後昭和二四年六月社会教育法の制定にともない、同法に基
時の社会教育委員は、審議機関であると同時に実践機関でもあっ
社会教育委員は。教
員の役割
できるようになってい
をもって充てることも
民館運営審議会の委員
の性格をもっていた。本編第一節その他で概略述べておいたが、旧
村別に活発な活動を続け多大の成果をあげていた。
昭和二一年五月、文部省は戦後の平和文化国家建設の理想をめざ
づいて法的にも社会教育委員が設置できるようになった。この時は
して、社会教育委員の設置について改めて次官通牒を発した。この
審議機関のみをその性格とした。本町においても旧村に社会教育委
して都道府県および市町村に置かれる。さらに市町村の社会教育委
員には指遵機関としての性格があたえられている。法的には、社会
育委員会の諮問機関と
育に関し指導助言ができる指導的機能が付加されるようになった。
教育計画の立案と意見の開陳、研究調査、青少年教育に関する助言
員を置き、それぞれ地区の社会教育の振興に努力してぎた。昭和三
② 社会教育委員の委嘱
おこなうこととなっている。 ︵委員は第三編第一章参照︶
と指導、その他の社会教育に関し教育長を経て教育委員会に助言を
会教育に明るい期待が寄せられている。
中富町長期計画には社会教育の拠点である公民館建設があり、社
に反映させるために、社会教育委員の人的構成をつぎのように規定
している。
2、当該都道府県叉は当該市町村の区域内に事務所を有する各社
−、当該都道府県又は当該市町村の区域内に設置された各学校長
社会教育法第十五条第二項では民問の意思と協力を社会教育行政
四年四月に社会教育法の一部改正があり、社会教育委員に青少年教
青少年キャンプ指導(富士川河原)
第五章 文
第一節 概
せていたのである。
地斗にては足らず、甲府又は市川辺より男女料理人酒肴等まで仕入
事彩しく、数十町の間往来陸続する。﹂とあるようなにぎわいを見
ばかり
手振﹄ ︵宮本安正・嘉永年間の著︶にも、
なかんずく
﹁されば当国第一の都会、就中十月身延山会式の節は酒食店等土
いはまた格別であった。
もとかし
とくに舟運の元河岸鰍沢は甲州第一の都市として栄え、 ﹃甲斐の
活気を呈していたのである。加えて身延参詣の旅客も多く、往還は
おえしき
別名、身延街道ともよばれ、春秋の身延山の御会式の街道のにぎわ
結ぶ重要な交通路に位置したため、天恵のうすい山峡にもかかわら
か し
ず、駿河との物質や旅客の中継河岸として、また往還の宿駅として
街道、沼津往還とならんで、駿州往還と富士川舟運による東海道を
三六年の中央線開通以前は、 ﹁三道一水﹂といわれたように、甲州
現在でこそ過疎ということばの典型的な地域にある本町も、明治
説
したがって江戸時代の文人墨客の紀行遍歴の記録も少なくない。
たとえば俳句に新生面を開いた松尾芭蕉は天和二︵一六八二︶年、
草庵焼失の後しばしば甲州に遊び、その際富士川を下ったことを記
の生んだ俳人山口素堂も元禄八︵一六九五︶年、身延参詣をしたこ
録している。また、 ﹁目には青葉山ほととぎす初鰹﹂を詠んだ甲斐
とを伝えている。
記﹄に、東海道より加古坂を越えて入国し、帰路は市川、鰍沢、身
か ご
また江戸の学者、清水浜臣は文政七︵一八二四︶年の﹃甲斐日
延を巡って静岡に出、東海道を江戸に帰るまでの紀行をまとめてい
るが、その中で、
︵ママ︶
﹁鰍沢よりあら川と笛吹川と落合て富士川と名かはる。啓行足を
のれは国秀と従者と川にそひたるがけぢをゆく。舟路は浪かしこく
そこなひたりといえば、ここより舟にのせて富士川をくださす。お
しも又たがひに有べし。岸の岩手に樟さしあてて早瀬をめぐらしゆ
坂路は岩さかし。たがひに見かはしてゆく。めづらしくをかしきふ
く。流れあれば岩のはざまをきりひらきてくぐりぬくるやうの所あ
に早河といふ流あり。﹂ ︵以下第二編町の歴史・早川渡しの項参
り。舟ははやくくだりつきて、陸路はおくれたり。下山のすぐの北
る。
照︶と、箱原・早川間の行程や早川の横渡し舟の状況にもふれてい
1013
イヒ
第五章文
イヒ
和より市川に至り、渡辺春英宅に滞留後、鰍沢より身延、万沢を駿
永年間︶の時、郡内より入峡し、国中の名所旧蹟を巡って、田中石
江戸文化に接する機会にめぐまれ、向学の士の江戸留学の動機とも
ところから、街道筋の宿駅は多かれ少なかれこれらの名士を通して
これら文人墨客が入峡した際、多くは帰路を富士川に求めている
る。
河に入り大宮を経て東海道に出で、江戸に帰るまでの五〇日間の日
論するに足る。﹂と評しているのである。
1014
さらに、江戸の国学者・黒川春村の﹃並山日記﹄は、五三歳︵嘉
記をまとめているが、鰍沢を出発する日になって、前日、岩淵の若
なったことは想像するに難くない。
へき
そのあらわれが、この章の壁頭を飾ることがでぎる天野輩父子の
て、もとよりかち路のあらましなりけり﹂と陸路を選んでいる。
船頭が難破死したため船止めとなり、 ﹁急がぬ旅のみちをゆくと
才にひいで、当時峡中の文人墨客の師と仰がれ、文政年問に発行さ
て江戸に学び、後に甲府医学所の師となった人であるが、同時に文
事績である。天野箪は切石の天野家に生まれ、幼少にして奮然とし
たるに目くるめく、ここちせられて、恐ろしとも云ふばかりなし、
﹁天神の滝とて殊にたぎちゆくところあり、高き岸より見おろし
﹁何来﹂と称し、後の﹃峡中俳家列伝﹄ ︵松本守拙口授・佐藤二葉
筆記︶の中で、峡中の俳人一五九名の一人として選ばれている。雨
いはつ
宮似雲を師と仰ぎ、峡南の宗匠・松木安貞の衣鉢を継ぐものは我な
梅咲や赤子も抱かれ動きけり
った。その作に、
りとの自負のもとに、大いに門戸を張り、多数の門弟の指導にあた
ろといへり。さて切石八日市場などいううまやをすぐれば早川とい
人おなじからずおのおの若葉哉
ている。
かじかざわ かっしか
学ぶかたわら、頼山陽に従い、その助手として日本外史の稿本の浄
また富嶽三六景の一つ﹃甲州石班沢﹄を画いた浮世絵の葛飾北斎
書にあたり、その完成に力を尽くしたのである。
よくし、先代同様文墨に名が高かった。特に文政初年、京都に医を
八四一︶年、四五歳のおりの入峡日記﹃広重甲州道中記﹄によれ
嗣子・敬亮は、﹁適斎﹂と号して経史、書道に通じ、また漢詩を
ば、甲府滞在中に身延山へも詣り、富士川も下っているようであ
をはじめ、山川風景を描いては天下随一の安藤広重も天保一二︵一
槙の戸や明石縮の夕げしき︵明石縮を着たる女の画讃︶
すぎの里西島から切石・八日市場宿を経て、飯富の早川渡しに着い
ふいみじき渡りあり。﹂ ︵以下第二編参照︶として、富士川三大難
もろニし
場の一つ天神が滝にふれ、箱原・西島間は両越の渡しを利用し、紙
などがあるが、特に著者・松本守拙は﹁若葉の句、頗る妙なり。
原様の紙を漉くとぞ。ただし市川ばかり上品なるは漉もいでぬとこ
し行きてまた西の岸にうつる、ここは西島といふ、里俗は西島千軒
ばかり
と呼ぶといへども見渡すさまは二三百戸許と見ゆ。一村こぞりて杉
これより向ひの岸にわたる、ここははこ原の渡りといふとぞ、しば
さてしばし河原をゆけば、西さまに折れめぐりたるところありて、
れた﹃風流人海﹄ ︵第九編参照︶の序文を書き、また俳諸では号を
その紀行文の中に、
第五編 教育と文化
で、これらの人々は儒学や国学の素養をもち、漢詩を作り、和歌や
に多かった。明治三五年、金嶺七〇歳を迎えての寿宴に、門弟ら数
れ、その門にはいって作品の添削、批評を受け指導を請う者が非常
また飯富にあっては、早川貞哉が医師として、患者の診療にあた
ったかを察することができる。
百名が集まって祝ったとあり、その指導、薫化の力のいかに大きか
当時の文化人として挙げられる多くは、学者、医師、僧侶、神官
俳句をたしなみ、また書道や絵画をよくするなど、きわめて百技多
ル㌧フができ、次第に文化の流れが地域ごとに広がり、文芸の道が
芸であった。そして、これらの人々を師と仰いで、指導を受けるグ
黄鳥や筆置いて立つ二声目 聴 松
内に貞哉の句碑があり、次の句が残されている。
(西島笠井亨太郎氏蔵)
る趣味の域を脱しなかったともいえるのである。
知されるところでは、まだ運座形式のものであり、特定の人々によ
になった。しかしそれらは、古文書、連枝、短ざく等に散見し、察
人、風流人ともいうべき人々によって、各地に句会が催されるよう
しかったのは俳諸の道であった。徳川時代の末期から、当時の文化
れ、それは次第に一般大衆に滲透し盛んになって行ったが、特に著
こうして、すぐれた先達のもとに、さまざまの文芸活動が進めら
るとともに、俳譜をよくし、郷人の指導につくした。現在、飯富地
ることができる。金嶺は名を﹁耕﹂といい、安政年間弱冠にして、
人々の間に伝えられて行ったのである。
ばん
そうした事例のもっとも顕著なものとして、切石の伴金嶺をあげ
京阪あるいは長崎に西洋医術を修め、後帰郷して切石に開業し、名
医と仰がれた。さらに江戸にあっては、多紀安叔、高階良吉らに師
事し、また貫屋海屋、広瀬旭窓の門にはいって、詩文、書画を学
んだ。
金嶺はこのような学問の素養をもって、門弟に漢学を教えたが、
その門に学ぶ者千余名に及ぶといわれた。しかも多技多能でなさざ
てんこく
るものはないとたたえられ、中でも書にもっともひいで、箸刻に長
じ、詩文、和歌をよくし、俳句においては、峡中俳壇の師匠に推さ
伴金嶺作品
えることであるが、俳句における活動はいよいよ活発化し、西島・
このような傾向は、さらに明治維新から大正の初めに及んでもい
切石・飯富などで、宗匠のもとに多くの愛好者が集まり、特に農閑
開かれ、また寺院や神社への献額が盛んに行なわれたのである。
期や村祭りの際には、近郷近在から多数の参会者をえて、発句会が
第一次世界大戦後の好況と、自然主義文学の隆昌との影響によっ
に若い人たちへの大きな刺激を与えた。
て、文学熱のたかまった風潮は、やはりこの山村にも及んで来、特
大正の末期から昭和の年代にはいっては、俳句のほかに日本古来
1015
化
第五章文
をいだく人々の結合となり、その努力によって同人雑誌発行へと盛
きものが徐々に見られるようになった。こうした気運は文学に情熱
に、文化の流入とともに、グル㌧フ的な文学活動の胎動ともいうべ
の和歌︵短歌︶や詩、川柳また漢詩などに親しんでいた人々の間
復興のきざしが見られるようになったといえる。
意欲、情熱が、国や県また町の施策にとり入れられ、ようやくその
な動きを開始した。また下から盛り上る力となった文化や文学への
ていたものがほとばしるように、多くの文化活動、文学活動が活発
り上がり、文学活動の芽生えが著しくなって来た。また当時発行さ
に伴なって、人間喪失、人間疎外が嘆かれ、また人口の都市集中は
今、一九七〇年代の現代は、驚異的な機械文明、物質文明の発達
しつつある。
過密、過疎のかたよった姿によって、それぞれの地域の苦悩をかも
れていた山梨日々新聞の﹁サンデー文壇﹂や山梨民報の文芸欄の開
設などが若い人々の文学熱をたかめ、投稿熱をあおったのである。
人間性を復活し情緒豊かな生活を願っての動きが、新しい文化活
真の文化生活とは何であるか。物質にのみかたよった現実から、
々と積み上げられて行った。そうした青年団の活動の拠点ともなっ
化の創造を目ざしての活動が、ささやかながら徐々に進められつつ
ージに及んでいる。本誌は春夏秋冬の四季に発行され、投稿者は西
をはじめ、随筆、短歌、俳句、民謡、川柳などを掲載して七十余ぺ
集発行人として創刊された。笠井猪智充の戯曲、望月かつらの創作
﹁摘草﹂は、大正一五年七月、西島摘草会により、笠井一重を編
ω ﹁摘草﹂の発行
O 同人雑誌の発行
第二節 文
ある現状である。
動、文学活動として、また新しい町づくりの指標となり、新しい文
翌四年西島、五年には大塩男女青年団︵後に大須成青年団に発展︶
また原青年団により相ついで創刊された。これらの団報にはいずれ
も、団の諸事業の計画や状況を報ずるとともに、文芸欄を設けて、
多くの団員の時局と青年の使命を論ずる文章や、感想、随筆、創作
詩、短歌、俳句などの作品が多様に掲載されている。
し、戦いの様相は次第に激しくなり、国力のすべてを戦争一筋にか
昭和一二年にぼっ発した日華事変は、やがて大東亜戦争へと拡大
けての懐愴・悲惨な戦局がつづいたが、やがて未曽有の敗戦という
せいそう みぞう
姿で終結されたのである。
そして終戦後の民心の虚脱状態と、激しい混乱状況の中から、次
第に戦後の復興がはかられ、平和と民主主義、文化国家建設への歩
せ
みが進められた。戦いで抑圧されていたものをはね返えし、堰かれ
学
た青年団報が、昭和三年にまず曙および静川青年団により、さらに
が青年団の文化活動となり、文芸活動となって、地味ではあるが着
へのあこがれ、文学に寄せる熱情が若い人々の間にみなぎり、それ
恵まれない条件の山峡にあって、貧しい生活の中にも学問や文化
第五編 教育と文化
1016
の発行は、資金難等のため、数巻で休刊のやむなきに至った。
等にわたり、原稿は机上を埋めたと、編集記に記されている。本誌
島をはじめ県内各地、さらに遠く埼玉、秋田、名古屋、福岡、熊本
時雨るるや家近く来し山の鳩 松田満津雄
道芝の萎む匂や雲の峯 川久保石声
﹁茶の実﹂は、昭和六年一月、飯富・中谷鶴子によって創刊さ
⑥ ﹁茶の実﹂の発行
柿赤し稲刈る村や秋の暮 望月 一瓢
﹁なみ﹂は、昭和四年四月、詩誌として、大須成・依田正行︵峡
れ、約一〇年にわたって刊行が続けられた。﹁茶の実﹂は、菊判五
ω ﹁なみ﹂および﹁波路﹂の発行
花︶によって第一号が発行された。
〇ぺージ前後で、和歌、俳句、創作、論文などを載せ、その編集、
は詩に、短歌、
刊行され、内容
年一一月新たに
路﹂と改め、同
の作品から、詩五〇篇、短歌六百余首を選んで、一四〇ぺージの
る。また中谷は、昭和八年、 ﹁茶の実﹂の三か年にわたる全二四巻
泰三、遠藤徳通、望月義輝、戸栗森太郎、川崎文恵などがあげられ
え、大木啄葉、村松芳仙、加藤てる緒らをはじめ、若林貞雄、山下
続した。その会員は県内はもとより、県外にわたって数十名を数
ω 静川における俳壇
⇔ 俳壇の活動
若林貞雄
蒼ざめし食を欠く児の身の上を思へば暗く涙うるむも
傾きて日脚とどかぬ谷川の丸木橋の霜一日真白し 遠藤徳通
粉雪は降り積りたりこの朝厨に葱の味噌汁にほふ 中谷鶴子
﹁茶の実詩歌集﹂として発行している。
俳句、川柳を加
え、さらに評論
なども載せて編
感想文、口語詩
集している。
主宰の峡花は
詩、俳句など多
松田満津雄︵俳句︶、星野柳生、ふみ保志野、神宮司茂柳︵短歌︶
古くから続いた俳壇の活動が、大正の初期に至り、切石に笠井楳
川原草みな傾きて秋暑し 佐野 素月
になった。真哉は芸術的才能に恵まれ、しかも伴金嶺に師事して薫
太郎︵真哉︶が出て、その中心となり、峡南地方に活発化するよう
らの多くが投稿している。
印刷、発送等のすべてを中谷自らの手一つでなしとげ、一〇年間継
灘灘響 . 第五号に至っ
工誌名を﹁波
灘磁灘雛購 繋灘 難懸麟、
r摘草」第一輯とr波路」創刊号
く発表しているが、そのほか、佐野素月、川久保石声 、 望月一瓢、
、
月赤くすすきにのぼる秋野かな 星野 柳生
1017
イヒ
第五章文
にわたる作品の集成﹁あしあと﹂が刊行された。
陶を受け、その才能をいよいよのばした。特に俳句の道において
朝霧の稲架より晴るる盆地かな
甘藷貯ふ穴深ぶかと陽のさせり
命みようが守りて気楽冬ごもり
渡辺早乙女
松田 三男
佐野素月
佐野嘉一︵素月︶は青年時代から俳句の道に心を寄せ、飯田蛇
蝶と化す瑞雲の香や志ろ牡丹 無為庵真哉
たことは前述したが、明治四〇年ごろから、大正の時代にかけて、
方の卓越した宗匠として、多くの門弟が集まり、俳譜が盛んであっ
切石の伴金嶺や、その後を受け継いだ高足の笠井真哉を、峡南地
はやされていたことがよくわかるのである。
1018
六年八月、教え子や俳句同人らにより句碑が建てられ、また五〇年
真哉、素月らを中心に静川俳壇は、森田探舟、幡野酔月、渡辺舞
ぽへずつ
鶴、川口秋月、川久保石声、望月望月ら十数名が活躍した。
後、真哉が故郷を去り、長野に転ずるに及び、一時衰微したが、
ささ鳴きや亡母を送り小貧乏 渡辺 舞鶴
辺梧葉、渡辺早乙女らが加わって、 ﹁あかね会﹂を結成し、活発な
深沢泉が切石に帰郷し、素月らとはかって句会を復活し、これに渡
活動をはじめた。その後多少の隆替はあったが、昭和四〇年、寺沢
妙沢寺の掲額を機として、素月らは﹁白山俳壇﹂を発足させ、同好
は、師の後継者として、傑出した力をあらわし、近郷近在で宗匠と
河西 義雄
深沢著哉
の人々とともに句作に励んでいる。
仰がれ、その門に同好の人々が競って集まり、切石をはじめ、石
初午に御崎の幟醗る
昭 和 三 四 年の
風 に あ い惜
、 しくも亡失してしまった。こ
が 、 七
号
台 西島
の 掲 額 は 、明治一二年のものであったといわれる
の
浅
間
神
社 ② 西島における俳壇
により、菩提寺正伝寺︵切石︶に句碑が建てられ、永くその業績が
笏、犬塚楚江に師事し、 ﹁雲母﹂ ﹁俳句と旅﹂等に作品を発表し、
の時代すでに多くの若い人々が句作に励み、庶民文学として、もて
句作に精進を怠たらず、常に地方のりーダーとして活躍し、昭和四
たたえられている。
に、俳句天井などとして残されている。その没後、門人や同好り士
品は、切石の赤石神社、飯富の天満天神宮をはじめ各地の寺や神社
湯上りの渋茶も美味し萩の宿
「蝶と化す瑞雲の香や志ろ牡丹」
(切石正伝寺境内)
畑、夜子沢、寺沢と各所に句会を開くなど盛んに活動した。真哉
笠井真哉句碑
は、俳句の道にすぐれていただけでなく、書画をもよくし、その作
第五編教育と文化
ては、枕流と号した笠井惟造はまた一方の宗匠とLて、崇敬された
真哉を頂点として、各地域の俳人との交流が行なわれ、西島におい
和三九年一〇月、素十来県の際は、本町を訪れ、西島の製紙工場を
素十を峡南の地に招き、俳句大会を開催する機会を作った。特に昭
との交流をも盛んに行なった。また昭和三〇年以来しばしば、高野
﹁山萩﹂に属し、素十の指導を受けた人々とその作品を抄録する。
見学し、同好の士が集まって、直接指導を受けたのである。
存在であり、その句作集も現存している。その他、笠井平︵文之舎
していた。
伊藤流々子
文也︶、伊藤覚道︵孤月庵︶などが宗匠として、中心的な活躍をな
気にかかるくもり流しぬみそぎ川 文之舎文也
夜なべする心を決めて炭をつぐ
初詣太鼓一打ち打ちならい
農協をけなし苗売り苗を置く
冬ざれや出水に荒れしままの難
が数十名を数える盛況を示したが、当時の風として俳句相撲などの
子に泣かれつつ輝に堪え濯ぎする
西島地区では、年間数回の俳句会が開かれ、その会場に集まる者
至り、そのきわまるところ衰頽の道をたどった。
娯楽本位に走り、あるいはかけ俳句などの邪道に陥る弊を生ずるに
笠井 一柳
過去から現在に至るまで、 西島俳壇に活躍した人々と、その作品
雪掻きの人夫集めか鐘が鳴る
笠井文之舎
殿に現在も残っており、往年の俳句界の活況を物語っている。
しかし、当時の俳壇が、競って奉納掲額したものが、諏訪神社拝
老いの目に幽かに見えて雁渡る
伊藤流々子
を次に掲げる。
︵芽人︶、笠井貫一︵貫生︶、望月賢造︵南嶺︶、先代笠井一柳ら
が先達となり、同好の人々に呼びかけ、句会を開き活動をつづけ
春暁や池の波紋に雨を知る
富士川が生みし吉書の紙の里
春うらら昔を今に大神楽
大正時代に至りその終りころ、前代の伝統を受け継ぎ、望月是一
上笠笠笠笠
杉井井井井
良楓東青一
月葉峯芝柳
上長佐望笠笠望望
杉田野月井井月月
良美芳満東楓朗芽
月山水仲峯葉風人
た。
腰伸す度に花見え山桜
終戦後、満洲から引揚げて来た伊藤徳隆︵流々子︶は、かねてか
ら自らが師事していた高野素十︵新潟医大教授・芹主宰︶のもとに
刻々と日の色見ゆる樹々芽吹き
やや小さき父のかたみの紹の羽織
て、指導をえた作品を年刊句集に集録し、名づけて﹁山萩﹂とし、
餅花に獅子の尾が触れ太刀が触れ
米過剰今昔語る終戦記
昭和二七年四月第一号を出してから、同三〇年第四号まで継続発行
何時になく話切れ切れ炉の主
早梅や試歩に疲れて香にひたる
昭和二四年来、西島をはじめとして近郷の同好者数名と共に、月々
した。なお、この間伊藤らは、﹁裸子﹂主幹・堤俳一佳を招いて、
それぞれの作品を送って、添削指導を受けるようになった。そし
句会を開きこの道の修練につとめ、六郷、身廷、市川大門等の俳人
1019
イヒ
第五章文
第五編 教育と文化
昭和四二年会長富岳の逝去後、蘭香が後任に推され、毎月の例会
て、同年一月二八日飯富本成寺において、百号発刊記念俳句大会を
を継続して来たが、昭和四四年には、﹁草の実﹂発行百号を記念し
洗心︵
喜水︵
1020
去年菊に訪われ今年の菊に訪ひ 笠井
暮るる日は障子に映えて笹鳴けり 望月
梅漬けて母と浸りぬ仕舞い風呂 笠井
朝な朝な香焚き凍道登庁す 野中
の俳人が多数参会して、百号記念にふさわしい盛会であった。なお
催した。この日、西島、静川をはじめ広く身延、久那土その他各地
り、入選を決めたが、当日の出席者の句を一句ずつ抄出する。 ︵他
当日の選者として、美月︵身延︶、素月、蘭香の三人が選にあた
㈹ 飯富における俳壇
大正の初期、
飯 富 で は 増 田 藤四
郎
︵
落
柿
庵 ︶ 、 古屋文太郎︵一
亀波︵
中谷古久永︵草の実︶
歩︶、望月寅蔵
︵
虎
山
︶
ら
の
提
唱
に
よ
っ
て
﹁飯富正風吟社﹂が結成
記念碑をおほふ大樹や蝉時雨
町の出席者の句をのぞく。︶
地に墜つも草にすがつて秋の蝉
の人々のほか、
︵ 不 求 ︶ 、土橋吾甫︵吾晴︶、古屋喜十
土
橋
潤
三
郎 郎︵喜水︶、深
六 ︵ 寛 月 ︶ 、 若 尾 信義
沢
寛 ︵
笑
哉
︶
、中村愛吉︵梅
丹精のつぼみはらみて庭の菊
夏草の根まで潮の来て匂ふ
竹葉︵
長緒︵
稲月︵
同同同同同同同同同同同同同同同
され、多くの同
の 士 が 集 ま り、
好 峡南の俳壇に重きをなした。前記
佐野文蔵︵清 流 ︶ 、 清 文 造 ︵
文
兆
︶
、
若
尾
正
︵富岳︶、中谷茂正
枝︶、佐野朝治
麺 水 ︶ 、 市 川 幸 作 ︵ 富 川 ︶、
︵ 岩柳茂秋︵烏谷︶、
草むらにひそみ鳴く虫よく澄みて
草の実をはらいて作業終るなり
蝉時雨休む間のあり午下り
︵古久水︶な
、 そ の 名 が 挙げ
、昭和の中ごろまでに、会
ど ら
れ
る
が 員の物故、ある
い
は 転 出 等 が 相 つ い で 、衰微のやむなきに至った。
戸栗未完子︵
終戦後、人心
よ う や く 安 定 し 、俳句に心を寄せる同志の間に、
が 一歩︵
文夫︵
ひと夜さの秋気かなしく膝をなづ
山本無想庵︵
佐田 金重︵
礫かれ犬傷口黒く晩夏光
砂利トラのほこりを浴びて葡萄棚
佐野醜女︵
渡り鳥月夜の湖に影連ね
秋草の葉蔭に友の姿あり
俳壇復活の気運
が
高
ま り 、 か つ て の ﹁ 正 風吟
社
﹂
の同人であった笑
々しい発足を
し
た
。
以
来
時
に
欠
く
こ
と
は
あ
っ
た
が
、月々例会を催
実吟社 ﹂ を 結 成
若 尾 富 岳 を 会 長 に推
し
、 し
、
第一回句会を開き、花
爽秋の百号記念の厚い記憶
紫水︵
し、句稿はすべ
ど 印 刷 に 付 し 、互いに切磋し句作の向上
て
、
そ
の
つ 青年の艇剛点となる晩夏
哉、富岳、古久
土 橋 強 ︵ 蘭 香 ︶ 、古
水
ら
に 屋
翠
明
、
古屋亀波、土橋
につとめた。 定着した会員により会の基礎が固まって行くととも
沈香のかほる老僧彼岸経
に、時に中央 俳 壇 から
招 き 、また他の句社、
飯
田
龍
太
、
辻
蕗
村
ら
を 土橋蘭香︵
瀬川 桃村︵
青巴ほか多数の
同
好
の
人
々
を
加
え
て
、
昭
和
三
〇
年
一
一月﹁飯富草の
望望土麻土佐丸古古
月月橋生橋野山屋屋
草の実の秋思の句莚法城に
俳人に呼びかけ、しばしば俳句大会を開催した。
))))
) )) )) ) ))) ))
賀小長青
子秋業芝
草むらのどこかでかすか虫の声
落ちなんとす岩壁しかと野菊だま
羅の持てる量感舞扇
萩紅く妙高の雨冷えにけり
三男︵同 ︶
素月︵同 ︶
義雄︵静川︶
月まろく弥陀に続けり月見草 土橋 蘭香
万緑や紅一点の岩つつじ 若尾 水蒸
余白なく孤高きびしき冬の月 望月 鬼堂
﹁草の実吟社﹂会長土橋蘭香は、青年のころから俳句に親しみ、
風清し銀河音なく山に落つ 佐野 新葉
伊藤流々子︵
勤行の太鼓の渡り谷の梅
魔風のそれたる昼の葉鶏頭
芋洗ふ夕寂しき山の肩
時雨るるや声そろひたる朝の業
陽のほそき放課の校舎の寒鴉 星野不一郷
当時﹁俳句と旅﹂の会員として作句に励んだ人々をあげる。
たが、昭和一八年惜しまれつつ、壮年にして他界した。
い、また他地域の俳人との交流を盛んにして、その活躍が期待され
に、曙を中心に昭和一五年ころから同好の人々と句会、吟行を行な
塚楚江に師事し、﹁俳句と旅﹂の会員として作品を発表するととも
ひ
曙の故星野鎮雄︵不一郷︶は、青年のころから俳句の道に入り、犬
㈲ その他の俳人
新屋をつつむ螢光春の雪
芸の俳句の部に左の句が一位入選の栄をになった。
つづけているが、昭和四四年一月、山梨時事新聞募集の県下新春文
句を発表している。同じく会員望月泰然︵紫水︶は、熱心に句作を
四一年以来投稿をつづけ、爽雨や加藤秋邨の選を受け、たびたび秀
に皆吉爽雨主宰の﹁雪解﹂にはいり、作句に励み、また産経俳壇に
その俳句歴は四〇年に及んでいる。早くから青木月斗に師事し、後
芽人︵西 島︶
土手の草焼く煙富士の瀬を渡る
深沢 鈴蘭︵
著哉︵同︶
百姓の過疎に耐えゆく虫を聴く
笠井文之舎︵
笠井 一重︵
笠井 楓葉︵
笠井 朗風︵
そよと吹く風にも秋の忍び来ぬ
長田 美山︵
赤き実のこの蛇いちご胃薬とか
農継がぬ子ばかり独り秋耕す
笠井青芝︵
夢あけび蔓のまま提げ主婦農婦
秋耕や土いきいぎと種を抱く
岩平土古望深若佐若
柳林橋屋月沢尾野尾
岩永青翠和水富清笑
柳泉巴明風月岳流哉
なお草の実句会発足以来の会員で、 前に掲出されていないものを
同同同同同同同同
))))))))
金木犀狭庭の陽光あつめけり
望深松佐河
月沢田野西
露草の紫がすき今目も活け
あげる。
新世帯狭き借間の置炬燵
駄馬に世辞言ふて渡るや霜の橋
便り書く燈下に迷ふ青蛙
唄に漕ぐ櫓音涼しき月入江
半身の虚空を仰ぐ夏蚕かな
万緑に斧こだまして艶閑か
門 火 焚 く や 追 憶 の 中 の 姉 若 く
流れ星消えて素肌に涼を知る
睡気さす子をゆさぶりつ遠花火
星野薔子
若尾嶺南
佐野素月
1021
同
イヒ
第五章文
に活動している。第一回の会には、四一名の参加、投句数二二〇に
原、西島にと移して実施するなど、参会者も多く毎回盛会で、活発
及び、課題は﹁蕗のとう﹂で、参会者の互選により入選を決めた。
⑤ 山梨県芸術祭入選作品
課題の部 入選
終戦後の時日の経過とともに、文化復興のきざしが見えるように
なり、昭和二三年度から山梨県芸術祭が実施され、この年を第一回
︵教育長賞︶望月
ふきのとう摘む児に陽ざし惜しみなく︵町長賞︶松田とも志
︵協会長賞︶佐野
の募集を行なった。応募作品の中から入選を決め、優秀作には、各
ふきのとう群生わびし離村の家
︵五客︶古屋
︵同︶長田
ふきのとう地下足袋ぬらす根無し水 ︵同︶笠井
ふきのとう山ふところに陽の並ぶ
ふきのとう砂防工事の廻り道
として、小説、詩、短歌、俳句、川柳の部門で、県下から広く作品
部門ごとに芸術祭賞が授与され、またこれら入選作品を集録して、
﹁山梨文芸代表作品集﹂として、それ以後、年々発行された。俳句
部門でも、毎年県下の多数の応募者があり、厳選された作品は、代
退職の土に親しむふきのとう
︵同︶佐野
︵同︶土橋
一柳︵二四年︶
岩清水かぶりてふきのとう芽吹く
︵天位︶笠井 楓葉
老僧の襖土産やふきのとう
席題の部 入選
︵地位︶土橋蘭香
芳翠
青峯︵二四年︶
春昼や鎮もる句座の時きざむ
紅一点交へて春の句座なごむ
︵人位︶松田 三男
飛雲
棟上げの弓弦ピンと木の芽晴れ
㊧ 短
俳句が庶民的で、一般の人々に早くからまた広く親しまれ、喜ば
ω 歌壇の概況
笠井 一柳
れていたのに対して、和歌︵短歌︶は、やや庶民性に欠けていたと
月
に
開
き
、
順次会場を静川から
香を中心に、第一 回 大 会 を 四 三 年四
いが、前述したように同人雑誌、あるいは青年団報また新聞紙上の
明治、大正、昭和の戦前の時期を通じて、あげられるものは少な
いえるが、また女性の間に多くたしなまれて来た傾きもある。
笠井 楓葉
青芝
穂積
貞雄︵二五年︶
賢三
表作品集に載せられた。町内の人々の作は次の通りである。
片蔭に児らの真顔や紙芝居
富士川の濁水めがけ燕かな
生活のきびしきまなこ炎天下
新涼や高原の道一 筋 に
そこはかと花栗匂ひ乳搾る
水澄むや心別なる人おそる
初燕告白のペン美しき
西島
元日の昼を灯して大藁屋 同
智蘭八朗金素和
治香郎風一月風
昭和四二年一
一月発足した中富町文化協会俳句部は、部長土橋蘭
⑥ 中富町文化協会俳句部の活動
歌
流籠や唯白きものあはれなり
脱殻のほこりまみ れ の 菊 残 り
同同同西共西同同西
島和島 島
伊笠望笠若伊佐佐笠
藍井月井林藤野野井
老いといふことの淋しく散るぼたん
第五編 教育と文化
1022
た若林うめ子︵峡中文人録︶や、各方面の新聞、雑誌に広く多くの
明治三七、八年ころから活躍し、峡中女流作家の双壁と称せられ
投稿などによる作品が見られる通りである。
尾らはすでに﹁美知思
し結成した。星野、若
夫、遠藤徳通らが支援
になり、これを星野文
て隣接の五箇、三里
賛同入会者を得、やが
富の全地域にわたって
島、大須成、共和と中
はじめとして静川、西
歌者を加え、曙、原を
美子らの新進気鋭の作
貞次、古屋弘、遠藤登
しており、さらに若宮
員としての作歌歴を有
波﹂、アララギ等の会
作品を発表した若林貞雄らをまず歌壇からあげられる。若林︵貞︶
の創刊当初からの会員として永くその作品を発表した。その後に至
は、昭和一〇年六月、伊藤生更にょり創刊された歌誌﹁美知思波﹂
り、昭和一五年若尾武雄が会員となり、さらに星野文夫、遠藤徳通
らが加わり、やがて終戦後の支部活動、若草短歌会誕生の素因をな
した。また日向南沢の地域では、地元出身の歌人松田金策︵五十路
香︶の指導のもとに若葉会が結成され、多くの同好の人々によって
活動を開始していた。
それまで主として個人的であった短歌創作に、次第にグループ的
な活動がなされる気運が生じ、各地に活発な動きをみるようになっ
たのは終戦以後である。
ω 若草短歌会、美知思波支部の活動
戦時中一時休刊のやむなきに至ったが、終戦後の昭和二一年復刊さ
の短歌愛好者が参加し、広範に活発な活動を 展 開 し た 。 会誌﹁若
河内、栄、久那土とう峡南地方の中部、西部、 南部に及んで、多く
︵早川町︶、身延、大
れた。この復刊第一号に、星野文夫、若尾武雄、山下泰三、深沢
員の詠草のほか、歌評、歌論を載せ、また各地で開催した歌会の状
進、若宮貞次、遠藤徳通、石田永知、遠藤登美子、望月知、若林節
沙子らの本町出身者が名を連ねている。
況を報ずるなど、年を閲みすること六年、号を重ねること七〇号に
で、昭和二二年一月から月々の刊行を欠かすこ と な く 、 誌上には会
﹁美知思波﹂は、やがて会員を増し、その数、千名を越えて県下
O名に及ぶ活況を示した。
達した。会員の数の最も多い年は二百名に近く、月々の出詠者は八
草﹂は、若尾自らの謄写印刷によるものである が 、 約三〇ぺージ
に最大を誇り、さらに全国でも有数の歌誌として発展した。
子、土橋君子、星野強、星野麻雄、遠藤フクエ、山中数江、天野美
昭和一〇年、伊藤生更によって創刊された歌誌﹁美知思波﹂は、
若草短歌会発行r若草」
若草短歌会は昭和二二年当時曙小学校教頭であった若尾武雄が主
1023
イヒ
第五章文
一日の心の起伏が何故かあはれになりし夕風の中
西島 望月 真
富士川にたちしさ霧は太陽を覆うてコロナの現象のごとし
八日市場 石田 永知
沈む日の放つ光の一条は盆地を越えて茅が岳まで
員の作品を抄出してみる。
かにみごとであったかをうかがうことができる。年刊歌集所載の会
共和 長沢 晶子
月影のうつるたらひに今ぬぎし汗のにほへる仕事着ひたす
共和 長沢蕗子
如月の光軟かに土に沁む河原畑に我は土踏む
切石 土橋 君子
いねがてにひねもす空に対ひたり常に動ける雲おもしろく
1024
また若草会員は、ほとんどが美知思波会員として活躍し、その作
西島、大須成、共和、五箇、大河内とうにもち、各支部に月々歌会
夜子沢 渡辺 金造
品を﹁美知思波﹂誌上に発表し、その支部組織を、曙、原、静川、
を開催し、多数の参会者によって活発な活動をつづけた。なお伊藤
な 大塩 佐野 澄江
もろこしの葉ずれの中に立ちて居り果Lもなくて青き空か
ほの白く流るる淀みに飯富の灯の映えて今日の暮れ行く
生更および生更が老齢のため引退後﹁美知思波﹂主幹を継いだ高根
曙川谷極まりてたぎちくる水は冬木の間より見ゆ
庭先の木々のあらはになりて来てしらじら富士川の流れの
宮木 小林みず江
良徹が、たびたび来町し指導にあたったが次はその折の作である。
登り来し古長谷の難ぎはまりて日当る棚田日かげる杉生
伊藤生更
松葉掻く乙女二人に逢ひにけり療養所過ぎし海辺の道に
見ゆる 宮木 小林 文子
赤松を伐りたる株に泌みいでしやに凝る見れば秋も深めり
も 中山 遠藤恵久子
見はるかす稲田は既に刈られ行きて麦蒔かれたり幾ところ
大塩 依田 尊之
高野 良徹
出するに及び、休刊のやむなきに至った。
若草は六か年間、継続発行されたが、昭和二七年若尾が曙から転
美知思波が復刊後、昭和二三・二四年の両年にわたり、その年間
の作品中から選んで二巻の年刊歌集を発行したが、本町内の支部会
員︵若草会員を含む︶は第一集においては出詠三〇〇名中三三名、
夏蜜柑風呂敷に下げのぼり来て熱海の街は陽の中にあり
中山 遠藤 徳通
通行止の立札のあるところより沢べに下る道のつぎ居り
切石 遠藤登美子
中山 遠藤侃一
入選などを併せ考えて、会員の活躍が数においても、質的にも、い
山梨県芸術祭における樋川正之の芸術祭受賞をはじめとする多数の
第二集では四二〇名中九〇名を数えたことによっても、また後述の
第五編 教育と文化
松山を鳴らせる音のややありてわが麦畑に風となり来つ
古長谷 樋川 量久
地方制度の改まりし事務重なりて夜業すること幾日か続く
飯富 望月 知
朝きらふ水辺に烏おりたちて頭振りつつ水のみている
宮木 望月 豊
夕日影常葉の峰の一つをば照らし残して入り行きにけり
はるかより光となりて釜無が大きくうねる甲府盆地を
江尻窪 樋川 良恵
伊沼 若宮貞次
シヤツ 中山 山中 数江
夕風にそよぐ土手草踏みゆきて己ひとりの心守らな
富士見山吹きおろし来る粉雪は日の照る村に乱れとびたり
朝の日がななめに射してわが縫ひしミシンの上の白きワイ
飯富 古屋 弘
江尻窪 樋川 昭代
隙間風背にひややかに覚えつつ農地交換の理由認む
田の草の泥の匂ひのしむ肌着たらひに水を張りて浸しぬ
飯富 若尾 武雄
車既に発ちたるあとを木棚の向ふに揺るる向日葵の花
谷間の空に向ひてひろがれる榎の梢色たちにけり
江尻窪 古橋泰岳
月光は夜すがら照れどこの街の舗道を踏みて行くは吾のみ
切石 天野美沙子
山裾はすでにあかりのともりたり吾が登る道暗くなり来つ
梨子 上杉俊一
豪雨すぎしあとの夕空火のごとく燃えてあやしきその雲の
色 古長谷 星野 文夫
手打沢 深沢 進
積みかへし堆肥よりたつ水蒸気おだやかにして朝明けわた
黒き雲空一面におほひきてざはめき始むこのプラタナス
遅沢 川崎登美江
西島 笠井睦子
る 古長谷 星野 強
か 古長谷 星野 秀樹
長き尾をもつれあはせていかのぼりのぼりて澄める峡の空
沢を下る水を親しく思ひしが今朝は水辺に草萌ゆる見つ
く 西島 笠井 良長
飯富 佐野 芳雄
暁の四時に起き出で今日植うるわが田の水を見に出でて行
に 古長谷 星野ツルコ
棒雨晴れて残りし麦を刈り急ぐ雲洩れ出づるひかりのなか
ふ 八日市場 佐野千穂子
きらめける海を汽車より眺めゐて宇久島に行きし君をし思
名のしれぬ鳥の鳴く声こだましてこの谷合の静かなりけり
月は今沈み行くなり富士見嶺をおほへる雲は光りにほひて
古長谷 星野 麻雄
遅沢 望月辰幸
1025
イヒ
第五章文
第五編 教育と文化
雨はれし彼方に見ゆる早川の流れは濁る三条となりて
がしき 大塩 地場 静代
青きものあり紅きものありて雨しずくに朝の光の射してす
萌えたてる山幾曲り登り来てはるかに望むわが麦畑
矢細工 佐野 ユリ
山の子は山に終るべし山深くしずもる樹々に吾は向かへり
駅前の明かるき通りしばらく続き雨蛙鳴く田の中の道
飯富 遠藤 幸雄
夜子沢 遠藤 久子
飯富 土橋 孝三
真向ひの山鳴らす風ややありて早川河原に砂煙あぐ
遅沢 佐野金治
絶え間なく空気を送る音きこえ坑内にゐる人ら思へり
たたなはる山の緑の近々と姉の傍に鎌とぎ居れり
梨子 深松好信
紫に山の頂染めゐ る は 既 に 沈 み し 日 の 光 な り
手打沢 埜村 菊恵
切石 波木井弥生
納税の異議申告に人ら行く声ききながら尿してをり
遅沢 望月マッェ
穂となりし稲田の道の幾曲り歩み来りて笛吹の土手
朝の日をさへぎり立てる屏風岩くろぐろうつる川の面に
ふ 中山 山中 良江
父と吾とかたみに呼べどいらへなくおほき息ただに吐き給
えのころもかやつり草も実となりていよよ深みぬ山峡の秋
中山 星野 弘市
けり 梨子 樋川富貴子
飯富 平林 孝敏
村芝居を見に行く子らが口々に誘ひ合ふ声今夜もきこゆ
己をば内に秘めたる人なりと友の便りをくりかえし読む
手打沢 依田 正子
藁草履に重たくつきし土はらひやうやく蕎麦を蒔き終へに
雑草を抽ぎ出でて咲くなでしこが左にありて山を登りぬ
梨子 深松ヒデ子
ふ 下田原 若林 立子
切石 深沢昭子
飯富 若尾 政次
めざめたる心をもちてオフイスの花瓶の水を今朝はとり替
古長谷 星野類子
この心保たるるべし鏡台の前にすなほに髪すぎてをり
手打沢 依田 広子
とりどりに色美しく飴の紙つもりて会話の断ちがたくゐる
大塩 深沢 則子
下田原 若林登茂江
落葉深く散りしく道を踏みしめて朝をひとり炭負ひて行く
雪空と電線と物干が見ゆる高窓があり今日のわが空
夕凪にむし蒸す日なり腕の汗絶えずわきては定規を濡らす
手打沢 横松真沙美
1026
て 西島 佐野 三恵
久し振りに南天の生花活けたきなど思ふ夕はゆたかになり
夏打山の麦の畑に草取るは乙女のごとし手拭かむる
江尻窪 樋川 仲枝
鳥一羽縦の梢に動けるが見えゐる今朝の空すみてをり
門前の杉伐りたれば曙村役場と書きし標札見ゆる
梨子 樋川 勇
貨物車が三沢の鉄橋を渡り終へとどろきがきこゆこの山の
策の米を水に入れむとせし時に十寒夜の月うつりておれり
現在美知思波で活躍している人々を、昭和四五年その創刊三五周
江尻窪 樋川きよ子
畑西島長谷川えい子
うめきつつ白き息吐く産み牛を雪降るタベ畜舎に見守る
伊沼 望月八重子
打つたびに沈ます土のやはらかき深さに建ちて動かざる杭
年記念に出版した合同歌集からあげてみる。
雨宮秀子
後山 遠藤孝重
手打沢 大日向一文
川の音かすかに聞ゆる奥津城はすでに終りのどくだみの花
八ケ岳茅甲斐駒は 近 く し て 遙 か に 富 士 に 真 向 ふ わ れ ら
水潤れし竹下沢に音たてて流れるまでに雨降りつづく
棚葡萄の房に蜂が巣をつくる夏を限りに母が逝きたり
望月 一男
深沢清一
音 遅沢 望月 辰雄
沢にさす秋の日ざしに舞ふ落葉石をまはりて流れ行くなり
中山 山中 幸雄
潮風は冷々として三保の畑に碗豆も花盛りなり
使はなくなる挽臼に手を触れつ何見ても亡き母の思ほゆ
望月 盛恵
ジユネレーターの音に入り乱れ聞え来る屋上修理の固き槌
中山 加賀美昭一
古長谷 佐野さだ子
若林恵美子
次々と子は離れ行き広き田をかこちつつ吾は一人畦塗る
若林 歌枝
矢細工 佐野 治美
麓より風吹きあぐる山あひを供出の麦負ひて行くなり
朝草を終へて帰れる門先に飯炊くにほひ腹にしみ来る
清兵衛の紙漉業も機械化しいよよ手すきの尊かりけり
煙たつ山はあまねく陽の照りて越え行く径は雪に閉ざせり
矢細工 服部 賢一
笠井つや子
若宮貞次
征きし日の勢へる姿目に見えて死すとふ報せ信じえざりき
麦畑の畦に大根の花白くここより見ゆるわが家の庭
遅沢 樋川 正之
1027
イヒ
第五章文
第五編 教育と文化
若宮は学生時代から文学に心を寄せ作歌の道にはいり、美知思
るのが若冨貞次、雨宮秀子らである。
上記の人々の中で、最も注目され、将来への活躍が期待されてい
子、笠井武雄、望月静子らの名があげられる。
長沢公恵、松田能臣、深沢たけよ、深沢洋二郎、土橋君子、笠井昭
みどり、松田ともじ、松田恒喜、松田行男、深沢忠、神宮寺富士江
り、昭和二七年解散のやむなきに至った。当時の会員とLて、松尾
を発表していた。後、郷里を出でて上京し教職にありながら、いよ
波、若草等に拠り、常に研究的で、しばしばすぐれた歌論や、作品
来た本町内の会員が集まり、中大路主幹を迎えて支部を結成した。
して盛んに活動している須曽野短歌会に属して制作活動をつづけて
多くの会員が集まって盛会であった。その後、各地に歌会を開くな
昭和四三年二月には、中大路佳郷が主宰し、県下に広く会員を有
において、﹁アララギ﹂にあって、次第にその力量が認められて来
いよ研究を積み、月々の美知思波に力作を寄せると共に、中央歌壇
い、故里の家を閉ざす感懐を詠んだ一四首が推されて掲載されるな
ているのである。昭和四五年八月号の﹁短歌研究﹂には老父母を失
﹁須曽野﹂の同人として、活発な制作活動と指導の役割を果してい
歌会、さらに現在は、 ﹁新炎﹂、﹁清瀬﹂を主宰し、また﹁青紅﹂
いる。戦中から戦後にかけて、 ﹁赤月﹂、 ﹁若葉﹂、﹁鎮﹂等の短
適しつつ、作歌指導にあたり、また清瀬町文芸会長として活躍して
町に居住しているが、もと気象庁に勤め、昭和三八年退職後悠々自
五十路香は、明治三七年日向南沢に生まれ、東京都北多摩郡清瀬
いる。
り、また会員の歌稿の添則指導をするなど作歌力の向上につとめて
おいては前記の五十路香が、しばしば帰郷して直接指導にあたった
ど互いに交流をなし、熱心に歌道に励んでいる。特に、水口地域に
ど中央でも嘱望されている歌人である。若宮はまた、万葉集の研究
に早くから精魂を傾け、真しな努力をつづけており、その労作は毎
﹁アララギ﹂その他にも、たびたび万葉集に関する研究が発表され
月、美知思波誌上に、﹁万葉集短歌所見﹂と題し連載されており、
るなど、斯界に刮目されている存在である。
かつもく
雨宮秀子︵旧姓望月・西島出身︶は美知思波にあって、早くから
新鋭としてその豊かな才分が注目されており、幾多の秀作を発表し
の新春文芸に第一位入選の栄をになった。
ていた。昭和四〇年および四五年の二度にわたって山梨日々新聞社
る。
身や
虚心に生く人愛しみぬ吾も越えむつり橋踏むにさだめなき
見えぬ火となりてひかり燃えつぎて藁灰は藁の形をなせる
寺沢・日向南沢地域では早くから、短歌活動が行なわれており、
本会に属して、作歌に励んでいる人々は次の通りである。
谷底に山仰ぎつつさび心戸を閉じてさて所在なき宿り
③ 須曾野短歌会支部︵水ロ短歌会︶の活動
のもとに寺沢に若葉会を発足し、領︵かなしき︶支部とLて毎月例
昭和一九年には地元出身で東京在住の松田金策︵五十路香︶の指導
会を開き活動して約一〇年に及んだが、会員の他出分散とうによ
1028
水 口 松田具真
冬ざれの野を歩みきぬLらじらと陽を反しいる障子ある家
なお、このほかの会員に佐野タッエ、高野惇子らがある。
麦畑の麦稚きを耕やせる面そむけつつ風つのる中
望月獅馬夫︵飯富︶は、山下陸奥主宰の﹁一路﹂会員として、昭
@その他の歌人
和二九年来作歌に精進している。
ひそやかに稲穂の乾く音のして一刻つよき入陽のひかり
豆腐つくると庭隅のかまど煙あぐ農のみに生く冬空の青
水 口 松田ともじ
して活躍し、特に旅中の課詠にすぐれた作を発表した。
望月佐和子︵伊沼︶は年少のころから作歌に趣味をもち、昭和三
伊藤徳隆︵青峯︶は早くから歌道にも心を寄せ、アララギ会員と
りたつ 西 島 望 月 り つ 子
るとともに、新聞の文芸欄にも作品を寄せ、しばしば入選してい
五年には鈴木孝主宰の﹁樹海﹂に入会し、月々怠らず作品を投稿す
水 口 樋川すけの
祭壇に菊花飾られ慰霊塔墨黒々と地を払いたり
元日の湯うどん作ると真白なるエプロン着けて土間にお
平須深沢とみ子
る。
活の中に心の糧として、おこたりなくいそしんでいる。
このほか町内に深沢キョ︵切石︶佐野栄︵飯富︶など、作歌を生
離農してゆく人多きも四反の区有林の整地に汗ばむ吾は
矢細工 佐野つゆ子
熟れし葡萄棚に残して待ち待で、ど子ら帰り来ず蜂群がりぬ
ダイナマイトに仕掛けて吾は爆発を岩蔭にひそみ息つめて
待つ 矢細工佐野 栄
われひとりの昼餉にあれば犬猫とかたへに呼びて膳をひろ
げ殿 佐野 栄
深沢 キヨ
爪先のいびつとなりで、減りしまま七日続きし田植えを終え
西島出身の長谷川三恵︵旧佐野︶はもと美知思波に属し、後、川
出来上りし綿入れチヤンチヤンコ吾子に着す吾が若き日の
ぬ 西島笠井昭子
を載せている。
崎の芦笛短歌会にはいり、その年刊歌集︵昭和四三年刊行︶に作品
スカートにして 矢細工 佐野まり子
就職に旅立ちの娘は梅の花咲く山道をふり返りつつ
富士川の流れも見たし君が住む紙すく工場も見たしと思ふ
水 口 笠井 武雄
にまた空にあたら花開かせず散らして行った。中谷久江︵飯富︶
戦争はあまたの苛酷の犠牲を強い、前途ある若木の蕾を、陸に海
また会員古屋芳江︵飯富︶は昭和二四年入会以来、生活の中に歌
をもちつづけることを自らのモットーとして、十年一日の如く作歌
も、うら若い身で従軍看護婦として満洲の地にあったが、二二歳で
に励 ん で お り 、 現 在 須 曽 野 同 人 の 一 人 と し て 活 躍 し て い る 。
一面にいぬのふぐりの花咲きて耕す畠の土匂いたつ
1029
イヒ
第五章文
第五編 教育と文化
さめるなき夢といふさへ悲しかり木々青みたつ窓に対ひて
この薄倖の青年歌人を追悼
二六年三月、生前指導を受け
し、その栄誉をたたえて、翌
た美知思波主幹伊藤生更をは
じめ、美知思波、若草の先輩
古屋 弘
1030
若い生涯の幕を閉じた。久江は幼い時から、父母の感化を受け文学
に親しみ、長じて作歌に心を寄せ、在満中の作品が昭和一八年三月
大連で発行された満洲年刊歌集︵第三輯︶に掲載されている。
白樺の青葉そよげる湖岸に教会の鐘響き渡り来
そば畑に風渡りゐる丘越えて木の問に青き湖を見き
芸術祭の入選作品は、その年々に集録され、 ﹁山梨文芸代表作品
昭和二一二年度から創始された県芸術祭の短歌部門において、昭和
⑤ 山梨県芸術祭短歌入選作品
で、まったく無名の一青年樋川正之︵遅沢︶が選ばれて、世人の目
○昭和二四年
集﹂として刊行されているが、本町出身の入選者は次の通りである。
検疫所を出て稔り良ぎ稲を見ぬ故国の秋や吾が胸に沁む
に療養をつづける身であり、病床にあって作歌をもって自らの生命
を託する唯一の道として、ひたすらつとめていた。そしてこの栄あ
若宮貞次
葬列は難川に添ひ行きにけむ昏れる室に鍵して帰る
生命の幕を閉じていたのであり、栄誉をその墓前に告げるよりほか
かへらざる思ひのゆえに夏草のなびかふさまをただに目
伊藤青峯
すべがなかったのである。
鈍き音たてては鍬につきあたる畠の石に陽のぬくみあり
守りつ 若尾 武雄
る、芸術祭賞の授賞が決定して喜びの報がもたらされた時、彼はす
選ばれた作品は九首で、すべて病床で詠んだものであり、いずれ
夏山につぎつぎ雲の湧き出でて忽ちにして雲の峯となる
愛憎を越えて対へばうつそみはありのままなる一つの命
氷枕にリズム保ちて響くなりラツセルか疾か限りなき音
笠井 一柳
遠藤登美子
長らへて幸ある吾と思はねど熱がなければ今日を安らぐ
つつ病を凝視し、病苦と闘って、先人未踏の境地を開いたと賞讃さ
うつつには主食受配に窮しゐてなんぞストマイ成形の術
れたものである。
も深刻、哀切で側々として心に迫るものがあり、作者が死に直面し
でに二か月前の昭和二五年七月、二四歳の短かくも、多感な青春の
を見はらせたのである。しかもこの樋川は病魔におかされて、自宅
に追悼歌会を行なった。
樋川 正之
や歌友らが、町内外の各地か
ら参会して、遅沢千光庵で、地元遅沢文
協 会 の 後 援を
化 え
て
、
盛大
芸術祭(短歌)
二五年度第三回目の授賞者として、前二回の佐野四郎、鈴木孝、青
芸術祭賞受賞者
木辰雄らの県下における第一線のベテランともいうべぎ歌人につい
昭和25年度山梨県
栴檀の葉先に今夜の月が照るまだまだ吾にわからざるもの
O昭和二五年
朝霜が霧れ上り行く目路遠く光遍し駿河の海は
深沢清一
風の音遠去り行くを聞きてゐる一五分休憩の床堀の中
暫くを淀みをめぐる藁屑のやがて流れに巻込まれゆく
る 中村 恵子
川窪 一夫
ドウナツも上手に揚りロールパンもふつくりと出来実習終
山中 幸雄
渡船場は既にかげりて菜を洗うここまでの陽は四五分な
佐野 芳雄
るべし 若林 節子
合宿も試合も試験も終りたり今夜は父と草履作らむ
望月 久義
水の廻りに藪蚊群れゐるタベにて吾の惨めが思はれてくる
土橋 孝三
霜踏みて登り来し粟倉の山より見ゆるわが田の青し
飼ひそめし豚の子鳴けばあかときを目覚めたりけりこの
土橋つる子
二三日は 平林なみ江
水仙の浅黄の花に親しみて春を待ちつつ寝てゐたりけり
望月 真
月光は普く照りて川の瀬に飛沫を受くる岩の肌あり
若林 肇
真実とも偽りとも今は言はなくに月淡々し夜更くる窓に
物品税営業税取引税所得税漉き上げしこの一枚にかかる
望月 峯子
星野 慧
水爆と人類の将来など夢想してビルの屋上より人の波見る
埜村 菊恵
台所に裸電灯低く下げ大豆入れるべき俵編み居り
たに欲し 土橋 君子
麦こきの音きこえ来るいらだたしさよ何でも出来る体ひ
て 渡辺かつ子
臥床にて手の届くあたりに来る光仕切戸の隙を斜めに入り
記 若林長子
記事なしとかきて閉ぢたり人憎み己を嫌悪してゐる夜の日
平林雄太郎
絢燗たる洋画の興奮より放たれて又明日からの生活がある
若林 貞雄
樋川 昭代
伸び足りし筍に春日遅々として掘る鍬先のにぶく光れり
笠井 良長
幹きしみ騒立ちくればためらはず斧打込めり地響きの立つ
努力も技術もなべて認められず日給百五十円時にわびしむ
望月 桂
蜀黍の枯葉のゆるる山の道上りつぎ来て矢細工部落
1031
イヒ
第五章文
第五編 教育と文化
ありし日の優しき母を思ふにぞ幾度か撫づ胸のあたりぞ
○昭和三一年
ボス反動とただそれのみを言張れる人々に時にかかはらね
遠藤敬基
渡辺 金造
ばならない 樋川 量久
ほかに望月一男、佐野静香の作が入選する。
木食仏たずねて帰る静心傘傾けて山下り行く
O昭和三五年
この年、ほかに伊藤青峯、若尾武雄、若宮貞次、古屋弘、遠藤登
○昭和二七年
望月佐和子
美子らの作品入選する。
この年若尾武雄、若宮貞次、古屋弘らが入選する。
ω詩︵漢詩︶
㊨詩︵漢詩︶川柳
山下 泰三
い存在である。南邨は、大東文化学院に学んで漢文学を修め、特に
詩壇の漢詩の部門における西島の笠井輝男︵南邨︶は最も輝かし
降り続く雨に伸びたるなた豆の蔓ひまわりの幹にからまる
○昭和二八年
雨となりし夕漉き終へし紙の上に静かに重石並べおくなり
目された。これが当時すでに衰運に向かっていた漢詩の再興を自ら
する漢詩﹂を全国に募集した際、第一位に入選し、漢詩壇の後勤と
才能を認められた。昭和一一年正月、当時の報知新聞が﹁朗詠に適
員︶、服部空谷らの老大家の詩社にはいってその薫陶を受け、その
詩文を専攻し、在学中から国分青崖、土屋竹雨︵ともに芸術院会
笠井 良長
ほかに、若宮貞次が入選する。
O昭和二九年
朱にじむ雲の動きのうつれるが田草取りゐる隣田にあり
望月 秀子
道の辺まで水漬きしならむ草枯れて流れ木いたくからまり
ており 佐野 静香
望月 一男
平塩の岡に観せし鐘ありて風のとだえし昼静かなり
○昭和三〇年
月次刊行していたが、戦後の時運の変化と東洋文化軽視の風潮の中
社﹂ ︵土屋竹雨主宰︶は、昭和初年から漢詩誌の豪華版﹁東華﹂を
大東亜戦詩の選者となった。戦前日支の文化交流に寄与した﹁芸文
が結成され、その漢詩漢文学部会に、最年少の幹事として参画し、
を学び、文人としての素養を深めた。昭和一七年、日本文学報国会
の任として立つに至った動機であるといわれる。さらに、当時斯界
てんこく
の最高峯であった河井苓盧︵せんろ︶の門にはいって、書学、箸刻
取り入れのおそくなりたる我が家の麦畑のみ小さく残れり
ほかに、若宮貞次、望月一男の作品がある。
依田 文雄
1032
その事業を継続し、全国漢詩人を糾合して平易な漢詩誌﹁言永﹂を
に極度に苦境に陥った。三三年師・竹雨の没後、未亡人を援けて、
域﹂に拠り、盛んに詩作活動を行なっている。若林は昭和三四年以
若林肇︵宮木︶は、高校の教員であり、石田らとともに、 ﹁流
入れ、その活躍が注目されている。
し、その成果を世に問うた。その書名﹁地の傷﹂は著者が、昭和三
来の自らの作品をまとめ、四五年に自選第一詩集﹁地の傷﹂を出版
発行し、その添削指導、編集を主宰している。なお、熊本の原泉吟
として、斯道のため活躍している。
ったものである。
五年、山梨日日新聞社の新春文芸で第一席をえた作品の題名からと
社、静岡の侃蘭会、信州上田の曲水吟社、甲府の玄遠詩社等の教授
り、二六年帰郷して県内高校に歴任したが、詩仙陶淵明にならい、
戦前、北支に教員として出向し、また母校大東文化学院教授とな
千年不絶触蛮争
中秋看月
我似十年雲水僧
還郷無可誇親故
東西一枚一行縢
人世難遭骨有稜
帰郷有感
願わくば我三杯大道に通じ
何れの日か人間甲兵を洗う
千年絶せず触蛮の争
同
我は似たり十年の雲水僧
郷に還って親故に誇るべきなし
東西一枚一行縢︵縢ー脚絆︶
人生遭ひ難し骨に稜あり
笠井 南邨
詞者︶や丸山照雄らと下丸子集団を結成し、集団の理論的指導者と
二四年上京後、身延中学の同窓生浅田石二︵﹃原爆許すまじ﹄の作
し、そのすぐれた才能は多くの注目するところとなった。はじめ実
作や詩をかき、また前記﹁若草﹂にも短歌作品や歌論を盛んに発表
後両親の郷里曙に帰り、旧制身延中学校に学び、 ﹁峡南文芸﹂に創
星野秀樹︵ペンネーム江島寛︶は、昭和八年朝鮮に生まれ、終戦
して活躍するなど多くの作品を発表している。
土橋文夫︵健︶は飯富出身で、早くから中部青年文学会の同人と
何日人間洗甲兵
詩と酒とを愛する当代随一の詩学者として誇りうる人である。
願我三杯通大道
酔中の天地一詩城ならんことを
は、県内高校教師の同好者とはかって、詩誌﹁流域﹂を創刊し、詩
の発行の中心となり、詩や短歌を発表した。さらに昭和三三年に
石田永知︵八日市場︶は旧制身延中学在学中すでに﹁峡南文芸﹂
た共産主義者であった。﹂とは、遺稿詩集序文のことばである。そ
﹁彼は詩人にして、作家にして、評論家にして何よりもなお秀れ
広介批判の﹃体験の質について﹄︵大崎文学所載︶などがある。
と創作の環﹄を批判した﹃集団と個人﹄ ︵人民文学所載︶や、真谷
﹃手にもたなかった﹄などが有名である。評論では野間宏の﹃実践
﹁江島寛詩集﹂が遺作刊行委員会から出版された。 ﹃突堤のうた﹄
年八月病いのため二二歳の若さをもってこの世を去った。三〇年、
し、特異な革命的叙情詩人としてすぐれた詩をかいたが、昭和二九
存主義に関心を寄せ、次第にコムミニズムヘと進んで行った。昭和
酔中天地一詩城
や詩論を発表し、その中核的活動をなし、県内の詩壇に新風を吹き
1033
イヒ
第五章文
第五編 教育と文化
の温和な人がら、ずば抜けた明敏の頭脳など、将来に大きな期待を
っての体験を素材として、その教え子唐以王を主人公とLた短篇小
いわん︶﹂は、作者が終戦時、日本人中学校教師として、中国にあ
説である。
かけられていただけに、その天折はまことに惜しまれるのである。
⑫ ハ 籾
同好者とともに、文学研究会を結成し、活発な活動をするとともに
西島の野田宜安は、文学活動に情熱をそそぎ、終戦後峡南地方の
セ ロ
ル㌧フがあるほか、町内に川柳人の数は少ないが、新聞の文芸欄な
この部門では、飯富に古屋金一らを中心とした数人の同好者のグ
中耕に冬眠の蛙目を開き
鯨尺深ぎえにしのすてやらず
戸栗未完子
古屋 金一
望月英二朗
中谷古久水
の誌上に創作﹁窯雨﹂、あるいは文学論を発表するほか、表紙、カ
ぴ
ットにまで手を及ぼし、まさに八面六腎の活躍振りであった。また
た。さらに二六年には自ら発行人として﹁無名作家﹂を発行し、そ
﹁朝霧﹂を発行、ついで﹁創作﹂を出し、小説﹁野晒﹂を発表し
多くの制作を発表した。昭和二三年二月、中部青年文学同人として
家計簿の黒字に襯 衣 の 継 ぎ が 見 え
どに作品を発表して、熱心な作句をつ父けている。
背のびせずこの世を楽に送りたし
ラジオドラマに﹁一揆流れ﹂や﹁馬相野の狂女﹂の作を発表したの
県芸術祭の開催にあたり、委員として活動し、芸術祭作品として、
をはじめ、甲斐百話には、主として民俗研究による民話、伝説に取
㊨ 小説および郷土史
深沢泉︵切石出身︶は小中高校の教諭、指導主事を勤め、最後を
ジー﹂などを放送Lた。
材した﹁清兵衛紙はじめ﹂、 ﹁西島のぼたもち祭﹂、 ﹁紙すきエレ
望月良雄︵飯富︶は、生前書籍商を営むかたわら山梨児童文学会
桂高校々長として永く教育界に活躍し、特に国語教育の権威として
刊行の﹃甲州方言﹄は県下全般にわたる方言を、著者自らが現地を
員として活躍した。昭和三七年、同文学会が刊行した作品集﹁ふる
名があり、また文才豊かで、あまたの著作を発表した。昭和三六年
踏査し集大成したものである。昭和三三年から三六年にわたって、
さとの実﹂に童話﹁神様にされた石の話﹂が集録されたが、そのほ
小説陣の中で、松田硯夫︵日向南沢︶が、しばしば山梨日日新聞
﹁飛行艇﹂など、たびたび味わい深い文章、作品を発表した。
にわたって﹁甲州伝話﹂、 ﹁日曜の話題﹂欄などに﹁飯富の由来﹂
ら、山梨日日、山梨時事、朝日新聞社に文学、民俗、また教育など
望月は、原文化協会の主軸として活動したが、昭和三五年ころか
かに﹁三平おじさんとどじょう﹂などの作品がある。
NHKラジオ放送番組の甲州百話に、 ﹁甲州人﹂、 ﹁籠坂夜話﹂、
﹁紙漉ぎ村の先生﹂、﹁甲州金山秘話﹂、﹁あるおせんがじの話
︵西島︶﹂、 ﹁経塚﹂、 ﹁炭焼長者﹂、 ﹁琴路と五兵衛﹂などの脚
本があいついで放送された。また多くの随想、随感などが、各新
聞、雑誌々上にたびたび発表掲載されている。
最優秀文部大臣奨励賞の栄誉をになった。その作品﹁唐以王︵とう
さらに昭和四五年には旺文社主催全国学芸コンクールにおいて、
1034
社の文芸欄に投稿し、 ﹁石ころの歌﹂、 ﹁父と娘﹂、 ﹁老境﹂など
﹁宵待草﹂の唄のモデルは、西島出身の笠井彦乃であるといわれ
る。 ︵木村毅著﹃竹久夢二﹄、青山靖作﹃宵待草の唄のモデル﹄に
で、当時の世人の人気を湧ぎたたせたのである。この夢二が作った
が二位に入選するなど、ひとり気を吐き、今後の創作活動に期待を
が入選しており、昭和四五年の新春文芸には、﹁ポマード﹂の一篇
よる︶
近在にまれな美少女とたたえられていた。はじめ切石小学校に学
ひとり娘として生まれた。生来怜割の上に幼少から眉目麗わしく、
彦乃は明治二七年、父笠井宗重︵西島︶母そう︵久成︶の間に、
かけられている。
マチュア演劇協会の募集した戯曲脚本に、その作品﹁牛と材木﹂が
詩や演劇部門で活躍している石田永知が昭和三〇年には、山梨ア
一位入選し、さらに三三年度芸術祭文学部門で、放送劇脚本﹁富士
川下り﹂が一位に入選した。長雨で増水している富士川を鰍沢から
業を営み、また牧場を経営するなど各種の事業を行ない、一時隆々
ぶる巧みであった。父は、寺沢雁帰の白山権現下に居を構え、製紙
にかかわりをもつ若いご新造、駿河の商人その他老船頭をまじえ
と栄えたが、後、故郷を出て、東京日本橋に和紙問屋を開業するに
び、後、西島小学校に転じたが、絵を描くことを好み、しかもすこ
て、船中に織りなす人間模様を描いたもので、NHKから放送され
及んで、彦乃も伴なわれて上京した。彦乃は東京女子美術学校で日
身延へ下る乗合船に乗り合わせた、追われる身の若者と、その事件
た。
宵待草の やるせなさ
く愛されるようになった。
え、手も美しかった。﹂と描写され、明朗で美貌の彦乃は夢二に深
の門を訪れ、その教えを受けることになった。﹁笑うと糸切歯が見
本画を学び、さらに洋画を習うべく、当時すでに有名であった夢二
こよいは月も 出ぬそうな ︵宵待草 竹久夢二作︶
人であり、また、
宵待草のやるせない思いをもって待ちこがれた対象は、彦乃その
待てど 暮らせど こぬ人を
はじめたといわれる。この作詞者竹久夢二は、名を茂次郎といい、
る
汝が生まれし甲斐はも悲し瑠璃色の葡萄の眼より涙こぽる
今日も人々に愛唱されているこの歌は、大正七年ころから歌われ
岡山の人であるが、明治の末から大正の初期にかけて、少年少女の
の頂点を画したと見えるのは、この宵待草の歌であり、この歌のモ
どうけい
デルともいうべき彦乃への思慕であった。夢二の女性への憧憬が、
という夢二の歌は、彦乃を詠んだものである。夢二の生涯の恋愛
雑誌にその詩や絵が掲載され、当時の少年少女の夢を豊かにはぐく
んだのである。特にその絵は、雑誌の口絵や表紙に、従来の自然主
四二年に出された﹁夢二画集﹂をはじめとして、幾多の作品に描か
彦乃によって満開したのだといわれ、夢二の胸に久遠の女性として
義的な描写を打破した非常に印象的で、浮情的なものであり、明治
れた美人は、いわゆる夢二式と呼ばれる女性の型を創作したもの
1035
イヒ
第五章文
そのたぐい稀な美しさを述べているが、その彦乃も佳人薄命のたと
哀椀さにおいて、しかも凛とした気品において類似点がある。﹂と
生んだ誇るべき女流文学者樋口一葉と比較して、﹁なよなよとした
占められていた人である。 ﹃竹下夢二﹄の著者・木村毅は、甲州の
また指導主事に在職してからは昭和三九年以来同勤務の望月教三
校篇︶計六巻の編集発刊をしている。
県連合教育会との共編になる﹃郷土社会の研究﹄ ︵小学校篇・中学
幾たびか放送している。また後の県教組教育文化部長時代には山梨
研究が掲載されている。またNHKの全国、地方局の教育番組でも
︵西島︶らと共に、本県では初めての本郡下各町村ごとの社会科副読
えにもれず、病いのため大正九年一月、二五歳の若さをもってこの
本﹃わたしたちの町﹄および同資料集を各町教育委員会、社会科部
世を去った。
峡中文人録︵渋谷俊編、大正一二年六月発行︶に若林うめ子︵旧
役割ははかり知れないものがあり、この事業がその後の町誌編さん
会と共に年次計画で大集成Lており、児童の郷土教育に果している
の中に、失われつつある郷土の民俗資料の保存に努力し、切石一生
事業への橋渡しにもなっている。また依田は急速な生活様式の変化
三七、八年ころから和歌、俳句、漢詩、小説、随筆等を山梨日日新
女流作家の双壁と称せられたとある。
校内に郷土資料室を設け、大小百数十点の貴重な郷土の民俗資料の
会の同志とはかり、昭和四二年、明治百年記念事業として静川小学
蒐集に成功し、この運動は郡下の各学校にもひろまり、増穂南小、
萩の葉におく白露のそれよりもしげきは今宵の我なみだ哉
から、昭和二一年静川小学校長を最後に退職するまで三〇余年、ひ
いる。
豊岡小、睦合小、硯島小とつぎつぎと民俗資料室が設置されてきて
時事新聞等にしばしば詩文を発表して活躍した。 ︵﹃峡中芸術家大
くし、りっばな功績をあげたが、とりわけ郷土の特産西島和紙の歴
業に就きかたわら公民館長、文化財審議委員として、社会教育に尽
している。著者は身延高校教諭として奉職し、後に家業の和紙販売
笠井東太︵西島︶は﹃西島和紙の研究﹄ ﹃西島紙の歴史﹄を著作
鑑﹄による︶
績は高く評価されている。
前記二著作を大集成した。本書の史学的なうらづけは深く、その業
また同じ文化財審議委員として研究熱心な深沢喜一︵西島︶は昭
史に熱心にとりくみ、村方文献を整理保存し、実証的研究をまとめ
治編︶があり、本書は依田が山梨県立教育研修所在勤時代の調査研
本町の人の著作としてあげられるものに、依田明︵切石︶の﹁ガ
究がおさめられており、そのほか生活指導関係の全国誌にも多くの
イダンスと個性調査﹂ ︵昭二五、巌松堂書店、牛島義友、波多野完
越えるに及んだ。退職後は故郷に悠々自適しつつ、山梨日日、山梨
﹁弘道﹂等にしばしば投稿し、その数は短歌二千三百、俳句八百を
俳句をよくし、前記﹁美知思波﹂や﹁山梨教育﹂また﹁大法輪﹂、
たすら教育に挺身し、りっばな業績を残したが、その間また短歌、
また、同じ下田原の若林貞雄は、明治の末年教育界に身を投じて
聞に寄せ、その才筆をうたわれ、当時大村笹波女史と並んで、峡中
姓北村︶は、明治二二年生れ、下田原若林弘毅に嫁いだ人で、明治
第五編 教育と文化
1036
丹念に調査したものの記録集成で、西島に伝えられた昔話や伝説、
和四五年﹃西島の今昔﹄一巻を著した。これは著者が永年にわたり
教諭を勤め、二科展に属してユニークな作品を発表し、またしばし
また大塩出身の佐野智子は東京芸術大学を卒業し、現在甲府二高
論、婦人公論等の挿画を執筆している。
また町内にある笠井慶太郎、河西清充らは﹁新しい絵の会﹂の全
ば個展もひらき大いに将来を嘱望されている。
行事、さらに人物にまで広範に及んで興深く記述されている。
第三節美術・書道・笈刻
をもって郡下美術教育の向上に成果をあげている。
国的な美術教師の研究サークルに所属し、研究深くすぐれた指導力
る。在学中から熱心に制作に励み、旺元会や、秀作美術展、安井新
る。河西は東京芸術大学を卒業し、都留文科大助教授を勤めてい
美術界で、挙げられるのは寺沢出身の河西万文︵かずのり︶であ
そうした状況の中で、昭和三四年一〇月、書道の研究機関を設立
り、従って幾多の名筆、能書家を輩出している。
を知られている西島地区は、往昔から地区をあげて書道に熱心であ
書道用手すき和紙の製造で、その由来は古く、しかも全国的に名
ω 西島書道会と藥倫書道展
⇔ 書
人賞候補展等に出品し、大橋賞はじめ各種の賞を受け、さらに個展
e 美
を開催するなど活発な活動をつづけて来た。また、山梨県版画協会
であるという考えのもとに、地区有志が相会し、西島書道会が発足
して、和紙製造の研究に資するとともに、書道の興隆に貢献すべき
したのである。事業として、紙祖薬倫奉納県下学生書道展覧会の開
催および会員の書道実技研究会を実施している。
から卒業後も、小磯教室副手として勤めるかたわら、モダンアート
より郡下さらに県下全体に呼びかけて盛大に行なわれている。
書道院、中富町および町教育委員会とうの後援のもと、町内はもと
る。山梨県教育委員会、山梨日日新聞社、南巨摩教育事務所、玄遠
え、これに応募する者の数は次第に増加し、二千余名に達してい
紙祖察倫書道展は、回を重ねて、昭和四六年二月には一二回を数
協会展をはじめ、幾多の展覧会に出品して、昭和四一年、モダンア
なお本会には、会長佐野忠雄、副会長笠井南村、佐野盛のほか、
ート 協 会 大 賞 を 受 け 、 現 在 そ の 会 員 に 推 さ れ て い る 。
その夫人、美奈子は、同じく東京芸術大学を卒業したが、在学中
る。
など、きわめて、多彩な活動をつづけ、将来を大いに嘱望されてい
﹃石膏デッサンの実技﹄、 ﹃版画のいろいろ﹄等の著書を出版する
を結成し、自ら会長となって活躍するとともに、美学会、教育学会
道
員として研究を進め、 ﹃司馬江漢の研究﹄をはじめ多くの論文、
術
またしばしば個展を開いてその制作を発表するとともに、中央公
1037
イヒ
第五章文
第五編 教育と文化
土橋要馬︵釜川︶は、戦前の書道団体として県下に活発な活動を
運営委員長笠井二郎らが役員として尽力している。
相共に研さんにつとめた。南邨は常に力を競わず、名にとらわれ
院会員︶、松丸東魚らの先輩および松本芳水、上条信山らの同輩と
の権威、河井杢盧について、壕刻および書道を学び、西川寧︵芸術
め、斯道の興隆振興のため指導的役割をなして来ている。
ず自らの力を養うを第一としつつ、地元書道会また高校書道をはじ
ω主なる書家
て、山梨の書道界に大ぎく貢献した。土橋は明治一五年、飯富に生
佐野忠雄︵越堂︶は三〇有余年の教育界における業績、また教育
した﹁山梨書道会﹂の設立発起人として参画し、審査員、顧問とし
まれ、後医師として中巨摩郡鏡中条に至誠堂医院を創めた。書道、
は若くして文部省検定試験に合格している。身延中学校長時代に、
校卒業と同時に長野県小諸の木俣曲水について学び、大正二一年に
身延全国書道展を企画してこれを創始し、また昭和三二年西島書道
数えた。
会を設立して会長となり、県下学生書道展を始めてすでに一二回を
もに、静岡県の沖六鵬を会長とする﹁ふでの会﹂に参加し、山梨、
一方、書道研究の会、真澄会を継承して、その運営にあたるとと
の筆致に見る人々を感動せしめた。
に重きをなしている。
道芸術展審査員を委嘱されるなど、はなばなしい活躍をなし、斯界
また日本教育書道連盟教育部審査員、同検定試験委員、および書
静岡両県の子弟、多数の門弟を擁して指導に努めている。
川崎義重︵雪洞︶は昭和四〇年故人となったが、六郷町葛籠沢に
㈹ そ の 他
道の振興に寄与してきている。
てきており、原地区では若尾信義、若尾正、あるいは土橋強らが斯
会審査員として斯道振興のために力を尽くした。
昭和四五年一一月、切石正伝寺境内の子育て地蔵菩薩の例祭にあ
また、切石地区では深沢丑重、深沢清一らが後進の指導にあたっ
笠井輝男︵南邨︶は漢詩、寡刻部門に傑出した存在として、全国
行、よく専検に合格し、東京に在って木俣波男に師事して書道を修
的に知られているが、書道においても、白面の青年時代から、斯界
め、県下の各高校に奉職して生徒の指導にあたるとともに、書道協
生まれ、本町伊沼・川崎家の人となった。少年のころから苦学力
同展の無鑑査の待遇を受けるに至った。書風は気韻高く、穏健中正
育功労者としての栄誉に輝いた。少年のころから書を好み、師範学
委員長、教育長として一〇余年にわたる功績により、昭和四五年、教
土橋釜川書
骨董、弓道等を好み、ことに書道は相沢春洋に師事し、大いに研さ
「般若多心経」
んを積み、泰東書道院に所属し、同展に入選すること数回に及び、
鍵
1038
たり、静川地区の書道愛好者により、第一回書道展が開かれ、小中
学校児童の作品が多数出品され、きわめて盛会であった。この書道
会は、子育て地蔵奉讃会が主催し、町および町教育委員会の後援の
り、次第に斯道の発展をはかるよい機会となっている。
もとに会長天野晃、審査長佐野忠雄らと、深沢清一らの尺力にょ
なお、中富町内の小中学校は、従来から書道については、よい環
境に恵まれ、すぐれた指導者のもと、父母、児童生徒の熱意も大き
も、数多くの入選者を出し、個人でも、団体としても優秀な成績を
く、この道が盛んである。年々、各地で開催される書道展において
あげている。西島小学校が、山梨大学主催の県下学生書道展に、昭
亥II
ったことなど特筆されるものである。
和三七年以来連続五か年、山梨県一の最優秀校としての栄誉をにな
㊧ 纂
寡刻界にその将来を期待され、多くの名作を残し、壮年にて逝い
た松浦善平︵羊言︶は、旧姓土橋で飯富に生まれ、書道の釜川の実
弟である。羊言は初め岡本椿所の門に入り、後、初代中村蘭台に師
事し、その刀技はいよいよ進んだ。甲府松浦家の養子となり、東京
に居を移し、文人墨客の需めに応じ、扁額、箸刻に専念した。後に
韓国に渡り、古典を研究し、さらに中国に遊学し、周、秦等の古印
壕を研蹟すること数年、技法ようやく堂に入り、新技を開拓した。
理大臣︶の書
豊道春海、金
閣寺放光師、
氏の序文など
朝鮮金敦煕各
いる。
が収められて
笠井南邨は
も、青年のこ
箸刻において
の最高峯とい
ろから、斯界
われた河井茎
二三年、韮崎高校勤務中同好の士と﹁箸遊会﹂を結成す
、 斯
る
な
ど 盧に日夕親災してその薫陶を受け、この道の奥儀を体得 し た 。 昭和
道発展につとめ築刻界に権威ある存在である。
第四節 音楽・謡曲
前記のように中富の地はかつて、 富士川舟運の花やかだったこ
ω 民 謡、小 唄
e 音
しくも長逝した。羊言印譜乾坤二巻があり、斎藤実︵朝鮮総督、総
名声があがって貴紳雅客の訪れる者が多く、京都金閣寺に寓して、
(土橋強氏蔵)
松浦羊言作品r羊言印譜」
金閣寺、天竜寺とうに多くの作品を残している。昭和六年四七歳で惜
1039
楽
イヒ
第五章文
﹁大須成村民謡﹂となった。このことが、他の地域をも刺激し、二
それが下田原の﹁田原小唄﹂ ︵若林うめ子作詞︶となり、二六年
とろとろとヨー︵シヤリシヤリ︶
つぎのふねからまたホイ エヘヘオホホー
ている。
地域の特色をとらえ、入念な作曲がなされたもので今日に伝えられ
倉栄作曲︶が誕生した。これらはいずれも、それぞれの村の特徴、
山愛紫作詞・古屋良一作曲︶曙では﹁曙小唄﹂ ︵星野文夫作詞・入
1040
かみの里ヨー ︵シヤリシヤリ︶
︵最後のシヤリシヤリは流しすきの簑桁から捨てる水の音であ
る︶
ろ、開けた地であり、甲府盆地と静岡を結ぶ富士川が現在の繁栄を
さお
生む基礎をなしたわけである。舟人が樟を持つ手に口ずさむ船頭歌
の一つに、笠井東太著の﹃西島紙の歴史﹄はつぎの歌を紹介してい
甲州盆唄として、 ﹁身延の者は声がよい⋮⋮﹂に始まる民謡が、
相当に普及しており、さらに行商人などの持ちこんだ全国各地の
る。
われている。これはかなり古い時代から終戦後の数年にわたる長い
間、村人の夏の夜の娯楽として、孟蘭盆会を中心に﹁盆踊り﹂とし
歌、特に富山の薬売りからの影響を思わせる﹁木曽節﹂の変型が歌
いそぐ 南部には ぢばはない
て親しまれて来たのである。その場合﹁正調木曽節﹂はきかれず、
表 樟 さ し は な お わ か い
今日は来るらか 明日来るらかと
画の普及により現在はほとんど絶滅に瀕している。時に夏の宵、盆
なびた、しかも情趣豊かな盆踊りも、娯楽の変化や、マスコ、・・、映
下り航 見りや 又ほれる
踊りの会が催されても、内容はエレキバンドや、新曲音頭などで、
前述の﹁変型木曽節﹂がもっぽら歌われ、踊られた。しかしこのひ
屏風岩までは 送りもするが
ぢばは 出て待つ 岩淵で
あとの 十里は 神だのみ
ひ
三大急流の一つである富士川の上りの曳き舟の苦しさや、また、
く、昭和二一、二年ころから、村歌を作ろうという気運が生じた。
各旧村時代、それぞれの村民の連帯感を強め、愛郷心を高めるべ
﹁紙すき唄﹂が幾つか残されている。つぎの唄も﹃西島和紙の歴
エーお里自慢をするのじやないがヨー
﹁西島音頭﹂ ︵保坂梅芳作曲︶さらに三〇年には﹁原村音頭﹂ ︵米
七年には、 ﹁切石音頭﹂ ︵星野忠治作詞・作曲︶が生まれ、続いて
西島よいとこ またホイ エヘヘオホホー
エーけさの一ッ船は ジヤミジヤミしたがヨー
史﹄の中に著者が紹介しているものである。
また、古くから和紙製造の中心地であった西島には独特の民謡
時代の変化を思わせる。
舟旅の危険を歌ったものである。
上 り 船 見 り や 愛 想 が つ き る
船もいかだも南部へ いそぐ
船 は 新 装 で か ぢ と り は 若 い
第五編 教育と文化
TA音頭などもうまれ、中でも甲南中学校の﹁甲南小唄﹂ ︵若林武
頭﹂や、 ﹁親友会歌﹂が作られ、また町内小中学校には応援歌、P
このほか飯富では、親友会の創立五〇周年を記念して、 ﹁飯富音
上げられた成果が、年
とり組んだ。その積み
も合流して合唱活動に
を始め、さらに他の団
しば合唱の発表をな
交流会において、しば
ら南巨摩郡下青年団の
は、昭和三七年ころか
える。さらに青年団
めるに力になったとい
音楽活動への関心を高
れが地域民を刺激し、
をもって発揮され、こ
会場などに発表の機会
々実施される成人式の
作詞・古屋良一作曲︶など町の新民謡ともなりつつある。
②中富町民歌
中富町発足一五年を記念して、笠井清巳町長の提唱により、豊か
に伸び行く中富町を象徴し、和と協力、希望と愛郷の精神を高揚
た。
し、広く町民に愛唱される町民歌を意図し、昭和四二年に制定され
全国からの応募作品は一四二篇に及び、その中から町民歌選定委
員会により入選一、佳作三篇が選ばれた。作品はいずれも中富町の
自然や特色をとらえ、明るく伸びゆく町を歌い上げているが、小委
員会および米山愛紫の助言、補遺をえて、長崎市本町、田島青一の
り、昭和四三年一月一五日、成人の日を選んで、歌および踊りの盛
作品が決定した。この作は藤山一郎の作曲、花柳吉和の振付けにょ
い、さらに県大会にも出場して中富の気を吐いた。
し、その成果を世に問
る新しい民謡としての成長をみようとしている。
親しまれる踊りとなって、中富町の繁栄、町民の融和協力を象徴す
は愛好者をもって組織された﹁若草楽団﹂というグル㌧フが生ま
合奏については、その数はきわめて少ないが、終戦直後、西島に
当高度の技術を有し、レパートリーとして、当時では驚くべき二〇
た。アコーデオンを中心とした七、八名のグループであったが、相
数曲を数え、のど自慢の伴奏などに名を馳せたが、惜しくも団員の
れ、当時のいわゆる﹁演芸会時代﹂にあたり、各地を巡って出演し
で、西島、静川婦人会が合唱活動をとり上げ、原がこれに続いた。
離散により解散してしまった。その後切石の高校生のエレキバンド
終戦後、年月を経るに従い、世の中が落着きをみせて来、社会教
づけられた。青年団も時を同じくして発足し、西島、原がまず練習
育の一環として、婦人会、青年団活動がその動きを示しはじめた中
③合唱合奏
大な発表会を行なった。町民の集まるところにこの歌が愛唱され、
町民歌発表会(昭和43.L15)
農閑期を利用しての練習に励むなど、相当の困難の中にも熱心につ
1041
イヒ
第五章文
本町出身者で他に出て活躍している者はまれであるが、久成出身
ω 音楽界に活躍している人々
者のまとまる機会や場がなく、不振なのは残念である。
の結成などがあったが、若人の定着の少ない中富では、楽団や愛好
々が、祝吟﹁高砂﹂を謡いながら粛々と橋を渡って、式は荘重を極
官を先頭に、望月万造が音頭をとり、その門下の西島謡曲の会の人
現地で盛大に行なわれた。その渡り初め式に、西島若宮社の望月神
昭和四年八月、西島から楠甫に通ずる月見橋が完成し、竣工式が
の中に笠井清巳、笠井亨太郎、笠井昌重らの名があげられている。
め、参会者を大いに感動させた。
の大森明は年少にして、クラシック音楽界にはいり、中央楽壇に独
で、昭和四四年に歌謡曲でデビューし、NHK紅白歌合戦のメムバ
伊藤は昭和二二年ころから、在郷の笠井貫一、笠井勝行、笠井安
唱家としてその名を知られつつある。また、その夫人は由起さおり
る歌手である。
宜、笠井太郎および笠井忠重らと、 ﹁梅花五輪会﹂を組織し、もっ
中、梅若流師範梅田寅三郎に師事し、その流の奥儀に達していた。
中富町では昭和四三年に、広く町民に愛唱される歌として、町内
ぽらその指導にあたった。当初数名にすぎなかった会員も次第に増
大東亜戦争の終息とともに、満洲から帰郷した伊藤徳隆は、在満
の数々の音頭、会歌、校歌を収録し、さらに県内や国内に親しまれ
て、年々若宮八幡社元旦祭に新年勅題謡曲の奉納を行なって来、昭
加して、二〇名を数えるに至り、﹁梅謡会﹂と称し、年中行事とし
会員は二〇数名を数え、例会をもっては研さんにつとめている。
は日本翠心流吟詠会の西島支部として発足し、会長は山田学翠で、
また、西島には詩吟の会が、昭和四二年九月に設立された。それ
和四六年には一七回を数えるに至った。
この完成には古屋良一ら が 尽 力 し た 。
⇔ 謡
西島においては、邦楽がかなり古い時代から行なわれていたと思
われるが、その模様を知りうるのは明治以後のものである。
西島の笠井伝造翁の語るところによると、明治三〇年ころから謡
第五節 演劇・舞
e 演
古くから地芝居は各村々に根をおろして、農村娯楽の花形として
足
雨
けい
また同じころの人で、望月万造も壮年のころから、甲府在住の謡曲
曲に造詣深い岡町望月新平が同好者の指導にあたっていたといい、
師範について観世流の指導を受け、村に在っては﹁高砂会﹂を設立
し、有志の指導にあたり、集まる者三〇数名に達したといわれる。
に修業につとめ、きわめて盛んであったと伝えられ、それらの人々
特に栄宝寺における講習会は一〇日にわたって行なわれ、師弟相共
劇
曲
ている歌や民謡を合わせて、歌集﹁なかとみ﹂を発行したが、特に
ーとして出場するなど、一躍脚光を浴びて現在人気の的となってい
第五編教育と文化
1042
舞伎団を結成して、しばしば歌舞伎芝居を演じた。その人々は寒中
特に西島においては、芸能の盛んな土地がらで、有志の人々が歌
盛んであった。
活動にとりくんだ。
田明などを中心に創作劇﹁ひこばえ﹂を初公演とする前むきの演劇
した。
を続け、新生日本の明日をになう子どもたちの心にともしびをとも
とりくみ、童話会、指人形劇、紙芝居、歌ごえなど部落の巡回活動
また、深沢泉・依田明・遠藤登美子らを中心に児童文化活動にも
も、飽きることがなかったと伝えられているほどである。浄瑠璃、
にても野天で、しかも徹夜して演じて見るものも、演技するもの
義太夫を語る者が二〇名にも及び、当時県下に名のあった豊沢団四
造、笠井忠重、望月美之男らにさらに女人をも加え、特に内船歌舞
し、笠井亨太郎らがその中核となって、笠井一重、笠井薫、笠井亀
また西島にあっては、昭和二二年ころから前記の歌舞伎団を復活
これらの活動の中心となったのは、古くは笠井平、つづいては亨
などして、地域のかっさいを博したのである。
伎から指導者を招いて、その指導を受けたり、数次の公演を行なう
た。
郎の指導を受けて技を磨くなど、その活動はきわめて盛んであっ
の公演を行なった。
どが活発に活動し、後の﹁どんぐりクラブ﹂に発展していくのである。
また児童文化活動として望月久男らを中心とする﹁白菊童愛会﹂な
太郎父子などで、この道にきわめて熱心で、同志の人々とたびたび
て、旅回り役者や芸人によって、芝居や演芸がおりおりに催された
西島には寄席﹁大正亭﹂があり、飯富には、 ﹁常磐座﹂があっ
り、やがて活動写真の実現によって、それらが上映されたりして、
発な活動をなし大きな成果を挙げている石田永知がある。石田は早
また峡南地区の青年および高校生の演芸活動の指導者として、活
ら、昭和二七年﹁身延OB劇場﹂を結成して、真船豊作﹁たつのお
稲田大学で演劇学を専攻し、卒業後母校身延高校に勤務するかたわ
地方の人々のこよない娯楽の対象となり、また場となっていた。明
治の末期から活動写真と呼ばれ、それが映画といわれるようにな
ラジオの普及、さらにテレビの出現と、一路衰頽の道をたどって、
り、また無声からトーキーと変ったそれらの興行の変遷も、やがて
し、同年山梨アマチュア演劇協会の設立に参加し、芸術祭合同公演
としご﹂で旗上げ公演をした。二八年﹁劇団かやの実座﹂と改称
を行なって来たが三〇年には、小山内薫作﹁息子﹂を演出した。
みる影もない現在となったのである。
に歌や踊りや、そして芝居に股旅ものがはんらんした。そうした風
終戦後、どこにも見られた例のように、村や部落の青年の集まり
七年から峡南三校演劇連盟の理事として、高校演劇の発展のため努
郡下の青年演劇にも指導的役割を果して来ているが、特に昭和二
と成果は斯界の注目を浴び、峡南の高校演劇活動を全国的なものに
力し、演劇に対する一般の関心と理解を深めるとともに、その活動
潮への反省が次第に生じ、青年団などの演劇活動についてまじめに
石に文化団体﹁新星会﹂ ︵会長遠藤朗・当時弁護士︶が生まれ、依
考えられ、やくざ芝居からの脱皮をはかろうとするものとして、切
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イヒ
第五章文
ある発表がなされているが、昭和四二年一〇月、原中学校体育館で
年々高校演劇発表会が行なわれる中に、峡南三校のそれぞれ特色
育て上げたのである。
術舞踊協会および日本
ら選ばれて、全日本芸
ない、さらに沖縄舞踊公演に参加出演するなどその活躍は、中央舞
またその公演活動は県内にとどまらず、東京に進出して公演を行
たびたび入選入賞曲を出し、あるいは指導者賞を受けた。
だが、そのほか主なるものをあげると次のとおりである。
体を結成し、文化活動を開始した。前述の切石の新星会もその一つ
ざし、各地に有志の人々が率先し、さらに同志の協力によって、団
戦後の混乱と虚脱状況の中から、文化国家、平和国家の建設を目
第六節 文化団体の活動
プが活躍している。
子︶などの舞踊グルー
倉会﹂ ︵会長大倉道
房江︶や、西島の﹁七
身の藤間法素蛾︵望月
また町内には飯富出
る。
大きく期待されてい
るなど、今後の活動が
団の一員として視察す
・ッパの芸術舞踊視察
バレエ協会合同のヨー
えたの で あ る 。
⇔ 舞
若尾バレー団公演r眠れる森の美女」
踊界でも嘱目されており、昭和四六年四月には、全国の舞踊家中か
門下生の指導育成にあたるとともに、全国コンクールに出場し、
中央の 批 評 家 か ら も 絶 賛 を う け る 好 演 で あ っ た 。
五年には、﹁シンデレラ﹂の全幕公演を相ついで行ない、いずれも
二年、﹁眠れる森の美女﹂、さらに四三年、﹁くるみ割り人形﹂四
による創作バレエ﹁かぐや姫﹂公演以来、四〇年、﹁白鳥の湖﹂、四
参加して、活発多彩な活動をつづけて来た。昭和三八年、甲州民話
し、数十回の舞踊公演を行ない、また県内各地の芸術祭、文化祭に
町に若尾バレエ学園を創立し、以来一〇有余年、多くの門下生を育成
に入所し、石井漠、同みどりに師事し、昭和三〇年には甲府市太田
市場出身の若尾多香がある。若尾は昭和二一年、石井漠舞踊研究所
甲府を中心とした本県の舞踊界に活躍している人々の中に、八日
踊
る舞台構成の中で、熱演がくりひろげられ、観客に大きな感動を与
かなる朝﹂、市川高校の﹁吾市は死んだ﹂などで、いずれも特徴あ
行なわれた発表会は、峡南高校の﹁台風十三号﹂、身延高校の﹁静
第五編教育と文化
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② 原村文化振興会
昭和ヨニ年二月、望月良雄を委員長として飯富を中心として設立
された。その設立の意義として次のように説いている。 ﹁民主的文
O 文 化 団 体
ω宮木若葉会
団体が続出し、街に村に文化活動が活発に展開され、国家再建への
化国家の建設を目ざして、更生へのスタートを切って、終戦後文化
明るい見通しがなしとしない。しかし現在の世相は、インフレ、食
行をはじめ研究発表会、あるいは若葉文庫の設置と読書会の開催な
ど多面的な活動をなし、六年間にわたって継続された。会員はおよ
が占めて、まことに憂うべぎ現象を示している。これらの因って来
糧難、凶悪犯罪の横行、しかもそれらの多くを、次代を担う青少年
昭和二二年秋、旧共和村宮木にて結成され、機関誌﹁若葉﹂の発
そ七〇名を数え、村内の青壮年層を網羅し、初代会長として、近藤
る原因をさまざまの社会制度の欠陥に着せる前に、社会の共同責任
忠が推された。近藤は﹁若葉第一号﹂ ︵昭和二三年一二月発行︶に
巻頭言で次のように述べている。
の拡充、勤労意欲の昂揚による生産の復興等をあげ、同時にわれわ
として互いに反省すべぎことを指摘し、社会制度の改善、文化施設
れ自体が正直者が得をするような、よりよい社会を作り上げるよう
﹁再建日本に四度目の新春を迎えた。精神の面にも、物質の面に
豊富にするため、寸暇を惜しんで精進する。互いの勉強が単なる独
も、その充実改善を努力し、見聞を広め、識見を高め、精神生活を
め先ず脚下からいく多の問題を解決して行くべきである。﹂
努力し、高い文化の創造と摂取、教養の蓄積が必要であり、そのた
この活動の中心は、望月良雄のほか土橋文夫、古屋改造らであっ
善的な趣味に陥ることなく、常に会員は四周の動きに冷淡であって
国の復興、世界の平和に積極的に努力しよう。﹂
た。また具体的な活動としては﹁はら村新聞﹂をタイプ四ぺージ
はならない。社会の改善、進歩に進んで参加しよう。村の発展、祖
機関誌﹁若葉﹂は、論壇のほか、詩、短歌、俳句、小品文等の欄
に、躍動する村内諸団体の活動状況を特集し、原農業協同組合、原
で、昭和二一二年六月第一号とLて発行した。その記事内容を見る
村婦人会、美知思波原支部の活動について報じたり、村民文芸欄に
を設け、毎号多くの作品を掲載している。また、いく度か講師を招
散文、短歌、詩、俳句などを載せている。
いて講演会を開くほか、テーマを設けては会員の意見発表会や討論
の他図書を集めて、文庫を開設し、その充実をはかりつつ、回読、
会などを行ない、 ﹁若葉﹂の作品の批評、鑑賞会なども催した。そ
また二月の発足以来、山梨文化団体協議会書記長山田多賀市、
のもとに講演会が催された。
て﹂および盛岡工専教授松宮周郎﹁人生の目的﹂とうの講師と演題
﹁農村文化の在り方﹂、同婦人部長保坂栄子、﹁婦人問題につい
読書会を開くなど、盛んに会員の教養の向上をはかった。
近藤忠のあと、小林敬、高野和義、小林義雄、若林一郎、若林肇
れた。
らが受け継いで、多くの会員の協力によって活発な活動がつづけら
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第五章文
第五編教育と文化
って、文化講座を開いた。講師として、山梨大学学芸部長杉山隆二
さらに昭和二四年八月には、飯富本成寺を会場に、二日間にわた
楽︶深沢清一︵園芸︶若林四郎︵詩吟︶熊谷君江︵コーラス︶
太郎︵絵画︶望月喜久︵演劇︶古屋良一︵音楽︶望月愛子︵邦
年一月一五日静川小学校を会場として盛大に催された。
なお第一回中富町文化祭は、本協会の発足に先立って、昭和三七
伎︶
みる盛大な会となり、大きな成果を収めたのである。
中谷茂正︵郷土研究︶深沢一二一二︵手芸︶笠井亨太郎︵歌舞
なほ、児童文化部の活動として、望月栄、石田須磨子、土橋文夫
㈲ 原 文 化 祭
教育研修所長春田正治、岩手大教授松宮周郎、評論家塚原富衛らを
らによって、児童画劇の巡回を行なうなど、大いに好評を博した。
場に第一回を開催し以後三八、四二、四三、四四年とつづき、四五
昭和三七年一月二二、一四の両日、原公民館主催で原中学校を会
迎えての講義を行なったが、多数の聴衆を集めて、地方ではまれに
情趣豊かな人づくりと、文化団体相互の緊密な連絡協調により、
年に第六回を実施した。第一回文化祭の創立にあたっては当時原中
③ 中富町文化協会
町の文化向上をはかるため、中富町文化協会が昭和四二年一一月、
教諭らの努力により、小学校の全面的協力のもとに、前日の一二日
午後二時から前夜祭の行事として、原小鼓笛隊、原中ブラスバンド
教頭であった依田明やその運営の衝にあたった望月義男、佐野国義
による市中パレード、午後七時から原中講堂にて県警ブラスバンド
中央公民館で発会された。
よび機関誌の発行、また年一回総会を開くことなどがあげられる。
ぎ、事業として文化祭の開催、講演会、研究会、講習会の実施、お
ら小中学生、保育園児、青年団員、生活改善グループ、その他町民
演奏会を開催し、盛大に開幕した。ついで一四日の発表会は午後か
会員は、町内に在住する者で組織され、事務局を教育委員会に置
なおこの会に、演劇部ほか二五部が設けられている。
て多様多彩な発表がなされた。
り、ダンス、箏曲、バイオリン、アコーデオン合奏等の種目によっ
有志の出場をえて、全員の歌唱、鼓笛演奏、合唱、ピアノ独奏、踊
発会式当日には、各部門ごとに作品展覧会がなされ、文化の名に
ふさわしい幕開けであった。本会の役員として次のように決定し
た。
また展示会は、二二、一四の両日にわたり、書道、絵画、華道、
名誉会長 町長 笠井清巳 会長 佐野嘉一
副会長 伊藤徳隆 長沢誠 土橋強 神宮寺茂 星野文夫
であった。
写真、手芸作品などが多数出品され、参観者の目を楽しませ、盛会
料理、農作物、あるいは電気製品等の家庭用品を加えるなど、発表
二回以後においても、展示の内容に文芸作品、文化財、工芸品、
専門部長 土橋強︵俳句︶若尾武雄︵短歌︶笠井惟彦︵謡曲︶笠
棋︶若林歌枝︵華道︶佐野忠雄︵書道︶大倉道子︵舞踊︶渡辺
井唯三︵神楽︶笠井香︵茶道︶佐野喜内︵囲碁︶依田利通︵将
晴友︵民謡︶幡野武馬︵写真︶笠井東太︵文化財研究︶笠井慶
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なお、二回から一一月三日の文化の日を中心として体育祭を併せ
会とともに回を重ねるに従い、多彩と充実をみせているのである。
リーダーなどとして、それぞれりっばな活動により大きな成果をあ
わたって地域全体の協力により、また地区内の生活改喜グループの
ここに受賞の誉れを担った部落あるいは個人は、いずれも永年に
第一八回︵昭和四四年︶ 八日市場 望月 さだ
げたものである。
実施し、地区を挙げての祭典とし、年中恒例の文化行事として、地
っているものは、歴代の公民館長若尾正︵一ー三回︶、小林次郎
域に定着したものとなって来ている。またこの文化祭発展の力とな
これらの活動の事例として、栄養や健康について食生活、住居の
み、さらに共同飼育や栽培による産業を盛んにし、生産を高めるこ
改善をはじめ、地域全体の環境の整備、共同調理などへの実践に進
︵四、五回︶、土橋強︵六回︶らのリードのもと、各種団体、地区
民の協力であり、特に古屋改造、望月義男、古屋良一、望月喜久ら
とにつとめるなど、生活改善、文化の向上をはかったことがあげら
の献身的な努力が大きく寄与しているのである。
れているのである。
自らの手で、自らの生活をまとめるとともに、より豊かで、より住
さらに、昭和四五年度においては、急激な社会の変化に対応し、
⇔ 生活文化団体の活動
恵まれない自然の条件や貧しい生活環境の中に、より住みよい社
い時代にふさわしい連帯性を身につけなければならないというねら
みよい社会を建設するために、生活者自体が主体性を確立し、新し
会を建設し、生活をより豊かにしようと、互いに協力し合い、創意
と努力とをもって生活文化の向上をはかろうとする意欲と願いと
堂平︵代表者佐野高蔵︶、日向南沢︵代表望月昌訓︶がそれぞれ指
その実践活動地区として、県下に三四地区があげられ、本町では
る。
つとしての町作り運動︵生活学校運動︶がとりあげられたのであ
の歩みと、県政の当面する重要な施策との関連の上にたつ運動の一
いのもとに、豊かで健康なあすの山梨を作るための山梨県生活運動
は、本町々民の間には一きわ強く、従って大きな成果をあげた事例
が多いのである。
昭和二七年から、山梨日日新聞社が山日生活文化賞を制定し、県
内における個人や団体の、創意や努力をもって、生活文化の向上に
が、すでに二十数回に及んでいる。そのうち本町内において、その
定を受けて、活動が進められている。
尽くした業績に対し、年々対象者を選考し、授賞し来たのである
業績が認められて、表彰を受けたのは次の人々や団体である。
第二二回︵昭和三九年︶ 堂平縦部落︵代表佐野高蔵︶
第二回︵昭和二八年︶ 曙 星野勝之
第一五回︵昭和四一年︶ 宮木 高野 岩乃
第 一 四 回 ︵ 昭 和 四 〇 年 ︶ 久 成 大 森 孝 江
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第五章文
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