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小さな人の渇きに気づく
小さな人の渇きに気づく 人間科学部教授 柴 田 謙 治 マタイによる福音書 25章31~40節 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるよ うに、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人 たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前た ちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えてい たときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸 し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたから だ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えてお られるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し 上げたでしょうか。いち、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられる のを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりする のを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。 わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこ となのである』……」 皆さんは、マザー・テレサという修道女の名前を聞いたことがあるかもしれ ません。彼女の本名は、アグネス・ゴンジャ・ボヤジュといい、1910年に当時 のマケドニア共和国(その後のユーゴスラビア)で生まれました。18歳でロレッ タ修道会に入り、1950年に「神の愛の宣教者会」を設立して、インドの当時カ ルカッタと呼ばれていた都市(現在は「コルコタ」)の貧困な地域で活動を開 始し、1979年にノーベル賞を受賞して、1997年に帰天しました。 マザー・テレサの生涯についての映画では、以下のような印象的なシーンが 描かれています。ロレッタ修道会が経営している女子校で、マザー・テレサと 生徒達が幸せな時間を過ごしていると、学校の外で民族の対立による暴動が起 こりました。マザー・テレサが怪我人を校内に運び、助けようとすると、同僚 から学校が民族の対立に巻き込まれ、危険にさらされる、と反対を受けました。 精神的にショックを受けたマザー・テレサが駅に行くと、ホームにはたくさ んの人がいて、喧騒状態の中でお年寄りが一人倒れているのですが、誰ひとり ― 20 ― その人を助けようとしません。マザー・テレサがその人を放っておけずに近寄 ると、その人は「わたしは渇く」と言って、倒れたままで、マザー・テレサは その人の横にたたずんだまま、カメラはズーム・アウトしていきます。映画 ではこの後の場面から、マザー・テレサがコルコタの貧困な地域を歩き回り、 人々の苦しみを目の当たりにして、貧しい人々を支える活動を始めるパートへ と転換していきます。 マザー・テレサの伝記では、先ほどの場面が書かれていないものもあるため、 先ほどの場面が事実なのか、フィクションなのかは、わたしにもわかりません。 それでもこの場面が印象に残るのは、今日の聖書の箇所に書かれていた「小さ な人が渇いている」姿が描かれているからです。人によっては「小さな人」を 「人間が築いた社会の中で弱い立場に置かれて、苦しむ人」と解釈する人もい ますが、マザー・テレサがキリスト教主義の女子高の校長という恵まれた地位 から去り、コルコタの貧しい人、そして世界の貧しい人を支えるようになった のは、今日の聖書の箇所に忠実だったから、ということをこの映画は暗喩して いるようです。 それではなぜマザー・テレサは、駅で倒れて、見捨てられた人の「わたしは 渇く」ということばを無視できなかったのでしょうか。マザー・テレサの父親 は事業を経営して成功したクリスチャンでしたが、民族運動のなかでマザー・ テレサが9歳の時に、命を落としました。父親の死を契機に一家は経済的には 貧しくなりましたが、マザー・テレサの母親は熱心なクリスチャンで、精神と 愛情が非常に豊かな人であったため、心までは貧しくならなかったようです。 マザー・テレサの母親は、自分も貧しくても、近所で困った人がいるとその人 を支え、身寄りのないお年寄りがいると、自分の家で一緒に暮らす、という方 でした。マザー・テレサのなかにはこのような母親の生き方が、根づいていた のかもしれません。 そしてインドで民族対立による暴動がおこり、自分の父親のように命を落と しかけている人がいる場面に遭遇した時、マザー・テレサにとってはその人を 見捨てることが、父親を失った経験とつながっていたのかもしれません。その ような精神的な苦しさのなかで「わたしは渇く」とつぶやく見捨てられた人と 出会ったとき、マザー・テレサは「苦しむ人を見捨てることは、聖書に書かれ たことと離れており、自分も精神的に乾いていくことにつながる」と感じたの ではないかと思います。 神様は人間をつくられましたが、人間は競争に満ちた、立場が弱い「小さな 人」が産み出される社会を築いてしまいました。神様はわたしたち人間に、 「あ ― 21 ― なたたち人間は、小さな、苦しむ人をどのようにするのですか」という問いか けと導きを常に示してくださいますが、わたしたちはそれに気づき、み旨に応 えることもあれば、気づかないこともあります。何不自由なく、主観的には幸 福な時よりも、自らも苦しみ、渇いている時の方が、小さな人の「渇き」に気 づきやすいのかもしれません。 わたしたちはこの世の中で生きていると、精神的に乾くことがあります。自 分の渇きと、「苦しむ人の渇き」をつなげて感じることができるように、生き たいものです。 2015年 5 月27日 朝の礼拝 ― 22 ―