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金城大学紀要第 14 号(2014)111 - 130
性差別概念としての「レイプ」の輸入とその変容 - 1980 年代における2つの『ザ・レイプ』およびメディア記事の言説分析-
高島 智世*
(2013 年 12 月 2 日受理)
Importation and Transformation of “Rape” according to the Feminist Definition
A Representation Analysis on the Two Versions of “The Rape” and Mass Media Articles
Chise Takashima
(Received December 2, 2013)
Abstract
The purpose of this paper is to analyze some aspects of the concept of “rape” in the
1980s in Japan. The word "rape" was imported to Japan with the feminist implication
to criticize the rape myth, which was affected by the tide of anti-rape movements in
developed countries in the 1970s. “Rape” began to be used to reject euphemistic phrases
in English-speaking countries. Although some Japanese feminists used “Gokan” (rape
in Japanese) in the 1970s to protest against the rape myth, some people used “rape”
in place of “Gokan” euphemistically and others used “rape” to express the concept
of rape from the feminist perspective. In 1982 the novel “The Rape” written by the
feminist Keiko Ochiai and the film adapted from the novel directed by Yoichi Higashi
were both published around the same time. The former drew a female rape survivor
who fought against victim blaming during the criminal proceedings to illustrate gender
discrimination of the rape myth. In contrast, the latter expressed a “strong” woman
who recovered quickly from the rape damages and live only to satisfy her desires, and
regarded rape as one of the sexual events the heroine had experienced. Mass magazines
found the film as pornography with no mention to the court scenes that make up one
third of the film.
The word of “rape” of the 1980s implied three meanings: 1) the euphemism of “Gokan”,
2) the feminist concept against gender discrimination, 3) one version of exciting sexual
activities. Therefore, the new word “Sei-bouryoku” (sexual violence in Japanese)
replaced “rape” to express sexual assaults including “Gokan” as the concept against
gender discrimination around 1990.
*
金城大学社会福祉学部
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高島:性差別概念としての「レイプ」の輸入とその変容
Ⅰ は じ め に
憲法学者の上村貞美は 1993 年にこう記している。
強姦のことを英語でレイプ(rape)という。こんなこと今では高校生でも知っている。しか
し、私が知ったのはそれほど以前のことではない。田中裕子主演の映画『ザ・レイプ』の宣
伝を見たとき、レイプというのは何のことだろうと思った記憶がある。(上村 1993:157)
上村は、90 年代に精力的に強姦罪、人工妊娠中絶、姦通、同性愛、売春など性に関する人権問題に
ついて論考を重ね、
『性的自由と法』
(2004)としてまとめている。その上村にして映画上映時の
1980 年代初頭には「レイプ」という言葉には馴染みがなかったというのだ。
国会図書館の所蔵図書には、1979 年までに出版された「レイプ」が題名に入った書籍は 5 冊しか
なく、朝日新聞の記事検索でも、1979 年まで「レイプ」という用語で検索される記事は 2 件しかな
い。それはともにアメリカにおける裁判事例を扱ったコラム記事である。1960 年代まで、マスメ
ディアにおいては性侵害罪 1)事件の報道ではもっぱら「婦女暴行」「乱暴」等の婉曲用語を用いてい
た(寺田 2000、山中 2006)
。一例として、朝日新聞の記事検索を用いて、
「強姦」「婦女暴行」「性犯
罪」
「レイプ」
「性暴力」が使用された記事の件数を時系列で示した結果が表 1 である。
表 1 朝日新聞における性侵害関連用語の出現数
強姦
婦女暴行
性犯罪
レイプ
性暴力
1945 - 1969
1
29
9
0
0
1970 - 1979
2
65
82
2
0
1980 - 1989
4
52
8
19
11
ここからわかるように 1960 年代まではもっぱら「婦女暴行」という言葉が見出しに使われており、
「レイプ」
「性暴力」という言葉は皆無であった。ところが 1970 年代になると「性犯罪」という言葉
が使用されるようになり、さらに 1980 年代に突然浮上したのが「レイプ」と「性暴力」という言葉
である。
「セクシュアル・ハラスメント」
「DV」
「ストーカー」という名付けが行われたことでそれまでも
存在した行為を新たな認識枠組みでとらえられるようになり、単なる「私的なトラブル」から「解
決すべき社会問題」として提示する効果を持ちえたことは指摘されてきている。1980 年代に「レイ
プ」という言葉が浮上したことでも同様のことが起こったのだろうか。しかし、それまで一般的で
はなかった「レイプ」という言葉が指し示すものには、もうすでに「強姦」という名前が存在した
という点で前者の例とは位相が違う。
1980 年代は、強姦罪の実刑率が上がり始めるなど(木村 2003、宮園 2007)、日本で性侵害犯罪に
関する社会意識が変化した分岐点であるとされる。本稿では「レイプ」という言葉が 1980 年代に急
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金城大学紀要第 14 号(2014)111 - 130
浮上した意味を見出すために、その普及のきっかけとなったと想定される 1982 年に発表された小説
と映画の『ザ・レイプ』
、およびそれに関する雑誌記事について分析を行う。なお、本分析では小
説、映画の作品そのものの分析批評ではなく、それらを概念の媒体として扱い、表象分析を行うも
のである。
Ⅱ 前史としての 70 年代-「レイプ」の輸入
1975 年にアメリカで制作された「リップスティック」という映画がある。主人公のファッション
モデルが自宅で強姦され被害を訴えるが、裁判では被害者がトップモデルとして口紅の広告を撮影
していた際に加害者を誘い、合意の上の性交渉であったと判定され、加害者は無罪となってしまう。
その後、加害者はモデルの幼い妹も強姦し、それを知った主人公は加害者を自ら銃で撃ち殺す。そ
の結果彼女は殺人罪で起訴されるが、無罪を勝ち取るのである。翌 76 年には日本でも公開され話題
を呼んだ。
この映画を扱った 1976 年の映画雑誌の座談会記事には「現代アメリカ社会の断層〈レイプ〉をめ
ぐって」というタイトルが掲げられている。映画評論家の平尾圭吾は、
「レイプというのはわれわれ
はあまり知らないけど、実際にはアメリカはものすごいわけですよ」と延べ、次のように続ける。
アウトレイジとかモレステッドとか、バオレイテッドとかいう言葉を使っていたのが最近で
はもうバッサリ、レイプとテレビで言っている。でもテレビでそういう言葉をぱっと使うく
せに、女の裸を見せたら、もうワーッとなるんですね、向こうは。そういうところは日本と
違うわけですよ。日本は「女性が乱暴されました」でしょ。ところが、裸はいくらでも見せ
る。
(河野他 1976:64)
含意の多い文章であるがここでは 2 つのことを指摘しておこう。
「ものすごい」レイプはアメリカ社
会に特有のことであると想定されていること、またアメリカでは性侵害犯罪を報道する際に、婉曲
表現ではなく「レイプ」という言葉を使うようになってきたことが指摘されていることである。国
会図書館の雑誌記事検索では、
「レイプ」という言葉が題名に入った記事は、この映画「リップス
ティック」特集が初出となる。
この映画の背景には、1970 年代の欧米で反性侵害犯罪運動が興隆していたことがある。アメリカ
では 1971 年、初めてのレイプクライシスセンターがワシントン D.C. に設立され、やがて全米に広が
りその経験が蓄積されていく。その際には、従来使われていた婉曲語を排し、直截的な rape という
言葉を使うことになる。恥じるべきなのは rape 被害者ではなく、加害者本人であるという性侵害行
為の定義のパラダイム転換の結果であった。70 年代半ばには欧米各地で ”Take back the night” ある
いは "Reclaim the Night"(夜をとりもどせ)行進といった形で社会に問題を提起するようになり、
その結果、先進諸国では性侵害犯罪概念の見直し、法改正へとつながっていった。1970 年代の日本
でもその影響を受けた書籍の出版および翻訳が相次いでなされている。
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高島:性差別概念としての「レイプ」の輸入とその変容
1975 年 田家正子、福田みずほ編著『Rape:強姦されないために』
1976 年 ジーン・マックウエラー『レイプ〈強姦〉-異常社会の研究』(原著 1975)
1977 年 A・ミディア、K・トンプソン『アゲインスト・レイプ』(原著 1974)
1979 年 ショワジール編『訴える女たち-レイプ裁判の記録』(原著 1978)
1980 年 マッタ・ティッカネン『強姦された男』(原著 1975)
1983 年 渡辺圭『レイプ・イン・アメリカ―平和な夜を返せ !』
1984 年 宮淑子『性暴力(レイプ)
:ドキュメント』
1990 年 東京・強姦救援センター連続講座『レイプクライシス―この身近な危機』
これらの書籍の多くに「レイプ」という文字が入っていることがみてとれる。例えば、
『訴える女
たち-レイプ裁判の記録』のショワジールはフランスのフェミニズム団体であり、原題は “Viol, le
procès d’Aix-en-Provence” であるが、邦題の題名に「レイプ」という英語由来の言葉が使われてい
る。帯には「1974 年 8 月マルセイユ郊外で暴行された二人のベルギー人女性が、絶望の淵から勇気
を振り絞って断固として闘いついに勝訴を得た強姦裁判記録」と記され、表紙には「レイプ」
「暴
行」
「強姦」と 3 つの用語が共存していることになる。
映画「リップスティック」は反響を呼びマスメディアにも取りあげられた。9 月 10 日付『朝日新
聞』夕刊に紹介記事がある。ただし「レイプ」という文字はなく、記事中には「強姦(ごうかん)」
「暴行」の用語が用いられている。見出しには「法の保護がない貞操」とある。記事中では、「婦人
の地位を考えるには格好の映画」とは評価されてはいるものの、日本とアメリカとの状況の差異が
強調されており、それは、
「根本的には性風俗の差。欧米社会では貞操を重視しないわけではない
が、それ以上に女性の責任が強く要求される」と述べている。つまりこの記事の著者は、日本より
もアメリカのほうが性侵害被害者に対して厳しいと考えていることがわかる。そして記事の最後は
こう締めくくられる。
犯罪の生まれる社会的背景も画面の隅々に描かれている。勉強ばかりで育った犯人は親しい
友人がいない。アパートで電子音楽の無機的世界に浸っている。阻害された青年の典型だ。
被害者は口紅の CM に登場、扇情的なポーズで迫っていた。あっけなく殺される男に同情し
たくなったが、これも男性支配の発想だろうか。
ここでは、続けて 2 人を強姦した加害者に感情移入することが憚ることなく表明されており、さら
に映画が批判している被害者に責任を帰する態度を示していることもみてとれる。
一方、同じ『朝日新聞』1976 年 10 月 15 日の朝刊の家庭欄にも「話題を集める映画リップスティッ
ク」として全 5 段の記事がある。リードでは「テーマは婦女暴行だ。女性にとって深刻な問題であ
りながら口に出しにくいテーマに正面から取り組んでいる」と紹介する一方、記事内では、
「レイプ
(強姦)
」とカッコ内に但し書きをつけた形でも表現している。これはまだ「レイプ」という用語が
外来語としてまだ一般的ではなかったことを示しているのだろう。記事では、上映前の広告戦略で
は女性向けにファッショナブルさを強調し、
「レイプ(強姦)と英語を使って日本語のどぎつさを和
らげ」たことが指摘されている。観客は若い女性がほとんどであり、配給元の東宝東和のアンケー
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トによれば強姦に関心があるという声が多かったという。記事は、
「二度の大きな拍手」と小見出
しが付けられ、上映の際には主人公がライフルで加害者を撃ち殺すシーンと、主人公モデルが殺人
罪の裁判で無罪になるシーンで、観客から拍手が沸き起こったとされている。さらに記事の後半で
は、
「告発ためらう被害者 米国には相談センター」という中見出しを中央に配置して、欧米では性
侵害犯罪が大きな社会問題になっているという社会批評へと展開していく。1976 年に翻訳出版され
ていたマックウエラーの『レイプ〈強姦〉』を紹介し、強姦神話を解説している。
神話 性的欲求不満が原因。
実態 欲求不満は原因の一つ。ほかに自分を受け入れない社会への怒りや「男らしさを証明
したい」気持ちが動機になる。
この他にも 3 つの神話をあげており、強姦神話について啓発しようという意図がみえる。末尾では
日本の状況に触れ、告訴件数は欧米と比較して少ないが「実数はこの何倍にもなる」と主張し、
「女
性に自衛させるだけではなく、男性の教育もしっかりして欲しいところだ。」と結んでいる。この記
事では、
「リップスティック」に描かれたような状況がアメリカ社会に特有の現象ではなく、日本の
女性たちにも共感を持って受け入れられていることが強調されている。
こうした流れを受けて、落合恵子は 1981 年に強姦事件の被害者が社会的に抹殺されることをモ
チーフとした『氷の女』
(祥伝社)というミステリーを出版した。女性雑誌『With』は、同年落合
恵子を紹介する記事を掲載している。プロフィール写真には「社会の常識からはみ出してしまった
女を描き続けて、今 “ 被害者としての女性 ” の性に取り組んでいる」という言葉が添えられている。
落合は執筆意図をこう語る。
強姦を扱ったのは、それが女の人間性、人の尊厳そのものを力で踏みにじるという、性差別
が一番はっきりした形で現れた犯罪だからです。ところが、ともすると強姦はジョークや下
品な笑い話のタネになっているのが現状で、そういった社会通念に対する告発の意味もかね
て書きました。
(With 編集部 1981:106)
インタビュー内で落合は、
「レイピスト(強姦者)」という言葉を一度使う以外は、一貫して「強姦」
という言葉を使う。一方、キャプションでは、
「レイプは許しがたい犯罪なのに、なぜ被害者の性体
、
「落合恵子さんは、なぜ、いま “ レイプ ” というテーマでミステリー
験まで暴くのか?」
(同:106 )
を書いたのだろうか?」
(同:107)と、
「レイプ」という言葉が使われている。また、サンデー毎日
の紹介論考記事「落合恵子『氷の女』が投げかけるレイプ裁判の “ 処女性 ”」(鳥越 1981)でも同様
に、リードやインタビュアーの質問に「レイプ」の文字は見られるが、落合の台詞には「強姦」と
いう言葉のみが使われている。
のちに落合自身は、
「セカンド・レイプ」「セクシュアル・ハラスメント」「ブレーキングサイレ
ンス」といった性侵害に関する小説を続けて発表し、それをまとめた単行本のあとがき(1994 年)
で次のように述べている。
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高島:性差別概念としての「レイプ」の輸入とその変容
『ザ・レイプ』を発表した時もそうだったが、横文字に変えてしまうことに対して割り切れな
さはあったが、とにかく、現実にありながら、その存在が消されている性犯罪の残酷性とそ
れを伝える言葉をまずはひとりでも多くの人に知っていただきたい……。そんな思いがとて
も強くあったと記憶している。
(落合 1997:291)
ここで落合が述べている「割り切れなさ」とは、もともと英語圏でも rape という言葉は、婉曲語で
置き換えられていたが、そのことに対するアンチテーゼとして再使用されてきたという経緯に由来
している。落合は日本語でも婉曲語を使うのではなく「強姦」という言葉を使うべきであると考え
ていたのだろう。にもかかわらず自らの小説の題名に「レイプ」という言葉を使ったのは、
「存在
が消されている性犯罪の残酷性」を「ひとりでも多くの人に知って」もらうためであるという。
「レ
イプ」という言葉を使うことで、
「強姦」という言葉が持つ衝撃性と猥雑性を取り払うことができ、
明示的には示されてはいないものの、カタカナ語の新奇性によって人目を引くことができるという
機能を狙ったのであろう。
1970 年代なかばのアメリカのフェミニズムに基づいた反性侵害犯罪運動では、婉曲語を排し rape
という直截的な言葉が散見されるようになり、日本ではその反性差別という含意とともに「レイプ」
という言葉を「輸入」し外来語として用いるようになった。しかし反面それは、日本では「強姦」
の婉曲語としても作用するという矛盾をはらんでいた。
Ⅲ 小説『ザ・レイプ』-「レイプ」の継受
路子は裁ち鋏を取り出した。そうしながら路子は、自分の狂気を見ていた。狂うなら狂え。
いっそ狂ったほうがどんなに楽かと心のなかで叫びながら、鋏を使った。(落合 1985:15)
落合恵子著『ザ・レイプ』は、1981 年講談社『小説現代』誌に発表され、1982 年 4 月に単行本が
出版され、1985 年 8 月に文庫化された。文庫版では全 85 ページの短編である。単行本発売時の表紙
には、「全女性必読の衝撃問題作 東映映画化! 強姦被害者の悲痛な叫び その時あなたならど
うする!」という帯がつけられている。
簡単に物語のあらすじを確認しておこう。物語は、主人公矢萩路子が強姦被害にあった翌日から
始まる。被害のフラッシュバックが繰り返され、身体の痛みと屈辱と嫌悪、希死念慮さえ感じさせ
る苦しみのさなかに彼女はいた。そして混乱した感情は怒りという形をとりはじめる。(第 1 章)。
翌日、矢萩は検察庁に出向き、検察官唐沢杏子と会う。話を聞き終えた唐沢は「最後まで、とこと
ん闘う覚悟は…大丈夫ですね」と覚悟を問い、再度初めから事件について話すよう促す。矢萩は唐
沢の冷徹さを訝りながらも証言を繰り返すが、矢継ぎ早に放たれるプライベイトな質問に不快感を
隠せない(第 2 章)
。矢萩は、検察庁からの帰り道にはいった喫茶店で、被害者が泣き寝入りする理
由が被害者を非難する風潮であることに思いを巡らし、
「沈黙を守ることは、そのまま犯人を許す
ことになってしまう」と考え、告発を決意する(第 3 章)。矢萩は、事情聴取、医師による診察、現
場検証という捜査の一連の手続きにおいてさらに不愉快な経験を重ね、しかしその結果容疑者は起
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訴されることになる。被告人弁護人黒瀬勇一郎によって矢萩の恋人である植田省吾の証人尋問が行
われ、ふたりの出会い、初めて性関係をもった時期、結婚の意志の有無など、矢萩のプライバシー
が次々と暴露させられることとなる(第 4 章)。弁護人黒瀬が矢萩自身に対して尋問を行い、夜遅く
なった理由、以前クラブでアルバイトをしていたこと、植田と会う前に高木という男と交際したこ
となどを問い糺す。さらには処女性についてどう考えるのかについて詰問することで矢萩を動揺さ
せ、一般常識とはかけ離れたリベラルな価値観の持ち主であることを印象づける(第 5 章)。矢萩は
職場に辞表を提出し、唐沢検事に告訴を取り消したいと訴えるが、不可能であると告げられる(第 6
章)
。証人になって以降、植田は仕事を理由に矢萩を避け始め、また事件以降性関係がもてなくなっ
ていたことを矢萩が回想する。久しぶりに落ち合った植田は、裁判で知った彼女の価値観を非難し、
「俺以外に、二人の男に抱かれたんだよ」と言い別れを告げる(第 7 章)。論告で唐沢は強姦神話を
批判し、それは性差別であると訴える(第 8 章)。
小説の全体を覆っているのは、
「怒り」と、そして「闘い」というモチーフである。冒頭の被害直
後のシーンでは不定形な感情が渦巻く様子が描写されるが、次第に「心には、不思議と悲しみの翳
はなかった。恐怖も、すでに遠ざかっていた。屈辱と嫌悪だけが、巣食っていた。」(落合 1985:14)
と形を変えていき、やがてひとつの感情が生まれてくる。
怒り、それは、怒りだった。
暑く激しい屈辱が、冷たく厳しい怒りを呼んでいた。怒りは、路子のこころの冷たい火を放っ
た。一瞬のうちに、火は、全身にひろがった。(同:14)
事件の翌々日、検察庁に行き女性検察官に覚悟はあるのかと聞かれたのち、考え抜いた末に告訴を
決意するのは、
「忘れることはできなくても、あの男をさばくことでしか私の傷つけられた心と躰
は甦ることができないのではないか」
(同:27)という結論にいたったからである。検察官になに
のために訴えるのかと問われ、矢萩は「私の自尊心のために、です」
(同:28)と応える。著者の
落合は、インタビューの中で裁判半ばで心折れ告訴を取り消したいと申し出た主人公について問わ
れ、こう答えている。
主人公である彼女は、一回、こんなふうに二重三重に世間から強姦されるのだったら嫌だと、
一切を放棄しようとしますね。それでも彼女はもう一回闘うだろう、闘ってほしいという気
持ちを込めて書きました。あそこで彼女が放棄してしまったら、少なくとも私の中で、あの
小説は完結しない。
(神津 1982:149)
つまり落合が主人公に据えたのは、強姦という事象、さらにはそれに引き続きおこる刑事手続上の
二次被害に怒りを覚え、自らの自尊心のために闘う女性であった。
この小説の一番大きな特徴は、そのほとんどが法廷を舞台にしているということである。文庫版
全 85 ページのうち法廷のシーンが 42 ページ、主人公である矢萩がひとりのシーンが 16 ページ、唐
沢検事とのシーン 9 ページ、回想も含め恋人植田とのシーンが 6 ページ、強姦被害のシーンが 4 ペー
ジ、その他 6 ページである。つまり紙幅のほぼ半分が法廷での尋問シーンという裁判小説なのであ
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高島:性差別概念としての「レイプ」の輸入とその変容
る。落合は、週刊誌のインタビューにこたえて、小説執筆の何年か前から強姦における被害者非難
の不当性についてエッセイで述べるうちに、読者からの手紙や女性のネットワークからの情報提供
によってさまざまな事例やアメリカの状況などの資料が蓄積されてきたと語っている。
去年「氷の女」という、あれはミステリーの形を借りてレイプの告発をしたわけですけど、
それでもまだ足りないという気がしまして、今度は事情聴取や裁判という形を借りて、個人
の尊厳を踏みにじる強姦の告発というんで「ザ・レイプ」という形になったんです。(神津
1982:149)
つまりこの小説は、刑事手続をモチーフとして、強姦を取り巻く不当な状況を訴えるという目的を
もって書かれたのである。
次に物語の視点について見ておく。物語は三人称で語られるが、一貫して主人公である矢萩路子
の視点から描かれている。例えば次のような描写である。
ひきつれた表情の男が、路子の躰を跨いで見下ろしていた。
一瞬、男の目が、黒縁の眼鏡の奥で嗤ったように思えた。(落合 1985:8)
ここで「路子」を「私」に変えても違和感がない。強姦被害の回想シーンでは主人公の身体を外部
から見た描写は皆無である。代わりに、
「声が喉に張り付いて」、
「恐怖心が躰の中を走りぬけ」、
「絶
え間なく突き上げてくる嘔吐感」と主人公自身の内側の感覚の描写が続く。落合は『氷の女』にお
いては被害の詳細な描写をほとんど行わなかった。それは強姦の描写がポルノグラフィとして読ま
れてしまうことへの抵抗であっただろう。しかし『ザ・レイプ』では 4 ページにわたって女性主人
公の視点から強姦被害シーンが描写されている。
血走った光が、男の細い目の中にあった。激しい勢いで、男は路子の両頬を張った。/殺さ
れる……。/抗えば殺させる……。
(同:9)
被害者の視点を通じた臨場感のある描写が続く。
「自分の躰なのに、感覚がないようなところがあっ
た」
、
「そこに、下半身をむき出しにされたまま死体となっている自分を思った」と解離症状を推察
させる台詞も挿入される。冒頭のシーンは主人公の混乱を示すかのように事実と感情が交差し、時
系列が混乱するように描かれている。しかし、よく読むと「昨日の朝に出勤した時」という台詞が
あることで、主人公は被害の後その時の着衣のまま自分の部屋に正座し混乱した感情とともに過ご
したことが示唆される。そして非定型な感情が「怒り」へと収斂して初めて、破れた服を脱ぎ去り
鋏で切り裂き、そして風呂場で何十杯もの水を浴びるのであった。これらの行動はすべて主人公の
内的な気持ちと連動して描かれている。
第三の特徴は、フェミニズム思想の知見に基づいて強姦にまつわる知識がふんだんに取り入れら
れていることである。それは、①強姦被害の状況、②「強姦神話」と呼ばれる強姦被害者を取り巻
く固定観念、③刑事手続や近親者からさえももたらされる二次被害といった問題である。ここには
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先に見た 1970 年代なかばに紹介されていた性差別としての強姦という反性侵害犯罪運動の影響が
色濃く見られる。
強姦の被害後の状況に関しては、被害の際の離人症状、嘔吐感等の身体症状、精神的パニック、
事件のフラッシュバック、自傷行為、突然の希死念慮、被害記憶の欠落、男性への不信、性的行為
の忌避感情などが過不足なくプロットに盛り込まれている。次に、強姦神話に関して見ていこう。
まず強姦の終わり際に加害者が言う「よかったか」という衝撃的な台詞は、女性には被強姦願望が
あり、拒絶はボーズでしかなく、ことをなしているうちに結局は快楽を得るのだという考え方が現
れており象徴的である。また、主人公が告訴をするべきか否か思い悩みながら、
「強姦に関する半ば
揶揄めいた記事や無責任な通説」を思い出すシーンがある。
――被害者にも隙があったに違いない。
――膝を固く閉じれば、絶対にできないはずだ。
――和姦じゃないか。
――示談金目当てかもしれない。
――女には、もともと被強姦願望があるっていうさ。やられたがっているんだよ。
――鼻っ柱の強い女は、抑えこんじゃえばいんだ。(同:26)
彼女は、
「あらゆる犯罪の被害者の中で、強姦の被害者だけが、おうおうにして加害者よりも下劣
な興味の対象になりやすい」ことに思いを巡らす。また、話の最終局面で「あの事件さえなかった
ら、今までどおりうまく言っていたはずよ。」(同:84)という彼女に対して、恋人の植田は「俺以
外に、二人の男に抱かれたんだよ、君は。
」
(同:86)と言いだし、
「君に別れてたくないっていう
資格があるのか。愛しているなんて、きれいなことを言える資格があると…」
(同:87)と吐き捨
て彼女から去る。
さらに「強姦裁判で裁かれるのは被害者である」という言葉に示されるとおり、刑事手続もまた
こうした強姦神話に基づいて遂行されることが示される。刑事たちから日常生活、過去、現在の性
体験に至るまで問いただされ、それを彼女は「針の筵」
(同:29)だと感じる。事情聴取の段階で
声を上げて泣き、刑事は忘れるしかない、と声をかけるが、彼女自身はこう思う。
彼は、路子が強姦を思い出して泣いていると思っていたに違いない。
しかし路子は、その時いたぶられているような恥辱感に涙が止まらなかったのだ。
(同:29)
そして、
「路子は怒りに震えていた。/強姦の非道さより、残酷な捜査が今の路子を震えさせ」(同:
30)と捜査上の不当な扱いに対しても「怒り」を覚えることになる。病院の診察でも現場検証でも
不快な経験が続く。さらに法廷では、容疑者弁護人黒瀬が容疑者の無実を証明するために、矢萩の
過去を詮索し、現在の恋人との馴れ初めや結婚や処女性や妊娠中絶に対する態度について執拗に問
い、彼女を混乱させ追い詰めていく。矢萩の「法廷でも、職場でも、警察でも、人の言葉で視線で
思惑で、強姦されているようなもんです。」(同:70)という台詞は、強姦の被害者が刑事手続の過
程で二次被害によってさらに傷つけられることを端的に示している。
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高島:性差別概念としての「レイプ」の輸入とその変容
ただしこの小説は必ずしも現実の法的手続きと合致していない部分も残していた。落合はあとが
きで雑誌掲載後に数名の法律家から法解釈や手続きの誤りの指摘を受け、初歩的なミスを訂正した
と記している。また、単行本化の際には弁護士の監修を受けた旨も述べている。とはいえ落合は、
刑事訴訟規則 199 条の 13 で「意見を求め又は議論にわたる尋問」は禁止されていると教示されたが
あえて直さなかったと述べている。黒瀬が矢萩に対して処女性や中絶についての態度を問い詰め揶
揄し搖動するような発言を重ねる部分がそれにあたるだろう。落合は、
「弁護士黒瀬勇一郎に、むし
ろ、わたしたちが構成する社会に存在する、女性に対する神話や幻想、通念の “ 代表者 ” としての役
割」を与え、
「内なる差別意識を逆照射したもの」だと述べている(落合 1985:159)。つまり落合が
問題にしているのは、加害者だけではなく、私たちが共通して内面化している強姦神話そのものな
のだといえるだろう。
第四の特徴として主人公以外の登場人物の性別の問題に注目したい。結論から言うと小説『ザ・
レイプ』の登場人物は、強姦の刑事手続きの問題を考えるために極めて単純化した形でキャラク
ター設定されている。第一にこの小説の中で出てくる主要な男性は、加害者と恋人の植田省吾、加
害者を弁護する黒瀬勇一郎の 3 人である。小説の大半が法廷であるため、主人公の次に弁護士黒瀬の
登場シーンが多い。彼は、
「身長に比して顔が大きく、太り肉であった。鼻にも頬にも顎にも、ぽっ
てりと肉が付いていたが、唇だけが薄く、どことなく酷薄そうな印象」(同:40)と描写され、
「女
性に対する神話や幻想、通念の “ 代表者 ” としての役割」を果たすには格好の人物として造形されて
いる。法廷シーンは多くが台詞のみで構成されており、証人を愚弄し、搖動する老獪な弁護士の様
子が目に浮かぶようである。それに対して、恋人である植田は存在感が薄い。植田の登場場面は、
法廷での証人の場面と矢萩との別れの場面のみであり、裁判で矢萩の証言を聞いたことがきっかけ
で主人公から離れていくだけの存在としてのみ描かれる。また加害者については、捜査の過程で家
族構成について提示されるのみで、本人尋問のシーンもなく、全く触れられていない。
一方、女性の登場人物としては、第一に検察官唐沢杏子の存在が大きい。矢萩が唐沢のもとを訪
れたきっかけは、唐沢が事件の数ヶ月前に女性誌で「一人の女の泣き寝入りが、他の多くの女性の
前進にブレーキをかけてしまうのだ」
(同:18)とコメントした記事を思い出したからである。つま
り、矢萩は唐沢からの同じ女性としてのよびかけに呼応する形で、告発を決意する。とはいえ、最
初に検事と対峙して矢萩が心のなかでつぶやくのは「強姦されたのは私なのだ、あなたと同じ性を
持った女なのだ、この心情がどうしてわからないのだろう」(同:17)という懐疑の念であった。唐
沢は告発した際に起こりうることを矢萩に丁寧に予告し、告発の意思をいくども確認する。ここで
は唐沢には、主人公を励まし、共感し、二人三脚で告発を進めていく、というようなステレオタイ
プの役割は与えられていない。矢萩が彼女に感じるのは「エリート」「強者」といった印象である。
捜査が進むにつれて、矢萩は「唐沢検察官の顔を見るのが、苦痛になり始めていた」(同:30)とさ
え感じるようになる。矢萩が法廷での二次被害を理由に告訴を取り消したいと申し出た時も、唐沢
は「それははじめから言っておいたでしょう。」と容赦がない。矢萩に「強者の論理で生きてきた」
「エリート中のエリート」と非難される唐沢の冷徹さには、女性の視点不在の司法という不条理な場
で闘ってきた静かな怒りとある種の諦念が示唆されているようによめる。とはいえ、裁判が進むに
連れて、打ち合わせの際にふたりで食事をする様子が描かれ、矢萩の健康状態や植田との関係を心
配するシーンも描かれる。唐沢は最後に次のような論告を行う。
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金城大学紀要第 14 号(2014)111 - 130
強姦を犯罪として立証しにくい社会は、そのまま、人間の片方の性である女性の人格そのも
のを軽く見ている社会と言えます。同時に、それは、女性のパートナーである男性の人格、
つまり人間そのものを軽視し、切り棄てる社会ではないでしょうか。(同:91)
ここでは、唐沢が被害者と同じ女ではあるが検察官という強者の立場で、女性であることで傷つく
強姦被害者という弱者の立場の矢萩を代弁するという形でのシスターフッドが表現されている。小
説はこの 2 ページにも及ぶ論告で幕を閉じることになる。さらにこの論告では、女性差別文化は実
は男性への抑圧と表裏一体になっていると主張している。この主張はこのまま著者の主張であると
考えてよいだろう。
もう一人、わずかな登場ながら注目すべき登場人物に加害者の母親がいる。現場検証の際に矢萩
が聞くのは加害者の母親の「あんたが誘ったんじゃないか!」
(同:34)という絶叫である。落合
は被害者非難の問題を「男性の問題」ではなく「文化の問題」と考えており、男性だけでなく女性
もまたそのミソジニー文化を共有していると考えていたことが示されている。
最後に強姦を表現する言葉の問題に注目しておこう。この小説には「強姦」という用語は「強姦
事件」
「強姦犯」
「被強姦願望」といった言葉も含めると、全部で 54 回出現する。一方、「レイプ」
という言葉が使われているのは表題だけであり、本文では一度もない。冒頭で主人公が被害のフ
ラッシュバックに怯えながら煩悶するシーンでは、7 ページ目にしてはじめて主人公が自分の身に
起こった出来事を言語化するものとして「――強姦されたのだ!」という台詞が登場する。検察庁
の帰りに立ち寄った喫茶店におかれたパンフレットを見て先に恋人と見た映画のワンシーンを思い
出し愕然とするときに呟く言葉も「まるで強姦ではないか」(同:24)である。さらにこの「強姦」
という言葉を使うのは、そのほとんどが主人公と女性検事に限られている。彼女たちの台詞として
婉曲表現が使われることはほとんどない。
一方、容疑者弁護人の黒瀬勇一郎は容疑者の無罪を主張している以上、
「強姦」という言葉をあま
り使用しないのは一見当然であるともいえるものの、証人尋問で矢萩の性行為に対する態度を問う
目的で強姦という行為に三度だけ言及している。一度目は、
「貞操を蹂躙された女性の中には、自ら
死を選ぶ人もいましたが、そういった婦人を、あなたはどう思いますか?」
(同:62)であり、二度
目は「処女にこだわるのは、ナンセンスでグロテスクであり、女の存在を肉体としてしか見ていな
いと反論するあなたが、そして、ヒーメンを神聖化するのはおかしいというあなたが、肉体を汚さ
れたと告訴するのは、矛盾していないかと、私はお尋ねしたのです。
」
(同:68)という台詞である。
二度とも「強姦」という言葉を使わず婉曲表現を使っていることがわかる。それの両方に対して主
人公はそれを「強姦」という言葉で受けて尋問に答えている。黒瀬が「強姦」という言葉を使うの
は、主人公が「それとも私が、喜んで、強姦されたとでも言うんですか?」とくってかかったのに
対して、
「その場合は強姦ではなく、和姦、あるいは自由恋愛ですな。
」
(同:73)と応える、この 1
回のみである。また、恋人である植田が強姦について言及する場面はない。つまり小説『ザ・レイ
プ』は法廷小説であるが、法廷用語として「強姦」を使うのは女性の登場人物に限られるのである。
落合恵子は、70 年代に「輸入」された「性差別としての強姦」をテーマに日本の女性の問題とし
てこの小説を書いた。告訴する被害者が女性検事とともに、日本社会にも同じように流布する強姦
神話と、それを反映した刑事手続上の性差別性と闘う姿を描こうとしたのである。
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高島:性差別概念としての「レイプ」の輸入とその変容
Ⅲ 映画『ザ・レイプ』-「レイプ」の変節
映画『ザ・レイプ』は、1982 年 5 月 15 日に封切られた東映の映画である。先に見た小説の単行本
の出版とほぼ同時であった。監督東陽一は、ドキュメンタリー『沖縄列島』でデビューし、
『もう頬
づえはつかない』
(1970)
『四季・奈津子』
(1980)と女性を主人公にした映画を撮っており、『ザ・
レイプ』映画化は雑誌掲載された小説をもとに東映によって企画されたという。監督自身が「原作
のほうは立派に、女性蔑視を社会に訴えるようになっているけれども、映画のほうは頭も良くセッ
クスも良い主人公が、恋愛の一番いいところでレイプされた、それがどうなったかというところが
中心になる」
(田山 1982:90)と語っているように、独自性を打ち出している。脚本には篠崎好とい
う女性を起用し、監督との共同脚本である。
落合はそれについて、
「私自身映画は小説とは全く別のもので、原作を監督がどう読んだか、とい
うふうに捉えている」
(落合 1982:190)と書き、自らの雑誌連載のコーナーに東陽一を登場させ「一
映画ファンとして」インタビューを行っている。彼は制作意図を次のように語る。
落合さんが書いていらっしゃるように強姦をどうとらえるかというのは、人間の文化度を問
うテーマですね、まさしく。僕は、
『ザ・レイプ』を、強姦の被害にあった女性が、如何に、
それを乗り越えていくかという視点から描いたのです。(同:191)
また『キネマ旬報』のインタビュアーに、
「レイプというのは実際には不可能だと僕は思っていた
けれどね。
」と問いかけられた東は、
「でもそれは実際にあるわけですよ。けしからんことなんだけ
ど。けしからんということをいうために映画をとっても意味ないしね。」と語り、この映画では「レ
イプされた女とその恋人との関係を追っていく」と述べている(田山 1982:91)。
裁判劇の短編であった小説『ザ・レイプ』が、映画ではどう変わったのか。表 2 は場面ごとに番
号をつけそれぞれのおおよその内容、時間および累積時間を掲載したものである。上映時間はエン
ドロールまで入れて 1 時間 40 分、実質の映像の部分は 1 時間 38 分 15 秒となった。
まず全体の構成を見ておこう。小説では半数を占めていた法廷シーンは 21 分 52 秒、強姦被害シー
ンは 7 分 30 秒、事情聴取、現場検証等の捜査のシーン 5 分 6 秒で計 34 分 28 秒で事件に関わる時間が
全体の約 3 割となっている。一番多いのは、恋人植田とのふたりだけのシーンであり、これも 3 割を
占める。監督の制作意図通り、強姦被害者の女性とその恋人との関係を中心に描いた物語であると
いうことが構成からもわかる。映画ではあらたに、主人公が告発することを決心する前に恋人植田
と過ごす時間が挿入されており、法廷シーンが始まるのは全体の半分を経過した時点となる。
法廷シーンでは、検事、弁護士、裁判官ともに俳優ではなく、本物の法律家を使っており(落合
1982:190)
、言いよどみ、台詞の重なりなどがあり、即興劇の手法が用いられている。黒瀬勇一郎は
小説通りの老獪さを兼ね備えているが、小説では重要な役割を担っていた唐沢杏子の出番が法廷に
のみ限られその役割が大幅に縮小されている。また小説にはなかった加害者の本人尋問が追加され
ている。
小説では文字通り被害者の視点からの描写が貫かれていた強姦被害の場面についてはどのように
撮られているだろうか。小説とは異なり映画は恋人植田の部屋から物語が始まる。裸体の二人が心
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金城大学紀要第 14 号(2014)111 - 130
表 2 映画『ザ・レイプ』の場面
番号
場 面
時 間
累計時間
1
植田の部屋
6:08
0:06:30
2
帰宅途中で強姦される矢萩
7:30
0:14:00
3
矢萩の自室で植田からの電話にでる
3:53
0:17:53
4
駆けつける植田に強姦されたことを告げる
2:37
0:20:30
5
夜が明け、
「忘れよう」という植田
4:42
0:25:12
6
矢萩、職場でサングラスで傷を隠して仕事
1:55
0:27:07
7
自室で不安が高まり、警察に電話する
4:47
0:31:54
8
二人で車で海へ 警察への電話を非難する植田
2:52
0:34:46
9
ホテルの部屋でセックス
5:05
0:39:51
10
海から上がる女性の遺体に矢萩は告発を決意
0:51
0:40:42
11
刑事の質問、病院、現場検証、容疑者逮捕
6:46
0:47:28
12
法廷 第 1 回公判 矢萩証言
5:10
0:52:38
13
法廷 第 2 回公判 植田証言
4:34
0:57:12
14
矢萩プールで泳ぐ
2:56
1:00:08
15
田舎の結婚式へ
3:55
1:04:03
16
法廷 第 3 回公判 容疑者尋問
2:43
1:06:46
17
法廷 第 4 回公判 矢萩証言
4:49
1:11:35
18
すれちがうふたり
6:10
1:17:45
19
矢萩が高木と会う
8:52
1:26:37
20
空港のホテルで強引にセックスを迫る植田
5:03
1:31:40
21
法廷 論告求刑・最終弁論
4:36
1:36:16
22
ひとりになる矢萩
2:21
1:38:37
から安心してまどろんでいる様子が描かれる。植田は「風邪引くよ。」と相手を心配する優しい男で
あることが示される。矢萩はおもむろに布団の中に手を差し入れ、植田が「あ、痛っ。何するんだ
よ、大事なとこ」と言うなど二人のフラットな関係を示す睦言が続く。
「男のセックスはね、ホント
は弱くて単純で小さなものなんですよ、女に比べたら」という植田の台詞は、監督自身のマチズモ
からの心的距離をしている表明とも言えるだろう。
矢萩はその恋人の部屋から帰る途中で強姦被害を受けることになる。加害者は、必死で逃げよう
とする彼女を追いかけ殴り服を引き裂く。先の恋人同士のシーンと対比して、強姦が紛れもなく暴
力犯罪であることが腑に落ちるシーンである。カメラは、性器の挿入が行われるまでは加害者と被
害者をほぼ交互に映し、必要性なしに被害者の顔以外の身体が局部的に映されることはない。挿入
後 10 秒ほど続けて被害者の顔が映しだされるが、鼻血がでており、時折苦痛に顔を歪めるがほとん
ど無表情である。刮目すべきは、被害者の見ている情景、つまりは彼女に上から覆いかぶさる加害
者の顔が 3 秒間映しだされることである。これは加害者や、加害者に感情移入する第三者の視点に
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高島:性差別概念としての「レイプ」の輸入とその変容
カメラを配置するポルノグラフィとしてのレイプシーンでは絶対に描かれない視点である。
また他にも興味深い点がある。後に見る前宣伝用の週刊誌の記事には強姦被害シーンの撮影を取
材したものが 2 件あるが、両誌ともに主人公が苦痛と恐怖で失神しかけながら「やめて、お願い」と
言ったことになっている。しかし映画のシーンでは主人公の悲鳴は意味を成すような言葉にはなっ
ていない。それは、まさに原作小説の「悲鳴を上げたが、それは声にならなかった」(落合 1985:8)、
「声にならない声をあげた」
(同:9)という描写そのままである。こうした描写は、その気がなけ
れば拒絶できるはず、抵抗できるはずといった強姦神話を否定するものとなっている。
強姦をあらわす言葉についてはどうだろうか。恋人に問いただされた時、警察に通報する時、両
方とも主人公は「強姦」という言葉を使っている。恋人の植田にも「強姦」という台詞がある。
「レ
イプ」という言葉は一度も出てこないのは小説と同様である。
このように映画『ザ・レイプ』は、落合が性差別としての強姦という概念を具現化した小説の流
れを一部は汲んでいることがわかる。次に小説と映画との差異について見ていこう。
違いの一つ目は、主人公の過去の恋愛経験が追加され、性的に奔放な主人公という面がクローズ
アップされていることである。小説では大学時代の先輩高木との交際が弁護人により指摘されてい
たが、映画では高木は大学の美術史の講師に変更された。証人尋問で問いたださせるのをきっかけ
に、さらにさまざまな過去の出来事を回想するシーンが描かれる。高校生の時に部室で抱きついて
きた先輩と付き合うことになったこと、大学生のときに中年妻子持ちの講師と「初めての恋」に落
ちたこと、それに対して恋人であった先輩に「売女」と罵られたこと、大学講師との関係で妊娠し
中絶したこと、旅行中に彼の妻が自殺未遂をおこしたこと、また裁判中に元恋人である先輩と妹と
が結婚することなどである。こうして主人公が過去に複雑な「関係」をもっていたことによって、
主人公はそのことを法廷で非難されることになるのである。
2 つ目の変更点は、主人公の被害後の状況に関するものである。小説では強姦被害の結果として現
れる PTSD について資料に基づいて詳細に描写されていた。性行為にも抵抗を感じるようになり、
それがひとつのきっかけで恋人植田との関係にすれ違いが起きるという設定であった。一方、映画
では被害後の症状が大幅に軽減されている。まず、被害直後には矢萩の憔悴しきった様子が描写さ
れており、朝まで一睡もできない様子が描かれる。翌日は仕事に出かけるものの夜には物音やいた
ずら電話に脅かされ思わず警察に電話をかけて強姦されたことを告げることとなる。ここまでは被
害者が大きなダメージを受けていること、被害後もそれが続くことが描かれている。
しかしダメージは長引かない。被害の翌日の夜、植田が彼女をドライブで海に連れて行きホテル
で性行為を始めようとする。矢萩は一度は声に出して拒むが、植田はかまわず行為を続け、彼女は
結局快楽を得る。これは強姦神話が指摘する “No means Yes.”(女性のノーはイエスを意味する)に
他ならない。このシーンでは、女性の拒否は本当の拒否ではなく、それに逆らって性行為をしても、
最終的に快楽を得るのであり、また親密な関係では強姦はありえないという強姦神話そのものを映
像化してしまっている。またそれによって二人の関係が悪くなることはない。
3 つ目の変更点は、シスターフッドの不在と援助する男性たちの存在である。先に見たように、小
説では著者の主張を代弁していた検事唐沢杏子は法廷シーンにのみ登場することとなり、主人公を
支える女性が描かれなくなった。その代わり登場するのは複数の男性の理解者である。まず、恋人
の植田の存在がある。彼は彼女が傷つくことを心配し、告訴をすることには一貫して反対の意を表
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金城大学紀要第 14 号(2014)111 - 130
明するが、それでも彼女を案じ支え続ける。また彼女に恋心を抱く男性上司は、事件直後から彼女
のことを心配していたが、職場に迷惑がかかると長期休暇を願い出る矢萩に対して、裁判のことを
噂で知っているが心配するなといい、
「仕事仲間との関係を断ち切って変な敗北主義に陥るなって
言ってるんだ」と励ます。また、小説では彼女を大声で非難する加害者の母親が登場したが、映画
で登場するのは加害者の父親であり、裁判を傍聴したあと「大変申し訳ないことをいたしました。」
と主人公に頭を下げる。
小説では、主人公自身もふくめて、男も女も何らかの形で強姦神話を内面化した存在であった。
主人公は、加害者だけではなく自分自身の中にもある強姦神話と闘い続ける存在として設定されて
いた。その強姦神話を体現しているのが、先に見たように容疑者弁護人黒瀬勇一郎であったのであ
る。しかし映画では、加害者を特別な存在として視聴者が感じるよう提示されていると言わざるを
えない。父親の謝罪は容疑者が普段から素行の悪い人物であることを想起させ、また小説では描か
れなかった容疑者尋問が挿入されることで、強姦被害シーンを「目撃」している視聴者にとっては、
容疑者が嘘をついていることが明白となる。弁護人についても同様である。例えば、植田は弁護人
のことを「異様だね。なんか他人の弁護をしているんじゃなくて女性全体に恨みでもあるみたいだ」
と感想を述べる。ここでは強姦を「擁護」する人物は女性に恨みがある特別な人物として提示され
ている。こうして、映画を見ている観客にとっては、加害者側の人物と、他の人物を心理的に切断
することが可能となる。被害者を支援する「ふつうの男性」である男性の登場人物たちは、
「女性の
味方」となりえる存在ということになる。
一方、映画で「闘う」ことになるのは、実は矢萩の恋人植田省吾である。海のドライブの性行為
のあとかわされる会話は次のようなものである。
「どうしたの」
「なにが」
「怖い顔して」「そんなことないよ」「疑ってるんだ。あたし感じや
すい女だけどあんな男にイカされやしないよ」「やめろ」「あたしさ、男好きだけど」「やめ
ろってば」
「だって疑ってるから」「疑ってるんじゃないよ、闘ってるんだよ」
いったい植田は何と闘っているのか。明らかに敵は強姦神話ではない。論告・求刑をひかえて彼女
とホテルで落ち合った植田は、彼女が帰るというのを押しとどめ、力づくで性行為をしようと(あ
るいはそのふりを)する。矢萩に拒絶され、強姦が合意であったのではないかという疑念を不用意
にも明かしてしまう。そのきっかけは、法廷の証言で矢萩の過去の関係を知り、さらに彼女が元恋
人高木と会ったことについて問い詰め、嫉妬に耐えられなくなったことである。植田の中では、過
去の合意の相手との性関係も、強姦も同じカテゴリーに入れられて同列に扱われていることがわか
る。つまり植田が闘っているのは、恋人の「過去の性関係」を許すことができるかという問題なの
である。
4 つ目の変更点は、主人公のベッドシーン、シャワー、水着など女性の身体を浮かび上がらせる
シーンが多いことである。被害後に風呂場で屈辱感を拭い去るために何度も水をかぶるシーンは小
説にも存在したものであるが、他のシーンはすべて映画の創作である。回想シーンでの大学講師と
プールで泳ぐシーンなど全く必然性がない。女性向けという表向きの宣伝にもかかわらず、女性の
裸体、水着姿を入れることにより、
『ザ・レイプ』という題名にポルノグラフィを期待するある種の
― 125 ―
高島:性差別概念としての「レイプ」の輸入とその変容
男性客へのアピールを狙った演出であることは明らかである。
しかしこうしたシーンは実はそれ以上の含意を持つのではないか。これらのシーンの特徴は主人
公がひとりでいることが多いこと、そして「濡れて」いることである。例えば、第一公判後に植田
にもうすこし一緒にいようかと誘われるが、矢萩は断りホテルのプールに赴きひとり泳ぐ。また論
告・求刑の後には、過日の嫉妬心からの失言について謝る植田を振りきってひとりで自室に戻る。
小説とは違い、映画では「こんな事件さえなけりゃ全てうまく行ってた」という台詞をつぶやき、未
練を残すのは植田の方である。植田からであろう電話のベルが鳴るのを無視して、矢萩はおもむろ
に服を脱ぎシャワーを浴びはじめる。シャワーを浴びているうちにベルは鳴り止み、矢萩は次第に
晴れ晴れとした表情になっていく。そしてエンドロールである。仕事も辞め、植田にも振られ、満
身創痍の小説の主人公とは全く異なった女性像である。昔の恋人であった大学講師と再開するシー
ンでは、生きる歓びを謳歌するように曲に合わせて踊る。この映画では主人公は、強姦被害に遭っ
ても傷つくことなく生きる女性として描かれているのである。またこれらの「水」はもちろん性欲
のメタファーであろう。ここで提示されているのは、男にすがらないで自分の欲望に忠実に性的に
奔放に生きる強い女性の姿である。
さて、
『ザ・レイプ』の同時上映は、三石由起子原作藤田敏八監督作の『ダイアモンドは傷つかな
い』であった。両者ともに性を扱った女性作家の原作を映画化したものであり、
「リップスティッ
ク」にならったのか若い女性をターゲットに設定している。当時のチラシは、まず中央にある「激
あなた
しくヒロイン、若い女性の映画です。
」という文字が目に飛び込んでくる。左には、『ダイアモンド
は傷つかない』の主人公が胸元を押さえ斜めからこちらを見据えるショットをバックに「奥さんも
愛人もいる人と恋人どうし。いまは――なんとなくいっしょ。欲しければ、盗りなさい」の惹句が
置かれ、右には『ザ・レイプ』の主人公である田中裕子が乱れ髪で唇を腫らしたようにみえる姿が
あり、その脇には「終わったあと―――さらに心までも追いつめた深く悲しい愛のドラマが始まる。
あなたは抱ける?またわたしを」という言葉が添えられる。チラシの下 5 分の 1 には前者はベッド
シーンが、後者は強姦シーンが配置されている。両者が相まって、性行為によって女性が傷つくと
いう「伝統的」な女性観を否定しているかのように読める。
このチラシが端的に表しているにように、映画『ザ・レイプ』は女性向きを謳いながら男性視点
での若い女性の性に対する好奇心を掻き立てるものであった。シスターフッドを排し、被害者を援
助する男性を登場させることで、女性差別的な刑事手続きに凝縮された強姦神話と闘う女性という
モチーフは棄却された。この映画での主題は、強姦された恋人をもった植田省吾が自分の中の嫉妬
心と「闘う」物語だということができるだろう。ここに描かれているのは、強姦被害には傷つかず
自分の欲望に忠実に強く生きる女性であった。しかしそれによって、ここでは強姦という事象が、
主人公の「奔放な性関係」の 1 つして後景に退いてしまうこととなった。
Ⅳ 大衆雑誌における『ザ・レイプ』記事 -「レイプ」の定着
1970 年代なかばに欧米の性侵害罪の女性差別的構成に対するアンチテーゼとして採用された「レ
イプ」であるが、一方では異なる発展を遂げていた。それがポルノグラフィとしての「レイプ」概
― 126 ―
金城大学紀要第 14 号(2014)111 - 130
念である。
まず 1971 年から 1988 年に 1100 本以上作成された「日活ロマンポルノ」の題名の変遷を題材にし
て、
「レイプ」という言葉の経緯を簡単に見ていこう。3 本立て 2 週間興行という日活ロマンポルノで
は、興味を引くような派手な題名が使われることが多い。しかし全期間において「強姦」という文
字の入った題名は見られない。1976 年までに見られるのは「肉体暴力」「肉体犯罪」「群姦」などの
造語、および「暴行」などの表現である。1977 年には「レイプ 25 時 暴姦」という映画で「レイ
プ」という言葉が初めて使われている。79 年には「クライマックスレイプ 剥ぐ!」「レイプショッ
ト 百恵の唇」
「レイプハリケーン 裂く !!」の 3 本が、80 年には「レイプハンター」、81 年には「レ
イプウーマン」がみられる。こうして 1970 年代には「レイプ」という言葉はポルノグラフィ用語と
しても急浮上したことがわかる。
さて、
『ザ・レイプ』封切り前の 1982 年 4 月 17 日号『週刊現代』は、
「問題映画『ザ・レイプ』誌
上公開」と銘打ち巻末グラビアで全 5 ページの特集を行った。図 1 がその冒頭の見開きページであ
る。紙幅の 3 分の 2 に強姦シーンの写真が挿入され、左ページにはサングラスを掛けうつむきがち
な主人公のショットが置かれている。3 行にわたって、
「「田中裕子」はその時、腰をうごかしたか」
という扇情的な文字が踊る。さらに 3 ページには全面ひとりでの水着姿、4 ページ目は上部が大学講
師高木との水着での抱擁シーン。下部が半裸での植田とのベッドシーン、5 ページ目は着衣で、上
半分が職場シーン、下半分が病院での問診シーンである。3 ページ目の水着シーンには、水泳とク
ラシックバレエで鍛えられた「見事な」プロポーションであることが記され、身長、体重とスリー
サイズが添えられている。映画の 3 割を占める法廷シーンの写真は 1 枚も使われていない。それは実
は本文でも同様である。内容の紹介では強姦された顛末が詳細に描写され、
「そして――路子は警察
に行くことを決意した。/強姦か和姦かをめぐって、ドラマはクライマックスへ……」(週刊現代編
集部 1982 : 245)と結ばれているが、事情聴取、捜査、現場検証等の刑事手続や裁判という言葉は一
度も触れられないままである。
図 1 『週刊現代』1982 年 4 月 17 日号記事
同様に、4 月 12 日号『平凡パンチ』の紹介記事でも「おとなしくしろ !! 田中裕子が暴行された」
という大きなロゴが見開きで掲げられている。添えられた写真は強姦シーン 2 枚と、田中裕子の顔の
― 127 ―
高島:性差別概念としての「レイプ」の輸入とその変容
アップである。この記事は、強姦被害シーンの撮影現場の取材を行って書かれているものだが、
「色
白の肌、ふくよかなお尻、双丘の間の割れ目がくっきりとオレのノーズイに焼き付いてくる」(平凡
パンチ編集部 :44)という加害者の視点に同化したポルノグラフィックな文章によって情景が描写さ
れている。
両者ともに、この映画が強姦裁判を扱っていることはおろか、それに立ち向かう被害者とその恋
人との関係についての映画であるという情報さえ全く報じていない。小説が単行本化された時の帯
が女性に対してに「その時あなたならどうする!」という台詞を打ち出し当事者性に訴えていたの
とは対照的に、これらの雑誌では、男性読者が性侵害の被害にあったらという想定が皆無なのはも
ちろんのこと、自分の恋人が強姦されたらという想定はない。また両者ともに、映画ではなく俳優
の身体や演技としてなされたはずの強姦行為自体に焦点を当てている。しかもその際の主語は田中
裕子が演じている映画の登場人物ではなく、田中裕子自体であった。つまりこの記事の視点は、被
害者でも、被害者の恋人でもなく、
「田中裕子」を「視姦する者」の視点である。
さらに、封切り後の 6 月 21 日号『週刊大衆』には、「大特集ザ・レイプ」という記事が掲載され
た。最初に『ザ・レイプ』と同時期に上映された『水のないプール』という性犯罪事件を扱った映
画にふれつつ、
「全国で、毎日 100 人が毒牙に! 襲ったオトコたちのやり口と襲われたオンナたち
のその後」と題して、8 ページにわたって数々の事例が紹介されている。冒頭の見開きページには
強姦された女性を想像させる写真数枚の上に 100 ポイント程度の大きな「ザ・レイプ」の文字がお
どろおどろしく配置されている。全部で 8 件紹介されている事例は、強姦シーンを詳細に描写した
ものであり、被害者が傷ついた事実が指摘されることはあるが、その救済や刑事手続きについての
言及はない。各ページに「レイプおもしろばなし」というコラムが配置され、興味本位に扱った記
事であることは明白である。もちろん強姦神話についての言及は皆無であった。
これらの記事に共通するのは、
「レイプ」という文字を用いた記事ではあるが、性差別の視点は全
くなく、ポルノグラフィックなものであるということである。そしてこれらの記事では、「レイプ」
という言葉が注釈なしに使用されていることがわかる。皮肉にも 1970 年以降の性差別的な含意を備
えた「レイプ」の輸入によって「レイプ」という言葉が定着したが、性差別的な強姦神話を批判す
る側面は抜けおち、ポルノグラフィックな言葉としてのみ使用されている例が見られるのである。
Ⅴ 終 わ り に
1993 年に、雑誌『イマーゴ』では特集「レイプ 性と暴力の深層」が組まれた。その中でレズビ
アンにとっての強姦をテーマに論じた掛札悠子の論考は以下のように始まっている。
今から「強姦」について原稿を書くんだと友人に話した。すると彼女は、「その「強姦」っ
ていうの、やめてくれない?」と言う。「なんで?」「『レイプ』って言ってほしい」「ふー
ん」……。/彼女が言うには「強姦」って言葉は字面からしてキツすぎる、らしい。
(掛札
1993:50)
― 128 ―
金城大学紀要第 14 号(2014)111 - 130
ここでは、
「強姦」と「レイプ」は明らかに言い換え可能な同一事象を指していると考えられてお
り、なおかつ、
「強姦」と比べて「レイプ」という用語がより「キツ」くない言葉、つまり婉曲表現
として作用すると考えられていることがわかる。
「レイプ」という言葉は、1970 年代の先進国でのフェミニズム思想の一環としての反性侵害犯罪運
動の潮流の影響を受け、強姦神話を批判する反性差別的な含意をもって輸入されたものである。英
語圏において性侵害犯罪が婉曲表現化されることを拒否する形で rape が使用されるようになって
いたことも意識されており、それに倣い「強姦」という言葉を使用する例も見られた一方、
「レイプ」
は外来語である特性から強姦を言い換える婉曲表現としての機能も果たした。
「レイプ」概念が普及
していく決定的な時期に制作されたのが、落合恵子の小説『ザ・レイプ』と東陽一監督の同名映画
であった。前者は性差別的な刑事手続きと闘う女性に託して強姦神話の性差別性を描いたが、後者
ではその側面が後景に退き、強姦被害から立ち直り自分の性的な欲望に素直に行動する強い主人公
を描くことで、強姦を主人公が体験する性関係の一つとして置かれることとなった。一方、70 年代
の後半から、ポルノグラフィの領域でも「レイプ」という言葉は使われ始めており、『ザ・レイプ』
をあつかう大衆男性誌における扱いは、当該映画の刑事上の二次被害の部分には全く触れず、強姦
のポルノグラフィ化に終始した。したがって 1980 年代の「レイプ」という言葉は、①「強姦」の代
替としての婉曲表現、②性差別概念としての強姦、③刺激的な性行為の一変種、という 3 つの含意
が交差する言葉なのである。
註
1)本稿では、強姦罪、強制猥褻罪等の個人に対する犯罪に関して、犯罪行為自体を示す場合に「性
侵害犯罪」
、犯罪概念を示す場合に「性侵害罪」と表現する。刑法言説で従来使われてきた「性
犯罪」は、善良な性風俗を守ることが保護法益とされている公然猥褻罪、猥褻物陳列罪等と、
個人への性的侵害に関する強制猥褻罪、強姦罪をともに含むため、性に関する犯罪の上位概念
に限定して使用されるべきである。一方、1980 年代以降「性暴力」という言葉が使用されはじ
め、個人への性的侵害犯罪を表す言葉として「性暴力犯罪」という用語が使われてきた。
「性暴
力」概念の導入は、法的には犯罪として捉えられていなかったセクシュアル・ハラスメント等
の行為に対象を広げた点、女性の意に反する性行為は暴力であると主張する点で多大な功績が
あった。しかし「性暴力」という語感が物理的強制力という含意を与えてしまい適切ではない
と考える。そこで本稿ではフェミニズムの提起は汲みつつもその真意を適切に表現するために
「性侵害」という用語を採用する。
引 用 文 献
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Wikipedia「日活ロマンポルノ全題名」
http://ja.wikipedia.org/wiki/ 日活ロマンポルノ全題名 (2013 年 11 月 25 日閲覧)
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