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情報時代の民主主義制度―1930 年代と 現代

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情報時代の民主主義制度―1930 年代と 現代
情報時代の民主主義制度―1930 年代と
現代
東京電機大学大学院理工学研究科
情報社会学専攻
川島祐一(04SML13)
概要
本稿は、21 世紀の現代社会をトランスナショナルな視座から、情報社会史として研究
する必要がある、という立場に立つ。そして、情報時代の民主主義制度を考えるにあ
たり重要になる事項を述べる。①情報社会のなかの問題点と、認識と価値判断。②現
存の民主主義は、ファシズムを乗り越えて復活したものであるから、1930 年前後の日
本とドイツを検討する。③現代民主主義の展望を述べ、民主主義国家には何ができる
のか、何をなすべきか、明らかにする。④一国家における国民のための民主主義でな
く、すべての自然人=地球上の全人類が、民主主義制度を構築するための視点とい
うものはどのようなものであるべきか論証する。以上の点から、運動の継続性により、構
造変換をしながら、動きのなかで安定的に機能する、個人にとって無理のない連合を
前提にした情報時代に相応しい民主主義制度へと向かうための指針を記す。
Abstract
I intend in this paper that we should study the present society of 21 century as the
information society, and should emphasize the transnationl point of view.
And I
describe important matters about the democratic system of the information age, as
follow. 1.Prpblems in information society, a recognition and a value judgment.
2.Because living democracy has got over fascism and revived, I examine democracies
of Japan and Germany of around 1930. 3.I describe the modern democratic prospects,
and clarify what we should do in a democratic nation. 4.I prove the viewpoint from
which not nations but all natural persons, all human on the earth can build a democratic
system. After all I write down an indication to go to the democracy system deserving to
the information age, in which we continue democratic action and convert structure, and
in which many individuals associate together without unreasonableness for stability.
i
目
第1章
次
はじめに ――――――――――――――――――――――――― 1
第2章 現代社会考 ―――――――――――――――――――――――― 4
2.1
情報社会のなかの問題点 ―――――――――――――――――― 4
2.2
認識と価値判断 ―――――――――――――――――――――― 5
第3章 現代民主主義の展望 ―――――――――――――――――――― 8
第4章 1930 年代前後の日本とドイツ ――――――――――――――――― 9
4.1
民主主義イメージの変遷 ―――――――――――――――――― 9
4.2
1930 年代前後の日本 ――――――――――――――――――― 12
4.3
1930 年代前後のドイツ ――――――――――――――――――― 15
第5章
情報時代の民主主義制度 ―――――――――――――――――― 20
第6章 民主主義国家には何ができるのか ――――――――――――――― 23
第7章 おわりに ―――――――――――――――――――――――――― 27
謝辞
註
―――――――――――――――――――――――――――――― 30
――――――――――――――――――――――――――――――― 31
ii
第 1 章 はじめに
20 世紀は二度の世界大戦を経験した。とくに、第二次世界大戦はアウシュビッツ・
南京大虐殺・広島や長崎への原爆投下に象徴される世界史的悲劇を記憶した。一
方では、電気通信技術をはじめとする、テクノロジー・メディアのめざましい発展がお
こり、第二次世界大戦勃発までに新聞・ラジオが、そして第二次世界大戦以後にはテ
レビが全面展開し、情報化時代としての大衆社会であった1。
戦後は、冷戦とよばれる時期が長く続いた。この冷戦時代が続くなか 1960 年代に
なると、資本主義の国々の学生たちは世界規模で闘争の時代を迎えた。この時期の
出来事として注目しておきたいのは、熱い戦争としてのベトナム戦争(1965 年)が生じ
た点である。この戦争に対してわが国では「ベトナムに平和を!市民連合」いわゆる
べ平連などの運動がおこった。この戦争は、アメリカがソ連よりの北ベトナムにたいし
仕掛けておこったのであった。この戦争は、南北ベトナム民衆の底力により、アメリカ
が初の敗北をきした出来事として知られる。アメリカは民主主義国家として世界的に
認知されていたが、ベトナム民衆もデモクラシー・パワーによりアメリカに勝利している。
すなわち、どちらも民主主義を根底においているのである。違いとしては、次のことが
いえる。アメリカの場合は独立以来の、民主主義の歴史としては長い伝統をもつ制度
としての民主主義であり、北ベトナムの場合は運動・思想としてのそれであった。
このような戦後時代のなかで、上のような市民運動に並んで学生運動も、1980 年
頃までには収束し2、社会主義が、また学生たちの精神的支柱であり絶対的な「価値」
であったマルクス思想が「忘れられる」時代になっていく。あるいは、グランドセオリー
が崩れてしまい「価値」というものを探さなければならない時代になった。
そして 21 世紀の今日、世紀がかわったからといって突然世界が変化するわけでも
ない。絶対的な「価値」を失ったまま 20 世紀からの継続であるから、すでに多くの課
題をかかえている。地球温暖化に代表される環境問題。少子高齢化による人口、高
齢社会問題。それから本稿で論じていくユビキタスという言葉で表される情報社会、
それにおける「価値判断」や「民主主義制度」などである。
そのような現状をふまえ、本稿では合法性(正義)でなく整合性(手続き)としての民
主主義、善悪の基準ではなく制度としての民主主義について、「情報」や「倫理」をキ
-1-
ーワードに考察したい。
その考察のための立場・視座を述べておく。20 世紀は〈国家対国家〉関係の世紀
であり、その関係の限界をあらわにした世紀であった。21 世紀においても国家の権限
や役割は次第に減少していくと思われる。そのような時代には、国家を越えた、国家
の枠組みを離れた人間どうしが直接間接に交流するいわゆるトランスナショナルな視
座から考えることが重要である3。国際社会を形成する単位は国家でなく個人ないし
NGO(Non-Governmental Organization)や NPO(Non-profit Organization)のような共
同体であるとしたい。20 世紀は〈国家対国家〉の時代であり、科学技術と情報メディア
を掌握した勢力が優位に立ち国家を動かすに至るほどの力を持つ傾向にあった。こ
の科学技術と情報メディアを掌握した勢力が優位に立つ、という傾向は 21 世紀のトラ
ンスナショナルな時代状況のなかで、いっそう強まるだろう。本稿ではこの視座から、
現代史を情報社会史として研究する必要がある、という立場に立つ。
さて、本論における議論の組み立ては次のようになる。第一に、国際社会を形成し
ようと自覚する個人(自分で考える人)であるためには、自分の視野を世界へと向ける
ことが重要である。しかし、見れば見えるはずなのに、見ようとしないがために見えな
かったり、見えているのに見ることができなかったりするのではないかとの思いがあり、
それは情報社会における問題点である。そこで、その情報社会のなかの問題点を二
点挙げ、それを考えるにあたって必要な認識と価値判断の方法を検討する(2・3 章)。
第二に、マクファーソンの民主主義類型にみられる「参加民主主義」を出発点として、
現存社会において求められる民主主義制度を検討する(4 章 1 節)。さらに第三に、
戦前の民主主義は、1930 年代にファシズムによって、その成立基盤とされ踏みにじら
れたが、戦後それを乗り越えて復活した。現存の民主主義はその復活した民主主義
である。そのため、われわれは 1930 年前後の日本とドイツを検討する必要がある(4
章 2∼4 節)。次に、4 章のファシズム・ナチズム考察を通して導き出された結果をもと
にして、情報時代の民主主義について述べる(5 章)。そして最後に、現存社会で起
こっている事件を通して民主主義制度をとる国家には何ができるのかを検討する。そ
こでは、政府開発援助(ODA=official development assistance)の現状の一例を手が
かりにする(6 章)。これらにより、一国家における国民のための民主主義ではなく、す
べての自然人(all natural persons)=地球上の全人類が、民主主義制度を構築する
-2-
ための視点というものはどのようなものであるべきか論証したい。
-3-
第 2 章 現代社会考
2.1 情報社会のなかの問題点
ユビキタス社会としての現在、ますます何が現実であり何が虚構であるのか判断し
がたくなってきている。例えば、報道写真一枚を考えてみてもわかるが、そこに写って
いる「事実」には、そのカメラマンの意図が組み込まれている。その極端な事例として、
「やらせ」はたびたび問題になるが、現実の一側面であるのだ。その枠から外れたとこ
ろに、写真とはまったく別の現実があることも当然考えられるということである4。
「やらせ」つまり、情報操作の側面からこれまでの歴史を振り返ったとき、すぐに思
い浮かぶのは 1930 年代前後のシンボル闘争の時代、つまりファシズム隆盛期であり、
とりわけナチズムの時代である。このナチズムの時代については 4 章で考察する。
しかし、ナチズムの時代以上に情報があふれ、メディアに囲まれて日々生活してい
るわれわれは、与えられた情報についてきちんと価値判断できているのか。残念なが
ら判断できていない。現代は、ナチズムの時代に勝るとも劣らない「やらせ」=情報操
作の時代なのである。以上が、第一の問題である。
第二に、戦争体験のない人、特に戦争体験を伝え聞くこともなくなった人々は、メ
..
ディアから流れてくる戦争映像を見ても、それは「戦争映像」として見ているのではな
いか。体験・経験の差は重要である。現代社会においてわれわれがするのは、カメラ
などの機械により媒介された経験である。つまり、カメラマンなどの、他者の視線を通
してトリミングされた経験である。例えば、カメラマンの撮った写真・映像をわれわれは、
新聞・テレビを通して見る。1965 年のベトナム戦争も、〈その場〉での直接体験として
ではなく、新聞・テレビを通して見た人がほとんどだろう。2001 年の 9・11 同時多発テ
ロにしても、その後の、アメリカのアフガニスタンへの攻撃でも、イラク戦争でも、やはり
同じだろう。
確かに、新聞を読むのも、テレビを見るのも、直接体験であるに違いない。しかし、
〈その場〉にはいない。記号化された情報ツールを通した情報的体験が多くの場を占
めている。戦争映像を見ているはずなのに、そこに必ずあるはずの遺体は映し出され
ない。「解放」に歓喜する人々ばかり映し出された。この例にとどまらず、情報的体験
の機会が多くなるほど、直接体験と間接体験が曖昧になる。この二つの体験の境界
-4-
線を決めようなどとは、ナンセンスである。けれども、直接体験にきわめて近いものが
日常生活に溢れている。この現状は確認しておく必要がある。あたり前のことだが、メ
ディアにより流れてくる情報、またある事件を知るときには、すでにそれは過去につく
られた情報であり、過去に行なわれた事件になっている。それらすべては歴史の一部
だ、ということができるが、歴史は過去そのものではない。情報も歴史も過去がなけれ
ば知ることはできないが、純粋に過去そのものではないのである。意識的に無意識的
に選ばれたものなのである。実際の戦争映像を見ても、それは戦争映画となんら変わ
りない感覚でしか捉えられないのではないか。インターネット・バーチャルリアリティー
により、〈その場〉の直接体験はますます減っていく。メディアに多くをおっていく。
ブーアスティンは、いまや古典となった著作『幻影の時代―マスコミが製造する事
実』において以下のようなことを述べている。「(事件の)発生は、報道あるいは再現メ
ディアのつごうのよいように準備される。『その事件は本当か?』よりも『その事件には
ニュース価値があるか?』の方がずっと重要である」5。この著作の副題にもあるように、
世の中に流れてくる多くの情報は、マスコミが創造する事実であり、マスコミが価値を
見出したものであるのだ。現代社会においても報道の仕方は変わりがないように思わ
れる。では、この選別されている価値とは一体いかなるものであるのだろうか。
2.2 認識と価値判断
われわれは日々の生活のなかで価値という言葉を頻繁に使う。だが、価値というも
のを意識せず、無意識にもしくは漠然と捉えているのではないか。そのため、価値と
は何か、と問われると答えに窮するのではないか。問われなければ知っているような
感じがする。けれども、あらためて問われると「知らない」と答えてしまう。いや、知らな
いわけではない。言葉で表そうとすると、分からなくなるというのが正しいだろう。しか
し、現代社会において世界は無価値の集合体であるとは誰も思わない。「価値」という
ものの存在を信じている。
そこで、価値とは何か、どのように認識するべきものなのか、という問題を考えてみ
よう。われわれは、価値とは無媒介で存在せず、人的関係により存在すると考える。そ
の意味で価値とは実態ではなく関係によるものである。それゆえ「価値」〈そのもの〉に
対する議論は成り立たない。議論可能なのは、価値を形成する要素でしかない。価
-5-
値と同じ意味で捉えてこそ認識できるものは、世の中に多くある。それは個人の概念
として完結できないもの、例えば、自由・平等・平和などである。あくまでシンボル的な
ものなのだ。シモーヌ・ヴェイユ(1909−43)の言葉を借りれば「価値判断はいわば思
考ではなく事物にゆだねられる」6ものであって「価値」等は、その言葉自身には何の
価値もなく、事物があってはじめて派生してくるものなのである。ただ、必ずしも目に
見える必要はない。「自由・平等・平和」、この平和を友愛と読み替えれば、フランス革
命の理念である。そのフランス革命でのシンボルは国旗とラ・マルセイエーズなどの
歌であった。歌は目に見えないが、シンボルとして十分機能した。大事なのは目に見
えるかどうかではなく、不安を解消し、信じているものを自覚を持って、安心して信仰
できるかどうかなのかもしれない。
多くのシンボルは複合的である。ハトは平和の象徴とされる。しかし、ハトは「平和」
〈そのもの〉ではない。われわれが、ハトは平和の象徴だと意味づけるのだ。そのよう
に意味づけされることにより、ハトは平和の象徴になる。そしてハトを通して、平和とい
うものが立ち現れてくる。平和はある、あるのだから人それぞれに平和があり、世界平
和を望む。多くの人は、この立場に立つだろう。しかし、どこかに不安がある。だから、
ハトを通して目に見えるものを平和の象徴にした。そこに価値を見いだしたのである。
なるほど、「価値」とは情報の量ではなく質である。それに対する内的動機、意義、
目的意識を持つことによって価値があるということになる。すなわち、経験と感覚を通
じてわれわれが習得した観念である。つまり、経験(社会的なるもの)と感覚(一見、非
社会的なるもの)の持つ重要さを認識する、ということである。すると、一見非社会的な
感覚も、社会的規定を受けていることがわかる。いずれにせよ、感覚的現実は、社会
的生活過程のなかで形成されるものだと把握して、はじめて自覚することができるの
だ。
このことを確認せずに漠然と使っていると、情報の量に踊らされてしまい、暗黙のう
ちに選び取られた価値原理を「価値」あるものと捉えてしまうという誤認をおこす。政
治的な観点からみた場合には、権力的なものが裏で操作していることがあり、全体主
義を引き起こす恐れがある。このことは、先に挙げた自由という言葉が深く関わってい
る。先の繰り返しになるが、われわれは自由という言葉を頻繁に使う。ところが、この言
葉は実に捉えにくい。「してよい」という自由(消極的自由)は、「してはいけない」という
-6-
反自由が裏面にある。その「してよい」は誰かの許可を取っているというのが、ニュア
ンスや状況によって分かりやすい。両面が予め見えていて、自由の範囲をある程度
掴める。ここまではできる。ここからはできない、と。そのため、特に注意を要するのは、
自分で「する」自由(積極的自由)である。これは、一見身分的(社会・環境)拘束から
まぬがれた自由のようである。実際には、身分的拘束からまぬがれることはないのだ
が、まぬがれたような感覚を受けることはある。それは、片面のみしか見えない状況に
おかれたときにそうなるのだ。言葉を変えて「不自由」とした方が考えやすい。不自由
と感じるのは、不便なときだ。不便さを感じなくなるまで、物でも情報でも与えられると、
やがて便利を超えて、身体感覚が自由を感じ始める。主体性を放棄するのだ。自分
で何かを決めて、何でもできるよりも、自分が何もしなくても不便を感じない方が、より
自由だと感じるようになる(詳論は後章にて)。いずれにせよ、前者の認められる・認め
られているといった権力(自分よりも「力」のある他者)から与えられた自由も、後者の
身分的拘束からの自由も、どちらも「自由」ではある。しかし、批判を要する自由なの
だ。それは良い・悪い、の価値基準ではなく批判的思考のあとについに〈わたし〉にと
っての自由を獲得するのである。この意味での価値を捉えたときにこれらが、自由な
社会を形成するのだ。このように考えていくと、現代社会はわれわれが社会を見誤れ
ばすぐに独裁システムの誕生する土壌が用意されている場である、とはいえないだろ
うか。このことについて、次章で考えてみる。
-7-
第 3 章 現代民主主義の展望
われわれは、視覚により「限られた事実」を獲得してしまうと、目に見えない事実、あ
るいは目に入らない事実を見落とすことが多い。またこうもいえる。見たくないものは
目の前にあっても見えないし、目に入らないのだ。このことを意識していないと、情報
の表面しか捉えられず、例えば、民主主義の基本的な行動としての選挙活動に行き
投票するということで、政策決定に参加している気分であっても、実は大衆的に流さ
れているだけであって、情報にきちんと合意できる人間であるとはいえない。民主主
義は、正しさでなく、妥当性を導く多数決を重んじる制度である。そのため、誤った判
断であっても、数さえ集まればその方向で政策が決定してしまう可能性が高い。その
ため、それぞれ情報を自覚して捉え、情報に合意することが重要である。
だからこそわれわれは、情報社会の現在に求められるべき民主主義、「情報合意
民主主義」にたどり着かなければならない(4.1 を参照)。そこへたどり着くためには、
デカルト(1596−1650)の「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」7との直接的・直
観的な認識を頭に入れ、時にそれを想い起こし、「大衆化」を防ぐ必要がある。つまり、
〈わたし〉を社会における一存在者としてではなく、社会の外に存在する人間として捉
えることが重要である8。価値判断の基準を主観におくということだ。一般的に認識に
おいて主観は、価値的に真理判断基準に関して、客観と比較して一段低くみられる。
しかし、情報時代においてそれは本当に正しいのか。それ以前に、主観と客観とは
まったく別のもの(対概念)との考えがみられるが、そもそもそこからして疑わしく思う。
両者は相互的な関係にあるのではないか。そのことからも主観は少なくとも客観と同
等、場合によってはそれ以上でもありえるとして考えてみる必要があろう。一義的な決
定された客観性のみで判断してはいけないのだ。そこで、われわれは一度主観を客
観よりも高く評価し、理性的なものの考え方から、感性的なものの考え方を独立させ、
その両方の見方を統合して一つの考えとするように心がけたい。
例えば、自己責任という言葉がある。客観性に支配された社会においてそれが果
たせるだろうか。また、主観性のみにおいてそれが果たせるだろうか。〈わたし〉が存
在するからこの問題が起こるのである。〈わたし〉がこの問題を考えなければならない
理由はここにある。そうであるから、主観によらねばならない。つまり〈わたし〉が社会か
-8-
ら存在しなくなれば、〈わたし〉はこの問題を考えることはできなくなる。社会にルール
があってそれを守っているから〈わたし〉が存在しているのではなく、〈わたし〉が存在
しているから〈わたし〉は社会にルールがあることを知るのである。個人どうしが自己の
責任で社会と契約を結べばよいのだ。これはなぜか。〈わたし〉がいるということは社
会があるからだ。そこで、〈わたし〉は自分自身だけでなく、他者を説得できるかどうか
対話をしなければならない。この対話こそが社会を形成し、動かすための力である。
つまり、〈わたし〉とは、考え、対話をし、社会を動かす〈力〉「そのもの」なのだ。
さて、われわれは、互いにコミュニケーションをとって理解しあう。主観と客観の結び
つきとしての主観結合により社会を形作っていく。この過程で得られた合意を客観と
呼ぶなら、主観は客観の基礎ということになる。主観は客観なしにもありうるが、客観
は主観なしにはありえないのである。このことから、客観は主観結合に従う。そのため、
状況における主観の更新により、客観も絶え間なく更新されていく。更新されていくも
のだから、客観それ自体は安定性を持つとはいえない。しかし、主観結合が機能する
限りにおいて、システムの安定性は保たれる。別の言い方をすれば、客観はすべて
〈純粋客観〉(〈時〉など、われわれの意志で左右できないもの)であると捉えてはいけ
ない。〈純粋客観〉に対して〈合意客観〉(〈時間〉など、何時間何分何秒と決定したこ
と)とでも呼ぶと良い客観があるのである。その意味において、われわれは認識者に
はとどまれないのである。しかし、情報社会としての現在、対話のない社会になってい
る。
この「対話」による社会形成について一言しておくと、理想を求めているだけではな
いので、場合によっては生きにくい人もいるかもしれない。それというのも、現代社会、
特に日本は、本音と建前の社会であるからだ。皆が「正しい」ことを言うとは限らない。
また、「正しい」ことを言うことが必ずしも生きやすくするものではないからだ。
これらの意味で、ヤスパースの言葉はよく現実を見抜いているといえる。「たとえ明
白な真理であっても、それを彼独りだけで見て、他の人びとと語りあうことがなければ、
このような真理に対しても疑いがはじまるからである。強大な環境の持続的作用から
制圧を受けると、独りだけでは、この上もなく馬鹿々々しいことを真実だと思うことがあ
るように見える」9。
-9-
第 4 章 1930 年前後の日本とドイツ
4.1 民主主義イメージの変遷
ところで、ここまで現代的、個人的問題を中心に考えてきたが、われわれが現代と
比較している 1930 年代とはどのような時代であったのか。1 章において、1930 年代は
ファシズムによって、民主主義がその成立基盤とされ踏みにじられたことを、すでに述
べている。本章では、前章とは少し話題をかえて、なぜそのようなことが起こったのか、
そのことについて考えていきたい。
われわれの考察の対象は主にドイツであるが、その当時の日本も無視することはで
きない。なので、確認する。なぜなら、言論統制の厳しいファシズム体制下において
自分の信念を放さず主張し続けた注目すべき人物がいるからだ。
ただし、それに先立ち、マクファーソンにならって、民主主義イメージの変遷につい
て瞥見する。さらに、「ファシズム」というものを簡単に述べておく必要がある。なぜなら、
そのことは 1930 年代と現代を考える上で避けて通れないものだからである。
さて、まず、われわれが現在採用している制度でもある民主主義について考えて
みたい。民主主義という言葉は、デモクラシーの訳語である。その語源は、ギリシア語
のデモス(民衆)とクラティア(支配)に由来している。マクファーソンが述べるには、
「以前には民主主義は悪い言葉であった。ひとかどの人物ならだれしも、人民による
支配、ないしは人民の大部分に従う統治という、その本来の意味での民主主義は、
悪いものである―個人的自由と文明生活の一切の恩恵にとって致命的なものになる
―ということを知っていた。歴史の最初の時代から約百年前までは、これが知性すぐ
れた人たちのほとんどの立場であった。それから 50 年ばかりのうちに、民主主義は善
いものになった」10。
なるほど、民主主義は支配権力を民衆が握っており、その意味では、支配者と被
支配者が同一であることを前提とした一つの政治形態であった。それは社会思想の
一種である。社会思想は現存社会制度に対して採るべき態度を表現するものである。
社会状況により様々な概念と結びつく。マクファーソンの類型によれば、共産主義型、
低開発型、自由主義的、防禦的、発展的、均衡的、参加が挙げられる11。
これらのマクファーソンの類型をいちいち検討することはここではしない。今回注目
- 10 -
する民主主義は「参加民主主義」である。直接または間接に「決定への参加」を意味
し、この参加の原理を徹底していくと「参加民主主義」になる。この言葉は、マクファー
ソンが使用している12。現代社会に生きるわれわれの感覚としては、民主主義であれ
ば誰もが参加できるのが当然ではないか、と思うかもしれない。しかし、上に引用した
マクファーソンによる民主主義の過去を思い返してみれば、そうではないことに納得
できるだろう。「決定への参加」ができることは当たり前のことではないのである。それ
をもとにして考えていきたい。
ただ「参加」というと、すでに理念により形成された参加する主体があり、そこに入っ
ていく、というポジティブな概念がみられると考えることもできる。このことを前述したベ
トナム戦争の例で説明しておく。アメリカ的な民主主義であっても「政治への決定」へ
参加するが、より正確に述べれば、参加の仕方が、「政治での決定」に同意しそれに
納得できるかどうかとのことである。一方、北ベトナムのような運動としての民主主義で
あると、社会から出発し、そこから発生した理念・信念を「政治の場」へ投げかけ「政治
への決定」に影響を多分に与えるかたちで参加するのである。
しかし、マクファーソンの「参加民主主義」をそのまま使うとなると、われわれの意図
するものとは異なるところがあるので、本稿ではこれを「情報合意民主主義」と呼びか
え、それに統一する。なぜなら、われわれの意図するものは、情報時代における民主
主義制度であり、いかに情報を判断し、政治の場に参加していくかということであった
からである。それにより、政治への国民の参加とそこでの正しさでなく、妥当性を導く
多数決を重んじる制度について考えていくことが目的であるからだ。
次に、ファシズムについて述べる。ファシズムは、1870 年代イタリアで左右の急進
的セクトが同盟の意味で使った「ファッシオ」fascio に由来する。広義には、第一次世
界大戦後の 1920 年代から、第二次世界大戦が終結した 1940 年代にかけて、全世界
的に影響を及ぼした強権的・独裁的な、全体主義的思想である。ファシズムの主要
国におけるファシズム勢力は、ヨーロッパではイタリアのファシスタ党、ドイツのナチ党、
スペインのファランヘ党などであり、また日本についても 1936 年の 2・26 事件ないし
1940 年大政翼賛会成立以降の「天皇制ファシズム体制」が挙げられる。しかし、ファ
シズムとひとくちでいっても、性格は多種多様であり、一部思想・制度の面で共通する
特徴があるとしても、ここでは詳しく検討することはできない。そこで、本稿ではヨーロ
- 11 -
ッパ・ファシズムの一つドイツと、アジア・ファシズムの一つ日本について述べながら、
ファシズムそれ自体の性格というよりも、その時代状況を中心にして、現代民主主義
を考えるにあたっての要素を抜き出すことにしたい13。
4.2 1930 年前後の日本
本節では、1930 年代前後の日本について検討していく。ここでは、第一次世界大
戦の影響の残る大正時代からファシズム期の 1930 年代にみられる知識人を述べて
いき、それにより当時の時代状況を確認する。
さて、大正時代はデモクラシー運動の昂揚期であった。そのような時代の自由主義
者として、長谷川如是閑(1875∼1969 年、本名:万次郎)がいる14。彼は、政治学者丸
山眞男にも多大な思想的影響を与えた人物である。東京法学院(現中央大学)で学
んだ後、日本新聞社にはいり、『日本及日本人』の執筆者として活躍した。後に『大阪
朝日』新聞の記者となる。大正デモクラシー後期の急進的自由主義者として活躍した。
『現代国家批判』『現代社会批判』『真実はかく佯る』や、ファシズム期には、『日本ファ
シズム批判』を著している。
では、日本近代デモクラシーの先駆者として、〈その場〉で大正デモクラシーを体験
した、長谷川の評価はどのようなものか。彼は、大正の日本は、明治のそのころとは比
べものにならないほど、産業、経済、学問、技術その他文化一般において進んだが、
「やがて昭和の反動時代に逆転した歴史は、その半世紀あまり前の私の生まれた頃
の、明治 10 年前後から 20 年代にわたる時代の歴史のくりかえしであった」15とする。
そして、昭和の時代に反動を引き起こした原因として、以下のように述べる。日本は、
「大正時代になってもその近代的扮装に包まれている実体は、依然たる中世的神経
中枢に支配された肉体と内臓とをもった、封建的生命体」16であった。なかなか厳しい
評価であるが、それが事実だろう。長谷川はそのように述べるが、以下のようなものも
ある。「デモクラシーは形式的に進展したが、内容実質的には徹底せず、再び国家主
義の擡頭をもたらすことになるのである。しかし、この大正時代のデモクラシー活動を
過小評価してはならない。なぜならば、第二次世界大戦後の民主主義はこの時代に
培養させられたものに基礎をおいているからである」17。
それでは、国家主義の台頭をもたらした反動について見ていきたい。その反動の
- 12 -
系統の一つに、軍部と結びつき軍部の革新イデオロギーの中核になった人物、大川
周明(1886∼1957 年)、権藤成卿(1865∼1936 年)、北一輝(1883∼1937 年)らがい
る。大川には『日本及日本人の道』『復興亜細亜の諸問題』などの著作がある18。また、
北には『日本改造法案大綱』『国体論』などがある。そして、権藤には『農村自求論』
『自治民範』『自治民政理』などがある19。
ここで、国家主義者ないし超国家主義者はどのような発言をしていたかを大川周
明の『日本及日本人の道』により見ておきたい。大川は日本国家の特殊性を強調し、
現実の国家を「全般国民の道徳的意識の客観的実現であります」20とし、「道徳的理
想の実現は、国民個々の人格に待つと同時に、歴史の全般過程によって換言すれ
ば歴史の与えられたる過程に於ける現実の社会状態によって、必然的に制約を受け
る。これ明徳と臣民との不可分離なる所以にして若し其の一面に偏するならば、到底
至善の実現を望むべくもない。かくて国家の革新は啻に避け難きのみならず、日に
之新たにし、日々之を新たにすることによって、国家の本質を、従って吾等自身の本
質が完全に実現されて行く。日本と日本人とは、向下する時は共に向下し、向上する
時は共に向上する。功過の責任は、両者等しく之を負わねばならぬ」21と、国家と個
人のわかちがたき関係を述べ、また次のように述べている。「国家の経済的生活は狭
義に於ける個人の場合の道徳に相応する生活であります。即ち国家が自然即ち国土
を如何に処分して、それを如何なる方法を以って、国家全般の為に最も有効に役立
てるかと云うことが其の根本問題であります」22と、国家による統制経済を主張する。
これら国家主義ないし超国家主義を敢然と批判した人物として、河合栄治郎(1891
∼1944 年)がいる23。河合は、東京帝国大学法科大学で学んだ後、農商務省の官吏
になる。その後官界生活を辞め、東大助教授となり学究生活にはいった。河合には
『時局と自由主義』や『自由主義の擁護』などの著作がある。また、『トーマス・ヒル・グリ
ーンの思想体系』なども著している。トーマス・ヒル・グリーン(1836∼1882 年)とは、イ
ギリスの哲学者であり、「英国理想主義」を掲げた人物である。河合はその「英国理想
主義」を称えている。グリーンの理想主義・人格主義を徹底的に研究し、揺るぎない
思想体系を築きあげた。
河合は決して平穏な人生を送った人物ではない。「言論の自由を叫んで言論の自
由を奪われた一人の理想主義者」24であった。なぜなら、この時代の日本は、1932 年
- 13 -
には 5・15 事件が起こり、また美濃部達吉の天皇機関説問題も起こったからだ。この
美濃部事件に関して河合は、「若し自分の如きが今此の時に云わなかったら、誰が
云うべきであろう。後のことは運命に任せて、朗らかに微笑を浮べて待ってゐればよ
いのだ」と日記に記している25。彼の掲げる自由主義を、1934 年に執筆した論文「現
代における自由主義」において見ておこう。「自由主義は思想上の自由を掲げること
に於て、一方に於てファシズムの言論圧迫に對立し、他方に於てマルキシズムの無
産者獨裁主義に對する」26と述べている。この一文から分かるように、河合のグリーン
の理想主義に基づいた自由主義は、単に国家主義(ファシズム)を批判するにとどま
らず、マルクス主義をも批判の射程に入れている。
それ以後国家主義の風潮は日々強くなっていき27、1938 年 10 月河合の著作は安
寧秩序を乱すものとして発禁処分を受けている28。翌 39 年 1 月、東大をも追放された。
時の東大総長、平賀譲が河合に辞職を勧告した理由は、「教授としての資格を欠く」
であった。しかし、この辞職勧告理由は、事実に反しているようである。河合門下生創
建の「社会思想研究会」の事務局員を務めた遠藤欣之助は、教育者としての河合を
以下のように表している。「研究者であるとともに学生を愛することでは人後に落ちな
い生来の教育者」、「学生とは夜を徹して語り合う河合」29。また、河合は日本評論者
から編著として、『学生と教養』、『学生と読書』などを刊行し、単著として『学生に与う』
を刊行している。これら多数の著作の一冊でも読めば、辞職勧告理由は、事実に反
していることが分かる。このように事実に反する理由で大学から追放され、著作の発
禁処分を受けても河合は、美濃部事件のところで引用した信念を抱き続け、自由主
義に関する自説の撤回を拒否したのだった。
その後、河合は裁判闘争に入っていく30。河合は著作の発禁処分を受けたというこ
とにおいて、確かに、言論の自由を叫んで言論の自由を奪われた一人の理想主義
者であったが、公判廷においては完全に自由を奪われてはいなかったようである。な
ぜなら「石坂裁判長は正義に強いひとのやうである。(中略)被告を飽くまで語らしめ
ようとされた。實際十二囘の訊問で、私に分つたから簡單にとか、もうよろしいなどと云
つたことは一度もなかつた」31とし、「一生涯の中に一度は經験して置いて、よいことで
あつたと思ふ」32と述べている。1940 年 10 月に出た一審判決では無罪の宣告を受け
た。この公判の感想は裁判長にではなく、体制への皮肉を含んでいるようにも思える
- 14 -
が、注目に値する33。
そうであっても、自由主義の受難時期であったことは確かである。戦後民主主義は
国家主義を乗り越えて、復活したように見える。しかし、現在『新しい歴史教科書』を
つくる会など、姿を潜めていた国家主義が再び姿を見せ始めた。このような時代に河
合の「唯一筋の路」という信念に基づく思想は、現在見直されなければならない思想
の一つであることは確かである。
4.3 1930 年前後のドイツ
次にドイツである。ヒトラー政権成立までの時代を歴史的な流れも押さえながら確
認しておこう34。その際ここでは、ヒトラーが登場する土台となった都市について注目し
た35。ミュンヘンは議会制民主主義をとった社会民主党が活躍した都市であり、ヒトラ
ーがミュンヘン一揆を起こした場所でもある。これは何を意味しているだろうか。そう、
わずか数年で国民が支持する政党を大きく変えたのである。この事実を確認しておき
たい。
1918 年 10 月、ドイツ革命の烽火があげられ瞬く間にドイツ全土に拡がった。1919
年の 5 月にはミュンヘンで革命が起こった。ミュンヘンは芸術の都であるが、革命まで
もが「ドイツ史上初めて、詩人・作家の主導のもとに革命政権が樹立した」36ように「文
学的・芸術的であった」37。
ヒトラーも 1923 年 11 月に、ワイマール体制の打倒を企てた一揆をミュンヘンで起こ
す。それは失敗に終わりヒトラーは逃亡先で逮捕された。1924 年 12 月、釈放されたヒ
トラーは、翌年 2 月にミュンヘンのビヤホールにおいてナチ党の再建集会を開いた。
ナチ党が躍進を遂げたミュンヘンは「特異な美的・詩人革命とそれに続く反革命を
経た街ミュンヘン」38であり、ナチスが「単に〈運動〉の揺籃の地として聖化されたからと
いうだけでなく、ナチズムという新時代の精神を展示するための絶好の舞台だった」39
のである。
しかし、これはナチスが都市の空気に目をつけてはじめたのではない。モッセは
『大衆の国民化』で、ナチズムやファシズムに見られた政治形式を、(政党のではなく
運動の)「新しい政治」40という。モッセは、ナチズムの浸透はプロパガンダによるもの
ではなく、何らかの国民的合意(美意識の共感といったもの)ができあがっていたこと
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によるのではないかとする。さらには、美意識の共感であるから、建築や彫刻やある
いは音楽などのシンボルが重要な役割を果たしていたのではないか、ということを述
べている。1859 年の「シラー祭」が「国民主義と自由の新たな結合を生み出すように
思われた。かくして文化人が国民的シンボルとなった」41とし、また次のようにも述べて
いる。「各都市は自らの印象的な都市環境を特に利用した。たとえばミュンヘンではク
レンツェの造った行列用の通りであるルートヴィヒ通りの終着点、将軍廟(フェルトへル
ンハレ)が使われた。約 500 名の学生による松明行列はこの記念碑の前で終わった。
その開廟(ロツジア)にはシラーの胸像が供えられており、行列が到着すると台座を取
り巻くミュンヘン市の男子合唱団が歌い始めた。その後、学生たちは学生歌を歌い松
明を積み上げて篝火にする別の広場に行進していった。この祝典で見られた(王国
の公的行進のために設計された)ルートヴィヒ通りと将軍廟の活用は、約 70 年後に繰
り返されることになった。それは 1923 年のヒトラー一揆の犠牲者を記念するために、ま
ったく同じコースがナチ党によって舞台装置に利用されたときであった」42。
このように、都市独特の雰囲気がナチズムの登場に影響を与えていたと考えられる。
ナチスは都市の持つ影響力に力をかりて政権を獲得した。このような時代のなかで存
在していたワイマール共和国の政治形態は、議会制民主主義という間接民主主義で
あった。ところで、ナチ党は政権獲得後は反民主主義的な政策を採用するが、「ワイ
マール憲法」は「ナチス・ドイツの崩壊にいたるまで、廃止されたわけではなかった」43。
この憲法のもとで徐々に支持者を集め、逆に言えば、ヒトラーのような人物を必要とし、
求める者が増え、結果的にはナチスが最大議席数を獲得し、第一党になったのだ44。
ナチス独裁に決定的な影響力を持った、ワイマールの終焉を告げる 1933 年の全権
委任法(ヒトラー授権法)も、民主主義的な過程を踏んで成立している45。このことから
も分かるように、ナチズムは「民主主義制度」を成立基盤としたのである。まさにワイマ
ール共和国時代の制度としての民主主義における大衆運動により、わずか 15 年のう
ちにひとつの民主主義体制が崩壊したのであった。
全体主義の独裁国家としてのナチズムというと民主主義とまったく反対のように思
われる。この二つの政治形態が共通の点を抱えているとしたら驚くかもしれない。しか
し、驚いたとしてもそれが現実なのだ。ナチズムは、前述したようにワイマール共和国
からの連続した政治体制であった。
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上の「驚き」はわれわれがナチズムは悪いものだと感覚的に知っていて、民主主義
は良いものだと感覚的に考えているからだろう。これは、暗黙のうちに選び取られた
価値原理である。だから、果たしてその考え方は正しいのだろうかと批判的に検討し
なければならない。もちろん、われわれの認識はすべて感覚から受け取る。高度情報
社会においてはその受け取る量がすさまじく多い。そのためわれわれはその情報量
に満足してしまう。すべてのものになんらかの価値・意味があると思ってしまう。しかし、
そこに疑問をいだき疑ってみると、かなり幻想に包まれているように思われてくる。
ナチズムに至る時代の国民はなぜナチスを選んだのだろうか。確かに、1923 年の
ドイツにおけるインフレーションや、1929 年にアメリカから起こった大恐慌などと、危機
的な時代状況が生まれており、民衆は不安と不満を抱えていた。世界史的にみれば、
危機的状況に陥った人々は民主主義的な制度を使った変革を目指すのではなく、
叛乱を起こしたり、革命を目指したりしてきた46。しかし、文明化した国民、情報化した
国民はそのような行動を起こさなくなった。ヒトラーは、始めは革命・蜂起を計画した。
しかし、革命・蜂起失敗後は前述のとおり民主主義的制度を使っての社会変革を目
指すようになった。民主主義制度を使っての社会変革では、当然民衆との政治的駆
け引きが重要になる。民衆の心を掴むには、為政者は民衆の心理を把握していなけ
ればならない。つまり、政権を民主的に獲得したナチ党、ヒトラーは、民衆の心理を把
握していたということになる。ドイツ国民はなぜナチスを選んだのか。ドイツ民衆はどの
ような心理であったのか、という問題を確認し考えなければならない。そのきっかけと
してここでは、フロム、オルテガ、ホルクハイマー、ヤスパースの述べるところを参照し
ていく。
まず、フロムが述べるには「不安の感情を増大し、自分の努力で前進していく希望
や、成功の無限の可能性を信ずる伝統的な信念をこなみじんにした」47からである。こ
れによりいわゆる大衆化が進んだ。
大衆化を考察するためにオルテガの定義を要約すれば、数や階級の問題ではな
く、自分は他人と同じである、特別な人間ではないと感じ、そこに喜びを見出す人を
大衆と呼ぶことができる。またフロムは人間のもっとも恐れるものは「孤独」であるとし、
どんな馬鹿げた社会や信仰でも、もし個人を結びつけさえすれば「孤独」からの逃避
所となる48としている。このような大衆が多数を占める状態であると大衆民主主義となり、
- 17 -
民主主義は堕落する。そのため現在のわれわれにおいては、救済を求めることを優
先してはいけない。誤った判断を生むのは盲目であり、臆病である。
シャピーロによれば、全体主義社会では本質的に大衆民主主義の一側面が問題
になっており、そして大衆民主主義は 20 世紀の現象である。指導者の権威は、形態
においては常に擬似民主的である。国民投票、いんちきの選挙、お追従、大衆集会、
スローガンを果てしなく繰り返し、新聞とラジオで国民を休むひまなく爆撃すること、イ
デオロギーによる強化等がそれである。そこでは、指導者の唯一の正統性は国民大
衆が彼を指導者として受け入れることでしかありえない49。
大衆民主主義の政治体制への接し方としては積極的な態度をとるものもあるが、な
により絶対数が多いのは政治的無関心(political apathy)であろう。ホルクハイマーは
「無関心により体制は大衆から甘受される」50とし、ナチズムは「犠牲心や規律といった
ものをもって大衆からなにかを奪うなどということではなく、大衆にできるかぎりのもの
を与えようとしているのだ」51としている。様々なものが与えられるとすべてが平等化さ
れ、そのうち「どれでもいい」ということになり、与えられた情報に価値はあるのかきち
んと判断できなくなる。このような気を紛らわす政策により結局は、政治的に無関心の
まま日常生活を送らせることに成功したのである。つまり、ナチズムは他者の欲望をう
まく抜き出し、それとずれた形での独自の欲望を打ち立てたのではないか。このような
事態をふたたび招かないためにも、情報を正しく捉える方法を獲得しなければならな
い。
これはなぜか。そして、「大衆」とは何か。ヤスパースの言葉を借りて述べておく。
「個人に、彼が彼自身でありうるということ、そしてもし彼がこのことを断念するのならば、
彼は人間であることをやめなければならないということを忘れさせてはならない。われ
われの共同の未来にとって決定的なことは、思索がもっとも深い責任から生まれた明
快な意志をもって、理性を通じて、現実に到達する」52。なるほど、大衆とは個人であ
ることをあきらめたもの、放棄したもののことである、ということになる。その個人とは、
「個々の人が自分で考え、またそれによって自己であるということ」53であった。
この章の結びとしてもう一つヤスパースから引用しておく。これまでわれわれが確認
してきたことを、ヤスパースは次のように言っている。「多くのものは小心となり、彼らは
世界史の行程の前で無力を見るのである。多くの者は、最初に絶望し、やがて習慣
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化された一種の虚無主義に陥る。すなわち、すべてのものはどうでもよいものであり、
それでもやはり無意味なことがなされるのである。多くの者は、根本的な大問題と人
類がその前におかれているかかる大問題の『あれか―これか』とを、自らに対して隠
蔽したがる。多くの者は、今日提供される多くの魔法に感動する。多くの者はすべて、
自らを変化させ、そして彼らがそれへと働きかける人びとを、気づかぬうちに、決定的
な瞬間において、全体主義を無抵抗に自らの主人たらしめるところの、内面的な心の
用意へと、変化させるのである。全体主義が主人となった暁には、ただちに死にたく
ないすべての人びとは、いずれにせよ沈黙せざるをえないのである」54。
- 19 -
第 5 章 情報時代の民主主義制度
以上、国民がどのように政治に参加していくのかという点を中心としてナチズムを成
立させた民主主義制度について考えてみた。その結果として次のことがいえるだろう。
現代情報社会におけるわれわれの「民主主義」もナチズム時代の政治思潮に非常に
近い、と。なぜなら「民主主義」を滅ぼすのも「民主主義」であり、いくら民主的な憲法
を持っていてもそれを乗り越えて、民主主義を成立基盤としナチズムが生まれてしま
うのだということが分かってしまったからである。ジレンマを感じるが、これが事実であ
る。この考え方でいくと民主主義制度はいつでもナチズム的なるものを生み出す基盤
を内在していることになる。
確かにプロパガンダ政党のイメージを持つナチ党は、街頭行進や集会、ラジオや
国民投票により、大衆に政治に参加しているとの感覚を与えた。シャピーロは次のよう
に述べている。「社会をまるまる呑み込んでいったのは国家ではなかった。悪性の癌
のように国家と社会双方の組織に進行的に喰い込んでいったのは、指導者と彼の創
出による、あるいは彼の運用する統制の装置であった」55。しかし「民衆もまた、演出さ
れたイメージを利用し、また自分たちの願望や期待をヒトラーに投射することで、ヒトラ
ー神話の成長にかかわっている」56。ヤスパースは次のように言っている。「プロパガン
ダが、真偽を顧みることなく、興味と力とによって自分でものを考えない、抵抗力の弱
い人心を獲えている。事実な事柄が大衆の耳に到達するためには、今日ではそれ自
身がプロパガンダの携帯を装わなければならないのだ」57。
よって、国民において「何を決めたかよりも決定プロセスに参加したと感じる度合い
がこの民主主義にとっては決定的に重要であった」58のである。不安や不満を感じな
いことが重要だった。ここから考えられることは、1930 年代当時のドイツ国民はナチス
と同じような考えをナチス登場前から持っており、それをナチスに実行させるように操
っていたのではないかということだ。その意味で、したたかな民衆であったといえる。ま
た、ナチズム自体も「宣伝操作の運動ではなくむしろ危機における合意形成の運動
であり、メディア政策においても反動化ではなく近代化の推進者であった」 59。ただ、
「合意形成の運動」といっても、それは対話なき運動であった。
つまり 1930 年代当時の思想状況において、ナチスはなんら特殊なものではなかっ
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た。国民のなかには主体的な合意者として自発的に政治に参加していたものもいた
のである。このように、政治に積極的だった国民も消極的だった国民も、程度の差こ
そあれナチ党の政策に「安定」を求め、「満足」していた。そして、ナチ党は国民の思
いを把握し政策を行なった。シャピーロが述べたように、社会をまるまる呑み込んでい
ったのは国家ではなかった。それをなしたのは、指導者の運用する統制の装置だけ
でなく、党と大衆であった。ナチス、ここではファシズムといってもよいが、それらは暴
力的手段を行使したことでは方向性を誤ったが、真に世界の変革を求め実践として
の思想をもったのはファシズムだったのである。
ドイツ現代史研究家であり、「連続説」の立場を先進的にとった村瀬興雄(1913−
2000)は、ナチスにも「業績」があることを認める60。この「業績」とは近代化に貢献した
面があるということだ。この「業績」という言葉を大量生産・工業化を善とし、それこそ近
代化だと考えていたナチスとナチス政権下で生活していた民衆の希望、と枠を決め
て使えばわれわれも、村瀬に同意する。ナチスは、来るべき情報社会を捉え、科学技
術と情報メディアを掌握した勢力が優位に立ち国家を動かすことを理解していた。情
報操作が上手く機能していたかどうかは前述したように議論があるにしても、メディア
が大衆におよぼす影響を認めラジオを国民に普及させ、大衆自動車を造ろうと試み、
大衆に希望を与えた。つまり、ナチスは「反動」どころか、資本主義の発展段階を示し
たのである。この点は認めなければならない。しかし、ファシズムの暴力性を確認して
いるわれわれは、ファシズムの再来は認められない。けれども、耳をすませばファシズ
ムの鼓動が聞こえてくる現状がある。
村瀬は、「ファシズムはいまやその異常性を失い、むしろ『近代への病理現象』一
般への一段階、ある程度の『正常性』をもつ現代社会への一段階としての性格を持つ
ことになった」61という。この言葉は示唆に富む。
これまで、考察してきた様々なことからわかるように、民主主義の制度は最高のもの
ではない。しかし、現在ある制度の中では最良のものであると考える。マクファーソン
はいう。「社会の成員にとって自分たちの本質的な人間性を実現できるような、平等な
人権、平等な自由を求める、それ自身の住民の要求にもっともよく答えることができる
社会が、生き残る社会となるだろう」62。そこでわれわれは、政治なき社会組織「ソキエ
タス」の方へ向かわなければならない63。つまり、政党としてではなく運動としての民主
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主義を、情報時代の民主主義制度としてふさわしい民主主義を導こう。それこそが、
「情報合意民主主義」である。しかし、そうはいってもこの言葉は、いまは求めるべき
概念であるのみだ。いくら「情報合意民主主義」といっても社会は何も変わらないし、
何も見えてこない。もちろん、現在望まれる求むべき民主主義はどんな制度か論じ、
議論するのは無意味ではないと考えこれまで述べてきた。しかし、それだけでは現実
との距離感がとれないのも事実である。
そこで次章では、民主主義国家には何ができるのか、また、欧米やわが国のように
実質はどうであれ先進国といわれ民主主義国家として生活し、政府は発展途上国と
いわれる国々に「援助行為」を行なっているが、それは「正当」な援助か、「援助交際
的」な「援助」にすぎないのではないのか、などの諸問題を検討してみたい。
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第 6 章 民主主義国家には何ができるのか
『人権について』64の編著者スティーブン・シュート、スーザン・ハリーは、同書の序
文において以下のように述べている。長い文章であるが引用しておきたい。
「あなたがゆったりと机に向かい、人権についての論文集を読んでいると、次のよう
な一文に遭遇したとしましょう。そこには、あなたが読んでいるあいだにも現に起こっ
ているだろう出来事、それもさほど遠くないところで起こっている出来事が記されてい
ます。
目撃者や実際にレイプされた人々の証言……によれば、セルビアの占領軍が女
性や子供を対象にした特別の強制収容所をつくっていたことは……間違いないよう
に思われる。……
女性用の特別な強制収容所で行われているのは戦争犯罪である。そこでは、幼女
や少女、成人女性が自分の両親や兄弟姉妹、夫や子供の目の前でレイプされてい
る。目撃者の証言によれば、その後、レイプされた人たちはさらに残忍な仕打ちを受
けた末に、乳房を切り落とされ、子宮を抉り取られて虐殺されるという。……少女たち
はレイプに耐えて生き延びることが身体的にできないので、その場で死んでいく。…
…知恵遅れ児童の収容所では、三百人を超える娘たちがレイプされた。
(中略)
私たちは、メディアが伝える戦慄すべき報道に連日さらされています(だからといっ
て、ここに引いた紛争で対立する集団の一方だけが人権を侵害してきたというつもり
はありません)。とはいえ、私たちが生きるこの時代にそのようなことが起きているという
事実は、私たちに衝撃を与えます。(中略)こうした出来事について、私たちはどう考
えるべきなのでしょうか。」65
確かに、世界ではグローバリゼーションにより、ヨーロッパでは通貨もすべてユーロ
になり、EU(European Union=ヨーロッパ連合)により統合が進んでいる66。また、日本
ではグローバルな問題に関する国際会議が催され、例えば「京都議定書」が作成さ
れ環境への配慮が進んでいる。しかし一方では引用したような犯罪が起こっている。
日本の南京大虐殺や、ナチスのユダヤ人・ソ連人大量虐殺は解決こそされていない
が、世界史的悲劇として大変重要な問題としてひろく議論されている67。その南京大
- 23 -
虐殺やユダヤ人・ソ連人大量虐殺と、上に引用した近年の虐殺とでは何が違うのだろ
うか。後者が問題にされないのはどうしてなのだろうか。民主主義国といわれる国は
多くあるが、これらの国々では何ができているだろうか。民主主義の名のもとに、何を
.
しようとしているだろうか。このことは、民主主義国の民主主義制度を検討するにとど
めたら、見逃されてしまうであろう。しかし本章ではこの問題を考えたい。
『人権について』の上の引用では「次のような一文に遭遇したとしましょう。」と仮定
的なものであったが、実際の証言として以下のようなものがある68。1989 年にビルマ軍
事政権が、国名をビルマからミャンマーに変更した。この変更は民主的な手続きを経
ないで勝手に行われた。そのため、軍事政権と闘う人々の間では、今もビルマが一般
的に使われている69。
2005 年 5 月、ビルマのシャン州における人権侵害の問題に取り組んできたシャン
人権基金とシャン女性アクションネットワークによって『強かんの許可証』(License to
Rape)と題する英文の報告書が発行された70。同書は、ビルマ全土に恐怖政治をしき、
人権侵害を繰り返してきた軍事政権の支配下で、ビルマ国軍が「少数民族」の一つ
であるシャン人の女性たちに対して組織的に行なってきた強かんの被害状況を告発
するものだ。シャン女性アクションネットワークの創設者の一人ナン・ラウ・リヤン・ワン
はこう訴えている。「国際社会は、軍事政権による人権侵害をそのまま見過ごしている
のです。今、私たちは国際社会、特に東南アジア諸国連合(ASEAN=Association of
Southeast Asian Nations)の加盟国と近隣諸国、およびアジア太平洋諸国に対して、
ビルマの軍事政権による数々の人権侵害を見逃さないでと呼びかけるキャンペーン
をしています。東南アジア諸国連合には、軍事政権と適度な関係を続けるような政策
を見直し、人権侵害に介入していくよう呼びかけています」71。
日本は、第二次世界大戦時軍事侵略をした多くのアジア地域で、女性を強かんし
た72。日本政府はこの件に関して、謝罪をしていない。その日本政府は、政府開発援
助(ODA)を通して軍事政権を支援している。
つまり、民主主義の制度に則って考えると、われわれは「援助」「支援」というポジテ
ィブな言葉でビルマの民衆を苦しめていることになる。それは、間接的にビルマの軍
事政権による女性に対する暴行を認め、第二の南京大虐殺を行なっていると考えざ
るをえない。ここでは、民主主義の制度が悪い方向に働いてしまっているのである。
- 24 -
前述の例にとどまらないが、われわれが日々生活するなかで、「恵まれない人々に
愛の手を」というようなスローガンで街頭において募金活動が行なわれている。募金
者は善意をこめて箱の中にお金を入れる。悪意を持って募金をする人はいないだろ
う。しかし、募金者のほとんどは自分が入れたお金がどこの誰の手に渡り、どのように
使われたかを知らない。募金活動者が集めたお金を不正に使っていると疑っている
のではない。「知らない」という事実に注目しているのだ。これは情報統制がされてい
るから知らないのか。いや、そうではなく唯単に知らないのだ。
誰もが募金することは良いことだと考えており、それを否定するのではないのだが、
お金を入れれば終わり、それがすべてになってしまっている。ときには、この募金はど
こに行くのだろうか、何に使われるのだろうか、と思うこともあることはある。しかし、思
いは思いのまま止まる。なぜ知ろうとしないのか。われわれはそれは問題だとして考え
る必要がある。
募金活動者はたいてい何らかのグループにより行なわれている。募金活動は利益
目的ではなく賛同者を得る活動である。そうであるのだから、募金者は活動者に話し
かければよいのである。そうすれば、自分の入れたお金が、どこの誰の手に渡り、どの
ように使われたかを知ることが出来るだろう。
ビルマの「援助」「支援」の話から話題が横道にそれたであろうか。いや、それてい
ないのである。募金活動と、政府開発援助には共通点がある。第一に、多くの人が政
府開発援助によって何が起こっているのか知らないという点。第二に、われわれは国
家に税金を納めているが、お金を入れれば終わり、それがすべてになってしまってい
るという点。第三に、知ろうとしない点。第四に、悪意がない点。第五に、情報統制が
されているというわけではない点。
もちろん、これらの共通点は完全一致ではないだろう。特に、第五の点は異論があ
ることが想像される。情報統制されている状態がはっきりしないからだ。われわれは、
ビルマへの政府開発援助の実際を知ろうとすれば知れたことから、情報統制はされ
ていないとした。われわれの場合情報源は『前夜』という季刊雑誌の記事からであっ
た。この記事が百パーセント正しいかどうかの判断は難しいが、そのようなことがあるら
しいということを知ったことで、政府開発援助の百パーセントの正当性もなくなってい
る。判断するにあたっての重要な情報を得ることができている一方で、情報統制され
- 25 -
ているという人がいるとしたら、次のような意見だろう。こちらは推測にとどまらざるをえ
ないが、多くの人に知られていないという点からではないだろうか。重要なことは、知
ろうとする前に、もしくは、知ろうとしなくても伝わってくるものだと考えているのかもし
れない。当然、そのような場合もあるだろう。しかし、われわれは本稿の4章において、
人々は多くの情報を与えられるとその情報量に満足し、安心することを確認し、その
心理を利用してナチスが台頭したことを確認した。与えられた情報であり、人々が知
ろうとして知ったのではなく、知ろうとする前に与えられたのであった。このことからも、
われわれは自ら様々な方向に関心を示し、問題を明らかにしていくように努めること
が重要である。
情報統制社会とは、知ろうとする前に情報を与えられ満足させられてしまう社会で
あり、また判断に必要な情報を知ろうとしても知ることができない社会であると考える。
さて、本章では「援助」「支援」というポジティブな言葉でビルマ民衆を苦しめていた、
という事例を検討・考察した。そこでは、善意が悪い結果に繋がってしまった原因とし
て、「知らない」という事実に注目した。もちろん、援助や支援は大事な事である。今
後は、「知る」ということを自覚して、援助・支援をしていくよう心掛ければ良い。その援
助・支援も、国家形成や工業化の促進のためだけでなく、その国の人々個々人が、
健康で、また、教育・文化交流を可能とするような援助・支援が望ましい。本来は、ビ
ルマは今どういう状態なのか、こういう状態は何によって引き起こされたのか、このまま
の状態が続くとどうなってしまうのか。ビルマの状態を少しでも良くするために、日本
の立場で何ができるのか。こうした議論を経てから援助・支援を行なうべきであったの
は確かである。しかし、今こういってもしかたがない。「知る」ことを通して、本来まずす
るべきだった議論をし、事態を悪化させないように、この事態を悪化させないとは、ビ
ルマの状態はもちろんだが、日本の援助・支援の状態も含めて、努めていかなけれ
ばならないだろう。
- 26 -
第 7 章 おわりに
情報時代の民主主義制度は、憲法によって保障されえない。これは、憲法の効力
を必ずしも無効とするものではない。しかし、完全に信頼の置ける憲法の構築は不可
能である。それらは、理念であり、言葉である。運動につながりはするが、運動それ自
身にはならない。われわれが求めるべき民主主義制度は、国家によって保障されるも
のでも、憲法によって保障されるものでもなく、個人の自覚それも理性に則った自覚
によって保障されるのである。それは本論で検討してきた判断方法によるのも良いだ
ろう。しかし 6 章でみたように日本政府は、政府開発援助(ODA)を通して軍事政権を
支援しているのだから、反体制運動を起こす必要があるとは必ずしもつながらないし、
つながるべきではない。それは、善と悪との二元論による見方であり、それならばこれ
までとなんら変わりないことになる。
さて、1 章において「一国家における国民のための民主主義でない、すべての自然
人(all natural persons)=地球上の全人類が、民主主義制度構築するための視点と
いうものはどのようなものであるべきか論証したい」と述べた。その論証に成功したか
どうかは、はなはだ心もとないが、いずれにせよ、現段階での考えをここに述べておく
必要があるだろう。すべての自然人のための民主主義とは、何か一つの実態を持っ
てはいけないと考えている。すべて、人と人、人と社会、といった種々のものからなる
関係によってでしかありえない。
しかし、アメリカは先のイラク戦争で関係を放棄し、実態のみを目指したため、「自
由の解放」のための戦争として、イラクの民主化という「大義」によってイラク全土の攻
撃を始めた。このように、国家による「民主化」は、民主主義国家による非民主主義国
家に対する、民主主義国家の責務となってしまい、「白人の責務」のようになってしま
う。これは、たとえば「劣った民族を支配するのは、白人の責務だ。なぜなら劣った民
族であるから、自らを統治する能力はないのだ」というように使われた。そのためイラク
は、いまだに紛争状態が続いている。
では、われわれには何ができるのか。何をなすべきか。まずは、たびたび述べてき
たように、客観的な状況だけに身をまかせず、自覚ある、意識的な積極性(〈わたし〉
だけでなく〈あなた〉へも向かう)をもった社会参加をすることだ。それから、情報はわ
- 27 -
..
れわれを操作する。メディアにより流れてくる戦争映像を「戦争映像」 としてみること
をやめることだ。だが現実は、よりわれわれを操作する。戦争映画より奇妙なものであ
るのだ。
情報時代の民主主義、その情報は度々述べてきたように目にみえないものが多い。
その情報の価値は目にみえないところに潜んでいる。民主主義も同じである。目にみ
える憲法条文のようなものが最重要ではない。われわれは、「情報合意民主主義」に
たどり着くべきであるが、そこにたどり着くことが重要なのではない。そこへたどり着こう
とする意志が重要なのである。民主主義の定着や安定化は理想であるが、それはユ
ートピア的であり、最終的なものにはなりえない。大事なのは、たどり着こうとする意志
である。それが、新しい理念を形成し、古い理念(魅力の失われた)を壊し、古い理念
(魅力ある)を守るのである。
われわれは、3 章で対話することの重要性を述べた。そして、4 章では、河合栄治
郎を紹介しながら言論の重要性を述べた。同章では、ナチズムについて考察しなが
ら、人々はナチスから絶対的な真理を与えられたり、そこに絶対的な真理を見出した
りしたから支持したのではなく、孤独からの逃避所(不安のやわらぎ)を求めたのであ
ろうことを確認した。本稿全体を通しては、価値にしても、情報にしても、民主主義に
しても、われわれとは独立に実態として定まっているのではなく、すべて関係におい
てであることを確認した。
以上をまとめて考えると、われわれは孤立を恐れて連帯を求めてはならず、しかし、
連帯を全くせずに孤立していられるほど強くない、といえる。しかし、連帯は「連帯責
任」という言葉があるように、関係の強要、無理を強いる73。そこで、諸個人の自由意
志を軸とする連合(アソシエーション)である。われわれの求める民主主義は、共に生
きたいと思う者どうしで、意見を交換し合って、つまり対話をして、何を価値とするか
(とりあえずの価値)を考え、それに従って生きていく74。定まった実態を持たない、絶
えず動き続けることで立ち現れる、日々新たな現実創出を中心にすえた社会システ
ムである。国家の理想にあわせて、個人が無理をすることを求められるようなことがあ
ってはならない。個人の自覚により、生きる目的をもてる、個人にとって無理のない連
合を前提にした民主主義社会こそ、情報時代の民主主義制度として相応しいのであ
ろう。すべては、「より良くいきるために」である。
- 28 -
「価値判断」は個人に任される。そこで下した判断が現体制と一致していないなら、
もしくは、ずれているのなら、現在行なわれている「価値判断」と一致する運動に参加
するなどして、なんらかの行動を起こすべきだと考える。また、「価値判断」を下すには
信用してよいか情報が不足しているのなら、書物を読んだり、勉強会に参加したり、イ
ンターネットで収集したりする必要があろう。民主主義制度を認めているわれわれは、
常に現在の民主主義制度はおかしな方向に向かっていないか点検し、おかしいのな
らそれをとどめるために、新しい民主主義運動を起こさなければならない。民主主義
の制度は運動の継続性により、構造変換をしながら、動きのなかで安定的に機能す
る。
- 29 -
謝辞
本稿を執筆するにあたり多くの方から有益なご助言を頂戴した。特に、報告する機
会を設けて頂いた二つの研究会には感謝している。歴史知研究会では、第 17 回例
会時に「ファシズムの成立基盤としての民主主義」との論題で報告した。それから、立
正大学西洋史研究会では、第 7 回例会時に「ナチズムの成立基盤としての民主主義
制度」、第 8 回例会時に「情報時代の民主主義制度」との論題で報告した。
- 30 -
1
「メディアと歴史」について論じた文献として、次のものがある。佐藤卓己『現代メデ
ィア史』岩波書店、1998 年。また、本稿を執筆するにあたって直接・間接に、吉見俊
哉・花田達朗/編『社会情報学ハンドブック』東京大学出版会、2004 年、が大変有用
だった。
2
田中吉六・津村喬・神津陽・笠井潔・小野田襄二・花崎皋平・池田浩士・長谷川宏・
宮内嘉久『全共闘―解体と現在』増補版、田畑書店、1984 年、276 頁。
3
永岑三千輝・廣田功/編著『ヨーロッパ統合の社会史−背景・論理・展望』日本経
済評論社、2004 年。紀平英作編『ヨーロッパ統合の理念と軌跡』京都大学学術出版
会、2004 年。
4
鷲田清一『〈想像〉のレッスン』NTT 出版、2005 年。鷲田は、以下のように述べる。
「ふつう、写真を撮るとは、見たものを後で再現するために記録することだと考える。だ
れもが見たものを前にしてシャッターを切るのだから、写されたものと見られたものの
差異は最初からないと考える。が、これは怪しい前提である。写真は見られた世界を
断片として切り取ったものだ。まず、見る者のいる空間がフレームで切断され、カメラ
のピントの深さによって、何かを見るときにその傍らにあって見えていないものまで写
しだされる。その意味では、写されたものはいつも少なすぎる、もしくは多すぎる。」
200−201 頁。
5
D.J.ブーアスティン(星野郁美・後藤和彦訳)、『幻影の時代−マスコミが製造する
事実』東京創元社、1964 年、17 頁。
6
シモーヌ・ヴェイユ(冨原眞弓訳)、『自由と社会的抑圧』岩波文庫、2005 年、126
頁。
7
デカルト(谷川多佳子訳)、『方法序説』岩波書店、1997 年、46 頁。
8
これは、何ら超現実的なことをいっているのではなく、社会の外に存在する人間とし
て捉えるというのは、日常生活において、時間の流れとともにわれわれも同時に流れ
ながら日常生活を送っている。それは例えば、川の流れにのって、自らも川のなかで
川の流れを見ているような常態として考えればよい。それを、一度岸に上がって、岸
から川の流れを分析しようということだ。
9
ヤスパース「現代における哲学の課題」(草薙正夫訳)、カール・ヤスパース、『哲学
と世界』、『ヤスパース選集』24 巻、理想社、1968 年、10 頁。
10
マクファーソン(粟田賢三訳)、『現代世界の民主主義』、岩波書店、1967 年、2 頁。
11
上記マクファーソンと、同(田口富久治訳)、『自由民主主義は生き残れるか』岩波
書店、1978 年を参照。
12
マクファーソン、『自由民主主義は生き残れるか』、153−188 頁、参照。
13
Fascio、その語源 fasces は古代ローマの政務官がもった束桿であり、フランス革命
期には革命派により「正義」や「主権」のシンボルとして肯定的に用いられた。1919 年、
イタリアの元社会党員ムッソリーニが組織した「戦闘ファッシ」によってファシズム運動
は開始された。狭義にファシズム体制とは、1922 年『ローマ進軍』から 43 年ムッソリー
ニ失脚までイタリアに存在したコルポラティスト政治システムである。佐藤卓己「ファシ
ズムの時代―大衆宣伝とホロコースト」『世界を読むキーワード4』(『世界』臨時増刊)、
- 31 -
1997 年、12 頁、参照。
14
長谷川如是閑について丸山は『自由について』編集グループ〈SURE〉、2005 年、
83−90 頁で想い出を語っている。
15
長谷川如是閑『ある心の自叙伝』講談社学術文庫、1984 年、28 頁。
16
長谷川如是閑、同上、29 頁。
17
木村健康編『社会思想読本』東洋経済新報社、1958 年、154 頁。なお、1930 年代
前後の日本の状況を述べるに当たっては、主に同書を参照した。この編者の木村健
康はミルの『自由論』の訳業でも知られるが、この章で触れる河合栄治郎との関係が
興味深い。その『自由論』は予定では、河合栄治郎が翻訳して岩波から出版されるは
ずであった。岩波書店の吉野源三郎が『自由論』の「あとがき」で、「1938 年ごろ、三
木清、粟田賢三両氏と私とで相談して、岩波文庫に収録すべき哲学関係の文献のリ
ストを作ったことがある。ミルの『自由論』もその中に入っていた。その訳者としては河
合栄治郎氏が最も適任だということは、私たち三人だけでなく、当時何人も認めるとこ
ろであった」と述べている。翻訳を依頼したのはその年の晩秋で、東大教授だったこ
ろである。「先生は快く引き受けて下さった」。ちなみに、吉野は旧制の第一高等学校
で河合の講義を受けたことがある。ただ、その後の河合をとりまく環境は厳しく、翻訳
どころではなくなった。そして、1944 年 2 月に亡くなった。そのため、河合訳の『自由
論』は実現しなかった。しかし、戦後吉野の記憶によると 1948 年に塩尻公明が、河合
との話しあいから着手した『自由論』の翻訳を岩波書店から出版したいと申し出てきた
(塩尻は一高時代、吉野と同期)。ただ、いろいろあって塩尻から吉野に任された編
集は上手くすすまずその内に塩尻も亡くなった。塩尻が亡くなった後も訳文整理は続
けられ 1970 年の夏に完了した。本来はここで塩尻の校閲となるわけだったが、亡くな
っているので、そこで、塩尻の最も親しかった友人の一人であり、河合門下の木村健
康の助力を仰ぐことにしたのであった。
18
それぞれの著作は『大川周明全集』、大川周明全集刊行会に所収されている。
『日本及日本人の道』は第一巻、1974 年。『復興亜細亜の諸問題』は第二巻、1962
年。
19
それぞれの著作は『権藤成卿著作集』黒色戦線社に所収されている。『農村自求
論』第二巻、1973 年。『自治民範』第一巻、1978 年。『自治民政理』第四巻、1977 年。
20
『大川周明全集』第一巻、44 頁。
21
大川周明、同上、7頁。
22
大川周明、同上、58 頁。
23
河合の人と思想ついては、遠藤欣之助『評伝河合栄治郎−不撓不屈の思想家』
毎日ワンズ、2004 年、を参照。
24
石塚正英「ファシズム思想に関する歴史知的討究」(2)『立正西洋史』22 号、2006
年、3 月刊行予定。筆者の厚意により原稿を読む機会を得た。現在製本された状態
でないため頁数は、記すことができない。
25
河合栄治郎『唯一筋の路』日本評論社、1948 年、5 頁。いつの時代であっても重
大な時局に直面したとき、自らの信念において国家・社会に、発言もしくは運動を起
こすものは似たような心を持つものなのだろうか。それとも私が念頭においている人物
が河合の影響を受けているのだろうか。その人物とは、学生運動の勇士の一人樺美
- 32 -
智子である。彼女も「最後に」という詩のなかで、人しれず微笑んでいる。(樺美智子
遺稿集『人しれず微笑まん』三一新書、1960 年。65∼66 頁、参照。)
26
河合栄治郎『自由主義の擁護』角川文庫、1951 年、28 頁。
27
1937 年には『国体の本義』(文部省)が刊行され、1941 年には『臣民の道』が刊行
された。いずれも皇国史観にたつ、修身・歴史科教科書である。LYU 工房、復刻集成
01 として『臣民の道』が 2000 年に刊行された。それにより、この教科書はどのようなこ
とを述べたものであるか確認しておこう。「今こそ我等皇國臣民は、よろしく國體の本
義に徹し、自我功利の思想を廃し、國家奉仕を第一義とする國民道徳を振起し、よく
世界の情勢を洞察し、不撓不屈、堅忍持久の確固たる決意を持して臣民の道を實践
し、以って光輝ある皇國日本の赫奕たる大儀を世界に光被せしめなければならぬ。」
(91−92 頁、結語。) また、以下のようなことも述べられる。ナチス主義・ファッショ主
義の民族主義・全體主義の原理は、新文化創造の動向を示唆するものとして注目す
べきことである(7 頁、参照)。
28
発禁処分を受けた著作は、『ファシズム批判』『時局と自由主義』『改訂・社会政策
原理』『第二学生生活』である。河合栄治郎『唯一筋の路』、23 頁、参照。
29
遠藤欣之助、前掲、41 頁。
30
河合の裁判闘争において特別弁護人として法廷にたった木村健康は、再建街道
をゆく東大において一度は河合に殉じて辞表を提出した大河内一男、安井琢磨らが、
辞表を引込めたときにも「私の信念に基づきこの再建では到底協力が出来ぬから去
ねばと考えたのです、たとひ飢えても私の信念だけは通したい」(河合栄治郎、前掲
書、62 頁参照。)と語り辞表を撤回しなかった人物であり、河合に「私自身よりも氏の
方が私の思想に精通しているといってもよい位である」(河合栄治郎、同上、81 頁。)
と語らしめている。木村健康も河合と同じく戦う自由主義者であった。
31
河合栄治郎、同上、79 頁。
32
河合栄治郎、同上、81 頁。
33
一審の無罪判決の後、検事局はただちに控訴。1941 年 3 月、控訴院公判開始。
同年 10 月、有罪判決。大審院へ上告するも、1943 年 6 月、大審院にて上告棄却。
有罪確定(裁判長:三宅正太郎)
34
ナチズム関連の事実経過については、主として以下の文献を参照。H・マウ、H・ク
ラウスニック(内山敏訳)、『ナチスの時代―ドイツ現代史』岩波新書、1961 年。村瀬興
雄『ナチズム』中央公論社、1968 年。同『アドルフ・ヒトラー』中央公論社、1977 年。同
『ドイツ現代史』第9版、東京大学出版会、1991 年。ジョン・ウィラー・ベネット(酒井三
郎訳)、『悲劇の序幕―ミュンヘン協定と宥和政策』日本出版サービス、1977 年。山
口定『ナチ・エリート』1976 年、中央公論社。同『ヒトラーの抬頭−ワイマール・デモクラ
シーの悲劇』朝日文庫、1991 年。ワルター・ラカー(柴田敬二訳)、『ファシズム―昨
日・今日・明日』刀水書房、1997 年。クリストフ・グズィ(原田武夫訳)、『ヴァイマール憲
法―全体像と現実』風行社、2002 年。
35
都市の空気は大衆運動に対して実証的に論を立てていくことは難しいが、影響を
及ぼしているように感じられる。都市の空気に注目した文献としては、芝健介『ヒトラー
のニュルンベルク』吉川弘文館、2000 年がある。
36
今泉文子『ミュンヘンの倒錯の都−「芸術の都」からヒトラー都市へ』筑摩書房、
- 33 -
1992 年、156 頁。
37
今泉文子、同上、156 頁。
38
今泉文子、同上、172 頁。
39
今泉文子、同上、224 頁。
40
ジョージ・L・モッセ(佐藤卓己・佐藤八寿子訳)、『大衆の国民化』柏書房、1994 年、
3 頁。
41
モッセ、同上、97 頁。
42
モッセ、同上、98 頁。
43
池田浩士『虚構のナチズム−「第三帝国」と表現文化』人文書院、2004 年、376 頁
(あとがき)。
44
山本秀行『ナチズムの時代』山川出版社、1998 年、21 頁参照。ナチ党の国会での
議席数の変化を挙げておくと、1928 年では、12 議席。1930 年では、107 議席。1932
年 7 月では、230 議席である。
45
高橋秀憲「特殊ドイツ的授権慣行の形成過程」『富士大学紀要』21(2)、1989 年。
同、「ワイマール緊急権論」『比較法研究』通号 56 号、1995 年。田中浩「大統領の独
裁とヴァイマール共和国の崩壊―憲法第四十八条二項(緊急命令権・非常権限)を
めぐる」『カール・シュミット―魔性の政治学』未來社、1992 年(104∼136 頁)。参照。
46
このことについては、以下の文献を参照願う。石塚正英『ヴァイトリングのファナティ
シズム』長崎出版、1985 年。遅塚忠躬『フランス革命―歴史における劇薬』岩波ジュ
ニア新書、1997 年。ヘルベルト・マルクーゼ(清水多吉訳)、『ユートピアの終焉―過
剰・抑圧・暴力』(改装版)合同出版、1973 年。
47
エーリッヒ・フロム(日高六郎訳)、『自由からの逃走』東京創元社、1951 年、140
頁。
48
フロム、同上、26 頁。
49
レオナード・シャピーロ(河合秀和訳)、『全体主義―ヒトラー・ムッソリーニ・スターリ
ン―』福村出版、1977 年、131 頁。
50
マックス・ホルクハイマー「ファシズム体制とユダヤ人」(清水多吉訳)、『権威主義
的国家』紀伊國屋書店、1975 年、126 頁。
51
ホルクハイマー、同上、127 頁。
52
ヤスパース「現代における哲学の課題」、21 頁。
53
ヤスパース、同上、21 頁。
54
「教育的計画の限界について」(斎藤武雄訳)、カール・ヤスパース『哲学と世界』、
『ヤスパース選集』24 巻、理想社、1968 年、34 頁。
55
シャピーロ、前掲書、93 頁。
56
山本秀行、前掲書、48 頁。
57
ヤスパース「現代における哲学の課題」、20 頁。
58
佐藤卓己「『プロパガンダの世紀』」と広報学の射程−ファシスト的公共性とナチ広
報」津金澤聡広・佐藤卓己『広報・広告・プロパガンダ』ミネルヴァ書房、2003 年、21
頁。
59
佐藤卓己、同上、21 頁。
60
村瀬学説を簡潔に紹介したものとして、石塚正英「村瀬興雄教授のナチズム研究
- 34 -
によせて」『立正史学』第 88 号、2000 年がある。石塚はこの論文のなかで、ヒトラーに
「業績」を認める村瀬に対し以下のような批判を投げかけたことを記している。「西欧
的近代化を深く反省し、これを絶対視することの拒絶を信条とする者―例えばファノ
ンとカブラル―にとっては、『近代化』を『業績』とする見方は大いなる疑問なのだか
ら。」(54 頁)カブラルについては、アミルカル=カブラル(アミルカル=カブラル協会編
訳)『抵抗と創造―ギニアビザウとカボベルデの独立闘争』拓植書房、1993 年。石塚
正英『文化による抵抗―アミルカル=カブラルの思想』拓植書房、1992 年。などの研
究があるので、それらの参照を願う。
61
村瀬興雄『ナチズムと大衆社会』有斐閣、1987 年、14 頁。
62
マクファーソン『現代世界の民主主義』、159 頁。
63
石塚正英『ソキエタスの方へ―政党の廃絶とアソシアシオンの展望』社会評論社、
1999 年、参照。石塚は「セネカは、自身が所属するローマの人びととその文明を堕落
とみて拒否し、ドナウ流域の無際涯の原野に住まう同時代のゲルマン人やスラブ人あ
るいはケルト人を幸福な人間として讃え、彼らの社会組織を率直に評価する」(14 頁)
と述べる。このセネカが支持した「ソキエタス」概念は「イエスの『コムニタス』とこもごも
になりながら、やがて十八世紀にいたりルソーによって再建されることになる。そして
十九世紀に入り、フーリエによってさらなる新たな概念に生み直されることになる。そ
れが、『アソキオ』の名詞形『アソキアティオ』(associatio)から出てきたアソシアシオン
である」(14 頁)とする。そして、石塚は「今後アソシアシオンである」(135 頁)と評価し
ている。アソシエーションを論じた文献として、次のものがある。村上俊介・篠原敏昭・
石塚正英共編『市民社会とアソシエーション』、社会評論社、2004 年。田畑稔・大藪
龍介・白川真澄・松田博共編『アソシエーション革命へ』社会評論社、2003 年。
64
ジョン・ロールズ他、S.シュート、S.ハリー編(中島吉弘・松田まゆみ訳)、『人権につ
いて』みすず書房、1998 年。
65
S.シュート、S.ハリー編、同上、1−2 頁。
66
グローバリゼーションを論じた文献として、次のものがある。T.スパイビ(岡本充弘
訳)、『グローバリゼーションと世界社会』三嶺書房、1999 年。
67
この事実については、主として以下の文献を参照。吉見義明『従軍慰安婦』岩波
新書、1995。笠原十九司『南京事件』岩波新書、1997 年。クリスタル・パウル(イエミン
恵子・池永記代美・梶原通子・ノリス恵美訳)、『ナチズムと強制売春−強制集世所と
区別棟の女性たち−』明石書店、1996 年。永岑三千輝『ドイツ第三帝国のソ連占領
政策と民衆』同文舘、1994 年。同『独ソ戦とホロコースト』日本経済評論社、2001 年。
同『ホロコーストの力学―独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法』青木書店、2003 年。ユ
ルゲン・ハーバーマス(三島憲一訳)、「なぜヨーロッパは憲法を必要とするのか?」
『世界』岩波書店、2005 年、9 月号。
68
S.シュート、S.ハリー編、同上のこの例は、ザグレブの日刊紙『ヴェチェルニイ・リス
ト』1992 年 11 月 25 日付けに掲載された記事をナタリー・ネナディッチが翻訳したもの
からの引用であるとのこと。序文、註 1 を参照。
69 2005 年 12 月現在の状況は以下のようである。ミャンマー軍事政権が、8 か
月ぶりに新憲法制定のための国民会議を再開した。一方で民主化運動の指導者
アウン・サン・スー・チーさんの軟禁を半年延長した。読売新聞の社説「ASEAN
- 35 -
主導で突破口を探れ」、読売新聞 2005 年 12 月 7 日付朝刊では、新憲法制定の
ための国民会議を以下のように捉えている。
「国民会議の再開には、一連の国際
会議で批判にさらされるのを回避しようとする意図が濃厚だ」。一連の国際会議
とは、今月(12 月)中旬に開かれる、ミャンマーも参加しての ASEAN 首脳会
議や初の東アジアサミットを指す。ちなみに、新憲法制定の試みは読売新聞
2005 年 12 月 4 日付朝刊によると、1993 年に開始されているが、これまでに
新憲法草案 15 章の約半分を終えたに過ぎない。
70
本書は、アジア女性資料センター翻訳チームによって近く刊行予定。仮訳版がウ
ェブで公開されている。http://www.ajwrc.org/doc/LtoR/index.html
英文オリジナル版は、
http://www.shanland.org/HR/Pubulication/LtoR/License_to_rape.htm
71
ナン・ラウ・リヤン・ワン「〈平和〉のなかで生きたい―ビルマ軍事政権による性暴力
に抗する女たち」インタビュー、聞き手、清末愛砂 季刊『前夜』4号〈女たち〉の現在、
2005 年、63 頁。
72 小林英夫『日本軍政下のアジア―「大東亜共栄圏」と軍票―』岩波新書、1993
年。特に、終章「ふたたび被害調査の旅」を参照。フィリピン・インドネシア・
シンガポールについて、著者が直接現地を訪ね調査をしたことの記録である。
また、笠原十九司、前掲書、には以下のような記述がある。「南京にいたる進撃途中
の日本軍は、村落掃蕩と称して沿道の村々を襲撃し、村民を殺害、女性を強姦・輪
姦そして殺害し、食料を略奪、放火するという不法行為を積み重ねてきたが、そうした
軍紀弛緩の部隊が戦場の狂気の心理をもったまま武装して、南京城内(すでに陥落
して戦場ではなくなった)に放たれた」(151 頁)。また、「南京の秩序が回復し、平常
の市民活動がもどったことを内外に印象づけるため、(1938 年−引用者補)2 月上旬
に難民区の閉鎖を命じた。難民区を追い立てられて自宅にもどった難民の女性が、
それを待っていたかのように、日本兵に強姦される事件が激発、日に 100 件にものぼ
った」(209 頁)。本書では、この他にも、史料(資料)に基づいた、記述や、証言が多
数掲載されている。
73 「はじめに」において「国家の権限や役割は次第に減少していく」と述べた。
この「国家」は、これまでわれわれをまもりもしたが、苦しめもした。国家に
よる統制経済などはその一例である。平時においても、
「関係の強要・無理を強
いる」。都市と農村、工業と農業、事務労働と肉体労働、などの対立図式をこれ
まで維持し続けてきた。今も続いている。国家経済のための分業による役割分
担への従属。それにより、
(これが問題なのだが)労働が生活のための手段にす
ぎない状況におかれている。(一方、生活のためでなく、「贅沢」のためになっ
ている者も確かにいるが。)
たんなる生活維持のための労働であってはならない。自己実現としての仕
事・共生のための仕事を目指すべきだ。前者と後者とでは、生への関心が、あ
きらかに違う。もちろん、賃金は生活の上で欠かすことができない。しかし、
後者に就いても、賃金はついてくる。労働と賃金は一つのテーマである。
ただ、ここで注意しておかなければならないことがある。それは、現代社会
における自己実現は、高級マンション・高級車などを市場で購入することによ
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って達成された、と思う心があるように感じられる点である。市場の「価値」
が自身の価値と混濁してしまい、
〈わたし〉の本質が市場に取り込まれてしまっ
ているのではないか。
さて、上に記した「国家の権限や役割は次第に減少していく」という徴候が
急激に進んでも、国家がなくなることはないだろう。もし仮に国家が死滅した
としよう。それでも、何らかの権力がすぐに現れるだろう。いや、すでにある
が国家があるために見えていなかったものが見えるようになるだけだ。それで
も、自己実現としての仕事・共生のための仕事を目指すことは可能だ。いずれ
にせよ、われわれが目指す方向に前進していくには好ましい徴候であるには違
いない。
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誤解を避けるために一言しておくと、「共に生きたいと思う者とは」、意見が一致す
る者のみを指すのではなく、反対意見を持つ者も含め、トランスナショナルの境地に
達したこの世界で共生する地球上の全人類を指す。そうであるが、まずは小さな連合
からで良い。大きい連合の方が、必ずしも優れているということはないのだから。
また、「とりあえずの価値」とは、絶対的な「価値」を失ったまま 21 世紀に突入し、現
在にいたっているからといって、日々の生活は待ってくれない。絶対的な「価値」とし
て確かなものが見つからないとしても、日々の生活においてどのように行動すべきか
決断を迫られる。それに対処するため絶対的な価値が見つかるまで、「とりあえず」で
も決断する助け、生きがいを持つための助けとなる「価値」を「かり」にでも持っていら
れれば、「最後」に人しれず微笑むことはできるだろう。
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