...

見る/開く - ROSEリポジトリいばらき

by user

on
Category: Documents
1

views

Report

Comments

Transcript

見る/開く - ROSEリポジトリいばらき
ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
Title
Author(s)
Citation
Issue Date
URL
新しい社会運動における価値保守主義 : H. グルールとB.
シュプリングマンを題材に(1)
中田, 潤
茨城大学人文学部紀要. 社会科学論集(59): 35-56
2015-02-27
http://hdl.handle.net/10109/12109
Rights
このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属
します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。
お問合せ先
茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html
35
新しい社会運動における価値保守主義
H. グルールと B. シュプリングマンを題材に(1)
Wertkonservatismus in den Neuen Sozialen Bewegungen.
Herbert Gruhl und Baldur Springmann
Teil 1
中 田 潤
はじめに
策を犠牲にするということを意味しない」と
述べ、再び「価値保守主義」という概念に言
2012 年 10 月に、ドイツ連邦共和国史上
及している 3。シュレーダー政権期に環境大
最初の緑の党出身の市長がシュトゥットガ
臣であったトリティン(Jürgen Trittin)も「我々
ルトで誕生した 1。このフリッツ・クーン
は価値保守主義的であり、構造保守主義的
(Fritz Kuhn)市長誕生に際して、緑の党の
(strukturkonservativ)ではない」と、同様の
党首エズデミール(Cem Özdemir)は「クー
発言を同じ党大会で行っている 4。
ンの勝利は、我々緑の党が『価値保守主義
党勢としてこの時期上昇機運にあった緑の
(wertkonservativ)
』であることを示した。
[...]
党は、中道市民勢力の取り込みを目指し、そ
南東部における緑の党は、左派であり、政治
の戦略として「価値保守主義」という概念を
的な意味でリベラルであり、同時に価値保
前面に打ち出したのであるが 5、この価値保
守主義であると有権者に受け入れられた。そ
守主義という、我が国ではあまり聞き慣れな
れらは相互に矛盾するものではない」と述べ
い用語は、一体どのような政治理念を表現す
2
ている 。またその翌月にハノーファーで開
る概念なのであろうか?
催された党大会の開会演説で、エズデミール
価値保守主義(Wertkonservatismus)とは、
は「緑の党は保守政党である。それはまさに
社会民主党国会議員であったエルハルド・
価値保守主義という意味においてである。中
エップラー(Erhard Eppler)の著作『終わり
道路線支持者に党を開いたとしても、それは
か転換か』(1975)の中で初めて提起され
[緑の党がこれまで主張してきた:中田]政
た概念であると言われている 6。エップラー
1
前年 5 月には、ドイツ連邦共和国最初の緑の党首班(ヴィンフリード・クレッチュマン(Winfried
Kretschmann))による州政府がバーデン=ヴュルテムブルク州に誕生していた。
2
„Grün heißt wertkonservativ“, in: Frankfurter Rundschau vom 22.10.2012.
3
„Der konservative Beat der Grünen“, in: Zeit vom 17.11.2012.
4
„Die Suche nach neuen alten Werten“, in: Tagesspiegel vom 18.11.2012.
5
CDU が同様のロジックで市民勢力を取り込む可能性について以下を参照。Hildebrand, Daniel: „Herbert
Gruhl und die ökologische Protestbewegung“, in: Historisch-Politische Mitteilungen, 10/2003, S. 325-332. ここで
は S. 329.
6
Euchner, Walter; Grebing, Helga: Geschichte der sozialen Ideen in Deutschland: Sozialismus - katholische
Soziallehre - protestantische Sozialethik. Ein Handbuch, Wiesbaden 2005.
36
茨城大学人文学部紀要 社会科学論集
は、自然の保護・人文主義・連帯を重視する
の党の創設期において、いわゆる新左翼の流
人々の共同体の維持、そして個々人の価値と
れをくむグループは、党内での主導権を握る
尊厳の維持に取り組む政治姿勢を価値保守主
ために、価値保守主義勢力をナチズムと同列
義と呼び、こうした政治姿勢は、上記の価
視する戦術を採用した。当時の多くのジャー
値の「維持」に大きな関心を払うが故に「保
ナリズムが彼らの言説を受け入れていったこ
守」という名称が冠せられるべきなのであっ
とにより、価値保守主義と構造的保守主義の
た。またこうした価値の維持のために既存の
間にある相違は、意識の背景へ退いていくこ
支配構造の変革が必要ならば、それを厭わ
とになった。
7
ない立場であることも強調されていた 。こ
他方 CDU/CSU というエップラーの議論で
の価値保守主義に対して、連邦共和国にお
いう構造保守主義陣営の側も、緑の党という
けるいわゆる保守主義陣営は「構造保守主義
新たな政治勢力の出現に際して、彼らを政治
(Strukturkonservatismus)
」と呼ぶべきである
的に信頼するに値しない「左翼」勢力と見な
とし、彼らの関心は、現存する支配構造や権
すという戦術をとることによって、価値保守
力構造、そして彼らの特権の維持であり、そ
主義という政治理念の存在を半ば意図的に見
8
の意味で彼らは保守的なのであった 。
落とした。
このエップラーの説明から明らかなように、
近年の緑の党内の議論とそれにともなう政
価値保守主義と構造保守主義は、双方とも保
策転換は、まさにこの価値保守主義が持つ市
守主義という名称を関しながらも、維持すべ
民への訴求力を再発見した結果でもあった。
き価値内容について両者の間には本質的な相
またそれは実は緑の党を成立させてきた原点
違が存在していた。それにもかかわらず、今
の価値への部分的な回帰という性格も持って
日においてさえ大きな影響力をなお保持して
いた。
いる、左派・右派という一次元的政治思考様
そこで本稿では、緑の党の成立期に焦点を
式に妨げられて、その両者の間にある相違は、
当て、そこにおける価値保守主義的潮流の存
9
これまで十分認識されてこなかった 。さら
在の指摘し、その上でその実態を再構成する
に 70 年代末から 80 年代初頭にかけての緑
ことを目指す。その際に、創設期の緑の党に
7
Eppler, Erhard: Ende oder Wende von der Machbarkeit des Notwendigen, Stuttgart [u.a.] 1975.
8
Ebd.
9
例えばフランクフルターアルゲマイネ紙は、価値保守主義的潮流を代表する政党といえる「緑の行動・
未来(Grüne Aktion Zukunft: GAZ)」の設立を取り上げた記事の中で、この政党を「保守的」であると
性格づけつつも、その保守性とは「あらゆる急進主義との決別と体制内改革性にある」と述べている。
この論調は明らかに価値保守主義の性格を捉え損なっている。„Die Grünen - zwischen Bürgerinitiative
und Partei“, in: Frankfurter Allgeimeine Zeitung(以下 FAZ と略す)vom 11.8.1978. また GAZ の結党直後
にグルールの講演を聞いたある新聞記者は、
「彼の議論をよく聞けば聞くほど、これまで普通に使われ
てきた「右派」と「左派」という区分は相応しくないと感じた」と印象を述べている。ここからも「価
値保守主義」がこれまでのイデオロギー軸に位置づけられないことが漠然と意識されながらも、それを
適切に政治空間に位置づける言説が確立していなかったことがわかる。„Politiker warnt vor übermäßigem
Wirtschaftswachstum“, in: Passauer Neue Presse vom 13.7.1978: Archiv Grünes Gedächtnis der Heinrich-BöllStiftung( 以 下 AGG と 略 す )
:G.01 - FU Berlin, Spezialarchiv „Die Grünen“, 659 Bunte/Alternative Listen,
Parteigründung der Grünen und Konflikt mit Gruhl Band 1.
中田:新しい社会運動における価値保守主義 H. グルールと B. シュプリングマンを題材に(1)
おける価値保守主義を代表する2人の人物に
10
焦点を当ていく 。
37
振る舞いに嫌気がさし、翌 34 年には早くも
脱退している。当地の農業専門学校に 1936
年から通い始め、それと同時に両親が経営す
る農場で働くようになる。しかしながら第二
1.ヘルベルト・グルール
(Herbert Gruhl 1921-1993)
次世界大戦勃発後の 1941 年3月4日、国防
軍に招集されたことによって学業は中断され
る。翌年 12 月にすでに招集されていた兄の
生い立ち
ヴァルターがロシア戦線で戦死し、ヘルベ
価値保守主義を思想面で、またその政治的
ルトも 1945 年1月にアメリカ軍の捕虜とな
実現のための行動の側面において代表してき
る。ドイツの敗戦後もグルールは、ベルギー
た人物をまず一人とり上げるとするならば、
にあるドイツ軍捕虜収容所に収容されていた
それはヘルベルト・グルールであろう。
が、同年6月に脱走を企て故郷のグナウシュ
彼 は 1921 年 10 月 22 日 に、 バ ウ ツ ェ
ヴィッツに戻った 12。
ン(Bauzen)近郊の村グナウシュヴィッツ
1947 年3月よりグルールは戦争によって
(Gnauschwitz)で、母へレーネと父マックス
中断していた学業を再開する。バウツェン
の間にもうけられた4人の子供の末っ子とし
にある高等学校(Oberschule)においてアビ
て生まれた。両親はこの地で農場を経営して
トゥーアを取得し、同年 11 月にフンボルト
いた。グルール一家は、ドイツ南東部に居住
大学哲学部に入学する。専攻はドイツ学、英
する少数民族であるソルブ人であり、家庭内
語学、哲学および歴史学であった。その後
では日常的にソルブ語とドイツ語が使われて
アメリカ軍占領地区にベルリン自由大学が新
いた。またグルール家は、ルター派のプロテ
設されると、こちらの講義にも参加するよう
11
スタントであった 。
になり、1948 年夏学期からは、正式ベルリ
1933 年にナチスが政権を掌握すると、ヘ
ン自由大学に所属を変更する。1957 年には、
ルベルトも他の多くの少年と同様にユンク
ホフマンスタールに関する論文で博士号を取
フォルクに加入するが、そこでの上級者達の
得するが、その間にマリアンネ・キースリッ
10 ドイツにおける価値保守主義を含むエコロジー思想の源流は、20 世紀初頭に遡ることができる。そ
の意味で、価値保守主義を議論するためには、20 世紀前半、とりわけナチズム期における環境問題
の議論についても目配りしておく必要があるが、紙幅の関係上、本稿では論じない。その問題は稿を
改めて論じる予定であるが、20 世紀前半についてはとりあえず以下を参照。小野清美『アウトバー
ンとナチズム 景観エコロジーの誕生』ミネルヴァ書房 2013 年。藤原辰史『ナチス・ドイツの有機
農業「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」
』柏書房 2005 年。Linse, Ulrich: Ökopax und Anarchie.
Eine Geschichte der ökologischen Bewegungen in Deutschland, München 1986( 内 田 俊 一 他 訳『 生 態 平
和とアナーキー ドイツにおけるエコロジー運動の歴史』法政大学出版局 1990 年)。Uekötter, Frank:
Umweltgeschichte im 19. und 20. Jahrhundert, München 2007(服部伸他訳『ドイツ環境史 エコロジー時
代の途上で』昭和堂 2014 年)。
11 Kempf, Volker: Herbert Gruhl. Pionier der Umweltsoziologie. Im Spannungsfeld von wissenschaftlicher
Erkenntnis und politischer Realität, Graz 2008, S. 23-27 und 331. 以下の記事にも彼のキャリアが短く紹介
されている。„Stocknüchterner Protest“, in: FAZ vom 7.8.1978.
12 Kempf: Herbert Gruhl, S. 26f. und 331.
38
茨城大学人文学部紀要 社会科学論集
ヒ(Marianne Kießlich)と結婚し、その三年
民主党・自由民主党連立政権が成立すること
後の 1954 年秋に、長男のアンドレアスが誕
になる、この 1969 年の選挙では、CDU は得
生している。博士号取得後、グルールは事務
票率を減らしていた。それゆえに候補者順位
用機器を取り扱う業者に職を得るが、その関
19 位(ニーダーザクセン)であったグルール
係で 1958 年にハノーファー近郊のバーリン
本人自身も当選の可能性は低いと考えていた
13
グハウゼン(Baringhausen)に居を移す 。
が、結果的には初当選を果たした 16。
キリスト教民主同盟へ
環境問題への関与
後にキリスト教民主同盟(以下 CDU と略
グルールがいかなる時点で、環境問題に強
す)に所属する政治家として活躍していくこ
い関心を寄せるに至ったのかという点を明ら
とになるグルールであるが、CDU との出会い
かにすることは、実はそれほど容易なことで
は比較的遅かった。彼自身の回想によれば、
はない。教養市民層と自然保護に関する歴史
1953 年にベルリンで開催されていた党の集
的関係に目を向けて見ると、その辺の事情が
会への参加が CDU との最初の接触であった。
見えてくる。すでにリンゼらの研究によって
しかしながら彼の政党政治への関与は、その
明らかにされているように、ドイツの教養市
後、急速に積極的なものとなっていく。例え
民層は、すでに 20 世紀への世紀転換期より、
ば、最初の政治集会参加の翌年グルールはす
時期によってその力点・ニュアンスの違いこ
でに CDU に入党(ベルリン・ヴァンゼー支
そあれ、産業社会化の進展に対して、自然に
部)しているし、その後の積極的な党活動が
対するロマン主義に依拠しながら一貫して警
評価され、ほどなくベルリン・ツェーレンド
鐘をならし続けてきた社会集団であった 17。
14
ルフ支部の支部長に就任している 。また前
また看過できない相違は当然のことながら存
述のように、職場の関係で 1958 年からバー
在するものの、現代的環境政策とこの自然保
リングハウゼンに転居していたが、そこでも
護運動の間には明確な連続性が存在してい
CDU での活動は継続し、1961 年に当地の町
る。またグルールが教養市民層の末裔と呼ん
会議員に初当選している。その後 1964 年に
で差し支えないようなハビトゥスを備えた人
は、CDU 町議会議員団長に、翌年にはハノー
物であることを考える時、彼自身が自ら意識
ファー郡(Landkreis Hannover)の党支部長に
する以上に、彼の行動・志向様式は、環境問
15
就任(1974 年まで在任)している 。こうし
題への関心によって規定されてきたと言える
た党内でのキャリアの上昇を背景に、1967 年
かも知れない。実際彼は、自伝の中で、自ら
に実施されたニーダーザクセン州議議員選挙
の農村的な出自が影響して、住宅建設・道路
に際し、候補者に擁立されるがこの時は落選
建設といった経済成長に伴う急激な開発に対
している。それにも関わらずその 2 年後には、
して、すでに 1960 年代前半より強い違和感
今度は連邦議会議員選挙の候補者として擁立
を持っていたことを告白している 18。
される。ヴィリー・ブラント首班による社会
こうした本人には無自覚な、教養市民層の
13 Ebenda, S. 28f. und 332.
14 Ebenda, S. 93.
15 Kempf: Herbert, S. 94.
16 Gruhl, Herbert: Überleben ist alles. Erinnerungen, München [u.a.] 1987, S. 155; Kempf: Herbert Gruhl, S. 102.
17 Linse, Ulrich: Ökopax und Anarchie.
中田:新しい社会運動における価値保守主義 H. グルールと B. シュプリングマンを題材に(1)
39
伝統の継承の側面は別として、グルールが、
たいのは、「クリーン」なエネルギー源とし
メディアを通して意識的かつ明確に環境問題
ての電力についての当時のグルールの理解
について初めて発言を行ったのは、1970 年
である。電力そのものはクリーンなエネル
9 月 8 日の『ヴェルト』
紙上においてであった。
ギーだとしても、その生産のために環境に負
「産業界への要求 環境保護は生産に優先さ
荷をかける化石燃料が使用されていた。グ
れなければならない」と題されたこの論考の
ルールによれば、この問題を回避する方策は
中で、グルールは「未来に対して我々が考察
結局原子力の利用であった。「放射性廃棄物
する際に、その基礎に置かれなければならな
を危険のない形で除去することが可能になる
いのは、生活と環境の相互関係の学、つまり
ならば」、原子力によって化石燃料からの完
エコロジーである」と述べている。具体的に
全な脱却が可能になる、という彼の発言は、
はワンウェイボトルと廃棄物の処分の問題を
1970 年時点では後年と異なり、なお彼が原
挙げながら、これまでの経済優先の思考様式
子力に対して楽観的な展望を持っていたこと
からの転換を訴える。またこうした抜本的な
を示している 20。
変化をもたらす政策は「全ての社会領域」に
ともかく前述のようにグルールは 1969 年
おいて着手されなければならず、それが結果
末以来連邦議会議員となっており、著作や論
的に経済成長の速度の鈍化、もしくはその減
説といった手段と並んで、政治家という立
退をもたらすものであるとしてでもある。ま
場で、積極的に環境問題に取り組んでいく。
たグルールにとって、こうした政策は科学技
その組織的な拠り所となったのは、1970 年
術と敵対するものではなかった。具体的には
4 月 に CDU/CSU 国 会 議 員 団 内 に 設 立 さ れ
モータリゼーションを例に挙げながら、こう
た「ワーキンググループ『環境への配慮』
した自動車を中心とした社会からの後戻りは
(Arbeitsgruppe für Umweltvorsorge)
」
であった。
現実的ではなく、むしろ環境を汚染する化石
当時 CDU/CSU 内において、環境問題につい
燃料に依存しない動力源(具体的には電力)
て相応の知識を持ち合わせていた議員はおら
の開発とそれに至までの経過措置として、環
ず 21、このワーキンググループ内において、
境汚染を軽減する技術開発の積極化を主張す
グルールは、早々にリーダーシップを発揮し
る。さらにこうした措置を法的に後押しする
ていくことになる。
ための「基本法の改正の必要性」を主張して
ま た SPD 首 班 の 連 邦 政 府 は、 こ の 当 時
19
いた 。すでにこの論考において、彼の後年
環境問題に組織的に取り組み始めてきてい
の主張の基本的な骨子はほぼ全て展開されて
た。野党であった CDU/CSU もこれに対抗す
いる。
るために、翌 71 年には経済構造専門委員会
しかしながら一点だけここで指摘しておき
(Bundesfachausschuß für Strukturpolitik) 内 に
18 Gruhl: Überleben ist alles, S. 148f.
19 „Forderung an die Industrie. Umweltschutz muß Vorrang vor Produktionserfolg haben“, in: Die WELT, Nr. 208
vom 8.9.1970, S. 7.
20 Ebenda.
21 カール・ベッヒャルト(Karl Bechert)、エルハルド・エップラーといった例外はあったものの SPD/
FDP においても、状況はそれほど異なるものではなかった。なおベッヒャルトの業績および彼につい
ての史料の所蔵状況については、緑の党文書館のクリストフ・ベッカー=シャウム氏より多くの情報
を提供して頂いた。この場を借りて御礼を申し上げる。
40
茨城大学人文学部紀要 社会科学論集
環境問題小委員会(Unterausschuß für Umwelt-
帯を設置するべきである 25。
fragen)を設置し、その委員長にグルールを
任命した。この委員会の当座の最大の任務は、
プログラムのこの一節からグルールの基本
1972 年に予定されている連邦議会選挙に向
的理念である「経済成長ならびに進歩信仰に
けて、CDU/CSU の環境問題に関するマニュ
対する疑念」を明確に読み取ることができる。
22
フェストを作成することであった 。この小
また「CDU は、連邦および州の自然保護を
委員会の活動の成果は、1972 年 10 月 27 日
目的とする市民組織(Verbände)に対して、
に 23 ページからなる「環境への配慮のため
強力な共同決定権および監査機能を認めるつ
の CDU プ ロ グ ラ ム 72(Programm der CDU
もりである」とも述べられていた 26。1990
」として発表された。
für Umweltvorsorge ‘72)
年代に入り多くの連邦州でこうした法整備が
このプログラムは、事実上の起草者であった
なされたことを考えると、この提言は、現実
グルールとならんで、リヒアルト・フォン・
に約 30 年先んじていた。その他水質保全・
ヴァイツゼッカー(Richard von Weizsäcker)
大気浄化等に関する提言が盛り込まれたこの
によってプレス発表されたが、それは来る戦
プログラムは、環境問題を全ての政策レベル
選挙で CDU が勝利した暁には、彼が環境問
において配慮するという意味において、その
題担当大臣に就任することが予定されていた
後の連邦共和国の環境政策の基本的な方針を
23
という事情に由来していた 。
先取りするものと言えた 27。
このプログラムによって、グルールの環境
に対する認識は、CDU の公式の政策として
オイルショックと CDU 内での冷遇
承認されるに至り、またそれにより彼は、環
しかしながら、1973 年に入ると、グルー
境問題に関する事実上の党スポークスマンの
ルの CDU 内での環境問題エキスパートとし
24
地位を獲得することになる 。
ての地位は揺らぎ始める。1971 年 5 月のド
イツ・マルクの一時的な固定相場制からの離
物質的な成功は、人間の生活条件を
脱に象徴された、いわゆるブレトン・ウッズ
徐々に損なってきている[...]未来の社
体制の揺らぎは、annus horribils(最悪の年)
会における人間の営みは、物質的な価値
である 1973 年に各国が本格的な変動相場制
よりもむしろより文化的な価値に向けら
に移行したことにより事実上崩壊を迎える。
れるべきである。
[...]これからの社会は、
それに加えて 1973 年 10 月の第 4 次中東戦
経済的な利用という観点からのみではな
争の勃発を期に生じたいわゆる「石油危機」
く、自然保護および土地保全という観点
により、連邦共和国を含めた西側先進諸国
から空間を見ていく視点を持つべきであ
で経済危機が深刻化した。例えば 1973 年に
る。
[...]人口密集地域では、保養そし
はなお 4.8%を維持していた連邦共和国の経
て大気・環境の浄化のために近郊に緑地
済成長率は翌年 0%へと下落し、失業者数は
22 Gruhl: Überleben ist alles, S. 152f.; Kempf: Herbert Gruhl, S. 103f.; Mende, Silke: Nicht rechts, nicht links,
sondern vorn. Eine Geschichte der Gründungsgrünen, München 2011, S. 77.
23 Gruhl: Überleben ist alles, S. 153.; Kempf: Herbert Gruhl, S. 118-120.
24 Gruhl: Überleben ist alles, S. 169f.
25 Kempf: Herbert Gruhl, S. 121f.
26 Ebenda.
中田:新しい社会運動における価値保守主義 H. グルールと B. シュプリングマンを題材に(1)
41
1974 年には 100 万人を超えるに至った 28。
結果、グルールは次第に党内で孤立していく
こうした当時の人々にも実感されていた「時
ことになる 32。
代の転換(Trendwende)
」に対して、西ドイ
こうしたグルールの姿勢が CDU/CSU 指導
ツ社会のコンセンサスの中心的部分を担って
部との間で初めて明確な軋轢を引き起こした
きた既成の政党は、そのコンセンサスの核心
のは、党連邦議会議員団長であったカール・
部分を成す「経済成長」の回復に対する諸策
カールステン(Karl Carsten)との間で 1973
へと関心を集中していき、結果的に環境問題
年 7 月に行われた会談の場であった。この会
29
への関心は後退していく 。例えば 1975 年
談のためにグルールは 12 ページからなる文
6 月にマンハイム党大会で採択された CDU
書を作成し、CDU/CSU が今後取り組むべき
の戦略的活動方針では、経済成長の安定的維
環境政策について、カールステンに持論を展
持が最重要課題とされていた 30。
開した。その主張は、以下の 3 点に要約する
しかしながら、こうした政党政治レベルで
ことができた。1.成長を前提とする社会のあ
の関心の変化とは対照的に、グルールは一貫
り方は、重要な資源の枯渇という要素も考慮
して環境政策の重要性を唱え続け、また環境
に入れると、今後 100 年間に壊滅的な帰結を
への影響という観点から原子力発電所の増設
もたらすこと 33。2.枯渇する可能性のある化
に対する懸念を明確に主張し始める 31。その
石燃料に代わるエネルギー源として最重視さ
27 1972 年の連邦議会選挙で CDU は前回よりもさらに 1.2%得票率を減らし、連邦共和国史上初めて議
会第一党の地位を SPD に譲り渡した。しかしながらグルールが立候補していた選挙区(ハノーファー
III)における CDU 得票数は減少しなかった。グルールはこれを自らの環境問題への取り組みが有権者
に評価された結果であると分析している。Gruhl: Überleben ist alles, S. 153. ただし原子力発電について
は、このプログラムでは以下のように述べられている。「交通と暖房の領域において、電力需要がさら
に増大するならば、電力の生産もこれまで以上に増強されなければならない。この目標を達成するた
めには、原子力に依存する以外に手段は残されていない。放射線および放射性廃棄物の問題は、現在
の研究水準では統制可能である」Programm der CDU für Umweltvorsorge '72, S. 17. グルールがこの時点
で準備中(1975 年に出版)の著作『収奪された地球』の中で明白に原子力発電に対して批判的な姿勢
を示している時、このプログラムが示す原子力発電容認は、党内での反発に対する一定の妥協を示す
ものといえた。Kempf: Herbert Gruhl, S. 123.
28 Rödder, Andreas: Die Bundesrepublik Deutschland 1969-1990, München 2004, S. 64; Wolfrum, Edgar: Die
geglückte Demokratie. Geschichte der Bundesrepublik Deutschland von ihren Anfängen bis zur Gegenwart,
Stuttgart 2006, S. 321f., 327f. und 335.
29 環境立法にこだわり続けるグルールに対して、ある FDP 議員が「あなたは現在の経済危機について何
の関心もないのか ? 今は別な問題がより重要なのである」と「諭された」エピソードを紹介している。
Gruhl: Üerleben ist alles, S. 169.
30 Kunz, Rainer [u.a.]: Programme der politischen Parteien in der Bundesrepublik Deutschland, München 1979, S. 64.
31 例えば 1975 年 3 月 14 日の連邦議会における演説の中で、グルールは原子力発電所の増設計画に対す
る懸念を明確に表明していた。彼はその根拠の一つとして政府の計画と市民の意思の乖離を指摘する
が、そこにはこの時期激しく展開していたヴィール(Wyhl)での原発建設反対運動が念頭にあった。
Stenographischer Bericht des Deutschen Bundestages, 156. Sitzung vom 14. März 1975, S. 10885-10887.
32 グルール自身も 1973 年頃よりこうした自己認識を持っていた。Gruhl: Überleben ist alles, S. 158.
42
茨城大学人文学部紀要 社会科学論集
れている原子力は、発電所から発生する廃熱
候補のナンバーワンと見なしていた。また当
の自然環境への影響、放射線被爆の問題、そ
時ドイツ工業連盟会長であったハンス = ギュ
して放射性廃棄物の処理の問題を考えた時、
ンター・ゾール(Hans-Günther Sohl)も同意
慎重になるべきであること。3.CDU/CSU は、
見であった 36。
自然環境を「保全する」という「保守的な理
こうした党内の水面下で進行していたグ
念」の体現に向けた機会をこれまで積極的に
ルールに対する引き下ろし工作とは対照的
利用してこなかった。それゆえに健全な環境
に、彼のこの時期、自らの環境問題に対する
を維持するための政策という論点を積極的に
考えを 3 つの形で明らかにしている。その
選挙キャンペーンで展開していくべきであり、
第一は、1976 年1月 22 日の連邦議会演説で
グルールが行ってきたこれまでの取り組みを
あった。この演説の中でグルールは、実際の
党執行部はより積極的に支持するべきである
電力需要は減少しているにもかかわらず、電
34
こと 。
力需要の増大という産業界の意向を受けた電
カールステンは、こうしたグルールの主張
力需要予測に基づき原子力発電所の増設を
に対し、環境問題を議題とした党所属議員に
進める連邦政府の姿勢を批判していた 37。そ
よる特別の会合を設定することを約束する
の第二は、1975 年 9 月に出版され、後にベ
が、実際には党内の、とりわけエネルギー政
ストセラーとなる著作『収奪された地球 策関係議員の反発を背景に、この約束を反故
「経済成長」の恐るべき決算』であり 38、最
にした 35。
後は翌 10 月に公表された、環境問題小委員
その後グルールは、党内での彼に対する風
会作成による「環境への配慮のための拡大構
当たりが、どれほど激しいものであるのかと
想 76(Erweiteres Konzept für Umweltvorsorge
いうことを、ある同僚議員から知らされる。
‘76)」であった。この「構想 76」は、ほぼ
その議員によれば、グルールは現在、経済政
全ての部分が委員長であったグルールによっ
策ならびにエネルギー関係の族議員達、そし
て執筆されており、来る 1976 年の連邦議会
て原子力関係の専門家達からの強い非難に晒
選挙における、CDU/CSU の環境政策の基本
されており、また CDU/CSU に強い影響力を
方針となるはずのものであった。そのため、
持つ産業界は、彼を「苦々しく」思っていた。
この文書は当時 CDU 幹事長であったクルト・
さらにこの産業界は、現在グルールの排除を
ビーデンコップ(Kurt Biedenkopf)に送付さ
画策しており、彼を再選させるべきではない
れていた 39。
33 この主張は、前年に発表されたいわゆるローマ・クラブによる第一報告書『成長の限界』に大きな影
響を受けていた。
34 Gruhl: Überleben ist alles, S. 164f.
35 Ebenda.
36 Ebenda, S. 184.
37 Stenographischer Bericht des Deutschen Bundestages, 215. Sitzung vom 22. Januar 1976, S. 14915f.; Kempf:
Herbert Gruhl, S. 130. またグルールは同様の趣旨の連邦議会での演説をその後も繰り返し行っている。
例えば以下の連邦議会議事録を参照。Stenographischer Bericht des Deutschen Bundestages, 31. Sitzung vom
15. Juni 1977, S. 2309-2311.
38 Gruhl, Herbert: Ein Planet wird geplündert. Die Schreckensbilanz unserer Politik, Frankfurt a.M. 1975(
他訳『収奪された地球「経済成長」の恐るべき決算』東京創元社 1984 年)。
村透
中田:新しい社会運動における価値保守主義 H. グルールと B. シュプリングマンを題材に(1)
43
グルールはこれと前後して、
『収奪された
う。2 月 26 日に開催された経済政策専門委
地球』および「構想 76」について協議すべく、
員会は、「構想 76」の「大幅な改善」が必要
1973 年に CDU 党首に就任していたヘルムー
である、という結論に達した。また党エネル
ト・コール(Helmut Kohl)に会談を申し入
ギー政策ワーキンググループでも「構想 76」
れるが、コールは多忙を理由にこれを断って
に対する反対論が大勢を占めた。とりわけそ
いる。グルールは、11 月に再度会談を申し
の批判の核心は、「構想 76」の中で述べられ
入れるが回答はなく、また「構想 76」に対
ている以下のような原子力利用に対する批判
する党執行部からの公式な反応もなかった。
的な姿勢であった。
こうしたコールならびにビーデンコップを
中心とする党執行部の態度に不信感を募らせ
原子力発電所が今後も建設される限
たグルールは、4 月 23 日にコールに書簡を
り、核燃料はさらに大量に[...]使用さ
40
送る 。その中で彼は、連邦議会選挙に向け
れることになる。その際に廃熱の利用が
た党執行部方針案が近々に決定されるという
なされなければならない[...]高速増殖
タイミングにおいて、自らの環境政策をその
炉ないし核融合炉がそれぞれ実用可能か
中に盛り込む機会を逸しないために、党執行
どうかは、なお見通しが立たない。少な
部が環境政策に対して方針を明確にすること
くとも未解決の問題は極めて大きく、そ
を要求した。強い口調の書簡の中で具体的要
れらに関する予測ならびにその時期につ
求として挙げられたのは、以下の 3 点であっ
いては、目下のところ不可能である 43。
た。1.CDU は来るべき選挙において、環境
政策ついてのプログラムを策定する意図があ
さらに経済政策専門委員会と経済構造専門
るのか明確にすること。2.経済政策専門委
委員会のメンバーからなるワーキンググルー
員会(Wirtschaftspolitischer Ausschuß)は、党
プが設置され、環境政策について検討がなさ
41
れる予定である。党としては、それゆえに党
が作成した法案を改変したり、ペンディング
内において一致して異論なく受け入れられる
にしたりする権限を有しているのか。そして
内容のみを、党の環境政策とし、その政策を
3.多くの時間を費やして作成された委員会
もって選挙戦に望む。そして最後に、環境政
での活動の成果に対して、党執行部が回答す
策に関する議論は、連邦議会選挙後に行うべ
ら寄せない状況を、委員会の一員として一体
きである、という要請がグルールに対してな
どのように理解すれば良いのか 42。
された 44。
こうしたグルールの強硬な姿勢に対して、
この返信は、グルールが立案した環境政策
コールは 5 月 16 日に、ビーデンコップは 5
は CDU/CSU 内の少数派の意見に過ぎず、と
月 11 日に、ほぼ同内容の回答を行っている。
りわけ原子力産業と利害関係が強い議員達の
その内容は以下のように要約できるであろ
反発により、党の方針としては採用しないと
の意思決定の構造上、経済構造専門委員会
39 Gruhl: Überleben ist alles, S. 182f.
40 この書簡の写しはビーデンコップにも送付された。
41 この委員会は、グルールが属していた環境問題小委員会の上部委員会であった。
42 Gruhl: Überleben ist alles, S. 182f.
43 CDU-Unterausschuß für Umweltvorsorge: Umweltvorsorge 1976, S. 11; Kempf: Herbert Gruhl, S. 126.
44 Gruhl: Überleben ist alles, S. 182f.
44
茨城大学人文学部紀要 社会科学論集
いうことを通告したものであった。グルール
の互選による委員長選出において、原子力産
は、この回答に対し「CDU が今回の連邦議
業とも関連の深い化学系企業から議員に転身
会選挙において、環境問題についてメッセー
したばかりであったハインツ・リーゼンフー
ジを発信する意図がないということは、私に
バー(Heinz Riesenhuber)が選ばれた。さら
とっては驚くべきことである。我が党指導部
に副委員長選においてもグルールは選出され
は、有権者がこの問題をどれほど重要視して
ず、やはり産業界系の議員であるルードヴィ
いるのかという点を、明らかに認識していな
ヒ・ゲルシュタイン(Ludwig Gerstein)が選
い」と反論しながら、他方で産業界が CDU
出された 47。
に与える影響力の強さを痛感したと回想して
いる 45。
新たな環境政党へ
こうした党中央からの冷遇にも関わらず、
グルールはこの時点で党内において完全に
ニーダーザクセン党支部においては、ベスト
孤立しているという感覚を持っていたと回想
セラー書『収奪された地球』の著者としてす
しているが 48、同時に著作の予想外のドイツ
46
でに揺るぎない地位を獲得しており 、党支
社会における反響に刺激され、新たな政党を
部内では圧倒的な支持を得て、1976 年 10 月
結成することを通して、自らの環境に対する
の連邦議会選挙で三選を果たす。
理念を政治的に実現する道を模索し始めるよ
しかしながら CDU 内部では、選挙後、グ
うになる。例えば後にヘッセンにおける緑の
ルールの影響力を排除する措置がさらに進
党の結党に際して中心的な役割を演じたカー
められる。コールは、グルールの党内での
ル・カーシュゲンス(Karl Kerschgens)は、
組織的な拠り所となっていた環境問題小委
既存の政党が大量消費・廃棄社会という危機
員会をエネルギーおよび環境専門委員会
に対して何ら解決策を持ち合わせていないこ
(Bundesfachausschuß für Energie und Umwelt)
と。それゆえにグルールが新たな政党を結成
に改組することを決定する。この委員会は州
するべきであることを提案していた 49。この
の党支部からそれぞれ 2 名、総数 16 名の委
提案に対して、グルールは著作の反響で様子
員によって構成されることになっていたが、
を見たいと態度を保留しつつも、新党結成を
その圧倒的多数は、主としてエネルギー問題
明確に否定してはいない 50。そうは言いつつ
に携わってきた議員であった。ベルリン、ハ
も、1977 年一杯は CDU 党員として自らの構
ンブルク、バーデン・ヴュルテムベルクから
想する環境政策を実現する可能性を完全には
各 1 名、そしてニーダーザクセン代表のグ
捨て去ってはいなかったようであり、例えば
ルールの計 4 名のみがこれまで環境問題に
後述する新党「緑のリスト・環境保護(Grüne
主に取り組んできた議員であった。また委員
Liste Umweltschutz: GLU)」 か ら 立 候 補 の 要
45 1979 年 5 月 19 日付けコール宛書簡。Kempf: Herbert Gruhl, S. 127.
46 同書は 1976 年の発行部数 1 位、1978 年初頭までに 20 万部発行された。Gruhl: Überleben ist alles, S. 190.
47 Ebenda, S. 187-188; Kempf: Herbert Gruhl, S. 128.
48 Gruhl: Überleben ist alles, S. 189.
49 Schreiben von Karl Kerschgens an Herbert Gruhl zur Mitgliedschaft im Bund für Umwelt und Naturschutz,
BUND vom 18.2.1976: AGG: A-Karl Kerschgens, Nr. 1 BUND-Mitgliedschaft 1976-1978.
50 Antwortschreiben von Herbert Gruhl an Karl Kerschgens vom 20.2.1976: AGG: A-Karl Kerschgens, Nr. 1
BUND-Mitgliedschaft 1976-1978.
中田:新しい社会運動における価値保守主義 H. グルールと B. シュプリングマンを題材に(1)
請があった際にも、CDU に対する忠誠を理
51
45
他方、新党「緑の行動・未来」の結党の準
由に申し出を断っていた 。
備も整い、すでにこの時点でグルールの離党
しかしながら 1978 年に入ると、グルール
の意思は固かったが、まさにこの時点になっ
の意識は環境問題に特化した新たな政党を結
て CDU 執行部はグルールの慰留に乗り出し
成する方向に大きく傾いていった。そこには、
てくる。コールはグルールとの会談を申し入
1977 年からドイツ各地に「環境政党」が乱
れたが、グルールは前述の環境問題小委員会
立し始めていたこと、またこうした政党が自
の解散に際して、グルールの側からコールと
治体・州議会選挙において、相応の成功を収
の会談を申し入れたにも関わらず、無視され
めていたこと、そしてこうした動きに遅れを
たことを指摘し、双方の時間の浪費を防ぐた
とることにより、政党政治空間における主導
めに、党執行部の側が本質的と考える問題を
権を失う可能性があること、さら次期の連邦
文書化して送付することを要請した。コール
議会選挙(1980 年)への準備期間を考えた時、
はこうした文書を送付することはせず 55、と
この時期に新党結成が必要であるといった考
もかく8月中の会談を求めた。しかしながら
慮が働いていた 52。
こうしたやり取りの間に、グルールは 7 月
こうしたグルールの動きを、メディアの側
11 日に「緑の行動・未来」の結党をプレス
も察知し、1978 年 6 月 13 日にテレビ番組
「レ
に発表し、同時に CDU からの離党を宣言し
ポート」は、グルールとの単独インタビュー
たことによって、会談は実現しなかった 56。
を行う。その中で彼は新党結成とその党首へ
この後グルールは新たな環境政党を通し
の就任の意向について尋ねられたが、否定
て、自らの理念を実現することを目指してい
しなかった。このことが、CDU の側の反発
く。
を引き起こす 53。CDU ニーダーザクセン州
支部長であるヴィルフリード・ハッセルマン
(Wilfried Hasselmann)は、テレビ放送の翌日
にグルールに書簡を送り、7 月 1 日を期限に
2.バルドゥール・シュプリングマン
(Baldur Springmann 1912-2003)
党からの離脱の有無を表明するように迫っ
た。グルールはこの要求を無視するが、他方
グルールが、自らの著作を通して、主とし
ハッセルマンも州党幹部会でこの行動を非難
て理論面において、また環境問題について発
され、この「最後通告」では離党問題は決着
言し続けるメディアにおける著名人として公
しなかった 54。
共空間に影響を及ぼしてきた 57。それに対し
51 Gruhl: Überleben ist alles, S. 192.
52 Ebenda, S. 197-199.
53 Kempf: Herbert Gruhl, S. 139-140.
54 Ebenda; Gruhl: Überleben ist alles, S. 194f.
55 少なくともグルールのナハラスには、その返信は収められてない。Archiv für Christlich-Demokratische
Politik: 01-699 Nachlaß Gruhl, Herbert.
56 Gruhl: Überleben ist alles, S. 194f.; Kempf: Herbert Gruhl, S. 139f.
57 筆者は 2014 年 8 月 27 日にリューネブルクにおける緑の党結成に際して中心的な役割を果たしたゲル
ト・ヴィーンケ氏に対してインタヴューを行った。氏は 1970 年代末に各地で自生的に成立していた市
民運動が、共通してグルールの著作を題材に環境問題に対する知識を深めていた状況を指摘していた。
46
茨城大学人文学部紀要 社会科学論集
て、次に検討していくバルドゥール・シュプ
の息子が、農業労働者として農場で働くとい
リングマンは、グルールと並ぶ価値保守主義
うことは、当時極めて珍しく、恐らく周囲の
者の代表と言えるが、グルールとは対照的に、
勧めもあってその後大学に進学する。1933
自らの生き方そのものでそれを体現してきた
年の冬学期にミュンスター大学に登録する
人物であった 58。
が、講義そのものに対しては全く興味を持て
なかったようであり、もっぱら「友との出会
生い立ち
い」に多くの時間を費やしていたようであっ
シュプリングマンは、1912 年5月 31 日に
た 61。翌 1934 年の夏学期には、ダンチヒ大
ルール地方の工業都市ハーゲン(Hagen)の
学に移籍したが、そこでの学業への取り組
工場主の息子として生まれる。彼この地で幼
みは、本人の回想によれば「前の学期よりも
少期を過ごすが、後年の回想によれば、この
さらに授業に出なくなる」という状態であっ
工業集積地域の環境に対して極めてネガティ
た。後述するように、彼のダンチヒ時代の大
ブな印象を抱いており、この地を出て将来農
学生活の多くの時間は「闇国防軍(Schwarze
民になることを夢見ていたという 59。
Reichswehr)」での訓練に費やされていた 62。
実際彼はアビトゥーア取得後、農業用機械
第 4 学期目である 1935 年の夏学期には、
の操作の習得のための訓練を受け、その後実
さらにゲッティンゲン大学に移籍するが 63、
際に農業に従事するようになる。縁故を頼り、
ここで彼の人生に大きな転機が訪れる。ノイ
ポムメルン州ヤネヴィッツ(Groß Jannewitz
エンハーゲン(Neuenhagen)にある知人の農
)にあったオステン
(現 Nowa Wieś Lęborska)
場が破産し、
シュプリングマンが望むならば、
伯爵(Graf von der Osten)の農場で働き始め
比較的安価にこの農場を譲り受けることがで
るが、そこで知己となったマッケンゼン元帥
きるという知らせが彼のもとに届く 64。明ら
の推薦で、ブックスフーデ近郊のアーペンゼ
かに学生生活に満足していなかった彼は、こ
60
ン(Apensen bei Buxhude)の農場に移った 。
の話に早速飛びつき、農場取得のための様々
本人の希望が、農民になることであったと
な手続きや農場内の建物の改築等のために、
は言え、アビトゥーアを取得した企業経営者
ノイエンハーゲンとゲッティンゲンの間を頻
58 「自分の生き方そのものを人々に問いかける」と彼はインタビューの中で述べている。„Wir sind keine
Knallköpfe. Spaziergänge mit Prominenten: Baldur Springmann, Altbauer auf Hof Springe, Symbolfigur der
Grünen“, in: Zeit vom 8.6.1979; Mende: Nicht rechts, S. 246.
59 Mende: Nicht rechts, S. 244. また以下の史料にもシュプリングマンの経歴が短いながら記されている。
Brief von Werner Friske an Baldur Springmann von 16.3.1980: AGG: A-Gerald Häfner, Nr. 12 Interne grüne
Diskussion zu Kommunisten, Sozialisten, Freisoziale Union (FSU) und Grüne Aktion Zukunft (GAZ) 1979-1984.
60 Springmann, Baldur: Bauer mit Leib und Seele Bd. 1. Das weiße Wolkenschiff, Koblenz 1995, S. 11-20, 85 und
95: „Wir sind keine Knallköpfe“ [wie Anm. 58]. オステン伯爵は、ヴィルヘルム 2 世の副官を務めたマッ
ケンゼン(August von Mackensen)の孫であり、その関係でシュプリングマンはマッケンゼンの乗馬に
しばしば随伴していた。
61 Springmann: Das weiße Wolkenschiff, S. 132f.
62 Ebenda, S. 144f.
63 Ebenda, S. 146.
64 Ebenda, S. 156f.
中田:新しい社会運動における価値保守主義 H. グルールと B. シュプリングマンを題材に(1)
47
繁に行き来することになる。もっともこれに
した当時の報道は、多分に党内での主導権争
よって彼の学業は終わりを迎えたわけではな
いの手段としての側面があり、その政治的な
く、指導教員と話し合った結果、卒業論文の
意図に注意して取り扱う必要がある。そこで、
提出が許可され、シュプリングマンは 1936
ここでは彼自身の発言を中心に、彼の大戦間
年に農学士(Diplomlandwirt)の称号を得て
期・戦時期の経歴をもう一度たどってみる。
65
いる 。
彼 の 準 軍 事 団 体 と の 最 初 の 関 わ り は、
こうして 1936 年初頭からの彼の農場主
1931 年のグロース・ヤネヴィッツの農場時
としての生活が始まった。彼はこの約 50 ヘ
代にさかのぼる。彼はある日、自らが働く農
クタールの農場に「シュプリンゲ農場(Hof
場の経営者から、国境防衛隊の訓練に参加す
Springe)
」という名称を与えたが、それはノ
るよう誘われた。彼は、自らの通う訓練学校
ルドライン・ヴェストファーレンにかつて実
の教師の姿も見られたこうした活動に、「青
在した農場に由来しており、またここから
年運動におけるキャンプと同様の感覚」で参
シュプリングマンという名前が由来したから
加した。また自らが身につけた
「国境防衛隊」
であるとしている 66。
と書かれた緑の腕章が誇らしかったとも回想
している。しかしながら訓練が始まってみる
準軍事団体への関与
と、これが「木製の銃で『武装した』歩兵や
1936 年にようやく念願の農場を手に入れ
『大砲』と書かれた板を掲げた農作業用の車
たシュプリングマンであったが、農場主とし
両を牽引する『砲兵』が、国防軍に所属する
ての生活は 1940 年 5 月にドイツ海軍に招集
正規の下士官や将校によって指導される軍事
されたことによって中断する。彼は召集後
訓練」であること、そして彼らが「隊列を組
数ヶ月で、少尉としてキールの高射砲中隊の
んでポーランド国境に向けて進軍していくこ
67
中隊長(Batterieschef)に任命される 。つ
と」を知り「驚いた」という 68。
まり彼のドイツ軍内でのキャリアは、将校と
またほぼ同時期に、シュプリングマンは、
してスタートする訳であるが、そこには彼の
彼の働く農場の職員の一人が、SA の制服を
ヴァイマル期の準軍事団体との関わりが大き
身につけているのを目にするのであるが、こ
く影響していた。
れを「仮装行列に行く為に昔のオーストリア
1970 年代後半以降彼が、環境運動の活動
軍の制服を纏っているのであり、SA の制服
家として緑の党の設立過程における中心的人
であることを知らなかった」
と回想している。
物の一人としてメディアでの注目を集めるに
シュプリングマンは、自らの当時の「無知」
つれ、彼とナチズムとの組織的・思想的な関
は、彼が新聞というものを全く読まず、ドイ
わりが大きく報道されるようになった。こう
ツにおいて政治的に何が展開していたかにつ
65 このように述べると、彼の卒業論文は極めてぞんざいなものであったという印象を与えるが、実際に
は教授の論文に対する評価は極めて高かった。Ebenda, S. 164.
66 Springmann: Das weiße Wolkenschiff, S. 171.
67 Ebenda, S. 219.
68 Ebenda, S. 87-89. ま た ヴ ァ イ マ ル 共 和 制 期 の 国 境 防 衛 に つ い て は 以 下 の 文 献 を 参 照。Nakata, Jun:
Der Grenz- und Landesschutz in der Weimarer Republik 1918-1933. Die geheime Aufrüstung und die deutsche
Gesellschaft, Freiburg 2002; Bergien, Rüdiger: Die bellizistische Republik. Wehrkonsens und „Wehrhaftmachung“
in Deutschland 1918–1933, München 2012.
48
茨城大学人文学部紀要 社会科学論集
いて知識が全く欠如していたことに帰してい
69
しかしながら彼のこうした決意は、準軍事
る 。
団体との接触を断つという意味ではなかっ
彼は、一貫して自らのナイーブさや純朴さ
た。前述のように彼は 1933 年にミュンスター
に、こうした(準)軍事団体と自らの接点を
大学に入学していたが、そこでやはり友人の
理由づける。しかしながらその後の彼の経歴
誘いで労働奉仕(Arbeitsdienst)に参加する
を見ていくとき、こうした主張は単純に鵜呑
ために、オルフェン(Olfen)にあるナチ党
みにはできない。彼のヴァイマル末期からナ
によって運営されていた労働キャンプを訪れ
チス期における行動には、かなり強いこうし
ている 72。1935 年 7 月に導入された労働奉
た組織への志向が認められる。ともかくもう
仕義務とは異なり、この時点では、なお労働
少し彼のその後の彼の足取りを見ていく。
奉仕への参加は任意であり、これに彼が自発
1932 年末のある日、シュプリングマンは、
的に参加していたということには注目してお
アーペンゼンの農場での同僚であり、また彼
く必要がある。シュプリングマンは、参加へ
の親しい友人の誘いによりトラックで遠出
の動機として、その中で「階級、身分、信仰
する。このトラックは、近隣の村々において
そして教育の相違が融解」するような「自然
SA 隊員を拾いながら、ナチスの集会を防衛
に湧き上がってきた全く新しい共同体経験」
するために、ハンブルクへ向かっていたので
への期待を挙げている。階級や身分を超えた
あった。シュプリングマンは、
トラックに次々
共同体感覚の体験というものを自らのナチズ
と乗ってくる SA 隊員と積極的に会話を交わ
ムに対する支持の理由として挙げることは、
し、彼らが職人、農業労働者、農民の子弟
同時代人の言説の中で頻繁に見られる傾向で
などであることを知る。また最も親しく話し
あったが、シュプリングマンにとっては、こ
た人物は、モイスブルク(Moisburg:ハンブ
うした感覚はむしろより国民保守主義的な
ルク南西に位置する小村)から参加した教員
「青年鉄兜団学生中隊(Studentenkompanie des
であったという。ハンブルクに近づくと、彼
Jungstahlhelms)」の活動の中で体験されてい
らからこん棒などの武器を渡され、これで共
た。青年鉄兜団での訓練それ自体は、前述の
産主義者やユダヤ人を殴るよう指示された。
国境防衛のそれとさほど変わらなかったよう
シュプリングマンは、その場から逃げ出した
であるが、「ここで同僚と過ごす夕べ、前線
かったが、農場の友人から「臆病者と罵られ
兵士の歌、人々の尊敬を集めるフィールドグ
ることが嫌で」そのまま同乗し続けた。結局
レーの制服」の生活に彼は大いに満足してい
このハンブルクの集会には、共産党員は現れ
た 73。
ず「退屈な」ナチスの集会が行われただけだっ
またほどなくこの青年鉄兜団の中隊長に
70
た 。この経験に懲りたシュプリングマンは、
「闇国防軍(Schwarze Reichswehr)」の訓練コー
その後「SA と行動を共にしなかった」とい
スへの参加の意思を訊ねられた時 74、彼は即
う 71。
座に承諾していた。パダボーン(Padaborn)
69 Springmann: Das weiße Wolkenschiff, S. 85.
70 この日共産党はブレーメンで行われたナチスの集会に乱入しており、双方の間で乱闘が起こっていた。
71 Springmann: Das weiße Wolkenschiff, S. 114-116.
72 Ebenda, S. 132f.
73 Ebenda, S. 138-140.
74 このコース修了者は、国防軍の予備役将校への登用が保証されていた。
中田:新しい社会運動における価値保守主義 H. グルールと B. シュプリングマンを題材に(1)
49
近郊にある国防軍演習地において、正規の国
言って(親衛隊の)黒い制服は、自分にとっ
防軍下士官より射撃などの訓練を受け「これ
て嫌悪感ではなく、魅力を感じさせる」もの
は非常に楽しかった」と回想している。
であったと告白している。こうして彼は「親
前述のようにその後彼は、ダンチヒ大学へ
衛隊員候補者(SS-Bewerber)」となった。正
移るが、そこでも当地の海軍砲兵隊(Marine-
規の親衛隊員になるために、軍事教練と思想
Artillerie)が行う闇国防軍の訓練に参加し続け
教育を受けなくてはならなかったが、前述の
ている。この当時、国民保守主義的志向を持っ
ように彼はすでに予備役士官候補生であった
ていたシュプリングマンは、SA よりも鉄兜団
め、軍事教練の方は免除されることになった。
により親近観を感じていたが、ナチス体制に
思想の教育の方は彼にとって「人格的に共感
よって実施された強制的同質化措置により、
できる人物」がこのコースを担当していたた
ダンチヒでも鉄兜団およびその関連組織は、
め、「喜んで」参加したという。そして思想
SA に編入されることになる。これによりシュ
教育コース終了後、親衛隊への宣誓を行い、
プリングマンは、
水兵突撃隊(SA-Marinesturm)
シュプリングマンは正規の親衛隊員となって
に所属することになった。そこで軍事訓練を
いる。ライヒスクリスタルナハトの数日後に
また最初から受けなければならないことを知
なされたこの宣誓の場において教官は「もし
り、脱退する。しかしながら闇国防軍での訓
こいった行為
(=ライヒスクリスタルナハト)
練には参加し続けていたようであり、一般徴
をヒトラーが命じたならば、自らの信念に関
兵制が導入された後の 1936 年には、予備役
わらず実行しなければならない」という訓示
75
海軍士官候補生となっていた 。
を行っており、それにもかかわらずシュプリ
これまでのシュプリングマンの準軍事団体
ングマンは、宣誓拒否をしなかった 76。
との関わりを見るとき、彼が国民保守主義的
自らそれに対して自覚的であったかの評価
な信念を持ち、それゆえにナチズムに対して
は難しいものの、彼の持つ国民保守的な政治
一定程度の距離をとっていたという評価も可
理念から結果的に彼はこうした政治陣営に属
能かも知れない。しかしながら彼の 1936 年
する(準)軍事組織へと自発的に参加し、ま
以降の行動を見ていくと、こうした評価も疑
た結果的にナチズム体制に深く自らを関与さ
わしいものとなってくる。
せていくことになった。しかしながら、こう
1936 年にノイエンハーゲンで農場経営を
した関与のあり方は、実は主として彼の余暇
初めて間もなく、シュプリングマンは地元の
活動の領域で展開されていたという点に注意
乗馬協会(Reiterverein)に加入した。その後
しておきたい。ところが 1939 年 9 月 1 日の
ほどなくして、この協会指導部は、自らの組
ドイツ軍によるポーランド侵攻によって、彼
織の騎兵親衛隊(SS-Reiterstandarten)への編
の本業である農場経営にもナチズム体制が大
入を自発的に決議している。その際に、この
きな影を落とすようになる。
決定に従うことを望まないものは退会するこ
侵攻のちょうど一週間前に、彼の所にハー
とができたし、また実際に幾人かは退会して
ゲン時代の知り合いが突然軍服姿で現れ、彼
いた。シュプリングマン自身は、
「乗馬仲間
に対して自分が招集されたこと、そしてドイ
と乗馬の機会を失いたくない」という理由で、
ツ軍が「ポーランド軍の侵略に対して、来週
退会する道を選ばなかった。また彼は「正直
に(!)反撃を行う」ことをシュプリングマ
75 Springmann: Das weiße Wolkenschiff, S. 138-140.
76 Ebenda, S. 187-189.
50
茨城大学人文学部紀要 社会科学論集
ンは知る 77。
か」80 と題された、200 ページにわたる原稿
開戦後ほどなくして、ポーランド軍の戦時
が執筆され、計 3 回に分けて、兵士向けの訓
捕虜がノイエンハーゲンにも移送されてき
示としてのその内容が紹介された 81。
た。そして当局より、
「それぞれの農民が望
この講演は、彼が自らの思想を体系的に展
む数」の捕虜を労働力として配置することが
開した初めての機会であった。また彼が 1990
通知された。シュプリングマンも早速割当申
年代に入って自然保護団体である生命保護世
請を行い、15 名の捕虜の割り当てを受ける。
界 連 盟(Weltbund zum Schutz des Lebens)の
それからの数週間、彼は捕虜の割当を許可す
会合で行った講演と比較しても、その骨子は
る証明書を携えて武装し、朝に捕虜を収容所
基本的に変化しておらず 82、すでにこの時点
に受け取りに行き、夕方にまた収容所に移送
で戦後シュプリングマンの思想はほぼ完成し
することが日課となる。その後捕虜は収容所
ていたと言える。その内容については興味深
ではなく、農場に直接寝泊まりするようにな
いので、後に紹介していくが 83、ここで重要
るが、その際にシュプリングマンは、
「当然
なのはこの講演が、ナチズム体制下で果たし
のことながら我々は(捕虜と)
同じ食事を摂っ
た機能の方である。
た」と、彼の捕虜に対する人道的な扱いを誇
この訓示(講演)の終了後、しばらくして
78
らしげに回想している 。
その噂が旅団長の耳に入り、彼は旅団司令
そのシュプリングマンも前述のように、
部に呼び出される。旅団長から告げられた任
1940 年 5 月に招集され、海軍高射砲兵隊の
務は、国民社会主義指導将校(Nationalsozia-
中隊長として、キールのシルクゼー(Schilk-
listische Führungsoffizier: NSFO)として旅団内
see)
、
その後シュヴィネミュンデ
(Schwinemünde)
の部隊を巡回し、彼の講演内容を基礎に、兵
に配属される 79。
士達に思想教育を行うことであった 84。こう
して彼の「血と土」の思想は、一旅団内と
国民社会主義指導将校
いう空間ではあれ、体制の公式イデオロギー
シュプリングマンは中隊長として、兵士の
として認知され、その普及を後押しされるこ
前で訓示する機会が数多くあった。こうした
とになった。もっともシュプリングマン自身
機会を利用して、自らの部隊に所属する兵士
は、こうした体制への深い関与をそれほど深
という特殊な聴衆の前ではあったが、自らの
刻に受け止めてはいなかったようであり、自
思想を世に問うことを思いつく。
「ドイツ帝
らの任務を回想録の中では、
「単なる巡回牧師
国は農民国家となるのか、そうはならないの
(Wanderprediger)
」と表現していた 85。1943 年
77 Ebenda, S. 194.
78 Ebenda, S. 197f.
79 Ebenda, S. 219 und 291.
80 原題は „Das Deutsche Reich wird ein Bauernreich sein oder es wird nicht sein“ であった。
81 Springmann: Das weiße Wolkenschiff, S. 258.
82 Ebenda, S. 263; Springmann, Baldur: Bauer mit Leib und Seele. Bd. 2 Heimat aus Licht, Koblenz 1995, S. 73.
83 この 1990 年代に行った講演は、ナチズムの「血と土」という思想との親和性を多くの聴衆に想起させ
たようであり、彼は強い批判を受けていた。Springmann: Das weiße Wolkenschiff, S. 263.
84 Ebenda, S. 261f. 国民社会主義指導将校に関しては以下の文献を参照。山口定『ナチ・エリート 第三
帝国の権力構造』中央公論社 1976 年。
中田:新しい社会運動における価値保守主義 H. グルールと B. シュプリングマンを題材に(1)
秋頃に彼は大尉に昇進し旅団司令部勤務にな
86
るが、NSFO としての任務を継続し続けた 。
51
ことによって、農場への立ち入りが事実上不
可能になる。熟慮の末農場の放棄を決断し、
ゲンシェンドルフに新たに農地を得る。その
敗戦と移住
際に追放民として認定されたこと、そして地
ドイツの敗戦に際して、シュプリングマン
域の有力者等からの助力を得られたことが大
は部下を率いて海路で脱出を図るが、途中
きく影響していた。用地などの取得が済み、
のシュライネミュンデ(Schleinemünde)で
彼が農場を再開したのは 1951 年 11 月であっ
バルト海艦隊司令部の艦船と遭遇し、1945
た 90。
年 5 月 2 日付けで軍務を解かれる 87。その後
陸路でシュプリンゲ農場に戻ろうとするが、
バイオ・ダイナミック農法へ
リューベック近郊のダッソウ(Dassow)で
1970 年代末の緑の党の創設期において、
アメリカ軍兵士に拘束され、その後の取り調
シュプリングマンがカリスマ的な人気を博し
べで将校であることが判明し、この地域に設
た最大の原因は、
当時関心が高まっていた
「エ
置されていたアメリカ軍捕虜収容所に抑留さ
コロジー」を、彼が農民という生き方を通し
88
れる 。収容所があるメクレンブルクは、連
て体現してきた、と彼の支持者達が受容して
合国間の取り決めによりソ連軍占領地区とな
いたことにあった 91。こうした「エコロジー
ることが決定されていたため、アメリカ軍は
農民」シュプリングマンが誕生する直接的な
この捕虜収容所を解体し、ここに抑留され
転機は 1953 年に訪れた。農業の近代化とい
ていたドイツ軍捕虜の多くは、ソ連軍の捕虜
う名の下で化学肥料を大量使用する農業のあ
収容所に移送された。シュプリングマン自身
り方に対して、コストそしてエコロジーの双
もこの移送者に含まれていたが、移送の途中
方の観点から強い疑念を持っていたシュプリ
で脱走する。シュプリンゲ農場に戻ってみる
ングマンは、化学肥料に頼らない農法への転
と、家族は戦火を逃れホルシュタインのゲン
換をめざす 92。その際にシュプリングマンは
シェンドルフ(Genschendorf)に移っている
すでに知り合いからシュタイナーによる「バ
ことを知り、そこに向かう 89。その後ゲンシェ
イオ・ダイナミック農法」ついて一定程度の
ンドルフに身を寄せながら農場の再建を目指
知識を得ていた。また彼は、アルバート・ハ
し、シュプリンゲ農場との間をしばらく往復
ワード(Albert Howard)がインドで実践して
していたが、ソ連軍がこの地に進駐してきた
いたインドール農法についても知識があっ
85 Springmann: Das weiße Wolkenschiff, S. 266.
86 Ebenda, S. 266 und 272f.
87 Ebenda, S. 287.
88 Ebenda, S. 289.
89 Ebenda, S. 292.
90 Springmann: Heimat aus Licht, S. 50; „Wir sind keine Knallköpfe“, in: Zeit vom 8.6.1979.
91 エコロジーに関する当時の政治文化との関連に関しては以下の論文集に収録されている諸論文を参照。
Knoch, Habbo (Hrsg.): Bürgersinn mit Weltgefühl. Politische Moral und solidarischer Protest in den sechziger
und siebziger Jahren, Göttingen 2007.
92 化学肥料とドイツの農業について、すでに 1920 年代からこうした議論があったことを以下の文献が紹
介している。藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業』31 頁。
52
茨城大学人文学部紀要 社会科学論集
た。しかしながらインドール農法について、
市民運動・協同組合活動
彼はヨーロッパ農業での有効性について懐疑
その一方で、シュプリングマンの活動に
的な考えを持っており、それゆえにバイオ・
理解を示す人々もすでに 1950 年代に存在し
ダイナミック方式を採用することにした 93。
ていた。例えばリューベック市の公園管理官
バイオ・ダイナミック農法についてノウ
(Lübecker Gartenbaudirektor) の ハ ー ゲ マ ン
ハウを得るために彼は、北ドイツ農業協会
(Hagemann)は、自らの属する人智学サーク
(Bäuerliche Gesellschaft Nordwestdeutschland)
ルのメンバーに対して、シュプリングマンの
なる団体に加盟し、その会長であり、また自
農場での生産物 96 の購入を熱心に勧め、その
らもラウエンブルク(Lauenburg)で農場を
販路開拓に対して一定の成果を挙げていた。
経営するレマー(Dr. Remer)なる人物を招
またクナイプ協会(Kneippvereine)97 や前述
聘する。そして彼らから技術指導を受けるの
の生命保護世界連盟などが組織的にシュプリ
であるが、その内容は、主としてシュタイ
ングマンの活動を支援するようになり 98、さ
ナーの講義録集を理解するというものであっ
らに主としてハンブルクに店舗を構えるレ
た 94。
フォルムハウス(Reformhäuser)やベジタリ
しかしながら化学肥料を大量に使用する農
アン用の食料品店や宿泊施設等が、シュプ
業の「近代化・合理化」という流れが圧倒的
リングマンの生産物を次第に取り扱うように
に優勢であったこの時期において、こうした
なっていった。こうした傾向に、シュプリ
農法に対する周囲の目は冷たかった。一例を
ングマンは自らの活動の正しさを確信するよ
挙げるならば、こうした農業合理化のシュレ
うになっていく 99。「農村にはもはや農民は
スヴィヒ・ホルシュタイン州での普及の先頭
いない。そこにあるのは農業を行う工場と都
に立ち、また農民向けの化学肥料の納入を取
市を逃れた都市住民が体力の回復を行う睡眠
りまとめていたドーベルト(Dobert)なる人
ゲットーだけである。それと対照的に、今日
物は、化学肥料を購入しようとしないシュプ
の大都市には、エコロジー的な行動の可能性
リングマンに苛立ち「この自由主義国家にお
を模索する人々が増えてきている」という彼
いては、破産の仕方を自ら決める自由もある。
の発言はそうした自信の現れと言えた 100。
もし貴方がこの人智学的な「愚行」をなさろ
1961 年には、こうしたエコロジー意識に
うとするならば、勝手にしてください」と毒
目覚めた都市住民との提携の道を協同組合
95
突いていた 。
(Milchring Lübeck)の設立という形で実現し
ていく。シュプリングマンは、行政との長い
交渉の末、主としてリューベックとハンブル
93 Springmann: Heimat aus Licht, S. 66.
94 Ebenda, S. 67.
95 Ebenda, S. 68f.
96 この時期は穀物、ジャガイモが主たるものであった。
97 セバスティアン・クナイプ(Sebastian Kneipp(1821-1897))の理念に基づいた健康な生活を送るため
の食習慣・身体運動等についての活動を実践するための協会。ドイツ各地に支部が存在する。
98 Springmann: Heimat aus Licht, S. 71.
99 Ebenda, S. 72.
100 Ebenda, S. 74.
中田:新しい社会運動における価値保守主義 H. グルールと B. シュプリングマンを題材に(1)
53
ク在住の住民に向けた、
「エコ」牛乳の宅配
のシステムを構築し、約 120 名の契約者数
全 て の 現 存 す る 関 係 を 批 判 す る こ
に対して、一週間に 650 リットルの牛乳を
と、全ての結びつきと義務を断ち切る
供給していた 101。またこの協同組合でシュ
こと、性による区別を廃止すること、そ
プリンゲ農場で生産された野菜、果物や穀類
して全ての政治関係の転覆という要求
などの流通も行っていた
102
。
によってこの学派は、1950 年代以降の
西ドイツにおいて、国家と社会における
新左翼との接点
様々な解体傾向の賛者・提唱者となっ
シュプリングマンは自らの農場経営を通し
た。故郷・民族概念の破壊を通して彼
て結果的に、協同組合、市民運動そして人智
らは、現在進行しつつある全般的な環
学サークルとの人的なネットワークを構築
境破壊へ至る道の準備をしている。[...]
していくことになった。実はこれらの組織
戦後なお残っていた共同体という徳
は、緑の党が創設されるにあたってその底辺
(Gemeischaftstugenden)は粉々にされた。
での運動として大きな役割を果たすことにな
民族や国家に対する意識は傍らに追いや
るのであるが、シュプリングマンは結果的に
られ、祖国という概念は完全に時代遅
これらの組織を横断するネットワークのハブ
れのものとされ、ドイツの精神的な伝統
的な立場を担うことになった。ただこうした
は中傷されている。[...]こうした活動
緑の党の創設期において大きな役割を果たし
がとりわけ顕著に認められるのは、[...]
た勢力について考察する時、非教条主義的な
教育と家族の領域である。
社会の民主化、
新左翼勢力の存在も忘れることができない。
[...]あらゆる支配構造の解体、個人の
1960 年代後半になると、シュプリングマン
ための幸福の追求、能力と収入の関係の
は実は彼らとの人的ネットワークをも構築し
平準化といった、表面的な人道主義的要
ていた。その点を以下検討してみたい。
求は、多くの未熟な、そして歴史的に無
シュプリングマンは、当時左派勢力に対し
て強い嫌悪感を持っていた。もっとも彼が理
知な追従者および若い理想主義者のみを
(信奉者として)獲得している 103。
解する左派とはホルクハイマー、アドルノそ
してマルクーゼらに代表されるいわゆるフラ
フランクフルト学派が人間の関係性構築の
ンクフルト学派であり、これを信奉する若者
営みを全否定するように見えたこと、そして
達であった。少し長くなるが、彼の理解する
それが若者の中で熱狂的に受容されているよ
フランクフルト学派イメージを引用しておこ
うに見えることは、シュプリングマンによっ
う。
ては耐えられないことであった 104。
101 Ebanda, S. 85-93.
102 Biologisch – dynamische Landwirtschaft, wie sie auf Hof Springe verstanden und angestrebt wird: AGG:
A-Wilhelm Knabe, Nr. 64 Grüne Liste Schleswig-Holstein (GLSH) 1980-1982.
103 Springmann: Heimat aus Licht, S. 115.
104 またシュプリングマンは、別な箇所で若者達がフランクフルト学派に熱狂することによって、労働や
祭典へ共同で参加しなくなったと回想し、こうした傾向は 1950 年代にはまだ見られなかったと述べて
いる。シュプリングマンによれば、フランクフルト学派による個人主義礼賛が、共同体験の軽視を助
長しているのであった。Ebenda, S. 78.
54
茨城大学人文学部紀要 社会科学論集
また 1970 年代に入り、フランクフルト学
値観を可能な限り理解しようと努力したよう
派の理論に立脚すると自己理解しながら、彼
であり、こうした体験を「私の人生における
をネオナチであると批判し始める議論が台頭
修行の時代の封が切られることになった」と
し始める。こうした風潮は彼のフランクフル
回想している。
こうしてシュプリングマンは、
ト学派に対する嫌悪感をより頑なものとさせ
彼らと何度も夜遅くまで議論する中で、自ら
ていくことになった。
が持つ左派に対する偏見を自覚しながら、彼
こうしたシュプリングマンの左派に対する
らとの問題関心の共通点も見いだしていく
「偏見」を変化させた契機は、彼の子供達の
ことになる 108。さらにこうした議論の場は、
友人関係を通してであった。1960 年代後半、
前述のリューベック・ハンブルクの協同組合
次男ファルクが、同世代の若者と同様に「ツ
の組合員をも巻き込むことによって、世代・
イストダンス」に熱中し、頻繁にリューベッ
党派性を超えた交流の場となっていった 109。
クやゼーゲベルクの「ディスコ」に通うよう
になる。シュプリングマン夫妻は、自らに課
代替役とシュプリンゲ農場
した自由放任の教育方針に反せず、息子のこ
左派の若者との議論を通してシュプリング
の行動をやめさせるために、自分農場内に
マンが見いだした共通の活動の土台は「非暴
ディスコ(として使用できる小屋)を建設し、
力・平和」であった。このテーマは、復活祭
ここに友人達を招かせることにした
105
。
行進を行ってきた年長世代と徴兵拒否の当事
その数年後、1968 年運動の波がこのシュ
者である若い世代双方にとってアクチャルな
プリンゲ農場にも押し寄せてくることにな
ものであった 110。
る。ゼーゲベルクにも「自由基礎グループ
しかしながらシュプリングマン流の「非暴
(Freie Basisgruppe)
」なる学生運動組織が設
力・平和」の実践のあり方というものが、ま
106
、ファルクの友人の多く
たユニークなものであった。彼は自らの農
がこのグループに属しており、シュプリンゲ
場 を 公 益 協 会(Gemeinnützige Verein) に 組
農場の「ディスコ」は、ほどなくしてこの学
織替えし、これを良心的兵役拒否者が代替
生グループのたまり場となっていく。シュプ
役(市民的奉仕活動)を担う場所として連邦
リングマンは、自分とはあまりに違うこの若
政府に認可させようとする。シュプリング
者達の価値観、振る舞いを間近で体験し、相
マンはこの自らの農場に「農業ならびに社
立されていたが
当苦労するが
107
、他方で彼らのそうした価
会衛生開発協会(Agrar- und sozialhygienische
105 Ebenda, S. 125.
106 この組織は自らを非教条主義的新左翼と理解していた。ゼーゲベルクには、マルクス・レーニン主義
的な学生グループも存在しており、自由基礎グループは彼らとは距離をとっていた。Ebenda, S. 126.
107 いくつか例をあげるならば、シュプリングマン夫妻がある日の午前中に農作業に一区切りをつけて自
宅に戻ると、二階にある息子達の寝室から数人の見知らぬ若い女性達が下着姿でタバコを吸いながら
現れ、朝食を要求したという。またある時には、若者の一人がシュプリングマンに一塊のハッシシを
突きつけ、彼が困惑しているのを楽しんでいた。Ebenda, S. 127.
108 Ebenda, S. 128.
109 当時シュプリングマンは、農場のあるゲンシェンドルフの村議会議員(Gemeinderat)であったが、左
派系の若者が出入する彼の農場に対して不信感を持ち、その後彼を選出しなくなった。Ebenda, S. 129.
110 Ebenda, S. 127.
中田:新しい社会運動における価値保守主義 H. グルールと B. シュプリングマンを題材に(1)
Entwicklungsgesellschaft)
」
(以下 ASE と略す)
という名前をつける
111
。
55
子にまかせるようになる。自らはもっぱら上
述のような ASE の活動や、都市住民との連
こうしたアイディアは当時の連邦政府には
帯の上での協同組合活動、そして生活環境保
あまりに突飛なものであったようであり、そ
護を主たる活動領域として、この時期徐々に
の認可を得る過程はまさに官僚主義との戦
成立してきた、いわゆる「新しい社会運動」
いの日々であった。当時、認可業務を管轄し
に対して多くのエネルギーを振り向けていく
ていたノイミュンスターの財務局のある職員
ようになる。
は「貴殿の共産主義的な夢を携えてドイツ民
((2)に続く)
主共和国に移住することをお勧めする」とま
で言い放っている 112。しかしながらシュプリ
ングマンは粘り強く陳情を重ね、ついに 1970
参考文献
年5月に ASE は、連邦政府から仮認可を 113、
10 月末には正式な認可を勝ち取る 114。
彼の農場経営と代替役を結びつけるという
発想とその実践は、同様の構想を持ってい
た農場経営者に刺激を与えたようであった。
シュプリンゲ農場にはその後、ドイツ各地か
ら視察が訪れ、彼の手法を自らの農場に導入
したいという要望が多く寄せられるようにな
る。シュプリングマンは、こうした要望を持
つ農場と契約を結び、これらの農場は、法的
には ASE ノイラントの「支部」となるとい
う形で、こうした農場主の期待に応えていっ
た。1970 年代末までに、6 つの支部が設立
されることになった 115。
こうして 70 年代に入ると次第に、シュプ
リングマンは、シュプリンゲ農場の経営は息
Bergien, Rüdiger: Die bellizistische Republik.
Wehrkonsens und „Wehrhaftmachung“ in
Deutschland 1918-1933, München 2012.
Eppler, Erhard: Ende oder Wende von der Machbarkeit des Notwendigen, Stuttgart [u.a.] 1975.
Euchner, Walter: Grebing, Helga: Geschichte der
sozialen Ideen in Deutschland: Sozialismus
- katholische Soziallehre - protestantische
Sozialethik. Ein Handbuch, Wiesbaden 2005.
Gruhl, Herbert: Überleben ist alles. Erinnerungen,
München [u.a.] 1987.
Gruhl, Herbert: Ein Planet wird geplündert. Die
Schreckensbilanz unserer Politik, Frankfurt a. M.
1975.(辻村透他訳『収奪された地球 「経
済成長」の恐るべき決算』東京創元社 1984
年.
Hildebrand, Daniel: „Herbert Gruhl und die ökolo-
111 この当時流行していた社会学的・議会外運動風のネーミングは、息子達の発案であったようである
が、本人は全く気に入らなかったようで ASE Neuland e.V. という略称の方を好んで使っていた。Hof
Springe: Motive, Ideen, Entwicklungen [von Baldur Springmann]: AGG: A-Gerald Häfner, Nr. 12, Interne grüne
Diskussion zu Kommunisten, Sozialisten, Freisoziale Union (FSU) und Grüne Aktion Zukunft (GAZ) 1979 1984. またこの史料の中で ASE Neuland の設立経緯が詳しく説明されている。
112 Springmann: Heimat aus Licht, S. 130-132.
113 Ebenda, S. 133.
114 もっとも実際に配属された若者のモティベーションと労働能力の低さに彼は驚愕すると同時に失望し
ているのであるが。Ebenda, S. 135.
115 成立年代の古い順に、シュタルンベルク湖畔のファルハッハ(Farchacha)
、キーム湖畔のグループ農場
(Hof Grub)、シュツッツガルト近郊のヴァイスザッハ(Weissach)に 2 カ所、ニーダーザクセンのヴァ
ルスローデ(Walsrode)とツェーヴェン(Zeven)
。Ebenda, S. 136-139.
56
茨城大学人文学部紀要 社会科学論集
gische Protestbewegung“, in: Historisch-Politische Mitteilungen, 10/2003, S. 325-332.
Kempf, Volker: Herbert Gruhl. Pionier der Umweltsoziologie. Im Spannungsfeld von wissenschaftlicher
Erkenntnis und politischer Realität, Graz 2008.
Knoch, Habbo (Hrsg.): Bürgersinn mit Weltgefühl.
Politische Moral und solidarischer Protest in den
sechziger und siebziger Jahren, Göttingen 2007.
Kunz, Rainer; Maier, Herbert; Stammen, Theo:
Programme der politischen Parteien in der
Bundesrepublik Deutschland, München 1979.
Linse, Ulrich: Ökopax und Anarchie. Eine Geschichte
der ökologischen Bewegungen in Deutschland,
München 1986(内田俊一他訳『生態平和と
アナーキー ドイツにおけるエコロジー運
動の歴史』法政大学出版局 1990 年).
Lorenz, Konrad: Die acht Todsünden der zivilisierten
Menschheit, München 1973.
Mende, Silke: Nicht rechts, nicht links, sondern vorn.
Eine Geschichte der Gründungsgrünen, München
2011.
Nakata, Jun: Der Grenz- und Landesschutz in der
Weimarer Republik 1918-1933. Die geheime
Aufrüstung und die deutsche Gesellschaft,
Freiburg 2002.
Rödder, Andreas: Die Bundesrepublik Deutschland
1969-1990, München 2004.
Springmann, Baldur: Bauer mit Leib und Seele. Bd. 1
Das weiße Wolkenschiff, Koblenz 1995.
Springmann, Baldur: Bauer mit Leib und Seele. Bd. 2
Heimat aus Licht, Koblenz 1995.
Uekötter, Frank: Umweltgeschichte im 19. und 20.
Jahrhundert, München 2007(服部伸他訳『ド
イツ環境史 エコロジー時代の途上で』昭
和堂 2014 年).
Wolfrum, Edgar: Die geglückte Demokratie. Geschichte der Bundesrepublik Deutschland von ihren
Anfängen bis zur Gegenwart, Stuttgart 2006.
小野清美『アウトバーンとナチズム 景観エコ
ロジーの誕生』ミネルヴァ書房 2013 年.
藤原辰史『ナチス・ドイツの有機農業 「自然と
の共生」が生んだ「民族の絶滅」』柏書房
2005.
山口 定『ナチ・エリート 第三帝国の権力構造』
中央公論社 1976 年.
史料
„Der konservative Beat der Grünen“, in: Zeit vom
17.11.2012.
„Die Suche nach neuen alten Werten“, in: Tagesspiegel vom 18.11.2012.
„Die Grünen - zwischen Bürgerinitiative und Partei“, in:
Frankfurter Allgeimeine Zeitung vom 11.8.1978.
„Forderung an die Industrie. Umweltschutz muß
Vorrang vor Produktionserfolg haben“, in: Die
WELT, Nr. 208 vom 8.9.1970.
„Grün heißt wertkonservativ“, in: Frankfurter Rundschau vom 22.10.2012.
„Stocknüchterner Protest“, in: FAZ vom 7.8.1978.
„Wir sind keine Knallköpfe. Spaziergänge mit Prominenten: Baldur Springmann, Altbauer auf Hof
Springe, Symbolfigur der Grünen“, in: Zeit vom
8.6.1979.
Stenographischer Bericht des Deutschen Bundestages
156. Sitzung vom 14. März 1975.
215. Sitzung vom 22. Januar 1976
31. Sitzung vom 15. Juni 1977
Archiv Grünes Gedächtnis der Heinrich-Böll-Stiftung
G.01 - FU Berlin, Spezialarchiv „Die Grünen“, 659
Bunte/Alternative Listen, Parteigründung der
Grünen und Konflikt mit Gruhl Band 1
A-Karl Kerschgens, Nr. 1 BUND-Mitgliedschaft
1976-1978
A-Gerald Häfner, Nr. 12 Interne grüne Diskussion
zu Kommunisten, Sozialisten, Freisoziale
Union (FSU) und Grüne Aktion Zukunft (GAZ)
1979-1984
A-Wilhelm Knabe, Nr. 64 Grüne Liste SchleswigHolstein (GLSH) 1980-1982
Archiv für Christlich-Demokratische Politik
01-699 Nachlaß Gruhl, Herbert
(なかた・じゅん 本学部教授)
Fly UP