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1
全国日豪協会連合会 第 2 回総会
浜名湖大会 報告書
目次
項
全国日豪協会連合会 第 2 回総会 浜名湖大会を終えて ・・・1
浜名湖大会 概要 ・・・2
日程表 ・・・3
来賓名簿
挨拶
・・・7
・・・8
新役員 参加者一覧
・・・10
・・・11
総会特別講演 ・・・13
シドニーパラリンピック ゴールドメダリスト
河合 純一 氏
特別セミナー 浜名湖から夢やらまいか 概要 ・・・18
特別セミナー 浜名湖から夢やらまいか 日程表 ・・・19
特別セミナー 浜名湖から夢やらまいか 内容 ・・・20
特別セミナー 浜名湖から夢やらまいか 結果報告 ・・・32
浜名湖大会 総合報告 ・・・35
浜名湖大会 写真報告 ・・・36
浜名湖大会 新聞掲載 ・・・39
2
全国日豪協会連合会 第二回総会 浜名湖大会を終えて
全国日豪協会連合会 第二回総会浜名湖大会にあたり、全国の各協会代表者、一般市民ら 97 名、オース
トラリアから全国豪日協会連盟 アドリアン・アハーン会長、ベブ・ヒル副会長、リー・マッククリントック
事務局長、コフスハーバー豪日協会 ピーター・ニコラス会長、同協会会員、コフスハーバー市 ケイス・
ローデス市長、同市関係者、来賓として、在日オーストラリア大使館ブルース・ミラー公使、豪日交流基金
ルーシー・キング事務局長らに、ご参加頂きました。
第二回総会 浜名湖大会、2007 年 7 月 7 日(土)浜名湖ロイヤルホテルにて開催しました。準備の行き届
かない面がいくつかございましたが、最終的には、役員選出、次回開催協会 飛騨高山、その他 規約改正な
ど、満場一致で採択され、総会は盛会裏に終了する事ができました。これも偏に、全国日豪協会代表者らの
ご協力の賜物とここに深く感謝申し上げます。二年に一度の全国各協会が、一つの場に集まる事は、情報の
交換、
そして、交流の原点であります。人と人が出会い、また再会を喜ぶ機会を私達、浜名湖で開催できた事は、
大変嬉しく感じております。また、浜名湖からやらまいかという、気持ちのもと大会全体を通じて、今後の
課題をさらに一層明確にする事ができました。
今回の浜名湖大会では、浜名湖らしさ、浜名湖でなければ出来ない大会を出そうという気持ちのもと、
浜名湖だからできる“若さ”、実際に若者が中心となり、”若者“の夢を実際に叶えていこうという、明るい
未来“夢”についてのセミナー、そして夢追い人、パラリンピックゴールドメダリスト 河合純一氏の講演
など、夢を持った、そして叶えたい若者が全国から参加され、大会冊子表紙、余興など、いろいろな場面へ
参加し、自分の夢を叶えていく大会を行う事ができました。二日目 7 月 8 日(日)では、既に夢を先に叶え
てきた、世界のトヨタ 豊田佐吉記念館(湖西)、これから夢を実現する“潮見坂道の駅”(湖西)、再度、夢
を持ち、いろいろな場面で活躍する“浜名湖競艇場”(新居町)の観光、そして、浜名湖日豪協会 夢の塊 NLFarm
(新居町)で BBQ 懇親会を行われました。普段通過しがちな浜名湖の知られざる場所へ、皆様へご紹介でき
た事へ感謝すると共に、さらに一層、全国日豪協会の交流、そして全国豪日協会との交流が進めたかと自負
しております。
終わりに当り、全国日豪協会のご発展とご活躍を祈念し、大会ホスト役を代表して、お礼のご挨拶とさ
せて頂きます。
大会ホスト協会
浜名湖日豪協会
会長 松井 清
3
全国日豪協会連合会 第 2 回総会 浜名湖大会 概要
●主催
全国日豪協会連合会・浜名湖日豪協会
●協賛 オーストラリア大使館 豪日交流基金
●特別協賛 不二総合コンサルタント株式会社
潮見坂 ドットコム
すまいるむら
株式会社 山三
有限会社 カネ忠太田
河合営繕設備
有限会社 オフィスダックス
有限会社 オートドリーム
●後援 浜松市
湖西市
新居町
財団法人 浜松観光コンベンションビューロー
●協力団体 中部地区 日豪協会
ライト技研株式会社
有限会社 浜松ツーリストサービス
ATP Education
株式会社 東京モードセンター
有限会社 エヌ エル ファーム
●特別協力 写真家 石井 友規
書道家 高岡 亜衣
特別講演 河合 純一
太鼓演奏 山吉田 子供 陣太鼓
●日程 2007 年 7 月 7 日(土)∼7 月 8 日(日)
7 月 7 日(土)理事会・第二回総会・特別セミナー・懇親会 12:30pm∼19:30pm
於:浜名湖ロイヤルホテル
7 月 8 日(日)浜名湖観光・懇親会 8:00am∼14:00pm
於:エヌ エル ファーム 浜名湖周辺
4
全国日豪協会連合会 第 2 回総会 浜名湖大会 日程表
2007 年 7 月 7 日(土)
場所:浜名湖ロイヤルホテル 2 階
受付:11:30am∼ 浜名湖ロイヤルホテル ロビー
Part1 Forum 12:30pm∼17:40pm
総合司会:浜名湖日豪協会 副会長 高見 和佳
12:30pm∼ 理事会:開会の挨拶
全国日豪協会連合会 副会長・会長代行 松山 芳夫
13:00pm∼ 会議 1. 活動報告(浜名湖協会担当:2006 年プレ大会)
(連合会事務局担当:2006 年全国日豪協会連盟シドニー大会)
2. 会計報告
3. 会長、副会長、監事の改選
4. 次回総会の主催協と開催地の決定
5. 規約の改正
6. 全国日豪協会連合会、全国豪日協会連盟間との合意書草案について
14:00pm∼ 休憩
14:10pm∼ 総会:開会の挨拶
1. 全国日豪協会連合会 副会長・会長代行 松山 芳夫
2. オーストラリア大使館 政務担当公使 Mr. Bruce Miller
3. 浜松市 副会長 山崎 泰啓
14:20pm∼ 会議
1. 新役員(会長・副会長・監事)紹介
2. 次回総会の主催協会と開催地披露
14:45pm∼ 合意書 締結式(全国日豪協会連合会、全国豪日協会連盟)
14:55pm∼ 特別講演
シドニーパラリンピック ゴールドメダリスト
静岡県浜松市舞阪中学校 教諭 河合 純一 “夢 やらまいか”
15:25pm∼ 休憩
5
15:35pm∼ 特別セミナー “浜名湖から 夢 やらまいか”
17:15pm∼ 全国豪日協会連盟 2008 年総会 コフスハーバー大会 PR
17:40pm∼ 休憩
Part2 Welcome Reception 18:00pm∼19:30pm
司会:浜名湖日豪協会 副会長 高見 和佳
18:00pm∼ 歓迎の挨拶
浜名湖日豪協会 会長 松井 清
浜松市 市長 鈴木 康友
新居町 町長 中嶋 正夫
衆議院議員 塩谷 立
18:25pm∼ 乾杯 在日オーストラリア大使館 豪日交流基金 事務局長 Ms. Lucy King
18:30pm∼ 特別余興 山吉田 子供 陣太鼓
18:50pm∼ 懇親
19:10pm∼ 七夕短冊くじ
19:20pm∼ 2009 年全国日豪協会連合会 総会 飛騨高山大会 挨拶
19:30pm∼ 閉会の挨拶
浜名湖日豪協会 副会長 高見 和佳
自由解散
6
全国日豪協会連合会 第 2 回総会 浜名湖大会 浜名湖観光
2007 年 7 月 8 日(日)
場所:エヌ エル ファーム 浜名湖周辺地域
受付:8:00am∼ 各宿泊ホテルロビー
Part1 Sightseeing
8:00am∼12:10pm
8:00am∼
バス出発 豊田佐吉記念館(湖西市)へ
9:10am∼
豊田佐吉記念館 見学
10:50am∼ 道の駅 潮見坂 見学・休憩
11:20am∼ 浜名湖競艇場 見学
Part2
BBQ Reception 12:10pm∼14:00pm
12:10pm∼ BBQ 大会 スタート
12:30pm∼ 地元アーティストによる 全国豪日協会連盟へ記念品贈呈
14:00pm
自由解散
7
全国日豪協会連合会 第 2 回総会 浜名湖大会 来賓名簿(敬称略)
オーストラリア大使館 政務担当公使 Mr. Bruce Miller
オーストラリア大使館 豪日交流基金 事務局長 Ms. Lucy King
オーストラリア・コフスハーバー市 市長 Mr. Keith Rhoades
オーストラリア・コフスハーバー市 GM Mr. Stephen Sawtell
浜松市 市長 鈴木 康友
浜松市 副市長 山崎 泰啓
浜松市 副市長 花嶋 秀樹
湖西市 市長 三上 元
新居町 町長 中嶋 正夫
衆議院議員 塩谷 立
県議会議員 大岡 敏孝
全国豪日協会連盟 会長 Mr. Adrian Ahern
全国豪日協会連盟 副会長 Ms. Bev Hill
全国豪日協会連盟 事務局長 Mr. Leigh Mc Clintock
コフスハーバー 豪日協会 会長 Mr. Peter Nichols
コフスハーバー 豪日協会 会員 8 名
8
開会の言葉:全国日豪協会連合会 副会長・会長代行 松山 芳夫
全国日豪協会連合会第2回大会の開催にあたりご挨拶申し上げます。(2007 年)平成 19 年 7 月 7 日、
全国日豪協会連合会浜名湖大会が本日開催されましたことは誠に喜ばしいことです。
2005 年は、日本国際博覧会が「愛知万博」として名古屋で開催された時期にあわせて、
名古屋日豪協会の担当で第 1 回総会を開催され、そこで全国日豪協会連合会が誕生しました。
その後、2006 年は日豪友好協力基本条約の署名30周年を記念して全国各地でさまざまなイベントや
講演会など開催され、当協会もコンサートなどへ参加致しました。
2007 年は、経済交流年として、在日豪ニュージーランド商工会議所は、日豪通商協定調印50周年記念とし
て祝賀会を盛大に箱根の富士屋ホテルで開催されたと聞いておりま。
この記念すべき2007年に第2回の浜名湖大会に、全国豪日協会連盟のエイドリアン・アハン会長をはじ
めコフスハーバー市からも大勢の方々がご出席されましたこと厚く御礼申し上げます。
又、オーストラリア大使館・豪日交流基金からは、多大なご理解とご援助を頂きまして重ねて御礼申し
上げます。かつまた、この暑い季節に、全国32協会はじめ、浜松市の有力者など100名近い方々が各地
からお集まりくださった皆様に厚く御礼申し上げます。また、今回の大会開催に当たって、浜名湖日豪協会
の
スタッフの皆様、連合会幹事の方々には大変なご苦労をかけました。ぜひともこの大会を実りある大会とし
たいと思っております。皆様のご協力心から感謝いたしております。
9
来賓のご挨拶:オーストラリア大使館 政務担当公使 Mr. Bruce Miller
皆様こんにちは。ただ今ご紹介にあずかりました、オーストラリア大使館政務担当公使ブルース・ミラーで
す。本日は 2007 年 全国日豪協会連合会 総会にお招きいただき、ありがとうございます。
松山副会長(日豪協会連合会)、山崎副市長(浜松市)、また開催協会である浜名湖日豪協会をはじめ関係者の
皆様、本日は総会の開会、おめでとうございます。Ahern 会長をはじめとする豪日連合会の皆様、ならびに
Rhoades 市長、Nichols 会長をはじめ、コフスハーバー豪日協会の皆様もようこそいらっしゃいました。
みなさんご周知のように、日本とオーストラリアは長い間、経済的、政治的、文化的に友好な関係を築いて
まいりました。今年 3 月に、日本を訪問したオーストラリア政府ジョン・ハワード首相は、来日にあたる声
明文の中で「オーストラリアにとり、この地域で日本ほど緊密なパートナー、友人は存在しない。両国の関
係は、共通の価値観や国益の補完性、経済や戦略・人的交流分野における強い絆に基づく。」と話しています。
おりしも 50 年前、1956 年の昨日、7 月 6 日は、現安部首相のご祖父にあたる岸信介首相兼外相と、
オーストラリアのジョン・マッキュエン貿易相(John McEwen)、アラン・ワット駐日大使(Sir Alan Watt)が、
箱根の富士屋ホテルにおいて、「日豪通商協定」に署名した日にあたります。その 10 年後、1967 年には、日
本はオーストラリアにとって最大の輸出相手国となり、これは 40 年経った今日も変わりません。
「日豪通商協定調印 50 周年」を記念する今年、日豪 FTA の交渉が開始しましたことは、歴史的な背景から
みましても、大変喜ばしいことで、今後 50 年間の二国間経済関係の礎を築く機会となることと思います。
日豪間の人的交流、コミュニティー間の交流も盛んです。一昨年には 68 万 5000 人の日本人がオーストラリ
アの地を訪れ、様々な経験をしています。今や、オーストラリアは米国、英国を抜いて、もっとも人気の高
い修学旅行先となっています。
また、今では100以上の姉妹都市、600校以上の姉妹校が結ばれ、日本とオーストラリアの各地で、す
べての世代の人々が、さまざまな交流活動を展開しています。昨年の「日豪交流年」には、両国で700を
超えるイベントが開催されました。
このすばらしい実績は、両国の 50 あまりの協会が加盟し、本日この会場にいらっしゃる、連合会の皆様をは
じめとした、オーストラリア・日本を愛している方々のご支援なしには、実現しなかったことでしょう。
ここで、改めて感謝申し上げます。人と人との草の根レベルの交流から、国、人種、文化を越えた友情が生
まれます。私は、この交流や友情には、あらゆる日豪の強固なパートナーシップを支える力があると考えて
います。今日の日豪 FTA の交渉を実現し、また先般 3 月にハワード首相の来日中、安部首相とハワード首相
により署名された『安全保障協力に関する日豪共同宣言』、ならびに、第一回日豪外務・防衛閣僚協議を日本
で開催できましたのも、この力が原動力になっていると思うのです。オーストラリア大使館は、これからも
日豪交流・文化発信のご支援を続けてまいります。
明日からは、大使館にて、NAIDOC ウィークがはじまります。NAIDOC ウィークは、オーストラリア先住民
にとって、自らの歴史や文化をアピールする機会であり、またわれわれにとっては、彼らの独自の文化や持
続的な貢献を認め、学ぶ機会を提供するものです。来週月曜日から一週間、オーストラリア大使館において
絵画など、特別な展示物をご覧いただけますので、どうぞご来館ください。
また来年には、アボリジニが生んだ天才画家「エミリー・ウングワレー」の回顧展が、国立新美術館、国際
美術館にて開かれます。こちらもご期待いただければと思います。最後に、改めまして、両国連合会の長期
にわたるご支援に、心からの感謝を申し上げると同時に、本日の総会、セミナーを通じ、両国の連合会の結
びつきがなお一層深まり、また若い世代の同会への参画がさらに活発になることを願っています。そして来
年開催予定の、コフスハーバー大会のご成功を願って、私のご挨拶とさせていただきます。
ありがとうございました。
10
全国豪日協会連合会新役員 任期:2007 年∼2009 年
会長 松山 芳夫
(NPO)日豪文化交流協会 会長 (関東)
副会長 三輪 純子
北九州 日豪協会 (九州)
監事 金原 修平
岡崎 日豪協会 (中部)
監事 奥洞 恵子
飛騨高山 日豪協会 (中部)
監事事務局 (NPO)日豪文化交流協会
2009 年 全国日豪協会連合会 第 3 回総会 ⇒ 飛騨高山日豪協会
11
全国日豪協会連合会 第 2 回総会 浜名湖大会 参加者一覧
(NPO)日豪文化交流協会
(社)日・豪・ニュージーランド協会
会長
松山 芳夫
理事
松浦 啓子
会員
大石 雅人
理事
石川 信行
理事
伊藤 _男
理事
稲数 則光
理事
廣戸 康二
三浦 靖夫
北海道日豪協会
会長
藏田 親義
上越日豪協会
理事
中山 三喜栄
理事
矢頭 治
富山日豪ニュージーランド協会
理事
飴本 喜一
事務局
田村 美奈子
岡崎日豪協会
会長
金原 修平
理事
芝田 典明
理事
杉浦 法子
理事
芝田 妙子
会計
鈴木 友子
副会長
足立 英雄
理事
川瀬 章子
事務局長
菊池 隆
会長
奥洞 恵子
法人会員
奥洞 憲仁
法人会員
奥洞 江理佳
法人会員
吉井 亮太
法人会員
清水 和裕
会員
会員
虎井 真悟
岐阜日豪協会
専務理事
初田 憲治
関西日豪協会
事務局
濱岡 俊孝
大阪日豪協会
事務局長
山口重信
(NPO)神戸日豪協会
副会長
笹井 良彦
宮崎県日本オーストラリア協会
会長
内山 雅仁
北 九州日豪協会
会長
長崎日豪協会
名古屋日豪ニュージーランド協会
飛騨高山日豪協会
全国豪日協会連盟
コフスハーバー 豪日協会
鴻巣 甚一
事務局長
関谷 巌
三輪 純子
事務局長
木村 洋子
会長
反田邦彦
会長夫人
反田 由美子
事務局長
川上正徳
会長
Adrian Ahern
副会長
Bev Hill
事務局長
Leigh McClintock
会長
Peter Nichols
Patricia A Degens
Jane Ireland
Hidegard Zabrack
Yvonne Webster
Moira Nolan
Vladimir Stojanovic
Brian Beckket
Margaret Beckket
静岡県日豪協会
会長
花井 和夫
副会長
川嶋 正芳
副会長
冨田 亙
副会長
大村 茂
12
一般参加者
浜名湖日豪協会
顧問
大橋 千秋
事務局
鈴木 英忠
事務局
大橋 正康
大村 幸康
関 博
植田 洋平
群馬県
富田 葉月
群馬県
中村 幸代
静岡県
伊藤 彰彦
静岡県
山下 智之
静岡県
山下 直美
静岡県
山下 愛加
静岡県
山下 恵理加
静岡県
竹内 育代
静岡県
竹内 遥菜
静岡県
竹内 茉穂
東京都
小林 良正
東京都
後川 智恵美
東京都
足立 友里絵
愛知県
石井 友規
静岡県
篠ヶ瀬 かすみ
静岡県
篠ヶ瀬 さやか
静岡県
内山 ゆきえ
岐阜県
臼井 千里
三重県
岩本 尚也
三重県
岩本 陽子
愛知県
中島 真吾
愛知県
中島 友美
愛知県
SHO
静岡県
藤田 利夫
静岡県
大石 裕子
静岡県
大石 由美子
静岡県
Joe
静岡県
椎葉 卓
会長
松井 清
副会長
高見 和佳
理事
坂上 昇
理事
井口 妙子
理事
木村 毅生
監事
瀬川 清登
事務局長
篠ヶ瀬 大地
事務局次長
顧問
小畑 邦夫
顧問夫人
会員
藤井 淑子
サポーター
会員
河合 亜弥子
★総会・特別セミナー 総参加者数 114 名(一般参加者 28 名)
★協会関係参加団体数 日本国内 17 団体(70 名)
オーストラリア国内 2 団体(16 名)
★協会関係参加者 平均年齢層 50 歳代
★一般参加者 平均年齢層 30 歳代
13
朝長 龍太
小畑 渉子
田中 紀春
全国日豪協会連合会 第 2 回総会 浜名湖大会 特別講演 河合 純一氏
●演題 浜名湖から夢やらまいか 夢追い人より
●講師 静岡県浜松市立舞阪中学校 教諭 河合 純一 氏
日本でただ一人の全盲の熱血教師。全盲というハンディキャップに屈することなく、優れた
スイマーとして過去 4 回のパラリンピックに出場、計 19 個のメダル(金メダル 5 個)を獲得という
偉業を成し遂げ、現在、中学校(現:舞阪中学)の教諭として、次の夢を追いかけ日々活動中。
夢を実現するために並々ならぬ努力と情熱を注いできた彼の真撃に生きる姿は、地元静岡県浜松市
(浜名湖周辺地域)の人々に勇気と希望を与え、その感動はさらに大きなうねりとなり、
浜松、浜名湖、静岡から飛び出して、全国に広がっています。
経歴
2000年
静岡県浜松市(旧・浜名郡舞阪町)に生まれる。
先天性ブドウ膜欠損症のため視力は右目のみ。
2000年 水泳をはじめる
2000年
舞阪小学校卒業
2000年
舞阪中学校卒業
中学校三年時『十年後の私』という作文で教育者になりたいと書く。
右目の視力が完全に失われる。
2000年
バルセロナ パラリンピック 競泳出場(銀 2 個 銅 3 個)
2000年 国立筑波大学付属全盲学校高等部普通科 卒業
1996 年 アトランタ パラリンピック 競泳出場(金 2 個 銀 1 個 銅 3 個)
1998 年 早稲田大学教育学部教育学専修 卒業
浜松市立舞阪中学校(旧 舞阪町立)に社会科教師として着任
2000年
シドニー パラリンピック 競泳出場 (金 2 個 銀 3 個)
日本代表選手団 キャンプテンという大役を任せられる
2003 年 早稲田大学大学院教育学研究科学校教育専攻
2005 年 アテネ パラリンピック 競泳出場 (金 1 個 銀 2 個 銅 3 個)
現在 引き続き、教師として子供達、大人達に夢を与えている
※『夢 おいかけて』 監督 花堂 純二 河合純一氏の半生が映画化されました。
※ 主要著書 『生徒たちの金メダル』
『夢 おいかけて』
『夢をつなぐ』
ひくまの出版社より
14
講演内容
この度は、私の講演にご臨席いただき、誠にありがとうございました。
シドニー でのパラリンピック出場は、私にとって大きな経験となっております。
シドニーパラリンピックからあれこれ、7 年の月日が経ち、またその経験から、本日、皆様にお伝えできたら
こそと嬉しく思っております。
本日ですが、そんな中で、自分の思いでとして、第一には、私はオーストラリアに訪れた事があります。ま
ず、最初に訪れたのは、今思い出しながら話していますが、95 年の年末から 96 年にかけて、96 年の年末年
始、クリスマスの時期に訪れました。ちょうど二十歳の頃の出来事でした。なぜ訪れたかと言いますと、私
は当時、早稲田大学 水泳部に所属しており、ちょうどその年に、アトランタパラリンピックの選考会があり
海外遠征合宿のため、部員の一人として約 3 週間滞在しておりました。
その時のオーストラリアの印象は“プール”。8 時間から 9 時間ぐらい外のプールで練習していました。合宿
は朝 6 時に朝食を食べ、昼に昼食を食べ、夕方 5 時頃に終え、夕食をとり就寝するように、ほとんどの合宿
はプールと宿舎の往復連続でした。その当時、大会でも、合宿でも同じ繰り返しでした。そんな中でいろい
ろな事を勉強しました。
まず一番に驚いた事は、泳ぐ時に、目が見えない私は、どうしても左右に曲がってしまう癖があります。そ
のため強制するために、コースロープに触れながら何回手を触れたかで数えながら50mを泳ぎます。そう
する事で怪我無く泳げるですが、普通、日本では泳ぐときに、右側通行をするのですが、オーストラリアで
は左側通行でした。そのため慣れない左手で怪我をしながら泳いだのを思い出します。そして右手で慣れて
いるために、15 年以上の経験の中で、40 回触れると50m泳げるはずでしたが、泳ぎきれず、コーチに確認
をしたのですが、距離は同じだったという事があり、日本とオーストラリアのいろいろな違いを感じる事が
できました。また英語は得意ではなかったので、練習メニューも何を言っているのか分からず、最初は、4
by100と言われ、何を言っているのかなと思い、4mを 100 回泳ぐのかと思ったのですが、日本では基
本的に練習では、よく 100 を 4 本泳ぐなどの表現をするため、頭の中が、なかなか切り替わらなく、なるほ
どと気付いて、そういう中で自分なりにコミュニケーションがとることができたかなと思います。また、同
じコースで一緒に泳いでいたスイミングクラブの仲間達というのは、言葉もそれほど壁も無く、また私が目
の見えない状況も分かっていたため、3 週間一緒に泳いでいて、いろいろな活動できたとい事は、とても貴重
な体験だったなと思いました。その時の印象として、とても素晴らしいコーチを含め、皆が理解していただ
いており、すごく傷害というものを受け入れてくれている、ありのまま、当然として受け止める、その様な
社会的な同情があるのだなと強く感じました。そして、凄くこの空間や、この国は、自分にとって生きやす
い場所だなと思いました。当時まだまだ日本の中では、障害者スポーツの認知は無く、これからという時代
でした。日本の大きな障害者スポーツの認知は、98 年長野パラリンピック大会といわれており、それからま
だまだ 3 年先でした。私は、17歳の時のバルセロナパラリンピック、そしてこのオーストラリアの合宿を通
じて、96 年アトランタパラリンピックで、21 歳の時に初めて金メダルを取るができました。自分としても、
このオーストラリアの合宿に行って、生えたな、練習を一所懸命やったなと思いと、そしてオーストラリア
に来たのは何かの縁で、私はもう 4 年後、シドニーの時には、やはりここに来るのだなという事をイメージ
し、これはイメージどおり実際に叶いました。
今回のセミナーのテーマの“夢”というところですが、やはりイメージする所がスタートだと思います。そ
15
してイメージする能力はどうやって作るのかと考えたときに、私は、自分の能力や、自分らしさをきちんと
理解した人、分析できた人に与えられる力ではないのかなと思います。
何故なら夢を持ち、夢を叶える人は、結局自分だからです。人は教えてくれません。あなたの夢はこういう
のではないの?と言われて、そうなのと思える人がこの世にどれだけいるでしょうか。私はそう多くはいな
いと思います。自分の夢は自分で決める。だから自分で頑張って生きるのだという、持論を基に、私は自分
自身考えてきました。その中で、オーストラリアの合宿の機会では、できないなとか、難しいなと思う事を
挑戦させてくれる気持ちにしてくれました。当時、もちろん若かった事もありますが、でも凄く前向きに取
り組めたなと思います。やはり、いつも右側通行で泳いでいる事と、左側通行で泳ぐという感覚、これは見
えてやっていても、先輩方は苦労している事を聞きました。見えないで、その状態で泳ぎ続ける、そして自
分の練習をしていくという事の難しさ、でも対応しなければいけないという気持ちになったのも確かです。
この経験は、凄く 4 年後にいきました。なぜなら、4 年後シドニーパラリンピックがあるのですが、プレ大会
99 年、2000 年と 2 回、それぞれ 2 週間から 3 週間合宿しました。その時も、当然のように左側通行して練習
したのですが、私は経験していたので、自分の中で余裕があったのは事実かなと思います。そこが始めて来
て、戸惑うことがなかった事が、非常に大きかったと思います。今述べたように、最初に訪れたオーストラ
リアの 3 週間の合宿は凄く楽しかったです。しかし練習は凄く苦しかったです。また苦しかった中には、練
習の合間、チームメートの先輩達と外に遊びに行こうという事になり、最終的にバンジージャンプを体験す
る事となりました。目が見えない私に、先輩は、まず後輩から、そして目が見えなければ、怖くないだろう
という事で、人生で初めてバンジージャンプを体験しました。体全体にくる、空気を切る音は、夢に出てく
るほど恐怖を味わいましたが、オーストラリアの大自然を体で体験する事ができました。ぜひ皆さんも空気
を切る音を体験してみて下さい。
いろいろな体験の中でオーストラリアの多くの自然、そして何事も受け入れてくれる、広さがある国だなと
感じました。そして帰国後、アトランタにて初めて金メダルを取りました。実は、小さい頃からの夢の一つ
に、水泳で、記録を少しで縮めたいという夢を持っていました。水泳を始めたきっかけは、5 歳の時でした。
まさか世界の金メダルを取るとは思っていませんでしたし、当時、自分が障害をもっている事も知りません
でした。
15 歳の中学 3 年生の時に自分自身失明し、それまでは弱視と言って、0.1 程の視力がありましたので、普通の
小学校、中学校に進学したのですが、高校の時に全盲になったために、東京の盲学校に進学しました。それ
がきっかけで、パラリンピックというところに出会いました。そして初めて行ったバルセロナの時に、銀メ
ダル、銅メダルを取りかえってきました。世界レベルを知らずに、飛び込んだ世界で嬉しい反面、金メダル
を取る大変さ、悔しさを感じ、やはり金メダルを取りたいな、もっと頑張らなければいけない事を思いまし
た。それが、17 歳の時に持った大きな夢の一つでした。そして、二つ目の夢は、私は目が見えなくなった時
に、多くの先生に支えられていた事、そして進学する事もでき、いつしか、私も先生になりたいなという夢
を持つようになり、私の夢が二つになっていました。
バルセロナが終わった後、私は両方の夢を叶えるために、いい選択肢を考え、早稲田大学へ推薦し、進学し
ました。早稲田大学は、水泳部が強く、また教師になるための勉強も十分にさせてもらったなと思います。
そして、いろいろな出会いがあり、一つ目の夢、金メダルを取るという事ができました。この夢が叶えられ
た事は、オーストラリアに行った事も凄く大きく、また、その練習で取り入れられている調整方法などが、
今、私は中学校の教壇に立ち、水泳部の指導を行っていますが、その時に学んだ理論、体で培った物が現在、
とても役にたっています。その後、アトランタで金メダルを取り、教員になる事ができました。
99 年シドニープレ大会に当時、教員 2 年目でお休みをもらい行きました。そこでは、記録をとり翌年シドニ
16
ー大会出場を決める事ができました。そして、シドニー大会では、教師として出場した経験、そうしてもう
一つの経験は、日本選手団 主将の大役を背負っての出場でした。若干 25 歳にして、3 回目の出場でした。何
をしたら良いのか、どのようにすればよいのか分かりませんでした。ただ、自分なりに態度、結果を残せば
いいと思い、頑張りました。結果、金、銀を取ったのですが、内容は、最初 3 種目は0.数秒の中で、負け
続けていました。教員と選手の生活の中で、仕事を終わってからの練習の日々、シドニー入りしても風邪を
ひき、携帯電話を空港で借りたのですが、トイレに落としてしまうなど、いろいろな悲運が続いていました。
そして最後に残された種目が、50mの自由形でした。これで負けたらどうしようかと実際思っていました。
そして入場。その時に、観客席から聞こえる、観客が約 1 万人いる状況の中での声援。
日本国内では大会において大勢の観客が集まる事がありません。その声援は物すごさを感じました。
そして、楽観的な私の性格で、一番人気のある選手の声援が、自分の声援に聞こえてきました。このレース
では、普段光を通さないゴーグルをつける事が義務付けられるのですが、良くスポーツ選手で、最高のレー
ス、最高の試合をした時に光が見えるといいますが、私にもその光が見え、最高のレース、そして、金メダ
ルを取る事ができました。そのレースでは、パラリンピックレコードを出し、現在でも残っています。その
後のリレー・レースにおいても、当時の世界記録、そして金メダルを取る事ができました。アトランタが終
了した時に、個人で金メダルを取るだけではなく、リレー選手として優勝したい、まず選手として出たいと
いう夢を持っていました。そんな夢を持って 4 年前アトランタにいました。そして、4 年後、実現したのだな
という喜び。人と共に、仲間とともに作り上げる、もちろん選手、補欠選手がいたり、あるいはそれぞれの
コーチがいたり、そのような喜びという物を自分が、夢を描き、語り続けた結果つかむ事ができたという事
は、凄くオーストラリアという場所は、愉快に感じ、自分にとっての縁を強く感じました。その中で、オー
ストラリアに行って、話を聞いた時に、もちろんメディアの扱いなど日本と違うなと感じていたのですが、
大きな違いの一つに、オリンピックとパラリンピックの選考会を同時に開催するという事です。実際見た事
ではありませんが、凄い事だなと思いました。日本では考えられない事です。未だ、協議団体が一つになら
なかったり、パラリンピックはパラリンピック、オリンピックはオリンピックというように分けられている
状況を踏まえて、自由というか、共存という国だなという事を感じました。同じ大会の中で、オリンピック
の選考レースを行い、パラリンピックの選考レースも行われる、凄く自然に、そういう事がいつか日本でも
出来ないかという気持ちをその時に持ちました。まだまだそこは、私の力不足だなと感じて、そこで描いた
夢の一つがそういうところがあったので、私は、今、浜松市の方と話をしながら障害者スポーツ協会が抱い
ている夢、水泳の日本選手権のため、新しいプールが 2009 年に完成するため、そこでオリンピック選考会と
いう大きな大会が開かれますが、でもその同じ会場で、まず同じ年に、障害者の大会が開けるようにと話を
して、お願いをしているところです。2009 年に秋には、同じ会場で、障害者の水泳大会を行います。これも、
凄く地元で開催できる、私が今まで、シドニー、その後アテネを含めると、4 大会出場してメダルをとった、
いろいろな経験をさせてもらったのですが、地元で泳ぎを見せられるという事は、今回、その頃、私が 2 年
経ってちゃんとまだ泳げているかはまた別問題ですが、何か恩返ししたいなという気持ちを常に持っていま
したから、その夢の思いがやっと実現しつつあるのかなと、これも多くの方々の協力があってこそ。
私が、一つその教師になる、メダルをとるなどいろいろな夢を今まで叶えてきたと、一つ、二つではなかっ
たという事。アトランタで金メダルをとる、教師になる、そしてシドニーにてリレーで金メダルをとる、大
学に行く、いろいろな夢を持ち、そして実現したなと思います。これからも、そういう力を持ち続けていき
たいなと思っています。そして、そういう原動力って何かと言いますと、いつも自分自身を見つめなおす力、
もっとこうしたらいいのではないかな、何かなとまず自分を見る、自分を見るという事は、原点です。
それをつかんでいないと、次に何をやればいいのか見えてきません。だから私はそれ踏まえて、自分にでき
17
る事を進めていきたいなと思っています。ちょうど今お話した、水泳や、障害者スポーツを浜松市がもっと
メッカにしていき、それこそ、オーストラリアの交流が進んでいるのであれば、このような大会、イベント
自体を、今日の出席していただいた方々の協力を頂きながら出来たら嬉しいなと、そんな風に思っておりま
す。あるいは、私は、教師という立場もあります、こういう立場で、マレーシアの方に、青年海外協力隊と
して出かけていきたいという事で、ある方の話だと、国際的な都市を生かすという事をおっしゃっておりま
すので、そういう教師がもっと、海外青年協力隊に積極的に参加できるような、制度ができていったらいい
のではないかなとそんな事を私は思います。
私は本日、スペシャル短期プログラムにさせていただきましたので、夏休み期間をうまく活用して貴重な体
験をしてきますが、現職のまま参加できる制度であるため、これから構築させていくとより良いのかな、凄
く貴重な経験が出来るだろうし、そういう経験を生かしていけたらいいのかな、と私も出来ること、自分が
経験したからこそ言える発言があると思いますから、いろいろな事をお願いしたり、自分でできる事をもっ
と率先して、ただ自分でできる事って、皆様限界があります。どんなスーパーマンな人でも、一人では限界
があります。私は、決してスーパーマンでなければ、天才でもなければ、努力家でもありません。ただ自分
の夢がある。そしてその夢を叶えるために努力は惜しまない。努力というのは、人から見た時にある事だけ
です。
例えば、私にとって、金メダルをとった時、一日練習を10000m泳ぐよという事は当たり前の事、朝ご
はんを食べるのと寝るのと、トイレに行くのと同じぐらいの当たり前の事だと思っています。そこを自らの
習慣にする。だからそれが私の秘訣だったと思います。そういうスタンスで、これから自分の持った夢を多
くの人と語り合って進めていきたいなと思います。時々、河合君に巻き込まれちゃったなとよく言われます
が、巻き込む事も時には必要かなと思います。一人でできないから、皆で楽しくやっていく事が大切かなと
思っております。現在、教育現場でも、子供達に大会か何かを通じて、達成感を味わいたいなと強く、思っ
ております。嬉しい、充実感を味わうためには、時には苦労や、人にも言えない悲しい時でもあるかもしれ
ません。でも、それを分け合いながら、そして喜びを倍増させる。やはりこういう体験や、体験が大切なの
だろうと思っていまして、そういう意味で一つ、仲間つくりに力を入れていきたいなと思います。
それが、一部の人達ではなく、日本とオーストラリアであったり、いろいろな民族や、言葉の壁をこえてい
けたらいいのかなと思います。スポーツって本当に素晴らしい。先ほど述べた、最初の合宿で強く思いまし
た。私が片言でしかしゃべれない状況でも、一緒に泳いでいれば、私がどれだけ疲れているの、どのくらい
頑張っているのか見ればわかるでしょう。レースでなくても分かります。そしてレースをするともっと分か
ります。彼らは、何を求めて泳いでいるのか、そしてスポーツに取り組んでいるのか、そこに、国境、言葉
の壁がないなと強く思いました。そういう意味で、皆様が、一人一人がお持ちの夢とか、そういった思いが
たくさんおありかと思います。そういったものを、ぜひここで、今日の私の話がきっかけになるか、少しで
も参考になるか分かりませんけど、そういうものを、まわりの人達から変えて、語り合っていただきながら、
来年、そして未来へ続く夢を語り合ってもらえたらなと思っています。最後に、私の言葉を、一つ、二つ送
られればなと思います。私が 25 歳の誕生日の時に思ったのですが、
“夢から逃げ出す事はいつでもできるが、
夢の努力を続けるのは今しかない。”という言葉を、自分の中で座右の銘ではありませんが、心に刻み生きる
ようにしました。実は次の日に、T シャツに書きました。私の一つの言葉として、持ち付けてこれから生き
ていきたいなと思います。ぜひ、皆さん一人一人しか描けない、その個性的な、最高の芸術作品が“夢”だ
と私は思いますので、ぜひ完成させていってもらいたい、そんな風に思います。
至らない話で、伝わったかどうかわりませんが、ここ浜松、地元に来ていただいた中で、自分の思いをこの 30
分につめたつもりです。有意義な残りの素敵な経験をして頂けたらと思います。ありがとうございました。
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全国日豪協会連合会 第 2 回総会 浜名湖大会 特別セミナー 概要
■セミナー名 浜名湖から”夢”やらまいか
■主催 浜名湖日豪協会・全国豪日協会連盟
■日程 2007 年 7 月 7 日(土)15:35pm∼17:15pm
■場所 浜名湖ロイヤルホテル 2F
■参加者総数 114 名
■セミナー趣旨 若者の“夢”にスポットを!!このセミナーでは、“新世代の持つ夢“を実現化してい
く
事を目的とします。対日本、対豪に夢を持っているオーストラリア人、日本人の新世代
が、豪日協会、日豪協会を通じ、夢を実現する事。そして、新世代人が協会活動に興味
を持ち、協力参加する事で、今後、新世代が担う、日豪間のいろいろな場面において、
活躍の場面を増やしていきたい。また、日豪協会、豪日協会が“夢”実現へ向け、双方
の協会が、連携を強め、さらに交流の発展につながる事が期待できる。この企画は、今
後、日豪・豪日協会間にて、継続していく事を念頭に、セミナーを開催する。
■セミナー説明 このセミナーは夢を持っている人(対オーストラリア、対日本)にスポットを当て、
セミナー参加者の前で、それぞれの夢をスピーチしていただきます。その後、参加者が、
思った感想、夢を叶えるためにどうするのかを質疑応答形式で述べていただきます。
とてもシンプルかつ、単純な作業ですが、一番大切な“人の夢を知る機会”を、
このセミナーでは皆様に持って頂きます。
■豪州側協力 このセミナーにおいて、日本国内だけではなく、豪州の協力がもっとも必要となります。
日本、豪州の若者世代が、実際に行動を起こす事は非常に大変な事です。そのために、
日豪協会、豪日協会というボランティア団体(コネクション、経験、知恵)があり、
お互いのサポート、連携が生かされてくるかと考えます。未だ、両国の団体での連携は、
明確ではありません。この機会に、日豪協会、豪日協会との間にきっかけができればと
考えています。
■成功事前予測 日豪協会、豪日協会間で、夢を実現する事。そして、今後のさらなる協会間の連携、
日・豪の新世代人より、さらなる交流発展が予想される。
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全国日豪協会連合会 第 2 回総会 浜名湖大会 特別セミナー 日程表
2007 年 7 月 7 日(土)
場所:浜名湖ロイヤルホテル 2F
15:35pm∼
オープニング セミナーの目的とスケジュール説明
司会進行役 浜名湖日豪協会 理事 井口 妙子、浜名湖日豪協会 会員 Joe
15:45pm∼ Speech1
足立 友里絵
“オーストラリアで日本語教師になりたい”
16:05pm∼ Speech2
竹内 茉穂
“将来オーストラリアへ留学し、お医者さんになりたい。”
16:20pm∼ Speech3 小林 良正
“私は挑戦する エコと共に・ ・ ・ ”
16:50pm∼ Speech4 Adrian Ahern
“全国豪日協会連盟について”
17:00pm∼ Speech5 Leigh McClintock
“全国豪日協会連盟の夢”
17:15pm
終了
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Spe ech1 内容
●氏名:足立 友里絵 Adachi Yurie
●プロフィール: 南山大学在学中
“オーストラリアで日本語講師になりたい。”
Catch the Wave
I would like to tell you about my dream. My dream is to live in Australia and to teach Japanese Language
and culture to students who are studying Japanese or Second Language Acquisition at a university. There
were a lot of dreams I had before, however this is the biggest dream I have ever had.
Since I entered my university, I have been studying about Japan and its language.
I am a sophomore
now and there are still lots of things I have to study, but I really enjoy learning it.
My university has a Study Abroad Program for those who want to go and study in Australia for a year.
I wanted to study education in Australia during my junior year, so I applied for the position, but
I could not get it. The interviewers and other college staff said to me that they understood my passion
for studying abroad however the test score is was not high enough. I learned that number is more important
than passion sometimes. That’s the way it is. I was depressed so badly but I am okay now, looking
for another chance to study in Australia before I graduate from university.
From now, I am going to tell you about my trips to Australia. You will know the reasons why I love
Australia so much, and why I want to emigrate from Japan to Australia.
I have been to Australia three
times in my life. I was 11when I first met the beauty of Australia. It was 1999 and I visited Perth
for the first time. It was my first time to leave Japan as well.
I was so excited but I was a little
bit nervous at the same time. I went to Perth with some members of
浜北国際交流協会 Hamakita International Friendship Association (HIFA) . I stayed with my host family
for two weeks. It was a great experience, really. I did not even know how to ask for what I want in
English, so I always took two dictionaries with me; Japanese-English and English-Japanese dictionaries.
They were not electronic. They were books, thick books. Even though they were really heavy, I always
had them with me and I really enjoyed staying there with my host. Actually, I did not feel homesick.
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Well, I have one funny story about this first trip.
My host family had strong Australian accents.
I heard their English for two weeks, and I learnt some English words from them. I got back to Japan
and entered a junior high school. I started learning English. It was the first or second class that
we learned the word of ‘’today’. Accidentally, really, accidentally, my teacher pointed at me and
asked me how to pronounce the word. I answered it was “today”. She laughed at me and corrected my
pronunciation. I was really embarrassed however, from then, I started studying Australian and British
English on my own even if I had to learn American English at school. The second time I visited Australia
was when I was 16. I went to Perth again with some students from high school. We studied English and
Aussie English at UWA, University of Western Australia for two weeks. At that time, I could talk a
lot of English already, so it was much easier to communicate with my host family.
called Elicos, if I remember it right.
We took a course
It was a bit easy for students in year 11 however I had a lot
of fun. I had been already interested in Australian English before this time as I told you but I got
more interests in it since then.
After I got back to Japan, my family hosted a girl named Monique.
She was from New Castle in New South Wales and 1 year younger than I was. She stayed at my parent’
s house for two weeks. Although she did not speak Japanese, we had a lot of fun together. She taught
me a lot of things about Australia, and I told her about Japan. We discussed many things, especially
about our countries, cultures and girls stuff. My English was not good yet, however she did not care
about my mistakes, and she just accepted everything about me. I felt that I got a good friend in Australia.
The Last time I visited Australia was in this February and March.
I stayed in Brisbane and Gold Coast
for two months. It was the first time for me to leave Japan alone. I was really worried about everything
about the trip but luckily there were any big problems. This time, I did not go there just for studying.
I went there for fun too. In fact, I have a boyfriend there.
I was just staying with him and have
learnt many things about East Australian culture, and I noticed that Brisbane and Gold Coast are really
different from Perth. Even though they have many differences, I still like both cities, and I feel
that Australia is my second home country. To tell you the truth, I feel that Australia is my home country
and Japan is second actually. And perhaps it is true because I have been a big fun of Australian National
Swimming Team since I was 4 or 5.
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Now, you know that I really like Australia. So I will tell you about my dream from now. I told you
that I want to be a Japanese teacher but I once wanted to be a flight attendant.
I saw them when I
went to Australia for the first time and they looked so cool. Therefore I studied English so hard since
then. However, one day I realized that I cannot stay in one country which I really love if I become
a flight attendant. From then, I thought it over and over again, and I finally decided to be a Japanese
teacher when I was 17. I have always had interests in other cultures and languages but I am interested
in my country as well. My high school aims to make students’ English skill improve. I was in the
特進英語クラス, so I had English classes every single day. Sometimes I had 4 English classes a day.
We also had international students in our class. They studied Japanese for a year. They could not speak
any Japanese at the beginning but by the time they went back to their countries, they could speak Japanese
fluently. Sometimes, I was asked by them about Japanese. I wanted to answer and help them but I could
not because I did not know how to explain and teach Japanese Language.
a language was totally different from being able to teach it.
I could learn Japanese with them actually,
and I started to think that I wanted to study more about it.
by my friends.
I realized that simply knowing
In short, my current dream was inspired
I was going to enter a university in Australia after I graduated from high school because
I really wanted to live in Australia as soon as I could and no matter what happened.
not to.
However I decided
I thought it would be better to stay here and study Japanese in Japan. I can not tell whether
I chose the right way.
My decision could be wrong.
However I won’t regret it because I believe no
matter what happens; every bad thing can turn out to be alright later on.
Finally, I really need to study much harder to make my dream come true from this time. But I do not
want to feel I have to. I love having fun when I study. I need music to sing along while I am learning
English rhythm and pronunciation. Some people may think I am fooling or too optimistic about my future,
but this is what I really want to do.
I lost my passion once when I did not get the chance to go to
Australia to study education for a year but I recalled one famous story and it helped me keep pursuing
my dream.
It is about a famous American singer, Madonna.
her and made the American Dream.
She succeeded in America with only $35 on
America is a liberal country and that might be one of the most primary
reasons how she could succeed even though she only had such a small amount of money.
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What I am trying
to say here is I just felt that I have the same passion as she did for a dream.
I said earlier that
I learnt that number is more important than passion, but let me take it back. Passion is the most important
thing in the world to make dreams come true. Oh, I almost forget to mention my speech title….well,
I hesitate to say this but I cannot surf yet. Thank you so much for listening.
★質疑応答
①豪日交流基金 事務局長 ルーシー・キング氏
Hello my name is Lucy King.
Ok, First of all I want to say, “Thank you very much for joining seminar. I think you’re actually
quite a wonderful advocate for Australian English. I agree that your passion is definitely your
strong point. And that I hope and wish you success with your studies and I hope that you are able
to obtain your dream. But I just wanted to mention to you that, just something to think about,
that there are many foreigners, including Australians, here in Japan who would very much
like to meet someone like your self to help them with your studies. So, perhaps that’s one objective
so you might want to consider that before you obtain your dream of teaching Japanese in Australia
that you have many opportunities to actually do so in Japan as well. So just one last thing,
I wish I had met someone like yourself when I was learning Japanese.
Thank you very much.
②(社)日・豪・ニュージーランド協会 石川 信行 氏
写真と実物がだいぶ変わっていますね。やはり素晴らしい国に行くと人相も、いろいろと変わりますね。
大変素晴らしいスピーチで感動しました。ありがとうございました。
Spe ech2 内容
●氏名:竹内 茉穂 Takeuchi Maho
●プロフィール: 静岡県磐田市内 中学校在学
“将来 オーストラリアへ留学し、お医者さんになりたい”
私の名前は竹内茉穂といいます。中学 3 年生の 14 歳です。4 人姉妹の 2 番目で、すぐ下の妹とはよくケンカ
をします。私の好きな事は、食べたり飲んだりする事と、テレビを見たり、ゲームをする事です。
私は、今、学校には行っていません。私が学校へ行かなくなったのは、小学校 5 年生の 2 学期の 10 月の終わ
り頃から 11 月の初め頃からです。ちょうどその時、いろいろな事がありました。例えば、集団登校の通学班
の事、クラスの友達や先生など、それぞれの人達との関係で、私は学校へ行けなくなってしまいました。
それから私は、自分の家で勉強をしています。時間を決めて、少しずつだけど勉強をしています。時には、
サボる時もありますが、一歩前に進んでいます。学校の先生は、私の事をいろいろと気にしてくれて、家ま
24
で来てくれたり、電話をしてくれたりします。中には、無理やり学校へつれて行こうとした先生もいました
が、小学校5、6 年生の時の担任の先生や、中学校になってお世話になった 1,2 年生の時の担任の先生はも
のすごく優しくして頂きました。もちろん、今の担任の先生もいろいろと良くしてくれます。この先生たち
のおかげで、放課後に学校へ行って、勉強で分からない所を教えてもらう事もできました。そして、なんと
か放課後だけじゃなく、昼間、学校に行く事も何回かありました。でも、自分の勉強の遅れや、クラスの人
達とうまく付き合えるのなかなどと、いろいろ考えてしまって、人間関係などの不安が強くなり、今では、
ぜんぜん学校に行く事ができなくなってしまいました。
そんな生活の中で充実していて、好きな時間は、”NLFarm”での英会話のレッスンなどです。
セバスチャン先生の英語は、速くて聞き取るのが難しいですが、少しだけ分かってきたし慣れてきました。
自分の気持ちを英語で表現するのは、すごく難しいですが、それが自由にできたらなと思って毎週通ってい
ます。NLFarm の篠ヶ瀬さんをはじめ、NLFarm の人達はみんな外国へ行った事があり、その人達から聞く、
外国生活の話は、とても楽しいです。
日本との違いや、不思議な習慣、困った事や、大変だった事、面白かった経験など、飛行機にも乗った事の
ない私には、興味深い話ばかりです。
特に、オーストラリアは、自然がたくさんあり、素晴らしい地域がたくさんあることを聞きました。私はぜ
ひ、オーストラリアに行って自然に触れたいなと思いました。そして、オーストラリアのコフスハーバー市
という市を知りました。その市は、のどかな田舎町です。私は、とても興味が湧きました。できれば、今年
の秋に
ホームステーとして行き、来年の春には留学をして現地の高校に行きたいと思います。
英語を勉強しているので、英語の使える国に行って、英語の勉強をもっとして、その国の歴史や文化、風習
に触れ、雰囲気を肌で感じて、できればじっくり生活をして、そこの人達となじんでいけたらいいなと思い
ます。中学校へ行っていない私にとって、外国は、また一から始められるところだと思います。
自分がどんな人間であるかを教えてくれ、また、自分らしい生き方をみつけるチャンスではないかと思いま
す。
なので、私の今の夢は、外国に行って、外国に住んで、勉強をしたりして、いろいろな人とふれあいや、文
化、習慣を吸収したいと思います。
もう一つ、私には夢があります。それはお医者さんになる事です。私は小さい頃からずっとお医者さんとい
う職業に憧れていました。私はずっと、夢は夢なのかなと思い、本気でお医者さんになろうなんて考えてい
ませんでした。なので、中学生になり、私は将来何になりたいのだろうとずっと考えていました。考えても、
考えても答えはでませんでした。私は、お医者さん以外、考えられませんでした。理由は、今までにいろい
ろな人に助けてもらい、迷惑もかけてしまったので恩返しがしたいなと思いました。人の役に立ち、人の命
を救って、人に笑顔になってもらう事で、私なりの、恩返の仕方なるのではないかなと、その時思いました。
私はその時から本気でお医者さんを目指すことに決めました。お医者さんになるには、高校へ行って、大学
の医学部へ行く事が自然な道だと思います。私は、自分の夢を学校の先生に言いました。ところが、学校の
先生からは、そもそも出席日数が足りないのだから、高校へ行くにも難しいし、ましてや“医者”なんて絶
対に無理と言われました。もちろん、私には自信があるわけではありません。何をどう、勉強して良いか分
からないところもたくさんあります。でも、私にも何か出来る、自分の持っているものを人の為に、何か、
一つでも活かせる事ができれば幸せだと思います。それには、まず自分に自信をつけて、友達や同級生の中
で、時には競争したり、時には助け合ったり、おもいっきり遊んで、毎日を充実したいと思います。英会話
を学んだり、自分で勉強したり、まだまだ少ないですが、いろいろなものが、身についてくると、少しは自
分に、自信がつくような気がします。海外では、私が今まで、暮らしてきた事と、まったく違う環境で生活
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して、勉強したり、色々な事を体験、経験をする事によって、さらに自信がつくのではないかと思います。
そして、英語が日本語のように自由に話せるようになって、それを、使って人の役に立てるようになればと
思います。
私の本当になるべき職業が、お医者さんかどうかは、自分でも分かりません。外国で、私がなじんで、日本
に居るよりも生き生きと暮らしていけるのかも分かりません。
でも、夢をもって、そこに向かっていく事で、普段は出せない力も出てくるのではないかなと思います。夢
があるから、気持ちも強くなり、その夢に一歩でも近づきたいから、何でも頑張れる。夢は、素晴らしいも
のだと思います。
これからも、夢をしっかり持って、一歩ずつあせらないで、夢をかなえたいと思います。
ありがとうございました。
★質疑応答
①湖西市長 三上 元 氏
お医者さんになりたい夢を聞きました。私の親父も医者です、爺さんも医者なのです。
今、私は医者ではなく湖西市長です。ぜひ、医者になる夢を捨てないで欲しいなと思います。
大学検定という試験がありますから、高校に行かなくても、試験を受けて大学へ行く道がありますので、
夢を捨てないでいただきたいと思います。
ヤクザの奥さんになってから、中学校中退した方が、大検を受けて弁護士になって、大阪の助役になっ
た人がいます。“オオヒラ ミツヨ”さんと、言います。夢を諦めないで下さい。Never give up.
②全国豪日協会連盟会長 アドリアン・アハーン氏
あなたは、14 歳でとても幸せだと思います。私も初めて日本を訪れたのは、15 歳の時でした。
日本は第二の故郷です。学校でいろいろな事を学び、いろいろな事を経験しました。
オーストラリアにぜひ、留学しにきて、オーストラリアの素晴らしい環境で過ごされる事を願っていま
す。オーストラリアにて待っております。
Spe ech3 内容
●氏名:小林 良正 Kobayashi Masayoshi
●プロフィール: 株式会社 Project Yoshi 代表取締役社長
“私は挑戦する エコと共に・ ・ ・ ”
皆さん、こんにちは。
まず、はじめに、全国日豪協会連合会 第 2 回総会 浜名湖大会を開催にあたり、おめでとうございます。ま
た、このような機会に、私の夢をご紹介していただきました事に、大変感謝しております。宜しくお願い致
します。
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まず、私の自己紹介をさせていただきます。私の名前は、小林 良正と申します。北海道旭川市出身。
オーストラリアの関わりを申しあげますと、大変縁がありまして、まず一番大きな縁といいますと、私は帝
京大学出身ですが、空手部の特待として帝京大学に進みました。卒業した後に、一度、自分の人生を考えて
みたいという事で、オーストラリアのクイーンズランドの空手の先生からお話をいただきまして、ブリスベ
ンの 2 年間ほどいました。ブリスベンでブリスベン空手大会、クイーンズランド州の空手の大会に出場しま
して、そこで、当時、日本人では私一人だったのですが、クイーンズランド州の外国人選手として選んでい
ただきました。クイーンズランド州の強化選手として、オーストラリアのナショナル大会に出場させていた
だいた経験があります。その後、2 年間ほどオーストラリアにいまして、日本に帰ってきた後、コンサルタン
トとしてマイクロソフトに約 7 年いました。その中にオーストラリアらしい面があり、どうしてもまた、オ
ーストラリアの事を何かしたいと思いまして、2001 年に、オーストラリアと日本の、日豪交流になるような
インターネットのコミュニティーを作ってみました、これは、現代で言うと、Mixi と同じような仕組みを、
私は 2001 年にブリスベンにてコミュニティーを立ち上げ、その後、2005 年にオーストラリアの SNS、“G’day
Mate”というコミュニティーを立ち上げ、現在、メンバーは 1500 人ほどおります。オーストラリアを大好き
な人達ばかりです。ちょうど、先々週に大阪で交流会をしてきたのですが、いろいろな場所、オーストラリ
アなどでもイベントを立ち上げております。2006 年は日豪 8 都市で、イベント同時開催いたしました。
昨年、日豪交流年という事もあり、なにか面白い事をやりたいなと思いまして、日本、オーストラリアの 8
都市で、日本人とオーストラリア人との交流会を立ち上げました。ただ 8 都市が同時開催するのはあまり面
白くないという事で、時差がない事を利用して、各地をテレビ電話でつなぎました。その時に、私自身の意
識の中で、もっと私はオーストラリアの事をやっていきたいという様な、強い気持ちにかられました。衝動
的ではあったのですが、それまで 7 年間やってきたコンサルタントの仕事を辞めて、自分自身で、何かオー
ストラリアの大きなプロジェクトを立ち上げてみたいと思い独立しました。そして昨年 7 月末に”Project Yoshi”
という会社を立ち上げました。その後、11 月に日本最初のオーストラリアンイベントを開催。これは目的と
して、例えば、観光会社、政府観光局だけの交流会はあったのですが、私はその中に、これからオーストラ
リアに留学したい高校生や、大学生を一緒になって、皆で、政府観光局の方と直接お話しをするようなイベ
ントがあれば、もっと行きたい気持ちが強くなるのではないかなと思います。その後、2007 年 1 月に、日豪
交流イベントとしてオーストラリアデーとして、東京六本木のクラブを貸切りでイベントをしました。
今回は、私の最大の目的、情熱である、オーストラリア一週の夢をお話させていただきます。お話が前後し
てしまいますが、G’dayMate という SNS ですが、オーストラリア大好きな方だけが集まって、インターネッ
ト上のやりとりは、なかなか、やはり、嘘な情報が流れたり抽象的な事が書かれたりしますが、なるべく無
くすために、信頼できる口コミ情報を集めるための目的です。仕組みは、G’dayMate に参加するには招待状が
必要となります。さまざまなコミュニティーをどんどん作る事ができ、それぞれの情報を交換する事ができ
ます。
外部の方は見る事ができません。一部の部分は公開していますが、嘘な情報、抽象的な事は書かれない様な
仕組みになっております。ここで、本題に戻らせていただきますけど、オーストラリア 一周オーストラリア
ミート ザ マイトという事で、私はオーストラリア一周のプロジェクトを企画しております。この企画の
コンセプトですが、まず一番、何をやりたいかと言いますと、オーストラリアとの友好。とにかくたくさん
の方がオーストラリアとの友好をしていただきたいです。私は、オーストラリアが大好きな人間ですので、
例えば、私の会社の同僚とか、私に興味をもった人に、オーストラリアの話をするのですが、オーストラリ
アにあまり興味がないですねと言われる方が結構多くいらっしゃいます。そこで、私は私の SNS や、イベン
トの話をすると大変興味をもっていただき、夏休みや長期休暇を利用して、オーストラリアに行ってくれた
方もいて、大ファンになって帰ってくる方が多いので、これは自分が、大々的にたくさんの人にオーストラ
27
リアを知ってもらいたいと考えた企画です。企画の中にはオーストラリアの魅力をつたえるのですが、その
中に、人々の出会いというものを含めております。私は、半年間をかけて、車でオーストラリアを一周しよ
うと計画しておりますが、その中で、毎日各地で、日本で行っているような交流会を毎日行います。もし、
交流会に参加しない時もありますが、行います。そこで、こんな人がいるのだなと感じて、自分も行ってみ
ようかなと思ってもらえる事で、和が広がっていけたらいいなと思っております。そして、目的の 3 番目に、
エコツアーが入っています。やはり自分が車でオーストラリアを一周する中で、オーストラリアの自然にと
って、少なからず、悪影響を与えるという事がありますので、このツアーに関しては、エコを取り入れてい
きたいなと思いました。最初はハイブリットカーを使用し、ガソリンの排気ガス量を下げ、オーストラリア
のユーカリの木を植林したいと考えておりましたが、現在、使用済み油を再利用して、エコカーでオースト
ラリアを一周します。メインテーマは、人、自然、動物との出会い。オーストラリア大陸にて、いろいろな
方と出会い、知られざる情報を発掘し、それを情報発信したいと考えております。では、知られざるオース
トラリアの魅力という事で、例えば、一枚の写真がありますが、これは西オーストラリアにあるエステラン
スという地域です。私は未だ訪れた事がないのですが、世界で 5 本の指に入る海として、言われている海で
す。写真をみただけで大変綺麗でして、私は毎日持ち歩いて、皆様に見せていて、行きたいという方が多く
いらっしゃいます。
他にもたくさんいろいろな情報、場所があり、発信していきたいなと思います。次の写真は、1 億 5 千万年前
の地層です。私が思うオーストラリアは、都市部兼ビーチが大変魅力がありますが、もっともっと魅力があ
る場所はこういう所だと私は思います。今でもまだ、このような地層が残っています。また世界最古の植物、
鉱物があるなど、凄い情報から、ちょっとした情報まであります。この写真は、エアーズロックの下にある
岩の写真ですが、この付近にはいろいろな岩があります。実際に私も行き、岩に登ったのですが、地形のイ
メージが変わるほど、素晴らしい場所です。ここで、エアーズロックの話ですが、私は実際に行ったのです
が、砂漠の道を走って、徐々に見えてくる姿に、何か分からないのですが、感動をよびました。
エアーズロックは、最大級の一枚岩と言われており、実は表面が地表に出ており、地下は何 m あるか分かり
ますか?実は地下には 6000mまであり、そこをもって世界で最大級と言われています。次に、オーストラリ
アにはさまざまなオーストラリア独特なデザインの道路標識があります。代表的な標識としてカンガルーが
出ます。ここを渡る時は気をつけて下さいや、ここはワニが出るので気をつけて下さいなどの標識がありま
す。私が今までに見てきた中で一番驚いた標識は、こちらの標識です。これは何の標識か分かる方いらっし
ゃいますか? 実は、バンジージャンプで落ちてくる人がいるので気をつけて下さいねという標識です。日本
では考えられない標識ですね。また他にも崖から人が落ちてくるかもしれませんよという標識。日本では、
登らないで下さいねという標識になるかと思います。このような面白い標識があります。
オーストラリアの一周のポイントとして、とにかくたくさんの人にオーストラリアの魅力感じて欲しいなと
思います。私はオーストラリアに行った事で、人生が 180 度変わっておりますので、同じような体験を、た
くさんの人にしていただきたい。あと、オーストラリアに集まる世界中の仲間と交流を持ちたいです。
オーストリアの魅力を日本に伝える事がまず基本ですが、また日本の魅力を世界中の人に知ってもらいたい
と思います。エコランプにつきましては、地球温暖化が大変騒がれる中、やはり家庭レベルからエコに取り
組んでいかなければいけないという事で、冷蔵庫、エアコンを取り替えましょうという動きがあるかと思い
ますが、実は電球を替えるだけで、かなり CO2 の削減ができると言われています。この一周のツアーで、オ
ーストラリア全土のランプを取り替えてくる事で、われわれが一周し終わった時に、面白い結果になってい
たという事がとても楽しみです。以上で、私のオーストラリア一周の夢のお話を終わらせていただきます。
ぜひ、大変面白い企画だと自信を持っておりますので、この企画を応援していただくと共に、この企画の実
現を楽しみにしていただければと思います。宜しくお願い致します。
28
★質疑応答
①オーストラリア大使館 公使 ブルース・ミラー氏
私は、3 人のスピーチをまとめてお話させていただきますが、私は 30 年前に初めて日本に来まして、
10 年間ほど日本に住む機会がありました。いつも実感したのは、草の根交流が一番大事だと思いました。
今日の 3 人のお話を聞いて、足立さん、茉穂さん、小林さんのお話を聞いて、活力あるなと感じました。
本当に、パネル角度からオーストラリアを見てくれているなと思いました。私は毎週毎週、大使館で働
いているのですが、この草の根レベルの方が大切だなと思いました。大使館の仕事を辞めて、草の根交
流をして貢献すればいいのにと感じました。本当に、このような個人個人のレベルで行っていただき大
変感謝しております。小林さんのお話を聞いて、面白い写真などを撮っていただき、今回改めて知る事
ができました。本日はありがとうございました。
②全国豪日協会連盟 事務局長 リー・マッククリントック氏
質問:G’dayMate のサイトと日豪協会の連携は有りではないでしょうか?
小林氏:日豪協会と、G’dayMate との連携の必要性を大変感じております。例えば、これだけ全国に
日豪協会があり、各地のイベント情報を取りまとめると、月に相当な数のイベントが行われて
いると思います。私は、G’dayMate で外にイベントを発信できる機能を作っておりまして、
そこに登録をするだけで、いろいろなアプローチで、たくさんのオーストラリアの関係ない方
にでも、このようなイベントを行われていますと伝えられますので、ぜひ、この様な部分を、
日豪協会の皆様、そしてこれからオーストラリアで何かしたいという方、帰ってきて、
これからオーストラリアの関係の何かをしたいという方と一緒に、草の根レベルでの交流を
していきたいと考えております。
③浜名湖日豪協会理事 井口 妙子 氏
質問:先程、お話された“エコランプ”というものは、実際どういうものでしょうか?
小林氏:今、電気屋さんでよく目につくようになったのですが、いわゆる、従来の白熱電球ではなく、
蛍光灯の蛍光を使った、電球の形をした物です。サンプルで松下電器製品をお見せしますが、
白熱灯は 180 円に対し、この電球は、800 円から 1,000 円ぐらいしますが、ただ寿命が 5 倍から
6 倍と言われており、消費エネルギーは 4 分の1、5 分の1と言われており、トータルであまり
変わらない結果(負担)がでています。最終的には、オーストラリアだけではなく、日本にも
伝えて、広げていきたいと思います。
質問:実際にどんなランプか見せて下さい。
小林氏:私は建物に入る時にいろいろと注意して見ていましたが、このホテルのロビーにも蛍光
ランプが使われておりました。オーストラリアのお話をさせていただきますと、実は、今年の
2 月に公式発表がありました。オーストラリアが世界に先駆けて、2010 年から 2011 年に
向けて、白熱灯の販売を禁止するという発表がありました。世界各国から見ると大変驚く
ニュースとなりました。
29
④岐阜世界青少年交流協会 臼井 千里 氏
とても興味深いお話を聞きまして、私は豪日協会とは 20 数年来、ボランティア活動を行ってきました。
岐阜県の臼井と申します。先ほど、リーさんがおっしゃっていた、日豪協会への必要性と、また豪日と
両団体がもっと一緒になって、また既にいろいろな活動をされている方と一緒になって、情報をもっと
吸収し、情報をもっと発信する事を、官民一体になって仕組みつくりをしていただければと思います。
Spe ech4 内容
●氏名: Adrian Ahern
●プロフィール: 全国豪日協会連盟 会長
“全国豪日協会連盟について”
ご出席の皆様、こんにちは。
このたびは今大会にお招きいただきましてありがとうございます。私ども一同は今日ここで皆様とお会いし
て親善交流および、意見交換をする機会を与えられましたことを非常に喜んでおります。
この機会に、次の4つの事項について手短にお話ししたいと思います。
1、全国豪日協会連盟設立の歴史 2、同連盟の現時点での課題と目的 3、日本側の諸協会との親善関係
の重要性、そして最後に 4、私どもの“夢”について。私が始めの3事項についてお話し、最後の”夢”
については、全国豪日協会連盟の事務局長を務めるリー・マックリントック氏に語っていただきます。
私どものオーストラリアでの経験が、日本の協会の皆様のご参考になればと願っております。
では、先ず始めに、私ども全国豪日協会連盟の歴史について。
全国豪日協会連盟は、今から約6年前に発足しました。発足までの工程には、当初の予想よりも数年長い時
間を要しました。その理由は、オーストラリアで活動していた個々の団体が、皆全国規模の組織にまとまり
たいと希望していた反面、同時に各々の独立性を維持することを希望していたからです。この問題が解決し
た約6年前、やっと全国連盟発足にこぎつけることができました。
全国豪日協会連盟の委員会はオーストラリア全土から2年ごとに選出される8人のメンバーで構成されてい
ます。
本連盟は、会員である16の団体を支援するよう尽力しています。活動に際して、具体的に留意しているの
は次の点です。
2000.
豪日の草の根レベルでの交流を促進させるアイデアを共有する機械を会員団体に提供すること。2
年毎の会合と、私たちが立ち上げた全国連盟のウェブサイトがこれを可能にしています。ウェブサイト
は、ここで、重要な役割を果たしています。各団体は、ウェブマスターを通して自由に情報を掲載する
ことができ、この情報はウェブサイトを通して一般に公開されています。これは、豪日交流に貢献した
いと願っている個々人のみならず、国内の各会員団体も、お互いに他の団体がどんな活動をしているの
かを知ることができる格好の情報交換の場となっています。また、会員団体から発行されたニュースレ
ターは、全国連盟のウェブサイトに掲載されます。
2000.
各地方の地域レベルのセンターにも注目し、より多くの若年層の参加者を募る。
30
3.
文化的なイベントを通して豪日交流の促進を図る。例えば、テーマが豪日交流に関する新刊書の発表の
場を提供する、日本酒試の夕べ、日本映画際、ワイン試飲会、そば打ち体験の夕べ(作った後は試食も
します。)などです。これらのイベントは当地の(特にシドニーとメルボルンの)日本商工会議所との協
力で開催しています。
4.
オーストラリアでは、豪日交流基金というものが設立されていて、全国協会連盟を
資金面で支援してくれています。例えば、全国豪日協会連盟のウェブサイトの立ち上げの際の費用とそ
の後の運営費用は共にこの基金から支出されています。また、新団体開設の際の必要資金もここから賄
われます。
5.
各会員団体が、全国協会連盟に小額の会費を支払い、(金額はその団体の会員数により異なります)その
見返りとして、全国協会連盟は、会員団体が催すイベントに資金面での援助をします。こうしたイベン
トは全国協会連盟の資金援助無しでは実現不可能なのが現状です。
6.
また、私ども全国協会連盟は、独自の基金をも設立しました。この基金への寄付金は全て税金控除で、
オーストラリアで日本文化を紹介する際のプロモーション支援に活用しています。
私どもにとって、全国日豪協会連合会の活動が成功することはとても重要な意味を持ちます。全国豪日協会
連盟を通して、オーストラリア側の各会員団体そして、日本側の各団体と、より一層コミュニケーションを
高めて生きたいと望んでおります。これを実現する方法は数ありますが、それについてはリー・マックリン
トック氏から話してもらうことにしましょう。
外交的な日豪関係はかなり歴史も深まり、充実してきました。私が交換留学生として初めて日本に住んだ
1976年当時、一般的にオーストラリア人はほとんど日本のことを知りませんでした。しかし、まさにこ
の年に、両国の協力と友好関係の向上を図るため、友好協力基本条約が締結されたのです。もちろん、双方
にとっての最重要事項は両国間の通商でしょう。しかし、留学、旅行、ワーキングホリデー、スポーツ等で
もたらされる人々の交流こそが相互理解を高める役割を果たしてきました。私どもは、連盟が主催するプロ
モーションやイベントを通じて、より多くのオーストラリアの人々が、日本に深い関心をよせるようになり、
更なるイベント参加や、相互交流を希望していることを強く実感しています。
ありがとうございました。引き続き、事務局長へ変わります。
Spe ech5 内容
●氏名: Leigh McClintock
●プロフィール: 全国豪日協会連盟 事務局長
“全国豪日協会連盟の夢”
こんにちは。私は、全国豪日協会の事務局長という事もあり、連盟の代表スピーチになってしまいますが、
これからお話する事は、私自身の夢、願いでもあり、きっと全国豪日連盟と日豪連合がこうなったらいいな
というお話しをします。私の夢は、日本人の友達をいっぱいつくる事です。また、日本のおいしい料理をオ
ーストラリア人が誰でもつくれるように促進する夢を持っています。すでに私は、日本人のお友達がいます
が、ほとんどの友達は仕事で出会った方ばかりで、残念ながら現在の仕事は、日本とまったく関係の無い仕
事ですので、その夢を実現するために豪日協会に入りました。私は現在、シドニーに住んでおり、ニューサ
31
ウスウェルズ州 豪日協会の会員です。シドニーは大きな街で、日本人と日本関連の交流が多い街です。
また、ニューサウスウェルズ豪日協会でたくさんの日本人と出会う事ができました。しかし、今の話は、私
自身の趣味だけの話ですが、もっと、私の持っているネットワークをもっと広く使ってもいいのではないか
なと思っております。2003 年に初めて全国豪日協会連盟 総会へ出席しました。その後、2005 年 名古屋にて
行われた全国日豪協会連合会 総会へ出席しました。この時、日本にも私と同じような考え方をした日本人が
いる事を初めてしりました。私が、ずっと探していた広いネットワークが既に出来ています。以前より、全
国の人達が集まる事が何回かあったのですが、まだどうしたらいいのか、どのようにネットワークを延長し
ていくのか、そのような問題は、解決されていないと思います。昨年の全国豪日連盟 総会 シドニー大会で
は、私が最高責任者というポジションにいましたが、あまりうまく日本から参加された方々へ紹介できず、
申し訳ございませんでした。しかし、今後、一緒に努力していけば、この問題は、克服するに違いありませ
ん。この度の浜名湖大会は、以前の大会に比べ、内容が充実していると思います。今晩、明日の付き合いの
チャンスをもっと長くしましょう。また、私の夢の一部は、非常に良い総会を開催する事です。ここにコフ
スハーバー豪日協会の方がいますが。我々の豪日協会、日豪協会も、総会を開くのは立派な運営です。しか
し、一つの総会が年に 2 回しかありません。総会のアイディアをどのようにしたら良いでしょうか?
会員のオーストラリア人が日本に来た時、日本人がオーストラリアに来た時など、寂しいと思います。もっ
と、ネットワークなどを使って、お互いの存在が分かったらどんなに素晴らしい事でしょう。私は、毎年、
日本に登山をしに来日します。例えば、その年に行く山近辺の、日豪協会の方へ連絡が取れたら幸いな事だ
と思います。例えば、石見山に 1 泊 2 日に行く時など、もし現地付近に日豪協会がいて、交流が出来たら最
高な幸せだと思います。今後、日豪協会と手を組んでいけられれば、私の夢は実現する事でしょう。
ありがとうございました。
★質疑応答
①(社)日・豪・ニュージーランド協会 三浦 靖夫 氏
北海道の山に今回、登るとお聞きしておりましたが、本日、北海道協会の方が総会に参加していますの
で、ぜひ、連絡先を交換して下さい。
②全国日豪協会連合会 会長 松山 芳夫 氏
私は、今日から会長に任命されまして、本日は、全国豪日協会連盟の会長、事務局長様の、非常にリア
ルなお話を聞く事ができました。我々も、これから、どんどんリアルに進めて行って、浜名湖大会
から動いたなと思えるようにしたいと思います。今日のお話を頭の中に入れておき、一日でも早く
実際にお話ができればなと思っております。全国の各会長は素晴らしい方達ばかりですので、
今後、いろいろな事を話し合いながら、お互い協力できればなと思います。
ありがとうございました。
③岐阜世界青少年交流協会 臼井 千里 氏
質問:オーストラリア、日本と地形の大きさも違うし、人種も違いますが、まだまだ日本は全国組織
では不明な点が数多くありますが、その点、全国組織が進んでいるかと思われます。
その点から運営方法、事務局をどのようにしたら成功していくのか、どうしたらよいのでしょう
か?お聞かせいただければなと思います。
32
アドリアン・アハーン氏:
私達は、まず日本で今までに成功してきていた物に気を配り行ってきました。ですから、もっと
日豪協会がどんどん成功していく事で、私達が成功していけます。このように、お互いが知識、
経験を交換する事で、組織化が出来ていくのだと思います。また、運営費の件を詳しく説明し
ますと、実際にかかる費用は、“会計監査費”だけです。私達は事務所を持っていません。
私達は電話、インターネットを通じての TV 電話などで、意思決定、意見交換をしています。
実は、豪日連盟は、株式会社で登録されております。ですので、毎年必ず法律上、監査の
チェックが必要となり、かなり高額の費用を要します。お金の方ですが、各協会の個人会員
から、また協賛企業で賄っています。現在は、あまりたくさんいただいておりません。以上です。
33
全国日豪協会連合会 第 2 回総会 浜名湖大会 特別セミナー 結果報告
はじめに、この度の“浜名湖から夢やらまいか”セミナーを無事に、そして盛大裏に終了する事ができま
した事を、参加して頂きました、一般の皆様、オーストラリア大使館関係者、市町村の代表者、そして、日
豪・豪日協会関係者様、また、セミナー開催へ向け、多大なるご協力をして頂きました、豪日交流基金様へ、
感謝の意を申し上げます。
このセミナーでは、”若者“が中心となれるようなステージ作り、そして、セミナーを通じて、日豪、豪日
協会との基本連係となる土台作りのきっかけとなれたらと願い、企画、開催致しました。この度の開催にあ
たり、当初の目的(セミナー内にて実際の方針答弁など)や、思惑(多数の質疑応答、意見交換など)通り
には事は進みませんでした。しかし、開催を終え、参加者の表情、反応を見る限り、いろいろな変化が見ら
れた事は、このセミナーの有無に関して、開催してよかったと実感しております。また、目的、思惑とは別
に、開催した事により、新しい発見がありました。参加者の一部では、夢をスピーチして頂いた方へ、応援
のお手紙を書いていただきました。また、スピーチして頂いた方への視線は、開催後は、違う視線(応援)
に変わっていたように感じます。若者がスピーチする機会は、たくさんありません。そのために、自分達で
どうにかしよう、どうやって行こうと、夢半ばで諦めてしまう者が数多くいる中、私達(全国日豪協会連合
会、全国豪日協会連盟)が、その機会を若者達に提供できた事に大変、満足しております。夢をスピーチし
た方々の変化として、普段、お会いする事が出来なかった方達へ、自分の名前、そして夢を知っていただけ
る機会、さらに、意見、お言葉を貰えるという事への嬉しさがあり、今後への活力が漲り、各々の“夢”実
現への自信が漲っています。このセミナーの達成度として、80 点程の気持ちを持っています。また、実際の
成果として、下記にてご報告させて頂きます。
1.日豪・豪日両協会の活動への若者メンバーの参画に、セミナーの成果がどのように結びつくのか
若者の夢を聞く、協力する事を行う。これは今まで積み上げてきた協会の中核が、行っている様で、
実際に、耳を傾けて聞く機会は少なくなっている事を感じていました。これは、循環機能を止めて
しまっている状況であり、若者が参加できるような活動が無いのが現状でした。
原因は、いろいろな協会の活動を見ると年々収縮されてきており、悪循環が、悪循環を呼ぶような
構造になっているのではないのかなと考えます。しかし、各協会が長年構築してきた経験や意見、
そして一番大切なコネクションを活かす事ができる状況は今も健在です。そこで、このセミナーを
通じ、若者が“夢”を語る、そして、両国の協会が協力し、実現する。その後、夢を叶えた者が
協会の中核となり、さらに夢を持つ若者へ協力していくという機能を再稼動する事を考えていました。
このセミナーを通じ、この単純な循環機能が、少し動き始めました。この成果は直に現れる事では
ありませんが、長い目で考えた時に、この度の機会が、大きく成果として現れると考えます。
若者がいなければ、若者が集まらない。若者がいるところに、若者が集まる。夢持つ若者が、両国の
協会を頼りにするような存在つくりを、今後もさらに広げていく必要があるかと考えます。
十分に頼りにできる素材はたくさん既に持っているかと思いますので、今後、しっかりと稼動できる
ように再構築する事が今後の課題として見えてきました。また、この”夢“に関しては、日本国内に
おいて、”夢“を持つ若者が、少なくなっているという社会的な問題を抱えております。その社会問題
の打開策として、“夢”ある草の根交流団体“日豪協会、豪日協会”の存在があってもよいのではと
新しい活動方向が見えてきました。
34
2.日豪・豪日協会のネットワーク強化に、セミナーの成果がどのように結びつくのか
セミナーにおいて、“夢”を語った若者が今後、実際に夢を叶えていきます。実際、この夢を語った
人達が、日豪、豪日協会のネットワークの掛橋となり、両国の協会が一つの“夢”を完成していく
事をする事により、実績として残り、今後の活動のネットワーク強化につながるかと考えます。
この度のセミナーでは、日豪協会はもちろんの事、全国豪日協会連盟 会長、副会長、事務局長、
コフスハーバー豪日協会とオーストラリア側の中核になる人達が参加された事は非常に大きな意味
があり、既に成果の半分は達しているかと考えます。今後、“夢”を語った若者が、実際に叶えるため
に、明確な計画が出来てきます。そこで、再度、参加された方達への協力をお願いする仕組みを作り
ます。何も知らない“夢”の計画を出されるより、“あの浜名湖の・ ・ ・ ”という状態ができてますので
その時には、既に、他人ではなく、“夢”の共有者として、親近感が湧き、協力、応援していただける
確率が高くなると予想します。既に両国の協会が、共有できる透明のネットワークという橋が出来て
おり、今後、そこに何色を塗るかという状況が開催後の状況変化だと確信しています。
3.全国日豪協会連合会が全国豪日協会連盟とのネットワーク強化のためにできること
このセミナーにおいて、全国豪日協会連盟からの”夢“、また考え方を明確に聞く事ができ、
素晴らしい機会となりました。全国日豪協会連合会は、発足間もない状況ですが、全国豪日協会連盟
は、既に数年前に発足しており、いろいろな経験から、素晴らしい意見が出せる状況にあります。
この状況を、このセミナーを通じ、全国日豪協会連合会がまず、可能な限り受け入れていく事により、
徐々に一身胴体の状況を作る事が、今後のネットワーク強化につながると考えます。
実際、全国日豪協会連合会 松山 会長が豪側のスピーチ後に、“リアル”にしていきたいと述べており、
セミナー参加した協会関係者には、豪側の“夢”を聞く機会となり、また、自分達が選出した会長の
意見をその場で同時に聞く事ができ、その動きに協力する姿勢が今後見られるかと考えます。
4.全国日豪協会連合会が今回の共同セミナーを通じ、若い世代に協力できること
上記に述べた様に、まず全国日豪協会連合会の中核になる人達、また、社会的に認められている人達
が、若い世代の“夢”を聞いてもらえた事が一番の協力となりました。若い世代にとって、“夢”を
その様な方に聞いてもらえる機会が少なくなっている今、彼たちの“自信”がつく事により、実現
していくかと考えます。このセミナーを通じ、若い世代が、もっとたくさんの若い世代が“夢”を
語る機会を作る事、そして、長年構築してきた経験、意見、コネクションを最大限に駆使する事で、
さらに多くの若い世代に協力していく事ができるかと今回のセミナーを通じて感じました。
5.日豪の両コミュニティー関係発展に、セミナーの成果がどのように結びつくか
2に述べた様に、セミナーの成果として、透明ではあるが、コミュニティー関係発展の橋をかける事
に、成功したかと考えます。今後、この橋にいろいろな色を塗るため、このセミナーでつなげた“夢”
の橋を完成させる事により、今後さらに関係の発展につながっていくかと考えます。また、今回の
セミナー“夢”だけではなく、橋をかける事に成功しているため、いろいろな方法で色を塗る事も
可能になっているかと考えています。
35
6.今回の共同セミナー・総会を通じ、組織間、個人間のつながりはどのように強化されたか
この度の共同セミナー・総会を通じ、一番大きなつながりとして、全国日豪協会連合会と
全国豪日協会連盟との同意書、締結が大きなつながりかと考えます。
締結に関して内容は非常にシンプルな物ですが、今後の発展につながる良い機会だと思います。
また、個人間では、若い世代の“夢”スピーチをしていただいた方の、ほとんどが、協会の
メンバーではなく、あえて、一般人を選んでいました。私達の活動を少しでも一般の目から、
見ていただきたい、そして今回の感想を、夢を叶えた時の感想を、いろいろな仲間に広げてもらい
たいという考えでした。今回のスピーチを通じ、夢を語って頂いた方には、参加者全員のつながり
が出来、この大会を通じ、一般参加していただいた方と、浜名湖日豪協会、全国日豪協会連合会、
全国豪日協会連盟と、つながりを持てた事も大きな成果だと考えます。
7.今回のセミナーをうけて、今後の活動について話し合ったこと
今後の実際の活動について、まだ正式な話し合いは行われていません。8 月中旬予定。
しかし、今回のセミナー事態、継続されており、実際に夢を叶える事が大きな成果となります。
今後、セミナーで語られた”夢“を実際の計画していく作業が、そして、実際の計画を再度、
参加された方へ、協力、応援のお願いを行い、実現していく事が、今後の活動となります。
その中で、いろいろな応用された活動が生まれてくるかと考えます。
8.どのような手段で、セミナーでの成果を情報として伝えるのか
まず、一番取り掛かりたい作業として、全国日豪協会連合会ホームページの設置となります。
現在、アドレスは保有していますが、表紙すら完成していない状況です。このセミナーを通じ、
私達のコミュニティーのテーマである、“情報を共有”する事で、いろいろなネットワークが生まれ、
若い世代の参加も可能になるかと考えます。そこで、全体の窓口として、連合会のホームページを
作成し、今回のセミナー“夢”について、全世界に公表し、ホームページにても視聴者へ協力、
応援を要請し、夢を叶えるサイトとして、また活動の理解、協力を促していきたいと考えています。
また、セミナー報告書を全協会、参加者へお送りし、この結果を皆様で、一つの共有した経験として、
今後の活動の和をさらに広げていきます。ホームページの作成は 2008 年 3 月 31 日までに完成する
計画にて進行中。
セミナーを終えて、一番大きな目的、目標は、タイトルの題のように“浜名湖から夢やらまいか”という、
これは浜名湖からスタートしたのだと言っていただける様な、そんな“きっかけ”作りを私達はしたいと考
えておりました。明確な事をする状況は、実際に全国日豪協会連合会において、難しい、時期尚早という感
触を受けており、いろいろな参加協会からの意見もありました。そこで、原点に返り、まずは“きっかけ”
として、いろいろな意味を込め“夢”セミナーを開催しました。開催を終え、私の感触では、参加者それぞ
れが、それぞれの思い、そして、それぞれの色が描けていける結果となれた事だと感じております。良い流
れを作る、希望をたくさん持つ事で、さまざまな場面において、良い流れができてきます。その良い流れを、
“夢”という希望をたくさん持つ事で、今後、全国日豪協会連合会、全国豪日協会連盟との連携がさらに進
展していく事を強く願っております。
36
全国日豪協会連合会 第 2 回総会 浜名湖大会 総合報告
2005 年、設立間もない浜名湖日豪協会へ、“2007 年全国日豪協会連合会 総会”開催地決定という話があり
ました。経験、知識など何も無い状況からの準備スタート。何を行えば良いのか、どのようにおもてなしす
べきなのか、いろいろと模索し、いろいろと悩みました。その結果、さまざまな面で至らない事が数多くあ
りましたが、無事に終了する事ができ、大変嬉しく思い、ご協力を頂きました全ての皆様に、感謝の意を申
し上げます。
この度の、全国日豪協会連合会 第 2 回総会 浜名湖大会を通じ、大きな出来事として、2 年に一度しか、お
会いできない、全国の理事協会の皆様とお会いする事ができ大変嬉しく思います。
また、全国豪日協会連合会会長 Mr. Adrian Ahern、副会長 Ms. Bev Hill、事務局長 Mr. Leigh McClintock と
の日豪、豪日の両協会との連携確認に関して基本合意締結が結ばれ、今後の進展につながる出来事ができま
した。また、コフスハーバー市より、市長 Mr. Keith Rhoades、GM Mr. Steven Sawtell 、同市 豪日協会の参加
により、2008 年全国豪日協会連盟 総会について、PR が行われ、一般参加者、日豪協会関係者にとって、来
年の予定が決まるような雰囲気でした。その他、コフスハーバー日豪協会メンバーは、大会期間中に浜名湖
日豪協会事務局がある、NLFarm の施設に滞在しており、個人的なつながりを持つ事ができました。また、特
別講演を行っていただいた、河合 純一氏、“夢”スピーチを行っていただいた、足立 友里絵氏、竹内 茉穂
氏、小林 良正氏と、参加者の皆様とのつながり。個々の思い、夢を語る事により、今後は、他人ではなく、
仲間として、草の根でつながった関係を今後も、草の根レベルでつなぎ、今後の日豪友好関係の発展のため
に、自分の思い思いの夢が話せられる機会があるイベント、行事を今後も継続して行っていきたいと考えて
います。その様な意味では、2 年に一度の“総会”は非常に大切であり、また、日豪間で考えれば、一年おき
に行われる両国協会の総会へ参加する事が一番、望ましい形になれるかと、今回の大会で感じました。総会
は、何かを決めるだけではなく、それぞれの思いが伝えられた時に、本当の草の根交流が生まれるかと思い
ます。今後もその様な機会を全国各地、そして、日豪間の中でも作っていただける事を切に願っております。
今回の大会総合テーマは“夢”でした。暗いニュースばかりの現代社会において、良い歳をした大人達が、
真剣に“夢”物語を語り、真剣に受け止める 。楽しい事を数多く行う事で、次から次へと進展ができるかと
思います。私達は、この大会を通じ、得たものは数多くありますが、“草の根”の強さだと感じました。若者
が“夢”を語る。その“夢”を聞いて、意見を述べていただく、そして、それが若者の自信につながりまし
た。草の根レベルだからこそ、いろいろな立場の人間をお呼びする事ができ、いろいろな方面、角度から意
見を述べていただける事は、非常に大きな力だと確信しました。日豪の両国の友好に関し、官と官の場合、
民の意見が届かない事が数多くあります。しかし、民と民、いわゆる草の根交流をする事で、官も参加でき、
そして何より、一般の人達の本当の交流が出来る事が、本当の友好だと感じました。
この大会を通じ、改良していかなければいけない点も見つける事ができました。時間の調整、そして、もっ
とゆっくりと、そして時間をかけて、参加者同士が交流できる、名詞を交換するだけではなく、いろいろと
お話ができる空間を一番改良しなければいけないと感じました。席に座り、話を聞くばかりの内容ではなく、
会議は会議、その他のイベントに関しては、ラフに、自由に出来る空間がもっともっと必要だと思いました。
日本国内の日豪協会連合会においても、各協会と連携をとり、プライベートの旅行先で協会関係のメンバー
と会う、食事する、出張先で、メンバーと会うと言った、草の根レベルの空間をたくさんつくられる雰囲気
が必要に感じました。その点を交え、この経験を報告書、また意見としていろいろな形で、伝えていけたら
と願っております。
最後に、設立間もない私達、浜名湖日豪協会へ大役を務めさせていただけました事を、皆様方に深く、
お礼申し上げます。ご協力をいただきました全ての皆様へ、素晴らしい時間をありがとうございました。
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