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佐賀勝文化財調査報告書
(第二輯)
佐賀勝教育委員曾
否々々日
﹁大地に描かれた
若き島一
'徒達によって郷土の先
史、原史、 歴 史時代の 遺 物遺 跡は最近刻々愛見せられつつある。此の活きた資料を児童も
が、果して郷土の古代は暗 黒 であろうか。
。郷土出身の大 歴史家久米邦武博士は﹁佐嘉 の古代史、なんかわかるもんか﹂と 一
一
口われた
一
一
も、史書を焼いても 遺 物々 遺 跡の存ナる限り我等祖先の 歴史は抹殺することはできをい
は 敗 戦 に よ っ て 自 分 遠 の 民 族 の 歴 史 殊 に 古 代 史 を 抹 殺 し て し ま っ た 。 史 皐 者を演にして
化遺産を、組織的に体系的に編年的に考究する人文科撃の一つが考古 皐 である。 日本人
古島アでもをい。況んや 弄古皐では勿論をい。我 等 祖先が血と汗で大地に描いた 歴 史を文
って人類の古代文化を考究する皐問が考古撃であるが、考古事は好古 皐 でも、ないし、 集
歴 史 ﹂ こ れ を 遺 跡 と い い ﹁ 物 そ の も の が 物 語 る 史 賓 、之を 遺 物 と い う 。 ﹂ 遺 跡 遺 物 に よ
教室というものではない。叉紙に書かれた本だけが教科書でもない。
タゴールは﹁壁は成長せず。﹂と言った。 四聞に五聞の部屋と塗板があるからそれが
絡
生徒も拳生も否、親も教師も共に率ばねばならぬ。新しい日本の歴史教育は、郷土の再
認識から出愛せねばならぬ。此の意味に於て此の第二斡が濁立第一年度にシける豚民の
人文科準研究の一資料として役立つをらば幸甚である。
﹁歴史は後向きの珠言者﹂といわれるが、郷土の文化遺産は回顧趣味ぞ復古精紳に役
立つというだけのものでをく、五十年百年後への示唆を奥える指標ともなるであろう。
以後第三、四輯と巻を追うて忘れられんとナる豚内の文化財を紹介する橡定であるが
必ずしも人文科率的資料のみならず自然科皐の介野に︾ける貴重な資料をも逐次掲載し
て、やがてはその保存保護への理解と熱意を喚起したいと思う。
あえて狽立第一年度に於て勝文化財保護倹令の制定せらるるに蛍り、明か所見を述べ
て江湖の批判を侠つ次第である。
昭和二十八年三月
佐賀鯨数育委員舎
か っ た と と は 甚 だ 遺 憾 で あ る か £ 、 貴 市 町 村 内 の 右 諸 官 街 皐 校 へ も 回 覧3 れ て 有 効 遁 切 に 利 用 せ ち れ ん と と を
希望する。
-、最近 建 築 物 や 道 路 開 盤 、開墾、摺池 築 造 士 取 等 の た め に 貴 重 な る 資 料 が 膝 内 各 地 に 夜 見 き れ な が ら 心 な き 人 た
ちのためにご願も奥えられずに破壊 5 れているようであるが、とれは巌たる文化財保護法によって厨出古要す
る ζと に な っ て い る の で 営 該 市 町 村 の 官 街 皐 校 等 に 職 を 奉 ず る 方 々 は 率 先 文 化 遺 産 の 保 護 と い う 立 場 か ら 速 報
をお願いする次第である。
一、玉
、
墳
第二輯
梅
佐賀際文化財調査報告
ノr
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一二紳埼町辻の薬師如来坐像市
古
た
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口
目
村
三、三津石蓋車棺出土内行花紘明光鏡について七
士山
(ん日
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(以)
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直衣郎
末
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原
場
回
島
東石室賀測闘
古故後関丘と石室の位置岡
谷口古域外形聞各国
第四岡
第三岡
第二岡
bAZ3 河川↓
挿
古墳所有地岡(陸地測量部地岡分我)
墳丘の想定原形回(梅原作間)
地山と封土との闘係指示の墳丘縦断師岡
(梅原作闘)
束柑内の泣物位置岡(操江口氏岡)
東析出土石釧形状岡(梅原作岡)
f
d
E
東祈下底部形状岡(擦江口氏周)
神崎町附近地形岡
第五悶
第一 O 岡
辻薬師如来坐像側面岡
東石室内景観と石棺内の石枕
第一一間
辻薬師如来坐像腹部悶
第五
東棺石枕拓影(松岡史君拓影)
第一二岡
東脊振村三津の遺践の環境岡
第六岡
東石室築成朗報順序想定闘(梅原作園)
第一三岡
車棺賀測岡
来棺出土勾玉形状岡(梅原作岡)
第一四岡
東石室内石棺貨測園
た
ヨ
内行花紋明光鋭岡
第六
石釧及び万身
日
第一五闘
第七園
二一柳三献m
m神鏡
一ゴ刊三献鏡及び位至三公双獣鏡
趨形四鰍鏡
間版第一四
同
内行花紋明光鋭拓影及び賃測岡
商石棺側面制及び上脚部
玉島村谷口古墳所在地の外景
次
第八岡
第
第一六岡
悶
日
神埼町辻薬師如来坐像
岡版第
同版第
間版第一一
同版第一 O
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一J Jノ
第
問版第一五
玉
類
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七
同
医
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四石棺脚部側面及び内面底部
第
第八
第
第九回
第
四石棺貨測岡
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版
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闘
版
国
版
同
間
版
:
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友
同
版
岡
阿 岡
版 版
版
園版 第
i 古墳
外
景
(下)東南方かちの古墳近景 (左端が前方丘 )
間版第二
外
形
(同守幸司話
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行 謹河露首壬数〉
国制号史学結 Eト
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古墳後 国丘と石室の位置園
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肥 前園東松浦郡谷口古墳後国立園
梅原作製)
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四 割 , .
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制
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肥前園東松浦郡谷口古墳
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︿昭和ご十七年七局こ十
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東石室実測図
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東
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景
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北
壁
(下)
石棺 内の 石枕
石室内 石棺賃測
園版第六
東
石
棺
聞
ハ 織 原 ・ 松 阿賀測
梅原酬明岡﹀
岡版第七
石
棺
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下
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面
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闘版第八
石
棺
設周囲JiI荷台i
国 (
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副2
主連謹ob¥:剖国
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西石棺賞測園
固版第九
石
棺
一 一 一一一一
一
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(梅原資測製闘)
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長
帯
一
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一
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足
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(一)
園版'
東棺接見三紳三獣鏡
第
鏡
鑑
(二)
位至三公双獣鏡
東京闘立博物
臓
館
(一)
東棺脅見鑓形四獣鏡
園版第一二
鏡
鑑
其
(一一)
東棺接見縫形四獣鏡
其
東京幽立博物館磁
圃版第一四
石釧及び万身
(一) 東棺接見石釧
(二) 短剣及び万身断片
東京閣立博物館磁
闘版第十五
紳士奇町辻薬師如京坐像
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I
前
玉
島
村
京
都
大
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文
皐
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博
士
谷
口
の
古
墳
玉島村谷
口
の
古
墳
4d
れ て 、 う ち に 本 邦 の 鋳 遣 と 認 め ら れ る 一 銭 に ﹁ 吾 作 明 蒐 ﹂ 云 々 の 銘 文 が あ る と と ろ か ち 一 部皐 者
の注意を
一
一
月 文部省重要 美術品等認 定の用務で佐賀川柄下 陀出 掛 け た 機 曾 を利用して、 月 の 十 五 日 に 吉 村 茂 三郎 氏等の東道で
、 君の懲滋に 依 って
たのである。乗てか ら同古墳出 士鏡に興味を持 って いた 筆者 は
、 宜 査 を 思い立ち、昭和十四年の
①
常る二個の石棺形式の大いに注目すべきものたるととを認めて、同年九月その概要を報じ、某本的在調査を要請し
庭が昭和十一年になって、現に佐賀川相の文化財調査委員をしている七回忠志君が、との遺跡を・賞査の上、主体に
が﹃佐賀腕史蹟名勝天 然 紀 念 物 調 査 報台 ﹄ 第 五輯に載っている ば かbで 、 そ れ は 遺 跡 の 性 質 を 徴 す に 甚 だ 遠 い も の
①
であった。
勝銃山と其附近の古墳に就て﹂と起する一文のうちに‘その前後に見出された他の遺跡、と併せて簡単に 書 いたもの
惹いたが、而も遺蹟そのものに就いては殆んど顧みられる所がなく‘ とれが記述としては 僅に 吉村 茂 三郎 氏 が ﹁ 名
に牧減
棺 の あ る こ と が 分 っ て 、 遺 骸 と 共 に 多 く の 副 葬品を発見 した。との副 葬 品 は 程 経 て 却 臓 物 と し て 東 京 の 帝 室博 物館
一 月 二 十 三 日 か ら 二 十 四 日 に 亘 っ て 、 此 の 古 墳 の 後 間 部 が 掘 開3 れ、相並A で管まれた 二個の石室内に、それぞれ石
肥前関東松浦郡玉品村大字谷口宇立中に一 基 の 前 方 後 閲 形 を し た 古 墳 が あ る 。 明 治 四 十 一 年 (-cc∞・﹀・ロ・)の十
同U
賀地に臨み、その我が古代墓制史上重要な遺跡たるととを如貨に知ると共に‘発掘常事者、だった江口斧三郎翁から
- 2ー
記
肥
序
①
いろいろと嘗時の状況を聞くことも出来た。かくてとれが機縁となって昭和十六年十二月に文部省ではおくれ乍ら
①
同古墳を史蹟として指定し、その保存を講ずるととになったのである。
併し遺跡そのものの記遮に至つては、右の筆者の調査がなお白から意に満たない部分をのとしたが魚に.そして
其後間もなく大戦が勃殺し、引っづく未曾有の敗戦の混誌で、それを補足する調査を行うととが出来ず、引いて何
等公にする所なかった。近年佐賀牒社命同教育課ではそれを遺憾として、松尾頑作足が鏡山猛尽に嘱して外形の暮測
-3-
固を作製すると共花、筆者に引緩いての調査の賞施を要望して、それへの協力を申し出忘れた。依って昨昭和二十
七年七月二十 三日から二十四日に亘って、京都大皐講師樋口隆康氏の参加を得て、間柄祉曾教育課並びに地元有志の
①①
協 力 の 下 に 重 ね て 調 査 を 行 い 、 更 に そ の 後 東 京 の 閤 立 博 物 館 に 就 い て . 出 土 遺 物 の 再 検 討 お も 途 げ て 、 ととによう
ゃく本古墳の調査を終え待たのである。
以 下 に 録 す る 所 は そ れ 等 の 結 果 を 綜 合 し た も の に 外 な ら な い 。 始 に と の 重 要 注 遺 跡 の全 貌 を 記 越 す る に 営 っ て 、
由来を 書 いて地元の 諸 氏 は じ め 、 協 力 の開係各位に劃して謝意を表したい。
︻
睦
︼
れた聞に依って犬体を推すに満足する外なかった。
丘町与の石棺会資 測 したのであった。但L蛍 日 は 準 備 の 不 充 分 か ら 現 存 す る 石 室 内 に 入 る こ と が 出 来 ず 、 そ れ に 就 い て は 江 口 翁 の 捕 か
此の日の調査は、.現地に到着して、.先ず震調者たる江口翁にいって、いろいろと常時の模療を聴取した土、墳形を視察、然る後、.墳
ら注意を向けた次第である。
土鋭の調査資料として博物館の牧賎鏡を手拓ずるうち・それに四而の大形銭を含むのを知って北九州で珍らしい例をなすことに自か
筆者の木中内境出土鏡に関する興味は早︿大正四五年の交に遡る。首時富岡先生の古銭研究の手仰をしていた筆者は ・ 木 邦 上 代 古 墳 出
に蛍るものとして、僅かに 前者 に滞鉾形右棺一個・後者に石精一個の存在を記しているに過ぎない。
m
w この 官村氏の文には木 古墳おぱ谷口古墳乙、谷口古境内と二分して、別個のものに取扱い、そ・れぞれの出土品会 原げた後に構造部分
(
2
)
(
3
)
過般のこの調査に就いては、佐賀牒数育委員曾から松尾競作‘田中堂氏が参加して種々護力せられた外、佐賀大串々宇一松岡史、東京
尤 も 佐 賀 鰍 ではそれ よりも以前に木許墳の 保 存に留 意 し た こ と 、 い ま 後 向 上 に 立 っ て い る 砕 石 に 大 正 十 四 年 四 月 一 日 建設 と刻してあ
位置と墳
がいろいろと援助せられたことを記さねばならない。
古墳
の
(第一園)
一見濁立した丘形を是し、右の平野
さ て 古 墳 所 在 の 山 丘 は 花 開 岩 を 謀 盤 と し て い て 、 そ の 随 所 に 風 化 し た 岩 塊 の 露 出 が 認 め ら れ る 。 いま東北々から
の流れの一端を利用した、山丘の端に管まれたものなのである。
高い十防山川川すか ら南に 延びた もの で
、 谷口部落はとの両者の平地に接する部位に点柁する。而して古墳は故山から
で あ る 。 右 の 山 と い う の は 筑 前 肥 前 の 聞 を 限 る 山 塊 の う ち ‘ 海 に 近 い 標 高 三三三米を示 す 城 山 と 、 更 に 北 方 の 一 層
北で海に注ぐ玉 山崎 川 の流れに近いところで、 町 か ら 直 線 で 約 十 二 三 町 の 川 の 北 方 の 山 諸 に 位 置 し た 谷 口 部 落 の う ち
とこに谷口古墳と呼ぶのは序記にも書いたように‘肥前関東松浦郡玉島村大字谷口字立中にあるそれを指すので
①
あって、地方では 築 山 LL
呼んでいる前方後関墳 に外ならない。との古境の所荘地は松浦潟の東南辺に嘗る演崎町の
丘
向
君
鍋 の 篤 震 は 佐 賀 燃 の 常 局 が 開 館に就 いて扱影されていたもの安利用した。この調査に常つては閉館 者内部の 三木文雄 、増 田 精 一一
漬 物 の 再 放 討 は昭和二十七年十一月二十一日間同物館で行うた。後に掲げる遺物の笈測聞はその際作製したものである。尤も図版所
の調査を 遂行 すること が出来 たので為った。ここに註記して負う所を闘にして置︿。
tまわて二日間で所矧
卒氏が相知町からわざわざ出掛けて、万事に配慮された。か︿て好天候にもめ H
を持ちつづけていらわる准際川一
樋 口 際 様 若 に 協 力 し て 呉 わ ら れ た 。 な お 地 許 で は江口陽一氏の一一家をはじめ、木墳設 掘 の 蛍 初 小 慰 生 で そ わ を 質 見 し た こ と か ら 興 味
都立大智 附勝高待感校の 中 村 和 正 の 阿 君 が 行 を 共 に し て 質 測 を 助 け ら わ 、 ま た 毎 日 新聞唐 津通信部の 川田健氏も潟良の撮影に 就 いて
るので知られる。
(
4
)
西南商を軸とした やや長い 山丘の先端の部分が、峯につづく所で切断されて、
4ー
~.
(
5
)
(
6
)
に向った前端が方形をまし、他方が丸くてそこに自か
PD- つの抑制丘を形成していること岡版第一のこに載せ
た近且尽に見る如くである。現在山丘の端に嘗る ζ の部
分は切断された背面の一部分を除いて、左右前面とも
に 人 家 が 近 接 し て 建 ち 並 ん で お b、 そ の 或 者 は 裾 の 部
形を損じたととろ少くないの
分を削 bなどして‘鴬に.
で あ る が 、 外 観 は も と よb のこと、示す平面形に於い
②
て丘自体が一見前方後閲故たるととを思わしめる。闘
収第二の 鋭 山 猛 君 の 墨 測 困 は そ れ を 如 貫 に 示 す も の で
ある。
園で切なように此の丘の形は、 とれを前方後国境と
して見ると、前方丘が比較的 長 くて且つ大きいものた
る こ と が 認 め ら れ る の で あ b、更に開 墾 ぷ れ て 畑 と な
った西側面の様子からすると、前方部が二段に築成されて、前面がやや聞き、上辺が可なり平坦であったとする推測を
も 加 え し め る 。 そ し て 後 岡 部 は そ れ よ bも 一 段 高 く な っ て い る の で 、 墳 丘 の 形 た る や 前 方 後 間 形 と し て は 整 う た 外
形をしたものという事が出来る。とれが築山なる都呼のある所以であろう。
第二闘は以上の現肢に劃して別に制られたと認められる部分等を補足して、試みに描いた本来の形の想定固であ
- 5ー
古墳所在地園
国
第
る が 、 そ れ に 依 る と 墳 丘 の 主 軸 は 、 方 伎 の南 北 線 か ら 、 約 三十
度西によった線上にあって 、前 方部をその方向に置いて h
ob 但 し 以 下 記 述 で は 便 宜 上 す べ てとの主 軸 を 南 北 線 と 見 な し た こ
と を と と で 註 記 し て 置 く ! 、 そ の 長 さ は 約 二 百九 十 尺 、 前 方 部
の幅約八十尺、 高昌三 十 尺 内 外 、 後 間 部 の 径 は 前 者 よ bも幾分
か 大 き い 程 度 で 、 高 さ に於いて十 五 尺 仕高かった ととが知忘れ
規模にあっても相官なものたるを思わしめるのである。
- 6ー
以上は本墳丘 の外 観 で あ る が 、 そ の 築成につ いて見るとなる
、と‘始に慣れた山丘の 端 を 切 断 し ている点 と連関し て、その大
半 が 自 然 の 丘 を 利 用 、 修 飾 し た も の た る と と が 嘗 然 注意される
べきである。いま人家 の魚に 倒 ら れ た 部 分 注 b 、背後の丘を切断
した部分の 随 所 に 岩 盤 の 露 出 し て い る の が 、 そ の事を 示 す ばか
b でなく、その 点は 所 謂墳丘の 比 較 的 上 辺 に あ っ て も 認 め ら れ
る のであ る。先 づ と れ を 前 方 丘 陀 就 い て 徴 す る に 、そ の南縁 に
近く、境上に登る 魚 に 設けら れ た 小 径 は ‘ す べて 地山を削って
三尺が 盛 b士 であるのみで 、 下 は す ぐ 地 山 と な っ て い て、前 者 の 表 面 近くに 礎 石 の 泣 存 が 認め ら れる と いう賀 状に
作 ら れ て あ る 上 に 、 上 辺 に 近 く 見 受 け ら れ る可な b大 き な 崩 壊 部 分 ー そ の 一部に小石澗がある ー で も 頂部の表面二
墳丘の想定原形闘(梅原作園〕
地山と封ごととの関係指示の壌丘縦断面固(梅原作園)
あ る 。 後 関 丘 は い ま 芝 生 と な っ て 、 前 面 に 低 い 石 垣 を 作 っ て 、 開 墾 3れ て 畑 と 左 ク た 前 方 の 上 面
と直別主れてあるが、背後の開墾して一部分果樹の植えられた部分では、可なりの上位にまで岩
盤の露出があって、 ととでも異の盛士の上部に限られていることを推ぷしめるのである。そして
此 の 点 は 後 に 遮 ベ る 後 丘 に あ る 石 室 の 下 部 の 構 作 の 上 か ら 一 層 よ く 碓 め 忘 れ て 、 盛b上げられた
部分が前方丘よb高 い 上 丘 に 限 ら れ た こ と が 分 別 す る 。 そ う す る と 本 墳 丘 の 示 す と と ろ 賞 際 に 盛
①
b上 げ ら れ た の は 扱 く 一 部 分 で あ っ て 、 他 は 丘 尾 を 利 用 修 飾 し た も の た る 点 で 、 近 時 明 確 の 度
を加えた畿内を中心とする古式古境の墳丘での貫際と同じ性格を持ったことが知られる次第であ
る
。
-次に此の境丘に於ける外部的な設備としては、前方部の上辺から西宇部其他の拓かれて畑中、某
樹固と在った部分には、 いま特にそれと認められる目立った何等の徴証おも見出すことが出来ず
後 岡 上 部 の 碑 石 と 石 棺 の 遺 存 が 目 立 っ て い る に 過 ぎ な い 。 併 し 進 路 氏 に 従 ふ と 三 段 に 築 成3 れた
④
という後関丘の上辺では、嘗初の殻掘の際、東南辺に埴輸関筒が遺存していたといい、嘗時その
①
破片の蒐集されたことを察せしめるものがある。それと共に更に近年までは前方部上面の東縁に
近い小径に沿ふた上速の崩壊した部分に点々と間隔を置いて閲筒破片の遺存していたのを、進藤
氏なb松尾一服作兵が目撃したとのととである。して見ると、墳の上部の右のような位置にもと点
々と回筒を樹てたものと察せられる。それと共に後者の崩壊面の封土部の上面にはいまも少なか
PD
向 機 石 の 遺 存 が 認 め ら れ て 、 以 前 忙 は 現 在 よ bも 一 層 敷 最 が 多 か っ た と 停 え る の で 、 少 く も 同
- 7ー
部に葺石があったととも考えてよいようである。果して然らば本古境また外面の施備の点でも、近畿の古式古墳に
この種の資例はいま一キ枚血帯するの繁にたえないのであるが、試みに報骨書の会にされた一一一身謬げるならば、.清一江蒲宇一郡安土村瓢
この闘は松尾氏の配慮で昭和二十六年度に鏡山哲の作製した卒面闘に、筆者が遁般の調査に蛍って若干の修正を施したのである。
港藤坦卒氏に擦る。
於けると相似た面を持っていたということになるのである。
︻
詰
︼
ω
ω
ω
掲)の如きがそ・れである。
諌山中門攻(﹁滋賀懸史蹟調査報告﹂第七創参同開)揺津川港郡高ら岡山古墳(﹁日木古文化研究所報管﹂第四﹁近畿地方肯墳の調査﹂所
既記の吉村氏の一女では、古墳の乙丙とも最初に副葬の品目を摩げ、石棺の存在を記して後に改めて共に土器等とあるが、木台墳か
るのが穏首な見方として、.ここに傍証となり得るであろう。
い。併し進藤坦平氏が先考より聞いたとしてかたる所は次の如くである。 と の 古 墳 は 元 来 築 山 と 砕 し て ‘ 古 く か ら
h e・み
上に千両箱が埋めてあって、大晦日の晩には鐘のなる一音が聞かれると停えられていた。所が明治四十年代になって
三 角 と い う 地 方 で の 好 事 家 が 、 稲 岡 牒 の 西 部 か ら は じ め て 、 東 松 浦 郡 地 方 の 古 境 を し きb 忙 殺 掘 、 附 近 の ﹁ 鬼 ガ マ
①
畑﹂と都する地点の石室古墳おも採掘して遺物を見出した事が、 一つの刺戟となって、建に土地所有者たる江口斧
- 8ー
ら土器の出土したことは届書はじめ-切の所俸にない。さわばこれば、その記般の順序から見て埴輪円筒の破片を土器と誤ったとす
地方の古墳では、このように時に円筒列の可なり間隔を置いて封土に樹てられたものがある。何年筆者の調査した周防柳井の茶白山
吠況
一﹁考宵壌雑誌﹂第十一宅八、九両銃所掲
古 墳 の 場 合 の 如 き は そ の 一 例 で ゆ め る ( 梅 原 ﹁ 周 防 岡 玖 珂 郡 柳 井 町 水 口 茶 臼 山 台 境 調 査 報 告'
参凶 NU
経過と内部
の
と の 古 墳 の 礎 掘 の 動 機 なb経 過 陀 就 い て は 、 営 時 の 記 録 に は 皐 に 、 そ の 年 時 を 記 す る の み で 、 一切停える所がな
設
掘
の
(
4
)
(
5
)
三郎氏の手で、右の停えにある千両箱の有無を確める魚に、三角氏の着手に先立って護掘したというのである。そ
τその経過は、先づ鍛の棒を用いて、頂部から3ぐbを入れたところ.後岡部のやや東寄bで、表土下二三尺に
し
石材の存するととが分った。この地下の石材は左右に段々と深くなって埋まっているようなので、同部を先づ掘っ
て見ると、上部の尖った石室の存在を認め待たが‘阿部からは深いその内部に入ることが出来ないので、改めて南
側 の 側 壁 の 一 部 を 捌b壊して内部に遣し石棺を聞いた。然るに来にまみれて遺骸ーと鏡玉類が存したのみで、千岡箱
な ど な く 、 本 来 の 室 の 位 置 が ま た 一 方 に 偏 在 す る こ と か ら 疑 を 懐 い て 、 翌 日 更 に 人 夫 四 十 人 許bで 西 方 の 部 分 に 稜
掘を及ぼした。庭が同部でも、前のと相並んで同じよう左石棺が上部から相営深い位置に遺存、それを経って、ま
七
個
四
百
管
ノj
玉
鏡
ニ面
二九-佃
- 9ー
た 石 室 の 管 ま れ て い る こ と が 確 め ら れ た 。 但 し 此 の 方 で は 石 室 の 上 部 は 玩 に 破 壊3 れていたという。
そ の 際 環 想 に 反 し て そ れ ぞ れ の 棺 内 に 遺 骸 が 割 合 に よ く 保 存3 れ て い た の で 、 そ の 古 い 墓 た る と と が 強 く 地 方 人
士の意識に上って、規模の点から貴人のそれに相違ないとし、途に奈良朝に九州で亡くなった藤原庇嗣並びにその
侍者の奥部械とす的見方が生じ、完全な東方の石室の保存と共に、西方のそれは石棺だけを原位置の上部に持ち上
げて、現在見る保存の法が訴ぜられたというのである。
以 上 の 護 掘 の 経 過 に 較 べ て 、 そ の 際 そ れ ぞ れ の 石 室 なb石棺内に如何在る校、況に遺骸なb副 葬 品 が 存 し た か の 研
、
究上重要な事項については、発掘の翌四十二年二月十二日附佐賀腕知事西村陵奥夫から宮内大臣田中光額宛の屑書
玉
鏡
忙、出土した遺物の品目を
大
勾
在して
化石環
一一個
二本@
Ee
、
,
.
,
,
,
玉
接見ジタ Y モノナ H
ノ
MY
一四七四個
ノ上グ
頭 部 ヨ リ 足 部 迄 ノ 長 六 尺 余 ア y タ Y由ナ Y 毛、人骨川何レモ取 η
ρ
-めていたが、
丑が各約一斗あったとなし‘棺内に北枕に伸展甜明示れていた遺骸については二者ともに﹁完形をとY
卸ち先ず翁が作製した右の石室闘の附記に、二つの石棺内にはそれぞれ朱を以て内容物が埋められていて、その
山肌態が覗われ科るのである。
示し-ながら、筆者の質問に答えて、石棺の内外に於ける副葬品の遺存状態を話3 れ た の で あ っ た 。 そ れ で よb よく
翁 が な お 存 命 中 で 、 早 く 丹 念 に 描 い て 置 い た 東 石 室 の 十 分 の 一 の 園i そ れ に 就 い て は 次 項 に 鯛 れ る で あ ろ うllを
⑦
然 る に そ れ に 闘 し て は 幸 に も 、 筆 者 が 最 初 に こ の 遺 跡 を 訪 れ た 昭 和 十 四 年 三 月 に は . 発 拘 嘗 事 者 た る 江 口 斧 三郎
とあるのが.その主な知見で、記録の上かちするそれは概めて不充分なるものに過ぎない。
テ瓶二蔵置ジタリノ(下略)
①
一、石櫨内ユハ人骨ア y、 東 方 石 櫨 内 ノ 骨
と 記 し て あ る と と と 、 そ の 前 年 の 十 二 月 八 日 附 屑 書 に 添 え た 調 査 書 の末尾に
接見シ、腐蝕セ Y万剣月一櫨上士砂ノ中ヨ
腐 蝕 セ 戸 刀 剣 一 本 、 藤 原 焼 嗣 ノ 墳 墓 ト 認 ム ペ キ 石 櫨 内 ヨ 9前 記 以 外 ノ 大 鏡 、 小 鏡 、 化 石 環 、 管 玉 、 小 玉 、 勾 玉 ヲ
江 口 斧 三 郎 ガ 明 治 四 十 一 年 十 一 月 二 十 四 日 接 見 ジ グ Y A従者ノモノト思料セラ Y Y モノノ石横内ヨリノ大鏡二面、
リ
負
一方のそれは枯朽して或る部分は手を燭れると忽ちにして段損した。共に男性である。﹂江口翁のその時の談話で
-10ー
万
は右の枯朽していた一体というのが西棺のもので、また被葬者を共に男性としたのは、それ等を観た地方の臨時師達
の遁じての見解に基いたとのことであった。
精子(深縁色)
-吠比二つの石室と石棺内から見出した副葬品については‘上陀引用した屑書陀載せた品目数量の外に、同じく解
方解石
設の勾玉七佃の内訳として下に分注して
緑玉石
外 に 異 珠 プ あ bし も 風 化 し て 用 を な3ず
と あ っ て 、 も と 賞 は 八 個 あ っ た と と を 示 し て い る の で あb 、 夏 陀 末 尾 に 万 剣 矢 ノ 根 等 教 十 個 あ っ た と と を 記 し て あ
る 。 右 の う ち 勾 玉 に 閲 し て は 、 質 の 異 珠 で あ る と す る の は 固 よb 信 じ 難 く 、 恐 ら く と れ は 攻 璃 の 風 化 し て 銀 泥 化 し
たものと察せられるが、進藤氏も明にもと八個であったことを記憶していると言い、後者も準藤氏に従うと、それ
は 鍛 剣 、 銭 刀 類 十 数 日 に 斧 頭 の 穂 袋 の あ る も の - 口 . 鍛 餓 の 束 等 で あ っ て 、 是 等 は 永 く 江 口 家 に 保 存3 れ て い た が
前年唐津の展覧命日比出品して.そのまま返却されないようで‘行方不明になったとなし以上の鍛器類に劃しては、
江 口 翁 、 準 藤 氏 共 に 、 す べ て 東 棺 の 棺 外 陀 減 量3 れであったとしている。
3 て銃に引いた屈書から主要注副葬遺品中、西棺にあったのは大鏡二百と万剣一本だけで他は悉く束棺内に存し
①
たことが知られるが、その状況として江口翁が描いて筆者に示した園(第四園)比依ると‘北枕に伸展葬された遺
骸の頭辺を繰って、前側石の内側に三面、左右に各一面宛都合五面の鏡が、恰も側石に立てかけたような風に置か
れてあって、うちに位至三公鏡が含まれていた。次に八個を教える勾玉類は多くの他の玉類と一所陀遺骸の首から
拘の遣に互って、恰も首飾としての侃用を物語るような風に見出された。なお上向した遺骸の右の手先の遁にも管
-11-
五
刀倒川仏汗
Z
J
叶
置は肢にはっき bと記憶していないと云うととであった。
玉ないとの存在が注意3れた
とある。肩書に化石環主あ
る碧玉で作った十一佃の石
釧に関しては‘棺内にあっ
たことは問遣い左く、或は
脚の岡隅にあったようにも
閉山うが、その正しい所在位
西 棺 の 方 で も 江 口 翁 か ら 聴 い た 所 で は 、 二 面 の 大 鏡 は 共 に や は b. 上 向 伸 展 葬3 れ た 遺 骸 の 頭 の 方 に あ っ た と の
ととである。そして二面のその鏡は、径凡そ七寸位あったと云い、博物館の台帳の記載では牧臓番競第六一九六の
同 箔 の 三 角 縁 三 紳 三 獣 々 帯 鏡 と 在 。 て い る 。 但 し 届 書 に あ る 刀 剣 一 本 に 就 い て は 、 いまではそれのあった位置は明
でない。吉村尽の話では、三角氏から短剣であったととだけは聞いたと云うが、他方博物館の台帳の記載には万身
一口となっていて、万か剣かすらも確め得ないのである。
以上現在知 b待 た と こ ろ は . 国 よ b種々の点で不充分な憾の多いものであるが、而も両棺止討に棺内の頭透に鏡を
副 葬 し て . 東 棺 で は 更 に 遺 骸 が 玉 類 を 侃 用 し て お b、棺外に載利器類を置いたことだけは間違いないようである。
L
然 ら ば こ の 事 は 副 葬 品 減 量 の 形 を 示 す も の と し て . 以 下 に 越 ベ る 主 体 の 構 造 な b、遺物そのものの 賀際 と 連 関 し て
。
白 か ら 遺 跡 の 性 質 を 推 す 上 に 示 唆 す る も の が あ る で あλ ぅ
-12ー
~..8
O
PD
・-も重ね
との項の最後に附記すべきは、以上の後関丘に於ける遺物の外に、本古墳では前方部からも出土品があったとい
う古俸の存することである。 乙 れ は 筆 者 が 最 初 に 賞 査 し た 際 に 耳 に し た ば か b で な く 、 昨 年 七 月 進 藤 氏 か
て、兵がその事を先代から聞いているとの話があヲた。古い前方後同墳の前方部から泣物の出土する例は近年その
歎 を 加 え て 、 必 ず し も 例 外 と い い 符 な い 様 で あb. 岐 に 述 べ た よ う に ζ の 古 境 の 前 方 丘 で は 東 半 の 小 径 に 添 う た 部
分 が 、 可 な b掘 b凹 め ら れ て 、 そ こ に 石 の 小 嗣 が 秘 ら れ て あ る と と ろ か ら す る と 、 そ れ が 或 は 右 の 遺 物 出 士 の 所 停
に 結 び つ く の で は な い か に 思 い 及 ぶ の で あ る 。 但 し そ の 嘗 否 は 固 よb確め待ない。 さ れ ば い ま は 皐 比 そ う い う 停 え
この討喰が吉村氏の一文に谷口古墳甲とあるものと枕定される。
この事は佐賀鯨知事から提出した常時の屈書に見えて、附近の大村榊祉が民嗣を抱ることから附曾きわたものと察せられる。
この瓶に磁置したとある人骨は、,現在そのまま東棺内に置かれてある。見たところ四肢骨などなお良好な保存欣態を一示している。そ
但 し こ の 刀 剣 の 数 は ・ 他 の 報 告 に は 三 木 と な っ て い て 、 一 身 の 形 を 尉 示 L てあり・それが現在博物館に牧蹴ずるものと一致する。
とで木調査の機曾に専門家に依る人類容的な詳しい検討を企劃したのであったが、.種有の事情で果さなかった。他日そのことの資泊
されるのを矧待する。
ても力を致したのであった。
江口斧=一郎翁はながく地方の豹育に従事されていたので、この方面にも白から関心を持つτ、この様な闘を描︿と共に、.保存につい
室と石棺
尤もこの第四国の氏の描いた棺内の吠態の外は‘.石棺なり室の工合など、筆者の手で若干の修正を加えた。
後図丘に於ける石
-1
3ー
のある乙とを録ナるにとどめるの外はない。
で位
四
置
(
4
)(
3
)(
2
)(
l
JI
孟
(
5
)
(
6
)
前項でやや詳しく述べた礎掘の経過と遺品出土の状況からして、 こ の 古 境 の 主 体 構 遣 で あb、 遺 物 を 減 し た 部 分
が 、 境 丘 の 主 要 な 後 関 部 に あ っ て 、 そ れ は 主 軸 に 平 行 し て 相 並 ん で 替 ま れ た こ 個 か ら 成 立 っ て お b、 共 に う ち に 石
棺 を 戒 し た 竪 穴 式 石 室 で あ る こ と が 知 ら れ る の で あ る 。 右 の ご 者 の う ち 一 方 の 東 遁 に 位 置 し た も の は 、 いまもほぼ
原形のままに遺存してお b、 西 遠 の そ れ も 、 石 棺 が 上 面 に 持 ち 上 げ ら れ て 保 存3 れ て い る 点 で 、 そ の 賞 際 お も 明 に
するととが出来るのである。尤も両者の本来の正しい位置闘係その他陀就いては、礎掘に依る破壊に加えて、
の石室は破損が著しかったというので埋められてしまっている今日それを確めるに由ないが、先ずその卒面的な間
-14-
隔に闘する点では、営時の屑書に、二つの石慣の距離が二間余と書いてあるに加えて、既に奉げたように西方の棺
が ほ ぼ 原 位 置 の 表 面 に 持 ち 上 げ て 組 立 て ら れ た と い う か ら . そ れ を 知 る 手 懸bがあるわけである。 乙の場合一方の
石棺が上部の覆われた地下深くの石室内に存している点で二者の正確な闘係を明にするのは蓉易でないが、筆者の
測定した結果かちすると、 両 石 棺 は 約 十 二 尺 の 間 隔 で 相 並 ん で 、 西 方 の そ れ が 三尺 近 く 北 陀 寄 っ て い る と 左 が 認 め
、
ら れ る 。 庭 が 両 棺 と も 、 周 園 に そ れ よbも 大 き い 石 室 が 作 ら れ て い た の で あ る か ら . 石 室 相 互 は よb接近してあっ
たわけで、現存の東石室の規模から推すと、その間隔は八尺内外であったと解せられるのである。
次に岡棺室の封土内に於ける位置であるが、現在では前面に低い石積のある後回丘上に、大正十四年四月一日比
建 設 し た 標 注 の 碑 石 を 中 に し て 、 そ の 西 方 に 棚 を 繰 ら し た 石 棺 が 置 か れ て あ b、 他 方 、 下 方 に 石 室 の あ る 標 識 と し
て作られた石積みの低い壇があって前面の下方に戸口が作忘れ‘ 両者の相調的な関係ム一共に、 一見封土とそれとの
様子おも推§しめるのである。右の現状からすると‘両者の位置は後間丘のやや西に片寄った趣を呈している。併
しとれについては現在の封土が、南と百の部分が開墾な刊とで削られているので、常然その点が考慮されなければな
方
ら 在 い 。 か く て 原 形 に 復 し て 考 え る と 貨 は 後 閲 丘 上 の ほ ぼ 中 央 に 相 並 ん で い た と し て 、 大 な る 誤 bがないようであ
る 。 圃 版 第 三 の 卒 面 闘 は 鏡 山 君 作 製 の 墳 丘 平 面 園 の 一 部 に 、 筆 者 の 測 定 に 基 く 、 主 体 の 位 置 を 書 き入れたものであ
っ て 、 圏 中 の 賀 線 が 現 朕 . また点線で描いたものは、想定した復原形を一不す。以て右の闘係が別にせられるであろ
更に二つの主体と封土との立面上の関係に就いては、現存の東石室は明にすることが出来るが、西石室ではただ
前 者 と 相 似 た 深 さ に あ っ た と 停 え る ば か bで 、 確 め る 手 段 が な い 。 右 の 東 石 室 の 位 置 は 、 現 在 の 封 土 の 表 面 と ほ ぼ
同一面忙石室頂謹の積石部があって、上に記した石積の壇はいわばそれを被護する鴬に作られたと解すべき賞肢に
ある。石室の高昌は後述するように.石棺の四周に於ける栗石敷きの面から約六尺五寸であるので、天井に相常す
る 一 尺 の 部 分 を 加 え て も 石 室 の 位 置 は 外 容 に 較 べ て 、 可 な b上 謹 に あ る わ け で あ る 。 尤 も こ と で も 石 室 石 積 み の 上
面 が 、 接 掘 の 際 に は 嘗 時 の 表 土 下 二 尺 許 b の所にあったというから‘本来の状、況は、少くも闘版第三の立面闘に点
線で示すような工会であった筈である。ちなみに右の立面闘の一つには西石室に就いても、ほぼ同じ深さという停
えに某いて‘便宜その位置おも描いて参考に供えた。庭がその固からすると石室の石積みの下辺が後闘の最上段の
某底部とほぼ一致することが注意されるのである。とれに就いては個々の記越の後に改めて記するであろう。
=.東石室とその石棺
二者のうち一方の東石室は、脅掘の嘗初破壊した上辺の一部を覆い、 ま た 次 に 穿 開 し て 内 部 に 到 達 し た 南 側 壁 の
一部おも修補.その上部に戸口を設け在いとしたととではあるが、他はよく原形をとどめてお b、その一不す平面は竪
-15ー
う
九尺七寸、横幅五尺二寸内外のほぼ正しい長方形をなし、屑平な板状の水成岩を用いて壁を築成したのは多くの竪
穴式石室に見る庭と軌を一忙する。然しとの石室の四壁の築成は下方約二尺内外の部分の面がほぼ垂直に積み上げ
てあって、それから上の方でも、前後の両壁面では、内方への持ち出しが3 まで額著でないのであるが、左右の両
側 壁 の 方 は 、 反 割 に そ れ が 目 立 っ て い て 途 に 上 部 に な る と 、 両 壁 が 相 接 し て 示 す 断 面 が A口掌形を是する。そして上
(閏版第四﹀
に別個在天井石を用いていないという特殊な架 構を示すととが注目されるのであって、との如きは他になお類例代
乏しい。
以上の四壁の積み石の工 A
口
は 国 版第 五 の一に載せた北壁の寓異で見るように、また通じて同じような趣を曇する
が、仔細に見ると内面の垂直な一荷主二尺ばか b の下辺の部分は、用材が概して薄い板石を用いて可嘩に積まれてあ
、
るのに封し、それから上の持ち送っている部分の石材には、よ b長 手 の 大 形 の も の を 混 じ て 、 積 み 方 が や ヤ 粗 雑 に
見 え る の で あ っ て 、 殊 に 上 辺 の 天 井 部 に 営 る 部 分 に 於 い て そ れ の 目 立 つ と と が 指 摘3 れる。そしてとの事が皐なる
偶然の現象と認め難いものたるととを思わしめるのである。
次に石棺は右の石室の中央にあって、頭部を北陀し、それぞれの四側が、宝の壁面から一尺王寸在る努距離を示
すという正しい位 置を と っ て い る 。 棺 は 長 持 形 組 合 せ 式 な の で 、 そ の 頭 部 は 高3 、幅などすべて他端に較べて大き
く作られているが、 との棺では近畿地方に多い同式棺のように身の前後壁の上面が盛b上った作 bではなく、ナベ
ての四側が一文字の上面をなし、その上に蒲鉾形の蓋を外被せにした点に若干の 差 具を一不すものである。庭でとの
石棺の四周は身の上面から五寸内外の慮で、 室 の栗石敷きとなるので、 大 部 分 は そ の 下 に 瑚 ま っ て い る わ け で あ
る。部分的に調べた所では室内の右の栗石敷きは、 いずれも厚3 五六寸で以下は砂士の培、となっている。然るに他方
-16ー
でとの磯居の下面が室の四壁の石積みの某底面と一致するととが同じく部分的な
調 査 か ら 確 め ら れ て 、 そ と で は 下 方 の 土 居 は堅い地盤たるととを思わしめるもの
がある。棺の身の深さは、内部で測定すると頭部で二尺内外あるので、右の所見
ム﹂併せ考えると、との場合では先ず地盤下に長方形の壌を穿って石棺の身を組立
ある。第五闘は翁の描いた闘のその部分を寓したものであるが、との聞に某くと
λ、だ。そして所鬼を聞に描いて置いたので、それに筆者が松岡史君の協力を待て
とのような,賀状なので、割合に狭い室内に埋まっている石棺の下半の詳細を調
べることは、頗る困難であるが、幸にも稜掘のあった直後、棺に藤原厩嗣を葬ヲ
たという見解が生じた ζと か ら 、 江 口 翁 が 或 は 棺 側 花 関 係 の 文 字 で も 彫 っ て あb
は せ な い か と の 考 え を 起 し て 、 丹 念 に 段 々 左 四 周 を 掘b つ づ け 建 に 底 石 に ま で 及
行うた部分的な調査を併せると、ほぼ概要を明に出来るのは喜びとするところで
棺の底石は厚い板肢をした長方形をして、前後の中央に各一個宛の固形の突起が
作b由 3れであって、水-ゃに置かれたその上に組立てられた棺の総高は、頭部で
二尺八寸五分、他端で二尺四寸を測ることが註記されてある。
3 て棺自体の構造上の細部に於いて先ず基ヤ可きは‘その底石の上面に、頭部
-17ー
てて、間隙を埋め、然る所にその周園に石室の壁を築いたと見る可きで、上越の棺
東棺下底部形欣園(援江口氏圃〉
の石室に謝する正しい位置闘係のそれに基いたこ と
E がまた考えられるのである。
第五園
{'A}
に 立 仮 な 石 枕 が 遺 b つけられているばか bで な く 、 伸 展 し て 葬 る 魚 に 、 体 躯 の 部 分 も 可 な り 割 b込 む と い う 加 工 の
あるととである。 いまやや詳しくその状況を記すると、長3 六尺五寸、幅頭部で一尺六寸五分、他却で若干狭まった
底の面の四周にすべて幅一寸五分ばかりの縁を残して、その外
は頭部八寸許 b の 部 分 を 除 く 主 要 な 部 分 を 周 辺 が 丸 味 を 持 っ た
浅い U 字肢に彫 bく ぼ め て 、 そ の 深3 は中央で約二寸を測る。
と れ に 劃 し て 頭 部 で は 、 級 の 面 よbも や や 高 い 半 開 形 状 の 突 帯
を作ったうちに、後頭部を置く魚の丸い凹みが穿たれて、それ
- 18ー
が界の実刑併の中央に加えた切b快 き に 依 っ て 、 体 躯 の 凹 み の 肩
に 嘗 る 部 分 に つ づ く と と 寓 異 ( 闘 版 第 五 の 二 ) なb、第六園の
拓影の示すが如くである。そして是等の聞の細部にはそれぞれ
若干の割引 b方 が 認 め ら れ る 。 右 の 形 状 は 改 め て 説 く ま で も な く
遺骸を直接に仰向伸展して葬る魚の加工を一不すものであるが、
岐 に 前 項 に 書 い た よ う に 発 掘 の 際 遺 骸 が そ の 通bに 北 枕 に 葬 ら
(第四闘)
れてあって、市も遺骨の保存朕態が良好であったとと江口翁が
その状況を図示の上筆者に物語った如くである。
右の庇石上に於ける側石の組合せ方は、先ず左右の両側石を
置いて、然る後に、その前後端に近い内面に作った溝状の凹所に
東相石枕偏影(依岡史 t
H
石影)
第六園
疋等側石のすべてがまた底石上面の周閣に作られた凹みの上陀はめ込んで、組合せの
前 後 壁 を は め 込 ん だ もので ‘日
緊密を期したものたること、次に述べる西棺なり、その他の例から推されるのである。棺葦は蒲鉾形であるが、厚
さ中央で六七寸という割合に薄手攻、もので、表面に却臆して同様な引 b方 を 施 し た 下 面 の 四 阿 に ‘ 若 干 の 縁 を の と
し て 一 寸 内 外 の 掘b込 み を 設 け て あ b、それが身の上面の四周の外縁に作られた一白取 bに外被せになる様に出来て
ある。なおとの 蓋 並 び に 身 の 左 右 の 側 石 の 前 後 に は そ れ ぞ れ 同 形 の 大 き 者 突 起 を 遣 っ て あ っ て 、 そ れ 等 に は 簡 単 な
がち創出b方 を 施 し て い て 、 加 工 が 入 念 で あ る と ﹀-闘版第六の賞 測 闘に見るが如 ︿である。
以上は現存する東石 室とその石棺に就いての所見であるが、それらの示す所から併せて考えられる一つの重要な
点は、右の棺な b石室 が如何にして 管ま れ た か の 経 過 に 関 し て で あ る 。 先 ず そ の 点 で 棺 の 下 半 の 賀 状 と 室の控の 工
A
口とから、既に欄れたように、 こ こ で は 最 初 に 地 盤 を 所 用 の 大 き ぷ に 穿 っ て 墳 を 作b. 同 所 に 別 に 用 意 3 れた棺の
身を置き、 四 周 の 間 隙 を 埋 め て 、 然 る 後 に 棺 の 四 方 に 室 の 墜 を 積 ん だ と と が 認 め ら れ る 。 庭 で そ の 後 者 の 壁 の 積 み
方は上下に 差異 があって、 下方約二尺の高 3 が入念で、内面がほぼ直に積まれてある。 との両者の管造上の注いに
意味があるとすると.埋葬という謀本的な問題と連関して、もと下部の壁のみが作られて、それと石棺との聞に磯
石を敷き形を 整え てから、府内への 遺骸の諜置 、l それは 棺の 下底の加工から木 棺などに納められるこん・なく、布
な ど で 覆 う だ 簡 単 な 庭 理 の も の で あ っ た ろ う ! が 行 わ れ、棺の内外に副 葬 品 を 置 い た と と が 考 え ら れ る 。 か く て 葬
廷が終って改めて室の上部の築成がつづけられたとせられよう。そして此の場合左右両壁が特殊在架構を一不すとこ
ろから右の左右壁が先ず作られ、後に前後壁をなしたとする推測おも加えしめるのである。 とのよう在経過を試み
忙園で順序ずけたものが第七 園 で あ る 。 現 賞 の 問 題 と し て 室 を 管 ん だ 後 で は 、 到 底 こ の よ う 在 室 内 に 棺 は 国 よb の
-19-
em品列企
。
~R
0~
とと遺骸ないと葬b待 な い の で 、 如 上 の 推 定 は 誤
らないであろう。然らば乙の石室は常然なこと
ではあるが、本来車)の被葬者の篤の許霊的な
崩壊して完形を存しなかったとのととである。
位置の地下深くにあって、四阿に石室が管まれ、
三、西
石
棺
どないが、江口翁の話では、その幅は東石室よ
そ乙で石 室の規模に つ い て は 、 測 定 し た 数 字 左
その構造もほぼ同様に見受けたが、早く上部が
い。併し江口翁その他の体えるととろ、棺は現
かbで 、 石 室 の 賞 際 を 推 す 上 の 確 か な 援 所 が な
地上に持ち上げられた石棺が保存されているば
東 石 室に謝 して、 いま一つの西方の主体では
の
bも や や 庇 か っ た よ う に 記 憶 す る し 、 下 部 に ま
-20-
埋葬の設備たるととが一層明確となるわけであ
東石宅築成埋葬順序想定圃(篠原作園)
る
。
第七園
た磯石が歎いてあったという。されば衣に述べる主体たる棺の殆んど同大同形式である点、と併せて、その同似を認
めてよいであろう。
①
きて石棺は持ち上げる際蓋が二つに割れた外はよく原形をとどめて、それが地上に組立てて保存苫れているので
細 部 ま で 明 に す る と と が 出 来 る 。 そ れ は 友 溶 岩 で 作 っ た 組 合 せ の 長 持 形 石 棺 で あ る と と 束 棺 と 援bがないばかb で
なく、大きさな b遺作の細部に於いても頗る相似たものである。即ち園版第七第八の官官具並びに第九の,質測固で見
rh
他方に若干幅の遁減
られるように、身の構成は細長い板挟の底石の四縁に近く溝を作って、先ず左右の両側石をはめ込み、然る後に端
に近︿前後の側石をはめとんだこと東棺と軌を一にしている。庭で此の棺では底石が一刻か
一部分の快けた所から、はめ込む側石の方では、短いながら一積の納放の突起
した板状の前後端に各一個宛の左右に長い楕同形の突起を作ったととがよく認められるのをはじめとして、底石と
側石井}の組立ての細部代就いても、
を作って、底石の凹溝に密着せしめている賞際の確められるのを記すべきである。
一端での幅一尺四寸六分、高さ一尺九寸余、他辺で幅一尺四寸弱
上面同じく一文字で、側石の四周に面取 bを加えた身陀外被せにした蓋の恰好また束棺に異なるととろがない。
そして右の棺の示す身の内法は長 3約六尺七寸、
高一尺七寸許b で. また相似てお b、 -人の遺骸を伸展葬するにふさわしい大ききである。との棺内の底石にも割引
一見平面に近く、それから他端の聞に左右とも一寸五分内外の縁をのとして、浅く縦長にU 字扶に剥
込 み が 作 ら れ て あ る 。 但 し 束 棺 の よ う な 手 の 込 ん だ も の で は な く て 、 頭 迭 の 約 八 寸 の 部 分 は 、 中 央 が 少 し 許b の凹
みを示す外、
って遺骸の葬置に備えてたもの、 との培一作から前者同様また遺骸を布吊ないとで被うて直接にその上に葬られた ζと
が推きれるのである。
-2
1ー
百棺はとのようにすべての点で束棺と同じ趣を呈するので、白から本来同時に計霊的に作られたとする解稗が加
えられるわけであって、とのととは本項の初比書いた両者の位置関係からいよいよその然るを思わしめるものがあ
る 。 尤 も と の 棺 の 方 は 、 前 者 に 較 べ る と や や 簡 で あ る 上 花 、 作 り も や や 粗 で 、 いまも蓋の突起の部分などにあらい
このように底に右枕を浩り出した石棺のあることは早くから知られている。筆者ば嘗て読蚊石清尾山肯墳の調査報管企書いた際、蛍
時知られていたその類の泰成を行ふて、品開末に附判明した(京都大事考中門事研究報停第十二般参照)のでゆめった。庭がその後段身と遁
肥前刷聞東松浦郡玉島村谷口肯墳東袋の石積
例が加わって、.今日では蛍時の倍に沼い伎になった。この新たに知られたものを表示すると次の如︿である。
肥前倒東松浦郡鏡村島田塚右棺
肥前闘小娘郡小城町山崎出土石棺
肥後幽玉名郡八嘉村大字向津沼所在石棺
肥後凶玉名郡陵会村中内墳
豊 後 幽 臼 杵 市 海 部 大 半 数訪 紳 下 台 境
ー
同上下山・宵境-一個
越前闘踊井市足畑山山台境石棺
讃岐闘綾歌郡栗熊村快天山中内境=一個
これを前者と併せ見ると、,その分布は西日太の各地に亘っているが、申で北九州と讃岐地方に特に目立って多いよ4 であり、また棺
の形式は削竹形や船形稿を主と L ていることが知らわるのである。
ここに体へられるが如き吠況で遺骸の長持形石棺に埼葬された例は、前年調査した丹後竹野郡竹野村毒土山中内墳のそれである。(京
都府史民名勝天然記念物調査報告第二十加参照﹀尤も問棺では底に川石を敷いて、埴輸の枕の上に開蓋が遣存した。
-22ー
利器で加工した迩が可なりはっき bと見受られるのである。
︻
一
語
︼
ω
(
2
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γ屯.
見
の
1
主
主
、昼王
物
七
面
とれ 等 の 副 葬 品 に 就 い て 注 意 せ ら れ る の は 鏡の 載の多いことと、 石 釧 の 多 数 に 存 す る 点 で 、と の後者は北 九州で
①
は 稀 有 な 事 例 を な す も の で あ る 。 鋭 か ら は じ め て 一 々 に 就 い て の 解 訟を試みる であろう。
で 、 接 掘 の 経 過 の 項 に 書 いたようにすべて両棺内にあったものと限忘れている。
鏡七面、勾玉七個、石釧十)個、管玉二百九十二個.小玉三種一千五百五十四粒、剣山身残快尖二日分、刀身片一個
室博物館が佐賀腕から埋蔵品として購入した遺品だけで.それ等は同館の牧減番競の六一九六から六二二六に至る
本墳の主体たる相並ぶ二つの石棺なり石室内陀存した副葬品中、現存するのは明治四十五年二月五日に嘗時の帝
氏
①
銃 一面、 強 形 凹 獣 (綬形文)銃 二 而 に 分 た れ る 。 そ し て は じ め の 二 者 は 形 が 大 き く ‘後 の 二 者 が 小芯い。 なお第一
の三面のうちの二面が院に述べた西石棺内に副葬されていたものである。
との四棺内出土の三紳獣々帯鋭二面(脚物一一山誠一ぽ)は共に径七寸二分の青 銅 口叩であって、夙に後藤守一氏の注
意したように、両者は細部の末に至るまでみ-く符節を併せた如く一致する同箔 鋭 である。 鈴 背 文 は 岡 版 第 一O の
一
に 載 せ た 一 面 に 見 る よ う に 、 鉦 を 競 っ て 便 化 し た 有 節 固 に つ づ く 内 阪 に は 、 六 位 の 素 乳 の 間 に 外 か ら 見 る よ う に紳
輸 を 交 互 に 配 し て お b. 克 に こ れ に つ づ く や や 幅 庇 い - 帯 に も 十 礼 の 聞 に 双 魚 、 歌 形 、 天 焔 等 を 回 し た 点 で 我 が 古
①
噴出土鋭に数の多いものである。是等の闘棋は.それ等の中で割合に整うて見えるが、併しなほ具形化した所が多
-23ー
五
鑑
示す鋭式からすると、所謂三角縁の三神三獣々帯鏡が三面、吾作明寛なる銘文のある同式鏡一面、位至三会双獣
鏡
いので、銅質と併せ考へて、 主 た 中 闘 の 鏡 式 そ 襲 う た 本 邦 上 古 で の 鋒 鏡 た る と と 殆 んY一疑う可くもない。但し此の
鏡では、その内直の礼の上に火焔肢の一種の山形文を添え、 ま た 中 で の 三 乳 の 下 陀 渦 文 化 し た 巴 版 文 を 容 れ な ど し
た所陀呉色があ b、 ま た 縁 に 近 い 幾 何 皐 的 な 帯 文 は す べ て 大 ま か で あ る 。 序 に 書 き 添 え る が こ れ と 同 箔 と 思 わ れ る
一見後鋳の
遺品が、構津三島郡阿武野村大宇土室字阿武山(東京閑立博物館蔵)と近江野洲郡大篠原(知思院減)からそれぞ
れ 見 出 さ れ て い る 。 と の 二 面 は 共 に 背 文 陀 型 流 れ が あ っ て 、 本 二 例 の よ う に 鋳 上 b は鮮かでないので、
ように解せられるが、市も仔細に検すると、 文 様 の 候 如 し た 部 分 が 寧 ろ 少 な い の で 、 先 鋒 の 出 来 の よ く な い も の と
すぺきょうでもあって、俄かに決し難い。
/一ノ一﹂
1ノ
Jノ
、
、
東石棺内にあった同式銃一面(博明日叩崎市)また径七寸二分の前者、と酷似しているが、その苧ピ縫っては一圏が
か す か に 認 め ら れ る の み な の を は じ め 、 内 医 の 礼 上 に 山 形 文 が な く 、 神 獣 の 異 形 化 の 著 し い と と な b、外院の帯圏の
¥闘版第 J
やや細かい点ないとに差遣がある。そして鍔上bも 前 者 程 鮮 明 で は な く 、 - 部 に 型 流 れ も 見 受 け ら れ る ( 一 O の二)
第 三 の 銘 文 の あ る 鏡 ( 一 辺 九 七 競 ) も 同 じ 鏡 背 丈 を 示 す が 、 と れ は 径 七 寸 で 幾 分 か 小 3く 、 そ の 上 神 職 の 形 式 化
が一層目立って、その一部に型流れがある。た、だとの銃では内匝を繰る素礼のある獣帯が、二方の双魚を表わした
部分をのとして、十五の礼聞の他の部分にた行左宇で、
吾作明寛甚局保子宜孫富無誓奇
問
。
(44のす)
なる十三宇を配しているのが珍らしい。但しその文字は稚拙で繋わず、且つ下半は文京も明でない。従って内医の
困文等ーと併せ見て、また妨製品とすべきこ左一夙に先師官問先生の設かれた如くであλ
然らばこの銘文とそは本邦に於いて用いられた最も古い文字の貫例をなすわけで、 日 向 岡 見 鋭 部 持 田 村 の 一 古 墳
-24ー
。 庭 で此の珍らしい 鏡 の 同 箔 品 が 、 昭 和
出 士 の 傍 製 鏡 の 縁 に 刻3 れ た ﹁ 火 鏡 ﹂ な る 二 宇 と 共 に 注 意 さ る 可 き で あ る
二 十 五 年 三 月 皐 術 提 掘 の 行 わ れ た 筑 前 閑糸 島 郡 一 貴 山 材 銚 子 塚 古 境 か ら こ 而 出 土 し て 、 比 較 の 結 出 来 、 共 に こ の 鏡 よ
①
bも 先 鋒 た る と と が 明 に せ ら れ た の で あ る 。
位至 三公 双 獣 鏡 ( 第 六 一 九 九 撹 ) は 径 二 寸 七 分 余 の 小 形 で あ る が 、 背 文 は 銑 孔 の 上 下 の 内 匝 に 縦 の 一 直 を 劃 し て
う ち に 一 方 か ら 見 る よ う に 位 至 三公 の 銘 を 上 下 に 配 し 、 そ の 左 右 に 相 封 的 に 線 支 出 の 文 様 化 し た 献 形 を 容 れ て 内 直
(
47 1 ) と の 種 の 鏡 は 中 闘 の 出 士 品
豊後図臼杵市臼塚古墳(前方後国境、石棺)
①
出雲閣八束郡玉湯村大字玉造築山古墳
(東京閑立博物館)
(忌部神社戒)
(同
同
上)
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報
上
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1
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兵
-25-
文となし、斜加櫛歯文帯を経て、素繰陀終るととろに特色を示している。
にその例が少く左く、系統の上で漠代の中期に行われた平面的な股龍文銃 の流れを受けたものと思われるもの、そ
⑦
c き れ ば 本 鋭 は前四 者 と 遣 っ て 舶 載 品 と 認 め ら
(
m
g・﹀・ロ)の紀年 鏡 がある
の最も簡単化した一鏡陀東貌天平三年
れ る の で あ b、銅質もそれにふさわしい。 白 銅 か ら 成 る 同 式 鏡 は 後 藤 氏 は 本 邦 で は 類 品 が 少 な い と い う た が 、 近 頃
周防関醤吉敷郡宇野令村大字朝倉赤妻古墳
の 所 見 で は ‘ 相 近 い 肥 前 閑佐 賀 郡 川 上 村 男 女 神 吐 西 南 古 杭 群 中 の 竪 穴 式 石 室 の出土例をはじめ、確 宜 なものに
伊勢岡一+応部豊地村大宇一+応宇筒野
偉大和闘山崎壇郡部介野村
が敷えられなおこの外に
和泉闘堺市百舌烏赤畑町カトンボ山古墳
、
r-
俸河内闘南河内郡道明寺附近
神奈川牒
筑前園
(故大脇正一氏蒐集品﹀
等 が あ っ て 、 相 常 在 教 に 上b. 底い分布を一不すとk が知られる。後藤氏は是等のうちの、周防赤妻ーと紳奈川勝出土
例を本古噴出土鏡と比較の上﹁全く大きといい、文様といい、等しいもので、或は同一型によって鋳造せられたも
①
のでないかとも息われる﹂というているが、詳しく見ると、よく似た鏡式ではあるが、制部に遣いがあるので‘そ
の推測は嘗らない。
二面の稜形四獣鏡は共に相似た我が妨製 鏡 によく見受ける内直が著しく縮少して、外遊の帯圏の寧ろ目立った式
-¥第六二
O O競
J
、 h 2カ厚くて、その四佃の同座礼の聞に配し
である。径二寸七分五厘のやや大きい方の一面(園版第二一の一 は作 リ
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F
-
も
た獣形は、既に首尾は認め難くなってあるが、左お体躯に営る肉彫がもとの面影をとどめたのに封し、他の径二寸
四分(一位とお一一一城一一)の方は、作 bが薄くて・内直の獣形が著しく便化し、棋形状ルパ呈している。なおこ面
大き Sに 較 べ て 面 の 外 反bが や や 強 く 、 か た い 絞 鍔 の 衣 を つ け -な が ら 、 前 者 の 一 部 に は 鉛 自 に 近 い 良 質 の 銅 の 地 肌
を存し. 金出手なれて、鉦孔線の磨滅の多いととが認められるのである。
以上事げた七面の鏡に就いては、中での舶載品たる位至三公銃が、その 鏡 式の上から鋳遣の年代を貌督の頃卸ち
丙暦三世紀頃と推測せられるのを外にすると、 四 面 の 三 神 三 獣 鏡 が そ の 某 く と と ろ 中 闘 で の 説 代 を 中 心 と し て 盛 行
したと認められる三角級紳獣鏡の式を襲った本邦に最も多い妨製品たる点で‘上限のこの時代を遡らないととを推
し科るに過ぎない。ただそれと連関して、かよう夜鋭と並んで本古墳に文様化の著しい小形鏡の手まれたものの存
-26ー
王
f
固
f
一個は破砕したとあるが、現在博物館に牧識3 れてあるのは園
院に書いたように費掘の際勾玉は八個あったといい、うち一個は方
するととは‘ との種の鏡についての闘心を新たにするものであるのを附記したい。
二、勾
解石、
版第一三の上段に載せた七個で、その内訳は 攻璃製二個、硬玉製
ヘ
屑 舎 に緑玉石 J
(とあるもの。)五個である。その硬 玉 の 勾 玉 は 敦 れ も 形 は 小 さ い が
うちに丁字頭二個が含まれて、それぞれ形は遠い在がら、古調を帯び
-27ー
ている。以下第八 闘 の 賃 測 固 と 併 せ て 一 々 に 就 い て や や 詳 し く 説 明 し
丁字頭勾玉其一 (第六二 O 四競)長さ六分一一盟、頭部の大きくな
ょう。
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い 細 長 手 の 形 の 整 う た も の で 、 体 の 断 面 は 丸 く 、 よ く 磨 研3 れてあ
る。色津は尾部に白斑があって、結色部は半透明。頭孔は一方から
ヘ第八 園の l 、 と の 挿 闘 の 勾 玉 の 配 列 は 闘
f 第一三の一のそれと一致ろせて参照の
版
穿たれて、 そ れ に 三 僚 の 切 目 が 加 え ら れ て あ る 。 と の 孔 の 線 迭 に や
J
や磨滅した痕をのとす、
使に備へた。以
下とれに償う。﹂
丁字頭勾玉其二(第六二 O五 競 ) 長 五 分 七 厘 . 前 者 よbもいく分
頭部が大きくて形が整うたもので、色調停も美しい。一二僚の刻線を添
(
2
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東棺出土勾玉形紋園(梅原作園)
第八圃
1
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(同園2
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(同国の 3
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(第六二 O 二 披 ) 長 六 分 一 一 盟 、 青 殺 の 色 躍 を し て い て 、 体 躯 の 断 面 は 丸 く 、 尾 部 の 太 い と と ろ 前 二 者
土た頭孔は両側から漏斗肢に穿たれてあってその孔総は阿面ともひいとく磨滅してある。
勾玉其
ム﹂達。ている。頭孔はやはb 両 側 面 か ら 穿 た れ て 、 そ の 縁 遠 の 磨 滅 し た の が ま た 目 立 っ て い る 。
勾 玉 其 二 ( 第 六 二 O 三銃 ) 長 五 分 六 匝 、 体 の 曲 っ た 度 合 が 強 く て 頭 部 が 大 き く な く 且 つ 扇 卒 な と こ λ古 調 を 帯
(同 固 の4)
びたものである。その尾部は丸味を帯びて級の色際が特に美しい。頭孔は一方から太く穿たれて、 とれも孔繰が
すb へ っ て 、 使 用 の 痕 が 顕 著 である。
勾 玉 共 三 ︿ 第 六 二 O 六 競 ) 長 四 分 九 陸 で 最 も小 3 い 。 形 は ゆ に 似 て 、 市 も 頭 尾 と も に 3 まで目立たないもの。
一面の方が太い。
(同闘の 5)
頭 迭 に は 白 斑 が あ る が ‘ 太 い 尾 部 の 硬 玉 の 色 躍 は 翠 色 し た た る 左 も 形 容 し た い 美 わ し 3 で、面の磨研度も高い。
そ の 届 ゃ な 頭 部 に 穿 た れ た 孔 は 双 方 よ b穿たれているが、
以 上 の 五 個 の 硬 玉 の 勾 玉 に 謝 し て 二 佃 の 琉 璃 製 勾 玉 の 一 つ ( 第 六 二 O 七 銃 ) は 長3 一 寸 一 分 余 あ っ て . 頭 部 が 大
き く 尾 部 の 細 い 形 を し て 、 濃 い コ バ Yト色を 是 したものである。頭孔は細くほ、ぼ直に 貫 通していて、 いまその上透
玉
(同園の 7)
の 両 面 に 垂 下 の 紐 の 名 残 え も 見 え ろ 磨 滅 の 痕 が 認 め ら れ る ( 第 八 闘 の6) 。 他 の 一 佃 の 玉 ( 第 六 二 O 八 披 ) は 博 物
⑪
館の台帳に﹁攻璃、 ヒ ピ 入 ‘ 長 さ 六 分 四国 ﹂ ー と あ る も の で 、 薄 水 色 の 半 透 明 体 に 随 所 に 亀 裂 を 見 る が 、 成 形 後 両 側
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E
''
、
、
の一部を磨した痕をとどめて、太手で形の撃っている。
主
委
員
両 者 の う ち 管 玉 は闘 版 第 二二 の 二 の上方に
一 括して載せたもので、博物館の台帳(第六 二二O競)には﹁二百九十二佃
管
-28ー
(
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)
(
4
)
(
5
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長一寸二分乃至一分五盟﹂とある。すべて管玉に普通な碧玉で作られているが、 との多数のものが凡そ二類に分た
れる。即ち一方は 濃 い 深 絡 の 碧 色 を し たもので 、 形が長く 、 表 面よく磨研3れて滑 揮 をロ吾するが、その上に殆んY
手なれなど 一
認めろれない 類であb、他 はそれ等と は遣って ‘著 し く 小形の短い 式で、す べ て丸味を帯びてその上に
-めてお b、 玉の色埠もやや淡い。二類のうち前者が多数を占めて、後者は三十六佃に過ぎないが、
使用の痕をとy
古 剰 を 帯 び た と と ろ 、 す べ て の 点 で 時 に 蜜 柑 内 か ら 発 見 す る 管 玉に勢繋たるもの が あ る 。 ぞ れ が 硬 玉 の勾 玉類の示
す と と ろ と 思 い 併 せ て 、 も と 遺骸の 侃却し た首 飾 五を な し た ら ろ こ と を想はし めるに近 い。遺物の遺存朕態の揺 香
のうちに、棺内で 管玉 が二 ケ所に あっ たとある から、右 に劃 し て 、 多 数 の 前 者 が 或 は 副 葬 品 と し て 手 先 に 置 かれた
J
﹂
-29一
。
も の で は な い か を の 憶 測 を 加 えし める こと に も な る の で あ る
移しい致量の小 玉の 方は三種に分たれる。その一つは台帳の第六ニニニ競に登録する千四百六十三粒を数える青水
ヘ闘 版第一一二 J
色をしたもので戸の二、 右 下)いずれもす べ て径 二分を 超 えな い よ く 揃 っ た 小 粒 の 作b である。第二は第六二二一
統に一括ぶれた 瑠璃色を是した九十粒で (洲一四四) ま た 同 一 の 大 き さ で あ b、 共 に攻璃質 であるとと 多くのもの と
十一個
¥園版第 一三の 一の
f 玉の聞に圃示 したもの¥
勾
疋
等 に劃して 第 三は其珠の小 玉 一粒(第 六二 二三披 )で長 ぷ一分 の小 さ い も の な が ら 、 形 が 丸 く ま
遣っていない。 目
た整っている。
四、石
職 櫨 様 な 鋭 利 左 利 器 を 用 い て 引 っ た 痕 を 内 側 に のとし た巧 みな作bで
、 )二を 除 い て 風 化 な ど し て い な い 。 そ の う
本古攻の出土品中前 二
一
者 と 並ん で著 し いと の石釧は 、すべてと まかな縞の保理 のある碧玉製で、且つ製作の 際 は
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個(一現時十四)は環体の断面が 算盤玉 を半切したようなもので、 上下両面に切目を加えた式である。尤一もとれも
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近畿地方の石釧に時に見受けられる。以下是等の個々の大きさなb、細部の所見を録し、第九 固 の形朕 聞と併せて
2
その賃際を見るの便に供える。
3
豆、刀
博 物 館 に 牧 蔵 さ れ て い る の は 、 屈 書比国 を 載 せ て い る 三 日 分 で ‘ そ れ は 剣 身 二 口 分 と 、 万 身 片 一 個 分 に 別 た れ る
剣身の一つ(第六二二五競)は、 二つに折れているが、室の一部を快いたのみで‘原形をとどめて、乙の身の長さ
八寸四分、幅約一寸二分を測る短剣である。(一一一砕い而)その室には柄の木片が残存し、身、にも所々に鞘の木片
と畳しいものが錆着いてある。剣の二(第六二二六競)また二片に折れているが、接合すると鋒先の部を候くもの
のまた大半を存して幾分細ってたにもかかわらず、その作b に於いて前者、と同大同式であったととが推される。
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同 闘 版 の 下 布 ) そ し て こ の 一 口 で は 長 さ ) 寸 三分 の 窒 が 完 存 して いる 。万 身 片 一 個 (第六二 二七披 )は 身の佐に 近
い五寸四分の破 片で、翠 瓦b九 分 内 外、背 幅 三分 の 鈍 重 な 作b のもの、 いま一部陀鞘の木片が附着残存 す る 。 現 存
の鍛器類は以上 に過ぎないが 、本来 副 葬3 れた そ の類のなお多かったと と既 忙書 いた如くである。
以 上 奉 げ た 現 存 す る本古境 の出土口叩の示すととろ、 鏡 と 玉と 万 剣 の三者を主と し て 、 そ れ に 碧 玉 で 作 っ た 石 釧 の
類 を 加 え た も の で あ っ て 、 失 われた遺品も他に銭製の 利 器類 があ ったととを推さしめるに といと まb、 士 器 や 馬 具 な
ど を } 切 触 如 し て い る 。 庭 が そ う い う 副 葬品の性格は 近 年 明 確 の 度 を 加 えて来た 我 が 古 墳 の 古 式 左 も の に 通 じ て 見
られるところの ものに外 ならない。そして此 の場合 、古 墳 に、通じて副 葬3れている玉 類 に あ っ て も 、 本 墳 で の 勾 玉
北部九州でのこの種の石製品の出土例は、所見の範闘で は肯︿豊後幽北沼部郡制崎村で見出されたと枕定される鍬形石があるに過ぎ
L
。
、
E
ψ
臼
木 宵 噴 出 土 の 鏡 を 溢 設 し た も の に 早 ︿ 後 捺 守 一 氏 の ﹃ 白 木 考 宵 事 大 系 渓 式 鏡 ﹄ が あって 、要 会 得 たものである。
、 後藤 氏 の ﹃
此の程の=一紳=一獣身 稽 鏡 は 、 大 形 の 所 調停 拠 鏡 中 出 土 例 の最も多 いもので あっ て
漢式加問 ﹄ に者鍛さわているもののみで
けることは早︿ 後路 氏 が 注 意 し、ま た筆者が﹁木邦古墳出土の問術館 に就い ての一 一
一
の
44
察﹂ ( ﹃史林﹄第三O 牧 第 三 銃 所 減 ﹀ 文 中
辺
︿ 、.今日で はその 般会加えて二 倍 を 超 え る 有 線 で、畿内を中心に 各地に分布 してい る。 なお是与のうちに間活口聞を見受
も=一十面に 一
で特に取 り上げ た如︿である。
富岡謙蔵氏 ﹃宵 鏡 の 研 究 ﹄ 所 牧 ﹁日木作 製古銭につ いて﹂ 参 照
回の
一
踊岡田肺糸島郡 一貴 山村 銚子塚十円境研究﹄ (京都 、昭 和 二 十 七 年 刊 ﹀ 参 照
小林行雄 君 ﹃ ↑
梁た椿氏﹁巌窟 磁銭 ﹂第 二 集 上 に 預 東 と山 東とから出た例を殺 せている。尤 も氏 は銭の年 代を西漢末と L ている がそわは常らな い
。
梅原﹃漢=一凶六朝紀年銭 闘鎌﹄第四、六朝の 紀年銭参照
後藤氏の﹃決式鏡﹄にほ 誤 って、.この出土品を大陸村大学有岡田山市墳裂見としてい る。併 L岡田 山士円墳出土鈍ば内行花紋銭
。
みである。此の機曾に訂 して 置 ︿
-32ー
なb管 玉小 玉などが古調を帯び た類を主とするととが併せ注意せられるのである。
︻
語
︼
ω
(
3
)(
2
)
(
8
)(
7)(
6
)(
5
)(
4
)
後 藤 氏 ﹃漢式鏡﹄ 第 二O 二一良 ﹁
佼至
=
一会
﹂ 銭 の項参照 。
。
江口斧=一 郎氏の 闘 の解説 に方 解 石の勾玉とあ るのは これに 常 るもののようにも思われるので あ る
この積の 鍛利器が傾 剣であったとする 普通 の見方 の外に、 鎗 先であったことの 枕 され る新 知見 が最近 伊賀 石山古墳の 袈掘 などで怜 窓
性質とそ
の
犠口造 年 代
の
して置︿。
本古墳
され出した。 ただ、すべて がそうであるかどうかについて な お問 題 がのこるので、ここで は従 来の 解 鶴 に依って記 述 した とと会註記
L
.
.
.
口掌形をし
部を築き、埋葬終って後、真に右の室の上部を仕上げlそれは現存の東石室では珍らしく横断面が A
と し た も の で あ る 。 棺 は 一 部 地 盤 を 穿 っ て 先 づ 身 の 部 分 を 組 立 て 、 そ れ を 縫 って周園を差す右竪穴式石室の下
、 後 岡部上丘の中央に相並んで替まれたこつの部分から成って、それは共忙長持形石棺を主体
二、境の主体 構 造 は
設備として埴輪円 筒なh 一部に 葺 石があっ・たん見られる。
ととの認められる のは墳 の上越の根く小部分に過ぎない。次にとの墳丘にはいま願 著 ではないが、もと外部の
し右の形は山丘の一部を利用して、 丘尾を切断の上、それに修飾を加えて仕上げた本ので、賓際に士を盛った
a
一、墳丘は前方後固形をしていて、相営な規模を示す。そして形式は同式では前後両丘の敗 y
備
したものである。併
ける所がない結果を待た。 いまかくて待た諸点を 要 約すると凡そ次の如くである。
鴬 に 、 随 所 に 不 明 瞭 な 部 分 を の こ し た こ と で あ る が 、 而 も 境 丘 を は じ め と し て 、 す べ て の 大 要 を知b得る陀ほぼ欠
前数項に互って記述した谷口古境陀閲する 筆者 の調査は、接掘 後 多 く の 年 時 を 経 過 し て か ら 行 う た も の で あ る が
ノ、
て、別に天井石を用いていないl 然る 後封土を加えて外部を被うたととが知忘れる。
-33ー
(時制 (
9)
一二、棺は二つながら、組合せの長持形石棺であって.ほぼ同大同式であるところ、本来計霊的に一組として作られ
たととを察せしめる。 一 般 の 同 式 棺 に 見 る 諾 特 色 を 具 え て い る が 、 た だ 蓋 身 の 接 合 面 の 一 女 字 で あ る の が や や
遣ってお b. ま た 底 石 に は 遺 骸 を 直 接 に 置 く 震 に 割 b のあるのを奉ぐ可きであ b、 東 石 棺 に は 更 に 石 枕 を 遺 出
し た の が 珍 ら し い 。 な お 二 者 の う ち 東 石 棺 の 方 の 作bが精巧に見える。
四 、 遺 骸 は 右 の 棺 内 に そ れ ぞ れ 一 人 宛 北 を 枕 に し て 仰 向 伸 展 葬3 れ て あ っ て 、 多 量 の 朱 が 存 し て い た 。 骨 格 の 示 す
ととろ共に男子であったという。
五.副葬の遺物は、来棺では遺骸の頭迭を繰って鏡五面、首の透から胸聞に互って勾玉、管玉、小玉の飾玉克に左
指 の 迭 に 管 玉 類 が あ b. そ の 外 に 碧 玉 の 石 釧 が 副 葬 ぶ れ て あ っ たl 但 し そ の 正 確 な 位 置 は 不 明l 次に西棺でも
同じく頭遁の克右に鏡二一聞があって、外では万剣一口が存したという。なお束棺では棺外の石室内に多数の万
剣、斧一割、銀等が副葬されてあったととを停える。
六.副葬品の示す、ところ、鏡は位至 公 双 獣 鏡 を 除 い て 、 す べ て 本 邦 上 古 の 鋳 遣 と 認 め ら れ る も の で あ る が 、 大 形
一
=
の三角総紳献鋭が四面もあるし、その勾玉、管玉のうちには古調を帯びて、手なれの目立ったものを含んでお
b、更に十一佃の石釧のあることが注意せられる。
以上の外なお噴丘の前方部にも埋販品のあったととを停えているのを附記すべきであろう。
ヨ て 本 遺 跡 が 大 体 以 上 の よ う な も の た る と と が 知 ら れ た と な る と 、 そ れ が 我 が 古 墳 墓 の 上 でE んな位置を占める
か ‘ 換 言 す る な ら ば 遺 跡 と し て 持 つ 性 質 な る も の が 右 に 依 っ て 白 か ら 考 え ら れ る 可 き で あb. 引 い て 管 遣 の 年 代 も
また推ぶれる筈である。 一 体 我 が 上 代 の 古 故 慕 の 約 革 は 、 種 々 の 特 殊 事 情 に 摘 さ れ て 、 今 日 で も な お 明 確 に な っ て
- 34ー
いない分野が概めて多い。とういう未開拓な因由の-つ と
3 して、某準となる遺跡に闘する確貫な調査記録の欠如が
翠げられるのであるが‘それが殊に地方に於いて著しい。もともと筆者の上代古境陀闘する既往の調査は布のよう
在欠陥を充足する魚に、先づ岐に殻掘せられた主要なものの一々についてこれを追求して宜体を明にするととを期
したものに外ならない。そして本古境の如きも貫はその-つに相嘗るのである。底でそれ等から得た既往の結果を
ば、との十数年来ゃうやく例を加えるようになった皐術後掘を行うた古墳の示すところ左併せ観ることによって、
地方的な差具などの詳細は別として.近畿地方陀あっては.その種々の様相な b. それらの推移に就いての知見が
段々と確められるようになって、費年代翻の如きも大体の見嘗がつくまでになったのである。
とのように明になった近畿地方!それはいろいろな点から我が特色のある古境慕制接遣の中心地区と考えられる
一部皐者の中期とする
一般に前期と言われているものに同似したものたるととが認め
ーでの知見に封比すると、本古墳の示すところは、宏荘な墳丘の替まれた我が古墳の盛期、
遺跡に見られて諸相忙先立つ筆者の所謂古式古墳、
られるのである。彼の境丘の貫肢をはじめとして、後丘上に本来二つの主体が相並んで管まれたととや.副葬品の
示す性質ないと、 いずれも近畿地方での古式古壊に通じて見忘れるものと一致する。ただとの間にあって、主体部の
構造が同じく竪穴式系統のものであ bながら、古式古境に見受けるような著しく細長くて、所謂割竹形棺を中心とし
たものではなくて、共に長持形石棺から成って、石室がそれを繰って管まれた矩形をした点に、寧ろ古噴盛期の一
つの特徴を備えているととがとの場合併せ注意忌れるのである。そして修飾ぶれた境の外形が整った形であるとと
もそれと連関して翠げらるべきであろう。
本古墳の主体をなしている長持形石棺は、その形と構造が特色の多いものたる点で、早くから一部皐者の注意に
-35ー
①
①
上って、遺例の東成からその性質が考えられた事であ b、 更 に 故 高 橋 博 士 に 依 っ て 、 同 石 棺 の 分 布 の 事 責 を 耶 馬 台
問問題の論義の一つの援所とせられ等した。 この種の棺が近畿地方では、和泉の仁徳天皇陵前方丘所在の例をはじ
(一部用材遁存)
前方後円境周濠
円墳一部用材遺存
方境
前方後円墳
円墳
円墳
前方後円墳周濠
(棺議浩司存)
丸塚
前方後円墳
前方後円墳
(棺材の一部漬存)
前方後円墳
(稽材の一部潰存)
前方後円墳
rD. 西は北九州の一部に及ぶ各地でのその類の示すととろ、
また同様な趣を呈するとと、現在知られた次
め と し て 、 概 ね 宏 症 に し て 整 美 な 境 丘 を し た 前 方 後 関 墳 の 主 体 を な し て い る と 左 が 知 ら れ る ば かb でなく、府く東
は陸前か
岬耐際幽加西郡富合村宝丘古墳
向上階塚
同七階塚山の越古墳
幌市勝閥飾熔郡御幽野村壇場山中内墳
丹波凶竹野郡竹野村大字宮寺山・宵墳
丹波幽竹野郡竹野村産土山古墳
丹波岡多紀郡雲部村大字東木荏草塚肯境
携津幽大阪市四天王寺附一辺ハF)
嬬津幽三島郡阿武野村大字岡木前塚+円墳
和泉幽泉南部淡輪町西御陵宵境
和泉闘堺市仁徳天皇陵前方丘
河内幽南河内郡小山村大字津堂狭山宵墳
山崎州幽乙訓郡向日町物集女-肯墳
山賊幽久世郡久津川村大字卒川草塚
大和閥奈良市法撃寺東方
大和岡南葛城郡秋津村大字宏一大墓古墳
方
侭馬幽出石郡出石町
-36-
!
i
l
.
@
••
畿
の賞例から確められるのである。
近
東日本地区
上野闘新田郡太田町附近天神山宵墳
上野闘佐波郡三郷村大字安調古墳
陸前闘名取郡下増田村極塚+円墳
前方後円墳
西日本地直
備前幽西高居村朱千駄宵墳
前方後円墳
(驚やや呉川出)
前方丘所在場設式身現存
方墳
備前幽邑久郡行幸村花光寺 山士円墳
前方後 円墳
前方後 円墳石 室
二個
相騒な規模のものを見受ける点で‘ )見相似た様相を是しているようである。併し是等の墳墓の構造主体となると
れていない慨が多いことではあるが、また各地に通じて前方後間墳が存在していて、 うちに筑後川の流域なEには
繰って本遺跡の存する北九州地区での古墳墓の様子を顧ると、現在なお近畿地方ほどの某準となる遺跡が調べら
る部分に若干の迷いのあるととが奉げらる可きであろう。
車塚.河内小山村津堂城山古墳の場合と相近い。尤も石棺そのものの細部では肢に指摘したように、蓋身の接合す
で、中での最も整った形式のものと言うてよく、その意味では仁徳天皇陵前方部のものをはじめとして丹波雲部村
右代表示した長持形石棺例に於いて.本墳の二つは、共にそれを中心にして矩形の完好な石室が存したものたる点
肥前幽東松浦郡玉島村谷口古墳(木+円墳﹀
筑後劇浮沼郡千年町大字若宮周ノ岡肯墳
豊後幽臼杵市海部下山肯壌
備中闘都窪郡加茂池山台境
出 雲幽八束郡宵江村丹花庵宵墳
••
前者とは可な b越を具にしていて、箱式棺や横穴式石笠乃一金二砲の横口式棺である場合が少くなく、副葬品にあっ
-37-
@
⑦
ても遣っていて、畿内に多い石釧、車輪石ないどは一向に見営らない。中で部児に上った沢畿での古式古某にも比す
ぺ き 内 容 の も の を 求 め る と 、 害 て 三面の 三角 線 紳 獄 鏡 を 出 し た 筑 前 閤 筑 紫 郡 二 日 市 町 武 蔵 原 口 の 一 古 境 や 豊 前 岡 京
①
郡 部 刈 田 町 石 塚 山 古 墳 等と 、 上 に 表 示 し た 長 持 形 石 棺 を 主 体 と す る 例 な ど が 奉 げ ら れ る 位 に 過 ぎ な い 。 そ う す る と
現 荘 の 知 見 の 上 か ら で は 、 本 古 墳 は 近 畿 地 方 で の 古 式 古 墳 な bそ れ に つ づ く 盛 期 の 墓 制 の 系 統 の も の た る と と が 認
めらる可きで、引いてその管遣に謝して、前者からのか様在基制の波及したものみ一解すべきと左が考えられて来る。
我が古噴 慕 制の賞年代州側に就いては、それについて種々の考究が試みられて来ているが、擦所と在る確賃左資料
⑦
を欠如する点から、従来の副葬品忙見る中闘の古鏡に某くそれが、同古鏡年代沿革考の確立したにもかかわらず舶
載品たる点で、出土鏡の示す貫年代が皐に遺跡の上限を劃するに過ぎないととから、賃はいまも或人士の設くよう
な年代相仰を導き出すに不充分なものというの外は左い。かくて現在の庭で、ほぼ確賞な賞年代観としては、河内の
臆紳天皇陵や和泉の仁徳天皇陵を某準として近畿地方での古墳管遣の最盛期が、西紀四世紀末から五世紀の前半を
中心とした時期にあった、とする大体論にとどまるのである。そして同地方に於ける古墳墓制の遁じての型式観から
古 式 古 境 は そ れ よb も 遡 っ た 時 代 の も の と 解 せ ら れ る と と で も あ る 。
本古境の副葬口問中には一面の舶載鏡が存するととであb 、 ま た 石 釧 等 を も 見 受 け る が 、 そ れ 等 は い ず れ も 濁 自 に
賞年代を推すに直接な資料として不充分なものである。 3 れ ば 替 迭 の 時 期 に 就 い て は 上 京 論 じ た 古 墳 の 様 相 か ら し
て、古式古墳に、通じた面を多く持ち-ながらも、他面で主体の構造が盛時のものたるととに徴し、更にそれが遠くは
左れた北九州に存在すること等を考慮に加えて早くも四世紀の後半を遡らず、大体五世紀の上半のもの、とするとと
を認めるに満足するの外はないであろう。
- 3
8ー
︹
註
︺
部構諮について﹂(﹃史林﹄第二五巻第三貌所載、﹃日木考古堕諭吋﹄所牧)放びに﹃白木の肯墳墓﹄(昭和二十二年表徳社刊)に
l 尤 も そ れ も 今 日 で は 夏 に 是 正 せ な け れ ば な ら な い 部 分 を 含 む こ と で は あ る がl は﹁木邦上代高塚の内
筆者のそれ等に就いての見解
筆者の﹃久間川宵境研究﹄の記述の如合
h その早い一例である。
概述してある。
高橋博士﹁考古塑上よ町間たる耶馬台凶﹂ハ﹃考有感雑誌﹄第十二袋第五競所謝)参照
山城凶乙訓郡妙見山肯墳
この表示した 温 跡 中 で ・ を 附 し た の は 従 来 な お 一 般 に は よ く 知 ら わ な か っ た も の で あ る 。 な お こ わ ま で 長 持形石 棺例として記判明され
ていた
大隅剛肝属郡唐仁町大塚山+円墳
の こ つ の そ れ ば 、 調 査 の 結 製 共 に 誤 っ て い た こ と が 明 に な っ た の で 、 こ の 表 か ら 除 い た 。 そ の 詳 細 ば他日報告するであらう。
から‘それを充足する魚に出でたものであるので、肢に遺跡の賞際から出土口叩に劃する調査の結某を録し、更に前
項で、その性質を論じ、年代制聞にも及んだ以上、最年それに蛇足を加える必要などないわけである。 ただ上京の性
-39ー
島問寅次郎氏﹁異例の宵境﹂(﹃幅岡懸史蹟名勝天然紀念物調査報告零﹄第十斡)参版。
これについては最近小林行雄氏の﹁同箔銭による古墳の年代の研究﹂(﹃考宵磨雑誌﹄第三八喰第三披)なる詳細叫な諭刊が会にされ
梅原﹁豊前京都郡の二三の宵墳﹂(﹃中央炉壇﹄第九悠第六技)参照。
て・大いに歩合法めたことではあるが、併し所論の基く所の筆者の問箔鋭に就いての調ぺがなお不完丹で、最近更にいろいろと陀窓
され凶したものがある事であり、なお中間鈴木府内の年代日間に最近到達したそわに関する留意がなお充分でない憾などあるので、そと
論
になお問題がのこるのである。
徐
乙の調査はもともと遺跡そのものが頗る注目すべきであるにもかかわらず、従来殆んど擦るべき記載のないとと
七
(
4
)(
3
)(
2
)
(
7
)(
6
)(
日
)
質観からして、本古墳が北九州では寧ろ西迭に位置する﹃魂士山﹄倭人俸に見える末虚闘の地域内にあって、市もそ
れが近畿地方で授速した古式古墳の様相を具象して北九州に通有と息はれる高塚と趣を異にしている事賞は、それ
が上代に於ける所謂大和朝廷の文化の西方への波及を如貫に示すものとして、 とれがその想定せられる年代と共に
一般の史的関心を呼ぶととと思うので、以下それについて若干の部見を書き添へるであらう。
一体畿内に成立したと認められる我が上代の古文化が、底く北九州に惨透して、古代岡家の統一、が出来上った時
期のいつの頃であったかは、 日 本 の 饗 明 期 に 於 い て の 最 も 重 大 な 問 題 と し て 、 早 く か ら 多 く の 皐 者 の 究 明 を 心 掛 け
たところであって、古代史上いまにやかましい﹁説志﹄に見える耶台馬闘が何れの地に常てるべきか、 主た卑繭呼
その人が何人なるかの問題の如きも、賃はその根底に於いてそれと表裏の関係にあるともいび枠るのである。何と
なれば此の場合北九州設を執る皐者は、
世紀の前半に営る時代に同地がなほ大和朝廷の勢力の外にあったととを
二
一
それ自体から意味するのに到し、畿内の大和に比定する立場をとる者からすると、嘗時既に統一の傾向にあったと
と を 認 め る も の に 外 な ら な い 。 彼 の 大 正 の 末 年 に 考 古 皐 者 の 側 か ら 主 張3 れ出した耶馬台大和説は、 と の 面 に 新 た
な轄聞を示したものという可きで、それは大正の中頃から念速に闘係知見の加わった我が考古皐の上の示す事貫に
それを裏書 き す る も の が あ る と し た 。 そ し て 営 時 先 づ 取 b上 げ ら れ た の は 我 が 古 墳 の 副 葬 品 に 多 い 中 関 か ら の 舶 載
鏡 の 示 す 分 布 の 事 賞 で あ っ た 。 庭 が 鏡 の 移 動 し 易 い も の た る と と か £ 、 論 擦 と し て の そ の 不 充 分3 が 反 封 の 側 か ら
指 摘3 れるに及んで、更にそれ等ゆがけ一蹴する外形に畿内的な特色を具へた高塚の北九州陀於ける︿刀布が奉げられて、
と れ が 同 地 方 で の 特 殊 な 霊 棺 嘉l 一 般 に 今 日 で も 石 金 過 渡 期 の も の と せ ら れ て い るl の 盛 行 の 年 代 が 西 暦 紀 元 の 前
後の世紀にまたがる v
とする見解、そしてそれにつづく時代の墓制としては問題の高塚の外に著しいものが見営らな
-40-
い点と表裏して、 墓 制 の 上 で は 慨 に 同 ) で あ っ た と と が 主 張 忘 れ 、 北 九 州 に 於 け る 畿 内 的 在 高 塚 の 泣 存 が 改 め て 強
44か れ て い る の で 、 右 の
調3 れたのであった。卑靖呼の 墓 が径 百飴歩という大きな 封土であったととは ﹃貌士山﹄に 円
所 論 に 劃 し て は 橋 本 増 吉 博 士 の よ う な 北 九 州 説 の 信 奉 者.ーといえども、 と れ を 否 定 す る こ と が 出 来 ず 、 従 っ て 同 地 域
内に目立った副葬品の乏しい理由おば、主として早い時代の控掘の結果に依る止して筑後の山門部地方にある古境
をそれに比定して相封抗するの外は・なかった。
として、 と と 数 年 京 繰 返 さ れ る と と に な っ た 耶 馬台関論に就
一般には大きな 遣いがない もの h
そ れ か ら 肢 に 四 分 の 一 世 紀 以 上 の 年 月 の 経 過 し た 今 日 に な っ て3 て改めて常 時操 所 と し た 如 上 の 考 古 皐 上 の 見 解
なるものを顧みると‘
いての所見でも、考古 皐の 側 の 右 の 論 操 た る や 新 し 味 な ど な い よ う で あ る 。 併 し と の 聞 に 段 々 と 明 に さ れ て 来 た 我
が考古皐そのものの知見にあっては、畿内を中心、とした古式古攻の内容に閲して相営正確な知識が提供せられるに
至 っ た と と や ¥ 中 関 古 鏡 の 沿 革 に 闘 す る 研 究 が 彼 の 闘 士での確貨な安料の 綬 出 に 依 っ て 既 柁 の 所 見 が 大 い に 修 築 せ
られる左共に、者て問題となった我が闘での古 鋭 の惇世に就いても貨物に印して、それに一つの新たな解稗が具え
ら れ る よ う に な っ た と と な ど が 来 げらるのである。 かく て是与 の 点 か ら 、 現 貨 に 北 九 州 陀 於 け る 高 塚 お ば 俄 か に 畿
いととが考へられることになった。そしてとの事たる や他方で筑前須玖の 翠 棺 内から出た
内のそれ 等と 同 一 蹴 し 脱・
袈 鳳 鏡 の 貫 時 代 が 早 く も 紀 元 二世紀 の前半比遡 b科ない事賞 よbして、少 く本翠棺葬が 世 紀 の 前 半 に な か 北 九 州
一
コ
に 行 わ れ て い た と せ ざ る を ね な い と い う 新 た な る蹄結左 相侠って、 基 制 の 上 か ら 耶 馬 台 闘 の 問 題が 改 めて再 検討せ
ちる可きを示唆するもののあるととが考えられるのである。そういう新たな観点からすると、本古墳の調費でそれ
、 一部に所謂盛時のそれおも認められる事貨は、来制の上で
が 北 九 州 で の 近 畿 地 方 に 見 る 古 式 古 境 の 様相を備え て
- 41-
の 最 も 碓 賓 な 例 と し て 嘗 然 注 目 せ ら る 可 き で あ b、 乗 て 時 代 が 前 項 に 書 いた如くであるとすると、北九州の西迭で
のその存在が初に書いた史上の問題と結びついて皐的闘心を高める次第である。
通溝卒野の一隅に現存する高句麗好太王碑の銘文に依ると、我が大和朝廷の勢力は四、五世紀の聞に半島にまで
及んだととを示している。ぞうすると、純畿内的な特徴を具えた本古墳の古く大陸との交通の要衝に嘗る松浦に存
するととの偶然でないことがまた考えられて来るのである。
-42ー
辻の木造薬師如来坐像
場直次郎
朕
斤
E
也E 佐 賀 牒 紳 埼 町 大 字 神 埼
FF
,
'プ1 4
字辻薬師堂
市
現
藷 堂 宇 が 預 破 し た の を 、昭和二十
薬師堂である 。との堂宇 は従来の
する木造薬師如来坐像を安置する
が あ る 。 と れ が こ こ に 説 明 せ λと
二叉 路 に な っ た 場 所 に 一 宇 の 辻 堂
ったととろが字辻で‘小川を前に
通bを 南 に 約 四 町 、 路 次 を 東 に 入
神埼町の鎮守櫛田宮の正門前の
、
四年にこの部落の有志の手によっ
-44ー
ム印東妙寺
口印櫛田寛
O 印辻薬師生:
近地形園
紳埼町附
国
十
第
て改築したもので、正面一聞の小企に過ぎないが、との堂に不似合な注目すべき薬師如来坐像‘脇侍二菩薩立像及
び十二神持像と思われる小立像残闘が安置されているのである。向この辻堂前の空地には‘恐らく附近から集めた
ものらしい六地蹴塔や無縫搭其他数基の墓碑等が並んでいる。
薬師如来坐像は、堂内正面壇上の格子戸の中に安置してある。素材は檎材かと忠われ、両手矧ぎつけの一木彫成
像らしく、遠 野と反花よb成る二重のム口座上に結蜘朕坐する。悌体は左手を欠失し、左耳采欠損している他は保存
概ね良好。但し簡 素な輸党背は後補で あb、 欠 失 し た 左 手 首 も 近 年 新 造 し て 鉄 釘 を 以 て う ち つ け て あ る 。 台 座 の 運
鱗等は本来のもののようであるが、 と れ に も 近 年 の 修 補 補 強 の 手 が 加 え ら れ て あ る 。 然 し 漆 箔 の 悌 体 は 、 塗 替 え 等
の補修の跡はなく、箔は殆んど剥落し顔面胸部等諸所に残党を留めているに過ぎないことは、却って幸運であった
といえよう。
脇侍の二菩薩立像は、後に遮べる如く本軍とは時代を異にするものと思われ、その作調も凡作である上に保存も
悪く、悌体の諸所に欠損がある。叉十二神格像に至っては今日すでにその大多数が亡逸し、僅かに壇上の一隅陀
薬師如来像
の様式所見
一、二掘の立像残闘を留めるに過ぎない有様である。
、
一
本像は上越の如くすでに左手を欠失しているので、その印相や持物を知るに由まく、 l l最近新作補足した左手
首は、掌を上にして膝上陀安じ、持物はなく、持指と中指を捻じた印相であるが、とれは本来の・左手の欠失後に近
-45-
傍の大工が想像によって新相したのであるから、全く問題にならないものである。││右手は掌を前にし胸前陀翠げ
たいわゆる施無畏の印で、 と れ は 諸 悌 に 共 通 の 印 相 で あ る か ら 、 本 像 の み を 以 て す れ ば 、 遁 確 に 薬 師 如 来 像 で あ る
か 否 か は 断 言 出 来 な い の で あ る 。 然 し 本 像 の 脇 侍 と 息 わ れ る 二 掘 の 立 像 が 目 先 菩 薩 、 月 党 菩 薩 と 推 定3 れ る 菩 薩 形
であること‘残閥ながら念怒形の十二一柳持の一部と推定ぶれる立像が残存するとと‘本像に薬師如来としての信仰
が 存 績 し て い る こ と 等 に よ っ て 、 本 像 を 薬 師 如 来 坐 像 と す る こ と に 誤b な い で あ ろ う 。 従 っ て 欠 失 し た 左 手 の 形 相
は、掌を上にして京膝上に安んじて薬査を持する形の薬師像に普通のものであったか、但しはこの新柏の形相に近
い施版印という諸仰通用の印相であった
J
厚
一
尺
二
川
J
八分
二ベ九寸五分
四寸七分
一凡二寸七分
以上の法量を有するとの坐像は、蓮台上
- 46ー
か 、 今 こ れ を 審かにし得ないのである。
座
二ベゴ一寸七分
現存の本傑について、先づその許測の
結果を表示しよう。
頭
髪際以下
高
長
5
長
I
奈 膝
日
x
坐
」当
辻薬師如来坐像側面闘
第十一固
社薬師如来坐像腹部聞
第十二圃
に結蜘朕坐し.右手胸前に翠げて施無畏の印相を一不
し肉髪は高く膨隆し、螺髪は小粒で髪際の一例に於
いて三十二十-敷える。関顔豊頗、面貌は判明麗と許す
べく、弧形をなす曲眉.上険一直線をなし、二重の
下験弧状をなす切れ長の半眼.形よく比較的小さい
同属.左耳采を欠いではいるが長大な紐耳、白蓮の
表現のない前額。かくて端麗な中にも一抹荘重憂欝
の趣を有する風貌は、高く膨隆した肉髪、最戚豊か
な体躯と共に本像を特色づけているのである。深く
刻まれた三道(頚部の横敏)から庚く聞いた胸部の
隆起にかけて豊揃な肉附をあらわし.炭く張った岡
肩は袈裟に被われていわゆる遁肩をなしているが、
豊かな量戚によって堂々たる体躯を表現する。この
ととは正面観のみでなく、胸部の側面観に於いても
強調3 れ て い る の で あ っ て 、 坐 高 三 尺 三 寸 余 に 針 し
胸 厚 一 尺 と い う 偉 大5 であって、例えば牒内所在の
選巌院の諸骨骨の坐高に封して著しく偏平左胸部を有
-47ー
す る の と は 掛 蹄 的 な 存 在 で あ ろ う 。 尚 髪 際 以 下 の 高3と 膝 張 の 長 さ と の 比 較 に 於 い て 殆 んy
-相 等 し い と と は 、 本 像
の安定戚を著しく増すものというべく、全体に偉風堂々と落ちつきのある風格を附興している。
次 に 衣 文 の 接 線 を 観 察 す る と ‘ 遁 肩 を な す 両 肩 よb流 れ 落 ち る 衣 文 が 両 礼 を 半 ば 被 い つ つU 字 紙 に 平 行 し た 裁 候
を刻むのを、右袖の衣文がその車調を破って右脇腹に集められる庭理は前例の蓮巌院本隼の手法に似ているが、彼
に 見 る が 如 き 煩 雑 ぷ は な く 、 ず っ と 簡 略 に 取 纏 め ら れ て い る 。 叉 胸 前 に 奉 げ た 右 時 よb 垂 れ 下 る 袖 口 に 於 い て も 彼
よb はずっと重厚であ b、 両 膝 を 包 む 衣 文 陀 於 い て は 更 に 簡 潔 で あ る が 、 右 膝 上 に 置 い て 牟 ば を 露 わ し て い る 左 足
首の牒を被って垂れる袈裟の裾が越化を興えて草調を救っている。
衣 文 の 万 法 は 概 し て 流 暢 で あ る が 、 蓮 巌 院 像 の 如 き 藤 原 期 の 標 準 的 な 作 に 見 る よ う に 低 平 で は な く. 3 bとて程
近い三田川村東妙寺の鎌倉期の稗迦如来坐像陀見るが如き寓貫性もない。 い わ ば や や 様 式 的 な 固 さ の あ る こ と は 否
まれない。かかる点にも本像の時代的特色を示唆するものがあろう。
-次に光背とム口座であるが、光背は前週の如く極めて 単
m 純な木製の輸光背で、恐らく後補と思われるので多設を要
し な い 。 台 座 は 刻 出 せ る 八 葉 蓮 鱒 と 反 花 の 二 段 か ら 成b、 或 は も と は 権 座 等 も あ っ た か も 知 れ ず 、 叉 後 に 述 べ る 如
く近くの儲田 宮 境 内 に 台 座 の 破 片 と 息 わ れるものも存在している由であるが、現存のム口座につい て 観 察 す れ ば 、 皐
純 素 撲 な が ら 形 も よ く 整 っ て お b、本像に件なう元来のものであろうと推定される。
何 本 像 は 前 述 の 如 く 一 木 彫 成 で あ る が 、 そ の 重 量 よb考えて、恐らくは内割引を施したものであろう。然し今直ち
に胎内を調査するに由ないので、 と の 点 は 明 か に し が た く 、 従 っ て 叉 胎 内 銘 記 の 在 否 等 も 不 明 で 、 他 日 の 調 査 に 侠
たざるを得ない。
-18-
144
三
、 HU
I
t
l
i
.
ョ
n
(櫛田大明神由絡による)
から、との現在の祇園宮こそ古の本地薬師主であったらしく、同官禰宜執行武典氏も、或は薬師堂として中央部に
陣左側の柱には、元和二年七月二十七日施主鍋島信濃守勝茂の奉讃諦経王万部の追善札が打ちつけてある由である
は祇園枇の箱型の紳殿が安置されているが、壇の状態等から見ると、もと悌像が安置忌れてあったらしく、殊に内
現在の祇園宮は櫛田宮境内吐殿の東側に南面する入母屋遺本克葺四間三面の堂宇であって、内陣壇上には現在で
闘する記事中に‘本地堂建立のととが見え、第十世義空に闘する記事中に同じく本地堂修遣のことが見える。
叉 薬 師 立 に つ い て は 、 右 の ﹁ 由 緒 ﹂ に ﹃ 本 地 薬 師 金 ﹄ と あ b. 更 に 櫛 田 宮 の 神 宮 寺 で あ っ た 金 剛 院 の 第 三 世 天 友 に
不動明王、一枇壇各隔-里。
肥前園一明埼郡鎮守三所大明神は櫛田大明一脚本地薬師如来、高志大明一脚本地阿捕陀如来、 白角折大明一脚本地
、、、、、、、、、、、
にあ b. 叉﹁肥前古跡集﹂にも見えるところである。
櫛田宮の祭紳の本地を薬師如来、とするととについては‘同宮所蔵の﹁櫛田大明紳由緒﹂ ( 鍋 晶 藩 寺 社 差 出 記 録 )
た本地立であろうと推定される。
して安置したというのである。蒸し櫛田宮境内に祇閣官という一千が現存しているのが、本像のもと安置されてい
て境内比十本記 3 れていたのであるが、明治初年の一紳悌分離の際に枇外に流出し、明治十二年現在の慮に堂宇を建立
本像は、元来神埼町鎮座の櫛田宮(醤牒吐櫛田紳吐)に縁由あるものと停えられる。即ち同宮祭神の本地備とし
徴
薬師像を配 b. 左 右 い ず れ か に 祇 園 吐 を 配 っ た の で は な かλ う か と 推 定 し て お ら れ る 。 叉 同 氏 忙 よ れ ば . 同 宮 に 十
-49-
来
﹃往昔櫛田の森祇園
二神持と思料されるもの並びに大型蓮台の破片が存在している由である。銭上の徴誼がある上に、本像がその現所
在 の 辻 堂 に ふ 忌 わ し か 忘 ぬ 立 仮 な 彫 像 で あ b、 且つ現有部落内に於いて本像の来歴について、
(辻堂内の額面に記載)と俸えているのであるから、もともと本像が櫛田
祉 に 奉 記 せ ら れ し 霊 悌 な bし が 、 明 治 初 年 紳 悌 分 離 の 際 辻 に 行 く と の 霊 夢 に 随 い 、 辻 西 馬 場 の 信 者 殻 起 と な b、明
治十二年に薬師堂を建立し奉請せし由﹄
宮の本地悌として隼崇ぷれていたものである主推断して誤なかろうと息われる。
3 て本像が櫛田宮の醤本地悌であるとすれば、必然的にこの神吐と因縁の深い三田川村大字国手の古剥束妙寺の
本雰なる木造程一迦如来坐像との闘係が連想5 れ る と と に な る 。 東 妙 寺 の 該 像 は 奮 闘 賓 指 定 の 彫 像 で 、 法 最 も 本 像 と
尺五寸)様式は比一一か異な b. 彼 は 寓 宜 的 左 鎌 倉 期 の 特 色 を 備 え た 作 風
(程迦坐像の坐高コ 一
- 5
0ー
稽似ているのであるが、
左衛門樺佐
であb. 直 接 の 関 係 は 認 め ら れ な い 。 然 し 左 が ら 束 妙 寺 の 開 山 唯 聞 は こ の 櫛 田 宮 の 中 興 培 一 替 に 力 を 帯 し た 人 で あ
b、次の古文書が現停する。
唯関上人御房
肥前闘櫛田宮遣管事可被致其沙汰者天気如此何執達如件
ゴ一月廿一日
まいと推せられるので、本像が中古の櫛田宮の信仰を徴するに足る貴重な遺財であることは推測に難くあるまい。
な い の は 遺 城 で あ る 。 唯 上 京 緯 迅 し た 遁 D現 存 せ る 彫 像 の 様 式 を 観 察 す る に 少 く と も 鎌 倉 期 を 下 る こ と は あ る
あるが、その本軍たる薬師如来像が某して何時清一頴 S れ た か と い う と と に な る と 、 記 録 に と れ を 徴 す る と と が 出 来
にも、櫛田宮遺替の沙汰が見えている。かくして嘗然本地堂の遺替も吐殿と同様にな3 れたものと想像されるので
とれは正和年中の遺替であるが、それ以後櫛田宮と束妙寺との闘係は密接で、正平十六年来妙寺長老に宛てた文書
宇
日
竺竺 """'
仁
ヨ
櫛田宮所在の闘係遺物の調査を完了し符なかったとと等不備の点が少くないが、とれ等については更に他日を期し
ーと乙ろの少かった乙と、而も本骨骨像についてもその性質上外部的所見に左どまb、解体調査に及ば左かったとと、
との小稿は主として本軍薬師如来坐像の文化財的所見であって、腕侍二菩薩立像及び十二一脚持像等について説く
徐
(昭二八、
一八稿)
・
た い 。 筒 、 特 忙 櫛 田 宮 闘 係 の 資 料 に つ い て は 、 間 宮 禰 宜 執 行 武 典 氏 の 報 告 に 負 う と と λ多く、 とこに記して謝意を
表ナる。
-5
1ー
四
-
1
田
忠
東脊振村三津の石蓋護棺と内行花紋明光鏡
七
-53-
田
忠
東脊振村三津の石蓋萎棺と内行花紋明光鏡
七
志
不散を賜わった京都大皐教授梅原末治博士に劃し厚く
蹴成豊君.編成みゆき嬢.及び種々御 一
多伊良喜一氏御一家、 一
本 報 告 を 接 表 す る に 嘗b、本遺蹟の調査に際して‘的弔問に劃する深き御珂解の上に柊始盤らぎる御協力を戴いた
年明けて昭和二十八年一月三日に現地調査を行ったのが、との殻見と調査に至るまでの事情の経過概要である。
あって.その時聞を見出すととが出来、ず、現肢をそのまま出来るだけ完全に保存して置いて戴くよう御願いして、
文を有する内行花紋明光鏡であって、本遺蹟現地調査の緊念を要することを痛感したが、所悪しく年末多忙の際で
不せられた鏡鑑は本邦に於て後見例の稀左所謂具体文字の銘
介して私に該品を呈示、事情を連絡して戴いたが、基 一
干 の 人 骨 片 と 共 に 一 鏡 鑑 を 夜 見 、 翌 三十日、同氏の甥孫にや回る、考古皐的趣味を有する東脊振中皐生の編成豊君を
も う と し て 開 墾 中 、 偶 然 に 一 つ の 翠 棺 を 掘b営 て 、 内 部 に 浸 入 し て い た 若 干 の 土 砂 を 排 除 し て 見 忘 れ た と こ ろ 、 若
昭和二十七年十二月二十九日、一押埼郡東脊振村下三津西の西方の丘陵の一部を同地の多伊良喜一氏が蜜柑畑を替
常
者
戚謝の意を表する次第である。
-54-
、
、
一
J
豆主
の
位
置
環
境
(筆ユ闘参照﹀
(第士-一闘 参 照﹀
(註l
に眺め、来・西・南の三方には南方の有明海まで緩く肥沃にして底大なる肥前平野の景観を一望のうちにつかむ、
日営b のよい景勝の地点である。
営地点の北方約五百米、本丘陵が脊振山脈から仮出する始点の位置は押型文土器遺蹟として有名な戦場ヶ谷遺蹟
︾
ケ里丘陵といわれる丘陵であって、営地点の標高は四十六米位で、北方は東西陀走る悠然たる脊振山服の南繰を異垣
本遺蹟の存在する丘陵は、脊振山脈から肥前平野へ南下する戴僚の低い赤土の洪積層丘陵の内、俗陀志波屋吉野
の
西へ約五十米行った地点の小3な峠の北側約七十米の地点に本遺蹟は存在する。
斜面の上方が本遺蹟の所在地である。郎ち三津西に在る闘立肥前療養所の玉門前を東西に遁ずる牒道を正門前から
赤土の洪積 居丘陵 を切b通 した小 3 な 峠 ( 俗 栴 乗 越 峠 ) に か か る 。 と の 峠 の 北 方 約 七 十 米 、 と の 正 陵 の 緩 傾 斜 の 束
を 東 に と れ ば 、 約 了 二 粁 で 志 波 尾 部 落 東 方 の 用 水 池 ( 俗 稗 お 伊 勢 さ ん の 堤 ) に 達 し 、 更 に 約 五 十 米 ば かb行くと、
切から約 三、二粁北上して仁比山村 飯 町まで行主、此庭で ζ の腕道と分れて‘飯町から東脊振村へ通ずる別の牒道
4 4マチ
神 埼 町 ( 長 崎 本 線 肥 前 神 埼 鐸 下 車 ﹀ よ b北方陀三瀬村を経て一澗岡螺早良部へ通ずる牒道を、神埼鐸西方の鉄道路
佐賀鴨神埼郡東脊振村大字三津字永田-四九二の二九
蹟
蹟
-5
5ー
3
旦
遺
2 0 s A
圃 銅ヨ記録危護見地
。奈良時代廃寺:tll:
x摘 生 式遺 蹟
D 組合式石棺 ・ 国 境
a前 方 後 固墳
>
k縄文式遺蹟
。
脊振村西石動からは本邦に於て他に一服岡腕筑紫郡那珂町那珂八幡宮境内接見の一例を教えるだけである両面に箔を
(註 2)
有するク P ス形舟鋒銅才銘箔が、本遺蹟東方約二 一
白米の三津西部落の北側高地では翠棺や組合せ 式石棺が群集をな
(註3)
して、本選蹟の南方二百米同一丘陵上の標高四四・六米三角点高地南側かろは朱の焼く附着した舵年の男性骨を容
4
U
Jナイ
であ b・ 主 党 摘 生 式 遺 蹟 は 本 丘 陵 並 び に 附 近 一 帯 に 轄 し く と 帯 し て も よ い 位 に 存 在 し ・ 本 選 蹟 東 方 約 一 ・ 八 粁 の 東
司
米 本遺 蹟
20
ζー
ニ
E
10
万五
分
尺之
200
lOOO
0
.000~OO
I
lT
m
調
遺蹟の環境園
第十三園
w同U
ρ
o
︿註 4)
れた Aロ 口 翠 棺 が 、 同 じ く 本 丘 陵 の 南 端 で あ る 三 田 川 村 吉 野 ケ 里 の 護 棺 群 集 現 在 地 の 護 棺 内 か ら は 大 型 の 巻 貝 で あ る
(註 5)
-プングニジを縦に切断して作った貝輸が、本法蹟西南百米の仁北山村士山波尾松本盆則氏宅南側からは、朱の附着せる
と
考 えられる 、 径 一 尺 内 外 の 花 園 岩 の 石
成 人 と 推 定 せ ら れ る 人 骨 片 を 内 蔵 す る 、積石葬、と袈棺葬との交媒した葬法 、
塊約三十個に間続・3れ 、 更 に そ の 上 に 盛 土 を も っ 石 荒 翠 棺 や 地 表 下 三 0 ・六糎に厚さ六糎‘長 3七五・八糎.幅六
0 ・六粧の板肢 の緑泥片山石が長軸を東西に水卒に明浪してむ b、更にその下十二 ・二粧の ととろに上記の板肢石材の
(註山 U )
面 に 水 平 に 東 西 に 長 軸 を 横 た え た 大 形 の A口口聾棺等が接見ぶれている。古墳亦本丘陵及び附近に点々と散在し、中に
は朝鮮柴浪や英闘のスタイン博士が接掘した中央亜細亜の漢代墳墓から接見されたものと同じ鏡箔によって鋳遣さ
(註 4)
れたものと考えられている方格四乳草紋鏡を出した上志波尾東北方(本遺蹟の北方四五 O米で同じ丘陵上)の横穴式
石室岡墳の如きがあ b、本遺蹟西方五 O 米の地点にはE石 を 以 て 構 築 せ る 横 穴 式 石 室 を 有 す る 、 人 形 埴 輸 が 接 見 3
れ 、 埴 輪 関 筒 の 園 繰 し た 、 主 軸 南 北 の 全 長 約 七 十 三 米 、 後 岡 部 の 径 約 四 五 米 の 牒 下 屈 指 の 前 方 後 国 境 伊 勢 塚 が あb
(註7)
本遺蹟の南方で同じ正陵の側迭に嘗る東脊振村辛上には肥前風土記所載の借寺に推定芯れる腐寺祉が存在する。要
するに本遺蹟は歴史的に所謂縄文式時代から奈良時代に至る各種の遺蹟の存在する環境の中に存在するのである。
︻
詰
︼
松尾頑作氏﹁東脊振村出土のグリス形銅線終箔について﹂肥前史談荒谷十二放
日 木考古日明論珂﹂銅剣剣鈴に就いて 、 の項三八七真
梅原末治博士 ﹁
同﹁其の後の佐賀回開戦場ヶ谷遺践と吉野ケ旦漬践に就いて﹂同誌六位官四披
ハ
1) 七回忠志﹁佐 賀将磁場ヶ谷出土掬生式有紋土器に就て﹂史前事雑誌六位怯ご披
(2)
ハ
3) 制剛被光重氏﹁肥前凶 東脊振及ヒ峰畿見の懇稽出土金石併用時代人骨に就いて﹂人類型雑誌五二愈四披
七回忠志﹁原肥前出土赤き人骨に就て﹂肥前史談七径四披
-57一。
﹀
七回忠志﹁楚棺勢の一異例﹂考宵堕雑誌二六惣八競
梅原末治博士﹁日木考宵事論町内﹂銅剣銅鉾に就いて、の項三九回一員第五三悶
七 回 忠 志 註I の二
(4 ﹀ =一友刷同五郎氏﹁佐賀燃に於ける合婆清蹟地﹂考占内事雑誌ご四谷五競
ハ
5
(6)
斐
棺
ハ第十}由参照)
(7 ﹀ 七回忠志﹁肥前風土記神埼郡の僚に於ける俗寺に関する一考察﹂上代文化十=一幹
蓋
一糎、 口線路れ部で二・九糎、上宇部中央でご拠、中央突帯の直上部で-・四糎、直下部で一糎、下宇部中央で一
は縦走の、粗雑な刷毛目文が印せられている。 口線部は稜に﹁く﹂字形を呈している。器壁の厚さは口線部で三・
一二一糎、高3 一・六糎の断面梯形の突帯が躍らきれている。 口線轡曲部の外表面には横走の、其他の同様面杢体に
の突帯が緯63れ、また口線から四五糎のところに営る器の上宇部下位の、胴の最大部位にも下幅二・二糎、上幅
)六七・八糎、底径九・四糎で、 口線から七・八糎の部位に幅二・)糎、高3 0・九糎の断面三角形の無文の一保
口繰の外径六 O糎、高 3九八・三五糎(底部の厚3 一・六糎を含む)、胴部の最大径(内径六五糎及び器壁の厚3
饗はまぎれもなく蒲生式士器で、黄褐色を塁し、質硬く、胎士に石英粒及び長石粒を若干含み、器体は整正で、
西にして五十八度の相営念な傾斜を保つ関係で埋められていた。士墳の痕跡は認むるととが出来なかった。
部を正東に、底を正西に、印ち主軸を正しく東
、 口続一
本翠棺は現地表下三九・二糎で口線部上端に達する深 3 で
石
糎を墨する。器壁に穿孔、其他の装飾文は見嘗らない。
- 58ー
四
第 十四 国
軍棺震
?噌
-5
9-
i
J
lJ
園
1012μ
石荒は底逃約一・二 O 米、側謹約五五糎、上法約四O糎 、 上 遁 中 央 か ら 底 法 中 央 ま で の 長 さ 約 五 五 糎 の 不 整 梯 形
t 四糎の板状の 殺泥片岩 である。殻見者多伊良氏の言によれば、との葉石は長逸
で、両面に少し畑地伏のある厚 3 三
を上下にして前記の饗棺の口線部に密着せしめ、その間隙部(葦石を饗棺口法部に密着させて奮肢を復原してみる
と、明らかに荒石の幅は饗棺口縁部の直径よ bも五糎狭い)及び翠棺と荒石との A口せ目は特に精撰したと思われる
粒 子 の 細 い 粘 質 度 の 強 い 粘 土 を も っ て 張 b つけてあったという。
同
内
愛
見
:$
坦
;
物
朽し去って骨の闘係位置などは明らかでなかったという。
私は人類皐的知識は浅薄であ b、 叉 人 骨 の 破 朽 度 も 著 し い た め そ の 性 別 は 明 ら か に し 科 在 い が 、 頭 莱 縫 合 の 癒 合
及 び そ の 歯 牙 唆 耗 度 よ bし て 年 齢 は 批 年 以 上 で あ る と 考 え ら れ る 。 向 と の 人 骨 は 後 日 九 州 大 串 時 皐 部 解 剖 皐 教 室
- 60ー
接見者の言及び私の調査した結果によれば‘との石荒饗棺の直上及び側迭には他に特殊施設と思われるものは現
棺
肢では認めるととは出来なかったととを附記して置きたい。
五
、
戸
当
棺内接見の遺物は人骨と鏡鑑}である。
人
饗 棺 内 に は 若 干 の 黄 褐 色 の 土 砂 が 浸 入 し て い た が 、 頭 荒 骨 と 肢 骨 の 破 片 若 干 が 遺 存 し 、 そ れ 以 外 の 骨 は 殆 ん Y﹂
腐
①
(第十五周、第十汽回参照)
金開丈夫敬授の許に贈って鑑別をお願いする約束である。
鑑
三糎 . 背 径 八 ・ 八 糎 ‘ 鉦 は 径 一 ・ 三二粧 . 鉦 高一 ・O 五 糎 . 繰 厚0 ・六四極.面反b 0 ・二糎である。 鏡 背 文 は第
本饗棺の副葬品としては、 ζ と に 記 す 鏡 鑑 一 面 の み で あ る 。 本 鏡 鑑 は 所 謂 内 行 花 紋 明 光 鏡 で . 鏡 体 は 百 径 九 ・ 二
鏡
三園 、 及 び 第 四 固 に 示 す よ う に 、 半 開 球 体 の 素 文 の 閲 座 鉦 を 縫 っ て 内 行 八 花 紋 帯 が あb、 八 花 紋 の弧 と 孤 の聞に .
そ れ ぞ れ と の 拡 よb も や や 低 め に 線 状
の 小 さ 在 弧 文 が あb、その低い 線状の
弧文の内ごつからはそれぞれその中央
から鉦の関賂比三、俊一組を在す、低い
線状の弧文、と同じ高3 の直線が 出3 れ
ている。次に 二伎の剥行櫛歯文帯比一挟
ま れ て 銘 帯 が あb、 所 謂 ゴ チ ッ ク 式 書
﹁一内而青而以而召而明而
で
っている。銘文の文字のうち青は清、
が 存 し 、 最 後 に 一 段 高 い 炭 い 素 線 に終
光而篇而目﹂左十六字から在る銘文
体
内行花紋明光鏡園
第十五圃
-6
1ー
①
召は照の省董で、而という文字をもとの全文の聞に一宇宛入れた二次的なものであるが、銘が中途で切れて完文を
以上の諸点から考えて本例は所謂前漢の鏡式に属するもので、中園からの直接或は間接の舶載品であると考えら
壊附近の柴浪時代の古墳からも出土しているが、本邦では未だ確かな出土例を見ないものである。
なしていないものである。
本鏡は表裏共に白光と鉛黒との色
揮 が 相 交 っ て お b、 質 の 白 銅 で あ る
uA
び鏡自のそれぞ
ことは一見して明瞭でゐる。そして
総代若← lと . 銘 帯
れの一部に 若 干 の 鋳 蝕 と 、銘文中二、
龍(多
臓註〈
-62ー
二の文字のどく一部付に型崩れによ
って不鮮明になったものと見られる
箇庭がある外は型流れや手ずれ?と見
博)、
忘れるものはほとんど見嘗らない。
らは
鳥類
居例
梅原末治先生の御示敢によると‘
かで
士 が 殻 掘 さ れ た も の が あb. 朝 鮮 卒
満 ζ
洲の
で種
はの
遼鏡
陽鑑
のは
埠中
墓闘
内行花紋明光箆拓影及び賓測圃
第十六圏
5.
c
n
O
れ る が 、 そ の 賓 年 代 は 梅 原 先 生 か ら 御 示 教 を 戴 い た 逼b西暦紀元後に下るものであろう。
[註︺鳥居認蹴博士、﹁南満洲調査報告﹂
室五
日口
一般にとの饗棺内の人骨は保存が悪く腐朽し去って、内
戸
円
日
石葦阜棺
w
.
!
.
競(本例)
石葦草棺
日
人
人
人骨朽減
w
.
!
.
成
PD
上 を 計 葺 的 に 打 ち 欠 き 取 ク た 下 宇 部 の 士 器 を 査 と す る 大 形 A口口護棺
人
小形完形 A
口口饗棺
胴の中央か
成
競
競
続
成
ることが出来たが、本例を加えて八基とし、調査の順に従って番競を附け、その形式と内部後見人骨の推定年齢を
接 見 さ れ る 饗 棺 を 多 伊 良 氏 の 皐 問 に 劃 す る 非 常 な 御 理 解 に よ る 迅 速 な 連 絡 の 御 好 意 で 、 現 在 ま で に 七 基殺 掘 調 査 す
えられる例も相嘗に多い。本選蹟に於て私は前記の鏡鑑副葬の石東饗棺の調査終了後、開墾の準捗につれて次々に
まちまちであるが、どちらかといえば伸展葬が多いと設かれている場合が多い。しかし自分等の観察では屈葬と考
部に人骨の大半を留むる場合が少く、ために遺骸の埋葬姿勢を窺知し得る例が少く、従クてその件に闘する意見は
であるが、遺骸をどのような姿勢で葬ったかについては、
蒲生式文化期に北九州を中心とした地域では饗棺なる他の地域に稀な特殊な墓制が行われたことは周知の事賃
結
示 せ ば 失 の 逼 b である。
4 3 2
-63ー
①
年
骨
A三
,
人骨朽減
人
H
右と同形
口 翠棺
中形完形 A口
4競・ 5 競と同形
人
骨
少
縄文式文化の晩期に 庇 く行われた草棺、 A口口翠棺両様の翠棺葬、と靖生式文化期における護棺 葬 と の 関 係 の 有 無 等 は
の一地域の特異な現象であるか、縄文式文化期における屈葬の遺風であるかの問 題 、石茶饗棺と 合 口饗棺 との閥係、
副 葬 し た も の が 存 す る と と 忙 よ っ て も 明 ら か で あ る 。 従 ってかかる饗棺 葬にお ける屈 葬 が翠棺葬の 行われた地 方中
本例及び2競 棺 ( 副 葬品 の 概 要 は後記)の如く、権威の 表徴 でもある珍 貴 な 舶 来 鏡 ヤ ガ ラ ス 小 玉、管玉 、 貝輸等 を
らかであb. 更に非有力 者 の 簡 便 な葬 法 と し て の 石 東 袈 棺 の 器 形 代 左 右 せ ら れ た 特 殊 事 情 陀 基 く も の で な い と と は
とは如上の見解を確証づけるものに外ならない。此 等 が ま し て 洗 骨 後 に お け る 姿 勢 で な い こ と は 骨 の 結 令 状態で明
恰 も 内 部 器 壁 に 立 て か け た 様 に 整 然 と 膝 関 節 を 屈 し た 下 肢 骨 を l 卸 ち 仰 臥 屈 葬の姿 勢 を ! 認 む る と と が 出 来 た と
競
、 4 競 の 聾 棺 で は 、 幸 陀 頭 葉 は 翠 の 下 底 に 轄 落 せずに饗の口縁部に近く、 顔 面 を 上にして存在し、 袈の 底に近く
賃 で あ る 。 と の と と は 饗 棺 葬 に 於 て は 伸 展葬ば かb でなく屈 葬 も 行 わ れ た と と を 示 すものに ほかならな い。特に2
の環境﹂の項に於て述べた本 遺 蹟 西 南 方 百 米 の 松 本 盆 則 氏 宅 南 側 に 於 て も 見 忘 れ た と と で あb、他にも散 見 す る 事
棺と規模のさほど越らない二某の合口袈棺の中から成人骨を見出すことが出来た。そのようなととは前記﹁遺蹟
、 7競 の 如 く 翠 の 上 宇 部 を 打 ら 欠 き 取 っ た も の を 上 饗 と す る 、石 荒袈
卸 ち 本 遺 蹟 に 於 て 三 基 の 石 莱 聾 棺 と 、4 鏡
石茸霊棺
成
崎市来多くの事例の出現をま って考究すべき 重要な問題 であるが、本 遺蹟 の五例の如きはその 重 要 な 費 料 と い う べ き
-64-
成
腕
競
競
競
6 5
8 7
であろう。
次に出土した鏡鑑の年代をもって、直ちにそれを減した遺蹟の年代を律するととの早計であるととは、色々な
観 点 か ら 先 皐 の 度 々 注 意 を 喚 起 せ ら れ た と と ろ で あ る が 、 例 証 の 増 加 に つ れ て 年 代 推 定 の 有 力 な 一 資 料 と な b科る
ととは明らかであb、 特 に 本 例 の 如 き 磨 滅 の ほ と ん ど 見 ら れ な い 例 の 如 き は よb有力な資料とな b得ると稀し科よ
北 九 州 地 方 各 地 陀 饗 棺 が 群 有 し て い る と と は 周 知 の と と で あ る が 、 そ の 中 か ら 副 葬品 と し て 文 化 遺 物 の 発 見 せ ら
れるととは、饗棺の載に比すれば根めて稀なことであって、その稀な中でも 鏡 鑑 の 接 見 例 は 克 に 稀 で 、 銅 剣 ・ 銅
鉾・銅支に比しても稀有の例に属することはまたもって本遺物の準的重要性を物語るものであるといえよう。
温記
太 遁 践 に 於 て 木 例 調 査 後 二 尽 に 至 っ て 木 例 の 南 側 五・八O 米 の 地 点 に 於 て 多 伊 良 氏 は 閉 経 の 途 次 更 に太例と同国防なお蓋楚 穏 を 掘 り 営 て ら わ、そ
UJ
、 頚 部 に 十 個 余 り の 管 玉 と 鍛 十 の ガ ラ ス 拠 小 玉 合⋮装い 、 更 に 友 初勝骨に テ グ ニ シ を 縦 に 切 断 して作った 貝愉十個を帯びた明瞭に仰臥臨時押の妥勢
れ以上現吠に手をつけることなく私に一連絡して戴いた。結語の 項中2挽穏として例一示 L たのが 創ちそ・別 である。この 鼠 棺 内 に は 開 設 に 朱 が 附 粛 し
を と っ た 成 人 骨 を 接 見することが出来たが、,目下 整 理 研 究 中 で も あ り、木職多忙の 最 中 で も あ っ て 、.この 稲 と共に 報 併 することが出来なかったの
国
保存
の
方
法
は 遺 憾 で あ る 。 そ れ に つ い て は 後 日 木 例 等 と 合せ て全休的 立 場 か ら 翻 捺 明 察 した結 果 を 雲 表 する 考え で ある。
件常
理
性を地方入、としては珍しい程有しておられ、調資研究にも根めて積極的に御協力して裁き、将来も同様積械的な協
現 地 の 所 有 者 で あ b、 開 墾 者 で あ b、 本 遺 物 の 稜 見 者 である多伊良書-氏はとの種の皐向上に於ける資料の章一要
七
-65-
①
う
力を惜しまれないことの確貫性をもっておられる方であるので、本遺物は同氏によって充分忙丁重に保存ぶれ、とれ
を契機に更に積極的に協力して戴けると思うから.本遺物は文化財保護法の示す手緩によって多伊良尽に蹄属する
ょう取許うととを至嘗と考える。次に近時開墾が至る庭に進展している現般に鑑み、牒開拓課、と連絡の上、開墾者
に 劃 し て 文 化 財 保 護 法 の 精 神 を 徹 底 さ ぜ 、 貴 重 な 遺 蹟 が 不 用 意 に 破 壊 さ れ た b. 貴 重 注 文 化 遺 物 が 散 供 し な い よ う
に庭置することは極めて緊念な要務と考える。との際地方人としては接見した遺物が浪牧せられるととを最も恐れ
従 っ て 脅 見 し て も と っ そb減 っ て 置 く と い う の が 通 例 で あ る か ら ‘ か か る 地 方 人 の 心 到 を 充 分 に 考 慮 し て 、 発 見 者
が或る程度安心して遺蹟、遺物の殻見を早念に届出符るよう取計うととは最も重要注事柄であると思うのである。
特に文化財の研究主保存はかかる地方人の理解と協力主くしては進歩をなし科ないと稀しても過言ではないからで
ある。
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昭和二十八年三月二十五日印刷
編
行
纂
昭 和 二 十 八 年 三 月 三十 一 日 後 行
佐賀勝教育一腿枇合教育課
刷
佐賀豚印刷局
佐賀勝教育委員命日
印
発
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