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12No58
鈴木の世界史B講義録
58
12_No58.jtd
ヨーロッパ世界とは
ヨーロッパとは?
≪重要≫
地理的にはウラル山脈以西と周辺の島から成り立つ。
ヨーロッパという
概念は地理学的と
いうより、宗教・
文化によるところ
が大きい。
《旧ローマ帝国支
配地域(=アタナシ
ウス派キリスト教)》
-《イスラーム化
された地域 (=西ア
ジア・アフリカ)》
+《新たにキリス
ト教地域に加わっ
た地域(=ライン川
以東、ドナウ川以北、
グレートブリテン島北部等)》
1)南ヨーロッパ 地中海性気候 夏は乾燥、高温、冬は多雨。 ギリシア・ローマ古典文明を生む。
2)西北ヨーロッパ イベリア半島北部からアルプス山脈以北、グレートブリテン島、アイルランド島等
・・・・日本の最北端よりも北にあるが、大西洋の暖流と【1:
】の影響で比較的温暖。ライン川以
東は深い【2:
】に覆われていたが、中世に開墾が進んだ。
うっそうとした森 ・・・・ヨーロッパ理解のために
西北ヨーロッパはもちろん、ヨーロッパでは、人の暮らしはすぐ森に接していた。鉄製の農具でうっそう
とした森を切り開き、農地と村を開き、町を建設したからだ。人間の手が入った村や農地や町以外は、すべ
て手つかずの深い森に覆われ、村や農地や町は、森という海に浮かぶ島のように孤立し、自由な通行はでき
なかった。例えばドイツ南西部のシュヴァルツバルトの森は「黒い森」と呼ばれる大森林地帯で今も保存さ
れている。森は、薪、木炭、材木などの資源をもたらし、枯れ葉は畑に施す肥料になるから、村や町の建設
と維持、農地における穀物生産にとって森は不可欠の存在だった。ある種の木の根や葉、樹皮は薬になり、
土地によってはイノシシ、クマ、キツネも住み、森には豚を放牧した。森は生活と密着し、多くの童話、伝
承の舞台となる親しみ多い存在だった。中世では村や町は、農業生産は、森無しには存在できなかった。こ
れは東アジアでも同様であり、わが国中世の新田集落では森がない場合は人工的に雑木林を作った。ヨーロ
ッパでは天然林の各所に植林部分もある。植林による平地林の名残は首都東京でさえ武蔵野や西多摩に今も
残り、保存平地林の中に建っている高校もある位だ。
しかし、森は怖い存在でもあった。狭い道はしばしば倒木で遮られ、猛獣も住み、犯罪者の逃げ込み場と
もなり、十分な武器、護衛なしに森で夜を迎えることは死を意味した。『赤ずきん』、『白雪姫』、『眠れる森の
美女』『ヘンデルとグレーテル』等から分かるように、森は危険な場所で、子どもが入るところではないこと
が伺われる。赤ずきんの「おばあさん」や白雪姫を保護する「7人の小柄な人々」は、何らかの事情で村や
町に住めなくなった人々のことなのかも知れない。ケルト人の神話では、森には神々や妖精がいて、時とし
て人間とも遭遇する。現代でさえ、森で妖精に出会ったと主張する人もいるくらいだ。
人々が森を自由に行き来できるようになるのは、商業の発達で町や村を結ぶ立派な道が森を横切って整備
され、銃器による護衛が可能になった17、18世紀のことである。
この文章は、鈴木法仁に著作権がある。
《2005年センター試験 第3問Aリード文》 人類にとって森は、食料や建材など生活物資の供給源であると同時に、
神話や民聞伝承の源泉でもあった。しかし、人類の歴史はその森の破壊の歴史でもある。西欧では、中世盛期に、①
農業技術の改良によって大開墾運動が進み、都市住民を養うために周辺の森が伐採された(右図参照-割愛)。中世末
期には、②戦乱と疾病と飢饉のため人口が減少し、森は少し回復したが、その後、鉱業用燃料・船材の必要や人口増
加から、森が大規模に開発されるようになる。③ 19 世紀以降、さらに森の伐採が進むとともに、急速な都市化・工業
化などによって大気と水の汚染が広まり、結核やコレラなどの病気も流行した。
3)東北ヨーロッパ 亜寒帯気候。冬は厳しい。黒海北岸の肥沃な黒土地帯は穀倉地帯。地形的遮蔽性に乏
しく外民族の侵入は容易。しばしば騎馬遊牧民が侵入した。
4)南ヨーロッパを除いて【3:
】が多い!交通路として利用され商業ネットワークの形成に貢献。
ライン川、ドナウ川、エルベ川、ヴォルガ川、ドニエプル川は頻出!
12_No58.jtd
http://sekaishi.info
http://geocities.jp/sekaishi_suzuki/
「ゲルマン人の大移動」の前に学ぶこと
【4:
古代ヨーロッパ世界の常識 ※1
】川、ライン川を結ぶ線は非常に重要(ヨーロッパを斜断)
ドナウ川 - ライン川 を結ぶ線 その北側一帯に展開したのはインド=ヨーロッパ語系の
【5:
】:牧畜と狩猟を主とし農耕も行い部族国家(キヴィタス)を形成。
ローマ
先住民族は
貴族と平民の成人男子全員が参加する民会(全会一致が原則)10CH があった。
【6:
】※5
キンブリ・テウトニ戦争(BC113-BC101)※2
優れた鉄器文化を持つ民族
トイトブルク森の戦い(AD9) 族長アルミニウス
イタリアに侵攻
一部のゲルマン人は帝政中期から官吏、傭兵、コロヌスと
(マリウスが撃退)
ローマ軍(総司令官ウァルス)侵攻
2万の犠牲を出して敗北
してローマ帝国内に平和的に移住していた。※3
ゲルマン人の大移動!(375)
従士制に基づく戦士集団
大移動後のゲルマン人は、西ローマ帝国領内に多数の
が発達、移動の条件
ゲルマン人の王国を建てた。西ローマ帝国は476年に滅亡。
が 整った。
大移動後は少数(地域によっては人口の僅か数%)のゲルマン人が、ケルト人やローマ人
※4
を支配しながら住み着いたと考えてよい。
※1 同時代の史料として、【7:
】の『ガリア戦記』
(BC 1世紀)、
【8:
】の『ゲルマニア』
(AD1世紀)、プリニウスの『博物誌』
(AD1世紀 百科事典)の3つが頻出。
※2 民族系統不明のキンブリ人、ゲルマン系のテウトニ人が、イタリア半島に侵攻、一時はローマも危うかっ
た。軍制改革に成功したマリウス(平民派 No15)が殲滅。
※3 トラヤヌス帝の記念柱(高さ 40m の大理石)にはダキア遠征の情景が 18 に分けて彫刻されているが、家財
道具いっさいを牛馬の引く荷馬車に載せて平和的に移住するゲルマン人家族の姿が描かれている。
※4 ゲルマン人の南下の目的は人口増加による【9:
】不足の解消。それまで南下できなかった理由は、
【10:
】が圧倒的な軍事力で阻止していたから。
※5 ゲルマン人侵入以前の西ヨーロッパはケルト人の世界だった。BC 8世紀~ BC 1世紀、ハルシュタットや
ラ=テーヌなどに独自の鉄器文化を形成した。5世紀からゲルマン人に圧迫され、スコットランドやウェ
ールズ、アイルランド、ブルターニュ半島などヨーロッパ北西部に追いやられた。例えばアイルランドの
ケルト系住民はゲール人と呼ばれる。
フン人とは?
ヨーロッパの人々は【11:
】を恐れた。→5世紀にはアッティラの大帝国
【11】が西進して 図2の「き」の位置に至った。理由は草原地帯の気候条件の変化で遊牧経済が成り立ち
にくくなったためであるとされている。【11】は北匈奴およびその子孫であるとも推定されてきた(匈奴
=ヴォルガ・フン説 No38で既習 )が近年疑問視されている。
ついに大移動はじまる
1)375年、【き:
】は、ついにヴォルガ川を越え、ドン川も越え、さらに西進した。まず【き】
は、【か:
】を征服した。【お:
】はこれを知って大変恐れ、翌年の376年、一族
あげて南に移動した。最初に一族がそろって集団で【12:
】川を越えて移動したのは東ゴートで
はなく西ゴートなのだ。これをきっかけに、歴史上特に有名な、ゲルマン人の大移動が始まった。ただ
し、本格的な移動は5世紀以降である。
2)ドナウ川を越えた西ゴートは、378 年、アドリアノ
ープルの戦いでローマ帝国軍をやぶり、皇帝を敗死
させた。
3)【き】の【13:
】(位 434-453)はパンノニア
(現ハンガリー)に権力を建てた。No59 地図10J
→【14:
】に敗北(451)
4)【か】の残存部分は【き】に従って移動し、パンノ
ニアに住んだが、
【13】の死後、
【15:
】
(位 493-526)の時にイタリアに侵入、ラヴェンナを首都
に東ゴート王国(493-555)を建国した。ユスティニアヌ
ス帝率いる東ローマ帝国との長期戦の末 555 年滅亡。
5)【お】はアラリック(位 395-410)に率いられ 410 年にロ
ーマを略奪※6。5世紀初め南仏に西ゴート王国
(418-711) 建国、6世紀初めイベリア半島に重心を移
しトレドに遷都 11W。711 年にウマイヤ朝に滅ぼされ
るまで存続。
※6 このローマ略奪の衝撃が教父アウグスティヌスに『神の国』を執筆させた 08A とされている。
以上の(4)(5)はなぜか入試頻出である!何度も読んで図2とともに暗記せよ。
6)ゲルマン人が移動したあとのエルベ川以東とバルカン半島には、【16:
】が進出した。
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