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Page 1 Page 2 Page 3 一、 一 九七〇年のピンボール ・閲 二
は風の歌を聴けたか
二〇〇四年度
兵庫教育大学大学院学位論文
﹁僕﹂
ー﹃風の歌を聴け﹄から﹃1973年のピンボール﹄
へー
教科・領域教育専攻
言語系︵国語︶コース
MO三三二〇H
高見篤士
はじめに
次
第二章 ﹁僕﹂が﹁スペースシップ﹂に見たものとは⋮⋮⋮⋮⋮::・::⋮⋮:
︵﹃風の歌を聴け﹄から﹃1973年のピンボール﹄
第一節 ﹁三番目の女の子﹂は﹁直子﹂に
一、﹃風の歌を聴け﹄と﹃1973年のピンボール﹄のつながり
第こ節 ﹁僕﹂が﹁スペースシップ﹂に見たものとは ⋮⋮⋮⋮⋮:
へ︶
・1⊥
524949
49
四、﹁風﹂とは何か ・43
五、﹃風の歌を聴け﹄をめぐって ・45
三、DJは応える ⋮⋮⋮⋮⋮⋮:・⋮⋮⋮::−⋮:ー⋮⋮⋮⋮⋮:⋮ー⋮⋮⋮::−⋮:・ ・41
二、﹁鼠﹂が聞いた﹁風﹂とハートフイールドの﹁風﹂ ⋮⋮⋮⋮ ⋮: ・36
一、﹁金持ち﹂の﹁鼠﹂ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮:−⋮⋮⋮⋮⋮⋮:ー⋮⋮⋮⋮⋮⋮:・⋮⋮ :−: −33
第三節 ﹁風﹂ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮−・⋮⋮⋮⋮⋮:⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮:﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮−−⋮⋮⋮: ・33
三、﹁小指のない女の子﹂の嘘 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮:ー⋮⋮⋮⋮⋮:⋮・⋮⋮⋮⋮⋮−・:・⋮⋮::・ ・27
二、﹁三番目の女の子﹂の死−他者が持つ﹁残余﹂ ・19
二、﹁精神科医﹂に対する﹁僕﹂の﹁OFF﹂ ⋮⋮⋮⋮⋮:・・ 11
第二節 決定的に損なわれるー﹁三番目の女の子﹂の死 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮:・⋮⋮⋮:・ ・14
一、﹁無口でもおしゃべりでもない平凡な少年﹂のその後ー二つの生き難さに挟まれて ⋮: ・14
一、ONとOFFーディスク・ジヨッキーが示す﹁残余﹂ ⋮⋮⋮⋮::::・・⋮ ・7
第一節DJと﹁精神科医﹂から垣間見える﹁残余﹂ −7
第一章 ﹁残余﹂ー生きている限り囚われてしまうもの︵﹃風の歌を聴け﹄をめぐつて︶ ・6
目
一、一九七〇年のピンボール ⋮
二、﹁スペースシップ﹂との再会 ⋮
三、﹃1973年のピンボール﹄をめぐって
605653
::
66
63
の著者による。
引用文献の発行年はすべて西暦に統一した。
著者が引用文中に︵︶で文を挿入した場合、︵ー高見︶というように断った。断りがない場合の︵︶は引用文
省略し た 。
引用を示すにあたって、﹃風の歌を聴け﹄は﹃風1﹄、﹃1973年のピンボール﹄は﹃ピンボール﹄と書名を
﹃風の歌を聴け﹄、﹃1973年のピンボール﹄の本文は講談社文庫︵﹃風の歌を聴け﹄1982年7月、﹃19
73年のピンボール﹄1983年9月︶を使用した。
さいごに ﹁僕﹂は風の歌を聴けたか
三、
二、
凡例
注
四、
、
はじめに
今日、村上の小説は多くの読者を獲得し、研究分野においても多方面からの読解が進められている。そこには
村上の小説に意味を見出す論もあれば、もちろん批判する論もあるが、いろいろな意味で村上が注目するに値す
る現代作家であるという評価に揺らぎは見出されない。本稿では村上春樹のデビュi作である﹃風1﹄から、そ
れに続く長編﹃ピンボール﹄へのつながりを見る。その試みによって、村上がどのような問題を抱えて出発した
作家であるのかを明らかにすることが本稿の目的である。
小説を批評的に論じるには、ある限定された視点や問題を設定して、それに沿って論じていくしか手がない.
限定された視点を設定することによつて、小説から多くのものを取り落としてしまうだろうが、そのことを恐れ
ていては、小説が何を語ろうとしているのかを明らかにすることはできないだろう。そこで、﹁はじめに﹂では、
1
本稿の問題意識を明らかにするとともに、本稿が小説を論じる姿勢と﹃風1﹄﹃ピンボール﹄の二つの作品をつ
なげて論じることの意図を示しておきたい。
まず、﹃風1﹄と﹃ピンボール﹄の冒頭部分に着目するかたちで問題意識を示したいと思う。﹃風1﹄の冒頭に
は、次のような記述がある。
何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域は
あまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書
けないかもしれない。そういうことだ。︵中略︶
弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。付け加えるこ
とは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救
済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言
葉で世界を語り始めるだろう。︵﹃風1﹄7∼8頁︶
これは、﹃風1﹄の主人公である﹁僕﹂が二十九歳の時点から、二十一歳の時点を振り返って描こうとするとき
の姿勢が表明されている部分の一部である。ここでは、﹁象﹂と﹁象使い﹂の寓話を用いて﹁救済された自分﹂を
発見できるかもしれないという微かな希望を頼りに、二十一歳の時点を描こうとすることが述べられているが、
この箇所について田崎弘章氏は次のように論じている。
﹁象使い﹂は﹁象﹂をコントロールし、﹁平原に還る﹂ことを束縛している存在である。ということは救済さ
れるべき﹁自分﹂と﹁象﹂をパラレルに見る時、﹁書けないかもしれない﹂とこのテキスト中に書かれること
の不可能性があらかじめ予言される﹁象使い﹂とは﹁自分﹂をコントロールし束縛する存在だと考えること
ができる︵注−︶。
一方、﹃ピンボール﹄では自己について次のように語られている。
2
ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。
分析にではなく、包括にある。
もしあなたが自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受け
るだろう。︵﹃ピンボール﹄29頁︶
﹃ピンボール﹄には1章の前に二つの前置きめいた断章があるが、この記述はその二つの断章の内の一つ﹁ピ
ンボールの誕生について﹂からの引用である。﹁ピンボール﹄は﹃ピンボール﹄において重要な位置づけを与えら
れている。
本稿の問題意識を示すために、少し論を先取りするかたちで、この﹁ピンボールの目的﹂と﹁象使い﹂の寓話
を比較する前に、﹃風1﹄と﹃ピンボール﹄を通して検討することの意図を簡単に示しておこう。まず、﹃風1﹄
と﹃ピンボール﹄の二作は主要な登場人物である﹁僕﹂と﹁鼠﹂が共通して登場する。﹃ピンボール﹄は﹃風ー﹄
の直接の続編として書かれている。この二作は、﹃羊をめぐる冒険﹄と並んで初期三部作と言われることが多く、
﹃羊をめぐる冒険﹄にも﹁僕﹂と﹁鼠﹂は出てくるが、と﹃羊をめぐる冒険﹄の間には、注目すべき差が存在す
る。まず両作品は、どちらも断片によって構成されている。これに比べて﹃羊をめぐる冒険﹄はストーリi性が
重視されている。また、三部作と言っても﹃風1﹄と﹃ピンボール﹄は連続して執筆されているが、﹃ピンボール﹄
と﹃羊をめぐる冒険﹄の間には、短編の﹁街と、その不確かな壁﹂が執筆されている。この短編は、後の﹃世界
の終りとハードボイルド・ワンダーランド﹄につながる短編であり、村上は﹃ピンボール﹄で一度﹁僕﹂と﹁鼠﹂
をめぐる問題から距離を取っているのである︵注2︶。さらに、﹃羊をめぐる冒険﹄では、両作品と共通して描かれ
た﹁直子﹂について語られなくなる。これらのことから考えれば、初期三部作から、﹃風ー﹄と﹃ピンボール﹄の
二作品を論じることは十分妥当であるし、意義もあると考えられる。
それでは、実際に﹁ピンボールの目的﹂と﹁象使い﹂の寓話を、田崎氏の﹁象﹂を﹁自分﹂の比喩と見、﹁象
3
使い﹂を﹁﹁自分﹂をコントロールし束縛する存在﹂であると見る視点を踏まえて比較してみよう。
﹁ピンボールの目的﹂が言わんとしていることは明白である。﹁ピンボール﹂は先にも触れたように、﹃ピンボ
ール﹄の重要なモチーフになっており、簡単に言うと﹁僕﹂は﹁スペースシップ﹂という﹁ピンボール・マシー
ン﹂と関っていくことで、﹁僕﹂自身の傷を癒そうとするが、﹁ピンボールの目的﹂はその﹁自己療養﹂︵﹃風−﹄
8︶におけるルールについて物語っている。そのルールとは、﹁僕﹂が心の傷を癒すには、他者を自己の思い通り
にしたいと欲するような﹁エゴの拡大﹂という仕方ではなく、他者との共存を欲するようなエゴの﹁縮小﹂とい
う仕方でなければならないということである。そしてそのことは、他者との関係の失敗を自我の﹁分析﹂という
仕方によって自己の中だけで失敗の原因を処理してしまおうとするのではなく、その失敗全体をありのままに受
けいれる自我の﹁包括﹂という仕方で問題に取り組むべきだというものである。
そのように﹁ピンボールの目的﹂を読むとき、﹁象使い﹂の寓話はどのように読まれるのだろうか。﹁象﹂は﹁象
使い﹂と比較すると、人為的なコントロールを受けない人間の自然な姿の比喩であると言うことができる。つま
り、﹁象﹂は自然に振舞うものであり、自我の﹁包括﹂、自我をその場の状況や他者に委ねることに通じるのだ。
﹁象﹂は、﹁象使い﹂という﹁象﹂をコントロールする存在がいなければ、﹁平原に還る﹂ことができるのである。
それでは﹁象使い﹂とは何に該当するのだろうか。それは自己を自在に操ろうとする自我、つまり﹁自己表現﹂
し、自己を﹁拡大﹂し、﹁分析﹂する自意識である。
このように﹁象使い﹂の寓話と﹁ピンボールの目的﹂を比較してみると、﹃風1﹄と﹃ピンボール﹄の問題意識
が深く関連していることが読み取れる。これが﹃風1﹄から﹃ピンボール﹄へのつながりを読んでいこうとする
理由である。そして、両作品の関連はさらに次のように読むことができる。﹃風1﹄では、﹁例えば象について何
かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない﹂と語られる。それにもかかわらず、﹁僕﹂は
﹁自己表現﹂し、自己を﹁拡大﹂﹁分析﹂してしまう﹁象使い﹂について﹁語ろうと思う﹂︵﹃風1﹄8頁︶。﹃風
4
1﹄では、大まかに言えば、他者との関係の中で自己が﹁拡大﹂してしまう原因を捉えようという努力がなさ
れるのである。そして、﹃ピンボール﹄ではそのような自己が﹁拡大﹂されてしまった事態に対して、自己を﹁縮
小﹂しようという努力がなされるのだ。
﹃風1﹄﹃ピンボール﹄とも、その冒頭部分に、自己のあり方についての問題を強く打ち出している。そして、
その﹁自己﹂のあり方の問題は、他者とどのように関わっていくべきなのかという問題と不可分である。ここで
村上の発言を引いてみよう。
︵﹃ピンボール﹄は1高見︶全体的に言って﹃風1﹄と同じようにまだ習作の域を出ていない作品だとは思う
のだが、僕自身はこの小説に対して少なからざる思い入れがある。僕はこの作品で、初めて自分の思いをひ
とつの対象にしぼりこむことができた。それは幻のピンボール・マシーンである︵注3︶。
この発言を考慮するとき、﹃風1﹄の問題が、﹃ピンボール﹄の﹁ピンボール・マシーン﹂という﹁ひとつの対
象﹂を得ることによって焦点化されたと読むことは十分可能であろう。そこで、﹃風i﹄と﹃ピンボール﹄をあわ
せて読み解くとき、︿﹁僕﹂が他者との関係性について根源的な場所で悩み、その問題についてある程度の答えを
出すのではないか﹀という仮説を提起したい。この後、その﹁根源的な場所﹂とは何処なのか、﹁ある程度の答え﹂
とは何なのかというのが本稿の問題設定である。
5
第暉章 ﹃残余﹄ー生きている限り囚われてしまうもの︵﹃風の歌を聴け﹄をめぐって︶
この章では、﹃風i﹄の主人公である﹁僕﹂が他者と取り結ぶ関係性に注目して論を進めていくことになる。そ
のとき、﹁残余﹂とり2言葉を使って﹁僕﹂の他者との関係性に注目するが、この言葉については説明を要するだ
ろう。
﹁残余﹂とは、﹁残りもの、余り﹂というほどの意味である。何故﹁残りもの﹂という言葉で他者との関係性に
注目するのかと言えば、﹁僕﹂が他者とのコミュニケーションで取りこぼされたものに囚われているからだ。この
ことを﹃風1﹄の記述に当たって具体的に説明したい。
僕にとって文章を書くというのはひどく苦痛な作業である。一ヵ月かけて一行も書けないこともあれば、
三目三晩書き続けた挙句それがみんな見当違いといったこともある。
6
それにもかかわらず、文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味
をつけるのはあまりにも簡単だからだ。
十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて︸週間ばかり口もきけないほど驚いたことがある。少し気
を利かしさえすれば世界は僕の意のままになり、あらゆる価値は転換し、時は流れを変える⋮⋮そんな気が
した。
それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。僕はノートのまん中に1本の線を引き、
左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっく
に見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの⋮⋮僕はそれらを最後まで書き通すことはできな
かった。
僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものとの間には深い淵が横たわっている。どんなに
長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、
ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただの
ノートだ。教訓なら少しはあるかも知れない︵﹃風1﹄n∼12頁︶。
ここでは、﹁僕﹂が﹁十代の頃﹂に﹁生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単﹂で
あることに気づいたが、それは﹁落とし穴﹂であったことが描かれている。これは﹁僕﹂のコミュニケーション
の不完全性についての記述なのである。
﹁僕﹂は﹁ノート﹂に﹁得たもの﹂と﹁失ったもの﹂を書き出している︵注4︶。﹁僕﹂は﹁生きることの困難さ﹂
に気づかない振りをして﹁意味をつけ﹂、他者とコミュニケーションをとる中で、﹁得たもの﹂と﹁失ったもの﹂
があることに気づいている。そして、﹁得たもの﹂しか視界に入らないときには﹁世界は僕の意のまま﹂になると
勘違いできたのである。この他者との関係性の中で取り落としてしまうもの、ここで言う﹁失ったもの﹂が﹁残
7
余﹂であると、ひとまず言っておこう。﹁残余﹂は﹃風1﹄を読み解く上で重要な鍵になる。まず第一節で、﹃風
1﹄に登場するデイスク・ジョッキーと﹁精神科医﹂に注目するかたちで論を進めたい。両方の場面に現れる﹁O
FF﹂という表現を通して、﹁残余﹂について見ていこう。
第一節DJと﹁精神科医﹂から垣間見える﹁残余﹂
一、ONとOFFーディスク・ジョッキーが示す﹃残余﹂
DJは﹃風1﹄のn、12、37章に出てくる登場人物である。DJは37章で重要な働きをするが、ここで問題
にしたいのはH、12章である。37章については後に触れることになる。
H章では、﹁ポップス・テレフオン・リクエスト﹂というラジオ番組について描かれる。小説中では、まず0
Nと書かれ、そこではDJが明るく音楽番組を放送する。次にOFFと書かれて、そこではラジオで音楽を流し
ている間のDJの休憩場面が描かれる。ONの場面では、DJは﹁やあ、みんな今晩は、元気かい? 僕は最高
に御機嫌に元気だよ。﹂とDJとしての役割をこなす。OFFの場面では、﹁⋮⋮ふう⋮⋮なんて暑さだい、まつ
たく⋮⋮﹂とため息を漏らすという具合である。n章のOFFのときにDJはコーラを飲む。そして、つづく12
章ではそのコーラが原因でONのラジオ放送時もしゃっくりが止まらなくなるという事態が起こる。この記述に
ついて、大山憲三郎氏は次のように語っている。
当然のことながらOFF時のDJの存在は聴者から確認することができず、DJの存在はゼロということに
なるのだが、本当にDJの存在はゼロになってしまったのだろうか。確かにOFF時においてDJは自己存
在を表現することはできないので、聴者側からすれば存在しない。しかし、聴者からは見えない領域に移行
しただけであって、DJは間違いなく存在しているのだ。ただ存在が他者に認識されていないだけ、すな
8
わち自己表現していないだけの話である。
ここで改めて確認しておきたいのはDJの二面性についてである。聴者がラジオ放送を受信することで成
立したDJと聴者の一応のコミュニケーション、そこで認識するのはDJとしての存在である。そしてこの
認識は、DJたりえる人物の一面にしか過ぎないということでもある。DJにとってはどちらが本物なのか。
仮に両方とも本物の自己だとするならば、同一の他者に両方の自己を同時に伝達することは不可能なのであ
る。結局のところ限定された形でしか自己は享受されないのである︵注5︶。
大山氏は、DJが持つ﹁二面性﹂に注目する。DJは伝達するとき︵ON︶と伝達しないとき︵OFF︶を体
現しているのである。そして、OFF時の伝達しないときにも、﹁聴者からは見えない領域に移行しただけであっ
て、DJは間違いなく存在しているのだ﹂と指摘している。ラジオのリスナーは、OFF時のDJがどのように
存在しているのかを知ることができない。そのことを、大山氏は﹁同一の他者に両方の自己を同時に伝達するこ
とは不可能なのである。結局のところ限定された形でしか自己は享受されないのである。﹂と結論付ける。しかし、
OFF時のDJはリスナーと完全に遮断されているのだろうか。OFF時のDJは﹁聴者側からすれば存在しな
い﹂のだろうか。リスナーはDJの語りが消え、音楽しか聴くことができないとしても、やはりDJがラジオ局
で音楽が終わればまた語り始めるのを知っているのではないか。リスナーはOFF時にもDJが存在しているこ
とは知っている。しかし、どのように存在しているのか、つまりOFF時にDJが何を考えているのか、何を話
しているのかが分からないのである。だからリスナーは、DJが存在することは疑わないが、DJが何をしてい
るのかを取り落とさざるを得ない。しかし、ここで重要なのは、リスナーはOFF時にもDJが何をしているの
かを想像できるということである。この想像するということによって、DJがOFF時に何をしているのかが絶
対に分からないことが浮かび上がる。ここに取り落とした分からないものである﹁残余﹂が生まれる。このよう
な事態は、他者と断絶されていることを鮮明に浮かび上がらせるのである。
9
12章に注目すれば、この事態についてさらに考えることができる。12章では、n章のOFF時に飲んだコー
ラが原因でしゃっくりが止まらなくなる。このしゃっくりによって、リスナーは、DJがOFF時に何かをした
ことによって﹁しゃっくり﹂が出るようになったことを想像できる。この﹁しゃっくり﹂というDJの変化によ
って、リスナーはDJがOFF時にも存在が消えているわけではないことを思い知らされるのである。
ところで、12章では、DJから﹁僕﹂に電話がかかってきて、その電話の会話のやり取りがラジオで放送され
ているのだが、そこで﹁僕﹂はDJとのやり取りの中のしゃっくりに苛立つ。そのことについて田中実氏は次の
ように述べている。
ところで、僕︵小説中の﹁僕﹂のことー高見︶はこの小説で一度だけ腹を立てる。それはOFFの声である
デイスク・ジョッキーの﹁しゃっくり﹂に向かってである。このデイスク・ジョッキ⋮の身体表現は、ON
とOFFの二分法という制度︵約束︶を裏切り、﹁文明﹂の伝達の方法に対する身体的な拒絶反応を表出した
この物語のルール違反であったからだ。いや、二十一歳の僕はこうした﹁文明﹂の構造に十分自覚的ではな
い。だから、僕が腹を立てるのはおかしいと考えることもできる。だが、現代の﹁文明﹂に生きざるを得な
い僕はそのことを身体のどこかで意識している︵涯6︶。
田中氏のように考えるとき、﹁僕﹂がDJの持っている二面性に対して強く惹かれるものがあるということにな
る。確かに﹁僕﹂が怒りを表明するのはこの場面だけであり、﹁僕﹂は怒るという仕方で、普通は知ることができ
ないOFF時のDJという﹁残余﹂が、﹁しゃっくり﹂という仕方でONに顔を出したことに強く惹かれているの
だ。しかし、﹁僕﹂が抱える﹁残余﹂の問題は、DJのそれよりも根が深い。何故ならDJは職業としてONとO
FFの問題を使い分けているのであり、ONの語りの部分が伝われば何の問題のないが、﹁僕﹂は生活していく上
で、スイッチ一つでONとOFFを使い分けられるわけではないからだ。
これまで、一つはOFF時のDJを想像することによって現れる﹁残余﹂について、もう一つは、﹁僕﹂がD
10
JのON時の﹁しゃっくり﹂に強く惹かれていることについて論じたが、このことから、﹁僕﹂は他者に強い興
味を持っていることがうかがえる。何故なら、﹁残余﹂とは、知りえないものを想像するという仕方で知ろうとす
るとき、つまり、未知の他者を知ろうとして、他者と何らかの関係を取り結ぼうとするときに初めて立ち現れて
くるものだからである。もし他者に対してまったく興味がなければ、他者の未知の部分を想像することもないだ
ろう。﹁僕﹂は他者との断絶を、﹁残余﹂を想像することで乗り越えようとしているである。
このことを川本三郎氏の論を手がかりにして、別の面から考えることもできる。川本氏は﹁﹁僕﹂はすべての関
係において間接的﹂で、﹁村上春樹の小説は根底のところで対象との間に醒めた距離﹂︵注7︶があると述べている。
﹁僕﹂は確かに﹁全ての関係において間接的﹂であると言わざるを得ない。何故なら、ラジオ放送と電話によつ
て﹁僕﹂につながっているはずのON時のDJも﹁犬の漫才師﹂︵﹃風ー﹄59頁︶に過ぎないからだ。﹁僕﹂とD
Jは電話で話していても、完全につながっているわけではないし、スイッチがOFFになってDJの声が聞こえ
なくなっても、完全に遮断されているわけではない。どちらにしても割り切れず、わだかまりが残るということ
になる。つまり、﹁残余﹂とは、OFF時だけではなく、ON時においても、立ち現れてくるものなのだ。ここに
﹁僕﹂の抱える﹁残余﹂の問題が端的に現れている。この問題を﹁精神科医﹂が登場する場面でさらに考えてみ
たい。
二、﹁糖神科医﹂に対する﹁僕﹄の﹁OFF﹂
実は、﹁僕﹂は﹁残余﹂の問題にかなり幼い時期から悩まされている。そのことを示すのが、﹁ひどく無口な少
年﹂だった﹁僕﹂を、心配した両親が﹁知り合いの精神科医﹂に連れて行くという7章のエピソードである。そ
こで﹁精神科医﹂は次のように語る。
文明とは伝達である、と彼は言った。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。い
11
いかい、ゼロだ。もし君のお腹が空いていたとするね。君は﹁お腹が空いています。﹂と二言だけしゃべれ
ばいい。僕は君にクッキーをあげる。食べていいよ。︵僕はクッキーをひとつつまんだ。︶君が何も言わない
とクッキーは無い。︵医者は意地悪そうにクッキ⋮の皿をテーブルの下に隠した。︶ゼロだ。わかるね? 君
はしゃべりたくない。しかしお腹は空いた。そこで君は言葉を使わずにそれを表現したい。ゼスチュア・ゲ
ームだ。やってごらん。
僕はお腹を押さえて苦しそうな顔をした。医者は笑った。それじゃ消化不良だ。
消化不良⋮⋮。︵﹃風ー﹄29頁︶
この﹁精神科医﹂とのやり取りの後、﹁僕﹂は﹁医者の言ったことは正しい。文明とは伝達である。表現し、
伝達すべきことが失くなった時、文明は終わる。パチン⋮⋮OFF。﹂︵﹃風1﹄31頁︶という感想を漏らす。そ
して﹁僕﹂は﹁もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じ﹂であるという﹁精神科医﹂の言葉を
信じて、﹁14年間のブランクを埋め合わせるかのように﹂しやべりまくる。しかし、それも三ヶ月しか続かず、﹁僕﹂
は﹁結局のところ無口でもおしゃべりでもない平凡な少年﹂になっていた。ここで﹁僕﹂が結局﹁無口でもおし
やべりでもない平凡な少年﹂になったのは何故なのかを考えるとき、﹁残余﹂の問題がより深く現れてくる。﹁精
神科医﹂は、﹁僕﹂が言葉を話せば、クッキーをやって、何も話さないときはクッキーをやらないという行動を取
る。この﹁精神科医﹂の行動は﹁残余﹂が立ち現れてくる余地を消してしまう。何故なら、﹁精神科医﹂が﹁クッ
キーは無い﹂と言ったとき、実はクッキーは無くなったわけではなく、隠されたテーブルの下にあるという事実
を覆い隠しているからである。しかし、﹁精神科医﹂の言うこともある意味では正しい。何故なら、﹁精神科医﹂
がテーブルの下にクッキーを隠すとき、﹁僕﹂が食べることのできる﹁クッキーは無い﹂からだ。つまり﹁僕﹂の
空腹を満たすという意味で役に立つクッキーは無くなってしまったのである。
DJについての箇所で、他者について想像することで﹁残余﹂が立ち現れると述べたが、そのこととつなげ
12
て考えれば、﹁僕﹂は視界に直接入らず、空腹を満たす役に立たないクッキーを想像することによって、﹁精神
科医﹂とのやり取りの中に﹁残余﹂を見出すということになる。ここで注意しなければならないことは、﹁僕﹂が
もはや﹁僕﹂にとって役に立たないはずのクッキーについて、想像し続けているという点である。﹁僕﹂は、クッ
キーが無くなったのは﹁精神科医﹂が﹁意地悪そうに﹂クッキーを隠してしまったからだということに気づいて
いるのだ。
このように﹁僕﹂が消えたクッキーについて想像するということは、﹁僕﹂の同一性とは別の場所にあるもの、
つまり他者について、時には﹁僕﹂が生きていくためには不必要なほど過剰に、考えてしまう宿命を背負ってい
るということである。
この﹁精神科医﹂とのやり取りの後、﹁僕﹂は﹁14年間のブランクを埋め合わせるかのように﹂しゃべりまく
るのだが、それは﹁僕﹂が﹁精神科医﹂の﹁もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ﹂とい
う主張を一応は受け入れたということだろう。しかし、それも三ケ月しか続かないのは、やはり、﹁僕﹂が最終的
には﹁表現できない﹂ものは﹁存在しない﹂という主張を結局受け入れられなかったということである。﹁僕﹂は、
言葉の意味が他者に﹁伝達﹂されない限り﹁存在しない﹂という価値観に対して違和を感じていたのである。だ
から、7章における﹁僕﹂の変化は、﹁残余﹂に囚われて﹁ひどく無口な少年﹂だった﹁僕﹂が、一旦は﹁精神科
医﹂の主張を受け入れて、﹁残余﹂に囚われるようなあり方を変えようとしたが、最終的にはそれを果たせず、﹁無
口でもおしゃべりでもない平凡な少年﹂になった過程であると読むことができる。しかし、この﹁僕﹂の﹁ひど
く無口な少年﹂から、﹁無口でもおしゃべりでもない平凡な少年﹂への変化は、﹁僕﹂が完全に﹁精神科医﹂の主
張を拒否したわけでもないことも同時に示している。それは、﹁僕﹂が﹁残余﹂に囚われ続けるのでも、存在に囚
われ続けるのでもないような場所に立つことになったということを意味しているのである。
このことを考慮するとき、﹁僕﹂の﹁パチン⋮⋮OFF。﹂という表現は﹁精神科医﹂とのコミュニケーショ
ー3
ンを完全に絶ってしまったことを意味しない。よく考えてみれば、ラジオなどの機械は﹁パチン﹂とスイッチ
を切ったと同時に電源は落ちて﹁OFF﹂になるが、ここでは﹁OFF﹂になるまでの間に﹁⋮⋮﹂と空白が挿
入されているからだ。そうだとすれば、ここでいう﹁OFF﹂は完全に関係を断ち切ってしまう機械的なOFF
ではない。DJの箇所でも見たように、この﹁OFF﹂は﹁残余﹂に囚われた﹁OFF﹂であって、別の言い方
をすれば、きわめて人間的な﹁OFF﹂なのである︵注8︶。
ここまで見てきたように、﹁僕﹂は﹁僕﹂以外のものに対する過剰な関心、﹁残余﹂に対する関心を捨て去った
わけではない。﹁僕﹂にとって、﹁残余﹂の問題は幼い頃から抱え込んできた根源的な問題なのである。﹁残余﹂と
関ることは、他者とつながる契機になり得るが、﹁僕﹂の同一性を危機に陥れる危険も同時に孕んでいた。﹁僕﹂
は幼い頃からこのような生き難さの前に立たされていたのである。このことは他人と実際に関係を持とうとする
とき、他者と実際にコミュニケーションを取ろうとするときに先鋭化して現れる。次節では、まず﹁無口でもお
しゃべりでもない平凡な少年﹂のその後を追ってから、﹁僕﹂ が三番目に寝たガール・フレンドである﹁三番目の
女の子﹂の死とどのように関っていくのかを見てみたい。
第二節 決定的に損なわれるー﹁三番目の女の子﹄の死
一、﹃無口でもおしゃべりでもない平凡な少年﹂のその後ー二つの生き難さに挟まれて
﹁精神科医﹂とのやり取りの後の﹁僕﹂の経歴は、30章で次のように描かれている。
かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。
高校の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、
何年かにわたって僕は実行した。そしてある目、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできな
14
い人間になっていることを発見した。
それがクールさとどう関係しているのかは僕にはわからない。しかし年じゅう霜取りをしなければならな
い古い冷蔵庫をクールと呼び得るなら、僕だってそうだ。︵﹃風1﹄㎜∼㎜頁︶
﹁僕﹂は﹁精神科医﹂とのやり取りで﹁無口でもおしゃべりでもない平凡な少年﹂になった後、﹁心に思ったこ
との半分しか口に出すまいと決心した﹂。﹁僕﹂は他者とコミュニケーションを全く取らない﹁無口﹂に戻ること
はないが、より﹁残余﹂に敏感になっていき、他者とのコミュニケーションによって生まれる﹁残余﹂になるべ
く関らないようにしていくのである。しかし、そのことによって、﹁僕﹂の中に﹁霜﹂が溜まっていく。
この﹁僕﹂の﹁心に思ったことの半分しか口に出すまい﹂という決心は、実は﹁精神科医﹂から学んだことだ
った。﹁精神科医﹂は﹁僕﹂に﹁もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ﹂ということを教え
たが、﹁僕﹂はそのことに納得ができなかった。しかし、﹁僕﹂はお腹が空いたときにはクッキーが欲しいという
意志を示さなければならない。だから﹁僕﹂は﹁精神科医﹂の言うように﹁残余﹂から目を逸らすのではなく、
﹁残余﹂を﹁残余﹂と認めたうえで、それとなるべく関らないような生き方を選んだのである。﹁僕﹂は﹁精神科
医﹂が意図したこととは別のことを、﹁精神科医﹂から学んだのだ。
このことをもう少し深く考えるためにデレク・ハートフィールドの言葉を引用しよう。ハートフイールドは、
﹁僕﹂が﹁文章についての多くをデレク・ハートフイールドに学んだ﹂︵﹃風ー﹄9頁︶と語る架空の作家である
が、ハートフイールドの言葉や小説が﹃風1﹄で何度か引用、紹介されており、重要な役割を担っている。
ハートフィールドがよい文章についてこんな風に書いている。
﹁文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分を取り巻く事物との距離を確認することである。必
要なのは感性ではなく、ものさしだ。﹂︵﹃風1﹄10頁︶
そして僕はこのハートフイールドの言葉に続けて次のように語る。
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僕がものさしを片手に恐る恐るまわりを眺め始めたのは確かケネデイー大統領の死んだ年で、それから
もう15年になる。15年かけて僕は実にいろんなものを放り出してきた。まるでエンジンの故障した飛行機が
重量を減らすために荷物を放り出し、座席を放り出し、そして最後にはあわれなスチュワーデスを放り出す
ように、15年の間僕はありとあらゆるものを放り出し、そのかわりに殆んど何も身につけなかった。
それが果たして正しかったのかどうか、僕には確信は持てない。楽になったことは確かだとしても、年老
いて死を迎えようとした時に一体僕に何が残っているのだろうと考えるとひどく怖い。僕を焼いた後には骨
ひとつ残りはすまい。︵﹃風1﹄10∼n頁︶
このハートフイールドの言葉につい.て小菅健一氏は次のように述べている。
一時的な緊急避難としての措置であるのならばともかく、レディー・メイドの外在的で客観的な価値基準”
︿ものさし﹀に安易に頼りきってしまった代償が一体どういったものになるかは、火を見るよりも明らかな
ことである。つまり、本来ならば、自己と他者との存在の差異化を決定づけることになり、生来、自己の内
部に潜在していて、じっくりと時間をかけて主体性︵個性︶を形成していく重要な鍵を握っている︿感性﹀
を次第に捨象していくわけだから、︵中略︶最終的にどういった事態を迎えることになるのかというと、まさ
しく、死んだとしても、﹁僕を焼いた後には骨ひとつ残りはすまい﹂といった具合で、まったく何も残らない
だろうという極論にまでなる︵後略︶︵注9︶
﹁残余﹂を生む可能性のある自己を自らの内に封じ込めるという事態は、小菅氏が﹁レデイー・メイドの在外
的で客観的な価値基準”︿ものさし﹀に安易に頼りきってしまった﹂と述べているような単純な事態ではない。
﹁僕﹂は﹁主体性︵個性︶を形成していく重要な鍵を握っている︿感性﹀﹂を捨象したのではなく、感性的な自己、
つまり他者との間に﹁残余﹂を生む可能性のある自己を自らの内に封じ込めたのである。そのことによって﹁僕﹂
の中には﹁霜﹂が溜まる。そして、﹁僕﹂自身の中に﹁霜﹂を溜めてしまうことが、同時に﹁僕を焼いた後には
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骨ひとつ残りはすまい﹂という事態を引き起こしてしまうことも知っているのである。このことは、いつしか
﹁僕﹂が﹁自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になって﹂しまっていたこととも関係する。
﹁僕﹂は﹁心に思うことの半分﹂を﹁口に出すまい﹂と決心し、それを実行してきた。この決心は、それを﹁口
に出すまい﹂というだけで、それを﹁僕﹂の中から消そうとしたわけではない。しかし、﹁心に思うことの半分﹂
は﹁ある目﹂、﹁僕﹂が気づかないうちに﹁語ることのできない﹂ものになってしまっていた。つまり、﹁心に思う
ことの半分﹂は、心の奥底に振じ込まれてしまったのである。他者との間に﹁残余﹂を生む可能性のある感性的
な自己を自らの内に封じ込めることを繰り返すうちに、﹁僕﹂の意図とは別に、結果的に﹁主体性︵個性︶を形成
していく重要な鍵を握っている︿感性﹀を次第に捨象していく﹂ことになってしまったのだ。
﹁僕﹂は﹁心に思うことの半分しか口に出すまい﹂という決心によって、﹁いろんなものを放り出してきた﹂
と言う。それは﹁エンジンの故障した飛行機﹂の比喩が示すように、自己の中にあるものを﹁放り出してきた﹂
ということである。このことは、自己の成り立ちに言及している。つまり、自己は他者との間に境界線を創るこ
とによって、初めて自己となりえるのであり、他者と関り合おうとしなければ、自己も希薄になっていくという
事態の寓話なのである。このことは別の箇所のハートフィールドの言葉を使えば、﹁僕﹂の中が﹁空っぽ﹂になつ
てしまうことである。ハートフィールドの言葉を引用してみよう。
私はこの部屋にある最も神聖な書物、すなわちアルファベット順電話帳に誓って真実のみを述べる。人生
は空っぽである、と。しかし、もちろん救いはある。というのも、そもそもの始まりにおいては、それはま
るつきりの空っぽではなかったからだ。私たちは実に苦労に苦労を重ね、一生懸命努力してそれをすり減ら
し、空っぽにしてしまったのだ。︵﹃風ー﹄㎜頁︶
このハートフィールドの言葉は、﹁僕﹂の生き方の変化を端的に表している。﹁僕﹂は幼い頃、﹁残余﹂に関るこ
とで、他者とつながる契機になり得る可能性と﹁僕﹂の同一性を危機に陥れる危険性とに同時に直面するとい
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う生き難さの前に立たされていた。この生き難さは他者とつながる契機になりえることであるので﹁まるっき
りの空っぽではなかった﹂のである。しかし、﹁僕﹂は積極的に﹁残余﹂を受け入れる生き方を止めてしまう。7
章で﹁40度の熱を出して学校を休ん﹂︵﹃風ー﹄31頁︶でしまったと語られることは、﹁残余﹂を分からないまま
に受け入れたことで﹁僕﹂の同一性が危機に曝されたことの比喩になっているのである。だから﹁僕﹂は﹁無口
でもおしゃべりでもない平凡な少年﹂になった後、﹁心に思ったことの半分しか口に出すまいと決心した﹂。その
ことで、﹁残余﹂とのかかわりを最小限に食い止めようとしたのである。しかし、﹁残余﹂とのかかわりを最小限
にすることは、他者とつながりえる契機も同時に奪ってしまう。そしてこのことは、他者との関係性において初
めて成り立つ自己を希薄にしてしまうことになるのである。よって、﹁僕﹂が﹁高校生の終わり頃﹂に直面してい
る問題は、どちらが良い生き方なのかというようなものではない。﹁僕﹂は﹁残余﹂を受け入れることで、他者と
つながりえる可能性と自己の同一性を保てなくなる危険性の両方を受け入れるのか、それとも﹁残余﹂を最小限
に食い止めることでその可能性と危険性を両方とも回避するのかという二つの生き難さの間で揺れている。﹁僕﹂
は言わば、どちらの生き難さを選ぶのかという問題に直面しているのである。
そして﹁僕﹂はとりあえず﹁心に思うことの半分しか口に出すまいと決心﹂した。このことは、他者とつなが
りえる可能性と自己の同一性を保てなくなる危険性の両方を回避したということである。しかし、そこで新たな
問題が浮上する。﹁僕﹂は他者の過剰な介入を避け、自己の同一性を保つ生き方を選んだが、そのことによって、
﹁僕﹂は他者との関係性を通じて、自己を確認できなくなってしまったのだ。
ただ、そのことは﹁僕﹂は﹁残余﹂に関る意味を見失ったということではない。何故なら、﹁僕﹂は﹁残余﹂
を想像することを﹁まるっきりの空っぽではなかった﹂と語り、﹁残余﹂を想像しなくなることを﹁実に苦労に苦
労を重ね、一生懸命努力してそれをすり減らし、空っぽにしてしまった﹂と語ったハートフィールドの言葉に対
して﹁ほんの少しだけ言葉短かに本音を披渥している﹂︵﹃風ー﹄旧頁︶と付け加えているからだ。また、﹁僕﹂
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が﹁残余﹂を想像し、それと関ることを止めたのは、他者とつながりえる可能性を放棄したかったからではな
い。それと共に抱え込んでしまう自己の同一性を保てなくなる危険性が大きすぎたからなのである。﹁僕﹂は﹁高
校生の終わり頃﹂にこのように考え、﹁残余﹂を想像することが他者とつながりえる契機となり得ることを知りつ
つ、﹁残余﹂と関ることを最小限に押さえ込む。そして、そのことによって﹁僕﹂は自己の同一性を守る道を選ぶ。
しかし、それでも﹁僕﹂は﹁霜﹂を抱え込むのである。﹁僕﹂が﹁残余﹂を想像することで抱えた同一性の危機は、
﹁40度の熱﹂と語られていた。それでは、﹁霜﹂とは何なのか。そのことを考えるには、﹁三番目の女の子﹂を見
てみなければならない。
二、﹃三番目の女の子﹂の死−他者が持つ﹃残余﹂
﹁三番目の女の子﹂は19章で初めて登場する。そこでは、ごく手短に﹁僕﹂が三人目に寝たことと、﹁春休み
にテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ﹂ことが語られるだけである。この﹁三
番目の女の子﹂について最も問題とされるのが23章である。23章を引用してみよう。
僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを﹁あなたのレーゾン・デートゥル﹂と呼んだ。
☆
レ ゾンリデサトゥル
僕は以前、人間の存在理由をテーマにした短い小説を書こうとしたことがある。結局小説は完成しなかっ
たけれど、その間じゅう僕は人間のレーゾン・デートゥルについて考え続け、おかげで奇妙な性癖にとりつ
かれることになった。全ての物事を数値に置き換えずにはいられないという癖である。約8ヶ月間、僕はそ
の衝動に追いまわされた。僕は電車に乗るとまず最初に乗客の数をかぞえ、暇さえあれば脈を測った。当
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時の記録によれば、1969年の8月15目から翌年の4月3目までの間に、僕は358回の講義に出席し、
54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる。
その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと
真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のこ
とながら、僕の吸った煙草の本数や上がった階段の数や僕のペニスのサイズに対して誰ひとりとして興味な
ど持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失い、ひとりぽっちになった。
☆
そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本めの煙草を吸っていた。︵﹃風1﹄93∼94頁︶
ここでは、﹁三番目の女の子﹂の死が﹁6922本めの煙草﹂と共に語られている。このことを前田愛氏は﹁ひ
とりの人間の死の意味が、6922本めの煙草に象徴される無意味と結びつけられるアイロニー﹂︵注m︶である
と指摘している。確かにここにはある種のアイロニーを感じるが、それはただの皮肉ではない。﹁僕﹂は﹁全てを
数値に置き換えること﹂に﹁他人に何かを伝えられるかもしれない﹂というある種の希望を見ていた。というこ
とは、﹁僕﹂が﹁三番目の女の子﹂の死と結びつけようとしたものは﹁無意味﹂ではなかったのである。
この﹁奇妙な性癖﹂はハートフイールドの﹁小説というものは情報である以上グラフや年表で表現できるもの
でなければならない﹂︵﹃風ー﹄㎜頁︶という持論を意識させる。﹁奇妙な性癖﹂が﹁僕﹂が﹁小説を書こうとし
た﹂時期に現れていることも考慮すれば、それはデレク・ハートフイールドの言葉で言う﹁ものさし﹂であると
考えられるのである。
だから、﹁僕﹂はこの﹁ものさし﹂によって、﹁三番目の女の子﹂の死までも測ろうとしたのではない。あえて
﹁僕﹂がそのように測ろうとしたのは、﹁残余﹂を極力押さえ込むためだった。﹁僕﹂は他者と関らなければなら
ないことは知っている。しかし、﹁残余﹂は押さえ込まなければならない。その両方を満たすと思われた苦肉の
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策が﹁全てを数値に置き換えること﹂だったのである︵注n︶。だが、その試みはうまくいかなかった。﹁僕﹂は
﹁ものさし﹂で測りえる﹁僕の吸った煙草の本数や上がった階段の数や僕のペニスのサイズ﹂に対して﹁誰ひと
りとして興味など持ちはしない﹂ことを知り、﹁自分のレーゾン・デートゥルを見失い、ひとりぽっちになっ﹂て
しまったのである。ここで注意しなければならないのは、﹁僕﹂の存在理由は﹁三番目の女の子﹂が﹁僕﹂のペニ
スを﹁あなたのレーゾン・デートゥル﹂と呼んだことによって、保たれていたということだ。それは、﹁僕﹂は、
﹁三番目の女の子﹂という他者に存在理由を与えられていたのであって、﹁僕﹂の存在理由は﹁僕﹂自身には創り
出せなかったということなのである︵注皿︶。しかし、﹁三番目の女の子﹂という他者は﹁僕﹂に存在理由だけを与
えてくれるわけではない。そのことは34章に示されている。引用してみよう。
僕は時折嘘をつく。
最後に嘘をついたのは去年のことだ。
︵中略︶
去年の秋、僕と僕のガール・フレンドは裸でベッドの中にもぐりこんでいた。︵中略︶
僕たちは毛布にくるまったままサンドウイッチを趨りながらテレビで古い映画を見た。
﹁戦場にかける橋﹂だった。
最後に橋が爆破されたところで彼女はしばらく捻った。
﹁何故あんなに一生懸命になって橋を作るの?﹂彼女は荘然と立ちすくむアレックス・ギネスを指して僕に
そう訊ねた。
﹁誇りを持ち続けるためさ。﹂
﹁ム⋮⋮。﹂彼女は口にパンを頬ばったまま人間の誇りについてしばらく考え込んだ。いつものことだが、
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彼女の頭の中でいったい何が起こっているのか、僕には想像もつかなかった。
﹁ねえ、私を愛してる?﹂
﹁もちろん。﹂
﹁結婚したい?﹂
﹁今、すぐに?﹂
﹁いつか⋮⋮もっと先によ。﹂
﹁もちろん結婚したい。﹂
﹁でも私が訊ねるまでそんなことτ言だって言わなかったわ。﹂
﹁言い忘れてたんだ。﹂
﹁⋮⋮子供は何人欲しい?﹂
﹁3人。﹂
﹁男? 女?﹂
﹁女が2人に男が1人。﹂
彼女はコーヒーで口の中のパンを呑み下してからじっと僕の顔を見た。
﹁嘘つきー﹂
と彼女は言った。
しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。︵﹃風1﹄瑠∼鵬頁。強調は原文による︶
ここで描かれている﹁僕のガール・フレンド﹂とは﹁三番目の女の子﹂のことである。34章での﹁僕﹂と﹁三
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番目の女の子﹂のやり取りの中で、﹁僕﹂は﹁いつものことだが、彼女の頭の中でいったい何が起こっているの
か、僕には想像もつかな﹂い。﹁僕﹂は﹁いつも﹂﹁三番目の女の子﹂について想像しようとしているが、﹁想像も
つかな﹂いのである。このことは﹁三番目の女の子﹂が﹁僕﹂の想像を超える存在であり、﹁僕﹂は﹁三番目の女
の子﹂を﹁いつも﹂取り落としてしまうことを意味している。﹁僕﹂は﹁三番目の女の子﹂の他者性に起因する﹁残
余﹂を想像することすらできないのである。このことは端的に言って、﹁僕﹂の同一性の危機である。何故なら、
﹁僕﹂に存在理由を与えてくれる﹁三番目の女の子﹂の﹁頭の中でいったい何が起こっているのか﹂分からない
ということは、延いては﹁僕﹂の存在理由が分からないということだからである。しかし、﹁僕﹂は﹁頭の中﹂を
想像することすらできない﹁三番目の女の子﹂とのやり取りを続ける。﹁僕﹂はそのことによって、想像すること
すらできない﹁三番目の女の子﹂を知ろうとしているのである。
ここで問題となるのは﹁三番目の女の子﹂が何故﹁僕﹂に﹁嘘つき!﹂と言ったのかである。﹁僕﹂はこの﹁嘘
つき!﹂という発言に対して、﹁しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。﹂と思うのだが、
このひとつの嘘とは、﹁三番目の女の子﹂の﹁でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。﹂に対
する﹁僕﹂の﹁言い忘れてたんだ。﹂という発言であろう︵注B︶。その根拠は、﹁僕﹂がいつのまにか﹁自分が思
つていることの半分しか語ることのできない人間になってい﹂たことに求められる。﹁僕﹂は﹁三番目の女の子﹂
と﹁もちろん結婚したい﹂と思っていても、そのことを語ることができなかったのである。しかし、﹁僕﹂はその
ことを隠して﹁言い忘れてたんだ﹂と言う。すなわち嘘をついたのである。﹁僕﹂は﹁三番目の女の子﹂と﹁結婚
したい﹂とは思っていたが、﹁思っていることの半分﹂しか語ることができないために、その気持ちを﹁三番目の
女の子﹂に伝えることができなかった。﹁三番目の女の子﹂は、そのことを﹁僕﹂が﹁結婚したい﹂とは思ってい
ないにもかかわらず、訊ねられたので﹁結婚したい﹂と嘘を答えただけなのだというふうに勘違いしてしまった
のである。だから、﹁三番目の女の子﹂は﹁僕﹂の発言の全てを﹁嘘つき!﹂と言ったのだ。何故﹁僕﹂はこの
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ような嘘をついたのだろうか。それは、﹁僕﹂が﹁残余﹂を抱え込むのを避けたからだ。ここでは、他者の﹁残
余﹂についての問題が浮上しているのである。
これまで、DJと﹁精神科医﹂を通じて﹁残余﹂の問題を見てきた。そこで、﹁残余﹂は﹁僕﹂が想像すること
によって初めて立ち現れてくるものであると述べたが、目の前の﹁三番目の女の子﹂という他者は、﹁僕﹂が﹁残
余﹂を想像しなくても、﹁残余﹂を持っている。﹁三番目の女の子﹂は﹁僕﹂にとって理解不可能なものを、コミ
ユニケーションを取る中で﹁僕﹂に対して示し続ける。そして、﹁僕﹂は想像することによっても、その﹁残余﹂
に近づくことができない。﹁僕﹂が﹁三番目の女の子﹂の﹁頭の中﹂をいくら想像しても、それは﹁三番目の女の
子﹂の発言によって揺らいでしまう。他者とコミュニケーションを取るということは、目まぐるしく﹁残余﹂が
揺れ動いているという事態なのである。そして、﹁僕﹂はコミュニケーションを取っているという正にそのことに
よって、絶えず揺れ動く﹁残余﹂に触れることができる。﹁僕﹂はコミュニケーションを取ることによって、﹁三
番目の女の子﹂の﹁頭の中﹂を推測できるかもしれないのである。
しかし、﹁僕﹂には結局﹁三番目の女の子﹂が何を考えていたのかは分からない。この﹁僕﹂と﹁三番目の女
の子﹂とのやり取りについて鈴木氏は﹁注意すべきは、﹁彼女﹂は﹁僕﹂の意志を﹁訊ね﹂ただけであって、自分
自身の意志については﹁一言だって言わなかった﹂ことである﹂︵注艮︶と指摘している。この指摘は重要である。
﹁三番目の女の子﹂が﹁結婚したい?﹂と訊ねた意図が、結局﹁僕﹂には分からなかったのだ。そのことは、﹁僕﹂
が﹁三番目の女の子﹂の﹁死﹂に直面しても変わらない。26章では﹁何故彼女が死んだのかは誰にもわからない。
彼女自身にもわかっていたのかどうかさえ怪しいものだ、と僕は思う﹂︵﹃風ー﹄99頁︶と語られている。
ここで﹁嘘つき!﹂のやり取りをさらに詳しく考えてみたい。そうすることで、﹁残余﹂が揺れ動いていること
を確認しよう。﹁三番目の女の子﹂は﹁僕﹂の﹁残余﹂︵ここでは﹁三番目の女の子﹂が知ることができない﹁僕﹂
の気持ち︶を知ろうとして、﹁ねえ、私を愛してる?﹂と﹁僕﹂に訊ねる。﹁僕﹂は﹁もちろん﹂と答える。こ
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のとき、﹁三番目の女の子﹂は﹁僕﹂の知りえない心を知ったはずだった。しかし、﹁もちろん﹂という﹁僕﹂
の答えを知った瞬間、﹁三番目の女の子﹂の中で、︿何故﹁僕﹂は﹁愛してる﹂ということを﹁私が訊ねるまで﹂、
﹁二言だって言わなかった﹂のだろう﹀というような新たな﹁残余﹂が生まれてしまったのである。だから﹁三
番目の女の子﹂は新たに生まれてしまった﹁残余﹂をどうにかしようとして、﹁僕﹂に﹁でも私が訊ねるまでそん
なこと一言だって言わなかったわ。﹂と半ば訊ねるように言う。しかし、﹁僕﹂の答えは﹁三番目の女の子﹂にと
って﹁残余﹂が埋まったと感じられるような答えではなかった。このような過程を経て、﹁三番目の女の子﹂は﹁僕﹂
に﹁嘘つき!﹂と言わなければならなかったのである。
ただ、この新たに生まれてしまった﹁残余﹂は、﹁三番目の女の子﹂の﹁頭の中﹂で﹁僕﹂が﹁三番目の女の
子﹂に見せる﹁残余﹂が、過剰に膨らんでしまったものであるということができる。﹁他者﹂が持つ﹁残余﹂は揺
れ動いて、完全に消え去るということはありえないので、﹁三番目の女の子﹂は﹁僕﹂が考えているだろうことや、
﹁僕﹂の会話の意図を想像し続ける。だから、コ一一番目の女の子﹂は﹁僕﹂の﹁もちろん﹂という答えに対して不
安を覚えたのである。そして、生まれてしまった﹁残余﹂をどうにかしようとして﹁僕﹂に訊ねたのである。し
かし、﹁僕﹂の答えは﹁残余﹂をさらに揺り動かしただけだったのだ。この事態は、﹁残余﹂を想像することが、
他者につながりえる可能性と、自己の意識が過剰になってしまう危険性を孕んでいるということである。つまり、
﹁残余﹂を想像することで他者に行き着けなかった場合、その想像は受け手がなく、その受け手が無いという事
態が、さらに﹁残余﹂を生み出すのである。このように他者が持つ﹁残余﹂に関ろうとすることは、﹁残余﹂が﹁残
余﹂を生み出すという事態を引き起こす。その事態に、自己の想像力のみで関ろうとすれば、自己が自己の許容
量を超えて拡大してしまうのである。この﹁三番目の女の子﹂が示す、自己の拡大という問題は、自己のエゴイ
スティックな拡大、つまり他者を自己の支配下に置こうとするために起こったものではない。自己が他者につな
がろうとするとき、つまり他者と分かり合いたいと願ったり、他者を愛したりしたいと思って﹁残余﹂に関ろ
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うとするときに現れる問題なのである。そしてこの問題は、本稿の﹁はじめに﹂で触れたように、﹃風ー﹄、﹃ピ
ンボール﹄を通じて問われている問題なのである。このように、﹁三番目の女の子﹂もまた、﹁僕﹂とのやり取り
を通して﹁残余﹂を抱えてしまったのだ。﹁僕﹂が何故嘘をついたのかを﹁三番目の女の子﹂は知ることができな
いのである。そして、﹁三番目の女の子﹂はその知ることができない﹁残余﹂に耐え切れないために死んでしまっ
たのである︵注田︶。
ここでもう一度、23章に戻ってみよう。23章について加藤弘一氏は次のように語っている。
ママ
﹁僕﹂は彼女︵﹁三番目の女の子﹂のこと1高見︶の自殺によって、他者の世界に対する異和感を意識しだす
が、同時に、他者の世界はもはや他者の世界といってすますわけにはいかなくなってしまったのである。彼
女の自殺に心理的に加担することによって、他者の一人である彼女にぬぐいがたい働きをしてしまったから
だ。もはや﹁僕﹂は無垢ではない。﹁僕﹂は苦しさやつらさ弱さに充ちた他者の世界に対する無関与を申し立
たてようとした時には、すでに決定的な関与をおこなっていたのである︵注16︶。
ここで加藤弘一氏は﹁他者の世界はもはや他者の世界といってすますわけにはいかなくなってしまった﹂とい
う重要な指摘を行っている︵注貨︶。﹁僕﹂はこれまで﹁残余﹂に囚われ、それと積極的に関っていくこともできな
かった。そのために﹁僕﹂は﹁残余﹂との関りを最小限に抑えるために、ハートフイールドの教えに従って、﹁全
てを数値に置き換える﹂という﹁奇妙な性癖﹂︵これは﹁僕﹂にとっては﹁ものさし﹂だった︶によって、物事の
﹁残余﹂を想像することを半ば自分自身に禁じていたのである︵注田︶。しかし、﹁僕﹂は﹁僕﹂が想像するしない
にかかわらず﹁僕﹂を捕える﹁残余﹂、つまり他者の﹁残余﹂を﹁三番目の女の子﹂に死によって、決定的に刻み
付けられたのである。そしてその事態は、﹁僕﹂が﹁全てを数値に置き換える﹂ことで﹁他者の世界に対する無関
与を申し立たてようとした時には、すでに決定的な関与をおこなっていた﹂という事態と表裏一体を成している。
﹁僕﹂は絶対的に避けることができない他者が持つ﹁残余﹂を知ったのである。そして、それは同時に﹁僕﹂
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自身の他者性、﹁僕﹂が他者にとっての他者である可能性にも気づいたということでもあるのだ。そのことに気
づいた﹁僕﹂は、﹁全てを数値に置き換える﹂ことを放棄することになる。
ここでようやく﹁霜﹂について明らかにすることができる。この避けることのできない他者が持つ﹁残余﹂が
﹁霜﹂として表現されているものだったのである︵注⑲︶。この﹁霜取りをしなければならない古い冷蔵庫﹂︵注20︶
とは、生きている限り﹁僕﹂の中には﹁残余﹂という﹁霜﹂が溜まってしまうことを避けることはできないとい
う﹁僕﹂のあり方を示しているのである。
﹁僕﹂は﹁三番目の女の子﹂の死に直面して、絶対的な仕方で﹁僕﹂に関ってくる他者が持つ﹁残余﹂に気づ
かされることになった。そのことで、﹁僕﹂が他者との関係を遮断することは不可能であるということにも、同時
に気づかされたのである。他者は時に想像するという仕方で﹁僕﹂から近づくまでもなく、﹁僕﹂に降りかかるの
である。﹁僕﹂は﹁奇妙な性癖﹂︵”﹁ものさし﹂︶では、﹁残余﹂をどうすることもできないことを知る。﹁僕﹂は
﹁三番目の女の子﹂の死に直面し、決定的に損なわれたのである。そしてそのことによって、﹁僕﹂は生き方の変
化を迫られることになるのである。次にその生き方の変化を﹁僕﹂と﹁小指のない女の子﹂の嘘から見てみたい。
三、﹃小指のない女の子﹄の嘘
﹁小指のない女の子﹂は﹁三番目の女の子﹂が自殺した後、﹁僕﹂が付き合った女の子である。﹁小指のない女
の子﹂は22章で﹁僕﹂に﹁明日から旅行するの﹂︵﹃風1﹄91頁︶と言う。﹁僕﹂が﹁何処に?﹂と訊ねると、﹁小
指のない女の子﹂は﹁決めてないわ﹂と言う。33章で﹁小指のない女の子﹂は旅行から帰ってくるが、﹁僕﹂が
﹁旅行は楽しかった?﹂︵﹃風1﹄伽頁︶と訊ねると﹁旅行になんて行ってなかったの。あなたには嘘をついてた
のよ﹂と答える。﹁小指のない女の子﹂は旅行には行っていなかったのである。そして35章で﹁小指のない女の
いう場面であり、34章と35章を比較することで、﹁僕﹂の他者への関り方の変化を見ることができる。まず35章
子﹂は﹁僕﹂に﹁本当のことを聞きたい?﹂と訊ねる。謎章は﹁三番目の女の子﹂が﹁僕﹂に﹁嘘つきーこと
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を見てみよう。
﹁本当のことを聞きたい?﹂
彼女がそう訊ねた。
﹁去年ね、牛を解剖したんだ。﹂
﹁そう?﹂
﹁腹を裂いてみると、胃の中にひとつかみの草しか入っていなかった。僕はその草をビニール袋に入れて家
に持って帰り、机の上に置いた。それでね、何か嫌なことがある度にその草の塊りを眺めてこんな風に考え
ることにしてるんだ。何故牛はこんなまずそうで惨めなものを何度も何度も反鯛して食べるんだろうって
ね。﹂
﹁わかったわ。何も言わない。﹂
僕は肯いた。︵﹃風1﹄伽∼㎜頁︶
この後、﹁小指のない女の子﹂は﹁僕﹂に﹁嘘なんて本当はつきたくなかったのよ。﹂︵﹃風ー﹄35頁︶と言う。
1
そして36章で、﹁小指のない女の子﹂は旅行に行くと嘘をついて﹁僕﹂に会わなかった期間に、実は堕胎手術を
していたことが明らかになるのである。
このやり取りで問題となるのは﹁ひとつかみの草﹂である。これについて前田氏は次のように論じる。
牛の中に入っていた草の塊りは、彼女の内面の喩でもあり、そしてまた﹁僕﹂の内面の喩でもある。誰も
が惨めな内面を抱えているという事実をあきらめとともに受けいれるか、あるいはそれゆえにお互いに内面
を開いて見せることに救いを求めるか、この二つの選択肢からどちらを選ぶのかは、﹁僕﹂の場合自明の理に
だ︵注m︶。
近い。﹁認識しようと努めるものと、実際に認識しようとするものの間には深い淵が横たわってい﹂るから
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前田氏は、﹁草の塊り﹂を﹁彼女の内面の喩﹂であり、同時に﹁﹁僕﹂の内面の喩でもある﹂と言うが、では﹁内
面﹂と何なのか。それは﹁小指のない女の子﹂が語ろうとしている﹁本当のこと﹂であり、﹁僕﹂が語れなかった
﹁本当のこと﹂である。﹁小指のない女の子﹂の﹁本当のこと﹂とは後で明らかになる堕胎のことであり、﹁僕﹂
の﹁本当のこと﹂とは34章で語れなかった﹁言い忘れてた﹂という嘘によって隠そうとした、﹁自分が思ってい
ることの半分しか語ることのできない人間になってい﹂たことである。前田氏は漢然と﹁内面﹂という言葉を使
うが、﹁内面﹂という言葉を使ってしまうと、この状況は見えなくなってしまうだろう︵注22︶。また、前田氏はこ
の﹁草の塊り﹂について﹁惨めな内面を抱えているという事実をあきらめとともに受けいれるか、あるいはそれ
ゆえにお互いに内面を開いて見せることに救いを求めるか、この二つの選択肢﹂しかないと述べる。しかし、﹁僕﹂
は﹁この二つの選択肢﹂以外の選択を行おうとしているように見える。そのことを検討するために、まず嘘につ
いて考えてみよう。ハラルト・ヴァインリヒは嘘について次のように述べている。
何事かを既に知っている人だけが、そもそも問うことが出来る。この情報にはむろん何かが欠けている。︵中
略︶だが、欠けているのは補充要素にすぎない。この欠けている補充要素は大きい事もあるし、小さい事も
ある。この点で個々の問いは異なっている。しかし、この補充要素は、質問者が答えを仮定する事も出来な
いほど大きいことは決してありえないし、その答えが更に新しい情報をつけ足すことが出来ないほど小さい
事もありえない。補充されるべき情報の最小限は、いわゆる全疑問で達せられている。ここでは賛成︵﹁イエ
ス﹂︶か、拒否︵﹁ノi﹂︶が以外に欠けているものはない。前情報に対するイエスか、ノーである︵注23︶。
結局のところ、嘘はイエスかノーかに関係がある。︵中略︶それは、全疑問に答えている嘘である。︵中略︶
それは、確認されるか、却下されるかという決定だけをわずかに欠いている、最大限の前情報が話の相手方
にあることを前提としている︵注24︶。
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ヴァインリヒによれば、嘘は﹁話の相手方﹂と﹁最大限の前情報が話の相手方にあることを前提﹂にしてい
る。つまり、嘘をつくためには、嘘をつく事柄についての共通了解がなければならないということである。この
ことは﹁前情報﹂を分かり合っているという意味ではコミュニケーションが成立しているということなのである。
このことから考えれば、嘘が成り立つ関係においては既にある程度﹁お互いに内面を開いて見せ﹂てしまってい
る。だから﹁僕﹂は﹁惨めな内面を抱えているという事実をあきらめとともに受けいれる﹂わけでもないし、﹁お
互いに内面を開いて見せることに救いを求める﹂わけでもない。
﹁僕﹂は34章で﹁三番目の女の子﹂に嘘をついていたが、その嘘は、咄嵯に出たものだった。﹁僕﹂はそこで、
相手を意図的に騙そうとして嘘を言ったわけではない。しかし、﹁三番目の女の子﹂はその嘘を受け入れられない
ために死んでしまったのだった。嘘とは、他者との関係において避けることのできない﹁残余﹂なのであり、誤
解を恐れずに言えば、他者と関係するには嘘をつかれる可能性を受け入れなければならないのである。
﹁僕﹂はこれらのことを﹁三番目の女の子﹂との関係から学んだことによって、﹁小指のない女の子﹂が嘘を
ついていたことを受け入れる。そして﹁残余﹂を無理やり挟り出すのではなく、自然に語られるのを待つのであ
る。結局、この﹁小指のない女の子﹂の嘘は、36章でその真相が語られることになる。35章でのやり取りの後、
﹁小指のない女の子﹂のアパートで﹁彼女を抱﹂く。
﹁私とセックスしたい?﹂
﹁うん。﹂
﹁御免なさい。今目は駄目なの。﹂
僕は彼女を抱いたまま黙って肯いた。
﹁手術したばかりなのよ。﹂
﹁子供?﹂
﹁そう。﹂︵﹃風ー﹄鵬頁︶
30
﹁本当のことを聞きたい?﹂というような仕方ではなく、﹁僕﹂は﹁小指のない女の子﹂の嘘を嘘として受け
入れたことによって、嘘と本当という地平を超えた場所で語られることになったのである。このことの意味は大
きい。何故なら、﹁僕﹂は他者が持つ嘘という﹁残余﹂を、﹁残余﹂として受け入れることができたからである。
注意しなければならないのは、﹁残余﹂を﹁残余﹂として受け入れることは、他者の他者性を生かす行為であると
いうことである。このことについて小森氏は次のように述べている。
﹃風1﹄の会話のほとんどが、このような形で相手の言葉をはぐらかし、相手の言葉が辿り着こうとして
いる意味の地平を、スウッと会話の場から抜き去ろうとしているようだ。︵中略︶
けれども僕には、この会話の緊張と濃密さに身体中の筋肉がひきつりそうになった瞬問が何度もあったし、
今もそれを反鯛している︵注25︶。
この小森氏の﹁意味の地平を、スゥッと会話の場から抜き去ろうと﹂しているという指摘は的確である。しか
し、それは﹁相手の言葉をはぐらか﹂すためになされたのではない。それは他者の﹁残余﹂を﹁残余﹂まま受け
入れるためになされたのであり、嘘、本当という地平を越えるためになされたのだ。言い換えれば、それは他者
の言葉を本当なら信じて、嘘なら﹁嘘つきー﹂と切り捨ててしまわないということであり、自己の価値観によっ
て、嘘、本当という判断をしないということなのである。嘘であろうが、本当であろうが、他者の言葉に耳を傾
けること。そのことを﹁僕﹂は﹁三番目の女の子﹂の死から学んだのだ。
このように﹁僕﹂は﹁三番目の女の子﹂との経験を通して、﹁小指のない女の子﹂との関係を模索し、ある程度
そのことに成功する。しかし、それでも﹁小指のない女の子﹂は﹁僕﹂のもとを去ることになる。﹁小指のない女
の子﹂に﹁僕は二度と会えなかった。僕が冬に街に帰った時、彼女はレコード屋をやめ、アパートを引き払って
いた。そして人と洪水の中に跡も残さずに消え去っていた﹂︵﹃風1﹄圏頁︶のである。
31
何故﹁小指のない女の子﹂は﹁消え去って﹂しまったのだろうか。それは、端的に言うと﹁小指のない女の
子﹂は結局﹁僕﹂を愛せなったからである。
﹁ずっと何年も前から、いろんなことがうまくいかなくなったの。﹂
﹁何年くらい前?﹂
﹁12、13⋮⋮お父さんが病気になった年。それより昔のことは何ひとつ覚えてないわ。ずっと嫌なことばか
り。頭の上をね、いつも悪い風が吹いてるのよ。﹂
﹁風向きも変わるさ。﹂
﹁ 本 当 にそう思う?﹂
﹁いつかね。﹂
︵中略︶
﹁何度もそう思おうとしたわ。でもね、いつも駄目だった。人を好きになろうとしたし、辛抱強くなろうと
もしてみたの。でもね⋮⋮。﹂
僕たちはそれ以上何もしゃべらずに抱き合った。︵﹃風1﹄幽頁︶
﹁小指のない女の子﹂は﹁何度も﹂、﹁人を好きになろうとしたし、辛抱強くなろうともしてみた﹂と言う。し
かし、そのことは叶わなかったのである。﹁人を好きになろうとし﹂てもできなかったのは、﹁頭の上﹂をいつも
﹁悪い風﹂が吹いているからである。この﹁悪い風﹂について﹁小指のない女の子﹂は別の箇所で﹁一人でじっ
としてるとね、いろんな人が話しかけてくるのが聞こえるの﹂、﹁大抵は嫌なことばかりよ﹂︵﹃風1﹄悩頁︶と語
る。この﹁小指のない女の子﹂の﹁悪い風﹂は、﹁頭の中﹂ではなく﹁頭の上﹂を吹いている。この﹁いろんな人
が話しかけてくるのが聞こえる﹂という事態は多分妄想なのだろう。しかし、この妄想は想像が過剰になった結
果であり、﹁小指のない女の子﹂もまた、﹁残余﹂に苦しめられているのである。そして、﹁小指のない女の子﹂
32
もまた、﹁僕﹂が﹁精神科医﹂とすれ違いを起こしたように、﹁医者に見てもらっ﹂︵﹃風1﹄悩頁︶てもこの事
態が良い方向へ向かうわけではないことを知っているのである。
﹁僕﹂と﹁小指のない女の子﹂の関係は、感覚的に言って、悪い印象を与えない。﹁僕﹂は﹁三番目の女の子﹂
の死から学んだ経験によって、﹁残余﹂を﹁残余﹂のまま受け入れることができ、それはある程度成功したかに見
えた。そして、﹁小指のない女の子﹂は自らの心配事を﹁僕﹂に打ち明けるほど、親密な仲になれたように見える。
しかし、﹁小指のない女の子﹂が﹁僕﹂から去っていったことを考えれば、そのことは偶然に過ぎなかったと言う
ことになってしまう︵注26︶が、実は偶然で良いのである。偶然であることとは、自己の認識や知識、価値観の外
で起こる出来事なのであり、他者とのコミュニケーションは絶えずそのような場所で行われているからである。
しかし、﹁小指のない女の子﹂にとって﹁残余﹂は﹁悪い風﹂になってしまっている。﹁残余﹂を意識しすぎると
自己と他者の関係がうまくいかなくなるのであり、﹁小指のない女の子﹂は﹁僕﹂とうまくコミュニケーションを
取れたように見えたにもかかわらず、﹁頭の上﹂を﹁悪い風﹂が吹き抜けている。
どうやら﹁風﹂について考えなければならないようである。次節では、﹁鼠﹂という重要な登場人物にも触れな
がら、﹁風﹂について見てみよう。
第三節 ﹃風﹄
﹁鼠﹂を取り上げるのは、﹁鼠﹂が﹁風﹂を聞いたからである。この節では、﹁僕﹂と﹁鼠﹂の関係を押さえて
から﹁鼠﹂が聞いた﹁風﹂について考えていこう。そして、﹁鼠﹂の聞いた﹁風﹂と対比させて、ハートフイール
ドの﹁風﹂について考えることで﹃風1﹄が﹁残余﹂をどのように扱っているのかを見てみたい。
一、﹁金持ち﹂の﹁鼠﹄
33
﹁鼠﹂は3章で初めて登場し、次のように語る。
﹁金持ちなんて・みんな・糞くらえさ﹂
鼠はカウンターに両手をついたまま僕に向かって憂欝そうにそうどなった。
あるいは鼠のどなった相手は僕の後にあるコーヒi・ミルなのかもしれなった。僕と鼠はカウンターに隣
りあって腰かけていたのだし、わざわざ僕に向かってどなる必要なんて何もなかったからだ。しかし何れに
せよ、大声を出してしまうと鼠はいつものように満足した面持でビールを美味そうに飲んだ。︵﹃風ー﹄13∼
M頁︶
この﹁鼠﹂の登場の仕方は印象的である。﹁鼠﹂は﹁金持ちなんて・みんな・糞くらえさ﹂とどなる。そのこ
とに対して﹁僕﹂は﹁わざわざ僕に向かってどなる必要なんて何もなかった﹂と感じる。﹁鼠﹂は﹁僕﹂にとって、
過剰なものとして現れるのである。そして、この﹁鼠﹂の過剰は、4章で、﹁鼠﹂が﹁金持ち﹂であることが示さ
れることで、より深まる。﹁鼠﹂の持つ過剰もまた﹁残余﹂である。﹁鼠﹂が﹁金持ち﹂であることは、﹃風ー﹄に
おいて重要な意味を持っている。そのことは﹁僕﹂と﹁鼠﹂がよく酒を飲む﹁ジェイズ・バi﹂のカウンターに
かかっている﹁一枚の版画﹂︵﹃風1﹄15頁︶が示している。そのコ枚の版画﹂の図柄について﹁僕﹂と﹁ジェ
イズ・バi﹂のバーテンの﹁ジェイ﹂は次のようなやり取りをする。
まるでロールシャハ・テストにでも使われそうなその図柄は、僕には向かいあって座った二匹の緑色の猿が
空気の抜けかけた二つのテニス・ボールを投げあっているように見えた。
僕がバーテンのジェイにそう言うと、彼はしばらくじっとそれを眺めてから、そう言えばそうだね、と気
のなさそうに言った。
﹁何を象徴しているのかな?﹂僕はそう訊ねてみた。
34
﹁左の猿があんたで、右のがあたしだね。あたしがビール瓶を投げると、あんたが代金を投げてよこす。﹂
僕は感心してビールを飲んだ。︵﹃風1﹄15頁︶
このコ枚の版画﹂の図柄について前田氏は﹁この二匹の猿はジェイズ・バーにたむろする﹁僕﹂と鼠に、二
つのテニス・ボールは二人のあいだに交わされたQ&Aのゲーム、はてしないお喋りに、それぞれ見立てられて
いる﹂︵注解︶と指摘する。この前田氏の指摘は、よく﹁会話のキャッチボール﹂などとも言われるように、自然
な解釈であろう︵注28︶。問題は、このキャッチボールに与えられた意味が、﹁ビール﹂と﹁代金﹂という商品と貨
幣の交換に置き換えられてしまっていることである。
このことには重要な意味がある。貨幣交換の問題と、﹁残余﹂の問題は深い場所で結びついているのである。こ
の貨幣交換の問題は、﹁鼠﹂が﹁金持ち﹂のであることとして、いくつかの先行研究で触れられている。中でも加
藤典洋氏は﹃風1﹄の中に﹁﹁金持ち﹂という言葉が十六回、﹁貧乏﹂という言葉が六回、出てくる。︵中略︶この
小説は、いま考えると意外だが、金持ちと貧乏にずいぶんとこだわった、金持ちと貧乏の物語でもあるのである﹂
︵注29︶と指摘している。﹁鼠﹂は自分が﹁金持ち﹂であることに対して次のように言う。
﹁時々ね、どうしても我慢できなくなることがあるんだ。自分が金持ちだってことにね。逃げ出したくなる
んだよ。わかるかい?﹂
﹁わかるわけないさ。﹂と僕はあきれて言った。﹁でも逃げ出せばいい。本当にそう思うならね。﹂
﹁⋮⋮多分ね、それが一番いいと思うよ。どこか知らない街に行ってね、そもそもの始めからやり直すんだ。
それも悪かないよ。﹂︵﹃風1﹄皿∼旧頁︶
何故﹁鼠﹂は﹁金持ち﹂であることに苦しむのだろうか。それは、﹁金持ち﹂が貨幣交換だけで生きていける存
在だからである。交換と贈与という問題からこの﹁金持ち﹂を考えれば、貨幣交換だけで生きてしまえることは
致命的である。何故なら交換は贈与から他者が持つ﹁残余﹂を抜き取ったものだからだ︵注30︶。﹁金持ち﹂であ
35
れば、﹁残余﹂には目もくれず、貨幣交換によって生きていくための最低限の価値を得ることができるのである。
だから、﹁鼠﹂は﹁金持ち﹂のことを﹁奴らは大事なことは何も考えない。考えるフリをしてるだけさ﹂︵﹃風ー﹄
︶と批判する。そして﹁鼠﹂は﹁金持ち﹂ではない人間は﹁生きるためには考え続けなくちゃならない。明
ことなく生きてしまえるのであり、その状況に苦しんでいるのである。
介するのも﹁止めた﹂︵﹃風1﹄醜頁︶し、大学も﹁止め﹂︵﹃風ー﹄朋頁︶る。﹁鼠﹂は﹁残余﹂にまったく関る
ンにおいても、﹁残余﹂を完全に消し去ることができることを示しているのである。﹁鼠﹂は女の子を﹁僕﹂に紹
だから、この﹁金持ち﹂をめぐる問題は経済的な事柄に限定されるものではない。他者とのコミュニケーショ
て生きることに他ならない。
の栓﹂についてさえも﹁考え続けな﹂ければならないということは、目々の生活で立ち現れる﹁残余﹂に囚われ
目の天気のことから、風呂の栓のサイズまでね。﹂︵﹃風1﹄16∼17頁︶と言うのである。﹁明目の天気﹂や﹁風呂
16
﹁僕﹂が﹁残余﹂と関らざるを得なかったことは第一節で見てきた。しかし、﹁鼠﹂は﹁残余﹂と関ることなく
生れ、生きてしまえることに苦しんでいる︵注31︶。そのことは﹁残余﹂の問題を別の視点から映し出しているの
である。この﹁鼠﹂が﹁金持ち﹂であることの問題は、﹁鼠﹂が聞いた﹁風﹂とハートフィールドの﹁風﹂を比較
す る と き よ り鮮明になる。
二、﹁鼠﹂が聞いた﹁風﹄とハ響トフィールドの﹁風﹂
﹁鼠﹂が聞いた﹁風﹂は31章に描かれている。そこで﹁鼠﹂は﹁小説を書こうと思うんだ﹂と言う。その小説
は﹁自分自身のために書くか⋮⋮それとも蝉のために書く﹂︵﹃風ー﹄⋮⋮頁︶のだと言う。これに続いて﹁鼠﹂は
以下のように語る。
﹁何年か前にね、女の子と二人で奈良に行ったことがあるんだ。ひどく暑い午後でね、俺たちは3時間ば
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かりかけて山道を歩いた。その間に俺たちの出会った相手といえば鋭い鳴き声を残して飛び立っていく野
鳥とか畔道に転がって羽をバタバタさせているアブラ蝉とか、そんなところさ。なにしろ暑かったからね。
しばらく歩いた後で俺たちは夏草がきれいに生え揃ったなだらかな斜面に腰を下ろして、気持ちの良い風
に吹かれて体の汗を拭いた。斜面の下には深い濠が広がって、その向こう側には欝蒼と木の繁った小高い島
のような古墳があったんだ。昔の天皇のさ。見たことあるかい?﹂︵中略︶
﹁俺は黙って古墳を眺め、水面を渡る風に耳を澄ませた。その時に俺が感じた気持ちはね、とても言葉じゃ
言えない。いや、気持ちなんてものじゃないね。まるですっぽりと包み込まれちまうような感覚さ。つまり
ね、蝉や蛙や蜘蛛や風、みんなが一体になって宇宙を流れていくんだ。﹂︵﹃風1﹄m∼%頁︶
この場面で﹁鼠﹂は﹁風﹂に﹁耳を澄ませ﹂ていた。そして﹁まるですっぽりと包み込まれちまうような感覚﹂
を覚えていた。ただ、この﹁風﹂を聞いた体験について、二つのことに注意が必要である。一つはこの体験が﹁何
年か前﹂のものであることだ。﹁鼠﹂はこの﹁風﹂の体験を過去のものとして語るのである。もう一つは、﹁鼠﹂
がこの体験を小説にしようとしていることである。﹁鼠﹂の小説は﹁セックス・シーン﹂が﹁無﹂く、﹁一人も人
が死なない﹂︵﹃風ー﹄26頁︶。そして﹁鼠﹂は﹁書くたびに自分自身が啓発されていくものじゃなくちゃ意味が
ない﹂︵同前m頁︶と言う。﹁鼠﹂はこのような小説として、﹁風﹂を聞いた体験を書くことができない。﹁何も書
けやしない﹂︵同前価頁︶のである。このことは、﹁風﹂を聞いた体験はセックスや死を抜きにして、自分自身を
啓発することを目的としては現れないということを示している。
では、ハートフイールドの﹁風﹂はどのようなものなのか。それは32章の﹁火星の井戸﹂というハートフイー
ルドの短編の中に描かれている。この短編は﹁火星の地表に無数に掘られた底なしの井戸に潜った青年﹂の話な
のだが、青年は﹁宇宙の広大さに倦み、人知れぬ死を望んで﹂火星の井戸に潜る。井戸の中では﹁時計が止まっ
てしまっていた﹂ので﹁どれほどの時間歩いたのかはわからなかった﹂が﹁空腹感や疲労感はまるでな﹂い。
37
そしてある時青年は﹁突然目の光を感じ﹂その光を頼りに再び地上に出る。地上は井戸に入る前と比べて﹁何
かが違っていた。太陽が﹁まるで夕目のようにオレンジ色に巨大な塊りと化していた﹂のである。この後、次の
ように続く。
﹁あと25万年で太陽は爆発するよ。パチン⋮⋮OFFさ。25万年。たいした時間じゃないがね。﹂
風が彼に向かってそう囁いた。
﹁私のことは気にしなくていい。ただの風さ。もし君がそう呼びたければ火星人と呼んでもいい。悪い響き
じゃないよ。もっとも。書葉なんて私には意味はないがね。﹂
﹁でも、しゃべってる。﹂
﹁私が? しゃべってるのは君さ。私は君の心にヒントを与えているだけだよ。﹂
﹁太陽はどうしたんだ、一体?﹂
﹁年老いたんだ。死にかけてる。私にも君にもどうしようもないさ。﹂
﹁何故急に⋮⋮?﹂
﹁急にじゃないよ。君が井戸を抜ける間に約15億年という歳月が流れた。︵中略︶君の抜けてきた井戸は時
の歪みに沿って掘られているんだ。つまり我々は時の間を彷裡っているわけさ。宇宙の創生から死までをね。
だから我々には生もなければ死もない。風だ。﹂
﹁ひとつ質問してもいいかい?﹂
﹁喜んで。﹂
﹁ 君 は 何を学んだ?﹂
大気が微かに揺れ、風が笑った。そして再び永遠の静寂が火星の地表を被った。若者はポケットから拳銃
を取り出し、銃口をこめかみにつけ、そっと引き金を引いた。︵﹃風1﹄囎∼田頁︶
38
﹁火星の井戸﹂で描かれる﹁井戸﹂はイドであるという先行研究もある︵注32︶が、それは﹁青年﹂が自己の
無意識的な領域に下りることで、自己や他者の間題に直面するという指摘である。本稿では、﹁無意識﹂を﹁三番
目の女の子﹂の死などの﹁失ったもの﹂すなわち﹁残余﹂に関り続けるという仕方で追ってきた。この﹁青年﹂
は、﹁僕﹂と重なっているのである。
また、﹁火星の井戸﹂で描かれる﹁パチン⋮⋮OFF﹂は、太陽が爆発するまでに実はまだ﹁25万年﹂あるこ
とからも﹁残余﹂を帯びた﹁OFF﹂、つまり完全に断絶してはいない人間的な﹁OFF﹂であると考えられる。
そして﹁太陽﹂も、重要な意味を持っている。今井氏は﹁太陽﹂の膨張を、膨張した﹁過剰な自意識﹂であると
指摘した後、﹁こう考えてみると、﹁パチン⋮⋮OFF﹂と軽妙に太陽の爆発を表現している意味も、面白くなっ
てくる。自意識の消滅である。﹁若者﹂が拳銃の引き金を引かなければならない理由もそこに潜んでいる﹂︵注33︶
と述べている。今井氏が指摘する﹁過剰な自意識﹂は、﹁三番目の女の子﹂の意識が﹁残余﹂に関ることで過剰に
なってしまった事態として、また﹁小指のない女の子﹂が﹁悪い風﹂を聞いてしまう事態とも関連している。﹁若
者﹂は﹁井戸﹂を彷裡い、﹁残余﹂と関った末に、﹁太陽の膨張﹂つまり﹁過剰な自意識﹂を持ってしまった他者
が現れたことに絶望する。そのことに絶望した﹁若者﹂は﹁銃口をこめかみにつけ、そっと引き金を引﹂くので
ある。このように﹁火星の井戸﹂の物語は、﹁残余﹂と関り続けた末の絶望を描いているのだが、ハートフイール
ドの死とつなげて考えるとき、﹁若者﹂の銃は、﹁完壁な絶望﹂を表しているわけではない。ハートフイールドの
死は40章で詳しく語られている。ハートフイールドは﹁完壁に近い銃のコレクション﹂︵﹃風ー﹄醜頁︶を持って
いた。
中でも彼の自慢の品は銃把に真珠の飾りをつけた38口径のリヴオルヴアーで、それには弾が一発しか装填さ
れておらず、﹁俺はいつかこれで俺自身をリヴオルヴするのさ。﹂というのが彼の口癖だった。
しかし1938年に母が死んだ時、彼はニューヨークまででかけてエンパイア・ステート・ビルに上り、
39
屋上から飛び下りて蛙のようにペシャンコになって死んだ。︵﹃風1﹄同頁︶
このハートフィールドの死の描写の﹁リヴオルヴする﹂という表現は、﹁リヴオルヴァー﹂との関係があるので、
﹁銃の引き金を引く﹂というような意味に取れようになっているが、﹁リヴオルヴ︵冨く巳話︶﹂という語にそのよ
うな意味は認められない︵注34︶。﹁アルファベット順電話帳に誓って真実のみを述べる。人生は空っぽである、と。
しかし、もちろん救いはある。というのも、そもそもの始まりにおいては、それはまるっきりの空っぽではなか
ったからだ﹂という前に引用したハートフィールドの言葉を参照すれば、この﹁リヴオルヴ﹂は文字通り﹁まる
つきりの空っぽではなかった﹂ときに﹁回帰する﹂という意味ではないだろうか。ハートフイールドが、﹁必要な
のは感性ではなく、ものさしだ﹂という考えの下にコ生懸命努力して﹂、﹁空っぽにしてしまった﹂ことにはす
でに触れたが、同時に﹁空っぽ﹂になる前の﹁残余﹂のあった場所に﹁回帰﹂しようともしていたのである。し
かし、ハートフィールドは結局﹁エンパイア・ステート・ビルに上り、屋上から飛び下りて蛙のようにペシヤン
コになって死ん﹂でしまった︵注35︶。ハートフィールドは、周到に﹁銃把に真珠の飾りをつけた38口径のリヴオ
ルヴァー﹂を用意していたにもかかわらず、﹁残余﹂のあった場所に﹁リヴオルヴ︵回帰︶﹂することができなか
ったのである。
このことと関連させて﹁火星の井戸﹂を見てみるとき、そこに見える﹁太陽﹂の膨張と消滅という物語に対す
る﹁若者﹂の﹁銃口をこめかみにつけ、そっと引き金を引﹂く行為は、﹁残余﹂に過剰に反応してしまうことによ
つて起こる﹁自意識の膨張﹂でもなく、﹁残余﹂を押さえつけることによって起こる﹁自意識の消滅﹂でもない場
所への﹁リヴオルヴ︵桂回帰︶﹂を果たしたことを描いていると言うことができる︵注36︶。つまり、﹁僕﹂は﹁三
番目の女の子﹂や﹁小指のない女の子﹂が、﹁残余﹂を感じ、他者と関ろうとしているにもかかわらず、自己が膨
張してしまい、その反動として爆発してしまうだろうという事態︵実際に﹁三番目の女の子﹂は自殺してしまっ
たし、﹁小指のない女の子﹂は﹁僕﹂のもとを去らなければならなかった︶に対して、自己の枠組みを﹁リヴオ
40
ルヴ﹂したのだということが、﹁火星の井戸﹂には表れている。それはハートフィールドが望んだ場所でもあっ
た。そして、この﹁リヴオルヴ﹂は﹁風﹂が吹いている場所で起こったのである。
﹁鼠﹂の﹁風﹂とハートフィールドの﹁風﹂を比較してみよう。﹁鼠﹂は過去に風を聞いたが、それを小説とし
て描くことはできない。ハートフイールドは、﹁鼠﹂とは逆に現実では﹁風﹂は聞くことができなかったが、﹁火
星の井戸﹂として、それを描き出すことはできたのである。ハートフィールドの代表作とされる﹁冒険児ウォル
ド﹂では、﹁ウオルドは3回死に、5千人もの敵を殺し、火星人の女も含めて全部で375人の女と交わった﹂︵﹃風
1﹄醜頁︶とされている。これは﹁鼠﹂が書く小説に﹁セックス・シーン﹂が﹁無﹂く、﹁一人も人が死なない﹂
ことと対応している。﹁鼠﹂が聞いた﹁風﹂と﹁火星の井戸﹂と比較するとき、﹁風﹂はセックスをし、人が死ぬ
場所で吹くということが明らかになるのである。ただ、注意しなければならないのは、このような﹁残余﹂とし
ての﹁風﹂は、﹁鼠﹂にとっては過去であり、ハートフィールドにとっては﹁火星の井戸﹂という小説中のことと
してしか描かれていないということである。﹃風1﹄という小説中で、﹁鼠﹂やハートフイールドが直接﹁風﹂を
聞くことはないのである。ところで、﹃風1﹄にはもう一つ﹁風﹂が出てくる場面がある。第一章第一節で触れた
DJである。次節でDJについて見ることで、さらに﹁風﹂について考えたい。
三、DJは応える
H、12章でDJはONとOFFを使い分ける存在であったが、﹁しゃっくり﹂によって、﹁残余﹂を露にしてし
まう存在でもあることを見た。それに対して、37章で描かれるDJはONとOFFという使い分けをしない。37
章でDJは17歳の女の子の手紙を紹介する。その女の子は﹁脊椎の神経の病気﹂を患っていて、手術が成功する
可能性は﹁3%﹂しかないという。女の子は﹁もし駄目だったらと思うととても怖い。叫びだしたくなるくらい
怖いんです。一生こんな風に看みたいにベッドで横になったまま天井を眺め、本も読まず、風の中を歩くこと
41
もできず、誰にも愛されることもなく、何十年もかけてここで老いて、そしてひっそりと死んでいくのかと思
うと我慢できないほど悲しいのです﹂︵﹃風1﹄㍑頁︶と手紙に書いている︵注37︶。このような手紙を紹介した後、
DJは次のように語る。
僕がこの手紙を受けとったのは昨日3時過ぎだった。僕は局の喫茶店でコーヒーを飲みながらこれを読ん
で、夕方仕事が終わると港まで歩き、山の方を眺めてみたんだ。︵中略︶山の方には実にたくさんの灯りが見
えた。もちろんどの灯りが君の病室のものかはわからない。あるものは貧しい家の灯りだし、あるものは大
きな屋敷の灯りだ。︵中略︶実にいろんな人がそれぞれに生きてたんだ、と僕は思った。そんな風に感じたの
は初めてだった。そう思うとね、急に涙が出てきたんだ。泣いたのは本当に久し振りだった。でもね、いい
かい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないか
らよく聞いておいてくれよ。
僕は・君たちが・好きだ。
あと10年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、そして僕のことをまだ覚えていてくれたら、僕の
いま言ったことも思い出してくれ。
彼女のリクエストをかける。エルヴィス・プレスリーの﹁グツド・ラック・チャーム﹂。この曲が終ったら
あと1時間50分、またいつもみたいな犬の漫才師に戻る。
御清聴ありがとう。︵﹃風ー﹄鴎頁∼幽頁。強調原文︶
この章でDJは、ONとOFFという二面性を持たない。そしてラジオ番組の最初の十分間だけ、﹁犬の漫才
師﹂ではない語りを見せる。﹁犬の漫才師﹂とは12章で﹁僕﹂がDJを椰楡した言葉だった。DJは、﹁僕﹂に
42
椰楡されたことを覚えていて、﹁犬の漫才師﹂というONの状況を抜け出し、﹁風の中を歩くこと﹂ができなく
なるかも知れない﹁17歳の女の子﹂の手紙に応えるのである。このDJの変化について勝原氏は﹁﹁僕﹂の誕生
目が12月24目で﹁イエス・キリスト﹂と同じだ﹂ということや﹁鼠﹂が﹁汝らは地の塩なり﹂とキリストの言葉
を引用していることを指摘してから次のように述べている。
﹁僕は・君たちが・好きだ﹂という声は、神︵であり人でもあるキリスト︶の声として構想されているよう
に思える。ただ端的に言って、わたしはそこに神の声を聞かなかった。わたしに感受されたのは、その声が
く︿外部﹀﹀から聞こえて来たというにとどまる。あるいはそれは、信仰を持たないわたしの資質によるのか
もしれないが、それだけではないように思う︵注38︶。
勝原氏は、半ば直感的にDJの声は﹁神の声﹂ではないと語っているが、その直観は正しい。何故ならここで
DJは、人間として﹁僕は・君たちが・好きだ﹂と語っているからである。そして勝原氏が同様に﹁︿︿外部﹀﹀か
ら聞こえて来た﹂のではないかと語っていることも正しい。何故なら、DJは真摯な想像の末に﹁僕は・君たち
が・好きだ﹂と語っているからである。想像力とは人間の能力であると共に﹁︿︿外部﹀﹀﹂に出る能力なのである。
具体的に言えば、DJは﹁山の方を眺めて﹂、﹁貧しい家の灯り﹂もあれば、﹁大きな屋敷の灯り﹂もあることを知
り、そのことから﹁実にいろんな人がそれぞれに生きてたんだ﹂ということを﹁初めて﹂﹁感じた﹂ということで
あり、その想像力は、﹁貧しい家﹂と﹁大きな屋敷﹂を﹁それぞれに生きている﹂という仕方でつなぎ合わせてい
るのである。このことについて加藤典洋氏は前掲注29の論文中で﹁DJの言葉に出てくる﹁貧しい灯り﹂、﹁大き
な屋敷の灯り﹂の同じくこの︵﹁金持ち﹂と﹁貧乏﹂のー高見︶文脈にある﹂︵25頁︶と指摘している。DJは﹁鼠﹂
が﹁金持ち﹂で交換的に生きてしまえる苦しみを背負い、﹁小指のない女の子﹂の家が﹁貧乏﹂︵﹃風ー﹄77頁︶
で意味の交換ができないことに苦しんでいるさまを、﹁鼠﹂や﹁小指のない女の子﹂、そして﹁僕﹂とは全く関係
のない場所から、﹁僕は・君たちが・好きだ﹂と語りかける。そしてその後DJは﹁あと10年﹂経っても﹁僕の
43
ことをまだ覚えていてくれたら、僕のいま言ったことも思い出してくれ﹂と言い残して﹁犬の漫才師﹂に戻っ
てしまうのである。このようなDJのあり方は、まるで、関係のない別の場所から吹いてきて通りすぎてしまう
風のようなのである︵注39︶。DJは入院している女の子に、﹁同情﹂するのとは別の仕方で﹁風﹂のように語った
のである。
四、﹃風﹂とは何か
これまで﹁三番目の女の子﹂、﹁鼠﹂、ハートフィールド、DJそれぞれの﹁風﹂を見てきた。﹁風﹂がそれぞれ
の人間に見せる様相は違うが、それは﹁風﹂が﹁言葉なんて私には意味はないがね﹂とか﹁私は君の心にヒント
を与えているだけだよ﹂というようなものだからである。﹁風﹂とは、﹁誰にもそれを捉えることができない﹂︵﹃風
ー﹄幽頁︶﹁残余﹂なのである。そして﹁僕﹂は﹁あらゆるものは通りすぎる﹂︵同前頁︶と語る。﹁残余﹂は﹁あ
らゆるもの﹂と共にある。このときに注意しなければならないのは﹁風﹂は風のイメ;ジで語られると同時に言
葉とも深く関っているということである。ハートフイールドの﹁火星の井戸﹂以外の﹁風﹂もそうであることは
既に見てきた。
この﹁風﹂と﹁残余﹂の関係を交換と贈与の関係︵涯40︶から考えるとき、﹁風﹂はまるで言葉に宿るようにし
て﹁鼠﹂や﹁小指のない女の子﹂に訪れるということである。ここで第一章第一節を思い出せば﹁風﹂が言葉に
宿るという事態は、DJのOFFや﹁精神科医﹂がクッキーを隠す場面で、﹁僕﹂が﹁残余﹂を想像するとき、想
像を喚起し得るものがあって初めて想像し得た事態と通じるものがある。つまり、﹁残余﹂は実際に言葉のやり取
りを通じて想像するしかない。他者が持つ﹁残余﹂は他者との関係性の中で初めて﹁残余﹂となる。自己の中だ
けで、他者について想像することはできないのだ。ただ、﹃風∼﹄は﹁風﹂がどのような言葉にも宿りえることを
示している。﹁小指のない女の子﹂が聞いた﹁悪い風﹂もDJの﹁僕は・君たちが・好きだ﹂も同じように﹁風﹂
44
なのである。﹁風﹂として示された﹁残余﹂は、信じるに足るものではないかの知れないのである。
門僕﹂は﹁あらゆるものは通りすぎる﹂という二とを、ハートフイールドから学び、﹁三番目の女の子﹂や﹁小
指のない女の子﹂、﹁鼠﹂との関りを通じて受け入れてきた。何故﹁僕﹂は信じるに足りないかも知れない﹁風﹂
を受け入れてきたのだろうか。それは﹁風﹂を受け入れることでしか他者が持つ﹁残余﹂と関る方法がないから
である。このことを具体的に言えば、自己は他者との関係性においてしか自己を維持できないのだから、他者が
どのように振舞おうと、他者と関らざるを得ないということである。
このことは例えば、遭難して海を漂流しているときに、他者がボートで助けに来てくれて、自己に手を差し伸
べてくれるようなものである。何故他者が自己を助けに来てくれたのかは分からないし、その差し伸ぺられた手
は嘘かもしれない。そのような状況でも、自己はその手を握らなければならない。嘘であろうと本当であろうと、
差し伸べられた手を握らなければ、海を漂流し続けることになるからである。
﹁﹁風﹂はすでに失われたものやところから吹いてくる﹂︵注覗︶ものではない。自己とは別の場所から吹いてく
るのである。村上自身の言葉をもう一度引けば﹁存在するものは常に不在するものの影響下にある﹂。﹁風﹂は﹁不
在するもの﹂のことなのであり、﹁失ったもの﹂だけではなく未だ得ていないものや自己には屈かない場所から吹
いてくるのである。﹁僕﹂はそのことを受け入れて、﹁残余﹂と関り続けたのである。
そして﹁僕﹂は最後に街を出て行く。﹁街﹂は﹁残余﹂と関れる場所として描かれている。また、﹁僕﹂は﹁1
970年の8月8目に始まり、18目後、つまり同じ年の8月26目に終る﹂︵﹃風1﹄13頁︶という限定された時間
の中で、﹁風﹂を聴こうとしたのである︵注42︶。
五、﹃風の歌を聴け﹄をめぐって
ここまで﹃風ー﹄について見てきた。まとめておくと、まず第一節ではDJと﹁精神科医﹂に触れて、﹁僕﹂
45
は幼少のころから﹁残余﹂に囚われていたことを見た。﹁残余﹂は知りえないものを知ろうとして想像すること
によって現れてくるものであるが、﹁残余﹂に囚われると、自己が曖昧になってしまう。そのことを避けるように
諭したのが﹁精神科医﹂だった。しかし、﹁僕﹂はその教えを受け入れることは無かった。﹁残余﹂とは他者に近
づきえる唯一の契機だからである。﹁三番目の女の子﹂との関係では、﹁僕﹂が他者の持つ﹁残余﹂に関る様子が
描かれる。他者が持つ﹁残余﹂はコミュニケーションの中で揺れ動く。﹁三番目の女の子﹂はその揺れに耐えられ
ずに死んでしまう。具体的に言えば、﹁三番目の女の子﹂が耐えられなかったのは﹁僕﹂がついた嘘だったのだが、
それは﹁三番目の女の子﹂が﹁僕﹂の言葉を信じることができなかったからだった。そのため﹁三番目の女の子﹂
は﹁僕﹂の言葉に起因する他者が持つ﹁残余﹂を想像することによって埋めようとする以外に方法がなかったの
である。しかし、﹁僕﹂に起因する﹁残余﹂を﹁三番目の女の子﹂の想像で補おうとすることは不可能であり、そ
のことは﹁三番目の女の子﹂の自意識が、その枠組みの限界を超えて膨張してしまうことを意味した。その膨張
に耐えられずに﹁三番目の女の子﹂は死んでしまったのである。﹁僕﹂は﹁三番目の女の子﹂の死後、﹁小指のな
い女の子﹂と付き合うことになる。﹁僕﹂は﹁小指のない女の子﹂との関係の中で、﹁三番目の女の子﹂との経験
を生かす。この﹁生かす﹂ということは文字通りの意味である。﹁三番目の女の子﹂が嘘を﹁嘘つき!﹂と言って
﹁残余﹂を消してしまおうとしたことから、﹁僕﹂は﹁残余﹂を﹁残余﹂のまま受け入れることを学んだのである。
このことは、忘れることで記憶を殺すのではなく、﹁三番目の女の子﹂という﹁失ったもの﹂に関り続けることな
のである。しかし、﹁小指のない女の子﹂は﹁僕﹂を信じることができない。それは、﹁小指のない女の子﹂の﹁頭
の上﹂を﹁悪い風﹂が吹いていたからだった。﹁風﹂として描かれる﹁残余﹂は信じるに足りないかもしれないの
である。﹃風1﹄には、﹁風﹂が吹いている。﹃風ー﹄は的確に﹁残余﹂を描き出す。﹁金持ち﹂の﹁鼠﹂は﹁数年
前﹂に﹁風﹂を聞いたが、それを小説に書くことができない。交換という方法でしか言葉を発することができな
い﹁鼠﹂には、﹁残余﹂を言葉に乗せることができないのである。一方、ハートフイールドは﹁火星の井戸﹂の
46
中で、﹁残余﹂を描き出きだす。﹁風﹂のささやきを聞いた﹁青年﹂は﹁銃口をそっとこめかみにつけ、そっと
引き金を引いた﹂が、それは、ハートフィールドが夢見た﹁リヴオルヴ︵回帰︶﹂だったのである。しかし、ハー
トフイールド自身は、﹁エンパイア・ステート・ビル﹂から飛び下りてしまう。それは自己を維持することができ
なかったことを意味するのである。 皿方で、DJは﹁風﹂について別の可能性を示している。DJは想像するこ
とによって﹁僕は・君たちが・好きだ﹂と言う。それは﹁残余﹂に応えたものだったのである。﹁風﹂に言葉を与
えるのは人間なのである。﹁僕﹂は﹁風﹂が吹いているのを感じる。﹁あらゆるものは通りすぎる﹂ということを
感じ、そして﹁風﹂が吹いている街をあとにするのである。
感覚的に言って、﹃風ー﹄は悲しみを背負っている。それは﹁残余﹂をうまく言葉に乗せることができないこと
から来るものである。中沢氏が、贈与によって﹁信頼﹂や﹁友情﹂や﹁愛情﹂や﹁威信﹂を伝えると述べていた
ことは注40で指摘したが、﹃風1﹄が問題にしているのは、﹁友情﹂や﹁愛情﹂と言葉にして伝えようとするとき
に、﹁残余﹂が言葉にうまく宿らないという事態である。それは、書葉を信じることができないために起こるもの
だった。言葉を信じれば、﹁風﹂に素直に耳を傾ければ、﹁残余﹂はうまく推測できるはずなのである︵注43︶。﹁他
者とのコミュニケーションが不完全である﹂というとき、それは、﹁他者﹂の内面には決して触れることができな
い、という認識論的で、構造的な事実から来る。﹁残余﹂は自己と他者の断絶を想像することであったが、この断
絶を過剰に意識しすぎることは、その断絶を前提に行動することにつながる。他者には絶対に到達しえないとい
う認識は、他者は、絶対に自己には到達しえない﹁内面﹂を抱えているという思い込みをもたらすことになるの
である。この思い込みが、言葉を信じられないものにしてしまう。﹁僕﹂は、その﹁内面﹂があるという思い込み
に抗している。言葉をやり取りできると言うことは、他者が話していることを感じることができるということな
のである。
﹃風1﹄の描き出した問題と、それに対して﹁僕﹂がどのように関ってきたかは、以上の通りである。しか
47
し、﹃風ー﹄では処理できなかった問題が残っている。それは﹁死﹂と﹁過去﹂の問題である。﹁僕﹂は﹁三番
目の女の子﹂の死を引きずり続けている。そのことは、見てきたように﹁小指のない女の子﹂との関係の中で生
かされることとなったが、それだけではなく、﹁三番目の女の子﹂が今はもう失われているという事実を感じ続け
るということでもあるのだ。少し唐突に聞こえるかもしれないが、﹃ピンボール﹄を見るとき、このような問題が
浮び上がるのである。﹃風1﹄では﹁三番目の女の子﹂について次のように語られる箇所がある。﹁小指のない女
の子﹂が﹁僕﹂に﹁誰か好きになったことがある?﹂と聞く。﹁僕﹂は﹁ああ。﹂と答える。
﹁彼女の顔を覚えてる?﹂
僕は三人の女の子の顔を思い出そうとしてみたが、不思議なことに誰一人としてはっきりとは思い出すこ
と は で きなかった。
﹁いや。﹂と僕は言った。
﹁不思議ね。何故かしら?﹂
﹁多分その方が楽だからさ。﹂
彼女は横顔を僕の裸の胸につけたまま、黙って何度も肯いた。︵﹃風1﹄㎜頁︶
確かに﹁僕﹂は﹁三人の女の子の顔﹂は﹁思い出すことができな﹂い。しかし、﹁僕﹂﹁小指のない女の子﹂と
一緒にいるときに﹁まるでずれてしまったトレーシング・ぺーパーのように、何もかも少しずつ、しかしとり返
しのつかぬくらいに昔とは違っていた﹂︵﹃風i﹄備頁︶と思う。そのように思うのは、﹁三番目の女の子﹂のと
きと比べてしまうからである。この二箇所の記述を見るとき、﹁僕﹂は﹁三番目の女の子﹂の顔を忘れてしまった
にもかかわらず、﹁三番目の女の子﹂の﹁残余﹂を抱え続けている。﹃ピンボール﹄ではそのことが問題となるの
である。
48
算二章 ﹁僕﹂
﹃スペースシップ﹂ に見たものとは
︵﹃風の歌を聴け﹄から﹃1973年のピンボール﹄
﹁三番目の女の子﹂ は﹁直子﹂に
へ︶
に描かれているのかを見てみよう。﹃ピンボール﹄には1章に入る前に、﹁1969 1973﹂という断章が
ことも含めて、﹃風1﹄と﹃ピンボール﹄のつながりを確認したい。まず、﹁直子﹂が﹃ピンボール﹄でどのよう
﹃ピンボール﹄では、﹃風1﹄で﹁三番目の女の子﹂として語られた女の子が、﹁直子﹂として語られる。その
一、﹃風の歌を聴け﹄と﹃1973年のピンポール﹄のつながり
第一節
に﹁直子﹂の面影を見、その﹁直子﹂の﹁残余﹂とどのように関っていくのかを見ることになる。
と呼ばれて焦点化されていることを見る。第二節では﹁僕﹂が﹁スペースシップ﹂というピンボール・マシーン
る。第二章は紙幅の都合上、多くを論じることはできないが、﹃風1﹄の間題が、﹃ピンボール﹄でどのように
49
扱われるのかを見ることにしたい。第一節では﹃風1﹄の﹁三番目の女の子﹂が﹃ピンボール﹄では﹁直子﹂
だけだった。それが﹃ピンボール﹄では、主題となる。﹁僕﹂は死が生んだ﹁残余﹂と向き合うことになるのであ
た問題があった。﹁三番目の女の子﹂の死である。この死が生んだ﹁残余﹂は、﹃風i﹄では間接的に触れられる
ても、﹁通りすぎ﹂、﹁捉えることはできない﹂ということを受け入れてきたのである。しかし、﹃風1﹄で残され
まま受け入れてきたのである。そして﹁あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない﹂とし
を見てきた。﹁僕﹂は他者と関るために﹁残余﹂を想像し、言葉をやり取りする中で揺れ動く﹁残余﹂を揺れ動く
本稿の第一章では﹃風ー﹄で﹁僕﹂がどのような問題を抱え、そしてどのようにその問題に対処してきたのか
が
ある。そこで、﹁僕﹂は﹁とにかく遠く離れた街の話を聞くのが好きだ﹂︵﹃ピンボール﹄8頁︶と語られる。それ
に続いて、次の記述がある。
直子も何度かそういった話をしてくれた。彼女の言葉を一言残らず覚えている。
﹁なんて呼べばいいのかわかんないわ。﹂
︵中略︶
一九六九年の春、僕たちはこのようにして二十歳だった。︵中略︶
﹁なにしろ街なんてものじゃないのよ。﹂彼女はそう続けた。﹁まっすぐな線路があって、駅があるの。雨の
目には運転手が見落としそうなくらいの惨めな駅よ。﹂
僕は頷いた。そしてたっぶり三十秒ばかり、二人は黙った光線の中で揺れる煙草の煙をあてもなく眺めた。
︵中略︶
﹁プラットフオームの端から端まで犬がいつも散歩してるのよ。そんな駅、わかるでしょ?﹂
50
直子は首を振って一人で笑った。成績表にずらりとAを並べた女子学生がよくやる笑い方だったが、それ
は奇妙に長い間僕の心に残った。まるで﹁不思議の国のアリス﹂に出てくるチェシャ猫のように、彼女が消
えた後もその笑いだけが残っていた。︵﹃ピンボール﹄8∼10頁︶
この記述で、﹁直子﹂と﹁僕﹂は、コ九六九年の春﹂に﹁二十歳﹂であったことと、﹁彼女が消えた﹂ことが語
られている。﹁直子﹂は﹃風ー﹄の﹁三番目の女の子﹂であると推測できるように描かれているのである︵注44︶。
他にも、﹃風1﹄と﹃ピンボール﹄には、多くのモチーフが重なり合っている。ここでは、その中でも重要な井戸
について見てみよう。﹁直子﹂が住んでいた街には﹁井戸掘り職人﹂︵﹃ピンボール﹄17頁︶がいた。彼は﹁五十
ばかりの気むずかしい偏屈な男だったが、井戸掘りに限っては正真正銘の天才だった﹂。
そんなわけでこの土地の人々は美味い井戸水を心ゆくまで飲むことができた。まるでグラスを持つ手まで
がすきとおってしまいそうなほどの澄んだ冷たい水だった。︵中略︶
直子が十七になった秋、職人は電車に礫かれて死んだ。土砂降りの雨と冷や酒と難聴のせいだった。死体
は何千という肉片になってあたりの野原に飛び散り、それをバケツ五杯分回収するあいだ七人の警官が先端
に鉤のついた長い棒で腹を減らせた野犬の群れを追い払い続けなければならなかった。︵中略︶
職人には二人の息子がいたが、どちらもあとは継がずにこの土地を出ていった。そして残された家は誰ひ
とり近寄るものもないまま廃屋となり、長い年月をかけてゆっくりと朽ち果てていった。そしてそれ以来、
この土地では美味い水の出る井戸は得難いものとなった。
僕は井戸が好きだ。井戸を見るたびに石を放り込んでみる。小石が深い井戸の水面を打つ音ほど心の安ま
るものはない。︵﹃ピンボール﹄18頁︶
ここで描かれている﹁井戸掘り職人﹂の死は、﹃風1﹄のハートフィールドの死と重なる。ハートフイールド
51
は、﹃風1﹄で唯一﹁井戸﹂を語りえた存在であり、﹁火星の井戸﹂の書き手であることは、﹃風1﹄の中の﹁井
戸﹂の作り手であると見ることもできるからである。また、﹁僕﹂が﹁井戸が好き﹂であると語ることは、﹁僕﹂
が無意識的な場所、﹁残余﹂が立ち現れる場所に意義を見出しているということである。このことは、﹁僕﹂が﹃風
1﹄から﹁残余﹂の問題を引き継いでいることを端的に示しているのである。このように﹃ピンボール﹄は﹃風
∼﹄の問題を引き継いでいるが、ずらされてもいる。そのことを端的に示しているのは人名である。﹃風1﹄では
人名を挙げられていたのはハートフイールドだけだった。それに対して﹃ピンボール﹄では﹃風1﹄の﹁三番目
の女の子﹂が﹁直子﹂という人名を与えられている。これは﹃風1﹄では﹁風﹂や﹁井戸﹂を語りえる存在であ
るハートフイールドに焦点が当たっていたが、﹃ピンボール﹄では﹁僕﹂に決定的な﹁残余﹂を残していった﹁直
子﹂が問題になっているのである︵注45︶。では﹃ピンボール﹄で﹁三番目の女の子﹂が﹁直子﹂という固有名で
呼ばれることになったのは何故なのか。それは﹁僕﹂が死と正面から向きあうことにならざるを得なかったから
である。﹃風1﹄でも﹁三番目の女の子﹂の死は﹁僕﹂の心に残っていた。しかし、それは﹁小指のない女の子﹂
との関係において示されていたにすぎない。それに対して、﹃ピンボール﹄では死がもたらす﹁残余﹂、完全に失
ったものと向きあうことになるということである。
﹁僕﹂は﹁直子﹂がもたらした死という﹁残余﹂に﹁ピンボール・マシーン﹂である﹁スペースシップ﹂との
関りの中で﹁比喩的﹂に触る。しかし、﹃ピンボール﹄では1章のストーリーが始まってから、前半には﹁ピンボ
ール・マシーン﹂が出てこない。まず﹁配電盤﹂︵注妬︶が出てくるのである。少しだけ触れると、﹁配電盤﹂は﹁残
余﹂を担いえるモノとして登場する。﹁僕﹂は﹁双子﹂という登場人物を通して、古くなった﹁配電盤﹂が﹁いろ
んなものを吸い込みすぎちゃっ﹂たために﹁死にかけてる﹂︵﹃ピンボール﹄86頁︶という事態に遭遇する。﹁配
電盤﹂は﹁電話の回線を司る機械﹂︵同前48頁︶である。このことから﹁配電盤﹂は電話の会話からこぼれ落ち
る﹁残余﹂、言葉に上手く乗せられなかった﹁残余﹂を抱え込みすぎたことが分かる。そして、その﹁残余﹂は
52
﹁配電盤﹂の許容量を超えてしまったのである。﹁僕﹂は﹁双子﹂と共に﹁配電盤﹂の﹁お葬式﹂︵同前95頁︶
をする。そのことを通して﹁配電盤﹂に宿った﹁残余﹂を弔うことを学ぶ。﹁僕﹂は﹁配電盤﹂が﹁死にかけてる﹂
という事態に﹁お葬式﹂という仕方で関ることで﹁比喩的﹂に﹁残余﹂と関ることになるのである︵注47︶。ただ、
﹁配電盤﹂が﹁比喩的﹂に宿らせた﹁残余﹂は、﹁直子﹂の死がもたらした﹁残余﹂ではない。だから、﹁僕﹂が
その﹁残余﹂を宿らせるには別のモノが必要となる。そのモノとは﹁スペースシップ﹂である。
第−一節 ﹁僕﹂が﹁スペースシップ﹂に見たものとは
﹁僕﹂と﹁スペースシップ﹂との関りは、﹃ピンボール﹄において、大きく二回に分けることができる。一回目
は一九七〇年の冬にゲームセンターでプレイしたこと、そして二回目は、ゲームセンターが取り壊されたことに
よって﹁スペースシップ﹂ をプレイできなくなった﹁僕﹂
会することである。
一、1970年のピンポール
、
一九七三年に﹁スペースシップ﹂を探し出し、再
〇年、ちょうど僕と鼠がジェイズ・バーでビールを飲んでいたころ、僕は決して熱心なピンボール・プレイヤー
は﹁僕﹂の心の奥底にあった。それを示すのが一九七〇年の回想として語られる﹁ピンボール﹂である。コ九七
このように﹁ピンボール﹂は一九七三年の﹁ある目﹂、突然﹁僕﹂の心を捉えた。しかし、実は﹁ピンボール﹂
るとバンパーがボールを弾く音や、スコアが数字を叩き出す音が耳もとで鳴った。︵﹃ピンボール﹄鵬∼斯頁︶
そしてそればかりか時を追うごとにピンボールのイメージは僕の中でどんどん膨らんでいった。目を閉じ
︵中略︶
その秋の目曜目の夕暮時に僕の心を捉えたのは実にピンボールだった。
っていく。⋮⋮暗闇。僕たちの心には幾つもの井戸が掘られている。そしてその井戸の上を鳥がよぎる。
に気に入っていたセータi、古いジーン・ピットニーのレコード⋮⋮、もはやどこにも行き場所のないさ
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さやかなものたちの羅列だ。二目か三目ばかり、その何かは僕たちの心を彷裡い、そしてもとの場所に戻
ある目、何かが僕たちの心を捉える。なんでもいい、些細なことだ。バラの蕾、失くした帽子、子供の頃
て登場する。
ル﹄28頁︶と語られるほど重要な位置を占めているが、1章以降の物語の中では中盤に差しかかった13章で初め
﹁ピンボール﹂は﹁ピンボ!ルの誕生について﹂の中で﹁これはピンボールについての小説である﹂︵﹃ピンボー
まず一回目から見てみよう。1970年のことは﹃ピンボール﹄において、回想というかたちを取っている。
が
スリド
ではなかった。ジェイズ・バーにあった台はその当時としては珍しい3フリッパーの﹁スペースシップ﹂と呼ば
れるモデルだった﹂、そして、その頃は﹁鼠がピンボールに狂っていた﹂︵﹃ピンボール﹄08頁︶。﹁スペースシッ
ー
プ﹂はまず﹁鼠﹂がプレイしていたのである。ここでは﹁鼠﹂が﹁撃墜王﹂︵同前同頁︶に喩えられているが、こ
の喩えは﹃風1﹄で﹁鼠﹂が﹁操縦士になりたいど思ったよ、昔ね。でも目を悪くしてあきらめた﹂︵皿頁︶と
語っていることから、﹁鼠﹂は﹁スペースシップ﹂に自分の夢を重ね合わせていたことが分かる。﹁鼠﹂は﹁スペ
ースシップ﹂というモノに、自分の夢を宿らせていたのである。この﹁鼠﹂の思い出と﹁配電盤﹂の﹁お葬式﹂
を通して﹁僕﹂は﹁ピンボール﹂に行きつくのだ。そして﹁僕が本当にピンボールの呪術の世界に入りこんだの
は一九七〇年の冬のことだった﹂︵﹃ピンボール﹄⋮⋮頁︶。そのとき﹁ピンボール﹂は﹁スペースシップ﹂でなけ
ればならなかった。﹁鼠﹂が夢を宿らせたモノと同じ種類のモノでなければならなかったのである。そして﹁僕﹂
はこの﹁ピンボールの呪術の世界﹂で﹁スペースシップ﹂と次のような﹁会話﹂を交わす。
54
あなたのせいじゃない、と彼女は言った。そして何度も首を振った。あなたは悪くなんかないのよ、精
いっぱいやったじゃない。
違う、と僕は言う。左のフリッパi、タップ・トランスファー、九番ターゲット。劉。僕は拒ひと
つ出来なかった。指一本動かせなった。でも、 やろうと思え亭できたんだ。
人にできることはとても限られたことなのよ、 と彼女は言う。
そうかもしれない、と僕は言う、でも何ひとつ終っちゃいない、いつまでもきっと同じなんだ。︵中略︶網
ったのよ、何もかも、と彼女は言う。︵﹃ピンボール﹄%頁。傍線原文︶
この後、﹁年が明けた二月﹂︵﹃ピンボール﹄M略頁︶にゲーム・センターは取り壊され、﹁スペースシップ﹂は消
えてしまった。そして、﹁僕はピンボールをやめた。しかるべき時がやってきて、誰もがピンボールをやめる。た
だそれだけだ﹂︵﹃ピンボール﹄n6∼留頁︶と語られる。
一九七〇年の時点では、﹁僕﹂は﹁配電盤﹂の﹁お葬式﹂を経験していない。だから﹁僕﹂はモノに﹁残余﹂が
宿りえることをまだ知らなかった。それでも、﹁スペースシップ﹂は﹁僕﹂の﹁やろうと思えばできた﹂、﹁何ひと
づ劃﹂という言葉に対して、﹁あなたは心くなんカないのよ、精いっぱいやったじやない﹂、﹁網剣
のよ、何もかも﹂というように﹁自己の縮小﹂を説く。これは﹁僕﹂が﹁残余﹂に囚われることによって﹁残余﹂
が発生した場から動けなくなったことと、﹁スペースシップ﹂が﹁僕﹂をその場から引き離そうとしていることを
示している。しかし﹁僕﹂はそれを理解することなく、﹁スペースシップ﹂をプレイし続ける。そして、﹁スペー
スシップ﹂との別れは突然訪れる。﹁僕﹂は﹁自己の縮小﹂を果たせなかったのである。
ここで﹁スペースシップ﹂は何故﹁彼女﹂と呼ばれているのかについて考えたい。このことについて、小林氏
は﹁一九七〇年、同一の年の内に、ジェイズ・バーでは熱心でなかった僕が、冬場には熱心なプレイヤーに変貌
むろん、死せる直子の代替物に他ならない﹂︵注48︶と指摘している。﹁僕﹂は﹁小指のない女の子﹂を愛しても、
している。この変貌の原因は、その間に、直子が自殺したからだ、と推定される。3フリッパーのその機種は、
55
﹁直子﹂が死んだことを乗り越えることができなかったのである。一九七〇年の冬に﹁僕﹂はそのことに無意識
的に気づいて﹁スペースシップ﹂に嵌まり込んだ。しかし、﹁僕﹂はそのことで﹁残余﹂を思い返すことしかでき
なかった。﹁ピンボール﹂をプレイし続けることで﹁孤独な消耗﹂︵﹃ピンボール﹄28頁︶︵注49︶を続けることにな
つてしまったのである。
しかし、一九七三年に﹁双子﹂と出会い﹁配電盤﹂の﹁お葬式﹂をすることによって、モノに﹁残余﹂を宿し
えることを知る。モノに﹁残余﹂を宿すことは、﹁直子﹂の﹁残余﹂を﹁小指のない女の子﹂に託すことが不可能
なことに気づいた﹁僕﹂にとって、﹁残余﹂と関る有力な手段として提示されたのである。よって﹁僕﹂はもう一
度﹁スペースシップ﹂と再会しなければならない。
二、﹃スペースシツプ﹂との再会
一九七三年に﹁スペースシップ﹂に心を捉えられた﹁僕﹂は﹁スペースシップ﹂を捜すことになった。﹁東京中
のゲーム・センター﹂を巡っても﹁無駄だった﹂︵﹃ピンボール﹄皿頁︶が、ゲーム・センターの主人の一人に、
﹁ピンボール・マニア﹂である﹁スペイン語の講師﹂を紹介してもらう。紙幅の都合上詳しく触れることはでき
ないが、﹁スペイン語の講師﹂は﹁スペースシップ﹂が﹁悲運の台﹂︵﹃ピンボール﹄伽頁︶であること、﹁ピンボ
ール作りのノウハウはひどく複雑﹂︵同前、囲∼伽頁︶であること、目本には﹁三台﹂︵同前、囲頁︶しか輸入さ
れなかったことなどが語られる。これらのことは、﹁スペースシップ﹂が固有性を担いえるモノであることを暗示
している。ある目、﹁僕﹂は﹁スペイン語の講師﹂から、﹁スペースシップ﹂がスクラップされる直前にある人物
に引き取られたと教えられる。その人物はこれまでに﹁五十台は下らない﹂︵同前、幽頁︶ほどのピンボール台
を引き取ってきたと語られるが、それ以上のことは分からない。そして﹁僕﹂は﹁スペイン語の講師﹂と﹁ス
ぺースシップ﹂が保管されているという﹁養鶏場の冷凍倉庫﹂︵﹃ピンボール﹄47頁︶をタクシーで訪れるので5
1
ある。その﹁冷凍倉庫﹂は﹁まるで世界の果てみたい﹂な東京のはずれにあった。﹁僕﹂はその手前でタクシーか
ら降ろされ、﹁スペイン語の講師﹂に﹁一人で行って下さい﹂と言われる。それは﹁スペースシップ﹂の﹁持ち主﹂
との約束なのだという。﹁僕﹂は教えられた通りに入口のドアを開け、﹁冷凍倉庫﹂の中に入る。
僕が暗闇の中で壁についたスイッチを押すと、何秒かの時間をおいて天井の蛍光灯がカチカチとまたたき、
その白い光が倉庫の中に溢れた。︵中略︶
ごく好意的に見れば、それ︵﹁冷凍倉庫﹂のこと1高見︶は象の墓場のようにも見えた。そして足を折り曲
げた象の白骨のかわりには、見渡す限りのピンボール台がコンクリートの床にずらりと並んでいた。︵中略︶
恐ろしい数のピンボール台だ。七十八というのがその数字だった。僕は時間をかけて何度もピンボール台
を勘定してみた。七十八、間違いない。
寒さが頭の動きまでを止めてしまいそうだった。考えろ。ピンボールだ。七十八台のピンボール。⋮⋮オ
ーケー、スイッチだ。この建物の何処かに七十八台のピンボール代をよみがえらせる電源スイッチが存在す
るはずだ。⋮⋮スイッチ、捜すんだ。
︵中略︶
スイッチはその扉の脇にあった。レバー式の大きなスイッチだ。僕がそのスイッチを入れると、地の底か
ら湧き上がるような低い稔りが一斉にあたりを被った。︵中略︶それは七十八台のピンボール・マシーンが電
気を吸い込み、そしてそのスコア・ボードに何千個というゼロを叩き出す音だった。音が収まると、後には
蜂の群れのようなブーンという鈍い電機音だけが残った。そして倉庫は七十八台のピンボール・マシーンの
束の間の生に満ちた。 一台一台がフィールドに様々な原色の光を点滅させ、ボードに精いっぱいのそれぞれ
︵中略︶
の夢を描き出していた。
57
七十八台のピンボール・マシーン、それは古い、思い出だせぬくらいに古い夢の墓場だった。僕は彼女た
ちの脇をゆっくりと通り抜けていた。︵中略︶
スリ 3フリッパーのスペースシップは列のずっと後方で僕を待っていた。︵﹃ピンボール﹄49∼55頁︶
− 1
﹁僕﹂はこのようにして﹁スペースシップ﹂と再会する。ここまでの場面を﹃風ー﹄と比較して見てみよう。
まず﹁養鶏場の冷凍倉庫﹂である。この﹁冷凍倉庫﹂に近い比喩として﹃風1﹄では﹁冷蔵庫﹂が出てきていた。
﹃ピンボール﹄で﹁冷凍倉庫﹂になったことによって、温度が低くなっているが、それは﹁僕﹂が﹃風1﹄でよ
りもさらに自己の奥深くに下りていったことを示唆している。また、﹁冷凍倉庫﹂は﹁冷蔵庫﹂とは比べ物になら
ないほど大きい。﹁冷蔵庫﹂が﹁僕﹂の心を喩えたものだったが、﹁冷凍倉庫﹂には﹁七十八台のピンボール・マ
シーン﹂があり、それらは﹁束の間の生に満ち﹂、﹁精いっぱいのそれぞれの夢を描き出﹂す。この﹁それぞれの
夢﹂は既に﹁僕﹂の心の中にあると単純に言い切ることはできない。﹃風ー﹄の37章でDJは﹁僕は・君たちが・
好きだ﹂と言ったが、それと同じようにして、﹁僕﹂は﹁七十八台のピンボール・マシーン﹂の﹁それぞれの夢﹂
たちを肯定するのである。そしてそのことは、﹁冷蔵庫﹂から派生した﹁冷凍倉庫﹂の中で、﹁残余﹂と向き合っ
ているということなのである︵注50︶。しかし、﹁僕﹂がもう一度再会しなければならないのは、他でもない﹁スペ
ースシップ﹂が抱える﹁残余﹂である︵注51︶。﹁僕﹂は再会した﹁スペースシップ﹂と言葉を交わす。
やあ、と僕は言った。⋮⋮いや、言わなかったかもしれない。とにかく僕は彼女のフィールドのガラス板
に手を載せた。ガラスは氷のように冷ややかであり、僕の手の温もりは白くくもった十本の指のあとをそこ
に残した。彼女はやっと目覚めたように僕に微笑む。懐かしい微笑だった。僕も微笑む。
ずいぶん長く会わなかったような気がするわ、と彼女が言う。僕は考えるふりをして指を折ってみる。
58
三年ってところだな。あっという間だよ。
あまり長くいない方がいいわ。あなたにはきっと寒すぎる。
多分ね、と僕は答える。そして細かく震える手で煙草をひっぱり出し、火を点けて煙を吸い込む。
ゲームはやらないの? と彼女が訊ねる。
やらない、と僕は答える。︵﹃ピンボール﹄価∼搦頁︶
﹁僕﹂は再会した﹁スペースシップ﹂に対してゲームを﹁やらない﹂と言う。このことの意味は大きい。﹁僕﹂
は、 一九七〇年のときのように﹁スペースシップ﹂にゲームをすることを求めているわけではないのである。こ
のことについて加藤典洋氏は次のように述べている。
昔のピンボールは、ほとんどがペイアウト式のギャンブル・マシーンだった。だが、第二次世界
大戦をへて、不健全なギャンブルが法と社会から敵視されはじめると、1947年、ゴットリーブ
社からはじめて﹁フリッパー﹂つきのピンボールが世に送り出され、 一大転機を迎える。これによ
り、ピンボールはプレイヤーの運よりテクニックを重視するゲーム展開になり、よりポピュラーな
位置を占めるようになる。
ところで、フリッパーの採用はピンボールの性格をガラリと変えた。これの登場と同時に、お金
の出てくるペイアウトの口が消える。つまりピンボールは、外界から隔てられた、完壁な独立空問
となるのだ。
以後、ピンボールからはお金も出なければ、パチンコのように玉も出ない。1回蜘円か㎜円入れ
ると3回プレイできる。それだけ。ピンボールの誕生の秘密はこの出口の消滅、無償性の完成にあ
る。それは外界との関係を遮断し、役に立たなくなることで自立する、村上の﹁文学﹂の正確なメ
タファー な の だ ︵ 注 5 2 ﹀ 。
59
この指摘は﹁ペイアウトの口が消え﹂たことで﹁ピンボールは、外界から隔てられた、完壁な独立空間
となる﹂と述べているが、完壁な独立空間は、貨幣的な価値体系から、完壁に離脱しているということであり、
そのことは自己が完全に独立しているということではない。﹃ピンボール﹄は、﹁ペイアウトの口﹂つまり貨幣的
な交換の口を閉じることで、贈与的なやり取りの口を開くことを目指しているのである。そして、その贈与的な
やり取りの口は﹁冷凍倉庫﹂で﹁ピンボール・マシーン﹂のスイッチが入れられる︵ONになる︶ことで開かれ
たのである。しかも、この﹁スペースシップ﹂との再会において、﹁僕﹂はゲームをしない。それは﹁僕﹂が﹁ス
ペースシップ﹂を本来の使用法で使用しないということであり、﹁スペースシップ﹂はここにおいて、﹁直子﹂の
死によってもたらされた﹁残余﹂を担いえるモノとなったのである。しかし、﹁僕﹂は﹁冷凍倉庫﹂を去らなけれ
ばならない。
僕たちが共有しているものは、ずつと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖かい
想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷僅いつづけていた。そして死が僕を捉え、再び無の増
塙に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光とともに歩むだろう。
もう行った方がいいわ、と彼女が言った。
確かに冷気は耐え難いほどに強まっていた。僕は身震いして煙草を踏み消した。
会いに来てくれてありがとう、と彼女は言った。もう会えないかもしれないけど元気でね。
ありがとう、と僕は言う。さようなら。︵﹃ピンボール﹄59頁︶
1
﹁僕﹂は﹁冷凍倉庫﹂という限定された空間で、冷気に耐えられる時問という限定された時間の中で、限定的
に﹁直子﹂と語り合う。ここで言われる﹁無﹂を柄谷氏は﹁意味﹂であると指摘している︵注53︶が、その﹁意味﹂
は﹁残余﹂が取り払われてしまった後の﹁意味﹂である。﹁僕﹂はそのような﹁意味﹂を﹁比喩的﹂なカを借りて
乗り越えたのである。そして﹁僕﹂は﹁ピンボール・マシーン﹂たちと同じように﹁束の間﹂︵﹃ピンボール﹄53、
む
残余﹂に触れて、﹁光とともに歩む﹂のである。 6
)、
そのような﹁残余﹂を﹁僕﹂は持て余し、一九七〇年の冬に﹁スペースシップ﹂に嵌まり込んだ。そのことで
﹁直子﹂の死がもたらす﹁残余﹂を抱えている状況では、﹁直子﹂は死んでいるのに死んでいないのである︵注54︶。
んでしまった﹁直子﹂が残していった﹁残余﹂は﹁直子﹂との関りの中でやり取りすることはできない。つまり、
れれば消えてしまうが、﹁残余﹂をやり取りするためには、モノを媒体にすることもまた必要である。しかし、死
知る。﹁残余﹂は固有性を持っていたのである。﹃風1﹄でも確認したように﹁残余﹂は交換的な体系に組み込ま
指のない女の子﹂との関係に持ち込むことによって上手くいくこともあれば、上手くいかないこともあることを
第二章では﹃ピンボール﹄を﹃風ー﹄との関係から見てきた。﹁僕﹂は﹁直子﹂の死がもたらす﹁残余﹂を﹁小
三、﹃1973年のピンポール﹄をめぐって
159
﹁僕﹂は﹁直子﹂ への思いを確認するが、それは同時に﹁直子﹂の﹁残余﹂に縛られることにもなったのだった。
﹁ ス ペー
ス
シ
ッ
プ
﹂
は
﹁
僕
﹂
に
﹁あなたは悪くなんかないのよ、精いっぱいやったじゃない﹂、﹁終ったのよ、炉
か
も
﹂
と
い
う
事
実
を
突
き
つ
け
る
。
しかし﹁僕﹂は﹁やろうと思えばできた﹂、﹁何ひとつ終っちゃいない﹂と言
も
γ つ。 このこともまた事実なのである。﹁僕﹂はこのように﹁直子﹂が残していった﹁残余﹂に囚われていたのだ。
もしこの二つの事実を合わせ持てば、﹁僕﹂は﹁僕﹂を維持できなくなってしまう。よって﹁僕﹂は﹁スペースシ
ップ﹂がゲームセンターから消えると共に、その問題を置き去りにすることになった。
しかし一九七三年、﹁僕﹂に転機が訪れる。﹁僕﹂は﹁双子﹂と共に﹁配電盤﹂の﹁お葬式﹂をすることによっ
て、モノが﹁残余﹂を担いえることを知ったのである。そして﹁僕﹂は﹁スペースシップ﹂を捜す。そして﹁ス
ペースシップ﹂と再会する。その再会場所である﹁冷凍倉庫﹂は﹁僕﹂にとって﹁寒すぎる﹂場所であった。﹁僕﹂
は﹁残余﹂を追って、﹁僕﹂が辿りえる限界まで行き着いたのである。このことは過去への遡行という事態では
61
なく、今﹁僕﹂の中にある﹁残余﹂に触れることであり、その﹁残余﹂は紛れもなく﹁直子﹂が﹁僕﹂に残し
ていったものだからである。誤解を恐れずに言えば、ここで﹁僕﹂は、﹁僕﹂でありえるギリギリの場所で﹁直子﹂
に触れているのである。このようにして﹁僕﹂がたどり着いた場所について、﹁僕﹂はテネシー・ウイリアムズの
言葉を借りて、次のように語っている。
テネシー・ウイリアムズがこう書いている。過去と現在についてはこのとおり。未来については﹁おそら
く﹂である、と。
しかし僕たちが歩んできた暗闇を振り返る時、そこにあるものもやはり不確かな﹁おそらく﹂でしかない
ように思える。僕たちがはっきりと知覚し得るものは現在という瞬間に過ぎぬわけだが、それとても僕たち
の体をただすり抜けていくだけだ。︵﹃ピンボール﹄偽頁︶
テネシー・ウイリアムズの言葉に対して、﹁僕﹂は過去も﹁おそらく﹂でしかないと言い、現在でさえも﹁体を
ただすり抜けていくだけ﹂であると言う。これは﹃風ー﹄で﹁僕﹂が﹁街﹂を出るときに﹁あらゆるものは通り
すぎる。誰にもそれを捉えることはできない。﹂︵﹃風1﹄即頁︶と語られたことと一見同じようなことを語って
いるように見えるが、そうではない。﹁知覚し得るもの﹂は、﹁僕たちの体をただすり抜けていく﹂のであり、﹁知
覚し得ないもの﹂はその限りではないのである。そして、あるものを﹁得たもの﹂︵﹃風ー﹄12頁︶や﹁失ったも
の﹂︵同前同頁︶というように判断できるのは、それが知覚できたり、認識できたりするものに限られるのである。
認識に関して、﹃風ー﹄では次のように語られていた。
僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識しようとするものとの間には、深い溝が横たわっている。
どんなに長い物差しをもってしてもその深さを測ることは出来ない︵﹃風1﹄12頁︶。
﹁僕﹂は認識、知覚によっては﹁残余﹂には届かないことを知ったのである。そして、﹁僕﹂はモノを媒体とし
て﹁残余﹂を受け入れる。そのことによって、過去は﹁おそらく﹂となる。それは﹁直子﹂が死んでいるのに
62
死んでいないことを認めることなのである。しかし、そのことは﹁僕﹂の同一性の危機を意味するのではなか
ったか。実は﹃ピンボール﹄で、﹁僕﹂はそのことを解決している。﹁おそらく﹂に﹁比喩的﹂に、限定的に関れ
ば、﹁寒い﹂場所で過去が﹁おそらく﹂であるということを、つまり﹁残余﹂を受け入れることができたのである。
さいごに ﹁僕﹄は風の歌を聴けたか
本稿は、﹃風ー﹄から﹃ピンボール﹄への流れの中で﹁僕﹂の﹁残余﹂との関りを通して、﹁僕﹂という一人の
個人の自己と他者との関係を見てきた。﹃風1﹄では、﹁僕﹂が他者との関りで取りこぽされるものである﹁残余﹂
に囚われている様を見た。﹁残余﹂に囚われるのは、それを見過ごすせば他者を自己の同一的な価値体系に吸収し
てしまうからだった。しかし、そのことは自己の同一性の危機や、﹁残余﹂の拾いそこないとしての﹁自己の拡大﹂
という事態を引き起こす危険を伴うものだった。﹁僕﹂はそれでも﹁残余﹂を通りすぎるものとして受け入れよう
としてきたのである。
しかし、﹃ピンボール﹄では﹁直子﹂︵﹁三番目の女の子﹂︶の﹁残余﹂が﹁僕﹂の中を通りすぎていくものでは
ないことが示され、﹁僕﹂は﹁比喩的﹂に﹁残余﹂をモノに宿らせることによって、その﹁残余﹂を何とかしよ
63
うとする。﹃風1﹄では﹁言葉﹂を信じることができない、つまり﹁言葉﹂に﹁残余﹂を乗せることができない
状況が語られていた。それに対して﹃ピンボール﹄では、﹁僕﹂は想像することとは別の仕方で﹁残余﹂に関りえ
る手段を得たのである。簡単に言って、﹁僕﹂はモノに﹁残余﹂を宿らせることによって、ハートフイールドが﹁火
星の井戸﹂の中で夢見た﹁リヴオルヴ︵回転、回帰︶﹂を成しえたといえよう。
本稿が明らかにしたことは次の三つにまとめることができる。一つは﹁残余﹂の変遷についてである。﹁残余﹂
はまずモノについて想像することで現れ、次に他者とコミュニケーションを取ることで現れ、死者を思うことで
現れる、というように変遷してきた。﹃ピンボール﹄で﹁現在という瞬間﹂は﹁僕たちの体をただすり抜けていく﹂
と語られていたことを考慮して﹁残余﹂を考えるとき、﹁残余﹂は﹁ただすり抜けていく﹂他なるものを捉えよう
とするときに生れるものなのである。そして、﹁僕﹂は他者との関係を﹁ただすり抜ける﹂ものとしないために、
いろいろな仕方で﹁残余﹂と関ってきたのだ。二つは他者の内面についてである。﹁風﹂は言葉に宿り、﹁直子﹂
の死がもたらす﹁残余﹂は﹁スペースシップ﹂に宿る。このように﹁比喩的﹂に﹁残余﹂を宿らせることができ
る場所では、︿他者は認識不可能な内面を持っている﹀というような観念を抱く必要がない。心が書葉やモノに宿
っているからである。他者とのコミュニケーションが不完全であるというのは、自己の内面を知るように他者の
内面を知ることができないという思考によって裏付けられるのだろう。しかし、他者の内面を自己を知るような
仕方で知ることができないのは当たり前のことである。村上はそのような観念に囚われて言葉を信じなければど
うなるのかということを、書葉が﹁残余﹂を担えない状況を描く、つまり言葉の﹁比喩的﹂な力をOFFにする
ことで示して見せた︵ただ、そのOFFも完全な断絶ではないことは﹁精神科医﹂の箇所で述べた︶。言葉を信じ
られなかった﹁直子﹂は﹁残余﹂を抱えて死んでしまうのである。そして﹁僕は・君たちが・好きだ﹂と﹁残余﹂
を言葉に乗せることができたDJは、ONとOFFという二面性から解放される。つまり、そこではDJが持っ
ていたONという仮面も、OFFという内面もないのである。﹁風﹂は言葉で語られたことそのものを、嘘であ
64
る可能性をも含みこんで信じることができる場所に吹く。﹁小指のない女の子﹂はそれができなかったために
﹁風﹂が﹁頭の上﹂を吹き抜けてしまい、﹁風﹂を感じることができなかったのである。三つは言葉とモノの問題
についてである。﹃風1﹄で﹁比喩的﹂なカをOFFにした状態が語られたが、村上の注2の言葉の通り、﹃ピン
ボール﹄ではその﹁比喩的﹂な力自体を描かなければならなかった。﹁僕﹂は﹁冷凍倉庫﹂の中の﹁ピンボール・
マシーン﹂たちのスイッチを入れる︵ONにする︶ことになるのである。ただ、﹁比喩的﹂な力は、﹁スペースシ
ップ﹂というモノを介して描かれる。比喩は書葉から生れたが、書葉は体系にすぐに位置づけられてしまうため
に、モノに宿るという事態から﹁比喩的﹂なカを語ることになったのではないだろうか。また、死者について語
られる理由も同様であろうと推測される。村上は死者という既に語りえない他者に、﹁冷凍倉庫﹂という空間と時
間が限定された場所でようやく﹁残余﹂について語りえたのである。
本稿もまた限定された視点から村上の問題を探ることになった。よって本稿では触れられなかった問題も多く
ある。まず、﹁残余﹂は過去と深い関係にあると考えているが、このことについては示唆を与えることしかできな
かった。また、﹃風ー﹄と﹃ピンボール﹄が深いつながりを見せるように、村上の小説群は相互に間題を共有しな
がらも、少しずつずらしていくことで問題に深く入り込む。その意味で、紙幅の都合上とはいえ﹃ピンボール﹄
の﹁鼠﹂に触れられなかったのは特に残念である。﹃ピンボール﹄では、﹁僕﹂がモノに﹁残余﹂を宿らせること
ができたことと、﹁鼠﹂が女を愛することができずに街を出て行くことがパラレルの関係になっていることだけを
付け加えておきたい。
ここまでで﹁はじめに﹂での仮説にも十分答えたことになろうが、明確に答えておきたい。﹁根源的な場所﹂
とは﹁残余﹂に囚われる場所である。﹁僕﹂が﹁残余﹂に対してどのように関ってきたかについてはもう十分に見
てきただろう。﹁ある程度の答え﹂について、︿﹁僕﹂は風の歌を聴けたのだろうか﹀というかたちで答えておこう。
﹃ピンボール﹄では、﹁僕レが﹁スペースシップ﹂との再会を果たした後、次のように語られている。
65
ピンボールの捻りは僕の生活からぴたりと消えた。そして行き場のない思いも消えた。もちろんそれで
﹁アーサー王と円卓の騎士﹂のように﹁大団円﹂が来るわけではない。それはずっと先のことだ。馬が疲弊
し、剣が折れ、鎧が錆びた時、僕はねこじゃらしが茂った草原に横になり、静かに風の歌を聴こう。そして
貯水池の底なり養鶏場の冷凍倉庫なり、どこでもいい、僕の辿るべき道を辿ろう。︵﹃ピンボール﹄齪∼㎜頁︶
﹃風1﹄では、﹁僕﹂は﹁風の歌﹂を聴くことはできなかった。﹁風﹂が一瞬通り過ぎたことを感じただけであ
る。﹃ピンボール﹄では、﹁風﹂をモノに宿らせる。感覚的にいえば、﹁風﹂は﹁僕﹂の辺りを吹いている。﹁僕﹂
は、﹁風﹂が﹁僕﹂の中を通り過ぎるとき、同時に﹁僕﹂の外にも吹いているのだということを、﹁スペースシッ
プ﹂との再会を通して、時間的、空間的に限定された場所で知ったのである。そのことによって、﹁僕﹂は﹁風の
歌を聴﹂く予感を得る。この予感は大きな予感である。何故なら、ここにおいて初めて小説中に﹁風の歌﹂とい
う言葉が刻まれるからである。
注5、大山憲三郎 ﹁﹃風の歌を聴け﹄考察 ーコミュニケーションの不完全性の視点からー﹂︵﹃国文学研究﹄1
もの﹂に存在しないということを超えた意義を見出している。
在するもの﹂は﹁不在するもの﹂との関係を通してしか存在し得ないことを示している。つまり、﹁不在する
と発言している。この発言は、﹁存在するもの﹂と﹁不在するもの﹂を等価に見るという意味ではなく、﹁存
感覚がいちばん近いかな﹂︵68頁︶、﹁存在するものは常に不在するものの影響下にあるわけですね﹂︵72頁︶
﹁僕の場合失われたものに対する憧憬は決して懐古的じゃないんです。不在の存在感・存在の不在感という
注4、このことに関連して、村上は﹁﹁物語﹂のための冒険﹂︵﹃文学界﹄1985年8月︶というインタビユーで
第剛章第一節
所のテーブルから生まれた小説﹂。皿頁。
も﹃ピンボール﹄が﹃風ー﹄の問題を直接受けて書かれたものであると判断することができるだろう。
66
注3、村上春樹﹃村上春樹全作品197911989﹄①︵講談社、1990年5月︶月報﹁﹁自作を語る﹂台
988年﹂︵﹃文学界4月臨時増刊 村上春樹ブック﹄1991年4月︶38頁︶と語っている。この発言から
方向性が見えてくれば人はきっと納得してくれるだろう﹂︵﹁聞き書 村上春樹 この十年 1979年∼1
か早く。あれは一種のテーゼなわけでしょう。 一つだけぽんとあってもだれも見ないけれども、次のやつで
注2、この辺りの事情について、村上自身も﹁﹃風1﹄が受賞したあと、早く次のを書きたかったんです。何と
保工業高等専門学校研究報告﹄1996年2月︶4頁。
注1、田崎弘章﹁村上春樹﹁風の歌を聴け﹂を読む 1注意深く取り除かれたコルクの屑・父の消去1﹂︵﹃佐世
はじめに
注
998年3月︶贈頁。
注6、田中実 ﹁数値の中のアイデンティティ﹂ー﹃風の歌を聴け﹄﹂︵﹃目本の文学﹄、有精堂出版、1990年
6月︶55頁
−
注7
村 上 春 樹 論 島 のの
国 文 学 ﹄ 1 9 85
、
川
本
三
郎
﹁ 距
離
感
﹂
︵
﹃ 年
3
月
︶
、
1
14頁。川本氏は、﹁僕﹂が﹁全ての
関係において間接的﹂であるのは﹁村上春樹の主人公は隙あらば人間関係のわずらわしさをのがれて一人だ
けの自由な空間に逃げこもうとする﹂︵⋮⋮頁︶からだと述べているが、本稿ではそのような解釈は取らない。
注8、このことを藤本徳子氏はその論文﹁闇の奥からの真摯な歌声 1﹃風の歌を聴け﹄ー﹂︵﹃古典研究﹄19
98年5月︶の中で﹁これは︿切り離しの技法﹀というように、一般に乾いた文体の好例とされているのだ
が、私には、スイッチが切れた後の余韻 闇を震えさせるもの、そのような空気の振動がここに強く感じ
られる。﹂︵51頁︶という仕方で論じている。
67
第一章第二節
注9、小菅健一﹁風の歌を聴け﹂論への作業仮説 1︿文章﹀・“空白”・︿リスト﹀ー︵﹃目本文芸論集﹄199
5年12月︶51頁。また小菅氏は同論文で﹁僕﹂は﹁発展途上の段階に留まっていて未成熟な︿感性﹀の非常
に不安定な働きをいったん棚上げにして、一時的に仮死状態のようなもの機能停止の状態にすることによっ
て、当座は、対象物の認知・受容や表現をめぐる各行為に不可避に付随してくる余分なもの︵無駄︶を、次々
と徹底的に削ぎ落としていくことが必要不可欠であることを理解﹂︵54頁︶したことによって﹁ものさし﹂
を使用するようになったと述べているが、この﹁対象物の認知・受容や表現をめぐる各行為に不可避に付随
してくる余分なもの﹂である﹁残余﹂を﹁無駄﹂であるとしている点は、認めがたい。﹁僕﹂は﹁残余﹂が﹁無
駄﹂などではなく、﹁僕﹂に大きな影響を与えるものだからこそ、極力押さえつけようとするのである。
注10、前田愛﹁僕と鼠の記号論 一一進法的世界としての﹃風の歌を聴け﹄i﹂︵﹃国文学﹄1985年3月︶
燗頁.
注H、このことについて、前田氏は前掲注10の論文で﹁留回のセックス、6921本の煙草、というように、す
べてを数値に置きかえることで、言葉の曖昧さと多義性を切り捨てることができたとしても、伝えるべき内
容は0に等しくなる﹂︵鵬頁︶と言うように﹁僕﹂が切り捨てたのは﹁言葉の曖昧さと多義性﹂であるとす
る。本稿では、﹁残余﹂を通して﹁僕﹂のあり方を見ているため、言葉の問題には、詳しく触れることができ
ないが、﹁僕﹂が﹁残余﹂を押さえ込もうとして、﹁全てを数値に置き換える﹂とき、﹁言葉の曖昧さと多義性﹂
も、同時に押さえ込まれていることは、重要である。﹁僕﹂が﹁残余﹂に対する想像力を押さ込み、他者へ広
がっていくのを抑えるとき、﹁言葉の曖昧さと多義性﹂という言葉の広がりも同時に押さえ込まれているので
ある。
注12、このことに関して、鈴木忠士氏はその論文﹁村上春樹﹃風の歌を聴け﹄1分身の輪舞︵1︶﹂︵﹃岐阜経
68
済大学論集﹄1999年6月︶で﹁僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを﹁あなたのレーゾン・
デートゥル﹂と呼んだ﹂について﹁︵﹁三番目の女の子﹂と1高見︶﹁僕﹂との関係が﹁愛﹂に基づくものでは
なく、﹁ペニス﹂“性欲によるものでしかないことを示唆していよう﹂、﹁﹁彼女の死﹂以前にすでに﹁僕のペ
ニス﹂は彼女の﹁興味﹂をひかなくなっていて、﹁僕﹂は彼女にとっての﹁レーゾン・デートゥル﹂を﹁失っ﹂
ていたのかもしれない﹂︵伽頁︶と述べているが、﹁僕﹂が﹁レーゾン・デートゥル﹂を見失ったのは、やは
り﹁三番目の女の子﹂の死によってであると見るのが妥当であろう。
﹁ペニス﹂に注目するならば、﹁三番目の女の子﹂にとって﹁僕﹂の﹁ペニス﹂は存在理由であったのに対
して、﹁僕﹂にとってそれは﹁サイズ﹂という﹁数値で置き換え﹂たものでしかなかったことが問題である。
﹁三番目の女の子﹂が﹁ペニス﹂を存在理由であるというとき、それは、砕けた言い方をすれば﹁僕﹂との
愛のあるセックスを指していたのではないだろうか。それに対して、﹁僕﹂は﹁ペニス﹂に﹁サイズ﹂以外の
価値をあえて見出さない︵﹁ものさし﹂で測る︶ことによって、その﹁三番目の女の子﹂の愛という他者の介
入︵それは後に見るように﹁僕﹂に対して良い事だけをもたらすわけではない︶から﹁僕﹂の自己を守って
いたのである。
注13、このことについて鈴木氏は前掲注12の論文で﹁三番目の女の子﹂が﹁なんらかの意味で﹁僕﹂に裏切り行
為をしたのだろうか。あるいはその逆に、﹁僕﹂が彼女を裏切り、自殺に追いこんだのか﹂︵㎜頁︶という観
点から、﹁僕はひとつしか嘘をつかなかった﹂ときの嘘を﹁それは﹁私を愛してる?﹂という問いに対する﹁も
ちろん﹂という﹁僕﹂の返答のことにちがいない﹂︵囲頁︶と述べている。鈴木氏は﹁僕﹂か﹁三番目の女
の子﹂のどちらかが浮気をしていたのではないかという論を灰めかせているが、そのような記述は小説中に
なく、強引な解釈であろう。確かに﹁三番目の女の子﹂の死は、﹁僕﹂との関係がうまくいかなかったとこと
に起因するのだろうが、関係がうまくいかなかったのはどちらかが浮気をしたからというではないだろう。
69
また石倉美智子氏はその論文﹁﹃風の歌を聴け﹄論ー﹁霜取りをしなければならない古い冷蔵庫﹂として
の﹁僕﹂﹂︵﹃専修国文﹄1994年1月︶で、﹁チャプタi34で﹁僕﹂のついた嘘とは、サンドウイッチに使
う﹁芥子﹂がないという彼女に対して、﹁上等さ。﹂と言ったことだということになる。﹂︵95∼96頁︶という
解釈を取っている︵本稿の34章の引用では、石倉氏の指摘した箇所の会話は省略している︶。
注14、前掲注12、27頁。
1
注15、﹁三番目の女の子﹂が﹁残余﹂に耐え切れず死んでしまったことについて、紙幅の都合上述べられない。
少しだけ言えば、21章と26章がそのことを示唆している。
注16、加藤弘一﹁死者たちの贈り物﹂︵﹃シ⋮ク&ファインド 村上春樹﹄、青銅社、1986年7月︵初出は﹃群
像﹄1983年8月︶、m頁。
ママ
注17、加藤弘一氏の﹁三番目の女の子﹂の自殺によって、﹁僕﹂が﹁他者の世界に対する異和感を意識しだす﹂
という論に対しては、本稿では別の解釈を取っている。﹁僕﹂は﹁幼い頃﹂から﹁残余﹂に敏感だったのであ
る。そしてそのことは﹁僕﹂が﹁僕﹂でないもの、つまり他者に対して強い関心を示していたということで
ある。
注18、このことについて田中氏は前掲注6の論文中で﹁セックスから内面や意味の重さを剥奪し、煙草の本数と
セックスの回数を等価にすることで、二十一歳の僕の軽快さは描き出される。それは︿流血﹀の惨劇によつ
て可能になった僕の︿主体﹀の喪失の姿そのものであったのだ。軽やかな僕を描くことが内奥の︿流血﹀を
描くことであり、それが﹁僕﹂のだましのテクニックである。﹂︵断頁︶と述べているが、﹁流血﹂に耐えら
れないために﹁僕﹂は﹁数値﹂に還元したのではないか。そして、その﹁流血﹂︵﹁残余﹂︶が他者の﹁残余﹂
になる事態に出会うことによって、﹁僕﹂は﹁︿数値﹀に還元﹂することをやめるのである。
注19、宮川健郎氏はその論文﹁﹁風の歌を聴け﹂論 余白の出現﹂︵﹃国文学﹄1988年8月︶で伊丹十三の
70
﹁︿欲望を言葉にする、ということは、言葉によってすくい上げられなかった欲望が心のどこかに残されて
ゆく﹀こと﹂であるという論を引いた後、﹁︿言葉によってすくい上げられなかった欲望﹀“︿無意識﹀のこ
とを、﹁風の歌を聴け﹂の﹁僕﹂は、︿古い冷蔵庫﹀の︿霜﹀と呼んだのだ﹂︵鵬頁︶と述べている。概ね首
肯しえるが、言葉によって欲望をすくい上げる必要にせまられるのは、他者とのコミュニケーションの場で
あることを忘れてはならない。﹁無意識﹂は他者との関係性の中で初めて意識されるのである。﹁僕﹂は﹁無
意識﹂に他者が持つ﹁残余﹂の影響を受けているのだ。
注20、この﹁霜取りをしなければならない古い冷蔵庫﹂については石倉氏の前掲注13の論文が詳しい。そこで石
倉氏は﹁内面の空虚さ”空腹を満たすものの比喩として料理が登場することを考えれば、﹁ドレッシング﹂も
﹁芥子﹂も料理の貴重なポイントとなるものとして扱われている﹂と述べ、﹃風ー﹄に出てくる﹁冷蔵庫﹂と
にはいつも﹁ドレッシング﹂︵﹃風1﹄伽頁︶や﹁芥子﹂︵﹃風ー﹄摺頁︶といった﹁貴重なポイント﹂が欠け
ていると指摘され、そのような﹁冷蔵庫﹂は﹁﹁僕﹂の内面を満たされなさをあらわしている﹂と述べている。
この論には、本稿と通じ合うものがあるだろう。
注21、前掲注10、踊頁。
注22、確かにこの﹁草の塊り﹂は﹁内面﹂であると言うこともできるだろう。そのこと自体を否定する気はない。
しかし、﹁内面﹂と言う言葉を使うと問題を不用意に拡散させてしまう。﹁内面﹂とは自己意識のことなのだ
ろうが、自己とは他者との関係で形づくられる。これは漢然としたことではなく、事実である。例えば心理
学の領域では、幼少期に他者との関係において言語を習得していくことが知られている。そして、自己の同
一性は経験の集積を基にして形づくられる。そうだとすれば、その経験の一つ一つを検討することによって、
初めて自己というものが見えてくるはずであり、﹁内面﹂という言葉を使うことは、その試みをあらかじめ回
避しているということになってしまう。
71
また村上は前掲注4のインタビューで﹁内面性によって人は区分される差異は識別される﹂のではなく、
﹁内面というのは、あとから何となくくるものであ﹂︵60頁︶ると述べている。
注23、ハラルト・ヴァインリヒ著、井口省吾訳﹃うその言語学﹄︵大修館書店、1973年10月︶93∼94頁。
注24、前掲注23、95∼96頁。
注25、小森陽一氏﹁村上春樹﹃風の歌を聴け﹄﹂︵栗坪良樹・柘植光彦編﹃村上春樹スタデイーズ㎝﹄若草書房、
1999年6月︶︵初出は﹃国文学﹄1989年7月︶45∼46頁。
注26、小森氏は前掲注25の論文で、﹁言語を通してかかわりあう可能性には、無条件な前提など存在しない﹂︵47
頁︶という視点から、﹁僕﹂が﹁小指のない女の子﹂とコミュニケーションを取れたことを﹁﹁僕﹂はこのと
きツイていたのだと思う﹂︵48頁︶というふうに述べている。
第一章第三節
注27、前掲注10、鵬∼鵬頁。
注28、小森氏も前掲注25の論文で﹁彼女や彼が僕ではない他者だという証しは、彼や彼女が僕とは違った言葉を
投げ返してくること、つまり生きているということ、お互いの間に共有できる時間が流れ続けていることに
ある。キャッチ・ボールとは、そういうふうに生れ起っている。どちらかが投げ返すのをやめれば、それで
終わりだ。﹂︵44頁︶というように、﹁二匹の緑色の猿﹂に﹁会話のキャッチボール﹂を見ている。しかし、
小森氏はこの後、﹁ボールの空気が脱けていればこそ、同じボールであっても、変形させて投げ返すことがで
きる。パンパンに空気のつまったボールは形を変えない。かといって中につまっているのは空気だ。つまり
空っぽだ。ただ同じ空っぽでも、ボールの中の方が外気よりも少し気圧が高かっただけだ﹂と述べている。
問題は﹁空気﹂である。空気が脱けているために﹁二匹の緑色の猿﹂は﹁ビール﹂と﹁代金﹂という交換を
行っているのであり、そこには贈与に見られる貨幣価値に還元できない﹁残余﹂が脱けているのである。
72
だから、﹁空気﹂とは﹁残余﹂のことである。小森氏は﹁ボール﹂を﹁変形させて投げ返すことができる﹂
ことに意義を見出すが、それでは、﹁ボール﹂を投げ合っていることに変わりは無いことになってしまう。重
要なことは﹁ボール﹂を投げあうことで中の﹁空気﹂︵口﹁残余﹂︶の同時に投げ合っているということであ
り、﹁空気﹂が脱けているということは﹁残余﹂を受け渡せなくなっている事態なのである。
注29、加藤典洋編﹃イエローぺージ 村上春樹﹄︵荒地出版社、!996年10月︶25頁。
注30、中沢新一氏はその著書﹃カイエ・ソバージュ皿 愛と経済のロゴス﹄︵講談社選書メチエ、2003年−
月︶で交換と贈与について次のように説明している。
親しい友人に心をこめた贈り物がおこなわれるときのことを、考えてみましょう。デパートなどで買
った商品を贈り物にする場合でも、私たちは注意深く値段を表示したタッグを外してから、きれいに包
装しなおして、商品としての痕跡をできるだけ消去しておこうとします。これは交換の原理の支配下に
はないものです、という信号を発しているわけですね。
それに贈り物の価値は、できるだけ不確定にしておく必要があります。自分でも言わないし、贈り物
をもらった相手も、そのことを尋ねたりしないのがエチケットです。不確定だけれど、何かの意味が相
手に手渡されていることが大切なのであって、贈与ではたとえモノを媒介にして人と人との間につなが
りが発生しているときにも、モノにこめられている意味や感情が、モノに乗って相手に伝わっていくこ
とのほうが大事だと言わんばかりにして、事が運ばれます︵37頁︶。
このように贈与では﹁値段﹂ではなく﹁モノにこめられている意味や感情﹂がやり取りされることになる。
この﹁値段﹂では測りきれない﹁意味や感情﹂が﹁残余﹂である。
井口時男氏はその論文﹁伝達という出来事−村上春樹論﹂︵﹃群像目本の作家 村上春樹﹄1997年5月、
小学館︵初出は﹃群像﹄1983年10月︶︶で﹁おそらく、言葉もまた贈与なのである。︵中略︶無償を装
73
って強引におしつけられる高価で危険な負債。負債は払わなければならない。しかし、払う行為は、よほ
どの注意深くない限り、逆に相手に負債を与えてしまう﹂︵64頁︶というようにコミュニケーシヨンにおい
て﹁残余﹂が﹁負債﹂となる事態を述べている。確かにそのことも﹁贈与﹂の一面を示しているが、﹁贈与﹂
は原初、﹁値段﹂では測りきれない﹁意味や感情﹂、﹁心﹂をやり取りしていたということを忘れてはならない。
注31、このことについて田崎氏は、前掲注1の論文の中で﹁鼠﹂は﹁父親とその父親が残すシステム︵自分が継
がざるを得ない会社等︶と何らかの対決を持たない限り、問題は決して解決へは向かわない﹂︵H頁︶と指
摘する。﹁鼠﹂の父親は、成金的に財産を築いた人物であり︵﹃風1﹄鵬頁にその記述がある︶、父親が﹁鼠﹂
を貨幣交換的にしか他者と交われない人間に育てた元凶であると考えると、この指摘は示唆的である。
注32、小林正明氏はその著書﹃村上春樹 塔と海の彼方に﹄︵森話社、1998年n月︶で、﹁村上春樹の﹁井戸﹂
とは何か。結論から言うなら、﹁井戸﹂とは、精神分析の術語﹁イド﹂との掛詞になっている﹂︵21頁︶と指
摘した上で、フロイトの言う﹁超自我/自我/イド﹂の三要素は相互嵌入する力動性を内包している﹂︵23頁︶
として、村上の小説群をフロイトの局所論に基づいて読み解いている。
注33、今井清人﹃村上春樹 10FFの感覚ー﹄︵国研出版、1990年10月︶65頁。
注34、﹃研究社 新英和大辞典﹄︵第6版、2002年︶によると﹁冨く巳ぎ﹂の他動詞の意味は﹁1、︹他の人・
者を中心にしてその周囲を︺ぐるぐる回る。2、︿考え・思いが﹀︹胸中に︺ぐるぐる回る、去来する、思い
めぐらされる、あれこれと思案する。3、循環する、一巡︹回帰︺する、周期的に起こる、巡ってくる。﹂︵適
宜省略︶と大きく三つに分類される。﹃オックスフォード英語辞典︵OED︶﹄の第二版にも﹁銃の引き金を
引く﹂というような意味は認められない。
注35、小林氏は前掲注32の論文中で﹁エンパイア・ステート・ビル﹂の極点まで上昇し、かつ落下した架空作家
ハートフイールドもまた、第二局所論とは無縁ではない﹂︵25頁︶とし、﹁ハートフイールドの身振りは、
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超自我の極点にまで上昇し、かつ、超自我の権化たるヒットラーの肖像を抱いて、最深部たるイドの領域
へと落下する﹂︵同頁︶と指摘している。ハートフイールドは超自我とイドがせめぎ合う自我の領域にいるこ
とができなかったのであり、自我の領域に生きることを﹁火星の井戸﹂を通して夢見ていたのである。その
ことは、ハートフイールドが﹁誰もが知っていることを小説に書いて、一体何の意味がある?﹂︵﹃風r﹄伽
頁︶と言っていることからも推察される。
注36、﹁リヴオルヴ︵冨<o一<。︶﹂の名詞形は﹁レボリューション︵冨<oご江9︶﹂である。その意味は前掲注34の
﹃研究社 新英和大辞典﹄によると﹁1、︵政治上の︶革命、大変革。2、︵ある形態が点または直線を中心
として︶回転すること。3、︵天体の︶公転、周転。4、︵年月・季節などの︶一巡、循環、回帰、一周期。
5、︵地質学上の︶変革。6、︵時間の経過による︶変化、変質﹂︵適宜省略︶となっている。日本の純文学を
あまり読まず、﹁アメリカのぺーパーバックに引かれ﹂︵前掲注4、40頁︶ていた村上が﹁リヴオルヴ﹂とい
う言葉を意識的に使ったと考えるのは不自然ではあるまい。
注37、勝原晴希氏はその論文﹁村上春樹の領域①﹃風の歌を聴け﹄﹂︵﹃群系﹄1997年10月︶で﹁女の子は﹁風
の中を歩く﹂ことを願う。古墳を眺めていた鼠が﹁水面を渡る風に耳を澄ませた﹂ように。﹁みんなが一体に
なって宇宙を流れていく﹂そのような﹁風の歌﹂を聴くことが出来れば、耐えることができるかも知れない﹂
︵23頁︶というように論じている。本稿も同じように﹁風の中を歩く﹂ことは﹁鼠﹂やハートフイールド、
そして﹁小指のない女の子﹂の﹁風﹂と関連していると解釈している。ただ、本稿では﹁風の歌﹂という言
葉は使わない。それは、﹃風ー﹄の題名の他は小説中にその言葉が出てこないためと、﹁風の歌﹂と言ってし
まうと﹁小指のない女の子﹂の﹁悪い風﹂のイメージを捉えられないためである。
注38、前掲注37、25頁。
注39、勝原氏も前掲注37の論文中で﹁﹁僕は・君たちが・好きだ﹂と言う声が、︿︿外側﹀﹀から聞こえて来ると
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感じた時、わたしは神の声を聞きはしなかったが、そしてごくごく微かな感受ではあったが、その声にく︿宇
宙﹀﹀を感じていた﹂︵25頁︶、﹁僕﹂の知らない声によって、﹁僕﹂もまた、すっぽり包み込まれている。包
み込まれることのよって癒されている﹂とし、﹁それが一時的なものに過ぎない﹂と指摘している。
注40、中沢氏は前掲注30の著書の中で、交換と贈与の関係について、﹁交換の原理から贈与が発生することはで
きませんが、贈与の原理の内部におこる微小な変化をきっかけとして、贈与とは異質な交換の原理が、その
中から生れてくる﹂︵43頁︶、﹁どんなモノにも人格の一部が付着していましたから、そこから人格を分離し
て、単なるモノにするために、いろいろな工夫が必要﹂︵41頁︶だった、﹁贈与において重要なのは、実は贈
り物となるモノではなく、モノの移動を媒介にして同じ方向に移動していく、流動的で連続性をもっている
なにかのカの動きなのです。その﹁なにかのカ﹂を表現するために、よく﹁信頼﹂や﹁友情﹂や﹁愛情﹂や
﹁威信﹂などといった言葉が使われます﹂︵44頁︶というように説明している。これらの引用は、﹁流動的で
連続性をもっているなにかのカの動き﹂は、﹁モノの移動を媒体にして﹂しか伝わらないということを示して
いる。この﹁なにかのカ﹂は﹁残余﹂と考えて差し支えないと思われる。﹁残余﹂は想像し、感じ取ることは
できても、確固とした存在とて現れることはなく、﹁残余﹂に積極的に関ろうとするときには、モノを媒体に
ストレイシしプ
することが必要になるのである。
注41、角南範子氏はその論文﹁迷羊の恋人﹂︵﹃緑岡詞林﹄、2001年3月︶で﹁﹁評窪暴﹂には﹁精神・霊﹂
﹁息・風﹂の意味があった。﹁精神﹂も﹁霊﹂も、︿たましい﹀という言葉で表すことができ、︿。。○巳﹀とい
う言葉で表すことができるのだが、どちらかというと﹁精神﹂は生きている状態、﹁霊﹂は死んでいる状態
で使われると言えるのではないか。だとすると、﹁息・風﹂のほうも同じように考えられないか。﹁息﹂が生
きている人の呼吸、特に呼気だとすれば、それに対して﹁風﹂はすでに失われたものやところから吹いてく
るもの、といえるのではないか﹂︵田∼鎚頁︶と述べている。
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注42、詳細に小説をたどると、この小説は﹁8月8目﹂から﹁8月26目﹂の間に収まらないようだ。この目付
に関しては加藤典洋氏の著書︵前掲注29︶や米村みゆき氏の論文﹃死、復活、誕生、そして生きることの意
味−村上春樹﹃風の歌を聴け﹄1﹄︵﹃昭和文学研究﹄1995年N月︶がある。
しかし、重要なことは、村上が意図したにしろ無意識にそうなってしまったにしろ、﹃風ー﹄というテクス
トが﹁8月8日﹂から﹁8月26目﹂という自己規定を超え出てしまったということだろう。このことは﹁小
説というものは情報である以上グラフや年表で表現できるものでなくてはならない﹂︵﹃風ー﹄⋮⋮頁︶という
ハートフイールドの言葉と考え合わせると、﹃風1﹄はハートフイールドの言う意味での小説を超え出るもの
であるということになる。そのことの意味を、﹁残余﹂を追う試みを限定した時間の中に封じ込めることが結
局はできなかったのだというように考えるとき、﹁残余﹂について考える上で大変興味深い。
注43、加藤弘一氏は前掲注16の論文中で、他者の内面が不可知であることに不安を感じることについて、﹁むし
ろ、この不信と不安こそが彼女の内面の不可知性を呼びよせたのだ。問題は他者の消失そのもの、半身の喪
失そのものにかかわる﹂︵㎜頁︶と述べている。このことは、不確かであるということを過剰に意識するこ
とで、不確かさが増すことを示している。ごく簡単に言えば、想像することが裏目に出たことを、過剰に不
安定であると感じれば、次に他者の持つ﹁残余﹂に関ろうとするときにその影響が出るということである。
第二章第一節
注44、このことについて、多くの先行研究は、﹁直子﹂が﹃風1﹄の﹁三番目の女の子﹂であるということで一
致している。この場面だけでは分かりにくいかも知れないが、﹃ピンボール﹄には他にも記述がある。
注45、柄谷行人氏はその論文﹁村上春樹の﹁風景﹂1﹃1973年のピンボール﹄﹂︵栗坪良樹・柘植光彦編﹃村
上春樹スタディーズ01﹄若草書房、1999年6月︵初出は﹃海燕﹄1989年n・12月︶︶の中で、﹁ここ
︵﹃風1﹄では1高見︶では、自殺した女は、﹁第三番目に寝た女の子﹂にすぎないのである。それは、た
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とえば﹁直子﹂と呼ばれた瞬間に、かけがえのない単独性11歴史性を回復するだろう﹂︵㎜頁︶と指摘し
ている。
﹁直子﹂の死がもたらした﹁残余﹂を固有名の問題から考えれば次のようになる。﹁直子﹂は生きていると
きには、﹁直子﹂の名は、生きている﹁直子﹂を指して用いられていた。感覚的に言えば、﹁直子﹂は現実に
おいてつり合いが取れていたのである。しかし、﹁直子﹂が死んでしまえば、﹁僕﹂は﹁直子﹂という名を語
ることができるにもかかわらず、﹁直子﹂は絶対的な仕方で不在であるという状況が訪れることになる。この
ような状況が﹁残余﹂となる。﹁僕﹂に刻まれてしまった﹁直子﹂という名は﹁直子﹂が死んだ後も﹁僕﹂と
結びついている。
注46、この﹁配電盤﹂もまた﹃風1﹄との関りを持っている。重要なものを挙げると、﹃風−﹄のn章でDJは
﹁ところで先週は電話がかかりすぎてヒューズが飛んじまってみんなに迷惑をかけたね。でももう大丈夫。
昨目特別製のケーブルにつけかえた。像の足くらいある太いやつだ。像の足、キリンの足より、ずっと太い、
少し字余り。だから安心して気が狂うくらい電話してくれよ。たとえ放送局員の全員が気が狂ったとしても、
ヒューズは絶対に飛ばない。﹂︵51頁︶と言う。またハートフイールドの父親は﹁無口な電信技士﹂︵耐頁︶
である。
注47、中沢新一氏はその著書﹃カイエ・ノバージュW 神の発明﹄︵講談社新書メチエ、2003年O月︶で、﹁比
喩的﹂に思考することを﹁流動的知性﹂と呼んで、﹁流動的知性は、異なる領域をつなぎあわせたり、重ね合
わせたりすることを可能にしました。こうして﹁比喩的﹂であることを本質とするような、現生人類特有な
知性が出てきたのです。﹁比喩的﹂な思考は、大きく﹁隠喩的﹂な思考と﹁換喩的﹂な思考という二つの軸で
成り立っていますが、この二つの軸を結び合わせると、いまの人類のしゃべっているあらゆるタイプの言語
摘 し て いる。
の深層構造が生れるのです。﹂︵57頁︶というように﹁比喩的﹂な思考が人問の思考の根源にあることを指
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村上の比喩については芳川泰久氏がその論文﹁失われた冥府 あるいは村上春樹における︿喩﹀の場処﹂
︵﹃ユリイカ 総特集・村上春樹の世界﹄1989年6月︶が﹃ピンボール﹄から﹃ノルウェイの森﹄までの
比喩について特筆すべき研究を行なっている。比喩によって﹁テクストの︿ここ﹀から途方もなくかけはな
れた冥府との間に予想外の親近性を帯びてしまう点にある﹂︵28頁︶という指摘は本稿が考えている比喩の
1
問題を別の視点から捉えている。また、芳川氏は﹁︿喩﹀のほうが現実感をもちはじめる振れた場所。それが
冥府の言語空間にほかならない﹂︵29頁︶と比喩が﹁冥府﹂を呼び寄せるという論を展開するがこれについ
ー
ては一考を要するだろう。﹁直子﹂は冥府にいるわけではない。﹁僕﹂は﹁直子﹂の﹁残余﹂を現実に感じ続
けているのである。
注48、前掲注32、57頁。
注49、この﹁孤独な消耗﹂はハートフイールドの﹁孤独な闘い﹂に通じるものがある。
注50、このことについては石倉美智子氏がその論文﹁村上春樹の比喩についてー﹃1973年のピンボール﹄を
中心にi﹂︵﹃文研論集﹄1994年3月︶で指摘しているが、示唆するに留まっている。本稿では、﹁冷蔵庫﹂
と﹁冷凍倉庫﹂の違いとして、温度と大きさを挙げたが、このことを突き詰めれば、﹁僕﹂は﹁僕﹂の奥底に
比喩のカを借りて降りたとき、そこには﹁それぞれの夢﹂を描く他者がいるということになる。また、﹁冷凍
倉庫﹂は鶏の保存という本来の目的とは別の目的で使われている。このことは後に触れる、注52の﹁ピンボ
ール﹂からペイアウトの口が消えるということとも関連して、大きな意味を持っている。
注51、柄谷行人氏は前掲注45の論文中で﹁この﹁対話﹂︵ピンボール・マシーンとの対話︶は、いうまでもなく
自己対話︵モノローグ︶である。﹁彼女﹂は﹁直子﹂のような他者ではない。すなわち、﹁僕﹂を限定してし
まう者ではない。﹁僕﹂のマシーンヘの愛は、自己愛にほかならない﹂︵餌頁︶と指摘するが、この対話が、
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単純な自己対話でないことは、小説中に示されている。例えばこの対話が行われる場所は、﹁僕﹂にとって
﹁寒すぎる﹂場所である。この場所は﹁僕﹂にとっても追い詰められている場所なのである。また、﹁僕﹂が
会話する﹁スペースシップ﹂は、他の七十七台の﹁ピンボール・マシーン﹂では代替の利かないモノである
ことは先に触れた。﹁僕﹂は﹁スペースシップ﹂に宿った﹁残余﹂を確かめているのであり、それは﹁直子﹂
との関係性の中で培われたものなのである。
注52、前掲注29、33頁。ちなみに、この記述はコラムとして書かれており、そのコラムには﹁織田﹂という著名
がある。
これに関連して、もう一度﹁冷凍倉庫﹂に触れてみよう。注49では﹁冷凍倉庫﹂が本来の目的で使われて
いないと指摘したが、そのことは﹁スペースシップ﹂が、ペイアゥトの口︵それは貨幣交換の体系につなが
っている︶が消えてしまった﹁ピンボール・マシーン﹂とともに示唆的である。なぜなら、﹁本来の目的﹂と
は、固定化されてしまっている体系の中に位置づけられているからである。固定化されている体系に従う限
り、﹁残余﹂は取り落とされるのであり、﹁冷凍倉庫﹂の特殊な使用法は、﹃風1﹄の﹁冷蔵庫﹂が普通に食物
を保存していたことと比較すると、興味深い差である。
注53、前掲注45、慨頁。
注54、ここで﹁死んでいるのに死んでいない﹂と言うのは、三浦雅士氏がその著書﹃村上春樹と柴田元幸のもう
ひとつのアメリカ﹄︵新書館、2003年7月︶で次のように述べている意味で言っている。﹁いまこれを書
いている人問は存在すると同時に存在しないということだ。︵中略︶だからこそそれは、目時を越えて読まれ
うるのだ﹂︵73頁︶。﹁その昔、言葉を口にした瞬間、人類はなかばあの世に属することになった。そして、
2
文字を手にした瞬間、人類は完壁にあの世に属することになった。というよりこの世があの世になった。む
しろ、あの世になったからこそ、文学が発生し、歴史が発生したのだ﹂︵75頁︶。この二つの引用は、﹁残
2
80
余﹂が言葉に宿ることで意識化され、今、ここである現在以外の時間、空間のことについて人間が想像で
きるようになったことが語られている。このような思考は当然死者にも及ぶ。﹁残余﹂をある程度意識化でき
るようになった人間は、死者がもういないにもかかわらず、死者について考えることができるのである。
一行五〇字、一頁二〇行、一頁あたり一〇〇〇字、四〇〇字換算二〇〇枚。
五〇字×二〇行×八O頁÷四〇〇字“二〇〇枚。
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